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・金も飢ゑを療(いや)さず、玉も冷えを救はず

H28年11月24日(木)改稿 H28年2月17日(水)初稿
欠史十代としての宣化天皇
宣化天皇も安閑天皇と同じく「欠史十代」の中の一つで、簡単な記事だけで物語がない。『日本書紀』みても分量が少ないので、古事記がなにか事情あって格別に記事を減らしたとかわざと短くしているというわけではないことはわかる。宣化天皇は在位期間も短く、もともと記事が少ないのは当然だろう。

宣化天皇をめぐる人々の年齢差
古事記では継体帝は宝算43歳とあるが、これだと息子の安閑・宣化両帝の方が父親より齢上になってしまうので、日本書紀のいう82歳説の方が正しい。古事記が43歳といってるのは在位年数を誤って宝算としたもの。同じ例は本居宣長が指摘しているように允恭天皇のところにもある(ちなみに古代史マニアの世界では「二倍暦」説が人気だが、学界では認められてない。俺も二倍暦説は無理だと思う。二倍暦についての批判はいずれ別の機会に詳しくやることにして今回はやらない)。安閑・宣化の兄弟は継体帝がまだ若い頃の息子で、計算してみると継体天皇が16歳の時に安閑天皇が生まれ、翌年17歳の時に宣化天皇が生まれている。継体天皇がまだ皇位継承の候補でもなんでもなかった頃から、二人の息子はある時は近江で、またある時は越前や尾張で、長いこと父を補佐してきたに違いない。この程度の年齢差だと、ほぼ同世代の同輩にかなり近く、上司と部下というより同志のようなものだろう。それに対して継体天皇が即位した後に生まれた欽明天皇は晩年に生まれた皇子で、祖父と孫くらいに離れている。欽明天皇の年齢は記紀では不明で、後世の歴史書でも複数の説があるが、その中でもっとも年齢を若くみる『一代要記』では欽明天皇の宝算を62歳とする。これを採用すると、欽明天皇が生まれた時、継体天皇61歳・安閑天皇45歳・宣化天皇44歳・欽明天皇1歳となる。しかしいろいろな理由で、欽明天皇はさらに歳下だったのではないかと思う。私説では宝算50歳とみるので、これによると欽明天皇が生まれた時、継体天皇73歳・安閑天皇57歳・宣化天皇56歳・欽明天皇1歳となる。この場合、手白髪命は45歳前後での高齢出産だったことになるが、奈良時代の井上内親王も45歳で他戸親王を産んでるのでありえないことでもなかろう。

継体朝までの歴史の概観
日本がもっとも衰退したのは崇神天皇の時でこの時は疫病の流行により日本民族が滅亡しかかった。その後、次第に回復していき、神功皇后の時には新羅・百済まで支配、海外との交易が活発になる。海外交易による好景気によって、応神朝〜仁徳朝〜雄略朝〜武烈朝と時代がくだるに従って徐々に国内は豊かになっていき、継体天皇の時には空前の大繁栄時代となった。しかし物質的繁栄は精神的退廃とセットになっていることが多く、政治的にも精神的にも、かなり乱れた時代でもあったのだが、それは経済的な繁栄と矛盾するものではない。だが、任那四県二郡の百済への割譲のあたりから不穏な影がさす。任那の混乱はこれによって始まるからだ。この事件は日本書紀では継体六年(AD512年)のこととするが、正しくはAD490年以前である。490年というのは日本書紀ではまだ仁賢朝だが、正しくはすでに継体朝が始まっている。四県二郡の獲得によって大きく南に領土を拡大した百済をみて、新羅も任那諸国への野望をもって南進してきた。それを掣肘するための派兵が、人選を誤ったために大混乱のもととなったが、角林文雄の説では、この人選の誤りは継体天皇の情実人事によるものなのである(任那派遣軍の将軍に近江毛野(あふみのけな)を任用したことをさす)。継体天皇は内政においては有能だったことが多くの地方伝承からわかるが、それは地方の国造クラスとしてふさわしい能力であって、国家レベルの政治家に必要なのは「外交問題」を処理する能力なのである。このごたごたを治めたのは即位前の二人の皇子(安閑、宣化)だったのである。

