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邪馬台への行程【その7】~水行陸行、里数への換算~

改稿:2679年[R01]12月18日WED (初稿:2679年[R01]10月21日MON)
邪馬台への行程【その6】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その6】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「而」か「或」か
さて、ようやく水行陸行の日数表示が実際どれぐらいの距離なのかという問題だが、まずは倭人伝の中で使われてる「里」の単位に換算するところから始めようと思う。
日数表記のところから里数を割り出すというのはつまり「一万二千里は奴国までの距離」ってことに変更される前の状態を復元することである。
不弥国を内陸に置く説はともかく、九州説でも畿内説でも不弥国は海岸をもってることがほとんどで、投馬国またしかり。なので放射式で伊都国から、順次式で不弥国から投馬国への水行は問題ないとして、邪馬台国の「水行十日陸行一月」が問題だ。
「水行十日陸行一月」の解読には3つ説があり、

(A)連続説。まず水行して然る後に陸行する。
(B)選択説。もし水行すれば十日、もし陸行すれば一か月という二つのルートから選ぶ。
(C)混在説。水行したり陸行したり。水行した分だけ合算すると十日ぐらい、陸行した分だけ合算すると一か月。

(B)の選択説の場合は水行は陸行の3倍計算となる。(C)の混在説はちょっとありえない気がする。普通これは陸行に含めるだろう。そこらをこだわったのなら「乍水行乍陸行、計日、水行十日陸行一月」と書かれたろうけど何が疑問といって、中国人の水行というのは川をいう場合が多く、いずれも悠々たる桁外れな大河でそれに比べると日本の川は小川のせせらぎか急峻な滝みたいなもの。中国人の感覚では水行とは言わなかったのではないか。川を使ったっていっても内陸部だからこれは陸行だと認識されそう。絶対に(A)の連続式にしか読めない書き方なら「水行十日陸行一月」となるが原文のままでも漢文として普通に読み流せば連続式に受け取るのが自然だから、「而」の字を入れるのはややくどい書き方かもしれない。もし間違いなく(B)の選択式に読んでほしいと陳寿が思ったのなら「水行十日陸行一月」とか一字を補ってあるべきだが、その字がないからといって絶対に選択式には読めないこともないからややこしい。例によって「而」か「或」か一字の誤脱を想定すればまたどっちともいえるし、なぜ陳寿はわずか一字を惜しんだのかと深読みすれば「誤読を誘っている」とも思えるw

で、日数の換算だが、ご存知の通り『唐六典』の数値をみると以下のごとし。この数字は唐代のものだが三国時代も事情は大差ないだろう。

『唐六典』


凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里。
水行之程、船之重者、泝河日三十里、江四十里、余水四十五里。
空船泝河四十里、江五十里、余水六十里。
沿流之船、則軽重同制、河日一百五十里、江百里、余水七十里。

水行は1日あたり30里~150里、陸行は30里~70里でばらつきが酷いw 
『唐六典』の数字を使ってありえそうな最大値と最小値をみると、最短の30里を使って放射式+選択式だと邪馬台国までわずか300里。最長で陸行70里、水行150里を使って順次式+連続式だと投馬国まで3000里、邪馬台国まで3600里、計6600里。最短300里で最長6600里なんだから、その間の数字はすべて可能性があることになる。ホントかよw さらに誤写の可能性もあるから「二十日」が実は「二日」「十日」等の間違いだとか、「一月」が「一日」の間違い、とかもありうる。これらを組み合わせるとさらに幅が広がってとりとめもなくなりそうだがしょうがないw どの数値が正しいか(現実にあてはまるか)は、実際にその道を行軍してみた者でないとわからないが、1日あたりの行軍距離について上述のごとく豊富な数値があるので、机上の数字だけなら自在に伸縮可能でなんとでも辻褄あわせはできる。

日数表示は何里か?
ところで、一万二千里が邪馬台国でなく奴国までの距離ってことに設定変更された時に、初期モデルの3000里を消してわからなくするために日数表示にしたんだとすると、単純な計算で簡単に復元できるなら3000里を隠した意味がない。放射式だと2800里だが【その1】で説明した通り、俺の説では伊都国と不弥国の間は500里だと考えるのでその場合は2500里になる。ここの里数3000 or 2800 or 2500里は隠したいわけだから、換算数値を好きなように当てはめれば何通りにも推定はできるが「これが正しい里数だ」というのはわざと確定しないように書かれてるのだとは思われる。作者の気分になってみると元の「3000里」(「3000 or 2800 or 2500里」だが煩雑なので以下《3000里》と書く)を、なにも読者のためにご丁寧に換算して日数表記にしてくれたという保証はないぞw つか奴国までが一万二千里に変更された以上、不弥国から邪馬台国までが《3000里》である必要がなくなっているのだから、そもそも換算前の《3000里》という数値が消えている、無意味になっている。ということは、この日数表示は《3000里》とまったく関係ない数字だということも十分にあり得るのではないだろうか。
そうはいっても「わからないように書いてあるんだから、わかるわけないだろ」だけで終わりにしては「金返せ」って言われかねないw なので憶測レベルの議論にすぎないが、もう少し詳しめに結論めいた議論に力技でもっていってみたいw

孫栄健みたいに水行十日も陸行一月も1200里のことで「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説もありうる。ただ孫栄健の説の場合、投馬国の水行二十日が浮いたまま放置されてる。これは当然2400里で、放射式だとすると何のための虚構なのか意味不明になってしまうから順次式だとして、合算すると3600里になる。「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説にこれをあてはめると「10分の1にした上で3倍にした数字」だ。投馬国の位置は「一万二千里」の中では3分の2の地点になり、奴国まで一万二千里として文面上に記述されたルートの上では対馬国上陸地点にあたる(半周を加える前の地点)。ここまでは確かに水行だけなので、ここまで二十日だったとして、倭国内ルート(対馬国上陸地点から奴国まで)は水行と陸行が混在してる。これをすべて水行に換算すると十日、すべて陸行に換算すると一月。水行換算値と陸行換算値が併記してあるのは要するに水行が陸行の3倍の速さだと示すため、ということになる。だがこの説だと、少し無駄で煩雑すぎる気がする。水行も陸行と同じで40里という極めて単純な設定なのではないか? 陸行は邪馬台国のルートではなく投馬国と邪馬台国ルートの合算だとすれば、投馬国まで水行800里、邪馬台国まで水行400里で合計1200里。陸行も同じく1200里。どっちも「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だとした方がシンプルではある。陸行が両行程の合算だっていうのがアレだがw

しかし、よく考えるとそこまで消し去らなくても、もともと日数換算が『唐六典』にあるように伸縮自在なのだから、一度日数にしてしまうと、「換算前の里数」か「特定の換算値」のいずれかをを事前に知ってる者でない限り、里数に復元できない仕組みになってる。つまり一般読者には解読される心配がないし、機密に与る上層部の一部には「換算式によって(《3000里》に)復元できるから嘘は書いてませんよ」というアピールになる。
そう考えるとやはり計算すれば《3000里》になるはずだ。その前提で考え直してみたのが以下。

九州説だと伊都国からの放射式で方角は字のまま南としても、南に水行できないのと思うのだが、これは出発時の方角でなく起点からみた終点の位置する方角とすれば、途中の行路が東西南北どっちを向いててもいいという解釈で乗り切れる。ただし『唐六典』では馬は70里、徒歩と驢馬は50里、車は30里というが、選択式で2800/2500里をこなすには1日あたり水行で300里近く、陸行で100里弱も行かないとならないからムリ。連続式か混在式なら1日あたり「水行130里、陸行50里」で計2800里(水1300+陸1500)にでき、水行を100里にする(水1000+陸1500)か陸行を40里にする(水1300+陸1200)ならば計2500里にできる。川下りコースで黄河が150里、長江が100里だから130里は若干きついが絶対ありえない速さではないだろう。問題はそこでなく、水行した後それに近い距離もしくはそれ以上の距離を陸行するのが九州内では難しい。「迂回することになっても途中までは陸路より海路(もしくは河川)で行った方がよくて、かつ、上陸してから水行できない内陸を海路と同距離もある地点」なんて九州内にありえない。なので連続式でなく混在式とした方がいくらかマシだが、それでもどうかな? そこで選択式で「水行二十日陸行一月十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行140里、陸行70里で2800里とできるし、「水行二十日陸行一月二十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行125里、陸行50里で2500里とできる。『唐六典』の陸行70里は馬を使った場合だから人間で40日を踏破するのは厳しいとすれば、端数がでるが「陸行二月」でもよい。1日50里で2800里には2ヶ月めの4日前に到着する計算になり、同じく「陸行一月半」とすれば2500里には2ヶ月めの4日前に到着で、数日余る分には何の問題もない。これなら九州のどこにももっていけそうだが、水行だけでも陸行だけでも行けるのだから九州の沿岸部に限られてしまう。筑紫平野の真ん中や熊本平野の奥や阿蘇カルデラの中にもってく説だと厳しい。宇佐説、鹿児島説、日向説なんかは問題ない。

畿内説でいうとまず順次式だとして、瀬戸内海航行だと近畿との境か手前で上陸することになり意味がわからない。だから日本海航行だと考える。方角からいって投馬国を三丹(但馬丹波)だと仮定すると、水陸の「混在説」がよいようにみえる。この場合の水行とは川を船でいくことで海路ではない。しかしGoogleマップを使うと、この間徒歩40時間しかないw 1日に6時間か7時間歩いたとして6日。すると「陸行一月」も里程と同様、5倍に誇張されてるんじゃないのか? ともかく「陸行一月」だけで行けるとなると、「水行十日」が浮いてしまう。なのでこれを投馬国の「水行二十日」の重出誤記だとしてもいいのだが、ちょっと保留しとくw 陸行30里、水行70里とすると、順次式で投馬国まで1400里、邪馬台国まで水行700里陸行900里で計1600里。合計3000里。重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がこれだとして畿内説に当てはめると(日本海航行で)投馬国は但馬じゃなくて出雲っぽい。出雲だとすると「南」は「東而南」の誤脱ではなく「東」の誤りだということになるのがどうもな…。
第二案として、陸行30里で投馬国から邪馬台国まで900里。「水行十日」は「水行二十日」の重出誤記として無視すると、残りの投馬国まで2100里だから水行105里と決まる。里数の割り当てはいいような気がするが「105里」が半端で不自然だな…。
第三案として、三国志の中では司馬懿の公孫淵討伐戦での行軍速度、1日40里を基本にすべきだという説もあって、確かにごもっともに聞こえるので採用してみる。この場合水行は60里とすると、投馬国まで1200里、邪馬台国まで水行600里陸行1200里で計1800里。合計3000里。これも重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がへんだ。瀬戸内航路だと陸行はわずかにならないとおかしいし、日本海航路でも半分以上も陸行するなんてありえない。
第四案として、陸行は40里のまま、邪馬台国への「水行十日」は投馬国の経路の重複誤記として無視し、邪馬台国は陸行だけだとすると、投馬国から邪馬台国まで1200里。残りは投馬国まで1800里だから、水行は1日90里と決まる。計3000里。これで郡から邪馬台国まで一万二千里になる。数字の辻妻はきれいに合うが(というか無理矢理あわせてんだから当然だが)、これも里程の割り当てが微妙に地理にあわないような…(陸行が多すぎて不自然)。まぁ魏志の設定上の地理だから実際の地理に一致しなくていいともいえるが。

以上どの説もそれぞれ欠点あり、辻褄合わせ感が強いw 自分で書いてアレだが、どれもびみょうに間違ってるような気がするしなw …そう、重要な何かが欠けているのだ…。
倭人伝2
水行陸行の謎解き
やはりここはアレの出番だろう。そう、「春秋の筆法」ですw 出たw
倭人伝の冒頭で韓地の行路の説明が、海岸に沿って水行したとも内地をジグザグに陸行したともとれる書き方になっていて、二つのルートをあえて混在させていた。こんな不可解な書き方をあえてしているのは意図的な「文の違え」で、言外に何かを示そうとする「春秋の筆法」なのである。両方のコースを行くことは物理的に不可能なので、一方を選択しなければならないが、どちらのコースを進んでも(水行しても陸行しても)同じ「七千里」になる。ここで示されているのは第一に「陸行と水行はどちらかを選ぶ」のであって連続式や混在説で読んではいけないということ、第二に「陸行しても水行しても出発地と到着地は同じ、距離も同じ」ということ。つまり投馬国から邪馬台国までの行程は「春秋の筆法」の示すところに従って「水行すれば十日、陸行すれば一月」となる。
これで考えていくと、放射式の場合は上述のごとく1日あたりの距離数をオーバーしてしまうのでムリ。さすれば前述のごとく「水行二十日陸行二月」もしくは「水行二十日陸行一月半」の間違いだったということになる。
順次式では水行は100里となる。『唐六典』でも川下りの場合は黄河で1日150里、長江なら100里、それ以外の川で70里。日本海の東行は潮の流れに乗るのだから中国の大河に比べて1日100里は軽くありえるだろう。すると投馬国までの水行二十日はちょうど2000里となる。で、邪馬台国までは1000里でないと困るので陸行のみで1月を30日とすると平均値は「1日33.3333…里」。1日35里とすると29日(旧暦の小の月)で「1015里」で15里余るが、まぁ前述の放射説の場合と同様、目的地にその日数で達すればよいのだから15里余っても問題ないはずだ、普通ならね。しかし魏志倭人伝の里程や日数は初めから仕組まれたもので普通の計測値ではないのだから、端数が出るのはどうも釈然としない。キリのいい表現で「3日で100里」のつもりだと思われる。ただ、このルートが「但馬~大和」間だとすると基本陸行で水行はないのだから「水行十日」は「水行したら十日」の意味ではない。水行はできないし、しないのだが「陸行の日数を水行に換算したら十日になるよ」という意味なのではないか(そんなややこしいことは言わずに単純に選択式だというだけでも差し当たり問題ないが)。
で、不弥国から投馬国までは水行2000里(=水行二十日)、投馬国から邪馬台国まで陸行1000里(=陸行一月)、あわせて3000里という至ってシンプルなことになる。

瀬戸内海航路の場合、安芸や吉備で上陸して陸行するはずがなく大阪湾のあたりから上陸するしかないから、投馬国をギリギリ東の神戸市須磨区としてもまだ水行が多すぎ陸行が不足する。河川航行も陸行に含んだとしてこれだから大和川の河川航行を水行にいれたらますます不自然。かといって、大和は内陸なのだから「選択式で陸行しない」のだ、ともできない。ゆえに瀬戸内航路は間違いで日本海航行が正しく、投馬国はやはり但馬と確定する。そのはずだが…。
もし以上の説で確定した場合、現実の日数は不弥国から投馬国まで水行4日、投馬国から邪馬台国まで陸行6日だろうが、それは一万二千里が実は2400里を5倍したものだからここの日数も5倍になってるだろうという推測による。
ホントか? まだ釈然としない。どうも大事なことを忘れている。
「邪馬台への行程【その8】」に続く。
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邪馬台への行程【その6】~「二郡遂滅韓」の真相と張政の使命~

改稿:2679年[R01]11月20日WED (初稿:2679年[R01]10月23日WED)
邪馬台への行程【その5】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その5】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
三韓情勢の経緯:時系列
魏が公孫氏を滅ぼして二郡を接収し、卑弥呼が親魏倭王になって以降の歴史を辿りながら説明しよう。
AD240年は正始四年で帯方太守弓遵が魏帝の詔書や金印を倭に届けた年でもある。これで倭国が魏に対して「月支国体制をやめろ」と言ってくれる可能性がなくなった、と伯済国は思ったんだろう。それで伯済国は自力で月支国体制を破壊するため辰王を攻撃した。『三国史記』では百済と新羅が外交上初めて接触したのはAD63年になっているがこれは創作だとして、対立であれ友好であれ両国が国交をもつのはもっとずっと後の337年というのが通説だが、根拠がよくわからぬ。『三国史記』ではAD240年に百済が新羅に攻め込んだというが理由も結末も、戦場がどこかも書いてない。この事件とは、帯方郡が実施した「辰王月支国体制」に反対する馬韓が辰王を攻めたが馬韓軍は帯方郡の兵に邪魔されて敗北したという話なのではないか。『三国史記』では攻め込んできた百済に対して新羅が何かリアクションしたようなことも書いてない。この場合、百済(馬韓)軍を撃退したのは魏軍の単独行動な上、戦場は馬韓域内の月支国周辺だから新羅の反応が書かれてないわけだ。しかし新羅があえて百済に反撃しなかったのは、新羅も月支国体制をやめたかったんじゃないのか? 月支国体制それ自体は、辰韓の膨張であり強大化だから初めは辰王も喜んだろうが、抵抗する馬韓人(伯済国)は治め難く効果はあがらなかったんだろう。そうなると辰王(于老)も嫌気がさし、もともと魏に強要されたことだから本国に戻りたくなる。AD240年の事件があってから伯済国も辰王も「月支国体制はダメだ」という点で一致していることを確認しあい、対魏同盟ができたんではないかと思われる。

赤烏七年(AD244)の紀年銘鏡からこの年に呉と倭の関係に何らかの進展があったとみられる。それに対抗するように翌正始六年(AD245)難升米に黄幢が下賜される。黄幢は魏の同盟軍であることを示す旗印で、かつては卑弥弓呼(男王)との戦いのために用意されたといわれていたが、最近では魏に反抗的な韓への制圧のためという説がある。男王国との戦いに「魏との連携」を宣伝してもさしたる意味がないように思う。実際に魏軍が海を越えて援軍にくる可能性などほとんどないことぐらい相手もすっかりお見通しだろう。かといって対韓戦のためでもない。魏と韓の戦争は翌正始七年(AD246)に高句麗討伐戦の派生的事件として「偶発的に」起こったのだから、事前に予知できたとも思われないし、魏に背く韓族を討伐する倭軍は魏の友軍なのは周知のことだから、わざわざ魏の旗印を立てたところで、味方に対しても敵に対してもさして意味がない。そうじゃなくてだね、この黄幢はあきらかに倭国の水軍が直接に呉に攻め入る時のためのものであって、これを下賜するというのは「呉への侵攻」を催促してるということだ。それ以外になんの意味もない。外交戦における、「赤烏七年」に対する魏の逆襲なのである。
ところが、実際に黄幢が難升米に届けられたのは正始八年(AD247)で、普通は、この間、黄幢は帯方郡に留められていたと考えられている。が、そんなことある? 詔書も黄幢も極めて重大な案件で、郡まで届いてれば倭国へ渡すのはなにも困難はない。だから途中までは届けられて狗邪韓国の一大率のもとにあったのではないかと思われる。正始六年(AD245)に「黄幢を下賜した」というのは魏の都、洛陽での話であってそれが帯方郡に届いたのが翌正始七年(AD246)、それから帯方郡の役人である張政がそれを倭国へもってく途中、たまたま後述の魏韓戦争が起こってしまったので、狗邪韓国の一大率か張政のどちらかが「これは使えるかも、いや使うべきかも」と考えて相談し、倭国にすぐには送らず一時的に一大率の手許に留めていたのだろう(もしくは一大率が自分の判断で張政を拘束したか。黄幢は軍旗なので、難升米の判断とは無関係に一大率の権限だけで拘束できる)。

