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・1倭建の熊襲征伐

H30・3・22(木)改稿 平成25年1月16日(水)初稿
小碓皇子の性格
ヤマトタケル伝承には徹頭徹尾、よくいえば倒錯の美学、わるくいえば変態のエッセンスだかエキスだかがつめこまれてる。
小碓皇子は幼年から凶暴で、双子の兄の大碓皇子の両腕両足をささいなことから引きちぎってしまった。この話は古事記にのみあり、日本書紀にはない。ヤマトタケルについては古事記(倭建)と日本書紀(日本武)ではかなり雰囲気がちがう。日本書紀は脚色が甚だしく、たとえば薨去した時も三十路すぎの成人のように書いているが、実際は書紀のいう総角(あげまき)から齢かさにみても14・15歳、童男(をぐな)という名辞から低めにみた場合9歳〜13歳ぐらい。今でいう小学生か中学生だが、小学生と中学生では肉体的にも情欲的にも落差が大きい。が、昔はこの落差を越えたら諸事情で数年おくらせる一部の人を除いてほとんど元服しちゃったろうから、アゲマキ(総角)といういでたちもヲグナ(童男)という呼称も、二次性徴が始まる前であることを強く示唆している。極端な想定として9歳の可能性もあると思ってきいてほしい。
他にも古事記の方がより原型に近いと考えられている部分が多い。しかし大碓皇子はそれでも生きていて、子孫の氏族を残している。書紀は「大碓皇子が逃げまわって顔を出さなくなった経緯」を明らかにしている通り、古事記が冒頭にもってきたのは間違いで「熊襲征伐の後、蝦夷征伐の前」の出来事としないと、なぜ大碓皇子が朝飯にでてこなかったのか説明がつかなくなる。
倭建(ヤマトタケル、書紀:小碓皇子)は、ありあまる知恵と何者をも怖れぬ好奇心をもてあましていたために周囲から理解されない不遇な少年だったように思われる。双子の兄の手足をもぎとってしまったのは、兄を自分とは違う何者かにしてしまいたかったのだろうか、とも思うが、もうひとりの自分を傷つけるという一種の自傷行為ではなかったか。…いや、兄貴が朝でてこないっつーだけで手足バラバラにして便所に捨てたって段階でもう普通の発想は通用しないんで、あれこれ忖度しても「馬鹿の考え休むに似たり」で意味ないかも。彼の内面は人智の彼方にあり、理解できるはずと思い込むのは傲慢かもしれない。

熊襲の首領は女だった
熊襲とは何かという問題は、本が一冊かけてしまうほど量があるが、とりあえず今の話の流れで最低限必要な注釈だけしとくと、どうも熊襲の首領ってのは毛むくじゃらの関取みたいな体格した熊五郎じゃなく、女酋(女性酋長)だったらしいのだ。書紀によると景行天皇に征伐された九州各地の豪族や土蜘蛛などの首長たちに、かなりの程度女性首長がいるから、熊襲の首長が女性でもぜんぜんおかしくないのだが、書紀によると景行天皇に成敗された熊襲梟帥(くまそたける)の二人の名が厚鹿文(あつかや)と乍鹿文(せかや:岩波の書紀はサカヤと読ませてるがセカヤだろう)で、その娘が市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の姉妹。日本武尊に成敗された熊襲梟帥は取石鹿文(とろしかや)という名。彼らの名の下についてる「カヤ」は、奄美大島で女性の名前の下につける「加那」の古い形ではないか、西郷隆盛の奥さんの「愛加那」は有名だが、他にも安加那、鍋加那、むちゃ加那、バア加那などという女性の名が伝わっている。しかも書紀は市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)ははっきり娘だと明記しているのに、古事記も日本書紀も、クマソタケルの性別を明示していない。「~~カヤ」という名は全員女性だろう。女性といっても例えば女子プロひとつとっても往年のキューティー鈴木からアジャコングまで(齢がばれるが)幅が広いので一概にどうこういいにくいが、古事記の頃には熊曽建が女性であることが忘れられていたとも思われない。女酋説の根拠は古事記とほぼ同年代に編まれた日本書紀に断片的に出てくるからだ。おそらく語部(かたりべ)が猿女(さるめ)といわれた女性からなっていたため、男女の話とすることを嫌ってヤオイないしBL的な解釈をしたのだろう。女の肛門に剣をぶっ刺すような嫌悪感を催す醜い話は異性間恋愛至上主義からは認められないか、あるいは逆に、男に混ざって男同然に暮らした女たちへの嫉妬で男に変えられたか、前者も後者も現代的すぎて古代人の感性からは考えにくいような気もしてそのへんの事情は不鮮明だが、ともかく熊襲の首領はおねぇちゃんか婆さんか、美人かブスかはわからんが女性だった。

熊襲国にいった本当の理由
記紀によるとこの凶暴な小碓皇子をみて、景行天皇は、熊襲征伐をさせることを思いつく。父・景行天皇との会話に、70年代までの若者にありがちな、なにやら気まずい家族の肖像を浮かべるというのも一つの面白い解釈ではあるが、そうではなく、父子間に実際に冷たい風が流れてたのではなく、彼のキャラに思えば、熊襲征伐を希望したのは本人の意志だったのかも知れない。
実は当時の朝廷の最大の問題は熊襲ではなくて出雲だったんだが、出雲は御神託を盾にとっていたので問題が微妙であり、やっつければいいという簡単な話ではない。そこいくと熊襲の方がただの叛乱勢力だから簡単だ。だが小碓命が出雲でなく熊襲に向かったのは、そんな政治的な理由ではなく、単に山陰より九州の方が遠いから、より遠いところまで行ってみたかっただけで深い意味はないんじゃないかと思われる。そう、出雲建(いづもたける)や熊曾建(くまそたける)を殺そうというのではなく、それはどうでもよくて、単に未知の世界への好奇心だったってのがいちばん可能性高いだろう。
出雲だろうが熊襲だろうが叛乱勢力の真っ只中に入っていくなんて、普通はヤナこったろうが、小碓命はなんとも思わない。世間離れというかピントがずれていたというか、行けば必ず戦いになるとか戦えば必ず負けるとかの、アホでもいえる低レベルな予測は、戦いとは正々堂々と戦うものだという思い込みに縛られてる凡人だけの恐怖感情にすぎない。当時の凡人は小碓皇子を天然ボケ呼ばわりしていたのだろう。わずかの伴(記紀を総合すると熊襲征伐では一行6人、蝦夷征伐では2人加わって8人)しか連れることを許されなかったと解釈する向きは、やはり冷遇されていたのだという。

