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このブログの6つの基本原則

2679(R1)・11・24 SUN 改稿 R1・5・26 SUN修正 H30・7・28 SAT修正 H26・10・16初稿
【1】問い合わせや連絡などはコメント欄で、もしくはメールフォームからお願いします。

【2】※このブログには『古事記』の原文も現代語訳もありません。
議論の流れや説明上、最低限必要な分は載せることがあります。『古事記』の内容が頭に入ってないと議論が唐突でわかりにくいでしょうが、それは「古事記ぐらい読んでるし頭に入ってるわい」という人向けに書いているからです。そうでない人は別のウインドウかタブで別サイトの『古事記』を開いてそっち見ながらでもいいでしょうし、なんなら文庫本(電子書籍も可)を買って先に関連ページを読んでからこのブログの議論を読むのがもっとよい。ちなみに『古事記』の文庫本だと岩波文庫(倉野憲司)や講談社学術文庫(次田真幸)のはおすすめできない。角川文庫の『古事記』それもできれば中村敬信の新版でなく、武田祐吉の旧版が良いです。

↓これ。左の方がより良い。どれも無かったら中村敬信のでも仕方ないが、それでも岩波や講談社のよりはマシだと信じたい、武田祐吉の弟子なんだろうし。
角川古事記3冊揃い
↑クリックで大w
なお武田祐吉の古事記は青空文庫にもあります
読み下し
https://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51731_50813.html
口語訳
https://www.aozora.gr.jp/cards/001518/files/51732_44768.html

【3】このブログは、わたし(ブログ主)が古事記の感想や個人的な意見をまとめた個人ブログです。

といっても、古事記が編纂された奈良時代には、公式の正史である『日本書紀』も同時進行で編纂事業が進んでいたため、当然『日本書紀』が主に読まれるという予想が前提となって『古事記』は設計されていると考えられます。特に中巻・下巻がそう。つまり古事記の中巻・下巻は日本書紀を修正あるいは補完するという面が強くある。それで古事記と日本書紀を併読し、両者あわせて考察しています。上巻だけは日本書紀なしで単独で完結しているので、日本書紀の神代巻(第一・二巻)とは対等に比較照合して参考にしています。(詳しくはブログ内の各所にて)


【4】※このブログは日付の順に読む意味はありません。カテゴリー欄から興味あるところをクリックしてランダムに読んで下さい。あるいは検索窓に興味あるキーワード入れて検索して出た記事から読むもよし。記事の順番、前後などはごく一部の例外を除きほとんど意味ないです。
カテゴリー欄はPC版では画面左側に(都合により右側になってることもあり)、スマホ版では左上のプルダウンメニューにあり。
検索窓はPC版では画面右側のいちばん上といちばん下の2ヵ所に、スマホ版ではスクロールしていちばん下にあり。

【5】このブログを始めるまでの過去の経緯についてはこちらをクリックして下さい。
   →https://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

【6】このブログの基本原則

1) 『古事記』を架空のお伽話とはみなさない。すべて事実であると、なるべく信ずる。例えば、進化論を否定する聖書原理主義者のような気持ちになって、古事記に書かれていることすべてを、極力、真に受ける。

2) 『日本書紀』に書かれていることも、格別古事記の内容と矛盾しない部分に関しては、同じくなるべく事実として受け入れる。

3) 『古事記』と『日本書紀』の間で矛盾がある場合、極力その両者が両立するような理屈を徹底的に考えぬく。

4) もしそれが不可能な場合、『古事記』が正しいとして『日本書紀』を誤りとするが、必ず、なぜ日本書紀がそのような意図的な改変をしたのかという理屈を考える。

5) 例外的に『古事記』より『日本書紀』が正しいとした場合も、なぜ古事記がそのような誤りを犯したのかという合理的な理屈を考える。

6) ただし、『古事記』も『日本書紀』も完本ではなく文章の誤写や文字の脱漏、伝承の摩耗、欠落、断片化などがありうるので、意味不明なところや、一見したところ不合理なところは推理の余地がある。聖書原理主義者でもなければ古田武彦でもないので「古事記には一字一句も誤りはない」、とは考えない。

7) 神武天皇以降の諸伝承は歴史であり、神話ではないとする。事件の背後には国内政治・外国関係・古代信仰・経済・軍事・社会・習俗文化・歴史地理・地政学など、膨大な「事実」からなる「世界」があって、記紀に語られた物語はその世界の中で展開したのである。しかし世間には、背後の世界から切り離した「ストーリー構造」だけを物語として扱っている議論が多すぎる。これは畢竟、歴史事実ではなくただの神話、伝説だと決めてかかってるからだろう。このブログでは神武天皇以降はすべて史実として扱うので、具体的な世界と連動した解釈をめざす。

8) 神代については、神話であり、歴史ではないとする。神話学は単なる西洋の学問ではなく、その先駆者は日本の平田篤胤なのである。従って、世界各地の神話を比較検討して、日本神話の解釈に役立てるべきである。世界各地の神話が似ているのは原始時代にはもともと同じ話だったから。複数同時発生説は採らない。従って神話は、数万年前にも遡るものであって、神話の中に活躍する神々が、たかだか古墳時代や弥生時代あたりの「人間」だったなんてことはありえない。神々を人間だとはみなさない。ただし「もとから神であって人間ではなかった」という言葉には「だから実在しなかったのだ」という意味を一切含まない。またここで先からいっているところの「神話」という表現には「事実ではない」という意味を一切含まない。

☆擬人化と日本文化

2679年(平成31年・新年号元年)2月9日改稿
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今日、平成29年2月9日(木)は「漫画の日」だっていうんだけど、調べてみたら7月17日、11月3日も漫画の日で、年に3回もあるぞ? 
2月9日は手塚治虫の命日だがこれを漫画の日にきめたのは「まんだらけ」。一私企業が勝手にきめていいのか?
7月17日は、1841年にイギリスの絵入り諷刺週刊誌『パンチ』が創刊された日で、文久二年(1862年)には日本語版『ジャパン・パンチ』が刊行。本家『パンチ』は1992年に廃刊(151年間)。ふむ。どうもこれはイギリスの漫画の日みたいだな。でも手塚治虫より前なんだからこっちに敬意をはらうべきじゃないのか?
11月3日は手塚治虫の誕生日。また手塚か、誕生日か命日だったらどっちがより適切ともいいにくいな。これを決めたのは日本漫画家協会と出版社5社で平成14年(2002年)年8月に制定。「まんだらけ」に対抗したのか? たしかに「まんだらけ」が勝手にきめるよりは公式な感じはするけど、「まんだらけ」に対抗するためわざわざ別の日にするのはおとなげないぞw それにこれ明治節(文化の日)じゃねーかw わざわざ文化の日にぶつけるってのは好意にも悪意にもとれる。彼ら自身は「漫画を文化として認知してもらいたい」ということから文化の日にしたと自称してるようだが、いまどき漫画を文化として認めないなんてやついるのか?漫画だけが文化じゃないだろうに、文化を独占して、漫画が文化の中で特権的な地位であるかのように宣伝してるみたいでいい感じがしない。日程も「さまざまな文化」の日の中に埋没する危虞とか考えなかったのかね?文化の日をまっさきに思い出すからむしろ漫画の日って忘れられるだろうに。
擬人化とアニミズム
(※内容は後日に記入)

擬人化の物理的表現の世界的起源
(※内容は後日に記入)

仏教伝来の衝撃
鳥獣戯画
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(※内容は後日に記入)

・古事記と「平和思想」・後編

平成30年12月改稿 H29年12月20日(水)初稿
忘年会で見せられたんだが、新聞の切り抜き。これは反核平和団体「ICAN」がノーベル平和賞を受賞した件で皇后陛下が誕生日に談話を発表した記事、どの新聞かわからないが例えばこれなんか近い→「皇后さま83歳 核廃絶、平和の願い込め(毎日新聞2017年10月20日)」。忘年会の席なんだが、今年はこれで1人づつ、平和について感想なり意見なりを言っていくという流れに…。ご馳走とお酒を飲み食いしながらなので、酔っ払ってあれこれつまらぬことをしゃべってしまった。
古事記と「平和思想」・前編」から続き


(※日向三代と平和、まとめ。多忙につき後日かきます)

☆日本史総覧

平成30年11月16日改稿 同日初稿
日本史総覧
(※内容は年明けにでも書きます)

・古事記と「平和思想」・前編

平成30年11月改稿 H29年11月15日(水)初稿
最近の北朝鮮のミサイル問題で世の中物騒な雰囲気になってきたのを受けて、思いつきの平和思想を語りだす人も多い。で「平和」思想についての議論会みたいな流れもあちこちであるわけだが、古事記に描かれた素朴でノドカな古代のイメージに「理想の平和社会」を見出す一種のロマン主義な発想も、津田左右吉特有のものでなく、そういう人は昔も今も一定いる。ある人は古事記の中から平和主義の要素を17項目もあげていた。
e1a87_1456_266ecd28_e7a8cbc4.jpg(※動画、画像は本文とは関係ありません。雰囲気カットです)
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※↑これ見て「かまなら祭」という言葉が浮かんでしまう俺もたいがい平和ボケしてるのかもしれんが、まぁ面白ければいいっていう80年代の人なんで赦してくれ
「古事記は平和の書である」?
だが古事記には皇位継承争いや内乱といった、戦いがたくさん出てくるから、平和とは程遠いイメージを抱く人もいあるだろう。だから反発する人がいるのはごもっとも。むろん戦争とは同時に平和の希求のことだとも言いうるのではあるが、反発する人は「古事記に書かれている事実と違うじゃないか」という論理的な反論からだけではないように思う。第二に、北朝鮮のミサイル騒ぎで「平和が大切だ」と言い出すまではわかるが、そこから北朝鮮がけしからんという方向にいかずに、日本で憲法改正の動きが加速するのが問題だ、みたいな発想ってどうなのよ、とウヨなら誰でも思うだろ。思うよな?w
三つ目に、人間ってのは「時代」の制約からまぬがれ難い。どんなに客観的な意見のつもりでも、ずっと後になってから誤りに気づいたりする。そういう時「あの時代ではそう思い込むのも仕方なかった」ということがある。どんなにオリジナルな思想のつもりでも、時代環境の影響が実は大きくて、本人の独自性の発揮などではなかったりすることもある。言葉の意味やニュアンスも変化していく。戦争経験者にとっては「平和」という言葉は、尊く、ありがたく、清らかで、大切なイメージがあるのだろう。しかしそれは万人の共有するイメージではありえない。ある人々にとっては、ウサンくさく、詐欺っぽく、ゲスで、偽善がましいイメージしかない。「平和」という言葉に悪いイメージしかない人にとって、「古事記は平和の書である」と言われると、なんとなく神聖な古事記が穢されたような気になるのではないだろうか。そういうイメージの問題は、感情論でもあり、古事記の素晴らしさを称揚したいが余り「平和の書」といおうが、「平和の書」といわれて穢されたと怒ろうが、いずれも「個人の感想です」ということにしかならない。そういう「感情をこめた」言葉ではなく、客観的に「平和とはなにか」を冷静に考えてみたいもの。「冷静に」とは「冷酷に」という意味でもある。とはいえこのブログ含めてネット上の有象無象の凡人の議論が実際に客観的だったためしはそうそう無いんだけどねw 本人が誠心誠意、誠実なつもりの議論ほどおかしな方向に曲がってったりな。

「平和」という言葉
この言葉の最大の問題は大和言葉(やまとことば)でないことである。ヘイワという漢語だ。これを「たひらかなごみ」と直訳したら翻訳語っぽくてこなれた大和言葉とはいえない。平安京を「やすのみやこ」とか「たひらの京」と読んだ例はあるのでいっそのこと「平和」という語彙は「やす」とか「たひら」みたいに単純な言葉に訳すほうが、仰々しい言葉や雅にすぎる言葉よりは、へんに観念肥大しなくていいのかもしれない。しかしそれでは中二ごころが満たされない。で、古典をまさぐるに日本の雅称に「浦安国」(うらやすのくに)というのがある。「浦安の舞」という神楽舞のタイトルにもなってる。ウラヤスは直訳すれば「心がやすらか」の意味だが、「浦安国」となれば「平和な国」ってことだろう。「浦安の舞」は「平和の舞」と意訳できる。「平和」にあたる大和言葉としては「ウラヤス」を推奨したい。他にも、国名つながりでいえば「大和国」と書いて「ヤマト」ではなく字のまま「オホヤハシ」とか「オホニギ」とか「オホヤハラギ」等と読んでいた時期もあったと思われる(詳しくは「継体天皇にはなぜ物語がないのか」のページを参照)。しかし言葉を置き換えただけで満足しては、固有の思想性はあきらかにならない。「平和」はあくまで漢字語であり、中国語由来の言葉なのだから。

