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目弱王の変 ~「神の憑坐」か「少年犯罪」か~

令和元年9月17日 TUE 改稿 平成26年10月15日(水)初稿
仁徳⑯〜武烈㉕の系譜」から続き
根臣(ねのおみ)/大日下王が亡ぼされた理由
根臣ってのは後の坂本氏の祖先で、武内宿禰の子孫。系図は「武内宿禰ー紀角宿禰ー白城宿禰ー(中略)ー根臣ー建日臣(=坂本氏)」。当時、武内宿禰系の諸氏族の首領は葛城氏で、根臣も葛城円大臣(都夫良意富美、つぶらのおほみ)の配下にあったものだろう。葛城氏には二系統あって、襲津彦(そつひこ)の二人の息子のうち、兄・葦田宿禰(あしだのすくね)の系統を北葛城氏、弟の玉田宿禰(たまだのすくね)の系統を南葛城氏というように南北をつけて呼び分けることにする。これは実際に南葛城、北葛城と呼ばれていたわけではなく便宜上の仮称。弟の系統から葛城円(つぶら)がでて、履中天皇の時に大臣となって一族の総領だった。兄の系統のほうが分家みたいなものだが、こちらは娘が履中天皇の妃となって市辺押歯皇子を産んでおり、皇室の外戚になっていた。
葛城一色の履中天皇に比べて、允恭天皇の家系は反葛城系だという説があるが、そうではなく「葛城べったりではない」というだけ。允恭天皇の諸皇子の中では穴穂王が葛城円大臣と連帯したことは「木梨之軽太子の変」で詳しく述べた。円大臣(つぶらのおほみ)は履中・反正2代では真面目さを買われてか才能を認められてか(恐らく後者)、若くして執国事四大夫(閣僚)入りしていた(大蔵大臣相当だったと思われる、詳しくは履中天皇の頁を参照)が、允恭天皇の初期に父親の玉田宿禰(たまだのすくね)の不祥事で閣僚を退いていたのではないかと思われる。この時代は父の罪を子に及ぼさないことが多いので、円大臣が直ちに失脚したわけではないだろうが、それでも立場が悪くはなったろう。最後まで大臣(おほみ)とよばれているので形式上の地位には留まっていたと思われるが、伯父の葦田宿禰(あしだのすくね)か従兄弟の蟻臣(ありのおみ、葛城臣蟻)に、葛城氏の氏上(うぢのかみ、一族の総領)としての事実上の権限が移っていた可能性も高い。円(つぶら)としては、ここでなんとか挽回、逆転したいと模索していたところだろう。根臣は、そんな円大臣と安康天皇をつなぐきっかけになった人物かもしれないし、逆に連絡係として円大臣と穴穂王の間を往復しているうちに穴穂王の寵臣になったのかもしれない。
さて、安康天皇即位以降、まったくおぞましい、とんでもない話が続く。仁徳天皇以降、天皇への忠誠心は年々低下して、当時よほど風紀や治安が乱れて人心も荒廃していたことを伺わせる。根臣のような逆臣が現れるのもそういう風潮あってのことと思う。
ざっと読んだ印象、根臣(ねのおみ)と安康天皇二人の性格にリアリティーがない。もともとの事件の発端になった根臣(ねのおみ)の言動からして普通でない。勅使として仕事してるのに天皇からの贈り物を横からくすねただけでも無計画なのに、さらに自分が勅使なのに天皇に対してわざわざデタラメを報告して、バレないと思ったのだろうか? ところが安康天皇自身もろくに調べもせず真に受けた上、いきなり懲罰軍を送って大日下王をさっさと殺してしまう。ってのも、いくら気が短い人だからってへんだろう。そのままではとても信じがたい。これは大日下王の軍が向かってきてるという偽情報を根臣が流したに違いない。根臣もそこまで周到に準備していなければおかしいだろう。
これは最初から念入りに計画して狙ったもので、根臣は大日下王の妃、長田大郎女に対して天皇が想いを寄せていること(詳細は木梨之軽太子の変を参照)を忖度した上で、安康天皇を煽って討伐軍を出すように仕向けたとも考えられる。ただし根臣は小物で、勝手にだいそれたことをやらかしていたわけではない。似たようなことは誰でも容易に思いつくようで、同意見の人は多いが、ことの裏には皇位継承権のある皇族たちを取り巻いて対立しあっている貴族層の思惑もありそうに思える。そう、根臣を操っている大ボスは葛城氏なのだ。葛城氏は朝鮮半島や大陸との外交と交易の利権を握って過渡に強大になっており、応神天皇は九州の諸県君(もろがたのきみ)を寵用してその娘を妃に入れ、瀬戸内海から九州の水運・水軍を司らしめ、葛城氏の利権を分割、減殺した(詳細は応神天皇の頁を参照)。その娘から生まれたのが大日下王。だから葛城氏にとって諸県君は目の上のたんこぶであって、諸県君の象徴であり権力の源泉が諸県君の腹から生まれた皇子、大日下王であった。
大日下王は大山守命の乱で中立を守ったか何らかの理由で隼人族の管轄権も奪われ、一時的に立場が悪くなっていたが、墨江中津王と協力して速総別の乱を鎮圧するのに功をあげて以来、再び存在感を増していたと思われる。母系のルーツは天孫降臨の聖地日向であり、葛城氏を掣肘するために応神天皇の意志によって生まれた(実父は仁徳帝だが)大日下王は、ただでさえ国粋派や庶民からもかなり人気があったろう。だがそれだけではさすがに葛城氏でもいきなり理不尽に攻め滅ぼすまではいかない。発端は目弱王が生まれたことだろう。これで事情が変わった。
書紀によると大草香皇子(大日下王)は履中天皇の皇女「中蒂姫」を妃として眉輪王(目弱王)を儲けていた。後述するが履中天皇の皇女だというのは書紀の誤り。妃だというのも長田大郎女(ながたのおほいらつめ)と同一人物としたためで、実際は「事実上の妃」ではあっても公式には単に大日下王の宮殿に仮寓していただけと思う。が、そこは一つ屋根の下の男女、ねんごろな関係になって兄媛(えひめ)が生まれた。書紀はこれが眉輪王(目弱王)だとするが、古事記のいうとおり長田大郎女の方が目弱王の母だろう。兄媛がいれば弟媛(おとひめ)もいなくてはおかしいから、目弱王が弟媛ということになる。目弱王は王子と思われているが実は王女だろう。だが王女(兄媛)を産んだ以上、中蒂姫は次は王子を産む可能性もある。これは極めて重大切実なことだった。なぜかというと、中蒂姫は女鳥王の血筋をひく最後の生き残りだからである。葛城氏からみれば、大日下王はこのままでは第二の速総別王、第三の大山守命になりかねない危険な存在だった。
正統性にわずかでも疑問をもたれそうな後ろ暗い安康帝にとっても、大日下王がこの中蒂姫との間に子を儲けたというのは極めて危険なことだったろう。
大日下王のもう一人の妃が長田大郎女。安康天皇にとっては同母姉だが複雑な愛情が絡んでいることは上述の通り。つまり安康天皇と葛城氏は、大日下王を排除したいという目的では一致していた。
根臣は安康天皇の信頼厚かったようで、大日下王が殺されてしまったこともあり、『日本書紀』だと雄略天皇十四年まで悪事が露見しなかった。

第三黒媛と中蒂姫の流転
大日下王の妃は長田大郎女だが、この人は後述するように安康天皇の同母姉という解釈で正しい。日本書紀は履中天皇の皇女の中蒂姫という女性を出して、長田大郎女の別名であるかのような匂わせ方(遠回しな書き方)をしているが、これは安康天皇と長田大郎女の関係が近親相姦ではなかったという希望的観測の可能性を示唆するためで、実際には別人だから書紀はウヤムヤな書き方しかできなかったのである(詳細はこのブログの別の頁に書いた)。で、眉輪王(目弱王)は中蒂姫の子ではなく、古事記のいう通り、長田大郎女の子だろう(どっちの子でも当面のストーリー解説には差し支えないが、後の方で問題になる)。安康天皇が長田大郎女を欲したのは個人的な欲情からで、安康天皇にとってはそれが重要だった。まったく別の政治的な動機から中蒂姫(とその子の兄媛)をも欲したろうが、こちらの件はさほど重要視していなかったのではないか。女鳥王の血筋が皇位の正統性の証になるなんてのはすでに大昔の話で、允恭天皇の権威が確立してからは終わった話でどうでもいいことと考える人も増えていただろう。
書紀によると中蒂姫は履中天皇の皇女で母は黒媛という。ところが履中天皇の頁に書いたが黒媛は三人いる。

・第一黒媛
書紀によれば羽田宿禰の娘で、履中天皇が即位前に住吉仲皇子と争った黒媛。これと別に書紀には住吉仲皇子の乱が平定される時に官軍に捕まった倭直吾子籠が自分の妹で「日之姫」を差し出すことで罪を赦されたという。この二人の女性は恐らく同一人物で推定本名「羽田之日之郎女」。幡梭之若郎女=波多毘能若郞女=若日下部王とは乳母姉妹かと思われる。
羽田宿禰は実の父ではなく「乳母」親だろう。倭直吾子籠の妹というのは、この場合の妹は恋人または妻であってsisterの意ではない。倭直吾子籠は住吉仲皇子のために履中天皇の皇居からこの黒媛を連れ出して捕まった。妹(恋人)というのは追手を欺いてそう自称してたんだろう。だが官軍側でも媛に脱走されたというのは聞こえが悪いから、吾子籠の妹という建前のまま拘束したのでる。また書紀では履中天皇の妃になってから宗像神の祟りにあって薨去したことになっているがいろいろ不可解で謎解きが必要。

・第二黒媛
履中帝の妃の一人。葛城蟻臣の娘で市辺押歯王の母。本来は「黒媛=黒比賣」という名ではないのだろうが混同された結果、本名不詳になってしまった。

・第三黒媛
速総別王と女鳥王の間に生まれた娘で推定本名「更黒覆媛/布久呂布比賣」。住吉仲皇子が隼別皇子の乱を鎮圧した際の捕虜だろう。

第一と第三は同一人物の可能性が高い。中蒂姫は第三黒媛の娘なのだが、書紀は第一黒媛の本名「羽田日之郎女」と幡梭之若郎女(=若日下部王の別名)も同一人と誤解したため、中蒂姫の母を幡梭之若郎女だとして「中磯皇女」とも書いている。だが、それらは書紀の誤りで、古事記には幡梭之若郎女が履中帝の妃になったなどとはまったく書かれてない。このへんの話の詳細は履中天皇の頁を参照。
第三黒媛と中蒂姫の母娘は、女鳥王の血筋だから天皇以外の皇族の妃にするのは乱を誘発しかねないので、死んでもらうか非皇族(皇別でない貴族か一般庶民)の嫁になってもらうか一生独身でいてもらうかしかない。だが、仮にも代々皇族同士だけで結婚してきた純血の皇族、しかも本人たちに罪がない以上、理不尽な扱いにも限度がある。第一黒媛が神の祟りで薨去した時、神罰を怖れた履中天皇は反対派の意見を容れてしぶしぶ中蒂姫を手放し、墨江中津王の過去のゆかり残る住吉大社に寄寓させたんだろう(実際には神罰ではない。書紀のこの記事も不可解すぎるので、比賣碁曾社の起源とあわせて後日あらためて解明するが今回はふれない)。書紀によると鷲住王(わしずみのきみ)という名の武勇すぐれた皇族が履中天皇のお召しを無視して住吉邑に住み着いたというが、これは中蒂姫を護衛するためだろう。履中天皇が武力に訴えてもこの王女を取り戻そうとしかねない雰囲気があったのだと思われる。しかし履中天皇はわずか六年の在位で病気で崩御。天皇といえば長生きと相場の決まってる日本でわずか在位六年ってのは天地開闢以来のことで、仲哀天皇の九年より短い。仲哀天皇が神罰にあたって崩御したことは有名な語り草だったし、履中天皇ももしや神罰ではと思わせる情況があれこれあったから、次の反正天皇は一度は怖れて、自分の皇后とはせず他の皇族にくっつけようとしたんだが、その結果、中蒂姫を娶りたいと名乗りをあげた5人の皇族男性、若子王(允恭帝)・大日下王・伊和島王・久奴王・大郎子王は全員ふられた。それで反正天皇は再びもしやと思って皇后にならんかとモーションかけたところ、やっぱり断られた。天皇のお召しは普通は断れないもので、あえて断るというのは謀反を起こすと宣言するに等しい。そうなると、中蒂姫のもとに結集する勢力はなみなみならぬものになる可能性があるから、これは脅しであって、内乱勃発の一歩手前ということになるが、大事になる前に反正帝もわずか五年で崩御。べつに崩御したのは中蒂姫を妃にしようとしたせいではないのだろうが、当時の人としたらわからないから、いろいろな可能性を考えたろう。次の允恭天皇も、本来なら中蒂姫を后にしたいところだが、先代が立て続けに崩御したのを目の当たりにみて、万が一この母娘を欲したことの神罰だったりしたら嫌だから、念のため、中蒂姫に皇后の位を贈りはしたが自分の皇后ではないことにした。つまり仁徳天皇が八田若郎女を処遇したのと同じやりかただ。允恭帝が彼女を自分の妃にするのは、例によって例のごとく大中津姫も許してくれなかったろうし。自分の后にはしないかわりに住吉を出てもらって、自分の宮の側に住んでもらった(允恭天皇の宮都は古事記は「遠飛鳥宮」とするが書紀には書かれてない。「遠飛鳥宮」もいくつかあった宮の一つで即位後に転居した宮。即位前には葛城の朝妻の宮に住んでいたろう。中蒂姫を迎えた宮もその近所のどこか)。ただ、中蒂姫を自分の皇后にできない状態で即位するのは履中・反正の両帝と同様の情況であり、天皇としてはやや権威に欠けている。そこで数年、皇位を辞退し続けたので、この期間、中蒂姫を奉ってその権威の下で実質は允恭天皇が政治を執ってはいたが名目上は空位期間があった(允恭天皇の記事に詳細あり)。允恭天皇の偉大な功績(氏姓の正定ほか)のすべてはこの空位期間になされたことで、実力でその帝徳を示した上で改めて即位したので、即位後は允恭天皇は中蒂姫なしでも十分に権威ある天皇として君臨できた。
中蒂姫はそれで天皇から求愛されなくて済んだわけだが、お役御免となってからは、処遇が問題になる。大中津姫の反対もあって、中蒂姫を天皇が后にできないとあれば、木梨軽太子の妃がふさわしいが、太子は同母妹の衣通姫にぞっこんだから断った。大中津姫が仕切るこの一家に一夫多妻はない。娘の衣通姫も母親と同じで一夫多妻は嫌だったろう。しかし中蒂姫をそれ以外の兄弟にくっつけると、皇位争いの原因になりかねない。そうすると次にでてくる婿の候補は、大日下王だろう。書紀によると反正天皇が崩御した時、次の天皇の候補となりえたのは允恭天皇と大草香皇子(大日下王)の二人しかいなかったと書かれている。允恭天皇自身はすでに自分の権威と自分の子孫の皇位は盤石だと思っているので、大日下王にくっつけるのはなんの問題もない。が、それ以上に若日下部王が一時期、墨江中津王の妃だったので、同じく妃だった第三黒媛(第一黒媛は若日下王と乳姉妹)と仲良しだったとしたら、中蒂姫も若日下部王に親しんでいたろう。その縁で大日下王が選ばれたか。大日下王としては、允恭天皇即位によって将来自分が天皇になる可能性もなくなったのに中蒂姫を妃にしたら厄介事に巻き込まれかねない。なにかあったらまた世間は大日下王を担ぎ出して一波乱、なんてこともありえないとはいえない。そこで、中蒂姫は大日下王のもとに一時的に寄寓することになった。いきなり大日下王の妃になったわけではない。まぁ喩えていえばお見合い期間とか交際期間とかお試し期間みたいなものだろう。それも期限をきってるわけでもあるまいから実質は「妃ではない」という建前で永久に居候するつもりだったと思われる。
しかし実際には大日下王の子供を産んだ。兄媛という。兄媛というからには弟媛もいたはずで、たぶん正式な妃である長田大郎女にも後から子供が生まれたってことだろう。だとすると兄媛と弟媛は異母姉妹ということになる(この弟媛は目弱王と同一人物だろう、つまり目弱王は男児ではなく女児)。この時代、皇族でも婚前交渉で子供ができることはよくあることだったろう。それで正式な妃にするかどうかもケースバイケースだったと思われる。長田大郎女も大中津姫の娘だから一夫多妻に反対だったろうし、この時代の男性の一般的な考えとして、子供ができたぐらいで最愛の妻長田大郎女を捨ててまで中蒂姫と結婚させられる義理もぜんぜんない。もうこの宮に同居してるんだから正式な妃であってもなくても似たような情況であり、実質が伴えば形式はウヤムヤにされたのではないかとも思われる。大日下王が滅ぼされた時、中蒂姫も燃え落ちる宮殿と一緒に焼け死んだのではないか。そういうわけで、二人の妃じゃなくて一人の妃ような錯覚が生まれたのではないか。記は長田大郎女一人で物語をすべて説明し、紀は長田大郎女と中蒂姫を同一人とし、どちらも二人いたようには書いてない。だが系譜記事からいって明らかにこの二人は別人である。

同母妹との近親婚だったか
長田大郎女は安康天皇の同母妹である。安康天皇は木梨の軽皇子の近親婚のタブー侵犯に反対する人々によって擁立された天皇だから、同母妹を皇后にすることは本来ありえない、と一見思える。そこで同名の別人とする説もあるのだが、詳細な議論は別の頁でやったのでそちらを参照されたし。結果からいうと、同一人物で安康天皇からみて同母妹なのである。
では、安康天皇は本当に同母妹を皇后にしたのだろうか? 『古事記』では長田大郎女について「皇后」「后」「大后」「大后」の順で四回書かれている。このうち「大后」は現代語でいう「皇后」のこと、「后」はおもに天皇以外の皇族の妃に使われているが、天皇の配偶のうち「大后」以外の女性にもいう。「皇后」が問題で、ここの長田大郎女を皇后にしたという部分と、清寧天皇には皇后がいなかったという部分で、二回しか『古事記』には出てこない。つまり「皇后」という言葉は特定の女性をさすのではなく「皇后という地位・身分」をさす抽象的な言葉として使われているとも考えられ、すると『古事記』のここの文章は「長田大郎女を皇后にした」の意味ではなく「長田大郎女を皇后同然の扱いにした」というニュアンスで読み取れる。「后」と書かれたり「大后」と書かれたり一定しておらず、身分が不鮮明なことが伺われないだろうか。つまり最初に皇后と書いたのは「この後、后と書いたり大后と書いたりしてはっきりしないけど要するに正式な立場ではなかったんだよ」という意味が込められているのだと解釈できる。
もともと二人の関係は、長田大郎女は被害者、安康天皇は加害者の関係だったので、長田大郎女を皇居に迎えて特別待遇にしたのは安康天皇の贖罪行為とみるのがいちばん自然だろう。それでねんごろな関係になるのも理解できることだが、流石に公式に大后には出来なかった。ただ、周囲からみれば事実上のそういう仲ってのは明らかだったので周囲から「大后」と呼ばれても否定せず(正式な称号ではなくニックネームみたいなものとも言い張れる)、もし何かいわれても「同母兄妹なんだから仲がいいのは当たり前だろ、それ以上の関係はないよ」という空気で押し切って言い逃れたんではないかと思われる。
木梨の軽皇子といい安康天皇といい、同母妹が好きだけど、そこらの詳細は「木梨之軽太子の変」の記事を参照。そもそもこの兄弟には異母姉妹が存在しない。允恭天皇には皇后が一人しかいないから。押坂大中津姫は『日本書紀』みると石之姫ほどじゃないが焼餅焼きだったみたいだ。だから側室も許さなかったんだろう。
さて、そもそも皇太子だった木梨の軽皇子が同母妹を后にしたために群臣貴族層から拒否され、そのため安康天皇に皇位が回ってきた(少なくともそういう建前で即位した)わけで、それなのにこんなことをしていれば貴族たちは「何のために皇太子に刃を向けてまでこの人を天皇にしたんだ?」ということになる。人望は急落していただろう。だから暗殺された時の白日子王、黒日子王の反応が冷淡だったわけだ。

