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☆神武不殺☆平和の王権

2679年(令和元年)4月3日改稿 平成27年10月16日(金)初稿
神武不殺の剣戟士

「神武不殺」と周の文王
神武天皇の名前は本当は神武天皇じゃなくて神倭伊波余毘古命(かむやまといはれひこのみこと)であるのは皆様ご存じの通り。「神武」という諡号(おくりな)は奈良時代になって淡海三船(おうみのみふね)という人(弘文天皇の曽孫)がつけた名前だから神武天皇本人は知ったこっちゃないし『古事記』にも、もともと神武天皇とは書かれてない。「神武」という諡号の由来は『易経』の中に出てくる「神武不殺」(しんぶふさつ)という言葉からきてる。で調べてみると

『易経』繋辞伝上11

古之聰明睿知、神武而不殺者夫

いにしへの聰明睿知、神武にして殺さざるものか

とある。これは周の文王を讃えた言葉という。
黄河文明で有名な殷王朝の末期、殷の紂王は酒池肉林にふけっていた。
↓「爵」、酒器。殷代青銅器は酒をつぐ器と肉を盛る器ばっかでまさに酒池肉林w まぁ実は酒と肉ってのはお供え物で祭祀に熱心だったってことなんだけどね
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黄河文明で有名な殷王朝の末期、殷の紂王は酒池肉林にふけっていた。天下の衆望は周国の文王に集まっていた。周の文王の勢力は日々強大化して、すでに天下の三分の二を保ち、すなわち殷王朝を武力討伐するのに十分な軍事力を保有していたにもかかわらず、あえて戦争を避けて時を待った。軍事力や刑罰でなく、民が自ずから帰服するのを待つ。これが「不殺」。殺さずして戦争に勝ってしまうというのは、人智を超えた神秘的な武力だから「神のような武」で「神武」。まぁここまでは調べればわかる話。
問題はこれと神武天皇(神倭伊波余毘古命)の関係だが、奈良時代になってつけた名前だから生存してた当時のリアルタイムの神武天皇とは関係ないっちゃないんだが、しかし淡海三船もまるで無関係な名前を贈ったわけでもないだろう。それなりに考えて諡号を奉贈したにちがいない。

「東征」と「東遷」のちがい
神武天皇の東征は『日本書紀』では全行程が7年間に切り詰められてるが、『古事記』では筑紫に1年、安芸に5年、吉備に8年と長期滞在していておそらく全行程では20年ぐらいと思われる。
20年というと、モノスゴイ大戦争のように思うかもしれないがそんなことはない。20年間も休みなしに戦い続けるというのは経済的にも不可能なことで、実際の会戦は最後の数年の間に数回しかない。
そもそも神武天皇の東征は「東征」ではなくもともとは五瀬命(いつせのみこと)の「東遷」だったことは、『古事記』と『日本書紀』共通で書いてある。つまり日向国から大和国への「遷都」が本来の目的であり、那賀須泥毘古(ながすねひこ/長腿彦)を討伐することは遷都の大事業に付属する部分にすぎない。もし那賀須泥毘古を討伐することそれ自体が最終目的ならば、さっさと攻め滅ぼしてしまえばよかったはずだが、それは目的ではない。最終目的はあくまで平和と繁栄であって、さっさと敵が潰れりゃ後はどうでもいいってものではなかったのだ。

東征はどんな戦争だったのか
皇軍は那賀須泥毘古の支配圏である大和国の近辺に迫るまで、ぜんぜん誰とも戦っていない。つまり九州、中国あたりまでは完全に皇軍の支配圏内だった。天照大神の神勅は邇々藝命に豊葦原瑞穂国の全体を統治せよというものであって、一方、大国主は出雲一国だけの主ではなく、出雲一国を譲ったのでもなく、葦原中つ国の全体を譲ったので、両者呼応しており、邇々藝命から代々継承してきた五瀬命は当時すでに日本全体に君臨していたのです。
それに対して敵は大和一国にすぎないので、こちらには余裕があった。
これほどゆっくり進んだのは、はじめは那賀須泥毘古を刺激せず、徐々に近づき、その間も支配圏内の民生安定策と生産活動の傍ら、戦争準備をすすめたわけで、急激な戦争準備と違ってなるべく庶民に負担のかからないやり方だったといえる。急激に進軍すると賊軍を無駄に刺激して、防衛のために向こうから先手を打って攻めてくるかもしれない。仰々しい大決戦は華々しいが損害も大きい。敵は大和盆地とわずかに紀州の一部を支配してるだけなので、大和包囲網を敷くのは容易だったろう。問題は、この包囲網は八方からいきなり攻めるためのものではなかった。20年間もの間、包囲しただけで精神的な威圧は加えたろうが、糧道を断ったわけでもない。やがて、敵側の武将や庶民が、このままでは負けてしまうと思って逃亡を始める。そこで降伏をすすめる。敵も味方も苦しめず自主的に帰服するのを待ち、血ぬらさずに鎮圧しようという作戦。
しかし、どうしても敵が降伏しないので、このまま永遠にダラダラ続けるのは戦争が永続することとなりかえってよくないことなので、ある時期を区切ってついに合戦に及んだわけだが、その頃にはもう敵は最初の頃と比べてかなり弱体化していたと思う。

「神武」という諡号
このように、十分な軍事力がありながら、無駄な殺生を避けた征戦は、周の文王に通じるとして「神武」の諡号が奉られたのでしょう。ここまでの話(特に神武天皇の戦争がどんなだったか)は、淡海三船が考えたであろうことを推定したまでです。

雑談
神武の反対は「凶武」。ただし2chなどでは「神武不殺☆平和の王権」の対語として「武烈必殺★残虐の王権」ってパロディが昔あった。武烈天皇の素晴らしさについては言いたいことが山ほどあるが、いつかの機会にまた…。
神武不殺の剣戟士

☆見当はずれな保守派の啓蒙運動

2679年(H31=新年号元年)・2月 改稿
今日は平成29年2月11日(祭)の紀元節。今回は建国記念日にまつわるお話。
昨年は神武天皇即位から数えて皇紀2,676年だったわけだが、神武天皇は在位76年で崩御してるので、崩御から数える「正辰祭」(仏教に喩えれば年忌法要みたいなもの)としてはちょうどぴったり2600年祭にあたる年だった。
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なので東京在住でもこころある一部の人の手元にはそれ関連のパンフやチラシの類が届いていたらしく、一年遅れではあるが俺もそれっぽいものをみた。神武天皇二千六百年大祭についてはレポ記事や関連動画などもネット上にあるので適当に検索あれ。
善意で古伝承を歪曲する人たち
(※後日かきます)

見当はずれな「保守派の啓蒙運動」
(※後日かきます)

戦時中・戦後右翼・今の保守、3派のうち「八紘一宇」の解釈で正しいのはどれ?
(※後日かきます)

☆萬邦無比の國體?

2679年(H31年=新年号元年)2月改稿 H27年11月17日(火)初稿
ここに1枚のプリントがある。H27年11月13日(金)に代々木の「日本文化興隆財団」に行ったら、受け付けに前回の資料として置いてあったもの。「君主制国家の一覧」と題され、世界の君主制国家全29カ国とその人口、現在位中の君主の名が表になっている。この29カ国はヨーロッパ・アフリカ・アラブ諸国・アジア・オセアニアの5地域に分類されてる。他にイギリス連邦に加盟してイギリス国王を元首とする国が15カ国あげられている。この表の下には「(参考)東京書籍『世界各国要覧10訂版』(平成12年刊)」とあり。またその下には「各国における最近時の君主制の歴史」と題し、日本・イギリス・スペイン・サウジ・ドイツ・ロシア・トルコ・イラン・中国・韓国のそれぞれの王室の発足から廃止までを年表にとってその長さを帯で表している。これは「(参考)加藤雅信著『日本社会入門1天皇』平成16年、大蔵省印刷局刊」とあり。
世界の君主制
人口の大小が関係あるのか?
まず最初の表は、人口の大小しか比べる部分がない。日本が1億2641万(H12年)で断トツに多い。2位のタイが6千万台、3位の英国が5800万。4位スペイン3900万。2000万台がモロッコ、サウジ、ネパール、マレーシア。1000万台がベルギー、オランダ、カンボジア。しかし人口が多ければ偉いというなら中国が一番偉いわけで、君主制と人口の大小は格別に関係あるようでもないが…。

地域別の傾向
地域別には欧州10ヶ国で最多、アラブ圏とそれ以外のアジアがそれぞれ7ヶ国づつ。アフリカ3ヶ国、オセアニア2ヶ国。昔は天皇制廃止を訴える左翼に力があったので、保守派はいろいろな天皇制擁護論を展開してものだった。進歩派がなにかと欧州は進んでる、欧州を見習えという割に、実は君主制の国は欧州に多いのだ、これは歴史が古く継続してるからであって、アジア、アフリカ等の悲惨な植民地の歴史をもってる国にこそ君主制は少ないのだ、とかなんとか言ってたものだ。その程度の理屈で左翼が「はい。わかりました」と言うわけもなかったわけだが。

国号の問題
これらの国々の国号みると「○○王国」が16ヶ国で最多、大公国が1,公国が2,首長国が1.そして政体の表示がついてないのが9ヶ国。この9ヶ国のうちスペインは正式名称を特に決めておらず「スペイン王国」といっても特に間違いではない。バーレーンはH12年の頃とかわって現在は「バーレーン王国」になってる。マレーシアとサモアは、複数の王家(もしくは首長家)が交代で元首なり国王なりになる仕組み。これもかなり変わってるので、国名に出してないのか。アラブ首長国連邦の場合は各州の首長とは別に連邦の大統領がいる(実際には有力な首長が大統領を兼任してるとしても)んだが、マレーシアは首長が首長のまま輪番制で元首になる。サモアは首長と元首が別々の概念なのだが、事実上一致してるというややこしい仕組みで、共和制なのか君主制なのかよくわからない。日本にたとえていうと憲法に天皇条項がなくて大統領制なのに、歴代大統領は皇室からしか出ない、みたいな感じのものらしい。
まぁこれらの国々は事情はわかったが、問題は残りの5ヶ国、オマーンとブルネイ、カタールとクウェート、そして日本だ。
オマーンとブルネイは君主号がスルタンなので、訳せば王国にあたるだろう。カタールとクウェートは君主号がアミールでこれは「首長」と訳されてる。しかしバーレーン王国の王様はスルタンではなくて「マリク」といい、スルタンよりはデフォルトで王に意味が近い。アラブ諸国で国名に「王国」とか「首長国」とかつけない例があるのは英語に翻訳しにくいために国連に登録する時に略してしまうのか、あるいは独裁的で民主主義が名ばかりの国が多いからあまり君主制の国だって強調したくないのかな。または、単にアラブ圏の風習でいちいち国名の後ろに政体をくっつける習慣自体が根付いてないのか。(日本で根付いてるのは明治時代に一生懸命西洋語を直訳して使おうと努力した結果)
で、最後に残った日本。日本はなぜ日本国で政体がついてないのかな? まぁ政体くっつけると帝国になっちゃうのだけどね。天皇はemperorと訳されてもkingとは訳されないので「日本帝国」にしかならんよね。これGHQに「帝国とかやめろ」と言われてそのままずるずる現在に至ってるだけなんで、もうそろそろちゃんと「日本帝国」というべきじゃね?

歴史の長さ(王室の古さ)
最後の表の10ヶ国のうち、現在も君主制国家なのは日本・英国・スペインで、イギリスが1066年発祥になっていて日本を除くと一番古いが、これってノルマン朝から英国王室の歴史としてるわけだな。スペインは1479年からになっているがこれはカステラ王国とアンゴラ王国が合併してスペイン王国が出来た年からの勘定。他でやや長いのは1299年建国のオスマン・トルコ、1392年建国の李氏朝鮮。(その他の国は省略)
日本は表の左側に接して(抜けて?)いて、この表が西暦何年を日本の建国とみなしているのか読み取れないが、目盛り均分でみると表の左端は西暦400年ぐらいに当たりそうにみえる。大和朝廷の日本統一がそれぐらい(巨大古墳の出現、広開土王碑文あたり)という説に基づいてるのかな? それにしても日本だけが異常に長くみえるような表になってる。まぁエチオピア王国の方が日本よりずっと古いんだけどね、今はないけど。現存中では日本が古い。しかし、そもそも制度自体が同じ君主制といっても千差万別で、それぞれ異質でそれぞれの文化なり特徴なりがあってのものだろう。単純に古さを数字で競って、優劣を決めることが出来るのかな? 最後の表なんか皇紀2600年をもちだすまでもなく、西暦400年の段階で他国よりも圧倒的に古いってことを示してどうしたいのか? 外国よりふるけりゃいいってのは相対評価じゃないの? 俺はあいつよりは勝ってるって話でしょ。西暦400年で済むなら紀元前660年の話はどうなったんだ、あの話なくていいじゃん。あんまり史実っぽくない神話めいた話はむしろ迷惑ってことなのか? 一体どういうことだってばさ。
こういう表で見せるってのは、わが日本の歴史が古いってことの大雑把な目安と感覚的な刷り込みにはなる。が、歴史が古いってこと自体が素晴らしいのだということが、これだけだと説明不足で伝わらないだろう。断絶がないってこと自体は、伝統文化に継続性とそれから派生する安定性や豊穣性をもたらしてる。ただし、こういう話は「そもそも君主制自体が悪で、けしからんものだ」と思ってる人には何の意味もない話だろう。江戸時代に水戸学者や国学者が、我が国の「萬世一系の國體」を誇ったが、それは王朝交代の頻繁な中国に対して誇ったのであって、そもそも「民主主義が正しく、大統領制がすぐれており、君主制は野蛮で未開な文化の名残り」ぐらいに思ってるような連中に対して万世一系を誇っても、何のことだか話が通じないだろう。

☆八紘一宇と天壌無窮

2679年(H31年=新年号元年)2月改稿 H27年11月16日(月)初稿
二月十一日は「建国記念の日」だがこの日付は日本書紀の記述を明治になって太陽暦に換算したもの、というのは常識だが、それ知ってるだけでは足らない。日本書紀にある天照大神から瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にくだされた■天壌無窮の神勅の全文と、神武天皇が即位の際に発せられた■橿原奠都の詔の全文くらいは日本人の最低限の教養として覚えておくべき。古事記にもそれぞれの該当箇所があるからよく探してみれ。
建国記念「の」日?
ちょっと気になるのが建国記念「の」日。この「の」字がどうしてもひっかかる。これは建国記念日法案を通す時に社会党を黙らすため(というか社会党に妥協して)「2月11日は日本が建国された日じゃない」けども、この日に建国をしのぶ日にする、という、もって回った訳の分からない理屈でつけた名前だよね、皆様ご存知の通り。当時の自民党が、念願の建国記念日法案を通すために知恵を絞ってやっと実現にこぎつけたという苦労はわかるけど、それから何十年もたっていまだにこんなアホな呼び方を我々がし続ける必要あるのか? 普通に堂々と「建国記念日」といえばいいんじゃないの? つか本当はGHQに禁止された戦前の「紀元節」を復活させるための法案だったわけだよ。普通に堂々と紀元節」っていえばいいんじゃないの? そこんとこどうなのよ?

