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・「墨江之中津王の乱」の謎と背景

H29年9月24日(日)更新 H26年4月16日(水)初稿
履中天皇
住吉中津王の乱
この物語の腑に落ちないところは水歯別皇子が「俺の命令に従ってやったことだから約束通り褒賞しなくてはならんが主君殺しには違いないから処刑しよう」なんていう訳の分からない理屈で、自分の手足となって働いた曾婆訶理(そばかり)を騙し討ちにしてしまうことだろう。いくらなんでもこれは誰がどうみてもおかしな話で、これがもし事実なら、もう二度と誰も水歯別皇子についていかないだろうし、反正天皇として穏便に即位できたとも思われない。そこで『日本書紀』をみると例の謎理論をもちだしたのも、隼人(書紀では曾婆訶理でなく刺領巾(さしひれ)という名)を処刑したのも、水歯別王ではなくて木菟宿禰(つくのすくね)ということになっている(木菟宿禰は古事記では「都久宿禰」と書かれるがこの物語には出てこない)。しかし水歯別皇子だろうが木菟宿禰だろうが、言ってることやってることがおかしいことに変わりはない。合理的に考えると、殺すことそれ自体が目的で、例の謎理論はそのための「言いがかり」だったしか考えられない。ではなぜ殺すのかというと、曾婆訶理が最初から悪の根本で、住吉中王(記:墨之江中津王、紀:住之吉仲王、このブログでは適当に書きます)の反乱の黒幕だったか、または口封じのどちらかがありうる。前者はいくらなんでも無理な想定でありそうもないし、それなら訳の分からないややこしい罠にはめずとも堂々と殺すチャンスはいくらでもあったと思われる。後者の口封じだった場合、水歯別王か木菟宿禰のどちらかに「やましい裏」があったということだ。つまり住吉中津王の反乱に通じていて、そのことを曾婆訶理に知られてたんだろう。そういえば水歯別皇子は住吉中王を成敗にいった時に、戦術に悩むこともなく住吉中王の近習であるはずの曾婆訶理(=刺領巾)に直行、面会して寝返りを奨めている。これも絶対ありえないことともいえないが、やや不審な感じはしないでもない。前から面識があったのではないか? つまり住吉中王の手先として履中天皇の命を狙って追いかけてきたわけだが、書紀をみると履中天皇はすでにかなりの手勢に守られてるので暗殺の機会がなかなかつかめなかったのだろう。…と推測した場合、今度は、ではなぜ犯人(水歯別王か木菟宿禰のどちらか)は住吉中王を裏切って履中天皇についたのか? それはもちろんその時点で住吉中王のクーデターが失敗していたから。書紀をみると住吉中王は履中天皇の妃候補の黒媛を天皇になりすまして密かに犯し(黒媛自身も気付かなかった)、履中天皇もそれに気づいて両者に溝ができたとあり、これからすると住吉中王は一応武装蜂起の計画を練る時間的余裕があったはず。実際に「密かに兵を起こして云々」とあり、兵を起こすのも段取りや時間がいる。履中天皇がその気になればすぐに処罰もできたはずだが黒媛に配慮してか、磐之姫が生存していて兄弟の殺し合いを牽制していたのか、ともかくすぐには処罰しなかった。磐之姫(記:石之比賣)は仁徳天皇と別居して山城の筒城宮にいたろうが仁徳天皇崩御にあたって難波の高津宮(今の大阪市中央区)に帰ってきていたろう。書紀では仁徳三十五年に磐之姫薨去とあるが仁徳朝は実際は31年しかないので仁徳三十五年とは実は履中四年なのである。住吉中津王にしてみれば処刑待ちの針の筵でもあるが同時に反乱の準備をするための天がくれた時間でもあった。まずは八田皇后に取りなしを頼み、その裏で叛乱の準備をすすめたんだろう。
ところが、実際にクーデター起こしてみたら、阿知直(あちのあたへ)の活躍で天皇の身柄を取り逃がしたのは第一の失敗、第二に、差し向けた追手、安曇連浜子(あづみのむらじ・はまこ)と倭直吾籠子(やまとのあたへ・あごこ)も追撃に失敗、安曇連氏も倭直氏も海人族で、住吉中津王が海を支配していたことがわかる。こうなったら天皇が逃げ込んだ石上神宮を急襲するしか手はない。が、この段階では磐之姫がかなりの権力を握っていて、彼女に気付かれないうちに迅速にことをなす必要があった。
先帝崩御から新帝即位までの期間は後宮の女性とくに皇太后(になる予定の女性つまり先帝の皇后)がよろず取り仕切るならわしがある。書紀では即位前の事件ということになっているが、古事記ではすでに履中天皇が即位した後の大嘗祭でのことになっている。しかし天皇が逃亡して不在なので、先帝崩御から新帝即位までの期間に準じて、皇太后が万時を掌握決済することになるだろう。八田皇后も生きていて絶大な権力はあったろうが、古事記にある通りこの人は「仁徳帝の后妃」になれなかったのであり、磐之媛の薨去後に帝ののちぞえになったという日本書紀は作為的なもの(皇后という称号はもっているが「仁徳帝の配偶」という意味ではない)。だから、こと「仁徳天皇家」の家の中の主人という地位に基づく「皇位交代期の皇太后権力」はあくまで磐之媛のものであって、八田皇后はいくら権威や権力があっても本人が「後宮の女性」ではないのでどうにもならない。逃亡した履中天皇に中津王が追手をさしむけ都の外で殺させる分には、磐之姫に気付かれぬうちに遂行できても、天皇が逃げ込んだ石上神宮は朝廷の武器庫でもあり物部氏の牙城でもあったから、いわば軍事要塞基地であって、防衛の軍備を整えてしまったようなもの。こちらも派遣軍を編成しなければならず、磐之姫の検閲は免れない。住吉中津王は磐之媛をどう騙すか、あるいはどう説得するかで四苦八苦する羽目に陥ったろう。同じことは天皇方にもいえ、磐之姫と敵対する八田皇后はなにかと中津王を擁護しつつも、都では攻撃軍にも防衛軍にも武力行使を停止するよう圧力をかけてくる。むろん皇太后磐之姫の裁定が下るのは時間の問題である。実はこのブログの別記事に書いたが、住吉中津王は磐之媛の産んだ皇子ではなく阿貝知之御原郎女(淡路三原皇女)が産んだ皇子らしく思われる。皇太后は履中天皇の生母なのだから、彼女が裁定したら中津王に不利になる可能性が高い。よくても、強引に和平を強要され、すべては無かったことにされる可能性が高い。しかしそんなことでは危機のさらなる悪化と先延ばしにすぎないので、暗殺合戦になるしかない。
古事記では水歯別王が曾婆訶理を誘うのに「俺が天皇になりお前は大臣になる」といってるがこれは少しおかしい。書紀では履中天皇が瑞歯別皇子を(乱の平定後に)皇太子に立てており、そして古事記ではこの反乱が即位前ではなく即位後のこととしているから、水歯別王はこの事件の前に事実上の皇太子である。中津王の乱の前から次の天皇に決まっていたっぽい。先帝崩御の後に履中天皇と住吉中津王は不和になっているし乱の起こった時点で住吉中津王が皇太子となる可能性はない。書紀では即位後、瑞歯皇子が皇太子になってるから、乱の最中の段階で皇太子を正式に決めていなかったとしても順当に考えて水歯別王が事実上の皇太子でしかありえない。中津王が勝利してしまえば履中天皇がきめた皇太子の地位は水の泡だから、理屈の上ではこの台詞も問題なさそうだが、違和感がぬぐえないのは、この台詞は「乱を鎮定したらすぐ水歯別王が履中天皇をさしおいて即位する」みたいに聞こえる。だからへんなのだ。書紀では刺領巾(=曾婆訶理)に「敦く報いむ」(手厚く褒美をとらす)とは言ってるが、大臣にしてやる等とは当然いってない。じゃ言ってなかったのかというとそれは書紀が古事記に出てくる大臣に任命してから殺す茶番劇を省略したため不要な台詞になったから書かれてないだけで、その茶番劇がある以上、言ったことは事実だろう。書紀が省略した理由は、書紀ではすでに皇太子である瑞歯別皇子が「天皇を殺して俺が天皇に」なんていうのは台詞としておかしいからだ。台詞はあった、だが水歯別王の発言ではない。もし住吉中津王の発言なら、それをそのまま書いても問題ないはずだし約束の当事者は敵で、すでに滅亡してしまったのだから律儀に約束を遂行してあげる必要もない。そうすると、発言の主は木菟宿禰の発言でしかありえまい。しかし、刺領巾(=曾婆訶理)を誘ったのは木菟宿禰ではなくあくまで瑞歯別皇子になっている(だから書紀では例の台詞がない)。つまり、例の台詞は、ぜんぜん別のところで発せられたものなのではないか。だとすると木菟宿禰はもともと住吉中津王の側で、大嘗の宴会で天皇を酔い潰したのも宮殿に火をかけたのも、木菟宿禰の指図でこの隼人が下手人だったのである。だからこの隼人は別人からそれぞれ別の命令を受けてることになる。まず木菟宿禰(と住吉中津王)から「大臣にしてやる」といわれて履中天皇を襲い、次に水歯別王から「褒美とらすから」といわれて住吉中津王を暗殺した。
書紀の書き様からは、木菟宿禰の意見を受け入れて瑞歯別皇子が処刑したように受け取れるが、例の茶番劇の成り立ちからいうとここは木菟宿禰が自分で殺したのでなければ劇が成立しない。おそらく水歯別王は隼人の処刑を後から聞き、疑問を抱いたろうが、強くも出れない事情があった。書紀では履中天皇の代官というか査察官として木菟宿禰が瑞歯別皇子の行動を見届ける役という建前になっているから、常時二人で行動したはずで、瑞歯別皇子が刺領巾を味方に引き入れることができたのは木菟宿禰の紹介なのだろう。瑞歯別皇子は住吉中津王を殺して自分の潔白を証明しなければならないが、格別に作戦も大軍もなく手詰まりになりかねないところに、木菟宿禰が恩を売ったわけだ。しかしこの曾婆訶理が木菟宿禰と結託しており、もともと住吉中津王の側だったことがバレると木菟宿禰の立場も危ういので、そこらは瑞歯別皇子には秘密にしていた。なら記紀で隼人の名前が違ってる理由もわかる。木菟宿禰に利用された曾婆訶理が本名(?)で、瑞歯別皇子に雇われた刺客の刺領巾なる者は、瑞歯別皇子の前でのみ名乗った偽名だろう。古事記では処刑のあった大阪の山口で1泊、大和の飛鳥で禊のために1泊、計2泊かけて石上神宮にいる帝に復奏したことになっているが書紀では直行したことになっている。これは書紀が瑞歯別皇子の忠節ぶりを示すため、などではなく、本当に瑞歯別皇子の代理も兼ねて木菟宿禰が直行したのであろう。木菟宿禰としてみれば代理としての事後報告で真相を歪曲したり天皇自身の認識や世論対策としてたっぷり先入観をふきこんでおく工作を急がねばならない。水歯別王は事件の全貌を薄々察知してショックを受けたから1泊休んで、また禊のために1泊とった。悪人を1匹殺したぐらいで1日がかりの禊をしたなんて記事は他にないから、よほどのことだったと考えたほうがよい。
では木菟宿禰はなぜバレないでのうのうとその後も首相格でいられるのか、もちろん口封じで曾婆訶理を殺してしまったからである。多少ならず疑いはかけられたろうが、証拠隠滅してしまえば後はなんとでも言い逃れ得る。まぁバレてはいたんだが、最初から住吉中王を倒すために味方のふりをしていたまでのこと、と開き直っていたのかもしれない。それにしたって証拠が残ってないからできることだが。とはいえ、履中天皇の当初1回だけ首相格として5大夫(貴族のトップ5)に列したものの、名前だけでその後は歴史から消えてしまう。おそらく信用ならんやつだと敬遠され、やがて閑職に追いやられたのだろう。平群氏(木菟宿禰の家系)が復活するのは息子の平群真鳥(へぐりのまとり)が雄略天皇に仕えてからなので、しばらくの間は平群氏のドン底時代が続いたわけだ。

