FC2ブログ

「神道ルネサンス」

R2年6月8日(月)改稿 H26年11月6日修正 H24年9月19日(水)初稿
后妃と皇子女
后の御真津比賣(みまつひめ)と同名の人物が崇神天皇の同母妹にあり、こちらは大彦の娘と明示あるから同名異人とみなされているが、たぶん同一人物だろう。「当時は同母の兄弟姉妹は結婚できないが異母の兄弟姉妹なら結婚できた」というのは俗説であって正しくないことはこのブログでかつて考証したことがある。これについての詳しい議論は開化天皇の項に譲り、今回はふれない。
また豊木入日子命(とよきいりひこのみこと、紀:豊城入彦命)は、上毛野君・下毛野君らが祖とある(キミ(君・公)というカバネについてはカバネ論のページを参照)。毛野公(けぬのきみ)氏は仁徳天皇の時に上毛野・下毛野の二氏に分かれたが、後世まで関東の王者ともいうべき大族。紀には弟の活目入彦尊(のちの垂仁天皇)を皇太子にすると同時に、兄の豊城入彦命には東国を治めさせたとある。ただしこの段階ではまだ本人が関東に在住したわけではなく、たまに出向く程度で普段は代官を派遣してたぐらいだろう。豊木入日子命の子の八綱田命も都に在住していて垂仁天皇の時にサホヒコの乱に対処している。その子、彦狭島王は景行天皇の時(つまり倭建命の東征の後で)東山道十五国の都督に任じられた。
この東山道十五国というのは『日本書紀』での表現だが「東山道」というのは後世の律令制の用語を借用したもので厳密に「東海道は入ってないのだ」と短絡はできない。崇神天皇の時代に四道将軍の一人で東の担当の建沼名河別が担当したのが「東方十二道」。ヤマトタケルの征討対象は四道将軍の平定から漏れた区域だとすると、「東方十二道」には奥羽信飛濃の五国は入っていない。で、「東山道十五国」は書紀ではヤマトタケル以後の話だから、「東方十二道」にこの五国のうち三国を入れた数字ではないかと思われる。そしてこの五国はすべて後世の律令制でいえば東山道。出羽は奈良時代に分置される前は越後と陸奥の一部だったから除外し、信濃北部と飛騨は当時は高志(北陸)に入っていたと思われるのでこれも除外すると、奥信濃の三国が残る(この信濃は信濃の南部のみ)。東山道十五国というのは「東方十二道」にこの三国を加えた数字だろう(「東方十二道」の内訳については四道将軍の記事を参照)。この範囲は、豊木入日子命から彦狭島王まで代々管轄してきた範囲を表しているが、関東の総督だけならまだしもこれだけの広大な範囲を支配させるとも考えにくい。「国造本紀」では彦狭島王はこの時、毛野国造になったように書いてあり、この頃から権限としては関東の総督ぐらいに定まったんだろう。毛野国は直轄領だが、時代が下がって皇室から別れてからの世代が遠ざかってくると次第に毛野国だけの国造にすぎなくなっていく(この毛野国はまだ上野と下野に分割される前なので今の群馬県と栃木県南半分)。豊城入彦ー八綱田ー彦狭島ー御諸別ー荒田別まではあるいは東国の総督的な地位だったろうが、荒田別の次の世代で上毛野と下毛野に分割されるので遅くもこの時までには実質ただの国造に成り下がったと思われる。
ただし当初の任命の主旨は、事実上、日本を東西にわけて統治するということだが、なぜこの時代に東国総督が置かれたのかというと、この頃までに日本は弥生文化がますます深まったが、東日本との西日本では文化の在り方に徐々に差が大きくなっていった。東国では縄文以来の古い文化が根強く、西国とは住民の気質にも違いが大きくなってきた。しかも西日本では海外から持ち込まれた疫病の流行で淘汰されたのは免疫のない縄文系の遺伝子をもつ人々のほうが多かったと思われるので、ますます東国との違いが目立つようになったろう。そのため中央での一元処理的な行政は不適切になりつつあったのである。

神々の祭祀(疫病退治)
崇神天皇の御代は疫病で始まった(紀では崇神5年)。『日本書紀』は人口が半減したといい『古事記』は国民が全滅したという。これを読むたび思い出すのは、渡来系弥生人によってもたらされた疫病によって縄文人の人口大減少が起こったという説だ(もっとも、縄文人の疫病説は確かな証拠によって証明されたものではなく「あってもおかしくはない」という程度のことなので、注意が必要だが。最近の説では、現在の日本人の弥生顔は、古墳時代の江南(中国南部)からの帰化人がもたらした遺伝子であって、古墳時代までまだほとんどの日本人は縄文系だったという者もある。また縄文から弥生への変化は文化的なもので遺伝子上の変化は少ないとする説(長浜浩明の説)もある。

縄文人を大減少させたこの疫病の正体は、天然痘だとか結核だとか様々な説があるが、変わった説では「B型肝炎」という説と「成人T細胞白血病/リンパ腫」という説だろう。どちらもウイルス性の病気だが、成人T細胞白血病は鹿児島や沖縄、北海道にウイルスをもったキャリアが多い。またB型肝炎ウイルスの9種類のタイプのうち、日本人に多いのはBタイプとCタイプで、Cタイプのウイルスをもった人は九州北部から本州にかけての弥生系が強い地域に多く、Bタイプのウイルスを持った人は縄文系が強いといわれる地域に多い。朝鮮半島ではほとんど100%がCタイプ、中国でも80%はCタイプである。これらのウイルス性の病気では、縄文系と弥生系が選別されて、大流行の後には人種交代が起こると考えられるわけだ。この説はかつてはなるほどと思って信奉していたんだけど、最近は考えが変わってきた。この説の大きな弱点の一つは、伝染しにくいということで、異性間での感染と母子感染だけなので他地域に広がることがない。長い年月をかけて徐々に進行する人種交代なら疫病を持ちだして説明する必要がそもそもない。爆発的な大流行というのは考えにくいので、記紀の伝承にも合致しないということである。
なお、『ホツマツタヱ』は、崇神天皇が庶母(開化天皇の后)を后にしたことがタブーに触れ、それで疫病が起こったのだとするが、これは古代の婚姻制度を知らない江戸時代の素人の想像説にすぎず取るに足らない。

ただ、そうだとしても、崇神天皇の時代のこの疫病が海外からもたらされたことはほぼ確実に間違いない。アメリカ先住民の消滅はかなりの程度ヨーロッパ人のもたらした梅毒にも原因があった。日本の南北朝時代の疫病多発も、ヨーロッパのペストと時期が近い。モンゴル帝国全盛期の活発な国際交流がユーラシアに四川・雲南の疫病を広めたという。当時日本もモンゴル帝国統治下の中国と盛んに交流していた。記紀の伝承では「出雲の神」の祟りということになっているが、実はこの「出雲の神」も記紀では海外を平定することに深い関係をもった伝承が多い。
難民の増加は治安の悪化をもたらす。紀によると疫病の翌年、全国に流民が発生し、治安は悪化。丹波には謀叛を起こして独立した者さえいた。治安の悪化はもちろん疫病のためだけではなく、孝霊天皇や開化天皇の時代から問題になっていた難民(大陸の戦乱から逃れてきた)の存在があることはいうまでもない。
難民問題は、いかに早急に日本人に同化させ、日本人としての道徳を植え付けるかということ以外には根本的解決はない。また同時にすさんだ国民道徳を立て直さなければ、治安問題の解決はありえない。崇神天皇はそれまで宮中に祀られていた天照大神を大和国笠縫邑に巨大なヒモロギを建設して、一般庶民が自由に参拝できるように取りはからった(これが後に移転して今の伊勢神宮の起源となる)。これにより、日本人は天照大神の子孫であるという認識を浸透させるためで、いってみれば、これは弥生時代の「國體明徴運動」であった。
なお『神ながらの道 -日本人に潜在する創造的生命意識を解明する-』を著したジョーゼフ・ウォレン・ティーツ・メーソン(J・W・T・メーソン)の説では、この頃神祇への信仰が劣化していたので、神道に永遠なる宗教的生命をもたらす方策を立てたのが崇神天皇だったといい、これを「崇神天皇の神道ルネサンス」(古道復興)とまでよんでいる。
それと紀には疫病を鎮めるために祀った大物主神の神勅に「外国が帰順してくる」という一見、脈絡不明の文があるが、当時の人々が潜在意識では「この疫病の根本原因は外国問題である」ということを薄々察知していたということの証拠であろう。
「大坂神・墨坂神(境界の守り神)に武器(盾と矛)を祀った」というのは、畿内を封鎖したことをいう(紀では崇神9年のこととしてある)。疫病そのものは発生の翌々年(崇神7年)に終わったが、治安が乱れて一度酷い目にあった人間には警戒心と猜疑心が生まれるので、いったん崩壊した安全神話は容易には元にもどらない。したがって治安状態はすぐには回復しなかった。畿内では「國體明徴運動=神道ルネサンス」が成功したが、治安のよい畿内めざして流民が入ってくるので、一時、畿内を封鎖したのである。

オホタタネコノミコトはなぜ求められたか:大物主神の御子
天孫降臨の時の定めにより、皇統を守護する四つのカムナビ(三輪・宇奈提・葛城・飛鳥)は事代主命と味耜高彦根命の子孫が祀ることになっていたが、いつしか子孫も途絶え、物部氏の系統が県主の地位についていた。崇神天皇は神夢により、正しい子孫である大田田根子を探し出し、三輪の大物主神を祭らせた。…それは確かにそうなんだが、かなり経緯が入り組んでややこしいことになってる。

『古事記』を読むと、意富多多泥古(おほたたねこ)が神の子だと知られた所以は、大昔に大物主神が人間に化身して活玉依毘賣(いくたまよりひめ)と交わって生まれた男子の子孫だからとして、大物主から意富多多泥古まで5世代の系譜を載せている(大物主神を1世としてオホタタネコが5世)。
だがこれはおかしいのではないか。それなら神の「子」というのは神の子孫って意味になる。和語の子(こ)には確かに子孫という意味があるから一見問題ないようにみえるが、それなら当時の登場人物はほとんど全員、天津神か国津神か、なんらかの神の子孫なのであって、格別にオホタタネコだけを「神の子」だのなんだの言う意味なくね?
そう思って『日本書紀』をみると、大田田根子(おほたたねこ)は父が大物主で母が活玉依媛(いくたまよりひめ)だという。つまり神の子孫ではなく、そのまま素の意味で神の子になってる。あきらかにこっちの方が元々の古伝承だろう。じゃ『古事記』の系譜はどっから出たのかというと、これは磯城県主(しきのあがたぬし)の系譜でしかありえない。そう推理するわけは『先代旧事本紀』に同様の系譜があり、大己貴神(おほなむちのかみ:大物主神の別名)を1世として大田田根子が9世になってる。この系図だと2世が神武天皇の時代の事代主(ことしろぬし)と同一人物になっているが、『日本書紀』では綏靖天皇や安寧天皇の皇后が事代主の娘でもあり磯城県主の娘でもあるように書かれているから、要するに事代主が磯城県主である。日本書紀の異伝では活玉依媛の父は天日方奇日方武茅渟祇(あめひかたくしひかたたけちぬつみ)という長々しい名前になってるが、これは「天日方奇日方」と「武茅渟祇」の間に脱文があって、無関係な二人の名がくっついてしまったもののようだ。天日方奇日方は先代旧事本紀で神武天皇時代の事代主(つまり磯城県主)の息子として出てくる。これと古事記の櫛御方(くしみかた)が同一人物なのは名前の類似から想像がつく(「三輪高宮家系図」でもそうなってるがこの系図によらずとも推定可能)。だから「櫛御方ー飯肩巣見ー建甕槌」の三代間は磯城県主の系譜であって後から挿入した注釈が誤って本文に紛れ込んだもので、意富多多泥古とは繋がってない。問題は「武茅渟祇」だがこれは賀茂県主の祖、賀茂建角身(かもたけつぬみ)のこと。なんでそんな人の名がここに出てくるかというのは長くなるから別の機会にまわす。
さて、そうするとオホタタネコは磯城県主の家に婿入りでもしたのかと思いたくなるが、当時は入り婿という概念はない。ただし旧領主の娘を娶ることで新領主への交代を正当化するという感覚はあった。
で、話はここで終わらない。三輪君(みわのきみ:古事記では「神君」と書いてミワノキミと読むがややこしいので書紀の書き方にするw)という氏族は、カバネが「君」だ。このカバネは開化天皇以降に皇室から別れた氏族に多い。そういう傾向があるってだけで例外もあるのだから気にしなくていいのかも知れないが、そういうことまで気になって仕方ないのを才能というわけだろw 以前にこのブログで出雲臣(いづものおみ:出雲国造、出雲大社の宮司の家柄)が天之菩比命(あめのほひのみこと)の子孫ではなく孝元天皇の子孫だって説を展開したことがあった(「出雲国造は天穂日命の子孫ではないhttps://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html)。そしたら、同じ理屈で、三輪君は大物主神の子孫ではなく開化天皇の子孫ではないかと当然思われる。思うよな?w
そこで、開化天皇の系譜をみると、孫の世代で子孫の氏族が書かれておらず断絶したような印象のある皇孫が4人いる。大筒木垂根王、讃岐垂根王、比古意須王、伊理泥王だ。このうち伊理泥王(いりねのみこ/いりねのおほぎみ)という名前が気になる。いちいばん下の弟なのに兄(ね)というのもあれだし、入兄(いりね)というのは入り婿って意味ではないのか? つまりこの伊理泥王はオホタタネコの入り婿なのではないか? いや当時は入り婿という概念はないから、オホタタネコの娘を娶って、同時にオホタタネコの家職である大物主神の祭祀を継承したのではないか、これが三輪君という氏族の発祥なのであろう。
関連記事

雄略天皇の「宇宙樹」

2680(R2)年6月6日(土)改稿 H29年6月14日(水)初稿
歌の背後に政治あり
ある先生は雄略朝を重視するあまり「古事記は雄略天皇で終わっててもいいぐらい」なことをおっしゃっておりましたw まぁね、俺もそう思わなくもないのは、三重の采女(うねめ)の歌の印象深さってのがあるからだ。この歌は国学者の橘守部が「歌神として称えるに今この歌を第一とす」と激賞している。我々もまぁ味わおうじゃないか。なんなら日本の国歌にしてもいいよ、曲がつけばな。ところで、古事記はよく読んでるつもりでも古代史マニアってのは自分の興味あるとこしか読んでないことが多い。だって古事記は歌物語が多くその歌ってほとんど恋愛モノで、あまり古代史と関係ないから。でもそれだと古事記をほとんど読んでないも同然になっちゃうわけだよ。だいたい現代の学者はハラの中では古事記は作り話だと思ってるので、歌の背景に現実の政治が絡んでるとは思わないで、純粋に一つの作品論として分析したがる。そんなの面白いわけがないw 考えてもみろ、『ウルトラマン』でさえ日米安保条約のすったもんだがなければ生まれなかっただろうがw 

この歌は古事記の「最終章」なのか!?
この歌は「水(みな)こをろ、こをろ」とか「浮きし脂(あぶら)」とか神話の冒頭の言葉が突然出てきて、ひじょうに強い関心をそそる。しかも雄略天皇の末尾なので、もし古事記が雄略天皇の章で終わっていたら全体の冒頭と末尾が呼応していることになり、全体の構成として美しくなる。実際にそういう構想案も太安万侶としてはもっていたのではないか。

ここは読まなくて可
しかし丹比間人宿禰足嶋(たぢひのはしひとのすくね・たるしま)が提出した原資料(丹比氏の伝承した帝皇日継)では少なくとも宣化天皇まではあったはずだし、息長真人子老(おきながのまひと・こゆ)が提出した原資料(息長氏の伝承した帝皇日継)では少なくとも継体天皇まではあったはず。雄略天皇で切られてしまうと継体天皇の正統性を主張する後者や宣化天皇の正統性を印象づける前者の原資料の趣旨がぼやけてしまうので、足嶋も子老もそれは不本意だったに違いない。稗田阿礼に至っては本当は大化の改新か壬申の乱までやりたかったろうが肝心の「稗田氏の」帝皇日継(すめろぎのひつぎ)が推古天皇で終わっていた(なぜそうなってるのかは当ブログで以前に詳しくやったので今回省略)。帝皇日継以外の漢文資料で舒明天皇以降を作っても日本書紀とかぶってしまうし、そこで内容に独自性を出されても稗田阿礼って人は天武皇統の正統性に疑問を呈するようなことをやりかねないので安麻呂としては命がいくつあっても足りない。だから、あくまでも古事記中巻・下巻の趣旨に留めるべく推古天皇で終わらせたんだろう。「古事記中巻・下巻の趣旨」ってのは日本書紀編集部でボツにされた息長氏と丹比氏の伝承を残すことであって、稗田氏の伝承を残すことではない。稗田阿礼が朝廷の語部(かたりべ)として継承していた正規の帝皇日継は漢文に翻訳されて日本書紀の神武天皇以降の巻の根幹部分として活かされていた。息長君は皇極朝で誄(しのびごと)を奏しているが、当時の皇室の本家だから古伝承を奏しているだけで名誉職みたいなもの。丹比連は斉明朝には何とか歴史に登場しているが、たいして高い地位ではなく有象無象の木っ端役人の一人として何人か出てくるだけ。両氏ともそれっきり天武朝の「八色の姓」まで出てこない。それが、息長真人子老と丹比間人宿禰足嶋が大宝元年(AD701年)に揃って従五位下に叙され、ようやく中央貴族としては下っ端に引っかかったわけで、この前も後もず~っと一貫してパッとしてない。壬申の乱で近江朝廷側についたか、中立を守ってしまったため出世しそこなったんじゃないのか? 持統五年(AD691年)に大三輪氏・雀部氏・石上氏・藤原氏など計十八氏に纂記(つぎぶみ)を上進せしめた時にもこの両氏は含まれてない(纂記(つぎぶみ)というのは要するにこのブログの用語でいうと各氏が伝承した各氏ごとの帝皇日継のこと。「各氏族の歴史」ではない)。この時点での官位が低かったせいもあるだろうがそれだけなら十八氏の中にもあまり見かけない官位の低そうなのが含まれるから、本当の理由はこの両氏の伝承が天武皇統にとって都合が悪いものだということがすでに知られていたのだろう。息長氏の伝承は継体天皇の正統性を「血筋」に置いていた。それは単に皇胤ということではなく、応神天皇の指定した皇胤が途絶えたので女系でそれにもっとも近い血筋ということ(男系だけなら応神天皇の皇胤ってのは当時たくさんいた)。天武天皇は先帝(天智天皇)の指名をうけておらず近江朝廷を滅ぼしたのだから、近江朝廷の不徳によって天命を受けた(先帝からの指名でなく。先帝からの指名を上回る権威というと「天命」ぐらいしか言いようがない)のだから、天武天皇としては武烈帝を悪で不徳の帝とし、継体帝は徳があったから天命を受けて皇位についたのだとして、自身の先例(プロトタイプ)として描きたい。実際、日本書紀ではそうなっている。しかし古事記ではそうなってない。古事記の中下巻は日本書紀が捨てた息長氏と丹比氏の伝承を守るために書かれたので「先帝の指名を受けた血筋」が正統だといってる。これは天武皇統の時代にはボツにされて当然だろう。丹比氏の伝承は仁徳皇統の中の3つの王系のうち允恭系の天皇を非難して履中系(顕宗~武烈)を顕彰している。これはなぜなのかよくわからないが、反正系の男系が途絶えた後で、反正系の名代部の伴造だった丹比氏と反正帝の皇女とに婚姻があったのではないかと推測する。反正帝の皇女たちは雄略帝との婚姻を拒否しているので、相対的に丹比氏が允恭系より履中系に肩入れしているのか? そこまではまぁいいんだが、継体帝以降は女系で允恭系を引く欽明天皇の子孫でありかつ天武系でもある現在の皇室ではなくて、宣化天皇の子孫で女系で反正系に縁の深い多治比王以降の丹比君(後の丹比真人)を顕彰しようとするものだったと思われ、これは当時は爆弾のような危険な思想だから当の丹比真人氏によって握りつぶされたと思われる。だから息長氏の主張ほどは明瞭にはなってない。息長氏の主張も現代人からすると注意深く読まないとわからないが、両者とも、とにかく現状の古事記の中巻・下巻の文では何がいいたいのか、なんでそんなわかりにくいことをいってるのか、なぜこんなに話の筋が説明不足なのか、不可解な点が多すぎるので、かなりバッサバッサと切ってしまっていると思われる。政治的に具合の悪いところを意図的に切ったこともあったろうが、平安時代に多人長(おほのひとなが)によって古事記が再発見されるまでの間に保管状況が悪くて破損した箇所も多かったんではないか。いずれにしろ古事記の中巻下巻は大量に情報を補って読まねば訳がわからないところがちょいちょいある。

