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雄略天皇の「宇宙樹」

2680(R2)年6月6日(土)改稿 H29年6月14日(水)初稿
歌の背後に政治あり
ある先生は雄略朝を重視するあまり「古事記は雄略天皇で終わっててもいいぐらい」なことをおっしゃっておりましたw まぁね、俺もそう思わなくもないのは、三重の采女(うねめ)の歌の印象深さってのがあるからだ。この歌は国学者の橘守部が「歌神として称えるに今この歌を第一とす」と激賞している。我々もまぁ味わおうじゃないか。なんなら日本の国歌にしてもいいよ、曲がつけばな。ところで、古事記はよく読んでるつもりでも古代史マニアってのは自分の興味あるとこしか読んでないことが多い。だって古事記は歌物語が多くその歌ってほとんど恋愛モノで、あまり古代史と関係ないから。でもそれだと古事記をほとんど読んでないも同然になっちゃうわけだよ。だいたい現代の学者はハラの中では古事記は作り話だと思ってるので、歌の背景に現実の政治が絡んでるとは思わないで、純粋に一つの作品論として分析したがる。そんなの面白いわけがないw 考えてもみろ、『ウルトラマン』でさえ日米安保条約のすったもんだがなければ生まれなかっただろうがw 

この歌は古事記の「最終章」なのか!?
この歌は「水(みな)こをろ、こをろ」とか「浮きし脂(あぶら)」とか神話の冒頭の言葉が突然出てきて、ひじょうに強い関心をそそる。しかも雄略天皇の末尾なので、もし古事記が雄略天皇の章で終わっていたら全体の冒頭と末尾が呼応していることになり、全体の構成として美しくなる。実際にそういう構想案も太安万侶としてはもっていたのではないか。

ここは読まなくて可
しかし丹比間人宿禰足嶋(たぢひのはしひとのすくね・たるしま)が提出した原資料(丹比氏の伝承した帝皇日継)では少なくとも宣化天皇まではあったはずだし、息長真人子老(おきながのまひと・こゆ)が提出した原資料(息長氏の伝承した帝皇日継)では少なくとも継体天皇まではあったはず。雄略天皇で切られてしまうと継体天皇の正統性を主張する後者や宣化天皇の正統性を印象づける前者の原資料の趣旨がぼやけてしまうので、足嶋も子老もそれは不本意だったに違いない。稗田阿礼に至っては本当は大化の改新か壬申の乱までやりたかったろうが肝心の「稗田氏の」帝皇日継(すめろぎのひつぎ)が推古天皇で終わっていた(なぜそうなってるのかは当ブログで以前に詳しくやったので今回省略)。帝皇日継以外の漢文資料で舒明天皇以降を作っても日本書紀とかぶってしまうし、そこで内容に独自性を出されても稗田阿礼って人は天武皇統の正統性に疑問を呈するようなことをやりかねないので安麻呂としては命がいくつあっても足りない。だから、あくまでも古事記中巻・下巻の趣旨に留めるべく推古天皇で終わらせたんだろう。「古事記中巻・下巻の趣旨」ってのは日本書紀編集部でボツにされた息長氏と丹比氏の伝承を残すことであって、稗田氏の伝承を残すことではない。稗田阿礼が朝廷の語部(かたりべ)として継承していた正規の帝皇日継は漢文に翻訳されて日本書紀の神武天皇以降の巻の根幹部分として活かされていた。息長君は皇極朝で誄(しのびごと)を奏しているが、当時の皇室の本家だから古伝承を奏しているだけで名誉職みたいなもの。丹比連は斉明朝には何とか歴史に登場しているが、たいして高い地位ではなく有象無象の木っ端役人の一人として何人か出てくるだけ。両氏ともそれっきり天武朝の「八色の姓」まで出てこない。それが、息長真人子老と丹比間人宿禰足嶋が大宝元年(AD701年)に揃って従五位下に叙され、ようやく中央貴族としては下っ端に引っかかったわけで、この前も後もず~っと一貫してパッとしてない。壬申の乱で近江朝廷側についたか、中立を守ってしまったため出世しそこなったんじゃないのか? 持統五年(AD691年)に大三輪氏・雀部氏・石上氏・藤原氏など計十八氏に纂記(つぎぶみ)を上進せしめた時にもこの両氏は含まれてない(纂記(つぎぶみ)というのは要するにこのブログの用語でいうと各氏が伝承した各氏ごとの帝皇日継のこと。「各氏族の歴史」ではない)。この時点での官位が低かったせいもあるだろうがそれだけなら十八氏の中にもあまり見かけない官位の低そうなのが含まれるから、本当の理由はこの両氏の伝承が天武皇統にとって都合が悪いものだということがすでに知られていたのだろう。息長氏の伝承は継体天皇の正統性を「血筋」に置いていた。それは単に皇胤ということではなく、応神天皇の指定した皇胤が途絶えたので女系でそれにもっとも近い血筋ということ(男系だけなら応神天皇の皇胤ってのは当時たくさんいた)。天武天皇は先帝(天智天皇)の指名をうけておらず近江朝廷を滅ぼしたのだから、近江朝廷の不徳によって天命を受けた(先帝からの指名でなく。先帝からの指名を上回る権威というと「天命」ぐらいしか言いようがない)のだから、天武天皇としては武烈帝を悪で不徳の帝とし、継体帝は徳があったから天命を受けて皇位についたのだとして、自身の先例(プロトタイプ)として描きたい。実際、日本書紀ではそうなっている。しかし古事記ではそうなってない。古事記の中下巻は日本書紀が捨てた息長氏と丹比氏の伝承を守るために書かれたので「先帝の指名を受けた血筋」が正統だといってる。これは天武皇統の時代にはボツにされて当然だろう。丹比氏の伝承は仁徳皇統の中の3つの王系のうち允恭系の天皇を非難して履中系(顕宗~武烈)を顕彰している。これはなぜなのかよくわからないが、反正系の男系が途絶えた後で、反正系の名代部の伴造だった丹比氏と反正帝の皇女とに婚姻があったのではないかと推測する。反正帝の皇女たちは雄略帝との婚姻を拒否しているので、相対的に丹比氏が允恭系より履中系に肩入れしているのか? そこまではまぁいいんだが、継体帝以降は女系で允恭系を引く欽明天皇の子孫でありかつ天武系でもある現在の皇室ではなくて、宣化天皇の子孫で女系で反正系に縁の深い多治比王以降の丹比君(後の丹比真人)を顕彰しようとするものだったと思われ、これは当時は爆弾のような危険な思想だから当の丹比真人氏によって握りつぶされたと思われる。だから息長氏の主張ほどは明瞭にはなってない。息長氏の主張も現代人からすると注意深く読まないとわからないが、両者とも、とにかく現状の古事記の中巻・下巻の文では何がいいたいのか、なんでそんなわかりにくいことをいってるのか、なぜこんなに話の筋が説明不足なのか、不可解な点が多すぎるので、かなりバッサバッサと切ってしまっていると思われる。政治的に具合の悪いところを意図的に切ったこともあったろうが、平安時代に多人長(おほのひとなが)によって古事記が再発見されるまでの間に保管状況が悪くて破損した箇所も多かったんではないか。いずれにしろ古事記の中巻下巻は大量に情報を補って読まねば訳がわからないところがちょいちょいある。

ともかくそういうわけなので、雄略天皇で区切るという安麻呂のアイディアは稗田阿礼の猛反対でお流れになったと思われるw その前に安麻呂が本当にそんなアイディア出していたかどうかよくわからんが。

三重の采女の境遇

纏向日代宮がでてくる理由
この歌がでてきた宴会は「長谷」でのことだと古事記が明示しているから纏向(まきむく)ではない。纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)は景行天皇の宮都だから、この歌は景行天皇の時代のものだって説もあるが、宮都はその後も長く使うもので一代ごとに壊してるわけではない。式年遷宮みたいに代替わりごとに壊してるイメージは、平安初期にできた新しい「穢れ」感覚に基づくもので、現代人の思い込みにすぎない。平安初期までに日本人は霊的な穢れと物理的な穢れの区別がわからなくなり、見えないものをやたらめったら怖れるようになってから出来てきたのが現在の神道につながる過剰な穢れ忌避の傾向なのである。ほとんど滑稽なまでの域に達しているが、そのくせ目にみえない霊的な穢れにはトンと無頓着で、これではお祓いも糞も意味なかろうと思う。なんて、スピ系な話はさておいて、そういうわけだからそれ以前の記紀に描かれた時代には代替わりの時も先帝の宮殿を壊すこと無く有効活用したに決まってるだろう。政治はどんどん高度で複雑になっていって伴造の率いる部民、官僚のための施設はいくらあっても足りないし、物資倉庫、それから皇位をつがない皇族たちだって、そうそう丁度いい「あまくだり先」がほいほいみつかるとは限らんからしばらくは先帝の宮殿に住んでたろうし、女性の場合はそのまま皇室財産の名義上の所有者としてその宮殿を継承していくこともあったろう。だから纏向遺跡が3世紀の遺跡だったからって、景行天皇が3世紀の人だったということにはぜんぜんならない。記紀にでてくる宮都は歴史を通じていつの時代にもあった可能性が高い(まぁ改築はしてるだろうけどな、それこそ式年遷宮みたいに)。
だからこの歌が歌われた雄略天皇の時代にも「纏向の日代宮」は存在し、景行天皇の時代のまま壮麗な姿をリアルに保っていたのである。ただ天皇がそこにいないってだけで。いや、たまには雄略天皇も別荘として使ったかもしれない。そもそもこの時代の天皇というのは平安時代や江戸時代みたいな儀式や決まりごとで雁字搦めにされた籠の鳥みたいな存在ではないのだから、あちこちに無数にある宮殿(その中には歴代天皇が残した皇居も含む)にいつでも好きなように移り住むことができたはずだ。朝代(各天皇の時代)を宮都の名で表わすのは陛下の御名を直接よぶのを憚ったための慣例的な表現法の一種にすぎず、実際に在位中は引っ越し禁止だったわけではない。一代の間に何度か宮都をかえた天皇は、景行・仲哀・神功皇后・応神・顕宗・仁賢・継体・敏達・推古・舒明・孝徳天皇に例がある(藤原京以前)が、これらとてホームベースの移動だからたまたま伝承が残ったのであって別荘は無数にあったに決まってるだろう。

さて、三重の采女がなぜその纏向の日代宮を歌ってるのかというと、自分が三重の出身だからだろう。三重ってのはヤマトタケル伝説では、印象が悪い土地だ。体調わるくなった倭建命が「足が三ヶ所折れたような気がする」(「吾が足三重の勾がりの如し」の意味には複数の解釈説がある)といったのが三重という地名の起こりだってのは事実ではないだろうが、そういう言い方がされたことは実際にあったんだろう。間違った語源俗解が流布し世間に信じられてしまうって状況は古今東西よくあること。例えばシナの語源は秦ではないし、奈良は土地を均したからではない。それはともかく、采女ってのは住み込みの女性官僚だから、いうなれば女だけの世界。で、雄略天皇はヤマトタケルの再来として仰がれ、ご自身もそう自負していたのもこのブログで以前に書いた。それで三重出身の采女となれば、これはもう采女たちの内輪では虐められたんじゃないかと心配するのが人間として当然だろうw 本人も陛下が三重という土地に悪感情を抱いているのではないかと常々おそれ、何とか故郷のイメージを回復したいと考えていただろう。で、彼女はたまたま歌の才能があったので、以前から三重のイメージソングを考えていたのだろう。
さて、陛下にお酌する機会がめぐってきたが、采女ともなれば言ってみりゃあんた、お酌のプロよ。普通に考えて失敗するわけがない。でも「三重」の采女と聞いて陛下がご機嫌を損ねているのではないかと怖れたから、手足が震えて冷静な判断ができず視野も狭まり、盃に木の葉が落ちてるのも気づかなかった。で、お手打ちになったと。首に刀の刃を当てられるところまでいったんだから絶体絶命、もう今すぐここで死ぬことに決まったわけよ。死ぬと決まったら、長年あたため続けてきた三重のイメージソングを披露しなければ死ぬに死ねないだろう! ここで彼女のハラは決まった。だから堂々と歌えた。「鳥の死なんとする、その鳴くや哀し。人の死なんとする、その言や善し」というが、善いのは言に限るだろうか。

故郷のイメージソングとして事前に作っていた歌だとしたら、この時とっさに作ったのではあるまい。だとすると、この歌に出てくるケヤキの巨木は、宴会の会場に存在したわけではない。故郷のイメージソングなんだから、彼女の故郷にあったケヤキの巨木をモチーフにしてるのだろう。今の「三重県四日市市采女町」は昔でいうと「伊勢国三重郡采女郷」であり、記紀に出てくるヤマトタケルが杖をついたという「杖衝坂」が今も残っている。おそらくこの地に当時はケヤキの巨木があって、ヤマトタケルの杖がたまたまケヤキの枝であって、それを捨てる時に地面に刺したまま残したのが巨木になったという伝説でもあったんだろう。実際ケヤキは「挿し木」のできる植物である(詳細は「挿し木」で検索)

上中下の「3つの枝」の意味
もう三重の采女ってだけで悪いイメージあるんだから、それを避けるんじゃなくていきなり「纏向日代宮」(=ヤマトタケルの時代)と歌い出すことで「そうですよ、私めはあのヤマトタケル伝説の三重の出身ですとハッキリ打ち出してる。そして目の前の、実際にこの歌を聴く人々が聞きながら今まさにみているこの槻(つき:今でいうケヤキ)の巨木を「三重」に見立てて「三重」という言葉から連想されるイメージを変えようとしている。

これ、もう若い人は知らない人もいるかもしれないが日立のコマーシャルで有名な「この~木なんの木気になる気になる名前も知らない木ですから♫」のあの木、もう長いことなぜかケヤキだとばかり思い込んでたけど全然ちがったわw 知らない子はYOUTUBEで検索してね。でもイメージはあんな感じだったんだよw ケヤキがどんな樹だかすぐ浮かばい人でも今のご時世は画像検索すればこれでもかっていうぐらい出てくるからラクなもんだ。
さらに手っ取り早くは「東根の大ケヤキ」で画像検索するのが早いけど。これは山形県にある日本最大の巨木で、樹齢1500年以上、根回りは24m、周囲16m、直径5m。高さ5m半のところで二股に分かれ、西南側のがやや直上して枝を分け、東側も大きく三枝を分けて天空を覆っているという。ケヤキは巨木になるとこういう枝ぶりになるわけで、木によっては上つ枝・中つ枝・下つ枝と三重に見立てたくなるわけだろう。現在の高さは28mだが、1957年の特別天然記念物指定時には35mもあったというから、三重どころか五重塔に例えてもいいぐらいだ(ちなみに法隆寺の五重塔は31m半)。
だが外にでかけて実物みたいもの。さすがに「東根の大ケヤキ」みたいのにはめぐりあえないにせよ、欅坂46の名前の由来にもなった六本木のけやき坂通りだけでなく、都心なら代々木公園にも表参道にもケヤキ並木があり、雑司ヶ谷の「鬼子母神」の大門の通りのケヤキ並木の中には天然記念物に指定されてるのもある(鶯谷の鬼子母神とは別なので注意)。他にも都内あちこちにある。ただ都心のケヤキって、形も大きさもいまいちなのが多いんだよね、できれば天に届きそうな巨大なケヤキがいいんだが(いい写真が撮れたら後日アップします)。時々古い神社の境内にそういうのあったりするよね、皆さんも地元のケヤキを探してみて。