日本建国の理念とは?
ところで、「橿原奠都の詔」は昔は「八紘一宇の詔勅」といったのではなかったか? 橿原奠都の詔と言っても間違いではないが、これだと単に都を定めたというだけに聞こえる。この詔勅がいってるのは日本建国の理念は一言でいえば「八紘一宇」である、ということで、ここがミソなわけだろう。新田均先生の本を読んだ人の中には、「八紘一宇」は島地黙雷とか田中智学とかのナンミョウ系の造語で世界侵略主義だからよくなくて、正しくは「八紘為宇」だ、という人がいるのだが、それは間違いです。八紘一宇も八紘為宇も同じ意味です。万世一系も天壌無窮も皇統連綿も同じ意味であるように、漢文ってのは文字をかえていろいろな言い方するもんなのよ。八紘一宇は間違いだけど八紘為宇は正しい、なんて左翼の言葉狩りみたいな物言いはやめてくれよな。八紘一宇の詔勅はこれ↓

『日本書紀』原文
…頼以皇天之威、凶徒就戮。雖辺土未清、餘妖尚梗、而中洲之地、無復風塵。誠宜恢郭皇都、規摸大荘。而今運属屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常、夫大人立制、義必隨時。苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寳位、以鎮元元。上則答乾靈授國之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇。不亦可乎…

読み下し
(前略)…皇天(あまつかみ)威(みいつ)を頼(かがふ)りて、凶徒(まがひと)就戮(はら)はれぬ。辺土(とがき)いまだ清めえず、餘妖(しこ)なほ梗(あら)ぶるとも、中洲之地(なかつくに)、風塵(さはり)無し。誠(まさ)に皇都(みやこ)を恢郭(ひら)きて、大荘(みあらか)を規摸(た)つるべし。今運(くに)屯蒙(わか)く民心(たみ)朴素(すなほ)にして、巣に穴に棲住(す)み、習俗(くにぶり)惟常(かはらず)とも、それ大人(をさたるもの)制(のり)を立(さだ)むれば、義(ことわり)時に隨(したが)はむ。苟(いやしく)も民に利(かが)あらば、何(いかに)ぞ聖造(みち)に妨(そむ)かむ。山林を披拂(ひら)き、宮室(おほみや)を經營(をさめつく)りて、寳位(あまつひつぎ)を恭(つつ)しみ臨(しら)して、元元(たみくさ)を鎮むべし。上(かみ)は乾靈(あまつかみ)の國を授けたまひし徳(のり)に答へ、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(まさみち)を養ひたまひし心(みこころ)を弘めむ。然る後(のち)、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あまがした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(な)さむ。亦(また)可(よ)からざらめや…(後略)

現代語訳
天佑神助によって叛賊は成敗された。辺境(外国)はいまだ平定されず暴虐の徒が残っているが、幸いこの日本は平和になった。まさに都を定めて宮殿・政庁を建てる時である。(辺境の)発展途上地域では民心も純朴であり、あいかわらず(家もなく)樹の上や洞穴に住んでいるというが、指導者が良い政治をすれば、かならず結果がでる(彼らも家に住めるようになる)だろう。民のためならば何をやっても道理からはずれることはあるまい。今こそ山林(=未開の象徴)を拓いてわが家(=皇居・政庁)を建て、天皇に即位してすべての庶民を安心立命に導くのだ。これは、上は天照大神の「地上を統治せよ」との神勅に答え、下は天孫ニニギノミコトが高千穂峰に天降り地上を平定し、平和を実現した趣旨を布教することにもなる。そうして(=家を建て即位して)都(の宮殿・政庁)が国内を統合するように、地のはてまで覆う屋根で世界を一つの家のようにしようではないか。できないことではあるまい。

海外への関心の発端・飯氷命と御毛沼命
津田左右吉は神武天皇の存在を否定してる癖に、この八紘=天下ってのは大和盆地の外のことで神武天皇はとりあえず大和だけ征服したんだ等と矛盾したことをいってるが、漢文の「八紘」の語意は全世界のことだから、八紘一宇は海外の国々とも統合していこうという趣旨であって、なんの問題もない。日本を平定した後に、じゃ次は海外へ、というのは昔ならごく普通の発想だろう。しかし神武天皇の念頭にあったのは兄二人、飯氷命(いなひのみこと)と御毛沼命(みけぬのみこと)だったろう。御毛沼命は「浪の穂を跳みて常世国に渡った」とあり、この常世国は外国である。「浪の穂を跳みて」ということごとしげな表現は大海原を横断していくようなニュアンスだろう。跳躍の「跳」の字を使っていることも注目。「常世国はあの世で海の底に沈んだんだ」等という意味ではない。また飯氷命は『新撰姓氏録』に「稻飯命は新羅國王となった」とある。つまり神武天皇が海外に関心を示したのは、兄二人の行く方を探すという趣旨もあったものと思われる。常世国信仰は西は熊野から東は常陸までの東海地方の海のはてにあるとされた国で、そこから南に向かえばフィリピンとかインドネシア、ニューギニアがありうる(中国だったら漢(あや)とか呉(くれ)とかいって常世国とはいわなかったろう)が、黒潮に流されたなら北米大陸に行き着く可能性が高い。新羅は孝霊天皇の時に、天之日矛(あめのひぼこ)が渡来してきて、これが飯氷命の子孫だろうと思われ、その後、開化天皇・崇神天皇・垂仁天皇と三代に渡って朝鮮半島との関係が出てくる。そこでもう一方の御毛沼命の子孫はどうなったんだということで話題に上がり、垂仁天皇の時に多遅摩毛理(田道間守)を常世国に派遣することになったんだろう。
神武天皇は、自分の兄弟である飯氷命と御毛沼命が海外に生きていると確信して、よしやその二人がどこか未知の国に土着して帰国しなかったとしても、その二人に象徴される海外の国々と日本は、自分ら兄弟と同じように、国同士も兄弟国になれるはずだと夢想したのではないだろうか。
八紘一宇_築地

なぜ日本の始まりが二つあるのか?
ところで、天壌無窮の神勅は天孫降臨の時のもので、八紘一宇の詔勅は神武天皇で、時期が違う。そのため、日本の始まりが2回あるかのような印象になってる。
邇々藝命の天降りをもって国の始まりと考えるのは、奈良時代まで(もしくは平安時代前期まで)根強い発想であり、神武天皇よりもはるかに重大視されていた。これは「原初の王」または「王朝」そのものの起源が、人間世界の起源(人類の起源)と結びついているという神話的な世界観に基づく。
各種の祝詞等でも、なにかの起源を語り出したり、皇朝の権威の源泉を語ったりする場合、神武天皇をもちだすのではなく天孫降臨をもちだすことの方が圧倒的に多い。
大和言葉では『日本書紀』でも諸々の祝詞でも、(国を)「はじめる」も「たてる」も同様に天孫降臨についていう。

神武天皇から始まるという観念は中国式である
時代がくだり、神話的世界観よりも中国の漢文の歴史が学問とみなされるようになると、中国式の歴史書に準じて初代天皇である神武天皇の即位こそ日本の始まりだという認識が自然と湧いてくる。
ただし古い時代の大和言葉では神武天皇の事績について(国を)「たてた」とか「はじめた」とか、あまり言わない。これらの表現は現代語風な和語であって、古い時代の表現としては何か違和感を感じる。
神話(先代旧辞)と歴代天皇の物語(帝皇日継)は、それぞれに名があることからも、本来は別々に考えられていた。これが一体のものとされたわけは、海外から異質な知識体系が伝来して後、それとは別の、民族固有伝統土着文化=ヤマトの知識体系という一括りの枠が認識されるようになったからであろう。
とはいえ、『古事記』本文は、上巻(神代記)と中・下巻(神武記以降)との間の異質さはあるにせよ、『日本書紀』ほど設計的に区分の形式を与えようとはしておらず、また本文中で神武天皇を初代であるとは必ずしも明解には語ってないのである。これは記が本来の形のまま先代旧辞(上巻)と帝皇日継(中・下巻)を単純に並べただけで、それ以上の印象操作をしなかったことによる。
神武天皇から区切る発想(=神代のことはひとまず置く発想)は、大陸で『漢書』以降に定まった「断代史」(王朝交代ごとに、つまり一つの王朝ごとに歴史を区切り、自我の所属対象を設定したり、世界観の単位としたるする王朝観)の形式の影響下で生まれたものである。『日本書紀』は明確にその形式に準拠して編纂された。紀においては神武天皇が「初代」であることは強調され明記されている。しかし歴代天皇の歴史を物語る書物の巻頭に神代の物語をおき、両者を一体としたのは、同時進行で編纂されていた『古事記』の影響だろう。
この、中華風の歴史書の体裁を希求する先には、当然、より徹底した『大日本史』がある。『大日本史』は神武天皇から始まる。神代については志類(分野別の付録)の「神祇志」の中の、前半部として扱うにすぎない。江戸時代の『大日本史』において神代と人代の分離は徹底された。
上述のように、古い時代の大和言葉では、天孫・邇々藝命について「いにしえ天降りて国を建てたまひし神」とも「国を肇めたまひし神」ともいわれるのに対し、神武天皇についてはそのような表現はみられない。神武天皇をことさら建国の始祖とみなす発想は、すでに述べたごとく、シナの歴史書の影響を受けた後世の人間や、荒唐無稽な神話を回避しようという近代人の合理主義根性によって生まれたのである。
日本の始まりは神武天皇ではなく、邇々藝命の天孫降臨である。神武東遷は大化改新や建武中興や明治維新みたいなもの。

八紘一宇と天壌無窮の思想上の関係
世界は一つ、という八紘一宇は空間に対する普遍主義だが、これは天壌無窮、万世一系という時間に対する普遍思想を横倒しにして空間に転写したものである。

☆なぜ「兄」だけ叛いて「弟」ばかりが帰順するのか

H30(2018)年11月7日改稿 H27(2015)年11月13日(金)
神武天皇の大和でも戦いの時の敵側の兄弟の話。
竹内健の「太郎次郎神」仮説
(以下、続きは後日執筆予定)

☆皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・中編

昨日、平成30年9月12日(水)、ある人が現在、上野の東京博物館で開催中の特別展「縄文―1万年の美の鼓動」をみてきたっていう感動を興奮して語りだすのを聞く機会があったんだが。俺も実は先月の22日(水)に友人らと見てきたんだよね。で、その人がいうには縄文時代は世界的にも素晴らしい高度な文明だった、と。
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そして紀元前660年は東博のパンフによると縄文晩期であり、縄文時代に含まれる、と。こんな高度な文明があったのだから、神武天皇はやっぱり実在したんだ、と。まぁこのように力説されたわけよ。
…で。昔は今と違って縄文時代というのは階級の上下のない原始共産制社会で、クニだのもなくて木の葉や毛皮で作った服をきて完全に狩猟採集だけの未開部族がウッホウッホ言ってたっていうイメージで、弥生時代が始まるのは前3世紀とされていたから、元前660年といえば縄文時代じゃねぇか、こんな時代に神武天皇いたわけないだろということになっていた(とくに左翼が揶揄的にそんなこと言ってた)。それでも神武天皇はいたんだと言いたい場合、生存年代を弥生時代以降(つまり前3世紀以降)に引き下げる説にならざるを得ない。それが具体的にいつなのかはそれこそいろんな説があったわけだが、この条件下で最も古めに見積もると弥生の始まりと神武天皇が同時期になるわけで、つまり神武天皇の東征、建国が弥生時代の始まりだという歴史観ができる…。そう、原住民史観だなw もっともこれは『ムー』とかの超古代史の方面の話で、古代史マニアの世界(邪馬台国オタクとか)ではもっとめちゃくちゃ新しい時代まで引き下げるのが主流だから、神武天皇と「縄文から弥生への移行期」は元々なんの関係もない。ところが平成15年(2003年)に佐倉の歴博が炭素14C測定法で前10世紀にくりあげてからは紀元前660年にはすでに弥生時代だったことになり、昔の左巻きの論法からすると、逆に神武天皇がいてもおかしくはないってことになってしまった。ざまあ見ろってんだよなw もっとも当時から古く引き上げすぎだっていう批判もあったから、力技で「ちょうど前7世紀あたりが妥当だろう」といえばやはり神武天皇とこじつけ可能w(まぁそんなこというやつはいないんだけどね、一代あたりの寿命がどうたらの話で。詳細は後述)。
さて、今回の東博の「縄文展」では縄文の終わりと弥生の始まりが前4世紀だったか前5世紀の中頃になってたような気がする。これ東博の公式見解なんかね? 歴博が前10世紀にくりあげて話題になった時には東博も尻馬に乗って大々的に企画展やったのを覚えている。見に行ったもの。「古く引き上げすぎだ」って批判なんて、歴博・東博は無視してたよなw 今になって何事もなかったように引っ込めるとは…(それでも旧説よりは100年か150年引き上げてるが)。Wikipediaでは「縄文時代の終わりについては(…中略…)紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある」としてボカしている。「紀元前数世紀から紀元前10世紀頃まで」って、幅ありすぎだろうw これは諸説が乱立、対立してるというより、むしろ要するに縄文から弥生へという大昔の所謂「弥生大革命」みたいな「事件」があったわけでなく、長い年月をかけて徐々に移行してったって考え方に傾きつつあるってことじゃなかろうか。
…というわけで前置きが長くなったが、神武天皇の話題がでた記念に、以前に【前編】だけ書いてほったらかしだったやつの続きを。
(※多忙につき後日に執筆予定)

