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皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・前編

R3年2月11日(木)改稿 H30年5月16日(水)初稿
しょこたん※上の写真の女が俺です。
…というのは嘘ですが、そう思いながら読めばこの記事の内容にブチ切れそうな時も多少はなごむかも知れません♥
序章
日本書紀は神武天皇の即位をBC660年に当たる辛酉の年に設定している。明治時代、那珂通世(なかみちよ)は、これは讖緯説によって計算されたのだという説を唱えた。この説は、推古九年(AD601年)の辛酉年を逆算起点として1260年遡った辛酉年を日本開国の年としたのである、という説。以上の那珂通世の説を「神武元年讖緯逆算説」と仮名する。
那珂通世の説のバリエーションとしては、岡田英弘の説がある。讖緯説では1260年を1蔀という単位で呼ぶ(蔀の読みは「ぼう」)のだが、彼は、1蔀は1260年ではなく1320年だとしてAD663の白村江の敗戦(=百済滅亡)を逆算起点とし(ただしこの年は甲子年ではなく1年前の癸亥年)、一蔀を溯った甲子年(神武四年)に最も近い辛酉年を神武元年としたのだという説を唱える。
「神武元年讖緯逆算説」は現在のところ定説化しており、「だから紀元前660年というのはデタラメであり、神武天皇はいなかったんだ」もしくは「神武天皇はずっと時代が後の人なんだ」という不敬なヨタ話が古代史マニアを中心に広まっておる。嘆かわしい!w 嘆かわしいよな、おまえもウヨならw 今年は皇紀2678年じゃなかったのかよ!?w え、どうなのそこんとこ、ってことになる。保守派の間抜けさん方は「伝統だから史実でなくてもいいんだ、キリストだって西暦元年に生まれてないじゃんよ」なんてブサヨに輪をかけた屁理屈いってるが、そんな御託は特高警察の前でいえっつのw 特高警察もうないけどw キリスト教原理主義者に通用するかってのw 当然、大日本帝国臣民としては國史の尊厳を守護し、國體を護持せんがため、那珂通世の説の方こそむしろデタラメであることを断固訴えていかねばなるまいてw 

【1】讖緯説の概要
讖緯説とは、シナにおいて、国家の興亡を予言する理論をいう。迷信の一種。詳しい議論をする前に、基礎知識として「讖緯説とは何か」ということについて以下の述べていく。ちょっとややこしくて面倒に思われるかもしれないが、これがわからないと話にならないので、しばらくつきあってちょうだい。

【2】経と緯
もともとは機織りの用語で、「経(けい)」は縦糸、「緯(ゐ)」は横糸。紙が発明される以前の書物は、縦に細長い木簡や竹簡を左右に並べてその上端と下端をそれぞれ紐で結んだことから、縦糸を意味する「経」の字が書物の意味をもったともいい、縦糸のイメージからまっすぐの筋道(倫理規準)の意味になったともいう。儒教の経典を「経書」「○○経」などとよぶのはこれに由来する。
これに対し、前漢の末頃から、経書のこじつけ解釈による予言書が捏造されるようになり、これを「緯書」といった。これはオモテの教典である「経」に対してウラ(秘密)の予言書という意味で「緯」の字を使っている。讖緯の「緯」はこれのこと。七経(『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』『孝経』)に対してそれぞれ何種類もの緯書が作られ、これを七緯(しちい)と総称する(例えば「詩緯」にもいろいろな書物があってそれらを総称して「詩緯」という。同じように「書緯」「礼緯」も特定の書の名ではなく分類名である)。孔子の作というが前漢末の偽作である。隋代までに続々と作られた。
『三国志』で有名な荀彧(荀或)の従兄にあたる荀悦(148年 - 209年)の著『申鑑』五篇の中の一つ『俗嫌』に「世に称す、緯書は仲尼の作なりと」とあるが、これが緯書という名辞の出典としては初出(現代まで残っている中では最古の例)である。ただしこの文は後述の荀爽(荀彧(荀或)と荀悦の叔父)の「緯書はホントは前漢の末頃に捏造されたもの」という説を紹介した文章の中からの引用である。
ちなみに古代中国の天文学・占星術において、十二辰(黄道上の12星座)を「十二経」、七曜(1週間のことではなくて日月5星)を「七緯」とよぶこともある。

【3】讖と緯
讖(しん)と緯(ゐ)は厳密な定義からは別のものである。讖とは未来を予言することであり、未来記や予言書の類を「讖記」などという。これに対し、狭義の緯書は上述の通り経書の注釈書の一種である。しかし、現在残っているのは逸文や断片的なものであるが、讖記も緯書も、神話や伝説、迷信、占星術や暦注占法、風水地理、五行説など、神秘学的な未来予知に関するあらゆる要素から成っていたことがわかる。が、後述のように日本のものは五行説による干支の解釈と数字の処理だけでできている。いずれにしろ、中国では、讖も緯も要するに同内容であり、両者の違いは経書へのコジツケが有るか無いかという形式的なことにすぎない。このことから「讖緯」と一纏めにして呼ばれる。「讖緯の説」「讖緯思想」「図讖」(としん)などともいう。

【4】中国における讖緯説の歴史
前漢末から隆盛し、後漢では建国の祖たる光武帝本人を含め貴族(政治家)や学者(知識人)まで広く信奉され、大流行したので「内学」とまで呼ばれた。当時は緯書が孔子の述作であると広く信じられており、後漢末の人、鄭玄(じょうげん:AD127年 - 200年)は、儒教経典のほとんどに注釈をつけた有名な大学者であるが、彼もまた讖緯五行の説を信じ、すべての解釈にこれを混じえるという有り様であった。
しかし少数派ながら讖緯説を否定する者らもいた。後漢の建国されるや王充(AD27年 - 100年頃?)あり、彼はその名著『論衡』において緯書を非合理で民衆を惑わす「虚妄の言・神怪の書」と激しく罵倒。次いで、後漢の盛期には張衡(AD78年 - 139年)あり、彼は予言がもたらす社会的弊害を述べ立て大衆が讖緯に取り憑かれていることを慨嘆、その禁圧を奏請した。もっとも張衡は正統な伝統にのっとった占星術や易断などを否定していたわけではなく非正統で異端の邪説を否定したものである。最後に、後漢の滅びんとするや荀爽(AD128年 - 190年)あり、この人は三国志で有名な荀彧(荀或)の叔父だが、その著『弁讖』で緯書を孔子の述作とする通説を否定し前漢末に作られたものと論断。以上のうち張衡は「図讖は哀帝の際に成る」と明言しており前漢末だとする荀爽の説と一致する。哀帝という皇帝は、権勢を振るっていた王莽を逼塞させていた名君だったが25歳で早逝。王莽に暗殺されたんだろう。この期間、王莽は取り巻きに命じて「符命」(天命のしるしとなる瑞祥の類)や「讖文」(王莽が天子になるとの予言)の類をせっせと量産していたことは歴史に明らかな傍証がある。
この後も讖緯説の人気は衰えなかったが、もてはやしたのは後漢王朝だけで、西晋の武帝(司馬炎)、五胡十六国の秦王符堅、南朝宋の孝武帝、梁の武帝、隋の文帝など、国家を脅かす危険思想として何度も禁令を出した。隋の煬帝は、讖緯を奉じる学者は死刑に処する等、厳しく禁圧し、讖緯に関する書物を焚書したため、緯書は散逸した。その上、唐になって『五経正義』(七世紀半ば頃)が出ると正統な儒教の立場からは異端の邪説とされ、継承した学派も存在しない。明清になって、諸書に引用された逸文から復元が試みられるようになり、逸文の集成が何種類も出ており中には30巻以上にもなるものもある。

【5】日本での受容と情況

(5-1)日本伝来の時期
明治時代の那珂通世(なかみちよ)は、『周書』百済伝に「百済の俗は(…前略…)陰陽五行を解し(…中略…)卜筮占相の術を解す(…後略…)」とあることから、讖緯説が百済に入ってきていたとするが、陰陽五行は漢字文化に付きものであり、卜筮占相の術は世界のどこにもあり、なんら奇異なことではない。この文章が讖緯説の存在の証明になるというのは飛躍ではないか。むろん無かったとの証明にもならないが。
ついで那珂通世は欽明天皇十四年に百済から易博士・卜書が奉献され、推古天皇の時に遁甲・方術の書が貢納されて、天武天皇に至っては本人みずから天文遁甲をよくした、後に陰陽道おこって律令時代には陰陽寮ができたのだから革命革令などの運数の術もあったはず、とここも浅薄な飛躍ですましている。この文章のどこからも「革命革令などの運数の術もあったはず」という結論は出てこない。那珂通世の主張を文献史料はなんら裏付けていないのだが、那珂通世は「易」「卜」「占」「陰陽」「五行」等の文字をみただけで味噌も糞も讖緯説だと即断してしまう。彼は讖緯説と易の区別もついてないし、讖緯説とたんなる陰陽五行説の区別もついていない。また千年に及ぶような長大な年数を扱う周期論が何種類も存在したことは『後漢書』その他から知れてることであって、今さら改めて強調しても那珂通世の説をなんら補強しない。否定もしないが。
ただ、岩波版日本書紀の注釈に「遁甲・方術」が同レベルのものを併記したかのように読めるのは問題で、考課令の記述や現代の奇門遁甲の類から推定すると、遁甲は方術(占い)の一種であり、この文は「遁甲と方術」ではなく「遁甲をはじめとする方術の類」と解釈すべきだろう。そして現代の奇門遁甲の類から推定すると、今ここで問題にしている「長大な運数の術」は遁甲ではなくそれ以外の方術に含まれそうだとはいえる。
那珂通世は聖徳太子の頃にはすでに讖緯の書の類がその手元にあったろうというのだが、緯書についての研究論述も多く讖緯説の第一人者と目される安居香山は、「中国で禁圧され、つまり中国でも手に入らないような書物が、おおっぴらにせよわざわざこっそりにせよ交易物資として百済や日本に流通したとは考えにくい」として批判している。しかし、物資のやりとりをする通常の貿易ではなく、亡命者や移民が自ら持ちだしてくる場合は、安居香山の想定は適用できない。また、三善清行(みよしきよつら)以前のある段階で入ってきたことは事実であり、7世紀半ばすぎると悪評が固定してしまうので、それ以前でないと不自然とすると、やはり南北朝期から隋唐初期にかけての帰化が運んできたとみるほかなく、文献の記述で時期を絞れば推古朝とならざるを得ない。
しかし那珂通世が聖徳太子云々をいったわけは彼が1260年説に固執したため結果的に聖徳太子が…と言わざるを得なくなっただけで、聖徳太子それ自体から導かれたわけではない。聖徳太子は『天皇記』という歴史書(?)の編纂を手がけていたが、それが『日本書紀』のような編年体で神武元年からことごとく毎年の年次を記したものだったと決めつけることはできない。『天皇記』なるものは、『古事記』序文に記自身の素材となったという「帝皇日継」「帝紀」「先紀」という名であらわれるものと類似のものとみる説があるが、とすれば『天皇記』もまた紀でなく記に近いものだったのではないか。なら、讖緯説が出てくる余地がなくなって那珂通世の説は崩壊する。聖徳太子には自分の編纂する歴史書に、偽ってまで年月日をいちいち記入しなければならない動機がない。彼の構想したものは『古事記』のような素朴なものだった可能性もある。実際、天武天皇のお声がかりで『古事記』ができているのだからなにも不思議はない。水戸藩士の青山延于が編纂した『皇朝史略』は『大日本史』を節略したものであるが、上代の部分は当然に『日本書紀』を根本とした内容になっている。なのに、わざわざ日本書紀の年月日を信憑性がないからとはずして推古十二年以前は『古事記』の書き方に直してあり、推古十二年から年月日を付している。聖徳太子もこのやりかたでなんら不都合なかったろう。
もっとも推古十二年以前に暦制がなかったわけではない。それは『古事記』でも崩年干支月日がある通り。ただ歴史的事件の記録は語部の台本の他は、「乙巳の変」の時の蘇我邸炎上のため焼失し、断片的な資料しか残らなかった。聖徳太子はその前の時代なので、歴史書を編纂しようとしたらもっと資料に恵まれていたろう。
上述の通り、讖緯説は推古朝に入ってきた可能性が高いが、聖徳太子はそれを歴史の捏造に転用しようとはしなかった。聖徳太子にはそうすべき動機がなかった。神武元年をBC660年と算定した者がいることは確かだが、それは聖徳太子ではなかった。

(5-2)「三善清行」以前の情況
推古朝に伝来した讖緯説は、遁甲方術の一部として、しばらくの間は担当の者の任務として保管的・官僚的に伝承され、流行りも廃れもしなかったと思われる。
天武天皇が天文遁甲に関心をもったが、言葉の上ではその中には讖緯説は含まれない。が、紀がふれないだけで讖緯説にも重大な関心をもったに相違なく、天武天皇には様々な瑞祥や五行説による縁起かつぎの癖がみられる。しかし、五行まみれのこの天武帝ですら、千年規模の長大な運数の術を用いた形跡がない。天武天皇の段階では神武元年はすでにBC660年と確定していて変更ができなかった。1260年説や1320年説は天武天皇にとって都合がよろしくないので、もしこの段階で神武元年が確定しておらず、天武天皇が讖緯説で自由に設定したのだとしたら、絶対に1260年説や1320年説ではなくまったく別の讖緯説を使ったろう。
遁甲の術や讖緯説のような高度に体系だったものでなく、干支や五行にかんする素朴な迷信の類があったことがわかる記録は、奈良時代にもちらほら見える。一例をあげると(そしてこれは最古の例でもある)養老五年の詔に「世の諺に『申年に事故あり』という、去年は庚申年だったから水害と旱が多かった」とある。が、これだけの断片で詳細は不明。内容が具体化するのは平安時代、三善清行(みよしきよつら)の意見封事からである。

おまけながら、上文を解説するに、これは五行説とはまったく関係がない。また庚申といっても後世の「庚申待ち」や「庚申購」の思想とも関係はない。そもそも「庚申信仰」それ自体が五行説に基づいて発生したのではない。
養老四年が「庚」申年なのは偶然でここでは文脈上の意味はなく、ただ「申」年であった(これも偶然だが)ことをいっているにすぎない。「気候の乱れは天子の不徳が原因で起こる」という儒教の考えに基づくと、この文は天皇の不徳を指摘することになってしまうので、ここは「天皇のせいではなく申年だったからで、しかたがないんだ」という趣旨なのである。では本当に申年に事故が多いという諺があったのかというと、それも疑問。わざわざ「世間の諺に曰く」等とつけるのは不審で、実際にそんな諺なり理論なりがあるのなら、ただ「申年だったから水害と旱が多かった」と簡潔にいうだけで同時代の人に十分通じたはず。この時代、申年で重大な事故といえばまっさきに浮かんだであろうことば「壬申の乱」だろう。あれは天武天皇が意図的に起こしたのではなく申年だったから起きたのであって事故のようなもの、というニュアンスを漂わしている。この時期はまた天武系の皇室の時代で、天智統に皇位が帰っていないので、天武帝には非はないという建前が堅持されており、国家的悲劇たる大乱の原因は自動的にそれ以外の何かのせいになる。「世の諺に『申年に事故あり』」と言われれば、当時の人は誰も反対できない。有無をいわせず強制的に同意させるレトリックなのである。

(5-3)革命勘文
AD901年、醍醐天皇に三善清行が献納した『革命勘文』(本来は「請改元応天道之状」と題する「意見封事」、原文は『群書類従』第貮拾六輯雜部に所収)に『易緯』『詩緯』からの引用と称する文がある。これが本当なら緯書の逸文が断片的に残ったことになる。その一部を以下に掲げる。あとあとの謎解きに関係してくるので、念入りに読んでよくよく理解しておいてちょうだい。

原文:
「易緯云、辛酉爲革命、甲子爲革令。
鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲爲一元。四六二六交相乗、七元有三變、三七相乗、廿一元爲一蔀、合千三百廿年。
(中略)詩緯云、十周參聚、氣生神明。戊午革運、辛酉革命、甲子革政(後略)」


 読み下だし:
「易緯」に云く、辛酉を革命とし、甲子を革命とす。
(「易緯」の)鄭玄(の注に)曰く、天道遠からず、三五にして反(かへ)り、六甲を一元とす(1甲=10年、1元=60年)。四六(240年)二六(120年)交はり相乗じ(ここまで360年周期説)、七元に三変あり(420年間に3回の事変が起こるという第2の説)三七相乗じ(=21元)、二十一元を一蔀となし、合わせて千三百二十年(第3の説)
(中略)「詩緯」に云く、十周(1周=36年、10周=360年。これは前述の240年と120年の組み合わせを説明するためのもので360年は一つの王朝の寿命でもある)を參聚(10周×3=1080年。3聚は3基、3推ともいう)して、氣、神明(新たに天命を受ける聖人)を生ず。戊午革運、辛酉革命、甲子革政(後略)

 注釈:
21元が1蔀なのだから1260年でなければならないのに1320年とはっきり書かれている。「22元のはずを誤って21元と書いてしまったのだ」と解釈することできない。直前に「三七相乗じ」とあるように第2の説の「七元に三変」を引いているのであって「3×7=21」をいってるのだから、ここは22でなくて21が正しい。1260年説と1320年説、どちらをとるにせよ、後段では「十周參聚」として1080年説をいっている。これは第1の説の360年周期説の話の続きだから、第3の説を無視した流れになっている。1260年か1320年かという問題はあくまで第3の説の中だけでの話で、第1説・第2説とは関係がない。ちなみに鄭玄注のうち、第2の説までは他書にも同文があるが、第3の説は日本独自。

この文章だが「易緯に付された鄭玄(じょうげん)による注」のいうところが問題の一蔀循環説である。「詩緯」のほうは有名な「三革説」の出典である。しかし「易緯」も「詩緯」も特定の書の題名ではなくそれぞれ何種類もある書物の分類名である。それを特定の書物のタイトルであるかのように使っている。

(5-4)清行引用の讖緯説の起源
讖緯説の発生時期については概略の項で述べた通り「前漢の末」であるが、讖緯説の中でも特に「鄭玄の注」を典拠とする一蔀循環説がどの時点で発生したのかは判然としない。理論上は早くても前漢の末であり、後漢末の鄭玄(じょうげん)の注が初出であるとすれば、遅くてもこの頃にできたか、もしくは後述の岡田英弘説のように「鄭玄自身の創作」ということになる。

(5-5)日本での受容情況
日本では、格別弾圧されたわけでもなく、室町時代までは讖緯説に基づいた言説や讖緯の書からの引用と称する文章が時々あった。南北朝の頃には孔子の作ではなく前漢末期の偽作だとして非難する知識人がいたが例外的な存在だろう。その後は、やはり散逸、隠滅して消えていった。そのため日本の讖緯説は、三革説と一蔀循環説ぐらいしかわからないのだが、これらは中国の讖緯説にはまったく存在せず不審に思われていたことが平安末期の『台記』(藤原頼長の日記)の康治三年(AD1144年)条や鎌倉末期の元応三年(AD1321年)の中原諸緖の勘奏にある。五行説と数理上の処理だけで成り立っており、前述のような「神話や伝説、迷信、占星術や暦注占法、風水地理」などの豊富な史料を含む支那の讖緯説とはやや趣きも異なる。そのため、後述のように三革説にしろ一蔀循環説にしろ日本独自のものであってそもそも中国由来のものではないのではないかという疑いがある。

【6】「三革説」とは何か
三革説とは、上記の通り『革命勘文』に引用された「詩緯」を典拠とする説で、戊午革運・辛酉革命・甲子革政(=甲子革令)をいう。これらの干支は、月や日や時間でなく、「年」の干支である。戊午の年には革運、辛酉の年には革命、甲子の年には革政が起こり、この7年間は(60年サイクル末尾の6年と最初の1年)、60年に一度の変わり目であるとの説。『革命勘文』の原文は上記の通り簡素で「辛酉だとどうして革命になるのか」の説明がない。三善清行が前年の昌泰三年(AD901年)に提出した意見封事(「預論革命議」)ではあれこれ理屈めいたことをいってるが釈然としない。それを超訳すると「来年の2月は革命(大事件が起こる)年です、謀叛が起こるのは240年周期と120年周期で420年間に3回で、中国の歴史では黄帝から唐まで、日本でも神武天皇から天智天皇まで、ピタリとこの通りになっておりますから来年の事変に備えて御用意下さい、変革の際には必ず武力を行使し悪を誅殺するものです、革命というのは、64卦の「革」の卦は下が「離」で上が「兌」の組み合わせですが、五行説でいうと「離」は「火」で「兌」は「金」を意味し、上なる金属は下なる火熱によって変形する(革まる)、だから火と金の組み合わせは上下が害しあう(つか下が上を害する)というわけです」と。64卦の「革」の説明にはなっているが、なぜ辛酉が革命なのかの説明は一切ない。にもかかわらず「来年は革命だ」と、いけしゃーしゃーと大予言を披露している。(が、後述の通りこの予言は実は醍醐天皇と藤原時平がわざといわせていることなので当たるに決まっていた)
辛酉革命については、唐の王肇が著した『開元暦紀経』に「辛酉為金、戊午為火。火歳革運、金歳革命。尤協革卦之躰」と簡便な説明になっていて、これが初出または典拠という。といっても、上記の「預論革命議」と比べていくらかマシではあるにせよ、後述する通り、さほど釈然とする説明にはなってない。王肇という名は中国人の名前としてはありふれたもので特に問題はないが、イザヤ・ペンダサンや一橋文哉と同じくダジャレもじりの匿名にも思える(イザヤ・ペンダサンは「イザや、ペン出さん(さぁペンを出そう)」、一橋文哉(いちはしふみや)は「一ツ橋グループ(小学館や集英社等)のブン屋(新聞記者)」、峠洞之介先生(とうげほらのすけせんせい)は「洞ヶ峠をきめこむ」のもじり)。肇は「肇国」の肇、「王肇」で王家の始まりの意。この『開元暦紀経』の引用は『天暦御記』応和四年(AD964年)条が初出で、この年は甲子年だった。で、なんて書いてあるかというと「詩説(詩緯のことか?)によれば今年は(甲子だから)革命にあたるが開元暦紀経によると(甲子は革令であって)革命でない。この両説は一致せず同じでない。なので一概に今年は革令とも言いがたい」というような趣旨を数術家が上申したという話。このとおり『開元暦紀経』というタイトルが出てくるだけで直接に文章の引用はない。そうではなく「文面の引用」があるのはやや時代が下がって承暦四年(AD1080年)の大江匡房の勘奏が初出。応和四年にすでに該当の文面があったと仮定しても、いずれにしろそれより古い時代にはみられない、むろん原書も散逸して日本にも中国にも存在していない。清行の時代にあったならなぜこの簡便な説明を引用せず「革」の卦の説明で誤魔化してるのか。答えは簡単で『開元暦紀経』が清行晩年の創作で、AD901年の段階ではまだ理論はできてなかったのだろう。