ケヤキの巨木がどんなのか頭に入ってないとこの歌の解釈はうまくない。巨木は、日本のユツカツラ(湯津楓/湯津香木)や中国の扶桑樹と同じく神話上の世界樹宇宙樹への連想がはたらく。だからこれを三重にした上つ枝・中つ枝・下つ枝で天皇の支配する世界をあらわした(「世界樹」という神話的な観念は北欧のユグドラシルだけではなく、全世界の諸民族にあることは、Wikipediaで「世界樹」を検索しといて下さい)。
三重の槻の木、「上つ枝は天を覆へり」。巨木だからその枝が天を覆い隠しているという描写はわかる。ホツエというのは万葉集で「下づ枝」(しづえ)と対で使われてる例があるから「上のほうの枝」だと解釈されるが、カミツエ(上つ枝)という言葉もあるので、ホツエ単独で使われる時の語感だと、上下あるうちの上、あるいは上中下あるうちでの上だというニュアンスは弱いのではないか。ホツエという言葉だけがでてきた最初の段階では「ホツエ」(上つ枝)というのは単に頭上の、見上げた上のほうの枝って意味にきこえるので、上中下の三重構造の「上」だとは誰も思わない。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」と聴いて、初めて「アレッ」となる。ここで聴衆は一時的な混乱に陥る。「じゃ下つ枝は何なんだ」という関心もひくんだが、同時に「天を覆うのは木の枝の全体で覆うんじゃないのか?上の枝だけ?しかも中の枝は東国?」と次々疑問がわく。考えようによっては、覆い隠されてる「天」というのは今ここからみえる天だけであって、「縦」に見上げるばかりでなく、少し「横」に歩いて槻の木の真下から抜ければ天はみえる。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり、下つ枝は夷(ひな)を覆えり」。上つ枝は広がりが少ないからこの場しか覆ってないが、中つ枝や下つ枝はもっと遠くを覆い隠す。辻褄はあうがこれは理屈であり観念だ。だから、ここでこの巨木は目の前の実際の木でなく、神話上の世界樹に見立てていることが聴き手にも気づかれる。また「上つ枝」と限定してたのは水平移動つまり上下の軸から前後左右の二次元平面に意識をうつすためだともわかる。そうなると上つ枝の「天」も、東国や夷(ひな)に対して天皇のおわします都でもあろう。記紀の雄略天皇には東(あづま=関東)はほとんど出てこず、記紀だけみてると東国とは縁のない天皇と思ってしまうが、有名な埼玉県の稲荷山鉄剣の銘に「ワカタケル大王」が出てきてから、現代人にとっては逆に「関東まで支配していた天皇」というイメージばかり強くなりすぎてる感じがする。あの鉄剣が発見されて学界もマスコミもてんやわんやの大騒ぎになっていた頃、この「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」にすぐ気づき、「古事記ってすげぇな」と感嘆した古代史マニアもさぞかし多かっただろう。しかしこの「中つ枝はアズマを覆えり」という言葉は次の「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」を導きヒナがどこなのか暗示するための言葉。本当に言いたいキモの部分は「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」であって「中つ枝はアズマを」ってのはそれをいうための文学的な修辞にすぎない。詩としてはな。
夷(ひな)は直訳としては「地方・辺境・田舎」ってことで、アズマ(あづま)が東海・関東という具体性をもっているのに、ヒナは具体的にどこだともない。岩波の古典文学大系の注釈では「万葉集に淡路島方面をヒナといってる例があるからヒナは西国だ」と言い切ってるが、この学者はバカじゃないのか。ヒナは東西南北どっちでもありうるが、たまたまその歌ではどっちをさしてるかが問題だろう。関係ない歌をもってきてあの歌で西だからこの歌も西、って話になるわけないだろうに。あるいはまた倭王武の「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」を連想し、このヒナとは九州方面のことだと解釈する人もいるかもしれない。だがそれだとこの歌は単に関東から九州までの日本に君臨する陛下はすごいっていってるだけの歌になってしまって、死刑をまぬがれるほどの強烈なインパクトに欠ける。あるいは雄略天皇の個人的なツボにも入らない。雄略帝にしてみれば技巧を凝らしたおべんちゃらは聞き飽きてるんだから。大事なことはこの歌は一般論としての天皇賛美の歌ではなく、雄略天皇個人へ向けた歌だってことなのだ。それに九州だとすると、一度東へ向いた視点が西へ逆反することになる。それを世界を見回す壮大な王の行為と受けとる人もいるだろうが、俺はそう思わない。なんだがキョロキョロしてせわしない感じになってしまわないか? 正解はこうだ、ケヤキの葉は舞い上がったりせず重力に従って上つ枝から中つ枝、そして下つ枝へと直線的に落ちていくのだから、ここのヒナは都からみてまっすぐ、アズマのさらなる東の奥、道の奥(みちのく)をさしていると解する他にない。じゃミチノクだと明言すれば良かろうになぜヒナだなどと曖昧な言い方をするのか、それは第一には奥羽に限らず、東西南北四方のはて天下のすべての地を含みうるイメージの広がりを残すため。第二には、確かに実際には奥州なんだけど、この時いま話題の場所でアズマの先といえば誰でもわかりきった土地だったから、もったいつけて、期待感を煽ってるわけだよ。「え、雄略天皇の章には古事記も日本書紀も東北のことなんかぜんぜん出てこないじゃん、何がどう話題になってたってんだよ?」という反論が来そうだが、実はそれがそうでない。鉄剣が出土するまでは関東すら雄略天皇と縁がないと思われていたろう、それを思えば記紀に奥羽がでてこないからって雄略天皇が奥羽に縁がなかったとはぜんぜんいえない。それについては後述するとして、第三には掛け言葉で鳥のヒナ(雛)を連想させるため。ちゃんと確認してないが、たしか田舎を意味するヒナ(夷)のヒも、鳥のヒナ(雛)のヒも上代特殊仮名遣いでは甲類のヒのはず。上つ枝にも中つ枝にもないことだが、下つ枝では新しい命が生まれていた。「雛を覆えり」。その土地が、親鳥が翼で雛を覆い守り育てるように、新しい命を守り育てていた、そういう連想が湧く。というか隠しメッセージがある。これは何のことを言ってるのかは後述する。

雄略天皇にとっての陸奥(みちのく)
一つには雄略天皇の崩御後に新羅征伐軍(征伐じゃなくてただの駐留軍の交替かもしれないが)として従っていた蝦夷が吉備で反乱したことがある。ヤマトタケルの蝦夷征伐以来、奥羽の蝦夷(えみし)は朝廷に服属し、応神天皇の時には道路工事の労役についたりしてたぐらいだった。それが仁徳天皇の時には背いて鎮圧されてるが、これは隼別命の乱の一環で、隼別命の乱は全国を巻き込んだ大規模な乱だったのである。雄略天皇崩御の際にも反乱しているからといって、仁徳朝以来ずっと蝦夷は朝廷に心服していなかったのかというとそういうことでもない。雄略帝崩御の際は星川皇子が謀叛を起こしているが、書紀の書きぶりからすると、どうも反乱軍に唆されたとか呼応したとかいうわけではなくて、純粋に蝦夷たちの意図からだけ出たもののように読める。当時の蝦夷からみれば、雄略帝にしろ星川皇子(=吉備氏)にしろ、中華式を有り難がってる連中って意味では同類であり、「大山守=隼別」のラインでつながる海の民・山の民のほうが感性的に近い存在なのであり、彼らが蝦夷を味方に引き入れようにも味方になってくれる可能性が高いとは思えなかったんだろう。ただ、蝦夷が反乱を起こす際に、天皇崩御ときいて「時を失うべからず」と言ってるのが引っかかる。皇帝や君主の代替わりが軍事蜂起のチャンスなんてのは当たり前じゃないかという人もいるだろうが、逆に「だからこそ」戒厳令状態になるわけで、軍事的観点からは必ずしも狙い目ではない。記紀に代替わりでの反乱が多いのは「皇位争い」の皇子たちの戦いだから、逆賊の汚名を免れるために空位期間を狙うのである。皇位争いと無関係な連中の蜂起の場合は関係ない。なのに「時を失うべからず」と言ってるのは特別な意味がある。それは何か…。

雄略朝には伊勢の外宮の鎮座伝説があるが、あれがいろいろおかしいことはこのブログで以前に書いた。あれは丹後から豊受姫神という御祭神を遷座したのではなく、外宮はそれ以前から伊勢にあって、丹後にいた「自称・豊受姫」の人間を招き入れたのである。なんでそういう解釈になるのかというと、原文がそうだから。通常の解釈のほうが無意識に原文に「これは神話だから」というフィルターをかけているのであって、客観的にみれば通例の書き方になってない。で、ほぼ同時期になぜか同じ丹後に浦島太郎の話が出てくるが『丹後風土記』に出てくる「自称・豊受姫」が浮浪していたという伝承地と、浦島太郎というか「浦島子」が助けた亀と一緒に蓬山へ旅立ったという伝承地が、同じ丹後の中で4~5kmぐらいしか離れていない。
毛利康二や大和岩雄など、浦島太郎がいった竜宮城は今の鬱陵島で『梁書』に出てくる扶桑国のことだというのだがその扶桑国の王を『梁書』は「乙祁」というとある。これは固有名詞でなく王をあらわす称号なのだが、仁賢天皇の本名が意祁命(おけのみこと)であることから平田篤胤は「乙祁」とは仁賢天皇のことだといっている。篤胤の説には賛同できないが、しかし、浦島太郎は日本書紀や風土記では「浦島子」(うらしまのこ?/うらのしまこ?)という名前でこれも仁賢天皇の別名「島郎」(しまのいらつこ)と似すぎてね? ただし浦島子が仁賢天皇だという主張では必ずしもない。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟はこの時まだうまれてないと思われるから、その父だろう。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟は市辺忍歯別王の子ではなく孫か曾孫であることは宣長も推測するところで、民間伝承ではその父は「久米若子」といい、日本書紀が顕宗天皇の別名だとして伝える「来目稚子」という別名と同じなのでこれは襲名だろうと推測したが、仁賢天皇の別名「島郎」も父からの襲名ではないか。史料的価値として問題なくもないが中田憲信が集めた有名な系図集によると、島郎子と久米若子が兄弟で、島郎子の子が仁賢天皇、久米若子の子が顕宗天皇で両帝は兄弟ではなく従兄弟になっている。あるいは両帝の伯父が島郎子だと仮定すると、伯父の四股名を襲名した兄・若乃花と、父の四股名を襲名した弟・貴乃花の「若貴兄弟」が思い出される。一応、「両帝は兄弟で二人の父は久米若子、島郎子という名は久米若子が鬱陵島から帰ってきてからの別名」と仮定しておく(詳細な議論は今回は省略)。この段階ではまだ陸奥の蝦夷との関係はない。しかし豊受姫のほうはどうか。仁賢天皇ときたら誰でも仁賢天皇の姉、飯豊王(いひとよのみこ)を想起すると思うんだが、『陸奥国風土記』には「飯豊山(いひとよやま)。此の山は、豊岡姫命(=豊受姫のこと)の忌庭(ゆにわ)なり。飯豊青尊(いひとよあをのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す」とある。この物部臣というのは連(むらじ)でなく臣(おみ)とあるから、いわゆる饒速日系の物部氏(物部連:もののべのむらじ)ではなく和邇臣の分流であり、後世「物部首」(もののべのおびと)という氏族の祖先にあたる。飯豊山は現代ではイイデサンと読み、山形・福島・新潟の県境にあり、この山を囲む3県のうち福島県はむろん当時は陸奥国だが、山形県も奈良時代に出羽国が分置されるまで「陸奥国」だった。豊受姫と飯豊王は「陸奥の」飯豊山を介してつながる。飯豊という地名はこの山以外にも青森県、岩手県、そして福島県の中通り地方(飯豊山とは別の地)と陸奥の各地にある。つまり飯豊王は蝦夷に守られ蝦夷に育てられたのであり、蝦夷は飯豊王のシンパなのである。ということはおそらく潜伏中の飯豊王の父や兄弟に対しても蝦夷たちはシンパシーがあったろう(潜在的な支持者なり協力者の立場だった)。雄略朝の末期に、逃亡中の父と娘が丹後で別れて、父は海外(鬱陵島)に身を隠してから、娘のほうが名乗り出たか、少なくとも伊勢神宮が娘を保護することに決めたということではないのか。その結果、飯豊王は雄略天皇生存中にすでに世にデビューはしたが、雄略帝崩御に蝦夷たちが「時を失うべからず」というのは飯豊王の父なり兄弟なりを天皇として擁立するチャンスだという意味になり、そうなれば飯豊王は蝦夷の利益代表としてより高い地位にあがることにもなる。
繰り返すが意祁王・袁祁王の兄弟は市辺押歯皇子の子ではなく孫か曾孫である(このブログの他の頁でも説明している)。だから両帝兄弟の姉の飯豊王女も、市辺押歯皇子が殺され履中皇統が亡ぼされた時に、女性だからって殺戮をまぬがれたのではなく、生まれてなかったのである。父の久米若子(顕宗天皇とは同名だが地方伝承では別人でその父)か橘王(書紀は誤って兄とするが父か祖父だろう)が逃亡して民間に潜伏中に生まれたのだが、女性なので世に出ても大目にみられ殺されはすまいとみて、雄略天皇の前に現われた。それが雄略天皇が吉野で出会った「常世の乙女」の話なのである。彼女と入れ替わりを演じた春日の袁杼比賣(をどひめ)の名は「蘇生・復活」を意味するがこれは一度ほろんだ履中皇統の復活を示唆してもいるかもしれない(彼女は和邇氏の娘だが、陸奥の飯豊山の物部臣も饒速日系でなく和邇氏で同族なのは前述の通り)。
若い頃の大長谷王(雄略天皇)はただ暴れたかっただけで何も考えておらず、皇位を狙っていたのでもない。まだ子供で殺人衝動を抑えられない大長谷王に「あの人は悪い人だからやっちゃっていいんですよ」と唆した大人がいたはずで、おそらくその黒幕は木菟宿禰かその子の平群真鳥のどっちかだろう。そもそも少年だった大長谷王を天皇に祭り上げて美味い汁を吸おうとした者たちは別として、大長谷王本人としたら押歯王と利害対立や敵対関係があったつもりはない。皇位を望んで暴れてたのでもないのだから、押歯王の子孫がいたなら皇位を譲ることもやぶさかでなかったと思われる。むろんそれは困る連中が山のようにいるから、そういう情報は天皇の耳には入らないように遮断される。雄略天皇とすれば、罪のない押歯王をわけもわからないまま何となく殺してしまったのも、おとなになってから後々えらく後悔しただろう。ただそんなことはインタビューしてみなければわからないし、そんな恐ろしい質問をする命しらずもいない。詳細は不明だがすったもんだで、飯豊王女は皇籍に復帰し、飯豊王女が当主として履中宮家が復興した。そこまではよかったが、皇位継承権のない女性だから許されてるのかも知れず、男子の生き残りがいることを天皇に打ち明けるのはもう少し陛下の大御心を知ってから、と思ってるうちに陛下が崩御してしまった。それで意祁王・袁祁王の兄弟を世に出すチャンスを失ってしまった。しかしそれは履中宮家の関係者だけの内輪話であって、雄略天皇には関係がない。雄略天皇にしたら、押歯王の子孫が見つかったら、男子だろうが女子だろうがそれを優遇するのは当たり前で、押歯王への罪滅ぼしは若い頃からの、長年の懸案だったのだから。二王子は記紀では播磨に潜伏していたことになっているがこれは発見された当時の場所であり、民間伝承では尾張説もあれば紀伊説もあり、あちこち移動してたんだろう。飯豊王は弟たちとは別行動で奥州は飯豊山に潜んでいたということになる。この山は『陸奥国風土記逸文』によるともとは豊田山といっていたのが飯豊王のゆかりでのちに飯豊山となったという。さすれば青森や岩手や福島仲通り地方(田村郡)など、東北各地に残る「飯豊」という地名はすべて彼女の潜伏地だったのではないかw 雄略天皇にすれば人生最大の汚点でもあり長年の懸案だった案件が陸奥から出てきた少女によって解決したのである。陸奥とは雄略天皇にとってそういう土地であり、三重の采女が「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」と詠う時、その短い詩にこもる万感の想いを書き延ばせば、『その地の果てまでも知ろしめす大いなる陛下。その夷(ひな)=辺境の、陛下の知ろしめす土地が、かつて誤って滅ぼしてしまった履中皇統の血筋の、若い世代(雛)を育てていた土地なんですよ。その辺境の、陛下の知ろしめす土地こそが。』となるだろう。ここまで解釈してようやく、雄略天皇が采女を処刑するのをやめた理由が腑に落ちる。