安康天皇が神の祟りを受ける予兆
(1)根臣のような悪人を見抜けず寵用しその讒言を容れて激情にまかせて無実の大日下王を殺した(実際には長田大郎女への未練がありそこを根臣に利用され乗せられた)
(2)木梨の軽皇子を討伐して即位したのにその軽皇子と同じく同母妹を后とした(これについては筋が通らない一貫性のなさだけが問題で、同母妹との関係については情状酌量の余地がないでもない)
(3)潔斎して神託を聞くべき神聖な神牀(かむどこ)をあろうことか昼寝に使いそこで夫婦の雑談をした。『日本書紀』だと神牀は出てこないで単に「楼」(たかどの)で宴会した時の話になってるが、神牀が漢文に訳しにくいためだと思う。神牀で宴会やったのかもしれない。
最後の(3)について詳しくいうと、書紀では沐浴するために山宮に行きそこで楼に登って景色を楽しんで宴会したことになっている。沐浴は単に水か湯で体を洗うだけの場合もいうが、宗教的な「禊」(みそぎ)的な儀式にもいう言葉(古代中国にも神道でいうミソギ的な儀式はあったから漢文表現ができる)。書紀は「楼」というかこれは「神牀」(かむどこ)を漢訳できずやむなく「楼」と書いてるだけだから、沐浴も禊の儀式だろう。山宮というのは安康天皇の宮都「石上の穴穂宮」が橿原市石原田という説によれば耳成山か。天理市の田町または田部町とする説ではすぐ東に山地がわさわさあるのでどこか適当な山がいくらでもあったろうが多分石上神宮の背後の山地を使ったのではないか。別に御神託を伺うのに山の中に行く必要はないが、どういう結果が出るかわからないので人目を避けたかったのではないか。
で、安康天皇は神様に何のお伺いを立てようとしたのかだが、恐らくそれは長田大郎女を正式に后妃にすることの可否だろう。この場合の「正式に」ってのは建前上の社会的地位としての「后妃」の称号ではなく、即物的具体的な意味で性交が許されるかということである。兄の木梨軽太子を儒教倫理に反するとして弾劾したのに、自分が同じことしてどうするっていう批判を避けるために「神託」に頼ろうというわけ。以前にも別の記事で詳しく書いたが、この時代はまだ「母が同じだと結婚できない」というルールは一般的でなくて、一部の儒教信奉者だけがいっており、外来思想なわけ(正確には儒教では同父間の結婚を禁じているのであってこれを同母間に置き換えてるのは日本的な歪曲)。この時代はまだ儒教は全面的に容認されたわけではなくて外国かぶれだけが信じるアヤシゲな思想と思われてたから、日本の神々ならOKを出すと予想された。これは必ずしも御都合主義ではない。神道も仏教も儒教もキリスト教も最終的に正しいところで一致するはずと能天気に考えるのは永年の神仏習合で思考能力が蒸発した日本人だけで、そんな訳ないだろ。異なる世界観を同時に認める(=価値相対主義)なら、多様な行動指針に優劣はつけられない。それは「単なる真実」であり御都合主義でもなんでもない(儒教が神道と矛盾しない正義の基準として容認されたのは雄略天皇以降)。
で、実際に長田大郎女についてはOKが出たんだろう。だからこそその後の「直会」(なおらい)という名目で宴会になるわけである。

目弱王の動機と世間からの解釈
記紀は揃って犯行の動機を「父の敵討ち」だとしているが、本当だろうか。これは後世の、記紀編纂者の解釈にすいないのではないか。いくら子供でも、いや純真な子供だからこそ、私憤よりも公の大義をまじめに優先させうる。当時の子供はみなヤマトタケルを手本としたのであって、父の仇などという私情で天皇を殺すなんてことはありえない。7歳といっても頭の中は完全に大人だっていうことはよくあることで、目弱王は、安康天皇が天皇にあるまじき悪人だから殺したのであって、大人もカゲでは天皇を批判していたのを聞いていたのだろう。しかし記紀の編纂の時点では、目弱王の方が犯人として(つまり悪の側として)滅ぼされてしまうことがわかっているので、物語としてわかりやすく犯行動機を説明的に設定してるだけで、深い意味はない。
当時のリアルタイムの人々も、安康天皇が暗殺されたことがわかって、まだ犯人が誰かわからない情況では、まず犯人は例の事件(大日下王の一族を滅ぼした件)の敵討ちだと想像しただろう。大人は、恐れ多くも現人神にあらしゃいまする陛下が悪人だなんてことはおおっぴらには考えたくない。それが露呈すると社会がアノミー化する。だから、安心できるわかりやすい物語に落とし込もうとする。現代の警察の「調書」と同じで、犯人や容疑者がいくら本当のことをいっても、あんまり理解しがたいへんな話だったり、心理的に受け入れがたい話だと、警察は調書に本当のことを書いてくれない。そして「おまえはかくかく思って、だからしかじかの行為に及んだんだろ?」と通り一片のわかりやすい話を勝手に用意して、「そうなんだろ、な」と同意を迫る。猟奇事件のマスコミ報道でも、犯人像は偏見丸出しのステレオタイプになる。警察・マスコミ・世論の三者が、「安心できる・納得できる物語」を求めるからである。不安を煽るような真実は誰も求めない。「ろくでもない人間が天皇に即位することもありうる」なんて危険な話は、当時の人は誰も直面したくない事実だった。「天皇陛下が暗殺されたが、原因は犯人の敵討ちだった」という話なら、なるほど理由はわかったがけしからんと怒って犯人を処刑すれば、社会秩序は守れるのだから、受け入れられる。だが、天皇自身が悪だったとなれば、犯人を処刑しただけでは何の解決にもならない。社会システムの根幹の問題だからだ。
だが、犯人が目弱王だと判明してからは事情がかわってくる。目弱王が子供だったからだ。これは現代人にはわからないことだが、日本でも海外でも、大昔は幼い子供には神性が宿っており、その言葉や行為は時として「神意」の表われとされた。つまり安康天皇の暗殺は神罰だという解釈の余地が当時の人々には確保されたことになるのである。神罰で崩御した例は、仲哀天皇を思い起こせば、「先例もある」。ただし、仲哀天皇の場合は、現人神そのものともいうべき神の御子、胎中天皇として威光あまねき応神天皇がただちに出現したのでアノミー化は切り抜けた。今回はそのようなアテがあるわけではないので、目弱王が子供だというだけでは解決にならない。目弱王が勢いに乗じて即位するところまでいけば良いのだが(そこまでいったとしたとしても何かまだ心もとない感じだが)、逆に瞬殺魔の大長谷王に捕縛されてしまった。こうなると一気に神秘性は薄れる。安康天皇に恨みを抱く、大日下王の残党に利用されたのだろう、所詮子供だな、という推理が有力になっただろう。ここで生じた天皇否定の社会不安(アノミー化の兆し)の行く先はどういう結果に帰結するか、それを語る前にまず目弱王の件を片付けよう。
目弱王だけでなく、彼を捕縛した側の大長谷王も子供なので、なにかしら「神聖演劇」でもみてるような気分にさせられる。むろん、目弱王を弁護してるわけではない。目弱王を情状酌量するには及ばない。しかも、子供だったとしても安康天皇の頚を切り落とした悪行に「子供特有の残酷さ」が見える。倭建命も雄略天皇も「子供特有の残酷さ」が、あの時代だからこそ解放され暴走してる感じがする。それはヤマトタケルから雄略天皇まで変わっていない。

目弱王はなぜ葛城氏のもとに逃げたのか
葛城氏の氏上(うぢのかみ、当主)である都夫良意富美(つぶらおほみ=円大臣)は葛城円(かつらぎのつぶら)。系図は「武内宿禰ー葛城襲津彦ー(中略)ー玉田宿禰(南葛城の始祖)ー円大臣」。根臣とは親戚で同じ武内宿禰の子孫。
安康天皇を反葛城派とみて、目弱王が葛城氏に逃げたのを合理的とみる説もあるが、逆に、葛城氏は安康天皇と連帯していたのに、なぜ安康天皇を暗殺した目弱王が葛城氏のもとへ逃げ入るのか不思議がる説もある。後者が妥当だろう。安康天皇は次期天皇に葛城系の市辺忍歯王を指名していたと書紀にあり、前述の通り葛城系の根臣を腹心としていた。葛城氏を中心とした安康天皇+履中天皇系皇族(市辺忍歯王)はすべて一つのグループなのである。雄略天皇とは対立する市辺押歯王子の後ろ盾である葛城氏に目弱王が逃げ込んだというところに、計画性が感じられるという説もあるが、それは誤った見方だろう。この段階では雄略天皇(=大長谷王)も目弱王と同じ子供であって、政治力などはないし、何度もいうようにこの時は逆に葛城氏と安康天皇とは蜜月だった。つまり目弱王は(黒彦王の手の者に守られつつも)堂々と一人で自首したのである。皇位を望んでいないといってることから察して、恐らく、本当は市辺忍歯王(公式上の次期天皇)のもと(石上の市辺宮殿)へ自首するつもりだったのではないかと思われる。が、実際には黒彦王(の手の者)によって葛城の居城へ連れて行かれてしまった。黒彦王(の手の者)は「道が官軍に遮断された」とか、「葛城にいったほうが忍歯王に落ち合える、今なら忍歯王は葛城邸にいる」等と言い含めて目弱王を騙したのだ。目弱王は一旦は捕縛の身になっていたところを、黒彦王の協力で脱出できたのだから情況的に黒彦王しか頼れる者がいなかった。だが、いくら7歳(満6歳?)といっても、物心つく前から政局のただ中にいる皇族であり、現代人の考えるような子供とは違う。大人の世界の政治抗争も理解していたから今回の天皇暗殺も決意できたのだし、皇族一人一人の政治的立場や所属派閥も熟知していたろう。だから黒彦王の言動が怪しいことも察していたと思われる。その気になれば黒彦王を油断させてその手から再脱出し、自力で市辺宮へ辿り着くぐらいのことは出来たろう。しかしあえて黒彦王(の手の者)に身を委ねたのは、一人で行動することに不安があったのではないか、というのはその名の通り「目が弱かった」(弱視かなにかわからないがなんらかの視力障害があった?)のではないか。本居宣長は「和名抄」を引いて、漢字で「石炎螺」とかく貝の名がマヨワなので「目弱」も「眉輪」もその当て字だといい今の通説になっている。「石炎螺」は今かるく検索した程度では巻き貝の一種ではあるがどういう貝なのか具体的なことはすぐにはわからぬ。漢字の「眉輪」では確かに意味不明だが、かといって貝のマヨワに違いないと限る理由もないんじゃないのか? 視力が悪かったから「目弱王」と呼ばれたのだろう。安康天皇殺害の時、目弱王は「殿の下」(書紀では「楼の下」)で遊んでいたため、安康天皇と大長田大郎女の会話を聞いてしまったという。「楼」の字にとらわれると高床式の建築が想定されるが、ひそかな会話が聞こえるほどだから、かなり低い(脚が短い)もので床と地面の間が接近していたと予想され、高床式ではるまい。外見上の威容を気にする必要のない山中の閉鎖空間に臨時に作った施設だから、である。とはいえ宮殿だから面積はあるわけで、高床式と違って、当然床下は真っ暗で、子供が興味半分で入っていったとしても楽しく長居するとは思われない。だが、もし盲目か少なくとも弱視で日頃から視力にそれほど頼ってなかったとすれば、暗い所で遊んでいたのも得心がいく。民俗学では定説だろうが、三味線で唄ったり物語を語ったりした瞽女(ごぜ)の起源は古代の盲巫で、東北のイタコもその後裔。イタコは最近死亡した近親者の言葉を伝えるが、これは後世の需要に応じた変化で、もとは「盲人が神の言葉を聞く」という古代信仰が源流になっている。どちらも女性であるが、関口裕子や義江明子なんかの説を読んでると、どうも女性に限るようになったのは後世の変化で、古墳時代のような極度に古い時代には性別は関係なさそうだ。だからここでは視覚障害が問題となる。大和岩雄は片目を抉られたような幼童の顔のついた縄文土器(山梨県天神堂遺跡「隻眼の土偶」その他)をあげて(全盲と限らず弱視とか)片目とかも、神の憑依の現われだといっている。目弱王は(1)子供=幼童である上に、(2)視覚障碍者であり、両方の属性はともに「神の言葉を伝える者」であることを現わしている。このことは目弱王の行動が神意の現われではないかと、当時の人々を怖れさせるに十分であった。

黒日子王と白日子王の態度は何を表わすか
記紀には雄略天皇を憚って皇太子とは明記してないが、安康天皇の意志からしても市辺忍歯皇子は事実上の皇太子のようなもので、その上バックは葛城氏なのだから、皇位争いにおいて強敵などは無かった。しいて対抗馬というなら、安康天皇の兄弟である黒彦王と白彦王で、アンチ葛城派(非主流派の弱小貴族層)からはそれなりに期待されていたろう。生母(忍坂大中津姫)の出身が息長系であるって点では、純粋の葛城系である市辺忍歯王よりは、世論の支持があったろうが、なにしろ強大な後ろ盾がない。そのためこの二人は、いまひとつ踏ん切れなかったもののようだ。『日本書紀』では黒彦皇子と目弱王が二人で逃げ込んだことになってるが、黒彦皇子が手引きしたわけではあるまい。
白彦王は楽観的な人で、兄(安康天皇)を信頼し、自分らを見捨てるはずがない、と割りと気楽にかまえていた(その予測は正しかったのであるが)。黒彦王は悲観的な人で、こういう激烈な政治抗争においては安易な中立などありえないと考えた。「確かに兄(安康天皇)本人はそこまで考えてなかったとしても、葛城氏グループとしては我々二人(黒彦王・白彦王)の抹殺まで考えてないとは言い切れない」。身の危険を感じた黒彦王は、目弱王の首を土産に葛城氏(=形式上は南北葛城氏が擁する市辺忍歯王)に帰順しようとして、7歳児の目弱王を騙して投降するつもりが、突発的な展開で自分だけ先に大長谷王に殺されてしまい、目弱王だけが(黒彦王の手の者の導きで?)葛城氏の懐に入った。
ところで安康天皇が暗殺され、激昂している大長谷王に対し、黒彦・白彦の両皇子はずいぶん怠慢な態度を示して殺されているが、この態度はどういう理由から出たのか、詮索した議論をみたことがない。多くの人は記紀の物語を、後世の作り話で史実ではないと思ってるから、事件の真相を推理する気もないのだろう。
黒彦王と白彦王は父帝允恭天皇の薫陶と、木梨軽太子との共感で、もとから木梨軽太子と軽大郎女との関係には寛大だったと思われる。ただ長田大郎女をめぐってはライバルだった(木梨軽太子の変の記事を参照)。それが安康天皇は大日下王に濡れ衣をきせて長田大郎女を我が物にした。そればかりか、もともと允恭天皇の皇子たちは安康天皇自身を含めて息長系皇族であり、履中天皇系(葛城系)皇族とは別の一派であるのに、安康天皇は黒彦王・白彦王を出しぬいていつの間にか葛城氏を自分の手足としていた(ようにみえた)のである。「だが世間の人望は我々息長系皇族にある、だから我が弟(大長谷王)よ、兄が殺されたのも当然だしおまえの立場もよくなる一方なんだからそんなに憤ることはない」というのが黒彦王・白彦王の態度の裏の真意だったのである。だが大長谷王には通じなかった。大長谷王には兄たちの姉妹好きとは別のまた困った性向があり、激情にかられると簡単に人を殺してしまう。計算づくの話は遠回しにいわれてもピンとこなかったらしい。そもそも大長谷王は子供で、この時点では皇位になど興味がないって点では目弱王と同じ。ただ恩義のある兄貴=安康天皇が殺されたことに怒ってるだけなのだから、黒彦王や白彦王の「わかってるよな」はせんぜん通じるわけがない。

忍歯皇子と葛城氏の困惑
安康天皇が暗殺された直後の情況としては、ともかくも次の天皇は市辺忍歯皇子であると漠然と思われていたろう。それは世論も含めて全体的に同意されていたものと思われる。なにしろ書紀の主張が正しければ、安康天皇は次期天皇として市辺忍歯皇子を公式に指名していた(つまり皇太子)か、少なくとも匂わせていた。市辺忍歯皇子は事件を聞いてビックリはしただろうけど次期天皇としては、ここは落ち着いて事態の糾明にあたろう、と構えなおしていただろう。そして犯人が目弱王だときいて二度ビックリしただろうが、この後は、悲しいかな普通の大人にすぎない押歯王は、当時の人間なら誰でも考えるように、安康天皇に恨みを抱いていそうな勢力、例えば大日下王の関係する一族が目弱王を利用して謀反を仕出かしたに違いない、とありきたりな推理をめぐらしただろう。しかし、それならなぜ目弱王は葛城氏のところに逃げてきたのか? 大人の合理主義では割り切れない。これは彼らにとっては偶発的な事態で、押歯皇子と葛城氏はこの情況がすぐ飲み込たとしても、この情況をどう利用するかはすぐには考えがまとまらなかったかもしれない。
この困惑によって、時間をロスしたのが、押歯王と円大臣の命取りになったと思われる。おそらく、疑わしいと思った日向の諸県君(大日下王の母方の一族)を逮捕して取り調べとかしてたんだろう。そうやって時間を無駄にしているうち、どの陣営からも、どの派閥からもまったくノーマークだった大長谷王が乱入してきた。これまた予想外だったにちがいない。
忍歯王=葛城氏としては、目弱王を大逆犯として処刑するという選択肢ももちろんあった。だが、目弱王は幼童であり、神の意志の体現者ではないかと半ば疑われ、半ば畏れられていた。目弱王を処刑すると、神罰をくらった安康天皇の後継者(=押歯王)が神罰に抵抗したように受け取られぬこともない。そうすると忍歯王は悪の後継者になってしまう。かなり迷ったのではないかと思う。