AD246年に魏の毌丘倹が高句麗を破って王都を占拠すると東川王は日本海へ逃亡、そこから北の沃沮へ行ったが、敗残兵の中には南の濊や辰韓の方面に逃げたものもあったので、当初は東川王がどっちに逃げたのかわからなかったんだろう。新羅本紀では245年(恐らく246年の誤り)に高句麗が新羅に攻め込み、于老が将軍として戦ったが敗北したとある。この事件について『隋書』新羅伝にはこうある。

『隋書』新羅伝
魏將毌丘儉討高麗、破之、奔沃沮。其後復歸故國、留者遂為新羅焉。故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬

これからすると攻め込んできたのは高句麗の敗残兵の部隊で、彼らが新羅を征服して新しい支配者になったか、さもなくば新羅は敗北したのではなく彼らを匿い受け入れ高い地位を与えて厚遇して帰化させたか、いずれかであるように読める。魏志韓伝によると、この時、辰韓の那奚国を含む8ヶ国(濊に近い辰韓北部)を楽浪郡の管轄に移そうとしたという。那奚国は韓伝では辰韓12国のうちの冉奚国として出ている(慶尚北道義城郡玉山面)。ここは新羅時代の熱兮県(泥兮県)、衛氏朝鮮の尼谿相参が原住民支配のための本拠地とした「尼谿」の地。異民族との交渉窓口として楽浪郡は濊を管轄し、帯方郡は韓を管轄していたが、逃亡中の東川王が紛れ込んでるかも知れない高句麗の敗残兵の行方を捜索するため、韓の一部を濊とまとめて楽浪郡の管轄に一本化しようとしたのだろう。が、魏志がいうところでは通訳のミスで(辰韓の8ヶ国を楽浪郡に併合して県にすると誤解して?)馬韓の臣幘沾韓国が激怒して戦争になった。しかし通訳のミスなんてのは嘘くさい。原因が辰韓と楽浪郡との問題なのに、なぜ辰韓でなく馬韓の臣幘沾韓国が帯方郡に攻め込むのか。その理由はもちろん上述のAD240年に結ばれたとおぼしき伯済国と辰王との対魏同盟が発動したからである。それだけでなく、馬韓と辰韓は対立しているようだが、高句麗擁護派という点でも一致していたろう。これは後世の6世紀にも新羅と百済が任那をめぐって対立しつつ同時に高句麗に対しては同盟関係にあったことと似ている。

ところがこの戦争で、魏と同盟国であるはずの倭=狗邪韓国の一大率は黄幢を死蔵したまま動かなかった。おかげで二郡は大敗した。
帯方太守が戦死するほどの大戦になったのだから蜂起したのは臣幘沾韓国の1ヶ国ってことはあるまい。魏志韓伝では、この戦争で

二郡遂滅韓


二郡遂に韓を滅ぼす
二郡は韓を滅ぼした滅韓

といってるが、馬韓はバラバラでまとまってなくて、もともと国のテイをなしてないのだから滅ぼしたも糞もないだろう。辰韓(新羅)もこの後の歴史をみれば滅亡した様子は全然ない。なので実は韓を滅ぼしてはいないってことがわかる。同じことを

魏志三少帝紀
韓那奚等、數十國、各率種落、降


韓の那奚らの数十ヶ国おのおの種落を率ゐて降る

ともあり、「滅ぼした」等とは本紀ではまったく言ってない。実際は韓の国々の降伏を受け入れただけのことだとわかる。しかしこの程度のことを韓伝では「滅ぼした」というのはあまりに大袈裟すぎる。滅ぼしてもないのに「滅ぼした」っていうのは春秋の筆法で、実質は「敗けいくさ」なのにあえて「勝った」と嘘を書いてるのではないか。後漢書では帯方郡を分割する前の楽浪郡が18県6万1492戸、人口25万7050人というがこれは全盛期のもので、黄巾の乱以降の人口減少を反映してない。晋書では楽浪郡が6県3700戸、帯方郡が7県4900戸、あわせて13県8600戸しかない。公孫康が帯方郡を作って人口を回復させた成果を考慮しても、晋書の数値は晋の全盛期の記録だろうから、三国時代はもっと少ない。この半分ぐらいではないか。兵は1戸から一人づつ出すので、当時の二郡の兵力はあわせてもせいぜい4、5000ぐらいじゃないか? 晋書の数値そのままでも兵9000弱。対する韓は馬韓のうち伯済国が動員できるのは馬韓の3分の1として兵3万以上、辰王が2万以上、これら連合して兵6万弱。しかし上述のように降伏したのが数十国というからもしこれが誇張でなければ「三韓あわせて七十余国で十四五万戸」の半分としても兵力7万、これはかなり少なめな見積もりだが、まぁ数十国というのは伯済国が勝手に数十国の代表と称して降伏しただけで、魏もそこはわかってて降伏を受け入れてる。実際に一大率の許可なく伯済国にそこまでの動員力はないだろう。それでも伯済と辰王あわせて兵5万なのだから、普通に考えると魏に勝ち目はぜんぜん無い。しいていば、滅ぼしたというのは「辰王が月支国にいて馬韓を治めるという体制」(もしくは「伯済国の臣智が月支国で馬韓の部族会議を主宰する体制」でも可)を廃止したということを誇大に表現しただけなのではないか。この体制はわずか9年間しか続かず、辰王はもともとの本国辰韓に帰った(もしくは部族会議を解散して伯済国の臣智は本国伯済に帰った)。この体制を廃止したのも馬韓からの要求に屈したのだろう。

プロの学者にも古代史マニアにもありがちな間違いとして、「二郡遂滅韓」を真に受け、これで箕準の系統の辰王が滅ぼされたんだという人が多い。が、それなら魏の手柄として明記されそうなもの。ところが辰王がどうなったのか何も書かれてない。これは辰王体制を作ったのが魏でそれは韓族に滅ぼされたから、あえて中国の恥(実は司馬懿の恥)にふれてないのも春秋の筆法である。

馬韓といっても実態は伯済国を中心にまとまっていた馬韓北部の国々であり、百済軍の将軍が臣幘沾韓国の臣智だったから魏志はあたかもが臣幘沾韓国が主体のように書いてるが、これは伯済国の存在を匿すため。『三国史記』ははるか後世に書かれたものだから史実から酷くズレてるが、それでも百済本紀の同年の条に当時百済王だった古尓王(こに王)が「左将(百済軍のトップ)の真忠なる者に楽浪郡を襲撃させたが復讐を恐れた古尓王は楽浪郡に謝罪した」とある。真忠の姓「真氏」は百済八大姓の一つで臣幘沾韓国の「臣」に通ずる。真忠は中国風の名前に改変されてるが臣幘沾韓国の臣智だったんだろう。同時期の辰韓=新羅の動きもわかる。高句麗の敗残兵が辰韓に逃亡してきたことを、『三国史記』は高句麗が新羅に攻めてきたとして、しかも年次も1年まちがっている。この時、将軍于老は高句麗軍に敗れて馬頭柵まで退却したという。馬頭柵は後世の馬忽郡だとすると今の京畿道抱川市で、3世紀には帯方郡の南部にあたる。ここに退却というのは地理的におかしいので、逆に攻め入ったって話だろう。魏韓戦争の際、于老は辰王として辰韓の兵を率いて、臣幘沾韓国の辰智が率いる馬韓の兵とともに帯方郡へ攻め込んだんだろう。退却というのは高句麗兵を追い出さず招き入れたって話が間違って伝わったもの。

さて、魏志の三少帝紀で「数十国が降伏した」というのも、その実は伯済国が(辰王を含む)数十国を代表して謝罪したっていう程度のことだった可能性が高いんじゃないのか。しかし、なぜ謝罪したのか? 郡を一国に喩えれば太守はその国王であり、それを殺したのだから大勝利だろう。そのまま二郡を滅ぼすことなど造作もないことと思われる。「二郡遂滅韓」なんてのは春秋の筆法どころか大嘘もいいところで、これは本当は「二遂滅」というのが真相だろう。弁韓は参戦してないから、辰韓と馬韓で「二韓」ね。

ところが不可解なことに、勝利した側が自分から折れて謝罪したのである。おそらく、巨大な軍事力をもちながら戦争中には動かなかった弁韓の一大率が仲に入って取りなしたのではないか。仲裁者である一大率を伯済国を含めた諸国は「畏憚」してるんだから命令を聞く他ない。もっとも一大率には軍事指揮権があっても外交権がないから、伊都国の難升米を呼び出したんだろう。難升米が提案した講和の条件はこうだ、(1)月支国体制は廃止。(2)伯済国は韓の非を認め、韓を代表して魏に謝罪する。実を取った伯済国は名を捨てるわけだ。(3)魏は韓を代表しての伯済国の謝罪を受け入れる。そうすると事実上伯済国は「韓の数十国」の代表ということになってしまうし、伯済国が自然に復権するだろうが、魏はそれを黙認する。だが名目上は魏は「こっちが勝った」ってことにできる。一大率としては男王派の辰韓まで守る気はなかったが、そこは伯済国が三韓すべての代表者として振る舞うために、謝罪組のリストに辰韓も入れるようにと、難升米に手を回したんだろう。これなら伯済国は辰王との対魏同盟も守れたことになる。魏は実質は敗北なんだが、仲裁者の難升米は魏の率善中郎将であり、二郡の太守より格上なんだから逆らえない。魏の率善中郎将の裁きはすなわち魏の裁きである。魏が韓に謝罪させたんだから、これを勝利と言わずしてなんとするw 魏は実を取りそこねたが名を取れた訳である。またこの時、一大率が預かっていた詔書と黄幢は難升米に渡すことができたはずだが書かれていない。なぜかというと張政の使命は詔書と黄幢を倭王卑弥呼に渡すことであって難升米に渡すことではないからである。ただ軍事戦略上、一時的に一大率のもとに留めたにすぎぬ。

新羅が高句麗の敗残兵を庇護して自国に帰化させたことで両国は関係がよくなりAD248年には初めて同盟関係に入った。しかし新羅と百済はずっと前からすでに仲が悪くなって久しく、魏韓戦争での同盟関係もAD255年に壊れることになる。

しかし今回の一大率と難升米の動きは馬韓と辰韓にはトクだが、魏にしたら自分は裏切って一兵も出さず逆に恩を売ってくるという卑怯で姑息な態度にみえたはず。帯方郡では一大率の動きに「倭国はどういうつもりだ」と不審を覚えたろう。戦死した弓遵に代わって、この年か翌正始八年(AD247)かわからぬが王頎が帯方太守として転任してきた。王頎は東川王を追撃していた武将で、つまり今回の戦争の原因に直接関与していた男でもある。だから今回の事態の真相究明と戦後処理の責任者として打ってつけの人物だった。そんな話はすぐに倭国に伝わり、同年中に倭国から載斯と烏越の二人(「載斯烏越」という一人の名ではない)が帯方郡にやってきて、男王との戦いがあったために軍を動かせなかったのだと事情説明というか、言い訳をした。魏志に

倭女王卑弥呼、與狗奴國男王卑弥弓呼、素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃狀

とある。実際に前年、魏と韓の戦争中に、倭国内でも男王と女王の戦争があって男王を滅ぼしたんだろう。男王が亡んだということを帯方郡に報告するということは、男王派である辰韓への威嚇(ないし帰服の勧告)にもなる。ここで「相攻撃する狀を説く」とのみあって男王を亡ぼしたとはいってないが、まだ残党の掃除までは終わらず、三韓諸国の動向も最終的なところまでみえていなかったので言葉を濁したんだろう。かなり微妙だが厳密には確かにそれは嘘ではない。これに対し太守王頎は、

遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之

と。えーと、「檄を為りて告諭す」は、狗奴国と仲良くしろと言ったとかの、脳味噌が腐ってるとしか思えない解釈が横行してるんですが、そんな訳ないだろ! 世間にありがちな説では倭国と帯方郡とのやりとりを「情報不足や勘違い、あるいは虚偽宣伝での外交戦」みたいにいう人も多すぎる。帯方郡のような「辺郡」といわれる役所は異民族交渉のプロであると同時に軍隊でもあるから諜報も発達してるんで、男王がすでに亡ぼされたことぐらいとっくに把握してたろう。告諭したのは同時にもってきた詔書の内容なんで、それ以外のことではない。詔書が書かれたのは正始六年(AD245)だからその詔書には狗奴国との不和の件も韓族との戦争の件も出てくるはずがない。じゃ、その詔書には何が書かれていたのかというと、そもそもの魏にとっての、「倭国の存在意義」そのものの件だよ。対呉同盟、それ以外になにがあんの?「因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之」の意味は超訳すれば「魏韓戦争は突発的な事件であり、黄幢の本来の目的とは関係ない。韓族との講和交渉では、敗けいくさだったのに勝ったことにしてくれたから、その恩に免じて今回は細かいことは不問に付すけど、詔書と黄幢は今度こそしっかり渡しましたよ、ちゃんと呉を攻めて下さいよ」ってことだ。世間では魏がすごく大国で東夷はしょぼくれてるように思ってる人が多いが、それは根拠のない思い込み。人口規模と軍事力で圧倒的な差があり「魏<韓<倭」なので気を使ってるのである。味方になって呉を攻めてくれんのならいいが、ウッカリ機嫌を損ねてこっちが攻められたらAD246の魏韓戦争のような大事になってしまう。相手が韓だから二郡が滅亡する手前まで行っても倭に止めてもらえたが、相手が倭だったらその程度の損害で済むはずがない。
この魏韓戦争が一段落したので、張政は難升米と一緒に狗邪韓国から渡海してようやく伊都国に着いた。ここから詔書と黄幢をもって邪馬台国へ行こうとした。詔書と黄幢はどちらも重大な物件で、おろそかな扱いをしたら高級官僚でも首が飛ぶクラスのもので、当然、倭王に直接渡すべきだからだ。しかし魏志倭人伝の記述では、なぜか率善中郎将にすぎない難升米に渡している。率善中郎将は(校尉も)四品相当だからけして低い官位ではなく、州刺史や郡太守より格上なほどだが、それでも本来なら倭王の代理になれる訳がない。張政の塞曹掾史は七品でかなり下だから難升米には逆らえないだろうが、ただでさえ難升米の権力が絶大で「いいから黙って俺に渡せ」と言われれば仮に張政の官職(名目的地位)が高かったとしても従わざるを得ない状況を示しているだろう。魏としては建前上の辻褄をあわせるためには難升米を倭王そのものか少なくとも倭王の正当な代理だとみなして納得するしかない。外交に関しては一切を任されてるんだから魏からみれば事実上の倭王そのものである。難升米は倭国内部の規則では軍事指揮権はないのだが(一大率とは別人だから)、一大率は外交権がなく、魏使は一大率と直接交渉できない。魏の方から軍事行動を要請するにも窓口が一つしかないのだから結局は難升米を通すしかない。魏からすると難升米一人が全権者であり倭王みたいなものになる。

ところで張政の「塞曹掾史」って肩書だが、掾史は役所の長。曹は役所で、馬曹、車曹、戎曹、金曹、法曹、倉曹、鎧曹、戸曹、水曹と職務によっていろいろあるわけだが、「塞曹」というのは他に例がなくなんのことだかわからない。張政は帯方郡の役人じゃなくて中央から派遣されてきたんだという説もあるが、それならこんな妙な肩書はどうなのか。帯方郡がオリジナルで設置した官だろうから、やはり郡レベルの役人だろう。「塞」の字は軍事要塞のこととみて、辺境守備隊のようなものとする説があるが、そんなありきたりの役人ならもっとメジャーな職名が普通にありそうに思われる。で、もしやこれ狗邪韓国なり伊都国なりに常駐する帯方郡の役人の肩書じゃあるまいか。伊都国は「兵万余」(魏略の戸万余は誤写)を擁する巨大な軍事基地だし、狗邪韓国も一大率が常駐してたなら同様だったろう。

三韓への倭からの影響
繰り返しになるが、魏の建前では馬韓をとりまとめる者は存在せず、臣智の称号をもつ国々の主帥らが思い思いに帯方郡から魏の官爵をもらっていることになってる。その中には馬韓だけでなく狗邪国や安邪国といった弁韓の国も入ってるのは上述の通り。しかし辰韓の国はない。辰王も魏から官爵をもらってる様子はない。辰韓と馬韓が対立していたのなら、馬韓が親魏派で、辰韓が反魏派のようにみえる。が、「辰王月支国体制」は魏が馬韓を抑えるために辰韓の力を借りた体制だから、矛盾しており、だからどのみち瓦解するのは時間の問題だった。「月支国部族会議体制」だったとしても伯済国の王位を否定するものだから反発は大きかったろう。魏は伯済国が公孫氏の係累であることを重視してその宗主権を否定したのに、なぜ馬韓は親魏派になり魏の官爵をもらうのか。なぜ辰韓は馬韓の支配まで任せられたのに反魏派なのか。

その謎の鍵は倭国だろう。239年の親魏倭王、大夫難升米の率善中郎将、都市牛利の率善校尉の件は倭国からも帯方郡からも、三韓へ向けて広報があったろう。それで馬韓も弁韓も倭にならって率善邑君、帰義中郎将、都尉、伯長といった官爵を受けるようになったが、辰韓はそうしなかった。

「帰義侯中郎将」とあるのは誤りで「侯」は衍字。邑君は大国の首長で臣智に与えられ、邑長は小国の首長で臣智でない者に与えられる。中郎将、都尉、伯長の3つはすべて武官で、邑君の部下に与えられる。しかし、実際はどれぐらい多く与えられたのか、さして多くなかったのか一切不明。

