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なぜ推古天皇で終わってるのか

2680(R02).11.28 SAT 改稿 R01.09.19修正 H28.4.10修正 H26.10.16-17初稿
なぜ推古天皇で終わってるのか
このことは本来は推古天皇の章で扱うべきかとも一見思われなくもないが、これは推古天皇からしてみれば知ったことではなく、あくまでも古事記の編纂者側の見方や考え方の問題なのでやはり別に扱うのがいいだろう。

「儒教時代」説
よくいわれるのは、「中巻は儒教も仏教もなかった時代で、下巻は儒教(というか論語)が伝来してからの時代だが仏教以前だと。なので仏教国家が始まった推古朝で区切ったのだ」と。
だがこれはおかしいのではないか。儒教(というか論語)が伝来したのは応神朝であって仁徳朝でない。むろん、本格的に儒教時代が始まったのが仁徳朝だ、というのは、そこまではまぁ理解できる。しかしそれなら本格的に仏教国家になった推古朝は次ぎの時代の始まりであり、下巻は崇峻天皇で終わらねばならないのではないか。いや、儒教時代と仏教時代とに、もし、わけるのであれば、物部守屋が滅ぼされて蘇我氏の権勢が確立した崇峻天皇から仏教時代を始めるのが適格であり、下巻は用明天皇で終わるのが妥当、とも考えられる。そういうわけで「中巻と下巻の境は応神天皇と仁徳天皇で分かれ、下巻の最後は推古天皇になっている理由」として、儒教時代と仏教時代にわけたからだという説には釈然としないし納得できない。
ちなみに平安時代の偽書『先代旧事本紀』(十巻本)は、古事記中巻にあたる「天皇本紀」が神功皇后で終わっており、古事記下巻にあたる「神皇本紀」は応神天皇から始まり武烈天皇で終わり、「帝皇本紀」が継体天皇から推古天皇まで、となっている。同じ『先代旧事本紀』でも江戸時代の偽書である七十二巻本(『大成経』)では、この後にさらに「聖皇本紀」として聖徳太子の伝記がついている。聖徳太子の活躍したのは推古朝だから、ある意味、崇峻朝と推古朝の間で区切りを置き直したような構成ともいえる。『先代旧事本紀』は「あくまでも聖徳太子リスペクトであって仏教リスペクトではない」ので、聖徳太子の時代に該当する推古天皇で終わるのはわかる。が、その前の時代の区切りを神功皇后と応神天皇の間にしたこととは何の関係もないので、一貫性がない。『先代旧事本紀』が聖徳太子をリスペクトしている理由は、「聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記』『国記』『臣連国造伴造百八十部并公民等本記』が、実は焼失したのではなく、この書物がそれだ」、という趣旨で捏造したのが『先代旧事本紀』だから。もしそれが本当ならこれらの書物(『天皇記』など)は推古天皇の前の崇峻天皇で終わってないとおかしい。にもかかわらず『先代旧事本紀』が推古天皇まである理由は、聖徳太子を顕彰するためにその事績を述べると、当然推古天皇の時代のことを書くことになってしまうからであって、『古事記』が推古天皇で終わっていることとは本来は関係ない。
では『古事記』が推古天皇で終わっている理由と聖徳太子とは関係ないのだろうか。もし関係あるのなら、そのことがわかるような記事、例えば聖徳太子についてもう少し何かのエピソードや物語があってもよさそうだが、『古事記』には何もない。それどころか、後述のように、聖徳太子よりずっと後の、舒明天皇の即位や皇極天皇の時代のことまで書かれているのだから、「ちょうど聖徳太子の活躍した時代をもって区切りとする」という意志があったとは考えられない。

「仁徳王朝」という区切り
ただここで『先代旧事本紀』が武烈天皇と継体天皇の間に区切りを置いてるのは一つのヒントではある。つまり、もし古事記下巻のように仁徳天皇から始まり、神皇本紀のように武烈天皇で終わっていたなら、それは明解に「仁徳王朝」の歴史という一つのまとまりになってるってことだ。しかしそれは「もし」の話であって、現実はそうなっていないのであるから、現実がこうなっている理由を考えねばならぬ。これは何も、後世からの歪曲した見方でもなんでもなく、継体天皇が即位した当時の人々が誰しも容易に思い描いた「一つの区切り」だろう。現に、系譜の部分を除外して物語の部分だけでみると、顕宗天皇で終わっているが、これは実は武烈天皇の事績を誤って顕宗天皇の事績にしているのだということは別の記事で詳しく書いた。つまり物語の部分だけでみると仁徳天皇から始まって武烈天皇で終わっているのであって、『先代旧事本紀』の神皇本紀と同じく、『古事記』下巻はまさしく仁徳王朝の歴史なのである。
それはそれでまぁ良いとしても、それは系譜の部分を除外した場合のことであって、継体天皇以降の系譜が『古事記』下巻に書かれていることの説明にはならない。継体天皇で始まった新王朝の時代を推古天皇で区切ってる理由はあいかわらず不明であり、もし下巻の終わりと中下巻の境とに何か一貫した理論だか歴史観だかあるのでは、という考え方にこだわった場合には、仁徳王朝説では却って一貫性を壊すことになる。これは解決の直接の糸口ではなく、まだ「ヒント」にすぎない。