「平和」とはなにか
中国語ではあまり「平和」とはいわない。中国語新聞などでは「和平」という文字は目につく。自動翻訳ページで「平和」を中国語に翻訳すると「和平」と出るんだが、しかし日本語の「平和」と中国語の「和平」は完全に同義ではなく、微妙なニュアンスの違いがある。日本語の「平和」は、平和主義者にとってはそれ単独で存在するユートピア的な観念なのに対し、「和平」は「戦争」と対になった概念であり、平和が続くと人心だらけて国の仕組みが崩れて戦乱へと転落し、戦争はいつか敵を殲滅して終結し平和が到来する。陰きわまって陽となり、陽きわまって陰となるごとく、平和と戦争は交互にくりかえすもの。それが中国人にとっての「平和」であり、日本の平和主義者のいうような「絶対的な価値」ではなく「相対的な現象」である。どちらの意味で「平和」といってるのかで議論の結果が大違いになるし、ここを確認しないで議論しても永遠に噛み合わない。だが俺はどちらかが間違いでもう一方が本当の平和だというつもりはない。前者は「広義の平和」、後者は「狭義の平和」として区別したらよいだろう。区別した上で、では、我々ウヨとしては前者の「平和」を廃し、後者の平和概念(「和平」)を推奨すべし、と言いたいのかというと、それがそうではない。「和平」でもまだまだ甘いのじゃないか? 戦争と平和はくりかえすのが当たり前の単なる現象だと思ってる国が実際に核ミサイルと膨大な軍隊をもっている北朝鮮以上の軍事国家であり、日本はその隣国なんだから、国内に大量に抱え込んだ絶対平和主義のお花畑脳の持ち主がどれほど危険な存在かわかるだろう。誤れる平和思想を撲滅するためにも、ここは一つ、「平和」でも「和平」でもない、「平定」という言葉を推奨したい。英語でも "pacify" (動詞「鎮める・なだめる・平和を回復する・鎮圧する」)とその名詞形 "pacification" (名詞「講和・和解・鎮定」)という言葉があり、これの語源は「平和(peace)にする」ってことだから、まさに "pacify" は「平定する」ということだ。ここに三つの平和観が出そろった。非武装中立論なみのお花畑、絶対平和主義が一つ。戦争と平和が運命論的にあるいは自然現象的に、あざなえる縄のごとくくりかえすというのが中国的な歴史観なら、主体的、意図的に自助努力で平和を実現する。それが第三の平和思想、「平定」の精神である。これからは平和主義でなく平定主義でいこうw 古事記は「平定の書」である!w

「コトムケヤワスの精神」とは何か
で、そうなると、「平定」をウラヤスとかオホニギとか言ったのであろうか? どうもニュアンスが違うようである。平定を古典和語でいうなら、有名な「言向け和す」(ことむけやはす)があるだろう。平定もしくは「平」の一字でも「ことむけやはす」とか「ことむく」と読み、和と書いて「やはす」でも同義。名詞形は「コトムケ」だが、平和を意味する語源とのつながりからいえば、コトムケではなく「ヤハシ」(和)が良いか。
で、有名な「コトムケヤワスの精神」とはなにかというと、いきなり武力行使ではなく、まず「話し合いで平和にもっていく」、その精神が「コトムケヤワス」という言葉にあらわれている、というのだ。こういう主張は我が師匠、吾郷清彦先生のみならず、古来からあって保守系の思想家や神道家の定番のネタでもあり、それ自体は結構なお話だとして好意的に展開しているブログも世の中にはあろう。しかしどうも胡散臭くて個人的には好きになれない。これは左翼にあらざれば人にあらずというキチガイ的風潮が世間を支配していた戦後すぐから70年代にかけて、なにかと色メガネで見られがちだった神道が「神道は軍国主義ではなくて平和主義なんですよ~」というアピールをしていたのである。よくいえば生き延びるためのイメージ作戦だが、世に媚び、衆愚におもねろうとする邪念が感じられる。なぜなら「コトムケヤワス」という言葉が本当にそういう意味ならば戦闘開始の前段階の「外交交渉」をこそ「コトムケヤワス」というべきに、実際の用例みると、外交交渉があったか無かったかにかかわらず(あるいはあったか無かったか不鮮明なまま)武力侵攻によって帰順服属させることを「コトムケヤワス」といってる例が多いからだ。なので、もとは「言葉を向ける」ではなく「(こちら側に)傾かせる」等の意味から派生して武力行使をいう言葉かもしれないし「和す」(ヤハス)の部分が「帰順服属させる」ことに相当しよう(今回はそこらは深く追求しない)。もっとも今みたいに右傾化しておらずただでさえ風当たりの強かった70年代に「軍国主義でなにがわるいw」なんて開き直ってたらそりゃさぞかし生きづらかったろうが、それはそれw 実行可能かどうかという戦術レベルのことは建前上の正しさを書き換える理由にはならない。こっちは言うだけなんだからせめて倫理(観念上の正義)を示し置くのが役割だろう。当時だって極論をいう右翼団体はいくらでもいたんだし。世間からどう思われていたかは別としてw いや世間からどう思われようが「田中角栄を有罪にした裁判官を吊せ」とテレビで騒いで排除された小室直樹がやっぱり正しかったわけだろ。「コトムケヤワス」を平和主義にこじつけるようなのを「曲学阿世」というのであって、今でもマスコミに出て世間からちやほやされてるような学者なんてWikipediaなみに信用ならない。よく使ってるけどさ。
話を戻そう。ウラヤスもオホニギも日本の雅称に残った言葉だが、同じく日本の雅称として細矛千足国(くはしほこちたるのくに)というのがある。最新鋭の軍備が整った国、軍事国家のことだよw なぜウヨともあろう者が「細矛千足国」という素晴らしい美称を都合よく忘れて「日本は昔から平和主義でござんす」みたいな主張をするのか意味がわからないw ヤマトが「浦安国」でありえ「大和国」でありえたのは「細矛千足」つまり軍備が充実していたからなのであって、非武装だったからではない。今の日本が国際社会でまともな外交交渉ができるのは米国がバックにいる時だけで、それに逆らっての外交なんて不可能だろう。武力行使ができないんだから朝鮮にも中国にも足元みられるだけで外交交渉も糞もない。外務省に仕事はない。金ばっかばらまきやがって。そんな話はいいや、つい脱線しました。とにかく、保守派神道界隈では大昔から代々の先輩から「コトムケヤワスの精神」ということが言い伝わってきた。これが「戦争反対、なんでもお話し合いで解決しましょう」というヌルい話だってのは左翼全盛期の嵐を乗り切るための偽装で、本当の意味は平和主義ならぬ「平定主義」のことなのである。さぁ皆さん一斉に唱えましょう「コトムケヤワスの精神だ」!

個々の具体論
そういう理屈はともかく先生はいかなる理由で平和の書だというのだろうか。上述の17項目を俺なりの理解で再要約すると以下の8項目となる。

1)神話:神々が職掌分担、絶対支配神がいない。(参考:原住民史観の誤り
2)「神議り」…神々の合議制(民主主義?)
3)日向三代の后選び、山の娘と海の娘を娶っていること
4)「うしはく」と「しらす」(参考:「しらす」と「うしはく」
5)「ことむけやわし」(言向け和し)
6)異族の帰順(帰化人の忠誠(例:田道間守、新羅、百済の朝貢、天之日矛、阿知直を蔵官に)、吉野国栖の服属)
7)宇治の和紀郎子の歌(実は謀反人を殺していない?)(参考:古事記はなぜ敗北者にやさしいのか
8)雄略天皇の全編(とくに三重の采女の歌)(参考:雄略天皇

以上の8項目を検討してみるに、どれも「古事記は平和の書である」という根拠にはならないと思う。では、俺は「古事記は平和の書ではない」と言いたいのかというと、そういうことでもない。これらの8項目は「直接には」根拠にならないと思うのであって、「古事記は平和の書である」というテーゼを(ある一定の条件つきで)肯定するものである。どういうことか、まずはこの8項目が直接の根拠にはならないことを、一つづつとりあげて詳細に説明しなければならないが、このブログを以前から読んでる人には説明不要かもしれない。
古事記と「平和思想」・後編」に続く

☆中国や韓国の神話は記紀と似ているか

H30年10月改稿 H27年10月25日(日)初稿
H27年10月25日(日)は14時から15時半まで、東西線西葛西駅歩6分「江戸川区立西葛西図書館」3Fギャラリーにて、古事記に関する講演会を聴講。定員80名のところ85人もくる盛況だった。
会場のお客さんから「こないだ別の講演会で、日本の神話は韓国や中国の神話と似てるって話があったんですが中国や韓国の神話から影響を受けているってことはないんでしょうか」という質問があった。これは講話の中で、中国式を除去して純然たる大和言葉で書こうとしたのが古事記だ、というような趣旨の話が出ていたのでそれを受けての質問だろう。そして質問者がいっていた「似てる」ってのは中国神話で「盤古」という巨人の右目が太陽に、左目が月になったとか、朝鮮の神話で「桓雄」という天の神が天符印というもの(鏡・剣・鈴)を父神から授けられ妙香山にあまくだったとかの話をいっているのだろう。まぁ確かに似ています。それは否定できない。もちろん講演者は「中国や韓国の影響はまったくない、なぜならそういうのを排除して作ったのが古事記だから」と答えていた。その通りと思います、私もw 会場での質問はもう一人ぐらいあったが忘れた。

中国の神話や韓国の神話と「古事記が似ている」のはなぜなのか
ところで、似てるのならそれはなぜだ、と誰でも考える。もっとも安直な答えは「影響を受けたから」。もっとはっきりいえば中国や朝鮮の神話が伝わってきてそれが日本で変形して日本の神話ができたんだという説。これに対する反論として、朝鮮の神話は記紀よりずっと後に書かれた(上述の桓雄あまくだりの話が出てくるのは『三国遺事』で十三世紀、記紀よりも500年も後)のだから、そっちから影響うけたはずはない、ということをいう人がいるが、それなら中国神話が書かれた『三五歴紀』は三世紀だから記紀より500年も古いわけで、じゃすべて中国から来てるのか。
古くていいならギリシア神話の方が古い。『イーリアス』や『オデュッセイア』が書かれたのは紀元前六世紀頃だというから、中国神話より900年も前になる。なんでギリシア神話をもちだすかといえば、今「似てる」って話だから。日本神話とギリシア神話が似てるって話は有名で、朝鮮や中国の神話が日本神話にいくらか似たところもあるっていう程度の話とは段違いに激しく似ている。これに比べると中国や朝鮮は「あまり似てない」(似てはいるのだが度合いが低い)。これは騎馬民族がシベリア経由で神話をもってきたという説もあるが、じゃ書物に編纂された時代が後なだけで内容は中国神話や朝鮮神話より古いわけだ。
…と言いたいところだが、騎馬民族はギリシア人でもないのになぜ自分らの神話でなくわざわざギリシア神話をもってこなきゃならないのか、中国神話や朝鮮神話の影響が今度は比較の上で薄すぎるのはなぜなのか。それに日本神話が全部ギリシアからきたという話でもない。南洋諸島や東南アジアと似ているところもあって、単純に「ギリシアと日本が…」という話でもない。神話学では、全世界各地の神話が驚くほど似てる話が多いということはずいぶん前からわかっている。いろいろ説明つかない。格別に「中国と日本が…」とか「朝鮮と日本が…」という話では全然なくて、全世界なの。古代オリエントの粘土板にかかれた神話から、ケルト神話、北欧ゲルマン神話、インド=イラン神話、アフリカ、シベリア先住民、アメリカ先住民の神話…。
そもそも「伝わった」という場合、つい二千年前とか三千年前のことを想像する人も多いだろうが、そんなに最近のことなら名前とか粗筋とかはもっとそっくりでないとおかしくないか。日本の神様の名前は、朝鮮語でも中国語でもギリシア語でもない。日本では縄文土器の造形に日本神話の原形を見出す研究もある。全世界規模ということは二千年前とか三千年前とかではありえず、数万年前にわかれたのだと考えるしかないだろう。
ギリシアと日本を例にするなら、時代も地域も遠く離れた方がそっくりで、時代も近く同じ極東の方がかえって似てない。これはギリシアと日本に格別の交通ルートがあったからではないだろう。もしそうならそのルート上にはそっくりな神話がいくつもあって然るべきじゃないか。そうじゃなくて、もともと世界のすべての民族は同じ神話を共有していたのである。多くの民族は伝承が途絶え神話が断片化してしまったので、世界中の神話はどれも中途半端に似ているわけだが、たまたま日本とギリシアでは古い形のものが記録され伝承が途切れなかっただけなのだ。
そして数万年前ということはつまり石器時代、原始時代ということで、その頃はまだ日本人とかギリシア人とかインド人とかエジプト人とかの「民族」はまだ誕生していなかった。原始時代にすでに神話は存在し、それは民族に先行する。だからこそ世界中の神話は、民族を超えて「似ている」のです。だから、どこそこの民族の神話が元で、それが別の民族に伝わって…という話ではないわけ。
ちなみに平田篤胤がやろうとしたことは今でいう神話学の走りですよ。平田篤胤はキリスト教をパクったとか言われてるがトンデモないw まだ中国神話とインド神話と聖書神話ぐらいしか参考にできなかったというだけで、神話の原型を追求する上で海外の神話を参考にしなければならないというのは、神話学としてはまったく正しい。一例として、篤胤がいうには、大国主は閻魔様のようなもので、人間は死後、あの世で大国主神の裁きを受けるのだといってる。批判する人は、これは古代の日本にはなかった信仰で、江戸国学が作った教義だというのだが、比較神話学的には、インド=イラン神話のヤーマ(イマ)というのは日本神話の大国主神やエジプトのオシリス神に該当する神だと考えられる。さすれば、仏教伝来以降には薄れて消えてしまい記録からは辿れないだけで、本当に「死後のあの世は大国主神が統治している」ぐらいの信仰があった可能性が高いのではないか(記紀にはだいたいそれに近いことは書いてあるが、それがヤマト朝廷が勝手に作った話じゃなくて本当に当時の庶民を含めた人々の信仰だったということ)。こんなのはほんの一例で、江戸時代の国学神道の教義はでたらめに作ってたわけではない。ちなみに今でも出雲大社の公式な教義は江戸時代の国学のままですからね。

☆神話にねざした歴史観とは…?