甲子革政は甲子革令ともいう(『革命勘文』の全文の中では甲子について革政が1回、革令が3回)。『革命勘文』の全文から察するに、「革運」は革命の予兆として政治情勢の変化をいい、「革命」は必ずしも政権交代などを意味せずなんらかの意味で政権が刷新されること(やや御都合主義に感じるが)、「革政」と「革令」は革命後の新政府が新しい政治制度・政令を発布するというような流れ。この「革政」と「革令」はまったく同じ意味で使われている。一説には革運や革命を含めた三つを総称して「三革令」ともいう、との説があるが『革命勘文』の中には三つの総称として革令というような言い方は無い。

古来から現代まで干支にこじつけられた五行説に基づいた解釈があれこれいわれている。例えば、戊午は「火性」の午が中心(戊は土性で方位では中央に該当)に来るから炎上する、辛酉は過酷さを意味する「金性」が重なり辛は陰なので人心が冷酷で破壊的な世の中になる等。しかし金は西にずれるので戊申や己酉のほうが酷くないと戊午の説明と比べておかしくないか? 辛酉のように同性が重なるほうが酷いなら戊午よりも丙午や丁巳のほうがもっと炎上するはずだが?(実際にその理屈で後世に丙午の迷信が生まれた) これらはすべて五行説では割り切れておらず、後付けの屁理屈でしかない。そしてこれらの起こりは中国ではなく三善清行からすべて始まっている。ただし辛酉の前年の庚申も悪い年とされ陰陽道からくる庚申塔の信仰が残るが、これは清行とは関係なく中国からきている。甲子や甲寅を1サイクルの始めとするのも清行とは無関係で中国のもの。

【7】「一蔀循環説」とは何か

(7-1)一蔀説の基本説明
一蔀循環説とは、上記の通り『革命勘文』に引用された「『易緯』に付された鄭玄(じょうげん)による注」を典拠とする説で、そのいうところは「1甲」(10年間)を6つ合わせて「1元」(干支60年の一巡りのこと)というのだが、21元を1蔀とし、1蔀は1320年であるといっている。このサイクルで天下が一変するような国家(王朝)の大興亡が起きるという説。「蔀」の字は「ぼう」と読む。ただし内容は三つの周期を示している。240年+120年で計360年の周期、420年ごとの区切りのそれぞれの中に3回の変事が起こるとの説、そして420年(=7元)を3周した1320年の周期である。ただし420年を3周すると1260年のはずで、60年多すぎる。その理由は後述。

(7-2)二十二元か、二十一元か
1運60年✕21元では1260年であって、1320年には60年つまり1元たりない。室町時代に絶世の大学者とされた一条兼良は、元と蔀は計算起点の干支が違うのだという典拠不明な理由によって、1蔀は1320年なのだが蔀と元は計算起点が1年ずれているため1蔀の末年は22元の末年より前であって(つまり満22元に達しておらず)まだ21元めの内なのだという説を唱えたが、むりやり辻褄を合わせようとしたもので問題外。そこで、1320年というのは単なる計算間違いで1260年が正しいとする説と、二十一元というのは表現の問題で1320年が正しいとする説とに分かれている。
1260年説は明治時代の那珂通世(なかみちよ)である。1320年説には、古い時代のものと戦後の説があり、戦後でた説では起点の最初の一元(前回の周期の最後の一元)を加えるという説と次回新周期の最初の一元を加えるという説があるがなぜ加える必要があるのか意味不明。どっちもわかったようなわからないような有耶無耶な説明で取るに足らない。1320年説で最も古いのは、まず引用している本人の三善清行の説で、彼は神武天皇の辛酉年や甲子年にあった事柄から歴代の事件を経て天智天皇にふれ「神武元年から斉明七年まで1蔀1320年に相当する、次の天智天皇元年(正しくは称制元年)が新たな1蔀の初めだ」とわざわざ書いているので、彼の念頭にあったのは明らかに1320年サイクルでしかありえないが、かといって1260年説を否定するような具体的な理論を展開しているわけでもない。戦後の岡田英弘も1320年説だが彼も清行と同じく、1260年否定説を具体的に展開しているわけではなくただ問答無用に1320年が正しいと独り善がりをいってるにすぎない。
鄭玄の注の中にすでに1320年という数字がはっきりと明示されている。その一方で、本文に説明されている(つまり讖緯説それ自体の)数字のメカニズムからはどう弄っても1320年という数値は絶対に出て来ようがないのも確か。つまりこれは「どちらか一方が正しくもう一方が誤り」と単純に断定するだけではどうしても解決不可能な矛盾が残ってしまうのである。これをむりやり合理的に解釈しようとしたらコジツケ以外の方法があるのか? 那珂通世の1260年説は長らく学界の通説となっているが最近は岡田英弘のおかげで1320年説も有力にみえる。しかしながら、三善清行と一条兼良と那珂通世と岡田英弘、このうち誰がより正確に讖緯説を理解しているのか。全員に共通している誤解は「この讖緯説には論理が一貫してるはずだ」という思い込みではないのか?

(7-3)起点は無いのか184年なのか
起点となる年はわからない。というか特に無い。讖緯説それ自体には具体的に「この年が」という指定がされてない。神武天皇即位の辛酉年をこの讖緯説のサイクルの起点にするのは三善清行が『革命勘文』の中で自分の発想を開陳している文であって、あたり前だが、引用されている鄭玄の説ではない。ずっと昔の(漢代の)中国人が親切にもはるか後世の(奈良時代の)日本人のためにわざわざ讖緯説を考えてあげた等ということはありえない道理で、讖緯説それ自体は神武元年(BC660年)を起点としているわけではない。これについては平安時代の三善清行も明治時代の那珂通世も了解・認識している。ただ清行はその上で、讖緯説を日本にあてはめるのならば神武天皇から起算するのがよかろうと前提して持論を展開してるというわけ。
しかし岡田英弘は、AD184(甲子年)を起点として起算した数値だという新説を唱えた。後漢王朝のAD184に始まった「黄巾の乱」以降、中国は大混乱に陥り人口大減少と未曾有の荒廃が続き、ついに国土の北半分(当時の感覚では中国本土のすべて)を北方民族に奪われ、東晋の頃にはようやく江南に亡命政権を保つことになった。岡田英弘は、一蔀循環説は鄭玄の創作であるとし、この「黄巾の乱」による大崩壊の衝撃がきっかけで作られたものという。

おまけ:一蔀循環説を創作した犯人は鄭玄ではない
岡田英弘は、一蔀循環説は鄭玄の創作であるとし、この「黄巾の乱」による大崩壊の衝撃がきっかけで作られたものというが、ホントかね?w そんなことあるわけないと思うのだがw
岡田英弘は1320年サイクル説に立つので、AD184年の前はBC1137年。AD184年の次はAD1504年となる。ただし、AD184年を起点としつつも1260年サイクル説をとる説も理論上はありえる。その場合はBC1077年とAD1444年となる。BC1137年は、当時の歴史観では、有名な殷周革命の頃に近い。殷周革命は儒教的な歴史観においてはまさに中国史上最大の事件の一つといってよく、天下国家が興亡する大周期に当たっているとするのに都合よかろう。BC1077年は周の康王二年、周王朝初期の平穏期でこうはいかない。岡田英弘が1320年説を採り1260年説を捨てた本当の理由はこのへんだろうよw 殷周革命は(現代の歴史学説ではBC1027年説などがあるがそれとは別に)中国の伝統的な説でもいくつかの説があるが、BC1122年説が有名であり、その他の説もだいたいその前後である。BC1137年はその15年前に当たるので、殷王朝末期の混乱期だとして「ほぼ適切」とみるか、「ピタッと革命の年だったならともかくズレてますやんw」とみるかは微妙なところで何とでもいえそうではある。また、そこまで大きな年代を扱うなら殷周革命より1サイクル前の神話的聖天子の黄帝の頃までフォローしたものでないと、長大な歴史を大枠でとらえるという理論になりえない。岡田の説ではこの大周期は鄭玄の創作なのだから、それなら、鄭玄はフリーハンドでなんとでも出来たはずであり、必ずやそうしたはずである。しかるに2サイクル遡ると黄帝に届かずこれまた半端なところにあたってしまう。

【8】一蔀説と三革説の日本起源説

(8-1)一蔀説と三革説は本当に中国から伝来したのか?
前漢末から後漢に流行した「緯書」は隋の煬帝により禁圧され散逸、日本に伝来した「易緯」「詩緯」に逸文として残るのみであって、その実態は不明である。大陸で散逸・失伝した漢籍が日本に残っているという例は珍しくないことなので、緯書の逸文が日本に残ったという話もここは信じたい気になるのであるが、このケースでは政争絡みの展開であって、自然の成り行きだけでたまたま逸文が残ったのかどうかは微妙なところ。

(8-2)革命勘文の疑惑
一蔀循環説を歴史上最初(記録に残っている限り)に言い出したのは、中国人ではなく、上述の日本の三善清行で、その「意見封事」として出された『革命勘文』の中で唐突に出てきたものであり、それまでまったく知られていなかった。この『革命勘文』は提出された年の昌泰四年(AD901年)が改元すべき年だと主張しており、表面的には単なる改元案の上申にみえる。
この頃、藤原氏本流を排して側近政治を進めようとする宇多上皇と菅原道真らその近臣たち(藤原忠平など藤原氏の一部を含む)のグループがあり、藤原時平を頂点とする藤原氏本流とその一派との対立関係があった。この頃、醍醐天皇にはまだ皇子がなく、宇多上皇は藤原氏と縁がなく道真の娘婿でもある斉世親王を皇太子にしようとしていたが、醍醐帝は将来生まれるであろう自分の皇子に継がせたいから当然に父の宇多上皇と対立して、時平と結んで藤原氏との協力路線をとっていた。「醍醐帝-時平」派が道真に濡れ衣を着せ突如左遷したのは斉世親王の立太子を阻止するためであり、これが昌泰四年(AD901年)の正月、所謂「昌泰の変」である。かねてより道真に個人的な怨恨を抱く三善清行は当然のように「醍醐帝-時平」派の一人だった。その翌月、準備していたかのように清行は「意見封事」を提出し、今年は辛酉年であり大革命の年であるから改元をすべきと主張したが、その内容(『革命勘文』)は神武天皇以来、最近までの辛酉年や甲子年を振り返り、辛酉年は革命(的な大事件や大乱)、甲子年には革令(新制度の発足)等があるという讖緯説を検証している。この文章の真の目的は「だから辛酉年に起こった今回の道真の謀叛も捏造ではなく事実だったのだ」と傍証し「醍醐帝-時平」派を正当化することにあった。すべては道真を排斥せんとした時平と清行が結託した策謀であった。
ちなみに中国では「蔀」は76年間をさし、1320年または1260年をさすという例はない。中国の古代天文学ではメトン周期を1章というが、後漢四分暦では4章=1蔀、20蔀=1紀=1520年、3紀=1元=4560年とした。これと別に『後漢書』によると、4蔀=1徳=304年とし、1徳304年は、五行のいずれかの徳を有する一つの王朝の寿命に該当し、5徳が一周する1520年を一つの周期とみる考え方があったことがわかる。前漢王朝が約300年続いたことから出た説と思われる。また引用の「詩緯」の1080年(360年×3)周期説もあった。清行はこれらにヒントを得て、独自説を創作したのではないか。もし鄭玄の注なるものが古来からの本物なら、簡単な計算ミスが気づかれないはずがない。よくみると肝心の鄭玄の注が、すでに先行していた緯書の類の文言に続けて2種類の周期説を併記したものである。これは既存の文を活用して360(240+120)年周期説と7蔀(420年間)3変説を並べ、後者は7蔀3変の数字を引いて3×7=21とまで明示して自然に1320年周期説が出てくるように拵えてある。だが、肝心のいちばん面白い1320年の部分だけが中国の逸文に欠けているのはおかしくないか。中国の緯書にも類似の文面はあるが肝心の「三七乗じて二十一元、合わせて千三百二十年」という部分だけがないのだ。普通は肝心の部分を引用して瑣末な部分を略すのである。もとの形は360年説と420年説を併記しただけだったとみるのが自然な形だろう。真相はこのいちばん面白い部分こそ清行の創作して追加した部分なのである。清行は360年説と420年説を利用しながらなんとか昌泰四年を大事件の年であると証明する方法を模索して、それを古人に仮託して権威づけに成功したのだが、ことは進行中の政治的策謀の渦中にあり期日はボスから突然指定されてくる。のんびり構想を練ったり修正を加える余裕がなく、拙速のまま出さざるを得なかったのだろう。
中国には、この他にも長大なサイクルを想定する神秘主義的な歴史観はいくつか存在するが、これらは単位年数や循環サイクルの数値が異なっていて、日本にしか出典のない一蔀循環説とまったく噛み合ない。これら中国の諸説はいつまで溯りうるかは不詳だが、その多くはおそらくは宋代から清代にかけての間に創作されたものであろうから、三善清行が主張する「鄭玄の注」なるものが仮に本物だとしても噛み合わないのは当たり前だが、鄭玄の時代=後漢末の讖緯説の全体像も不明であり、「鄭玄の注」なるものが本物かどうか検証もできない。本物なのだが中国では隠滅してしまい、しかも中立的な経緯で偶々発見されたものならまだしも、このような政治的なからみで突然出てきたものであり清行の創作の疑いは払拭しえない。
三革説についても、中国でも戊午・辛酉・甲子に対する意味付けはあるが、あくまで易学的な干支ごとの吉凶判断にすぎず、それが「三革説」として確立・定式化してはいない。日本で三革説に基づく改元をするようになったのは、三善清行の提唱による昌泰四年(AD901年)を「延喜」と改元したのが最初である(中国ではこのような例はない)。

(8-3)岡田説と「超辰」の問題
岡田説でも日本起源説を打破することはできぬ。『日本書紀』は天武天皇皇子舎人親王が編纂責任者であって、父のライバルだった天智天皇には冷淡であって近江令ほか数々の功績についても明言をさけたり、天智紀は時代が近いのに 原資料がいい加減で年代が錯綜したりしている。神武即位がもし讖緯説(の1320年周期説)によるのならばそれは天智朝を 神武即位に次ぐ日本史の重要事件と認めることになるが、このような『日本書紀』の特色からはかなり不自然に思われる。
岡田説によれば1蔀の起点の一つはAD184年である。しかし現存する逸文からは格別にこの年についての言及はみられない。讖緯説そのものは岡田がいうような内容を一切語っていない。これは岡田英弘が、自身の常日頃展開しているシナ史にかんする自説を、讖緯説をダシにつかって再演してるだけではないかとも思われる。
そもそもこの壮大な周期を想定する説は、陰陽五行説で意味づけられた干支が正確に60年で一周するという前提がないと成り立たないが、公式にそうなったのはAD85年にそれまでの三統暦を廃し後漢四分暦が施行されてからであって、本来は木星の実際の運行に従って「超辰」していた。「超辰」とは例えば子年の翌年は丑年なのに一つ飛ばして寅年になるようなことで木星の公転周期は正確には11.862年で12年にちょっと足りないので約86年ごとに「超辰」しないとならなかった。つまり干支の一周は「正確に60年ピッタリ」ではなかったのである。鄭玄ほどの知識人がこんな常識をしらなかったわけがない。(公式に、といったのはBC95年の乙酉を飛ばしてこの年を丙戌にして以来、実質的に超辰は行われていなかったため。しかし本来は超辰すべきとされていたことはかわらない)。例えば、ある年が辛酉だとしても「あれ?木星の位置からすると今年は本当は酉年じゃなくね?今年が酉年なのはなし崩しに超辰やめちゃったからで論理的な根拠なくね?」という疑問を抱かない者はよほど漢学の素養に欠ける者だけだろう。従って中国に残っている讖緯説は、長大な周期を想定する諸説であっても、特定の干支の年を起点としているものは一つもないのである(ずっと後世の宋代以降に創作された理論は別)。日本と朝鮮ともに干支で年を紀する習慣はすこぶる古いが、日本人は歴史上、実際に超辰を体験したことはなかった。
ただ、それを理由に、前漢末の本来の讖緯説とは別に、後漢末にAD184(甲子年)を起点とする新しい讖緯説が生まれたという岡田の着想がなんらかの事実を言い当てている可能性を完全否定することも出来ない。岡田の本意はAD184に黄巾の乱が起こったということが重要であり、この年がたまたま甲子年であったことは本質的なことではない、と微修正すればどうにかなる可能性はなくもない。

(8-4)結論
すなわち一蔀循環説と三革説は『日本書紀』成立より後に、日本国内で発生した可能性が高い。

【9】讖緯説と皇紀の関係(※ここまでのまとめ)

(9-1)讖緯逆算説
日本書紀は神武天皇の即位をBC660年に当たる辛酉の年に設定している。明治時代、那珂通世(なかみちよ)は、これは讖緯説によって計算されたのだという説を唱えた。この説は、推古九年(AD601年)の辛酉年を逆算起点として1260年遡った辛酉年を日本開国の年としたのである、という説。以上の那珂通世の説を「神武元年讖緯逆算説」と仮名する。
那珂通世の説のバリエーションとしては、岡田英弘の説がある。彼は、一蔀1320年説を採用してAD663の白村江の敗戦(=百済滅亡)を逆算起点とし(ただしこの年は甲子年ではなく1年前の癸亥年)、一蔀を溯った甲子年(神武四年)に最も近い辛酉年を神武元年としたのだという説を唱える。

(9-2)那珂通世(讖緯逆算説)への反論
しかし第一には那珂通世の1260年説は一蔀1320年を十分に否定できていない。従って逆算起点は天智称制元年(AD661年)の辛酉年である可能性が残る、第二には推古九年(AD601年)は逆算起点にふさわしいような重要な事件は見当たらない、等の批判が昔からある。推古九年説にしろ天智称制元年説にしろ、逆算起点にふさわしい大事件がないという点では説明が苦しいことにかわりはない。神武元年から1260年たった辛酉年はAD601年で、聖徳太子が斑鳩宮を建てたというだけで格別なにか重大な事件があったわけではない。1320年説では、1サイクル回った辛酉年はAD661年で、天智天皇元年だが称制の元年であって正式に即位した元年ではなく、白村江の戦いの年ではあるが、この年は開戦しただけで決着したのは翌年だし、区切りのいい大事件は無い。つまりどちらも実際の歴史にあてはめた場合、しっくり来るような説にはなっていない。
岡田英弘の説では辛酉は革命、甲子は革令という讖緯説の論理を無視して、とにかく大事件なら辛酉でも甲子でもどっちでもこじつけてよいという考えにみえる。むしろ革命にふさわしい百済滅亡(白村江の敗戦)を革令であるべき甲子(の前年)に当てている。甲子年AD664年には冠位26階の制定ぐらいでめぼしい大事件がない。冠位26階は既存の冠位制度を微修正しただけで、革命の後を受けた新政府発足を思わせる革令というほどの大事件には程遠い。さらに、もし岡田が辛酉革命も甲子革令も同じようなものだと考えるのなら、なぜ一蔀を溯った甲子年をぴたり神武元年にしなかったのかの説明が苦しい。これだと1320年の大周期よりも60年ごとにくる小周期の辛酉の方が重要であるようにもみえる。ちなみに、実際に甲子年に初代の王が即位したとする例として、新羅の建国伝説がある。これは『日本書紀』より後に作られた話であるが。
さらに岡田説では、讖緯説の大サイクルの起点はAD184年であり、その1周前の起点はBC1137年と自動的に定まるから、日本書紀のBC660年説は讖緯説にぜんぜん噛み合わず、むしろ讖緯説を否定しているともいえる。
まぁなんだかんだすったもんだあるが要約すると4つある。結論だけまとめると以下の如し

【1】
讖緯説によって逆算されたとしても、逆算起点とされる年次が選ばれた理由が不明瞭のままである。斑鳩宮の建設はなんら大事件ではないし、とくに天智天皇を起点とする説の場合は『日本書紀』の編集方針からいって不自然

【2】
讖緯説が信じられるようになったのは律令国家から王朝国家へ移行して以降だが、この移行期に平安貴族層の人生観や世界観に大きな変化があって迷信の時代に突入することは家永三郎等の研究によって夙に知られている。三善清行(みよしきよつら)はまさにその時期にずばり該当する。それ以前には正統的な儒教的教養からすれば讖緯説は異端であって公式な歴史書に採用すべき理論でないと考えられらたのではなかろうか

【3】
『日本書紀』編纂時点で日本国内に讖緯説に類する素朴な迷信が存在したことは判明しているが、三善清行がいうような高度に体系化された理論が存在したとか、それが広く支持されたり信じられていたとか等という記録も形跡もなにもない

【4】
神武天皇元年の推算根拠となったという問題の理論は、中国の讖緯説には存在しない。この日本独自の讖緯説は『日本書紀』編纂時点より後の時代に日本国内で捏造されたものである疑いが濃厚

(9-3)現代の通説に対する評価
讖緯逆算説は、明治初期の学説であるが、当然ながら当時も反論は賛同論と同じくらい学界の内外問わず多々あったものと思われるが現在ではそれらを一覧することは不可能である。神武天皇架空説と日本書紀年代造作説が常識化した戦後まもない頃の歴史学界では何ら深い検討もされずもてはやされ、今も学界の内外で広く流布している。
《次回予告》
さて、神武元年が讖緯説で計算されたものではないとしても、その事は、「じゃあ紀元前660年ってのが本当なのかどうか」って話とは、直接は関係ないw 偶然にも本当に前660年かも知れないのだからw 偶然でもいいのだが本当にそうならそうだと証明しなければならない。本当の神武元年は西暦でいったら何年なのかって話は、それはそれとして重要ではある。それに加えてもう一つの問題もある。それは、「紀元前660年」とする『日本書紀』の編年が事実であるかないかにかかわらず、讖緯説と関係ないのなら、いったい何を根拠にどういう計算で出てきたものなのかって問題だ。「史実がそのまま伝承されただけで深い意味はないんだよ」って話なら簡単なんだが、そうは問屋がおろさないわけでw
「皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・中編」に続く(すいません、まだ書いてません。なんとか今年の紀元節には間に合わせたかったんですが。でも近いうち必ず!)
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英雄・崇峻天皇殺害の真相

令和2年12月14日改稿 H28年2月17日(水)初稿
(※この頁は「浮屠の乱(用明天皇)」からの続きです)

