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1古事記はなぜ敗北者にやさしいのか

2679年(令和元年)9月16日改稿 平成29年5月11日(木)初稿
福井と敦賀
ずいぶん前だが、後輩に誘われて福井に旅行したことがある。名物ソースカツ丼、鶏の唐揚げも美味かったし飲み屋も良かった。福井には五つの神社に祀られた「福偉神」(ふくいじん)ってのがあって福井出身の歴史上の5人の偉人、継体天皇・新田義貞・柴田勝家・橋本左内・松平春嶽で街おこししてた。この中ではもちろん古事記に関係あるのは継体天皇なわけで、継体天皇ゆかりの足羽山(あすわやま)には同帝を祀った足羽神社(あすわじんじゃ)や、同天皇の巨大な石像その他あれこれあって観光によし。福井での継体天皇についてもおもしろい話が無限にあるがそれは今回の本題ではない。ここの足羽神社の御祭神をめぐる諸問題については「阿須波神・波比岐神」の頁であれこれ論じる予定。
福井滞在中にちょっくら足を伸ばして敦賀の気比神宮にお参りにいってきた。ここはもちろん古事記にでてくる大神社で、応神天皇がいまだ皇太子だった時に、禊(みそぎ)のために武内宿禰(たけしうちのすくね)と二人でやってきたという神社だ。だから「禊の神様」なんだろうな本当は。今の気比神宮は、じゃなくて、今の神社はどこも、豊年満作・無病息災・交通安全・事業繁栄・恋愛成就・試験合格・健康長寿みたいなことばかりいってるけどさw まったくスルーするのもしらじらしいから言っとくと今じゃ敦賀といえば原発銀座の一角で「もんじゅ」も近い、原発問題までやってたらキリがないし古事記と関係ないからふれないが。関係ないこともないか、禊の神様だし。どこの地方都市もそうだが敦賀の街もなんかさびれた感じで昼間からやってる店を探すのがたいへんだった。けど、さすが北陸の港町、寿司は美味かったな。港には崇神天皇の時に任那からきた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の銅像が立ってる。港を見下ろす城趾、織田信長に滅ぼされた朝倉氏の金ヶ崎城址もある。源平時代にもあった城で、南北朝の頃には恒良親王・尊良親王を奉じて新田義貞が足利軍を迎え撃ったのもこの金ヶ崎城だった。ふもとの金崎宮には恒良親王・尊良親王が祀られている。
廃炉になる実験炉もんじゅtsuruga_town_street.jpg←ツヌガアラシト像、じゃなくてメーテルと鉄郎。同じようなものではあるが。

香坂王・忍熊王の乱
古事記では神功皇后が香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)の叛乱を近江に鎮めたとの記事に続いて、次の気比神宮参りの記事も近江から若狭を経由して敦賀にいったように書いてあるので、反乱を穢(けがれ)とみなし、この穢れを祓うため反乱の現場だった近江から直接に敦賀をめざして禊をしにいったんだと解釈する説もある。が、反乱討伐の当事者だった神功皇后や将軍たちは穢れず、皇太子と武内宿禰の二人だけが穢れるというのはへんな話だ。日本書紀では、反乱の制圧が神功皇后摂政元年、気比神宮参詣が同十三年だから、12年も経ってからのことで鎮圧と気比参りは無関係な別事件にみえる。だから当然、近江や若狭の経由地もなんらふれることなく都(磐余稚桜宮)から直接に敦賀にいったかのように読める。これは時期に関しても、反乱とは別事件としていることも、日本書紀が正しい。がそれ以外の諸点については大筋で古事記が正しいだろう。古事記がどうしてそういう誤りを犯したのかっていうと近江から若狭経由で直接いったという伝承があったからだろう。実はこの時はまだ成務天皇時代の「志賀の高穴穂宮」(今の大津市)をそのまま使っており、磐余の稚桜宮(奈良県橿原市)はまだ無かったと思われる。古事記は年代を書いてないからあたかも反乱の直後であるような誤った印象を読者に与えてしまう。書紀は独自の歴代天皇フォーマットで宮都の奠定は元年であるはずというパターンで書いてしまったため十三年の気比詣では大和の稚桜宮から敦賀までの経路にわざわざ近江、若狭を記述する意味が不明になってしまうのでこの2国の名は削除したのだろう。しかし古事記では近江から行ったにしてももし直接敦賀を目指したのなら、わざわざ若狭を経由したことを書く意味あるのか。文面は何かを探すように近江、若狭をさまよっているうちに気比大神が皇太子の夢に現れたように書かれている。だから気比参りは夢での神示に導かれたもので、最初から敦賀を目指したわけではあるまい。では皇太子はなんの目的で近江、若狭方面をさまよっていたのか? これは武内宿禰だけがお供で、普段から一緒の母后と別行動なのが第一のヒント。皇太子(のちの応神天皇)は神功皇后摂政元年の前年の十二月十四日生まれだから、この時(神功皇后摂政十三年二月八日)は数え才では13歳だが満年齢では12歳、というのが第二のヒント。これは「としのほし」とも呼ばれる歳星(さいせい=木星)が黄道を一周する節目で、占星術でいうと木星リターン、ひらべったくいえば干支(えと)のめぐりでいう最初の「年男」(としおとこ)にあたる年齢で、現代なら小学校の最後の年。中学高校の修学旅行の予行演習的な、宿泊学習とかの行事のある学年じゃないか? おそらく何か年齢相応な、一種の通過儀礼みたいなものだろう。この頃の男児は数え才13歳か満12歳で、両親とは別行動で、宿泊旅行するならわしがあったと推測する。これは神話に伝わる須佐之男命の冒険譚をなぞるもので、冒険だから目的地が決まっていてもいいが、あらかじめ決めずに放浪の旅でもいいわけなのだ。そういえば、ものごころついてからずっと婆さんと二人暮らしだった俺が、田舎を飛び出して東京に住む両親の元に移ろうと決心して一人列車に飛び乗ったのは小学校6年生だったなぁ。俺のことはどうでもいいが。

生きていた忍熊王
記紀では忍熊王は死んだことになってるが、琵琶湖に落ちて水死しようって時にもノンキに歌なんか詠んでることになっておりちょい不自然。日本書紀だと忍熊王は琵琶湖の南端、有名な「瀬田の済し」で水没したが遺体がみつからず、数日後に宇治川で発見されたという。これはニセの遺体じゃないのかとは誰でも妄想することで、だからなのか、後世の福井県越前町の劔神社(つるぎじんじゃ)の社伝では、忍熊王は応神十三年二月に都(大津?)を脱出して敦賀から海路北上、敦賀郡伊部郷(今の越前町)の梅浦から上陸、伊部臣(=忌部臣:いむべのおみ)が座ヶ嶽(くらがたけ)に祀っていた神剣を得、現地(越前町一帯?)の悪者を退治したという。座ヶ嶽ってのはgoogleマップで見つからず近所に似たような名前の烏ヶ岳(からすがたけ)だろうかとも思ったがそうではなく、劔神社の北300mほどのところの小山だった。山としては表示されないが頂上に「座ヶ岳社」という祠がありこちらで検索すれば出てくる。記紀では垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)が鳥取川上宮(今の阪南市のあたり)で千本の剣を作ったとある。この剣はその千本の剣のうちの一振りという。忍熊王は郷民から都留伎比古(つるぎひこ)と呼ばれて土着したという。明示はされてないが御公儀から何のお咎めもないのは要するに反乱については裏でひそかに御赦免されたってことで、建前上は反乱の首謀者だから表向き御赦免にはできないが、何者かに騙されてのことで、本人には情状酌量の余地があったと判定されたか。まぁ応神天皇が生まれるまでは、次の天皇は誰しも香坂王か忍熊王のどっちかだと思ってたんだから、新羅征伐の留守番役やってる時に「合戦のさなかに天皇陛下が戦死して次の天皇が生まれたばかり」なんて速報をきいても「え?どういうこと?俺の立場は?」となるのもわからなくはない。そこで熊襲か新羅に心を寄せる者がいてあることないこと吹き込んだら、謀反といわずとも武力に訴えても真相を問いただそう、という気にならんでもない。
仮にこれ本当だとすると、首都に10年以上も潜伏してたことになるので、武内宿禰が匿っていたのだろう。それに十三年二月は皇太子(応神天皇)と武内宿禰が気比神宮にお参りにいった時。つまり都から脱出といっても、おそらく皇太子のお供に身をやつしてのことだろうから、皇太子の気比参詣は表向きは13歳の通過儀礼でも、裏では忍熊王を越前に逃がすための隠密作戦だったわけだw 近江~若狭を彷徨っていたのも「逃亡した忍熊王を捜索している」という建前でのカモフラージュか。越前で退治した梟賊ってのも、もしかしたら香坂王・忍熊王を唆して謀反させた黒幕で、そやつを追いかけてのことだったのかも知れんねw そやつの正体が熊襲なのか新羅人なのか、熊襲派または新羅派の日本人なのかはわからんが、越前に逃げたのは海路で新羅に逃亡しようとしていた可能性が高いだろうな。

気比神宮がむすぶ古事記と南北朝
建武の新政がつぶれた時、後醍醐天皇らは京都から逃げて比叡山に立て籠もったが、尊氏と和議を結んで(事実上の降伏だが)尊氏の支配する京都に戻ることになったが、下山する前に恒良親王に皇位を譲って、上皇の資格で京都に還幸した。恒良親王(つか天皇)は新田義貞らとともに北陸平定のために敦賀に向かった。この頃の気比神宮は北は佐渡に至るまでの北陸諸国に領地をいくつももっていて、南朝側の大勢力でもあった。大宮司の気比氏治・斉晴の父子は金ヶ崎城を築いて恒良親王(つか天皇)御一行を迎え、足利軍を迎え撃った(金ヶ崎城の戦い)が、気比氏治の一族含めおもだった武将の多くが討ち死に、恒良親王(つか天皇)は捕らえられ、京都に護送された。この恒良親王は実際に天皇だったことは三種の神器も継承していただけでなく、多くの綸旨などが残っていることからあきらかだが、歴代に加えられていない。明治になって弘文天皇や長慶天皇が復活したのに、まったく筋が通らないが、結局明治の判断基準ってのは水戸学であり太平記史観なんだよね。恒良親王の即位を公式に認めてしまうと「後醍醐天皇が建武中興の時から吉野朝を開いた時まで一貫して天皇だった」という理屈が成り立たなくなる。だから後醍醐天皇の知略つまり足利軍への目くらまし作戦だったという後醍醐天皇賛美に回収しておきたいわけだろう。失礼にもほどがあるだろう、恒良親王に対して、そして皇位の重み、皇位の尊厳に対して。南北朝の正統論をどう整理するかは細かい話がいろいろあるが、世間でよくいうのは明治天皇の勅裁で南朝の正統が決まったといわれているが詔書も勅書も勅語もあるって話をみたことがない。ただの閣議決定だったんじゃないのかって疑いもある。正統性の議論は簡単でなく今回は議論の詳細にふれないが、塩焼王、北白川宮(東武天皇)とならんで恒良親王が天皇として認められていないことは、日本人の正義とは何かという哲学の営みに重大な障害を及ぼし、ひいては日本文化の思想的欠陥の根本原因になっている。大日本帝国臣民たるもの、すべからく恒良親王を天皇として今すぐ崇敬奉賛しなければならないし、尊称をもってするに仮に「金ヶ崎天皇」「越前天皇」「敦賀天皇」「気比天皇」等とせば如何。なんでこんなことを言ってるのかというと本日平成29年5月11日(木)は本来なら「越前天皇正辰祭」の日だからだっ! 崩御の建武五年四月十三日(1338年5月11日)から数えると「679年祭」となる。
気比神宮はかように、上代では記紀の応神天皇、中世では南北朝の争乱に関係してる。記紀に描かれた時代には、皇族が地方にくだって土着して地方勢力になるというパターンが多いんだが、後醍醐天皇も皇子たちに兵をつけて全国各地に派遣、南北朝の争乱が長引くと、結局その皇子たちは各地に土着して南朝伝説を残したり、地元の武将たちの先祖になっていく。後醍醐天皇は上古の皇族のありかたに復古したのだ、ともいいたくなる。
が、そうするとしかし、記紀のは統一中央政府から平和的に派遣されてきて土着するんであって、日本人同士殺しあい実力で土地を奪ってた南北朝の内乱と同じパターンとはいえない、という反論もあるだろう。しかし記紀では、平時に中央から派遣されて地方に土着する通例のパターンだけではなく、内乱で滅ぼされた側の皇族の子孫(つまり朝敵の子孫)が御赦免になって地方貴族の先祖になっている例がかなり多い。つかほとんどこれ。こんなことをいうと一部の人には拒否されてしまいそうだが、実は案外、南北朝時代こそが記紀に描かれた時代(というか古事記の下巻)といちばん似ているのだ。

謀反した皇子たちのリスト
誰しもご存知のごとく、記紀には反乱だの戦争の話がそれなりに出てくるんだが、書紀にはない古事記の著しい特徴として、反乱の敗北者にひじょうに同情的であるというようなことがよく言われる。本当かね? 以下に列挙してみよう。

五瀬命(在位?)…那賀須泥毘古(ながすねひこ)
綏靖帝即位前…多藝志美々命(たぎしみみのみこと)
孝霊朝…?(吉備国の誰か)
崇神朝…?(高志道のまつろわぬ人ども)
崇神朝…?(東方十二道のまつろわぬ人ども)
崇神朝…玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)
崇神朝…建波邇安王(たけはにやすのみこ)
垂仁朝…沙本毘古(&皇后沙本毘賣)
景行朝…熊曽建(くまそたける)兄弟二人
景行朝…出雲建(いずもたける)
景行朝…相武国造(&東方十二道のまつろわぬ人ども&蝦夷)
仲哀朝…?(熊曽国)
神功皇后摂政期…新羅(&百済)
神功皇后摂政期…香坂王&忍熊王
仁徳帝即位前…大山守命
仁徳朝…速総別王(&女鳥王)
履中朝…墨江中王
安康帝即位前…軽太子(&軽大郎女)
安康朝…目弱王
雄略帝即位前…黒日子王&白日子王
雄略帝即位前…葛城都夫良意富美(&目弱王)
雄略帝即位前…市辺之押歯王
顕宗帝即位前…平群志毘臣(しびのおみ)
継体朝…竺紫君石井(つくしのきみ・いはゐ)

以上は古事記に記述のあるものだけで、日本書紀に書かれてるのに古事記にない分は省いてるので、史実の統計としては意味がないが、日本書紀は量が多くてめんどくさいからやめた。厳密な統計は各自でやって下さいw
この24例のうち、皇族…11例(上4、下7)、中央貴族…2例(下巻のみ)、地方貴族…4例(上3、下1)、土豪の類…3例(上巻のみ)、固有名詞も肩書もなく不特定多数と思われるもの…4例(上巻のみ)で全体でみても半分近くが皇族で圧倒的に多いがとくに仁徳天皇以降になると中央での皇族間の争いや、皇室vs貴族の内訌が主になるのがわかる。皇族11例のうち、黒日子王&白日子王はよくいえば巻き込まれただけ、わるくいえば愚か者扱いで悪役ではないがお世辞にも好意的とか擁護されてるとかともいえない。市辺之押歯王にもあからさまな好意は感じられないが悪役でもない。この二組は主体的に謀反を起こしたわけではなくただの被害者だから除外すると以下の9例が残る。

多藝志美々 × ◇…公式には殺されてるが民間伝承ではそもそも謀反してない人
建波邇夜須★  ●…公式にはないが[俺の説では]地方貴族として子孫あり
沙本毘古王★ 
香坂&忍熊△ ○ △…公式には殺されてるが民間伝承では御赦免になった人
大山守皇子▲ ◎
速総和気王▲ ○
墨江中津王★ ×
軽之皇太子☆ ○ ☆…討伐されたが処刑は免れた人
目弱輪之王★ ×
 ★…討伐され殺された人 
 ▲…公式には殺されてるが民間伝承では逃亡して生き延びた人
 ◎…地方貴族として公式に子孫あり
 ○…公式にはないが民間伝承では子孫と称する者あり
 ×…当人が滅ぼされて子孫なし

この9例を並べて眺めていると、乱の勃発情況と謀反人の子孫の処理に特色がある。
反乱勃発時に、現職の在位中の天皇に敵対した例は3例しかなく、その時の天皇を非難する理屈をもっていたこともあるにはあるが建埴夜須毘古王と隼総別王は情況に追い詰められてやむなく蜂起したという側面が強そう。目弱王は理屈だけ。沙本毘古の乱は書紀だと垂仁天皇在位中のことになってるが品智和気王の年齢から逆算するとやはり皇位の代替わりの時を狙った事件であることがわかり、書紀の編年は誤っている。沙本毘古を含む6例は先帝崩御と新帝即位の間に蜂起している。朝敵の汚名を回避するために当然だろう。

歴史書としての体裁にこめられた意図~記紀のちがい
ちょっと脇道の話。日本書紀は中国の正史の体裁に倣ってるので、先帝崩御と新帝即位の間の話は新帝の即位前紀とし、新帝を主人公に書いてる。これだとオチがわかってて勝つ側を最初から正義として書く他になくなる。でも古事記は厳密に例外なく、先帝崩御と新帝即位の間の話は先帝の話の続きとして扱っている。つまり新帝即位までは誰が正義なのかわからないという立場を堅持してるのだ。これを全編に渡って一貫させてるのは、要するに(すべてではないにせよ、一つには)日本書紀で謀反人扱いされる木梨軽太子を擁護するためなのである。だから日本書紀では「神功皇后摂政期間」が前代の仲哀天皇とも後代の応神天皇とも独立して設定されてるが、古事記では神功皇后の話はすべてあくまでも仲哀天皇の続きという扱いになってるのだ。「大山守命の変」も「乱」でなく「変」というべきだろう。これも仁徳天皇への反乱ではなく、空位の期間で起こった皇族同士の戦いって扱いになってる。反乱を起こす側の気持ちとしてはあくまで正義の蜂起なのだから謀反人にはなりたくないわけで、だから11例のうち7例が空位の時に起こっており、天皇在位中の反乱は「建波邇安王・沙本毘古王・速総和気王・目弱王」の4例にすぎない。とはいえ、建波邇安王と速総和気王はままならぬ情況に追い詰められての挙兵であり、沙本毘古王も伝承を精査してみると天皇代替わりの空位の期間を狙っての挙兵だったんだが計算違いがあって戦争が伸びてしまいそのうちに相手方が即位してしまったケースだとわかる(沙本毘古王の乱については垂仁天皇の項で書いたのでそちらも参照)。建波邇安王ぐらいか、完全に悪役とされるのは。多くは淡々とした記述であって擁護もしてないが悪意まるだしな感じでもない。沙本毘古王の場合はその上垂仁天皇と沙本毘賣のカップルを主役とした物語の中での脇役の扱いだからこれも好意にしろ悪意にしろ熱意が感じられない。

首謀者本人は大抵殺されてるのは当然として、その子孫の扱いはどうか。沙本毘古・山守命は、本人は処刑されても子弟が助命・御赦免され子孫が確実に名のある地方貴族として存在した(2例)。隼別・軽太子は、民間伝承による異説では当人の子孫の家系が存在したという(2例)。埴夜須王は俺の個人的な説で子孫に該当する氏族の存在をつきとめた(1例)。この4例は子孫が根絶やしにはされなかった(≒できなかった?)ことになる。残り5例では子孫が続かなかったにしても、忍熊王は前述の劔神社に伝わる伝承で助命・御赦免されたという(1例)、多藝志耳はそもそも謀反してなかったという異説もある(1例)。この2例は子孫が確認できないだけで地方に土着して住民に慕われた(忍熊)か、地方に赴いてそこに宮殿を建てて定住した(多藝志耳)ようには書かれている。つまり9例のうち7例までは地方に土着したという説があるのだ。
内乱で叛賊として敗れながらも地方に土着するというパターンは、足利軍に敗れながらも各地に散って伝説を残した南朝の親王たちと似てないか。
この7例のうち、隼総和気王・忍熊王・多藝志美々命の「地方土着説」の3例は古典史料とはちがう水準の、民間伝承や後世の偽書やらが出所なので、どこまで真実味があってどこまでウソなのか、本来ならこのブログでいつものように詳しく議論しなければならないが、時間がないのでいずれそれぞれの関係する項目でやるとして、ただ忍熊王の乱の解説だけは気比神宮がらみで今回ちょっとやっときました。
古事記と南朝の類似は、ただ「皇族が地方に散って土着する」という類型の話だけではおもしろくない。ここにもう一つ、判官贔屓(ほうがんびいき)の問題がある。よくいわれるように判官贔屓の起源は源義経ではなく、義経以前から日本人の感情に強く存在したもので、神話や民話の「貴種流離譚」が先行している。

判官贔屓と貴種流離譚のちがい
貴種流離譚が神話の類型だからといって、この類型に則った伝承が「史実ではない」とはいえない。古代人は「創作譚の類型」だという認識をもっておらず、無意識に自我のモデルとする。それを「神話がいまだ生きている社会」というわけだろう。貴種流離譚の背後には、律令制以前の時代に皇位を継がない皇族が地方に下って土着するという一般的な制度(ないし習俗)があったことと、律令崩壊後の古代末期には皇族・貴族の多くも地方民に迎えられ武士団の頭首になっていったことがある。これらの実例のうち悲劇性が伴う例は、あったことはあっただろうが、極めて少なかったと思われる。悲劇性が貴種流離譚の定義の一部なら「貴種のたんなるあまくだり」はもちろん貴種流離譚ではない。あくまで貴種流離譚を人々が忘却し難くせしめ、何かの事件に触れるたびにそれを想起せしめる社会的な背景、ぐらいの意味ね。
ちなみに判官贔屓は悪役、正確には悪の親玉を必要とするが、貴種流離譚では虐め役程度の端役の悪はストーリー上いたとしても本質的な悪を象徴するキャラはいてもいなくてもよい。また貴種流離譚はハッピーエンドが典型でそれを欠くのは完全型とはいえないが、判官贔屓は必ずしもハッピーエンドであってもなくてもよい、等の違いがある。
日本神話では大国主や山幸彦も貴種流離譚に入れられることが多いが流離のタイプが異世界モノになっててやや厳しいかもしれない。典型的なのは須佐之男命だが、世界各地の神話が相互に相似である以上、民族文化形成に及ぼす神話の影響力は限定的であって、これら神話がただちに日本人の判官贔屓の起源だとはいえない。やはり神話類型を神話としてでなく、具体的なディティールを伴った現実の歴史として体験しなければならないとすれば、人代の日本武尊(やまとたける)の存在がはてしもなく大きいだろう。ちなみに日本武尊は実在の人物なw 宝賀寿男先生もそうおっしゃってたろw 判官贔屓現象そのものである中世以降量産された義経の物語は史実ではないが、しかし源義経は歴史上の実在の人物である。まったくの神話の中で完結する話ではダメなのであり、感情が憑依するための「歴史的事実」を必要とする。そういう意味では、記紀に描かれたヤマトタケルの物語に事実ではない要素が混入していたとしても、それを理由に日本武尊が架空の人物だったということにはならない。義経物語の多くが史実でないことを理由に、源義経が架空の人物だとはいえないのと同じこと。まぁ義経はジンギスカンになったんだけどさw なってもならなくても、義経の実在はゆるがないよ?w
後世の、完成してしまった判官贔屓ってのは、客観的・中立的で冷静な理性での思考判断を無視し、盲目的・直情的に弱者や敗北者の肩をもつ気持ちのことだが、起源において最初からそうだったということはありえないわけで、弱者・敗北者が実は正しかったという理屈は神話類型の段階ではちゃんと備わっている。歴史的体験の段階では倭建命(やまとたける)だが、これは二つの側面があり、一つには父帝から虐められて辺境に追いやられた(個人的にはそれ史実とは思わないが)のと、あとはただの偶然の不運が原因なので、後述のような深刻なイデオロギー問題がない。二つめには「未完の王権」という形で逆説的に王権のあるべき形を示すことになっていく。後者は雄略天皇以降に回顧されながら形成された「ヤマトタケル観」かもしれないが、ヤマトタケルの再来としての雄略天皇、武烈天皇そして(中略)大化の改新での天智天皇や承久の変での後鳥羽上皇、南北朝の大塔宮護良親王、戊辰戦争での北白川宮などへとつながっていく。前者のイデオロギーというのは皇位の正統性の理論のことだが、それについては後述。
いずれにしろヤマトタケルの段階では貴種流離譚とはいえても、盲目的直情的な衝動としての後世でいう判官贔屓の段階にはまだ成ってない。忍熊王も後世の伝説ではハッピーエンドだから貴種流離譚としては完成しているが、情状酌量の経緯を読むとこれも悪人の出てこない話になっており、古事記の上巻まではまだ判官贔屓の類型にはあたらなさそう。では下巻はどうか。

