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日月神示 天日津久神社 の謎を解く

2679(R1)・6・6 THU 改稿 H29・4・29 SAT 初稿
今日、平成29年4月29日(祝)はいわゆる「昭和節」で、昭和大帝生誕116周年。なのに俺はウヨの奉祝イベントにも行かずに、のんきに千葉県成田市にある麻賀多神社(まかたじんじゃ)に行ってきましたよ。正確には皆に「ついていった」って感じだが。で、この麻賀多神社の境内社に天日津久神社(あめのひつくじんじゃ)あり。岡本天明がここの麻賀多神社の社務所で自動書記(お筆先)したあの有名な「日月神示」(ひつくしんじ/ひつきしんじ)は、「国常立尊」(くにのとこたちのみこと)または「天之日月神」(あめのひつくのかみ/あめのひつきのかみ)という神がおろしたのだという。国常立尊と天之日月神は同じ神の別名なのか、それとも両神は別々で「国常立尊が神示をくだした神」であるのに対し、「天之日月神は岡本天明との仲を取り持った神」という関係なのか、不明。いずれにしろ天之日月神はこの天日津久神社の祭神ということらしい。日月神示についての詳しい情報はネット上にいくらでもあるので興味ある人は適当に検索して調べて下さい。つか、日月神示という文字につられてこのブログに辿りつくような人はとっくに詳しい人だろうから改めて調べるまでもないか。では当ブログでは今回は何を問題にするのかというと、天日津久神社の由来根源について考えたい。天日津久神社とは別に、この麻賀多神社のほうも古代史のあれこれで面白いネタはつきないのだが、麻賀多神社については「房総の国造(くにのみやつこ)と太陽信仰」に譲り、この頁では天日津久神社について考えよう。
「ヒツク」と「日月」
この天日津久神社は岡本天明のお筆先がでるまでは、由来も祭神も一切不明で、しかも同名の神社は日本中に一つもないという。祠を新造する前の古い写真では「天之日津久神社」とあり「之」の字があったが新しくなってから「之」の字を省いたのは昔の書き方に戻したのだろう。すなわちこちらさんのサイト「古代であそぼ」のこの頁(http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/tb2mgt-b1.htm、残念ながら今みたらリンク切れ、R1・5・16)の記事によると昭和40年代の由緒書には「天日津久神社」とあり、安政五年(1858年)の『成田名所図会』にも「天日津久社」とあり、いずれも「之」の字が入っていない。
で「日津久」とはどういう意味の言葉だろうかと考えるに、普通は「日津久」=「日月」の意味だと思われがちだ。しかしなぜヒツキじゃなくてヒツクなのかが気になる。もともと日月の意味の古い言葉がヒツクだったのか? それとも逆に、日月神示が有名になってしまったために何となくヒツクは日月の意味だと思い込まれてるだけで実はぜんぜん別の意味の言葉だったのか? 
本居宣長は、万葉集に「月夜」をツクヨと読ませているのを根拠に「古い形がツクでそれがのちにツキになったのだ」と憶測して、月読命の「月読」をツクヨミと読ませている。これと別に『万葉集』の東国方言でも月をツクといっていた。これらの理屈からいうと、確かに「ヒツクとは日月の意味の古い言葉だ」といっていえないこともなくはない。

「ヒツクは日月のことだ」と仮定した場合:その1
そうするとやはり「日月」説でいいのか? この説も妥当だと思われないこともない。それは岡本天明が受けた神示で「天之日月神」(あめのひつきのかみ)と名乗っているからでは必ずしもない。天日津久神社という名前は全国どこにもないというが、似たような名前で「日月神社」(にちげつじんじゃ)なら結構あちこちにあるからだ。もしかして天日津久神社も、もともとは日月神社だったのではないだろうか。
「日月神社」は千葉県内では10社以上ある普通の神社だから、もし天日津久神社がもともと日月神社なら、話はわかりやすい。対して、ヒツクが日月でないとしたら後述のようにやたらいろいろな説が考えられてしまうけれども、いずれにしろ珍しい神社であることにはかわりないことになる。現在の麻賀多神社では境内にいくつもの摂末社が並んでみな同じ造り、同じ大きさに整理されているが天日津久神社のみが特別扱いのようになっている。これは境内が整備された時すでに「日月神示」が有名になっており全国に信者、支援者がいたためだろう。しかし、前述サイトの資料をみても江戸時代には他の摂末社と同等の扱いであり、現在のように特に天日津久神社だけが他の境内社と別格だった様子はない(なお境内社のうち天日津久神社を含む5社は前述の安政五年(1858年)の『成田名所図会』に摂社としてあげられていることから、明治以降の神社統合のせいで麻賀多神社に吸収されたわけではない、ということがわかる)。
ただ、この場合、ありふれた「日月神社」がなぜここだけ「天日津久神社」になっているのかがわからない。一つの考えとしては、江戸国学は農民や町人にも広まったから「月は古くはツクだった」という知識をもった人がたくさんいただろう(その説が正しいかどうかは実はかなり問題あるのだが煩雑になるので今はふれない)。それで、わざと古めかしく見せようとして日津久(ひつく)に変えたのだろうか。前述のサイトに引用されし『成田名所図会』も、この神社の建つ丘は「稷山(あわやま)」というのだが、粟山と書けばいいものをわざわざ「稷山」と書くもったいぶりを後人のサカシラとして笑ってる。これは丁度いいw サカシラな人の存在を想定すると推理はらくになる。境内社5社のうち印旛国造神社(いなばのくにのみやつこじんじゃ)、馬来田郎女神社(まくだのいらつめじんじゃ)、猿田彦神社の3社は記紀にでてくる由緒正しい神や人を祀っている。これに比べると、「日月神社」は安直に太陽と月を並べただけの名前だし漢語よみで新しい信仰のようにきこえるし記紀に典拠もない無知蒙昧な田舎の土俗信仰のように感じられたんだろう、そこで、国粋的な国学のセンスからは月日神社(つきひじんじゃ)と改名したいところだが、それだけでは同境内他社の由緒に比べてあいかわらず見劣りする。せめて古めかしくみせるために生半可な知識からヒツキをヒツクとし、あまつさえいたずらに天(あめの)の字を冠して荘厳さを加えた。…というのが真相ではないのかな? 時代はズレるが、同じように国学系のジレッタントが関与していたと思われるのは、また同じ境内社の一つが明治までは「幸霊神社」(サキミタマの神社?)だったのが昭和には「孝霊神社」(孝霊天皇の神社?)になってる。これも日月神社を天日津久神社に書き換えるのと同じ発想だろう。ただし今は「幸霊」に戻っているので、あるいは「孝霊」はただの誤記で実は最初から一貫して「幸霊」だった可能性もなくはない。「幸霊」はサキミタマと読むのだろうか? 境内社は2社を除いてみな由来や素性がはっきりわかるのに、天日津久神社とこの幸霊神社の2社だけがよくわからない。大国主神の奇魂・幸魂を祀ったのだろうか? それとも埼玉(さきたま、今の埼玉県行田市、古墳で有名なところ)の関係かな? 今のさいたま市にも「日月社」がある(昔のサキタマは今の行田市なので今のさいたま市では印旛国造(麻賀多神社のある成田市を領域とする国造)からみて方向はあってるが距離が少し足りない。だがまぁ大雑把に武蔵国ってことでいいだろ)。今の袖ヶ浦市・木更津市にあたる馬来田国造ゆかりの馬来田郎女神社もあるんだから埼玉神社があってもおかしくはないわけで、旡邪志国造(埼玉)・馬来田国造・印旛国造(麻賀多神社)の国造トライアングルで何かつながってたのか? あるいは本当に孝霊天皇か? 孝霊天皇は古事記によると吉備を征伐している(日本書紀にはこの話は出てない)んだが、後述のように東国にしかないはずの日月神社がなぜかめずらしく西日本では吉備国の岡山市にだけあるんだよね。これ何か関係あるのかな?
それと現在の境内社はどういうわけか9社もあり、「青麻神社」「天神神社」「三峯神社」「古峯神社」の4社が増えている。この4社は前述の古文書にも書かれてない。そのうちの一つの「天神神社」は普通に考えれば菅原道真の天満宮に違いないが、天日津久神社と「天」の字がかぶっているから、何か関係あったのかな? もう一つ「青麻神社」は総本宮が仙台にあり、北極星と太陽と月を祀っているので別名「三光宮」ともいう。これ北極星をぬけば「日月」。天日津久神社が「日月神示」以降、特別の意味が生じてしまったので改めて日月神社の代わりとして勧請してきたんだろうか? 
とはいえ、ヒツクは日月のことだという俺の推理が間違ってるかもしれず、ヒツクは「日月」とは無関係なまったく別の言葉である可能性もあることはある。

「ヒツクは日月の意味ではない」と仮定した場合:その1
前述のように月の古い言い方がツクだったとしても、なんで千葉県のここ一か所だけにそんな古い言い方が残ってるのか不自然きわまりない。だから、仮に「津久」が月の意味ではなかったとした場合どうなるのか。
「津久」といえば、高い柱を立ててその上に登って曲芸をするのを「津久舞」その柱を「津久柱」そのお囃子を「津久囃子」というらしい。麻賀多神社と同じ千葉県の東西両端にこれがある。千葉県の西端、野田市には「野田の津久舞」という雨乞いの神事が伝わっている。千葉県の東端、旭市の太田八坂神社の祇園祭で催すエンヤホー(陰陽法)という神事でも津久柱に登って曲芸をする。ちなみにこの太田八坂神社のすぐ近くに「日月神社」という神社が3つもある(後述)。津久がつく地名としては津久井、津久浦、津久田(≒佃)、津久戸、津久野、津久波(≒筑波/津久葉/築羽/筑葉/築波)、津久見、津久礼などがあり、これらの地名は津久舞と関係あるのか、あるいは津久は何らかの地形を表わしてる言葉なのか。はたまた「佃」「営田」をツクダと読むのは「作り田」の意というから津久舞も「作り舞」なのかな?(「津久柱、津久囃子」も「津久舞柱、津久舞囃子」の略だろう) だが「日」とつなげて「日の津久舞」の略で「日津久」としても雨乞いの神事らしいから「日の~」という意味がわからない。日(ひ)は干物(ひもの)の「ひ」、旱(ひでり)の「ひ」に通じ雨乞いには縁起が悪いからつけないはずだ、というのは根拠薄弱な決めつけとしても、「雨乞津久舞」(あまごいのつくまい)と書いたのを雨(アマ)を「天」と当て字書きして「乞」の字を「日」に誤写したと考えたほうがありそうじゃないのかな?
「津久」という表記にこだわらないで考えてみると、霊憑(ひつく)なら、まさに自動書記した岡本天明のように「神霊が憑く」意味となるし、檜木菟(ひ・つく)ならヒノキとミミヅク? 干作(ひつくり)で何か干物のようなものでも作ることか? また仮にヒツキと読んだとしても日月の意味とは限らず、樹木の檜槻(ひつき、ヒノキとケヤキ)もありうる。射日儀礼を弓矢でなく槍でやってたので「日突き」とか? ヒツギと濁音もありなら、「日嗣」(ひつぎ)と解いた場合でも皇位を意味するヒツギと、皇太子や跡継ぎを意味するヒツギとがありうる。その他には、神聖な忌み火を継承していく「火継」(ひつぎ)、遺体を納める棺柩(ひつぎ)等も思いつく。「日付」(ひづけ=暦日)の神とか「火付け」(ひつけ=放火)の神ってことはあるまいな。