新羅本紀では218年・222年・224年・240年に百済と新羅が戦争してるのでこの頃の辰韓と馬韓の仲の悪さが察せられるし、232年と233年は倭国が新羅に攻め入り233年の戦では于老が倭を撃退、249年には倭人が于老を殺したという。この話は日本書紀にも「宇留助富利智干」(うる・そほりちか)を殺した話として出てくる。つまり倭国と辰韓も仲が悪かった。当時の倭国は男王と女王に分かれて争っていたことは三韓にも知れ渡っていたろう。だから同じく仲の悪い辰韓と馬韓は、一方が男王についたら他方は女王につく道理。伯済国の方が辰韓よりも帯方郡に近く、馬韓での宗主権さえ認めてくれるのなら出来れば魏とは仲よくしたいのが本音だから、新魏派の女王国に寄りたいわけよ。辰韓はそれに比べると帯方郡からかなり離れてるし、辰王は古くから代々続く血筋で、血統意識も強いから、女王(その実は女王を担がねばならない男弟)よりも単独で正統性を主張できてる男王を本物っぽく感じるわけ。で、弁韓だが、ここには狗邪韓国にもうひとつの「一大率」が常駐してるんだから当然、女王の支配圏。つまり辰韓は女王と敵対している男王国を支持していた。辰韓が魏の官爵を拒否していた理由はこれ以外に考えられない。
もっとも倭国では率善中郎将は難升米、率善校尉は牛理と、名前も、そして何をした人かも明記されてるが、韓では諸国の臣智の中には官爵を授かってる者がいるというだけで、誰がどの官爵を受けたのか一切書かれてない。辰王だけでなく弁王も伯済国の臣智も魏の官爵をもらってないばかりか名前のわかってる者が一人も出てこない。このことから韓では魏の官爵というのは、あまり重要な人物でなくても臣智でさえあればもらえるレベルの、多分に形式的なもので、おそらく帯方郡と倭国及び他の三韓諸国に対して「私は親魏派(&女王派)ですよ」と明示する程度の意味しかなかったのではないかと思われる。東夷伝の中では、夫餘伝や高句麗伝には王の名とか固有名詞が出てくるが、これは独立国の歴史を説明するため必要だから。韓に重要人物が一切でてこないということは、邑婁伝や東濊伝や沃沮伝と同じで、統一国家ではなかったのみならず、東濊や沃沮が高句麗の属国だったことを思い起こさせる。同じように、三韓もまた倭の属国だったのである。

馬韓の実態
魏志韓伝の解読はこれくらいにして、ようやく元の話に戻れる。書紀の「百済・新羅・任那」と魏志の「馬韓・辰韓・弁韓」の境界線が一致しないことだ。

この頃は伯済国の宗主権は馬韓の北部と西海岸沿岸部だけと思われ、中部、南部の馬韓は伯済国の下にはなかった。そこは魏志韓伝のいうような、無秩序に放置された権力の空白地帯だったとは考えられないし、別な言い方をすれば北に伯済国、南に弁韓があってその緩衝地帯だった等ということもありえない。
もし狗邪韓国に常駐していた一大率が『日本書紀』のいうような任那日本府のようなものだったとすると、その管轄範囲である任那とは、弁韓地域にとどまらないもっと広域の地名である。後世の任那の範囲は加羅諸国(弁韓)だけでなく継体天皇の時に百済に割譲した四県二郡も任那に含まれている。その前には雄略天皇の時に「久麻那利」(熊津:くまなり)の地を、さらにその前には神功皇后の時に四邑を百済に下賜している。「久麻那利」は今の公州市(馬韓の古蒲国)のことだが、この場合は公州を中心とした一帯(忠清南道のほぼ全域と忠清北道の西半分?)。四邑は比利(ひり)、辟中(へきちう)、布彌支(ほむき)、半古(はんこ)でそれぞれ現在地は、忠清南道の西海岸が比利(庇仁)。全羅北道の西海岸の北が辟中(金堤)で南が布彌支(茂長)。全羅南道の西海岸が半古(羅州か潘南)。以上の四県二郡・久麻那利・四邑はすべて馬韓の地であり百済に下賜される前には任那の一部だった。つまり『日本書紀』では弁韓だろうが馬韓だろうが関係なく、新羅や百済が領有してないところはすべて任那の一部という扱いになってる。
このことから察するに、伯済国の宗主権の及ぶ馬韓諸国を除いた残りすべての馬韓諸国は、狗邪韓国に常駐した一大率の管轄下にあったと考えるべきだろう。伯済国・辰王(辰韓)・弁韓(一大率)という、まとまった政治勢力に囲まれて、広大な馬韓が政治権力の空白地帯だなんてことは不自然すぎてあり得ることではない。

しかしそうすると、前述の馬韓の「綱紀すくなく、邑落雑居し、よく相制御すること能わず」という文から、揉め事を治めることもできない有様はどうしたことか、とツッコミが入るかな? どうも「邑落雑居」という言葉からすると、敵対する者同士が雑居してるようにも聞こえる。
さらに韓伝には馬韓について

國邑各立一人、主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑、名之為蘇塗(中略)諸亡逃、至其中、皆不還之。好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠、而所行善悪有異


国々には「天君」という司祭職が「蘇塗」という神殿施設を管理しているが、そこはアジールの機能があって、犯罪者が逃げ込むと逮捕連行できないので、好んで悪事をなす

と。これ単に与太者や不良グループやギャングが横行して治安が悪いということを言ってるのではない。神官がなぜ悪の手助けをするのかといえば簡単で、日本国内の事情と同じく、土俗信仰の神官だからそういうものを馬鹿にする儒教や中国人が嫌いで、魏と結んでいる女王も嫌いな「男王派」だから。「好んで賊をなす」の「賊」ってのは魏や女王派からみての賊であり、辰韓や男王派からすれば正義の蜂起、義挙なのである。
この文の後すぐに続けてこうある、

其北方近郡諸國、差暁禮、其遠處、直如囚徒奴卑相聚


其の北方の近郡に近き諸国はいささか礼を暁るも其の遠き処はただ囚徒奴卑の相聚まる如きのみ
北部の帯方郡に近い諸国はいくらか「礼」を知ってるが、遠いところ(南部の馬韓)はまるで囚人か奴隷のようだ

という。これ馬韓の未開ぶり、野蛮さを表わした文だと思われがちだが、そうだろうか? 南北で非対称になってないか。「礼」は現代人が考えるようなマナー、エチケット、礼儀作法のことではなく、儒教の「礼」の概念だろう。もともと

『礼記』
礼不下庶人、刑不上大夫


礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず

というように、礼は士大夫のもので庶民は関係なかった。だが孔子は身分に関わらず誰でも礼を含む学問をして君子になれるとした。つまり理論上は囚人や奴隷でも礼を学んだ者はありうる。
庶民でなく支配階級の問題なのであるから「礼」のもっとも重要な意味は上下関係、指令系統のつながりのことなのである。北部の諸国が「礼」を知るというのは伯済国を通じて魏がその諸国に命令できるという意味であり、伯済国がそれら諸国を把握してるという意味でもある。「差暁」もニュアンスの微妙な言葉で「差」は「やや、ちょっと、すこしだけ」の意味なのに「暁」は「よく知ってる、深く知ってる」の意味だ。これを合わせて「差暁」と言ってるので「ちょっとしか知らない」のか「詳しくよく知ってる」のか、訳が分からない。これはどういうことかというと、馬韓諸国(の中の反魏派、男王派)は魏をよく思ってないから反抗的なんだが、よりによって魏が馬韓の代表権を取り上げたはずの伯済国を通せば(力づくで)従わせることができる。こいつらは「礼」を知ってんだか知らないんだか、という皮肉なのである。
これに対して南の方では囚人や奴隷のようだというんだが、未開ぶりや野蛮さを表現する言葉など他にいくらでもありそうなのに、この喩えはへんじゃないか? 高貴な囚人もいれば立派な恰好した奴隷もいるんだから。これは未開ぶりや野蛮さを言ってるのではなく、「強制された境遇」をいってるのである。馬韓諸国は北が伯済国の支配下、南が弁韓の一大率の支配下にあって分割されてるが、どちらも親魏派かつ女王派である。しかし馬韓諸国の中には辰韓と同じく男王派で反魏派という人々がたくさんいた。辰韓も、こっちの仲間になれと盛んに誘いをかけてもいただろう。馬韓の北部(京畿道)は伯済国を中心にまとまっていたんだろうが(いささか礼を暁る)、馬韓の中部南部(忠清道・全羅道)では一大率の武力の下で厳重に管理されてるから囚人か奴隷のようで(囚徒奴卑の如し)反抗できない、ということを言ってるのだ。囚人は看守に、奴隷は主人に逆らえないように、馬韓人も一大率には逆らえない。が、抗争がないわけではない。囚人同士、奴隷同士の争いがある。雑居してる「男王派=反魏派」vs「女王派=親魏派」の騒動が絶えない(綱紀すくなくよく相制御すること能わず)、「女王派=親魏派」は馬韓においては体制派なので臣智たちが守ってくれるが、それに対抗する「男王派=反魏派」は蘇塗の天君たちが味方してくれてたんだろう。一大率がいくら軍事力あっても古代人はカミガミには手を出せない。伯済国や倭国(女王国)からみれば、この馬韓の騒動はぜんぶ辰韓が悪いのである。一方、辰韓からみると伯済国も弁韓も悪の陣営なのだから、両者は仲が悪くて当然なのだ。

結局、魏志韓伝の描く3世紀の三韓の政治的な境界線は表にすぐわかるように書かれてない。馬韓の中南部は弁韓と一つの勢力なのであり、馬韓の北部はすでに伯済国を中心にまとまっており、三韓の実態は4世紀以降の任那・百済・新羅が鼎立していた情況と大差ないのだ。しかしそれは魏志韓伝の文面に表われない。馬韓が北と南で別の国になってることがわからないように書いてあるし、魏韓戦争も「二郡が韓を滅ぼした」と真逆のことを書いている。
魏が消したはずの伯済国の存在、月支国体制の愚策ぶり、AD246年の魏韓戦争での大敗と屈辱的な講和。馬韓と弁韓に対する一大率の絶対権力、三韓における帯方郡の無力さ。それら魏(というか晋だけど)の面子にかかわることはすべて建前上、無かったことにされている、春秋の筆法で。

百済建国と馬韓の分割
馬韓は3世紀の段階ではすでに「伯韓」か「済韓」とでも書くべき存在だったが、伯済国の宗主権を否定した魏では一時代前の馬韓という名称を使ったのである。高句麗は121年に玄菟郡、その翌年には遼東郡に攻め込んでいるが、2回とも自国の兵以外に濊貊(江原道の東濊)と馬韓の兵を伴っている。魏志によると正始六年(245年)以前には東濊は高句麗に属していたとあるから、高句麗軍の中にに東濊兵がいるのはわかる。が、馬韓兵もいたのだから121~122年の頃は「馬韓と高句麗の関係」はすでに「東濊と高句麗の関係」と同じものになっていたように思われる。つまり馬韓は高句麗に支配されていた。その支配の根拠地として築かれたのが「乾馬国」で、馬韓という名はこれから起こったことは今回のシリーズの【その1】に書いた通り。121~122年の高句麗の二郡への侵攻に対し、高句麗の宿敵である夫餘は漢帝国に援軍を出して二郡を救っている。この時、高句麗軍に東濊兵のみならず馬韓兵もいたことに、夫餘も気付き、対抗上、高句麗から馬韓を奪い、我が物にしようとしたんだろう。それが伯済国の建国と、伯済国による馬韓北部の制圧へと繋がっていく。

『三国史記』百済本紀では後来の侵入者として馬韓の北部に勝手に国を建てた百済が、馬韓王と対立し、ついに戦争で馬韓を滅ぼしその領土をそっくり頂いたことになっているが、学界の通説では馬韓王などというものは存在せず、馬韓の諸国を長い年月をかけて少しづつ併合していったことになっている。『日本書紀』の描写は微妙で、最初の方では任那日本府の勢力圏と百済の間にはどこにも属さない小国がたくさんあるような雰囲気なんだが、後の方になるといつの間にか任那と百済は国境線で接してることになってる。このへん、特に最初の方の記述は『日本書紀』の文面もずいぶんと不可解なことになっていて、神功皇后が新羅の不正を糾すために派遣した荒田別(あらたわけ)の軍が新羅を降伏させた後に、なぜか関係のない加羅七国(弁韓)を平定し、さらに西(馬韓の地域)に移動すると「四邑おのづから降りぬ」(4つの国が降伏した)。この四邑は加羅七国とは遠く離れてるので、その間の地帯がどうなってたのか説明がない。ここは誤脱があり、降伏したのは四邑を含む馬韓全体なのではないか。四邑を百済に下賜する話との間に文章が抜けているのである。
中国側の史料がいうように百済の実質的な建国が公孫度と尉仇台によるものとすればそれは2世紀後半で、馬韓のうち北部(京畿道)の諸国をとりまとめていた。それより南にすぐには進出できなかったのは、馬韓の抵抗が大きかったんだろう。そこで書紀が伝える百済(伯済国)と日本(倭)の国交樹立の説話の通り、百済の方から日本にわざわざ「属国になりたい」とアクセスしてきたのは馬韓を制圧するのに支援を取り付けるためとしか思えない。しかし実際に日本と百済の共同作戦となると、馬韓はことごとく倭(日本)に降伏した。なぜかというと、百済の侵略に抵抗していた「馬韓」(乾馬国を中心とする中部、南部の諸国)は建前上は高句麗の属国だったんだろうが、本国が遠く離れているので目の前の百済と戦うにはアテにできない、かといって百済の下につくのも嫌だから。そうなると百済についていた北部の馬韓も「じゃ俺たちも一緒に日本に」となるから、北部諸国の連合体としての百済は崩壊してしまう。日本としては百済との国交もあり、百済が独力で勝ち取ってきた宗主権を、関係ない日本が横からでてきて否定するわけにもいかない。なので、自主的に降伏してきた馬韓の中部と南部は任那の勢力圏に含むことにはしたが、すでに伯済国の配下になっていた北部の諸国は伯済国(百済)の宗主権をそのまま安堵してあげたってわけだろう。乾馬国は今の全羅北道の益山だからかなり南に寄っており、『三国史記』がいうような北方に存在した初期の百済がいきなりそこまで併合しちゃう話は辻褄が合わない。
邪馬台への行程【その7】」に続く。
【その7】では水行陸行の日数を倭人伝での里単位や実際の距離に換算します。
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邪馬台への行程【その5】~「至」と「到」・辰王・三韓~

改稿:2679年[R01]11月19日TUE (初稿:2679年[R01]10月23日WED)
邪馬台への行程【その4】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その4】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「至」と「到」の使い分けを春秋の筆法でみると?
倭の諸国の行程で、狗邪韓国と伊都国だけ「到」の字で、他はすべて「至」になっている。この二文字は、使い分ける場合には「到」が最終目的地で「至」はそれ以外の通過点ということになるが、必ずそう使い分けると決まってるわけでもない。漢文の用例を大量に調べあげる人は昔からいて、使い分けてる例もあればまったく同じに使ってる例もあり、いろいろ。

倭人伝で「到」の字の使われている狗邪韓国と伊都国に、本来なら「到」の字を使うべき邪馬台国を加えた3ヶ国で「到」の字の使い分けの組み合わせは以下の8パターンがあり得る。

(A)邪馬台国にのみ「到」
(B)伊都国にのみ「到」
(C)狗邪韓国にのみ「到」
(D)3ヶ国とも「到」
(E)「到」の字なし(「至」で統一)
(F)伊都国と邪馬台国に「到」
(G)狗邪韓国と邪馬台国に「到」
(H)狗邪韓国と伊都国に「到」

(A)と(E)は通常の書き方であり問題なく、特に(E)は『梁書』と同じでもある。(B)と(F)はやや異例だが魏使が常駐するという伊都国の特殊性に鑑みて理解できなくはない。問題は狗邪韓国に「到」の字を使う(C)(D)(G)(H)で、この4つは以下の3通りの解釈ができる。

(甲)「至」と「到」を同義の文字として使い分けず混用している
(乙)使い分けようとしたのだが狗邪韓国の「到」はただの誤記
(丙)「春秋の筆法」で遠回しにウラの意味を示そうとしている

上記3通りのうち、一応(甲)と(乙)は無いものとする。話が終わっちゃうからねw
で、もし春秋の筆法だとしても(C)と(G)はわかりやすい。実は狗邪韓国までしか行ってない、倭国に行ってないってことを示しているわけだろう。だが (D)と(H)は倭国内にも「到」の字があるんだから「狗邪韓国までしか来ていない」とは読めないし「伊都国までしか来ていない」と言いたいのならなぜ狗邪韓国に「到」の字があるのか意味がわからない。この、意味がわからない最後の(H)が倭人伝の書き方で、もし使い分けるとすれば最後の終着点である邪馬台国で「到」の字を使うべきなのにそうなっていないんだから、一応、倭人伝では「使い分けられてはいない」。伊都国は魏の使いが常駐するところで倭国滞在中の定宿(じょうやど)だったろうから「到」の字でもいいような気もするが、それは邪馬台国で「到」の字を避けた理由にならないし、狗邪韓国で「到」の字を使った理由にもならない。だから、通常の漢字の意味からすると、どうも使い分けは無いっぽい。そう正しく理解したればこそ『梁書』ではすべて「至」の字で統一してるわけなのだ。そんなこんなで論争史が長い割りに、最近はどうやら最終的にはたいした意味はなかったってことに落ち着きそうな気配だ。

だが、「にもかかわらず」昔は使い分け説の方が有力だった。使い分け派の眼目は2つあり、1つは魏使が伊都国を最終目的地としていて、邪馬台国へは行ってない説。もう1つは伊都国を中心とした「放射状説」(「到」の字だけが放射説の根拠ってわけではないのはもちろん知ってるが)。放射説はさておいても、行ってない説はありえないことはすでに説明したが、そもそも「到」の字が伊都国にのみ使われてるならともかく「狗邪韓国」にも使われてるんだから、両方に共通する説明ができなければおかしい。狗邪韓国からも放射状の行程があるとして「日数表記」の邪馬台国と投馬国への出発地とみる説もあるが、なんで伊都国からなり不弥国からなりの、もっと近いところからの行程が抜けていきなり狗邪韓国からの直行コースが出てくるのか意味がわからない。
また狗邪韓国は明らかに通過点であり最終目的地ではない。そこに数日でも停泊したに違いないとか、倭国の領海に接してて、ここから倭国だからとか、いろいろ理屈をいう人がいるがまったく関係なくね? 区切りっぽい何か雰囲気あればなんでもコジツケようってだけじゃん。狗邪韓国と伊都国だから漠然とした雰囲気だけは確かに共通してるが、そんな程度でも「到」の字を使ったのなら終着点の邪馬台国にはなおさら「到」の字じゃないとおかしい。そういうつかみどころの無いムード話なら無いのと同じで、あるんだと絶叫するだけアホだぞw 普通はここで解決とするわけだが、俺は釈然としないね…。お前も釈然としないだろw アホだからなw 陳寿も俺らアホの仲間かw そう、一字の違いに「微言」を隠すという秘技「春秋の筆法」を駆使する陳寿先生が、不用意な雰囲気レベルの感覚や気分で適当に字を変える漢(おとこ)のはずがないじゃないかぁ。

さて本題に入ろう。ういろう食おう。春秋の筆法には、表面上の意味と裏に隠された真意があり、前者は一般人向けだから漢文として普通に読んだ場合の理解。『梁書』はこの水準で魏志を抜粋引用したわけだ。現代の通説もこっちの解釈だな。だが、注意深い読者は「あれ? なんで「至」と「到」を書き分けてんだろ? 通常の漢字の意味での使い分けに合ってなくね?」と気づく。が、春秋の筆法を知らないと「まぁ、行程の中の区切りっぽい地点だからなんとなく到の字の方が雰囲気あってるよな」という浅い理解で終わってしまう。しかし邪馬台国で「至」になってるのに気づけば疑念が深まるはずで、ここで「ははぁん、伊都国までしか行ってないのかな?」と一瞬思うんだが、もしそれが隠された真意なら狗邪韓国は普通に「至」で済ませて、わざわざ「到」の字なんか使わない。つまりここで陳寿が言いたいことは「魏使は伊都国までしか行ってない」なんてことではありえない。
『梁書』のように全部「至」で通すか、もし使い分けるのなら順次式なら邪馬台国でのみ「到」、放射説なら伊都国でのみ、もしくは伊都国と邪馬台国で「到」。直行式も放射説も狗邪韓国で「到」の字が出る筋合いはない。
このような一見乱れたような「到」の字の使い方が意図的な「文(ふみ)の錯(たが)え」なのである。

伊都国と狗邪韓国に何かの共通点があることを示そうとしているのはわかるが、それは何か。むろんそれは本文中で明示されているはずだ。といっても狗邪韓国には弁韓の一国であることと、倭への出港地(実は韓への入港地だがそれはともかく)ということ以外なにもなく、この2点は伊都国に共通させようがない。

そこで伊都国をみると

(1)代々の王がいる
(2)代々の王がいるがその王は倭の女王の支配下にある
(3)帯方郡の使者はいつもここに駐在する
(4)一大率がいる

と、かなり豊富な情報がある。で、この4点すべて狗邪韓国にも共通してるのだろうか?