王権の起源は天地創造に由来する
しかしケヤキの葉は下つ枝で止まらず、さらに下に落ちて盃に入ってしまった。采女としてはこの失態を歌の力でメデタイ話に転換しなければならない。下つ枝よりさらに下に落ちたのだから、これをこの詩の喩えでいえば、陸奥国よりさらに東に行ったことになる。陸奥より東といえば一つの考え方では今の北海道を想定することもできるが、ここはそうではなく、福島沖か三陸沖かわからぬがもはや陸地のない大海を漠然とさしているのだと思われる。海ばかりで国がないけど、国が産まれるかもしれないじゃん、と詠っている。
学者は日本神話はツギハギだと堅く信じこんでるので、この歌も「三重の采女の作詞ではなく国生み神話を伝えた海人族の歌だ」なんぞとボケまくったことをいうのだが、歌も聴く側の人々も国生み神話を知らなければ神話を引用する文学的な効果がないだろう。神話は当時の日本人なら山の民でも海の民でも貴族でも百姓でも、みんな同じ神話を聞き知ってるの。中央政府の語部(かたりべ)のおかげでな。出雲人だけの神話だとか日向人だけの神話だとかそんなものはない。最初から、全体で一つの神話なのである。世界規模で共通なのに狭い日本の中で違ってるわけないだろう。だから王権が成り立ってる。現代人は財力と武力があれば国は成り立つと思ってるのかもしれんがそんな貧相な思考で政治やってるから世の中が悪くなるんだよ。
国生み神話のところで以前に説明したが、鹿児島の桜島とか北海道の有珠山とか、最近話題になった「西之島新島」みたいに海底火山の爆発で新しく陸地ができるって例は火山の多い島国日本では昔からちょいちょい観察されたことだろう。神話の「塩こをろこをろ」、この歌の「水(みな)こをろこをろ」も海底火山の爆発の音(水中なのでゴロゴロゴロ…とかゴゴゴゴ…という籠もった音になる)。しかし小さな盃に落ちたたった一枚の葉から、いきなり「水(みな)こをろこをろ」と言ってもすぐには壮大な火山神話を思い出さないかもしれない。だからウキ(盃)に「ウキシ(浮きし)脂」と先に導入部を用意してる。当時でもその場に列席している者の中にもし頭の悪いやつがいたら、「ウキ(盃)にウキシ(浮きし)はわかるが脂(あぶら)ってなんだ?」ってことになりかねないが、続けて「こをろこをろ」とくれば「あ、あの浮きし脂か」と思い出して最初から気づかなかったことに恥じ入るのだろう。誰でもが同じ神話を知ってるからだよ。陛下の御威光は東の辺境、陸奥国に留まるのではない。天照大神が天皇に授けた世界は「土と水」から出来ているのであり、祈年祭の祝詞に「船の舳先が海の彼方に衝突するまで」とあるように、太平洋のはてまで我が帝国の領海なのである。それを忘れるというのは毎年きいてるはずの祈年祭祝詞を忘れるということであり、不敬であるばかりか大恥だろう。
飯豊王女がやってきた陸奥国の話で感動させておいて、天皇の気持ちはしっかり掴んだが、そこで終わっては失態を繕うのに十分でない。すかさず自分の失態を隠すのではなく顕して、ありのままに天地開闢の話にまでもっていく。朝廷に仕える身分高き大神官でもない一回の采女が歌い上げるには、あまりにネタが尊貴にすぎ、普通ならたじろぎそうなところ。だが彼女のドヤ顔が浮かぶ。これでも私を処刑できますか、と。ここで終わると歌としては完成だが、彼女自身が尊大にみえてしまう。そこでシメに「事の語り言、こをば」がつくわけなのだ。これは大国主と須勢理姫の歌合戦にも出てくる。あれは舞台での演者が「古来より伝わる伝説ではこうです」というナレーションみたいなもの。しかしこの歌は三重の采女の作詞なんだから四角四面に考えると「事の語り言、こをば」がつくのはおかしい。だからこの歌は天語歌(あまがたりうた)といって海部(あまべ)に伝承されたもので個人の作詞でないというのだが、文学表現なんだから四角四面に受け取っちゃダメだろう。三重の采女がいってるのは、自分の歌があまりに出来が良すぎるので、自分の手柄にすると高慢にきこえる。だからこの歌が陛下を讃えているのは、私の独創ではなく古来からの神話をお伝えしたまでです、という謙遜であり遁辞なのである。そしてこれもまた一つの正論だから誰も三重の采女を責められない。

「天語歌」は海人の歌ではない
折口信夫の説では、「あまがたり」の「あま」は天のことではなく「海人」のことで、安曇氏とかの海人系が伝えた伝承だって言うんだが、これただのダジャレじゃね? これがひじょうに疑わしい説だということは、山路平四郎という学者の『「あまはせづかひ」私考』という論文に詳しい。ネットでも読めるから検索してみて下さい。

伝承の過程で洗練されたのではない
(※後日に文章を追加予定)

「少女vs大王」の駆け引き
次に采女の歌に和して大后が詠う。この大后は、一説では若日下部王だというのだが、若日下部王は雄略帝よりもずっと高齢だったと推定しているので、雄略帝の晩年にはとっくに薨去していたのではないかと思う。この歌は仁徳天皇の皇后、磐之媛(記:石之比賣)の歌の丸パクリだから、ここでいう大后というのは磐之媛のことだろう。むろんこの時期に生きていたわけではない。原文には「○○が大后石之比賣命の歌を歌った」とあったのに文字が落ちて、「大后が歌った」になってしまったんだろう。じゃ誰が歌ってるのか、それはいうまでもなく「自称・豊受姫」つまり飯豊王女だろう。この宴会は新嘗祭の宴会だが、飯豊王女のお披露目も兼ねていたのだろう。
歌の意味自体は天皇を讃えるだけの凡庸な歌だが、「酒を勧めなさい」と采女を認め励ましている。天皇の気がかわらないうちに采女の処刑を取り止めた天皇を賛美して三重の采女を支援しているともいえる。で、この歌を磐之媛の丸パクリというと語弊があるが似すぎていて少なくとも「本歌取り」だとか「引用がある」って程度にはいわないとならんだろう。飯豊王は三重の采女の「事の語り言、こをば」が気に入って早速自分も使った。これをつけておけばある意味責任のがれもできる。最後に「事の語り言、こをば」をつけることによって、「この歌は磐之媛の歌にソックリだと思ったでしょう、そうなんです、私の歌じゃないんですw」というニュアンスが出せるのだ。では飯豊王はなんで磐之媛の歌(もしくは磐之媛の歌に似せた歌)を歌ってるのか。磐之媛というと仁徳天皇との仲がよくなく、古事記では最後まで皇后のまま生きていてそのため仁徳天皇と八田若郎女は結ばれなかったことになっているが、日本書紀では和解せぬまま薨去して、仁徳天皇は八田若郎女を「のちぞえ」として迎えたことになっている。どっちにしろ古事記をみても書紀をみても八田若郎女をめぐって夫婦喧嘩したまま和解した様子がない。そんな人をわざわざ思い起こさせるような歌は縁起が悪いのではないか? 一つの案としては、雄略天皇が飯豊王を自分の妃の一人にしようと思ってるような様子がチラホラ見えたか、もしくは(古事記の本文には明記がないが)天皇から求婚されたんだろう、それで「私は磐之媛のような女です、仁徳帝といがみあった磐之媛のように陛下とくっつくことは無いッス」という牽制のメッセージを送ったのではないかなw
天皇からの求婚を拒むということはこの時代、心理的にはかなり難しいことだったろう。だが、三重の采女の歌は、聴く者の意識を世界の神話的根源に遡らせる。だからこの後は、人々は本質的なことだけを考えるようになる。くだらない建前がとりはずされ、本心に生きるようになる。普通なら我慢してしまうことを我慢せず、偽りに生きることをやめ、言いたいことを言うようになった。天皇からの求婚を拒むことができたのは三重の采女から勇気をもらったから、という表現もできるかな。
で、天皇がこれに返しての歌は、宴会の参加者たちを群がる鳥たちに喩えて「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしているわい」といってるだけ。普通に考えるとこの酒盛りしてる人々の中には当然天皇自身も入っている。これは凡庸な解釈をすると「我々は酔っ払いだ」といってる、つまり求婚したのは「酒の上での戯言(ざれごと)じゃ」として求婚を撤回した、とこうなる。あと鳥に喩えた理由が二つ。一つは鳥というのは勝手に飛んできて自由に去っていく「自由の象徴」でもある。「女たちよ、宮中に留まるも去るも君らは自由だ」といっている。だから飯豊王を拘束するようなこと(=求婚)はしない、と。二つめは飯豊王の名「イヒトヨ」は古語でフクロウのこと、これも鳥だ。この宴会場にいる者たちは飯豊王と同じ鳥たちであり仲間だと。しかし以上の説はすべて間違いだと思う。凡庸すぎて、いくら齢とって丸くなったとはいえ、あの雄略天皇がこんな平和ボケした歌を詠むはずがない。「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしている」のは、それはそうなんだが、その中に雄略天皇と飯豊王は入ってないのである。この歌には鳥たちとして具体的にウズラ、セキレイ、スズメと3種類でてくる。どれも可愛らしい小鳥だが「微笑ましいなぁ、平和だなぁ」って歌に受け取ってしまったらダメ。それじゃ雄略天皇のキャラ崩壊ってことになるじゃんよw

衆愚どもへの怒りw
よく映像を浮かべてほしい。小鳥たちが遊んでるところにフクロウが入ってきたら? 猛禽類のフクロウは普段からこういう小鳥を捕食してるんじゃなかったっけ? 雄略天皇は飯豊王に「ここに集まってる無能な飲んだくれどもは、お前さんの餌みたいなもんよ」といってるのではないのか? 急に殺伐としてきたなw しかもそう考えてから改めて読むと天皇はこの小鳥たちを単にかわいいといってるのかも疑問だぞ?「ウズラは着飾ってる、セキレイは交尾している(婉曲表現になってはいるが)、スズメは群がり集まっている」と歌ってる。小学館の日本古典文学全集の訳だとスズメのところは群がり集まって餌をついばんでる様子に解釈してるから「食うこと」を象徴している。岩波の古典文学大系だと「難解の句であり明らかでない」としている。目的が明示されず単に集まるという時は、たいてい会議か雑談、世間噺のためだから、後世のスズメの象徴的用法と同じく、群がり集まってどうでもいいウワサ話とか無駄な「おしゃべり」ばかりしている連中という解釈もありだろう。つまりこの3種の鳥はファッションとセックスとグルメ(またはゴシップ)しか興味のない衆愚を象徴しているとも取れる。略してFSG(3つめのGはグルメでもゴシップでも可、両方かねてても可)。『シオン議定書』の3S(セックス・スポーツ・スクリーン)みてぇだなw ファッションはスーツ、ゴシップはスキャンダル、グルメはスイーツに置き換えればこっちも3Sに出来るw つか議定書の3SよりFSGの3Sのほうが頭悪そうw 議定書の3Sのほうがいくらかマシだぞこれw 雄略天皇は若い頃から大陸式の外来文化が大好きで、帰化人を寵用したし、それまで儒教の可否をめぐって対立していた日本人が儒教を受容することで合意したのもこの天皇の時代だった。中華文明を採り入れて見た目ははなばなしく栄えている日本だが、老境に至ってこんな世の中で良かったのかなって気持ちになっていたのではないか。三重の采女の歌の力で、神話的根源へ遡った意識が大事なことを思い出させてくれたのだ、と言ってもいいかも知れない。
そう、雄略帝は王者としての振る舞いと神としての仕事を思い出したのだ。
吉野の山奥で半裸の野蛮人みたいな、というか、自然児みたいな田舎娘と出会っても、場所が場所だからなんとなくそういうものかなで済んでいたが、都の真ん中、文明の中心たる宮廷につれてきたら、万博で展示される珍獣みたいで、じゃなかった、堕落爛熟して腐臭をはなつ現代文明とは対象的な純粋さに、ちょっといいかなと思っちゃって、「わしの皇后になれば栄耀栄華は思いのままw 天下もくれてやるわw」と悪のラスボスが最終回に主人公にいうセリフみたいなこと言ってるんじゃないのかw まぁこのイベントは実際に雄略天皇崩御の直前ぐらいの出来事だと思われるので実際に最終回っちゃ最終回なんだがね。だからさすがにもう寄る年波には勝てず、本気だったかどうかわからない。自分のキャラに殉じた演技だったのだ。だから「事の語り言、こをば」でシメている。これは舞台上のセリフですよ、超訳すれば悪のラスボスの最終回のセリフですよ、と自分で説明している。飯豊王は奥州の山奥で獰猛精悍な蝦夷(えみし)の男女に囲まれて育ったから、猛禽類のその名の通り、少々野蛮で武闘派な少女だったんだろう。バトルヒロインだなw こういう宮崎アニメみたいなのに現代のオタクはハァハァするのかもしれないが、残念なことに雄略天皇自身の性癖趣味とはぜんぜん一致してない。だから天皇もいまいち本気汁が出てない(ちなみに陛下のご趣味は老婆専門であることはこのブログでも何度か言ってる)。

雄略帝は記では宝算124歳、書紀では62歳、在位23年だが、書紀は奈良時代に神功皇后を卑弥呼の時代に合わせるために年代を引き下げた上、応神朝と仁徳朝の在位年数を長めにとったため、雄略~継体朝あたりがぎちぎちに短縮されている。辻褄あわせで編年を構成したのであってむろん信憑性はない。俺の推定では雄略帝の宝算は99歳が正しい。記は25歳も伸ばされているが、これは在位の26年めをまた元年として数え直したからである(古代中国で「後元」といったもの)。在位年数の通算年数を後元だと誤認すると、通算値を出すため前半の25年を2回足してしまうから宝算99歳が124歳になるわけ。

この3つの歌は「天語歌」(あまがたりうた)というとあるので、折口信夫は海部(あまべ)つまり海人族の伝えた歌だといってるが、海の話って「水(みな)こをろこをろ」の一か所だけ、神話だから壮大すぎて日常風景的な磯の香りがしない。そうじゃなくて、あまりに名作すぎるから人口に膾炙するわけで「例のあの歌」じゃ不便だから名前がつくわけだ。これは三重の采女の歌の「上つ枝は天を覆へり」の「天」と「事の語り事こをば」の「語り」、いちばん面白い部分の始まりと特徴的な繰り返し部分ををくっつけて作った名前だろう。
さて、以上の解釈だと、天皇と飯豊王の歌の掛け合いは完結してないような印象になる。つまり続きがあったのではないかと思いたくなる。しかし飯豊王は田舎育ちで歌が苦手だったんだろう。磐之媛の歌をパクってるだけだし。ちなみに昔の天皇や皇族の歌は語部(かたりべ)のネットワークが健在だった時代にはすぐ全国に広まって流行するから、田舎の娘でも磐之媛の歌は知ってたのだ。あるいは天皇の歌の後、同席していた袁杼比賣(をどひめ)が陛下をお諌めしたか、ヤキモチを焼いてみせたかして、飯豊王に助け舟を出したのかもしれない。だから宴会が解散した後も袁杼比賣だけは陛下についていた。それが次の歌のやりとり。

哀しみと幸せのラスト
古事記は続いて袁杼比賣(をどひめ)と天皇の歌のやりとりを載せているが、この宴会と同じ日だとわざわざ細かいことを書いてるから、つまりこの宴会の席ではなくて、宴会が終了して解散した後のことだろう。天皇は宴会では威厳を保たなければならないと思ってかあるいは齢のせいかあまり飲んでなかったんだろう。宴会が退けてから袁杼比賣にお酌してもらっていた。そこで天皇が歌った歌は、「お嬢さん、しっかりお酒ついでくれたまえよ」っていうだけの歌なんだが、お酌に不慣れな若い女子をからかってる歌だという説や、「酒壺(ほだり)をしっかり持てよ」というホダリが男性器の隠語で猥褻な歌なんだとかの説もある。この歌は『琴歌譜』にも乗っていて『琴歌譜』は古代の歌謡を集めて琴の奏法が書かれ、近衛家に伝わった貴重な古文書なんだが、それには「一云」(あるいはいふ、一説に曰く)として、この歌はこの時(晩年の宴会)で雄略天皇が歌ったのではなく、雄略帝がまだ皇子で葛城氏を滅ぼした時、葛城氏の娘の韓日女娘(からひめのいらつめ?)が哀しみ傷んで作った歌だという異説が載ってる。韓日女娘は古事記に韓比賣、書紀に韓媛と書き、この乱より以前から大長谷王に嫁がせることにはなっていたらしい。妃となって清寧天皇の母になっているが、この時期(雄略帝の晩年)には韓日賣もすでに薨去していたと思われる。若い頃の大長谷王(=雄略帝)は少年時代から相手が老若男女とわず(老女を除く)ささいなことでホイホイ殺してしまうので怖がって嫁の成り手がいなかったと書紀に書かれている。だから韓媛も本当は大長谷王の妃になりたくはなかったんではないか。でも父が謀反人として成敗され実家が滅亡してしまったので否も応もなかった。『琴歌譜』が引用する異説が正しかったとしたら、この歌は単に歌として切り取れば表面的には楽しげな軽い歌だが、歌われた背景と込みで解釈すると実は哀しみに満ちた歌だとわかる。
雄略天皇は宴会がひけて別室に移り、ようやく酔っても問題ない時間に安心し、袁杼比賣にお酌してもらった。そこで亡き妃を思い出し、自分が若い頃に犯した罪悪を反芻している。それでこの歌を歌っている。むろん謀反人を滅ぼすことは正義の行為で葛城氏のほうが悪だったのだが、当時の大長谷王は正義のために立ち上がったのではなく、ただ暴れたかっただけなのだし、韓媛にも罪はなかった(当時は江戸時代のような血縁連座制という考え方はなく大罪人の子孫も貴族として残っていることが多い)。飯豊王も世が世なら宮廷で生まれ育ったはずなのだが、女ターザンみたいになっちゃったのは大長谷王が葛城氏を滅ぼした後にまだ暴れたりなくて、履中宮家(=押歯王の一家)を皆殺しにしたからなんだよね。女ターザンは無いわ、スマン、スマンw ともかく自分のための罪滅ぼしだけでなく、亡き韓媛への供養だか慰霊だかのためにも、飯豊王を守ってあげたいという気分になっていたのではないか(この当時は供養なんて概念なかったろうが、まぁ慰霊のようなことで)
これに対する袁杼比賣(をどひめ)の歌がまたいい。ただ一緒にいたいというだけのシンプルな歌なんだが。三重の采女の歌ですら原文も訳文もあげてないのに大サービスw

休みしし 我が大君の

朝とには い寄りだたし 夕とには い寄りだたす

脇机
(わきづき)が 下の

板にもが 吾兄
(あせ)


私だけが知ってるプライベートでお休み中の陛下。その陛下が朝となく夕方となく、いつも、もたれかかっているご愛用の脇息(ひじかけ)になりたい、その下のおしりが直接すわってる床(ゆか)にもなりたい、そうしていつも一緒にその脇息(ひじかけ)や床のようにあなたにぴったりくっついていたいのです。愛するあなた。

※詞の区切り方と行かえは昔の角川文庫(武田祐吉バージョン)をもって至高とすw
※脇机(わきづき)ってのは後世でいう「脇息(きょうそく)」のことだが現代では「キョウソク」っていっても何のことだかわからないだろうね。時代劇でよく殿様が肘をおいてる道具で、肘かけ付きの椅子の肘かけの部分だけもってきたみたいなやつ。やや不正確ではあるが「肘かけ」と訳すしかないかな?