ともかくそういうわけなので、雄略天皇で区切るという安麻呂のアイディアは稗田阿礼の猛反対でお流れになったと思われるw その前に安麻呂が本当にそんなアイディア出していたかどうかよくわからんが。

三重の采女の境遇

纏向日代宮がでてくる理由
この歌がでてきた宴会は「長谷」でのことだと古事記が明示しているから纏向(まきむく)ではない。纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)は景行天皇の宮都だから、この歌は景行天皇の時代のものだって説もあるが、宮都はその後も長く使うもので一代ごとに壊してるわけではない。式年遷宮みたいに代替わりごとに壊してるイメージは、平安初期にできた新しい「穢れ」感覚に基づくもので、現代人の思い込みにすぎない。平安初期までに日本人は霊的な穢れと物理的な穢れの区別がわからなくなり、見えないものをやたらめったら怖れるようになってから出来てきたのが現在の神道につながる過剰な穢れ忌避の傾向なのである。ほとんど滑稽なまでの域に達しているが、そのくせ目にみえない霊的な穢れにはトンと無頓着で、これではお祓いも糞も意味なかろうと思う。なんて、スピ系な話はさておいて、そういうわけだからそれ以前の記紀に描かれた時代には代替わりの時も先帝の宮殿を壊すこと無く有効活用したに決まってるだろう。政治はどんどん高度で複雑になっていって伴造の率いる部民、官僚のための施設はいくらあっても足りないし、物資倉庫、それから皇位をつがない皇族たちだって、そうそう丁度いい「あまくだり先」がほいほいみつかるとは限らんからしばらくは先帝の宮殿に住んでたろうし、女性の場合はそのまま皇室財産の名義上の所有者としてその宮殿を継承していくこともあったろう。だから纏向遺跡が3世紀の遺跡だったからって、景行天皇が3世紀の人だったということにはぜんぜんならない。記紀にでてくる宮都は歴史を通じていつの時代にもあった可能性が高い(まぁ改築はしてるだろうけどな、それこそ式年遷宮みたいに)。
だからこの歌が歌われた雄略天皇の時代にも「纏向の日代宮」は存在し、景行天皇の時代のまま壮麗な姿をリアルに保っていたのである。ただ天皇がそこにいないってだけで。いや、たまには雄略天皇も別荘として使ったかもしれない。そもそもこの時代の天皇というのは平安時代や江戸時代みたいな儀式や決まりごとで雁字搦めにされた籠の鳥みたいな存在ではないのだから、あちこちに無数にある宮殿(その中には歴代天皇が残した皇居も含む)にいつでも好きなように移り住むことができたはずだ。朝代(各天皇の時代)を宮都の名で表わすのは陛下の御名を直接よぶのを憚ったための慣例的な表現法の一種にすぎず、実際に在位中は引っ越し禁止だったわけではない。一代の間に何度か宮都をかえた天皇は、景行・仲哀・神功皇后・応神・顕宗・仁賢・継体・敏達・推古・舒明・孝徳天皇に例がある(藤原京以前)が、これらとてホームベースの移動だからたまたま伝承が残ったのであって別荘は無数にあったに決まってるだろう。

さて、三重の采女がなぜその纏向の日代宮を歌ってるのかというと、自分が三重の出身だからだろう。三重ってのはヤマトタケル伝説では、印象が悪い土地だ。体調わるくなった倭建命が「足が三ヶ所折れたような気がする」(「吾が足三重の勾がりの如し」の意味には複数の解釈説がある)といったのが三重という地名の起こりだってのは事実ではないだろうが、そういう言い方がされたことは実際にあったんだろう。間違った語源俗解が流布し世間に信じられてしまうって状況は古今東西よくあること。例えばシナの語源は秦ではないし、奈良は土地を均したからではない。それはともかく、采女ってのは住み込みの女性官僚だから、いうなれば女だけの世界。で、雄略天皇はヤマトタケルの再来として仰がれ、ご自身もそう自負していたのもこのブログで以前に書いた。それで三重出身の采女となれば、これはもう采女たちの内輪では虐められたんじゃないかと心配するのが人間として当然だろうw 本人も陛下が三重という土地に悪感情を抱いているのではないかと常々おそれ、何とか故郷のイメージを回復したいと考えていただろう。で、彼女はたまたま歌の才能があったので、以前から三重のイメージソングを考えていたのだろう。
さて、陛下にお酌する機会がめぐってきたが、采女ともなれば言ってみりゃあんた、お酌のプロよ。普通に考えて失敗するわけがない。でも「三重」の采女と聞いて陛下がご機嫌を損ねているのではないかと怖れたから、手足が震えて冷静な判断ができず視野も狭まり、盃に木の葉が落ちてるのも気づかなかった。で、お手打ちになったと。首に刀の刃を当てられるところまでいったんだから絶体絶命、もう今すぐここで死ぬことに決まったわけよ。死ぬと決まったら、長年あたため続けてきた三重のイメージソングを披露しなければ死ぬに死ねないだろう! ここで彼女のハラは決まった。だから堂々と歌えた。「鳥の死なんとする、その鳴くや哀し。人の死なんとする、その言や善し」というが、善いのは言に限るだろうか。

故郷のイメージソングとして事前に作っていた歌だとしたら、この時とっさに作ったのではあるまい。だとすると、この歌に出てくるケヤキの巨木は、宴会の会場に存在したわけではない。故郷のイメージソングなんだから、彼女の故郷にあったケヤキの巨木をモチーフにしてるのだろう。今の「三重県四日市市采女町」は昔でいうと「伊勢国三重郡采女郷」であり、記紀に出てくるヤマトタケルが杖をついたという「杖衝坂」が今も残っている。おそらくこの地に当時はケヤキの巨木があって、ヤマトタケルの杖がたまたまケヤキの枝であって、それを捨てる時に地面に刺したまま残したのが巨木になったという伝説でもあったんだろう。実際ケヤキは「挿し木」のできる植物である(詳細は「挿し木」で検索)

上中下の「3つの枝」の意味
もう三重の采女ってだけで悪いイメージあるんだから、それを避けるんじゃなくていきなり「纏向日代宮」(=ヤマトタケルの時代)と歌い出すことで「そうですよ、私めはあのヤマトタケル伝説の三重の出身ですとハッキリ打ち出してる。そして目の前の、実際にこの歌を聴く人々が聞きながら今まさにみているこの槻(つき:今でいうケヤキ)の巨木を「三重」に見立てて「三重」という言葉から連想されるイメージを変えようとしている。

これ、もう若い人は知らない人もいるかもしれないが日立のコマーシャルで有名な「この~木なんの木気になる気になる名前も知らない木ですから♫」のあの木、もう長いことなぜかケヤキだとばかり思い込んでたけど全然ちがったわw 知らない子はYOUTUBEで検索してね。でもイメージはあんな感じだったんだよw ケヤキがどんな樹だかすぐ浮かばい人でも今のご時世は画像検索すればこれでもかっていうぐらい出てくるからラクなもんだ。
さらに手っ取り早くは「東根の大ケヤキ」で画像検索するのが早いけど。これは山形県にある日本最大の巨木で、樹齢1500年以上、根回りは24m、周囲16m、直径5m。高さ5m半のところで二股に分かれ、西南側のがやや直上して枝を分け、東側も大きく三枝を分けて天空を覆っているという。ケヤキは巨木になるとこういう枝ぶりになるわけで、木によっては上つ枝・中つ枝・下つ枝と三重に見立てたくなるわけだろう。現在の高さは28mだが、1957年の特別天然記念物指定時には35mもあったというから、三重どころか五重塔に例えてもいいぐらいだ(ちなみに法隆寺の五重塔は31m半)。
だが外にでかけて実物みたいもの。さすがに「東根の大ケヤキ」みたいのにはめぐりあえないにせよ、欅坂46の名前の由来にもなった六本木のけやき坂通りだけでなく、都心なら代々木公園にも表参道にもケヤキ並木があり、雑司ヶ谷の「鬼子母神」の大門の通りのケヤキ並木の中には天然記念物に指定されてるのもある(鶯谷の鬼子母神とは別なので注意)。他にも都内あちこちにある。ただ都心のケヤキって、形も大きさもいまいちなのが多いんだよね、できれば天に届きそうな巨大なケヤキがいいんだが(いい写真が撮れたら後日アップします)。時々古い神社の境内にそういうのあったりするよね、皆さんも地元のケヤキを探してみて。

ケヤキの巨木がどんなのか頭に入ってないとこの歌の解釈はうまくない。巨木は、日本のユツカツラ(湯津楓/湯津香木)や中国の扶桑樹と同じく神話上の世界樹宇宙樹への連想がはたらく。だからこれを三重にした上つ枝・中つ枝・下つ枝で天皇の支配する世界をあらわした(「世界樹」という神話的な観念は北欧のユグドラシルだけではなく、全世界の諸民族にあることは、Wikipediaで「世界樹」を検索しといて下さい)。
三重の槻の木、「上つ枝は天を覆へり」。巨木だからその枝が天を覆い隠しているという描写はわかる。ホツエというのは万葉集で「下づ枝」(しづえ)と対で使われてる例があるから「上のほうの枝」だと解釈されるが、カミツエ(上つ枝)という言葉もあるので、ホツエ単独で使われる時の語感だと、上下あるうちの上、あるいは上中下あるうちでの上だというニュアンスは弱いのではないか。ホツエという言葉だけがでてきた最初の段階では「ホツエ」(上つ枝)というのは単に頭上の、見上げた上のほうの枝って意味にきこえるので、上中下の三重構造の「上」だとは誰も思わない。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」と聴いて、初めて「アレッ」となる。ここで聴衆は一時的な混乱に陥る。「じゃ下つ枝は何なんだ」という関心もひくんだが、同時に「天を覆うのは木の枝の全体で覆うんじゃないのか?上の枝だけ?しかも中の枝は東国?」と次々疑問がわく。考えようによっては、覆い隠されてる「天」というのは今ここからみえる天だけであって、「縦」に見上げるばかりでなく、少し「横」に歩いて槻の木の真下から抜ければ天はみえる。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり、下つ枝は夷(ひな)を覆えり」。上つ枝は広がりが少ないからこの場しか覆ってないが、中つ枝や下つ枝はもっと遠くを覆い隠す。辻褄はあうがこれは理屈であり観念だ。だから、ここでこの巨木は目の前の実際の木でなく、神話上の世界樹に見立てていることが聴き手にも気づかれる。また「上つ枝」と限定してたのは水平移動つまり上下の軸から前後左右の二次元平面に意識をうつすためだともわかる。そうなると上つ枝の「天」も、東国や夷(ひな)に対して天皇のおわします都でもあろう。記紀の雄略天皇には東(あづま=関東)はほとんど出てこず、記紀だけみてると東国とは縁のない天皇と思ってしまうが、有名な埼玉県の稲荷山鉄剣の銘に「ワカタケル大王」が出てきてから、現代人にとっては逆に「関東まで支配していた天皇」というイメージばかり強くなりすぎてる感じがする。あの鉄剣が発見されて学界もマスコミもてんやわんやの大騒ぎになっていた頃、この「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」にすぐ気づき、「古事記ってすげぇな」と感嘆した古代史マニアもさぞかし多かっただろう。しかしこの「中つ枝はアズマを覆えり」という言葉は次の「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」を導きヒナがどこなのか暗示するための言葉。本当に言いたいキモの部分は「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」であって「中つ枝はアズマを」ってのはそれをいうための文学的な修辞にすぎない。詩としてはな。
夷(ひな)は直訳としては「地方・辺境・田舎」ってことで、アズマ(あづま)が東海・関東という具体性をもっているのに、ヒナは具体的にどこだともない。岩波の古典文学大系の注釈では「万葉集に淡路島方面をヒナといってる例があるからヒナは西国だ」と言い切ってるが、この学者はバカじゃないのか。ヒナは東西南北どっちでもありうるが、たまたまその歌ではどっちをさしてるかが問題だろう。関係ない歌をもってきてあの歌で西だからこの歌も西、って話になるわけないだろうに。あるいはまた倭王武の「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」を連想し、このヒナとは九州方面のことだと解釈する人もいるかもしれない。だがそれだとこの歌は単に関東から九州までの日本に君臨する陛下はすごいっていってるだけの歌になってしまって、死刑をまぬがれるほどの強烈なインパクトに欠ける。あるいは雄略天皇の個人的なツボにも入らない。雄略帝にしてみれば技巧を凝らしたおべんちゃらは聞き飽きてるんだから。大事なことはこの歌は一般論としての天皇賛美の歌ではなく、雄略天皇個人へ向けた歌だってことなのだ。それに九州だとすると、一度東へ向いた視点が西へ逆反することになる。それを世界を見回す壮大な王の行為と受けとる人もいるだろうが、俺はそう思わない。なんだがキョロキョロしてせわしない感じになってしまわないか? 正解はこうだ、ケヤキの葉は舞い上がったりせず重力に従って上つ枝から中つ枝、そして下つ枝へと直線的に落ちていくのだから、ここのヒナは都からみてまっすぐ、アズマのさらなる東の奥、道の奥(みちのく)をさしていると解する他にない。じゃミチノクだと明言すれば良かろうになぜヒナだなどと曖昧な言い方をするのか、それは第一には奥羽に限らず、東西南北四方のはて天下のすべての地を含みうるイメージの広がりを残すため。第二には、確かに実際には奥州なんだけど、この時いま話題の場所でアズマの先といえば誰でもわかりきった土地だったから、もったいつけて、期待感を煽ってるわけだよ。「え、雄略天皇の章には古事記も日本書紀も東北のことなんかぜんぜん出てこないじゃん、何がどう話題になってたってんだよ?」という反論が来そうだが、実はそれがそうでない。鉄剣が出土するまでは関東すら雄略天皇と縁がないと思われていたろう、それを思えば記紀に奥羽がでてこないからって雄略天皇が奥羽に縁がなかったとはぜんぜんいえない。それについては後述するとして、第三には掛け言葉で鳥のヒナ(雛)を連想させるため。ちゃんと確認してないが、たしか田舎を意味するヒナ(夷)のヒも、鳥のヒナ(雛)のヒも上代特殊仮名遣いでは甲類のヒのはず。上つ枝にも中つ枝にもないことだが、下つ枝では新しい命が生まれていた。「雛を覆えり」。その土地が、親鳥が翼で雛を覆い守り育てるように、新しい命を守り育てていた、そういう連想が湧く。というか隠しメッセージがある。これは何のことを言ってるのかは後述する。

雄略天皇にとっての陸奥(みちのく)
一つには雄略天皇の崩御後に新羅征伐軍(征伐じゃなくてただの駐留軍の交替かもしれないが)として従っていた蝦夷が吉備で反乱したことがある。ヤマトタケルの蝦夷征伐以来、奥羽の蝦夷(えみし)は朝廷に服属し、応神天皇の時には道路工事の労役についたりしてたぐらいだった。それが仁徳天皇の時には背いて鎮圧されてるが、これは隼別命の乱の一環で、隼別命の乱は全国を巻き込んだ大規模な乱だったのである。雄略天皇崩御の際にも反乱しているからといって、仁徳朝以来ずっと蝦夷は朝廷に心服していなかったのかというとそういうことでもない。雄略帝崩御の際は星川皇子が謀叛を起こしているが、書紀の書きぶりからすると、どうも反乱軍に唆されたとか呼応したとかいうわけではなくて、純粋に蝦夷たちの意図からだけ出たもののように読める。当時の蝦夷からみれば、雄略帝にしろ星川皇子(=吉備氏)にしろ、中華式を有り難がってる連中って意味では同類であり、「大山守=隼別」のラインでつながる海の民・山の民のほうが感性的に近い存在なのであり、彼らが蝦夷を味方に引き入れようにも味方になってくれる可能性が高いとは思えなかったんだろう。ただ、蝦夷が反乱を起こす際に、天皇崩御ときいて「時を失うべからず」と言ってるのが引っかかる。皇帝や君主の代替わりが軍事蜂起のチャンスなんてのは当たり前じゃないかという人もいるだろうが、逆に「だからこそ」戒厳令状態になるわけで、軍事的観点からは必ずしも狙い目ではない。記紀に代替わりでの反乱が多いのは「皇位争い」の皇子たちの戦いだから、逆賊の汚名を免れるために空位期間を狙うのである。皇位争いと無関係な連中の蜂起の場合は関係ない。なのに「時を失うべからず」と言ってるのは特別な意味がある。それは何か…。