「伝説時代」説
中巻と下巻の区切りについてよくいわれるのは、応神天皇までの中巻はまだ神々と人間が交渉をもった時代で、半分は神代(かみよ。神々の時代)で、もう半分は歴史時代(人間の世界)であり、両者が混在しており、いわば神話から歴史への移行期だ、と。それに比して、仁徳天皇からの下巻は現代にもありそうなリアリティーあふれ人間味あふるる現実の人間の物語である、と。神話時代でもなく歴史時代でもなく、両者の混在してる段階があるとして、それを「伝説時代」とよぶならば、古事記中巻はまさに伝説時代なのであり、純粋な歴史時代になってからが下巻なのである、と。これは前述の中巻を儒教時代とみなす説とは一体の、上巻を神道の時代(≒神々とともに暮らしていたアニミズムの時代)とみる説の変奏曲ともいえるだろう。
この手の説には中巻を「純粋の歴史だ」といわないところに邪念を感ずる。純粋でないのだからつまるところ「歴史ではまったく無く、史実と認められないことでは神話と同じ」と言いたいわけだろ。そもそも神話と歴史はまったく別次元のもので、中間形態だの移行期だのってのは論理的にありえない。中間形態だの移行期だのってのは、要するに巧く説明つかないから(「どうせ全部デタラメだから」といったら史実(=自説)を組み立てるための素材に使えなくなるので)適当にお茶を濁してるわけだろ。前述の儒教倫理が導入された時代(下巻)の人々の思考が現代人からみて比較的わかりやすいのは当たり前であって、それ以前の純粋にアニミズム的な多神教の世界観で生きていた人々から見えていた世界(中巻)とは違ってみえて当然ではないだろうか。そしてこの説の場合「なぜ推古朝で終わってるのか」の説明はないので、それについての別に独立した巧い説明と組み合わさればまだしも、そうでない場合には素人騙しのもっともらしい言葉遊びとしか思えない。

古事記記載の最新記事は舒明帝即位ではない
つまり、いずれの説も巧い説明としては成り立ってないのである。「中下巻の境と、下巻の終わりが何か関係してる」という説は、一種の思い込みであり、実は関係ないって可能性のほうが高そうに思えてくる。逆に、実は重大な関係があるのだ、という主張をするためには、如上の二説とはまったく別な新説を提示しなければならない。
ところで古事記に書かれた最後の天皇は実は推古帝ではない。舒明天皇は推古帝の次の天皇で、本名は「田村」だが、敏達天皇の段に諸皇子女の一人として名が列挙されてる中の舒明天皇は「田村王」ではなく「坐岡本宮治天下天皇」と書かれている。角川文庫版の『古事記』はこれをもって「古事記の記事中もっとも新しい事実である」と注釈している。考えてみれば、ある天皇が崩御した後というのは「よほどのすぐ直後」でもない限り次の天皇はほぼ決まっているし、曖昧な場合でも二、三ヶ月後にはもう次の天皇が即位しているのが常識なので、推古女帝崩御とあれば自動的に読者の脳内では田村王が即位して天皇になっていることもただちに想起されることだろう。ここまでは格別なんの問題もない。
ところが実はさらにその後の記事までもあるのだ。それが推古天皇の御陵が「大野岡の上」になったのを『のちに』「科長大陵」に遷したという記事。これは通説では皇極天皇即位後から大化改新の前までの間にあったことだとされている。つまりこの推古天皇陵の移転が『古事記』全文の中での最新記事ということになる。この段階では舒明天皇も崩御して皇極天皇の御世だったことになる。なぜ舒明天皇の御世にはふれずに推古天皇で終わらせているのか?