反乱の原因は「黒媛へのレイプ」ではない
ところで、なぜ住吉中津王は反乱を起こしたのか? 乱が鎮定された後、水歯別王が皇太子になっている。これは論功行賞というものではなくて、履中天皇には当時まだお世継ぎ様(市辺の押歯王)が生まれてなかったか、もしくはまだ幼少だったわけだろう。それで弟に皇位がいくんだから順番からいえば三男の水歯別王じゃなくて次男の住吉仲王となるはず、と一見思えるが前述のように。つまり中津王は反乱など起こさず黙ってても皇位が転がり込んできたはずだ。考えられるのは乱を起こしたら継嗣から外されたのではなく、乱を起こす前から履中天皇と中津王の仲が悪くなっておりこのままいけば中津王をさしおいて弟の水歯別王が皇太子になるということが事前に確実視されていた、と考える他ない。ではなぜ二人の仲が悪くなったのか? 一つには仲の良し悪しとは別に、前述のごとく中津王は磐之媛の腹ではなかった(異母兄弟)から、それで皇太子にされなかったんだろう。しかしそんな皇子はいくらでもいるんで、中津王一人だけが謀反せねばならぬほどの不満を抱いた理由にならない。中津王は、「履中天皇が即位したら弟の水歯別王が皇太子に立てられるのであって自分は皇太子に指名されないだろう」と早い段階で確信していただろうが、これだけでは叛乱の動機としては弱すぎる。
それを説明するため日本書紀では黒媛のエピソードが書かれているわけだが、これは日本書紀編集部の解釈にすぎず、納得できない。第一の理由は、この説だと二人の間にひびが入ったのは、仁徳帝崩御(書紀だと正月十六日、古事記だと八月十五日)より以降のことになり、とても勝ち目のあるクーデターを準備する時間的余裕がない。第二の理由は、書紀の話では中津王が黒媛を寝取ったのは衝動的で突発的な行為だったように書いている。確かに男もいろいろなタイプがいるので一概には断定もできなかろうが、ただでさえ皇室のメンバーで天下国家に携わるべく教育されてきた貴公子が女一匹のために天下を戦乱に巻き込むかね? しかも惚れあった同士でもなく婚約者になりすまして一発ハメるだけだぞ? しかも準備不足で勝ち目のないクーデターだぞ? しかも先帝の大葬の礼の最中で新帝も即位していない緊張感のある時に、次期天皇の皇后陛下を寝取るやつなんている? 日本書紀の説ではもし中津王が黒媛を寝取らなければ関係悪化の原因もないわけで。それがなんでこんな自暴自棄なことするよ? そんなに追い詰められるような何があったのか情況がさっぱりわからない。だから何度もいうように黒媛を寝取るよりずっと前の段階で兄弟の仲は悪くなっていて、中津王はクーデターの準備をずっと前から着々とすすめていたとしか考えられない。
では、伊邪本和気王(=のちの履中天皇)と仲津王の間になにかあったのか。

