FC2ブログ

「神道ルネサンス」

R2年6月8日(月)改稿 H26年11月6日修正 H24年9月19日(水)初稿
后妃と皇子女
后の御真津比賣(みまつひめ)と同名の人物が崇神天皇の同母妹にあり、こちらは大彦の娘と明示あるから同名異人とみなされているが、たぶん同一人物だろう。「当時は同母の兄弟姉妹は結婚できないが異母の兄弟姉妹なら結婚できた」というのは俗説であって正しくないことはこのブログでかつて考証したことがある。これについての詳しい議論は開化天皇の項に譲り、今回はふれない。
また豊木入日子命(とよきいりひこのみこと、紀:豊城入彦命)は、上毛野君・下毛野君らが祖とある(キミ(君・公)というカバネについてはカバネ論のページを参照)。毛野公(けぬのきみ)氏は仁徳天皇の時に上毛野・下毛野の二氏に分かれたが、後世まで関東の王者ともいうべき大族。紀には弟の活目入彦尊(のちの垂仁天皇)を皇太子にすると同時に、兄の豊城入彦命には東国を治めさせたとある。ただしこの段階ではまだ本人が関東に在住したわけではなく、たまに出向く程度で普段は代官を派遣してたぐらいだろう。豊木入日子命の子の八綱田命も都に在住していて垂仁天皇の時にサホヒコの乱に対処している。その子、彦狭島王は景行天皇の時(つまり倭建命の東征の後で)東山道十五国の都督に任じられた。
この東山道十五国というのは『日本書紀』での表現だが「東山道」というのは後世の律令制の用語を借用したもので厳密に「東海道は入ってないのだ」と短絡はできない。崇神天皇の時代に四道将軍の一人で東の担当の建沼名河別が担当したのが「東方十二道」。ヤマトタケルの征討対象は四道将軍の平定から漏れた区域だとすると、「東方十二道」には奥羽信飛濃の五国は入っていない。で、「東山道十五国」は書紀ではヤマトタケル以後の話だから、「東方十二道」にこの五国のうち三国を入れた数字ではないかと思われる。そしてこの五国はすべて後世の律令制でいえば東山道。出羽は奈良時代に分置される前は越後と陸奥の一部だったから除外し、信濃北部と飛騨は当時は高志(北陸)に入っていたと思われるのでこれも除外すると、奥信濃の三国が残る(この信濃は信濃の南部のみ)。東山道十五国というのは「東方十二道」にこの三国を加えた数字だろう(「東方十二道」の内訳については四道将軍の記事を参照)。この範囲は、豊木入日子命から彦狭島王まで代々管轄してきた範囲を表しているが、関東の総督だけならまだしもこれだけの広大な範囲を支配させるとも考えにくい。「国造本紀」では彦狭島王はこの時、毛野国造になったように書いてあり、この頃から権限としては関東の総督ぐらいに定まったんだろう。毛野国は直轄領だが、時代が下がって皇室から別れてからの世代が遠ざかってくると次第に毛野国だけの国造にすぎなくなっていく(この毛野国はまだ上野と下野に分割される前なので今の群馬県と栃木県南半分)。豊城入彦ー八綱田ー彦狭島ー御諸別ー荒田別まではあるいは東国の総督的な地位だったろうが、荒田別の次の世代で上毛野と下毛野に分割されるので遅くもこの時までには実質ただの国造に成り下がったと思われる。
ただし当初の任命の主旨は、事実上、日本を東西にわけて統治するということだが、なぜこの時代に東国総督が置かれたのかというと、この頃までに日本は弥生文化がますます深まったが、東日本との西日本では文化の在り方に徐々に差が大きくなっていった。東国では縄文以来の古い文化が根強く、西国とは住民の気質にも違いが大きくなってきた。しかも西日本では海外から持ち込まれた疫病の流行で淘汰されたのは免疫のない縄文系の遺伝子をもつ人々のほうが多かったと思われるので、ますます東国との違いが目立つようになったろう。そのため中央での一元処理的な行政は不適切になりつつあったのである。

神々の祭祀(疫病退治)
崇神天皇の御代は疫病で始まった(紀では崇神5年)。『日本書紀』は人口が半減したといい『古事記』は国民が全滅したという。これを読むたび思い出すのは、渡来系弥生人によってもたらされた疫病によって縄文人の人口大減少が起こったという説だ(もっとも、縄文人の疫病説は確かな証拠によって証明されたものではなく「あってもおかしくはない」という程度のことなので、注意が必要だが。最近の説では、現在の日本人の弥生顔は、古墳時代の江南(中国南部)からの帰化人がもたらした遺伝子であって、古墳時代までまだほとんどの日本人は縄文系だったという者もある。また縄文から弥生への変化は文化的なもので遺伝子上の変化は少ないとする説(長浜浩明の説)もある。

縄文人を大減少させたこの疫病の正体は、天然痘だとか結核だとか様々な説があるが、変わった説では「B型肝炎」という説と「成人T細胞白血病/リンパ腫」という説だろう。どちらもウイルス性の病気だが、成人T細胞白血病は鹿児島や沖縄、北海道にウイルスをもったキャリアが多い。またB型肝炎ウイルスの9種類のタイプのうち、日本人に多いのはBタイプとCタイプで、Cタイプのウイルスをもった人は九州北部から本州にかけての弥生系が強い地域に多く、Bタイプのウイルスを持った人は縄文系が強いといわれる地域に多い。朝鮮半島ではほとんど100%がCタイプ、中国でも80%はCタイプである。これらのウイルス性の病気では、縄文系と弥生系が選別されて、大流行の後には人種交代が起こると考えられるわけだ。この説はかつてはなるほどと思って信奉していたんだけど、最近は考えが変わってきた。この説の大きな弱点の一つは、伝染しにくいということで、異性間での感染と母子感染だけなので他地域に広がることがない。長い年月をかけて徐々に進行する人種交代なら疫病を持ちだして説明する必要がそもそもない。爆発的な大流行というのは考えにくいので、記紀の伝承にも合致しないということである。
なお、『ホツマツタヱ』は、崇神天皇が庶母(開化天皇の后)を后にしたことがタブーに触れ、それで疫病が起こったのだとするが、これは古代の婚姻制度を知らない江戸時代の素人の想像説にすぎず取るに足らない。

ただ、そうだとしても、崇神天皇の時代のこの疫病が海外からもたらされたことはほぼ確実に間違いない。アメリカ先住民の消滅はかなりの程度ヨーロッパ人のもたらした梅毒にも原因があった。日本の南北朝時代の疫病多発も、ヨーロッパのペストと時期が近い。モンゴル帝国全盛期の活発な国際交流がユーラシアに四川・雲南の疫病を広めたという。当時日本もモンゴル帝国統治下の中国と盛んに交流していた。記紀の伝承では「出雲の神」の祟りということになっているが、実はこの「出雲の神」も記紀では海外を平定することに深い関係をもった伝承が多い。
難民の増加は治安の悪化をもたらす。紀によると疫病の翌年、全国に流民が発生し、治安は悪化。丹波には謀叛を起こして独立した者さえいた。治安の悪化はもちろん疫病のためだけではなく、孝霊天皇や開化天皇の時代から問題になっていた難民(大陸の戦乱から逃れてきた)の存在があることはいうまでもない。
難民問題は、いかに早急に日本人に同化させ、日本人としての道徳を植え付けるかということ以外には根本的解決はない。また同時にすさんだ国民道徳を立て直さなければ、治安問題の解決はありえない。崇神天皇はそれまで宮中に祀られていた天照大神を大和国笠縫邑に巨大なヒモロギを建設して、一般庶民が自由に参拝できるように取りはからった(これが後に移転して今の伊勢神宮の起源となる)。これにより、日本人は天照大神の子孫であるという認識を浸透させるためで、いってみれば、これは弥生時代の「國體明徴運動」であった。
なお『神ながらの道 -日本人に潜在する創造的生命意識を解明する-』を著したジョーゼフ・ウォレン・ティーツ・メーソン(J・W・T・メーソン)の説では、この頃神祇への信仰が劣化していたので、神道に永遠なる宗教的生命をもたらす方策を立てたのが崇神天皇だったといい、これを「崇神天皇の神道ルネサンス」(古道復興)とまでよんでいる。
それと紀には疫病を鎮めるために祀った大物主神の神勅に「外国が帰順してくる」という一見、脈絡不明の文があるが、当時の人々が潜在意識では「この疫病の根本原因は外国問題である」ということを薄々察知していたということの証拠であろう。
「大坂神・墨坂神(境界の守り神)に武器(盾と矛)を祀った」というのは、畿内を封鎖したことをいう(紀では崇神9年のこととしてある)。疫病そのものは発生の翌々年(崇神7年)に終わったが、治安が乱れて一度酷い目にあった人間には警戒心と猜疑心が生まれるので、いったん崩壊した安全神話は容易には元にもどらない。したがって治安状態はすぐには回復しなかった。畿内では「國體明徴運動=神道ルネサンス」が成功したが、治安のよい畿内めざして流民が入ってくるので、一時、畿内を封鎖したのである。

オホタタネコノミコトはなぜ求められたか:大物主神の御子
天孫降臨の時の定めにより、皇統を守護する四つのカムナビ(三輪・宇奈提・葛城・飛鳥)は事代主命と味耜高彦根命の子孫が祀ることになっていたが、いつしか子孫も途絶え、物部氏の系統が県主の地位についていた。崇神天皇は神夢により、正しい子孫である大田田根子を探し出し、三輪の大物主神を祭らせた。…それは確かにそうなんだが、かなり経緯が入り組んでややこしいことになってる。