まえおき(読み飛ばして可)
崇峻天皇も在位が極端に短く、そのため古事記に物語が載って無くても不思議はないが、似たような「在位の短い天皇」は欠史十代の中でいうと武烈・安閑・宣化・用明天皇がいる。しかし、拙ブログの読者ならお気づきのように、別に在位期間が短いから物語がない、という理屈はないのである。短い在位でも大事件というのはありうるし、長い在位でも天下泰平でたいした事件は起きなかった、なんてこともありうるわけで。その天下泰平というのは継体天皇の崩御で終わり、その後は激動の時代が始まったことはこれまでの回で述べてきた。だから欽明天皇以降にかんしていうと物語が載ってないのは、古事記の原資料を伝えた語部(かたりべ)にとって不愉快なネタしかなかったからである。もっと正確にいうと、語部の物語は今でいえばミュージカル風に歌い踊って上演するものなのであり、古事記の原資料はその台本なのである。そのような台本の最後に作られたのが武烈天皇物語(現存の古事記は誤って顕宗天皇物語になってるが)であり、欽明天皇以後の歴史は語部的な価値観が否定されていくような事件ばかりなので、上演の新たな演目は作られなくなったのである。崇峻天皇は古事記では2行くらいで終わり。欠史十代の中では安閑天皇と同じぐらいの分量で、綏靖天皇から開化天皇までの欠史八代でもこんな短い記事はない。しかし安閑天皇は実は内容豊富で書ききれないほどの人だったことはこのブログで書いてきた通りで、従って崇峻天皇も実は書くべきことは多いのだ。

1年遅れの即位か?それとも譲位か?
例えば、崇峻天皇は、書紀は在位5年としているのに古事記では4年という。しかし崩年は記紀で一致している。
一つの解決案としては、即位元年が書紀は1年前倒しに編年していると考えられる。崇峻元年は書紀だと戊申(588年)だが古事記では己酉(589年)が元年で、戊申(588年)は空位ってことになる。この説の問題点は、推古天皇の在位が日本書紀は36年とするのに古事記は37年としており1年長い上に、崩年は記紀で一致しているから古事記に従えば推古元年は崇峻天皇の末年(崩年)とかぶってしまう。通常は「踰年称元」といって即位の翌年を新帝の元年とするのだが、実際は先帝の崩年は新帝の最初の治世でもあるのだから即位のその年(=先帝崩御の年)を元年とすることもありうる。これを「立年称元」という。推古天皇だけが、なぜか珍しく「立年称年」だったということになる。そんなことあるかね?
別の解決案としては、推古天皇も通常とおり「踰年称元」だったとするとその即位は書紀でいう崇峻四年のことになり、そうすると崇峻天皇が崩御した壬子年(592年)を崇峻五年とするのは日本書紀の誤りであり、正しくはこの年はすでに推古元年で、崇峻天皇は前年(崇峻四年)に譲位していたことになる。

立年称元と踰年称元
即位したその年を元年とする方法を「立年称元」または当年称元、エジプト式、アンチデートシステム(antedate system:時前制)などという。これに対して即位した年の翌年を元年として数えるのを「踰年称元」または越年称元、メソポタミア式、ポストデートシステム(postdate system:時後制)などともいう。『史記』をみると中国では古くから「踰年称元」だったが、平勢隆郎の説によると古くは「立年称元」だったのが戦国時代のあたりから「踰年称元」になったという(ただし一時期は有名だった平勢説もいろいろ問題点が指摘されているのでそのまま真に受けるのもアレだが)。日本書紀を信ずる限り日本は昔から一貫して踰年称元でやってたってことになる。現在の日本は皇室典範の規定により、大正以降は立年称元になっている。バカげたことだ。これで令和が4月からという意味不明な議論をするはめになったが官僚や政治家に教養があればこんなバカげた議論はなかったはずだ。

だが書紀の編集方針として「譲位はありえない、崩御してからの即位のはず」という前提で編集しているので、書紀は推古朝を1年遅らせている。

もし崇峻天皇即位が1年遅かったとした場合
書紀をみると戊申(588年)には百済から仏舎利と仏教建築の技術者などが献上されてきたこと、蘇我馬子が百済僧に授戒について質問したこと、尼らを学問僧として派遣したこと、法興寺(飛鳥寺)の建立に着手したこと等が書かれている。『元興寺縁起』でも大枠同じような話が崇峻元年=戊申のこととして出て来る。元興寺も法興寺(飛鳥寺)も同じ寺のことで、この年は元興寺の建立の年でもあるわけだが、天皇空位の年では天皇の統治下での建立ではないことになってしまい格好がつかない。日本書紀では用明二年(587)八月二日に炊屋姫尊(かしきやひめのみこと=額田部皇女)と群臣が泊瀬部皇子(=長谷部王)に即位を勧めて即位させたとある。それで翌年が崇峻元年となるわけだがこれは「踰年称元」だ。この場合、日本書紀は『元興寺縁起』等の仏教系資料に基いて崇峻元年を決めたのだろう。炊屋姫尊と群臣が勧めたからって長谷部王がほいほい天皇になったかといえばそんなことはない。そもそも長谷部王は物部側の人間なのである。それなのに本心を隠して蘇我の側につき崇仏派のふりをしていた。ただし皇族の中では最上位に近いため、物部と蘇我の合戦では形式上は蘇我側の総大将(最高司令官)の地位に祭り上げられていた。むろんその合戦では、自軍を裏切り、工作をしかけて物部に内通して蘇我を総崩れに追い込む計画だったのであるが、いろいろあって巧くいかずチャンスを逸してしまった。そうなると形式上はこたびの合戦の勝利者のトップに立つ人間ということになり、炊屋姫尊でなくともとりあえずまず今回は長谷部王が天皇に、となるのは自然の流れであり、蘇我馬子は内心では少々あやしい(実は物部派では?)と思いつつも表向き反対しづらい。炊屋姫尊の本心としては当然我が子である竹田王を天皇にしたいのだが、日子人大兄王を除けば、自然な順位としては長谷部王が天皇候補であり、竹田王はその次になる。ここで長谷部王が即位してしまうと長谷部王が長生きした場合、竹田王の出番がなくなってしまうので、炊屋姫尊の策としては、この戦では多少でも竹田王に武功を立てさせ、それを長谷部王が針小棒大に褒め称えて辞退すれば、竹田王が即位してもなんとか格好がつく。その空気を察して他の皇子たちも目立たないようにしていた。厩戸王も表向きの武功ではなく裏方の工作をしかけていたのは用明天皇の回で説明した通り。しかし血気はやった竹田王は局地戦で敗れて重傷を負ってしまったらしい。炊屋姫尊にしろ馬子にしろ、物部が壊滅してしまった今、仮に長谷部王が排仏派だったとしても今更なにができようと見くびっていたのかもしれない。長谷部王にしてみれば事やぶれて死ぬはめになることは覚悟していたとしても、まさか自分が蘇我側のトップとして勝利者の栄冠を受けるとはまじめに予想していなかったし、今ここで即位しても用明天皇がそうであったように蘇我馬子の傀儡にすぎないことは理解していた。このたびの勝利は形式上のトップである長谷部王の力でなく蘇我馬子の力なのであるから。だから長谷部王は皇位を辞退して他の皇族、例えば日子人大兄太子(ひこひとのおほえのひつぎのみこ)か竹田王を一旦は推挙したに違いない。だが日子人大兄太子は完全に隠遁気分でシャットアウト、その上、彼の即位は蘇我の利益にも反するから実現はしない。ただ建前上は正統の家系だから推挙してみせることが可能というだけ。竹田王はこの戦の後は歴史から消えてしまうのでこの戦で戦死したのではないかという説も根強いが、前述の通り、おそらく竹田王はこの戦で負傷して瀕死の重傷だったのであろう。長谷部王にしてみれば大歓迎されての即位ではなく「しかたなく選ばれた」次善の策みたいな天皇では、権威も権力もたいして望めず、用明天皇と同じく傀儡になってしまうことは目に見えているから、ここは逃げたい。だから長谷部王からの提案は「竹田王の回復を待ってから竹田王に即位してもらおう」というものだったと思われる。これが逃げを打つ最後の手段だったのだ。そうやって一年間は先延ばしにしたが、しかし竹田王は回復が遅れ、現時点では見通しが立たないと判断されたんだろう。それでもう逃げられなくなってやむなく天皇になったのが589年なのだとすると、その前年の588年は天皇不在の空位の年なのである。ただ絶大な権威をもった炊屋姫尊と絶大な権力をもった蘇我馬子が「長谷部王が天皇です」と勝手に決めつけ宮廷の内外にもそう吹聴していたから世間的にはなんとなくそう思われていたので、またそのほうが都合のよい元興寺(飛鳥寺)でも『元興寺縁起』にある通りこの588年を崇峻元年としている。日本書紀はそれに依拠して編年したのである。あるいは、後付けで「587年は長谷部王の称制だった」ということにした、とも考えられないこともない。
しかし以上のことは考えすぎであろう。もし「一年間の先延ばし」もできなかったとすると、書紀のとおり、やむなく天皇になったのが587年で、崇峻元年は588年でよいことになる。これをムリにも否定して新説を立てなければならないような矛盾はとくにない。

崇峻天皇の戦い
よって、ここは『日本書紀』のいう通り、587年に即位して588年が崇峻元年だとして話をすすめよう。何度もいう通り崇峻天皇は本心では排仏派だったが、心ならずも成り行きで蘇我の傀儡天皇にされてしまった。しかしまだ諦めてはおらず、なんとか蘇我氏を打倒して物部守屋の仇を討とうとしていたのである。

崇峻二年(589年)・天皇のクーデター計画
近江臣蒲(あふみのおみ・かま)を東山道に、宍人臣鳫(ししひとのおみ・かり)を東海道に、阿倍臣枚吹(あべのおみ・ひらぶ)を北陸道に派遣して東国を視察させた。この3人は崇峻天皇の腹心かと思う。徴兵して軍事力を充実させるための下調べだろう。名目は後述のように任那復興(新羅征伐)のためである。この頃、任那復興は国家的な課題とされ、錦の御旗になっていたから怪しまれることはないが、実は天皇の私兵を密かに確保しようとしたのではないか。

三年(590年)八月
任那復興の詔勅。これは(少なくとも建前上は)朝廷あげての共同課題だからどこからも文句が出ない。別な言い方をするとこれを表向きの理由にすればなんでもできる。

四年(591年)十一月四日・クーデター失敗と天皇拘束
この日、5人の将軍に2万の兵を与えて九州まで進ませた。この5将軍のうち4人までは神仏戦争の時の武将で、蘇我馬子の配下だが、5将軍の1人、巨勢臣猿(こせのおみ・さる)は崇峻天皇の腹心かと思われる。おそらくこの時、崇峻天皇のクーデター計画の一部が漏れてしまったのだろう。崇峻天皇はのちに暗殺されてしまったので未遂に終わったが、裏では着々と蘇我打倒のクーデターの準備をしていたのである。未遂に終わったので計画の全貌は不明だが、任那派遣軍の一部がかかわるものだったかと思う。任那復興軍が玄界灘を渡る前に反転して、当時に東国軍も西上、中央で蜂起した天皇のクーデターに呼応して蘇我政府を撃破するという計画だよw そこまでうまくいかないとしても少なくとも脱出できるだけの私兵を確保すれば、あとは全国に檄を飛ばしてなんとかはなる。(※このうち北陸道に派遣された阿倍臣枚吹は今の羽黒山のあたりまでいったか(後述)。和銅5年(712年)に出羽国ができる前には、山形県沿岸部は北陸道の越後国に属し、山形県内陸部は東山道の陸奥国に属していた。近江臣蒲も少なくとも今の福島県川俣町までは行ったんだろう(後述)。川俣町は昔の伊達郡鍬山郷のうちだが伊達郡は10世紀に信夫郡から分置され、その前には信夫郡は一時、石背国に属していた)蘇我打倒といったが要するに排仏派の武力決起であり、神仏戦争の再開である。
それで蘇我馬子・額田部女王・竹田王・厩戸王の崇仏四天王が血相かえて、天皇を拘束・監禁し譲位を迫った。こうなっては崇峻天皇も無力なので従うほかないが、要するに皇位からひきずり降ろされるのだ。崇仏派は次の天皇として当然竹田王を立てようとしたが、崇峻天皇は最後の抵抗を試みた。事実上監禁されているといっても、譲位の発令には譲位の儀式が伴うのでどうしても朝廷に出御がなくてはならない。つまり貴族たちが大勢いならぶところ、公的な場所、人前にでるということだ。そこで事前の段取りとしては、彦人大兄皇子ではなく、竹田王を指名するようにと強制されていた。崇峻天皇もしおらしく服従したふりをして「けして彦人大兄王の名はださぬ」と約束していた。しかしこれは崇仏派を油断させる芝居だった。

崇峻天皇の譲位
で、崇峻天皇は段取りを無視して、竹田王ではなく厩戸王を指名したのである。わずかでも崇仏派に内訌を生じさせようという苦肉の一手だったが、これは予想外の出方で崇仏派は大慌て。「しばし待ち給え」といっても「厩戸王ほど聡明な皇子はなく、次の天皇にふさわしい」と天皇自身がいえば、並み居る群臣たちも「ごもっとも」としかいえない。確かに竹田王よりは優秀だったのだろう。だが厩戸王は「毎度ありー」とはならない。最高権力者の馬子と最高権威者の額田部女王は一説に愛人関係といわれるほど密着しており、その額田部女王は息子の竹田王を天皇にしたいにきまっているから、ここでは皇位を辞退しないと孤立してしまい、あとあと始末されないとも限らない。しかし当人が辞退したところで、崇峻天皇の素晴らしい人選に並み居る群臣たちも盛り上がってしまいいくら辞退しても場の空気は収まらない。この段階ではほとんどの貴族たちはまだ内心では排仏派であり滅亡した物部氏の勢力に同情的だったのであり、崇峻天皇の意図もただちに理解したから、その采配には喝采を送った。厩戸王にしてみればここでウッカリ天皇になったら悲惨な未来しかみえない。なので必死に知恵を絞って生き延びようとした。そこでまず額田部女王を上に立てたまま竹田王は正式な天皇ではないが事実上の天皇とする「称制」を提案したのではないかと思われる。先例としての神功皇后や飯豊女王の先例に鑑みても、神功皇后の場合は次の皇子として品陀和気皇子(応神天皇)、飯豊女王の場合は意祁命(仁賢天皇)がいた。むろん崇峻天皇も粘って、それなら額田部女王を上に立てたまま厩戸王が称制皇子でもよいではないか、となる。群臣もそれに賛成する。称制だなんだいっても事実上の天皇で、その後は本物の天皇として即位するはずとみられるのである。これでは妥協にならない。逃げ道をふさがれ万事窮した厩戸王は、ここで前代未聞の提案をすることになる。称制皇子は竹田王か厩戸王か曖昧にしたままでよいのではないか、どうせ実権は額田部女王が握ってるんだし、称制皇子はあくまで形式上は皇子であって天皇じゃないんだしいなくていいじゃん、と。そこでツッコミが入る、それはつまり、額田部女王が天皇ってことか、と。ここで厩戸王が「まぁそうでないような、そんなような…?」と曖昧なことをいうと話がまた混迷するので「まさにそのとおり!」とスパッと解決できたようなことをいってみせるしかない。で、話の行き先にハラハラしていた竹田王・額田部女王・馬子の3人も、「それ!それ!それでいこう!」と強引に決定して会議を打ち切るほか選択の余地がない。日本最初の女帝、推古天皇=豊御撰炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)はこうして誕生したのである。
(※ちなみに崇峻天皇の譲位(=推古天皇の即位)は崇峻四年(591年、この年の十一月四日かそれ以降)にあったのか、推古元年(592年の十月四日かそれ以前)にあったのかはわからない。もし前者なら踰年称元であり、後者なら立年称元である。書紀の通例からいえば前者のはずだが、今回は初の女帝出現ですったもんだがあったと推測できること、先帝崩御を承けての即位でなく譲位であること、等の異例の事態なので後者の可能性も高かろうと思われる。)

推古元年(592年)十月四日(書紀は誤って崇峻五年としている)
崇峻上皇(書紀は誤って現役の天皇としている)は、猪をさして「いつの日か猪の首を切るように鬱陶しいやつを斬ってやりたいもんだ」といった。宮殿の衛兵は通常より厳重な武装をしていた。この宮はこの段階では仙洞御所(上皇の宮殿)となっていて朝廷ではないが、厳重な監視下におかれていただろう。上皇はここから脱出する計画を密かに練っていたに違いなく、武装兵の増強はその一環だった。

同月十日
嬪(ひん/みめ。妃の階級の一つ、面倒なので以下「妃」と書く)の大伴小手子(おほとものこてこ)は寵愛の衰えてきたのを恨んでおり、このセリフを蘇我馬子にちくった。馬子は上皇(書紀は天皇とする)が自分を嫌っていることを知り大いに驚き、手下を集めて上皇暗殺計画を練った。…と日本書紀はいうのだが、本当かね? 皇子と皇女が生まれているから、おそらく大伴小手子は即位前からの奥さんであり、即位にあたって炊屋姫尊と馬子から押し付けられた妃というわけではないだろう。しかし大伴氏は蘇我についていたから、実家からは監視役みたいな役割も期待されてはいたんだろう。妃としては上皇が血気はやって危険な行動に出て今の幸せをブチ壊しにしないようにと、良かれと思って積極的に監視に務めていたのだろうが、上皇自身にとってはそれは敵対行為なわけで、いまさら寵愛が薄れたも糞もないはずだが…。あるいは上皇様は、妃にも内密に、危険なクーデター計画から妃の身を避けようとしていたのを誤解したのかな。すでに3人の腹心によって東国に準備ができており、万が一の時には妃や皇子たちを落ち延びさせる段取りも着々とすすんでいたのではないか。

皇子たちが逃げ延びた件についてだが。後世の説では崇峻天皇の宝算72歳とか73歳とかの説があるが、岩波版書紀の注釈もそれほど高齢ではあるまいとしている。異母兄弟の用明天皇は36歳説から69歳説までいくつもの伝承があるが、最も古い『水鏡』は36歳としており、これは552年生まれ。用明天皇よりは若いとすれば、どんなに年長でも552年より前に崇峻天皇が生まれたということはありえない。崇峻天皇の皇子、蜂子皇子は出羽三山の伝説では562年に生まれて崇峻天皇が暗殺された時31歳だったことになっているが、これだと父の崇峻天皇が11歳の時に生まれたことになり信じられない。おそらく生まれたばかりの赤ん坊だったか、蜂子皇子本人ではなくその次の世代じゃないのかとも思われる。それから蜂子皇子が黒人またはインド人だったんじゃないのかって話もあって、いろいろ面白い想像が花開くわけだが、この謎解きは次回に譲る。結論からいうと、出羽の羽黒山を開基して「能除太子」と呼ばれたという人は蜂子皇子ではなく、別の皇族である(詳細は次回)。蜂子皇子が出羽に逃げて生き延びたという伝承は、崇峻天皇が東国に腹心を派遣して兵員調達をさせたという史実と関係している。その際に、兵員調達以外にも様々な調査や工作を命じて万が一に備えさせたのだろう。なお小手子郎女と錦代皇女、小手子の父の大伴糠手の3人も奥州に逃げたという伝説が、今の福島県川俣町(昔の伊達郡鍬山郷のうち)に残っており、現地では「小手姫」(おてひめ)と呼ばれているが、『上宮記』に「古氐古郎女」とあるから「小手子」の読みは「こてこ」が正しい。で、「小手姫」は現地で養蚕の指導をしていたというが、最後は蜂子皇子にあえないのを悲嘆して入水自殺したことになっている。養蚕の指導をするほど時間があったのに蜂子皇子に会えないというのはおかしな話だが、これは伝承が崩れて半分は各地にありがちな民話のパターンが混ざってるのである。出羽の羽黒と福島の川俣町ではずいぶん離れているが、狩猟民の文化の色濃い当時の奥羽では往来や通信に不自由はしなかったろう。ただ別々に住んでるのは、羽黒の能除太子が蜂子皇子と別人なら何も不自然ではない。
小手姫像小手姫像(Wikipediaより)

それより馬子が驚いてるのもおかしい。上皇に嫌われてるのは当たり前であって、今更それを知ったからって大いに驚くわけがない。しかも「やらねばやられる」と思って逆に上皇を暗殺したにしては、知ってから暗殺まで20日以上も空いている。こんな呑気な反撃はありえない。密かに脱出の準備を進めている上皇が、スパイも同然の妃の前で不用意な発言したとも思えない。「首を斬ってやりたい」という上皇のセリフは馬子や厩戸王や推古帝や竹田王の4人、あるいは自分を拘束している周囲の全員を漠然とさしているのであって特定個人をいってるのではないのではないか。また特定していない上に、現代の日常の会話でもそうだが、殺してやりたいというのは願望であって「殺す」ではないし口でいったからって本気とも限らない。死ねっていったからって実際に殺すことは現代人ではまずない、それと同じことなのである。馬子が驚くならそんな気分的なことではなく、第一に宮殿内の武装兵に驚いたはずで、小手子妃の通報内容も斬ってやりたいとかのどうでもいいセリフではなく、この武装兵の目的についての情報だったはずだろう。馬子の反応から逆推すれば、武装兵の目的は蘇我殺害ではなかった。馬子にとっても、少なくとも20日間も放置する程度のことにすぎなかった。要するに小手子妃が馬子に通報することを見通していた天皇によって、小手子妃はなんらかの偽情報をつかまされたのである。だから驚いたといっても急に馬子の身が危なくなるようなことではなく、表面的には「上皇様が神功皇后よろしく任那派遣軍を自ら率いて海を渡り新羅を征伐する」と言い出したとか、そんなとこだろう。しかし裏では脱出計画ではないかと疑いもしただろう。