この時の雄略帝は、歴史に残る数々の功績もあれば、見苦しい失態や恥もかいてきた、年齢を重ねた男なわけで、周囲のおとなを心配させていた子供時代と違って、まさに現人神(あらひとがみ)と畏れられ、威厳は天下を圧倒してみな平伏する。しかしすでに90歳を軽く越えてw、気づけば周囲は世代の違う若者ばかり(60歳でも帝からみれば若者w)、やみくもに人を殺しまくっていた少年時代の自分を知る者はみな死に絶えてしまった。孤独だったろうな。その深い哀しみなど、袁杼比賣のような小娘にわかるわけがない。いや、わかるのかも知れない。猪口才な言葉であれこれ慰めようとしても人生経験のない小娘の言葉は安っぽくなる、とも限らない。むしろ小童の言葉を神託として畏怖する文化が最後まで残っていたのが日本で、雄略天皇の出発点も「少年王」だったではないか。だがその少年王も今は年老いて、長生きしすぎたために「幼童神」の文化の最後の残影のようになってしまった。儒教によって日本人は理屈をかたりそれによって自意識を作ることを覚えてしまった。「幼童神」はみずから引き入れた中華文明によって死んだのだ。もう古事記も巻末が近い。ここはすでに現代であり、袁杼比賣は神託を語らない。大貴族の娘だから『論語』と『五経』くらいは仕込まれているんで、もう悠久太古の神託をかたる子供にはなれない。だから安っぽい言葉になることを畏れ、余計なことは言わない。文明以降では神話は文学へと崩れてしまうので言葉は経験の裏打ちあってしか深まらない。だから袁杼比賣は余計な言葉は何もなく、ただ一緒に寄り添っていたいとだけ詠う。陛下の哀しみ、代われるなら妾(わらわ)はこのままここにいたい、と。朝もよりかかり夕方もよりかかる愛用の肘かけに、肘をおいて頬づえつく手をかえるだけで、陛下はなんにも話さない。朝夕いっしょに寄り添ってる肘かけのような味方が、一人はいるの、わたしがその肘かけになれればいいのに。麻生圭子作詞、nobody作曲、1988年、浅香唯『セシル』。YOUTUBEから適当に検索どうぞw 今すぐ聴くようにw

袁杼比賣は浅香唯である
聴いた? 聴いたな、よし。1988年は岡田有希子の自殺から2年後、アイドルソングはかつてのイケイケで少々ぶっとび気味な歌詞から一転して、癒やし系・泣かせ系の、応援ソングっていうの?がでてきた。同じ88年には酒井法子の『GUANBARE』(森雪之丞作詞、馬飼野康二作曲)もあったな。その後、アイドル氷河期に突入して、マイナーアイドル(当時はB級アイドルっていってた)全盛期に。不思議なもんで氷河期の地下アイドルすれすれなB級アイドルが「アイドル文化」としては絶頂期だった。いろいろあるんだが今たまたま思い出すのは中嶋美智代、まだいくらかメジャー組だったと思うが91年のデビュー曲『赤い花束』(遠藤京子作詞、羽田一郎作曲)だな。おとなしい曲調の印象深い歌だった。この頃のアイドルの話は無限に続きキリがないのでやめとくとして、浅香唯に話を戻そうw 浅香唯といえば『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』(1987年)の3代目麻宮サキ=風間唯だが、あれもとんでもない田舎娘って設定だったようなw いいよな田舎娘w ちなみに『セシル』の歌詞の中で「苗字で自分を呼び捨てする いつもの私もおとなしい」って部分、「苗字で」だと思ってる人が多い(ほとんどのサイトも間違ってる)が、俺もそう思ってたんだよ。でも正しくは「幼稚で」らしいな。「苗字で」のほうが幼稚にきこえるけどw みんな「苗字」って聞こえてたのは、そのほうが萌えるからだろうw 雄略天皇の時代には苗字なんてまだ無いわけだが、氏名(うぢな)やカバネはあるわけで、袁杼比賣が自分のことを和邇臣(わにのおみ)ってよんでる絵が浮かぶ。これが春日臣(かすがのおみ)では台なしで、演出家がわかってないってことになるw 俺の計算ではこの時袁杼比賣の年齢はどんなに若く見積もって中3か高1ぐらい、これ以下ってことはありえない。90歳こえてる天皇の前で「この和邇臣のお酌をお受けくだされい」(現代語訳)とか言ってたのかね。
昭和公園のケヤキ

・イザイホー

H30.6.23(土)更新 平成27年4月15日(水)初稿
今日はイザイホーの話。イザイホーというのは沖縄の久高島に伝わる神事。この島は沖縄の神話で、シネリキヨという男神とアマミキヨという女神が最初にあまくだって国造りを始めた島だといい、この二柱の神は古事記でいう伊邪那岐伊邪那美にあたる。たぶん「いざない法」が訛ってイザイホーになったんだろう。民俗学の方ではかなり有名なので、その詳細についてはネットで検索すればいくらでも出てくると思う。なのでまずはそれらでみて大雑把なことはわかっといてください。めんどくさいから俺は解説しない(笑)。

で、今日の話で重要なのは、古事記によく出てくる「巫女的な女性」。巫女「的」ってなんだ? 巫女そのものとは違うのか? イザイホーについて知ればわかるように、久高島ではすべての女性が巫女としてこの神事に参加してたんだよね。すべての女性だから、普段は彼女らは普通の一般人なわけ。なにか、神社に所属してるような「専従の巫女」ではない。古事記の解説の中で時々でてくる「巫女的な女性」って言葉があるが、この場合の「巫女『的な』女性」ってのは要するにそういうこと。普段から常時24時間365日、巫女をやってる人って意味ではない。普段は皇族女性だったり一般庶民の女性だったりしているわけだ。

・永遠の乙女~吉野川妖精事件~

H29・11・13(月)改稿 H29年4月12日(水)初稿
まえふり
俺の世代は「男も少女マンガ読むのか」と初めて言われた世代で、俺も同世代の例に漏れず高校の時は友人(男)と一緒に『ぶ~け』を毎号読んで、ある時は単純に面白がって盛り上がり、またある時はえらそうに作品論を語りあったりしてたもんだが、ストーリーとかはほとんど忘れたw まぁそれぐらい、恋愛話とかは興味ないというか、少年マンガな戦争ものとか合戦とか武将とかのほうが好き。でもおかげで(何が「おかげ」だかわからんが)、今でも「レディースコミックYOU」とか読んでるよ。面白いよなw あの雑誌、OL向けな作りしてるけど、田舎の主婦と都会のおっさんしか読んでないんじゃないの?
で、『古事記』の話だが、このブログで前から言ってることだが、古事記の元になった語部(かたりべ)系の資料は、女性の好みにあわせて編集されているっぽい。これだけでは稗田阿礼が女性だってことにはならないが、語部の多くが女性だった可能性はある(稗田阿礼の話は猿女氏の女系継承の実態の解明と絡んで長くなるので今回は省略。これは面白い議論なので、いずれ詳しくやります)。雄略天皇の章も血湧き肉踊る合戦の話は皇子の時(安康天皇の章)に一件あるだけで、即位してからは女がらみのノンキな(ロマンチックな?)歌物語ばかりで、文学的には御大層なものなんだろうが、太平記とか三国志とかみたいなカッコイイ世界を期待してると正直ねむくなる。俺は小学生の頃から古事記を読んでるので、そういう色気づく前の少年時代の感想はよく憶えてるわけよ。

「吉野の童女」の章ってどんな話かというと…
だが中学とか高校とかの思春期にもなれば、多少は艶っぽい話もわかるようになるわけで、例えばこの雄略天皇の章では、雄略天皇(その時の天皇自身の年齢は若いのか老けてるのか不明)が、神仙の住む世界とされた吉野の山奥、吉野川のほとりで謎の乙女と出会ってその場で結婚したという。結婚つったって、単に体の関係に及んだってことを婉曲に表現しただけで婚儀など無かったのか、体の関係までいかなかったけど形式的な婚儀はあったよって意味なのか、両方あったってことなのか不明瞭(現代人が読むと不明瞭だが後述するようにここでは肉体関係をもったという意味の表記になっていることが判明している)。で、結婚だか性交だかまでしたのに、その後に宮中に連れ帰ったのか実家に置き去りにしたのかも不明瞭。その後、また別の機会に吉野のその場所に行ったんだが、そこで乙女に再会したのか、宮中からその乙女を同行したのかも不明瞭。仮に再会したのだとしても、約束があって期日どおりに来たのか偶然の再会なのかも不明瞭。ここで乙女は天皇の琴の音にあわせてただ舞うだけ、天皇は乙女の舞にあわせて琴を弾き、最後に一首詠むだけ、で終わり、最後まで乙女の素性も名も不明。…という話がでてくる。これは原資料が書かれた段階ではあまりに有名な話なので細部については当時の日本人みな熟知していたのだろう。だから略された。語部の芝居の台本だからな。例えば忠臣蔵のワンシーンを歌舞伎にする時にいちいち詳細な設定を述べないのと同じなのである。むろんそれだと現代人にとっては文章が簡単すぎて情況がさっぱりわからないことになる。それが古事記のこの章だよ。
この話はそういうわけで曖昧模糊としてまるで白昼夢のようだが、このポワ~ンとした感じが、特定の女子、どちらかというと漠然と一方的に好きなクラスメイトとかじゃなくて、付き合ってる最中の彼女か、舞と琴で共同作業だし。そういう彼女がいて舞い上がってる感じ、いや舞い上がってるんじゃなくて恋愛に酩酊してる感じか、そういう特定の女子に対する思春期の気分をうまく表わしてるようで、この章だけは好きだった(ということは今も好き)。「あぐらゐ」も「神の御手もち弾く」も雄略帝が「神がかり」の状態にあることをあらわすという説もあるがその説は不可。「神がかり」してるのは乙女のほうであって琴を弾いてる天皇は審神者(さには)の役割のはず。神がかりしてるのが乙女だとしても実際に神がかりの状態にあるのか、あくまで文学的な表現=喩えとしてそういってるのかは不明瞭。ラストの締めで歌を詠むのが乙女でなくて天皇だけなわけだからここは乙女が天皇に惚れたんでなくて天皇が乙女に惚れた話ではある。両思いなのか天皇からの片思いなのかは不明瞭。不明瞭だらけw 天皇サイドとしては、神がかりでこそなかったにしろ、恋してる最中って俗にいうポワ~ンとなってるってことで(喩えでいえば「神がかり」なのか「悪魔つき」なのかは知らんが)我を失ってることにはかわりないわけだよなw

名前も素性もしらない少女?
さていつもの謎解きに入ろうw
まず、現代の天皇の行幸を思い浮かべればわかるが、素性の知れぬ謎の乙女なんて天皇の一行と出会えるわけがない。だからここは語部の創作(とまでいかずとも演出、脚色)であるか、もしくは、これが事実なら天皇がお忍びで出かけたってことだろう。雄略天皇はもともと「お世継ぎ様」として生まれたわけではなく、皇位についたのはドタバタのイレギュラーな事件の結果としてである(雄略帝が最初から皇位を狙っていたような説をなす者もいるが、現代風の価値観にもとづく決めつけにすぎない。このへんの議論はいずれ市辺押歯王の受難の章で詳しくやるつもり)。わざわざ天皇の位という堅苦しく不自由な立場を望んだわけではないのだからこそ「お忍びで」って機会が増やされることになる。だからこそ『万葉集』の冒頭の歌、有名な「こもよみこもち…われこそはのらめ、いへをもなをも」の有名な歌があるわけだろう、あれもすでに即位していて、その上で「お忍び」で出歩いた時としなければたとえ貴族の娘だとしても一介の娘と天皇がお互いの正体を知らずに野外で対面しているという情況がありえない。

彼女は「妖精のニンフィーちゃん」なのか
で、この吉野川の乙女は名前も素性も知れないような書きぶりだが、そんなことがありうるか? 天皇や男性皇族は確かにあちこちに胤をばらまくのも仕事のうち、という側面があるにはあるが、その場合は胤をばらまいた先がどこなのか政府公式の官庁がしっかり把握していなければ意味がない。だからこの乙女が実在の女性だったら、名前や氏素性は知れているはずで、名も無き庶民層であっても天皇と絡んだ女性は古事記にはしっかり名前が書き残されている(大魚、置目など)。そこで、この乙女は人間でなく、吉野川の川の精霊だなんて説も出てくる。精霊説は現代の学者の説で、吉野が神仙郷だと信じられ、『万葉集』や『懐風藻』に神婚譚が伝わっているという前提が根拠になっているが、それは奈良時代の吉野観であってそれよりはるか以前の雄略朝の時代とは情況が違う。懐風藻などの伝説も文芸上の創作であって、厳密には「伝承」ではない。雄略帝の御製「あぐらゐの神の御手もち弾く琴に舞ひする乙女、常世(とこよ)にもがも」という歌の「常世にもかも」は単に「永遠にこのままであってほしいなぁ」という意味にすぎず、異界としての「常世国」(とこよのくに)の神仙郷の観念はこの時代まだ無い。さらに、こういうシチュエーションはケルト神話とかにありそうだけど日本神話ではあまり聞かないパターンじゃなかろうか。日本なら速秋津日女神(はやあきつひめのかみ)なり瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)なりが現身(うつしみ)をあらわした等というところだろう。ちょうど同じ雄略天皇の章で葛城の一言主神が現身をあらわした話がでてくる。だから別に、川の女神だか水の妖精さんだかが現れて天皇の琴にあわせて舞い踊ったりしても、別にそこまでなら不審には思わない。俺は神様を信じてるからなw 西洋では水の妖精は美しい女性の姿だが、妖精と人間が結婚するにはタブーを守らねばならず、妖精が水のそばで夫に罵倒されると水に帰ってしまう、夫が不倫した場合妖精は夫を殺さねばならない、水に帰った妖精は魂を失う…。タブー多いなw そのため悲恋物語が多く伝えられている。この知識があって初めて『水色のプリンセス -水の精-』(作詞三浦徳子、作曲小室哲哉、編曲ユーミンの旦那)の詞の意味がわかるw ようつべで聞いてみろよw だが古事記のこの部分がおかしいのは、ケルト神話だって「その乙女は川の精霊で云々」と明言されるところ、この乙女が吉野川の精霊ならそう書けばいいのに単に「をとめ」だとしか書かれておらず、普通に読めば人間の少女だろう。読み手が意識を集中してこの子は精霊だと積極的に思いながら読まないと、彼女が精霊なのかどうかは甚だしく不明瞭であり、自然に読めない。だから普通の人間の少女とみるのが理性の上では妥当なんだが、川の精霊だっていう学界の説もフワ~ンとした魅力を感じないこともない。折衷案としては、突飛なことをいうようだが、人間の女の子が「妖精さんごっこ」をしていたのではないか? そういえば実は今年は「コティングリー妖精事件」100周年だったのだっ!!!
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こんな年にこんな文章かいてるのか、感慨深い。こうなったら書かねばなるまい、俺の妖精体験をなw
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まぁここは一つ俺の話をきいてくれw それはセーラームーンもまだこの世になかった80年代、『ムー』や『トワイライトゾーン』の読者コーナーに最終戦士と神託の巫女、竜の民を名乗るいわゆる前世少女が大量に出現していた(その全盛期は岡田有希子の後追い自殺が話題になっていた頃にかぶる)。当時、妖精のシルフィーちゃんとお話できるという少女(?)がいるっていうんで何かの機会にあったことがある(甘ブリのシルフィーちゃんより30年か40年も古い)。会ってみたらその頃はすでにまともになってて少々残念であった、シルフィーちゃんがいるならブルキーちゃん、ニンフィーちゃん、ピグミーちゃん(しつこいが甘ブリじゃないからサーラマちゃん、ミュースちゃん、コボリーちゃんではない)もいるだろう、呼び出してもらって四大精霊の力で世界征服しようと思ってたのにな、きんたまに毛の生えた歳にもなって。あの当時は妖精がみえると自称(?)する女の子ならちょいちょいいたもんだったが「お話できる」ってのはさすがに珍しかった(一応、念のため言っておくと、あの頃はオウム真理教事件の前だったので、オカルトや今でいうスピ系なものに対して「いかがわしいものだ」という嫌悪感が世間にはまだぜんぜんなかった)。
で、そういう俺の個人的な体験からいうとだな、雄略天皇の時代にも不思議系だのスピ系だのって女の子はいたろって話よ? 雄略天皇自身もまた別の意味で不思議系だし、そういう意味では不思議はないw おれ今うまいこと言ったw ともあれ現時点では「人間説・精霊説・折衷説」を棚上げして先に進もう、謎の解明はまず外堀から埋めるのだ。
ちなみに『水色のプリンセス -水の精-』がニンフィーちゃんなら『森のフェアリー』(作詞作曲かしぶち哲郎、編曲ユーミンの旦那)はシルフィーちゃんっぽい。『水色のプリンセス -水の精-』はゾロアスター教的な決断のテーマがあって実存主義的。それに比べると『森のフェアリー』は若干お花畑度が高いけどようつべで聞いてみて。リンクはあえて貼らないから検索してね♬