H30年9月改稿 H28年9月21日(水)初稿
今回は「神話にねざした歴史観」を改めて考え直そうという話なのだが、神社参拝などを通じてもなかなか神話までには思い及ばないことが多いのではないか、とか、お伽噺の類から入っていくのがいきやすいのではないか、っていう人もいるだろう。仁徳天皇陵を大仙陵古墳といいかえるような左翼的風潮を怒って公教育の場での神話教育が大事だという人もいるかもしれない。
あまり仰々しく歴史観といっても普通の人は急にはなかなか言葉にならない。それは当然でしょうがない。「歴史観」というのも、具体的な話がなかなかでてこないで本人自身がもどかしがる、ということもある。俺などは「神話にねざした歴史」といえば一言「神国日本!」「天皇陛下万歳!」「万世一系!w」「八紘一宇!ww」でおしまいなのだが、やはり年配の人だと古事記の神話はけしてウヨチックなものではないのだという戦後的な神話擁護のスタイルから抜けられない。万世一系とか天壌無窮とかの言葉は、皇国史観でももちろんある(むしろそうでないと困るw)が、本来は歴史を飛び越えて神話とつながってる感覚を表わした言葉だろう。それから延長していけば、神国とか国体とかの言葉は、神話と繋がってるのが自分一人の身体ではなく、自分が住む地域の「共同体」が神話とつながっているのだという言葉だ。
とはいえ「神国日本!」だの「八紘一宇!ww」だのの一言でおしまいにすると、伝わらない人にはまったく生産性のない決まり文句の羅列にしか聞こえないだろうから、もうちょっと寄り添った議論をすると、やはり「生活にねざした何か」につながってないと、普通の人は日常生活の中で神話だの歴史だのについてゆっくり考える機会もないわけで、歴史だけなら自分の住む街のあちこちの歴史の旧跡、あるいは大河ドラマの話題から思い及ぶことはあるが、神話まではなかなかいかない。そこで最近の風潮としては「神社」に参拝する老若男女(特に若年層)が爆発的に増えてきているので、神社がとっかかりになるのではないかと思える。そこの御祭神についてどういう神様かわかれば、大抵の場合、古事記や日本書紀の神話にでてくる神様であることが多いから、そこで神話への関心につながってくることもあるだろう。女性の場合は神社が好きな人でも「あらきれいな神社ね」で終わってしまってその先にいかないという人もいるんだが、そうかなぁ。アベック(俺はおっさんなのでカップルとは言わないw)で来る人も多いので、そこは男にがんばってもらおうw 男は「なんで?」って納得ほしいし「なんだろう?」って関心むけるからそういうの調べるだろう、たぶん。知的好奇心のない男は存在価値なしw
あとは年中行事の復活ということが考えられる。例えばお正月なら、1月3日は「元始祭」の日でこれは天孫降臨の神話に基いて、国の始まりである邇々藝命(ににぎのみこと)が高千穂にあまくだったことをお祝いすべき日だろう。2月は、11日の紀元節はいうまでもないが、節分の豆まきだって中国伝来の行事だとは言い切れない。実は伊邪那岐・伊邪那美の神話と関係しているのだ(詳しい話はまた2月にでも)。3月の雛祭りが天照大神と須佐之男命の誓約(うけひ)の神話と関係してるってことは予告編だけだが前回かいた(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-160.html">八王子と八幡神http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-160.html)。以下毎月一年中、いろいろな伝統行事や祝祭日があるわけだが、それらは明治以降に制定されたものであろうと、江戸時代以前からの習俗であろうと、ともに、実は神話と密接に関係している場合が多いのだという点では共通しているのであって、漫然とやりすごすべきではないことを世に広めるべきだろう。そういう趣旨でこのブログには「祭祀・暦・行事」というカテゴリーが設定してあるし、そのカテゴリー以外の記事も大抵は特定の日付かまたは特定の伝統習俗から話題を起こしている記事が多い。民間の伝統行事のすごさは年月に鍛えられて洗練されているために、お金がなくても、あるいは時間がなくても、あるいは深い知識がなくても、一般庶民が楽しめるようになっているところ。例えばお花見とか。たまたま今日9月22日は「秋分の日」で戦前なら「秋季皇霊祭」といってた日。で、各地の神社でも名称はいろいろだが祭儀が催行されている日である。「秋分の日」は民間習俗では「秋のお彼岸」で仏教行事になってるが、この件に関してはhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-79.html">「仏教伝来以前「お盆」はどうしてたのか?」http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-79.htmlという頁をみてください。
あとは居住地の地元の「お祭り」(定例行事)にどれだけ馴染んでるか、関心寄せてるか。関心寄せてるだけでもかなり違ってくる。「地元の暮らし=>神社=>神話」というつながりが自覚できるようになることが、たぶん、いわゆる「神話にねざした歴史観」になっていくんじゃないかと思う。
ただのお伽噺や地元に伝わる民話の類を、いくら盛り上げて町おこしに役立てようとしても神話にまではつながっていかない。民話ってのは「昔々、あるところに…」で始まるパターンが有名な通り、「いつ・どこで・誰が」ってのがすべて不明瞭で物語の筋しかない。現実世界から切れて宙に浮いてる。しかし神話はそうではない。神々の時代から現代まで連綿とつながっている(「いや、神話に『いつ』はないだろ」といわれるかもしれない、しかし確かに絶対年代は不明だが、時系列があって一回性の事件の連続だから神話も擬似的に歴史の型をもってそのまま実際の歴史に接続させることが可能なようにできてるのだ)。神話にでてくる神が、人々が住む街の中に鎮座して、その神を祭る神社の祭りが定例行事として盛大に催される。祭りそれ自体は圧倒的な事実だから、後はちょっとしたきっかけさえあれば神話を想起させるエネルギーとして十分だろう。そして、たまには祭りを見物したり参加したりすることもあり、普段は頻繁に神社参りしている人たちが抱くであろう「日々の生が、神話とつながっている感覚」を、どのような言い方で表わすのも各自の好きにすればいいが、俺なら「萬世一系の國體」といいますね、それを。

・「対馬の日」を日本も制定しようw

平成30年6月19日(火)改稿 平成29年6月19日(月)初稿
なんだ「対馬島の日」ってw
今日、6月19日って韓国では「対馬島(テマド)の日」らしいなw 日本の「竹島の日」に対抗して作ったとか。なんで6月19日なのかなと思ったら、これは室町時代の応永二十六年(AD1419年)の「応永の外寇」の日だという。wikipediaでみたら伏見宮貞成親王の『看聞日記』にもでてくるとかw 応永の外寇はしたらなんだが貞成親王は一時期南北朝時代にハマってたので名前みると急に親しみ感じるなぁ。で、「応永の外寇」って李氏朝鮮が対馬を侵略したけど撃退されたって話みたいだな。それなのに対馬を自国の領土だって思える神経がすごいなw この事件は日本側が侵略されたんだから、本来なら日本人が「対馬の日」として記念すべき日じゃないのか? 対馬防衛、国土防衛の日って意味で。韓国人もおかしいがこういう発想しない日本人も危機管理意識とか国土防衛意識なさすぎだろう。

「対馬は韓国の領土」って理屈の根拠
(※以下、続きは後日かきます)

「冊封」や「朝貢」はどの程度有効なのか
(※以下、続きは後日かきます)

・靖国神社は戊辰東軍を合祀できるか

H30年4月22日(日)改稿
今日、H28年10月18日(火)は靖国神社の秋季例大祭だった。靖国神社というと「みたままつり」が有名で俺もそっちのほうが好きなんだが、我々ウヨ仲間のうちでも敬虔な人はミタマなんかどうでもよくて例大祭を大事に思ってる人がけっこう多い。イベントの趣旨からして当たり前っちゃ当たり前だが、しかし一方で、みたままつりも社会文化的にあれはあれで大きな意味が戦前も戦後もあって、リア充のたまり場ってだけのぺらいものではない。…いや、今日はみたままつりの話ではなくて、例大祭の期間中に天皇陛下の勅使が下向してくる日があって、数年前まで知人とそれを見物にいってたんだよね。今日の10時頃だったはず。なんで見物の対象になるのかというと、衣冠束帯っていうの?神主みたいな服装で、長持ちだか籠みたいのに乗ってくるんだよね。いや乗ってくるわけじゃなくてあれには陛下からの御幣(みてぐら)が入ってるのかな? なんだったか細かい映像は忘れてしまった。あれを見物した後は境内もしくは靖国の近所で昼間から飲んでウヨ談義で盛り上がったりしてたもんだが、最近はなかなか体が空かない。まぁ、いい齢して平日の昼間から暇な方がおかしいっちゃおかしんだがな。
混迷きわめる靖国問題
さて本題に入ろう。靖国といえば最近、戊辰東軍の合祀について話題になってる。徳川宮司が積極的で、これに石原慎太郎が便乗してる。が発端は亀井静香らしいな。今日はその議論をしたい。
だがその前に靖国問題ってのは20年置きか15年置きにウヨ界隈で話題になってきたような気がするが、解決はしないね。この問題ってのは複数の(3つか4つの)別次元の問題が絡まってるのに、議論したがる人はその中の一つの問題にしか興味がなかったりする。それじゃ本人は「はい論破」って言った気になってても世間は納得しないわな。複数の問題系のうち、重要なのは「右vs左」あるいは「保守vsリベラル」の問題ではない。そっちの問題はそっちの専門家があれこれと長年やってきてるが、そもそも前提になってる歴史観や価値観が違うから噛み合う議論など成立すべくもないわけで、畢竟議論というより政治的な争いの一面にすぎない。いや「すぎない」って言い方はよくない、大事なことだとは思うがこのブログでは触れない。他には、元A級戦犯(あくまで「元」な)の分祀をめぐる問題でその是非可否とは別に「神道の教義上分祀はありえない」という説がある。これは実は間違いで、正しくは「宗教法人靖国神社の教義」であって神道の一般的な教義ではない。この議論も詳しくやったら面白いがこのブログではスルーしとこう。あとそれと、靖国神社は国民国家に必須の戦死者顕彰の施設でどこの国にもあるものだという話。西部邁とその取り巻きみたいな近代主義保守にはいちばんすんなり来るんだろうが、実はこれがいちばん問題含みなんだよね、俺みたいなアンチ近代主義者(≒封建主義者)からすると。「国民であるとはどういうことか」ってかなり現実的な問題から始まって最後はやはり近代国家批判までいってしまうんだが、まぁこの問題も今回はスルーだな。4つめに、これは保守派や右翼でも頻繁に間違えた前提で議論してることが多いんだが、靖国神社は慰霊のための施設ではない。「慰霊」という機能もあるけどこれは派生的・二次的なもので、本来は英霊を神として祭るための祭祀施設なのであって慰霊が本義なのではない。さきほどは「靖国神社は国民国家に必須の戦死者顕彰の施設でどこの国にもあるものだ」といったがここで「顕彰」とは言ったがあえて「慰霊」とは言わなかった。むろん諸外国の場合でも、慰霊施設という一面もないではない。しかし靖国神社と同じく、諸外国の場合でも派生的、二次的な機能として慰霊があるのではないだろうか。百歩譲っても靖国神社での「英霊祭祀」には「英霊崇拝・英霊信仰」という本義がまずあって、しかるのちに、顕彰なり慰霊なりの要素が結果的に派生するのである。英霊は死して「護国の鬼」となって今も日本を守り働いているのであって、永遠の眠りについてるわけでも永遠に休息してるわけでもない。慰霊という湿っぽいイメージをメインで捉えるのは英霊に対してかなり失礼な感じがする。海外のもので靖国神社のイメージにいちばん近いとまでは言わないまでも比較的近いのは北欧神話の「ヴァルハラ」だろう。『銀河英雄伝説』で帝国軍の将校や将軍が玉砕する時に「ヴァルハラで会おう!」と言うセリフは日本軍の将兵が「靖国で会おう!」と約束しあうことのパクリだろう。ヴァルハラでは戦死した戦士の魂たちが次の戦争に備えて軍事訓練してるという。永久の眠りなんてものじゃない。戦争を肯定的に捕らえているのであって、反戦平和思想なんて微塵もない。

今回の問題
…というような話は、今日の本題ではない。本当に問題なのは15年前にも議論しつくした感はあるんだが、右翼の内部、もしくは保守派の内部の問題だよね、戊辰東軍の霊が祀られていないという。最近思うのは、東軍派としては「けしからん」と感情論をいってればよかった時期があまりに長すぎたのではないか、ということ。大東亜戦争ばかりみてると、「靖国で会おう」と誓いあって戦死していった英霊のことばかり浮かぶ。だから靖国神社が国民(=ネーション)の神社であるべきだとどうしても思ってしまうし、このことが間違ってるとも断言しにくい。「東軍も祀れ」という主張は、「靖国神社は真に国民統合の神社であれ」という主張なのである、と東軍派の人は考えているだろう。しかし実際はそういうわかりやすい話にはならない。一つには霊璽簿を作成する際に「どこの誰」ということがわからないと合祀できないのだが、1人の英霊を追加するだけでもその調査のための時間と費用がかかり、何千人もいるであろう戊辰東軍の戦死者を今から調べ上げるというのは膨大な時間と費用がかかり、物理的に困難だという説がある。しかし物理的な障壁はなんとでもしようがあり、そんなことで理念を曲げるのは筋違いも甚だしいだろう。どこの誰とも明確にできなくても抽象的に「戊辰東軍の英霊」として祀ればよいという考えもある。しかしそれでは西軍と東軍の「祀り方」に均衡を失する、という問題がでてくる。また靖国神社境内には「鎮霊社」がありここに戊辰東軍も祀られてるからいいだろ、という意見もあるが、まったく賛成できない。(鎮霊社については後述)