4人の皇子たちの名前からわかること
この皇子たちの名前と父帝崩御の時の数え年齢は、長男が「大江の伊邪本和気王」(おほえのいざほわけ)59才。次男の「住吉の仲津王」(すみのえのなかつみこ)推定54-55才(±3)? 三男は「丹比の水歯別王」(たぢひのみづはわけ)50才。四男「男朝妻若子宿禰王」(をあさづま・わくごのすくね)33才。四男は「若子」とついてるように年齢が上の3人よりかなり離れている。

大江が今のどこかについては2説あり、大阪湾のどこかなんだがあのへんは時代による海岸線の変化が激しくて特定はできないという説と、難波の堀江のことだという説がある。前者の説はどうでもいいとして、難波の堀江は仁徳天皇が一代をかけて開削した運河で、単数か複数か具体的なルートがどこかは諸説があるが大雑把に皇居である高津宮(大阪市中央区)つまり上町台地の北を通って西に向かい直接大阪湾に注いでいたらしい。神武天皇の上陸地点が日下(くさか、生駒山麓の西側。東大阪府日下町)だったことからもここまで海だったわけだが、仁徳天皇の頃には西側が塞がって上町台地の東には日下江(くさかえ:草香江)という巨大な湖が広がっていて、それを西の瀬戸内海とつなげたともいう。淀川があるじゃないかと思うが当時は淀川はその日下江に注いでおり瀬戸内海に直接にはつながってなかった。
日本語で単に「江」といった場合「入江」のことだろうから、難波の堀江の全体を大江といったのではなく堀江の河口、海への出口のこともさしうるが、文字通り巨大な江のことなら難波の堀江で海水が流入した日下江のことじゃないのか。これをなぜ日下江といわず大江というのかというと、日下には神武天皇以来の上陸地つまり港町である「日下の津」があって、そこには大日下王(おほくさかのみこ、紀:大草香皇子)が管領していた。この人の御生母様、髪長媛は南九州の隼人を支配する日向国造・諸県君(もろがたのきみ)氏の出身で、彼らは海の民でもあったから、応神天皇は彼らを引き上げて葛城氏(直接にはその配下の吉備氏)の勢力を削ぐため瀬戸内海の航行を彼らに任せるとともに、信用ならない取り巻きとは別に忠実な召し使いとして純朴な隼人を採用した(「近習隼人」(ちかづかへのはやと)の起源)。だからその皇子(応神天皇からしたら孫)は日下(くさか)にいて大日下王とよばれた。だが、大雀王のもう一人の妃で葛城氏出身の磐之媛は嫉妬心から(もしくは嫉妬のふりをして)髪長姫を応神天皇のもとへ追い返した。応神天皇崩御後、仁徳天皇は難波の堀江の河口、海への出口の近くに港を作った、これが「難波の津」の起源で今の大阪城の東のほうにあったらしい。「難波の津」の管理者として本来なら大日下王が任命されるのが筋だが、大日下王は大山守命の乱に際して、父(大雀王)につかず、伯父(叛乱側)に味方したか、少なくとも中立派だったかして、権限を取り上げられてしまったんだろう。そこで葛城氏を始めとする竹内系の諸氏族は葛城系の皇子たちのいずれかを推したんだろう、仁徳天皇もどうしたもんだか迷ったろうが結局、どちらの皇子でもない、弟の隼和気王を任命した。速総和気王はバックに強力な氏族もなく生母の格式も低い皇族なので、葛城氏からすれば扱いやすいし、大日下王からすれば気安い仲で、割りかし融通がきく、と一時は思われたんだろうが、葛城氏ほか武内系の氏族は隼別王をゴリ押しバックアップする形で大日下王の介入を阻止してしまって、大日下王は隼別王の下請け的な存在になってしまったものと思う。隼別王としては大日下王に対して気まずいながらも、無力の枝葉皇族で、今をときめく大権力者の葛城氏やその取り巻きしかいない朝廷の流れには逆らえない。その後すったもんだでこの人が反乱し、その後処理で九州の隼人の総監の地位は隼別王から大日下王が取り戻したものの、改めて「難波の津」は葛城系の皇太子伊邪本和気王の直轄ということになった。ここで荷揚げされる物資を管理するので、大日下王のいる「日下の津」は流通のセンターとしての機能を大きく損なってしまった。
大江というのは「難波の堀江の河口、海への出口のこともさしうる」とは前述した。「難波の堀江の河口、海への出口」とはつまり「難波の津」のことだ。実際は「日下江」全体をいってるのだが、大日下王を憚ってあえて直接な言い方を避けているのではないかと思う。実際に「日下伊邪本和気」(くさかのいざほわけ)と名乗ったこともあったかも知れないが、名前がかぶるのですぐやめたんだろう。
(※ちなみにこの「大江」は書紀が「大兄」としてるがこれは奈良時代に大江という地名がわからなくなってたから書紀の編集部が当て字だと解釈したんだろう。実際に長男だから「大兄」と称していた事実があってもいいんだが、それなら「伊邪本の大兄」のように名前の後ろにつくはずで、前につける例はない。)