『古事記』を読むと、意富多多泥古(おほたたねこ)が神の子だと知られた所以は、大昔に大物主神が人間に化身して活玉依毘賣(いくたまよりひめ)と交わって生まれた男子の子孫だからとして、大物主から意富多多泥古まで5世代の系譜を載せている(大物主神を1世としてオホタタネコが5世)。
だがこれはおかしいのではないか。それなら神の「子」というのは神の子孫って意味になる。和語の子(こ)には確かに子孫という意味があるから一見問題ないようにみえるが、それなら当時の登場人物はほとんど全員、天津神か国津神か、なんらかの神の子孫なのであって、格別にオホタタネコだけを「神の子」だのなんだの言う意味なくね?
そう思って『日本書紀』をみると、大田田根子(おほたたねこ)は父が大物主で母が活玉依媛(いくたまよりひめ)だという。つまり神の子孫ではなく、そのまま素の意味で神の子になってる。あきらかにこっちの方が元々の古伝承だろう。じゃ『古事記』の系譜はどっから出たのかというと、これは磯城県主(しきのあがたぬし)の系譜でしかありえない。そう推理するわけは『先代旧事本紀』に同様の系譜があり、大己貴神(おほなむちのかみ:大物主神の別名)を1世として大田田根子が9世になってる。この系図だと2世が神武天皇の時代の事代主(ことしろぬし)と同一人物になっているが、『日本書紀』では綏靖天皇や安寧天皇の皇后が事代主の娘でもあり磯城県主の娘でもあるように書かれているから、要するに事代主が磯城県主である。日本書紀の異伝では活玉依媛の父は天日方奇日方武茅渟祇(あめひかたくしひかたたけちぬつみ)という長々しい名前になってるが、これは「天日方奇日方」と「武茅渟祇」の間に脱文があって、無関係な二人の名がくっついてしまったもののようだ。天日方奇日方は先代旧事本紀で神武天皇時代の事代主(つまり磯城県主)の息子として出てくる。これと古事記の櫛御方(くしみかた)が同一人物なのは名前の類似から想像がつく(「三輪高宮家系図」でもそうなってるがこの系図によらずとも推定可能)。だから「櫛御方ー飯肩巣見ー建甕槌」の三代間は磯城県主の系譜であって後から挿入した注釈が誤って本文に紛れ込んだもので、意富多多泥古とは繋がってない。問題は「武茅渟祇」だがこれは賀茂県主の祖、賀茂建角身(かもたけつぬみ)のこと。なんでそんな人の名がここに出てくるかというのは長くなるから別の機会にまわす。
さて、そうするとオホタタネコは磯城県主の家に婿入りでもしたのかと思いたくなるが、当時は入り婿という概念はない。ただし旧領主の娘を娶ることで新領主への交代を正当化するという感覚はあった。
で、話はここで終わらない。三輪君(みわのきみ:古事記では「神君」と書いてミワノキミと読むがややこしいので書紀の書き方にするw)という氏族は、カバネが「君」だ。このカバネは開化天皇以降に皇室から別れた氏族に多い。そういう傾向があるってだけで例外もあるのだから気にしなくていいのかも知れないが、そういうことまで気になって仕方ないのを才能というわけだろw 以前にこのブログで出雲臣(いづものおみ:出雲国造、出雲大社の宮司の家柄)が天之菩比命(あめのほひのみこと)の子孫ではなく孝元天皇の子孫だって説を展開したことがあった(「出雲国造は天穂日命の子孫ではないhttps://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html)。そしたら、同じ理屈で、三輪君は大物主神の子孫ではなく開化天皇の子孫ではないかと当然思われる。思うよな?w
そこで、開化天皇の系譜をみると、孫の世代で子孫の氏族が書かれておらず断絶したような印象のある皇孫が4人いる。大筒木垂根王、讃岐垂根王、比古意須王、伊理泥王だ。このうち伊理泥王(いりねのみこ/いりねのおほぎみ)という名前が気になる。いちいばん下の弟なのに兄(ね)というのもあれだし、入兄(いりね)というのは入り婿って意味ではないのか? つまりこの伊理泥王はオホタタネコの入り婿なのではないか? いや当時は入り婿という概念はないから、オホタタネコの娘を娶って、同時にオホタタネコの家職である大物主神の祭祀を継承したのではないか、これが三輪君という氏族の発祥なのであろう。

・出雲国造は天穂日命の子孫ではない

H29.12.09 SAT 更新
60年に1度の出雲遷宮(平成25年)と高円宮典子女王殿下のご婚約(平成26年5月27日発表)が話題になっていた頃だったと思うが、出雲大社についてならこれっていう小冊子『出雲大社由緒略記』(以下、由緒略記)があることを、さる人にすすめられて知った。出雲大社の由来はもちろん、様々な祭儀、摂社末社、歴史に至るまであらゆることを網羅して120頁以上もある。現在のは平成15年の第41版で700円。ただし出雲大社でしか売ってないので直接注文する必要がある。
疑問の始まり
由緒略記の第十章の「出雲国造」では、古い版だと初代の天穂日命(アメノホヒノミコト、記:天之菩卑命/紀:天穂日命。このブログでは原典にあわせてどっちも使います)からの歴代が17代宮向までの全部でてたと思うんだが、新版では第2代から11代までなんの説明もなし。第12代鵜濡渟(うかづくぬ)から14代岐比佐都美(きひさつみ)までの解説はあるが、15代、16代も飛ばしてから17代宮向の説明になってる。鵜濡渟は書紀、岐比佐都美は古事記に出てくる名前だが、由緒略記のこの部分の元ネタとなったと思しき書物で『出雲国造伝統略』(以下、伝統略)という本がある。これは千家武主(千家尊福の姉の夫)という人が千家家に伝わる社伝をまとめた幕末頃の書物。古本屋で探したらかなり高価になりそうな本だが、ありがたいことに国会図書館のデジタルコレクションで見れる(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815092">『出雲国造伝統略』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815092)。これだと鵜濡渟は氏祖命(うぢのおやのみこと)、岐比佐都美は来日田維穂命となっている。こっちは社伝として出雲に伝わっていた名前なのだから、記紀に伝わってたほうを別名として、(伝統略のように)こっちの名で出すべきじゃなかったのかと思う。

まぁそんなことはどうでもいいのだが、由緒略記では来日田維穂にキヒタホとルビがふってあるが、維の字だけが音読みってのはおかしくないか? 維の字は綱紀の綱と同じ意味があり、ここはツナと訓読みさせるつもりで書かれているのではないかと思うが…。名前の一部にツナが入る人は、尾張連の祖「尻綱根」(しりつなね)が思い出される。で、もしそうなら正しい読みはキヒタツナホとなる。ネット検索してたら来日田維穂命には別名「来日狭維」とも「来日維穂」ともあり、維の字をツナと読むとしたらそれぞれキヒサツナ、キヒツナホとなり、前者は古事記の岐比佐都美に最も近くなる。ついでにいうと宮向も由緒略記ではミヤムとルビがふってあり、これは別に間違いではないが、高向玄理の「高向」がタカムコと読まれてることからするとミヤムの可能性もありそうに思えるし、記紀の現在の刊行本ではたいていの場合、纒向日代宮の「纒向」はマキムク、高向王の「高向」もタカムクと読んでいる。宮向もミヤムと読んだほうが古代っぽくてよいと思うね。

まぁそんなことはどうでもいいのだが、由緒略記では17代の宮向の時、出雲姓を賜ったとして、「建保二年八月庁宣」を典拠にあげている。庁宣ってなんだと思って伝統略のほうで確認してみると、たしかに「建保二年八月新院庁御下文に云はく」として短い文が引用されている。wikipediaでは順徳天皇の下し文だとしているが、院庁だから後鳥羽上皇じゃないのか?
まぁそんなことはどうでもいいのだが、読んでみると「人代の後、始めて出雲姓を賜り国造と為す」とあり、この「始めて」が「出雲姓を賜り」だけにかかって文が切れて「国造と為す」のか、「始めて」は「出雲姓を賜り国造と為す」の両方にかかるのかがわからない。

「出雲姓を賜り」の謎解き
伝統略では代々の当主がこの「出雲宮向」以降はみな「出雲〇〇」という名になっていて先代(16代)「淤宇足奴」(おうのすくぬ)以前は個人名だけででていることからも、一見すると宮向が「始めて」出雲姓を賜ったというのは辻褄があっているようにみえるが、少しおかしくないか? これ以前、「出雲氏」という名前は存在しなかったことになるが、天之菩卑命から淤宇足奴までの家系は「出雲氏」でなければ、なんと称したのか? 古代出雲は意宇郡(今の松江市)を中心として熊野大社を奉ずる東部の勢力と、出雲郡(今の出雲市)を中心として杵築大社(今の出雲大社)を奉ずる西部の勢力に分かれて争っていたという、今流行りの説を援用すれば、出雲氏の前は意宇氏か杵築氏だったという仮説も不可ではなさそうに一見思える。しかし記紀や『新撰姓氏録』等には天皇が氏族の名を賜う話はいくつもあるが、全例において、功績を讃えてその功績にちなんだ名を、それ以前の名とは別に新たに下賜するパターンと、新しい氏族が発祥した時に天皇が名を賜うという場合では単に地名をそのまま与えるパターンの二つしかない。伝統略にしろ院庁下し文にしろ、宮向がどんな功績で「出雲」という氏族の名を与えられたのか不明だし、もともと出雲にいるのに改めて「出雲氏」と名乗らせるのでは何を顕彰しようとしているのかわからない。宮向の代にいきなり発祥したなら「出雲氏」という名をもらうのもわかるが、出雲氏はべつに宮向を初代として発祥したわけではなくそのずっと前から存在している。また出雲というニュートラルで中立的で素朴な呼び方は出雲の支配者なのだから自然発生的に最初からあったと考えられる。なので、もとから称していた出雲氏という氏族名を「公認」したのだという解釈をする人もいるかもしれない。しかし、宮向の代になってこれといったきっかけも理由も何もなく突然朝廷が改めて公認したという理屈も苦しいのではないか。これまで出雲氏で通っていたならこれからもそれでなんら問題なく、朝廷にも出雲側にも、あえて公認というメリットも必然性もない。旧名が意宇氏または杵築氏だったと仮定しても、事情は同じ。東西にわかれていた勢力が「ちょうどこの頃に」統合されたと解釈できるような伝承も記録もない。
そこでわたしの考えなのだが、これは本当は出雲という氏族名を賜ったのではなく「出雲臣」の臣というカバネを賜ったという意味ではないかと思う。古代のカバネについて無知な中世人が「姓(カバネ)を賜う」の「姓」という漢字だけをみて氏族名と即断して誤ったものと思う。