現在に近いと政治的に支障が…。
一つの有力な説として、『古事記』の原資料になっている帝紀(帝皇日継)が推古天皇までしかなかったのではないか、そのために、帝紀に基づいて編纂した古事記も自動的に推古天皇までということになってのではないかという説がある。だが、それでは帝紀はなぜ推古天皇までしかなかったのかという新たな問題が生じる。
帝紀がいつから存在したのかはわからない(個人的には武烈天皇の時にはじめて文字化されたものと思うが今はそれに触れない)が、写本の類がたくさんあって、天武十年(681年)に川島皇子らに命じて帝紀の異同を校合、統一させて決定版を作らせようとした(この時稗田阿礼28歳)、これがのちに『古事記・日本書紀』として結実する。歴史書は普通は先代の君主の代までだから、この段階では形式的に考えると「天智天皇までで終わる書物」になりそうなもの。(大友皇子が即位していた場合には弘文天皇で終わりそうなもの)
現実には、完成が延び延びになって天武天皇から何代も経ってしまった。古事記は元明天皇、書紀は元正天皇の時だから、古事記なら文武天皇まで、書紀なら元明天皇まで書かれていても、物理的にはありえた話である。むろん物理的に可能だからといってギリギリ直前の天皇まで書かねばならないという理由も必ずしもないのであって、書紀が持統天皇で終わりにした理由もあれば、古事記が推古天皇で終わりにした理由もあったはずであろう。あくまでも天武天皇の企画という趣旨を尊重する限り、やはり天智天皇(か弘文天皇)で終わりにするのが自然である。
だが、壬申の乱の敵軍だった天智天皇の歴史を書くと天武天皇の正統性の問題が出てくるのでなかなか書けない。当時の政府の立場としては弘文天皇の即位を認められないのはわかるとしても、天智天皇で終わらせても、当時も天智統と天武統の対立という構図で捉えられていて、弟天武が兄天智の事業を継承したと宣伝しようにもあまりにしらじらしく受け取られて逆効果になりかねない空気があったと思われる。壬申の乱はそれほどの大事件だろう。なにしろ天智天皇の正統な後継者を殺しちゃったんだから。大化改新以降の歴史を描くとすると、皇極天皇時代も孝徳天皇時代も中大兄皇子(天智天皇)がなるべく目立たないように書くのは難しい。中大兄皇子は大化改新のヒーローでありその後は皇極朝後期・孝徳朝・斉明朝・天智朝を通じて本人が崩御するまでずっと歴史の主役だったのだから、ここらの歴史は現在(天武朝)に近すぎて政治的に扱いにくい。
そこで日本書紀は壬申の乱で大友皇子の即位を認めずその部下の5人の貴族と一緒に悪役として、天武帝は悪を倒して天智天皇の事業を引き継いだという側面を強調している。天武帝は天智天皇の娘(持統天皇)を皇后かつ共同統治者としていたのだから女系では天智天皇の後継者ともいえ、実際に天武帝崩御の後は持統天皇が即位し天智系に復帰したような演出となる。日本書紀が持統天皇まで扱っている理由は、壬申の乱のすったもんだの結末として、現在(奈良時代)の皇室が天武系ではあるけれども、正統な天智系を排除したものではなく、持統天皇を通じて天智系でもあるのだ、だから持統天皇の血を引く現在の皇室は正統であり、問題ないのだ、という主張なのである(当時、大友皇子が正統で天武帝は簒奪者ではないかという疑いの声があったため。現に日本書紀には天武天皇を謗ったために刑罰を受けた者が何人もいる)。従って、日本書紀は天智・弘文・天武のうちどの天皇で終わらせても格好がつかず、なんとしても持統天皇まで書かないと具合が悪かったということがわかるだろう。
古事記もまた、日本書紀と同時代の編纂であるから、普通に考えれば天智・弘文・天武のうちどの天皇で終わらせても都合が悪いという点は同じであるが、そもそも継体天皇以降は系譜しか載せてないのだから、どこで終わらせても政治的な問題は生じないのではないかと思われる。あるいは政治的な問題を回避するために系譜しか載せてないのだという説もありうる。しかし系譜だけにすれば問題ないのなら、編纂命令を出した天武帝の直前の代であるところの天智天皇で終わらせておけば歴史書の体裁としては完璧だったのであって、それがなぜか推古帝で終わっている理由は相変わらず判明しない。
万が一、この「政治的な差し障り」が厳重なもので系譜すら書けないということだったとしても、「都合の悪い時代」とは前述の通り、中大兄皇子(天智天皇)が活躍した時代のことで、皇極天皇以降の時代のことである。とすると舒明天皇までは書かれていてもよかったはずである。舒明天皇崩御の時、中大兄皇子はまだ16歳だったからさすがに舒明朝で大活躍したということはないだろう。だから舒明天皇までの歴史書なら、当時の政治情況においてもだいたい当たり障りなかったと思われる。
だが、舒明天皇がなくてその一つ前の推古天皇で古事記が終わってるのだから「政治的に差し障りのある時代だから書かれなかった」という説は成り立たない。そういう理由なら、古事記は舒明天皇で終わっていたはずであろう。なぜ舒明天皇がなく推古帝で終わっているのか?

聖徳太子編纂『天皇記』は原資料ではない
一説に、天武十年(681年)に編纂された帝紀(帝皇日継)の、そのまた原資料となったのは前述の聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記』だったという説もあるが、間違った説である。これは聖徳太子が薨去してしまったため未完成の草稿のうちに中断してしまっていたのが皇極天皇の時に焼失してしまった。焼失してしまったのだからこれが原資料になった可能性はまったくない。聖徳太子が薨去したのは推古朝だから、未完成の草稿ではあるにせよ、崇峻天皇までは扱われていた可能性が高い。
ついでにいうと、この『天皇記』の焼失が、その後の帝紀に様々な異本が生じた原因でもあろう。それで天武帝が帝紀の内容を統一しようとしたのが天武十年の詔勅で、それが後に『古事記』『日本書紀』として結実したわけだ。

なぜ舒明天皇がはずされているのか
以上のように、政治的な事情としては舒明天皇まではOKで、系譜だけなら舒明天皇以降ですらOKなのだから、もし様々な帝紀の異本のうち、どれか一つでも舒明天皇以降までの部分があったなら、『古事記』の最後も舒明天皇までは余裕で含まれたと思われる。帝紀は初めは「ある特定の役割の者」が天皇代替わりの度に代々書き足してゆくものだったろうが、何らかの理由で推古天皇で打ち切られ、後は完成した一つの書物として写本が作られるだけになったものと推測する。この謎を解くにはこれ以外に考えようがない。で、なぜ帝紀が推古天皇で終わっていたのかだが、次の舒明天皇の時に、「天皇代替わりの度にされていた帝紀への書き足し」が停止されたからということになる。ではなぜ舒明天皇の時にそんなことになったのか。

帝紀は「いわゆる書物」ではない?
帝紀(帝皇日継)とは本来なんだったのかというと、もちろんそれは語部(かたりべ)の記録である。語部の記録という言い方は矛盾に聞こえるかもしれないが、語部は宮中の重大な祭儀や儀礼の際に、舞台上で儀式の由来譚を「語る」のが仕事であって、稗田氏が猿女(歌舞で仕える巫女)の氏族でもあるようにその語りには歌舞や演劇が付随したろう。従って語部には「台本」のようなものがあったと考えられる。現代の演劇でも台本はあるが役者はそれを「暗唱」するわけである。「語部は『暗唱する者』だから文字記録は関係ない」という思い込みは誤りである。だからこそ天武十年、帝紀(帝皇日継)の記定に語部の稗田阿礼28歳が召しだされたのだろう。古くは文字化されず、それこそ語部の脳内記憶として伝承されたんだろうが、漢字が伝来してからは文字化もされて、代々書き継がれて推古天皇に至った。ただし、文字化されたといっても、基本的には語部の台本なので真の原本は語部の脳内にあり、文字化する際には文字化する人の語り癖や書き癖などの個性がかなり反映されることになる。これは書物にみえても本質的には「書物」なのではなく、文字を介しての「口承」であって、書かれたものが本体ではなく文字を読みあげたその声が本体だからである。そのため、書物としてみた場合にはかなり差異のある様々な写本ができてしまっただろう。また語部というのはライブで聞かせるものだから、同じ歴史を語るにも、客層に応じて毎回語る部分と略する部分が違ってくる。別の話を脇から挿入すると細部で矛盾が出ることが多いが、それも適宜辻褄あわせしてると、同じ帝紀といってもいろいろな違いが出来てくるわけだ。