4人の女性は誰と誰が同一人物なのか?
とりあえず名前が出てこない理由は後まわしにして、この乙女、古事記の原文では初めて会った時は「童女」と書いていて、二回目に吉野に行幸した時は「嬢子」と書いていて、どちらも「をとめ」と読んでる本が多いので、今この文章ではさっきから「乙女」と書いてるんだが、「童女」という文字に着目してみると、日本書紀の雄略天皇の巻に「童女君」(をみなぎみ/わらはきみ)という女性が出てくるのが思い当たる。それによると童女君という女性は春日和珥臣深目(かすがのわにのおみ・ふかめ)の娘で采女(うねめ)として宮中に仕えていたが天皇に召されて一晩で妊娠してしてしまった。で生まれたのが、のちに仁賢天皇の皇后になる春日大娘(かすがのおほいらつめ)別名・高橋皇女だという。「童女君」という名は固有名詞らしくなく、本名不明なままこんな言い方されてる后妃は前後に例がない。無名の庶民出身ならともかく、堂々たる大貴族の娘なのに。そこで和珥臣深目の娘「童女君」は日本書紀にあって古事記に無く、丸邇臣佐都紀(わにのおみ・さつき)の娘「春日之袁杼比賣」(かすがのをどひめ)というのが古記事に有って日本書紀にない。なので、深目と佐都紀は同一人物で、童女君の本名は「袁杼比賣」だろうと推測できる。岩波の日本思想大系の古事記(古典文学大系じゃない方)の注だと吉野川の乙女は精霊だとした上で、童女君=袁杼比賣を同一人物としている。それでもなぜ書紀ではこの人についてだけ本名を書かずに童女君なんて呼んでるのかという謎は残る(謎解きは後の方で)。また袁杼比賣でややこしいのは、雄略天皇が袁杼比賣を求めて春日の金鉏岡(かなすきのをか)に出かけた時に一人の媛女(をとめ)に出会ったがその媛女が逃げて岡に隠れてしまったという。この媛女も名前が不明。本居宣長はこの媛女は袁杼比賣とは別人だという。吉野川でも名無しの乙女のエピソードがあったからここの媛女も名無しのままでなんら問題ないと考えたんだろうが、そうすると書紀には吉野川の乙女も出てこないから論理上は「吉野の名無し乙女」「金鉏岡の名無し媛女」「袁杼比賣」「童女君」の4人のうち誰と誰を同一人物とするかで13通りの説ができ、4人とも別人説、4人とも同一人物説を加えて15通りの説ができる。このうち吉野の乙女は「童女」とも書かれているから、気分的にはもしこれが精霊でなく人間ならば「童女君」とも同一人物と思いたくなる。どちらもなぜか本名が出てこない珍しさも共通。それと、金鉏岡の媛女については話の流れからして袁杼比賣だと受け取るのが自然で、だから現在の通説では袁杼比賣のことだと一応なっている。ただし通説に従うなら、なぜ袁杼比賣だと名乗らず不明瞭なまま尻切れになってるのか? 袁杼比賣はこの後、別の話の中でちゃっかり宮中の女性として再登場しているので、金鉏岡で逃げ切ったもののその後なんとか帝は彼女を手に入れたのか、もしくは彼女は金鉏岡で逃げ切れなかったか、どちらかなのだが、金鉏岡のエピソードはぷっつり尻切れになっている。これはなぜなのかという謎は残る(この謎解きもこの文章の後の方で)。が、ともかく通説では「金鉏岡の乙女=袁杼比賣」であり、通説とまではいかないまでも「袁杼比賣=童女君」説も有力な見解のようだ。

同一人物説を否定する三つの反論
これに俺の説「吉野の乙女(童女)=童女君」をくっつけると結局全員が同一人物となるんだが、吉野の乙女までも同一人物に入れる案には三つの反論がありうる。第一の反論は、吉野では初見で「婚」したとあり、すでに「婚」している同一女性にまた「婚」するため金鉏岡に出かけるのはおかしいから吉野の乙女と「金鉏岡の乙女=袁杼比賣」は別人だと考える人もいるかもしれない。だが日本思想大系の古事記の訓読補注の類子義一覧の中にある「婚・共婚・相婚・合・御合・目合・娶・嫁」の使い分けの項をみると、「婚」の字は現代人が考えるような社会制度(家庭の一員としての地位や関係の確定)としての結婚や儀式としての結婚の意味ではなく、ともに寝て妻として抱く、つまり肉体関係をさすきわめて具体的な意味として使われているという。ということは同一カップルが何度「婚」しても特にへんではないのではないか。百歩譲って、初回にしか使わないとしても、金鉏岡に袁杼比賣を求めて出かけたのは吉野の乙女が実は春日の袁杼比賣だと聞かされてからそれを確認にいったのだろうから、この段階では帝にとってはまだ吉野の乙女と袁杼比賣は別人かもしれないわけで、建前上は袁杼比賣とは初対面になる予定なのである。はい解決。第二の反論だが「婚」の字が肉体関係のことだとすると、今度は童女君は采女として宮中にいてそこで一夜のセックスで妊娠して春日大娘を産んだんだが、ここの「一夜の性交」ってのは彼女の初体験だったと早合点しやすい。確かに文意としてはそれを含意していると受け取るのが自然か、もしくはそうでないと誤読になる可能性もないではない。その場合、吉野の乙女は吉野で帝と出会った時に「婚」した、つまり肉体関係があったのだから、宮中に連れ帰ってもすでに処女でなく、「一夜で」という表現に妥当しないのではないか、という反論がありうる。これについての謎解きは二案ある。A案は、現代人の古代の習俗や信仰に対する思い込みや決めつけの可能性はないか。処女信仰があったようには思われないので、少なくても前回の交合より半年以上あいてれば大雑把に「一夜で」と言ったのではないだろうか。B案は、百歩譲ってここは彼女の初体験だったとしよう。だがその一夜は大奥でのことではなく、吉野川でのことだったのだろう。これなら矛盾はない。日本書紀をみると、ことの発端はヨチヨチ歩きの春日大娘をみての雄略帝と物部目の会話の中で、帝が「一夜しかやってない、ただし一晩で七回やったけどなw」と言っているのだから、春日大娘は1歳半か2歳にはなっており、帝のセリフはあくまで「回想として」言っているのであって、その一夜が皇居の中だったという証拠はまったくない。はい解決。第三の反論は、もし吉野の乙女が「袁杼比賣=童女君」だとすると堂々たる中央の大貴族の娘ということになり、都で召されるのではなく、なぜ辺鄙な吉野の山奥にいたのか不自然になる。むろん大貴族なんだから、天皇が吉野に行幸するように和邇臣も一家で吉野に物見遊山にいくぐらいはありうるけれども、そういう予定は政府に把握されているはずで天皇も知ることができる。あるいはお忍びというのは天皇と袁杼比賣がすでにカップルとして出来ていて、この二人のお忍びだったからお互いに偽名を使い、往路は別行動で現地で合流したのだと考える人もいるかもしれない。その場合はなんでそんな迂遠なことをするのかわからない。天皇のお忍びが楽しいのは知らない庶民と出会うからで、大貴族の娘が相手なら堂々とどこでもなんでもできるわけで忍ぶ意味がない。さて、どう解く?

「童女」と「嬢子」の使い分けの意味
第三の反論についての、一つのヒントは吉野の乙女が「童女」だったという点だ。この女性は、名無しの状態では普通名詞でヲトメ(乙女)と呼ばれている。原文だと吉野の初回が「童女」、二回目に吉野に行った時が「嬢子」、金鉏岡では「媛女」と書かれ、どれも訓はヲトメ。媛の字は姫と同じヒメの訓に使われる。強いていえば姫がやや格上か齢上、媛がいくらか格下か齢下なニュアンスがあるが、明確なことでなく幼女から老婆までありうる。嬢の字は娘と同じイラツメの訓にも使われる。イラツメは固有名詞化している場合にはこれまた幼女から老婆までありうるわけだが、普通に地の文で「嬢」「娘」が出てきたら結婚可能年齢までの女性を表わしているだろう(親子関係をいうムスメには「娘」でなく「女」の字が普通)。そして「童」、これは媛や嬢と違って、かなり幼い子供だろう。童女も嬢子も読みは同じヲトメでいいのか? 吉野の初回が童女で二回目が嬢子というのは、文字の使い分けであってかなり年月が開いてることを表わしてないか? 昔のロリコンはハイジ(7歳まで)、アリス(8~11歳)、ロリータ(12~15歳。16歳以上はロリコンに入らない)と三段階に分類されていたもんだ。気持ちわるっw だってこれ性的対象としてごっちゃに考えることはできないだろ。ロリータは生物学的には正常の範囲で、後述のように時代によっては容認されていたが、現代でも11歳以下を性的対象とするのは所謂ペドフィリアに認定される。もっともインドやイスラム圏で9歳前後でも認められている例もあるから人類全体の客観的な基準かどうかは難しいが、一律な規定は社会規範のためであるから成熟の個体差を理由にはできない。ただ、性規範のゆるい社会ほど「成熟の個体差」を理由とする例外が認められやすいとはいえそう。それと昔の日本にしろイスラム圏にしろ、初潮前の幼妻は形式的な結婚だけで性交は初潮まで待つのが普通だったから、「結婚可能年齢と性交可能年齢」は社会規範としても分けて考えねばならない(現代なら「結婚可能年齢と婚約可能年齢」になるか?)。現代の日本人女性の初潮は、早い方の平均が10歳で遅い方の平均が14歳という。後述のように大昔の日本女性の結婚可能年齢は満年齢に換算していうと13歳からで、貴人は12歳から認められた。この13歳(貴人は12歳)という数字は形式的な結婚の可能年齢だけではなくて、これまでの話を踏まえていえば、初潮がきていれば同時に性交可能年齢ともされたはずだろう。
ともかく、漢語の語感としても「童女」と「嬢子」を同一視するのは乱暴、粗雑すぎる。それでよく古事記の文学性がどいうのって言ってるなw 童女は「をみな/をむな」の他にも「めのわらは」もしくは単に「わらは」とも訓め、おそらくは「うなゐ」(または「うなゐめ」?)とも訓みうるだろう。そこで書紀が「童女君が采女だった」というその采女についてもいろいろ議論があるが長くなるので省略。律令制では13歳以上30歳以下(のちに16歳以上20歳以下)と年齢制限ができたが、古くはもっと若かったことは采女の語源が「ウナヰ女(め)」だという説があることからわかる(ウナヰという古語については室町時代の宗祇という連歌師の説によると数え才で十二、三歳までだという)。浅井虎夫は『女官通解』の中で律令の規定と年齢があわないことを理由に采女の語源がウナヰメからきているという説を否定しているが、現に雄略紀に「童女君」が采女だったと明記されているのをみれば、古くは采女の適齢は13歳以下だったことは確実だろう。この話を根拠にして雄略天皇をロリコンよばわりしているサイトがあるが、当時の基準でもロリコンといえるのか? 幕末の頃だと結婚は16~19歳の間が普通で、14歳以下はほぼ政略結婚のみ。遊女は18歳から一人前、もっとも「振袖新造」という見習い遊女は15歳からこっそり客を取ったという。

昔の女性の結婚年齢の推定
ところが時代を遡って、頼山陽(1832没)または梁川星巌(1858没)の作だという俗謡に

 三条木屋町 糸屋の娘
 姉は十六 妹十四
 諸国大名 弓矢で殺し
 娘二人は 目で殺す


とあり。数え才十四=満13歳は「目で殺す」年齢だった。この俗謡はいろんなバージョンがあって、姉妹の歳が二十一と二十になっていたり、十八と十六、あるいは十七と十五になっていたりもする。このうち十八以上になっているケースは不審。なぜかというと「娘十八番茶も出花」という諺の古い形は「鬼も十七番茶も煮花(鬼も十七山茶も煮端)」といい、本来娘といえるのは十七(満16歳)まで。従って熟語「十六女」の義訓は「いろつき」、「十八女」は「さかり」と読むがこの「さかり」は現代人が考えるような少女の可愛い盛りという意味ではなく「さかりがつく」のサカリなのである。若さや美しさを称賛した言い方ではなく、十八(17歳)は性欲のさかりという意味なのだ。だからこの俗謡で十八以上になっているバリエーションは、若く美しい娘と思ったら実は結構年齢がいっていたという驚きと称賛と解釈するのが正しいと思われる。で、この中で「妹十四」のバージョンから13歳で性愛の対象となっていたことがわかる。大昔から江戸時代後期まで、女性の満13歳は結婚が当たり前で、遊女なら満13歳から客をとった。ただし江戸後期には政略結婚の場合は満12歳からだったという。これを一般論でいいかえれば特に身分の高い人々は普通より1年早い満12歳から、と解釈してもいいだろう。平安時代の『梁塵秘抄』には「女の盛りなるは十四五六歳」とあり満13~15歳だから現代だと中学生にあたる。つまり江戸後期の情況は平安時代から約700年もの間、続いていたものだ。おそらく弥生時代や古墳時代も大差ない。

『ウエツフミ』では七歳までをワラハ、八~十三歳をウナヰ、十四~二十歳をイカシヲ・イカシメというとあり、これも満年齢に換算すると12歳まではウナヰ、13歳からイカシになる。昔はヲトメというのは結婚適齢期の女性の称だろうから「童女」をヲトメと読むのは相応しくなかろう。ただ『ウエツフミ』を参照するとワラハでは幼すぎるようでもあり、ウナヰかヲムナと読むのがよい。日本書紀の「童女君」もヲミナギミかヲムナギミと読まれているがウナヰギミかウネメギミでもよかろう。wikipediaにワラハキミと読んでるのは以上の議論から不適切。
「ヲムナ/ヲミナ」と「ヲトメ」の違いについては、推定されうる最古の原義から、奈良時代にはすでに意味がずれて使われているので、奈良時代当時の現代語としてみるか原理主義的に最古の用法を押し当てるかで読み方に差が出る。昔は男女をさす言葉がたくさんあって、「オキナ/オミナ」は歳のいった男女、「ヲキナ/ヲミナ」は若い男女だったと思われる。このオは「大きい」のオ、「老いる」のオ。ヲは「小(を)」、「幼し(をさなし)」のヲ。「キ・ミ」の部分が「男・女」なのはわかるだろう。これらとは別に「ヲトコ/ヲトメ」という語があり、角川の古語辞典みたらヲトコ・ヲトメの「ヲト」の部分は動詞ヲツの変化で若いって意味だという。これが単に若い男女の意味だとするとヲキナ/ヲミナとかぶってしまうが、おそらくは若いか老けてるかって話ではない。動詞「をつ」(上二段活用)には「生まれ変わる・若返る・よみがえる・元に戻る」等の意味があり、世代交代による生命の更新すなわち生殖可能年齢にある男女をヲトコ/ヲトメといったのだろう。本来はオキナ/オミナの若い方とヲキナ/ヲミナの年長の方がヲトコ/ヲトメの枠とかぶっていたんだろうが、やがてかぶってる部分はヲトコ/ヲトメに吸収されて、ヲキナ/ヲミナは「ヲグナ(童男)/ヲミナ=ヲムナ(童女)」と訛って生殖にはまだ早い男女の意味となり、オキナ/オミナは「オキナ(翁)/オウナ(媼)」と訛って生殖能力を失った男女の意味となったんだろう、と素人がちょっと調べると思いつく(まぁ学界の定説でどうなってるのか知らんが素人言語学は恥さらしになることが多いのでこんへんにしとくが、ちょっとどうでもいい話すると、ヲトメが未通女の意味になったのはかなり後の話で、漢語の「処女」ももとは未通女の意味ではなく、結婚前で実家にいる女という意味。就職(つか仕官)せず実家にいる男は「処士」といった。英語の“virgin”も本来は単に「若い女」の意味しかなかった)。
そういうわけで、古事記で表記が「童女」から「嬢子」にかわっているのは、初め吉野に行った時に出会った少女が13歳以下だったのが2回めに行った時には14歳以上になっていたという年月の経過を表わしている。

天皇は吉野に何をしにいったのか?
さてようやく第三の反論の話に戻るが。吉野の乙女というか、都にいるはずの中央貴族の娘である袁杼比賣は、なぜか吉野にいて、その時13歳以下だった。なぜ吉野にいて、なぜ天皇と会ったのか、なぜお互い名乗らないのか? 短絡的に考えれば天皇と袁杼比賣は一緒に吉野にいったんなら自然なんだが。一つの解決案としてはこれは二人ではなく、同行者の中では袁杼比賣は主要メンバーでなく、有象無象の一人、モブキャラにすぎなかったのではないか。だから天皇は袁杼比賣に気づくのが遅かったのだろう。こういうシチュエーションは現代でいうと具体的にどういうイベントなのか想像してみると、ズバリ幼稚園だか小学校だかの遠足だろう。なんで天皇がそんなもんに同行するのかというと、小学校といってもそこらの鼻たらした田舎のガキではなくて、皇族や上級貴族のお坊ちゃまお嬢ちゃまが入学する戦前の学習院初等科みたいなもんなんだろう。ガキの頃田舎で鼻たらしてたのは俺ですが。なんていうと「またお前は突拍子もないことを…」と言われるかもしれないが、日本書紀によると雄略天皇五年三月七日、天皇は蜾蠃(すがる)という者に蚕(こ)を集めさせたところ、児(こ)だと聞き誤って全国から嬰児を集めてきたので、天皇は大爆笑して、宮殿のすぐそばに「少子部」(ちひさこべ)を創立して、蜾蠃に「お前がこの子らを養え」と命じて「少子部連」(ちひさこべのむらじ)とカバネを賜ったとある。学者は「少子部はよくわからないが宮中で召し使う子供を資養する部民だろう」などと漢字が読めればアホでも想像つくような炭酸の抜けたコーラみたいなことを言ってるが、このブログを前から読んでる人なら、雄略天皇は即位した時まだ丸っきりの少年だったことを思い出すと思う。別の頁で書いたが俺の計算では雄略天皇は目弱王と同年齢かせいぜい4つか5つ上ぐらいだろう。即位した時7、8歳かせいぜい12、3歳な上、なりたくて天皇になったのでもないから政治は允恭天皇以来の公卿大伴室屋(おほとものむろや)が取り仕切っていたのではないかと思う。とすると「少子部」っていうのは幼帝のための「ご学友」だろう。「全国から集めた」とあるのも、高貴な血筋だけでなく優秀な子供を集めたことをいってると思われ、卒業生は身分高きも卑しきも朝廷を背負って立つ人材とみられたに違いない。少子部がいつ廃止になったかは不明だが、記録に残ってないだけでかなり後の時代まで存在していたのではないか。もし雄略天皇がまだ7歳~15歳の間だったとしたら生徒の一人として遠足に参加したのだろう。成人した後であっても、大昔に自分が卒業した母校みたいなものだし、天皇の肝煎りで創立された「勅旨の小学校」なのだから創立何十年目かの記念に、かしこくも陛下みずから何百人もの小学生を、泊りがけの遠足に引率し給う、なんてことは大いにありうるわけさw(どっちでもここは成り立つがこれは雄略天皇の最晩年の、老齢になってからのことと個人的には考えている、後述)。古代史を考える時でも現代人はすっかり忘れているが、古事記の天皇は皇子の頃に活躍することが多い。なぜかというと即位してしまうと「天皇は一般人に姿を見られてはいけない」というタブーがある。これは皇統の起源である高天原からあまくだってきた邇々藝命(ににぎにみこと)が目に見えない神だったという原始信仰に基づくタブーなのだが、詳細は神話の頁に譲りここではふれない。ともかくそのため天皇になると宮中の奥で暮らすようになり、朝廷で廷臣に会う時も玉座の前に御簾が降りていて姿がみえないようになっているのは時代劇等でもご存知の通り。行幸の時も輿や車から顔出したりはしない。だから活動的な天皇には「お忍び」行動ってのが欠かせないことになるが、子供相手ならこのタブーに引っかからない可能性がある。このブログでたびたび言ってるように、子供は大人にみえないカミを見たり、カミと会話したりしている。民俗学では大人からみると子供はカミの憑坐(よりまし)で、その言葉は神託であり、カミに近い存在と考えられた。だからもしかして、天皇は人(=おとな)に姿を見られてはならないが、子供(=神)に見られるのは許容されていたのではないか。とすると、子供たちとの行動は「お忍び」でないとできないことが堂々とできる数少ない機会になる。むろん臣連(おみ・むらじ)などの上級貴族やあれこれの役人たち、警備の武官も遠足の場にはたくさんいたはずだが「お忍び」モードと同様、文官は庶民に身をやつし警護はいわゆる私服で、便宜上「天皇を見えていない」ふりをしたり、天皇が「匿名の知らない人」であるかのように振る舞ったりして対応したのだろう。だからみんな「あの人が天皇だ」とは分かってはいるのだが天皇自身は周囲に聞こえるような形では「朕は天皇なりよ」とは名乗れない。名乗らない相手にはこっちも名乗らないのが社会のルールだから、教育の場で子供にだけ名乗れとはいえないわけで、匿名のおじさんと匿名の少女の関係にならざるを得ない。そういう情況で雄略天皇はたまたまお気に入りの美少女をみつけて身体の関係を結んだ。周囲の役人はすべて分かってるが、性交可能年齢に達していない子供もたくさんいるのでその場では事はおおっぴらにされず、何事もなかったように普通に遠足は終了したんだろう。だから名前はその場では明らかにされない。これが初回の吉野遠足、吉野川での水浴びごっこ(禊の実習か?)の真相だろう。第三の反論はこれで解決。ドヤッ

万葉集の「名のり」の歌との関係
だがこの推理はあたってるのか? ちょっとここまでの謎解きでわかった話をまとめてふりかえってみると、雄略天皇は何百人もの子供たちを引率して吉野川のほとりに泊りがけの遠足にでかけ、たまたま妖精のような美少女を見出し、気に入って一夜を過ごしたが、一夜で七回もやるだけの時間があったのだからちゃんと隔離された空間でのことだろう。だからそこではお互いに名乗っていた可能性はある。ただ都に帰還して遠足が無事終了するまでは「建前」は守らねばならない。で袁杼比賣は他の子らと一緒に行動しているので、遠足が終了すると他の子らがそうであるように袁杼比賣も自分の家=和邇氏の邸宅に自動的に引き取られた。だが天皇としては吉野川で見初めた妖精のような美少女をそのまま捨て置けぬ。百歩譲って仮に寝所で秘密裏に名乗りあってはいなかったとしても周囲の役人がすべての子供を把握しており、天皇の相手が誰だったかなんてすべてお見通しのはず。だから後日、日を改めて天皇は袁杼比賣を訪ねていった、むろん公式に「名乗る」ため。それが金鉏岡の話だ。
さて、雄略天皇と「名乗り」といえば、誰でもこの頁の最初の方であげた万葉集の「こもよみこもち…我こそはのらめ、家をも名をも」の歌が浮かぶはずだ。「今こそは名乗るぞ」というこの歌は前提として名乗りたくとも名乗れなかった期間がやっと終わったという開放感とよろこびに満ちているとは感じないか? 万葉集のこの歌は古事記にも書紀にもないが、記紀の伝承の中に組み込ませようとすれば、該当しそうなところは古事記の金鉏岡での話の他ない。この歌は「丘」での歌で「この丘に菜つます子」と詠んでるが、これは金鉏岡で袁杼比賣を見つけたシーンだろう。金鉏岡のエピソードは古事記では不自然に尻切れになっているが、後半の記事が誤脱していて、その誤脱した記事というのが万葉集の冒頭にあるこの歌に違いない。ここで初めて天皇と謎の乙女は名乗りあい、謎の乙女の素性が「和邇氏の娘の袁杼比賣」と「公式に」知れたわけ。
そうすると彼女が采女になって宮中に出仕したのは当然金鉏岡の事件の後になる。天皇は遠足から帰還した後も建前上は「袁杼比賣」の名をいうわけにはいかず「あの(名の知れぬ)童女君に会いに行かねば」とだけ呼んでいたろうから、周囲は面白がってその女性に「童女君」という渾名がついた。金鉏岡の事件の後は公式にも袁杼比賣になったはずだが、日本書紀がなぜ本名を出さず「童女君」としか書かないのかというと、原資料が語部の舞台の台本しかなかったからだろう。そこでは演劇の興として「童女君」と呼称されることがストーリー設定上の効果なのである。むろん「袁杼比賣」の名は知っていても、現在の記紀を読んでる我々でさえ4人のうち誰が同一人物なのか説が分かれている。日本書紀の編集部は厳密な史料上の証拠としては同一人物と確定できなかったから、原史料に忠実に書いたのだ。
で、袁杼比賣が采女となって宮中入りしてからは、まだ何もしてないのに腹がふくらんで出産、春日大娘皇女が誕生したわけだ。
春日大娘皇女が1歳か2歳かわからないがヨチヨチ歩きした頃、物部連目(もののべのめのむらじ)の諫言により、春日大娘皇女が帝と袁杼比賣との一夜の交わりで生まれた子だと確定した。邇々藝命と木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)の故事から、一夜のちぎりだけで生まれた子は神聖なる「神の御子」と考えられたから、この子を産んだ袁杼比賣の権威も高まり、雄略天皇の感慨もひとしおだろう。「一夜で妊娠するもんかな」という帝の疑問は、神の子を授かったというだけでなく、自分がすでにいつ崩御してもおかしくない老齢で、この歳で子供ができたという喜びも含んでいたろう。そこで二人の思い出の地、吉野に行幸となり、天皇の琴にあわせて皇后(袁杼比賣)が舞う。ここで天皇は「あぐらゐの神の御手もち弾く琴に舞ひする乙女、常世(とこよ)にもかも」と詠う。
古事記は「吉野」という土地の話としてまとめてしまっているので二回目の吉野行幸を一回目の後にくっつけてしまい、そのため時系列が乱れて金鉏岡と順番が狂っている。書紀は后妃皇子女の記事は冒頭にまとめて書いてるために吉野行幸よりずっと前に春日大娘皇女が生まれたかのように錯覚してしまうがそうではなくて、かなり遅く最晩年に生まれたものと思う。
「神の御子」なる春日大娘皇女は雄略天皇なき後の混迷する政局の中で、朝廷の中心的な権威として存在し続け、最後は仁賢天皇の皇后となって5人の子を産んだ。この間に飯豊女王(いひとよのひめみこ)の執政期間もあったが、その間も宗教的な権威は春日大娘皇女の方がはるかに高かっただろう。神の子なのだから、春日大娘皇女をキリストに、雄略天皇をキリストの父ヨセフに喩えるならば、ヤハウェの役どころは誰か。やはり袁杼比賣は妖精(カミ)の化身だったのではないか。

もう一つの真相(?)その1
…などと気の利いたセリフで閉めようと思ったが、まだ終わらないw
西洋では心優しい女性が死ぬと水の妖精になるとか、少女の守護霊になるとかいう。ここで唐突に水木しげるの『河童の三平』を思い出す。水難にあって行方不明になった少年「三平」の身代わりに河童の「かん平」が三平になりすまして人間世界で暮らすっていう話だったかな? すっかり忘れてしまった。これは西洋やアフリカに伝わる、妖精による「取り替えっ子」の伝承がモチーフなのかな? 誰でも子供の時には「自分は両親の本当の子じゃないんだって妄想を抱く」ことがあるけれども、これは何らかの効用のあることらしく、日本でもつい40年か50年ぐらい前までは親が子供に「おまえは橋の下から拾ってきたんだ」とか、今なら児童虐待っていわれそうなことをわざわざいう文化があった(はっきり明言するか匂わせ散らつかせる程度か真面目にいうかふざけていうかの違いはあるにせよ)。西洋の「とりかえっ子」の民話はバリエーション豊富で、取り替えられてきた妖精の子が醜かったり無能だったりするだけでなくその逆のケースもままあり、見ようによってはキリスト生誕伝説も民俗学的には「取り替えっ子」の伝承のバリエーションともみえる。キリストは生まれた時から同一人物なので父がヤハウェかヨセフかっていう問題はあっても「とりかえっ子」には該当しなさそうだが、シュタイナーの説では父ヨセフと母マリヤ、息子イエスという二組の同名の家族がベツレヘムとナザレにそれぞれあり(当時のユダヤではヨセフもマリヤもイエスも日本でいう「たけし」「ゆうすけ」みたいなありふれた名なのでここまではいかにもありそうな話)、12歳の時にベツレヘムのイエスと父ヨセフが死んで寡婦マリヤは他の子らを引き連れてナザレへ。ナザレでは母マリヤが死んでイエスと父ヨセフが二人暮らし。ここで両者が再婚したと。この説によるならベツレヘムのマリヤにとってナザレのイエスは良い意味での「とりかえっ子」だろう。有名な川内康範大先生の『正義のシンボル コンドールマン』の主人公はもう子供じゃないが、これは精霊(?)がすでに死んでる三矢一心という名の男の姿を借りただけで、なりすましじゃなくてたまたま似てるだけの人を演じている。
でだ、冒頭であげた吉野の乙女についての「人間説」「精霊説」「折衷説」のうち、折衷説ってのは要するに「妖精ごっこ説」だったわけだが、いくらなんでもあれはヒドイので(笑)、代わりに「妖精とりかえっこ説」はどうだろう。晩年の雄略天皇はよせばいいのにがきんちょを引き連れて遠足にいったが、これがまずかった。今は管理教育が発達して、何にでもあれこれウルサクなってるんだろうが、60年代末や70年代初頭の小学校は文字化されたルールよりも「言われなくてもわかってるはずの常識」に寄りかかってる感じが強かった。そういう情況では教師の権限が強くて、今なら大問題になりそうな体罰も普通だった。今の子供は都会も田舎も上品そうだけど、昔の田舎の小学生なんて元気が余りすぎて動物園の動物みたいなガキがいくらでもいたんよ。遠足ってのは旧所名跡とか風光明媚な名所にいくんだが後者の場合、田舎だと断崖絶壁とか吊り橋とかかなり危険な場所ってこともありうる。で、先生のいうことを聞かないで、あるいはわざと逆のことをして騒ぐやつが必ずいたもんだ。こんな調子だから、遠足いった先の事故で何年かに一人は死んでたよ。昔ほど、子供は死ぬもんだったんだよ。いくらでも逃げられそうな田舎ののどかで開放的な踏切でさえなぜか汽車(電車じゃなくて汽車)に跳ねられて死んだ器用なクラスメートもいた、あれはいまだに謎だが。雄略天皇が引率した遠足でも、事前に調べた安全なところで川遊び(≒禊の実習)したんだろうが、行っちゃだめっていってもあちこち行きたがるのが子供なんで、おとなの目を盗んで危険水域で溺れ死んだ子もいたんじゃないのかな。可哀相にな。俺ですら可哀相に思うのに、こどもたちを喜ばそうと思って引率してきた雄略天皇のショックったらないと思うよ。そこで川の妖精だか水の女神だかが、埋葬された少女の墓の前に佇む陛下をお慰め奉ろうと思って、その子に変身して現れたにちがいない。天皇はびっくりしたろうが、亡くなった子の親も哀れだし、この際そのままなりすましてもらうことに相談がまとまった。しかし親元に長くいると別人であることがバレてしまう可能性が高いので、「遠足に行った先で天皇の目に止まってお気に入りになった」ってことにしてさっさと大奥入りしてしまえという算段なわけだよ。そういえば、童女君の父の名は和珥臣深目だがこのフカメってのは「水の深いところ」って意味のフカミ(深水)の意味か、もしくは「川(や沼や泉や湖)の神」って意味のフチカミ(淵神)の意味ではなかろうか? 水の妖精の父としてふさわしい名前だと思うが。ドヤッ
そうすると、春日之袁杼比賣と童女君を同一人物とする説ではその父である丸邇臣佐都紀と和珥臣深目も同一人物の別名と考えるわけだが、もし深目が精霊の父で深目本人も水の神(?)だとすると、もう一つの名、佐都紀が亡くなった幼女の父なんだろうか、そしたら深目と佐都紀は別人となる。この場合、深目をワニ氏のようにいうのは丸邇臣佐都紀との混同によるものだろう。
だが、どうも引っかかる。新嘗祭で舞われる「五節舞」(ごせちのまい)ってのがあるんだが、この吉野川の乙女の伝承が五節舞の起源だって説がある。五節舞は平安時代には新嘗祭での舞になってしまったがもともと古くは五月の舞だったと推定されてる。袁杼比賣の父の名が佐都紀(サツキ=五月)ってのは偶然だろうか? そこで謎解きのために一旦遠回りになるが、まずは「五節舞起源説」について考えよう。

「五節舞」起源説の可否
『続日本紀』天平五年五月五日の条では、元正上皇のために阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が五節舞を舞った。この時聖武天皇が「天武天皇が礼楽を定め五節舞を作った」といってるが、極めて簡単な文言なので詳細はわからない。別のところで書いたように奈良時代の皇室は天武系で、天武天皇を神格化・神聖化しようとしていたから、本当に天武天皇が創案したのかどうかは何ともわからない。学界でもこれはあくまで「当時の起源説話」であって天武天皇が実際に作ったとは考えられていない(俺は説話とすら思わない。宣伝だろう)。延喜(901-923年)の頃に惟宗公方(これむねのきんかた)が書いた『本朝月令』には天武天皇が吉野に行幸した時に天女が空中に現れ(天武天皇以外には見えなかったという)、袖を5回振ったのが五節舞の起源だとあるが、日本書紀の天武天皇の記述にはそんな話はまったくない。本居宣長は『本朝月令』の話は古事記の吉野の乙女の話に似てるから古事記からパクって作った話だろうという。これに基いて、吉野の乙女が五節舞の起源だという説があるらしいのだが(「らしい」というのは俺はそんな説みたことないから)、学界では天武天皇創始説よりもさらにバカにされてるみたいだな、プンプン。学者が否定するのも一見したところ当然で、宣長は別に「吉野の乙女が五節舞の起源だ」と言ってるのではぜんぜんない。そうではなくて本朝月令の記事がインチキで惟宗公方の創作だといってるにすぎない。だがちょっと待ってくれよ! 惟宗公方(か、公方が典拠にした原資料の著者)は、なんでこんな捏造をわざわざしてるのか? おそらく天武天皇が作ったというのはやはり奈良時代の政治事情からきた誇張で、天武帝は舞の人数・正確な振り付け・キャストの選抜法や音楽やスタッフの規定など、法制度的なことを整備制定したり、五節を音楽の五声にこじつけたりの理論化をしたりってのは本当なんだろうが、五節舞とよばれる舞自体は通説どおりそれ以前からあったのだろう。で、本当の起源は吉野の乙女だったんだが、朝廷に仕える惟宗公方の立場としては続日本紀という正史の記述に背くことはできないから、雄略天皇の伝承を天武天皇にさしかえて書いたわけさ。その天女が天武天皇にしか見えなかった、というところは皮肉だろうなw 公方じゃなくて公方が典拠にした原資料ですでにこうなってたんだろうが「袖を5回振った」なんてのは「五節」の字づらにコジツケた与太話にすぎない。さらにはるか後世(まずほとんど江戸時代)の天川弁財天の縁起ではこの天女が吉祥天だってことになってるが問題外。もし雄略天皇の吉野の乙女が起源だという伝承が最初から無かったのなら当時マイナーだった古事記の伝承にネタにして惟宗公方(もしくは原資料作者)が二次創作をする動機も意味もない。二次創作というのは矛盾する二つのことを整合させるという「決まった目標」があるから書けるのであって(アニパロなら自分の性癖)、まったく自由の精神状態からは発動しないのだ(偽書の類もだいたいそう)。

「夏至の祭儀」とは?
平安時代と違って奈良時代には五節舞は新嘗祭と限らず年中いろいろな祭儀やイベントのおりふしに舞われた。さらに古くは「五節舞・田舞」と併称され、五月の農耕儀礼にともなう庶民的な舞だった。つまり五節舞というのは「五月の節会の舞」という意味だった。和語ではサツキマヒと言ってたんだろう。
で、この五月の神祭儀礼だが、中国から伝来した「五月五日の端午節」と日本古来の「皐月忌」(さつきいみ:夏至の祭儀)が奈良時代の朝廷では混交しつつあったろうけれども、雄略天皇の頃はまだまだ純粋の日本風の皐月忌で、大陸の端午節のニュアンスは薄かったろう。皐月忌については以前に書いた記事「鯉のぼりと巨木信仰」を参照してもらうとして、これは大地母神の祭儀で、少女神の祭儀は別にある。で、皐月忌には女性が身を清めて穢を祓い、この間、男性は家から追い出されるので地方によっては「女の家」とか「女天下」ともいう。これ伊邪那美命が黄泉国から伊邪那岐命を追い出した故事の再演になっている。だから前掲の記事では「夏至の祭儀とは大地母神の祭儀だった」と結論づけたのだったが、旧暦では夏至を含む月が「五月」だ。「五節舞が本来は田舞と同様の農耕儀礼だった」っていう学界の説はそれはそれとして大ハズレではないが、やや漠然としすぎではないか、正鵠を得たとも言い難いと思う(正鵠は射るのでなく得るらしい。どうでもいいが)。吉野の乙女の話がもし五節舞の起源ならば、雄略天皇の吉野川への遠足は五月の夏至の頃だったんだろう。今の暦だと6月22日頃が夏至だから、梅雨の最中で、山の中の川なんて大雨で増水したりして危険じゃないのかと思われる。昔の人は現代人よりもはるかに地形や気候に敏感で詳細な知識があったろうから、わざわざこんな時期に開催してるのは不審だ。考えられるとしたら、夏至だからこそわざわざやってるんで、つまりこの遠足は夏至の祭儀の一部ないしバリエーションなのである。大地母神の祭儀にこどもの遠足? …どういう取り合わせだよと疑問に思う人は、いないだろう。もうわかったよねw この遠足はおそらく女児だけが参加した。それも初潮を迎えた女児だけで。これは女子の成人儀礼(イニシエーション)なのである。だから行きは子供なんだが、帰りはすでに性交も許されるおとなの女なのである。昔のテレビ番組でアフリカだかニューギニアだかアマゾンだか忘れたが、部族中の初潮を迎えた女子が着飾って集まってよくわからない踊りを踊ってる映像をみたような気がするんだが、もちろんそれは女子の成人の儀式だった。吉野川の遠足も主旨としては似たようなイベントだったのではないか。男にももちろんある。俺が7歳の時には「お山がけ」と称して故郷の市の内外から集まった7歳男児が集団で山伏みたいな格好させられて、さる神社の裏手にある険しい山に長時間かけて登るっていう儀式があって、さらに昔はこれをやらないと一人前の男とみなされなかったそうだ。女子は川で禊して、男は山に登るって対称性がある。桃太郎の冒頭「お爺さんは山へ、お婆さんは川へ」。これで男の山登りは冬至の日、なんて実例があるといいのだがあいにく俺の田舎の風習では秋の行事だったんだ。こんなのは一例で詳細な議論するにはもっと多彩な例に基づかねばならないが面倒だから今は省略して先を急ごう。

ヲドヒメとはどういう意味か?
五節舞なんて興味ないから今回はスルーするつもりだったが、謎解きが暴走してこれも一つの重要な鍵に思えてきたからやむなく取り上げた。袁杼比賣の父の名が佐都紀だという意味を考えるに、五月の成人儀礼の時に現れたから五月の子って意味なのかな? そしたら深目だけでなく佐都紀も妖精の父の名であって、亡くなった少女の実の父とは別人ってことになるが、それならなぜ「ワニ氏」という特定の実在の姓をもってるのか? 一案として少々コジツケっぽいが、五月の成人儀礼でおとなの女になったすべての女性は、五月に生まれ変わったのだから五月生まれの五月の子、サツキの子って意味じゃないか? そしたら丸邇臣佐都紀は吉野川遠足の監督責任者だったのか、と思いたくなるが、イベント全体の総指揮者の娘がたまたま事故死して妖精と入れ替わるなんてことあるか? 確率はともかくありうることではあるが、普通に考えれば主宰責任者は少子部連蜾蠃のはずではないか。どうも少女の肉体は死んでなくて継続してると考えないと特定の氏族の血を引く娘として後々まで認識されるのはおかしいと思う。本当に人間の父母から生まれたわけではない存在なら、ワニ氏の娘として後々まで振る舞い続けるのは当時の氏族制社会の中でムリがありすぎる。でもさぁ、学界が「吉野の乙女は川の精霊だ」って言い張るからこの路線でむりやり引っ張ってみようw そこでだ、死んだと思った少女が現れたんだから「よみがえり」なわけだけど、一般的に「よみがえり」といわれる事件は、諸例ごとに実態は多様だ。例えば上述の「溺れ死んだ幼女の身代わりに妖精さんが現れた」とする案では、見た目はそっくりでも肉体はモデルにされた人間(この場合は遺体だが)とはまったく別の存在ってことになる。ウルトラセブンみたいなもんね、セブンの場合はモデルにされた人は生きていたが。しかしコンドールマンの場合はどうか。肉体は三矢一心の肉体(正確には遺骨)なんだが本人は死んでて彼の魂はあの世いき。で、ゴールデンコンドルという鳥の精霊だか鳳凰の雛だかが彼の遺骨と合体してコンドールマンが誕生したんだが、コンドールマンが三矢一心に化けている間も、別人なんだから三矢一心の記憶も自意識もない。姿を借りているというより肉体を借りている感じ。ウルトラマンの場合、ハヤタは意識を失ってるだけで死んでおらず肉体はウルトラマンに乗っ取られたまま活動してる。吉野の乙女の場合、例えていえば、ハヤタの魂はすでにあの世にいっててウルトラマンが分離するとハヤタの肉体も死んでしまうような情況だよ。コンドールマンもたぶん同じケースだろう。
一方、たぶん、フカメにしろサツキにしろ事件が解決してから回想的につけられた渾名なんだろう。父親本人は事件に直接関与していないただの親だ。ここまでくると、じゃ袁杼比賣(をどひめ)のヲドってなんだ?っていう話に当然なりますわね。宣長は仮名遣い(後世でいう上代特殊仮名遣い)の観点から賀茂真淵の説を否定していたが、自分では代案を出せなかった。愚考するに古事記に淤縢山津見(おどやまつみ)とあるところ岩波思想体系の古事記の注釈では淤縢(おど)を「降り処」(おりど)としてミゾオチの意味かとしている。しかし書紀に弟山祇(おとやまつみ)とあるのだから「淤縢(おど)=弟(おと)」と定置していいのではないか? 縢も杼も乙類のド、弟のトも乙類。さすればヲドヒメは「小弟媛」の意味かとも思えるが、この解釈で何かが解決するわけでもない。次に舞がうまいんだからヲドリヒメ(踊り媛)の意かとも思ったが、古い時代のヲドルは激しく動く意味はあってもダンスの意味はまだなかったのではないかと思わなくもない。万葉集にもヲドリという単語はでてきて、マヒ(舞)は静かでメロディアスで横の動きが主、ヲドリ(踊)は激しくリズミカルで縦の動き、等といわれているがこんな区別はいつからだろうか。古事記にはヲドリは出てこない。しかしここまでのストーリーを解明(笑)した後ではまた別の連想が働く。第三案として、袁杼比賣は一回死んで生まれ変わった人なんだから、ヲチヒメ(変若媛)の意味ではないか? 「をつ」という動詞はすでに解説したように元に戻るとか若がえるって意味。不老不死をもたらす月の雫を万葉時代の日本語で「をちみづ」と言った。ヲトコ・ヲトメの「ヲト」も「をつ」の変化というのは既述のごとく、ゆえにヲチヒメはヲトヒメでありえ、ヲト=ヲドなのは、古事記の淤縢(おど)が書紀で弟(おと)と書かれるようなもので同じ言葉である。ヲドヒメとはヲチヒメ(変若媛)つまり一度死んでよみがえった媛という意味だろう。あれだよ、一度死んだ主人公が謎の生命体と合体してヒーローとなるんだが、何も知らない仲間からは「不死身の男」と言われるという…。
ウルトラマンが最終回でハヤタの肉体と分離して光の国に去っていったように、妖精さんも媛の肉体からいつか去っていくのではないか、と雄略天皇はおそれた。だから、彼女との思い出の場所に行幸した時、彼女の舞をみて「常世(とこよ)にもかも」(永遠にこのままでいてほしいなぁ)と詠ったのである。「光の国」ってのはM78星雲の中の惑星の名前な。
こういう話はさほど突拍子もない経験ではない。恋人が二重人格を病んでいたとして、治癒がすすんで人格が統合されていくと片方の人格は消える。それは望んでいたことなのであるが、長年(苦労や苦心の記憶を伴った期間)のつきあいのうちに知らず知らずのうちに愛着が生じていることがある。消えていった人格の方をこそ愛していたと気づくのである。現代の医療では本来の人格を殺して偽りの人格を残すようなことを平気でやってるような気がするが、これは治療にあたる医師のみならず正常に暮らす一般人の多くが本当の自分を殺すことでおとなになったから、どれが本当の人格なのか、もう感覚が麻痺してるのではないか。古代では多重人格という時の「人格」はそれぞれが実在する霊であり、去ることはあっても消えることはない。最終回がすぎてもウルトラマンは光の国にいるようなものだ。だから、忘れた頃にウルトラマンは二度三度と帰ってきた。もし悪しきものとして追い出したりしたらこちらがどんな危機に陥っても二度と助けにきてはくれないだろう。

もう一つの真相(?)その2
…などと気の利いたセリフで閉めようと思ったが、まだ終わらないw
「五節の舞」が五穀の豊穣を祈る舞であるならば、ここで水の女神だの川の妖精だのばかりで、豊穣の女神の名がまったくあがってないのはどうしたことか。具体的には豊受媛(とようけひめ)等が真っ先に浮かぶ。豊受大神といえば伊勢の外宮の祭神で、雄略天皇の晩年に、丹後国から伊勢に移って鎮座したのが外宮の始まりということになっている。しかしその説は後世の記述ばかりで記紀にはそんなことはまったく書かれていない。そもそも伊勢神宮は創建の初期から内外ニ宮制だったと思われる。それはいうまでもなく太陽神と豊穣の女神をともに祀るのが古代の世界各地に普遍にみられる祭祀形態だからだ。で、雄略朝説の出典元である『止由気宮儀式帳』『丹後風土記逸文』『大神宮諸雑事記』をよくみると、きわめて奇妙な話だが、どうも神社から神霊を勧請したような書き方ではなく、生きているナマミの現実の女性を迎え入れたような表現になっている。このことも不思議なことに誰も問題にしてないが、例によって神話的表現ですましてるんだろう。しかしもう歴史時代に入ってるのにここだけ神話が割り込んで浮いた感じなのはおかしくないか。私はずばりこれは本当に一人の人物だったのだと思う。ではこの豊受大神だと自称してそれが伊勢神宮でも受け入れられるような人間とはいったい誰だったのか? そしてなぜこの特定の時期に、なぜ丹後という特定の場所からやってきたのか? 豊受媛が伊勢に移ったのと、吉野の乙女の事件はどちらも雄略朝の末期。この符合からすると吉野の謎の乙女は伊勢からきた豊受姫だったのではないかという妄想が、当然わいてくる。誰でもわいてくるだろ?w 吉野宮は広大な吉野全域からすると北の端で大和盆地からは入り口にすぎない。伊勢から宇陀を通ってくると、大和から行幸してくる天皇と待ち合わせる場所として不自然なことはまったくない。
吉野の乙女=妖精いれかわり説の場合、もともとの和邇氏の娘(袁杼比賣)の魂と、妖精さんだか川の女神だかが入れ替わるって話であって、肉体は一貫して和邇氏の娘のものだから、肉体は一つ。物理的には誰とも入れ替わっておらず、現代風にいうならただの二重人格症状という身も蓋もない、矮小な話にすぎない。しかし、自称「豊受比賣」と春日の袁杼比賣、ここに二人の娘がいる。この二人が実際に入れ替わったのではないか? なんのために? 自称「豊受比賣」を天皇に引き合わせるための和邇氏の策略か? あるいは自称「豊受比賣」が強引に天皇に会おうとしてこの遠足に潜入したために起こった突発的なハプニングなのか?
このブログを以前からみてる人はこの自称「豊受比賣」が誰なのか、なんのために現われたのか、たいだい予想できると思うが、今回この記事あまりに長くなりすぎたので謎解きの続きはまた別の機会にでもやります。今回はこれでおしまい。

