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☆清寧帝崩御から飯豊王の執政が始まるまでのすったもんだ

2679年(H31年=新年号元年)1月16日改稿 H27年10月21日(水)初稿
清寧天皇は病弱ではなかった
清寧天皇には皇后がいないが、歴史上何人かいた他の独身天皇と違って、これといった理由が不明。生まれた時から白髪だったので、体が弱かったと推測してそのため皇后を立てられなかったとする説もあるが、それは無い。日本人の髪は「黒」ではなく、医学的には「黒と白」の2種類である。劣性遺伝子のため発現形として稀なだけで、生まれた時から全白髪とか、白と黒のまだらとかの日本人はそこそこいた(過去形でいうのは現代では染色技術が進んでるので子供の頃から隠し通すことができるようになったので世に知られなくなったのである)。昔は小学生の頃に「葬式饅頭」なんてあだ名をつけられたやつはよくいたものである。
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また『日本書紀』では清寧天皇の御名を「白髪武広国押稚日本根子尊」として、岩波日本書紀は御名の読みを「白髪(しらかの)武広国押(たけひろくにおし)」と区切るが、個人的には「白髪武(しらかたける)広国押(ひろくにおし)」と区切る方がよいように思う。シラカタケルは父帝雄略天皇のワカタケルを継ぐものだろう。「広国押」は国土を広げたか広大な諸国を威圧、圧服せしめたような辞で、病弱な天皇の名とは到底考えられない。皇子の頃から雄略朝後半の戦役には将軍格の武将としてほとんど参戦していたのではないか。また皇后(おほきさき)がいなかったとは書いてあるが妃(みめ)も無かったとは書いてない。記紀に書かれた后妃や皇子女は、系譜上、重要な人以外はたまたま残ったもので、記紀の相違を調べれば脱漏や入れ違い等の誤りもある。特に雄略天皇から武烈天皇までは系譜上の欠落がかなり欠落が多く、大化改新の時の蘇我邸炎上で失われたまま復元できなかった箇所だろう。

皇后の候補となりうる女性は希少だった
『日本書紀』の皇后には2種類あり、
(A)最初から皇后として立てられる身分の高い女性(それも葛城/尾張系・和邇/春日系・息長系などを女系で引く皇族が理想とされていた。例外もあり)と、
(B)もともとは妃だったのだが後に自分が生んだ皇子が後に天皇となったため記録上は皇后とされた女性
の2種類である。A型の皇后はある特定の理由で立てられなかったにしろ、比較的身分の低い妃や皇女はいた可能性は高い。もし皇子がいればその妃は自動的に皇后(B型)として記されたろう。あるいは早逝した皇子がいたかもしれない。
ところで、当時皇后を誰にするかはその天皇の政治力を左右する問題であり、皇室と民間とを問わず、当時は女性の経済基盤が大きく、結果的にそれが権力を支えることになる。その上でなおかつA型の皇后で、となると、実は皇后にふさわしい候補というのは大昔でもそうそうぞろぞろいた訳でもないことがわかる。
たとえば皇極天皇は初め高向王に嫁いでいたが、舒明天皇の皇后となるため離婚しているし、間人皇女も孝徳天皇の皇后だったが年齢が違いすぎて形式的なものだったようだ。同世代に皇后にふさわしい同世代の女性がたまたまいなかったのだろう。
かく考えた上で改めて清寧天皇の立場になってみると、同世代の皇族女性というとまず、異母妹の春日大娘は仁賢天皇の皇后になってるから、清寧天皇とは年齢が離れすぎていたのだろう。次に、反正天皇の皇女たちは雄略天皇が皇子だった頃に妃に候補にされたぐらいだから世代が違いすぎる。反正天皇の皇子、財王(たからのみこ)にもし王女がいたら釣り合いそうだが、財王は早逝したか息子がなかったらしくその子孫のことは記録がない。履中天皇の皇女には飯豊皇女と中磯皇女がいて、中磯皇女は大日下王の妃になってその後安康天皇の皇后になってるから清寧天皇とは世代ちがい。もう一人の方、飯豊皇女は、日本書紀引用の『譜第』によれば市辺押歯王の娘という説もあったぐらいだから(もしそうなら清寧天皇と同世代)、系譜上では一つ上の世代だったとしても生まれが遅かった可能性があり、清寧天皇にぴったりだったろう。
…といいたいところだが、履中天皇皇女の飯豊皇女と中磯皇女は実は同一人物なのである(詳しくはこのブログ内の別ページで)。

飯豊王は二人いた?
その飯豊王なんだが、実は、名前の紛らわしい人が二人いて、履中天皇皇女の飯豊王(叔母)と市辺押歯王の王女の飯豊王(姪)がいてそれぞれ別人だという説がある。詳細はwikipediaに書いといたのでそっち見て下さい。…といっても wikipedia に書いたのはほんの序の口で、・袁祁王の詠(ながめこと)のページに書いたように、二人の飯豊王は実は叔母と姪でなく二世代か三世代も離れている。
飯豊王(上の世代の方、青海郎女。中磯皇女の別名)は「目弱王の乱」があった時、女性だったので雄略天皇による殺害をまぬがれたのではなく、「大日下王の変」の時に薨去していたんだろう。仮に生存していたとしたら、清寧天皇の皇后としては世代が違い高齢だったろう。飯豊王(下の世代の方、忍海部女王)は逃亡、潜伏中の一家に生まれたが、雄略朝の末期に伊勢神宮に保護され、その後、和珥氏の仲介で名乗り出て、雄略天皇からはたいそう気に入られた。このへんの事情はこのブログの他のところで書いた。この時、履中宮家が復興しその女当主に収まったんだろう。
そう考えると、清寧天皇からみて飯豊王は皇后としては申し分ない。允恭家の当主となった清寧天皇としては、まさに最高の皇后候補、それが飯豊王だったはずだ。
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平群家の皇室乗っ取り計画
ではなぜ飯豊王は皇后にならなかったのか。それはつまり「妨害された」のだろう。当時の最高の血筋を伝える女性を天皇と奪い合うような人間といえば平群氏しか考えられない。平群氏は初代の都久宿禰(つくのすくね)が履中天皇(該当記事参照)の時にヘマをこいてからは長らく冷や飯をくっていたが、その子の真鳥(まとり)が雄略天皇の即位に多大な貢献をして(このあたりの話はまだ書いてないのでいずれ詳しくやるつもり)、大臣(おほおみ)となって、かつての葛城氏の利権をそっくり受け継いだ。当時絶大な権力をもっていたのはこの平群氏であった。しかし大臣を輩出した葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏はすべて竹内宿禰(たけのうちのすくね)から出た家系で、かつ管轄分野も「外交・貿易・財務」と同一であって要するに同じ氏族である。名目は四つの氏族なのだが、実質は同一氏族の中の四つの家系といったほうがよく、竹内氏の中の葛城家・平群家・巨勢家・蘇我家だと思った方が現代人にはわかりよい。
真鳥の子が平群鮪(へぐりのしひ)。『古事記』では志毘(しひ)『日本書紀』では鮪(しひ)と書く。この鮪(志毘)が歌垣で袁祁王(後の顕宗天皇)と争い、最後に急襲をかけられ滅ぼされているがこの時「宮廷貴族たちは朝は朝廷に集まるけれども昼は志毘の邸宅に集まっている」といわれており、平群家が権勢を誇っていたことがわかる。
雄略天皇生存中は雄略天皇によって頭を押さえられていた大臣平群真鳥(へぐりのまとり、鮪の父)だが、若い天皇に代替わりして御し易しとみたのだろう。『日本書紀』によると雄略天皇崩御後、早速星川皇子(ほしかはのみこ)が反乱したが、このクーデターは白髪皇子(のちの清寧天皇)と大伴室屋(おほとものむろや)によって阻止され失敗した。星川皇子を養育した乳母氏族である星川氏は平群氏の同族(葛城系)であり、直接に軍事行動に参加しようとした吉備氏は平群家の家臣筋であるから、結局平群真鳥が首謀者なのはあからさまに誰でもわかったろう。しかし、すでに平群家の権力は強大で、しらばったくれる真鳥を追及できなかった。しかしこの一件で平群家と允恭家の関係は最悪の状態、というか関係は破綻したろう。これは真鳥の政治戦略での選択肢をあとあと狭めていく結果となる。允恭家との関係を切り捨てざるをえなかった真鳥の次の手が、仁徳王朝の嫡流たる履中家の姫であり当時皇族中でもっとも血筋のよい飯豊王を、息子の志毘(鮪)と結婚させて平群王朝を開かんとした纂奪計画である。
履中家は男子が雄略天皇に皆殺しにされて唯一生き残った飯豊王(=青海郎女=中磯皇女)もすでに世になく、潜伏していた飯豊王(=忍海部女王)が雄略帝に見出されて履中宮家が「忍海宮」として復興されていた。飯豊王(=忍海部女王)はその女性当主である。ただでさえ皇室に並ぶほどの権勢を誇っていた平群家が、もし飯豊王(履中家後継者)を妻にしたらどうなるか。清寧天皇の皇室(=允恭家)からみても宗家にあたる履中家の資産を、平群家が併合してますます強大化して皇室を凌ぐことになるだろう(儒教的には男系が途絶えればそれで終わりだが、名跡とは別に、資産に関しては女系で継承する習慣があり、それは原始時代には世界共通だったと思われるほどの、極めて古い風習だ。日本では中世まで続き、皇室御料は女院名義になっていたことは有名)。

飯豊王(履中宮家)は清寧帝(允恭皇統)と平群家との板挟み
ただここで読者諸兄の中には「飯豊王自身の個人的な男の好み(好きなタイプ)はさておいて、皇室を守るためにも清寧天皇の后になるのが皇族として当然の崇高な使命だろう、なぜ悩むことがあるのか」と、飯豊王の不忠ぶりを怒る人もいるだろう。だが現代でも同じだと思うが、リアルタイムで政局の渦中にいる時は様々な情報、説得、宣伝に取り巻かれ、何が正義で何が悪なのかわかりにくいものではないだろうか。今でも原発とかTPPとか、保守派の中でも意見が割れるでしょ。
個人的な好き嫌いをいえば、当時の皇族貴族といった高貴な女性は古典的なイスラム、アラビアの女性とか平安時代の高貴な女性のように人前に出ることは滅多になく、身内の男性以外に出会う機会は、意図的な出会いがセッティングしやすい伝統的なイベントぐらいだったろうから、事実上の見合い婚しかなく純粋な意味での恋愛結婚はもとから無かったろう。