語部(かたりべ)の廃止と史官(記録官)の創設
語部は古伝承を伝えるのが本業で神道と結びついており、現在の日本のように神仏儒が和合するようになる以前の日本では、語部は神祇派に属しておって、仏教派とは相性がよくない。他にも儒教派がいた。仏教伝来以前にも、儒教をめぐっての対立が仁徳天皇の頃からずっとあって、皇位継承の争いや貴族の謀反などにも絡んでいる(儒教派が漢文を広めるために語部と対立したことは他の記事で書いた)。日本人全般に儒教が受け入れられるようになったのは雄略天皇の頃からと思われる。仏教も同じく、日本人全般に許容されたのは大化改新からだろう。それまでは神道派と仏教派で血みどろの戦いがあったんで、物部と蘇我の戦いの後も負けたからといっていきなり改宗するわけもなく、ますます仏教徒を憎んだだけだろう。最初からいきなり日本人が仏教徒になったわけではない。現代ですら、一般論ではキリスト教を悪いものだとは誰も思ってないだろうが、それでも皇族がミッション系の大学に進学すると苦言を呈する人はいくらでもいるじゃないか。ましてや当時は儒教も仏教も「日本に根付く前」の話であり、儒教や仏教に熱心な天皇や皇族がいると必ずそれに反対する勢力が形成されたのである。
雄略天皇以降は儒教は日本に根付いたので「儒教派」と「神道派」の対立というのはなくなったが、欽明天皇以降は「神道派」と「仏教派」というのができていた。仏教派にとっては語部というのは神道派の巣窟であるから何とかこれを弱めたい。それで舒明天皇の時に「語部」の職掌のかなりの部分が廃止されたのだろう。天皇の御世の記録は歴史として後世に伝えるために語部が暗唱し、漢字伝来以降は記録もしていたと思われる。漢文の得意な帰化人系の氏族が古くから下っ端の書記係を務め、これを史(ふびと)といって政治機関の各所で活躍していたが、語部の言葉は漢文に翻訳すると意味がないので、史(ふびと)は使われず語部が独自に記録していたと思われる。つまり、当初は歴史編纂の仕事は語部の専権事項であった。
ところが、早ければ欽明天皇か敏達天皇の時に、遅くても推古天皇の時に、史(ふびと)にも語部の記録とは別に歴史の記録をさせるようになったと思われる(詳しいことは後述)。敏達天皇は儒教と中国式の歴史書を好んだ人で、欽明天皇の後半から皇太子として政治に参加していたらしい。中国では昔から歴史編纂のために日々記録している役人がおり、この記録に基づいて歴史書が編纂されたという。
敏達天皇は仏教を信じなかったと明記されており、崇峻天皇はよくわからないが蘇我と仲悪かったからあまり仏教に好意もなかったかも知れず、この二人は神道派だった可能性が高い。用明天皇と推古天皇は神仏両方を尊崇していた。だから史官(中国式の記録官)のような係が存在したとしても、敏達・用明・崇峻・推古の4代間は語部を廃止したりはせず併用していたのだろう。
だが次の舒明天皇は推古天皇の遺詔を蘇我氏の力で捻じ曲げて皇位にありついたために蘇我べったりで、そのため公卿百官も天皇を畏れず政務が滞ってしまった。大派王(おほまたのみこ)が「近頃は公卿百官がろくに朝廷に出勤してこない。ちゃんと出勤時間を守らせるように」と大臣(蘇我蝦夷)にいったが、大臣は従わなかったとある。政治がガタガタになればちょっと日照りがあったぐらいでも飢饉になるし、朝廷がユルいなと思って奥羽の蝦夷族が反乱を起こす有り様。にもかかわらず舒明天皇は有馬温泉やら四国の道後温泉やら遊びにでかけ、しかもそのために大嘗祭を延期したりしている。そしてこんな情況なのに、西国の民を徴発して大宮殿(百済宮)を、東国の民を徴発して大寺院(大安寺)を建造した。

国家の非常時だというのに壮大な建築にうつつをぬかして浪費するのは外国によくあるダメ君主の典型例である。他には九重の塔を建てたり設斎(仏教行事)はしている。暗君な上に仏教には熱心な人だったらしい。大宮と大寺の建造のための費用捻出のため、語部は冗官(無駄な役所)として切り捨てられたのだろう。舒明天皇としては語部に興味はないかわりに恨みもないのだが、むろん舒明帝をおだてあげて操っている黒幕は蘇我蝦夷であり、語部の廃止は仏教を布教するための蘇我氏の一手なのである。語部に代わる漢文式の帰化人記録官は早ければすで4代にわたる試用期間があり、遅くても推古朝の途中から試用されてきているので、問題ないこともわかっており、語部サイドもこの頃はすでに猿女氏・稗田氏が弱小氏族ということもあり、命令を受け入れるしかなかったのである。