靖国神社は国民のための神社ではない
それをどう解決するかという問題の前に、一つ確認したいのは、そもそも靖国神社の英霊は単に国を守って戦死した人なのではない。ペリー来航の嘉永六年以降に戦死した人に限られてる。誰もいう人がいないので俺がいうが、これはおかしくないか。蒙古襲来で戦死した武士たちは「護国の英霊」じゃないというのか? 百済を防衛すべく戦った倭兵は「護国の英霊」じゃないというのか? もし、戊辰東軍兵が合祀された暁には、かならず今いった元寇の英霊はどうなるんだ、百済防衛戦の英霊はなぜ祀らないんだ、という話になるのは必定である。あるいは日本人同士が戦った戊辰戦争で両軍とも英霊と認められるのなら、南北朝の戦いで戦死した武士たちも英霊として合祀しないと筋が通らない。どちらも天皇のために戦ったのだから。こういう流れにならざるを得ないのは「戊辰東軍を祀れ」という主張の裏には靖国神社は薩長ら一部の日本人のものではなく「全日本国民の神社」なのだという考えがあるからだ。そして日本人は嘉永六年になっていきなり発生したわけではなく、そのはるか以前から永々として歴史を歩んできているのだ。そうであるならば嘉永六年で区切る意味など何もないではないか。ではなぜ靖国神社は嘉永六年ペリー来航で区切ってきたのかといえば、それは簡単で、そもそも最初から本質的に、靖国神社は「無条件に全日本人の神社」などではなく、「明治維新という一つの大事業に殉じた人々を祀る神社」だからである。そうである以上、戊辰東軍を合祀するわけにはいかない理由も、感情的に納得できるかどうかは別として理解はできるだろう。戊辰東軍は「アンチ明治維新」派なのであって、「そんなことはない」という擁護論はいっさい成り立たない。明治維新は後付の名称ではあるが、御一新は日本人にとって未知の近代国家を建設すべく幕府を全廃したからこそ世が「一新」されたのであって、これは薩長方の国家戦略だった。対して幕府方の国家戦略は「大政奉還」で、幕府や大名を全廃するという趣旨は含まれていない。幕府もまた近代化をめざしていたし着々と実績を積みつつあったのではあるが、その先にあったのはドイツのような連邦国家であって、中央集権的な統一国家ではない。もし戊辰東軍を合祀するなら、東京招魂社まで遡って靖国神社の最初の趣旨から全廃して、元寇の英霊や白村江の英霊まで合祀しなければ筋が通らない。現在の靖国神社の歴史観のままでは、近代日本とは薩長政権「だけ」の延長であって、旧幕府軍の歴史を包み込むことなく逆に排除した上で展開したものである、ということになる。つまり大東亜戦争で散った英霊たちは、薩長を守るために死んだのであって日本を守るために死んだのではない、と靖国神社は言っているに等しいのである。

北白川宮合祀と鎮霊社は事態を悪化させた?
ところがその筋の通らないことをいくつも積み重ねて訳が分からなくなってるのが今の靖国神社なのだ。なんのことかというと、筑波藤麿氏(旧山階宮藤麿王)が宮司だった時に、2つの大きな変化があった。北白川宮合祀と鎮霊社建立である。
まず昭和四十年(1965年)に建立された「鎮霊社」だが、これは「嘉永六年(1853年)以降の戦死者・戦災死亡者(靖国に合祀されてない人々)」と「同年以降、戦争がらみで死んだ世界の人々(外国人)」を祀っている。ただこの祭神は無名不特定の集合霊であって、どこの誰だか知られる具体的な人物であった霊璽簿の英霊とは違うが、それはまぁさしあたりは大きな問題ではない。山階宮様の意図としても、なんとか東軍兵の霊を同じ靖国の境内で祀りたいという善意からでたことだったろう。その善意を疑うつもりはない。東軍派の合祀に反対する人は鎮霊社には祀られてるだろうというのだが、鎮霊社の御祭神は「奉慰」の対象だが、御本殿の御祭神は「奉慰顕彰」の対象だとして差をつけており、本殿とも隔離され人目につかない小さな祠でもあり、あまりの待遇差に到底納得できるものではない。もう1つここでもまた嘉永六年(1853年)にこだわってることだ。せっかく海外のすべての戦死者を祀るという気宇壮大な大神殿であるのに、なんで嘉永六年(1853年)以降なのか。世界人類史の始まりからすべての戦死者を祀るべきじゃなかったのか。これは「薩長のための神社」という靖国アイデンティティーの核心を山階宮様が思想的に崩せなかったということを意味する。
さて次にもう1つの事績、北白川宮合祀について。靖国神社は昭和三十四年(1959年)に創建90年を記念して、北白川宮能久親王と北白川宮永久王の両殿下の御霊をを合祀した。北白川宮能久親王は台湾神宮をはじめとして台湾各地のほとんどの神社で祀られていた。永久王は中国の蒙彊神社に祀られていた。この2柱を「遷座」合祀したというのだが、この時期には台湾や中国の神社はとっくに廃絶されて久しく、これを「遷座」と言い張るのはむちゃくちゃではないか、単に「合祀」と言うんじゃだめだったのかと思うが、おそらくそういうことにしないと両殿下を合祀する名目が立たない等の建前的な事情でもあったのだろうか。それはともかく、ここで重要なのは、この合祀が246万柱の英霊の中の2柱として合祀されたのではなく、英霊とは別枠で御祭神になってるということだ。今の靖国神社は英霊を祀る1座と、能久親王永久王を祀る1座で神座が2つになっている。通常こういう神社は合併前の2つの神社名を連称することが多い。つまり今の靖国神社の実態は「靖国神社」と「台湾神宮」が合併した「靖国台湾神社」なのである。こんなことをして内部で揉めなかったんだろうか。たった2人だけで246万の英霊と対等、同等に並べられるようなどんな必然性があるのか理解できない。両殿下を祀る神社が廃絶しているから復興しようというのはわかるがなぜ靖国神社なのか。北白川宮は明治天皇の対立君主で東軍に擁立されていた東武天皇その人であるから、この合祀には一部から激しい拒否にあったはずだと思うのだが、誰も何もいってないのはどうしたわけか。山階宮様の意図としては戊辰東軍のシンボル的な人物を合祀することで、せめて「東軍を祀れ」派と和合し、東軍を賊軍視していないことを表明しようとしたのかもしれない。しかし東武天皇は降伏し悔悟し、謝罪したことで明治政府から赦されたことになっているのだから、その人を合祀したとて東軍の賊認定が解除されたことにはぜんぜんならない。両殿下は明治政府のために戦い戦死されたんだから靖国神社に祀って問題ないという筋の通り方もあるわけでそれは薩長派を納得させる言い訳にはなっても、東軍兵が英霊からはずされたままで東武天皇だけ合祀するというのは例えば「西南戦争の薩摩兵は相変わらず賊だけど西郷隆盛だけは靖国に祀るよ」っていうのと同じだろう。東軍兵とその精神的支柱とを切り離すということであり、失礼にもほどがある。自分の号令下で戦い死んでいった者たちを切り捨ててのこの神様扱い、あの世で喜んでるわけないだろ。…という憤りは百歩譲って俺の個人的な感情としてもだよ、山階宮様はまさか「薩長のための神社なのに拝礼すれば自動的に東軍の天皇にも拝礼することになる」という皮肉をしかけたわけではあるまい。これもまた、すべて東軍派の子孫の方々とも和合したいという善意からでたことだとは思うが、靖国神社の本質についてややこしい事態になったことは否めないと思う。

お国のために死んだ人だろうと「戦死でない者」は英霊と呼ぶな
山階宮様の善意からでたこととはいえ、ここまでの段階でもすでに十分訳の分からないことになっていたのがわかると思う。さらにややこしさを加えたのがA級戦犯の問題で、山階宮様の目の黒いうちはA級戦犯の合祀もなかったわけで、悪い意味で戦後的な平和主義者だったようだ。善意の人であることは疑わないが思想的に浅い人だったといわざるをえない。次に宮司になった松平永芳は確固たる信念をもってA級戦犯の合祀を断固実行した。松平永芳は立派なウヨで尊敬すべき人だとは思うし、「いわゆる」A級戦犯(松平永芳は「昭和殉難者」というが)の名誉を守り、顕彰することも大事だとも思うのだが、「靖国神社に合祀する」ということでなければならないことだったのか。A級戦犯を崇め尊ぶことには何一つためらいは無いが、彼らは法務死であって戦死じゃないのがどうしても気にかかる。実はwipedia等で適当に調べてもわかることだが靖国神社での英霊認定は基準が一貫していないため、戊辰東軍にしろA級戦犯にしろ、合祀のための理屈も、分祀のための理屈も、合祀に反対するための理屈も、いろいろな解釈がでてくる。出だしの出発点たる幕末動乱の有名人を死に方と無関係に入れてしまったから、当初から基準が曖昧化していく必然性が内在しており、現に「戦場での戦死者」以外も含めるようになって、ずるずるに拡大されてしまった。戦死でなくても「お国のために死んだ人」なら英霊だというのは1つの立派な見識ではあるが、範囲が際限なく広がってしまう。第一に天皇のため、第二に戦場で戦って戦死した、第三に中世なら武士、近代なら正規の軍人、この3点を条件とすべきだろう。「天皇のために戦死した軍人」これに限る。それ以外の死者は無宗教の国立慰霊施設と各家庭の仏壇で慰霊するか特別な人物ならその人のための神社を建立すべきであって、なんでもかんでも靖国神社にぶちこむのはよくない。また幕末の幕府は天皇の信任を受けたもので当時の日本の正統政府なのであるからそれに背いた薩長は謀反を起こした賊軍であって今すぐにも分祀しなければならない。吉田松蔭は獄死だし高杉晋作なんか病死であってぜんぜん関係ないんだから祭神からとっととはずさないと筋が通らない。たかがそんなことすらできないんだから田中清玄から「あんなものは長州藩の守り神にすぎない」と言われてしまうんだよ。

・「民族」とはなにか

H28年2月11日(祭)の紀元節は、とあるところで新年会、お酒入っての雑談。俺も調子にのってあれこれの議論を展開したけど、だいたいほとんど忘れてしまった、民族がどうのって話だったかな。日本人は単一民族だって話と、混血民族だって話がどっちも肯定的な流れでごっちゃに出てきたから少し整理しなきゃと思ったんだった。
「日本人は単一民族である」という話はどの程度正しいか
別に、これはこれである意味正しいんだよね。問題はその「ある意味」ってことなんだが。
(※以下、多忙につき続きは後日かきます)

「日本人は混血民族である」という話はどの程度正しいか
これも、正しいといっていえなくもない。「度合い」の問題だけど。
(※以下、多忙につき続きは後日かきます)

縄文と弥生
縄文がー、弥生がー、って話も好きな人多いよねw ホントにもうどうしたもんだか。アイヌがー、琉球がー、って話は胡散くさがるのに平気で「日本人は北方系だ」、「いや南方系だ」って言いあってる神経がわからんねw
(※以下、多忙につき続きは後日かきます)

帰化人系氏族は「帰化人」ではない
(※以下、多忙につき続きは後日かきます)

平和と同化
(※以下、多忙につき続きは後日かきます)

民族国家から帝国に進むのではない、帝国が民族国家になる
(※以下、多忙につき続きは後日かきます)

・神話と「国のなりたち」?

H29年6月14日(水)初稿
表題に「『古事記』の構成」とあり。
(※多忙につき後日に加筆)

・東京大空襲か陸軍記念日か

(※多忙につき途中まで書いてはいるんですが、後日、完成してからアップします)

・自然界のカミガミを感じる

H29・2・3 FRI 改稿 H28・12・21 WED 初稿
自然にふれてカミを感じて
今回は、とある宴会の席で出た話。アルコール入っての自己紹介だか自分の意見感想だかのお話し会みたいになる。で、もうどんな話しが出たのかかなり忘れてしまったが、だいたいみんな面白かったように思います、はいw …つか酔っ払ってしまってあんまりよく覚えてないんですがねw ちょい記憶に強く残ってるのは、やはり女性陣の話が面白かったね。なんかこう、自然とふれあう感覚が、神々の存在を感じる時だ、みたいなね。一步まちがうとロハス姉さんとかパワースポット系みたいな? いや間違ってないけどw ロハス姉さんもパワスポも、まったく素晴らしいことで大好きだけどさw 問題は、古事記が好きだって人が、その文脈(古事記が好きだっていう文脈)でそんなことを言ってるってことなんだよ。古事記にかかれている神話の、文面上の内容と「自然にふれて神を感じて」って話がどういうふうにつながっているのかって点をもうちょっと詳しく聞きたかったなぁ。そこは何かつながってると思うからこそ、そういうことを言ってるわけなのだろうし。俺はそこを深く掘り下げたいんだなぁ。対照的に、男性メンバーからはみごとなほどこういう話は出ないw いや、男性陣の話しもあれこれ面白かったけどさw 解釈や講義に重点をおく場じゃないってことを、よく承知した上で来てる人たちなので、議論しようと思えばできるんだろうけど、一見もっともらしい、よくありがちな議論からは取りこぼされてしまうような、自分の言語では言語化したことがないような世界をつかもうとしてる人たちなんだろうな。だから発言しろといわれれば、ちょっと気の利いた面白いことはいうんだけど、言わなきゃよかったって後悔とも照れともつかないオーラを発してる人が多いように思った。

(続きはまた後日に書きます)

・オリエントの秘密と三笠宮殿下の研究

H28・12・15(木)改稿 H28・10・28初稿
皆様ご存知の通り昨日(10/27)は三笠宮様の薨去のニュースあり、100歳の天寿を全うされてのこと。深くご冥福をお祈り申し上げます。
オリエント文明を研究する意味とは
さて、三笠宮様といえば「日本オリエント学会」の創設者であらせられ、古代オリエント文明の解明にただならぬ貢献をされてこられましたが、その目的、趣旨の根源には天皇の起源、天皇の本質という問題意識があったことはいうまでもないでしょう。これが表面的で短絡な話になると、皇室の祖先は中東から渡来してきたとか、スメラミコトはシュメールの訛りだとか、日猶同祖説とかの「ムー」ネタになっていくわけですが、そういうのは戦前から元ネタがある。