皇族と皇親のちがいこの場合「平群氏は皇族ではないから皇位継承争いに参戦できないだろう」という反論は無効である。当時は臣籍降下という手続きがないので、皇族と皇別貴族の区別は曖昧だった(というか皇族という枠組みがまだ無かった)。平群真鳥は開化天皇の5世孫(記紀では孝元天皇の5世孫とするが誤り。詳細は孝元天皇の頁を参照)で、これは継体天皇が応神天皇の5世孫なのと同程度の遠縁であり、お世継ぎがいないのだから次の天皇は俺らだと、真鳥と鮪(志毘)が自負していたとしてもおかしくない。継体天皇の祖先が応神天皇以来、代々「○○王」と書かれ、ずっと皇族だったようにみえ、平群氏のカバネが「臣」(おみ)なので早々と臣籍降下しているように錯覚してしまうが、天皇からわかれて4、5代ぐらいしかたってないのなら当時はキミ(君/公)だったと思われる。継体天皇も『上宮記』逸文に「乎富等大公王」(をほどのおほキミ)とあるのはその名残りと思う。キミ(君/公)というのは皇親であって、「皇親」ってのは皇族とは違い、現代にはない概念だから現代人にはわかりにくいだろうが、今でいうと皇族であるようなないような、貴族のランクで一番上なのか皇族に含まれるのか、曖昧なのである。例えば、英国で王族でもなんでもないタクシーの運転手が王位継承100番目だったりするようなことを思い浮かればよい。記紀は「奈良時代からみて」平群氏は臣(おみ)だったから真鳥や志毘(鮪)を平群臣「の祖」と書いてるのであって、「当時」臣(おみ)だったのではない。継体天皇にも「王」と書いてるけど、これは「みこ」ではなく「きみ」に当て字する時にわざわざ公や君でなく王の字を選んだのであろう、後に継体天皇になったことを奈良時代の人は知ってるから。

で、平群家が履中皇統の生き残りの飯豊王と結婚したがるのは、履中家からきた仁賢天皇が允恭家の雄略天皇皇女を皇后にしたり、息長系からきた継体天皇が先帝武烈天皇の姉を皇后にしたりするように、遠縁からきて即位した天皇が先代皇室の皇女を皇后にするのと同じなわけだ。
飯豊王にしてみれば清寧天皇(允恭家)と平群鮪(平群家)からの二択になる。だがこの両家は皇位争いにおける条件が平等ではない。允恭皇統には清寧天皇(本命)とその石木王(補欠)の二人しかおらず、断絶の危機は完全には去ってないが、平群氏には志毘以外にも男子候補が無数にいたろうからだ。平群を悪だと断定して完全に拒否するのが本当に正義なのかどうかその段階ではなんとも微妙だったろう。(石木王の家系については下記の囲みコラム参照)
飯豊王の立場は後世の推古女帝が皇室と蘇我氏の板挟みにあったのと似ており、それで清寧天皇と志毘臣の間で中立を保ち、両者の求婚への返答を先延ばしにしたのであろう。
そういうわけで清寧天皇と鮪(志毘)は、二人で飯豊王を取り合っていた。飯豊王は如上のように単なる高貴な女性という存在ではないのであって、他の女性に皇子を産ませればいいという問題ではない。もし他の女性を妃/妻にすれば、飯豊王はライバルになびいてしまう可能性が高いから、清寧天皇と志毘(鮪)はお互いとも独身のままで頑張って張り合っていたわけ。

石木王の家系について石木王(いはきのみこ)は日本書紀は清寧天皇の異母兄としているが、実はもっと遠縁で、従兄弟か、従兄弟の子ぐらいだろう。允恭天皇の男系子孫であるから允恭宮家の皇位継承権者であることには問題はないが、具体的な家系については議論がある。石木王を日本書紀では磐城皇子(いはきのみこ)と書き、雄略天皇が吉備稚媛を妃として磐城皇子と星川皇子を生んだとあり、この二人がつまり清寧天皇の異母兄と異母弟である。しかし、顕宗天皇の皇后である小野難波王(をののなにはのみこ)は允恭天皇の曾孫、磐城皇子の孫、丘稚子王(をかのわくごのみこ)の娘だともある。この磐城皇子は同一人物だとすると雄略天皇と允恭天皇、どちらの皇子か? 允恭天皇には記紀ともにこんな皇子の記述はないので、雄略帝の皇子と判定したくなるが、なぜ日本書紀には允恭天皇の皇子だという記述もあるのか、注として書かれてはいるものの「一本に曰く」などの異説としての紹介ではないので正説として書かれているようにも感じられる。吉備稚媛は雄略帝の妃になる前には吉備臣田狭(きびのおみ・たさ)の妻で、離婚させられた上で妃にされたので、前夫との間に二人の男子がいた。田狭が妻が美人だと吹聴したため雄略帝に妻を召し上げられる羽目になった話も日本書紀にでてくる。これだけみると雄略帝がひどい人に思えるが、さすれば田狭もこの美女を略奪婚で得たのであって、田狭のさらに前の前夫がいたのではないか。それが允恭天皇で、允恭天皇と吉備稚媛の間に磐城皇子が生まれたのだとすると、系譜の線としては辻褄があうが、年齢的に無理。もちろん允恭天皇が吉備稚媛らしき女性と関係をもったという伝承もない。ところで、古事記は石木王の父についてはふれていないが、難波王は石木王の娘だとしていて、丘稚子王が出てこない。つまり日本書紀は石木王と丘稚子王の父子関係を間違って逆にしているのではないかと疑われるのである。さすれば、吉備稚媛の前々夫とは允恭天皇ではなくて丘稚子王だったのではないか。
むろん丘稚子王も允恭帝の諸皇子の中には出てこないが、これを解釈するにとついては二案ある。一つは、允恭帝が皇后の反対で妃にできなかった衣通郎姫(そとおしのいらつめ)という女性(皇后の妹)がいて、允恭帝は彼女のもとに何度も通って、皇后ともめている。この人との間には子は生まれなかったことになっているが、実は皇子がいて、皇后が薨去するまでの間、長らく密かに匿われていたため、公式な記述から長いこと落ちていたのではないか。それが丘稚子王だとする案。もう一つは、丘稚子王は允恭天皇の皇子でなく孫だったのではないか。木梨軽王か黒日子王か白日子王の子だったのなら、記紀に説明がなくても不自然さは薄まる。この場合、白日子王が候補として第一だろう。日本書紀には八釣白彦皇子とあり、明日香の八釣(やつり)に住んでいたらしい。八釣の邸宅は石木王の娘、難波王まで伝領され、難波王と結婚した顕宗天皇はその地に宮をかまえたのだろう。顕宗天皇の宮を古事記では「近飛鳥宮」(ちかつあすかのみや)としか書かないがこれは文字が誤脱していて、日本書紀では「近飛鳥八釣宮」とある。(「近飛鳥」と「遠飛鳥」はどっちが大和でどっちが難波だという議論もあるが長くなるので別の機会に)

清寧帝の崩御は暗殺ではありえない
春正月に、清寧天皇が未婚のまま崩御して、皇子がいなかったが、自分の崩御後の允恭家の行く末と允恭皇統の継続について、心配はしていたといっても完全に絶望するほどでもなかったろう、清寧天皇本人にしてみれば異母兄の石木王がいるのだから(実は異母兄でなく、従兄弟の子であることは上述)。清寧天皇が飯豊王に固執したのは平群氏の専横を抑えるためである(恋愛感情も無かったとは断言できないが、衣通姫(木梨軽太子の妃)や大中津媛(允恭帝の皇后)から察すると允恭家の女性たちは美人遺伝子のかわりにありきたりな女のサガ丸出しなタイプが多そうなのに対し、石之日売(仁徳帝の皇后)から察する葛城遺伝子を濃いめに継ぐ履中家は個性的な分、面白い人たちというかキャラの強いタイプの女性が多そうではある。適当だが。どっちがいいかは清寧天皇の個人的な趣味)。清寧天皇の崩御はタイミングが良すぎるのでこれを暗殺と考えたくなるが、それは無いだろう。清寧天皇崩御でいきなり平群が有利になるわけでもなく、それどころか平群にとっては鬱陶しい石木王(いはきのみこ=磐城皇子)が天皇になる可能性を開くからだ。清寧天皇がもし長寿に至ったとしても、立后を妨害されたまま持久戦なら皇子は石木王の系統しか存在しないことに変わりはない。この石木王は日本書紀をみると謙虚でまじめな人物で、自分から天皇になろうというような人ではない。星川の乱では、その事実上の参謀で謀反を唆した吉備姫は実母、謀反の名目上の首魁である星川皇子は実弟だったが、反乱の直前にその母と弟を諌めているぐらいだから、忠実清廉高潔な君子であって、平群の傀儡になるような人でもない。母と弟の罪を理由に皇位継承権を辞退し、わざわざ難波吉士(なにはのきし)という帰化人系の三流貴族の娘を妃にして、さっさと皇位争奪レースからは降りていたのではないかと思われる(娘の難波王はその名から実母か養育氏族のいずれかが難波吉士氏と推定される)。石木王の父(書紀は誤って父子関係を逆にしている)の名が「丘」稚子王(をかのわくごのみこ)だが、丘の字からみて、この王子の生母の出身氏族かまたは養育氏族(乳母の出身氏族)は紀「丘」前久米連(きのをかざきのくめのむらじ)だろう。この氏族も星川の乱の主要メンバーとして参加して殺されており、紀丘前久米連が不名誉な死に方をして氏族が没落し、石木王は後ろ盾を失っていたろう。ルーツが白日子王なら雄略帝に不忠のカドで誅殺された人の子孫だし、衣通郎姫の隠し子なら、大中津姫のとりまきの流れを汲む允恭宮家においては、さらなる冷遇を受けたはず。あくまで傍流として、いずれにしろ部屋住みの婿養子みたいな扱いだったろう。だが清寧天皇の崩御の後は、一転して允恭宮家の建前上の当主になった。
この石木王が皇位継承権者からはずれるに足る致命的な理由はないはずだが、もし辞退せずとも、石木王と仲が悪い平群氏は、「石木王は謀反人(吉備稚媛)の血をひいているから」という建前で猛反対したろう。その謀反の黒幕の癖にな。自分が黒幕であるという事実に気付かないように目をそらさせるためにも、悪役を立てて「こいつが犯人だ」と言い続けるのがよいという、平群の政治宣伝が功を奏して石木王は一部の理解者に守られつつも世間的には評判の悪い皇族として汚名を着せられたままの状態だったと思われる。実際、石木王の生母と異父弟のとんでもない所業は許されるものではないが、彼自身は関係がない。しかし溢れる富と権力を握って世に時めく平群父子に憧れる者や媚を売ろうと話をあわせる者は無限にいたろう。不条理だが、皇族を中傷するのに本人でなくその家系や血筋をもちだすヤカラは現代にもウンザリするほどいるのをみればおおよそ想像がつこうというものだ。それでも石木王が退かねば平群に暗殺されるだけのこと。清寧天皇なき今や、石木王は允恭宮家の唯一の男子で、允恭家の当主(といっても実権は母方の血筋のよい故清寧天皇の姉妹たちが握って本人はお飾りだろうが)なのだから、このことはつまり「允恭家が皇位継承争いから降りた」ということを意味する。
かく、石木王の線がないとなると、自然といつかは平群父子に皇位は転がり込んでくるのだから、清寧天皇が刺客を放って鮪(志毘)を暗殺するというのならともかくその逆は理屈にあわない。皇室は度重なる皇位継承の殺し合いのせいで後継者不足だが、平群氏は一族がワンサカいたろう。平群氏の方が現状のままで有利、優勢なのである。