下巻には一貫したテーマがある
古事記の下巻になるとまた情況というか枠組みがかわる。
一人め、大山守命は地の文では観念的・建前的に悪役認定されてるが、物語の中の歌の解釈では逃されてるようにも読める。
二人め、隼総和気王。古事記は、速総和気王と木梨軽太子という二人をとくに擁護してるようでもある。軽太子と比べると速総和気王は在位中の天皇への反乱だからか、さすがに控えめで、逃亡中の二人の悲哀を歌物語にしてるだけで、必ずしも反乱を正当化しているとは理屈の上ではいえないかもしれない。しかし謀反人の境遇を美しい文学に仕立て上げるのは遠回しの擁護といわれても仕方ない。だから婉曲な表現になるわけで、在位中の現職の天皇(つまり今上陛下)に対する謀反はやはり堂々とストレートには擁護できないのは大日本帝国臣民として当然だろうw 
三人め、墨江中津王。民間伝承まで探しても子孫がみつからないのは目弱王と墨江中津王だけだ。目弱王は7歳で処刑されたので子孫がないのが当然だが、墨江中王についてはもしかしたら俺の探し方が足りないだけかも知れない。この人は他の反乱者たちに比べてあまり同情されてない感じがする。歌物語もない。その理由として、文学方面からの発想だと、女性を騙して(婚約者になりすまして)媾合したという話があるから、女性が多かった語部(かたりべ)の評判が悪かったのか、女性を力で強奪するタイプの男だからロマンチックな歌物語にしづらかったのか、等とも考えられるが、そうではなくて、実は皇位の正統性にかかわる別の問題がある(後述)。もっとも墨江中王の乱では履中天皇の陣営のやりくちも隼人を騙して使い捨てにするなどホメられたものではなく古事記が天皇の側を擁護しているともいいにくい。
四人め、木梨軽太子。速総和気王に比べると「木梨軽太子の変」(「乱」でなく「変」だぞw)は空位(天皇不在)の下での皇族同士の戦いだから、余計な縛りはなく、一貫して「太子」という称号で呼んでることからも安康天皇への皮肉を含んでいるし、文学的にはここが古事記のクライマックスといってもいいぐらい高く評価されていて、それほど古事記は木梨軽太子の物語を美化することに全力を注いでるのだ。
五人め、目弱王。情況的に追い詰められたわけでもないのに自分の意志だけで現職の在位中の天皇に謀反したのは目弱王だけ(暗殺だが)。目弱王の場合、安康天皇が神罰をうけてもおかしくない「悪の天皇」であることが、暗殺されるまでの記述の端々に暗示されている。これも目弱王に対して古事記が好意的だ、といっていいのではないか。
以前からいってる私説として、大山守命の乱・速総別王の乱・墨江中王の乱は無関係に起こったのでなく、一続きの、仁徳王系の正統性をめぐって続発的に起きた「一つの争乱」だと考えている。また目弱王による暗殺は、結果的に木梨軽太子のための報復にもなっていて軽太子の乱と目弱王の乱も安康天皇をめぐる一つの争乱ともいえる。そうすると下巻の5つの乱は実体としては「2つの乱」としてみることができる。2つの乱のうち前の乱を速総和気王、後者を軽太子で代表させれば、古事記(の下巻)は天皇側ではなく反乱側の立場になった書物だという一面すら浮かんでくる。とはいえ、結論を急がず、まずは落ち着いてあらためてながめると、明らかに擁護しているのは隼総別王と軽太子、逆に比較的悪役度が高そうなのは(上巻からだが)多藝志美々命と建波邇夜須王か。両極として2例えらんでみたが、総じて中立的に描いてるといってよいのではないか、と一見いいたくなる。しかし中立性、客観性を強調するのはだいたいの場合、自己の主張をもっともらしくみせるため、という演出であることが多いのではないだろうか。あるいは逆の言い方をするなら、自己の主張が偏りのない中立的で客観的な判定であると信じるがゆえに、全編にわたって中立的表現をしようという衝動が起こるのだともいえよう。伝承の内容の細部が確定していれば演出表現にも限界があるだろうから、文面上の擁護の度合いが内心での好意の度合いと必ずしも一致しないかもしれないがそれはともかく、ここには謀反人の擁護というタブーさえも踏み越えるほどの、何らかの確信をもった主張が読み取れる。
大山守命の乱から始まった争乱は、なぜ墨江中王の乱で終わったのか、大山守命の乱・速総別王の乱には無い特徴、乱を終わらせた原因があり、それが反乱に同情的な人々を興ざめさせたんだろう。今回はそれについて詳しい解説をする時間がないが、要するにそれまでは反乱者の正統性を保証する「あること」が体制側、つまりこの場合は墨江中王と対立していた履中天皇の側に移ってしまったからなのだ。「あること」ってのはこのブログを読んでる人には想像つくかもしれないがちょっと今回は時間がなくて詳しい話ができない。ともかくそうすると允恭宮家には正統性がないことになる(ただし允恭天皇自身は別。その理由は今回は省略)。だから允恭宮家の軽太子は正統な天皇として同情されてるのではなく、冤罪被害者として同情されている。冤罪事件が起こること自体や仇討ちのターゲットとなったこと自体が允恭宮家(具体的には安康天皇)への婉曲な非難にもなっている。

日本的正義の二類型「水戸黄門」と「忠臣蔵」
國體が萬世一系であって王朝交代がないということは、天皇の権威は絶対であり天皇は常に必ず正しいのだと短絡できる。しかし、ナマミの天皇は聖書のような書物でもなければハンコ押し機械でもないわけで、人格と個性をもった人間だ(現人神であることとは矛盾しない)。だから現実には「仏教に洗脳された天皇」だの「儒教に心酔した天皇」だのがぞろそろ実在したわけで、当然ながら「民主主義をうっかり信じちゃった天皇」だの(以下略)という問題が生じる。太平洋戦争で開戦する羽目になるまで国家運営が後手後手になったのは昭和天皇が民主主義の段取りを重んじてたからだし、終戦したのは民主主義の段取りを無視したからできたわけだし、今上陛下が遠回しな言い方しかしないのも民主主義を重んじてるからだろう。でも国民にまかせておけばうまくいくのか? そんなこと当の国民自身どこまで思ってるのか? でも天皇が民主主義だっていってる以上、俺らにはどうにもできない。
御公儀(おかみ)が悪である場合、もしくは悪とまでいえないまでも正しくない(間違ってる)場合、庶民はどうすればいいのか。一つには最初から「上の者」には地位に見合った正義を要求することだが、上の者が目を曇らすことなく真実を見通すには「下の者」の世情に通じていなければならない。だから「上の者」が日頃からお忍びで俺らの身近にいるのだという願望が生まれる。それが文化類型「水戸黄門」だろう。これには仁賢・顕宗の両帝兄弟が庶民に身をやつし長い間、民間に暮らしていたという伝説からの影響も大きいだろう。また継体・安閑・宣化の三帝一家が、質素で貧乏な弱小田舎大名で庶民に近かったという考え方もあったかもしれない(実際には地方貴族でも弱小でもなかったのでこれはあくまで庶民の願望が混ざってる)。水戸黄門が江戸時代以来、現代までいかに根強い人気を誇ってきたかはここではふれない。しかし都合よく水戸黄門みたいな役人や政治家ばかりではない。そこで追い詰められた日本人の選択肢が「赤穂浪士」となる。文化類型としての赤穂浪士であって史実の赤穂事件とは別だから「忠臣蔵」といったほうがいいか。忠臣蔵には権力欲もなければ上昇願望もない。ただ身を捨てて正義を明らかにするだけだ。幕府には建前があるから最終的には謀反という扱いになったけれども、庶民は彼らの「自己犠牲の精神」に喝采し正義として称賛したし、公権力も庶民の行為を弾圧することはできなかった。水戸黄門と忠臣蔵、この二類型は実は別々でない。高貴な人物がお忍びで出歩くことは、もちろんあってもいいのだが、普通じゃないだろう。ところが高貴な人が必ずお忍びでなければならない情況というのもある。謀反に失敗して逃亡、潜伏中の貴公子。あるいは処断され追放刑や流刑になった貴公子。あるいは現在、劣勢ながらも追っ手の大軍と戦っている最中の貴公子。彼らの多くは天皇に背いたのでなく、不正に皇位を狙う悪の皇子と戦って敗れ、裁かれたのだ。彼らの物語が悲劇でなく終わればそれは貴種流離譚として完結するはずだが、南北朝時代には彼らの問題は個々の人生から生じているのではなく、日本全体の、天下国家の倫理の源泉、社会の統合原理にまで直結していた。つまり南朝善玉論を前提にする限り、勝ってる側=今の御公儀(おかみ)は悪で、落人(現に敗けてる人)はみな無前提に正義になる。判官贔屓の起源は実に南朝の勢力が敗北、地方に土着し民間に溶け込んだことから発しているのではないか。
当時の朝廷の公式な歴史観に反してまで『太平記』が読まれ人気を博したのはこのためだったのではないか、そしてこれに先駆けること数百年前に起こったのが記紀に描かれた皇子たちの反乱と、彼らに対する同情心であり、それを書き残した『古事記』である。これは実は天皇の権威をゆるがす一大事でもある。なぜなら南朝伝説の息づく里の庶民は精神的な「錦の御旗」を手にしたことになるからである。これは必ずしも法的に有効である必要はない。天皇がすべての価値の源泉である以上、レゾンデーテルだの実存だのアイデンティティーだのにかかわる問題だからだ。役人だの既存の権力に認定してもらってようやく効力をもつような「偽の錦旗」ではない、法の上の法、真の意味での「錦の御旗」ではないか。万民が天皇と一体であるという境地「一君萬民」の思想がこれだよ、だから楠木正成のような下賤の者でもすべてを超えて後醍醐天皇と一体の瞬間を得ることがある。この意味でなら、太平記は古事記の中世的展開であり、古事記は太平記のプロトタイプだった。
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2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓」に続く

7息長王朝の由来【後編】~応神記末尾の系譜の謎とき~

R1年8月22日(木)改稿 H28年7月13日(水)初稿
6「春山秋山の物語」は神話でなく寓話である」から続き

争ったのは「兄弟二人」ではない
皇子たちの争い(争いとは限らないが皇位をめぐる皇子たちの物語)だとしても、秋山春山の物語のよう特に「二人」の争いだと人数を限る意味もない。寓話の中では「八十神」(やそがみ)が求婚したとあるんだから、春山秋山兄弟のライバルは大勢いたと解釈できる。
応神記の末尾にある第三息長王家の系譜に続けて、不審なことに突然根鳥王(ねどり)の系譜の続き(根鳥王の2人の王子、中日子王と伊和島王)と、堅石王(かたしは)なる系統不明の人物の系譜(堅石王の子、久奴王)がでてくる。ここは継体天皇に続く第三息長王家の系譜なのに、無関係な記事が混ざっている。根鳥王は応神記の冒頭の、古事記では通例の系譜記事に出てくるのだからそこに記述すればいいのに、なぜかそこにはなく、末尾のここに息長系図に並んで出てくるのはどういうことか。ここもただの錯簡、誤入で深い意味はないのだとするのが常道だろうが、それもつまんないので、一案としては、わざわざここ(大郎子で止まる系譜記事)に列記してるのはつまり、一人の姫を大郎子と争いあった貴公子たちのリストなのだろう。大郎子・中日子王・伊和島王・久奴王で4人だが、この4人はこれまで名が出てないからわざわざ出したんだろう。
寓話にするなら登場人物を「五人兄弟」としたほうが戦隊シリーズとかセーラームーンみたいで盛り上がるのではないか。じゃなかった、『竹取物語』の五人の貴公子に通ずるのではないか。そもそも春と秋しかないってのがおかしい。普通は四季を揃えるだろう。夏山については青葉壮夫、雨男、ハダカ男…等が考えられるし、冬山なら枯木壮夫、白雪壮夫、木枯らし男、雪男…等がありだろう。さらには土用山(つちゐやま)の晴間壮夫がいたはずだw 五行説でなく『周礼』の六官説なら天山(あまやま)地山(つちやま)加えて6人にできる。天山なら日照り壮夫、青空壮夫、被さり壮夫。地山なら荒金(あらかね)壮夫、地震(なゐふり)壮夫、載せ壮夫。両方あわせて7人、『竹取物語』だと貴公子5人の他に天皇も出てくるから8人にまで増やせる。やみくもに増やせばいいというものでもないが。現在残っている物語は、かいつまんだ簡略バージョンなのであろう。ちなみに干支は崇神天皇の頃に入ってきたので、干支を説明するための原理としての五行説も早くから知られていただろう。それとなぜ山であって、川や谷や野原じゃないのかだが、ネット情報では、奈良時代には春の女神は東の佐保山の佐保姫、秋の女神は西の竜田山の竜田姫、夏の女神は(南の某山の?)筒姫、冬の女神は(北の某山の?)宇津田姫とされたともいうが、夏と冬については典拠がわからない。実際には川や谷にカミが鎮まっていることはよくある話だが、なぜか神奈備山とはいっても神奈備川とか神奈備谷なんて言い方は聞かない(理屈の上ではそういう言葉があってもいいとは思うのだが)。谷でも川でもなく四方の「山」と関連付けされているのは、奈良盆地という地形のせいではなくて、『山海経』にも通ずる古い信仰に由来しているのかもしれない。日本では佐保山と竜田山の間に土用山にふさわしいような山らしい山はないが、佐保山の佐保姫だのは古い文献にない。竜田姫は古くから風の神で西から吹いてくるからその対称となる神として後から佐保姫が想定されたんだろう。古くは世界の中心の山として大和三山わけても香久山が神聖視されたが、大和三山にも恋争いの伝説があるから、畝傍山と耳成山の三角関係は春山秋山の物語ともしかして同じ話なのではないかとも思える。中国でも東は山東省の「泰山」、南は湖南省の「衡山」、西は陝西省の「華山」、北は山西省の「恒山」、中央の河南省の「嵩山」を五岳というが、古くは華山を除いて四岳だった。また四兄弟が四方位に配されるのは天照大神の五男神、大国主の四人の息子など、神話類型の一つともなっている。

「堅石王」の系譜の復元
で、前述の中日子王(なかつひこ)・伊和島王(いわじま)・久奴王(くぬ)の3人のうち、久奴王の父の堅石王の系統がわからない。地名を手がかりにすると、堅石という地名は、本折宣長が『和名抄』から筑前国穂波郡の堅磐郷をあげている。調べたらこれは今の飯塚市の片島だという。Googleマップで適当に検索するとw、塩尻市に広丘堅石がある(ただし読みはカタイシ)。塩尻市には「広丘○○」という地名がいくつもあり、調べたらこれは複数の村が合併して「広丘村」ができた時の名残りで、だから広丘堅石も元は「堅石村」だ。ここは律令時代の「覚志(かがし)の駅」でカガシがカタイシに訛ったともいう。ホントかね?w 堅石は塩尻市の北部にあり、仁徳天皇に背いた両面宿儺(ふたものすくな)が出現したという飛騨の大鍾乳洞(ただしここが本当にその原伝承地なのか疑問もないではないが)の真東一直線のところにある。その子の久奴王のクヌってのは静岡県静岡市の久能か同県袋井市の久努だろうな。根鳥王の2人の子のうち「中日子」(なかつひこ)と似た名前は、倭建命の孫の須賣伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこ)、仲哀天皇=帯中日子命(たらしなかつひこ)、仁徳天皇の兄の額田大中日子命(ぬかだのおほなかつひこ)がいる。「中津」は普通は次男の意味だろうが額田大中日子の「大」は、誰か先に生まれてる皇子がいるのだがそっちは側室腹、こっちは次男だが正室腹、という意味かな。漢文でいう「伯」と「孟」みたいなものか。中日子王が根鳥命の次男とすると、長男の名がなく次男と三男の名があげられてることになるがなぜなのか、3つの案がありうる。第一案は、ここは系譜を語る記事ではなく姫取り争いに参加した皇族たちのリストなのだとして、だから長男は姫取り争いに参加しなかったからあげられてないのだろうか? 第二案は、根鳥王は大田君(おほたのきみ)の祖先であり、この大田ってのは今の岐阜県の大野町・神戸町・池田町の3町にまたがる領域で大雑把にいえば美濃国の西部。だから中日子王のナカツは次男の意味ではなく地名だとしたら同じ美濃国の地名で、岐阜県の東端、中津川市か。中津川は川の名が本ではなく「中津」という地名が先だという。第三案としては、墨江之中津王とも名前が似ているからもしかして同一人物じゃないのか。原文に「根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王。次伊和嶋王」とあるのは「大雀命、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王」と「次、根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、伊和嶋王」が混線したのではないかと思う。石之比賣に三腹郎女が追い出されてから、根鳥王と三腹郎女がくっついたんではないか。だとすると根鳥王からみて自分の次男という意味ではないことになり、長男がいない謎が解ける。ここは第三案を取りたい。そうすると墨江之中津王は皇女腹で、葛城氏の娘から生まれた兄の履中帝や弟の反正帝よりも血筋が格上ということになり、反乱の理由の一つがみえてくる。伊和島は不明。能登半島の輪島か四国の宇和島? この伊和島王が大田君の祖先で、姫取り争いの参戦者だろう。
ところで、このままだと堅石王が誰の子かわからない。原文を眺めてみると「又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又堅石王之子者、久奴王也」となっており、系譜記事としては文字の脱落があると考えるしか無い。そこで以下のA・B・Cの3説がありうる。
A説は「根鳥王の一家の系譜」説。もっとも普通に考えれば直前とのつながりを示す文字の脱落だろうから、(1)堅石王が根鳥王・中日子王・伊和嶋王の3王のうち誰かの別名である(この場合久奴王は応神帝の皇孫)か、もしくは(2)堅石王は中日子王・伊和嶋王の異母弟で、三腹郎女とは別の女性から生まれたか(この場合久奴王は応神帝の曾孫)、(3)堅石王は中日子王・伊和嶋王いずれかの子(この場合久奴王は応神帝の四世孫)であるか、のどれかのはず。原文を推定復元すると
(1)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{伊和嶋王、亦名}堅石王之子者、久奴王也。
(2)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{一妻之子、}堅石王之子者、久奴王也。
(3)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{伊和嶋王之子、}堅石王之子者、久奴王也。
(3)は嫁争いに参戦するには他のメンバーと比べてちょっと世代が離れすぎてしまうので(1)か(2)だろう。これらA説の場合、この系譜は最後の「久奴王」一人だけを掲げることが目的である。
B説は「根鳥王と某王(迦多遅王?)、両家の系譜」説。
根鳥王の系譜とならんでるんだからそのフォーマットでいうと「又」と「堅石王」の間に脱落があるのが容易にわかる。復元すると
・又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{○○王、娶××××××、生子、}堅石王之子者、久奴王也。
となるだろう。○○王は若沼毛二俣王や根鳥王と同世代とすると応神天皇皇子の誰かだろうが、ちょっとわからない。大山守命か速総別命かと考えれば面白くはあるが、なんともわからぬ。これまで系譜上の名前としてしか出てきていない地味な皇子かもしれないが記述の順番からいえば根鳥王よりは後に記述されていて、なおかつ子孫がいなさそうな宇治若郎子を除外すると、速総別王・大羽江王・小羽江王・迦多遅王・伊奢能麻和迦王の5人が残る。岩波の日本思想体系の古事記の注釈では、堅石王は迦多遅王の別名かという一案をだしてるが、カタシハとカタヂ、カタはいいが「シハ」と「ヂ」の違いが「類義の別名」なり「同語の訛り」なりで説明つくかどうか? 推定欠落部分の「〇〇王」は速総別王、「娶××××××」は「娶庶妹女鳥王」としたほうがわかりやすく面白いが、さしたる根拠もないのでここは禁欲してw、シとチの相互訛りは実際あることなので岩波思想体系の説に屈するわけではないが本居宣長の気づきに敬意を表して仮に「堅石王=迦多遅王」と同定して、原文を推定復元すると
・又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{迦多遅王、亦名}堅石王之子者、久奴王也。
となり、B説の場合、この系譜は「中日子王・伊和嶋王・久奴王」の三人を掲げることが目的である。
C説は「根鳥王と伊奢能麻和迦王、両家の系譜」説。応神天皇の系譜記事では、高木之入比賣から生まれた伊奢之真若命と葛城之野伊呂賣から生まれた伊奢能麻和迦王が重複してるのが気になる。書紀と照らせば伊奢能麻和迦王の母は高木之入比賣であってるはずで、葛城之野伊呂賣と伊奢能麻和迦王は系譜記事の末尾にあるから何かの注釈だったのだろう。原文は
・又娶、葛城之野伊呂賣、生御子、伊奢能麻和迦王。
で、この文の直前の語句が「次、迦多遲王」だから、つなげて読むと
・次、迦多遲王(又)娶、葛城之野伊呂賣、生御子、伊奢能麻和迦王。
という文が浮かぶ。しかし「伊奢能麻和迦王」は応神天皇の皇子であることが明らかだから、「娶、葛城之野伊呂賣、生御子」と「伊奢能麻和迦王」の間に脱文があるんだろう。「伊奢能麻和迦王」も後続の文章が落ちているため文末のようにみえるが、それだと意味ある文章に復元できないから、これは次の文の主語だろう。その「伊奢能麻和迦王」を主語とする文の断片が、若沼毛二俣王の系譜の中に唐突にでてくる
・又堅石王之子者、久奴王也
なのである。これは直前の文と意味がつながるように復元するならば、「又」は「娶」の誤記、途中に脱字があって
・娶堅石王之子【△△△王(♀)、生子】者、久奴王也
なのではないか(【】の中が推定復元した部分)。「娶、葛城之野伊呂賣、生御子」と「伊奢能麻和迦王」の間の脱文もこの【】内の女性の名前だったと思われる。これをつなげると
・次、迦多遲王(又)娶、葛城之野伊呂賣、生御子【△△△王(♀)】。伊奢能麻和迦王、娶{堅石王之子【△△△王(♀)、生子】者、久奴王也
と復元できる。つまり久奴王は伊奢之真若命の子で、堅石王(=迦多遲王)の孫なのではないか。伊奢之真若命は書紀では深河別(ふかがわのわけ)氏の祖先で、岩波文庫の書紀の注では飛騨国荒城郡深河郷(今の岐阜県古川町)とあるが今は古川町は合併して飛騨市の一部になっている。Googleマップだとまた「古川町○○」という地名がいろいろある。塩尻市の「広丘○○」と同じパターンだ。その中では「古川町数河」というのが深河に似てるくさい。前述の両面宿儺の両面とは「北面(越中)と南面(飛騨)」あるいは「西面(飛騨)と東面(信濃)」に顔が利くって意味だとかの説もあり、飛騨(数河)と北信(堅石)にはもとからつながりがあったのか。ともかく両面宿儺が成敗された跡地に、静岡県あたりにいた久奴王の子孫が移封されていって深河別の先祖になったらしく思われる。C説の場合、この系譜は「伊和嶋王・久奴王」の二人を掲げることが目的である。
で、以上のA・B・Cの3説のうちどれが正しいかは何とも決められないが、後世に地方豪族として残った3氏という観点から、とりあえずC説でいってみよう。

貴公子のメンバー
そうするとこの系譜記事では、姫の取り合いに、若沼毛二俣王の一家(息長氏)から大郎子、根鳥王の一家(大田氏)からは伊和嶋王、伊奢之真若王の一家(深河氏)からは久奴王の3人がエントリーしたということを言っているのだと解読できる。この人たちは仁徳天皇や速総別命を第一世代とした場合の第二世代である。
この嫁取り争いは允恭天皇(秋山)と大日下王(春山)の時のことすれば、履中天皇崩御後のことで「大日下王・雄朝津間王(允恭天皇)・大郎子・伊和島王・久奴王」の5人で、当時在位中だったと思われる反正天皇自身もエントリーした可能性がある。
前回では、春山霞壮夫が大日下王で秋山下氷壮夫が雄朝津間王だろうという見当だったが、さらに「六官」の職掌を基にして適当に想像すると天山が反正帝、地山が伊和島王、夏山が久奴王、冬山が大郎子王か。ともかくも竹取物語の貴公子(天皇も入れると6人)と数が一致する。キャラクターとしては反正帝が石作皇子、伊和島王が安倍御主人、久奴王が大伴御行、雄朝津間王が車持皇子、大郎子王が石上麿足に、それぞれ該当しそう。竹取物語の貴公子は文武朝に時代設定されているので、天皇は当然文武天皇なわけだが、そうするとかぐや姫のモデルは、梅原猛の説に出てくる紀皇女ではないかと思われる。そうすると大日下王の役どころは弓削皇子か。
竹取物語では誰もかぐや姫をものにできなかったわけだが、こちらは異なり中斯知命は大日下王とくっついた。だがこれは正式な結婚だとは限らず、寄寓していただけではないのか? 大日下王には長田大郎女という妃(=正室)がすでにいたのだから。
中斯知命は住吉邑に在住し、履中天皇はその在位中にずっとモーションをかけつつも成就せずに崩御。反正天皇が即位するとほぼ同時に、反正帝自身を含む6人による姫とり争いがスタートした。この中ではまず雄朝津間王が病身ゆえに他に遅れをとっていたが、反正天皇も崩御した時、次の天皇として大日下王と雄朝津間王の二人しか適当な人物がいなかったと書紀はいう。残りの3人は女系の血筋その他なんらかの事情でこの二人ほど格が高くは無かったのだが、だからこそ中斯知命をものにすれば一発大逆転もありえたということだろう。で、すったもんだで天皇には雄朝津間王が病身のまま即位して允恭天皇となる。允恭天皇は数年間ねばったがヤキモチ焼きの皇后のために身を引いたのか、結局中斯知命は大日下王とくっつき、その後允恭天皇の病気も治った。