漢字の「姓」は日本でいうウヂ(氏)の意味でカバネという意味はない。カバネは日本独自なので漢字には訳せず「可婆禰」と書くしかない。「姓」や「骨」と書いてカバネと読ませるのは便宜的な当て字、超訳の類。

さてそこで、宮向の先代の淤宇足奴は伝統略には「また意宇宿禰(おうのすくね)と称す」とあり、書紀の仁徳天皇即位前紀にでてくる淤宇宿禰と同一人物であることがわかる。

足奴の「足」は先代旧事本紀や推古遺文や金石文に宿禰のことを「足尼」とあり、スクと読むのはわかる。「奴」の字はネット検索では「努」の字になってる例もある。金印で有名な「奴国」(なこく)からナと読みたくなるが記紀万葉集では「奴」も「努」もヌか乙類のノを表わす文字であって、ナの音符ではない。とはいえこの表記が奈良時代のものとも限らず、後世の人がネの当て字のつもりで書いた可能性も高く、結局ナ・ヌ・ネ・ノ、いずれの可能性もあるわけだが、ここは個人的趣味的判断でスクヌと読んでおく。どれで読んでも記紀でいう「宿禰」のことで意味は同じ。

その淤宇宿禰のことを書紀では「出雲臣の祖」とあり「出雲臣」とは書かれてない。あくまで「祖」であって出雲臣そのものではない、と。宮向が始めて「出雲臣」を賜ったのならば、書紀のこの書き方は整合している。もっともこのことは出雲氏に限ったことではなく、記紀の登場人物は允恭天皇以前にはみな「○○臣の祖、誰それ」「△△連の祖、何某」とあり、それが雄略天皇以降になると「祖」の字がとれて「○○臣、誰それ」「△△連、何某」となる。このことからいわゆる氏姓制度(ウヂ=カバネ制)は雄略天皇から始まったと考えられている。
伝統略には、出雲宮向が「允恭天皇元年、国造と為る」とあり、その直後に引用の院庁下し文の「人代の後、始めて出雲姓を賜り国造と為す」がすべて允恭元年のことであるかのように錯覚してしまうが、検索してみたら宮向が国造になったのは允恭天皇元年という説と反正天皇4年という説があるらしい。宮向という人名に付属した記録だからどちらも出雲側の伝承だろう。両説ともに活かすなら折衷案として、宮向はまず反正4年に「国造」になり、間をおいて允恭元年に「臣」のカバネを賜ったのではないかといいたいところだが、実のところ「允恭4年」が正しく、反正4年や允恭元年は単純な誤記だろう。允恭4年には有名な「氏姓の正定」のあった年だから、この時に臣姓を賜ったという話なわけ。「氏姓制度は雄略朝から」といったがそれはあくまで氏とカバネが有機的に結びつき全体でシスティマティックなものとして完成されたのが雄略朝、ということであって、カバネそれ自体はむろんその前から存在したので、允恭天皇から臣のカバネを下賜されたこと自体に疑問を抱く必要はない。
ではこれ以前には、出雲氏はカバネをもっていなかったのか? 別のカバネだったのか? もとから臣だったのが「公認」されたってことか? これについては下記の国造の問題と合わせて考えないとならないので、詳細は後述。

「国造と為り」の謎解き
ところでさきほどの淤宇宿禰について書紀には国造だとは一言も書いてない。これはおかしいのではないか。これも宮向が允恭元年か反正4年(修正して允恭4年)に始めて国造になったのであって、それ以前には出雲国造という称号はなかったとすれば話は合う。天之穂日命からいきなり初代国造だというのも後世の言葉を遡らせていっているのだとみればさしたる問題ではない。国造本紀には「崇神天皇の時に宇加都久怒(=12代鵜濡渟)を初代の出雲国造に定め賜う」とあり、これを根拠に第12代とされる鵜濡渟こそ初代の国造だという説も大昔から根強いわけだが、『先代旧事本紀』は平安時代の偽書であって、貴重な古伝資料も含まれつつも、隅から隅まで完全に信用できるものでもない。書紀の崇神天皇の時代にあった出雲の紛争事件を国造の起源にこじつけたもので、平安時代の一つの「解釈説」と思う。そもそも記紀には崇神天皇の時に出雲国造を任命したなんて話はまったくない。古事記では垂仁天皇の時、岐比佐都美を出雲国造の「祖」とあっても出雲国造だとは無く、書紀の仁徳天皇の時代の淤宇宿禰にも国造の件がまったく触れられてないことからしても、少なくとも出雲国造という「名称」は第17代の宮向の代(天皇でいえば允恭天皇の時)から始まったとするのが妥当だろう。
では次に、そしたら、「出雲の松江市(もしくは出雲市?)辺りの領主と出雲大社の宮司を兼ねたような地位」のことを、国造(くにのみやつこ)という前はなんといってたのかっていう疑問が生じる。特に称号はなかったのか? 何か別の称号があったのか? もとから国造と私称していたのを「公認」されたという意味か?

国造は、国造本紀によれば、ほほ半分が成務天皇の時に設置されたもので、それ以前とそれ以後に置かれたものが約4分の1づつ。これは景行天皇の時の倭建命の熊襲平定や蝦夷征伐の後を受けてのことだが、もし国造の分布が大和朝廷の勢力範囲だとすると、倭建命以前の朝廷は全国に飛び飛びに橋頭堡を確保していた以外、長年にわたって畿内に閉じ込められていたような形勢となり、崇神天皇の四道将軍派遣の例から考えても不自然不合理に思われる。国造は単なる地方豪族ではなく大和朝廷から任命された地方統治官であるが、あたかも律令制の「国司」以前に国造があったように、成務天皇の「国造制」以前にも類似の仕組みがあったとしなければならない。連(むらじ)の語源が邑主(むらぬし)でその邑(むら)や、県主の県(あがた)がいずれも律令制での郡のように、国よりは規模の小さいものと思われるが、県主が国造より古い起源を有するのは通説だし、邑主が元の意味を失って連(むらじ)に変化していることを考えればこれまた古い起源といわねばらなない。その上で、邑の支配者が邑主、県の支配者が県主なら、当然ながら国の支配者を「国主」といった時代が国造に先行してあったのではないかと思われる。
では国主が国造に置き換えられていったとして、国主と国造の違いは何か。
国史には国造伴造(くにみやつこ・とものみやつこ)とセットで表れる。国造のカバネは直(あたへ)、伴造のカバネは造(みやつこ)が多いことから、もともと造といえば伴造のことだったのではないかと思われる。この事からすると、国造は伴造に遅れてできた制度らしい。後に国造の制度ができてから、国造と区別するため、それまでの造をあらためて伴造というようになったのだと推測する。造の語源説は「宮ツ子」説と「御奴」説がある。wikipediaには「御家ツ子」説が載ってるがこれは「宮ツ子」と「御奴」に分岐する前の段階まで遡らせたもので意味がない。宮とは「神の宮」で、伴造はそれぞれ担当する専門分野の守護神を祀るんだろう。山部は山の神、海部は海の神、鍛冶部は鍛冶の神、服部は機織りの神…というように。ツコは助詞のツに子(氏子の子)だがミヤツクリ(造)ミヤツカへ(仕)のニュアンスもあるんだろう。この時代は自然の岩や樹木を神籬(ひもろぎ)として今の神社建築のようなものはなかった(祭儀の時に臨時の建物を仮設するのでこれをヤシロ(屋代)という)が、伴造が祀る神は官衙(官庁の建物)の中だから必然的にヤシロではなくミヤ(恒久的神殿建築)となる理屈だ。
国造は倭建命の事業の後を受けたものとは書いたが倭建命の活動は単に軍事的征服併合をしたのでも、土豪山賊の退治をしたのでもなく、古事記をみると頻繁に出てくるが、本質は「荒ぶる神」をまつろわすことにあった。神だから、目に見えない霊を鎮圧祓攘し、祭りなおすことが本題で、古代人にとっては、豪族や反抗勢力を物理的に抑圧または撃破するのは神祇祭祀の派生的な現象と考えられたのではないかと思う。然る後に新たな支配地に置かれた国造とは当然、土地の神を祭ることを任務としたものであろう。ゆえに国造は国土を治めるにあたってその土地の神、つまり国魂神(くにたまがみ)を祀る。国魂神ってのは後世の「諸国一之宮」とはやや趣旨が違うが似たようなもので「広域の産土神(うぶすながみ)」だと思えばよい。国造とそれ以前の国主との違いとは、後世でいうところの「諸国一之宮」的なその地方の土地神を祀る神社の宮司に、その地方の統治を委ねたのが国造、ということになると思う。これら土地神の祭祀も、国衙(地方官庁の建物)の中に祭られたからクニノ「ヤシロ」ツコでなくクニノ「ミヤ」ツコとなるわけ。