こじれる後継問題
当然、崩御後に後継者問題が生じた。この時の皇位継承候補は石木王の他、仲哀系や息長系がいた。石木王は当時まだ薨去していた可能性もなくはないが、どっちにしろ上述の通り石木王の線はない。残りは仲哀系と息長系の2つが記紀が皇族扱いして書いてるのでこの2系統だけと思ってしまうが、前述の通り、平群家を含めた皇別氏族でまだ4、5代しか経てないものとなると相当数いたはず。問題は、単なる血筋だけで比べたらどれも五十歩百歩だったろうが、平群氏は財力・権力・地位・名誉が当時ズバ抜けていたということだ。
このままいくと平群が天皇になるって話で終わりそうだが、問題は2つあり、一つは大伴氏や物部氏など一部の大貴族が平群家に心服しておらず、彼らが無理矢理にでも弱小な枝葉皇族をかつぎあげて平群氏に対抗する恐れがあったこと。二つめには平群家がかつての葛城家の利権を丸呑みする形で継承していたために「第二の葛城家」と見られ、庶民層にはいちじるしく評判が悪かったと思われること。葛城家が庶民に嫌われていたということについては以前に別の頁で詳しく書いたからここでは繰り返さない。これだけで平群氏が悪なのは明白なのだが、雲の上で浮世ばなれした生活してる皇族貴族にはわからないんだよね、ブラック企業で働いて四畳半で貯金もなく暮らしてる庶民の気持ちなんか。麻生や安倍だってわかってないだろう。
平群家としては、皇室の正統につらなるもっとも高貴な血筋をもつ女性と結婚して、皇室と一体化すれば、大伴・物部や庶民に対して有無をいわさず(天皇として)君臨できるようになる。ちょうど折よく(?)、允恭宮家は石木王を除けば切れてしまって、履中宮家ともども男性がほぼいない女所帯になってしまった。単に婚姻によって皇室を乗っ取るのが平群の目的なら、允恭家の女性も候補になりそうなものだが、第一に允恭家は履中家と比べて、平群の同族だった葛城家の血が薄くそれだけ親近感もなく感情的に距離があったこと、第二に星川皇子の乱が潰えたことによって平群家と允恭家の関係は破綻して気まずい関係になっていたと思われること(清寧天皇に謀反した星川皇子の首謀者だった平群家に対して、允恭家の後宮はひどく不快感を抱いていたことは間違いあるまい)、第三に、本心から儒教を信奉してた葛城家とは違って、単なる政治的利用にすぎぬとは思うが、葛城家と同様、平群家も建前は儒教派であり(ファッションとしての中華趣味は両家共通)、彼らにとっては長男の家系でかつ先に即位している履中皇統こそが皇室の嫡流・直系・本家なのであり、允恭家などは庶流・傍系・分家にすぎず、飯豊王に比べると允恭家の女性皇族たちは二段も三段も格が落ちると評していたのではないか、むろん仲の悪い允恭家へに対する誹謗という側面もあったのだろうが。
その雲の上の飯豊王だが、次の天皇が不分明な場合、中世では皇太后(先帝の皇后)にお伺いを立てて先帝の遺志を確認することが行われたが、古代でも先帝の喪の期間は外廷(朝廷)が機能停止するので、内廷(=後宮)がすべてを主宰する情況が生まれる。従って時期天皇が誰かという決定には後宮の女性たち、わけても彼女らのリーダーたる皇太后の意向が絶大な力をもったことが、記紀の諸伝承のはしばしから伺われることは先学の指摘するところである。そこで古事記によると「日継しらすべき御子を飯豊王に問ふ」ということになった。このことからわかることは重大だ。なんとなれば、飯豊王を当時の人々が清寧天皇の皇后と同格もしくはそれに準ずる人物、つまり次の天皇を指名する権限をもつ人物とみなしていた、ということだから。独身の天皇が言い寄っていた女性なのだから、彼女を皇后に準ずる扱いとするのは天皇の遺志を重んずることにもなるわけで、允恭家やこれを支持する貴族たちも反対しにくい。しかし「日継しらすべき御子を飯豊王に問ふ」の飯豊王を若井敏明の説では叔母/皇女の方だとする。だがわたしはこの説を支持しない。この頃、飯豊王(若井の説では叔母/皇女だが、実は三世代も前の人なので)とっくに死んでるのである(おそらく目弱王の乱の時、大日下王の落城とともに)。
飯豊王に決めてもらうという方法には平群家も反対したろうが、雄略天皇の申し子みたいな人だから権威と人気は絶大でどうしようもない。その上うまい代案もない。案の定、次の天皇に平群を指名せず、予想外にもよりによって石木王を指名したことだ。

履中宮家の戦略
実は飯豊王は履中家の後胤(つまり意祁王と袁祁王)を密かに隠していた(そもそもこないだまで一緒に潜伏してたんだから当たり前だが)。飯豊王の当初の計画では、この後胤は宿敵である允恭系の天皇が途絶えた場合(つまり清寧天皇が崩御し、かつ石木王の系統も途絶えた場合)に、世に出す計画で、允恭皇統(=雄略皇統)が永続した場合には指名手配も解除されないから、そのまま永久に隠し通すしかない(自分が雄略天皇に公認されたのは女だからであって、男ならどうなったかわからない。逮捕され処刑されていた可能性があったと考えていた)。この後胤=二皇子はまだ幼く、昔は夭折が多かったことと、仮に允恭家と和解できて指名手配が解除されても、平群から暗殺などで狙われる恐れがあった(清寧天皇は前述の通り暗殺ではなかったと推測するが当時も暗殺じゃないのかと疑う者は多かったろう)ことから、不用意に公表などできない。まだまだ長い間、この先も極秘事項とするつもりだったろう。
隠し玉の二皇子を活かすには、平群の皇位簒奪を阻止する必要がある。平群天皇なんてものが実現したら二皇子は人畜無害な存在となって晴れて表に出せるかわりに、永久に皇位はやってこない(平群氏には男性が多いため)。かといって、允恭家の天皇=雄略皇統が続く限り、二皇子の指名手配が解除される可能性も低いことにかわりはない。が、しかし平群氏は軍事的に滅ぼしたりしない限り、自然状態では断絶の可能性が限りなく低いのに対し、允恭=雄略宮家はわずかながらその可能性があり、允恭家が断絶した場合は二皇子は継承順位からいって平群よりも上位になるわけだ。よって飯豊王としては痛し痒しな選択ではあるが、石木王を指名する他にやりようがなかったはずだ(これはわたしの個人的な推理であり、記紀には飯豊王が石木王を指名したとは書いてない)。
しかし、石木王は断固として皇位を拒否、平群も猛反対、仲の悪い両者が飯豊王の前で連帯するという奇妙な展開に。石木王は自分が退くのはいいとしても、かといって平群天皇の実現にはなおさら大反対だったろうから何か代案を出したはずで、仲哀系(品夜和気王の子孫、のちの倭彦王の祖先)とか息長系(のちの継体天皇の祖先)を出したろう。息長系は考えようによっては応神天皇の正統ともいっていえなくもないほどで、格式や権威は低からざりしも、当時はまだ越前や尾張に勢力を延ばす前で、この頃は近江の一部を支配する豪族レベルに落ちていた。近江は東西交易の要衝だからそれなりに富強だったと思われるが、そこで取引される物資も外国製品の買い入れとそのための東国の物資の売り出しだから、大財閥である竹内氏(葛城家ついで平群家)の経済的な搾取下(もしくは下請け企業のような状態)にあったも同然だったろう。
仲哀系(品夜和気王の子孫、のちの倭彦王の祖先)は間人連(はしひとのむらじ)氏と蘇宜部首(そがべのおびと)氏の祖先である。おそらくこの頃は間人君(はしひとのきみ)と称する氏族だったと思われる。蘇宜部とは蘇我氏の部曲(かきべ)でありそれを管理したのが蘇宜部首だからこの家系は早くから蘇我氏と婚姻関係で結ばれていたのだろう。そうすると、蘇我氏は平群と同じく竹内系氏族に属し、この頃は平群が総帥だから蘇我はその家臣筋であり、この仲哀系も家柄の格式はともかく、実際の権力関係では平群の配下のようなものだったろう(ただし履中家と仲哀系との間にも婚姻関係が結ばれていた可能性もある。記紀には脱漏しているが)。
このように平群の全盛期においては仲哀系も息長系も物理的なリアリティーはなかった。その上、仲哀系や息長系をもちだすのは、仁徳系に属する履中家や允恭家の全否定になり、その意味では平群(=開化系)をもちだすのと大差ないので、飯豊王が同意するわけもない。まぁ石木王の提案はテーブルをひっくり返すようなもので当時の情況では遠回しに「俺はしらん」といってるのとかわりないものだったろう。

庶民のデモ行進
これで事態は膠着したが天皇が決まらなくては政治が停滞する。そこで朝は飯豊王の坐す「葛城の角刺宮」で連日の新帝擁立会議がダラダラ続き、昼は平群邸に主だった貴族が集まって平群氏を天皇に擁立するための相談を行うようになったろう。古事記に「貴族たちは朝は朝廷に集うが昼は平群邸に集まっている」と書かれている情況が始まったのがこれだ。そうなると当然、アンチ平群派の貴族は、角刺宮にしか行かないから、二重政府の様相を呈してくる。これに最も危機感を抱いたのは一般庶民だろう。庶民にしてみれば、天皇は平群以外ならもう誰でもいいので、他の貴族たちに飯豊王を支援するように訴える意味で、国民運動が起こった。書紀には「時の詞人」(一般庶民の無名の歌手)が「すばらしい宮殿だという角刺宮を見物に行きたいものだ」という歌を詠んだという話が出てくる。これは一般人が積極的に角刺宮へお参りに出かけることで、平群派の貴族が売国奴であり庶民の敵であることをアピールするデモ行進みたいなもの。(竹内系の葛城や平群が、今でいう経団連とマスコミと左翼文化人がごっちゃになったようなものであることは以前に別の記事で詳しく書いた)

飯豊王の交際
書紀によると、清寧三年の秋七月のこととして、飯豊青王女が、角刺宮においてある男と性交して(與夫初交)「やってみたらなんてこともない。もう男に興味なし」と言ったという妙な記事がある。