・うんこ大研究

H30年6月27日(水)改稿 H30年6月20日(水)初稿
ウンコに秘められたる大いなる謎
初代皇后様を紹介するのに、矢が流れてきて観音様を突いたって話だけでも「えっw」ってなるのに、その直前に唐突にトイレ内で大便しているシーンが出てくるってのが凄いな。日本書紀以上の、比ぶるもの無き、いとも尊き至高の神典にして「民族の大宝典」(by津田左右吉)たる神聖『古事記』に大便だよ! 世の中の普通の人たちが古事記の講演会とか勉強会とかに参加した時も、皆たいていは神妙にこれ読んで、何事もなかったような顔で取り澄ましてることが多いだろw なんだかなぁ。なんの驚きもなんの疑問の声もないって、おかしんじゃないのか? 俺がおかしいの? こういうことは触れちゃいけないの? しかも古事記の原資料になった語部(かたりべ)の伝承は、猿女(さるめ)という宮廷の巫女、つまり女性たちによって担われたという説も有力だが、女性の方が男性より汚物への拒否感が強いだろうに、なんて思うのはジェンダー差別でフェミのおねぇちゃんに叱られるんだろうか。あるいは時代差で性差を埋めることができるかどうか、古代人の排泄物や排泄行為に対する感覚は現代人とは違うんだというならそれでもいいが、それならどこがどう違うのか具体的に説明してくれや。糞便に霊威を感じていたから排泄行為は神事と同じく慎んで行うべきことだった、という説とか、どうなんかねぇ。それなりにもっともらしくもあるが、なんともいえない。一方、時代や性別が違っても、人間の感性にはかわらないと思われる部分もある。例えば、幼児ってウンコだのシッコだのって話が大好きだろう、そっちに話がいくとはしゃいじゃって笑いが止まらなくなることがある。これは男児でも女児でも古代でも現代でもかわらないんじゃないか? おとなでもウンコがどうのってタイトルをみれば、なにか笑わせにきてる記事なんだろうと察知するわけで、この記事を読んでるあんただって「ウンコ大研究」ってタイトルに惹かれて読んでしまったんじゃないの? 古今東西「笑い」には魔除けの効果(お祓いの効果)があるとされてる。糞便自体に魔除けの作用があるから喜ばれるのか、糞便の穢れを祓うために本能的に笑うのか、そこらはわからないが…。

うんこの本質的議論は可能なのか?
古事記でウンコが出てくる記事というと、伊邪那美命(いざなみのみこと)の排泄物から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘賣神(はにやすひこのかみ・はにやすひめのかみ)が生まれたという神話、天岩戸の事件で須佐男命が自分の排泄物を撒き散らしたという神話、この神武天皇の皇后伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)の母の件、あとは崇神天皇の時、建波爾安王(たけはにやすのみこ)の反乱軍が敗残して逃亡する時にウンコを漏らしたので屎褌(くそばかま)といったのが訛って久須婆(くすば)になったという地名起源譚(今の枚方市楠葉、ただし今の読み方はクズハ)、神功皇后の時の大祓(おほはらへ)の項目の一つに屎戸(くそへ)というのが出てくる。これで5件しかない。このうち須佐之男命の乱行に出てくるウンコは天津罪(あまつつみ)の話でまさに神功皇后の大祓に出てくる屎戸と同じことだから実質4件しかなく、地名起源譚はダジャレで説明するこじつけ話でウンコそのものの本質とは関係なかろうから、それ引くと3件しかない。これだけから古代人の排泄物(または排泄行為)への考え方を体系的に論じることは難しそうだが。天津罪について論じればこれだけで長大な議論になってしまうのでここで詳細を語ることはできないが、結論だけいうと屎戸をクソトと読んで呪術にむすびつける説は否定される他、排泄物に対する古代人特有のなにかを引き出すような分析結果はない。伊邪那美命は人間ではなく大地母神なので、大地からの排泄物は人間の排泄物とは物理的に違うものなので同一視できない。結局この話は、この話単体で考えるしかない。

大物主か事代主か
そういうわけで一旦ウンコの話は離れて考察しよう(ウンコの話にはのちほど戻ります)。
大物主が化けた矢が流れてきたんだから、姫がうんこしてたこの川は、三輪山のそばを流れてる川だと誰しも思い込みがちだろう。普通に地図から考えると三輪山の南の裾野を流れる大和川か、北の裾野を流れる纏向川とか。maxresdefault.jpg
しかし古事記では神武天皇のお后(きさき)比賣多々良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)が大物主神の子で、三嶋湟咋(みしまのみぞくひ)の娘、勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)が皇后の母だということになっている。矢につつかれたのは結婚前だろうから、親の三嶋湟咋のところで暮らしてたはず。この三嶋というのは律令時代の河内国三島郡のことというのが通説で今の大阪府茨木市・摂津市・吹田市・高槻市の一帯のこと。茨木市には溝咋神社(みぞくいじんじゃ)ってのがあって神武天皇の皇后と皇后の母が主祭神になってる。大昔のことだからここがその一家が住んでた場所だとは限らないが、大雑把な目安にすると、この神社のすぐ横に安威川(あいがわ)という一級河川が流れている。aigawadum.jpgこの川だろうw まぁカレーでも食ってくれw 安威川カレーじゃなくて安威川の景色については適当に画像検索してみて下さい。いい写真いっぱいありすぎて選べなくてさw 下流の方はもう昔の面影ないが、中流・上流の田舎の風景はいかにも厠(かわや)が似合いそうな写真いくつもあったよw
とはいっても、後述するように、通常想像されてるような厠とは限らない。通常いわれている大昔の厠についても適当に検索してみてくだされ。想像図もあれば考古学上の復元図もある。水洗の原理としては平城京の厠が近いんだろうが、あれは常時靴を履いてる役人が使う厠なので、今回の厠とはいくらか違っていると思われる(詳しくは後述)。下の写真は、秋葉原の万世橋トイレ、川の上にあるからまさに現代の「厠」(かわや)ではあるまいか。俺は昔のオタなので秋葉原にはよくいったもんだ、懐かしい。今でもちょいちょい行ってるけどな。中野はもっと行ったけどなw 最近は秋葉原いくっていっても末広町の「魔術堂」か「秋葉原制作所」か昌平橋の「江戸遊」ぐらいなもんよ。town20151020154304.jpg
話を戻して、日本書紀では、神武天皇巻と神代巻とでそれぞれちょっと違った話が出ており、神武天皇巻では皇后になった媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の母は三嶋溝橛耳神の娘で玉櫛媛(たまくしひめ)、父は事代主神となっており、一方、神代巻では大三輪神(要するに大物主)の子が姫蹈鞴五十鈴姫だという話と、異説として母が三嶋溝樴姫、別名が玉櫛姫、父は事代主神ともいう。母の名前の相違などは別名ってことで済ましてもいいのだろうが、説話としては全然ちがっており、書紀の神代巻では事代主神は八尋熊鰐(やひろのわに)になって玉櫛姫のもとに通ったとはあるものの、古事記のような矢に化けたとかその矢が川に浮かんで流れてきたとかの話は全然ないし、まして「姫のトイレ中に…」なんて話もカケラも出てこない。ただ父の名からして場所は三島の溝咋神社のあたりと推定できるってことは古事記とかわらない。川は安威川だろうw
実は書紀によると第二代綏靖天皇の皇后五十鈴依媛も事代主神の娘で(媛蹈鞴五十鈴媛の妹)、綏靖天皇は叔母と結婚したことになっている。古事記では師木県主(しきのあがたぬし)の祖、川俣毘賣(かはまたひめ)だが、書紀の異説でも磯城県主の娘、川派媛となっていて古事記と同じ。これからすると「事代主神=磯城県主」ということになる。磯城県(師木県)というのは後世には式上郡と式下郡にわかれたところで奈良盆地の東南部のかなり広いところ。県主(あがたぬし)は今でいえば県知事とか市長みたいなものだからこれは肩書で、固有名詞ではない。県主という役職にいたんだからこの場合の事代主は神ではなくて普通の人間の名前だろう。神武天皇が即位した時、弟磯城(おとしき)名は黒速(くろはや)を磯城県主に任命したとある。これがもし本当なら、理屈からいって事代主は弟磯城と同一人物で、弟磯城も事代主も本名でなく、本名は黒速ということになる。第三代安寧天皇の皇后は、古事記では師木県主波延(はえ、河俣毘賣の兄)の娘の阿久斗比賣(あくとひめ)。書紀では事代主神の孫で鴨王の娘、渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)。書紀の異伝では磯城県主葉江の娘の川津媛(かはつひめ)、父の名は古事記と同じ「ハエ」(波延=葉江)で、鴨王と同一人物だろう。鴨王の読みはカモノキミでもカモノミコでも違和感が強いから「鴨主」(かもぬし)か「鴨玉」(かもたま)の誤記で、県主ハエと同一人物であり、磯城の県主の地位を継いでいたんだろう。
大物主神が「蛇」としての現身(うつしみ)をあらわすことがあるという信仰があったように、当時の信仰としては事代主神も「鰐」としての姿をもっていた。だから普通の人間のはずの「県主」の事代主が、八尋熊鰐になって姫のもとに通ったなんて話になっちゃったわけは、人名の事代主が神話上の神々の一柱である事代主神と混同されたから、と考えるのが穏当だが、もちろん両者は何の関係もないのに偶然名前が同じというのではなく、実際に磯城県主の家は代々事代主神の子孫だと信じられていたのだろう。後世の資料では磯城県主を饒速日命の子孫つまり物部氏だとされていることが多いが、これは入り聟のような形で途中から物部系に入れ替わってしまったからで、磯城県主の家系には新旧2系統ある。その旧の方の県主だが、磯城県というのは後世の磯城郡(式上郡・式下郡)とほぼ同一地域だろうに、出雲の神である事代主を名乗るのはどういうわけか。磯城の中には三輪山も含まれ、磯城県の中心地と目される「志貴御県坐神社」(しきのみあがたにますじんじゃ)は大神神社(三輪大社)のすぐそばにあるので、むしろ古事記のように大物主神の方が良さげではないか。
そこで考えるに綏靖天皇の皇后、川俣毘賣と同名の河俣神社というのが橿原市の雲梯町(うなでちょう)にある。延喜式内社で古くは「高市御県御坐鴨事代主神社」(たかいちのみあがたにいますかもことしろぬしじんじゃ)といった。
ここは磯城県ではなく高市県(律令時代の高市郡)だから、師木県主(磯城県主)だって話が実は高市県主の間違いだったならすんなり解けるんだが、そうもいかない。高市県主は通説では天津日子根神の子孫で、磯城県主とは別系統になっているからだ。だが、詳しい議論してる暇がないので結論だけいうと、天津日子根神の子孫という氏族は多いがすべて女系を名乗ってるのであって男系は開化天皇の子孫だと思われる。だから神武天皇の頃はまだ高市県主というのは無いはずだ。律令以前の大和六県の時代、奈良盆地の南部は、東の磯城県、西の葛城県(後世の葛上郡・葛下郡)、中央の高市県にわかれていただろうが、さらに古くは高市県は北の「宇奈提」と南の「飛鳥」にわかれていたんじゃないだろうか。なぜかというに磯城県の三輪山と高市県の河俣神社は、『出雲国造神賀詞』(いづものくにのみやつこのかみよごと)にでてくる都を囲む東西南北4つの神名備のうちの2つに該当しており、東の大物主が三輪山、北の事代主神の神座が「宇奈提」(うなで)で現在の橿原市雲梯町つまり河俣神社の住所。西は葛木(葛城)の鴨、ここがが阿遅須伎高孫根命、南は飛鳥で賀夜奈流美命。このうち三輪山を中心とする東部が磯城県で、西の葛城が葛城県だが、東西が離れてる割りに南北は狭いので北の「宇奈提」と南の「飛鳥」は一緒にされて中央の「高市県」になっている。だから高市県ができる前の、さらに古い時代には文字表記は不明だが「ウナデ県」とか「アスカ県」があったのではないか。宇奈提県とか飛鳥県というのは歴史に残ってないが『新撰姓氏録』には「飛鳥直」(あすかのあたへ)という氏族がいて天事代主神の子孫だというから、飛鳥直氏が飛鳥県主の子孫である可能性は高いと思われる(飛鳥坐神社の現在の社家、飛鳥氏は大神朝臣(つまり三輪氏)とも飛鳥直ともいうが後世の創作系図かもしれずここでは触れない)。4つの神名備のうち3つは事代主神の子孫とされた磯城県主の一族が祝(はふり)を務めたのだろうが、本家は断絶して物部系になってしまって、後に大物主神の子という三輪氏が起こって三輪山の祭祀をするようになり、高市県が置かれては開化天皇系の高市県主が宇奈提の事代主神を祀るようになり、古い磯城県主の子孫は飛鳥直だけになってしまったんだろう。
事代主神は大国主神(=大物主神)の子なので、大物主の子孫も事代主の子孫も意味は同じになる。ただし伝承で大物主神の子という時には父なくして生まれた不思議な出生譚をいっており、これは三輪氏の祖先の意富多々泥古(おほたたねこ)の出生譚であり、ここでいう県主たちの家系の話とは関係がない。旧の磯城県主の一族は事代主神の子孫ではあっても、異常出生神話はともなっておらず、単に祖先の神名を県主が名乗っていただけだった。それが時代がくだって三輪山の祭祀者が三輪氏になってから、伝承が混乱したのである。

この話は原典になかった竄入である
そういうわけで、神武天皇の皇后の母が大物主神の子を妊んで産んだという話は、後世の誤伝であり、事実は事代主という名の人間(磯城県主)が父親だった。
書紀の神武天皇巻ではそういう不思議な出生譚はぜんぜん一言も書かれてない。他にも荒唐無稽な話は平気で載せているのだから、非合理な御伽噺だから切り捨てたという解釈はできない。書紀の神代巻でも本文(正文)ではなく一書第六という異説の中でしかも「又曰く」という引用で二重に信憑性の低い説という扱いになっている。古事記は本文で書かれているが、古事記ではクソという言葉は前の方で書いたように全部で5件の話があるのにそのうち4件は必ず「屎」の字を使ってる。しかしこの勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)の話だけはなぜか「大便」と書いてる。つまり原資料の系統が違うのだ。この説話はもともとの古事記になかった部分で、太安万侶は書いていない。稗田阿礼が真正の古伝承かどうか疑わしいとしてボツにした話で、誰か後世の人が竄入したか、参考までに注釈として付加されていたのを、伝写の誤りで本文に誤入したんだろう。