『世界的研究に基づける日本太古史』木村鷹太郎(上m44・下m45)
 ギリシア・ラテン人説。ご存知キムタカ、借地史観の元祖。借地史観ってのは鹿島昇の説みたいなやつね。日本書紀にかかれているのは実は日本列島での出来事ではなく百済や新羅での出来事で、富士宮下文書の皇統譜は朝鮮の『桓檀古記』の檀君のことだっていうんだけど、その檀君朝鮮・馬韓・番韓は中国の戦国時代の三晋(趙・韓・魏)のことだっていうんだけど、古代中国の戦国の七雄ってのはぜんぶ古代オリエントの諸王朝のことだっていうんだよw 鹿島昇とキムタカではもちろん世界像はちがうけれども、借地史観というものがどういうものかはわかると思う。で、キムタカは原田実のおかげで今じゃ「邪馬台国エジプト説」ばかりが有名になったような感じだが、これは時代もいろんな出来事の時系列がめちゃくちゃで世界規模で地名と地理がこんがらがった独自の世界での話だから、普通の「邪馬台国どこそこ説」と一緒にならべてはいけない。たしかにギリシア神話と日本神話は似てるから、比較神話学って発想がないとどちらも同一の古代史実の伝承だって話になる。だが実際の地理と古地名をバラバラにしたり時系列も任意にいれかえて歴史の流れをめちゃくちゃにするやり方は俺の好みではない。八幡書店は売らなきゃならんから「時空を超えた大パノラマ」と煽ってるが物は言いようだな。が、明治の段階で早くもこんな突拍子もないものが有名になって、しかもキムタカが普通の学者に一喝されるのではなく学界のお歴々に煙たがられる存在だったってのは、やりたい放題の素人研究家が声にあげやすくし、アカデミズムとは別の「トンデモ古代史界隈」の戦前における形成に一役買ったのではないかと思う。戦後は鹿島昇よりも先にこれをパクったのが八切止夫(一説では後述の三島敦雄が八切のネタ本というがこれは何かの間違いでキムタカのパクリと思う)。で、キムタカはnameが「名前」、boneが「骨」とか、人名語尾の「~~ウス」を「~氏」だとか、落語みたいな言語学を駆使してるのだが、使ってるのは英語、ドイツ語、フランス語ほか多く、別にギリシア語とラテン語に限っていない。それで日本人の起源がギリシア・ラテン人だといいたいのか古代のギリシア・ラテン人は実は日本人だったといいたいのか、そもそも日本人とギリシア・ラテン人は同じものといいたいのかよくわからない。が、ギリシア人とラテン人がそもそもかなり違った民族なのに平気で並べてるところをみると、ギリシア人・ラテン人・日本人の三者の距離が等距離だと言いたいのかなとも思うが、ギリシア語もラテン語もインドヨーロッパ語族のいろいろある中の一つってだけで、特にギリシアとラテンが近いわけではない。つまり日本語はインドヨーロッパ語族であり、日本人はアーリア人だと言いたいわけだ。当時は人間といえばヨーロッパ白人のことで有色人種はものの数に入らなかったわけだが、当時の人類学ではヨーロッパ白人とは「アーリア人」であり、欧米に追いつけ追い越せを自己目的化していた日本人としては最終的にはアーリア人だったことを証明するのことが、わざわざ江戸時代をやめて近代化をめざした日本民族の最終目的となるわけだろう。当時は学問の世界だろうが人種差別あたりまえの時代であり、海外留学してきた学者はそれを体験しているから、建前ではキムタカを「あんなの学問じゃない」と言うのだが、一方では「欧米も人種差別で学問を捻じ曲げてるんだから日本人もこれぐらいの放言してもいいのではないか」と心情的に擁護する声もあった。確かに日本人がこんなにすごい、欧米に負けてなかったって話だけでできてる本だから差別に苦悩してた人ほど読めばスカッとしただろう。学説史としてはアーリアよりは日猶同祖説のほうがずっと古いが、ユダヤ人なんてのは欧米では被差別賤民みたいな連中だって知られてくると、日本人がわざわざそんなのにアイデンティティファイするのは違和感がでてくる。まぁ「日本人はユダヤだった!」も「日本人はアーリアだった!」も「(精神的に)さまよえる日本人」の妄想説としては大差はないが、ヨーロッパの思想史はヘレニズムとヘブライズムの相克といわれ、両者は水と油のように混ざらないともいわれている。その両者を内面化しているのがヨーロッパ文明ならば、日本人もいっそのことアーリア人とユダヤ人の混血でできたってことでもいいのではないか。また混血説かよw 戦前には「ギリシア人よりギリシア的な日本人、ユダヤ人よりユダヤ的な支那人」という言い方があったらしく、日本人の国民性はユダヤより古典ギリシアに似てると思われていたようだが、実際は日本人と古代ギリシア人とでは真理や歴史の捉え方がかなり違う(ユダヤ教とはさらに違うが)。古代ペルシア人のほうが近いかもしれない(これもアーリアだが)。八幡書店の復刻版は神保町でみたことがある。俺も復刻版を先輩からもらって読んだ、金がないからなw 大きな大学なら大学の付属図書館にも割りと入ってることがある。キムタカは他にも珍説をあれこれ著述していて、神保町で「え?こんな本も書いてたのか」と思うような面白げな本を発見することがある。買わないが。

『古事記神話の新研究』石川三四郎(t10)
 日本ヒッタイト起源説。石川三四郎は本業はアナキストで有名な人。アナキストっつったって奇声を発しながら物をぶっこわしてる人は単なるアナーキーな人であってアナキストではない。あとアナキズムは左翼でもなく、むしろ極右に通ずる要素も濃厚にもつ。無政府主義とイコールでもない。無政府主義ではないアナルコサンジカリズムもアナキズムの一種であり、石川は日本で最初に労働組合をつくった男ともよばれる。イタリアファシズムはこのアナルコサンジカリズムと国家階級論を組み合わせたものだ(と、学生時代の恩師で『戦士の革命・生産者の国家』という中二がかったタイトルの本かいた桐生尚武先生がいってたよw)。日本では「天皇制アナキズム」ってのがあるぐらいで、本物のちゃんとした本来のアナキズムは左翼でなくて右翼なんだなぁ。石川三四郎もそれ。このおっさんは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)という名の「カチ」に注目、これがヒッタイト(旧約聖書ではヘテ人とよぶ)の本来の名「ハッティ」だとする。これが東に移動して「月氏」となったと。まぁこのへんは取るに足らないコジツケだが、大正時代の段階で、エジプトでもバビロニアでもなくヒッタイトをもちだすセンスに痺れるw し~びれちゃったし~びれちゃったし~びれちゃったよ♬(古すぎて何の歌だかわからんか)。評論家の望月百合子(石川の養女)が石川をパパと呼んでるんだが、この時代の知識人はみな外国かぶれだからしょうがないにしても、現代の一般庶民としてはいい歳してパパって、しかも著作の中で、違和感ありまくり。唐突だが『天は赤い河のほとり』が描かれるよりさらに10年も前になんかの事情でヒッタイト脳になっていた厨二女子と文通していた黒歴史(当時はネットも携帯もなかったんで。いや携帯電話はあったかな?ポケベル時代だったか?)が思い出される(あの時の彼女が若き日の篠原千絵なんてことはあるまいな?)。石川三四郎のヒッタイトも、木村鷹太郎のギリシア・ラテンも、どっちも「アーリア人」だ。『古事記神話の新研究』は石川三四郎全集の第一巻に入ってるのを神保町の古本屋で何度もみた。全集じゃなくてもとの原書も一度神保町で出てたの見たこともあるがそっちはボロいのに高価だったから全集版を買ったわw

『天孫人種六千年史の研究』三島敦雄(s2)
 シュメール・バビロニア説。三島敦雄って愛媛の大山祇神社の神主だったんだな。文明はシュメールから始まるわけで最古がえらいのならシュメール説が望ましいw シュメール人からみればアーリア人だろうがユダヤ人だろうがそこらの野蛮人みたいなもんだから、なにも「日本人はアーリア人だった!」などと欧米コンプ丸出しな珍説を唱える必要はないってことなんだろう。日本人の起源がシュメールだってのはなにも三島敦雄が元祖ではないのだが、この本がベストセラーになったので、シュメール・バビロニア説のネタ本みたいなことになった。まぁ、メソポタミアのニンギルス神が瓊々杵尊(ににぎのみこと)だとか、お定まりのコジツケのオンパレードなんだが、これが売れまくったために一部の奇矯な日本人の歴史観に影響を与え、石原莞爾の『世界最終戦論』ではシュメールに発した文明が東へ発展して日本となり、西へ発展したのが米国で、地球を一周して太平洋でぶつかるとかの与太噺を生んだ。実際の世界史はそんな単純な流れではない。この本の版元は「スメル学会」となってるが、むろんまともな学術団体ではない。この説の信者が大量に湧いて、天皇(すめらみこと)はスメルだスメルだってうるさいもんだから、かしこきところの某高貴な方の思し召しにより、戦後の日本語ではわざわざシュメールと表記することになったのは隠れもない事実であると存じ上げ奉るものだ。宸襟を悩ませおって不敬者どもめw あとこの本は日猶同祖論を「悪魔的」とよぶほど嫌悪してるが、理屈はわかる。旧約聖書にでてくる古代ユダヤの風習ってのは(全部ではないにしても)かなりの程度周辺のオリエント諸民族にも共通したものだったりする。ベストセラーになった割りには神保町でみたことは長い神保町人生の中で一度しかない。一説ではGHQが回収、焚書したというがホントかね。

『古代埃及と日本』徳政金吾(s8)
 日本エジプト起源説。日本では昔から「エジプトマニア」がいて一定の趣味者勢力となっている。ツタンカーメンの黄金のマスクとかピラミッドとかミイラとか、ビジュアルになじみがあるってのもあるんだろうか。金ピカのアクセサリーで飾り立てた女性をツタンカーメンみたいとかいってたな、ビートたけしが。高校の時の彼女がエジプト大好きで、辛島宜夫の古代エジプト神大アルカナカードをあげたなぁ。これは絢爛豪華なタロットカードで、アレキサンドリア木星王先生には不評だったが、素晴らしいものよ。タロットの話は関係ないのでさておいて。現在ではエジプトといえば吉村作治になってしもうた。もう何年も前の話だが、早稲田大学の構内でエジプトビールが飲めるというので、みんなで飲みに行くついでにレジュメつくってこの徳政金吾の日本エジプト起源説について講釈をしたことがある。懐かしいなー。古代エジプトのアマルナ改革の時に、アテン信仰が強要され、迫害された「アメン神団」は「太陽の船」にのってインド洋を渡り日本にやってきたという。日本の神々の名の「天之(あめの)なにそれ」という語源が太陽神アメンからきているという、誰でもきいたことありそうな話から思いついんたんだろう。エジプトの古名「ケムト」は「神土(カムト)」だとかいう。本当は「黒土」の意味で英語の化学(ケミストリ)の語源になったのは知られた話。あと神代文字の一つ、豊国文字がヒエログリフだって説も有名だが、調べてみたら見た目が似てるだけで音価はぜんぜん違ってたぞw ちなみにユダヤ教のヤハウェ神のルーツとしてアテン信仰をあげる説も(必ずしも最有力説ではないが)あるから、そうすると、アテン神団とアメン神団の対立抗争が、かたやユダヤのヤハウェ信仰に、かたや日本の天照大神信仰として残ったという歴史像もすぐできる。こりゃ日本とユダヤの友好は三千年越しの和解となるな、同祖説は否定されるけどw いや日本もユダヤもエジプト起源説に回収されてしまうのか? このように、この説も使い勝手のよい面白いネタ満載。ただ、まじめにいうと、文化・風習・神話・民族性などいろいろ比べると、古代日本との類似性・共通性という点では、確かにメソポタミアよりはエジプトのほうがいくらかマシに思えるという人のほうが多いのではないか。さらにいうと、日本というより奥州藤原氏のほうが黄金といいミイラといいエジプトっぽいよなw 『古代埃及と日本』は神保町で一回くらいみかけたことがあったかどうだかな…。