十一月三日
馬子は群臣を騙して東国からの貢を進上するとして、その場で東漢直駒(やまとのあやのあたへ・こま)に天皇を暗殺させた。…と日本書紀はいうのだが、さて? 「東国からの貢」というのは上皇を油断させるためだろう。宮殿の武装兵は東国兵で、近江臣蒲・宍人臣鳫・阿倍臣枚吹が集めてきた連中にちがいない。むろん蘇我馬子に警戒されないような何らかの名目もあり、事前に馬子も了解した上でのことで、馬子も当然、上皇が脱出計画を抱いてる可能性に警戒はしていただろうが、世間の目もあるので完全隔離というわけにもいかない。「東国からの貢」も「3人の腹心とのいつもの会合」として事前に決まっていたことで、蘇我馬子はその機会を利用したのである。むろんこの日以前のある段階で上皇の脱出計画の全貌をつかんだ。その情報を最初につかんだのは蘇我馬子か厩戸王か推古帝か竹田王かはわからないが、この4人はツーカーの仲で一味なので、誰かに入った情報は他の2人にもすぐ伝わるのである。日本書紀は蘇我馬子1人を悪役に仕立てようとしているが、厩戸王と推古帝の2人がまったく関係ないということありえない。4人が共犯だろう。権威と権力をもった朝廷の重鎮が4人とも共犯なんだから、上皇暗殺というとんでもない事態にもかかわらず、さしたる紛糾も起こらなかったのである。むろん群臣百官、貴族たちには心理的な動揺はあったろうが、ここで崇峻上皇の一派だと認定されたら命がないので静かにしてる他ない。ただし4人組も、最初から上皇を暗殺するつもりだったわけではあるまい。現代人は「天皇」というのは地位や役職のように誤解しているから、即位前の皇子や退位した上皇ってのは天皇じゃないただの人に近いように思ってるかもしれないが、胎中天皇の例でわかるように、天皇というのは産まれる前から天皇であり譲位してからも、崩御の後も天皇であり、天皇になったり天皇でなくなったりはしないのである。神はずっと神のままであり、人間はずっと人間のままであり、動物はずっと動物のままであるように、天皇はずっと天皇なのである。それが魂の実態であり、即位したり退位したりというのは社会制度上、同時に天皇が複数いるとややこしいから便宜的に交代してるってことにしてるだけ。それを折口信夫が「天皇霊」が継承されと解釈したのは現代風の考え方に引きずられた誤った説である。だから大昔の人にとっては上皇も天皇となんらその神聖さに違いはない。いくら大臣と太子と女帝の命令でも天皇と同格同等の上皇を殺せといわれて「はい」というやつはこの時代にいない。この時代は反天皇思想なんてまだなくて、天皇は神だと思われていたんだから。しかも崇峻上皇は格別に庶民にも貴族にも人気がないわけでもない。むしろ皇位から引き降ろされてからはアンチ蘇我の旗手として人気があった可能性が高い。だからもし東漢直駒が犯人なら、彼れには上皇を暗殺せざるをえないような何らかの「個人的で特殊な事情」があったか、または駒はスケープゴートで真の下手人は別にいたかだろう。崇峻上皇より権威のある上位者といえば敏達天皇の皇后だった炊屋姫尊しかいない。先帝の皇后は皇位継承問題についても決定的な発言権をもつことは以前にも書いた。用明天皇は中継ぎ的な存在で正統性も危ぶまれるような天皇なので除外される。崇峻天皇を天皇にしたのも事実、炊屋姫尊の意志だった。用明天皇も崇峻天皇も、中継ぎの天皇と見られており、最近の天皇で本物の天皇は敏達天皇である。その皇后だった炊屋姫の権威は用明天皇や崇峻天皇より格上だったろう。ただし、荒事(あらごと)の現場に女帝みずから出てくるのも考えにくいから、推古天皇の勅命を奉じて竹田王がやってきたのではないかとも思われる。竹田王は順当にいくと(日子人大兄王を除いて)崇峻天皇の次の天皇だった。竹田王といえども上皇殺害には正統性がないのではないかといわれそうだが、崇峻上皇が脱出を計画してまたも排仏派を滅ぼそうとしているということは、蘇我と一心同体の推古天皇も標的になっているという解釈が可能である。ならば形式的には逆賊の烙印も押すことができる。一説では蘇我馬子と額田部女王は愛人関係だったともいう。そこまで極端には思わないまでもそれなりに親密な仲だったことは事実だろう。竹田王は推古天皇の実の子なのだから儒教的には崇峻上皇は親の仇であり、親を守るためには上皇に歯向かうこともやむをえない。しかもその親は現役の天皇なのだから、忠でも孝でも理屈は成り立つ。竹田王だけでなく、熱心な崇仏派である厩戸王も「仏教を守る」ために同行した可能性が高い。仏教では王侯だろうが乞食だろうがあらゆる人間は平等無差別で死ねば無になるのであって身分差など認めないから、天皇の死も奴隷の死も等価値なのである。この頃の厩戸王は年齢も若く、理屈をそのまま信じて観念的な理想に燃えてしまう若さゆえの傾向があったろう。仏教原理主義的にいえば天皇の尊厳など否定するのが中二病的でかっこいいのである。まぁ左翼が天皇制廃止を訴えるのと同レベルの話だが。じゃ、政治はどうするんだっていえば、そこは中華式の皇帝制度という合理的で近代的なやり方でやればいいと思ってるわけだよ。本当は儒教と仏教は原理的に両立しないんだが、今も昔も外国の思想については一知半解で「浅い」のが日本人で、「適当に日本式で取り混ぜてればうまくいく」と思い込んでるんだよ。そんなわけないんだけどね。梅原猛の本みたら「十七条憲法」ってのは仏教・儒教・法家思想の三者を組み合わせた構造になってる。つまり日本人のなんでもごちゃまぜにして「各宗教はお互いに矛盾しない」という悪しき曖昧主義は、聖徳太子が元祖だったってこったw ともかく話を戻すと、竹田王や厩戸王がでてくるシナリオの場合、東漢直駒は竹田王や厩戸王の手勢の1人にすぎなかっただろう。

古事記と書紀で崩御日が10日ズレてるわけ
日本書紀は三日(つまり暗殺のその日)に崩御したとしているが、古事記ではその10日後の十三日に崩御という。古事記が正しいとした場合、上記の暗殺事件も10日後の話だったとすれば簡単だが、そうとも言い切れない。事件は三日にあったのだが三日に刺されて重体に陥り10日後に崩御とも考えられるし、三日に崩御したのだが前代未聞の事件なので10日間秘匿され改めて十三日に崩御したことにして発表されたとも考えられる。しかしおそらくはどれでもない。古事記では十五日に崩御する天皇がやけに多く不自然なので、おそらくこれは実際の崩御の日ではなく「大葬の礼」だと思われる。夜の儀式があって月あかりがあった方が望ましいから十五日(満月に近い日)にやることが多かったか、あるいは死者の魂が満月の夜に天に昇るという信仰があったか、いずれか一方もしくは両方だろう。ただし崇峻天皇の場合、十五日ではなく十三日になっている。月の運行は完全な円運動ではなくて複雑な動きをするため、暦月によっては満月が前や後ろにズレたりする(実際に満月になることが多いのは十五日ではなく十六日)。あるいは実際の満月とは関係なく何かの事情、例えば占いで縁起の悪い日を避けるとか、なんらかの理由で前倒しされたかと思われるが詳細は不明。
ともかく、要するに崩御の日付けに限っていえば日本書紀が正しく、古事記は大葬の礼の日付けだと思われる。

暗殺事件の顛末

同月同日
上皇崩御。史上有名な暗殺である。
はじめから暗殺する予定ではなく単に脱出計画を阻止して上皇を再度捕縛拘束するのが目的だったと思われる。いきなり殺そうというのは考えにくい。ただ、相手が上皇なので竹田厩戸の手勢がが気おくれしてしまったのと、もともと脱出を考えていたぐらいの上皇だから、宮殿内で小規模な武闘になってしまった。崇峻上皇も自ら剣をとって抵抗し、上皇の身を害さずに捕らえるのは困難なため、戦闘が長引いた。自分を捕らえようとする者どもを前にして、上皇は自分の脱出計画が蘇我にバレてしまったことに気付いた。万事窮す、最期の時はきた。そこで上皇は、その昔、雄略天皇が葛城氏を征し、武烈天皇が平群氏を伐った故事をあげ、両天皇にならって蘇我を討つことを高らかに宣言したにちがいない。あとは味方の生き残りや敵兵の中の者らによってこのことが外へ伝えられるのを期待できるだろう。長谷部若雀命(はつせべわかささぎのみこと)という讃え御名(尊号)は上皇の決起の趣旨に賛同する庶民大衆によって誰からともなく捧げられたものなのである。本居宣長は武烈天皇の「小長谷若雀」という名と混同されたもので単に「長谷部命」というのが正しいとして、今もその宣長説に従う学者が多いが、そんなオタンコナスな説はぜんぜん認められない。さて、仮りに上皇のこの宣言がなかったとしても、乱闘なり異常事態なりが起こっていることが外に漏れると、普通に考えて、何も知らない者たちが上皇に味方しようとして続々集まってくるし、上皇陛下がまたしても蘇我征伐の狼煙をあげたことが広まれば、さらに上皇の思うツボだ。そこで乱闘開始後に、馬子か厩戸王か女帝のうち誰かの発案で、「上皇を殺せる事情をもつ稀有な人材」として東漢直駒に白羽の矢が立った。東漢直駒に上皇暗殺の任を引き受けさせる説得もラクではないはずだが、後述のようにすぐに駒の出番が考えられたとも思えず、この案は却下したい。別案では、竹田王(か厩戸王?)が上皇の決起を鎮圧するために手勢を率いてきており即時に上皇を逮捕、隔離。試案の末やはり死んでもらわないと自分らの身は保てないと判断し隔離された空間で上皇を暗殺した。
この乱闘を無かったことにしたい蘇我一派は、後々も上皇の名の「若雀」をけして認めず単に「長谷部命」とのみ称えた。日本書紀は「昔は譲位というものがなく崩御するまで在位していたはず」という前提での編年になっているため推古元年を崇峻五年と書きかえ、その分、推古天皇の在位を1年へらして辻褄をあわせている。

同月十三日
崇峻上皇の大葬の礼(上述)。

東漢直駒が受けた密命は「天皇殺害」ではなかった

同年同月(日は不明)
この同じ月に、東漢直駒が蘇我河上娘(そがのかはかみのいらつめ)を誘拐した。wikipediaは岩波文庫の注釈を真に受けて崇峻天皇の嬪の一人だと決めつけているが日本書紀のどこにもそんなことは書かれていない。嬪だとはあるが誰の嬪なのかは書紀の文面からはわからない。ただし彼女は馬子の娘である。馬子は彼女が東漢直駒に誘拐されたのを知らずに死んだと思っていた。のちに真相がバレて、東漢直駒は馬子に殺された。…と日本書紀はいうのだが、おかしくないか? 東漢直駒は暗殺犯なんだからそのまま処刑すれば済む。それで真相もバレなくなる。日本書紀の書き方だと、東漢直駒は誘拐犯として殺されたのであって、上皇暗殺とは何の関係もないことになる。しかも、馬子はそれを知らなかったというのだから、当初、河上娘は1人で家出でもしてたと思われたのか? それなら捜索されてもいたわけで大貴族のお嬢様がどうやってゆくえを晦ましていたのか? おそらくは2人の仲は周知で、馬子もしぶしぶかどうかともかく黙認していた程度の仲だった。東漢直駒が天皇暗殺犯だと知られていたら、真っ先にその罪状で処刑されるはずで、誘拐犯として殺されるなんてことはありえない。だから、この段階では上皇は誰に殺されたのか不明だったのである。上皇暗殺の現場に誰もいなかったことになるが、そんなことありうるのかという疑問はひとまずおくと、この男はまず誘拐犯として処刑され、しかるのちに「実は上皇暗殺犯でもあったことが判明した」という順番になる。…これは胡散くさいw 大本営発表じゃないのか? 処刑した後でちょうどいいから濡れ衣きせて「こいつが暗殺犯」ってことにしとけっていう…。上皇殺害の現場に誰もいなかったなら東漢直駒に罪を着せるのは簡単だ。東漢直駒は上皇の決起を鎮圧できず、竹田王と厩戸王が加勢にきて捕縛できた。もしくは最初から竹田王が捕縛したのであって東漢直駒は手下の1人だった。崇峻上皇が再拘束された後なら、犯人は権力の上層の誰かなのだから誰もみていない隔離された室内で上皇を殺害することが可能で、しかも最後に部屋からでたのは東漢直駒だったと偽証すれば、簡単にスケープゴートにできる。ところで、この河上娘は、嬪(みめ)だとあるから崇峻天皇の妃とする説があるがそんなことは記紀のどこにも書かれていない。嬪は嬪でもこの人は厩戸王の嬪なのである。『聖誉抄』(太子傳聖譽鈔)によると聖徳太子の3人の妃の1人として「河上娘」とあり、その父は馬子とあるので、これは日本書紀でいうと厩戸皇子の正室、刀自古郎女(とじこのいらつめ)と同一人物となる。つまり東漢駒と河上娘は不倫で、厩戸王とは三角関係になる。で、河上娘は行方不明で馬子は娘が死んだと思っていたってのは後付けだろう。実際は厩戸王と分かれて東漢駒と同棲しており、それが長い間、黙認されていたのである。誘拐してすぐ駒が殺されたなら、「娘が死んだと思っていた」なんてことはわざわざ書かれないはずだからな。ここで現代人なら、厩戸王が東漢直駒を憎いと思ってこいつを暗殺犯に仕立ててやろうと思ったんだろうと推理するだろうが、そうはならない。皇族貴族の結婚ってのは多くが政略結婚で必ずしも熱愛が伴うわけではないし、大昔から明治以前まで日本では離婚や再婚についてのタブー意識も全然なかった。厩戸王ぐらいの皇族だとその気になれば嫁なんていくらでも手に入るんだし、仏教思想に夢中になってる中二病青年が女性との恋愛にうつつを抜かすとも考えにくいんだが。しかも他の男と相思相愛の女に? かように、河上娘にさしてご執心でもなかった場合、何か別の見返りと引き換えに河上娘と東漢駒の関係を認めてあげた可能性は高いだろう。もし厩戸王が大きな心で2人の不倫を許していたら? 東漢直駒は深く恩義を感じて、厩戸王の忠実な手先になっていたのではないだろうか。厩戸王本人が許していたからこそ、蘇我馬子もやむなく2人の仲を黙認してたわけだろう。むろん厩戸王は東漢直駒に上皇暗殺など命じていない。密室で殺害した後で権力にものをいわせれば誰にだって罪をなすりつけることは可能だからだ。崇峻上皇を捕縛、再拘束することまでは、推古天皇・大臣馬子・竹田王・厩戸王らの中で合意されており、捕縛の手柄も立場上もっとも風当たりのなさそうな竹田王が「母を守るため」、「厩戸王」が「仏教を守るため」やむなくしたことで、上皇陛下にご翻意を懇願するという形をとる予定だったのだろう。ここまで、東漢直駒の出る幕は実はない。だが乱闘中に崇峻上皇が打倒蘇我と排仏を諦めてないことが判明したため、捕縛の後には即刻死んでもらうしか推古女帝・馬子・竹田王・厩戸王らの選択肢がなくなってしまった。密室だから誰が下手人かはわからないが情況からいって厩戸王か竹田王のどちらかだと一般人は思うだろう。しかしここまで急展開だったため、具体的に誰に罪を着せるかはまだ考えられていなかった。厩戸王・竹田王にも名分があったとして2人の責任を軽くする一方、乱闘の中で負った傷が元で崩御したのだとして、下手人をウヤムヤにするつもりだったんだろう。だがこういう予想外の展開になってしまうと、崇峻上皇が蘇我打倒に立ち上がって返り討ちにあったという悲報はあっという間に全国を駆け巡り、上皇陛下への哀悼と蘇我馬子への怒りと殺害の下手人への憎しみは全国民に燃え盛ってしまった。推古天皇はただでさえ蘇我べったりと見られているので、どうしても下手人の特定と逮捕、処刑を急がねばならない。ただでさえ女帝なんてきいたことがなく、当初から偽天皇よばわりする者はいくらでもいただろうに、事件の後処理を誤れば、推古天皇は上皇殺害の一味とみられ、正統性に著しく傷がつき、ひいては偽天皇の烙印から逃れるため至急の退位もするはめになりかねない。でだ、さぁここで厩戸王の忠実な配下である東漢直駒の出番となる。東漢直駒が厩戸王から受けた密命は、崇峻上皇の遺体が発見された直前に密室から1人で出てきたのは竹田王だったという目撃証言を噂として流すことなのである。実際に庶民にこの噂が流れ始めて、推古天皇は仰天して、噂の出どころを極秘に調査させ、早急に東漢直駒を始末してしまったんだろう。そうすると今度はこれを捜査せずに放置すると東漢直駒を殺害した犯人は竹田王と推古天皇だろうと誰でも考える。そうなっては藪蛇なのでとっさに蘇我馬子が気を利かして自分が殺したことにしたわけだ。自分の娘をかどわかしたやつなんだから馬子が駒を殺してもこれなら一応は理由が立つ。が、庶民がそんなバレバレな嘘を真に受けたとは思われない。ともかくこれで推古天皇と竹田王は非難の的となり、即位元年にして日本初の女帝の権威も暴落、竹田王が天皇になる目は完全になくなった。すべては厩戸王が竹田王をとびこえて天皇の位に一歩近づくための布石だったのである。
ところが、にもかかわらず、皆様ごぞんじのとおり、厩戸王はついに即位できなかった。それはなぜか。

エピローグ:竹田王の謎
竹田王は神仏戦争の後は歴史に登場しなくなるので、その時に戦死したんではないかという説がある。しかし、それなら崇峻天皇の後は厩戸王がそのまま天皇になればいいんで、女帝が登場する理由がなくなってしまうように思う。日子人大兄王と厩戸王の二人の天皇候補の争いを先延ばしするために女帝が立った、という説も比較的通説に近いが、それにも同意できない。日子人大兄王にそこまでの力があるのなら、そもそも用明天皇が即位せずに敏達天皇の後はすぐ日子人大兄王が天皇になったはずだろう。それを蘇我馬子の横槍で用明天皇を即位させることができたんだから、当時よりさらに権力の増大している蘇我馬子が日子人大兄王を無視できないはずがない。だから、女帝を立てて先延ばしにした問題というのは、日子人大兄王と厩戸王の争いではなくて、竹田王と厩戸王の争いなのである。ネットをざっとみてたら、推古天皇即位の直後から厩戸王が摂政になるまでの間(つまり推古天皇が即位してまもなく)に竹田王が薨去したと推測する説がある。この説のほうがややマシに思える。竹田王が薨去したのなら、そもそも額田部女王が女帝になる意味もなかったわけだし、即位しちゃった後であっても、すぐに厩戸王にまた譲位、という選択肢も十分にありえたし、実際にそうなると当時はみな思ったろう。
一つの考えとしては、厩戸王としては、いつでも天皇になれるという情況ができてしまうと、今度は急にあせらずともいいかな、という気分になった。なぜなら、天皇というのは年がら年中、神道の祭祀に追われて忙しいのと、いろいろ制約が多くて自由が効かない。厩戸王は仏教信者で仏教の儀式ならやりたいが神道の祭祀には興味がないのと、仏教の研究(それには書物を読むだけでなく仏教行事や仏教儀式も含まれる)に昼夜うちこみたいわけで、必ずしも天皇になればハッピーずくめということではない。額田部女王はもう即位しちゃったんだから当面は女帝としてがんばってもらって、自分は権力だけちゃっかり頂いて「摂政」という身分に留まった。…というのが真相ではないか。馬子にしてみりゃ同じ傀儡ならどっちでもいい。推古女帝は最愛の息子なき今、甥の厩戸王をもりたてていくことにした、と。だが儀式だらけで身動きがとれないほど天皇が忙しくなるのは平安中期以降で、当時の天皇がそんなキツ苦しいものだったとも思えない。
もう一つ釈然としないことがある。竹田王ほどの重要人物に死亡記事がなくていつの間にか消えてるなんてことあるかね? この人もしかして死んでないんじゃないの? 歴史から消えたというのは政局に出てこないというだけで、つまり政治から手を引いたってことだろう。だが一度でも皇位継承のライバルになった者が「俺は政治引退した」と言ったって安穏に暮らせるものでなく、厩戸王が天皇になったら暗殺の手が伸びるかもしれないし、謀反の疑いをかけられて処刑されるかもしれない。 額田部女王が女帝の地位に留まったのは厩戸王にブレーキをかけて我が子を守るためだったのではないか? なぜ竹田王は政治から足を洗ったのか、よりによってこの時期に。このタイミングだからこそ考えられるのは、要するに崇峻天皇暗殺の下手人は、厩戸王に唆された竹田王だったのか、実は厩戸王本人が下手人だったのか、どっちかはわからないが、いずれにしろ、厩戸王の策で、世間一般の認識では竹田王が下手人ということで世間の批判を浴びることになった。厩戸王の人間性にも絶望したろうし、本人は良かれと思って(あるいは、やむをえずと思って)やったことだから、自分の人間性を全否定してくる世の中にも嫌気がさしたんだろう。そこで家出だよw 竹田王は溺愛されて育ったからヤンチャでワガママだけれども素直で裏表がない。厩戸王のように過剰に知能が高いため人がバカにみえたり小細工を弄して情況を支配しようとするタイプとは違う。同時期にどうなっちゃったのか気になるのがは蘇我河上娘もそうだろう。彼女の情夫、東漢駒が殺されたのもめぐりめぐって竹田王のせい(少なくともその一味のせい)ともいえるわけで、贖罪の意識からなんとなくねんごろになって二人でどこか遠くに逃避行…。なんて筋書きはどうかね? 竹田王の人柄ならありそうじゃんよw 出羽の羽黒山を開基した能除太子というのは崇峻天皇の皇子、蜂子皇子だというが、蜂子皇子は当時30歳というのは伝説の誤りで赤ん坊か子供だったはずだから、彼を守って落ち延びたのは崇峻上皇の旧臣たちだったろう。そういうことがもし本当にあったのなら、竹田王と河上娘もどこか遠方に逃け避って辺境で暮らしたなんてこともありうるんではないか。
そう思って改めて『日本書紀』の推古天皇の巻をみると、実に不思議な、ある事件が目に付く。それは…。

予告編:「片岡山飢人伝説」の謎
それはもちろん『日本書紀』推古二十一年(AD613年)にでてくる「片岡山飢人伝説」といわれる事件だ。現代人からすると超常現象まるだしで、とても事実と思われないため、通常この事件は、信仰上の説話であるとして、歴史上の事件(とくに政治史)として扱われることはない。だが、それじゃこの事件は誰かが創作したんだろうか、誰がいつ? 創作じゃないとしたらなんでこんなオカルトめいた不思議な話になってるのか? その真相は?
…おっとここまでw それはもはや崇峻天皇の章で扱うことではないだろう。推古天皇の章で詳細に語りたい(まだ書いてないけどいずれやります)。
(※推古天皇に続く)

