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・「タヂヒ」という精霊

H29年6月14日(水)改稿 H26年5月21日(水)初稿
丹比郡と丹比連氏
反正天皇の御名は「蝮之水歯別命」(たぢひのみづはわけのみこと)。この蝮(たぢひ)というのは河内国の丹比郡(たぢひぐん)のことで、平安後期に丹北郡・丹南郡に分かれ、明治になって丹北郡から八上郡(やかみぐん)が分割された。wikipediaによると今の「松原市・大阪狭山市・堺市東区・堺市美原区の各全域と、大阪市東住吉区・大阪市平野区・八尾市・藤井寺市・羽曳野市・堺市北区の各一部」に相当するというから、かなり広大な範囲。タヂヒという古語にはヘビの蝮(まむし)と、タデ科の雑草(「タデ食う虫も好き好き」のタデ)の一種のイタドリをいう二つの意味があるから、この丹比郡も、イタドリの生い茂る原野で、マムシもたくさん生息していたんだろう。
この丹比(たぢひ)の地を本拠とした氏族で、丹比連(たぢひのむらじ)という氏族がおった(丹比氏は「多治比氏」とも書くが今回は丹比を採用)。この氏族は『新撰姓氏録』等によると火明命(ほあかりのみこと)の子孫といい、古代きっての大族にして名族たる「尾張連」(をはりのむらじ)の分家筋ということになるが、この氏族が尾張氏から分家して丹比氏として独立したのは、実は反正天皇ご誕生と同時であったと自称している。だが、本当かどうか? 姓氏録の伝承を意訳要約すると以下の通り。

火明命の子孫の尾張氏の一族に色鳴宿禰という人がいた(イロナリノスクネかシコヲノスクネか読み方がわからないが仮にイロナリ説をとっておく)。仁徳天皇の御代に、水歯別命は淡路島でご誕生になられたが、その時イタドリの花びらが風にのって飛んできて皇子の産湯に落ちた。色鳴宿禰はその様子をみて「天神寿詞」を唱え申して、さらに「蝮之水歯別命」と御名を名づけ奉った。そこで諸国に「蝮部」(たぢひべ)を設定し、皇子の所領となし、色鳴宿禰をその宰(この場合は代官みたいなこと)に任命し、蝮部を管理させた。これによって「丹比連」を氏姓としたのである(=尾張氏から丹比氏が分離独立したのである)(蝮部は丹治部・丹比部・多治比部などとも書くが今回は蝮部を採用。姓氏録は丹治部と書いてる)

これはいわゆる乳母(めのと)という制度で、たまたま尾張氏の者から水歯別皇子の乳母を選んだんだがそれが機縁で新しい氏族が生まれるとは珍しい。珍しいだけでなく不自然で不審に思う。尾張氏の一族の者が皇子の乳母になったところまでは本当だろうが、その時点ではまだ彼らは尾張氏から独立してなかった(丹比氏になってなかった)ろう。乳母になっただけでいきなり別氏族にはなった例はない。俺が忘れてるだけかもしれないが。蝮部(たぢひべ)も皇子誕生と同時に創設されたというのは嘘だ。皇子なら誰でも無条件に名代(なしろ)を設定してもらえるわけではなく、毎回なんらかの特別な理由がある。古事記にも日本書紀にも蝮部の設立が「誕生と同時だった」等とは一切ない。
丹比氏ができたのは、十分に成長した後の皇子が「山の民」の管轄を任されて丹比の地に本格的に本拠地を構えてからだろう。蝮部が設定されたのも、皇子の任務を遂行するための財源という意味があったろう。乳母だった者たち(つまり尾張氏の一部)も家臣として蝮部の管理にあたるべく(つまり伴造(とものみやつこ)として)皇子に従って丹比に移住した。尾張氏の者で丹比部の伴造に任じられた者がいた、実質的にも形式的にもそれが丹比氏の始まりなのである。
あとここに出てくる「天神寿詞(あまつかみのよごと)」とは神道業界でいう有名な「中臣寿詞」(大嘗祭に際して中臣氏が読み上げる祝詞)とは別のもので、皇室の子孫繁栄を寿ぐもので代々皇室に多くの后妃を入れてきた尾張氏の家系に伝わった独自のものだろう。