「史官」の沿革
中国では周王朝の昔から王や諸侯の両脇に「右史」「左史」という記録官がいて、『礼記』によると「右史」は主君の言葉を、「左史」は主君の行動を記録したという(右史が行動で左史が言葉と逆になっている説もあるが時代や国によるのか単なる誤りか不明)。とすると右史は左脳を使うから右手で書き、左史は右脳を使うから左手で書いたんだろうか。そんなわけないかw
img_0.jpg(←右脳と左脳の画像)
右史の記録は『尚書』となり、左史の記録は『春秋』となった。時代がくだると、皇帝の日常の記録は「起居注」といい、皇帝が崩御すると「実録」という皇帝一代の歴史が書かれる。起居注はこの実録を編纂する時の資料に使われる。そして王朝交代があると、前王朝の歴代の皇帝の実録を連ねて「正史」が編纂される。日本の律令時代では右史・左史にあたるものは「内記」「外記」で、起居注にあたるものは「内記日記」という。「外記日記」というのもあるがこっちは天皇の言動の記録ではなく、役人の仕事の記録である。ちなみに、律令時代には「大学寮」という役所が官僚養成機関で今の東大みたいなもの。で、そこの学生になれるのは五位以上の貴族の子と孫、東西史部の子と孫が優先されていた。東西史部というのは、史(ふびと)というカバネをもつ約70ぐらいの帰化人系の氏族を二つに分けたもので、「東史部」は東漢(やまとのあや)氏が統括し、「西史部」は西文(かはちのふみ)氏が率いていた(西文氏は西書氏とも書く)。東漢氏は後漢の霊帝の子孫という阿知使主(あちのおみ)の子孫で、西文氏は大雀皇子(のちの仁徳天皇)やその弟の宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)の家庭教師だった王仁の子孫。阿知使主も王仁も応神天皇の時に渡来してきた人で歴史が古く、従って一族の人数も多い。この両氏の族名はヤマト(今の奈良県)を東と書き、カハチ(今の大阪府)を西と書いているわけで、これは、この両氏が並び称されてセットであることを表わしている。が、古くは倭漢(やまとのあや)・川内文(かはちのふみ)と書いていたのであり、始めの頃はセットでもなんでもなかったのである。『古語拾遺』によると履中天皇の時、「内蔵」(うちつくら)を創立し、阿知使主と王仁の二人を出納記録係にしたという。この記事が正しければ、東漢氏と西文氏がセットになった最初の例で、両氏族の始祖である二人がすでにコンビになっている。だが、まだこの段階では財宝や物資の出納記録係であって歴史記録係ではない。阿知使主は住吉中津王が反乱を起こした時に、履中天皇を救い出した三人の功臣のうちの一人だから、論功行賞の意味もあったのかもしれない。また雄略天皇の時に「大蔵」を設立して、蘇我氏を検校(管理者・責任者)として、秦氏に出納事務を管掌させ、東漢氏と西文氏を記録係としたという。ここでもセットになっている。雄略天皇は身狭村主青(むさのすぐり・あを)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみつかひ・はかとこ)を抜擢・寵愛した。この二人は江戸時代でいえば「側用人」みたいな立場だったらしい。この身狭村主氏(牟佐氏)というのは呉の孫権の息子、孫高の子孫で、東漢氏の配下の氏族だった。檜隈民使氏も東漢氏の分流。書紀にはこの二人は「史部」(ふびとべ)だとも書いてある。この二人は成り上がりだから手足になる配下が少なく、同族の東漢氏の人員や人脈、つまり史(ふびと)仲間が頼みだったろう。ところが西文氏の活躍はみえない。それで東漢氏と西文氏に差がついた。允恭天皇は「君・臣・連・直(あたへ)・造(みやつこ)・首(おびと)」の6階のカバネを制定したが、その子の雄略天皇は帰化人枠としてさらに「史(ふひと)・伎(てひと)」を追加した。これは最下級の「首」と同格と思われる。これまでの「史」は単に記録係の意味しかなかったが、これをカバネの一つとしたわけで、多くの帰化系氏族が下級とはいえ貴族に列することになった(正確には「直」までが貴族で、「造」から下は戦前でいう士族階級とか西洋でいう騎士階級とかに近いが、貴族と庶民に二分割した時の大雑把な意味で下級貴族)。この時、二氏だけが特例扱いで東漢氏は「直」、西文氏は「首」のカバネを賜った。東漢氏の方が2段階も格上の扱いになっているが、東漢氏が「直」になったのはおそらく推古朝になってからで、もともとは秦氏と同格の「造」か西文氏と同じ「首」のいずれかだったのではないかと思う。
継体天皇の頃から、百済から上番(交代)で五経博士がやってくるようになった。五経博士というのは本来は五経のそれぞれを担当する五人の博士だが、書紀には一人しかいないように書いている。むろん五経のすべてに通じている一人の博士を五経博士という言い方もあるのだろうが、おそらく多くの博士たちの首長、リーダー、トップ、代表というような地位の人物をあげているのだろう。その部下だか弟子だかの中に、五経それぞれを専門とする人々が5つのグループとしていたんだろう。偉い先生がたった一人だけで来てもしょうがないわけで。彼ら(=博士)は教師であって実務家ではない。誰に教えるのかというと、皇族貴族の師弟も本人たちが希望すれば受講できただろうが、おもな生徒は秦氏・漢氏・文氏(西文氏)といった書記官を職業とする人々だろう。だから五経それだけの能力をもった弟子たちだか部下たちだかをおおぜい率いつれてきたに違いない。朝廷(=皇室)とは別に、皇族や貴族も個人的に史(ふひと)として帰化人を召し抱えることも増えていっただろう。だから遅くても継体天皇の治世末期までには、どこの氏族でも漢字で書かれた家系の記録のようなものはもっていたと思われる。