・雄略帝は英雄なのか?(附説:語部とは)

H27年9月14日(月)改稿 H27年1月22日初稿
まずは有名な『万葉集』冒頭の雄略天皇の歌。

篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根
こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いへきかな のらさね
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座
そらみつやまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ
我許背齒 告目 家呼毛 名雄母
われこそはのらめ いへをもなをも

この雄略天皇の御製が、万葉集の冒頭を飾っているのは、万葉集が編纂された時代までも、雄略天皇が英雄として人々に記憶されていたからだという説明がよくされている。そしてそれに対する疑問は、あまり聞かれない。現代人もそれで納得している。
しかし、同じ英雄的存在といっても、古代人が抱いていた雄略天皇像と、現代人が思い浮かべる雄略天皇のイメージはどこまで一致してるのだろうか…?
二つの英雄像は正しいのか
現代人が抱かせられてる雄略天皇の征服者・英雄としてのイメージは、実は考古学と古代史学から作られたイメージであって古事記に描かれたイメージと少し違う(≒ものすごくは違わないが)。
考古学では、埼玉県と福岡県から「ワカタケル大王」(獲加多支鹵大王)と読める鉄剣が出土したので、雄略天皇の時にヤマト朝廷が東は関東、西は九州まで征服したのだというイメージ。
古代史学では倭王武のイメージ。倭王武は東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡って海北を平ぐること九十五国といっている。
現代人が「雄略天皇は英雄」という時、上記の2つのイメージで語ってるのではないだろうか。つまり、外征にあけくれて領土を広げた天皇だ、と。
ところが、この二つのイメージは、どうも記紀の伝承とは噛みあわないように思われるのだが。
古事記をみても、天皇として即位してからの部分をみるかぎり、女性との歌物語ばかり出てきて、色恋沙汰に明け暮れていた平和な天皇というイメージしかない。では、雄略天皇を英雄として描いていないのか、というと、描いてはいるのだが、天皇として即位する前の、一皇子として「大長谷王」とよばれていた頃の話で、天皇陛下を白昼暗殺し奉った目弱王に対し毅然たる態度なき2兄に激昂憤然、目弱王を匿った都夫良意富美(=円大臣)に対し皇室の代表として堂々たる交渉の末、いまだオグナ(=児童)にまししも皇軍を率いてこれを討伐した話がでてくる。雄略天皇の英雄らしいはたらきといえばこれしかない。
しかしこれは内乱の鎮定ではあっても、西や東に領土を広げた話ではぜんぜんない。
そこで、よく考えてみると「ワカタケル大王」の時にはすでに関東から九州まで支配していた、ということであって、ワカタケル大王が征服したわけではない。つまり先代か先々代か、さらにずっと前に征服したのかも知れないわけだ。
もう一つの方の、倭王武の話の元ネタである上表文というものをよく読んでみると、「東は毛人(蝦夷?)を征すること55ヶ国、西は衆夷(熊襲?)を服すること66ヶ国、渡って海北(=三韓)を平ぐること95ヶ国」といってはいるものの、これは倭王武本人の功績ではなく、自分の先祖のやったこととして述べている文なのである。
つまり記紀の雄略天皇のみならず、考古学のワカタケル大王も、中国の歴史書にでてくる倭王武も、共通して、「外征などやってない」「領土を広げていない」のである。現代人が英雄という時、どうやら「戦国の英雄」つまり織田信長とかの「天下統一」のイメージがあるらしい。でも、それは雄略天皇にはあてはまらない。

雄略天皇の英雄的行為とは
では、なぜ古代人は、雄略天皇を英雄として崇めていたのだろうか。雄略天皇が武勇を振るった話というと、一つだけある。それは、即位前の皇子の時に、安康天皇の仇を打ち、犯人の目弱王と彼を匿った葛城氏を、武力で滅ぼしたという一件だ。この他には華々しい合戦はない。現代人からすると「天下統一ならともかく、武力で一勢力を滅ぼすぐらいのことで英雄なの?」と思ってしまうだろう。
だが、この事件は単に「武力で一勢力を滅ぼしただけ」の話ではないのである。これがわからないと、考古学も中国の文献に出てくる倭王武もしらない古代人が、なぜ即位前の一介の皇子にすぎなかった雄略天皇を英雄王として仰賛していたのかが理解できなくなる。
それはおそらく、当時の人々が、大長谷王をヤマトタケルの再来とみたからだろう。当時の人々にとって、典型的な英雄とは誰か? ジュリアス・シーザーでもアレキサンダー大王でもナポレオンでもなく、坂本竜馬でも源義経でも楠正成でも上杉謙信でもない。諸葛孔明や関羽でもない。当時の日本人にとって英雄といえば、なんといっても第一にはヤマトタケルだろう。
大長谷王が若建王(わかたけるのみこ)と呼ばれるのは多くの人がいっているように、ヤマトタケルを意識したものだろう。

雄略天皇とヤマトタケルの共通点
では、雄略天皇とヤマトタケルでは、どこが似てるのか。それは三つある。
一つは、葛城氏を滅ぼした時の雄略天皇=大長谷王は、まだヲグナ(児童)だったこと。具体的には何歳なのかわからないが、どんなに年長でも昔の元服つまり数え才15歳=満14歳にはなってないはずで、おそらく二次性徴前だろう。wikipediaで「二次性徴」を検索すると「男性の場合、早ければ9歳、遅くとも13歳、平均して11歳6ヶ月前後」とある。ヤマトタケルは熊襲征伐の時、別名をヤマトヲグナといったように、少年であり児童であり、まだ二次性徴前のこどもだったのである。まだ総角(あげまき。子供の意)だったとも日本書紀にある。
二つには、非常に凶暴な性格だったこと。日本書紀はまともなおとなのように書いてるがこれは後世の脚色だというのが通説だ。古事記はまた別の路線で、女性の視点で叙情的な恋愛譚に主眼を置こうとしているが、それでも現代人が「えっ」と思うような変態性欲を思わせるほどの残虐な話はかなり多く出てくる。「子供であること」と「残酷(を楽しむ)行為」は表裏一体の関係にある。
しかしこの二つの共通点だけでは英雄にはならなかったろう。三つめの重要な要素は、滅ぼした相手が「悪」だったということ。これがなくてはならない。大長谷王が戦った相手、葛城氏というのは、半島や大陸との外交を司り、従って海外貿易を司っていた。産業革命以前には古今東西、貿易が金融業を除くあらゆる産業よりも効率良く莫大な財産を築くことができた。それで国家の貿易を管理する者が今でいう財務大臣の役割を兼ねることになる。結果的に半島や大陸の文化の輸入窓口、総代理店ともなる。そうなると中国の文化には造詣の深い一族ということになるし、半島や大陸からの帰化人や難民とも自然に深い関係をもつことになる。反面、中華文明が売りなのだから、純和風な文化は田舎くさい遅れたものとして蔑むようになる。例えば、語部(かたりべ)を遅れた野蛮な文化だとして、漢字がすばらしいものとして中国の書物を有り難がるような連中ってことでもある。そして葛城氏はこれらをすべて利権としていた。つまり、葛城氏とは、今でいうチャイナロビーと経団連と大蔵官僚と左翼系文化人をごっちゃにしたようなものと思えばいい。当然、移民推進派だよw

過去のヤマトタケルを補完する雄略天皇
雄略天皇本人は、大陸文化が大好きだったから、葛城氏にかわって平群氏に利権を引き継がせたわけだけど、そんな細かいことは庶民には関係ない。とにかく葛城氏をやっつけたってことで喝采を浴び、不動の人気を築いた。今の世のヤマトタケル、少年にして巨悪を倒す…。それだけで伝説的な存在となった。かつてのヤマトタケルは征旅の途上に倒れたが、人はみな「もしヤマトタケルが無事帰還して天皇に即位していたならば」という妄想を幾度となく語り合ったろう。しかし今、目の前にヤマトタケルがいるのである。庶民としたらその「もしヤマトタケルが天皇に即位していたならば」というわくわくどきどきな仮想歴史を実現してくれたのが雄略天皇ということになる。雄略天皇がその在位中に女性との恋物語ばかりやたら出てきて、さっぱり英雄らしくなくなるのは、あれは悲劇で終わったヤマトタケルのあったかもしれない後半生の再現のように庶民からは見えたろう。庶民にとって雄略天皇はヤマトタケルの生まれ変わりなのである。だから雄略天皇はあれで非難されないのである。
おまけ:語部(かたりべ)とはインターネットである
ところで語部(かたりべ)の話なんだが、これは部民制と切り離せない問題なのである。
いまだに昔は貧しい農村で孤立してたようなイメージを抱く人が多いが、国造(くにのみやつこ)ってのは世襲であっても、あくまで県知事みたいなもので藩の大名ではない。つまりどういうことかというと、大名というものは領主なので領地を一円支配してるわけだけど、国造が管理してる「国」ってのは一円支配ではない。当時の社会は「部民制」社会であって、穴穂部だの白髪部だの忍坂部だのという皇族の御料(名代、「なしろ」という)や、蘇我部だの葛城部だのという中央貴族の領地(部曲、「かきべ」という)が全国に散在していた。全国に散在させるのは、これ一ヵ所に集めると一種の勢力圏みたいなものができてしまって群雄割拠の原因になるから。こうやって散らしておくわけ。だから吉備王国だの出雲王国だの九州王朝だのは存在できない仕組みなんだよw これが部民制。そういうところは後世の荘園みたいなもので国造が直接関与できない。だから時代が下がるほど部民が増えてきて、国造が直接関与できる領地ってのはどんどん狭くなって国造の権力はたいしたことがなくなっていた。そのかわり、部の主人の元へ年貢が集まる仕組みなわけだから当然、安曇部なら安曇部同士、物部なら物部同士、全国の部民の物資輸送のネットワークができる。陸奥にも薩摩にも部はあるのだから管理者を派遣しなければならないが、誰しも遠隔地に飛ばされるのは嫌だから、家来の中から交代で赴任することになる。そうすると、現地人と中央の人間の往来、中央と地方とのコネもできれば、中には土着する人も出てくる。こうして各地と中央との人脈と交流ができる。ヒトとモノのネットワークあるところ当然、情報のネットワクークも生じる。文字のない時代、それを担うのは語部しかいない。文字はあっても使わない。なくて済んでる人たちは不便だと思わないから。嫌が上にも語部は発達せざる得ない。
もう一つある。
昔の人は娯楽が少ないから、昔話や民話や言い伝えの類はいうまでもなく、街のウワサ話、有名人のネタ、なんでも話題になったろう。有名人とは皇族や貴族のことである。当時の貴族はファッションリーダー等の文化的な先達でもあり上流階級だから憧れの的にもなることがあり、同時に政治家としては批判の対象にもなり、スキャンダルでもあれば格好の庶民の玩具ともなる。庶民の「語ろうとする意志」こそが「語部」(かたりべ)の原動力なのである。その語られた内容が記憶となりやがて歴史となる。中央の宮廷の語部は猿女氏(=比賣陀氏=稗田氏)の管轄だが、諸国にも、国造(くにのみやつこ)の一族が担う「国々の語部」があったことがわかっている。これらは古来からの歴史や言い伝えを伝承するのが仕事の「公的な語部」だが、これは語部の全機能からすれば一部の機能にすぎない。文字のない時代には民間にも私的な語部、つまり郵便配達業のような「言付け預かり業」があったはずだろう。文字が無い時代にはマスコミもないので世論をコントロールできない。また文書化しておくことがなくすべて口頭伝達なので機密を保持するのが難しく、あらゆるところから情報が漏れる。しかも「語り」のネットワークは庶民の隅々まで届く。こういう社会では庶民は特定の意見や価値のもとに団結しやすく、庶民層の「世論」が政治的な力をもちうる。語部というのは今でいうインターネットのようなものなのである。つまり、語部をバカにして木簡や竹簡に書いた漢文のほうが上等だってのは、現代でいえばインターネットをバカにして朝日新聞が偉いっていってんのと同じなんだよ。
葛城氏は庶民が読むことも書くこともできない「漢文」で書かれた公式文書というものを制度化したいわけ。文書政治が確立すると、庶民が何を言おうが「これに書かれてることが正しい」として反対勢力を黙らせる力をもつ。正しさの基準を独占しようってことだから、今でいえばマスコミみたいなものを作ろうってことでもある。しかし当時はまだまだ皇室も他の氏族も旧来のやり方で事足れりとして、乗ってこない。そりゃそうだ、庶民とは別だが、朝廷を今の会社に例えていえば、成金のIT社長が「社内の公用語は英語にする会議もな」と言い出すようなものだから、表面上はともかく内心では反発するのは当たり前。当時は漢字を扱う書記官は帰化人系の下級貴族がつく仕事であって「卑しい」仕事だから、漢字を読み書きできる者は庶民はもちろん貴族にも少なかった。
この葛城氏は雄略天皇によって滅ぼされたが、その利権は平群氏→巨勢氏→蘇我氏と引き継がれることになる。漢字が庶民にも徐々に広がっていくのは大陸からの輸入文化を好んで帰化人系の氏族を寵愛した雄略天皇の頃からだろう。

・雄略朝の安定と巫女たちの役割

H27年5月21日(木)更新 H27年5月20日(水)初稿
雄略天皇の要点まとめ。あと『本居宣長ー日本人のこころの言葉ー』(吉田悦之(宣長記念館館長)/創元社)のおすすめ。雄略記はほとんどが女性との歌物語で出来ている。それについては古事記を読めばわかる通り。これらの女性は巫女だという説あり。雄略朝がヤマト王権の確立期であることは(実際そうなのかどうかとは別として)学界の通説ではある。と関係している。いうところは「これらの巫女は天皇にも影響するほどの絶大な力をもっていた。まして豪族に対してはなおさら。つまり、巫女との関係を押さえることで、国内の諸勢力を押さえることができたのだ」という仮説。この見方は、古代史でよく言われる雄略天皇の征服王・英雄王のイメージと、多くの女性と恋愛にかまけてばかりいる古事記の雄略天皇のイメージをつなぎあわせるための名案として出てきたのかなと思う。
雄略朝の安定と巫女たちの役割
雄略天皇の英雄像については問題あり、詳細は以前に書いた「萬葉集〜雄略帝は英雄なのか?」を参照してくだされい。
巫女については、現代の巫女とは違う。現代の巫女は「神がかり」はしないけど古代の巫女の力というのは実際に神の言葉を天皇なり豪族なりに取り次ぐわけだ。もう一つ、人が考えるような「専従の巫女そのもの」ではなく、「巫女的な一面をあわせもった普通の女性」略して「巫女的な女性」といったほうがいい。通常は巫女でなく普通の女性として暮らしてる。これは久高島のイザイホーとつながる。その島の女性は全員が巫女でもあり、普通の島の女性でもある。これは先週(H27.5.13)、議論し、確認した話。
とこで、雄略記に出てくる歌物語の女性たちは、とくに一貫した共通性が(巫女性の他には)無いままバラバラに出てくるように思うかも知れないが、そうではない。詳細は「一言主大神の出現」を参照されたし。

・一言主大神の出現

H27年5月20日(水)更新 平成27年3月18日(水)初稿
吉野の童女

葛城の一言主神
詳細は議論についてはまた後日に。

雄略帝をめぐる女性たち
歌物語の女性たちは、とくに一貫した共通性が(巫女性の他には)無いままバラバラに出てくるように思うかも知れないが、そうではない。(以下後日)

・若日下王と赤猪子

H27年1月21日(水)初稿
今日、21日は雄略天皇の回。(以下、後日に追加執筆)
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浅草橋キッド

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どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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