類型説話のリスト
むろん後世の作り話であって史実ではなかったとしても、神話学的な観点から考察する意味もないわけでもない。

(1)勢夜陀多良比賣の話と同系類似の説話には
(1')書紀の皇后の母は事代主神だという説、
(2)『山城国風土記』の玉依姫と別雷神の話、
(2')『秦氏本系帳』の松尾大社の話、
(3)崇神天皇の時の意富多々泥古(おほたたねこ)の話、
(4)日本書紀の百襲媛(ももそひめ)の話(箸墓伝説)、
(5)天の日矛の話、
(6)古事記中巻末の春山秋山の兄弟神の話、がある。

男神の化身である矢が川を下ってくるのは(2)(2')と共通、男神の象徴としての矢は(6)、大物主神が女性と交わるのは(3)(4)と共通。だが(2)では川遊び、(2')では川で洗濯をしていたら矢が流れてきたので拾って帰ったというだけで、排泄をしていたのではないし、もってきた矢を家に置いていただけで自然に妊娠したことになっており、観音様を突かれたという直截な表現も(1)(5)だけ。配偶神は(2)では火雷神(ほのいかづちのかみ)、(2')は松尾大明神(大山咋神?)、(5)は太陽、(6)は春山霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)、生まれた子は(1)(1')は娘で皇后になる、(2)(2')は男児だが昇天してしまってその子孫は無し、(3)は男児でその子孫は三輪氏、(4)は妊娠せず、(5)は女神の阿加流比賣神(あかるひめ)、(6)では不明。

説話の比較と分析
矢は丹塗矢(にぬりや)つまり赤く塗った矢ということになってるが、これは雷を表わす。神話での象徴としては、日本でも海外でも雷は天上の火で、火はまた蛇でもある。(2)では火雷神となっている。ところが大物主神の現身が蛇だという話があっため、それで矢の正体が実は大物主神だったという形で結びつく。しかし本当は蛇ならなんでも火や雷に関係あるのかというと古い神話ではそうじゃない。大物主の蛇は火や雷とは関係がなかったんだが、時代が下がるといろいろ混同されてくる。(2)の火雷神は「雷=天上の火」をいってるが、これは(6)の太陽が古い形で、阿加流比賣神の母は観音様に日光が差し込んで阿加流比賣神を生んだ。大物主神とするのはあとから別系統の神話がくっつけられたので一番新しい。そもそも矢は空を飛ぶもので川を流れてくるっておかしいだろう。神の矢なら飛んで来ればいいのだ。もちろん(3)の意富多々泥古は大物主神の子なのだがこの話には矢も川も出てこない。もともと関係ない別の話だったのだ。なんで川を流れてくるのかというと、川ってのは水源が山の中にあって、河口は海に注ぐ(例外的に湖沼ってこともあるが)。山の中には先祖の霊たちが住んでる異界があると信じられていて民俗学で「山中異界」という。だから最近まで墓地というのは山に作るものだった(現在まちなかに墓地があるのは住宅地が広がったため)。死んだ人の魂は山に帰って先祖と一緒に暮らす。逆に、生まれてくる赤ん坊の魂はそこから流れてきて母胎に宿る。だから子供が、自分がどこから生まれたのか親に聞くと、昔の親は川で拾ってきたと答えたわけよ。桃太郎がどんぶらこ流れてきたってのもこの信仰の変形。しかしその流れてくるものが「矢」だというのは後世の創作であって古伝承じゃないよ。だから(2)(2')は記紀には載ってない。川から流れてくるのは普通の人間の赤ん坊の魂で、そこらの一般人の誕生にすぎず、神の現れとか神の誕生とかを語ってるはずなのに「川から流れてきて」なんて言ってるのは、もう古い神話が崩れてしまって民話になりかかってる状態。(3)(4)では大物主神が女性のもとに通うけれども、矢になんか変身したりはしてない。これが古い形。しかしもちろん(2)(2')にも古い要素はあり、雷ってのは神の示現ともされたが、そこに現れる神とは人間じゃないから天に昇るわけ。川から流れてくるってのは取って付けで、この神話は雷(神の矢)が落ちて天神が現れるってところに意義がある。だから(2)(2')の玉依姫は上賀茂神社の御阿礼神事(みあれしんじ)の阿礼乙女(あれをとめ)のことだというのが通説だが、御阿礼神事は山での祭儀であって川は関係ない。
このように(1)はいろいろ混ざったり変形したりして出来てる。

「よりリアルな表現」が編集方針
(1')~(6)では性行為を遠回しに表現してるのを(1)では矢が観音様を突いたというように、よりわかりやすく表現というかリアルな表現に一歩近づけてるわけだが、それは理解できるとしても、大便をしていたという設定に必要性があったのか。当時の女性は立ちションしてたので、大便じゃないと水面を流れてくる矢が届かないってことか? しかし大便でも厠の床は水面より上にあるはずだから、矢はトビウオみたいに水面からジャンプしたはずだろう。水面からジャンプできるんなら、立ちションだったとしても問題なかったように思われる。そうするとやはりこの矢にはそんなジャンプ力など無くて、下半身が水中にあったのではないか。(2)では川遊び、(3)では洗濯だったわけで、これらはもしや下半身が水中にある状態を表わしてるのかもしれない。そう考えるとよりリアルに表現しようという方針の下では大便に変更された理由も自然とわかってくる。ただ突っ立ってるだけだと観音様が下を向いてしまうため、流れてくる矢に当たるには下半身が水中にあるだけではなく、腰を曲げて尻を川上に向けるか、もしくはしゃがんだ状態で川上に向いてないといけない。川遊びや洗濯では腰を曲げようがしゃがもうが必ずしもそういう向きにならないが、大便でしゃがむ時は必ず川上を向くだろう、なぜかといえば川上に向いてないと、後ろから何か危ないものや汚いものが流れてくるのに気づかなかったりする虞れがあるからだ。「前向いてたのに矢には気づかなかったのかよ」と言われてしまいそうだが、それは気づかなかったんだなぁ。神の矢だからなw すごい速さで流れてきてあっというまに突かれてしまったか、直前まで人間の目に見えなかったかしたんだろう。神の矢だから速いだの見えないだのいうのなら最初から水面からジャンプできるって設定でもいいだろうとも言われそうだ。それも確かにその通りで、人情としてはまぁごもっともではあるが、神様の内輪の都合までは人智の及ぶところにあらず。家で飼われてる犬や猫が飼い主の勤め先の会社の都合を理解できないのと似たようなことなので、説明しろと無茶を言うでない。で、矢は水面を浮かんでくるので、下半身が深すぎてもいけないし、逆に水面より上に出てしまってもいけない。そうすると厠の床は実は水面下で足は水に浸かった状態にあり、しゃがんだ時の尻の位置の上下によって、観音様及び肛門の位置を水面より上にも下にもできたんだろう。ちょい昔ならこういう想像は滑稽で現実性なく、アホかといわれかねなかったが、現代ではウォッシュレットが普及しているので逆になるほどと実感しやすい。つまりこれが最も原始的なウォッシュレットであり合理的な推定である。ウォッシュレットだってすぐ慣れちゃったけどこれが世に出て初めて見た時は「水が噴き出して肛門あらうのかよw」となんとなく滑稽な感じだったろw(ものごころつく前にすでにウォッシュレットがあった若者世代を除く) むろん、そんな大昔から日本にはウォッシュレットがあった!…っていう話でもない。今でも南アジア~東南アジアでは紙じゃなくて水で処置している。日本も古層文化は太平洋・東南アジアの文化と共通しているというのは通説だが、こういうところでもそういう一面が垣間見られるってことだろう。あと、「厠の床が水面下だと足は水浸しになるだろ」というかもしれないが、大昔の日本は裸足が普通で履物という文化は無かった。足の皮が厚くなって裸足の生活に慣れると履物という文化がバカバカしくなるので、上流階級でも特別な正装をする時しか履物は使わず、オフタイムは庶民と同じ裸足だったと思われる。裸足文化では帰宅のたびに頻繁に足を洗ってるので、排泄のために足を洗うはめになるのはむしろ合理的なことであって面倒でもなんでもない。現代人がトイレのたびに手を洗ってるのと同じこと。

結論
つまり、勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)がウンコしてたって話は、川から流れくだってきた矢が観音様に命中するって情況を作り出すための設定以上のなにかではないだろう。深い意味は無い。

・皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・前編

H30年5月22日(火)改稿 H30年5月16日(水)初稿
序章
日本書紀は神武天皇の即位をBC660年に当たる辛酉の年に設定している。明治時代、那珂通世(なかみちよ)は、これは讖緯説によって計算されたのだという説を唱えた。この説は、推古九年(AD601年)の辛酉年を逆算起点として1260年遡った辛酉年を日本開国の年としたのである、という説。以上の那珂通世の説を「神武元年讖緯逆算説」と仮名する。
那珂通世の説のバリエーションとしては、岡田英弘の説がある。讖緯説では1260年を1蔀という単位で呼ぶ(蔀の読みは「ぼう」)のだが、彼は、1蔀は1260年ではなく1320年だとしてAD663の白村江の敗戦(=百済滅亡)を逆算起点とし(ただしこの年は甲子年ではなく1年前の癸亥年)、一蔀を溯った甲子年(神武四年)に最も近い辛酉年を神武元年としたのだという説を唱える。
「神武元年讖緯逆算説」は現在のところ定説化しており、「だから紀元前660年というのはデタラメであり、神武天皇はいなかったんだ」もしくは「神武天皇はずっと時代が後の人なんだ」という不敬なヨタ話が古代史マニアを中心に広まっておる。嘆かわしい!w 嘆かわしいよな、おまえもウヨならw 今年は皇紀2678年じゃなかったのかよ!?w え、どうなのそこんとこ、ってことになる。保守派の間抜けさん方は「伝統だから史実でなくてもいいんだ、キリストだって西暦元年に生まれてないじゃんよ」なんてブサヨに輪をかけた屁理屈いってるが、そんな御託は特高警察の前でいえっつのw 特高警察もうないけどw キリスト教原理主義者に通用するかってのw 当然、大日本帝国臣民としては國史の尊厳を守護し、國體を護持せんがため、那珂通世の説の方こそむしろデタラメであることを断固訴えていかねばなるまいてw 

【1】讖緯説の概要
讖緯説とは、シナにおいて、国家の興亡を予言する理論をいう。迷信の一種。詳しい議論をする前に、基礎知識として「讖緯説とは何か」ということについて以下の述べていく。ちょっとややこしくて面倒に思われるかもしれないが、これがわからないと話にならないので、しばらくつきあってちょうだい。

【2】経と緯
もともとは機織りの用語で、「経(けい)」は縦糸、「緯(ゐ)」は横糸。紙が発明される以前の書物は、縦に細長い木簡や竹簡を左右に並べてその上端と下端をそれぞれ紐で結んだことから、縦糸を意味する「経」の字が書物の意味をもったともいい、縦糸のイメージからまっすぐの筋道(倫理規準)の意味になったともいう。儒教の経典を「経書」「○○経」などとよぶのはこれに由来する。
これに対し、前漢の末頃から、経書のこじつけ解釈による予言書が捏造されるようになり、これを「緯書」といった。これはオモテの教典である「経」に対してウラ(秘密)の予言書という意味で「緯」の字を使っている。讖緯の「緯」はこれのこと。七経(『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』『孝経』)に対してそれぞれ何種類もの緯書が作られ、これを七緯(しちい)と総称する(例えば「詩緯」にもいろいろな書物があってそれらを総称して「詩緯」という。同じように「書緯」「礼緯」も特定の書の名ではなく分類名である)。孔子の作というが前漢末の偽作である。隋代までに続々と作られた。
『三国志』で有名な荀彧(荀或)の従兄にあたる荀悦(148年 - 209年)の著『申鑑』五篇の中の一つ『俗嫌』に「世に称す、緯書は仲尼の作なりと」とあるが、これが緯書という名辞の出典としては初出(現代まで残っている中では最古の例)である。ただしこの文は後述の荀爽(荀彧(荀或)と荀悦の叔父)の「緯書はホントは前漢の末頃に捏造されたもの」という説を紹介した文章の中からの引用である。
ちなみに古代中国の天文学・占星術において、十二辰(黄道上の12星座)を「十二経」、七曜(1週間のことではなくて日月5星)を「七緯」とよぶこともある。

【3】讖と緯
讖(しん)と緯(ゐ)は厳密な定義からは別のものである。讖とは未来を予言することであり、未来記や予言書の類を「讖記」などという。これに対し、狭義の緯書は上述の通り経書の注釈書の一種である。しかし、現在残っているのは逸文や断片的なものであるが、讖記も緯書も、神話や伝説、迷信、占星術や暦注占法、風水地理、五行説など、神秘学的な未来予知に関するあらゆる要素から成っていたことがわかる。が、後述のように日本のものは五行説による干支の解釈と数字の処理だけでできている。いずれにしろ、中国では、讖も緯も要するに同内容であり、両者の違いは経書へのコジツケが有るか無いかという形式的なことにすぎない。このことから「讖緯」と一纏めにして呼ばれる。「讖緯の説」「讖緯思想」「図讖」(としん)などともいう。