住吉は今の大阪府住吉区にあった「住吉の津」と神戸市東灘区の住吉があり、後者(神戸の住吉)は神功皇后以来の伝説に彩られており軍港だったのではないか、つまりここを牙城とする者(かつては隼別王、のちに住吉中津王)は海軍を掌握していた。それぐらいでなけりゃ謀反など起こす気にはなれんよ? 流通経済的に重要なのは前者(大阪の住吉)で、そこで検問を受けた物資は大和川を遡上して大和に入る。当時は「難波の津」よりも重要な港だったろう。尾張連というきわめて古く皇室とも縁が深い氏族があるが、その枝分かれの津守氏がこの「住吉の津」を取り仕切っていた。新興勢力である北(難波の津)の商人と、旧勢力である南(住吉の津)の商人の間では当然ながら激烈な経済競争が起こったろう。起こるよな、普通は。実は東国との交易路としても「住吉の津」から山越えしていったん伊勢に出てから尾張に北上するよりも、「難波の津」から山城へ水路で北上して近江に出たほうが北陸にも東山道にも東海道にも、はるかに便利。だからこの後、長期スパンでは住吉の津は衰退して難波の津が栄えていく。
(※ちなみにナカツミコってのは普通に考えると「2番めの王(みこ)」ってことであって「ナカツの王」(=ナカツという名の王)じゃない。この兄弟たちの生前の通称は、上から「大兄王・仲津王・中弟王(/弟王)・若子王(末弟王/末之若子王)」とかなんとかだったんだろう。即位せず謀反人で終わったので通称しか残らなかったんだろう。本当なら「住吉のなんとかワケ」だったろうな。そうすると仲津王だけ(今いったような経緯で)名前がないことになる。しかしまた別の考えもありうる。人名の「ナカ」が次男・次女の意味だっていうのは漢文の字(あざな)で使う「仲」の用法を和風に転用したものだが、その他に、「大~・中~・若~」という三人兄弟(姉妹)または親子3代の同名にも使いうる。3つめにはただの地名の可能性もある(筑前や常陸その他、各地の地名にあり)。4つめには、中皇命(なかつすめらみこと)のような「中継ぎ」の人という意味。5つめには中臣(なかとみ)はナカツオミの音便で、このナカツというのは「神と人の中を執りもつ、神と人の中つなぎ」の意味。さて、このブログの別の頁で書いたんだけど、墨江中津王は、他の兄弟とは異腹(つまり石之比賣ではなく別の女性の子)だと思われ、そしたら多分「次男」の意味のナカではないのではないか。で、地域としての「住吉郡」(まぁ当時は律令の「国郡郷」制ではないがとりあえず)も、政治的施設としての「住吉の津」も、住吉大社が機能的センターだったに違いない。そこで中津王の名の「中」が気になる。墨江中津王は実際に住吉大社の神官を兼ねていたのではないか。むろん津守氏の宮司はいたろうから、その上の、伊勢神宮でいえば「祭主」のような地位が考えられる。この名、ナカツミコ(仲皇子/中津王)のナカは神と人をつなぎとりもつ神官の意味なんだが、本人の身分が皇族であって臣下ではないからナカツオミ(中津臣=なかとみ)とならずにナカツミコ(中津皇子)となるわけだろう。実はこのナカという言葉が後々の謎解きのキーとなっていく)
「住吉中津王」という名になったのは隼別の乱を平定してからのことで、その前は「淡路の中津王」か「三原の中津王」だったと思われる。中津というのは上述のように神職のこと。今の南あわじ市にある「大和大国魂神社」の神職を兼ねていたんだろう。このことは、皇位にはほど遠い有象無象の皇族の一人だったことを思わせる。この皇子が皇位も狙える有力な皇族に成り上がったのは、隼別の乱を平定するに際してなにか大いなる功績をあげたことによるとしか考えられない。淡路にも水軍があったことは応神紀にも「淡路の水夫」があって吉備の姫を船で送らせる話が出て来る。彼が淡路水軍を率いて活躍したことは容易に想像できる。隼別王の乱を平定した後は、住吉に本拠を遷して、海の民を支配することになったんだろう。
ちなみに「大和大国魂神社」の現在の住所は南あわじ市の榎列上幡多。上幡多・下幡多は榎列(えなみ)地域に含まれる各町の一つで、古くは「幡多村」といった。ここは中央貴族「羽田臣(はたのおみ)」の部曲(かきべ、貴族の私有地で中世の荘園のようなもの)の一つだったところで、住吉中津王は当初から羽田氏と関係が深かったことがわかる。帰化人の秦氏じゃなくて武内宿禰系の羽田氏の方ね。おそらく羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)は中津王の乳母だったのではないか。これは後々重要なポイントになってくるのでお忘れなく。

丹比(たぢひ)は今の大阪府の東南、内陸部だが、住吉の津を中心とする港湾都市圏に接していたろう。河内国と大和国の境をなす金剛山系の東の斜面が大和の葛城で、西の斜面が河内の石川郡・錦部郡。古くは丹比郡・石川郡・錦部郡を含んで広義の「多治比」(たぢひ)だったのではないかと思うが、まぁ含んで無くても律令時代の丹比郡は東の石川郡と錦部郡の両郡を挟んで大和国に近い。金剛山系はのちに役行者(えんのぎょうじゃ、役小角)が現れて修験道の中心地になっていくように、山の民のセンターの一つ。ネットの古代史趣味者たちのブログでは、タジヒの当て字に「丹」の字を使うのは丹砂を採掘する山の民がどうのとか、山窩(さんか)の蝮採り業者をタヂヒという話とか、遠く関東の秩父の丹党が丹比氏の子孫で山の民でつながってるとか、いろいろ(他の人が言ってる話が)あるが面倒なので検討はしない。要するに大雑把にいえば丹比という土地は「山の民」と縁が深いところで、この地を本拠とする丹比連氏も山の民と縁が深いことになるが、この丹比氏も津守氏と同じで尾張連の分家で、ただ津守氏が海の民、丹比氏が山の民をそれぞれ分担しているだけで同族なのだ。つまり次男の中津王は「海の民」の総長、三男の水歯別王は「山の民」の頭首ということになる。これも隼別王の下請け的な存在だったのが叛乱平定後には独立したんだろう。ちなみに水歯別皇子は乳母氏族が丹比氏だったと思われるので、生まれた時から縁の深い土地。

じゃ、長男の伊邪本別王も「難波の津」なんだから海の民のボスじゃんよ、ってことになるかというと、それがそうならない。なぜか。後世の例だが、「難波」(今でいう大阪市の北部)には帰化人系の氏族がやたら多いのに、「住吉」(今の大阪市の南部)にはまったくいない。なぜそうなったのかを考えると、第一に新興地帯じゃないと帰化人が食い込めないってのもあったろう。第二に「住吉の津」は大和川から大和へ通じてるわけで、飛鳥とか纏向(まきむき)とかの奈良盆地南部に宮都があった時代ならいいんだろうが、そこから伊賀越えにしろ伊賀の南を通るにしろ山越えして伊勢に出ないと東国との交易ルートが開けない。「難波の津」は難波の堀江から日下江を通じて淀川水系を遡上し山城へいく。山城は若狭湾つまり北陸・山陰へ通じる要衝で、山陰は三丹(丹波・丹後・但馬)から出雲、そして新羅へという「日本海航路」がある。北陸も高句麗(こま)や粛慎(あしはせ)といった北方民族との交易ルートに通じる。公式で大規模な移動には中継を支える経済力のある瀬戸内海ルートが適しているが、個人的な商業活動とか不法移民にとっては日本海ルートのほうが早くてなにかと便利。西は長州、出雲沿岸から若狭湾、北は越前の敦賀あたりまでは韓漢の移民も多かったろう、ただしあくまで通行が多かっただけでそこに定住したわけではない。崇神朝~景行朝はちがうだろうが、仁徳朝の頃から韓漢からの移民は難波の津までスルッときてそこに定住したんだろう。だから、「難波の津に帰化人系の氏族が多い」というのはあくまで後世の話だが、その前段階として、おそらく当初から移民の街ではあったんだろう。これに対して住吉の津は、はるか後世になっても帰化人系の氏族がほとんどいない、と直木孝次郎先生もいってたよw ここは息長氏の本拠だった平野区も近く、反移民派で対外強硬派の巣窟だったことは別の記事で書いた通りで、昔ながらの日本人勢力が根を張っていたわけだ。「海の民・山の民」ってのは考古学でいう弥生文化=水稲耕作に服さない連中なのだからこれが縄文文化の伝統を引く生粋の原住民なわけで、帰化人とは別枠だ。こうして整理すると長男は「帰化人担当」で次男と三男は「原住民担当」だってことにならんか。仁徳天皇も「いまだ皇位継承しないはずの皇子」だった頃、父帝から「韓政」の担当に任命されたこと、前にもこのブログで解説してある。韓政(からまつり)つまり「外交と貿易」だ。その、仁徳天皇の専門分野をそのまま引き継ぐことを命ぜられたのが長男だったわけだろう。そしてかつて大山守命が担当した海山の政は一時は隼総和気王に任されていたと思われるが隼総和気の乱の後、中津王と水歯別王に分割されたんだろう。

