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☆1獣姦のタブーが出てくる理由

2679(H31・新年号元年)年2月改稿 H27(2015)年11月11日(水)初稿
「国の大祓」(くにのおほはらへ)の問題2点
「天津罪国津罪」(あまつつみ・くにつつみ)の話になると、昔は獣姦が多かったのかと言い出す人がいて、「獣姦のタブー」についてあれこれ議論になる場合もあるのでそれについて書いときたい。
『古事記』には仲哀天皇が神罰によって不慮の崩御を遂げた後、国民の犯した罪科の類をいろいろ取り集めて「国の大祓」をしたとある。神罰を受けたのは仲哀天皇なのに、なぜ「国民の」罪科を集めるのかという疑問に答えねばならないが、それは後回しにするとして、その罪科の中の種類をあげて「生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚牛婚鷄婚犬婚」とあり。原文は

取國之大奴佐而(奴佐二字以音)、種種求「生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚牛婚鷄婚犬婚」之罪類、爲國之大祓而
國の大奴佐(おほぬさ)を取りて、「生剥(いけはぎ)・逆剥(さかはぎ)・阿離(あはなち)・溝埋(みぞうみ)・屎戸(くそへ)・上通下通婚(おやこたはけ)・馬婚牛婚鷄婚犬婚(うまたはけうしたはけとりたはけいぬたはけ)」の罪の類ひを種々(くさぎさ)(ま)ぎて「國の大祓」をなして

とあり。このうち前半の「生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸」は天津罪(あまつつみ)、後半の「上通下通婚・馬婚牛婚鷄婚犬婚」は国津罪(くにつつみ)に属するものだが、天津罪も国津罪も全部のリストがあがってるのではなくて、選抜されてあがっている。なぜ全部でなく、一部が選ばれている(一部が落とされている)のかは説明が必要だが、それは後回しにするとして(全部のリストは延喜式の『大祓詞』にある)、天津罪の方が重罪だという説もあれば、反対に国津罪の方こそ重罪だという説もあり、なぜ二つに分かれているのか、両者の違いは何なのか、この「天津罪・国津罪」なるものがどういう意味をもち、いかなるものなるのかをめぐって、実に多くの多様な議論があって、簡単でない。

「畜犯せる罪」とは
とまぁそこまではいいとして、この日にたまたま話題になってのは、国津罪の中の「馬婚牛婚鷄婚犬婚」。『大祓詞』では「畜犯せる罪」(けものおかせるつみ)とあり、これを細分化して表現したのが『古事記』の「馬婚牛婚鷄婚犬婚」で同じ事をいっており、獣姦のタブーのことだというのが通説だ。『大祓詞』の「畜犯せる罪」を、獣姦のことではなく自分が飼っている動物が犯した罪のこと(飼い主である人間がその罪を受けること)だという説もあるが、その場合は「馬婚牛婚鷄婚犬婚」とは別々の罪ということになるので、「馬婚牛婚鷄婚犬婚」の方は相変わらず獣姦説でしか解釈できない。
ここに獣姦がでてくるからといって、「昔はこういうの普通にやってたんかのー」等と思ってはならない

神話や民話の中の人獣婚
ギリシアや日本もそうだがタブーとはされない人獣婚や近親婚は、多くの場合、神話か民話の中での話である。神話の場合それは遠い時代の神々の行為であって人間世界のことではない。民話の場合それは昔々知らない時代の話か、遠いどこかの知らない土地での話かのどっちかであって匿名の主人公による教訓話や寓話になっている(起源としては神話の崩れたものではあるのだが)。つまりどちらも現実にはありえない話か、少なくとも滅多にないことという前提になっているのである。江戸時代の春画にでてくるエイ(鱏)タコ(蛸)も、いうなればマンガ(空想譚)であって現実ではないが、一つ問題としては魚介類とやっちゃうってのはここでいういわゆる獣姦のうちに入らない可能性もある。
ningyoandtako.jpg
↑江戸時代の春画、人魚と蛸(作者不明)。クリックで拡大w

獣姦は2種類ある
獣姦を日常的にやってる社会などというのは未開部族にもない。人間の嫁よりも簡単に済むとなるとその社会は崩壊するからだ。非婚化のすすんだ現代で虹嫁が重宝されるのをみれば理屈はわかると思う。おそらく原始時代にはなおさらなかったろう、原始人は現代人より本能が発達してるってことでは良い意味で動物に近いだろうから。動物は同種でしか交尾しない。牛は馬鷄犬と交雑しないし、鶏も馬牛犬と交雑しない。本能の壊れた文明人だからこそ変態になれるんであって、変態性欲とは、一種の「知性によって歪められた性欲」なのである。「知性によって歪める」といっても2種類あり、一つは完全にタブーが解禁された情況で本能の壊れた人間が性欲を追求した場合の変態、これはかなりの程度、恵まれた生活を維持できる先進国にしかない現象で男女ともにあり、好きでわざわざ人間より動物を好む性向。もう一つは男にしかない現象で、人間の女性のかわりに動物を使うもの。これは脳内で人間に変換してるという意味で「知性によって歪める」といってるわけだが、この場合、好きで動物を選んでるのはなく、出来れば女とやりたいのだが、やむをえず動物で済ましてるというケース。
いずれにしろ、世界史上、世界のどこでも異端的行為(少数者の行為または反社会的行為)とみなされる獣姦それ自体は存在した。存在したからこそこれを禁止するタブーも旧約聖書の『出エジプト記』をはじめ、世界中にあるわけだ。

獣姦が多発する環境とは
前述の通り獣姦には「人間の相手がいるのに好きでわざわざやる男女」と「本当は女とやりたいのだが、やむなく動物をかわりにする男」の2種類あるといったが、前近代では後者がほとんどだろう。有名なところでは大航海時代に西洋の船乗りたちが食料を兼ねて生きたヒツジやヤギを船に乗せて飼っていた。このヒツジやヤギで発散してたわけ。あとはインカ等の遊牧民の男性は家畜をつれて人間社会から長期間隔絶されるので、その間、家畜のヤギやリャマで済ましたという。これらの例でも「必ずやってた」わけではないが、かといって「稀な話」というわけでもなく、どれぐらいの割合で頻発してたのかその度合いがわからないのでモヤモヤする。しかし「女性がまったくいない情況に男性が長期間おかれる」という情況は同じである。
これからすると、植民地や新規の開拓地などでも、女性の少ない情況なのだから多発するのではないかと推定できる。
植民地でも新規の開拓地でもないところで、似たような情況がありうるかどうか考えると、領土に比して人口過剰な情況というのが考えられる。人口が順調に伸びてしまうと、田畑が分割相続されて農民は貧農へ転落していく。かといって一括相続すると、相続できない多数の人間があぶれる。人口が増大傾向にある社会というのは国内が平和で経済発展期にあたることが多く、経済発展期というのは同時に貧富の差が拡大する時期でもある。昔は一夫多妻はごく普通のありふれた話だから、勝ち組の男は奥さんを何人もかかえることが出来る。負け組は人間の嫁が手に入らない。夫婦生活を営むに必要な資産がない。「畜犯せる罪=馬婚牛婚鷄婚犬婚」が男の問題であって女が関係ないのは、一夫多妻制があるからだ。

同性愛と近親相姦は?
獣姦にはしる前にホモにいくだろう、とも当然考えられるが、ホモはさして問題でない。というのは、古代では(というか前近代では)日本だろうが海外だろうがほとんどの地域では同性愛に寛容な文化圏が多かったから。ただ、同性愛も人間同士のつきあいだから、あまりに性格に問題のある人間は、同性が余ってても相手を確保できない。ホモでもレズでも立派な人間はいくらでもいるってことはありえるのでそれだけでは罪とされないのである。が、異性からも同性からも、とにかく人間から嫌われるやつが獣姦にはしってるのならば、それは人格的に問題があるからお祓いの対象となる、つまり性格の悪さが穢れの一種とみなされてるわけだろう。
「上通下通婚」は近親相姦のことだが、『大祓詞』では同じことが「己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪」と、くどくどしく言い換えられている。これだと「母と息子」だけが問題視され、「父と娘」は度外視されてるような印象を受ける。だが前述のように「男があぶれる」という人口問題(もしくは一夫多妻という婚姻制度の問題)としてみれば、男はそもそも嫁がいないのだから娘が存在せず(父にならない)、女は(一夫多妻制だから)結婚相手の男が不足すること自体がない(父を夫の代用品にする必要がない)わけなのである。そしてこの母子相姦は、病理としては同性愛と獣姦の中間段階と考えられる(同性愛は格別に病気というわけではないが人口のアンバランスという環境によって強要された場合を一種の社会病理と仮定)。つまり他人に相手にされない(同性愛もできない)問題児でも、家族からはやむなく許容してもらえる、または家族からは(出来が悪いほど)特に愛されるということはよくある。その家族も死に絶えて(もしくは家族にすら見捨てられて)獣姦しか残らなくなる、という順番なのである。
もし古代日本が一夫一婦制に拘った社会で、一夫多妻が厳格に禁じられていたら、「己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪」は「己が親犯せる罪・己が子犯せる罪・親と子と犯せる罪・子と親と犯せる罪」と書かれたところだろう。実際に「父と娘の近親相姦」という例も多少はあったからこそ『古事記』では単に上通下通婚(おやこたはけ)と書いてるのかも知れないが。

原因は人口問題
話を戻すと、近親相姦や獣姦が社会問題となるぐらいなんだから、当時の日本は人口過剰だったのではないかと思われる。
当時の日本(特に九州)が人口過剰だったと思われる件については、「三韓征伐」の頁に書いたのでそちらを参照。

☆3「国王」をコニキシと読むのは間違い

H30年10月3日改稿 H27年12月9日(水)初稿
『古事記』に出てくる外国の王
p.217の<神功皇后の新羅親征>の章から、初めて外国の君主というものが出てくる。外国の君主をさす言葉は「國王」3回、「國主」5回、固有名詞1回で古事記には計9回で、人数にすると5人。このうち百済王が1人、新羅王が3人、新羅王子が1人。百済王は「照古王」、新羅王子は「天之日矛」という固有名詞が伝わっているが3人の新羅王は固有名詞は不明なので仮にA、B、Cとする。

p.218「其國王」「新羅國主」(神功皇后に征伐された新羅王A。『日本書紀』には名が波沙寐錦(はさむきん)とあり)
p.237「百濟國主」「照古王」(照古王というのが名。応神天皇時代に朝貢してきた百済王
p.243「新羅國王」(天之日矛の父新羅王B
p.244 p.245(l.4 l.9)「其國主之子」(天之日矛のこと)
p.284「神良國王」(允恭天皇の時代、薬方を知る大使「金波鎮漢紀武」を派遣してきた王新羅王C

普通に大和言葉で読めば「國王」は「くにきみ」、「國主」は「くにぬし」だろうが、同一人物に対して「王」の字も「主」の字も使っており意味の区別は無さそうだ。本居宣長は王の字をすべて主の字に統一しているが、わざわざそこまでするほどのことにも思われない。そして宣長は「國主」をクニヌシとは読まず、当時の韓の言葉だとしてウシキ(于斯岐)と読んだという話がネットのどこかにあったような気がするのだが、ウシキというのは『日本書紀』にでてくる任那人の名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかき)という名の頭の3文字だろう。なぜこれが「國主」の意味になるのかわからない。しかし『古事記伝』にあたってみたら宣長はウシキとは読んではいない。コニキシと読んでいる。

新羅の「國王」は「コニキシ」ではない
『日本書紀』が外国の王をコニキシと読ませているので宣長もそれに倣って同じく読むのだといっている。『周書』という中国の歴史書の中に百済の王の称号は「鞬吉支」(こんきし)というとあり、本当はコンキシなのだが、昔の日本語には母音なしで子音だけのン[n]の表記が無かったので[n]を飛ばしてコキシと表記したか、母音[i]を補ってコニキシと表記してた。この「鞬吉支」が『日本書紀』の古訓のコニキシと同じ言葉だろうとは宣長も気づいていた。だから、コニキシはあくまで百済の王号であって、新羅や任那や高句麗の王号ではないことも宣長は知っていた。宣長はさらに、朝鮮の歴史書によると新羅は「尼師今」という称号を使っていたことがわかるので、ここはニシキンと読むべきかとも思われる、とまで言っておきながら、しかし『日本書紀』では新羅の王もコニキシと読ませているのでそれに従う、といっている。つまり間違いではあるが、昔からそう読んでるようなのでここは便宜的に昔からの間違いのままに読む、といっている。『日本書紀』には手厳しい宣長にしては随分な態度じゃないか? いつもの宣長なら『日本書紀』の粗雑な誤りを批判するところだろうに…。宣長はコニキシの語源がわからず、外国の王ならすべてあてはまるような語源なり意味なりを想像していたのかもしれない。それにしても『古事記』にでてくる国主はほとんど新羅王ばかりで百済王は1人しか出てこないのにすべてコニキシで押し通すのは酷いんじゃないの?
平田篤胤は宣長のように一律にコニキシと読むのには異議を唱えた。コニキシは百済王のことで、新羅王の場合はムキン(寐錦)が正しいとした(この場合のンは[n]でなく[m]なので、母音を補えばムキムまたはムキミとなる。ニシキン(尼師今)のンも同じでニシキミまたはニシキムとなる)。
これはどう考えても平田篤胤がまともで、宣長のいっていることはおかしい。まるで理屈になってないように思える。百済の王はコニキシで、任那の王はカンキ、高句麗の王はオリコケ、みな違う。それぞれ民族や文化の違う国なのだ。新羅の国王をコニキシと呼ぶのは、中国の皇帝をスルタンと呼んだり、ソ連の書記長をマハラジャと呼んだり、イギリスの女王を大汗(ハーン)と呼んだり、イスラムのカリフを天皇と呼んだり、ローマ教皇をファラオと呼んだり、天皇を書記長と呼んだり、アメリカの大統領をカリフと呼んだりするようなもので、そりゃおかしいだろう。宣長のやってることはこれと同じだと思うんだが、どうなの?

尼師今(ニシキン)か寐錦(ムキン)か?
宣長は新羅の「國王」の読みの案としてニシキン(尼師今)も考慮に入れていたことはさっき言った通りだが、篤胤のムキン(寐錦)とは一致していない。ニシキンというのはムキンの訛りで、同じものだという説もあるが、何か証拠があっての話なんだろうか? ニシキンがムキンに訛るようには思えないんだが。
実は新羅王の君号がなんなのかは簡単な問題でない。新羅王は時代によっていろいろな称号を使っているのでややこしい。朝鮮の歴史書『三国史記』によると初代は「居西干」、第2代は「次々雄」、第3代から18代まで「尼師今」、19代から22代まで「麻立干」。第22代の智証麻立干の在位4年めの時(AD503年)麻立干を改めて初めて「国王」と称したという。『三国遺児』は尼師今を「尼叱今」と書き16代までが尼叱今で17代から麻立干だとする。
ところが『三国史記』も『三国遺児』も後世に編纂されたもので信頼性が低い。『三国史記』で第5代の婆娑尼師今は『日本書紀』では「波沙寐錦」と書かれ、尼師今ではない。17代の奈勿尼師今は『三国遺事』では奈勿麻立干だが、広開土王碑文の中では「新羅寐錦」とかかれており尼師今でも麻立干でもない。
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19代の訥祇麻立干は、中原高句麗碑文では「東夷之寐錦」と呼ばれており麻立干ではない。また前述の通り第22代の智証王の時に麻立干から国王にかわったはずだから、23代の法興王は最初から「国王」でなければおかしい。だが蔚珍鳳坪碑によると法興王の君号は「寐錦王」となっている。つまり新羅の歴代の王の称号は実際には「寐錦」だったのであり、AD503年に麻立干を改めて初めて国王と称したというのも実際には「寐錦」を「寐錦王」に変えただけだったことがわかる。

蔚珍鳳坪碑によって6世紀の新羅は「葛文王」と「寐錦王」の二重王制だったことがわかる。「葛文王」というのは『三国史記』に頻繁にでてくる。追封の王号だというのだが情報が少なく、親身説・崇上説・地名宮号説・準王説・父系相続制への過渡的現象説・王室尊重説があるがよくわからないとされてきた。「寐錦王」は502年以前には「寐錦」だったのだから、「葛文王」も「葛文」だったんだろう(三国史記はすべて「葛文王」に書き換えている)。考古学的な事実としては502年以前の新羅王の王号は「寐錦」であって「居西干」も「次々雄」も「尼師今」も「麻立干」も存在しない。しかし丸切りのデタラメでもあるまいから、「葛文/寐錦」の存在と矛盾ないようにうまく説明できなければなるまい。長い間、あれこれ四苦八苦して考えてきたが、「居西干」も「次々雄」も「尼師今」も「麻立干」もどうも王号ではなくて個人名の一部か、もしくは日本でいうカバネのようなものらしい。高麗時代の漢文仕込みの知識人はカバネなんてものは理解を超えているので王号とカン違いしたのだろう。

2chからのコピペ
ほとんど俺が一人でしゃべってるw

51 :世界@名無史さん:2015/09/06(日) 21:03:20.12 0
新羅の国王の称号が居西干、次次雄、尼師今、麻里干と耳慣れない名前なんですがこれらは一体どういう意味なんでしょうか?

52 :世界@名無史さん:2015/09/07(月) 07:50:08.08 0
昔氏なんじゃない???
今の朝鮮半島にはない本貫!

53 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 13:49:14.25 0
>>51

>次次雄

ススオだから、スサノオと何らかの関係があるのではないかという人がいるのだが。

54 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 18:26:34.00 O
>>51
王は複数の部族の回り持ちだろうか

55 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 18:41:11.73 0
>>51の質問には韓国の歴史学者でもまともに答えられそうにないな

56 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 19:26:32.61 0
面白い時代が全く無いのが逆に凄い朝鮮史

57 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:15:51.70 0
>>7
白頭山って中朝国境の山だろ?エベンキと全然場所が違うじゃないか
シベリアに北上したのか?それにサハ共和国はヤクートだろ?エベンキはもっと西と違うんか?
>>23
高句麗は貊族 新羅に住む濊族に近い種族 扶余は百済と済州島に移住した民族

58 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:19:40.21 0
>>53
次次雄がどうやったらススオになるんだよ
ジジユウな

59 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:30:36.34 0
エベンキ含むツングースの故地はアムール川流域だろ

60 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:35:35.94 0
麻里干はマライヒでいいのかな

61 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:56:09.81 0
麻里干?麻立干(まりつかん)のことか
麻立は切株という意味、干は首長の尊号で語源は鮮卑族等遊牧民が使っていた汗(かん)と一緒

62 :世界@名無史さん:2015/09/10(木) 04:06:56.89 0
麻立干は「麻袖干」の誤字って説もある。
この場合「立」は「袖」の誤記じゃなくて略字または異体字とも考えられる。
だが多分「麻立干」も「麻袖干」も「麻袖立干」の略表記だろう。
さらに「麻袖」を略して後半だけ書いたのが「楼寒」
切り株だって説は8世紀の金大問の説でどこまで信用できるかわからない
「麻立」じゃなくて「麻袖立」か「麻袖」が正しかった場合、切り株説は成り立たない
新羅は寐錦王と葛文王の二重王制だったんだけど、それを一元化する動きがあって
実権をもってる方を麻袖立干といった。だから三国史記で麻立干とされてる王が
実際には寐錦王だったのか葛文王だったのか三国史記みてるだけだとわからない。
三国史記みてると騙されてしまうが、実際には尼師今の呼び方を麻立干に変更した
というわけでもなく、麻立干の前は尼師今といってたというわけでもない。
三国史記は中国の王朝みたいに一元的な王が代々続いてるって思い込みで
原史料を解釈してるから真に受けてはだめ。

63 :世界@名無史さん:2015/09/10(木) 04:23:27.16 0
次々雄は覡(男の巫)の意というがこれもどこまで本当が不明。
「慈充」とも書くので日本語のチチ(乳)と関係づけて女王だった
という説もあるがこの説も思いつきの域を出ず、信憑性はないだろう。
男巫説をとる場合、シャーマニズムが支配していた社会だからというが
なぜ第2代の一人だけが男巫なのかそれだけでは説明がつかない。
男巫というより神官のようなものと思ったほうがよさそう、
これは王号えはなく、建国途中の草創期に一時的にでてきた役職で
葛文(政治担当)と次々雄(祭祀担当)で
二重首長制やってたのではないか、この時まだ正式な王はいなかったと思われ。

64 :世界@名無史さん:2015/09/18(金) 00:17:54.27 0
>>62は>>51,>>60-61へのレス

>>63は>>51,>>53,>>58,>>へのレス

65 :世界@名無史さん:2015/09/19(土) 09:34:37.33 0
>>52
尼師今は昔氏の称号だった可能性はないでもない

ちなみに昔氏ってのは朝鮮に残ってないと言われがちだが実は3000人ほどいるらしい
もっとも、一姓あたりの人口がでかすぎる朝鮮の基準からでは
3000人クラスだと「ほとんどいない」に等しいのかも知れない

66 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 05:16:55.22 0
>>51,>>65
三国史記の尼師今は広開土王碑や日本書紀、出土した新羅王碑文では
すべて寐錦になってるから、寐錦が正しいのだろう
安直な解決として尼師今は寐錦が訛ったものと言われ勝ちだが
尼師今と寐錦が同語源だとか同意語だとか詳細に検討した研究はなく
寐錦がはたして尼師今に訛るのかどうかもあやしい
三国史記と三国遺事は一度全部の称号を「王」に書き換えてしまった原資料
(崔致遠の『帝王年代暦』)を後から粗雑に復元してものなので、
寐錦をしらずに尼師今で埋めてしまったものらしい
(そのため三国史記と三国遺事では尼師今と麻立干の境目も2代ずれてる)
実際のところは寐錦と尼師今は別々の称号で、葛文や次々雄や麻立干のように
使い分けられていたのではないかと思われ

67 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 16:55:59.72 0
葛文って国王の弟の称号とかになっていたよな
真徳女王の父、国飯(真興王の弟)も葛文王と呼ばれていたような

68 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 18:42:43.85 0
弟じゃなくて父の弟、つまり叔父とかじゃない?
後見人っぽい存在らしいから王より歳上と思う

あと三国史記だとただの称号みたいな扱いにされてわかりにくいけど
二重王制なんだからどの王の時の葛文王かって問題がある
生まれてから死ぬまでずっと葛文王だったのかどうか
死ぬまでってのはわkるとしてもいつ葛文王になったのかは重要
三国史記の記述だとそこらはわからなくなってる

69 :世界@名無史さん:2015/09/22(火) 18:53:13.34 0
>>66
尼師今ってのは直訳すれば「歯」のことで
歯が多い=年齢が高い=「有徳者」って意味だというがどうなのか?
歯ってのは乳歯から永久歯に生え変わる段階でも増えるが13歳で生え揃ってしまうので
高齢や長寿とは関係がない。歯が高齢長寿の象徴なのは、入れ歯のなかった時代、
歯がなくなった老人にまた歯が生えてくることがまれにあり
これを日本では「みづは(瑞歯・稚歯)」といって長寿のしるしとされた。
新羅にも似たような例が知られていたのだろう。
漢字の「齢」も歯の生え方のことでこれで年齢の違いがわかるから年齢の意味になる。
しかし尼師今が本当に歯の意味なのかどうかはわからない。

これは俺の憶測だが
長寿がどうして王の意味になるのか?長寿だと有徳者で、だから王?かなり苦しくないか
(金大問の解釈説は麻立干の切り株説にしろ尼師今の歯説にしろコジツケっぽい苦しい説明が多い)
これは王ではなく、この称号を長寿のにこじつけるための当時の言葉でのダジャレ説明だったのではないかと思う
金大問の時代にはすでになぜ長寿にこつじけなければならなかったのか不明になってしまっていたので
長寿者=有徳、だから王、という二重のコジツケをしたものだろう
…という可能性もないではないが、あくまで俺個人の推測。実のところなんとも判断のしようがない。

それと、奈勿と実聖の2王は、三国史記では尼師今、三国遺事では麻立干とする。
なぜこの違いが生じたのか。尼師今から麻立干へ、王権が強大化した過程ぐらいに軽く流されて
あまり注意が払われないが、そんな単純なものじゃないだろう
尼師今は実は(その時期は)存在せず寐錦だったことと
>>62で書いたとおり麻立干と寐錦は別次元の称号であること等からいって
この2王の称号には、もっと複雑な経緯がある。

70 :世界@名無史さん:2015/09/23(水) 18:25:57.97 0
17代奈勿は中国に朝貢した時は「楼寒」と称しこれは麻立干のことだとされているから
奈勿が麻立干だったのは疑いなく、確実な史実とみていい。
(広開土王碑文では奈勿を麻立干とも楼寒ともよばず「東夷之寐錦」と呼んでるが)
だから三国遺事は、16代訖解までが尼叱今(三国遺事は尼師今を尼叱今と書く)で奈勿から麻立干と判断したんだろう。
ではなぜ三国史記は2代もずれてるのか。恐らく18代実聖が麻立干だという確証が得られなかったからだろう。
三国史記は麻立干より前は一律に尼師今にしてしまってるのと、無駄に漢文が読めて
漢字の「字義」でこじつけるのが好きなため楼寒と麻立干の「音」の一致に気づかなかったのだろう
それで三国史記は実聖までが尼師今、19代訥祇から麻立干と判断したわけだ
以上の考察からして奈勿は麻立干であって尼師今ではないのだから
三国遺事が正しく三国史記は間違いなのかというと、そう簡単でない。
実聖が麻立干だったら三国史記の異説は生じない。しかし尼師今でもないのだから
実聖の称号はなんだったのか?という問題が生じる。

71 :世界@名無史さん:2015/09/26(土) 00:39:17.34 0
居西干は高句麗語の「古雛加」だろうというのが有力説。
古雛加は高句麗国内において王に次ぐ最上位の貴族たちの称号。
隋書に高句麗が魏の将軍貫丘倹に撃破された時の残党の一部が南下して新羅を建国したという伝説が記されていることから
初代の赫居世居西干はその時の新羅を建国した高句麗人を、年代を遡らせたものではないかと思われなくもない。
しかし三國史記だと新羅王の系統はそれ以前から続いておりここで王朝交代があったようにみえない。
新羅本紀には245年に高句麗兵が攻めてきたとあり、これが年代的には逃亡した高句麗軍の南下に相当する。
(魏軍が高句麗本国を撃破した年を三國志は246年とするが
貫丘倹碑文が出土しており242年が正しいことが判明している)
248年には高句麗と講和しているから、一部新羅に迎えられて留まった者たちがいたとしても多くは本国に引き上げたんだろう。
(後世の新羅の貴族層にも高句麗系を自称する者がいないし)
246年に辰韓のうち8国を帯方郡の管轄から楽浪郡の管轄に移そうとしたのは
この南下した高句麗兵の捜索と追撃のためで当初はこちらに高句麗王が紛れ込んでる可能性もあった。
ところがそれに馬韓が反発し二郡と戦争になった。二郡は太守が戦死するほど苦戦したが結果的に勝利。
百済本紀にはこの年楽浪郡を攻撃したがすぐ謝罪したとある(246年)。
つまり辰韓馬韓はなぜか高句麗兵を迎え入れて匿おうとしているようには思えるが、
逃亡中の高句麗軍には先住民を征服して新羅を建国するような力はなかったろう。
だから3世紀に古雛加を自称する高句麗人が新羅に寄寓していたとしても、
初代の王号に使われるいわれはないように思う。

72 :世界@名無史さん:2015/09/28(月) 17:54:19.90 0
だが「古雛加=居西干」という言葉自体は高句麗建国以前からあってもおかしくない。
古雛加は高句麗の王の一族(王の兄弟や王子)が称する号で、他に、高句麗五部のうち
絶奴部と消奴部の首長も特別に古雛加を称することが許されていた。
桂婁部の首長がいわゆる「高句麗王」。
おそらく順奴部と灌奴部の首長は他の2部のような世襲首長ではなく
王の兄弟や王子が補任されたのだろう
結局、王領である桂婁部以外の4部の首長が古雛加だったのではないか。

古雛加はもとは王にも該当する首長の称号だったのだろうが
高句麗侯を中心に5つの県侯が連合して高句麗王ができた時、
古雛加たちの上位に「王」ができたので
それまでの古雛加たちは王に次ぐ最上級貴族ということになったのだろう
従って、新羅初代の赫居世の称号「居西干」(=古雛加)も
その段階ではまだ王号だったのである

73 :世界@名無史さん:2015/09/30(水) 00:19:56.47 0
古雛加に似たものとして匈奴の左賢王・右賢王が浮かぶ
左が「東部方面」、右が「西部方面」を表し帝国を五部に分けて
東南は左賢王、東北は左谷蠡王、西南は右賢王、西北は右谷蠡王
そして中央は単于(=遊牧民の皇帝)の直轄。で5つの地域。
中央には左骨都侯・右骨都侯がありこれは単于の側近。定員各1で6人。

高句麗の古雛加は常時数人はいたらしいが定員のようなものはわからない
高句麗の五部制と古雛加の定員に関係があったのかどうかも不明
百済(475年以前の前期百済)にも左賢王・右賢王があった
(百済にも五部制はあったが左右賢王とは関係ない)
辰韓には「右渠帥」という地位があったので当然「左渠帥」もあったろう
また衛氏朝鮮の最後の王は「右渠王」といい史記では固有名詞扱いされているが姓も不明であり
これは西方面軍の将軍という意味で、当然「左渠王」もいただろう
衛氏朝鮮の「左渠王・右渠王」も辰韓の「左渠帥・右渠帥」も、
匈奴や百済の「左賢王・右賢王」と同じ趣旨で、左が東部方面、右が西部方面を表す
前2世紀の衛氏朝鮮の「右渠王」がいた場所は平壌で、後1世紀の辰韓の「右渠帥」がいた廉斯とは今の忠清南道の西北部だという。
朝鮮半島全体では南を東、北を西ということがあり、赫居世が前1世紀としてその頃の慶州
(後に新羅の王都)が「左渠王」「左渠帥」の位置として考えられる

74 :世界@名無史さん:2015/10/01(木) 19:59:33.62 0
そうすると新羅の初代、赫居世の称号である「居世干(古雛加)」とは辰韓の「左渠帥」のことだったとわかる
匈奴の左賢王・右賢王の「賢」は匈奴語の「屠耆」だが、百済の左賢王・右賢王は意訳で、匈奴語ではなかろう
匈奴語なら左骨都侯・右骨都侯の「骨都侯」が「古雛加」と音が近く語源的にも関係ありそう
骨都侯は単于の后の実家の者で、トルコ語の「qudu:義父」に漢語の「侯」がついたものという説がある
高句麗でも絶奴部の首長は高句麗王に妃を出す家柄なので「古雛加」を称するという
「古」の上古音は[kag]、「雛」の字は日本語読みではスウ。日本上代語(万葉語)で父を「かそ」という。
高句麗語と日本語は類縁だという説が思い出される
「ちち」が義父・養父・伯父・叔父まで含む広い意味で「かそ」が実父、生みの親だが
語源からいうと「かそ」は子供を数える説(岩波版日本書紀の注)、または彼の処=外の人説(白川静)、稼ぐ人説
「ちち」のチは乳、血、精液など、霊的な力ある液体をみなチといったのが語源
語源からすると本来はカソが義父でチチが実父だったのが後に逆転したものと思われる
「骨都[トルコ語:qudu]」「古雛[上古音:kadzu/中古音:kotsu]」「かそ[kaso]」は同語源で「父(義父)」の意味だろう
百済の左賢王・右賢王の「賢王」も、辰韓の右渠帥の「渠帥」も、漢字で意訳したものだから
原語は「古雛加」や「居世干」に近い発音だったと推定できる。

75 :世界@名無史さん:2015/10/02(金) 19:51:15.69 0
>>71-74は>>51(居西干)へのレス

>>67(葛文王)
1988年に発見された蔚珍鳳坪碑文からすれば524年の時点では寐錦王と葛文王の二重王制だったことが明らかだが
『三國史記』や『三国遺事』は辛うじて葛文王という称号を断片的に伝えるのみ。それどころか
『日本書紀』によれば第5代婆娑は尼師今でなく「波沙寐錦」であり
広開土王碑文によれば第17代奈勿は尼師今でなく「新羅寐錦」であり
中原高句麗碑文によれば第19代訥祗は麻立干でなく「東夷之寐錦」であり
迎日冷水碑文によれば第22代智証は麻立干でなく「葛文王」であり
蔚珍鳳坪碑文によれば第23代法興王は、王は王でも「寐錦王」だった
しかるに『三國史記』や『三国遺事』は金石文に一切あらわれない尼師今をもちいるばかりか
寐錦王/寐錦という用語をまったく伝えておらず史料としての信憑性が疑われる。
『三國史記』がいう「503年に君号を麻立干の君号を改め新羅国王とした」という記事は、
それまでの葛文・寐錦という称号をそれぞれ葛文王・寐錦王に改めたという意味だと考えるしか選択の余地がない。
従って『三国史記』に表れる葛文王のうち503年以前のは、もともとただの「葛文」であり「葛文王」は後世の追記だろう(続く)

76 :世界@名無史さん:2015/10/03(土) 22:40:28.88 0
葛文王は、王の父・伯父叔父・妃の父(つまり舅)・王の兄弟・女王の配偶などに与えられる称号だが
『三國史記』や『三国遺事』からはその詳細や正確なところはわかりにくい。
最初の葛文王である日知葛文王は儒理尼師今の兄でもあり同時に舅でもある
次ぎの許婁葛文王は婆娑婆尼師今の舅
三人めの摩帝葛文王葛文王は祇摩婆尼師今の舅
してみればもともとの意味は「王の舅」=「王の義父」だろう。だからまさに「居西干」(古雛加)と同義である。
(続く)

77 :世界@名無史さん:2015/10/05(月) 00:11:23.73 0
「左渠帥・右渠帥」の渠帥は根本的にいって意訳(既存の漢語)だから音写の可能性を考える必要はないが
渠は上古音[giag](ガ)中古音[gio](ゴ)、帥はスイ[siued→siui]とソツ[siuet]の二音があり
カス・カソ・コス・コソの音写も兼ねているとみることもひょっとしてもしかしたらアリかもナイかも

葛[上古音:kat]は、古雛加の「古雛[katsu]」にあたる。では「文」は何か?
高句麗末期の独裁者、淵蓋蘇文(姓が淵氏、名が蓋蘇文)の高句麗語の読みはイリ・カスミ(伊梨柯須彌)だったことが日本書紀からわかるが
これによって高句麗人は「文」の字をミと読んでいたことがわかる(蓋蘇文=カスミ)
しからば葛文の文もミと読んだ可能性がある
(新羅語はむろん高句麗語ではないが、当初から独自に新羅語という特定言語が存在したわけではなく
高句麗百済語(夫余語)、馬韓語(先住民語)、倭語、漢語(辰韓語)などが混淆してできたものである)
ところで蓋蘇文は西部の大人(消奴部の首長)だったというから、3世紀に遡る伝統によって「古雛加」を称することが許されていたはずである。
それだけで彼が古雛加だったことを推定するに十分ではあるが、
栄留王を殺害して宝臧王を擁立した時に「本来の古雛加として」自分の娘を宝臧王にあてがった可能性もあろう
(ただし蓋蘇文の娘が妃になったことは歴史書にはみえないから俺の個人的な憶測にすぎないが)。
ところで『後漢書』は古雛加を「古鄒大加」としている。雛と鄒はほぼ同じ音を写した字として問題ないが
古鄒大加は「古鄒文加」の誤写ではあるまいか。「大加」という言葉が他にでてくるのでそれに引きずられて誤ったものと思う
つまり古雛加はもともと古鄒文加の略称であり、蓋蘇文は本名ではなく古雛加(古鄒文加)の土着語的な表現だと思われる
(加は遊牧民の「汗」の語源で、大人(首長)の意味)
古鄒文[katsumi]が原語で、葛文[katmi]はすなわちその「新羅訛り」だろう

78 :世界@名無史さん:2015/10/06(火) 20:27:20.34 0
古鄒文加から逆推すれば503年に葛文王と改号される以前には「葛文干」だった可能性もあろう
また居西干も誤記で「居西文」だった可能性もなくはない
(大・丈・文・干・天などは相互に誤写されることのある文字)
「加」または「干」がつくかつかないかでは多少意味が異なる
「骨都・古鄒・居西・葛・古鄒文・居西文・葛文・かそ・かすみ」は義父(=舅)または父そのものに近いが
「骨都侯・古鄒加・居西干・古鄒文加・葛文干」は「義父をふくめて父にも相当する地位の称号」の意味になろう
とするとやはり初代の赫居世は居西「文」ではなく居西「干」でよさそう
葛文王は「葛文王」に書き直されるの前には「葛文」だったか「葛文干」だったかは
時代によって異なる(ただし503年以降は「葛文王」のままで正しいが)

ちなみに日本で上皇の住居を仙洞御所といいその訓を「かすみのほら」という
「仙人の住む山奥の霞のかかった洞」という意味だが
仙洞を訓読みするなら、まずは「やまびとのほら」となるだろう
カスミとはもしや「父身」(かそみ)という古語の残存ではないだろうか
もっともそれいうなら「かすみの宮」という用例がないのが弱みだが
「かすみの洞」が本来の形ならやはり「霞」でいいような気もするが
まぁそういう連想もあったという程度の話で(続く)

79 :世界@名無史さん:2015/10/07(水) 21:23:39.29 0
「舅」も平安時代には「しひと」と言っていた(シヒト→シウト→シュウトと訛ってきた)
シヒトとは「しる人」この「しる」は「治める・領する」の意味。これを敬語にしたのが「しらす」
一般の民間でも妻の父が大きな力をもっていた頃の名残りだろう
平安時代といえば天皇とその外祖父である藤原氏摂政関白が思い起こされる
自分の外孫を幼少のうちに即位させ、自分は摂政として政権を握るというのは藤原政権の最終形態だが
天皇が幼少でない場合、舅または外祖父が関白となる
これは葛文王が王の舅であり、婿である寐錦王と共同統治する体制に似ている
天皇と摂関は形式上はまだ君臣上下の関係だが
新羅の場合はお互いに対等の王家である。そこで記紀に書かれた初期の皇室の歴史をみると
遠縁の皇族が皇位継承する場合、先帝の一族の女性を皇后に立てるケースが
顕宗天皇から光仁天皇まで少なくとも6例ある
これらの場合、先帝と新帝は義父と婿の関係になる。新羅の三王家も相互にこの関係を繰り返した
ただし日本の場合、先帝はすでに崩御しているケースがほとんどで
舅(義父)というより配偶女性(皇后)の権力が大きかった
これは後に女帝になっていくわけだがそこも新羅の女王の出現と同じで
新羅もまた女性(王妃)の権力がもともと大きかったろう
また実の父子の場合でも、奈良平安の頃から一貫して上皇のほうが権威があったので
院政時代になって急に逆転したわけではない。

葛文王が父(または義父)の意味なのだから寐錦とは息子(または婿)の意味ではないかと察せられる。
ムコ(聟)の語源は「迎える子」だの「向かう子」だのいわれるが庶民的な語源俗解で取るに足らない
ムスコ(息子)と関係ありそうだが不明。ともかく「コ」は男性をあらわす語尾だから語根は「ム」
寐錦(ムキン)とは「息子・君」の意味ではないだろうか
寐錦の「錦」も尼師今の「今」も[kiem]で語尾の子音は[n]でなく[m](続く)

80 :世界@名無史さん:2015/10/09(金) 00:14:37.13 0
神話の三機能説(F1,F2,F3)で
第3代儒理と昔脱解はF3、初代朴赫居世はF2、第2代南解と金閼智はF1に関係する伝承がある。
これでみると朴氏だけは初代から第三代までがF2、F1、F3にそれぞれ対応しているが
各氏の初代だけで比べると朴氏がF2,昔氏がF3,金氏がF1に対応している。
この伝承が単に神話として構成された作り話でなく、もしも史実を反映しているとしたら、
初期の新羅は三王家が交代で王になったのではなく、
祭祀権・軍事権・財政権に三分して同時並立していたことになる。

称号でみると次々雄は男巫だからF1に相当している。
とすると可能性としては居西干はF2、尼師今はF3に対応しているかもしれない。
これを再整理すると「朴氏=居西干、昔氏=尼師今、金氏=次々雄」となる
金氏は初代から6代目の仇道まで代々即位してないことになってるからこれといった称号も記録されてないが
実は次々雄という地位を世襲していたのではないか
とすると、尼師今というのは誤りで正しくは寐錦だったとされ勝ちなのであるが
尼師今と寐錦は語源も語義も別々の称号だとすると、
尼師今が含む長寿の意味はF3に含まれる機能の一部だから昔氏の8人の王だけは寐錦でなく尼師今だったというのは史実の可能性が高い。
(偶然か必然か、日本書紀や新羅碑文から寐錦だったことがわかっている王の中に、昔氏の8人の王は含まれていない)
尼師今(歯=歯が多い=年長、長寿=有徳者≒資産家)
居西干(古雛加)は骨都侯や左右賢王など遊牧民の指導者に由来するように
(また「渠帥」という漢訳の文字からしても)軍事的指導者であり王というより将軍に近い
二重王制どころか三重王制(というより三権分立?)の可能性がでてきたわけだが
語源的には「居世干」と「葛文王」は同語なはずで
そうするとこの三重王制と「寐錦×葛文」(息子と父)の二重王制との関係はどうなってるのか(続く)

81 :世界@名無史さん:2015/10/10(土) 23:11:14.36 0
葛文と寐錦の二重王制を日本と比較した場合、
実の父子と観れば院政、聟と舅と観れば皇室と摂関家の関係が浮かぶのは前述のとおりだが
さらに新羅三王家に似た情況として持明院統と大覚寺統の両統迭立がある
この時は例えば持明院統の天皇が在位している場合、皇太子は大覚寺統から出るという決まりだが
この時代は治天の上皇が実権者で天皇は実権がなく皇太子のようなものといわれたから
形式上の皇太子は実質的には「皇太子の皇太子」であって二代先まで決めていたわけだ
新羅の場合もこれに非常によく似ており、
葛文が上皇で寐錦を天皇とみれば、または葛文が天皇で寐錦が皇太子とみれば
異姓間で王位をたらい回しにするための制度とみることができなくはない。

また古代エジプトでは、先代ファラオの実の息子であろうが赤の他人であろうが、
先代のファラオの皇女の配偶でなければファラオになれなかった。
こちらのほうも新羅の例によく似ている
葛文と寐錦が「舅と聟」ばかりでなく「父子」の例もあるのは、王位の追号とは限らないだろう

これらから考えると二重王制は次ぎの王が誰かをめぐって内乱になることを事前に避けるためのものであろうかと思われ。
この場合、次ぎの王が自分の息子(同姓)であろうが、娘聟(異姓)であろうが、趣旨は同じ。

そうすると「寐錦×葛文」の二重王制は
どうやら「三統鼎立」を安定的に維持するためのものだったと想像はつくが
そしたら今度は「そもそもなぜ新羅には王家が三つもあるのか」という問題にいきつく(続く)

個人メモ
朴氏の初代は慶州盆地の六邑の長が迎た

その問題にいく前に、麻立干に戻りたい
神話学の三機能の話がでたついでに、高句麗でも同じように初期王権神話に三機能がでてくる。
初代朱蒙(東明王)がF1、二代類利(瑠璃王)がF2、三代無恤(大武神王)がF3だというのだが
吉田敦彦

さて三國史記を表面的にみると最初の葛文は日知葛文王だがこれは問題がある

時代が下がっていくと金氏の同姓間でも葛文王が普通になっていくが
初期の頃は異姓の舅に限っていたと思われるからだ
日知は第3代儒理の義父でもあるが兄でもあり朴氏同士の同姓婚となっている。
だが日知は後に第9代昔伐休の舅になっているから葛文王になったのはこの時であって
第3代儒理の義父になった時はただの同姓の伯父であってまだ葛文王にはなってなかったのではないか。
第7代朴逸聖の舅の名は朴支所礼王であって葛文王とはされてないのだがこれも朴氏で同姓なのである

そうすると実のところ最初の葛文王は日知ではなく
第5代婆娑(朴氏)の舅である許婁葛文王(金氏)こそが最初の葛文王だったのであろう
この婆娑尼師今は『日本書紀』では「波沙寐錦」と書かれ文献上確認できる最初の「寐錦」だ
つまり最初の「寐錦」と最初の「葛文王」がすでにセットになっていたことがわかる

はじめ赫居世が居西干の地位についた時、この居西干は韓の「左渠帥」の意味であり王ではなかった
第2代南解が次々雄になったのも父赫居世が死んだから王位を継いだのではなく
赫居世は生存してあいかわらず居西干=左渠帥の地位についており
ただ長男の南解に祭祀を司らせただけだったのだろう(次々雄=祭司長)
居西干の地位を引き継いだのは弟の日知で、後世の三国史記では日知葛文王と書かれるが
この日知葛文王はこの段階ではまだ葛文干で居西干のことと思われる
同じく第3代の儒理が尼師今になったのも父の南解が死去して後を継いだのではなく
息子の儒理に一般行政(内政・財政)を担当させたという意味。
儒理の後、昔氏の脱解が尼師今を継いだがこれは昔氏が朴氏よりも莫大な財産をもっていたから。
尼師今という地位は資産家でないと務まらない。以後、昔氏が尼師今の地位を世襲。
また金氏が登場して、南解の死後は次々雄の職は閼智が継いだと思われる
もともと赫居世は軍事的征服者で平定の後は一時的な軍政ぐらいで役目は終わり
昔氏は財政問題のために朴氏が招き寄せたもの。金氏が最初から新羅王の本命だったと思われる
なので南解が次々雄になったのも、儒理が尼師今になったのも、金氏と昔氏が到着するまでの便宜的な措置だったとみられる
儒理の甥にあたる婆娑は金氏の許婁の娘と結婚したので朴氏と金氏の婚姻がなり
両家を結ぶ婆娑が新羅王にふさわしいとなった。それで婆娑は「寐錦」許婁は「葛文」の称号を帯びて
二重王制が始まった

屠耆をモンゴル語の「čige:正直」、トルコ語コイバル方言の「sagastex:賢」
匈奴語の「賢」は意訳で匈奴語では「屠耆」(シャキ)といったという。屠はトでなくシャ(尸とった者が音をあらわす)

P. Boodberg(1936年)は、この官が単于族の姻族に占められていることより、トルコ語の「qudu:義父」に漢語の「侯」が付いたものと解し、
白鳥庫吉(1941年)はモンゴル語の「khutuk」、トルコ語の「kut, kutluk:威厳神聖」に比定し、
L. Bazin(1950年)は「幸福をもたらす者」の義を有する古モンゴル語「qurtulγu」であると想定した。

☆2三韓征伐

H30年10月2日改稿 H25年5月15日(水)初稿
この記事は仲哀天皇即位から新羅征伐までを扱う。
仲哀天皇のあらすじ
ここのところのあらすじは、まず熊襲の反乱があり、仲哀天皇が熊襲征伐のために九州にきている。しかし神託があって「熊襲はさておいて新羅(しらぎ)を討て」ということになったのだが、神勅を信じなかった仲哀天皇は神罰をうけてあえなく崩御。「次の天皇は妊娠中の皇后の胎の中の子であるぞ」とのご神託により、天皇を胎に宿した神功皇后が摂政に。その皇后が軍を率いて海を渡り、新羅を征服した。…という話なのだが。

問題点
70年代くらいまで、遅れて野蛮な日本が、文化の進んだ先進国の朝鮮に攻め込むことができたはずがない等というアホ丸出しなことを真顔をいう連中がいくらでもいたものだが、さすがに最近はそんなのは団塊世代の老害のぞいてめっきりいなくなってきた。実際は、朝鮮の歴史書『三国史記』の新羅本紀には、倭国が新羅に攻め込んだ話がこれでもかというぐらいたくさん出てくる。なので、それらの中のいずれかが、神功皇后の軍だということは最初から容易に想像できたことだ。学界でも当時の倭国が朝鮮半島南部に何らかの権益を有していたことは大筋認められているようだ。これは一回か二回出兵があったかどうかなんてことよりも、重大なことのはずだが…。「何らかの」なんて言い方は、かなりボカした言い方で、まだまだタブーというか気まずい空気が学界にはあるんだろう。
まぁそこまではいいのだが、神功皇后の新羅征伐を事実だったと認める人であっても、「なぜこの時期に?」ということを深く考える人はあまりいないのではないか? よくあるのは、次の二つの言い方で、一つは、古墳時代になって畿内の生産性があがり巨大古墳を作るような国力の蓄積があり、その国力が外へ溢れ出たのが朝鮮への出兵になったという言い方。この場合、生産力というのが農業のことなのか、統一政権ができて海外貿易の窓口一本化したことによる収益(貿易の独占)のことなのか、その両方なのか判然としないがともかく。もう一つはあとは倭の五王の倭王武の上表文にあるように、日本列島の諸国が統一されて、国内戦争がなくなってしまい、それで余力を海外に向け…。という、豊臣秀吉の唐入りみたいな話。

神武天皇から成務天皇までのあらすじ
記紀に準拠して考えると、神武天皇から孝昭天皇まではなんとなく平和そうだが、孝安天皇から徐々にあやしくなり始め、崇神天皇の時に、疫病で日本人が滅亡した。『古事記』にはほとんど全滅しかかったとあり、『日本書紀』には国民の半分が死んだとある。この時がドン底で、近代国家であっても国民の50%がいきなり死ぬような疫病があれば、国家機構が崩壊してアナーキーな社会が現出する。それこそ『北斗の拳』みたいな世界になりかねない。崇神天皇は神々を祭って疫病を止め、制度を改め国を立てなおして、四道将軍を派遣した。
が、北陸道と東海道は平定したものの、奥羽が課題として残り、これは後にヤマトタケルの物語に続く。また四道将軍のうち山陰方面を担当した彦坐命(ひこいますのみこと)は、出雲がうわべに服属の姿勢を表したので山陰の東部、但馬に留まり、出雲勢力は温存され、最終的な平定はヤマトタケルに持ち越された。そして九州は四道将軍の管轄外。ヤマトタケルが征伐した九州、出雲、奥羽の3ヶ所は四道将軍が行けなかったところなのである。

なぜ熊襲が反乱したのか?
熊襲は、かつて倭建命によって平定されたはずだが、その次の世代になって早くもまた反乱が起こったのはなぜかという疑問がある。崇神天皇以来、四道将軍、そしてヤマトタケルと、ヤマト朝廷は外へ広がっていったわけだが、これを戦乱の時代というのは正しくない。戦争は外延で起こってるのであって、その内側はどんどん景気がよくなっている。ちょうど戦国時代が日本全体でみると戦乱の時代なのに、有力な戦国大名の領内では人々が平和と繁栄を享受できたのと似たようなことだろう。平和と繁栄の下では自ら人口増加率があがる。農民は田畑を分割相続しているとあっという間に没落してしまうから、ある程度分割が進むと相続からあぶれてしまう人が大量に出てくる。そういう人たちは新天地を求めて移動する。フロンティア=辺境を求めるのだから東国の人は奥羽を、西国の人は九州を、とりあえずめざすだろう。奥羽は未開拓の地が多いのと、当時はそもそも東国の人口は西国ほどではなかったこともあり、急にどうこうはなかったが、九州は歴史の古い土地だからもとから人がいて、国内の他の地域と同様、人口過剰気味だったところに移民が吹き溜まったために、主だった平野部には耕すべき土地はすでにまったく余ってなかった。やむなく、山中に入って段々畑や畑を作るがそれもすぐ一杯になる。山に入ったものの、そこも人だらけで土地がない。かといって狩猟採集に従事しようとしても、古くから伝統的にそれやってる連中が先にいるので、過剰人口は歓迎されない。切羽詰まった彼らは、やむなく山賊稼業に転身するわけだ。(クマもソも険しい山奥という意味の地名であって、そういう部族や種族がいたわけではないことは別の記事で詳しく書いた)
つまり、熊襲が反乱したというが『日本書紀』では実際は「貢納せず」で、ヤクザや愚連隊や与太者集団だから決まった税金も収めないで独立国家よろしく好き勝手やってたってことなのである。16世紀の西洋の国家権力の及ばない海賊島みたいもの。

人口問題とその解決
そういうわけですべての原因は、人口問題だったのである。人口問題の解決は、海外への移民しかない。だからご神託では新羅のことを「金銀財宝で目がくらむような国」といってるのは、戦前の移民政策で満州やブラジルが夢の新天地であるような宣伝文句で移民を釣ったのと似たようなことだろう。もっとも戦前の移民奨励の宣伝文句はいんちきもあったが、ご神託にはいんちきは無いので、新羅が(ある意味で)黄金の国だったのは本当だ。ただし新羅国内では金鉱もかなりあったようだが鉄鉱の方がメインで、黄金は満州方面からの輸入も多かったのではないかと思う。

「新羅」(しらぎ)という国
(※後日に書き足し予定)

新羅征伐はいつなのか
上述の通り、倭軍が新羅に攻め込んだ事件は歴史上にたくさんあるのだが、そのうちどれが神功皇后の新羅征伐に該当するかは以下のようにいくつもの説がある。
AD391年説
『日本書紀』では神功皇后が新羅を服属させた時、微叱許智(みしこち)なる者を人質にとったとある。微叱許智は『三国史記』では未斯欣と書かれ、402年に倭国に人質にされた。402年の直前にある倭兵の襲来はというと、新羅本紀には393年の事件として倭軍が攻めてきて新羅の都を包囲した話がある。ここまでだけなら393年説ってのがあるよ、で終わるのだが、明治13年に発見された広開土王碑の碑文によって、391年に倭人が半島に攻め込んだ事実が明らかになった。そこで、学界では神功皇后とはいわないが、任那日本府(的なもの)の起源として、広開土王碑文の事件(倭兵による391年の半島攻略)をあげる見解が多い。『三国史記』もその史料的な価値を疑おうと思えば疑えるわけで、碑文の方がより信憑性はある。神功皇后実在説の中ではたとえば安本美典も珍しく学界の趨勢に従って(?)この391年の事件を重視していたような記憶がある。貝田禎造の説では神功皇后の新羅征伐は390年とする。この説は二倍暦どころか四倍暦に基づく計算だから問題外だが、実質的には391年説と同じ事件ということになり、まぁ広い意味では「391年説」のバリエーションとみられる。ただ、391年説の問題点は、第一に広開土王碑文の記述はたまたま残った記録であって長い年月の間に起こった事件の中から大事件をピックアップしてくれたものではない。ゆえに数多い「倭国からの侵攻事件」の中から碑文にあるからという理由だけでピックアップするのは妥当でないということ。第二に、393年の新羅王都包囲戦は倭国が敗けたことになっている(393年の事件は碑文でいう400年の戦いのことだろうが今はふれない)。むろん対高句麗戦争という全体からみれば局地戦で敗けただけだが、対新羅関係としてみれば局地戦だろうがなんだろうが敗けているので、神功皇后の戦争には該当しない。第三に、微叱許智が人質になったのは『三国遺事』では390年のことという(『三国遺事』では美海、未叱希、未叱喜と書く)。もしこっちが正しければ391年の戦争より前になってしまって具合がわるい(とはいえ微叱許智の件に関しては、別な時の人質を神功皇后の巻に書き入れたのは書紀の誤りだとして済ませることもできるが)。第四に、仲哀天皇が崩御したはずの壬戌年は、391年前後のあたりに近いとなると362年と422年であって、あまりにも間が空きすぎ、記紀の古伝承と整合性がとれない。第五に、碑文によれば情況は391年から404年までの13年間にもわたる「倭と高句麗との戦い」であって「高句麗征伐」とはいえても「新羅征伐」とはいえない。新羅や安羅や百済も参戦国として出てくるが、あくまで脇役にすぎない。393年の記事は新羅本紀の記事だから新羅目線で書かれているが、碑文に語られた情況の中に位置づけると、大動乱の一幕にすぎず本筋じゃない。あくまで新羅征伐だとする古伝承とあわない。
AD364年説
前述のとおり『三国遺事』では美海(=微叱許智)が人質になったのは390年だから、それより前の戦争というと、かなり間があいてしまって少々具合がわるいが364年の事件がある。通説に従って倭王讃を履中天皇だと仮定した場合、仁徳天皇崩御の丁卯年を427年、応神天皇崩御の甲午年を394年として積み上げていくと、仲哀天皇崩御の壬戌年が362年となるので、その直後で『三国史記』新羅本紀に記されたいちばん近い倭軍の侵入はやはり364年の事件となる。wikipediaには364年説を大平裕の説としているが、同じ理屈を使って遡れば誰がやっても同じ結論になるから、この説は昔からありふれた説であって、大平裕が最初に言い出した説ではない。この説の場合、応神天皇が父帝崩後の364年の生まれだとすると実の父は仲哀天皇ではありえないことになるが、神功皇后の軍が新羅を征伐した時は応神天皇が生まれる前ではなくすでに生まれた後で2歳になっていたとすれば問題ない。この説が学界で有力でないのはそもそも神功皇后が実在だとされてないからで、このような当てはめは無意味ということだろう。むろん俺は実在したと思うけど、だからってこの説を支持するわけにはいかない。たとえばこの戦いでは倭国の側が敗けたことになっている。また倭王讃を履中天皇だとする最初の仮定が間違っていた時にはこの説は成り立たないし、古事記の崩年干支を何巡はさむか考慮せず単純に最短で積み上げるのは書紀の編年を不当に引き下げる目的でされている。
AD346年説
日本書紀の編年が干支2巡(=120年)引き上げられているという有名な説を機械的にあてはめれば神功皇后の新羅征伐は320年になるが、あいにく丁度その年には倭国による新羅侵攻はない。その近くで探すと26年前の294年と、26年後の346年があるが、前者は長峯城という一城を攻めただけの小規模な事件で該当するようにみえない(しかも新羅が勝っている)。後者は、気候変動の研究で有名な山本武夫もこの346年に倭国が新羅を侵略した事件を神功皇后の新羅征伐だとする(山本武夫は二倍暦説を使っているが使わなくても346年説は成り立たないことはない)。しかし、この戦いも新羅が倭を撃退したことになっているので具合がわるい。また今風な諸説の中では学界の風潮に逆らって最も古めに見積もっている説だとはいえるが、日本書紀の年代を引き下げていることにはかわりがない。仲哀帝崩御の壬戌は302年と362年で、やはり上記の364年説の場合と同じく整合しない。
AD233年説
『日本書紀』の別伝にはこの時の新羅王の名を「宇流助富利智干」(うるそほりちか)としている。それに付随して「一に云はく」として、この王が天皇を侮辱する発言をしたため、日本の将軍に殺され、短いエピソードを伝えている。それによると、新羅王を処刑して埋めた後、新羅宰(しらぎのみこともち:新羅を治める総督のようなもの、氏名不詳)を一人置いて日本軍は引き上げた。新羅王の妻が新羅宰を誘惑して、王の死体を埋めた場所を聞き出すと、新羅宰を殺してその死体を新羅王の棺の下に埋めた。天皇これを聞き知り新羅を滅ぼそうと派兵したところ、新羅ではその故王の妻を殺して謝罪したという。この王「宇流助富利智干」は『三国史記』に出てくる于老(うろう)と同一人物だというのが通説だ(姓が昔氏なので「昔于老」ともいうが、この時代の新羅にはまだ中国式の一文字姓は無かった)。『三国史記』によると、于老は有力な王族の一人ではあるが王ではない。231年に大将軍に就任し、233年に倭兵が侵入してきた時、于老は将軍としてこれを撃退した。244年「舒弗邯」(じょふつかん)に昇格。これは後世には位の名(正一位とか従一位みたいなもの)になったが、この頃は政治と軍事の最高指導者を指したもので日本で例えれば摂政と征夷大将軍を兼ねたようなものだろう。書紀の「助富利智干」もこれのことというのが通説で、ソホリチカと読むのが当時の新羅語だろう。244年から249年までの間のある時、于老は倭国の使臣葛那古(かなこ)の前で軽い冗談のつもりで天皇を侮辱する発言をしてしまい、それを伝え聞いた倭王は怒って将軍于道朱君(うどうしゅくん:うだのすくね?)に新羅を攻めさせたが、于老が謝罪したのでこの時は戦争にはならなかったらしい。だが于道朱君は于老を赦さず、249年(本紀では249年、列伝では253年)に于老は殺された。味鄒王の時(262年~284年)倭国大臣(氏名不詳)がやってきたので于老の妻(助賁王の王女で名は「命元」。命元夫人という)は接待を買って出て、宴会の席で倭国大臣を酔わせて殺した。倭人は怒って金城(新羅の王都)を攻撃してきたが勝てず引き返したという。しかし味鄒王の時には倭が攻めてきたという記事はなく、強いて探せば262年に金城の西門が焼け民家百軒が類焼したとあり、これが倭兵のしわざなのかな? ともかく、日本書紀と三国史記にはこのように細部は違うが似たくさい話がそれぞれに伝わっていて、通説では、もとは同一の物語だったろうということになっている。書紀のいうようにこの事件が神功皇后の新羅征伐の直後のことだとすると、神功皇后の新羅征伐は233年のことになる。ここで一つ重要なことは、神功皇后の遠征の最大の特徴というのはただの軍事行動ではなく超常現象を伴っていることなのだ。超常現象というと語弊があるが、神懸りとか占いの話ではなくて、異常気象のことだ。突風と大波が起こって日本の艦隊があっという間に新羅に到着、新羅の国土に津波が襲ったという。伝承の中ではそれは神功皇后に味方する風の神、海の神のしわざということになっているから超常現象といってもいいと思うが、要するに局所的な異常気象だろう。倭人が新羅を襲ったという記述は『三国史記』の中に夥しくでてくるが、戦争中に異常気象を伴ったという記事は、121年と233年の2回しかない(百済と新羅の戦争で大風が吹いたことも一度か二度あるがそれは倭国は関係してないので除く)。また仲哀天皇が崩御したはずの壬戌年も233年に最も近いのは182年と242年だが、182年に仲哀天皇が崩御して神功皇后の軍が新羅に攻め入るまで51年も間が空くとは考えられないから、神功皇后が新羅へ侵入していた時に仲哀天皇は負傷したまま九州で臥せっていたと仮定して、9年後に崩御したとすればなんとか辻褄あわないこともない。しかし、233年の戦いは侵攻した倭軍が于老に撃退されてるので、これが神功皇后の新羅征伐だというのは具合が悪い。
AD200年説
日本書紀の編年をそのまま西暦にすると新羅征伐は200年であり、日本書紀原理主義の西川権などはこの立場。が、丁度この年に倭人が攻めてきたという話も『三国史記』にないし、古事記で仲哀天皇が崩御した年にあたる壬戌年は182年と242年になるがどちらも新羅征伐があった200年とは離れすぎている(日本書紀原理主義の場合は古事記を無視するわけだが、「崩年干支重視説」はそうではない)。そもそも書紀は神功皇后を卑弥呼の時代にあわせるためにこういう年代設定にしているのだから信用できない。ちなみに『日本書紀』のいう200年の前後で、倭人が新羅に攻め込んだ事件を探すと、200年の前だと121年まで約80年さかのぼる。200年より後だと208年にある。208年のは国境での小競り合いで王都占領に及ぶような本格的な戦争ではない。121年説については後述。
AD121年説
『日本書紀』では新羅征伐の時の新羅王は「波沙寐錦」(はさ・むきん)としているが、これは『三国史記』でいう「婆娑尼師今」(ばさ・にしきん、在位80~112)のこと(寐錦と尼師今は王号であって名前ではない)。あいにくこの王の在位期間に倭国の侵入はないが、この王の前だと73年、後だと121年がある。73年のは木出島での局地戦だから除外していいだろう。121年のが3つの点で興味をひく。第一には、123年に倭国と講和したとあるからこの戦いは足掛け3年間の大戦だったことになる。第二に、大戦中の122年の干支が壬戌でこれは仲哀帝崩年干支と同じ。第三にこれが重要なのだが前述の233年説のところでいった異常気象の件。戦争中の122年に東から大風が吹いて木が折れ瓦が飛んだ。都の人々は「倭兵が大挙して来る」といい争って山谷に逃げたという。原文は以下の通り

『三國史記』新羅本紀 祇摩尼師今

十年(121年)(…中略…)夏四月、倭人侵東邊。
十一年(122年)
 夏四月、大風東來、折木飛瓦、至夕而止。都人訛言、「倭兵大來」、爭遁山谷。王、命伊飡翌宗等、諭止之。
 秋七月、飛蝗害穀、年饑多盜。
十二年(123年)春三月、與倭國講和。

これみると121年に倭が攻めてきたように読めるが、翌年の本軍とは別に先遣隊だろう。あるいは「夏四月」の重複誤写ではないかと思われる。その場合「倭人侵東邊」の五文字は「十一年(122年)」のほうの「夏四月」の下に続けて書かれていたのだろう。むろん原文通りだとしても特に支障はないが。仲哀天皇の崩御は書紀では二月、古事記では六月になっているが恐らくここは書紀が正しい。陣中なので崩御は秘匿され、情況の落ち着いた六月に崩御したことにして公表したんだろう。書紀は九月に進軍し十月に講和したことになっているが三国史記では前年四月から戦っており、122年の四月の大風が皇后の本軍の到着に相当する。これが本当なら九月も十月もまだ戦いの途中である。翌年三月は書紀では忍熊王・籠坂王の反乱とその鎮圧があった年だから、三国史記が講和を翌年三月としているのはつまりこの反乱は新羅と同盟した反乱だったのだろう。だから新羅との最終的かつ本格的な講和はそれが鎮定された三月だったわけ。

前述の西川権は、日本書紀原理主義に基いて新羅征伐はあくまで200年のことだとし、『三国史記』はその事実を隠すため80年前のことに書き換えたのだという。しかし、古事記の仲哀帝の崩御年とも『三国史記』のほうが一致し、むしろ書紀のほうが合わない。