「ヒツクは日月のことだ」と仮定した場合:その2
…というふうに、「日月」説をさけた場合は縛りがないからやたらにいろいろなアイディアがでてくる。ただ思いつきを手当たり次第に並べても埒があかないわけだが、オカルト関係サイドの方々は「古事記は七通りの読み方がある」(←王仁三郎だっけ?)だの「日月神示は8通りの読み方がある」だのってノリが好きなので「すべての説はある一面では正しい」と日本人的に八方丸く納めて思考停止してしまう人が多いんだろうなw しかしダジャレや掛け言葉のような文芸的表現ならわかるが、7通りも読み方があったらそれって意味を伝えるという文章のそもそもの存在意義にかなってないんじゃないのか? 7つの文章にわけて書いたほうが効率いいじゃんよ? 本当にそんなに多くの読み方ができるためにはカタカムナみたいに最初から無意味な文章を書かねばならない。なるべく意味がわからないような抽象的な詩だ。でもこんな詩は技巧に堕ちたもので、文芸文学として良い作品とはいえない。外国語(特に詩)だと翻訳者によって十人十色の訳ができてしまうことはあるが(ゾロアスター教の「アヴェスタ」もそうだ)、だがそれは見た目の単語の選びや言い回しがいろいろなだけで言わんとするもの、示さんとする世界は同じものなのであって、内容まで十人十色なのではない。
俺はオカルト大好きなので、雑誌の「ムー」的なものならUFOも幽霊も超能力もネッシーも超古代文献もムー大陸も神様もあの世も「と学会」も、その他いろいろ信じてるんだが(みんな勘違いしてるけど「と学会」もオカルトの一種だからなw)、「古事記は七通りの読み方がある」だの「日月神示は8通りの読み方がある」だのって話だけは信じてないんだよ。
俺がここに思いつきレベルの珍解釈をあれこれ並べ立てるのはあくまでボケ防止の頭の体操だ。じゃなくて、あくまでブレーンストーミングだw だから解釈説は多くてもほとんどが間違いで正解は一つ、俺の好きな言い方でいうと正解に至るための補助線だよ、補助線は正解を得た後は無用になってしまうが、正解に到達するために「必要なもの」なのだ。けして「どれも正しい」とか「こんなにいろいろな読み方ができる、スゲー」なんてことではない。
だから、「ヒツクとは日月のことではない」という俺の推理がことごとく間違ってるかもしれず、ヒツクとはズバリ「日月」の意味だったのだ、という可能性もあることはある。本当のところはよくわからないが、仮に(あくまで仮にだよ)天日津久神社はもともとは「日月神社」だった、としてあれこれ調べたのが、後半の「おまけ1:日月神社の研究」「おまけ2:全国の日月神社の一覧」だ。日月神社そのものをめぐる一連の議論の難点は、天日津久神社と必ずしも関係ない話になってるかもしれないという身も蓋もない話だが、もしも天日津久神社が「日月神社」だったとしたら、房総半島の西南部の富津市の日月神社から勧請した(分霊をうけてきた)ものである可能性が非常に高いと思う。もっとも、富津の日月神社がいつ建立されたのかによっては成り立たない推論なんで、そこは確認しなければならないが面倒なのでやらない。この神社は「景行朝にヤマトタケルが蝦夷征伐の途上、上総国鬼泪山(きなだやま)の鬼退治をした時に、この地に日月の幟を立てて祈ったのが創始」というが、社伝の類は適当に作ったものも多くどこまで信用できるかわからない。だから古くからあると自称してても実は新しかったり、逆に、建立の縁起譚でいわれてる年代よりもずっと古かったり、なんてことはよくあること。だから「確認する」っていったって簡単な話ではない。由来書きにこうありました、チャンチャン♬ でおしまいではないのだ。富津の日月神社が本当のところいつできたのかは興味あったら自分で調べてみて下さい、役割分担ってことでw 富津の日月神社が、当時存在してなかったとしても、それ以前に廃絶した日月神社があったかもしれないじゃないか、とか、別のところにあったかも知れないじゃないかとか、学問的な手続きを無視した「可能性の話」だけならなんとでもいえるわけで、ほとんどのアマチュア研究家の文章ってのは一種のお筆先みたいなもんだからな。厳密な学術論文は味気ないもので、すばらしい論文ってのは隠し味にちゃんとお筆先要素がふりかけてある。今の世の中は知っておかないと先にすすめない知識が増えすぎてしまって一人でなんでもカバーはできない。だから学問に徹すると専門バカになってしまわざるをえない仕組みがそこにある。何か普遍的に「ものを考えよう」とすれば思考の節約をしないと何にも到達できない、それがいわゆる電波とかトンデモの効用でもある。…というような意味のことを阿基米得先生もいってたろw だからいいよもう、「天日津久神社の勧請元が富津の日月神社だ」ってのは俺の無根拠な憶測、ヤマカン、思いつきのでたらめ、神の啓示ってことでw そっちのほうが信用できるだろむしろw え?だめ?
(富津の日月神社と天日津久神社の関係について詳しい話の続きは後半で)

「ヒツクは日月の意味ではない」と仮定した場合:その2
こういう謎解きでは、普通は第一に、神社の由緒書きとか地元の伝承などから入るのが常道だが、天日津久神社は由来不明なのだからしょうがない。第二に、ヒツクという読みを前提にあれこれ推理(というかコジツケ)してきたんが、どうしたもんだかなぁと思いつつ、あらためて「天日津久」の字づらを眺めてみると前3字は「天津日」(あまつひ)の間違いじゃないのかとも思われる。ヒツクなんていう耳慣れない妙な響きだから悩むが、アマツヒなら如何にも和風で古典にいくらでも用例のある古語だ。しかしこの場合「久」の字の処理に困る。そもそも「天日津」までは訓読みで最後の「久」だけが音読み、チグハグなのも妙だ。これ字の間違いでないとしたら読み方の間違いじゃないのか、3字とも音読みなら「じっしんきゅう」「にっしんく」「にしく」? 天までいれたら「てんじつしんきゅう」「てにしく」? ニシクという言葉の当て字か? そうじゃなくて3字とも訓読みなら「ひつひさ」が正しい読み方だろうに。むろんニシク説にしろヒツヒサ説にしろそれで急に何かが解明されるわけではない。やはり「日津久」という文字づらに誤記が含まれてるのではないかと疑われてならない。というのも、不自然な単語のせいで意味不明な場合ってのは伝写の過程で誤記、誤写が起こってることが多いからな。
ところで、今いった通り、天日津久神社には由来伝承が失われて存在しないが、麻賀多神社には詳しい由来書きがある。その中で応神天皇の時代に印旛国(いなは/いには)の初代国造(くにのみやつこ)伊都許利命(いつこりのみこと)が稚日霊命(?)の霊夢をうけて、かつてヤマトタケルがこの地に埋めたという七つの玉を掘り出したのが始まりという。印旛国/印波国というのは今の佐倉市や成田市のあたり(印旛郡)。稚日霊命という名は御祭神の稚産霊神(わくむすひ)と見た目が紛らわしいが、「稚日孁命」(わかひるめ)のつもりだろう。この由来書きによれば応神二十年(書紀の編年で289年だが実際はこれより数十年前)に初代国造によって創建された当初は今の奥宮に稚日霊命と稚産霊命の2柱が祀られていたのだが、後に推古十六年(608年)、今の本宮の地に稚産霊命だけが遷座し、奥宮には稚日霊命だけを祀るようになったという。これは太陽神と豊穣神の組み合わせで、伊勢の内宮外宮の関係と同じく、古代オリエントやインカ帝国など世界中でみられる祭祀形態である。ところで神社ではよくあることだが、遷座した跡地にも「元宮」等と称して小さな祠を立てたり、それを境外摂社としたりする例がある。だから、稚日霊命と稚産霊命を別々にそれぞれの社殿に祀るようになってからも、相方の神を境内の小祠に「元宮」として祀っていたということはありうるだろう。例えば、奥宮のほうではどうなっているか未確認だが、いくつもある境内社の中の一つに「八代稲荷」というのがある。奥宮のある「船形」の北に隣接して「八代」という地名がありそこに八代稲荷神社があるのでそれの分霊だろうが、初めからそうだったとは限るまい。八代を中心として船形などの近辺を含む一帯は、律令時代の印旛郡「八代郷」にあたり、ヤツシロと読んでるが語源としては麻賀多神社があったからヤシロ(社)といったのを和銅六年(713年)の諸国郡郷名著好字令(俗にいう「好字二字令」)によって「八代」と書いたために読みまでヤツシロになってしまったものという説がある。だから境内社に八代稲荷があるからってこれが北の八代地区にある八代稲荷神社から勧請したのだとは即断できない。八代稲荷神社こそが本殿主祭神の稚日霊命に対して境外摂社として稚産霊命を祀ったものの名残りではないだろうか、境内の八代稲荷はその元宮跡ではないか。あるいは古地名からいえば古くは神域が広大で八代稲荷神社まで広がっていた可能性も高いだろう。同様に、本宮のほうでは本殿主祭神の稚産霊命に対して境内摂社として稚日霊命を祀ったのが天日津久神社なのではないか。つまり天日津久神社の祭神は稚日霊命ではないかということだ。もと「天日霊女」(あめのひるめ)だったのを「天日津久」に誤写したか。さらに伝承では「ヤマトタケルが埋めた地下の玉のありかを稚日霊命が霊夢で伊都許利命に知らせた」というのだから、稚日霊命を讃えて「霊告の神」(ひつぐのかみ/ひつげのかみ)ともいったのではないか。この場合、ヒツゲ/ヒツグが訛ってヒツクになったとも考えにくいから、ヒツクとは霊告(ひつげ/ひつぐ)という言葉の古い形だろう。だがこの場合「霊告」(れいこく)という漢語は「霊視」みたいでやや現代語くさいが「神告」だの「夢告」だのという漢語がありうるからまぁよしとしよう。ただ「ひつげ/ひつぐ」が漢語と無関係な自然な大和言葉としてありえたのかは微妙な気もするなw 前述の如く、ヒツが訓でクだけ音という不細工な表記にも不審感が残るので、やはり誤写説のほうがいいか。誤写説でいくなら、別案もある。同じ境内社に馬来田郎女神社があるが、馬来田郎女は継体天皇の皇女で馬来田国(まくたのくに、今の袖ケ浦市や木更津市のあたり)の国造(くにのみやつこ)と縁があったことがわかる。馬来田国造の家系は古事記でも国造本紀でも天津日子根命(あまつひこねのみこと)の子孫ということになっているから、馬来田国造の始祖を祀った「天津日子根神社」だったのではないかとも思われる。もとは「天津日子根」だったのを末尾の根が誤脱、日と津の前後を誤って「天日津子」、「子」の字を「久」に誤写したか。

結論(?)
以上の議論(的な雑談)をふまえて、心証的には「日月」説を妥当だとする人、いや「日月」説は無いなと思う人、いろいろだろう。最終的には確実な決め手があるわけでない。
まぁ今回も「謎を解く」っていうほど解いてないんですわーw 日月神示ってタイトルに引かれてきたスピ系の人いたらごめんね。
おまけ1:「日月神社」の研究
さて本題に入ろうw まぁこっちもこれで、研究ってほどの内容ではないんだがw 

1)「日月神社」との出会い
日月神社の存在に私が初めて気づいたのは、信州の南の奥、飯田市の遠山郷(ちなみに信州三大秘境の一つ)で八百年の伝統をもつ有名な「霜月まつり」にお参りした翌日、カーナビの地図の片隅にその名を見つけたのが最初だった。その時は日月神示を連想させる社名に「おやっ」と思ったが一人旅ではないので寄り道せず。だから「出会い」というかまだ出会ってないんだが、ちょっと気になって検索してみると同名の神社は関東を中心にポツポツでてくる。はじめ十数社だったが、いろいろ手をかえ品をかえて検索しているうちに51社にもなってしまった。まだあるかも知れない。