ちなみに一行6人の内訳なんだが、書紀によれば弓の得意な美濃弟彦公(みののおとひこのきみ)とその子分3人、伊勢石占横立(いせのいしうらのよこたち)・尾張田子稲置(をはりのたごのいなぎ)・尾張乳近稲置(をはりのちぢかのいなぎ)で一行5人、弟彦は甥の可能性がなくもないがその他はいずれも身分低い。蝦夷征伐からは料理担当の久米七拳脛(くめのななつかはぎ)・大伴武日(おほとものたけひ)・吉備武彦(きびのたけひこ)が加わる。しかし古事記によると七拳脛は最初から一貫して同行していたようだから最初は6人となる。
6人というと水戸黄門一行や戦隊シリーズを連想する。戦隊シリーズではないが、セーラームーンもタキシード仮面いれると6人。美濃弟彦っていうのは弓が得意なんだから水戸黄門なら風車の矢七、セーラームーンなら矢七の風車のように薔薇を投げるタキシード仮面(=まもちゃん)の役どころ。石占横立は占いしそうな名前だからレイちゃんだな。水戸黄門ならカタブツの助さんだろう。七拳脛は料理が得意なまこちゃん、温厚で優しそうな格さん。乳近稲置はよくわからないが「乳」の字の連想(?)で紅一点のお銀、現役アイドルの美奈子ちゃんで決まりだなw 田子稲置はまったくわからないが残り物で亜美ちゃん&黄門様。参謀役というか知恵袋みたいなキャラってことで一つお願いしたい。小碓皇子は主人公なんだからもちろんうさぎだw うさぎは水戸黄門でいうとうっかり八兵衛だよな。

冷遇ではなくて軍隊を召し連れてはいても彼らを使う気はなかったと思う。なぜなら彼にはマジメに戦うことに興味がなかったから。(怖かったからでも弱かったからでもない)。むろん現代の平和主義思想も彼には無縁だし、正々堂々という発想も彼にはあるわけがない、だからこそ「そこで狡猾な悪知恵を働かせたのが女装作戦なのだ(と言ってるも同然の)説」も、よくいわれるありふれた解説だ。だが、後からみてるから当然のようにいうけれども、そうなのか?

「男の娘(こ)」の元祖ではあるのだが…
単身、女装して美少女になりすます(変態萌え要素その1)。よりによってなんでその作戦なんだ? 書紀によると日本武尊は身長約3mもあるのに。それで女装が作戦として成立するっつのは普通は「おかしい、何かある」と思うんだが、学者は倭建(ヤマトタケル)など架空の人物で史実のわけがないと思ってるので細かい部分の矛盾には注意を払わないんだよね。俺は史実として話を進めるけどね。さて、狡猾な悪知恵のつもりすら倭建皇子にはないのだろう。これは狡猾だけでできる仕業ではない。悪知恵ではなく「胆の太さ」に驚くべきだろう。いや、彼は神経が太いというより、神経の無いタイプだ。そして、なんとなくおもしろそうだからやっていたのだ。深い意味などなく。女装した目的は「紛れ込むために女装して女に化けた」のだとは考えにくい。どう考えてもますます目立ってしまう。紛れ込むなら普通に熊襲の兵士に化けた方がいい。3mだし。単に熊襲が宴会してるのをみて、普通に混じって一緒に酔ってただけなのではないか? で、人気者になり酔った勢いで座興で女装してふざけてただけなのではないか? 小碓皇子の女装趣味を知っていればこそ、伊勢神宮の叔母ヤマトヒメは女性の衣装を別れに甥に与えたのだろう。その段階で、彼は女装に夢中で熊襲など忘れてる。

ヰタ・セクスアリス?
そして小碓皇子はクマソタケルの肛門に剣を入れ(変態萌え要素その2)て、瓜を割るようにクマソタケルの胴体を真っ二つにしてしまう。なぜ肛門なんだ??? どうせ殺すなら首を斬れ、首を。おしりの穴はうんこを出すところで、剣を入れるとこじゃありませんよ。熊襲たちと楽しくすごした安心感で、いつもの遊び心が噴出してしまったのか。子供はケツの穴とかの話だいすきだからなぁ。ここの経緯を推測するに、女装が熊襲の首領に気に入られてしまったんだろう。3mとはいえ少年。昔は兵士・武士の間では男色(お稚児さん趣味)は必須。そこで倭建もケツが危なくなった。所詮は15歳の童貞少年、そういう世界まではまだ理解できず、酔っ払ってることもあって激怒のあまり、そういうつもりは無かったのだが、つい斬り殺してしまった。古事記になぜか「肛門に剣を刺し貫いた」とある謎は、これで辻褄が合うw …と、面白可笑しくまとめたいところだが、前述のように熊曽建は女だったとなると、いきなりエロくなってくる(が、前述の通り婆さんやブスの可能性もあり、美女とは限らない)。ともかくそうなると、誰が考えても、剣を肛門にでなく普通(?)に膣にぶっ刺しそうに思われるだろう。前述の9歳〜13歳説をとって、子供だから膣口の存在を知らなかったとしても、割れ目があったからそこから引き裂いてみたくなったってのなら、子供の好奇心ってそういうものかなと思わなくもない。しかし実際は肛門だったのである。四つん這いで逃げる相手を後ろから刺したら肛門に入っちゃったのだろうか。子供がよくやるカンチョーみてぇだな。この場合でも肛門と膣のどちらにも入り得るが、たまたま肛門だったということでいいのではないか(「肛門に剣」とは「膣にペニス」のことで、つまり強姦の暗喩だという解釈にこだわる人もいるだろうが、賛成できない。よほどの不都合がない限り、なるべく文面のままストレートに受け取りたい。この箇所に暗喩表現がでてくる必然性はないと思う)。よく海水浴で子供がイソギンチャク見つけると指つっこんでみたくなって、実際つっこんで喜んでるじゃん、面白がって何度もやってるうちに掻き回したりして、残酷にもイソギンチャクをバラバラにしてしまったりする。あれと似たようなことだろう。だとすると、もはや膣でも肛門でも何でもよくなってくる。肛門か膣かどころか、そもそも熊曽建が男か女かってことすら問題ではなくなってくる。大事なことは、ここで倭建は人体を分解して面白がって遊んでるようにも思えるってことだ。先程、熊曽建が女だとエロくなるといったのは我々からみての話であって、彼にしてみれば相手が男だろうが女だろうが感情に変化は起こってないように思える。この段階ではまだ彼は恋愛感情をしらないのだ(15歳説をとった場合、皇族だから既に妃がいてもおかしくはないが、書紀では「まだ総角(あげまき)」といってるから年齢に無関係に妃のいなかった頃である可能性が高いのではないか、正規の妃があてがわれても大人が勝手に段取ったお見合い同居みたいなものだから恋愛が発生したかどうかは別問題でもある)。兵士・武士の男だけの世界にありがちな男色(お稚児さん趣味)であろうとも、海賊船の女船長が特権を行使しようとしたのだとしても(たとえ美人でも)、恋愛に興味のない童男(をぐな)=子供からみた場合、わけのわからないキモいものが襲ってくることにかわりはない。逆にいうと、それまでそういう体験がなかった白紙の状態なわけだから、これがトラウマとなり、男と対等な女しか愛せなくなった可能性はある。さらに女性を女性として扱わず、男同然の存在として扱う性向が身についたとしたら、当時の女性にとって(現代でさえ一部の女性にとっては)それは抑圧でなく解放であった可能性はあるだろう。
というのも、弟橘媛の話やヤマトタケル薨去の記事をみると、かなり女性にもてたように思われるのだ。兄の手足をばらばらにした事といい、かなり猟奇的で残酷なようだが、知恵の発達の早い子供は残酷なもので、昆虫などを分解してみたいという衝動を抑えられないものだ。「子供」や「成人」というのは近代に発見された概念で、原始的な感性の中に生きていた古代人は何歳になっても、雄略天皇や武烈天皇のように、知的好奇心の爆発を縛るような人為的社会的な作り物の規範を持ち合わせない自然人・自由人が多かったと思われ。また雄略・武烈朝でもふれるが、このような人物は往々にして同性異性とわずに非凡な魅力に富んだキャラクターとなる。