出雲国造の最初が允恭4年だとすると、成務天皇の国造全国化策よりかなり遅れたことになるが、出雲はもともと国主が出雲大社を祀っていたから改めて国造にしなくとも事実上、最初から天然の国造なのであり、そもそも全国に設置された国造のモデルになったのが出雲であった可能性も高いだろう。従って、出雲の場合は具体的にこの時に国造になったということはなく、なんとなく漠然といつの間にか国造なので、本来なら改めて任命はされていなかったはずと思う。それならなぜ「淤宇宿禰までは国造でなく宮向から国造になった」という話になってるのかというと、それは簡単で、允恭4年の「氏姓の正定」で臣姓を賜った際に、改めて国造であることが自他に認識されたということで、しいていえばこれがいわゆる「公認」ということではなかろうか。

出雲の歴史(崇神朝~允恭朝)
さて本題に入る前に、以下、氏祖命(=鵜濡渟)から宮向までの出雲史を一旦まとめてみよう。

出雲振根
書紀の語る経緯では、出雲の神宝を崇神天皇の天覧に供するという名誉が与えられた(なぜそこに至ったのかという考察はまた別のところで詳述)が、当主の出雲振根(いづものふるね。以下、振根)が九州に出張中だった(何しにいってたのかって考察はまた別のところで)ので、次弟の飯入根(いへりね)が独断で、末弟の甘美韓日狭(うましからひさ、以下、韓日狭)と子の鵜濡渟の二人に神宝を奉戴させ大和に行かせた。九州から帰った振根はこれに怒っており数年後に飯入根を殺してしまう。韓日狭と鵜濡渟はこの事件を朝廷に訴え、朝廷は吉備津彦と武渟名河別を派遣して振根を処刑。出雲氏は恐れて出雲大社を祭らなくなった。それからしばらくして丹波国(なぜ出雲でなく丹波なのかが重要なのだがそれはまた後述)で出雲の神宝にかんするご神託があり朝廷はこのご神託によって、勅命をもってまた出雲の神を祭らしめたという。(次の垂仁天皇の時には出雲に神宝があるという前提で別の話が始まっているので、この時、神宝も返還されたと考えられる)。

韓日狭と鵜濡渟
国造本紀は「出雲の神を祭れと勅命を受けたのは鵜濡渟である」と推定して「崇神朝に宇迦都久怒(=鵜濡渟)を(初代の)国造に定め賜う」と記事を作成したのが明らかだ。しかし書紀には「(再び元のように)祭らしめた」とはあるが、誰に祭らしめたのか、つまり出雲氏の後継として誰を立てたのか書かれていない。普通に考えれば飯入根が死んでいるのだから韓日狭か鵜濡渟の名をあげるところだが、まるでまったく別の出雲人に祭らせたような印象がある。「恐れて祭らず」とあるのも神宝をもってかれてしまったからとも取れるが、「恐れて」とある通りかなり脅しが効いたものと思う。吉備津彦と武渟名河別はどちらも四道将軍ですでにその名は轟いていたろう。まさか手ぶらでいったわけではなくそれなりの軍勢もついていたろうし、しかも二人も派遣したというのは最初から威圧して脅し上げる方針だったのは明らかで、振根は抵抗する術もなく簡単に捕まった上、殺人罪でただちに処刑された。で、「祭らず」となるのだから、この時、出雲大社の祭祀権は事実上剥奪されたわけで、出雲国内の行政権も同断と思う。要するに「滅ぼされた」ので、一時的にせよ出雲氏は権威も権力もまったくない状態で「(再び元のように)祭らしめた」というのは、祭祀権だけは再交付したということだろう。(ところでふりかえってみるとなんで朝廷は出雲にこんなに厳しくあたっているのかと感じるむきもあろうかと思うが、別に意味もなく最初から潰してやろうという意地悪でもなく、異民族だからデフォルト設定で敵対していたのでもなく、実は然るべき理由があったのだが、それについては後ほど詳述する)

襲髄と野見宿禰
伝統略の系譜では鵜濡渟の後、13代襲髄命と続く(この時代の出雲の当主にミコトとつけることは記紀にはないことで、鵜濡渟も岐比佐都美もミコトはつかない。伝統略は自家の祖先として敬称つけてるのであって歴史的にミコトと尊称されていたのではないと判定される)。襲髄は由緒略記はカネスネと読んでるがソスネとも読めそう。伝統略ではこの襲髄が野見宿禰の別名だというのだが無理だろう。書紀に詳しく出てるのに土師氏の祖とはあっても出雲氏の祖だとは一言もない。後世の系図では野見宿禰は襲髄と同一人物説の他に、襲髄の子だという説、韓日狭の子とする説などがあり、後者二説では出雲氏の当主でない。つまり野見宿禰は土師氏の祖ではあっても、その子孫から出雲氏がでたわけではないことになっていて、書紀の書きぶりに合致している。世代数からみると襲髄の子とするよりも韓日狭の子という説のほうがよさげにみえる。
で、野見宿禰は垂仁天皇に召しだされ寵愛されたが、これに反して襲髄命はあまり朝廷の覚えめでたくない人だったらしく、垂仁天皇に出雲の祭祀権がまたも召し上げられている。書紀では垂仁天皇が物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)に「しばしば人を派遣して出雲の神宝を調査させているが明瞭な報告をきいたことがない。おまえがいけ」と命じ、その後十千根大連に神宝を管理させたという。なんとなく出雲側のサボタージュぶりが感じられる話だが、神宝を大和に奪い取ってきたわけではなさそうなので十千根大連が出雲に赴任したということだろう。

岐比佐都美と品智別命
十千根(とをちね)が出雲大社の宮司になったのは垂仁26年のことで、ずっと後の垂仁87年に石上神宮の宮司に転任している。これを書紀が品智別命(ほむちわけのみこと)の一件よりずっと後のこととしているのは古事記に照らして辻褄があわないので、品智別命の事件より前のこととすべきで、そうすると品遅別命を岐比佐都美が迎えた頃は出雲大社の宮司は岐比佐都美でなく物部十千根大連だったのだろう。あるいは物部十千根は大連という職責上、現地に常駐できず岐比佐都美を代官としていた可能性もある。
その後、品智別命をめぐる一件があったわけだが、古事記によるとこの時、朝廷は菟上王を派遣して出雲神宮を建てたという。しかしそれまで神宮が無かったとも考えにくいから、振根が処刑され出雲氏が衰退してから、運営費用が調達できず神殿自体が小さくなっていたのだろう。それではいけないというので出雲大神の神意の発動となり、品遅別命が呼び寄せられた、と。その結果、大社を運営する費用を賄えないといけないので恐らく14代岐比佐都美はこの時に事実上の出雲国主の地位を回復し、十千根大連の支配から脱却したと考えられる。
ここで「事実上」といって形式的にはまだのようなことをいったわけは、本来なら朝廷の意図としては品遅別命を出雲国主として天降りさせるところで、旧来の出雲氏は新しい領主である品遅別命の家臣団に組み込まれるはずであろう。岐比佐都美もそれは承知の上で、一族の娘(たぶん自分の娘)、肥長比賣(ひながひめ)を差し出した。

「蛇女からの逃亡」は「聖婚儀礼」の神話ではない
だが、この縁談がうまくいかず、品遅別命は大和に逃げ帰ってしまったかのように書かれている。古事記がいうのには、肥長比賣の正体が蛇だったので逃げたとあり、蛇の字は岩波古典文学大系をはじめほとんどの本ではヲロチと読んでるが、岩波日本思想大系ではヘミと読んでいる。ヲロチとヘビ(ヘミ)は同じじゃないんで、字からすると単にヘビ・ヘミ(さらに古風には「ハバ」)のほうがいいんじゃないか? ヲロチと読むのは肥長比賣の正体を霊的な存在とみてるんだろうが、俺はそうは思わないんだよね。肥長比賣は肥河(今の斐伊川)の精霊で、聖婚儀礼を語る神話だという説が主流だが賛成できない。それだと品遅別命は聖婚儀礼に失敗して逃げ帰ったことになるが、そんなことありうるかね? もしも反対勢力の邪魔があったなら戦争になるだけのこと。それならそう書けばいいんで、なにも神話仕立てにボヤかして書く必要はぜんぜんない。それに都からあまくだってきた新しい主人に、旧来の土地の支配者が娘をさしだして血縁をむすぶのは、新しい支配者が現地の旧主の血を女系で受け継ぐという古来から中世までも続く習わしで、一族の娘(つまり実在の女性)でもない川の精霊(霊的存在?)なんぞを差し出しても意味がない。そうではなくて、もし、一族の娘たる実在女性の肥長比賣が聖婚儀礼において川の精霊の役を演じたのだというのなら、今度は結局、書かれてもいない聖婚儀礼を勝手に想定してるだけで、実在の女性が政略結婚に差し出されたことと矛盾なく両立してしまう。
そういうわけなんで、肥長比賣の話を、なんらかの祭祀儀礼が反映しているとはいえても、聖婚儀礼だとは思わない。蛇女が男を追いかけるのは道成寺物語(安珍・清姫の話)や『白蛇抄』の元ネタになった中国の民話「白蛇伝」などがある。これらの源流を遡ると伊邪那美が伊邪那岐を追いかけた神話にゆきつく。道成寺物語は伊邪那岐・伊邪那美の古代神話を仏教説話に翻案したものだ。この神話を再演する儀礼が「皐月忌」(さつきいみ)というもので、旧暦の五月五日あるいは夏至の日に女性だけが家の中に閉じこもって穢れを祓い身を清める儀式を行う。前日の夜から男は家を追い出され家全体を女性が取り仕切るので「女の家」とか「女天下」ともいう。「蛇体の肥長比賣から品智別命が逃げた」って話をなんらかの祭祀儀礼と結びつけるのならこれだろう。一般庶民の場合は、家が女性に占拠されて男は家の外に出るわけだが、肥長比賣は出雲の新国主の妃であるから、彼女が取り仕切るのは宮殿ではなく出雲国全体なわけで、当然、夫たる品遅別命も宮殿の外にでるだけではなくて出雲国の域外に出なければならない、ということだろう。ただ、これだと毎年反復される儀式になってしまい、一回性の歴史的事件ではなくなってしまう。
政治史としては、政略結婚が破談して、品遅別命が逃げたんだから、通常の反復性の儀式だけで終わってるはずがない。儀式が終わったら戻るはずだが、古事記の書き様では尻切れな文章になってるのでこれっきり品智別命は戻らなかったようにも戻ったようにもなんともわからない。日本書紀は「言葉がしゃべれた」段階で用が済んで大和に帰ったようなニュアンス。品遅別命が儀式として「逃げる真似」をするっていうのは、アンチ朝廷派にとっては品遅別命をそのまま追い出すなりドサクサ紛れに暗殺するのに丁度いい機会だ。これは大掛かりな儀式の影で武装部隊だか暗殺部隊だかが動いたんだろう。つまり皇子が逃げる真似をしたんじゃなく本当に逃げ出した理由は単純で「命を狙われたから」。岐比佐都美は先代からの嫡流でなく庶流の出身で、はえぬきの出雲人でなく、美作にいたところを物部十千根連に見出されて出雲国主の地位につけてもらった(このへんの詳しい話は垂仁天皇のカテゴリーのどこかにあり)。なので朝廷との関係は良好だが、出雲の土着勢力の中には反対派がいたんだろう。とくに出雲振根の子孫もいたろうし、彼らは岐比佐都美をはじめとする鵜濡渟の子孫一族から出雲国主の地位を奪還したかったろう。蛇の正体をあらわした肥長比賣は「海原を照らして」追ってきたという。いくら船上に火を焚き上げたところで昼間だったら「海原を照らして」とは言わないだろう。これは暗い黄泉国を伊邪那岐が脱走するシーンの再演だから夜の儀式なわけで、その夜に紛れて弓矢だか吹き矢だかを構えた暗殺部隊が襲ってきたんだろう。