2)「日月神社」の読み
日月神社の「日月」はほとんどニチゲツと読んでいるようだがこれは呉音と漢音をちゃんぽんにした慣習読み。東京都所沢市と静岡県静岡市のは漢音でジツゲツ、秋田県仙北市に2社あるうちの一方は呉音でニチガツと読む。神奈川県伊勢原市のと千葉県長生村のも同じくニチガツ。月の呉音はガツじゃなくガチが本当だがニチガチと読む例はまだみない。静岡県森町のはジツゲツだが振り仮名の書き方も決まっていて「ぢつげつ」だそうだ、これってただの間違いが定着しただけと思うが…。変わったところでは八戸市のは「御日月」と書いてオニガツと読む。これただの当て字で「鬼」とか「二月」の意味なら除外しなきゃならんが詳細が不明。奈良県奈良市と長野県駒ヶ根市の2例では「月日神社」(つきひじんじゃ)といい、青森県十和田市のは社名は日月神社なのに位置する土地は月日山(つきひやま)という。漢語でニチゲツなら"the sun & the moon"だが、和語でツキヒだと天体ではなく時間の流れを意味する"days & months"に聞こえる。しかし、月日貝(つきひがい)は赤と黄色の色違いの二枚貝なので太陽と月に見立てた名前というが、これヒツキガイとはいわないな。そこで古語辞典みると「日月」(じつげつ)と「月日」(つきひ)の両方ともに、真っ先に天体の太陽と月だとあるが、2行目からは暦日(歳月)の意味での用例ばかり。通常の卓上古語辞典のレベルでは「日月」(ひつき)という単語はなく、はたして天体の太陽と月を昔の和語でヒツキといったのかどうか、言ったとしても大和言葉としては耳慣れた感じがせず漢語の直訳にきこえる。おそらく漢字で「夫婦」と書いても「めおと」と読むのと同じで、漢語で「日月」と表記しても大和言葉では「つきひ」と読むのが本当なんだろう。実際、日月神社はわずかな例外を除いてほとんどは音読みしている。これからすると日月神社自体、比較的新しい信仰のような印象を与える。国粋的な気分からすると音読みでなく訓読みするのが正しい、と言いたくなる一方、国学的な知性からはヒツキなんてこなれない和語もどうなのかってことで、月日神社(つきひじんじゃ)に改めたのが奈良県と駒ヶ根市の2例なんだろう。日月の語順のまま古語めかして訓読したのが日津久神社か?

3)「日月神社」のご祭神
その名の通り、ほとんどのケースでは日神と月神(月夜見尊/月読命など)がご祭神になっている。日神は天照皇大神(あまてらすすめおほみかみ)等の例もあるが、なぜか大日孁貴尊(おほひるめのむちのみこと)が多い。天照大神という神号は尊貴にすぎて月神と対等に並んでる印象が薄れてしまうからだろうか?
例外として山形県東根市の日月神社は祭神が倉稲魂神(うかのみたまのかみ)・天照皇大神・豊受大神の3柱、静岡県森町の日月(ぢつげつ)神社、千葉県大多喜町のも祭神は大日孁貴命のみで、この3社は月神なし。逆に神奈川県愛川町のはご祭神が月夜見命だけ。日神、月神の片方しか祀らずして「日月神社」というのはおかしな話だ。もしかしたら別宮になっていて二社でセットだったのが一方が廃絶したまま合祀しなかったのか?
もっと酷いので日神も月神も祀ってないところが2社。一つは東京都八王子市の日月神社で祭神が伊弉諾命・伊弉冊命だけ。ここは古くは「両輪宮」と称したといい、両輪とは日輪・月輪(にちりん・がちりん、ひのわ・つきのわ)に相違あるまいから、かつては日神・月神が主祭神だったろうが、入れ替わりの伊弉諾命・伊弉冊命もまんざら無関係ではない。神奈川県伊勢原市の日月神社は日神・月神の他にも伊邪那岐命・伊邪那美命が祭神に加わっているし、新潟県上越市の例ではかつて白山社と合併したため伊邪那美命も合祀している。偶然だろうか。「白山社と合併したから」という由来までも疑う気はないが、元から何かつながりがあっての合併ではないかと思いたくなる。富士河口湖町の浅間日月神社は戦後に日月神社と浅間神社が合併したものだから木之花咲耶姫も合祀されているが、これも事務的物理的な事情だけだったのかどうか。飯田市の日月神社は神仏分離後に浅間様を合祀しているというから明治の神社統合なのかもしれないがやはり何かのつながりが元からあったのではないか。山形県東根市の日月神社は豊受大神も祭神に加わっている。伊邪那美命は大地母神、豊受大神は豊穣の女神、木之花咲耶姫は山の女神でもあるが日光感性神話における聖母(マリヤの処女懐胎の神話的元型)。これらの女神は太陽神にセットで祀られる神格で、きわめて古い土着信仰に由来する。後述するが「太陽と月をセットに」するのは新しい信仰であって別のものだ。民俗学でよくいわれるように月はもまた古くから豊穣をもたらす存在だが、ここは新旧が混淆しているのだろう。
奈良県の月日神社も日神・月神を祀っていない。ここの祭神は与止日女神(よとひめ)・旱珠日神(かんずひのかみ)・満珠月神(まんずつきのかみ)の三柱という。与止日女というのは神功皇后の妹で葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の夫人、古事記には虚空津比賣命(そらつひめ)という名で出てくる。九州各地の伝説によると与止日女はシホヒルタマ(塩乾珠/潮干玉)シホミツタマ(塩盈珠/汐満玉)を得て皇后に献上し新羅征伐を補佐した人。この伝説は後世の勘違いからでたもので、神功皇后の玉は潮の干満をあやつる玉とはぜんぜん無関係な別の玉だったばかりか、日月とも関係ない。そればかりか、潮干珠・汐満珠も、日月と関係ない。奈良県の月日神社の由来書が二個珠を日月にこじつけてるのは問題外で、後人のなぐさみから出た創作であり、カンズ、マンズって音読みしてるのもお話にならない。やらかしたのはよほど無教養な人間だとわかる。境内の由緒書きも諸説ならべて有耶無耶にしてるが、その中では『日読み、月読みの「暦」つくりが云々』という一文が注目される。もし「旱珠・満珠」に日月をこじつけただけならこの神社は通常の日月神社の例には入れられないが、逆にもともと社号が「月日神社」だったのなら旱珠・満珠とは無関係な由来があったとしなければなるまい。最大限に好意的に解釈すれば、与止日女神社と月日神社という無関係な二社が諸々の事情で一社に合祀されたために混同が起こったんだろう。

4)日月神社の謎
日月をならべた意匠は現在の神道の中にないわけではない。日輪・月輪は神社の境内の灯籠や、庚申塔その他でも彫られている例はある。民間信仰だけでなく、奈良平安の頃の朝廷の儀式では青龍・白虎・朱雀・玄武の四旗と日像・月像の旗が立てられたし、大嘗会では「悠紀殿・主基殿」に日像・半月像が飾られた。ただしこれらは大陸の陰陽説の影響だろう。青龍・白虎・朱雀・玄武の図案、意匠が大陸伝来のものであって純粋日本古来のものではないことは明らかだろうが、それと同じこと。陰が月(太陰)、陽が日(太陽)だから中国では陰陽説をあらわすシンボルに使うのだが朝廷でも当初それを真似、のちに陰陽道が成立してくると民間にも流出し、土着信仰にも陰陽道が混淆してきた。だから古い時代からあったものではなく、当初はあくまで意匠であって古い時代の信仰を反映しているわけではない。神田祭のポスターはここ連年アニメキャラばっかりだが、これもあくまで意匠であって神田明神がアニメ信仰の神社というわけではないのと似たような話(大雑把にいえばなw)。
小学館「日本民俗文化大系」の第2巻『太陽と月』をみると、日本各地の古くからの太陽信仰や月信仰にまつわる様々な習俗や祭りを取り上げ、しかもそれらを歴史や文化人類学、神話学などの観点からも分析して、詳しく紹介している。ところがネットでざっとみた感じ、上にあげた各地の日月神社がそれらの古い信仰とかかわってるような話が少ない。たまたまネットに書かれてないだけで現地ではそれなりに何かあるのかもしれないが、もっと気になるのは「日本民俗文化大系」第2巻『太陽と月』では太陽信仰も月の信仰も詳しいのだが、それぞれ完全に別々の扱いになっていて、「太陽と月のセットにこだわった信仰習俗」というのがまったく存在せぬがごときである(日本書紀の顕宗天皇の記事にわずか2行ばかりふれているがそこから議論を広げてはいない)
日神を祀る神社は日本中やたらに多いし、月神だけを祀る神社は珍しいがこれもないわけではない。そしてそれらの神社のもとになってる信仰の内容は神道学でも民俗学でも研究されつくしてかなり明らかになっているのだが、しかし、それらはネットで発見した全国51社にのぼる「日月神社」の最大の特徴「太陽と月をセットにした信仰習俗」という点にはまったく何もふれるところがないのだ。「そういう信仰はきいたことがない、そんなものはありません」と民俗学界は言っているような印象すら受ける。これはどういうことなんだろうな?
オカルト的に考えると、そもそも森羅万象の神々は八百万といっても、母なる大地伊邪那美神と父なる天空伊邪那岐神の間に生まれこの父母=地上の引力圏内の存在にすぎない。月がたいしたもんだといったって比較の対象によっては地球の衛星にすぎないともいえるわけで、太陽の大きさに比べたら、いくら地球が月を従え八百万の神々を抱え込んでいるといっても、まったく比較にならないぐらいほど小さい存在なのだ。それほど、とんでもなく途方もなくトテツもなく滅相もない存在が太陽なのである。だから神話の中の月神は、神々の王たる天照大神に比べると古事記ではまったくなんの活躍もせず、日本書紀ではその光が日に次いで尊いとされながらも、保食神(うけもちのかみ)を殺して天照大神に叱責されている程度の存在にしか書かれてない。「三貴子」の一柱とされてはいるが、実際は八百万神々(やおよろずのかみがみ)の中の一柱にすぎない。つまり陰陽説にもとづく中華式の「日月並尊」ではなく、日本の古来の信仰は「太陽一尊」なのである。「日月ならべ尊ぶ」のは中国の陰陽思想の影響で、これはずっと後になってから大陸から入ってきた発想だろう、というところまでは容易に想像がつく。

5)「日月セット」信仰の起源
日神と月神がならんで登場するのは日本書紀の顕宗天皇三年の条で、唐突に神がかりで託宣があり、日神と月神を祀ることになったという。これを多くの学者が、壱岐に祀られていた月神と対馬に祀られていた日神を畿内に勧請したと解釈している。が、原文にはそんなことはぜんぜん書いてない。壱岐県主(いきのあがたぬし)の一族の者を月神を祀る神官に、対馬下県主(つしまのしものあがたぬし)の一族の者を日神を祀る神官に任命したというだけ。学者は地方にばらばらに存在した土着神をヤマト朝廷が勝手に御都合主義的に組み合わせて神話体系を創作したような話にもっていきたいからそういう発想になりがちだが、それでは海外の神話との類似を説明できなくなって比較神話学が成り立たなくなる。確かに壱岐には月神、対馬には日神を祀る神社があるが、一族の本拠地なんだから畿内から両島に勧請することは当然ありえる話であり、客観的にはどっちが先かはわからないが、個人的には対馬壱岐に日神月神がデフォルトで祀られている筋合いがそもそもないと思う。対馬壱岐の日神月神も、起源は顕宗天皇三年の事件から始まるのであってそれ以前に対馬壱岐に祀られていたのではあるまい。

