(題未定)

H30年7月18日(水)の「古事記に親しむ会」は、佐久間先生の体調の都合で先生お休み。素読だけ。欠史8代のところ。ただし俺は遅刻していったので素読は終わってあれこれみんなで意見を言い合う会になってた。
(※多忙につき内容は後日執筆)
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「海の日」に思う(旧作の再録)

H30・7・16(祝)改稿
今日(H28)7月14日は、今から1371年前の皇極四年(AD645年)、当時の暦では六月十三日。この日、蘇我氏の邸宅が焼け落ちて多くの珍宝が蘇我蝦夷(そがのえみし)とともに焼亡してしまった日。その中で『国記』は船史恵尺(ふねのふびとゑさか)が燃える邸宅の中から救い出して中大兄皇子に提出したが、聖徳太子が編纂したという『天皇記』は焼失。古伝承の多くが失われてしまった。この時から、天智天皇の中に古伝承の復元や国史の編纂事業という考えは当然あったはずで、いってみれば7月14日は記紀編纂の出発点となった日でもある。だからこのブログとしては重要な意味のある日であるが、今回はその話ではなくて、その前日の話。

その前日(つまり今から1371年の昨日)は、前皇極四年(AD645年)六月十二日、中大兄皇子(なかのおほえのみこ:後の天智天皇)が蘇我入鹿(そがのいるか)を誅伐した。この日を現在のグレゴリオ暦に換算すると7月13日になる。この日も、いわば大化の改新の出発点になった日であり、歴史的に実に意義深い日である。で、もうずいぶん古い話だが、かつて他の掲示板に書いたものを再掲示しようと思う。
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旧作の再掲示
今回再掲示するものは平成17年とあるから11年も前のものだが、最後まで読むと下の方にこれは修正バージョンでオリジナル版は2000年だとある。16年前ですね。若気の至りで書いてるところもあるかと思う。誤字脱字や、事実内容の誤り、現在の自分の考えとの相違点などはいちいち修正していません。現在の私の主張というより過去の資料として読んで下さい。まぁ主義主張としては細かいところを除いて現在も大差ないけどなw

以下、再掲示はじめ

http://www.tetsusenkai.net/column/index.cgi?act=artsel&tree=44&art=1119501040
7月16・17・18日の連休に向けて ~「海の日」に思う~
文責:むらさぎ(非会員・外部寄稿)

平成17年6月23日(木) 13:30

(承前)
さて、今回は前回「民族主義と保守思想は両立するか」(http://www.tetsusenkai.net/column/index.cgi?act=artsel&tree=42&art=1119113892)の続きとして「國體」について考えようと思う。ところで、迫る7月18日は今年は「海の日」であるが、かつては毎年7月20日に固定されていた。この日は実は日本史の大事件である大化改新とも縁の深い日なのである。それで「國體」を考えるよすがとして、まずこの「海の日」と大化改新について語ってみたい。

・7月20日(ただし今年は7月18日)は「海の日」
7月20日は、明治九年に明治天皇が奥羽巡幸の帰途、灯台視察船「明治丸」に乗って、横浜港に帰還した日である。これは文明開化の途上にあった日本の海運業が近代化を終えて軌道にのり一段落した記念すべき日だったという。昭和16年以来この日を「海の記念日」とし、途中からは「海の旬間」というタイトルで、海運・造船・港湾などの海事産業や船員ら及びこれら産業に従事する人々について、国民の理解を深めるため全国各地でいろいろな行事が開催されたという。(しかし個人的には私は港町に生まれ育ったのにそういう行事の記憶はほとんどないのだが?「海の記念日」を運動してきた日本財団の宣伝不足だろうか?)その後、平成七年2月に国民の祝日に関する法律が一部改正され、平成八年(1996年)以後7月20日は「海の記念日」から「海の日」と名を変えその主旨も「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日」として、14番目の国民の祝日となった。その年、初の祝日と成った「海の日」は既に「海の記念日」としては第55回目だったことになる。(一方、同日、日本は「国連海洋法条約」を発行した日でもある。この条約は正式には「海洋法に関する国際連合条約」といい、いわゆる「二百海里法」のことである。)

・祝日と休日
ところが平成十三年(2001年)6月15日「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」が成立。この法律は海の日・敬老の日をそれぞれ7月・9月の第3月曜日に変更して三連休化するという悪法である。これにより平成十五年(2003年)から「海の日」は7月の第三月曜日となった。これでいうと本年平成十七年(2005年)の「海の日」は無意味に二日繰り上がって7月18日となる。まあいろんなことがいえると思うが、ひとつ、「祝日=休日」って発想が根本的にまちがってはいるだろうということだ。休日と切り離したとたん国民の共感を得られなくなるような祝日に意味があるのか?ただの大衆迎合ではないのか?おかみから休日だといってもらわないと休めないような会社(または個人)はその段階でだめな会社(または人間)なのだ。休むための言い訳としての祝日すらも、曜日の都合で縁もゆかりもない日付けにずらされてしまう御時世とは…。むしろ日本人は普段は休んでいいから、なにかの記念日にはそれを祝ってはたらけ、といいたい。昔は、いろいろな祝日が連休になるかならないかわくわくしたものだ。昔は土曜が休日ではなかったというせいもあるが。福田存恒がいったように文化とはそもそも不合理で面倒臭いものでありそれゆえにこだわりとして認識もされ日々の引っ掛かりとして味もあるのである。これは無能政治家が一生に一回くらい法案提出してみたくなり見栄はって無い知恵を絞り余計なことをした一例であろう。そもそも記念日とは、その日付にこそ意味がある。「休日」としての便宜しか考えられてないってこと、これはなにかを記念するという営みではない。記念日というのは本来記念するためにあるのであって単に休むことそれ自体が目的ではないはずだ。毎週日曜を休日とすること自体、日本人にとっては歴史的な根拠などないのだからそれに合わせて歴史的背景のある記念日をないがしろにするのは、文化的自己喪失をすすめるだけではないのか。今からでも遅くない、文化破壊の典型ともいうべき天下の悪法を廃止すべきである。休みたい奴は飛び石になったら間に挟まった平日を休め。そうすればさらに休日が増えて結構であろう。