飯豊王の「謎の男」?なぜこんなへんな記事があるのか古来議論されてきた。現在の学界では記紀の伝承にある程度は史実の反映を認めつつも基本的にお伽噺として受け取る理解が主流なので、この伝承にもあまり歴史的な意味での解釈はなされず放置され気味である。一方、民間在野の古代史マニア業界では、愛することを禁じられた悲劇の巫女王の淫猥なスキャンダルとして面白おかしく論じたり、具体的に相手の男を詮索する説がある。一例としては、相手の男性は、皇后がいなかったとされる清寧天皇だったと推測する説もある(竹内睦泰)。しかし清寧天皇と飯豊王の結婚には「実は同母兄妹だった」というような系譜伝承を無視した設定でも仮構しない限り、障害となるような原因が考えにくい(系図が改竄されているなら晴れて二人の関係を明記しても問題ないことになるのにそうなってはいない)。清寧天皇と飯豊王は独身同士であるから関係をもったとしてもそのこと自体は不倫でもない。また巫女に処女性を要求するようになるのははるか後世の風習にすぎず、昔に溯るほど夫婦で神官(男巫・女巫)だったり、孫のいる老婆が巫女だったりする例が多いことは、関口裕子や義江明子らによって究明されてきた(いうまでもないが当時婚前交渉が禁じられていたわけでもない)。

飯豊王が「ある男」と性交に及んだのは『日本書紀』では清寧天皇在世中のように書かれているが二皇子発見の後になっており、『古事記』に照らしてみれば清寧天皇崩御の後になる。なので清寧天皇が春正月に崩御したその年の秋七月のことだろう。今時の芸能人でもいちいち自分の性生活をマスコミに公表したりはしない。無意味だから。これが歴史書に載るのは、当時これが政治的な意味をもったからで、いったいこの男が誰なのかというと、こんなことを公表して政治的な意味をもつ相手というと、流れからして平群鮪(志毘)しかいないだろう。庶民の猛反対に驚いた志毘(鮪)は既成事実を作ろうとして飯豊王に迫った。ただし二人の関係は、二皇子の存在が公表される以前の、まだ飯豊王も将来の皇位をどうすべきか迷っていた頃の話だろう。
庶民の大騒ぎ(=庶民の意思表示)に、平群家は驚いたが、罪もない庶民を武力で鎮圧しようとすれば、アンチ平群派の大伴氏や物部氏が黙ってない。あせった志毘(鮪)は既成事実を作ろうとして飯豊王に肉体関係を迫った。つまり夜這いをかけた。これは当時の上流階級でも婚姻の申し込みに該当する行為である。
飯豊王は二皇子の存在を極秘事項にしていたが、具体的にどこにいるのかもむろん知っていただろう。だから彼女は平群を天皇にする気などさらさらないしかし現状では石木王・仲哀系・息長系には可能性が低そうで、このまま何もしなければ、(あるいは二皇子のプロデュースに失敗すれば)平群天皇の実現は時間の問題、それなら「保険として」だが、未来の皇后も悪くないかという判断だろう。実は当時は、現代人が考えるような一夫多妻制はなく、多夫多妻制というと誤解があるが、そもそも現代人が思い浮かべるようなきっちりした婚姻制度が、概念からして無かった。ただでさえそうなのに飯豊王は奥州の蝦夷たちと一緒に暮らしてきた田舎育ち(詳細は当ブログ内の他ページで)。ところが鮪臣は中華趣味の財閥の御曹司で儒教倫理にふれる機会の多い環境で育っている。当時はまだ彼のようなのは少数派ではあっても、ともかく性行為と「制度としての結婚」の直結という考えを現代人以上に(儒教的に)持ってたんだろう。
かくして志毘(鮪)は角刺宮にも押し入って肉体関係まで結び、事実上の天皇然として振る舞った。
これに驚いたのは飯豊王だ。予想外の展開に頭を抱えたろうが、自分のせいだからどうしようもないない。二皇子の件を公表するのはまだまだ先の予定だったが、こうなってはそんな悠長なことは言ってられなくなった。ただちに履中皇統の後胤が生存し、密かに匿ってきたことを告げ、志毘臣とは交際をやめ、絶縁したということだろう。

福井県の「青海神社」今の福井県高浜町の青海神社の境内には飯豊王が禊したという池がある。飯豊王は平群鮪とつきあったのを後悔してこんな遠方まで禊にいったのだろうか。ちなみにこの神社の所在地の旧称は若狭国大飯郡青郷村で、「飯」「青」の字が飯豊青尊(いひとよあをのみこと)、または青海娘女(あをみのいらつめ)という名と関係ありそう。またこの地は「海部」(あまべ)で飯豊王の部民だったとも伝わる。
こんな遠くまで出かけた理由の一つには、その頃の都(難波〜奈良盆地とその周辺)は葛城氏や平群氏に象徴される大陸文化が全盛で、純和風な文化が衰退しており、平群に嫌気をさしていた飯豊王は、古めかしく素朴な文化を訪ねる旅に出たのではないかとも考えたくなる。また、このついでに、日本海を挟んだ大陸との交流も視察したのではないか。当時の日本は朝鮮半島の南部を支配して、北朝鮮を領土とする高句麗と対立していた。瀬戸内海と並んで日本海沿岸にも軍港や帰化人集団が多かったろう。これがのちのち、履中家の勝利と平群氏の滅亡に、意外なところでつながってくるのだが、それはまたあとで。

二皇子の発見
この間、仁賢・顕宗の兄弟を確保していた志自牟(しじむ)という人は、『日本書紀』では細目(ほそめ)という名でこの地の忍海部(おしぬみべ)の管理人であることと明記されている。この事実は重い。忍海部は全国に散らばる所領でその領主は飯豊王。これを根拠に若井敏明という先生は最初から飯豊王が兄弟を隠していたという説を出しており、俺も賛同する。百歩譲ってそこまで勘繰らずとも、発見が公表される前に秘密裏に極秘情報の第一報が朝廷の誰よりも先に忍海部の主人である飯豊王に入った可能性は著しく高かったであろうことは否定のしようがない。兄弟発見の情報を得た飯豊王は一旦は二人に秘密の護衛をつけて世に隠したまま、前述のように戦略を練り上げ、安全な時が来るのを待ったってことになるが、飯豊王はもっとずっと前から、というか最初から把握しているのである、自分も逃亡しながら連絡は取りあってたんだから。
清寧天皇崩御の後、石木王を新帝に指名したが、それに反対する平群氏が飯豊王と結婚して履中皇統の乗っ取りに出てきたので、もはや二皇子を公表するしか平群の野望を阻止する手立てはない。
兄弟が発見されなかったならば、飯豊王が志毘(鮪)を拒絶しようがしまいが、後々の皇位継承者がいない情況なのだから遅かれ早かれ平群氏の天下はやってくるのであり、真鳥・志毘の父子は反主流派の皇族貴族の動向にさえ目を光らせていれば枕を高くして寝ていられたことであろう。あとは二皇子の身柄を安全に確保すること(平群による暗殺がありうる)と、政界に地味にこっそりデビューさせることは不可能(「あんた誰?」ということになる)だから、庶民に知らせるという意味でも、芝居がかった華々しいデビューが演出された。これは平群の裏をかくために企画された演出と思う。
かくして仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟が登場したことで事情が一変してしまった。鮪(志毘)が、天皇をも恐れぬような権勢を奮っていた最中であったことと、にもかかわらず顕宗天皇のために突然に計画が無効にされてしまったこと、これらの背後事情があって始めて、記紀の伝える顕宗天皇と志毘臣の歌垣における激突が理解しうるのである(歌垣伝承の主人公を『日本書紀』が顕宗天皇でなく武烈天皇のことだと誤ってしまった理由は別に考察あり。別記事を参照)。

飯豊王の執政が始まる
二皇子が発見されたのは書紀では清寧二年の冬十一月のことになっているが、清寧天皇の崩御後とする『古事記』の方が正しいので、清寧天皇が春正月に崩御したその年の冬十一月、つまり飯豊王と鮪の結婚交渉が破談になった七月から4ヶ月後と推定する。この4ヶ月はさまざまな仕掛けや演出、段取りを極秘にすすめた期間と思う。平群にしてみれば驚いたを通り越して、開いた口がふさがらなかったろう。二皇子はまだ子供だったので、いきなり即位というわけにもいかないが、これには応神天皇と神功皇后の先例がある。そこで、飯豊王は兄の意祁王(=仁賢天皇)を皇太子に指名して、自らは摂政に就任した。摂政というか「垂簾の政」だよな。また履中天皇自身が長男で儒教に基づいて仁徳帝の皇太子になったので、履中皇統は代々長子相続をアイデンティティーとした。当然、兄の意祁王が継嗣であり、袁祁王(=顕宗天皇)が即位するという発想はこの段階ではまだぜんぜんなかったと思われる。
ところで、履中皇統は母系では葛城氏であるが、この頃はすでに世代を経て遠縁になっており、飯豊王の執政が実現したのは、平群真鳥にしてみれば苦々しく思いながらやむなく黙認したにすぎない。このへんは後世の推古天皇と蘇我氏の協力関係とは全然似ていない。推古朝は蘇我の専横の時代であるということはまったく否定のしようがないが、その一方で推古天皇が単なる傀儡だったわけでもなく、蘇我の権力は女帝の権威に依存していたため、女帝の筋を通すべきところでは蘇我が手出しをできないことが度々あった。このことは平群氏と飯豊王の関係でも同じことがいえるだろう。ただし、相違の方が大きい。蘇我氏の場合は、推古天皇を立てているのは聖徳太子を即位させるためだった。聖徳太子が早逝したためこの計画は潰れてしまったが。そして蘇我は田村王(=のちの舒明天皇)を擁立する方針にかわる。ともかく自派にとって都合のいい天皇候補を即位させるための前フリ、下準備が女帝擁立だった。だから推古天皇が次期天皇として山背大兄王を指名した時には、蘇我蝦夷は遺詔を歪曲して田村王を擁立するという力技に訴えざるをえなかった。ところが平群氏と飯豊王の場合には、次の天皇候補について同一目的で一致しているわけではない。意祁王・袁祁王には平群の同族の葛城の血は入っているが、平群の血は入ってないし、こないだまで平群氏自身が次の天皇だという話だったのだからむしろ意祁王・袁祁王は横から出てきた邪魔者でしかない。飯豊王は、蘇我を翻弄した推古天皇のような複数のカードは持ってなかった。従って、一応皇太子が決まってしまった以上は、表面的には平穏を装う他ないが、この情況では飯豊王と平群氏は協力者という要素はほとんどなく、潜在的に敵同士に近いのである。
「袁祁王と平群氏の激斗!」に続く