(1)は、もしそういう事実があったのなら、そのまま書いても何の不都合もなさそうだから「春秋の筆法」の出る幕もないだろう。だから実際に魏志韓伝には「十二国また王あり」とある。これは弁韓の12国をさすというのが定説だが、各国ごとに王がいて12人の王なのか、12国を統べる1人の王がいるのか解釈が分かれる。弁韓12国をすべる1人の王というのはつまり弁韓の王で、この他に「辰王」というのがいてこれは字づらからして辰韓の王だろうから、弁韓の王は「弁王」ということになる。馬韓の「馬王」とかもいたんじゃないのかと思われ。春秋の筆法で隠されてるのである(なぜ辰王だけ出て馬王と弁王は出てないのかの理由など今回は邪馬台国と関係ないので詳しくやらないが)。
この場合の弁王というのは後世の加羅諸国の盟主だった金官国=駕洛国(3世紀の狗邪韓国、書紀の「南加羅」:今の慶尚南道金海)の歴史を記した『駕洛国記』に出てくる金氏王朝ではない。同じく加羅諸国の盟主だった伴跛国(=大加羅国、3世紀の弁辰半跛国:今の慶尚北道高霊)の王家である。後世の『三国遺事』等では駕洛国を伽耶諸国の中心国としているが、『日本書紀』では6世紀の南加羅の滅亡後の加羅諸国(=弁韓諸国)の盟主は大加羅=伴跛国が主体のように読める。なので、通説では加羅諸国における宗主の地位が前者から後者に移ったとされることが多いが、実は後者の方が弁韓の盟主としては古い。なぜなら今回のシリーズの【その1】で詳しく説明したから根拠は省略するが弁韓の「弁」は弁辰半跛国(原文に「半路国」とあるのは誤写)の「半」で、弁韓とはもともと「半跛韓国」の意味から付いた名前だからだ。つまり弁王(=弁韓の王)というものは弁辰半跛国の、半跛国王である。さらに魏志韓伝に

臣智或加優呼『臣雲遣支報・安邪踧支・濆臣離兒不・例拘邪秦支』廉之號


たぶん「臣智或加優呼『臣雲新暹支・安邪踧支・臣濆雞辰支・拘邪秦支』之侯號」の誤記。
「例」の字は「佝」か「𠛎」の誤記で「佝拘」または「𠛎拘」は1字で済む字を誤って二度書きしたもの(衍字)。
「兒」の字は「辰・兂・冘・卂・先」のどれかの誤字で、いずれもシンと読む。

臣智あるいは優れるものに加へて呼ぶに「臣雲新の暹支」「安邪の踧支」「臣濆雞の辰支」「拘邪の秦支」の侯号あり
臣智たちのうち、あるものは強大で地位が高いので、「馬韓の臣雲新国の臣智」「弁韓の安邪国の臣智」「馬韓の臣濆沽国の臣智」「弁韓の狗邪国の臣智」という(4人の)諸侯としての称号を加えて呼ぶ
【注】「臣雲新国・安邪国・臣濆沽国・狗邪国」が優れるものだが馬韓の国と弁韓の国が区別なく混ざってることに重大な意味がある。なお、ここの文を最初に「臣雲新(国)の遣支報・安邪(国)の踧支・臣濆沽(国)の不例・狗邪(国)の秦支廉」と解読したのは李丙燾という昔の学者で、彼は「遣支」は「険側」の別表記、「踧支・秦支」は「臣智」の別表記で「不例」は「樊濊」の別表記とした。また「報」と「廉」は名前かとしている。しかし「不例」は「樊濊」だというのは音韻的にムリじゃないか? ここにあげているのは「優れるもの」であり諸国の中のトップクラスだろうから、階位2位の険側や3位の樊濊が混じっているとするよりも、すべて臣智と考えた方がよい。他にも俺の説であれこれ修正を加えた。

とあり弁韓の中では安邪国の臣智(=踧支)と拘邪国の臣智(=秦支)が「優」(まされるもの)だった(臣智は大国の首長の称号)。つまり3世紀にはすでに狗邪韓国(=金官国)も有力になってはいたが王より下の臣智であって、王ではないことがわかる。ここに半跛国が出てこないのは半跛国の首長は臣智より格上の「弁王」だからだろう。李朝時代の伝説では大加羅の初代の伊珍阿鼓が次男で、金官国の初代の首露王が三男の兄弟だという。二人はAD43年に即位してるから3世紀にはすでに二つの王家が存在していたことになるが、3世紀には金官国(狗邪韓国)の王は(弁韓諸国の内部では王と認められていたかもしれないが)、魏志韓伝の建前では王と認められておらず臣智の位に留まっていたことがわかる。

(3)もまた、もしそういう事実があったのなら、そのまま書いても何の不都合もない。なのに書いてないのだから単純にそういう事実は無かったとも考えられるし、差し支えはないのだが重要じゃないから省かれたとも考えられる。ただ、後述のようにここに一大率がいたのなら帯方郡の使者が常駐していてもさほどへんではないし「到」の字義からしてそれもまたあり得そうではあるが、まぁ、どっちでもいいことだから関係ない。

そうすると春秋の筆法で隠された事実は(2)と(4)だとわかる。ただしこのブログの別記事で伊都国の「統属女王国」の部分は『魏略』逸文と照合の上、「奴国に属す」の意味であり「女王国に統属する」の意味ではないとした(詳細は該当記事参照)。伊都国にいるけどそれは伊都国王ではなく奴国王であり、伊都国に出向してるだけだ、と。そうなら(2)も狗邪韓国の王は狗邪国にいたが、狗邪国王ではなく近隣の別の国の王であり、狗邪国には出向してるだけだということになる。これも別に魏の建前に抵触するとは思えないので、このような事実があったとしても隠す必要はないわけで、そんな事実はなかったから書かれてないのだとも考えられるし、隠したわけではなくたまたま書かれてない(重要でないから省かれた)だけかもしれないし、そこは決め手がないが、まぁどっちでもいい。しかし通説どおりの「倭の女王の支配下にある」という解釈も、結果的にその意味だけは生きている。なぜかというと(4)の一大率がいてこれは倭王の派遣した官で管轄下の諸国を支配してるのだから「統属女王国」の文字があってもなくても、一大率がそこにいるのならそこは倭国の領土も同然ということになる。つまり春秋の筆法によって隠された事実とは「一大率が伊都国と狗邪韓国の両方に一人づついた」ってことだよ。一大率は「女王国以北を検察する」んだが、三韓の諸国も確かに女王国以北には含まれる。そして「諸国これを畏憚」して、その様は「刺史の如し」だよ。こんなものが弁韓の狗邪国(今の金海)にいたといったら、へんに聞こえるか? ちょっとした歴史マニアなら全然へんには聞こえない。まさに任那日本府そのものじゃんw

もう一つの「一大率」
任那日本府については左巻きがうるさいので、これを実在したと考える学者でも、あーでもないこーでもないと遠回しな理屈をつけて朝鮮総督府のようなものとは違うんだと力説してる。が、総督府だったら困るのは歴史的な経緯でいろいろと面倒くさいことになってる現代人の都合であって、古代人の知ったこっちゃないんじゃないかい? 任那日本府というのはね、これはね、朝鮮総督府みたいなもんなんですよwww んなわけないっつのw まぁでも韓国統監府ぐらいのものではあるよwww え?違いがわからない? そんな歴史オンチは豆腐の頭にカドぶつけて氐ねw 氏ねなんていってないぞ、氏質都札じゃなくて氐質都札ですから。間違えないでね原田実先生w つかこんなネタ誰もわからねぇか、みんな歴史オンチなんだからぁ、ホントにもう。これからはね、皇国史観ですよ、団塊の爺婆の皆さん! まぁ冗談は顔だけにして話もどそう。『新撰姓氏録』には崇神天皇の時に任那が新羅と争ってるために将軍の派遣を要請してきたので、和邇氏の祖、塩乗津彦命(しほのりつひこのみこと)が任那に渡り鎮守となったという話が出てくる。ここで将軍というも鎮守というも「宰」(みこともち)のことで鎮守将軍はその役割を漢文的に表現したもの。すなわちこれが任那日本府の起源であり、AD391年どころか神功皇后の新羅征伐よりずっと古い。現代の学者は古記録や古伝承を後世に作られた説話とみなして史料的価値を認めず、任那日本府の起源を『広開土王碑』に出てくるAD391年の倭国の半島進出に求める見解が多い。これだと卑弥呼の時代に任那日本府のようなものがあるはずないということになるが、俺は卑弥呼の時代すでに一大率が狗邪韓国(=弁辰狗邪国)にも派遣されていたと考えるから、むしろ記紀や古伝承が正しいと思うんだよね。

邪馬台国がそのまま大和朝廷だという説の場合には、伊都国の一大率が後世の太宰府帥の前身だという言い方は昔からありふれてる言説だ。任那日本府の日本府という字は奈良時代の表記で、篤胤以来『続日本紀』の注に引用された『仮名日本紀』によって古くは「倭宰」と書きヤマトノミコトモチと読んだと考えられているが、大宰府も和訓ではオホミコトモチノツカサと読む。任那日本府も宰(ミコトモチ)、大宰府も宰(ミコトモチ)。2つの宰(ミコトモチ)、2つの一大率がセットになって対馬海峡をはさんで呼応しているのである。
後世の律令で大宰帥(だざいのそち)の帥がソチまたはソツと読むことから倭人伝に出てくる一大率の率もスイではなくソツと読むべきだという説はだめ。大宰帥の読み方は一大率をソツと誤読したことから始まったもので、一大率はスイが正しい。またミコトモチというのは日本国内文献でさかのぼれる最古の言い方ではあるが、さすがに3世紀の言葉ではない。以前にこのブログでは伊都国の大官「爾支」(にき)が一大率のことだと推定した。だとすると狗邪韓国の一大率も日本語では「爾支」(にき)だったと思われる(今回の記事ではわかりやすさを重視して「一大率」と書いてるが、頭の中では「爾支」(にき)と変換しながら読まれたし)。

さてw 任那日本府(のようなもの)が、はたして3世紀にすでにあって、当時中国から邪馬台国と呼ばれたヤマト朝廷が朝鮮半島を支配していたのであろうか?www「魏志倭人伝にそんなこと書いてないじゃん」とツッコまれるだろうか? そんなことはもしあったとしても、魏の建前ではそれは認められなかったとしたら、ストレートに書かれてないのは当然じゃんよ。
ちょっとこのへんは三韓の情況が魏志にどう書かれているかという話とも関連してくるので、以下、詳しく展開しよう。

※↓日本の古代史オタに間違った古代史像を刷り込んだ罪深い地図
井上秀雄
どこがおかしいかわかるかな? 最低でも5か所はあるよw ちなみに井上秀雄は(今じゃ)別に学界の通説でもないからなw

辰王と月支国の謎解き
もし狗邪韓国に常駐していた一大率が『日本書紀』の任那日本府のようなものだったとすると、その管轄範囲は任那である。で、『日本書紀』の描く朝鮮半島南部の様子は東の新羅、西の百済、南の任那と三区分になっているが、これは魏志韓伝の辰韓・馬韓・弁韓という区分とは国境線が一致してない(詳細は後述)。
ただしこの『日本書紀』の認識は、新羅が辰韓を、百済が馬韓を統合した4世紀以降の情況を反映させたもので3世紀の情況ではないというのが定説だろう。3世紀の三韓の情況は魏志韓伝を基本に考えるのが常套になっており、一見したところ『日本書紀』の記述とはまったく違ってみえる。だが、この魏志韓伝には「辰王」なる者が出てくるんだが、この記述に矛盾があって解釈がややこしく、その部分には学界にも通説があるわけではない。だからまずは魏志韓伝を解読してみようじゃないか。

魏志の馬韓伝によると、馬韓は朝鮮王の箕準がやってきて馬韓を征服して韓王を名乗ったがその子孫は途絶えたともいってる。この話は事実ではないということはいずれ機会を改めて詳細に説明したい。今回は省略するが、カタクナに信じたがる人がいるので今仮に百歩譲って事実だとしても、その王家はすでに消滅して存在していないという。

其俗、少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雑居、不能善相制御


その俗、綱紀すくなく、国邑に主帥あれども邑落雑居し、よく相制御すること能わず

とあり、馬韓の諸国はバラバラ勝手に存在して、馬韓全体をまとめる王(つまり馬王)のようなものは無い。王がいないから無秩序になってると言いたいらしいが、自治が機能していれば東濊や沃沮のように王がなくても争乱なく穏やかに治まってるはず。伯済国(書紀でいう百済)も出てくるが、馬韓諸国の中の一つにすぎず、当然、馬韓を支配するような存在だったようには書かれていない。それなのに

辰王、治月支國


辰王は月支国に治す

とあり。この辰王がクセモノで、業界では「ニギハヤヒ電波」に次いで「トンデモ辰王説」が多くてウンザリする。俺も長い間、箕子朝鮮実在説と辰王のトンデモ解釈に振り回されて遠回りしたけど、ああいうのって面白いからなかなか目が覚めないんだよ…。それはさておき、魏志韓伝では辰韓の説明の前なのに唐突に辰王なるものが出てくるが、冒頭に「辰韓は古の辰国なり」とあり、「辰韓=辰国」なら「辰韓王=辰国王」だろうし、要するに、読んで字のごとく辰王とは辰韓の王でしかない。辰王(辰韓の王)の宮殿や政庁は馬韓の月支国にあったという意味になる。月支国は誤記で「目支国」が正しいというのが有力説だが、見た目かっこいいのでこのまま月支国と書くことにする。なお辰王と箕準の関係も一切ふれられてないし、なぜ辰韓の王が辰韓でなく馬韓にいるのかも馬韓伝の中では説明がない。かといって辰韓伝を読んでも、辰王が馬韓にいるということは辰韓伝の中では書いてない。馬韓は政治的には一つのまとまりではないのだから、馬韓が辰王を任命してるとか、馬韓が辰王を使って辰韓12国を支配してるとかはどうにも考えにくい。岡田英弘は帯方郡との交易のための通商代表部を置いてたんだというが、それが中国からみて王というほどのものなら金印なり銀印なりと一緒に官位を授けそうに思われるが、そういう話も一切ない。馬韓の臣智たちにはいろんな官位を授けているのに、だ。古くは李丙燾を初め何人かの学者が魏から官爵をもらっていた臣智たちは辰王の宮廷にいた辰王のとりまきのようなことを言ってるが、李丙燾の個人的な解釈であって、本文にそんなことは書いてない。原文は辰王についての文と魏の官爵についての文の間に「臣智或加優呼、臣雲遣支報・安邪踧支・濆臣離兒不・例拘邪秦支、廉之號」が挟まっており、それに続けて

其官有、魏率善邑君・歸義中郎将・都尉・伯長


(原文の「歸義候中郎将」の候の字は衍字)

とある。だから「其の官」の「其の」ってのは臣雲新国・安邪国・臣濆沽国・狗邪国の4ヶ国に代表される臣智たちのことであって辰王ではない。魏志は劉昕と鮮于嗣を派遣して帯方、楽浪を平定したという記事に続けてすぐ

諸韓國臣智、加賜邑君印綬、其次與邑長


諸韓国の臣智に邑君の印綬を加賜し、其の次なるものには邑長を与ふ

とあるのにここにも辰王はでてこない。二郡を接収してすぐ「辰王ぬき」で臣智たちに官爵を与えている。安邪国と狗邪国は馬韓でなく弁韓だが、辰韓の国は一つも入ってない。馬韓と弁韓の、各国の首長である臣智たちは辰王とは無関係に各自で帯方郡から官位を受けている。辰王は辰韓の王なんだから、どうも「馬韓・弁韓」と「辰韓」とでは政治的な立ち位置に違いがありそうだ。また、後漢書を拡大解釈して辰王は三韓ぜんぶの王だと言いたがる人がいるが、それも魏志の記述に反する。

辰韓伝では

(辰韓の)十二国は辰王に属す

とあるから辰韓はどうやら王を中心に一つにまとまってるように受け取れる。つまりこれが『日本書紀』でいう新羅のことで、多少は国境線のズレはあったとしてもほぼ同じものと見ゆる。ただ、問題点があり、原文は

辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立為王


辰王は常に馬韓人を用ゐてこれをなし、世々相継ぐ。辰王みづから立って王となるを得ず

となっている。辰王は馬韓出身らしいが代々続いているんだから辰韓人も同然じゃないのか?「不得自立為王」(自分では王になれない)ということについて『魏略』では辰韓12国が馬韓に支配されてるからだと解釈してるが、そんな力のある辰王が馬韓人なのに、馬韓はまとまりがなく上記のような有様なのはどういうことか理解に苦しむ。「自分では王になれない」ということが馬韓の支配下にあることをいってるのなら辰王は辰韓人のように聞こえるし、逆に辰王自身が馬韓人なんだから馬韓から任命されてる総督のようなものだとすると「自分では王になれない」なんて辰韓人の立場のようにいうのもおかしくないか? しかも「自分では王になれない」といいながら辰韓の王は昔から代々続いてる家柄だとも書いている。ならば何者かが王を任命するにもその王を否認して別の王を擁立するにも、どのみち特定の家系からしか王を選べないことになる。それと辰王は辰韓じゃなくて馬韓にいるというのが事実なら極めて重大な話だろうに、辰韓伝にはそんな話は一切ない。これは単に部族会議で王を推戴することによって王に貴族層が承認を与え忠誠を誓う儀式のことを言ってるにすぎまい。特に新羅は王家が3つあって王位をたらいまわしにしていたが、新羅の貴族層は六部といって慶州盆地の豪族でもあり、3王家が居住地を通じて六部のうちの3部とそれぞれ結びついてもいた。3王家の王位争いに貴族層の利害が複雑に絡まり、代替わりのたびに会議での駆け引きが重大なものになったろう。

