雄略天皇の「宇宙樹」
歌の背後に政治あり
ある先生は雄略朝を重視するあまり「古事記は雄略天皇で終わっててもいいぐらい」なことをおっしゃっておりましたw まぁね、俺もそう思わなくもないのは、三重の采女(うねめ)の歌の印象深さってのがあるからだ。この歌は国学者の橘守部が「歌神として称えるに今この歌を第一とす」と激賞している。我々もまぁ味わおうじゃないか。なんなら日本の国歌にしてもいいよ、曲がつけばな。ところで、古事記はよく読んでるつもりでも古代史マニアってのは自分の興味あるとこしか読んでないことが多い。だって古事記は歌物語が多くその歌ってほとんど恋愛モノで、あまり古代史と関係ないから。でもそれだと古事記をほとんど読んでないも同然になっちゃうわけだよ。だいたい現代の学者はハラの中では古事記は作り話だと思ってるので、歌の背景に現実の政治が絡んでるとは思わないで、純粋に一つの作品論として分析したがる。そんなの面白いわけがないw 考えてもみろ、『ウルトラマン』でさえ日米安保条約のすったもんだがなければ生まれなかっただろうがw
この歌は古事記の「最終章」なのか!?
この歌は「水(みな)こをろ、こをろ」とか「浮きし脂(あぶら)」とか神話の冒頭の言葉が突然出てきて、ひじょうに強い関心をそそる。しかも雄略天皇の末尾なので、もし古事記が雄略天皇の章で終わっていたら全体の冒頭と末尾が呼応していることになり、全体の構成として美しくなる。実際にそういう構想案も太安万侶としてはもっていたのではないか。
ともかくそういうわけなので、雄略天皇で区切るという安麻呂のアイディアは稗田阿礼の猛反対でお流れになったと思われるw その前に安麻呂が本当にそんなアイディア出していたかどうかよくわからんが。ここは読まなくて可
現在の『古事記』が推古天皇で終わっているのは丹比間人宿禰足嶋(たぢひのはしひとのすくね・たるしま)が提出した原資料(丹比氏の伝承した帝皇日継)がそうなっていたからである。息長真人子老(おきながのまひと・こゆ)が提出した原資料(息長氏の伝承した帝皇日継)では少なくとも継体天皇まではあったはず。雄略天皇で切られてしまうと継体天皇の正統性を主張する後者や宣化天皇の正統性を印象づける前者の原資料の趣旨がぼやけてしまうので、足嶋も子老もそれは不本意だったに違いない。稗田阿礼に至っては本当は大化の改新か壬申の乱までやりたかったろうが日本書紀とかぶってしまうし、そこで内容に独自性を出されても稗田阿礼って人は天武皇統の正統性に疑問を呈するようなことをやりかねないので安麻呂としては命がいくつあっても足りない。だから、あくまでも古事記中巻・下巻の趣旨に留めるべく推古天皇で終わらせたんだろう。「古事記中巻・下巻の趣旨」ってのは日本書紀編集部でボツにされた息長氏と丹比氏の伝承を残すことであって、稗田氏の伝承を残すことではない。稗田阿礼が朝廷の語部(かたりべ)として継承していた正規の帝皇日継は漢文に翻訳されて日本書紀の神武天皇以降の巻の根幹部分として活かされていた。息長君は皇極朝で誄(しのびごと)を奏しているが、当時の皇室の本家だから古伝承を奏しているだけで名誉職みたいなもの。丹比連は斉明朝には何とか歴史に登場しているが、たいして高い地位ではなく有象無象の木っ端役人の一人として何人か出てくるだけ。両氏ともそれっきり天武朝の「八色の姓」まで出てこない。それが、息長真人子老と丹比間人宿禰足嶋が大宝元年(AD701年)に揃って従五位下に叙され、ようやく中央貴族としては下っ端に引っかかったわけで、この前も後もず~っと一貫してパッとしてない。壬申の乱で近江朝廷側についたか、中立を守ってしまったため出世しそこなったんじゃないのか? 持統五年(AD691年)に大三輪氏・雀部氏・石上氏・藤原氏など計十八氏に纂記(つぎぶみ)を上進せしめた時にもこの両氏は含まれてない。この時点での官位が低かったせいもあるだろうがそれだけなら十八氏の中にもあまり見かけない官位の低そうなのが含まれるから、本当の理由はこの両氏の伝承が天武皇統にとって都合が悪いものだということがすでに知られていたのだろう。息長氏の伝承は継体天皇の正統性を「血筋」に置いていた。それは単に皇胤ということではなく、応神天皇の指定した皇胤が途絶えたので女系でそれにもっとも近い血筋ということ(男系だけなら応神天皇の皇胤ってのは当時たくさんいた)。天武天皇は先帝(天智天皇)の指名をうけておらず近江朝廷を滅ぼしたのだから、近江朝廷の不徳によって天命を受けた(先帝からの指名でなく。先帝からの指名を上回る権威というと「天命」ぐらいしか言いようがない)のだから、天武天皇としては武烈帝を悪で不徳の帝とし、継体帝は徳があったから天命を受けて皇位についたのだとして、自身の先例(プロトタイプ)として描きたい。実際、日本書紀ではそうなっている。しかし古事記ではそうなってない。古事記の中下巻は日本書紀が捨てた息長氏と丹比氏の伝承を守るために書かれたので「先帝の指名を受けた血筋」が正統だといってる。これは天武皇統の時代にはボツにされて当然だろう。丹比氏の伝承は仁徳皇統の中の3つの王系のうち允恭系の天皇を非難して履中系(顕宗~武烈)を顕彰している。これはなぜなのかというと、反正系の男系が途絶えた一方、反正帝の皇女たちは雄略帝との婚姻を拒否して反正系の名代部の伴造だった丹比氏と結婚したのみならず、履中系(顕宗~武烈)は反正系の女系の血も引いているからだと推測する。ここらの詳細な議論は省略するがともかくそれで丹比氏が允恭系より履中系に肩入れしている訳なのである。そこまではまぁいいんだが、継体帝以降は女系で允恭系を引く欽明天皇の子孫でありかつ天武系でもある現在の皇室ではなくて、宣化天皇の子孫で女系で反正系に縁の深い多治比王以降の丹比君(後の丹比真人)を顕彰しようとするものだったと思われ、これは当時は爆弾のような危険な思想だから当の丹比真人氏によって握りつぶされたと思われる。だから息長氏の主張ほどは明瞭にはなってない(ちなみに多治比王が賜姓されて丹比君氏ができたのが推古朝)。息長氏の主張も現代人からすると注意深く読まないとわからないが、両者とも、とにかく現状の古事記の中巻・下巻の文では何がいいたいのか、なんでそんなわかりにくいことをいってるのか、なぜこんなに話の筋が説明不足なのか、不可解な点が多すぎるので、かなりバッサバッサと切ってしまっていると思われる。政治的に具合の悪いところを意図的に切ったこともあったろうが、平安時代に多人長(おほのひとなが)によって古事記が再発見されるまでの間に保管状況が悪くて破損した箇所も多かったんではないか。いずれにしろ古事記の中巻下巻は大量に情報を補って読まねば訳がわからないところがちょいちょいある。
三重の采女の境遇
