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増税で国がもちなおした例は世界史上にない

2679年(H31年=新年号元年)3月21日改稿 H28年7月13日(水)初稿
大阪市歌←クリックで拡大w

聖帝(ひじりのみよ)
仁徳天皇といえば、新古今の「高き屋に登りて見ればけぶり立つ民の竈はにぎはひにけり」が有名。現代の資本主義政治とは雲泥隔絶の理想政治だとして、もてはやすのがウヨの道だが、実際はそんな甘いものでもなかったろう。甘くないってのは、庶民にとってだけでなく、仁徳天皇の境遇のことも含めてだが。
ただ、ここは儒教的な観点から語られて、経済学的な観点から語られてるわけではないから、あたかも税を止めた3年間、他になにもやってなかったように錯覚してしまうが、そんなこともないだろう。皇室が3年ぐらい貧乏ぐらししたからって、全国の貧民の生活水準が一斉にあがったりするもんかね? もともと我が国の皇室には贅沢という伝統はなくて、日頃から質素なお暮らしをなされておられることぐらい、竹田先生はもちろん昔から右寄りの先生方が力説するところであり、ウヨなら、じゃなかった帝国臣民なら常識だろう。もともと金のかかってない皇室がさらに節約したところでたかが知れてるんじゃないの? 葛城氏とかの豪族のほうがよほど豪勢な暮らしをしていただろう。
これは経済学に疎い語部(かたりべ)が、仁徳天皇の事績を一貫した経済政策と思わないでバラバラに並べたから、朝廷の一貫した経済政策という全体がわからなくなってるのである。語部(かたりべ)というのは、現代に喩えていえば経済学じゃなくて歴史関係。あるいは、映画業界とかアニメ業界とか舞台演劇とか「表現」にかかわる人。だから経済学や経済政策のことは専門外なのだ。
茨田堤・丸邇池・依網池・難波堀江・小梯江・墨江津は秦人(はだひと)がかかわってる。これ一つ一つはかなり大規模な土木工事で、中国からきた秦氏の土木技術が活かされてるというのは昔からよくいわれることだが、そのことが意味する重大性については、割に軽く見過ごされてもいるのではないか。当時の日本の技術は中国の技術を使いこなしており、日本と中国とでその水準に大差なかったということが一つ。それだけでない。技術だけあってもそれを大規模工事として実現するには労働力を大規模に動員する権力とそれに応えうる安定した社会、そして統一的に管理される巨大な財源が必要である。仁徳天皇陵を現代の技術でつくろうとしたらどうなるのかという大成建設の試算では驚愕の結果となったのは有名かと思うが、現代の古代史マニアが漠然と思ってるような未熟な社会では到底ありえず、相当に発展した国家と進んだ社会がすでにあったことは明白だろう。古代史マニアはすぐに諸勢力間の武力抗争の話ばかりしたがる傾向があるが、彼らの想定する部族連合も地域王朝も無根拠な妄想にすぎない。財源は、神功皇后の朝鮮征伐以来、大陸との交易が活発化。交易はあらゆる産業(金貸しを除いて)の中でもっとも効率よく莫大な富を生み、好景気が続くが、古今東西に通ずる一般論として、経済活動の活発化は自然と貧富の差を産む。政府予算にしろ貴族豪族への普請割り当てにしろ、財源としてすでに申し分なかったろう。経済の活発化が貧民を生むのであって、貧民への救済措置は古代エジプトの時代から公共事業にきまっている。堤・池・堀、すべて土を掘り出すわけでこの大量の土を積み上げたのが御陵になる。ケインズがいったように公共事業ってのは「土を掘ってまた埋める作業でもいい」って話そのままではないか。
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↑エジプトのピラミッド建設w だがこの絵もウソ、もっと気楽な職場だった

ただ一言いっておくと、公共事業とか民間委託とかいっても、当時は委託先が氏族共同体とか村落共同体であって、共同体ってのは企業のような意味での「営利目的」ではなくて、そもそも再分配のための存在だから富をばらまけば間違いなく庶民に届く。しかし現代の公共事業とか民間委託ってのは委託先が企業なんだよね。企業ってのは「営利目的」であって「うちは慈善事業じゃねぇよ」って理屈が建前として通ってしまう。だから企業の懐に入るだけで庶民に金が届かない。仁徳朝の政治は、いわれるほど理想どおりでもなくて問題含みだった(後述)と思うが、現代の政治に比べればはるかにましだったろう。

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2仁徳天皇は非モテ」に続く

・6渡り鳥の産卵は瑞兆なのか?

h30・01・23(火)改稿 H28年10月12日(水)初稿
5速総和氣王の乱」から続き

仁徳朝の実態
今日10月14日ってちなみに淳仁天皇と順徳天皇の正辰祭、略して淳仁順徳天皇祭なんだよね。淳仁天皇は崩御1251周年、順徳天皇は崩御774周年って意味でもある。ぜんぜん区切りよくないけど。wikipediaみると淳仁天皇の崩御は11月10日、順徳天皇の崩御は10月7日になってるが、あっちはユリウス暦での換算、宮内庁の正辰祭の日付はグレゴリオ暦での換算、日付は違っても物理的には同じ日です。淳仁天皇ってのは天皇でありながら先の女帝・称徳法皇と対立して敗北、皇位を追われ、まもなく病没なされたがこれは暗殺だろうといわれ、ながらく淡路廃帝とよばれていたお方。順徳天皇も上皇になってからのことだが承久の変で鎌倉幕府軍に敗北、佐渡に流されたお方。天皇たる地位にある御方でも、戦争で敗北することはあるし、そうなったら皇位から降ろされたり、島流しになったり殺されたりする。古事記に書かれた時代も同じ。
仁徳天皇も即位前には兄の大山守命と、即位後には弟の隼総和気と戦っている。大山守命も敗北したから「反乱」で済まされてるけど、もし勝っていたら、大山守命が天皇になっていたかもしれないわけだ。そして仁徳天皇は天皇でなく「大雀王の乱」という扱いになっていた。隼総和気王が勝っていたら、仁徳天皇の在位期間はどういう扱いになっていたのか、南北朝時代の「正中の変」みたいに武力で皇位をとりあう例が早まったはず。どちらも一代で決着したから王朝分裂にはならなかったが、危ないところではあった。そもそも父の応神天皇の在位中には反乱だの内乱だのは一度もない。権威絶大で天下太平だったのです。なぜ仁徳天皇の代でこうなってしまったのか、記紀をろくに読んだこともない現代人は仁徳天皇といえば理想化された伝説上の天皇と思い込んでるが、実態はさにあらず。日本書紀は仁徳天皇を英主として誇張し、古事記また「聖帝」と尊称すること書紀と異ならざれども、書紀においてすらその粉飾の跡歴然たり、古事記においては寧ろ無能無力の暗君たるを隠さんともせず。これ堂々たる抗議にあらずして何ぞ。仁徳帝への非難の声当時より盛んなればこそ確かなる事実として語部に伝承されたるにあらずや。
拙ブログの愛読されておられる方々が何人かいらっしゃって、そういう方々はすでにご存知の通り、「隼総和気の乱」というのは「大山守命の乱」の第2回戦・継続戦・復活戦という側面が強い。このブログでも大山守命の乱についてはまだまだ説明不足ではあるが。古事記は敗北者への叙情を歌物語として美しく歌い上げる例が多いがこれを後世の日本人によくあるただの判官びいきとみては十分でない。古事記は、日本書紀の儒教式歴史観への抗議の書でもあるのだ。逆賊、叛賊の類に対して「美しい悲劇の主人公」に仕立てるということを、敗北者への憐憫、日本人の美徳や文化の深みみたいな話で片付けることはできない。敗北者への同情はただちに勝利者への非難に通じるのは古代でもまったく同じ、いや古代のほうが厳しいだろう。

渡り鳥の産卵は瑞兆なのか?
雁(かり)は冬は日本、夏はシベリアで過ごす渡り鳥で、日本では産卵しないのに、珍しいことがあったと。で、記紀ではこれを「瑞兆」「吉兆」だとして、ことほいでるんだが、本当にメデタイのか? 自然の摂理に反した異常現象なのだから「不吉な凶兆」である可能性や、少なくとも吉でも凶でもない中立ということはないのか? 日本書紀によると旧暦三月五日というから、冬を越した雁たちがこれからぼちぼち北方へ飛び去ろうとしている頃だ。何かの迷い鳥とか体調不良の鳥が一羽だけ産卵したというなら、これまでもまったく見たことも聞いたこともないということは無いのではないか。ある程度の数の雁が、つまり群れの単位で産卵したということなら、シベリアと日本の気候が寒冷化していた可能性が高い。日本も同様に寒冷化していただろう。そしたら農業は不作の見通しになるかすでに不作の年を経験してるだろう。経験豊富な年寄りほど「雁が産卵するのは不吉」と判断したはずだし、仁徳天皇にしろ武内宿禰にしろそれぐらいの知識はあってもぜんぜんおかしくない。武内宿禰の歌も唐突に汝(仁徳帝)の御子(子孫)が永遠に統治するしるしとして雁が卵を産んだのですと言ってるだけ。雁の産卵がなぜメデタイのか説明もなく、日本書紀は理屈が理解できなかったから不審に思って、このオチの部分(最後の歌)をばっさりカットして、「長生きしてるけど雁の産卵は聞いたこと無いですなぁ」という歌だけ残してる。「じゃ、凶兆だとして、この凶兆を歌のもつ霊力で吉にかえるおマジナイをやったわけだろ」、と考える人も出てくるのではないかと思う。
それはまぁそうなんだが、しかし待て。雁は原文では「加里」とある。歌の部分だから1音1字で書かれてるわけだが、雁をカリというのは純粋な和語ではなく雁(ガン)の訛りだ。馬(マ)からウマ、梅(メ)からウメ、銭(セン)からゼニ、みたいなやつな。純粋な和語ではカリでなくアキサというらしい。じゃなぜここではアキサでなくカリといってるのか。「雁」の字に限らず漢字は意味が広くとれるので、あえてカリといってるのは漢字の「雁」を連想させるためだろう。アキサと、それと近縁の何かをわざと混同させているのだ。ところでアヒルという言葉は室町時代からでそれ以前には家禽としてのアヒルは日本にいなかったという説もあるがホントかね? 近縁種のガチョウは古代エジプトから飼育されてるんだが。ちなみにカモもカリと同じで「雁」(ガン)の訛り。地名の加茂・賀茂は「醸す」のカモで鳥とは関係ない。鴨を家禽化したアヒルも、雁を家禽化したガチョウも同じカテゴリーで認識されていたと思う。アヒルといっても現在のアヒル、または家禽化されたものとは限らない。大昔から日本にいるカルガモは渡りをしないで年中国内にいる。現代の生物学では雁とアヒルでは種がちがうが、同じカモ科カモ目で、昔は漠然と「野生のアキサと家禽のアヒル」または「渡り鳥のアキサと通年生息のアヒル」と大別して認識されていたのではないか。とすると意図的にカリという言葉を使うのは「アキサとアヒル」を意図的に混同させるためであろう。
アヒルやカルガモが国内で産卵するのは当たり前だ。これを渡り鳥の産卵という不吉な現象にわざわざ見立ててることになる。古事記では日女島に行幸した時、行った先で雁が卵を産んだとしているのに、日本書紀では茨田堤で雁が卵を産んだことが発見され、役人を派遣して事実を確認したとあり、その場所に行幸したとは無い。これを比べるとどうも同じ話のようにみえない。茨田堤で発見されたのは事実だが、凶兆とされ、対応は一時保留されていたのではないか。または吉とも凶ともされなかったので放置されたか。後日、日女島へ行幸した時に仁徳天皇は雁の卵の件を思い出し、武内宿禰を召し出して歌のやり取りをしたか、あるいは日女島での雁の卵はヤラセか。いずれにしても日女島での歌のやり取りは、凶兆とされた茨田堤の雁の卵(または吉とも凶ともされなかった茨田堤の雁の卵)を吉兆と再解釈してみせるためのショーだったのだろう。
ここで「茨田堤」と「日女島」という2つの地名が気になる。日本書紀によると茨田堤はなかなか完成せず、仁徳天皇が夢で川の神から人柱を要求された。要求はどこに住んでる誰と具体的だったので、帝は該当者を人柱にして堤を完成させたという。人柱、つまり人間を生け贄とした。歴代天皇の中でも、罪のない国民を拉致してきて生け贄にした天皇というのはなかなかいない。これだけでも酷いのに、生け贄の2人のうちの一人は自分の知恵で川の神を屈服させ、生け贄になることを免れたばかりかそれで堤はちゃんと完成したという。生け贄を要求する神は神といっても実態は魔物のことで、多神教のカミは高貴で神聖なカミ(高級霊)だけでなく人間の霊魂や、妖精や妖怪や魔物(低級霊)も含む。帝は低級霊に屈服したのに庶民のほうが自力で魔物を制したという事件は、仁徳天皇の威信を当時どれほど深く傷つけたかわからない。庶民から笑いものにされた史上初の天皇だったかもしれない。隼総和気の反乱の背景の一つでもあろう。仁徳帝にとってトラウマのような場所、それが茨田堤で、まさにその場所で雁が卵を産んだのだ。これが凶なら、生け贄事件は今後も仁徳帝にとって傷であり恥であり続けるという暗示に受け取られようが、もし逆にこれが吉なら、仁徳帝の威信が回復する予兆と意味付けできる。
「日女島」は、今出版されてる古事記や日本書紀の注釈では大阪の西淀川区の姫島と決めつけたものが多い。ここには姫島神社があり、阿加流比賣が祀られているが、たぶんここじゃないだろう。ここは稗島といってたのを江戸時代に記紀にこじつけてわざわざ姫島と改名したらしい。阿加流比賣が祀られた最初の神社の候補は他にも東成区の比売許曽神社や、平野区の赤留比売命神社(三十歩神社)や楯原神社があるが、おそらくは、大阪市大正区の八坂神社境内摂社の姫島竜神社ではないかと思われる。まぁ、仁徳天皇の頃すでに大阪各所に分社があったとして何の問題もないわけで、必ずしもここだと決めなければならないものでもないが…。これらの諸社は例の比賣碁曽社(ひめごそのやしろ)だ。「例の」というのは以前にこのブログで書いた、息長氏の本拠があった住吉の平野区の産土神ってことだ。息長氏を近江に国替えして、海外進出論(新羅征伐論)の浪人どもの中心になっていた危険人物を退去させたが、人々はこれに不満を抱き、民間の語部(かたりべ)どもは春山秋山の物語をつくって仁徳天皇を風刺した、というところまでは話した。あの経緯によって、比賣碁曽社は当時は庶民の娯楽芸能のセンター(従って情報発信のセンター)になっていたとともに、比賣碁曽社は新羅征伐を連想させる場所なのである。新羅征伐といえば神功皇后そして天津神の神託によって皇位を授けられた胎中天皇=応神天皇。神功皇后伝説の主要な登場人物である武内宿禰をこの場所にわざわざ呼び出したのはこの連想を一層確かなものとするためであり、応神天皇伝説を再演してみせるためだろう。神功皇后の神がかりのシーンで武内宿禰は琴を鳴らしたように今回も琴を鳴らした(古事記には明記してないが神功皇后の神がかりの際に琴を担当したのは武内宿禰だったと日本書紀にある)。琴を鳴らすのは神託を仰ぐ儀式だが、ここではたんに自作の歌に興を添えているだけだ。が、むろん自分の歌を神託になぞらえているわけだ。その歌はまず普通に「長生きしてるけど雁の産卵は聞いたこと無いですなぁ」と歌う。これは武内宿禰の個人的な意見の表明。次に琴を鳴らして、つまり神の託宣として、「汝(仁徳帝)の御子(子孫)が永遠に統治するしるしとして雁が子(卵)を産んだのです」と歌う。鳥は神話の中では天津神の象徴として出てくる。普通は産卵しない鳥(=天津神)が今回この日本で子を産んだという歌は、それが詠まれた場所の力によって、応神天皇の誕生を否が応でも連想させる。これが威信回復のためのショーだというのは庶民にも丸わかりではあるが、わざわざ日女島にきてこれをやるのは一般向けのアピールでもあり、相当気を使った演出とともにそれなりに下層民へ向けたバラマキもあったろう。庶民は現金なもので、案外こんなので「人気」は回復するのである。「威信」が回復したかどうかはわからんが。
で、これを企画演出したプロデューサーは記紀には片鱗も書かれてないが、石之比賣ではないかと思われる。一応、ダンナは皇位にあって在位してるが、隼総和気の乱もこの頃まだ終結しておらず、茨田堤の一件でも落ち込んでいたのだろう。それも原因は八田若郎女の入内に自分が反対してるせいなのだが、石之比賣の言い分としては「八田若郎女など妃にしなくても、仁徳帝は応神天皇の正統の後継者として問題ないのだ、『八田若郎女か女鳥王かどちらかを妃にしないと正統でないのだ』という世間の考えは間違っているのだ」、と声を大にして訴えたいところだろう。武内宿禰は年齢からしてもこの頃はとっくに隠居してたと思われる。でなければ老害化して嫌われていた可能性もあるだろうが、いずれにしろこの老人を引っ張り出せるのは石之比賣をおいて他にいたとは思われない。葛城氏の総領たる襲津彦(曽都比古)がスキャンダルにより失脚、他の息子や孫もいい加減なのが多かったが、すでに葛城系の皇太子(後の履中天皇)も生まれて外戚となっていたし、いろいろ不安や問題はあるにしろ、ともかく葛城氏は平安時代の藤原氏のごとくに繁栄しつつあった。人間ってのは年寄りになるほどウルサ方になっていくし、ほどほど繁栄してる時には気も緩みがちで、ウルサ方は鬱陶しくなる。つまり老害だ。こういう爺さんの相手するのは孫娘が上手いってのもよくある話で、もしや武内爺さんの介護役って地位が石之日賣の権力の源泉の一つだったりする可能性もあるんじゃないのかねw
ちなみに「汝が御子や終(つひ)に治らむと雁は卵生(こむ)らし」の「終(つひ)に」は原文では「都毘邇」(つひに)とあり、この毘の字を濁音で[bi]と読んだら意味が通らなくなる。毘の字の読み方は[hi]だという証拠は古事記の中に数々あるがこれもその一つ。毘古・毘賣の読み方はビコ・ビメでなくヒコ・ヒメが正しい。
これ書紀は仁徳五十年のこととしているが後述のように仁徳朝は32年間しかないので実は仁徳十五年のことだろう。この年は「茨田堤」で雁が卵を産んだ報告があった年で、日女島でのイベントは3年後の仁徳十八年と思われる。