速総和気命との関係
隼総和気の母は桜井田部連(さくらゐのたべのむらじ)の祖先で、その桜井という地名は、今の東大阪市池島町か富田林市桜井町かで両説が対立している。これはどっちが間違いということではなく、富田林市桜井町が元の櫻井氏の本拠だったが、隼総和気王が大山守命の職掌を継承してからは、桜井氏は隼総和気王に従って東大阪市池島町にも進出したんだろう。池島町はその名の通り昔は「島」であんまり古い時代に遡りすぎると海の底ってことになりかねない。池島町は「日下の津」からすぐ西南にあたり、ここから東に当時は陸路か海路かわからんが7~8kmで上町台地にあたり、住吉の津も遠くないが、上町台地をこえていくとすると、どちらかというと住吉の津よりは難波の津のほうが近い。むろん息長氏が本拠としていた平野区のあたりはさらに近い。池島町には後に「桜井屯倉」が置かれるようになるが、難波の津が本格始動する前にはここが海上交易の統括所だったんだろう。一方、富田林市桜井町は律令時代には河内国石川郡で、丹比郡と大和国との間に挟まり、金剛山系の西側の斜面にあたる。つまり、富田林市桜井町の桜井氏は山の民を管轄する旧家・本店、東大阪市池島町の桜井氏は海の民を管轄する分家・新店、そしてその両方が棟梁として仰ぐのが隼別皇子というわけよ。こうみれば、隼総別王がもっていた海と山の利権が中津王と水歯別王に分割された情況がわかりやすいと思う。

四兄弟の妃の出身
朝妻は大和・近江・丹後の3ヶ所に地名がある。このうち近江は妃の大中津姫の実家、息長王家の本拠だからその関係か。良港で海部(あまべ)があったらしい。丹後の朝妻は猟場があったらしい。が、近江・丹後の朝妻は背後関係の深読みが思いつかない。普通は大和の朝妻と考えられているが、ここは葛城の中の小さな一角で、一見したところ特に政治的な意味はなさそう。ただ、大和の朝妻には朝妻首(あさづまのおびと)、近江の朝妻には朝妻手人(あさづまのてひと)という朝鮮系の帰化人がいた(テヒトは「伎」とも書きカバネの一種)。おそらく朝妻首は伴造(=部民の管理者)で、朝妻手人はその管理をうける部民だろう。その縁でか、のちに男朝津間若子王は允恭天皇となってから新羅の名医に病気を治してもらったりする流れになるが、これは結果的なことでこの段階で意図的になにかあったわけではないだろう。大和岩雄の説では近江の朝妻手人は近江の息長氏とも関係が深く古伝承を伝えたから奈良時代に「海語連」になったんだといってるが、これも後々のことで、当時(仁徳朝~履中朝)のリアルタイムには関係がない。
(※ちなみに、この四兄弟は名前の冒頭に大江の・住吉の・丹比の・朝妻と四ヶ所の地名がついているんだが四男の允恭天皇だけ地名(男朝津間)の下に助詞の「の」が入らないのはなぜだ? これは「の」を入れて「をあさづま『の』わくごのすくね」と読まないといけないんじゃないのかと思うが、角川も岩波も講談社のもすべて「の」が無く岩波の日本書紀も「の」がない。平安時代以来の注釈書(弘仁私記とかの類)にそういう読みの指定でもあるのか? どういうわけなんだろうな。
それと、朝妻の地名だけ頭に「を」(記:男、紀:雄)がついてるので、長子の「大・江」と末子の「小・朝妻」を対象させたという説もある。しかし例えば雄略帝と武烈帝は「大長谷/小長谷」と同じ地名だから大小で区別しているので、まったく別の地名をさらに区別する意味がないし例もないように思う。名前につけるなら「大帯日子/若帯日子」のように普通は「大/小」じゃなくて「大/若」で区別するのだし、大小とったら長子の地名部分は「江」だけになってしまう。実は男女で対になった地名というのは日本国内にかなりたくさんあるから、おそらくもともと男朝妻(をあさづま)という地名で、これに対する女朝妻(めあさづま)が先に消滅してしまったので区別する意味がなくなり後に男の字が省略されたんじゃないのか。仮に、丹後の朝妻か、近江の朝妻を「女朝妻(めあさづま)」に比定する説もありえなくはないが、あまり遠隔地で男女をつける例はないように思うので、大和の葛城圏内の割りと近くではないかと思われるw)

四男(末子)若子宿禰王(のちの允恭天皇)は上の兄3人とは歳が離れているので母の実家の葛城にずっといたわけだろう。病弱で上の兄たちから軽んじられていたといってるがまぁこれは即位の挨拶での修辞だからあまり真に受けるべきではないが、末子相続が当たり前の時代に長子相続しようっていうんだから、上の兄たちも公式の場ではことさら弟をもちあげるわけにもいかず、病弱でかわいそうな弟を心ならずも貶めてたこともあったろうな、建前に縛られちゃってかわいそうに、今の皇族と同じだよ。まずは自由と人権を奉還してから皇族にお伺いを立てるべきだろう。でなけりゃ建前に寄りすがって生きてる似非ウヨ似非サヨに本当の大御心なんてわかるわけないがに。病弱で半分放置されぎみだったからなのか知らんけど、兄弟の中で末っ子だけが息長系の妃を娶ってる。大中津姫は応神帝の孫とはいえ女系では第二息長系であり、第三息長氏の始祖である若沼毛二俣王の娘。当時はまだ息長王家はさほどの権威も実力もない存在で、俺が当時いきてれば俺から「日本のロックフェラー」と呼ばれたであろう名門財閥葛城氏の娘黒媛(くろひめ)を妃とした長男や、代々皇族に妃をだす家柄である和邇氏から妃をとった三男と比べると、四男(末子)若子宿禰王はやや軽んじられてるといわれてもしかたがない。次男は謀反人として成敗されたため記録がないが、おそらく津守氏(ということはつまり、代々皇族に妃をだす家柄である尾張氏)の娘か、もしくは大日下王の娘を妃にしていたのではないか。あるいは上述のごとく養育氏族だった羽田氏の娘を妃にしていたということもありうる。普通に考える限り、一見この3パターンのどれか、もしくはそれぞれ1人で計3人くらい妃がいてもおかしくないだろう。