さて、三重の采女がなぜその纏向の日代宮を歌ってるのかというと、自分が三重の出身だからだろう。三重ってのはヤマトタケル伝説では、印象が悪い土地だ。体調わるくなった倭建命が「足が三ヶ所折れたような気がする」(「吾が足三重の勾がりの如し」の意味には複数の解釈説がある)といったのが三重という地名の起こりだってのは事実ではないだろうが、そういう言い方がされたことは実際にあったんだろう。間違った語源俗解が流布し世間に信じられてしまうって状況は古今東西よくあること。例えばシナの語源は秦ではないし、奈良は土地を均したからではない。それはともかく、采女ってのは住み込みの女性官僚だから、いうなれば女だけの世界。で、雄略天皇はヤマトタケルの再来として仰がれ、ご自身もそう自負していたのもこのブログで以前に書いた。それで三重出身の采女となれば、これはもう采女たちの内輪では虐められたんじゃないかと心配するのが人間として当然だろうw 本人も陛下が三重という土地に悪感情を抱いているのではないかと常々おそれ、何とか故郷のイメージを回復したいと考えていただろう。で、彼女はたまたま歌の才能があったので、以前から三重のイメージソングを考えていたのだろう。纏向日代宮がでてくる理由
この歌がでてきた宴会は「長谷」でのことだと古事記が明示しているから纏向(まきむく)ではない。纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)は景行天皇の宮都だから、この歌は景行天皇の時代のものだって説もあるが、宮都はその後も長く使うもので一代ごとに壊してるわけではない。式年遷宮みたいに代替わりごとに壊してるイメージは、平安初期にできた新しい「穢れ」感覚に基づくもので、現代人の思い込みにすぎない。平安初期までに日本人は霊的な穢れと物理的な穢れの区別がわからなくなり、見えないものをやたらめったら怖れるようになってから出来てきたのが現在の神道につながる過剰な穢れ忌避の傾向なのである。ほとんど滑稽なまでの域に達しているが、そのくせ目にみえない霊的な穢れにはトンと無頓着で、これではお祓いも糞も意味なかろうと思う。なんて、スピ系な話はさておいて、そういうわけだからそれ以前の記紀に描かれた時代には代替わりの時も先帝の宮殿を壊すこと無く有効活用したに決まってるだろう。政治はどんどん高度で複雑になっていって伴造の率いる部民、官僚のための施設はいくらあっても足りないし、物資倉庫、それから皇位をつがない皇族たちだって、そうそう丁度いい「あまくだり先」がほいほいみつかるとは限らんからしばらくは先帝の宮殿に住んでたろうし、女性の場合はそのまま皇室財産の名義上の所有者としてその宮殿を継承していくこともあったろう。だから纏向遺跡が3世紀の遺跡だったからって、景行天皇が3世紀の人だったということにはぜんぜんならない。記紀にでてくる宮都は歴史を通じていつの時代にもあった可能性が高い(まぁ改築はしてるだろうけどな、それこそ式年遷宮みたいに)。
だからこの歌が歌われた雄略天皇の時代にも「纏向の日代宮」は存在し、景行天皇の時代のまま壮麗な姿をリアルに保っていたのである。ただ天皇がそこにいないってだけで。いや、たまには雄略天皇も別荘として使ったかもしれない。そもそもこの時代の天皇というのは平安時代や江戸時代みたいな儀式や決まりごとで雁字搦めにされた籠の鳥みたいな存在ではないのだから、あちこちに無数にある宮殿(その中には歴代天皇が残した皇居も含む)にいつでも好きなように移り住むことができたはずだ。朝代(各天皇の時代)を宮都の名で表わすのは陛下の御名を直接よぶのを憚ったための慣例的な表現法の一種にすぎず、実際に在位中は引っ越し禁止だったわけではない。一代の間に何度か宮都をかえた天皇は、景行・仲哀・神功皇后・応神・顕宗・仁賢・継体・敏達・推古・舒明・孝徳天皇に例がある(藤原京以前)が、これらとてホームベースの移動だからたまたま伝承が残ったのであって別荘は無数にあったに決まってるだろう。
さて、陛下にお酌する機会がめぐってきたが、采女ともなれば言ってみりゃあんた、お酌のプロよ。普通に考えて失敗するわけがない。でも「三重」の采女と聞いて陛下がご機嫌を損ねているのではないかと怖れたから、手足が震えて冷静な判断ができず視野も狭まり、盃に木の葉が落ちてるのも気づかなかった。で、お手打ちになったと。首に刀の刃を当てられるところまでいったんだから絶体絶命、もう今すぐここで死ぬことに決まったわけよ。死ぬと決まったら、長年あたため続けてきた三重のイメージソングを披露しなければ死ぬに死ねないだろう! ここで彼女のハラは決まった。だから堂々と歌えた。「鳥の死なんとする、その鳴くや哀し。人の死なんとする、その言や善し」というが、善いのは言に限るだろうか。
故郷のイメージソングとして事前に作っていた歌だとしたら、この時とっさに作ったのではあるまい。だとすると、この歌に出てくるケヤキの巨木は、宴会の会場に存在したわけではない。故郷のイメージソングなんだから、彼女の故郷にあったケヤキの巨木をモチーフにしてるのだろう。今の「三重県四日市市采女町」は昔でいうと「伊勢国三重郡采女郷」であり、記紀に出てくるヤマトタケルが杖をついたという「杖衝坂」が今も残っている。おそらくこの地に当時はケヤキの巨木があって、ヤマトタケルの杖がたまたまケヤキの枝であって、それを捨てる時に地面に刺したまま残したのが巨木になったという伝説でもあったんだろう。実際ケヤキは「挿し木」のできる植物である(詳細は「挿し木」で検索)
上中下の「3つの枝」の意味
もう三重の采女ってだけで悪いイメージあるんだから、それを避けるんじゃなくていきなり「纏向日代宮」(=ヤマトタケルの時代)と歌い出すことで「そうですよ、私めはあのヤマトタケル伝説の三重の出身ですとハッキリ打ち出してる。そして目の前の、実際にこの歌を聴く人々が聞きながら今まさにみているこの槻(つき:今でいうケヤキ)の巨木を「三重」に見立てて「三重」という言葉から連想されるイメージを変えようとしている。
ケヤキの巨木がどんなのか頭に入ってないとこの歌の解釈はうまくない。巨木は、日本のユツカツラ(湯津楓/湯津香木)や中国の扶桑樹と同じく神話上の世界樹や宇宙樹への連想がはたらく。だからこれを三重にした上つ枝・中つ枝・下つ枝で天皇の支配する世界をあらわした(「世界樹」という神話的な観念は北欧のユグドラシルだけではなく、全世界の諸民族にあることは、Wikipediaで「世界樹」を検索しといて下さい)。これ、もう若い人は知らない人もいるかもしれないが日立のコマーシャルで有名な「この~木なんの木気になる気になる名前も知らない木ですから♫」のあの木、もう長いことなぜかケヤキだとばかり思い込んでたけど全然ちがったわw 知らない子はYOUTUBEで検索してね。でもイメージはあんな感じだったんだよw ケヤキがどんな樹だかすぐ浮かばい人でも今のご時世は画像検索すればこれでもかっていうぐらい出てくるからラクなもんだ。