古事記はなぜ敗北者にやさしいのか

2680年(令和二年)12月14日改稿 平成29年5月11日(木)初稿
福井と敦賀
ずいぶん前だが、後輩に誘われて福井に旅行したことがある。名物ソースカツ丼、鶏の唐揚げも美味かったし飲み屋も良かった。福井には五つの神社に祀られた「福偉神」(ふくいじん)ってのがあって福井出身の歴史上の5人の偉人、継体天皇・新田義貞・柴田勝家・橋本左内・松平春嶽で街おこししてた。この中ではもちろん古事記に関係あるのは継体天皇なわけで、継体天皇ゆかりの足羽山(あすわやま)には同帝を祀った足羽神社(あすわじんじゃ)や、同天皇の巨大な石像その他あれこれあって観光によし。福井での継体天皇についてもおもしろい話が無限にあるがそれは今回の本題ではない。ここの足羽神社の御祭神をめぐる諸問題については「阿須波神・波比岐神」の頁であれこれ論じる予定。
福井滞在中にちょっくら足を伸ばして敦賀の気比神宮にお参りにいってきた。ここはもちろん古事記にでてくる大神社で、応神天皇がいまだ皇太子だった時に、禊(みそぎ)のために武内宿禰(たけしうちのすくね)と二人でやってきたという神社だ。だから「禊の神様」なんだろうな本当は。今の気比神宮は、じゃなくて、今の神社はどこも、豊年満作・無病息災・交通安全・事業繁栄・恋愛成就・試験合格・健康長寿みたいなことばかりいってるけどさw まったくスルーするのもしらじらしいから言っとくと今じゃ敦賀といえば原発銀座の一角で「もんじゅ」も近い、原発問題までやってたらキリがないし古事記と関係ないからふれないが。関係ないこともないか、禊の神様だし。どこの地方都市もそうだが敦賀の街もなんかさびれた感じで昼間からやってる店を探すのがたいへんだった。けど、さすが北陸の港町、寿司は美味かったな。港には崇神天皇の時に任那からきた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の銅像が立ってる。港を見下ろす城趾、織田信長に滅ぼされた朝倉氏の金ヶ崎城址もある。源平時代にもあった城で、南北朝の頃には恒良親王・尊良親王を奉じて新田義貞が足利軍を迎え撃ったのもこの金ヶ崎城だった。ふもとの金崎宮には恒良親王・尊良親王が祀られている。
廃炉になる実験炉もんじゅtsuruga_town_street.jpg←ツヌガアラシト像、じゃなくてメーテルと鉄郎。同じようなものではあるが。

香坂王・忍熊王の乱
古事記では神功皇后が香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)の叛乱を近江に鎮めたとの記事に続いて、次の気比神宮参りの記事も近江から若狭を経由して敦賀にいったように書いてあるので、反乱を穢(けがれ)とみなし、この穢れを祓うため反乱の現場だった近江から直接に敦賀をめざして禊をしにいったんだと解釈する説もある。が、反乱討伐の当事者だった神功皇后や将軍たちは穢れず、皇太子と武内宿禰の二人だけが穢れるというのはへんな話だ。日本書紀では、反乱の制圧が神功皇后摂政元年、気比神宮参詣が同十三年だから、12年も経ってからのことで鎮圧と気比参りは無関係な別事件にみえる。だから当然、近江や若狭の経由地もなんらふれることなく都(磐余稚桜宮)から直接に敦賀にいったかのように読める。これは時期に関しても、反乱とは別事件としていることも、日本書紀が正しい。がそれ以外の諸点については大筋で古事記が正しいだろう。古事記がどうしてそういう誤りを犯したのかっていうと近江から若狭経由で直接いったという伝承があったからだろう。実はこの時はまだ成務天皇時代の「志賀の高穴穂宮」(今の大津市)をそのまま使っており、磐余の稚桜宮(奈良県橿原市)はまだ無かったと思われる。古事記は年代を書いてないからあたかも反乱の直後であるような誤った印象を読者に与えてしまう。書紀は独自の歴代天皇フォーマットで宮都の奠定は元年であるはずというパターンで書いてしまったため十三年の気比詣では大和の稚桜宮から敦賀までの経路にわざわざ近江、若狭を記述する意味が不明になってしまうのでこの2国の名は削除したのだろう。しかし古事記では近江から行ったにしてももし直接敦賀を目指したのなら、わざわざ若狭を経由したことを書く意味あるのか。文面は何かを探すように近江、若狭をさまよっているうちに気比大神が皇太子の夢に現れたように書かれている。だから気比参りは夢での神示に導かれたもので、最初から敦賀を目指したわけではあるまい。では皇太子はなんの目的で近江、若狭方面をさまよっていたのか? これは武内宿禰だけがお供で、普段から一緒の母后と別行動なのが第一のヒント。皇太子(のちの応神天皇)は神功皇后摂政元年の前年の十二月十四日生まれだから、この時(神功皇后摂政十三年二月八日)は数え才では13歳だが満年齢では12歳、というのが第二のヒント。これは「としのほし」とも呼ばれる歳星(さいせい=木星)が黄道を一周する節目で、占星術でいうと木星リターン、ひらべったくいえば干支(えと)のめぐりでいう最初の「年男」(としおとこ)にあたる年齢で、現代なら小学校の最後の年。中学高校の修学旅行の予行演習的な、宿泊学習とかの行事のある学年じゃないか? おそらく何か年齢相応な、一種の通過儀礼みたいなものだろう。この頃の男児は数え才13歳か満12歳で、両親とは別行動で、宿泊旅行するならわしがあったと推測する。これは神話に伝わる須佐之男命の冒険譚をなぞるもので、冒険だから目的地が決まっていてもいいが、あらかじめ決めずに放浪の旅でもいいわけなのだ。そういえば、ものごころついてからずっと婆さんと二人暮らしだった俺が、田舎を飛び出して東京に住む両親の元に移ろうと決心して一人列車に飛び乗ったのは小学校6年生だったなぁ。俺のことはどうでもいいが。

生きていた忍熊王
記紀では忍熊王は死んだことになってるが、琵琶湖に落ちて水死しようって時にもノンキに歌なんか詠んでることになっておりちょい不自然。日本書紀だと忍熊王は琵琶湖の南端、有名な「瀬田の済し」で水没したが遺体がみつからず、数日後に宇治川で発見されたという。これはニセの遺体じゃないのかとは誰でも妄想することで、だからなのか、後世の福井県越前町の劔神社(つるぎじんじゃ)の社伝では、忍熊王は応神十三年二月に都(大津?)を脱出して敦賀から海路北上、敦賀郡伊部郷(今の越前町)の梅浦から上陸、伊部臣(=忌部臣:いむべのおみ)が座ヶ嶽(くらがたけ)に祀っていた神剣を得、現地(越前町一帯?)の悪者を退治したという。座ヶ嶽ってのはgoogleマップで見つからず近所に似たような名前の烏ヶ岳(からすがたけ)だろうかとも思ったがそうではなく、劔神社の北300mほどのところの小山だった。山としては表示されないが頂上に「座ヶ岳社」という祠がありこちらで検索すれば出てくる。記紀では垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)が鳥取川上宮(今の阪南市のあたり)で千本の剣を作ったとある。この剣はその千本の剣のうちの一振りという。忍熊王は郷民から都留伎比古(つるぎひこ)と呼ばれて土着したという。明示はされてないが御公儀から何のお咎めもないのは要するに反乱については裏でひそかに御赦免されたってことで、建前上は反乱の首謀者だから表向き御赦免にはできないが、何者かに騙されてのことで、本人には情状酌量の余地があったと判定されたか。まぁ応神天皇が生まれるまでは、次の天皇は誰しも香坂王か忍熊王のどっちかだと思ってたんだから、新羅征伐の留守番役やってる時に「合戦のさなかに天皇陛下が戦死して次の天皇が生まれたばかり」なんて速報をきいても「え?どういうこと?俺の立場は?」となるのもわからなくはない。そこで熊襲か新羅に心を寄せる者がいてあることないこと吹き込んだら、謀反といわずとも武力に訴えても真相を問いただそう、という気にならんでもない。
仮にこれ本当だとすると、首都に10年以上も潜伏してたことになるので、武内宿禰が匿っていたのだろう。それに十三年二月は皇太子(応神天皇)と武内宿禰が気比神宮にお参りにいった時。つまり都から脱出といっても、おそらく皇太子のお供に身をやつしてのことだろうから、皇太子の気比参詣は表向きは13歳の通過儀礼でも、裏では忍熊王を越前に逃がすための隠密作戦だったわけだw 近江~若狭を彷徨っていたのも「逃亡した忍熊王を捜索している」という建前でのカモフラージュか。越前で退治した梟賊ってのも、もしかしたら香坂王・忍熊王を唆して謀反させた黒幕で、そやつを追いかけてのことだったのかも知れんねw そやつの正体が熊襲なのか新羅人なのか、熊襲派または新羅派の日本人なのかはわからんが、越前に逃げたのは海路で新羅に逃亡しようとしていた可能性が高いだろうな。

気比神宮がむすぶ古事記と南北朝
建武の新政がつぶれた時、後醍醐天皇らは京都から逃げて比叡山に立て籠もったが、尊氏と和議を結んで(事実上の降伏だが)尊氏の支配する京都に戻ることになったが、下山する前に恒良親王に皇位を譲って、上皇の資格で京都に還幸した。恒良親王(つか天皇)は新田義貞らとともに北陸平定のために敦賀に向かった。この頃の気比神宮は北は佐渡に至るまでの北陸諸国に領地をいくつももっていて、南朝側の大勢力でもあった。大宮司の気比氏治・斉晴の父子は金ヶ崎城を築いて恒良親王(つか天皇)御一行を迎え、足利軍を迎え撃った(金ヶ崎城の戦い)が、気比氏治の一族含めおもだった武将の多くが討ち死に、恒良親王(つか天皇)は捕らえられ、京都に護送された。この恒良親王は実際に天皇だったことは三種の神器も継承していただけでなく、多くの綸旨などが残っていることからあきらかだが、歴代に加えられていない。明治になって弘文天皇や長慶天皇が復活したのに、まったく筋が通らないが、結局明治の判断基準ってのは水戸学であり太平記史観なんだよね。恒良親王の即位を公式に認めてしまうと「後醍醐天皇が建武中興の時から吉野朝を開いた時まで一貫して天皇だった」という理屈が成り立たなくなる。だから後醍醐天皇の知略つまり足利軍への目くらまし作戦だったという後醍醐天皇賛美に回収しておきたいわけだろう。失礼にもほどがあるだろう、恒良親王に対して、そして皇位の重み、皇位の尊厳に対して。南北朝の正統論をどう整理するかは細かい話がいろいろあるが、世間でよくいうのは明治天皇の勅裁で南朝の正統が決まったといわれているが詔書も勅書も勅語もあるって話をみたことがない。ただの閣議決定だったんじゃないのかって疑いもある。正統性の議論は簡単でなく今回は議論の詳細にふれないが、塩焼王、北白川宮(東武天皇)とならんで恒良親王が天皇として認められていないことは、日本人の正義とは何かという哲学の営みに重大な障害を及ぼし、ひいては日本文化の思想的欠陥の根本原因になっている。大日本帝国臣民たるもの、すべからく恒良親王を天皇として今すぐ崇敬奉賛しなければならないし、尊称をもってするに仮に「金ヶ崎天皇」「越前天皇」「敦賀天皇」「気比天皇」等とせば如何。なんでこんなことを言ってるのかというと本日平成29年5月11日(木)は本来なら「越前天皇正辰祭」の日だからだっ! 崩御の建武五年四月十三日(1338年5月11日)から数えると「679年祭」となる。
気比神宮はかように、上代では記紀の応神天皇、中世では南北朝の争乱に関係してる。記紀に描かれた時代には、皇族が地方にくだって土着して地方勢力になるというパターンが多いんだが、後醍醐天皇も皇子たちに兵をつけて全国各地に派遣、南北朝の争乱が長引くと、結局その皇子たちは各地に土着して南朝伝説を残したり、地元の武将たちの先祖になっていく。後醍醐天皇は上古の皇族のありかたに復古したのだ、ともいいたくなる。
が、そうするとしかし、記紀のは統一中央政府から平和的に派遣されてきて土着するんであって、日本人同士殺しあい実力で土地を奪ってた南北朝の内乱と同じパターンとはいえない、という反論もあるだろう。しかし記紀では、平時に中央から派遣されて地方に土着する通例のパターンだけではなく、内乱で滅ぼされた側の皇族の子孫(つまり朝敵の子孫)が御赦免になって地方貴族の先祖になっている例がかなり多い。つかほとんどこれ。こんなことをいうと一部の人には拒否されてしまいそうだが、実は案外、南北朝時代こそが記紀に描かれた時代(というか古事記の下巻)といちばん似ているのだ。

謀反した皇子たちのリスト
誰しもご存知のごとく、記紀には反乱だの戦争の話がそれなりに出てくるんだが、書紀にはない古事記の著しい特徴として、反乱の敗北者にひじょうに同情的であるというようなことがよく言われる。本当かね? 以下に列挙してみよう。

五瀬命(在位?)…那賀須泥毘古(ながすねひこ)
綏靖帝即位前…多藝志美々命(たぎしみみのみこと)
孝霊朝…?(吉備国の誰か)
崇神朝…?(高志道のまつろわぬ人ども)
崇神朝…?(東方十二道のまつろわぬ人ども)
崇神朝…玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)
崇神朝…建波邇安王(たけはにやすのみこ)
垂仁朝…沙本毘古(&皇后沙本毘賣)
景行朝…熊曽建(くまそたける)兄弟二人
景行朝…出雲建(いずもたける)
景行朝…相武国造(&東方十二道のまつろわぬ人ども&蝦夷)
仲哀朝…?(熊曽国)
神功皇后摂政期…新羅(&百済)
神功皇后摂政期…香坂王&忍熊王
仁徳帝即位前…大山守命
仁徳朝…速総別王(&女鳥王)
履中朝…墨江中王
安康帝即位前…軽太子(&軽大郎女)
安康朝…目弱王
雄略帝即位前…黒日子王&白日子王
雄略帝即位前…葛城都夫良意富美(&目弱王)
雄略帝即位前…市辺之押歯王
顕宗帝即位前…平群志毘臣(しびのおみ)
継体朝…竺紫君石井(つくしのきみ・いはゐ)

以上は古事記に記述のあるものだけで、日本書紀に書かれてるのに古事記にない分は省いてるので、史実の統計としては意味がないが、日本書紀は量が多くてめんどくさいからやめた。厳密な統計は各自でやって下さいw
この24例のうち、皇族…11例(上4、下7)、中央貴族…2例(下巻のみ)、地方貴族…4例(上3、下1)、土豪の類…3例(上巻のみ)、固有名詞も肩書もなく不特定多数と思われるもの…4例(上巻のみ)で全体でみても半分近くが皇族で圧倒的に多いがとくに仁徳天皇以降になると中央での皇族間の争いや、皇室vs貴族の内訌が主になるのがわかる。皇族11例のうち、黒日子王&白日子王はよくいえば巻き込まれただけ、わるくいえば愚か者扱いで悪役ではないがお世辞にも好意的とか擁護されてるとかともいえない。市辺之押歯王にもあからさまな好意は感じられないが悪役でもない。この二組は主体的に謀反を起こしたわけではなくただの被害者だから除外すると以下の9例が残る。

多藝志美々 × ◇…公式には殺されてるが民間伝承ではそもそも謀反してない人
建波邇夜須★  ●…公式にはないが[俺の説では]地方貴族として子孫あり
沙本毘古王★ 
香坂&忍熊△ ○ △…公式には殺されてるが民間伝承では御赦免になった人
大山守皇子▲ ◎
速総和気王▲ ○
墨江中津王★ ×
軽之皇太子☆ ○ ☆…討伐されたが処刑は免れた人
目弱輪之王★ ×
 ★…討伐され殺された人 
 ▲…公式には殺されてるが民間伝承では逃亡して生き延びた人
 ◎…地方貴族として公式に子孫あり
 ○…公式にはないが民間伝承では子孫と称する者あり
 ×…当人が滅ぼされて子孫なし

この9例を並べて眺めていると、乱の勃発情況と謀反人の子孫の処理に特色がある。
反乱勃発時に、現職の在位中の天皇に敵対した例は3例しかなく、その時の天皇を非難する理屈をもっていたこともあるにはあるが建埴夜須毘古王と隼総別王は情況に追い詰められてやむなく蜂起したという側面が強そう。目弱王は理屈だけ。沙本毘古の乱は書紀だと垂仁天皇在位中のことになってるが品智和気王の年齢から逆算するとやはり皇位の代替わりの時を狙った事件であることがわかり、書紀の編年は誤っている。沙本毘古を含む6例は先帝崩御と新帝即位の間に蜂起している。朝敵の汚名を回避するために当然だろう。

歴史書としての体裁にこめられた意図~記紀のちがい
ちょっと脇道の話。日本書紀は中国の正史の体裁に倣ってるので、先帝崩御と新帝即位の間の話は新帝の即位前紀とし、新帝を主人公に書いてる。これだとオチがわかってて勝つ側を最初から正義として書く他になくなる。でも古事記は厳密に例外なく、先帝崩御と新帝即位の間の話は先帝の話の続きとして扱っている。つまり新帝即位までは誰が正義なのかわからないという立場を堅持してるのだ。これを全編に渡って一貫させてるのは、要するに(すべてではないにせよ、一つには)日本書紀で謀反人扱いされる木梨軽太子を擁護するためなのである。だから日本書紀では「神功皇后摂政期間」が前代の仲哀天皇とも後代の応神天皇とも独立して設定されてるが、古事記では神功皇后の話はすべてあくまでも仲哀天皇の続きという扱いになってるのだ。「大山守命の変」も「乱」でなく「変」というべきだろう。これも仁徳天皇への反乱ではなく、空位の期間で起こった皇族同士の戦いって扱いになってる。反乱を起こす側の気持ちとしてはあくまで正義の蜂起なのだから謀反人にはなりたくないわけで、だから11例のうち7例が空位の時に起こっており、天皇在位中の反乱は「建波邇安王・沙本毘古王・速総和気王・目弱王」の4例にすぎない。とはいえ、建波邇安王と速総和気王はままならぬ情況に追い詰められての挙兵であり、沙本毘古王も伝承を精査してみると天皇代替わりの空位の期間を狙っての挙兵だったんだが計算違いがあって戦争が伸びてしまいそのうちに相手方が即位してしまったケースだとわかる(沙本毘古王の乱については垂仁天皇の項で書いたのでそちらも参照)。建波邇安王ぐらいか、完全に悪役とされるのは。多くは淡々とした記述であって擁護もしてないが悪意まるだしな感じでもない。沙本毘古王の場合はその上垂仁天皇と沙本毘賣のカップルを主役とした物語の中での脇役の扱いだからこれも好意にしろ悪意にしろ熱意が感じられない。

首謀者本人は大抵殺されてるのは当然として、その子孫の扱いはどうか。沙本毘古・山守命は、本人は処刑されても子弟が助命・御赦免され子孫が確実に名のある地方貴族として存在した(2例)。隼別・軽太子は、民間伝承による異説では当人の子孫の家系が存在したという(2例)。埴夜須王は俺の個人的な説で子孫に該当する氏族の存在をつきとめた(1例)。この4例は子孫が根絶やしにはされなかった(≒できなかった?)ことになる。残り5例では子孫が続かなかったにしても、忍熊王は前述の劔神社に伝わる伝承で助命・御赦免されたという(1例)、多藝志耳はそもそも謀反してなかったという異説もある(1例)。この2例は子孫が確認できないだけで地方に土着して住民に慕われた(忍熊)か、地方に赴いてそこに宮殿を建てて定住した(多藝志耳)ようには書かれている。つまり9例のうち7例までは地方に土着したという説があるのだ。
内乱で叛賊として敗れながらも地方に土着するというパターンは、足利軍に敗れながらも各地に散って伝説を残した南朝の親王たちと似てないか。
この7例のうち、隼総和気王・忍熊王・多藝志美々命の「地方土着説」の3例は古典史料とはちがう水準の、民間伝承や後世の偽書やらが出所なので、どこまで真実味があってどこまでウソなのか、本来ならこのブログでいつものように詳しく議論しなければならないが、時間がないのでいずれそれぞれの関係する項目でやるとして、ただ忍熊王の乱の解説だけは気比神宮がらみで今回ちょっとやっときました。
古事記と南朝の類似は、ただ「皇族が地方に散って土着する」という類型の話だけではおもしろくない。ここにもう一つ、判官贔屓(ほうがんびいき)の問題がある。よくいわれるように判官贔屓の起源は源義経ではなく、義経以前から日本人の感情に強く存在したもので、神話や民話の「貴種流離譚」が先行している。

判官贔屓と貴種流離譚のちがい
貴種流離譚が神話の類型だからといって、この類型に則った伝承が「史実ではない」とはいえない。古代人は「創作譚の類型」だという認識をもっておらず、無意識に自我のモデルとする。それを「神話がいまだ生きている社会」というわけだろう。貴種流離譚の背後には、律令制以前の時代に皇位を継がない皇族が地方に下って土着するという一般的な制度(ないし習俗)があったことと、律令崩壊後の古代末期には皇族・貴族の多くも地方民に迎えられ武士団の頭首になっていったことがある。これらの実例のうち悲劇性が伴う例は、あったことはあっただろうが、極めて少なかったと思われる。悲劇性が貴種流離譚の定義の一部なら「貴種のたんなるあまくだり」はもちろん貴種流離譚ではない。あくまで貴種流離譚を人々が忘却し難くせしめ、何かの事件に触れるたびにそれを想起せしめる社会的な背景、ぐらいの意味ね。
ちなみに判官贔屓は悪役、正確には悪の親玉を必要とするが、貴種流離譚では虐め役程度の端役の悪はストーリー上いたとしても本質的な悪を象徴するキャラはいてもいなくてもよい。また貴種流離譚はハッピーエンドが典型でそれを欠くのは完全型とはいえないが、判官贔屓は必ずしもハッピーエンドであってもなくてもよい、等の違いがある。
日本神話では大国主や山幸彦も貴種流離譚に入れられることが多いが流離のタイプが異世界モノになっててやや厳しいかもしれない。典型的なのは須佐之男命だが、世界各地の神話が相互に相似である以上、民族文化形成に及ぼす神話の影響力は限定的であって、これら神話がただちに日本人の判官贔屓の起源だとはいえない。やはり神話類型を神話としてでなく、具体的なディティールを伴った現実の歴史として体験しなければならないとすれば、人代の日本武尊(やまとたける)の存在がはてしもなく大きいだろう。ちなみに日本武尊は実在の人物なw 宝賀寿男先生もそうおっしゃってたろw 判官贔屓現象そのものである中世以降量産された義経の物語は史実ではないが、しかし源義経は歴史上の実在の人物である。まったくの神話の中で完結する話ではダメなのであり、感情が憑依するための「歴史的事実」を必要とする。そういう意味では、記紀に描かれたヤマトタケルの物語に事実ではない要素が混入していたとしても、それを理由に日本武尊が架空の人物だったということにはならない。義経物語の多くが史実でないことを理由に、源義経が架空の人物だとはいえないのと同じこと。まぁ義経はジンギスカンになったんだけどさw なってもならなくても、義経の実在はゆるがないよ?w
後世の、完成してしまった判官贔屓ってのは、客観的・中立的で冷静な理性での思考判断を無視し、盲目的・直情的に弱者や敗北者の肩をもつ気持ちのことだが、起源において最初からそうだったということはありえないわけで、弱者・敗北者が実は正しかったという理屈は神話類型の段階ではちゃんと備わっている。歴史的体験の段階では倭建命(やまとたける)だが、これは二つの側面があり、一つには父帝から虐められて辺境に追いやられた(個人的にはそれ史実とは思わないが)のと、あとはただの偶然の不運が原因なので、後述のような深刻なイデオロギー問題がない。二つめには「未完の王権」という形で逆説的に王権のあるべき形を示すことになっていく。後者は雄略天皇以降に回顧されながら形成された「ヤマトタケル観」かもしれないが、ヤマトタケルの再来としての雄略天皇、武烈天皇そして(中略)大化の改新での天智天皇や承久の変での後鳥羽上皇、南北朝の大塔宮護良親王、戊辰戦争での北白川宮などへとつながっていく。前者のイデオロギーというのは皇位の正統性の理論のことだが、それについては後述。
いずれにしろヤマトタケルの段階では貴種流離譚とはいえても、盲目的直情的な衝動としての後世でいう判官贔屓の段階にはまだ成ってない。忍熊王も後世の伝説ではハッピーエンドだから貴種流離譚としては完成しているが、情状酌量の経緯を読むとこれも悪人の出てこない話になっており、古事記の上巻まではまだ判官贔屓の類型にはあたらなさそう。では下巻はどうか。