雄略朝には伊勢の外宮の鎮座伝説があるが、あれがいろいろおかしいことはこのブログで以前に書いた。あれは丹後から豊受姫神という御祭神を遷座したのではなく、外宮はそれ以前から伊勢にあって、丹後にいた「自称・豊受姫」の人間を招き入れたのである。なんでそういう解釈になるのかというと、原文がそうだから。通常の解釈のほうが無意識に原文に「これは神話だから」というフィルターをかけているのであって、客観的にみれば通例の書き方になってない。で、ほぼ同時期になぜか同じ丹後に浦島太郎の話が出てくるが『丹後風土記』に出てくる「自称・豊受姫」が浮浪していたという伝承地と、浦島太郎というか「浦島子」が助けた亀と一緒に蓬山へ旅立ったという伝承地が、同じ丹後の中で4~5kmぐらいしか離れていない。
毛利康二や大和岩雄など、浦島太郎がいった竜宮城は今の鬱陵島で『梁書』に出てくる扶桑国のことだというのだがその扶桑国の王を『梁書』は「乙祁」というとある。これは固有名詞でなく王をあらわす称号なのだが、仁賢天皇の本名が意祁命(おけのみこと)であることから平田篤胤は「乙祁」とは仁賢天皇のことだといっている。篤胤の説には賛同できないが、しかし、浦島太郎は日本書紀や風土記では「浦島子」(うらしまのこ?/うらのしまこ?)という名前でこれも仁賢天皇の別名「島郎」(しまのいらつこ)と似すぎてね? ただし浦島子が仁賢天皇だという主張では必ずしもない。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟はこの時まだうまれてないと思われるから、その父だろう。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟は市辺忍歯別王の子ではなく孫か曾孫であることは宣長も推測するところで、民間伝承ではその父は「久米若子」といい、日本書紀が顕宗天皇の別名だとして伝える「来目稚子」という別名と同じなのでこれは襲名だろうと推測したが、仁賢天皇の別名「島郎」も父からの襲名ではないか。史料的価値として問題なくもないが中田憲信が集めた有名な系図集によると、島郎子と久米若子が兄弟で、島郎子の子が仁賢天皇、久米若子の子が顕宗天皇で両帝は兄弟ではなく従兄弟になっている。あるいは両帝の伯父が島郎子だと仮定すると、伯父の四股名を襲名した兄・若乃花と、父の四股名を襲名した弟・貴乃花の「若貴兄弟」が思い出される。一応、「両帝は兄弟で二人の父は久米若子、島郎子という名は久米若子が鬱陵島から帰ってきてからの別名」と仮定しておく(詳細な議論は今回は省略)。この段階ではまだ陸奥の蝦夷との関係はない。しかし豊受姫のほうはどうか。仁賢天皇ときたら誰でも仁賢天皇の姉、飯豊王(いひとよのみこ)を想起すると思うんだが、『陸奥国風土記』には「飯豊山(いひとよやま)。此の山は、豊岡姫命(=豊受姫のこと)の忌庭(ゆにわ)なり。飯豊青尊(いひとよあをのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す」とある。この物部臣というのは連(むらじ)でなく臣(おみ)とあるから、いわゆる饒速日系の物部氏(物部連:もののべのむらじ)ではなく和邇臣の分流であり、後世「物部首」(もののべのおびと)という氏族の祖先にあたる。飯豊山は現代ではイイデサンと読み、山形・福島・新潟の県境にあり、この山を囲む3県のうち福島県はむろん当時は陸奥国だが、山形県も奈良時代に出羽国が分置されるまで「陸奥国」だった。豊受姫と飯豊王は「陸奥の」飯豊山を介してつながる。飯豊という地名はこの山以外にも青森県、岩手県、そして福島県の中通り地方(飯豊山とは別の地)と陸奥の各地にある。つまり飯豊王は蝦夷に守られ蝦夷に育てられたのであり、蝦夷は飯豊王のシンパなのである。ということはおそらく潜伏中の飯豊王の父や兄弟に対しても蝦夷たちはシンパシーがあったろう(潜在的な支持者なり協力者の立場だった)。雄略朝の末期に、逃亡中の父と娘が丹後で別れて、父は海外(鬱陵島)に身を隠してから、娘のほうが名乗り出たか、少なくとも伊勢神宮が娘を保護することに決めたということではないのか。その結果、飯豊王は雄略天皇生存中にすでに世にデビューはしたが、雄略帝崩御に蝦夷たちが「時を失うべからず」というのは飯豊王の父なり兄弟なりを天皇として擁立するチャンスだという意味になり、そうなれば飯豊王は蝦夷の利益代表としてより高い地位にあがることにもなる。
繰り返すが意祁王・袁祁王の兄弟は市辺押歯皇子の子ではなく孫か曾孫である(このブログの他の頁でも説明している)。だから両帝兄弟の姉の飯豊王女も、市辺押歯皇子が殺され履中皇統が亡ぼされた時に、女性だからって殺戮をまぬがれたのではなく、生まれてなかったのである。父の久米若子(顕宗天皇とは同名だが地方伝承では別人でその父)か橘王(書紀は誤って兄とするが父か祖父だろう)が逃亡して民間に潜伏中に生まれたのだが、女性なので世に出ても大目にみられ殺されはすまいとみて、雄略天皇の前に現われた。それが雄略天皇が吉野で出会った「常世の乙女」の話なのである。彼女と入れ替わりを演じた春日の袁杼比賣(をどひめ)の名は「蘇生・復活」を意味するがこれは一度ほろんだ履中皇統の復活を示唆してもいるかもしれない(彼女は和邇氏の娘だが、陸奥の飯豊山の物部臣も饒速日系でなく和邇氏で同族なのは前述の通り)。
若い頃の大長谷王(雄略天皇)はただ暴れたかっただけで何も考えておらず、皇位を狙っていたのでもない。まだ子供で殺人衝動を抑えられない大長谷王に「あの人は悪い人だからやっちゃっていいんですよ」と唆した大人がいたはずで、おそらくその黒幕は木菟宿禰かその子の平群真鳥のどっちかだろう。そもそも少年だった大長谷王を天皇に祭り上げて美味い汁を吸おうとした者たちは別として、大長谷王本人としたら押歯王と利害対立や敵対関係があったつもりはない。皇位を望んで暴れてたのでもないのだから、押歯王の子孫がいたなら皇位を譲ることもやぶさかでなかったと思われる。むろんそれは困る連中が山のようにいるから、そういう情報は天皇の耳には入らないように遮断される。雄略天皇とすれば、罪のない押歯王をわけもわからないまま何となく殺してしまったのも、おとなになってから後々えらく後悔しただろう。ただそんなことはインタビューしてみなければわからないし、そんな恐ろしい質問をする命しらずもいない。詳細は不明だがすったもんだで、飯豊王女は皇籍に復帰し、飯豊王女が当主として履中宮家が復興した。そこまではよかったが、皇位継承権のない女性だから許されてるのかも知れず、男子の生き残りがいることを天皇に打ち明けるのはもう少し陛下の大御心を知ってから、と思ってるうちに陛下が崩御してしまった。それで意祁王・袁祁王の兄弟を世に出すチャンスを失ってしまった。しかしそれは履中宮家の関係者だけの内輪話であって、雄略天皇には関係がない。雄略天皇にしたら、押歯王の子孫が見つかったら、男子だろうが女子だろうがそれを優遇するのは当たり前で、押歯王への罪滅ぼしは若い頃からの、長年の懸案だったのだから。二王子は記紀では播磨に潜伏していたことになっているがこれは発見された当時の場所であり、民間伝承では尾張説もあれば紀伊説もあり、あちこち移動してたんだろう。飯豊王は弟たちとは別行動で奥州は飯豊山に潜んでいたということになる。この山は『陸奥国風土記逸文』によるともとは豊田山といっていたのが飯豊王のゆかりでのちに飯豊山となったという。さすれば青森や岩手や福島仲通り地方(田村郡)など、東北各地に残る「飯豊」という地名はすべて彼女の潜伏地だったのではないかw 雄略天皇にすれば人生最大の汚点でもあり長年の懸案だった案件が陸奥から出てきた少女によって解決したのである。陸奥とは雄略天皇にとってそういう土地であり、三重の采女が「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」と詠う時、その短い詩にこもる万感の想いを書き延ばせば、『その地の果てまでも知ろしめす大いなる陛下。その夷(ひな)=辺境の、陛下の知ろしめす土地が、かつて誤って滅ぼしてしまった履中皇統の血筋の、若い世代(雛)を育てていた土地なんですよ。その辺境の、陛下の知ろしめす土地こそが。』となるだろう。ここまで解釈してようやく、雄略天皇が采女を処刑するのをやめた理由が腑に落ちる。

王権の起源は天地創造に由来する
しかしケヤキの葉は下つ枝で止まらず、さらに下に落ちて盃に入ってしまった。采女としてはこの失態を歌の力でメデタイ話に転換しなければならない。下つ枝よりさらに下に落ちたのだから、これをこの詩の喩えでいえば、陸奥国よりさらに東に行ったことになる。陸奥より東といえば一つの考え方では今の北海道を想定することもできるが、ここはそうではなく、福島沖か三陸沖かわからぬがもはや陸地のない大海を漠然とさしているのだと思われる。海ばかりで国がないけど、国が産まれるかもしれないじゃん、と詠っている。
学者は日本神話はツギハギだと堅く信じこんでるので、この歌も「三重の采女の作詞ではなく国生み神話を伝えた海人族の歌だ」なんぞとボケまくったことをいうのだが、歌も聴く側の人々も国生み神話を知らなければ神話を引用する文学的な効果がないだろう。神話は当時の日本人なら山の民でも海の民でも貴族でも百姓でも、みんな同じ神話を聞き知ってるの。中央政府の語部(かたりべ)のおかげでな。出雲人だけの神話だとか日向人だけの神話だとかそんなものはない。最初から、全体で一つの神話なのである。世界規模で共通なのに狭い日本の中で違ってるわけないだろう。だから王権が成り立ってる。現代人は財力と武力があれば国は成り立つと思ってるのかもしれんがそんな貧相な思考で政治やってるから世の中が悪くなるんだよ。
国生み神話のところで以前に説明したが、鹿児島の桜島とか北海道の有珠山とか、最近話題になった「西之島新島」みたいに海底火山の爆発で新しく陸地ができるって例は火山の多い島国日本では昔からちょいちょい観察されたことだろう。神話の「塩こをろこをろ」、この歌の「水(みな)こをろこをろ」も海底火山の爆発の音(水中なのでゴロゴロゴロ…とかゴゴゴゴ…という籠もった音になる)。しかし小さな盃に落ちたたった一枚の葉から、いきなり「水(みな)こをろこをろ」と言ってもすぐには壮大な火山神話を思い出さないかもしれない。だからウキ(盃)に「ウキシ(浮きし)脂」と先に導入部を用意してる。当時でもその場に列席している者の中にもし頭の悪いやつがいたら、「ウキ(盃)にウキシ(浮きし)はわかるが脂(あぶら)ってなんだ?」ってことになりかねないが、続けて「こをろこをろ」とくれば「あ、あの浮きし脂か」と思い出して最初から気づかなかったことに恥じ入るのだろう。誰でもが同じ神話を知ってるからだよ。陛下の御威光は東の辺境、陸奥国に留まるのではない。天照大神が天皇に授けた世界は「土と水」から出来ているのであり、祈年祭の祝詞に「船の舳先が海の彼方に衝突するまで」とあるように、太平洋のはてまで我が帝国の領海なのである。それを忘れるというのは毎年きいてるはずの祈年祭祝詞を忘れるということであり、不敬であるばかりか大恥だろう。
飯豊王女がやってきた陸奥国の話で感動させておいて、天皇の気持ちはしっかり掴んだが、そこで終わっては失態を繕うのに十分でない。すかさず自分の失態を隠すのではなく顕して、ありのままに天地開闢の話にまでもっていく。朝廷に仕える身分高き大神官でもない一回の采女が歌い上げるには、あまりにネタが尊貴にすぎ、普通ならたじろぎそうなところ。だが彼女のドヤ顔が浮かぶ。これでも私を処刑できますか、と。ここで終わると歌としては完成だが、彼女自身が尊大にみえてしまう。そこでシメに「事の語り言、こをば」がつくわけなのだ。これは大国主と須勢理姫の歌合戦にも出てくる。あれは舞台での演者が「古来より伝わる伝説ではこうです」というナレーションみたいなもの。しかしこの歌は三重の采女の作詞なんだから四角四面に考えると「事の語り言、こをば」がつくのはおかしい。だからこの歌は天語歌(あまがたりうた)といって海部(あまべ)に伝承されたもので個人の作詞でないというのだが、文学表現なんだから四角四面に受け取っちゃダメだろう。三重の采女がいってるのは、自分の歌があまりに出来が良すぎるので、自分の手柄にすると高慢にきこえる。だからこの歌が陛下を讃えているのは、私の独創ではなく古来からの神話をお伝えしたまでです、という謙遜であり遁辞なのである。そしてこれもまた一つの正論だから誰も三重の采女を責められない。

「天語歌」は海人の歌ではない
折口信夫の説では、「あまがたり」の「あま」は天のことではなく「海人」のことで、安曇氏とかの海人系が伝えた伝承だって言うんだが、これただのダジャレじゃね? これがひじょうに疑わしい説だということは、山路平四郎という学者の『「あまはせづかひ」私考』という論文に詳しい。ネットでも読めるから検索してみて下さい。

伝承の過程で洗練されたのではない
(※後日に文章を追加予定)

「少女vs大王」の駆け引き
次に采女の歌に和して大后が詠う。この大后は、一説では若日下部王だというのだが、若日下部王は雄略帝よりもずっと高齢だったと推定しているので、雄略帝の晩年にはとっくに薨去していたのではないかと思う。この歌は仁徳天皇の皇后、磐之媛(記:石之比賣)の歌の丸パクリだから、ここでいう大后というのは磐之媛のことだろう。むろんこの時期に生きていたわけではない。原文には「○○が大后石之比賣命の歌を歌った」とあったのに文字が落ちて、「大后が歌った」になってしまったんだろう。じゃ誰が歌ってるのか、それはいうまでもなく「自称・豊受姫」つまり飯豊王女だろう。この宴会は新嘗祭の宴会だが、飯豊王女のお披露目も兼ねていたのだろう。
歌の意味自体は天皇を讃えるだけの凡庸な歌だが、「酒を勧めなさい」と采女を認め励ましている。天皇の気がかわらないうちに采女の処刑を取り止めた天皇を賛美して三重の采女を支援しているともいえる。で、この歌を磐之媛の丸パクリというと語弊があるが似すぎていて少なくとも「本歌取り」だとか「引用がある」って程度にはいわないとならんだろう。飯豊王は三重の采女の「事の語り言、こをば」が気に入って早速自分も使った。これをつけておけばある意味責任のがれもできる。最後に「事の語り言、こをば」をつけることによって、「この歌は磐之媛の歌にソックリだと思ったでしょう、そうなんです、私の歌じゃないんですw」というニュアンスが出せるのだ。では飯豊王はなんで磐之媛の歌(もしくは磐之媛の歌に似せた歌)を歌ってるのか。磐之媛というと仁徳天皇との仲がよくなく、古事記では最後まで皇后のまま生きていてそのため仁徳天皇と八田若郎女は結ばれなかったことになっているが、日本書紀では和解せぬまま薨去して、仁徳天皇は八田若郎女を「のちぞえ」として迎えたことになっている。どっちにしろ古事記をみても書紀をみても八田若郎女をめぐって夫婦喧嘩したまま和解した様子がない。そんな人をわざわざ思い起こさせるような歌は縁起が悪いのではないか? 一つの案としては、雄略天皇が飯豊王を自分の妃の一人にしようと思ってるような様子がチラホラ見えたか、もしくは(古事記の本文には明記がないが)天皇から求婚されたんだろう、それで「私は磐之媛のような女です、仁徳帝といがみあった磐之媛のように陛下とくっつくことは無いッス」という牽制のメッセージを送ったのではないかなw
天皇からの求婚を拒むということはこの時代、心理的にはかなり難しいことだったろう。だが、三重の采女の歌は、聴く者の意識を世界の神話的根源に遡らせる。だからこの後は、人々は本質的なことだけを考えるようになる。くだらない建前がとりはずされ、本心に生きるようになる。普通なら我慢してしまうことを我慢せず、偽りに生きることをやめ、言いたいことを言うようになった。天皇からの求婚を拒むことができたのは三重の采女から勇気をもらったから、という表現もできるかな。
で、天皇がこれに返しての歌は、宴会の参加者たちを群がる鳥たちに喩えて「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしているわい」といってるだけ。普通に考えるとこの酒盛りしてる人々の中には当然天皇自身も入っている。これは凡庸な解釈をすると「我々は酔っ払いだ」といってる、つまり求婚したのは「酒の上での戯言(ざれごと)じゃ」として求婚を撤回した、とこうなる。あと鳥に喩えた理由が二つ。一つは鳥というのは勝手に飛んできて自由に去っていく「自由の象徴」でもある。「女たちよ、宮中に留まるも去るも君らは自由だ」といっている。だから飯豊王を拘束するようなこと(=求婚)はしない、と。二つめは飯豊王の名「イヒトヨ」は古語でフクロウのこと、これも鳥だ。この宴会場にいる者たちは飯豊王と同じ鳥たちであり仲間だと。しかし以上の説はすべて間違いだと思う。凡庸すぎて、いくら齢とって丸くなったとはいえ、あの雄略天皇がこんな平和ボケした歌を詠むはずがない。「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしている」のは、それはそうなんだが、その中に雄略天皇と飯豊王は入ってないのである。この歌には鳥たちとして具体的にウズラ、セキレイ、スズメと3種類でてくる。どれも可愛らしい小鳥だが「微笑ましいなぁ、平和だなぁ」って歌に受け取ってしまったらダメ。それじゃ雄略天皇のキャラ崩壊ってことになるじゃんよw

衆愚どもへの怒りw
よく映像を浮かべてほしい。小鳥たちが遊んでるところにフクロウが入ってきたら? 猛禽類のフクロウは普段からこういう小鳥を捕食してるんじゃなかったっけ? 雄略天皇は飯豊王に「ここに集まってる無能な飲んだくれどもは、お前さんの餌みたいなもんよ」といってるのではないのか? 急に殺伐としてきたなw しかもそう考えてから改めて読むと天皇はこの小鳥たちを単にかわいいといってるのかも疑問だぞ?「ウズラは着飾ってる、セキレイは交尾している(婉曲表現になってはいるが)、スズメは群がり集まっている」と歌ってる。小学館の日本古典文学全集の訳だとスズメのところは群がり集まって餌をついばんでる様子に解釈してるから「食うこと」を象徴している。岩波の古典文学大系だと「難解の句であり明らかでない」としている。目的が明示されず単に集まるという時は、たいてい会議か雑談、世間噺のためだから、後世のスズメの象徴的用法と同じく、群がり集まってどうでもいいウワサ話とか無駄な「おしゃべり」ばかりしている連中という解釈もありだろう。つまりこの3種の鳥はファッションとセックスとグルメ(またはゴシップ)しか興味のない衆愚を象徴しているとも取れる。略してFSG(3つめのGはグルメでもゴシップでも可、両方かねてても可)。『シオン議定書』の3S(セックス・スポーツ・スクリーン)みてぇだなw ファッションはスーツ、ゴシップはスキャンダル、グルメはスイーツに置き換えればこっちも3Sに出来るw つか議定書の3SよりFSGの3Sのほうが頭悪そうw 議定書の3Sのほうがいくらかマシだぞこれw 雄略天皇は若い頃から大陸式の外来文化が大好きで、帰化人を寵用したし、それまで儒教の可否をめぐって対立していた日本人が儒教を受容することで合意したのもこの天皇の時代だった。中華文明を採り入れて見た目ははなばなしく栄えている日本だが、老境に至ってこんな世の中で良かったのかなって気持ちになっていたのではないか。三重の采女の歌の力で、神話的根源へ遡った意識が大事なことを思い出させてくれたのだ、と言ってもいいかも知れない。
そう、雄略帝は王者としての振る舞いと神としての仕事を思い出したのだ。
吉野の山奥で半裸の野蛮人みたいな、というか、自然児みたいな田舎娘と出会っても、場所が場所だからなんとなくそういうものかなで済んでいたが、都の真ん中、文明の中心たる宮廷につれてきたら、万博で展示される珍獣みたいで、じゃなかった、堕落爛熟して腐臭をはなつ現代文明とは対象的な純粋さに、ちょっといいかなと思っちゃって、「わしの皇后になれば栄耀栄華は思いのままw 天下もくれてやるわw」と悪のラスボスが最終回に主人公にいうセリフみたいなこと言ってるんじゃないのかw まぁこのイベントは実際に雄略天皇崩御の直前ぐらいの出来事だと思われるので実際に最終回っちゃ最終回なんだがね。だからさすがにもう寄る年波には勝てず、本気だったかどうかわからない。自分のキャラに殉じた演技だったのだ。だから「事の語り言、こをば」でシメている。これは舞台上のセリフですよ、超訳すれば悪のラスボスの最終回のセリフですよ、と自分で説明している。飯豊王は奥州の山奥で獰猛精悍な蝦夷(えみし)の男女に囲まれて育ったから、猛禽類のその名の通り、少々野蛮で武闘派な少女だったんだろう。バトルヒロインだなw こういう宮崎アニメみたいなのに現代のオタクはハァハァするのかもしれないが、残念なことに雄略天皇自身の性癖趣味とはぜんぜん一致してない。だから天皇もいまいち本気汁が出てない(ちなみに陛下のご趣味は老婆専門であることはこのブログでも何度か言ってる)。

雄略帝は記では宝算124歳、書紀では62歳、在位23年だが、書紀は奈良時代に神功皇后を卑弥呼の時代に合わせるために年代を引き下げた上、応神朝と仁徳朝の在位年数を長めにとったため、雄略~継体朝あたりがぎちぎちに短縮されている。辻褄あわせで編年を構成したのであってむろん信憑性はない。俺の推定では雄略帝の宝算は99歳が正しい。記は25歳も伸ばされているが、これは在位の26年めをまた元年として数え直したからである(古代中国で「後元」といったもの)。在位年数の通算年数を後元だと誤認すると、通算値を出すため前半の25年を2回足してしまうから宝算99歳が124歳になるわけ。

この3つの歌は「天語歌」(あまがたりうた)というとあるので、折口信夫は海部(あまべ)つまり海人族の伝えた歌だといってるが、海の話って「水(みな)こをろこをろ」の一か所だけ、神話だから壮大すぎて日常風景的な磯の香りがしない。そうじゃなくて、あまりに名作すぎるから人口に膾炙するわけで「例のあの歌」じゃ不便だから名前がつくわけだ。これは三重の采女の歌の「上つ枝は天を覆へり」の「天」と「事の語り事こをば」の「語り」、いちばん面白い部分の始まりと特徴的な繰り返し部分ををくっつけて作った名前だろう。
さて、以上の解釈だと、天皇と飯豊王の歌の掛け合いは完結してないような印象になる。つまり続きがあったのではないかと思いたくなる。しかし飯豊王は田舎育ちで歌が苦手だったんだろう。磐之媛の歌をパクってるだけだし。ちなみに昔の天皇や皇族の歌は語部(かたりべ)のネットワークが健在だった時代にはすぐ全国に広まって流行するから、田舎の娘でも磐之媛の歌は知ってたのだ。あるいは天皇の歌の後、同席していた袁杼比賣(をどひめ)が陛下をお諌めしたか、ヤキモチを焼いてみせたかして、飯豊王に助け舟を出したのかもしれない。だから宴会が解散した後も袁杼比賣だけは陛下についていた。それが次の歌のやりとり。