さらに手っ取り早くは「東根の大ケヤキ」で画像検索するのが早いけど。これは山形県にある日本最大の巨木で、樹齢1500年以上、根回りは24m、周囲16m、直径5m。高さ5m半のところで二股に分かれ、西南側のがやや直上して枝を分け、東側も大きく三枝を分けて天空を覆っているという。ケヤキは巨木になるとこういう枝ぶりになるわけで、木によっては上つ枝・中つ枝・下つ枝と三重に見立てたくなるわけだろう。現在の高さは28mだが、1957年の特別天然記念物指定時には35mもあったというから、三重どころか五重塔に例えてもいいぐらいだ(ちなみに法隆寺の五重塔は31m半)。
だが外にでかけて実物みたいもの。さすがに「東根の大ケヤキ」みたいのにはめぐりあえないにせよ、欅坂46の名前の由来にもなった六本木のけやき坂通りだけでなく、都心なら代々木公園にも表参道にもケヤキ並木があり、雑司ヶ谷の「鬼子母神」の大門の通りのケヤキ並木の中には天然記念物に指定されてるのもある(鶯谷の鬼子母神とは別なので注意)。他にも都内あちこちにある。ただ都心のケヤキって、形も大きさもいまいちなのが多いんだよね、できれば天に届きそうな巨大なケヤキがいいんだが(いい写真が撮れたら後日アップします)。時々古い神社の境内にそういうのあったりするよね、皆さんも地元のケヤキを探してみて。
三重の槻の木、「上つ枝は天を覆へり」。巨木だからその枝が天を覆い隠しているという描写はわかる。ホツエというのは万葉集で「下づ枝」(しづえ)と対で使われてる例があるから「上のほうの枝」だと解釈されるが、カミツエ(上つ枝)という言葉もあるので、ホツエ単独で使われる時の語感だと、上下あるうちの上、あるいは上中下あるうちでの上だというニュアンスは弱いのではないか。ホツエという言葉だけがでてきた最初の段階では「ホツエ」(上つ枝)というのは単に頭上の、見上げた上のほうの枝って意味にきこえるので、上中下の三重構造の「上」だとは誰も思わない。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」と聴いて、初めて「アレッ」となる。ここで聴衆は一時的な混乱に陥る。「じゃ下つ枝は何なんだ」という関心もひくんだが、同時に「天を覆うのは木の枝の全体で覆うんじゃないのか?上の枝だけ?しかも中の枝は東国?」と次々疑問がわく。考えようによっては、覆い隠されてる「天」というのは今ここからみえる天だけであって、「縦」に見上げるばかりでなく、少し「横」に歩いて槻の木の真下から抜ければ天はみえる。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり、下つ枝は夷(ひな)を覆えり」。上つ枝は広がりが少ないからこの場しか覆ってないが、中つ枝や下つ枝はもっと遠くを覆い隠す。辻褄はあうがこれは理屈であり観念だ。だから、ここでこの巨木は目の前の実際の木でなく、神話上の世界樹に見立てていることが聴き手にも気づかれる。また「上つ枝」と限定してたのは水平移動つまり上下の軸から前後左右の二次元平面に意識をうつすためだともわかる。そうなると上つ枝の「天」も、東国や夷(ひな)に対して天皇のおわします都でもあろう。記紀の雄略天皇には東(あづま=関東)はほとんど出てこず、記紀だけみてると東国とは縁のない天皇と思ってしまうが、有名な埼玉県の稲荷山鉄剣の銘に「ワカタケル大王」が出てきてから、現代人にとっては逆に「関東まで支配していた天皇」というイメージばかり強くなりすぎてる感じがする。あの鉄剣が発見されて学界もマスコミもてんやわんやの大騒ぎになっていた頃、この「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」にすぐ気づき、「古事記ってすげぇな」と感嘆した古代史マニアもさぞかし多かっただろう。しかしこの「中つ枝はアズマを覆えり」という言葉は次の「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」を導きヒナがどこなのか暗示するための言葉。本当に言いたいキモの部分は「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」であって「中つ枝はアズマを」ってのはそれをいうための文学的な修辞にすぎない。詩としてはな。
夷(ひな)は直訳としては「地方・辺境・田舎」ってことで、アズマ(あづま)が東海・関東という具体性をもっているのに、ヒナは具体的にどこだともない。岩波の古典文学大系の注釈では「万葉集に淡路島方面をヒナといってる例があるからヒナは西国だ」と言い切ってるが、この学者はバカじゃないのか。ヒナは東西南北どっちでもありうるが、たまたまその歌ではどっちをさしてるかが問題だろう。関係ない歌をもってきてあの歌で西だからこの歌も西、って話になるわけないだろうに。あるいはまた倭王武の「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」を連想し、このヒナとは九州方面のことだと解釈する人もいるかもしれない。だがそれだとこの歌は単に関東から九州までの日本に君臨する陛下はすごいっていってるだけの歌になってしまって、死刑をまぬがれるほどの強烈なインパクトに欠ける。あるいは雄略天皇の個人的なツボにも入らない。雄略帝にしてみれば技巧を凝らしたおべんちゃらは聞き飽きてるんだから。大事なことはこの歌は一般論としての天皇賛美の歌ではなく、雄略天皇個人へ向けた歌だってことなのだ。それに九州だとすると、一度東へ向いた視点が西へ逆反することになる。それを世界を見回す壮大な王の行為と受けとる人もいるだろうが、俺はそう思わない。なんだがキョロキョロしてせわしない感じになってしまわないか? 正解はこうだ、ケヤキの葉は舞い上がったりせず重力に従って上つ枝から中つ枝、そして下つ枝へと直線的に落ちていくのだから、ここのヒナは都からみてまっすぐ、アズマのさらなる東の奥、道の奥(みちのく)をさしていると解する他にない。じゃミチノクだと明言すれば良かろうになぜヒナだなどと曖昧な言い方をするのか、それは第一には奥羽に限らず、東西南北四方のはて天下のすべての地を含みうるイメージの広がりを残すため。第二には、確かに実際には奥州なんだけど、この時いま話題の場所でアズマの先といえば誰でもわかりきった土地だったから、もったいつけて、期待感を煽ってるわけだよ。「え、雄略天皇の章には古事記も日本書紀も東北のことなんかぜんぜん出てこないじゃん、何がどう話題になってたってんだよ?」という反論が来そうだが、実はそれがそうでない。鉄剣が出土するまでは関東すら雄略天皇と縁がないと思われていたろう、それを思えば記紀に奥羽がでてこないからって雄略天皇が奥羽に縁がなかったとはぜんぜんいえない。それについては後述するとして、第三には掛け言葉で鳥のヒナ(雛)を連想させるため。ちゃんと確認してないが、たしか田舎を意味するヒナ(夷)のヒも、鳥のヒナ(雛)のヒも上代特殊仮名遣いでは甲類のヒのはず。上つ枝にも中つ枝にもないことだが、下つ枝では新しい命が生まれていた。「雛を覆えり」。その土地が、親鳥が翼で雛を覆い守り育てるように、新しい命を守り育てていた、そういう連想が湧く。というか隠しメッセージがある。これは何のことを言ってるのかは後述する。