大長谷王の政界デビュー
当初、大長谷王が異常に興奮していた件について、記紀はもちろん現代の研究者も誰も突っ込まないが、「よくわからないが元々イカれてる人だからそんなもんだろ」とでも思ってるのだろうか。
第一に、大長谷王の妃若日下王は(詳細な話は略すが)大長谷王の大のお気に入りであり、好みにピッタリのお婆さんを自分の妃にしてくれた兄安康天皇に深く感謝し、恩人として義理を感じていた。また、兄安康天皇と黒彦・白彦両皇子の間には隙間風が吹いていたことは前述の通り。そこで大長谷王が短絡的に黒彦王・白彦王を犯人と決めつけるのは自然な流れw 第二に、もともとカッとなりやすく、そのたびにほいほい人を殺す人だった。第三に、それにもかかわらず皇族として罰せられなかったのは、母后・忍坂大中津姫という権力者の保護下にいたからである、ということは別の頁で書いた。おそらく、忍坂大中津姫は雄略天皇即位当初の頃ままだ生きていて凶暴な帝のなだめ役をやってるから、この当時も大長谷王は皇太后(=忍坂大中津姫)の保護下に入っていたと思われる。母からすると大長谷王は晩年にできた可愛い息子だが少々イカれた子なので、すでに高齢だった自分の年齢も考慮すると先々心配だったろう。そこで自分の死後も大長谷王を保護・善導してくれる嫁を早めにあてがいたいと思ったのではないか。15歳未満だと当時の基準でも嫁取りには少々早すぎる感じはあるが、平安時代の天皇とか戦国時代の大名とかを思えば、3歳だろうが5歳だろうが7歳だろうがありえない年齢とは全然いえない。しかし母后ではなく、安康天皇おんみずから直々に、若日下王を大長谷王の妃として手配するというような話になってるのは要するに安康天皇が最初から大日下王にからむきっかけを作りたかったのではないかと思われる。そうすると、大長谷王は黒彦・白彦の両皇子と異なり、自分の宮殿をもたず、安康天皇の皇居に母ともども同居していた可能性が高い(この時はまだ大長谷王でも若建王でもなく「長谷王」だったと思われる。「大」の字をつけるのは武烈天皇(本名は「橘王」と推定)が雄略帝の「長谷王」を襲名してから「大/小」を付けて区別したものと思う)。つまり、黒彦・白彦の両皇子はいうまでもなく押歯皇子や葛城氏にも先んじて、事件を真っ先に知りうる立場にいた。それどころか、無政府状態になった宮中のど真ん中に最初から居合わせたのだから、混乱に乗じて、いやそんなつもりはなくても、朝廷の実権を一時的にせよ掌握することになっただろう。皇太后忍坂大中津姫も先々の心配な大長谷王のために少しでも手柄になればと思って多少の知恵を授けたりしたかもしれない。だからそういうわけで大長谷王が率いていた兵は私兵ではなく最初から朝廷の正規軍である可能性が高い。だがそれが有利だとかは大長谷王の計算に入ってはいない。とりあえず暴れたくてしょうがない大長谷王にとって、公的には天皇陛下であり私的には自分の保護者であり実の兄であり恩人が殺されたのは、犯人を殺してよいという言い訳ができたということなのである。
古事記では黒日子王が先に殺され、その後で白日子王が残虐な殺され方をしており、目弱王は二人とは無関係に逃げたように書いてある。日本書紀では、まず白彦皇子が殺され、黒彦皇子と眉輪王は二人で逃亡したことになっている。記紀を総合すると
・1)黒彦王と大長谷王が協力して目弱王を捕らえ尋問した。
→2)黒彦王が目弱王を拉致して逃亡、葛城に投降しようとした。
→3)黒彦王、捕まって言い訳するも殺さる。目弱王は逃亡に成功。
→4)白彦王のもとを捜索(目弱王を匿ったのではないかと疑った)
→5)白彦王の態度に激怒、
という流れが復元できる。日本書紀の流れからいうと、黒彦王を殺す前に、目弱王を捕縛して尋問にかけたとある。
書紀では、目弱王は「皇位を求めてのことではなく、ただ父の仇を討っただけ」と自供しているが、これは前述のように奈良時代の幻想であって「創作された警察調書」にすぎない。しかし大長谷王ただ一人が、目弱王の真実を理解した。大長谷王はこの時こどもで、目弱王よりは4つか5つか齢上だった可能性はあるし、たいして変わらなかった可能性もある。いずれにしろ、こどもの直感でわかったのだろう、目弱王はヤマトタケルになろうとしたのだと。このままでは「今世のヤマトタケル」の美名は目弱王のものになってしまう、というライバル心が大長谷王をこうしちゃいられんと急かしていた。それでヤマトタケルになるには大義が必要で、ただ殺しまくるだけでは埒があかないとやっと気づいたのだろう。
大長谷王から疑われることは、黒彦皇子にしてみれば降って湧いた災難だが、黒彦王・白彦王が日頃から兄安康天皇に批判的だったことは周囲みな知ってることだから、言い逃れ難い。一方、大長谷王の取り巻きも、せっかく大長谷王が大逆犯を捕まえて裁くという手柄を立てられるかもしれないという時に、冤罪で何人もぽこぽこ殺されては、もう一人の犯罪者が暴れてるだけの印象になりかねない。冤罪だろうがあまり関係なく、単に怒ったから殺しちゃうような人なのである。あるいは母の大中津姫がとりなし、なだめたのかもしれない。それもあり、大長谷王は目弱王をどういうふうに料理すべきか考えることにした。ただ目弱王を殺してしまうと、自分が私情による敵討ちをしたことになりかねない。それでは目弱王に負けたことになり、ヤマトタケルにはなれない。ヤマトタケルは若くして薨去したように、生き延びることが目的でないのは、目弱王も大長谷王も同じなのである。だが、この躊躇のせいで、隙をみた黒彦皇子が目弱王を拉致して忍歯皇子と葛城氏の陣営に投降を図った。黒彦王は途中で捕まって処刑されたが、目弱王を取り逃がしてしまった。だが目弱王の逃亡は、まったく大長谷王には思いもかけない幸運という他ない。なぜなら葛城氏が目弱王をその手元に確保している限り、大長谷王は目弱王に手を出せないのだから。大長谷王には、もっとわかりやすい「巨悪」が敵として立ちはだかってくれないと困るのだ。

都夫良意富美の理想と現実
根臣みたいな腐りきったやつと違って、円大臣は『日本書紀』だと死ぬ間際になっても大長谷王子に対して『論語』を引用したりしてちょっとは正義があるようなことを言ってるが、だから儒教はダメなんだ。さっさと目弱王を捕まえて大長谷王子に差し出すのが本当だろう。
目弱王が飛び込んできた時、円大臣は目弱王を大長谷王に差し出せば事無きを得たと思われるが、そうすると次の天皇は事態を収拾した大長谷王になる可能性が高まる。本来なら葛城氏が黒彦王の協力で逆賊目弱王の首をあげる、というシナリオがありえたのだが、ここに至ってはなんとか大長谷王に目弱王を殺させない方策をとるしかない(忍歯皇子にしろ葛城円大臣にしろ、大長谷王の特殊な脳内思考などまったく理解していないから、大長谷王は目弱王を殺そうとしていると思い込んでる)。しかしそうすると自分らも殺せなくなる。逆賊を生かしておきながら、なお名誉を失わず政治的ヘゲモニーを保持する方策として、ここで儒教の教えが名目として引っぱり出されるわけだ。なんだかんだ言っても相手は子供、この段階では円大臣は戦にも負けると思っていない。ここで大長谷王の軍を撃退し、目弱王の仇討ち=「孝」を称揚し、暗殺された安康天皇の「不仁」をあげて僭主に仕立てあげ、さらには庶民に人気の木梨軽皇子を無実だったとして顕彰し、しかる後に長子相続の正統性を主張して、仁徳帝嫡流の市辺押歯皇子を擁立すれば円大臣は儒教の聖人にもなれようってもんだ。ワッハッハ(←悪の高笑い)
緒戦の段階では円大臣の軍勢に余裕があったと思われ、普通なら大勝利を収めてもおかしくない流れだったと思われる(そもそも、朝廷の政治を左右するほどの権力者が、誰の目にも負けが明らかな情況にもかかわらず戦を選択するほどアホだと考えるほうがおかしい)。にもかかわらず、なぜ円大臣が敗れたのかといえば、この儒教の理想が配下の氏族に必ずしも通用しなかったからだろう。葛城氏及びその影響下(配下)の氏族は分裂した。
まず葛城氏内部の二大系列の一つ、葦田宿禰の系統=北葛城氏は、正統な皇位継承者である市辺押歯皇子を奉じており、敵対も味方もせず中立を守ったと思われる。そのおかげで滅亡もしなかったが、せっかくの血縁も雄略天皇によって皇位継承に活かすチャンスを失いパッとしない中流貴族に転落してしまった。先帝の敵討ちをしそびれてしまったら、皇位継承権に瑕がつくことぐらいわかりそうなものだが、葛城氏同士で殺しあってよいものかどうか、そして事態の展開が早すぎて、目弱王が本当に犯人なのかどうか確信もつまでに時間がかかったのだろう。また忍歯王の居城である市辺宮は石上付近にあり、安康天皇の皇居のすぐそばだったにもかかわらず、たまたま蟻臣(葛城臣蟻)は本拠の葛城に帰っていたのかもしれない。それで相互の連絡が不十分になってしまって動きがとれなかったか。
さらに同じ武内宿禰系氏族のうち、武内宿禰の子の平群木菟宿禰(もしくはその子の平群真鳥)が裏切り、大長谷王の側についた。墨江中津王の乱の際に木菟宿禰がやらかした不祥事以来、冷や飯をくってた平群氏は、いつか復活のチャンスを狙っていた。皇位継承争いに踊りでた大長谷王はこれまで成人した皇子が多い中では子供だから勘定に入っておらず、ダークホースであって、確定した背後氏族もない(妃(若日下部王)はすでに老齢で子を生む可能性はないが諸県君とのつながりを保持する上では十分なコネクションといえる。だがこの時はまだ婚約だけで婚儀を整える途上だったので「確定してない」といえる)。平群氏(木菟宿禰か真鳥のいずれか)としてはこれに賭けなければ、次回の再浮上のチャンスはないかも知れないのである。
これらの人々は、一応建前は儒教派(開明派)なのであるが、実際には血縁や富の力によって円大臣にくっついていたのであって、儒教の理想に共感しただけでついていたのではない。むしろそのような絵空事を真面目に主張するような首領には不安を覚えたのであろう。

結末:大長谷王の派閥の新結成
かくして、結果的に葛城氏氏を大長谷王が滅ぼしてしまった格好になったが、このことは、本来ならあまり計画性のなかった大長谷王の行動に大きな影響及ぼしたように思われる。つまり、葛城氏はもともと庶民から評判が悪かったのだが、その葛城氏と結託していた連中は敵であり悪なのだと。それを滅ぼした大長谷王はヤマトタケルなのだと。『日本書紀』は、安康天皇が市辺押歯王に皇位を伝えようとしていたことを、大長谷王は恨んでいたというが、実際にはこの戦争で勝利した結果でてきた判断基準で、後付けではないか。大長谷王はまだ子供であり、天皇になりたいのではなくヤマトタケルになりたかったのである。
そして、この時、なんの働きもしなかった市辺忍歯皇子は、いきなり立場が悪くなったはずである。誰がみても次期天皇は、前代未聞の天皇暗殺という大逆事件を収拾平定した大長谷王だろう。しかも、あの憎っくき葛城氏を滅ぼした「英雄」なのである。市辺忍歯皇子はいきなり影が薄くなったこと甚だしい。葦田宿禰系の北葛城一派と押歯皇子にしてみれば、納得いかない不条理な流れかもしれないが、中立を固く守って大長谷王にまったく協力しなかったのはいかにもマズかった。こんな愚かしい選択をしたのは、大長谷王の思考が、部外者に読めないからでもあるが、おそらく平群氏(木菟宿禰か真鳥)の策謀もあったろう。平群氏にしてみれば自分だけが雄略天皇即位の功臣となりたいので、雄略天皇即位後の葦田宿禰と蟻臣の父子(葛城氏)の発言権を封じなければならない。そこで余計な手出しをするな、と言いくるめる必要があるが、これは簡単だったろう。「大長谷王は子供で、ヤマトタケルになりたいだけで皇位を狙ってるわけではない、思う存分戦わせてやれば満足するはず、もし大長谷王が勝っても、あんなサイコパス皇子が天皇になることを支持するものはいない。一方、円大臣が勝っても、天皇に擁立する皇子は忍歯王しかいないのだから、忍歯王も安泰だしその外戚の葛城蟻臣も地位を失うことはありえない」…という平群の舌先三寸に騙されて、中立を選択してしまったのだろう。
だが、実際は違った。巨悪「葛城氏」が一般庶民にどれだけ嫌われてたか、雲の上の人たちはいまいちわかってなかった。もはや大長谷王の英雄伝説はぶっちぎり。そして庶民は織田信長がサイコパスでも大好き。信長の部下になるのは嫌だけど。信長の部下になってヒィヒィいうのはおまえら貴族どもの仕事だろw、としか思わない。中小の貴族層の中にも、アンチ葛城派は多い。こうなると、次の天皇は誰なのかという「政局」になる。平群氏をはじめとして、大長谷王のとりまきは天皇になってもらおうと必死だろう。こんな明日殺されるかもしれない職場にいて、勝手に辞職もできないならせめて少しでも出世して良い思いしたい。
しかし、記紀の編纂者も現代の学者も当たり前のように雄略天皇が最初から天皇の位を狙っていたかのように考えて、ぜんぜん不思議に思ってないようだが、俺はそう思わないんだよね。大長谷王が天皇の位を狙っていたとは思えない。大長谷王にとって安康天皇は恩人で、その恩人の意志は、押歯王に皇位を渡すことだったのだから。そして、いくら平群氏の奸智をもってしても、大長谷王を操ることはできなかっただろう。
…のだが、ここでまたしても想定外の展開が起きる。押歯皇子の側が勝手に墓穴を掘ってくれたのだ。
以下、押歯王の巻↓に続く。
http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-33.html

「いろせ」と「いろね」
兄の字は、ここでは男同士の兄弟のうちでの兄のほう、という意味なのだから「いろせ」と読んだら間違い。「いろえ」もしくは「いろね」と読まないといけない。「いろせ」だと大長谷王子が女性になってしまう。
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7息長王朝の由来【後編】~応神記末尾の系譜の謎とき~

R1年8月22日(木)改稿 H28年7月13日(水)初稿
6「春山秋山の物語」は神話でなく寓話である」から続き

争ったのは「兄弟二人」ではない
皇子たちの争い(争いとは限らないが皇位をめぐる皇子たちの物語)だとしても、秋山春山の物語のよう特に「二人」の争いだと人数を限る意味もない。寓話の中では「八十神」(やそがみ)が求婚したとあるんだから、春山秋山兄弟のライバルは大勢いたと解釈できる。
応神記の末尾にある第三息長王家の系譜に続けて、不審なことに突然根鳥王(ねどり)の系譜の続き(根鳥王の2人の王子、中日子王と伊和島王)と、堅石王(かたしは)なる系統不明の人物の系譜(堅石王の子、久奴王)がでてくる。ここは継体天皇に続く第三息長王家の系譜なのに、無関係な記事が混ざっている。根鳥王は応神記の冒頭の、古事記では通例の系譜記事に出てくるのだからそこに記述すればいいのに、なぜかそこにはなく、末尾のここに息長系図に並んで出てくるのはどういうことか。ここもただの錯簡、誤入で深い意味はないのだとするのが常道だろうが、それもつまんないので、一案としては、わざわざここ(大郎子で止まる系譜記事)に列記してるのはつまり、一人の姫を大郎子と争いあった貴公子たちのリストなのだろう。大郎子・中日子王・伊和島王・久奴王で4人だが、この4人はこれまで名が出てないからわざわざ出したんだろう。
寓話にするなら登場人物を「五人兄弟」としたほうが戦隊シリーズとかセーラームーンみたいで盛り上がるのではないか。じゃなかった、『竹取物語』の五人の貴公子に通ずるのではないか。そもそも春と秋しかないってのがおかしい。普通は四季を揃えるだろう。夏山については青葉壮夫、雨男、ハダカ男…等が考えられるし、冬山なら枯木壮夫、白雪壮夫、木枯らし男、雪男…等がありだろう。さらには土用山(つちゐやま)の晴間壮夫がいたはずだw 五行説でなく『周礼』の六官説なら天山(あまやま)地山(つちやま)加えて6人にできる。天山なら日照り壮夫、青空壮夫、被さり壮夫。地山なら荒金(あらかね)壮夫、地震(なゐふり)壮夫、載せ壮夫。両方あわせて7人、『竹取物語』だと貴公子5人の他に天皇も出てくるから8人にまで増やせる。やみくもに増やせばいいというものでもないが。現在残っている物語は、かいつまんだ簡略バージョンなのであろう。ちなみに干支は崇神天皇の頃に入ってきたので、干支を説明するための原理としての五行説も早くから知られていただろう。それとなぜ山であって、川や谷や野原じゃないのかだが、ネット情報では、奈良時代には春の女神は東の佐保山の佐保姫、秋の女神は西の竜田山の竜田姫、夏の女神は(南の某山の?)筒姫、冬の女神は(北の某山の?)宇津田姫とされたともいうが、夏と冬については典拠がわからない。実際には川や谷にカミが鎮まっていることはよくある話だが、なぜか神奈備山とはいっても神奈備川とか神奈備谷なんて言い方は聞かない(理屈の上ではそういう言葉があってもいいとは思うのだが)。谷でも川でもなく四方の「山」と関連付けされているのは、奈良盆地という地形のせいではなくて、『山海経』にも通ずる古い信仰に由来しているのかもしれない。日本では佐保山と竜田山の間に土用山にふさわしいような山らしい山はないが、佐保山の佐保姫だのは古い文献にない。竜田姫は古くから風の神で西から吹いてくるからその対称となる神として後から佐保姫が想定されたんだろう。古くは世界の中心の山として大和三山わけても香久山が神聖視されたが、大和三山にも恋争いの伝説があるから、畝傍山と耳成山の三角関係は春山秋山の物語ともしかして同じ話なのではないかとも思える。中国でも東は山東省の「泰山」、南は湖南省の「衡山」、西は陝西省の「華山」、北は山西省の「恒山」、中央の河南省の「嵩山」を五岳というが、古くは華山を除いて四岳だった。また四兄弟が四方位に配されるのは天照大神の五男神、大国主の四人の息子など、神話類型の一つともなっている。