・清寧天皇・補遺

H30年12月29日(土)改稿 H27年10月21日(水)初稿
「大」倭根子か「稚」日本根子か
清寧天皇の名は古事記では「白髪大倭根子命」(しらかのおほやまとねこのみこと)だが日本書紀では「白髪武広国押稚日本根子尊」(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこと)。「武広国押」については前にちょいと書いたからいいとして、大倭根子と稚日本根子はどっちが正しいのか。「大〜」と「稚(若)〜」というのは、普通は親子とか兄弟でつける一対の名だから、考えられるのは兄か父が「大倭根子」で清寧天皇は「稚日本根子」(若倭根子)だったのが、のちに息子か弟ができて「若倭根子」の名を譲り、父か兄から「大倭根子」の名を貰い受けたのだ、と考えられないだろうか。そうすれば清寧天皇に二つの名があることが説明できる。石木王は清寧天皇の兄ではなく義理の母の連れ子だが、日本書紀は清寧天皇の異母兄だと勘違いしているのは、雄略天皇一家には一応、(養子ではないが)漠然と養子的な存在として受け入れられ、清寧天皇が生まれてからはその兄弟分として処遇されていたのではないか。だから「大倭根子、若倭根子」の名を対でもつのは、その兄弟分としての地位が与えられたという表現だったのではないかと思う。星川皇子が生まれてからは、星川皇子が「稚宮星川皇子」(わかみやのほしかはのみこ)と書かれてもいるので、この稚宮(わかみや)がつまり稚日本根子命と同じ意味だろう。そこで清寧天皇は「中倭根子」と称してもいいところだったが、石木王は謙虚な人でかつ聡明なので事前に皇位争いの危険を察知して、尊号を固辞して皇太子(白髪王)に大倭根子の名を譲ったものと思う。だから天皇になった時点では古事記の「大倭根子」の方が正しい。日本書紀は、二つの伝承から選ぶ際に、清寧天皇が若くして崩御したので単純にそれに似つかわしい方を選んだまでのことと思う。

星川の乱
雄略天皇崩御の直後、星川皇子が反乱を起こしたことは『日本書紀』に詳しいが『古事記』には書かれていない。この乱の黒幕が平群氏だと推定したことは前に書いた。平群氏と皇室の水面下での対立はこの後もずっと尾を引き、武烈天皇即位までの様々な事件の前提になっている。そのため星川皇子の乱を知らないと、諸々の事件がバラバラな説話にみえてしまい、一貫した歴史の動きとして認識できなくなってしまうのだ。『古事記』は歴史書ではなく、恋愛譚と歌物語を紹介することに主眼を置いているので、この星川皇子の乱についてはスッポリ落としている。が、現代人はどうしても歴史の流れを把握した上で全体を理解したいと思うだろう。
星川皇子の乱の経緯を詳しくやりたいのだが、『古事記』の体裁では、先帝の崩御から新帝の即位までの間に起こったことは、すべて先帝の章の末尾に含む形式になっている。『日本書紀』では逆に新帝の「即位前紀」に含む形式になっていることが多い。当ブログでは『古事記』の体裁にならって、雄略天皇のカテゴリー記事で詳しくやることにする。

・袁祁王の詠(ながめこと)

H29年07月13日(木)改稿 H27年10月21日初稿
一枚は「新室楽」(にいむろうたげ)、もう一枚は「大国主神」と表題あり、古事記の原文(返り点はついてるが)のコピーで、前者は弟皇子(のちの顕宗天皇)のが詠(ながめこと)のシーンであり、後者は櫛八玉神(くしやたまのかみ)が大国主神に祝福の言葉(「祝詞」のようなもの)を述べるシーンである。で、この弟皇子の「詠」(ながめこと)にしろ、櫛八玉神の言葉にしろ、「この二例は通常の歌の表記と違って漢字一字一音になっておらず、地の文と同じ表記になっている」。櫛八玉神の言葉は「歌ひて曰く」ではなく単に「云はく」と書かれ、詠も「詠に(を)歌ひて曰く」ではなく「詠して曰く」と書かれる。詠については「荘重におもおもしく声を長く引いて歌う、あとは崇神記の巫女の歌の二例しかない」。

古事記の原文(白文)で、
1,国譲り神話の末尾、「云」の字に注目(岩波の古典文学大系より)
2,顕宗天皇の舞(二王子の舞)の部分。「詠」の字に注目(岩波の古典文学大系より)
3,顕宗天皇の歌垣の部分、「歌」の字に注目
4,須佐男命の歌や倭建命の歌。これは漢字一文字一音で「歌」を表記している例


詠(ながめこと)は古事記に一例しかない?
古事記原文にあたってみたところこの「二例」というのは崇神記にでてくる謎の女の歌と応神記にでてくる国巣の歌の二ヶ所のことだとわかった。ただこの二例は通常の歌のように漢字一字一音で書かれてる上、詠の字を「ながめことする」ではなく単に「うたふ」とか「(歌を)よむ」と読んでる。解釈のしようによっては詠だとも歌だとも受け取れるような書き方なので、要するに「詠」は広い意味での歌の一種なのだろう。
ただし、顕宗天皇の「詠」と櫛八玉神の言葉だけが「歌」の扱いではなく地の文と同じ書法なのは、どういう意味があるのかというと、どうたら「これは歌ではない」ということのようだ。「歌ではない」とわざわざ断るのはセリフとして長くて内容が文学的なので、読者がうっかり歌だと思ってしまうことを予想して、あえて地の文と同じ書法にしているということらしい。素人考えではなんでも気持ちよくしゃべれば自ずから歌だろう、と思ってしまうが、歌か歌でないかは何か線引きというか定義のようなものがあるらしい。崇神記と応神記の詠はたとえ詠の字が使われててもあくまでナガメコトではなく「よむ」「うたふ」で通常の歌のことであって、地の文でかかれた清寧記にでてくる弟皇子の詠だけがナガメコトなのだ、ということのようだ。

袁祁王の詠の訳
弟皇子の詠(ながめこと)の現代語訳、石川淳『新釈古事記』より。これはちくま文庫のやつだな。著作権の都合でここに丸写しで書くわけにはいかんが。しかしこの訳も良いように思わない。「見れば五十隠くる山の三尾の」の句の訳が、石川淳の訳ではわかりにくいが、山の稜線がはためく赤旗に隠れたり見えたりする様をいってるように解釈してる。角川文庫も山の稜線が隠れる意味にとってるが、これは生い繁った竹林に山の稜線が隠れてる、つまり竹林のすごさをいってる。で、だからそのすごい竹林を切り開き、切った竹を押しなびかすのがすごいってことになる。やや迂遠な感じもしてピンと来ないがこんなもんなのかな。それ以外のたいていの本では敵が山に潜れる意味にとってる。しかしそれだと、次の「竹を切り伏せ押しなびかす」のが天下を治めることに喩えられるようなスゴイことなのかどうか、つながりがよくないような気もする。理屈で辿ると、一本の小さい竹を斬り伏せてもぜんぜんすごくないわけだから、ここはその竹林が広大で壮大だっていう説明が必要に思う。そしたら最初読んだ感想では一番ピンとこなかったけど、この三者の中では角川文庫の訳がよいように思えてきた。

他書との比較
この「詠」は『日本書紀』や『播磨国風土記』に載ってるのはかなり内容が違うので、比較してみるといろいろ面白い。(以下後日に書くかも書かないかも)

宣長の気づき/史実の発掘
『古事記』でも『日本書紀』でも『播磨風土記』でも、一つ共通していることがある。それはこの詠では、二皇子が市辺押歯王の子だとはいっておらず、「子孫」だといってることである。これがなぜ重大かというと、発見された時に少年だとすると、雄略天皇の治世が長すぎて、市辺押歯王が薨去した時に生まれてないことになってしまうからだ。
允恭帝崩御が甲午年、雄略帝崩御が己巳年、この間35年しかないが、目弱王の乱の時、雄略帝はこどもだったとあり、その雄略帝は宝算124歳だから、35年間では入りきらない。そこで本居宣長は1運(干支の1周60年)とばして次の己巳年が雄略帝の崩御年だとして、95年間とした。そこから安康天皇の在位期間を『日本書紀』から3年間として引き算して、宣長は雄略帝の在位期間は92年間だとした。(この計算だと目弱王の乱の時、雄略帝はすでに34歳のおっさんになってしまい、こどもではないから、この計算も正解ではない。詳しい計算はまた別の機会にやるとして、とりあえずこれでいくと仮定して)その上で宣長は、二皇子は市辺押歯王の子ではなく孫なのではないかと推測している。

系図の復元案?
『日本書紀』顕宗天皇即位前紀に引用された『譜第』によると、押歯王の子は億計王(意祁)、弘計王(袁祁)の他に、居夏姫、飯豊女王、橘王がいたという。飯豊女王は有名でこのブログでも何度もとりあげているのでさておいて、居夏姫と橘王は系図に名が出てくるだけでどんな人かわからない。しかし、もし意祁王・袁祁王の兄弟が押歯王の子でなく孫ならば、この橘王がその間をつなぐ人物ではないか。つまり『譜第』は錯簡により系図の線が乱誤しているのであり、橘王は意祁王・袁祁王の父なんだろう。
また、中田憲信は各地の系図や諸伝承を収集して『皇胤志』という系図集に取りまとめたが、その中の系図では、市辺押歯王の二人の子は「島郎子(しまのいらつこ)」と「来目稚子(くめのわくご)」で、前者の子が「意祁(仁賢天皇)」、後者の子が「袁祁(顕宗天皇)」になっている。つまり仁賢天皇と顕宗天皇は兄弟ではなく従兄弟(いとこ)だと。でこの二人の父に該当する兄弟は、紀州の岩窟に隠れ住んだとある。ちょい検索してみると和歌山県日高郡美浜町三尾の「三穂の岩室」という洞窟があってそこに確かにそういう地方伝説がある。もとは万葉集にでてくるもので「久米若子」(くめのわくご)が住んでいたというのだが、これが顕宗天皇の別名と同じなので、顕宗天皇のことかとも思えるが、それにしては一人だけで、兄皇子が出てこないし、万葉集ではこの人が皇子だとも天皇だともないし、記紀には顕宗天皇が紀州に隠れていたなんて話もない。土地の伝説では記紀と少し話が違ってて、市辺押歯王の子が久米若子王で、丹波に逃げていたが、意祁王(仁賢天皇)袁祁王(顕宗天皇)の二人の子が生まれたのでこの兄弟を臣下に託して、自分は紀伊に移り、この洞窟に隠れていたという。
久米若子と橘王が同一人物なら、二皇子は押歯王の孫である。もし橘王と久米若子が親子ならば、二皇子は押歯王の曾孫ということになる。
しかしさらに忘れられている人がいて、、二皇子は押歯王の曾孫どころか玄孫かもしれない。それは押歯王の同母弟に御馬王という人がいtほぼ同時期に殺されている。押歯王は履中天皇の最晩年の子と思われるのに同母弟がいるのは不審だ。赤ん坊でも皇太子だった応神天皇は特別としても、兄の押歯王はたとえ子供だったとしても弟がいたならそれなりの年齢で、皇太子に立てないことはない。なのに息子を立太子せず弟の反正天皇を皇太子にしている。これは履中天皇即位の時点でまだ押歯王が生まれておらず、崩御の時点でも生まれたばかりの赤ん坊で(昔は子供は7歳まで)無事育つかどうか不確定とされていたからだろう。そんな押歯王に弟がいたとは考えにくいから、御馬王は弟でなかったとしたら息子でしかありえないだろう。二皇子が復権して押歯王の遺体の捜索をした時も、御馬王の遺体が問題になった様子はないし、御馬王は逃亡中に軍に捕獲され殺されたことになっているが、替え玉を囮にしてまんまと逃走、地方に潜伏したのであろう。そして御馬王が潜伏中に儲けた王子が橘王だとすると、二皇子は履中天皇の五世孫の可能性もある。これは応神天皇と継体天皇の間の世代数とちょうど同じである。

・宮廷文化と庶民文化

H29年7月12日(水)初稿
袁祁命と志毘臣の歌垣

(※多忙につき内容は後日かきます)

・二皇子の舞

H29年6月15日(木)投稿 H29年6月14日(水)初稿
(※多忙につき後日にアップ)

・袁祁王vs志毘の激斗!