雄略天皇にとっての陸奥(みちのく)
一つには雄略天皇の崩御後に新羅征伐軍(征伐じゃなくてただの駐留軍の交替かもしれないが)として従っていた蝦夷が吉備で反乱したことがある。ヤマトタケルの蝦夷征伐以来、奥羽の蝦夷(えみし)は朝廷に服属し、応神天皇の時には道路工事の労役についたりしてたぐらいだった。それが仁徳天皇の時には背いて鎮圧されてるが、これは隼別命の乱の一環で、隼別命の乱は全国を巻き込んだ大規模な乱だったのである。雄略天皇崩御の際にも反乱しているからといって、仁徳朝以来ずっと蝦夷は朝廷に心服していなかったのかというとそういうことでもない。雄略帝崩御の際は星川皇子が謀叛を起こしているが、書紀の書きぶりからすると、どうも反乱軍に唆されたとか呼応したとかいうわけではなくて、純粋に蝦夷たちの意図からだけ出たもののように読める。当時の蝦夷からみれば、雄略帝にしろ星川皇子(=吉備氏)にしろ、中華式を有り難がってる連中って意味では同類であり、「大山守=隼別」のラインでつながる海の民・山の民のほうが感性的に近い存在なのであり、彼らが蝦夷を味方に引き入れようにも味方になってくれる可能性が高いとは思えなかったんだろう。ただ、蝦夷が反乱を起こす際に、天皇崩御ときいて「時を失うべからず」と言ってるのが引っかかる。皇帝や君主の代替わりが軍事蜂起のチャンスなんてのは当たり前じゃないかという人もいるだろうが、逆に「だからこそ」戒厳令状態になるわけで、軍事的観点からは必ずしも狙い目ではない。記紀に代替わりでの反乱が多いのは「皇位争い」の皇子たちの戦いだから、逆賊の汚名を免れるために空位期間を狙うのである。皇位争いと無関係な連中の蜂起の場合は関係ない。なのに「時を失うべからず」と言ってるのは特別な意味がある。それは何か…。
雄略朝には伊勢の外宮の鎮座伝説があるが、あれがいろいろおかしいことはこのブログで以前に書いた。あれは丹後から豊受姫神という御祭神を遷座したのではなく、外宮はそれ以前から伊勢にあって、丹後にいた「自称・豊受姫」の人間を招き入れたのである。なんでそういう解釈になるのかというと、原文がそうだから。通常の解釈のほうが無意識に原文に「これは神話だから」というフィルターをかけているのであって、客観的にみれば通例の書き方になってない。で、ほぼ同時期になぜか同じ丹後に浦島太郎の話が出てくるが『丹後風土記』に出てくる「自称・豊受姫」が浮浪していたという伝承地と、浦島太郎というか「浦島子」が助けた亀と一緒に蓬山へ旅立ったという伝承地が、同じ丹後の中で4~5kmぐらいしか離れていない。
毛利康二や大和岩雄など、浦島太郎がいった竜宮城は今の鬱陵島で『梁書』に出てくる扶桑国のことだというのだがその扶桑国の王を『梁書』は「乙祁」というとある。これは固有名詞でなく王をあらわす称号なのだが、仁賢天皇の本名が意祁命(おけのみこと)であることから平田篤胤は「乙祁」とは仁賢天皇のことだといっている。篤胤の説には賛同できないが、しかし、浦島太郎は日本書紀や風土記では「浦島子」(うらしまのこ?/うらのしまこ?)という名前でこれも仁賢天皇の別名「島郎」(しまのいらつこ)と似すぎてね? ただし浦島子が仁賢天皇だという主張では必ずしもない。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟はこの時まだうまれてないと思われるから、その父だろう。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟は市辺忍歯別王の子ではなく孫か曾孫であることは宣長も推測するところで、民間伝承ではその父は「久米若子」といい、日本書紀が顕宗天皇の別名だとして伝える「来目稚子」という別名と同じなのでこれは襲名だろうと推測したが、仁賢天皇の別名「島郎」も父からの襲名ではないか。史料的価値として問題なくもないが中田憲信が集めた有名な系図集によると、島郎子と久米若子が兄弟で、島郎子の子が仁賢天皇、久米若子の子が顕宗天皇で両帝は兄弟ではなく従兄弟になっている。あるいは両帝の伯父が島郎子だと仮定すると、伯父の四股名を襲名した兄・若乃花と、父の四股名を襲名した弟・貴乃花の「若貴兄弟」が思い出される。一応、「両帝は兄弟で二人の父は久米若子、島郎子という名は久米若子が鬱陵島から帰ってきてからの別名」と仮定しておく(詳細な議論は今回は省略)。この段階ではまだ陸奥の蝦夷との関係はない。しかし豊受姫のほうはどうか。仁賢天皇ときたら誰でも仁賢天皇の姉、飯豊王(いひとよのみこ)を想起すると思うんだが、『陸奥国風土記』には「飯豊山(いひとよやま)。此の山は、豊岡姫命(=豊受姫のこと)の忌庭(ゆにわ)なり。飯豊青尊(いひとよあをのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す」とある。この物部臣というのは連(むらじ)でなく臣(おみ)とあるから、いわゆる饒速日系の物部氏(物部連:もののべのむらじ)ではなく和邇臣の分流であり、後世「物部首」(もののべのおびと)という氏族の祖先にあたる。飯豊山は現代ではイイデサンと読み、山形・福島・新潟の県境にあり、この山を囲む3県のうち福島県はむろん当時は陸奥国だが、山形県も奈良時代に出羽国が分置されるまで「陸奥国」だった。豊受姫と飯豊王は「陸奥の」飯豊山を介してつながる。飯豊という地名はこの山以外にも青森県、岩手県、そして福島県の中通り地方(飯豊山とは別の地)と陸奥の各地にある。つまり飯豊王は蝦夷に守られ蝦夷に育てられたのであり、蝦夷は飯豊王のシンパなのである。ということはおそらく潜伏中の飯豊王の父や兄弟に対しても蝦夷たちはシンパシーがあったろう(潜在的な支持者なり協力者の立場だった)。雄略朝の末期に、逃亡中の父と娘が丹後で別れて、父は海外(鬱陵島)に身を隠してから、娘のほうが名乗り出たか、少なくとも伊勢神宮が娘を保護することに決めたということではないのか。その結果、飯豊王は雄略天皇生存中にすでに世にデビューはしたが、雄略帝崩御に蝦夷たちが「時を失うべからず」というのは飯豊王の父なり兄弟なりを天皇として擁立するチャンスだという意味になり、そうなれば飯豊王は蝦夷の利益代表としてより高い地位にあがることにもなる。