「堅石王」の系譜の復元
で、前述の中日子王(なかつひこ)・伊和島王(いわじま)・久奴王(くぬ)の3人のうち、久奴王の父の堅石王の系統がわからない。地名を手がかりにすると、堅石という地名は、本折宣長が『和名抄』から筑前国穂波郡の堅磐郷をあげている。調べたらこれは今の飯塚市の片島だという。Googleマップで適当に検索するとw、塩尻市に広丘堅石がある(ただし読みはカタイシ)。塩尻市には「広丘○○」という地名がいくつもあり、調べたらこれは複数の村が合併して「広丘村」ができた時の名残りで、だから広丘堅石も元は「堅石村」だ。ここは律令時代の「覚志(かがし)の駅」でカガシがカタイシに訛ったともいう。ホントかね?w 堅石は塩尻市の北部にあり、仁徳天皇に背いた両面宿儺(ふたものすくな)が出現したという飛騨の大鍾乳洞(ただしここが本当にその原伝承地なのか疑問もないではないが)の真東一直線のところにある。その子の久奴王のクヌってのは静岡県静岡市の久能か同県袋井市の久努だろうな。根鳥王の2人の子のうち「中日子」(なかつひこ)と似た名前は、倭建命の孫の須賣伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこ)、仲哀天皇=帯中日子命(たらしなかつひこ)、仁徳天皇の兄の額田大中日子命(ぬかだのおほなかつひこ)がいる。「中津」は普通は次男の意味だろうが額田大中日子の「大」は、誰か先に生まれてる皇子がいるのだがそっちは側室腹、こっちは次男だが正室腹、という意味かな。漢文でいう「伯」と「孟」みたいなものか。中日子王が根鳥命の次男とすると、長男の名がなく次男と三男の名があげられてることになるがなぜなのか、3つの案がありうる。第一案は、ここは系譜を語る記事ではなく姫取り争いに参加した皇族たちのリストなのだとして、だから長男は姫取り争いに参加しなかったからあげられてないのだろうか? 第二案は、根鳥王は大田君(おほたのきみ)の祖先であり、この大田ってのは今の岐阜県の大野町・神戸町・池田町の3町にまたがる領域で大雑把にいえば美濃国の西部。だから中日子王のナカツは次男の意味ではなく地名だとしたら同じ美濃国の地名で、岐阜県の東端、中津川市か。中津川は川の名が本ではなく「中津」という地名が先だという。第三案としては、墨江之中津王とも名前が似ているからもしかして同一人物じゃないのか。原文に「根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王。次伊和嶋王」とあるのは「大雀命、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王」と「次、根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、伊和嶋王」が混線したのではないかと思う。石之比賣に三腹郎女が追い出されてから、根鳥王と三腹郎女がくっついたんではないか。だとすると根鳥王からみて自分の次男という意味ではないことになり、長男がいない謎が解ける。ここは第三案を取りたい。そうすると墨江之中津王は皇女腹で、葛城氏の娘から生まれた兄の履中帝や弟の反正帝よりも血筋が格上ということになり、反乱の理由の一つがみえてくる。伊和島は不明。能登半島の輪島か四国の宇和島? この伊和島王が大田君の祖先で、姫取り争いの参戦者だろう。
ところで、このままだと堅石王が誰の子かわからない。原文を眺めてみると「又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又堅石王之子者、久奴王也」となっており、系譜記事としては文字の脱落があると考えるしか無い。そこで以下のA・B・Cの3説がありうる。
A説は「根鳥王の一家の系譜」説。もっとも普通に考えれば直前とのつながりを示す文字の脱落だろうから、(1)堅石王が根鳥王・中日子王・伊和嶋王の3王のうち誰かの別名である(この場合久奴王は応神帝の皇孫)か、もしくは(2)堅石王は中日子王・伊和嶋王の異母弟で、三腹郎女とは別の女性から生まれたか(この場合久奴王は応神帝の曾孫)、(3)堅石王は中日子王・伊和嶋王いずれかの子(この場合久奴王は応神帝の四世孫)であるか、のどれかのはず。原文を推定復元すると
(1)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{伊和嶋王、亦名}堅石王之子者、久奴王也。
(2)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{一妻之子、}堅石王之子者、久奴王也。
(3)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{伊和嶋王之子、}堅石王之子者、久奴王也。
(3)は嫁争いに参戦するには他のメンバーと比べてちょっと世代が離れすぎてしまうので(1)か(2)だろう。これらA説の場合、この系譜は最後の「久奴王」一人だけを掲げることが目的である。
B説は「根鳥王と某王(迦多遅王?)、両家の系譜」説。
根鳥王の系譜とならんでるんだからそのフォーマットでいうと「又」と「堅石王」の間に脱落があるのが容易にわかる。復元すると
・又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{○○王、娶××××××、生子、}堅石王之子者、久奴王也。
となるだろう。○○王は若沼毛二俣王や根鳥王と同世代とすると応神天皇皇子の誰かだろうが、ちょっとわからない。大山守命か速総別命かと考えれば面白くはあるが、なんともわからぬ。これまで系譜上の名前としてしか出てきていない地味な皇子かもしれないが記述の順番からいえば根鳥王よりは後に記述されていて、なおかつ子孫がいなさそうな宇治若郎子を除外すると、速総別王・大羽江王・小羽江王・迦多遅王・伊奢能麻和迦王の5人が残る。岩波の日本思想体系の古事記の注釈では、堅石王は迦多遅王の別名かという一案をだしてるが、カタシハとカタヂ、カタはいいが「シハ」と「ヂ」の違いが「類義の別名」なり「同語の訛り」なりで説明つくかどうか? 推定欠落部分の「〇〇王」は速総別王、「娶××××××」は「娶庶妹女鳥王」としたほうがわかりやすく面白いが、さしたる根拠もないのでここは禁欲してw、シとチの相互訛りは実際あることなので岩波思想体系の説に屈するわけではないが本居宣長の気づきに敬意を表して仮に「堅石王=迦多遅王」と同定して、原文を推定復元すると
・又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{迦多遅王、亦名}堅石王之子者、久奴王也。
となり、B説の場合、この系譜は「中日子王・伊和嶋王・久奴王」の三人を掲げることが目的である。
C説は「根鳥王と伊奢能麻和迦王、両家の系譜」説。応神天皇の系譜記事では、高木之入比賣から生まれた伊奢之真若命と葛城之野伊呂賣から生まれた伊奢能麻和迦王が重複してるのが気になる。書紀と照らせば伊奢能麻和迦王の母は高木之入比賣であってるはずで、葛城之野伊呂賣と伊奢能麻和迦王は系譜記事の末尾にあるから何かの注釈だったのだろう。原文は
・又娶、葛城之野伊呂賣、生御子、伊奢能麻和迦王。
で、この文の直前の語句が「次、迦多遲王」だから、つなげて読むと
・次、迦多遲王(又)娶、葛城之野伊呂賣、生御子、伊奢能麻和迦王。
という文が浮かぶ。しかし「伊奢能麻和迦王」は応神天皇の皇子であることが明らかだから、「娶、葛城之野伊呂賣、生御子」と「伊奢能麻和迦王」の間に脱文があるんだろう。「伊奢能麻和迦王」も後続の文章が落ちているため文末のようにみえるが、それだと意味ある文章に復元できないから、これは次の文の主語だろう。その「伊奢能麻和迦王」を主語とする文の断片が、若沼毛二俣王の系譜の中に唐突にでてくる
・又堅石王之子者、久奴王也
なのである。これは直前の文と意味がつながるように復元するならば、「又」は「娶」の誤記、途中に脱字があって
・娶堅石王之子【△△△王(♀)、生子】者、久奴王也
なのではないか(【】の中が推定復元した部分)。「娶、葛城之野伊呂賣、生御子」と「伊奢能麻和迦王」の間の脱文もこの【】内の女性の名前だったと思われる。これをつなげると
・次、迦多遲王(又)娶、葛城之野伊呂賣、生御子【△△△王(♀)】。伊奢能麻和迦王、娶{堅石王之子【△△△王(♀)、生子】者、久奴王也
と復元できる。つまり久奴王は伊奢之真若命の子で、堅石王(=迦多遲王)の孫なのではないか。伊奢之真若命は書紀では深河別(ふかがわのわけ)氏の祖先で、岩波文庫の書紀の注では飛騨国荒城郡深河郷(今の岐阜県古川町)とあるが今は古川町は合併して飛騨市の一部になっている。Googleマップだとまた「古川町○○」という地名がいろいろある。塩尻市の「広丘○○」と同じパターンだ。その中では「古川町数河」というのが深河に似てるくさい。前述の両面宿儺の両面とは「北面(越中)と南面(飛騨)」あるいは「西面(飛騨)と東面(信濃)」に顔が利くって意味だとかの説もあり、飛騨(数河)と北信(堅石)にはもとからつながりがあったのか。ともかく両面宿儺が成敗された跡地に、静岡県あたりにいた久奴王の子孫が移封されていって深河別の先祖になったらしく思われる。C説の場合、この系譜は「伊和嶋王・久奴王」の二人を掲げることが目的である。
で、以上のA・B・Cの3説のうちどれが正しいかは何とも決められないが、後世に地方豪族として残った3氏という観点から、とりあえずC説でいってみよう。

貴公子のメンバー
そうするとこの系譜記事では、姫の取り合いに、若沼毛二俣王の一家(息長氏)から大郎子、根鳥王の一家(大田氏)からは伊和嶋王、伊奢之真若王の一家(深河氏)からは久奴王の3人がエントリーしたということを言っているのだと解読できる。この人たちは仁徳天皇や速総別命を第一世代とした場合の第二世代である。
この嫁取り争いは允恭天皇(秋山)と大日下王(春山)の時のことすれば、履中天皇崩御後のことで「大日下王・雄朝津間王(允恭天皇)・大郎子・伊和島王・久奴王」の5人で、当時在位中だったと思われる反正天皇自身もエントリーした可能性がある。
前回では、春山霞壮夫が大日下王で秋山下氷壮夫が雄朝津間王だろうという見当だったが、さらに「六官」の職掌を基にして適当に想像すると天山が反正帝、地山が伊和島王、夏山が久奴王、冬山が大郎子王か。ともかくも竹取物語の貴公子(天皇も入れると6人)と数が一致する。キャラクターとしては反正帝が石作皇子、伊和島王が安倍御主人、久奴王が大伴御行、雄朝津間王が車持皇子、大郎子王が石上麿足に、それぞれ該当しそう。竹取物語の貴公子は文武朝に時代設定されているので、天皇は当然文武天皇なわけだが、そうするとかぐや姫のモデルは、梅原猛の説に出てくる紀皇女ではないかと思われる。そうすると大日下王の役どころは弓削皇子か。
竹取物語では誰もかぐや姫をものにできなかったわけだが、こちらは異なり中斯知命は大日下王とくっついた。だがこれは正式な結婚だとは限らず、寄寓していただけではないのか? 大日下王には長田大郎女という妃(=正室)がすでにいたのだから。
中斯知命は住吉邑に在住し、履中天皇はその在位中にずっとモーションをかけつつも成就せずに崩御。反正天皇が即位するとほぼ同時に、反正帝自身を含む6人による姫とり争いがスタートした。この中ではまず雄朝津間王が病身ゆえに他に遅れをとっていたが、反正天皇も崩御した時、次の天皇として大日下王と雄朝津間王の二人しか適当な人物がいなかったと書紀はいう。残りの3人は女系の血筋その他なんらかの事情でこの二人ほど格が高くは無かったのだが、だからこそ中斯知命をものにすれば一発大逆転もありえたということだろう。で、すったもんだで天皇には雄朝津間王が病身のまま即位して允恭天皇となる。允恭天皇は数年間ねばったがヤキモチ焼きの皇后のために身を引いたのか、結局中斯知命は大日下王とくっつき、その後允恭天皇の病気も治った。

恋争いの決着
しかし当時は離婚も再婚もわりかし自由だったので、これで最終結果とはならない。允恭天皇自身は身を引いたとしても大日下王と中斯知命の相性が悪かったら離婚してもらって、中斯知命を皇太子の木梨軽王の妃に迎えたかったことだろう。軽王が実の妹に懸想してたとしても当時は一夫多妻なのだから差し支えない。允恭天皇や軽王はさほど執着してなかったとしても、中斯知命を妃とした大日下王の名声があがり、皇位継承者として大きくクローズアップされてしまうから、允恭天皇父子の周辺では大日下王を危険視し、大乱になる前に片付けるべし、等と物騒な声も当然に湧いてくる。
『古事記』に載ってる春山秋山の物語はこのへんまでに該当する内容で終わってる。しかしそれは現在の古事記は春山秋山の物語が途中で終わっていて続きの部分が散逸してしまっているからだろう。

第三世代の争い
木梨軽王が政変で失脚し安康天皇の時代になってからはどうか。当時は離婚や再婚が格別恥でもなくありふれていたろうから安康天皇本人がその気になれば離婚を強要して中斯知命を后に迎えるという強硬手段もありえたと思われるが、安康天皇本人は長田大郎女にご執心で、中斯知命にはさほど興味をもたなかった。ただし嫌いな訳でもないから、政治的に利用価値の高い結婚ならチャンスを待って受け入れ態勢だけはあるよ、っていうアピールぐらいはしてたかもしれない。ならば理屈の上では雄略天皇のエントリーもありうるが雄略天皇はおそらく目弱王と年齢的に大差ないのと、そもそも皇位にも関心なかったと思われる。他に、履中皇統から市辺押歯王が当然のように参戦したに違いない。反正天皇の子は古事記で財王がいるがこれは書紀だと財皇女になっている。古事記では性別不明な名は男子を前提としているともされるが、あくまでそういう傾向が強いというだけで絶対とはいえない。だから財王は女性の可能性がある。また書紀では高部皇子がいるが、古事記では多訶辨郎女となっている。高部皇女を皇子に誤ったか多訶辨郎子を郎女に誤ったかは五分五分だが、財王は女子とすれば文字の訂正なく記紀を合致させることができる。二人とも女性なのではないかと思うが、仮に男子だったとしてもまったく活躍が伝えられておらず、体が弱かったか、病気か事故で早世されたと考える他ない。だから反正皇統からはエントリー無しだった可能性もあるが一応考慮に入れとこう。
そうすると第三世代でエントリーした候補(もしくは本人はそのつもりなくても周囲から勝手に候補とみられた人々)は「木梨軽王・安康天皇・大長谷王(雄略天皇)・市辺押歯王・財王」と在位中の天皇を入れて5人。

寓話の誕生
だが「大日下王の変」で大日下王が安康天皇に滅ぼされた時、中斯知命もいっしょに燃え落ちる宮殿とともに薨去してしまったのではないかと思われる。『竹取物語』のかぐや姫が月の世界に帰っていくのは死の暗喩である。後世に書かれた『竹取物語』の元になった物語(「原・春山秋山物語」)では、大日下王と中斯知命の夫婦の死まで描かれていただろう。この話は大日下王と中斯知命の夫婦に同情しその死を悲しむとともに、現職の天皇である安康帝の悪行を非難するものでもあるから、当然おおっぴらには言えない。それで寓話の体裁をとる。
さて、燃え落ちる宮殿から救出されたのが忘れ形見の「兄媛」だが、若日下王に引き取られたとするのが普通なら自然だが、そうならず長田大郎女に引き取られて一緒に安康天皇のもとにいたんだろう。なぜか。目弱王が中蒂姫の腹なのか長田大郎女の腹なのか決めがたいが、中蒂姫の腹だとしても兄媛ともども長田大郎女に引き取られることはありうる。兄媛という以上「弟媛」もいたはずだが、弟媛が同母姉妹なら二人とも「聖なる血筋」の継承者だし、長田大郎女の娘だったとしても最愛の姉の子には違いない。姉妹のどちらかに兄弟がいてそれが「目弱王」だったのか、姉妹のいずれかが「目弱王」と同一人物だったのか。後者なら「目弱王」は女児だったってことになる。女児なら、殺さずとも安康天皇が手元に置いておこうとしたのは当然ということになる。
「目弱王」の変で安康天皇が暗殺され「目弱王=兄媛」も葛城氏落城とともに薨去したことになっているが、実際には救出され生き延びたんだろう(このへんの詳しい話は別の記事で書きます)。兄媛は今度こそ若日下王に引き取られたと思われるが、若日下王はそのまま雄略天皇の皇后に収まる。雄略天皇と兄媛のは年齢的に大差なかったと思われ、二人ともこの段階ではまだ子供である。

継体天皇の祖先の正統性
『住吉大社神代記』によれば、仁徳天皇の時代に波多毗若郎女(はたひのいらつめ)(=若日下王)の夢に神が現れ「吾は住吉大神の御魂なり、為婆天利神またの名を猪加志利之神」と名乗った、そこで津守宿禰を神主としてこの神を祀らせ、為加志利津守連らを祝としたという。これによれば兄媛の保護者である若日下王は、住吉大社ともともと縁がある。
速総別命と女鳥王が反乱の全盛期に本拠にしたのも住吉大社、その後、墨江之中津王の本拠となって黒媛(日之媛)を得、のちに黒媛は中磯皇女(=中斯知命)を抱いて履中天皇のもとを辞して鷲住王に守られながら住吉邑に住んだという。黒媛が阿加流比賣のモデルだから、阿加流比賣を祭神とする赤留比売命神社と楯原神社の間のどこかに黒媛の宮殿があったのだろう。ここはいうまでもなく東住吉区の杭全や平野区の喜連など息長氏の本拠にすっぽり入っている。住吉が速総別の反乱軍の本拠だった頃は息長氏は弱小勢力でどちらからも重視されていなかっただろうがそれでも近江への国替えが命じられて一時的に河内和泉から撤退していたのかも知れない。そのため中津王の乱でも巻き込まれずどちらに味方すべきか悩まずに済んだ。中津王の乱の後に、戦乱が終わって名目が消えたので、ようやく近江から河内和泉に戻ることが許されたんだろう。
兄媛にとって住吉は因縁の深い地だから、成長後は若日下王の配慮で住吉に居住したか、あるいはそもそも黒媛以来の御料地として住吉邑を兄媛が相続していたのかも知れない。いずれにしろ成長して独立した兄媛が住吉に住もうとしたのは当然だったが、そこはすでに旧主である息長王家の支配地に戻っていた。その時の当主は大郎子だから、当時の上流社会の結婚相手の探し方として、兄媛が自分の保護者として大郎子を選んだというのが自然な流れではないかと思われる。ここにおいて宇遅之和紀郎子の同母妹女鳥王の女系の血は、黒媛、中斯知命、兄媛を通じて息長王家に継承されることになった。また兄媛は大郎子の保護下で住吉に黒媛や中斯知命から継承してきた赤玉を祀った。それが比賣碁曽社の鎮座、始まりなのである。
大郎子が中斯知命の娘、兄媛を妃としてからの息長氏は代々、一代ごとに地方勢力と姻戚になって継体天皇の頃には近江・美濃・尾張・越前と広がる巨大な勢力になっていた。これは中斯知命の尊貴な血統のおかげだったのかもしれない。
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・仁徳⑯〜武烈㉕の系譜

2679(R1)・8・22 THU 改稿 H26・11・7初稿
仁徳⑯の皇子大日下王の妃で目弱王の母「長田大郎女」と、允恭⑲の皇女で安康⑳の姉「長田大郎女」と、2ヶ所に同一名が出てくる。昔からこの二人が同一人物なのか同名異人なのか、両方の説がある。同一人物だとすると安康天皇は同母の姉を皇后にしていたことになって不合理なので、別人だとする説も根強いわけだが、さて真相は…?
兄弟相続「制度」は無かった
よくいわれ勝ちな誤りに、古代日本は兄弟相続制度があったという説。記紀では反正天皇から兄弟相続が始まる。しかし、実際のところ神武天皇から履中天皇まで、あったのは「末子相続」であって兄弟相続では無い。仁徳天皇は儒教的な「長子相続」を理想として大江皇子(のちの履中天皇)を太子に立てられたのであったが、長男というのは父と年齢差が少ないため自ら在位年数が短くなる理屈。しかもめぐり合わせの悪いことに履中帝の後継者たるべき市辺押歯王はまだご幼少であられたので、弟の水歯別命が「中継ぎ」で反正天皇になられたのではないかと推察する。しかし履中帝と反正帝は年齢差9歳しかない上、兄君の宝算より4歳も早く崩御された(宝算ってのは天子様が崩御された時のご年齢のこと。『古事記』だと歴代の末尾に「天皇の御年、○○歳」とあるあれ)。市辺押歯王が仮に履中帝の末年に誕生したとすると反正帝崩御の時はまだ7,8歳。さすがにこの先は考えていなかったようで、允恭天皇即位の際のすったもんだが起こることになった。こう次々と予定外のことが立て続けに起こったのは、実は簡単に予想できることだったが、儒教の理想を実現するという建前が仁徳天皇ご一家の家風のようになっていたのと、それをまた支持する一派も朝廷内には力があったので、誰も口を挟めなかったものとみえる。しかしアンチ儒教派は内心それみたことかと思ったことだろう。本当は宇治太子の子孫がいればそれが正統できまりだが宇治太子の男系子孫はいない。このへんは後世の安徳天皇から後嵯峨天皇までのすったもんだが思い出される。が、宇治太子の同母妹の血筋ってのがいて、普通ならさしたる重みをもつものではないが、たまたま応神天皇は宇治太子に皇位を譲ろうとしていたことと仁徳天皇に譲る気はなかったことが「二人の皇子への質問」というエピソードで有名になってしまっていたから、皇族(天皇の血を父系でひく者)であることに加えて「宇治太子の同母妹の血筋」が応神天皇以降は「正統な天皇」というふうに(当時の)世間は考えるようになってしまった(このことは奈良時代の皇室には都合がわるい話なので奈良時代に編纂された記紀には一見したところわかりにくくなっている)。
以上は反正帝〜允恭帝の兄弟相続の事情を一例として解説したまでであって、これ以降の兄弟相続の例もすべてみなそれぞれの特殊な「しかるべき特殊事情」あってのことであって、なにかそういう風習やしきたりがあったとは思えない。これを「兄弟相続制だったはずだ」という前提で、記紀の天皇系図を「父子になってるのはおかしい、これはもと兄弟になってた系図を書きかえたんだろう」等というのは古伝承より自己の妄想を優先させたもので本末転倒も甚だしいだろう。

葛城氏の歴史的意義
(後日加筆)

安康天皇は長田大郎女は近親婚なのか?
まず二人の長田大郎女(ながたのおほいらつめ)が同名の別人なのか同一人物なのかが問題となり、もし同一人物の場合には履中天皇皇女なのか允恭天皇皇女なのかが問題となる。もし後者なら、安康天皇は同母の兄妹で結婚したことになるが、通説ではこれは当時タブーとされていたということになっている。まして、安康天皇は、木梨の軽太子の近親婚のタブー侵犯に反対する人々によって擁立された天皇だから、同母妹を皇后にすることは到底ありえない、と一見思われる。そこで、雄略前紀分注に「中蒂姫(なかしひめ、履中天皇皇女)のまたの名を長田大郎皇女」とあり、これでみると安康天皇の同母妹の長田大郎女(紀では「名形郎皇女」)とは同名の別人らしく思える。この説に依拠して、允恭天皇の長田大郎女の長田は紀に「名形」とあるからナガタでいいが、履中天皇皇女の長田皇女の長田は別人なのだからヲサダと読むのではないかという説もある。しかし『古事記』ではナガタは「名方」、ヲサダは「他田」と書いている例があり、書き分けることは出来たはずなのに、このような接近した箇所に出てくるのに別人の名がまったく同じ書き方をされているのはおかしい。また古代人は別名も多かったろうから区別して言う時の別名にも事欠かなかったと思われるのに、紀に出ている中磯皇女(なかしのひめみこ)や中蒂姫という名には一切ふれもせず、すぐ近くに出てくる二人の名前がまったく同じままということがあろうか? ここは普通に読めば同一人物だろう。そこで本居宣長は書紀の分注を援用した上で、同名別人ではなくて同一人物とし、允恭帝皇女説がたんに間違いなのであって履中帝皇女説が正しいとした。しかし允恭帝皇女説は記紀ともに本文で明記するのに、分注を優先させるのはおかしくないか。記紀の本文には中蒂姫の別名が長田大郎女だという話は一切ない。そもそも分注ってのは理解しがたい部分に解釈を加えた解説文であり、あくまで紀編纂の段階の奈良時代の常識からみた場合の一つの解釈説にすぎないのであって古伝承とは別だと心得なくてはならない。この分注もよくみると大草香皇子(記:大日下王)の妹には「長田皇女」、安康天皇の皇后には「中蒂姫皇女」と使い分けていて、別人なのをさりげなく並べて印象操作しようとした跡がみえる。まず間違いなく、もともとの伝承では履中帝皇女の中磯皇女と允恭帝皇女の長田大郎女はまったくの別人である。「別名」とみせかけて近親婚の矛盾を解消できるような合理的な解釈を模索したのがこの分注なのである。同じく近親婚の矛盾を解消できるような合理的な解釈を模索した宣長がこの分注に騙されるのは必然だったといえよう。
では、同母妹を皇后としたことになってしまうこの矛盾はどう説明つくのか、それは安康天皇の回にて詳しくかいたのでそちらを参照されたし。