6)「日月神社」は暦の神か?
この時の託宣は阿閉臣事代(あべのおみ・ことしろ)が任那へ赴任した時のことというから何か朝鮮がらみなのはわかる。当時の日本で「どうしても太陽と月を同等に重んじて組み合わせて考えなければならないこと」というと、暦の制作しか考えられない。

【余談】元嘉暦の採用
日本書紀の編年は神武天皇から前半は唐の儀鳳暦、後半の持統天皇までは宋の元嘉暦で書かれているというのが大雑把な通説だが、この二つの暦の代わる時点つまりどこまでが儀鳳暦でどこからが元嘉暦かは、仁徳紀八十七年(399年)十月と安康三年(456年)八月の間であることが確実にわかるだけで、暦日の分析だけでは明確に設定することができない。唐の儀鳳暦で書かれているというのは日本書紀の編集部が昔の事件の日付の干支を後世の暦で推算してきめたという意味だが、例えばこのサイト「倭国の暦法と時刻制度」でも通説に疑問を呈している。普通に考えれば元嘉暦の前にもその時代ごとの中国暦を使っていたと考えるのが穏当だろう。ただ、日本書紀は日付に干支をふる必要があったため儀鳳暦で再計算しなおす羽目になったのだろう。しかしある時期から元嘉暦なのは考古学的にも証明されている。中国の宋で初め元嘉暦を実施したのが445年だからそれ以前だと日本にはありえない。445年にほぼ同時に日本でも実施されたということも絶対にありえないことでもないが、比較的穏当なところだと、百済は450年に宋に朝貢しているからこの時に百済を経由してすぐ日本へも元嘉暦が伝わったとも考えられるし、翌451年に倭王済が宋に朝貢しているからこの時でもよい。日本書紀の編年では453年に允恭天皇崩御、454年から456年までが安康天皇の治世、457年が雄略天皇元年となっているがもちろんこの編年は史実ではなく日本書紀の編集部が推定したものだから、実際にどの天皇の時代なのかはすぐにはわからない。だが早くて445年、遅くて456年、その間に日本で元嘉暦に切り替わったことは間違いない。
ちなみに顕宗天皇の実際の在位期間は456年よりは後としても、そんなに離れてもいないだろう。

で、当時の日本には自力で暦を作成する技術がなく、毎年百済が「暦本」を献上していた。太陽の運行の観測は巨石文化や神社建築から四分四至も知られていたことがわかる。ヤマト朝廷の「日置部」(ひおきべ)は旧石器時代からの伝統をひいて太陽神の祭祀と太陽の観測を不可分のものとして管掌していたろう。だが、月の運行はかなり複雑なので中国の天文学でも精密な計算ができるようになるのはかなり遅かったぐらいだし、日本では朝廷に専任の部署もなかったので中国の天文学を輸入するしかない。敏達天皇の時に「日祀部」(ひまつりべ)が置かれ、日置部は朝廷の灯火を管轄するだけになった(灯火を太陽の分霊とみる習俗は上述の「日本民俗文化大系」の第2巻『太陽と月』にもでてくる)。この「日祀部」は大陸式の天文学を取り入れたもので、百済からの暦博士(れきはかせ)の上番が百済の衰退に伴って滞ってきたので自力での暦の作成が期されたのだろう。だから名は日祀だが実際は日月両方の観測をしたと思われる。これを日月祀(ひつきまつり)とか月日祀(つきひまつり)とかいったのでは日置部が守旧派=抵抗勢力となって「そっちは月祀(つきまつり)に専念しろ」ということになるからあえて日祀と称したのだろう。そうすると顕宗天皇の時に初めて「日月ならべ尊ぶ」祭祀が始まったというのは日祀部を創立するための前哨戦だったと思われる。阿閉臣事代が任那に赴いたのは暦博士(暦作成の技術者)をリクルートするためかその事前調査だろう。百済でなく任那といったのは、百済は暦本の献上や暦博士の上番を利権にしていたから、百済の警戒を避けるため。対馬県主や壱岐県主をわざわざつれてきて祀らせたのは、この両氏族は中臣氏につらなる卜部氏(うらべし)の係累で、いわば神道祭祀の家柄でもあるから、大陸の文化を喜ばない国粋的な抵抗勢力(名目は「日月並尊」への抵抗でもある)に対する目眩まし人事なのである。しかも対馬や壱岐の出身者は朝鮮や支那の文化とも比較的親しみがあるからうってつけの人材だ。

7)日月神社の分布
日祀部を管掌した氏族を日奉氏(ひまつりし)という。日祀部や日奉氏は大和・下総・上総・飛驒・越前・土佐・筑後・肥後・豊前に分布している。この他にも、日祀部はネット上の「コトバンク」引用の歴史事典によると武蔵・上野にもあるといい、日奉氏は『日本古代氏族事典』によると山城・陸奥にもいたという。これを日月神社51社の分布と比較すると、大和1社・下総3社・上総9社・武蔵5社・陸奥8社、計26社がこじつく。飛驒・越前・土佐・筑御・肥後・豊前・上野・山城はどこもゼロ、残24社が浮く。あまりうまく重なってるようでもないが、日月神社はあくまでたまたまネットで拾ったものだし日祀部や日奉氏もたまたま記録に残ったものの集積だから、それを考慮するとまぁこんなものではないか。日月神社の中心地帯である関東地域で日祀部や日奉氏と重なってるのが注目される。
国造(くにのみやつこ)の分布とも比較してみたが、あまり意味のある分析はできなかった。

【余談】太陽と月が暗喩するもの
「太陽と月」のセットが象徴する、または暗喩するものは何かというと、それは時代ごと地域ごとの、文化・民族・宗教などによっていろいろで、それ専門の詳しい研究もあるだろうから、今からいうことはその中での一つにすぎないが。
古代日本の前述のような「太陽一尊」思想の下でわざわざ「太陽と月」を並べてみせると、どういうニュアンスが醸し出されてしまうだろうかと想像する。月は見かけ上は太陽と同じような大きさに見えるし、太陽を除けば天上界にならぶもののない発光体、偉大なる光源であり、八百万の神々の中でも格別に図抜けて尊い神のようでもある。そういう意味では太陽に極めて似てもいる。似てもいるし並ぶほどの存在でものすごく尊貴な存在なのであるが、にもかかわらず「一番ではない」。それが月の微妙なところではないだろうか。日本神話もそうだが「太陽と月は兄弟だ」とする神話は海外にも多い(天照大神を女神とする場合には「姉弟」だが)。兄弟は同じ血をひく同胞なのだから当然のように似た者同士なのであるが、王族(日本の場合は皇族)の兄弟だと、王位(日本の場合は皇位)を継承できるのは一人しかいない(一時的な即位なら兄弟相続が可能だが、そうではなくてどちらの子孫が王位を継承していくかということ)。つまり非常に有力な皇位継承者が二人いて優劣つけ難く、お世継ぎが確定しない場合である。
なんでこんなことを言ってるのかというと、日月神社を調べていると、その創建伝承に日本武尊(ヤマトタケル)を持ち出す例と、壬申の乱の落人を持ち出す例がままあるのに気づく。ヤマトタケルの本名は小碓命(をうすのみこと)で双子の兄、大碓命(おほうすのみこと)がいた。壬申の乱の落人とは弘文天皇(=大友皇子)だったりその后だったり伝説によっていろいろだが、敗れた近江朝廷は天智天皇の一族で、壬申の乱は弟の天武天皇と兄の天智天皇(の子)との戦いだった。天智天武の両帝はどちらが年長なのかという議論もあるが、中世の碩学北畠親房は「双子説」だった(もっとも親房は二人の出生年を間違えてはいるが)。「太陽と月」の表象は、双子の兄弟あるいは百歩譲って双子であるなしにかかわらず兄弟、それも兄弟間で一悶着あった兄弟を連想させる。倭建命(ヤマトタケル)が兄の手足をもぎ取って投げ捨てた瞬間や、壬申の乱などは太陽と月が衝突して闇をなす日食にも喩えられようか。だがこれらの連想は後世になって日月神社の由来を説明するために日月並立のイメージから呼び起こされたものだろう。
日食の日に生まれた双子の兄弟が戦いあって勝ったほうが…ってどこかで聞いたような話だなと思ったら、これ『仮面ライダーBLACK』の設定だなw ♪光と闇のぉーはてしないぃーバトルゥ~♫ ヤマトタケルの冒険も壬申の乱もブラックサンとシャドームーンの戦いだったのである!
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そしたら源平合戦も南北朝の争乱も戊辰戦争もこれでいけるなw しかしヤマトタケル兄弟が最初のブラックサンとシャドームーンではない。どこまでも遡れば、日本史をつらぬくすべて内乱の背後には、邇々藝命(ににぎのみこと)と邇藝速日命(にぎはやひのみこと)の兄弟にまでいきつく霊的構造があるのだ! …というのはウソです! なんでもかんでも饒速日命にこじつける「ニギハヤヒ電波」の信者の皆さん、ネタ提供してやったぞw 本当は「宇宙の創造ビッグバーンの太古に生まれた双子の神、光明神アフラマズダと暗黒神アーリマンの永遠の戦い」というのが大元の元ネタだが、ゾロアスター教では太陽も月も善なる存在なので「太陽と月の戦い」という話はないからな。
後世の人間が考えた妄想とは別に、実際の、自然界における太陽と月はけして戦わない。太陽と月には、そもそも対等に戦うなど馬鹿げているほどの落差があって、衛星は惑星に従い、惑星は恒星に従うという厳然たる上下関係、人でいえば慈愛と忠誠で結ばれた「君臣」ともいえる封建的関係にあるのだっw 日本における「日月セット」信仰の起源は日本書紀に出てくる顕宗天皇三年の神勅から始まるのは明らかだが、この顕宗天皇も「仲のよい兄弟」で有名なのは偶然だろうか? このブログでは別の記事で何度も書いてるが、弟の顕宗天皇は兄(意祁王おけのみこ:仁賢天皇)に先立って即位したが、あらかじめ在位年数を限って兄に譲位する予定であって、実際に兄に譲った(崩御したのではないことは後述の別頁参照)。流浪の身からご落胤として発見された時の少年期の物語からしてすでに「兄弟の物語」として喧伝され、世間からみた二人のキャライメージは出来上がっていた。履中宮家(履中天皇の子孫の家系、このブログでは仮に履中宮家とよんでます)の家訓としては最初から長子相続なので弟の袁祁王(をけのみこ:顕宗天皇)が即位するという選択は当初はなかったのだが、なぜこうなったのかという事情説明は他の頁に長々かいているのでカテゴリー清寧天皇顕宗天皇の記事を参照。顕宗天皇はいってみれば本物の天皇でなく、最初っから、中継ぎ、仮の天皇みたいな建前で即位している。こういう、「天皇であるのかないのかよくわからない中間的な存在」(中間的な天皇)というのは「中天皇/中皇命」(なかつすめらみこと)という(ナカツスメラミコトの「ナカツ」を初め、古代の人名につく「ナカツ」の意味については、他にも「中継ぎ」説、「神と人の仲をとりもつ」説、「二番手」(準天皇/亜天皇)説、「次男/次女」説、「ナカという地名」説などがある。ケースバイケースでどれもありうることで、一つの説が正しく他が間違いということではない)。「本当の天皇」が「太陽神の御子」であるのに対して、こういう「天皇であるのかないのかよくわからない中間的な存在」は、月で喩えられた可能性はあるのではないか。顕宗天皇三年の神勅でも、なぜか先行して二月一日に月神を祀れという神勅だけが出ており、日神の神勅は後に遅れて四月五日になって出ている。これも弟が先に即位していることを雰囲気的に肯定する意図もあるのではないか。朝廷の朝儀における「日月旗」は大陸伝来の文化であって国粋的なものではないのはもちろんだが、何か採用時のきっかけみたいなことを考えるのなら、案外この顕宗天皇の時かもしれないなとは思わなくもないな。どうよ? それと、前述の、奈良県の月日神社も主祭神の与止比賣(よとひめ)は神功皇后の妹でその補佐役だから、これも姉妹を日月に喩える気分が響いてるかもしれない。意祁王・袁祁王の兄弟のように「仲の良い」姉妹として。

国造関係でただ一つの収穫は下総国の東端、旭市にあった。同市には日月神社が3つ、5kmほどの距離間に集まっている。東・西北・西南の3社のうち西北のは壬申の乱敗れた近江朝廷の后が九十九里浜まで落ち延びて落命した時、持参の日月旗(天皇のしるし)を納めたのが始まりという。東のはそれとは別に文治三年(1187年)の創建という。ここから南に下がって、上総には弘文天皇が逃げてきたという伝説があり、弘文天皇陵(大友皇子の墓)というのがある白山神社は、ちょうど後述の富津市の日月神社と大多喜町の日月神社の中間に位置する。そういう伝説を否定するつもりはないしそれに近いような史実があってもよいだろうが、日月神社の由来を「日月旗」とするのはいただけない。北の下総に戻って、旭市のあたりは律令以前には下海上国(しもつうなかみのくに)で国造は他田日奉氏(をさだのひまつりし)。日奉氏の存在はみすごすわけにはいかないw しかも「他田」は敏達天皇の宮号で敏達天皇は「日祀部」を創立した天皇なのである。今の旭市の日月神社そのものがそれだとも限らないが、日月神社の総本宮があった痕跡ではないのか? 
それと麻賀多神社の境内社の馬来田郎女神社は継体天皇の皇女、馬来田郎女(まくだのいらつめ)を祀ってるというが、この皇女の名からすると、馬来田国造(まくだのくにのみやつこ)がこの皇女の乳母だったか嫁ぎ先だったかが御料地だったかしたのだろう。馬来田国は今の袖ヶ浦や木更津のあたりだがここには日月神社はなく、一番近くて富津に1社ある。富津や君津のあたりは昔は須恵国(すゑのくに)だから別だが、国造家は同系の同族。いずれにしろなんで北に遠く離れた麻賀多神社にこの皇女が祀られているのか。麻賀多神社のあたりは古の印波国(いには/いなはのくに)であり、境内社に印旛国造神社もあり、1kmほど離れた奥宮に初代国造の伊都許利命(いつこりのみこと)の墓という古墳もある。印波国造家は多氏の系統であり馬来田国造とは別だが国造同士で何か交流があったことは馬来田郎女神社の存在から明らかだから、それなら天日津久神社はもとは富津市の日月神社から分霊したものではなかったのか。麻賀多神社はヤマトタケルが埋めた玉を応神天皇の時代に掘り起こしたのが起源だというが、前述の通り、富津の日月神社もヤマトタケルが創始したというから、麻賀多神社が富津から勧請してくるというのも縁のない話でもなかろう。むろんヤマトタケルが日月の旗を立てたなどというのは後世の創作がまるわかりであまり真に受けるべき伝承とも思えないが、その伝説にでてくる鬼泪山のちょい東にヤマトタケルの九頭龍退治の伝説のある鹿野山あり、ここは日月神社から東に10kmほどの地点。日月神社から南に20kmほどいって安房国(あわのくに)に突入すると東京湾カーフェリーの浜金谷港、鋸山日本寺の秘境があって観光によいだけでなくなかなかすごいところ。もしや富津の日月神社こそ総本宮かと思いたくなるが、須恵国も馬来田国も律令時代の上総国内で、日月神社は上総に集中しておりこれを国造別にみると9社のうち5社が伊甚国(古事記では「伊自牟国」(いじむのくに)と書く。今の茂原市、いすみ市のあたり)にある。数でいえばここがセンター。伊甚国造は関東の国造に多い出雲系の家系でその本拠地らしき古墳に近いのは長生村の日月神社。だが、そもそも房総丘陵の山がちなところに建てられたのが初期で、平地の神社はただの鎮守様として住民が勧請して広がったものだろうから、大多喜町の日月神社のほうが総本宮に近かったろう。関東平野のかなりの部分が海だった頃は房総丘陵は関東最東端の山地だった。下海上国(旭市)の日月神社は利根川の下流域がどんどん東に広がって開発が進んでから日奉氏とともに移っていったんだろう。

おまけ2:全国の「日月神社」の一覧
51社の分布をみると半分が関東で25社。関東の南に続く駿遠甲信に14社、東に接する奥羽越に9社。「天日津久神社」と同じ下総には3社しかない(それも旭市だけ)が、上総をあわせて千葉県内とすると関東25社のうち半分ちかくの10社が天日津久神社と同じ千葉県内にあることになる。天日津久神社ももともとは日月神社だったのではないかという推理もまんざらではなさそうに思える(?)。で、この分布図を、日奉氏(ひまつりし)や日祀部(ひまつりべ)、国造(くにのみやつこ)の分布図と重ねてみたら何かおもしろいことがわかるのではないかと思ったが下海上国造の件以外はぱっとしない。上総は9社と集中している。上総国は6つの国造(くにのみやつこ)を統合してできたので、上総国内をさらに国造別にみてみると伊甚国造(いじむのくにのみやつこ、上総国の東南部)だけで5社もあり、明らかにここが分布の中心のように思えてしまうが、視覚的にマッピングしてみると房総半島は広大で関東規模でみると案外ちらばってたりするんで即断もしがたい。
しかし…。忙しいのに何やってんだかな俺は…。

※このリストは日月神社を発見しだい追加しているので常時増加しています(現在51社)


関東25社
茨城県2社
・日立市(久自国造の領内?)
・古河市(茨城県だが昔は下総国。さらに昔は新治・筑波・下毛野・旡邪志の4国造の境界に近く、所属が推定し難い。川の流れは時代によって変化したろうしこのへんは昔は海だったろうから所属を確定するのは無意味かもしれないが川の流れから強いていえば栃木県か?)
栃木県2社
・益子町
・足利市(天道山の山頂含む一部が神域だったらしく山頂に「日之宮」そのすぐ近くに「月之宮」かなり離れて鳥居。2宮あわせて日月神社という。荒れ気味)
埼玉県2社
・さいたま市(社名「鹿手袋日月社」、都心からだと一番近い。麻賀多神社境内「幸霊神社」と関係あり?)
・所沢市(読みはジツゲツ)
東京都2社
・八王子市(祭神が伊弉諾命伊弉冊命のみ。古くは「両輪宮」と称す)
・青梅市
神奈川5社
・胸刺国造1……横浜市(社名は「日月社」、日待月待の祭事あり。その場所を「日夜の杜」といったが後に「日の森」、現在は「日の森谷」という)
・相武国造2
 ……海老名市(祭神は大日孁貴命、月夜見命。弥生神社の境外末社、男女の隕石が御神体)
 ……愛川町(祭神は月夜見命のみ。境内に江戸時代の二十三夜塔あり)
・師長国造1…伊勢原市(読みはニチガツ。祭神は天照皇大御神・月読命・伊邪那岐命・伊邪那美命で4柱)
・甲斐国造1…藤野町(社名は「日月両宮」。石尾楯神社の境内社。神奈川県のこのあたりは古くは相模ではなく甲斐に含まれていた)
下総国3社(千葉県北部)
・下海上国造3…旭市に3社国造は日奉氏。壬申の乱の弘文天皇の妃の漂着伝説あり)
・印波国造0……成田市(麻賀多神社境内社「天日津久神社」。参考に書いてるだけでカウントはせず)
上総国9社(千葉県中部)
・武社国造2
 ……山武市
 ……芝山町
・上海上国造1…市原市(「姉埼神社」の境内末社。一棟の祠に10社以上も祀られ本当に小さくなってるが。ちなみに姉埼神社は上海上国造の本拠地)
・伊甚国造5
 ……白子町
 ……長生村(読みはニチガツ。伊甚国造の本拠地に近い)
 ……いすみ市に2社(「新田日月神社」は建長元年1249大日霎貴命、慶長元年(1596)月夜見命を合祀、その地を「日居森」という。「造式・大舟谷・矢指戸日月神社」は「雑鋪・大舟谷日月神社」と同じ、雑鋪は造式の旧表記。ヤマトタケルが日を拝したのが始まりで貞観年間に月神を合祀、その地を「日月谷」という。この両社は「大原はだか祭」18社のうちの2社、新田が北側で山寄り、造式が南側で海寄り)
 ……大多喜町(現在の祭神は大日靈貴命だけ。ヤマトタケルが鬼泪山の鬼退治の際に日月旗を立てたという。日月神社の最初の総本宮?)
・須恵国造1……富津市(三貴子を祭神とす。天日津久神社はここから勧請?)
甲信駿遠14社
山梨県4社
・都留市
・上野原市
・富士吉田市
・富士河口湖町(「大石浅間神社」戦後に日月神社と浅間神社が合併したので木之花咲耶姫を合祀。「浅間日月神社」ともいう)
科野国1社(長野県北部)
・長野市
諏方国3社(長野県南部)
・岡谷市(社名は「月日大御神神社」、読みは不明だが「つきひおおみかみじんじゃ」?)
・駒ヶ根市(社名「月日神社」つきひじんじゃ
・飯田市(神仏習合時代に阿弥陀仏、今は浅間様を合祀。「霜月祭」で有名な遠山郷15社の一つ)
駿河国1社(静岡県東部)、静岡市(読みはジツゲツ。廬原国造)
遠江国5社(静岡県西部、房総に次ぐ第二のセンター
・素賀国造1……森町(読み書きは「ぢつげつ」祭神は大日孁貴命のみ。かなり山奥)
・遠淡海国造4…浜松市に4社(「日月熊野神社」「上村日月神社」他2社。浜松市だから一応遠淡海国としたが天竜区で上記の森町よりさらに山奥ほとんど信州)
奥羽越9社
新潟県1社 上越市(白山社と合併したため伊邪那美命も合祀)
山形県2社
・山形市
・東根市(祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、天照皇大神、豊受大神の3柱で月神なし)
秋田県2社 仙北市に2社(1社は読みはニチガツ)
岩手県2社
・釜石市(「甲子郷日月神社」古くは「日月宮」といった。下の洋野町のよりわずかに東に位置し、おそらく最東端か)
・洋野町
青森県2社
・八戸市(「御日月神社」読みはオニガツ。鬼とか二月の意味で当て字ならはずさなければならないが不詳。下の十和田市のよりわずかに北に位置し、おそらく最北端か)
・十和田市(社名は日月神社だが場所は月日山(つきひやま)という)
西国3社
山城国0社 京都市「月読神社」(式内葛野坐月読神社に比定。参考までにあげるだけ、カウントせず)
奈良県1社
 ……奈良市(社名は「月日神社」つきひじんじゃ。ここの祭神についての考察はこの頁の本文参照)
 ……橿原市「天満神社」(式内目原坐高御魂神社の論社。参考までにあげるだけ、カウントせず)
兵庫県0社 三木市の「日月之宮」は新興宗教の施設らしいのでカウントせず
岡山県2社
 ……岡山市に2社(それぞれが最西端と最南端。麻賀多神社境内「幸霊神社」と関係あり?)
 ……浅口市「日月水火神社」(ひつききびじんじゃ)は新興宗教「三穂の家」なのでカウントせず
壱岐国0社 「箱崎八幡神社」(式内月読神社の論社。参考までにあげるだけ、カウントせず)
対馬国0社 「阿麻氐留神社」(式内阿麻氐留神社に比定。参考までにあげるだけ、カウントせず)