・天智天皇と天武天皇の兄弟の物語
まぁそれはともかく。大化改新の主役はいうまでもなく中大兄皇子・後の天智天皇であり、戦前までは日本史上の英雄として崇敬されたが、戦後は注目されることも少なく、むしろ弟の天武天皇が面白がられているというのが実情である。それもトンデモ説がだったりするから困ったもんだ。天武天皇がはじめてこのジャンルに取り上げられたのは70年代、佐々克明が「新羅からの使臣・金多遂が天武天皇になったのだ」という説を唱えたのが最初だった。これは佐々克明のオリジナルじではなくて、韓国の説をパクッたものだった。じつは戦前以来、新羅王家の先祖が稲飯尊(神武天皇の兄)からでたとか(これは新撰姓氏録にある伝承である)、あるいは駕洛(から)王家の始祖・金首露が塩乗津彦命(孝昭天皇の子孫)だとかの説があったので、それに韓国人が対抗して「天武天皇=新羅人金多遂」などと言い出したのだろう。その後、日本でも、天智天皇は百済王餘豊だとか、天武天皇は高句麗人泉蓋蘇文がその正体だとか、半島から侵入して日本を征服したのだというようなコジツケ説のバリエーションがふえたが、学問的にはすべてとるにたらないものである。
さて、そもそも天武天皇にまつわる謎というのは、年齢が兄の天智天皇より6歳(5歳だったかな)上であること。大和岩雄の説では、天武天皇は異母兄の漢王・漢皇子(あやのみこ・あやおうじ)と同一人物で、天武が異母兄、天智が異母弟だという。この説は反論があって今のところ信憑性は薄い。が、この年齢問題は大昔からおかしいと思われていたことなので中世からそれなりに研究されていて、一応、北畠親房の両天皇双子説で中世の研究では決着がついているとしてよいと思う。まあ現代の論争ではまだいろいろあるが本稿は古代史談義が主目的ではないので省略する。ちなみに6歳上というのは、日本書紀にはなく中世に紛れ込んできた伝承で、これは夭逝した異母兄・漢皇子の年齢が混入したものだろう。
宝女王(後の皇極天皇)は、はじめ高向王に嫁いで漢王(漢皇子)を生んだが後に離婚して、舒明天皇の皇后になり双子の皇子をお生みになった。そこで私の推理は、漢王(漢皇子)は早逝してしまったので、舒明天皇は高向王を哀れに思し召して双子の1人を賜われた。舒明天皇の手許に残された方が中大兄皇子(後の天智天皇)で高向王の養子に出された方が大海人皇子(後の天武天皇)だったのではないだろうか。
同じ双子でありながら大海人皇子の方は皇位継承順位が大幅に下がってしまった。しかも中大兄皇子よりも大海人皇子の方が優秀な人材だったからややこしい。大海人皇子は自分が「影の皇子」であることを強く意識したにちがいなく、大陸渡来の遁甲の術を学んで忍者の元祖にまでなってしまった。
一方、いささか出来が悪いかと思われた中大兄皇子は、途中省略するがいろいろあって、中臣鎌足とのコンビで西暦645年六月十二日(現在の7月13日)蘇我氏を成敗し大化改新の主役として一躍「光の皇子」となり
天命開別尊(あまつみことさきわけのみこと)と讃えられるに至った。(岩波文庫の「あめみことひらかすわけ」という訓は適切でない。これは崩御後の和風諡号ではなく蘇我誅滅の時の尊号。崩御後の和風諡号は持統天皇が最初。)
大海人皇子は葛木当麻倉首や高向臣や倭漢直や凡海連などを通じて蘇我氏本家と間接的につながっていたので、一般の廷臣たち同様クーデターの計画は知らされていなかったと思われる。
大海人皇子は血筋からいえば中大兄皇子に次ぐ皇位継承者であったのに、これ以後、両者の立場の差は決定的なものとなったが、中大兄皇子・中臣鎌足のコンビの側も知恵者であり実力者である大海人皇子を人材としてかっていた。
六月十九日(現在の7月20日・平成十四年までの「海の日」)は新政府の人事発表があり群臣を集めて盟約を結び「大化」と年号を建てた日だが、日本書紀のこの日の記事には大海人皇子の名はない。が、クーデターにかんでない以上おおっぴらには優遇できないにしても影の参謀あるいは耳目手足として頼りにはしており、ゆえにその時の群臣のひとりとして列席はしていた。
ところが白村江の合戦で、全軍の大将軍だった大海人皇子は惨敗を喫して帰国。もちろん責任問題は生じたはずだが、権力の座にある中大兄皇子にしても今失脚されては困る人材だったため、かばったのである。(白村江遠征軍の総大将はなぜか日本書紀には登場せず氏名不詳だが、前後の事情から判断してこの時期に所在不明の大海人皇子であった可能性が高い。)
白村江の直後、遠征軍は全滅したものの、軍を立て直して整然と退却するだけの余裕はあり、また国内にも強大な大軍団が残っており、プライドを傷つけられた倭国の世論は意気盛んだったと思わるが、ただ唐の実力はそれを上回るかも知れないと危惧するのは大海人皇子や、ごく一部の知識人だけ。この時、唐側に、あわよくば九州ぐらいは奪い取ろうという気分がなかったとはいえない。(実際に九州は唐に併合されたという説もあるが、今のところ珍説の域を出ず、学界では通用していないようだ。)幸い、唐は新羅と対立関係に入ったため、倭国と関係修復せざる得なくなったが、これをチャンスにして新羅とも関係を改善し、新羅に援助し、盾となってもらうという策を考え出しその目的のため裏で糸を引いていたのは、何を隠そう大海人皇子だったであろう。(大海人皇子の周りには親新羅派の人脈が多い)。当時は唐=新羅への反発が大きかったので、この政策は支持が得られにくいものだったろうが、危険をはらんだ微妙な時期の外交戦は切れ者である大海人皇子の采配にまかされていたのだろう。
天智天皇は病気で最期をさとると、この時期は知恵者の大海人皇子に皇位を譲って国難を乗り切ってもらうしかないとも考え始めていた。皇太子・大友皇子のとりまきの蘇我赤兄・中臣金らの5大夫らは、それは困るので大友皇子をそそのかし大海人皇子を排除すべく画策したので、大友皇子は優秀な人物だったことは歴史に徴証があるのだが、さすがに若かったのでついに5大夫らにだまされ、大海人皇子を疑うに至り、壬申の乱に至る。大友皇子の遺児たちは西国ではなくなぜかわざわざ大海人皇子の勢力基盤である東国に落ちのびたがこれは裏事情を知る大海人皇子が彼らを守り匿ったのだと解釈せざるを得ない。
大海人皇子は即位してから国号を「日本」と変更した。日本書紀の天武十二年には明記がないが諸説を検討すると「倭国」から「日本国」に改名したのは西暦683年とする説がよいようである。国号改定は、シナからみれば別の国になったという意味になり、唐と戦った倭国はもう滅ぼして存在しないよ、という外交上の雰囲気作りだったのかも知れない。もっとも国内においては「倭」と書いても「日本」と書いても同じく「やまと」と訓読していたわけで何も変わるものではないが。天武天皇の新政府は、信長政権を継いだ秀吉政権みたいなもので、まったく天智天皇の計画(律令国家建設)を継承するもので、新機軸というべきものはない。しかも壬申の乱は、利権や保身にこだわって改革に乗り気でない旧勢力を一掃する機会となり、天智天皇の改革路線は大きく前進することとなった。記紀の編纂事業も、もともと天武天皇の発案ではなく焼け落ちた蘇我邸から「國記」が取り出されて以降、中大兄皇子が推進していたものであり、日本書紀の編纂委員長は舎人親王なので父(天武帝)を顕彰すべく、天武天皇の落ち度や、天智天皇の功績はほかにもいろいろ隠されているところがある。