H27年12月19日(土)改稿 H27年10月21日(水)初稿
前回からの続き
「清寧天皇崩御から飯豊王の執政までのすったもんだ」からの続き)ところが仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟が登場したことで事情が一変してしまった。これには仁賢天皇ではなく顕宗天皇の功績が大きいことは記紀の伝承に詳しい。鮪(志毘)が、天皇をも恐れぬような権勢を奮っていた最中であったことと、にもかかわらず顕宗天皇のために突然に計画が無効にされてしまったこと、これらの背後事情があって始めて、記紀の伝える顕宗天皇と志毘臣の歌垣における激突が理解しうるのである。
日本書紀は正月に清寧天皇が崩御してすぐ飯豊王の執政が始まりその年内の十一月に飯豊王が薨去、翌年いきなり顕宗天皇の元年になっていて、空位年が無いが、これはありえない。記紀ともに発見された時の二皇子はこどもだったと言っており、古事記では顕宗天皇は宝算38歳、在位8年とあるから、発見されてから20年前後はたってないとおかしい。つまり実際には飯豊王の執政期間は約20年だった。この間に二皇子は成長して歌垣にもいけるような年齢になった(歌垣伝承の主人公を『日本書紀』がなぜ顕宗天皇でなく武烈天皇のことだと誤ってしまったのかは別の記事で詳しく論ずることにして今回は省略)。
前回までの議論の流れからすると、袁祁王(後の顕宗天皇)と志毘が歌垣で取りあい争いあったという女性は、実は飯豊王ではなかったのかと思いたくなるが、当時の庶民もまったく同じ妄想を膨らませて話のネタにしたに違いない。
飯豊王(王女/姪)は袁祁王とは姉弟なので、袁祁王と志毘臣が飯豊王を取り合うことはありえないと考える人もいるだろうが、そんなことはない。当時は兄妹・姉弟でも結婚できた。一般的に誤解が広まっているが、同母兄妹でもOKだったことは古事記に何ヶ所も例証があるのに、異母兄妹でないと許されなかったという話は木梨軽王の乱の一ヶ所にしかない。それにこれは政局絡みの事件で、純粋な恋愛譚ではないから、庶民の目線からは、とりあえず飯豊王の気持ちが志毘臣から離れれば袁祁王の目的は達せられるので、歌垣に勝ったからといって必ず肉体関係なり結婚関係なりにならねばならないという話でもない。

歌垣をめぐる二人の立場
歌垣は、庶民にとってこそ「ささやかな娯楽」であり「すばらしき文化」ではあるけれども、皇族や貴族といった高貴な人にとっては下品でハシタナイ遊興である。まして歌垣のような下賤の者共が集う場所に皇族の男女が参加するなんてことはありえない。が、袁祁王(後の顕宗天皇)と志毘臣(平群鮪)の二人はそれぞれ違った理由で特別の事情があった。だいたい、『古事記』『日本書紀』といった皇族が主人公の物語は豪華な宮廷や血まみれの戦陣が舞台であって、歌垣なんていう庶民文化まるだしな場面が出てくるのは極めて特殊な事態が進行していると考えなくてはならない。そういうことに気が回らないのは要するにもともと皇族と無関係な民話を取り込んで改作した作り話なんだから記紀にリアリティーは無くても当然だとかという思い込みがあるからだ。
歌垣というのは今でいえばナイトクラブやディスコみたいなもの、というのも今じゃ古いか、最近の渋谷のコスプレハロウィーンは庶民のお祭りにより近く本来の歌垣はこっち寄りだが、椿市の歌垣は事実上、平群の主宰みたいになっていた。ただしナイトクラブやディスコは最新の流行やイケてる自分って気分を買ってもらって金を巻き上げるシステムだが、平群の歌垣は逆に流行を起こす目的で漢風の文物を込みで財宝や物資をバラまく(巻き上げるのではない)のだから客寄せ効果はすごかったろう。袁祁王は少年時代には庶民それも最下層の奴隷に近いような境遇で過ごしたため「たまきんぶくろに毛がはえたら俺も一つ行ってみたいものだ」っていうくらいの軽い憧れはあったろうが、身分を明かした上で皇族に復帰したのが思春期前だったと思われるので、あらためて歌垣なんぞに参加しようとは思わなかったろう。あるいは当時は今と違って子供と大人の区分もいい加減だったから、縁日の駄菓子めあての子供みたいに歌垣に混ざっていても平気だったのかもしれない。だから普通の皇族と違い、袁祁王が歌垣に馴染んでいたことはありうる。ともかく二皇子がきてからの宮廷(忍海の角刺宮)には様々な庶民文化がもちこまれて、それを苦々しく思う一派もいたろうが、雲の上にいた人々には珍しい風変わりな文化として面白がられ、為政者たる者は庶民を知らねばならないという建前にも押され、おおむね受容されたと思う。それで当時は歌垣にもいくらか寛容な空気があったと思われる。
対して、志毘臣は平群氏の次期当主であり、歴史の流れがちょっと違ってしまうと次期天皇になりかねない人物だったが、平群氏の評判は悪く、とくに庶民に嫌われていること(既述)が問題だった。しかし鮪は金持ちのボンボンであり、いってみれば遊びなれている。こういう手合いが庶民の人気を取るのにいちばんいいのは、下々の世界に気さくに出かけて大盤振る舞いすることだろう。宮廷では志毘が夜な夜な歌垣に繰り出してるというウワサはきいており、興味津々だったがさすがに皇族貴族が深夜の庶民の猥雑なイベントに参加するのは憚られる。そこで宮中で歌垣の真似事ぐらいはやったかもしれないが、本物の歌垣に参加したことのない身分の高い坊ちゃん嬢ちゃんと、賑やかしの数あわせで半分仕事として参加させられた役人たちでは、本物の歌垣とは何か違う。そこにもし志毘(鮪)も呼ばれていたら呆れて散々に馬鹿にしたことだろう。
この頃の歌垣は前述のように、初めは平群氏による庶民の機嫌取り政策だったが、大盤振る舞いを続けていれば必然的に鮪(志毘)を中心としたワンマンショーになっていく。枝葉皇族や他の貴族の子弟も、生き延びるために平群の権勢に媚びようとする者は多かったとしても、呼ばれもしないのにわざわざ歌垣にいく男女は少なかったろう。その程度には皇族貴族の世界と庶民の世界には断絶がある。しかし宮廷貴族たちは、朝は朝廷(角刺宮)に集まるけれども午後には平群氏の邸宅に集まっていたと『古事記』にあるが、これは男性ばかりとは限らない。また昼だけでなく夜の本物の歌垣にも出かける者もちらほら出てきたかもしれない。それは平群の専横に困惑している皇室(角刺宮)としてはゆゆしきことなので、歌垣への参加は表面上禁止になったろうが、そんなことを気にかける平群ではなく、こっそりお忍びでいく者も何人かはいたんだろう。その中の一人が、袁祁王の妃、難波王だったとしたら? こうでも考えないと袁祁王にとってアウェイであるはずの、志毘のホームである歌垣にわざわざ出かけていく理由がない。

突然の事態の急展開
そういうそれぞれの事情をかかえて、はからずも二人は歌垣で出会った。志毘は「なんでおまえがこんなとこにいるんだよ!?」と思い、袁祁王は「やべ、見つかった」と思ったろうが、まぁこういう奇遇な出来事ってのは実際にあるもんだよ、人生には。俺に文句いってもしょうがない。
で、志毘(鮪)は自分が平群氏の若殿様だっていう身分を明かした上で参加してる。べつに遊んでるわけじゃなくて平群にとってはこれも政治運動の一環なわけだ。ただでさえ大貴族の御曹司がくるような場所ではないし、ここで不倫だの強姦だのって事件を起こしたらスキャンダルだが、ちゃんと事務所に管理されたアイドルよろしく営業してたわけだ。むろんこういうやり方は味方と敵を同時に作ることになるってのは現代の爛れた文化を知り尽くした我々にはわかるが、当時はさすがの平群氏も見通せなかったろう。で、一方袁祁王はお忍びできてるから、この出会いはいきなり不利。鮪(志毘)にしてみたら邪魔者を叩き潰す絶好のチャンス到来とみえたろうから、恭しく蹲踞して拍手を打って、王子様に挨拶しただろう。つまり慇懃無礼に正体をばらしてやった。これには庶民層は大よろこびw 大きな話題となったはずで、庶民は、平群鮪が飯豊王を狙っていたぐらいのことは知ってたし、袁祁王の出現によって平群の皇位簒奪計画が狂ってしまったことも知っている。その時は袁祁王は「お、おう…」で済ませても、政局の渦中にいる二人の貴公子が椿市での歌垣の常連メンバーだったというニュースが流れてしまっては、庶民が袁祁王に何を期待するかは明らかで、いずれ何らかの形で対決は避けられない。とはいえ、今の問題はこの目の前の女性が難波王だということを志毘臣が知っているのかどうかだ。もし知らないのなら、いくら歌垣で戦いを挑まれてもそれを断り、挨拶もそこそこに退場しても大きな問題とはならない。群衆は逃げたのなんのと勝手な批評するだろうが庶民の与太話なのでさしたることではない。しかし鮪(志毘)が知っていたら?あるいは志毘(鮪)が難波王を招いたのだとしたら? 目の前にいるのは自分の妃なのだということを志毘が知っているのなら袁祁王としては引っ込みがつかず、逃げられない。もし知らないのなら気づかれてはならないし、鮪(志毘)が知ってるのかどうかがわからない情況でのんきにポーカーゲームやってる場合ではなく、ここは一応受けて立つしかないだろう。