巨木伝説と日本独自の太陽暦
「神名帳」の和泉国大鳥郡に等乃伎神社があり、これは現在、等乃伎神社(とのきじんじゃ)がある(大阪府高石市取石2-14-48)。高樹があったところという。境内には楠木が植えられているが、大昔はここに巨大な楠木があったのだろう。大昔はこの神社のすぐそばまで海だったというから、淡路島もよくみえたんだろう。淡路島にある柏原山・諭鶴羽山・妙見山を「淡路三山」というが、地図をみると直線上に高安山・等乃伎神社・柏原山・諭鶴羽山がならぶ。妙見山だけはこの線から大きく北にずれていて関係ない。この直線は30度ほど北に傾いており、冬至の日の出の方角と夏至の日没の方角を結ぶ線になる。等乃伎神社の大楠から、冬至の日の出をみると太陽はちょうど「高安山」から昇る。また夏至の日没をみると太陽はちょうど「淡路島」の諭鶴羽山または柏原山に落ちる。逆にいうと夏至の日没には大楠の影が「高安山」に向かって延びていく。冬至の日の出の時には大楠の影が「淡路島」の諭鶴羽山か柏原山をさして延びていくわけ。諭鶴羽山の山頂には「諭鶴羽神社」がありこれも由緒の古い神社。この巨木信仰は、暦を制作するための太陽観測と結びついており、太陽信仰でもあることがわかるだろう。如上の「影がさす」の意味も理解できれば「国中が日陰になって邪魔だ」とかの解釈はありえない(物理的にもありえないが)。「だから伐った」という理由も成立しない。
船を造るため、という理由も成立しない。仮に、いくら木材が不足したからといってこんなとてつもない太陽信仰そのものともいえる神聖なる御神木をばっさりやっちゃって、問題なかったのか? 東京オリンピックのための街中の整備のためと称して都内の樹齢100年以上にもなる街路樹が何百本も容赦なく伐採されてるが、ちゃんと検討されたのか、都民としては寝耳に水なんだが。まったくゼネコンの金儲けのためのオリンピックならやめちまえと思うがな。これらの樹木を育てるのにどれだけ年月かかってるのかわかってるのか。まぁ現代の話はさておいて、この古事記にでてきた巨木も自然に倒れたのならしかたないがそういうふうにも書かれてないし、天皇の威令あってこそ伐採できたという話なのだろうか? 当時も批判はあったのではないか。いくら造船業が盛んになったの、輸送船や軍艦が不足したのといっても、御神木を伐らねばならぬほど木材が不足するとは考えにくい。日本中が禿山になっていたとでもいうのか? この謎解きは後回しにして、まず船の話をしよう。 
巨大な御神木を伐って「枯野」という高速船を造ったという話なんだが、『日本書紀』は仁徳天皇ではなく応神天皇の時の話としている。いずれにしろ応神朝~仁徳朝は海上輸送と海軍が発達して巨船の建造が盛んだったのだろう。書紀によると、応神五年十月に長さ十丈(約30.3m)の船を造らせそれを「枯野」と名付けた、そして応神三十一年八月、耐用年月のきた「枯野」を分解してその材木で塩を焼いたという。この間、約26年弱。ざっと検索してみたら現代でも貨物船の耐用年月は20年~25年という記述や、法定上は総トン数2000トン以上の船舶で15年とする記述などが見つかる(この「トン」はメートル法の重さの単位ではなくヤードポンド法の容積の単位。加山雄三のクルーザーが30.56mで総トン数104トンだとか、総トン数20トンの船だと全長15m~20mくらいだとか、カティサークが65mで963トンだとか出てくるので、「枯野」は約100トンぐらいに相当かな?)。この時代で30mの巨大高速船が26年弱も耐用年月があったというのはかなり高度な造船技術があったということになる。
で、御神木と高速船「枯野」号との関係なんだが、結論からいうと、「枯野」は御神木から造った船ではない。書紀と古事記の食い違いからそれがわかるのだ。
この話は、3つの部分からできている。
 a)和泉国の兎寸河(とのきがは)にあった巨大な木の話
 b)「枯野」(かるぬ)という高速船の話
 c)燃え残りの材木から作った琴の話
そして、日本書紀にもほとんど同じ話があるのだが、書紀の場合、仁徳天皇ではなく応神天皇の話となっている上に、a)の巨木の話が無くてb)とC)だけで話ができている。で、上述のように建造から廃棄までが約26年も経っている。これおそららくb)の「枯野」という高速船が造られたのが応神天皇の時で、c)の耐用年月のため分解して燃やして琴を作ったのが仁徳天皇の時だったのを、古事記は仁徳天皇、書紀は応神天皇の巻の中にひとまとめにしたのだろう。しかしa)の巨大な御神木の話は書紀に無くて古事記にしかないのだから仁徳天皇の時の話であり、だから書紀では「枯野」は仁徳帝の時ではなく応神帝の時に、和泉国の御神木からではなく、伊豆国のただの材木から普通に造られたことになっている。伊豆国田方郡の狩野郷(今の伊豆市のうち修善寺町と旧天城湯ヶ島地区)には、『天城越え』で有名な「浄蓮の滝」のある狩野川が南北に流れている。伊豆市の旧天城湯ヶ島地区の松ヶ瀬には、狩野川のほとりに「軽野神社」(延喜式内社)があり、応神天皇五年に伊豆国に造船を科した際の造船所跡とも、船材を樹る山口祭斎行の場所とも云われるという。その真偽はともかく狩野郷とか狩野川とか軽野神社とかの「狩野」「軽野」がカルヌ(枯野)の元になった地名か、少なくとも枯野にちなんで付けられた地名だろうから、書紀の伝承は否定できない。
そうするとb)c)の話とa)の話は元は無関係で、a)の原形は御神木を伐って船の建材にした(ただし一般的な船であって「枯野」ではない)という話だったんだろう。船を作ったって部分が共通だったため古事記はこれを混同してひとつづきの話にしてしまっている。御神木の話は仁徳天皇なのに、枯野を建造したのは応神天皇だから、そのままだと時系列がおかしくなるので古事記ではすべて仁徳天皇での出来事としているわけ。
そうすると仁徳天皇の時に御神木を伐った当時は、「軽野」はすでに現役中で、まだ廃棄される前だったんだろう。だから伐った御神木で船を造ったというのは木材としてもったいなかったからというだけで深い意味はなく、御神木を伐った理由も「船を造るため」ではありえない。上述のように御神木まで伐らねばならないほど木材が不足したとも思えない。
では御神木はどういう理由で伐られたのか? 国中が日陰になって邪魔だからというのは物理的にありえない。そもそも、こんなすんごい御神木を伐っちゃって、当時の人はタタリとか怖くなかったんだろうか? むろんタタリを怖れる人々からの猛反対もあったに違いないが、あるいはこういう意見もあるかもしれない、「伐採にあたっては巫女の神懸りかもしくは占いで神の意志を伺って許しを得る、という神事、祭祀が行われた」んだろう、と。しかし俺はそうは思わない。伐採したい側もそれに反対する側も、自分の側を非とする御神託がでたら困るから、神意を伺うようなことはあえて避けたろう。で、伐採しようって側はなぜそんなことを言い出したかだが、タタリが怖いというのはこの御神木の本来の存在意義を認めた上で、御神木と無関係な別の「ある目的」のために伐らねばならない場合に「タタリが怖い」となって、御神木は守られ、その「何らかの別の企画」は頓挫するわけだろう。「タタリが怖くない」のは御神木の存在意義そのものが邪魔だという場合だ。つまり御神木とは無関係の何らかの目的があるわけではなく、御神木を滅ぼすことそれ自体が目的なのである。
この御神木の信仰とは、上述のように、暦を制作するための太陽観測と結びついていた。この暦は、旧石器時代の巨石文化に遡るもので、「山当て法」という原始的な太陽観測によって四分至(春分・夏至・秋分・冬至)を知るシステムだが、そこまで出来ていたら独自の太陽暦など容易にできたはずであり、この時代には中国の陰陽暦とは別の独自の太陽暦があったんだろう。
これに対して中華式の暦は遅くとも応神朝には採り入れられていた。おそらく「後漢四分暦」といわれる暦で、朝廷や上流貴族には命令なので早く普及したろうが、庶民はそうはいかない。日本には独自の太陽信仰にもとづく暦があり、伝統的な習俗とも結びついているので庶民階級には中華式の暦はなかなか普及しなかった。それで伝統的な暦の中心を廃絶させる意図があったのではないだろうか。だが、こういう急激な漢化政策がまた仁徳天皇への批判となり、大山守の乱以来の、国粋派からの反感をよぶのであった。

八田若郎女は「皇后だった」のか?「皇后じゃなかった」のか?
ところで、古事記は石之比賣が最後まで皇后だったことになっていて、八田若郎女とは結婚していないのに、日本書紀では磐之媛が途中で都合よく薨去してくれたので、後添えとして八田皇女が皇后になれたことになっている。だから女鳥王の玉釧のエピソードも皇后役が古事記と日本書紀では別人だ。ここのところは普通は古事記が正しい(というか伝承の原型)というほうが有力で、日本書紀が正しいという説はきいたことがない。日本書紀は仁徳天皇を有徳の英主に、武烈天皇を不徳の暗君に仕立て上げて、王朝交替(易姓革命)のように演出(脚色)しているという通説からすると、磐之媛に振り回されっぱなしの仁徳天皇があまりに情けないので、日本書紀は「帝はちゃんと希望通り八田皇女を皇后にできたのだ」ということにして歴史を改竄したのだ、ということになる。普通に考えると、なにも磐之媛が死んだことにしなくても、妃が増える分にはいいじゃないかと思われそうだが、書紀の建前からいうと皇族が格下の「妃」で、貴族の娘が格上の「皇后」なのは筋が通らないし皇后は頂点であって同時に二人は制度上ありえない。かといって磐之媛が廃后(妃に降格とか、離婚とか)されたらトンデモナイ大事件になって朝廷の大混乱は想像もつかないから、捏造しなければならない話が無駄に増えてしまう。だからアッサリ死んでもらった訳だろう。石之比賣の目が黒いうちは、八田若郎女が妃になるなんてことは絶対にありえないのだから。
では書紀がいう、「仁徳朝の後半は八田皇女が皇后だった」という話はデタラメということになるのか? いくら日本書紀でもそこまで自由な創作はさすがに許されなかったんじゃないだろうか? おそらく八田若郎女は本当に皇后になったんだろう。ただしその事実が、古事記の記述と齟齬をきたすものであってはならない。石之比賣が皇后である事態と抵触せず、同時に成立するような意味での「八田皇后」。そんな矛盾だらけの話ありえなさそうだが、実はそれがそうでもない。
そもそも八田若郎女を妃にしたいというのは単なる恋愛感情もあるにせよ、それだけではなく、このブログで何度も説明しているような「政治的な理由」なわけだ。隼和気の乱が起こって天下二分の形勢になってくると、最早「お后様がコワイから」で済まされない。なにしろ敵は、八田若郎女と同等の価値をもつ女鳥王と結婚しているのだから、現状、上は朝廷の貴族たち臣連国造伴造(おみ・むらじ・くにのみやつこ・とものみやつこ)から、下は田舎の百姓、村娘、一介の町人、町娘に至るまで、腹の中ではむこうこそが正統の天皇だと思っている。そんなの気にしてないのは葛城氏とその取り巻き、及び帰化人ぐらいだろう。
そこで帝としては、八田若郎女と結婚はできないものの、せめて「なにかしら皇后っぽい地位」につけて、世間に対して彼女を優遇してみせないとならない。これなら石之比賣から叱られることもない。「なにかしら皇后っぽい地位」ってのは何のことやらわからぬが、そもそも八田若郎女が天皇としての正統な血筋の体現者なのだから、女帝を知ってる後世の我々からみると彼女を天皇にしてしまえばいいじゃないかとなる。しかしこの時代は女帝という概念すらなく、それに近いのは神功皇后の例だけ。言葉で説明すれば「天皇の母である摂政」。八田若郎女は独身なのだから今は天皇の母ではないが、将来の天皇の母になるかも、ならないかもわからない人ということは最低限できる(か?w)。神功皇后は天皇ではないから同時に息子の応神天皇がいた。記紀では神功皇后が薨去してから応神天皇が即位したことになっているが、これは奈良時代の観念で編年したため建前上そうなってるんで、実際は応神天皇は生まれた時から「天皇」とされていたのである。でなければ、何十年にもわたる神功皇后の摂政期間は「大空位時代」ってことになりかねない。だから仁徳天皇は自分が在位のままで、妹の八田若郎女を「応神天皇にとっての神功皇后的な存在」ということにした。「母と息子」ではなく「妹と兄」だが、男女のセットという意味ではまぁ似たようなもんだろうw たぶん大后(おほきさき:意味は現代語でいう「皇后」)という称号を献上したんだが、皇后は皇后でも、仁徳天皇の皇后「ではない」って建前にしたんだろう。
漢文の皇后(こうごう)は天皇の正妻で、産んだ息子が天皇になると皇太后(こうたいごう)に昇格する。律令制以前の日本では、天皇の正妻はオホキサキ(大后)で、皇極天皇の頃からは天皇の母や祖母はスメミオヤ(皇祖母)というようになるが、古くは産んだ息子が天皇になっても相変わらずオホキサキ(大后)。だからオホキサキには漢文でいう皇后と皇太后の両方の意味があることになる。で、八田若郎女に捧げられたと思われる「大后」という称号は、耳には石之比賣の称号と同じに聞こえるが、実質は石之比賣の大后ではなく神功皇后の「大后」だ。神功皇后は古事記では「大后」とよばれているが、仲哀天皇は崩御した後で応神天皇が在位していたはずだから、皇后は皇后でも、現在の天皇の配偶「というわけではない」(皇太后すなわち現在の天皇の「母」)。しかし八田若郎女には夫がいないから子供もいないので当然「天皇の母」ではありえないが、おそらく「仁徳天皇の配偶となって皇子(未来の天皇)を産む」という未来を確定事項として、地位称号を先取りしたものではないだろうか。「大后(=皇太后)なんだけど夫も子供もまだいない」とか「大后(=皇后)なんだけど現在の天皇の配偶ではない」という「なんだかよくわからない地位」は「よくわからない」から古事記は完全に無視。そもそも古事記の伝承を担った後宮の女性からすれば「地位は后妃だが、相手の男はいないよ」なんて処遇はバカにされてるか詐欺のように感じるので、無かったことにされたんだろう。「よくわからない」んだから日本書紀の編集部もよく理解できず、書紀では短絡的に「仁徳天皇の皇后」だったと解釈して処理してるのである。
神功皇后は応神天皇の母であるから、日常的な振る舞いとしては応神天皇より格上だったと思われる。仁徳天皇も名目上は在位しているけれども「朕は不徳なれば妹に政治を委ねてこれに仕えよう」といって妹の八田若郎女を目上と崇めた。だから大后の称号も彼女に下賜したのではなく「献上した」のである。そこまでしないと八田若郎女になんらかの処遇をしたように世間からはみえない。理屈ではなくて「世間からどう見えるか」がこの場合重要なのである。これは現在の我々からみれば事実上の「女帝」と解釈していいと思う。神功皇后も事実上の女帝ではあるが、形式的にはあくまで皇后であって同時期には応神天皇が在位していた(皇太子だったとしているのは奈良時代の改変)。

仁徳朝の編年
日本書紀は、仁徳二年に磐之媛が立后、三十五年に磐之媛が薨去。三十八年に八田皇女が立后(2年間は皇后なし、これは磐之媛の服喪の期間という設定だろう)、八十七年に仁徳天皇崩御とする。87年間の内訳は「皇后不在1年→磐之媛皇后34年間→皇后不在2年→八田皇后50年間」となる。
しかし仁徳天皇が87年も在位したってのは、むろん日本書紀の編年で、事実ではない。古事記だと、応神天皇の崩御が甲午年、仁徳天皇の崩御が丁卯年だから、この間、33年しかない。干支ひとまわり加算すると、93年になる。応神天皇崩御と仁徳天皇即位の間には宇遅若郎子の一件で2年の空位があるから、それを差し引くと仁徳天皇の在位は31年。ただし古事記では空位3年との明示はなく「多日を経ぬ」とあるだけで具体的な年数はわからぬ。がここは足掛け3年の意味を書紀が誤解したものとして空位1年とみる(その理由は後述)と32年。干支の1運をたして92年。こうすれば書紀の87年と5年差にまで縮まるが、古事記によると仁徳天皇は宝算83歳(日本書紀では宝算不明)なので、在位87年だの92年だのは無理。在位32年説だけが残る。
実際の在位は32年しかないから、磐之媛が薨去した仁徳三十五年とは実際には履中三年になる。履中五年には履中天皇の妃(黒媛)が薨去した事件があり、もしや磐之媛の薨去と関係するかも。日本書紀は「仁徳六十七年に備中での笠県守(かさのあがたもり:人名)による水虬(みづち)退治の話があった後、妖気ようやく動いて、叛く者一人二人始めて起こった。そこで天皇は善政に努めたので天下太平となり二十余年間なにごとも無かった」、と書いている。これ文法的には、87年間の在位のうち仁徳六十七年という年だけ謀反が起こって、その前も後も平和だったという意味の文章だ。これの何がおかしいかというと「叛く者一人二人」の具体的な内容が何も書かれてないし、これ以前の四十年に隼別の乱、五十三年に新羅への出兵、五十五年に蝦夷の乱、六十五年に飛騨の両面宿儺の乱もあったのに、六十七年になって「始めて起こった」というのは書紀の記述内容に矛盾している。これは明らかに再編集した時の修正ミスで、「二十余年」がもとは「十二年」だったんだろう。治世のうち最初の十二年までは平和だったがその後、宿儺の乱や隼別の乱が起こった(「叛く者一二始めて起こる」)というのが原形だろう。それと平和から戦乱への変わり目の象徴的な事件として、備中での水虬退治があげられているわけだが、これとよく似た事件が仁徳十一年の茨田堤の人身御供で、この事件で仁徳天皇が世間からの笑いものになってしまったことは別のページで書いた。この事件で仁徳帝の威信が地に落ちたことは間違いないので、ちょうど平和から戦乱への転換した時期に合致している。どちらもヒョウタンを使っての人間の知恵の勝利をいってるが、茨田堤では河伯(かはのかみ)として一応神様扱いなのに、備中の話では水虬(みづち)としていて完全に魔物扱い。おそらく備中の話は、茨田堤の人柱問題が進行している最中に起こったことで仁徳天皇を諌めるため(もしくは非難するため)の作り話か芝居だろう。それが同時に人柱になる者にとっては生き延びるためのヒントになっている。水虬は爬虫類系の化け物だからこれが暴れていたのは夏だろう。茨田堤の話は十一年の冬十月というがこれはあくまでも堤の建設に着工した日付であって事態が完了した日付ではない。すると水虬退治は翌十二年の夏、茨田堤の話が落着したのはその直後だろう。また初めて八田皇女を妃にしようと言い出したのも、磐之媛に初めて拒否されたのも二十二年春正月だが、これも正しくは十二年。隼別の乱は仁徳四十年だが八田皇女が皇后になった年を元年として数えると八田皇后三年であり、おそらく隼別と女鳥王の駆け落ち事件は仁徳十三年の事件だろう。八田皇女が立后したという仁徳三十八年は仁徳十八年ではないかと思う。
他にも書紀に書かれている全事件はその年次をことごとく修正して年表を作り直さねば史実を復元できない。五十三年の新羅への出兵は八田皇后十六年にあたり、実は仁徳十六年の事件。五十五年の蝦夷の乱は八田皇后十八年にあたり、六十五年の宿儺の乱は八田皇后二十八年にあたる。この二つの乱は実は仁徳十五年に勃発して仁徳十八年に終息したんだろう。四十一年の百済の酒君(さけのきし)の不敬事件は八田皇后四年にあたり、おそらく仁徳十四年。新羅も百済も、それぞれの国内で仁徳天皇に忠誠を誓う派閥と、隼別王側について仁徳天皇の朝廷を軽んずる派閥に分かれていたのだろう。
他の事件も多いが大量になるのでここでは書かない。だが、もう一度まとめると、仁徳天皇の治世は十二年まではうまくいっていたが、茨田堤の件で権威失墜。翌十三年には速総別王と女鳥王が駆け落ちしてからは、蝦夷、隼人、新羅、飛騨が隼別王の側について大乱となった。十八年に八田若郎女を摂政皇后(というか女帝的な地位)に立ててようやく大乱は終息した。

仁徳朝の編年
日本書紀 「皇后不在1年間→磐之媛皇后34年間→皇后不在2年→八田皇后50年間」 計87年間
 修正値  「通常期間12年間 →→→→ 戦乱期5年間 →→→→ 八田皇后14年間」 計31年間

・4速総別王の乱の登場人物

H29・8・3(木)改稿 H27・12・26初稿
(応神天皇⑮)」は3人の后妃と結ばれ、「(中日売命なかつひめのみこと」との間には「天皇、仁徳⑯(大雀命)」が生まれ、その仁徳帝は「大后、石之比賣命」と結ばれている。また応神帝と「(矢河枝比売やかわえひめ」との間には「(宇遅能和紀郎子)」「八田若郎女」「女鳥王」の3人が生まれ、「(糸井比売いといひめ」との間に「速総別王」が生まれている。この系図と別に「将軍いくさのきみ、山部大楯連とその妻」は、「将軍にとっては「かの王ミコたち」も主君筋である、(速総別と女鳥)」。
3石之比賣の嫉妬の本当の理由」から続き

「隼総和気の乱」の背後と一面
記紀の流れからいうと、仁徳天皇が女鳥王を召そうと思ったのは八田若郎女を諦めたから、諦めたのは后の石之比賣に屈したから。しかし実際は女鳥王が重要視されており、菟道稚郎子(=宇治若郎子)が自害する寸前に言い残した「我が妹の八田皇女(=八田若郎女)を後宮に召し入れたまえ」という遺言は「雌鳥皇女(=女鳥王)」だったのを書紀が八田皇女に書き換えたか、「八田皇女と雌鳥皇女」とあったのを雌鳥皇女だけを意図的に落としたものだろう。(八田若郎女に比べてなぜ女鳥王が特別なのかという議論は他の記事で詳論する、このページでは取り扱わない)。
仁徳天皇ははじめから女鳥王は落とすのが難しいとみて、順番を踏むように振る舞って、まず姉のほうとくっつこうとしたのである。さいわい、姉のほうが仁徳天皇のことが好きだったのでそこまではよかったのだが…。以前に書いたように八田若郎女か女鳥王のどちらかを后にしないと仁徳天皇は正統性を保持できない。女鳥王が仁徳天皇の不甲斐なさをみて拒否したのは誰にでも理解できることで、そこまでは女鳥王を非難する人は少ないだろう。まぁ中には陛下のお召しを拒否するなんて不敬は許せないって人もいるだろうしそれはそれで一つの道だとは思うがこの時点では仁徳帝にはニセ天皇の疑いがかかっていたから「陛下のお召し」には該当しないというのが女鳥王の考えなのである。ニセ天皇とはどういうことかというと、応神天皇が次の天皇を指名した時に大雀王(仁徳帝)はその指名から漏れたという厳然たる事実のことだ。当時それはみんな知っていた。ちょっとここは大山守命の乱の詳細を説明しないと話がつながらないかもしれないのだが、今回はその話ではないのでやむをえず飛ばすが、女鳥王が仁徳天皇のお召しを拒否する一番の早道はとっとと他の男とくっついてしまうことだが(それでも万全とはいえないまでもだ)、八田若郎女と女鳥王の姉妹はたんなる皇族女性ではなく、「この女性と結婚した皇族だけが正統の天皇だ」とみなされかねない危険な存在なのである。たとえばもし女鳥王が「ささぎ取らさね」と歌わなければ、隼総和気に対して反乱を唆したりしなければ、仁徳天皇はこのカップルを祝福したのかという問題がある。前例としては応神天皇が召そうとした髪長姫を息子の大雀王がおねだりした例があり、この時は円満に父が譲った。しかし今回はそんなことはありえないと踏んだからこそ、身を守るために戦うしかなかった。…というと「純愛のためにがんばった」っていう何か良い話にきこえるが、女鳥王は仁徳天皇に対して正統性を付与することを拒否したばかりか、順位は遠いにしてもまがりなりにも皇位継承権をもっている皇子(=隼別王)と駆け落ちしたわけだから、「仁徳天皇はニセ天皇。本当の天皇は隼別王です」と天下万民にむけて高らかに宣言したも同然なのである。これは、要するに、この瞬間から中世の南北朝時代のようなことになったのである。むろん仁徳天皇を完全に正統だと認める派閥もあった。それは皇位継承権者である宇治若郎子から直接ゆずられたんだから、何の問題もない、という説。葛城氏やその事実上の氏上(うぢのかみ)でもある石之比賣などはそういう考えである。この人たちを仮に葛城派とよぶ。ただ、宇治若郎子が遺言した「我が妹を後宮に」って話が、皇位の条件だったのだ、と解釈するのがアンチ葛城派なのである。ただし、こういう形式的な違いで対立していたのはあくまで建前での話であって、このブログでいつもいうように、抽象的には葛城派というのは漢文派・中華文明派・儒教派・漢文式官僚制推進派・帰化人優遇移民推進派なのであり、アンチ葛城派というのは国粋派・語部派(反漢字派)・神道派・伝統社会保全派・移民反対派なのである。具体的勢力としては葛城氏という外交と貿易を司る氏族とその取り巻き、帰化人系氏族に対して、それ以外全部ということになる。全部といっても行動主体は海の民・山の民と彼らに連なる氏族、妃を入れることで葛城系と競合する尾張氏や和邇氏(尾張氏は津守氏を通じて海の民ともつながりがある)、大伴・物部といった軍事氏族(大伴は山部や佐伯部、久米部を通じて山の民の係累でもあるし、物部は和邇氏と近い)、神道祭祀氏族であるがゆえに儒教を容れられない中臣氏や忌部氏(中臣氏と大伴氏は実は同族でもある)、等々。ただし雄略天皇に葛城氏が滅ぼされてからは儒教は公認されたので、儒教自体は論点にならなくなるが、葛城氏にかわって平群氏がその地位と役割を継承していき、対立構造はそのまま継続した。
大山守命の乱で反乱軍の主力(正確には反乱ですらないのだが今回は詳細にはふれない)になったと思われる山の民、海の民は隼総和気の管掌になっていた(仁徳天皇の皇子たちは20歳そこそこでまだ配下を心服させるほどでなかった)。そのため、この乱はかなり長引いた。記紀ではあっさり片付いたように書かれているが、これは語部の歌物語しか資料がなかったからだろう。隼総和気と女鳥王は脱走しようとしたが、書紀は伊勢で、古事記だと大和で、討ち取られたとある。しかしそれは嘘で、二人とも生き延びて九州と東海地方の両側から逆に大和から攻め上った(隼総和気の乱の全体像についてはまたいずれ、今回は時間なし)。ところでなんで逃亡に成功して脱出できたんだなんて事ががわかるのか。

女鳥王の玉釧(たまくしろ)・前編
1)三人の思惑のズレ
書紀では、皇女の死体を晒すのはよくないとして身につけた玉を取るなとわざわざ事前に皇后(書紀では石之比賣ではなく八田皇女)が指示したとある。戦場でのこんな細かいことを皇后が指示するのはおかしくないか。書紀では八田皇女(=八田若郎女)なので、実の妹を気遣ったのではないかといわれるかもしれないが、実の妹を気遣うのなら「身につけた玉を死体から剥ぐな」という前にそもそも生かしたまま逃したいと思うはずだろう。しかも古事記では皇后=石之比賣だから、この「事前に云々」はカットされ、古事記では皇后(石之比賣)は事前になにか命じたことにはなっていない。結論からいうと事前に「玉を取るな」と命じたってことでは書紀が正しいが、そう命じたのは八田皇女ではなく、石之比賣なのである。
その説明の前に、まずここで八田若郎女と石之比賣と仁徳天皇は三者三様にもくろみが違う。八田若郎女と石之比賣の二人は、隼総和気の処分は仁徳天皇の随意にすればいいと思っているが、八田若郎女は妹の女鳥王を何とかして救いたいし、石之比賣は逆に女鳥王はなんとしても排除したい、亡き者にできればなお結構。この2人に対し、隼総和気は謀反人だからこうなってしまった以上、仁徳天皇としては立場上なんとしても処刑しなければならないのだが、女鳥王は生きたまま取り戻さないとならない。八田若郎女も女鳥も妃にできてないだけでも問題なのに、宇治若郎子に続いて女鳥王まで死なせてしまったとあってはまずます評判が悪くなる。八田若郎女と仁徳天皇は女鳥に死なれたら困るという共通点があるが、八田若郎女にしてみたら戻ってこれないならせめて逃亡に成功して生きていてほしい。が仁徳天皇にしてみると逃亡されたら死なれてしまったのと同じぐらいダメージがある。
そこで、八田若郎女は追手の将軍に女鳥王を逃がすように極秘の指令を与えたのだろう。

2)両将のプロフィール
追撃した将軍は大伴氏でもなく物部氏でもない。隼別王の叛乱の噂は前からあったとしても、現時点ではただの駆け落ちだから、大伴・物部といった本格的な軍部を仰々しく出動させるまでもないとされたのもあったろうし、大伴・物部は隼別王に好意的であまり乗り気でなかったっていうのもあったろう。むろん二王は裸一貫で逃げたわけではなく、いくらかの手勢(武装集団)に守られての脱出行。ただし護衛の規模はわずか数名だったのか、予想外に大規模な軍隊だったのか、そのへんの加減はわからない。古事記は悲劇としての舞台演出上の都合で二人ぼっちのような印象を狙っているが、手勢に守られていなかったとも明示はしていない。そこで今回の追撃軍の将軍に選任されたのは、山部大楯連(やまべのおほだてのむらじ)。逃亡者は宇陀から山越えをして伊勢にぬけると推定されていたから、山岳行動にすぐれた山の民が適任だという理屈だろう。ただしこの人は山部つまり山の民を管轄する氏族で、かつて大山守命の配下にいたのだから、隼総和気にも好意的だったと思われる。書紀では二人の逃亡者を追ったのは吉備品治部雄鮒(きびのほむちべのをふな)と播磨佐伯阿俄能胡直(はりまのさへき・あがのこのあたへ)だがどっちも随分と身分が低い(前者は部姓だし、後者は直姓だが記名が雄鮒の後になってるし、風土記その他から二人とも地方豪族にすぎないこともわかっている)。だから一見したところでは、古事記のいう通りこの時の将軍は山部連大楯の方が自然に思ってしまう。だが日本書紀では清寧天皇の時に伊予来目部小楯が功績により山部連になったとあり、同一人物を古事記では最初から山部連小楯と書いている。つまり古事記では山部連氏は仁徳天皇の代から継続して存在しているという建前なのに、日本書紀では山部連は清寧天皇の代にできたもので仁徳天皇の頃には存在してないかのような印象を与える。「山部」自体は古くからあったにしろその伴造の「山部連氏」が古くからあったとは限らぬわけでこれは書紀のほうが正しいかもしれない。古事記は「山部連の祖」と書くべきところ、遡らせて「山部連」と書いてるのだろう。さらに、来目(久米)と佐伯はどっちも大伴の配下で、久米舞を伝えたのは実際には久米氏ではなく佐伯氏というぐらい近しい関係にあり、佐伯部(さへきべ)というのはもともとは蝦夷(えみし)を編成した辺境防衛軍や要塞駐留軍をいったのだが、蝦夷は狩猟採集をして山の幸を貢納する「山の民」でもあるから、佐伯部はおのずから山部でもある。また古事記の山部連小楯を書紀は伊予来目部小楯といっており同一人物だから、山部は来目部(久米部)でもある。久米部は諜報員や秘密工作員、わかりやすくいえば忍者のことだが、以上のことから大雑把ながら「佐伯部=山部=久米部」(つまり「蝦夷=山の民=忍者」)と定式化できる。しかも山部連小楯(=伊予来目部小楯)は播磨国司だったのだから、書紀のいう「播磨佐伯直阿俄能胡」と古事記のいう「山部連大楯」はどうも似た臭い関係で、同一人物ではないかとも思える。万が一、別人だとしてもかなり近い関係で阿俄能胡は大楯の腹心だろう。書紀は「玉手」という地名起源説話に取材してるので、直接関係のない将軍の名が落ちているまま採録されたんであって、死刑にされなかったわけではない(土地の献上でまぬがれたのは影武者の遺体をつかまされて本人たちに逃げられた罪であり、処刑されたのは女鳥王の手足の玉を着服した罪で、それぞれ別。罪と罰の軽重がアンバランスだが詳しくはこの頁内で後述)。吉備品治部は吉備氏の一族だから葛城氏の配下で、いわば石之比賣皇后に近い筋だ。だから阿俄能胡は八田皇女の人選、雄鮒は磐之媛(=石之比賣)の人選だ。山中での行動を得意とする阿俄能胡がまず選ばれたが、これが八田皇女の息がかかった人間だと気付いた磐之媛がウラに何かありそうだと察知して念のため我が「手の者」を押し込んだんだろう。

3)不可解な皇后の指図の謎解き
それぞれ自分の手下に追わせたいのは当然で、仁徳天皇は二人の顔を立てて、将軍二人制にした。ただ、これは日本でも西洋でも中国でも例があるがトップが一人でない軍隊ってのはろくなことになったためしがない。阿俄能胡は雄鮒を警戒して自分の腹心にだけ密命を伝え、雄鮒には偽の死体を埋めてみせた(仮に「大楯=阿俄能胡」、同一人物説で)。そもそも殺してしまったのならその場で埋めずに首実検が必要だろう。その場で埋めるというのは隠蔽工作でしかない。だから八田若郎女は「玉を取るな」ではなく、証拠の品として玉を取ってこいといったのだ。せめても遺体となる妹に気遣ってるふりして、「遺体の手足に我が妹女鳥王の玉がついていたらその遺体こそ我が妹女鳥王の遺体ですよ」という錯覚をばらまいてるんだよ。ディスインフォメーション工作だな。そしてその玉を、わざと石之比賣の目につくところで見せ、あたかも本当に殺したようにみせかける計画だったのだろう。本当に殺すつもりなら遺体を証拠にもってくるのは当たり前でこんな命令が出ることはありえない(むろん遺体の実物がないのは不審を買うわけだが、そこは後述のような言い訳の用意もされたと思われるし、阿俄能胡の一族や配下には替え玉の遺体に志願する女性もいたろう)。磐之媛はその命令が出たことを知ったので、わざわざ逆のことを言った、「玉を取るな」と。そういう経緯がないとこの命令は不自然だ。反乱というのは天下国家の一大事で、こんな時に皇后であり国母ともあろう者が謀反人の遺体の心配してる場合か!? しかもあの鬼のようなコワモテの石之比賣が夫の恋人候補だった女性に対してそんな細かい気を使うのか!? …というと、こんな反論がくるかもしれない、「そういうキャラのはずの石之比賣だからこそ、意外な一面をみせることに文学的な妙味と、古事記がもつ多面的な人間性に対する深い理解があるのだ」、と。まーねー。それはわかるんだけどさー。それなら、せめて「服をぬがすな」とか「下着をとるな」って話になるべきじゃないの? 手足の玉を取るのが下着や服をさておいてまでの「辱め」になるのか!? やっぱりおかしいってば。これは八田若郎女の策(=逃亡幇助・逃亡隠蔽策)を封ずるための、石之比賣からの反撃なのであり、結果的に「朝令暮改」になってしまったんだろう。

4)追撃軍の経緯
さて、追撃する将軍のうち密命を帯びた阿俄能胡の立場になってみると、隼総和気と女鳥は二人でくっついてるから、ただでさえ同行してる兵士や将校らがみてるところでどちらか一方を逃してもう一人を捕まえるということを自然に演じるのはかなり難しい。雄鮒も雄鮒で、阿俄能胡がへんな工作しないように監視しろという密命を帯びていただろうからなおさらだ。古事記は大和の宇陀で、日本書紀は山越えした後の伊勢で二人に追いついて殺したというが、宇陀で殺された二人は影武者で、阿俄能胡はこれで使命をはたしたとして遺体を運んで帰還しようとしたが、雄鮒の情報網に逃亡者らしき集団の目撃情報が入り、影武者であることがバレた。しかし逃亡側にとっては時間かせぎにはなった。宇陀の曽邇村から隼別王と女鳥王は伊勢にいかず伊賀を北にぬけ近江に入った。のちに近江山君稚守山(あふみのやまのきみ・わかもりやま)という者が協力者として発覚するが、近江山君というのは狭々城山君(ささきやまのきみ)ともいい、近江の蒲生郡・神埼郡(今の東近江市のあたり)を本拠とする氏族。しかし逃亡者は別方向の伊勢に向かったと偽情報を流しておいた。これは隼別と女鳥王の仕業ではなく阿俄能胡が自分で流した偽情報。だから追撃軍は書紀のいうようにそのまま北の伊賀と南の高見山地の間を東に山越えをして伊勢に出た。北上して近江に入った隼別と女鳥王は、まずは一旦、佐々木山君が匿ったんだろう、佐々木山氏は山部だからもともと縁が深い。ただし稚守山は帝都(難波の高津宮)にいたので、現地の指揮をとったのはその妻だった。そして一行は、近江の山君氏の本拠からすぐ東の、伊勢国の北端、今の四日市市の菰野町(後述)のあたりに潜んで、阿俄能胡を待ち受けた。そうともしらない追撃軍は、事前情報によれば二人は伊勢神宮に逃げようとしているのだから、ここからまっすぐ東の皇大神宮をめざせば追いつけるはずだが、阿俄能胡はあえて独自の判断で北進を主張、わざと雄鮒と対立し、二手にわかれることになった。しかしこれは阿俄能胡の策で、伊勢神宮に向かってるというのも何度もいってるように偽情報だろう。雄鮒が一緒にいると逃亡幇助と替え玉遺体の工作ができないのだから、何とか離れてもらわねばならなかったのだ。ドンブリ勘定だが水上交通での移動は陸路のほぼ二倍のスピードとして考えると、雄鮒が陸路で伊勢神宮に着く頃には、阿俄能胡は雲出川の水運を利用して阿漕浦に出て海路北上して今の四日市市内に着いたろう。
日本書紀は、伊勢の蔣代野(こもしろの)で二人に追いついて殺したというが、ここがどこか不明という。一案として、前述の菰野町(つまり四日市の市内)が候補でどうかな。ここは伊勢の北端で、近江の狭々城山氏の本拠のすぐ東にあたる。
雄鮒は伊勢神宮にいてここにはいない。むろん伊勢神宮には標的はいないわけで雄鮒は神宮関係者を取り調べたり、周辺に捜索を広げたりして、無駄に時間を費やしている。その間に阿俄能胡は四日市のあたりで悠々と隼別・女鳥王・近江山君稚守山の妻らとひそかに会見、打ち合わせ後、阿俄能胡はなにくわぬ顔で「隼別王と女鳥王を追いまつれ」と号令しながらさらに東へどんどん進軍したんだろう。「蔣代野」って地名なんだが、もし「伊勢」が誤伝っだたとして伊勢にこだわらなければ、愛知県に3ヶ所も「菰」がある、すなわち知多市新知「菰」、刈谷市一ツ木町「菰」、豊田市沢田町「菰」。どれぐらい古い地名かわからないし前二者は古くは海だった可能性もあるが、遺体の保存処理を誤ったということにするには遠いほうが都合がいい。「『蔣』代野」は「コモの地の代わりの場所」の意味にとれる。四日市の菰野町と豊田市の沢田町のうち一方が「蔣」でもう一方が「蔣代野」なわけだろう。

5)遺体の隠蔽工作
菰野町で秘密の会合をした時、女鳥王は左右の二の腕の玉のうち、一つを稚守山の妻に。もう一つは釆女の磐坂媛(いはさかひめ)という者に下賜した。磐坂媛は宮廷にいてこの場にはいないのだから、稚守山の妻に託したんだろう。本居宣長は参考までに大和国城上郡長谷郷に磐坂村ありといっていて(今の桜井市の岩坂)、ここは橿原と宇陀の中間にあり、いかにも宇陀の曽爾に向かう途中の通過地点だったっぽい。磐坂とか岩坂という地名は、青森県・宮城県・福島県・石川県など各地にあるが、今回の磐坂媛は、近江国甲賀郡の岩坂村(蔵部郷か山直郷か不詳)の関係だろう(今の甲賀市水口町の岩坂)。甲賀郡のあたりも近江山君の本拠に隣接しており、ここも支配地だったんだろう。采女は地方豪族から宮廷に差し出される女性だから、磐坂媛は近江山君から献上されていた釆女と思われる。彼女は宮中にいて仁徳帝や磐之媛皇后の動向を隼別王と女鳥王に伝えるスパイでもあり、また二人の脱出を立案、計画したのみならず、もしかしたら実行の際も途中までは指揮していたかもしれない。久米部は忍者であり、久米部=山部(山の民)という前述の定式からいうと、磐坂媛はくのいちであり、甲賀忍者の元祖かもしれない。
命がけで自分を逃がそうとしてくれた二人(稚守山の妻と磐坂媛)に対して、これぐらいはせめてもの恩賞だろう。実はこの玉はとんでもない由来をもったとてつもなく尊貴な神宝であり、目にするも恐れ多いしろもの(といっても三種の神器の玉じゃないよ)であり、逃亡の身の上でこの先ふさわしい環境で奉斎できるとも限らないから、名目や形式は「二人に下賜した」のであるが、その実は「しかるべき聖所に奉安してくれ」という意を含んでいたかもしれない(後々の話に影響してくるのだがこの話は今回はふれない)。また阿俄能胡にも恩賞があった。逃亡中の身とて物はなにもないが、男が欲しいのは物でなく名誉ではないだろうか。「大楯」(=我を守る大いなる盾)という名も、この時に女鳥王から阿俄能胡にじきじきに賜った名ではないのか。
さて、書紀では、遺体を埋めたところは伊勢の廬杵河(いほきがは)のほとり(今の雲出川のほとりの家城町)という。伊勢の中でもかなり大和の宇陀に近いところまで戻ったことになる。往復距離が長いだけ時間をかせげる。当時は夏でも氷を用意できたことは仁徳紀に氷室(ひむろ)のエピソードがでているし、塩漬けにする方法もあったろうし、書紀によれば二月で、今の暦で3月だからよほどトラブルがない限り遺体を都を運んで首実検できない、なんてことはないだろうが、「氷と塩の処理に失敗したらしく三河の東の端から遺体を運んで伊勢まで戻ったところで腐乱がひどいので埋めました」、と言って言い張れなくもない。責任者は処刑も覚悟せねばならないが。磐之媛にしていれば処刑が当然だろう。
昔、『レインボーマン』っていう特撮番組があったんだが、ダッカーっていう悪の戦闘機がレインボーマンを撃墜して、戦闘員がレインボーマンのマフラーを拾って「やっつけた証拠」として秘密基地に持って帰ったわけよ。そしたらキャッシーでいう悪の女幹部がヒスって「こんな物が証拠になると思ってんの!?証拠というなら肉の一切れとか骨の一本とか持って来なさいよッ!この役立たず」と大激怒。俺も叱られたい!これがちょうど磐之媛のこの時の気分だよな。「手にまいてた玉!?証拠というなら本人とわかる状態で保存した遺体を運んできなさいよッ!この役立たず」ってな。俺も怒鳴られたい!
まぁ遺体は埋めたといっても、顔とかの肝心の部分は腐乱が酷いので埋めちゃったけど、玉だけだと証拠にならないかも知れないから玉のついた状態で手足だけ(むろん替え玉の遺体だが)切り取ってもってきたってこともありうる。弥生時代の遺跡(長崎県だったか九州の北西部だったような気がするが忘れた)から貝製の釧(くしろ)(=貝をくり抜いて作った腕輪)をつけた女性の骨がでてきたことがあって、これは成長前に腕にはめたもので、成人後は死ぬまで(腕を切断しない限り)生涯はずせないようになっていた。女鳥王の釧(書紀では「手玉足玉」)はどういうタイプのものか不明だが、その場合でも、替え玉の遺体の手足なんだからそれについている玉もニセモノってことになる。しかし判定するのは同母姉の八田若郎女であり、彼女もグルなんだから「おぉ、これは本物じゃ!」という台詞が事前にきまっている。
雄鮒は伊勢神宮とその周辺を捜索に力を入れていたが空振りに終わった。情報の真偽を判断ミスして、大楯に出し抜かれたことになる。おかげでこの後なんの責任も負わされずに済むことになる。

6)将軍大楯の無罪判決
で、八田若郎女からの命令が「皇女を辱めないように玉を取るな」ではなく「殺した証拠に玉をとってこい」だったわけだが、石之比賣からの命令で「玉を取るな(=ちゃんと遺体をもってこい)」に変更されたのは上述のごとし。しかし大楯としては本心では八田若郎女の派閥なわけで、表面的・形式上は石之比賣の命令に従いつつも、実質は八田若郎女の希望を成就したいのだが、とりあえずは「玉は取りませんでした、遺体は埋めました」と報告するしかない。だがこれでは本当に殺したという証拠が何一つないわけで、命令を成就したことにならない。遺体を埋めざるを得なかったのは(報告によれば)保存処理に失敗したからだが、これは警察官を兼ねていた当時の軍人にはあるまじき重大な失態で、石之比賣からすれば処罰は必定だが、不可抗力だったとして不問に付されたのではないか。仁徳天皇としたらこれ以上「アンチ葛城派」を刺激したくないのだ。ここまでが二月の情況。

7)大乱勃発と大楯の第二審
しかしこの直後から、九州の隼人、奥羽の蝦夷、飛騨の宿儺が一斉に反乱をおこした。むろんこれはすべて隼別王のシンパだというのは公然の秘密だ。こうなっては隼別王を殺したからそのシンパが仇討ちに蜂起したのだという説をなす者や、隼別王は生きていてこれらの騒乱を背後で指図しているのではないかという噂も絶えない。平安時代に坂東で平将門と瀬戸内海で藤原純友が同時に反乱を起こした時と形勢が似ている。しかもこれをみて、百済・新羅に不穏な動きあり、倭国の将軍に無礼な態度をとったり、定期の朝貢を怠る等の、日本を軽んじる傾向がでてきた。この時の朝廷は平安貴族のような軟弱者ではなく、皇族も公卿大夫も戦時にはみな武将を兼ね、後世の武家政権(幕府)のように尚武の気性にあふれていたものの、非常事態であることにはかわりない。
隼別王の逃亡の直後にこのような反乱が立て続けに起こるのは偶然ではないだろう。確実な証拠はなくても、仁徳帝自身が女鳥王に甘く、八田若郎女のような女鳥王の逃亡を幇助しようという連中がトップにいるぐらいだから、石之比賣の心証的には、もうこれは絶対、アンチ葛城の一派がグルになって隼別と女鳥を逃したにちがいないのだ。こうなると、大楯の罪が改めて問題になる。だって命令に背いて謀反人を逃したんだから。といっても証拠はない。八田若郎女は「あの玉は本物だった」と言い張るし、大楯も無罪を主張する。しかし今の裁判とちがって「疑わしきは罰せず」という原則があるわけでもないから、権力者である石之比賣の意向もある程度は通ったんだろう、そこで判決としては書紀にあるように「玉手」の地を献上することでギリギリ死刑をまぬがれたのだと思われる。
当然、石之比賣はおもしろくない。東は蝦夷、西は隼人が叛き、海外では三韓も我が国から離れようとしている一大事に、敵の黒幕はもう死んでる等と現実逃避に走り、不忠の将軍一匹処刑にできぬとは…。そこで一計を案じ、情況を逆手に取ることにした。むしろ八田若郎女の策に乗っかって、逆プロパガンダ戦術にでた。つまり、「隼別と女鳥は死んだんだ、それは証拠があがってるんで間違いない。現在の反乱軍の首謀者はバラバラで、けして隼別と女鳥が黒幕なのではない。反乱勢力に味方するのはただの朝敵、叛賊になってしまうだけで、けして隼別王や女鳥王に味方することにはならないのだ」という考えを世の中に広めていった。これが功を奏し、反乱軍の勢いが止まると、「やがて反乱が完全に平定されたら、今度は隼別王や女鳥王のシンパや協力者がしょっぴかれる」という噂まで流れだし、アンチ葛城派の活動家たちは恐慌をきたし、庶民からの反乱勢力への批判もやかましくなってきた。世論なんてのは勢いだから、こうなると結局、隼別王と女鳥王の逃避行も、仁徳天皇の天皇としての正統性の無さへの抗議という大義名分から擁護するのが難しくなり、「二人の逃避行は個人的な恋愛という私利私欲からでたもので、天下国家に大混乱をもたらしたにすぎない」という葛城派の主張がもっともらしくきこえて、庶民からも支持されるようになってくる。これでは、隼別王と女鳥王がただの悪人になってしまう。アンチ葛城派としては早急に、何とか策を講じねばならない。