繰り返すが意祁王・袁祁王の兄弟は市辺押歯皇子の子ではなく孫か曾孫である(このブログの他の頁でも説明している)。だから両帝兄弟の姉の飯豊王女も、市辺押歯皇子が殺され履中皇統が亡ぼされた時に、女性だからって殺戮をまぬがれたのではなく、生まれてなかったのである。父の久米若子(顕宗天皇とは同名だが地方伝承では別人でその父)か橘王(書紀は誤って兄とするが父か祖父だろう)が逃亡して民間に潜伏中に生まれたのだが、女性なので世に出ても大目にみられ殺されはすまいとみて、雄略天皇の前に現われた。それが雄略天皇が吉野で出会った「常世の乙女」の話なのである。彼女と入れ替わりを演じた春日の袁杼比賣(をどひめ)の名は「蘇生・復活」を意味するがこれは一度ほろんだ履中皇統の復活を示唆してもいるかもしれない(彼女は和邇氏の娘だが、陸奥の飯豊山の物部臣も饒速日系でなく和邇氏で同族なのは前述の通り)。
若い頃の大長谷王(雄略天皇)はただ暴れたかっただけで何も考えておらず、皇位を狙っていたのでもない。まだ子供で殺人衝動を抑えられない大長谷王に「あの人は悪い人だからやっちゃっていいんですよ」と唆した大人がいたはずで、おそらくその黒幕は木菟宿禰かその子の平群真鳥のどっちかだろう。そもそも少年だった大長谷王を天皇に祭り上げて美味い汁を吸おうとした者たちは別として、大長谷王本人としたら押歯王と利害対立や敵対関係があったつもりはない。皇位を望んで暴れてたのでもないのだから、押歯王の子孫がいたなら皇位を譲ることもやぶさかでなかったと思われる。むろんそれは困る連中が山のようにいるから、そういう情報は天皇の耳には入らないように遮断される。雄略天皇とすれば、罪のない押歯王をわけもわからないまま何となく殺してしまったのも、おとなになってから後々えらく後悔しただろう。ただそんなことはインタビューしてみなければわからないし、そんな恐ろしい質問をする命しらずもいない。詳細は不明だがすったもんだで、飯豊王女は皇籍に復帰し、飯豊王女が当主として履中宮家が復興した。そこまではよかったが、皇位継承権のない女性だから許されてるのかも知れず、男子の生き残りがいることを天皇に打ち明けるのはもう少し陛下の大御心を知ってから、と思ってるうちに陛下が崩御してしまった。それで意祁王・袁祁王の兄弟を世に出すチャンスを失ってしまった。しかしそれは履中宮家の関係者だけの内輪話であって、雄略天皇には関係がない。雄略天皇にしたら、押歯王の子孫が見つかったら、男子だろうが女子だろうがそれを優遇するのは当たり前で、押歯王への罪滅ぼしは若い頃からの、長年の懸案だったのだから。二王子は記紀では播磨に潜伏していたことになっているがこれは発見された当時の場所であり、民間伝承では尾張説もあれば紀伊説もあり、あちこち移動してたんだろう。飯豊王は弟たちとは別行動で奥州は飯豊山に潜んでいたということになる。この山は『陸奥国風土記逸文』によるともとは豊田山といっていたのが飯豊王のゆかりでのちに飯豊山となったという。さすれば青森や岩手や福島仲通り地方(田村郡)など、東北各地に残る「飯豊」という地名はすべて彼女の潜伏地だったのではないかw 雄略天皇にすれば人生最大の汚点でもあり長年の懸案だった案件が陸奥から出てきた少女によって解決したのである。陸奥とは雄略天皇にとってそういう土地であり、三重の采女が「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」と詠う時、その短い詩にこもる万感の想いを書き延ばせば、『その地の果てまでも知ろしめす大いなる陛下。その夷(ひな)=辺境の、陛下の知ろしめす土地が、かつて誤って滅ぼしてしまった履中皇統の血筋の、若い世代(雛)を育てていた土地なんですよ。その辺境の、陛下の知ろしめす土地こそが。』となるだろう。ここまで解釈してようやく、雄略天皇が采女を処刑するのをやめた理由が腑に落ちる。
王権の起源は天地創造に由来する
しかしケヤキの葉は下つ枝で止まらず、さらに下に落ちて盃に入ってしまった。采女としてはこの失態を歌の力でメデタイ話に転換しなければならない。下つ枝よりさらに下に落ちたのだから、これをこの詩の喩えでいえば、陸奥国よりさらに東に行ったことになる。陸奥より東といえば一つの考え方では今の北海道を想定することもできるが、ここはそうではなく、福島沖か三陸沖かわからぬがもはや陸地のない大海を漠然とさしているのだと思われる。海ばかりで国がないけど、国が産まれるかもしれないじゃん、と詠っている。
学者は日本神話はツギハギだと堅く信じこんでるので、この歌も「三重の采女の作詞ではなく国生み神話を伝えた海人族の歌だ」なんぞとボケまくったことをいうのだが、歌も聴く側の人々も国生み神話を知らなければ神話を引用する文学的な効果がないだろう。神話は当時の日本人なら山の民でも海の民でも貴族でも百姓でも、みんな同じ神話を聞き知ってるの。中央政府の語部(かたりべ)のおかげでな。出雲人だけの神話だとか日向人だけの神話だとかそんなものはない。最初から、全体で一つの神話なのである。世界規模で共通なのに狭い日本の中で違ってるわけないだろう。だから王権が成り立ってる。現代人は財力と武力があれば国は成り立つと思ってるのかもしれんがそんな貧相な思考で政治やってるから世の中が悪くなるんだよ。
国生み神話のところで以前に説明したが、鹿児島の桜島とか北海道の有珠山とか、最近話題になった「西之島新島」みたいに海底火山の爆発で新しく陸地ができるって例は火山の多い島国日本では昔からちょいちょい観察されたことだろう。神話の「塩こをろこをろ」、この歌の「水(みな)こをろこをろ」も海底火山の爆発の音(水中なのでゴロゴロゴロ…とかゴゴゴゴ…という籠もった音になる)。しかし小さな盃に落ちたたった一枚の葉から、いきなり「水(みな)こをろこをろ」と言ってもすぐには壮大な火山神話を思い出さないかもしれない。だからウキ(盃)に「ウキシ(浮きし)脂」と先に導入部を用意してる。当時でもその場に列席している者の中にもし頭の悪いやつがいたら、「ウキ(盃)にウキシ(浮きし)はわかるが脂(あぶら)ってなんだ?」ってことになりかねないが、続けて「こをろこをろ」とくれば「あ、あの浮きし脂か」と思い出して最初から気づかなかったことに恥じ入るのだろう。誰でもが同じ神話を知ってるからだよ。陛下の御威光は東の辺境、陸奥国に留まるのではない。天照大神が天皇に授けた世界は「土と水」から出来ているのであり、祈年祭の祝詞に「船の舳先が海の彼方に衝突するまで」とあるように、太平洋のはてまで我が帝国の領海なのである。それを忘れるというのは毎年きいてるはずの祈年祭祝詞を忘れるということであり、不敬であるばかりか大恥だろう。
飯豊王女がやってきた陸奥国の話で感動させておいて、天皇の気持ちはしっかり掴んだが、そこで終わっては失態を繕うのに十分でない。すかさず自分の失態を隠すのではなく顕して、ありのままに天地開闢の話にまでもっていく。朝廷に仕える身分高き大神官でもない一回の采女が歌い上げるには、あまりにネタが尊貴にすぎ、普通ならたじろぎそうなところ。だが彼女のドヤ顔が浮かぶ。これでも私を処刑できますか、と。ここで終わると歌としては完成だが、彼女自身が尊大にみえてしまう。そこでシメに「事の語り言、こをば」がつくわけなのだ。これは大国主と須勢理姫の歌合戦にも出てくる。あれは舞台での演者が「古来より伝わる伝説ではこうです」というナレーションみたいなもの。しかしこの歌は三重の采女の作詞なんだから四角四面に考えると「事の語り言、こをば」がつくのはおかしい。だからこの歌は天語歌(あまがたりうた)といって海部(あまべ)に伝承されたもので個人の作詞でないというのだが、文学表現なんだから四角四面に受け取っちゃダメだろう。三重の采女がいってるのは、自分の歌があまりに出来が良すぎるので、自分の手柄にすると高慢にきこえる。だからこの歌が陛下を讃えているのは、私の独創ではなく古来からの神話をお伝えしたまでです、という謙遜であり遁辞なのである。そしてこれもまた一つの正論だから誰も三重の采女を責められない。
「天語歌」は海人の歌ではない
折口信夫の説では、「あまがたり」の「あま」は天のことではなく「海人」のことで、安曇氏とかの海人系が伝えた伝承だって言うんだが、これただのダジャレじゃね? これがひじょうに疑わしい説だということは、山路平四郎という学者の『「あまはせづかひ」私考』という論文に詳しい。ネットでも読めるから検索してみて下さい。
伝承の過程で洗練されたのではない
(※後日に文章を追加予定)
「少女vs大王」の駆け引き
次に采女の歌に和して大后が詠う。この大后は、一説では若日下部王だというのだが、若日下部王は雄略帝よりもずっと高齢だったと推定しているので、雄略帝の晩年にはとっくに薨去していたのではないかと思う。この歌は仁徳天皇の皇后、磐之媛(記:石之比賣)の歌の丸パクリだから、ここでいう大后というのは磐之媛のことだろう。むろんこの時期に生きていたわけではない。原文には「○○が大后石之比賣命の歌を歌った」とあったのに文字が落ちて、「大后が歌った」になってしまったんだろう。じゃ誰が歌ってるのか、それはいうまでもなく「自称・豊受姫」つまり飯豊王女だろう。この宴会は新嘗祭の宴会だが、飯豊王女のお披露目も兼ねていたのだろう。
歌の意味自体は天皇を讃えるだけの凡庸な歌だが、「酒を勧めなさい」と采女を認め励ましている。天皇の気がかわらないうちに采女の処刑を取り止めた天皇を賛美して三重の采女を支援しているともいえる。で、この歌を磐之媛の丸パクリというと語弊があるが似すぎていて少なくとも「本歌取り」だとか「引用がある」って程度にはいわないとならんだろう。飯豊王は三重の采女の「事の語り言、こをば」が気に入って早速自分も使った。これをつけておけばある意味責任のがれもできる。最後に「事の語り言、こをば」をつけることによって、「この歌は磐之媛の歌にソックリだと思ったでしょう、そうなんです、私の歌じゃないんですw」というニュアンスが出せるのだ。では飯豊王はなんで磐之媛の歌(もしくは磐之媛の歌に似せた歌)を歌ってるのか。磐之媛というと仁徳天皇との仲がよくなく、古事記では最後まで皇后のまま生きていてそのため仁徳天皇と八田若郎女は結ばれなかったことになっているが、日本書紀では和解せぬまま薨去して、仁徳天皇は八田若郎女を「のちぞえ」として迎えたことになっている。どっちにしろ古事記をみても書紀をみても八田若郎女をめぐって夫婦喧嘩したまま和解した様子がない。そんな人をわざわざ思い起こさせるような歌は縁起が悪いのではないか? 一つの案としては、雄略天皇が飯豊王を自分の妃の一人にしようと思ってるような様子がチラホラ見えたか、もしくは(古事記の本文には明記がないが)天皇から求婚されたんだろう、それで「私は磐之媛のような女です、仁徳帝といがみあった磐之媛のように陛下とくっつくことは無いッス」という牽制のメッセージを送ったのではないかなw
天皇からの求婚を拒むということはこの時代、心理的にはかなり難しいことだったろう。だが、三重の采女の歌は、聴く者の意識を世界の神話的根源に遡らせる。だからこの後は、人々は本質的なことだけを考えるようになる。くだらない建前がとりはずされ、本心に生きるようになる。普通なら我慢してしまうことを我慢せず、偽りに生きることをやめ、言いたいことを言うようになった。天皇からの求婚を拒むことができたのは三重の采女から勇気をもらったから、という表現もできるかな。
で、天皇がこれに返しての歌は、宴会の参加者たちを群がる鳥たちに喩えて「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしているわい」といってるだけ。普通に考えるとこの酒盛りしてる人々の中には当然天皇自身も入っている。これは凡庸な解釈をすると「我々は酔っ払いだ」といってる、つまり求婚したのは「酒の上での戯言(ざれごと)じゃ」として求婚を撤回した、とこうなる。あと鳥に喩えた理由が二つ。一つは鳥というのは勝手に飛んできて自由に去っていく「自由の象徴」でもある。「女たちよ、宮中に留まるも去るも君らは自由だ」といっている。だから飯豊王を拘束するようなこと(=求婚)はしない、と。二つめは飯豊王の名「イヒトヨ」は古語でフクロウのこと、これも鳥だ。この宴会場にいる者たちは飯豊王と同じ鳥たちであり仲間だと。しかし以上の説はすべて間違いだと思う。凡庸すぎて、いくら齢とって丸くなったとはいえ、あの雄略天皇がこんな平和ボケした歌を詠むはずがない。「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしている」のは、それはそうなんだが、その中に雄略天皇と飯豊王は入ってないのである。この歌には鳥たちとして具体的にウズラ、セキレイ、スズメと3種類でてくる。どれも可愛らしい小鳥だが「微笑ましいなぁ、平和だなぁ」って歌に受け取ってしまったらダメ。それじゃ雄略天皇のキャラ崩壊ってことになるじゃんよw
衆愚どもへの怒りw
よく映像を浮かべてほしい。小鳥たちが遊んでるところにフクロウが入ってきたら? 猛禽類のフクロウは普段からこういう小鳥を捕食してるんじゃなかったっけ? 雄略天皇は飯豊王に「ここに集まってる無能な飲んだくれどもは、お前さんの餌みたいなもんよ」といってるのではないのか? 急に殺伐としてきたなw しかもそう考えてから改めて読むと天皇はこの小鳥たちを単にかわいいといってるのかも疑問だぞ?「ウズラは着飾ってる、セキレイは交尾している(婉曲表現になってはいるが)、スズメは群がり集まっている」と歌ってる。小学館の日本古典文学全集の訳だとスズメのところは群がり集まって餌をついばんでる様子に解釈してるから「食うこと」を象徴している。岩波の古典文学大系だと「難解の句であり明らかでない」としている。目的が明示されず単に集まるという時は、たいてい会議か雑談、世間噺のためだから、後世のスズメの象徴的用法と同じく、群がり集まってどうでもいいウワサ話とか無駄な「おしゃべり」ばかりしている連中という解釈もありだろう。つまりこの3種の鳥はファッションとセックスとグルメ(またはゴシップ)しか興味のない衆愚を象徴しているとも取れる。略してFSG(3つめのGはグルメでもゴシップでも可、両方かねてても可)。『シオン議定書』の3S(セックス・スポーツ・スクリーン)みてぇだなw ファッションはスーツ、ゴシップはスキャンダル、グルメはスイーツに置き換えればこっちも3Sに出来るw つか議定書の3SよりFSGの3Sのほうが頭悪そうw 議定書の3Sのほうがいくらかマシだぞこれw 雄略天皇は若い頃から大陸式の外来文化が大好きで、帰化人を寵用したし、それまで儒教の可否をめぐって対立していた日本人が儒教を受容することで合意したのもこの天皇の時代だった。中華文明を採り入れて見た目ははなばなしく栄えている日本だが、老境に至ってこんな世の中で良かったのかなって気持ちになっていたのではないか。三重の采女の歌の力で、神話的根源へ遡った意識が大事なことを思い出させてくれたのだ、と言ってもいいかも知れない。
そう、雄略帝は王者としての振る舞いと神としての仕事を思い出したのだ。
吉野の山奥で半裸の野蛮人みたいな、というか、自然児みたいな田舎娘と出会っても、場所が場所だからなんとなくそういうものかなで済んでいたが、都の真ん中、文明の中心たる宮廷につれてきたら、万博で展示される珍獣みたいで、じゃなかった、堕落爛熟して腐臭をはなつ現代文明とは対象的な純粋さに、ちょっといいかなと思っちゃって、「わしの皇后になれば栄耀栄華は思いのままw 天下もくれてやるわw」と悪のラスボスが最終回に主人公にいうセリフみたいなこと言ってるんじゃないのかw まぁこのイベントは実際に雄略天皇崩御の直前ぐらいの出来事だと思われるので実際に最終回っちゃ最終回なんだがね。だからさすがにもう寄る年波には勝てず、本気だったかどうかわからない。自分のキャラに殉じた演技だったのだ。だから「事の語り言、こをば」でシメている。これは舞台上のセリフですよ、超訳すれば悪のラスボスの最終回のセリフですよ、と自分で説明している。飯豊王は奥州の山奥で獰猛精悍な蝦夷(えみし)の男女に囲まれて育ったから、猛禽類のその名の通り、少々野蛮で武闘派な少女だったんだろう。バトルヒロインだなw こういう宮崎アニメみたいなのに現代のオタクはハァハァするのかもしれないが、残念なことに雄略天皇自身の性癖趣味とはぜんぜん一致してない。だから天皇もいまいち本気汁が出てない(ちなみに陛下のご趣味は老婆専門であることはこのブログでも何度か言ってる)。
この3つの歌は「天語歌」(あまがたりうた)というとあるので、折口信夫は海部(あまべ)つまり海人族の伝えた歌だといってるが、海の話って「水(みな)こをろこをろ」の一か所だけ、神話だから壮大すぎて日常風景的な磯の香りがしない。そうじゃなくて、あまりに名作すぎるから人口に膾炙するわけで「例のあの歌」じゃ不便だから名前がつくわけだ。これは三重の采女の歌の「上つ枝は天を覆へり」の「天」と「事の語り事こをば」の「語り」、いちばん面白い部分の始まりと特徴的な繰り返し部分ををくっつけて作った名前だろう。雄略帝は記では宝算124歳、書紀では62歳、在位23年だが、書紀は奈良時代に神功皇后を卑弥呼の時代に合わせるために年代を引き下げた上、応神朝と仁徳朝の在位年数を長めにとったため、雄略~継体朝あたりがぎちぎちに短縮されている。辻褄あわせで編年を構成したのであってむろん信憑性はない。俺の推定では雄略帝の宝算は99歳が正しい。記は25歳も伸ばされているが、これは在位の26年めをまた元年として数え直したからである(古代中国で「後元」といったもの)。在位年数の通算年数を後元だと誤認すると、通算値を出すため前半の25年を2回足してしまうから宝算99歳が124歳になるわけ。
さて、以上の解釈だと、天皇と飯豊王の歌の掛け合いは完結してないような印象になる。つまり続きがあったのではないかと思いたくなる。しかし飯豊王は田舎育ちで歌が苦手だったんだろう。磐之媛の歌をパクってるだけだし。ちなみに昔の天皇や皇族の歌は語部(かたりべ)のネットワークが健在だった時代にはすぐ全国に広まって流行するから、田舎の娘でも磐之媛の歌は知ってたのだ。あるいは天皇の歌の後、同席していた袁杼比賣(をどひめ)が陛下をお諌めしたか、ヤキモチを焼いてみせたかして、飯豊王に助け舟を出したのかもしれない。だから宴会が解散した後も袁杼比賣だけは陛下についていた。それが次の歌のやりとり。
哀しみと幸せのラスト
古事記は続いて袁杼比賣(をどひめ)と天皇の歌のやりとりを載せているが、この宴会と同じ日だとわざわざ細かいことを書いてるから、つまりこの宴会の席ではなくて、宴会が終了して解散した後のことだろう。天皇は宴会では威厳を保たなければならないと思ってかあるいは齢のせいかあまり飲んでなかったんだろう。宴会が退けてから袁杼比賣にお酌してもらっていた。そこで天皇が歌った歌は、「お嬢さん、しっかりお酒ついでくれたまえよ」っていうだけの歌なんだが、お酌に不慣れな若い女子をからかってる歌だという説や、「酒壺(ほだり)をしっかり持てよ」というホダリが男性器の隠語で猥褻な歌なんだとかの説もある。この歌は『琴歌譜』にも乗っていて『琴歌譜』は古代の歌謡を集めて琴の奏法が書かれ、近衛家に伝わった貴重な古文書なんだが、それには「一云」(あるいはいふ、一説に曰く)として、この歌はこの時(晩年の宴会)で雄略天皇が歌ったのではなく、雄略帝がまだ皇子で葛城氏を滅ぼした時、葛城氏の娘の韓日女娘(からひめのいらつめ?)が哀しみ傷んで作った歌だという異説が載ってる。韓日女娘は古事記に韓比賣、書紀に韓媛と書き、この乱より以前から大長谷王に嫁がせることにはなっていたらしい。妃となって清寧天皇の母になっているが、この時期(雄略帝の晩年)には韓日賣もすでに薨去していたと思われる。若い頃の大長谷王(=雄略帝)は少年時代から相手が老若男女とわず(老女を除く)ささいなことでホイホイ殺してしまうので怖がって嫁の成り手がいなかったと書紀に書かれている。だから韓媛も本当は大長谷王の妃になりたくはなかったんではないか。でも父が謀反人として成敗され実家が滅亡してしまったので否も応もなかった。『琴歌譜』が引用する異説が正しかったとしたら、この歌は単に歌として切り取れば表面的には楽しげな軽い歌だが、歌われた背景と込みで解釈すると実は哀しみに満ちた歌だとわかる。