二人の「幡梭皇女」は?
ところで、紀では大草香皇子の妃で後に安康天皇の皇后になった女性を、一貫して長田大郎女ではなく中蒂姫とよんでいる。これが誤りで正しくは允恭帝皇女の長田大郎女だとしたら、履中帝皇女の中蒂姫はどこでなにをやっていたのか? 記紀の系譜記事にでてくる皇女たちのほとんどはいったい誰に嫁いでどうなったのか不明な女性が多いので、ここでも気にする必要はないかもしれないが、紀の書き様からすると、中蒂姫も長田大郎女と同じく大日下王の妃になっており、のちに安康天皇の后妃となったところまで同じ境遇の女性だったのではないだろうか。だから紀も最低限わずかな曲筆だけで合理化を試みることができたのだと思われる。古事記は登場人物を減らしてストーリーをシンプル化することがよくある。また安康天皇は公式に長田大郎女を皇后にすることは憚られたろうから、名目上は中蒂姫を皇后とするつもりだったに違いない。しかし大日下王の宮殿が落城した際に長田大郎女か中蒂姫のいずれかが大日下王とともに薨去してしまった可能性もある。その場合、生き残りは一人しかいないわけで、その人を書紀は中蒂姫としているが、それは近親相姦があったかのような話を隠蔽したいから人物を差し替えてるわけで、長田大郎女だとしている古事記の方が正しいのではないか。安康天皇は長田大郎女への執着がまさっていて、救出の優先順位から考えてそういう結論になる。これに付随して、そもそも中蒂姫の母は本当に幡梭皇女(=若日下部王)なのかって問題もある。羽田日之郎女と幡日若郎女では似すぎているので偶然ではあるまい。察するに、羽田日之郎女は羽田日之大郎女ではないか、「大」と「若」とで「姉貴分、妹分」だったんだろう。かたや大貴族とはいえ臣下の娘、かたや皇女ではあるが、おそらく乳母(=養育氏族)が同じ羽田氏か秦氏で、だから名前の冒頭に「ハタ」を共有しており、姉妹同然に一緒に育ったのだと考えられる。ただ、養育氏族が羽田氏だった場合には羽田日之郎女は実家で育ったことになるわけだが、ここはどちらとも判断つきかねる。
ここで大いに注目すべきことに気づく。中磯皇女の母は紀では幡梭皇女(=幡梭若郎女)とされていて、紀では幡梭皇女は仁徳天皇と髪長媛の間に生まれた皇女となっているのだが、記では応神天皇と泉長比賣(いづみのながひめ)の間に生まれた皇女に幡日之若郎女(はたひのわきいらつめ)、仁徳天皇と髪長比賣の間に生まれた皇女に波多毘能若郎女(はたひのわきいらつめ)と2回でてくる(「毘」の音は濁音の[bi]でなく清音の[hi]であることは当ブログの他の箇所で論じた)。履中天皇の皇后が応神帝皇女では叔母と甥になるが仁徳帝皇女だと異母妹になる。この時代ではどちらもありうるが、後者の場合、これは大日下王の妹の若日下王と同一人物で、この女性は雄略天皇の皇后になる人だから、履中天皇の皇后は前者(応神天皇皇女)で、同名の別人とする説がある。しかし宣長は例によって同一人物説で、仁徳帝皇女が正しく応神帝皇女のほうは存在しないとした。応神天皇の妃の泉長比賣と、仁徳天皇の妃の髪長比賣が名前が似ているので、幡梭皇女の生母を泉長比賣とする誤りが生じたというわけ。ここで宣長が泉長比賣と髪長比賣を同一人物としなかったのは、泉長比賣は大羽江王と小羽江王という応神帝皇子を生んでるし、髪長比賣は大日下王という仁徳帝皇子を生んでるので一方の女性を消し去ることができなかったからだ。しかし開化天皇が庶母(父帝孝元天皇の妃)を自分の皇后にして崇神天皇が生まれた例もあり、泉長比賣と髪長比賣が同一人物でもかまわないのではないか。泉長比賣は父不詳だが「日向の泉の長比賣」とあり髪長比賣は「日向の諸県君の娘、髪長比賣」とあり、同一人物として差し支えるような情報はない。しかも宣長説だと中磯皇女(=中蒂姫)を生んだのは誰か不明になってしまう。古事記ではそもそも中磯皇女(=中蒂姫)が存在してないのだから古事記の記述大系の中では中磯皇女(=中蒂姫)の母が誰かなんて問題自体おこらないのだ。しかし本当に実在しなかった女性を日本書紀がゼロから創作できるなら、もっと大胆にわかりやすくて合理的な話にしたろう。古事記はなんらかの、ある特定の理由(その詳細は後述)によってわざと中磯皇女(=中蒂姫)を無視してるのだ。例によって同一人物とする点において宣長はいつも正しい。しかし記紀の伝承をいつも半分切り捨てることで合理化しるのも宣長の悪癖といえよう。

「髪長媛」と「泉長媛」も同一人物?
では幡梭若郎女は応神帝と仁徳帝どちらの皇女か。記紀の伝承だと髪長媛を見染めた大雀命(のちの仁徳帝)が熱心に運動して父帝の妃になるはずだった髪長媛を譲られたことになっているが、書紀の引く別伝には大雀命は一切でてこない。だから仁徳天皇が髪長媛を見初めたのは応神天皇の妃として二皇子を生んだ後、つまり自分の庶母に惚れて、父帝にお下がりしてくれとせがんだわけだろう。大雀命と髪長媛の間には血のつながりは一切ないのだから、開化天皇の前例とも合致し、当時としては格別へんな話ではなかったものと思われる。そして大雀命との間に大日下王がうまれた。問題は、幡梭若郎女がもし応神天皇の皇女だとしたら、髪長媛が連子として二皇子を応神帝の手許に置いたまま幡梭若郎女だけを連れ子として大雀命に嫁いだことになるが、それなら幡梭若郎女が異父「姉」で大日下王が異父「弟」(しかも叔母と甥でもある)となるはずであるのに、伝承はすべて大日下王が兄で幡梭若郎女が妹となっている。では幡梭若郎女が仁徳帝の娘であった場合はどうなるか。髪長媛は二皇子を応神帝の手許に置き、一身で仁徳帝に再嫁し、そこで大日下王と幡梭若郎女が生まれたことになる。しかし、それではなぜ『古事記』は応神帝皇女説を伝えるのか。兄と妹になっているのは、大日下王が年上で幡梭若郎女が年下で、実際に兄と妹だったから物語の中ではそのまま記述されたにすぎず、異父兄妹であることを否定する根拠にはならない。仁徳帝皇女とする説が生じた理由は、大日下王との兄妹関係から短絡して誤認されたとすれば容易に説明がつくが、仁徳帝皇女が誤って応神帝皇女にされた理由はそれに比べれば考えにくいのではないだろうか。つまり、幡梭若郎女は応神帝皇子を二人生んだ後に、仁徳帝に再嫁して大日下王を生み、しかるのち夫の父である応神帝に出戻って幡梭若郎女を生んだのだと考えるしかあるまい。父の妻が息子に再嫁するのは孝元天皇と開化天皇の例にあるが、この場合は孝元天皇崩御の際に、妃がまだ年若く未亡人にするのは可哀想だったので息子に託したのだとも考えられる。しかし応神天皇と仁徳天皇の場合は父帝は元気だったわけで、いくら元気だからってまさか息子にお下がりした嫁がオヤジに出戻ってくるとは思わなかったろう。これはこれで普通は考えにくいことなのは、確かにその通りなのであるが、実は例外的に今回だけは「いかにもありそう」なことなのである。それは何かというと大雀命は磐之媛(いはのひめ)を妃としていたがこの人がたいへんな焼き餅で有名なエピソードが豊富なのはご存知の通り。髪長媛はその名の通りの美女、しかもこの美女を父帝におねだりした件は歌物語になっているほどのロマンチックな話だから、御正室様が激怒しないはずがなく、大日下王を出産した段階で堪忍袋の緒が切れていびり出してしまったのだろう。あれw 急にリアリティー増したぞw それで幡梭若郎女は応神帝の保護下に舞い戻り、恐怖に怯える髪長媛を応神帝が慰めてるうちに、元は夫婦、昔の関係に戻った、と。そこで生まれたのが幡梭若郎女だった、と。

中磯皇女=中蒂姫
そうすると、応神帝皇女の幡梭若郎女は、まず甥の履中天皇の妃となって中蒂姫を生み、中蒂姫は允恭帝皇女の長田大郎女とともに大日下王の妃となったもの、つまり大日下王の妃は二人いたことになる。しかし幡梭若郎女が最初に嫁いだのは本当に履中帝なのか疑問もある。古事記にはそんな話はない。また中蒂姫の母も幡梭若郎女だとは古事記になく疑問だ。
それはさておいてもとにかくこの二人、中蒂姫と長田大郎女は従姉妹同士であることにはかわりなく、大日下王にしてみれば履中皇統(葛城系)と允恭皇統(息長系)の一方に偏ることなく両家とパイプをつないで安全を確保したつもりだったのかもしれない。そして安康天皇は大日下王を攻め滅ぼした後、この二人の妃を両方とも自分のものとし、このうち同母姉の長田大郎女を内縁(の皇后?)とした。もし中蒂姫が生きていたら、公式には中蒂姫を妃としたろう(詳細な議論は安康天皇の記事を参照)。目弱王は古事記の通り長田大郎女の子か、書紀のいうように中蒂姫の生んだ子だったのか、わからない。が、たぶん後者だろう。前者なら事が隠蔽されるような理由がない。
先ほどの中蒂姫の母が本当に若日下部王(=幡日之若郎女)なのかという問題もあるがこれは別の機会に譲る。

中蒂姫は目弱王の物語の中での名で、履中天皇の系譜記事の中では「中磯皇女」と書かれている。この「磯」は『万葉集』でもシの音をあらわす万葉仮名として頻繁に使われるから「中磯皇女」という名に特になんの問題もないが、中蒂姫の「蒂」はシと読むとはすぐにはわかりにくい字で、なぜこんな表記があるのかかなり気になる。中磯皇女、中磯姫で済むことだろうに。中蒂姫の「蒂」、岩波文庫の書紀の注では、「へた」は花や実が木にくっついている「足」の部分だから蒂(へた)の字をアシと読み、中蒂=「ナカ・アシ」だから「ナカシ」と読ませたんだという。この場合の「へた」ってのは花のガクの部分のことのようだ。ネットで見かけた他の説では雑草の一種でギシギシというのがあるんだが、このギシギシの「シ」だという。雑草って…。なんだかこの姫の壮絶な人生が察せられるな…。ギシギシは漢字では「羊蹄」と書くんだが「蒂」と「蹄」で似たような字だ。共通するのは「帝」。つまり「中蒂姫」という表記は「帝」(すめらみこと)をかなり意識した表記ではないのか? 本来の名がナカシヒメ(中蒂姫)であって、「中磯皇女」は系譜記事にしか出てこないから、「中磯皇女」というのはあくまで履中天皇の皇女だということを強調した呼び方で、あとから作った表記なんだろう。逆にいえばこの女性は履中天皇の皇女ではない。だが履中天皇の皇女だといわれる何らかの因縁もまたあったわけだろう。それは何か。
CgQAnRrUUAAtVfU.jpgzp_gishigishi-04.jpg茄子のへた←ナスのへた

祖母と孫ほど離れた夫婦?
ともかく話もどすと、この事件の頃の幡梭若郎女(=若日下部王)は古事記では履中帝の妃にはなっていないのだから彼女が履中帝の未亡人であるかないか別としても、少なくとも彼女は応神帝の娘でもあり、すでにかなりの年齢に達していた可能性がある。幡梭若郎女は安康帝からみれば義理の伯母(履中帝の未亡人だった場合)でもあり、大叔母(祖父の妹)でもある。そのような高齢な女性に対して、弟の嫁としてスカウトするなんてことがあるだろうか。しかも母親世代(若日下王)を弟の嫁にしようとして兄である自分はその下の世代(自分の同世代)の方を嫁にしたわけだ。それだけでも不可解なのに、雄略天皇は絶対権力を手にした後も、おそらく母親ほどにも年上の若日下王に満足の様子で皇后にしたままだった。
普通ならありえないと思われるが、ここでまたしても特例な事情があるのを発見する。安康帝が幡梭若郎女を大長谷王の妃に所望する前、反正帝の皇女たちが候補にあがっていたのを、彼女らは大長谷王が短気を起こしてむやみに人を殺すので怖がって結婚の申し込みを拒否してきたという。そういう理由ならどこの女性でも同じ反応しそうなもので、そもそも大長谷王は誰とも結婚できないだろう。しかし安康帝はなぜか幡梭若郎女(若日下王)なら大丈夫だと考え、彼女の兄の大日下王も「こんなこともあろうかと準備して待ってましたっ!」みたいなことをいっているのだ。高齢の未亡人なのにおかしくはないか? しかし、大長谷王の特異な性格に着目すれば、これらの不審な事実を合理的に説明できる。反正帝の皇女らの発言から、大長谷王がささいなことでやたら人を殺しまくっていたことは明らかだが、処罰もされた形跡がないのは皇子だからだけではないだろう。生母の大中津姫(允恭帝の皇后)の絶大な権力の保護下にあったからとしか考えられない。大中津姫は上の子ら(木梨軽太子ら)6人とは母子関係がうまくいっておらずその反動で晩年に生まれた下の3人(大長谷王ら)を溺愛していた(詳細は「木梨軽太子の乱」の記事にて)。その結果、大長谷王はマザコンで熟女好き、母親ぐらいの年齢の女性でないと懐かない性格になっていた。その証拠に、紀には雄略天皇を怖がって誰も諫言する者がないので、皇后(若日下王)がたしなめたところ天皇が反省するというたいへん興味深いエピソードが載っている。しかも大中津姫の最晩年の子だから、大長谷王にとって母のイメージは世間一般でいうお婆さんのイメージにいくらか近かったのではないか。

残された問題
上のほうで何点か宿題にしていた件だが、中磯皇女の生母は誰なのか。この問題は古事記全体のテーマとしても割りと重大なんで、そのうちいつかやります。
目弱王の変」に続く
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応神天皇はなぜ大雀命(仁徳天皇)を後継に指名しなかったのか

2679年(R1年)年7月3日(水)改稿 H30年6月22日(金)修正 H25年7月17日(水)初稿
2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓」から続き

大山守命と大雀命
この質問の意図は、宇治皇子(記:宇遅若郎子)に皇位を譲りたいと思っていたからだという記の解説は説明不足でこれだけだと腑に落ちない。「大雀命の意見が朕と同じである」といったところで、皇位の譲り先は天皇自身が決めることで、大山守命や大雀命が何をいったとてどうにもなるものでもあるまい。
応神天皇には多くの皇子がいたが、その中で有力な後継者候補が大雀命だった。大雀命は他の記事では実際に「太子」と書かれており、この時もすでに「太子」とされていたと考えられる。根鳥・若沼毛二俣・隼別の3皇子はこの時まだ生まれていないか幼すぎて問題外とされた。最年長と思われる額田大中彦と次兄と思われる大山守命が外された理由は不明。単に出来の良し悪しで選ばれただけかもしれないが…。なので実際には大雀命から宇治皇子(記:宇遅若郎子)への「太子の変更」の問題だったのであり、大山守命が有力後継者「三人の中の一人」だったわけではあるまい。ではなぜ大山守命が出てきたのかは後述する。
(※古代日本の「複数太子制」については別のところで詳論する)
応神天皇も年少の宇治皇子に譲ろうと考えていた。ところが、後述するがこの頃、日本には儒教が入ってきており、大雀命と宇治皇子(記:宇遅若郎子)は帰化人の王仁博士を家庭教師につけて『論語』を学んでいるほどだった。儒教では兄をこえて弟が立つのは「長幼の序」を乱す行為であり、礼にかなっていないとされる。従って、大雀命と宇治皇子がもし儒教原理主義者だった場合、最年長の額田大中彦、なんらかの理由で額田大中彦がダメなら次兄の大山守命が太子となるべきと考える可能性が高い。そこでこの二皇子の考えを問いただしたのが今回の謎かけだったというのだが、それなら大雀命一人に問いただせばすむ話なのに、なぜ大山守命まで引っ張りだされたのかというと、それは、大山守命は儒教の存在はしっていただろうが格別信者というわけではない。だから弟が皇位を継ぐことになんら疑問はないはずで、伝統的習慣に従って皇位を辞退するだろうというのが父帝応神天皇の予想だったろう。そうなれば、儒教かぶれの大雀命もまさか兄に皇位を強要することも出来ず、折れて、宇治皇子の立太子に納得せざるをえない。これが応神天皇の計算だったと思われる。こう考えないとなぜ大山守命が同席しているのか説明できない。
ところが、二つの計算違いが起こった。一つは、大山守命が父帝の意図を察知できず、「上の子のほうがかわいい」と答えてしまったこと。「年長の子とより幼い子とではどちらが可愛いか」という質問は、つまり大山守命にも大雀命にもそれぞれすでに二人以上の子供をもっているという前提での質問だろう。普通に考えれば幼い子のほうが可愛いのではないかとも思えるが、知恵が回るようになってきた頃の子供はまた反応が面白くただ可愛いだけの幼児とは異なった愛くるしさがある。どっちが可愛いといってもいずれも一般論ではありうることで正常の範囲から逸脱することではない。確率としては大山守命の子のほうが大雀命の子より年長であり、わんぱくで面白い盛りであるのを父に報告がてら弟にも自慢したいという他愛もない気持ちだったのかもしれない。しかしこのリアクションは父帝を大いにがっかりさせたろう。「こいつは政治家に向かない」と。そこで大雀命が儒教原理主義を発揮して、兄を立てるような発言つまり「わたしも上の子が可愛いと思います」と大山守命に同意したら、父帝の目算はすべておじゃんになってしまい、不穏な空気のまま宇治皇子の立太子を強硬することになったであろう。だがここで第二の計算違いが起こった。記によると大雀命は宇治皇子を後継者にしたいとの父帝の意図を察知したのだといい、紀によると、大雀命は父帝のがっかり顔をみてすべてを察知したことになっているが、さて…? おそらく、父帝の表情から何かおかしいと気づいて「下の子のほうが可愛い」と大山守命とは逆のことを言ってみたまでのことであり、本当に宇治皇子の立太子という意図まで気づいていたのかどうかはわからない。しかし、とにもかくにも、大雀命の発言が父帝の立場を救ったわけで、当然「大雀、汝の言葉こそ我が意の通り」と陛下は大喜び。
しかし大雀命が儒教を捨てたわけではないことは後々あきらかになる。儒教はまだこの段階では国教でもなんでもない「外国のちょっと変わった教え」ぐらいにすぎないので、天皇の意志に背く正当な理由にならなかったのである。大雀命は単に「下の子が可愛い」とだけいってるのではなく「上の子は成人してるから安心だが下の子は未成人だから心配だ」という奇妙な言い訳のようなことをいってる。これは逆にいうと上の子も下の子も成人してしまえば条件は同じだともとれるし、未成人で心配な者を天皇にすべき、ともとれる。大雀命がもし父帝の意図を理解したのならこんなへんな話はしないのではないか? 大雀命はともかく「下の子が可愛い」と答えるのが正解だとまでは察知したが、その意図まではサッパリ量りかねていたので、念のため「あくまでこういう意味においては、ってことです」と逃げ道を用意したのだろう。応神天皇からみれば、大雀命に対しても「こいつは何を見当ちがいなことを言ってるんだ?」と思ったはずだが、同時にまた自分自身の情況がみえてないことを自覚して慎重な言葉選びをした大雀命を、大山守命よりは多少は評価したと思われる。