・大化改新の歴史的意義
大化改新から壬申の乱までの一連の事件は日本史を画するもので、その前後で日本は大きく生まれ変わった。これに匹敵する事件は明治維新しかない。
それは、倭国というのは、多民族を包含する海洋帝国(国内的には分散的な氏族社会)だったが、半島を失って制海権もなく島国に閉じ込められ、閉鎖的な集権的な律令社会=内陸国家へ移行してしまった。(そもそも律令国家は内陸国家であるシナの文明を輸入したもの。)
この事件はまた封建時代の始まりといってもいい。ゲルマン氏族社会にローマ法学の諸制度(ローマ帝国の枠組み)がかぶさって西欧中世封建社会ができたのと同じく、倭人氏族社会に律令制(シナ帝国の枠組み)がかぶさって荘園や武士が発達した。
遣唐使を廃止した平安朝は太宰府で管理貿易して半ば鎖国のようなものだったが、本来海洋民族としての日本人のパワーはとめることができなかった。庶民は新羅系海賊の影響もあり徐々に海賊化して自由にやるようになった。(これは海賊大将軍藤原純友の乱の背景であり西洋のバイキングの活動と時期的に重なる。)それがやがて室町時代の大内家・細川家という2大海洋帝国になる。これを継いだ本願寺・大友・三好・毛利・島津、そしてそれらを統一した織田・豊臣・徳川も、鎖国以前は強大な海軍をもち、活発な海外貿易をし、また周知のように東南アジア各地に日本人街が存在した。
惜しむらくは江戸幕府の鎖国政策により、海外発展は大幅後退を余儀なくされ、閉鎖的内陸国家的な律令社会の建前は公式観念として温存されてしまったまま明治に至った。頓挫してしまった海外雄飛は開国まで先延ばしになり、日本は欧米列強のはるか後塵を拝するはめに陥った。
こうしてみると大化改新と明治維新は日本史上の単なる二大事件ではなく、相呼応するものであることがわかると思う。これらの日本国家の大変化は、大化改新に発するもので、その立役者は中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)のコンビであって、表立った歴史の流れを大観すると、大海人皇子は単なる継承者というか脇役の感がある。が、オカルト的な興味からは、天文遁甲の達人で国家デザインにもその趣味を存分に活かした天武天皇の方が『ムー』的に面白いってことがあるので、今流行の古代史ファン向けの通俗本では天武天皇の方が主役とした歴史観が出回っている。いわんや逆賊蘇我を悲劇の主役として同情的に描いたり、天武天皇を英雄視する一方で天智天皇を陰謀好きの策謀家に仕立てるヨタ本までが古代史マニアの世界には存在する。トンデモ本や通俗書に目くじらたてるのもどうかとも思うが、國史・國體の観点からはやはり嘆かわしいといわざるを得ない。
さて唐が半島から手を引いて国難が去ると晩年の天武天皇は自分の役割が終わった後も皇位に留まり続けることに悩み鬱々として世を去った。その天武統も称徳天皇で断絶し、光仁天皇から天智統にもどっている。これは大化改新での天智天皇の功績があまりに大きく後々までもその子孫が尊重されていたからである。
そして現在の日本人のほとんどは苗字からいえば源氏、平氏、藤原氏の子孫である。皇室・源氏・平家の三者はすべて桓武天皇から以降次々に別れでたものであり、その桓武天皇は天智天皇の男系の曾孫で、藤原氏はすべて中臣鎌足の子孫。つまり律令国家日本を創設した大化改新の立役者コンビの子孫がそのまま現在の日本国民になっているのである。
大化元年の建元の日は前にいったように六月十九日で、これは現在の暦でいうと7月20日、本来の「海の日」に当たる。これは海を失った日本が内陸国家として再出発した日だったのだがそれが「海の日」とはなんたる皮肉であろう。いや、皮肉ではない。明治以降の日本は、天智天皇と中臣鎌足の子孫として、千年ぶりに、再び「海」をとりもどそうと帝国への道をすすんでいる。「海の日」は海洋帝国再建を御先祖様に誓う日であるべきなのだ。
天智天皇は近江神宮に祀られている。天智天皇は蘇我氏によって滅びかけた日本国家の再建者であり、神武天皇や明治天皇とならび尊崇すべき中興の英主であるとともに、実に日本民族の大祖先なのである。きたる7月16・17・18日の三連休には、近江神宮までは行けないまでも、ただ休みただ遊ぶのではなく、友人との酒の席にあるいはデートのついで・家族サービスのついでに、祖国日本について語らってもよいのではないだろうか。たとえ友人のいないひとりぽっちの人間であってもこのサイトのコラムを読もうというほどの者なら、その体に先祖から継いだ悠遠なる大和魂を分かち合っているはず。近江神宮へ向かってともに遥拝し、日本人としての自覚を新たにしようではないか。
次回は本題に戻って「國體」という言葉そのものからその真義に迫ってみようと思う。(続く)

