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天磐船(あめのいはふね)、巨石文化の一つ

2679年(R01)09月18日改稿(H28年7月18日初稿)
今日は「海の日」
今日、H28年の「海の日」(第3月曜)は7月18日(祝)。「海の日」は「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」日ってことになってる。もとは、1876年(明治9年)明治天皇の東北地方巡幸の際それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなんだもの。

日本人は縄文以来の海洋民族
日本は海に囲まれた島国であり、従って日本民族は海洋民族である。…といいたいところだが、本当に海洋民族として世界に出たのは最近では明治以降と、その前は鎌倉時代〜安土桃山時代の「倭寇」の頃と、その前は半島を支配下においていた大和時代と、その前は縄文時代には太平洋を渡っていたという説もある(この説にはいろいろ問題もあるが今回はふれない)。

磐船伝説
全国各地の巨石文化の中には、「磐船」(いわふね)と呼ばれてる巨岩がちょいちょいあるんだが、だいたい地元の伝説では饒速日命(にぎはやひのみこと)の神話にこじつけられてることが多い。饒速日命については後日、機会を設けて詳しく論ずることにして、今回は天磐船(あめのいはふね)の話をしたい。
饒速日命が天之磐船に乗って大空から降りてきた話それ自体は簡素ながら『日本書紀』にも一言だけ書かれているから、関係はあることはわかるが、しかし『古事記』には邇藝速日命はでてくるが天からおりてきたとかいう話はまったく無い。これは空飛ぶ船の信仰ではなく海上の船なのである。また、巨石文化は通常、新石器時代の遺物とされるが日本では新石器時代は縄文時代に相当する。縄文時代以来の信仰伝統なのである。

「磐船」の具体例
天磐船でいちばん有名な巨石は大阪府交野市の磐船神社の磐船、それに次いで大阪府河南町の磐船神社の磐船がある。大阪府内にはこれ以外にも、磐船伝承がまた2ヶ所ある。一つは大阪府天王寺区味原町のあたりに磐船山という丘があって、そこにあった磐船が天長三年(826)の洪水で丘が崩れて埋没してしまったという。今はその磐船山も平地にされて消滅、住宅地になっている。すぐ近くに阿加留比賣(あかるひめ)伝説で有名な比売許曽神社があり、もともとは比売許曽神社に属する磐座だったらしい。もう一つは東大阪市岩田町の石田神社(いわたじんじゃ)でこの神社の北の方に欽明天皇の頃までは二つの墳丘と巨大な岩船があったがその後、埋もれてしまい、墳丘も徐々に小さくなって今では完全に消滅してしまっている。この2ヶ所は饒速日伝説の地に比較的近い。さらに遠方だと、宮崎県都農町の尾鈴山には「天の磐船」とよばれる巨石があり、日南市の潮嶽神社(うしおだけじんじゃ)には海幸彦が磐船に乗って流れついたという伝承がある。滋賀県東近江市の猪子山の岩船神社にも磐船とされる巨岩がある。新潟県村上市(旧・岩船郡)の石船神社には磐船そのものはないが様々な磐座(巨石)があるのでいずれかが磐船だったのではないかと思われ、また茨城県城里町の石船神社は全国でも珍しいことに鳥石楠船命を御祭神としている。この神を祀るのは東京だと墨田区の隅田川神社がある。山梨県にも複数の石船神社と「磐舟」の地名がある。長崎県の五島列島、茨城県の磐船村、静岡県などその他にも全国各地に磐船があるという。巨石の磐船そのものでなくとも栃木県に岩船山、福井県に磐船神社があり、これらは地名だけだが探せば伝説なり磐座(巨石文化)なりみつかるのではないか。
岩船山
↑栃木県岩舟町の岩船山。特撮番組のロケ地で有名。コスプレイヤーが爆発をバックに撮影会したりするところ。岩舟町は新海誠の『秒速5センチメートル』の舞台としても有名w

船なのに山にある理由
ところで磐船とされる巨岩は山の中に多い。だから空から降りてきて山頂に降り着いたという話になるんだろうが、前述の大阪府天王寺区味原町の磐船山や、東大阪市岩田町の石田神社の墳丘は、地形からみてすぐ思い出すことがある。それは、往古には大阪平野はかなりの部分が海だったということだ。当時なら、味原町の磐船山や、石田神社の墳丘は、航行の目印にちょうどいい島か岬だったはずである。大阪平野も奈良盆地も海だった時代には生駒山地と葛城山地は南北に続く巨大な岬というか細長い半島だった。交野市の磐船神社の磐船街道を通って南に山岳地帯をぬけた平地部(生駒市の一部)は大昔は港だったのだろう。次に河南町の磐船神社は葛城山地の中で、この山を降りた西側(大阪府側の太子町や河南町)の平地も港だったろう。ここの磐船石は全体の形が船なのかどうか疑問もなしとしない。ここには48個もの磐座があるといい、明らかに眺望のよい巨石もあるので、なにか別の岩を誤って磐船とよんでいるのであって他のいずれかの岩が本来の磐船ではないのかとも思われる。福井県の岩船神社も、栃木県の岩船山も、大昔には海に面していたことは地形を一見して想像できる。つまり磐船とされる巨石のあるところや、岩船という地名が残っているところは太古には海辺だったところで、どれも原始時代の港の跡だろう。巨石文化はもちろん神の依り代としての岩を祀るのだが、船をかたどった岩というのはいわゆる「船魂」(ふなだま)信仰だろう。山の中で船魂とは一見おかしく思われるかもしれないが、後世でも三島神社や大杉神社、安波信仰など、山の神が航海の守り神として信仰されることが多い。これは山が航海の目印になることと関係している。磐船伝説とは船魂信仰なのである。

雄大なる海人の世界観
このことは太古の日本、特に巨石文化の全盛期(縄文時代)にも、日本人が海洋民族だったことを如実に示しているのではないか。その伝統は冒頭に書いたように現代まで断続的に続いていたのである。『延喜式』の祈年祭(としごひのまつり)の祝詞は、天照大神への決意を述べているが、海の民にふさわしい雄大な野心にあふれたものになっており、

(前略)…伊勢に坐(ま)す天照大御神の大前に白(まを)さく、皇神(すめがみ)の見霽(みはる)かし坐す四方(よも)の国は、天(あめ)の壁立(かきた)つ極(きは)み、国の退立(そぎた)つ限り、青雲の靄(たなび)く極み、白雲の墜坐向伏(おりゐむかふ)す限り、青海原(あをうなばら)は棹柁干(さをかぢほ)さず、舟の艫(へ)の至り留(とどま)る極み、大海原に舟満ち都都氣(つづけ)て、…(後略)
伊勢神宮に鎮座されます天照大神の御前に申し上げます。大御神様が天上界からはるかに見渡されます世界の国々は、天が海にくっついてみえる水平線のはてまで、たなびく雲が地平線に沈む彼方まで、船の櫂も舵も乾く暇のないほど航海を続け、船首の先が最後の未知の陸地に突き当たるまで、広大なる大海洋に無数の船を浮かべつらねて(以下略)

とある。草原の民がつまり馬の民であるように、海の民とはすなわち「船の民」なのである。『延喜式』は平安時代にまとめられたものだが、そこに採録された祝詞はそれ以前の古いものである。白村江の戦いから倭寇の発生までの期間は、日本が島国に閉じこもっていた時期だが、この期間でさえ海洋民族伝統は古式が残りやすい祭祀儀礼に残存していた。縄文の海洋伝統と平安王朝をつなげることを短絡的だと批判するのは当たらない。この祝詞は平安時代を遡るつい数百年前にゼロから作られたのではなく、縄文一万年の伝統の末端だったことは、天磐船が『日本書紀』にもはっきり書かれていることからも容易に推測できる。そしてその精神は倭寇の時代にまでつながっているだろう。インドの東端を含む東南アジア全域を股にかけた倭寇の活動圏は西洋の大航海時代の海賊にも劣らぬ世界最大の広がりをもっていた。
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「海の民」と「山の民」
問題は、倭寇の終焉から明治開国までのイメージが強すぎてここばかり注目すると「日本人は海洋民族なんて言い草は嘘っぱちじゃねぇか」という主張が出てくる。まぁ日曜日に家で寝てばかりの親父しかみてない子供が「うちのお父さん怠け者」と思い込むようなもんだけどね。
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しかし日本列島の面積の9割は険しい山々で、そこで育まれた「山の民」の文化もある。日本人は山岳民族だともいえるのである。さらには平野部では水稲工作二千年の伝統があり、この一面だけを強調すれば「日本人は農耕民族だ」という言い方にもなる。日本は「海・平野・山」の三重の文化構造をもっている。ただし強いていえばこの中では農耕文化はいちばん新しい最近に加わった要素で、根幹・基層にあるものは縄文以来の「海と山」の文化だろう。この「海の民と山の民」は異民族同士でもなく対立関係にあるのでもない。美濃や信濃の山の中に安曇部(あずみべ)という安曇氏(海の民の宰領)の部民がかなり多いのは奇異なこととされ注目もされている。むろん信州の数多の盆地も大昔は巨大な湖だったり、さらなる太古には海ともつながっていたから、海人の痕跡があってもいいんだが、さすがに超古代文明っぽい話になってしまうので、もう少し平凡な別の解釈としては、一つには安曇氏の海上輸送業が主要な物流ルートを担っていたため、内陸部の交易路も日本海と太平洋をつなぐ視点で安曇氏によって管理されていたことを示しているのである。まぁ超古代文明でもいいんだけどさw

海からきた邇藝速日命と天からきた邇々藝命
かように饒速日命伝説と磐船伝説が結びついているのは、饒速日命が船魂(ふなだま)に守られていたことを示し、むしろ饒速日命はふつうの船に乗って海上を渡って大和に入ったことの証拠なのであって、磐船に乗ったのでも天から降りてきたのでもないことになる。だから『古事記』には邇藝速日命が天から降りてきたとはぜんぜん書かれていない。邇藝速日命は天からおりてきたのではなく海をわたってきたのである(大和にかかる枕詞「そらみつ」が饒速日命が磐船に乗って空から大和をみたからだという話しがあるがこれも後から作った話で真実ではない。なぜそういえるのかという議論は大和(やまと)の語源と関係している。詳しいことはまた別の機会に「懿徳天皇」のページに書く予定。だがまだ書いてない、いつか書きます)。『日本書紀』では古事記と違って、饒速日命は「天磐船」に乗って天からくだってきたことになっているが、これは平地が広がって昔は海だったことが忘れられてから、磐船が山の中にあるから天からおりてきたのだと思い込んだ後世の俗説を取り込んだもので正しくない。
※「UFO(空飛ぶ円盤)と日本神話」もご参照あれ。

☆「天皇」という君号の起源(前編)

2679年(令和元年)5月改稿 H28年5月11日(水)初稿
5月11日は「天皇」号の日
『古事記』も『日本書紀』も神武天皇の段階から「天皇」と書いてスメラミコトと読んでいるが、これはもともと天皇と書いていたわけではなく、国内的には古くは「治天下大王」(あめのしたしらすおほきみ)と言っていたことが金石文によってわかっている。中国の歴史書の中では、対外的には「倭王」と呼ばれ、自称もしていたことになっている。「王」というと格下の属国みたいに受け取って不快に思う人がいるのだが、中国では、ペルシア帝国の皇帝やイスラム帝国の皇帝やローマの皇帝などもすべて「王」としか呼ばないので、倭王といったからってそれだけでは実際に中国の属国だったという証拠にはならない。『万葉集』の用例だと、過去の天皇の場合には「天皇」をスメロギと読み、今上天皇の場合には「天皇」をオホキミと読んでいることから、金石文の「大王」はその文字が刻まれた時点での今上であることと一致する。よって、金石文の時代にも過去の天皇についてはスメロギ、またはスメラミコトといっていた可能性が高いだろう。万葉集には「王」「皇」「大王」「大皇」などがいずれもオホキミと読んでいる。オホキミだけだと天皇か皇族か前後の文脈によってもわからないことが稀にあり、天皇であることを明示するために「治天下」を前につけるわけ。
書き方についていうと、初期の天皇に関しては、記紀は遡って「天皇」と書いてるだけで、実際にはいつから天皇と書いていたのかわからない。天皇という称号が使われていた現存最古の実例は飛鳥から出土した木簡に「天皇」と書かれていたもので、これは天武六年(677年)のものなので、この頃にはすでに「天皇」と書かれていたことが確実ではある。「治天下大王」や「倭王」が、いつから、なぜ天皇と書くようになったのかは後述するように諸説があるのだが、学界では天武天皇の頃からというのが通説になりつつある。で、俺は学界の通説が8割ぐらい正しいと思っているが、2割ほどオリジナルの説ももっているので、今回はそれを披露したい。なぜって、今日は平成28年5月11日、天皇号統一の日だからだ。明治の初期の頃、清国との外交文書のやりとりで国書に「日本国天皇」とあったところ、清国から「天皇という称号はあまりに神聖至上の号なので受け入れられない」といわれたので「日本国皇帝」に改めた。ただしそこで皇帝に統一されたわけではなく、以後も天皇と皇帝が日本国内でも混用されて一定していなかった。これが天皇に統一されたのは昭和11年(1936年)5月11日からであった。これは外務省が勝手にやっていたことであって格別なにかの法制上の手続きを踏んだものではない。この時期になぜ外務省が天皇に統一したのかはわからないが、外務省はその約一ヶ月前の、同年4月18日に国号を「大日本帝国」に統一しており、その流れではないかと思われる。この背景には当時の世論とか空気、政府の思惑、その他いろんな事情があったんだが、『古事記』には関係ないのでこのブログではとりあえず無視する。5月11日が「天皇号の日」であることわかって頂ければ十分である。

律令に定められし「天子・天皇・皇帝」
記紀が編纂された奈良時代には、律令の定めで、詔書においては「天皇」、祭祀においては「天子」、華夷においては(国内国外に対しては)「皇帝」と、3通りの称号の使い分けが定めされていた(従って、日本の天皇は天皇であって「皇帝でない」という理屈は誤り)。ただしこれらは書き方の違いであって、読み方はスメラミコトかスメミマノミコトだとも定めされていて、読みは一致している。記紀は歴史書であっても「詔書」ではなく、国内国外に向けられた書物だから「皇帝」とあるべきだが、なぜか記紀のどちらも「天皇」という書き方をしているのはえらく不審なことだ。
これを考えてみるに、律令の定めは理想ないし論理上のことで、現実には諸条件を無視して天子や皇帝より天皇ばかりが慣例的に多用されていたのだろうか。唐の律令でも、祭祀においては「天子」、華夷においては「皇帝」という規定があったが、当然ながら「詔書においては天皇」などという規定はない。この規定は何がおかしいかというと、天子と皇帝の使い分けは明白で問題ないのだが、詔書というのは祭祀にも華夷に対しても使うわけだから、いってみれば天皇は何にでも使えるといっているのと同じではないか? 中国では天子と皇帝の二つで間に合っているところに、日本の律令ではムリヤリ天皇を追加したため、オールマイティで昔から(律令以前から)使ってる天皇だけが優勢となり、天子と皇帝は後退してしまったのではないかとも思われる。

中国人にはどう説明されたか
外国からの視点でみると、日本の君主が天皇と称していることを、中国人も遅くても宋代には知っていた。宋代には日本の王の年代記からの引用という形で歴代の天皇の諡号と「天皇」という称号が日本側の自称だとして知られていた。「日本の王の年代記」というのは記紀の類書で、この頃は記紀が流布してその類書も書かれていたのがわかる。『新唐書』もこの宋代に編纂されたもので、だから『新唐書』日本伝には歴代天皇の諡号が出てくるし、それが「天皇」と自称していたことも書かれている。宋代になって始めて知った等ということは遅すぎて信じられない。公式には認めないという立場のために中国側の記録に残ってないだけで、唐の頃すでにリアルタイムで知られていたはずだろう。
唐の前は『隋書』で、ほぼ推古天皇の頃の情報として、倭王の号は「阿輩雞弥」(おほきみ=大王)であり、これは中国語でいうと「天児」(天の子)という意味だ、とある。日本のスメミマノミコトは、あくまでも太陽神の子孫という趣旨であって儒教的な意味での天子ではないから、中華式の天子と区別するために天児と書いたのだろうが、まぁ要するに大雑把に短くいえば天子のことだ。607年の遣隋使では有名な「日出づる処の天子」と称している、これ。オホキミが天子の意味だという話はこの遣隋使の国書とも一致している。阿輩雞弥をアメキミ(天王)と読む説もあるが不可。阿は推古遺文など古い用例ではアでなくオを表わすことがあるので「大王」説の方がよく、金石文の「治天下大王」とも一致する。後述するようにこの当時、中国向けではなく朝鮮諸国向けに「天王」という称号を使っていたという説もあるが、天皇をアマキミとは読まないように、この天王も漢字文化の中での熟語だからアマキミとかアメキミという大和言葉で分割するような読み方をしたとは考えにくい。こうしてみると607年の段階ではまだ、少なくとも中国に対しては天子と称することはあっても天皇という書き方は使っていない。『日本書紀』によると608年の遣隋使の国書では「東天皇、敬(つつし)んで西皇帝に白す」とあり、これが天皇号ができた最初だという説もある。確かに、どんなに早くてもここが限界で、これ以上以前に天皇号があったとは思えないが、個人的にはこの段階ではまだ「天皇」ではなかったと思う。その理由は後述する。
その前、『宋書』等に出てくる倭の五王などはみな「倭王」と書かれている。これは中国のいつもの諸外国に対する扱い。さらにその前、『三国志』にでてくる邪馬台国の卑弥呼も「倭王」と書かれているが、「卑弥呼(ひみこ)という名の女性を王とした」のではなく「一人の女性を王とした上で、卑弥呼と名付けた」とあることから、卑弥呼というのは固有名詞ではなく一種の称号と考えられている。ヒミコという日本語の解釈は本居宣長は「姫児」説だがその根拠を読むと思いつきの域を出ないもので妥当性がない。ヒミコは「日の御子」の意味で、太陽神の子孫を意味し、律令制で天子をスメミマノミコトと読んだのと同じ趣旨と思われる(ただし「日の御子」と「皇孫(スメミマ)」はちょいニュアンスが異なる。スメミマノミコトはスメラミコトと違って古いものでなく奈良時代に創出された可能性がある。これについては後述)。『後漢書』では「大倭王」とあり、「倭王」なら通常の表現だが、この大倭王という表現はどういうニュアンスなのか、学者はあまり触れないが「諸王の中の王」という意味ではないことは確かだ。倭国には王は3人しかおらず、そのうち1人(伊都国王)は形式的な王号をもつだけで卑弥呼の完全なる配下、もう1人(狗奴国王)は敵対者だからそもそも存在を許容しあってる仲ではない。普通に漢文として考えると国名につける大は天子の王朝を意味するが、『後漢書』が倭王を天子と認めることはありえないので、倭王が天子を自称していたという記述の断片か、もしくは単に「強大なる」倭国の王という意味のどちらかでしかない。こうしてみると倭の五王は官爵をもらおうとして腰を低くしているので表にあらわれてないが、我が国の君を太陽神の子孫とみる思想は卑弥呼の時代から律令時代まで国内では一貫していたように思われる。

天皇号の創出についての諸説
推古朝説、天智朝説、天武朝説がある。これらを並べて検討してみる。
1,推古朝説
津田左右吉の説で、前述のように「東天皇、敬しんで西皇帝に白す」の国書が最初だという説。後述の「天王」説を唱えた宮崎市定も、それまでの「天王」をこの時に「天皇」に変更したのだといっている。推古朝説は少し昔までほとんど定説といっていいぐら最有力説だった記憶があるが、津田左右吉の影響力はすごかったんだな。現在ではあまり支持されてない。俺も支持しない。この説がありえない理由は後述。
2,天智朝説
この説を唱えている人も複数いたような気がするが、代表的なのは岡田英弘かな。白村江の敗戦でびっくりした天智天皇は急いで律令制国家への道を邁進して、近江令を作った。倭国から日本へという国号改定も、倭王から天皇へという君号改定も、すべてこれで一元的に説明する説。日本国号の件ではすでに別のページで岡田英弘の誤りを指摘しておいたが、天皇号についても、天智朝説はありえない。その理由については後述。
3,天武朝説
最近、有力な説。この説の場合、天皇の語源が「天皇大帝」という道教の神だとした上で、天武天皇の個人的な道教趣味から付けられたともいう。これについての反論は後述(道教趣味が理由になるなら斉明朝も候補になるはずだがそういう説はあまり聞かない)。
4,持統朝説
天武天皇の個人的な称号であったのを、持統天皇になってから歴代の称号となった説。
5,文武朝説
大宝律令で決められた説。

「天皇」の語源説その1
津田左右吉の説で、天皇というのは、前述のように道教の神である「天皇大帝」からとったという説。この説がおかしい点は多々あるが、まずはなぜ後半の「大帝」の2文字が切り落とされているのかがぜんぜん説明できてない。略するにしても「天皇」「大帝」「天帝」などの例もあったならばそれら諸例あわせて正式には「天皇大帝」だったろうと推定もできるがそんな例はない。しかも略していいなら略しようによっては「皇帝」ともなるのだから、最初から「皇帝」で問題ないのではないか。次に「天皇大帝」ってのは、北極星の神、天の神である。しかしこの時代、本当に「天皇大帝」という言葉が知られていたのか疑問もある。天皇大帝という言葉は『春秋緯合誠図』に出てくるというが、これは「緯書」の一つで、何度も法により厳禁され、隋の時代には焚書されてほとんど残っておらず、現在「緯書」だとして知られているのは出所の怪しいものが多く、史料として使えない。確かなものとしては『晋書』があるがこれは唐の太宗の頃に編纂されたものだから、推古天皇の頃の日本にはまだ存在していない。第三に、六世紀半ば以降、道教の最高神は「元始天尊」であり、それ以前というと『書経』や『詩経』といった非常に古い書物には「昊天上帝」とある。継体天皇の頃には五経博士がいたから日本でも遅くともその頃には『書経』や『詩経』は知られていたはずの書物である。「昊天上帝」は、のちの天皇大帝とも同一のものという。ならば「元始天尊」や「昊天上帝」でいいではないか、なぜダメなのか?「天皇大帝」説の場合、なぜ道教の神名を君号に転用しようという珍妙な発想になったのかという点も問題となる。斉明天皇または天武天皇自身の道教趣味で説明されることが多いが、そもそもこれは天上の神の名であって、人間の称号ではない。天武天皇ぐらいの道教オタクでなくても、道教に詳しい人ならそんな錯誤的なことは恥ずかしくて絶対やらないだろう。これに対して、唐の高宗皇帝が実際に「天皇」と称してたじゃないか、という反論もあるだろうが、こっちの天皇は初めは天皇大帝の意味ではなかった。これについての詳細は後述する。

「天皇」の語源説その2
紛らわしいが、中国には「天皇大帝」という新しい言葉とは別に、「天皇」という言葉が古くからある。中国の神話で、神代には三代の「皇」、次いで五代の「帝」が続き、この八代の時代を「三皇五帝」と総称する。このうち三皇は天皇・地皇・泰皇で、この中では泰皇が一番尊いのだという。秦の始皇帝が三皇の「皇」の字と五帝の「帝」の字をあわせて始めて「皇帝」という言葉を作ったのは有名な話である。だから岡田英弘がいう、皇帝とは「光り輝く天の神」の意だとの説は、皇と帝の2文字の字源を別々に遡ったあとに恣意的にくっつけた説で、二重三重に誤りである。さて三皇五帝は太古の聖人君主の称号だから、例えば日本のスメラミコトが聖人君主として「天皇」と称しても問題ないようにきこえるかもしれない。しかし、それならなぜ天皇より格上の「泰皇」にしないのだろうか。また、そういう意味なら既存の「皇帝」の皇は三皇の皇なのだから、すでに天皇・地皇・泰皇の意味が含まれているのだ。わざわざ天皇に絞る意味がわからない。そこで「天皇大帝」が出てくるわけだが、これがダメな理由は前述の通り。唐の高宗が天皇を称した理由は後述する。

「天皇」の語源説その3
宮崎市定や角林文雄は「天王」説を唱えている。『日本書紀』に2ヶ所、「天王」と書かれており、どちらも百済三書の一つ『百済新撰』からの引用で461年と478年の条。これは天皇の誤写とする説もあるが、もともと天王だったのであり、書紀は天王を天皇に書き換えた際、2ヶ所だけ修正漏れがあったのだという(もしくは百済三書の引用部分は天王のままだったのだが後世の写本なので誤って天皇と誤記している)。天王というのは五胡十六国の異民族王朝が事実上の皇帝の地位につく直前の情況で称したもので、皇帝よりわずかに一歩劣るが、ほぼ皇帝と同格の称号だという。
map_五胡十六国
318年に匈奴の靳準が漢(前趙)の天王に即位してから、436年に北燕の天王だった馮弘が滅ぶまでの約120年間、多くの王朝と諸々の民族に跨って続いてきた称号である。この頃はまだ「皇帝」というと中国人の君主、漢民族の君主という印象があって、例えば匈奴が漢帝国よりも強大だった時代でも君号は「単于」(漢語の天子にあたる匈奴語)で通し、けして皇帝と称することはなかった。君主は異民族出身で配下の貴族や支配民は多民族という国家の君主として、皇帝でもなく単于でもない民族の枠を超えた君号が模索されたようにも思える。この「天王」号は普通は436年で終わったとされている。が、436年から461年までの間のある年に、倭王によって引き継がれ、以後、三韓からは倭王は「天王」「貴国天王」「可畏天王」等とよばれていたのではないか、ということを論証したのが宮崎市定や角林文雄の「天王」説である。皇室、皇后、皇太子などの皇はコウと読まれるのに、天皇の皇はコウでなくオウなのは、皇后や皇太子という律令の用語が制定された時期よりも、天王の方がはるかに由緒が古くて定着していた時期が長いからなのである。二人は奈良時代までの天王と書かれた用例も夥しく存在していることも明らかにしている。津田左右吉や大和岩雄は天王説になぜか冷淡だが。

最後の北燕天王馮弘の子孫が日本の貴族になっていた
最後の天王は今の満州の遼西地方に割拠していた北燕国の馮弘だった(姓が馮氏で名が弘)。馮弘が天王の位に即いたのは430年で、438年に殺される時までの間のいつの段階かで天王から皇帝に自分で昇格しているがそれがいつかはわからない。430年に馮弘の代になると北燕の勢いは衰えて中国の北朝の「北魏」に押されていた。危機を覚えた馮弘は435年に、北朝の北魏と対立している南朝の宋に使者を送り名目上その臣下となって、宋から燕王に叙任された。ただしこれは必ずしも天王から王への格下げではない。この「燕王」の位とは宋の朝廷内における席次、つまり「宋の爵位では王だ」ということにすぎず、自国内ではあいかわらず天王(または皇帝?)と称していただろう。とはいえ馮弘は結局それまで属国視して見下していた高句麗に頼ることになって436年に国を捨て一族あげて高句麗に亡命した。ここに天王だか皇帝だかの馮弘の君位は実体を失い名目だけとなる。同じ名目だけまら、まだ宗主国「宋」の裏付けのある燕王のほうが現実味があるので国際的にはこの段階から燕王と呼ばれていたのではないかと思われるが、こんな境遇になってもまだ保護者のはずの高句麗に高慢な態度を示し続けたというから、彼の自意識ではまだ天王だか皇帝だったんだろう。
高句麗ははじめは馮弘を駒として使えると考え、馮弘の太子の馮王仁を人質にとりながらも、北魏に対して馮弘をとりなした。馮弘に盾になってもらって北魏との緩衝地帯を残そうとしたのだろう。が、北魏の追及は厳しく、巧くいきそうもない情勢だった。それを見て取った馮弘は、太子を人質にとられていたことの恨みもあって、高句麗とも縁を切り中国の南朝の「宋」へ逃亡しようとして宋に助けを求めた。宋は馮弘を解放して宋に引き渡すように高句麗に命令したが、宋へ行かれては高句麗は北魏に対して申し開きが立たず追い込められてしまうので馮弘とその一族十数人を殺した。これが438年。
で、宮崎市定は、高句麗の情報がただちに倭国に伝わったかどうかはわからない、高句麗と倭国の間に密接な情報流通がなかったにしろ、高句麗と百済の間、それと百済と倭国の間には密接な情報流通があったことは疑いないとした上で、この北燕の馮弘の滅亡譚も遅かれ早かれ倭国に伝わったはずで、しからば「皇帝でもなく王でもないという、この天王という称号は何ぞ」という話になったに違いない、その格式をきけば倭王みずからこの称号は倭の大君主にこそふさわしいと思っただろう、と。
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ここまでは、そんなこともあるのかなって程度の話でまぁいいのだが、日本の帰化人系の貴族の中に、実はこの馮弘の子孫だという氏族がいるのだ。『新撰姓氏録』には、山代忌寸氏(もとは「山背画師」)、河内忌寸氏(もとの「河内連氏」)、台忌寸氏、凡人中家氏の4氏はすべて同祖で、後漢献帝の息子の魯国の白龍王から出たという。ところが後世の系図では、河内連氏の先祖の白龍王とは、北燕国の馮弘のことだという。確かに後漢献帝の息子に「魯国の白龍王」なる者はおらず、ここは『新撰姓氏録』の錯簡だろう。『新撰姓氏録』は誤字が多いことで知られ、良い写本が無い。燕の字は「庶」等と誤写された例があり、魯の字も「魚」と誤記される例にあげられることがあり、『新撰姓氏録』が魯国といってるのは燕国を誤ったものとしてよかろう(燕→庶→魚→魯)。北燕は別名「黄龍国」ともいったので、もとは黄龍王と書いてあったのだろう。黄の字の線の潰れた略草体を白の字だと誤認して「白龍王」になってしまったものか。この系図によると魯国白龍王馮弘には馮崇、馮朗、馮邈の3人の息子がいて、このうち馮邈の子が馮安君、その子が馮倫、その子に馮烏と馮黒人の兄弟あり、兄の馮烏が河内氏の祖、弟の馮黒人が山背画師の祖という。むろんこれは後世の系図で、馮安君以降の部分は信憑性が薄い。実際の歴史では、馮弘の息子らの間に後継者争いが起きており、腹違いの弟の馮王仁が太子となったため、身の危険を感じた馮崇、馮朗、馮邈の3兄弟は国を捨てて北魏に亡命してしまった。馮朗の娘は後に北魏の太皇太后として権勢を振るったが、馮邈は柔然に再亡命しており、だから馮邈の子孫が倭国に帰化するのいうのは考えにくいが、もしかしたら馮安君は親父の馮邈とは不仲で、高句麗に人質になった馮王仁についていったのではないか。馮王仁のその後が詳細でないが『三国史記』には馮弘の宋への亡命を阻止するため馮弘とその子孫十数人を殺したとあり、この時に馮王仁も殺されたと考えてしまいやすい。が、亡命したといっても馮弘は北豊という遼東の西(高句麗領としては西の辺境)に城を与えられていたのであって、馮王仁は人質だったから一応馮弘らとは別の場所(高句麗の王都)に隔離されていたはずである。またこの時は馮弘を宋に迎えるための宋からの使者、王白駒が七千もの兵力を率いて来ており、馮弘らを殺した高句麗の将軍が返り討ちにあっているから、馮弘の一族でも生き延びて宋に帰化した者もさぞかし多かったろう。また馮王仁や馮安君が北豊を遠く離れた高句麗の都に軟禁されていたとしても、高句麗が宋に配慮して解放したか、自力で脱出したかして百済方面に逃れた可能性もある。
ただしこれは後世の系図であって史料的な価値に問題あるので、宮崎市定がこれを知っていたとしても、まぁ論文の中では出さんだろうし、またこんな後世の系図にたよらずとも、馮弘の滅亡の一件から「天王」号が倭国に伝わることがありえたというのは宮崎市定のいう通りである。

「天王から天皇へ」の時期
436年から461年の間というと倭の五王の時代で、倭の五王は中国から官爵をもらおうと腰を低くしていたので、中国に対して天王と称することはなかったが、百済や新羅、高句麗に対しては天王と称していた可能性はある。特に百済は高句麗の圧力に耐えかねていた時期だから、倭王に天王の称号を献上して臣礼をとっていたのだろう。
推古朝説への批判
さて、宮崎市定は、聖徳太子が隋への国書に、それまでの天王を天皇にかえて「東天皇、敬しんで西皇帝に白す」と書いたのが天皇号の起源だというのだが、承服できない。天王という称号は、宮崎市定自身もいっているように直接の語源としては牛頭天王・四天王・毘沙門天王・梵天王・帝釈天王といった仏教の尊格からきている。天王号が始まった五胡十六国の時代の中国では空前の仏教ブームが起きており、上記の「なんとか天王」の類はすべて仏法の守護者という特徴で一致しているのである。つまり天王は単なる皇帝ではなく「仏教の守護者」という側面をもつ。遣隋使の時、執政の地位にいた聖徳太子は熱烈な仏教マニアで、当時、仏教を日本に根付かせるため布教に心を砕いていた聖徳太子が、こんな素晴らしい称号を廃止して、天皇大帝などという道教丸出しな用語に基づいて道教くさい称号を採用するなんてことはまったく考えられないことだ。東大寺文書(唐招提寺文書だったかも)には遣隋使の国書の引用が含まれるが、そこには「東天王敬白西皇帝」となっているのである! つまり書紀の東天皇云々の条も、もともと天王とあったのを天皇に書き換えている可能性が非常に高い。
天智朝説への批判
では天智天皇はどうだろうか。天智天皇は近江令で律令国家をめざしたが、中華式の帝国をつくろうとしたわけで、後世の律令にあるように「天子」「皇帝」の称号も規定されただろう。普通に考えて倭王などはもっての他だが、天王とかの中途半端なウヤムヤなものでもなく、ここで中華式の「天子」「皇帝」とはっきり条文化されたことは疑いない。むろんどう書いても読みはスメラミコトであってただの表記の問題なのだから、国内向けとしては大した問題ではなかったろう。そうすると、倭王という称号がいらないのと同様、天王という称号もいらなくなるはずで、実際、中国でもそれまで天王と称していた王朝がさらに強大化して、天王を捨てて「皇帝」と称し始めるという例は多々あった。日本でも同じように、皇帝や天子の号が新規に定められたら天王号は要らなくなったはずで、要らないのだから天王を天皇に書き換えようという発想も出て来ようがない。もし天王を残すとすれば「天子は祭祀に称する所」「皇帝は華夷に称する所」と並んで「天王は仏事に称する所」という規定があったことを推定はできる。しかしそれは「天王」を補助的な別号として残す可能性はありえるという程度の話であって、天智朝において「天皇」がでてくる幕はぜんぜんないことにかわりはない。
668年の近江令以降、スメラミコトは天子または皇帝と書かれ、天王という表記は一旦消えてしまったのではないかと思われる。つまり宮崎市定がいうような「天王から天皇へ」というような改定は起こりようがないのだ。天王は一旦消えて「皇帝と天子」という完全な中華式が採用されたろう。それが中華式の帝国を築くという大化改新のそもそもの趣旨にかなうことであったはずだ。

「天皇」という君号の起源(中編)に続く

☆「日本」という国号の起源

2679年(令和元年)4月18日改稿
4月18日は「日本国号の日」smile.jpg
『日本書紀』が我が国の名を「日本」と書いているところ、『古事記』は「倭」と書いている。どちらもヤマトと訓むので、これは別の名ではなく単なる表記の違いにすぎないが、もとは倭と書いていたのをある時期から日本と書くようになり、さらにその後、読み方までニッポンまたはニホンと音読みするようになったというのは誰でも知ってるだろう。で、この日本という表記がいつ頃なぜ出てきたのかという問題は、古代史マニアなら誰でも自説をもっているぐらいポピュラーなネタで、インターネットには自称古代史研究家たちによる珍説奇説があふれかえっている。で、俺は学界の通説が8割ぐらい正しいと思っているが、2割ほどオリジナルの説ももっているので、今回はそれを披露したい。なぜって、今日はH28年4月18日、日本国号統一の日だから。明治以来、日本の国号は日本国、大日本国、日本帝国、大日本帝国などいろいろな言い方があったんだが、昭和11年(1936年)4月18日に当時の外務省は「大日本帝国」に統一した。肝心の「日本」の2文字が合っていればどれも問題なさそうであり、典型的なお役所仕事なのが明白だ。しかもこれは外務省の内規にすぎず法的根拠はなかったのに、一般には正式な決定であるかのように受け取られた。この背景には当時の世論とか空気、政府の思惑、その他いろんな事情があったんだが、『古事記』には関係ないのでこのブログではとりあえず無視する。4月18日が「日本国号の日」であることわかって頂ければ十分である。

「日本」と「倭」の関係についての諸説
まず、ネット上のものも含めて、九州王朝説、任那日本府説、物部氏説、天武天皇説、蝦夷地名説、百済別名説などがある。知ってる人には言わずもがなのことだが、これらの諸説に共通する前提として、『旧唐書』と『新唐書』がともににもともと倭国だったがそれとは別に日本という小国があったとしていて、『旧唐書』は日本が倭国を併合したとあり、『新唐書』は逆に倭国が日本を併合した時に日本の国名も採用したのだという。これをどう解釈するかで説がわかれる。

1)古田武彦の九州王朝説はもともと九州に倭国があったのだが白村江の戦いで滅亡し、最終的には今の関西にあった日本国に併合されたという説。これはネットでも人気のある説で、ネット上にはそのバリエーションもたくさんある。しかし有力な批判もたくさんあって、学界では相手にされてない。
2)任那日本府説は騎馬民族征服説で有名な江上波夫の説。任那(朝鮮の南部)に騎馬民族が作った国が日本で、その日本が倭国(日本列島)を征服したという説。任那日本府というのは日本書紀の造語であってそんな言葉はなくリアルタイムでは「任那倭宰」といっていたというので、この説も騎馬民族征服説ともども葬り去られて古いのだが、ネットでは時々この説の信者が現れる。
3)大和岩雄の天武天皇説は、壬申の乱で勝利した天武天皇が倭国から日本へ改名したのだという説。従って、この場合の、日本が倭国を併合したという話は、大海人皇子が率いる東国軍が弘文天皇をトップとする近江朝廷を滅ぼしたことに該当する。大和岩雄自身は珍説奇説を唱えることもあり、在野の学者だから学界の一般を代表するものではないが、670年から702年までの間で、国が真っ二つに分かれて戦うような大戦争といえば壬申の乱しかないので、「天武天皇が倭国から日本へ改名した」とまで言わずとも、日本が倭を併合したという話は壬申の乱のことを伝聞したものだろうという点だけは、大庭脩が指摘して以来、ほぼ学界の通説となっている。ただ、正式に日本に改名されたのは大宝律令(701年)で、という学者も多く、天武天皇が改名したというのは学界の定説にはなっていない。大宝律令説はギリギリまで遅めにみてるわけだが、なぜそこまで引っ張らねばならないのか、必然性が理解しにくい。ただの左翼根性じゃないのかと勘ぐりたくなる。大宝律令説への批判は後述するが、ともかく、天武三年(674年)三月七日には日本で始めて銀が産出したと対馬から報告があり、この銀をすべての天神地祇に献上し、官僚貴族たちにも下賜した。書紀では日本全体をさすヤマトは「日本」と書き、今の奈良県をさすヤマトは「倭国」と書き分けているのに、この条文では例外的に日本全体をさして「倭国」と書いている。これはこの時までは倭国と書いていたのをこの時に日本と改名したことの名残ではないか。天武十二年(683年)正月二日には三本足の雀が献上されこれを瑞祥として天武帝から長い詔勅が出され大宴会が催されている。大和岩雄は、改名した日付をこの天武三年(674年)三月七日か、同十二年(683年)正月二日のどちらかが「改名された日付」だとして、この2案に絞っていた。これは後に「禰軍墓誌」の発見によって決着する。
4)百済別名説は、倭国は百済の属国だという説が70年代から北朝鮮や韓国で流行していたが、平成23年(2011年)に発見された「禰軍墓誌」に日本という国名が書かれており、これが日本列島の国ではなく、百済の別名のように読めることから、前述の任那日本府説と似たような説を新たにつくることができる。つまり百済(=日本)が滅亡した時に倭国に逃げた亡命百済人が倭国を征服して日本国ができた、と。またこれとは無関係に、新羅にも日本という別名があったという説があり、新羅が倭国を征服して日本国を作ったというバリエーションもすぐできる。「禰軍墓誌」については後述する。

上記の四説は日本が倭国を併合したという『旧唐書』に従っている。これに対し『新唐書』のほうが正しいとして倭国が日本を征服したのだというのが下記の三説。

5)谷川健一の物部氏説では、神武天皇以前に饒速日命に始まる物部氏の勢力(王朝?)が関西を支配していて、大阪府の草香には太陽信仰の中心があって「日下の草香」(ひのもとのくさか)と呼ばれていたという。つまり『新唐書』の倭国が日本を併合したというのは神武東征のこととなる。しかし時期があわないし、草香を日下と書くのもここに日祀部(ひまつりべ)があったことで説明は十分に思える。この物部説も今では否定されている。
6)高橋富雄の蝦夷地名説は、坂上田村麻呂が東北の蝦夷の地の石碑に「日本中央」と書いた伝説その他の事例から東北を「日本」といっていたことがわかる。『日本書紀』が今の宮城県仙台平野を「日高見の国」といっていて、この日高見は日本と同義ではないかとし、「大祓詞」に天孫が「大日本日高見国」を治めるとあるのは日本一国の美称ではなくて、大日本(おほやまと=倭国=西日本)と日高見(=日本=蝦夷の地)を併称したものだという説。ただし倭国による日本の征服を斉明天皇の時の阿倍比羅夫による征夷としているのでこの説も時期があわない。後世、東北地方を日本と呼ぶようになった経緯については後述する。
7)前述の百済別名説を逆転したような話で、倭国百済合体説。亡命してきた百済王族から、天智天皇は百済王位の証である「大刀契」(だいとうけい)を献上され、ここに百済王をも兼ねる存在となり、旧来の倭国と百済とが合体して新しくできた国として日本を名乗ったのである、という説。岡田精司だったか誰か忘れたが以上のようなことをいっていた。ここで「禰軍墓誌」の誤読に基づいて、百済の別名が日本だったとすると、倭国が日本を吸収したというような理屈が成り立つ。

『新唐書』の説は後世の知識で辻褄合わせに書き直したものというのが通説で、『旧唐書』の方がオリジナルであるから、上記の三説はどちらも不可である。

「日本」に改名した時期の絞り込み
改名した時期についていうと『旧唐書』によって670年に唐に到着した遣唐使までは「倭」と自称していたことがわかる。また「日本からの使者」と自称した遣唐使の最初は粟田真人だという。彼は702年に唐に到着している。『旧唐書』日本伝では長安三年(AD703)としているが『旧唐書』武后本紀と『通典』がともに長安二年(AD702)としているので、703年説は誤記だろう。『続日本紀』によると確かに文武天皇大宝元年(AD701)に粟田真人(あはたのまひと)を遣唐使に任命、翌二年(AD702)に出航している。となると倭から日本への改号は、早くて670年、遅くて702年、その間の出来事であると絞られる。
後述の「禰軍墓誌」と『日本世記』も採用できるなら678年から686年頃までの間と、さらに絞れることになるがこれについては後述。これと別に岡田英弘は『三国史記』新羅本紀を盲信して日本への改号は670年のこととしているが、これは旧唐書の670年の記事と703年の記事の間に改号の話が書かれているので直前の670年の記事の続きだと誤読したもの、というのが通説であって『三国史記』の独自伝承などではない。岡田英弘はたいした根拠もあげず断言調で言う割りにこういうポカミス(?)が多いので要注意人物だ。これとも別に、702年に則天武后が日本と名付けたのだという説がある。唐の許し無しに勝手に改名できないはずだ、と。こういう人は、もし則天武后が認めなかったら倭国は日本への改名を中止したとでもいうのだろうか。702年は明らかに日本側からの自称であるが、日本側の自称を則天武后が認めたから則天武后が日本と名付けたことになるのだ、という理屈はおかしいし、反対されてそれを押し切って始めて自称したことになるとでもいうのだろうか…。日本の国内でいつ発表したかということとは無関係に、端的な事実として対中国外交で始めて「日本だ」と公式に伝えたのが702年であることにかわりはないが、それだけのことにすぎない。単なる情報認識を「許可」「容認」と自然に思い込んでしまう心理は相手に対する卑屈さ以外の何物でもなかろう。我々はニホンとよぶが英語圏でジャパン、中国でリーベン、韓国でイルボンとよぶのは各国が国内で勝手にやってることで、別に日本が許可するとかしないとかの問題ではない。高句麗が高麗と改名したのは450年頃で、高句麗からの国書もずっと「高麗」だったと思われるが、中国側は520年まで無視して「高句麗」と呼び続けていた。しかしそれで国交が揉めたわけではない。倭国が天子と自称しようが、天王あるいは天皇と自称しようが、向こうは勝手に「倭王」と言い直してくる。それは各国が勝手に自国の都合でやってることであり、それを、武力を用いても自国の論理を強要するか、喜んで相手の主張を受け入れるか、どっちつかずでスルーするかは、その時々の政治的な都合と力関係、エネルギー効率、特定目的意識などの諸要素で決まる。中国はどちらかというと異民族との国交を必要としている場合が多いので、相手の自称を認めないまでも、それを理由に揉め事を起こすぐらいなら無視することが多め。ちなみに『日本書紀』では南朝の宋も梁も一切その国号を認めず「呉国」(くれのくに)で押し通してる。南朝の国々の自称を日本は認めなかったことになるのかというと、そうではなく、単に日本国内での呼び方が「くれ」だっただけだろう。外交文書には当然相手の正式な国名を書くにしても、国内では日本語を使っているのであって「くれ」という日本語があるのだから、国内でわざわざ相手にあわせて宋だの梁だのと呼んであげなければならない理由はない。日本国内の日本人で、アメリカ合衆国を「ベイコク」といわずいちいち「ユナイテッド・ステーツ」といってるやつがいたらアホだろう。

「禰軍墓誌」の解釈
「禰軍墓誌」の一文を一部の人は「日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した」と訳してるが、その部分の原文は 「…于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅風谷遺甿負盤桃而阻固…」となっている。この原文みると「負」になってる字を、訳の方は「信」と読んでるのか? 「負う」とした方が意味は通るが。ともかくこれだと単に「百済の別名として」日本って言葉を使ってるだけで「百済にいた倭人」だけを「日本」といったという解釈はできない。日本とか扶桑とか、もともとは漠然と東のはてをさす架空の地名だった。だから日本とか扶桑という名で具体的にはどこをさしてるのかは文脈によってかわってくる。禰軍という人は高句麗・百済・新羅・唐・倭国が入り乱れた戦いの中で出世した人だから、その生涯を讃える墓誌には各国の名を書かざるを得ないんだが当時の国際情況は流動的で、唐が突然どの国と和親しその国と戦争するかわからない情況だった。だからあまり特定の国をやっつけたって自慢しにくいので各国の名を当時の架空の地名に置き換えて書いてる。この墓誌では百済とか倭国とかの正式な国名を言いたくないから、わざと架空の地名をもってきてボカして書いてる。事件レポートとかで「埼玉県の鈴木一郎さん31歳(仮名)」とかいう時の仮名のようなもの。でもこの文章よめば当時の人は何のことだかわかるようにはなってる。だから、扶桑とか日本とか風谷とか盤桃とか、ぜんぶ当時は正式な地名として使われてない言葉ばかり選んでるわけ。そうと気づけば、この墓誌に書かれている「日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ…」というのは、単に「百済の残党が倭国に逃げた」といってるに過ぎず、何の問題もなくすんなり解ける。事物の名を雅語に置き換えるのは漢文ではよくあることだ。当時はまだ日本も扶桑も、漠然と東の方にある国っていう意味しかないんだが、中国の古代神話では、扶桑の方がより東で、日本はその近く(手前側つまりちょい西)っていう設定に一応はなってる。だから、百済のことを日本、倭国のことを扶桑と表現してるわけ。従って、百済そのものの別名として日本という名が実際にあったわけではないし、まして百済在住の倭人集団を日本と呼んでいたということにもならない。逆にいうと、百済の別表現で日本という単語をもってこれたということは、この墓誌が書かれた678年(天武七年)の段階では当時まだ倭国は日本に改名していなかったということがわかる。改名済みだったら百済を差すのにわざわざ日本という単語は選ばなかったはずだから。

結論・改名の正確な時期(対中国)
つまり改名の時期は遣唐使の情報から「670年〜702年の間」とされてきたが「禰軍墓誌」のおかげで「678年〜702年」と絞られることになった。となると天武三年(674年)に倭国から日本に改名したということはありえないから、大和岩雄のもう一つの候補である天武十二年(683年)説の方が正しいことになる。これに対して、前述の701年の大宝律令説もあるが、これはダメだ。『三国史記』新羅本紀の孝昭王七年(698年)には「日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す」とあるからすでに日本になっている。また『日本書紀』に引用されて書物に『日本世記』という書がある。天武朝の末頃(686年)に編纂されたものだから、その頃には日本になっていたのがわかる。日本書紀は倭の字をすべて日本に書き換えているが、書物の題名まで書き換えることは当時も歴史の常道としてないことなのだ。また天武十年(681年)の飛鳥浄御原令で日本になったとの説もあるが、この年は律令の編纂を命令した年であって完成した年ではない。大宝律令説もそうだが、国名変更を必ずしも律令の制定と絡めて考えなければならない必然性はない。国名は所詮は地名であって法ではなく、律令は王朝を規定するものではなく王朝が律令を規定するのである。王朝=天子は法の上に立つ。国号=「朝号」の改定を律令と絡めようというのはよほど年代推定の手がかり探しに窮しているのだろうが、大和岩雄のように天武紀をよく読みこめば、不自然な(理由の不明瞭な)宴会が何度か開かれており、背後の政局がいろいろ推察されるケースがある。宴会の理由と思しき瑞祥なども三本足の鳥など「日本」という国号と関係の深いものが出てくることがある。上限は「禰軍墓誌」によって678年、下限は『日本世記』によって686年。その間の候補として681年説(飛鳥浄御原令説)と683年説(大和岩雄)があるが、前者はすでに述べたように無理。670年説(岡田英弘)・674年説(大和岩雄)・701年説(大宝律令説)・702年説(武后命名説)は皆はずれる。

改名の理由(…&本当に改名だったのか?)
天武天皇が改名したといっても、前述の通り、表記を変えただけで読みは一貫してヤマトなのだから、国内的には国名を変更してはいないともいえる。ただ、書かれた文字がすべてである中国人に向けてのみ改名しているのだ。これは白村江の戦いで負けた前政権(倭国)と現在の天武政権とは別の国ですよ、というアピールである可能性は高いとは思うが、そんなコスいやり方が通用するのかというツッコミも、言われてみれば反論しにくいが、壬申の乱というのは関ヶ原の戦いと戊辰戦争をあわせたような、史上最大の大戦争だったので、それを経験した当事者が王朝交代を気取ってみせても文句を言われる筋合いはないって気分もわかるんで、この時期に国名表記をかえることになった理由には格別疑問は残らない。天武天皇が改名した理由についていろんな人がいろんなことを言ってるが、これ以外の理由はどれもこれも過大に評価してはならない。例えば、蘇我氏についても宗賀・巷我・蘇賀など様々にかかれたように、当時は発音=読みが「名前」なのであって漢字表記はなんでもよかった。倭だろうが日本だろうが所詮「当て字」なのであって、国名はヤマトで何も変わりないわけで、国内向けとしてはインパクトはかなり弱かったろう。それだけでなく、後述のように、日本と書いてヤマトと読むこと自体は、それまでも公式・正式な書き方とされてなかっただけで、そういう書き方自体はもっと前からあったのだとしたら、なおさら驚きのない話だったろう。
また「改名」ではなく「表記方法の変更」だとわかれば、なぜまだ倭国だったはずの天智天皇以前までもさかのぼって「日本」と書いているのかも理解できる。これは実は高句麗にも前例があり、前述の通り450年頃に「高麗」と改名したのは国名の変更ではなく、これもただの表記の変更(ただし中国に向けてのみ「改名」)で、自国語での自称は「コマ」だったと思われる。

第2章(前編)対中国と対朝鮮で時期が異なる説
ところで、新表記を決めるにあたって「日本」以外にも候補はいくつもありえたはずで、後世に日本の別名としてあげられた中国の神話上の地名としては日本の他にも「日下」「日域」「日東」「扶桑」「扶木」「若木国」「蓬莱」「方丈」「瀛洲」「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「烏卯国」「阿母郷」等がある。それらの中からなぜ「日本」が選ばれたのかという問題はある。おそらく正式な名称ではないながらも、倭国の別名として日本という名は並行して使われたのていたからではないか。これは何もわたし個人の説ではなく、本居宣長は中国に対して日本を使うより前に、中国には倭と称するが三韓(朝鮮)諸国には日本と称していた時期があったとしている。宣長は、大化元年(645年)七月に高句麗と百済に下賜した詔書に「明神御宇日本天皇」と書かれていることから、対中国では702年の遣唐使から日本という名を使ったが、三韓(朝鮮)諸国に対してはそれ以前から日本を使っていたのではないかと考えた。現在ではこの部分の「日本」は『日本書紀』が書き換えたものとして宣長の説は否定されているが、個人的には宣長の方が正しいのではないかと思う。なぜか。書紀に引用された百済三書のうち『百済記』と『百済新撰』は倭と書いているのに『百済本記』だけが日本になっている。書紀が一律に日本に書き換えたというならなぜ『百済記』と『百済新撰』は倭のままなのか説明がつかない。そこで小林敏男は、日本という名は「百済から倭国を呼ぶ表記」として成立し、国号として正式に採用される以前から、ヤマトを日本と書く行為が流行していたのではないかと推測している。このことは軽く流してはならない。これは事実上、宣長説の復権だからだ。
さてそこで、百済三書ではいつまで倭で、いつから日本になっているのかを調べると、武烈四年(502年)に百済の昆支王子(こんきせしむ)が倭国にやってきたという『百済新撰』の記事が「倭」の最後で、継体三年(509年)に久羅麻致支弥(くらまちきみ)が日本から百済に派遣されてきたという『百済本記』の記事が「日本」の初出だ。さすれば「502年〜509年」の間に倭から日本への改名があったことがわかる。しかしこの時期に国名をかえねばならないような特別な理由として一体なにがあったのだろうか?

第2章(中編)「于山国」について
この頃、新羅は現在の鬱陵島にあたる「于山国」(うさんこく)を亡ぼして併合している。
『三国史記』新羅本紀によると、新羅は503年にそれまで様々に書かれていた国名を「新羅」に統一し、尼師今(にしきん)という君号を「国王」に変更した。505年には悉直国(しっちょくこく)を併合して悉直州(日本海沿岸地方)を置き、異斯夫(ゐしふ)という臣下を悉直州の軍主(地方長官)に任命。512年には異斯夫は何瑟羅州(かしらしゅう)の軍主となるが、悉直州も何瑟羅州も同じものの別名で、ただ州治所が悉直(今の江原道三陟市)から何瑟羅(今の江原道江陵市)に遷ったため州名もそれに応じて変わっただけのようだ。この年、異斯夫は現在の鬱陵島にあたる「于山国」を攻めて服属させたといい、異斯夫列伝にも同じことが書かれているが、これがおかしい。鬱陵島の対岸の三陟にいた時は何もなく、北に遠ざかった江陵に遷ってから島を攻めたというのは不自然だ。原資料には何瑟羅州の軍主になった時とあったために編纂者の金富軾は512年のことと判断したのだろうが、州の治所が移転しただけなのにまるで別の州の軍主に転任したかのような書き方になってるのは、悉直州と何瑟羅州が同じ州だと知らない者が誤認に基づいて書いた原資料を、金富軾がそのまま載せているのだ。同じ州の軍主なのだから異斯夫は2回ではなく1回しか軍主になっていない。軍主になった時に于山国を服属させたというのは、従って実は512年ではなく505年のことなのである。
この「于山国」だが、毛利康二は『梁書』にでてくる「扶桑国」とはこの于山国であることを詳細に論証している(その詳細は面倒なので引用しないが別の機会に詳しくやるかもやらないかも)。新羅に征服される前の于山国は仏教の栄えた独立王国として中国にもその名が知られていたのである。毛利康二は『三国遺事』にでてくる延烏郎(えんうろう)と細烏女(さいうじょ)が日本の国王になったという話に出てくる日本とは、日本列島の倭国とは関係なくて、この鬱陵島のことだったというが賛成できない。『三国遺事』はかなり後世の書物だから、その日本とは日本列島の日本(かつての倭国)のことと考えるのが普通だろう。ただ、延烏郎と細烏女の伝説なぞ持ち出さずとも、扶桑というのはもともと中国の神話にでてくる架空の地名を借りたもので、現地の土着語ではないし、鬱陵島の本来の地名でもない。そして日本というのも元は中国の神話上の地名で、東をはてをさす漠然とした言葉だったという点では、扶桑の類語というか、ほぼ同義語、同語なのであり、于山国(鬱陵島)には扶桑国の他に「日本国」という別名もあっただろうことは容易に想定できる。そして、扶桑にしろ日本にしろ、どちらも、後年倭国がそう呼ばれることになった名でもある。これは偶然だろうか。前述の、百済が倭から日本へ呼び名を変えた時期(502年〜509年)に、于山国が新羅に征服された505年はまさに含まれているではないか。
『日本書紀』雄略二十二年に浦島子が蓬莱山に行った話がでている。『丹後国風土記』では蓬山になっていてこちらが正しく、書紀が蓬莱山と書くのは蓬山を蓬莱山の略記だと誤解したからだが、蓬は扶桑の「扶」と音通、蓬莱山の山は于山国の「山」で、蓬山=扶桑=于山はいずれもフサンの音写である。鬱陵島の扶桑国は中国にまで有名だったのだから、鬱陵島に独立国があることは倭国にも知られていて当然だろう。それが浦島伝説の複数の元ネタのうちの一つなのである。

第2章(後編)倭国から日本へ改名した時期(対三韓)
毛利康二は平安時代にも鬱陵島の住民が山陰地方に流れついた例をあげているから、于山国が新羅に滅ぼされた時、倭国に逃げてきた者もそれなりにいたのではないか。倭は新羅を属国とみなしていることは于山国にも知られていたろうが、仮に知らなかったとしても、彼らが倭王(天皇)に助けを求めることはありうる。彼らが第二の故郷と定めた倭国に、改めて扶桑または日本という名をつけたのではないか。そもそも扶桑も日本も、于山国の本来の名ではなく、中国の神話にでてくる仮想上の地名であり、東のはてを漠然とさしたものである。しかしその名を借りた国家は新羅に滅ぼされてなくなった上、倭国は鬱陵島よりも東へと広がっているのだから、むしろ倭国のほうが扶桑や日本の名にふさわしい。ただし、その時には扶桑の名は選ばれず、日本という名だけが採用された。そのわけは、扶桑国がすでに仏教の栄えた国としてだけでなくその他の特殊な文化も含めて中国に有名になっていたので、現実の倭国とのイメージのギャップが大きかったためと思う。我が国の別名として扶桑が使われたのは三百年以上あとの貞観元年(859年)のことで、この頃は倭国とは別に扶桑国が存在したこともほぼ忘れられていたのである。
なお、新羅も于山国を併合したことで扶桑もしくは日本を名乗る資格を得たわけで、そこで国名改定の議が起こった。『三国史記』新羅本紀によると、新羅は503年にそれまで様々に書かれていた国名を「新羅」に統一し、尼師今という君号を「国王」に変更したというが、この記事はすこぶる怪しい。考古学的に判明している事実としては、この後も新羅は長いこと寐錦王と葛文王の二重王制であり、まだ「国王」制ではなかったのである。503年の事実はそれまでの寐錦を寐錦王、葛文を葛文王に改めたというだけであり、君号改定の記事だからついでに国名改定の件も同記事に書かれただけだろう。国名改定の方は実際には2年後の505年の話なのだ。つまり于山国を併合したからこそ国名改定の議題が生じたわけで、今まで何の支障もなかったのに、この時になって訳もなく国名改定の議がでてきたとしたらおかしいだろう。しかし倭国が日本と改めることになったので、新羅には扶桑も日本も使わせないことになったのだろう。「いろいろな言い方があったのを新羅という表記に統一した」というのは、その真相は国名変更が沙汰止みになって「新羅」に固定させられたということなのである。むろん、とはいっても非公式な私称としては稀に使われた。唐の頃になってもまだ新羅の別名として日本が使われることがあったのはこの名残だろう。ちなみに『日本書紀』の編年では505年は武烈天皇七年にあたるが、武烈天皇は実際はもっと前の人で、この頃はとっくに継体天皇の時代になっていたと思われる。

第2章(補足)「于山国」はもとから新羅領だった?
ところで、新羅が于山国を勝手に征伐すると、それを口実に倭国が干渉してくる恐れがあったはずだ。現に、524年に新羅が金官(そなら、今の金海)と喙己呑(とくことん、今の慶山)という2ヶ国を併合した時は、日本は新羅を成敗するため6万もの大軍を派兵して任那が大騒ぎになったことがある(この時の将軍が近江臣毛野)。鬱陵島は任那にはふくまれないが、理屈はなんとでもつく。当時の国際社会は現代と違って、「たとえ国力に大差があっても独立国ならお互いに対等だという建前」が存在しない。「罪もない于山国に攻め入るとは極悪非道、よって悪を糺すための正義の軍だ」と称して、高句麗や倭国や百済が攻め入ってこないとも限らない。通常ならそのはずなのだが、今回はそういう情況が見あたらない。実は、于山国はもともと新羅の一部だという認識が、五世紀の初めぐらいから倭国にも高句麗にも共有されていたのではないかと思われるのだ。それはなぜか。
神話上の樹木である「扶桑樹」が生えているという空想上の漠然とした地名だった「扶桑国」がにわかに具体性を帯びてきたのは前漢の頃からだった。漠たる神話に尾ひれがついて具体化するのはよくある話ではあるが、この前漢の頃というのは漢の武帝が朝鮮を併合して楽浪・玄菟・臨屯・真番の四郡を置いた時代でもある。このうち東経で最も東なのが今の朝鮮半島の江原道にあった臨屯郡でその郡治所のあった県を「東暆県」といい、日本海に望む今の江陵市にあった。東暆とは「東を見る」という意味で、江陵から日本海を渡って東へいけば鬱陵島がある。この鬱陵島の遠望が、中国の文献にみられる「扶桑」の描写の元ネタになったことを毛利康二は発見している。陸地ならば山を越え谷を渡って万里を行軍してきて朝鮮半島を制圧した漢帝国も、沿岸航行ができない四方絶海の孤島となると、わずか100kmの海でも手が出なかったとみえる。この行きたくても常人には手の届かないところが、仙人の住む島というイメージに合致もしていただろう。江原道は濊(わい)という民族の居住地で、彼らは統一政権を作らず集落に分かれたまま、ある時は高句麗、またある時は中国の楽浪郡に服属していた。鬱陵島も初期の住民はこの濊人で、本土の濊人と同じく初期には高句麗の属領だったのだろう。
ところが五世紀になってから新羅の内紛があり、それには高句麗がかかわっていた(※本当はこっから先が面白いのだが、続きは後日執筆予定)


おまけ集

おまけ1東北の「日本」について
坂上田村麻呂が奥州に攻め入った時、矢尻で「日本中央」と彫り込んだ石碑があったという。偽作説もあるが昭和24年(1949年)に青森県東北町から出土したものが有名である。あるいは源義経が奥州逗留期という説もあるが、どちらも誤りで正しくは弘仁二年(811年)の文屋綿麻呂のことである。室町時代には、津軽の武将安藤康季が後花園天皇に「奥州十三湊日之本将軍」と名乗った例がある。安土桃山時代には豊臣秀吉の手紙の中で、奥羽をさして「日本」と呼んでいる。
以上のように東北地方を日本という理由だが、東北をさす場合の日本は必ず「ヒノモト」と読み、ニホンでもヤマトでもない。単に東方を意味する言葉であることがわかるが、よりによってこんな紛らわしい言葉がなぜでてきたのか。
おそらくこの起源は、上記のように弘仁二年(811年)の文屋綿麻呂の「日本中央」だろう。喜田貞吉は樺太や千島列島まで含めると、この石碑が出土した青森県東北町がちょうど日本列島の中心となることを指摘している。つまり文屋綿麻呂が彫りつけた「日本中心」とは「ヒノモト・モナカ」ではなく「ヤマト・モナカ」の意味だったことがわかる。この時点では、日本と書けばヤマトのことであって、まだ東北を日本(ひのもと)という習慣は生まれてなかった。しかしその後、この石碑が「つぼのいしぶみ」として有名な伝説になるとともに、日本列島の地形に関する知識も失われていき「日本中央」が蝦夷の地の中央の意味に誤解されるようになったのだろう。このことから奥羽の別名としての日本(ひのもと)が生まれた。

おまけ2「大和」という表記の起源
(※この文章はこちらに移動しました→「継体天皇にはなぜ物語がないのか」)

おまけ3「倭」の字は「于」だった?
その他、「倭」という漢字の起源や由来についても、通説とは少しだけ異なる自説があるのだが、『三国志』にでてくる「汙人国」を『後漢書』は「倭人国」と書いているところから、汙と倭は同音か同義であるとわかる。汙の字を「濊」(わい)のことだとする説もあるが、三世紀には倭と濊は別民族になっていたがそれでも言語系統はかなり近かった。さらに古くは倭も濊も同一民族だったのだろう。倭の字は周王朝の始め頃までしか遡れないが、この汙の字が倭と同字だとすると、古く夏王朝の時代に、「于夷」という民族がいたという。他に畎夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷がいてこれらをまとめて九夷といった。畎夷は「犬戎」、白夷・赤夷は「白狄・赤狄」、風夷は山東半島の風姓の諸国、黄夷・陽夷は長江流域の小国、これらはそれぞれ後世の春秋時代の諸民族にあてはめが可能である。このうちの于夷が後の倭人なのであろう。ここまでは似たようなことをいってる人が他にもいるのだが、この「于」は何を意味しているのか。おそらく音写だろうが、古い発音はなんだったのか。長沢和俊『シルクロード』だったか岩村忍『中央アジアの歴史』だったか忘れたが(どちらも講談社学術文庫)、中央アジアのホータンは前漢の頃までは「于闐」(うてん)と書かれており、この漢字で書かれた地名のさらに古い発音は、おそらく[yu-tu-vi(bi?)]だったろうと推定されるという。とすると、vi(bi?)の部分がなんだかよくわからんが、于が[yu]で、闐が[tu-?]だろう。于の字は[yu]。ヤマトの頭音と[y]が通じる。臣瓚だか如淳だか師古だか忘れたが「倭の音は一戈の反」(「一」「戈」の反切)という。上古音の推定は諸説あってあれだが一は[yit]または[iet]、戈は[kaj]または[kuar]だから反切するとヤマトの「ヤ」に限りなく近い。そうすると倭面土もヤマトと読みたくなるがこれは岡田英弘がいうように国王の2文字を誤って重ね書きした「倭国王国王」がさらに誤記されて「倭面土国王」になったものというのが正しそう。であっても倭の音が初期には「ヤ」で、ヤマトからきている可能性は否定できない。ヤマトって言葉がそんな古い時代からあったのか、なかったのか、それはわからないが、三千年もの間に発音が変化して、于と倭はぜんぜん別の音になってしまったが、もともとは同じ音だったのである。

おまけ4「ヤマト」の語源
(※この文章はこちらに移動しました→「懿徳天皇」)

・「天皇」という君号の起源(中編)

2679年(H31年=新年号元年)1月30日(水)改稿
※「天皇」という君号の起源(前編)からの続きです

天武帝が「天皇」と称した理由
では天武天皇はなぜ「天皇」を始めたのか? 天武天皇も即位した当初は、天智天皇(もし大友皇子が即位していたら弘文天皇も)のように「天子」と「皇帝」の二つで回していたはずである。通説にいうとおり、唐の高宗が674年に天皇と称したのを真似たのだろうが、ここで問題は三つある。
第一、高宗と天武帝、どちらが先か。仮に高宗が先だとして、天武帝はそれを知った上でそれを真似たのか、知らずに独自に考えたことなのか。
第二、天武帝はなぜ天子や皇帝ではダメで、新たに天皇と称する必要があったのか。
第三、そもそも天皇が三皇の一つの「天皇」でなく「天皇大帝」のことならば、天武帝と無関係に、唐の高宗自身も天皇と称するのはおかしいことになる。なぜ高宗は天皇と称したのか。
第一の問題については、当時は唐と新羅が交戦中で、日本と唐の往来も断絶しがちであり、天武帝が高宗の天皇号を知っていた可能性はない、という説がネット上にあったが、そんなことはない。『三国史記』新羅本紀には675年の二月に紛争があって唐の高宗と新羅王がやりとりをしているから、高宗からの書状には「天皇」とあったはずであり、それについての説明も使者からうけたろう。そして『日本書紀』では同年の二月と三月、続けて新羅からの使者がきているから、そこで最新情報は得られた。そんな細かいことをいわずとも、まだ局地戦の続いている不安定な時期だからこそ各国とも情報網をはりめぐらし、民間のパイプや情報収集工作は常時怠りなかったはずであり、公式の使者の交換が書かれてないから情報が途絶していたはずだなんてのは馬鹿げている。そこで、なぜ高宗が天皇などというきいたこともない珍妙な称号を始めたのか、その経緯も日本側は詳細に知ったに違いない。当時は君主の称号は重大で、格上の国も格下の国も互いに相手の君号に関心を寄せざるを得なかったろうから当然である。で、天武帝の立場として普通に考えると天子と皇帝でまったく問題はなく、新たな称号など必要ないように思える。従って、天武帝が独自に「天皇」号を考えだすというのは、まぁ人間の趣味はクリエイティブなものだから絶対にありえないとはいえないわけだが、やはり必然性には乏しいと言わざるを得ない。
第二の問題については、今答えてしまったが、天武帝の立場として普通に考えると天子と皇帝でまったく問題はなく、新たな称号など必要ない。従って、もし高宗の「天皇」号の事情を聞かなければ、日本天皇は誕生せず、この先もずっと天子と皇帝だけで後世までいった可能性が高い。これらは「普通に考えて」のことであるが、現実はそうならなかったのだから、ここでは普通でないことが起こっているのである。普通でないこととは、言い換えれば「特殊なこと」である。つまり、高宗の「天皇」号の特殊な事情が、天武天皇の特殊な立場にとって極めて都合のよいものだったのである。それは何か。その答えが第三の問題の回答ともなる。

唐の高宗が「天皇」と称した経緯
高宗の妃の一人、則天武后ははじめはおとなしくしていて高宗のお気に入りとなり、多くの妃たちの中から順当に昇格して、655年(日本では斉明天皇元年)には皇后まで登りつめた。ひじょうに知能が高く策略家でもあったので政治にも口を出すようになり、次第に高宗以上の権勢を振るい出した。660年に新羅とくんで百済を滅ぼしたのも、663年に白村江の戦いで倭国を破ったのも則天武后だった。政権を完全に掌握した武后に恐怖を覚えた高宗は、664年に武后を排斥しようとしたが武后に察知され失敗、高宗は皇帝とは名ばかりの籠の鳥も同然となる。こうした中で674年、高宗は皇帝から「天皇」へ、武后は皇后から「天后」へと称号を改め、二人を「二聖」とよばせた。この称号改定は則天武后の都合によるもので、高宗は強要されたのである。ちなみにこの頃はすでに『晋書』はできており、北極星を「天皇大帝」という名でよぶ風習はできていた。高宗は後に死没した後で「天皇大帝」という諡号を贈られてはいるが、ここで天皇と称した時の段階では天皇大帝との関係はない。また天后は媽祖(まそ)という道教の女神の称号にもなっているが、媽祖信仰は宋代以降に出てきたものだからこの時代にはまだ無い。皇后という称号は「皇」帝の「后」の意味だから、皇帝の臣下にすぎず、どうしても皇后では皇帝より格下である、そこで、夫婦が対等となる称号として考えだされたのが「天皇と天后」だった。この称号を解読すると、「帝」という絶対者を連想させる文字を外し、三皇(天皇・地皇・泰皇)の中では泰皇には劣る(つまり一番ではない)天皇を出して、その配偶には天の字を共通させて天后としている。皇帝と皇后も皇の字が共通しているが、皇帝が三皇五帝の略なのに対し、皇后の皇は后の形容辞(皇帝のものという意味)だからぜんぜん対象ではない。しかし天后は新規につくられた言葉だから自然に読めば「天皇の后」という意味に読む人間はいない。「天皇と天后」の字づらは「天子と天女」または「天人・天女」に似ている。天人・天女ならば対等だが、天子と天女では、漢の武帝と西王母の伝説も連想され、天女の方が上にも感じる。天后という言葉は後世、道教で最も人気の女神「媽祖」の称号にもなっているように、女神クラスのニュアンスがあり、対等の配偶は「天帝」となろう(この時代、伝説時代の君主である五帝を「五人帝」として、自然界や人間の運命を支配する神々を「五天帝」という言い方があった)。要するに「天帝・天后」は神なのであるが天皇や皇帝は人君の称号にすぎない。ここに則天武后の意図があり、高宗の天皇号は最初から天后とセットで意味をもつのである。つまり「形式上は対等だが実質的には奥さんの方が上」というイメージを打ち出すことが目的の称号なのである。
天后は天皇の格下の存在ではなく、理屈の上では共同統治者なのであるが、実際には則天武后の独裁で、高宗はお飾りだった。しかし唐王朝からの対外的な公式の説明としては当然ながら「則天武后が聡明であるゆえに対等の共同統治者とされた」ということだけで、スキャンダラスな情報は排除されたろう。

天武帝の微妙な立場
天武帝は壬申の乱で勝利したが、その正当性は微妙だった。江戸時代の水戸学者たちの中でも、大友皇子が天智天皇の正統な後継者で、大海人皇子は謀反して天智系から皇位を奪い取ったのではないかという「天武簒奪論」がさかんに唱えられた。『日本書紀』にも天武帝を誹謗したとして何人もの人間が流刑になったりしており、当時から天武帝に批判的な人々が多かったことがわかる。ところで、壬申の乱より以前から、大海人皇子は兄である天智天皇の娘(つまり自分からは姪)を四人も妃にしていた。これは傍系から入った仁賢天皇・武烈天皇が雄略王朝の女性を皇后にしたり、継体天皇が仁賢天皇の皇女を皇后にしたのと同じような効果をもつ。従って、もしその四人のうち誰かが産んだ皇子が将来あとを継いでいけば、天武系は女系を通じて天智天皇の子孫ということにもなり、天武帝の正統性を大きく裏付けることになる。…とまでいったら行き過ぎかもしれないが、少なくとも露骨な簒奪論を抑制する効果をもつ。しかもこの四人のうちの一人、鸕野讚良姫(のちの持統天皇)は、聡明で活発、壬申の乱の軍中にも同行して作戦会議にも参加して、大海人皇子を補佐したほどで、天武帝の即位後は政治の場にも同席して諸事を捌き、事実上、天武帝の共同統治者であった。天智天皇の娘が実際に実権を握っているということ自体が、天武簒奪論を弱め、さらには天武系の正統性への疑義を封ずる傾向に作用したことはもちろんだろう。つまり、天武帝にとって、鸕野讚良姫の存在は自身の正統性を保証するもので何よりも大切な宝だった。
こういう情況にあって、唐からもたらされた情報は、唐では皇帝と皇后の称号をかえて、夫婦対等な「天皇と天后」となったというのだ。天武帝は「コレダ!」と閃いたに違いない。鸕野讚良姫を優遇して自分の正統性を明示するのにこれ以上の名案はない。天智天皇の娘と自分は対等なのであり、けして天智系を下に置いているのではない、という最高のアピールではないか。
この情報は天武四年(675年)の二月と三月にやってきた新羅の使いのいずれかからもたらされ、天武帝と鸕野讚良姫はさっそく夫婦して称号改定の相談を始めただろう。翌年の正月元旦、意味不明なイベントが書かれている。朝廷の官僚貴族たちに、それぞれの官位に応じて大規模な下賜品つまり天皇皇后からの大プレゼント大会があり、その日のうちに大宴会が開かれた。続いて同月十六日には射的大会が催され(今でいえばビンゴ大会みたいなこと)、同日にまた宴会。『類聚国史』によるとこの時の宴会は日本最初の「踏歌節会」(とうかせちえ)だったという。踏歌というのは後には日本化して変形していったが、当時は中国伝来の歌舞で足を踏み鳴らして群舞するもの。十六日という日付は満月を待ったものだろう。つまり外庭で夜まで賑やかに歌舞い踊っての大宴会だったと思われる。これらの大宴会は何のためとも書かれてないが、おそらくこの元旦で君号改定が発表され、天武帝は始めて「天皇」、鸕野讚良姫は「天后」となった。そのお披露目パーティーなのである。ではなぜ現在残っている『日本書紀』にはそのことが書かれず、なんのための宴会だかわからなくなっているのか。もちろん都合の悪いところを後から削除したからだが、では、これのどこが都合悪かったのか。
かるた_持統天皇春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山

持統天皇の身のふりと則天武后の失脚
天武十五年(686年)天武天皇崩御。しかし皇太子の草壁皇子は体が弱く、すぐに即位できる情況ではなかったので、「天后」鸕野讚良姫が称制することになった。称制というのはわかりやすくいうと摂政みたいなこと。これより3年前の683年、唐の高宗が没し、則天武后は高宗に「天皇大帝」という諡号をつけた。これはよく考慮したものではなくて、天皇から連想される既存の単語を適当につけただけの投げやりな諡号である。次の天子として中宗を、ついでその弟の睿宗を擁立していた。二人とも則天武后の実の息子だが、二人とも何の実権もない傀儡だった。この頃の唐の君号がどうなっていたのか不鮮明でよくわからないが、おそらく則天武后は「天后」の地位に留まり、中宗や睿宗には「皇帝」号も「天皇」号を許さず、「天子」とのみ称させていたのではないか。「天皇・天后・天子」と並べると「父・母・子」のセットに見えてしまい、天子は、いかにも天后より格下の扱いのような印象になる。この頃はまだ則天武后が失脚する前だから則天武后の実態は日本に伝わっておらず、持統「天后」は則天武后に倣って、夫の亡き後、息子の保護者たらんとしていたのだろう。689年、草壁皇子が薨去し、やむなく持統「天后」は草壁皇子の忘れ形見、自分からは孫にあたる軽皇子(のちの文武天皇)が成長するまでということで翌年の正月に即位して持統天皇となった。
天武天皇自身の感覚としては「天皇と天后」というセットの称号は、歴代からみればイレギュラーなものであり、あくまで自分の特殊事情に基づくもので、子孫代々継承するような趣旨の称号ではないと考えていただろう。それをわかっているからこそ鸕野讚良姫は、草壁皇子が薨去した後、即位にあたって天皇ではなく、則天武后に倣って「天后」の表記のままスメラミコトに即位したのであろう。あるいは人はこういうかも知れない、最愛の夫の事業を継承するという意味を込めてここは一つ天后ではなく「天皇」に即位したのではないか、と。それもありうるが、自分が夫に成りかわるというのは何か違うのではないか。草壁皇子にかわって軽皇子を「天皇」にすることが目的であって自分がなることが最終目的ではない。最愛の夫は「天皇」と完全に同格の「天后」という称号を残してくれたのだから、これに乗らないでどうする。
持統天后の即位に影響されたわけではあるまいが、同年九月に則天武后は息子の睿宗を廃位して、自分が天子の位につき、唐王朝を「周」と改名した。つまり李氏から武氏への易姓革命である。しかしこのニュースを日本側は大スキャンダルとは受け取らなかったと思われる。これまでずっと則天武后は素晴らしい女性という大本営発表みたいな話しか出てなかったろうし、その上、新王朝の建国だから中国からも公式には良い話が流れてきたはずである。たしかに易姓革命は衝撃的だが、易姓革命には「禅譲」と「放伐」の2種類あり、前者の場合は譲った方も譲られた方も立派な人って建前だし、中国では革命も普通だってのは日本人も知っているし、国柄が違うんだからまぁそんなもんだろうと気にしなかったのではないか。実際そのへんの反応が何も伝わってないのは、意図的に隠されたわけではなく、当時の人もリアクションに困惑したのだろう。ちなみに前述のとおり、大事件の情報はどうしても入ってくるもので、則天武后の簒奪を、702年の遣唐使まで日本人は知らなかったという説はありえない。むろん公式には知らなかった、聞いてないというふりをすることは政治的な行動としてありうるが、それを真に受けるのはどうかと思われる。
天智天皇の娘である持統天后がもし則天武后と同じことをするなら、天智天皇の皇子たち(自分の兄弟)を優遇し、仮令え自分が産んだ子でも天武帝の皇子は排斥する、ということになったはずだが、持統天后はそうせず、697年に草壁皇子の子である文武天皇に譲位した。今回の中国の例では李氏と武氏は別の一族だが、日本では天智と天武は兄弟であるばかりかお互いに近親婚だらけなので、肉親同士の分裂が起こった場合でも中国とはかなり事情が違う。譲位後の天后は「太后」ということもできたろうが、おそらく訓読みをオホキサキか過去の皇極天皇に倣ってスメミオヤノミコトにかえて、表記は天后のままだったろう。天武天皇と天后は共同統治者として同時並立していたのだから、天皇が天武から文武に変わっただけで天后は形式上そのままで差し支えない。また持統天后自身もこの称号に愛着あったろう。
さて、文武天皇が即位するにあたって、この段階ではまだ、称号は天皇を使わず、天子と皇帝だけで間に合わすという選択も当然ありえたと思われるが、実際には「天皇」が採択された。これは持統天后の意図が働いていたのではないか。我が孫は最愛の夫の継承者であり、そういう者にしか「天皇」という称号は許さない。持統天后の脳内の決意としては「天皇」とは夫天武と我れ持統の両者の血を受け継ぐ者という意味なのであり、文武天皇に「天皇」を採択させたのは、皇位は永久に草壁皇子の系統に限るという宣言なのである。ただ、そうすると、称徳天皇で「天皇」は終わったはずで光仁天皇からは「天子」と「皇帝」の二本立てに戻らないとおかしいが、なぜそうならなかったのかについては後述する。
ともかく、天武帝個人のプライベートな称号だった「天皇」が(草壁系の皇族に限るとはいえ)代々の日本国君主の君号として確定したのは文武天皇の即位の697年からなのである。
701年に大宝律令ができて律令国家の面目も完備し、702年に遣唐使(正確には遣周使)が派遣され、則天武后に歓迎される。ここで倭国が日本と改名したことも「公式に」伝わった。内々の情報としてはもっと早く伝わっていたはずであるが。持統天后は703年に崩御し、2年後の705年には則天武后が失脚して周は唐に戻ってしまった。則天武后の悪女悪役ぶりがようやく世の中に広く知られるようになったのはこれ以降であり、すでに持統上皇は崩御した後のことなのである。つまり、持統上皇の在世中は、則天武后は素晴らしい女性で通っていたので、天后という称号にも美しい響きがあったが、それが一転して世紀の大悪女を思わせる醜悪な言葉にかわってしまった。
だから、それ以降に編纂された『日本書紀』では天后の文字は消されてしまい、適宜、即位前の天后は皇后に、在位中の天后は天皇に、譲位後の天后は上皇に、それぞれ置き換えられた。それは当時の考えとしては歴史の捏造でなく持統天皇の名誉のためなのである。

天武帝の立場は微妙でなく普通だった?
(※後日執筆予定)

「天子」の訓はスメミマノミコト(皇孫尊)でいいのか?
ところで、天皇(というより特に天子)のもう一つの和風よみであるスメミマノミコトは、直訳すれば「皇孫の尊」であって、直訳の上では太陽神天照大神の孫と限る言葉ではなく、一般的に天皇の孫という意味でしかない。むろん「孫というのは代々の天皇がみな天照大神の孫なのだって意味だ」、あるいは「天照大神から天壌無窮の神勅を受けて降臨した孫の邇々藝命と歴代天皇が同格なのだ」っていう思想表明なのだ、という解釈は理解できるし、スメミマノミコトという呼称を定めた律令の趣旨も確かにその通りなのだろうが、なぜこんな婉曲な表現なのか? アメミマノミコト(天孫の尊)ならまだわかるが、このアメミマという言葉も天孫という漢語をむりやり訓読みして作った言葉のように聞こえ、あまり古い大和言葉ではないのではないかと思うが、それにしてもスメミマノミコトのような普通の皇族みたいな言葉よりもアメミマノミコトのほうが神聖至尊の由来を直(じか)に表わしていように、なぜこの選択なのか。
天照大神の子孫を意味する表現としてはスメミマ、アメミマ等の「孫」系の表現の他にアマツカミノミコという「子」系の表現もあった。ただし子孫一般を意味する大和言葉はウミノコ(生みの子の意味)とかハツコ(端子の意味で「裔」と書く)であり、ウミノマとかハツマという言葉はない。『万葉集』に宇美乃古とあって古いことから、記紀の「子孫」という漢語はだいたいウミノコと訓まれている。また皇族は代々「王」と称してこの王の字もオホキミまたはミコと読まれる。天皇から別れて何代目であっても皇族ならミコ。「コ」には子孫の意味もあることがわかる。しかし平安時代以降の後世はさておいて、上古には「マ」で子孫を表わした例はない。卑弥呼は「日の御子」の意味だといったが、この御子も子孫の意味だろう。『古事記』では邇々藝命と神武天皇のことをどちらも「天神御子」(あまつかみのみこ)または「天神御子之命」(あまつかみのみこのみこと)といっており、「孫」とは絶対にいわない。この場合の「天つ神」とは邇々藝命からみて父の忍穂耳命のことではなく、神武天皇からみて父の鵜萱葺不合命のことでもない。文脈上、邇々藝命からみても神武帝からみても、天照大神をさしている。だからこの「御子」も「子孫」の意味だ。
天皇を意味する大和言葉としては、明らかにアマツカミノミコノミコトの方が古風であり、天皇の孫という意味しかなかったスメミマノミコト(天皇の孫)を天皇そのものの訓として転用したのは奈良時代に始まった新しい風習だろう。
このスメミマノミコトは、スメミオヤノミコト(皇祖母尊)とセットだったのではないかと思われる。スメミオヤノミコトは皇極天皇が譲位して上皇となってからの称号だが、同じ女帝で譲位した持統天皇も自然とスメミオヤノミコトと称されたろう。前の方で「天后」の譲位後の訓はスメミオヤノミコトだったと推測した通り。従って、スメミマノミコトというのは持統上皇の孫にあたる文武天皇にあたり、当初は「天皇」という称号の訓ではなく単に文武天皇個人をさしていたにすぎない。
天子の訓は、古くはスメミマノミコトではなくて、アマツカミノミコノミコト、アマツヒノミコノミコト、アマツミコノミコト等の「子」系の言葉だったのではないかと思われる。これをスメミマノミコト(皇孫尊)にさしかえたのは元明天皇だろう。元明天皇は自分と聖武天皇の関係、及び持統天皇と文武天皇の関係を、天照大神と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の関係の再現として演出する意図があったと思われる。それを思いついたのは即位大嘗祭に猿女(さるめ)として奉仕した稗田阿礼との出会いがきっかけである。この件についてはこの記事のラストの方でもう少し詳しく書く。
なおこれとは別に、この件は国史編纂事業が『古事記』と『日本書紀』に二分してしまった原因でもあるのだが、その話は今回の本題からずれるのでまた別の機会にする。

「天皇」という君号の起源(後編)に続く

・闕史八代の論

平成30年12月27日(木)改稿 H30年7月18日(水)初稿
(※多忙につき内容は後日執筆)

☆イエス・キリスト、日本に来たるw

平成30年12月25日改稿
本日、皇紀2677年6月4日(日)は6月の第一日曜。ということは。「第54回キリスト祭」の日である! といっても行ったことないんだけどね、遠すぎて。青森県の山奥だからなぁ。
(追記:ポスターはH30年のよりH29年の方がよりシュール!)
20170518_1910582.jpgChrist Festival 2018
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いつの日か、今の人生のすべてのしがらみから解放されたら、きっと俺は行くんだ、そしてキリストの墓にお参りして、キリストTシャツを着て、キリスト饅頭とキリストラーメンを食べ、キリストワインに酔ってナニャドヤラーを踊るんだ…。
日本のキリスト伝説(?)
こういうへんなお祭りがあるうちは日本の将来はだいじょうぶだと思われる。…それはいいんだが、これが『古事記』となんの関係があるのかというと、俺もよくわからない。じゃなくて、実は全然ない。じゃなくて、日本にきたなら垂仁天皇の時代だな、『日本書紀』の編年に準拠すれば。でも記紀に書かれてないから来てないと思うよ? ただの乞食だと思われたのかな、古事記だけにw 当時の日本人に「キリストです」と名乗ったところでそんな有名人だとは思わないからな。いや当時はキリストもまだ有名人になる前だけど。ということは、もし本当に日本にきてたとしても、記紀に載ってないのは当然のことで、記紀にないから来てないともいえないわけだ。よっしゃw なにが「よっしゃ」だかわからんが。歴史事実かどうか別として考えてみると、キリストの話は神話学的にはひじょうに興味深くて、日本の神話とも関係あるような話にもっていくことも可能っちゃ可能なんだよね。でもその前にひと通り馬鹿話もしておこうw

若い頃のキリスト
キリストって2回きてんだよなw 一回目は若い時でキリストが30~33歳ぐらいで布教はじめる前の経歴が不明なんで、この間、日本に修行にきてたとかなんとか。ご存知の人も多いだろうがこれは元ネタがあって、海外ではインドに行ってたって説が大昔からある。まぁ細かくは諸説あるんだろうが、エメラルド・タブレット(の偽物w)で有名なモーリス・ドリール博士だ。オカルト出版の老舗で有名な霞ヶ関書房から『カバラの真義』だの『ヨガの真義』だの「~~の真義」シリーズが邦訳。真義が好きみたい。この博士もエジプト、チベット、インドのカシミールにいってたという。エドガー・ケイシーはインドやエジプトにさらに加えてペルシアにも行ってたという。まぁこの人たちは霊能者なんで、学説じゃないが。もっと極端なのはリバイ・ドーリングの『宝瓶宮福音書』。自動書記だけどさ。日月神示だって自動書記なんだから細かいことはいうなw これによると若い頃のキリストは世界漫遊してたことになってて、ギリシア・ペルシア・メソポタミア・エジプト・インド・チベットの賢人たちと会合したことになってる。チベット人の名前が「メングステ」っていうんだけど、本当かねこれ。チベット語的に合ってるのかな。傑作なのは、これの邦訳を出した霞が関書房の社長が「日本に来てないじゃないか!?」となって著者に直接問い合わせたけど返事なかったそうなw チベットまできたなら日本まですぐなのに、と思ったのかなw でもリバイ・ドーリングってチベットをシナの一部かシナの代表だと思ってるフシがあってちょっと基本知識的にやばいんだよw いくらなんでもあの時代の中華文明を世界から除外するのかどうかと思うが、たぶん知識不足がバレるのが怖くてキリストを行かせられなかったんだろうねw なのに「本当に日本に来てないのか?」なんて問い合わせには困ったろうなw いや困んないんだった、霊能者は都合のいい言い訳を山のようにもってるからなw まぁでも竹内文献的には日本にも来たわけだw ユダヤ人なんだから世界中どこでもいけるだろうw 当時だって世界のユダヤネットワークすごいよw ホントかよw

キリストは本当に男だったのか?
純粋に実証主義的歴史学をきつきつに追求したら、キリストは架空の人物になりかねないわけだが、このブログでは当然そういう野暮なことは言わないw
ユダヤの伝説ではマリヤは娼婦で、ユダヤを支配するためローマが派遣していた進駐軍のローマ兵との間に生まれたのがイエスだという。もしこれが正しいとすると「イエスはアーリア人だった」というヒットラーの説となぜか一致してしまうなw ユダヤ人は貶めようとしてこんな話を作ったのだとばかりも決めつけられない。マグダラのマリヤの存在を思えば、売春婦であること自体は卑しいことではないかもしれない。どうであれキリスト当人が性産業従事者を差別するとは思えないでそ。なぜか欧州のキリスト教社会は性に過剰に厳しくやたらうるさい文化を作ってしまったが、なぜなのか、それはそれで面白い議論だが、今回はスルー。キリストの母が貧しい娼婦だったとしても、最近の人は性的な倫理観がゆるくなってるし人権意識も発達してるので、さほどケシカランとか卑しい人間だとか思わないのではないか。むしろそういう境遇に身近な人間のほうが、宗教家として思想性が深まるのではないか。…っていう理屈もありうるじゃんよ、孔子も貧乏な母子家庭の出身だったし。
まぁユダヤ人の意図はイエスを貶めようとしたのかもしれないが、これと逆に日本人はもちあげるよw イエスは秦王国の王子だか秦氏の王子(氏族長の子?)だかって説がある。この当時の秦氏ってまだ日本にきてなくて朝鮮半島の「秦韓」にいた頃だろうに分かって言ってるのかねこれw 秦王がユダヤまでお出ましになったとか考えにくいから、マリヤが若い頃朝鮮半島にいて秦韓の王宮にお仕えしてたことがあったってことかね? ユダヤ人の国際的ネットワークのすごさがこの事からもわかるだろw さらに!そんな程度でびっくりしてる場合じゃないぞ、浜本末造だったか森佐平だったかはイエスは日本の皇子で、彼が「天国の父」といったのは日本の崇神天皇のことだといってたぞw  娼婦の子になったり皇子になったり忙しいなw でも俺の説だと崇神天皇はもっと前の人なので時代があわない。キリストが日本に来たあたりは俺の計算だと景行天皇ぐらいの頃なんだよね。え?お前の説なんか聴いてないって? まぁまぁそういわず聴いてくれよw 仮に崇神天皇の時代だとして、キリストが日本国内を通って東北にいったとすると、関東を経由するじゃん。崇神天皇の時代だから、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と遭遇したんじゃないかって想像した人がいたわけよ。それが幻の迷著『謎の東国 豊城入彦命とキリストの大予言』(1987年、渡辺明著、吾妻書館)です。もう大昔に古本屋に売ってしまったので内容うろ覚えだが、小説仕立てで、たしか天皇から関東の統治を任され豊城入彦命(崇神天皇の皇子)がいろいろ人類の幸福とか政治のこととかで考えたり悩んだりしてるモノローグが延々と続き、後半ラスト近くで唐突に西方の聖人がやってくる。で、なぜかごく自然に二人は出会って淡々と会話する。…というだけなんだが、お互いに初対面なのに相手みてビックリもしないし「あんた誰?」状態にもならず、まるで知り合いみたいに話が合うというw オチも確か無かったような気がする。少なくともストーリーの面白さは求めちゃダメ。じゃ二人の会話にテーマ性みたいのがあるのかというとこれもちょっと掴みどころがなかったような。平和とか人類の幸福とかいわれてもな。抽象的な単語ならべただけじゃカルト宗教のチラシと同じで具体的な内容はないよう? よほどへんな趣味の持ち主でもない限り、ネットで探して買って読んでも絶対後悔すると思う。しかし、さっきの俺の説だとこの頃はもう豊城入彦命はとっくに薨去して、その孫の彦狭島王(ひこさしまのみこ)の時代じゃないかと思われる。いやそもそも毛野氏が関東にいったのは彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけ)からで、豊城入彦命から三代間はまだ大和の都にいたんだから、キリストが東国で豊城入彦命に会うっていう設定がおかしいんだ。じゃ、大和で会ったことにすればいいなw
キリストが「天国の父」といったのは崇神天皇のことでキリストは皇子だったという浜本末造だったか森佐平だったかの説に戻って、あるいは、崇神天皇ではなくて、その当時の天皇、つまり景行天皇だったとするとどうか。景行天皇が九州征伐に向かった時、神夏磯媛(かむなつそひめ)と速津媛(はやつひめ)という九州西部の女酋長が一族を率いて天皇に従ったという。神夏磯媛のいたところは京(みやこ)といい、今の大分県行橋市のあたり、速津媛のいたところは速見邑(はやみのむら)といい今の大分県杵築市のあたり。この京(みやこ)というのは律令時代の豊前国京師郡で、ここは秦氏の巨大な本拠地で、有力な説では『隋書』倭国伝にでてくる「秦王国」があったところという。秦氏といえばユダヤ人、というのがお約束w とすると神夏磯媛や速津媛はユダヤ系の血を引く女性だった可能性がひょっとしてもしかしたら…? 景行天皇には80人も皇子がいたというが記紀に名前が残っているのはそのうち21人しかないから、この二人の女性が皇子を生んでいてもおかしくないw 二人のうちどちらが聖母マリヤなのかっていう問題はあるが、それはさておき、こんなところにユダヤ人がいたなんて、いまさらながらユダヤ人の国際的ネットワークのすごさが(以下ry
それと、歴史上の実在のイエスはかなりブサイクな男だったらしい。初期の教父たちの書簡などには、人は見た目で判断してはいけない、主は眉が太いの唇が厚いの目が小さいの頬が骨ばってるのと、いろいろ残っていて、総合するといかりや長介みたいな顔になる。今時の若者にいかりや長介といっても通じないかもしれんが適当に画像検索どうぞ(若い頃のいかりやな)。美形のキリスト像は「信者からはそう見えてる」ってだけで実際に美形だったわけじゃない、とw やはりそういう人じゃないと人のつらさや心の傷みはわからないのだろう、イケメンにもっともらしいこと言われても腹立つだけだしなw
さらにはキリストは去勢していたという珍説もある。有名なのはスコプチの説だが、18世紀ロシアの新興宗教だからってデタラメとは限らんよw ユダヤ教は民族宗教だから去勢なんてとんでもないことだが、初期のクリスチャンは教父か修道僧か一般人かを問わず、自主的に去勢した男性がちょいちょいいたようなのだ。「あなたの手が姦淫を犯すならその手を切り落としなさい、全身が地獄におちるよりマシだから」みたいな言葉が聖書(マタイ伝5章27~31節)にあったろう、あの精神に基づけば去勢はありうることになる。だから3世紀にすでに去勢を推奨するヴァレリウス派という宗派もあり、東ローマ帝国では去勢聖職者の制度と去勢修道士の修道院もあったし、去勢した聖職者の中には皇族出身者もいればコンスタンチノープル総主教にまでなった人もいた。だから去勢という考えはスコプチの時代になって突然出てきたわけではないし、なんら恥でもスキャンダラスなことでもなかったのだ。
さらに!そんな程度でびっくりしてる場合じゃないぞ、去勢した男性どころか、そもそも女性だったという奇説もある。大昔の「ムー」の外電記事だから詳細が不明なんだが。英国のある教会に捧持されていたキリストの遺骨の破片という聖遺物をある生化学者が分析したら女性の骨だったというので、それを根拠にしてイエスの本名はイエシェ(イエスの女性形)といい、聖母マリヤは救世主が女性では世間が認めてくれないと思って男性として育てたのだ、という説を唱えた。イエスはりつけの時に天幕が裂けて世の中が真っ暗になったと福音書に書かれているが、これは下着がとれて女性であることがバレたことの表現らしい。本当かねw イエスの女性形が「イエシェ」だってのはアラム語かギリシア語かヘブライ語のどれかで文法的にあってるのかな? 去勢者だという説の場合、バレたらまずいって話は一切きかない。格別秘密でもなく、十字架上でふんどしが取れても誰も驚かないってことか。救世主が女性であるほうがよほどスキャンダルだとは、現代とはずいぶんと価値観がちがうものだなぁ。それと、現代のオタクは女性化というとすぐ美少女前提で妄想が始まるのかもしれないが、ちょっと待て。もし女性説と先ほどのブサイク説がどっちも正しいとすると、あまり想像したくないことになるんだが。でもよく考えると「男、ブサメン」だったとしたら格別おもしろみもなければ深い意味も生じず「だから?」「あっそ」で終わってしまうんじゃないか? 美人じゃなくて女性として苦労人のほうが宗教家としては深みありそうではある。
ところで、面白い理屈がひねり出せるのならイエスが7人いても8人いても一向に差し支えないのだが、もし去勢した男だって珍説と女性だって奇説を両立させるには最低でもイエスが2人いないといけない。そんな都合いい話があるのかというと、なぜか丁度うまいことにルドルフ・シュタイナーという気のいいおっさんがイエスは2人いたって説を唱えてんだよ、これがまた(詳細は後述)。おれは学生時代、教育心理学の論文でこのおっさんをネタにしたら「優」をもらえたんだよ、だからシュタイナー好きw

イエスの兄弟たち
竹内文献では十字架にかかって殺されたのは弟のイスキリであって本人は逃亡して助かったことになってるが、これも独創的な妄想ではなく、姿形の似た何者かが身代わりになったというのは海外でも昔からある説だ。例えばイスラム教でもそう考えられてるのは今では日本人も知ってる人が多いかもしれないが、もちろんイスラム教が最初に言い出したのではなく、キリスト教の初期からそういうことをいう人は何人もいた。まぁ死人が生き返ったと言い張る集団がいたら、とりあえずのリアクションは自然とそうなるだろうけどな。ただし弟の名がイスキリだってのは竹内文献の独自性だよw ウケを狙ってんのか、何なんだろうな、いくらなんでもイスキリってw イエス・キリストを東北弁で訛らせて縮めたんかと思われるだろうが、「石切神社」ってあるじゃん、石切(いしきり)も東北弁だと「いすきり」に聞こえる。石切…、石工? フリーメーソン!? …なんて連想は好き者へのネタ提供ということでやめておくw 話を戻して、イエスの兄弟はヤコブ、ヨセフ(親父と同名)、シモン、ユダの4人の兄弟、それに姉妹たち。姉妹は少なくとも2人で、もっといた可能性はあるが詳細不明(ネット情報では姉妹2人と断定している例が多いが正確でない)。これだけの兄弟姉妹がいたから、誰かが身代わりになったか。としたらそいつがイスキリと同一人物だなw
あるいは弟子のトマスは双子といわれるが誰と双子なのか不明。それでこのトマスが実はイエスと双子だったのだという説もあったはずだが、何の本で読んだのか忘れてしまった。トマスはユダという別名(つか本名)も持っているので、イエスの兄弟ユダと同一人物か。この説の場合、カトリックの教義上、イエスに実の兄弟がいてはまずいので福音書ではトマスとユダが同一人物であると明示することを避けてわからないように書かれているというわけだ。しかしトマス自身はその後も生きているので十字架で死んだのは双子の片割れでないとおかしい。双子の片割れのもう一人といえばこの説の場合イエスなのだから、トマスとイエスが双子だったとしてもイエスの身代わり説を説明する材料には使えない。

カトリックの「従兄弟」説・正教会の「先妻の子」説
この兄弟姉妹だが、マリヤは処女のままでかつイエスは神の独り子でないと教義上こまるので、カトリックでは兄弟姉妹ではなく従兄弟・従姉妹だとしていて、ギリシア正教ではヨセフの先妻の子たちということにしている。俺も若い頃は「そんなの宗教上の都合による歪曲じゃないか、本当は兄弟たくさんいたんだろ」と頭ごなしに決めつけて、クリスチャンでもないのになぜか教会に怒りを覚えていたものだが、まぁ待てw この「従兄弟」説がややこしく入り組んでて、とにかく面白いのだ。面白ければいいのかっていうかもしれんけど、そうですよw ってか、まぁ最後のオチまで読んでから怒れw ヨセフの弟クロパの子シメオンというイエスよりに先に生まれた従兄がいるので、カトリックではこれが兄弟シモンと同一人物だとする。アルファイの子ヤコブという人物は、アルファイ(アラム語)がクロパ(ギリシア語)と同じ意味なのでクロパと同一人物とすると、シメオンとヤコブは兄弟で、イエスの兄弟ヤコブとアルファイの子ヤコブも同一人物となる。丁度うまい具合に「ヤコブとヨセフの母マリヤ」という女性と「クロパの妻マリヤ」(こちらは聖母マリヤの妹だともいう)という女性がいるのだがこの二人も同一人物とすると、「ヤコブとヨセフの母マリヤ」のヤコブとヨセフはイエスの従兄弟となるから、イエスの兄弟のヤコブとヨセフと同一人物とすれば、ユダを除く3人の兄弟はすべて従兄弟だったということになる。ただし聖母マリヤの妹のマリヤとヨセフの弟クロパとの間に生まれたのはヤコブとヨセフだけでシメオンはクロパと先妻の子ということになる。また兄ヨセフと弟クロパの兄弟は、姉妹で同名のマリヤ姉妹と結婚していたことになるし、さらにそれ以前ヨセフもクロパも先妻との間に子が生まれていたことになる。イエスの弟ユダとイエスの妹たちについてもカトリックは従兄弟従姉妹とするのだろうが、その場合その部分だけ系図線が不分明なので、ここだけ正教会の説でヨセフの先妻の子としてもよい。ただし、ユダだけは前述の「トマスと同一人物でイエスとは双子」って説があるから、先妻の子じゃなくてマリヤの子でないといけない。これはカトリック的にはまずいんだろうが俺はカトリック信者ではないのでスルー。従ってヨセフの先妻の子はイエスの姉妹たちだけとなる。

シュタイナーの「二人のイエス」説
ルドルフ・シュタイナーの「二人のイエス」説だと前述の去勢者イエスと女性イエシェが両立できるので便利だ。シュタイナーによると、父ヨセフ・母マリヤ・息子イエスの3人家族というのがナザレとベツレヘムにそれぞれあったという。ヨセフ、マリヤ、イエスという名は当時のユダヤにありふれた名前なのでここまではありうる話としていい。ベツレヘムのイエスは『マタイ伝』準拠で、父ヨセフはソロモンの末裔(王系)、生まれた時に東方の博士の訪問を受けた。ヘロデ王の幼児虐殺を避けるため一時期エジプトに逃げていた(『マタイ伝』では人口調査の登録のためにヨセフとマリヤがベツレヘムに出かけていた時に生まれたとしているが、この段階ではナザレからきたわけではなくどこの夫婦なのか明記していない。なのでシュタイナーはもともとベツレヘムの夫婦だったと解釈してるんだろう)。ナザレのイエスは『ルカ伝』準拠で、父ヨセフはナタンの末裔(司祭系)、生まれた時に羊飼いの祝福を受けた。ヘロデ王の幼児虐殺の後に生まれたというから、ナザレのイエスのほうが歳下になる(BC6年生まれとBC4年生まれか?『ルカ伝』でも人口調査の登録のためにヨセフとマリヤがベツレヘムに出かけていた時に生まれたとしているがナザレ人の夫婦でありナザレからでかけていったのだと明記している。当時のベツレヘムは寒村で、ここで生まれたという設定は救世主誕生の預言にあわせたムリヤリな創作だろうというのが定説だが、野暮なつっこみは禁止ってことでw)。
ベツレヘムのイエスはゾロアスターの生まれ変わりで、ナザレのイエスは仏陀のアストラル体が取り巻いていたという。ここでゾロアスターと仏陀が出てくるのはエッセネ派の関係だろうかね? 当時のユダヤ教の宗派にはサドカイ派とパリサイ派とエッセネ派があったが、エッセネ派というのは複数の派閥をごっちゃに総称したもので一つの教えではない。純粋のユダヤ教じゃなくてゾロアスター教や仏教の影響を受けたものもあったようで、かなり異教的な教派もあったようだ。「洗礼のヨハネ」の教団や、死海文書で有名なクムラン教団、そしてイエスの教団などもエッセネ派の一つだった可能性が高い。初期のキリスト教が普通のユダヤ教とちがって去勢や独身非婚に肯定的なのもエッセネ派からの影響だといってる人もいる。ゾロアスターがどうの仏陀がどうのっていう話はどうでもいいようだが、二人のイエスの性格の違いを推察するための(妄想するための?)参考にはなるやろ。
さて、ナザレのイエスは一人っ子だが、ベツレヘムのイエスには弟妹が何人もいた。ここでベツレヘムのイエスは12歳で死んでヨセフも死に、後家さんになったマリヤは子供たちを連れてナザレに引っ越し。その頃ナザレではマリヤが死に、ヨセフとイエスの男二人暮らし。そこで出会ったヨセフとイエスは再婚したと。だからイエスと他の兄弟姉妹とは血がつながってないことになる。うまいこと考えたなw
この際、ベツレヘムのイエスは死ななかったことにすれば、イエスはずっと二人いたことにできる。人智学のややこしいオカルト理論では、ベツレヘムのイエスは12才で死ななきゃ治らないわけだが、俺は人智学の信者じゃないんでそんなこたぁどうでもいい。イエスが二人いることになると、イエスをめぐる異説がいろいろ統合できる。男で去勢していた説と女性説も両立するし、二人のうちどちらかは、マリヤが娼婦やってた時のローマ進駐軍の兵士の子ってこともありうる。秦王国の王子だか天皇の皇子だかって御落胤説もあったw ベツレヘムのイエスの方がアーリア的要素に縁がありナザレのイエスのほうが女性的で優しそうだから、ベツレヘムのイエスが進駐軍と娼婦の子で去勢者、BC6年生まれだから兄。ナザレのイエスが本名イエシェ(女性)で御落胤、BC4年生まれだから妹。とキャラを割り振ったらどうか(御落胤説は「王子だか皇子だか」から「王女だか皇女だか」に変更になるけど)
このヨセフとマリヤの夫婦が2組いたって説は、カトリックでいうところの、ヨセフとマリヤ(姉)の夫婦とクロパとマリヤ(妹)の夫婦の2組からイエスとその従兄弟たちが生まれたという説にずいぶん似ている。だから両説を合成したら面白いと思うのだが、つまり兄ヨセフとマリヤ(姉)の兄姉夫婦と、弟クロパとマリヤ(妹)の妹夫婦は、お互いの配偶者と死に別れて再婚したというストーリーだ。この二人目のイエスは、カトリックの「従兄弟」説にあてはめた場合、クロパとマリヤ(妹)の間の息子ということになり、ヤコブとヨセフは第一イエスからは従兄弟だが第二イエスからは正真正銘の弟ということになる。
ただし、クロパとマリヤ(姉)が早く死去して、残されたヨセフとマリヤ(妹)が再婚したのか、それともヨセフとマリヤ(妹)が早く死去して、残されたクロパとマリヤ(姉)が再婚したのかが決められない。それが決まらないとベツレヘムのイエス兄とナザレのイエシェ妹、どちらがどちらの夫婦の子か特定できない。

ジェイムズ・D・テイバーの「再婚」説
ところでジェイムズ・D・テイバーの説では「ヤコブとヨセフの母マリヤ」も「クロパの妻マリヤ」も聖母マリヤと同一人物で、ヨセフの死後にマリヤがクロパと再婚して生まれたのがイエスの兄弟たちだという。再婚というアイディアはルドルフ・シュタイナーの「二人のイエス」説に似ている。シュタイナーの説では早く死去するのはベツレヘムのヨセフとナザレのマリヤで、再婚するのはナザレのヨセフとベツレヘムのマリヤだから、シュタイナーの説とテイバーの説との対応関係をみると、マリヤ(妹)がナザレのマリヤ、クロパがナザレのヨセフに該当することになる。すると、シュタイナー説でのナザレのイエスはクロパとマリヤ(妹)の間の子で、ヤコブとヨセフの兄となる。イエシェだから姉だが。ここまではよい。ただ、この組み合わせからだとユダ(トマス)と双子の兄弟はベツレヘムのイエスになってしまう。ユダはヨセフの子だから、娼婦をやってた時にローマ兵の胤で生まれたイエスと双子ではありえないことになってしまう。…と一見思われる。が、実は人間の精子は膣内で数日間も生きていることがあり、まれに胤ちがいの双子というのが生まれることは、今の世の中インターネットがあるので誰でもすぐいくつもの事例を確認して、これが嘘じゃないことがわかる。双子なのに見た目があまりに似てないからすぐわかったろうが、父ヨセフは器がでかいからそんなこた気にしないのだ。そうでないと救世主の父にはなれん。
大事なところはそこではない。夫婦が死に別れってのはあまりに哀しいので、ここは一つ、死に別れではなく一回離婚して、嫁さんを交換してから再婚したほうがめでたいのではないだろうか。こういうのは当時のユダヤ社会の倫理観ではどうなんだろうか、よくわからないが、多少は荒れた家庭とか爛れた関係とかの渦中にいたほうが宗教家としては思想性が深まるってもんでよろしいんじゃないでしょうか。それで聖徳太子も偉くなったって、豊田有恒もいってたろw 実際、喧嘩別れしたとは限らず兄弟姉妹カルテットで仲良しだったのかもしれんのだし。ただ、シュタイナー説にしろテイバー説にしろ一つの夫婦しか生き残ってないのだから、シュタイナー説で死んだことになってるベツレヘムのイエス以外の全部の子供たちをクロパ(ナザレのヨセフ)とベツレヘムのマリヤ(姉)の夫婦が引き取ったことになる。死んだことになってる人たちを俺が設定変更して生きてたことにしたのが、「ベツレヘムのヨセフとナザレのマリヤ(妹)それにベツレヘムのヨセフの連れ子ベツレヘムのイエス」の3人となる(ベツレヘムのイエスは形式上はベツレヘムのヨセフとは父子でナザレのマリヤとは叔母と甥だが、どちらも実際の血のつながりはない)。
…と、これで完成のはずだが、どうも釈然としないな。ベツレヘムのヨセフとクロパ(ナザレのヨセフ)の兄弟が、姉妹をそれぞれ嫁としただけでなく、兄弟ともマリヤ姉妹と結婚する前に先妻がいたってのがどうもな。偶然にしてはできすぎじゃね?
ここは逆転の発想が必要だ。ベツレヘムの兄ヨセフとベツレヘムの姉マリヤの夫婦、ナザレの弟クロパとナザレの妹マリヤの夫婦、この2組がまずあって、その後このカップルが離婚して嫁交換再婚したとばかり思い込んでるが、その前にヨセフにもクロパにも先妻がいたというのだから、つまりこのカップルはこれから離婚するのではなく、一度嫁交換した再婚後の組み合わせなのである。もともと兄ヨセフと妹マリヤとの間に娘たちが生まれ、弟クロパと姉マリヤとの間にシメオンが生まれていた。その後、兄の嫁が妹で弟の嫁が姉なのはおかしいって話になったかならないかわからないが何らかの理由で離婚して交換再婚。その後、ヨセフと姉マリヤの間にイエスと双子のユダが生まれ、クロパと妹マリヤの間にイエシェとヤコブとヨセフが生まれた、というわけだろう。
しかしそうなると、姉マリヤだけが聖母ではなく、妹マリヤも聖母っぽい感じになるな。シュタイナー説だとヨセフも二人、マリヤも二人だからどっちも聖母あつかいか? マリヤが二人いていいなら、前述の神夏磯媛と速見媛も、どっちがマリヤかで悩む必要がなく両方ともマリヤでいいw

キリストの伝記は太陽神話?
ところで、キリストの兄弟は、男がシメオン・イエス・ユダ(トマス)・ヤコブ・ヨセフの5人と、姉妹が最低2人で正確な人数不明ってことだったが、仮に姉妹は2人だったとする。で、イエスが二人いたという説で、かつ、二人のイエスのうち一人は女性のイエシェという説だと、イエシェが三姉妹の妹ということになり、5男3女の8人兄弟姉妹ということになる。…5男3女? と言えば、古事記関係者だったらすぐ思い浮かぶのが、雛祭の五人囃子と三人官女。じゃなくて、天照大神と須佐男命の誓約(うけひ)で産まれた五男神と三女神だろう。天照大神と須佐男命はお互いの物実(ものざね)を交換して8柱の御子神を生み、ベツレヘムのヨセフ(兄)とナザレのクロパ(弟)はお互いの嫁を交換して8人の子を生む。これ、偶然の一致なんだが、むりやり「偶然ではない」と言い張ってみよう。キリストが死んで復活するところは、太陽が死んで復活する冬至の祭儀がクリスマスの起源で、エジプトの太陽神ホルスや、イランの太陽神ミトラの、いわゆる太陽神話がもとになってるという説が大昔からある。ミトラは日本神話では天照大神にあたり、天の岩戸の神話とも共通している要素がある。シベリアの先住民の神話でも「昔、五本指の男の子と三本指の女の子がいて、その二人からこの部族(もしくは人類)が生まれた」という神話があり、「5男3女」という数字と性別の組み合わせは普遍的な古伝承らしい。

一度目の日本訪問と三年間の布教活動
イエスは、ヨハネから洗礼を受けて3年間の布教活動をする以前の経歴が不明だが、竹内文献は日本に留学だか修行だかしにきていたんだという。21歳の時、日本にきて12年間修行したという(つまり33歳で日本を去り帰国した時34歳ってこと? 12年間って数字にこだわるなら15歳か16歳で来てないと計算あわないような気がする)。前述のドリール博士によると、イエスは13歳(たぶん満年齢)で両親とエジプト旅行、16歳の時に単身で再度エジプトへ。そこからチベット(のシャンバラ)にテレポートw、20歳の時カシミールを漫遊。25歳でエジプトに戻り1年間ピラミッドで暮らす。ナザレに帰ったのが26歳、洗礼のヨハネの教団にアクセス。3年後の29歳の時に布教開始、33歳で磔の刑。ドリール博士はイエスの誕生をBC6~7年頃としているが、仮に刑死をAD33年とすると計算があわない。上記の年齢はBC1年かAD元年の生まれでの計算か、もしくはBC4年誕生として刑死をAD30年とする説と思われる(通説ではイエスの処刑はAD33年説が最有力で次いでAD30年説が有力)が、まじめに計算する意味はないかw 前述の宝瓶宮福音書によるとイエスがインドに来たのは12歳(以下すべて満年齢)。で、15歳の時にチベット入り。24歳の時、西へ戻ってペルシアに。そしてユダヤに帰国したのは29歳、翌年ヨハネから洗礼を受け、36歳で刑死、復活。宝瓶宮福音書は木星の周期にあわせて12年毎(12歳・24歳・36歳)に人生の大事件があったと設定し、十字架にかけられたのは36歳としている。がここではそれを問題にする必要はないし真に受ける必要もないだろう。宝瓶宮福音書もおそらくBC4年誕生説に準拠していると思われるが、それだとBC6年説であてはめると十字架で刑死したのは38歳の計算になる。ドリール博士の説でも宝瓶宮福音書でも日本にはきてないが、竹内文献では逆に日本以外に行ってないw 上述の通りイエスは2人いたんだから、この世界漫遊は一方のイエスの話であり、もう一人のイエスは日本でもいい。ペルシアやインドにいったのはアーリア要素の濃いイエス兄のほうだろうから十字架にかかった時をAD33年とすると、彼は38歳だったことになる。
で、3年間の布教活動の間、2人は同行せず別行動だったろう。なぜなら福音書には「もう一人のイエス」に該当しそうな人物がでてこないからだ。兄妹といっても血がつながっておらず、顔つきも体つきもぜんぜん似てなかったと思われるので影武者の役もできない。歴史事実に配慮すると(ここまでやりたい放題かきまくって今さら配慮する意味あるのかってツッコミもごもっともだが、思考実験ですからw)、性別を除けばイエシェのほうが史的イエスにやや近い。それは何もイエスはアーリア人だったというヒットラー説に反論するためだけではなく、顔面ブサイクという点だけからいってるのでもない。福音書のイエスの教説はゾロアスターよりは釈迦に近いという説があるからだ。『仏教とキリスト教』(堀堅士:レグルス文庫)によるとイエスの教説はほぼすべて仏教経典からのパクリでできてるからなw レグルス文庫だから創価学会系だな。逆のことをいってる本もあり『神道と仏教をただす(上・下)』(森山諭:荻窪栄光教会)によると仏教はほとんどキリスト教のパクリでできてるみたいだぞw ウィキペディアで著作欄みるとわかるけどこの人は異教や異端への攻撃に人生捧げたみたいな人。どっちがどっちのパクリでもいいけど結論としては「似たもの同士仲良くやれ」w 釈迦の伝記とイエスの伝記の似てる部分(全体のことではなくて、悪魔の誘惑と闘うとこ)ってのは、もともとどちらもゾロアスターの伝記をパクった部分で、仏教もキリスト教もゾロアスター教から影響を受けているのがわかる。まぁエッセネ派の中には仏教の影響を受けてるのもあったらしいのでイエスの言葉の中に多少仏教と似たような教説があっても別におかしくはない(そもそもインドいったのチベットいったのって話してるわけだしな、いやこの頃のチベットに仏教あったのかって話もあるが)。さて、じゃイエス兄はその頃なにをやっていたのかというと、『マルコ伝』第9章にイエスと自称して癒やしのわざを行っていた偽イエスの話がでてくる。こいつじゃね? 弟子のヨハネがこの偽ヨハネをシメてきたらイエスに逆に叱られたという。これは兄のイエスだったんじゃないのか。

磔刑と復活
で、すったもんだで十字架にかかって死んで生き返ったと。ただの仮死状態だったのか何らかのトリックを使ったのか、イスラム教のいうように身代わりになった人がいたのかキリスト教のいうように本当に生き返ったのかなんてことはこの際どれでもいい。「死んだ人が生き返るわけないじゃん!」と目くじらを立てる必要もない。中国でもインドでも大昔から死人が生き返ったなんて話はちょいちょいある話なんだから。日本でいうと、奈良県の石上神宮に伝わる「十種神宝」の秘法が有名だよね。「振るへ、振るへ。ゆらゆらと振るへ。かく為せば、既に死(まか)るもよみがへる」ってやつ。ようつべにインチキくさい動画がたくさんあるから検索してみ。
問題は、2人のイエスが同時に十字架にかかるまではありうる(同じような行動してたのなら同じ罪状になりうるから)。しかし2人のイエスが同時に生き返ったとすると偶然にしては確率的に珍しいことになるから、おそらく十字架刑に課せられたのは一人で、もう一人のイエスがその身代わりになったのではないか。だから当然、復活したのはその身代わりのほうなのであるw 福音書ではその2人が混同されて1人になってしまっているわけだ(復活してないとはいってない)。…と言いたいところだが2人のイエスは既述のごとく外見がまったく似ておらず影武者には到底なれない。3年間の布教期間の主役がイエシェだっていう話の流れからいうと十字架にかかって復活したのも当然彼女のほうだろうから、兄イエスは裏方で官憲への工作や、もし仮死状態説でいくなら介抱の段取りとかしてたのではないか。むろんオカルト的な復活説の場合は介抱は要らんが、キリスト教の復活説をそのまま信じた場合でも、死刑済みのはずの死刑囚が肉体をもったまま生きてそのへんうろつくわけにもいかんだろう。警察につかまって「あれ?生きかえったの? じゃ死刑やりなおしだね」みたいな話になっても面倒だからな。そこで隠れ家とかあれこれ段取りが必要になったはずだ。

復活後、二度目の日本行きw
復活後のイエスはすぐに昇天したわけではなくて、竹内文献によるとなぜかシベリア経由で日本にきて十字架事件から4年目の2月26日、八戸市の貝鞍の港に上陸(別の説では津軽側の蟹田から上陸)、戸来村(今の新郷村)に住み着いて106歳で没したことになってる。が、インドのカシミールにも墓があってキリストはここで112歳で死んだという。小説『ダヴィンチ・コード』の元ネタ、『レンヌ・ル・シャトーの謎』(これは小説ではなくトンデモ説の本、「ムーブックス」みたいなもんか)ではマグダラのマリヤがイエスの胤を宿したまま南フランスにきて娘サラを産んだのがメロヴィング朝の始まりとか、イエス本人がローマ経由でやってきたとかいうらしい。イギリスにもキリストがきたって話があるそうだ。モルモン教では北米にきたっていってるし、みんな自分のとこに来て欲しいんだなw これを全部まとめると、またもや世界漫遊の旅になりそうだが、まさにそういう説を唱えてるのが前述のドリール博士だ。
ドリール博士によるとイエスは復活後11年間グノーシスを弟子に教え(ドリール博士の考えではイエスはグノーシス主義らしいがそれはこの際どうでもいいので無視w)、(44歳の時?)ローマで半年、エジプトで2年間教育し、(46歳6ヶ月の時?)中国へ向かった。華北のユダヤ人に1年間布教、その後中国全土を旅行してからチベットに向かう(かなりタイトだが後々辻褄あわなくなるのでチベットへの出立を48歳の時と仮定)。チベットの超人が住む『エデンの園』で5ヶ月間毎日2回の説法、その後チベットのシャンバラに行き4年半滞在しシャンバラ144人の超人大師の首長となる(これはまとめて「チベットに4年11ヶ月=約5年の滞在」でいいだろうw この時点で53歳?)この後、南太平洋地下のレムリア大陸へ行き暗黒霊魂を解放、次いで地球中心核に入り最暗黒の霊魂を3ヶ月間指導(南太平洋の島に3ヶ月滞在したと解釈しとくw かなり厳しいが後々計算があわなくなるので往復で1年くらいとしてこの時点で54歳?)。(54歳から?)地表に戻り、ギリシア、パレスチナ、スカンジナビアをめぐった後、南北アメリカ大陸に渡る(1年で中東に戻ったと仮定して3国めぐりに1年間で計2年とすると米国への出立時点で56歳?)米国各地で9年間布教(移動時間は9年に含む。これで65歳となる計算)。この後、北極の北方シャンバラへ行き、35年間、地球第7黄金サイクルの秘密準備を行い、満100歳の日から10日目に全世界の弟子の面前で(?)アストラル体脱出による最後の教えを説く。その時、頭部から冷火を発し全身を燃焼し尽くして北極点から宇宙へ昇天。跡には大きな輝くダイヤモンドの塊のようなようなものが残り、これが北方シャンバラの塔に今も保管されている。ふぅ…。これによると54歳から65歳までギリシア、パレスチナ、スカンジナビア、南北アメリカをめぐったというからパレスチナ→ギリシア→[ローマ→南仏]→スカンジナビア→アメリカとコースの中にローマ南仏観光を割り込ませれば『ダヴィンチ・コード』も丸く収まるんじゃね? ただ100歳で死んだとは考えられないから、100歳の時インドにいってカシミールで112歳で死んだわけだろう。日本にはきてないが、これはイエス兄で、イエシェ妹は復活後すぐ日本にきたのだとすれば問題ない。

イエスの子孫
ただ、イエス兄は去勢してるからメロヴィング朝の先祖にはなれない。マグダラのマリヤが妊娠した状態でローマにきたというが父親は一番近くて双子のトマスかな。胤違いの双子でも遺伝子の半分は同じ母から継承しているし、その上もし一卵性だったらさらに共通になるんで、まぁこれで遺伝子的にはほとんど問題ないんじゃないか。つかマグダラのマリヤは育ての親で、生みの親はイエシェでもいいんじゃないか、だって兄妹といってもぜんぜん血はつながってないわけだし。その場合、10代か20代の時の子供としないといろいろ辻褄あわせにくいが、なんとかはなる。しかし、生まれたのはサラという娘だからメロヴィング朝にイエスの血が…っていっても女系での話なんだよな。アジア的な王権論では女系で入ってても有り難みちょっと薄れるけど…。つかヨーロッパだって「サリカ法」だから男系主義じゃんよw これ歴史にうとい現代人の創作ネタだからこうなってんのかね? 一方、青森県戸来村ではw、八戸太郎天空、または戸来太郎大天空と称し、ユミ子(または「ミユ」とも)という女性を妻として三人の娘をもうけたという(子孫は戸来村に三家が存在)。こっちも娘だよw でも本人が女なんでこれはおかしい。ユミ子ってのはイエシェ自身の日本名だろうw ずっと男のふりをしてたんだから男性名と女性名両方あってもおかしくないw あと十字架から4年目って設定だから40歳。経産婦ならまぁぎりぎり出産可能かね。それよりは一回目の来日で作った子供って設定に変更したほうが無難かね。八戸太郎ってのはだんなの名か? ここまできて性別を隠す必要はないはずだが、長年の習慣で男のなりがラクだから男性名と女性名を使い分けていたのか? だんなは誰なんだ? …そこで前述の豊城入彦命だよっ! 女だったってことなら、豊城入彦命との出会いも別な意味がでてくるw いや、俺の世代計算だとその孫の彦狭島王になるわけだが、彦狭島王は体弱かったみたいだから、キリストみたいな頑丈そうな女は好まれたかもしれないねw でもキリストには女児3人しか生まれなかったんだから、彦狭島王の息子の御諸別王(みもろわけ)はキリスト腹じゃないな。やはり外国人枠だと側室どまりだったか。それとも、やはりサラの父と同じでトマスかな、そしたら一回目の来日にはトマス同伴でないとおかしい。これもありうるけどなw いや、ありうるも糞も、それ以前に「八戸太郎」ってこの時代の名前じゃありえんけどなw こまけぇことは(以下ry
さらに、女児3人の他に男児も産まれた可能性がある。というのは京都にある地名の「太秦」(うずまさ)、ここが秦氏の本拠地だったわけだが、アラム語で「イエス・メシヤ」にあたる「イシュ・メシャ」が訛って「ウズマサ」になったというあれ。佐伯好郎が言ってたよw これ実はもとから地名だったわけではなく、もとは秦酒公(はたのさけのきみ)という雄略天皇の時代の族長に下賜された「称号」だった。秦氏の族長が「イエス・メシヤ」を名乗っていた、というのは彼自身がイエスの直系の子孫だと自認してりたということじゃないのか。古代ユダヤの氏族制からいって、男系でつながっていないと子孫だという自負はもたれないはずで、つまりイエスに男児が生まれてないとこの称号の話が成立しない。その前にイエス本人が生殖能力のある男でないと男系継承が成り立たないわけで、秦酒公の祖先は、母がイエシェであるかないかを問わず、父が去勢前の兄イエスか、双子のユダ(トマス)のどちらかでないと辻褄があわない。ただ、日本の秦氏がキリストの子孫ということになると、秦氏の子孫であるところの鹿児島の戦国大名島津氏もキリストの子孫ということになる。そういえば島津氏の家紋は「丸に十文字」…。鹿児島藩は水戸や会津と同様、明治以前、江戸時代にすでに神仏分離、廃仏毀釈を進めていた珍しい藩だが、神道の流派としては「造化三神だけ」を崇める国学の一派を信奉していた。造化三神…。三位一体の神かw ちなみに、これが天照大神だけの一神教を作ろうとしていた長州との妥協で明治政府の神道事務局の神殿に「天照大神と造化三神あわせて四柱」が祭られ、後々「祭神論争」の大騒ぎにつながっていくのは有名な話。

トマスは達磨大師だった!?
トマスはイエスの双子の兄弟で、イエスの子孫ってのは実はトマスの子孫じゃないのかとも思われるトマスだが、このトマスはキリスト死後にインドに布教しにいったことで有名だ。トマスの伝記には長い物語があり、その中で一度中国にも布教しにいって戻ってきてからまたインドでの布教をAD68~75年くらいまで続けて殉教したという。前述の森山諭はAD43年の冬、後漢の光武帝の時に西羌人(チベット系の民族)が漢帝国に武力侵入して将軍馬援に撃退されたが、その時にキリスト教関係の書物を残していったという話と、達磨大師はトマスをモデルに作られた(トマス伝を仏教風に改竄した?)のだという説を紹介している。いや、達磨って生存年代がトマスより何百年も後だけど…。むりやりだのぅ。どうもトマスは達磨で、チベット族の中国侵攻のどさくさまぎれに達磨が布教にきたのだと言いたいらしい。別にそれでもいいんだけど(いいのかw)、中国での布教はなぜやめたのか。うまくいかなかったのか、それとも弟子を残して任せてきたのか。そのへんもウヤムヤで釈然としない。やはりトマス程度が来ても、イエスキリストが来たって話ほど妄想を掻き立てる力が弱いのか、風呂敷の広げ方が中途半端な感じがするのがなんだかなぁ。達磨は禅宗においてはものすごく偉大な人物であるので、トマスっていうよりはるかにインパクトがある。キリストの双子の弟にして影武者、いや、もしなんならこの際キリスト以上に偉大で重要な人物としてリスペクトした何かおもしろい歴史妄想譚はできないものか…?

とりあえずこのブログでは今回、キリストの墓だのキリスト来日説の真相は問わないことにするw 来てるわけないんだけどさw まぁ堅いこと言わずに脳みそ柔らかくいこうよ、脳軟化症レベルでw 真相については大昔「地球ロマン」に連載した有賀竜太大先生のレポ以上に詳しいものなんかそうそうあるわけもないんで、今さら俺が細かいことあれこれいう気もない。

☆高麗(こま)=高句麗

H30年10月更新
今日H26年10月22日は、満洲にあった古代王国「高句麗」が唐に攻められて滅亡した日。天智元年(AD668年)十月と『日本書紀』にはあるが日付が不明。『新唐書』には九月十三日となり、十月は日本が詳細な情報を最終的につかんだ時期が十月ってことだと思われる。現在の暦に換算すると10月22日、今日。
10月22日という日付
『新唐書』の唐の総章元年九月十三日をグレゴリオ暦に換算すると10月25日になるんだが、ユリウス暦では10月22日。1582年10月15日以降はグレゴリオ暦一択だが、同年同月の4日以前はユリウス暦で換算すべきと思う。
・BC45年1月1日からAD1582年10月4日まではユリウス暦で換算すべき。ここをあえてグレゴリオ暦で換算しても西洋史との対照ができない。
・BC44年以前にはユリウス暦自体が存在してない。グレゴリオ暦で換算するのは海外の歴史との対照のためではなくて、現在の暦(=グレゴリオ暦)の季節でいったらいつごろだろうな、という自然科学的な時期というか季節感をしるため。

高句麗と高麗
高句麗は、五世紀の中頃に高句麗から高麗に改名したんだけど、改名っていうよりは「書き方」を変えただけだから、改名じゃない。だから、建国に遡って「おれたちは高麗だ」っていったんだよね。ちょうど倭国が日本に変えたのと同じ、『日本書紀』は神武天皇から日本って書いてるでしょう、それと同じ。倭国だった頃まで日本というのはおかしくね、というのは当たらない。名前を変えたんじゃなくて「書き方」を変えた。だから『日本書紀』には高句麗じゃなくて高麗としか書いてないんだよね。で、「高麗」は日本ではコマと訓んでたが、日本は「高句麗」まで音読みで「高麗」になってからいきなりコマとい読みだすってことは考えにくいので、「高句麗」だった昔からコマと呼んでいたに相違なかろう。

国王は「おりこけ」
『古事記』には外国の「国主」や「国王」という言葉が出てきて、これを本居宣長は一律にすべてコニキシと読んでる(本当はコンキシなのだが、昔の日本語にはンの発音が無かったので実際はコニキシと発音してたろうけど、そもそもこの単語は外国語なのだから日本語読みはコニキシでも表記はコンキシのほうがより正しい発音(鞬吉支)に近い。NHKのアナウンサーが野球の「チーム」をティームと発音するのはすごく違和感がある。
とにかく、宣長がコニキシと訓んだのは書紀の古訓によったのだろうが、平田篤胤は宣長のように一律にコニキシと読むのには異議を唱えた。コニキシは百済王のことで、新羅王の場合はコニキシと読んだら誤りでムキンが正しいとした(この場合のンはnでなくmなので、ンの発音なしとすればムキムまたはムキミとなる)。
古事記には外国の国王や国主は8回でてくる。そのうち百済は応神天皇の時の照古王1回だけで残りは全部新羅だ。神功皇后の時2回、天の日矛のところで4回、允恭天皇の時に1回で新羅は計7回でてくる。高麗王(高句麗王)は古事記にはでてこない。
(続きはまた後日)

☆百済(くだら)の照古王

H30年10月改稿
今日、H28年10月13日は、朝鮮半島の西部にあった古代王国「百済」が唐に攻められて滅亡した日。天智称制二年(AD663年)九月七日のことだと『日本書紀』にはある。『資治通鑑』には八日だとして1日ずれてるが記事の詳細さからいえば日本書紀をとるべきだろう。現在の暦に換算すると10月13日、今日。ちなみにAD663年の10月13日は金曜日だった。「13日の金曜」だな。
10月13日という日付
天智称制二年九月七日をグレゴリオ暦に換算すると10月16日になるんだが、ユリウス暦では10月13日。1582年10月15日以降はグレゴリオ暦一択だが、同年同月の4日以前はユリウス暦で換算すべきと思う。
・BC45年1月1日からAD1582年10月4日まではユリウス暦で換算すべき。ここをあえてグレゴリオ暦で換算しても西洋史との対照ができない。
・BC44年以前にはユリウス暦自体が存在してない。グレゴリオ暦で換算するのは海外の歴史との対照のためではなくて、現在の暦(=グレゴリオ暦)の季節でいったらいつごろだろうな、という自然科学的な時期というか季節感をしるため。

話題豊富な百済w
百済については、現代の韓国人の先祖なのか、いや現代韓国人とは別の民族でつながってないんじゃないのかとかの議論や、今上陛下の詔にあった「深いゆかり」つまり桓武天皇の母方の先祖がどうのって一連の議論、そのほか重要な話や面白い話がたくさんある。ちょっと書ききれないが。なので今回はさわりだけ。百済・新羅・高麗・任那の話を詳しくやってるとそれだけでもう古事記ブログとは別のブログを3つか4つ用意したほうがいいぐらいの量になってしまうので、正直どうしたもんかとも思うんだが…。

百済(くだら)という国名
最近の教科書はペクチェと読ませてるらしい。これって現代韓国語読みであって別に古代の百済人がそう自称してたわけでもなんでもない。百済(ひゃくさい)というのと同じでタダの音読みであり、いうなら古代朝鮮語ですらない。これは日本と書いても倭と書いてもヤマトと読むようにもともとの百済語の本来の国名だろう。韓国語でクンナラ(大国)が訛ったんだという説はデタラメである。大きいことをクンというのは現代韓国語であって古語でない。古くはカンだったはずで、しかもこれは新羅語であって百済語でない。じゃ、クダラの語源は何なのかというと、時間がないのでそれはまた次回にとっておこうw

照古王からみた応神天皇の年代
『古事記』との関係でいえば百済は応神天皇の時に照古王が朝貢してきた話しかでてこない。この照古王の名「照古」ってのは当て字で、『日本書紀』では肖古王、『新撰姓氏録』では速古王、『三国史記』という朝鮮の歴史書では肖古王または素古王とあり、みな同じ発音だからどれが正しいということはない。ところで『三国史記』百済本紀には歴代の百済王がでてくるわけだが、『日本書紀』に出てくる百済王と名前はほぼ一致しているのに、年代があわない。120年(干支の2回分)ずれてて、日本書紀のほうが古く、三国史記のほうが時代が新しくなってる。そこで、通説では日本書紀が時代を古くみせるために引き上げたというのだが、本当だろうか。この120年繰り上げ説は戦前から一貫して学界の通説のようになってきたが、疑おうと思ってみると実はさほど確固とした根拠はなかったことがわかるのだ。最大の根拠は『宋書』など中国側の史書にでてくる百済王の名が、三国史記にあってるようにみえることだが、これは倭の五王の名と日本書紀の天皇の名をこじつけるのと同じで、なんとでもいえることなのである。実際に戦前に日本書紀原理主義の立場から中国側資料の百済王の名前を検討した例があり、完璧ではなかったがそこそこいい線までいってたぞw 漠然と読めば三国史記のほうが合ってるように思ってしまうのはある意味当たり前で、三国史記の編者の金富軾(きんふしょく/きんふしき)というおっさんが勝手にそういう前提で三国史記の記事を書いてるんだから。古代朝鮮史の専門家の井上秀雄は、「もともと原資料は干支だけで書かれて具体的に何年なのかわからなかったので、日本書紀と三国史記がそれぞれで具体的な年代にあてはめたのであり、どっちが正しいってことではない」といっている。つまり日本書紀と三国史記の一方が正しくて他方が間違ってるというような簡単な話でもない。
第一に、三国史記だと肖古王ってのが2人いて、時代の後のほうを「近肖古王」と書いている。時代の先のほうを仮に「肖古1世」とし、近肖古王を「肖古2世」とする。ちなみにどっちの肖古王も息子(次代の王)の名が仇首王という同じ名なのでこれも「仇首1世」「仇首2世」ということにする。同じ名前の親子の組み合わせが時代をこえて存在することから、この親子を同一人物とする説がある。魅力的な説ではあるが、仮に日本書紀の120年繰り上げられた百済王の年代が正しいとして、書紀は肖古2世以降しか関知してないから、それ以前の百済王の年代は三国史記をそのまま認めると、当然重複する120年間が発生するわけだが、その120年間の冒頭の10年くらいは仇首1世の末期と肖古2世の初期でかぶっている。がそれだけであり、1世の親子と2世の親子が同一人物の親子だと主張しようにも、年代からはあんまりピタリ重なるとはいいにくい情況なのだ。
第二に、日本書紀と三国史記の120年差について、両者の中間とって60年ずれてた、なんてこともありえないとはいえない。実際に田中卓は仁徳天皇の巻に出てくる百済関係記事は120年じゃなくて60年の繰り上げだといってる。まぁこの説自体は必ずしも信憑性はないがあくまでいろいろ考えられるという一例だ(ちなみに田中卓は、かつては神武天皇以下、欠史8代の実在を主張したのと王朝交代説をこてんぱんに批判したウヨのヒーローだったが女系天皇派になって晩節を汚した老害。まぁもともと邪馬台国九州説だったし辰韓と秦韓が同じこともしらないアホだったからちょっと怪しいとは思ってたんだが。『住吉大社神代記の研究』とかいい仕事もやってんだが今思うと典型的な専門バカタイプだったのかな…? …って関係ない雑談だがべつに学術論文じゃないんだから脇にそれてもいいだろ)。
第三に、日本書紀の肖古王は三国史記の肖古2世のことで、日本書紀はこの肖古2世より前の百済王は出てこない。日本書紀の建前では日本と百済の国交が開けたのはこの肖古王2世の時だということになってるからだ。しかし三国史記では肖古2世よりずっと前に肖古1世がいたことになってるわけだから、もし日本書紀の天皇の編年をやたら短縮せずそのまま認めた上で、三国史記の百済王の編年も同時に認めたとすると、肖古1世が応神天皇の時代に朝貢してきた王じゃないのかという発想がありうる。これは三国史記と日本書紀の折衷案にみえる。しかし日本書紀の編年では応神天皇が即位した時すでに三国史記の肖古1世は死んで仇首1世に代替わりした後だ。そもそも日本書紀では120年繰り上げられたはずの肖古2世も同様に応神天皇即位の前に死んでいるのだ(日本書紀のデフォルトの状態で)。いうまでもなくもっとも信用できないのは日本書紀の天皇の在位時期で、三国史記は60年サイクルの当てはめがいい加減なだけで干支はあってると考えられる。以下、120年繰り上げられている書紀の肖古2世をA、三国史記の肖古2世をC、中間の60年差のをBとして全部の組み合わせを列挙すると

・古事記の照古王が肖古1世(166即~214薨)だとした場合、応神崩御の甲午年は214年で、応神天皇崩御と肖古1世薨去は同じ年。もし応神天皇の在位期間が61年以上あったとしたら甲午年は274年でも可。

・古事記の照古王が日本書紀の肖古2世A(226即~255薨)だとした場合、応神崩御の甲午年は274年で、応神天皇の在位期間は最短でも20年以上。もし80年以上あったとしたら甲午年は334年でも可。甲午年にこだわらず日本書紀の応神帝崩御年310年説をとった場合でも応神帝の在位期間が56年以上あればギリギリ肖古2世Aでも応神天皇に朝貢できたはずだが書紀は在位41年としているので肖古2世Aはハズレる。

・古事記の照古王が肖古2世B(286即~315薨)だとした場合、応神崩御の甲午年は334年で、応神天皇の在位は最短でも20年間以上。もし80年以上の在位なら甲午年は394年でも可。甲午年にこだわらず日本書紀の応神帝崩御年310年説をとった場合でも肖古2世Bの在位期間中なので肖古2世Bは応神天皇に朝貢できる。

・古事記の照古王が三国史記の肖古2世C(346即~375薨)だとした場合、応神崩御の甲午年は394年で、在位は最短でも20年間あったことになる。

以上が組み合わせのすべてで、いろんな解決法がありうるが、最後の説が世間一般の通説そのものか、もしくは通説に近い。だが、実は肖古2世だとすると書紀のA、三国史記のC、その中間のBのいずれの場合も俺の年代推定のやり方ではこれ以降の年代が押せ押せのギチギチになって入り切らなくなってしまうのだ。ただし今はそれについての詳しい議論はさておいて、古事記に出てくる照古王は肖古1世だとして話をすすめる。まず古事記が正しく日本書紀が間違っているという鉄則に従うと、日本書紀は天皇の年代を古くみせるために引き上げられてるといわれがちだが、そうではなくて逆に引き下げられてることがわかる。すなわち、日本書紀の編年よりも応神天皇の在位期間がもっと前でないと、肖古1世は物理的に応神朝に朝貢できないのがその証拠だ。日本書紀の編年と照合すると、肖古1世が薨去する直前に即位したての応神天皇に朝貢したケースでは日本書紀は約60年ほど年代を引き下げてることになるし、逆に応神天皇崩御の直前に即位したての肖古王1世が朝貢してきたケースでは、日本書紀は140年以上も年代を引き下げてることになるのだ。平均すると約100年(±40年)ほど古く引き上げた年代が本当の応神天皇の在位期間なのである。これをさらに古事記の崩年「甲午年」で絞り込むと該当する年は214年しかない。214年説をとった場合、応神天皇は九月で肖古1世は十一月の同じ年に死んだことになるが、肖古1世は応神天皇に殉死したのかな。その一つ前の甲午は154年でこれだと肖古1世が即位した時すでに応神天皇は崩御していたことになってしまうし、一つ後の甲午は274年で仮に日本書紀に従って応神朝が41年間とすると応神天皇が即位した時すでに肖古1世は薨去していることになる。もっとも、日本書紀の編年は信用できないのだから在位41年説を無視してもいいわけで61年と仮定すればギリギリ間に合わせることができる。しかし神功皇后の摂政期間が長いので応神天皇が即位した時はそれなりの年齢をすぎてたろうから60年もの長い在位は考えにくいのではないか。

百済の建国は4世紀ではない?
(続きはまた後日)

☆東武天皇(古事記からみた象徴天皇のルーツ)

H30年8月3日(金)改稿
今日は平成28年8月3日(水)、東武天皇即位の日。src_41687359.jpg
北白川宮能久親王は戊辰戦争の東軍に擁立され旧暦慶応四年六月十五日(新暦8月3日)、「東武天皇」として即位した。ちなみに8月4日(旧六月十六日)は「大政」に改元された日付であって即位の日ではない。この話はこの話であれやこれや面白いんだが、とりあえず古事記とは関係がないので取り上げるつもりはなかったんだが、あえて「古事記からみた近代史」という視点でいってみたい。
東照権現から東照御祖命へ
家康が死後「東照権現」(とうしょうごんげん)として祀られたがこの東照宮ってのは皇室の伊勢神宮に対抗して「関東の天照大神」という意味を込めたといわれるが、本当だろうか。東照権現の本地である薬師如来が「東方瑠璃光浄土」の主だから、京都西国に対して関東の江戸幕府の守護仏とされたのであって、東照権現の「東照」とは「東方の瑠璃光」の言い換え、別表現なのである。むろん裏読み深読みしたい人は「裏の意味は関東の天照大神なんだが東方の瑠璃光の意味にすぎないと言い訳できるようになってるんだ」というかも知れないが、まぁ決め手のないところでそうともいえるってレベルの話。ところで本居宣長は漢語を嫌って和風に「東照御祖命」(あづまてるみおやのみこと)と読んだ。ならば、東武天皇も「アヅマタケルノスメラミコト」と訓読みできるんじゃないか。

「東武」の意味
東武天皇の「東武」は武蔵国の東部で、東武鉄道や東武デパートの東武と同じ。だが、狭くは「江戸」をさしている場合もある。またさらに、武の字は武家(将軍家)の意味にもとれる。で、世の中には、武士の本拠関東(あづま)の神武天皇の意味だという人もいる。しかし神武天皇に例える意味はあるのか疑問もなくはない、寛永寺の門跡が即位したとして神武天皇とか初代のなにかという要素は乏しい。現代人がおかしいのであって、当時の感覚としては伝統の継承に価値なり正統性なりがあるのであって初代を強調することに意味はない。従って、当時の気分としてはこの「武」は神武天皇ではなくて「公武一体」とか「武家」(将軍家)とかいう時の武で、武士のための天皇、幕府に擁立された天皇というニュアンスにとるのが穏当だろう。そういう文脈で武の字を訓ずれば、将軍の意味ならイクサノキミ、武士ならモノノフまたはモノノベと読みたいところだが、字そのままにタケルと読んでも面白いことになる。クマソタケル、イヅモタケルのように、「タケル」というのはその土地を実力で支配する有力者、豪族という意味もある。東武をアヅマタケルと読めば、関東の支配者の意味だ。「東国の武士たちの首領たる天皇=関東の武士に擁立された天皇=幕府の天皇」と結果的に同じ意味になる。

タケルの系譜
タケルといえば、ヤマトタケルが連想される。ヤマトタケルの強烈なイメージは、一世一代のもので後継者が現れるとは思われなかったが、雄略天皇が登場して「ワカタケル」と称される。さらに武烈天皇が雄略天皇を模倣して、雄略天皇が葛城氏を滅ぼしたように、武烈天皇は平群氏を滅ぼした。これで「英雄」の一つの類型が定まった。この型の一貫した要素の一つは「少年」であり、19歳で蘇我氏を滅ぼした天智天皇にもそのイメージが引き継がれている。承久の変において後鳥羽上皇は自らを天智天皇に擬した。建武の中興における護良親王には、放浪と悲劇の英雄ヤマトタケルの姿が重なる。豪放磊落で痛快なエピソードをもちながら22歳で崩御した江戸時代の後光明天皇も加えることができるかどうか。後鳥羽上皇と護良親王は敗北者で、雄略・武烈・天智の三帝は成功者だという違いはあるが、ヤマトタケルは成功者とも敗北者ともいいにくい。しかしイメージとしては悲劇性に彩られているので、後鳥羽上皇や護良親王はぜんぜんミスマッチではない。むしろ、雄略天皇には目弱王という「少年英雄」のイメージをめぐるライバルがおり、天智天皇には崇峻天皇という先行した敗北者がいた。目弱王や崇峻天皇はタケルに成り損ねたもう一人のタケルたちなのであり、彼らは悲劇性や敗北を担い、もう一人の成功者とは光と影のように対になって、元型たるヤマトタケルの要素を分け合う。そして、東武天皇=北白川宮能久親王もまた、親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には許されて皇族に復帰したが、人々は戊辰東軍(旧幕府軍)に親近感を寄せていたし、親王も積極的に庶民の前に出た。現人神として絶対的な威厳をもって畏怖された明治天皇に対して、国民に親しまれる皇族という新しいモデルを提示した北白川宮は、光と影、裏と表のように皇室のイメージを担っていったが、陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげた。
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旧幕臣の多かった当時のマスコミは敬愛する北白川宮(=東武天皇)に深く同情して、現代のヤマトタケルと称賛した。北白川宮の新しい皇族のありかたに注目していたのが誰あろう即位前の大正天皇であり、大正天皇の理想とする天皇像は北白川宮をモデルとしたものであった。そして昭和天皇が敗戦後に、新しい天皇像を模索した時に引き出されたのが大正天皇であり、北白川宮だった。つまり象徴天皇の源流は東武天皇なのである。

日本文化の源流としてのタケルと象徴天皇制の起源
ヤマトタケルのイメージはその後の日本史の中で様々に展開して、日本文化のもつ著しい特徴の源流となった。アナーキーで凶暴、卑怯な騙し討ち、残酷、陰惨、サイコパス…。そういった原始の子供の荒御魂(あらみたま)が、「悪」(悪源太、悪左府、悪党)と可愛く儚い「幼童天皇」に分離して、子供から荒御魂が抜けたが「子供の世界」の認識が残った。これが古代~中世を通じて、アニメやマンガ等のサブカルチャーを含む現代日本文化の核なのである。それにまとわりつく女戦士のイメージは、倭建の女装、熊襲の女酋から、神功皇后、巴御前へと続くだろう。「甘え」の文化(泣き言と擬似マザコン)の起源でもある。強さの基準としての蝦夷征伐「東国造(あづまのくにのみやつこ)の任命」は、後世の征夷大将軍の起源につながっている。なぜ荒ぶる子供が排除されず逆に大切にされるのか?この議論はおもしいが量が多くなる。しかし今回は以上のような話をしたいのではなくて、現在の「象徴天皇制」もまた、タケルたちの最後につらなる東武天皇から提供された一つのモデルだったということだ。北白川宮が、そのような皇族のありかたをプロデュースし得たのは、本人が最後の上野宮様(寛永寺門跡=東叡大王)だったことによる。江戸時代には長い間、天皇と将軍は対等の礼とされていたのでこれだけみると江戸時代の日本は二頭体制にみえるが、実は上野宮も天皇や将軍と同格とされていたので、実際は三頭制だった。そして上野宮は江戸の庶民との交流や精神的な結びつきが極めて強く、公家のトップとしての天皇、武士の領袖としての将軍とならんで「江戸庶民の殿様」ともいうべき第三の権威だった。国民との心の紐帯を核に置く象徴天皇のありかたとは、上野宮寛永寺門跡の制度をルーツとしているのである。

・斎宮(いつきのみこ)、王権の三機能の展開

H30年1月26日(金)改稿 H29年6月22日初稿
清子姫様が19日付けで伊勢神宮の祭主にご就任あそばされたことを伊勢神宮が20日に発表した、とマスコミが21日に報道した。ややこしいな(今日は22日で以上はすべてH29年6月の話)。さて、伊勢神宮の祭主って昔から女性皇族が務めてるような記憶があるので、斎宮と印象がかぶるが、実はぜんぜん違うもの。詳細は適当に検索して勉強して下さいw 俺も調べてみたら昭和二十二年(1947年)に就任した北白川房子内親王が最初の女性祭主だから、最近のことだ。推古天皇の時に初代が就任したという、伊勢祭主の長い歴史の中ではそれまで一貫しておっさんが就任している。祭主というのは偉いことは偉いんだが元々は世襲官僚の一種で、斎宮とは本質的にも別物だ。確かにそうなんだが、北白川房子内親王以降、4代続けて皇族女性ってのはかなり特殊な事態であって、祭主のイメージを斎宮的なものに近づけていきたいという無言の意志を感じるのは俺だけだろうか。まぁそれが良いこととしても悪いこととしてもいずれにしろ微妙な問題を孕んでるような気がするが、現代の問題は当ブログの関知するところではない。とはいえ「斎宮的なもの」とはなんぞ、というこちら側の設定とは無関係な、心理的・人類的・文化的な事実としての「斎宮的なもの」つまり王権に直接つながっているという属性をもった上での「巫女的なもの」が迫ってくるのであって、現代の問題のみならず古今東西にわたる普遍的な問題でもある。…というような念仏はどうでもいいとして、なにがいいたいかというと普遍的な問題というのはつまり日本独自の問題ではない、ということだ。斎宮だ天皇だといっても日本独自のなにかではない。もし日本に独自性があるとしたら、原始王権がそのまま保存された世界唯一の君主制だといえるかいえないか微妙なところ。原始王権とは何か、それは祭祀王・軍事王・生産王の3機能が一つになって分離していないことである(神話学の三機能論の援用なw)。というと、それなら天皇はすでに原始王権ではない、ということになりそうだが、3要素が分割されて別のものになったとしたら、確かに天皇は原始王権ではない。しかし、内在する3要素が時代情況にあわせて自在に外に分出展開し、また時代によって自在に自己に回収する力を残していたとしたらどうだろうか。実際に、神武天皇以降、現代まで天皇のありかたはそのように展開してきたんじゃないのか。以下はその具体例の一覧である。いうまでもないが、これをみれば天皇の本質を「祭祀王」だというのは完全なる誤りであることが明白だろう。

(※続きはまた今度かきます)

・総(ふさ)の語源は「麻」ではない

H29・7・29(土)改稿 H29年5月31日(水)初稿
今日、H29年5月31日(水)はこりずにまたも成田の麻賀多神社いってきました。めんつは違いますが。今回は2度め。大評判(?)の初回の記事(常時更新中)を未読のかたはまずそちらをお読みください。
首相夫人昭恵さんと大麻w
麻賀多神社といえばつい最近、安倍首相夫人のアッキーこと昭恵ねぇさんが大麻関係者との交流を「週刊新潮」に書かれちゃった(先月4月6日発売号)。これ車内広告とかで見た人も多いだろう。あの記事にでっかく大麻関係者の聖地だのオカルト神社だのってw まぁオカルト神社ってのは半分本当だけど大麻ってのはどうなのか。関係あるっちゃあるけどそんなこといったら日本中の神社はぜんぶ大麻ぬきじゃ成り立たないほど関係あるわけで、麻賀多神社が特別どうのこうのってことはないんじゃないのか? どうせオカルトよばわりするんなら『日月神示』がどうのより、せっかく神代文字で書かれた由来書があるんだからそっちも取り上げてくれや、と願わずにはいられないw この由来書だが、神代文字の真偽は別として、読んでみたところ文章は漢字と仮名で書かれたものを後から神代文字で描き直したものっぽい。内容も江戸時代に書かれたものだろう。神代文字も数ある中からなぜ出雲文字が選ばれてるのか…? と、興味もつきないがそれはともかく、麻賀多神社と大麻の関係だが、週刊新潮には麻賀多の「麻」の字と神紋(神社の家紋みたいなもの)が麻紋だから麻と縁が深いって2つしか根拠があげられてない。これだけみるとほとんど言いがかりみたいな話だ。で、よく調べてみると以下の如し。

麻賀多神社は「麻」と関係なし。千葉県は「麻」と関係あり。
『古語拾遺』にかかれている有名な話で、神武天皇の時に忌部氏の分派が総国(今の千葉県)に渡り、その地を開拓して麻を生産したので総国(ふさのくに=麻の国)といった、という話がある。木綿(ゆふ)が採れたから「結城郡」といったともある。通常はこれは下総国の相馬郡布佐郷(今の我孫子市の布佐)と同国結城郡結城郷(今の結城市の中心部)のことだと考えられていると思うが、郷土資料の『印旛郡誌』によるとフサのほうは印旛郡(今の成田市)のことで、麻を生産して献上したから「麻県」(あさのあがた/あさがた)といったという。麻県(あさがた)が麻賀多(まかた)になったというわけ。まぁ我孫子市から成田市までの広い範囲と思えば地域のずれについてはさしたる矛盾ではないし(間に印西市と栄町を挟むことになるが)、「麻県」という地名が本当にあったとしてもよいのだが、それなら麻県がのちに国に昇格して「総国」になったという流れのはずで、麻県(あさがた)が麻賀多(まかた)になったなんてこたぁあるわけないと思うんだよねw それ本当ならアサガタ(麻県)を音読みしたらマケンになるはずだし音写表記なら「阿佐賀多」とこそ書け、なんで一字だけ訓のまま「麻賀多」になるのか、しかも賀の字を清音のカに読む理由も説明不能で、アサガタがマカタに訛る道理がない。マカタとアサガタ(麻県)はまったく無関係と断定できる。『印旛郡誌』自身が麻県は付近の「麻野」という地名に残るといってるのだからやっぱり麻賀多とは別だと遠回しにいってるようなもんだ(ただし今のところ付近に「麻野」という地名発見できず)。
ついでにいうと他の語源説で、もと勾玉(まがたま)といってたのを、三種の神器と同じ名は恐れ多いからとして最後のマを削ってマカタにしたという説もあるんだが、これも後世のコジツケにすぎない。勾玉なんて大昔は三種の神器以外にもピンキリでたくさんあったことは誰でもしっており、だから勾玉という名が皇室に対して恐れ多いなんてことにはならないし、あいかわらずマ「ガ」タでなくマ「カ」タになったわけもわからない。麻賀多神社のHPには罪深いことに『「麻の国で多氏が賀す神の社」と訓読みすることができます』などと書いている。これ書く意味あんの? 宮司さんの思いつきでしょw これ素人がボーッと流し読みしたらマガタの地名由来と早とちりするだろうな、実際そういう人多いと思うよ。このHPが言ってるのはマガタの語源ではなく、当て字する時の漢字選びの話にすぎない。マカタの語源に諸説ある中でまともなのは「間潟/真潟」説だろうな。現在の本宮のある「台方」、奥宮のある「船形」、台方に隣接する「下方」等の地名はすべて「~潟」が語源でこのへんは陸と海が入り組んだ入江だったんだろう。麻賀多神社の境内も地面の土に無数の貝殻がみえる。ここが昔、貝塚だったのか海底だったのか、または貝塚を掘り返した土で整地したのか、いずれにしろ海が目前に迫った場所だったと思われる。
で、話もどるけど、麻県というのは伝承どおりなら、総国の前身であるはずで、麻賀多神社のある一角だけをさしてるわけではない。千葉県全体が麻と関係深いっていうならわかるが、麻賀多神社だけが特別に…ってことにはならない。麻紋も本来は家紋の一種なんだから、この家紋の家は大麻関係者ってことになるのか、ならんだろう。

房総の国造(くにのみやつこ)の歴史
さて、総国(ふさのくに)の中心というか発祥の地は前述のごとく、我孫子市・印西市・成田市の3市にまたがるあたり、ということに仮定したみたが、我孫子の布佐と成田の麻賀多、どっちが本家なんだって話はこの際どうでもいい。しかしこれ本当かね? 国造(くにのみやつこ)の分布をみると上総6、下総3、安房2となっているが安房は養老二年(718年)に初めて上総から分置したもの。なので本来は上総の一部だから安房を上総に含めていうと国造は上総8、下総3となる。で設置年代が不明な千葉国造と長狭国造を除くと、例外なく上総の7国造は成務朝、下総の2国造は応神朝に創立されている。千葉国造は大私部直氏(おほきさきべのあたへ)で私部は敏達朝の創設だから、(国造氏族が途中で他氏と交替することはままあることなので断定はできないが)千葉国造が設立されたのも敏達朝の可能性がなくもない。そうすると房総の国造の中ではかなり新しいことになる。成務朝は全国の国造が一斉に設置された時だから格別なんだもないが、その頃は下総にはまだ国造が置かれなかったわけだ。つまり千葉県の開発は南から始まって北上していったということだ。『古語拾遺』によると神武朝に房総半島にやってきたという忌部の一族が最初に住み着いたのは阿波(後の安房郡)で、故郷の粟国(あはのくに:徳島県=阿波国)の名をとって同じ名を付けたという。これからすると総国の最初の発祥地は安房郡(今の館山市・鋸南町・南房総市)ってことにならないか。我孫子市だの成田市だのってのは、てんで方向違いだ。

上総ができたのは安閑天皇の時ではない
そして成務天皇の時、8国造を置いたというのはこの総国を8分割したってことだろう。この地はのちの安房と上総をあわせた範囲で、ここは丘陵地帯で大昔には巨大な島だったろう。が、後世でいう下総はもとは海の底でかなりあとまで広大な潟(入江)や湖沼が広がっていて少ない陸地も湿地帯だったんだろう。だから人もたいして住んでないし国造も置かれなかった。応神天皇の頃になってやっと3国造が置かれたから、ここで「下総・上総」という呼び分けが始まったものと思う。『帝王編年記』は上総国が安閑元年(534年)にできたように書いてるが、これは日本書紀の同年に上総国に屯倉を置いたとあるのが上総の初出なので短絡しただけだろう。総が上総と下総に分かれたのはそうではなくて、応神朝に3国造が置かれた時と思う。

ウィキペディアの誤り
ちなみにウィキペディアによると、上総の北西部の上海上国造(かみつうなかみ)と下総の東部の下海上国造(しもつうなかみ)の間に武社国造(むさ)が位置していることから、もともと広大な「海上国」ってのがあってそこに後から「武社国」が割り込んできて分割されたとか菊麻国造(くくま)が台頭してきて海上国は弱体化したのだという説が書かれている(原島礼二の説)。しかしそんなことあるかね? 旧事本紀の設置年代記事を信じる限り、上海上国の東をふさぐ武社国と北をふさぐ菊麻国は、上海上国と同時期に設置されてるわけで、あとから割り込んできたとか後から台頭してきたとかって何の根拠でいってるのか? 上海上の国造は出雲氏、下海上の国造は安倍氏の分かれ(他田日奉氏)で系統も違うし。確かに設置当初は「上海上」じゃなくて「海上」だったろうけど、海上(うなかみ)というのは海沿いの地をありふれた地名だったのではないかとも思われる。応神天皇の時、もう一つ「海上国」ができたから上下で呼び分けただけで深い意味はないのじゃないか? あるいは百歩譲って、後世でいう下総に相当する一帯を「海上(うなかみ)」といっており、海上国造の管轄になっていたか。そうすると菊麻国と武社国はどうなるんだというだろうが、上海上国からみて東にある武社国はともかく、北の菊麻国は小国だった。菊麻国造は「菓麻国造」または「久久萬」とも書き、律令下での市原郡菊麻郷にあたる。古事記に「大国小国の国造を定めた」とあるように、国造には律令下の郡の規模をもった大国と、律令下の郷の規模しかない小国があったという説がある。国造に大小の2種あったというのは古事記に照らしてその通りと思われるが、その大小がピッタリ後世の郡と郷に対応してるわけではなかろうけどもまぁ規模を推定する上で参考程度にはしてもよかろう。菊麻国造はそういう意味では房総8国造の中で唯一の「小国造」で、台頭してきたも糞も、上海上国造と下総3国造との間の陸海の交通を妨げるような存在ではなかったのではないか。妨げていたならむしろ通行料をとることでようやく国造として成り立っていた可能性すらある。しかし同じ可能性なら、当時は海岸線の形が今とぜんぜんちがってるんだから問題なく海でつながってた可能性のほうを考えたい(面倒なので今回そこまで精査はしないが)。

幻の「布佐国造」(ふさのくにのみやつこ)
こうすると、応神朝にできた3国造は海上国造から分置したってことになるだろう。成田の麻賀多神社のある印旛郡のあたりはようやくこの時に国造に昇格して印波国造(いなはのくにのみやつこ)になったもので、麻県の発祥地みたいな話はどうもうさんくさいこと限りない。もっと酷いのは我孫子の布佐でこっちはまったく出番がないことになる。我孫子の布佐にある竹内神社の伝承では神武朝に「布佐国造」(ふさのくにのみやつこ)が置かれたというが、むろん学界ではそんな国造は認められてない。麻賀多神社のいう「麻県」にしろ竹内神社のいう「布佐国造」にしろ、神武朝に設立されたのなら安房郡(今の南房総市・館山市)かその近隣にあったはず。で、下総方面は標高だけでいえば広大な平野のようだがその頃まだかなりの面積が海の底で陸地も湖沼や湿地帯が多かったと思われる。
で、実際の地名を調べると、いすみ市と御宿町の境に「布施」(いすみ市側が上布施・御宿町側が下布施)、大多喜町に「総元」、勝浦市に「総野」等の地名がある。これらは昔の村の名の名残で古いもの。この三点をむすんでみると大多喜町・勝浦市・御宿町のあたりが「フサの国」発祥の地の候補としていいようにみえる。もっともたまたま奇跡的に残った地名とすると、可能性のある想定範囲はもっと広くみていいかもしれない。

実は「総(ふさ)=千葉県」も麻と関係なかったw
ウィキペディアには藤原京出土木簡により上総・下総の「総」の字が文武三年(699年)の段階では「捄」(手偏に求、音はキュウ)だったことがわかったって事が書いてるが、それにくっつけて「だからフサは麻のことで合ってたんだ、「総」の字には麻の意味がないが、「捄」の字だから麻でいいんだ、史料(=『古語拾遺』)が再評価されたんだ」みたいなアホな方向に引っ張ってて、なんじゃこりゃな文章になっている。「捄」の字は現代ではほとんど使わない字のせいか辞書によって解説がちがってたりするんだが、藤堂明保学研漢和大字典にはこんな意味は載っておらず、諸橋轍次大漢和全13巻だと5番目にようやく果実のフサ、フサ状の果実とある。しかしこれは借字で、本字は「莍」(草冠に求、音はキュウ)。捄もめったに使わない字で熟語が「捄敗」しか載ってない(この場合の捄は「救」と同義同音)。諸橋漢和には多くの意味が載ってるが藤堂の説ではこの字は手に「集める」が本義らしい。とすると、細長い紐のようなものを束にして握ると房状になるから結果的にフサ状のものという意味も派生するわけだろう。白川静の『字訓』だと、「捄」の字はフサ状のものを数える単位でもあったようで、だから「莍」でなくわざわざ「捄」の字を使うんだろう、「手にとって」数えるわけだから。現代でいうと葡萄やバナナを1房(ひとふさ)、2房(ふたふさ)と数える時のあのフサだ。フサ状の果実について諸橋漢和の用例には椒・萸・樧(木偏に殺)があり、植物の名は紛らわしくわかりにくいが、ざっとみたところ椒はサンショウ、萸はグミ、またはサンショウの一種、樧もグミの一種らしい。画像検索で見比べてみればわかるが、これらの実は麻以上にまさにフサ状になってるわけで、麻だけがフサとよばれる筋合いはない。あいかわらずフサの地名の由来が麻からきたのだという証拠にはなってない。麻を何本も束ねてたらせばフサになるからって説もあるが、そういうのは「説」ですらない。麻でなくても何だってフサ状にすればそれがフサなのは当たり前で、何も言ってないに等しい。
これに対して「総」の字(旧字体は「總」だが便宜上「総」で代用する)は地名のフサ(上総・下総)以外に、もともとフサの訓はなかったのか、フサの意味と関係ないのかというと、そんなことはない。諸橋漢和の8番目に「ふさ」がある。色のついた紐を束ねてつくった、車や馬の飾り。「ふさ 房 車馬の飾り」で画像検索するよろし。むろん麻とは関係ないし、車馬の飾りであるフサが原義でその結果「車馬の飾り状のもの」全般をフサというようになった、というわけでもあるまい。だが、白川静の『字訓』の説では「ふさふさ」したものが原義だから、車馬の飾りもフサ状の果実も派生義としては同等のようだ。捄の字が「総」に差し替えられたのは早ければ701年の大宝律令からってこともありうるが、おそらく和銅六年(713年)の「諸国郡郷名著好字令」ではないか。捄の字はフサ状の果実またはフサを数える単位にすぎないが、総の漢字はおさめる・ひきいる・とりしまる等(総領・総監・総統)の意味があり、動詞として「ふさねる」(古語:ふさぬ)とも読む。「ふさねる」は和語としての原義は「束にする」という意味だが、そこから派生して統轄する・総覧する・総裁する(=統治する)の意味があるからカッコイイ、こっちの方が「好字」だってわけだろう。だが、地名のフサを表わしているんだから基本的には「総」でも「捄」でもフサという地名(発音)を表わすための表記であり、いってみればただの当て字なわけで、地名の語源がはたして「フサ状の何か」だったかどうかはわからない。
さて、ここまで踏まえた上で『古語拾遺』の伝承を検討してみよう。忌部氏が房総半島に入植してきたのはいいんだが、そこで初めて「フサの国」と名付けたってのは本当かね? その前から(縄文時代から)人が住んでたのは明らかなので地名はあったはずだが。そもそも「麻のことを『フサ』ともいう」、ってのが本当なのかどうか。それならグミ(茱萸)もフサ、山椒もフサ、葡萄もフサって別名がないのはどういうわけだ? 大槻文彦の『大言海』も上田万年の『大日本国語辞典』もフサを麻の古名としているが、そのソースってのが『古語拾遺』以外には無いわけだよ。岩波文庫の『古語拾遺』の注釈(書いた学者は西宮一民)に「麻のことを総(ふさ)と言ったことは他書に例がない」とはっきり書かれている。本当に麻が由来なら「アサの国」と名付ければいいんで、わざわざ山椒やグミや葡萄と紛らわしいフサという言い方するかね? 「麻の育ちが良かったから」ってのもおかしい。そもそも麻は雑草の一種だってことを忘れちゃいませんかね? 麻なんてもんはあーた、日本中どこも草だらけよw 大草原不可避www 四国からはるばる千葉県まできて「麻の育ちがよい」ってそんな大事件なの? これ(=『古語拾遺』の伝説)って結局、よくいえば「地名起源説話」、身も蓋もなくいえばコジツケだろう。麻は神具をつくる材料だから神具製造の部民である忌部(いみべ)が麻の栽培もやってたわけだが、彼らが自分らの職能に関係づけた地名起源説話を語るのはさもありなんと思われる。が、あらゆる書物、あらゆるサイトがこれを真に受けて「総(捄)の国という名は『麻』の意味でござんす」とやらかしてるのはいかがなものか。
よって「フサの国」ってのは本当は麻とは関係のない別の語源があったんじゃないのかと思われる。

諸説乱舞
ではフサの語源は正しくは何なのかというと、それはわかりません。wikipediaが引用する『地名用語語源辞典』「ふさ」の項によると、フサグ(塞)の語幹で「何かをさえぎる地」のこと、ボサの転で「雑草などの茂み、やぶ」の意、フシ(節)の転で「高所」のこと、クサ(朽、腐)の転で「崩壊地形」を示すなどの説があるが、あくまでも仮の説である。…そうです。どれも狭小な地名ならありそうだが広域地名としてはピンとこないな。
「わかりません、ハイ終わり」では金返せって言われかねないので、何かひねり出してみよう。トンデモ古代史の世界では「扶桑国」を上総・下総のフサにこじつける説が昔からある。中国の神話にでてくる伝説の土地で、太陽の昇る東のはてにあるという「扶桑」の木が生えてるところが「扶桑国」。扶桑の読みは旧仮名で書くと「フサウ」これを上総・下総のフサにこじつけるのははたして電波説かどうか。
ところで漢字の「扶桑」には太陽の意味もないし日の出の意味もないので、これは何か異民族の言葉を漢字に音写したのではないかという説も昔からある。毛利康二はサンスクリットのudaya(太陽が昇る地にある山)、朝鮮語のアチャム(朝の意味)も出しつつ、最後はギリシア神話の太陽神ヘリオスを導く暁(あかつき)の女神の名エオス"Eos"のアッティカ方言バージョンの「へオス」"Heos"からきている、な~んて言ってるぞ。本当かねw

麻ではなくて朝だった?
太陽信仰のあった鬱陵島の古名を「于山国」という。上記の毛利康二は『日本書紀』雄略二十二年に浦島子が辿りついた蓬莱山とは今の鬱陵島のことだという説を唱えている。『丹後国風土記』では蓬山になっていてこちらが正しく、書紀が蓬莱山と書くのは蓬山を蓬莱山の略記だと誤解したからだが、蓬は扶桑の「扶」と音通、蓬莱山の山は于山国の「山」で、「于山」は宇佐八幡宮の「宇佐」にも通じる。「蓬山=扶桑=于山=宇佐」(ハサ=フサ=ウサ)はいずれも同じ言葉からいろいろに変化したものだろう。この地名の語源解釈はともかくとして、于山国と扶桑からして、太陽信仰とむすびついた地名なのはわかる。で、この語源だが、毛利康二は韓国領の鬱陵島について考えてるから朝鮮語のアチャムがどうのっていってるが、房総の「総(ふさ)」を考えるのなら日本語のアサ(朝)で十分だろう。現代語の「朝」("morning")は古語ではアサとアシタの2つの言い方があり、もしかしたらアサの方は古くは日の出の意味だったのかも知れんね。問題はフサだが、天咲(あさ)と日射(ひさ)の中間の訛りかな。「日刺方(ひさかた)の」って天(あめ、あま)、雨、空、日、光、月、雲などにかかる枕詞(まくらことば)もある。日置(ひおき)が「ヘギ」に訛ったりすることを思えばヒサとフサは大した違いじゃないし、「麻の古名がフサ」で通るぐらいなら「朝の古名がフサ」でも問題なくね?
とてつもなく古い言葉とくに人名、地名といった固有名詞は奈良時代にはすでに意味不明になっていることがあり、だからこそ地名由来を説明する説話が作られるのだが、奈良時代文法や奈良時代の単語構造分析だけでは古い言葉は辿れない。ある程度の飛躍が必要になる。これをトンデモだ電波だというなら、これまた一興w 一応俺は「わかりません」とお断りを入れてるからなw

邪馬台国は房総半島にあったw
さぁここで、こないだの日月神社のレポートを思い出していただきたいw あの時は「日月神社の総本宮は千葉県大多喜町の日月神社」と推定したが、前述の「フサ」地名の発祥地候補、大多喜町の「総元」は日月神社の南5kmちょいのところ。また鴨川市の二子という地名があるがここは大昔の日置部があったところ。日置部は日祀部ができる以前には太陽信仰と太陽観測をつかさどっていた。ここは大多喜町の「総元」からも勝浦市の「総野」からも30kmぐらいか。
ここで、さらにトンデモ説の話をしようw この両「フサ」地名と鴨川市二子の中間あたりに麻綿原(まめんはら)高原がある。鈴木正知が唱えた「邪馬台国房総半島説」によると、邪馬台国は、千葉県大多喜町と鴨川市にまたがる「麻綿原高原」の鴨川市側にある「清澄山」にあったのだという。麻綿原は天之原(あまのはら/あめのはら)の訛りで、総国(ふさのくに)はもちろん扶桑国だとw 麻の字もあるぞ、これも朝だったんじゃ?w たぶん磐座もあるよ、面倒だから調べないけど。
麻綿原高原を中心にすると、東はいすみ市の上布施、御宿町の下布施、西は鴨川市の二子を含む東西40~50km、南北10~20kmぐらいの範囲(房総半島の東南部)が原初の「フサ国」ではないかとw ここはGoogleマップでみると房総の忌部氏の最初の上陸/開拓地と推定される安房郡(館山市・南房総市)とは東西両隣の関係にある。またすぐ南にも朝夷郡(あさひなぐん)という思わせぶりな名をもった郡と隣接している。アサヒナは日当たりの良い土地の意味ともいわれるが、アサヒというように東の海に面していて、朝夷郡と長狭郡の2郡でちょうど旧安房国の東半分にあたる。
まぁ邪馬台国がこんなとこにあったわけ無いけど、四国から忌部氏がやってくるよりずっと以前から、大多喜町から鴨川市にかけての一帯のどこかあたりに太陽信仰のセンターがあってそれで「フサの国」と呼ばれたんではないか。のちに日祀部(ひまつりべ)につながっていく日月神社(の前身?)が創建された時もそれでこの地が選ばれたんだろう。

・江戸二十五天神

H29・4・21 FRI 改稿 H27/1/25初稿
今日(H27/1/25)は初天神。菅原道真の誕生日と命日がどっちも25日だったので毎月25日は天神様の縁日なのだが、とくに1月25日は「初天神」(はつてんじん)、12月25日は「終天神」(しまいてんじん)といい、初天神には「鷽替え神事」が行われる。
江戸時代には「江戸二十五天神」というのがあって、梅島の「梅島天満宮」、三ノ輪の「綱敷天満宮(梅林寺境内)」、入谷の「小野照崎神社(渡會天満宮)」、上野の「五條天神」、湯島の「湯島天神」、本郷三丁目の「桜木神社(桜木天神)」、神楽坂の「朝日天満宮(現・蛍雪天神、赤城神社境内社)、江戸川橋の「天神町北野神社(新宿区)」、亀戸の「亀戸天神」、半蔵門の「平河天満宮」、東新宿の「西向天神」、後楽園の「北野神社(牛天神)」(文京区)、根津の「根津神社(相殿に菅原道真)」、御茶ノ水の「神田天神(神田明神境内社)」、下高井戸の「菅原神社」などがある。さらに北野神社は板橋区、中野区、練馬区にもあり、六郷土手の「北野神社(落馬止め天神)」も江戸時代から有名。他に大田区には蒲田にもある。他にもいちいちあげないが合計すると25を軽く超えてしまう。リストは江戸時代から諸説あって一定でないから合計すると25より多くなってしまう道理だ。
これらのうち亀戸天神、根津神社、神田明神の3社は准勅祭社、湯島天神は神社本庁別表社、これに五條天神と赤城神社を加えた6社は有名で大きな神社。小野照崎神社(下町八社の一つ)、西向天神、牛天神の3社もなかなか立派な神社で、桜木神社は小さいが、どの神社も地元に根付いていてるのかそれなりに賑わってる。平河天満宮も大きさは桜木神社と同じくらいだがビル街にあるせいかやや寂しい感じがなくもない。梅島天満宮はとても小さくて境内も狭く寂しい感じ。綱敷天満宮は小さな祠みたいになってる。今小さいところも江戸時代には大きくて賑わってたんだろうけど…。

去年の初天神では「梅島天満宮」の後、電車(梅島→三ノ輪)で梅林寺境内の「綱敷天満宮」に行きそこからはすべて徒歩で入谷の「朝日山辨天院」→「小野照崎神社」→「五條天神」→「湯島天神」(五條天神と湯島天神で鷽替え神事見物)→「桜木神社」→桜木神社と本郷三丁目駅の間にある「冨士浅間大神」をめぐった。天神様は6社、途中で寄り道した朝日山弁天は習合系のお堂(どっちかっていうと寺院)、冨士浅間大神は石碑。
今年のコースは全行程徒歩で鶯谷の「元三島神社」→「小野照崎神社」→上野の「三峰神社」→「五條天神」→「湯島天神」(五條天神と湯島天神で鷽替え見物)→「桜木神社」→湯島の「湯島御霊神社」→御茶ノ水の「妻恋神社」→「神田明神」。このうち天神様は5社、途中で3社に寄り道。去年の冨士浅間大神の石碑は祠ができていて元富士神社だったとわかる、だが境内が荒れ気味で雰囲気が薄気味悪かったので寄らず。駒込の富士神社はよい神社だけど…詳しくは→http://www.geocities.jp/jf1zhe/119HTML/fugigongen.html。妻恋神社はお正月の初夢みるために枕の下に敷く「宝舟」の絵の起源だとか説明板にあったのだがいつの間にかなくなってる。サイトにもない。起源説を撤回したのだろうか。


どこの小さな神社でも季節柄、豆まきの年男・年女を募集してるけどそんなに集まらないんだろうなぁ。でも日曜のせいか参拝客も多く、(小さい神社にもかかわらず)ご祈祷の申し込みしてる人もかなりいた。上の世代の人たちは不景気のせいか神頼みが流行してるってのもあるんだろうけど、それ以上に若い世代で日本古来の習俗や文化が見直されてる傾向が大きいと思う。

・國學院博物館「特別展 火焔型土器のデザインと機能」

今日は友人と一緒に、國學院大學博物館でやってる「特別展 火焔型土器のデザインと機能」を見学してきた。
火焔型土器の年表が掲示されてたんだが、「松本零士の漫画に火焔型土器が登場」とか「星野之宣の漫画に火焔型土器が登場」とか「水木しげるの漫画に火焔型土器が登場」とか、やたら漫画の話ばっかり多すぎだろw あれ絶対、スタッフにオタクがいて「やっと俺のムダ知識が役に立つ時がきた!」とか思ってたんだろうな。そうに違いない。
縄文文化圏は地理的概念としての日本列島に重なる
縄文といえば古事記がらみでもいろんなネタがあって何の話しようか迷うほど。縄文についてはあらゆる角度から研究した様々な書物が出てるわけなんだが、例えば土器の特徴にも地域差があって「何々文化圏」みたいに線引きした地図とかがある。こういう縄文文化そのものを細かくわけてみるという方向性での研究ばかり多すぎるから、縄文といってもいろいろバラバラなんだと思いがちだけど、実は縄文文化ってのは日本列島全国的に均質性が高い文化なんだよな。弥生時代もそうだけど、日本列島が異文化圏によって分断されておらず、縄文文化なり弥生文化なりが地理的概念としての日本列島とほぼ重なっている。なのに、細かくわけてみせる研究(=学者の得意な重箱の隅つつく研究)ばっかりで、縄文文化を全体として海外の諸文化と比較するという視点で書かれたものが驚くほど「無い」。理由はキミにもわかるよね? 縄文やると「日本すげー」に短絡する素人を量産してしまうから、学者はやりたがらないの。

人類の土器文化は日本に発祥して、西へ広がった
とりあえず、今回の企画展じゃなくて同じ國學院博物館の中の通常展のほうの解説文の一つが、どうしても気になった。なにが書かれていたのかというと、人類文明史上、最古の土器は「東アジア」だと。よく読むと、日本のが一万六千年前、アムール川流域や華中・華南でも一万二千年前のが出ている、だから「東アジア」だっていってる。これ四千年も差があるのをむりに一纏めにしてる理由は、いうまでもなく「日本が」「日本が」って言いたくないってことだろ。べつに学者がそういわなくても、それを聞いた素人が「日本すげー」っていきなり言い出さないように、細心の注意を払ってるわけだ。いまだに学界ってのはそういう空気が強いんだなぁ。日本オリエント学会ですらそうなんだから國學院なんかなおさらだろうw ただ、仮にその議論に乗っかって東アジアだといってみても、中華文明の源流である黄河文明の地域や、朝鮮人(のごく一部?)がこころの故郷と憧れる満州地域、及び朝鮮半島は含まれていない。北はアムール河流域(つまり満洲とロシアの国境地帯)、南は華中・華南(つまり長江流域とそれ以南)だから、日本列島の南北両端からそれぞれ西へ延びて、全体として「半円弧」というか「三日月地帯」みたいな分布図になる。この図形はどうみても、日本列島から発祥して北ルートと南ルートでそれぞれ時系列的に「後から」外に発展していった図でしかない。それ以外に解釈のしようがない。四千年も差があるしな。

・「譲位」の古代史

H28年11月18日(金)改稿 H28年7月13日(水)初稿
本当かね?
今日(H28年7月13日)、知り合いからメールが入り、今上陛下がご譲位のご意向を示されたと。ご高齢の陛下にあまりに馬車馬のように働かせている今のシステムは問題あり、制度に「譲位」を盛り込むのはよいことと思う。皇室典範に譲位がなく終身制なのは皇位を政争の具にしないためだったが、明治初期の頃はまだ天皇にはとってうもない権威とかなりの権力が伴っていたわけで、現在ではこの規程は時代にあわない。
とはいえ、宮内庁公式サイトに何も無し。まだガセ報道の可能性がわずかに…。明日の朝まで様子みるか…。こないだのというかずいぶん前の女系天皇論争で「陛下のご意向」を勝手に捏造するやつがいることがわかったから、真相はすぐにはわからんね。ネットみてたら宮内庁も内部で割れてて派閥抗争が酷いらしいし。

記紀に描かれた時代「譲位」はよくあることだった?
一般的な思い込まれとしては、古代の天皇には譲位はなく、崩御まで在位していたと考えられている。皇極天皇が孝徳天皇に譲位したのが日本史上最初の譲位だというのが通説だ。不確かな例ではこれ以前に継体天皇が安閑天皇に譲位したという異説が『日本書紀』に参考記事としてでてくる。しかし日本書紀の編集部もこの説には自信がなく、本文では採用されなかった。
しかし、記紀を精査してみれば、譲位は案外と頻繁にあったことが推測できるのである。記紀ははっきりとわかりやすくは明記していないが、おそらく譲位しただろうと思われる天皇は、孝安天皇、景行天皇、顕宗天皇、欽明天皇、崇峻天皇、推古天皇がいる。そもそもほとんどの天皇は『日本書紀』では譲位してないことになっているのだが、『古事記』は記述が簡単すぎて譲位したのか崩御まで在位したのか明瞭でない。そこで崩御年月日や在位年数が記紀で食い違ってる例をよく分析考察してみると、譲位したと考えないと辻褄のあわないことがよくある。もっとも上記の諸例のうち、上皇として長く生存したのは顕宗天皇だけで、他はだいたい譲位後まもなく崩御された例が多そう。崇峻天皇は暗殺されたことで有名だが実は譲位後だった。欽明天皇は2回譲位しており1回目は兄の安閑天皇に、2回めは皇太子の敏達天皇への譲位。欽明天皇の2回めの譲位と、推古天皇の譲位の場合は病状が重くなってからの譲位で譲位後まもなく崩御している。孝安天皇と景行天皇は譲位の詳細不明。特殊な例として継体天皇の場合があり、実際は崩御したのだが崩御が隠されて継体朝が建前上は続いていた。だから形式上は譲位といっても実際は譲位でない。

・塩焼王と女系天皇問題

塩焼王(しおやきおう)という愉快な名前の人がいた。奈良時代の皇族。きっと顔も性格も名前と同じく愉快な人だったのではないだろうか。でもこの人の人生は愉快でない。恵美押勝の乱で天皇に擁立されたが、乱が鎮圧されてしまい、この天皇も殺害された。つまりこの人は天皇だったのである。
「不称天皇」とは何か
塩焼王は「不称天皇」の一人である。不称天皇とは、本当は天皇だった可能性があるにもかかわらず、現時点では「天皇ではなかった」とされている歴史上の人物のことである。「そんな用語は聞いたことがない」といわれるでしょうが、実際あんまり広まってないからね。この用語は我が師匠、吾郷清彦先生がつくった用語なのである。だから吾郷先生の弟子筋の人はみな知ってる。この不称天皇にはさらに4つの分類があったりしてなかなか複雑な概念なのだが、今回この話は本題でないので詳しい話は別の機会にする。

所謂「女系天皇」をめぐる問題
ところで不称天皇が「本当は天皇であるのに天皇と称されない」のに対し、これとは逆に、「天皇でないのに天皇と称される」例も存在する。それにもいくつかのタイプがあるわけだが、一つには女帝もこれに含まれる(世間では女帝のことを「女性天皇」と言いたがる向きがあるが、馬鹿げた表現に聞こえる。なぜ「女帝」と言わないのか理解に苦しむ)。女帝といえば小泉内閣の末期、平成でいえば16年から18年ぐらいだったか、皇位継承問題がもちあがった。皇位継承というけれども議論の焦点は女帝をみとめるかどうかだった。といってもこれもまだ表面的な言い方で、本質は母系を認めるかどうかだった。世間では「男系/女系」という言い方がされるが、厳密にはこれはおかしな言い方で、正しくは「父系/母系」だ。平成末期というのはこの議論が一般にも認識された時期であるが、狭い世界つまりウヨ界隈では、敬宮内親王殿下ご生誕の時にすでに当時の電網右翼「鐵扇會」の掲示板に通りすがりの匿名氏が「女帝万歳、愛子天皇陛下万歳」とかなんとか書き捨てていったことがあり早速物議を醸し出したことがあった。以来、ずっと議論はあったのである。平成17年(2005)9月25日にmixi内のコミュニティー「女系天皇に断固反対する会」ができて、私もそこにはよくカキコしてた。このコミュニティーは今はほぼ停止状態だけれども、同年12月10日(土)には橿原神宮において第一回「皇統の未来を守るオフ」が開催(主催者は今も関西で活躍しておられる彦十郎先生)。これに東京からはるばる駆けつけたのも素晴らしい思い出だ。翌年の平成18年(2006)6月10日には「皇室と日本を考える」が発足。このように、母系天皇は偽帝であり僭主であり、絶対容認できないと一貫して主張してきた。ただ、女系天皇に反対することまでは、保守派としては格別珍しいことではなく、わざわざこのブログで力説するほどのことではない。中には保守派であっても母系天皇を認める一派があり、小林よしのり、高森明勅、あとは西部邁のとりまきの欧米流近代主義保守の連中(富岡とか)と小室三兄弟の長兄橋爪大三郎(これも近代主義者)がこれにあたるが、保守派の中ではきわめて少数派(ジャーナリストやもともと左翼系の論客は含めてない)であって、ドンブリ勘定でいえば大雑把に「保守派は母系天皇を認めない」と断言してよい。そんな中で私が主張し続けてきたのは父系か母系かを問わず、女帝そのものに反対してきたということだ。比較的めずらしいんだよね、保守派でも父系の女帝は容認できるとする人がわりかし多いから。なぜ女帝に反対してるのか、あるいは父系の女帝までは容認している保守派はなぜ母系天皇に反対しているのか、そのへんの話は検索すればいろいろな論客のサイトで読めると思うので適当に調べてくだされ。

水戸学の欠陥
さて塩焼王の話に戻ろう。塩焼王は天皇だったという我が言い分に対して、「反乱軍が勝手に擁立したんだろう」、と言うなかれ。この世は「勝てば官軍」でいいはずないだろう。恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)は敗北したから「乱」とされているんであって、勝っていたらいまごろ正統な天皇だったわけだ。弘文天皇や南朝の天皇のように名誉回復された天皇がいる一方で、塩焼王のようにいまだ不当な扱いをうけている天皇もある。明治時代に南朝や弘文天皇のように扱われなかったのは、もちろん明治政府の基準が「水戸学」だったからで、水戸学は儒教的な大義名分論に基いて三種の神器の有無で正統かそうでないかをわけ、北朝の天皇を歴代からはずした。しかしこれには嘘が入ってる。本当は水戸学の基準はただの「太平記史観」であり徳川家の先祖である新田氏を賊軍ではなく忠義の臣下だったというのが本当の狙いなのである。まぁ水戸学の話はまた無限に話が広がってしまうので今回はやめとこう。

傀儡であることは自体は「正統でない」という理由にならない
恵美押勝はそんなに立派な人だとは思わないが彼と対立した孝謙上皇(女帝)が正統だとも思わない。近江天皇(塩焼王)が即位した時、皇位にいたのは孝謙天皇ではなく淳仁天皇だった。淳仁天皇はおいたわしいことに実権を取り上げられ、孝謙上皇が不当にもすべてを支配していた。淳仁天皇をお連れ申し上げることを阻止された仲麻呂は、やむなく塩焼王に即位を要請したのである。ことが成った暁には、皇位を淳仁天皇に奉還すればいいことで、戦争という非常事態の中で許される範囲のことといえよう。氷上天皇(塩焼王)が勝利した場合、淳仁天皇をどう扱ったかはわからないが仲麻呂個人の結びつきからすれば淳仁天皇に皇位奉還した可能性が高いだろう。近江天皇と仲麻呂は、淳仁天皇に謀反したのでは断固ない。正統なる天皇である淳仁天皇を抑圧する孝謙上皇と対立したのである。

正統な天皇と僭主の区別はその時その場ではわからないことも多い
日本人にとって2人の天皇が並び立った時や、天皇と上皇が対立した時にどっちにつくべきか、あるいは中立を守るべきかはケースバイケースで悩ましい問題ではあろう。三種の神器の有無、大嘗祭の既催か未済か、先帝の指名の有無、皇太子の位にいたか否か、即位までの手続きの正当性(中世なら治天の院宣、現代なら皇室典範に則っているか)、そして帝徳。ここでいう帝徳とは人柄がいいとか能力があるとか立派な見識をお持ちだとか、何者かに擁立された傀儡であるか逆に自主勢力であるかとか、右寄りのあるいは左寄りの思想なり政策なりをお持ちだとか、国民を大事に思われるお気持ちがものすごいとか逆に国民をないがしろにしてるとか、そういう個々のことではない。それらを超越して(「含めて」ではなく「超越して」)天照大神をはじめとした神々に信任されているという「感じ」のことなのである。まぁそれでわかるってもんでもないが、天皇には父系の実系でつながってる人物である限り「偽帝」とか「僭主」とか決めつける絶対的な基準はないのだ。それは神がきめることで人間にはわからない。たぶんこっちだろうな、と思うだけのこと。

しかし鉄則もある
が、ここで一つのわかりやすい基準もある。それは「女帝には正統性がない」という鉄則だ。海外の女帝はそれぞれの文化圏における伝統的な理論または異端の理論によってそれぞれ正統だったり非正統だったりいろいろなケースがあるだろうがそれはどうでもいい。ここでいう女帝とは女性天皇のこと。女帝はあくまでも一時的な、便宜上の、仮りの、中継ぎの存在であり、摂政に毛が生えた程度のものなのである。だから当然、日本史上10代8人に及ぶ女帝も、歴代に数えるのをやめなければならない。これは江戸時代にやってた水戸学が徳川家肝煎りの明正天皇を歴代からはずすのは政治的に問題あったためで、神功皇后をはずすのがやっとこさだった。しかし明治になっても江戸のまま進歩の止まった水戸学に準拠したのは失敗で、皇室典範に女帝を禁じたはずの明治政府の復古政策が徹底せず一貫性を失してしまったわけだ。たいへん悔やまれるので一刻も早く女帝は歴代からはずすべきだ。かつて北朝の天皇に対してやったことなんだから今から女帝に対してできないなんてことはないだろう。で、戦前は北朝の天皇は「北主一代」「北主二代」と言った。この「主」という漢字は事実上の勢力があったことは認めるが正統の君主の称号は認めないというニュアンスのある文字で、失礼なことこの上ないと思うのだが、女帝に対して「女主一代」「女主二代」というように使うのは適切ではないだろうか。

10月21日は「近江天皇正辰祭」
話を戻すと、近江天皇と藤原仲麻呂のコンビが戦った相手は淳仁天皇ではなく、むしろ淳仁天皇を救い出そうとしたのであり、孝謙女帝と戦ったのだということ。いや正確には「ということ」じゃなくて「といえること」だが。本名そのままに「塩焼天皇」では気が引けるので(裕仁天皇とか明仁天皇とかいわないのと同じ)、仮りに「近江天皇」とか「氷上天皇」と仮称し奉らんと思ふ。近江で即位し近江で崩御されたから(天智天皇を淡海先帝ともいいこれは淡海後帝(弘文天皇)の存在を想定したものともいうが別に紛らわしくはないだろう)、氷上というのは臣籍降下していた時の姓。今日、10月21日(月)は近江天皇が殺された日なので、天平宝字八年九月十八日(AD764年10月、ユリウス暦では17日、グレゴリオ暦では21日)から1252周年なのである。ぜんぜん区切りはよくないが。

・「天皇」という君号の起源(後編)

H28年5月11日(水)初稿
天皇という君号の起源(中編)より続き

草壁系が途絶えたのになぜ「天皇」号が使われ続けたのか
理屈からいえば「天皇」というのは草壁系のスメラミコトのことなのだから最後の「天皇」は称徳天皇であって、光仁天皇からは天智天皇の近江令の精神に立ち返って「皇帝」「天子」の二本立てに戻り「天皇」号は廃絶するべきだったろう。実際にそのような選択肢はあったはずだが、天皇号の見直しは見送られ、永久に天皇号が使用されることになった。それはなぜか。

元明天皇の時に『古事記』が、元正天皇の時に『日本書紀』が編纂されたが、これは神武天皇にまで遡って「天皇」という称号を使っている。これはスメラミコトの漢字訳であり、当て字なのだから「天皇」でも「皇帝」でもそれ以外の何かでも、別に何の問題もないはずだが、天皇号が採用されたのは草壁系のアイデンティティー、すなわち天武の父系と天智の母系を継ぐ「草壁系」だけが始祖「神武」以来の皇位を継ぐ正統唯一の存在だという意志の表われだろう。
文武天皇の次の元明天皇も、その次の元正天皇も「天皇」と称している。これはもし則天武后の失脚がなければ「天后」になっていた可能性が高いがそれはさておき、この天皇という漢字表記は草壁皇子の系統の者だけが初代「神武」以来の皇位を継ぐ、という宣言、少なくともそういうイメージを込められた表記だったことは説明した。元明・元正という二代の女帝が続いたのも草壁系で文武天皇の子、首皇子(のちの聖武天皇)の成長を待つためであった。つまり、記紀が出来た時の建前としては、皇位というものは永久に草壁系の皇族子孫に継承されていくべきもので、まさか聖武天皇の次で断絶するなんて縁起の悪い予想は口に出すのも憚られたのは当然だろう。草壁系の皇族が永久に皇位を継いでいく=天皇が永久に続くのだから、過去のスメラミコトがすべて天皇表記でも「スメラミコト=天皇」で一貫しており問題はない。そういうわけで、この時代にできた『日本書紀』は神武天皇以来、歴代のスメラミコトを「天皇」と書いているわけなのである。
ただし『古事記』は書紀とは別の表記法をとるという編集方針を立てていたのだから、例えば万葉集や延喜式祝詞みたいに「皇命」(すめらみこと)とか金石文みたいに「大王」(おほきみ)という書き方をした方が古風でもあり、古事記の趣旨からいっても太安万侶や稗田阿礼もそうしたかったろうが、「天皇」という表記を使えという厳格な指示か、場の空気があったんだろう。

天皇号が単なるスメラミコトではなく「草壁系の天皇」を意識した号であることは聖武天皇・孝謙天皇・舎人親王の3人が皇帝を称していることからも傍証できる。
天平宝字二年(AD758)八月一日、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位して上皇となったがこの時「宝字称徳孝謙皇帝」という尊号を献上された。八月九日には2年前に崩御していた聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号と「天璽国押開豊桜彦尊」の諡号を贈っている。また同時に草壁皇子を「岡宮御宇天皇」とよぶことにされた。翌年天平宝字三年(AD759)には淳仁天皇の父、舎人親王に「崇道尽敬皇帝」と諡を奉った。

『逆説の日本史』で有名になった井沢元彦がいうには「皇帝」を名乗ってるのは易姓革命を意識したもので、坊さんの道鏡に皇位を譲るつもりだったから、といってるが、孝謙天皇と道鏡がめぐりあうのはこの3年後なので井沢元彦の説は成り立たない。ただし、一応、この頃はすでに藤原仲麻呂が権勢を振るい始めていたので、仲麻呂の支那かぶれ趣味の現われだろう。彼は当然、漢文にも精通しており、天皇という称号が中華王朝(律令時代は日本も中華式の帝国をめざしていた)としては不自然というか、漢文文明の文脈ではやや不細工な感じがして「皇帝」号の方を好んだ可能性は推察できる。しかしここで注目されるのは、聖武天皇を皇帝としたのと同じ日に草壁皇子を「天皇」号を贈っているという対象性、そしてもう一つは、聖武天皇が崩御に際して、孝謙天皇に「皇太子として道祖王(ふなどおう)を立てるように」と遺詔していたことだろう。道祖王は天武系ではあるが草壁系でない。つまりスメラミコトに即位することはできても天皇ではない。中国の王朝交代=易姓革命には該当しないが、草壁系から非草壁系への「王系交代」が起こることになる。『続日本紀』は代々の天皇の巻の表題に和風諡号を使っているが、孝謙天皇の巻の表題について「出家したので和風諡号がない、なので生前の宝字称徳孝謙皇帝を表題に使う」とし、重祚(称徳天皇)の巻には「高野姫天皇」(これも生前の号)としているがこれはおかしい。聖武天皇も生前に出家していたが崩御2年後に和風諡号が贈られた。孝謙天皇(=称徳天皇)は生前にも倭根子天皇とか高野姫天皇とか和風な呼ばれ方もされていたのだから、和風諡号を撰案して奉ることは容易であったはずだ。おそらく始めの在位は天皇号でなく皇帝号で、重祚してから天皇号を使ったのではないかと思う。皇帝だった孝謙天皇の後を継いだ淳仁天皇も天皇でなく皇帝だったと思われる。淳仁天皇もその父の舎人親王も草壁系ではない。道祖王や淳仁天皇、舎人親王の3人は草壁系ではないから天皇でなく皇帝だったというのはわかりやすい理屈だが、聖武天皇と孝謙天皇が「皇帝」とされたのはどういうことかというと、聖武天皇は非草壁系の道祖王に皇位をわたすように遺詔し、孝謙天皇も当初はその予定だったがすぐ皇太子を非草壁系の大炊王(のちの淳仁天皇)にさしかえた。つまり聖武天皇と孝謙天皇はどちらも非草壁系に皇位をわたそうとしていた。これは草壁系の永続を前提とする「天皇」の名においてはいかにも気まずいので、王系交代を中華皇帝の「禅譲」に見立てたのではないか。禅譲する方もされる方も皇帝の論理の中にあるのであって、天皇の論理(草壁系永続の論理)からははずれるのである。

ただしこれらの理屈は前述のように主には藤原仲麻呂の個人的な思想のようにも思える。その後、孝謙天皇は淳仁天皇を廃位した時に「天子を奴とするも奴を天子とするも汝の思いのままにせよ」という聖武天皇の遺詔を持ちだして重祚したが、『続日本紀』の表題をみると重祚してからは天皇号を使ったようだ。仲麻呂の乱を鎮圧した後で彼の中華式論理に嫌気がさしていたのもあろうし、権力の正統性を聖武天皇の遺詔に求めている。いうまでもなく聖武天皇の威信は草壁系の嫡流たることにある。

ともかく、現実の歴史は称徳天皇で草壁系は断絶し、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位。本来ならここで「天子」と「皇帝」の二本立てに戻らないとおかしいわけだが、そうはならなかった。なぜか。
光仁天皇の即位後、政情がすぐ安定したわけではないので、天皇号を廃止するというような、天武系(草壁系)をいきなり刺激するようなことはしたくなかったろう。それやるなら政情が安定してからだが、草壁系の皇后の井上内親王やその所生の皇子、他戸親王が即位3年目で廃されるというすったもんだがあり、さらに3年後の二人の急死による怨霊への恐怖で寺を建てたりしたが、その翌年には天変地異、そして光仁天皇本人の病気、その4年後には崩御しており、天皇号をどうするかなんていう形式にかかずらわってる暇は無かった。
光仁天皇の時代には日本書紀の続きとなる歴史書の編纂(のちの『続日本紀』)も計画されたが完成しなかった。この段階では孝謙天皇までの歴史書として想定されていたから、仮にこれが完成していたとしても登場する天皇すべて「天皇」でも問題は起こらない(ただし孝謙天皇は皇帝だった可能性があるのは前述の通り)。なぜ孝謙天皇までなのかというと、淳仁天皇(淡路廃帝)と称徳天皇(孝謙天皇の重祚)を正統と認めるかどうかまだ当時の空気としては意見をまとめるのが難しかったからだろう。淳仁天皇は在位中に皇位を取り上げられ廃帝にされたまま諡号も贈られていなかったが、明治天皇がそうしたように名誉回復することも可能だったはずだし、称徳天皇を崩御の後に形式上廃帝扱いとすることも可能だった。選択肢として、四通りの形式が用意できたのである。またそれによって、現皇室(光仁天皇)の権威の源泉なり正統性なりの理屈も変わってくる。そうすると編集方針をめぐって意見も4派に分かれて揉めまくっていた可能性もあるだろう。ただし目立つのが嫌いで苦労人の光仁天皇個人としては、天智系統の復活なんて大々的な宣伝はせず、何食わぬ顔でまるで草壁系が続いてるようなすっとぼけた態度で、余計な波風立てない方針を望んでいたようにも思われる。
次の桓武天皇は草壁系に遠慮する必要はなくなっていた上『続日本紀』を完成させる余裕もあり、記述範囲は当の桓武朝にまで及んでいるから、その気になれば「天皇」号を問題視することも理屈の上では可能だったと思われる。実際、桓武天皇にはかなりの中華趣味があって、中華式の儀式を取り入れたりしているし、「皇帝」号も多用していた。『続日本紀』の桓武天皇の巻の表題も「今皇帝」になっている。しかし、やはり天皇号の見直しはされなかった。これはなぜなのか?

考えられる理由としては、
第一に、天皇より古い「天王」号が親しまれ馴染まれていた。天皇の読みも天王と同じくテンワウ(現代語:テンノウ)であり、感覚的にはひじょうに古くから使われた「天王」号の延長のように感じられ、「皇帝」よりははるかに親しみ深かったのだろう。
第二に、上記第一と裏表な話で、「皇帝」という称号は天智天皇の近江令から採用されたもので、歴史が新しくなじみが薄かったと思われる。
第三に、天武帝の段階での国史編纂計画は、天智帝で終わる『大倭史記』であり、天武帝以降の歴史は遠い将来『日本書』としてまとめられる予定だった。そこでは天皇号は天武天皇個人(一代きり)の称号であり、君号は「皇帝」が使われるはずだった。ところが元明天皇の代になってから急遽変更になり、天武・持統の両天皇まで追加されることになり、表題も『日本書』とされ、同時に神武天皇以降の歴代のスメラミコトがすべて「天皇」と書かれてしまった。天武・持統が考えていた歴史観と元明天皇の歴史観はかなりちがっているのだがそのへんの事情や経緯はまた別の機会にするが、神武天皇以来「天皇」表記にすることになったのだから、天智系だの天武系だのといって称号を区別する意味がなくなってしまった。
第四に「天皇」号についていえば、記紀が完成するずっと前の段階で「天后」という文字が抹殺されていたため、天武天皇が創案した天后とのセットとしての天皇、持統天皇が意味づけた草壁皇統としての天皇という側面が薄れ弱まってしまっていた。
第五に光仁朝・桓武朝では井上皇后と他戸親王の「怨霊」が問題になっていた。これは井上皇后個人の怨恨ではなく、草壁系を絶滅させたことによる祟りという側面もある。そこで草壁系を表わす天皇号を継続させることが怨霊を慰撫することになると考えられた。これについては確定案ではなく微妙なところもあるが、長くなるのでこの記事の最後に「草壁系の怨霊問題」という題でまとめておく。
第六に『日本書紀』編纂の段階では日本語を漢文にどう置き換えるかという問題意識があったから、いわば創造的行為としての翻訳が焦点となっており、そのような精神の下では「既成事実」などは重みをもたず、むしろ絶えざる再検討の対象となる。が、『続日本紀』の頃は、漢文に熟練した官僚が増えてきて、過去の表記をやたら恣意的に変更しないという歴史の常道が意識されてきた。つまり言葉に対するセンスが真逆になっており、すでに『日本書紀』ができてしまっているという「既成事実」は、天皇号を踏襲させるほどの重みをもっていた。

既成事実として『日本書紀』では神武天皇以来、代々天皇表記になっているというのはその通りなのだが、全面改訂するといっても単に文字の機械的な訂正だからさして難しくはなかったはずだ。光仁・桓武二代経って、これはすでに天武系がどうの草壁系がどうのという話とは矛盾した情況になっているわけでこの矛盾を調整するために『日本書紀』を全面改訂するという選択肢もまったくありえたろう。だが、そうはならなかった。その理由としては、上記の6案をあげてみた。

怨霊としての草壁系
桓武天皇の時に編纂された『続日本紀』の構成をみてみると、桓武天皇の途中の延暦十年(AD791)で終わっている。これは『続日本紀』が完成した延暦十六年(AD797)の6年前にあたり、ぎりぎりまで現代史を含めようとしている。これは現代人の発想からは、何てこと無い当たり前のことのように思われるが、やや不審でないこともない。
天武帝の生前には、おそらく想定していた歴史書は天智帝(もしくは弘文帝)で終わる内容で構想されていただろう。天武帝はこの段階ではまだ死んでないし、治世の途中で切ったらキリが悪い。中国の歴代正史は「断代史」といって『漢書』以降は王朝ごとの歴史になっている。天武帝の治世から始まる歴史書は、自分の子孫が作るものであって天武帝自身が作るものではない。それが持統天皇まで含めて『日本書紀』になってしまった経緯はいろいろあるわけだが(今はふれないが)、『古事記』は中巻と下巻を区切り(応神天皇と仁徳天皇の間)、『先代旧事本紀』は神皇本紀と帝皇本紀を区切っている(武烈天皇と継体天皇の間)のも、王朝というか家系の交代に注目した点で、すべて似たようなセンスといえよう。
こうしてみると、桓武天皇が歴史書を編纂するにあたっても、自分の治世まで含めないで考えていたのではないかと思う。それが普通なのだ。歴史書の区切りとしては称徳天皇で終わりにして、光仁天皇以降の歴史は後世の人間に任すというのがもっとも穏当かつ常識的な選択だったと思われる。
それがなぜ自分の治世の途中まで含むという編集方針になったのか?

いうまでもなく区切らないというのは、自分自身(桓武天皇)まで、太祖神武帝から天智系も天武系もなく、ひと繋がりで「断絶はない」という観念の表明である。これは前王朝に対する優位の主張を放棄し、歴代天皇の中に自らの家系の価値を埋没させることではあるのだが、同時に、断絶した前王朝を万世一系の欠くべからざる一部として救い出すことでもある。こんなことは近代以降でこそ当たり前のことだが、当時は皇室典範が無く、傍系から入って皇位継承するというのは諸臣貴族層の利害や思惑が絡まって、正統なのか簒奪なのかどうかという線引きをめぐって空気が緊張し、客観的な判断が難しくなる。だから正統性の主張が重要なのだが、不幸にして当時の政治思想といえば儒教理論が力をもったために、つい前王朝(前の家系)の不徳をあげつらうことになりがちだったと思われる。それを、よりにもよって歴代の中でも支那かぶれの度合いの高い方に入る桓武天皇が、なぜ断ち切ることができたのか。それはひとえに、当時流行しつつあった「怨霊信仰」によるのだろう。
光仁天皇の治世は打ち続く天変地異が井上皇后と他戸親王の怨霊の仕業とされ、桓武天皇になってからも早良親王の怨霊に悩まされ、当時は深刻な問題だった。桓武天皇は井上内親王(廃后)に皇太后の号を贈り、早良親王に「崇道天皇」の号を贈っている。他戸親王は当時12歳でわけわからないうちに巻き込まれただけだから天皇号までは贈らなかったようだ。

怨霊信仰の起源については儒教(というか儒教と道教に分離する前の古代中国の祖霊信仰)でいう、死者は男系子孫からの祭祀でないと受けることができないので、男系子孫が断絶すると死者はあの世で困窮するという信仰と、仏教の因果応報思想と、神道の荒御魂(あらみたま)だか祟り神(たたりがみ)だかの思想が混淆して日本で独自に形成された新しい信仰である。従って怨霊信仰は、中国的な「子孫断絶」と、仏教的な因果応報から免罪なのに殺された者の無念が正当に報われるという面、そして神道の荒御魂つまり生者にタタリをなすという3要素からできている。怨霊信仰の起源は(1)聖徳太子説、(2)大津皇子説、(3)長屋王説、(4)藤原広嗣説があるが、(1)と(2)は誤りと思う。聖徳太子の頃に怨霊信仰があったら子孫を根絶やしにされることはなかったろう。大津皇子には粟津王という子がいたがその子孫はぜんぜん活躍しておらず名も知られていないのですぐに断絶させられたに違いない。つまりこの頃には怨霊信仰はまだ確立してなかったのではないか。長屋王の怨霊は疫病となって藤原四兄弟を殺した。長屋王の子孫が高階氏として存続が許されたのは怨霊をなごめる意味あいがあったのである。逆にいうと、子孫がいれば怨霊をなごめやすいが、子孫の断絶した怨霊はそれだけ怖ろしく手強いということになる。平安前期までに早くも崩れて上記のいくつかの条件(子孫の有無、免罪、無念の思い等)がぬけても庶民の人気によって怨霊とされていったりするようになっていくが、初期のうちは「子孫が断絶してるかどうか」が怨霊の怖ろしさの分かれ道だったのである。

ところでこの怨霊信仰は中国的な歴史編纂の思考とは相容れないものだ。中国の正史の思想は滅びた前王朝を悪として断罪することで、新王朝の正統性を主張する。それだと、怨霊信仰の立場からいうと前王朝が怨霊になってしまう。だから、天武帝以来構想されてきた中国的な正史の枠組みそれ自体が、桓武天皇によって破棄されたのだと思われる。むしろ、前王朝の家系をどうやって慰霊するか(怨霊にさせないか)が課題になってくる。とはいえこの頃はまだ怨霊信仰ができたばかりの時代だから、怨霊の条件も後世のようにユルユルではない。天武天皇の子孫は断絶しておらず、文屋氏・高階氏・清原氏などその後もずっと続いているから、天武系がそれだけで怨霊視されることはなかったろう。ただ、これら天武系の氏族は、いずれも天武系ではあっても草壁系ではない。草壁系の男子が断絶したのは自然の作用で桓武天皇のせいではないが、草壁系(というか持統天皇の子孫)は男系も女系もすべて断絶している。自然でなく誰かの陰謀で断絶させられた女系というのは、長屋王の変での吉備内親王と、光仁朝になってからの井上内親王がいる。前者には光仁・桓武が責めを負う筋合いにないが、後者は最後に残った持統天皇の血筋を光仁天皇が断ったことになる。

草壁系の子孫はいた?
ただし、草壁系は残っているとする異説があり、それは高円氏の始祖である高円広世(たかまどのひろよ)が文武天皇の皇子だと推測するもの。母の石川刀子娘(いしかはのとじのいらつめ)が和銅六年(713年)に嬪の称号を廃された際に、成世も皇籍を剥奪されたという。これはあくまで角田文衛の推測であって高円成世の両親は不明。『続日本紀』には石川刀子娘が皇子を生んだような話はない。石川刀子娘は同じく嬪だった紀竃門娘(きのかまどのいらつめ)と一緒に廃されているが原因は不明で、詳細は省かれている。これがもし本当なら草壁系は高円氏として続いていることになるが、もしそれなら称徳天皇の後は高円氏が皇籍に復帰したのではないかと思う。首皇子を天皇にしようとする藤原氏の謀略だという説もあるが、おそらく二人の嬪は品行不正で廃されたのではないか、それも高円広世の父が本当に文武帝なのか疑われたのだろう。梅原猛の説だと、文武天皇の妃は紀皇女だったが弓削皇子との不倫が原因で妃を廃されたという。紀皇女の乳母氏族は紀氏で、紀竃門娘もその出身だから、紀竃門娘はもともと紀皇女のお付き官女だったのだろう。弓削皇子は文武三年(699年)に推定27歳の若さで薨去しているが梅原説が正しければ始末されたってことだろう。その頃には紀皇女も廃妃され離婚して、一応決着ついていたはずである。713年になって石川刀子娘の不倫が疑われたのは、高円広世(当時は広成皇子)が弓削皇子の胤だと疑われたということではないか、だから一緒に紀竃門娘も廃されているのはかつて紀皇女と石川刀子娘の間を手引きしたのは紀竃門娘だったということだろう。いや、高円広世が弓削皇子の胤かどうかは断言できないが、弓削皇子と紀皇女の不倫があった頃、紀竃門娘と石川刀子娘も紀皇女のとりまきの一人としてその交友圏内にいて、弓削皇子をとりまく男性らと不品行に及んでいたのではないかと疑われた過去があったのではないか。そんな昔のことが713年になって改めて問題にされたのは、広成皇子が成長して弟の首皇子(聖武天皇)と比べて父に似てる似てないの話にちょうどなる時期に重なっている。だから広成皇子の本当の父が誰なのかはわからないが、少なくても当時疑われるようなことがあったからこそ皇籍を剥奪されたのである。本当の父が誰であっても当時は草壁系の男子は文武天皇しかいないから、どのみち高円広世は草壁系ではない。弓削皇子も天武系ではあるが草壁系ではない。
さらに、草壁系は女系でならば繋がっているとする異説もあり、長屋王の子の桑田王が高階氏として継続している。『続日本紀』では桑田王の母は吉備内親王の子としているので、それなら女系を通じて草壁系ということになる。しかし長屋王邸宅跡から出た木簡に「石川大刀自」または「石川夫人」として出てくる人名がみつかり、これが『本朝皇胤紹運録』に桑田王の母として出てくる「石川忠丸の女」と同一人物だろうということになり、『本朝皇胤紹運録』に信憑性がでてきた。『続日本紀』は吉備内親王の3人の子に並べて桑田王まで書いた時に母についての注記が漏れたのだろう。
ところで高円広世の母である石川刀子娘と、桑田王の母である石川大刀自は同じ石川氏で世代もまったく同世代。もしかして姉妹か。まさか同一人物ということはあるまいな。同一人物だったら文武天皇の嬪を廃されてから長屋王に拾われたのか。そうすると高円広世の父は長屋王の可能性も理屈の上では出てくるが、もしそうなら桑田王がそうしたように父を隠す必要はなかろうから、やはり高円広世の父は長屋王ではないと思われる。あるいはまだ文武帝の嬪だった頃の不倫相手が長屋王で、その頃に長屋王の胤で生まれたのが広成皇子だったとしたら、長屋王の実の子であってもその事実は隠されたろう。この場合、広成皇子は桑田王の同母兄となる。
しかしこれらはすべて憶測にすぎず、万が一この通りだったとしても、「長屋王謀反の讒言を聖武天皇が信じたのは石川刀自をめぐる父(文武帝)と長屋王の三角関係を知ったからではないか?」等という週刊誌のゴシップ記事みたいなどうでもいい話のネタになる程度で、格別にだからなんだという面白い展開にはならない。当面の議論としては、どっちみち草壁系は残っていないということにかわりはない。

ともかく、そういうわけで、他戸親王と井上皇后の母子は、女系・男系含めて草壁系の最後の生き残りだったことになる。ということは怨霊信仰として考えた場合、「井上皇后個人の怨み」というレベルではなく、草壁系全体の祟りということが考えられたはずであろう。草壁系とは天武帝と持統天皇を父母とするが、天武系はいくつもの系統が子孫として残っているから怨霊としてはさほど恐ろしくはない。問題は持統天皇だろう。井上皇后の怨霊とは、いうまでもまくその背景に持統天皇の怨霊の可能性というとてつもない影を背負っているのだ。持統天皇がとんでもないスーパーウーマンだったことは有名であり、伝説化してこの時代までも語り草になっていたに違いない。ただでさえそんなとてつもない猛女が怨霊になったりしたら、こんな怖ろしいことはないだろう。

京都の御霊神社の御祭神は時代的にこれより後の(平安前期の)怨霊をあわせ祀っているが、主要な6柱の怨霊の他に、後から祀られたという由来不明の2柱がある。それが火雷天神と吉備聖霊で、火雷天神は名号からいえば菅原道真だが時代的にあわない。吉備聖霊は吉備真備とする説もあるが彼は怨霊になる筋合いがない。御霊神社の公式見解としては、祭神6柱の荒御魂が火雷天神で、和御魂(にぎみたま)が吉備聖霊という。
推測するに、吉備聖霊は吉備内親王ではないかとする永井路子の説が当たりだろう。ただ、吉備内親王はだんなの長屋王の変の巻き込まれただけで、彼女を祀るなら長屋王も祀らないとバランスがとれないように一見思われる。長屋王には子孫がいるが、吉備内親王には子孫がいないから? それもあるが、草壁系の中で怨霊になりうるような非命に倒れた女性は、井上皇后を除くと吉備内親王しかいない。だから持統天皇の代わりに選ばれたのではないか。火雷天神とは「火徳天皇」つまり天武天皇のことではないか。「火雷天神と吉備聖霊」とは「天武天皇と持統天后」のことではないだろうか。

持統天皇の怨霊をなごめるには「天皇」号の永続というのは持統天皇への慰霊の意味があったのではないか。『続日本紀』の構成が、中国式の断代史に倣わず、草壁系と天智系との間に区切りを置かないのは、形式上は断絶を認めないことで、草壁系の継承者として振る舞うということにも通じる。
もっとも、通常ならば、草壁系にのみ許されたはずの「天皇」号を天智系が使ったらその方が失礼なんじゃないのか、むしろそのせいで祟りを受けたらどうするんだ、という発想もありうる。むしろ天皇は尊貴な称号だから遠慮するのが怨霊を敬うことだ、と。だがその「通常」は元明天皇によってすでに破られていたのである。それは国史編纂事業の度重なる予定変更のことである。

天武天皇の考えていた国史編纂構想では、天智天皇までで終わる『大倭史記』であって、歴代天皇の称号スメラミコトは「天皇」でなく「皇帝」と書かれる予定だった。天武天皇以降の歴史は『日本書』となる予定だったがこれは天武天皇の仕事ではなく、ずっと後世の子孫のすべきことと考えられた。この場合でも、天武・持統の夫婦だけが「天皇・天后」でそれ以降のスメラミコトは「皇帝」に戻るはずだった。しかし以上のことは天武天皇の考えであって、持統天后の考えではない。文武天皇の即位に際して皇帝ではなく天皇の称号だったことは持統天后の意志であることは既述した。則天武后が死去した705年以降のある段階で、元明天皇の判断により持統「天后」の称号は抹消され天皇・皇后・皇太后にそれぞれ書き換えられた。その後、和銅元年(AD708)十一月廿一日の大嘗祭で、元明天皇は稗田阿礼と知り合い、皇位の由来である天孫降臨神話にいたく興味をもつようになったと推定する。和銅四年(AD711)九月十八日には太安万侶と稗田阿礼に神代巻(先代旧辞)の完成を急がせたが、この時には帝皇日継にはふれていない。この時、元明天皇が打ち出した新企画は、それまで、神代巻(先代旧辞)は『大倭史記』や『日本書』のような歴史書(帝皇日継)とは別の書物になる予定だったが、大倭史記25巻の前に神代巻2巻と後ろに天武持統3巻を加えて計30巻とし、タイトルを『日本書』として大倭史記は企画ごと無しとして、歴代の君号も神武以来「天皇」で統一するということだった。なぜこのような変更したのかというと、よくいわれることだが、天照大神と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の関係に、持統天皇と文武天皇を擬そうとして、これによって正統性を主張しようとしたのだといわれる。しかし、これを発想したのはおそらく持統天皇自身ではなく、元明天皇だったろう。元明天皇と聖武天皇の関係も祖母と孫だが、自分を直接に天照大神に擬するのは恐れ多い。もし持統天皇の段階でこの発想があったら、天皇という称号を文武天皇に使わせる意味がなく(そんな珍妙なことをしなくても天照大神たる持統天后の孫というだけで文武皇帝の正統性は完璧だから)、天皇号は天武天皇一代のものに留まったはずだった。従って、元明天皇の新企画では、新しい歴史書は、必ず神代巻で始まってなければならず、持統天皇で終わらなければならないことになるが、こんなことは絶対に天武天皇の段階で出てくる発想ではない。またこうなると、天皇という文字の由来が、天武と持統の夫婦の正統を継承するものだという趣旨にこだわって天智以前に使わない、というのは王朝の断絶を連想させて逆効果になりかねない。だから歴代ぜんぶ天皇号で統一したのである。

従って、草壁系の怨霊化を怖れる光仁・桓武朝としては、元明天皇の趣旨をも忖度した場合「草壁系にのみ許されたはずの天皇号を天智系が使ったらその方が失礼なんじゃないのか、むしろそのせいで祟りを受けたらどうするんだ」という発想は却下される。それよりも天皇号を継続することで天武系(草壁系)をも万世一系の中に包摂して断絶感をなくしたほうが慰霊になると判断される。

『日本書紀』の誕生
ところで、以上のように天皇号の起源を則天武后にからめて説明する説は、俺のような者ですら思いつくぐらいだから、実は学界ではかなり昔からあった説である(ただし俺はちゃんと読んだことはない)。とはいえ、そういう説があるってことは大雑把に断片的に見聞するものの、なかなかその詳細に触れることはない。というのは、なぜかこの説については、素人や一般人が手にとるような書店に出る商業出版物に乗らないのだ。これは庶民が古代史に求めたがるものと学者が提供したがるものの間にギャップがあるからではないか。天皇号の起源を中国の悪女則天武后、及び天武・持統両帝の夫婦関係に求める説は、右寄りの人にも左寄りの人にも相当ウケが悪いようなのだ。左巻きの気持ちはよくわからんが、適当に想像すると、彼らにとって天皇なんていう単語は抑圧的な封建主義の象徴であるべきで、フェミニストみたいな女性尊重の趣旨から出てきた称号だったというのはずいぶん奇妙に聞こえるのだろうか。最近の風潮でも、皇后をまるで「天后」のように崇めまつる自称保守派がいるが、もともと宮中祭祀は天皇の専権事項で皇后がかかわるような伝統は無い。これは今のお后様から始まったことで、あくまで天皇陛下をお助けするのが趣旨で、皇后が主役なわけではない。…おっと、話がずれたが、ともかく、我々にとって本当に大切なのはスメラミコトであって、肯定するにしても否定するにしても「天皇」という文字や「てんのう」という発音が問題なのではない。そんなものはもともと外国語なのだからエンペラーと何も違わないではないか。
元明天皇は、正統性に疑問がないでもない天武=草壁系の皇位を守るために始めて皇后を経ずに即位した最初の女帝だった。「皇位とは何か」という問題を常に意識していたはずだろう。元明天皇の即位大嘗祭において猿女(さるめ)として奉仕していた者たちが古き神話を伝えるという語部(かたりべ)の後裔だときけば、その長なる稗田阿礼(ひえだのあれ)を必ずや召し出して話を聞こうとしただろう。国史編纂局の中にあった「中華スタイル」の歴史書にこだわる風潮を、語部出身の稗田阿礼は嘆いていたと思われる。儒教のロジックに依存する者は儒教のロジックで滅びる。『古事記』は雄略天皇も武烈天皇も絶対神聖至尊の現人神(あらひとがみ)として他の諸帝となんらの差別も設けていない。徳の有無だとか人格の素晴らしさとか、天皇の天皇たる所以には何の関係もないことであり、一介の庶民が床屋談義にそういうことを言い出すことが謀反の始まりなのである。…おっと、話がずれたが、ともかくそういうわけで、稗田阿礼は、天孫降臨神話に由来する万世一系の尊さを元明天皇に説いた。元明天皇は天啓をうけた思いで聞いたに違いない。気付いたのだ、中華式のロジック(=有徳者と不徳者の家系交代)に依存して天武=草壁系の正統性を宣揚するために四苦八苦することの愚かさに。元明天皇は、それまで天武帝の考えていた「断代史」形式の歴史書をつくることをやめ、冒頭に置いた神代巻と、ラストに置いた持統天皇とで歴史をはさみ、持統天皇を天照大神に、文武天皇を瓊瓊杵尊に擬して、草壁系もまた神話に由来する歴代スメラミコトに他ならないことを示した。草壁皇統の正統性は、近江朝廷の不徳にも天武天皇個人の帝徳にもよらず、天壌無窮の神勅によるのである。その意味では、草壁系の他系(天智系など)に優越するところは無い。無いが、それで十分すぎるほど十分なのである。スメラミコトの権威、スメラミコトの正統性は儒教のロジックに依存すべきではないのだ。

・照葉樹林帯文化とその問題点

H28年4月29日(祝)改稿 H28年1月20日(水)初稿
今日、H28年1月20日(水)は昨年末の大晦日に伊勢神宮の庭燎奉仕(にわびほうし)に参加してきた人たちの報告を聞かせて頂く機会があった。素晴らしい話、面白く興味深い話、いろいろ。年末に電話もらい、ゆく年くる年にも映るというので一生懸命テレビみたけど画面が真っ暗でちょっとわからんかったw 一瞬映ったらしいw
照葉樹林帯文化の3要素
3種類の地図がある。おそらく欠端實(かけはたみのる)の本からのコピーと思われる、照葉樹林帯をあらわすアジアの地図で、うち一つは「東亜半月弧」という名でよんでいる。「東亜半月弧」とは照葉樹林文化のセンターで雲南高地を中心にブータン・アッサムから湖南省に至る範囲。残り二つの地図は微妙に照葉樹林帯の範囲が違ってるがまぁ大雑把な位置は共通で、東南アジアの奥地・中国西南部の奥地から、中国の江南のほぼ全域に広がり、朝鮮半島の南辺をかすめ、フォッサマグナから西の西日本と新潟県、それと房総半島を含めそれより西の太平洋沿岸が含まれる。雲南省の研究者である欠端實(かけはたみのる)の説で40年も前の説。照葉樹林帯文化の特徴としては、
(1)ツバキやシャシャンボの景色。古事記の石之比賣の歌「つぎねふや〜」に出てくるツバキ、サシブ(現代語シャシャンボ)
(2)麹(こうじ)の文化。どぶろく、三輪大社(日本の酒の起源、崇神天皇)
(3)歌垣。(顕宗天皇の章)

アートに表現された照葉樹林帯文化?
『天のうづめの命』とタイトルある絵画の絵葉書のカラーコピーがある、元の絵は83.5×208.8cm、小杉放菴(こすぎほうあん)昭和26年(1951)。おっぱいと腹を出して踊るお多福顔の女性、絵の左の端には巨大な黄金の日輪が描かれている。戦後の日本人を鼓舞するために描いたという。絵のモデルは笠置シズ子。ある人から聞いた話では出光美術館の所蔵だが、それはもともとタンカーの出光丸の中に飾られていた縁によるという。
古事記の世界は、理屈のないおおらかな世界であることが現れていて、それは照葉樹林帯の文化でもある、というようなことをいう人もいるのだが、この絵から照葉樹林帯がどうのまでもっていくのはいくらなんでも飛躍がすぎないか?

問題点
欠端實の説は、良い事づくめの話で結構なんだけど、一つ注意を促しておきたいことは、照葉樹林帯文化論は、あくまでも「該当文化圏に日本も含まれる」といっているだけで、「日本人の先祖が東南アジアなり中国の西南奥地なりからやってきたんだ、あそこがルーツなのだ」というオチには直結しない、ということだ。なぜなら、「文化圏」というものは相対的なものであって、Aという文化圏がルーツだというのならその「A文化圏」のそのまたルーツはどこなんだという話になる。遡っていけば、全世界の文化圏の数はどんどん少なくなっていく。これは物理的にそうなのだ。7万年前のトバ・カタストロフによって人類のほとんどが死滅した結果、現在の人類はわずか1万人にまで減少したとも、または現在の人類は少なくて1,000組、多くても1万組の夫婦から進化したともいわれている。世界の神話、世界の文化はもともと一つのものから枝分かれしたのである。どの段階で日本人になったのかなんて区切りは、人為的・便宜的な線引きにすぎない。なぜなら、文化はちょっとづつ変わるものである時にげろっと別の文化になったりはしないからだ。
照葉樹林帯文化論に依存してあれもこれも説明しようとするなら、それは「気候風土一元論」に陥ることになる。もし日本文化の真髄が気候風土に依存するのなら、日本列島を離れてしまった者は日本民族であり続けることが出来なくなってしまう。昨今のネット言説から察するに保守派若年層はそういう考え方を受け入れつつあるようにも思えるが、そういう発想自体が戦後的であって、けっして戦前的でも明治的でもないし前近代的でも伝統的でもない。そもそも温暖化だの氷河期だのいわれるように気候風土は長い間には変わるもので、それは天壌無窮とか万世一系とかいう「時間に対する超越意識」とは両立しない。はっきり言って「気候が変わってんすけど日本人どうなるんすか?」って問題にぜんぜん答えられていない。ダメでしょこれ。こういうのは70年代に流行って今では嘲笑の的でしかない「農耕民族論」や、今でもネット保守層に悪影響の多い「海洋民族論」と一緒で、アイデンティティー不安に対する心理学的な処方箋にすぎず、学問とは関係のない俗説、与太話だと思われる。当然、歴史(re:既視)の解明や古代の真実とは関係がない。

・神々の姿は妖怪そのもの、土俗文化に現れる神々

差別語について
未開だの土人だのという言葉は今の世の中では差別だとして使われなくなってる。土人というのは記紀にも出てくる言葉でその土地の土着の人という意味であり本来は差別的な言葉ではなく、記紀では「くにつひと」もしくは「くにびと」と読まれている。原住民すらも原始人の「原」だっていうんで先住民と言い換えられている。俺なんか原始人も大好きなのでむしろ先住民より原住民って言葉の方を選ぶんだが。(嘘です。正しくは文脈とニュアンスの整合性に応じて先住民と原住民を使い分けてる。)さらに極端になると「なんでアフリカの部族抗争については『部族』という言葉を使うんだ、アフリカ以外で同じような事件があっても『民族』抗争といっているだろう、これは差別じゃないのか」という声もある。俺なんかむしろ部族の方が好きなんで若い頃は民族主義に反対して部族主義を唱えていたほどなんだが。原住民も未開も部族も差別を意図して使っているのではなく、わたし自身はこれらの言葉を愛用しているので先に男割りしておく。

祖霊との出会い
春分の日は、また「お彼岸」の日でもある。お彼岸というのは現在では仏教行事になっているが、もともとの起源は仏教とは関係がないもので、それ以前から日本含め世界各地に共通にあった原始的な信仰である。これについては、またいつか別の機会に詳しくやるとして、今回はお彼岸の話ではない。
今日、H28年3月20日(日)の春分の日は、お彼岸にふさわしく祖霊に出会うような体験をした。この日は、久しぶりに会った古い友人と、銀座のエルメス本店でやっていた「YÔKAÏNOSHIMA」シャルル・フレジェ展をみてきたのである。(展示内容の詳細は以下のアドレスを参照)
サイト→http://www.maisonhermes.jp/ginza/gallery/archives/14259/
動画→https://www.youtube.com/watch?v=kWVMM7qQxEI
日本列島の北から南まで全国各地の伝統的な民俗行事では、人々が精霊や神々や祖霊や架空の動物などに扮して踊ったり、なにかの役割を演じたりする。その姿を撮影した写真の展示なんだが、一つ一つは、まぁ田舎の昔ながらの村祭りにあるかな、という程度のものも無いわけではないが、改めてみると奇怪なものが多い。ナマハゲそのものならば、化け物といっても典型的であり見慣れてもいて驚きはないが、ナマハゲのバリエーションとなると、見慣れてないせいか、改めて、未開部族の奇怪な扮装を連想させるものがある。ナマハゲのような鬼タイプの系統のわかりやすい怪物ではなく、なんとも得体の知れない妖怪としか言いようのないものも多く、諸星大二郎の『マッドメン』を思い出させるものもある。マッドメンは“mad men”=「狂人」ではなく“mud men”=「泥の男」の意味。全身に泥を塗り奇怪な土面を被った者たちでニューギニアのアサロ族の祭礼で祖霊に扮した姿である。写真展に登場している日本の祭礼の例では、腰蓑つけて全身真っ黒に塗りたくった子供たちも衝撃的な異人類に扮することに成功しているし、鹿踊りの鹿や虎舞いの虎も実在の動物というより空想上の怪物(神獣)にみえる。その他、鳥の羽で飾り立てた北米インディアンの酋長や、陰茎を誇張表現したペニスケースを連想させる扮装もあり、すべてそれぞれの祭礼に登場する祖霊や神や怪物の姿を表している。
そしてこれらが、アフリカ、アマゾン、ニューギニア等の未開部族のようにみえるのが(あくまでよい意味で)衝撃的だ。改めて写真の枠に収まると「こういう見え方もするのかぁー」と驚くが、元の実体がもし動画となって動き語れば、どこにもありそうな日本の田舎の伝統芸能の衣裳として脳が判断してしまい、なんの感慨もない見慣れた映像としか受け取れなくなるのだろう。これはまったく写真の技がみせる「客観的」な形象だ。社会や村組織といった人間集団を思わせるものは背景に一切置かず、森林・海辺・野原などの自然の中だけに「それ」がいるだけでここまで印象が変わってしまう。

原始への憧れ
今回の写真展に出てきた虎舞いは別の地方のものだが、私の出身地にもほぼ似たような虎舞いは伝承され、幼少時から見慣れていたが、このような感慨を生む見え方は考えたことも無かった。物心ついた頃はすでに「中に人間が入って演じている」という、斜に構えたというか、冷めきった見方しかしていなかった。すでにテレビは怪獣ブームで、幼児期のわたしは「中に人が入って演じているってわかった上で楽しんでいる」という態度を周囲の大人から強要されていた。そのせいかも知れない。
だが、写真展の鹿踊りの鹿は、説明書きによるとわたしが生まれ育った故郷のすぐ近隣の郷土芸能のものだった。おそらくテレビニュース等では何度も見聞しているはずだが、ナマで見たという記憶はない。しかし、記憶がないだけで幼児期にリアルで体験していたのではないか、その時の衝撃が、記憶の淵に深く沈殿し、潜在意識に影響していたのではないか。だからわたしはその後の長い人生、一貫して、怪獣や怪人や妖怪が好きで、中でも『モスラ』や『怪獣王子』や『アマゾンライダー』の大ファンで、視覚的には未開部族や土俗文化っぽいもの、物語的には原住民ものや秘境ものに強いフェティズムや憧れを抱くのではないだろうか、と思わなくもない。
まぁ多かれ少なかれこういうの好きな人は多いだろうとは思うけども、近頃はまったく興味ない人もいるようなので。しかしこういうことにまったく興味ない人に限って、古代史の解明とか古事記の解釈とかを論じていたりするケースがまま見られるのだが、そういう人の議論は個人的にはまったく信用に値しないと思うんだが、どうだろうね?

普遍か固有か
冒頭で「民族主義ではなく部族主義を」といったが、その趣旨は、部族というと「遅れてて未開」、民族(国民、“nation”)の方が「進んでて文明的」という、明治以来取り憑かれてきた浅はかなる進歩主義はもうそろそろやめた方がいいのではないか、等という問題提起では必ずしもない。そうではなくて、読んで字のごとし。日本国内では長州と会津は無理に仲良くしなくてもよく、青森県内では津軽と下北は無理に仲良くしなくてもよいのではないか。北米インディアンや、アイヌや、奥羽の古代蝦夷(えみし)は部族ごとに同盟関係と敵対関係が交錯していたから、白人入植者や和人や大和朝廷と同盟する部族と敵対する部族とに分かれて同士討ちをしていたが、同じように日本の戦国時代も、九州のキリシタン大名はポルトガルと、奥州の伊達政宗はスペインと同盟していたし、幕末には薩長は英国と、幕府はフランスと結んでいた。それは悲劇をもたらすことももちろんありうるが、多様性や文化的な豊かさをももたらす。日本が北米インディアンやアイヌのようにならなかったのはある程度健全に機能していた王権があったからだが、王権の起源を外来の征服者・侵略者とする誤った説を基に捏造された「原住民史観」などの議論もあり、長くなるので今回はふれない。
話をもどして、この写真展の感想を通じてわたしが言いたいことは、日本人のルーツがニューギニアやアマゾンだとかという話ではなく、日本人の程度が未開の土人なみだとかという話でもまったくない。
今回のこの写真展でいちばん気が利いてるのは、最後のコーナーにヨーロッパ各地のワイルドマンの写真が展示されていることだ。ワイルドマンというのは欧州各国の伝統行事に登場する怪物の扮装で、安直にいうとナマハゲの西洋版。これらはキリスト教以前の、古代ゲルマン人や古代ケルト人や古代ローマ人の多神教に由来する。で、これの何が気が利いてるというのかというと、説明書きを読むまで、西洋のコーナーに移っていることに気付かない。これは誰でもそうだろう。伝統行事のために妖怪や神や動物に扮装した日本人の姿と、同じく伝統行事のために怪物に扮装したヨーロッパ人の姿が、まったく同じといっていいほどそっくりで、よほどの専門家でもないかぎり区別がつかない。
むろん今日ここでわたしが言いたいことは、日本人のルーツがヨーロッパだとかいう話では全然ない。
日本人のルーツを求めて北方系だ南方系だということには、さして意味がないということなのだ。日本もそうだが、日本に限らず世界のどこでも、古い文化というのは古く遡れば遡るほど、他の文化との違いが薄れ、人類一般に通じる共通性が濃くなっていく。逆にいえば、古くなるほど日本人らしさは薄れるのである。日本人らしさとは神武天皇から発祥したのではなく、長い歴史の積み重ねで形成されたものなのだから、縄文時代よりは弥生時代の方が、弥生時代よりは古墳時代の方が、大和時代よりは平安時代の方が、鎌倉時代よりは江戸時代が、明治時代よりは現代の方が、どんどん新しくなればなるほど、より一層「日本人らしさ」は強いのである。日本人だけではなく、あらゆる民族がそうなのだ。
神話は固有ではなく普遍の側に立つ。特に王権神話はそうである。よく、王というのは特定部族だけの伝統に基づく民族固有の君主で、皇帝というのが複数の民族を束ねその上に立つ普遍的な君主であると説かれることが多いが、それはあくまでアウグストゥスとか漢字の皇帝とかの言葉ができてからの話である。原初の王は、もとから複数部族の連合の君であって、特定部族だけの長は王とはいわないのだ。諸部族を一つに結び合わせるのが王であって各部族ごとに王がいるのではない。それを可能にするのは諸部族が相互に相容れない価値観をもつのではなく、同じ祖先から分かれた遠い同胞であったという神話であり、その同じ祖先とは全人類の共通祖先であって、特定民族だけの祖先のことではないという比較神話学的事実である。

秘境のロマンと現代の現実
氷雪のシベリア、アマゾンやインドネシアのジャングル、アラビアの砂漠、ヒマラヤの山々、太平洋の島々…。どれもロマンと探検心をくすぐる辺境の地で、むちゃくちゃな気候や地形、へんな生き物、滅んだ文明の遺跡、隠された財宝、どれも面白いネタではある。だが、なんといっても私が好きなのは、原住民、未開部族、土人の類だ。しかし前近代の世界全般、そうそうとてつもない野蛮人など存在するものではない。昔は未開なイメージで見られていた遊牧民や狩猟民も多くは文明のネットワークにつながれていて高度な文化をもっていたことも知られてきた。実際、高度成長以前の日本は東南アジアの田舎と大差なかった。最近の発展著しい東南アジア諸国と比べたら高度成長前の日本の方が未開だったろう。
今ではアマゾン、パプワ・ニューギニアの高地、アフリカの奥地ですら、ジーンズにTシャツ、みんなスマホをもっているし、インターネットもやってる。未開部族は特定の集団としては極めてわずかな例外的な存在であり、それこそ「幻の部族」になってしまっている。「結局つきあってみたら普通の人たちだった」みたいな話が、「つきあう前から普通の人たちだとわかっている」時代になってきた。未開部族が好きな部外者にとって残念なことだろうか、古い伝統文化を愛する一部の人には哀しいことだろうか。滅び去った民族は、絶滅してから本当の「異人」化が始まる。「実在することの迫力」から「過剰に仮託される観念」への転換は止められないだろう。70年代なら、滅亡した民族への愛惜と悲劇で語られる幻想譚になるところだろうが、80年代以降はおそらく文学性も思想性も軽い玩具、ラノベ的なものにしかならない。ニンジャ、サムライを思い出せばわかるだろう。ただし、これにも時代にかなった楽しみ方、悪乗りの仕方というのはあるはずだ。70年代の文化は必ずしもマジメさが産んだものではない。

我れ歓びの踊りを踊らん
全裸の体に奇怪な色を塗りたくって槍をもってウッホウッホ言いながらよくわからない踊りを踊る、そんなマンガチックなイメージは大昔のもので、現代人の妄想の中にしか存在しない。だがその妄想せずにはいられない衝動の源はどこからくるのか。
我々はみなおなじ人類であり地球の仲間である。そのことは否定しないが、そういう表現になってしまうことが近代主義的価値観がまいど破綻していく根源に他ならぬ。原住民の原とは原始人の原であり、原始人とは根源人種であり、根源人種とは部族であり土人なのである。けして民族でなく。
今回のこの写真展をみて、わくわくして楽しくなってしまった。日本人もアフリカ奥地、アマゾン、パプワニューギニア等の原住民と同じであり(むろんヨーロッパ人とも)、我々は日本の原住民なのだ、「土人」なのだという強い歓びがあふれだしてやまない。

・古事記1303周年、1月28日は古事記の日

今日、1月28日は『古事記』序文によると古事記が編纂され完成して元明天皇に捧呈された日、つまり「古事記編纂の日」(もっとも旧暦の一月二十八日なので新暦に換算すると何月何日なのかは調べてないけど…)。和銅五年、西暦712年だから今年の今日で「古事記編纂1303周年記念日」となる。古事記編纂1300年で世の中(の一部)が大騒ぎしてたのってもう3年も前なのかっ! 早っ! そういえばわたしがあちこちで開催されてる各種の古事記関係の勉強会の類に顔出すようになったのも3年前の平成24年で、思えば「古事記編纂1300年」記念の活動のつもりだったのかな。
3年前の古事記がらみのイベントはいくつもあって、ほとんど見て回ったし、インターネットの中でもいろんな企画をやってる人たちがいた。(以下つづく)

・蒙古襲来

H26年12月18日(木)初稿
昨日12月17日(水)は一つには
明治天皇御製(明治44年)
かみつ代のことをつばらにしるしたる書(ふみ)をしるべに世を治めてむ
と、二つには木下道雄の昭和44年の講演。この両者の内容については今回は触れない。
(以下続く。続きは後日に加筆)

・皇室と出雲の悠久のつながり

H26年10月28日初稿
H26年10月5日、高円宮典子女王殿下が千家国麿とご成婚。それに先立って5月27日のご婚約内定がニュースになった。それにちなんで今回のネタ、古事記から「天皇家と出雲の悠久のつながり」をピックアップすると以下のようになるだろう。

(A) 神代
天照大神の長男、忍穂耳命が皇室の祖先。次男、菩比命が出雲国造の祖先。両家が同祖であること。

(B) 神武朝
大物主神(=大国主の別名)の娘が神武天皇の皇后となり第二代綏靖天皇が生まれていること。つまり皇室の父系と出雲の母系とが一つに結ばれている。

(C) 崇神朝
大物主神の末裔、意富多々泥古命をして三輪山に大物主神を祀らしめたこと。

(D) 垂仁朝
出雲大神の祟りによって皇子・本牟智和気命が言葉を発することができなかったが、途中ですったもんだあって最終的に出雲大神の神宮を造営した。これは今の出雲大社のこと。

以上の4項が列挙されている。

后妃を入れる氏族
『日本書紀』(以下、紀)だと(B)の大物主は事代主になっていてるが、事代主はご存知の通り大国主の息子なのだから、一代ちがいで同じ家系。紀では2代綏靖天皇の皇后も事代主の娘、3代安寧天皇の皇后は事代主の孫となっていて、4代懿徳天皇の皇后は磯城県主の娘となっている。『古事記』(以下、記)では2代から4代まで歴代皇后すべて師木(磯城)県主の娘となっていることから、磯城県主の一族も事代主の一族も同じものの別名であることがわかる。
この後、5代孝昭天皇、6代孝安天皇と尾張氏の系統が皇后になっている。尾張氏というのは一般的には火明命の子孫ということになっているが、葛城の高尾張邑(たかをばりのむら)を発祥の地として、葛城国造の祖先の剣根命の娘の賀奈良知姫が天忍男命(尾張氏)の妻となって餘曽多本毘賣(5代孝昭帝の皇后)を産み、この餘曽多本毘賣の姪が6代孝安帝の皇后になった。葛城といえば大国主神の子、味鉏高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)の鎮まります聖地で、尾張氏というのは葛城国造の一族と深い関係があったものと推測され、系図には明らかになってないが、ちょうど磯城県主が事代主の系統であるようにこちらは味鉏高彦根神の系統であり、ともに出雲の系統として皇室に后妃を入れる家柄だったことがわかる。
7代孝霊天皇で事代主の系統に戻る。孝霊帝の皇后は記では十市県主の大目の娘である細比賣とあるが紀では磯城県主(=事代主系)の大目の娘の細媛とあるので、十市県も磯城県も同じ県の別名であることがわかる。
この後、史実では次第に皇別氏族である和邇臣氏(孝昭天皇後裔)と葛城臣氏(孝元天皇後裔)の両氏が、皇室に后妃を入れる家柄となっていくわけだが、『紀氏家牒』逸文によると、葛城氏の始祖の襲津彦は、その母が葛城国造の荒田彦の女の葛比賣である。つまり葛城氏は葛城国造の血を母系で引き継いでいる氏族なのである。和邇氏は後に春日山の麓に移住して春日氏に改名するが、『十市県主系図』によるともともと十市県主の古名が春日県主だったのであり、前述のように十市県主は磯城県主の同族だから、和邇氏と磯城県主に何らかの関係が想定できる。ちょうど葛城国造と葛城臣氏の関係と同様に、和邇臣氏もおそらく磯城県主の血を母系で引き継いでいたのではないか。

出雲系から后妃を出す理由
出雲系の氏族から后妃を出すのは、「征服の勝利者や敗北者を寛大に身内として遇する文化」という文脈で解釈されやすいが、それは派生的なもので本義ではないだろう。(以下、後日執筆)

大多々泥古の子孫と三輪君氏は別の氏族ではないか?
(C)の大多々泥古は大神神社(三輪大社)の三輪氏の祖先だということになっている。少なくとも(B)と大多々泥古は始祖が同じで遠い親戚だったのだろう。大多々泥古の代に崇神天皇に見出され登用されてからその子孫が三輪君氏になったというのだが、三輪氏から后妃が出たという話はあまりきかないし、(B)と三輪氏の間に相互交流があったふうでもない。だいたい「君」のカバネは開化天皇以降に枝分かれした皇別氏族の姓なので、垂仁朝から神功朝にかけて活躍した大友主命(三輪君の祖)というのは大多々泥古の孫だというのだが、実は開化天皇の子孫ではなかったのかと思う。だとすると、三輪氏は大友主以前の系譜が不明になってから「三輪」という地名に因んで大多々泥古に系図でつないでしまったのではないだろうか。
大多々泥古の子孫は大神神社の宮司の家系になっていったと思われるが、歴史にたびたび登場する三輪君氏というのはその地の豪族でまったく別の家系だったのを、後世混同されたものと思う。

出雲国造は出雲系の子孫ではない
これは私などが声を大にせずとも、ちょっとした古代史マニアなら誰でもご存知のことだろうとも思うが、(B)にしても(C)にしても大物主(=大国主)の系統であり、出雲系といえるのだが、(A)の系統はぜんぜん別の話で、これはまったく違う。『新撰姓氏録』の分類法では、「神別」系の氏族は「天神」系・「地祇」系・「天孫」系と3つに分類されるが、こちら出雲国造は「天孫」系であって、「地祇」の出雲神族ではない。

出雲「大社」ではなく出雲「神宮」?
(以下、後日執筆予定)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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