雄略天皇は宴会がひけて別室に移り、ようやく酔っても問題ない時間に安心し、袁杼比賣にお酌してもらった。そこで亡き妃を思い出し、自分が若い頃に犯した罪悪を反芻している。それでこの歌を歌っている。むろん謀反人を滅ぼすことは正義の行為で葛城氏のほうが悪だったのだが、当時の大長谷王は正義のために立ち上がったのではなく、ただ暴れたかっただけなのだし、韓媛にも罪はなかった(当時は江戸時代のような血縁連座制という考え方はなく大罪人の子孫も貴族として残っていることが多い)。飯豊王も世が世なら宮廷で生まれ育ったはずなのだが、女ターザンみたいになっちゃったのは大長谷王が葛城氏を滅ぼした後にまだ暴れたりなくて、履中宮家(=押歯王の一家)を皆殺しにしたからなんだよね。女ターザンは無いわ、スマン、スマンw ともかく自分のための罪滅ぼしだけでなく、亡き韓媛への供養だか慰霊だかのためにも、飯豊王を守ってあげたいという気分になっていたのではないか(この当時は供養なんて概念なかったろうが、まぁ慰霊のようなことで)。
これに対する袁杼比賣(をどひめ)の歌がまたいい。ただ一緒にいたいというだけのシンプルな歌なんだが。三重の采女の歌ですら原文も訳文もあげてないのに大サービスw
この時の雄略帝は、歴史に残る数々の功績もあれば、見苦しい失態や恥もかいてきた、年齢を重ねた男なわけで、周囲のおとなを心配させていた子供時代と違って、まさに現人神(あらひとがみ)と畏れられ、威厳は天下を圧倒してみな平伏する。しかしすでに90歳を軽く越えてw、気づけば周囲は世代の違う若者ばかり(60歳でも帝からみれば若者w)、やみくもに人を殺しまくっていた少年時代の自分を知る者はみな死に絶えてしまった。孤独だったろうな。その深い哀しみなど、袁杼比賣のような小娘にわかるわけがない。いや、わかるのかも知れない。猪口才な言葉であれこれ慰めようとしても人生経験のない小娘の言葉は安っぽくなる、とも限らない。むしろ小童の言葉を神託として畏怖する文化が最後まで残っていたのが日本で、雄略天皇の出発点も「少年王」だったではないか。だがその少年王も今は年老いて、長生きしすぎたために「幼童神」の文化の最後の残影のようになってしまった。儒教によって日本人は理屈をかたりそれによって自意識を作ることを覚えてしまった。「幼童神」はみずから引き入れた中華文明によって死んだのだ。もう古事記も巻末が近い。ここはすでに現代であり、袁杼比賣は神託を語らない。大貴族の娘だから『論語』と『五経』くらいは仕込まれているんで、もう悠久太古の神託をかたる子供にはなれない。だから安っぽい言葉になることを畏れ、余計なことは言わない。文明以降では神話は文学へと崩れてしまうので言葉は経験の裏打ちあってしか深まらない。だから袁杼比賣は余計な言葉は何もなく、ただ一緒に寄り添っていたいとだけ詠う。陛下の哀しみ、代われるなら妾(わらわ)はこのままここにいたい、と。朝もよりかかり夕方もよりかかる愛用の肘かけに、肘をおいて頬づえつく手をかえるだけで、陛下はなんにも話さない。朝夕いっしょに寄り添ってる肘かけのような味方が、一人はいるの、わたしがその肘かけになれればいいのに。麻生圭子作詞、nobody作曲、1988年、浅香唯『セシル』。YOUTUBEから適当に検索どうぞw 今すぐ聴くようにw休みしし 我が大君の
朝とには い寄りだたし 夕とには い寄りだたす
脇机(わきづき)が 下の
板にもが 吾兄(あせ)を
私だけが知ってるプライベートでお休み中の陛下。その陛下が朝となく夕方となく、いつも、もたれかかっているご愛用の脇息(ひじかけ)になりたい、その下のおしりが直接すわってる床(ゆか)にもなりたい、そうしていつも一緒にその脇息(ひじかけ)や床のようにあなたにぴったりくっついていたいのです。愛するあなた。
※詞の区切り方と行かえは昔の角川文庫(武田祐吉バージョン)をもって至高とすw
※脇机(わきづき)ってのは後世でいう「脇息(きょうそく)」のことだが現代では「キョウソク」っていっても何のことだかわからないだろうね。時代劇でよく殿様が肘をおいてる道具で、肘かけ付きの椅子の肘かけの部分だけもってきたみたいなやつ。やや不正確ではあるが「肘かけ」と訳すしかないかな?
袁杼比賣は浅香唯である
聴いた? 聴いたな、よし。1988年は岡田有希子の自殺から2年後、アイドルソングはかつてのイケイケで少々ぶっとび気味な歌詞から一転して、癒やし系・泣かせ系の、応援ソングっていうの?がでてきた。同じ88年には酒井法子の『GUANBARE』(森雪之丞作詞、馬飼野康二作曲)もあったな。その後、アイドル氷河期に突入して、マイナーアイドル(当時はB級アイドルっていってた)全盛期に。不思議なもんで氷河期の地下アイドルすれすれなB級アイドルが「アイドル文化」としては絶頂期だった。いろいろあるんだが今たまたま思い出すのは中嶋美智代、まだいくらかメジャー組だったと思うが91年のデビュー曲『赤い花束』(遠藤京子作詞、羽田一郎作曲)だな。おとなしい曲調の印象深い歌だった。この頃のアイドルの話は無限に続きキリがないのでやめとくとして、浅香唯に話を戻そうw 浅香唯といえば『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』(1987年)の3代目麻宮サキ=風間唯だが、あれもとんでもない田舎娘って設定だったようなw いいよな田舎娘w ちなみに『セシル』の歌詞の中で「苗字で自分を呼び捨てする いつもの私もおとなしい」って部分、「苗字で」だと思ってる人が多い(ほとんどのサイトも間違ってる)が、俺もそう思ってたんだよ。でも正しくは「幼稚で」らしいな。「苗字で」のほうが幼稚にきこえるけどw みんな「苗字」って聞こえてたのは、そのほうが萌えるからだろうw 雄略天皇の時代には苗字なんてまだ無いわけだが、氏名(うぢな)やカバネはあるわけで、袁杼比賣が自分のことを和邇臣(わにのおみ)ってよんでる絵が浮かぶ。これが春日臣(かすがのおみ)では台なしで、演出家がわかってないってことになるw 俺の計算ではこの時袁杼比賣の年齢はどんなに若く見積もって中3か高1ぐらい、これ以下ってことはありえない。90歳こえてる天皇の前で「この和邇臣のお酌をお受けくだされい」(現代語訳)とか言ってたのかね。