哀しみと幸せのラスト
古事記は続いて袁杼比賣(をどひめ)と天皇の歌のやりとりを載せているが、この宴会と同じ日だとわざわざ細かいことを書いてるから、つまりこの宴会の席ではなくて、宴会が終了して解散した後のことだろう。天皇は宴会では威厳を保たなければならないと思ってかあるいは齢のせいかあまり飲んでなかったんだろう。宴会が退けてから袁杼比賣にお酌してもらっていた。そこで天皇が歌った歌は、「お嬢さん、しっかりお酒ついでくれたまえよ」っていうだけの歌なんだが、お酌に不慣れな若い女子をからかってる歌だという説や、「酒壺(ほだり)をしっかり持てよ」というホダリが男性器の隠語で猥褻な歌なんだとかの説もある。この歌は『琴歌譜』にも乗っていて『琴歌譜』は古代の歌謡を集めて琴の奏法が書かれ、近衛家に伝わった貴重な古文書なんだが、それには「一云」(あるいはいふ、一説に曰く)として、この歌はこの時(晩年の宴会)で雄略天皇が歌ったのではなく、雄略帝がまだ皇子で葛城氏を滅ぼした時、葛城氏の娘の韓日女娘(からひめのいらつめ?)が哀しみ傷んで作った歌だという異説が載ってる。韓日女娘は古事記に韓比賣、書紀に韓媛と書き、この乱より以前から大長谷王に嫁がせることにはなっていたらしい。妃となって清寧天皇の母になっているが、この時期(雄略帝の晩年)には韓日賣もすでに薨去していたと思われる。若い頃の大長谷王(=雄略帝)は少年時代から相手が老若男女とわず(老女を除く)ささいなことでホイホイ殺してしまうので怖がって嫁の成り手がいなかったと書紀に書かれている。だから韓媛も本当は大長谷王の妃になりたくはなかったんではないか。でも父が謀反人として成敗され実家が滅亡してしまったので否も応もなかった。『琴歌譜』が引用する異説が正しかったとしたら、この歌は単に歌として切り取れば表面的には楽しげな軽い歌だが、歌われた背景と込みで解釈すると実は哀しみに満ちた歌だとわかる。
雄略天皇は宴会がひけて別室に移り、ようやく酔っても問題ない時間に安心し、袁杼比賣にお酌してもらった。そこで亡き妃を思い出し、自分が若い頃に犯した罪悪を反芻している。それでこの歌を歌っている。むろん謀反人を滅ぼすことは正義の行為で葛城氏のほうが悪だったのだが、当時の大長谷王は正義のために立ち上がったのではなく、ただ暴れたかっただけなのだし、韓媛にも罪はなかった(当時は江戸時代のような血縁連座制という考え方はなく大罪人の子孫も貴族として残っていることが多い)。飯豊王も世が世なら宮廷で生まれ育ったはずなのだが、女ターザンみたいになっちゃったのは大長谷王が葛城氏を滅ぼした後にまだ暴れたりなくて、履中宮家(=押歯王の一家)を皆殺しにしたからなんだよね。女ターザンは無いわ、スマン、スマンw ともかく自分のための罪滅ぼしだけでなく、亡き韓媛への供養だか慰霊だかのためにも、飯豊王を守ってあげたいという気分になっていたのではないか(この当時は供養なんて概念なかったろうが、まぁ慰霊のようなことで)
これに対する袁杼比賣(をどひめ)の歌がまたいい。ただ一緒にいたいというだけのシンプルな歌なんだが。三重の采女の歌ですら原文も訳文もあげてないのに大サービスw

休みしし 我が大君の

朝とには い寄りだたし 夕とには い寄りだたす

脇机
(わきづき)が 下の

板にもが 吾兄
(あせ)


私だけが知ってるプライベートでお休み中の陛下。その陛下が朝となく夕方となく、いつも、もたれかかっているご愛用の脇息(ひじかけ)になりたい、その下のおしりが直接すわってる床(ゆか)にもなりたい、そうしていつも一緒にその脇息(ひじかけ)や床のようにあなたにぴったりくっついていたいのです。愛するあなた。

※詞の区切り方と行かえは昔の角川文庫(武田祐吉バージョン)をもって至高とすw
※脇机(わきづき)ってのは後世でいう「脇息(きょうそく)」のことだが現代では「キョウソク」っていっても何のことだかわからないだろうね。時代劇でよく殿様が肘をおいてる道具で、肘かけ付きの椅子の肘かけの部分だけもってきたみたいなやつ。やや不正確ではあるが「肘かけ」と訳すしかないかな?

この時の雄略帝は、歴史に残る数々の功績もあれば、見苦しい失態や恥もかいてきた、年齢を重ねた男なわけで、周囲のおとなを心配させていた子供時代と違って、まさに現人神(あらひとがみ)と畏れられ、威厳は天下を圧倒してみな平伏する。しかしすでに90歳を軽く越えてw、気づけば周囲は世代の違う若者ばかり(60歳でも帝からみれば若者w)、やみくもに人を殺しまくっていた少年時代の自分を知る者はみな死に絶えてしまった。孤独だったろうな。その深い哀しみなど、袁杼比賣のような小娘にわかるわけがない。いや、わかるのかも知れない。猪口才な言葉であれこれ慰めようとしても人生経験のない小娘の言葉は安っぽくなる、とも限らない。むしろ小童の言葉を神託として畏怖する文化が最後まで残っていたのが日本で、雄略天皇の出発点も「少年王」だったではないか。だがその少年王も今は年老いて、長生きしすぎたために「幼童神」の文化の最後の残影のようになってしまった。儒教によって日本人は理屈をかたりそれによって自意識を作ることを覚えてしまった。「幼童神」はみずから引き入れた中華文明によって死んだのだ。もう古事記も巻末が近い。ここはすでに現代であり、袁杼比賣は神託を語らない。大貴族の娘だから『論語』と『五経』くらいは仕込まれているんで、もう悠久太古の神託をかたる子供にはなれない。だから安っぽい言葉になることを畏れ、余計なことは言わない。文明以降では神話は文学へと崩れてしまうので言葉は経験の裏打ちあってしか深まらない。だから袁杼比賣は余計な言葉は何もなく、ただ一緒に寄り添っていたいとだけ詠う。陛下の哀しみ、代われるなら妾(わらわ)はこのままここにいたい、と。朝もよりかかり夕方もよりかかる愛用の肘かけに、肘をおいて頬づえつく手をかえるだけで、陛下はなんにも話さない。朝夕いっしょに寄り添ってる肘かけのような味方が、一人はいるの、わたしがその肘かけになれればいいのに。麻生圭子作詞、nobody作曲、1988年、浅香唯『セシル』。YOUTUBEから適当に検索どうぞw 今すぐ聴くようにw

袁杼比賣は浅香唯である
聴いた? 聴いたな、よし。1988年は岡田有希子の自殺から2年後、アイドルソングはかつてのイケイケで少々ぶっとび気味な歌詞から一転して、癒やし系・泣かせ系の、応援ソングっていうの?がでてきた。同じ88年には酒井法子の『GUANBARE』(森雪之丞作詞、馬飼野康二作曲)もあったな。その後、アイドル氷河期に突入して、マイナーアイドル(当時はB級アイドルっていってた)全盛期に。不思議なもんで氷河期の地下アイドルすれすれなB級アイドルが「アイドル文化」としては絶頂期だった。いろいろあるんだが今たまたま思い出すのは中嶋美智代、まだいくらかメジャー組だったと思うが91年のデビュー曲『赤い花束』(遠藤京子作詞、羽田一郎作曲)だな。おとなしい曲調の印象深い歌だった。この頃のアイドルの話は無限に続きキリがないのでやめとくとして、浅香唯に話を戻そうw 浅香唯といえば『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』(1987年)の3代目麻宮サキ=風間唯だが、あれもとんでもない田舎娘って設定だったようなw いいよな田舎娘w ちなみに『セシル』の歌詞の中で「苗字で自分を呼び捨てする いつもの私もおとなしい」って部分、「苗字で」だと思ってる人が多い(ほとんどのサイトも間違ってる)が、俺もそう思ってたんだよ。でも正しくは「幼稚で」らしいな。「苗字で」のほうが幼稚にきこえるけどw みんな「苗字」って聞こえてたのは、そのほうが萌えるからだろうw 雄略天皇の時代には苗字なんてまだ無いわけだが、氏名(うぢな)やカバネはあるわけで、袁杼比賣が自分のことを和邇臣(わにのおみ)ってよんでる絵が浮かぶ。これが春日臣(かすがのおみ)では台なしで、演出家がわかってないってことになるw 俺の計算ではこの時袁杼比賣の年齢はどんなに若く見積もって中3か高1ぐらい、これ以下ってことはありえない。90歳こえてる天皇の前で「この和邇臣のお酌をお受けくだされい」(現代語訳)とか言ってたのかね。
昭和公園のケヤキ
関連記事

英雄・崇峻天皇殺害の真相

令和2年6月3日改稿 H28年2月17日(水)初稿
(※この頁は「浮屠の乱(用明天皇)」からの続きです)

まえおき(読み飛ばして可)
崇峻天皇も在位が極端に短く、そのため古事記に物語が載って無くても不思議はないが、似たような「在位の短い天皇」は欠史十代の中でいうと武烈・安閑・宣化・用明天皇がいる。しかし、拙ブログの読者ならお気づきのように、別に在位期間が短いから物語がない、という理屈はないのである。短い在位でも大事件というのはありうるし、長い在位でも天下泰平でたいした事件は起きなかった、なんてこともありうるわけで。その天下泰平というのは継体天皇の崩御で終わり、その後は激動の時代が始まったことはこれまでの回で述べてきた。だから欽明天皇以降にかんしていうと物語が載ってないのは、古事記の原資料を伝えた語部(かたりべ)にとって不愉快なネタしかなかったからである。もっと正確にいうと、語部の物語は今でいえばミュージカル風に歌い踊って上演するものなのであり、古事記の原資料はその台本なのである。そのような台本の最後に作られたのが武烈天皇物語(現存の古事記は誤って顕宗天皇物語になってるが)であり、欽明天皇以後の歴史は語部的な価値観が否定されていくような事件ばかりなので、上演の新たな演目は作られなくなったのである。崇峻天皇は古事記では2行くらいで終わり。欠史十代の中では安閑天皇と同じぐらいの分量で、綏靖天皇から開化天皇までの欠史八代でもこんな短い記事はない。しかし安閑天皇は実は内容豊富で書ききれないほどの人だったことはこのブログで書いてきた通りで、従って崇峻天皇も実は書くべきことは多いのだ。

1年遅れの即位か?それとも譲位か?
例えば、崇峻天皇は、書紀は在位5年としているのに古事記では4年という。しかし崩年は記紀で一致している。
一つの解決案としては、即位元年が書紀は1年前倒しに編年していると考えられる。崇峻元年は書紀だと戊申(588年)だが古事記では己酉(589年)が元年で、戊申(588年)は空位ってことになる。この説の問題点は、推古天皇の在位が日本書紀は36年とするのに古事記は37年としており1年長い上に、崩年は記紀で一致しているから古事記に従えば推古元年は崇峻天皇の末年(崩年)とかぶってしまう。通常は「踰年称元」といって即位の翌年を新帝の元年とするのだが、実際は先帝の崩年は新帝の最初の治世でもあるのだから即位のその年(=先帝崩御の年)を元年とすることもありうる。これを「立年称元」という。推古天皇だけが、なぜか珍しく「立年称年」だったということになる。そんなことあるかね?
別の解決案としては、推古天皇も通常とおり「踰年称元」だったとするとその即位は書紀でいう崇峻四年のことになり、そうすると崇峻天皇が崩御した壬子年(592年)を崇峻五年とするのは日本書紀の誤りであり、正しくはこの年はすでに推古元年で、崇峻天皇は前年(崇峻四年)に譲位していたことになる。

立年称元と踰年称元
即位したその年を元年とする方法を「立年称元」または当年称元、エジプト式、アンチデートシステム(antedate system:時前制)などという。これに対して即位した年の翌年を元年として数えるのを「踰年称元」または越年称元、メソポタミア式、ポストデートシステム(postdate system:時後制)などともいう。『史記』をみると中国では古くから「踰年称元」だったが、平勢隆郎の説によると古くは「立年称元」だったのが戦国時代のあたりから「踰年称元」になったという(ただし一時期は有名だった平勢説もいろいろ問題点が指摘されているのでそのまま真に受けるのもアレだが)。日本書紀を信ずる限り日本は昔から一貫して踰年称元でやってたってことになる。現在の日本は皇室典範の規定により、大正以降は立年称元になっている。バカげたことだ。これで令和が4月からという意味不明な議論をするはめになったが官僚や政治家に教養があればこんなバカげた議論はなかったはずだ。

だが書紀の編集方針として「譲位はありえない、崩御してからの即位のはず」という前提で編集しているので、書紀は推古朝を1年遅らせている。

もし崇峻天皇即位が1年遅かったとした場合
書紀をみると戊申(588年)には百済から仏舎利と仏教建築の技術者などが献上されてきたこと、蘇我馬子が百済僧に授戒について質問したこと、尼らを学問僧として派遣したこと、法興寺(飛鳥寺)の建立に着手したこと等が書かれている。『元興寺縁起』でも大枠同じような話が崇峻元年=戊申のこととして出て来る。元興寺も法興寺(飛鳥寺)も同じ寺のことで、この年は元興寺の建立の年でもあるわけだが、天皇空位の年では天皇の統治下での建立ではないことになってしまい格好がつかない。日本書紀では用明二年(587)八月二日に炊屋姫尊(かしきやひめのみこと=額田部皇女)と群臣が泊瀬部皇子(=長谷部王)に即位を勧めて即位させたとある。それで翌年が崇峻元年となるわけだがこれは「踰年称元」だ。この場合、日本書紀は『元興寺縁起』等の仏教系資料に基いて崇峻元年を決めたのだろう。炊屋姫尊と群臣が勧めたからって長谷部王がほいほい天皇になったかといえばそんなことはない。そもそも長谷部王は物部側の人間なのである。それなのに本心を隠して蘇我の側につき崇仏派のふりをしていた。ただし皇族の中では最上位に近いため、物部と蘇我の合戦では形式上は蘇我側の総大将(最高司令官)の地位に祭り上げられていた。むろんその合戦では、自軍を裏切り、工作をしかけて物部に内通して蘇我を総崩れに追い込む計画だったのであるが、いろいろあって巧くいかずチャンスを逸してしまった。そうなると形式上はこたびの合戦の勝利者のトップに立つ人間ということになり、炊屋姫尊でなくともとりあえずまず今回は長谷部王が天皇に、となるのは自然の流れであり、蘇我馬子は内心では少々あやしい(実は物部派では?)と思いつつも表向き反対しづらい。炊屋姫尊の本心としては当然我が子である竹田王を天皇にしたいのだが、日子人大兄王を除けば、自然な順位としては長谷部王が天皇候補であり、竹田王はその次になる。ここで長谷部王が即位してしまうと長谷部王が長生きした場合、竹田王の出番がなくなってしまうので、炊屋姫尊の策としては、この戦では多少でも竹田王に武功を立てさせ、それを長谷部王が針小棒大に褒め称えて辞退すれば、竹田王が即位してもなんとか格好がつく。その空気を察して他の皇子たちも目立たないようにしていた。厩戸王も表向きの武功ではなく裏方の工作をしかけていたのは用明天皇の回で説明した通り。しかし血気はやった竹田王は局地戦で敗れて重傷を負ってしまったらしい。炊屋姫尊にしろ馬子にしろ、物部が壊滅してしまった今、仮に長谷部王が排仏派だったとしても今更なにができようと見くびっていたのかもしれない。長谷部王にしてみれば事やぶれて死ぬはめになることは覚悟していたとしても、まさか自分が蘇我側のトップとして勝利者の栄冠を受けるとはまじめに予想していなかったし、今ここで即位しても用明天皇がそうであったように蘇我馬子の傀儡にすぎないことは理解していた。このたびの勝利は形式上のトップである長谷部王の力でなく蘇我馬子の力なのであるから。だから長谷部王は皇位を辞退して他の皇族、例えば日子人大兄太子(ひこひとのおほえのひつぎのみこ)か竹田王を一旦は推挙したに違いない。だが日子人大兄太子は完全に隠遁気分でシャットアウト、その上、彼の即位は蘇我の利益にも反するから実現はしない。ただ建前上は正統の家系だから推挙してみせることが可能というだけ。竹田王はこの戦の後は歴史から消えてしまうのでこの戦で戦死したのではないかという説も根強いが、前述の通り、おそらく竹田王はこの戦で負傷して瀕死の重傷だったのであろう。長谷部王にしてみれば大歓迎されての即位ではなく「しかたなく選ばれた」次善の策みたいな天皇では、権威も権力もたいして望めず、用明天皇と同じく傀儡になってしまうことは目に見えているから、ここは逃げたい。だから長谷部王からの提案は「竹田王の回復を待ってから竹田王に即位してもらおう」というものだったと思われる。これが逃げを打つ最後の手段だったのだ。そうやって一年間は先延ばしにしたが、しかし竹田王は回復が遅れ、現時点では見通しが立たないと判断されたんだろう。それでもう逃げられなくなってやむなく天皇になったのが589年なのだとすると、その前年の588年は天皇不在の空位の年なのである。ただ絶大な権威をもった炊屋姫尊と絶大な権力をもった蘇我馬子が「長谷部王が天皇です」と勝手に決めつけ宮廷の内外にもそう吹聴していたから世間的にはなんとなくそう思われていたので、またそのほうが都合のよい元興寺(飛鳥寺)でも『元興寺縁起』にある通りこの588年を崇峻元年としている。日本書紀はそれに依拠して編年したのである。あるいは、後付けで「587年は長谷部王の称制だった」ということにした、とも考えられないこともない。
しかし以上のことは考えすぎであろう。もし「一年間の先延ばし」もできなかったとすると、書紀のとおり、やむなく天皇になったのが587年で、崇峻元年は588年でよいことになる。これをムリにも否定して新説を立てなければならないような矛盾はとくにない。

崇峻天皇の戦い
よって、ここは『日本書紀』のいう通り、587年に即位して588年が崇峻元年だとして話をすすめよう。何度もいう通り崇峻天皇は本心では排仏派だったが、心ならずも成り行きで蘇我の傀儡天皇にされてしまった。しかしまだ諦めてはおらず、なんとか蘇我氏を打倒して物部守屋の仇を討とうとしていたのである。

崇峻二年(589年)・天皇のクーデター計画
近江臣蒲(あふみのおみ・かま)を東山道に、宍人臣鳫(ししひとのおみ・かり)を東海道に、阿倍臣枚吹(あべのおみ・ひらぶ)を北陸道に派遣して東国を視察させた。この3人は崇峻天皇の腹心かと思う。徴兵して軍事力を充実させるための下調べだろう。名目は後述のように任那復興(新羅征伐)のためである。この頃、任那復興は国家的な課題とされ、錦の御旗になっていたから怪しまれることはないが、実は天皇の私兵を密かに確保しようとしたのではないか。

三年(590年)八月
任那復興の詔勅。これは(少なくとも建前上は)朝廷あげての共同課題だからどこからも文句が出ない。別な言い方をするとこれを表向きの理由にすればなんでもできる。

四年(591年)十一月四日・クーデター失敗と天皇拘束
この日、5人の将軍に2万の兵を与えて九州まで進ませた。この5将軍のうち4人までは神仏戦争の時の武将で、蘇我馬子の配下だが、5将軍の1人、巨勢臣猿(こせのおみ・さる)は崇峻天皇の腹心かと思われる。おそらくこの時、崇峻天皇のクーデター計画の一部が漏れてしまったのだろう。崇峻天皇はのちに暗殺されてしまったので未遂に終わったが、裏では着々と蘇我打倒のクーデターの準備をしていたのである。未遂に終わったので計画の全貌は不明だが、任那派遣軍の一部がかかわるものだったかと思う。任那復興軍が玄界灘を渡る前に反転して、当時に東国軍も西上、中央で蜂起した天皇のクーデターに呼応して蘇我政府を撃破するという計画だよw そこまでうまくいかないとしても少なくとも脱出できるだけの私兵を確保すれば、あとは全国に檄を飛ばしてなんとかはなる。(※このうち北陸道に派遣された阿倍臣枚吹は今の羽黒山のあたりまでいったか(後述)。和銅5年(712年)に出羽国ができる前には、山形県沿岸部は北陸道の越後国に属し、山形県内陸部は東山道の陸奥国に属していた。近江臣蒲も少なくとも今の福島県川俣町までは行ったんだろう(後述)。川俣町は昔の伊達郡鍬山郷のうちだが伊達郡は10世紀に信夫郡から分置され、その前には信夫郡は一時、石背国に属していた)蘇我打倒といったが要するに排仏派の武力決起であり、神仏戦争の再開である。
それで蘇我馬子・額田部女王・竹田王・厩戸王の崇仏四天王が血相かえて、天皇を拘束・監禁し譲位を迫った。こうなっては崇峻天皇も無力なので従うほかないが、要するに皇位からひきずり降ろされるのだ。崇仏派は次の天皇として当然竹田王を立てようとしたが、崇峻天皇は最後の抵抗を試みた。事実上監禁されているといっても、譲位の発令には譲位の儀式が伴うのでどうしても朝廷に出御がなくてはならない。つまり貴族たちが大勢いならぶところ、公的な場所、人前にでるということだ。そこで事前の段取りとしては、彦人大兄皇子ではなく、竹田王を指名するようにと強制されていた。崇峻天皇もしおらしく服従したふりをして「けして彦人大兄王の名はださぬ」と約束していた。しかしこれは崇仏派を油断させる芝居だった。