その後、欽明天皇の頃は、五経博士と医博士と暦博士の7博士があったうちで医博士・暦博士と五経博士の中の易博士の3博士が重んじられたようであり、五経博士のうち易を除く4博士はあまり重んじられなかった(つまり儒教思想は二の次で実用的なものが重視された)。この博士たちは建前上は交代して百済に帰るはずが実際にはそのまま日本に帰化することも多かったようだが、先生稼業で実務家ではないためか、在来の史(ふびと)たちの存在意義を脅かすものではなかった。が、欽明天皇・敏達天皇の二代間に、百済系の帰化氏族で船史(ふねのふびと)の祖・王辰爾、白猪史(しらゐのふびと)の祖・胆津(いつ)、津史(つのふびと)の祖・牛が大きな功績をあげて屯倉(みやけ)の田令(監督官)や船長(港湾税務官)など各種の管轄権限を獲得し、東漢氏や西文氏の立場は微妙になってきた。特に敏達帝の元年に高句麗からの国書を王辰爾だけがみごとに解読し、東西史部は「数ばかり多くて役立たず」と天皇から叱責されたことは、東漢氏と西文氏にはこの上ない打撃となったろう。敏達帝の六年に日祀部(ひまつりべ)が創設された。これは旧来の日置部(ひおきべ)が縄文以来の原始的な手法で春分・秋分・夏至・冬至等の太陽観測をしていたのに対し、最近の中国の天文学の知識で太陽観測を始めたものだろう。これと同時に「史部」(ふひとべ)に中国式の歴史官僚としての役割も与えられた可能性はきわめて高い。しかし、敏達天皇がもし歴史官の役割を特定氏族を負わせたとしたら、その氏族は船・白猪・津の3氏から出たに相違なく、東漢氏や西文氏が採用されたとは思えないから、古代中国における「右史・左史」のような修史官の役目を特定氏族に負わせたのではなく、既存の「史部」つまり不特定の「史」(ふひと)系の諸氏族たちに自由に書かせて任意に提出させたのではないか、敏達天皇からみるとこれは実験期間、試用期間のようなものであり、任意の自由行動だから守旧派の抵抗勢力(「語部」など)からの抗議もある程度かわすことができる。
その後、用明天皇の時には押坂部史毛屎(おさかべのふひと・けくそ)が物部守屋のついていたことが書かれている。押坂部史は東漢氏の末流で、蘇我氏は白猪史らを重用していたから東漢氏は物部について挽回を狙っていたらしい。大蔵や内蔵の管理を通じてみた場合もともと東漢と西文は蘇我の配下のようなものだから、なんとか蘇我の下からの脱却の機会を狙っていたのかもしれない。しかしご存知の通り、蘇我vs物部の戦争で物部氏は滅亡してしまう。いよいよ追い詰められた東漢氏は、今度は蘇我への忠誠を再び示すため汚れ役を負わされる。東漢直駒(やまとのあやのあたへ・こま)が蘇我馬子の命令で崇峻天皇暗殺に手を下してしまったのだ。この後、ますます栄えていく蘇我氏に、東漢氏はべったりくっついて完全に忠実な配下になっていく。推古女帝の頃、隋に留学僧を派遣しているが、それに東漢氏系の人物が何人も含まれていたのは蘇我氏の口利きがあったからだろう。つまりこの頃には朝廷第一の書記官としてのかつての地位を取り戻していた。これがやがて東漢氏が朝廷の政治に直接関与していくきっかけとなるのだが、それはまた後の話。しかし西文氏は東漢氏のような挽回運動に邁進するようなたくまさしさが無く相変わらず衰退の途上にあったのではないか。東漢氏が「直」で西文氏が「首」と2段階もの格差ができたのはこの頃だろう。そして推古女帝の頃は聖徳太子の活躍した時期でもあり、『天皇記』『国記』『臣連国造伴造百八十部并公民等本記』の編纂事業の下働きとして東漢氏も駆りだされ、喜んで参加しただろう。この時東漢氏は西文氏をも仲間に誘って、格下の氏族として形式はともかく事実上の配下にしてしまったのではないかと思われる。倭漢坂上直(やまとのあやのさかのうへのあたへ)が欽明天皇陵に大柱を建立して名をあげたのは、まさに聖徳太子の編纂事業が始まったのと同年(推古二八年)の十月のことであった(敏達六年よりも、推古二八年の方が「史部」の一部を歴史官僚とした、つまり歴史官僚が始めて創設された年である可能性が高いが、敏達朝の可能性も少しはある)。聖徳太子の死去によって、歴史編纂事業は頓挫したが、東漢氏と西文氏は、そのまま名目上の歴史編纂官として蘇我邸内に職場を持ち続けたのだろう。
さて、前述の通り、舒明天皇になって、帝は西国の民を徴発して大宮殿(百済宮)を建築し、東国の民を徴発して大寺院(大安寺)を建立したが、この時、書直県(ふみのあたへ・あがた)という人が「大匠」(工事監督者・責任者)となったという。書直氏はこれまた東漢氏の分流。日本書紀の原文は「造作大宮大寺。則以百済川側為宮処。是以、西民造宮、東民作寺。便以書直県為大匠」となっている。これだと大宮と大寺の両方の大匠を兼ねているように読めるが、西文氏が出てこない。西の民は大宮、東の民は大寺となっていてその直後に書直県を大匠となす、とあるから、ここは「西民造宮」と「東民作寺」の間に脱文があり、「是以、西民造宮、便以西書某為大匠。東民作寺、便以書直県為大匠」だったのではないか(日本書紀は西文氏を西書氏と書く)。川内文氏を西文氏と書き、倭漢氏を東漢氏と書いて、あわせて東西史部というようになったのはこの頃からと思われる。