肥長比賣の「正体が蛇」とは?
nureonna1nureonna2
一族の娘でなければ意味がないのだからこの人はもちろん人間だが、伝承を信じて「本当に見た目は蛇だったんだ」とすると、これはどういう解釈をしたらいいのか、3つ考えられる。第1案としては、先天異常説。第2案、超常現象説。そして第3案として心理錯覚説、この3つが考えられる。以下、一つづつ説明しよう。
まず先天異常説だが。先天性の四肢欠損のような状態がありうる。現代人の近代的な人間観からは、身体の一部の欠損や過剰(多指症など)は、一律な人間像から逸脱したものとして忌まれるが、原始時代やその感性をひきずっていた古代の初期では逆に神の顕現として崇められることがある。今でもインドでは手足が何本もあるタコ娘が神の子として崇められてたがこのたび目出度く手術して普通の娘になっちゃったとか、東南アジアのどっかでは尻尾のはえた子供が神の子だとして親が手術を拒否してたなんてニュースをネットでみたことがある。出雲には蛇信仰があったという説から精霊説を支持する人もいるが、それなら現実の蛇娘はなおさら大切にされたんじゃないの? ちなみに岐比佐都美の娘だとすると母は円野比賣の可能性があるかもしれない(詳細は垂仁天皇の頁にあり)。
次に超常現象説。メカニズムは現代科学で説明できないが、この人は興奮すると蛇に変身してしまう特異体質だったんだろう。「んなことあるかいw」とツッコまれるだろうが、得体のしれないものに遭遇することは長い人生においては誰にもありうることなんだよ、自分でも説明つかないから皆いわないだけでさ。解明は未来の科学者にまかせておこうw
最後の心理錯覚説。これはいちばん安直な解決策ではある。「品智別命からみれば、そう見えた」でもいいよ最悪。心理学的なすったもんだでどうにか説明できるんだろ、投げ槍だけど。ただ、手足のない姿をみて一瞬だけびっくりして理性を失った瞬間、出雲の蛇信仰という知識背景が目の前の事態を解釈する文化コードとして作用したとすれば、先天異常説と心理錯覚説は両立しないこともない。出雲の蛇信仰によって肥長比賣が蛇だとして崇められていたなら「彼女が蛇だ」とは事前に品智別皇子も言葉としてはきいていただろうが、それが具体的にどういう意味なのかは聞かされていなかったのではないか。
極論するとそこらはどうでもいいわけで、大事なことは「縁談が破談したわけではない」ってことだ。逃げ出したのは本来は祭祀儀礼の一部だから、本当に政略結婚が失敗したというわけではない。先天異常で蛇みたいな体だったにしろ、超常能力で蛇に変身したにしろ、気の迷いで蛇に見えちゃったにしろ、どれもこの時代の人、しかも皇族の皇子なら現代人とちがって神秘的で神々しいことだと受け入れちゃいそうに思える。出雲側もそう思ったからこそ娘を差し出してるわけだ。ましてやこの時代の上流階級の結婚ってのは恋愛よりも政略結婚なのは当たり前で、多少ブサイクだからって逃げ帰るなんてことは絶対にありえない(記紀では邇々藝命が石長比賣を追い返したとあるが、参考までに『ウエツフミ』では姉妹二人とも召し入れたとある。『ウエツフミ』もその全部が信用できるものではないが、『先代旧事本紀』にもたまには真正の古伝承が混ざってるのと同じ)。
品遅別命が逃げてるといっても実際は肥長比賣から逃げていたのではなく暗殺部隊から逃げていたんだし、肥長比賣は「憂いて」追いかけてきてるんだから品遅別命を気に入ってるみたいだぞ。で、上述のように品智別命も相手が蛇だったぐらいで逃げるようなタマではない、相手が蛇ならこっちは鳥なんでさw なんのことだかわからないやつは聖婚儀礼説を唱える資格ないね、神話学の勉強が足りないぞw 「蛇だったから逃げた」というのは、古事記の原資料が語部(かたりべ)が朗唱したり劇として上演したりする時の台本だったから。演出効果というのもあるが、直接には上演時間の都合上、話を端折ってしまったのでなぜ逃げるのか理由が必要になったんだろう。

むろん出雲の守旧派といっても、なんの根拠もなく私利私欲だけでは、都からあまくだってきた皇子を追い出したり殺したりできるものではない。おそらく肥長比賣かそこらのただの巫女かが神がかりして神託したか、あるいは占いで神の意志が明らかになったのだと思われる、「品智別命は出雲国主たるべからず」と。当時、出雲側でも朝廷でも共通して認識していたのは「品遅別命がしゃべれなかったのは出雲大神の意志の発動で、その意図は神宮の再建にあった」ってことだ。で、それなら中央の朝廷からすると、品智別命がそのままあまくだって縁深き出雲の国君になるのは当然で自然の流れ。だが土着派は、四道将軍より前の時代の、移民ビジネスとか半島との密貿易とかでウハウハだった時代に戻りたいんだから、朝廷派の岐比佐都美の存在すら鬱陶しい、そこに皇族の皇子が新君主として来られたら甘い汁はぜんぶ横取りされてしまう。そこでクーデターだ、と言いたいところだが、当時は天皇の権威は絶大で、踏ん切りつけるのも簡単でない。天皇より上の権威というとカミ(神)しかない。そこで捏造でなく、本当にご神託があったもんだから、反体制気分に一気に火が着いたってことなのだ。祭祀儀礼は全共闘や団塊世代の古代史マニアが考えるような「権力の隠れ蓑」ではない。神意が現れると信じられたからこその祭祀儀礼なのだから、もし皇子が逃げおおせたらそれも神意の表れ、もし皇子が暗殺者の矢に倒れたらそれも神意の表れ、ってことになりかねない。こうなるともう占いも同然だけど「神意を問う」ことは要するにそういうことだし。