(本稿は別名で2000年12月9日に日猶板(現存せず。廃墟はhttp://fboard2.jp.cgiserver.net/CrazyWWWBoard.cgi?db=nitiyuura)の新裏板(現存せず)に投稿したものを主に、2002年7月31日に日本論・思想の十字架(http://ueno.cool.ne.jp/mad2001/?)の掲示板(通称寅板)に投稿したものを加え、若干リライトしたものである)

以上、再掲示おわり
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氏姓(うじかばね)制度

H30年6月28日(木)改稿
いつの会で配布されたのか記憶がないが「いわゆる氏姓(うじかばね)制度」と題されたものが1枚、それと「氏族名解説の内からかばねについて」と題されたものが1枚。どちらもコピー資料で計2枚ある。前者は手打ちでPCから打ち出したものに天武朝の「八色の姓」の解説を手書き文字で追加したもの、後者は三浦佑之『口語訳古事記』からの抜粋コピー。(初稿H26年11月4日(火))
急に話かわるけど、このコピーのほうは、なんで三浦佑之の本からのコピーなんだろう。佐久間先生がご自分でコピーしたのかな? 三浦佑之についていうと、明治大学の講演ききに行ったことがあるんだが、胡散臭い団塊左翼かと思った。古代人に対して「低脳で哀れな未開人」という上からの視線で見下したような表現が言葉の端々にちょいちょい出てくるんだよ。岩波や朝日あたりの進歩的文化人かオマエは、とつっこみたくなるが、実際そっちの文化圏の人なんだよねw こういう御先祖様に敬意ないやつの論文なんてどうせ学匪まるだしな左翼論文だろうと思うから読まないw 彼は平成14年にいきなり『口語訳古事記』で売れ出したけど、ちらっと立ち読みしたが、なんじゃこの本はw 反天皇主義に満ちた左翼仕様じゃねぇかw まぁAmazonレビューでこのへんはちゃんと指摘してる人が何人かいるし、ネット時代の良いところだな。なぜバカ売れしたのかは、今となっては左翼出版界のゴリ押しだったとしか思えない。実は若い層はそんなに買ってないと思われる。この手の講演会ってマスコミの宣伝に弱そうな団塊世代とか爺婆しか来てないもん。三浦の訳は格別ひどい例だけど、三浦のみならず、基本的に口語訳でいいと思った本をみたことが無い。訳してる本人の解釈が強烈に反映されるので、本当に素の古伝承を受け伝えるのとは違っちゃうんだよね(比較的マシなのは角川文庫版の後半に付録でついてる口語訳。これは中立的な印象がある)。古事記を本当に知りたい人は三浦の駄本なんか買ってないで、もとい、口語訳で満足してないで、佐久間靖之先生の「古事記に親しむ会」に参加して素読しないとダメだと思うね。
(※この記事は未完、書きかけ中です)

臣(使主)



君(公)
カバネとしてのキミは「君」とも「公」とも書かれる。AD712年にできた『古事記』では古態を保存するため「君」のみで「公」は使わない。古くは「君」の字を使ったのである。
君姓(きみカバネ)の者でもAD684年の「八色の姓」の新制以降は「真人(まひと)」姓を与えられた者と与えられず「君」姓に留まった者に分かれた。AD720年の『日本書紀』では息長系氏族(応神天皇皇子稚渟毛二派王の子孫から別れでた諸氏族、及び同じくその皇子の子孫である継体天皇以降に別れでた諸氏族)については「公」を用い、仲哀天皇以前にわかれた氏族と、稚渟毛二派王以外の応神帝皇子から出た氏族には「君」を用いる(仁徳天皇から武烈天皇までの間に分かれでた氏族は安康天皇の子孫と称する孔王部首氏のみ)。『日本書紀』のこの使い分けは後に「真人」姓を与えられた者の先祖については新しく「公」の字で表記し、そうでもない者には旧来通り「君」の字を用いたものである。従って、「公」姓の氏族はすべて「真人」姓になっているわけだから、この段階ではリアルタイムで「公」の字で称したことのある氏族はかつて一度も存在したことがなく、実際には「真人」と「君」に分かれていた。
『続日本紀』によると天平寶字三年(AD759)十月に「天下の諸姓には君の字が著しい。公の字を以て換えよ」と命令が出て、ここで真人から漏れていた君姓の氏族はすべて「公」の字に統一されることになった。
そのはずであったがAD815年にできた『新撰姓氏録』をみると多くは「公」の字に改まっているものの、弱小な氏族ばかりではあるがまだいくつか「君」の字で書かれる氏族が残っている。ただし規則性がみつからず、使い分けがあったわけではなさそう。単なる誤記としてはやや数が多すぎるようにも思えるので、慣習的な表記に従っただけかと思われる。つまり公式には「公」の字で統一すべしとされたが、一部は旧式の表記のままであった。それはAD759年以降は本来は違法なはずであったが、放任・黙認され続け、AD815年の段階では事実上公認されてしまったとみる他ない。一部の氏族が旧来の表記に拘った理由は憶測やこじつけでよければいくつか考えられないこともないが基本的に不明であるというしかない。

別(和気)
「別」という言葉は白日別、豊日別というように『古事記』上巻の国生み島生みの神話に出てくる、土地そのものを神格化した神の名としてでてくる。つまりワケという言葉はなにか「土地に密着」した言葉だということはわかる。つまり「その土地に土着したものがワケ」なのであろう。が、地方にあまくだった連中はみんな土着したことにかわりないのでは? というツッコミもあろう。これは程度の問題なのであるが当然そこには線引きがある。地方に所領をえても必ずしも現地に定住するのでなく、本人は中央にいて代官を派遣してるだけということもあれば、現地と中央を往来している場合もあり、これらは土着とはいえない(初期の毛野氏などがこの例)。また現地の女性を嫁にとって継嗣の男子を産ませてるうちは、これも土着したとはいえない。よそ者に、あるいは新しくあまくだってくる新領主に、「この土地の女」として自家の娘を差し出せるようになって初めて土着したといえるわけだろう。ちなみに、ワケというカバネは選号でなく加号でもありうる。従って「君」であり同時に「別」だったりってことや、「臣」であり同時に「別」だったり、ってことや「直」であり同時に「別」だったり、ってことがありうる。たとえば倭建命の王子、建貝児王は「宮首之別」氏の祖とあるのを先代旧事本紀では「宮道君」とあり、また別の王子、足鏡別王が「鎌倉之別」「小津石代之別」「漁田之別」の3氏の祖とあるが、これが先代旧事本紀ではそれぞれ「竃口君」「尾津君」「揮田君」とあり、どれも「別」が「君」になってるが通説では同じ氏族の別名だと考えられている。これらの氏族は「君」でもあり「別」でもあった。