「建」の字の謎
タケルという名は書紀では「武」と書いてるのでなにか良い意味のように思われているし、実際に良い意味なんだろうが、それは「もとから」ではない。タケルを武と書くのは理解できるが、古事記はなぜ「建」と書くのか? 建の字に古語のタケル・タケシ・タケブなどの意味はない。後世の例だが健御名方神(たけみなかたのかみ)、健磐龍命(たけいはたつのみこと)など、旧事本紀その他で「健」と書く例がままあるが、後世の書き方で古い時代を反映してるのかどうかわからぬ。だが井上光貞(だったかな?)が四書五経の用例や古い字注を根拠に「建」にも「健」の意味があることを明らかにした。つまりもともと「建」の字は人偏ないままでも「健」と同義でもあるというわけだ。しかしそんな遠回りな論証せずとも、金石文では人偏を省く習慣があり(億→意、伎→支、倶→具、健→建、佐→左、仕→士、倭→委、など)古事記は金石文の字体をよく採用していることから、タケルと読ませている「建」の字は「健」の人偏を省いたものだという説もありうるんじゃないかね? ただ、古語のタケル・タケシ・タケブは古語辞典をみるとわずかに一例ほどを除いて荒々しい意味ばかり並んでおり、健の字の「すこやか」というような穏やかなニュアンスはない。もともと語尾の「武」は語頭にある時と同様タケと読まれてたんだが江戸国学以降、タケルが正しいということになっている。中村啓信は美称のタケと違って、タケルは野蛮で荒々しい意味だから、「日本武」も平安朝以来の「ヤマトタケ」が正しいと言ってるが、通説にはなってはいない。松本善之助はホツマ信者だったので末尾のタケルも「タケ」と読むこと(ヤマトタケルではなくヤマトタケ)にこだわった上で、神名や人名につく「タケ」は獰猛を意味する「たけだけしい」ではなく、「物事にたけた人」などという時の「長じる」(すぐれる)の意味だといっていたが、『ウエツフミ』でも地名につくタケルは朝廷から任じられた公式の国守(≒国主)の意味なのでウエツフミ信者(中里義美その他)もほとんどが松本善之助と同じようなことをいっていた。タケを認めない通説ではタケルは良い意味と悪い意味どっちにもなる言葉だが、タケとタケル両方認める説の場合、意味の違いもそこにある。しかし語尾のタケ説は江戸国学以来の詳細な論証があるのでいまだに有力説にはなってない通り、やはり語形としてはタケルが正しい。が、意味は時代によって変わるんで、だから同じ言葉なのに良い意味が悪い意味にかわり、悪い言葉が良い言葉に変わることがある。タケミカヅチなど、語頭のタケは良い意味で字も「武」でよいと思うが、ヤマトタケルなどの語尾につく「タケル」はそれと意味が違う言葉なのではないか。書紀はクマソタケルのタケルを梟帥と書いている。梟帥(きょうすい)という漢語は、一定地域に盤踞する凶賊のこと。梟雄、梟才、梟将、梟名、梟臣、梟悍などの漢語があり、梟という漢字は「勇猛・武勇・きびしい・荒々しい・激しい・強い」って意味だがニュートラルではなく「悪人・悪党」のニュアンスが強い。だから梟帥というのは地方独立政権のリーダーとかのかっこいいニュアンスではない。現代人向けにわかりやすくいうと縄張りをもったヤクザや広域暴力団の組長、マフィアやギャングのボス、山賊の頭目みたいなやつ。たしかに力ある有能なリーダーでもあるが、「朝廷の権威を畏れず、政府に服属せず抵抗していることが、猛(たけ)り狂ってる、たけだけしい、獰猛で凶悪だ」ってニュアンスを込めていう言葉だったんだろう。つまり謀反人だ。神武紀にでてくる、大和国磯城邑(磯城郡)にいた磯城八十梟帥(しきのやそたける)、高尾張邑(葛城郡)にいた赤銅八十梟帥(あかがねのやそたける)、景行紀で日本武尊に討たれた川上梟帥(かはかみたける)は肥後国球磨郡を支配したタケル。ヤソタケルを「多人数のタケル」の意味で使ってる文例もわずかにあるが、明らかに個人名として出ているのが多いから「大勢力を率いるタケル」「手下の多いタケル」の意味だろう。さらに国の規模にまで強大になったのが、山陰のほとんどと吉備の一部を支配した出雲建(いづもたける)、九州の中央部を支配した熊曽建(くまそたける)。書紀は熊襲八十梟帥(くまそのやそたける)ともいってるが兄弟(和語の「えと」、年齢の長幼で性別の意味はない)で兄(姉)のことだろう。弟(妹)にあたるのが上述の川上梟帥。
猛(たけ)り狂ってるリーダーをタケルというわけ。だからもとは「建」じゃなくて「猖」だったんじゃないかと思われる。これが草書で崩れた字形をみて「建」に誤写したんだろう。語頭のタケは「武」でよかったのに、太安万侶(おほのやすまろ)は少しでも古い表記に統一する方針で古事記を編纂しようとしたので、「建」が古いと判断したとたん早とちりして語頭のタケも語尾のタケルも一律ごっちゃに「建」の字に差し替えてしまった。奈良時代にはもうそういう違いもわからなくなっていた。

「ヤマトタケル」という渾名にこめられた本当の意味
だから熊曽建が、いまわの際にヤマトタケルという名を献(たてまつ)った、なんてことはありえない。当時はまだタケルという言葉は美称でもないし褒め言葉でもなかったんだから。「謀反人を成敗にきたんだぞ」と自称してる人に向かって「謀反人」みたいな含みのあるタケルという名を献上するはずがない。じゃぁ、剣でさしぬかれた熊曽建が「しばし待たれい!申すべきことあり!」といまわのきわに言おうとしたのはなんだったのかってことだが、悪党が死に際に言い残すセリフは決まっている。「これで勝ったと思うな…」だ。もっと強大な悪、黒幕、ラスボスの存在を明かして主人公を脅かして死んでいく、ってことにだいたいのお話ではなってるw 熊曾建が臨終の時に言ったのは、出雲建のことだったんだろう。この頃の朝廷にとって最大の問題は、中央からあまくだってきた品智別命(ほむちわけのみこと)を追い出して独立勢力のようになっていた出雲だ。その出雲の首領は熊曾建とも連携してたんだろう。支援もしていたかもしれない。「俺のことを熊襲のタケル(謀反人)といってるが、なぁに本当のタケル(大悪人)は他にいるぞ。出雲のあいつこそが『出雲タケル』(出雲の謀反人)だわ」と。ちなみに出雲建というのはアダ名で、当然本名ではない。この時はじめて言われたんだろう。本名は不明だが仮に「飯入根」(いひいりね)としておく。小碓皇子は出雲に行く気なんてなかったんだが、こう言われて初めて出雲に立ち寄る気になった。倭建(ヤマトタケル)という名前は出雲建という言葉を聞いて自分で思いついたんだろう。熊襲建のセリフ「我にましてタケき男はいましけり」と聞けばそれは自分のことを指しているとは小碓命も気づくが、それに続くセリフが出雲建という裏ボスの説明だったもんだから、(え?俺の話じゃないの?)となったわけだろう。熊襲建が倭建という名を献上しなかったのも当然で、「熊襲の叛乱者」、「出雲の叛乱者」というのは意味がわかるが、ヤマト=帝都の反乱者というのは「天皇陛下が御謀反」みたいな支離滅裂なニュアンスになるからだ。でも小碓皇子は頓着しない。彼は政局には興味ないので、出雲が熊襲を裏で操っていたかどうかは聞いてない。おまえより俺が強いって話の後になぜ出雲建がでてくるんだ、そこは俺のことかと思ったのに…と。ただ強弱の指標としてタケルという言葉を受け取ったから、自分のことなら倭建(ヤマトタケル)になるはずなのに、ということなのだ(この場合のヤマトとは日本ではなく今の奈良県の意味。書紀が「日本」の字を当ててるのは拡大解釈ですでに原意を錯誤している)。
そうするとヤマトタケルという名は、当時の人の語感からすると突拍子もない妙ちくりんなもので、けしてカッコイイものでも堂々たるものでも尊貴な感じのものでもなかったのである。取り巻きの者たちは「皇子様やめてください」とお願いしただろう。タケルという言葉が尊厳をもつようになったのは、ヤマトタケルが出雲と奥羽を平定するという前人未到の偉大な功績を残して、白鳥となって昇天するという衝撃的な記憶を残したからなのだ。それでタケルといえばヤマトタケルのことを誰でも連想するようになってしまった。言葉の意味が変わってしまった。ヤマトタケル以前と以後とでは「タケル」という言葉のニュアンスは、いや意味は、ぜんぜん違うのである。

出雲建いづもたける
九州の帰路の出雲でも同じような卑怯きわまりない手口が繰り返される。ヤマトタケルは古代の人間なんだから近代的な発想で卑怯だのなんの言ってもしょうがないんで、古事記も、さも当たり前のように書き流している。しかし、これは男の戦い方ではない。これはやはり語部が女性たちだったからだろう。この戦い方の何が問題なのか、古事記の語り手は明らかに理解していない。男は卑怯な戦い方では自分を納得もできないし本当に勝った気分にもなれない愚かな生き物なのだ。…しかしそれも後世のくだらない発想に洗脳された男の発想であって、いにしえの世には男と女のちがい(=ジェンダーw)なんてものはたいしてなかったか、あっても今よりよほど薄いものだった可能性もある。
倭建命が木刀と真剣を取り替えて出雲建(いづもたける)を騙し討ちした有名な話は、日本書紀では崇神天皇の時代に出雲振根(いづもふりね)が同じ手口で弟の飯入根(いひいりね)を殺した話になっており、書紀では日本武尊が出雲を征伐した話はでてこない。これは同じ話だから、記紀のどっちが本当なのかってことになる。が、倭建命のやりくちはあまりにエグいので、日本武尊をかっこいい英雄に描こうとしていた書紀の編集部は悪役である出雲振根がやったという説のほうを採用したんだろう。その逆は考えにくい、もともと悪人がやった手口なのに古事記がわざわざ倭建命のやったことに書き換える? それはない。書紀でも歌の中にイヅモタケルが出て来るが書紀の文脈だと弟の飯入根がイヅモタケルになってしまう。建=タケルってのは地名の下につけてその地方の勢力のある豪族をいう。なのに、弟の飯入根は兄の出雲振根の手下のように書かれており、出雲振根がタケルならわかるが飯入根をタケルと言うのはおかしい。倭建命に騙し討ちをくらった出雲建は、おそらく崇神天皇の時代に殺された飯入根の子孫だったんだろう。書紀は「飯入根の子孫」を「飯入根の別名」だと誤って、崇神天皇の時代の事件にしてしまった。
ちなみに出雲建は、垂仁天皇の時代に、出雲の新国主として都からあまくだってきた品智和気命(ほむちわけのみこと)を追い出して半ば独立していたが、出雲大神の御神託を楯にとっていたので朝廷も手を出せずにいた。
出雲建が強大だったのは、もちろん朝鮮半島との貿易の収入もあったろうが、なによりも出雲大神のご神託を最大限に政治宣伝に活用して、出雲人の民意を結集するのに成功したからだろう。そこへ、九州で熊襲征伐を終えた倭建命が立ち寄ってきて、出雲建と友となったという。倭建命の武勇はすでに鳴り響いてはいたが、なにぶんまだ子供にすぎない。とりあえずどんな子供か、人間を判断しようと会ってみたら、父景行天皇への不満をぶちまけ、出雲建に協力しようと申し出たんだろう。出雲建にすればこの皇子は次期天皇になる可能性もあるわけで、未来の天皇のお墨付きをもらったも同然、これで叛賊の汚名からも逃れられるというわけだ。しかし気を許した途端にあっさり子供の奸計に嵌められて成敗されてしまった。倭建命はやることが極端なので、もしや出雲建の一族は遠縁の者に至るまでことごとく殺されたかもしれない。普通なら畏怖の対象である出雲大神やそれに仕える神官や巫女たちに対してもまったく容赦はなかったと思われるが、これで四道将軍以来、ずっとゴタゴタ続きだった出雲はようやく平定された。

2倭建命の東征の地図」に続く

・6天翔ける巨大怪鳥ヤマトタケル

平成27年10月14日(水)初稿
5草薙剣と倭建命の最期をめぐる議論」から続き

「別」のカバネ
倭建命の系譜のところで「別」(ワケ)というカバネの存在が目立つ。http://2651023.blog.fc2.com/blog-category-8.html">「氏姓(うじかばね)制度」http://2651023.blog.fc2.com/blog-category-8.htmlの方に書いておいたのでそちらを参照。

白鳥ではない
さて今日の本題だが、御陵にたまたま鳥が止まったので、倭建命の遺族はこれを故人の魂だと思って追いかけたという話。この鳥、『古事記』には「白鳥」(しらとり)とも「白智鳥」(しろちどり)ともあり、白鳥(ハクチョウ)のことだという説が主流になっている。ハクチョウではなく、白いチドリだという説もある。
ハクチョウ説は「シロチドリ」の「チ」を「の」と同じ意味の助詞の「ツ」とみて「白の鳥」という意味に解釈している。しかし「白き鳥」(現代語なら「白い鳥」)ならわかるが、「白の鳥」はこなれない日本語でずいぶん不自然な感じがする。ハクチョウは垂仁天皇のところにもでてきたように古代語では「ククヒ」(鵠)であってシラトリではない。シラトリはただ単に「白い鳥」だというだけでハクチョウとは限らない。古事記には「智鳥」(ちどり)だとは書いてあっても「鵠」(くくひ)だとはどこにも書いておらず、しかも四つめの歌には「浜つ千鳥」とはっきり出てくる。この浜つ千鳥は前に出てくるハクチョウとは別の鳥だから、前後つながっておらずおかしい。そこでこれを解決するため3つの説がある。一つは序的な句つまり「浜つ千鳥」という言葉全体が次の「浜よ行かず」の「浜」にかかる序詞だとする説。二つめは白鳥の比喩とする説。三つめはもともとこの物語とは無関係な民謡をハメ込んだものだからつながってなくて当たり前という説。しかしそんなややこしいこと言わずとも最初からチドリならすんなり単純な解釈で読める。もともとこの千鳥という部分がハクチョウと無関係なら、なんで古事記は「白智鳥」などと紛らわしい書き方をしたのか。「白鳥」とも書いているのだからそれで通用するはずである。そしてなぜ「鵠」(くくひ)という言葉がまったく出てこないのか。
『日本書紀』は白鳥としか書いてないのでこれは今のハクチョウなのか単に白い鳥という意味で書いてるのか判断できないが、本当にハクチョウなら垂仁天皇のところと同じように「鵠」と書けばいいのであって、これは日本書紀がわざとハクチョウに誤解させようとして曖昧に書いてるのである。日本書紀は古事記とちがってヤマトタケル伝説を叙情的な悲劇ではなく偉大な英雄譚として描こうとしているので、可愛いらしいチドリではふさわしくない、ここは一つ雄大な大空を優雅に飛翔するハクチョウを想像してほしい、というのが日本書紀編集部の意向なわけ。だがそんな捏造創作に従う必要はない。
つまり、これはハクチョウではなく「白いチドリ」なのである。ハクチョウ説は間違い。

バァ、フラワシ、パビルサグ
人が死んでその魂が体の外に出ていくと鳥になって飛んでいくとされた。むろんその鳥は目には見えない鳥で、ごくまれに目に見える場合もあるというのはあたかも幽霊の目撃談がごくたまにあるようなものだろう。
魏志東夷伝によると弁韓では死者の魂を大鳥の羽根で空に飛ばしたという。中国の『神仙伝』には会稽の介象が死後、白鶴と化したとあり、『呉越春秋』には葬儀で鶴の舞が上演されたという。インドのアッサム地方(ブータン、バングラディッシュ、ミャンマーに囲まれた地域)のアオナガ族は死者の魂は青鷹の姿をしているという。古代イランのゾロアスター教では「フラワシ」は有翼の人間の姿で、これが東西に伝わり、東に伝わったものは仏教が取り入れて「天人・天女」となり、西に伝わったのはキリスト教が取り入れて「天使」になった。古代バビロニアの「パビルサグ」という神は上半身が人間で鳥の胴体と合わさった姿で表された(半人半馬のケンタウロスの馬を鳥に換えたような姿)が、実はこの「パビルサグ」はシュメール文明まで遡ると特定の神ではなく、「祖先の霊」のことだった。古代エジプトでは死後の人間の魂は「バァ」といって、人間の頭と首から下は鳥の体でパピルスに描かれていた。ヨーロッパの民話の中にも死者が鳥になる話が多い。北米のフルン族は死者の魂は山鳩の中に移るという。メキシコのトラスカラン族では貴族が死ぬとその魂は美しい歌う鳥になる。ブラジルのイカンナ族では勇者の魂は美味なる果実を食する美しい鳥になる。そのほか、魂が鳥になって飛び立つという説話は東南アジア、南洋、アフリカ等にも見られるという。昔は日本だけでなく全世界で、人が死ぬとその魂は鳥になって天に昇るという信仰があったことがわかってもらえると思う。
ただ、そういう信仰があったということと、たまたま見かけた鳥が必ずその葬儀の最中の人の魂なのかどうかということはまた別問題である。倭建命の御陵に、たまたま鳥が舞い降りたのをみて、遺族が、故人の魂の化身だと思い込んだわけだが、まぁいくら古代人でもその鳥が墓の下からでも出てこない限り、どっかから飛んできたぐらいではまさか故人の魂だなんぞとは普通は即断しない。…はずだったんだが、今回は「ある特別の事情」で、その鳥を故人の魂だと信じてしまった。その事情とは何か、以下に謎解きをしていこう。

「葬送儀礼の反映」ではない
この章に出てくる4つの歌が大葬の礼で歌われる「大御葬歌」になったということから、この説話自体が、葬送儀礼の反映であるという説があり、通説にもなっているようだが、疑問だと思う。田んぼに這いまわって大声で泣いたとか、笹の切り株に足を踏み抜いてもその痛みを忘れて鳥を追い掛け回したとかの描写を、葬送儀礼と関係する、あるいは葬送儀礼の反映である、等とする解説本がやたら多い。「関係する」とか「反映である」とかは具体的にどういうことなのか。古代に実際に行われていた葬送儀礼が描写されてるということだろうが、倭建命の遺族たちが実際にそのような儀礼を行ったのか? それとも彼らはそんな儀礼は行ってないのだが稗田阿礼か太安万侶が奈良時代の葬送儀礼に基づいてここの描写を創作したという意味なのか? おそらく後者の意味だろう。というのは、仰々しく泣き喚く葬送儀礼は中国大陸や朝鮮半島のもので、古い時代の日本にはなかったと思われるからである。『古事記』上巻の天若日子(あめわかひこ)の葬儀でも、「遊」(あそび)をしたとあり、このアソビというのは本居宣長がいうように「楽」=歌舞(うたまひ)のことである。ただし、本居宣長がいうには「死去というのは天照大神が天岩戸に閉じ籠ったのに似ており、天照大神を岩戸から誘い出すために神々が楽しげに歌い踊ったように、死者に生き返ってもらいたいという趣旨で葬儀の参列者が歌舞をなすのである」といっていることから、この歌舞は死者を悼むしんみりしたものではなくて、飲めや歌えやのドンチャラ騒ぎに近いものを宣長は想定しているようだ。また魏志倭人伝や後漢書東夷伝などに書かれた当時の倭国の風習でも、葬儀の参列者は「飲食」し「歌舞」するとあり。最近までも、地方の一部ではお通夜や本葬儀直後の会食や火葬の待ち時間の間などに飲めや歌えやのドンチャン騒ぎをやらかす風習はわずかながら残っていた。
天若日子の葬儀ではキジ(雉子)が「哭き女」(なきめ)役をやったとあり、これを朝鮮の「泣き女」(お金で雇われて葬儀で大泣きする職業)のようなものとする説があるが、鳥や獣や虫が「鳴く」のは何も悲しんで鳴くのではなく、一般的に声や音を出すのはすべて「鳴く」という。漢字は当て字なので「哭き女」と書いてあるからといって漢字の意味にとらわれてはならない。キジの鳴き声は「ケーン」という甲高くて勇ましい声であり、いわゆる職業的「泣き女」の声とはまったくイメージ違いだ。キジ(雉子)が担当したというナキメとはおそらく葬儀の司会者のような役だろう。どんちゃん騒ぎを仕切るには声のデカくてよく通る声でないと務まらないのである。
ただし天の岩戸がどうのこうのという宣長の説はやや理屈っぽい。そうではなくて単に死去は使命(ミコト)を受けてこの世に生まれた者が使命を終えて復奏(カヘリゴト)することでお目出度いことだからお祝いの宴会を張るわけだろう。死を悲しむという発想は仏教や儒教の影響で発生したものでもともとの日本人の文化ではない(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-7.html">「復奏(カヘリゴト)」http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-7.htmlを参照)。だがそうするとこういう反論もあるかもしれない、「確かに平均寿命を超えて天寿を全うしたのならめでたいが、不幸な事故や病気による死だったり、あるいは暴力事件に巻き込まれたり謀反の主犯として成敗されたり、死刑囚としての刑死、鬱病による自殺、神を侮辱したり冒涜したことによる祟りによる死、等もめでたいのか、と。そう考えれば天若日子や倭建命の例は、めでたくない方、悲しむべき方に入るのではないか、と。俺も確かにかつてはそう考えていました。天寿を全うした死はめでたくて葬儀は飲めや歌えやのドンチャラ騒ぎであっても、そうではない不幸な死は「穢れ」であり悲しみ悼む葬儀になるはずだ、と(戦死は名誉なのでまた別。これは戦前の軍国主義とは無関係に古代世界に普遍の信仰。ゲルマン神話のヴァルハラが一例)。しかし天若日子の死は謀反人の刑死であり、天若日子と誤認された阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)が激怒してるぐらいに天若日子の死は穢れとされていた。にもかかわらずその葬儀では「遊」(アソビ=歌舞)があった。思うに、不幸な死に方をした人に対しても、天寿を全うした人であるかのように葬送してあげるのが慰霊ということだったのではないだろうか。だから死に方がどうだろうと、みな等しく飲めや歌えやのドンチャン騒ぎであの世に送ってあげたのだと思う。
よくありがちな解説書に出てくる「葬送儀礼」説はおかしい。だいたい赤の他人を金で雇って泣き真似してもらったり、儀式だからって大げさに這いまわって大声あげて泣く真似を形式に従ってやる、などという心の実の欠けた形式ばかりの悲しみを演じるその姿は荘厳な儀式などではなく常軌を逸した「痴態」というのであり、まともな日本人の感覚からいってそんな儀礼があったとも思えない。宣長は谷川士清からの伝聞として熊野地方の職業的「泣き女」の風習があったことをもって古代の風習の名残りかもといってるが、それは上古の帰化人村の子孫だろう。
とすると、倭建命の場合も「飲めや歌えやの『楽しい』ドンチャラ騒ぎ」になるはずだったのが、なぜ「田んぼに這いまわったり、笹の切り株に足を踏みぬいても痛みを忘れて鳥を追いかけまわしたり」ってことになったのか? 大陸式や半島式の葬送儀礼なら形式に従って大声をあげて泣く、というのはわかるし、遺体もしくは棺のそばで這いまわって泣くのも『礼記』問喪に「孝子(中略)匍匐して哭す」とあるが、わざわざ「田んぼに落ちて」それをやるとか「笹の切り株に足を踏みぬいて歩く」なんてのは中国大陸や朝鮮半島の葬送儀礼にも聞いたことがない。これを葬送儀礼だと言いはる学説はおかしいのではないか。これは明らかになんらかの突発的な異常事態が起こっているのであって、形式に従った葬送儀礼などではない。では一体なにが起こっているのか、その謎解きをしよう。

実在した巨大怪鳥
カギは「鳥」にある。通常、死者の魂が鳥になって飛んでいくという信仰はあったが、たまたま鳥を見かけたぐらいでは葬儀中の今この死者の魂だとは普通は即断しない。にもかかわらず何らかの事情で倭建命の遺族は白いチドリを倭建命の魂だと思い込んでしまった。…というところまでの話はした。
で、問題はこの鳥の「大きさ」なのである。この白い鳥、大きさが尋常じゃなかった。「八尋」というから15mにもなる。翼を広げた左右の幅をいってるのか、クチバシから尻尾の先までの長さをいってるのか不明だが、いずれにしろとてつもない巨大怪鳥であり、これなら古代人だろうが現代人だろうが仰天して動顛して正常な判断力を失ってしまうだろう。
現存種で最大の鳥はアホウドリで、全体的に白っぽい鳥なのでこれが『古事記』に出てくる「白智鳥」に当てはまりそうに思えなくもないが、それでも全開翼長が最大で2m半しかない。それ以上の巨大な鳥がいるのかといえば、それがいるのだ。現代のUMA(未確認生物)として、世界の各地で報告されている。それらの中には、古代の伝説や神話に出てくる巨大な鳥(名称は国や民族によっていろいろ)ではないかと言われるものもあるのだ。アフリカの中部から南部にかけて「コンマガトー」、「オリチアウ」、「アイラリ」、「バジ・クイ」、「ガゴウラ・ゴウパプア」等とよばれ、たびたび目撃されていて最大で3m半にもなるという怪物がある。コウモリや空飛ぶ古代翼竜に似ており、オオコウモリの巨大種という説もある。ニューギニアにも似たような目撃談が多く、ジュラ紀の翼竜のランフォリンリクスのような長い尾をもった「ローペン」(6m)と、白亜紀のプテラノドンのように後頭部に突起をもった「デュアー」(7m)の2種類がいる。ジャワ島にもこれの同類と思われる「アフール」という鳥がおり、ベトナムにも出現したという。北米では通例5m前後、最大で10mの目撃例もあるという巨大なコンドルらしき鳥に襲われたという事件が何例があって、北米インディアンの神話に出てくる鳥の名をとって「サンダーバード」と呼ばれている。これは530万年前の絶滅種で、全開翼長7m半もある「アルゲンタヴィス」という猛禽類の生き残りという説がある。こうも世界各地に存在しベトナムにも出るというなら、日本にもいそうだが、明治12年には愛知県安城市の三河安城で、全長八尺(2m半)、片翼のみで九尺五寸(3m)もある鳥が撃ち落とされ当時『安都満新聞』で報道された。両翼あわせて6mを優に超える大きさだから、上記のアルゲンタヴィスやデュアーに並ぶことになる。ただ、これらはいずれも8尋(=15m)に比べると小さい。15m以上ありそうなものというと伝説上のものではあるが中国では「鵬」という大きさ数千里もある鳥がいて、飛び上がると太陽が隠されてあたりが真っ暗になったという。数千里までくるといくらなんでも逆に大きすぎるが、「シンドバットの冒険」にロック鳥という、象をいっぺんに3頭も捕まえて飛び去る(しかもその象はヒナの餌)という巨鳥が出てくる。こっちならどうか。この鳥のことは古代ペルシア以来、インドから中東にかけての広い世界で知られており、古代ペルシアから伝わっていた。マルコ・ポーロの『東方見聞録』ではマダガスカルに生息するロック鳥の羽がモンゴルの大ハーンであるクビライ汗に届けられ、有名なイブン=バットゥータの『旅行記』にも出てくるという。16世紀にも英国人がインド洋でみたという目撃談がある。まぁそういうわけで、鳥なのかコウモリなのか翼竜なのか不明だが、その正体がいずれにせよ、巨大な鳥はともかく実在することはおわかりと思う。

ホフマンのラバー・ダック
ところで『古事記』にでてくるこの鳥は、前述の通りハクチョウでも猛禽類でもなく、チドリだという。白鳥なら巨大でも優雅で神秘性があるし、巨大な猛禽類なら怪獣みたいでサマになるが、千鳥は普通、クチバシが短く頭部が大きく全体的に丸っこくて、見た目が可愛い。群れを成している。たくさんの鳥が群れてるから1000羽もいる鳥で「千鳥」というのだという語源説は俗解(こじつけ)で取るに足らない。鳴き声に由来するという説か、単に「小さい鳥」だからチドリといったという説がマシ。その千鳥が、15mもの巨大さとなると、なんというか「ホフマンのラバー・ダック」みたいな印象がある。「ホフマンのラバー・ダック」が何かわからない人は適当に検索してみて画像を見て下さい。簡単にいうと巨大なアヒルです。イメージとしては巨大な「ひよこ」といったほうがよい。ちなみに香港のビクトリア湾でしぼんでしまって世界的に話題になったやつは高さ16m半。8尋=約15mなので、大きさは近い。
これだけでもかなりシュールでマンガチックな映像が浮かぶが、『古事記』に書かれた情況はもっと突拍子もないことになっている。ホフマンのラバー・ダックは海に浮かぶだけで空は飛ばない。これが空を飛んで襲ってきたら…?