大魚と難波王
ところで二人が争って取り合った女性の名だが、『古事記』では苑田首(そのだのおびと)等の娘、名は大魚(おな)とある(大魚の読み方は何通りもあり、それについての議論も面白いが本筋と別の話なのでまたの機会に譲る。また『日本書紀』では物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおほむらじ)の娘、名は影媛(かげひめ)とあるがこれは間違いで、書紀がなぜこんな誤りを書いてるのかは後述)。苑田(そのだ)は写本によっては「菟田」(うだ)になっているが菟田首も苑田首も存在しない架空の氏族で、後ろに「等」とついているのも不審。「等」とついてたら複数氏族ってことになるが、一人の女性が複数氏族に所属してるのはおかしいので、古来ここは不審とされてきた。が、俺にいわせれば、この「等」は「たとえば〜〜のようなもの」というニュアンスで、「だいたいこういう感じのランクの氏族だよ」と漠然といっている表現だ。現代語でいうと「〜〜とか」の「とか」のニュアンス。実際に彼女が歌垣の場でそのような曖昧な名乗りをしたんだろう。難波王は雄略天皇の曾孫で、袁祁王は皇太子意祁王に次ぐ継承順位第2位の皇族で、その妃(この時はまだ妃候補=いいなづけ程度かも知れないが)だから、とんでもないお嬢様。歌垣でもさぞかし浮いてたろう。「どこのお嬢さん?」と聞かれて本当のことはいえないが、さりとて「一介の町人の娘でやんす」ってのもバレバレな嘘で不自然なので、とりあえず首(おびと)という最下級の貴族、あるいは貴族ともいえない庄屋クラスみたいな微妙なカバネを名乗り、苑田というどっかできいたようなありそうななさそうな適当な氏族を名乗ったわけ。そこらの群衆の一人から「彼女、お嬢さんっぽいけどどっかの大企業の社長令嬢だったりして?w」と聞かれて「苑田産業とかぁ〜、菟田商事とかぁ〜、まぁそのへんの零細企業の社長の娘よー」と答えてたわけよ。大魚は本名の可能性がなくもない。そもそも昔は女性の本名は明かされないので歴史に残りにくい。当時も誰も上流階級の女性の本名なんて知らないから、本名を名乗っても身元がバレない。難波王という名は乳母が難波氏だったからそう呼ばれるので他の皇族もみな本名ではないだろう。

『日本書紀』の誤り
歌垣では普通、男女が対になって歌のやりとりするものだが、大魚(=難波王)はヤバい情況に直面して固まってしまって歌どころではなく、歌で問いかけても返事はないから、袁祁王と志毘(鮪)はやむをえずお互いを歌で揶揄しあうというヘンテコな歌垣になってしまった。『古事記』はこのまま朝まで歌垣でやり続けたとあるが、どっちが勝ったともない。しかし『日本書紀』では影媛(正しくは「大魚」)が鮪(志毘)を好きであることを即位前の武烈天皇(正しくは「袁祁王」)が察して身を引いたとあり、これは書紀があってる。古事記では翌朝、袁祁王と意祁王(=仁賢天皇)の兄弟が奇襲をかけて志毘を滅ぼしたことになっているが、ここは武烈天皇が平群氏を滅ぼしたとする『日本書紀』の方が正しい。なぜなら、息子を奇襲で殺された平群真鳥が顕宗天皇・仁賢天皇の二代間、ずっと静かにしててその後いきなり専横するというのは不可解だから。志毘が殺されるのはまだ先だろう。ともあれ、袁祁王が一旦は身を引いてしまった。難波王の心が鮪(志毘)に向いているなら何言っても無駄だしここで頑張ったら袁祁王は逆にカッコがつかない。しかしこれをみていた群衆は「飯豊王が志毘(鮪)になびいた」という話になる。群衆は大魚をお忍びの高貴な女性と思い込んでおり、それは当たっていたのだが、難波王ではなく飯豊王だと思ってるのだ。世評では、これで履中皇統と平群氏は合体して、皇位の行く末はわからなくなった、内乱があるのでは、とキナ臭いウワサでもちきり。まぁこの頃すでに飯豊王はいい歳だったと思われるので、平群氏の胤を宿してどうたらってことはないだろうが、なにしろ飯豊王は現在空位の天皇位に代わって執政の立場(事実上の女帝)にあり、その裁定は詔勅と同じ権威がある。彼女の決断一つで平群王朝は合法的に成立するのだ。そして彼女には天下を治めるという重大責任もある。従って、庶民の訳分からない与太話で最も迷惑がっているのも飯豊王であり、彼女は世の不安を鎮めるために声明を発表しなければならなくなった。

飯豊王の奇妙な宣言
書紀によると、飯豊青王女が、角刺宮においてある男と性交して(與夫初交)「やってみたらなんてこともない。もう男に興味なし」と言ったという妙な記事がある。この発言をめぐる雑多な説については前回紹介してすべて批判しておいた。またこの謎の男は平群鮪であることも、また二人の肉体関係は二皇子が発見される以前のまだ飯豊王も将来の皇位をどうすべきか迷っていた頃の話だということも、前回書いた通り。
で、かつて庶民のデモに浮き足立ったことのある志毘は、今回は庶民のウワサを利用してやろうとして「世間では我々二人は近々結婚するらしいですよ」と久しぶりに飯豊王(姪/王女)に迫ったか迫らなかったか知らないが、少なくとも「世間の噂では我々二人はだいぶ仲が良いらしいですなぁ」ぐらいは言ったんだろう。平群王朝という選択肢が国民から支持されてるとアピールしようとしたのだが、そのへんが庶民の心をわかってないボンボンで、平群が庶民から嫌われてるぐらい情報としては知ってても、普段から取り巻きにちやほやされてるから実感はなく、つい忘れてしまうのだ。
飯豊王にしてみれば二皇子が発見された今、平群に皇位をわたす気はないのだが、庶民は「飯豊王と平群志毘が出来てしまった、その証拠に俺たちは歌垣で実際にみた」と思い込んでるから頭から全否定しても信じてもらえない。そこで「確かに大昔に一回はつきあいましたけどね、でも平群を支持するなんてありえないから」と宣言したわけ。かつて若き日の鮪は角刺宮にも押し入って肉体関係まで結び、事実上の天皇然として振る舞ったものの、二皇子の存在を飯豊王(叔母/皇女)から知らされた飯豊王(姪/王女)が態度をひるがえして鮪とは絶縁、結婚までいかずただの婚前交渉で終わらせてしまったという遠い過去があった。『日本書紀』所載の飯豊王の言葉は「あんたとのセックスは思い出したくもない」と遠回しに言ってるのである。この辛辣なセリフによって「履中皇統の支持による平群王朝の天皇はありえない」ということを庶民層に広く認知させるのが目的だった。日本書紀によると歌垣事件は仁賢天皇が崩御した年の八月というが、これは書紀が顕宗天皇を武烈天皇に誤っているためで、それを修正したら飯豊王の執政期間中の八月となる。また書紀では飯豊王の声明は清寧三年七月となっているが、歌垣事件と順番が前後している。書紀は前後の脈絡がわからず声明を適当なところにぶち込んだだけ。正しくは八月の歌垣の翌年七月に声明、その翌年が顕宗天皇元年と思う。

顕宗天皇の即位と譲位
書紀では飯豊王が薨去してから顕宗天皇が即位したというが古事記ではそんなことはぜんぜん書いてない。飯豊王(姪/王女)としては平群をなるべく刺激することなく安泰に二皇子に皇位を渡したいと考え、二皇子が成人した後も、真鳥が寿命で死ぬのを待っていた。が、歌垣のことがあって世の中が大騒ぎになったので「天下の動揺を鎮めるため」と称してさっさと二皇子に皇位を譲ってしまったんだろう。志毘(鮪)にすれば痛恨のミスで一本とられたことになる。
で、次の天皇だが、前回かいた通り、履中家では儒教的な長子相続が家風であって、弟の袁祁王の線は当初はぜんぜん考えられておらず、袁祁王自身も自分が天皇になるなんてまったく思ってなかった。それが急に天皇にって話になったのは三つの理由が考えられる。一つは、志毘になびいていた難波王を繋ぎ止めるため。皇后になるともなれば難波王も考えなおすのではないかということ。これはまぁ顕宗天皇も今更という感じでそんなに期待はしてなかったろうが。もう一つは歌垣で志毘(鮪)の前から退いてしまったため、袁祁王に敗北者のイメージがついていた。これは真相をしらない庶民の勝手な床屋談義なので、無視してもよいのだが、弟思いの兄意祁王はなんとかしてやりたいと思ったのではないか。それ以上に鮪(志毘)に対してしめしをつけておかねばならないというのも大きかったろう。天皇になってしまえば鮪(志毘)も人前では平伏せざるをえない。もう一つは、履中宮家は仁徳王朝の嫡流であるが、仁徳王朝は正統性が疑われる筋があった。本当は宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)が皇太子なのに、大雀命(おほささぎのみこと)と譲り合い、自殺してしまったためやむなく大雀王が即位して仁徳天皇になったが、正統な血筋に近い宇遅能和紀郎子の二人の同母妹を后にできず、妃にできた速総和気(はやぶさわけ)に反乱を起こされている。しかし同時に皇位の互譲というのは仁徳王朝の創業の神話でもあり、今ここにいる継嗣が一人ではなく二人の兄弟であることは、仁徳王朝の正統を継ぐ者であるというムードを演出する良い材料になる。宇遅能和紀郎子と大雀王は頑なに譲りあったため一方の自殺という重苦しい展開になったが、今回は二人とも交互に即位するという解決法で、忌まわしい過去を模擬的にやり直したことになる。

仁賢天皇の即位と崩御
ただ、年齢から考えて当たり前だが兄が先に崩御する確率が高い。にもかかわらず、弟が先に即位するという方法が容認できたのは、おそらく最初から弟の在位は8年間という取り決めだったからではなかろうか。これだと即位してすぐ皇子が生まれても9歳になる前に皇位が兄に移ってしまうという仕組み。記紀は顕宗天皇が崩御してから兄の仁賢天皇が即位したように書いてるが、奈良時代にはこの当時はまだ譲位の先例はないと考えられていたから崩御と書かれただけで、実際には譲位だったと思う。
そうすると普通に考えて兄仁賢天皇崩御の後も、顕宗「上皇」はまだ生存していた可能性が高くなる。仁賢天皇崩御の時、皇太子の小長谷若雀命(をはつせわかささぎのみこと=武烈天皇)はまだ幼少だった(記紀にはないが有名な説で『扶桑略記』には武烈天皇は11歳で即位して在位8年間、崩御の時18歳という)ので、上皇が再び執政した可能性がある。日本書紀は仁賢天皇崩御の後、武烈天皇即位の前に、武烈天皇が平群氏の真鳥と鮪(志毘)の父子を滅ぼしたとある。しかし幼少の武烈天皇だけでそこまで出来たろうか? ここはまだ生存していた顕宗上皇が甥の皇太子若雀王(=武烈天皇)を擁立して挙兵したのではないか。
さっき書いたように記紀はこの段階で顕宗天皇は崩御しているはずと誤認していた。そのため古事記は平群を滅ぼした話を「意祁王の子若雀命と袁祁王」だったのを即位前の「意祁王と袁祁王」の兄弟の話だと思い誤り、日本書紀は崩御してるはずの顕宗天皇は無関係としてはずして武烈天皇だけの話としたのだろう。