造(国造・伴造)


県主
稲置(稲寸)

村主

阿毘古(我孫)

宿禰(足尼)




カバネの歴史

最古層
君・臣・神・民

第二層
連・県主・村主・使主・神主・宮主・道主

第三層
首・史・伎・椋人

六色の姓:允恭朝

二姓の追加:雄略朝

八色の姓:天武朝
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うんこ大研究(改)

H30年6月27日(水)改稿
H30年6月20日(水)の「古事記に親しむ会」には間に合わず、解散後の皆に合流したら南口の「ぶたいちろう」って店に行くっていうのでついていった。前回、わたし休んだ時も皆でこの店に来たらしい。皆から聞いたところでは今日やったとこはp.136からp.140まで、<伊須気余理比売>の章。
ウンコに秘められたる大いなる謎
初代皇后様を紹介するのに、矢が流れてきて観音様を突いたって話だけでも「えっw」ってなるのに、その直前に唐突にトイレ内で大便しているシーンが出てくるってのが凄いな。日本書紀以上の、比ぶるもの無き、いとも尊き至高の神典にして「民族の大宝典」(by津田左右吉)たる神聖『古事記』に大便だよ! たまたま今日(6/20)の「古事記に親しむ会」は間に合わなかったんだけど、後で聞いた話から推測すると、皆あいかわらず神妙にこれ読んで、何事もなかったような顔で取り澄ましてたっぽい。なんだかなぁ。なんの驚きもなんの疑問の声もないって、おかしんじゃないのか? 俺がおかしいの? こういうことは触れちゃいけないの? しかも古事記の原資料になった語部(かたりべ)の伝承は、猿女(さるめ)という宮廷の巫女、つまり女性たちによって担われたという説も有力だが、女性の方が男性より汚物への拒否感が強いだろうに、なんて思うのはジェンダー差別でフェミのおねぇちゃんに叱られるんだろうか。あるいは時代差で性差を埋めることができるかどうか、古代人の排泄物や排泄行為に対する感覚は現代人とは違うんだというならそれでもいいが、それならどこがどう違うのか具体的に説明してくれや。糞便に霊威を感じていたから排泄行為は神事と同じく慎んで行うべきことだった、という説とか、どうなんかねぇ。それなりにもっともらしくもあるが、なんともいえない。一方、時代や性別が違っても、人間の感性にはかわらないと思われる部分もある。例えば、幼児ってウンコだのシッコだのって話が大好きだろう、そっちに話がいくとはしゃいじゃって笑いが止まらなくなることがある。これは男児でも女児でも古代でも現代でもかわらないんじゃないか? おとなでもウンコがどうのってタイトルをみれば、なにか笑わせにきてる記事なんだろうと察知するわけで、この記事を読んでるあんただって「ウンコ大研究」ってタイトルに惹かれて読んでしまったんじゃないの? 古今東西「笑い」には魔除けの効果(お祓いの効果)があるとされてる。糞便自体に魔除けの作用があるから喜ばれるのか、糞便の穢れを祓うために本能的に笑うのか、そこらはわからないが…。

うんこの本質的議論は可能なのか?
古事記でウンコが出てくる記事というと、伊邪那美命(いざなみのみこと)の排泄物から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘賣神(はにやすひこのかみ・はにやすひめのかみ)が生まれたという神話、天岩戸の事件で須佐男命が自分の排泄物を撒き散らしたという神話、この神武天皇の皇后伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)の母の件、あとは崇神天皇の時、建波爾安王(たけはにやすのみこ)の反乱軍が敗残して逃亡する時にウンコを漏らしたので屎褌(くそばかま)といったのが訛って久須婆(くすば)になったという地名起源譚(今の枚方市楠葉、ただし今の読み方はクズハ)、神功皇后の時の大祓(おほはらへ)の項目の一つに屎戸(くそへ)というのが出てくる。これで5件しかない。このうち須佐之男命の乱行に出てくるウンコは天津罪(あまつつみ)の話でまさに神功皇后の大祓に出てくる屎戸と同じことだから実質4件しかなく、地名起源譚はダジャレで説明するこじつけ話でウンコそのものの本質とは関係なかろうから、それ引くと3件しかない。これだけから古代人の排泄物(または排泄行為)への考え方を体系的に論じることは難しそうだが。天津罪について論じればこれだけで長大な議論になってしまうのでここで詳細を語ることはできないが、結論だけいうと屎戸をクソトと読んで呪術にむすびつける説は否定される他、排泄物に対する古代人特有のなにかを引き出すような分析結果はない。伊邪那美命は人間ではなく大地母神なので、大地からの排泄物は人間の排泄物とは物理的に違うものなので同一視できない。結局この話は、この話単体で考えるしかない。