真相の解明
倭建命の葬儀で、通常どおり「飲めや歌えやの宴会」が始まろうとしたその時、大きさが15mもある巨大なチドリが出現した。参列者は腰をぬかして驚き、ある者は「田んぼに落ちた」が腰が抜けてるので田んぼの中であたふたするだけで田んぼから出られない。またある者は悲鳴をあげて逃げまわった。必死で逃げまわるから「笹の切り株に足を踏みぬいて」血だらけになっても止まるわけにもいかず「痛みを忘れて」走りまわるしかない。これが真相である。
倭建命が鳥になったというのは『古事記』の本文に書かれてはいるが、登場人物の判断として書かれているのではなく、本文(つまりナレーション)だから稗田阿礼か太安万侶の判断であり、葬儀の参列者がそう思ったとは書かれていない。あるいはそもそも原文みると「於是、化八尋白智鳥」の直前にはとくに「倭建命」とは無いのだから、「化」の字は「出」の誤字だろう。倭建命が八尋白智鳥に化身したのではなく、倭建命とは無関係に八尋白智鳥が出現したのである。
つまり遺族=参列者はその巨大なチドリをみて倭建命の魂だとは思ったわけではなく、ただ驚いて逃げ回ってただけなのである。「忘其痛、以哭追」という原文も、写本をつくる際も思い込みで読みながら写してるから「追」の字の前に「被」の字がつい抜けてしまったか、あるいは「追」は「逃」の誤字だろう。本当は海の方へ逃げるのではなく陸の方へ行きたいところだが気が動転して冷静さを失ってるのと、チドリの方が素早い上にその動きが読めないから、先回りされて陸側から来られると勢い海の方へ逃げざるを得ない。葬儀会場はしっちゃめっちゃかで葬儀どころではなかったろう。だがこのチドリ自体は、格別、人間を害することを目的としているわけではないので、しばらく追い回した後はさっさと飛び去ってしまった。
この後、古事記によるとこの巨大怪鳥は河内國の志幾(今の大阪府羽曳野市の軽里大塚古墳)に現れた。日本書紀ではまず大和國の琴弾原(奈良県御所市富田)に現れ、次いで河内國の古市邑(古市郡は志紀郡の南に隣接するが昔は郡境線がずれており『古事記』でいう志幾と同じ場所。当時は志幾の中の古市だった)に現れたという。チドリのような小さい鳥一羽なら、そんな遠くに現れても同じ鳥だとは誰も思わないだろう。ハクチョウなら、あるいは垂仁天皇の時の先例があるから緊急総動員で追跡できたかもわからないが、それもかなり難しかったろう(垂仁天皇の時はハクチョウが神の使いで出雲に導くという目的のためゆっくり移動したと思われるが今回はそんな手加減はない)。そもそもハクチョウではないのだから、小さなチドリ一羽では追跡は普通に考えるとムリ。ハクチョウでもまぁ無理だろう。奈良県や大阪府にももともとハクチョウぐらいいくらでもいただろうし、チドリなんぞ全国に無限にいたろう。ハクチョウだろうがチドリだろうが、どれがその鳥なのかわかるわけないじゃん。これが15mもの巨大怪鳥だからこそ、次は大和國の琴弾原に出たの、次は河内國の志幾に出たの、と話題にもなり、追跡せずとも自らその移動が知れたわけなのである。
一般の学者は15mの巨大怪鳥だとは思わないから、ハクチョウを追いかけて3ヶ所に御陵を作ったというムリな話も「そりゃこれはただのお伽話だから」とみなし、何の疑問も抱かない。やつらはそもそも「古事記・日本書紀」は史実ではなく未開人の妄想ぐらいにしか思ってないから筋道立てて合理的に考えようとはしないのだ。歴史学者って生物学は素人のくせになんで事実じゃないと決め付けるのか、そんな凡庸な判断ならそれこそ素人にも出来るわい。じゃ15mもの巨大怪鳥が合理的なのかよってツッコミも、もっともだろうが、それは現代人だけではなく、当時の古代人でも同じであって、訳がわからないから「あれは倭建命の魂だったのだ」って納得するのがようやくやっとこすっとこのところだったと思われる。だから八尋白智鳥が出現してすぐ「倭建命の魂だ」と思ったわけではなく、八尋白智鳥がどこかに飛び去って一段落してから、やっとそういうことを思いつく余裕が「後から」できて、あんな怪物が何度も出現したらたまらんから鎮魂慰霊の意味で巨大怪鳥の止まったところに御陵を作ったわけ。現代人でも、ゴジラなんて映画の中のものだけど、太平洋戦争の英霊の怨念がどうのこうのって意味づけして楽しんでるでしょ。古代人も同じでいきなり怪獣でてきても意味わからんから、神の怒りだとかなんとか意味づけするわけよ。今回の場合は情況からして「ヤマトタケル先生の化身なのじゃ〜」という解釈がいちばん腑に落ちたであろうことはいうまでもなかろう。
そんな怪物が実在するのかよって言われても、それは俺が答える義務はない。一応なるべく古伝を尊重し、原文に沿って事実を想定するとこうなる、という話ですから。でも多分、わけのわからない怪獣は実在するよ。今でもな。そして地球上の何億人かの中の一人が、得体の知れない怪異生物に遭遇する事件の当事者になる。それはあなたかも知れんのですぞ(笑)。

【おまけ】古事記は文学ではない
さて従来、古事記の「天翔る白鳥と御葬歌」の章は「波瀾に富んだ英雄にふさわしい高潔でロマン的な終章であり、悲劇的英雄の最後を叙情的に語りあげた傑作」ということになっているのであるが、本当だろうか。この記事で書いてるわたしの解釈によれば、一見したところ怪獣スペクタクルか、へたすっとコメディタッチな話になってしまいそうだが。じゃ俺の解釈は古伝説をバカにしてるのだろうか? 俺は「と学会」系なの? むろんそうではない。そもそもヤマトタケル伝説を「文学的に素晴らしい」と持ち上げる言説は戦後左翼歴史観全盛の時代でも一貫していわれ続け、その文学的な価値は不自然なまでに称賛されてきた。要するに、「これは史実じゃないんだけどね」という話とバーター&セットになってたのである。別に、近代的な歴史学が成立する以前にできた資料に対しては、史実であるかないかという話と、文学的な出来がいいのかわるいのかという話は、無関係に両立するのだからどうでもいいっちゃどうでもいいのだが、問題はこの「文学的な価値」なのである。古事記の中のある部分が、たまたま文学的に素晴らしいってことは、あってもいいし、実際あるだろう。だが、古事記全体の本質を「文学」で総括していいのか? そもそも「文学」というのはただの「物語」とは違う概念なのである。文学という「ものさし」は西洋起源の、西洋文明の価値基準なのだが。語部(かたりべ)は、べつに文学を語り伝えたつもりはなかったろう。少年が、化石の恐竜や天文学の話にわくわくするのはなぜなのか。自然界のすべてに神々を感じるアニミズムの感性が、子供のうちはまだ枯れてないからではないのか。神話は、いや神話に限らず、広く上古の言説は、みな、「文学と自然科学と芸術と宗教と政治と私生活道徳」とが分化する以前の「原初の言葉」としかいいようのないものなのである。そのようなジャンル分けは後世のもので、ジャンル分けが細分化されるほど言葉は無力化していく。目先の具体的な問題には速攻で力を発揮する専門家の言葉ほど、存在することそれ自体に由来する本源的な苦悩にはまったく役立たない。ジャンル分けにとらわれてはならない。『古事記』を文学的な意味でばかり素晴らしいと称賛するのは、古事記に対する侮辱であり冒涜なのである。アニミズムの時代には文学は存在しないし、自然界と一体で生きていた時代にそもそも文学は必要ない。文学は、目の悪い人にメガネが必要、足の悪い人に杖が必要なように「現代人に必要」なのであって古代人の知ったことではなく、古事記が言いたいことでもなく、稗田阿礼が子孫に伝えたかったことでもない。80年代以降に増えてきた怪獣映画や特撮番組への批評も、文学批評のレベルに目線を落としたものばかりで、「おまえ本当に怪獣の魅力について本質いってんの?」ってものが多過ぎないか? さらにいえば文学はあくまで人間中心であってカミがいない。人間中心でないこととは、なんだかわけのわからないもの(悪なのか善なのかもわからない)を認めた上でそれを排斥するのではなく「畏怖の念」でもって崇敬するのである。まともな怪獣批評があれば、東日本大震災の時も石原慎太郎レベルの幼稚な物言いではないマトモな評論がありえたはずだったのである。ヤマトタケル伝説を文学として解釈して称賛する議論はすべて「悪」なのである。なぜならそれはすべてを整合的に解体して現代人の考え方の下に古伝承を隷属せしめようとするものだから。それは近代的な思考であり、聖なるものを残さない。神道の「死」に手を貸すものだから。文学という概念がすでに形式であって、古事記をそれに当てはめようというのは古事記を殺そうというのと同じことだ。何度でもいうが「古事記は文学でない」。文学的な出来の良さは付随的または派生的なものであって、どうでもいいことだ。

7景行天皇の系譜」に続く

・5草薙剣と倭建命の最期をめぐる議論

平成27年5月13日(水)初稿
国思歌と倭建命の死
4倭建の蝦夷征伐」から続き

(後日加筆)

6天翔ける巨大怪鳥ヤマトタケル」に続く

・7景行天皇の系譜

H27年2月1日投稿 H25年3月20日(祝)初稿
6天翔ける巨大怪鳥ヤマトタケル」から続き

(議論の詳細は後日加筆予定)

・2倭建命の東征の地図

H27年1月29日(木)改稿 初稿も同日
小学館の古典文学全集の『古事記 上代歌謡』のp.219に、「古事記による倭建命の東征路」という地図がある。この小学館の古事記は注釈が文学方面からの解説に偏ってる感じがして、わたしは滅多に開かない本なのでこれまで気付かなかったんですね〜。
1倭建の熊襲征伐」より続き

どこまで行ったのか?
この地図みると東のはては常陸の筑波山までいって引き返したようにみえるけど、ご存知の通り、『日本書紀』ではちょっとコースがちがってる部分がある。それと『古事記』では陸奥の旅程を省略してしまってるので全部の行程が書かれてはいない。日本書紀で日本武尊が陸奥に上陸した「竹水門」(たかのみなと)を、常陸のあたりとする説もあるが、はっきり陸奥国だと明記してるからそれはない。福島県の相馬市の海岸に比定する説もあるが福島県沿岸は大きな入江がないため古代では交通のセンターとなるような良港がなかった。成務天皇が制定した国造は宮城県の南部まで及んでるのだし武内宿禰が「撃ちて取りつべし」と報告した日高見国(ひだかみのくに)は仙台平野だっていう説もあるから、松島湾から塩竈市のあたりに上陸したものと思う(竹水門の「竹」は多賀城の「多賀」だろう)。小椋一葉の説によると、倭建命を御祭神とする神社が点在して続いていて、岩手県一関市で途絶えそこから北にないことから、倭建命は一関まで進軍して引き返したと推測している。神社の御祭神が根拠になるのかよくわからないが、多賀城のあたりに本拠をおいて陸奥出羽(東北)のあちこちに出撃したんではないかと思う。日本書紀は景行天皇四十年に東征に出発、景行四十三年にその帰路で薨去されたとしてあしかけ4年としつつも、個々の出来事に年月日がないので何年のことかわからないが、陸奥に入る前までのことはほとんど景行四十年の出来事で、陸奥から出た後のことはほとんど景行四十三年の出来事と思う。つまり、奥羽での蝦夷征伐に2年ぐらい費やしたと想像する。なぜならこここそ蝦夷の本場であり、東征の目的は蝦夷征伐なんだから、ここに行かなかったら何しにいったのかわからない。その証拠に、あとあと歴史にあらわれる蝦夷の首長たちの多くは、皇別氏族であることをあらわす「君」(きみ)のカバネをもっているんだが、中には上毛野君(かみつけぬのきみ)や下毛野君(しもつけぬのきみ)の子孫もいたろうが、多くは倭建命の子孫だったのではないか。倭建命の六人の子のうち、子孫から氏族が出てないのは若建王(母:弟橘媛)だけであり、これは記事が欠落したもので、おそらく蝦夷の首長たちが「君」カバネをもっているのはその子孫だからと思われる。古事記はこの奥羽での活躍をばっさり切り落としてるが、その訳は、なにも殺伐とした戦争だけで歌物語になるようなロマンチックな話が無かったから、とは思えない。伝承が脱漏しているんだろう。

3弟橘媛」に続く

・3弟橘媛

H27年1月27日初稿
2倭建命の東征の地図」から続き

皇后陛下の『橋をかける』http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-8.html
さて、平成10年にニューデリーで開催された国際児童図書評議会での皇后陛下の講演録が『橋をかける』と題して出版されていました。たいへんな名文だという人もいるようです。著作権の問題があるのでここで公開するわけにはいきませんが、『橋をかける』は平成21年に文春文庫になっていて今でも売ってます。
この中で、皇后陛下はとくに倭建命と弟橘比賣の物語をとりあげて深みのある感動的な解説を加えておられます。俺みたいなもんにはなかなか出来ない視点だった。

4倭建の蝦夷征伐」に続く

・4倭建の蝦夷征伐

H27年1月24日投稿 (H25年2月20日(水)初稿)
倭建命の蝦夷征伐から美夜受比賣の話まで。
3弟橘媛」から続く

(議論の詳細は後日加筆予定)

5草薙剣と倭建命の最期をめぐる議論」に続く
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浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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