この後、大山守命には「山海之政」(うみやまのまつりごと)が命じられた。同じことを紀には「掌、山川林野」とあり。これはなんのことかというと、応神朝では記紀ともに山守部・海部(紀:海人)を設置とあり、記ではさらに山部・伊勢部の設置があり、これら4つの部民が関係するのは明らかだろう。山部は山林の産物を貢納する部民、海部は海産物を貢納する部民。海部は普通はアマベと訓むが、ウミベまたはワタベと訓んでもさしつかえないと思う。アマベは漁労水産業としての一面が、ワタベは海軍または海上運輸業の面が強調されると思う。山守部というのは山部と同じものとする説や、大山守命の私領地とする説もあるがそうではなく、山林の保守管理をする部。山部は産物を収穫する部で山守部とは別だが、山守部は山部に付属ないし所属していたらしい。伊勢部は伊勢国の海部のことという説があるがそうではなく、磯部・石部・伊西部とも書き、海部の一種。浜辺での産物を担当するだけで通常の海部ほど多角的な活動はしない。山部・山守部・海部・伊勢部はいずれも関東から九州まで全国各地に設定された。
大山守命が任じられたのはこれらを統括するポスト。
この時期にこのようなポストが必要とされたのは、神功皇后以来、半島や大陸との貿易が活発化した結果、輸出品の開発や各地の物資の流通を管理する必要がでてきたからだろう。海洋民や山岳民というのは交易民でもあり物資の流通を担っていた人々でもあった。いわばこのポストは今でいう経済産業大臣であって、極めて重要な地位であったろう。
このポストはおそらくかなりの膨大な事務作業(むろんその多くは下っ端の役人がやるんだがその管理と情況掌握だけでも)忙殺されるポストであって、応神天皇父帝の言葉を表面通り受け取ってしまう大山守命の性格は政治家より堅実で地道な官僚向きだと判断されたのだと思う。
ところでこれによって大山守命は全国の山岳民と海洋民の首領となったともいえるのだが、定住農耕民に比べると、山の民・海の民の文化は保守的因習的土着的であって、容易に大陸の漢文化を受容しなかった。漢文明は定住農耕民を前提とした文化で、狩猟採集の文化は「夷狄」とみなすのでもともと山人・海人にはなじまない。さらにいえば弥生文化の後継者である平野部の農民よりも、はるかに縄文文化を色濃く残していた人々だともいえる。大山守命が自分の使命に忠実に邁進すればするほど、大山守命を「我らが殿様」と仰ぐ人々の利益代表と化していかざるを得ない。三韓征伐以来の大陸文化受容政策に反対する守旧派の頭領に押し上げられていく(この話は次回の「大山守命の乱」に続く)。
大雀命は次期天皇の地位はお召し上げになったが、「食国之政(をすくにのまつりごと)を執りもちて白したまへ」と命ぜられた。紀には「太子を輔け、国事を知らせ」とあり、どちらも宇治太子(=将来の天皇)の補佐というより、摂政に近いようなニュアンスになっている。だがこれは大雀命が天皇になったという事実からの後付けバイアスがかかっている。不当な即位を少しでも合理化したいという気持ちから出た表現だろう。当時はまだ、天皇自身の身の上になんの問題もないにもかかわらずわざわざ実権のない名目上の天皇と、実際に政治を行う摂政に分けるという発想はなかったろう(天皇の身の上に問題がある場合は当然摂政もありうるがここはそのケースに当たっていない)。大雀命がそんなに優秀なら太子に留任させればいいのであって、応神天皇が宇治皇子を太子と定めた以上は、「食国之政」や「知国事」は宇治太子の専権でなければおかしい。
実際には応神天皇が大雀命に期待した仕事は「韓国之政」や「知韓事」つまり「外交」だっと思われる(ちなみに、「食国之政」や「知国事」は「韓国之政」や「知韓事」とあったのを記紀がことさらに改竄したと強弁しなくても、和語の「くに」がそもそも日本列島内部だけをさすとは限らない。「我が国」「この国」といった時、何に対していってるのかによっては、当時は三韓諸国もわが帝国の一部だったのだから。ついでに米国も外務省を国務省っていってるしw)。大雀命は早くから外交に関与していたことは大阪に常駐していたらしいこと、武内宿禰と懇意であること、葛城氏の娘を妃としていたこと等から推測できる。大阪は海外の使節と物資が上陸するところで、検問所のような役所が北九州と別に大阪にもあったろう。武内宿禰は神功皇后の新羅征伐の時の功臣で、当時の三大臣とは、祭祀を担当した烏賊津臣と、軍事を監督した三輪大友主と、内政を総括した武内宿禰だった。この功績により武内宿禰とその後裔は、対外交易を氏族の利権としたが、貿易は莫大な富を生むのでそれを利権とする外務大臣は自ずから大蔵大臣を兼ね、その地位は葛城氏→平群氏→巨勢氏→蘇我氏と世襲されていく。そして大雀命の、未知の情況に対する慎重な態度は、父帝応神天皇の目からみて、半島や大陸の海千山千のスレた外交官や国際商人を相手にするに適していると思われたかもしれない。しかし大雀命の最大のバックボーンとなった葛城氏は、多くの帰化人たちを手下に組み入れ、あまりにも海外の文化に馴染みすぎ、贅を極め財閥化して、庶民の目にはハイカラ趣味ではあっても外国の手先のような存在と映り、国内ではあまり人気がなかった。
図式化していってみれば大山守命の下には守旧派・伝統派・土着派・国粋派の人々が集まり、大雀命の下には開明派・進歩派・漢文派・国際派の人々が集まり、自然と両者の対立の形勢となっていったものと思われるのだ。
(ついでにいうと宇治若郎子が分掌したのは「軍事」だったと思われるがそれについては前章で述べたとおり)
応神天皇
↑小室三兄弟(橋爪・副島・宮台)も実は仲が悪いって副島隆彦が言ってたな。なぜ仲良く出来ないのかw あの世で師匠が怒ってるよw

矢河枝比賣・葛野の歌
(後日加筆予定)

矢河枝比賣・蟹の歌
(※この記事は「楽浪(ささなみ)と楽浪郡」に移動しました)
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楽浪(ささなみ)と楽浪郡」に続く
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雄略天皇の「宇宙樹」

2679(R1)年6月23日(日)改稿 H29年6月14日(水)初稿
歌の背後に政治あり
ある先生は雄略朝を重視するあまり「古事記は雄略天皇で終わっててもいいぐらい」なことをおっしゃっておりましたw まぁね、俺もそう思わなくもないのは、三重の采女(うねめ)の歌の印象深さってのがあるからだ。この歌は国学者の橘守部が「歌神として称えるに今この歌を第一とす」と激賞している。我々もまぁ味わおうじゃないか。なんなら日本の国歌にしてもいいよ、曲がつけばな。ところで、古事記はよく読んでるつもりでも古代史マニアってのは自分の興味あるとこしか読んでないことが多い。だって古事記は歌物語が多くその歌ってほとんど恋愛モノで、あまり古代史と関係ないから。でもそれだと古事記をほとんど読んでないも同然になっちゃうわけだよ。だいたい現代の学者はハラの中では古事記は作り話だと思ってるので、歌の背景に現実の政治が絡んでるとは思わないで、純粋に一つの作品論として分析したがる。そんなの面白いわけがないw 考えてもみろ、『ウルトラマン』でさえ日米安保条約のすったもんだがなければ生まれなかっただろうがw 

この歌は古事記の「最終章」なのか!?
この歌は「水(みな)こをろ、こをろ」とか「浮きし脂(あぶら)」とか神話の冒頭の言葉が突然出てきて、ひじょうに強い関心をそそる。しかも雄略天皇の末尾なので、もし古事記が雄略天皇の章で終わっていたら全体の冒頭と末尾が呼応していることになり、全体の構成として美しくなる。実際にそういう構想案も太安万侶としてはもっていたのではないか。

ここは読まなくて可
しかし丹比間人宿禰足嶋(たぢひのはしひとのすくね・たるしま)が提出した原資料(丹比氏の伝承した帝皇日継)では少なくとも宣化天皇まではあったはずだし、息長真人子老(おきながのまひと・こゆ)が提出した原資料(息長氏の伝承した帝皇日継)では少なくとも継体天皇まではあったはず。雄略天皇で切られてしまうと継体天皇の正統性を主張する後者や宣化天皇の正統性を印象づける前者の原資料の趣旨がぼやけてしまうので、足嶋も子老もそれは不本意だったに違いない。稗田阿礼に至っては本当は大化の改新か壬申の乱までやりたかったろうが肝心の「稗田氏の」帝皇日継(すめろぎのひつぎ)が推古天皇で終わっていた(なぜそうなってるのかは当ブログで以前に詳しくやったので今回省略)。帝皇日継以外の漢文資料で舒明天皇以降を作っても日本書紀とかぶってしまうし、そこで内容に独自性を出されても稗田阿礼って人は天武皇統の正統性に疑問を呈するようなことをやりかねないので安麻呂としては命がいくつあっても足りない。だから、あくまでも古事記中巻・下巻の趣旨に留めるべく推古天皇で終わらせたんだろう。「古事記中巻・下巻の趣旨」ってのは日本書紀編集部でボツにされた息長氏と丹比氏の伝承を残すことであって、稗田氏の伝承を残すことではない。稗田阿礼が朝廷の語部(かたりべ)として継承していた正規の帝皇日継は漢文に翻訳されて日本書紀の神武天皇以降の巻の根幹部分として活かされていた。息長君は皇極朝で誄(しのびごと)を奏しているが、当時の皇室の本家だから古伝承を奏しているだけで名誉職みたいなもの。丹比連は斉明朝には何とか歴史に登場しているが、たいして高い地位ではなく有象無象の木っ端役人の一人として何人か出てくるだけ。両氏ともそれっきり天武朝の「八色の姓」まで出てこない。それが、息長真人子老と丹比間人宿禰足嶋が大宝元年(AD701年)に揃って従五位下に叙され、ようやく中央貴族としては下っ端に引っかかったわけで、この前も後もず~っと一貫してパッとしてない。壬申の乱で近江朝廷側についたか、中立を守ってしまったため出世しそこなったんじゃないのか? 持統五年(AD691年)に大三輪氏・雀部氏・石上氏・藤原氏など計十八氏に纂記(つぎぶみ)を上進せしめた時にもこの両氏は含まれてない(纂記(つぎぶみ)というのは要するにこのブログの用語でいうと各氏が伝承した各氏ごとの帝皇日継のこと。「各氏族の歴史」ではない)。この時点での官位が低かったせいもあるだろうがそれだけなら十八氏の中にもあまり見かけない官位の低そうなのが含まれるから、本当の理由はこの両氏の伝承が天武皇統にとって都合が悪いものだということがすでに知られていたのだろう。息長氏の伝承は継体天皇の正統性を「血筋」に置いていた。それは単に皇胤ということではなく、応神天皇の指定した皇胤が途絶えたので女系でそれにもっとも近い血筋ということ(男系だけなら応神天皇の皇胤ってのは当時たくさんいた)。天武天皇は先帝(天智天皇)の指名をうけておらず近江朝廷を滅ぼしたのだから、近江朝廷の不徳によって天命を受けた(先帝からの指名でなく。先帝からの指名を上回る権威というと「天命」ぐらいしか言いようがない)のだから、天武天皇としては武烈帝を悪で不徳の帝とし、継体帝は徳があったから天命を受けて皇位についたのだとして、自身の先例(プロトタイプ)として描きたい。実際、日本書紀ではそうなっている。しかし古事記ではそうなってない。古事記の中下巻は日本書紀が捨てた息長氏と丹比氏の伝承を守るために書かれたので「先帝の指名を受けた血筋」が正統だといってる。これは天武皇統の時代にはボツにされて当然だろう。丹比氏の伝承は仁徳皇統の中の3つの王系のうち允恭系の天皇を非難して履中系(顕宗~武烈)を顕彰している。これはなぜなのかよくわからないが、反正系の男系が途絶えた後で、反正系の名代部の伴造だった丹比氏と反正帝の皇女とに婚姻があったのではないかと推測する。反正帝の皇女たちは雄略帝との婚姻を拒否しているので、相対的に丹比氏が允恭系より履中系に肩入れしているのか? そこまではまぁいいんだが、継体帝以降は女系で允恭系を引く欽明天皇の子孫でありかつ天武系でもある現在の皇室ではなくて、宣化天皇の子孫で女系で反正系に縁の深い多治比王以降の丹比君(後の丹比真人)を顕彰しようとするものだったと思われ、これは当時は爆弾のような危険な思想だから当の丹比真人氏によって握りつぶされたと思われる。だから息長氏の主張ほどは明瞭にはなってない。息長氏の主張も現代人からすると注意深く読まないとわからないが、両者とも、とにかく現状の古事記の中巻・下巻の文では何がいいたいのか、なんでそんなわかりにくいことをいってるのか、なぜこんなに話の筋が説明不足なのか、不可解な点が多すぎるので、かなりバッサバッサと切ってしまっていると思われる。政治的に具合の悪いところを意図的に切ったこともあったろうが、平安時代に多人長(おほのひとなが)によって古事記が再発見されるまでの間に保管状況が悪くて破損した箇所も多かったんではないか。いずれにしろ古事記の中巻下巻は大量に情報を補って読まねば訳がわからないところがちょいちょいある。

ともかくそういうわけなので、雄略天皇で区切るという安麻呂のアイディアは稗田阿礼の猛反対でお流れになったと思われるw その前に安麻呂が本当にそんなアイディア出していたかどうかよくわからんが。

三重の采女の境遇

纏向日代宮がでてくる理由
この歌がでてきた宴会は「長谷」でのことだと古事記が明示しているから纏向(まきむく)ではない。纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)は景行天皇の宮都だから、この歌は景行天皇の時代のものだって説もあるが、宮都はその後も長く使うもので一代ごとに壊してるわけではない。式年遷宮みたいに代替わりごとに壊してるイメージは、平安初期にできた新しい「穢れ」感覚に基づくもので、現代人の思い込みにすぎない。平安初期までに日本人は霊的な穢れと物理的な穢れの区別がわからなくなり、見えないものをやたらめったら怖れるようになってから出来てきたのが現在の神道につながる過剰な穢れ忌避の傾向なのである。ほとんど滑稽なまでの域に達しているが、そのくせ目にみえない霊的な穢れにはトンと無頓着で、これではお祓いも糞も意味なかろうと思う。なんて、スピ系な話はさておいて、そういうわけだからそれ以前の記紀に描かれた時代には代替わりの時も先帝の宮殿を壊すこと無く有効活用したに決まってるだろう。政治はどんどん高度で複雑になっていって伴造の率いる部民、官僚のための施設はいくらあっても足りないし、物資倉庫、それから皇位をつがない皇族たちだって、そうそう丁度いい「あまくだり先」がほいほいみつかるとは限らんからしばらくは先帝の宮殿に住んでたろうし、女性の場合はそのまま皇室財産の名義上の所有者としてその宮殿を継承していくこともあったろう。だから纏向遺跡が3世紀の遺跡だったからって、景行天皇が3世紀の人だったということにはぜんぜんならない。記紀にでてくる宮都は歴史を通じていつの時代にもあった可能性が高い(まぁ改築はしてるだろうけどな、それこそ式年遷宮みたいに)。
だからこの歌が歌われた雄略天皇の時代にも「纏向の日代宮」は存在し、景行天皇の時代のまま壮麗な姿をリアルに保っていたのである。ただ天皇がそこにいないってだけで。いや、たまには雄略天皇も別荘として使ったかもしれない。そもそもこの時代の天皇というのは平安時代や江戸時代みたいな儀式や決まりごとで雁字搦めにされた籠の鳥みたいな存在ではないのだから、あちこちに無数にある宮殿(その中には歴代天皇が残した皇居も含む)にいつでも好きなように移り住むことができたはずだ。朝代(各天皇の時代)を宮都の名で表わすのは陛下の御名を直接よぶのを憚ったための慣例的な表現法の一種にすぎず、実際に在位中は引っ越し禁止だったわけではない。一代の間に何度か宮都をかえた天皇は、景行・仲哀・神功皇后・応神・顕宗・仁賢・継体・敏達・推古・舒明・孝徳天皇に例がある(藤原京以前)が、これらとてホームベースの移動だからたまたま伝承が残ったのであって別荘は無数にあったに決まってるだろう。

さて、三重の采女がなぜその纏向の日代宮を歌ってるのかというと、自分が三重の出身だからだろう。三重ってのはヤマトタケル伝説では、印象が悪い土地だ。体調わるくなった倭建命が「足が三ヶ所折れたような気がする」(「吾が足三重の勾がりの如し」の意味には複数の解釈説がある)といったのが三重という地名の起こりだってのは事実ではないだろうが、そういう言い方がされたことは実際にあったんだろう。間違った語源俗解が流布し世間に信じられてしまうって状況は古今東西よくあること。例えばシナの語源は秦ではないし、奈良は土地を均したからではない。それはともかく、采女ってのは住み込みの女性官僚だから、いうなれば女だけの世界。で、雄略天皇はヤマトタケルの再来として仰がれ、ご自身もそう自負していたのもこのブログで以前に書いた。それで三重出身の采女となれば、これはもう采女たちの内輪では虐められたんじゃないかと心配するのが人間として当然だろうw 本人も陛下が三重という土地に悪感情を抱いているのではないかと常々おそれ、何とか故郷のイメージを回復したいと考えていただろう。で、彼女はたまたま歌の才能があったので、以前から三重のイメージソングを考えていたのだろう。
さて、陛下にお酌する機会がめぐってきたが、采女ともなれば言ってみりゃあんた、お酌のプロよ。普通に考えて失敗するわけがない。でも「三重」の采女と聞いて陛下がご機嫌を損ねているのではないかと怖れたから、手足が震えて冷静な判断ができず視野も狭まり、盃に木の葉が落ちてるのも気づかなかった。で、お手打ちになったと。首に刀の刃を当てられるところまでいったんだから絶体絶命、もう今すぐここで死ぬことに決まったわけよ。死ぬと決まったら、長年あたため続けてきた三重のイメージソングを披露しなければ死ぬに死ねないだろう! ここで彼女のハラは決まった。だから堂々と歌えた。「鳥の死なんとする、その鳴くや哀し。人の死なんとする、その言や善し」というが、善いのは言に限るだろうか。

上中下の「3つの枝」の意味
もう三重の采女ってだけで悪いイメージあるんだから、それを避けるんじゃなくていきなり「纏向日代宮」(=ヤマトタケルの時代)と歌い出すことで「そうですよ、私めはあのヤマトタケル伝説の三重の出身ですとハッキリ打ち出してる。そして目の前の、実際にこの歌を聴く人々が聞きながら今まさにみているこの槻(つき:今でいうケヤキ)の巨木を「三重」に見立てて「三重」という言葉から連想されるイメージを変えようとしている。

これ、もう若い人は知らない人もいるかもしれないが日立のコマーシャルで有名な「この~木なんの木気になる気になる名前も知らない木ですから♫」のあの木、もう長いことなぜかケヤキだとばかり思い込んでたけど全然ちがったわw 知らない子はYOUTUBEで検索してね。でもイメージはあんな感じだったんだよw ケヤキがどんな樹だかすぐ浮かばい人でも今のご時世は画像検索すればこれでもかっていうぐらい出てくるからラクなもんだ。
さらに手っ取り早くは「東根の大ケヤキ」で画像検索するのが早いけど。これは山形県にある日本最大の巨木で、樹齢1500年以上、根回りは24m、周囲16m、直径5m。高さ5m半のところで二股に分かれ、西南側のがやや直上して枝を分け、東側も大きく三枝を分けて天空を覆っているという。ケヤキは巨木になるとこういう枝ぶりになるわけで、木によっては上つ枝・中つ枝・下つ枝と三重に見立てたくなるわけだろう。現在の高さは28mだが、1957年の特別天然記念物指定時には35mもあったというから、三重どころか五重塔に例えてもいいぐらいだ(ちなみに法隆寺の五重塔は31m半)。
だが外にでかけて実物みたいもの。さすがに「東根の大ケヤキ」みたいのにはめぐりあえないにせよ、欅坂46の名前の由来にもなった六本木のけやき坂通りだけでなく、都心なら代々木公園にも表参道にもケヤキ並木があり、鬼子母神の大門の通りのケヤキ並木の中には天然記念物に指定されてるのもある(他にも都内あちこちにある)。ただ都心のケヤキって、形も大きさもいまいちなのが多いんだよね、できれば天に届きそうな巨大なケヤキがいいんだが(いい写真が撮れたら後日アップします)。時々古い神社の境内にそういうのあったりするよね、皆さんも地元のケヤキを探してみて。