大物主か事代主か
そういうわけで一旦ウンコの話は離れて考察しよう(ウンコの話にはのちほど戻ります)。
大物主が化けた矢が流れてきたんだから、姫がうんこしてたこの川は、三輪山のそばを流れてる川だと誰しも思い込みがちだろう。普通に地図から考えると三輪山の南の裾野を流れる大和川か、北の裾野を流れる纏向川とか。maxresdefault.jpg
しかし古事記では神武天皇のお后(きさき)比賣多々良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)が大物主神の子で、三嶋湟咋(みしまのみぞくひ)の娘、勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)が皇后の母だということになっている。矢につつかれたのは結婚前だろうから、親の三嶋湟咋のところで暮らしてたはず。この三嶋というのは律令時代の河内国三島郡のことというのが通説で今の大阪府茨木市・摂津市・吹田市・高槻市の一帯のこと。茨木市には溝咋神社(みぞくいじんじゃ)ってのがあって神武天皇の皇后と皇后の母が主祭神になってる。大昔のことだからここがその一家が住んでた場所だとは限らないが、大雑把な目安にすると、この神社のすぐ横に安威川(あいがわ)という一級河川が流れている。aigawadum.jpgこの川だろうw まぁカレーでも食ってくれw 安威川カレーじゃなくて安威川の景色については適当に画像検索してみて下さい。いい写真いっぱいありすぎて選べなくてさw 下流の方はもう昔の面影ないが、中流・上流の田舎の風景はいかにも厠(かわや)が似合いそうな写真いくつもあったよw
とはいっても、後述するように、通常想像されてるような厠とは限らない。通常いわれている大昔の厠についても適当に検索してみてくだされ。想像図もあれば考古学上の復元図もある。水洗の原理としては平城京の厠が近いんだろうが、あれは常時靴を履いてる役人が使う厠なので、今回の厠とはいくらか違っていると思われる(詳しくは後述)。下の写真は、秋葉原の万世橋トイレ、川の上にあるからまさに現代の「厠」(かわや)ではあるまいか。俺は昔のオタなので秋葉原にはよくいったもんだ、懐かしい。今でもちょいちょい行ってるけどな。中野はもっと行ったけどなw 最近は秋葉原いくっていっても末広町の「魔術堂」か「秋葉原制作所」か昌平橋の「江戸遊」ぐらいなもんよ。town20151020154304.jpg
話を戻して、日本書紀では、神武天皇巻と神代巻とでそれぞれちょっと違った話が出ており、神武天皇巻では皇后になった媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の母は三嶋溝橛耳神の娘で玉櫛媛(たまくしひめ)、父は事代主神となっており、一方、神代巻では大三輪神(要するに大物主)の子が姫蹈鞴五十鈴姫だという話と、異説として母が三嶋溝樴姫、別名が玉櫛姫、父は事代主神ともいう。母の名前の相違などは別名ってことで済ましてもいいのだろうが、説話としては全然ちがっており、書紀の神代巻では事代主神は八尋熊鰐(やひろのわに)になって玉櫛姫のもとに通ったとはあるものの、古事記のような矢に化けたとかその矢が川に浮かんで流れてきたとかの話は全然ないし、まして「姫のトイレ中に…」なんて話もカケラも出てこない。ただ父の名からして場所は三島の溝咋神社のあたりと推定できるってことは古事記とかわらない。川は安威川だろうw
実は書紀によると第二代綏靖天皇の皇后五十鈴依媛も事代主神の娘で(媛蹈鞴五十鈴媛の妹)、綏靖天皇は叔母と結婚したことになっている。古事記では師木県主(しきのあがたぬし)の祖、川俣毘賣(かはまたひめ)だが、書紀の異説でも磯城県主の娘、川派媛となっていて古事記と同じ。これからすると「事代主神=磯城県主」ということになる。磯城県(師木県)というのは後世には式上郡と式下郡にわかれたところで奈良盆地の東南部のかなり広いところ。県主(あがたぬし)は今でいえば県知事とか市長みたいなものだからこれは肩書で、固有名詞ではない。県主という役職にいたんだからこの場合の事代主は神ではなくて普通の人間の名前だろう。神武天皇が即位した時、弟磯城(おとしき)名は黒速(くろはや)を磯城県主に任命したとある。これがもし本当なら、理屈からいって事代主は弟磯城と同一人物で、弟磯城も事代主も本名でなく、本名は黒速ということになる。第三代安寧天皇の皇后は、古事記では師木県主波延(はえ、河俣毘賣の兄)の娘の阿久斗比賣(あくとひめ)。書紀では事代主神の孫で鴨王の娘、渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)。書紀の異伝では磯城県主葉江の娘の川津媛(かはつひめ)、父の名は古事記と同じ「ハエ」(波延=葉江)で、鴨王と同一人物だろう。鴨王の読みはカモノキミでもカモノミコでも違和感が強いから「鴨主」(かもぬし)か「鴨玉」(かもたま)の誤記で、県主ハエと同一人物であり、磯城の県主の地位を継いでいたんだろう。
大物主神が「蛇」としての現身(うつしみ)をあらわすことがあるという信仰があったように、当時の信仰としては事代主神も「鰐」としての姿をもっていた。だから普通の人間のはずの「県主」の事代主が、八尋熊鰐になって姫のもとに通ったなんて話になっちゃったわけは、人名の事代主が神話上の神々の一柱である事代主神と混同されたから、と考えるのが穏当だが、もちろん両者は何の関係もないのに偶然名前が同じというのではなく、実際に磯城県主の家は代々事代主神の子孫だと信じられていたのだろう。後世の資料では磯城県主を饒速日命の子孫つまり物部氏だとされていることが多いが、これは入り聟のような形で途中から物部系に入れ替わってしまったからで、磯城県主の家系には新旧2系統ある。その旧の方の県主だが、磯城県というのは後世の磯城郡(式上郡・式下郡)とほぼ同一地域だろうに、出雲の神である事代主を名乗るのはどういうわけか。磯城の中には三輪山も含まれ、磯城県の中心地と目される「志貴御県坐神社」(しきのみあがたにますじんじゃ)は大神神社(三輪大社)のすぐそばにあるので、むしろ古事記のように大物主神の方が良さげではないか。
そこで考えるに綏靖天皇の皇后、川俣毘賣と同名の河俣神社というのが橿原市の雲梯町(うなでちょう)にある。延喜式内社で古くは「高市御県御坐鴨事代主神社」(たかいちのみあがたにいますかもことしろぬしじんじゃ)といった。
ここは磯城県ではなく高市県(律令時代の高市郡)だから、師木県主(磯城県主)だって話が実は高市県主の間違いだったならすんなり解けるんだが、そうもいかない。高市県主は通説では天津日子根神の子孫で、磯城県主とは別系統になっているからだ。だが、詳しい議論してる暇がないので結論だけいうと、天津日子根神の子孫という氏族は多いがすべて女系を名乗ってるのであって男系は開化天皇の子孫だと思われる。だから神武天皇の頃はまだ高市県主というのは無いはずだ。律令以前の大和六県の時代、奈良盆地の南部は、東の磯城県、西の葛城県(後世の葛上郡・葛下郡)、中央の高市県にわかれていただろうが、さらに古くは高市県は北の「宇奈提」と南の「飛鳥」にわかれていたんじゃないだろうか。なぜかというに磯城県の三輪山と高市県の河俣神社は、『出雲国造神賀詞』(いづものくにのみやつこのかみよごと)にでてくる都を囲む東西南北4つの神名備のうちの2つに該当しており、東の大物主が三輪山、北の事代主神の神座が「宇奈提」(うなで)で現在の橿原市雲梯町つまり河俣神社の住所。西は葛木(葛城)の鴨、ここがが阿遅須伎高孫根命、南は飛鳥で賀夜奈流美命。このうち三輪山を中心とする東部が磯城県で、西の葛城が葛城県だが、東西が離れてる割りに南北は狭いので北の「宇奈提」と南の「飛鳥」は一緒にされて中央の「高市県」になっている。だから高市県ができる前の、さらに古い時代には文字表記は不明だが「ウナデ県」とか「アスカ県」があったのではないか。宇奈提県とか飛鳥県というのは歴史に残ってないが『新撰姓氏録』には「飛鳥直」(あすかのあたへ)という氏族がいて天事代主神の子孫だというから、飛鳥直氏が飛鳥県主の子孫である可能性は高いと思われる(飛鳥坐神社の現在の社家、飛鳥氏は大神朝臣(つまり三輪氏)とも飛鳥直ともいうが後世の創作系図かもしれずここでは触れない)。4つの神名備のうち3つは事代主神の子孫とされた磯城県主の一族が祝(はふり)を務めたのだろうが、本家は断絶して物部系になってしまって、後に大物主神の子という三輪氏が起こって三輪山の祭祀をするようになり、高市県が置かれては開化天皇系の高市県主が宇奈提の事代主神を祀るようになり、古い磯城県主の子孫は飛鳥直だけになってしまったんだろう。
事代主神は大国主神(=大物主神)の子なので、大物主の子孫も事代主の子孫も意味は同じになる。ただし伝承で大物主神の子という時には父なくして生まれた不思議な出生譚をいっており、これは三輪氏の祖先の意富多々泥古(おほたたねこ)の出生譚であり、ここでいう県主たちの家系の話とは関係がない。旧の磯城県主の一族は事代主神の子孫ではあっても、異常出生神話はともなっておらず、単に祖先の神名を県主が名乗っていただけだった。それが時代がくだって三輪山の祭祀者が三輪氏になってから、伝承が混乱したのである。

この話は原典になかった竄入である
そういうわけで、神武天皇の皇后の母が大物主神の子を妊んで産んだという話は、後世の誤伝であり、事実は事代主という名の人間(磯城県主)が父親だった。
書紀の神武天皇巻ではそういう不思議な出生譚はぜんぜん一言も書かれてない。他にも荒唐無稽な話は平気で載せているのだから、非合理な御伽噺だから切り捨てたという解釈はできない。書紀の神代巻でも本文(正文)ではなく一書第六という異説の中でしかも「又曰く」という引用で二重に信憑性の低い説という扱いになっている。古事記は本文で書かれているが、古事記ではクソという言葉は前の方で書いたように全部で5件の話があるのにそのうち4件は必ず「屎」の字を使ってる。しかしこの勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)の話だけはなぜか「大便」と書いてる。つまり原資料の系統が違うのだ。この説話はもともとの古事記になかった部分で、太安万侶は書いていない。稗田阿礼が真正の古伝承かどうか疑わしいとしてボツにした話で、誰か後世の人が竄入したか、参考までに注釈として付加されていたのを、伝写の誤りで本文に誤入したんだろう。

類型説話のリスト
むろん後世の作り話であって史実ではなかったとしても、神話学的な観点から考察する意味もないわけでもない。

(1)勢夜陀多良比賣の話と同系類似の説話には
(1')書紀の皇后の母は事代主神だという説、
(2)『山城国風土記』の玉依姫と別雷神の話、
(2')『秦氏本系帳』の松尾大社の話、
(3)崇神天皇の時の意富多々泥古(おほたたねこ)の話、
(4)日本書紀の百襲媛(ももそひめ)の話(箸墓伝説)、
(5)天の日矛の話、
(6)古事記中巻末の春山秋山の兄弟神の話、がある。

男神の化身である矢が川を下ってくるのは(2)(2')と共通、男神の象徴としての矢は(6)、大物主神が女性と交わるのは(3)(4)と共通。だが(2)では川遊び、(2')では川で洗濯をしていたら矢が流れてきたので拾って帰ったというだけで、排泄をしていたのではないし、もってきた矢を家に置いていただけで自然に妊娠したことになっており、観音様を突かれたという直截な表現も(1)(5)だけ。配偶神は(2)では火雷神(ほのいかづちのかみ)、(2')は松尾大明神(大山咋神?)、(5)は太陽、(6)は春山霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)、生まれた子は(1)(1')は娘で皇后になる、(2)(2')は男児だが昇天してしまってその子孫は無し、(3)は男児でその子孫は三輪氏、(4)は妊娠せず、(5)は女神の阿加流比賣神(あかるひめ)、(6)では不明。

説話の比較と分析
矢は丹塗矢(にぬりや)つまり赤く塗った矢ということになってるが、これは雷を表わす。神話での象徴としては、日本でも海外でも雷は天上の火で、火はまた蛇でもある。(2)では火雷神となっている。ところが大物主神の現身が蛇だという話があっため、それで矢の正体が実は大物主神だったという形で結びつく。しかし本当は蛇ならなんでも火や雷に関係あるのかというと古い神話ではそうじゃない。大物主の蛇は火や雷とは関係がなかったんだが、時代が下がるといろいろ混同されてくる。(2)の火雷神は「雷=天上の火」をいってるが、これは(6)の太陽が古い形で、阿加流比賣神の母は観音様に日光が差し込んで阿加流比賣神を生んだ。大物主神とするのはあとから別系統の神話がくっつけられたので一番新しい。そもそも矢は空を飛ぶもので川を流れてくるっておかしいだろう。神の矢なら飛んで来ればいいのだ。もちろん(3)の意富多々泥古は大物主神の子なのだがこの話には矢も川も出てこない。もともと関係ない別の話だったのだ。なんで川を流れてくるのかというと、川ってのは水源が山の中にあって、河口は海に注ぐ(例外的に湖沼ってこともあるが)。山の中には先祖の霊たちが住んでる異界があると信じられていて民俗学で「山中異界」という。だから最近まで墓地というのは山に作るものだった(現在まちなかに墓地があるのは住宅地が広がったため)。死んだ人の魂は山に帰って先祖と一緒に暮らす。逆に、生まれてくる赤ん坊の魂はそこから流れてきて母胎に宿る。だから子供が、自分がどこから生まれたのか親に聞くと、昔の親は川で拾ってきたと答えたわけよ。桃太郎がどんぶらこ流れてきたってのもこの信仰の変形。しかしその流れてくるものが「矢」だというのは後世の創作であって古伝承じゃないよ。だから(2)(2')は記紀には載ってない。川から流れてくるのは普通の人間の赤ん坊の魂で、そこらの一般人の誕生にすぎず、神の現れとか神の誕生とかを語ってるはずなのに「川から流れてきて」なんて言ってるのは、もう古い神話が崩れてしまって民話になりかかってる状態。(3)(4)では大物主神が女性のもとに通うけれども、矢になんか変身したりはしてない。これが古い形。しかしもちろん(2)(2')にも古い要素はあり、雷ってのは神の示現ともされたが、そこに現れる神とは人間じゃないから天に昇るわけ。川から流れてくるってのは取って付けで、この神話は雷(神の矢)が落ちて天神が現れるってところに意義がある。だから(2)(2')の玉依姫は上賀茂神社の御阿礼神事(みあれしんじ)の阿礼乙女(あれをとめ)のことだというのが通説だが、御阿礼神事は山での祭儀であって川は関係ない。
このように(1)はいろいろ混ざったり変形したりして出来てる。

「よりリアルな表現」が編集方針
(1')~(6)では性行為を遠回しに表現してるのを(1)では矢が観音様を突いたというように、よりわかりやすく表現というかリアルな表現に一歩近づけてるわけだが、それは理解できるとしても、大便をしていたという設定に必要性があったのか。当時の女性は立ちションしてたので、大便じゃないと水面を流れてくる矢が届かないってことか? しかし大便でも厠の床は水面より上にあるはずだから、矢はトビウオみたいに水面からジャンプしたはずだろう。水面からジャンプできるんなら、立ちションだったとしても問題なかったように思われる。そうするとやはりこの矢にはそんなジャンプ力など無くて、下半身が水中にあったのではないか。(2)では川遊び、(3)では洗濯だったわけで、これらはもしや下半身が水中にある状態を表わしてるのかもしれない。そう考えるとよりリアルに表現しようという方針の下では大便に変更された理由も自然とわかってくる。ただ突っ立ってるだけだと観音様が下を向いてしまうため、流れてくる矢に当たるには下半身が水中にあるだけではなく、腰を曲げて尻を川上に向けるか、もしくはしゃがんだ状態で川上に向いてないといけない。川遊びや洗濯では腰を曲げようがしゃがもうが必ずしもそういう向きにならないが、大便でしゃがむ時は必ず川上を向くだろう、なぜかといえば川上に向いてないと、後ろから何か危ないものや汚いものが流れてくるのに気づかなかったりする虞れがあるからだ。「前向いてたのに矢には気づかなかったのかよ」と言われてしまいそうだが、それは気づかなかったんだなぁ。神の矢だからなw すごい速さで流れてきてあっというまに突かれてしまったか、直前まで人間の目に見えなかったかしたんだろう。神の矢だから速いだの見えないだのいうのなら最初から水面からジャンプできるって設定でもいいだろうとも言われそうだ。それも確かにその通りで、人情としてはまぁごもっともではあるが、神様の内輪の都合までは人智の及ぶところにあらず。家で飼われてる犬や猫が飼い主の勤め先の会社の都合を理解できないのと似たようなことなので、説明しろと無茶を言うでない。で、矢は水面を浮かんでくるので、下半身が深すぎてもいけないし、逆に水面より上に出てしまってもいけない。そうすると厠の床は実は水面下で足は水に浸かった状態にあり、しゃがんだ時の尻の位置の上下によって、観音様及び肛門の位置を水面より上にも下にもできたんだろう。ちょい昔ならこういう想像は滑稽で現実性なく、アホかといわれかねなかったが、現代ではウォッシュレットが普及しているので逆になるほどと実感しやすい。つまりこれが最も原始的なウォッシュレットであり合理的な推定である。ウォッシュレットだってすぐ慣れちゃったけどこれが世に出て初めて見た時は「水が噴き出して肛門あらうのかよw」となんとなく滑稽な感じだったろw(ものごころつく前にすでにウォッシュレットがあった若者世代を除く) むろん、そんな大昔から日本にはウォッシュレットがあった!…っていう話でもない。今でも南アジア~東南アジアでは紙じゃなくて水で処置している。日本も古層文化は太平洋・東南アジアの文化と共通しているというのは通説だが、こういうところでもそういう一面が垣間見られるってことだろう。あと、「厠の床が水面下だと足は水浸しになるだろ」というかもしれないが、大昔の日本は裸足が普通で履物という文化は無かった。足の皮が厚くなって裸足の生活に慣れると履物という文化がバカバカしくなるので、上流階級でも特別な正装をする時しか履物は使わず、オフタイムは庶民と同じ裸足だったと思われる。裸足文化では帰宅のたびに頻繁に足を洗ってるので、排泄のために足を洗うはめになるのはむしろ合理的なことであって面倒でもなんでもない。現代人がトイレのたびに手を洗ってるのと同じこと。

結論
つまり、勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)がウンコしてたって話は、川から流れくだってきた矢が観音様に命中するって情況を作り出すための設定以上のなにかではないだろう。深い意味は無い。
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(題未定)

(※書きかけなので後日にアップします)
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毎月、浅草橋でやってる佐久間先生の「古事記に親しむ会」の常連参加者です。

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