蝮部のゆくえ
反正天皇には少なくとも一人の皇子(財王)がいたはずだがその子孫についての伝承がなく、本人が早逝したか、子孫がいたとしても早くに断絶したのだろう。他に三人の皇女がいたので、本来なら蝮部はこれら皇女たちのうちの誰かが継承者したはずで(分割されたなら名前も3つになったと思われるがそういう様子がない)、皇女たちの嫁ぎ先は不明だが、皇女は蝮部という所領をもって、おそらくはさほど遠縁ではない皇族同士と結婚し、蝮部の所有権が皇室の外に流出することを防いだと思われる。あるいは嫁ぎ先が書かれてないのは丹比連一族の男性に降嫁したか。その場合は蝮部は特定皇族の所有下ではなく歴代天皇の直轄になったと思われる。しかしいずれにしろ、宣化天皇の曾孫の多治比王の代になってからその子孫、丹遅公(たぢひのきみ)氏の配下に組み入れられたものと思う(多治比王の生母か乳母のいずれかが丹比連のはず)。

蝮部の役割とタヂヒという概念
蝮部は名代(なしろ)つまり皇族の領地の一つと考えられており、それなら租税を納める単なる農地と農民ということになるが、それではなくて職業部も兼ねていた可能性もなくはない。ヘビのマムシは薬用になるから、これを捕獲して薬種を製造する部民がいたとも考えられる。雑草のイタドリも食用にも薬用にもなるが、こっちは専門の部民などいなくても普通の農民が各自で必要に応じて勝手に採集、加工してたろう。
そもそもタヂヒとはマムシのことでもイタドリのことでもなく、精霊の一種であって、そのタヂヒが、ある時はマムシの姿で現われ、また別のところではイタドリとして現れるという古代信仰があったのだろう。現代人からみると、両者はまったく関係なさそうに思えるが、ヘビと野草が同一の名をもつ例は、たとえば幻の怪蛇ツチノコは別名「ノヅチ」というが、ノヅチは『古事記』では野神、『日本書紀』では草の祖という「カヤヌヒメ」という女神の別名でもある。そしてイタドリは歯磨きの道具でもあり、それでマムシの牙や、歯の立派な反正天皇=ミヅハ(立派な歯)という名前ともつながってくる。
昔の日本では「房楊枝」を使って歯を磨いていた。鎌倉初期、曹洞宗の開祖道元は中国にいった時に今の歯ブラシに近いものを見ていたが嫌悪感をもよおして「これは靴磨きの道具で歯磨きの道具ではない」といい、日本の房楊枝をほうを賞賛している。この房楊枝がいつからあるのかわからないが、遅くても奈良時代には(房楊枝かどうかわからないが)楊枝で歯を掃除する習慣はあったらしい。で、房楊枝以前にはイタドリの棒っきれで磨いていたという説があるのだ(正確には並行して両方のやり方があったという説)。棒っきれで磨けるのかよと思うが、現在でもアフリカでは木の枝で歯を磨いているという。この木の枝はなんの木でもよいわけではなくてそれ用の種類の木でないといけないのだが、ちらっと検索してみたところ、使う木の種類は北アフリカのアラブ圏とサハラ以南でも違うし、東はインドや西のモロッコでも地域によって違うらしい。ただ、木の枝の横の部分で直接歯をこする感じのと先端を砕いてブラシ状にして使うやり方がごっちゃに混同されてるようなサイトもある。ここで思い出すのが、豊川悦司主演の『丹下左膳 百万両の壺』。この映画の中で、野村宏伸演じる道場主の朝の寝起きシーンで嫁(麻生久美子)が用意した洗顔道具に木の枝のようなものが確かにあったw あぁ、歯磨き道具のつもりだな、と思ったが理解できた観客はいたのだろうか? しかし江戸時代で剣術道場経営してるぐらいならやはり房楊枝だろうと思うのだが…? ほんとにあんな棒っ切れみたいなもんで磨いてたのか?
(以下、後日加筆)

・「反正」という諡号

H28年12月14日(水)初稿
「反正」という諡号
反正天皇という諡号をみて「正義に反した天皇」と解釈したのは佐治芳彦だが、「反正」は漢文で「正義の状態に戻す」って意味。中国での辛亥革命の後、軍閥が割拠してすったもんだしてた時にも「反正之檄」という檄文がでたことがあったような記憶があるがちょい思い出せない(検索にひっかからず)。墨江中津王の乱を鎮定して履中天皇を都に戻し奉った功績から捧げられた諡号であるのはあきらかで、「正義に反した天皇」とか訳の分からないこといってる佐治芳彦は、歪曲曲解したいわゆる古史古伝ネタで本を売りまくった人ですな。
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浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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