ケヤキの巨木がどんなのか頭に入ってないとこの歌の解釈はうまくない。巨木は、日本のユツカツラ(湯津楓/湯津香木)や中国の扶桑樹と同じく神話上の世界樹宇宙樹への連想がはたらく。だからこれを三重にした上つ枝・中つ枝・下つ枝で天皇の支配する世界をあらわした(「世界樹」という神話的な観念は北欧のユグドラシルだけではなく、全世界の諸民族にあることは、Wikipediaで「世界樹」を検索しといて下さい)。
三重の槻の木、「上つ枝は天を覆へり」。巨木だからその枝が天を覆い隠しているという描写はわかる。ホツエというのは万葉集で「下づ枝」(しづえ)と対で使われてる例があるから「上のほうの枝」だと解釈されるが、カミツエ(上つ枝)という言葉もあるので、ホツエ単独で使われる時の語感だと、上下あるうちの上、あるいは上中下あるうちでの上だというニュアンスは弱いのではないか。ホツエという言葉だけがでてきた最初の段階では「ホツエ」(上つ枝)というのは単に頭上の、見上げた上のほうの枝って意味にきこえるので、上中下の三重構造の「上」だとは誰も思わない。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」と聴いて、初めて「アレッ」となる。ここで聴衆は一時的な混乱に陥る。「じゃ下つ枝は何なんだ」という関心もひくんだが、同時に「天を覆うのは木の枝の全体で覆うんじゃないのか?上の枝だけ?しかも中の枝は東国?」と次々疑問がわく。考えようによっては、覆い隠されてる「天」というのは今ここからみえる天だけであって、「縦」に見上げるばかりでなく、少し「横」に歩いて槻の木の真下から抜ければ天はみえる。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり、下つ枝は夷(ひな)を覆えり」。上つ枝は広がりが少ないからこの場しか覆ってないが、中つ枝や下つ枝はもっと遠くを覆い隠す。辻褄はあうがこれは理屈であり観念だ。だから、ここでこの巨木は目の前の実際の木でなく、神話上の世界樹に見立てていることが聴き手にも気づかれる。また「上つ枝」と限定してたのは水平移動つまり上下の軸から前後左右の二次元平面に意識をうつすためだともわかる。そうなると上つ枝の「天」も、東国や夷(ひな)に対して天皇のおわします都でもあろう。記紀の雄略天皇には東(あづま=関東)はほとんど出てこず、記紀だけみてると東国とは縁のない天皇と思ってしまうが、有名な埼玉県の稲荷山鉄剣の銘に「ワカタケル大王」が出てきてから、現代人にとっては逆に「関東まで支配していた天皇」というイメージばかり強くなりすぎてる感じがする。あの鉄剣が発見されて学界もマスコミもてんやわんやの大騒ぎになっていた頃、この「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」にすぐ気づき、「古事記ってすげぇな」と感嘆した古代史マニアもさぞかし多かっただろう。しかしこの「中つ枝はアズマを覆えり」という言葉は次の「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」を導きヒナがどこなのか暗示するための言葉。本当に言いたいキモの部分は「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」であって「中つ枝はアズマを」ってのはそれをいうための文学的な修辞にすぎない。詩としてはな。
夷(ひな)は直訳としては「地方・辺境・田舎」ってことで、アズマ(あづま)が東海・関東という具体性をもっているのに、ヒナは具体的にどこだともない。岩波の古典文学大系の注釈では「万葉集に淡路島方面をヒナといってる例があるからヒナは西国だ」と言い切ってるが、この学者はバカじゃないのか。ヒナは東西南北どっちでもありうるが、たまたまその歌ではどっちをさしてるかが問題だろう。関係ない歌をもってきてあの歌で西だからこの歌も西、って話になるわけないだろうに。あるいはまた倭王武の「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」を連想し、このヒナとは九州方面のことだと解釈する人もいるかもしれない。だがそれだとこの歌は単に関東から九州までの日本に君臨する陛下はすごいっていってるだけの歌になってしまって、死刑をまぬがれるほどの強烈なインパクトに欠ける。あるいは雄略天皇の個人的なツボにも入らない。雄略帝にしてみれば技巧を凝らしたおべんちゃらは聞き飽きてるんだから。大事なことはこの歌は一般論としての天皇賛美の歌ではなく、雄略天皇個人へ向けた歌だってことなのだ。それに九州だとすると、一度東へ向いた視点が西へ逆反して、キョロ充みたいになってしまう。ケヤキの葉は舞い上がったりせず重力に従って上つ枝から中つ枝、そして下つ枝へと直線的に落ちていくのだから、ここのヒナは都からみてまっすぐ、アズマのさらなる東の奥、道の奥(みちのく)をさしていると解する他にない。じゃミチノクだと明言すれば良かろうになぜヒナだなどと曖昧な言い方をするのか、それは第一には奥羽に限らず、東西南北四方のはて天下のすべての地を含みうるイメージの広がりを残すため。第二には、確かに実際には奥州なんだけど、この時いま話題の場所でアズマの先といえば誰でもわかりきった土地だったから、もったいつけて、期待感を煽ってるわけだよ。「え、雄略天皇の章には古事記も日本書紀も東北のことなんかぜんぜん出てこないじゃん、何がどう話題になってたってんだよ?」という反論が来そうだが、実はそれがそうでない。鉄剣が出土するまでは関東すら雄略天皇と縁がないと思われていたろう、それを思えば記紀に奥羽がでてこないからって雄略天皇が奥羽に縁がなかったとはぜんぜんいえない。それについては後述するとして、第三には掛け言葉で鳥のヒナ(雛)を連想させるため。ちゃんと確認してないが、たしか田舎を意味するヒナ(夷)のヒも、鳥のヒナ(雛)のヒも上代特殊仮名遣いでは甲類のヒのはず。上つ枝にも中つ枝にもないことだが、下つ枝では新しい命が生まれていた。「雛を覆えり」。その土地が、親鳥が翼で雛を覆い守り育てるように、新しい命を守り育てていた、そういう連想が湧く。というか隠しメッセージがある。これは何のことを言ってるのかは後述する。

雄略天皇にとっての陸奥(みちのく)
一つには雄略天皇の崩御後に新羅征伐軍(征伐じゃなくてただの駐留軍の交替かもしれないが)として従っていた蝦夷が吉備で反乱したことがある。ヤマトタケルの蝦夷征伐以来、奥羽の蝦夷(えみし)は朝廷に服属し、応神天皇の時には道路工事の労役についたりしてたぐらいだった。それが仁徳天皇の時には背いて鎮圧されてるが、これは隼別命の乱の一環で、隼別命の乱は全国を巻き込んだ大規模な乱だったのである。雄略天皇崩御の際にも反乱しているからといって、仁徳朝以来ずっと蝦夷は朝廷に心服していなかったのかというとそういうことでもない。雄略帝崩御の際は星川皇子が謀叛を起こしているが、書紀の書きぶりからすると、どうも反乱軍に唆されたとか呼応したとかいうわけではなくて、純粋に蝦夷たちの意図からだけ出たもののように読める。当時の蝦夷からみれば、雄略帝にしろ星川皇子(=吉備氏)にしろ、中華式を有り難がってる連中って意味では同類であり、「大山守=隼別」のラインでつながる海の民・山の民のほうが感性的に近い存在なのであり、彼らが蝦夷を味方に引き入れようにも味方になってくれる可能性が高いとは思えなかったんだろう。ただ、蝦夷が反乱を起こす際に、天皇崩御ときいて「時を失うべからず」と言ってるのが引っかかる。皇帝や君主の代替わりが軍事蜂起のチャンスなんてのは当たり前じゃないかという人もいるだろうが、逆に「だからこそ」戒厳令状態になるわけで、軍事的観点からは必ずしも狙い目ではない。記紀に代替わりでの反乱が多いのは「皇位争い」の皇子たちの戦いだから、逆賊の汚名を免れるために空位期間を狙うのである。皇位争いと無関係な連中の蜂起の場合は関係ない。なのに「時を失うべからず」と言ってるのは特別な意味がある。それは何か…。

雄略朝には伊勢の外宮の鎮座伝説があるが、あれがいろいろおかしいことはこのブログで以前に書いた。あれは丹後から豊受姫神という御祭神を遷座したのではなく、外宮はそれ以前から伊勢にあって、丹後にいた「自称・豊受姫」の人間を招き入れたのである。なんでそういう解釈になるのかというと、原文がそうだから。通常の解釈のほうが無意識に原文に「これは神話だから」というフィルターをかけているのであって、客観的にみれば通例の書き方になってない。で、ほぼ同時期になぜか同じ丹後に浦島太郎の話が出てくるが『丹後風土記』に出てくる「自称・豊受姫」が浮浪していたという伝承地と、浦島太郎というか「浦島子」が助けた亀と一緒に蓬山へ旅立ったという伝承地が、同じ丹後の中で4~5kmぐらいしか離れていない。
毛利康二や大和岩雄など、浦島太郎がいった竜宮城は今の鬱陵島で『梁書』に出てくる扶桑国のことだというのだがその扶桑国の王を『梁書』は「乙祁」というとある。これは固有名詞でなく王をあらわす称号なのだが、仁賢天皇の本名が意祁命(おけのみこと)であることから平田篤胤は「乙祁」とは仁賢天皇のことだといっている。篤胤の説には賛同できないが、しかし、浦島太郎は日本書紀や風土記では「浦島子」(うらしまのこ?/うらのしまこ?)という名前でこれも仁賢天皇の別名「島郎」(しまのいらつこ)と似すぎてね? ただし浦島子が仁賢天皇だという主張では必ずしもない。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟はこの時まだうまれてないと思われるから、その父だろう。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟は市辺忍歯別王の子ではなく孫か曾孫であることは宣長も推測するところで、民間伝承ではその父は「久米若子」といい、日本書紀が顕宗天皇の別名だとして伝える「来目稚子」という別名と同じなのでこれは襲名だろうと推測したが、仁賢天皇の別名「島郎」も父からの襲名ではないか。史料的価値として問題なくもないが中田憲信が集めた有名な系図集によると、島郎子と久米若子が兄弟で、島郎子の子が仁賢天皇、久米若子の子が顕宗天皇で両帝は兄弟ではなく従兄弟になっている。あるいは両帝の伯父が島郎子だと仮定すると、伯父の四股名を襲名した兄・若乃花と、父の四股名を襲名した弟・貴乃花の「若貴兄弟」が思い出される。一応、「両帝は兄弟で二人の父は久米若子、島郎子という名は久米若子が鬱陵島から帰ってきてからの別名」と仮定しておく(詳細な議論は今回は省略)。この段階ではまだ陸奥の蝦夷との関係はない。しかし豊受姫のほうはどうか。仁賢天皇ときたら誰でも仁賢天皇の姉、飯豊王(いひとよのみこ)を想起すると思うんだが、『陸奥国風土記』には「飯豊山(いひとよやま)。此の山は、豊岡姫命(=豊受姫のこと)の忌庭(ゆにわ)なり。飯豊青尊(いひとよあをのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す」とある。この物部臣というのは連(むらじ)でなく臣(おみ)とあるから、いわゆる饒速日系の物部氏(物部連:もののべのむらじ)ではなく和邇臣の分流であり、後世「物部首」(もののべのおびと)という氏族の祖先にあたる。飯豊山は現代ではイイデサンと読み、山形・福島・新潟の県境にあり、この山を囲む3県のうち福島県はむろん当時は陸奥国だが、山形県も奈良時代に出羽国が分置されるまで「陸奥国」だった。豊受姫と飯豊王は「陸奥の」飯豊山を介してつながる。飯豊という地名はこの山以外にも青森県、岩手県、そして福島県の中通り地方(飯豊山とは別の地)と陸奥の各地にある。つまり飯豊王は蝦夷に守られ蝦夷に育てられたのであり、蝦夷は飯豊王のシンパなのである。ということはおそらく潜伏中の飯豊王の父や兄弟に対しても蝦夷たちはシンパシーがあったろう(潜在的な支持者なり協力者の立場だった)。雄略朝の末期に、逃亡中の父と娘が丹後で別れて、父は海外(鬱陵島)に身を隠してから、娘のほうが名乗り出たか、少なくとも伊勢神宮が娘を保護することに決めたということではないのか。その結果、飯豊王は雄略天皇生存中にすでに世にデビューはしたが、雄略帝崩御に蝦夷たちが「時を失うべからず」というのは飯豊王の父なり兄弟なりを天皇として擁立するチャンスだという意味になり、そうなれば飯豊王は蝦夷の利益代表としてより高い地位にあがることにもなる。
繰り返すが意祁王・袁祁王の兄弟は市辺押歯皇子の子ではなく孫か曾孫である(このブログの他の頁でも説明している)。だから両帝兄弟の姉の飯豊王女も、市辺押歯皇子が殺され履中皇統が亡ぼされた時に、女性だからって殺戮をまぬがれたのではなく、生まれてなかったのである。父の久米若子(顕宗天皇とは同名だが地方伝承では別人でその父)か橘王(書紀は誤って兄とするが父か祖父だろう)が逃亡して民間に潜伏中に生まれたのだが、女性なので世に出ても大目にみられ殺されはすまいとみて、雄略天皇の前に現われた。それが雄略天皇が吉野で出会った「常世の乙女」の話なのである。彼女と入れ替わりを演じた春日の袁杼比賣(をどひめ)の名は「蘇生・復活」を意味するがこれは一度ほろんだ履中皇統の復活を示唆してもいるかもしれない(彼女は和邇氏の娘だが、陸奥の飯豊山の物部臣も饒速日系でなく和邇氏で同族なのは前述の通り)。
若い頃の大長谷王(雄略天皇)はただ暴れたかっただけで何も考えておらず、皇位を狙っていたのでもない。まだ子供で殺人衝動を抑えられない大長谷王に「あの人は悪い人だからやっちゃっていいんですよ」と唆した大人がいたはずで、おそらくその黒幕は木菟宿禰かその子の平群真鳥のどっちかだろう。そもそも少年だった大長谷王を天皇に祭り上げて美味い汁を吸おうとした者たちは別として、大長谷王本人としたら押歯王と利害対立や敵対関係があったつもりはない。皇位を望んで暴れてたのでもないのだから、押歯王の子孫がいたなら皇位を譲ることもやぶさかでなかったと思われる。むろんそれは困る連中が山のようにいるから、そういう情報は天皇の耳には入らないように遮断される。雄略天皇とすれば、罪のない押歯王をわけもわからないまま何となく殺してしまったのも、おとなになってから後々えらく後悔しただろう。ただそんなことはインタビューしてみなければわからないし、そんな恐ろしい質問をする命しらずもいない。詳細は不明だがすったもんだで、飯豊王女は皇籍に復帰し、飯豊王女が当主として履中宮家が復興した。そこまではよかったが、皇位継承権のない女性だから許されてるのかも知れず、男子の生き残りがいることを天皇に打ち明けるのはもう少し陛下の大御心を知ってから、と思ってるうちに陛下が崩御してしまった。それで意祁王・袁祁王の兄弟を世に出すチャンスを失ってしまった。しかしそれは履中宮家の関係者だけの内輪話であって、雄略天皇には関係がない。雄略天皇にしたら、押歯王の子孫が見つかったら、男子だろうが女子だろうがそれを優遇するのは当たり前で、押歯王への罪滅ぼしは若い頃からの、長年の懸案だったのだから。二王子は記紀では播磨に潜伏していたことになっているがこれは発見された当時の場所であり、民間伝承では尾張説もあれば紀伊説もあり、あちこち移動してたんだろう。飯豊王は弟たちとは別行動で奥州は飯豊山に潜んでいたということになる。この山は『陸奥国風土記逸文』によるともとは豊田山といっていたのが飯豊王のゆかりでのちに飯豊山となったという。さすれば青森や岩手や福島仲通り地方(田村郡)など、東北各地に残る「飯豊」という地名はすべて彼女の潜伏地だったのではないかw 雄略天皇にすれば人生最大の汚点でもあり長年の懸案だった案件が陸奥から出てきた少女によって解決したのである。陸奥とは雄略天皇にとってそういう土地であり、三重の采女が「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」と詠う時、その短い詩にこもる万感の想いを書き延ばせば、『その地の果てまでも知ろしめす大いなる陛下。その夷(ひな)=辺境の、陛下の知ろしめす土地が、かつて誤って滅ぼしてしまった履中皇統の血筋の、若い世代(雛)を育てていた土地なんですよ。その辺境の、陛下の知ろしめす土地こそが。』となるだろう。ここまで解釈してようやく、雄略天皇が采女を処刑するのをやめた理由が腑に落ちる。

王権の起源は天地創造に由来する
しかしケヤキの葉は下つ枝で止まらず、さらに下に落ちて盃に入ってしまった。采女としてはこの失態を歌の力でメデタイ話に転換しなければならない。下つ枝よりさらに下に落ちたのだから、これをこの詩の喩えでいえば、陸奥国よりさらに東に行ったことになる。陸奥より東といえば一つの考え方では今の北海道を想定することもできるが、ここはそうではなく、福島沖か三陸沖かわからぬがもはや陸地のない大海を漠然とさしているのだと思われる。海ばかりで国がないけど、国が産まれるかもしれないじゃん、と詠っている。
学者は日本神話はツギハギだと堅く信じこんでるので、この歌も「三重の采女の作詞ではなく国生み神話を伝えた海人族の歌だ」なんぞとボケまくったことをいうのだが、歌も聴く側の人々も国生み神話を知らなければ神話を引用する文学的な効果がないだろう。神話は当時の日本人なら山の民でも海の民でも貴族でも百姓でも、みんな同じ神話を聞き知ってるの。中央政府の語部(かたりべ)のおかげでな。出雲人だけの神話だとか日向人だけの神話だとかそんなものはない。最初から、全体で一つの神話なのである。世界規模で共通なのに狭い日本の中で違ってるわけないだろう。だから王権が成り立ってる。現代人は財力と武力があれば国は成り立つと思ってるのかもしれんがそんな貧相な思考で政治やってるから世の中が悪くなるんだよ。
国生み神話のところで以前に説明したが、鹿児島の桜島とか北海道の有珠山とか、最近話題になった「西之島新島」みたいに海底火山の爆発で新しく陸地ができるって例は火山の多い島国日本では昔からちょいちょい観察されたことだろう。神話の「塩こをろこをろ」、この歌の「水(みな)こをろこをろ」も海底火山の爆発の音(水中なのでゴロゴロゴロ…とかゴゴゴゴ…という籠もった音になる)。しかし小さな盃に落ちたたった一枚の葉から、いきなり「水(みな)こをろこをろ」と言ってもすぐには壮大な火山神話を思い出さないかもしれない。だからウキ(盃)に「ウキシ(浮きし)脂」と先に導入部を用意してる。当時でもその場に列席している者の中にもし頭の悪いやつがいたら、「ウキ(盃)にウキシ(浮きし)はわかるが脂(あぶら)ってなんだ?」ってことになりかねないが、続けて「こをろこをろ」とくれば「あ、あの浮きし脂か」と思い出して最初から気づかなかったことに恥じ入るのだろう。誰でもが同じ神話を知ってるからだよ。陛下の御威光は東の辺境、陸奥国に留まるのではない。天照大神が天皇に授けた世界は「土と水」から出来ているのであり、祈年祭の祝詞に「船の舳先が海の彼方に衝突するまで」とあるように、太平洋のはてまで我が帝国の領海なのである。それを忘れるというのは毎年きいてるはずの祈年祭祝詞を忘れるということであり、不敬であるばかりか大恥だろう。
飯豊王女がやってきた陸奥国の話で感動させておいて、天皇の気持ちはしっかり掴んだが、そこで終わっては失態を繕うのに十分でない。すかさず自分の失態を隠すのではなく顕して、ありのままに天地開闢の話にまでもっていく。朝廷に仕える身分高き大神官でもない一回の采女が歌い上げるには、あまりにネタが尊貴にすぎ、普通ならたじろぎそうなところ。だが彼女のドヤ顔が浮かぶ。これでも私を処刑できますか、と。ここで終わると歌としては完成だが、彼女自身が尊大にみえてしまう。そこでシメに「事の語り言、こをば」がつくわけなのだ。これは大国主と須勢理姫の歌合戦にも出てくる。あれは舞台での演者が「古来より伝わる伝説ではこうです」というナレーションみたいなもの。しかしこの歌は三重の采女の作詞なんだから四角四面に考えると「事の語り言、こをば」がつくのはおかしい。だからこの歌は天語歌(あまがたりうた)といって海部(あまべ)に伝承されたもので個人の作詞でないというのだが、文学表現なんだから四角四面に受け取っちゃダメだろう。三重の采女がいってるのは、自分の歌があまりに出来が良すぎるので、自分の手柄にすると高慢にきこえる。だからこの歌が陛下を讃えているのは、私の独創ではなく古来からの神話をお伝えしたまでです、という謙遜であり遁辞なのである。そしてこれもまた一つの正論だから誰も三重の采女を責められない。