但馬国の豪族たちの情況
肥長比賣も途中からおかしいと気付いて、儀式どおり追いかける風を装いつつ、岐比佐都美ら朝廷派のグループと一緒に脱出(彼女は岐比佐都美の一族の娘でないとおかしいだろうから、土着派ではありえない)。皇子は先に但馬あたりで上陸していたろう。皇子にやや遅れて肥長比賣や岐比佐都美らも合流。但馬には当時、北東部の出石郡には三宅連の祖(天之日矛の子孫)、中央部から南西部にかけての養父郡には神部直の祖(三輪氏系)、南東部から南部にかけての朝来郡には多遅麻君の祖(日子坐王の子孫)の三大豪族がいた。豪族というか正確には「地方貴族」だけども、雰囲気的にここでは豪族といっておく。正確にいうと、養父郡の神部直氏はもしや当時はまだいなかったかもしれないのでこれは除いて考えてもよい。三宅氏は皇族系ではないので格式は落ちるがこの頃すでに歴史のある古い氏族なので強大になってたろう。垂仁朝では田道間守・日高(比多訶)・清日子の3兄弟の頃にあたる(比多珂は神功皇后の母方の祖父)。多遅麻氏はずっと後に大日下王の部民「日下部」の伴造となって「日下部氏」とも呼ばれるようになるが、それはまだ遠い先の話。多遅麻氏は開化天皇皇子の日子坐命が四道将軍の一人となって丹波の凶賊を平定しそのまま土着したもので歴史は新しいが皇室に近い皇族であり格式は高い。四道将軍の一人としての日子坐命は出雲を含めた山陰道(当時は「丹波道」(たにはのみち、たにはぢ)といっていた)全域を平定する使命を帯びていたのに、出雲がうわべに帰服してきたので進軍が丹波に留まってしまっていたのである。息子二人のうち沙本毘古を大和の帝都におき、丹波道主命を現地丹波において仕事をまかせ自分はもっと大きな「ある目標」に向かっていたが「沙本毘古の叛乱」のゴタゴタで停滞、しかし沙本比賣の死の間際からの推薦で丹波道主の娘たちが垂仁帝の後宮に入り、一族はいくらか面目を立て直していた(記紀では死んでることになっている円野比賣がもしかしたら出雲に関係しているがその話は別の頁に書いた)。また品遅別王についていた二人の傅役、曙立王と菟上王の兄弟は大俣王の子で日子坐王の孫。神功皇后の祖父加邇米雷王と成務朝になってから但馬国造に任じられる船穂宿禰の兄弟も若筒木王の子で日子坐王の孫。これらの孫たちもこの頃すでに生まれて祖父や父を補佐して活躍していたろう。
出雲から逃げてきた品智別皇子たちは彼ら但馬の豪族たちに守られて、但馬の北西部の二方郡の二方国造(これは出雲系)と対立する形勢になった。二方国造はむろんバックに出雲があってその支援を受けている。この段階ではすでに伯耆や因幡も(自主的にかやむを得ずか別として)出雲派になってたんだろう。これで出雲は叛乱勢力となり、半ば独立したようになったが、おそらく名目は出雲大神のご神託を盾にとって「品遅別皇子のあまくだりの撤回を朝廷に請願したいだけである」と公称した。ご神託とあっては朝廷も闇雲な軍事介入が憚られる。ここで情況は膠着したまま次の景行天皇の時代に突入。この膠着はやがて、神託も気にしない暴虐な人物の登場によって破られるだろう。
しかし、ともかく但馬では田道間守3兄弟を中心とする三宅連の一族、日子坐王と丹波道主の父子を中心とする多遅麻君の一族、の但馬2大勢力と、品智別王の率いる家臣団が出会ったのであり、これが後々の新しい動きにつながっていく。
古事記では船を陸に揚げて山を越して帰ってきたといってるが本当に大和に帰ったのならそんな無駄なことをする意味がない。主要な幹線となる河川には船は頻繁に往来しており公用の船も完備されていただろう。但馬に行っただけだから元の伝承では「最初に乗った船しか使ってない」のだが、大和に逃げ帰ったと思ってるから「陸路もあるのに最初に乗った船だけで大和に帰った」というおかしな話になり、その様子を物語風に想像すると船を引っ張って山を越えてきたという話になるわけ。菟上王に神宮(のちの出雲大社)を再建させたという話も、景行天皇の時に「出雲建」(いづもたける)が平定された後のことを、ここにまとめて書いている。古事記はここで一つの物語の完結として表現上こうなってるだけで実際はこの時に再建されたわけではない。品遅別命の一団を追い出した土着派(その首領は「出雲建」)としては、独立すれば朝鮮貿易のあがりを独占できるから自力で神宮を再建できると思っていただろうが、実際には朝廷が再度派遣してくるであろう官軍(実際には但馬軍)に備えるための軍備が優先され、先延ばしになっていたので、出雲が完全に平定された後になって菟上王が再建に着手したのだと思われる。

出雲建と三島足奴
出雲側の伝承(『出雲国造伝統略』)だと、岐比佐都美の次が15代・三島足奴(みしまのすくぬ)。この間、古事記では倭建命によって出雲建が成敗されたことになっているのに、それにはまったく触れてない。これは『出雲国造伝統略』が日本書紀に準拠して古事記を無視したからだろう。倭建命が木刀と真剣を取り替えて出雲建を騙し討ちした有名な話は、日本書紀では崇神天皇の時代に出雲振根が同じ手口で弟の飯入根を殺した話になっており、書紀では日本武尊が出雲を征伐した話はでてこない。これは同じ話だから、記紀のどっちが本当なのかってことになるが、極論いえばどっちでもいいんで、「殺した、成敗した」って事実や、どっちが勝ったのかってことが歴史の推移変遷には重要であり、絞め殺したか斬り殺したか銃殺したか毒殺したかなんてのはどうでもいいw しいていえば倭建命のやりくちはあまりにエグいので、日本武尊をかっこいい英雄に描こうとしていた書紀の編集部は悪役である出雲振根がやったという説のほうを採用したんだろう。その逆は考えにくい、もともと悪人がやった手口なのに古事記がわざわざ倭建命のやったことに書き換える? それはない。書紀でも歌の中にイヅモタケルが出て来るが書紀の文脈だと弟の飯入根がイヅモタケルになってしまう。建=タケルってのは地名の下につけてその地方の勢力のある豪族をいう。なのに、弟の飯入根は兄の出雲振根の手下のように書かれており、出雲振根がタケルならわかるが飯入根をタケルと言うのはおかしい。『出雲国造伝統略』にはそういうわけで出雲建はでてこないが、いたんなら、万が一出雲建が岐比佐都美の息子で三島足奴や肥長比賣の兄弟だったとしても、母が土着系の例えば出雲振根の子孫で、三島足奴や肥長比賣とは母親が違うんだろう。それでもともと土着派と親しい人物だったんだろう。兄弟ではなく従兄弟くらいかもしれない。なんにしろ三島足奴の兄弟か伯父か従兄弟か甥か、もしくは出雲振根の子孫の一族か。
前代、品遅別命を追い出して出雲を事実上独立させた勢力の首領で、出雲建と称されたのはよほど強大な勢力だったと思われ、最終的には北は隠岐、西の石見から東の但馬国二方郡(ふたかた、但馬の西部)、南は美作あたりまで勢力圏を拡大していたのではないか(瞬間風速的には吉備地方まで臣従させたかも)。これはもちろん朝鮮半島との貿易の収入もあったろうが、なによりも出雲大神のご神託を最大限に政治宣伝に活用して、出雲人の民意を結集するのに成功したからだろう。そこへ、九州で熊襲征伐を終えた倭建命が立ち寄ってきて、出雲建と友となったという。倭建命の武勇はすでに鳴り響いてはいたが、なにぶんまだ子供にすぎない。とりあえずどんな子供か、人間を判断しようと会ってみたら、父景行天皇への不満をぶちまけ、出雲建に協力しようと申し出たんだろう。出雲建にすればこの皇子は次期天皇になる可能性もあるわけで、未来の天皇のお墨付きをもらったも同然、これで叛賊の汚名からも逃れられるというわけだ。しかし気を許した途端にあっさり子供の奸計に嵌められて成敗されてしまった。倭建命はやることが極端なので、もしや出雲建の一族は遠縁の者に至るまでことごとく殺されたかもしれない。普通なら畏怖の対象である出雲大神やそれに仕える神官や巫女たちに対してもまったく容赦はなかったと思われる(倭建命のアナーキーな性格についてはこのブログの他の記事に書いた)。これで四道将軍以来、ずっとゴタゴタ続きだった出雲はようやく平定されたわけだが、その代償として出雲大神の権威はかなり損なわれ、一時的にせよ権威失墜、権威低迷ということになったろう。出雲の権威と神秘性が復活するのは但馬の豪族たちと品智別命の次なる功績によってなのであるが、その話は長くなりすぎるのでまた別の機会に。
ここでともかくも岐比佐都美らは一旦は出雲に帰り、三島足奴に代替わりしたんだろう。品智別命が新しい出雲氏の祖になるという話がご神託がでておじゃんになった以上、このまま岐比佐都美の子孫が継承していくしかない。一方、品智別命は出雲大神に拒否されたとも解釈できるので、もう出雲へはいかず肥長比賣と一緒に一時的に但馬に留まったと思う。そもそも品遅別命がしゃべれなかったのからして出雲の神の神意の発動で、それは物部氏を代官とした朝廷直轄体制を廃して、自立した国造体制に戻して出雲神宮(のちの出雲大社)を新築・運営していく財源を確保するため、その体制転換のきっかけとして一時的に皇子の降臨が必要だったということなんだが、これは表面的または二次的な問題で、本当の神の目的というか「神の経綸」は別のところにあった。その話は品遅別命と肥長比賣の二人が今後どうなっていったのかっていう面白い話につながっていくが、今回のテーマとはずれるのでここでは省略する。

意宇足奴と出雲宮向
上述の「伝統略」の記載ではこの三島足奴が15代で、その後は16代・意宇足奴(書紀の淤宇宿禰)に続く。
だが、岐比佐都美が垂仁朝の人で淤宇宿禰は仁徳朝の人だから、その間に景行・成務・仲哀・応神の4世代あることになるのに、三島足奴の1世代しかないことになっている。しかも三島足奴にはなんの功績も事件も伝えられてない(上述のように出雲建の話もない)。これは系図に大きな脱漏があるということでいいな? 大三島足奴・中三島足奴・若三島足奴の親子3代の襲名だったって説でも、あるいはなんなら武内宿禰みたいにものすごい長生きだったって説でもかまわないんだが、まぁ系図の粗漏というのが穏当なとこだろう。この「三島」だが誰でも思いつくのは書紀で神武天皇の皇后、姫蹈鞴五十鈴姫の実家が摂津の三島で、皇后の父が事代主命ということになっている。この事代主命は大昔の事代主神の子孫だろうが、つまりこの頃、摂津の三島に出雲系の人物が住んでいたということになる。今でも大阪府高槻市に「三島神社」があって事代主命が祭神になっている。するとこの三島足奴も、生粋の出雲はえぬきではない。『伝統略』の主張通り、岐比佐都美の息子だとすると母親の実家が摂津の三島の人なのかな? あるいは本人が父(岐比佐都美)の後を継ぐ前に摂津に赴任していたとかなんとか。詳細は不明だが畿内摂津になんらかの縁のある人だろう。
で、その次の16代・淤宇宿禰は仁徳朝の頃の人(仁徳紀にでてくる)、ただし大和に常駐していたようで出雲在住のようでもない。これは当時の国造は大名の参勤交代みたいに出雲と都を往復していたのか、それともあるいは淤宇宿禰がまだ若い頃で国造の地位を継ぐ前に都に出仕してた時の話なのか、事情は不明だが、なんとでも説明つかないこともない。その次の17代が前述の、允恭朝に出雲国造に任じられた宮向である。