『聖書より見たる日本』中田重治(s8)
 日猶同祖説はそれこそ江戸時代から、うんざりするほどたくさんあって、その内容も具体的にはいろいろ。ユダヤ民族が極東にきて日本人になったのか、日本から行ってユダヤ人になったのか、いろいろな民族が混血して日本人になったうちの一つがユダヤ人にすぎないのか、皇室の先祖がユダヤってだけで日本人全部って意味じゃないのか、いやいや皇室ではなくて秦氏の先祖がユダヤなのか、ユダヤといっても今のユダヤ人(ユダ族)とは敵だった「失われた十二部族」のことなのか、いやいや両方なのか、…というように枝分かれしており、一口に「日猶同祖説」といっても、比較的穏当なものから完全に逝っちゃってる電波説まで一様ではない。逝っちゃってる類いにしても、逝っちゃってる方向性がこれまた多様でお互いに矛盾していることもある。それに現在のアシュケナジーはユダヤの子孫ではなくカザール人の改宗ユダヤだという説もあるがこの説は学問的にはすでに否定されているのだが、陰謀論好きにはあいかわらず熱烈に信じられてる。面白いからなw おもしろ基準でいえば、カザールに限らず草原の遊牧民族は10部族連合体で国をつくっている。カザールの場合はそのうち7部族はトルコ系(突厥)だが残りはルベン族・ガド族・マナセ族(どれも失われた十部族の一つ)だったという伝説もある。なので、じゃ、結局ユダヤと同族ってことでいいじゃねぇかよって理屈はどうよw つかさらにいえば失われた十部族(古代イスラエル人)とユダヤ人(ヘブライ人)が同族だというのは後世に創作された聖書の神話であって統一王国以前にはもともと別系統の別民族だった可能性が高いんだがな。日猶同祖論者のうさんくさいところは、記紀については史実を都合よく歪曲したものとして王朝交代説だのをいいように利用する癖に、聖書に書かれてることはそのまま真に受けた考察してるやつが多すぎること。いまどき聖書をそのまま史実と思ってるってどうなんよ。信者なら最初から「この説は布教の一環です」って正直にいえと思うわ。…と、日猶同祖説はかように面倒なので完全スルーしようとも思ったが、まったくふれないのもわざとらしすぎる。ということで、珍説奇説たくさんある中で一つあげろといったらこれ、『聖書より見たる日本』が最高峰だろうw 熱心な日猶同祖論者にはクリスチャンが多い。戦後から現在でもそれはかわらない。中田重治(なかたじゅうじ)は日本ホーリネス教会の牧師。プロレタリア文学の中野重治(なかのしげはる)とよく間違えるけど別人。人類はノアの3人の息子の子孫で、「黒人はハム、白人はヤペテ、黄色人種はセムの子孫だ」っつのはまぁコジツケにすぎないが、中田重治はクリスチャンなのでそう信じるわけだ。そして古代史をあれこれして、日本人はセム・ハム・ヤペテの3系統が混血している選ばれし民であって世界を救済する使命をもつ、というナショナリズム先にありきの放談。いいぞw キリストの幕屋もすこしは日本ホーリネス教会を見習ってこれぐらいデカイことを放言しろw 今みたいに保守派の政治運動にちょこまか混ざってるぐらいじゃ一般人からみて統一教会との区別もよくわからんぞw


…ほか中央アジア説だの太平洋南島説だのチベット説だの多数あるがオリエントじゃないので今回は省略。

今でもネットで検索すれば面白いネタがたくさん出てくる。こういうの戦後に発掘したのはほとんど武田崇元先生のしわざだろうけどな。まぁここまで読んでくれば俺もこういうの大好きな人種だってことはバレるだろう。しかしこういうのは学問じゃなくて素人のコジツケごっこである、というのがアカデミシャンとしての三笠宮様のお考え。スメールとスメラミコトをこじつけるヤカラがうざいので、わざわざ日本語ではシュメールに呼び方を変えたのは三笠宮様ご本人であられるのです(実際はスメルのほうが正しい発音に近いけどね)。昔は比較神話学や文化人類学がいまいち普及せず認識不足だったので、エジプトに日本と共通の神話あれば「エジプト起源説」、ヒッタイトに日本と類似の文化あれば「日本ヒッタイト説」、と安直にいってしまって、日本の起源があちこちにあるようなことになってしまう。北方起源説だの南方起源説だの、今でもやってることはそう変わらんね。何度もいうように上記のような諸説(日猶同祖説も含む)などは学問のうちに入らない、トンデモ説であり、でんぱ説なのである。というと、否定派は夢もロマンもないゴリゴリの唯物論者で「心なき科学」が人類を滅ぼすとか言い立てるアホが湧くんだが、そうじゃない。本当の歴史ってのは社会科学と人文学、両方の要素が重要なんで、その奥の深さったら、こじつけパズルごっこにありきたりな宗教レベルの与太を混ぜたにすぎないトンデモ説の比でないのよ。まぁ宗教の域まで突入してる連中に説明しても無駄だろうけど。じゃぁおまえの言ってることは学問なのかよ、と逆に言われそうだしな。俺のことはどうでもいいだろ。三笠宮様のことだよ。こんなトンデモ説をなぜ紹介しているのかというと、もちろん単に俺が好きだからでもあるんだが、戦前にすでにこれだけの学説史というか思想の営みがあったわけだよ、今とは違った環境にあった日本民族の、心の旅が。人間誰しも古代オリエントに関心をもつというのは起源を知りたいという欲求と関係している。三笠宮殿下が「日本オリエント学会」を創設した時、皇族として、天皇とか国民とか国家とか民族とかを考えてなかったはずがないだろう。さりながら、プロの学者は思想的な飛躍を制限されてしまうのと戦後的価値観がなお濃厚だった時代背景とにより、三笠宮様が目標とせられたと思しき古代王権論は現代の皇室問題に適応可能な形に洗練されることなく、単なる古代研究に留まっておりました。実際、偉大なる功績とは申せども「いちジャンルの研究」でのことと世間一般でも受け取っております。学者もタコツボ化と専門馬鹿が進むばかりで大枠の国家だの歴史だの思想だの語れる人材がいなくなって、「日本オリエント学会」も三笠宮殿下が思い描いたものとは今ではぜんぜん違ってしまっている。「と学会」がつまんないのはトンデモ説を笑い飛ばすためにはアカデミズムが健全にしっかりと聳え立っていることが前提なのにそれだけの迫力が学者にぜんぜん無くなってるってことなんだよ。学界がダメになってくるのとトンデモ業界がダメになってくるのはパラレルな関係にある。あたかも左翼が堕落すると右翼も腐敗するようなもんよ。しかしそれでいいわけではない。人類の文明の曙光たる古代オリエント文明における古代王権をも「王権」のもつ普遍的な一側面の展開とみて、天皇問題の本質を考える重要な補助線としてますます重視すべきでありましょう。皇室と日本を考えるという行為は、王権と文明を考えるということの中軸に収まってこそ、普遍的な思想でありうるのです。この宣言を三笠宮殿下の御霊に捧げ奉る。

三笠宮様ゆかりのオススメ博物館
下記の3ヶ所、いずれも語るにつくせぬ素晴らしい夢のような場所で、毎月とはいわないが年に一回くらいは通いたいところ。こういうのを楽しめないような人間がどんな古代史説をとなえようが信用ならんねw

中近東文化センター http://www.meccj.or.jp/
三笠宮様が『海賊とよばれた男』のモデルになった出光佐三の出資をうけて創立。名誉総裁であられた。ここはひじょうにディープで古代文明マニアにはたまらないところだが、交通の便が悪いのがちょっと。混まなくていいけどな。

古代オリエント博物館 http://aom-tokyo.com/
三笠宮様が初代評議員。池袋サンシャインにあって一時は何度もかよいました。今でも面白いはずですが、近すぎていつでも行けるという安心感から最近は足が遠のいてしまった。

横浜ユーラシア文化館 http://www.eurasia.city.yokohama.jp/
生前は三笠宮様とご昵懇の間柄だったあの天下の江上波夫大先生のコレクション寄贈からできた博物館。古代オリエント関係の展示も充実、むろん三笠宮様もご来臨していた。江上波夫大先生について語ればまた面白い話がたくさんあるが(ネットじゃ書けない話とかw)長くなるので別の機会に。

・神話にねざした「いのち」のつながり ー40億年 生かされたいのちの記憶を考えるー

H28年10月12日(水)初稿
(※今回は「神話にねざした歴史観とは…?」の続編(?)です)
今日10月12日ってちなみに亀山天皇正辰祭、略して亀山天皇祭なんだよね。亀山天皇崩御711周年って意味でもある。wikipediaみると命日は10月4日になってるけどあっちはユリウス暦での換算、宮内庁の正辰祭の日付はグレゴリオ暦での換算、日付は違っても物理的には同じ日です。…って前にも似たようなことを書いた記憶があるんで調べたら、去年も同じ日に同じこと書いてるんだな俺。亀山天皇となにか因縁でもあるのか。ともかくだ、その流れで去年と似たような話の枕になってしまうが、亀山天皇といえば南朝=大覚寺統の元祖。兄の後深草天皇が北朝=持明院統の元祖で、皇室が枝分かれしたとこよ。大覚寺統は常盤井宮・木寺宮・吉野朝(南朝)など、いくつかに分裂したが、結局どれも消えてしまった。だがそれぞれに子孫がいないってことではない。花町宮・小倉宮(南朝系)・護聖院宮(南朝系)は断絶したことがわかっているが、常盤井宮・木寺宮・五辻宮・玉川宮(南朝系)にはそれぞれ子孫がいて民間にくだったようだ。歴史の表舞台から消えても日本国民の一部としてその後も続いた。今も続いているのかその後は断絶したのかまでは不明だがともかく国民に溶け込んでしまった。南朝だけでないけどね、源氏や平氏そのほか皇室から枝分かれした人々で今の国民ができてる(藤原氏も代々皇室と縁組してるので母系では皇室の子孫)。本家と分家のつながりでいえば、日本人にとって皇室とは、うちの本家の本家のそのまた本家の…と辿っていった先の総本家みたいなもの、とは確か、渡部昇一が大昔なんかの本で書いてたが、皇室を「うちの本家」呼ばわりするのは何も皇室を貶めてるわけじゃないんですよ、東日本の文化では本家と分家って(実の兄弟同士にもかかわらず!)殿様と奴隷ぐらいに落差がでかかったのでw
で、それはまぁ歴史の話だよね。今回の話はそれで終わらない。歴史は神話の続きなわけで、我々が皇室につながっているということは、神話につながってるということでもある。そしてその神話は、「天地(あめつち)の初め」から始まってる。「天地の初め」とは? 最近の説では、宇宙の誕生は今から138億年前、地球の誕生は46億年前、生命の誕生は40億年前という。それは科学の話だが、神話では何といってるか? 神話のいうところは、天地の初めに伊邪那岐命・伊邪那美命が世界の森羅万象を生んだ。万物はただの物でなく山の神、川の神、草の神、木の神…。神々と表現されている。万物に神が宿っている、否、存在するその物すなわち神であるというアニミズム的な世界観が表われているがそれに留まらず、「神生み物生み」の物語は、世界のあらゆる存在は伊邪那岐命・伊邪那美命から生まれた兄弟姉妹なのだといっている。むろん人間もその兄弟姉妹の中に入る…。
…というのは以上すべて私がいつもいってることだが今回あらためてなぜこんなことを言ってるのかというと、前回の「神話にねざす歴史観」というテーマ、別に俺が考えたわけじゃないんだが、それ考えた人(とある古事記の研究家)が「歴史観」って言葉がむつかしくてわかりにくいのではないかということでまた別の人に相談したところ、新しく「神話にねざした『いのち』のつながり ー40億年 生かされたいのちの記憶を考えるー」という提案を頂いたという。生命と漢字で書くと生きてるけどいつか死ぬもの、あるいは現代科学でいう生命現象のニュアンスになる、「いのち」と仮名書きなのは何かそういう物理現象としての生命を超えた文学的なニュアンスを加えてる、それは個体として死んでも生殖して次世代へと永遠につながっていくという永遠性をこめている、とのこと。
歴史というとどうしても人間の歴史を想定してしまい、アニミズム的もしくは多神教的な「自然」への視点を忘れてしまいがちになる。「歴史」問題としてのみ神話を読もうとしても正鵠を得ない。そういう意味ではすばらしい提言だと思うし、自分もそのように発言したつもりだ。最近は古事記にも世の中の関心がかなりむいていて、世間一般にも個人的に好きで古事記を読んでるという人も多いだろう。だが40億年という数字は地球の歴史とかを連想して妙に科学的にきこえる。だから普通の人はこれ言われると「古事記の話なのに?」と違和感を抱くかもしれない。常日頃から神話に興味をもち『古事記』を読んだりしてる人でも、素直にそのまま読みさえすれば古代人の気持ちに近づけるはずだと思ってると、「自然界のカミガミ」という観点を忘れて、つい人間の感情の動きを漠然となぞったような心持ちを抱いて終わってることが多いのではないか。むろん、いつでもどこでもそういうもんだという訳ではなく、時折り、悠遠なる歴史が繋がってることの奥深さ有り難さ味わい深さをいう話もあるだろうし、例えば壮大な時間の長さとして「天之沼矛の先よりしたたりおつる塩云々」の解説では気の遠くなるような途方もない時間が語られてるという説に出くわすこともある。
なのでそのテーマ?キャッチフレーズ?は俺個人としてはひじょうに腑に落ちるのだが、せっかく「いのち」と仮名書きして現代科学の生命とは別のニュアンスをあらわしたのだから40億年では不足じゃないかとも思う。生命が地球に誕生した瞬間は、かならず生物だとも非生物だともいえない中間的な段階が、一瞬なりともあったはずで、山川草木、地水火風、森羅万象にイノチを認めるアニミズム的な世界観を前提にすれば「生命」をもたない岩や石にも「イノチ」はあるはずだろう。「天地の初め」の天之御中主神にはイノチはないというのか、そうじゃないはずだ。ここは一つ、「神話にねざした『いのち』のつながり ー138億年 生かされたいのちの記憶を考えるー」としてもらいたかったねw

・「私は好きにした、君らも好きにしろ」→陛下も好きにして

この夏は本当にいろんなことがいっぺんに起こった。

7月29日(金) 『シン・ゴジラ』公開
7月31日(日) 都知事選、小池百合子圧勝
8月3日(水) 北朝鮮ミサイル発射、秋田沖に着弾。破壊措置命令が常態化。
8月6日(土) 中国海警局の船6隻と漁船230隻が尖閣諸島に侵入、外務省が抗議。
8月8日(月) 譲位の詔