『新唐書』東夷伝新羅条
事必與衆議、號「和白」。一人異則罷


事必ず衆と議り、『和白』と号す。一人異なれば則ち罷む
事を行うに必ず会議をひらき、これを『和白』という。一人でも異を唱えれば決定しない

とあり。その「和白」で次の王が決まるから「自分では王になれない」のであって、馬韓から送り込まれてくるからではない。馬韓はバラバラであり、まとまった勢力ではないのだから、辰王が馬韓人だといっても「馬韓という一つの勢力」を代表してるわけでもない。辰韓人は中国からきた移民だと書いてあるから、馬韓人だというのは要するに中国系の移民ではなくもともとの原住民系の家柄だということにすぎない。

問題はその辰王(書紀でいう新羅王)が馬韓の月支国にいたという件だ。
日本書紀の描くところでは魏志のいう馬韓にあたる地域は北が百済で南は任那で分割されてることになってる。けして支配者のいない権力の空白地帯ではない。これは魏志でも馬韓が政治的なまとまりをなしてない、ただの地域名でしかないことに一脈通ずる。ただ、百済の存在が魏志と書紀とで違う。

『三国史記』百済本紀では百済の建国はBC18年、『三国史記』新羅本紀では新羅の建国はBC57年というが、もちろんこれらは後世に作られた伝説だとして学界では認められてない。漢籍史料では3世紀まで「馬韓・弁韓・辰韓」の時代であって「百済・新羅」は4世紀から登場するからだ。馬韓が最後に晋に朝貢したのが290年で、『晋書』慕容載記に346年のこととして百済が出てくるのが史料上の初出だから、この間56年間に伯済国が馬韓を統合して百済になったとするのが定説で、百済本紀で近肖古王が即位したという346年を百済の建国とみなすことが多い。同様に、辰韓が最後に晋に朝貢したのが287年で、前秦に新羅が朝貢した377年が史料上の新羅の初見だから、この間90年間に斯蘆国が辰韓を統合して新羅になったとするのが定説で、新羅本紀で奈勿王が即位したという356年を新羅の建国とみなすことが多い。
だが、馬韓と百済の関係はいろいろ問題があるからわかるとしても、辰韓と新羅は完全に連続しており、馬韓百済のケースと一緒くたにはできない。辰王というのは日本書紀や三国史記にでてくる新羅王と同じものだろう。

百済についていえば学界の定説も『三国史記』の伝説も、ともに従い難い。
後漢書や魏志では公孫度と夫餘王の尉仇台が婚姻を結んでおり、周書や隋書では夫餘系の仇台なる者が百済を建国したというが、『通典』では百済は夫餘王の尉仇台の後裔だとしていることから、仇台と尉仇台は同一人物とわかる。「いや別人で後世に混同されただけ」という説も有力だが、それはこれらの中国系の伝承は後世のもので信頼性にかなり問題あるからなのである。だからこれらの伝承を否定して、魏志韓伝の記述を信用して「この頃の伯済国はまだ馬韓の中の一国にすぎない」とされているわけだ。
だが、少なくとも2世紀以降に公孫度が遼東で自立して以降、百済(魏志の伯済国)を含めた馬韓北部の諸国と公孫氏とは密接な同盟関係だったと推定することは許されないだろうか。公孫氏の支配した5郡の人口は不明だが晋書地理志には帯方郡4900戸、玄菟郡3200戸、楽浪郡3700戸、遼東郡5400戸、東莱郡6500戸。三国時代にはもっと少なかったろうがとりあえず晋代と変化なかったと仮定して計2万3700戸(東莱郡を除いたら1万7200戸)しかない。高句麗3万戸は濊2万を従えていたから実質5万戸。夫餘8万戸との同盟がなければ高句麗に抵抗していくことはムリ、まして14~15万戸もある三韓を公孫氏が独力で抑え込むなど不可能である。三国志を読んでると公孫氏が自力で群雄として遼東に割拠していたかのように書かれているが、人口からみると現実には夫餘王の保護国だったとしか思われない。独力では南に接する馬韓を抑えられないから夫餘の力を借りるし、だから馬韓の北部を統合した百済は夫餘系だという伝承が残ってる。すべて整合的であって、百済が夫餘系だとする伝承を後世の創作とみなす最近の動向はいきすぎだろう。つまり公孫氏が健在だった頃は、伯済国は夫餘を後ろ盾とする者同士として公孫氏と同盟関係にあり、馬韓の北部を支配下に置いていたのではないか。馬韓の3分の1でも3万戸になるから、伯済国と公孫氏はほぼ対等な同盟関係だったこともありうる。公孫淵が滅ぼされた時に、伯済国は魏からみて公孫氏の係累と看做され(実際に血縁もあった)、馬韓への宗主権が否定されたんだろう。だから馬韓には王(に該当するような存在)は無いというのが魏の建前なのである。

一つの案としては「辰王治月支國」(辰王は月支国に治す)には誤記があるとすればどうか。辰王でなく「馬王」だったというのがいちばん安直ではある。が、辰王ではなく「辰支」だったとも想像できる。臣智は「遣支」や「踧支」、「秦支」とも書かれているから、「辰支」でも通じる。で「辰支は月支国に治す」と。中心となるべき伯済国が謹慎せざるを得ない情況で、馬韓の有力な辰智たちは月支国に集まり連絡協議会をもった。一種の部族会議で、王の不在の情況を乗り切ろうとしたのだと解釈する。あるいはこの「辰支」(=臣智)は複数の臣智たちではなく、伯済国の臣智ではないか。伯済国の臣智は月支国を治所として馬韓北部の諸国を束ねる実質上の馬韓王だった。あるいは両説折衷して、複数の臣智たちによる部族会議ではあるが議長(実質リーダー)は伯済国の臣智だった。馬韓北部の王なのではあるが、魏がその地位を否認したため公式には王とは書けず『三国志』の中では一階級下の臣智になっている。一応、王位を否定された身なので自国を会議場にするのは憚られる。だから伯済国の勢力圏の最南端にあたる月支国を会場とした(京畿道と忠清道の境に近い)。ここなら勢力圏外の馬韓諸国への呼びかけにもなる。月支国(正しくは「目支国」だが)の位置は、今の忠清北道の陰城、忠清南道の禝山と木川で3ヶ所の説がある。当時の百済の勢力圏の南の境は安城川と思われ、この川はほぼ京畿道と忠清道との道境に重なり、いちばん離れた木川でも安城川まで20kmぐらいしかない。

「この誤字説でかまわない、これで解決だ」と思うのだが、納得しない人もいると思うので、ここは誤字は無しとして、そのまま辰王(辰韓の王)がなぜか馬韓の月支国にいたと文字通りに受け止めることにしてみよう。この場合はなぜこんなへんなことになっているのかその理由を考えなければならない。
帯方郡は、伯済国の宗主権を否定したはいいが、

其人性、彊勇

とあるように馬韓は精悍凶暴で手を焼く存在なので直轄支配は困難だった、そこで辰王に馬韓の統治を依頼したのではないか。「夷を以って夷を制する」の策である。ちょうど公孫氏が馬韓の統治を夫餘王に依頼したのと同じである。
そういうわけだから、辰王は本国から遠く離れた月支国に半ば人質のような状態できたわけではあるまい。大軍を率いて占領軍のように駐留したんだろう。これは有能な将軍でもある王でなければ務まらない。
『三国史記』によれば当時の新羅王は助賁尼師今(サヒ/じょふん、尼師今は称号)で、従兄弟の息子にあたる于老(ウル/うろう)という王族を娘婿にしていた。『三国史記』ではわからないが当時の新羅は二重王制で、この場合、于老の岳父である助賁尼師今が「葛文」(かつぶん/カスミ)、助賁尼師今の娘婿である于老が「寐錦」(むきん)の位にある(AD502年に葛文は「葛文王」、寐錦は「寐錦王」と改称され、これらの王号は韓国で出土した石碑に出てくる)。于老は『三国史記』では即位することなく死んだが王子でありその子も後に新羅王になってるほどの王族中の王族で、大将軍として兵権を握り、あちこち出征して活躍してたから、辰韓の王都(斯蘆国)から遠く離れた月支国にしばらくいたことがあってもさして問題ないだろう。『日本書紀』でも「宇留助富利智干」(うる・そほりちか)として出てくるが、新羅王だとしているのは『日本書紀』のミスではなく、本当に新羅王だったのである(尼師今も王号だが寐錦の訛りではなく昔氏王朝の称号。助富利智干は「舒弗邯」と同じだが臣下の位階ではない。これが位階の第一位の名に使われたのはずっと後世で、当時はまだ新羅の位階制はできてなくて、魏志がいう臣智から邑借までの5つしかない)。
そういうわけで、助賁尼師今は辰王として辰韓本国にいたまま、同時に于老ももう一人の辰王として月支国に赴いていたのだと考えられる。
邪馬台への行程【その6】」に続く。
【その6】ではちょいわかりにくい今回の話を時系列で説明します。
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邪馬台への行程【その4】~狗奴国は九州か東国か・使訳通ずる30国の数あわせ~

改稿:2679年[R01]10月22日TUE 初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その3】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その3】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
実は、魏使は邪馬台国まで行っていた?
「会稽東冶」の問題はまだ半分で、重大な議論が残っているが、その前に片付けておかないとならない話を先にする。
ちょっと話もどるが、それは魏の使者が邪馬台国まで本当に行ってたのかどうか。まぁ邪馬台国論争ではポピュラーなネタの一つではある。
そもそも「邪馬台国までの一万二千里」が「奴国までの距離」ってことに作り直すはめになった根本理由は、魏の使いが邪馬台国へ行かなかった(=北九州から出なかった)からだと一応思われる。その根拠は、第一に魏使は伊都国に常駐するとあること、第二に「不弥国までの里数表示」と「投馬国と邪馬台国への日数表示」という二種類の記述があり、後半の日数表示は倭人からの伝聞記事だとも考えられること、第三に倭の諸国への行程は「至」の字が使われているのになぜか狗邪韓国と伊都国のみ最終地点をあらわす「到」の字が使われていること。これらのことから魏の使いは伊都国より先には実際は行ってないのではないかという、有名な説が大昔からある。これもカタクナな反対論がある一方で、有力視もされてた。だが、これはたして本当にそうか? よく考えるといろいろおかしいと思うのだが…。

広大なシナ大陸を縦横無尽に駆け巡った三国志の武将らにしたら、北九州から畿内大和にいくぐらいたいした距離じゃない。だから物理的に行けなかったとはまったく考えられない。
なので、中には卑弥呼が面会を拒否したと考える人もいるかも知れない。武装親衛隊にガードされ「会う者少なし」とあるから容易なことでは面会できない様子はわかる。しかしこれは平常モードの話であって、ハレの重要な祭儀の時とか、国家の重大な案件の場合でも常にそうだとしたら、この人は女王といっても傀儡で実態はただの監禁された人ってことになる。なんでそんなことがありうるのかというと卑弥呼は宗教上の存在で神に仕える神聖な巫女で、補佐していたという「男弟」が実権を握っていたからというのだ。こういう説を真に受ける人は「ヒメ・ヒコ制」という古い学説に影響うけたままいまだに目が覚めてないんだろう。「ヒメ・ヒコ制」批判は長くなるから省略するが、卑弥呼は王なら誰でもという程度の普通の意味では神に仕えていたろうが、格別に祭司だの巫女だのという存在ではない。「鬼道」の2文字だけからそういう妄想を膨らませる説が多いが、そもそも「鬼道」が原始的な部族宗教でも土着宗教でもアニミズムでもシャーマニズムでもないし、日本の神道でもなければ中国の道教でもなんでもない。「鬼道」の意味については別の記事で詳しく書いたので今回は省略するが、要するに卑弥呼は祭祀王でも巫女王でもなく、高貴な血筋によって王であるところの普通の王なのである。たまたま女性だからって巫女だ祭司だと短絡すべきでない。「会う者すくなし」といっても昔の皇族貴族の女性はみんな奥に隠れており来客にすら襖や屏風を挟み、外出時も庶民に顔を見られないようにイスラム女性みたいに厳重に隠していた。ましてや王ともなれば当たり前ではないか。男でも昔の天皇というのは容易に面会できず、できても簾をはさんで顔はみえない。ましてや女性ともなれば当たり前ではないか。しかも当時は男王国と敵対しており、刺客やテロへの対策もある。
あるいはこう考える人もいるだろう、魏の使いは倭王に要求するであろう臣下としての服属の礼を回避するために会わなかったのだ、と。だがそれも理由じゃないと思う。前にも書いたが、中国人は建前に対してけして四角四面ではない。礼も法もその運用は情況に応じてなんとでも変化すること日本人以上に柔軟で、中国人同士の抗争に生き延びるために異民族に頭を下げるなんてまったく平気だし、派閥のボス(司馬懿)のメンツを立てるためなら土下座でも裸踊りでもなんでもやる。むろん異民族の側も敵対時はともかく和親の相手にまでそこまで失礼な要求もしない。隋の頃、聖徳太子と「どっちが格上か」みたいな建前や形式といったくだらないことで争って追い返された裴世清は「綏遠の才なし」(異民族を手玉にとる才覚がない)と中国人からも酷評されてる。会うこと自体はどっちの側にも問題ないはずで、和親の外交はお互いに利益で結ばれたのだから当然だろう。
別の理由を考える。畿内大和に向かうのになぜ瀬戸内海の穏やかな海を行かず日本海の荒波を行かねばならないのだろうか? 男王国の領域については別の記事で詳しく書いたので省略するが、黒潮文化圏とかなりの程度重なっており、女王国が吉備(の陸上)を押さえていたとしても、男王国の海賊は瀬戸内海に出没しており、女王が制海権をとれなかったのではないか。海賊といっても男王からすれば正規の海軍であり、女王の方こそ海賊なのだが。かといって日本海航路なら安全ともいえない。北九州に大軍を駐留させるような余力が魏にあったとは到底思えないので、魏使の警護は倭国が担当することになる。むろん女王の威信にかけても刺客の類は撃退する用意があったろうが、魏使の安全が守られればよいという問題でもない。倭国の領内で外交使節を襲うような不埒な反逆勢力の存在それ自体が、国使の眼前にあらわになることが問題である。魏も倭国の内部事情は知ってるのだが、だからよいとはならない。魏にしてみれば一万二千里から使いを出してくれて、呉との戦いに力を貸してくれるのならば女王でも男王でもいいわけだ。だが女王国と男王国は、同一民族の同一国民の上で支配階級だけが割れている状態だから、失態をしでかすことは命取りになる。常に敵方より上の力量をみせつけねばならない。そういう中で日本海航路をとった場合でも、魏使への襲撃があっただけで問題になる。だから安全をとって魏使を九州に留めていたのか。しかしそれならなおさら邪馬台国まで強く招いたはずだ。なぜなら会えないのならそれは女王の外交が男王に阻止されたことになるからである。この程度の警護も不安だとすると九州と畿内の連絡は常に男王国の勢力によって揺さぶられていたことになり女王国は成立不可能である。卑弥呼は倭国のすべての国力を結集し、大倭王の名誉にかけても、なんとしても魏の使いを王都邪馬台国へ迎え入れようとしただろう。だからこれも違うな。
あるいは少し似てるが、倭と魏には同盟内容について認識のズレがあり、それが事務レベル、例えば難升米と梯儁が相談して処理しており、中国向けと日本向けの詔書を捏造していた、とか? これはアレだ、豊臣秀吉と明の万暦帝の間で小西行長と沈惟敬がやった欺瞞外交のようなこと。これなら直接女王からあれこれ聞かれるとマズイかもしれない。しかしこれは「郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」とあり通り、卑弥呼から直接派遣されている一大率の厳重な管理下にあったからムリだろう。

倭国の使いもはるばる洛陽までいって魏の皇帝に面会してるのに倭王が魏の使いとの接見を拒否するのは対等でもなく、不自然だ。お互いに会いたかったろうとも思われる。あっちからみれば異民族の女王なんてエキゾチックだし、こっちからみれば三国志の武将だぞw 現代でも女性の三国志オタなんていくらでもいるだろうがw これはね、両思いなの。だから倭国と魏使のどちらが接見を拒否したにしても、やむを得ない理由なの。一方的に拒否したのか、協議のすえ合意してやめたのかはわからないが。
いったい何が問題なのか? 魏使に行けない理由なく、倭王また歓迎せんとすれどもやむなくお流れになったとすれば「やむなく」の真相は何か。ポイントは二つある。一つはさっきから言ってる「本音と建て前」の使い分け。もう一つは呉の存在、これしか考えられない。

呉は西南諸島づたいの航路で倭国と交渉をもったと想像する説も、有力ではないがこれまた昔からある説だ。すでに別記事で書いてるが、狗奴国(男王国)と呉の外交は230年に失敗破綻しており、あせった呉はまだ決裂前だった公孫淵や高句麗にも仲介してもらって、邪馬台国(女王国)との外交になんとかこぎつけた。その証拠が赤烏元年と赤烏七年の紀年銘鏡である(この鏡が男王国=狗奴国のものではありえないことはこのブログでは説明ずみ)。

別の記事にも書いたが、紀年銘鏡の年代が新しいことをもって卑弥呼の時代と無関係とする説は採れない。たとえ時代の下ったものであろうとも、その「年」に特別に銘紀するに値する何らかの特別な年だという知識がなければ「銘」にならないだろう。卑弥呼より後の時代にも「その年が特別な年だ」という歴史の記憶が継承されていたということになる。

赤烏元年(改元は九月)は景初二年だから魏と女王国の国交が開けた年よりも一年早い。238年説だと同年になるが魏への使いは公孫淵征伐のドタバタの中での突発的な事件だったから、そんな最中に呉との新規国交なんてのは考えにくく、これ以前からの長い下ごしらえ期間が想定される。つまり倭国との外交に関しては、呉は魏よりも先輩だったのだ。だから伊都国には魏の使いも常駐していたが、呉の使いもいた。しかし倭国の北九州随一の軍事基地(=伊都国)の中で揉め事は起こしたくても物理的に起こせない。魏使と呉使は表面上はいがみあいながらも裏では情報交換もしていたろう。魏の建前としては女王国は中華皇帝としての魏の正統性を支持したことになっているので、魏使は呉使が女王国にきている事実を公にはできない。しかし中国人らしく現実ともそれなりに付き合っており、いちいち伊都国での許可は要るものの、邪馬台国(畿内大和)へも非公式には何度も行っており、非公式には卑弥呼とも何度も接見していたに違いない。それはもちろん呉使も同じだろう。北九州にも畿内にも、一介の平凡な中国系帰化人を装った間諜や密偵の類は、魏も呉もわんさか放って情報収集はしていたはずだし、倭国側もそれは承知のこと。卑弥呼の宮廷で魏人と呉人が同席することも珍しくなかったろうし、倭国としてはむしろそういう方が賑やかで喜ばれる。しかしそれはあくまで私的な交流であり、公式なセレモニーで同席するのはまた別なこと。公式なセレモニーでは呉使と同席するわけにはいかない。しかし倭国は魏を特別扱いせず、呉を排除するような配慮は拒否した。親魏倭王つったってこっちからおねだりした訳でなくあっち(司馬懿)の都合でくれたわけだろ。239年(238年説もアリ)の朝貢も司馬懿の手下から頼まれたのであってこっちから希望していったわけではない。どこの国でも外国からの使いは見世物(アトラクション)であるとともにそれ以上に自国の徳を示すもので、この上ないアクセサリーなのである。だから王都邪馬台国には魏の客も呉の客も常にそろってないと不揃いで不格好で物寂しいのである。蜀人も非公式にはいなかったとも限らない。

魏人(ぎひと:中国北部の住民)と呉人(ごひと:中国南部の住民)は言語も習俗も顔つきも体格も違っている。記紀を信ずる限り昔の日本人は北方中国人と南方中国人を同一民族とは認めず、前者を「漢人」(あやびと)、後者を「呉人」(くれびと)と呼んで区別していた。

しかしそうはいっても例えば正始四年の件などは会わずに済ませることはできない。そこでどうしたか?