以上の歴史は、本当は垂仁天皇の記事や景行天皇の記事にそれぞれ分けて書くべき内容だが、天皇ごとに分散して書いてしまうと「歴史の流れ」がわかりにくくなるので、ここでまとめて読んでくれたほうがわかりやすいかと思う。

出雲国造は天之菩卑命の子孫ではない
1)出雲国造の系図の謎
ところで急に話かわるんだが、じゃなかった、さて本題に入ろう。
出雲氏(=出雲国造)の姓(カバネ)は臣(おみ)だ。なぜ直(あたへ)でも連(むらじ)でもなく君・公(きみ)でもなく、「臣」なのか? 普通は国造に多いのは「直」だし、神別氏族は「連」だろう。「臣」は孝元天皇以降に分かれた皇別氏族に多い。このことから出雲氏は、もしや神別ではなく(天之菩卑能命の子孫ではなく)、皇別氏族じゃないのかと疑われる。つまり天之菩卑能命の子孫は途絶えて、途中から別の系統になってるのでは?
そこで気になるのが第12代・鵜濡渟、なぜ彼が「氏祖命」(うぢのおやのみこと)なのか、系譜ではその先代ともつながっており、ここで区切る意味が薄い。国造の初代だからというのも信憑性の薄い先代旧事本紀に基づくもので、日本書紀をみるかぎり「国造」とはない。書紀では鵜濡渟は出雲振根の弟の子だが、出雲振根の弟は飯入根と甘美韓日狭の二人いて、どっちの子かわからない。あるいはもう一人、別の弟がいたか。この兄弟は『姓氏録』だと天之菩比命から12世孫だから鵜濡渟は13世孫のはずだが、国造本紀ではなぜか11世孫になっている。「伝統略」では天之菩比命から阿多命まで11代で、出雲振根はこの阿多命の別名だとして、氏祖命(鵜濡渟)はその子で12代めということになってる。書紀によれば鵜濡渟は出雲振根の甥のはず、甥でも息子でも世代数は同じだが。そうかと思うと、系図によっては出雲振根・飯入根・甘美韓日狭の三兄弟は阿多命の息子になってる系図もある。これらを比べるといろいろ辻褄あってない。出雲振根が阿多命の子だというのは鵜濡渟を13世孫にするための数合わせであって、出雲振根と阿多命を同一人物とする「伝統略」のほうが古伝に近いのではないか。

2)謎解きのカギは「阿多命」
で、この阿多命という名が気になる。出雲振根とまったく同時代(崇神朝)に、武埴安彦の妻の吾田媛(あたひめ)という女性がでてくるのだ。このアタを南九州のアタだとみて、隼人系の人だという説もあるのだが、そこにもってく前に、南九州よりずっと近い出雲に、しかも同時代に「阿多命」がいたってことのほうがはるかに重要だろう。男性だから当然「阿多比古」ともいったろう。そうすると阿多比古と吾田媛は夫婦とか兄妹とか息子母とか父娘とかの、男女の対でよくある同名の「ヒコ・ヒメ」のパターンだ。で、吾田媛は埴安王の嫁だから出雲振根(=阿多命)と夫婦ってことはありえない。吾田媛の夫と阿多命の父が別人なのだから母と息子の関係も成立しない。吾田媛が娘で阿多命が父だとすると、ありえなくはないが、出雲振根の事件は同時代といっても四道将軍の発遣よりもかなり後の事件だし、埴安王がかなり上の世代(孝元天皇の皇子)でむちゃくちゃ老人だったろうから、かなり可能性が低そう。やはり普通に兄妹か姉弟とみるのが穏当だろう。
つまり埴安彦と出雲振根は婚姻関係でつながっていたのであり、埴安彦(記:波邇夜須毘古)の叛乱のバックには出雲勢力がいたと推測できる。
ここで鵜濡渟は出雲振根の弟の子だという。弟というから「飯入根の子か?それとも甘美韓日狭の子か?」と思ってしまうがもしどちらかの子なら書紀もわかりやすくそう書けばいいんで、これはどっちの子でもないんだろう。漢字の「弟」は男に限るが、これは大和言葉の「オト」に当てた字で、もとの意味は性別にこだわらない齢下の弟や妹のことである。「エ」(兄)も男の兄と限った意味ではなく、姉も「エ」といったのと同じ。そしたら「弟の子」っていうのは妹の吾田媛の子って意味ではないのか。

3)結論とまとめ
当然、鵜濡渟の父は埴安彦王である。埴安王の乱が鎮定された時、子供だった鵜濡渟は乳母らや家臣らに守られて、母の実家の出雲振根の家に逃れてきて、そのまま寄寓してたんだろう。
そうすると鵜濡渟は「男系でみるかぎり」天之菩比命の子孫ではなくて、孝元天皇の孫ということになる。孝元天皇から分かれでた氏族といえば「臣」姓が多いことで有名だが、まさしく出雲氏は「臣」姓である。
実際にカバネが「臣」だということからいえるのは、伝承が途絶えて現代からはわからなくなっているが、氏姓制度が始まった初期の頃までは、出雲国造が孝元天皇の子孫だってことはみんな知ってたってことだ。
俺でも気づいたんだから出雲氏に伝承の11代「阿多命」の名を知ってさえいれば、俺と同じようなことを考えた人は大昔からさぞかし多かったに違いない。出雲氏の先祖の中には、鵜濡渟を「氏祖命」と称して真実を暗示した人もいたのかもしれない。だが出雲氏全体としてみれば、討伐され滅ぼされた謀反人の子孫というよりは、皇室より古い神代以来の家系だ、天之菩比命の子孫だといったほうが聞こえがいいわけだろう。
とはいえ「でも、女系ではちゃんとつながってることになってるじゃん」と言われるだろうな。確かにその通りなんだが、だからって平和な婿入りみたいな形でそれ以前の出雲氏の体制をそのまま引き継いだのだ、とはいえない。書紀にある通り、四道将軍の討伐をまぬがれて以来の悪業を暴かれて、実質的に一回滅ぼされている。第12代鵜濡渟の登場で改革と新規スタートが期待されたが、女系で半分はつながっていたがゆえにこそ、同族に甘く、中途半端に終わった。その後、出雲の国外(美作)で育ち出雲守旧派とのシガラミが少ない第14代岐比佐都美が円野比賣と一緒に丹波からの後援を受け、品遅別皇子を奉じて朝廷の威光を輝かしたが、それが急進的すぎて出雲建という反動を引き起こした。出雲の旧弊が一掃されたのは倭建命によって出雲建が成敗され、第15代三島足奴が国主の座にすえられてからだろう。

4)オマケ
同じように、大三輪氏も意富多々泥古(=大田々根子)の子孫ではなく開化天皇の子孫だと思われるが、そっちの話は今回の話ではないのでまたいつか。

・崇神朝のキーワードと登場人物

H26年11月9日初稿
片側が「崇神天皇の条のキーワード」と題する資料、もう半分が「崇神天皇の条の登場人物」と題して系図が書いてある、2枚の紙を並べてコピーして1枚にした仕様。
前者の「崇神天皇の条のキーワード」については、内容が4項目にわけてそれぞれ3ヶ所から5ヶ所ほど要所が抜粋されている。(以下は写しではなく要約)

〈后妃と御子〉
(1)后妃の出自
(2)豊鋤入日賣、伊勢斎宮
(3)埴輪の起源(殉死の廃止)ただし垂仁天皇の時の話

〈三輪山の大物主神
(1)疫病流行で人民尽きなんとす
(2)神牀(かむどこ)、神夢
(3)神々の祭祀「悉に遺し忘るることなく」
(4)「国家安平らけくなりき」

〈建波邇安王の反逆〉
(1)四道将軍(山陽道は孝霊天皇)
(2)平け和しめ=「言向けやわす」
(3)丸邇坂に忌瓮(いはひべ)
(4)ハニヤスとクニブクの試し矢の結果
(5)復奏(かへりごと)

〈初国知らしし天皇〉
(1)四道将軍の凱旋
(2)調(みつぎ)
(3)「初国知らしし御真木天皇」
(4)依網池、軽の酒折池

後者の「崇神天皇の条の登場人物」のほうは、孝霊⑦から垂仁⑪までの系図と大物主神から意富多多泥古までの系図。皇室系図のほうは四道将軍のうち3人、山城国に任じられた建波邇安王、天照大神を笠縫邑に祭った豊鋤入日賣がみな歴代天皇の異母兄弟で、人垣(=埴輪)の起源となった倭日子命が垂仁⑪の同母弟、東方十二道に派遣された建沼名河別命は開化⑨の甥(崇神⑩の従兄弟)であることが図示されている。意富多多泥古に至る系図には、大物主神が大国主神の和魂(にぎみたま)であると注記。意富多多泥古の父、建甕槌命には建御雷神とは同名異神と注記。
(この資料についてのわたしの意見や感想、注意書き、ツッコミ、雑論メモなどはまた後日)