女鳥王の玉釧(たまくしろ)・後編
8)稚守山の妻と磐坂媛の宣伝工作
ところで、女鳥王から稚守山の妻と磐坂媛の二人に下賜された玉だが、その由来根源を知ればあまりに尊貴な玉で、二人は、玉の霊威を畏れた(自分のような者が保持しているのは恐れ多いと思った)が、しかるべきところに奉安しようにも、女鳥王の玉だと称される偽の玉が遺体の検死の後で「妹の形見」として八田若郎女に接収されていたから、今さらここに本物がある、とも言えない。だから二人としては密かに八田若郎女に返却するしか選択肢がない。それで八田若郎女が素直に受け取れば何事もなかったのだが、「それはお前たちの忠義に報いようとして妹が賜ったものだからお前たちの物じゃ」といって断ったか、もしくは間者が覗きみていたのに気付いて「玉が偽物だったと申すかウツケ者め」と二人の申し状をありえぬこととして却(しりぞ)けてしまったか、経緯はわからぬがとにかく受け取り・受け渡しはかなわぬことになった。この玉は女鳥王のものになる前は石上神宮にあったので、石上神宮に奉納する手も考えたが、そうすると、これほどの玉をどこからもってきたのか、どういう由来の玉か根掘り葉掘り聞かれるおそれがあるし、石上神宮の神官ならこの玉を見知っていてマズイ展開になるかもわからない。なのでさけたか、あるいは石上神宮は八田若郎女と女鳥王の姉妹とは近い関係にあるので、隼別王のシンパだった可能性もあるが、上述の八田若郎女と似たようなパターンで受け取り拒否されたんだろう。
その頃、「隼別王と女鳥王はやはり誅殺されてたんだ、あの二人は自分らのワガママで日本に前代未聞の大乱を起こしてしまったウツケ者だったな」という悪評が世に満ちていた。当然、後宮では、石之比賣の天下はゆるぎなくますます横暴を極めてきた。一方で、石之比賣から睨まれている非主流派はお通夜のように消沈していた。むろん内心ひそかに女鳥王に忠誠を誓う稚守山の妻と磐坂媛の二人は一矢報いざるべからずと悲憤慷慨はすれども、できることといったら、「いや、私は生きてると信じますよ、女鳥王を娶った隼別王こそ本当の天皇様なんですよ」と地道な布教をするぐらい。だが、稚守山の妻だけの力では世論の風向きをかえるまではなかなかいかない。しかし磐坂媛が担当する後宮の中では、案外この努力の成果はあった。なぜなら、儒教ってのは当時の女性上位な風潮に対する男性解放運動として受け止められていたのと、女性は儒教のような性愛を抑圧しようとする理屈に好意をもたないのと、漢字に興味がないから。後宮の女性は基本的にアンチ葛城派なのであって、後宮のトップにたつ石之比賣だけが浮いてるのである。そういうわけで宮廷に出仕しなければならない下級貴族の女性は、石之比賣の覚えめでたい一部の女性を除いてアンチ葛城派なのであるが、実は上位の女性たち(=つまり石之比賣のとりまき連中)もハラの中ではアンチ葛城派なのである。てゆーか、そんなの、芸能界にいる女性は全員ハラの中では和田アキ子が嫌いなのと同じで説明する必要ないだろう。ましてや磐坂媛は山君からの出仕で、山部系の一族でもとから隼別の係累とみなされかねない一族なんだから、和田アキ子が君臨する宮廷ではさぞかし肩身がせまく、あるいはいじめにあってたりした可能性もあろうよ。で、後宮の世論がかわれば、世間にも影響が出る。中国の後宮とも江戸時代の大奥とも違って、この時代の後宮は外部と遮断された世界ではないから、後宮での話ってのは信憑性の高い情報としてすぐ出回るのである。

9)石之比賣のワナ
話を戻して、二人の布教がうまくいって同調者が増えてきても、後宮の外の世界はかわってないのだから、そのうち同調者たちも「隼別王と女鳥王は死んでるはず」っていう世間の常識に抵抗して信念を保持するのも難しくなってくる。そうするとやがて「生きてるって証拠は?」って話になる。はじめのうちはあれこれの理屈で論証してみせてその場を繕うことができても、やはり女性は論証ではだめで、やがて実証、物証を求めてくる。そこで玉の登場ですよw 女鳥王の玉は名も無いただの腕飾りの玉ではなく、超有名なもので、女鳥王自身は後宮入りしたことはないが、宮廷に出入りするほどの上流社会の女性なら誰でも一回や二回は見知って語り草にした玉だった。皇后(古事記では石之比賣、書紀では八田皇女)だけが一人知っていたという種類のものではない。
で、後宮に女性多しといえども限界はあるので、いずれは石之比賣のとりまきの耳に届くわけだし、後宮の外も含めて、もとよりどこにスパイがいるかもわからないのだから、こういうのはある程度ひろまっていく直前に自重せねばならないものだ。が、やはり判断の難しいところでもある。案の定、石之比賣は情報網を通じて二人の行動をキャッチした。しばし泳がせつつ、機会を窺って手下を接近させ、偶然を装って目撃させ、「きれいな玉ですねー。今度の宴では絶対つけてきてくださいね!」などとトボけたプレッシャーをかけつつ、後日、石之比賣の目の前で「あれ?こないだのきれいな玉は今日は付けてないんですか?」等とそらぞらしい台詞を言わせる。すかさず石之比賣は「ほう、そのような玉、ぜひとも見たいものじゃ。必ずつけて参れ」と厳命する。さらには別のルートから「石之比賣は女鳥王が大嫌い、なので会ったこともないし、女鳥王の玉なんて見たこともない」という偽情報をあらかじめ仕込んでおく。こうしてハメていくという寸法よ。女ってコワイな~w

10)石之比賣 vs 八田若郎女
で、十一月の大嘗会の宴で、ついにその日がきた。古事記は大嘗祭も新嘗祭も一言もなく、ただ宴としかいってないのに、日本書紀は「新嘗の月の宴」と書いている。これのなにがおかしいのかというと、新嘗会(=新嘗祭の宴)ならそう書けばいいのに「新嘗の宴」でなく「新嘗の月の宴」とある。後世だと新嘗祭は十一月であり(俺の説では古くは九月だったと思われる。話が煩雑になるので詳細な論証は今回は省くが、この事件は十一月ではなく九月上旬ぐらいとして読まれたし)、新嘗祭と無関係なら「十一月の宴」と書けばいい。「新嘗の宴」でもなく「十一月の宴」でもない、「新嘗『の月』の宴」って何だ? 通常、後宮のイベントには、男性は参加しないし、たとえ皇女でも後宮入りしていない女性(つまり公式に妃でない女性)は参加しないものと思うが、大嘗会の宴はべつに後宮の単独の主催ではないのだから、参加資格(というか参加義務というか)の枠が後宮にしばられず、男性陣はもちろん参加したし、通常は参加できない下級貴族の女性や、妃でない皇族女性も参加したんだろうと思う。ところが、古事記にしろ日本書紀にしろ、このシーンはどうも女性だけの宴会だったかのような印象がある。これはどういうことだろうな?
謎解きとしては、正確にいうと中国のような「後宮」という制度上の枠組みがあったわけではなくて、別のシステムがあった。日本書紀が妃に入れていない多くの女性を、古事記は妃だったかのように書いてるが、古事記は基本的に「制度上の妃という概念」に従って書いてるのではなく、「某女に娶(みあ)ひましき」みたいな書き方で、要するに肉体関係をもったかどうかを基準にしている。日本書紀は中華式の後宮制度を前提にしてるので、古事記が「娶(みあ)ひましき」(意訳:妃でした)と書いていても、書紀だと妃のリストに入っていない女性というのがよくある(仁徳天皇だと宇治若郎女など)。これは明らかに古事記のほうが古い時代の実相を伝えているだろう。当時の日本は、前近代のハワイやサモア諸島のように性愛がすべての根本で政治の力学を形成していく社会や、制度でなく行為が秩序を生み出していくバリ島の劇場国家のような社会なのであり、大陸風の、観念的な組織図を根本とするような意味での「制度」で動いている社会ではないのである。しかしそこで石之比賣が浮いていたというのは、一つには彼女は大陸風の「後宮制度」を持ち込もうとしていたとも考えられる。彼女は仁徳天皇が「皇女」を妃にすることを嫌い、それはもちろん皇女が自分より身分が高いためにキサキたちのトップの座を失うという利害損得の問題だったが、儒教の「同姓娶らず」からいえば中華式の後宮には自動的に「皇女は入るべからず」となるはずで、石之比賣にとって都合のいい理論が伴っている。
で、石之比賣がふだんから大陸風の後宮制度という新機軸を打ち出していても、今回は後宮の行事ではないので関係ない。そこで彼女は、新嘗の宴と同日か別の日かわからんが少なくとも同じ月の内に、「女性だけの」「後宮主催の」(つまり石之比賣主催の)特別イベントとして宴を催した。むろん八田若郎女も招待されたが、それはサプライズであって直前まで極秘にされ、稚守山の妻と磐坂媛も知らなかった。
かくして、用意周到に完成したワナに、八田若郎女・稚守山の妻・磐坂媛の3人は完全にはめられた。石之比賣は稚守山の妻と磐坂媛の玉をほめちぎりながら、八田若郎女の登場の瞬間のベストポジションに導いておいた。喝采をあびつつ登場したのが八田若郎女だと気づくと、二人は腰を抜かして驚いた。八田若郎女も、目の前にいる稚守山の妻と磐坂媛に気づくと、彼女はみるみる青ざめた。余裕の微笑みをかます石之比賣w 事情をしらない一般参加者は、これは石之比賣と八田若郎女の和解のセレモニーと(勝手に)受け取って大喝采w しばしの雑談でそれぞれの動揺の具合を見計らって、石之比賣から「おや、これは女鳥王の玉に似てますねぇ」と爆弾発言。当然、八田若郎女は否定せざるをえないが、それこそが石之比賣の思う壺。「皆の者、聴いたかや。女鳥王はすでにこの世に亡きこと、八田若郎女がいまいちど確言したもうたぞw」、ざわめいたのかシーンと静まり返ったのかまではわからんが、続けて「ここなる二人(稚守山の妻と磐坂媛)は八田若郎女の御心に背き奉り隼別と女鳥が生きている等と虚言を弄した罪これあり、わらわが必ずこれを罰して赦さじ」、さらに追い打ちをかけるように「八田皇女は女鳥王の形見の立派な玉をお持ちですが、せめてわたくしはこの二人のニセ玉を所望したいものです。もちろん万が一これが本物ならわたくしごときが私物化するわけには参りませぬが」と。これは事実上の恫喝である。あまりの緊張感に、ここで誰からともなく「一旦は司直の手に委ねて真相を糾明すべきでは」という意見もでる。まぁ時間稼ぎだな。この場合、司直とは八田若郎女のことである。大楯の追撃戦についての功罪判定はすでに一回決着しているが、この時代は今と違って司法権が独立していない。だから皇女がさらに調査しなおすというのは喩えていうと地方裁判所の判決に不服だから最高裁にもってく、みたいな話なわけ(古事記では石之比賣が一発で女鳥王の玉だと見抜いたってことになっているが、日本書紀では八田皇女が役人に命じて調べさせたことになっている)。
八田若郎女が二人の玉をあくまで偽物だというなら、稚守山の妻と磐坂媛は虚言を弄した罪にはなるが、まぁ根も葉もない噂話に興じていただけともいえるので、罰は受けるにしろ死刑にはならんだろう。しかし隼別と女鳥王はあらためて死んでることが念押しされる。また本物の玉は石之比賣に巻き上げられる可能性が高い。逆にもし、八田若郎女が二人の玉を本物だと認定したら、稚守山の妻と磐坂媛は無罪(入手ルートで盗みや強奪や、逃亡幇助をしていれば別だが)。だが八田若郎女は本物の玉を確保はできるが前に贋物の玉を見抜けなかったことになり、かなり威信を失う。それに入手ルートも問題になるし、大楯の追撃報告との矛盾も出てくる。大楯はわざわざニセの玉を用意して、虚偽の報告で主君を騙したことになるが、無関係な第三者が短絡的に考えれば、大楯がその玉を着服するためだろう、となる。稚守山の妻と磐坂媛が直接の知り合いだったとしても、貴族の社交界での顔見知りぐらいなら問題ないが、女鳥王の玉をくれてやるほどの親密な知り合いだとなると、どこでなぜ深い仲になったのかも追求されるだろう。女鳥王の玉と釣り合うような物品で、引き換えに大楯が欲するものを稚守山の妻と磐坂媛が用意できたとも想像しにくい。二人の女性は出世の口利きできるほどの地位でもない。だから二人の体を買った、愛人契約でもしてたんだろう、というのが大方の推定だろう。
そこで八田若郎女は、取り調べという名目で稚守山の妻と磐坂媛の身柄を預かって一旦は引き上げた。むろん大楯にも出頭を命じた。取り調べといってもこの4人はグルなわけだから、今後の行動についての打ち合わせだが。

11)大楯の最終審(第三次判決)
で、稚守山の妻と磐坂媛と大楯の3人のめざすところは、隼別王と女鳥王の生存を世に知らしめることが最重要だが、これはここで踏ん張らずともいずれ世に知れることである。だが、八田若郎女も入れた4人は、玉を石之比賣に奪われるのはさけたい。この際、大楯がすべて泥をかぶって、本物の玉を確保しようということになった。むろん大楯は死刑になる。
大楯にしてみれば生き延びることは本懐でない。このままでは石之比賣のいうがままに事は推移し、八田若郎女の意図はないがしろにされたことが世に広まるばかりで、八田若郎女派(=女鳥派)としては面白くないし、ちゃんと密命通りに二人を逃したのだ、「隼別王と女鳥王は生きている」というメッセージを世に送りたい。筋書きとしては、玉に目がくらんだ阿俄能胡(=大楯)がそれを奪い取り、自分の妻に与えた。阿俄能胡の妻は、それを稚守山の妻と磐坂媛に貸し与えることで定期的に金品を受け取っていた、という偽のストーリーをこしらえてこれを調査の結果報告とした。これなら処刑は大楯一人で済む。公式発表としては大楯が女鳥王の遺体から玉を剥いだってことになるだろうが、庶民はこれをきいて「あぁ、隼別王と女鳥王は生きているな」とちゃんと理解できる。当時まだ山部連という氏族ではなかったにせよ大楯(=阿俄能胡)は山部で山の民の係累だから隼別王のシンパであることは自明で、世の中周知の事実であり、女鳥王の死体から玉を剥ぐなどするわけがないと皆わかっているから、もし女鳥王の玉をもっていたならそれは下賜されたのであり、下賜されたのならそれは逃亡を幇助した功績による恩賞だろうということまで、当時の人なら誰でも一瞬で理解できたのである。
石之比賣としては八田若郎女がどっちに出ても、敵対グループに何らかのダメージは与えることになるので高みの見物だったろう。だが八田若郎女は本物認定してきた。こうなると、石之比賣も自分の命令がないがしろにされたことは不快だが、大楯はつまり謀反人を意図的に逃したのであり、大楯自身が謀反したのも同然だから死刑なのである。しかしそれをおおっぴらにするのは隼別王と女鳥王が生きていると公式に認めることになるからできない。それで死刑の名目として、「皇女を殺したまでは命令によって謀反人を殺したんだから問題ないが、死体の肌も暖かいうちに玉を(不法に)剥ぎ取って自分の妻に与えた罪」といってるが、このうち死体が暖かいか冷たいかとか妻に与えたか他人に与えたか等は感情論にすぎず、皇女の玉を不法に略奪したという点だけが罪である。実際には当時の日本人の感覚として死体が身につけていたものは穢らわしいものであって強盗犯ですら奪い取るなら生きてるうちの話だったろう。だから石之比賣の言い草は、大楯がこれほどまでに卑しく嫌らしい人間だとわざわざ強調するためにいってる。二王の逃亡については石之比賣としては一杯くわされメンツが潰されたんで、放置したら今後は自分がナメられるようになる。だからしっかりお仕置き(というか見せしめ)しといたってことだろう。
仁徳天皇としては痛し痒しの結果だが、古事記の文脈では天皇ではなくあたかも石之比賣の権限で死刑にしたかのように書いている。大楯を死刑にしたのは八田若郎女へのあてつけもあったのかもしれない。まぁ黒幕が八田若郎女だというのは誰でも察するところだったろうが、仁徳天皇としては八田若郎女を罰することも立場上できないのである。
というわけで大楯(=阿俄能胡)は処刑され、播磨佐伯氏は没落して伊予来目部に落とされた。
阿俄能胡が大楯に改名した本当の経緯が世の中に知られるようになったのは死刑になった後のことだろう。それだけ、世の中には女鳥王のシンパ(=隼派)は多く、石之比賣(=葛城派)は嫌われていたのである。

石之比賣の熊野遠征
大楯処刑のニュースは語部(かたりべ)のネットワークに乗って即時に全国に届いた。これで、東西の反乱軍の首謀者というかトップにいるのは隼別王と女鳥王であることが全国民に認知され、驚愕と不安の渦が巻き起こった。中央貴族も地方豪族も一般人も、仁徳天皇をこれまで通り天皇として崇める派閥と、隼別王を真の天皇とみなしてそれに従おうとする派閥、そして態度曖昧な中立派に分裂してしまった。中世の南北朝のような情況である。
日本書紀だと、仁徳三十年九月十一日(これは俺の試算では仁徳十三年が正しい)、磐之媛は御綱柏(食器にする葉)を集めるため熊野の岬へ航行しているが、日常物資の収集など底辺仕事(下級官吏の仕事、または民間に委託する程度の仕事)で、よほど特殊な事情がないかぎり皇后様が直々に指揮するわけないだろう。隼別と女鳥王が熊野に潜むという情報を得た(/得ていた)ので、神功皇后よろしく石之比賣が海軍を率いて捜索&逮捕(もしくは誅殺も可)しにきたのだ。仁徳天皇その他、誰かに任せるとまた手加減して逃してしまわないとも限らない。この艦隊はおそらく吉備氏の瀬戸内水軍が主力だったと思われる。御綱柏を集めたというのはその後で、熊野まできた「ついで」に兵員や地元民を徴用してやった仕事にすぎない。前述のように新嘗の宴は十一月でなく九月上旬だったとして、この熊野遠征の日は、大楯の処刑と同日か数日後ぐらいだろう。
ここで熊野にいた正体不明の賊は一戦も交えずして一時撤退して姿をくらましてしまった。さらに深追いするなり、捜索してもいいのだが、のんきに御綱柏を集めだしたというのはこれも作戦なのである。熊野だの吉野だのっていう山奥は、追うほう攻めるほうが不利で、逃げるほう守るほうが有利だから、わざと隙きを作り油断しているようにみせかけて、賊軍を釣り出そうという作戦だろう。ところが、ここで後から遅れてきた職員が、都での情報として仁徳天皇が八田若郎女とよろしくねんごろにやってるって言うもんだから、自分が天下国家のために女だてらに甲冑きて戦陣にいるのに、そっちはちちくりあってんのかよと激怒もしたろうが、馬鹿らしくもなり、さっさと引き上げることにした。帰りの船上ではどうやってとっちめてやろうか策も練ったことだろう。
石之比賣の艦隊は淀川を北上して山城方面に入っていき、大阪湾からその脅威が消え去ると、その隙きを埋めるように隼別王の軍勢は再び熊野から押し出して、住江のあたりを占拠してしまった。後世の南北朝時代も、吉野にこもっていた南朝が全盛期の時にはまず賀名生(あのう)にでたが、さらに大軍を送って京都(山城国)を占拠した時には賀名生からさらに住吉に遷都していた(住吉大社を行宮にしていた)。住吉は九州の征西府(懐良親王)との連絡・交通の利便性もあったろう。隼別王も、九州では隼人が蜂起して隼別王の勢力の一角となっていたのである。

「隼別王の乱」の概論
地方にのがれた隼別王は、仁徳天皇への反対勢力、つまり大山守の乱での残党やそのシンパたちとの従来からの計画通り、挙兵して、日本列島の全域を二分する大戦乱となる。世間一般での認識だと、隼別王は女鳥王との恋愛に目がくらんで謀反の意志を起こしたが、まだ意志を抱いただけで女鳥王の歌のせいで仁徳天皇に察知され、何もしていないうちに伊勢神宮に逃げ出すハメになり、伊勢神宮に着く前に追いつかれてオダブツになった、ということになっている。こんなの反乱のうちに入るかね? 未遂で終わってる。富士宮下文書をもちだすまでもなく、隼別王がまんまと逃げおおせたことは推測に難くない。仁徳帝の治世は書紀の粉飾にかかわらず他に類をみないほどの混迷の世だったことは「読めばわかる」ぐらいの話なのはこのブログでたびたび書いてきた通りであるし、隼別王の乱が仁徳天皇自身の正統性と朝廷の根幹にかかわる重大な事件である以上、仁徳朝に起こった3つの兵乱(後述の「新羅・蝦夷・宿儺」の乱)もそれと連動して起こったにきまってるだろう。反乱っていうのは起こすほうもたいへんなんで気軽にちょいちょい起こせるものでない。バラバラに偶然には起こらないのだ。
さてまた、大山守の乱、隼別の乱、墨江中津の乱の3つは続発的に起こった一連の事件であり背景を同じくするのであるが、このうち大山守の乱と墨江中津の乱は、先帝崩御と新帝即位の合間に勃発した。それはもちろん正義をかかげ、叛賊の汚名をまぬがれるための策である。天皇不在の時には争いあう皇子たちの立場は対等で、どっちが正義とも形式上は区別がつかない。だから事前の準備に限界があり往々にして短期決戦のクーデター的なものになる。大山守の乱と墨江中津の乱は長くても数ヶ月で年をまたがず、短ければ数日で終わったろう。だが隼別の乱は記紀の中でも珍しく、仁徳天皇の在位中に起こっている。これは相当の不平不満が社会にたまりまくっていたことを暗示する。また謀反の側が自分たちはけして少数派ではないという自負もあったろう。だから規模も大きく、おそらく数年(5~6年)も続いたのではないか。ちょうど中世の南北朝の騒乱に似て、隼別王も天皇を自称していた可能性もなくもない。日本書紀には仁徳朝での事件として新羅の不貢とそれに対する出兵、蝦夷の反乱、両面宿儺の反乱がバラバラに出てくるが、これらはすべて「隼別の乱」という大規模戦争の3つの戦線なのである。これについての詳細な戦況の推移や関係勢力や登場人物の背景についてはhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-54.html)">「5速総和氣王の乱」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-54.html)に書く。今回は無し。

八幡宮が皇位の守り神である理由
八幡神は孝謙天皇と道鏡の事件でもご神託を発したことで有名だが、皇位継承問題に必ずでてくる神である。八幡神が後世までも皇位と皇統の守り神とされていたことは、奈良平安時代歴代の即位奉幣でもわかるし、皇位には縁のない枝葉の皇族だった後嵯峨天皇に「将来は皇位を継ぐであろう」とのご神託をくだしたのも八幡神である。八幡神がかように皇位の守り神であるのはどういうわけかというと、バカな連中は応神天皇が実は初代天皇だからなんだとかいってるが日本書紀があるのにそんな知識が平安時代に流通してたわけないだろ。かといって、孝謙天皇と道鏡の事件が最初なのでもない。道鏡事件の際になぜ伊勢神宮でも出雲大社でも北野天神でも上賀茂神社でも春日大社でもなく八幡だったのかといえば、その頃すでに八幡が皇位の守護神と考えられていたからに決まっている。が、なぜ八幡が皇位の守護神になったのか。その起源はおそらく仁徳天皇の時代の「隼総和気の乱」だろう。
応神天皇から正統の後継者と名指しされた菟道稚郎子がすでに亡くその子孫もない状態で、仁徳天皇はしばらくは中継ぎの天皇として認められてはいたが、仁徳天皇自身は後継者指名ではずされた過去をもつわけで、正統な後継者である菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)にもっとも近い女性、八田若郎女(やたのわきいらつめ)か女鳥王(めどりのみこ)のいずれかと婚姻しようとしたが、それもできそうもない事実が徐々に確定してくると、仁徳天皇が皇位に居座ることも疑問視されるようになってきたろう。では誰が正統の後継者なのか、女鳥王と結ばれた隼総和気王(はやぶさわけのみこ)が適格者なのではないか、とは当時の人なら誰でも考え得たことだろうが、それとても最終的には人智で判断しかねるところがある。だが、現代人なら死人に口なしという前提があるから思いつかないが、古代人は違う。この正統性の問題が生じたのはもともと応神天皇の後継者指名に端を発しているのだから、応神天皇の神霊から改めてご神託を頂けば解決するのだ。隼総和気の乱が官軍の勝利で終わったのは武力差や軍事的な戦術の問題ではなく、応神天皇=八幡神のご神託の結果である可能性がひじょうにあると思う。
記紀では隼総和気の乱はたいした戦争にもならず官軍が急襲してさっさと鎮圧してしまったように書いてあるが、これは元になった資料が語部(かたりべ)のもので、敗北者側に深く同情して愛惜をこめて美しい歌物語にしあげたもので軍事的な要素は最初から捨象した文学作品のようなものだった。そのため戦争の具体的な記述がまるまる落ちているのだ。

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5速総和氣王の乱」に続く

・2仁徳天皇は非モテ

H27年1月31日投稿 H26年1月15日(水)初稿
「聖の帝の御世」
1聖帝(ひじりのみよ)」から続き

仁徳天皇の恋人たち(なのか?)
仁徳天皇は英雄で、英雄好色というぐらいでまた艶福家でもあったかのようにいう人もいるわけだが、本当にそうかな? そもそも仁徳天皇は英雄というほどの何かした人なのかというと、記紀をみるとそんな華々しい武勲をあげたという話はない。謀反の鎮圧にも自分が陣頭指揮をとったわけでもなく将軍を派遣するだけ。艶福家(=モテる人)だってのは歌物語があるからそういうイメージなのかもしれないが、よくみるとこれらの歌物語は「仁徳天皇がモテた」ということをいう話ではなくて、「石之日賣(いはのひめ)の嫉妬のすごさ」をいうための物語なのである。まったく意図が違う。一夫多妻のイメージも、后妃の多かった応神天皇と比べてみればわかるが、仁徳天皇は同時に複数の后妃をもったことはなく、石之日賣を納れてからは皇后以外の妃はおらず、形式的には一夫一婦の状態だった。歌物語もぜんぶ悲恋に終わっていて、石之日賣の磁力圏にだんなが引き戻される話ばかりだ。仁徳天皇とからみのあった女性は、石之日賣の他には以下の六人いる。

1・日向髪長比賣◎(かみながひめ:諸県君牛諸井(もろがたのきみ・うしもろゐ)の娘)
2・桑田玖賀媛  (くはたのくがひめ:丹波出身の宮人(女官)。日本書紀のみ)
?・吉備黒日賣  (吉備海部直氏(きびのあまべのあたへ、名不詳)の娘。古事記のみ
3・八田若郎女◎ (和邇系の皇女:宇遅若郎子の同母妹)
?・宇遅若郎女 (和邇系の皇女:宇遅若郎子の母の妹の娘。古事記のみ物語なし
4・女鳥王    (和邇系の皇女:同上)


(イ)数字は『日本書紀』での物語の時系列。『古事記』は玖賀媛の位置に黒日賣が入ってるが『古事記』の記述は文学的効果から考えられた配置順であり実際の時系列ではないので、黒日賣と宇遅若郎女の2人は実際の時系列としてはどこに入るのかは推理が必要
(ロ)◎は記紀ともに系譜記事に出てくるが、◎のついてる2人のうち髪長比賣は添い遂げたのでなく応神天皇に再嫁、八田若郎女は実際は皇后にも妃にもなっていない。日本書紀の皇后か妃かの区別は後付けのもので当時の区別ではない。
(ハ)の宇遅若郎女は古事記のみ系譜記事に出てくるが、書紀の系譜では髪長比賣と八田若郎女の2人だけが妃だとし、宇遅若郎女を妃だと認めていない。古事記の系譜記事は后妃をあげているのではなく肉体関係をもたった女性のリストである。

この6人だが、ロマンスが成就したのは1例もなく、ことごとく石之比賣によって阻止されている。仁徳天皇は「英雄好色」とか「艶福家」というイメージとは程遠いキャラクターなのである。