当時の倭王は江戸時代みたいに「禁中並公家諸法度」に縛られてたわけではない。律令時代以前の天皇はその気になれば独裁権力をふるうこともできたし、景行天皇のように西は九州、東は関東と、自由に行幸もできた。かなり時代が下っても近江や吉野、吉備ぐらいはちょくちょく行けたんだから卑弥呼の時代なら九州へ行くぐらいどってことないだろう。おそらく卑弥呼みずから北九州に行幸して、そこで公式なセレモニーとして接見したんだろう。それぐらいのサービスはするよ? 国見(領地の視察)も王の仕事だし、個人的に旅行だってしたかろうし。会場はもちろん奴国である。この場合、外国の使いは伊都国から許可なしには出られないのだから、カドを立てることなく呉人を公式に排除できるというわけよw 完璧だねw

「会稽東冶の東」は男王国であり女王国でない?
ここらで、ようやく宿題にしていた問題に戻ろうw 会稽東冶の話の続きだ。
「会稽東冶の東」は実は行程記事の中には無くて、気候風土や習俗文化、物産などの紹介コーナーに出てくる。そこの中で、倭国の気候や文化が南方系だということを示している中で倭国は「会稽東冶の東」にありの一文も含まれる。つまりこの一文は「距離&方角という地図上の位置」ではなくて、距離や方角は多少は不正確かもしれないが「文化圏」的で「人文地理」的な位置だよ、というニュアンスで受け取るべきだろう。
ところでこの習俗記事は前半の方に「其風俗、不淫」とあるのにだいぶ離れた後ろの方に「婦人不淫、不妒忌。不盜窃、少諍訟」と似たような話がまた出てくる。産物の紹介も前の方では「種禾稲、紵麻、蚕桑緝績。出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。」とあるのに、これもだいぶ離れた後ろの方に「出真珠、青玉。其山有丹。其木有楠、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏号、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黒雉。」とまた出てくる。なぜ2か所に分かれて別々に出てくるのか。重複記事があるため散漫で粗雑な印象があり、これは複数の資料を陳寿が不用意につなぎあわせたんだろうという見解が多い。

水野祐の説だとこの記事は「所有無、與儋耳朱崖同。」までの前半と、「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。」から始まる後半に分かれているという。確かにこう切り分ければ重複記事はないことになる。また「倭地温暖」というのも文章としてへんだ。倭地の話をしてる途中なんだから「其の地、温暖」となるか、なんだったらいきなり「温暖」でも文意は通る。「倭地」と断りが入ってるのはもともとここが文頭だったことが窺がわれる。
そしてこの記事の直前が「…次有奴国、此女王境界所盡。其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。自郡至女王国万二千余里。」となっているが、「自郡至女王国万二千余里」という文は「女王国の『南境』まで万千里」という意味で、狗奴国は女王国の南にあるんだから、これは「狗奴国の『北境』まで万二千里」というのと意味の上では同じとなる。つまり「自郡至女王国万二千余里」という文はまだ狗奴国の説明の一部なのである。
まぁしかし「狗奴国の『北境』まで万二千里」という解読は苦しい。もしそれが正しいのなら、それならそうともっとわかりやすい書き方をしたはずだ。俺の説としては「自郡至女王国万二千余里」という文は狗奴国の説明の後に入ってるのは妙だからここは錯簡で、「…此女王境界所盡」と「其南有狗奴国…」の間に入っていたのではないかと考える。そうすれば「狗奴国の『北境』まで万二千里」なんていう不自然な解釈しなくても、文意の通りがスッキリしてひじょうによくなる。
ともかく水野祐の説を続けると、習俗物産の記事は狗奴国の直後に続く記事なのだから、前半は狗奴国の習俗の説明だったのではないか。つまり前半パートは邪馬台国の習俗でないが、後半は邪馬台国の習俗や物産であって狗奴国の習俗物産ではない。
で、もしそうだとすると、南方系を示唆する3つの記述、刺青の件も「会稽東冶の東」も「儋耳・朱崖」も、すべて狗奴国の記述であり、邪馬台国は関係なかったことになる、と。
水野祐はさらに重要な指摘をしている。習俗物産記事の前半パートと後半パート、それに『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事、この3つを比較対照して、どうも倭人伝は前半パートと後半パートを比較させようという意思がなく、前半パートと『漢書』地理志の共通性を強調しようとしていることを明らかにしている。前半パートは中身の半分は独自記事だがもう半分ぐらいは『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事からのそのまま転載(パクリというかほぼコピペ)が混在しており、コピペ部分についてはコピペなんだから個人的にはどうも事実とは認めにくいような気がする。が、具体的にそれぞれの記事を個別に検討すると実際に日本にあったものとして問題ないという説もあり、だとするとコピペなんだけど偶然にも事実と一致したのか、事実を書いたら偶然にもコピペっぽくなっちゃったのか、どっちなのかはわからない。いずれにしろわざわざ「儋耳朱崖と同じ」と念押しするのは書かれてる内容が事実かどうかに関わらず意図するところがあろう。

水野祐は邪馬台国九州説だし、狗奴国も魏に入朝していたという説だったり、昔の学者なので他にもいろいろおかしなことを言っており、司馬懿の都合による政治的歪曲という観点も抜けている。そのため、なぜムリしてまで南方系を強調しているのか説明が不十分な印象があるが、それは現代になってからみてるからで、昔の俺なんかひじょうによくできた秀逸な説だと感心したものだ。
後半パートで南方系を思わせる記事というと、しいていえば「倭地温暖」くらいしかないが、温暖の2文字だけではどの程度の南方なのかつかみどころがない。熱海ぐらいの緯度でも温暖っちゃ温暖なわけで。「皆徒跣」(はだし)というのも江戸時代でも庶民は裸足が多かった。華北の冬は寒さ厳しく野菜など採れないから「冬でも野菜を生食する」のは倭国が温暖だという話の流れだというが、腐敗しやすいはずの夏でも生食だというのだからむしろ北方のイメージだということもできる。つまり後半パートにはハッキリと「南方系だと断定できるような記述は無い」。
確かに南九州の隼人なら南方系と言われて納得できるが、北九州を含む倭国全体の習俗物産がはるか南のはての海南島と同じというのはあまりにも違和感がある。それが、南方系と思わせる記述はすべて狗奴国のみについての説明だというのだから、好都合に思われたのだ。

ところがこれは相当に古い説であるにもかかわらず、あんまり有名でもないし通説化してる様子もない。おそらく学界では反論もいくつか出されていて、あまり支持されてないんだろうな。
そう思って水野説への反論を試みると、狗奴国の習俗だという前半パートはさらに前後に分かれ、刺青の話ばかりしてる前半が「会稽東冶の東に在るべし」で終わり、後半の習俗物産記事は「儋耳・朱崖」と似た習俗物産ばかりを集めたパートで、だから「有無するところ儋耳・朱崖と同じ」で終わってるわけだ。つまり、考えようによっては、狗奴国と邪馬台国の習俗物産を別々に書いてるわけではなくて、やはり全部が倭国全体の習俗物産記事であり、水野祐がいう狗奴国の習俗物産というのは単に「刺青パート」と「儋耳・朱崖との共通点パート」にすぎないのだ、とも考えられる。

では通説と水野説、どちらが正しいの?
どちらが正しいのかわかりにくくなってること自体が一つの大きなヒントだろう。通説が正しいのなら、陳寿はもっと記事を整理して書いたはずで、重複感のある粗雑な編集はしなかっただろうし、水野説が正しければ、こっちは狗奴国の記事、こっからは狗奴国以外の記事として誤解のしようがないようにわかりやすく書くことは造作もないことだったろう。
要するに陳寿は「わざとわかりにくくしてる」のである。出たw「春秋の筆法」だなw 春秋の筆法は、現実が権力者にとって都合が悪い場合にもちだされる筆法だから、通説と水野説のうち、一方が現実の倭国だがそれは権力者(この場合は司馬懿)にとって都合が悪いものであり、もう一方が司馬懿にとって都合よく歪曲した倭国像なのである。

前述のように倭国が「会稽東冶の東」にあるというのは「南方系の習俗と物産がどうのこうのという話とは無関係に」呉越地方の中国人の認識だったのであり、わざわざ捏造した話ではない。それは魏(というか司馬氏)にとっては都合のいい話なのだからそのまま採用すれば済む話であり、採用したからこそ方角を90度まげて呉越地方の中国人の認識に合わせた。
この上、そこからさらに遠い南の海南島の習俗物産をコジツケる意味など本来は無いはずなのである。だが、魏としては女王国が「会稽東冶の東」にあることを期待してるのに、実際は女王国と対立している男王国の方が呉の隣国だった、なんてことでは倭国と魏の同盟が呉への抑止力にならない。事実は「会稽東冶の東」にあったのは、倭国は倭国でも女王国ではなく狗奴国だった。そこに90度まげて邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってきた結果、狗奴国のものだった南方系の習俗と物産を邪馬台国も共通していないと筋が通らないことになった。
つまり水野祐の説が現実の倭国を反映している。帯方郡からのレポートによれば倭国は九州から東の方に延びており、呉越地方の中国人の認識と違っていたばかりか、格別に南方系と思われるような習俗も物産もなかった。そこで狗奴国の習俗物産記事に続けて北九州諸国の習俗物産記事を置き、わざと混同を誘う構成になっているのである。普通に読めば通説の読み方で問題ないように感じるのだが、途中に「倭地」という不要の二文字をわざわざ挿入しているのは「春秋の筆法」でいう「文の錯(たが)え」ではあるまいか。「ここでおかしいと気づけ」というシグナルなのである。

狗奴国の「東国説」と「九州説」は矛盾しない
すでに他の記事で詳しく書いたので簡単に済ますが、方角が90度曲がってるんだから「南」というのは実は「東」だ。女王国の南にある狗奴国は、正しくは女王国の東。で、最近の有力説である狗奴国東国説もいろいろだがその中の一つで、狗奴国は今の静岡県だとする説がある。後世に久努国造があったところが遠江国山名郡久努郷と同国周智郡久能郷(ともに静岡県袋井市、ただし和名抄の周智郡に久能郷は無く明治の郡制施行時の久能村が名残り)だが、駿河国安倍郡(会星郡)久能郷(いまの静岡県静岡市)も遺称地だとすると、狗奴国はほぼ伊豆地方を除く静岡県の大部分を占めていたと思える。この場合、狗奴国の官である「狗古智卑狗」の「狗古智」は静岡県の菊川をさす地名「菊」と助詞の「つ」とするのが穏当だが、面白くはないw そうではなく旧来の説に従って肥後国菊池郡(熊本県菊池市)のままでよいと思われる。東国説と九州説は矛盾するものではなく実は両立するからである。
鞠智城跡
※鞠智城(7世紀)の復元された八角形鼓楼。ここは律令制下の菊池郡城野郷に含まれる。3世紀の狗古智国もここかこの近辺にあったろう。一方、めんどくさいから画像は出さないが、静岡県袋井市に久努国造を祀る「七ツ森神社」(山名郡久努郷)あり、そこから1km半(徒歩20分)のところに久野城跡(戦国時代)がある。ここは律令制下では山名郡ではなく周智郡だが、西にすぐ隣接して久能という地名(かつての周智郡久能村)が残り、七ツ森神社からも近い。3世紀の狗奴国も久能城跡かその近辺にあったろう。

狗奴国を「春秋の筆法」で読む
対馬国の大官が卑狗といい、一支国の大官も卑狗というとあるのだから、そこまで読んできた中国人は「卑狗」とみれば特定の国を治める大官のことだと理解している。地方統治官は担当地名の下に官名をつけて、例えば上党郡の太守は「上党太守」、楽浪郡の太守は「楽浪太守」というのだから、対馬国の卑狗は「対馬卑狗」、一支国の卑狗は「一支卑狗」だと自然に受容している。ここで「狗古智卑狗」という字の並びを目にしたら、説明など無くとも自然と「あ、狗古智国の大官だな」と直ちに了解されよう。つまり狗奴国とは別に「狗古智国」という国の存在が暗示されている(間接的に示されている)。別々の国なんだから、狗奴国は東海道だけど、狗古智国は九州にあったってことで何の問題もない。魏志倭人伝の文面ををよく見ると、狗古智卑狗は男王の官だとは書いてあるが狗奴国の官だとは書いてない。ゆえに狗奴国にいたとは限らない。
で、菊池郡は北九州の女王国支配下の諸国からみると南であり、畿内からみると西になるので、90度傾けると北九州からは西、畿内からは北になる。西だと倭国と呉の間に女王と敵対する男王国が挟まることになり、女王国が直接呉への脅威とならないので具合が悪い。北だと「南方系の習俗や物産をもった国が北で、そうでない国が南」になってこれまた具合が悪い。なので狗古智国は方角どころか国名すら明記してないのである。一方、東海地方にあった狗奴国は他の国々と同じく90度傾けて、女王国の南にもってきた。そうやって「女王国の南」という同じ場所に狗古智国と狗奴国を重ねあわせた。しかし「狗古智卑狗」という官名から読者は「狗古智国」の存在を想定するのだが、文面上は狗奴国しか出てこないので、読者は不審に思い「文の錯え」に気づく、という寸法よ。

「使訳所通三十国」の謎
冒頭に「使訳所通三十国」(使訳、通ずるところ三十国)とあるのも春秋の筆法で、余とか可とか許とかの概数を示す文字が無く、30国ピッタリであることをにおわせている。「におわせている」というのは概数を示す文字が無くても下一桁がゼロなんだから「いやこれは概数なのだ」と「解釈」で押し通せる余地が残っているからである。これもわざわざどっちとも受け取れるように書いてあるわけだ。30国ピッタリとする説が多いが、はっきりしてるのは28ヶ国であり、従来の説では残り2国は次のA・B・Cの3つの候補から2つ選ばれる。

(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国、

だいたい(AB)を加えて30国として(C)は入れない説か、(A)(B)のどちらかのみ入れて29国とし「三十国というのは概数なのだ」と割り切る説が多い。つまり(C)は人気がないw
しかし(A)を倭国に勘定することはできないのはずっと前の方で説明した通りで除外される。第二の奴国も意図的な国名重出であることは説明済みだから「餘旁遠絶21国」は誤りで「餘旁遠絶20国」が正しい。つまり(A)(B)を加算する訳にはまいらぬ。
(C)が人気ない理由だが、狗奴国は女王国と敵対していて、女王国は魏の友邦なのだから「味方の敵は俺にも敵」の理屈からいえば魏と狗奴国が通交していたはずはない、だから「魏の使訳が通じていた国ではない」という判断だろう。
だが、本当にそうか? 倭人伝には「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」(いにしえより以来、その使いの中国に詣でるやみな大夫と自称す」とある。この一文は刺青パートの中にあり、従って本来は狗奴国の記事だったはず(正確には狗古智国だが)。狗奴国(正確には男王国だが)の使いが中国に行ってると書いてある。ちなみに有名な話だがこの部分は『魏略』逸文では「聞其舊語、自謂太伯之後」(その旧語を聞くに倭人みづから謂ふ呉の太伯の後なりと)になってる。ここは『魏略』が原資料のままで陳寿が書き変えたものだ。魏略の文は倭人の刺青が呉越の習俗と共通してるといいたいだけで、春秋時代の呉も越も刺青文化は共通してるから、なんの忖度もなく呉も越も一緒に出しているわけだ(呉の先祖の太伯も刺青で有名な人)。渡邉義浩は、呉と倭の文化的な親近感を出すと呉が倭を朝貢国とする正統性が出てしまうから陳寿が書き変えたとか訳のわからぬことをいってるが、春秋時代の呉と三国時代の呉ではぜんぜん関係ない国なんだからそんなことある訳ないだろw 表面的なことだけいえば、呉と越とは臥薪嘗胆の故事で有名な通り激戦して最後は越が呉を滅ぼしたわけだから、呉と倭の関係を消して、倭と越の相似性だけを強調し、春秋時代の越が呉を滅ぼしたように三国時代の呉も越に似た倭に気をつけろという脅かしだという解釈なら可能だろう。しかしそれなら「聞其舊語、自謂太伯之後」の10文字を消すだけでいいのであり、わざわざ「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」なんて書きたす必要はない。この文はここだけ刺青の話から浮いており唐突な感じを与えるし、「聞其舊語、自謂太伯之後」と字づらが似ていて明らかに魏略の文を参考にして書いた作文だとわかる。
この部分は春秋の筆法によって狗奴国(実は狗古智国)の習俗だとわかるのだが、倭国全体の習俗であるようにも読めるという二重構造になってるのだから、「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」の一文も通常の解釈では女王国についての説明であり、裏の意味としては男王国についての説明である。

「自稱大夫」のオモテの意味
オモテの意味については簡単だ。卑弥呼と魏との外交で、倭国側の窓口として一切を仕切ったと思われる難升米が「大夫」として出てくる。難升米が大夫であること自体は、だから何だってことでもないのであって、だから自称も糞もない。大夫というのは支配階級、貴族層ぐらいの意味で、一国の外交官なら中国でいう大夫に相当する程度の身分なのは当たり前であり、いちいち話題にすらならない。それなのにあえて「自称」だというには、それなりのニュアンスが込められている。難升米という人はかつての奴国王の直系の子孫であり、卑弥呼から全権を任され、今でも対中国外交の最高責任者としてすべてを采配してるのだから、先祖の奴国王とやってることはほとんど同じなのである。後漢帝国の建前としては「漢委奴國王」にしたつもりで、なおかつ今もその子孫が同じことしてるのだから、中国からみた場合、この人は今でも実質は倭王なのである。にもかかわらず、倭国側では王ではなくて「大夫」だと。大和言葉でいえばキミ(君、王)ではなくてオミ(臣、大夫)なのである、と。中国側の感覚とズレるから、これは倭国側が自称してるんであって、中国としたら難升米が実質倭王みたいなもんだといっている。中国からみたら実務はすべて難升米から出てるから、本当に卑弥呼の意図なのかどうかわかりにくかったんだろう。重要な儀式とかただの親睦会的な場では女王とコミュニケーションできたろうが、肝心の国際政治外交という実務的な議論には「難升米に任せてある」として女王は顔出してくれないし意志の表明もない。本当に女王と外交してるのか、難升米に騙されてるのかもよくわからないし、確かめようがない情況を表わしている。

「自稱大夫」のウラの意味
ウラの意味としては当然、ここの大夫は男王が派遣する大夫ということになる。陳寿は呉と倭の親近性を示す文を削除するかわりに文意を換骨奪胎して、狗奴国(正確には狗古智国だが)もまた中国に朝貢したことがあるとわざわざ念押ししてるのだ。念押しの割には「魏朝への朝貢だ」と明記しているわけでもなく、この場合の中国に魏は入ってるのかどうか、そこはボカしており、解釈次第でどっちとも取れるように書いてある。もし魏へ入朝したことがあるのなら狗奴国もまた「使訳の通じてる諸国」の一つだということになるわけだが、そう明記できないのは実際には狗奴国は魏と通交したことがなかったからではないか。

狗奴国は魏に朝貢した?しない?
水野祐は陳寿の作文を真に受けて「狗奴国もまた帯方郡に朝貢していたのだ」というのだが…。狗奴国でも狗古智国でもいいが、とにかく男王国の使者が相手にされるかどうかはともかく郡までは行っていたというだけならギリギリ認めてくれる人もいるかも知れない。が、帯方郡の使者は男王国(狗奴国でも狗古智国でも可)に行くわけがないと思う人の方が多いだろう。魏の建前では倭の女王が魏を中華における唯一正統の皇帝として認めてくれたことになっており、だから卑弥呼が呉や蜀と交流があるって話はタブーになる。そのような事実はあったとしても記録から抹殺される。しかし実際は紀年銘鏡にある通り、呉と女王国は交流していたという話は別の記事で詳述した。女王国が魏だけに朝貢するのは魏を中華皇帝と認めることであり、これは魏としては親魏倭王(男王国を認めず、卑弥呼を倭国全体を代表する唯一の大倭王として認めること)とバーターのつもりなのである。だから女王の二股外交は魏にしたらひじょうに不愉快な事態で、もし卑弥呼がこの態度を改めないのであれば、対等の原則によって魏もまた卑弥呼の敵である卑弓弥呼(男王)と通交する権利を有するだろう。舐められたら終わりなんや。男王は過去の経緯から魏には興味なかったかもしれないが、魏にしてみたら呉への圧力になるなら女王でも男王でもいい。中国でいう朝貢というのはもちろん公式な使者の方が望ましいが、民間の商人が交易のついでに帯方郡の官僚に手土産を差し出せば、非公式な使者であっても「朝貢」として立派に成立する(岡田英弘の解説による)し、そうであるなら逆に帯方郡からでも交易にこじつけて商人に委託すれば男王の配下の首長に連絡をつけることもできたろう。玄界灘の制海権は女王が握っていたろうが、五島列島の西の海と済州島の間を往復する航路がありうるので伊都国の検問を通らずに韓と通交できるし、仮に通常航路であっても民間人を装ったり帯方郡の魏人に託したりと、一大率の検問を抜けることはできなくはない。

ただしこれは「物理的にはありうる」というだけのことで、やはり狗奴国は(狗古智国も)魏には使いを出してなかったと思われる。実は男王国には中国から公式の使者はきていなくても、中国人はたくさんいたから、魏人がスパイを潜りこませて情報収集するのは容易だったはずだ。亶洲(澶洲)というのは男王国のことだという話は別記事で書いた通りだが『三国志』呉主孫権伝や『後漢書』東夷伝によると亶洲には徐福の子孫がいて数万戸になっているという噂が中国側にはあった。この徐福の子孫というのは実のところ呉の戸籍を離脱して逃げてきた難民(亡命者)だろう。呉は人口不足のため孫権自身がいっているように税と兵役の負担が重い上、戸籍離脱して逃亡する者は重罪だ。亶洲を求めて探検隊を出した理由の一つは、この逃亡民を連れ戻すためでもあったろう。むろん逃げてきた連中は帰りたくないから「我々は呉から逃げてきた呉人ではなく、呉が建国されるよりずっと前に移民した秦人の子孫だ」と嘘をつく必要があった。つまり男王国には呉からの難民が一定数いて、それなりの安定した暮らしを維持していたと推定できる。
伊都国に駐在する魏人は一大率の許可の下で(公式の許可か非公式の黙認かわからぬが)狗古智国に情報収集のためのスパイを送り込んでいたと思われる。一大率としては許可したくないだろうが物理的に阻止できないから、欺かれるぐらいなら先に許可した方がよい。許可はしようがしまいがスパイ活動はお互いやるのが当たり前で、やらないことはあり得ないのだから。そして、呉人たちが本国に帰ったらそれだけ呉の国力が回復するんだから、魏の役人としても当然、帰って欲しくないだろう。だから徐福の子孫だと偽称している呉人たちは魏人に保護を求め、魏人の情報収集に協力するし、魏の公式見解としても「彼らは呉から逃亡してきたのではなく徐福の子孫だ」ということになる。それだけでなく魏人は呉人を男王の使者に仕立てて帯方郡につれていくぐらいのことはしたろう。実際はそんな手のこんだ面倒なことはせず、単に魏人が男王国からも使者が来たと自称しただけかもしれない。「自古以来、其使(男王国からの使者)詣中國、皆自稱大夫」は陳寿の作文であって虚構なのだから後者の方が可能性が高い。重要なことは「魏朝には女王国からも男王国からも朝貢の使者がきた」という「建前」なのである。

建前では男王国もまた「使訳通ずるところ三十国」に含まれるわけがご理解いただけたろうか。(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国の三者のうち、(A)(B)は含まれない(含まれたらおかしい)ことは再三いった通りだが(C)を入れてもまだ29国。しかし前述のように倭人伝の文面には隠れているが、男王国には狗奴国とは別に狗古智国があることが「春秋の筆法」によって示されているので、これを加えてピッタリ三十国となる。三十国という数字自体が「あれ、計算が合わないぞ」と気づかせるための「文の錯え」なのである。
邪馬台への行程【その5】」に続く。
【その5】では「至」と「到」の使い分けの謎を「春秋の筆法」で解きます。
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邪馬台への行程【その3】~方角のズレと「会稽・東冶」の読み~

初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その2】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その2】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「方角の傾き」は誤りではなく意図的なもの
日数表示の部分が九州説だと原文のまま南へ、畿内説ではなんだかんだ理屈をつけて東にもっていくわけで、方角が決まらないと気分的に落ち着かないw 方角論で有名な話は、末蘆国・伊都国・奴国の比定地を実際の地理でみると、反時計回りに北に45度傾いている(東の方が北寄りに、西の方が南寄りに傾いてる)というのが通説だ。正確には真東より30度ほど北、つまり東北東になっている。これを魏志の「東南」に比べると75度のズレともいえる。この数値は八分法に当てはめると、どっちかっていうと45度より90度に近く、当然ながら傾きは45度でなく90度だという説もある。ただこれは海岸線を目途にしたもので、奴国を太宰府あたりまで広がってたとして、奴国から不弥国へのコースを嘉麻市や穂波市を通って直方市へ抜ける道を陸行したとすれば、極めて大雑把な話ではあるが45度のズレだともいえるが、ちょい苦しい。あるいは、もともと魏志倭人伝の表記は45度づつにわける八分法なので、22.5度前後は切り捨てか切り上げになって表記上は45度のずれとなるという大雑把なものである、だから45度でいいのだというのだが、これは「75度が切り上げで90度にならず、なぜか切り捨てで45度になってる言い訳」として成立してない。実は日の出の方向がどうしたの夏至の日の出がどうのって理屈でこのズレを説明するには45度が限界で、90度だと説明に困窮するからだ(厳密には45度でも無理だが)。だからって90度説が正しいわけでもない。あと、これまた有名な室賀信夫の説(九州説には評判わるい説だがw)。李氏朝鮮の「混一疆理歴代国都之図」や宋代の「古今華夷区域総要図」をもちだし、中世の中国人や朝鮮人は実際には東に伸びてる日本列島を、南に伸びてると勘違いしていたから、おそらく古代でも同様だったのだ、というあれ。一時期は話題になり、これで畿内説に決定したかのような勢いだったが、古代にまでもそのような地理観が一般的に行われていたという説には実証性が弱く、批判が多い。実際、今では一般に(アマチュアだけでなく学界でも)あまり支持されてないように思う。俺も賛成しないw 中世の中国朝鮮での誤った地理観は魏志倭人伝の影響という説の方が妥当だろう。

この室賀説も古代人の地理観を稚拙なものと決めつけている点で「日の出の方角説」と五十歩百歩といえよう。まさに三国時代に生きた有名な学者、裴秀が作った『禹貢地域図』を読めば当時すでに測量術や地理学が大いに発達していたことがわかる。「指南魚」とか「指南車」という精巧な方位磁針もあって方角を誤ることもない(ただし、現代では磁方位が反時計回りに約7°傾いてるが当時は時計回りに10°傾いていた)。ゆえに昔のことだからどうせこんなもんだろと見くだした舐めプは許されない。高度な技術をもった当時の国家の軍隊が方角を間違えたりめちゃくちゃな里単位を使ったりすることはありえない。そういうことがあったらそれは間違ったのではなく、ある特定の意図の下で、あえて、わざとそうしたのである。一万二千里という現実を無視した途方もない数字も、政治的な都合による誇張であることはもはや定説になっているといってよいだろう。しからば方角もおそらくは政治的な理由で曲げられたのだろうとは誰しも容易に推測できる。45度説と90度説のどちらが正しいかにかかわらず、これはわざとズラして書いてるのである。東西と南北を取り違えた地理観がーとか、日の出が夏至がどうのこうのっていう、古代人が方向音痴だったみたいな与太話はすべて却下すべきだろう。

で、「方角のズラし」も事実の歪曲ではあるのだが、ただの歪曲ではなく「一万二千里」と同じく当然「春秋の筆法」に則っている。だからよく読めば「あれ?これ傾けてるな」って気づくようになっている。「なんのために」わざわざ傾かせているのかという議論は後で詳しくやるとして、まず「方角の傾かせ」が現われている「春秋の筆法」を解いてみよう。

その最初のヒントが韓伝にでてくる「州胡」だ。これは今の済州島のことだというのが定説だが、言い方としては「馬韓の南」か「韓(三韓全体)の西南」のどちらかのはずが、文面上は「馬韓の西」と書かれている。実際の地理を、反時計回りに45度か90度ずらさないと「馬韓の西」にはならない。この角度の問題も私が「春秋の筆法」だと気づいたのは韓伝の記述の謎解きの結果だった。韓伝は韓と倭が海で隔てられてるようにも書いてるし、韓の南は倭で、韓と倭が接壌してるようにも書いてる。だから井上秀雄(この人はもう死んでるが)みたいに韓国の南部に倭があったんだって主張する人が根強く残ってるが、海で隔てられてるともあるせいで有力説になってるとはいえない。こういう矛盾ある記述こそ「文の違え」(ふみのたがえ)で春秋の筆法のツボなんであって「海で隔てられてるのかvs接壌してるのか」の二択じゃない。「南は倭に接す」とあるのだから前回までに説明した「弁辰○○国」と「弁○○国」の使い分けからいえば「弁軍弥国」「弁楽奴国」の2か国だけが倭に接していることになり他の「弁辰○○国」はすべてこの2か国より北に設定されてる。「弁楽奴国」は春秋の筆法によって暗黙に出航地だと示されているので倭ではなく海に面している。しかも倭と接してるのは弁辰瀆盧国だとわざわざ一か国だけあげていて、倭への出航地は表面上は「狗邪韓国」になっている。設定上の位置関係は繰り返しになって恐縮だが、東西四千里の海岸線があってその中央が「弁楽奴国」(東端からも西端からも2000里、郡からは6000里)、東端が「弁辰瀆盧国」(郡から8000里)、その間に「弁辰狗邪国=狗邪韓国」(東端から1000里、隣の楽奴国からも1000里。郡からは七千里)という配置になっている。このうち倭に接しているのは東端の瀆盧国だけで、それ以外の二国は倭と往来する港湾都市だから海に面していることになる。しかし実際には瀆盧国は今の釜山なんだからその南は海しかなく倭と接壌していたとは考えられない。むりにもというならすごく狭小な倭人居留地が半島内にあったとでも考えるしかないがそんなの無いのと同じで特筆する意味はない。倭国内にも韓人の所領はあったろうし韓地にも倭人の領地は当然あったろうが、国として認識されたかってことは別問題だ。だが少なくとも魏志の建前では瀆盧国「だけ」は倭と接壌していたとわざわざ特筆されてる。これは韓伝の冒頭に三韓全体の地勢として「南(の国境は全面)が倭に接してる」ように書かれているのとも矛盾する。冒頭の書き方だと馬韓の南も弁辰の南も一様に倭であり、南側に海があるようには受け取れない。両者に共通してるのは瀆盧国だけ。瀆盧国「だけ」はどっちの説でも倭と接している。

瀆盧国の位置について謎解きをすると、『後漢書』は(三韓全体の中では)辰韓は東北、弁韓は東南だというからこの二韓だけでいうと辰韓が北で弁韓が南なのだが、実際の24国の配置をみると辰韓が東北で、弁韓が西南になってる(だから「辰韓が北で弁韓が南」だといっても、「辰韓が東で弁韓が西」だといっても、どっちも嘘をついたことにはならない)。精密な地図じゃなくて模式図で表わすと、西北の隅から東南の隅へ対角線が引かれ、この対角線を境として弁韓と辰韓に分かれる。
『後漢書』によらずとも、魏志は(三韓全体で)弁韓の位置にふれずただ「東西は海をもって限り(中略)西は馬韓、東は辰韓」としかいってないのだから、東の海には辰韓が面してるのであり、弁韓は東の海に面していない。「南は海なのか倭なのか」を曖昧にしたままではあるがこの条件で弁韓の領域を最大に見積もって境界線を引いても、やはり境界線の東端は韓地の東南の隅になる。
面としてはパッキリ分かれているんだが、この境界線は弁韓と辰韓に共有されている。境界線(対角線)の東南の隅の点も、当然共有していることになる。つまり瀆盧国は弁韓(弁辰)の東南の隅にあってこの「点」の部分を含んでいるのである。瀆盧国は「弁瀆盧国」でなく「弁辰瀆盧国」だから建前上は南の海には面していないし、この模式図(対角線のある図)でも、東の海にも南の海にも面していないことに、ちゃんとなっている。
そして東夷伝の認識では「韓は倭の西北、倭は韓の東南」だといってるのだから、瀆盧国が「倭と接する」というその地は、まさに瀆盧国が保有する「韓の東南の隅の点」のことをさしている。「点」というのはあくまで模式図の上でのこと、魏志の想定上の地理であるが、面でも線でもなく「点」だというのが重要なのだ。
「(三韓全体としてみると)東西は海をもって限り、南は倭と接す(つまり南は海ではない)」という地理認識と「弁辰瀆盧国(だけ)が倭と接す」という矛盾する二つの地理認識から、それぞれの地図を作って比べると、瀆盧国を蝶番(ちょうつがい)として倭国を反時計回りに韓地から引き離すと韓と倭の間に西から海水が流れこんで海になる。州胡(済州島)もあえて倭地と一緒のレイヤーに乗せてあるのは明らかだろう。倭が真南にきて韓とくっつくと州胡も倭と同じレイヤーだから、州胡が韓(三韓全体)の西南にあったのなら時計回りに45度動いて、馬韓の南にあったのなら90度動いて、いずれも馬韓の西になる。韓の南はすぐ倭で、倭と韓は陸でくっついてるのだから済州島が浮かぶ海は南にないのだ。この海が入り込まないで韓と倭がくっついてるのが建前であり、この場合、倭は韓の南へ伸びている配置になり、倭は会稽東冶の東になるのである。この場合、倭と接する国は韓にいくつもあるはずなのに、あえて瀆盧国しかあげてないのが「春秋の筆法」で、瀆盧国以外を倭と切り離すには、瀆盧国の保有する「点」を中心に回転させる他ない。魏志の方角は八分法だから最低限の切り離しで済ませようとしたら45度になるし、前述の通り90度の設定かもしれない。

「会稽の東」と「東冶の東」は別?
で、方角のズレが当時の人々の誤認ではなく、意図的なものだとしたら、目的があるはずだ。なんのために方角が45度(または90度)傾かせられたのか?
旧来の誤認説の場合は、倭国が「会稽東冶の東」にあると誤解されていた、という話とセットになっていた。しかしそこで意図的に方角を傾けていることが明らかになったのだから、要するに会稽東冶の東には無い倭国を会稽東冶の東にむりやりもってくるために方角を傾けた、ということになる。ということは魏志の原資料では倭国は南ではなく東か東南に伸びていたのである。
…のはずなのだが、しかし、本当に当時の中国人の認識では倭国は「会稽東冶の東」では無かったのかというと、それがそうでもない。

倭人伝には「計其道里、當在會稽東冶之東」(その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし)とある。地名としての会稽は今の浙江省の紹興、東冶は今の福建省の福州。この解釈は3つの説がある。

(1)「会稽郡の中の東冶県」の意味。
(2)「会稽東治」で会稽での禹王の統治の伝説をさすという説。
(3)「会稽」と「東冶」二つの地名の並記。


(1)と(3)は東冶(とうや)、(2)は東治(とうち)で字が違う。

(2)は東冶はないことになって会稽だけが問題となり、(1)は東冶だけが問題となるのに対し、(3)は会稽と東冶の二ヶ所をあげているという解釈になる。
当時は東冶県は会稽郡でなく建安郡に属していたので(1)はないという説もあるし、必ずしも正規の郡県にとらわれず「広義の会稽地方の中の東冶」という解釈もできないことはないともいう。東冶(とうや)の原文は東治(とうち)になっているのでこれは誤写というのが通説だが、(2)は東治(とうち)のままで正しいとする。だが「…の東」とあるのだからその直前は地名でないといささか不自然だろう。「会稽東冶」は四字熟語のようになんども出てくるのに「会稽東治」は例がないので誤写説の方が自然ではある。しかし、会稽(紹興)東冶(福州)をつなぐ線はほぼ今の浙江省の海岸線で、北緯でいうと紹興は屋久島(北緯30度ぐらい)、福州は沖縄(北緯26度ぐらい)に近く、その中間は奄美大島のあたり。だから地図でみると倭国は東というよりかなり東北になるんで、(2)の説の方がいくらか正確になるように見える。