【4】中国における讖緯説の歴史
前漢末から隆盛し、後漢では建国の祖たる光武帝本人を含め貴族(政治家)や学者(知識人)まで広く信奉され、大流行したので「内学」とまで呼ばれた。当時は緯書が孔子の述作であると広く信じられており、後漢末の人、鄭玄(じょうげん:AD127年 - 200年)は、儒教経典のほとんどに注釈をつけた有名な大学者であるが、彼もまた讖緯五行の説を信じ、すべての解釈にこれを混じえるという有り様であった。
しかし少数派ながら讖緯説を否定する者らもいた。後漢の建国されるや王充(AD27年 - 100年頃?)あり、彼はその名著『論衡』において緯書を非合理で民衆を惑わす「虚妄の言・神怪の書」と激しく罵倒。次いで、後漢の盛期には張衡(AD78年 - 139年)あり、彼は予言がもたらす社会的弊害を述べ立て大衆が讖緯に取り憑かれていることを慨嘆、その禁圧を奏請した。もっとも張衡は正統な伝統にのっとった占星術や易断などを否定していたわけではなく非正統で異端の邪説を否定したものである。最後に、後漢の滅びんとするや荀爽(AD128年 - 190年)あり、この人は三国志で有名な荀彧(荀或)の叔父だが、その著『弁讖』で緯書を孔子の述作とする通説を否定し前漢末に作られたものと論断。以上のうち張衡は「図讖は哀帝の際に成る」と明言しており前漢末だとする荀爽の説と一致する。哀帝という皇帝は、権勢を振るっていた王莽を逼塞させていた名君だったが25歳で早逝。王莽に暗殺されたんだろう。この期間、王莽は取り巻きに命じて「符命」(天命のしるしとなる瑞祥の類)や「讖文」(王莽が天子になるとの予言)の類をせっせと量産していたことは歴史に明らかな傍証がある。
この後も讖緯説の人気は衰えなかったが、もてはやしたのは後漢王朝だけで、西晋の武帝(司馬炎)、五胡十六国の秦王符堅、南朝宋の孝武帝、梁の武帝、隋の文帝など、国家を脅かす危険思想として何度も禁令を出した。隋の煬帝は、讖緯を奉じる学者は死刑に処する等、厳しく禁圧し、讖緯に関する書物を焚書したため、緯書は散逸した。その上、唐になって『五経正義』(七世紀半ば頃)が出ると正統な儒教の立場からは異端の邪説とされ、継承した学派も存在しない。明清になって、諸書に引用された逸文から復元が試みられるようになり、逸文の集成が何種類も出ており中には30巻以上にもなるものもある。

【5】日本での受容と情況

(5-1)日本伝来の時期
明治時代の那珂通世(なかみちよ)は、『周書』百済伝に「百済の俗は(…前略…)陰陽五行を解し(…中略…)卜筮占相の術を解す(…後略…)」とあることから、讖緯説が百済に入ってきていたとするが、陰陽五行は漢字文化に付きものであり、卜筮占相の術は世界のどこにもあり、なんら奇異なことではない。この文章が讖緯説の存在の証明になるというのは飛躍ではないか。むろん無かったとの証明にもならないが。
ついで那珂通世は欽明天皇十四年に百済から易博士・卜書が奉献され、推古天皇の時に遁甲・方術の書が貢納されて、天武天皇に至っては本人みずから天文遁甲をよくした、後に陰陽道おこって律令時代には陰陽寮ができたのだから革命革令などの運数の術もあったはず、とここも浅薄な飛躍ですましている。この文章のどこからも「革命革令などの運数の術もあったはず」という結論は出てこない。那珂通世の主張を文献史料はなんら裏付けていないのだが、那珂通世は「易」「卜」「占」「陰陽」「五行」等の文字をみただけで味噌も糞も讖緯説だと即断してしまう。彼は讖緯説と易の区別もついてないし、讖緯説とたんなる陰陽五行説の区別もついていない。また千年に及ぶような長大な年数を扱う周期論が何種類も存在したことは『後漢書』その他から知れてることであって、今さら改めて強調しても那珂通世の説をなんら補強しない。否定もしないが。
ただ、岩波版日本書紀の注釈に「遁甲・方術」が同レベルのものを併記したかのように読めるのは問題で、考課令の記述や現代の奇門遁甲の類から推定すると、遁甲は方術(占い)の一種であり、この文は「遁甲と方術」ではなく「遁甲をはじめとする方術の類」と解釈すべきだろう。そして現代の奇門遁甲の類から推定すると、今ここで問題にしている「長大な運数の術」は遁甲ではなくそれ以外の方術に含まれそうだとはいえる。
那珂通世は聖徳太子の頃にはすでに讖緯の書の類がその手元にあったろうというのだが、緯書についての研究論述も多く讖緯説の第一人者と目される安居香山は、「中国で禁圧され、つまり中国でも手に入らないような書物が、おおっぴらにせよわざわざこっそりにせよ交易物資として百済や日本に流通したとは考えにくい」として批判している。しかし、物資のやりとりをする通常の貿易ではなく、亡命者や移民が自ら持ちだしてくる場合は、安居香山の想定は適用できない。また、三善清行(みよしきよつら)以前のある段階で入ってきたことは事実であり、7世紀半ばすぎると悪評が固定してしまうので、それ以前でないと不自然とすると、やはり南北朝期から隋唐初期にかけての帰化が運んできたとみるほかなく、文献の記述で時期を絞れば推古朝とならざるを得ない。
しかし那珂通世が聖徳太子云々をいったわけは彼が1260年説に固執したため結果的に聖徳太子が…と言わざるを得なくなっただけで、聖徳太子それ自体から導かれたわけではない。聖徳太子は『天皇記』という歴史書(?)の編纂を手がけていたが、それが『日本書紀』のような編年体で神武元年からことごとく毎年の年次を記したものだったと決めつけることはできない。『天皇記』なるものは、『古事記』序文に記自身の素材となったという「帝皇日継」「帝紀」「先紀」という名であらわれるものと類似のものとみる説があるが、とすれば『天皇記』もまた紀でなく記に近いものだったのではないか。なら、讖緯説が出てくる余地がなくなって那珂通世の説は崩壊する。聖徳太子には自分の編纂する歴史書に、偽ってまで年月日をいちいち記入しなければならない動機がない。彼の構想したものは『古事記』のような素朴なものだった可能性もある。実際、天武天皇のお声がかりで『古事記』ができているのだからなにも不思議はない。水戸藩士の青山延于が編纂した『皇朝史略』は『大日本史』を節略したものであるが、上代の部分は当然に『日本書紀』を根本とした内容になっている。なのに、わざわざ日本書紀の年月日を信憑性がないからとはずして推古十二年以前は『古事記』の書き方に直してあり、推古十二年から年月日を付している。聖徳太子もこのやりかたでなんら不都合なかったろう。
もっとも推古十二年以前に暦制がなかったわけではない。それは『古事記』でも崩年干支月日がある通り。ただ歴史的事件の記録は語部の台本の他は、「乙巳の変」の時の蘇我邸炎上のため焼失し、断片的な資料しか残らなかった。聖徳太子はその前の時代なので、歴史書を編纂しようとしたらもっと資料に恵まれていたろう。
上述の通り、讖緯説は推古朝に入ってきた可能性が高いが、聖徳太子はそれを歴史の捏造に転用しようとはしなかった。聖徳太子にはそうすべき動機がなかった。神武元年をBC660年と算定した者がいることは確かだが、それは聖徳太子ではなかった。

(5-2)「三善清行」以前の情況
推古朝に伝来した讖緯説は、遁甲方術の一部として、しばらくの間は担当の者の任務として保管的・官僚的に伝承され、流行りも廃れもしなかったと思われる。
天武天皇が天文遁甲に関心をもったが、言葉の上ではその中には讖緯説は含まれない。が、紀がふれないだけで讖緯説にも重大な関心をもったに相違なく、天武天皇には様々な瑞祥や五行説による縁起かつぎの癖がみられる。しかし、五行まみれのこの天武帝ですら、千年規模の長大な運数の術を用いた形跡がない。天武天皇の段階では神武元年はすでにBC660年と確定していて変更ができなかった。1260年説や1320年説は天武天皇にとって都合がよろしくないので、もしこの段階で神武元年が確定しておらず、天武天皇が讖緯説で自由に設定したのだとしたら、絶対に1260年説や1320年説ではなくまったく別の讖緯説を使ったろう。
遁甲の術や讖緯説のような高度に体系だったものでなく、干支や五行にかんする素朴な迷信の類があったことがわかる記録は、奈良時代にもちらほら見える。一例をあげると(そしてこれは最古の例でもある)養老五年の詔に「世の諺に『申年に事故あり』という、去年は庚申年だったから水害と旱が多かった」とある。が、これだけの断片で詳細は不明。内容が具体化するのは平安時代、三善清行(みよしきよつら)の意見封事からである。

おまけながら、上文を解説するに、これは五行説とはまったく関係がない。また庚申といっても後世の「庚申待ち」や「庚申購」の思想とも関係はない。そもそも「庚申信仰」それ自体が五行説に基づいて発生したのではない。
養老四年が「庚」申年なのは偶然でここでは文脈上の意味はなく、ただ「申」年であった(これも偶然だが)ことをいっているにすぎない。「気候の乱れは天子の不徳が原因で起こる」という儒教の考えに基づくと、この文は天皇の不徳を指摘することになってしまうので、ここは「天皇のせいではなく申年だったからで、しかたがないんだ」という趣旨なのである。では本当に申年に事故が多いという諺があったのかというと、それも疑問。わざわざ「世間の諺に曰く」等とつけるのは不審で、実際にそんな諺なり理論なりがあるのなら、ただ「申年だったから水害と旱が多かった」と簡潔にいうだけで同時代の人に十分通じたはず。この時代、申年で重大な事故といえばまっさきに浮かんだであろうことば「壬申の乱」だろう。あれは天武天皇が意図的に起こしたのではなく申年だったから起きたのであって事故のようなもの、というニュアンスを漂わしている。この時期はまた天武系の皇室の時代で、天智統に皇位が帰っていないので、天武帝には非はないという建前が堅持されており、国家的悲劇たる大乱の原因は自動的にそれ以外の何かのせいになる。「世の諺に『申年に事故あり』」と言われれば、当時の人は誰も反対できない。有無をいわせず強制的に同意させるレトリックなのである。

(5-3)革命勘文
AD901年、醍醐天皇に三善清行が献納した『革命勘文』(本来は「請改元応天道之状」と題する「意見封事」、原文は『群書類従』第貮拾六輯雜部に所収)に『易緯』『詩緯』からの引用と称する文がある。これが本当なら緯書の逸文が断片的に残ったことになる。その一部を以下に掲げる。あとあとの謎解きに関係してくるので、念入りに読んでよくよく理解しておいてちょうだい。

原文:
「易緯云、辛酉爲革命、甲子爲革令。
鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲爲一元。四六二六交相乗、七元有三變、三七相乗、廿一元爲一蔀、合千三百廿年。
(中略)詩緯云、十周參聚、氣生神明。戊午革運、辛酉革命、甲子革政(後略)」


 読み下だし:
「易緯」に云く、辛酉を革命とし、甲子を革命とす。
(「易緯」の)鄭玄(の注に)曰く、天道遠からず、三五にして反(かへ)り、六甲を一元とす(1甲=10年、1元=60年)。四六(240年)二六(120年)交はり相乗じ(ここまで360年周期説)、七元に三変あり(420年間に3回の事変が起こるという第2の説)三七相乗じ(=21元)、二十一元を一蔀となし、合わせて千三百二十年(第3の説)
(中略)「詩緯」に云く、十周(1周=36年、10周=360年。これは前述の240年と120年の組み合わせを説明するためのもので360年は一つの王朝の寿命でもある)を參聚(10周×3=1080年。3聚は3基、3推ともいう)して、氣、神明(新たに天命を受ける聖人)を生ず。戊午革運、辛酉革命、甲子革政(後略)

 注釈:
21元が1蔀なのだから1260年でなければならないのに1320年とはっきり書かれている。「22元のはずを誤って21元と書いてしまったのだ」と解釈することできない。直前に「三七相乗じ」とあるように第2の説の「七元に三変」を引いているのであって「3×7=21」をいってるのだから、ここは22でなくて21が正しい。1260年説と1320年説、どちらをとるにせよ、後段では「十周參聚」として1080年説をいっている。これは第1の説の360年周期説の話の続きだから、第3の説を無視した流れになっている。1260年か1320年かという問題はあくまで第3の説の中だけでの話で、第1説・第2説とは関係がない。ちなみに鄭玄注のうち、第2の説までは他書にも同文があるが、第3の説は日本独自。

この文章だが「易緯に付された鄭玄(じょうげん)による注」のいうところが問題の一蔀循環説である。「詩緯」のほうは有名な「三革説」の出典である。しかし「易緯」も「詩緯」も特定の書の題名ではなくそれぞれ何種類もある書物の分類名である。それを特定の書物のタイトルであるかのように使っている。

(5-4)清行引用の讖緯説の起源
讖緯説の発生時期については概略の項で述べた通り「前漢の末」であるが、讖緯説の中でも特に「鄭玄の注」を典拠とする一蔀循環説がどの時点で発生したのかは判然としない。理論上は早くても前漢の末であり、後漢末の鄭玄(じょうげん)の注が初出であるとすれば、遅くてもこの頃にできたか、もしくは後述の岡田英弘説のように「鄭玄自身の創作」ということになる。

(5-5)日本での受容情況
日本では、格別弾圧されたわけでもなく、室町時代までは讖緯説に基づいた言説や讖緯の書からの引用と称する文章が時々あった。南北朝の頃には孔子の作ではなく前漢末期の偽作だとして非難する知識人がいたが例外的な存在だろう。その後は、やはり散逸、隠滅して消えていった。そのため日本の讖緯説は、三革説と一蔀循環説ぐらいしかわからないのだが、これらは中国の讖緯説にはまったく存在せず不審に思われていたことが平安末期の『台記』(藤原頼長の日記)の康治三年(AD1144年)条や鎌倉末期の元応三年(AD1321年)の中原諸緖の勘奏にある。五行説と数理上の処理だけで成り立っており、前述のような「神話や伝説、迷信、占星術や暦注占法、風水地理」などの豊富な史料を含む支那の讖緯説とはやや趣きも異なる。そのため、後述のように三革説にしろ一蔀循環説にしろ日本独自のものであってそもそも中国由来のものではないのではないかという疑いがある。

【6】「三革説」とは何か
三革説とは、上記の通り『革命勘文』に引用された「詩緯」を典拠とする説で、戊午革運・辛酉革命・甲子革政(=甲子革令)をいう。これらの干支は、月や日や時間でなく、「年」の干支である。戊午の年には革運、辛酉の年には革命、甲子の年には革政が起こり、この7年間は(60年サイクル末尾の6年と最初の1年)、60年に一度の変わり目であるとの説。『革命勘文』の原文は上記の通り簡素で「辛酉だとどうして革命になるのか」の説明がない。三善清行が前年の昌泰三年(AD901年)に提出した意見封事(「預論革命議」)ではあれこれ理屈めいたことをいってるが釈然としない。それを超訳すると「来年の2月は革命(大事件が起こる)年です、謀叛が起こるのは240年周期と120年周期で420年間に3回で、中国の歴史では黄帝から唐まで、日本でも神武天皇から天智天皇まで、ピタリとこの通りになっておりますから来年の事変に備えて御用意下さい、変革の際には必ず武力を行使し悪を誅殺するものです、革命というのは、64卦の「革」の卦は下が「離」で上が「兌」の組み合わせですが、五行説でいうと「離」は「火」で「兌」は「金」を意味し、上なる金属は下なる火熱によって変形する(革まる)、だから火と金の組み合わせは上下が害しあう(つか下が上を害する)というわけです」と。64卦の「革」の説明にはなっているが、なぜ辛酉が革命なのかの説明は一切ない。にもかかわらず「来年は革命だ」と、いけしゃーしゃーと大予言を披露している。(が、後述の通りこの予言は実は醍醐天皇と藤原時平がわざといわせていることなので当たるに決まっていた)
辛酉革命については、唐の王肇が著した『開元暦紀経』に「辛酉為金、戊午為火。火歳革運、金歳革命。尤協革卦之躰」と簡便な説明になっていて、これが初出または典拠という。といっても、上記の「預論革命議」と比べていくらかマシではあるにせよ、後述する通り、さほど釈然とする説明にはなってない。王肇という名は中国人の名前としてはありふれたもので特に問題はないが、イザヤ・ペンダサンや一橋文哉と同じくダジャレもじりの匿名にも思える(イザヤ・ペンダサンは「イザや、ペン出さん(さぁペンを出そう)」、一橋文哉(いちはしふみや)は「一ツ橋グループ(小学館や集英社等)のブン屋(新聞記者)」、峠洞之介先生(とうげほらのすけせんせい)は「洞ヶ峠をきめこむ」のもじり)。肇は「肇国」の肇、「王肇」で王家の始まりの意。この『開元暦紀経』の引用は『天暦御記』応和四年(AD964年)条が初出で、この年は甲子年だった。で、なんて書いてあるかというと「詩説(詩緯のことか?)によれば今年は(甲子だから)革命にあたるが開元暦紀経によると(甲子は革令であって)革命でない。この両説は一致せず同じでない。なので一概に今年は革令とも言いがたい」というような趣旨を数術家が上申したという話。このとおり『開元暦紀経』というタイトルが出てくるだけで直接に文章の引用はない。そうではなく「文面の引用」があるのはやや時代が下がって承暦四年(AD1080年)の大江匡房の勘奏が初出。応和四年にすでに該当の文面があったと仮定しても、いずれにしろそれより古い時代にはみられない、むろん原書も散逸して日本にも中国にも存在していない。清行の時代にあったならなぜこの簡便な説明を引用せず「革」の卦の説明で誤魔化してるのか。答えは簡単で『開元暦紀経』が清行晩年の創作で、AD901年の段階ではまだ理論はできてなかったのだろう。

甲子革政は甲子革令ともいう(『革命勘文』の全文の中では甲子について革政が1回、革令が3回)。『革命勘文』の全文から察するに、「革運」は革命の予兆として政治情勢の変化をいい、「革命」は必ずしも政権交代などを意味せずなんらかの意味で政権が刷新されること(やや御都合主義に感じるが)、「革政」と「革令」は革命後の新政府が新しい政治制度・政令を発布するというような流れ。この「革政」と「革令」はまったく同じ意味で使われている。一説には革運や革命を含めた三つを総称して「三革令」ともいう、との説があるが『革命勘文』の中には三つの総称として革令というような言い方は無い。

古来から現代まで干支にこじつけられた五行説に基づいた解釈があれこれいわれている。例えば、戊午は「火性」の午が中心(戊は土性で方位では中央に該当)に来るから炎上する、辛酉は過酷さを意味する「金性」が重なり辛は陰なので人心が冷酷で破壊的な世の中になる等。しかし金は西にずれるので戊申や己酉のほうが酷くないと戊午の説明と比べておかしくないか? 辛酉のように同性が重なるほうが酷いなら戊午よりも丙午や丁巳のほうがもっと炎上するはずだが?(実際にその理屈で後世に丙午の迷信が生まれた) これらはすべて五行説では割り切れておらず、後付けの屁理屈でしかない。そしてこれらの起こりは中国ではなく三善清行からすべて始まっている。ただし辛酉の前年の庚申も悪い年とされ陰陽道からくる庚申塔の信仰が残るが、これは清行とは関係なく中国からきている。甲子や甲寅を1サイクルの始めとするのも清行とは無関係で中国のもの。

【7】「一蔀循環説」とは何か

(7-1)一蔀説の基本説明
一蔀循環説とは、上記の通り『革命勘文』に引用された「『易緯』に付された鄭玄(じょうげん)による注」を典拠とする説で、そのいうところは「1甲」(10年間)を6つ合わせて「1元」(干支60年の一巡りのこと)というのだが、21元を1蔀とし、1蔀は1320年であるといっている。このサイクルで天下が一変するような国家(王朝)の大興亡が起きるという説。「蔀」の字は「ぼう」と読む。ただし内容は三つの周期を示している。240年+120年で計360年の周期、420年ごとの区切りのそれぞれの中に3回の変事が起こるとの説、そして420年(=7元)を3周した1320年の周期である。ただし420年を3周すると1260年のはずで、60年多すぎる。その理由は後述。

(7-2)二十二元か、二十一元か
1運60年✕21元では1260年であって、1320年には60年つまり1元たりない。室町時代に絶世の大学者とされた一条兼良は、元と蔀は計算起点の干支が違うのだという典拠不明な理由によって、1蔀は1320年なのだが蔀と元は計算起点が1年ずれているため1蔀の末年は22元の末年より前であって(つまり満22元に達しておらず)まだ21元めの内なのだという説を唱えたが、むりやり辻褄を合わせようとしたもので問題外。そこで、1320年というのは単なる計算間違いで1260年が正しいとする説と、二十一元というのは表現の問題で1320年が正しいとする説とに分かれている。
1260年説は明治時代の那珂通世(なかみちよ)である。1320年説には、古い時代のものと戦後の説があり、戦後でた説では起点の最初の一元(前回の周期の最後の一元)を加えるという説と次回新周期の最初の一元を加えるという説があるがなぜ加える必要があるのか意味不明。どっちもわかったようなわからないような有耶無耶な説明で取るに足らない。1320年説で最も古いのは、まず引用している本人の三善清行の説で、彼は神武天皇の辛酉年や甲子年にあった事柄から歴代の事件を経て天智天皇にふれ「神武元年から斉明七年まで1蔀1320年に相当する、次の天智天皇元年(正しくは称制元年)が新たな1蔀の初めだ」とわざわざ書いているので、彼の念頭にあったのは明らかに1320年サイクルでしかありえないが、かといって1260年説を否定するような具体的な理論を展開しているわけでもない。戦後の岡田英弘も1320年説だが彼も清行と同じく、1260年否定説を具体的に展開しているわけではなくただ問答無用に1320年が正しいと独り善がりをいってるにすぎない。
鄭玄の注の中にすでに1320年という数字がはっきりと明示されている。その一方で、本文に説明されている(つまり讖緯説それ自体の)数字のメカニズムからはどう弄っても1320年という数値は絶対に出て来ようがないのも確か。つまりこれは「どちらか一方が正しくもう一方が誤り」と単純に断定するだけではどうしても解決不可能な矛盾が残ってしまうのである。これをむりやり合理的に解釈しようとしたらコジツケ以外の方法があるのか? 那珂通世の1260年説は長らく学界の通説となっているが最近は岡田英弘のおかげで1320年説も有力にみえる。しかしながら、三善清行と一条兼良と那珂通世と岡田英弘、このうち誰がより正確に讖緯説を理解しているのか。全員に共通している誤解は「この讖緯説には論理が一貫してるはずだ」という思い込みではないのか?

(7-3)起点は無いのか184年なのか
起点となる年はわからない。というか特に無い。讖緯説それ自体には具体的に「この年が」という指定がされてない。神武天皇即位の辛酉年をこの讖緯説のサイクルの起点にするのは三善清行が『革命勘文』の中で自分の発想を開陳している文であって、あたり前だが、引用されている鄭玄の説ではない。ずっと昔の(漢代の)中国人が親切にもはるか後世の(奈良時代の)日本人のためにわざわざ讖緯説を考えてあげた等ということはありえない道理で、讖緯説それ自体は神武元年(BC660年)を起点としているわけではない。これについては平安時代の三善清行も明治時代の那珂通世も了解・認識している。ただ清行はその上で、讖緯説を日本にあてはめるのならば神武天皇から起算するのがよかろうと前提して持論を展開してるというわけ。
しかし岡田英弘は、AD184(甲子年)を起点として起算した数値だという新説を唱えた。後漢王朝のAD184に始まった「黄巾の乱」以降、中国は大混乱に陥り人口大減少と未曾有の荒廃が続き、ついに国土の北半分(当時の感覚では中国本土のすべて)を北方民族に奪われ、東晋の頃にはようやく江南に亡命政権を保つことになった。岡田英弘は、一蔀循環説は鄭玄の創作であるとし、この「黄巾の乱」による大崩壊の衝撃がきっかけで作られたものという。

おまけ:一蔀循環説を創作した犯人は鄭玄ではない
岡田英弘は、一蔀循環説は鄭玄の創作であるとし、この「黄巾の乱」による大崩壊の衝撃がきっかけで作られたものというが、ホントかね?w そんなことあるわけないと思うのだがw
岡田英弘は1320年サイクル説に立つので、AD184年の前はBC1137年。AD184年の次はAD1504年となる。ただし、AD184年を起点としつつも1260年サイクル説をとる説も理論上はありえる。その場合はBC1077年とAD1444年となる。BC1137年は、当時の歴史観では、有名な殷周革命の頃に近い。殷周革命は儒教的な歴史観においてはまさに中国史上最大の事件の一つといってよく、天下国家が興亡する大周期に当たっているとするのに都合よかろう。BC1077年は周の康王二年、周王朝初期の平穏期でこうはいかない。岡田英弘が1320年説を採り1260年説を捨てた本当の理由はこのへんだろうよw 殷周革命は(現代の歴史学説ではBC1027年説などがあるがそれとは別に)中国の伝統的な説でもいくつかの説があるが、BC1122年説が有名であり、その他の説もだいたいその前後である。BC1137年はその15年前に当たるので、殷王朝末期の混乱期だとして「ほぼ適切」とみるか、「ピタッと革命の年だったならともかくズレてますやんw」とみるかは微妙なところで何とでもいえそうではある。また、そこまで大きな年代を扱うなら殷周革命より1サイクル前の神話的聖天子の黄帝の頃までフォローしたものでないと、長大な歴史を大枠でとらえるという理論になりえない。岡田の説ではこの大周期は鄭玄の創作なのだから、それなら、鄭玄はフリーハンドでなんとでも出来たはずであり、必ずやそうしたはずである。しかるに2サイクル遡ると黄帝に届かずこれまた半端なところにあたってしまう。

【8】一蔀説と三革説の日本起源説

(8-1)一蔀説と三革説は本当に中国から伝来したのか?
前漢末から後漢に流行した「緯書」は隋の煬帝により禁圧され散逸、日本に伝来した「易緯」「詩緯」に逸文として残るのみであって、その実態は不明である。大陸で散逸・失伝した漢籍が日本に残っているという例は珍しくないことなので、緯書の逸文が日本に残ったという話もここは信じたい気になるのであるが、このケースでは政争絡みの展開であって、自然の成り行きだけでたまたま逸文が残ったのかどうかは微妙なところ。

(8-2)革命勘文の疑惑
一蔀循環説を歴史上最初(記録に残っている限り)に言い出したのは、中国人ではなく、上述の日本の三善清行で、その「意見封事」として出された『革命勘文』の中で唐突に出てきたものであり、それまでまったく知られていなかった。この『革命勘文』は提出された年の昌泰四年(AD901年)が改元すべき年だと主張しており、表面的には単なる改元案の上申にみえる。
この頃、藤原氏本流を排して側近政治を進めようとする宇多上皇と菅原道真らその近臣たち(藤原忠平など藤原氏の一部を含む)のグループがあり、藤原時平を頂点とする藤原氏本流とその一派との対立関係があった。この頃、醍醐天皇にはまだ皇子がなく、宇多上皇は藤原氏と縁がなく道真の娘婿でもある斉世親王を皇太子にしようとしていたが、醍醐帝は将来生まれるであろう自分の皇子に継がせたいから当然に父の宇多上皇と対立して、時平と結んで藤原氏との協力路線をとっていた。「醍醐帝-時平」派が道真に濡れ衣を着せ突如左遷したのは斉世親王の立太子を阻止するためであり、これが昌泰四年(AD901年)の正月、所謂「昌泰の変」である。かねてより道真に個人的な怨恨を抱く三善清行は当然のように「醍醐帝-時平」派の一人だった。その翌月、準備していたかのように清行は「意見封事」を提出し、今年は辛酉年であり大革命の年であるから改元をすべきと主張したが、その内容(『革命勘文』)は神武天皇以来、最近までの辛酉年や甲子年を振り返り、辛酉年は革命(的な大事件や大乱)、甲子年には革令(新制度の発足)等があるという讖緯説を検証している。この文章の真の目的は「だから辛酉年に起こった今回の道真の謀叛も捏造ではなく事実だったのだ」と傍証し「醍醐帝-時平」派を正当化することにあった。すべては道真を排斥せんとした時平と清行が結託した策謀であった。
ちなみに中国では「蔀」は76年間をさし、1320年または1260年をさすという例はない。中国の古代天文学ではメトン周期を1章というが、後漢四分暦では4章=1蔀、20蔀=1紀=1520年、3紀=1元=4560年とした。これと別に『後漢書』によると、4蔀=1徳=304年とし、1徳304年は、五行のいずれかの徳を有する一つの王朝の寿命に該当し、5徳が一周する1520年を一つの周期とみる考え方があったことがわかる。前漢王朝が約300年続いたことから出た説と思われる。また引用の「詩緯」の1080年(360年×3)周期説もあった。清行はこれらにヒントを得て、独自説を創作したのではないか。もし鄭玄の注なるものが古来からの本物なら、簡単な計算ミスが気づかれないはずがない。よくみると肝心の鄭玄の注が、すでに先行していた緯書の類の文言に続けて2種類の周期説を併記したものである。これは既存の文を活用して360(240+120)年周期説と7蔀(420年間)3変説を並べ、後者は7蔀3変の数字を引いて3×7=21とまで明示して自然に1320年周期説が出てくるように拵えてある。だが、肝心のいちばん面白い1320年の部分だけが中国の逸文に欠けているのはおかしくないか。中国の緯書にも類似の文面はあるが肝心の「三七乗じて二十一元、合わせて千三百二十年」という部分だけがないのだ。普通は肝心の部分を引用して瑣末な部分を略すのである。もとの形は360年説と420年説を併記しただけだったとみるのが自然な形だろう。真相はこのいちばん面白い部分こそ清行の創作して追加した部分なのである。清行は360年説と420年説を利用しながらなんとか昌泰四年を大事件の年であると証明する方法を模索して、それを古人に仮託して権威づけに成功したのだが、ことは進行中の政治的策謀の渦中にあり期日はボスから突然指定されてくる。のんびり構想を練ったり修正を加える余裕がなく、拙速のまま出さざるを得なかったのだろう。
中国には、この他にも長大なサイクルを想定する神秘主義的な歴史観はいくつか存在するが、これらは単位年数や循環サイクルの数値が異なっていて、日本にしか出典のない一蔀循環説とまったく噛み合ない。これら中国の諸説はいつまで溯りうるかは不詳だが、その多くはおそらくは宋代から清代にかけての間に創作されたものであろうから、三善清行が主張する「鄭玄の注」なるものが仮に本物だとしても噛み合わないのは当たり前だが、鄭玄の時代=後漢末の讖緯説の全体像も不明であり、「鄭玄の注」なるものが本物かどうか検証もできない。本物なのだが中国では隠滅してしまい、しかも中立的な経緯で偶々発見されたものならまだしも、このような政治的なからみで突然出てきたものであり清行の創作の疑いは払拭しえない。
三革説についても、中国でも戊午・辛酉・甲子に対する意味付けはあるが、あくまで易学的な干支ごとの吉凶判断にすぎず、それが「三革説」として確立・定式化してはいない。日本で三革説に基づく改元をするようになったのは、三善清行の提唱による昌泰四年(AD901年)を「延喜」と改元したのが最初である(中国ではこのような例はない)。

(8-3)岡田説と「超辰」の問題
岡田説でも日本起源説を打破することはできぬ。『日本書紀』は天武天皇皇子舎人親王が編纂責任者であって、父のライバルだった天智天皇には冷淡であって近江令ほか数々の功績についても明言をさけたり、天智紀は時代が近いのに 原資料がいい加減で年代が錯綜したりしている。神武即位がもし讖緯説(の1320年周期説)によるのならばそれは天智朝を 神武即位に次ぐ日本史の重要事件と認めることになるが、このような『日本書紀』の特色からはかなり不自然に思われる。
岡田説によれば1蔀の起点の一つはAD184年である。しかし現存する逸文からは格別にこの年についての言及はみられない。讖緯説そのものは岡田がいうような内容を一切語っていない。これは岡田英弘が、自身の常日頃展開しているシナ史にかんする自説を、讖緯説をダシにつかって再演してるだけではないかとも思われる。
そもそもこの壮大な周期を想定する説は、陰陽五行説で意味づけられた干支が正確に60年で一周するという前提がないと成り立たないが、公式にそうなったのはAD85年にそれまでの三統暦を廃し後漢四分暦が施行されてからであって、本来は木星の実際の運行に従って「超辰」していた。「超辰」とは例えば子年の翌年は丑年なのに一つ飛ばして寅年になるようなことで木星の公転周期は正確には11.862年で12年にちょっと足りないので約86年ごとに「超辰」しないとならなかった。つまり干支の一周は「正確に60年ピッタリ」ではなかったのである。鄭玄ほどの知識人がこんな常識をしらなかったわけがない。(公式に、といったのはBC95年の乙酉を飛ばしてこの年を丙戌にして以来、実質的に超辰は行われていなかったため。しかし本来は超辰すべきとされていたことはかわらない)。例えば、ある年が辛酉だとしても「あれ?木星の位置からすると今年は本当は酉年じゃなくね?今年が酉年なのはなし崩しに超辰やめちゃったからで論理的な根拠なくね?」という疑問を抱かない者はよほど漢学の素養に欠ける者だけだろう。従って中国に残っている讖緯説は、長大な周期を想定する諸説であっても、特定の干支の年を起点としているものは一つもないのである(ずっと後世の宋代以降に創作された理論は別)。日本と朝鮮ともに干支で年を紀する習慣はすこぶる古いが、日本人は歴史上、実際に超辰を体験したことはなかった。
ただ、それを理由に、前漢末の本来の讖緯説とは別に、後漢末にAD184(甲子年)を起点とする新しい讖緯説が生まれたという岡田の着想がなんらかの事実を言い当てている可能性を完全否定することも出来ない。岡田の本意はAD184に黄巾の乱が起こったということが重要であり、この年がたまたま甲子年であったことは本質的なことではない、と微修正すればどうにかなる可能性はなくもない。

(8-4)結論
すなわち一蔀循環説と三革説は『日本書紀』成立より後に、日本国内で発生した可能性が高い。

【9】讖緯説と皇紀の関係(※ここまでのまとめ)

(9-1)讖緯逆算説
日本書紀は神武天皇の即位をBC660年に当たる辛酉の年に設定している。明治時代、那珂通世(なかみちよ)は、これは讖緯説によって計算されたのだという説を唱えた。この説は、推古九年(AD601年)の辛酉年を逆算起点として1260年遡った辛酉年を日本開国の年としたのである、という説。以上の那珂通世の説を「神武元年讖緯逆算説」と仮名する。
那珂通世の説のバリエーションとしては、岡田英弘の説がある。彼は、一蔀1320年説を採用してAD663の白村江の敗戦(=百済滅亡)を逆算起点とし(ただしこの年は甲子年ではなく1年前の癸亥年)、一蔀を溯った甲子年(神武四年)に最も近い辛酉年を神武元年としたのだという説を唱える。

(9-2)那珂通世(讖緯逆算説)への反論
しかし第一には那珂通世の1260年説は一蔀1320年を十分に否定できていない。従って逆算起点は天智称制元年(AD661年)の辛酉年である可能性が残る、第二には推古九年(AD601年)は逆算起点にふさわしいような重要な事件は見当たらない、等の批判が昔からある。推古九年説にしろ天智称制元年説にしろ、逆算起点にふさわしい大事件がないという点では説明が苦しいことにかわりはない。神武元年から1260年たった辛酉年はAD601年で、聖徳太子が斑鳩宮を建てたというだけで格別なにか重大な事件があったわけではない。1320年説では、1サイクル回った辛酉年はAD661年で、天智天皇元年だが称制の元年であって正式に即位した元年ではなく、白村江の戦いの年ではあるが、この年は開戦しただけで決着したのは翌年だし、区切りのいい大事件は無い。つまりどちらも実際の歴史にあてはめた場合、しっくり来るような説にはなっていない。
岡田英弘の説では辛酉は革命、甲子は革令という讖緯説の論理を無視して、とにかく大事件なら辛酉でも甲子でもどっちでもこじつけてよいという考えにみえる。むしろ革命にふさわしい百済滅亡(白村江の敗戦)を革令であるべき甲子(の前年)に当てている。甲子年AD664年には冠位26階の制定ぐらいでめぼしい大事件がない。冠位26階は既存の冠位制度を微修正しただけで、革命の後を受けた新政府発足を思わせる革令というほどの大事件には程遠い。さらに、もし岡田が辛酉革命も甲子革令も同じようなものだと考えるのなら、なぜ一蔀を溯った甲子年をぴたり神武元年にしなかったのかの説明が苦しい。これだと1320年の大周期よりも60年ごとにくる小周期の辛酉の方が重要であるようにもみえる。ちなみに、実際に甲子年に初代の王が即位したとする例として、新羅の建国伝説がある。これは『日本書紀』より後に作られた話であるが。
さらに岡田説では、讖緯説の大サイクルの起点はAD184年であり、その1周前の起点はBC1137年と自動的に定まるから、日本書紀のBC660年説は讖緯説にぜんぜん噛み合わず、むしろ讖緯説を否定しているともいえる。
まぁなんだかんだすったもんだあるが要約すると4つある。結論だけまとめると以下の如し

【1】
讖緯説によって逆算されたとしても、逆算起点とされる年次が選ばれた理由が不明瞭のままである。斑鳩宮の建設はなんら大事件ではないし、とくに天智天皇を起点とする説の場合は『日本書紀』の編集方針からいって不自然

【2】
讖緯説が信じられるようになったのは律令国家から王朝国家へ移行して以降だが、この移行期に平安貴族層の人生観や世界観に大きな変化があって迷信の時代に突入することは家永三郎等の研究によって夙に知られている。三善清行(みよしきよつら)はまさにその時期にずばり該当する。それ以前には正統的な儒教的教養からすれば讖緯説は異端であって公式な歴史書に採用すべき理論でないと考えられらたのではなかろうか

【3】
『日本書紀』編纂時点で日本国内に讖緯説に類する素朴な迷信が存在したことは判明しているが、三善清行がいうような高度に体系化された理論が存在したとか、それが広く支持されたり信じられていたとか等という記録も形跡もなにもない

【4】
神武天皇元年の推算根拠となったという問題の理論は、中国の讖緯説には存在しない。この日本独自の讖緯説は『日本書紀』編纂時点より後の時代に日本国内で捏造されたものである疑いが濃厚

(9-3)現代の通説に対する評価
讖緯逆算説は、明治初期の学説であるが、当然ながら当時も反論は賛同論と同じくらい学界の内外問わず多々あったものと思われるが現在ではそれらを一覧することは不可能である。神武天皇架空説と日本書紀年代造作説が常識化した戦後まもない頃の歴史学界では何ら深い検討もされずもてはやされ、今も学界の内外で広く流布している。
《次回予告》
さて、神武元年が讖緯説で計算されたものではないとしても、その事は、「じゃあ紀元前660年ってのが本当なのかどうか」って話とは、直接は関係ないw 偶然にも本当に前660年かも知れないのだからw 偶然でもいいのだが本当にそうならそうだと証明しなければならない。本当の神武元年は西暦でいったら何年なのかって話は、それはそれとして重要ではある。それに加えてもう一つの問題もある。それは、「紀元前660年」とする『日本書紀』の編年が事実であるかないかにかかわらず、讖緯説と関係ないのなら、いったい何を根拠にどういう計算で出てきたものなのかって問題だ。「史実がそのまま伝承されただけで深い意味はないんだよ」って話なら簡単なんだが、そうは問屋がおろさないわけでw
「皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・中編」に続く

・「ウガヤ朝」論に偽書は不要

H30年4月18日(水)初稿

建国か?肇国か?
黒板勝美が「日本には肇国(ちょうこく)あって建国なし」と言って以来、「建国じゃないんだ、肇国といえ」って人が我々ウヨの中には一定程度いる。ここで、肇国と建国の概念上の違いという一つの問題系が存在するわけだが、今回はその問題については(いずれ必ずこのブログでやりますが)とりあげずスルーして、便宜上、建国も肇国も同じ意味として使う(今回のみ。議論が煩雑になるのを避けるため)

「神武天皇が日本を建国した」なら神話時代には日本は無かったのか?
「神武天皇が建国した」のだというためには、神話と歴史(ここでいう歴史とは神武天皇以降をさす)を分離した上で(いずれにしろ何らかの意味では分離しまた別の何らかの意味では継続するのであるが「何らか」の内実が多様でありうる)、神話を何らかの意味で虚構虚説とし、神武天皇を日向の一角のみ(または日向一国、または九州のみ、または近畿を除く西日本の盟主、または群雄割拠(もしくは平和であるにせよ統一政権のない諸部族並立状態)の一勢力ぐらいに看做して、初めて神武天皇が諸民族を統合して新たにヤマト民族を創出したのである、という物語を作らねばならない。
だがこの歴史観は、『日本書紀』から『大日本史』へと深まった誤読の系譜を引き継いだ上で、それをさらに現代的合理主義的(というより単に現代にありふれた先入観)な古代史像に落着させた二重の曲解である。

民族創成の問題
神武天皇が初めて諸民族を統合してヤマト民族を創出したのだと解釈するのは著しく現代風な状況認識の形式であり御都合主義である。
その諸民族統合の事績はいかに平和的に諸民族が自主的に帰化してきたものであっても、帰化される側の主人が既存の「自民族」の主体性を失うことは考えにくい。つまり新たな民族の誕生ではなく、旧来の民族の膨張・発展として認識されるはずである。日本が朝鮮や台湾を併合して五族協和を実現したからといって、改めてその時の天皇が第一代を宣言することは考えられない。幕末には清国・朝鮮と合邦して日本国の国号を廃して「大東国」としよう、との案もあったが、神武天皇の場合、対等の合邦のパートナーたちがいた様子はまったくない。
東遷の一団が、固有の文化を組織的に伝承しうる程度の民族集団の体すら成していない放浪者であれば、はじめてヤマトに定住創立された組織を、既存のいかなる民族とも別の新民族と認識することもありうるが、あいにく記紀の東征伝承はそのようには全然よめない。

国土領域の問題
神話において、すでに伊邪那岐美命が大八洲を生み、その上に大国主神までの物語の展開があり、その国土が邇々藝命に譲られたのであるが、この伊邪那岐美命が生み大国主神が活躍した国土の範囲は、どう狭くみても明らかに北陸を含む西日本全土が含まれる。従って、それを継承した神武天皇においてはすでに大和は勢力圏であり、未知の新彊ではない。ヤマトは日向からみて外国だったわけでもないのだから、神武天皇(正確には皇兄五瀬命)の東征が、ヤマト征服や領土拡大を意味することはありえない。

王権継受の問題
鵜萱葺不合命は、君臨していなかったのだろうか? 統治する領民をもっていなかったのであろうか? だとしたら大国主神から譲られたという邇々藝命の遺領はなんだったのか? 邇々藝命は地上を統治せよとの神勅を奉じて天降ったものの、統治すべき国土がなかったであろうか。神話を意図的に曲解せぬ限り、日向三朝の神々は明らかに何らかの意味で地上における統治者であり君主であり王であった。
地上統治の神勅は神武天皇に降されたのではなく、神武天皇の遠い祖先に降された。神武天皇の父に至るまで代々、天下を統治してきたからこそ、東征の出発の時点で組織立った軍団だったのである。神武天皇がバックボーンをもたない風来坊で、先祖をとばしてそれこそ劉邦や朱元璋が天命を受けたように直接本人が地上統治の神勅を受けたのなら、「初代」の意味はわかりやすい。しかし、あいにく伝承ではそうなっていない。
日向三朝みな天照大神の神勅を奉じその系譜を受け継ぐ君主だったのであるが、ならばそれは天皇ではないのか? にもかかわらず神武天皇が初代とは、君主としての地位の何がかわったのか? 何も変わってないではないか。だとすれば神武天皇が改めて初代として即位したとはどういう意味なのか?