・四道将軍、波邇夜須毘古の乱

H26年11月1日投稿 (H24年10月17日(水)初稿)
四道将軍
崇神天皇は国内治安の鎮静化のため、いわゆる「四道将軍」を派遣した。国内の疫病流行による治安悪化から立ち直ってない地方が多かったのだろう。『日本書紀』(以下、紀)に載ってるこの時の詔勅を意訳すると「政治の根本は教育である。畿内では神道復興によって問題は解決したが、畿外ではまたそうなってない。四道将軍を全国に派遣して『朕の憲法』を知らしめよ」と。これはすでに畿内で成功した「國體明徴運動=神道ルネサンス」(詳細は崇神天皇の前半の解説を参照)を全国に展開することでもあった。
「四道将軍」というのは紀による言い方だが『古事記』(以下、記)では吉備(山陽道)への将軍派遣は孝霊天皇の時代ってことになってるから、実際は「三道将軍」じゃないのかと言われそうだが、崇神天皇の時の吉備平定というのは大阪平定(河内平定)の間違いで、その時の将軍が吉備津彦だったので紀が混同してしまったのである。そしてこの河内平定というのは後述の埴安彦(ハニヤスヒコ、記:建波邇夜須比古)の乱の平定戦争の一部なのだから、別々に数えれば四道将軍ともいえるし、記は埴安討伐戦として一つに数えたから省略して三道将軍になっているわけ。言い方の違いでどちらが誤りでもない。

丹波の凶賊
このうち丹波(山陰道)に派遣した彦坐命(ヒコイマスノミコト、記:日子坐命)は、玖賀耳之御笠(クガミミのミカサ)という叛賊を平定するという具体的目的があった。
丹波というのは朝鮮と直接交流する日本海沿岸の中でも東国と西国をつなぐ要地で都にも近い。朝鮮からの渡来人は北九州や瀬戸内海ではなく、今も昔も山陰・北陸という日本海から直接くる。
丹波は日本海交通路のセンターであって、難民の巣窟でもあり、玖賀耳之御笠はその首領だったと思われ。クガやミカサをどこかの地名に結びつけて解く説もあるがあちこちに類似地名があって意味がない。クガミミというのは口が耳まで裂けているの意、これは悪口ではなく、当時の中国人マフィアの間で「清濁あわせ呑む器の大きさ・度量のでかさ」を誇示したもの。本名は張とか李のたぐい。但馬地方の民間伝承だと、けして取るに足らない盗賊の類ではなく、若狭湾一帯の大海賊でもあったらしい。
むろん丹波の中国人マフィアのボスがいきなり謀叛をおこしたのではなく、中央政界との深い癒着があったであろう。ミカサは貴人の傘に隠れるという意味で日本での通名。中央貴族の大物と結託しており、そのお墨付きで悪さをしていた。その黒幕とは、天皇の伯父・埴安彦である。

ハニヤスヒコの乱
埴安彦は山城国を根拠地としていて、ここは都と若狭湾や三丹をつなぐ経路にある。疫病の大流行により国民のほとんどが死滅しかかって全国の治安も悪化、これが神の祟りだともきいて、今の天皇には神の守護なく天命我にありと考えたのだろう。ところが配下の御笠が調子に乗りすぎ、埴安のコントロールがきかなくなってきて、その悪業が中央にも聞こえ、征伐軍がでることになった。御笠が捕まれば埴安の悪業も露見する。しかし、四道将軍の一環だったことは埴安にとって好機だったともいえる。帝都の防衛は手薄になるからだ。先手を打って一か八かのクーデターに出ざるを得なくなった。つまり埴安としてみれば謀叛の計画が早まってしまって十分な準備がない反面、千載一遇の機会が到来したともいえる情況だった。
埴安の戦略としては大彦(オホヒコ、記:大毘古)の率いる北陸方面軍と彦坐命の率いる丹波方面軍を何食わぬ顔で素通りさせてそれぞれの本来の遠征先に向かわせ、埴安の本軍は大和を直撃、妃の吾田媛(あたひめ、紀)は今回の四道将軍が関係しない西方から河内の軍勢を率いて攻め入る手筈だった(埴安の母は河内の出身で当時はここも埴安の勢力下だった)と思われ。しかし情報において先んじていた崇神天皇は大彦の率いる北陸方面軍と彦坐命の率いる丹波方面軍にわざと謀叛に気づかないふりして当初の目的地に向かわせ、それとは別に和邇氏の祖、彦国葺(ヒコクニブク、記:日子國夫玖)を将として埴安軍に向かわせる一方、大阪方面の吾田媛軍には五十狭芹彦(別名:吉備津彦)を向かわせた(紀はこのことを勘違いして四道将軍に数えたものと思われ)。吉備津彦はその名の通り、山陽方面に基盤をもっていたのでそちらからの援軍とで東西から吾田媛を挟撃できたものと推測する。また紀では彦国葺と大彦の両軍が埴安軍に当たったことになっているが、主軍である彦国葺の軍は寄せ集めの少数なので油断させつつ正面から当たり、本来なら北陸全土を平定すべく編成された精鋭大軍の大彦の軍は素通りして北陸に向かったと思わせておいて急反転して、南北から埴安軍を挟撃したのだろう。これは理屈で考えた戦略図であるが実際には何が起こるかわからないのが実戦で、大彦軍の到着を待たずして勝利が決してしまった。皇軍が少数なのを侮って、埴安彦がのこのこ前線に出てきた。開戦前の口説舌戦で士気をあげようとの算段だったろうが、ここで最初の矢合わせでいきなり埴安が射殺されるというハプニング、賊軍は総崩れとなり大彦軍が出る幕はなかった。

海外帰化
彦坐命は丹波平定後、その地に土着してその子孫は但馬公(たじまのきみ)として丹波・但馬・丹後にひろまった他、播磨・近江・美濃・甲斐まで勢力が広がった。しかし埴安彦の乱を平定して強大になりすぎたようで、日子坐の息子・サホヒコの代になって、次の垂仁天皇の時代には謀叛を起こす。
それはともかく、難民問題の根元をただすには、その通り道になる半島を統治しなければならないわけで、次ぎの垂仁朝になってから日子坐命は新羅に渡り、新羅王となったとの説もある(詳細は垂仁天皇の記事にて)。
高志(北陸道)に派遣された大彦と東方十二道(東海道)に派遣された建沼名河別は当初はこれといって討伐対象がなく、治安回復・教化宣撫の軍だったと思われ。大彦は突発した埴安の乱を討伐することになったが活躍の間もなく乱は鎮圧。
反乱平定の翌年(紀:崇神十一年)、四道将軍が全国を平定・教化宣撫し終えたが、この年「外国人が多く帰化して国内安寧となる」という注目すべき一文がある。また同十二年の、「税制創始の詔勅」には、「外国人が訳を重ねて来朝し、海外はすでに帰化した」(この場合の帰化とは外国が帰順して属国になることを意味する漢文表現)というこれまた注目すべき一文がある。

税制の開始
この事件についての解釈はいくつかありうる。
1)税制の最初の起源とする説
それまで日本には税というものが存在しない無税国家であり、官庁は有力豪族に分割民営化されていた。国民からの貢ぎ物は自由・任意であって、いわば、カンパとか、お賽銭のようなものだった。が、いったん国民道徳が退廃してしまうと「なんで俺だけが出すんだ?出さない奴もいるじゃん」と言い出す者もいるし「あいつがたくさん出すから貧乏な俺が肩身が狭い」とかの苦情もでる。そこで制度を定めて一律一定のきまりを設けた方が、皆が助かるというわけ。外国人の少なかった時代には細かいこといわなくても阿吽の呼吸でわかることだけど多民族社会=都市化がはじまると、規則なしには度合いがわからなくなってしまう。この税制創始から天皇王朝は徳治から法治へと変わりはじめた。もし国家とは制度であると定義するならば、崇神天皇こそ建国の始祖=初代天皇=ハツクニシラススメラミコトといってよいであろう。しかし制度としての国家以前から、文化的・精神的・社会的・物理的に我々の先祖は継続して存在していた。このへんの議論は「ハツクニシラススメラミコト」を参照。
2)税制改革とする説
税制はもっと古くから存在したのだが、国民に一律にかかるものではなかったか、または定期的なものでなかったか、とにかくあまり完備したものではなかった(この場合の税制とは国民側の自由意志ではなく政府からの強制という意味)。それを一定で公平な税制度として完成させたのであって、税制度が初めてできたという意味ではない、という解釈。記紀には「男の弓端調(ゆはずのみつぎ=皮革産品)・女の手末調(たなすゑのみつぎ=絹布産品)」とあって租(稲束)のことが出てないから、もとから租(稲などの作物)は税として取られていて、この時代から税の品目が増えただけとの解釈もありうる。だがそれだけではハツクニシラススメラミコトと称賛される理由として適当でないようにも思える。男女別になっているから何か家族制度にかかわることかとも思わなくもないが巧い理屈がみつからぬ。
3)改革ではなく単に一旦休止にしていた税制を再開しただけとする説
疫病の流行で国民が死滅しかかっていたのだから、一時的に徴税を減額したり停止したりしていたことも考えられる。その場合、税制が復活したのは国民の富が回復して国家が再建されたことを意味する。

ハツクニシラススメラミコト
(今日はもう時間切れ、後日執筆予定)

干支の使用と半島情勢
崇神天皇の崩御の記事で、はじめて干支で年を紀することが始まっている。それまで日本に干支はまかったと思われるが、紀によると崇神天皇の末年、大加羅(=任那)の使者「蘇那曷叱知(そなかしち)」なる者が朝貢してきたという。その頃すでに朝鮮半島には干支が使われていたので、この時に日本に干支が伝来してきたのだろう。
さてその朝貢の使者だが、新羅と領土紛争を起こしていて、我が国に救援要請にきたという。蘇那曷叱知=ソナカシチは、ソナは地名で今の釜山。カは干(カン)で貴族の称、シチは臣智(シンチ)で都市国家の首長。つまり蘇那曷叱知は今の釜山=後三世紀の狗邪国=六世紀の駕洛国(金官国)の首長だった。ただ、この使者は崇神天皇崩御のタイミングに遭遇してしまったので、続きの話は垂仁天皇の記事に続く(以下、そちらを参照)。
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

最新記事
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

新語拾遺
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム