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・「毘古・毘売」は「ビコ・ビメ」ではない

H30年5月31日(木)改稿 H24年7月18日(水)初稿
開化天皇48年に加羅人が帰化?
八幡愚童訓』という八幡大菩薩の功徳を述べた中世の書物の中に、外敵が日本に攻め込んできた例があげてあり、開化天皇48年に(敵兵の数が)20万3千人、仲哀天皇の世には20万3千人、神功皇后の時には3万8千人、応神天皇の世に25万人、欽明天皇の世は34余万人、敏達天皇の世、推古天皇の治世下には43万人、天智天皇元年には2万3千人、桓武天皇6年には40万人…とあり。もろんこれらは中世の創作なので真に受ける必要はないが、それぞれ創作の元になった事件がありそうではある。例えば桓武天皇は蝦夷征伐、天智天皇は白村江の戦い、推古天皇の時は新羅征伐(ただし途中で中止になってるが)、敏達天皇のは敏達10年に辺境に蝦夷の侵寇があった事件、欽明天皇のは新羅による任那滅亡、応神天皇のは応神16年の新羅懲罰、神功皇后のは有名な三韓征伐ではなく神功49年の加羅7国と馬韓4邑の征伐のことだろう。仲哀天皇のが有名な三韓征伐に当たる。そうしてみると開化天皇だけが元になりそうな話がない。
が、これはどこから出てきたのかというと、平安時代の日本書紀の講義録で『弘仁私記』という書物に「開化天皇御宇、大加羅人帰化、而以来既有文字云々」とあり、これだろう。『弘仁私記』を仮に信じたとしても、実際は外敵が攻めてきたわけではなく「大加羅人」が帰化しただけ。大加羅というのは今の慶尚北道の高霊にあった国で書紀で「伴跛国」(はへのくに)として出てくる国と、慶尚南道の金海(現在の釜山といったほうがわかりやすいが)にあった国で「金官国」(そならのくに)があってどちらも「大加羅」という別名をもつ。が、ここの大加羅はどっちでもなく、口承でオホカラ(大漢)といってたのに後から適当に漢字をはめただけだろう。加羅人も含まれるが中国人も含んで漠然と外国人の意味でいってると思われる。むろん、そうではなくてあくまで具体的な「大加羅」国から来たんだ、という説でも不可ではないが、それだと次ぎの崇神天皇の時代にきた加羅人があまりに不慣れで不案内なのはちょっと不審に思う。
そういうわけで開化天皇の頃に、かなりたくさんの帰化があったと思うのだが、この頃、大陸や半島で戦乱があり、難民みたいのがきたんだろう。なんでこんなことを言ってるのかというと、次の崇神天皇の時に疫病があって日本人が絶滅しかかったのだが、疫病の病原体は外国人がもってくる場合がある。(※この時の疫病について詳しくはこのブログの「神道ルネサンス」の記事を参照)

日子坐命の系譜
(今日は時間切れ。後日に加筆予定)

「庶母を后に」の意味
(今日は時間切れ。後日に加筆予定)

「毘」の字の発音は濁音[bi]ではない?
神名や人名の後についているヒコ(彦)・ヒメ(姫)は、『古事記』だと「比古・比賣」、「日子・日女」、「毘古・毘賣」などと書かれる。このうち「比古・比賣」と「日子・日女」はどちらも「ヒコ・ヒメ」[hiko,hime]と読まれているが、「毘古・毘賣」は濁音で「ビコ・ビメ」[biko,bime]と読まれている。毘沙門天(びしゃもんてん)の毘(び)の字だから、濁音で読みたくなる気持ちは確かにごもっとも。
ところで、清音でも濁音でも意味は同じだろうが、ある人の名前では清音なのに別な人の名前では濁音だったりする。なぜ濁ったり濁らなかったりするのだろうか? 古事記の文面とにらめっこしても、どうも規則性があるようでもない。古事記の神名や人名には割とこの濁音の「毘古・毘賣」が多いんだが、例えば神様だと「猿田毘古神」とか「金山毘古神・金山毘賣神」とか「大屋毘古神」とか「須勢理毘賣命」とか、人名だと「神倭伊波礼毘古命」とか。さぁ、発音してみましょう、「かむやまといわれこのみこと…」。
実は、わたしは大昔からこの名前の下につく「ビコ・ビメ」が、どうにも耳障りでいかん。「かむやまといわれ『こ』のみこと」だろ? 「ヒコ・ヒメ」が正しく「ビコ・ビメ」は何かおかしいんじゃないかとずっと思ってきた。「俺はそう思う」ってだけなら、俺の単なる思い込みだとか慣れの問題にすぎないとも考えられる。だがずっと引っかかってたのは、開化天皇の名前「稚日本根子彦太日日天皇」(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)について岩波の日本書紀の注釈に「ヒヒは古事記には毘々とあり、毘は濁音ビの仮名であるから、ビビと仮名づけすべきとも思われるが、濁音で始まる語は考えにくいのでヒヒとする」とあるわけよ。つまり毘の字はビじゃなくてヒだってこったろこれ。どうなのよ? それで「毘」の字問題はくすぶりながら長いこと俺の心の中にわだかまっていた。
ある時、大学の図書館で見たんだが、どっかの大学の紀要だったか学術雑誌のバックナンバーだったかに、國學院かどっかの先生が書いた「古事記の『毘』は濁音でなく清音」だって主旨の論文が載ってたんだよね。我が意を得たりと膝を叩いて、後で読もうと思ってたんだが、メモを紛失してしまって、その論文の掲載誌も著者名もわからなくなってしまった。だからその論文がどういう根拠で「濁音じゃない、清音だ」といってるのか未だにわからない。かえすがえすも悔やまれるw 
ともかく『古事記』に5ヶ所ほど「この『毘』の字は濁音じゃなくて清音じゃないの?」と思われる場所があるので以下に列挙する。

1)孝元天皇の系譜には「葛城長江曽都古」、仁徳天皇の系譜には「葛城之曽都古」とあってソツコなのに、履中天皇の系譜記事では「葛城之曽都古」となっておりこれだとソツコだ。
※ちなみに岩波古典文学大系の『古事記 祝詞』と小学館の『古事記 上代歌謡』は履中天皇記の「曽都比古」が「曽都毘古」になっている。岩波日本思想大系の『古事記』は履中天皇記に「曽都比古」が出てくる。

2)垂仁天皇の系譜に「沼羽田之入賣命」(ぬばたのいりめのみこと)という名が出てくるが同じ記事中にもう一度「沼羽田之入賣命」として出てくる。古事記では「日」の字は常に清音で読まれることになっているのでこの人の名は「ぬばたのいりめ」のはず。

3)開化天皇の系譜に「依網之阿古」(よさみのあこ)という氏族がでてくる。「依網」が氏族名で「阿毘古」がカバネ。また景行天皇の系譜には「木國之酒部阿古」(きのくにのさかべのあこ)が出てくる。「酒部」が氏族名で「阿比古」がカバネ。「阿毘古」も「阿比古」も同じカバネだろうが、もし読みも同じなら阿比古をアビコとは読めないだろうから、アヒコが正しいのではないか?

4)応神天皇の皇女に「幡之若郎女」(はたのわかいらつめ)がいて、仁徳天皇の皇女には同名の「波多能若郎女」(はたのわかいらつめ)がいる。
※ちなみにこの二人について、本居宣長は同一人物とした上で、応神天皇皇女というのは誤りで仁徳天皇皇女が正しいという。宣長の説に対して日本思想体系の古事記は「同名でも同一人物とは限らない」という。俺の説は同一人物ではあると思うが、仁徳天皇皇女説がむしろ誤りで応神天皇皇女説が正しい。そのへんの話はこのブログの他のページ「仁徳⑯〜武烈㉕の系譜」で書いてるからここでは書かない。
同一人物の同じ名だから、(3)と同じ理屈で「波多毘」はハタヒと清音で読むのが正しいだろう。

5)仁徳天皇の雁の卵の条に出てくる武内宿禰の歌の一部「つにしらむとかりはこむらし」(終に知らんと雁は卵生むらし」の「つひに」は原文では「都邇」とある。ここは「終に」の意味だから「ツビニ」と濁音で読んだら意味が通らない。だから上述の(1)(2)(3)(4)は残念ながら濁音で読むのが通例になっていて、よろしくないと思うのだが、この(5)だけは諸説みなツヒニと清音で読んでるわけなのだ。矛盾してね? してるよな?

「毘」の字が清音だと、あの耳障りな「ビコ・ビメ」が全滅してスッキリするのだが、例えば平群の志毘臣(鮪臣)もシビでなくシヒになる。鮪(まぐろ)を意味する古語もシビでなくシヒだったってことになるが、ホントかね? それにこの議論は、本居宣長以来の定説「古事記は清音と濁音の書き分けが厳密である」という前提での話なわけであり、丸山林平みたいに「同じ字でも清音に読む場合と濁音に読む場合が混在している」という説の場合にはあまり意味のない議論になる。しかし丸山説は現在の学界ではどういう扱いになってるのか、通説になってるほど高く評価されてるのやら、異端説として相手にされてないのやら、俺はよく知らない。誰か詳しい人にききたいぐらいだわ。

・漢字はいつ伝来したか

H26年12月12日初稿
今日12月12日は「漢字の日」だっていうから、なにか歴史的な由来でもあんのかと思ったら、平成7年(1995年)に「良い字一字」=「1(いい)2(じ)1(いち)2(じ)」の語呂合わせで適当に作った日だとさ。馬鹿にしてんのかよw もっともこういう言葉遊びができるのも、日本に漢字が入ってきたおかげでもある。ドイツ語だろうがフランス語だろうがダジャレや言葉遊びはもちろん豊富にあるが、やはり日本ほど複雑で多様な言葉遊びのある言語はなかなかないんじゃないか。
この日を勝手に決めたのは財団法人日本漢字能力検定協会っていうウサンくさい利権団体なんだが、漢字ってのは検定試験で能力きまるような薄っぺらい文化じゃないんだよね、そこをわかってもらうための協会ならともかく、逆に検定試験を主催するとか余計なことしやがって。学校の古典の授業ふやして古文漢文教育を振興させるとか、漢文よめないアホは公務員として採用しない法律つくらせる運動とか、舊字體でかつ漢文で書かれてゐない公文書は法的に無効とする法律作らしむとか、教育勅語と歴代天皇暗記してゐないあほには参政権も與へず高校受験資格も與へないとか、そういう布教活動でもやれつつの。
まぁそんな話はさておいて、毎年やってる「今年をあらわす漢字」のばかでっかいお習字、清水寺でやってるやつ。あれ決めてんの清水寺じゃなくてこの日本漢字能力検定協会っていうウサンくさい利権団体が募集して集計して応募者の多数決で決めてだったんだな。てっきり清水寺の坊さんが勝手に決めてんだと思ってたよ。そして今年をあらわす漢字は「税」だって…。これについては面白いツッコミからつなんまい文句まで、マスコミやらネットやらの各所であれこれ言われてるので吾輩のブログでは触れない。
漢字はいつ伝来したのか
ところで漢字はいつ伝来したのだろうか。応神天皇の時に王仁博士が日本に漢字を伝えたという説があるが、もちろんこれは間違いで、王仁が伝えたのは『論語』と『千字文』という2つの書物であって、漢字はその前からある。魏志倭人伝をみると、中国から倭国への使者が九州に到着すると「津に臨んで捜露し差錯するを得ず」つまり係の官吏が国書を検見して間違いのないようにする、というから女王卑弥呼の頃は倭国側には明らかに漢文をよく読める人がいた。これは3世紀の話だが、それ以前、2世紀前半から中頃にかけてのものとされている弥生土器の破片で漢字が刻まれたものもあった。さらにそれ以前「漢委奴國王」の金印だって漢字がわからなければ意味がない。この金印はAD57年で『日本書紀』の編年では垂仁天皇86年にあたる。その先代、崇神天皇の崩御年が『古事記』では干支で書かれてるのは、それ以前に干支が伝来しており、遅くても崇神天皇の治世中に「干支紀年法」が公式に採用されたものと思われるわけだが、その際に干支だけ伝来して漢字がぜんぜん伝来しないということは考えにくいから、干支の伝来と漢字の伝来は同時期とすべきだろう(干支や暦の話はそれだけで膨大な長い話になるので今回は触れず漢字の話だけする)。

ではその干支やら漢字やらの伝来がいつかというと記紀には具体的に書かれてはいないが、帰化人が渡来した記事があればそれに付随して漢字がきたと推測はできる。すると崇神天皇最末期(実際に朝廷に謁見できたのは垂仁天皇最初期)にきた蘇那曷叱知(そなかしち)がまず候補にあがるが、それまでみたこともきいたこともなかった干支という得体のしれないものがいきなり公式採用になるのは不自然だから、それよりかなり前に伝来して、世の中に広まり馴染んでいた後でないとおかしいだろう。そうして改めて『日本書紀』をみると崇神天皇11年「異俗多帰」とあり翌12年の詔勅に「異俗重訳来、海外既帰化」といってるのは前年の「異俗多帰」のことをさしている。つまり海外から帰化人がきたといってるので、この時に漢字もきたという想像はしたくなるだろう。ただしこれは難民がきたぐらいの話だと思うので、漢字を流暢に使いこなせるような名のある上流階級が含まれていたかどうかはわからない。それ以前にも、記紀にはないが、以前開化天皇のところで取り上げた『弘仁私記』の「開化天皇御宇、大加羅人帰化、而以来既有文字云々」の説がある。これも難民程度のものと思うのだが、特に「文字」の伝来を強調していることから半島の加羅人(からびと)ではなく、大陸の漢人(からびと)のことだと推測する。漢字伝来についてはここまでしかわからない。

記紀に登場する帰化人の多くは、名のある貴族つまり上流階級で、漢字をしってるのは当たり前だが、それ以前から、歴史に名の残らない大勢の帰化人がいたと思われる。崇神天皇11年や12年の記事はその一例だろう。ただしこちらは要するに大陸の戦乱を避けてきた難民であり、漢字の知識はさしたるものではなかったろう。古来中国では漢字の知識をもっているのは上流階級の他は一部の知識人だけで、庶民はほとんど文盲だった。それらの難民の中にたまさか漢字に熟練した人が混じっていたとしても、そもそも現代のような人権意識が発達した時代でさえ難民には偏見や差別がある。大昔はほとんど賤民や蛮族程度にみられたろうからそんな者どものもちこんだ文化自体よい目ではみられなかったろうから、そんな情況で漢字が「なにかよいもの」として受容されることもなかったろう。
人類学では、文字文化をもたない部族に対して、人類学者が文字の読み書きを実演して便利さを示しても、評価も感心もされないという報告がある。無文字社会というのは、文字がなくても問題なく社会が成り立ってるから「無文字社会」というのであって、文字の需要がないのである(神代文字の議論はそれだけで膨大な長い話になるので今回は触れない)。
漢字に価値を認め、これを積極的に採用したのは応神天皇の時代で、中国の文化を浅くでなく深く知る必要があると認識されてからだろう。『論語』が伝来して王仁を師として諸皇子が漢文を学んだ。しかしそれまでの長い間の偏見があったから、これを不愉快に思う人たちもさぞかし多かったろう。またこの後も、上流階級ではなかなか漢字を学ぼうとしなかったか、あるいは漢文に熟達していたとしても自ら漢文を書いてみせるのは卑しいことのように振るまい、わざわざ下級の貴族つまり帰化人系の貴族に書記官としての役割を与えていた。後漢皇帝の後裔の東漢(やまとのあや)氏、王仁の子孫の西文(かふちのふみ)氏は史(ふひと)つまり漢字を扱う書記官ではあるが、貴族としてはかなり低い地位でしかない。
(続きはまた後日に)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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