「天語歌」は海人の歌ではない
折口信夫の説では、「あまがたり」の「あま」は天のことではなく「海人」のことで、安曇氏とかの海人系が伝えた伝承だって言うんだが、これただのダジャレじゃね? これがひじょうに疑わしい説だということは、山路平四郎という学者の『「あまはせづかひ」私考』という論文に詳しい。ネットでも読めるから検索してみて下さい。

伝承の過程で洗練されたのではない
(※後日に文章を追加予定)

「少女vs大王」の駆け引き
次に采女の歌に和して大后が詠う。この大后は、一説では若日下部王だというのだが、若日下部王は雄略帝よりもずっと高齢だったと推定しているので、雄略帝の晩年にはとっくに薨去していたのではないかと思う。この歌は仁徳天皇の皇后、磐之媛(記:石之比賣)の歌の丸パクリだから、ここでいう大后というのは磐之媛のことだろう。むろんこの時期に生きていたわけではない。原文には「○○が大后石之比賣命の歌を歌った」とあったのに文字が落ちて、「大后が歌った」になってしまったんだろう。じゃ誰が歌ってるのか、それはいうまでもなく「自称・豊受姫」つまり飯豊王女だろう。この宴会は新嘗祭の宴会だが、飯豊王女のお披露目も兼ねていたのだろう。
歌の意味自体は天皇を讃えるだけの凡庸な歌だが、「酒を勧めなさい」と采女を認め励ましている。天皇の気がかわらないうちに采女の処刑を取り止めた天皇を賛美して三重の采女を支援しているともいえる。で、この歌を磐之媛の丸パクリというと語弊があるが似すぎていて少なくとも「本歌取り」だとか「引用がある」って程度にはいわないとならんだろう。飯豊王は三重の采女の「事の語り言、こをば」が気に入って早速自分も使った。これをつけておけばある意味責任のがれもできる。最後に「事の語り言、こをば」をつけることによって、「この歌は磐之媛の歌にソックリだと思ったでしょう、そうなんです、私の歌じゃないんですw」というニュアンスが出せるのだ。では飯豊王はなんで磐之媛の歌(もしくは磐之媛の歌に似せた歌)を歌ってるのか。磐之媛というと仁徳天皇との仲がよくなく、古事記では最後まで皇后のまま生きていてそのため仁徳天皇と八田若郎女は結ばれなかったことになっているが、日本書紀では和解せぬまま薨去して、仁徳天皇は八田若郎女を「のちぞえ」として迎えたことになっている。どっちにしろ古事記をみても書紀をみても八田若郎女をめぐって夫婦喧嘩したまま和解した様子がない。そんな人をわざわざ思い起こさせるような歌は縁起が悪いのではないか? 一つの案としては、雄略天皇が飯豊王を自分の妃の一人にしようと思ってるような様子がチラホラ見えたか、もしくは(古事記の本文には明記がないが)天皇から求婚されたんだろう、それで「私は磐之媛のような女です、仁徳帝といがみあった磐之媛のように陛下とくっつくことは無いッス」という牽制のメッセージを送ったのではないかなw
天皇からの求婚を拒むということはこの時代、心理的にはかなり難しいことだったろう。だが、三重の采女の歌は、聴く者の意識を世界の神話的根源に遡らせる。だからこの後は、人々は本質的なことだけを考えるようになる。くだらない建前がとりはずされ、本心に生きるようになる。普通なら我慢してしまうことを我慢せず、偽りに生きることをやめ、言いたいことを言うようになった。天皇からの求婚を拒むことができたのは三重の采女から勇気をもらったから、という表現もできるかな。
で、天皇がこれに返しての歌は、宴会の参加者たちを群がる鳥たちに喩えて「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしているわい」といってるだけ。普通に考えるとこの酒盛りしてる人々の中には当然天皇自身も入っている。これは凡庸な解釈をすると「我々は酔っ払いだ」といってる、つまり求婚したのは「酒の上での戯言(ざれごと)じゃ」として求婚を撤回した、とこうなる。あと鳥に喩えた理由が二つ。一つは鳥というのは勝手に飛んできて自由に去っていく「自由の象徴」でもある。「女たちよ、宮中に留まるも去るも君らは自由だ」といっている。だから飯豊王を拘束するようなこと(=求婚)はしない、と。二つめは飯豊王の名「イヒトヨ」は古語でフクロウのこと、これも鳥だ。この宴会場にいる者たちは飯豊王と同じ鳥たちであり仲間だと。しかし以上の説はすべて間違いだと思う。凡庸すぎて、いくら齢とって丸くなったとはいえ、あの雄略天皇がこんな平和ボケした歌を詠むはずがない。「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしている」のは、それはそうなんだが、その中に雄略天皇と飯豊王は入ってないのである。この歌には鳥たちとして具体的にウズラ、セキレイ、スズメと3種類でてくる。どれも可愛らしい小鳥だが「微笑ましいなぁ、平和だなぁ」って歌に受け取ってしまったらダメ。それじゃ雄略天皇のキャラ崩壊ってことになるじゃんよw

衆愚どもへの怒りw
よく映像を浮かべてほしい。小鳥たちが遊んでるところにフクロウが入ってきたら? 猛禽類のフクロウは普段からこういう小鳥を捕食してるんじゃなかったっけ? 雄略天皇は飯豊王に「ここに集まってる無能な飲んだくれどもは、お前さんの餌みたいなもんよ」といってるのではないのか? 急に殺伐としてきたなw しかもそう考えてから改めて読むと天皇はこの小鳥たちを単にかわいいといってるのかも疑問だぞ?「ウズラは着飾ってる、セキレイは交尾している(婉曲表現になってはいるが)、スズメは群がり集まっている」と歌ってる。小学館の日本古典文学全集の訳だとスズメのところは群がり集まって餌をついばんでる様子に解釈してるから「食うこと」を象徴している。岩波の古典文学大系だと「難解の句であり明らかでない」としている。目的が明示されず単に集まるという時は、たいてい会議か雑談、世間噺のためだから、後世のスズメの象徴的用法と同じく、群がり集まってどうでもいいウワサ話とか無駄な「おしゃべり」ばかりしている連中という解釈もありだろう。つまりこの3種の鳥はファッションとセックスとグルメ(またはゴシップ)しか興味のない衆愚を象徴しているとも取れる。略してFSG(3つめのGはグルメでもゴシップでも可、両方かねてても可)。『シオン議定書』の3S(セックス・スポーツ・スクリーン)みてぇだなw つかFSGのほうが頭悪そうw 3Sのほうがいくらかマシだぞこれw 雄略天皇は若い頃から大陸式の外来文化が大好きで、帰化人を寵用したし、それまで儒教の可否をめぐって対立していた日本人が儒教を受容することで合意したのもこの天皇の時代だった。中華文明を採り入れて見た目ははなばなしく栄えている日本だが、老境に至ってこんな世の中で良かったのかなって気持ちになっていたのではないか。三重の采女の歌の力で、神話的根源へ遡った意識が大事なことを思い出させてくれたのだ、と言ってもいいかも知れない。
そう、雄略帝は王者としての振る舞いと神としての仕事を思い出したのだ。
吉野の山奥で半裸の野蛮人みたいな、というか、自然児みたいな田舎娘と出会っても、場所が場所だからなんとなくそういうものかなで済んでいたが、都の真ん中、文明の中心たる宮廷につれてきたら、万博で展示される珍獣みたいで、じゃなかった、堕落爛熟して腐臭をはなつ現代文明とは対象的な純粋さに、ちょっといいかなと思っちゃって、「わしの皇后になれば栄耀栄華は思いのままw 天下もくれてやるわw」と悪のラスボスが最終回に主人公にいうセリフみたいなこと言ってるんじゃないのかw まぁこのイベントは実際に雄略天皇崩御の直前ぐらいの出来事だと思われるので実際に最終回っちゃ最終回なんだがね。だからさすがにもう寄る年波には勝てず、本気だったかどうかわからない。自分のキャラに殉じた演技だったのだ。だから「事の語り言、こをば」でシメている。これは舞台上のセリフですよ、超訳すれば悪のラスボスの最終回のセリフですよ、と自分で説明している。飯豊王は奥州の山奥で獰猛精悍な蝦夷(えみし)の男女に囲まれて育ったから、猛禽類のその名の通り、少々野蛮で武闘派な少女だったんだろう。バトルヒロインだなw こういう宮崎アニメみたいなのに現代のオタクはハァハァするのかもしれないが、残念なことに雄略天皇自身の性癖趣味とはぜんぜん一致してない。だから天皇もいまいち本気汁が出てない(ちなみに陛下のご趣味は老婆専門であることはこのブログでも何度か言ってる)。

雄略帝は記では宝算124歳、書紀では62歳、在位23年だが、書紀は奈良時代に神功皇后を卑弥呼の時代に合わせるために年代を引き下げた上、応神朝と仁徳朝の在位年数を長めにとったため、雄略~継体朝あたりがぎちぎちに短縮されている。辻褄あわせで編年を構成したのであってむろん信憑性はない。俺の推定では雄略帝の宝算は99歳が正しい。記は25歳も伸ばされているが、これは在位の26年めをまた元年として数え直した(古代中国で「後元」といったもの)からである。在位年数の通算年数を後元だと誤認すると、通算値を出すため前半の25年を2回足してしまうから宝算99歳が124歳になるわけ。

この3つの歌は「天語歌」(あまがたりうた)というとあるので、折口信夫は海部(あまべ)つまり海人族の伝えた歌だといってるが、海の話って「水(みな)こをろこをろ」の一か所だけ、神話だから壮大すぎて日常風景的な磯の香りがしない。そうじゃなくて、あまりに名作すぎるから人口に膾炙するわけで「例のあの歌」じゃ不便だから名前がつくわけだ。これは三重の采女の歌の「上つ枝は天を覆へり」の「天」と「事の語り事こをば」の「語り」、いちばん面白い部分の始まりと特徴的な繰り返し部分ををくっつけて作った名前だろう。
さて、以上の解釈だと、天皇と飯豊王の歌の掛け合いは完結してないような印象になる。つまり続きがあったのではないかと思いたくなる。しかし飯豊王は田舎育ちで歌が苦手だったんだろう。磐之媛の歌をパクってるだけだし。ちなみに昔の天皇や皇族の歌は語部(かたりべ)のネットワークが健在だった時代にはすぐ全国に広まって流行するから、田舎の娘でも磐之媛の歌は知ってたのだ。あるいは天皇の歌の後、同席していた袁杼比賣(をどひめ)が陛下をお諌めしたか、ヤキモチを焼いてみせたかして、飯豊王に助け舟を出したのかもしれない。だから宴会が解散した後も袁杼比賣だけはは陛下についていた。それが次の歌のやりとり。

哀しみと幸せのラスト
古事記は続いて袁杼比賣(をどひめ)と天皇の歌のやりとりを載せているが、この宴会と同じ日だとわざわざ細かいことを書いてるから、つまりこの宴会の席ではなくて、宴会が終了して解散した後のことだろう。天皇は宴会では威厳を保たなければならないと思ってかあるいは齢のせいかあまり飲んでなかったんだろう。宴会が退けてから袁杼比賣にお酌してもらっていた。そこで天皇が歌った歌は、「お嬢さん、しっかりお酒ついでくれたまえよ」っていうだけの歌なんだが、お酌に不慣れな若い女子をからかってる歌だという説や、「酒壺(ほだり)をしっかり持てよ」というホダリが男性器の隠語で猥褻な歌なんだとかの説もある。この歌は『琴歌譜』にも乗っていて『琴歌譜』は古代の歌謡を集めて琴の奏法が書かれ、近衛家に伝わった貴重な古文書なんだが、それには「一云」(あるいはいふ、一説に曰く)として、この歌はこの時(晩年の宴会)で雄略天皇が歌ったのではなく、雄略帝がまだ皇子で葛城氏を滅ぼした時、葛城氏の娘の韓日女娘(からひめのいらつめ?)が哀しみ傷んで作った歌だという異説が載ってる。韓日女娘は古事記に韓比賣、書紀に韓媛と書き、この乱より以前から大長谷王に嫁がせることにはなっていたらしい。妃となって清寧天皇の母になっているが、この時期(雄略帝の晩年)には韓日賣もすでに薨去していたと思われる。若い頃の大長谷王(=雄略帝)は少年時代から相手が老若男女とわず(老女を除く)ささいなことでホイホイ殺してしまうので怖がって嫁の成り手がいなかったと書紀に書かれている。だから韓媛も本当は大長谷王の妃になりたくはなかったんではないか。でも父が謀反人として成敗され実家が滅亡してしまったので否も応もなかった。『琴歌譜』が引用する異説が正しかったとしたら、この歌は単に歌として切り取れば表面的には楽しげな軽い歌だが、歌われた背景と込みで解釈すると実は哀しみに満ちた歌だとわかる。
雄略天皇は宴会がひけて別室に移り、ようやく酔っても問題ない時間に安心し、袁杼比賣にお酌してもらった。そこで亡き妃を思い出し、自分が若い頃に犯した罪悪を反芻している。それでこの歌を歌っている。むろん謀反人を滅ぼすことは正義の行為で葛城氏のほうが悪だったのだが、当時の大長谷王は正義のために立ち上がったのではなく、ただ暴れたかっただけなのだし、韓媛にも罪はなかった(当時は江戸時代のような血縁連座制という考え方はなく大罪人の子孫も貴族として残っていることが多い)。飯豊王も世が世なら宮廷で生まれ育ったはずなのだが、女ターザンみたいになっちゃったのは大長谷王が葛城氏を滅ぼした後にまだ暴れたりなくて、履中宮家(=押歯王の一家)を皆殺しにしたからなんだよね。女ターザンは無いわ、スマン、スマンw ともかく自分のための罪滅ぼしだけでなく、亡き韓媛への供養だか慰霊だかのためにも、飯豊王を守ってあげたいという気分になっていたのではないか(この当時は供養なんて概念なかったろうが、まぁ慰霊のようなことで)
これに対する袁杼比賣(をどひめ)の歌がまたいい。ただ一緒にいたいというだけのシンプルな歌なんだが。三重の采女の歌ですら原文も訳文もあげてないのに大サービスw

休みしし 我が大君の

朝とには い寄りだたし 夕とには い寄りだたす

脇机
(わきづき)が 下の

板にもが 吾兄
(あせ)


私だけが知ってるプライベートでお休み中の陛下。その陛下が朝となく夕方となく、いつも、もたれかかっているご愛用の脇息(ひじかけ)になりたい、その下のおしりが直接すわってる床(ゆか)にもなりたい、そうしていつも一緒にその脇息(ひじかけ)や床のようにあなたにぴったりくっついていたいのです。愛するあなた。

※詞の区切り方と行かえは昔の角川文庫(武田祐吉バージョン)をもって至高とすw
※脇机(わきづき)ってのは後世でいう「脇息(きょうそく)」のことだが現代では「キョウソク」っていっても何のことだかわからないだろうね。時代劇でよく殿様が肘をおいてる道具で、肘かけ付きの椅子の肘かけの部分だけもってきたみたいなやつ。やや不正確ではあるが「肘かけ」と訳すしかないかな?

この時の雄略帝は、歴史に残る数々の功績もあれば、見苦しい失態や恥もかいてきた、年齢を重ねた男なわけで、周囲のおとなを心配させていた子供時代と違って、まさに現人神(あらひとがみ)と畏れられ、威厳は天下を圧倒してみな平伏する。しかしすでに90歳を軽く越えてw、気づけば周囲は世代の違う若者ばかり(60歳でも帝からみれば若者w)、やみくもに人を殺しまくっていた少年時代の自分を知る者はみな死に絶えてしまった。孤独だったろうな。その深い哀しみなど、袁杼比賣のような小娘にわかるわけがない。いや、わかるのかも知れない。猪口才な言葉であれこれ慰めようとしても人生経験のない小娘の言葉は安っぽくなる、とも限らない。むしろ小童の言葉を神託として畏怖する文化が最後まで残っていたのが日本で、雄略天皇の出発点も「少年王」だったではないか。だがその少年王も今は年老いて、長生きしすぎたために「幼童神」の文化の最後の残影のようになってしまった。儒教によって日本人は理屈をかたりそれによって自意識を作ることを覚えてしまった。「幼童神」はみずから引き入れた中華文明によって死んだのだ。もう古事記も巻末が近い。ここはすでに現代であり、袁杼比賣は神託を語らない。大貴族の娘だから『論語』と『五経』くらいは仕込まれているんで、もう悠久太古の神託をかたる子供にはなれない。だから安っぽい言葉になることを畏れ、余計なことは言わない。文明以降では神話は文学へと崩れてしまうので言葉は経験の裏打ちあってしか深まらない。だから袁杼比賣は余計な言葉は何もなく、ただ一緒に寄り添っていたいとだけ詠う。陛下の哀しみ、代われるなら妾(わらわ)はこのままここにいたい、と。朝もよりかかり夕方もよりかかる愛用の肘かけに、肘をおいて頬づえつく手をかえるだけで、陛下はなんにも話さない。朝夕いっしょに寄り添ってる肘かけのような味方が、一人はいるの、わたしがその肘かけになれればいいのに。麻生圭子作詞、nobody作曲、1988年、浅香唯『セシル』。YOUTUBEから適当に検索どうぞw 今すぐ聴くようにw

袁杼比賣は浅香唯である
聴いた? 聴いたな、よし。1988年は岡田有希子の自殺から2年後、アイドルソングはかつてのイケイケで少々ぶっとび気味な歌詞から一転して、癒やし系・泣かせ系の、応援ソングっていうの?がでてきた。同じ88年には酒井法子の『GUANBARE』(森雪之丞作詞、馬飼野康二作曲)もあったな。その後、アイドル氷河期に突入して、マイナーアイドル(当時はB級アイドルっていってた)全盛期に。不思議なもんで氷河期の地下アイドルすれすれなB級アイドルが「アイドル文化」としては絶頂期だった。いろいろあるんだが今たまたま思い出すのは中嶋美智代、まだいくらかメジャー組だったと思うが91年のデビュー曲『赤い花束』(遠藤京子作詞、羽田一郎作曲)だな。おとなしい曲調の印象深い歌だった。この頃のアイドルの話は無限に続きキリがないのでやめとくとして、浅香唯に話を戻そうw 浅香唯といえば『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』(1987年)の3代目麻宮サキ=風間唯だが、あれもとんでもない田舎娘って設定だったようなw いいよな田舎娘w ちなみに『セシル』の歌詞の中で「苗字で自分を呼び捨てする いつもの私もおとなしい」って部分、「苗字で」だと思ってる人が多い(ほとんどのサイトも間違ってる)が、俺もそう思ってたんだよ。でも正しくは「幼稚で」らしいな。「苗字で」のほうが幼稚にきこえるけどw みんな「苗字」って聞こえてたのは、そのほうが萌えるからだろうw 雄略天皇の時代には苗字なんてまだ無いわけだが、氏名(うぢな)やカバネはあるわけで、袁杼比賣が自分のことを和邇臣(わにのおみ)ってよんでる絵が浮かぶ。これが春日臣(かすがのおみ)では台なしで、演出家がわかってないってことになるw 俺の計算ではこの時袁杼比賣の年齢はどんなに若く見積もって中3か高1ぐらい、これ以下ってことはありえない。90歳こえてる天皇の前で「この和邇臣のお酌をお受けくだされい」(現代語訳)とか言ってたのかね。
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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