崇峻天皇の譲位
で、崇峻天皇は段取りを無視して、竹田王ではなく厩戸王を指名したのである。わずかでも崇仏派に内訌を生じさせようという苦肉の一手だったが、これは予想外の出方で崇仏派は大慌て。「しばし待ち給え」といっても「厩戸王ほど聡明な皇子はなく、次の天皇にふさわしい」と天皇自身がいえば、並み居る群臣たちも「ごもっとも」としかいえない。確かに竹田王よりは優秀だったのだろう。だが厩戸王は「毎度ありー」とはならない。最高権力者の馬子と最高権威者の額田部女王は一説に愛人関係といわれるほど密着しており、その額田部女王は息子の竹田王を天皇にしたいにきまっているから、ここでは皇位を辞退しないと孤立してしまい、あとあと始末されないとも限らない。しかし当人が辞退したところで、崇峻天皇の素晴らしい人選に並み居る群臣たちも盛り上がってしまいいくら辞退しても場の空気は収まらない。この段階ではほとんどの貴族たちはまだ内心では排仏派であり滅亡した物部氏の勢力に同情的だったのであり、崇峻天皇の意図もただちに理解したから、その采配には喝采を送った。厩戸王にしてみればここでウッカリ天皇になったら悲惨な未来しかみえない。なので必死に知恵を絞って生き延びようとした。そこでまず額田部女王を上に立てたまま竹田王は正式な天皇ではないが事実上の天皇とする「称制」を提案したのではないかと思われる。先例としての神功皇后や飯豊女王の先例に鑑みても、神功皇后の場合は次の皇子として品陀和気皇子(応神天皇)、飯豊女王の場合は意祁命(仁賢天皇)がいた。むろん崇峻天皇も粘って、それなら額田部女王を上に立てたまま厩戸王が称制皇子でもよいではないか、となる。群臣もそれに賛成する。称制だなんだいっても事実上の天皇で、その後は本物の天皇として即位するはずとみられるのである。これでは妥協にならない。逃げ道をふさがれ万事窮した厩戸王は、ここで前代未聞の提案をすることになる。称制皇子は竹田王か厩戸王か曖昧にしたままでよいのではないか、どうせ実権は額田部女王が握ってるんだし、称制皇子はあくまで形式上は皇子であって天皇じゃないんだしいなくていいじゃん、と。そこでツッコミが入る、それはつまり、額田部女王が天皇ってことか、と。ここで厩戸王が「まぁそうでないような、そんなような…?」と曖昧なことをいうと話がまた混迷するので「まさにそのとおり!」とスパッと解決できたようなことをいってみせるしかない。で、話の行き先にハラハラしていた竹田王・額田部女王・馬子の3人も、「それ!それ!それでいこう!」と強引に決定して会議を打ち切るほか選択の余地がない。日本最初の女帝、推古天皇=豊御撰炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)はこうして誕生したのである。
(※ちなみに崇峻天皇の譲位(=推古天皇の即位)は崇峻四年(591年、この年の十一月四日かそれ以降)にあったのか、推古元年(592年の十月四日かそれ以前)にあったのかはわからない。もし前者なら踰年称元であり、後者なら立年称元である。書紀の通例からいえば前者のはずだが、今回は初の女帝出現ですったもんだがあったと推測できること、先帝崩御を承けての即位でなく譲位であること、等の異例の事態なので後者の可能性も高かろうと思われる。)

推古元年(592年)十月四日(書紀は誤って崇峻五年としている)
崇峻上皇(書紀は誤って現役の天皇としている)は、猪をさして「いつの日か猪の首を切るように鬱陶しいやつを斬ってやりたいもんだ」といった。宮殿の衛兵は通常より厳重な武装をしていた。この宮はこの段階では仙洞御所(上皇の宮殿)となっていて朝廷ではないが、厳重な監視下におかれていただろう。上皇はここから脱出する計画を密かに練っていたに違いなく、武装兵の増強はその一環だった。

同月十日
嬪(ひん/みめ。妃の階級の一つ、面倒なので以下「妃」と書く)の大伴小手子(おほとものこてこ)は寵愛の衰えてきたのを恨んでおり、このセリフを蘇我馬子にちくった。馬子は上皇(書紀は天皇とする)が自分を嫌っていることを知り大いに驚き、手下を集めて上皇暗殺計画を練った。…と日本書紀はいうのだが、本当かね? 皇子と皇女が生まれているから、おそらく大伴小手子は即位前からの奥さんであり、即位にあたって炊屋姫尊と馬子から押し付けられた妃というわけではないだろう。しかし大伴氏は蘇我についていたから、実家からは監視役みたいな役割も期待されてはいたんだろう。妃としては上皇が血気はやって危険な行動に出て今の幸せをブチ壊しにしないようにと、良かれと思って積極的に監視に務めていたのだろうが、上皇自身にとってはそれは敵対行為なわけで、いまさら寵愛が薄れたも糞もないはずだが…。あるいは上皇様は、妃にも内密に、危険なクーデター計画から妃の身を避けようとしていたのを誤解したのかな。すでに3人の腹心によって東国に準備ができており、万が一の時には妃や皇子たちを落ち延びさせる段取りも着々とすすんでいたのではないか。

皇子たちが逃げ延びた件についてだが。後世の説では崇峻天皇の宝算72歳とか73歳とかの説があるが、岩波版書紀の注釈もそれほど高齢ではあるまいとしている。異母兄弟の用明天皇は36歳説から69歳説までいくつもの伝承があるが、最も古い『水鏡』は36歳としており、これは552年生まれ。用明天皇よりは若いとすれば、どんなに年長でも552年より前に崇峻天皇が生まれたということはありえない。崇峻天皇の皇子、蜂子皇子は出羽三山の伝説では562年に生まれて崇峻天皇が暗殺された時31歳だったことになっているが、これだと父の崇峻天皇が11歳の時に生まれたことになり信じられない。おそらく生まれたばかりの赤ん坊だったか、蜂子皇子本人ではなくその次の世代じゃないのかとも思われる。それから蜂子皇子が黒人またはインド人だったんじゃないのかって話もあって、いろいろ面白い想像が花開くわけだが、この謎解きは次回に譲る。結論からいうと、出羽の羽黒山を開基して「能除太子」と呼ばれたという人は蜂子皇子ではなく、別の皇族である(詳細は次回)。蜂子皇子が出羽に逃げて生き延びたという伝承は、崇峻天皇が東国に腹心を派遣して兵員調達をさせたという史実と関係している。その際に、兵員調達以外にも様々な調査や工作を命じて万が一に備えさせたのだろう。なお小手子郎女と錦代皇女、小手子の父の大伴糠手の3人も奥州に逃げたという伝説が、今の福島県川俣町(昔の伊達郡鍬山郷のうち)に残っており、現地では「小手姫」(おてひめ)と呼ばれているが、『上宮記』に「古氐古郎女」とあるから「小手子」の読みは「こてこ」が正しい。で、「小手姫」は現地で養蚕の指導をしていたというが、最後は蜂子皇子にあえないのを悲嘆して入水自殺したことになっている。養蚕の指導をするほど時間があったのに蜂子皇子に会えないというのはおかしな話だが、これは伝承が崩れて半分は各地にありがちな民話のパターンが混ざってるのである。出羽の羽黒と福島の川俣町ではずいぶん離れているが、狩猟民の文化の色濃い当時の奥羽では往来や通信に不自由はしなかったろう。ただ別々に住んでるのは、羽黒の能除太子が蜂子皇子と別人なら何も不自然ではない。
小手姫像小手姫像(Wikipediaより)

それより馬子が驚いてるのもおかしい。上皇に嫌われてるのは当たり前であって、今更それを知ったからって大いに驚くわけがない。しかも「やらねばやられる」と思って逆に上皇を暗殺したにしては、知ってから暗殺まで20日以上も空いている。こんな呑気な反撃はありえない。密かに脱出の準備を進めている上皇が、スパイも同然の妃の前で不用意な発言したとも思えない。「首を斬ってやりたい」という上皇のセリフは馬子や厩戸王や推古帝や竹田王の4人、あるいは自分を拘束している周囲の全員を漠然とさしているのであって特定個人をいってるのではないのではないか。また特定していない上に、現代の日常の会話でもそうだが、殺してやりたいというのは願望であって「殺す」ではないし口でいったからって本気とも限らない。死ねっていったからって実際に殺すことは現代人ではまずない、それと同じことなのである。馬子が驚くならそんな気分的なことではなく、第一に宮殿内の武装兵に驚いたはずで、小手子妃の通報内容も斬ってやりたいとかのどうでもいいセリフではなく、この武装兵の目的についての情報だったはずだろう。馬子の反応から逆推すれば、武装兵の目的は蘇我殺害ではなかった。馬子にとっても、少なくとも20日間も放置する程度のことにすぎなかった。要するに小手子妃が馬子に通報することを見通していた天皇によって、小手子妃はなんらかの偽情報をつかまされたのである。だから驚いたといっても急に馬子の身が危なくなるようなことではなく、表面的には「上皇様が神功皇后よろしく任那派遣軍を自ら率いて海を渡り新羅を征伐する」と言い出したとか、そんなとこだろう。しかし裏では脱出計画ではないかと疑いもしただろう。

十一月三日
馬子は群臣を騙して東国からの貢を進上するとして、その場で東漢直駒(やまとのあやのあたへ・こま)に天皇を暗殺させた。…と日本書紀はいうのだが、さて? 「東国からの貢」というのは上皇を油断させるためだろう。宮殿の武装兵は東国兵で、近江臣蒲・宍人臣鳫・阿倍臣枚吹が集めてきた連中にちがいない。むろん蘇我馬子に警戒されないような何らかの名目もあり、事前に馬子も了解した上でのことで、馬子も当然、上皇が脱出計画を抱いてる可能性に警戒はしていただろうが、世間の目もあるので完全隔離というわけにもいかない。「東国からの貢」も「3人の腹心とのいつもの会合」として事前に決まっていたことで、蘇我馬子はその機会を利用したのである。むろんこの日以前のある段階で上皇の脱出計画の全貌をつかんだ。その情報を最初につかんだのは蘇我馬子か厩戸王か推古帝か竹田王かはわからないが、この4人はツーカーの仲で一味なので、誰かに入った情報は他の2人にもすぐ伝わるのである。日本書紀は蘇我馬子1人を悪役に仕立てようとしているが、厩戸王と推古帝の2人がまったく関係ないということありえない。4人が共犯だろう。権威と権力をもった朝廷の重鎮が4人とも共犯なんだから、上皇暗殺というとんでもない事態にもかかわらず、さしたる紛糾も起こらなかったのである。むろん群臣百官、貴族たちには心理的な動揺はあったろうが、ここで崇峻上皇の一派だと認定されたら命がないので静かにしてる他ない。ただし4人組も、最初から上皇を暗殺するつもりだったわけではあるまい。現代人は「天皇」というのは地位や役職のように誤解しているから、即位前の皇子や退位した上皇ってのは天皇じゃないただの人に近いように思ってるかもしれないが、胎中天皇の例でわかるように、天皇というのは産まれる前から天皇であり譲位してからも、崩御の後も天皇であり、天皇になったり天皇でなくなったりはしないのである。神はずっと神のままであり、人間はずっと人間のままであり、動物はずっと動物のままであるように、天皇はずっと天皇なのである。それが魂の実態であり、即位したり退位したりというのは社会制度上、同時に天皇が複数いるとややこしいから便宜的に交代してるってことにしてるだけ。それを折口信夫が「天皇霊」が継承されと解釈したのは現代風の考え方に引きずられた誤った説である。だから大昔の人にとっては上皇も天皇となんらその神聖さに違いはない。いくら大臣と太子と女帝の命令でも天皇と同格同等の上皇を殺せといわれて「はい」というやつはこの時代にいない。この時代は反天皇思想なんてまだなくて、天皇は神だと思われていたんだから。しかも崇峻上皇は格別に庶民にも貴族にも人気がないわけでもない。むしろ皇位から引き降ろされてからはアンチ蘇我の旗手として人気があった可能性が高い。だからもし東漢直駒が犯人なら、彼れには上皇を暗殺せざるをえないような何らかの「個人的で特殊な事情」があったか、または駒はスケープゴートで真の下手人は別にいたかだろう。崇峻上皇より権威のある上位者といえば敏達天皇の皇后だった炊屋姫尊しかいない。先帝の皇后は皇位継承問題についても決定的な発言権をもつことは以前にも書いた。用明天皇は中継ぎ的な存在で正統性も危ぶまれるような天皇なので除外される。崇峻天皇を天皇にしたのも事実、炊屋姫尊の意志だった。用明天皇も崇峻天皇も、中継ぎの天皇と見られており、最近の天皇で本物の天皇は敏達天皇である。その皇后だった炊屋姫の権威は用明天皇や崇峻天皇より格上だったろう。ただし、荒事(あらごと)の現場に女帝みずから出てくるのも考えにくいから、推古天皇の勅命を奉じて竹田王がやってきたのではないかとも思われる。竹田王は順当にいくと(日子人大兄王を除いて)崇峻天皇の次の天皇だった。竹田王といえども上皇殺害には正統性がないのではないかといわれそうだが、崇峻上皇が脱出を計画してまたも排仏派を滅ぼそうとしているということは、蘇我と一心同体の推古天皇も標的になっているという解釈が可能である。ならば形式的には逆賊の烙印も押すことができる。一説では蘇我馬子と額田部女王は愛人関係だったともいう。そこまで極端には思わないまでもそれなりに親密な仲だったことは事実だろう。竹田王は推古天皇の実の子なのだから儒教的には崇峻上皇は親の仇であり、親を守るためには上皇に歯向かうこともやむをえない。しかもその親は現役の天皇なのだから、忠でも孝でも理屈は成り立つ。竹田王だけでなく、熱心な崇仏派である厩戸王も「仏教を守る」ために同行した可能性が高い。仏教では王侯だろうが乞食だろうがあらゆる人間は平等無差別で死ねば無になるのであって身分差など認めないから、天皇の死も奴隷の死も等価値なのである。この頃の厩戸王は年齢も若く、理屈をそのまま信じて観念的な理想に燃えてしまう若さゆえの傾向があったろう。仏教原理主義的にいえば天皇の尊厳など否定するのが中二病的でかっこいいのである。まぁ左翼が天皇制廃止を訴えるのと同レベルの話だが。じゃ、政治はどうするんだっていえば、そこは中華式の皇帝制度という合理的で近代的なやり方でやればいいと思ってるわけだよ。本当は儒教と仏教は原理的に両立しないんだが、今も昔も外国の思想については一知半解で「浅い」のが日本人で、「適当に日本式で取り混ぜてればうまくいく」と思い込んでるんだよ。そんなわけないんだけどね。梅原猛の本みたら「十七条憲法」ってのは仏教・儒教・法家思想の三者を組み合わせた構造になってる。つまり日本人のなんでもごちゃまぜにして「各宗教はお互いに矛盾しない」という悪しき曖昧主義は、聖徳太子が元祖だったってこったw ともかく話を戻すと、竹田王や厩戸王がでてくるシナリオの場合、東漢直駒は竹田王や厩戸王の手勢の1人にすぎなかっただろう。

古事記と書紀で崩御日が10日ズレてるわけ

同月十三日
上皇崩御。日本書紀は三日(つまり暗殺のその日)に崩御したとしているが、古事記ではその10日後の十三日に崩御という。古事記が正しいとした場合、上記の暗殺事件も10日後の話だったとすれば簡単だが、そうとも言い切れない。事件は三日にあったのだが三日に刺されて重体に陥り10日後に崩御とも考えられるし、三日に崩御したのだが前代未聞の事件なので10日間秘匿され改めて十三日に崩御したことにして発表されたとも考えられる。しかしおそらくはどれでもない。真相は、はじめから暗殺する予定ではなく単に脱出計画を阻止して上皇を再度捕縛拘束するのが目的だったと思われる。いきなり殺そうというのは考えにくい。ただ、相手が上皇なので竹田厩戸の手勢がが気おくれしてしまったのと、もともと脱出を考えていたぐらいの上皇だから、宮殿内で小規模な武闘になってしまった。崇峻上皇も自ら剣をとって抵抗し、上皇の身を害さずに捕らえるのは困難なため、戦闘が長引いた。自分を捕らえようとする者どもを前にして、上皇は自分の脱出計画が蘇我にバレてしまったことに気付いた。万事窮す、最期の時はきた。そこで上皇は、その昔、雄略天皇が葛城氏を征し、武烈天皇が平群氏を伐った故事をあげ、両天皇にならって蘇我を討つことを高らかに宣言したにちがいない。あとは味方の生き残りや敵兵の中の者らによってこのことが外へ伝えられるのを期待できるだろう。長谷部若雀命(はつせべわかささぎのみこと)という讃え御名(尊号)は上皇の決起の趣旨に賛同する庶民大衆によって誰からともなく捧げられたものなのである。本居宣長は武烈天皇の「小長谷若雀」という名と混同されたもので単に「長谷部命」というのが正しいとして、今もその宣長説に従う学者が多いが、そんなオタンコナスな説はぜんぜん認められない。さて、仮りに上皇のこの宣言がなかったとしても、乱闘なり異常事態なりが起こっていることが外に漏れると、普通に考えて、何も知らない者たちが上皇に味方しようとして続々集まってくるし、上皇陛下がまたしても蘇我征伐の狼煙をあげたことが広まれば、さらに上皇の思うツボだ。そこで乱闘開始以後の何日かめに、馬子か厩戸王か女帝のうち誰かの発案で、「上皇を殺せる事情をもつ稀有な人材」として東漢直駒に白羽の矢が立った。東漢直駒に上皇暗殺の任を引き受けさせる説得にまた何日かかかって暗殺まで計10日かかった、とも考えられるが後述のようにこの段階では駒はまだ出番でなく、この案は却下したい。別案では、初日から竹田王(か厩戸王?)が上皇の決起を鎮圧するために手勢を率いてきており即日もしくは何日かめ、もしくは10日めの十三日に上皇を逮捕、隔離。十三日になってやはり死んでもらわないと自分らの身は保てないと判断し隔離された空間で上皇を暗殺した。ただしこの乱闘を無かったことにしたい蘇我一派は、崩御はあくまで三日であって十三日ではないという立場を堅持し、後々も上皇の名の「若雀」をけして認めず単に「長谷部命」とのみ称えた。日本書紀は「昔は譲位というものがなく崩御するまで在位していたはず」という前提での編年になっているため推古元年を崇峻五年と書きかえ、その分、推古天皇の在位を1年へらして辻褄をあわせている。