神武天皇は建国していない
神武天皇は初代ではない。天皇としては最初に登場する人物だから、なんとなく初代だなと理解されるだけで、『古事記』本文は必ずしも神武天皇が初代であると明示的には語っていない。『日本書紀』はそうではない。神武天皇を「はつくにしらすすめらみこと(始馭天下之天皇)」と呼んで、日本王朝の太祖・高祖・始祖として明解に位置づけている。このように古事記と日本書紀は違っている。書紀は中華式の正史をめざしたものだからそういう編集方針に則って古伝承を解釈しているのは当然だろう。それは奈良時代の解釈なのであって古伝承の真意なのではない。古伝承の原型においては、神武天皇は建国していないのだ。

歴史の消失点
神武天皇とは、歴史の始まりである。歴史の始まりとは記録または伝承の始まりである。
現在、豊富にある現在のついての詳細な記録も年々歳々散逸し、伝承は月日とともに簡略化していく。近い過去は情報量が多く、遠い過去は伝承が少ない。
考古学に頼っても、ある年代から前は文字史料は出土しなくなる。溯った先に、そのような歴史の消失点があり、その先は「先史時代」と呼ばれている。
ある程度、政治史が再構成できる程度に文字史料が残っている(もしくは発見されている)のもので最古のものは、メソポタミア文明とエジプト文明であって、どちらも今から約4800年前か4900年前である。丼勘定で約5000年前としよう。これより前が「先史時代」である。未来から溯っていけばここが歴史の消失点であり、原始から降りてくればここが歴史の出発点である。あくまで現時点では。
やがて何千年か何万年かすれば、この「起点」は大きくズレる。人類史の始まりはペルシア戦争の頃となり、さらにはローマ帝国からとなり、百万年もすれば、第二次世界大戦からとなる。そのたびに、それ以前の記録も伝承も失われる。
あと数万年もすれば、徳川時代は15人の将軍の名の他は系図すらも残らず一切が不明になり、さらに何十万年かすると武家時代800年の歴史は源頼朝・足利尊氏・徳川家康の3人の名しか伝わっていない。その頃には初代天皇は明治天皇ということになっているかも知れない。
現時点において、神武天皇が初代であるとは、そのような意味においてである。

先史王朝
ウガヤ王朝は、後世の偽作であるが、神話と歴史の接合部分をいかに理解するかを考えた場合、神武天皇以前にも天皇がいたという発想は、直観としてはまったく正しい。神武天皇は、実際には第537代なのか第3184代なのか第19064代なのか、なんだかよくわからないのである。特定の何かの歴史ではなく、(世界人類史の全体像=)「歴史そのもの」についていえば、「始まりはわからない」が正解である。「始まり」がどうなっているのかという疑問に答えるのは、歴史ではなく、科学であり、かつて科学の役割は神話が負っていたのである。従って、神武天皇の直前に置かれている日向三朝の神話(=神話の最末尾)は、現代の科学で歴史の直前に置かれる、生物としての人類の発生(=人類の進化)の物語として読まれねばならない(具体的にはこのブログのそれぞれの頁を参照)。

・「おきよ丸」と「起きよ祭」

H27年11月15日投稿 H27年10月16日(金)初稿
H27年11月13日(金)に代々木の日本文化興隆財団に行ったら置いてあった資料プリント、半分は「おきよ丸」と九州の地図、左半分は、上に『古事記』による神武東行路(地図)、下には2枚の地図があり1枚は「神武天皇の苦戦の足跡(大阪から)」と題する地図、これは三重県の一部と奈良県、大阪府、和歌山県を含む紀伊半島の地図、もう1つの地図はその地図の勝浦と書いてあるあたり(熊野川の河口の南側から勝浦湾まで)の拡大図。どちらも古事記や日本書紀に書かれた神武天皇の行路中の様々な事件が今のどのあたりで起きたことなのか詳細に書き込まれていて、イメージが湧きやすくたいへん良い地図と思う。ただし、日本書紀にはあっても古事記にはない多くのエピソードについてもその場所が同定されているので、日本書紀に興味ない人には意味ないかも。何かの書物からのコピーと思われるが元ネタは不明。だが「『古事記』による神武東行路」という地図は小学館の日本古典文学全集の『古事記 上代歌謡』のP.160からとったものだが、なぜか東征路の「征」の字が消されて手書きで「行」に直されてる。プリント右半分の九州の地図は、宮崎県内に、天岩戸神社、高千穂神社、美々津、西都原、宮崎神宮、鵜戸神宮、そして鹿児島県境を挟んで霧島神宮のすぐそばに皇子原。鹿児島県内では、可愛山陵、高屋山上陵、鹿児島神宮、宮浦神社、霧島神宮、吾平山上陵が示されている。可愛山陵には「えのやまのみささぎ ニニギノミコト」、高屋山上陵には「たかやのやまのえのみささぎ ヒコホホデミノミコト」、吾平山上陵には「あひらのやまのえのみささぎ ウガヤフキアエズノミコト」と手書きで追記あり。おきよ丸については「③おきよ丸」と題して昭和九年は神武天皇御東遷二六○○年にあたり、これを記念しておきよ丸御東行巡路漕舟大航軍が計画され、昭和十五年に挙行された。おきよ丸御東行は神武天皇御東遷当時の船を再現し、…(以下は点線で略されている)」とあり、何かの本からのコピー。昭和九年と御東遷と昭和十五年の3語には手書きの傍線あり、昭和十五年には「※建国2600年(皇紀)」、おきよ丸には(起きよ丸)とそれぞれ手書きで追記あり。また帆船の写真があり、その下に「美々津港から船出するおきよ丸」と題あり。その他、手書きで「黒ばえ 七つばえ」とあり、黒ばえの下には山を表したのか「へ」の字のような線、七つばえの下には波を表したような曲線(波線)がある。「起きよ祭=旧暦八月一日」と大きめに手書きで書かれている。以下、このページではこのプリントについての解説と解読と注釈と雑談。
「日向三朝」とは
九州の地図についてはわかりやすい話で、邇々藝命(ににぎのみこと)、火々出見命(ほほでみのみこと)、鵜萱葺不合命(うがやふきあへずのみこと)の3代を「日向三朝」というのだが、他にも「日向三代」「高千穂三代」「高千穂三朝」等いろいろにいう。ぜんぶ混ぜれば「日向高千穂三朝代」。昔の日向は宮崎県だけでなく鹿児島県も含んでいた。で、ずっと高千穂だけにいたわけではないから、高千穂三朝というより日向三朝といった方がよいとうに思う。朝も代もこの場合ほとんど同じだが朝の方が意味が広い。併記する場合、漢語では朝代とはいうが代朝とはいわない。
日向三朝は、『新撰姓氏録』の用語だと天神(あまつかみ)でも地祇(くにつかみ)でもない「天孫」(あめみま)という分類に該当。ただし、『新撰姓氏録』でいう天孫は天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子孫も含むから3代じゃなくて4代だけど。しかし天之忍穂耳命の子孫だという氏族は、いずれもすべて史実上は皇別氏族だったり神別氏族だったり諸蕃氏族だったりするので、実際には忍穂耳命の子孫は(邇々藝命の子孫である皇室以外には)存在しないことになる。(物部氏も含めてなw 物部氏は饒速日命の子孫ではないw)。

神宮とは
プリントの右半分にある九州地図にあげられている神社のうち、霧島神宮、鹿児島神宮、鵜戸神宮、宮崎神宮はそれぞれ日向3代と神武天皇を祀る神社で、これに忍穂耳命を祀る英彦山神宮、天照大神を祀る伊勢神宮、そして伊邪那岐命を祭る伊弉諾神宮を加えると、直系の歴代をまつる神社のリストになる。

・淡路の伊弉諾神宮:伊邪那岐命
・伊勢の皇大神宮:天照大神
・豊前の英彦山神宮:忍穂耳命 ←×
・大隅の霧島神宮:邇々藝命 ←×
・大隅の鹿児島神宮:火々出見命
・日向の鵜戸神宮:鵜萱葺不合命
・日向の宮崎神宮:神武天皇

これがみな「神宮」と称しているんだが、神宮という称号は現在の定義と、その言葉の起源における意味があまりに乖離しすぎて問題だ。本来の意味では「神社が格下で神宮が格上」等という意味はぜんぜん無かったのである。これは明治になって作った格付け用語の「神宮」であってもともとの意味ではない。…が、この話も、詳しい話は垂仁天皇の出雲「神宮」か履中天皇の石上神宮のあたりにでもすることにして、今回はスルー。
それよりも、英彦山神宮はべつに忍穂耳命の総本宮でもなんでもないし格別に皇室とも関係ないだろう。忍穂耳命を主祭神とする神社は吾勝神社(岩手県一関市)・石手堰神社(岩手県奥州市)・駒形根神社(宮城県栗原市)・伊豆山神社(熱海)がある。

天孫3代の山陵
で、日向三代の御陵だが、神様にお墓があるってどういうことだよ、やっぱり人間じゃねぇかとなりそうだが、そうでもない。神様に墓があるってのは、そもそも現代人の墓の概念が後出なので、もともとの墓の意味が違うのだ。そこらは伊邪那美命の御陵が広島県の比婆山なのか和歌山県の有馬なのかって議論でするので、今回はやらない。それはそれとして、この3陵がぜんぶ鹿児島県内にある。これは実は正しくない。山陵の候補地は九州各地に伝承があり、特に宮崎県内にも有力な候補地があったのだが、明治になって公式に決定する時に、薩摩藩閥の意向でなんの議論もなく勝手に決められてしまった。宮浦神社というのは神武天皇ゆかりの神社だが、宮崎県の日南市にも同名の神社あり、そちらでは神武天皇の母、玉依比賣の実家で神武天皇幼少時の住居という。鹿児島の方の宮浦神社は、神社の由緒書きによると「神武天皇御東征遷前に度々おいでになった仮の宮居であった処」という。

神武天皇生誕の地
皇子原は神武天皇生誕の地という伝承がある。が、実は神武天皇が生まれたところは九州の各地に伝承地があり、ちょっと検索しただけでも①佐土原(佐野の森)、②高原町佐野(皇子原)、③志布志町佐野、④東串良町宮下(イヤの前)、⑤鹿児島県加世田市があるという。この他にもどこだがに狭野町だか佐野町だかってとこにも古伝承があったはず。今となっては確かめるすべもないわけだが、神武天皇の別名「若御毛野」、兄の名「三毛野入野」かたすると「毛野」つまり北関東が関係あるかも知れない。というと、九州から勢力を拡大していったって思い込んでる人は「そんな馬鹿な」となるんだが、大国主の段階ですでに北陸まで勢力にしてたんでしょ。播磨風土記みれば播磨もそうだし、大物主神話をみれば大国主の勢力は大和まで含んでた。つか天照大神が豊葦原瑞穂国は天孫のしらすべき国といってるのは、記紀ともに、当時しられた全世界という意味でいってる。邇々藝命が譲り受けた領土は出雲と九州じゃなくて、すでに日本全土は統治の対象だったのです。神武天皇は栃木や群馬で生まれた可能性もあるよ、いやほんとに(笑)

神武元年はBC660年ではないってことの本当の意味
昭和九年を御東遷二六○○年とするのは、昭和十五年(=建国2600年)と6年しか差がない。これは『日本書紀』の説に拠っている。『古事記』では東征は20年近くかかったこちょになっており、日本書紀は古伝承を切り詰めている。もっとも、それをいったら日本書紀に依拠して計算された紀元前660年を神武元年とする説もどうなんだって話になるわけだが、確かにそうだ。しかし、だからって「そんな古いはずはない」って話にはならないんで、本居宣長は日本書紀の編年を後世のさかしらで作ったものであって信用ならないとはいったが、それは現代人が思うような「そんな古くはないはずだ」って話ではない。「もっと古いかもしれないし、新しいかもしれないし、偶然にも日本書紀に近いかもしれないし、なんだかわからない」という趣旨でいってるのである。このへんの話もいずれ詳しくすると思う。今回は省略。

「おきよ祭」
「おきよ祭」については適当に検索して下さい。wikipediaの「美々津」の項にも詳しい既述があるのでそれを見て下さい。普通にいい話なので、皆さんにも広く知れられてほしいものですな。wikipediaはそのうち改変されたり削除されたりってことがありうるので早めに見といて下さいよ。

「黒ばえ、七つばえ」の謎
検索したところ、七つばえとは日南海岸からみえる奇岩で「七つ八重」と書き、別名「七つ岩」「ビロ岩」「小場島」ともいうらしい。しかし「黒ばえ」についてはわからなかった。日南海岸というと、鵜戸神宮の近くではあるが、何か神武天皇にまつわる伝承でもあったのかどうか?

・神武朝

H27年11月14日投稿 H24年6月20日(水)初稿
久米歌
神武天皇の治世
(この項かきかけ。後日執筆予定)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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