追い出された「髪長比賣・宇遅若郎女」、みずから逃げた「女鳥王」
このうち髪長比賣と宇遅若郎女(うぢのわきいらつめ)を除く4人は、石之日賣に妨害・阻止されたことが記紀に明記されている。宇遅若郎女には詳細な伝承はないが、石之日賣の犠牲になったと推定するのが自然だろう。また髪長比賣は、まだ大雀王(仁徳天皇)が若い頃におそらく最初に娶った姫で、記紀にある通り、もとは応神天皇の妃(つまり義理の母)だったのをおねだりしてもらった。しかし石之日賣が入内してからはイビリ出されてしまったと推測される。このことは記紀は明示はしてないが系譜部分を丹念に読むと仁徳天皇とは離婚して、応神天皇の妃へと出戻っていることがわかる。このことはブログでも以前に詳しく書いたので「仁徳⑯〜武烈㉕の系譜」をご参照あれ。そして、女鳥王は仁徳天皇の求愛を最初から拒否して速総和氣王とくっついたが、その理由は「仁徳天皇は石之日賣の嫉妬を憚って八田若郎女(やたのわきいらつめ)を収めることができないから」とはっきり言っている。石之日賣が原因なのである。
八田若娘女と宇遅之若娘女は、古事記は后妃リストに入れてはいるが二人とも子供が生まれてないし、物語部分を読むと八田若郎女は結婚までいけず、妃になることができなかったように書いてある。これもおそらくは形式的もしくは追号的な妃扱いであって実際に妃だったわけではあるまい。日本書紀では宇遅之若娘女は后妃リストに入ってないが、誤脱したわけではなくて、ここは珍しく日本書紀の方が正しい。古事記は女性視点で弱い立場にいた二人への好意(もしくは石之日賣への悪意)から、贔屓して后妃扱いにしている。むろんここは例外で、つねには日本書紀の方が間違ってることの方が多いのであって、たとえば書紀では都合よく磐之媛(いはのひめ)が薨去したので八田皇女を皇后にしたとあって、後半の物語の中の石之日賣の役まで八田皇女に差し替えてるが、これは仁徳天皇があまりに情けないので日本書紀が改作したのだろう。他のとこで書いたが、仁徳天皇は偉大な人物でないと都合が悪い事情が、日本書紀にはあった。それと仁徳天皇の在位期間は実際は30年程度で、約50年を日本書紀では追加しているのだが、書紀は磐之媛が30年すぎに薨去したとして、この追加分の期間を八田皇女の皇后期間として創作している。古事記はその前の古い段階の原資料に依拠しているため(表にあらわにはなってないが約30年在位)最後まで石之日賣が大后のまま(=古伝のまま)なのである。

政略結婚の標的だった高貴なる三人
上記の5人のうち八田若郎女、女鳥王、宇遅若郎女の3人は皇族女性。応神天皇皇女で、仁徳天皇とは腹ちがいの姉妹。もし入内すれば石之日賣より格上になってしまう。しかもこの3人の母は和邇氏の出身で、和邇氏は尾張氏と並んで代々后妃を出す家柄であって、和邇氏系の血を引く皇子が他の皇子より優先して天皇になることが多かった。大雀王(仁徳天皇)よりも正統の皇太子とされた宇遅若郎子(うぢのわきいらつこ)も同じ母から生まれている。つまり石之日賣もしくは葛城氏からみた場合、この3人の女性の入内はなんとしても阻止したいわけ。仁徳天皇としては正統な継承者だったはずの宇遅若郎子が薨去したためやむをえず皇位についたという形であったため、自己の正統性を確保するためにも、宇遅若郎子に少しでも血筋の近い女性との間に男子を儲けたいはずで、なにも色恋だけでこの3人の女性に近づいたのではあるまい。

「嫉妬」ではなかった?
石之日賣といえば「ヤキモチやき」でコミカルな側面ばかり強調されがちだが、ただの民話かお伽話と思ってるのならともかく、歴史事実として考えるのならば、なんでこんなに「ヤキモチやき」だったのかという問題がある。一つには石之日賣がブスだったためにことさら美女には焼き餅を焼いたのだという予想をする人もいるかもしれない。だがちょっと待て。石之日賣という名からは神話の石長比賣(いはながひめ)が連想される。日本人の平均的な名前として「太郎と花子」という決まり文句があるが、この花子は美女に育ってほしいという願いからつけられた名だろう。古くは岩と花が対概念であり、神話から察すると、岩が醜女だが丈夫で長持ちなキャラ、花が美女だが命儚いキャラの象徴だった。昔の女性の名は本名が伝わることはまずなく、ことごとくアダ名や称号の類だと思ったほうがよいとは、これまたよく言われることだ。「石之日賣(いはのひめ)」も健康長寿を祈ってつけられた本名などではなく、その身体の頑健っぷりからついたアダ名かもしれず、一概にブスだったと決めつけることはできない。が、たぶんブスだったんだろう。なぜなら健康だったとしても、ブスでないと「健康なイメージ」を岩に喩えられることはないからだ。彼女の個人的な性格だけでは「大后」の巨大な権力はやはり説明つかない。地位にともなう権力が強大でなければ、例えば女性の地位が奴隷なみで、皇后でも形式的に敬われるだけで権力がなかったら、いくらヤキモチを妬いても何の問題も起こらないはずで、コミカルな描写の効果もなければ、悲劇の歌物語も生まれない。そこで二つ目に、皇后権力の社会的背景としては、神功皇后以来、日本では全般的に女性上位の傾向が強くなっていたとも考えられる。三つ目には実家が当代きっての大貴族、葛城氏だということがある。他の女性はすべて皇族か、自家よりも目下の出身かのどちらかということになるが、実はこれは嫉妬ではないのではないか。女性皇族については自分より格上の女性だからなおさら嫉妬したんだと考える人もいるだろうが、そうではなく、格上の后が立つと自分は「大后」としての地位から降りることになるのと、自分の息子に皇位がいかなくなる可能性が高い。だから嫉妬にかこつけて入内を阻止しようとしたのである。また格下の豪族の娘が入内して、我が息子より優秀な男子が生まれるのも同様の危険がある。そもそも格下の豪族は自家の家臣筋であって、そんなところの娘が次代の天皇の母にでもなったら、葛城氏の地位と権力も危うくなりかねない。別に家臣筋の娘の分際で自分とだんな(男)を共有するなんて許せない、ベッドの中では家来の娘とわらわが同等に扱われるなんて許せない、なんていう嫉妬の問題ではなかろう(まぁそれもちょっとはあったかもしれんけど)。本質は政治的な駆け引き、権力闘争の一部なのである。ただ、語部としては石之日賣の「嫉妬」の問題だとしてストーリー構成をした方が都合がよかった。なぜなら、庶民がそれを望んだからである。葛城氏が当時の庶民から敵視される存在であったことはこのブログで以前かいたので今回はふれない。また仁徳天皇が儒教派で、大陸文化の導入に熱心だったことを庶民が揶揄していたとも考えられる。儒教的な男尊女卑の教えが、さっぱり実行できていないというわけ。「いやいや、聖帝として仰がれたのじゃないのか、庶民には人気あったはずだろ」という反論もあるでしょう。しかしあれは庶民人気ではなく、貴族層の中の葛城氏を支持する一派や、儒教の建前をありがたがる帰化人系氏族の人気なのである。なぜかというと、本当に貧民救済になった公共事業としての土木工事は、すでに応神天皇の頃から始まっていたのに、仁徳天皇の土木工事は合計すると応神朝ほどの規模ではなかった。日本書紀の応神天皇紀では韓人池の他に4つの池が作られている。韓人池は以前にこのブログの「百済の朝貢、大山守命の乱」で書いたように4つの池の総称だから全部で8つもあることになる。そして、掘り出した土の集積の山が御陵の素材になったと仮定しても、応神天皇陵の方が仁徳天皇陵よりも体積では大きいのだ(仁徳天皇陵が大きいのは全長だけ。後円部の直径も高さも応神陵の方が大きい)。しかも土木工事は長期的な国土計画が先行するので、仁徳朝における工事はほとんど応神朝における計画の継続にすぎず、オリジナルな功績ではない。むろんだからって偉大でないということにはならないのだが、そこが庶民感覚の浅はかさで、創業の君はなにかと華々しいが守成の君は地味でぱっとしないように思ってしまうのです、庶民は。それに前述のように、皇室が3年ぐらい貧乏ぐらししたからって、全国の貧民の生活水準が一斉にあがったりするわけがないので、もともと貧乏な人間にはアベノミクスが関係ないのと同じく、貧民にはそらぞらしいパフォーマンスにしかみえなかった可能性もあるんじゃないのか。金持ち階級とか生活に余裕のある階級は、最近の女性上位を苦々しく思っていて、儒教振興策を歓迎していたかもしれないが、当時の成り金は貴族も庶民もみな葛城系財閥の下請け産業みたいなものだから、いってみれば一味みたいなものと思われる。富の再分配が一度は適切化して中間層が厚みを増したのは反正天皇になってからだが、その議論はまたテーマ違いなので別の機会にする。

吉備の黒日賣の「立場」とは
黒日賣(くろひめ)という名の「黒」は、「黒々として美しい髪」のことをいってるという説と、歌物語の歌の中の「くろさや」を「くろさき」の誤りとして備中國小田郡「黒崎」を彼女の出身地と推定し「黒」という地名とする説がある。しかし単純に「肌の浅黒い姫」の意味でいいような気がする。洋の東西を問わず昔は日焼けした黒い肌は下層民のイメージが強かったろうから、黒日賣という名は悪い意味でのアダ名という側面もあったろう。しかし性癖とか趣味嗜好というものは常に矛盾を孕み、それゆえに逆説的な情念を掻き立てる。ほめていう時の「小麦色の肌」ではまだまだ黒いというほどではないが、健康的に日焼けした肌の娘が、上流社会の嫌味を知らぬ素朴な笑顔をみせた時、ズキュンとハートを射貫かれたなんてのも、これまたいつの世にもあること。タコに墨でもぶっかけられたような真っ黒けな肌が、輝く小麦色にみえたとて、まさに「アバタもエクボ」とはこのことだろう。利害関係ややこしく入り組んだ上流家庭で、幼児期から多方面・多種類のトラウマをくらって育った皇族・貴族の男子が、ちょっと変わった趣味をもってるのは当たり前でこれは平安朝までも同様だった。短所と長所がメビウスの輪のようにつながっているように、悪口と賞賛も表裏一体であることを知らぬ者が、粋(いき)も色気もわからず野蛮な言葉狩りに走ったりするんだろう。まさに「トラウマなくして文化なし」。仁徳天皇が「黒やある、黒はいづこ」と呼びかける時、そこにどれだけ深いフェティッシュな欲情が沸き起こるのか、それを女の直感で知るがゆえに、中傷の意味で「黒日賣」と名付けたはずの当人である石之日賣は逆撫でされ煽り立てられ、その嫉妬は燃え盛る。しかしこれは当時の民衆の推測だ。当時の民衆は葛城氏と、そこから輿入れした石之日賣を嫌っていた。現代でも皇后陛下とその実家について、あることないこと誹謗しながら忠臣を気取るアホは無数にいる。石之日賣の真意としては、前述のように嫉妬ではなくて、黒日賣の出身である吉備氏が葛城氏の家臣みたいなものだったから万が一優秀な皇子が誕生して立場が逆転するのを惧れたのだと思われる。ただ、これも自派閥の保身であって、嫉妬でないからって偉いわけでもないが、まぁ、主君のことも国民のことも眼中にない「権力闘争」としては正しいのだろう。ところで、仁徳天皇の趣味としてはあまり典型的な美女には興が湧かないタイプだったのかもしれない。石之日賣がはたして「岩みたいなブス」だったのかはわからないが、仮にそうだったとしても、田舎くさい真っ黒い娘を好んだように、岩ちゃんをも愛していた証拠に4人も子供つくってるわけだから。黒日賣の「黒」を肌の色ではなく「髪の美しさ」とする説をとると、日向の髪長比賣との共通性が浮かぶ。髪フェチか? 黒日賣という名は後に履中天皇の后にもでてくる(ちょっと思い出せないが他にもさらにいたはず)。こちらは大貴族の娘だから、下層労働で日焼けしてたわけではない。これも髪の美しさとの解釈が通説なんだろうが、そうとは限らんぞ。歌物語は後世に作ったのではなく当時の民間の語部が囃したのである。黒比賣の歌物語が流布したら、その結果としてファッション日焼けの流行があってもおかしくないだろう。

仁徳天皇の素顔
ともかく、仁徳天皇は(当時としては)格別に好色でもなく、英雄でも艶福家でもなく、仕事的に望んだ縁組ですら石之日賣に邪魔された。黒日賣の歌物語などは文学的にかなりの名作になってはいるのだが、これは悲恋に終わったからこそ文学的感興がなりたつのであって、「石之日賣の嫉妬」という前提がなくて「めでたく側室に収まりました、チャンチャン」という話だとぶちこわしになってしまい、物語自体が成り立たない。ここは葛城氏の権勢の犠牲になった女性と、その女性を救えない仁徳天皇の情けなさが描かれているのである。古事記を読んで「女だらけのハーレム状態、ロマンスいっぱい夢いっぱい、色気に満ちた仁徳天皇」というイメージを抱くのは完全なる間違いなのである。
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3石之比賣の嫉妬の本当の理由」に続く

・3石之比賣の嫉妬の本当の理由

H27年1月23日投稿 (H26年2月19日(水)初稿)
黒比賣から八田若郎女まで。大后石之比賣の嫉妬にからむ話。
2仁徳天皇は非モテ」から続く

(議論の詳細は後日加筆予定)

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4速総別王の乱の登場人物」に続く

・5速総和氣王の乱

H26年12月25日投稿 (H26年3月19日(水)初稿)
隼別の乱とそれ以降、仁徳天皇の終わりまで。
4速総別王の乱の登場人物」から続き

(議論の詳細は後日加筆予定)

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6渡り鳥の産卵は瑞兆なのか?」に続く
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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