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・2顕宗天皇の玉音放送

H29年10月11日(水)初稿
一昨年、H27(2015)年11月18日(水)の話で、下巻つまり仁徳天皇以降、登場人物が理屈っぽくなっているということ。下記の5例(下記には6例あるが当時は(5)が抜けていたので5例)。

(1)仁徳記…石之比賣(いはのひめ)の台詞「不敬罪で処刑されるのはよくある話で変わったことではないが云々(以下略)」
(2)履中記…隼人の曾婆訶理に対して水齒別王のモノローグ「吾がために大功あれど君を弑するは不義」
(3)允恭記…大前小前宿禰の台詞「もし兄弟で戦えば必ず(後世の)人に笑われよう」
(4)安康記…都夫良意富美(つぶらおほみ)の台詞「臣下が王宮に助けを求めるのは聞くが王子が臣下の家に逃げ込むとは例がない、自分は負けるだろうが自分を頼ってきたこの王子は決して見捨てない」
(5)雄略記…志幾の大県主の台詞「奴(やつこ)にあれば奴(やつこ)のまにまに覚らずて過ち作れり」
(6)顕宗記…意祁王の台詞「父の仇だからといって天皇陵を破壊すれば後世に非難される、ただし父の仇は報いざるべからず」

これと同じ話が今回(10/11)も出たが、前回は5例だったのが今回は(5)が追加されて全6例になっている。
経済発展と儒教の影響
中巻の最後の方で、神功皇后の新羅征伐があり新羅を馬甘(うまかひ)、百済を「渡之官家」(わたりのみやけ)と定めて以来、海外交易の影響で経済発展があり、それが年々積み重なって富裕層は栄華を極めたけれども、貧富の差が拡大して下層では治安の悪化が進んでいた。中巻の最後の応神天皇の頃はまださほど酷くはなかったが、儒教が入ってきて仁徳天皇と宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)は論語を学んでいた。当初、儒教は中華かぶれの金持ち階級のもので、反儒教派(神道派)と対立しており、何度かあった皇位継承争いにもこの二派の対立が大いに影を落としていた。上記の6つの台詞のうち4つまではこの時代のもので、上記の(1)から(4)の中には、儒教の影響を受けた発想もあれば、そういう風潮を非難する言葉もある。両方あるのはつまり、神道派(=国粋派)も対抗的に自己形成されるので、鏡に写したように理屈を言わざるを得なくなるから。
中華かぶれの売国財閥は葛城氏だったがこれは雄略天皇に滅ぼされ、反儒教派はスッキリ溜飲を下げたのも束の間、庶民人気の高い雄略天皇自身が大陸文化を大好きで帰化人を寵用したのと、わかりやすい悪役としての葛城氏も最早ないので、ついに儒教は全国民に受容されるに至った。しかし雄略天皇即位の功臣、平群氏がかつての葛城氏の利権をそっくり引き継いでいたため、やがて「第二の葛城氏」としての正体をあらわしはじめ、清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇の3代は平群氏との間で水面下の綱引きの時代だった。
雄略天皇一代の治世をかけて、儒教は完全に日本人に根をおろしていた。といっても後世の日本人と同じものがこの時にできたというわけではない。平安時代以降、仏教が日本人の精神世界を席巻すると日本人の民族性から儒教色は薄まってしまった。なので、仏教以前の日本人(といっても、あくまで雄略朝から大化改新までの期間)は純粋に神道的な民族だったというわけではなく、むしろ今の中韓人に似たところも今の日本人よりは多かったのです。
そういう中で、上記の(6)の台詞がでた。
儒教以前の天皇は、自然界の神々の秩序の一環としての原始王権であり、疑問を差し挟む余地もなく、神々への信仰と天皇への忠誠が一体として繋がっていたので、揺るぎない権威があった。自然界の神々の秩序の一環としての原始王権とは、神道風に言い換えれば天津神国津神八百万の神々(あまつかみくにつかみやほよろづのかみがみ)の中の一柱としての現人神(あらひとがみ)ということでもある。そこは疑問を差し挟む余地がないから、なんらかの理由による謀反があっても、議論は起こらない。議論にしようにもこれ以外の価値体系がそもそも存在しないのだから当然だろう。
儒教は、日本人に知的ゲームを授けた。君主がいかに君主たるか、臣下がいかに臣下たるか、様々なロジックがある。例外的に謀反が謀反でなく義挙とみなされる場合はどのような場合か。忠と孝が矛盾する場合はどういう行動をとるべきか。暗君と賢臣の対立の際にどちらにつくべきか。たとえ反逆の徒に堕ちようと桃園の誓いを破れるのか…等々。そもそも儒教は王朝交代もありうることを前提としているために、万世一系の天皇とか君主絶対という考えはない。こういうロジックのゲームは、厳しい人格陶冶の修行が伴わないと、ただの利己主義の自己弁護になりやすい。しかも当時の日本人は初めて理屈で自分を語る習慣を体験したので免疫がなく、自己の語る言葉を自意識と錯覚してこれこそ正義の実践なのだと迷走していく。実は単純なロールモデルの組み合わせにすぎないのだが。
上流階級が上記の(1)〜(5)のような台詞を吐いて理屈を言い合っていると、儒教もしらず論語も読んだことない一般庶民も次第に感化されていく。庶民は儒教という大陸文化の粉飾がないから、上流階級の風潮をただの利己主義として受け取っていく。そして世の中は貧富の差が激しく治安が悪化していってるんだから、「泥棒にも三分の理」といった体の屁理屈が世の中に蔓延していく。しかし(ごく一部の賢人を除いて)当時の人々は貴族も盗賊もそれを屁理屈だとは理解できず、真っ当な理論だと思っていた。ちょうど現代でも同じことが…いや、やめておこうw

顕宗天皇の玉音放送
顕宗天皇と兄の意祁王(仁賢帝)は、幼少期から二人で過ごしてきて、阿吽の呼吸もあれば腹の底までお互いに知り尽くしている仲であり、今さら意見の対立などあるはずもないのだが、顕宗天皇は兄貴ほどは大和魂が据わってないので、やはりそこは現代人、感情的には雄略天皇が許せなかった。兄貴としては弟を叱るのは簡単だが、感情をむりに抑えつけるのは心理学的にもよろしくない。そこでドラマセラピー(演劇療法)を試みた。兄の意祁王は以前から、人々が薄っぺらい儒教モドキの理屈をもてあそび天皇の権威が軽くなってることを憂いていたが、そんなこととはつゆ知らない庶民の中には、この兄弟が雄略天皇の一族にどんな復讐するのか面白おかしく取り沙汰して不埒な床屋政談を楽しむ者もあったろう。またも皇室が割れて殺しあうようなことになれば喜ぶのは平群家とその取り巻きだけなのだが。意祁王は弟天皇のドラマセラピーを兼ねて、弟天皇と二人で、ひと芝居うった。だからここの対話は記紀ともに歌舞伎か講談みたいに芝居がかっている。これは最初から芝居として上演されることを狙って演出されており、語部(かたりべ)の演劇というのは今でいうテレビや映画みたいなものであり、民衆がこれをみて政局を理解することが了解されているのである。つまり、これは国民道徳の再建のための、国民への呼びかけでもあった。(雲の上の事件は格別、機密扱いにでもしない限り、大小となく語部によって演劇化され庶民に知られ語部のネットワークによってあっという間に全国に流布されることになる。詳細は「雄略帝は英雄なのか?(附説:語部とは)」参照)
流浪の貴公子だった顕宗天皇と意祁王は、ついに即位までは辿り着いたが、まだ平群家との潜在的敵対関係は続いており、平群氏の勢力はいまだに強大で侮れないとはいえ、顕宗天皇の即位によって戦略上の選択肢を減らしてしまい、平群の次なる戦術として允恭宮家と履中皇室との抗争再燃を画策してくるのは目に見えていた。その抗争の理論的根拠は儒教の仇討ち思想なのである。この対話のメッセージは「皇室は仇討ちはしない、儒教思想には基づかない。天皇の位は、個人的な仇討ち等の私憤を超越するものであって、その権威は絶対である」という宣言であり、「だから国民も儒教(=利己主義)はほどほどにね、アンドこれからも平群と戦う皇室に応援よろしくね」という国民へのメッセージなのである。
古事記はネットでも原文、書き下し、現代語訳ぜんぶ読めるし、文庫本も何種類も売ってるので、読んでる人は多いだろう。なので日本書紀を引用する。

天皇謂皇太子億計曰「吾父先王無罪、而大泊瀬天皇射殺棄骨郊野。至今未獲。憤歎盈懐。臥泣行号。志雪讎恥。吾聞『父之讎不与共戴天、兄弟之讎不反兵、交遊之讎不同国』。夫匹夫之子、居父母之讎、寝苫枕干不仕、不与共国。遇諸市朝、不反兵而便闘。況吾立為天子、二年于今矣。願壌其陵、摧骨投散。今以此報、不亦孝乎」。
皇太子億計歔欷不能答。乃諌曰「不可。大泊瀬天皇正統万機、臨照天下。華夷欣仰、天皇之身也。吾父先王雖是天皇之子、邁遇屯亶、不登天位。以此観之、尊卑惟別。而忍壌陵墓、誰人主以奉天之霊。其不可毀一也。又天皇与億計、曾不蒙遇白髪天皇厚寵殊恩、豈臨宝位。大泊瀬天皇、白髪天皇之父也。億計聞諸老賢、老賢曰『言無不酬、徳無不報。有恩不報、敗俗之深者也』。陛下饗国、徳行広聞於天下。而毀陵、翻見於華裔、億計恐其不可以莅国子民也。其不可毀二也」。
天皇曰「善哉、令罷役」。

天皇、皇太子億計に謂ひて曰はく「吾が父の先王、罪なし。而るを大泊瀬天皇、射殺して骨を郊野に棄てつ。今に至るも未だ獲ず、憤歎、懐に盈つ。臥しては泣き、行きては号び、讎恥を雪がんと志す。吾れ聞く『父の讎は共に天を戴かず、兄弟の讎は兵を反さず、交遊の讎は国を同じくせず』と。それ匹夫の子も、父母の讎に居れば苫に寝て干を枕にして仕へず、国を共にせず、諸の市朝に遇はば兵を反さずして便ち闘ふ。いはんや吾れ天子と立ちて今に二年矣。願くはその陵を壊して骨を摧きて投散せん。今此れを以て報いなば、また孝ならざらめや」。
皇太子億計、歔欷して答ふること能はず。乃ち諌めて曰はく「可からず。大泊瀬天皇は万機を正し統ねて天下に臨照せり。華夷、欣仰せしは天皇の身なり。吾が父の先王、是れ天皇の子と雖も、屯亶に邁遇して天位に登らず。此れを以て之れを観れば、尊卑、惟れ別なり。而るに忍びて陵墓を壊さば、誰を人主としてか以て天の霊に仕へん。其れ毀つべからざる一つ也。また天皇と億計は、曾て白髪天皇の厚寵と殊恩に遇ふこと蒙らざれば、豈に宝位に臨まんや。大泊瀬天皇は白髪天皇の父なり。億計、諸の老賢に聞けり、老賢曰はく『言は酬いざる無く、徳は報いざる無し。恩有って報いざるは敗俗の深き者なり』と。陛下、国に饗し、徳行、広く天下に聞こゆ。而るに陵を毀ち、翻って華裔に見せしむれば、億計、恐らくは国に莅み民を子ふこと其れ以てすべからざらん。其の毀つべからざる二つ也」。
天皇曰はく「善き哉、役を罷めしめん」と。

この対話は、まず顕宗天皇が国民の風潮をあげ、それに賛意を表しているふりをして、意祁王の意見を聞く。が意祁王はそれを全否定して天皇を諌め、天皇が反省するという流れ。国民に直接に説教するのではなく兄が弟を諌める形式を借りているのである。