東冶については『三国志』呉主伝に亶洲の人が会稽に交易にくるといい、「東県」(たぶん東冶県の脱字)の住民がまれに亶洲に辿りつくという。『後漢書』東夷伝では亶の字が澶になってるが同じことが書いてあり「東県」が「東冶県」になっている。倭国が「会稽東冶の東」だというのは要するに亶洲も倭国も同じ国だということを暗示している。ここで亶洲から来る時には東冶といわず会稽に来るといい、亶洲へ行く者は会稽からといわず東冶から流れていくと言っていることに注意。「会稽の東」は亶洲からくる方角であり、「東冶の東」は亶洲へいく方角である。東冶は『三国志』にもちょくちょく登場する当時の海上交通のターミナルである重要な港湾都市だった。東冶県がそうなった理由を推測するに、その東がすぐ台湾の北端で、そこから西南諸島を伝って鹿児島へいくルート(南航路)が開けており、交易物資の大陸側における収積場だったからではないかと思われる。つまり中国から亶洲へいくなら、会稽でなく東冶が出港地になる。倭人が五島列島や済州島から東シナ海を横断して会稽に行くことはあっても、中国人はこのルート(北航路)は使わない。そういう訳で『三国志』呉主伝や『後漢書』東夷伝をみれば会稽と東冶の二ヶ所をあげることに意味があるのは明らかであって、「会稽の中の東冶」の意味でもなければ東治(とうち)でもないことがよくわかるだろう。

で、倭人伝の方角が実際の方角とズレて傾いてる理由だが「会稽東冶からは東でなく東北だから、東になるように45度傾けてある」のだろうか、と言うと、そうではなくて、傾けた理由は別にあると思われる。
倭人伝に書かれた南方系の習俗が南九州に及んでいたのならば、中国人からみてその習俗は「儋耳・珠崖」(海南島)と同じというのだから、中国人の目には海南島から九州までの間に存在したはずの台湾人も沖縄人もすべて同じに見えていた可能性が高い。あるいは、違って見えていたのにあえて同一視しようとしたか。そのどっちであるにしろ、「その習俗は倭人の習俗」という認識なのだから魏志は会稽東冶の東に広がる同じ習俗圏を広く倭と呼ぼうとしているとも見える。その場合は、会稽東冶の「真東」に該当する西南諸島もまた「倭の一部」と認識されていたことになるので、「九州は会稽東冶の東じゃなくて東北だ」という議論は意味がなくなる。
そうではなくて、あくまで倭国は九州であり、西南諸島は含まないとすると(そんな仮定は不可能だと思うがとりえずそう仮定すると)、厳密な方角からいえば確かに東でなく東北なのだが、四分法で90度の広がり(会稽からは八分法で45度の広がりでもよい)をもってみれば、航路の説明としては大雑把にいって間違いとはいえない。とくに南航路では台湾、石垣島、宮古島を伝っていったろうから一旦は東南へ進んだのであり、出港地からみると「亶洲が東北にある」という印象は薄かったろうし「物の言い方」としては「東のほう」で問題ない。してみれば「東北でなく東」というのは会稽東冶の現地情報だった。
ここまでは当時の中国人の普通の認識であって、魏志に特有の意図的な誇張や方角の歪曲は入ってない。渡邉義浩なんか『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書)の中で「本当は会稽の東なのに倭国の位置をさらに南に引き下げるために東冶をくっつけた」みたいなことを言ってるが本当に三国志の専門家なのかね?

「会稽東冶」の政治的背景
倭国を「会稽東冶の東」にもってったのは倭国の風土、自然環境についての情報から中国人が本当にそう信じていたという説もあるが、上述の通り、現地の中国人は風土や自然環境の情報とは無関係に、航路の方角によって漠然と「会稽東冶の東」と言っていただろう。しかし魏が使節を交換する中で得られた実際の情報では、倭国は北九州から東(または東南)に伸びており、会稽東冶の東になっていなかった。これは倭国が「会稽東冶の東」にあると考えていた中国人にとっては新発見だった。

だが魏の公式見解(というか司馬懿の意向)では、倭国は呉からそんなに離れてるのではなくぜひとも会稽東冶の(つまり呉の)すぐそばにあってほしい。そこで90度(または45度)意図的に傾けた地理が想定された。魏志や魏略の原資料は誤ったわけではなく、司馬懿の功績を大きくするために意図的に方角を傾かせて呉の近くに倭があるように繕ったのだと思う。それ以外に、わざわざこんなことする理由は思いつかない。

大月氏は一万里の彼方だけど、魏と蜀が涼州を奪い合って死闘を繰り広げたその涼州には月氏系を含めた有名な遊牧民の残党が盤踞しており、魏も蜀も彼らを味方につけようとしていた。もっともこの頃の大月氏は中国が勝手にそう呼んでいただけで別系統の民族(クシャナ朝)だし、涼州の月氏人がインドの大月氏の動向を気にしたものかかなり疑問もあるが、魏は政治宣伝としての効果を期待したからこそ「貴霜」と呼ばずあえて「大月氏」と呼び続けたとも考えられる。親魏大月氏王と親魏倭王は同等で一対だからこそ曹真の功績に匹敵する司馬懿の功績としての意味があるわけで、当然、同様に呉への威圧という効果が期待されていた。

ただし呉に向けての宣伝ではなく魏の国内向けの宣伝で、司馬懿が呉を威圧しているという功績を称揚するものだ。夷州や亶州(澶州)の人間が会稽に交流にきていたことは後漢書に書かれている(この夷州・亶州が日本のことだというのは別のページに詳しくかいた)通り、倭国が本来の正しい位置にあっても呉に対する威圧としては十分で、それは海洋事情については魏より詳細な情報をもっていたであろう呉の方がよくしっていただろう。だが内陸にすむ中国人には東シナ海が大きすぎて呉への抑止力になるのか疑問に思うだろう。それでは司馬懿の功績も半分に聞こえてしまう恐れがある。

倭人伝の行程つまり五倍里のまま「一万二千里」だとはるか南のはて、それこそインドネシアのボルネオ島やスラウェシ島のあたりになる。これじゃ「会稽東冶」もクソったれもあったもんじゃないw 『石刻禹跡図』は1137年だからかなり後世のものだが三国時代の司馬氏に仕えた裴秀が作った『禹貢地域図』の影響で作られたという。これによると高麗(今の韓国)の南端から瓊州(今の海南島)まで約五千里というから、朝鮮半島の南端から台湾の北端までその半分で約2500里。これを北にずらすとだいたいソウル(帯方郡)から福州(東冶)までと同じぐらい(約2500里)にみえる。渡邉義浩は上述の著作の中で「『石刻禹跡図』は朝鮮半島南部から海南島まで約五千里とあるから、『禹貢地域図』では朝鮮半島南部から会稽の背後まで約五千里としていたことになる」と書いてるが、正気で言ってるのかね? まさか海南島を「会稽の背後」とは言わないだろうから「周旋五千里」に目が眩んで錯乱してるんだろう。海南島は遠くて、台湾だの会稽東冶だのは朝鮮と海南島の間ぐらいにある。だから目分量で半分の約2500里になるのは世界地図に照らせば誰がやっても明瞭にわかる。概数だから2600里でも2400里でもいい。『後漢書』郡国志によると洛陽から遼東郡まで三千六百里、玄菟郡まで四千里、楽浪郡まで五千里という。これを目安にしてみると帯方郡から会稽東冶の東の海上まではアバウトに2500里前後にみえる。前述の渡邉義浩の見立て(約五千里)は半分にしないと合致しない。上記の禹貢図から察しても、中国人は中国本土の地理については正確な情報を当然もってるから、これぐらいは容易に推定できる。「一万二千里に誇張しなければならない」という課題が発生した時には、一万二千里を五で割って、実測2400里と設定すれば実際の数値に近いと目算したのではないか。
ただし初期のシンプルプランだと方角が変わるのは不弥国から先の3000里分であり、十分意味のある変化といえるが、改訂された現状プランでは方角が傾いてるのは末蘆国から先だから先端のわずか600里にすぎず、これだと方角が変わっても変化が無いから日数表示の分も距離に加算されていると考えられる。つまり北九州と邪馬台国の間は、方角を変えることで邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってこれる程度には離れているということだ。邪馬台国を含む倭国のおもな領域が九州内に収まっているのなら、南への距離の延長だけで済むのであり、わざわざ方角をかえる意味がない。

それと「一万二千里」に誇張した段階でインドネシアまでぶっ飛んでしまってんので、これでは「呉に対して脅威を与える魏の同盟国」にもならない。「会稽東冶」にもってくるためには5倍誇張では大きすぎ、1.5倍と2倍の間ぐらいでいい。しかしそんな倍率は魏志に出てこないし、会稽東冶については距離の誇張でなく方角ズラシで対処したことは明らかだ。そうするとこの二つの歪曲は両立しない。距離が誇張されてると知る人で初めて倭国が呉の近くなんだと騙されることができ、一万二千里を真に受ける人は会稽東冶の東には馬韓があると考えるか、さもなければ会稽東冶の東はるかハワイのあたりに倭国があると考えるはめになる。しかし一万二千里は数字の上だけのことなのに会稽東冶は習俗文化の具体的でふんだんな記事とともに考察された文なので、どちらが嘘でどちらが本当かは容易に判断がつくだろう。おそらく「会稽東冶の東」をみて「一万二千里は嘘なんだな、誇張されてるんだな」と気づかせる意味もあるんだろう。肝心なのは「倭国は会稽東冶の東である」ということである。

一万二千里を真に受けるとインドネシアになっちゃうから、実際に邪馬台国インドネシア説というのはあった。有名だから知ってる人も多いだろう。それは北アジア史の権威で遊牧民族の歴史について数々の名著のある内田吟風の唱えた説で、ジャワかスマトラにあった「耶婆提国」を邪馬台国とする。耶婆提はヤヴァドヴィーパ[yava-dvipa]の音訳で、AD411年にここを訪れた法顕が『仏国記』で紹介している。この説は素人ではなく学界の大物が主張したのが珍しい。しかし残念なことに後年撤回している。
この他に南方説としては小林恵子の奄美説(電波古代史学者の小林恵子と同一人物で本人の最初期の若き日の著作)、加瀬禎子のフィリピン・ルソン島説(耶婆提国とみるのは内田吟風と同じだがジャワ・スマトラでなくルソンとする)、木村政昭の沖縄説(琉球大の海洋地質学者。今も地震研究そのほかで活躍中)がある。いずれもジャワ・スマトラ説の前では迫力不足。
倭人伝の「其の道里を計るに当に会稽東冶の東に在るべし」を真に受けると奄美大島や沖縄、「投馬国(台湾?)まで水行二十日そこから邪馬台国まで水行十日陸行一月」を真に受けるとルソン島の南端あたりになるので、これら南方説の論者はだいたい「真に受ける系」の人が多いと言い得る。
この中で木村政昭はさらに「ムー大陸沖縄説」を言い出したところが面白い。戦前の日本人のインドネシアへの思い入れといい、ムー大陸と竹内文献一派との関係といい、邪馬台国とムー大陸は日本人にとって魂の故郷とか失われたルーツとかを象徴するという意味で深層心理的には似たような面がありそうである。
普通のオタクならここでモスラの歌やインファント島の土人の踊りの動画だすところ。そっちじゃなくて、こっちってのがツウでっしゃろw
ちなみに章炳麟(明治〜戦前、中国の政治家)がこの耶婆提国を南米エクアドル(漢字表記:耶科陀爾)とする説を唱えた。その説自体は邪馬台国に絡まないのだが、これとは別に幸田露伴が耶婆提国なら耶科陀爾(エクアドル)より日本の邪馬台国のほうが似てるだろうと突っ込んだ。この両説を都合よくくっつければ「邪馬台国南米説」もたちどころに組み立てることができる。

45度説と90度説での邪馬台国の位置関係
では、方角が傾いてるのは意図的なものだとして、それは45度なのか、それとも90度なのか? 90度説より45度説の方が若干ややこしいので、まず90度説から検討してみる。

90度説
90度説だと順次式でも放射式でも方角は日本海航路より瀬戸内海航路の方が自然にみえる。順次式だと邪馬台国までの水行と陸行が「and」なら投馬国は中間地点で広島県福山市鞆町鞆か。「or」なら邪馬台国までの3分の2ぐらいの距離で岡山県玉野市玉か。順次式で「or」の場合「陸行」が説明しづらくなってしまう。大きくは日本海航路でも角度の広がりからいって投馬国が出雲だとしても但馬だとしてもそこへの南(実は東)はだいたいそういえる範囲ではある。が、投馬国がもし但馬だとすると邪馬台国への南は「西南」(実は東南)の誤りだとでもしないと苦しい。だとすると投馬国は出雲が妥当か。水行陸行の具体的な距離がどのぐらいなのかは詳しくは後でやるとして、ともかく順次式の場合「水行・陸行」の距離をむちゃくちゃ短かめにとっている。
放射式だと特になんの問題もない。が、問題なさすぎて邪馬台国も投馬国も、候補が多すぎて絞れないw しいて言えば邪馬台国を畿内大和とすると順次式ほど酷くはないが放射式でも「水行・陸行」の距離をかなり短くとってる。だいたい北九州から畿内大和までは陸行だけで半月ぐらいが適正だから「陸行一月」とは倍もの差がある。この、水行陸行の具体的な距離がいったいぜんたいどのぐらいなのかの考察は後の方でやります。

なお、日本海航行説の場合なぜ瀬戸内海を通らないのかという説明も必要だが、それは後の方で「魏の使いが邪馬台国に行ったか行かなかったか論争」のとこで一緒にやるからここではやらない。
それと畿内説か九州説か問わず、投馬国と邪馬台国の水行陸行は郡から直接いくルートなんだという説もあるが唐突で受け入れ難い。張明澄も「そんな漢文の読み方はない」と一蹴していた。ここまでガイドしてきてなんで急に郡から説明しなおしになるのか? そもそも邪馬台国への案内なのだから不弥国までのルート説明は邪馬台国につながってないことになって意味不明になる。日数は一万二千里の日数だという説も方角を傾けた分の里数が少なすぎて方角をかえる意味がなくなるので採れない。

邪馬台国と投馬国がどこなのかという話は水行陸行の日数の問題のところで検討する。それまでお預け。

45度説
45度説の場合、放射式は成り立たないので順次式のみが考察の対象になる。
模式図的には邪馬台国は北九州(不弥国)からみて「はるか東南」ということになる。不弥国から投馬国へいく南というのは東南ということになり、畿内説の場合は九州東北部から瀬戸内海へ向かう方角となる。九州説の場合でも放射説を使わず順次式で不弥国から九州東北部の岸に沿って進み、豊後や日向の方向へ行けばよい。放射説だと伊都国から南にしろ東南にしろ二十日も水行できるような大きな川がない。まぁ2日も歩けば有明海に出ちゃうので何とでも言いようはあるが…。畿内説の場合、波の荒い日本海より瀬戸内海の方がよさそうだが、玄界灘に比べれば日本海もたいしたことないし、行きの場合は日本海の方が潮の流れに乗って高速で行ける。帰りは瀬戸内海航路を使ったろうが、行きは日本海と両方ありうる。ただ、瀬戸内海航路だと、投馬国を周防にしても吉備にしても方角的に邪馬台国=大和との位置関係が難しくなる。神戸市須磨区を投馬国とすればなんとかなりそうではあるが、投馬が須磨(すま)になったってのはもしかしたらやや厳しいかもしれない。
日本海航路だと、南は実は東南なのだから、投馬国が但馬だとすると実に都合がいいのだが、不弥国から投馬国への南(東南)が整合しないのが難点。
そこで、不弥国から投馬国への「南」は誤字があるのではないかという、九州説からは評判の悪いいつものアレ。一応、3通り考えられる。

(A)「東」(実は東北)の誤りとする説
(B)「東南」(実は東)の誤りとする説
(C)「東而南」(東北に行ってから東南に折れる)の誤脱だという説

(A)の場合、不弥国から東北に進んで投馬国=出雲に到着、そこから東南に向きを変えて邪馬台国へ向かうことになる。
投馬国が出雲だろうが但馬だろうが「邪馬台国への南」とあるのは実際は東南のこと。
(C)の場合、はじめ東行(つまり北東)して出雲沖あたりで南(つまり東南)に方向転換して投馬国をめざす、と。この場合、模式図の方角では邪馬台国は北九州からはるか東南にある。

以上、45度説の根本的な問題は、日本列島が北九州から東南方向に伸びている、という地理観を魏人がもっていたという前提があるわけで、これは実際の日本地理とはずいぶん乖離している。前述のように当時の中国人はすぐれた測量技術や発達した地理学があったのに、そこまで間違った地理観をもっていたとは、どうも考えにくいようにも思われる。
だが、陸行水行の日数をどう考えるかによっては、上記の(A)説をもとにして、45度説でありながら邪馬台国を真東にもってくることもできるのだ。日数を距離に換算する話は後回しにしてここでは詳しくはしないが、冒頭の「韓地では内陸をジグザグに陸行しようが、海沿いを水行しようが、同じく七千里」という話を思い出そう。あれは水行も陸行も同じ距離だということを暗示したのではないだろうか。そうすると不弥国から投馬国までの「水行二十日」と、投馬国から邪馬台国までの「水行十日プラス陸行一月」が等距離になり、投馬国は不弥国と邪馬台国とのちょうど中間点にあたるので、出雲の方が但馬説よりよさそうにも見える。出雲説の場合、出雲から水行十日で但馬に上陸し、そこから陸行一月で邪馬台国に到着。ちょうど良い。
投馬国が出雲なのか但馬なのかという議論は後回しにして、なにが言いたいのかというと理念上は不弥国と邪馬台国との間の中間点では直角に曲がってるんだからこの航路は直角二等辺三角形を描き、邪馬台国は不弥国からみて真東に当たることになる。北九州から真東ではどんなに長距離を行っても「会稽東冶の東」にはならないが、これを45度傾けると、真東が「東南」になり、「会稽東冶の東」を延長した先と交わる。ただ、2000里か3000里も離れた「はるか東方」になり、呉への牽制になるのかという問題はあるが、一応、理論上は「会稽東冶の東」に違いない。
邪馬台への行程【その4】」に続く。
【その4】では狗奴国の謎に迫る! そして使訳通ずるところ三十国の「30国」のリストはの謎を解明!?
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どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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