皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・前編

…というのは嘘ですが、そう思いながら読めばこの記事の内容にブチ切れそうな時も多少はなごむかも知れません♥
序章
日本書紀は神武天皇の即位をBC660年に当たる辛酉の年に設定している。明治時代、那珂通世(なかみちよ)は、これは讖緯説によって計算されたのだという説を唱えた。この説は、推古九年(AD601年)の辛酉年を逆算起点として1260年遡った辛酉年を日本開国の年としたのである、という説。以上の那珂通世の説を「神武元年讖緯逆算説」と仮名する。
那珂通世の説のバリエーションとしては、岡田英弘の説がある。讖緯説では1260年を1蔀という単位で呼ぶ(蔀の読みは「ぼう」)のだが、彼は、1蔀は1260年ではなく1320年だとしてAD663の白村江の敗戦(=百済滅亡)を逆算起点とし(ただしこの年は甲子年ではなく1年前の癸亥年)、一蔀を溯った甲子年(神武四年)に最も近い辛酉年を神武元年としたのだという説を唱える。
「神武元年讖緯逆算説」は現在のところ定説化しており、「だから紀元前660年というのはデタラメであり、神武天皇はいなかったんだ」もしくは「神武天皇はずっと時代が後の人なんだ」という不敬なヨタ話が古代史マニアを中心に広まっておる。嘆かわしい!w 嘆かわしいよな、おまえもウヨならw 今年は皇紀2678年じゃなかったのかよ!?w え、どうなのそこんとこ、ってことになる。保守派の間抜けさん方は「伝統だから史実でなくてもいいんだ、キリストだって西暦元年に生まれてないじゃんよ」なんてブサヨに輪をかけた屁理屈いってるが、そんな御託は特高警察の前でいえっつのw 特高警察もうないけどw キリスト教原理主義者に通用するかってのw 当然、大日本帝国臣民としては國史の尊厳を守護し、國體を護持せんがため、那珂通世の説の方こそむしろデタラメであることを断固訴えていかねばなるまいてw
【1】讖緯説の概要
讖緯説とは、シナにおいて、国家の興亡を予言する理論をいう。迷信の一種。詳しい議論をする前に、基礎知識として「讖緯説とは何か」ということについて以下の述べていく。ちょっとややこしくて面倒に思われるかもしれないが、これがわからないと話にならないので、しばらくつきあってちょうだい。
【2】経と緯
もともとは機織りの用語で、「経(けい)」は縦糸、「緯(ゐ)」は横糸。紙が発明される以前の書物は、縦に細長い木簡や竹簡を左右に並べてその上端と下端をそれぞれ紐で結んだことから、縦糸を意味する「経」の字が書物の意味をもったともいい、縦糸のイメージからまっすぐの筋道(倫理規準)の意味になったともいう。儒教の経典を「経書」「○○経」などとよぶのはこれに由来する。
これに対し、前漢の末頃から、経書のこじつけ解釈による予言書が捏造されるようになり、これを「緯書」といった。これはオモテの教典である「経」に対してウラ(秘密)の予言書という意味で「緯」の字を使っている。讖緯の「緯」はこれのこと。七経(『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』『孝経』)に対してそれぞれ何種類もの緯書が作られ、これを七緯(しちい)と総称する(例えば「詩緯」にもいろいろな書物があってそれらを総称して「詩緯」という。同じように「書緯」「礼緯」も特定の書の名ではなく分類名である)。孔子の作というが前漢末の偽作である。隋代までに続々と作られた。
『三国志』で有名な荀彧(荀或)の従兄にあたる荀悦(148年 - 209年)の著『申鑑』五篇の中の一つ『俗嫌』に「世に称す、緯書は仲尼の作なりと」とあるが、これが緯書という名辞の出典としては初出(現代まで残っている中では最古の例)である。ただしこの文は後述の荀爽(荀彧(荀或)と荀悦の叔父)の「緯書はホントは前漢の末頃に捏造されたもの」という説を紹介した文章の中からの引用である。
ちなみに古代中国の天文学・占星術において、十二辰(黄道上の12星座)を「十二経」、七曜(1週間のことではなくて日月5星)を「七緯」とよぶこともある。
【3】讖と緯
讖(しん)と緯(ゐ)は厳密な定義からは別のものである。讖とは未来を予言することであり、未来記や予言書の類を「讖記」などという。これに対し、狭義の緯書は上述の通り経書の注釈書の一種である。しかし、現在残っているのは逸文や断片的なものであるが、讖記も緯書も、神話や伝説、迷信、占星術や暦注占法、風水地理、五行説など、神秘学的な未来予知に関するあらゆる要素から成っていたことがわかる。が、後述のように日本のものは五行説による干支の解釈と数字の処理だけでできている。いずれにしろ、中国では、讖も緯も要するに同内容であり、両者の違いは経書へのコジツケが有るか無いかという形式的なことにすぎない。このことから「讖緯」と一纏めにして呼ばれる。「讖緯の説」「讖緯思想」「図讖」(としん)などともいう。
【4】中国における讖緯説の歴史
前漢末から隆盛し、後漢では建国の祖たる光武帝本人を含め貴族(政治家)や学者(知識人)まで広く信奉され、大流行したので「内学」とまで呼ばれた。当時は緯書が孔子の述作であると広く信じられており、後漢末の人、鄭玄(じょうげん:AD127年 - 200年)は、儒教経典のほとんどに注釈をつけた有名な大学者であるが、彼もまた讖緯五行の説を信じ、すべての解釈にこれを混じえるという有り様であった。