どれ一つとっても時代を画する重大事件ばかり。で、これ4件とも微妙に内容が重なっているので、バラバラの四つの事件ではなく、ひとつながりの大きな流れなんだと思いたい。
『シン・ゴジラ』には秀逸な批評がネットに多く転がってるので、わざわざ駄文を加えることになるが、古事記がらみでいえば「ヤシオリ作戦」や「アメノハバキリ」という特殊ポンプ車両の名前が出てくる。ヤシオリは八岐大蛇を酔わせた酒、アメノハバキリは八岐大蛇を斬り殺した剣の名だから、ゴジラを八岐大蛇に喩えている。ゴジラを退治するのは太古、神話時代の日本人がすでにやったことの再演にすぎない、だから成功するのだといっている。今回のゴジラは露骨に原発事故の喩えでもありこのアメノハバキリという冷凍凝固剤のポンプ車は原発に放水したポンプ車のイメージを援用している。八岐大蛇を退治する創作劇なら「出雲神楽」(いずもかぐら)が浮かぶ。『シン・ゴジラ』は原発事故の完全な終焉を祈願する現代の出雲神楽なのだ。ゴジラ自体が人類を滅ぼしかねない脅威であるが、同時にエネルギー問題を解決する福音になるかもしれない、そして放射能汚染問題を解決する鍵までもゴジラから発見されるという話は、アメノハバキリで斬り殺された八岐大蛇の尾から、三種の神器の一つ「アメノムラクモノツルギ(=クサナギノツルギ)」が出てきたという話とパラレルである。悪から善が生まれ、凶が吉に転じ、災厄から幸福が生まれる。道理や宿命によって自然勝手にそうなるのではなく、道理や宿命に背いてまでも戦い続けることでそうなる。その戦いの象徴が剣だ。三種の神器は神話学でいう「三機能(主権・戦闘・生産)を象徴する王権のレガリア」であり、この映画では鏡(=主権)でもなく玉(=生産)でもなく剣(=軍備)が象徴効果に使われている。それと小池百合子を思わせる女性の防衛大臣が登場したのが印象深い(女優は余貴美子)。北のミサイルを受けて、稲田朋美防衛大臣は自衛隊に「破壊措置命令」を出した、これは事態が解決するまで自動延長していくという。破壊措置命令が常態化するわけで、考えようによってはただならぬ事態ではなかろうか。中国の漁船は事実上、民兵のようなもので民間人ではなく、あからさまな侵略行為だ。だが戦争となると、日米安保の議論はさけて通れない。『シン・ゴジラ』でも日米安保は大きなテーマになっている。最後はいつも外国に頭をさげてばかりいる総理大臣が、部下から「たまには好きになさってもよいのじゃないですか」といわれてヤシオリ作戦に判子を押す。映画冒頭ででてくる牧二郎博士の「私は好きにした、君らも好きにしろ」という謎のメッセージがここで生きてくる。これはもう日本は米国に縛られることなく勝手にやってくよっていう意志にもきこえるが、映画の中の登場人物たちはそこまで過激なことは考えてないようにみえる。あくまでも選択肢として確保しつつ、自分の意志と自分の覚悟で決断し、行動を決めるのだ、誰かに押し付けられてのことではないのだという「ありかた」を描いてると思う。憲法にしろ原発にしろ単純な現状肯定や単純なアンチであってはならない。
神話学の三機能体系を現代日本の問題に引き寄せていえば、鏡(=主権・祭祀機能)は天皇や憲法の問題の象徴であり、玉(=生産・豊穣機能)は国民経済の問題の象徴となる。国民の社会問題・経済問題はこれはこれで近緊の大きな問題ではあるが、それはさておいて、三機能体系では「鏡は王や神官、剣は貴族や軍人、玉は庶民」というふうに階級(≒職分)にも対応しており、『シン・ゴジラ』ではそれぞれの立場にいる人々が自分の持ち場で全力を尽くす。しかし役割をはたすというのは、型にはまってロボットのように動くことではない。それをいちばんわかっているのは今の日本では天皇陛下をおいて他にないだろう。今上陛下はお気持ちを表明されたが、その趣旨は、譲位のご意向という報道は本当だったのだということ。国民のほとんどは賛成だろう。なぜこれが憲法問題になるのかわからない。これにこじつけて改憲だの護憲だのいう言説はあさましい政治利用にしかみえない。保守派でもたとえば百地章先生などは、譲位には反対だとしてあちこちに書いてるが「殿、それはなりませぬ」というご家老の役どころ、演劇性と様式美が王権には必要だが、それを言うこと自体に意味があり、百地章先生の主張を落ちにすべきではない。天皇陛下におかれては、「象徴が~」「立憲制が~」の話よりも自分が端的にどうしたいのかって話を直接いってほしいと多くの国民は思ってるんじゃないのかな。立場上いえないというのは「頭のいい人が作った立派な仕組み」とはいえないし、普通は「立場上いえない人=可哀相な人」と感じるのではないか。天皇陛下の好きになさることがすなわち国民の喜びである。

・今上陛下の琉歌

H27(2015)年11月11日(水)初稿
「歌声の響」というタイトルで、「天皇陛下 御作詞(琉歌)」「皇后陛下 御作曲」とある。

ダンジュ カリユシヌ  ウタグイヌ フィビチ
だんじよかれしよしの歌声の響き

ミウクルワレガウ ミニドゥヌクル
見送る笑顔目にど残る

ダンジュ カリユシヌ   ウタヤ ワチャガタン
だんじよかれよしの歌や湧上がたん

ユウナ  サチュル  シマチムニヌクティ
ゆうな咲きゆる島肝に残て


わたしの個人的な感想などはまた後日に…

・報本反始

H26年10月24日初稿
詳しくはおいおい追記していきますが今日は酔っ払ってしまってなにも書けない。ねます

・中今(なかいま)

なか‐いま【中今】

神道における歴史観の一。時間の永遠の流れのうちに中心点として存在する今。単なる時間的な現在ではなく、神代を継承している今。
提供元:「デジタル大辞泉」

原典
『続日本紀』の宣命の中に、ただ四ヶ所のみ出てくる言葉。
例)文武天皇即位の宣命『高天原に事始めて、遠天皇祖の御世御世より中今に至るまでに』

本来の意味
中頃の昔(大昔ではない少し昔、中世)と現在。(ただし近代以後、この正しい意味で使われることはまずない。)
原典を精密に読解すれば、「始(はじめ)」「古(いにしへ)」「昔(むかし)」「遠(とほき〜)…」などの言葉と「中」と「今」とは一揃いであることがわかる。つまり「古代・中世・近代」にも似た「遠い大昔・中間時代・最近=現在」という三区分法である。
三区分法がヨーロッパのものだから古代日本にあったはずがないというのは事実を無視した先入観にすぎない。このような原始的で素朴な三区分法的な表現が当時存在したことは『続日本紀』の文脈分析からのみならず、同時代文献である『令集解』その他の諸文献からも傍証される。
(中今の本来の意味についての詳細な論証は、西田長男「中今の語釈をめぐって」(季刊『日本思想史』第五号に収録)をみよ)

本居宣長の誤読
これを宣長は、「中今」の二字をもって「今」の意味であると誤認して、「当時の人々が現在を表現するのに「後の世」とか「降れる世」とかいわず、「真ん中の盛りの世」と称賛的に認識しているのを趣き深い味だ」と感想を述べている(本居『続紀歴朝詔詞解』)。この宣長の見解は、彼の数々ある小さな過失の一つで、後継者たちによって訂正された無数の瑕疵の一つにすぎない。

中今曲解史

誤読説からの新展開:「中今思想」の登場
明治四十年代(1910's)すでに山田孝雄は、宣長の誤解説をさらに独自に意味付けして、宣長は言い足りてないとし、「中今」という言葉には日本民族の重大な思想(楽観的で進歩主義的な世界観)が込められているとして「永遠の今」の意味であるとした(山田『大日本國體概論』)。ここで注意すべきことは三点ある。
一つは、この前の宣長の段階ですでに国文学的・歴史学的・言語学的には「中今」という概念自体、誤認誤解にもとづく錯誤であること。 第二には、この段階における山田孝雄が「中今」という言葉に託した議論は、直接的には西洋哲学(「永遠の今」というフレーズから察するに具体的にはアウグスティヌスやカントをさすと思われる)のコピーであったということ。 最後に、第一点に錯誤と第二点の模倣性にもかかわらず、ここで託された思想は、古今東西を超えた普遍的な思想であり、結果的にゾロアスター教的な健全な時間論(人生論/歴史観)だったということである。
しかしゾロアスター教的な時間論とはまさしく毒にも薬にもなるものであって、万人に公開されるべきものではない(個人対個人の場所で伝授されるべきものである)。山田孝雄もまた毒と薬の両面を自覚せず、教科書のうわっつらをなぞるが如く、漠然と理解していたにすぎない。従ってこの山田孝雄の中今論はこの時すでに将来において誤解され曲解されてゆく運命にあったともいい得る。

近代の国体説としての中今
昭和初期(1930's-1940's)には、日本近代思想が閉塞してゆくのと連動して右翼思想も袋小路に入って、日本全体が思考停止の様相を呈してゆく。
その中で1930'sには、歴史(過去→現在→未来と続く、理論的考察でなければ解けない因果関係的な時間観念)を否定して、「日本は永遠にあるがままで素晴らしい(から何も考えなくてよい)」とする、知的に軽薄な暴力団的開き直り思想が登場してきた。三井甲之や高階順次らの中今論がそれである。彼らは過去や未来が現在の決断において創造されるのではなく単に「過去も未来も存在しない」として、「過去・現在・未来」の三区分法自体を否定し、事実主義的な時間論を主張した(三井『しきしまのみち原論』、高階『日本精神哲學論攷』)。彼らの叩き台となった先行する中今思想の解説者は、前述の山田孝雄だったのであるが、1940'sの頃にはその山田孝雄自身も、彼らに負けず劣らず身も蓋もない「中今=永遠の今」論(思考停止・現実称賛・反省不要論)を、万世一系や天壌無窮にこじつけて仰々しく語るようになってゆく(山田『肇國の精神』)。

西田幾多郎の中今
これらに対して西田幾多郎も彼の思想である「絶対矛盾的自己同一」の中で中今というタームを説明し位置付けようと図った(西田『學問的方法』)。そういう意味では彼の中今論は、三井や高階とはまったく異なるものであり、また評価としてもやや健全ではある。が、彼の時間論はゾロアスター教に近いとはいっても、悲哀や不幸に対して脳天気な否定をせず(生物として正しい自然な態度をとらず)、「不幸や悲哀にさまようカスやゴミも救って"くれず"には完全な思想でない」という仏教的卑屈さと、「不幸や悲哀を容認しつつ抱きかかえ包み込んで浄化して"やれる"はず」という仏教的高慢さがある。そのため彼の思想は、「絶対矛盾的自己同一」といいながら貫徹した爽快感がなく、どっちつかずであり、不幸や悲哀が自動的に解決する境地にまでつきぬけて到達するものでなく、最初の場所に停滞して内向的に煮詰めて得られるようなものになっている。これが三井や高階のような安直きわなりない「中今論」に陥らないためのブレーキともなっていた。しかし彼の言説は韜晦・晦渋しており、なにをいってるのかわかりにくい悪文であるため、また思想界の流れ(空気)もあって、世間一般的には、一知半解な表面的な理解をされ、そうなるとそれは前述の三井や高階とかわらないものになる。

戦中期の国体説
戦中期の『國體の本義』は、内容的にも相互矛盾するような継ぎはぎで作った駄本であり、官僚仕事の最たるものとして悪名高いが、この中に、もっとも極端な「中今」論が出てくる。これを執筆したのは前述の山田孝雄であり、しかも周囲の反対を押し切って強引に挿入したものという。
(本項の参考文献:西田長男「中今の語釈をめぐって」(季刊『日本思想史』第五号に収録)、片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社)。)

戦後の神道説
あいかわらず「中今」がどうのといってる神道家は今でも時々いる。

まとめ
結論条項
ゾロアスター的な時間論は、良薬であるが劇薬でもあり、安直に文面化しにくい。
ゾロアスター的な時間感覚は、もともと世界中にあったもので当然日本にも最初からあった。
それを大和言葉でいったとしても、「中今」とはならない。(「祓」が近いか)
近代の日本の思想的な行き詰まりに際して、「考えなくてもいいんだよ」と囁いた俗流の「永遠の今」論は、下痢なのに浣腸するが如く、戦前の日本の暴走を後押ししたにすぎない。
とにかくもともとの「中今」という言葉にはそういう意味はない。
中今思想や中今という用語は混乱のもとだから廃絶すべき。

近代史における中今思想の歴史的意味
万世一系や天壌無窮は、時間を超越した概念であり、歴史に対して普遍的な存在であることを主張する。しかし、このことは歴史学的考察がすべてではないという主張ではあるが、すべてではないのであって、一部ではあるのである。この世には、歴史を超越した永遠なるものもあるのであるが、その一方では、因果の波に翻弄されてしか存在しえない、つまり歴史学の対象として始めて理解可能な低レベルなものの方が多いのだ。
歴史を否定して「どうせなんでも永遠だから」と安直に切ってしまっては、万世一系の尊さも理解できない。皇統は永遠であるが、皇室制度の具体論は時代とともに変遷してきた。愚昧な「中今」思想に依拠して歴史知識を等閑に付すことは「とにかくつながってさえいりゃ意味不明でもなんでもいいんだ」という女系容認論に陥るであろう。

・新日本建設の詔書(俗称:天皇人間宣言)