平群氏の滅亡
雄略天皇崩御以降、平群の権力は徐々に伸びてきていたのなら、なぜ『古事記』のように顕宗天皇即位の直前に平群を討伐せず、二代も間をおいてからようやく挙兵したのだろうか。それは平群は強大で簡単に滅ぼすことなどできない相談だった期間が長かったわけだが、「ある事件」をきっかけに平群氏の権力機構が機能不全を起こし、ようやくチャンスが巡ってきたのが仁賢天皇崩御の後だったということなのである。
それでも、顕宗天皇の即位自体が平群に対する打撃だったのは上に述べた通りで、その時はひとまずは皇室が優勢になったと思われる。
『日本書紀』をみると、顕宗天皇仁賢天皇の二代は少なくとも国内的には平和と繁栄があって、庶民あがりの二帝は庶民の暮らしに通じ、下っ端役人の使い方も心得ていて、名君だったように書いている。これに対し、外交では顕宗天皇の時に紀生磐宿禰(きのおひはのすくね)が半島で反乱を起こし、任那を占領し、高句麗と同盟し、百済軍を撃破して「神聖」と自称したという(「皇帝と称した」というような意味)。これは大反乱であって安全保障をめちゃくちゃにする大問題でもあるのに、紀生磐宿禰は荒らすだけ荒らした後、兵糧が尽きたと称してさっさと帰国し、処罰された形跡もない。一時期姿をくらましたものらしい。三韓の支配は平群氏の管轄であり、この事件は平群の評判を大いに下げたろう。しかも外国貿易は平群の財源でもあったから、これがマズくなるとひいては平群氏の権力も急速に崩壊していく。この反乱によって貿易関係の人脈にある多くの人が殺され、平群氏の受けた打撃は計り知れない。
背後関係をさぐってみると、星川の乱の首謀者たちの一人だった紀丘前来目連(きのをかざきのくめのむらじ)は通説では久米氏の人間とされがちなのであるがそうではなくて紀氏だろう。つまり反平群派と親平群派にわかれてはいるものの、紀生磐宿禰の同族である。そしてその紀丘前来目連氏は、石木王の父、丘稚子王(書紀は誤って父子を逆にしている)の生母か乳母いずれかの出身氏族と推定されることは前回に書いた。この石木王はアンチ平群派な上、その娘の難波王は顕宗天皇の皇后になっている。このように紀生磐宿禰と顕宗天皇は閨閥としてつながっていた。さらに紀生磐宿禰は雄略天皇の時代に新羅に赴任していたことがあり、そこで蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)と仲間割れして殺し合いをやっている。蘇我韓子宿禰は平群氏と同じ竹内系の氏族で、この頃は平群氏の家臣筋だったと思われるので、当然ながら紀生磐宿禰はアンチ平群の急先鋒だったと思われ、あるいは顕宗天皇の密命を受けて、反乱のふりをしながら実は平群の貿易システムに対して破壊工作をしかけたに違いない。
書紀ではこの事件を顕宗三年のこととしている。書紀では顕宗天皇は在位3年間しかないのでこれは末年にあたり、おそらくは、正しくは仁賢天皇の末年だったのを、首謀者(作戦総指揮者)が顕宗天皇だったため誤って顕宗天皇の末年にしてしまったものと思う。
ところで、これに対し、皇室サイドにもウィークポイントがあり、顕宗天皇には子なく、仁賢天皇には皇女7人がいたが皇子は生まれたばかりの小長谷若雀王しかいない。平群氏としては、やるなら今しかチャンスがなかった。つまり、クーデターを用意していたのは皇室の側だけではなく平群氏の方も同じだったと思われる。顕宗上皇は若き日の恥を濯ぐべく、用意周到、怠らず警戒していただろう。平和と繁栄の裏で、二大勢力の武力衝突の危機は刻々と迫っていたのである。

女忍者の活躍と悲劇
日本書紀によると鮪(志毘)が殺された後、物部麁鹿火の娘の影媛(かげひめ)が鮪(志毘)の死を悼んで詠んだ歌が載っている。影媛は歌垣で平群鮪と武烈天皇がとりあった女性ということにっており、つまり『古事記』でいう大魚と同一人物ということになるが、なぜ物部氏の影媛になっているのか。これまでの話からすると大魚の正体は難波王で、おそらく顕宗天皇即位後も難波王は形式上は顕宗天皇の皇后でありながら裏では鮪(志毘)との関係を続けていたのだろう。庶民は最初、彼女を飯豊王だと思い込んでいたわけだが、非交際宣言が出てからいったい誰なんだという話になる。むろん難波王だということは庶民には隠されていたので、飯豊王本人でないならその影武者だろうということになる。「影武者」は後世の言葉であって上代語ではないとツッコミくるだろうが、上代語のカゲは光の意味の他に「鏡に写ったもの」「姿形」「おもかげ」等の意味があり、後世の影武者の影はまさにそのような意味を引いていることは明らか。なので影武者と似たような意味でカゲヒコ・カゲヒメという言葉がなかったとも言い切れない。
そうなると次なる妄想が生まれる。志毘(鮪)からの求婚を断りきれずに関係をもったのも、飯豊王本人のかわりに忠義の腰元(侍女)が身代わりになっていたのではないか。物部氏は武門の家柄であってそこの娘は歌垣なんぞという軟弱なところには近寄らないのであるが、実は平群を探るために志願した密偵であって、成り行き上、心ならずも飯豊姫様の貞操を守るための身代わりとなった武家の娘、という美談だった。志毘臣の夜這いを断りきれなくなった飯豊王とすりかわって、鮪に抱かれた影媛(=影武者)がいたのである。そんなことして鮪(志毘)にバレないのかと思うだろうが、実はバレない。現代日本人はすっかり忘れているけれども、日本では上流階級の女性はそれこそイスラム原理主義体制下の女性のように人前に出ることはまずなかったし、やむを得ず外出する場合には牛車や輿の中に隠れ、あるいは傘かぶって厳重に顔を隠していた。なので夜這いの段階では顔を知らなかったりするのは『源氏物語』にもある。
大伴氏や物部氏はアンチ平群派では最大の氏族で、かつ代々皇室に忠実な家柄であり、大連(おほむらじ=首相格)の地位についている物部の総帥たる麁鹿火(あらかひ)は、今の世なら、さしずめウヨからみた安倍か麻生というところ(ただしこの頃の麁鹿火はわるくいえばまだ若造で、老練な海千山千の平群真鳥大臣にはぜんぜん歯が立たなかったろうが、よくいえば若年にして総理大臣という新進気鋭で庶民人気は最高だったと思われ)。だからキャラクター設定(=庶民の願望)の最終段階では、影媛は物部麁鹿火の娘=現役総理大臣の娘ということになった。大伴・物部は率先して死するを名誉とする武門の棟梁でもあったから、物部一門の娘なら、飯豊王から密命を受けた時には「死に場所を得たり」と喜んだろう。恐らくその情況も、他に頼める人のいない切羽詰まった情況でのことと思う。さらに妄想を膨らませれば、志毘臣は当時のアイドルみたいなものだから(ジャニーズ系ね)、飯豊王の宮殿の腰元(侍女)として勤務していた女性の中からの志願者だった可能性もある。
ところが使命を忘れて本当に志毘に恋してしまった悲劇の主人公というストーリーを妄想するのが庶民文化なわけよ。これはあるいは、難波王の正体が割れて皇室のめんつが丸潰れになるのを防ぐために意図的に流した「偽の物語」かもしれない。または、飯豊王サイドに肩入れする庶民が流した作り話かもしれない。鮪(志毘)は飯豊王と関係なかった、影武者を抱かされていた間抜け者だと。はたまた影媛は実在で、難波王とは無関係に、本当に密偵として存在していて、歌垣でとりあいになった女性「大魚」の正体は難波王でなく影媛だったかもしれない。書紀の「一本に曰く」では、鮪が殺されたのは影媛の邸でのことだという。だとしたら影媛はやはりクノイチ(女性工作員)で志毘(鮪)は物部軍団に暗殺されたんじゃないのかと思いたくなる。
考えてみたら難波王の父の石木王はアンチ平群派な上、父の丘稚子王と紀丘前来目連との縁により、紀生磐宿禰とも仲がよかったと思われる。紀丘前来目連を来目氏(=久米氏)の一派とする説もあるが、そうではなくて紀氏だろう。ただし名前に「来目」(=久米)が入っている。久米部は、軍事系の部民で要するに「武士・軍人」だが、大伴部や物部、佐伯部が同じ「武士・軍人」であってもそれぞれ分野や担当を異にするように、久米部にも独自の専門があり、それは「斥候・哨戒・諜報」であった。聖徳太子の時代に「志能便」(しのび)=忍者のようなものがすでにあったともいわれるが、久米部はその職能からすると「秘密工作員」的なものにいちばん近い。つまり難波王はその血縁もあって(父の丘稚子王の母が紀丘前来目連の娘という推測は前回書いた通り)、工作員として志毘に近づいていた可能性もある。それなら「難波王=大魚=影媛」で三名とも同一人物ってこともありうるだろう。顕宗天皇も袁祁王という名の他に「来目稚子」(くめのわくご)という別名をもっていたから、難波王との結婚ももともと久米(くめ)つながりだった可能性もある。
で、『日本書紀』では仁賢二年の秋九月、難波王が自殺したとある。理由は顕宗天皇在位中のこととして、宴会中に意祁王の果物ナイフがなかったので顕宗天皇が難波王に渡してくるようにいいつけたところ、立ったまま直接に手渡すという無礼を働いたため、仁賢天皇の代になってから処罰されることを恐れて自殺したというのだが、本当だろうか。これはとってつけの理由ではないのか。顕宗天皇仁賢天皇は庶民暮らしからあがったので、しゃっちょこばった宮中の作法は苦手でフランクでくだけた感じのライフスタイルだったと思われ、難波王だけでなくこの二人の宮廷ではみんなこんなものだったのではないかと思う。自殺の原因になるようなことではない。これは宮中を覗き見した召使が自分の当てずっぽうな解釈を庶民に広めたのだろう。だが難波王が影媛と同一人物だとしたら、自殺したのは仁賢天皇在位中ではなく、顕宗上皇の二度目の執政期間中、平群の滅亡の後となる。書紀では鮪が殺されたのが仁賢十一年八月、真鳥が滅ぼされたのが同年十一月になっている。難波王の自殺は仁賢二年で、年紀がずれているが、本当はこれらと同年であり、難波王の自殺が九月なのはつまり鮪が殺された翌月に後追い自殺ということだと思われる。
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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