皇極朝の記事が紛れ込んでるわけ
というわけで、帝紀が推古天皇で終わっていて舒明天皇が書かれてない理由はわかるわけだが、しかし今度はそうするとなぜ「推古天皇陵の移転」という皇極天皇の時代のことが書かれているのか。ここは単に後世の追記だ、で済ませてしまうこともできるが、それだとやや面白味がない。御陵の移転先の「科長」は蘇我氏の基盤で、この移転も蘇我の全盛期のこととされている。恐らく、皇極天皇の頃に作られた写本の一つに、末尾に「なぜ推古天皇で終わっているのか」を説明する簡単な「あとがき」のようなものをつけた写本があったのではないかと想像する。蘇我氏の繁栄と横暴を述べて語部側の恨み節も少々まぜながら。『古事記』編纂の時に、そんな個人的な恨みだの関係のない蘇我氏の話だのを太安万侶が削除していったら、御陵の移転の部分だけが残ったのではないか。

舒明天皇以降の公式記録はどうなったか
以上の通り、本質的に語部資料であるはずの帝紀に推古天皇までしか載ってない理由はわかった、としよう。が、帝紀とは別に、早ければ敏達天皇以降、遅くても推古天皇以降の歴史は漢文史官「右史」「左史」ならぬ「東史」「西史」の手にまとめられていたはずではないか。それはどこにいったのか。聖徳太子が『天皇記』を編纂するための資料として持ちだされて焼失したとしても、持ちだしたのが推古朝のことだから帝紀とはもとから重複した部分であり、舒明天皇以降の分ではない。が、聖徳太子が薨去した後もその未完成草稿が蘇我邸にありつづけたということは、おそらく歴史編纂局は聖徳太子の遺業を継ぐという名目で、朝廷でなくずっと蘇我邸内に置かれていたのだろう。従って舒明天皇から大化改新までの公式記録は「乙巳の変」で蘇我邸もろとも『天皇記』と同時に焼失してしまったものと思われる。大化改新以降の分はまた公式記録が再開されただろうが、壬申の乱で近江朝の首都が戦場になったため大津宮にあったであろう公式記録も焼失・散逸してしまったのではないか。壬申の乱の後から再開された公式記録はその後、日本書紀を始めとする六国史に活用されたはずである。だから舒明天皇から壬申の乱までの記録は多くの皇族・貴族・豪族らがたまたま持ち合わせた公式記録の断片的な写本を寄せ集めて歴史を復元しなければならなかったと思われる。

結論はまだ先だ!
以上のように長々のべてきた解釈がただしいとすると、舒明天皇以降の帝紀はそもそも最初から存在せず、諸々の貴族・豪族たちがもっていたという各種の帝紀はすべて推古天皇までしかなかったのだということになる。もとになった帝紀がそうだから『古事記』も自動的に推古天皇で終わっているのである。

しかし、いくら公式に漢文の修史官が創設され、語部の記録が公式には中断したといっても、元明女帝の頃までは稗田阿礼が猿女として大嘗祭に仕えていたのだから、職務内容が若干せばまったとはいえ、語部それ自体は存在していたのがわかる。それなら古来のシキタリ通りに語部としての記録は非公式にでも語部の内部で継続していたのではないか? そんなアッサリと上から言われたからやめました、でやめられるようなクズ仕事じゃないだろう。プライドをもつに値する神聖な仕事だったはずだ。だとすると「帝皇日継」は『古事記』ができた時代である元明女帝の直前、文武天皇まできっちり存在したはずであり、『古事記』に記載のない舒明天皇から文武天皇までの8代(弘文天皇を入れたら9代)分については、いつ・誰が・なぜ切り捨てたのかが問題となる。
また逆に、朝廷が語部を廃絶させようと思えば物部守屋が滅亡した時の方が最も可能性が高いだろう。神道勢力と排仏派の関係はいうまでもないが中国式の正史の発想とは相容れない語部も物部氏の側につくしかない。そして語部はこのブログではたびたび言及するように庶民の文化と結びついており支配層からするとやっかいな存在でもあった。だから蘇我vs物部の戦争の後、いったんは語部は国家権力によって廃絶された可能性がきわめて高いのではないか。この場合はおそらく大化改新の後になって部民としては復興したものの往時の職務までは期待されなかったのだろう。だが、だとすると「帝皇日継」は用明天皇で切れてたはずであり、『古事記』に記載されている崇峻天皇と推古女帝の2代の分は、いつ・誰が・なぜ追加したのかが問題となる。
つまり、漢文の修史官の形成史の観点からみても、「帝皇日継」を担ってきた語部の衰亡史の観点からみても、「なぜ推古天皇で終わっているのか」という謎解きのカギにはつながってこないのだ。
ここで話は振り出しに戻る。

議論の大前提がちがう!
この謎解きがなぜ混迷するかといえば、『古事記』が「帝皇日継」(紀:帝紀)に基づくはずだという前提にとらわれているからなのである。このブログの他の記事に詳説せしがごとく、稗田阿礼の「帝皇日継」は『日本書紀』の神武天皇以降、天智天皇以前の記述に存分に活かされているのであり、『古事記』の中巻、下巻には大雑把なあらすじ程度にしか活かされてはいないのだ。持統女帝が「十八氏の纂記」を提出させた中に、息長氏と丹比氏が含まれない。ここの十八氏は『日本書紀』編纂に活用されたものだけをあげており、提出させたもののボツにした氏族は含まれていないのである。当初の企画では『古事記』は本来は上巻のみ、『日本書紀』は神武天皇以降で完成とされるはずだったのが、元明天皇になってから諸般の理由で『日本書紀』には急遽、神代巻も追加されることになり、『古事記』の企画は中止、草稿は完成前に廃棄されることになった。それに密かに不満を抱いた稗田阿礼と太安万侶は『日本書紀』がボツにした息長氏と丹比氏の伝承から中巻・下巻を作ったのである。ちなみに現在の古事記序文はボツになった日本書紀序文の草稿に平安初期の多人長(おほのひとなが)があれこれ手を加えて出来たもの。太安万侶は記紀分裂のすったもんだで書紀の部局からはずされたため『続日本紀』では修史関係記事に名前がない。