記紀の比較1 ~内容は食い違っているのか?~
なお、この対話は記紀で相異がある。古事記は「雄略帝は一つには天皇であり一つには叔父である、単に個人的には仇だからという趣旨だけをとるのは誤りだから、仇討ちと両立させるべき」といってるのに日本書紀は「一つには天皇であり、一つには自分らを天皇にしてくれた恩人の父だ。恩を仇で返すような人間がどうやって天下を治めるのか」といって仇討ちを全面否定している。記紀で共通してる理由は「天皇であること」だけ。記紀の理屈を機械的に整理するとこうなる、古事記の理屈では「天皇にして、かつ自分らの叔父」だってのは仇討ちを全否定するほどの重みはないので、仇討ちと両立させることになる。が、日本書紀の理屈だと「天皇にして、かつ自分らを天皇にしてくれた大恩人の父」だってのは仇討ちを全否定するに十分な重みをもつ、ということになる。
そうすると記紀ではその思想内容もかなり違うのかといえば、もちろん古事記ではこれはさらに否定される「前フリ」にすぎない。実際には、古事記では御陵の片隅の土を少し壊しただけ。この「少し」ってのはまさか御陵の10%とかの大規模な破壊ではないだろう。文脈から察するに、象徴的、建前的に「わずかに」壊したにすぎない。形式的で象徴的な行為としてやっているので、実質はなんの報復もしてないのだ。思想内容としては仇討ちを全否定する日本書紀と、結果的には同じである。
そう、同じ。古事記がいう「叔父」にしろ、日本書紀がいう「恩人」にしろ、場合によっては心ならずも背かざるを得ない情況がありうるが、「天皇」にだけはそれは無いのである。個人的な関係である「叔父」や「恩人」を尊ぶことはの「大義」ではなく私事の「小義」なのであり、これを天皇より優先させたり、天皇への絶対忠誠と同等のように考えて天秤にかけるのは「儒教からの悪影響」なのである。雄略帝について、古事記はにおいて「天皇」であるのみならずにおいて「叔父」でもあるといい、日本書紀はにおいて「天皇」であるのみならずにおいて「恩人」でもあるといってる。これは、すでに日本人が義理だの人情だのその板挟みだのという儒教の理屈に染まっているため、もしも次期天皇である皇太兄(意祁王)自身が国民に対して儒教道徳を全否定して唯一天皇への忠誠を要求すると、国民からの反発もありえると考え、意祁王がやむなく配慮したのである。

記紀の比較2 ~原形の復元~
繰り返すと、上述のごとく、古事記を「少し掘ったことで公の尊王忠君と私怨を両立させた」のだと解釈するのは表面的な理解で、日本書紀が「予定変更して御陵の破壊を全面中止した」としているのと実質は古事記も同じであり、表現の違いにすぎない。
で、この表現の違いはどうしてできたのかというと、古事記がよくやるように後半の筋を略してしまった(もしくは原資料が古事記編纂時すでに破損していた)ので、それに合わせて弟天皇の結びの台詞も改変したからなのだ。古事記では顕宗天皇の台詞で意祁王の行啓に「幸行」(=行幸)という天皇にしか使わない言い方がされてる。これは意祁王を天皇扱いしてるのではなくて、顕宗天皇の台詞と意祁王の台詞が入れ替わってしまった痕跡だろう。すなわち顕宗天皇の台詞は(少し掘られた後で意祁王の説明を聞き)誤りに気づいた天皇が「この御陵を修繕するのは他人を遣わすべからず、専ら僕自ら行かん」といい、意祁王が「然らば命の随に幸行ませ」と答える、というのが原形だったと思われる。真相は兄が少し壊したところは弟天皇みずから後で修繕したのだろう。そこまで込みで一つの芝居だったと思れる。

記紀の比較3 ~原形主義と漢文の優劣~
古事記は原資料の段階で文章が前後錯簡して意味不明になっていたのを奈良時代に意味を通ぜしめんと適当に添削したため、原文の意図が失われた(≒わかりにくくなった)と推測する。
その結果、古事記は念入りに読まないとその趣旨を誤読しそうな表現になっているので、日本書紀では漢文の特性を活かしたストレートな趣向にしているわけなのだろう。書紀は、多少、台詞や行動を改作しているが、この物語で言いたかった本来の趣旨は間違えないようになっている。古事記の方は、まるで公義と私怨を両立させたかのような誤解を生むことになったが、すべては、たとえわかりにくくなろうとも原資料の形をできるだけ遺そうとした古事記の編纂意図によるのである。それは、一つの歴史書としての完成形態をめざした日本書紀との違いでもある。「古事記は尊王と復讐を両立しているのだ」という誤った解釈は、後世的な折衷主義に陥っており、仁賢帝の意図も貫徹されず、政治的な情況との関係(=前述及び後述の平群氏問題)も不鮮明になる。つまり古伝承の趣旨を壊してしまう解釈になる。これに対し、日本書紀は具体的な文面としては手を加えすぎだが、その分、本来の趣旨はちゃんと表現されているといえよう。
ただ書紀は文飾がアレなので、漢文特有の空々しさもなくはない。だから、記紀が編纂された当時の奈良時代の人は古事記を斜め読みして「仇討ちと両立させた」と誤解釈しても、もはやこれに何の疑問も抱かず、書紀を斜め読みして「仇討ちを全否定」する文章をみても漢文の見事さに気を取られて思想的な深みに入らない(現代でいえばカッコイイと思ってやたら英語を使いたがる典型的なアホと同じで、奈良時代から現代まで、漢文を珍重する人の多くは人格陶冶の厳しさとリアルに連動することなく、無意識のうちに建前のスローガンのように流している。現代でも哲学や思想が実際は趣味娯楽として消費されてるのと同じで、昔も漢文は鑑賞の対象にすぎない。現代でも、リベラルぶった言論人の多くは出版利権のムラ社会でポジショントークしてるだけなわけだろ、リベラル思想を体現してる立派な左翼なんてどこにいるんだよw)。奈良時代の皇位継承をめぐる数々の紛争の背後にある精神情況がこれだよ。

思想史上の意義
さて、この玉音放送にも比すべき、語部の上演を通じたメッセージによって、中国の思想だった儒教がようやく「日本化」した。すなわち中国人には「萬世一系の天皇」という観念が欠落していて、宗族制に依存して生きているため、「忠」ではなく「孝」こそが世界観を成り立たせる本質的な価値として優先され、王権は相対的なものにすぎない。だから支那流の儒教を真に受けていたうちは天皇への謀反にも儒教の理屈がこじつけられてきた例が記紀にいくつもあり、当時はまだ儒教は胡散臭いものと見られていたのである。だが、今後は「忠」が絶対であり「忠」が「孝」を超越するものという「日本的儒教」が確立していくことになる。これは当時の政局という水準でみれば、儒教を含めた中華の文物を売りにしつつ皇位簒奪を目論む平群氏に対し、平群氏のイデオロギー的な根拠を否定しようとする皇室、その両者の対立という構図になるのではあるが、日本史の長いスパンでいえば思想的な革命といっていい。こういう「日本流の儒教」の考え方は奈良時代以降、仏教思想によって希薄化されていくものの、中世にも、あるいは断続的に何度も現われ、あるいは一部の思想家に受け継がれて江戸時代に続き、水戸学や国学で再確認されて大政奉還につながっていく。

仁徳王朝の発祥の物語の再演
なお、この兄弟の対話は、復活したばかりの履中皇統が、仁徳王朝の正統・嫡流であることの宣言としても読めることは以前に書いた。再言すると、履中宮家は仁徳王朝の嫡流であるが、仁徳王朝は正統性が疑われる筋があった。本当は宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)が皇太子なのに、大雀命(おほささぎのみこと)と譲り合い、自殺してしまったためやむなく大雀王が即位して仁徳天皇になったが、正統な血筋に近い宇遅能和紀郎子の二人の同母妹を后にできず、妃にできた速総和気(はやぶさわけ)に反乱を起こされている。しかし同時に皇位の互譲というのは仁徳王朝の創業の神話でもあり、今ここにいる継嗣が一人ではなく二人の兄弟であることは、仁徳王朝の正統を継ぐ者であるというムードを演出する良い材料になる。宇遅能和紀郎子と大雀王は頑なに譲りあったため一方の自殺という重苦しい展開になったが、今回は二人とも交互に即位するという解決法で、忌まわしい過去を模擬的にやり直したことになる。

・1「置目老媼」とは何者だったのか?

H28・12・26WED改稿 H27(2015)年11月18日(水)初稿
置目老媼の話の疑問点
置目老媼の話は、何げなく読んでると、他愛もない(心温まる?)エピソードで、格別なにか問題あるようでもない。文学趣味から論じられることがあっても、古代史マニアの詮索の対象になってるところも見たことがない。なのでスルーしてもよいのだが、それだとやや面白くないので、あえて検討してみよう。
この話も、よく考えるといろいろおかしなところがある。

(A)まず、市辺押歯王が殺害されて埋められた時は、盛土をせずどこに埋めたのかわからないようにされたという。それなのに埋めた場所を知っているというのは、現場をリアルタイムで隠れ覗き見ていたということだ。そして、老媼はその頃、かなりの幼女でないと年代的に辻褄があわないが、そんな幼女が死体を飼い葉桶にいれて埋めているところを目撃したら、それだけでもショックでトラウマになりそうだが、正確にその場所を覚えていられるのだろうか? 幼児期の記憶の風景が、実際どこだったのか大人になってから調べてみたら、思ってたのとぜんぜん違う場所だった、なんてことはよくある。

(B)そして、何より疑問なのは、市辺押歯王の遺体を求めて埋葬しなおすというのは一刻も早く済ませたいのが人情だろう。日本書紀は編年を切り詰めて、兄弟が発見された翌年に顕宗天皇即位となっているため、どうしても即位後のこととしてしか書けなかったのだ、という解釈もできるが、古事記もまた即位後のこととしているのが不思議だ。以前に書いた通り、実際には発見された時、兄弟はまだ少年で、顕宗天皇即位の時30歳だから20年近くの間が空いている。つまり市辺押歯王の遺体探しやその葬儀は、即位のずっと前に済んでいてもよさそうなのに、なぜ即位まで為されなかったのか?