「黒媛」の謎
ここでちょい脇道にそれるが、大日下王の妹、若日下王(=幡日之若郎女)は書紀では履中天皇の妃になっているが古事記にはそんなことは書かれていない。もしや若日下王は履中天皇ではなくて墨江中津王の妃だったのではないかとも思われる。中津王は海の民の支配者といっても、淡路の海人族が勢力基盤の中心であり、瀬戸内海の水運を支配する大日下王と絆を深めるためその妹を妃に…というのは皇族貴族の結婚として自然な縁だろう。で、墨江中津王が殺された後、若日下王はしばらく実家に帰っていて、のちに雄略天皇の皇后になった(あるいは墨江中津王が殺された後、若日下王は履中天皇に召されて皇妃になり履中帝の最晩年には書紀のいう通り皇后にもなっていたと仮定した場合、履中帝崩御の後は皇妃(皇后より格下の奥さん、側室)だった黒媛とソリがあわなかったか何かしらんが何らかの理由で実家に戻っていたのだろう)。記紀ともに黒媛の父は普通は蟻臣(ありのおみ:葛城氏)だとしているが、書紀は羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね:羽田臣)だとする別伝をのせている。岩波文庫の日本書紀の注は「伝承による違い」という説明にならない説明をしているが、黒媛が一人なら事実もどっちかだろう。しかし二つの伝承があるのはどっちも正しいのではないか? つまり一方が間違いなのではなく、葛城氏の娘と羽田氏の娘、両方とも妃だったのだろう。だが二人とも黒媛なのは偶然ってこともありうるが普通は同じ天皇の妃になった時点でどちらかが改名するだろう。ところで倭直吾子籠(やまとのあたへ・あごこ)が履中天皇から謀反の罪で処刑されようとした時、妹の日之媛(ひのひめ)を采女(うねめ)として差し出して罪を赦されたって話があるんだが、いろいろおかしい。
第一に、日之媛という名は雄略天皇に捧げられた釆女の名と同じだから、代々釆女の襲名だという説が岩波文庫版の書紀の注釈にあり、それだとこの名はどってことないインパクトに欠ける名前のように受け取ってしまう。が、へんにこだわった習慣が生まれるには起源になった事件があるはずで、書紀は本文でこれが起源かと疑っているのだから、この段階ではまだ襲名も習慣もできる前である可能性が高い。その上で考えると、日之媛(ひのひめ)という名前はかなり高貴な印象がある。日之御子(ひのみこ)といえば「天津神の御子」と同じく天皇を連想する。この時代、女帝という概念すらまだないから、「天皇と同じくらい尊貴な女性」というニュアンスだ。これに該当するのはこの時代だと八田若郎女と女鳥王の二人しかいない。その二人と同等な女性と言ってるのではないか? 
第二に、謀反大逆の罪の贖いとしては采女一人ってのは明らかにバランスがおかしい。この日之媛ってのは倭直みたいな三流貴族の娘でも采女なんぞでもないんだろう。吾子籠の妹というのは漢字の「妹」の意味ではなく和語の「イモ」つまり自分の恋人って意味だろう(書紀は漢文なのに日本特有の意味で漢字を使ってることがあることは雄略紀の注釈で有名な事実)。実際の「彼女」とは限らない。恋人も、もともとは両想いのカップルだけでなく片想いも含めた「恋する人」の意味だし、「我がイモとしたき女」の略で「我がイモ」といっても口語表現ならありうる。あるいは同行していた女性の正体を偽るため、表面上は自分の嫁ということにしていたという可能性もある。
ここで履中帝の妃の「黒媛」には蟻臣の娘と羽田八代宿禰の娘の二人いたことを思い出す。この日之媛こそが羽田八代宿禰の娘じゃないのか? ただ、それでもまだ謀反の罪を帳消しにするほどの高貴な娘ではないので、この差し出された娘というのは、あるなんらかの意味で「羽田八代宿禰の娘」とも言いうる立場の女性ではあったが、実は羽田矢代宿禰の実の娘というわけでもなかったんだろう(詳細は後述)。ところで、反正天皇の皇女で日本書紀が「香火姫」(かひひめ)と書くところ古事記は「甲斐郎女」(かひのいらつめ)と書いている。してみればこれは「~ひめ」と「~のいらつめ」は入れ替え可能な実例だ。日之媛は羽田氏の娘なんだから「羽田日之媛」(はたのひのひめ)ともいわれただろう、この媛を郎女に入れ替えると「羽田日郎女」(はたのひのいらつめ)となる。これ若日下部王の別名、幡日之若郎女(はたひのわかいらつめ)と紛らわしい、だから書紀は両者を間違えているのだ。以上をまとめると、「応神天皇の皇女で大日下王の妹は若日下部王、別名幡日之若郎女。この人は墨江中王の妃となったが夫の謀反の後は実家に帰って、のちに雄略天皇の皇后になる。履中天皇の妃にはなっていない。この人とは別人なのが、羽田八代宿禰の娘で倭直吾子籠の妹(実際は妹ではないが)だった人で名は日之媛、別名羽田日之郎女。この人は履中天皇に献上された」。
日之媛は中津王の側にいて、吾子籠も中津王の側だったので、天皇方に寝返ったことを隠して騙して日之媛を拉致連行してくることを条件に赦されたってことだろう。

そうすると履中天皇の皇女である中磯皇女(なかしのひめみこ)の母は誰なのか? 書紀は幡日皇女だとするのだが上述のようにこの人は履中帝の妃ではなく墨江中津王の妃だと推定される(墨江中津王の妃でのちに履中帝の妃になったとしても可)。なら、中磯皇女の母は、履中帝の妃で羽田氏の娘(実際は娘ではないが)「羽田日之郎女」のほうである可能性がある。書紀によると黒媛は神罰にあたって死んでしまったと書いてるが羽田之汝妹(はたのなにも)という言葉を出してこの媛が羽田氏の娘のほうであることを暗示している。つまり俺が考証した「羽田日之郎女」だ。妃になってから死去するまで数年あるからその間に中磯皇女が生まれたとしても一見辻褄はあってるようにみえるが、はたしてこれで正しいのか?
(※この問題については後に譲るが、一つだけオマケにいうと、中磯皇女・中蒂姫の「中」は墨江中津王の「中」で、中蒂姫の母というのは墨江中津王の前妃で、中蒂姫は連れ子であって履中帝の子ではないのではないか?)