下巻には一貫したテーマがある
古事記の下巻になるとまた情況というか枠組みがかわる。
一人め、大山守命は地の文では観念的・建前的に悪役認定されてるが、物語の中の歌の解釈では逃されてるようにも読める。
二人め、隼総和気王。古事記は、速総和気王と木梨軽太子という二人をとくに擁護してるようでもある。軽太子と比べると速総和気王は在位中の天皇への反乱だからか、さすがに控えめで、逃亡中の二人の悲哀を歌物語にしてるだけで、必ずしも反乱を正当化しているとは理屈の上ではいえないかもしれない。しかし謀反人の境遇を美しい文学に仕立て上げるのは遠回しの擁護といわれても仕方ない。だから婉曲な表現になるわけで、在位中の現職の天皇(つまり今上陛下)に対する謀反はやはり堂々とストレートには擁護できないのは大日本帝国臣民として当然だろうw 
三人め、墨江中津王。民間伝承まで探しても子孫がみつからないのは目弱王と墨江中津王だけだ。目弱王は7歳で処刑されたので子孫がないのが当然だが、墨江中王についてはもしかしたら俺の探し方が足りないだけかも知れない。この人は他の反乱者たちに比べてあまり同情されてない感じがする。歌物語もない。その理由として、文学方面からの発想だと、女性を騙して(婚約者になりすまして)媾合したという話があるから、女性が多かった語部(かたりべ)の評判が悪かったのか、女性を力で強奪するタイプの男だからロマンチックな歌物語にしづらかったのか、等とも考えられるが、そうではなくて、実は皇位の正統性にかかわる別の問題がある(後述)。もっとも墨江中王の乱では履中天皇の陣営のやりくちも隼人を騙して使い捨てにするなどホメられたものではなく古事記が天皇の側を擁護しているともいいにくい。
四人め、木梨軽太子。速総和気王に比べると「木梨軽太子の変」(「乱」でなく「変」だぞw)は空位(天皇不在)の下での皇族同士の戦いだから、余計な縛りはなく、一貫して「太子」という称号で呼んでることからも安康天皇への皮肉を含んでいるし、文学的にはここが古事記のクライマックスといってもいいぐらい高く評価されていて、それほど古事記は木梨軽太子の物語を美化することに全力を注いでるのだ。
月雲の皇子
五人め、目弱王。情況的に追い詰められたわけでもないのに自分の意志だけで現職の在位中の天皇に謀反したのは目弱王だけ(暗殺だが)。目弱王の場合、安康天皇が神罰をうけてもおかしくない「悪の天皇」であることが、暗殺されるまでの記述の端々に暗示されている。これも目弱王に対して古事記が好意的だ、といっていいのではないか。
以前からいってる私説として、大山守命の乱・速総別王の乱・墨江中王の乱は無関係に起こったのでなく、一続きの、仁徳王系の正統性をめぐって続発的に起きた「一つの争乱」だと考えている。また目弱王による暗殺は、結果的に木梨軽太子のための報復にもなっていて軽太子の乱と目弱王の乱も安康天皇をめぐる一つの争乱ともいえる。そうすると下巻の5つの乱は実体としては「2つの乱」としてみることができる。2つの乱のうち前の乱を速総和気王、後者を軽太子で代表させれば、古事記(の下巻)は天皇側ではなく反乱側の立場になった書物だという一面すら浮かんでくる。とはいえ、結論を急がず、まずは落ち着いてあらためてながめると、明らかに擁護しているのは隼総別王と軽太子、逆に比較的悪役度が高そうなのは(上巻からだが)多藝志美々命と建波邇夜須王か。両極として2例えらんでみたが、総じて中立的に描いてるといってよいのではないか、と一見いいたくなる。しかし中立性、客観性を強調するのはだいたいの場合、自己の主張をもっともらしくみせるため、という演出であることが多いのではないだろうか。あるいは逆の言い方をするなら、自己の主張が偏りのない中立的で客観的な判定であると信じるがゆえに、全編にわたって中立的表現をしようという衝動が起こるのだともいえよう。伝承の内容の細部が確定していれば演出表現にも限界があるだろうから、文面上の擁護の度合いが内心での好意の度合いと必ずしも一致しないかもしれないがそれはともかく、ここには謀反人の擁護というタブーさえも踏み越えるほどの、何らかの確信をもった主張が読み取れる。
大山守命の乱から始まった争乱は、なぜ墨江中王の乱で終わったのか、大山守命の乱・速総別王の乱には無い特徴、乱を終わらせた原因があり、それが反乱に同情的な人々を興ざめさせたんだろう。今回はそれについて詳しい解説をする時間がないが、要するにそれまでは反乱者の正統性を保証する「あること」が体制側、つまりこの場合は墨江中王と対立していた履中天皇の側に移ってしまったからなのだ。「あること」ってのはこのブログを読んでる人には想像つくかもしれないがちょっと今回は時間がなくて詳しい話ができない。ともかくそうすると允恭宮家には正統性がないことになる(ただし允恭天皇自身は別。その理由は今回は省略)。だから允恭宮家の軽太子は正統な天皇として同情されてるのではなく、冤罪被害者として同情されている。冤罪事件が起こること自体や仇討ちのターゲットとなったこと自体が允恭宮家(具体的には安康天皇)への婉曲な非難にもなっている。

日本的正義の二類型「水戸黄門」と「忠臣蔵」
國體が萬世一系であって王朝交代がないということは、天皇の権威は絶対であり天皇は常に必ず正しいのだと短絡できる。しかし、ナマミの天皇は聖書のような書物でもなければハンコ押し機械でもないわけで、人格と個性をもった人間だ(現人神であることとは矛盾しない)。だから現実には「仏教に洗脳された天皇」だの「儒教に心酔した天皇」だのがぞろそろ実在したわけで、当然ながら「民主主義をうっかり信じちゃった天皇」だの(以下略)という問題が生じる。太平洋戦争で開戦する羽目になるまで国家運営が後手後手になったのは昭和天皇が民主主義の段取りを重んじてたからだし、終戦したのは民主主義の段取りを無視したからできたわけだし、今上陛下が遠回しな言い方しかしないのも民主主義を重んじてるからだろう。でも国民にまかせておけばうまくいくのか? そんなこと当の国民自身どこまで思ってるのか? でも天皇が民主主義だっていってる以上、俺らにはどうにもできない。
御公儀(おかみ)が悪である場合、もしくは悪とまでいえないまでも正しくない(間違ってる)場合、庶民はどうすればいいのか。一つには最初から「上の者」には地位に見合った正義を要求することだが、上の者が目を曇らすことなく真実を見通すには「下の者」の世情に通じていなければならない。だから「上の者」が日頃からお忍びで俺らの身近にいるのだという願望が生まれる。それが文化類型「水戸黄門」だろう。これには仁賢・顕宗の両帝兄弟が庶民に身をやつし長い間、民間に暮らしていたという伝説からの影響も大きいだろう。また継体・安閑・宣化の三帝一家が、質素で貧乏な弱小田舎大名で庶民に近かったという考え方もあったかもしれない(実際には地方貴族でも弱小でもなかったのでこれはあくまで庶民の願望が混ざってる)。水戸黄門が江戸時代以来、現代までいかに根強い人気を誇ってきたかはここではふれない。しかし都合よく水戸黄門みたいな役人や政治家ばかりではない。そこで追い詰められた日本人の選択肢が「赤穂浪士」となる。文化類型としての赤穂浪士であって史実の赤穂事件とは別だから「忠臣蔵」といったほうがいいか。忠臣蔵には権力欲もなければ上昇願望もない。ただ身を捨てて正義を明らかにするだけだ。幕府には建前があるから最終的には謀反という扱いになったけれども、庶民は彼らの「自己犠牲の精神」に喝采し正義として称賛したし、公権力も庶民の行為を弾圧することはできなかった。水戸黄門と忠臣蔵、この二類型は実は別々でない。高貴な人物がお忍びで出歩くことは、もちろんあってもいいのだが、普通じゃないだろう。ところが高貴な人が必ずお忍びでなければならない情況というのもある。謀反に失敗して逃亡、潜伏中の貴公子。あるいは処断され追放刑や流刑になった貴公子。あるいは現在、劣勢ながらも追っ手の大軍と戦っている最中の貴公子。彼らの多くは天皇に背いたのでなく、不正に皇位を狙う悪の皇子と戦って敗れ、裁かれたのだ。彼らの物語が悲劇でなく終わればそれは貴種流離譚として完結するはずだが、南北朝時代には彼らの問題は個々の人生から生じているのではなく、日本全体の、天下国家の倫理の源泉、社会の統合原理にまで直結していた。つまり南朝善玉論を前提にする限り、勝ってる側=今の御公儀(おかみ)は悪で、落人(現に敗けてる人)はみな無前提に正義になる。判官贔屓の起源は実に南朝の勢力が敗北、地方に土着し民間に溶け込んだことから発しているのではないか。
当時の朝廷の公式な歴史観に反してまで『太平記』が読まれ人気を博したのはこのためだったのではないか、そしてこれに先駆けること数百年前に起こったのが記紀に描かれた皇子たちの反乱と、彼らに対する同情心であり、それを書き残した『古事記』である。これは実は天皇の権威をゆるがす一大事でもある。なぜなら南朝伝説の息づく里の庶民は精神的な「錦の御旗」を手にしたことになるからである。これは必ずしも法的に有効である必要はない。天皇がすべての価値の源泉である以上、レゾンデーテルだの実存だのアイデンティティーだのにかかわる問題だからだ。役人だの既存の権力に認定してもらってようやく効力をもつような「偽の錦旗」ではない、法の上の法、真の意味での「錦の御旗」ではないか。万民が天皇と一体であるという境地「一君萬民」の思想がこれだよ、だから楠木正成のような下賤の者でもすべてを超えて後醍醐天皇と一体の瞬間を得ることがある。この意味でなら、太平記は古事記の中世的展開であり、古事記は太平記のプロトタイプだった。
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応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓」に続く
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なぜ推古天皇で終わってるのか

2680(R02).11.28 SAT 改稿 R01.09.19修正 H28.4.10修正 H26.10.16-17初稿
なぜ推古天皇で終わってるのか
このことは本来は推古天皇の章で扱うべきかとも一見思われなくもないが、これは推古天皇からしてみれば知ったことではなく、あくまでも古事記の編纂者側の見方や考え方の問題なのでやはり別に扱うのがいいだろう。

「儒教時代」説
よくいわれるのは、「中巻は儒教も仏教もなかった時代で、下巻は儒教(というか論語)が伝来してからの時代だが仏教以前だと。なので仏教国家が始まった推古朝で区切ったのだ」と。
だがこれはおかしいのではないか。儒教(というか論語)が伝来したのは応神朝であって仁徳朝でない。むろん、本格的に儒教時代が始まったのが仁徳朝だ、というのは、そこまではまぁ理解できる。しかしそれなら本格的に仏教国家になった推古朝は次ぎの時代の始まりであり、下巻は崇峻天皇で終わらねばならないのではないか。いや、儒教時代と仏教時代とに、もし、わけるのであれば、物部守屋が滅ぼされて蘇我氏の権勢が確立した崇峻天皇から仏教時代を始めるのが適格であり、下巻は用明天皇で終わるのが妥当、とも考えられる。そういうわけで「中巻と下巻の境は応神天皇と仁徳天皇で分かれ、下巻の最後は推古天皇になっている理由」として、儒教時代と仏教時代にわけたからだという説には釈然としないし納得できない。
ちなみに平安時代の偽書『先代旧事本紀』(十巻本)は、古事記中巻にあたる「天皇本紀」が神功皇后で終わっており、古事記下巻にあたる「神皇本紀」は応神天皇から始まり武烈天皇で終わり、「帝皇本紀」が継体天皇から推古天皇まで、となっている。同じ『先代旧事本紀』でも江戸時代の偽書である七十二巻本(『大成経』)では、この後にさらに「聖皇本紀」として聖徳太子の伝記がついている。聖徳太子の活躍したのは推古朝だから、ある意味、崇峻朝と推古朝の間で区切りを置き直したような構成ともいえる。『先代旧事本紀』は「あくまでも聖徳太子リスペクトであって仏教リスペクトではない」ので、聖徳太子の時代に該当する推古天皇で終わるのはわかる。が、その前の時代の区切りを神功皇后と応神天皇の間にしたこととは何の関係もないので、一貫性がない。『先代旧事本紀』が聖徳太子をリスペクトしている理由は、「聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記』『国記』『臣連国造伴造百八十部并公民等本記』が、実は焼失したのではなく、この書物がそれだ」、という趣旨で捏造したのが『先代旧事本紀』だから。もしそれが本当ならこれらの書物(『天皇記』など)は推古天皇の前の崇峻天皇で終わってないとおかしい。にもかかわらず『先代旧事本紀』が推古天皇まである理由は、聖徳太子を顕彰するためにその事績を述べると、当然推古天皇の時代のことを書くことになってしまうからであって、『古事記』が推古天皇で終わっていることとは本来は関係ない。
では『古事記』が推古天皇で終わっている理由と聖徳太子とは関係ないのだろうか。もし関係あるのなら、そのことがわかるような記事、例えば聖徳太子についてもう少し何かのエピソードや物語があってもよさそうだが、『古事記』には何もない。それどころか、後述のように、聖徳太子よりずっと後の、舒明天皇の即位や皇極天皇の時代のことまで書かれているのだから、「ちょうど聖徳太子の活躍した時代をもって区切りとする」という意志があったとは考えられない。

「仁徳王朝」という区切り
ただここで『先代旧事本紀』が武烈天皇と継体天皇の間に区切りを置いてるのは一つのヒントではある。つまり、もし古事記下巻のように仁徳天皇から始まり、神皇本紀のように武烈天皇で終わっていたなら、それは明解に「仁徳王朝」の歴史という一つのまとまりになってるってことだ。しかしそれは「もし」の話であって、現実はそうなっていないのであるから、現実がこうなっている理由を考えねばならぬ。これは何も、後世からの歪曲した見方でもなんでもなく、継体天皇が即位した当時の人々が誰しも容易に思い描いた「一つの区切り」だろう。現に、系譜の部分を除外して物語の部分だけでみると、顕宗天皇で終わっているが、これは実は武烈天皇の事績を誤って顕宗天皇の事績にしているのだということは別の記事で詳しく書いた。つまり物語の部分だけでみると仁徳天皇から始まって武烈天皇で終わっているのであって、『先代旧事本紀』の神皇本紀と同じく、『古事記』下巻はまさしく仁徳王朝の歴史なのである。
それはそれでまぁ良いとしても、それは系譜の部分を除外した場合のことであって、継体天皇以降の系譜が『古事記』下巻に書かれていることの説明にはならない。継体天皇で始まった新王朝の時代を推古天皇で区切ってる理由はあいかわらず不明であり、もし下巻の終わりと中下巻の境とに何か一貫した理論だか歴史観だかあるのでは、という考え方にこだわった場合には、仁徳王朝説では却って一貫性を壊すことになる。これは解決の直接の糸口ではなく、まだ「ヒント」にすぎない。

「伝説時代」説
中巻と下巻の区切りについてよくいわれるのは、応神天皇までの中巻はまだ神々と人間が交渉をもった時代で、半分は神代(かみよ。神々の時代)で、もう半分は歴史時代(人間の世界)であり、両者が混在しており、いわば神話から歴史への移行期だ、と。それに比して、仁徳天皇からの下巻は現代にもありそうなリアリティーあふれ人間味あふるる現実の人間の物語である、と。神話時代でもなく歴史時代でもなく、両者の混在してる段階があるとして、それを「伝説時代」とよぶならば、古事記中巻はまさに伝説時代なのであり、純粋な歴史時代になってからが下巻なのである、と。これは前述の中巻を儒教時代とみなす説とは一体の、上巻を神道の時代(≒神々とともに暮らしていたアニミズムの時代)とみる説の変奏曲ともいえるだろう。
この手の説には中巻を「純粋の歴史だ」といわないところに邪念を感ずる。純粋でないのだからつまるところ「歴史ではまったく無く、史実と認められないことでは神話と同じ」と言いたいわけだろ。そもそも神話と歴史はまったく別次元のもので、中間形態だの移行期だのってのは論理的にありえない。中間形態だの移行期だのってのは、要するに巧く説明つかないから(「どうせ全部デタラメだから」といったら史実(=自説)を組み立てるための素材に使えなくなるので)適当にお茶を濁してるわけだろ。前述の儒教倫理が導入された時代(下巻)の人々の思考が現代人からみて比較的わかりやすいのは当たり前であって、それ以前の純粋にアニミズム的な多神教の世界観で生きていた人々から見えていた世界(中巻)とは違ってみえて当然ではないだろうか。そしてこの説の場合「なぜ推古朝で終わってるのか」の説明はないので、それについての別に独立した巧い説明と組み合わさればまだしも、そうでない場合には素人騙しのもっともらしい言葉遊びとしか思えない。

古事記記載の最新記事は舒明帝即位ではない
つまり、いずれの説も巧い説明としては成り立ってないのである。「中下巻の境と、下巻の終わりが何か関係してる」という説は、一種の思い込みであり、実は関係ないって可能性のほうが高そうに思えてくる。逆に、実は重大な関係があるのだ、という主張をするためには、如上の二説とはまったく別な新説を提示しなければならない。
ところで古事記に書かれた最後の天皇は実は推古帝ではない。舒明天皇は推古帝の次の天皇で、本名は「田村」だが、敏達天皇の段に諸皇子女の一人として名が列挙されてる中の舒明天皇は「田村王」ではなく「坐岡本宮治天下天皇」と書かれている。角川文庫版の『古事記』はこれをもって「古事記の記事中もっとも新しい事実である」と注釈している。考えてみれば、ある天皇が崩御した後というのは「よほどのすぐ直後」でもない限り次の天皇はほぼ決まっているし、曖昧な場合でも二、三ヶ月後にはもう次の天皇が即位しているのが常識なので、推古女帝崩御とあれば自動的に読者の脳内では田村王が即位して天皇になっていることもただちに想起されることだろう。ここまでは格別なんの問題もない。
ところが実はさらにその後の記事までもあるのだ。それが推古天皇の御陵が「大野岡の上」になったのを『のちに』「科長大陵」に遷したという記事。これは通説では皇極天皇即位後から大化改新の前までの間にあったことだとされている。つまりこの推古天皇陵の移転が『古事記』全文の中での最新記事ということになる。この段階では舒明天皇も崩御して皇極天皇の御世だったことになる。なぜ舒明天皇の御世にはふれずに推古天皇で終わらせているのか?

現在に近いと政治的に支障が…。
一つの有力な説として、『古事記』の原資料になっている帝紀(帝皇日継)が推古天皇までしかなかったのではないか、そのために、帝紀に基づいて編纂した古事記も自動的に推古天皇までということになってのではないかという説がある。だが、それでは帝紀はなぜ推古天皇までしかなかったのかという新たな問題が生じる。
帝紀がいつから存在したのかはわからない(個人的には武烈天皇の時にはじめて文字化されたものと思うが今はそれに触れない)が、写本の類がたくさんあって、天武十年(681年)に川島皇子らに命じて帝紀の異同を校合、統一させて決定版を作らせようとした(この時稗田阿礼28歳)、これがのちに『古事記・日本書紀』として結実する。歴史書は普通は先代の君主の代までだから、この段階では形式的に考えると「天智天皇までで終わる書物」になりそうなもの。(大友皇子が即位していた場合には弘文天皇で終わりそうなもの)
現実には、完成が延び延びになって天武天皇から何代も経ってしまった。古事記は元明天皇、書紀は元正天皇の時だから、古事記なら文武天皇まで、書紀なら元明天皇まで書かれていても、物理的にはありえた話である。むろん物理的に可能だからといってギリギリ直前の天皇まで書かねばならないという理由も必ずしもないのであって、書紀が持統天皇で終わりにした理由もあれば、古事記が推古天皇で終わりにした理由もあったはずであろう。あくまでも天武天皇の企画という趣旨を尊重する限り、やはり天智天皇(か弘文天皇)で終わりにするのが自然である。
だが、壬申の乱の敵軍だった天智天皇の歴史を書くと天武天皇の正統性の問題が出てくるのでなかなか書けない。当時の政府の立場としては弘文天皇の即位を認められないのはわかるとしても、天智天皇で終わらせても、当時も天智統と天武統の対立という構図で捉えられていて、弟天武が兄天智の事業を継承したと宣伝しようにもあまりにしらじらしく受け取られて逆効果になりかねない空気があったと思われる。壬申の乱はそれほどの大事件だろう。なにしろ天智天皇の正統な後継者を殺しちゃったんだから。大化改新以降の歴史を描くとすると、皇極天皇時代も孝徳天皇時代も中大兄皇子(天智天皇)がなるべく目立たないように書くのは難しい。中大兄皇子は大化改新のヒーローでありその後は皇極朝後期・孝徳朝・斉明朝・天智朝を通じて本人が崩御するまでずっと歴史の主役だったのだから、ここらの歴史は現在(天武朝)に近すぎて政治的に扱いにくい。
そこで日本書紀は壬申の乱で大友皇子の即位を認めずその部下の5人の貴族と一緒に悪役として、天武帝は悪を倒して天智天皇の事業を引き継いだという側面を強調している。天武帝は天智天皇の娘(持統天皇)を皇后かつ共同統治者としていたのだから女系では天智天皇の後継者ともいえ、実際に天武帝崩御の後は持統天皇が即位し天智系に復帰したような演出となる。日本書紀が持統天皇まで扱っている理由は、壬申の乱のすったもんだの結末として、現在(奈良時代)の皇室が天武系ではあるけれども、正統な天智系を排除したものではなく、持統天皇を通じて天智系でもあるのだ、だから持統天皇の血を引く現在の皇室は正統であり、問題ないのだ、という主張なのである(当時、大友皇子が正統で天武帝は簒奪者ではないかという疑いの声があったため。現に日本書紀には天武天皇を謗ったために刑罰を受けた者が何人もいる)。従って、日本書紀は天智・弘文・天武のうちどの天皇で終わらせても格好がつかず、なんとしても持統天皇まで書かないと具合が悪かったということがわかるだろう。
古事記もまた、日本書紀と同時代の編纂であるから、普通に考えれば天智・弘文・天武のうちどの天皇で終わらせても都合が悪いという点は同じであるが、そもそも継体天皇以降は系譜しか載せてないのだから、どこで終わらせても政治的な問題は生じないのではないかと思われる。あるいは政治的な問題を回避するために系譜しか載せてないのだという説もありうる。しかし系譜だけにすれば問題ないのなら、編纂命令を出した天武帝の直前の代であるところの天智天皇で終わらせておけば歴史書の体裁としては完璧だったのであって、それがなぜか推古帝で終わっている理由は相変わらず判明しない。
万が一、この「政治的な差し障り」が厳重なもので系譜すら書けないということだったとしても、「都合の悪い時代」とは前述の通り、中大兄皇子(天智天皇)が活躍した時代のことで、皇極天皇以降の時代のことである。とすると舒明天皇までは書かれていてもよかったはずである。舒明天皇崩御の時、中大兄皇子はまだ16歳だったからさすがに舒明朝で大活躍したということはないだろう。だから舒明天皇までの歴史書なら、当時の政治情況においてもだいたい当たり障りなかったと思われる。
だが、舒明天皇がなくてその一つ前の推古天皇で古事記が終わってるのだから「政治的に差し障りのある時代だから書かれなかった」という説は成り立たない。そういう理由なら、古事記は舒明天皇で終わっていたはずであろう。なぜ舒明天皇がなく推古帝で終わっているのか?

聖徳太子編纂『天皇記』は原資料ではない
一説に、天武十年(681年)に編纂された帝紀(帝皇日継)の、そのまた原資料となったのは前述の聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記』だったという説もあるが、間違った説である。これは聖徳太子が薨去してしまったため未完成の草稿のうちに中断してしまっていたのが皇極天皇の時に焼失してしまった。焼失してしまったのだからこれが原資料になった可能性はまったくない。聖徳太子が薨去したのは推古朝だから、未完成の草稿ではあるにせよ、崇峻天皇までは扱われていた可能性が高い。
ついでにいうと、この『天皇記』の焼失が、その後の帝紀に様々な異本が生じた原因でもあろう。それで天武帝が帝紀の内容を統一しようとしたのが天武十年の詔勅で、それが後に『古事記』『日本書紀』として結実したわけだ。

なぜ舒明天皇がはずされているのか
以上のように、政治的な事情としては舒明天皇まではOKで、系譜だけなら舒明天皇以降ですらOKなのだから、もし様々な帝紀の異本のうち、どれか一つでも舒明天皇以降までの部分があったなら、『古事記』の最後も舒明天皇までは余裕で含まれたと思われる。帝紀は初めは「ある特定の役割の者」が天皇代替わりの度に代々書き足してゆくものだったろうが、何らかの理由で推古天皇で打ち切られ、後は完成した一つの書物として写本が作られるだけになったものと推測する。この謎を解くにはこれ以外に考えようがない。で、なぜ帝紀が推古天皇で終わっていたのかだが、次の舒明天皇の時に、「天皇代替わりの度にされていた帝紀への書き足し」が停止されたからということになる。ではなぜ舒明天皇の時にそんなことになったのか。

帝紀は「いわゆる書物」ではない?
帝紀(帝皇日継)とは本来なんだったのかというと、もちろんそれは語部(かたりべ)の記録である。語部の記録という言い方は矛盾に聞こえるかもしれないが、語部は宮中の重大な祭儀や儀礼の際に、舞台上で儀式の由来譚を「語る」のが仕事であって、稗田氏が猿女(歌舞で仕える巫女)の氏族でもあるようにその語りには歌舞や演劇が付随したろう。従って語部には「台本」のようなものがあったと考えられる。現代の演劇でも台本はあるが役者はそれを「暗唱」するわけである。「語部は『暗唱する者』だから文字記録は関係ない」という思い込みは誤りである。だからこそ天武十年、帝紀(帝皇日継)の記定に語部の稗田阿礼28歳が召しだされたのだろう。古くは文字化されず、それこそ語部の脳内記憶として伝承されたんだろうが、漢字が伝来してからは文字化もされて、代々書き継がれて推古天皇に至った。ただし、文字化されたといっても、基本的には語部の台本なので真の原本は語部の脳内にあり、文字化する際には文字化する人の語り癖や書き癖などの個性がかなり反映されることになる。これは書物にみえても本質的には「書物」なのではなく、文字を介しての「口承」であって、書かれたものが本体ではなく文字を読みあげたその声が本体だからである。そのため、書物としてみた場合にはかなり差異のある様々な写本ができてしまっただろう。また語部というのはライブで聞かせるものだから、同じ歴史を語るにも、客層に応じて毎回語る部分と略する部分が違ってくる。別の話を脇から挿入すると細部で矛盾が出ることが多いが、それも適宜辻褄あわせしてると、同じ帝紀といってもいろいろな違いが出来てくるわけだ。

語部(かたりべ)の廃止と史官(記録官)の創設
語部は古伝承を伝えるのが本業で神道と結びついており、現在の日本のように神仏儒が和合するようになる以前の日本では、語部は神祇派に属しておって、仏教派とは相性がよくない。他にも儒教派がいた。仏教伝来以前にも、儒教をめぐっての対立が仁徳天皇の頃からずっとあって、皇位継承の争いや貴族の謀反などにも絡んでいる(儒教派が漢文を広めるために語部と対立したことは他の記事で書いた)。日本人全般に儒教が受け入れられるようになったのは雄略天皇の頃からと思われる。仏教も同じく、日本人全般に許容されたのは大化改新からだろう。それまでは神道派と仏教派で血みどろの戦いがあったんで、物部と蘇我の戦いの後も負けたからといっていきなり改宗するわけもなく、ますます仏教徒を憎んだだけだろう。最初からいきなり日本人が仏教徒になったわけではない。現代ですら、一般論ではキリスト教を悪いものだとは誰も思ってないだろうが、それでも皇族がミッション系の大学に進学すると苦言を呈する人はいくらでもいるじゃないか。ましてや当時は儒教も仏教も「日本に根付く前」の話であり、儒教や仏教に熱心な天皇や皇族がいると必ずそれに反対する勢力が形成されたのである。
雄略天皇以降は儒教は日本に根付いたので「儒教派」と「神道派」の対立というのはなくなったが、欽明天皇以降は「神道派」と「仏教派」というのができていた。仏教派にとっては語部というのは神道派の巣窟であるから何とかこれを弱めたい。それで舒明天皇の時に「語部」の職掌のかなりの部分が廃止されたのだろう。天皇の御世の記録は歴史として後世に伝えるために語部が暗唱し、漢字伝来以降は記録もしていたと思われる。漢文の得意な帰化人系の氏族が古くから下っ端の書記係を務め、これを史(ふびと)といって政治機関の各所で活躍していたが、語部の言葉は漢文に翻訳すると意味がないので、史(ふびと)は使われず語部が独自に記録していたと思われる。つまり、当初は歴史編纂の仕事は語部の専権事項であった。
ところが、早ければ欽明天皇か敏達天皇の時に、遅くても推古天皇の時に、史(ふびと)にも語部の記録とは別に歴史の記録をさせるようになったと思われる(詳しいことは後述)。敏達天皇は儒教と中国式の歴史書を好んだ人で、欽明天皇の後半から皇太子として政治に参加していたらしい。中国では昔から歴史編纂のために日々記録している役人がおり、この記録に基づいて歴史書が編纂されたという。
敏達天皇は仏教を信じなかったと明記されており、崇峻天皇はよくわからないが蘇我と仲悪かったからあまり仏教に好意もなかったかも知れず、この二人は神道派だった可能性が高い。用明天皇と推古天皇は神仏両方を尊崇していた。だから史官(中国式の記録官)のような係が存在したとしても、敏達・用明・崇峻・推古の4代間は語部を廃止したりはせず併用していたのだろう。
だが次の舒明天皇は推古天皇の遺詔を蘇我氏の力で捻じ曲げて皇位にありついたために蘇我べったりで、そのため公卿百官も天皇を畏れず政務が滞ってしまった。大派王(おほまたのみこ)が「近頃は公卿百官がろくに朝廷に出勤してこない。ちゃんと出勤時間を守らせるように」と大臣(蘇我蝦夷)にいったが、大臣は従わなかったとある。政治がガタガタになればちょっと日照りがあったぐらいでも飢饉になるし、朝廷がユルいなと思って奥羽の蝦夷族が反乱を起こす有り様。にもかかわらず舒明天皇は有馬温泉やら四国の道後温泉やら遊びにでかけ、しかもそのために大嘗祭を延期したりしている。そしてこんな情況なのに、西国の民を徴発して大宮殿(百済宮)を、東国の民を徴発して大寺院(大安寺)を建造した。

国家の非常時だというのに壮大な建築にうつつをぬかして浪費するのは外国によくあるダメ君主の典型例である。他には九重の塔を建てたり設斎(仏教行事)はしている。暗君な上に仏教には熱心な人だったらしい。大宮と大寺の建造のための費用捻出のため、語部は冗官(無駄な役所)として切り捨てられたのだろう。舒明天皇としては語部に興味はないかわりに恨みもないのだが、むろん舒明帝をおだてあげて操っている黒幕は蘇我蝦夷であり、語部の廃止は仏教を布教するための蘇我氏の一手なのである。語部に代わる漢文式の帰化人記録官は早ければすで4代にわたる試用期間があり、遅くても推古朝の途中から試用されてきているので、問題ないこともわかっており、語部サイドもこの頃はすでに猿女氏・稗田氏が弱小氏族ということもあり、命令を受け入れるしかなかったのである。

「史官」の沿革
中国では周王朝の昔から王や諸侯の両脇に「右史」「左史」という記録官がいて、『礼記』によると「右史」は主君の言葉を、「左史」は主君の行動を記録したという(右史が行動で左史が言葉と逆になっている説もあるが時代や国によるのか単なる誤りか不明)。とすると右史は左脳を使うから右手で書き、左史は右脳を使うから左手で書いたんだろうか。そんなわけないかw
img_0.jpg(←右脳と左脳の画像)
右史の記録は『尚書』となり、左史の記録は『春秋』となった。時代がくだると、皇帝の日常の記録は「起居注」といい、皇帝が崩御すると「実録」という皇帝一代の歴史が書かれる。起居注はこの実録を編纂する時の資料に使われる。そして王朝交代があると、前王朝の歴代の皇帝の実録を連ねて「正史」が編纂される。日本の律令時代では右史・左史にあたるものは「内記」「外記」で、起居注にあたるものは「内記日記」という。「外記日記」というのもあるがこっちは天皇の言動の記録ではなく、役人の仕事の記録である。ちなみに、律令時代には「大学寮」という役所が官僚養成機関で今の東大みたいなもの。で、そこの学生になれるのは五位以上の貴族の子と孫、東西史部の子と孫が優先されていた。東西史部というのは、史(ふびと)というカバネをもつ約70ぐらいの帰化人系の氏族を二つに分けたもので、「東史部」は東漢(やまとのあや)氏が統括し、「西史部」は西文(かはちのふみ)氏が率いていた(西文氏は西書氏とも書く)。東漢氏は後漢の霊帝の子孫という阿知使主(あちのおみ)の子孫で、西文氏は大雀皇子(のちの仁徳天皇)やその弟の宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)の家庭教師だった王仁の子孫。阿知使主も王仁も応神天皇の時に渡来してきた人で歴史が古く、従って一族の人数も多い。この両氏の族名はヤマト(今の奈良県)を東と書き、カハチ(今の大阪府)を西と書いているわけで、これは、この両氏が並び称されてセットであることを表わしている。が、古くは倭漢(やまとのあや)・川内文(かはちのふみ)と書いていたのであり、始めの頃はセットでもなんでもなかったのである。『古語拾遺』によると履中天皇の時、「内蔵」(うちつくら)を創立し、阿知使主と王仁の二人を出納記録係にしたという。この記事が正しければ、東漢氏と西文氏がセットになった最初の例で、両氏族の始祖である二人がすでにコンビになっている。だが、まだこの段階では財宝や物資の出納記録係であって歴史記録係ではない。阿知使主は住吉中津王が反乱を起こした時に、履中天皇を救い出した三人の功臣のうちの一人だから、論功行賞の意味もあったのかもしれない。また雄略天皇の時に「大蔵」を設立して、蘇我氏を検校(管理者・責任者)として、秦氏に出納事務を管掌させ、東漢氏と西文氏を記録係としたという。ここでもセットになっている。雄略天皇は身狭村主青(むさのすぐり・あを)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみつかひ・はかとこ)を抜擢・寵愛した。この二人は江戸時代でいえば「側用人」みたいな立場だったらしい。この身狭村主氏(牟佐氏)というのは呉の孫権の息子、孫高の子孫で、東漢氏の配下の氏族だった。檜隈民使氏も東漢氏の分流。書紀にはこの二人は「史部」(ふびとべ)だとも書いてある。この二人は成り上がりだから手足になる配下が少なく、同族の東漢氏の人員や人脈、つまり史(ふびと)仲間が頼みだったろう。ところが西文氏の活躍はみえない。それで東漢氏と西文氏に差がついた。允恭天皇は「君・臣・連・直(あたへ)・造(みやつこ)・首(おびと)」の6階のカバネを制定したが、その子の雄略天皇は帰化人枠としてさらに「史(ふひと)・伎(てひと)」を追加した。これは最下級の「首」と同格と思われる。これまでの「史」は単に記録係の意味しかなかったが、これをカバネの一つとしたわけで、多くの帰化系氏族が下級とはいえ貴族に列することになった(正確には「直」までが貴族で、「造」から下は戦前でいう士族階級とか西洋でいう騎士階級とかに近いが、貴族と庶民に二分割した時の大雑把な意味で下級貴族)。この時、二氏だけが特例扱いで東漢氏は「直」、西文氏は「首」のカバネを賜った。東漢氏の方が2段階も格上の扱いになっているが、東漢氏が「直」になったのはおそらく推古朝になってからで、もともとは秦氏と同格の「造」か西文氏と同じ「首」のいずれかだったのではないかと思う。
継体天皇の頃から、百済から上番(交代)で五経博士がやってくるようになった。五経博士というのは本来は五経のそれぞれを担当する五人の博士だが、書紀には一人しかいないように書いている。むろん五経のすべてに通じている一人の博士を五経博士という言い方もあるのだろうが、おそらく多くの博士たちの首長、リーダー、トップ、代表というような地位の人物をあげているのだろう。その部下だか弟子だかの中に、五経それぞれを専門とする人々が5つのグループとしていたんだろう。偉い先生がたった一人だけで来てもしょうがないわけで。彼ら(=博士)は教師であって実務家ではない。誰に教えるのかというと、皇族貴族の師弟も本人たちが希望すれば受講できただろうが、おもな生徒は秦氏・漢氏・文氏(西文氏)といった書記官を職業とする人々だろう。だから五経それだけの能力をもった弟子たちだか部下たちだかをおおぜい率いつれてきたに違いない。朝廷(=皇室)とは別に、皇族や貴族も個人的に史(ふひと)として帰化人を召し抱えることも増えていっただろう。だから遅くても継体天皇の治世末期までには、どこの氏族でも漢字で書かれた家系の記録のようなものはもっていたと思われる。
その後、欽明天皇の頃は、五経博士と医博士と暦博士の7博士があったうちで医博士・暦博士と五経博士の中の易博士の3博士が重んじられたようであり、五経博士のうち易を除く4博士はあまり重んじられなかった(つまり儒教思想は二の次で実用的なものが重視された)。この博士たちは建前上は交代して百済に帰るはずが実際にはそのまま日本に帰化することも多かったようだが、先生稼業で実務家ではないためか、在来の史(ふびと)たちの存在意義を脅かすものではなかった。が、欽明天皇・敏達天皇の二代間に、百済系の帰化氏族で船史(ふねのふびと)の祖・王辰爾、白猪史(しらゐのふびと)の祖・胆津(いつ)、津史(つのふびと)の祖・牛が大きな功績をあげて屯倉(みやけ)の田令(監督官)や船長(港湾税務官)など各種の管轄権限を獲得し、東漢氏や西文氏の立場は微妙になってきた。特に敏達帝の元年に高句麗からの国書を王辰爾だけがみごとに解読し、東西史部は「数ばかり多くて役立たず」と天皇から叱責されたことは、東漢氏と西文氏にはこの上ない打撃となったろう。敏達帝の六年に日祀部(ひまつりべ)が創設された。これは旧来の日置部(ひおきべ)が縄文以来の原始的な手法で春分・秋分・夏至・冬至等の太陽観測をしていたのに対し、最近の中国の天文学の知識で太陽観測を始めたものだろう。これと同時に「史部」(ふひとべ)に中国式の歴史官僚としての役割も与えられた可能性はきわめて高い。しかし、敏達天皇がもし歴史官の役割を特定氏族を負わせたとしたら、その氏族は船・白猪・津の3氏から出たに相違なく、東漢氏や西文氏が採用されたとは思えないから、古代中国における「右史・左史」のような修史官の役目を特定氏族に負わせたのではなく、既存の「史部」つまり不特定の「史」(ふひと)系の諸氏族たちに自由に書かせて任意に提出させたのではないか、敏達天皇からみるとこれは実験期間、試用期間のようなものであり、任意の自由行動だから守旧派の抵抗勢力(「語部」など)からの抗議もある程度かわすことができる。
その後、用明天皇の時には押坂部史毛屎(おさかべのふひと・けくそ)が物部守屋のついていたことが書かれている。押坂部史は東漢氏の末流で、蘇我氏は白猪史らを重用していたから東漢氏は物部について挽回を狙っていたらしい。大蔵や内蔵の管理を通じてみた場合もともと東漢と西文は蘇我の配下のようなものだから、なんとか蘇我の下からの脱却の機会を狙っていたのかもしれない。しかしご存知の通り、蘇我vs物部の戦争で物部氏は滅亡してしまう。いよいよ追い詰められた東漢氏は、今度は蘇我への忠誠を再び示すため汚れ役を負わされる。東漢直駒(やまとのあやのあたへ・こま)が蘇我馬子の命令で崇峻天皇暗殺に手を下してしまったのだ。この後、ますます栄えていく蘇我氏に、東漢氏はべったりくっついて完全に忠実な配下になっていく。推古女帝の頃、隋に留学僧を派遣しているが、それに東漢氏系の人物が何人も含まれていたのは蘇我氏の口利きがあったからだろう。つまりこの頃には朝廷第一の書記官としてのかつての地位を取り戻していた。これがやがて東漢氏が朝廷の政治に直接関与していくきっかけとなるのだが、それはまた後の話。しかし西文氏は東漢氏のような挽回運動に邁進するようなたくまさしさが無く相変わらず衰退の途上にあったのではないか。東漢氏が「直」で西文氏が「首」と2段階もの格差ができたのはこの頃だろう。そして推古女帝の頃は聖徳太子の活躍した時期でもあり、『天皇記』『国記』『臣連国造伴造百八十部并公民等本記』の編纂事業の下働きとして東漢氏も駆りだされ、喜んで参加しただろう。この時東漢氏は西文氏をも仲間に誘って、格下の氏族として形式はともかく事実上の配下にしてしまったのではないかと思われる。倭漢坂上直(やまとのあやのさかのうへのあたへ)が欽明天皇陵に大柱を建立して名をあげたのは、まさに聖徳太子の編纂事業が始まったのと同年(推古二八年)の十月のことであった(敏達六年よりも、推古二八年の方が「史部」の一部を歴史官僚とした、つまり歴史官僚が始めて創設された年である可能性が高いが、敏達朝の可能性も少しはある)。聖徳太子の死去によって、歴史編纂事業は頓挫したが、東漢氏と西文氏は、そのまま名目上の歴史編纂官として蘇我邸内に職場を持ち続けたのだろう。
さて、前述の通り、舒明天皇になって、帝は西国の民を徴発して大宮殿(百済宮)を建築し、東国の民を徴発して大寺院(大安寺)を建立したが、この時、書直県(ふみのあたへ・あがた)という人が「大匠」(工事監督者・責任者)となったという。書直氏はこれまた東漢氏の分流。日本書紀の原文は「造作大宮大寺。則以百済川側為宮処。是以、西民造宮、東民作寺。便以書直県為大匠」となっている。これだと大宮と大寺の両方の大匠を兼ねているように読めるが、西文氏が出てこない。西の民は大宮、東の民は大寺となっていてその直後に書直県を大匠となす、とあるから、ここは「西民造宮」と「東民作寺」の間に脱文があり、「是以、西民造宮、便以西書某為大匠。東民作寺、便以書直県為大匠」だったのではないか(日本書紀は西文氏を西書氏と書く)。川内文氏を西文氏と書き、倭漢氏を東漢氏と書いて、あわせて東西史部というようになったのはこの頃からと思われる。

皇極朝の記事が紛れ込んでるわけ
というわけで、帝紀が推古天皇で終わっていて舒明天皇が書かれてない理由はわかるわけだが、しかし今度はそうするとなぜ「推古天皇陵の移転」という皇極天皇の時代のことが書かれているのか。ここは単に後世の追記だ、で済ませてしまうこともできるが、それだとやや面白味がない。御陵の移転先の「科長」は蘇我氏の基盤で、この移転も蘇我の全盛期のこととされている。恐らく、皇極天皇の頃に作られた写本の一つに、末尾に「なぜ推古天皇で終わっているのか」を説明する簡単な「あとがき」のようなものをつけた写本があったのではないかと想像する。蘇我氏の繁栄と横暴を述べて語部側の恨み節も少々まぜながら。『古事記』編纂の時に、そんな個人的な恨みだの関係のない蘇我氏の話だのを太安万侶が削除していったら、御陵の移転の部分だけが残ったのではないか。

舒明天皇以降の公式記録はどうなったか
以上の通り、本質的に語部資料であるはずの帝紀に推古天皇までしか載ってない理由はわかった、としよう。が、帝紀とは別に、早ければ敏達天皇以降、遅くても推古天皇以降の歴史は漢文史官「右史」「左史」ならぬ「東史」「西史」の手にまとめられていたはずではないか。それはどこにいったのか。聖徳太子が『天皇記』を編纂するための資料として持ちだされて焼失したとしても、持ちだしたのが推古朝のことだから帝紀とはもとから重複した部分であり、舒明天皇以降の分ではない。が、聖徳太子が薨去した後もその未完成草稿が蘇我邸にありつづけたということは、おそらく歴史編纂局は聖徳太子の遺業を継ぐという名目で、朝廷でなくずっと蘇我邸内に置かれていたのだろう。従って舒明天皇から大化改新までの公式記録は「乙巳の変」で蘇我邸もろとも『天皇記』と同時に焼失してしまったものと思われる。大化改新以降の分はまた公式記録が再開されただろうが、壬申の乱で近江朝の首都が戦場になったため大津宮にあったであろう公式記録も焼失・散逸してしまったのではないか。壬申の乱の後から再開された公式記録はその後、日本書紀を始めとする六国史に活用されたはずである。だから舒明天皇から壬申の乱までの記録は多くの皇族・貴族・豪族らがたまたま持ち合わせた公式記録の断片的な写本を寄せ集めて歴史を復元しなければならなかったと思われる。

結論はまだ先だ!
以上のように長々のべてきた解釈がただしいとすると、舒明天皇以降の帝紀はそもそも最初から存在せず、諸々の貴族・豪族たちがもっていたという各種の帝紀はすべて推古天皇までしかなかったのだということになる。もとになった帝紀がそうだから『古事記』も自動的に推古天皇で終わっているのである。

しかし、いくら公式に漢文の修史官が創設され、語部の記録が公式には中断したといっても、元明女帝の頃までは稗田阿礼が猿女として大嘗祭に仕えていたのだから、職務内容が若干せばまったとはいえ、語部それ自体は存在していたのがわかる。それなら古来のシキタリ通りに語部としての記録は非公式にでも語部の内部で継続していたのではないか? そんなアッサリと上から言われたからやめました、でやめられるようなクズ仕事じゃないだろう。プライドをもつに値する神聖な仕事だったはずだ。だとすると「帝皇日継」は『古事記』ができた時代である元明女帝の直前、文武天皇まできっちり存在したはずであり、『古事記』に記載のない舒明天皇から文武天皇までの8代(弘文天皇を入れたら9代)分については、いつ・誰が・なぜ切り捨てたのかが問題となる。
また逆に、朝廷が語部を廃絶させようと思えば物部守屋が滅亡した時の方が最も可能性が高いだろう。神道勢力と排仏派の関係はいうまでもないが中国式の正史の発想とは相容れない語部も物部氏の側につくしかない。そして語部はこのブログではたびたび言及するように庶民の文化と結びついており支配層からするとやっかいな存在でもあった。だから蘇我vs物部の戦争の後、いったんは語部は国家権力によって廃絶された可能性がきわめて高いのではないか。この場合はおそらく大化改新の後になって部民としては復興したものの往時の職務までは期待されなかったのだろう。だが、だとすると「帝皇日継」は用明天皇で切れてたはずであり、『古事記』に記載されている崇峻天皇と推古女帝の2代の分は、いつ・誰が・なぜ追加したのかが問題となる。
つまり、漢文の修史官の形成史の観点からみても、「帝皇日継」を担ってきた語部の衰亡史の観点からみても、「なぜ推古天皇で終わっているのか」という謎解きのカギにはつながってこないのだ。
ここで話は振り出しに戻る。

議論の大前提がちがう!
この謎解きがなぜ混迷するかといえば、『古事記』が「帝皇日継」(紀:帝紀)に基づくはずだという前提にとらわれているからなのである。このブログの他の記事に詳説せしがごとく、稗田阿礼の「帝皇日継」は『日本書紀』の神武天皇以降、天智天皇以前の記述に存分に活かされているのであり、『古事記』の中巻、下巻には大雑把なあらすじ程度にしか活かされてはいないのだ。持統女帝が「十八氏の纂記」を提出させた中に、息長氏と丹比氏が含まれない。ここの十八氏は『日本書紀』編纂に活用されたものだけをあげており、提出させたもののボツにした氏族は含まれていないのである。当初の企画では『古事記』は本来は上巻のみ、『日本書紀』は神武天皇以降で完成とされるはずだったのが、元明天皇になってから諸般の理由で『日本書紀』には急遽、神代巻も追加されることになり、『古事記』の企画は中止、草稿は完成前に廃棄されることになった。それに密かに不満を抱いた稗田阿礼と太安万侶は『日本書紀』がボツにした息長氏と丹比氏の伝承から中巻・下巻を作ったのである。ちなみに現在の古事記序文はボツになった日本書紀序文の草稿に平安初期の多人長(おほのひとなが)があれこれ手を加えて出来たもの。太安万侶は記紀分裂のすったもんだで書紀の部局からはずされたため『続日本紀』では修史関係記事に名前がない。

このことはこのブログでは他の記事でも書いてることだが、中巻は息長氏の伝承から、下巻は丹比氏の伝承から作ったのである。それで「中巻が応神天皇まで、下巻が仁徳天皇から」となった理由は理解しやすい。だが問題はなぜ下巻が推古天皇で終わっているのか、だ。
まずは中巻と下巻の区切りの件から。
息長氏の伝承は始祖である若沼毛二俣王を挟んで前半と後半に別れていたと思われる。この後半を切り飛ばして前半から古事記の中巻を作ったのだが、前半と後半に別れていたというのはどういうことかというと、通常、ある氏族の始祖というのはその氏族の歴史の始まりなのだから、始祖以前は関係ないのだが、息長氏は特殊な構造をもっており、いわゆる息長氏とは「第三息長王統」なのである。息長氏の前には、開化天皇皇子の日子坐王から始まる「第一息長王統」と景行天皇皇子の倭建命から始まる「第二息長王統」とがあり、両者は女系で結びついて応神天皇皇子の若沼毛二俣王につながる。この若沼毛二俣王が息長氏の始祖であり、息長氏を「第三息長王統」ともいう所以である。ここまでが前半で、後半は若沼毛二俣王の子孫から継体天皇が出て皇位を継ぐところで終わっていたと思われる。だから応神天皇で終わっている中巻は、若沼毛二俣王の誕生で終わっているともいえる。中巻は若沼毛二俣王の息長系の先祖たちの物語であり、だから例えば『日本書紀』にはない記事で『古事記』では日子坐王の系譜が詳しく載ってるのはそのためなのである。後半はボツにしたといったが完全に消したのではなく寓話の形で末尾に残してある、それが応神記末尾の「①天之日矛説話、②春山秋山物語、③若沼毛二俣王系譜」の三部作である。あるいは先にこの三部作があって、後から上巻を息長氏の伝承から作ったのかも知れない。後半をカットした最大の理由はもちろん、息長氏ではなく、丹比氏の伝承を採用したからである。丹比氏の伝承は、丹比氏が誕生したきっかけである反正天皇の誕生から始まっており、それは時期としては仁徳朝での事件だから下巻は仁徳天皇から始まっているのである。ただ、なぜ推古天皇で終わっているのかが説明つかない大きな謎だった。例えば丹比連と深い関係のある丹比君は宣化天皇皇子の賀美恵波王の子孫だから、下巻が宣化天皇で終わっていたなら、これは納得しやすかっただろう。

最終結論
ところでまったく関係ないところから偶然にヒントが転がり出てきた。
『丹墀姓熊谷氏系譜谷地舘系圖』には宣化天皇の曾孫、多治比王が姓を賜って丹比氏の始祖になったのが推古天皇の時だとある。この系図自体は江戸時代に作られたものだろうから史料的な価値としてはたいしたことないかもしれない。しかし世代数からいうと舒明天皇の頃になるが宣化天皇と欽明天皇はかなり齢が離れていたので(宣化天皇はむしろ継体天皇に近くて、欽明天皇は継体天皇の最晩年の子なので孫ぐらいの齢)一世代くりあげると忍坂日子人大兄王と同世代。彼の生存期間の後半は推古朝だから多治比王が推古朝の人であって問題ない。歴史的に生存年代が明らかな島が624年生まれで、同系図は島の父の多治比王を582年生まれとしているので辻褄は合う。また賜姓されたのは父の十市王の死後だと思われるが同系図は彼の死を607年としている。この年は推古十五年、多治比王は計算すると25歳の時にあたる。つまり同系図の信頼性いかんにかかわらず、多治比王が賜姓されて丹比君氏という氏族が発足したのが推古朝だという話は極めて妥当性が高い。
このことが示す意味は大きい。
それはいうまでもなく、下巻は「丹比連が発祥した仁徳天皇に始まり、丹比君が発祥した推古天皇で終わる」というみごとな構成になっていることが判明したからだ。

補足
同系図によれば多治比王は誕生の時、産湯に丹治(タヂヒ、今のイタドリ)の花びらが飛んできたので多治比王と名付けたという。この話はオリジナル記事ではなく『続日本紀』からの抜粋引用だが、その『続日本紀』の記事自体が『日本書紀』にある反正天皇誕生の時の話とそっくりで、人物を入れ替えただけのコピペである。『新撰姓氏録』では反正天皇の乳母だった色鳴宿禰が丹比氏の祖となったという。ややこしいがこの丹比氏は神別で尾張氏の分流でカバネは「連」のちに「宿禰」。宣化天皇の末裔の丹比氏は皇別でカバネは「君」のちに「真人」。別の氏族である。だが多治比王という名前のエピソードは作り話(コピペ話)であり、常識的に考えれば生母か養育氏族(乳母)のどちらかが丹比氏だったからそのまま名前になったものである。中世には乳母は同族的な感覚を生じて強い紐帯で結びついた家臣になるが、この時代も生母の実家や養育氏族というのは特別のコネクションでくっつく結果、君臣関係のようなものが生じる。反正天皇の経済基盤である丹比部を管理したのが丹比連だから丹比連はもともと反正天皇の家宰的、直臣的な存在である。
なお宣化天皇の名代部には檜前舎人部(ひのくまとねりべ)もありその中央における伴造は檜前舎人造(ひのくまとねりのみやつこ)であり尾張氏の分流だから丹比連と同族である(『新撰姓氏録』で「連」になっているのは「八色の姓」での昇格)。現地の伴造はそれぞれの国造の一族で、例えば武蔵国なら「直」、上野国なら「君」になっている。

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皇子と皇女、性別いれかわりの謎&「反正」という諡号

R02年10月26日(月)初稿 H28年12月14日(水)初稿
どっちがどっち!
皇子、皇女の謎とき
【1】奇妙な異説
反正天皇の子は古事記で財王(たからのみこ)がいるがこれは書紀だと財皇女(たからのみこ)になっている。古事記では性別不明な名は男子を前提としているともされるが、あくまでそういう傾向が強いというだけで絶対とはいえない。だから財王は女性の可能性がある。また書紀では高部皇子(たかべのみこ)がいるが、古事記では多訶辨郎女(たかべのいらつめ)となっている。高部皇女を皇子に誤ったか多訶辨郎子を郎女に誤ったかは五分五分だが、財王の方だけは女子とすれば文字の訂正なく記紀を合致させることができる。仮に男子だったとしてもまったく活躍が伝えられておらず、体が弱かったか、病気か事故で早世されたと考える人もいるだろう。しかし…皇子や皇女の性別が、記紀で異なっていることはたまにあるが、同じ名前の二人が性別だけ入れ替わっているという珍妙な例はさすがにここしかない。こんなことってある??? 何か特別な事情を考えたくなる。記紀で一致してるのは性別でなく名前の順序で「タカラ(財)」が上(兄?姉?)で「タカベ(多訶辨・高部)」が下(妹?弟?)である。もし順序にこだわらなければ、財王と高部皇子が同一人物、財皇女と多訶辨郎女が同一人物とも考えられる。実際、太田亮の『姓氏家系大辞典』がこの立場。しかしこの場合は生まれた順序という記紀に共通の貴重な情報が廃棄されてしまうし、何よりもなんでこんな奇妙なことになったのかの説明もつかない。
いちばん突拍子もない解釈としては「財王(♂)=財皇女(♀)」であり、「高部皇子(♂)=多訶辨郎女(♀)」でもあり、この二人は両性具有だった、もしくは性別が時々いれかわるのだった、という説。まぁ実際そういうことってあってもいいとは思うし、面白そうだから誰かこれでラノベの一つも書いてほしい。ただしこの場合は問題は解決して話は終わってしまう。

【2】「財」という名前
別にここで終わってもいいのだが、「両性具有」とか「性別がいれかわる特異体質」みたいな話は無しにして、もそっと普通に考えると、どうなるか。
名前から考えるにタカラという名は皇極・斉明天皇の名前がタカラ(宝・財)というのは有名だがそれ以外にも皇族にまま見られる名前で、特に問題がなさそう。「財部」(たからべ)という部民を管理する伴造(とものみやつこ)が財臣(たからのおみ)という武内宿禰系の氏族で、誕生した皇族にこの氏族が乳母としてつくと「財皇子」とか「財皇女」と呼ばれる。財部は成務天皇の妃の「弟財郎女」(おとたからのいらつめ)の名代(なしろ)でとして始まったらしく、それ以来、名前に「財」のつく皇族に代々伝領されて最終的に斉明天皇のものになって大化改新を迎えた。
【3】地名説
問題はタカベの方で、「高部」という部民があるわけではない。下総と遠江に「高部郡」、全国各地に「高部郷」という地名はあるが部民が由来でないとしたら例えば「田壁」とかの地名の当て字かも知れず何ともわからない。
【4】財部説
だがタカラとタカベは妙に似てるから、例えばタカラベ(財部)の略でタカベなのではないか? 多訶辨は「多訶良辨」の誤脱だったのを書紀が高部だとカン違いしたか、もしくは逆に「財部」と書いてもタカベと呼んでいたからタカラベではないと示すためあえて「多訶辨/高部」と書いたか。後者なら、日本書紀の「高部」は当て字にすぎなかったことになる。もし「財」と「財部」が同義なら前述の太田亮の説に寄ってくるが、同義ではない。同じ兄弟姉妹で一方は「財臣」が乳母でもう一方は「財部造」が乳母になるという落差は考えにくい。そこで思い出されるのが飯豊王のことだ。この人は同名異人の二人が混同されているという説があり、皇女で叔母の飯豊王は別名が「忍海郎女」、王女で姪の飯豊王は別名が「忍海部女王」。上の世代は「部」が入らないのは忍海連が乳母だったことを表わし、下の世代に「部」の字が入ってるのは「忍海部」を伝領したことを表わしている(実は叔母と姪ではなく何世代も離れているのだが話がややこしくなるので今は触れない)。これからすると「財王・財皇女」というのが第一世代で「多訶辨郎女・高部皇子」というのは孫(第二世代)なのではないかと思われる。つまりタカラもタカベも男女ともにいて計四人いたのを混同して二人にしてしまったから性別に異説が生じたのである。同名の男女が二世代にわたってちょうど一組づついたっていうのは御都合主義でもなんでもない。同名の男女ペアは珍しくないのだから、それがたまたま二世代続いても全然おかしくない。
なお第二世代になると皇子・皇女ではなく皇孫だから、名前の表記は高部皇子ではなく「高部王」となる(古事記の表記だと皇子でも皇孫でも関係なく「王」)。もし財皇女が孫世代なら財王となり性別がわからなくなる。古事記の場合は「財比賣」とか「財郎女」と書いて女性五だとわかるように書くことが多い(この場合姉妹の名から推測して「財郎女」)し、書紀なら「財女王」になる。
さらにいうと同名の兄弟姉妹の場合、夫婦であるケースも多そう。同母の兄弟姉妹は結婚できなかったというのは常識みたいになってるが、それは間違いであることは「軽太子と衣通姫」の記事で詳細に説明した。別にタブーでもなんでもなかったのだから、それ(同母間での兄妹結婚)が二代続くということも当然ありうる。
【5】鷹部説
もう一つの説は「鷹部」の当て字ではないか。鷹を飼い馴らす鷹匠の技術は仁徳天皇の時に百済から伝来し、鷹甘部(たかかひべ)を置いたというが、鷹自体は縄文時代から日本に棲息して野鳥として狩られ食用にもされていた。反正天皇の頃は鷹甘部が出来たばかりだから、まだ名称が揺らいでおり「鷹部」ともいったんだろう。あるいは鷹甘部と鷹取戸(たかとりべ:野生の鷹を捕獲する部民)を総称して「鷹部」といったのか。この頃の皇族の名前には鳥の名前がよくある。だから「鷹皇子、鷹皇女、多訶王」という名前があってもよい。ただ、ちょうど鷹甘部=鷹部も出来たばかりで話題になってたからこれに因んで「鷹部」と名付けたか。この場合、鷹匠の技術を伝えた百済王族で日本に帰化していた酒君(さけのきし)の一族が乳母になったか(『新撰姓氏録』では子孫がのちに百済公氏になっているがこの「公」というのは本来は「王」(きし)とあるべきだが、ずっと後になって百済滅亡後に本家の百済王家が日本に亡命してきて「百済王氏」になったので、区別するため王から一階さげて「公」に改めたものと見ゆる。ゆえに「公」と書いても読みはキミではなくキシ。クダラノキミと読んでる人が多いがそれは誤り。この「公」は通常のカバネのキミ(公・君)とは異なる)。ただし「鷹部」説だけでは性別の入れ替わりは解決しない。財部説の場合と同じく同名のペアが二世代続いたとした場合、財部説とは違って、「財王・財皇女」のペアと「鷹部皇子・鷹部郎女」のペアのうち、どっちが前世代でどっちが後世代なのかは、これだけでは決まらない。
【6】鳥の血脈
ところで中斯知命(なかしちのみこと)の二人の娘、兄媛(えひめ)と弟媛(おとひめ)のうち、兄媛は市辺忍歯王の妃、荑媛(はえひめ)と同一人物であり、荑媛は葛城蟻臣の娘ではないことはこのブログの別記事で論証した。市辺忍歯王は履中天皇皇子だから、弟媛はもしや反正天皇皇子の妃になったのではないだろうか。中斯知命の「斯知」はシメとかシトドという鳥のことで「鷹部」という鳥の名も中斯知命からの流れではないのか。そうすると反正天皇の妃の弟媛というのは丸邇臣許碁登(わにのおみこごと、紀:大宅臣木事、おほやけのおみこごと)の娘とあるが、これはよく読むと正夫人の「都怒郎女」(つぬのいらつめ)のことで、もう一人の名前が「弟媛」だから安直に都怒郎女の妹だと即断してしまったミスなのであろう。原文では「都怒郎女」が産んだのは皇女二人だけではなく「財王(財皇子)・財郎女(財皇女)」を入れて四人だったのだろう。当時は一夫多妻は普通だったのだから、財王の妃が財皇女と弟媛の二人いても不思議ではない。財皇女には子供が生まれなかっただけ。財王と弟媛との間に生まれたのが「多訶辨郎子(高部王)・多訶辨郎女(高部女王)」だったのに錯簡で現在のような本文になってしまった。弟媛を通じて中斯知命の血が入ったから「鷹部」という鳥の名をつけたのであろうから、高部皇子が弟媛と結婚して「財王・財女王」を生んだのではあるまい。
むろん財王(財皇子)と財郎女(財皇女)の二人ではなく、両性具有もしくは性別いれかわりの特殊能力をもっていた一人の財王しかいなかったとしても、財王に女性を妊娠させる能力さえあれば問題はない
【6】履中宮家と反正宮家の合体
そうすると「多訶辨郎子(高部王)・多訶辨郎女(高部女王)」は反正天皇の孫で同母の兄妹で、ついでに夫婦ということになるが、この二人には子孫の記録もなく、二人がどうなったについては何もわからない。息長氏にとって都合が悪いから削除されたのである。おそらく多訶辨郎子(高部王)は殺害されたか不運にも病死だかで早逝して、残された多訶辨郎女(高部女王)が御馬王に再嫁して橘王(たちばなのみこ)と居夏姫(ゐなつひめ)を生んだのではないかと想像する。御馬王は記紀では市辺忍歯王の弟ということになっているが、市辺忍歯王が生まれたのは履中天皇の最末年だから弟などいるはずがない。記紀は応神朝と仁徳朝を長く取りすぎたため年代を切り詰めて編年している。市辺忍歯王と荑媛(兄媛)の間に生まれたのが御馬王だ。

御馬王の名前は「侯馬鳥王」だった
この人の名前は原資料では「侯馬鳥王」だったと推測する。
侯馬は万葉仮名でコマの音写だったが、「御馬」に誤記されたのである。馬と鳥は「魯魚章草、烏焉馬の誤り」といわれる間違えやすい文字で「侯馬馬」と重複誤記されて削られたんだろう。従ってこの人の名は御馬王(みまのみこ)ではなく侯馬鳥王(こまどりのみこ)なのである。
この名は記紀ともに「御馬王」としているから、この間違いは記紀共通の原資料である帝紀(帝皇日継)の段階ですでに「御馬王」に誤られていたのである。もし帝紀(帝皇日継)の段階で「侯馬王」だったら、古事記は「胡萬王/故麻王/古摩王」等と書き直したはず。
だがややこしいので便宜上、このブログでも御馬王と書くことにする。

御馬王と多訶辨郎女(高部女王)との間に生まれた橘王の名前だが、ホトトギスを別名タチバナドリともいうように、この人の名も鳥である。記紀は市辺忍歯王の子孫である仁賢天皇と顕宗天皇をいきなり市辺忍歯王の息子にしてしまったため、御馬王を市辺忍歯王の弟に、橘王を仁賢天皇と顕宗天皇の兄弟にしてしまった。だが本当は親子でつながないといけない。反正皇統の家臣筋であった丹比連氏の古伝承である古事記下巻が、履中皇統を顕彰して允恭皇統や継体天皇に批判的なのは、このような両系の合一があったからなのであろう。だがそれは息長皇統だけを顕彰しようとする古事記中巻とは対立するのだが、そこらの細かい話には今回は立ち入らない。
あ、もちろん多訶辨郎子(高部王)と多訶辨郎女(高部女王)の二人いたのではなく、両性具有もしくは性別いれかわりの特殊能力をもっていた多訶辨郎女の一人しかいなかったとしても、彼女が御馬王の胤を受胎して橘王を出産できさえすれば問題はないw その方が夫婦の生き別れか死に別れという悲しい話も無かったことになってめでたいからそうしよう。

「反正」という諡号
話はがらっと変わる。以下オマケ。
反正天皇という諡号をみて「正義に反した天皇」と解釈したのは佐治芳彦だが、「反正」は漢文で「正義の状態に戻す」って意味。中国での辛亥革命の後、軍閥が割拠してすったもんだしてた時にも「反正之檄」という檄文がでたことがあったような記憶があるがちょい思い出せない(検索にひっかからず)。墨江中津王の乱を鎮定して履中天皇を都に戻し奉った功績から捧げられた諡号であるのはあきらかで、「正義に反した天皇」とか訳の分からないこといってる佐治芳彦は、歪曲曲解したいわゆる古史古伝ネタで本を売りまくった人ですな。
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