H26年10月18日初稿
今日は靖国神社の秋季例大祭。午後、もう勅使はお帰りになった後だけど参拝してきた。参拝客かなり多め。
先日15日、とある集まりで、俗にいう「天皇人間宣言」、正しくは「新日本建設の詔書」の話題がでた。この問題については詔書それ自体も有名だし、これをめぐるあれやこれやの議論も良質なものが数多く出回っていると思うので改めてわたしがなんだかんだいうことはない。そういえばこんなページがあったな↓
■■■ いわゆる「人間宣言」について(オロモルフ)■■■
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ningen_sengen.htm
(↑オロモルフ先生(石原藤夫先生)のサイトより)

…といいつつ。以下は以前、日本についての知識がほとんどない外国人向け(具体的にはフランス人を想定)に、天皇の人間宣言について解説する文章を書こうとしていた友人に対して、叩き台として草稿を提出した時の文。あくまでも一般の日本人向けではないのでそこらは納得できる人だけ読んで下さい。↓H23年(2011年)の4月から6月の間(正確な日付は不明)に書いたものなので今では考えの変わったところもあります、念のため。

「無題」(内容:昭和天皇の人間宣言について)

(前略…)かつて天皇は「神」として崇められ、絶対的な権力をもって日本人に君臨したが、第二次世界大戦に敗北し、米国に占領された。その結果、民主主義を受け入れて国家制度を改変し、西側=自由主義かつ民主主義の国家として生まれかわることになった。この時、天皇は自ら自分は神ではなく人間であると宣言。
その中では「朕と国民との絆は、単なる神話に基づくものではない」と語られている。
これを通俗的に「人間宣言」と呼び習わしている。これで天皇は形式的な存在=立憲君主となり、権力は天皇から国民へ移った。
…以上が、一般的な「人間宣言」の理解である。しかし日本において、右翼よりな解釈としては、神とはキリスト教でいうような意味での神ではない、ここで否定されたのは「天皇が(キリスト教でいうような意味での)神である」ということがよく言われる。実際、「人間宣言」はGHQに対する「上手い言い逃れ」という側面をもつ。その文面を子細に検討すると、単ならざる神話「にも」基づくことは否定されてないか、少なくとも重きを置いてないのである。しかしこれは以下の重要項目を取り落とすと日本の右翼内部での辻褄合わせに堕してしまう。
「人間宣言」で重要なのは、「朕と国民の絆は、相互の信頼と敬愛によって結ばれたものであり、単なる神話や架空なる観念に基づくのではない」というところである。もし国民からの信頼と敬愛が、神話を否定した後でも天皇が存在し続けるための言い訳であるならば、この人間宣言は取るに足らない敗北宣言にすぎない。しかし、もし本当に天皇と国民の相互間に信頼と敬愛による絆があるならば、確かに個人を絶対神聖視する迷信的な個人崇拝よりもはるかに美しくかつ恐るべき国家であろう。それは、その後の昭和天皇の全国巡幸によって明らかになった。

とはいえ、戦前でも日本人一般が天皇を神であると信じていたか、神話を真に受けていたかは微妙である。微妙というのは日本人は信じるか信じないかに二分して受容するようなことはあまりしないから。そういう話があるってままに受容してそれが本当かどうかにはあまりこだわらない。なぜならわかりっこないから。追求されれば「そりゃ嘘だろう」というけれども、「虚偽だから信じるべきではない」という展開にはならない。「虚偽じゃないかな、と思う」のは「虚偽と確定した」という意味ではなく、まぁいいんじゃないの、という態度を許容する範囲内だと感じるらしい。日本人は仏教とキリスト教を同時に信じることが可能。ただし「信じる」の意味がクリスチャンやムスリムとは異なる。

明治以降の皇室は、西洋の国民国家におけるキリスト教の役割を期待され、皇室はその期待に応えてきた。キリスト教的な美徳を発揮することが、GHQに対する最大の防御である。日本ではクリスチャン人口が1%より増えたことはない。しかし聖書を読むことを楽しんだことのある人は人口のほとんどに至るであろう。神道の神としての天皇を信仰することと、キリスト教を信じてその美徳を我が物とすることは、日本人において矛盾しない。

このような日本人の独特な感性は、西洋を含め世界のほとんどの地域(中東・インド・シナ)においては部族時代の原始的な宗教を捨て去り合理的に構成された理知的な宗教に転向することで文明を形成したが、日本では原始的な感性を基礎に生かしたまま他国の諸々の高度文明を御都合主義的に輸入しては改変し、高度文明に同化されることを拒んできた歴史に由来する。西洋においてはゲルマン神話もギリシア神話も過去の異物で博物館に所蔵される死体にすぎないが、日本ではそれが「神道」として生きていて、論理に価値をおかない文化が根付き、それが長所にも短所にもなっている。(…後略)

試し &【付記】このブログを始めるまでの過去の経緯(この頁の後半にあり〼)

あーテステス。始めましたがいいか

初めてなので何だかよくわからんぞ。

いろいろ練習してみようw

文字の色を白くする文字色
文字の色を白くする

穴穂御子、坐石上之穴穂宮、治天下也。
天皇、爲伊呂弟大長谷王子而、坂本臣等之祖、根臣、遣大日下王之許、令詔者「汝命之妹、若日下王、欲婚

大長谷王子

。故可貢」。

大日下王、四拜白之「若疑有如此大命atsutane
。故、不出外以置也。是恐。隨大命奉進」。
然言以白事、其思无禮、即爲其妹之禮物、令持押木之玉縵


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而貢獻。
根臣、即盜取其禮物之玉縵、讒大日下王曰「大日下王者、不受勅命。曰『己妹乎、爲等族之下席」而、取横刀之手上而怒歟。
故天皇、大怒、殺大日下王而、取持來、其王之嫡妻、長田大郎女、爲皇后。
自此以後、天皇、坐神牀而、晝寢。爾語其后、曰「汝有所思乎」。答曰「被天皇之敦澤。何有所思」。
於是、其大后先子、目弱王、是年七歳。是王、當于其時而、遊其殿下。爾天皇、不知其少王、遊殿下。
以、詔「吾恆有所思。何者、汝之子目弱王、成人之時、知吾殺其父王者、還爲有邪心乎」。
於是、所遊其殿下目弱王、聞取此言、便竊伺、天皇之御寢、取其傍大刀、乃打斬、其天皇之頸。
逃入都夫良意富美之家也。
天皇、御年、伍拾陸歳。御陵在菅原之伏見岡也。
【付記】このブログを始めるまでの過去の経緯
わたしは2666年(H18)から始まった「皇室と日本を考える」という集まりに参加している。そこではメインの企画の他に、時々「おまけ企画」として「古事記を読む会」(プロデュース by 孤高の相場師)というのをやっていた。この「古事記を読む会」は2667年(H19)5月4日を第1回として、2669年(H21)7月の第12回まで続いた。その後しばらく中断していたわけは、2669年(H21)2月21日から古くからの畏友ワフラン氏との「素読の会」が始まったことが一つ。また古くから外様として参加していた「マズダヤスナの会」の代表岡田氏からの依頼で古神道(または神道霊学)についての講義をしていたことも一つ(これが「古事記を読む会」に代わる「おまけ企画」にもなった)。さらに「マズダヤスナの会」の杉並支部と銀座支部でそれぞれ独自の活動が始まりそれらもそれなりに面白くてつい時間をとられたこと、等もある。また大場一央先生の「陽明書院」を知ることになりそちらの活動に関心を割かれたこと…等がかさなり、「おまけ企画」などやっている余裕がなくなったからでもある。むろん、その間、完全なブランクというわけではなく、「皇室と日本を考える」の活動の一環として、神道を含む古代宗教、神秘学(オカルト)を含む思想、日本や世界の古代史、文化人類学などの研究発表もやってはいたのだが、2672年(H24)には「古事記編纂1300周年」ということでその4月に久々に「古事記を読む会」第13回を開催したのが最後になった。
その年は「古事記編纂1300周年」という年への思い入れがあって、都内各地の講演会やイベントをめぐったり、ネット内でのイベントを見て回ったりして自分なりに思うところはあったものの、その思いをまとまった文章にすることもできなかった。それは「皇室と日本を考える」の活動も長くなりすぎ思想的にカバーしなければならない範囲が広大でかかえきれなくなっていたせいもあったかも知れないし、「皇室と日本を考える」主催オフでのイベント(自主講座)での発表か、もしくは「マズダヤスナの会」の同人ミニコミ誌での発表という形にこだわっていたためでもあった。「そんならブログに書くのが簡単でいいや」とは誰しも考えることで、わたしもそれはずっと念頭にあったんだが、いざ始めようとすると、古事記の上巻の神話篇や中巻の古代史についてはそうでもなかったが、下巻の内容について、考察がいまだ不十分な問題点が次々と見つかり、過去の「古事記を読む会」での言説を単純にまとめるだけでは済まないと気づき、自説のまとめ直しをするハメになってしまい、そうこうしてるうちにも、2673年(H25)6月からは「皇室と日本を考える」の活動が月例会方式となり、同年11月からは盟友しか氏の「論語集註」の連続講義が月例会の中の自主講座の一つとしてスタート、さらに翌2674年(H26)1月からは上述の「素読会」がその自主講座の一つとして合体。…というなんやかやで、ブログを始めようと思い立ってから2年もたつのに、いまだに終わりのない古事記の研究だか思索だかの泥沼を楽しんでいたのだった。
その頃、たまたま大田俊寛の「根源人種と霊的進化~オカルトの俗説と真実~」というオカルトに対して批判的な本を読んで、憤りを感じていたので、その年の9月27日安康天皇正辰祭の日のある会合で、この本をオカルト擁護の立場から批判するという主旨で講釈をたれたんだが、この時の怒りの矛先がはからずも行くべき道を指し示してくれたような気がして、スカッとした勢いで翌日なぜか大森貝塚史跡公園を見学に。この日は台湾の「教師節」(孔子の誕生日)にあたり、先生に教えを乞おうと思ったのだが、先生といえば先史時代より先に生まれた先生はいないだろう。俺にとって板橋区の茂呂遺跡・野尻湖ナウマンゾウ博物館・大森貝塚史跡公園が3大聖地なのだ。答えがみつからない時、先史時代の遺跡に行けばインスピレーションが得られる。それが俺のジンクスだ。ま、この時は格別なにか悩んでいたとか、答えを探してたとかってわけじゃなかったんだけどね。今回の大森貝塚公園では、俺は唐突にゴジラがこの大森の街を破壊するシーンが浮かんだ。まぁ、今年はゴジラ誕生60周年だってのと、7月にハリウッド版ゴジラみてたからそれで連想したんだろうが、まさか2年後にこの大森の街をシン・ゴジラが突き進むとはねw オカルトの問題意識と先史の遺跡がクロスしたところに「ゴジラ」という神話的ヴィジョンが降臨するのは後から思えば当然の流れだが、渦中にある時は奇跡的な神の啓示のように感じられもするものだ。
翌10月、日比谷の出光美術館でやってた「宗像大社国宝展―神の島・沖ノ島と大社の国宝」を見学。神話的気分のまま無意識に電圧を高めようとしていたんだろう。宗像大社に祭られし三姉妹の女神からは、岡田有希子・菊池桃子・荻野目洋子のアイドルトリオが連想された。なぜならこの年は、この3人のデビュー30周年だったからだ。60周年と30周年、ゴジラからアイドルへ、という流れはサブカル史そのものだ。ここで90周年を持ち出せば「3・6・9」でミロクの世が来ちゃいそうだが、言霊(ことだま)関係でもダジャレ系のやつはインチキだから信用するなよw まぁ、三木のり平生誕90周年だったんだけどさw それはさておき、その「宗像大社国宝展」の一週間後の11日には、「『それは1964年から始まった:カウンターカルチャーマンガの潮流』ガロ創刊50年トークショー」というイベントがあった。90周年じゃなくて50周年なw 出演は手塚能理子、南伸坊、林静一、そしてあの呉智英大先生w だが場所が宮城県塩竈市という遠方だったので俺は行かず、そのかわり茅ヶ崎の地ビールの蔵元「熊澤酒造」のオクトーバーフェストに仲間とともに繰り出した。ここはあの宗像三女神が鎮座する江ノ島とは12km、徒歩3時間もかからない近距離で、湘南ビール数種類&どぶろく&ビュッフェ料理を飲み食い語り合い、いい感じに酔っ払って、行けなかった塩竈市でのイベントの「サブカル史をふりかえる」というテーマにシンクロニシティを感じ、先史遺跡から現代サブカル史までの霊的進化という、先月からの一連の思索を回想、披露したのだった。60周年・30周年・90周年・50周年とくれば、あと40周年・20周年・10周年も何か欲しくなるが、実在の親幕派フランス人を架空の米国人に差し替え戊辰戦争の東軍を薩摩の叛乱軍に差し替えた歴史歪曲映画『ラストサムライ』日本公開から10周年、外部太陽系戦士TV初登場の興奮(&松本サリン事件)から20周年、日本中に大ブームを巻き起こした超絶トラウマ&カルト映画、丹波哲郎の『ノストラダムスの大予言』(&『宇宙戦艦ヤマト』)から40周年、日本で最初で最後のオカルト政権、小磯国昭内閣から70周年、ヒットラー総統就任80周年、世界に冠たる宝塚歌劇団結成(&第一次大戦)から100周年、そして三木のり平生誕90周年! ピースは埋まった。これも塩竈の神の導きか、宗像の神の霊験か。すべては神々の経綸によって生成している、という前提ならば、霊的進化とはすなわち神話の体系そのものに他ならぬ。そして神話といえば古事記ではないか! 一昨年の古事記編纂1300周年の年から古事記のブログを始めようとして、研究の見直しをしていたが、ようやく気持ちが準備できた気がした。以来、正座瞑想、持衰断食、精神集中すること5日目にして、啓示は降り、このブログが誕生した。2674年(H26年)10月16日、木曜日のことだった。
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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