「黒媛」は固有名詞ではない
さて、ここまで情況を解明してもまだ中津王の謀反の理由はでてこない。
ここで前述の話に戻るが、書紀がいう「黒媛ネトラレ事件」はなぜ起こったのか、そもそも黒媛ってそんな価値ある女だったのか? そこで上述の如く、羽田八代宿禰の娘は正しくは「羽田日之郎女」であり、葛城蟻臣の娘の「黒媛」とは別人だとしたわけだが、「羽田日之郎女」にも黒媛という渾名があってもそれはそれで問題ない。履中五年九月十九日に神罰があたって薨去した黒媛(これは実は乱と関係のある別の真相があるが今はふれない)は羽田八代宿禰の娘だったのではないかとは岩波文庫の日本書紀の注釈にも書かれている。それに対して、葛城蟻臣の娘は市辺押歯王を産んだ黒媛で、それぞれ別人だろう(市辺押歯王は履中天皇の最晩年にはまだ妊娠中の胎児で崩御後に誕生した可能性があり、だとすると履中五年に薨去した妃から生まれる道理がない)。黒媛なんて名は記紀にも複数でてくることから当時はありふれた名前だったと思われてる。というかこれは本名ではなく髪の美しさをホメた美称だといわれてる。つまりニックネームで、お水の「みゆき」「しのぶ」みたいなもんじゃないのか。黒媛がただの源氏名で二人いてもいいなら三人いても四人いてもいい道理。
ところで、隼総別の乱は「女鳥王」という「皇位の正統性の証そのものともいうべき爆弾女」の存在なくしては始まらなかったわけで、兄弟が取り合いした黒媛もそういう女性でないと辻褄あわないと思われる。だが羽田八代宿禰の娘にしろ葛城蟻臣の娘にしろ、きっての大貴族のお嬢様だから世間的にはすごい女性だけど、皇族の男性が天下を騒乱に巻き込んでまで命がけで奪うほどの女とは思えないんだが。といっても女鳥王なき今、八田皇女がまだ生きていたとしても年齢的にもう再婚って歳でもなかったろうし、最早そんな女性はいない。…はずだが。以前からこのブログでは何度もいってるように、隼総別王と女鳥王は古事記だと大和の曽邇で、書紀だと伊勢で殺されたことになってるが実は生き延びて反乱が継続していた。だからこの二人には娘がいて乱が鎮圧された時に捕虜になっていたとしたら?w あるいは女鳥王の娘ではなく、女鳥王本人だったとしても世代的・年代的にギリギリ間にあう。

クーデター勃発までの経緯
いや、女鳥王の血をひく娘なり、女鳥王本人なりがいてもいいんだが、そういう女性がいただけではまだ中津王の乱の原因にはならない。仮に彼女を「第三黒媛」と呼ぼうw 履中天皇が本音では第三黒媛を皇后にしたかったってのはわかる、父帝仁徳天皇がついに果たせなかった偉大な聖婚となるはずだからな。しかし第三黒媛がもし女鳥王だったら彼女は父帝に対して謀反を起こした大罪人、儒教的には死刑が適切だろう。女鳥王の娘なら無罪ではあるが立后はさすがに儒教精神からは憚られる。現実には唯一正統の血をひき、燃え落ちる隼別の牙城の火の中からも不死鳥のように生き延びて再び世に現われた第三黒媛の権威はもはや偽天皇の疑いのかかる仁徳皇統をうわまわっており、死刑なんかにしたらそれこそ謀反の一つ二つ起こるぐらいでは済まない、倭国大乱ってことになりかねないほどの存在になっていたのではないか。朝廷は、「女鳥王はただ隼別という悪人にたぶらかされ騙されていただけなのだ、彼女は謀反人に拉致されていた被害者であって謀反人ではないのだ」、としてこの矛盾を解消したことにするしかないが、「雀(ささぎ)とらさね」と歌までつくって隼別を煽っていた黒幕なのは庶民にすらバレバレなので、世間が、いや特に貴族層の中のウヨ派(=女鳥派)が納得したとは到底思われない。ここで儒教主義は破綻しているのである。まぁ戦後民主主義もアメリカ様から押し付けられたんだか下賜されたんだかした段階で民主主義としては理屈が破綻してるわけだが。ここで中津王が第三黒媛を寝取ろうと思いついた理由があるとしたら、一つしかあるまい。第三黒媛をどこからか見つけて保護した(というか捕獲した)という偉大な功績を立てたのは中津王本人であり、世間もそれを熟知しており、第三黒媛と結婚する優先権は中津王にあるかもしれないという空気が少なくとも世間の半分ぐらいを覆っていたんだろう。また第三黒媛が中津王の妃になるのなら、天皇たるもの(=履中帝)が謀反人を皇后にするなんていう奇怪な事態は回避できる、という理屈も(少々むりやりだが)なくもない。当然、中津王は第三黒媛の立后に対して異議申し立てをしたくなるが、にもかかわらず履中天皇は最終的に自分の皇后に立てることにした。日本書紀は第一黒媛(羽田矢代宿禰の娘)が薨去した後に幡日皇女を皇后にしたとあるが、書紀では皇族出身の配偶は最初から彼女だけなのになぜか前半は彼女は立后されず、黒媛を妃(≒側室)としているだけ。これ要するに、前半は第三黒媛を皇后にしようとネバっていたため皇后の位を空席にしていたってことだろう。そのうちに第一黒媛は薨去してしまった。
第一黒媛と第三黒媛とは同一人物だろう。第三黒媛は平定された謀反人の子なのだから捕虜であって、家臣もないし身寄りがない。だが皇族として処遇するために「親がわり」の存在、あるいは最低限の家臣が必要だ。それで中津王は自分の養育氏族「羽田臣」を当てたんだろう。つまり羽田矢代宿禰と第三黒媛(=第一黒媛)は乳母親(めのとおや)と乳母子(めのとご)の関係であり、ある意味では「父娘」といえる(もっともこれは中津王による形式的な「設定」にすぎなかった可能性もある)。
履中天皇にしてみれば他に選択肢があったのかもかなり微妙だ。第三黒媛を自分以外の誰かに嫁がせれば世間はそっちを天皇となるべき正統な人間とみなしかねない情況になっていた。「兄弟の互譲」ってのは仁徳系にとって暗い記憶につながるし、儒教主義をアイデンティティーとする仁徳宮家としては長子相続の掟を打ち立てなくていいのか、長子相続の主旨から父帝仁徳天皇が長男を皇太子にたてていた、その遺志を守るためには謀反人(またはその娘)を皇后にしなければならないという矛盾は目をつぶるしかない。またこの時はまだ磐之媛も生存しており、彼女の鶴の一声で「第三黒媛」は伊邪本大兄の皇后に立てることに決まった可能性もある(むろん「第三黒媛」本人は同意せず)。