東漢直駒が受けた密命は「天皇殺害」ではなかった

同年同月(日は不明)
この同じ月に、東漢直駒が蘇我河上娘(そがのかはかみのいらつめ)を誘拐した。wikipediaは岩波文庫の注釈を真に受けて崇峻天皇の嬪の一人だと決めつけているが日本書紀のどこにもそんなことは書かれていない。嬪だとはあるが誰の嬪なのかは書紀の文面からはわからない。ただし彼女は馬子の娘である。馬子は彼女が東漢直駒に誘拐されたのを知らずに死んだと思っていた。のちに真相がバレて、東漢直駒は馬子に殺された。…と日本書紀はいうのだが、おかしくないか? 東漢直駒は暗殺犯なんだからそのまま処刑すれば済む。それで真相もバレなくなる。日本書紀の書き方だと、東漢直駒は誘拐犯として殺されたのであって、上皇暗殺とは何の関係もないことになる。しかも、馬子はそれを知らなかったというのだから、当初、河上娘は1人で家出でもしてたと思われたのか? それなら捜索されてもいたわけで大貴族のお嬢様がどうやってゆくえを晦ましていたのか? おそらくは2人の仲は周知で、馬子もしぶしぶかどうかともかく黙認していた程度の仲だった。東漢直駒が天皇暗殺犯だと知られていたら、真っ先にその罪状で処刑されるはずで、誘拐犯として殺されるなんてことはありえない。だから、この段階では上皇は誰に殺されたのか不明だったのである。上皇暗殺の現場に誰もいなかったことになるが、そんなことありうるのかという疑問はひとまずおくと、この男はまず誘拐犯として処刑され、しかるのちに「実は上皇暗殺犯でもあったことが判明した」という順番になる。…これは胡散くさいw 大本営発表じゃないのか? 処刑した後でちょうどいいから濡れ衣きせて「こいつが暗殺犯」ってことにしとけっていう…。上皇殺害の現場に誰もいなかったなら東漢直駒に罪を着せるのは簡単だ。東漢直駒は10日もかかって上皇の決起を鎮圧できず、10日めに竹田王と厩戸王が加勢にきて捕縛できた。もしくは最初から竹田王が捕縛したのであって東漢直駒は手下の1人だった。崇峻上皇が再拘束された後なら、犯人は権力の上層の誰かなのだから誰もみていない隔離された室内で上皇を殺害することが可能で、しかも最後に部屋からでたのは東漢直駒だったと偽証すれば、簡単にスケープゴートにできる。ところで、この河上娘は、嬪(みめ)だとあるから崇峻天皇の妃とする説があるがそんなことは記紀のどこにも書かれていない。嬪は嬪でもこの人は厩戸王の嬪なのである。『聖誉抄』(太子傳聖譽鈔)によると聖徳太子の3人の妃の1人として「河上娘」とあり、その父は馬子とあるので、これは日本書紀でいうと厩戸皇子の正室、刀自古郎女(とじこのいらつめ)と同一人物となる。つまり東漢駒と河上娘は不倫で、厩戸王とは三角関係になる。で、河上娘は行方不明で馬子は娘が死んだと思っていたってのは後付けだろう。実際は厩戸王と分かれて東漢駒と同棲しており、それが長い間、黙認されていたのである。誘拐してすぐ駒が殺されたなら、「娘が死んだと思っていた」なんてことはわざわざ書かれないはずだからな。ここで現代人なら、厩戸王が東漢直駒を憎いと思ってこいつを暗殺犯に仕立ててやろうと思ったんだろうと推理するだろうが、そうはならない。皇族貴族の結婚ってのは多くが政略結婚で必ずしも熱愛が伴うわけではないし、大昔から明治以前まで日本では離婚や再婚についてのタブー意識も全然なかった。厩戸王ぐらいの皇族だとその気になれば嫁なんていくらでも手に入るんだし、仏教思想に夢中になってる中二病青年が女性との恋愛にうつつを抜かすとも考えにくいんだが。しかも他の男と相思相愛の女に? かように、河上娘にさしてご執心でもなかった場合、何か別の見返りと引き換えに河上娘と東漢駒の関係を認めてあげた可能性は高いだろう。もし厩戸王が大きな心で2人の不倫を許していたら? 東漢直駒は深く恩義を感じて、厩戸王の忠実な手先になっていたのではないだろうか。厩戸王本人が許していたからこそ、蘇我馬子もやむなく2人の仲を黙認してたわけだろう。むろん厩戸王は東漢直駒に上皇暗殺など命じていない。密室で殺害した後で権力にものをいわせれば誰にだって罪をなすりつけることは可能だからだ。崇峻上皇を捕縛、再拘束することまでは、推古天皇・大臣馬子・竹田王・厩戸王らの中で合意されており、捕縛の手柄も立場上もっとも風当たりのなさそうな竹田王が「母を守るため」、「厩戸王」が「仏教を守るため」やむなくしたことで、上皇陛下にご翻意を懇願するという形をとる予定だったのだろう。ここまで、東漢直駒の出る幕は実はない。だが乱闘中に崇峻上皇が打倒蘇我と排仏を諦めてないことが判明したため、捕縛の後には即刻死んでもらうしか推古女帝・馬子・竹田王・厩戸王らの選択肢がなくなってしまった。密室だから誰が下手人かはわからないが情況からいって厩戸王か竹田王のどちらかだと一般人は思うだろう。しかしここまで急展開だったため、具体的に誰に罪を着せるかはまだ考えられていなかった。厩戸王・竹田王にも名分があったとして2人の責任を軽くする一方、乱闘の中で負った傷が元で崩御したのだとして、下手人をウヤムヤにするつもりだったんだろう。だがこういう予想外の展開になってしまうと、崇峻上皇が蘇我打倒に立ち上がって返り討ちにあったという悲報はあっという間に全国を駆け巡り、上皇陛下への哀悼と蘇我馬子への怒りと殺害の下手人への憎しみは全国民に燃え盛ってしまった。推古天皇はただでさえ蘇我べったりと見られているので、どうしても下手人の特定と逮捕、処刑を急がねばならない。ただでさえ女帝なんてきいたことがなく、当初から偽天皇よばわりする者はいくらでもいただろうに、事件の後処理を誤れば、推古天皇は上皇殺害の一味とみられ、正統性に著しく傷がつき、ひいては偽天皇の烙印から逃れるため至急の退位もするはめになりかねない。でだ、さぁここで厩戸王の忠実な配下である東漢直駒の出番となる。東漢直駒が厩戸王から受けた密命は、崇峻上皇の遺体が発見された直前に密室から1人で出てきたのは竹田王だったという目撃証言を噂として流すことなのである。実際に庶民にこの噂が流れ始めて、推古天皇は仰天して、噂の出どころを極秘に調査させ、早急に東漢直駒を始末してしまったんだろう。そうすると今度はこれを捜査せずに放置すると東漢直駒を殺害した犯人は竹田王と推古天皇だろうと誰でも考える。そうなっては藪蛇なのでとっさに蘇我馬子が気を利かして自分が殺したことにしたわけだ。自分の娘をかどわかしたやつなんだから馬子が駒を殺してもこれなら一応は理由が立つ。が、庶民がそんなバレバレな嘘を真に受けたとは思われない。ともかくこれで推古天皇と竹田王は非難の的となり、即位元年にして日本初の女帝の権威も暴落、竹田王が天皇になる目は完全になくなった。すべては厩戸王が竹田王をとびこえて天皇の位に一歩近づくための布石だったのである。
ところが、にもかかわらず、皆様ごぞんじのとおり、厩戸王はついに即位できなかった。それはなぜか。

エピローグ・竹田王の謎
竹田王は神仏戦争の後は歴史に登場しなくなるので、その時に戦死したんではないかという説がある。しかし、それなら崇峻天皇の後は厩戸王がそのまま天皇になればいいんで、女帝が登場する理由がなくなってしまうように思う。日子人大兄王と厩戸王の二人の天皇候補の争いを先延ばしするために女帝が立った、という説も比較的通説に近いが、それにも同意できない。日子人大兄王にそこまでの力があるのなら、そもそも用明天皇が即位せずに敏達天皇の後はすぐ日子人大兄王が天皇になったはずだろう。それを蘇我馬子の横槍で用明天皇を即位させることができたんだから、当時よりさらに権力の増大している蘇我馬子が日子人大兄王を無視できないはずがない。だから、女帝を立てて先延ばしにした問題というのは、日子人大兄王と厩戸王の争いではなくて、竹田王と厩戸王の争いなのである。ネットをざっとみてたら、推古天皇即位の直後から厩戸王が摂政になるまでの間(つまり推古天皇が即位してまもなく)に竹田王が薨去したと推測する説がある。この説のほうがややマシに思える。竹田王が薨去したのなら、そもそも額田部女王が女帝になる意味もなかったわけだし、即位しちゃった後であっても、すぐに厩戸王にまた譲位、という選択肢も十分にありえたし、実際にそうなると当時はみな思ったろう。
一つの考えとしては、厩戸王としては、いつでも天皇になれるという情況ができてしまうと、今度は急にあせらずともいいかな、という気分になった。なぜなら、天皇というのは年がら年中、神道の祭祀に追われて忙しいのと、いろいろ制約が多くて自由が効かない。厩戸王は仏教信者で仏教の儀式ならやりたいが神道の祭祀には興味がないのと、仏教の研究(それには書物を読むだけでなく仏教行事や仏教儀式も含まれる)に昼夜うちこみたいわけで、必ずしも天皇になればハッピーずくめということではない。額田部女王はもう即位しちゃったんだから当面は女帝としてがんばってもらって、自分は権力だけちゃっかり頂いて「摂政」という身分に留まった。…というのが真相ではないか。馬子にしてみりゃ同じ傀儡ならどっちでもいい。推古女帝は最愛の息子なき今、甥の厩戸王をもりたてていくことにした、と。だが儀式だらけで身動きがとれないほど天皇が忙しくなるのは平安中期以降で、当時の天皇がそんなキツ苦しいものだったとも思えない。
もう一つ釈然としないことがある。竹田王ほどの重要人物に死亡記事がなくていつの間にか消えてるなんてことあるかね? この人もしかして死んでないんじゃないの? 歴史から消えたというのは政局に出てこないというだけで、つまり政治から手を引いたってことだろう。だが一度でも皇位継承のライバルになった者が「俺は政治引退した」と言ったって安穏に暮らせるものでなく、厩戸王が天皇になったら暗殺の手が伸びるかもしれないし、謀反の疑いをかけられて処刑されるかもしれない。 額田部女王が女帝の地位に留まったのは厩戸王にブレーキをかけて我が子を守るためだったのではないか? なぜ竹田王は政治から足を洗ったのか、よりによってこの時期に。このタイミングだからこそ考えられるのは、要するに崇峻天皇暗殺の下手人は、厩戸王に唆された竹田王だったのか、実は厩戸王本人が下手人だったのか、どっちかはわからないが、いずれにしろ、厩戸王の策で、世間一般の認識では竹田王が下手人ということで世間の批判を浴びることになった。厩戸王の人間性にも絶望したろうし、本人は良かれと思って(あるいは、やむをえずと思って)やったことだから、自分の人間性を全否定してくる世の中にも嫌気がさしたんだろう。そこで家出だよw 竹田王は溺愛されて育ったからヤンチャでワガママだけれども素直で裏表がない。厩戸王のように過剰に知能が高いため人がバカにみえたり小細工を弄して情況を支配しようとするタイプとは違う。同時期にどうなっちゃったのか気になるのがは蘇我河上娘もそうだろう。彼女の情夫、東漢駒が殺されたのもめぐりめぐって竹田王のせい(少なくともその一味のせい)ともいえるわけで、贖罪の意識からなんとなくねんごろになって二人でどこか遠くに逃避行…。なんて筋書きはどうかね? 竹田王の人柄ならありそうじゃんよw 出羽の羽黒山を開基した能除太子というのは崇峻天皇の皇子、蜂子皇子だというが、蜂子皇子は当時30歳というのは伝説の誤りで赤ん坊か子供だったはずだから、彼を守って落ち延びたのは崇峻上皇の旧臣たちだったろう。そういうことがもし本当にあったのなら、竹田王と河上娘もどこか遠方に逃け避って辺境で暮らしたなんてこともありうるんではないか。
そう思って改めて『日本書紀』の推古天皇の巻をみると、実に不思議な、ある事件が目に付く。それは…。おっとここまでw それはもはや崇峻天皇の章で扱うことではないだろう。推古天皇の章で詳細に語りたい。
(※推古天皇に続く)

邪馬台への行程【その7】~水行陸行、里数への換算~

改稿:2679年[R01]12月18日WED (初稿:2679年[R01]10月21日MON)
邪馬台への行程【その6】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その6】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「而」か「或」か
さて、ようやく水行陸行の日数表示が実際どれぐらいの距離なのかという問題だが、まずは倭人伝の中で使われてる「里」の単位に換算するところから始めようと思う。
日数表記のところから里数を割り出すというのはつまり「一万二千里は奴国までの距離」ってことに変更される前の状態を復元することである。
不弥国を内陸に置く説はともかく、九州説でも畿内説でも不弥国は海岸をもってることがほとんどで、投馬国またしかり。なので放射式で伊都国から、順次式で不弥国から投馬国への水行は問題ないとして、邪馬台国の「水行十日陸行一月」が問題だ。
「水行十日陸行一月」の解読には3つ説があり、

(A)連続説。まず水行して然る後に陸行する。
(B)選択説。もし水行すれば十日、もし陸行すれば一か月という二つのルートから選ぶ。
(C)混在説。水行したり陸行したり。水行した分だけ合算すると十日ぐらい、陸行した分だけ合算すると一か月。

(B)の選択説の場合は水行は陸行の3倍計算となる。(C)の混在説はちょっとありえない気がする。普通これは陸行に含めるだろう。そこらをこだわったのなら「乍水行乍陸行、計日、水行十日陸行一月」と書かれたろうけど何が疑問といって、中国人の水行というのは川をいう場合が多く、いずれも悠々たる桁外れな大河でそれに比べると日本の川は小川のせせらぎか急峻な滝みたいなもの。中国人の感覚では水行とは言わなかったのではないか。川を使ったっていっても内陸部だからこれは陸行だと認識されそう。絶対に(A)の連続式にしか読めない書き方なら「水行十日陸行一月」となるが原文のままでも漢文として普通に読み流せば連続式に受け取るのが自然だから、「而」の字を入れるのはややくどい書き方かもしれない。もし間違いなく(B)の選択式に読んでほしいと陳寿が思ったのなら「水行十日陸行一月」とか一字を補ってあるべきだが、その字がないからといって絶対に選択式には読めないこともないからややこしい。例によって「而」か「或」か一字の誤脱を想定すればまたどっちともいえるし、なぜ陳寿はわずか一字を惜しんだのかと深読みすれば「誤読を誘っている」とも思えるw

で、日数の換算だが、ご存知の通り『唐六典』の数値をみると以下のごとし。この数字は唐代のものだが三国時代も事情は大差ないだろう。

『唐六典』


凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里。
水行之程、船之重者、泝河日三十里、江四十里、余水四十五里。
空船泝河四十里、江五十里、余水六十里。
沿流之船、則軽重同制、河日一百五十里、江百里、余水七十里。

水行は1日あたり30里~150里、陸行は30里~70里でばらつきが酷いw 
『唐六典』の数字を使ってありえそうな最大値と最小値をみると、最短の30里を使って放射式+選択式だと邪馬台国までわずか300里。最長で陸行70里、水行150里を使って順次式+連続式だと投馬国まで3000里、邪馬台国まで3600里、計6600里。最短300里で最長6600里なんだから、その間の数字はすべて可能性があることになる。ホントかよw さらに誤写の可能性もあるから「二十日」が実は「二日」「十日」等の間違いだとか、「一月」が「一日」の間違い、とかもありうる。これらを組み合わせるとさらに幅が広がってとりとめもなくなりそうだがしょうがないw どの数値が正しいか(現実にあてはまるか)は、実際にその道を行軍してみた者でないとわからないが、1日あたりの行軍距離について上述のごとく豊富な数値があるので、机上の数字だけなら自在に伸縮可能でなんとでも辻褄あわせはできる。

日数表示は何里か?
ところで、一万二千里が邪馬台国でなく奴国までの距離ってことに設定変更された時に、初期モデルの3000里を消してわからなくするために日数表示にしたんだとすると、単純な計算で簡単に復元できるなら3000里を隠した意味がない。放射式だと2800里だが【その1】で説明した通り、俺の説では伊都国と不弥国の間は500里だと考えるのでその場合は2500里になる。ここの里数3000 or 2800 or 2500里は隠したいわけだから、換算数値を好きなように当てはめれば何通りにも推定はできるが「これが正しい里数だ」というのはわざと確定しないように書かれてるのだとは思われる。作者の気分になってみると元の「3000里」(「3000 or 2800 or 2500里」だが煩雑なので以下《3000里》と書く)を、なにも読者のためにご丁寧に換算して日数表記にしてくれたという保証はないぞw つか奴国までが一万二千里に変更された以上、不弥国から邪馬台国までが《3000里》である必要がなくなっているのだから、そもそも換算前の《3000里》という数値が消えている、無意味になっている。ということは、この日数表示は《3000里》とまったく関係ない数字だということも十分にあり得るのではないだろうか。
そうはいっても「わからないように書いてあるんだから、わかるわけないだろ」だけで終わりにしては「金返せ」って言われかねないw なので憶測レベルの議論にすぎないが、もう少し詳しめに結論めいた議論に力技でもっていってみたいw

孫栄健みたいに水行十日も陸行一月も1200里のことで「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説もありうる。ただ孫栄健の説の場合、投馬国の水行二十日が浮いたまま放置されてる。これは当然2400里で、放射式だとすると何のための虚構なのか意味不明になってしまうから順次式だとして、合算すると3600里になる。「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説にこれをあてはめると「10分の1にした上で3倍にした数字」だ。投馬国の位置は「一万二千里」の中では3分の2の地点になり、奴国まで一万二千里として文面上に記述されたルートの上では対馬国上陸地点にあたる(半周を加える前の地点)。ここまでは確かに水行だけなので、ここまで二十日だったとして、倭国内ルート(対馬国上陸地点から奴国まで)は水行と陸行が混在してる。これをすべて水行に換算すると十日、すべて陸行に換算すると一月。水行換算値と陸行換算値が併記してあるのは要するに水行が陸行の3倍の速さだと示すため、ということになる。だがこの説だと、少し無駄で煩雑すぎる気がする。水行も陸行と同じで40里という極めて単純な設定なのではないか? 陸行は邪馬台国のルートではなく投馬国と邪馬台国ルートの合算だとすれば、投馬国まで水行800里、邪馬台国まで水行400里で合計1200里。陸行も同じく1200里。どっちも「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だとした方がシンプルではある。陸行が両行程の合算だっていうのがアレだがw

しかし、よく考えるとそこまで消し去らなくても、もともと日数換算が『唐六典』にあるように伸縮自在なのだから、一度日数にしてしまうと、「換算前の里数」か「特定の換算値」のいずれかをを事前に知ってる者でない限り、里数に復元できない仕組みになってる。つまり一般読者には解読される心配がないし、機密に与る上層部の一部には「換算式によって(《3000里》に)復元できるから嘘は書いてませんよ」というアピールになる。
そう考えるとやはり計算すれば《3000里》になるはずだ。その前提で考え直してみたのが以下。

九州説だと伊都国からの放射式で方角は字のまま南としても、南に水行できないのと思うのだが、これは出発時の方角でなく起点からみた終点の位置する方角とすれば、途中の行路が東西南北どっちを向いててもいいという解釈で乗り切れる。ただし『唐六典』では馬は70里、徒歩と驢馬は50里、車は30里というが、選択式で2800/2500里をこなすには1日あたり水行で300里近く、陸行で100里弱も行かないとならないからムリ。連続式か混在式なら1日あたり「水行130里、陸行50里」で計2800里(水1300+陸1500)にでき、水行を100里にする(水1000+陸1500)か陸行を40里にする(水1300+陸1200)ならば計2500里にできる。川下りコースで黄河が150里、長江が100里だから130里は若干きついが絶対ありえない速さではないだろう。問題はそこでなく、水行した後それに近い距離もしくはそれ以上の距離を陸行するのが九州内では難しい。「迂回することになっても途中までは陸路より海路(もしくは河川)で行った方がよくて、かつ、上陸してから水行できない内陸を海路と同距離もある地点」なんて九州内にありえない。なので連続式でなく混在式とした方がいくらかマシだが、それでもどうかな? そこで選択式で「水行二十日陸行一月十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行140里、陸行70里で2800里とできるし、「水行二十日陸行一月二十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行125里、陸行50里で2500里とできる。『唐六典』の陸行70里は馬を使った場合だから人間で40日を踏破するのは厳しいとすれば、端数がでるが「陸行二月」でもよい。1日50里で2800里には2ヶ月めの4日前に到着する計算になり、同じく「陸行一月半」とすれば2500里には2ヶ月めの4日前に到着で、数日余る分には何の問題もない。これなら九州のどこにももっていけそうだが、水行だけでも陸行だけでも行けるのだから九州の沿岸部に限られてしまう。筑紫平野の真ん中や熊本平野の奥や阿蘇カルデラの中にもってく説だと厳しい。宇佐説、鹿児島説、日向説なんかは問題ない。