宣化天皇即位の事情
本当なら継体天皇の嫡子は欽明天皇で、すぐにも即位すべきだったが、継体天皇末期の任那のゴタゴタをなんとかして治めたのは勾大兄皇子(まがりおほえのみこ:のちの安閑天皇)と檜前高田皇子(ひのくまのたかだのみこ:のちの宣化天皇)だった。二人は弟を擁立するため苦心して任那の混乱をなんとか収束させたが、欽明天皇が11歳(『一代要記』によって宝算62歳説をとるなら23歳)で即位したとたん不祥事が続いて任那は再度混乱、在位2年で投げ出すような形で兄の安閑天皇に譲位したのだろう。この2年間は日本書紀では空位期間としているが実際には欽明天皇が在位していたのである(この2年間の事件は日本書紀では継体25年以前に繰り上がっているが、時系列がめちゃくちゃで、前後矛盾が多く修正して復元するとかなりの事件がこの2年間のことだったのがわかる)。欽明天皇はこれで懲りてしまって、自分には君主としての器に欠けることを痛感していた。それでまずは安閑天皇に即位してもらい、安閑天皇が崩御してからは宣化天皇に即位してもらった。この両天皇の期間は、欽明天皇の見習い期間だったわけだ。

安閑朝と宣化朝
安閑天皇の治世は形の上ではわずか2年だが、継体朝の後期はほぼ安閑天皇が政務を取り仕切っていたので政治的指導者としての実績は長い。ところで、『南史』梁本紀第七、梁の高祖武帝の中大通六年(AD534年、日本では安閑元年)閏十二月丙午(この月の丙午日は廿八日にあたる)の条には「(首都の建康(今の南京)からみて)西南の方角で雷鳴が二度、響いたとある。これは西暦に換算するとすでに年が明けておりユリウス暦535年2月16日(金)にあたる(グレゴリオ暦だと2月18日だがこういう時はユリウス暦を使う)。この雷鳴とはインドネシアのクラカタウ火山の大噴火の爆音だろうという説が有名だ。この噴火で島が二つに分断されてスマトラ島とジャワ島になった(それまでは両島はつながっていて一つの島だった)。噴煙は地球を一周し、東ローマ帝国の記録では1年半にわたって空が暗がりに包まれたという。東は日本から西はヨーロッパ、それに加え中南米までも、世界的規模で気候の急激な寒冷化が起こり、535年からの10年間はここ二千年の間で地球が最も寒冷な気候だったという。この後、世界各地で飢饉や疫病、戦争などが勃発、蔓延していく(日本も同じ)。ただし疫病に関してのみは噴火のせいではなく同年に彗星が落下してきたのが原因らしい。日本では翌年(安閑二年=535年)の正月の段階では、まだ繁栄を謳歌するあまり安閑天皇が五日間に渡る宴会を催すほどだったが、その後まもなく、日本にも寒波が襲ったろう。当時の日本人は寒冷化の原因が遠い南洋での噴火だとはわからなかったろうが、やがて冷害・洪水・旱魃などによる大飢饉がくることを予想した賢人も当然多かったはずだ。安閑天皇は、あれこれと理由をつけて全国各地に数多くの「屯倉」(みやけ)を設定している。「屯倉」は朝廷中央の直轄で、広大な農地と農民が付属して経営され、膨大な武器や食料を貯蔵する。これは任那問題がこじれてやがて大規模な戦争が必要になることを見越した政策だったが、食料備蓄は飢饉への備えも兼ねることになったと思われる。が、当時の日本人は長年続いた好景気に慣れてしまって、国家の心配というと外交や政治や文化については論じたり争ったりすることはあっても経済問題を憂慮する習慣がなくなっていた。そこで、宣化元年(536年)五月、以下の詔勅が発せられた。

「食者天下之本也。黄金万貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。夫筑紫国者遐邇之所朝届。去来之所関門。是以海表之国候海水以来賓。望天雲而奉貢。自胎中之帝泪于朕身。収蔵穀稼。蓄積儲糧遥設凶年。厚饗良客。安国之方。更無過此。故朕遣阿蘇仍君。加運河内国茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稲目宿禰。宜遣尾張連、運尾張国屯倉之穀。物部大連麁鹿火宜遣新家連、運新家屯倉之穀。阿倍臣宜遣伊賀臣、運伊賀国屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫・肥・豊三国屯倉。散在県隔。運輸遥阻。儻如須要。難以備卒。亦宜課諸郡分移。聚建那津之口。以備非常。永為民命。早下郡県、令知朕心」

(食は天下の本である。黄金が万貫あっても飢えを癒すことはできないし、真珠が千箱あっても寒さをしのぐことはできない。筑紫は海外から朝貢にくる通り道、往来の関門である。応神天皇以来、ここに籾種を蓄えてきた。凶年に備えて蓄え、外国からの使いをもてなし、もって国を安んずることこれ以上の策はない…中略…もって非常事態に備え、永遠に民の命を守れ。早くそれぞれの任地に行って、朕が意図を知らしめよ)

この詔勅を発して、貴族たちを大動員して全国の屯倉から九州へ大量の籾種を運ばせた。「食は天下の本。黄金が万貫あっても飢えを癒すことはできないし、真珠が千箱あっても寒さをしのぐことはできない」というのは、当時はバブル経済のように金銀財宝や贅沢品をもてはやす風潮があったので宣化天皇はこれを戒め、迫り来る危機に備えることを訴えたのである。そして九州に重点的に配置したのは、もとの趣旨では任那や新羅といった三韓への派兵の兵站という意味があったのだが、急遽、海外から来るであろう難民の対策(難民の入国を阻止することも含む)や、国内が弱った時の外国からの侵略への備えも考慮した上で、軍備よりも食料確保を主体としたものに変更されたのであろう。国家の大事は情報と食糧とエネルギーである。現今の第一次産業のお寒いこと、食糧安保はどうなっとるんや。宣化天皇の詔勅を謹みて農業政策をまじめに考え直したほうがよいのではないかね。

春日山田皇女(安閑帝の后)の執政
宣化天皇が崩御すると、いよいよ欽明天皇が再登板せざるをえなくなったが、そんな段階ですら「自分は齢が若く(といってもこの時18歳、『一代要記』の宝算62歳説によればこの時30歳)、知識が浅く、まだまだ政治には習熟していない」といって山田皇女(安閑天皇の皇后)に政治を委ねようとした。まして、安閑天皇が崩御した時にはもっと若いのだから、自分が継ぐのではなく次兄の檜前高田皇子(=宣化天皇)に即位してもらったのは当然だ。そういうわけで日本書紀が欽明天皇の即位元年としている年は実は二度目の即位なのである。さてこの春日山田皇女(安閑天皇の皇后)に執政の任につくように願ったという話は日本書紀にあるのだが、この話はおかしいのではないか。代替わりの際に、新帝即位までの一時期、先帝の后が政治を執るのは慣例であって別におかしなところは何もないが、安閑天皇や宣化天皇は「仮の天皇」(=中継ぎの天皇)という雰囲気がつよく、おそらく後宮の中での最高権威は継体天皇の皇后だった手白髪命で、彼女はこの時期まだまだ薨去するような齢ではなかったはずだ。百歩譲っても直前の天皇である宣化帝の后だった橘仲津媛に執政を願い出るのならまだギリギリわからないでもないが、なぜ春日山田皇女なのか、意味がわからない。だが武烈天皇の回で書いたように、春日山田皇女は勾大兄皇子(安閑帝)に嫁ぐ前に、武烈天皇の皇后を演じていたのである。詳細は省くがいろんなあれこれの計算からすると、武烈天皇崩御と継体天皇即位の間はおそらく1年か2年、空いていたと思われ、そうするとこの期間は武烈天皇の皇后だった人物が執政していた可能性がひじょうに高まる。実際、春日山田皇女が執政していたという事実が伝承されていたのだろう。だが日本書紀は春日山田皇女といえば安閑天皇の后としか思ってないから武烈継体の間には入れなかった。欽明天皇は彼女のそういう実績を踏まえて、執政を願い出たとも考えられるが、おそらく別の理由だろう。四県の割譲は彼女のせいとはいえないが、当時(490年の前後1~3年?)かりそめにも執政の地位にいたので責任を感じていたのではないか。だからこの時ちょうど自信喪失して宣化帝の後を継ぐ気になれなかった欽明天皇は、ちょうどいいと思って春日山田皇女に挽回する機会をさしあげようとしたのではないかと思う。しかし彼女は政治はこりごりなので辞退した。日本書紀によると、四県割譲事件の際に猛反対した一人が勾大兄皇子(安閑帝)であった。宮廷内で割譲に反対することは、すなわち春日山田皇女を非難することと同じであり、彼女を苦しめることになっただろう。勾大兄皇子はそれに責任を感じて謝ったり慰めたりしてるうちに良い仲になって結婚しちゃったわけよ。まったく何が縁だかわからんね世の中は。

欽明朝からの歴史の概観
さて安閑、宣化の二代の名君によって任那はなんとか収まったがそれは一時的なものに終わった。なぜなら、宣化天皇の後は人材が枯渇してしまったからだ。おっとりしたボンボン育ちの欽明天皇のみならず、臣・連(おみ・むらじ)の居並ぶ貴族たちも、長く続いた経済的繁栄のために精神的にすっかりたるんでおり、この後、日本の歴史は十四世紀の南北朝時代までの長い長い坂道を転落していく衰退の時代に突入していくのである。もっともこの頃から世界各地が荒廃して激動の世界史に突入するので、短期的には日本だけの話ではないが、やがて中国では大唐帝国、中東ではサラセン帝国(アッバース朝)を築いて繁栄の時代を迎えたのに対し、西欧は暗黒の中世に突入。日本も律令制の導入でどうにかしのごうとしたが、西欧の中世は、部分的には見直す説もあるものの、全体としては最終的に巧くいったのかどうか評価は微妙だろう。日本の場合は仏教の物珍しさから仏教を入れたはいいが、仏教は蘇我氏と物部氏の政争の具となって内乱となり、任那は完全に滅亡し、蘇我の専横。それに対する大化の改新は新時代への適応としては的確で素晴らしかったとは思うが白村江に戦うも日本軍は全滅。その後、仏教に迷って国家が迷走していったので、仏教の悪影響が大きかった。そのせいだけではないが奈良時代には早くも律令制が教条化・硬直化したため、宇多天皇と菅原道真による「寛平の治」で律令国家から王朝国家への大改革を迎える。これは当時の政府の力量に見合わない権限を放棄したもので、この結果、地方分権化と武士の勃興による戦乱・混乱の時代を開くことになる。それにしても確固たる人材が輩出して国民文化が健全で上下団結しておれば、ここまで迷走・衰退したはずはない。同じ頃、中国や中東も四分五裂してモンゴル系やトルコ系の遊牧民が優勢になっていくが、日本の武士も同じ日本人を食い物にするのでなく大陸に進出すればよかったのである。日本人がくだらない内乱で無駄に人材や国力を消耗しなければ、任那復興はおろか大陸進出は史実より数百年も早かっただろう。

安閑・宣化両帝の人柄
日本書紀をみると、兄の安閑天皇の性格は「是天皇為人、墻宇凝峻、不可得窺。桓桓寛大、人君之量」(幼少の頃から器量ぬきん出て、そのすぐれることははかりしれないほどだった。武威にすぐれ、寛大で、上に立つ者としての器量(指導力)をもっていた)とあり、この指導力(人君之量)というのは継体朝の末期から自身が即位する直前までの十年近く、有能なる「天皇代理≒摂政」を務めていたことをさしている。それに対し1歳違いの弟の宣化天皇は「是天皇為人、器宇清通。神襟朗邁。不以才地、矜人為王。君子所服」(清らかで(=金や物に執着がなくて)、さばさばした人柄で、心(=内面)の朗らかなることも並でなかった(逆にいうと外見はクールな感じだったのかも知れない)。才能や地位で人にほこったり皇族ぶった顔をすることもなく、道義をわきまえた君子たちがすすんで天皇に従った)とあり、二人とも、歴代にあまり例のないほど絶賛されている。どちらも名君だったのだろう。兄弟で名君というと仁賢天皇・顕宗天皇が思い出される。あちらは兄が冷静な知性派で、弟が感情豊かな行動派だったが、こちらは兄のほうが快活で弟の方が控え目な感じ。兄と弟でキャラの傾向が逆なのがおもしろい。
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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