ここで隼総別の乱の終焉についてだが、乱が最終的に鎮定したのは仁徳天皇の最晩年で早くても崩御の数年前、遅ければ崩御の直前くらいかと思う。最後の根拠地は住吉大社だったと考えられる(その話は別の記事で)。第三黒媛(生き残りの娘かまたは女鳥王本人)というのは住吉大社(ただの神社ではなくて城壁をめぐらした一大軍事港湾都市。例えば石上神宮も軍事基地だったのと同じようなこと)かもしくはその近隣で捕獲されたんだろう。速総和気王の支持者は、大山守の乱の時と同じく海の民・山の民で葛城氏や仁徳天皇の進める儒教化・中華文明開化への反対者、帰化人優遇策への反対者で、外交では強硬派、文化的には国粋派…。これすべて息長氏の本拠にあった「比売碁曾の社」にたむろしていた連中の特徴と一致する。「比売碁曾の社」があったのは今の東成区の比売許曽神社とされがちだがここは下照姫を祀った社でぜんぜん関係ない。正しくは平野区の赤留比売命神社か式内楯原神社のあたりだろう。ここから東へ7~8kmで住吉大社つまり「住吉の津」で中津王がいたところ。今の平野区は「住吉の津」の後背地で「広義の住吉」に含まれていたろう。中津王の生母は磐之媛ではなく淡路三原皇女だが、応神紀に「淡路の水夫」がでてくることから当時は淡路にも水軍があったことがわかり、彼が「海の民」の支配をまかされたのもこの縁か。中津王は最終的に謀反人になってしまったためその功績は消されて記録にないが、実際に速総別の乱を鎮圧した時の最大の功労者は中津王だったのではないか。速総別王が最後の砦にしていた住吉大社を中津王の艦隊が攻め落としたんだろう。その時に捕獲した敵の要人の中に女鳥王と第三黒媛の母娘がいた。だから中津王にしてみればまさに「奇貨居くべし」、いきなりこの事実を発表するんじゃなくて、まずは丁重に扱って懇ろな関係になっておくのが当然だろう。あるいは彼女らに従う右翼過激派だか速総和気の旧家臣だかが、姫様を奉って中津王と一味になろうと中津王をそそのかしたのかもしれない。さらには第三黒媛みずから、敗死した隼別のカタキを討つため、墨江中津王を誘惑した、なんてことも考えられないか? 書紀では正月十六日に仁徳帝崩御、十月七日に大葬の礼、翌年二月一日履中天皇即位。この間に乱の勃発から終結までが入る。古事記では八月十五日に仁徳天皇崩御、乱が勃発したのは大嘗会だからほぼ十一月前後。ただし古い時代には新嘗祭は九月だったとする説もあり、古事記はすでに履中天皇が即位していたように読めるので、先帝崩御の直後にあわただしく即位したことになり、儒教の礼の精神からは不審。中津王の叛乱は、書紀は誤って一年繰り上げているのではないかと思われ、この大嘗会は仁徳帝崩御の年の大嘗会ではなく、翌年の履中天皇即位元年の大嘗会なのだろう。
おそらく中津王は、大葬の礼の十月七日の当日かその数日後に「第三黒媛」発見の特報を発表したかお披露目した。このせいで皇位継承の行く末が曖昧になったがむろんそれは中津王の狙い通り。すったもんだで「第三黒媛」を皇后に立てることになったが、媒(なかだち)として中津王を立てたと書紀はいう。第三黒媛はいわば捕虜なのでいままで手許に隠してきた中津王しか保護者がいない。当時の形式として「媒を立てる」ことが必要なら、中津王以外に該当者がないわけで、伊邪本別王としたら不愉快で不本意きわまりないが仕方ない。

黒媛ネトラレの真相
となると、書紀のいう事件の顛末はかなり脚色されてるようだ。宮廷で上演される語部の演目の台本としては天皇を悪者にはできないから、ストーリーを転がすにはどうしても中津王を悪者にするしかない。実際には、中津王が兄のフリをして黒媛を寝取ったなんて事実はなかったはずだ。なぜならずっと前からとっくに二人は懇ろだったから。中津王がもし彼女を事前に手なづけておくことができなかったら、謀反を起こそうとは思わなかったろう。もしこの時に同衾したなら最後の別れを惜しんでのことで、黒媛も同意の不義密通となる。しかし中津王は大事を前にそんな迂闊なことは差し控えたに決まってると思うがどうよ? もし前夜に密通してたとしたら、伊邪本別王の問に対して黒媛は最後までトボけたはずで、書紀がいうようなウッカリ気づかせるようなことはいわないだろう。また前夜に何もなかったとしたら、書紀が書いてるような会話もなかったのであり、むしろ伊邪本別王の心の中に無理やり中津王と引き離した黒媛への罪悪感と、彼女の心はまだ中津王のものだと察知した不快さがあっただけだろう。第三黒媛はクーデターのことはまったく関知してなかった可能性もあるし、中津王とはグルだった可能性もあり、そこは判断がつかない。もし後者だった場合には、履中天皇を油断させる役目があったはずだ。『水戸黄門』で悪代官をお色気で油断させる由美かおるが思い出されるなw だが宮廷で上演する語部(かたりべ)としては天皇を悪役とかカッコワルイ役どころとかにする演出はできないわけだから、わかりやすい乱の原因として中津王が黒媛を犯したという話づくりになる。ここは創作なのだが、第三黒媛の存在が乱の根本的で本質的な原因であることは説明すると長くて複雑なのは大衆も周知なので、舞台の芝居で象徴的に示せばそれでよく、文句はでないのである(あるいは奈良時代には第三黒媛の存在は天武皇統にとって都合わるい話として削除されていた可能性もある。特に履中帝が正統性を確保するために女鳥王(かまたはその娘)を娶った話は天武天皇が鵜野讃良姫を娶った話とかぶってしまって具合がよろしくない。がこの話は今回はふれない)。そういうわけで、日本書紀は女性をめぐる三角関係が乱の原因のようなことをいってるが、例によって語部(=女性集団)の昼メロドラマ趣味に迷わされてるんで、記録を丹念に拾っていくと実はもっと壮大な政治的背景があることがわかるのだ。
で、翌年の履中天皇即位が控えているので、年末までには中津王は表面的には第三黒媛を兄貴に渡すことに同意して、兄を天皇として立てていくことになった。これが年末までの流れ。だが中津王が同意しても、肝心の第三黒媛本人が同意せず、履中天皇即位後も皇后の座は空席のまま推移したってわけだ。それだと兄妹の仲はまたしても不穏なものになってくるので、その年の大嘗会は兄弟の和解を演出する方向でもりあげようということになっていた。むろんその裏で着々とクーデターの準備をすすめていたわけだが。

残された問題
実際には伊邪本別王の派閥と中津王の支持者が半々で朝廷は割れてしまっていたのだろう。だから木菟宿禰が当初は住吉中津王の側についていたとしてもなんら不思議ではないし、そういう者もさぞかし多かったろう。水歯別王も最初から一貫して伊邪本別王の側だったのか? 山の民を率いるものとしてクーデターへの協力を要請されていたということもありえなくはないが、おそらくライバルは一人でも少ないほうがいいとして何も知らされてなかったんではないか。その場合は中立だったと思われる。だから疑いをかけられたわけで、伊邪本別王からの疑いをはらすべく中津王の首を取りにいくハメになったことは記紀にある通り。書紀が最初から「履中天皇側を正義だとしていた」ように書いてるのは後に反正天皇になったから美化しているのであって、それなら疑いをかけられるはずがない。乱の終結後、伊邪本別王は即位して履中天皇となるが、日本書紀によると履中五年に「第一黒媛」(羽田八代宿禰の娘つまり俺が復元した名前では「羽田日之郎女」)が宗像三女神の祟りをうけて薨去してしまう。これの原因が神罰で命を取られるほどのことなのか不可解で、しかもなぜ直接に関係のない第一黒媛に祟るのかも説明がない。これも実は中津王の乱の後処理に関わることなのだが、時間がないのでまたの機会に。それと履中天皇の皇子女の中には第三黒媛から生まれたらしき人がいる。この人もまた歴史をかえる運命を背負っていくことになるわけだが、その話もまた今度。
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浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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