(C)それに置目の素性について日本書紀は狭々城山君(ささきやまのきみ)の祖、倭袋宿禰(やまとぶくろのすくね)の妹だというから、れっきとした貴族階級ではある。しかし古事記は淡海国の賤しき老媼とのみあり、一般庶民どころか賤民だったのではないかという解釈も可能な書きぶりだ。この落差は見過ごせないほど大きい。なぜ二説に分かれたのか。

(D)古事記には「民を起こして土を掘り」(人民を徴発して土を掘り)とあり、大規模な発掘捜査をやったようにも読める。置目の証言で最初から場所がわかっているなら、数人で掘ればよいのであって(なんなら一人で掘っても可)人民を徴発する必要がない。だから『日本書紀』には「民を起こして」とは無く、取り巻きのお付き武官にでもささっと掘らせたか、もしくは兄弟自身が自ら掘ったような印象になってる。これは日本書紀が原伝承の不自然なところに手を入れてるのであって、古事記が本当だろう。

(E)偉大な功績に報いるのに、莫大な褒美を与えるのはよくある話で理解できるが、「そばに置いて頻繁に呼び寄せる」というのは褒美なのか? 普通は莫大な褒美をもってさっさと故郷に帰りたいだろうし、高貴なお方の話し相手なんて、たまにならともかく、毎日のように相手させられたら肩がこってたまらんのではないか? これは褒美じゃなくて「一緒に暮らしたい」ってことだろう。身分差がデカいので同室同居はできないが、せめて毎日あってお話ししたいってこと、つまり家族として暮らしたいというふうにしか詠めない。

謎とき
(D)からすると置目の証言ははじめから必要なかったのであって、埋めた場所を知っていたというのも事実ではないのだろう。ではなぜ置目という老婆がでてきたのか、別の理由が必要になる。顕宗天皇としてはこの老婆を優遇することが最初から目的だったのではないか? 遺体の在処を覚えていたというのは、彼女を優遇するための名目だったのではないかと思う。なぜ賤民にすぎない一介の老婆を優遇しなければならないのか、理由はまったくわからないが、大胆に憶測すれば、顕宗天皇の実の生母だったとか、それぐらいの理由でしか(E)は説明つかない。日本書紀では意祁王(仁賢天皇)・袁祁王(顕宗天皇)の兄弟の母は葛城蟻臣(ありのおみ)の娘、荑媛(はえひめ)ということになっているが、古事記では記載がない。すでに別の記事で書いたように、意祁王・袁祁王の兄弟は市辺押歯王の子ではなく孫(もしくは曾孫)だった。ということは荑媛(はえひめ)は母でなく祖母であって、母は不明となる。そして『播磨風土記』には両皇子の母を「手白髪命」としている。仁賢天皇の皇女にも「手白髪郎女」がいるからこれを伝承の混乱として切り捨てる説もあるが、祖母と孫娘が同名を襲名していてもおかしくないだろう(「飯豊王」の例と同じ)。仁賢天皇の皇女の名から逆推して、仁賢天皇の生母の名が「手白髪命」なのは動かない。仁賢天皇と顕宗天皇は同母兄弟ということになっているが、訳あって顕宗天皇の実母のことは伏せられていたのだろう。
天皇として即位するまで遺体の回収が行われなかったのではなく、日本書紀の即位元年二月の詔に「広く御骨を求むれども能く知る者莫し」とあり、簡単な調査や小規模な捜索はずっと前からされていたように読める。履中宮家の私有民を使っての小規模な捜索は前からやってたのだろう。平群氏と抗争中の一介の皇子で必ずしも皇統の行く方が不透明だった時には、大規模な国民の徴発はやりづらかった。まだ市辺押歯王の子孫から天皇が出ていないうちは、市辺押歯王の葬儀は履中宮家の私事なのだから、国民を大規模に使役するのは非難をうける可能性もある。だが天皇に即位した今こそチャンスだった。ぐずぐずしていたらまた平群が巻き返してきて情況が悪い方にかわってしまわないとも限らない。かくして、遺骨の発見と回収は置目老媼とは無関係に、無事に済んだ。
日本書紀の顕宗元年二月には、老人たちを集めて顕宗天皇みずから一人一人に質問したが、置目はその中の一人だったという。しかし闇雲に年寄りを集めても埒があくものではない。遺体を埋めた場所について知ってそうな老人たちでなければならないが、そんな人どうやって集めるの? 企画自体に無理がないか? これは置目老媼の登場を説明するための後付け説明で、実際にはこんなシーンはなかったのだろう。古事記はシンプルに、いきなり置目老媼が都に出頭して埋めた場所を明かしたことになっている。これもやや不自然ではあるが、事前に全国に呼びかけたというのなら、日本書紀よりはましだろう。袁祁王は生き別れの生母をなんとか呼び寄せたいと願っていたが、政治抗争中のことゆえ人質になったり何らかの形で敵に利用されないとも限らないし正体が明かせず身分が賤しいままだと公式に護衛をつけるのも宮殿に住まわせるのもままならない。袁祁王は意祁王の同母弟ということになっているので、公式に母という扱いはできない。また履中皇統の再興が成るまでは私事に余力を割くわけにも参らぬ。
そこで天皇になった今こそ身近に呼び寄せて、本当のことは明かせずとも、家族のように暮らしたわけだろう。生母だということが明かせないから、他の理由が必要になる。それが「遺体の場所を知っていた」という仮想の手柄話なのである。上記の(C)について日本書紀は、倭袋宿禰は妹の置目の功績によって、狭々城山君の本姓を回復したというが、これは置目を倭袋宿禰の妹だとすることによって、賤民身分ではなく貴族の末流だとするための方策だろう。それを条件に一度潰れた狭々城山氏を復興させたのだ。やはり賤民のままでは、皇宮に出入りしたり天皇と家族同然につきあうというのは周囲が許さなかった。

親子ならなぜ老衰が帰郷の理由になるのか
日本書紀では置目による遺体回収が元年二月、それで置目が皇宮のそばに住むことになり、翌年の九月には老衰を理由に故郷の近江に帰ったことになっており、一年半ちょいの期間となっている。本当の親子ならここで帰郷するのはおかしいと思うかもしれないが、この頃はまだ平群氏が滅んではおらず天皇といえども政敵に取り巻かれているのだから、顕宗天皇の優遇の仕方に不審を抱き、実の生母は賤民だったというスキャンダルが暴かれないとも限らない、という情況になってきたのだろう。別に生母が賤民であること自体がスキャンダルであるかどうかは考え方次第ではあるが、隠していたことが不利になる。始めから明かしていれば問題ではなかったのだが、記紀は古伝承の断片であり、完全版ではないからどうしても穴があり、経緯に不明なところがあるが、生き別れになったままよもや再会する日があろうとは本人も周囲も思ってなかったのかも知れない。
それで息子のためを思って自ら身を引いたのではないだろうか。実際のところは老衰もしてなかったのだろう。以前にとりあげた和歌山県の地方伝承だと、両天皇の父「久米若子」は兄弟が宮中に引き取られた後も、民間に潜んで一人で暮らしていたようにも聞こえるので、置目老媼も近江(設定上の偽の故郷)に帰ったのではなく夫である久米若子王のもとに帰ったのではないだろうか。息子はもう大丈夫だが老境で一人暮らしの夫の方が心配になったのだと思う。

政治政策としての一面
…と、ここで終わりにすると置目の話は顕宗天皇の個人的な物語になってしまうが、政治政策としての意味も当然ある。この頃の日本は経済発展をとげて景気が良かったが、それは同時に貧富の差の拡大した時代でもあることは、このブログの他の記事でも何度かいってきた。それで治安の悪化も社会問題になっていたと想像される。当時は氏族や家族という血縁共同体が個々人の社会保障の役割をも担っていたのだが、離散家庭や寡婦などの孤独者はセーフティーネットがなく、まだ体力の衰えないうちに徒党を組んで愚連隊になるしか生きる道がない。置目老媼は宮中に出入りする必要から、形式上、倭袋宿禰の妹という扱いにはなってはいたが、もともとただの賤民であることは周知の事実だった。しかも、実は別に市辺押歯王の遺体の在処を知ってたわけでもなかったらしいという噂も広がったかもしれない。しかしそれでもなおかつ天皇みずから一介の賤民の寡婦を手厚くもてなしてる。これは貧乏人を虫けら程度にしか思わず労働争議を起こしてばかりいる富裕層への圧力だと庶民は受け取ったはずだ。顕宗天皇は富裕層(とくに行政の末端にいる地方豪族)の責務として統治領内の貧民を保護し福利厚生を図るべきことを自ら身をもって示したのではないだろうか。

跛行儀礼と猪甘老人の真相
この話に関連して、山代猪甘老人(やましろのゐかひのおきな)を処刑した話に触れなくてはならない。弁当をカツアゲされただけで身分の低い老人を処刑するのはいかがなものかと思われなくもないが、今でこそ天皇陛下でも当時は逃亡中の危機に怯える子供であって、よほど怖い思いをしたのかも知れず、あれこれ大人ぶれというのも可哀想かも知れないが、本人を斬刑にしたところまではともかく、一族みな臏刑(膝の筋を断つ刑)に処したのはどういうことか、日本ではこの時代も連座制の風習はなく、謀反人の子孫でも地位を失わない例が数多くある。察するところこの一族(ヤカラ)とは愚連隊行為を働いていた一団という意味で、かの老人もその一人だったにすぎまい。
なお、古事記は続けて「それで今(奈良時代)に至るまで、山代猪甘の子孫が山城から大和へのぼる日は必ず跛行する」といっている。膝の筋を切られたからといってそれが遺伝するわけもなく、連座制がなかったのだから子孫代々同じ刑を受けたということもありえない。なのでこれは事実ではない。が、那良戸(ならと。大和から山城へ抜ける国境)における「跛行儀礼」の起源譚として語っているのである(国境といっても、外国との境ではなく今でいう県境のこと)。「跛行儀礼」については適当にネット検索して調べて下さい(いろいろ難しい説明が出てきますがこのブログでは省略)。垂仁天皇のところですでに国境とは盲(めしひ)・跛(あしなへ)に出会う可能性のあるところという認識が出ている。実際に行き場のない身体障害者がどこにも属さない場所としての境界に集住していたのだろう。民俗学や人類学では、境界領域は通常の秩序が消失して渾沌が垣間見られる(/渾沌が湧きだす)危険なところとされている。現実に、行きずり強盗やカツアゲが発生する場所であって、子供時代の袁祁王は被害にあったわけだ。
ただこの場合の強盗、追い剥ぎの類は、一方的に逮捕処刑してるだけでは根本的な解決にはならない。山代猪甘も目に刺青をしていたとあり、平均的な庶民階層ではなく、賤民か前科者かともかく底辺の下層民だった。それは障害者も同じだったろう。古事記が顕宗天皇の時代に跛行儀礼の起源譚を載せるのは、実際に顕宗天皇が跛行儀礼を初めて定めたことを暗示してるかもしれない。もとは、障害者にいくらか恵むことで、彼らの霊威によって通行の安全を保証してもらう行為だったと思われるが、貧困が蔓延して治安が悪化すると、愚連隊の偽装障害者が通行税をゆするようになる。山代猪甘の一族に処した臏刑(膝の筋を断つ刑)は彼ら愚連隊の偽装障害者たちに与えた罰だったのだろう。偽装障害者が通行人の財布の中身を奪ってしまうと本物の障害者はますます困窮する。境界領域は魔物が出現する危険な場所だから、魔除けの儀式が必要となるのだといっても、その儀式は本物の身体障害者にしかできない儀式とされねばならない。通行税のように人々は彼らに物品を支払って通る。これが「跛行儀礼」の社会福祉的な一面であり、顕宗天皇の貧民救済策の一つだったのだろう。

顕宗天皇の人となり
顕宗天皇の性格を紹介して、こう書かかれている。

【原文】
天皇久居辺裔、悉知百姓憂苦。恒見枉屈、若納四体溝隍。布徳施恵、政令流行。恤貧養孀、天下親附。

天皇久しく辺裔に居(ま)して、百姓の憂ひ苦しみをことごとく知りたまへり。恒に枉げ屈(くじ)かれたるを見ては、四体を溝隍に納(なげい)るるが若し。徳を布(ひろ)め恵みを施し、政令流行(おこな)はる。貧しきを恤(めぐ)み孀(やもめ)を養ひ、天下親(むつ)び附く。

【翻訳】
顕宗天皇は長いこと田舎ぐらしだったため、士農工商の悩み苦しみをことごとくご存知であった。庶民を虐める役人の不正を見ては、我が身がドブに投げ捨てられたように憤った。即位してからは徳治と福祉の政策はしっかり行われ、貧民を救い、寡婦(置目老媼のこと)を養って手本を示したので、天下万民が助け合い、治安の悪化は解消された。

『日本書紀』顕宗天皇即以前紀より

御陵の土
この物語についてはhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-216.html)">「顕宗天皇の玉音放送」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-216.html)に続きます。
※最後に、古事記の物語が顕宗天皇で終わってるのはなぜか、という問題がありますが、これについてはまたいずれ詳しくやります。
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