このことはこのブログでは他の記事でも書いてることだが、中巻は息長氏の伝承から、下巻は丹比氏の伝承から作ったのである。それで「中巻が応神天皇まで、下巻が仁徳天皇から」となった理由は理解しやすい。だが問題はなぜ下巻が推古天皇で終わっているのか、だ。
まずは中巻と下巻の区切りの件から。
息長氏の伝承は始祖である若沼毛二俣王を挟んで前半と後半に別れていたと思われる。この後半を切り飛ばして前半から古事記の中巻を作ったのだが、前半と後半に別れていたというのはどういうことかというと、通常、ある氏族の始祖というのはその氏族の歴史の始まりなのだから、始祖以前は関係ないのだが、息長氏は特殊な構造をもっており、いわゆる息長氏とは「第三息長王統」なのである。息長氏の前には、開化天皇皇子の日子坐王から始まる「第一息長王統」と景行天皇皇子の倭建命から始まる「第二息長王統」とがあり、両者は女系で結びついて応神天皇皇子の若沼毛二俣王につながる。この若沼毛二俣王が息長氏の始祖であり、息長氏を「第三息長王統」ともいう所以である。ここまでが前半で、後半は若沼毛二俣王の子孫から継体天皇が出て皇位を継ぐところで終わっていたと思われる。だから応神天皇で終わっている中巻は、若沼毛二俣王の誕生で終わっているともいえる。中巻は若沼毛二俣王の息長系の先祖たちの物語であり、だから例えば『日本書紀』にはない記事で『古事記』では日子坐王の系譜が詳しく載ってるのはそのためなのである。後半はボツにしたといったが完全に消したのではなく寓話の形で末尾に残してある、それが応神記末尾の「①天之日矛説話、②春山秋山物語、③若沼毛二俣王系譜」の三部作である。あるいは先にこの三部作があって、後から上巻を息長氏の伝承から作ったのかも知れない。後半をカットした最大の理由はもちろん、息長氏ではなく、丹比氏の伝承を採用したからである。丹比氏の伝承は、丹比氏が誕生したきっかけである反正天皇の誕生から始まっており、それは時期としては仁徳朝での事件だから下巻は仁徳天皇から始まっているのである。ただ、なぜ推古天皇で終わっているのかが説明つかない大きな謎だった。例えば丹比連と深い関係のある丹比君は宣化天皇皇子の賀美恵波王の子孫だから、下巻が宣化天皇で終わっていたなら、これは納得しやすかっただろう。

最終結論
ところでまったく関係ないところから偶然にヒントが転がり出てきた。
『丹墀姓熊谷氏系譜谷地舘系圖』には宣化天皇の曾孫、多治比王が姓を賜って丹比氏の始祖になったのが推古天皇の時だとある。この系図自体は江戸時代に作られたものだろうから史料的な価値としてはたいしたことないかもしれない。しかし世代数からいうと舒明天皇の頃になるが宣化天皇と欽明天皇はかなり齢が離れていたので(宣化天皇はむしろ継体天皇に近くて、欽明天皇は継体天皇の最晩年の子なので孫ぐらいの齢)一世代くりあげると忍坂日子人大兄王と同世代。彼の生存期間の後半は推古朝だから多治比王が推古朝の人であって問題ない。歴史的に生存年代が明らかな島が624年生まれで、同系図は島の父の多治比王を582年生まれとしているので辻褄は合う。また賜姓されたのは父の十市王の死後だと思われるが同系図は彼の死を607年としている。この年は推古十五年、多治比王は計算すると25歳の時にあたる。つまり同系図の信頼性いかんにかかわらず、多治比王が賜姓されて丹比君氏という氏族が発足したのが推古朝だという話は極めて妥当性が高い。
このことが示す意味は大きい。
それはいうまでもなく、下巻は「丹比連が発祥した仁徳天皇に始まり、丹比君が発祥した推古天皇で終わる」というみごとな構成になっていることが判明したからだ。

補足
同系図によれば多治比王は誕生の時、産湯に丹治(タヂヒ、今のイタドリ)の花びらが飛んできたので多治比王と名付けたという。この話はオリジナル記事ではなく『続日本紀』からの抜粋引用だが、その『続日本紀』の記事自体が『日本書紀』にある反正天皇誕生の時の話とそっくりで、人物を入れ替えただけのコピペである。『新撰姓氏録』では反正天皇の乳母だった色鳴宿禰が丹比氏の祖となったという。ややこしいがこの丹比氏は神別で尾張氏の分流でカバネは「連」のちに「宿禰」。宣化天皇の末裔の丹比氏は皇別でカバネは「君」のちに「真人」。別の氏族である。だが多治比王という名前のエピソードは作り話(コピペ話)であり、常識的に考えれば生母か養育氏族(乳母)のどちらかが丹比氏だったからそのまま名前になったものである。中世には乳母は同族的な感覚を生じて強い紐帯で結びついた家臣になるが、この時代も生母の実家や養育氏族というのは特別のコネクションでくっつく結果、君臣関係のようなものが生じる。反正天皇の経済基盤である丹比部を管理したのが丹比連だから丹比連はもともと反正天皇の家宰的、直臣的な存在である。
なお宣化天皇の名代部には檜前舎人部(ひのくまとねりべ)もありその中央における伴造は檜前舎人造(ひのくまとねりのみやつこ)であり尾張氏の分流だから丹比連と同族である(『新撰姓氏録』で「連」になっているのは「八色の姓」での昇格)。現地の伴造はそれぞれの国造の一族で、例えば武蔵国なら「直」、上野国なら「君」になっている。

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浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な一介の町人です。そして佐久間靖之先生の主宰されていた「古事記に親しむ会」の常連メンバーでもあります。「古事記に親しむ会」は今も存続して活動しています。

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