『三国史記』は書紀よりも約400年も後の12世紀に書かれたのだから信用できないともいわれるが、新羅は滅亡せず、宮殿も役人も王族も古記録も、焼け落ちることなくそのまま温存されてそっくり次の高麗王朝に引き継がれた。だから古い伝承が残っている。史料的価値が低いのは高句麗本紀や百済本紀という大昔に滅ぼされた国の歴史を書いた部分であって、新羅本紀はそうではない。高句麗本紀や百済本紀は、新羅本紀からの転載や中国の歴史書からの記述で埋められ、独自の伝承はわずかで他愛もない与太話が多い。全体量も新羅と比べると圧倒的に少ない。

人質になった微叱許智は四世紀の人であることと、殺された宇流助富利智干は三世紀の人であることは動かないので、神功皇后紀に微叱許智や宇流助富利智干がでてくるのは書紀の間違い。どっちも神功皇后とは関係ないエピソードだが、対新羅戦争にまつわる有名事件をごっちゃに神功皇后の記事に押し込んだんだろう。これは通説でもある(ただし学界の通説と私の説では、伝承をひとまとめに神功皇后紀に押し込んだといってはいるが、学界ではその伝承をいちいち事実だとはみない。俺は神功皇后の時代にあてはめたのが間違いなだけで個々の伝承は史実だとする)。事実古事記の神功皇后記には微叱許智も宇流助富利智干も出てこない。
121年説の問題は、多くの説が天皇の長過ぎる寿命と在位年数を引き下げているのに、日本書紀は古くみせようと引き上げているのではなく(神功皇后を卑弥呼の時代にあわせるため)むしろ逆に約80年も引き下げているのだということになる。これについては日本書紀全体の編年論となり、神功皇后や三韓征伐だけの話で終わらないので別の機会にまとめることにする。

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・5酒楽(さかくら)の歌

H26年11月12日投稿 (H25年9月18日(水)初稿)
「日本古謡による五つの歌」と題して、藤原義久(1939ー)という人が(S.55.10.15)の日付で書いた文章がある。五つの歌とは、風俗歌、催馬楽、雑歌などでいずれも『古代歌謡集』(岩波古典文学大系3)には載っている。藤原義久は作曲家で、日本の古代歌謡に曲を付けたのだが、昭和55年に清水喜承氏とK・リヒターという2人の演奏家によって初演された時の文章らしい。
清水喜承という方は小学生の合唱コンクールの審査員もなさるお方で、皇太子殿下のお師匠様。K・リヒターはよくわからないが、もしドイツのカール・リヒターのことだとすると1981年に死去しているので、死の前年ということになる。
藤原義久の文章は5つの歌の曲のイメージを簡単に説明したもの。
五つの歌の最後に、『古事記』の「酒楽(さかくら)の歌」が載っている。この歌につけられた曲のイメージは「酔っ払って目が回るが意気軒高、いささか滅茶苦茶な気分(要約意訳)」とあり、どんな歌い方が適切なのか(or本来はどういう歌い方だったのか)をめぐっていろいろと空想が膨らむ。
(わたしの意見、感想などは後日に加筆。今日は時間なし)

・4神功皇后の治世

H26年11月11日投稿 (H25年6月7日(金)初稿)
神功皇后は誰の摂政なのか?
記紀ともに神功皇后には「崩」とか「陵」とか天皇にしか使わない文字を使って特別扱いを示してはいるが、実際に神功皇后は即位していないので女帝(女性天皇)ではない。『日本書紀』には「摂政」だとはっきり書いてある。摂政てのは天皇の代理で、亡夫・仲哀天皇の代理だという解釈と、応神天皇が幼少なのでその代理だという二つの解釈がありうるが、いったいどっちの摂政なのだろうか。
『古事記』では神功皇后の事績はすべて仲哀記の中に含まれているので、神功皇后の「摂政」というのは「亡き仲哀天皇の代理」という解釈にみえる。ただし記には「摂政」だともなんだとも書いてなくて、肩書きだけでは歴代の皇后(大后)と同じにみえる。
『日本書紀』の章立ては、仲哀天皇紀と応神天皇紀の間に「神功摂政紀」をおいて、仲哀天皇紀にも応神天皇紀にも含めていない。中世にはこの章立てから誤解して神功皇后を歴代の代数に数えたり、酷いのでは「神功天皇」とする書物もあったがむろん紀にはそんなことは書いてない。ただし、古代の書物では仲哀朝を「穴門の豊浦宮の御世(筑紫の橿日宮の御世)」、応神朝を「軽島の豊明宮の御世」というように神功皇后の摂政期間を「磐余の稚桜宮の御世」とよんで区別しているから、どっちからも独立させる書紀の形のほうが本来なのかもしれない。
しかし、ならば神功皇后はいったい誰の摂政なのだろうか。なぜこんな疑問が起こるのかといえば、摂政がいる期間でもその年代は(摂政される側の)王や皇帝の年号や即位年数で数えるのが普通だろう。例えば「仲哀九年」の翌年が「神功摂政元年」で「神功摂政六十九年」まで続いているが、普通なら「仲哀十年」から「仲哀七十八年」までとなるはずだ。しかし天皇や皇帝が幼少のためとか病気のために摂政をたてるという話はあるが、すでに崩御している人の代わりに摂政を立てるという話は前代未聞で例がなさそうに思う。摂政という用語からなじみのあるイメージとしては、幼少の応神天皇の摂政だと考えたほうがしっくりくる。
しかし応神天皇はこの期間、即位していないのだから正確には皇太子であっても天皇ではない。天皇でない人の「摂政」ってのはおかしくないか? 普通なら応神天皇が幼少ながらも即位して天皇となり、そこで「幼帝だから」ということで「摂政」の登場、となるはずだ。紀では「仲哀九年」の翌年が「神功摂政元年」で「神功摂政六十九年」に神功皇后は崩御しその翌年が「応神元年」となっているが、この場合「仲哀九年」の翌年は「応神元年」であるべきで、紀が「応神元年」としている年は本当は「応神七十年」でなければ筋が通らない。しかし実際には応神天皇は即位せず「空位」期間となっているので、応神天皇の摂政だとはいえない。だから「仲哀○年」も「応神○年」も使えないわけだ。しかし「空位」ってのは当時でも後世でも大問題で一刻もあってはならないこととされていた。それなのに記紀ではこの期間、問題になっていた様子がない。つまり事実上の天皇がいたのだが、この場合の事実上の天皇とは実権力の有無ではなく正統性のことである。そう考えると、やはりそれは幼少であっても応神天皇以外にありえない。応神天皇は「神の申し子」という神秘性から、当時の人々の考え方からすると絶大な権威を帯びていた。「胎中天皇」といわれたという。つまり即位する前から、否、生まれる前から天皇なのであって、今さら改めて即位したのしないのってレベルをはるかに超越していた。当時は当たり前だがまだ「摂政」という漢語は使われていなかったのだから、紀が摂政と表現するのは、あくまで奈良時代の見方で状況説明的に「わりかし近い概念として」摂政という言葉をもちだしてるにすぎず、実際に「摂政」の厳密な定義がピッタリ当てはまるわけではない。
当時は仲哀天皇崩御の翌年が「元年」とされても神功皇后の摂政元年ではなく応神天皇の元年と認識されていたのではないかと思われる。神功皇后が崩御して改めて応神天皇の即位元年から数えたが、これは年号制度が始まる前の古代中国でいう「後元」というものに近い(在位の途中でまた元年から数え始めること)。即位の前から事実上の天皇だったというのは後世の天智天皇の「称制」とも通ずる。
ここで二つの問題が生じる。
一つは、書紀は「後元」や「称制」という言葉を使ってもよさそうなのに、いやそのほうが意味がよりピッタリくるのに、なぜあえて「摂政」としたのか。ただしこれは『日本書紀』編纂の歴史観の問題、つまり奈良時代の思想の問題で、『古事記』の内容に描かれている時代とは関係ない話になる。
二つめは古事記はなぜ神功皇后の期間を応神天皇の条ではなく仲哀天皇の条に含めたのか。この問題は、古事記全体の編集方針によっている、ただし太安万侶でなく稗田阿礼の方針だが。これは皇位継承の争いに対して中立的な態度を守るため、先帝崩御から新帝即位までの期間はわざわざ先帝の治世に含めるというカタクナな絶対方針に従っているのだろう。日本書紀みたいにこの期間を新帝の「即位前紀」に入れてしまうと、歴史の叙述がどうしても未来の天皇の側=勝利した側の視点でしか描けなくなってしまう。古事記は周知のごとく敗残者の側に多大な同情をよせた書物である。しかし神功皇后についても応神天皇の摂政ではなく、仲哀天皇の治世のように扱ってる。ここはもし神功皇后の章として独立させないのであれば明らかに応神天皇に含めねばならないところなのだ。それをあえて仲哀天皇に入れてるのは、ダブルスタンダードにならぬようにという一貫性のためではない。これはいわゆる「春秋の筆法」ってやつだ。ここで読者に気付いてもらいたいのだ。古事記は、先帝と新帝の間の期間はなにがなんでも断固として先帝に含めるのだと。皇子と皇子の争いは、勝って天皇になったほうが正しかったとは必ずしもみていない、新帝即位までは両者はあくまで対等で善悪が決まってなかったのだ、という立場なのが古事記だぞ、ぞ。古事記は速総別の乱にしても軽太子の乱にしても、反乱を起こした謀反人の側を主役とした歌物語が多く、文学的にもそれらが高く評価されてる。これは前近代社会では「謀反人を美化し、天皇を非難する行為」とみなされてもしかたがないだろう。
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浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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