恋争いの決着
しかし当時は離婚も再婚もわりかし自由だったので、これで最終結果とはならない。允恭天皇自身は身を引いたとしても大日下王と中斯知命の相性が悪かったら離婚してもらって、中斯知命を皇太子の木梨軽王の妃に迎えたかったことだろう。軽王が実の妹に懸想してたとしても当時は一夫多妻なのだから差し支えない。允恭天皇や軽王はさほど執着してなかったとしても、中斯知命を妃とした大日下王の名声があがり、皇位継承者として大きくクローズアップされてしまうから、允恭天皇父子の周辺では大日下王を危険視し、大乱になる前に片付けるべし、等と物騒な声も当然に湧いてくる。
『古事記』に載ってる春山秋山の物語はこのへんまでに該当する内容で終わってる。しかしそれは現在の古事記は春山秋山の物語が途中で終わっていて続きの部分が散逸してしまっているからだろう。

第三世代の争い
木梨軽王が政変で失脚し安康天皇の時代になってからはどうか。当時は離婚や再婚が格別恥でもなくありふれていたろうから安康天皇本人がその気になれば離婚を強要して中斯知命を后に迎えるという強硬手段もありえたと思われるが、安康天皇本人は長田大郎女にご執心で、中斯知命にはさほど興味をもたなかった。ただし嫌いな訳でもないから、政治的に利用価値の高い結婚ならチャンスを待って受け入れ態勢だけはあるよ、っていうアピールぐらいはしてたかもしれない。ならば理屈の上では雄略天皇のエントリーもありうるが雄略天皇はおそらく目弱王と年齢的に大差ないのと、そもそも皇位にも関心なかったと思われる。他に、履中皇統から市辺押歯王が当然のように参戦したに違いない。反正天皇の子は古事記で財王がいるがこれは書紀だと財皇女になっている。古事記では性別不明な名は男子を前提としているともされるが、あくまでそういう傾向が強いというだけで絶対とはいえない。だから財王は女性の可能性がある。また書紀では高部皇子がいるが、古事記では多訶辨郎女となっている。高部皇女を皇子に誤ったか多訶辨郎子を郎女に誤ったかは五分五分だが、財王は女子とすれば文字の訂正なく記紀を合致させることができる。二人とも女性なのではないかと思うが、仮に男子だったとしてもまったく活躍が伝えられておらず、体が弱かったか、病気か事故で早世されたと考える他ない。だから反正皇統からはエントリー無しだった可能性もあるが一応考慮に入れとこう。
そうすると第三世代でエントリーした候補(もしくは本人はそのつもりなくても周囲から勝手に候補とみられた人々)は「木梨軽王・安康天皇・大長谷王(雄略天皇)・市辺押歯王・財王」と在位中の天皇を入れて5人。

寓話の誕生
だが「大日下王の変」で大日下王が安康天皇に滅ぼされた時、中斯知命もいっしょに燃え落ちる宮殿とともに薨去してしまったのではないかと思われる。『竹取物語』のかぐや姫が月の世界に帰っていくのは死の暗喩である。後世に書かれた『竹取物語』の元になった物語(「原・春山秋山物語」)では、大日下王と中斯知命の夫婦の死まで描かれていただろう。この話は大日下王と中斯知命の夫婦に同情しその死を悲しむとともに、現職の天皇である安康帝の悪行を非難するものでもあるから、当然おおっぴらには言えない。それで寓話の体裁をとる。
さて、燃え落ちる宮殿から救出されたのが忘れ形見の「兄媛」だが、若日下王に引き取られたとするのが普通なら自然だが、そうならず長田大郎女に引き取られて一緒に安康天皇のもとにいたんだろう。なぜか。目弱王が中蒂姫の腹なのか長田大郎女の腹なのか決めがたいが、中蒂姫の腹だとしても兄媛ともども長田大郎女に引き取られることはありうる。兄媛という以上「弟媛」もいたはずだが、弟媛が同母姉妹なら二人とも「聖なる血筋」の継承者だし、長田大郎女の娘だったとしても最愛の姉の子には違いない。姉妹のどちらかに兄弟がいてそれが「目弱王」だったのか、姉妹のいずれかが「目弱王」と同一人物だったのか。後者なら「目弱王」は女児だったってことになる。女児なら、殺さずとも安康天皇が手元に置いておこうとしたのは当然ということになる。
「目弱王」の変で安康天皇が暗殺され「目弱王=兄媛」も葛城氏落城とともに薨去したことになっているが、実際には救出され生き延びたんだろう(このへんの詳しい話は別の記事で書きます)。兄媛は今度こそ若日下王に引き取られたと思われるが、若日下王はそのまま雄略天皇の皇后に収まる。雄略天皇と兄媛のは年齢的に大差なかったと思われ、二人ともこの段階ではまだ子供である。

継体天皇の祖先の正統性
『住吉大社神代記』によれば、仁徳天皇の時代に波多毗若郎女(はたひのいらつめ)(=若日下王)の夢に神が現れ「吾は住吉大神の御魂なり、為婆天利神またの名を猪加志利之神」と名乗った、そこで津守宿禰を神主としてこの神を祀らせ、為加志利津守連らを祝としたという。これによれば兄媛の保護者である若日下王は、住吉大社ともともと縁がある。
速総別命と女鳥王が反乱の全盛期に本拠にしたのも住吉大社、その後、墨江之中津王の本拠となって黒媛(日之媛)を得、のちに黒媛は中磯皇女(=中斯知命)を抱いて履中天皇のもとを辞して鷲住王に守られながら住吉邑に住んだという。黒媛が阿加流比賣のモデルだから、阿加流比賣を祭神とする赤留比売命神社と楯原神社の間のどこかに黒媛の宮殿があったのだろう。ここはいうまでもなく東住吉区の杭全や平野区の喜連など息長氏の本拠にすっぽり入っている。住吉が速総別の反乱軍の本拠だった頃は息長氏は弱小勢力でどちらからも重視されていなかっただろうがそれでも近江への国替えが命じられて一時的に河内和泉から撤退していたのかも知れない。そのため中津王の乱でも巻き込まれずどちらに味方すべきか悩まずに済んだ。中津王の乱の後に、戦乱が終わって名目が消えたので、ようやく近江から河内和泉に戻ることが許されたんだろう。
兄媛にとって住吉は因縁の深い地だから、成長後は若日下王の配慮で住吉に居住したか、あるいはそもそも黒媛以来の御料地として住吉邑を兄媛が相続していたのかも知れない。いずれにしろ成長して独立した兄媛が住吉に住もうとしたのは当然だったが、そこはすでに旧主である息長王家の支配地に戻っていた。その時の当主は大郎子だから、当時の上流社会の結婚相手の探し方として、兄媛が自分の保護者として大郎子を選んだというのが自然な流れではないかと思われる。ここにおいて宇遅之和紀郎子の同母妹女鳥王の女系の血は、黒媛、中斯知命、兄媛を通じて息長王家に継承されることになった。また兄媛は大郎子の保護下で住吉に黒媛や中斯知命から継承してきた赤玉を祀った。それが比賣碁曽社の鎮座、始まりなのである。
大郎子が中斯知命の娘、兄媛を妃としてからの息長氏は代々、一代ごとに地方勢力と姻戚になって継体天皇の頃には近江・美濃・尾張・越前と広がる巨大な勢力になっていた。これは中斯知命の尊貴な血統のおかげだったのかもしれない。

応神天皇はなぜ大雀命(仁徳天皇)を後継に指名しなかったのか

2679年(R1年)年7月3日(水)改稿 H30年6月22日(金)修正 H25年7月17日(水)初稿
2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓」から続き

大山守命と大雀命
この質問の意図は、宇治皇子(記:宇遅若郎子)に皇位を譲りたいと思っていたからだという記の解説は説明不足でこれだけだと腑に落ちない。「大雀命の意見が朕と同じである」といったところで、皇位の譲り先は天皇自身が決めることで、大山守命や大雀命が何をいったとてどうにもなるものでもあるまい。
応神天皇には多くの皇子がいたが、その中で有力な後継者候補が大雀命だった。大雀命は他の記事では実際に「太子」と書かれており、この時もすでに「太子」とされていたと考えられる。根鳥・若沼毛二俣・隼別の3皇子はこの時まだ生まれていないか幼すぎて問題外とされた。最年長と思われる額田大中彦と次兄と思われる大山守命が外された理由は不明。単に出来の良し悪しで選ばれただけかもしれないが…。なので実際には大雀命から宇治皇子(記:宇遅若郎子)への「太子の変更」の問題だったのであり、大山守命が有力後継者「三人の中の一人」だったわけではあるまい。ではなぜ大山守命が出てきたのかは後述する。
(※古代日本の「複数太子制」については別のところで詳論する)
応神天皇も年少の宇治皇子に譲ろうと考えていた。ところが、後述するがこの頃、日本には儒教が入ってきており、大雀命と宇治皇子(記:宇遅若郎子)は帰化人の王仁博士を家庭教師につけて『論語』を学んでいるほどだった。儒教では兄をこえて弟が立つのは「長幼の序」を乱す行為であり、礼にかなっていないとされる。従って、大雀命と宇治皇子がもし儒教原理主義者だった場合、最年長の額田大中彦、なんらかの理由で額田大中彦がダメなら次兄の大山守命が太子となるべきと考える可能性が高い。そこでこの二皇子の考えを問いただしたのが今回の謎かけだったというのだが、それなら大雀命一人に問いただせばすむ話なのに、なぜ大山守命まで引っ張りだされたのかというと、それは、大山守命は儒教の存在はしっていただろうが格別信者というわけではない。だから弟が皇位を継ぐことになんら疑問はないはずで、伝統的習慣に従って皇位を辞退するだろうというのが父帝応神天皇の予想だったろう。そうなれば、儒教かぶれの大雀命もまさか兄に皇位を強要することも出来ず、折れて、宇治皇子の立太子に納得せざるをえない。これが応神天皇の計算だったと思われる。こう考えないとなぜ大山守命が同席しているのか説明できない。
ところが、二つの計算違いが起こった。一つは、大山守命が父帝の意図を察知できず、「上の子のほうがかわいい」と答えてしまったこと。「年長の子とより幼い子とではどちらが可愛いか」という質問は、つまり大山守命にも大雀命にもそれぞれすでに二人以上の子供をもっているという前提での質問だろう。普通に考えれば幼い子のほうが可愛いのではないかとも思えるが、知恵が回るようになってきた頃の子供はまた反応が面白くただ可愛いだけの幼児とは異なった愛くるしさがある。どっちが可愛いといってもいずれも一般論ではありうることで正常の範囲から逸脱することではない。確率としては大山守命の子のほうが大雀命の子より年長であり、わんぱくで面白い盛りであるのを父に報告がてら弟にも自慢したいという他愛もない気持ちだったのかもしれない。しかしこのリアクションは父帝を大いにがっかりさせたろう。「こいつは政治家に向かない」と。そこで大雀命が儒教原理主義を発揮して、兄を立てるような発言つまり「わたしも上の子が可愛いと思います」と大山守命に同意したら、父帝の目算はすべておじゃんになってしまい、不穏な空気のまま宇治皇子の立太子を強硬することになったであろう。だがここで第二の計算違いが起こった。記によると大雀命は宇治皇子を後継者にしたいとの父帝の意図を察知したのだといい、紀によると、大雀命は父帝のがっかり顔をみてすべてを察知したことになっているが、さて…? おそらく、父帝の表情から何かおかしいと気づいて「下の子のほうが可愛い」と大山守命とは逆のことを言ってみたまでのことであり、本当に宇治皇子の立太子という意図まで気づいていたのかどうかはわからない。しかし、とにもかくにも、大雀命の発言が父帝の立場を救ったわけで、当然「大雀、汝の言葉こそ我が意の通り」と陛下は大喜び。
しかし大雀命が儒教を捨てたわけではないことは後々あきらかになる。儒教はまだこの段階では国教でもなんでもない「外国のちょっと変わった教え」ぐらいにすぎないので、天皇の意志に背く正当な理由にならなかったのである。大雀命は単に「下の子が可愛い」とだけいってるのではなく「上の子は成人してるから安心だが下の子は未成人だから心配だ」という奇妙な言い訳のようなことをいってる。これは逆にいうと上の子も下の子も成人してしまえば条件は同じだともとれるし、未成人で心配な者を天皇にすべき、ともとれる。大雀命がもし父帝の意図を理解したのならこんなへんな話はしないのではないか? 大雀命はともかく「下の子が可愛い」と答えるのが正解だとまでは察知したが、その意図まではサッパリ量りかねていたので、念のため「あくまでこういう意味においては、ってことです」と逃げ道を用意したのだろう。応神天皇からみれば、大雀命に対しても「こいつは何を見当ちがいなことを言ってるんだ?」と思ったはずだが、同時にまた自分自身の情況がみえてないことを自覚して慎重な言葉選びをした大雀命を、大山守命よりは多少は評価したと思われる。

この後、大山守命には「山海之政」(うみやまのまつりごと)が命じられた。同じことを紀には「掌、山川林野」とあり。これはなんのことかというと、応神朝では記紀ともに山守部・海部(紀:海人)を設置とあり、記ではさらに山部・伊勢部の設置があり、これら4つの部民が関係するのは明らかだろう。山部は山林の産物を貢納する部民、海部は海産物を貢納する部民。海部は普通はアマベと訓むが、ウミベまたはワタベと訓んでもさしつかえないと思う。アマベは漁労水産業としての一面が、ワタベは海軍または海上運輸業の面が強調されると思う。山守部というのは山部と同じものとする説や、大山守命の私領地とする説もあるがそうではなく、山林の保守管理をする部。山部は産物を収穫する部で山守部とは別だが、山守部は山部に付属ないし所属していたらしい。伊勢部は伊勢国の海部のことという説があるがそうではなく、磯部・石部・伊西部とも書き、海部の一種。浜辺での産物を担当するだけで通常の海部ほど多角的な活動はしない。山部・山守部・海部・伊勢部はいずれも関東から九州まで全国各地に設定された。
大山守命が任じられたのはこれらを統括するポスト。
この時期にこのようなポストが必要とされたのは、神功皇后以来、半島や大陸との貿易が活発化した結果、輸出品の開発や各地の物資の流通を管理する必要がでてきたからだろう。海洋民や山岳民というのは交易民でもあり物資の流通を担っていた人々でもあった。いわばこのポストは今でいう経済産業大臣であって、極めて重要な地位であったろう。
このポストはおそらくかなりの膨大な事務作業(むろんその多くは下っ端の役人がやるんだがその管理と情況掌握だけでも)忙殺されるポストであって、応神天皇父帝の言葉を表面通り受け取ってしまう大山守命の性格は政治家より堅実で地道な官僚向きだと判断されたのだと思う。
ところでこれによって大山守命は全国の山岳民と海洋民の首領となったともいえるのだが、定住農耕民に比べると、山の民・海の民の文化は保守的因習的土着的であって、容易に大陸の漢文化を受容しなかった。漢文明は定住農耕民を前提とした文化で、狩猟採集の文化は「夷狄」とみなすのでもともと山人・海人にはなじまない。さらにいえば弥生文化の後継者である平野部の農民よりも、はるかに縄文文化を色濃く残していた人々だともいえる。大山守命が自分の使命に忠実に邁進すればするほど、大山守命を「我らが殿様」と仰ぐ人々の利益代表と化していかざるを得ない。三韓征伐以来の大陸文化受容政策に反対する守旧派の頭領に押し上げられていく(この話は次回の「大山守命の乱」に続く)。
大雀命は次期天皇の地位はお召し上げになったが、「食国之政(をすくにのまつりごと)を執りもちて白したまへ」と命ぜられた。紀には「太子を輔け、国事を知らせ」とあり、どちらも宇治太子(=将来の天皇)の補佐というより、摂政に近いようなニュアンスになっている。だがこれは大雀命が天皇になったという事実からの後付けバイアスがかかっている。不当な即位を少しでも合理化したいという気持ちから出た表現だろう。当時はまだ、天皇自身の身の上になんの問題もないにもかかわらずわざわざ実権のない名目上の天皇と、実際に政治を行う摂政に分けるという発想はなかったろう(天皇の身の上に問題がある場合は当然摂政もありうるがここはそのケースに当たっていない)。大雀命がそんなに優秀なら太子に留任させればいいのであって、応神天皇が宇治皇子を太子と定めた以上は、「食国之政」や「知国事」は宇治太子の専権でなければおかしい。
実際には応神天皇が大雀命に期待した仕事は「韓国之政」や「知韓事」つまり「外交」だっと思われる(ちなみに、「食国之政」や「知国事」は「韓国之政」や「知韓事」とあったのを記紀がことさらに改竄したと強弁しなくても、和語の「くに」がそもそも日本列島内部だけをさすとは限らない。「我が国」「この国」といった時、何に対していってるのかによっては、当時は三韓諸国もわが帝国の一部だったのだから。ついでに米国も外務省を国務省っていってるしw)。大雀命は早くから外交に関与していたことは大阪に常駐していたらしいこと、武内宿禰と懇意であること、葛城氏の娘を妃としていたこと等から推測できる。大阪は海外の使節と物資が上陸するところで、検問所のような役所が北九州と別に大阪にもあったろう。武内宿禰は神功皇后の新羅征伐の時の功臣で、当時の三大臣とは、祭祀を担当した烏賊津臣と、軍事を監督した三輪大友主と、内政を総括した武内宿禰だった。この功績により武内宿禰とその後裔は、対外交易を氏族の利権としたが、貿易は莫大な富を生むのでそれを利権とする外務大臣は自ずから大蔵大臣を兼ね、その地位は葛城氏→平群氏→巨勢氏→蘇我氏と世襲されていく。そして大雀命の、未知の情況に対する慎重な態度は、父帝応神天皇の目からみて、半島や大陸の海千山千のスレた外交官や国際商人を相手にするに適していると思われたかもしれない。しかし大雀命の最大のバックボーンとなった葛城氏は、多くの帰化人たちを手下に組み入れ、あまりにも海外の文化に馴染みすぎ、贅を極め財閥化して、庶民の目にはハイカラ趣味ではあっても外国の手先のような存在と映り、国内ではあまり人気がなかった。
図式化していってみれば大山守命の下には守旧派・伝統派・土着派・国粋派の人々が集まり、大雀命の下には開明派・進歩派・漢文派・国際派の人々が集まり、自然と両者の対立の形勢となっていったものと思われるのだ。
(ついでにいうと宇治若郎子が分掌したのは「軍事」だったと思われるがそれについては前章で述べたとおり)
応神天皇
↑小室三兄弟(橋爪・副島・宮台)も実は仲が悪いって副島隆彦が言ってたな。なぜ仲良く出来ないのかw あの世で師匠が怒ってるよw

矢河枝比賣・葛野の歌
(後日加筆予定)

矢河枝比賣・蟹の歌
(※この記事は「楽浪(ささなみ)と楽浪郡」に移動しました)
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楽浪(ささなみ)と楽浪郡」に続く

楽浪(ささなみ)と楽浪郡

2678(令和元)年4月24日(水)改稿
今日は平成30年6月22日(金)、カニの日。古事記にもカニは出てくる。
矢河枝比賣・蟹の歌
この歌は、敦賀からやってきた蟹が木幡まできて美少女と出会ったっていう歌なんだが、難解な句が多く、古来から学者同士でも議論がある。

まず、「蟹が酷い道(=敦賀から近江を経由する道)をやってきた」という前半と「我(天皇)がスイスイ歩いていったら木幡で美少女と会ったよ」っていう後半をどうつなげて解釈するかで説がわかれる。
小学館の日本古典文学全集の古事記(つまり荻原浅男だな)は「この歌の中の『ワ(我)』は表面的には蟹のことだが裏の意味では応神天皇で、二重性をもたせた『ワ(我)』だ」という。つまり「我(蟹)が敦賀から近江を経由してやってきて木幡で美少女と会ったよ」という意味と「我(天皇)が敦賀から近江を経由してやってきて木幡で美少女と会ったよ」という意味が二重になった歌だと。土橋寛(つちはしゆたか)は「蟹が難儀して歩くような酷い道を我(天皇)がスイスイと難なく歩いていくと木幡で美少女にあったよ」と解釈する説。つまり前半は天皇の歩く「道」を修飾している部分。蟹が陸あるいたらちょっとした凸凹でも難儀するだろうから、あまり難儀な道の喩えとしてどうなのかと思うが、この問題は後の方で自然消滅する(後述)。
一つの完結した作品として鑑賞する場合は、普通はこの土橋説か荻原説、どっちかの説で問題ないかのように思われる。多少の矛盾は「そこは文学なんで」。

だがそこで終わらせたら学者の仕事はなくなってしまうんで、いくらか踏み込んで議論してる説がある。
武田祐吉は、「蟹は北からきたのに、大和から佐々那美(ささなみ、近江の西南部)へ向かう道(佐々那美遅(ささなみぢ、ササナミ路)の途中で木幡の道で、というのは前半と後半のつづき具合がおかしい、前半の蟹の歌は「かづき息づき」までで、後半は大和から佐々那美へ行く途中木幡で少女にあうという別の歌であって、それに蟹の歌の一部が結びついて歌われたんだろう」という説。つまり武田は佐々那美遅(ささなみぢ)を「大和から佐々那美へ向かって行く道」と解釈している。佐々那美は神功皇后が忍熊王の乱を鎮圧するところでは「沙々那美」と書かれている。風土記逸文では「細浪」、万葉集では「楽浪」とも書かれている。今のどこなのかはいろんな言われ方があって正確な範囲ははっきりしないが、近江の南部または南西部だとも、志賀郡のあたりともいう。
この武田説に対し、岩波文学大系の古事記(つまり倉野憲司だな)は「土橋説も武田説も物語に即して解釈しようとするから矛盾があるようにみえるんで、この歌を物語と切り離せば、『難儀な道だが俺様(蟹)が難なく歩いていくと少女にあった』という歌で、自然な歌として難なくとける」という。「宴席における一般的な祝言の歌が特定の物語(=応神天皇の物語)に結び付けられたために多少の矛盾が生じた」のだと。こういう倉野憲司みたいな説は学者ウケするんで、おそらく通説になってるんだろう。だが一般的な歌を特定の物語に結びつけたというのなら、伝承化する前の段階で「創作」だった段階があるはずで、それなら伝承者を僭称する創作者がもっとちゃんと矛盾なく作り込んだんじゃないのか。そういう疑問に配慮せず、物語を事実として具体的な政治的事件にむすびつけず物語構造の問題に回収してしまう議論と同様、歌を成立の経緯で解体して文学性を不当に低減させる議論ではないかと思われる。

「ササナミ路」とはどの道?
この歌、前半と後半のつづき具合がおかしいというのは、蟹が北からきてるのに、天皇は大和から近江に向かっていて、方向が逆だからなんだが、天皇の歩いている方向は二つの根拠から判断されてる。一つは歌の中の「シナダユフ ササナミヂ」(しなだゆふ 佐々那美路)という句、もう一つは古事記の地の文で「近淡海国に越え幸(いでま)す時」と説明があるから。

まず佐々那美は既述のごとく近江の西南部をいう地名というのが通説で、いま便宜的に通説を前提として話をすすめる。「佐々那美路」は「佐々那美の中を通ってる道」という解釈でも十分に許容範囲だとは思うが、普通に解釈すれば「佐々那美に向かって行く道」というのが語感的に自然。だから、大抵の学者は宇治や木幡のあたりから近江に続く道と判断してる。ただ、上述の荻原浅男の説では蟹と天皇は二重写しの存在で、歩いたコースも同じだから、荻原一人だけは「湖西の古道。湖南の佐々那美に通じる道」としている。岩波の日本思想大系の古事記(佐伯有清かな)は、「佐々那美路を湖西の古道とするとシナダユフがその地勢にあわないから、宇治から佐々那美にぬける道」とするのが正しいだろうとして、荻原説を否定している。

佐々那美路を修飾しているシナダユフという言葉について、本居宣長はシナは坂道、タユフは「たゆたふ」の意だといい、武田祐吉はシナは「級」で、段のある、高低のある意。ダユフは不明としつつも一案としてダは田、ユフは「結う」。シナダユフとは高低があって段のある田が連続している意ではないかと自信なさげにいってる。武田の方がちと苦しいが、荻原浅男は武田寄りの解釈でシナは階級、階段。シナダユフで高低のある意という。佐伯有清は、シナは高低のあるもので「坂道だ」として武田説を統合しつつもはっきり宣長支持、タユフについても宣長寄りで「たゆみ」「たゆたひ」と同根として‏いる。こまけぇことはさておけば実質問題ここまではどの説でも大差ないのだが、ただ、佐伯はタユフは「疲れ滞る意だ」と付け加えている。それで「しなだゆふ佐々那美路」とは、荻原説だと単に高低のある道ってだけのことにすぎないが、佐伯説では「歩き疲れて進まなくなるような坂道」なのである。おそらく荻原は高低があっても緩やかなもので、湖西の平原でもあてはまると考えているのだろうが、佐伯説だとそれだと「シナダユフという形容が地勢からいってあわない」、だから湖西の道ではなく宇治から近江にぬける道のことだ、となる。ここまで説明してきてこんなこというのもアレだが、以上の学者の議論はあまり水準が高いとはいえない。ほとんどコジツケの感があり、こんな手法でいいなら、なんとでも無限にいえるんだが。こういう憶測だらけの議論はわれわれアマチュアの古代史ごっこに任せてだな、学者は誠実に「語義未詳」で済ませとくのが学問的態度だぞw 「語義未詳」で終わらせると金返せって文句いわれるだろうから素人を喜ばす芸の一つも見せたくなるだろうが、そこをぐっと堪えるのも学者の矜持だろうよ。シナダユフの俺の解釈は後回しにするが、ただ、ここまでの議論をみる限り、宣長から佐伯までみな適当な思いつきのようなことを言っており、天皇の歩いた方向を決定づけるような根拠になるとはぜんぜん思えない。ついでにいうとシナダユフが語義未詳となると「酷い道、難儀する道」という解釈が消えるので、土橋寛の「蟹が難儀して歩くような酷い道を我(天皇)がスイスイと難なく歩いていくと木幡で美少女にあったよ」という解釈は「蟹がやってきた道を我(天皇)も歩いていったら木幡で美少女にあったよ」となり酷い道なのにスイスイ歩いたってニュアンスは消え、「目の前に料理として出された蟹、この蟹が歩いた道なんだなぁ」という感慨だけに変わる。
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このほうがいいだろう、酷い道の喩えに「蟹が難儀する」ってのは前述のようにへんだもの。

もう一つの根拠、古事記の地の文で「近淡海国に越え幸(いでま)しし時」と説明がある。だから大和から近江に向かう途中なのだ、というのだが、これは成り立たない。日本書紀でも、近江に行幸したとあり、その時に通り道の宇治で詠んだ「国の秀も見ゆ」も出てくる。だが書紀はそれっきりで終わり、蟹の歌がない。古事記は続けて「木幡に到りませる時」として蟹の歌の話になるので、うっかりすると「大和→宇治→木幡→近江」というコースを脳内に描いてしまい、すべて近江への往路と思ってしまうが、本当にそうか? 書紀によれば「近江行幸」が本務のはずだが。和邇氏の姫とのお見合いが真の目的だから近江には形だけちょこっと入っただけだという説は採れない。都によびつければ済むんだからw 応神天皇のバックボーン、息長氏の本拠ってことや、少年時代の敦賀行幸のことなどを考えても、お見合いが本題だったかお見合いはあくまでオマケだったかに関わらず、近江行幸はそれとしてきっちりやったに決まってるだろう、わざわざ行ったんだから。当然、琵琶湖一周ぐらいしたろ。そしたら、宇治での「国の秀も見ゆ」の時は往路だとしても、木幡での蟹は帰路だったってこともありうるんでないのカニ? こうなると、学界では少数派のような印象のある荻原説&土橋説が全俺の中で脚光を浴びてくる、つまり蟹の歩いてきた方向と天皇の歩いてきた方向が一致してるわけよ。だから武田説のように前半と後半とで矛盾してるとは思わないし、倉野説のように二つの別々の歌をくっつけたんだと考える必要もない。

じゃ、荻原説が正しかったのかというと、それで終わる話でもない。土橋説では蟹は道の険阻をいうための喩えとして出てくるので、天皇とは関係ないが、荻原説では蟹と天皇は同一行動をとっているのでいわば同一存在。ところが歌の途中で突然カイツブリ(鳰鳥)にも喩えられている。カイツブリのように水に潜ったり息つぎしたり、というのだ。荻原は「蟹の生態としては奇妙だから海人(あま)の動作を蟹に投影したんだろう」と言ってるが、なんでそんなものを投影しなければならんのか? 倉野は息をつくのが主で潜るのは軽く添えただけというが、それならカイツブリもってくるのはおかしくないか、文学表現として意味がわからない。どうも蟹とカイツブリは別の何かではないか? 蟹はイチヂ島、ミ島に到着したと詠ってるが、この島はどの学者も不明としている。荻原浅男は「竹生島や沖島ではあるまい」というが薄々そう思ってるから出た言葉で、島というからにはそれぐらいしかない。

イチヂ島は市杵島姫のイチキ島や厳島と同じく「斎(いつ)く島」(神を祀ってる島)「著しく神聖な島」の意で、ミ島(御島)はその言い換え、具体的には竹生島や沖島や多景島を想定されてるんだろうが、浦島伝説の蓬莱島のような架空の島であり、海底異界である「わたつみの宮」(竜宮城)を海上の島に見立てたもの。蟹はそこまでしか行ってない。そこでカイツブリが潜ったり息継ぎしたりってのは、海底の竜宮城に行こうとして潜るんだが、竜宮城は島として海上にあるので潜ったつもりが同時に頭が海面に出てしまうという空間の歪みの表現でもある。海外の神話では脱皮を繰り返して成長していく生命力から蟹を成長を司る水の精とみなされていたが、日本でも『古語拾遺』に掃守連(かにもりのむらじ)の祖天忍人命が、豊玉姫に鵜萱葺不合命が産まれた際に、産室にいた蟹を箒で追い払ったという。なぜそんなところに蟹がいたのか神話では不明だが、蟹は出産を終えた豊玉姫本人の姿で、箒というのは掃除の道具ではなく、玉串(お祓い棒)のような神官が祭祀で使う神具(実際には木の枝)であり、「追い払った」のではなく「お祓いをした」んだろう。豊玉姫は蟹じゃなくてワニじゃなかったか、というだろうが、ワニの正体についてはいろんな説があって爬虫類の鰐とは限らない。豊玉姫の場合はどれが正しいというのでもなく、鰐でもあり鮫でもあり海蛇でもあり亀でもあり龍でもある、海の精霊のようなものであって、具体的な生物学的な意味でのなんらかの生物という話ではない。蟹座の蟹も古い時代のエジプトでは甲虫(スカラベ)、シュメールやインドでは蟹でもあり亀でもあったし、縄文土器では月を兎や蛙であらわす。中国では兎は雨期に亀となり亀は乾期に兎となるという言い伝えがあり、兎と蝦蟇と蟹はすべて月の精として同一だった。これらの生き物は神話上の概念としてはどれも互換可能な同一の精霊、生命を育む水の精霊をあらわしているのである。国つ神がドラゴンや蛇など爬虫類であらわされるのに対し、本智和気皇子の鵠(くぐい)やヤマトタケルの白鳥のように、天つ神や皇族男子は様々な鳥をシンボルとしている。浦島太郎の物語では乙姫の正体は亀で、浦島太郎は鶴に変身してしまう。浦島太郎の物語の元型が海幸山幸の神話だから、豊玉姫のワニとセットで山幸彦もなんらかの鳥でありうる。つまり蟹とカイツブリは豊玉姫と山幸彦の物語を暗喩しており、同時に矢河枝比賣と応神天皇を暗示している。蟹とカイツブリが出会うイチヂ島は架空の竜宮城的な存在だから、文学的に(ご都合主義的に)実質どこをさしてるかはなんとでもいえるが、明らかにこの歌は「木幡での宴席は竜宮城のように楽しく夢のような世界だ」といっており、カイツブリと蟹の喩えは天皇自身と矢河江比賣をさしている。

「シナダユフ」の新解釈
で、蟹とカイツブリ(鳰鳥)が揃ったところでシナダユフが出てくる。似た言葉に「級照るや」(しなてるや)という言葉がありこれは「鳰の湖」(にほのうみ、琵琶湖の別名)にかかる枕詞。琵琶湖を「鳰の湖」というのは野洲郡邇保郷の「邇保」からきたらしい。今の近江八幡市の「十王町」と同市内で隣接する「江頭」のいずれかもしくは両地をあわせたあたりらしい。もっとも、琵琶湖を「鳰の湖」というのは中世から起こったことで古代には無かったことといわれるが、記録がないから無かったというのは学問的ではあっても、絶対の根拠でもない。「級照るや」とシナダユフ、無関係ですますには似すぎてないか? 関係あるとすれば、もともと「鳰鳥」がすでにシナダユフを導き出す縁語だったんだろう。もしくは「息づき」に続いてすぐシナダユフなのだから、「息」と「シナ」が関係ありそう。岩波日本書紀の「級長戸辺命」(しなとべのみこと)の注釈みると「シは息とか風のことでナは長い、シナは息長の意」とあるから、息とシナが縁語であるのは間違いない。また「トはツの訛りで変化しやすい音」ともあり。シナダユフのシナダはシナトの意味(もしくは訛り、もしくは古形)で「風」の意だろう(あるいは風の古語か雅名)。ユフがわからないが、第一案として「呼ぶ」かな。シナダユフは「風をよぶ」の意味。第二案として、万葉時代の「通ふ」(かよふ)の東国方言「かゆふ」の意か。これだとシナダユフは「風かよう」の意味。第三案として、「寄る」に継続反復の助動詞「ふ」が付いた「寄らふ」が縮まって「寄ふ」になって「ユフ」に訛ったか、ユラフに訛ってからユフに縮まったか。正確にはユフがもともとの形で、後世(奈良朝)の文法だとヨラフになるってことだろう。そんな文法ないというのは反論として無効。国語学の射程は奈良時代までしかフォローできないので、奈良時代にすでに文法違いの古語になっていた言葉は国語学の理論では解釈できない。で、ユフが「寄らふ」と同義だとすると「段々に近づいてくる、徐々に寄ってくる」の意だから、シナダユフは「風が(息が)徐々に近づいてくる」の意味となる。これ何のことかと思うだろうが、この場合の風というのは単なる風ではなくて、第一に気候のこと、第二に風は風でも西から吹いてくる風、西風のこと。この二つの意味が同じ言葉になるってのは意味わかるよね? 北緯30度以上の地帯では偏西風が吹いてるわけで、古代文明のおもだったところではエジプトとインドを除く全地域に共通の現象。だから、世界各地の神話や習俗、迷信などでは風は西という方角と強く結びついてるのだ。中国では八門八風といって8つの方角から吹いてくる8つの風にそれぞれ名前がついてるが、甲骨文字の段階では4つしかなかった。西から吹く「折風」または「不周風」だけが古い神話に出てくる元祖で、後は後世に付加されたものだ。で、天気予報みてれば誰でもすぐわかることだが、日本では気候は、九州から関西へ、関西から中部、関東へ、というように西から徐々に移動している。つまりだよ、シナダユフ、「風が徐々に寄ってくる」というのは西から徐々に東へ天気が変わってくる、雲が流れてくる現象のことではないのかな。まぁ第二案の「風かよう」でも、風といえば西に決まってるので結果的にほとんど同じであり、第一案の「風をよぶ」でも呼べば近寄ってくるんだからこれも結果的にほとんど同じだが。
「みほどりの かづきいきづき しなだゆふ ささなみぢを」は「鳰鳥が潜ったり息継ぎをしたりしながら近寄ってくる、その息が近寄るという佐々那美の道を」と訳せる。「風が寄ってくる」にしろ「風を呼ぶ」にしろ「風かよう」にしろ、シナダユフという言葉は地形をいうものでは無かった。だから佐伯有清がいうような「地勢にあわない」などということにはならない。

楽浪郡との関係w
問題は、佐々那美という土地がなぜシナダユフ(風を呼ぶ/風かよう/風が寄る)といわれるのか、だが。まず佐々那美は、古事記の中で神功皇后が忍熊王の乱を鎮圧したところでは「沙々那美」と書かれ、『近江国風土記』逸文では「細浪」、『万葉集』では「楽浪」とも書かれる。読みはどれもササナミ。楽浪といえば今の北朝鮮にあった楽浪郡を連想するが、もちろん通説ではそれとこれとは無関係だという。万葉集では楽浪の他にも「神楽浪」とか「神楽声浪」と書かれた例もある。なので「楽」の字でササと読ませるのは、お神楽(かぐら)の合いの手のササ(さぁさぁ?さっさ?)という掛け声からとってるらしい。つまり当て字、文字遊びだ。だから楽浪郡とは関係ないという。地名の語源としては『近江国風土記』逸文では「淡海国者(中略)一名云細波国。所以目前向観湖上之漣漪也」(淡海国は一名を細波国(ささなみのくに)と云ふ。目前に湖上のさざなみを向かい観るゆえなり)とあるが誰でも思いつく言い方で採るにたらない。地名研究の方では海ではなく山並み、山地の地形からきてるらしいがこれもどうだろうねぇ…?
シナは風とか息のことだと岩波の日本書紀の注にあるのは前述の通り(この注釈は大野晋だろうな)。するとシナダユフは息をする、息継ぎをするの意でもありうる。「鳰鳥の かづき息づき」という句がシナダユフを導き出す縁語になってるんだから、ここは「カイツブリが潜ったり息継ぎしたりするように、息継ぎして発するササという声と同じ地名のササナミへの道」と訳せる。掛詞(かけことば)の序詞(じょことば)になってるわけだ。

ここで終わりにしてもいいのだが、普通すぎてつまらんなw オマケに俺の説、つまりは通説に反するネタを投下してみようw
実は佐々那美の地は楽浪郡とも縁浅からぬ土地柄なのである。佐々那美=滋賀郡には大友氏・三津氏・穴太(あなほ)氏・錦部氏などの帰化人系の氏族が住んでいた。これらの諸氏族は共通して後漢の献帝の子孫と自称しており、要するに東漢(やまとのあや)氏の同族である。東漢氏は大和国高市郡の檜前に本拠があったが、これは朝廷にお仕えする都合上、中央の都に移住したわけで、もともとは近江の滋賀郡にいたんだろう。日本では漢の字を「中国」の意味で訓読する場合はアヤと読む。これは「楽浪」の朝鮮語読みからきている。朝鮮語で「楽浪」は [lak-lang] と [ak-lang] の2種類の発音があり、李丙燾の有名な説では原住民語のアラという地名に中国人が漢字をあてたのが「楽浪」で、アは中央、ラは国土を意味する語尾だという。辰韓人が楽浪人を阿残とよぶのも「我が残りの人」という意味ではなく「阿良(アラ)の残賊」の意味だとも。そうすると、どうもアラってのは北朝鮮の原住民が「中国/中原」という漢字語を自民族の言葉に意訳して作った造語っぽいな。中国人も原住民が中国をアラと呼んでることを認識した上で、占領地を統治する出先機関を楽浪郡(アラ=中国)と名付けた。GHQが日本を占領してBeikoku州に改名するようなもんだな。で、東漢氏は楽浪郡に長くいて任那の阿羅(弁韓の安邪国)を経由してきたけれども、(自称だけかもしれんがともかく)後漢の献帝の子孫なわけで、アイデンティティーとしては朝鮮人ではなく中国人なわけだ。楽浪からやってきた漢氏の集団が住んでたからその地も「楽浪」と呼ばれたんであって、ずっと後になってから訓読してササナミという地名を作り出したんだろう。

で、これで終わりでもいいんだが、もうちょいゴリ押ししてみようw
何が気になるって、楽浪の読み方2つ、アラとササナミがあるうちの、ササナミの中にアラが含まれてる。朝鮮語では「徐羅伐」を「徐那伐」と書いたりするようにラ行とナ行が音通で交代しやすい。だからササナミも元はササラミだったかもしれんよ? 分解すれば「ササ・アラ・ミ」。もしかしたらササナミってのは近江の楽浪を訓読みしてできたんじゃなくて、もともと本家本元の楽浪郡のことじゃあるまいか? ササはサキ(先/前)の意で中国の出先機関だから「ササ・アラ」か、もしくはササは細かい・小さいの意だから中国本土の「大中国」に対して楽浪郡はそのミニ版「小中国」だから「ササ・アラ」か。ミは「ササラ海」で琵琶湖のことか、もしくは楽浪郡は中国に見(まみ)える、中国が見えるから「ササラ見」か。漢字文献の記録はあくまで記録上のもので、原住民の言葉を反映していない。高句麗は原住民の言葉ではコウクリじゃなくて「コマ」、百済もヒャクサイじゃなくて「クダラ」、モンゴル時代には北京は「カンバリク」、泉州は「ザイトン」だったけど漢文で記録するとそれはわからなくなる。中国の文献だけじゃいくら調べても百済の読みがクダラで高句麗がコマだとは絶対にわからない。記録上は「倭」でも、倭人たちは「ヤマト」と発音してたんであって自分たちが「ワ」だとは思ってなかった。中国では異民族と国境を接する郡は「辺郡」といって、事実上の植民地であって中国人と異民族が混在していた。そういうところでは、中国人が認識する漢字語の地名とは別に原住民語の地名が並行しただろう。だから楽浪郡の時代に、原住民語で楽浪郡を「ササナミの国/ササラミの国」と言ってたってことも絶対ないともいえないのではないか。

いや、百歩譲って楽浪郡がササナミだったとしても、朝鮮原住民の言葉が日本語なのはおかしくないか? というツッコミもあるだろう。だが、それが実はおかしくない。それについては2通りの考え方ができる。(以下、後日に執筆予定)
なお、6月22日は「ボーリングの日」でもあるのでこの動画をどうぞw↓

百済の朝貢、大山守命の乱」に続く

百済の朝貢、大山守命の乱

H30年4月23日(月)改稿 H25年10月16日(水)初稿
カミナガヒメの入内
髪長媛(記:髪長比賣)は諸県君氏の娘、この諸県(もろがた)というのは今の宮崎県の南部。古くは日向国というのは今の宮崎県だけでなく鹿児島県も含んでいた。諸県君(もろがたのきみ)というのは『先代旧事本紀』によると景行天皇が九州に御親征の折り、現地のミハカシヒメ(記:美波迦斯毘賣/紀:御刀媛)との間に生まれた豊国別皇子の子孫であるという。このミハカシヒメっていうのは別名「襲之武媛」(そのたけるひめ)といい素性不明で日向に熊襲退治してる景行天皇が突然召し入れたことになってるが、前後の経緯から察するに、熊襲梟帥(くまそたける)の娘で、天皇の命により父を殺した市乾鹿文(いちふかや)と同一人物だろう。書紀では市乾鹿文は父殺しの罪で処刑されたことになっているので、ミハカシヒメは別人とせざるを得なかったんだろう。市乾鹿文の妹、市鹿文(いちかや)がなぜか火国造にされてるが意味がわからない。火国は後世でいえば肥後、これは襲国造の間違いだろう。だから「襲之武媛」(そのたけるひめ)という別名も襲国の梟帥(タケル)という意味で辻褄があってるんで、この姉妹は姉妹ではなくもともと同一人物だろう。だからミハカシヒメと景行天皇との間に生まれた豊国別皇子を、記紀では日向国造の祖といっており、旧事本紀では応神天皇の時、豊国別皇子の孫の「老男」(おいを)という者を日向国造に任じたとあり、これは書紀の応神十一年に出てくる牛諸井(うしもろゐ)と同一人物だろう(後世の系図では老男と牛諸井を親子にしていてその可能性もなくはない)。旧事本紀が国造任命を応神天皇の時としているのはこれにこじつけたのだろう。もとは「襲国造」だったのである。襲国は今の宮崎県北部のことだが、ヤマトタケルの熊襲征伐が完了してからは「諸県」(宮崎県南部)に本拠を移して、宮崎県北部から鹿児島県下まで管轄し、豊国別皇子が生まれてからは「諸県君」と称した。生まれる前や皇子の幼児期は母の襲之武媛(=ミハカシヒメ)が記紀や風土記などによくみられる女性首長として取り仕切ってたんだろう。だから後世の系図類では諸県君も日向国造も同一氏族としている。書紀では景行天皇の時すでに諸県君の一族で泉媛という者と会見したという記事があることから、応神天皇の時の髪長媛と景行天皇の時の泉媛とを同一視することを疑問視する説もあるが、天皇が孫に会ったと思えば問題ないんじゃないかな?
で、この諸県君だが、皇室に近い皇族であるとともに九州きっての大豪族だ。皇族系とはいえ遠隔地の地方豪族から后妃が立つ例は多くない。神功皇后以来、半島との交通が活発化している折り、九州の政治が重要になってきて、諸県君氏の存在感も増していたのではないかと思われ、諸県氏は海の民として瀬戸内海の海上警備と海上輸送を担ったろうが、それだけではない。隼人族の領袖として、近習隼人(ちかつかのはやと)のリクルート(人員の調達確保)も担ったろう。近習隼人は皇族個人につく「ボディーガード兼召使い」で、政治上の機密や個人のプライバシーにも接することがありうるので、忠誠心が篤く純朴で意志が固い人材でなくてはならない。隼人はそこが見込まれたんだろう(ちなみに隼人と熊襲はまったく別の概念)。
紀をみるに大雀皇子は早くから政治に関与していて(現代風にいえば閣僚入りしていて)、髪長媛を見染めたのも大阪でのことでその頃は大阪(当時の言い方では難波)に常駐していたらしい。いうまでもなく大陸や半島からの使者に対しては表玄関であり、海外の物資が荷揚げされるところでもある。
応神天皇が九州の大豪族の娘をあえて大雀皇子に与えたのも政治的な背景があったのではないだろうか。とくに葛城氏との関係では大雀皇子は癒着しすぎて身動きがとれなくなっていくことを予想して、葛城氏を牽制する意味があったと思われる。だからカミナガヒメから生まれた大日下王(おほくさかのみこ)は、思想的にも、また支持勢力からいっても、葛城氏からみて邪魔物になっていき、後々の内乱の火種となっていく…。

国栖
(土蜘蛛との関係など、後日加筆予定)

三韓の朝貢
「朝貢にきた『新羅人』に作らせたのが『百済池』なのだ」ってのは前後つながっていない。この文章はおかしく、途中の言葉が落ちている。紀では高麗人・百済人・任那人・新羅人がきて、彼らに作らせたのが「韓人池」だという。両書照合して察するところ、高麗池・百済池・任那池・新羅池があってそれらの総称が「韓人池」なのであろう。記の文章は単なる誤脱なのか省略表現なのかわからないがとにかく誤解を与える文章になっている。ここで注意すべきはなぜか四者が同時に居合わせていること、これは日本からわざわざ呼びつけたか、もしくは大使館的なものがあって多くの外国人が常駐していたかのいずれかである。農業用の貯水池を作らせたというのは徳川時代に幕府が伊達氏や島津氏に土木工事を課したのを連想させる。ただ、高句麗は任那のような小国と違い大国であるから、ここで見栄を張りたいところ。新羅と百済もお互いに対抗意識があったろう。しかしそこで各国に自由に作らせたら小国任那がいちばん不利になる。そこで武内宿禰が工事の総監督として、あれこれ調整したんだろうが、西川権の説では、各国の担当する池の大きさを厳密に同等にし、三韓平等主義を押し出したのだという。すると、工事規模を国力の小さい任那にあわせたろうから、高句麗にしたらさしたる苦役ではないが、見栄を張る機会を奪われたばかりか百済・新羅のような格下や、それどころか任那ごときゴミとも対等に並ばされるという屈辱だったことになる。(ちなみにこの頃はまだ楽浪郡や帯方郡が健在で、高句麗・百済・新羅の三国抗争が起こる前のことで、三国が倭国ぬきで直接外交することもまだなかった)
西川権の説では、神功皇后は百済だけを偏愛して過剰に恩恵を与えていたが、それでは朝鮮半島の国々をまるく治めることは出来ないと苦々しく思っていた応神天皇は自分の代になってから母后の外交路線を変更したというわけ。だが、俺の説では、百済と日本の国交が開けたのは実際は応神天皇からで、神功皇后の時代には百済はまだきてない。だから神功皇后の百済優遇というのは、実際は応神朝の前半の政策で、応神朝の後期になってから武内宿禰の主導で三韓平等策にきりかわったものと思う。この武内宿禰の方針=「三韓平等政策」は、後々朝鮮半島に大波乱を起こす火種になっていく。
百済池は奈良県広陵町百済にある池(池はあるがちょい検索しただけでは池の名は判明せず)のことだという説や、韓人池は奈良県田原本町(たわらもとちょう)唐古にある唐古池のことだとの説もあるが、どちらもさして確実な根拠のあることではない。広陵町と田原本町は隣り町でここらに4つ並んだ池が昔はあったのかも、とした上で、グーグルマップで見た感じだと、広陵町のが「百済池」だとして、田原本町立平野小学校の西に隣接する池が「新羅池」、田原本警察署の北西200mほどにある池が「高麗池」、唐古池が「任那池」ではないかとも思える。しかし、池は奈良盆地には大小無数にあって、長い間には埋められてしまった池、新しく掘られた池、拡大工事で複数の池がつながり一つになったり、大きな池が埋められて複数の池に分断されたり、いろいろあったろうから今ではどれがどれだかわからないっこないなぁ。どこそこが「なんとかの池」だというのはわたしの妄想で、これ以上は現地在住の郷土史研究家でないとむり(^^;)

百済の朝貢
A)馬
百済が馬をもってきたってのがなぜ大事件かというと、神功皇后以来、新羅は御馬甘(みまかひ)、百済が渡屯家(わたりのみやけ)と定められてきた。渡屯家は紀には高句麗・百済・新羅を「内官家屯倉(うちつみやけ)」としたとあり、新羅の御馬甘は「飼部(みまかひ)」と書いてる。ミヤケというのは要するに皇室の直轄としたということで、貴族の諸氏族に与えないということ。記紀では朝鮮関係に貴族たちが関与してるけれどもあくまで皇室の代官であって領主ではないということだろう。ただ、大陸の文化を吸い上げるストローとしては古くから中華文明に親しんでる百済一国あれば事足りるんで、そうすると新羅の存在意義が薄れる。そこで騎馬文化にかんしてのみは新羅の担当とした。新羅は高句麗との交流が深く、高句麗はいわゆる騎馬民族ではないが、騎馬民族と接してその文化も早くから取り入れていたから、中国から間接的に輸入するよりよかった。しかし百済は新羅の役割も奪い取ろうとしたのだろう。牡牝一対の馬ということは、これは本番ではなくてあくまで見本ではないか?「ほら、新羅の馬より良いでしょう?」というアピール、セールス、宣伝、売り込みなわけだ。だがそういう他人の縄張りを踏み荒らすようなことをすると、新羅だって黙ってるわけにはいかない。新羅も中国の中華文化を直輸入して百済を通さずに日本に送ろうとするわけで、後々自分の首を締めることになっていく。
B)大鏡と横刀
紀では「七枝刀」と「七子鏡」になっている。石上神宮の神宝で有名な「七支刀」だ。書紀は神功皇后の時だとし、古事記は応神天皇の時だとしているのだから、書紀のいう「七枝刀&七子鏡」と古事記のいう「横刀&大鏡」は別のものとも考えられないこともないが、ともに目立って特筆大書されているのだから同一事件とみるのが自然であり、実際同じものとするのが通説のようようだ。だが七枝刀も七子鏡もかなり特異な形状でそれゆえに特筆したのなら、古事記が単に「大鏡と横刀」としか書かないのはおかしくないか? しかも七支刀は湾曲していない直剣に枝がついてるんだが「横刀」という文字には、後世の日本刀のように湾曲した刀ではないかという印象がある。石上神宮の「七支刀」の銘文の泰始四年についてはAD268年説、369年説、468年説の他にもまだあるが、それらの議論の中では宮崎市定の解釈に圧倒的に信憑性を感じる。宮崎の説はAD468年で、倭王興か倭王武の時代だとしていて、興と武の兄弟は通説だと安康天皇か雄略天皇にあたる。わたしは倭の五王についての通説には反対で、倭王興が安康天皇だとも倭王武が雄略天皇だとも思ってないが、神功皇后や応神天皇よりは後の時代の天皇のうち誰かではあるだろう。で、銘文の「泰始四年」については468年説以外にもいくつも説があるが、どれを採ってもわたしが考える神功皇后や応神天皇の時代に当てはまらない。だから「七支刀と七子鏡」は神功皇后の時代でも応神天皇の時代でもあるまい。古事記のいうとおり応神天皇の時代に献上されたのは「大鏡と横刀」であって、「七支刀と七子鏡」ではなかったのである。ちょいと想像をたくましくすれば、応神天皇の時以来、天皇の代替わりには百済から鏡と刀剣を献上するのが習わしになっていたのではないか? そして七代目の時の記念として造られ贈られたのが「七支刀と七子鏡」だったのではないか? 応神天皇から七代目というと雄略天皇になる。が、雄略天皇も七支刀銘文の示す年代にあわない。「応神天皇から七世代」を表わしたものとすると安閑・宣化・欽明の3天皇だがこれも時代があわない。ではいったいどの天皇の時なのかというと、ちょうど「応神天皇から七世代」で年代もぴったりあう天皇が一人いる。それは…(続きは後日に加筆予定)
C)韓鍛・呉服
(後日に加筆予定)

大陸系の二大氏族の帰化
A)秦造
(後日に加筆予定)
B)漢直
(後日に加筆予定)

酒の歴史
(後日加筆予定)

オホヤマモリの乱
(後日加筆予定)
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5息長王朝の由来」に続く

・2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓

H30・1・24 WED 改稿 H26・11・8初稿
系図資料(コピー)が1枚あり。応神天皇の皇子女のうち5人、大山守命・大雀命(仁徳天皇)・宇遅能和紀郎子・八田若郎女・女鳥王の父系と母系のルーツがわかるように書かれた系図。大山守命と菟道稚郎子尊のそれぞれの陵墓についての情報が書いてある。
1古事記はなぜ敗北者にやさしいのか」から続き

概要
兄の大山守命・仲の大雀命・弟の宇遅能和紀郎子(以下、宇治太子または宇治皇子)の3人は父帝応神天皇がそれぞれに役割を与え、応神帝崩御のあとには皇位争いの内乱と皇位の互譲という物語で有名であり、この系図はその3人の背後事情を血筋という観点からみることになる。

五百之入日子命の「太子」について
日本では古来、末子相続が慣例となっており、太子が複数存在することがあるが、これは後から生まれた皇子が太子になるため、その前に太子とされていた兄皇子が「前太子」、そのまた兄皇子が「前々太子」となる。が、記録上は一律に「太子」とよばれるため、外見上、太子が同時に複数存在するようにみえるだけなのであって、本居宣長の太子複数存在説はいただけない。しかしこの説をとるにせよ宣長説をとるにせよ、景行天皇には3人の太子がおり、応神天皇には2人の太子がいたがどちらも不審なことではないことはわかって頂けると思う。

なぜ宇治若郎子が選ばれたのか
大山守命と大雀命の母は姉妹でともに品陀真若王の娘。品陀真若王は景行天皇の孫で、つまり大山守命と大雀命は母系もまた皇族出身である。すると、母が和邇氏の娘である宇治皇子(記:宇遲能和紀郎子)よりも格上ではないかと現代人は考えるだろうが、応神天皇は二人を退けて、宇治皇子を皇太子にした(記の用語では「太子」(ひつぎのみこ)だが、以下、便宜的に現代語に訳して皇太子とよぶことにする)。別にこれは宇治皇子が二人の兄よりも才覚優秀だったからではないことは物語から想像がつく(このうち最も優秀なのは大雀命だが比較すればの話で父帝が満足するほどだったかは後で論じる)。能力の有無だけが判断基準というのはあまりに現代風な考え方だろう。皇族というのは第一に皇位継承権(優先順位の先後はあるにしろ)、第二に漠然とした家格の上位があっても、それ(皇族出身であること)が必ずしも「后妃として(もっと正確には皇太子の生母として)ふわしい家柄の諸条件」のうちで第一位の条件ではなかったところに古代の皇室の面白さがある。
さて品陀真若王は父系では皇族だが、母系では尾張氏の系統。尾張氏というのは和邇氏と同様、代々皇室に后妃を出している家柄。この和邇氏と尾張氏は「后妃をだす」という役割をもたせられた特別な氏族であり、皇位に近い皇族男子はこの両氏のいずれかの娘を娶ることが多かった(この両氏がなぜそのような特殊な役割を与えられるのかという話は今回は別の機会に論じ今回は省略)。「和邇>尾張」という優先順位を定式化してしまえば宇治皇子が太子になった理由は簡単に説明つくのであるが、記紀の全体でみると、尾張氏の娘と和邇氏の娘ではどちらかというと和邇氏のほうが優先されたのような雰囲気が感じられるというだけで、そのような定式化が可能なほど顕著な差があるのかどうかは不明。それよりも皇族を一旦介して薄まった尾張氏の血筋よりも、皇族を介さず直接に和邇氏の娘から生まれたほうが有利という考え方もできる(大山守命と大雀命は尾張氏の血が25%だが、宇治皇子は和邇氏50%)。

宮主矢河枝比賣の「宮」とは?
しかしそれも決め手ではない。宇治太子の生母、宮主矢河枝比賣(みやぬし・やかはえひめ)の「宮主」が気になっていたのだが、この宮とは皇族の宮殿でなければ神の宮でしかないだろうから、本人が皇族でないから夫である応神帝の別宅という意味で宮といったのだろうか、しかしそんな例は他にない。この宮は神の宮で、矢河枝比賣はその女宮司か、少なくとも巫女さんだったのだろう。矢河枝比賣は宇治の木幡で応神帝を迎えたのでもとからそこに住んでいたかのように決めつけ、延喜式内の許波多神社などに関係づけることもできようが、許波多神社はずっと時代が後の創建なのではずれる。むしろ宇治神社(&宇治上神社)のほうが関係ありそう。宇治神社(&宇治上神社)は創建不詳だが宇治太子の居住した「桐原の日桁宮」跡という伝承があるから、その宮は生母の矢河枝比賣の邸宅に太子が住むようになってから宮号で呼んだものだろう。磐座もあるからとてつもなく古い信仰の場だったことも間違いない。
しかしそれゆえにこそ今回は違うのである。磐座信仰の聖地を昔は「宮」とは絶対にいわなかったはずだから。宮主矢河枝比賣の「宮」はやはり木幡とも宇治とも関係がないのである。宇治の木幡の邸宅(後の「桐原の日桁宮」)は、矢河枝比賣の邸宅ではなく実は父の日触大臣(記:和邇之比布礼能意富美)の別宅だったんだろう。大臣というくらいだから帝都に住んでいたはずで宇治あたりに常駐していたとは思われない。これは近江に行幸した応神天皇の経路に一族の別荘があるので、旅の途中で一時おもてなししたという話にとるべきだ。
では宮主矢河枝比賣の「宮」とは何か。神宮と神社の違いを格式の上下と考えるのは現代人の考えで、本来は物理的な違いをいった。ヤシロ(社)とは太古の磐座(いわくら)や、沖縄のウタキ(御嶽)のように、建物がなくて雨ざらしなもので、特別な祭礼の日だけ臨時の建物を作るからヤシロ(屋代)という。これに対してミヤ(宮)とは現在の神社のように恒久的な神殿を建設したもので、古代ではある特定の事情による特殊な部類だった。伊勢・石上・香取・鹿島が有名だが、出雲大社と高千穂神社も正しくは「神宮」。出雲と高千穂は神話によって恒久的建築が義務付けられているためで、石上・香取・鹿島は武器庫を兼ねているから、伊勢はもともと皇居内の神器奉安所が外部に独立したため、恒久的な建造物となっている。つまり出雲と高千穂を除く4神宮は、御神体が樹木や岩石ではなく、雨ざらしにできない神器・神宝の類だから「神宮」なのである。同様な事情がある場合には無名なものも神宮または宮と称されてに違いない。あとは中央の伴造、地方各地の国造が祀っていたと思われる神社も本来は今でいう官庁や県庁といった建物の中に神を祀ったものなので、造の字はヤシロツコではなくミヤツコと読まれる。
宮主矢河枝比賣の「宮」はこのようにヤシロではないタイプの神宮であろう。

石上神宮とのつながり=宇治太子は軍事担当?
ところで『先代旧事本紀』だと、宮主矢河枝比賣は和邇氏の娘でもなければ宮主矢河枝比賣という名でもなく、物部氏の娘「山無媛」または「香室媛」ということになっている。父の名は物部連多遅麻(もののべのむらじ・たぢま/原文:物部多遅麻連公)といい、この人は石上神宮に斎き仕えたという。「山無媛」または「香室媛」というのは別名で同一人物なら、宮主の「宮」は石上神宮ではないか。だが和邇氏の出身でないと宇遲能和紀郎子が皇太子になった理由がうまく説明できないから、やはり記紀がいうように和邇の比布禮能意富美の娘というのが正しいか? 『先代旧事本紀』は宇遲能和紀郎子・八田若郎女・女鳥王の同母兄妹の母を「山無媛」または「香室媛」としているだけでなく、宇遲之若郎女の母の袁那辨郎女も、宮主矢河枝比賣の妹ではなく香室媛の妹だとしている。これからすると香室媛というのは宇遲能和紀郎子・八田若郎女・女鳥王の生母ではなく乳母か? ただし袁那辨郎女は香室媛の妹であり、宇遲之若郎女は和邇系でなく物部系の皇女かもしれない。というのも、八田若郎女・女鳥王は仁徳帝が皇后にしようとするのを磐之媛に猛反対されて失敗しているが、宇遲之若郎女にはそういう話がなく古事記は妃の一人としているからだ(これは古事記のいつもの書き方で肉体関係をもったという意味であり、公式の妃になったという意味では必ずしもなく、書紀では妃の中に入れられてない。子供がいないのは公式に妃になる前に磐之媛にいびりだされてしまったんだろう)。山無媛というのは香室媛とは齢の離れた姉で、宮主矢河枝比賣の母ではないか? 和邇氏も軍事氏族であってたびたび将軍をだしているので、物部氏とつながりあってもおかしくない。それに物部多遅麻というのは景行天皇の頃の人で神功皇后まで仕えたというから、その娘が応神帝の妃では少し世代が離れており、妃の母ぐらいがいいだろう(同名別人説や襲名説で合理化するのもアリだが)。ただ、『先代旧事本紀』は歴代物部氏の当主が石上神宮の宮司だったような書き方になっており、宮主矢河枝比賣(=香室媛でも山無媛でも)が石上神宮に関係していたような記述はみられない。だが『先代旧事本紀』は後世の偽書なのであまり四角四面に真に受ける必要はない。物部氏の当主が歴代石上神宮を宰領したというのは常識論からの推定で書いている可能性が高く、さほど史料的な価値があるとも思われない。父の名が多遅麻というのはこの人は但馬国と縁があるわけで、あるいは宮主矢河枝比賣は但馬の出石神社の宮司だったのではないかとも思われる。出石神社も御神体が神宝なので、恒常的な建築物つまり神殿があったに違いなく、上述の定義でいえば神社でなく神宮だったはずである。さらに折衷的な考えとしては、初めは出石神社の宮司だったのであるが石上神宮の宮司に栄転して大和にやってきたところを応神天皇に見そめられたんだ、ってストーリーもありうる。生母が朝廷の武器庫でもある石上神宮の女宮司だったとしてもそうでなかったとしても、上記にように母方の祖母を物部氏の出身、乳母も物部氏とみれば、宇遲能和紀郎子は物部氏との関係が深い。御名代の宇治部を管掌した宇治氏(宇治部氏)も物部氏の一族であり、乳母(養育氏族)が物部なのは間違いない。また実は物部氏には複数の系統があり、饒速日の子孫とされている人々の多くは、実は和邇氏の分流である。『先代旧事本紀』は何度も念押しするように後世の偽書であり、歴史上にでてくる物部とついた名前を寄せ集めてすべて同一家系であるかのようにつないで系図を創作したものであって信憑性が薄い。物部には饒速日命の子孫と和邇氏の子孫の両方があるが、物部と物部はどっちも和邇氏。従って、和邇の日触大臣(ひふれのおほみ、記:丸邇之比布禮能意富美/紀:和珥臣祖日触使主)と物部多遅麻は同一人物で、山無媛=香室媛というのも単に宮主矢河枝比賣の別名にすぎない可能性もないではない。が、一応、祖母や乳母が物部氏で父が和邇氏としておく(ただし饒速日系の物部が衰退したのは隼別の乱で隼別の側に加担したからであり、この段階ではまだそれなりに有力だったろう)。
さて、のちに応神天皇の命令として、大山守命は「山海之政」をせよ、大雀命は「食國之政」(をすくにのまつり)をとって申したまえ、宇遲能和紀郎子は「天津日繼」しらせ、と分担されたことになっているが、これの何がおかしいかというと、大雀命が政治の実権を行えといってるのだから、宇遲能和紀郎子は天皇になれといっても権力のない形式だけの天皇になってしまうことだ。権威と権力が分離して、天皇が権威だけの存在になったのはずっと後のことであって、この頃はまだそういう分離はない。これは大雀命の即位を知っている後世の人が仁徳天皇の即位を合理化するためにバイアスをかけているのであって、「食國之政」というのは「韓國之政」(からくにのまつり)の誤記だろう。大雀命が外交を担当していたのは書紀の中にいくつも傍証が残っている。ここらの話はhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-22.html)">「大山守命と大雀命」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-22.html)に詳しく書いたのでそちらをみてもらうとして、その頁では宇遲能和紀郎子の職掌についてふれなかったが、二人の兄がそれぞれ職掌をもったように、宇遲能和紀郎子もなんらかの職掌を与えられたのではないか。応神天皇は新羅征伐という大遠征、大規模な軍事行動から誕生した天皇であり、この皇室の当時の気風は何よりも軍事を重んじただろう。後世でいえばお公家さんの雰囲気とは程遠い、将軍家のような尚武の家に近い。ならば皇太子たるものにふさわしい職掌は「軍事」だろう。物部氏との関係の深い宇遲能和紀郎子は「軍事」を担当したと考えられる。

大山守命と宇治太子の陵墓からわかる問題
(後日加筆予定)

八田若郎女の名前の由来
大和国添下郡に矢田郷あり(今の大和郡山市の矢田町)、八田若郎女(やたのわかいらつめ、紀:八田皇女)が生まれたところという伝承があるがホントかね? 延喜式に「矢田坐久志玉比古神社」(やたにいますくしたまひこじんじゃ)あり、今も同名の神社が矢田町にあり、別名「矢落ち神社」。饒速日命が射た三本の矢のうち二本目が落ちたところがこの神社で、だから「矢田」という地名になったというが、これは後世の創作だろう。古事記には八田若郎女の名が9回でてくるが「矢田」と書く例は一つもない。矢田部は八田部と書く例があるが、氏族名の「矢田部氏」はすべて「矢」の字。これは八田と書くと読み方がヤタかヤツタかわからないから、ヤタと読ませるために後になって矢田という書き方がでてきたんだろう。最初から矢田だったら後になって八田という書き方が出てくる合理的な理由がない。きっかけとしては、八田部の伴造が軍事氏族である物部系だから武器の「矢」に変えたんだろう(矢田部氏は物部は物部でも饒速日系ではなく、また和邇氏系の物部でもなく、後述のように鴨氏の系統の物部だったと推定できる。『先代旧事本紀』の系譜は後世に組み立てたもので史料的価値はない)。矢田坐久志玉比古神社の祭神の久志玉比古神(=櫛玉彦命)は玉作部の祖神で天明玉命、櫛明玉神ともいう。この神社ができたのは八田若郎女が「ある理由から」玉を作るため玉作部を招いたのが始まりだろう。玉作部は忌部氏の支配の系列で、だから饒速日命とはもともとは関係ないが、隼別の乱で忌部氏が衰退した一方、矢田部氏が饒速日命を祖先だとして合祀したため櫛明玉神と饒速日命が習合して(混同されて)「櫛玉饒速日命」という名前ができた。
そういうわけなんで、もとは「八田」が正しい。ここで生まれたから「八田若郎女」という名になったってわけではなく、仁徳朝の後半、皇后になってからここに住むことになったのだと思われるが、その理由は後述する(皇后といっても日本書紀にあるような仁徳天皇の配偶者という意味ではない。ややこしいのでこの話は別の記事でやります。なお、仁徳天皇の宮都「高津宮」は今の大阪城跡あたりというが、大阪城と矢田坐久志玉比古神社の間は約25km、現代人の足で徒歩5~6時間)。一案としては八田若郎女が生まれたのは丹波国何鹿郡(いかるがぐん)八田郷(今の京都府綾部市の東八田・西八田)だろう(東八田地区は八代町・黒谷町・於与岐町・上杉町・梅迫町・安国寺町・中山町、西八田地区は上八田町・七百石町・中筋町・岡安町・淵垣町・下八田町)。ここは出石神社のある但馬から宇治、木幡へのルートの途中でもある。ただ、ここで生まれたから八田皇女といったのではなく八田皇女が生まれたからその名がついたんだろう(直接には矢田部が置かれたからだろうが)。のちに大和国添下郡に住んだので、彼女の名をとって八田(矢田)となった(八田郷は石川県にも富山県にも茨城県にもあり単に矢田部があったからで済まさずあれこれ関係づけも可能だがネタとして格別おもしろい展開が考えつかないのでやめておく)。別案としては、大和国添下郡の八田(矢田)に住む前は例えば「石上皇女」とか、なんとかかんとかの、ぜんぜん別の名前だったのが、大和郡山の八田に住むようになったからその地名から「八田皇女」と呼ばれるようになったと考える人もいるだろう。しかし独立して住まいをもったら「郎女」とはいわないような気がするのに、八田若郎女という名は八田に住むようになる前から(父天皇の宮にそのまま住んでいた時から)すでに八田若郎女とよばれていたようにも読める(古事記にでてくる話は内容からいうとどれも八田若郎女が八田に住むようになる前のエピソードばかり)。なので、誕生時から「八田」という名だった可能性も高い。
で、考えてみると、妹の名が「女鳥」で兄弟に「大雀」「根鳥」「隼別」、皇族に「飯豊」(フクロウの意)、貴族に「都久」(ミミズクの意)、「真鳥」(ワシの意)というように鳥の名のついた人が多いから、これも鳥の名か。ヤタという鳥はないがヤタガラス(八咫烏)ならある。ただこれはただの鳥でなく神鳥・霊鳥でもあるから畏れ多いとしてヤタに略した、カラスだけだとただのカラスに聞こえてヤタガラスだってわからなくなるからな。「ホントかよw」って思われるだろうが『新撰姓氏録』に記載の矢田部氏は、左京・山城・大和・摂津・河内それぞれに在住の計5氏でてきて、このうち丹波・但馬やあるいは宇治にいちばん関係深そうな(いちばん距離の近い)山城国の矢田部氏は、その祖先が物部氏ではなく「鴨県主同祖。鴨建津身命の後」とある。鴨建津身命ってのは八咫烏に変身して神武天皇を導いた人物で、鴨県主ってのは大和の葛城の加茂じゃなくて京都の上賀茂・下鴨のほう。八田若郎女の養育氏族が鴨氏で、そのため鴨氏の一派が矢田部の伴造になって矢田部氏ができた。これならヤタガラスにちなんでヤタ皇女と名付けられることは大いにありうる。もちろん「但馬出石⇆何鹿郡八田郷⇆上賀茂下鴨⇆木幡宇治⇆石上神宮」とすべて通り道にある。
ところで大和添下郡八田郷の矢田坐久志玉比古神社の話に戻ると、饒速日命が射た3本の矢のうち二の矢以外の残りの2本が落ちたところには「一の矢塚」と「三の矢塚」があり、両者はこの神社を挟んで南北1km半、徒歩20分くらい。大雑把に大和民俗公園の西側の一帯にあたる。なんでこんなことを紹介してるのかというと、鳥越憲三郎の説で邪馬台国は奈良県の大和郡山市の矢田地区だという説があり、それに乗っかってもう地元では30年以上も「卑弥呼コンテスト」ってのをやって町おこししてる。あまり宣伝に熱心でないのが残念だがw 鳥越憲三郎の説の何が珍しいかというと、邪馬台国畿内説は多いけど具体的に奈良県の中のここだという説は肥後和男の三輪山麓説、新妻利久の飛鳥説ぐらいでこの2つは例外で、他にあまり聞いたことがなく、漠然と大和国、今の奈良県ってだけで済ましてる人が多かったのだ。もっとも、平成21年=2009年に纏向遺跡で宮殿跡だか神殿跡だかが発見されて大騒ぎになって以来、今では三輪山麓説(=纏向説)は主流だろうけどさ。鳥越憲三郎は物部がらみで言ってるわけで、そこは賛同できないのだが、物部ネタとはまったく無関係に「大和郡山市矢田町説」はアリと思うんだねw まぁその話は今回は関係ないんでやめときますが。

女鳥王の「メドリ」ってどんな鳥?
女鳥王(めどりのみこ、紀:雌鳥皇女)の名前が「鳥」なんだがメドリという鳥がどんな鳥だか解説がない。牝鶏(めんどり)の意味かとも思う人もいるだろうがどうだろう?「牝雞之晨」(ひんけいのしん)という諺があり、俗に「メンドリ鳴けば国ほろぶ」「メンドリ鳴けば家ほろぶ」とかいうもの。この諺の真相についてはhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-95.html)">「女が先に言っちゃダメなのか?」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-95.html)であれこれ書いたのでよかったらどうぞw 女鳥王は夫(というか彼氏)の隼別に向かって「隼は天に翔り、ササギ取らさね」と反乱を煽った本人だから、女鳥=牝鶏(めんどり)という仇名がついてるのか? 侮蔑の意図でつけられた名なら、中国の妖怪で「女鳥」(ぢょちょう)とか「雌鳥」(しちょう)というのがあり夜に人間を襲う、あるいは日本で妖怪ウブメと混同された姑獲鳥(こかくちょう)と似たようなものらしい。ただし中国では天女の羽衣型の民話にでてくる天女のことを「女鳥」ということもある。赦すべからざる反逆者でありながら同時に美しい叙事詩の主人公という、侮蔑と賛美の両面をあらわした当て字なのか。だとするとこれは隼別の反乱が勃発した後についた名前で、それ以前は別の名前だったことになる。この説もおもしろくはあるが、当時は鳥の名をもった人が多いんだし、姉のヤタ皇女もヤタガラスからとった名だとしたら、メドリも最初から普通に鳥の名だった可能性が高いのではないか。メドリが「メ」という鳥の意味ならいちばん近いのは「シメ」か? シメはアトリ科の小鳥で「シー」と鳴くからシメというのだとか。「メ」はスズメ、カモメ、ツバメ等というように鳥を意味する接尾語だとか。それならメドリは「鳥鳥」になってしまうが、一説にはこのメは「群れ」の約訛というからメドリは「群れ鳥」? シメは別名ヒメともいうのは、つまり「ヒー」に聞こえる人もいるってことか? ネット情報では「チチッ」「ツイリリーッツー」「キィー」「チッチッチー ピッピッピー ツィチッ」等と鳴くというからシーやヒーじゃなくて「チー」に近いらしい(奈良時代のサ行はツァ・ツィ・ツゥ・ツェ・ツォだったという説もあるがw)。ヒメドリというホオジロ科のかわいらしい小鳥もあるのだが、紛らわしいことにヒメドリとヒメ(=シメ)は別種で「ジージージー」と鳴くらしい。ヒメドリは姫鳥と書くらしいがこれが当て字でなければ鳴き声とは関係ないのかな? 生き物の名で「ヒメ~」というのは小型種にいうことが多く、ヒメドリも雀や普通の小鳥類より小さめ。しかしこのヒメは女巫の意味かもしれない。似たような名にミコドリというのがある。これはホオジロ類の総称で「巫鳥」または「鵐」と書く。ミコ(巫女)なら女性にきまっているので、姫鳥の姫は「女巫(ひめみこ)」の意味か? 漢字で巫鳥と書くのは大昔の中国で鳥の声を聴いて占う「鳥占い」に使った鳥だからという。ミコドリはシトドともいい(さらに古くはシトト)、巫鳥と書いてシトドと読んでいたのにそのまま字のままにミコドリと読んだのだといわれているが、古くからミコドリという言い方があったとしてもなんら差し支えない。生物学的にはヒメドリはミコドリの中の一種ということになるが、よほどの鳥好きかある程度見慣れないことには素人は区別つかんよ。語源論としてはヒメもミコも女巫(ぢょふ)のこととして、普通はシメの漢字は「鴲」だが、諸橋轍次大漢和には「鵐」の字に「しとど」の訓の他「ふなしうずら」(斑無鶉)ともある一方、「鴲」の字は「しめ」の他に「しとど」もあるんで、まぁこのへんはどれも大雑把に同じ鳥の枠としていいんじゃないか。シトド/シトトは「神鳥」とも書いたようで、栃木県小山市に「神鳥谷」(しととのや)という地名あり、横浜市に神鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ)という神社がある。またこの「神鳥」という文字列はシトトリとも読むので「シト鳥」が語源という説もある。すると意味の部分は「シト」だけになる。これはシチだったのが後ろにトリが付いてシトトリに訛ったんじゃないのか。シチというのはつまりシーだったりチーだったりするシメの鳴き声だろう。あるいはホオジロ科の総称(シメは生物学的にはホオジロ科じゃないが大雑把に似たような小鳥の総称)なんだからシーと鳴いたりチーと鳴いたりするいろいろな各種の鳥ってことだろう。同一の概念なんだが、巫女が占いに使うという点からはヒメドリ・ミコドリ等といい、鳴き声からはシメドリ・シメ・シトト・シトトリ・シチトリ・シチ等といっていたんだろう。女鳥王(めどりのみこ)という名はヒメドリ・シメドリからついたんじゃないか? あるいはもとは「神鳥王」(しととりのみこ)だったのを、隼別の反乱から「牝鶏」(めどり)と仇名つけられたのか。
さて、神意を問う占いは巫女(みこ)の役目で、ホオジロ類は神聖な鳥だと考えられたわけだがこのような名をもつ女鳥王はもともと巫女的な存在だったんだろう。母の跡を継いで(あるいは母とともに)石上神宮や出石神社で巫女をやっていたのではないかと思われる。だが姉の八田皇女は「郎女」という称号から推定して応神天皇の皇居の中で育ったんだろう(養育氏族(乳母)は前述のごとく鴨県主と推定)。妹のほうの乳母氏族は田道間守の子孫の三宅連(みやけのむらじ)だろう。ちなみに隼別王の母は糸井比賣だが、三宅連の分家に糸井造(いとゐのみやつこ)があり、糸井比賣の母(隼別の祖母)はその出身と思われる。つまり隼別と女鳥王は(異母兄妹ではあるが母方をみても)縁もゆかりもないところに恋愛だけでくっついたんでなく、もともと縁戚関係があったんだろう。三宅連の本拠である但馬の出石神社から北に7kmほどに「三宅」という地名も残り、そこに式内・中嶋神社あり、三宅氏の祖先の一人、田道間守(多遅麻毛理)を祀る。出石神社から南に20kmほどに糸井谷(いといだに)という地名があった(今は朝来市和田山町に含まれる。googleマップだと「糸井渓谷」)。小さな谷間だが、検索したらなかなかおもしろい土地柄らしい。ここにはあの有名な式内・佐伎都比古阿流知命神社もある。ここに祀られる佐伎都比古阿流知命(さきつひこあるちのみこと)は天之日矛が但馬に来た時に娶った麻多能烏(またのを)の父、前津耳(さきつみみ)のことという説があり、糸井造の本家である三宅連氏の女系の祖先にあたる。糸井谷は糸井造の但馬における本拠(大和と但馬にいた)で、速総別王もまた出石神社と縁があったと推定できる。さらには、母の矢河枝比賣が妃として召された時に、もし皇女が2人生まれたら2番めの姫は母本人(矢河枝比賣)の代わりに石上神宮の巫女にするという話でもあったか。宮主矢河枝比賣という名からいちばんありそうなのは、妃になった後も応神天皇の行幸を時々迎えて合宿する(w)だけで、普段は天皇とは別居して石上神宮の女宮司を継続していた可能性が高そう(いまだにめちゃくちゃな古代史像を信じてる人がいるが、昔は女性神官や巫女に「処女」だの「独身」だのという縛りは無かったって事実が明らかになっている。当たり前だが男巫にも童貞という条件はない。またこの頃は招婿婚が完全に形骸化する前の段階で、庶民階級では別居夫婦はごく当たり前にいくらでもいたと思われる。皇族や貴族の夫人たちも似たようなもので建前上の本宅はあったとしても実際はあちこちの女性の家を移動して暮らしたんだろう。天皇の后妃たちも後世の「後宮」のように全員が全員おなじ一つの皇居の中に同居していたと考える必要はぜんぜんない)。

他の皇子の動向
今回のこのプリントには省略されてる皇子も何人かいる。

額田大中日子命(ぬかだのおほなかつひこのみこと)
今の岐阜県池田町にあった「額田国造」はこの皇子と関係ありそう。廣田照夫の説では「額田国造」を美濃西部から近江東部に及ぶ大国だったとして、この皇子を両面宿儺(ふたものすくな)の一人(もう一人は伊奢之真若命)としている。だが額田国造は律令時代の美濃国池田郡「額田郷」で郷規模の「小国」(国造には大国・小国の別があった)だから、もしこの皇子と深い関係があったとしても大きな力は無かったんではないか。それに宿儺が双子だったとしたら後述の大羽江王・小羽江王のほうが双子っぽい(両面宿儺についてはいろいろおもしろい話が多いので別の機会で扱う)。
この人はその名の通り、長男で最初に生まれた男子だったのだが、よくある「惣領の甚六」ってやつで、日本書紀でも大雀命を困らせたエピソードが載ってる。ナカツというのは中臣(なかとみ)の語源が「中津臣」というのと同じで、長男だから祭祀を担当したことからついた名、とする説がありうる(基本は末子相続制だが、歴代の長男が祭祀を担当)。もう一つは後述の大羽江王か迦多遅王のどっちかが先に生まれており、実質は次男なのでナカツヒコ(仲は次男の意味)だが、正室腹だけでいうと最初の子なので大中日子(直訳すれば「偉大なる次男」)だという説もありうる。記録に残るような有力な子孫は無し。ただし後世の額田部氏は外交を担当した氏族で(この皇子の子孫ではなく物部系だが)大阪府の重要地点(現在の額田地域とはちがうが)だったからそれなりに期待はされてたんだろう。額田大中日子命は大山守命のシンパと見なされがちだが、本人はそういうわけでもなくて、何も考えてないタイプじゃないかと思われる。

伊奢之真若命(いざのまわかのみこと)
この人は額田大中日子命や大山守命の同母弟だが、その名の通り、早逝したか、かなり齢が離れていたのではないか。逆にいうと齢が離れていてあまり親しみがなかったために兄貴たちの派閥に属さずにすんだ。…というのも、どうも異母兄の大雀命とのほうが仲良かったっぽい。異母姉の阿貝知能三原郎女(あはぢのみはらのいらつめ)と結婚したことになってるが、この姉は実は大雀命の妃だったっぽい。それが石之比賣の例の嫉妬で追い出され、それを身請けしたのが伊奢之真若命ってことらしい(詳細はこのブログ内の別の記事にて)。子孫が深河別(ふかがはのわけ)という飛騨の地方豪族になってる。これは隼総別の乱での功績によるものと思う(額田大中日子命と伊奢之真若命のコンビを両面宿儺(ふたものすくな)の正体だとする説があるがそれについては別の記事で詳しく)。

根鳥命(ねとりのみこと)
この人は大雀命の同母弟。子孫が大田君(おほたのきみ)という美濃の地方豪族になってる。これも隼総別の乱での功績によるものと思う。ネトリってのが何のことかわからぬが大雀命はじめ鳥の名をつけることがこの時期の流行のようだから鳥の一種だろう。ただ、どんな鳥だかわからない。「ネ」は大穴牟遅の「ナ」と同じく地面の意味とすれば、クイナの一種で(クイナの多くは飛べる種類だが)飛翔能力のない鳥のことか。現在ではオセアニアにしかいないが、飛翔能力のない鳥は絶滅しやすく現在の種類もだいたい絶滅危惧種が多い。日本にも昔は飛べない鳥がいたんだが絶滅してしまって記録や伝承にないんだろう。根鳥皇子は、富士宮下文書では大山守皇子や隼別皇子と一緒に富士に逃れてそっちに土着したことになってるがこれは後世の創作であって事実でない。

速総別命(はやふさわけのみこと)
大山守命と同じく、この人も謀反人なのに命(みこと)という敬称がついてる。これは、古事記編纂者の価値判断の反映もあるが、それのみに留まらず、反乱側に対して当時から好評価があったことの反映だろう(もしくは女鳥王の配偶になったから?)。生母の身分が低いので、もし反乱を起こさず平穏に生涯を終えたなら、後述の大羽江王や迦多遅王のようにヒラの王(みこ)どまりだったと思われる。あと、天皇の名が「雀」なのに「隼」を名乗るってのがどうも不審に思う。もとの名は「桜井王」(さくらゐのみこ)とかの平凡な名だったんじゃないのか。このブログ内の別記事で書いたが、日向国造を引き上げたのは葛城氏の専横を抑止するためだったが、応神天皇が崩御して重しがなくなると、葛城系は日向國造系の皇子たちを排除にかかり、両者の妥協としてかつぎだされたのは速総別だった。

速総別王は、大山守命の乱の後、大山守命の職掌を継いで、海の民・山の民を束ねることになった。これは本来なら大日下王の役目であるが、大日下王は応神天皇が葛城氏を掣肘するために日向国造の娘に産ませようとしたところ、その娘を息子の仁徳天皇に譲って、その結果生まれた皇子。だから、大日下王が強大な武力と財力を管掌することになるのは葛城氏としてはおもしろくない。仁徳天皇自身が葛城系の石之比賣皇后に頭があがらないので、息子の大日下王を押すにも限界があったんだろうが、あるいは大山守の乱の時に、大山守命に味方したか中立を守ったために、隼人族の管轄権を取り上げられたんだろう。この頃は近習隼人といって、皇族の身の回りの世話をする取り巻きの隼人がいたが、これは応神天皇が始めた制度であり、その手配は大日下王が管理していた。大日下王は瀬戸内海の航行も支配していたが、大山守命の下請け的な存在でもあり、職務上も関係が深かったので、大山守の乱ではつい判断に迷いが生じて出遅れてしまったんだろう。ただし海の民・山の民は葛城氏とは相性がよろしくないので、葛城系の皇子に管理させるのはこころもとない。それで速総別王に白羽の矢が立ったと思われる。速総別王は母の出自が低いので、皇位継承の可能性はまずないとみられていた上、後ろ盾になってくれそうな強大な氏族がない。大名の三男坊なら部屋住みで飼い殺しになるところだが、命ぜられればなんでもこなす便利屋みたいな存在だったのかもしれない。で、おそらく大山守命のもとで下働きみたいなことをしてたんだろう。なので葛城氏からも警戒されることなく、海の民・山の民の総領の地位を継承するように命ぜられた。同時に、大日下王にかわって隼人族の統帥もすることになった。葛城氏としては出来る限り大日下王の力を弱めておきたい一方で、速総別を危険視はしていないのである。この頃の人名に鳥の名がついてることが多い。大雀(おほささぎ)のササギはミソサザイという小型の雀のような鳥、都久宿禰(つくのすくね)のツクはミミヅク、飯豊王のイヒトヨはフクロウ、平群真鳥のマトリは鷲のこと。女鳥王と根鳥王にも考証があるがここでは省略。しかしどれも別(わけ)はつかない。別の字は基本的に地名につくものだから、速総別王のハヤブサは鳥ではなくて、九州の「ハヤト族の地」の支配という意味で「ハヤトワケ」といっていたのを、女鳥王が謀反をけしかけて「隼(はやぶさ)は天にかける、雀(ささぎ)とらさね」と歌を詠んだ時に掛詞で「隼別」という名を作ったのである。大日下王の母方の出自は日向国造でこの頃の日向は今の宮崎県だけでなく鹿児島県(薩摩・大隅)まで含んでいたのだから、大日下王と隼人との関係は深く、世間は隼人といえば大日下王。大日下王といえば隼人というぐらいに思ってたろう。だから新任の皇子には「隼人別」という名を与えるぐらいでないと、大日下王の影を薄められない。もとの名は桜井王とでもいっていたのであろう。記紀には隼人の乱が仁徳朝に起こったようには書いてないが、先代旧事本紀には痕跡らしきものがないでもない。それは国造本紀に、薩摩国造は仁徳天皇の代に曰佐(をさ:通訳のこと)を直(あたへ)にした、また大隅国造は仁徳天皇の代に「伏布」なる者を曰佐にして大隅国造に任じたとある。これの何が不審かというと、薩摩の豪族のカバネは実際には君姓であって直姓はむしろ大隅の豪族のカバネであること、大隅では曰佐のままで国造に任じられているのに、薩摩では曰佐から直に昇格しているにもかかわらず「国造に任じた」との記述がないこと等である。これはもとの記事が混乱しており、おそらく伏布は速総別の乱に功績があって曰佐から直に昇格し、隼人の首長として認められたのではないか。この子孫が大隅の直姓の豪族たちだろう。これに対して薩摩にも大隅にも多い君姓の豪族は日向国造からの分家だろう。隼人の首長といってもこの頃の隼人は薩摩大隅の二国だけでなく肥前・肥後にも広がっていた。だから地図でいえば広大な支配権があるようにみえるが、あくまで隼人の徴用と規制、統率を任務としたもので、国造のような地方統治官ではなく、日常的一般行政にタッチしたわけではあるまい。

当初の彼の任務は、大山守命の下での、山の民・海の民の物流管理で、大山守の乱の後は職務上、大山守命の後釜のような立場になりつつあったが、それは事実上の話であって公式になんだってことではない。しかし今度はそれに加えて大日下王や大羽江・小羽江王を下請けに使ってその上に立ち、九州からの近習隼人の調達も管領することになった。だから「ハヤトふさねの命」といわれたんだろう。「ふさねる」とは統轄する、総裁するの意味。わざわざそういうのは、「大日下王らは最早そういう立場ではない」とわからせる意図なのだ。いや、ハヤトフサネじゃなくて単に「ハヤトワケ」と言ったのかもしれんが。それが鳥の名をとってハヤブサワケ(隼別)になったのは女鳥王の「隼は天に翔ける(中略)ササギ取らさね」の歌ができてからだろう。これは文学上の修辞であって本来の名前ではなかった。九州のハヤトには鳥の隼の意味はないし、ハヤトを隼人と書くようになったのもこれが起源と思われる。

大羽江王・小羽江王(おほはえのみこ・をはえのみこ)
この二人は名前からすると双子っぽいな。この場合のハエっていうのは山陰地方や九州や淡路島の方言に残ってるが、沖の岩礁や浅瀬をいう。生母が日向国造の娘で、おそらく本人たちも九州で生まれたんだろう。他の皇子たちの多くは「命」(みこと)という敬称がつくのにこの人らはただの王(みこ)。父帝からの期待としては近習隼人の調達を任せた日向国造の任務をゆくゆくは継承する氏族の祖になることだったろうが、生母が大雀命に下賜され、異父弟の「大日下王」が生まれてからは、おそらく大日下王が摂津の草香に常駐し、大羽江王・小羽江王が日向国に常駐して、瀬戸内海の両端にいて呼応しつつ、海上航行を支配する大日下王を補佐する立場になっていたのではないかと思われる。子孫はいたんだろうが、若い頃から九州に土着していたので中央の伝承に残らなかったんだろう。

迦多遅王(かたぢのみこ)
この人もヒラの王(みこ)。たぶん応神天皇の最初の子。日本書紀は削除して載せないのは生母が上の世代すぎて辻褄があわないと思われたんだろう。この人は後半の系譜にでてくる「堅石王」と同一人物という説がある。堅石についてはいろんな解釈があるが、長野県塩尻市の地名と関係あり、武内宿禰の娘の怒能伊呂比賣(ののいろひめ)を介して、伊奢之真若命の系統につながっているらしい。武内宿禰の系統といえば葛城系であって、大雀命とは親しく、大山守命や大日下王とはいまいち距離があったと思われる。

大雀命のお妃選び
(後日加筆予定)
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3大山守命と大雀命」に続く

6息長王朝の由来【中編】~春山秋山の物語は神話ではなく寓話~

H25年12月18日(水)初稿
5息長王朝の由来」から続き

「秋山と春山」は寓話である
三部構成のうち前篇と中篇のつながりは明瞭だが、一見したところ中篇と後篇のつかながりが不鮮明であるため、人によっては日矛や春山の神の話とその後の系図はそれぞれ無関係な別々の記事とみる説も出てくる。だが「秋山と春山の兄弟争いの物語」は次に続く若沼毛二俣王の系図と何らかのつながりをもっていたのではないかと想像される。ここで奇異なのは歴代天皇の歴史事件(少なくとも形式と建前では神話ではなく歴史)の中に、唐突に「秋山と春山の物語」という「民話」が割り込んでいるということ。神話は、歴史上の事件のような絶対年代は示されないが、それでも相対時間(各事件の前後関係、事件が生起する順序)はある。しかし「秋山春山の物語」はそれすらなく、神代のことだとしても人間の時代のことだとしても、時系列としてどこに入るのかわからない。これは時代は明示されず「昔、昔あるところに…」という民話のパターンに該当する。だが実はこれ民話でもない。民話なら前後のつながりがありえないので歴史の途中にぶちこむ意味がない。これは兄弟争いの物語だから、皇位継承争いの事件を暗示しているという説もある。もしそうならこれは意図的に創作したわけだから民話の形を借りてはいても、民話ではなく「寓話」とよぶべきだろう。ネットでは大山守命(おほやまもりのみこと)の反乱を暗示したものだという説もあり、もしそうなら春山の霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)は大雀命(おほささぎのみこと:後の仁徳天皇)や宇遅和紀郎子(うぢのわきいらつこ)の側を表わし、秋山の下氷壮夫(あきやまのしたひをとこ)は大山守命に該当することになる。以前は、これはかなりイケてる説かなと思っていたのだが、よく考えてみるといろいろおかしい。これでは第一に天之日矛(あめのひぼこ)や伊豆志袁登賣(いづしをとめ)を引き合いに出す理由がわからない。第二に、若沼毛二俣王とのつながりが不明。第三に、なぜ寓話に仕立てたのか。普通、ある事件を寓話に仕立てるのは、はっきり明示できない事情があるからで、一つには天皇の悪行を批判するような場合がありうる。しかし大山守命の乱を鎮定したのは誇れる功績だし実際に記紀には堂々と書かれているのに、改めて寓話にする意味がない。そこで考えられるのは、大山守命とは関係がなく、「春山の霞壮夫」は後世にその子孫から継体天皇を出した若沼毛二俣王のことであり、「秋山の下氷壮夫」とは太子の地位からハズされたにもかかわらず皇位を継いだ仁徳天皇のことではないか。ならば寓話にした理由は二つ考えられる。一つはこれだとこの寓話は、仁徳天皇(か、またはその子孫の天皇のうちの誰か)を批判していることになる。記紀では天皇の失敗や恥や悪行をはっきり書いているとはいっても、過去の歴史になってしまっているから許されているのであって、同時代にも堂々と天皇批判ができたかというとそれは問題だろう。だからもしこれが天皇を批判した寓話だとすると、その天皇の在世当時に作られた寓話でないと辻褄があわない。この寓話は、仁徳天皇(か、またはその子孫の天皇のうちの誰か)をなぜかどういう理由でか批判しつつ、だから子孫は武烈天皇で絶えるのだと暗示しつつ、それに対して、なぜか但馬の出石(いづし)の神である難波の比賣碁曽社(ひめごそのやしろ)の阿加流比賣神(あかるひめのかみ)の娘を娶った(?)若沼毛二俣王の家系(の誰か)をもちあげつつ、その子孫から継体天皇が出て皇位を継いだことはもっともなことだと正統化する、そういう趣旨の寓話であろうとまずは推定できる。あるいは別に、もう一つの案としては、古事記は編纂された奈良時代の時点で、この話が皇室にとって何らかの意味で不都合、それも公的に記述することが憚られるほど重大に不都合なものだったのではないか、だがこれを書き残さないと日本書紀とは別個に古事記を編纂する意味がなくなるのでやむなく史実として直接表現するのではなく寓話という形にせざるをえなかった、とも考えられる(後者にかんしては話が複雑になるので今回はふれない)。

継体天皇の祖先が隼別王という異説の是非
だがこの場合、「若沼毛二俣王=春山、仁徳帝=秋山」と固定しきることはできない。「継体天皇=春山、武烈天皇=秋山」という当てはめでもよいはずだ。若沼毛二俣王から継体天皇までの系図は、こうなってる↓

応神天皇―若沼毛二俣王―大郎子おほいらつこ―乎非王をひ―彦主人王ひこうし―継体天皇

だからこの家系の歴代のうち誰が「春山」でもありうるわけだ。例えば「大郎子が春山で、履中・反正・允恭の3帝のうち誰かが秋山」という組み合わせでもいいし、「乎非王が春山で、安康・雄略の両帝のうちどちらかが秋山」かもしれないし、「彦主人王が春山で、清寧・仁賢・顕宗の3帝のうち誰かが秋山」という可能性もなくはない。若沼毛二俣王から継体天皇までの歴代のうちの誰かの妃の正体が伊豆志袁登賣であればよいのだから。また、この寓話は若沼毛二俣王の子孫について語るための前フリに相当するはずで、
(1)争いに勝った「春山の霞壮夫」を例えば若沼毛二俣王だと仮定すると、伊豆志袁登賣とは百師木伊呂辨(ももしきいろべ、別名:弟日賣眞若比賣命)のことであり、「春山の霞壮夫の母」とは息長眞若中比賣(おきながまわかなかひめ)のこととなる。そうすると百師木伊呂辨の父は咋俣長日子王(くひまたながひこのみこ)であるから、咋俣長日子王は阿加流比賣と結婚していたことになる。
(2)「春山」を例えば大郎子だと仮定すると、伊豆志袁登賣とは中斯知命(なかしちのみこと)という女性をさすことになり、「春山の霞壮夫の母」とは百師木伊呂辨のこととなる。中斯知命は出自などの情報が書かれてないので、この場合、阿加留比賣に該当するのが誰なのかは不明。
(3)春山を乎非王だとすると、伊豆志袁登賣とは牟義都君伊自牟良(むげつのきみ・いじむら)の娘、久留比売命(くるめひめ)。春山の母とは中斯知命。伊自牟良は阿加流比賣と結婚していたことになる。
(4)春山を彦主人王だとすると、伊豆志袁登賣とは三尾君乎波智(みをのきみ・をはち)の娘、振媛(ふりふめ)。春山の母とは久留比売命。乎波智は阿加流比賣と結婚していたことになる。
(5)春山を継体天皇だとすると、伊豆志袁登賣とは候補がたくさんいて特定し難いが仮に安閑・宣化両帝の母を伊豆志袁登賣とすると尾張連草香(をはりのむらじ・くさか)は阿加流比賣と結婚していたことになる。欽明天皇の母、手白髪命を伊豆志袁登賣とした場合には、雄略天皇の皇女春日大郎女(かすがのおほいらつめ)が阿加流比賣に該当することになる。
以上の5パターンの中では(2)の説がよさそうに思える。第一の理由は、第三息長王家3代目の乎非王は『上宮記逸文』、4代目の彦主人王は『日本書紀』にでてくるが、古事記には2代目の大郎子までしか出てこない。そこで系譜の記述が途切れているからである。大郎子の妃のこともまったくふれてない。妃のことやら何やらとこの先を書いていけばやがて継体天皇にぶつかるはずだがあえてそこまで書かないでここで止めているのはつまり大郎子が「春山の霞壮夫」だと示唆しているのではないか。第二の理由は、第三息長王家歴代の妃は4人まではどこの氏族の出身なのか『上宮記逸文』に明記されているのに、ただ一人、大郎子の妃の中斯知命だけが出自不明でどこの誰だがわからない。これはただの錯簡、誤脱にすぎないとするのが常道だろうが、一説には出自が卑賤、つまり名もない庶民あがりの女性だったため書くに書けなかったのだという説もある。しかしそれなら古事記にもよくあるように「一妻(あるみめ)」と書けばよい。命(みこと)という敬称はこの時代、天皇と皇后の他には特に有力な一部の皇族だけに使われる敬称で、この人が卑賤な身分の出身とは考えられない。だから逆に、ある「憚り」があって意図的に書いてないのではないか。例えば反逆者の血を引いている、とか。あるいは高貴すぎる女性だったとか。皇女よりも高貴な女性といえば普通に考えれば女帝ぐらいしかないがむろんこの時代にはまだ女帝などというものは存在していない。では一体なんなのか…?
上述のように古事記では3代目と4代目の記述が欠落し、4代目(彦主人王)の記述がある日本書紀でも3代目のことはまったく書いてない。そのため記紀だけでは、継体天皇が応神天皇の五世孫だとは書いてあっても、具体的に応神天皇のどの皇子の四世孫なのかがわからない。そのため中世には、継体天皇は隼別王の子孫だという誤解が広まっていた。例えば一番有名なのでは北畠親房の『神皇正統記』では上述の息長王家の系図が

応神天皇―隼總別皇子―大迹王―私非王―彦主人王―継体天皇

※大迹王(おほと)は大郎子の別名、意富々杼王(おほほと)のこと、私斐は弘斐(をひ)の誤記で乎非王に同じ。

となっている。このうち大郎子から継体天皇までは細かい字の間違いなどを除けばほぼ一致しているのに、初代の若沼毛二俣王(紀:幼稚渟毛二派皇子)が隼總別皇子になっている。隼總別皇子には大迹王という子はいないし、大迹王=大郎子=意富々杼王の父は若沼毛二俣王であって、隼總別皇子ではない。学説の多くは古代からみてはるか後世の、中世にでてきた伝承には信憑性が低いとして、これを単なる間違いで切り捨てておしまいにするのが常道なのではあるが、ちょっと待て。錯簡、誤写だとしてもその過程があるだろう。原型は『上宮記逸文』のように若沼毛二俣王になっていたはずだ。それに速総和気王の名が紛れ込んだのはそれなりの原因がある。代々、父は一人づつでしかありえないから大郎子の父はあくまで若沼毛二俣王であって速総別王ではありえないが、乎非王の祖父は2人いるはずなんだから、若沼毛二俣王と速総別王、この2人が乎非王の祖父でも何の問題もない。つまり中斯知命ってのは速総別王の娘なのではないか。親房の採録した伝承は、おそらく現在の『上宮記逸文』から脱落していた中斯知命の注釈の一部の名残りなのだろう。ただし速総別王と中斯知命の関係を、ただちに「父と娘」だと決めつけることもできない。「祖父と孫」かもしれないし、曽祖父と曾孫」の関係かもわからん(後述)。いずれにしろ速総別王の子孫ということは速総別王の妃であった女鳥王の血を引いている可能性もある。というか、これで伊豆志袁登賣(=中斯知命)を皇子たちが奪い合うことになるのか謎が解けただろう。八田若郎女(やたのわかいらつめ)と女鳥王の姉妹は、このいずれかと結婚した者が「正統の天皇」になる、という考えがあったことはこのブログのあちこちでたびたび書いている通り(この記事でも後述)。しかし誰もこの2人のいずれかを妃にして天皇になれた者はおらず、八田若郎女の血は絶え、女鳥王を妃にした速総別王は天皇になる前に亡ぼされ、女鳥王もその時に一緒に薨去した。しかしこの2人の子孫で女鳥王の血を引く女性がいたら…?「そんな女性はいたとしても反逆者の子孫として忌避されたはずだ」とはいえない。この時代、反逆者の子孫であっても名のある地方豪族として生き残っている例が多いことから、連座制のような考え方はなかったと考えられるからだ。むしろ父(?)の罪のせいで肩身の狭い思いをしている可哀相な人ということにもなりかねない。それで正統な天皇の証になる女性なら、有力な男性皇族なら誰しも夫として名乗りをあげ、奪い合いになっただろう。この構図どこかで見覚えはないだろうか。そう、『竹取物語』、かぐや姫だ。

寓話の分析
如上の復元系図からいえば中斯知命が伊豆志袁登賣で、大郎子が「春山の霞壮夫」になるはずだが、これだけではまだ「秋山」を特定できない。ここで問題は、「秋山」に喩えられた誰か(仁徳天皇とは限らないが仁徳系の誰か)がやらかした批判さるべき行為とは何か、神の娘を娶ったとはどういうことか、若沼毛二俣王(なり大郎子なり)と比賣碁曽社との間にどんな関係があったのか。これらが不明なのは、寓話だからわかりにくいのではなくて、この部分が古事記が完成した時のままではなく、誤写や錯簡、虫食いなどでかなり破損した後の伝本だということが考えられる。寓話といってももっと明瞭な歴史的な事件の合間にわかりやすい意味をもって嵌めこまれていたのが、写本の保管が悪くて断簡になってしまったために、かなりの文章が失われてしまって前後のつながりが不明になってしまったのだろう。
春山秋山の兄弟が取り合いをする女神は「伊豆志袁登賣神」という名だが、これは「但馬の出石という地名にちなむ少女」という意味の普通名詞であり、本名は隠されている。そして古事記が「この神の娘である伊豆志袁登賣神」という時の「この神」について、「8柱の神のうちその神か不明」という間抜けな注釈をつけてる者がいるが、それはこの直前にある「伊豆志之八前大神」という言葉を「この神」だと誤認したものだ。しかし「伊豆志袁登賣神」は但馬の出石(いづし)にいたわけではない。出石にも多数の少女たちがいただろうから、出石の中の特定の少女を「出石乙女」とよぶはずはない。そこにいるのは全員「出石乙女」なのだから。出石とはぜんぜん違う場所だからこそ、そこに住む多くの少女の中から特定の一人を「出石の地にゆかりある少女」と呼ぶことに意味がある。伊豆志河(=出石川)という実在の川が出てくるが、寓話の中ででてきてもあまり意味はない。寓話だから場所の設定も変えてあるだろう。で、この場所は本当はどこなのかだが、伊豆志袁登賣の親がどこにいたのかを考えれば自ずからわかる。伊豆志袁登賣の親である「この神」というのは、この段落(中篇)の冒頭にでてくるのだから、前の段落の話つまり前篇=「天之日矛の話」の全体を承けているのであって、「この神」とは、天之日矛の話のヒロインである阿加流比賣神に他ならない。いや「この神」とは天之日矛のことだという説もあるが、阿加流比賣と天之日矛は一時的にせよ夫婦だったので、「この神」が天之日矛だとすると伊豆志袁登賣はその娘で辻褄はあってるようだが、実は伊豆志袁登賣の父が天之日矛だとは限らない。阿加流比賣は天之日矛から逃げ回っていた上、伊豆志袁登賣が生まれたのはその後なんだから離婚した後のこと。
阿加流比賣神は「難波(なには:今の大阪)の比賣碁曽社に坐す」と明記されているのだから、伊豆志袁登賣も秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫もぜんぶ但馬の出石での話だとは限らず、これだけでは場所を特定できない。
兄弟の争いというと「海幸山幸の物語」を連想するのが、海幸山幸の話は、兄が弟をいじめる話であり、兄の目的は弟をいじめる他に特にないのであって皇位を狙っているわけではない。性格の悪い者がいじめる側で、清く正しい者が被害者になるという不条理をいっている。それに対して秋山春山の話は一人の女性を取り合う話で、例えば『竹取物語』等の類型である。前述の八上比賣をめぐって八十神が争う話で、秋山春山の話でも、この二人だけでなく「八十神」が伊豆志袁登賣と結婚しようとしたができなかったとある。
では、なぜ特定の女をめぐって争うのかというと、民話化された段階では牧歌的な恋愛譚になるわけだが、むろんそれだけではなく、例えば皇位継承ならば、その特定の女性と結婚することが自分の正統性を固めるために有利になるわけだ。仁徳天皇が石之比賣(いはのひめ)に妨害されながらも、しつこく八田若郎女(やたのわかいらつめ)を妃にしようとしたのも、その同母妹の女鳥王に求婚したのも、すべてこれ。この二人の女性は正統な皇位継承者だった宇遅若郎子の同母妹であってもっとも正統に近い血筋であった。第一世代でいうと、秋山は仁徳天皇で、春山は女鳥王のハートをゲットした速総和気王(はやぶさわけのみこ)にあたる。するとこれは謀反人の速総別王をもちあげて仁徳天皇を批判することになるわけで、これならわかりにくく寓話の形で流布した理由というのは説明がつくが、当時でも庶民はもっとストレートな非難をしていたのではないかとも思う。阿加流比賣神と皇位の関係はもうとっくに想像つくだろうが、宮主矢河枝比賣やその娘の女鳥王が石上神宮や出石神社の女宮司かすくなくとも巫女だったことは以前にこのブログの別の記事に書いたとおり。

第二世代での黒媛をめぐる争い
第二世代でいうと、女鳥王の血を引くと想像される中斯知命を妃とした大郎子が「春山の霞壮夫」だということになりそうだが、大郎子は第三世代でその父の若沼毛二俣王がいる。秋山は履中、反正、允恭の三天皇のうち誰か。しかしこれらの人々は誰かと恋争いをしたという伝承はない。履中天皇だけは即位前に住吉仲王(墨江之中津王)と黒媛をめぐってすったもんだがあった。この黒媛というのは羽田矢代宿禰の娘だが、履中天皇の妃で葛城蟻臣の娘の黒媛という女性もいて、同一人物とみられているが別人と思う。履中帝の妃の黒媛は途中で宗像三女神の祟りにあって薨去してしまうがその時に「羽田の汝妹」(はたのなにも)といわれているから、どうも薨去した妃というのが羽田矢代宿禰の娘らしい。他に履中帝は幡日之若郎女(記:若日下王)を后にして中磯皇女をもうけたとあるが、古事記にはそんなことは書いてない。倭直吾子籠(やまとのあたへ・あごこ)が謀叛の罪で捕らわれた時、妹の日之媛を履中帝に采女として献上したが、その程度で赦されるのはおかしいし、戦場に妹がいたのもへんだ。この女性が特別な存在であることが推察される。日之媛という名も天皇(日之御子)なみの高貴な名ではないか。羽田氏の娘だとすると「羽田日郎女」という別名が復元でき、幡日之若郎女と紛らわしいから、書紀は混同しているのである。仁徳天皇が追いかけた吉備の黒日賣は吉備海部直(きびのあまべのあたへ)の娘だが、海部というのは全国にいて、吉備氏の血縁ではなく、倭直(倭国造)の係累という。つまり黒媛の兄という倭直吾子籠の配下なのである(倭直は神武天皇を導いた海人の祖、椎根津日子の子孫で海部の首領)。そして倭直吾子籠は海の支配を任されていた住吉仲王の配下。最初に履中天皇と住吉仲王とが争った「黒媛」というのは「日之媛」のことであり、これが倭直の妹だったり海部直の娘だったりするのはある時点から海の支配者である住吉仲王の間接的な保護下にいたことを示している。また羽田氏の娘になったりするのは羽田氏の娘のほうの黒媛が幡日之若郎女(若日下王)と乳母姉妹で、羽田矢代宿禰は幡日之若郎女(若日下王)の乳母(めのと)親だったんだろう。書紀が誤って幡日之若郎女(若日下王)を履中天皇の后だとしたのはその間に生まれた中磯皇女の母を明示したくなかったからである。本当の母は黒媛で、履中天皇即位前に住吉仲王に騙されて不倫させられた女性である(ただしこれは履中天皇の側に立った表現)。だから父は本当は履中天皇なのか住吉仲王なのか不明で、公式には履中帝の皇女であっても世間ではなんとみたか。中磯(なかし)皇女は別名、中蒂姫(なかしひめ)といい、大日下王の妃となった。ナカシという名はどうも「中斯知命」のナカシチと同一人物くさい。では「中斯知命=中蒂姫」の母、黒媛というのは女鳥王のことかというと、年齢的にむりそうだから速総別命と女鳥王の間に生まれた娘だろう。速総別命を平定した時に、墨江中津王が黒媛を確保したが、仁徳天皇は石之比賣のせいで黒日賣も妃にできず、墨江中津王に託したんだろう。この時すでに皇太子のはずの大江之伊邪本和気王(履中天皇)との皇位争いの内乱の兆しが胚胎したのである。
中斯知命=中蒂姫が伊豆志袁登賣だとすると、黒媛(日之媛)が阿加流比賣ということになる。そうすると阿加流比賣を追い回した天之日矛は仁徳天皇か履中天皇のいずれかになるが、仁徳天皇は皇子だった頃に剣をもった姿を「ほむだの日の御子おほささぎ」と讃えられ、履中天皇は書紀では「剣太刀日之御子」(つるぎたちひのみこ)と呼ばれ、どちらも「剣」に関係して「日の御子」と呼ばれている。前者はあまりにも前すぎて情況が関係してこない。履中天皇が「剣太刀日之御子」と呼ばれたのは黒媛(これは羽田矢代宿禰の娘の方)が神罰で薨去した時にきこえた声だというが唐突すぎて経緯がわからないから、前者の引用ではないか。仁徳帝の後継者としての呼称なのではあるが、あえて天之日矛を連想させる呼称が選ばれている。

第二世代での中蒂姫をめぐる争い
書紀では、中蒂姫は大日下王の妃になったことになってる。そうすると、春山の霞壮夫というのは大日下王のことになるが、そういえば「春」は五行説で「木」でありそれは方角でいうと「東」になる。大日下王のクサカ(草香)を「日下」と書くが「日下」は漢語で東方の地をいう。五常(仁義礼智信)のうち、春や東と同じく木徳にあたるのは「礼」で、『古事記』では安康天皇が大長谷王の妃として若日下王を迎えようとした時、大日下王は言葉も態度も礼を尽くした人物として描かれる。
では秋山の下氷壮夫は誰か、履中天皇だとも思われやすい。が、反正天皇崩御の後で、朝廷の群臣たちが「いま天皇にふさわしい皇族は大草香皇子と雄朝津間稚子宿禰皇子(允恭天皇)の二人しかいない」といっており、その時点では二大有力者だったことがわかる。秋山の下氷壮夫は8年の間、病に苦しんだことになってる。履中天皇の崩御も書紀は「病没」だったとしているが、書紀によると允恭天皇は允恭3年に新羅からきた名医に治してもらうまで即位前から病気だったというから、秋山とは実は允恭天皇のことではないのか。即位してから3年、その前5年間はちょうど反正天皇の在位期間にあたるので、この「姫獲得バトル」が勃発したのは履中天皇崩御の時点ではないのかと思われてくる。また秋は五行説では「金」であり、方角では西。大和では葛城が西で、允恭天皇の本拠地「葛城の朝津間」がある。さらに西の河内とすれば、允恭天皇が都とした「河内飛鳥」がある。また『周礼』では六官のうち秋官は司寇で今でいう「司法、刑罰、裁判、警察」の関係をつかさどり、六部尚書の「刑部」にあたる。允恭天皇はカバネを偽称する者どもを裁いてカバネ秩序を再建した人物で「金德」にふさわしい。后の忍坂大中津姫のために忍坂部を定めたというが忍坂部を「刑部」とも書くのは全国カバネ大改正という「裁判関係の財源」として設定されたからだろう。
ただ、そうなると中斯知命が大郎子の妃になったっていう『上宮記』逸文の記述と矛盾してくるが、中田憲信の系図集である『皇胤志』には大郎子の妃は中斯知命ではなく「中斯命の娘の兄媛(えひめ)」となっている。『皇胤志』は今では失われた貴重な資料を丹念に収集したもので、玉石混交ではあるが参照する価値はある。『上宮記』を引用した『釈日本紀』の本文によって中斯知を中斯にしたのは本居宣長の説に依ったんだろうが、むろんこれは誤りで原文どおり中斯知のままでよい。中田憲信は中斯命を男性で兄媛の父だと解釈してるのだろうが、中田がみた系図も古資料の断片、残骸だから父の名は誤脱しているのである。兄媛は大日下王と中蒂姫の子だと自然にきまる。

物語の類型化
一人の女性の愛を争う話は類型化しており、『竹取物語』が有名だがこれは最終段階の形で、それ以前に長い変遷の歴史がある。『万葉集』では大和三山の伝説、葦屋処女(あしやをとめ)の伝説、真間手児奈(ままのてこな)伝説、桜児(さくらこ)伝説があるがこれらはヒロインの女性が自殺する話であり、「春山秋山の物語」よりずっと後世になってから登場したものである。古事記の因幡の八上比賣(やがみひめ)も伊豆志袁登賣も同じような情況でありながら自殺などせず意中の男と結ばれる話であって、これが伝承の古態である。高貴な女性は男を選んで子供を作るのが仕事の一部なので、複数から求愛されることは悩みにならない。ヒロインが苦悩の末に自殺するパターンは、物語の設定を庶民の女性に設定するようになってからのことである。ここらの話は『処女墓伝説考』(関口裕子:吉川弘文館)に詳しく興味深い議論が展開されている。

神の御子?
ところで、「伊豆志袁登賣」が「この神」の娘という時、この神を阿加流比賣神(新羅の赤玉)とすると天之日矛と同時代、崇神天皇以前の欠史八代の頃であり、応神朝や仁徳朝からすると、はるかいにしえの女神である。日本書紀の説によってこの神を名無し童女(任那の白石)としても、崇神天皇末年のことで、いささか時代が古すぎる。いずれにしろ今、目の前にいるこの少女の母ではありえない。そこで、通説では「神の女(むすめ)」を「神の女(みこ=巫女)」と読み替え、神社に仕える巫女のことだと解釈している。まぁそれはそれでありかなとは思うのだが、そればかりではあるまい。目に見えない存在であるカミと、普通の人間の間に子供が生まれることはちょいちょいあったみたいなのだ、古代の神話を信ずる限りではなw 女性が、男神の化身と交わって子供を生むパターンの方が多いが、逆に男性が女神(が化身した女性)と交わって子供を生んでもらうパターンもある。これを事実だとしたらオカルト的な解釈をしなければならないが、まぁそういう設定というか世界観なわけで現代人の立場からつっこんでもしょうがない。しかしそれならいくら古代でもかなり奇異な話だからもう少し物語の中で説明されてもいいようにも思われるが、原資料がすでに断簡だったとしたら伝承の欠損でありやむをえない。むろん前述のように、強引にオカルト的な解釈で押し通さなくても、単に伊豆志袁登賣に該当する女性(例えば中斯知命でも宮主矢河枝比賣でも誰でもよい)が神社(中斯知命なら比賣碁曽社、宮主矢河枝比賣なら石上神宮、女鳥王なら出石神社など)の巫女をやってたってだけのことでも一応、文章表現上の理屈は通るのだが、寓話に即して考えると、この巫女は多くの男性から求婚されている。民話なら美人だから求婚されたのだってだけで話は進むのだが、「歴史事実を翻案した寓話」にはならないし、美人だとも一言も書かれてない。この場合、単なる巫女という意味での「神の女」ではなく、何らかの特殊な女性だったからではないのか。それが何なのかは後述するとして、伊豆志袁登賣に該当する女性の母親が彼女を妊娠中の夢に阿加流比賣神がでてきて「わが娘を与える」とかなんとかご託宣があったとかの短いエピソードが付随していたのかもしれない。夢で御託宣を得る話は崇神天皇にもあり後世の物語にも甚だ多い。ともかく多くの男性から求婚されるに値するなんらかの神秘的なアドバンテージがあったに違いない。それは何かというとむろんこのブログで常にいう正統の天皇の証たる「宇遅和紀郎子の同母妹の血筋」なのである。

まだ残る、次なる謎解き
春山の霞壮夫は大日下王だった、秋山の下氷壮夫は允恭天皇だった。これが結論、これでいいのだろうか? これだと滅ぼされた大日下王を顕彰慰撫し、允恭天皇を貶しているようだが、この程度のことならわざわざ寓話化する必要がない。記紀はもっと露骨に天皇の悪事を書いたり、反逆者の美化などはざらにやってるので今さらこの程度のこと、そのまま書けばいいだろう。まだ何か足りない。おそらく「大日下王を顕彰慰撫し、允恭天皇を貶しめる」のはわざわざそれが本題のように勘違いさせるために寓話にしているのである。わざわざ? つまりそれは本題ではない。では本題とは?
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7応神記末尾の系譜の謎とき」に続く

5息長王朝の由来【前編】~天之日矛~

H25年11月20日(水)初稿
4百済の朝貢、大山守命の乱」から続き

「天之日矛」の物語は応神朝での出来事ではない
(※「天之日矛」については孝霊天皇のところで詳しくやりますのでそちらを参照)

息長氏の拠点は摂津にもあった?
もし息長系から継体天皇がでたことを正統化もしくは単に讃仰するための物語だとすると、「秋山春山の物語」は継体天皇以降に追加されたことになるが、こんなわかりにくい表現をする意味がないし、阿加流比賣神(=比賣碁曽社)と皇位の関係もあいかわらず不審だ。そこで、まだ若沼毛二俣王の子孫から天皇が出るとは誰もしらない段階、早ければ仁徳朝、遅くても武烈朝で、すでにこのような物語があったのだと考えられる。
ところで、比賣碁曽社の女神は朝鮮から逃げてきた神だという(古事記では新羅から、日本書紀では任那から)。朝鮮から逃げてきた神を奉ずる一族があるとすれば、彼らの目的は朝鮮にその神を送り返すのが目的であろう。そこまで極端でなくとも、朝鮮に進出しようとしている者にとってのご利益が期待される神だったとは思われる。これは何も軍事的な進出とは限らない。商業上の進出でもいいし、なんでもいいわけだが、まぁ安直に考えれば往々にして朝鮮征伐とかの物騒な話になりやすいだろうとは思われる。で、次にはそれが息長の一族と何の関係があるのかという話になる。
そこでまずは息長系皇族(=息長氏)と比賣碁曽社との地理的な関係を確認しておこう。若沼毛二俣王から始まる「第三息長王家」の一族の本拠地は近江で、後に越前にも拡大したが、もともとは摂津(大阪市平野区)から発祥したのだという説もある。ネットでも出回っている有名な大阪の地方伝承『北村某の家記』によると、倭建命(ヤマトタケル)の王子、息長田別王(=第二息長王家の始祖)は、大々杼国大々杼郷(摂津国住吉郡伎人郷、今の大阪府平野区の喜連)にあまくだり、そこの国造だった黒城という者の娘、黒姫を娶って、杙俣長日子王を儲けた。つまり息長田別王と咋俣長日子王は今の大阪府に住んでいた。その地で息長田別王は狭山池の水を引いて田地を広げ、川(水路)を掘って水を淀川に注がしめたという。狭山池とは大阪狭山市内にある日本最古のダム式溜池で、古事記によると垂仁天皇の皇子、印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)が作った。日本書紀では崇神天皇の時代に作られたという。咋俣長日子王には3人の王女が生まれ、真ん中の息長眞若中比賣は応神天皇の妃となって若沼毛二俣王(=第三息長王家の始祖)を生んだ。以上は神功皇后の時代のことであったという。応神天皇の御世に、その若沼毛二俣王も同地にあまくだり、母の妹の百師木伊呂辨(ももしきいろべ)を娶って、7人の子を儲けた。仁徳天皇の時代になってから、その7人の子の中で、大郎子(別名:意富富杼王)は近江に渡って近江の息長氏の祖となり、沙禰王(さねのみこ)は現地の息長氏を継いだと。また大々杼郷は、咋俣長日子王の名をとって、後世「杭全郷」と改名された。これは今の大阪市東住吉区の杭全(くまた)とう町名に残っている(平野区喜連の北西に隣接)。これがなんらかの史実を反映しているとすると、息長氏は畿内摂津の家系と近江の家系に枝分かれして二系統あったことになる。また日本書紀では継体天皇の母は越前の三尾君の娘、振媛(ふりひめ)ということになっているが、この伝承では、沙禰王の娘、真若郎女ということになっている。真若郎女と振媛はともに彦主人王(ひこうしのみこ)の妃ではあったが別人で、真若郎女が早逝したため、継体天皇は振媛に預けられたのだという。ここで彦主人王に注目すると、普通に考えると彦主人王は近江の息長氏だから、近江にいたのであり、滋賀県高島市安曇川町の「田中王塚古墳」が彦主人王の墓だとされている。ところで通常、継体天皇陵というと、大阪府茨木市太田3丁目の「太田茶臼山古墳」がそれ(宮内庁認定)だということになっているが、考古学の通説ではこれは誤りで、正しくは大阪府高槻市郡家新町の「今城塚古墳」こそが継体天皇陵だということになっている。では「太田茶臼山古墳」は誰の墓なのかというと、仁藤敦史の説ではこれこそが彦主人王の墓なのだという。つまり仁藤敦史の説では、継体天皇(=第三息長王家)は越前や近江からきたのではなく、もともと(少なくとも親の代から)畿内に基盤をもっていたのだというのだ(太田茶臼山古墳のある茨木市は旧摂津国島下郡)。俺の考えでは、息長王家が畿内に基盤をもっててもいいんだが、後背地として近江にも最初から所領があったと思われる。なぜかというと第一息長王家がもともと近江発祥であって近江に所領をもっていたから、神功皇后が入内の時に化粧料として近江の所領のいくつかが一旦は皇室御料に入り、それがのちに第三息長王家に分与され伝領したのではないか。神功皇后の兄弟、大多牟坂王は開化記だと多遅麻国造の祖だが、景行記では意富多牟和気の名で淡海之安国造の祖とある。あるいは、この『北村某の家記』が言っている、かなり初期の段階から摂津あたりに重要な拠点の一つをもっていたという話は、第二息長王家についての伝承であるから、第一息長王家の近江領と第二息長王家の畿内領とが、第三息長王家において結合・合体したのではないかと考えられないこともなくはない。だがその意富多牟和気の娘の布多遅比賣がヤマトタケルの妃になっているのだから、近江の化粧料というのは神功皇后でなく布多遅比賣のものでこの時に第二息長王家のものになったとも考えられる。それなら若沼二俣王の母は第二息長王家の出身だから、そのまま近江の所領が第三息長王家の近江における本拠地となったわけだろう。息長田別王は布多遅比賣とは血縁はないが実の母は無名で庶民出身(いわゆる卑母)だから経済基盤がなかったので、布多遅比賣の息子の稲依別が犬上君&建部君の祖先となって自立した際に異母兄弟の息長田別王に近江領を譲ったということはありうるのではないか。ともかく息長王家は畿内(摂津、今の大阪市南東部)に定住とまではいかずとも、現地管理者として分家を置いて、近江の本拠地とは頻繁に往来していたのではないか、というぐらいのことは考えられる。

比賣碁曽社と息長氏の結びつき
次に、難波の比賣碁曽社に鎮座した女神は古事記では「新羅の」阿加流比賣神といい赤玉の化身だが、日本書紀では「任那の」白石の化身の童女とあるだけで固有名詞のようなものは出てこない。この比賣碁曽社は現在のどこかというといくつもの候補がある。普通は大阪市東成区東小橋の「比売許曽神社」をあてることが多いが、大阪市平野区平野の「赤留比売命神社」(杭全神社の境外社)や、大阪市平野区喜連の「楯原神社」も阿加流比賣神を祭神としている。他に大阪市西淀川区姫島町の「姫島神社」、大阪市中央区高津の高津宮境内「比売古曽神社」もある。長い歴史の間には移転や改廃を繰り返したであろうから、どれが本物でどれが偽物という話でもないが、赤留比売命神社と楯原神社は上記の息長氏の本拠、杭全(東住吉区)から喜連(平野区)にまたがる範囲に含まれており、東成区の比売許曽神社とも4〜5kmしか離れてない。息長の一族とこの神社は密接な関係があり、もしかしたら息長氏の氏神だったのかもしれない。むろんいつ鎮座したのかという時期の問題、最初の場所はどこかという問題はある。また記紀ともに「難波の」といってる。「難波の津」「住吉の津」といった場合には難波と住吉は截然と別の場所だが、単に難波(なには)といった場合はどうか。現代語だと大阪市中央区と浪速区のあたりが「難波(なんば)」だそうだが、最も古くは難波崎(なにはのみさき)で今の大阪城のあたりだから時代によってはかなり広い範囲をさしてる。また記紀がいってるのは「最終的に」ここに鎮座した、つまり奈良時代にはここにあったという意味であり、応神天皇の時代にすでにここにあったという意味ではない。墨江中津王の乱の時にもまだなかったのではないかと思う(詳細は後述するが阿加流比賣神の御神体の赤玉は本来なら出石神社か石上神宮のいずれかになければおかしいはずで、それがなぜか難波の比賣碁曽社に遷座したわけだから、いつ・なぜそうなったかの経緯があるはずだ)。
前述の『北村某の家記』の舞台、現在の大阪府平野区の喜連は古の摂津国住吉郡伎人郷だと思れ、ここに最初にあまくだってきた息長田別王は第二息長王家の始祖であり、倭建命の子。倭建命は西の熊襲、東の蝦夷を征伐しつつも、国内の治安の根本原因は海外にあり、国内平定の後は半島問題その後は大陸問題と続くことを見通していただろう。これは国内統一であまった武力をもてあまして海外に向ける、ということではない。国内の治安悪化の原因は海外からの難民と不法移民であり、その発生原因は大陸の戦乱にあり、根本的かつ最終的には大陸を平定しなければゴキブリ叩きをやってるのと同じできりがない。だから、ゆくゆくは半島問題、大陸問題に焦点が移るであろうことは倭建命はわかっていたのである。その後、神功皇后の新羅征伐あり。これでそれまでマイナーだった「息長」の氏名はいっきにメジャーになった。「息長」といえば誰でもまっさきに思い出すのは「息長帯比賣」つまり神功皇后の名であろう。それは大昔の人々でも変わらない。神功皇后の登場以降は、息長氏の名はいちいち朝鮮征伐を連想させるものだったに違いない。倭建命の息子の息長田別王は父の偉業を継ぐべく最初から遠大な目標があって、海外への玄関である北九州とならぶ国際都市にあまくだってきたのだろう。ちなみに今回は詳しくは語らないが、日子坐王に始まる第一息長王家も新羅とは格別に縁が深い家系である。さて息長田別王の子、咋俣長日子王は3人の娘を儲けた。この三姉妹のうち、姉は倭建命の子、若建王の妃となり、仲は応神天皇の妃となって若沼毛二俣王を生み、妹は甥の若沼毛二俣王の妃となった。

大雀命からの息長氏への処遇
話はかわるが、もし息長氏が海外への雄飛を望んでこの地にきたのならば、朝鮮に攻め渡って征服し、日本に面従腹背する新羅王を廃位して自分が新しい新羅王になろうというぐらいの意気込みがあったろう。そんなことばかり妄想していれば夢の一つぐらいは見るというもの。その話が広まれば、同じように海外で一旗あげようという不満分子は大量に集まってくる。ここで注目される人物が百師木伊呂辨で、モモシキとは後世に「大宮」にかかる枕詞になったように、建物の広大な様。これは大勢の食客を養ってたってことではないか。イロベは女性だが、イロハ(血のつながった女性)の古い形だろう。書紀はイロハを「実の母、生母」の意味に使ってるが、岩波文庫版の注釈の通り間違っている。ただし「血のつながった女性」の中に「実の母」も含まれるんだから、ここは婉曲表現なのであって、さすところは「母上様」「ご母堂さま」ってこと。この頃まだ百師木伊呂辨は未婚で独身だった可能性があるが、彼女を神功皇后に見立て、皇太子クラスのしかるべき皇族に嫁いで、将来うまれるお世継ぎを応神天皇に見立ててるんで、不敬罪にあたる可能性があるから婉曲表現なのである。しかし時代はすでにかわっていた。日本帝国の三韓支配は名目的なものになりつつあったが、外国貿易の利権が莫大な富を生んで日本は物質的には繁栄の一途に向かい、多分に形式的とはいえ三韓も属国の礼をとって我らが帝国のメンツは守られていた。しかし憂国派の目からみれば日本は亡国の危機に瀕しているのであって、体制派などはすべて売国奴にしかみえないのだが、やたら征伐だ合戦だと血の気の多いことをぶちあげる時代錯誤な連中は過激派なのであって、体制派からすると危険分子なのである。日本はいにしえより敬神の念篤き神々の国で、祭政一致の神権政治を理念と(少なくとも名目上は)しているので、ご神託という概念自体は問題はないのだが、政府の公式見解や隠された本音から逸脱したご神託を勝手に宣伝するのは反政府活動であり、現代でいわばカルト教団みたいなものに相当する。
そういう対外過激派(強硬派)にいちばん困るのは、外交の責任者だろう。それはこの時期(応神朝)においては、ズバリ仁徳天皇だったのである、ただし即位前の「大雀王」だが。応神天皇の三皇子のうち、大山守命は今でいう産業経済大臣、大雀命が外務大臣、宇遅若郎子が国防大臣だったことは、すでに「大山守命と大雀命」で書いたのでそちらをご参照あれ。この頃、若沼毛二俣王は生まれてないか未成年だったため皇太子候補にはあがらなかったのだと思われるが、もしそうでなかったら他の多くの皇子たちと同様、選抜に漏れる程度の人材だったことになる。大雀命が日向の髮長比賣(かみながひめ)を娶ったのも一目惚れしたからではなく、職務上の目的が深く関係しているのだが今回はふれない。大雀命はいうまでもなく一時は皇太子の地位にもあり現職の外務大臣でもあるから体制派であり、葛城氏ともべったり。ここで百師木伊呂辨をかつぐ強硬派を放置すると右翼団体の巣窟となってしまう可能性もある。まぁなってしまっても取るに足りない存在だったかもしれないが、民心の掌握のためにも、念のため取り込んで自己の守護神としておきたいところ。しかし、ウヨのアイドル百師木伊呂辨に自分が求婚してもどうせ石之日賣(いはのひめ)の妨害が入るのは目に見えている。そこで弟の若沼毛二俣王に譲ったのではないか。仁徳天皇は弟なる若沼毛二俣王を、将来は自分の片腕として一時は期待していたかもしれない。しかし自分が比賣碁曽の神の娘にぜんぜん興味ないふうでもサービスというかアピールにならないから、一応、形式的な求婚ぐらいはした上で、百師木伊呂辨が若沼毛二俣王を選んだという形に取り繕ったのではないか。これに庶民は大喜び。庶民は「出来レース」とは知らないから面白おかしい雑談のネタにしたろう。しかし古事記には大雀命の失敗や屈辱がたくさん出てくるのだからこの程度の話を寓話に仮託しなければならないほどの禁忌があったとは思われぬ。だから寓話のもとになった事件はこれのことではなく別の事件だろう。

近江への国替え:表面上の理由
その後、すったもんだの末、大雀命は即位して仁徳天皇となったのだから、外務大臣の役割はいよいよ弟の若沼毛二俣王に譲られてもよかったのではないのか、と一見思われなくもない。しかし上述の「北村某の家記」によると、若沼毛二俣王の息子の大郎子(おほいらつこ)の代に仁徳天皇の命令で近江に移ったという。「北村某の家記」の設定では息長王家はこの時初めて近江の地を得たことになっているが、前述のようにそれは間違いで近江にももとから土地がある。これは「北村某の家記」自体が自家の由来を誇るためのものだろうから明示されてはいないが、摂津の本拠をお召し上げになったわけで、実質のところ息長一族は左遷、国替えになったのではないか。旧居には大郎子の弟の沙禰王が残ったが、窓口的な中継地を置いたにすぎず、勢力というほどのものを残したわけではあるまいと思う。仁徳天皇はなにもいじわるをしたわけではなくて、代替え地としていくらかは近江での加増もあったかもしれない。だが、語部(かたりべ)の魔の手にかかったらこれも「女を取られた恨みで…」みたいな色ボケな歌物語にでもされたところだろう。腐女子がなんでもウケとセメの二元論でBLにしてしまうのと同じ、いつの世にもこじらせた女にかかるとなんでも一色に染められてしまう。
とりあえず、今回の国替えの表面的な理由は「速総別命の乱」だろう。記紀では計画段階でバレて逃亡するはめになり逃亡の途上で征討軍に追いつかれ、反乱は未遂で終わったように書かれているが、それは語部の歌物語の部分しか資料が残って無かったからそうなったんで、速総別は伊勢から東海道へまんまと脱出して全国の味方に蜂起させ、自分は本拠を熊野から全盛期には住吉にまで前進させるほどだったのである(このブログの他の記事を参照)。本拠を住吉に進めたというのは南北朝時代の南朝にもあったことで地政学から説明されるべき共通性だろう。仁徳天皇としては対抗上、住吉周辺を一時的にでも直轄化しなければならなかった。
むろんこの建前からは、戦乱が終結したらまた旧領に戻れるはずだ。のちに実際そうなる。

近江への国替え:その深層
仁徳天皇の悩みは大后石之日賣(いはのひめ)の実家である葛城氏の権勢があまりに強大すぎることで、葛城氏の権勢の源泉は外交と貿易だが、外交と貿易は本来は天皇大権に属すべきものであった。というのは天皇が格別にどうのでも日本が特別こうのでもなく、原初の王権そのものの本質にかかわることで文化人類学的な問題なのである。そこは話がずれるのでスルーして、ともかく、息長氏が海外雄飛を考えていたとしたら、当然帰化人への関心も深く、海外については当代一の専門家を自負していたはずの葛城氏とはむしろ良好な関係だった可能性もある。むろんそこは対等の関係ではない。第二息長氏は、息長田別王と杙俣長日子王の父子が二代続けて母不詳、杙俣長日子王は妃も不詳。これは皇族としては致命的で、名もない一般庶民の女性とばかり結婚しているため強大な豪族のバックボーンがない、弱小貴族みたいな存在だった。従って葛城氏のような強大な中央貴族と縁付くのは願ってもないこと。葛城氏としては、パートナーとしての皇族が、仁徳天皇の系統以外にも増えるのはそんなに悪いことではないが、弱小皇族の一つ二つ、緊近火急の重要さもない。しかし仁徳天皇としては今のところ皇室は葛城氏の唯一無二のパートナーであることが国家の安定のために重要だった。息長氏が葛城氏と婚姻した形跡がないのは、葛城氏が息長氏をマイナー皇族として軽んじていたか、はたまた仁徳天皇からの横槍があったからなのか、あるいはその両方があったのかとも思われるが、それら以上に、葛城氏と仁徳天皇が問題視したのは息長氏を取り巻く右翼過激派の連中だったのではないか。息長一族がたまたま葛城系と婚姻関係がないのも右翼人気の理由の一つだったに違いないが、それは本当にたまたまなので、息長氏としては過激派庶民を切り捨てて体制派に仲間入りできれば御の字だったはずだった。が、太平楽な息長氏は庶民しかも自分らのファンを切り捨てることは思いもよらなかった。建前と奇麗事を純心に奉る息長氏の家風のせいで息長氏は政局にも世情にも疎かった。ために、体制派に入り込むことを歓迎していたのだがそれを態度で表わす必要に気づかなかった。この動きのなさは、体制派からみると煮え切らないようにみえたのだろう。真相は不明だが、葛城氏が息長氏を危険視したということは当時の勢力からみてありそうもないので、息長氏みずから、みすみすチャンスを逃したということかと思われる。
近江への国替えは第三息長氏になってからの発令ではあるが、仁徳天皇の考えはこうだ、応神朝では「宇遅若郎子が天皇になり大雀命が外相として補佐していく体制」が想定されていた。この想定では自分の監督下で若沼毛二俣王に外交を手伝わせるというのもありえたが、予定がかわって自分が天皇となると、そこまで管理できず、若沼毛二俣王は本当に外務大臣になってしまう。そうすると必然的に息長一族と葛城氏との関係も深まる可能性が高い。それよりは自分の皇子たちに分散的に葛城氏の力を振り分けたほうがよく、若沼毛二俣王には降りてもらおう、と。また、瀬戸内海の交易は葛城氏の子飼いの配下である吉備氏がすべて押さえてしまっており、今から息長氏が食い込む余地はないとみて、新しいフロンティアとして東国を提案したのかもしれない。近江は東日本と西日本をつなく物資輸送の大動脈であり、広い意味では国際的総合商社である葛城氏の下請けになってしまうとしても、それなりの地位と繁栄を約束されるのであって、さほど悪い選択でもなかった。また近江は、第一息長王家の始祖である日子坐命(ひこいますのみこと)が近江の三上(みかみ)の息長氷依比賣(おきながひよりひめ)を娶って丹波比古多々須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)を生んだというのが最初期の「息長」という名の登場であり、息長王家の発祥の地でもある。息長氏としては本来の本拠に帰ったことになる。

寓話誕生
そうすると「阿加流比賣(の娘)との結婚はなんだったんだ、新羅にいかず近江にいっちゃうなら意味ないのでは?」という疑問も当然うまれる。まさにその通りで、こたびの国替えの段階ではまだ「神の娘」伊豆志袁登賣は出現していないし、彼女をめぐる争いも勃発していないのである。まだその話までいってない。で、この国替えに息長氏は不満なかったとしても、息長王家を征大将軍に奉って海外で一発あてようとしていた浪人どもや、百師木伊呂弁をアイドル視していた貧民層(不平分子)たちは怒り爆発だったのではないか。息長氏が本拠とした平野区喜連のあたりは『北村某の家記』によると仁徳朝に帰化した呉人を住まわせたので「伎人郷」といったという(日本書紀では仁徳五十八年に呉国が朝貢してるからこれと関係あり?)。これだと息長王家が近江に転出したのと入れ替わりに呉人を移住させたようでもある。呉人の移住には、それを管掌した葛城氏の勢力の扶植と、息長色の一掃、つまり過激派(不平派庶民)の排除という意味もあっただろう。
ところでアンチ葛城派の中には語部(かたりべ)勢力も加担していたと思われる。語部というのは中央の宮廷の中のものと思い込まれているがそんなことはありえない。地方にも国造(くにのみやつこ)の管理下の語部があったことがわかっているし、文字のない時代には生活に根付いた民間の語部が庶民の通信や情報(=文字や文書の代替機能)を担っていただろう。文明開化派の葛城氏は、漢字の普及を推進し、口頭政治から文書政治への改革を唱導していただろうが、それは原始以来の権威を守ろうとする宮廷の語部(かたりべ)とは真っ向から対立したはずである。語部の職務の一つとして、演劇の上演がある。古来からの伝承をただ口頭で暗唱するのが仕事ではなく、猿女(さるめ)と称する歌舞音曲で神楽に奉仕する巫女たちも語部の一部なのである(サルメのサルは歌舞演技の意味の動詞「戯(さ)る」であって動物の猿とは関係ない。猿の字は当て字。このへんの議論は川田順造の『無文字社会の歴史』(1976,岩波書店)もなかなかおもしろくて参考になる)。通常、語部の上演の題目は古来から伝えられてきた神話や歴史上の事件(それらの中には現代では史実でなくただの伝説とされるものも含む)であり、だからこそ語部の権威は守られるのであって、創作など言語道断だが、ここで奇跡的に「事実上の創作が許される条件」ができてしまった。それは「神託」である。おそらく上述のように夢の中で「汝に子を授ける」という神告を受けたというのが最初の原形だったのだろう。夢でなく本当に巫女の御託宣だったのかもしれないが、この際、形式はなんでもよい。古伝承の中にはまったく聞いたこともない話ではあっても、御神託の中にでてきた話ならば否定するわけにはいかない。虚偽ならざればそれは事実と観念される。物語とは事実を語るための器であり、すべからく語部の題材なのである。
上述のように、息長王家は反政府派のシンボルとなってしまっては国家からみたらカルト教団みたいなものだといったが、しかしカルトといえばすぐに叩く宗教嫌いのネトウヨでも、右寄りのカルト教団には甘くなるw「キリストの幕屋」とか良い宗教じゃん、俺は入らないけど。「宗教は阿片」のはずの左翼でも、左巻きな教団とは連帯してるのと同じようなこった。夢は古代オリエントの昔から神秘的な神からの知らせと考えられてきて記紀にも例があるが、往々にして支離滅裂で不可解なものであり、それゆえにこそ謎解きの対象となり、古代オリエントの時代すでに夢占い、夢判断の術が発達していた(M・ローウェ&C・ブラッカー著、島田裕巳他訳『占いと神託』海鳴社)。夢(=神託)の中の物語を解読する。解読することで意味がわかる。そのままでは意味がわからない。寓話とは、「おかみ」(政府≒天皇)に対する不平不満を庶民が主張する際に最適の手法ではないか。さらにわかりやすくいえば江戸時代の「忠臣蔵」みたいなものである。建前上は室町時代の歴史物であって江戸時代とはなんの関係もないのだが、これを楽しむ庶民は実は赤穂浪士の話であることはみんな知っていた。ここで神聖不可侵なる古伝承(つまり神話)の拘束から解放され、体制批判のためという条件はありつつも、自由に様々な寓話を創作できるような情況が整ってきていた。

寓話の真意
とはいえ、息長王家の子孫から将来まさか継体天皇が出るとは当時は誰も知らないわけで、だからこれは皇位継承争いは関係ないし仁徳王朝を否定して息長王家を即位させようという政治運動でもない。当時は何といったかわからないが今でいうウヨも、若沼毛二俣王もしくはその子孫をかつぐという発想はほとんど無かったろう。そうではなくて息長王家の「お嬢」百師木伊呂辨を「今世の帯比賣」(現代の神功皇后)ともてはやす方向性だ。モモシキ(百敷)は後世「大宮」にかかる枕詞になったようにかなり広大な建物を想像させる。そこそこの皇族・貴族なら当然それなりの邸宅なり城なりを構えていたろうがわざわざこんな名がついてるのはよほどのことだろう。大量の食客を召し抱えて住まわせていたのではないか。
中田憲信の「東国諸国造系譜」によると天津彦根命の子の天目一箇命は別名を明立天御影命、または天津麻羅命といい、その妹に「比売許曾命」があり、別名を「息長大姫刀自命」または「淡海比賣命」という。そしてこの女神は天日矛命の「后神」だという。天日矛の后というのはつまり阿加流比賣のことで、この女神を天津彦根命の娘だというのは思弁と付会で作られた後世の説にすぎないが、別名を息長大姫刀自命、淡海比賣命というのが興味深い。前者は息長一族の女族長の意味で、百師木伊呂辨にふさわしいように思ってしまうが、これは百師木伊呂辨のことではない。息長氏の女系の祖にあたる中斯知命をずっと後になってから回顧的に追尊したんだろう。淡海比賣というのも、前半で「伊豆志袁登賣が出石にいたはずがない」といったのと同じ理由で、必ずしも近江出身だとか近江在住だとかと決めつけることはできない。
若沼毛二俣王は何ら大志を抱かずとも、その妃の方が現代の神功皇后たらんという野望をもっていた可能性もないでもなさそう。百師木伊呂辨は若沼毛二俣王からみて女系で同族の伯母(おば)である。イロベは「母」の字の古訓「イロハ」のさらなる古形だが、意味は母ではなく女のことである。この「ハ」は、男からみた「母=オモ」でもなく、男からみた「彼女=イモ」というのでもなく、男女から等距離のノンセクシャルでニュートラルな、単に「女性」のニュアンスの方が古くは強かった(母を強調したければオモ、性愛の対象としての女性を強調したければイモといったはず)。これは独身男性からみたアイドルではなく、老若男女の区別ない「万民のリーダー」としてのキャラが求められたということだ。男性は平和を求めてなぁなぁで回していこうとしてるのに女性の方が先鋭化して戦争を止められなくなってしまうというのは承久の乱のあたりの公家社会を彷彿とさせるが、ミクロなところでは現代もかわってない。
「秋山春山」の寓話の一部は、息長一族が近江へ後退することになったことの由来譚ではあるが、この段階ではまだ阿加流比賣は登場しない。仁徳天皇の治世は天下太平だったのではないかという反論もあろうが、日本書紀をよく読むと実はそうでもなかったことがわかる(詳しいことは分量が多くなってしまったので今回はふれないが)。仁徳朝の政乱には、新羅や蝦夷の反乱というわかりやすいものの他に、宿儺(すくな)という怪人や、蛟(みづち)の祟りといった超自然的なものが特徴にある。すなわち「神の祟り」である。天皇を罰することができるのは天皇よりも格上の存在しかないからだ。実際には、仁徳帝の時代に起こった新羅の不貢や蝦夷の反乱も、唆している者というか後押ししてる者がおり、それは日本の世論なのである。そも、経済発展の中で拡大する貧富の差。時を同じくして、文明開化策(大陸の文化の採用)が進む。どちらも主導しているのは葛城氏(=竹内宿禰とその息子たち)、そして葛城氏と閨閥をなす仁徳天皇なのである。大山守命の乱の時点で、憂国派は一度は敗れたものの、比賣碁曽の神の娘という新たなシンボルを得て、再集結しつつあった。これを放置する選択は政権としてありえないから、不平派は潰されてしまったんだが、権力をもってしても庶民の口をふさぐことはできない。上演活動まではおおっぴらには憚りあっても、娯楽の少ない時代に「語り聞くだけの物語」でも相当な訴求力があったろう。これが庶民の世論を統合した結果、政権へのプレッシャー、反政府派(=謀反組)の皇族貴族への心理的な後押しとなって、ついには速総和気王(はやぶさわけのみこ)の乱に結実するのである。
このような語部の力は、当局の警戒の対象となる。さすがに仁徳天皇がみずから弾圧を加えると、忠臣蔵がお伽話でなく事実だと認めることになってしまうので手を出せなかったが、次の履中天皇は履中四年、諸国に国史(くにのふびと)を置いた。これは漢字を使う書記官の設置を義務付けたのである。様々な情報のうち、どれが与太噺でどれが正統なニュースであるのか、当時はそれは政府の公式の文書になっているかどうかで決まる。語部がいっただけではネットの書き込みと同じ扱いなのである。
この寓話は、古事記の下巻の歴史に通底して流れる「開化派=漢字」vs「国粋派=語部」という構図(人々の政治認識)の最初の雛形となった。この後に起こってくる下巻に記された様々な事件の背後にはすべてこの構図が横たわっている。古事記の下巻が、乱の敗者になぜか好意的な歌物語を捧げている例が多いのはこのためである。
ただ早くから原文の破損が酷くて、文面を改修するたび趣旨が不明瞭になっていったものだろう。なにかの暗喩だと思って読むと、皇位継承争いの喩え話だろうとはすぐに思いつくような話になってしまっているが、上述したようにそれでは解決つかないことが多い。これが神話でも歴史でもない寓話の形をとっているは、仁徳朝から武烈朝までの時代の中でのいずれかの次期に実際に流布した話だからだとしか考えようがない。発端としては御神託は命令の形になりやすく物語の形にはなるまいから、直接の神託ではなく、息長王家の歴代のうち誰か、もしくはその妃がみた夢とその解釈という形で流布しつつ、名も無き庶民によって徐々に改作されていったのではないかと思う。現在の古事記に採録されているのは断片で、長文版はそれこそ夏山の青葉壮夫、冬山の枯木壮夫(?)の類も総登場した娯楽巨編で、なんの暗喩なのかもわかりやすいものだったろう。ちなみに息長氏が近江に移住した時は「比賣碁曽社」はまだ阿加流比賣に該当する女性の宮殿すらなかったろうが、後々になって神社になってからは近江に勧請したのではないかと思う。が、それらしい痕跡はない。長浜市に式内上許曽神社の論社とされる「富田町八幡神社」があり、同市の高山町にも「上許曽神社」があって名前が似てるが祭神は一致しない。また琵琶湖の南端に近い大津市の三井寺(園城寺)境内に有名な新羅善神堂がある。息長氏が本拠とした琵琶湖北東部とは真反対だが、畿内から移住してきた時の通路にあたる。この神は円珍が唐からの帰国の航海を守ったという話で有名だが、三井寺の地主神との説もあり、ならば三井寺よりもかなり古くからその地にあったとになる。伝承は途絶しているが、あるいはこれが比賣碁曽社の痕跡か。
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「春山秋山の物語」は神話ではなく寓話」に続く
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