しかし少数派ながら讖緯説を否定する者らもいた。後漢の建国されるや王充(AD27年 - 100年頃?)あり、彼はその名著『論衡』において緯書を非合理で民衆を惑わす「虚妄の言・神怪の書」と激しく罵倒。次いで、後漢の盛期には張衡(AD78年 - 139年)あり、彼は予言がもたらす社会的弊害を述べ立て大衆が讖緯に取り憑かれていることを慨嘆、その禁圧を奏請した。もっとも張衡は正統な伝統にのっとった占星術や易断などを否定していたわけではなく非正統で異端の邪説を否定したものである。最後に、後漢の滅びんとするや荀爽(AD128年 - 190年)あり、この人は三国志で有名な荀彧(荀或)の叔父だが、その著『弁讖』で緯書を孔子の述作とする通説を否定し前漢末に作られたものと論断。以上のうち張衡は「図讖は哀帝の際に成る」と明言しており前漢末だとする荀爽の説と一致する。哀帝という皇帝は、権勢を振るっていた王莽を逼塞させていた名君だったが25歳で早逝。王莽に暗殺されたんだろう。この期間、王莽は取り巻きに命じて「符命」(天命のしるしとなる瑞祥の類)や「讖文」(王莽が天子になるとの予言)の類をせっせと量産していたことは歴史に明らかな傍証がある。
この後も讖緯説の人気は衰えなかったが、もてはやしたのは後漢王朝だけで、西晋の武帝(司馬炎)、五胡十六国の秦王符堅、南朝宋の孝武帝、梁の武帝、隋の文帝など、国家を脅かす危険思想として何度も禁令を出した。隋の煬帝は、讖緯を奉じる学者は死刑に処する等、厳しく禁圧し、讖緯に関する書物を焚書したため、緯書は散逸した。その上、唐になって『五経正義』(七世紀半ば頃)が出ると正統な儒教の立場からは異端の邪説とされ、継承した学派も存在しない。明清になって、諸書に引用された逸文から復元が試みられるようになり、逸文の集成が何種類も出ており中には30巻以上にもなるものもある。
【5】日本での受容と情況
(5-1)日本伝来の時期
明治時代の那珂通世(なかみちよ)は、『周書』百済伝に「百済の俗は(…前略…)陰陽五行を解し(…中略…)卜筮占相の術を解す(…後略…)」とあることから、讖緯説が百済に入ってきていたとするが、陰陽五行は漢字文化に付きものであり、卜筮占相の術は世界のどこにもあり、なんら奇異なことではない。この文章が讖緯説の存在の証明になるというのは飛躍ではないか。むろん無かったとの証明にもならないが。
ついで那珂通世は欽明天皇十四年に百済から易博士・卜書が奉献され、推古天皇の時に遁甲・方術の書が貢納されて、天武天皇に至っては本人みずから天文遁甲をよくした、後に陰陽道おこって律令時代には陰陽寮ができたのだから革命革令などの運数の術もあったはず、とここも浅薄な飛躍ですましている。この文章のどこからも「革命革令などの運数の術もあったはず」という結論は出てこない。那珂通世の主張を文献史料はなんら裏付けていないのだが、那珂通世は「易」「卜」「占」「陰陽」「五行」等の文字をみただけで味噌も糞も讖緯説だと即断してしまう。彼は讖緯説と易の区別もついてないし、讖緯説とたんなる陰陽五行説の区別もついていない。また千年に及ぶような長大な年数を扱う周期論が何種類も存在したことは『後漢書』その他から知れてることであって、今さら改めて強調しても那珂通世の説をなんら補強しない。否定もしないが。
ただ、岩波版日本書紀の注釈に「遁甲・方術」が同レベルのものを併記したかのように読めるのは問題で、考課令の記述や現代の奇門遁甲の類から推定すると、遁甲は方術(占い)の一種であり、この文は「遁甲と方術」ではなく「遁甲をはじめとする方術の類」と解釈すべきだろう。そして現代の奇門遁甲の類から推定すると、今ここで問題にしている「長大な運数の術」は遁甲ではなくそれ以外の方術に含まれそうだとはいえる。
那珂通世は聖徳太子の頃にはすでに讖緯の書の類がその手元にあったろうというのだが、緯書についての研究論述も多く讖緯説の第一人者と目される安居香山は、「中国で禁圧され、つまり中国でも手に入らないような書物が、おおっぴらにせよわざわざこっそりにせよ交易物資として百済や日本に流通したとは考えにくい」として批判している。しかし、物資のやりとりをする通常の貿易ではなく、亡命者や移民が自ら持ちだしてくる場合は、安居香山の想定は適用できない。また、三善清行(みよしきよつら)以前のある段階で入ってきたことは事実であり、7世紀半ばすぎると悪評が固定してしまうので、それ以前でないと不自然とすると、やはり南北朝期から隋唐初期にかけての帰化が運んできたとみるほかなく、文献の記述で時期を絞れば推古朝とならざるを得ない。
しかし那珂通世が聖徳太子云々をいったわけは彼が1260年説に固執したため結果的に聖徳太子が…と言わざるを得なくなっただけで、聖徳太子それ自体から導かれたわけではない。聖徳太子は『天皇記』という歴史書(?)の編纂を手がけていたが、それが『日本書紀』のような編年体で神武元年からことごとく毎年の年次を記したものだったと決めつけることはできない。『天皇記』なるものは、『古事記』序文に記自身の素材となったという「帝皇日継」「帝紀」「先紀」という名であらわれるものと類似のものとみる説があるが、とすれば『天皇記』もまた紀でなく記に近いものだったのではないか。なら、讖緯説が出てくる余地がなくなって那珂通世の説は崩壊する。聖徳太子には自分の編纂する歴史書に、偽ってまで年月日をいちいち記入しなければならない動機がない。彼の構想したものは『古事記』のような素朴なものだった可能性もある。実際、天武天皇のお声がかりで『古事記』ができているのだからなにも不思議はない。水戸藩士の青山延于が編纂した『皇朝史略』は『大日本史』を節略したものであるが、上代の部分は当然に『日本書紀』を根本とした内容になっている。なのに、わざわざ日本書紀の年月日を信憑性がないからとはずして推古十二年以前は『古事記』の書き方に直してあり、推古十二年から年月日を付している。聖徳太子もこのやりかたでなんら不都合なかったろう。
もっとも推古十二年以前に暦制がなかったわけではない。それは『古事記』でも崩年干支月日がある通り。ただ歴史的事件の記録は語部の台本の他は、「乙巳の変」の時の蘇我邸炎上のため焼失し、断片的な資料しか残らなかった。聖徳太子はその前の時代なので、歴史書を編纂しようとしたらもっと資料に恵まれていたろう。
上述の通り、讖緯説は推古朝に入ってきた可能性が高いが、聖徳太子はそれを歴史の捏造に転用しようとはしなかった。聖徳太子にはそうすべき動機がなかった。神武元年をBC660年と算定した者がいることは確かだが、それは聖徳太子ではなかった。
(5-2)「三善清行」以前の情況
推古朝に伝来した讖緯説は、遁甲方術の一部として、しばらくの間は担当の者の任務として保管的・官僚的に伝承され、流行りも廃れもしなかったと思われる。
天武天皇が天文遁甲に関心をもったが、言葉の上ではその中には讖緯説は含まれない。が、紀がふれないだけで讖緯説にも重大な関心をもったに相違なく、天武天皇には様々な瑞祥や五行説による縁起かつぎの癖がみられる。しかし、五行まみれのこの天武帝ですら、千年規模の長大な運数の術を用いた形跡がない。天武天皇の段階では神武元年はすでにBC660年と確定していて変更ができなかった。1260年説や1320年説は天武天皇にとって都合がよろしくないので、もしこの段階で神武元年が確定しておらず、天武天皇が讖緯説で自由に設定したのだとしたら、絶対に1260年説や1320年説ではなくまったく別の讖緯説を使ったろう。
遁甲の術や讖緯説のような高度に体系だったものでなく、干支や五行にかんする素朴な迷信の類があったことがわかる記録は、奈良時代にもちらほら見える。一例をあげると(そしてこれは最古の例でもある)養老五年の詔に「世の諺に『申年に事故あり』という、去年は庚申年だったから水害と旱が多かった」とある。が、これだけの断片で詳細は不明。内容が具体化するのは平安時代、三善清行(みよしきよつら)の意見封事からである。
(5-3)革命勘文おまけながら、上文を解説するに、これは五行説とはまったく関係がない。また庚申といっても後世の「庚申待ち」や「庚申購」の思想とも関係はない。そもそも「庚申信仰」それ自体が五行説に基づいて発生したのではない。
養老四年が「庚」申年なのは偶然でここでは文脈上の意味はなく、ただ「申」年であった(これも偶然だが)ことをいっているにすぎない。「気候の乱れは天子の不徳が原因で起こる」という儒教の考えに基づくと、この文は天皇の不徳を指摘することになってしまうので、ここは「天皇のせいではなく申年だったからで、しかたがないんだ」という趣旨なのである。では本当に申年に事故が多いという諺があったのかというと、それも疑問。わざわざ「世間の諺に曰く」等とつけるのは不審で、実際にそんな諺なり理論なりがあるのなら、ただ「申年だったから水害と旱が多かった」と簡潔にいうだけで同時代の人に十分通じたはず。この時代、申年で重大な事故といえばまっさきに浮かんだであろうことば「壬申の乱」だろう。あれは天武天皇が意図的に起こしたのではなく申年だったから起きたのであって事故のようなもの、というニュアンスを漂わしている。この時期はまた天武系の皇室の時代で、天智統に皇位が帰っていないので、天武帝には非はないという建前が堅持されており、国家的悲劇たる大乱の原因は自動的にそれ以外の何かのせいになる。「世の諺に『申年に事故あり』」と言われれば、当時の人は誰も反対できない。有無をいわせず強制的に同意させるレトリックなのである。
AD901年、醍醐天皇に三善清行が献納した『革命勘文』(本来は「請改元応天道之状」と題する「意見封事」、原文は『群書類従』第貮拾六輯雜部に所収)に『易緯』『詩緯』からの引用と称する文がある。これが本当なら緯書の逸文が断片的に残ったことになる。その一部を以下に掲げる。あとあとの謎解きに関係してくるので、念入りに読んでよくよく理解しておいてちょうだい。
この文章だが「易緯に付された鄭玄(じょうげん)による注」のいうところが問題の一蔀循環説である。「詩緯」のほうは有名な「三革説」の出典である。しかし「易緯」も「詩緯」も特定の書の題名ではなくそれぞれ何種類もある書物の分類名である。それを特定の書物のタイトルであるかのように使っている。原文:
「易緯云、辛酉爲革命、甲子爲革令。
鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲爲一元。四六二六交相乗、七元有三變、三七相乗、廿一元爲一蔀、合千三百廿年。
(中略)詩緯云、十周參聚、氣生神明。戊午革運、辛酉革命、甲子革政(後略)」
読み下だし:
「易緯」に云く、辛酉を革命とし、甲子を革命とす。
(「易緯」の)鄭玄(の注に)曰く、天道遠からず、三五にして反(かへ)り、六甲を一元とす(1甲=10年、1元=60年)。四六(240年)二六(120年)交はり相乗じ(ここまで360年周期説)、七元に三変あり(420年間に3回の事変が起こるという第2の説)、三七相乗じ(=21元)、二十一元を一蔀となし、合わせて千三百二十年(第3の説)。
(中略)「詩緯」に云く、十周(1周=36年、10周=360年。これは前述の240年と120年の組み合わせを説明するためのもので360年は一つの王朝の寿命でもある)を參聚(10周×3=1080年。3聚は3基、3推ともいう)して、氣、神明(新たに天命を受ける聖人)を生ず。戊午革運、辛酉革命、甲子革政(後略)注釈:
21元が1蔀なのだから1260年でなければならないのに1320年とはっきり書かれている。「22元のはずを誤って21元と書いてしまったのだ」と解釈することできない。直前に「三七相乗じ」とあるように第2の説の「七元に三変」を引いているのであって「3×7=21」をいってるのだから、ここは22でなくて21が正しい。1260年説と1320年説、どちらをとるにせよ、後段では「十周參聚」として1080年説をいっている。これは第1の説の360年周期説の話の続きだから、第3の説を無視した流れになっている。1260年か1320年かという問題はあくまで第3の説の中だけでの話で、第1説・第2説とは関係がない。ちなみに鄭玄注のうち、第2の説までは他書にも同文があるが、第3の説は日本独自。
(5-4)清行引用の讖緯説の起源
讖緯説の発生時期については概略の項で述べた通り「前漢の末」であるが、讖緯説の中でも特に「鄭玄の注」を典拠とする一蔀循環説がどの時点で発生したのかは判然としない。理論上は早くても前漢の末であり、後漢末の鄭玄(じょうげん)の注が初出であるとすれば、遅くてもこの頃にできたか、もしくは後述の岡田英弘説のように「鄭玄自身の創作」ということになる。
(5-5)日本での受容情況
日本では、格別弾圧されたわけでもなく、室町時代までは讖緯説に基づいた言説や讖緯の書からの引用と称する文章が時々あった。南北朝の頃には孔子の作ではなく前漢末期の偽作だとして非難する知識人がいたが例外的な存在だろう。その後は、やはり散逸、隠滅して消えていった。そのため日本の讖緯説は、三革説と一蔀循環説ぐらいしかわからないのだが、これらは中国の讖緯説にはまったく存在せず不審に思われていたことが平安末期の『台記』(藤原頼長の日記)の康治三年(AD1144年)条や鎌倉末期の元応三年(AD1321年)の中原諸緖の勘奏にある。五行説と数理上の処理だけで成り立っており、前述のような「神話や伝説、迷信、占星術や暦注占法、風水地理」などの豊富な史料を含む支那の讖緯説とはやや趣きも異なる。そのため、後述のように三革説にしろ一蔀循環説にしろ日本独自のものであってそもそも中国由来のものではないのではないかという疑いがある。
【6】「三革説」とは何か
三革説とは、上記の通り『革命勘文』に引用された「詩緯」を典拠とする説で、戊午革運・辛酉革命・甲子革政(=甲子革令)をいう。これらの干支は、月や日や時間でなく、「年」の干支である。戊午の年には革運、辛酉の年には革命、甲子の年には革政が起こり、この7年間は(60年サイクル末尾の6年と最初の1年)、60年に一度の変わり目であるとの説。『革命勘文』の原文は上記の通り簡素で「辛酉だとどうして革命になるのか」の説明がない。三善清行が前年の昌泰三年(AD901年)に提出した意見封事(「預論革命議」)ではあれこれ理屈めいたことをいってるが釈然としない。それを超訳すると「来年の2月は革命(大事件が起こる)年です、謀叛が起こるのは240年周期と120年周期で420年間に3回で、中国の歴史では黄帝から唐まで、日本でも神武天皇から天智天皇まで、ピタリとこの通りになっておりますから来年の事変に備えて御用意下さい、変革の際には必ず武力を行使し悪を誅殺するものです、革命というのは、64卦の「革」の卦は下が「離」で上が「兌」の組み合わせですが、五行説でいうと「離」は「火」で「兌」は「金」を意味し、上なる金属は下なる火熱によって変形する(革まる)、だから火と金の組み合わせは上下が害しあう(つか下が上を害する)というわけです」と。64卦の「革」の説明にはなっているが、なぜ辛酉が革命なのかの説明は一切ない。にもかかわらず「来年は革命だ」と、いけしゃーしゃーと大予言を披露している。(が、後述の通りこの予言は実は醍醐天皇と藤原時平がわざといわせていることなので当たるに決まっていた)
辛酉革命については、唐の王肇が著した『開元暦紀経』に「辛酉為金、戊午為火。火歳革運、金歳革命。尤協革卦之躰」と簡便な説明になっていて、これが初出または典拠という。といっても、上記の「預論革命議」と比べていくらかマシではあるにせよ、後述する通り、さほど釈然とする説明にはなってない。王肇という名は中国人の名前としてはありふれたもので特に問題はないが、イザヤ・ペンダサンや一橋文哉と同じくダジャレもじりの匿名にも思える(イザヤ・ペンダサンは「イザや、ペン出さん(さぁペンを出そう)」、一橋文哉(いちはしふみや)は「一ツ橋グループ(小学館や集英社等)のブン屋(新聞記者)」、峠洞之介先生(とうげほらのすけせんせい)は「洞ヶ峠をきめこむ」のもじり)。肇は「肇国」の肇、「王肇」で王家の始まりの意。この『開元暦紀経』の引用は『天暦御記』応和四年(AD964年)条が初出で、この年は甲子年だった。で、なんて書いてあるかというと「詩説(詩緯のことか?)によれば今年は(甲子だから)革命にあたるが開元暦紀経によると(甲子は革令であって)革命でない。この両説は一致せず同じでない。なので一概に今年は革令とも言いがたい」というような趣旨を数術家が上申したという話。このとおり『開元暦紀経』というタイトルが出てくるだけで直接に文章の引用はない。そうではなく「文面の引用」があるのはやや時代が下がって承暦四年(AD1080年)の大江匡房の勘奏が初出。応和四年にすでに該当の文面があったと仮定しても、いずれにしろそれより古い時代にはみられない、むろん原書も散逸して日本にも中国にも存在していない。清行の時代にあったならなぜこの簡便な説明を引用せず「革」の卦の説明で誤魔化してるのか。答えは簡単で『開元暦紀経』が清行晩年の創作で、AD901年の段階ではまだ理論はできてなかったのだろう。
古来から現代まで干支にこじつけられた五行説に基づいた解釈があれこれいわれている。例えば、戊午は「火性」の午が中心(戊は土性で方位では中央に該当)に来るから炎上する、辛酉は過酷さを意味する「金性」が重なり辛は陰なので人心が冷酷で破壊的な世の中になる等。しかし金は西にずれるので戊申や己酉のほうが酷くないと戊午の説明と比べておかしくないか? 辛酉のように同性が重なるほうが酷いなら戊午よりも丙午や丁巳のほうがもっと炎上するはずだが?(実際にその理屈で後世に丙午の迷信が生まれた) これらはすべて五行説では割り切れておらず、後付けの屁理屈でしかない。そしてこれらの起こりは中国ではなく三善清行からすべて始まっている。ただし辛酉の前年の庚申も悪い年とされ陰陽道からくる庚申塔の信仰が残るが、これは清行とは関係なく中国からきている。甲子や甲寅を1サイクルの始めとするのも清行とは無関係で中国のもの。甲子革政は甲子革令ともいう(『革命勘文』の全文の中では甲子について革政が1回、革令が3回)。『革命勘文』の全文から察するに、「革運」は革命の予兆として政治情勢の変化をいい、「革命」は必ずしも政権交代などを意味せずなんらかの意味で政権が刷新されること(やや御都合主義に感じるが)、「革政」と「革令」は革命後の新政府が新しい政治制度・政令を発布するというような流れ。この「革政」と「革令」はまったく同じ意味で使われている。一説には革運や革命を含めた三つを総称して「三革令」ともいう、との説があるが『革命勘文』の中には三つの総称として革令というような言い方は無い。
【7】「一蔀循環説」とは何か
(7-1)一蔀説の基本説明
一蔀循環説とは、上記の通り『革命勘文』に引用された「『易緯』に付された鄭玄(じょうげん)による注」を典拠とする説で、そのいうところは「1甲」(10年間)を6つ合わせて「1元」(干支60年の一巡りのこと)というのだが、21元を1蔀とし、1蔀は1320年であるといっている。このサイクルで天下が一変するような国家(王朝)の大興亡が起きるという説。「蔀」の字は「ぼう」と読む。ただし内容は三つの周期を示している。240年+120年で計360年の周期、420年ごとの区切りのそれぞれの中に3回の変事が起こるとの説、そして420年(=7元)を3周した1320年の周期である。ただし420年を3周すると1260年のはずで、60年多すぎる。その理由は後述。
(7-2)二十二元か、二十一元か
1運60年✕21元では1260年であって、1320年には60年つまり1元たりない。室町時代に絶世の大学者とされた一条兼良は、元と蔀は計算起点の干支が違うのだという典拠不明な理由によって、1蔀は1320年なのだが蔀と元は計算起点が1年ずれているため1蔀の末年は22元の末年より前であって(つまり満22元に達しておらず)まだ21元めの内なのだという説を唱えたが、むりやり辻褄を合わせようとしたもので問題外。そこで、1320年というのは単なる計算間違いで1260年が正しいとする説と、二十一元というのは表現の問題で1320年が正しいとする説とに分かれている。
1260年説は明治時代の那珂通世(なかみちよ)である。1320年説には、古い時代のものと戦後の説があり、戦後でた説では起点の最初の一元(前回の周期の最後の一元)を加えるという説と次回新周期の最初の一元を加えるという説があるがなぜ加える必要があるのか意味不明。どっちもわかったようなわからないような有耶無耶な説明で取るに足らない。1320年説で最も古いのは、まず引用している本人の三善清行の説で、彼は神武天皇の辛酉年や甲子年にあった事柄から歴代の事件を経て天智天皇にふれ「神武元年から斉明七年まで1蔀1320年に相当する、次の天智天皇元年(正しくは称制元年)が新たな1蔀の初めだ」とわざわざ書いているので、彼の念頭にあったのは明らかに1320年サイクルでしかありえないが、かといって1260年説を否定するような具体的な理論を展開しているわけでもない。戦後の岡田英弘も1320年説だが彼も清行と同じく、1260年否定説を具体的に展開しているわけではなくただ問答無用に1320年が正しいと独り善がりをいってるにすぎない。
鄭玄の注の中にすでに1320年という数字がはっきりと明示されている。その一方で、本文に説明されている(つまり讖緯説それ自体の)数字のメカニズムからはどう弄っても1320年という数値は絶対に出て来ようがないのも確か。つまりこれは「どちらか一方が正しくもう一方が誤り」と単純に断定するだけではどうしても解決不可能な矛盾が残ってしまうのである。これをむりやり合理的に解釈しようとしたらコジツケ以外の方法があるのか? 那珂通世の1260年説は長らく学界の通説となっているが最近は岡田英弘のおかげで1320年説も有力にみえる。しかしながら、三善清行と一条兼良と那珂通世と岡田英弘、このうち誰がより正確に讖緯説を理解しているのか。全員に共通している誤解は「この讖緯説には論理が一貫してるはずだ」という思い込みではないのか?
(7-3)起点は無いのか184年なのか
起点となる年はわからない。というか特に無い。讖緯説それ自体には具体的に「この年が」という指定がされてない。神武天皇即位の辛酉年をこの讖緯説のサイクルの起点にするのは三善清行が『革命勘文』の中で自分の発想を開陳している文であって、あたり前だが、引用されている鄭玄の説ではない。ずっと昔の(漢代の)中国人が親切にもはるか後世の(奈良時代の)日本人のためにわざわざ讖緯説を考えてあげた等ということはありえない道理で、讖緯説それ自体は神武元年(BC660年)を起点としているわけではない。これについては平安時代の三善清行も明治時代の那珂通世も了解・認識している。ただ清行はその上で、讖緯説を日本にあてはめるのならば神武天皇から起算するのがよかろうと前提して持論を展開してるというわけ。
しかし岡田英弘は、AD184(甲子年)を起点として起算した数値だという新説を唱えた。後漢王朝のAD184に始まった「黄巾の乱」以降、中国は大混乱に陥り人口大減少と未曾有の荒廃が続き、ついに国土の北半分(当時の感覚では中国本土のすべて)を北方民族に奪われ、東晋の頃にはようやく江南に亡命政権を保つことになった。岡田英弘は、一蔀循環説は鄭玄の創作であるとし、この「黄巾の乱」による大崩壊の衝撃がきっかけで作られたものという。
【8】一蔀説と三革説の日本起源説おまけ:一蔀循環説を創作した犯人は鄭玄ではない
岡田英弘は、一蔀循環説は鄭玄の創作であるとし、この「黄巾の乱」による大崩壊の衝撃がきっかけで作られたものというが、ホントかね?w そんなことあるわけないと思うのだがw
岡田英弘は1320年サイクル説に立つので、AD184年の前はBC1137年。AD184年の次はAD1504年となる。ただし、AD184年を起点としつつも1260年サイクル説をとる説も理論上はありえる。その場合はBC1077年とAD1444年となる。BC1137年は、当時の歴史観では、有名な殷周革命の頃に近い。殷周革命は儒教的な歴史観においてはまさに中国史上最大の事件の一つといってよく、天下国家が興亡する大周期に当たっているとするのに都合よかろう。BC1077年は周の康王二年、周王朝初期の平穏期でこうはいかない。岡田英弘が1320年説を採り1260年説を捨てた本当の理由はこのへんだろうよw 殷周革命は(現代の歴史学説ではBC1027年説などがあるがそれとは別に)中国の伝統的な説でもいくつかの説があるが、BC1122年説が有名であり、その他の説もだいたいその前後である。BC1137年はその15年前に当たるので、殷王朝末期の混乱期だとして「ほぼ適切」とみるか、「ピタッと革命の年だったならともかくズレてますやんw」とみるかは微妙なところで何とでもいえそうではある。また、そこまで大きな年代を扱うなら殷周革命より1サイクル前の神話的聖天子の黄帝の頃までフォローしたものでないと、長大な歴史を大枠でとらえるという理論になりえない。岡田の説ではこの大周期は鄭玄の創作なのだから、それなら、鄭玄はフリーハンドでなんとでも出来たはずであり、必ずやそうしたはずである。しかるに2サイクル遡ると黄帝に届かずこれまた半端なところにあたってしまう。
(8-1)一蔀説と三革説は本当に中国から伝来したのか?
前漢末から後漢に流行した「緯書」は隋の煬帝により禁圧され散逸、日本に伝来した「易緯」「詩緯」に逸文として残るのみであって、その実態は不明である。大陸で散逸・失伝した漢籍が日本に残っているという例は珍しくないことなので、緯書の逸文が日本に残ったという話もここは信じたい気になるのであるが、このケースでは政争絡みの展開であって、自然の成り行きだけでたまたま逸文が残ったのかどうかは微妙なところ。
(8-2)革命勘文の疑惑
一蔀循環説を歴史上最初(記録に残っている限り)に言い出したのは、中国人ではなく、上述の日本の三善清行で、その「意見封事」として出された『革命勘文』の中で唐突に出てきたものであり、それまでまったく知られていなかった。この『革命勘文』は提出された年の昌泰四年(AD901年)が改元すべき年だと主張しており、表面的には単なる改元案の上申にみえる。
この頃、藤原氏本流を排して側近政治を進めようとする宇多上皇と菅原道真らその近臣たち(藤原忠平など藤原氏の一部を含む)のグループがあり、藤原時平を頂点とする藤原氏本流とその一派との対立関係があった。この頃、醍醐天皇にはまだ皇子がなく、宇多上皇は藤原氏と縁がなく道真の娘婿でもある斉世親王を皇太子にしようとしていたが、醍醐帝は将来生まれるであろう自分の皇子に継がせたいから当然に父の宇多上皇と対立して、時平と結んで藤原氏との協力路線をとっていた。「醍醐帝-時平」派が道真に濡れ衣を着せ突如左遷したのは斉世親王の立太子を阻止するためであり、これが昌泰四年(AD901年)の正月、所謂「昌泰の変」である。かねてより道真に個人的な怨恨を抱く三善清行は当然のように「醍醐帝-時平」派の一人だった。その翌月、準備していたかのように清行は「意見封事」を提出し、今年は辛酉年であり大革命の年であるから改元をすべきと主張したが、その内容(『革命勘文』)は神武天皇以来、最近までの辛酉年や甲子年を振り返り、辛酉年は革命(的な大事件や大乱)、甲子年には革令(新制度の発足)等があるという讖緯説を検証している。この文章の真の目的は「だから辛酉年に起こった今回の道真の謀叛も捏造ではなく事実だったのだ」と傍証し「醍醐帝-時平」派を正当化することにあった。すべては道真を排斥せんとした時平と清行が結託した策謀であった。
ちなみに中国では「蔀」は76年間をさし、1320年または1260年をさすという例はない。中国の古代天文学ではメトン周期を1章というが、後漢四分暦では4章=1蔀、20蔀=1紀=1520年、3紀=1元=4560年とした。これと別に『後漢書』によると、4蔀=1徳=304年とし、1徳304年は、五行のいずれかの徳を有する一つの王朝の寿命に該当し、5徳が一周する1520年を一つの周期とみる考え方があったことがわかる。前漢王朝が約300年続いたことから出た説と思われる。また引用の「詩緯」の1080年(360年×3)周期説もあった。清行はこれらにヒントを得て、独自説を創作したのではないか。もし鄭玄の注なるものが古来からの本物なら、簡単な計算ミスが気づかれないはずがない。よくみると肝心の鄭玄の注が、すでに先行していた緯書の類の文言に続けて2種類の周期説を併記したものである。これは既存の文を活用して360(240+120)年周期説と7蔀(420年間)3変説を並べ、後者は7蔀3変の数字を引いて3×7=21とまで明示して自然に1320年周期説が出てくるように拵えてある。だが、肝心のいちばん面白い1320年の部分だけが中国の逸文に欠けているのはおかしくないか。中国の緯書にも類似の文面はあるが肝心の「三七乗じて二十一元、合わせて千三百二十年」という部分だけがないのだ。普通は肝心の部分を引用して瑣末な部分を略すのである。もとの形は360年説と420年説を併記しただけだったとみるのが自然な形だろう。真相はこのいちばん面白い部分こそ清行の創作して追加した部分なのである。清行は360年説と420年説を利用しながらなんとか昌泰四年を大事件の年であると証明する方法を模索して、それを古人に仮託して権威づけに成功したのだが、ことは進行中の政治的策謀の渦中にあり期日はボスから突然指定されてくる。のんびり構想を練ったり修正を加える余裕がなく、拙速のまま出さざるを得なかったのだろう。
中国には、この他にも長大なサイクルを想定する神秘主義的な歴史観はいくつか存在するが、これらは単位年数や循環サイクルの数値が異なっていて、日本にしか出典のない一蔀循環説とまったく噛み合ない。これら中国の諸説はいつまで溯りうるかは不詳だが、その多くはおそらくは宋代から清代にかけての間に創作されたものであろうから、三善清行が主張する「鄭玄の注」なるものが仮に本物だとしても噛み合わないのは当たり前だが、鄭玄の時代=後漢末の讖緯説の全体像も不明であり、「鄭玄の注」なるものが本物かどうか検証もできない。本物なのだが中国では隠滅してしまい、しかも中立的な経緯で偶々発見されたものならまだしも、このような政治的なからみで突然出てきたものであり清行の創作の疑いは払拭しえない。
三革説についても、中国でも戊午・辛酉・甲子に対する意味付けはあるが、あくまで易学的な干支ごとの吉凶判断にすぎず、それが「三革説」として確立・定式化してはいない。日本で三革説に基づく改元をするようになったのは、三善清行の提唱による昌泰四年(AD901年)を「延喜」と改元したのが最初である(中国ではこのような例はない)。
(8-3)岡田説と「超辰」の問題
岡田説でも日本起源説を打破することはできぬ。『日本書紀』は天武天皇皇子舎人親王が編纂責任者であって、父のライバルだった天智天皇には冷淡であって近江令ほか数々の功績についても明言をさけたり、天智紀は時代が近いのに 原資料がいい加減で年代が錯綜したりしている。神武即位がもし讖緯説(の1320年周期説)によるのならばそれは天智朝を 神武即位に次ぐ日本史の重要事件と認めることになるが、このような『日本書紀』の特色からはかなり不自然に思われる。
岡田説によれば1蔀の起点の一つはAD184年である。しかし現存する逸文からは格別にこの年についての言及はみられない。讖緯説そのものは岡田がいうような内容を一切語っていない。これは岡田英弘が、自身の常日頃展開しているシナ史にかんする自説を、讖緯説をダシにつかって再演してるだけではないかとも思われる。
そもそもこの壮大な周期を想定する説は、陰陽五行説で意味づけられた干支が正確に60年で一周するという前提がないと成り立たないが、公式にそうなったのはAD85年にそれまでの三統暦を廃し後漢四分暦が施行されてからであって、本来は木星の実際の運行に従って「超辰」していた。「超辰」とは例えば子年の翌年は丑年なのに一つ飛ばして寅年になるようなことで木星の公転周期は正確には11.862年で12年にちょっと足りないので約86年ごとに「超辰」しないとならなかった。つまり干支の一周は「正確に60年ピッタリ」ではなかったのである。鄭玄ほどの知識人がこんな常識をしらなかったわけがない。(公式に、といったのはBC95年の乙酉を飛ばしてこの年を丙戌にして以来、実質的に超辰は行われていなかったため。しかし本来は超辰すべきとされていたことはかわらない)。例えば、ある年が辛酉だとしても「あれ?木星の位置からすると今年は本当は酉年じゃなくね?今年が酉年なのはなし崩しに超辰やめちゃったからで論理的な根拠なくね?」という疑問を抱かない者はよほど漢学の素養に欠ける者だけだろう。従って中国に残っている讖緯説は、長大な周期を想定する諸説であっても、特定の干支の年を起点としているものは一つもないのである(ずっと後世の宋代以降に創作された理論は別)。日本と朝鮮ともに干支で年を紀する習慣はすこぶる古いが、日本人は歴史上、実際に超辰を体験したことはなかった。
ただ、それを理由に、前漢末の本来の讖緯説とは別に、後漢末にAD184(甲子年)を起点とする新しい讖緯説が生まれたという岡田の着想がなんらかの事実を言い当てている可能性を完全否定することも出来ない。岡田の本意はAD184に黄巾の乱が起こったということが重要であり、この年がたまたま甲子年であったことは本質的なことではない、と微修正すればどうにかなる可能性はなくもない。
(8-4)結論
すなわち一蔀循環説と三革説は『日本書紀』成立より後に、日本国内で発生した可能性が高い。
【9】讖緯説と皇紀の関係(※ここまでのまとめ)
(9-1)讖緯逆算説
日本書紀は神武天皇の即位をBC660年に当たる辛酉の年に設定している。明治時代、那珂通世(なかみちよ)は、これは讖緯説によって計算されたのだという説を唱えた。この説は、推古九年(AD601年)の辛酉年を逆算起点として1260年遡った辛酉年を日本開国の年としたのである、という説。以上の那珂通世の説を「神武元年讖緯逆算説」と仮名する。
那珂通世の説のバリエーションとしては、岡田英弘の説がある。彼は、一蔀1320年説を採用してAD663の白村江の敗戦(=百済滅亡)を逆算起点とし(ただしこの年は甲子年ではなく1年前の癸亥年)、一蔀を溯った甲子年(神武四年)に最も近い辛酉年を神武元年としたのだという説を唱える。
(9-2)那珂通世(讖緯逆算説)への反論
しかし第一には那珂通世の1260年説は一蔀1320年を十分に否定できていない。従って逆算起点は天智称制元年(AD661年)の辛酉年である可能性が残る、第二には推古九年(AD601年)は逆算起点にふさわしいような重要な事件は見当たらない、等の批判が昔からある。推古九年説にしろ天智称制元年説にしろ、逆算起点にふさわしい大事件がないという点では説明が苦しいことにかわりはない。神武元年から1260年たった辛酉年はAD601年で、聖徳太子が斑鳩宮を建てたというだけで格別なにか重大な事件があったわけではない。1320年説では、1サイクル回った辛酉年はAD661年で、天智天皇元年だが称制の元年であって正式に即位した元年ではなく、白村江の戦いの年ではあるが、この年は開戦しただけで決着したのは翌年だし、区切りのいい大事件は無い。つまりどちらも実際の歴史にあてはめた場合、しっくり来るような説にはなっていない。
岡田英弘の説では辛酉は革命、甲子は革令という讖緯説の論理を無視して、とにかく大事件なら辛酉でも甲子でもどっちでもこじつけてよいという考えにみえる。むしろ革命にふさわしい百済滅亡(白村江の敗戦)を革令であるべき甲子(の前年)に当てている。甲子年AD664年には冠位26階の制定ぐらいでめぼしい大事件がない。冠位26階は既存の冠位制度を微修正しただけで、革命の後を受けた新政府発足を思わせる革令というほどの大事件には程遠い。さらに、もし岡田が辛酉革命も甲子革令も同じようなものだと考えるのなら、なぜ一蔀を溯った甲子年をぴたり神武元年にしなかったのかの説明が苦しい。これだと1320年の大周期よりも60年ごとにくる小周期の辛酉の方が重要であるようにもみえる。ちなみに、実際に甲子年に初代の王が即位したとする例として、新羅の建国伝説がある。これは『日本書紀』より後に作られた話であるが。
さらに岡田説では、讖緯説の大サイクルの起点はAD184年であり、その1周前の起点はBC1137年と自動的に定まるから、日本書紀のBC660年説は讖緯説にぜんぜん噛み合わず、むしろ讖緯説を否定しているともいえる。
まぁなんだかんだすったもんだあるが要約すると4つある。結論だけまとめると以下の如し
(9-3)現代の通説に対する評価【1】
讖緯説によって逆算されたとしても、逆算起点とされる年次が選ばれた理由が不明瞭のままである。斑鳩宮の建設はなんら大事件ではないし、とくに天智天皇を起点とする説の場合は『日本書紀』の編集方針からいって不自然
【2】
讖緯説が信じられるようになったのは律令国家から王朝国家へ移行して以降だが、この移行期に平安貴族層の人生観や世界観に大きな変化があって迷信の時代に突入することは家永三郎等の研究によって夙に知られている。三善清行(みよしきよつら)はまさにその時期にずばり該当する。それ以前には正統的な儒教的教養からすれば讖緯説は異端であって公式な歴史書に採用すべき理論でないと考えられらたのではなかろうか
【3】
『日本書紀』編纂時点で日本国内に讖緯説に類する素朴な迷信が存在したことは判明しているが、三善清行がいうような高度に体系化された理論が存在したとか、それが広く支持されたり信じられていたとか等という記録も形跡もなにもない
【4】
神武天皇元年の推算根拠となったという問題の理論は、中国の讖緯説には存在しない。この日本独自の讖緯説は『日本書紀』編纂時点より後の時代に日本国内で捏造されたものである疑いが濃厚
讖緯逆算説は、明治初期の学説であるが、当然ながら当時も反論は賛同論と同じくらい学界の内外問わず多々あったものと思われるが現在ではそれらを一覧することは不可能である。神武天皇架空説と日本書紀年代造作説が常識化した戦後まもない頃の歴史学界では何ら深い検討もされずもてはやされ、今も学界の内外で広く流布している。
《次回予告》
さて、神武元年が讖緯説で計算されたものではないとしても、その事は、「じゃあ紀元前660年ってのが本当なのかどうか」って話とは、直接は関係ないw 偶然にも本当に前660年かも知れないのだからw 偶然でもいいのだが本当にそうならそうだと証明しなければならない。本当の神武元年は西暦でいったら何年なのかって話は、それはそれとして重要ではある。それに加えてもう一つの問題もある。それは、「紀元前660年」とする『日本書紀』の編年が事実であるかないかにかかわらず、讖緯説と関係ないのなら、いったい何を根拠にどういう計算で出てきたものなのかって問題だ。「史実がそのまま伝承されただけで深い意味はないんだよ」って話なら簡単なんだが、そうは問屋がおろさないわけでw
「皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・中編」に続く(すいません、まだ書いてません。なんとか今年の紀元節には間に合わせたかったんですが。でも近いうち必ず!)