畿内説でいうとまず順次式だとして、瀬戸内海航行だと近畿との境か手前で上陸することになり意味がわからない。だから日本海航行だと考える。方角からいって投馬国を三丹(但馬丹波)だと仮定すると、水陸の「混在説」がよいようにみえる。この場合の水行とは川を船でいくことで海路ではない。しかしGoogleマップを使うと、この間徒歩40時間しかないw 1日に6時間か7時間歩いたとして6日。すると「陸行一月」も里程と同様、5倍に誇張されてるんじゃないのか? ともかく「陸行一月」だけで行けるとなると、「水行十日」が浮いてしまう。なのでこれを投馬国の「水行二十日」の重出誤記だとしてもいいのだが、ちょっと保留しとくw 陸行30里、水行70里とすると、順次式で投馬国まで1400里、邪馬台国まで水行700里陸行900里で計1600里。合計3000里。重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がこれだとして畿内説に当てはめると(日本海航行で)投馬国は但馬じゃなくて出雲っぽい。出雲だとすると「南」は「東而南」の誤脱ではなく「東」の誤りだということになるのがどうもな…。
第二案として、陸行30里で投馬国から邪馬台国まで900里。「水行十日」は「水行二十日」の重出誤記として無視すると、残りの投馬国まで2100里だから水行105里と決まる。里数の割り当てはいいような気がするが「105里」が半端で不自然だな…。
第三案として、三国志の中では司馬懿の公孫淵討伐戦での行軍速度、1日40里を基本にすべきだという説もあって、確かにごもっともに聞こえるので採用してみる。この場合水行は60里とすると、投馬国まで1200里、邪馬台国まで水行600里陸行1200里で計1800里。合計3000里。これも重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がへんだ。瀬戸内航路だと陸行はわずかにならないとおかしいし、日本海航路でも半分以上も陸行するなんてありえない。
第四案として、陸行は40里のまま、邪馬台国への「水行十日」は投馬国の経路の重複誤記として無視し、邪馬台国は陸行だけだとすると、投馬国から邪馬台国まで1200里。残りは投馬国まで1800里だから、水行は1日90里と決まる。計3000里。これで郡から邪馬台国まで一万二千里になる。数字の辻妻はきれいに合うが(というか無理矢理あわせてんだから当然だが)、これも里程の割り当てが微妙に地理にあわないような…(陸行が多すぎて不自然)。まぁ魏志の設定上の地理だから実際の地理に一致しなくていいともいえるが。

以上どの説もそれぞれ欠点あり、辻褄合わせ感が強いw 自分で書いてアレだが、どれもびみょうに間違ってるような気がするしなw …そう、重要な何かが欠けているのだ…。
倭人伝2
水行陸行の謎解き
やはりここはアレの出番だろう。そう、「春秋の筆法」ですw 出たw
倭人伝の冒頭で韓地の行路の説明が、海岸に沿って水行したとも内地をジグザグに陸行したともとれる書き方になっていて、二つのルートをあえて混在させていた。こんな不可解な書き方をあえてしているのは意図的な「文の違え」で、言外に何かを示そうとする「春秋の筆法」なのである。両方のコースを行くことは物理的に不可能なので、一方を選択しなければならないが、どちらのコースを進んでも(水行しても陸行しても)同じ「七千里」になる。ここで示されているのは第一に「陸行と水行はどちらかを選ぶ」のであって連続式や混在説で読んではいけないということ、第二に「陸行しても水行しても出発地と到着地は同じ、距離も同じ」ということ。つまり投馬国から邪馬台国までの行程は「春秋の筆法」の示すところに従って「水行すれば十日、陸行すれば一月」となる。
これで考えていくと、放射式の場合は上述のごとく1日あたりの距離数をオーバーしてしまうのでムリ。さすれば前述のごとく「水行二十日陸行二月」もしくは「水行二十日陸行一月半」の間違いだったということになる。
順次式では水行は100里となる。『唐六典』でも川下りの場合は黄河で1日150里、長江なら100里、それ以外の川で70里。日本海の東行は潮の流れに乗るのだから中国の大河に比べて1日100里は軽くありえるだろう。すると投馬国までの水行二十日はちょうど2000里となる。で、邪馬台国までは1000里でないと困るので陸行のみで1月を30日とすると平均値は「1日33.3333…里」。1日35里とすると29日(旧暦の小の月)で「1015里」で15里余るが、まぁ前述の放射説の場合と同様、目的地にその日数で達すればよいのだから15里余っても問題ないはずだ、普通ならね。しかし魏志倭人伝の里程や日数は初めから仕組まれたもので普通の計測値ではないのだから、端数が出るのはどうも釈然としない。キリのいい表現で「3日で100里」のつもりだと思われる。ただ、このルートが「但馬~大和」間だとすると基本陸行で水行はないのだから「水行十日」は「水行したら十日」の意味ではない。水行はできないし、しないのだが「陸行の日数を水行に換算したら十日になるよ」という意味なのではないか(そんなややこしいことは言わずに単純に選択式だというだけでも差し当たり問題ないが)。
で、不弥国から投馬国までは水行2000里(=水行二十日)、投馬国から邪馬台国まで陸行1000里(=陸行一月)、あわせて3000里という至ってシンプルなことになる。

瀬戸内海航路の場合、安芸や吉備で上陸して陸行するはずがなく大阪湾のあたりから上陸するしかないから、投馬国をギリギリ東の神戸市須磨区としてもまだ水行が多すぎ陸行が不足する。河川航行も陸行に含んだとしてこれだから大和川の河川航行を水行にいれたらますます不自然。かといって、大和は内陸なのだから「選択式で陸行しない」のだ、ともできない。ゆえに瀬戸内航路は間違いで日本海航行が正しく、投馬国はやはり但馬と確定する。そのはずだが…。
もし以上の説で確定した場合、現実の日数は不弥国から投馬国まで水行4日、投馬国から邪馬台国まで陸行6日だろうが、それは一万二千里が実は2400里を5倍したものだからここの日数も5倍になってるだろうという推測による。
ホントか? まだ釈然としない。どうも大事なことを忘れている。
「邪馬台への行程【その8】」に続く。
関連記事

邪馬台への行程【その6】~「二郡遂滅韓」の真相と張政の使命~

改稿:2679年[R01]11月20日WED (初稿:2679年[R01]10月23日WED)
邪馬台への行程【その5】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その5】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
三韓情勢の経緯:時系列
魏が公孫氏を滅ぼして二郡を接収し、卑弥呼が親魏倭王になって以降の歴史を辿りながら説明しよう。
AD240年は正始四年で帯方太守弓遵が魏帝の詔書や金印を倭に届けた年でもある。これで倭国が魏に対して「月支国体制をやめろ」と言ってくれる可能性がなくなった、と伯済国は思ったんだろう。それで伯済国は自力で月支国体制を破壊するため辰王を攻撃した。『三国史記』では百済と新羅が外交上初めて接触したのはAD63年になっているがこれは創作だとして、対立であれ友好であれ両国が国交をもつのはもっとずっと後の337年というのが通説だが、根拠がよくわからぬ。『三国史記』ではAD240年に百済が新羅に攻め込んだというが理由も結末も、戦場がどこかも書いてない。この事件とは、帯方郡が実施した「辰王月支国体制」に反対する馬韓が辰王を攻めたが馬韓軍は帯方郡の兵に邪魔されて敗北したという話なのではないか。『三国史記』では攻め込んできた百済に対して新羅が何かリアクションしたようなことも書いてない。この場合、百済(馬韓)軍を撃退したのは魏軍の単独行動な上、戦場は馬韓域内の月支国周辺だから新羅の反応が書かれてないわけだ。しかし新羅があえて百済に反撃しなかったのは、新羅も月支国体制をやめたかったんじゃないのか? 月支国体制それ自体は、辰韓の膨張であり強大化だから初めは辰王も喜んだろうが、抵抗する馬韓人(伯済国)は治め難く効果はあがらなかったんだろう。そうなると辰王(于老)も嫌気がさし、もともと魏に強要されたことだから本国に戻りたくなる。AD240年の事件があってから伯済国も辰王も「月支国体制はダメだ」という点で一致していることを確認しあい、対魏同盟ができたんではないかと思われる。

赤烏七年(AD244)の紀年銘鏡からこの年に呉と倭の関係に何らかの進展があったとみられる。それに対抗するように翌正始六年(AD245)難升米に黄幢が下賜される。黄幢は魏の同盟軍であることを示す旗印で、かつては卑弥弓呼(男王)との戦いのために用意されたといわれていたが、最近では魏に反抗的な韓への制圧のためという説がある。男王国との戦いに「魏との連携」を宣伝してもさしたる意味がないように思う。実際に魏軍が海を越えて援軍にくる可能性などほとんどないことぐらい相手もすっかりお見通しだろう。かといって対韓戦のためでもない。魏と韓の戦争は翌正始七年(AD246)に高句麗討伐戦の派生的事件として「偶発的に」起こったのだから、事前に予知できたとも思われないし、魏に背く韓族を討伐する倭軍は魏の友軍なのは周知のことだから、わざわざ魏の旗印を立てたところで、味方に対しても敵に対してもさして意味がない。そうじゃなくてだね、この黄幢はあきらかに倭国の水軍が直接に呉に攻め入る時のためのものであって、これを下賜するというのは「呉への侵攻」を催促してるということだ。それ以外になんの意味もない。外交戦における、「赤烏七年」に対する魏の逆襲なのである。
ところが、実際に黄幢が難升米に届けられたのは正始八年(AD247)で、普通は、この間、黄幢は帯方郡に留められていたと考えられている。が、そんなことある? 詔書も黄幢も極めて重大な案件で、郡まで届いてれば倭国へ渡すのはなにも困難はない。だから途中までは届けられて狗邪韓国の一大率のもとにあったのではないかと思われる。正始六年(AD245)に「黄幢を下賜した」というのは魏の都、洛陽での話であってそれが帯方郡に届いたのが翌正始七年(AD246)、それから帯方郡の役人である張政がそれを倭国へもってく途中、たまたま後述の魏韓戦争が起こってしまったので、狗邪韓国の一大率か張政のどちらかが「これは使えるかも、いや使うべきかも」と考えて相談し、倭国にすぐには送らず一時的に一大率の手許に留めていたのだろう(もしくは一大率が自分の判断で張政を拘束したか。黄幢は軍旗なので、難升米の判断とは無関係に一大率の権限だけで拘束できる)。

AD246年に魏の毌丘倹が高句麗を破って王都を占拠すると東川王は日本海へ逃亡、そこから北の沃沮へ行ったが、敗残兵の中には南の濊や辰韓の方面に逃げたものもあったので、当初は東川王がどっちに逃げたのかわからなかったんだろう。新羅本紀では245年(恐らく246年の誤り)に高句麗が新羅に攻め込み、于老が将軍として戦ったが敗北したとある。この事件について『隋書』新羅伝にはこうある。

『隋書』新羅伝
魏將毌丘儉討高麗、破之、奔沃沮。其後復歸故國、留者遂為新羅焉。故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬

これからすると攻め込んできたのは高句麗の敗残兵の部隊で、彼らが新羅を征服して新しい支配者になったか、さもなくば新羅は敗北したのではなく彼らを匿い受け入れ高い地位を与えて厚遇して帰化させたか、いずれかであるように読める。魏志韓伝によると、この時、辰韓の那奚国を含む8ヶ国(濊に近い辰韓北部)を楽浪郡の管轄に移そうとしたという。那奚国は韓伝では辰韓12国のうちの冉奚国として出ている(慶尚北道義城郡玉山面)。ここは新羅時代の熱兮県(泥兮県)、衛氏朝鮮の尼谿相参が原住民支配のための本拠地とした「尼谿」の地。異民族との交渉窓口として楽浪郡は濊を管轄し、帯方郡は韓を管轄していたが、逃亡中の東川王が紛れ込んでるかも知れない高句麗の敗残兵の行方を捜索するため、韓の一部を濊とまとめて楽浪郡の管轄に一本化しようとしたのだろう。が、魏志がいうところでは通訳のミスで(辰韓の8ヶ国を楽浪郡に併合して県にすると誤解して?)馬韓の臣幘沾韓国が激怒して戦争になった。しかし通訳のミスなんてのは嘘くさい。原因が辰韓と楽浪郡との問題なのに、なぜ辰韓でなく馬韓の臣幘沾韓国が帯方郡に攻め込むのか。その理由はもちろん上述のAD240年に結ばれたとおぼしき伯済国と辰王との対魏同盟が発動したからである。それだけでなく、馬韓と辰韓は対立しているようだが、高句麗擁護派という点でも一致していたろう。これは後世の6世紀にも新羅と百済が任那をめぐって対立しつつ同時に高句麗に対しては同盟関係にあったことと似ている。

ところがこの戦争で、魏と同盟国であるはずの倭=狗邪韓国の一大率は黄幢を死蔵したまま動かなかった。おかげで二郡は大敗した。
帯方太守が戦死するほどの大戦になったのだから蜂起したのは臣幘沾韓国の1ヶ国ってことはあるまい。魏志韓伝では、この戦争で

二郡遂滅韓


二郡遂に韓を滅ぼす
二郡は韓を滅ぼした滅韓

といってるが、馬韓はバラバラでまとまってなくて、もともと国のテイをなしてないのだから滅ぼしたも糞もないだろう。辰韓(新羅)もこの後の歴史をみれば滅亡した様子は全然ない。なので実は韓を滅ぼしてはいないってことがわかる。同じことを

魏志三少帝紀
韓那奚等、數十國、各率種落、降


韓の那奚らの数十ヶ国おのおの種落を率ゐて降る

ともあり、「滅ぼした」等とは本紀ではまったく言ってない。実際は韓の国々の降伏を受け入れただけのことだとわかる。しかしこの程度のことを韓伝では「滅ぼした」というのはあまりに大袈裟すぎる。滅ぼしてもないのに「滅ぼした」っていうのは春秋の筆法で、実質は「敗けいくさ」なのにあえて「勝った」と嘘を書いてるのではないか。後漢書では帯方郡を分割する前の楽浪郡が18県6万1492戸、人口25万7050人というがこれは全盛期のもので、黄巾の乱以降の人口減少を反映してない。晋書では楽浪郡が6県3700戸、帯方郡が7県4900戸、あわせて13県8600戸しかない。公孫康が帯方郡を作って人口を回復させた成果を考慮しても、晋書の数値は晋の全盛期の記録だろうから、三国時代はもっと少ない。この半分ぐらいではないか。兵は1戸から一人づつ出すので、当時の二郡の兵力はあわせてもせいぜい4、5000ぐらいじゃないか? 晋書の数値そのままでも兵9000弱。対する韓は馬韓のうち伯済国が動員できるのは馬韓の3分の1として兵3万以上、辰王が2万以上、これら連合して兵6万弱。しかし上述のように降伏したのが数十国というからもしこれが誇張でなければ「三韓あわせて七十余国で十四五万戸」の半分としても兵力7万、これはかなり少なめな見積もりだが、まぁ数十国というのは伯済国が勝手に数十国の代表と称して降伏しただけで、魏もそこはわかってて降伏を受け入れてる。実際に一大率の許可なく伯済国にそこまでの動員力はないだろう。それでも伯済と辰王あわせて兵5万なのだから、普通に考えると魏に勝ち目はぜんぜん無い。しいていば、滅ぼしたというのは「辰王が月支国にいて馬韓を治めるという体制」(もしくは「伯済国の臣智が月支国で馬韓の部族会議を主宰する体制」でも可)を廃止したということを誇大に表現しただけなのではないか。この体制はわずか9年間しか続かず、辰王はもともとの本国辰韓に帰った(もしくは部族会議を解散して伯済国の臣智は本国伯済に帰った)。この体制を廃止したのも馬韓からの要求に屈したのだろう。

プロの学者にも古代史マニアにもありがちな間違いとして、「二郡遂滅韓」を真に受け、これで箕準の系統の辰王が滅ぼされたんだという人が多い。が、それなら魏の手柄として明記されそうなもの。ところが辰王がどうなったのか何も書かれてない。これは辰王体制を作ったのが魏でそれは韓族に滅ぼされたから、あえて中国の恥(実は司馬懿の恥)にふれてないのも春秋の筆法である。

馬韓といっても実態は伯済国を中心にまとまっていた馬韓北部の国々であり、百済軍の将軍が臣幘沾韓国の臣智だったから魏志はあたかもが臣幘沾韓国が主体のように書いてるが、これは伯済国の存在を匿すため。『三国史記』ははるか後世に書かれたものだから史実から酷くズレてるが、それでも百済本紀の同年の条に当時百済王だった古尓王(こに王)が「左将(百済軍のトップ)の真忠なる者に楽浪郡を襲撃させたが復讐を恐れた古尓王は楽浪郡に謝罪した」とある。真忠の姓「真氏」は百済八大姓の一つで臣幘沾韓国の「臣」に通ずる。真忠は中国風の名前に改変されてるが臣幘沾韓国の臣智だったんだろう。同時期の辰韓=新羅の動きもわかる。高句麗の敗残兵が辰韓に逃亡してきたことを、『三国史記』は高句麗が新羅に攻めてきたとして、しかも年次も1年まちがっている。この時、将軍于老は高句麗軍に敗れて馬頭柵まで退却したという。馬頭柵は後世の馬忽郡だとすると今の京畿道抱川市で、3世紀には帯方郡の南部にあたる。ここに退却というのは地理的におかしいので、逆に攻め入ったって話だろう。魏韓戦争の際、于老は辰王として辰韓の兵を率いて、臣幘沾韓国の辰智が率いる馬韓の兵とともに帯方郡へ攻め込んだんだろう。退却というのは高句麗兵を追い出さず招き入れたって話が間違って伝わったもの。

さて、魏志の三少帝紀で「数十国が降伏した」というのも、その実は伯済国が(辰王を含む)数十国を代表して謝罪したっていう程度のことだった可能性が高いんじゃないのか。しかし、なぜ謝罪したのか? 郡を一国に喩えれば太守はその国王であり、それを殺したのだから大勝利だろう。そのまま二郡を滅ぼすことなど造作もないことと思われる。「二郡遂滅韓」なんてのは春秋の筆法どころか大嘘もいいところで、これは本当は「二遂滅」というのが真相だろう。弁韓は参戦してないから、辰韓と馬韓で「二韓」ね。

ところが不可解なことに、勝利した側が自分から折れて謝罪したのである。おそらく、巨大な軍事力をもちながら戦争中には動かなかった弁韓の一大率が仲に入って取りなしたのではないか。仲裁者である一大率を伯済国を含めた諸国は「畏憚」してるんだから命令を聞く他ない。もっとも一大率には軍事指揮権があっても外交権がないから、伊都国の難升米を呼び出したんだろう。難升米が提案した講和の条件はこうだ、(1)月支国体制は廃止。(2)伯済国は韓の非を認め、韓を代表して魏に謝罪する。実を取った伯済国は名を捨てるわけだ。(3)魏は韓を代表しての伯済国の謝罪を受け入れる。そうすると事実上伯済国は「韓の数十国」の代表ということになってしまうし、伯済国が自然に復権するだろうが、魏はそれを黙認する。だが名目上は魏は「こっちが勝った」ってことにできる。一大率としては男王派の辰韓まで守る気はなかったが、そこは伯済国が三韓すべての代表者として振る舞うために、謝罪組のリストに辰韓も入れるようにと、難升米に手を回したんだろう。これなら伯済国は辰王との対魏同盟も守れたことになる。魏は実質は敗北なんだが、仲裁者の難升米は魏の率善中郎将であり、二郡の太守より格上なんだから逆らえない。魏の率善中郎将の裁きはすなわち魏の裁きである。魏が韓に謝罪させたんだから、これを勝利と言わずしてなんとするw 魏は実を取りそこねたが名を取れた訳である。またこの時、一大率が預かっていた詔書と黄幢は難升米に渡すことができたはずだが書かれていない。なぜかというと張政の使命は詔書と黄幢を倭王卑弥呼に渡すことであって難升米に渡すことではないからである。ただ軍事戦略上、一時的に一大率のもとに留めたにすぎぬ。

新羅が高句麗の敗残兵を庇護して自国に帰化させたことで両国は関係がよくなりAD248年には初めて同盟関係に入った。しかし新羅と百済はずっと前からすでに仲が悪くなって久しく、魏韓戦争での同盟関係もAD255年に壊れることになる。

しかし今回の一大率と難升米の動きは馬韓と辰韓にはトクだが、魏にしたら自分は裏切って一兵も出さず逆に恩を売ってくるという卑怯で姑息な態度にみえたはず。帯方郡では一大率の動きに「倭国はどういうつもりだ」と不審を覚えたろう。戦死した弓遵に代わって、この年か翌正始八年(AD247)かわからぬが王頎が帯方太守として転任してきた。王頎は東川王を追撃していた武将で、つまり今回の戦争の原因に直接関与していた男でもある。だから今回の事態の真相究明と戦後処理の責任者として打ってつけの人物だった。そんな話はすぐに倭国に伝わり、同年中に倭国から載斯と烏越の二人(「載斯烏越」という一人の名ではない)が帯方郡にやってきて、男王との戦いがあったために軍を動かせなかったのだと事情説明というか、言い訳をした。魏志に

倭女王卑弥呼、與狗奴國男王卑弥弓呼、素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃狀

とある。実際に前年、魏と韓の戦争中に、倭国内でも男王と女王の戦争があって男王を滅ぼしたんだろう。男王が亡んだということを帯方郡に報告するということは、男王派である辰韓への威嚇(ないし帰服の勧告)にもなる。ここで「相攻撃する狀を説く」とのみあって男王を亡ぼしたとはいってないが、まだ残党の掃除までは終わらず、三韓諸国の動向も最終的なところまでみえていなかったので言葉を濁したんだろう。かなり微妙だが厳密には確かにそれは嘘ではない。これに対し太守王頎は、

遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之

と。えーと、「檄を為りて告諭す」は、狗奴国と仲良くしろと言ったとかの、脳味噌が腐ってるとしか思えない解釈が横行してるんですが、そんな訳ないだろ! 世間にありがちな説では倭国と帯方郡とのやりとりを「情報不足や勘違い、あるいは虚偽宣伝での外交戦」みたいにいう人も多すぎる。帯方郡のような「辺郡」といわれる役所は異民族交渉のプロであると同時に軍隊でもあるから諜報も発達してるんで、男王がすでに亡ぼされたことぐらいとっくに把握してたろう。告諭したのは同時にもってきた詔書の内容なんで、それ以外のことではない。詔書が書かれたのは正始六年(AD245)だからその詔書には狗奴国との不和の件も韓族との戦争の件も出てくるはずがない。じゃ、その詔書には何が書かれていたのかというと、そもそもの魏にとっての、「倭国の存在意義」そのものの件だよ。対呉同盟、それ以外になにがあんの?「因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之」の意味は超訳すれば「魏韓戦争は突発的な事件であり、黄幢の本来の目的とは関係ない。韓族との講和交渉では、敗けいくさだったのに勝ったことにしてくれたから、その恩に免じて今回は細かいことは不問に付すけど、詔書と黄幢は今度こそしっかり渡しましたよ、ちゃんと呉を攻めて下さいよ」ってことだ。世間では魏がすごく大国で東夷はしょぼくれてるように思ってる人が多いが、それは根拠のない思い込み。人口規模と軍事力で圧倒的な差があり「魏<韓<倭」なので気を使ってるのである。味方になって呉を攻めてくれんのならいいが、ウッカリ機嫌を損ねてこっちが攻められたらAD246の魏韓戦争のような大事になってしまう。相手が韓だから二郡が滅亡する手前まで行っても倭に止めてもらえたが、相手が倭だったらその程度の損害で済むはずがない。
この魏韓戦争が一段落したので、張政は難升米と一緒に狗邪韓国から渡海してようやく伊都国に着いた。ここから詔書と黄幢をもって邪馬台国へ行こうとした。詔書と黄幢はどちらも重大な物件で、おろそかな扱いをしたら高級官僚でも首が飛ぶクラスのもので、当然、倭王に直接渡すべきだからだ。しかし魏志倭人伝の記述では、なぜか率善中郎将にすぎない難升米に渡している。率善中郎将は(校尉も)四品相当だからけして低い官位ではなく、州刺史や郡太守より格上なほどだが、それでも本来なら倭王の代理になれる訳がない。張政の塞曹掾史は七品でかなり下だから難升米には逆らえないだろうが、ただでさえ難升米の権力が絶大で「いいから黙って俺に渡せ」と言われれば仮に張政の官職(名目的地位)が高かったとしても従わざるを得ない状況を示しているだろう。魏としては建前上の辻褄をあわせるためには難升米を倭王そのものか少なくとも倭王の正当な代理だとみなして納得するしかない。外交に関しては一切を任されてるんだから魏からみれば事実上の倭王そのものである。難升米は倭国内部の規則では軍事指揮権はないのだが(一大率とは別人だから)、一大率は外交権がなく、魏使は一大率と直接交渉できない。魏の方から軍事行動を要請するにも窓口が一つしかないのだから結局は難升米を通すしかない。魏からすると難升米一人が全権者であり倭王みたいなものになる。

ところで張政の「塞曹掾史」って肩書だが、掾史は役所の長。曹は役所で、馬曹、車曹、戎曹、金曹、法曹、倉曹、鎧曹、戸曹、水曹と職務によっていろいろあるわけだが、「塞曹」というのは他に例がなくなんのことだかわからない。張政は帯方郡の役人じゃなくて中央から派遣されてきたんだという説もあるが、それならこんな妙な肩書はどうなのか。帯方郡がオリジナルで設置した官だろうから、やはり郡レベルの役人だろう。「塞」の字は軍事要塞のこととみて、辺境守備隊のようなものとする説があるが、そんなありきたりの役人ならもっとメジャーな職名が普通にありそうに思われる。で、もしやこれ狗邪韓国なり伊都国なりに常駐する帯方郡の役人の肩書じゃあるまいか。伊都国は「兵万余」(魏略の戸万余は誤写)を擁する巨大な軍事基地だし、狗邪韓国も一大率が常駐してたなら同様だったろう。

三韓への倭からの影響
繰り返しになるが、魏の建前では馬韓をとりまとめる者は存在せず、臣智の称号をもつ国々の主帥らが思い思いに帯方郡から魏の官爵をもらっていることになってる。その中には馬韓だけでなく狗邪国や安邪国といった弁韓の国も入ってるのは上述の通り。しかし辰韓の国はない。辰王も魏から官爵をもらってる様子はない。辰韓と馬韓が対立していたのなら、馬韓が親魏派で、辰韓が反魏派のようにみえる。が、「辰王月支国体制」は魏が馬韓を抑えるために辰韓の力を借りた体制だから、矛盾しており、だからどのみち瓦解するのは時間の問題だった。「月支国部族会議体制」だったとしても伯済国の王位を否定するものだから反発は大きかったろう。魏は伯済国が公孫氏の係累であることを重視してその宗主権を否定したのに、なぜ馬韓は親魏派になり魏の官爵をもらうのか。なぜ辰韓は馬韓の支配まで任せられたのに反魏派なのか。

その謎の鍵は倭国だろう。239年の親魏倭王、大夫難升米の率善中郎将、都市牛利の率善校尉の件は倭国からも帯方郡からも、三韓へ向けて広報があったろう。それで馬韓も弁韓も倭にならって率善邑君、帰義中郎将、都尉、伯長といった官爵を受けるようになったが、辰韓はそうしなかった。

「帰義侯中郎将」とあるのは誤りで「侯」は衍字。邑君は大国の首長で臣智に与えられ、邑長は小国の首長で臣智でない者に与えられる。中郎将、都尉、伯長の3つはすべて武官で、邑君の部下に与えられる。しかし、実際はどれぐらい多く与えられたのか、さして多くなかったのか一切不明。

新羅本紀では218年・222年・224年・240年に百済と新羅が戦争してるのでこの頃の辰韓と馬韓の仲の悪さが察せられるし、232年と233年は倭国が新羅に攻め入り233年の戦では于老が倭を撃退、249年には倭人が于老を殺したという。この話は日本書紀にも「宇留助富利智干」(うる・そほりちか)を殺した話として出てくる。つまり倭国と辰韓も仲が悪かった。当時の倭国は男王と女王に分かれて争っていたことは三韓にも知れ渡っていたろう。だから同じく仲の悪い辰韓と馬韓は、一方が男王についたら他方は女王につく道理。伯済国の方が辰韓よりも帯方郡に近く、馬韓での宗主権さえ認めてくれるのなら出来れば魏とは仲よくしたいのが本音だから、新魏派の女王国に寄りたいわけよ。辰韓はそれに比べると帯方郡からかなり離れてるし、辰王は古くから代々続く血筋で、血統意識も強いから、女王(その実は女王を担がねばならない男弟)よりも単独で正統性を主張できてる男王を本物っぽく感じるわけ。で、弁韓だが、ここには狗邪韓国にもうひとつの「一大率」が常駐してるんだから当然、女王の支配圏。つまり辰韓は女王と敵対している男王国を支持していた。辰韓が魏の官爵を拒否していた理由はこれ以外に考えられない。
もっとも倭国では率善中郎将は難升米、率善校尉は牛理と、名前も、そして何をした人かも明記されてるが、韓では諸国の臣智の中には官爵を授かってる者がいるというだけで、誰がどの官爵を受けたのか一切書かれてない。辰王だけでなく弁王も伯済国の臣智も魏の官爵をもらってないばかりか名前のわかってる者が一人も出てこない。このことから韓では魏の官爵というのは、あまり重要な人物でなくても臣智でさえあればもらえるレベルの、多分に形式的なもので、おそらく帯方郡と倭国及び他の三韓諸国に対して「私は親魏派(&女王派)ですよ」と明示する程度の意味しかなかったのではないかと思われる。東夷伝の中では、夫餘伝や高句麗伝には王の名とか固有名詞が出てくるが、これは独立国の歴史を説明するため必要だから。韓に重要人物が一切でてこないということは、邑婁伝や東濊伝や沃沮伝と同じで、統一国家ではなかったのみならず、東濊や沃沮が高句麗の属国だったことを思い起こさせる。同じように、三韓もまた倭の属国だったのである。

馬韓の実態
魏志韓伝の解読はこれくらいにして、ようやく元の話に戻れる。書紀の「百済・新羅・任那」と魏志の「馬韓・辰韓・弁韓」の境界線が一致しないことだ。

この頃は伯済国の宗主権は馬韓の北部と西海岸沿岸部だけと思われ、中部、南部の馬韓は伯済国の下にはなかった。そこは魏志韓伝のいうような、無秩序に放置された権力の空白地帯だったとは考えられないし、別な言い方をすれば北に伯済国、南に弁韓があってその緩衝地帯だった等ということもありえない。
もし狗邪韓国に常駐していた一大率が『日本書紀』のいうような任那日本府のようなものだったとすると、その管轄範囲である任那とは、弁韓地域にとどまらないもっと広域の地名である。後世の任那の範囲は加羅諸国(弁韓)だけでなく継体天皇の時に百済に割譲した四県二郡も任那に含まれている。その前には雄略天皇の時に「久麻那利」(熊津:くまなり)の地を、さらにその前には神功皇后の時に四邑を百済に下賜している。「久麻那利」は今の公州市(馬韓の古蒲国)のことだが、この場合は公州を中心とした一帯(忠清南道のほぼ全域と忠清北道の西半分?)。四邑は比利(ひり)、辟中(へきちう)、布彌支(ほむき)、半古(はんこ)でそれぞれ現在地は、忠清南道の西海岸が比利(庇仁)。全羅北道の西海岸の北が辟中(金堤)で南が布彌支(茂長)。全羅南道の西海岸が半古(羅州か潘南)。以上の四県二郡・久麻那利・四邑はすべて馬韓の地であり百済に下賜される前には任那の一部だった。つまり『日本書紀』では弁韓だろうが馬韓だろうが関係なく、新羅や百済が領有してないところはすべて任那の一部という扱いになってる。
このことから察するに、伯済国の宗主権の及ぶ馬韓諸国を除いた残りすべての馬韓諸国は、狗邪韓国に常駐した一大率の管轄下にあったと考えるべきだろう。伯済国・辰王(辰韓)・弁韓(一大率)という、まとまった政治勢力に囲まれて、広大な馬韓が政治権力の空白地帯だなんてことは不自然すぎてあり得ることではない。

しかしそうすると、前述の馬韓の「綱紀すくなく、邑落雑居し、よく相制御すること能わず」という文から、揉め事を治めることもできない有様はどうしたことか、とツッコミが入るかな? どうも「邑落雑居」という言葉からすると、敵対する者同士が雑居してるようにも聞こえる。
さらに韓伝には馬韓について

國邑各立一人、主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑、名之為蘇塗(中略)諸亡逃、至其中、皆不還之。好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠、而所行善悪有異


国々には「天君」という司祭職が「蘇塗」という神殿施設を管理しているが、そこはアジールの機能があって、犯罪者が逃げ込むと逮捕連行できないので、好んで悪事をなす

と。これ単に与太者や不良グループやギャングが横行して治安が悪いということを言ってるのではない。神官がなぜ悪の手助けをするのかといえば簡単で、日本国内の事情と同じく、土俗信仰の神官だからそういうものを馬鹿にする儒教や中国人が嫌いで、魏と結んでいる女王も嫌いな「男王派」だから。「好んで賊をなす」の「賊」ってのは魏や女王派からみての賊であり、辰韓や男王派からすれば正義の蜂起、義挙なのである。
この文の後すぐに続けてこうある、

其北方近郡諸國、差暁禮、其遠處、直如囚徒奴卑相聚


其の北方の近郡に近き諸国はいささか礼を暁るも其の遠き処はただ囚徒奴卑の相聚まる如きのみ
北部の帯方郡に近い諸国はいくらか「礼」を知ってるが、遠いところ(南部の馬韓)はまるで囚人か奴隷のようだ

という。これ馬韓の未開ぶり、野蛮さを表わした文だと思われがちだが、そうだろうか? 南北で非対称になってないか。「礼」は現代人が考えるようなマナー、エチケット、礼儀作法のことではなく、儒教の「礼」の概念だろう。もともと

『礼記』
礼不下庶人、刑不上大夫


礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず

というように、礼は士大夫のもので庶民は関係なかった。だが孔子は身分に関わらず誰でも礼を含む学問をして君子になれるとした。つまり理論上は囚人や奴隷でも礼を学んだ者はありうる。
庶民でなく支配階級の問題なのであるから「礼」のもっとも重要な意味は上下関係、指令系統のつながりのことなのである。北部の諸国が「礼」を知るというのは伯済国を通じて魏がその諸国に命令できるという意味であり、伯済国がそれら諸国を把握してるという意味でもある。「差暁」もニュアンスの微妙な言葉で「差」は「やや、ちょっと、すこしだけ」の意味なのに「暁」は「よく知ってる、深く知ってる」の意味だ。これを合わせて「差暁」と言ってるので「ちょっとしか知らない」のか「詳しくよく知ってる」のか、訳が分からない。これはどういうことかというと、馬韓諸国(の中の反魏派、男王派)は魏をよく思ってないから反抗的なんだが、よりによって魏が馬韓の代表権を取り上げたはずの伯済国を通せば(力づくで)従わせることができる。こいつらは「礼」を知ってんだか知らないんだか、という皮肉なのである。
これに対して南の方では囚人や奴隷のようだというんだが、未開ぶりや野蛮さを表現する言葉など他にいくらでもありそうなのに、この喩えはへんじゃないか? 高貴な囚人もいれば立派な恰好した奴隷もいるんだから。これは未開ぶりや野蛮さを言ってるのではなく、「強制された境遇」をいってるのである。馬韓諸国は北が伯済国の支配下、南が弁韓の一大率の支配下にあって分割されてるが、どちらも親魏派かつ女王派である。しかし馬韓諸国の中には辰韓と同じく男王派で反魏派という人々がたくさんいた。辰韓も、こっちの仲間になれと盛んに誘いをかけてもいただろう。馬韓の北部(京畿道)は伯済国を中心にまとまっていたんだろうが(いささか礼を暁る)、馬韓の中部南部(忠清道・全羅道)では一大率の武力の下で厳重に管理されてるから囚人か奴隷のようで(囚徒奴卑の如し)反抗できない、ということを言ってるのだ。囚人は看守に、奴隷は主人に逆らえないように、馬韓人も一大率には逆らえない。が、抗争がないわけではない。囚人同士、奴隷同士の争いがある。雑居してる「男王派=反魏派」vs「女王派=親魏派」の騒動が絶えない(綱紀すくなくよく相制御すること能わず)、「女王派=親魏派」は馬韓においては体制派なので臣智たちが守ってくれるが、それに対抗する「男王派=反魏派」は蘇塗の天君たちが味方してくれてたんだろう。一大率がいくら軍事力あっても古代人はカミガミには手を出せない。伯済国や倭国(女王国)からみれば、この馬韓の騒動はぜんぶ辰韓が悪いのである。一方、辰韓からみると伯済国も弁韓も悪の陣営なのだから、両者は仲が悪くて当然なのだ。

結局、魏志韓伝の描く3世紀の三韓の政治的な境界線は表にすぐわかるように書かれてない。馬韓の中南部は弁韓と一つの勢力なのであり、馬韓の北部はすでに伯済国を中心にまとまっており、三韓の実態は4世紀以降の任那・百済・新羅が鼎立していた情況と大差ないのだ。しかしそれは魏志韓伝の文面に表われない。馬韓が北と南で別の国になってることがわからないように書いてあるし、魏韓戦争も「二郡が韓を滅ぼした」と真逆のことを書いている。
魏が消したはずの伯済国の存在、月支国体制の愚策ぶり、AD246年の魏韓戦争での大敗と屈辱的な講和。馬韓と弁韓に対する一大率の絶対権力、三韓における帯方郡の無力さ。それら魏(というか晋だけど)の面子にかかわることはすべて建前上、無かったことにされている、春秋の筆法で。

百済建国と馬韓の分割
馬韓は3世紀の段階ではすでに「伯韓」か「済韓」とでも書くべき存在だったが、伯済国の宗主権を否定した魏では一時代前の馬韓という名称を使ったのである。高句麗は121年に玄菟郡、その翌年には遼東郡に攻め込んでいるが、2回とも自国の兵以外に濊貊(江原道の東濊)と馬韓の兵を伴っている。魏志によると正始六年(245年)以前には東濊は高句麗に属していたとあるから、高句麗軍の中にに東濊兵がいるのはわかる。が、馬韓兵もいたのだから121~122年の頃は「馬韓と高句麗の関係」はすでに「東濊と高句麗の関係」と同じものになっていたように思われる。つまり馬韓は高句麗に支配されていた。その支配の根拠地として築かれたのが「乾馬国」で、馬韓という名はこれから起こったことは今回のシリーズの【その1】に書いた通り。121~122年の高句麗の二郡への侵攻に対し、高句麗の宿敵である夫餘は漢帝国に援軍を出して二郡を救っている。この時、高句麗軍に東濊兵のみならず馬韓兵もいたことに、夫餘も気付き、対抗上、高句麗から馬韓を奪い、我が物にしようとしたんだろう。それが伯済国の建国と、伯済国による馬韓北部の制圧へと繋がっていく。

『三国史記』百済本紀では後来の侵入者として馬韓の北部に勝手に国を建てた百済が、馬韓王と対立し、ついに戦争で馬韓を滅ぼしその領土をそっくり頂いたことになっているが、学界の通説では馬韓王などというものは存在せず、馬韓の諸国を長い年月をかけて少しづつ併合していったことになっている。『日本書紀』の描写は微妙で、最初の方では任那日本府の勢力圏と百済の間にはどこにも属さない小国がたくさんあるような雰囲気なんだが、後の方になるといつの間にか任那と百済は国境線で接してることになってる。このへん、特に最初の方の記述は『日本書紀』の文面もずいぶんと不可解なことになっていて、神功皇后が新羅の不正を糾すために派遣した荒田別(あらたわけ)の軍が新羅を降伏させた後に、なぜか関係のない加羅七国(弁韓)を平定し、さらに西(馬韓の地域)に移動すると「四邑おのづから降りぬ」(4つの国が降伏した)。この四邑は加羅七国とは遠く離れてるので、その間の地帯がどうなってたのか説明がない。ここは誤脱があり、降伏したのは四邑を含む馬韓全体なのではないか。四邑を百済に下賜する話との間に文章が抜けているのである。
中国側の史料がいうように百済の実質的な建国が公孫度と尉仇台によるものとすればそれは2世紀後半で、馬韓のうち北部(京畿道)の諸国をとりまとめていた。それより南にすぐには進出できなかったのは、馬韓の抵抗が大きかったんだろう。そこで書紀が伝える百済(伯済国)と日本(倭)の国交樹立の説話の通り、百済の方から日本にわざわざ「属国になりたい」とアクセスしてきたのは馬韓を制圧するのに支援を取り付けるためとしか思えない。しかし実際に日本と百済の共同作戦となると、馬韓はことごとく倭(日本)に降伏した。なぜかというと、百済の侵略に抵抗していた「馬韓」(乾馬国を中心とする中部、南部の諸国)は建前上は高句麗の属国だったんだろうが、本国が遠く離れているので目の前の百済と戦うにはアテにできない、かといって百済の下につくのも嫌だから。そうなると百済についていた北部の馬韓も「じゃ俺たちも一緒に日本に」となるから、北部諸国の連合体としての百済は崩壊してしまう。日本としては百済との国交もあり、百済が独力で勝ち取ってきた宗主権を、関係ない日本が横からでてきて否定するわけにもいかない。なので、自主的に降伏してきた馬韓の中部と南部は任那の勢力圏に含むことにはしたが、すでに伯済国の配下になっていた北部の諸国は伯済国(百済)の宗主権をそのまま安堵してあげたってわけだろう。乾馬国は今の全羅北道の益山だからかなり南に寄っており、『三国史記』がいうような北方に存在した初期の百済がいきなりそこまで併合しちゃう話は辻褄が合わない。
邪馬台への行程【その7】」に続く。
【その7】では水行陸行の日数を倭人伝での里単位や実際の距離に換算します。
関連記事
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

最新記事
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

新語拾遺
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム