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『古事記』下巻の意図

2679年(H31年・新年号元年)3月22(金)改稿 H28年2月17日(水)初稿
『古事記』は武烈天皇を悪王とはしていない
武烈天皇はあれこれと残虐な行為を嗜んでいた悪王で有名だが、それは『日本書紀』に描かれた武烈天皇であって、『古事記』にはぜんぜんそんなことは書かれていない。これは『日本書紀』が、中華式の王朝交代にみせかけるために、仁徳系の最後の武烈天皇を暗愚に、息長系の最初の継体天皇を英邁に、それぞれ脚色したものだということは以前にも書いた。しかし『日本書紀』は余計な脚色をプラスしただけで、事実を消したりはしていない。実際の人物像は逆で、武烈天皇は聡明果断な英雄であり、継体天皇の方が失政が目立つ。つまり事実と真逆の脚色をしているために、記述が矛盾してチグハグになっている。
『古事記』は余計な脚色をしておらず、武烈天皇については良くも悪くもいってないが、以前に説明した通り、志毘臣(=平群鮪)を成敗したのは顕宗天皇ではなく、まだ皇子だった頃の武烈天皇(=小長谷若雀命)だったとする『日本書紀』が正しく、『古事記』はこの点については誤っている。本来この記事があったとすれば『古事記』の武烈天皇はかなり果断で英雄的なイメージだったはずである。これに対して、『古事記』では継体天皇にも何らの記事がなく、いわゆる「闕史十代」の3人めとされている。が、よくみると、ただ一言、たったの一行で、「磐井の乱」(紀:磐井、記:石井)が起こったので物部荒甲(紀:物部麁鹿火)と大伴金村の二将軍にこれを鎮圧させた話だけが載っている。これだけみると武烈天皇が平群氏を滅ぼしたように、継体天皇も磐井を滅ぼして功績をあげているように一見おもわれる。が、ではこの一行を加えることで『古事記』は継体天皇を顕彰しているのだろうか?

「磐井の乱」とは
詳細は継体天皇のところでいうべきなので、ここでは簡単に説明する。
新羅が金官(そなら:今の慶尚南道の金海(キメ))と喙己呑(とくことん:今の慶尚北道の慶山(キョンサン))という2ヶ国を侵略したため、継体天皇は新羅を征伐して2ヶ国を復興しようとして、近江臣毛野(おうみのおみ・けぬ)という者を将軍として、彼に6万もの大軍を授けた。新羅がこの2国を併合したにはやみくもにいきなり侵略したのではなく、長い経緯があるんだが今回はそこは省略。で、九州の筑紫国造だった竺紫君石井(つくしのきみ・いはゐ)は新羅と結託し、任那派遣軍を阻止するため反乱を起こした。ここで磐井が謀反を起こしたのは、これもそれなりの理由があったわけだが、その話は継体天皇の回でやることにして今回(武烈天皇の回)ではやらない。いちいち長くなるので。さて、近江臣毛野は6万もの兵力を持ちながら磐井の反乱軍をどうすることもできず、後からきた物部大連荒甲(もののべのおほむらじ・あらかひ)が磐井を平定した。それでやっと近江臣毛野は任那に着任したのだが、その間にたっぷり時間をかせいだ新羅に翻弄されたのもあり、本人の無能さのせいで味方であるはずの任那や百済とトラブルを起こし、任那諸国に大混乱をもたらし、任那諸国からは怒りを買い、百済には日本政府の政治音痴がバレてしまい、半島南部における日本の権威は地に堕ちた。
つまり、「磐井の乱」という一つの独立した事件があったのではなくて、「継体天皇の新羅征伐」という7年間も続いた一連の大事件の中に、「磐井の乱」というわずか1年(足かけ2年)の一幕があるにすぎない。

継体天皇に批判的な『古事記』
磐井の乱そのものは鎮圧されたが、乱の余波は甚大な被害をもたらした。それは任那の大混乱であり、ひいては任那日本府滅亡の遠因となっている。しかも、悪の元凶というべきは近江臣毛野だ。
この近江臣というのは竹内宿禰系で、羽田氏の同族なんだが、滋賀県の高島市を本拠として、継体天皇が生まれ育った三尾の高島宮(書紀には「高島郡三尾の別業」ともあり)があったところ。つまり継体天皇とは個人的に深いつながりがあった。このことから角林文雄などは、無能なやつを抜擢したのは「継体天皇の情実人事」だとまで言ってる。確かに物部麁鹿火の時と違って、大軍を率いて出陣したわりに詔勅もでてない。これは通常の正規の手続きでの任命でない可能性がある。中央政府から何度も帰還命令が出てるのに無視してたのも、継体天皇じきじきの命令でなければ帰還するわけにはいかないという事情があったのかもしれない。
ともかく角林文雄の説が正しければ、この無能な若者を抜擢したのは継体天皇本人なのである。いってみれば磐井の乱は継体天皇の功績というよりも、最大の失政であり、わざわざこの件だけを唯一書き加えているのだから、当時の事情に詳しい人がみれば『古事記』が継体天皇を顕彰しているどころか遠まわしに批判していることは明らかである。『古事記』は
この御世に、竺紫君石井、天皇の命に従わずて礼無きこと多かりき。かれ物部荒甲の大連、大伴の金村連の二人を遣わして、石井を殺さしめたまひき
とあるが、これは精一杯、遠まわしに書いてあるのであって、歴史的事件の説明としては要領を得ていない。ここは客観的に遠慮会釈なくいえば
この御世に近江臣毛野を遣わして任那を惑わしめ乱さしめたまひき
と言うことなのである。ただし、ここで、継体天皇を擁護しておくと、実は「磐井の乱」の直前に継体天皇は崩御しており、新羅征討軍として準備された6万の軍を解散するわけいもいかず、喪を隠して迅速に半島問題を解決してから崩御を発表しようとしたらしいのだが、詳細はここでは触れない。ただ、そういう事情をもし原編纂者が知っていれば、これは継体天皇個人への批判ではないことになるが、おそらく知らなかったろう。(これは継体天皇じきじきに近江毛野に帰還命令を出せなかった理由でもある。本人がすでに崩御していたので)

では『古事記』は誰を顕彰しようとしているのか
『古事記』の下巻は、仁徳系統が断絶し、(仁徳系と同じく応神天皇の別れだが)別系統の継体天皇が応神系を継ぐという、「応神皇統」の物語なのだ、と誰しも言いたくなるだろうが、前述のようになぜか継体天皇には批判がましい雰囲気がある。継体天皇を顕彰しようと思えば他にもいくらでも記事があるのに「磐井の乱」だけをいうのは解せない。
そこで別の説としては、系譜しかない闕史十代を除いて物語だけでみると、仁徳天皇に始まり、顕宗天皇に終わっているので、市辺押歯王が雄略天皇に殺されて履中天皇の系統が一旦途絶え、その後、仁賢・顕宗の兄弟が復位して履中皇統(仁徳天皇の嫡流)を復興させるという、仁徳(=履中)系の復興をテーマとした壮大な歴史の物語とみる説がある。この説の場合、仁徳系だからといって履中系と允恭系を同一視せず、允恭系の允恭・安康・雄略・清寧の4帝のことは悪王として描いているか、少なくとも称賛してはいないのだ、とする。そして、あくまで履中系を称賛するのが目的だという。しかしそれだと、武烈天皇で断絶してしまうわけだから、「めでたく大団円」とはいかないだろうと思う。
ならば、第三の選択として、断絶の悲劇を描くというテーマ設定もありえたはずだが、実際の『古事記』は明らかにそういう趣旨にはなっていない。では『古事記』は磐井の乱をいうことで何を意図しているのか?
第4の説として、継体天皇の回でいうべきことなのでここでは簡単にしかふれないが、531年三月に天皇が崩御したという『百済本記』は伝聞だという体裁になっており、ストレートに事実だとはいってない。朝廷は継体天皇の喪(実際は丁未527年に崩御)を隠していたので、531年十月に日本府の毛野と対峙していた百済新羅連合軍が解散(書紀は誤って前年のことにしている)して任那問題のすったもんだが一段落したのを機に、継体帝から欽明天皇への譲位を発表したんだろう、だから532年を欽明天皇元年とする史料(『元興寺縁起』とか『法皇帝説』とか)が残ってるわけ、つまり書紀のいう空位2年間は本当は欽明天皇の在位期間だったのだ。だがその後、任那情勢は沈静化するどころかますます混乱して目も当てられない情況に突入していき、欽明天皇の在位はわずか2年で、兄の安閑天皇の即位となる。この時は継体帝(というか上皇だが)は生きている建前だったから、継体上皇の意志ということにして「まだ幼い欽明天皇では現下の困難な情況を乗り切れない」から、欽明天皇が十分成長するまでの間、有能で年長の安閑天皇に一時的に天皇になれ、と遺言して継体上皇は崩御した、という公式発表にしたのである。安閑天皇は任那四県割譲問題の時も情況を正しく認識している憂国派として登場してるし、書紀は安閑天皇に期待し依存する継体天皇の詔勅を載せているほどで、実際に崩御した527年以降といわず、継体天皇がまだ若い頃、まだ近江や越前を治めていた頃から二人の有能な息子に補佐されてきていたんだろう。だから混迷うずまく継体朝の末期は実質、まだ皇子だった安閑天皇と宣化天皇の兄弟が事態を捌こうと四苦八苦して駆けずり回っていた。近江臣毛野が起こした一連の騒乱があった当時、世間では、継体天皇とその嫡子欽明天皇の頼りなさ、それに比べてこの間に活躍した勾大兄皇子(のちの安閑天皇)と檜前高田皇子(のちの宣化天皇)の兄弟の有能さと聡明さが際立ち、内外の人望を集めたと思われる。つまり当時の人なら「磐井の乱」と聞いただけで、継体帝・欽明帝の父子への気まずさと、安閑・宣化の兄弟への称賛を同時にセットで連想したのである。
つまり『古事記』が遠まわしに意図しているのは、安閑天皇と宣化天皇への顕彰であり称賛なのである。ただし安閑天皇には子孫はいないので、安閑天皇を意図的に顕彰・称賛しようという勢力は思い当たらない。宣化天皇の子孫は丹比氏であり、宣化天皇の四世孫(玄孫)多治比真人島(たぢひのまひと・しま)は天武・持統の両朝に仕えて左大臣に昇り、その息子たちも記紀が編纂された奈良時代にみな朝廷に重きをなして、繁栄していた一族だった。奈良時代は草壁皇子の系統だけが皇位を独占しようとしていたのに対し、草壁系統は断絶の危機にあり、それが奈良時代に何人もの女帝が立った原因でもある。そこで、草壁皇子以外の天武天皇の系統の皇族たちや、天智天皇の系統の皇族たちには皇位継承の可能性が残されていたのである。丹比氏も、遠縁とはいえ、当時活躍中だった者たちは宣化天皇の五世孫であり、これは継体天皇が応神天皇の五世孫だったのと同じ。では、この丹比真人氏が自分らの祖先である宣化天皇を顕彰しようとしたのかというと、それがそうではない。

『古事記』下巻は「多治比連に伝わった帝紀」である
この多治比真人嶋の父は多治比王といい、乳母氏族(養育氏族、扶養氏族ともいう)が丹比連氏(のちに丹比宿禰氏)だったことから、多治比王の名で呼ばれた。宣化天皇の子孫である丹比公氏(のちに丹比真人氏)と丹比連氏(のちに丹比宿禰氏)とは別系統の別氏族ではあるが、深い関係で結びついてはいる。
丹比連氏はもともとは尾張連氏の傍流、分家で、反正天皇が誕生してその乳母となった時に、仁徳天皇からの特別の思し召しによって、尾張氏から別れて一家を起こした。反正天皇が皇子の頃に山の民の管領に任ぜられたため、補佐役の丹比氏も山の民の首領的存在になっていく。反正宮家は男系子孫が途絶えてしまったが、ずっと時代が下がって継体天皇の曾孫多治比王の乳母になり、その子孫の丹比公(丹比真人)氏と縁付いた。そのため宣化天皇の御名代である檜前部(ひのくまべ)も管領したし、秩父の丹党は宣化天皇の子孫と称するも、太田亮は檜前部の子孫だろうと推定している。秩父は東日本きっての聖山なのでここに山民の首領たる丹比氏が土着するのはむしろ当たり前で、そこらのありきたりなことしか言わない連中のように後世のこじつけだ等と決めつける理由はない。
秩父三山の一つ、宝登山は蝋梅(ろうばい)で有名。いちど行ってみてほしい。俺もいったけど香りが強くて素晴らしい。
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『古事記』下巻は丹比連氏の伝承に基づいているという説が昔からあり、さらに具体的に奈良時代の多治比島(丹比島)や、丹比間人宿禰足嶋(たぢひのはしひとのすくね・たるしま)が関与しているという説もある。記紀編纂の時、多治比嶋は有力者として関与できる立場にはあったが、新しい氏族であるため独自の伝承としてはさほど古いものはもっていなかった。しかし天之火明命の子孫と称する丹比宿禰氏は極めて豊富な古伝承をもっていたので、丹比真人氏の有力者を通じて記紀編纂に採用してもらおうとしたのだが、丹比宿禰氏は下級貴族で、上層貴族の世界の、皇位継承をめぐる不穏な空気に疎かった。それで、丹比宿禰氏が提出した史料は、良かれと思って丹比真人氏を顕彰してあったのだろうが、そんなものは丹比真人氏からすると謀反の意志を疑われかねない危険きわまりない爆弾のようなものだったから、当然却下した。そういうわけで丹比宿禰氏は『日本書紀』に食い込むことには失敗したが、何かのルートで太安万侶か稗田阿礼とは接触できたのだろう。

古事記は日本書紀とは違って、古い書き方を残そうとしている。なのに、「すくね」という言葉に限ってのみ「足尼」という古い書き方でなく「宿禰」という新しい書き方のままなのが不思議だったのだが、丹比氏は天武十三年に「八色の姓」の第3位である「宿禰」を賜り、連から昇格している。「足尼」と書いては読みが同じスクネでも制度としては「宿禰」と関係がない。「宿禰」を強調し、連想してもらい、自家のカバネを顕彰したかったんだろう。

このブログの別の記事で書いたが『古事記』は当初、神代巻だけの予定で、『日本書紀』は神武天皇以降だけで神代巻は無しになる予定だった。帝紀の編集部(=『日本書紀』の編集部)は稗田阿礼の「帝皇日継」はもちろん、その他の多くの資料を採用したが、息長氏と丹比氏の古伝承に対しては、史料的な価値は高いのに、それぞれの事情(あるいは政治的事情)で排除した。『古事記』編集部は義憤から、それらの価値ある伝承を採用して、息長氏の伝承から中巻を、丹比氏の伝承から下巻を作ったのである。だから『古事記』の中巻・下巻は稗田阿礼の「帝皇日継」と同じではなく、息長氏と丹比氏の伝承以外は最低限必要なこと以外はすべて切り落としている。もともとの稗田阿礼の「帝皇日継」の内容は『日本書紀』に採用済みだからだ。
丹比連氏は反正天皇=多治比水歯別命(たぢひのみづはわけのみこと)の乳母氏族でもあったが、二皇子二皇女がいたにもかかわらずその後の反正天皇の子孫は伝えられていない。しかし反正天皇の御名代(みなしろ、所領)の管理者だった丹比連氏はその後も当主不在となった「反正宮家」の管理人だったのではないかと思われる。雄略天皇に嫁ぐことを拒否したと伝わる反正天皇の皇女らのその後は不明だが、あるいは丹比連氏に降嫁していたかもしれない。とすると、丹比連氏は当面の庇護を雄略系の諸天皇にではなく、「履中宮家」に求めていたと考えられる。そう考えれば、前述の、『古事記』下巻が允恭系を称賛せず、履中系を主軸とした構成になっている理由がわかる。
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(※中巻の経緯についてはまた別の機会に譲る。)

・武烈必殺★残虐の王権

平成28年2月1日(月)改稿 平成27年2月18日(木)投稿 平成27年2月17日(水)初稿
記紀に描かれた武烈天皇の人物像
武烈天皇といえば、『日本書紀』には残酷な行為をたくさんやったことが書かれていて、2chとかではサヨクのネタにされることがある。「神武不殺☆平和の王権」をもじって「武烈必殺★残虐の王権」とかねw だが、日本書紀をよくみると「刑罰や裁判についてはいつも的確で、政治に熱心であった」とも書いてあり、そこだけみると立派な天皇だったようにも書いてある。なのに、いきなり「一つも良いことをしなかった」から始まって残虐な悪行の記事が続いていて、ちぐはぐな文章にもなっている。

武烈天皇に対する現代の通説
通説では武烈天皇の残虐行為が事実だったとはみられていない。そもそも武烈天皇の存在自体を疑う説もあるぐらいなのだから、ある意味あたりまえだが、武烈天皇を実在の天皇と認める説でも、やはりそれらの残酷行為を事実ではないとしている。それはなぜか。
悪行の記事は、上述のように、いかにも取ってつけの感じのするもので、それで江戸時代の国学者なんかにも、同時期の百済の末多王の悪行の記事が誤入したものではないかと言われていた。天皇の実在を否定して抹殺博士といわれた津田左右吉の説では、仁徳天皇の家系が武烈天皇で途絶え、継体天皇の家系が新しく始まるので、これを中国式の王朝交代に見立てて、この家系の初代仁徳帝を徳のある名君、最後の武烈帝を暗愚な暴君として描いたのだという。いうまでもなく中国の儒教の考え方では徳のある人物に天命がくだってその人が新王朝を開き、その子孫がやがて徳を失い、暗愚な皇帝が出ると、また別の人物に天命がくだってその人が次の新王朝の初代となり、前王朝は滅ぼされる。その儒教の理論で継体天皇の正統性を主張するためには、武烈天皇が天皇にふさわしからぬ人物でないと困るわけだ。なので、うっかりすると「なるほど、津田左右吉のいう通り、武烈天皇の残酷な悪行はウソだったんだな、武烈天皇はそんな悪人じゃなかった」んだな、と納得しそうになる。

記紀が編纂された奈良時代の風潮
現代人は奈良時代というと古事記や日本書紀、万葉集を連想して国粋的な時代だったと勘違いしてる人が多いが、実際には第一に仏教、第二には律令制の全盛で、仏教はインド伝来の宗教、律令制は中国からきた政治制度。外国崇拝の風潮が強い時代で、和歌よりも漢詩が多く詠まれた時代でもある。「日本は万世一系で王朝交代が無い」ことを誇っている人がいつの時代にもおったけれども、その反面、「儒教の方が合理的で進んだ考えであって、馬鹿でも阿呆でも血筋だけで天皇だという考えは未開で遅れた考え方だ」という人も、いつの時代にもいたことはいたのです(時代によってその割合が多かったり少なかったりするだけ)。奈良時代はどちらかというとそういう儒教的な考えをもった人が割かし多かった。だから称徳天皇が道鏡を寵愛したのも、道鏡を天皇にしようとしていたという説があるぐらいで、もちろんそんな計画は実現しなかったので称徳天皇が実際どう考えていたのかは議論があるけれども、当時のインテリは漢文の専門家で大抵はシナかぶれだから「もし王朝交代ができたらこれで日本も中華に近づく、めでたしめでたし」と考える馬鹿者もインテリの中にはさぞかし多かったろう。

残虐行為の記事は後世の捏造ではない?
しかし、武烈天皇の残酷な悪行はこれ説明ついたとしても、じゃ雄略天皇の場合はどうなるんだ? 説明つかないじゃないか。古事記には武烈天皇の残酷行為は一切書かれてない。が、ヤマトタケルの場合は逆に、日本書紀ではカッコいいヒーローで残酷行為はしてないのに、古事記では頭のイカれた小僧としか思えない奇っ怪な行為をしてる。ヤマトタケルについては日本書紀は綺麗事で描こうとしたから残虐行為はわざと載せてない、つまり古事記の方が正しいというのが通説。雄略天皇は実在説が有力で、その残酷行為には学界でも素人古代史マニアでも、ウヨからもサヨからも、とくに否定説は見当たらない。とすると、ヤマトタケルや雄略天皇という先例があるのに、どうして武烈天皇だけはそれやってないと言えるのか? 武烈天皇は父仁賢天皇崩御の年に10歳で、その時に大伴金村の助力もあったとはいえ、平群真鳥を武力で滅ぼすという大功があった。少年にして大賊を滅ぼした人物というのは、この時点ではヤマトタケルと雄略天皇の二人しかいない。よくいわれることだが、武烈天皇の御名「小長谷若雀命」(をはつせわかささぎのみこと)の「小長谷」というのは、雄略天皇の御名「大長谷若建命」(おほはつせわかたけるのみこと)の「大長谷」を意識したもので、雄略天皇の後継者を自認していることを誇示した御名であらしゃいまするぞよ。そしてこれも近いことは他でもいってる人がいるが、雄略天皇の御名「大長谷若建命」の「ワカタケル」はヤマトタケルの再来として呼ばれた渾名からきているだろう。つまり、名前の上でも、実際の事績の上でも、「ヤマトタケル=雄略天皇=武烈天皇」の3人は、先代の後継者、先代の再来のような関係になっているのである。だから武烈天皇が残虐行為をなしたという記事は、たしかに王朝交代を説明するためという目的もまったくなかったともいえないかもしれないが、それ以前に、そもそも武烈天皇が武烈天皇であるため(「雄略天皇2世」であるため、「ヤマトタケル3世」であるため)必然的・本来的に備わっていた伝承だったと思われるのだ。

記事は「捏造ではない」のに実際の行為は「事実ではなかった」?
雄略天皇の場合、少年時代には実際にサイコパス的なところもあったように書かれているが、長生きしたので大人になるに従って、へんなところは治ったみたいだ。ただし少年期にはヤマトタケル以上に壊れてたので、大伴室屋(おほとものむろや)、物部目(もののべのめ)、平群真鳥(へぐりのまとり)の三閣僚と皇后の若日下部王(わかくさかべのみこ)からなる有能なマネージャーカルテットが「ヤマトタケルの再来」という演出に成功しなければ、暴走しまくった挙句どうなったことやらわからない。ところが、武烈天皇の場合はまた別で、日本書紀に「法令に詳しく、日暮れるまで政務に励み、知られざる無実の罪は必ず見抜き、ややこしい裁判を処理することが巧かった」とあるから、ヤマトタケルや雄略天皇みたいな、発想や行動の読めぬ「自由人」とは似ても似つかぬタイプで、まったく正常な、キマジメでまともな人間だったろう。とすると、支離滅裂な残虐行為をなしたというのは、後世に捏造された記事ではないとすれば、考えられることは一つ。当時、実際にそのように宣伝されたんだろう。それは「朕は雄略天皇の再来であるぞ」という計算された演出なのである。だからこの残虐行為の犠牲者というのは、みんな役者なのである。とはいえ、一般人をエキストラに使ったのではなく、恐らくは「巧く芝居できたら罪を軽減してやる」という条件で凶悪犯とか死刑囚とかを使ったのだろう。だから役者たちは鬼の形相で必死で演技するが、残酷行為といっても芝居だってわかってるから、それを見てる武烈天皇は笑いをこらえざる得ない。これを見た一般人は「こんな残酷なことして不気味な笑い、なんて怖い天皇だろう」と震え上がるわけだ。
さて、この演出で誰が得して誰が損するのかといえば、それも明白で、有力な大貴族たちにしてみれば、雄略天皇のような恐ろしい天皇は、気が抜けないし迷惑この上ない。しかし庶民からすると雄略天皇は悪の巨頭である葛城氏を滅ぼした英雄であり救世主でありカリスマなのである。(今回はその詳細に触れないが、以前にこのブログで詳しく書いた通り)

ここまでのまとめ
このような演出は最初からあったわけではなくて、大伴金村(おほとものかなむら)と顕宗上皇(顕宗天皇がまだ生存していたことは以前にこのブログで書いた)が平群氏を滅ぼした時点では天皇不在で、形式上の命令者である皇太子がまだ子供だったから、かつての雄略天皇が即位前で少年だった時に葛城氏を滅ぼした事件が連想され、自然と誰いうともなく、イメージが形成されたろうが、大伴金村か顕宗上皇か誰かとりまきが思いついて意図的にそういう宣伝をしたかも知れない。
むろん、即位前に平群氏を滅ぼしたという「武力の勝利」の厳然たる事実がなければ、このような演出はただの小細工に終わり成功しなかったろうし、そもそもこんな演出をやろうとも思いつかなかったはずである。
もう一度まとめると、①なぜ残虐行為が伝わってるのか、それはそういう演出があったから。②なぜそんな演出をしたのか、それは雄略天皇の再来を自称するため。③なぜ雄略天皇の再来を自称したのか、それは即位前の少年でありながら巨悪たる平群氏を滅ぼしたから。④なぜ平群氏を滅ぼしたのか、それは雄略天皇崩御以来、皇室と平群氏との間に確執が続いていたから。

残虐行為の神話的な意味
そこまではわかったとしても、現代人にとってわかりにくいのは、なぜ残虐行為が必要とされるのか。仮にヤマトタケルにそういう習癖があったとしても、悪いところまで引き継ぐ必要はないのではないか。少年時代の雄略天皇は、考えた結果ヤマトタケルを真似たわけではなく、ありのまま生きていただけだから別としても、武烈天皇の場合は余計な演出だったのではないか。…と考える。しかしそれは現代の価値観にすぎない。原始王権はカミという人智を超越したものに由来する。神話は理解不能だから神話なのであり、近代的小市民道徳にこじつけてまで「神話は素晴らしい」と言う理屈はあくまでも現代人にとって都合のいい理屈であって、それは神話を矮小化しているのである。
通常ならば絶対に不可能な超人的な功績を、ヤマトタケルが成し遂げたが、その予兆として、ヤマトタケルは不可解で非常識で残酷な少年として描かれている。現代人はヤマトタケルは悲劇の主人公だとばかり刷り込まれて、ヤマトタケルの残虐行為については都合よく読み飛ばしてるが、それでは古事記をただしく理解してることにならないだろう。もともとどこかおかしな人間だから、不可能事を可能にし得た。王になぜ権力があるのかといえば、この世の秩序の外側にいる(=カミガミの世界とつながっている)からである。アナーキーな情況とは、日常的世界の破れ目から天地開闢の渾沌(カオス)が降臨する瞬間なのであり、巨大な自然災害のように、「理解できない事態」こそが畏怖すべき「カミの示現」なのである。残虐行為はカミであることの告知であり刻印である。ゆえにヤマトタケル・雄略天皇・武烈天皇の3人にこそ、天皇の真実の本質たる「原初の王」がもっとも端的に顕れているといい得る。「原・帝紀」の物語が武烈天皇で終わるのは、「原・帝紀」の最終的テーマが「天皇とは儒教で説明される中華式の君主ではなく、まったく別の神話的原理に基づくものである」ということを示しているのだ。

「在位8年」の意味
古事記には在位年数(治天下年数)が書かれてる天皇は少なく、例外的にしか出てこない。その中で武烈天皇の治天下年数が8年という記事は、二代前の顕宗天皇もまったく同じく8年であり、連続して出てくるので否が応でも目立つ。日本書紀では、武烈天皇は古事記と同じく8年としているが顕宗天皇は在位3年になっているので、あるいは重出(本当は武烈天皇だけの文なのが誤って顕宗天皇のところにも入ってしまった?)なのではないかという疑いをもたせるほどだ。もしこれがどちらも正しいとすると、二人の天皇の在位年数が一致してるのは偶然なのだろうか? もちろん他の天皇にはない治天下年数をわざわざ目立つように書いてるのは、偶然ではなく、意図したことだろう。ではその意味とは何か。それはすでに他の頁で書いた通り、顕宗天皇は最初から期間限定の天皇で、崩御したのではなく予定通り「譲位」したと想像されることである(詳細な議論は以前に書いたので今回は触れない)。その限定期間が8年だった。古事記はここで武烈天皇も在位8年でしたよ、とわざわざ断ってるのは、これはつまり武烈天皇も実は崩御しておらず、予定通り8年間だけ天下を治めたのだということを暗示している。なんのために? それは言うまでもなく明らかだろう、継体天皇への皇位の受け渡しをするために他なるまい。他に理由は見つからない。というと、こう反論がくるだろう、「武烈天皇は若いのでこれから男子が生まれる可能性は十分に見込まれるのに、なぜ生きてるうちに継体天皇への譲位を意図するのか?」と。8年という数字の一致が偶然なら、武烈天皇が18歳で崩御したのも偶然ということになり何も問題はない。が、もし「偶然ではない」と仮定すると、最初から継体天皇の登場も予定され決まっていたことになり、それはつまり武烈天皇には将来皇子が生まれる可能性が無いことがわかっていたからということになる。なぜ皇子が生まれないとわかるのか? 一つには性的不能が考えられるが、武烈天皇はまだ十代の若者なので、ちんこさえあれば仮に不能でもいずれ治ると楽観されたろう。ちんこが無かったら治るも糞もないが、もしちんこがなかったら生まれた時にわかるので最初から皇子でなく皇女として育てられたはず。従って、考えられる結論は一つ。…ここから先はわたしの個人的な空想なので、真に受けないで欲しいのだが…。武烈天皇はひょっとしてもしかしたら、皇子ではなく最初から皇女が男装していたのではないか、『リボンの騎士』みたいに。なぜそんなややこしいことをする必要があったのか? それも、このブログで以前から書いている、武烈天皇誕生までの、皇室と平群氏との確執を前提とすれば容易に理解できる。顕宗天皇には子できず、仁賢天皇には皇女が7人も生まれたのに皇子がいなかった。このままでは皇位は断絶するか、権勢を誇って朝政を壟断していた平群氏に皇位が奪われるかの瀬戸際だった。平群真鳥は開化天皇5世孫、平群志毘は同6世孫であり、応神天皇5世孫の継体天皇と比べて代数だけみてもさして遜色はない上、当時は諸要因により平群氏の方が息長氏(継体天皇の家系)を圧倒していたことはこのブログで以前に詳しく説明した。皇室としては平群氏を倒すまでの時間稼ぎに、どうしても平群氏よりも明らかに格上の後継者=「皇子」が誕生して皇位をつなぐ必要があった。そうしないと平群に皇統を乗っ取られてしまうという危機に直面していたのである。というと、こう反論されるだろう、「中継ぎなら飯豊王の時のように皇女を女帝(≒女性摂政)にしたはず」だと。しかし、その手は天皇候補が複数存在していてそれらの争いを仲裁する場合の手であって(飯豊王の時も推古天皇の時もそう)、今回のようなケースでは、その女帝になるべき皇女が平群氏の男子(天皇候補)と結婚すればいいじゃないかとなってしまうので、その手は使えない。じゃ、皇子の存在を演出する必要まではわかったとしても、「平群氏を滅ぼした後になってまで、なぜ武烈天皇を8年間も挟むのか、仁賢天皇から直接に継体天皇に譲ればいいじゃないか」とも言われるかも知れない。むろんその通りなのであるが、すでに世間向けには武烈天皇が実在ということになっているのと、すぐに崩御を演出すると、武烈天皇と平群氏が相討ちになったかのような印象になるのでマズい。マズくないまでも、さほどよろしくも無い。それよりは、やはり履中皇統(履中宮家)が平群を滅ぼし、勝利を永遠にしたという雰囲気の定着が望ましい。その期間として顕宗天皇の例にならって8年とされたのではないか、それにこの段階では継体天皇は有力な候補だったとしても、候補の1人にすぎず、必ずしも最終的に決定していなかったのかも知れない。継体天皇で本当にいいのか(本人にしても朝廷側にしても)、他の候補はどうなんだ、ちゃんと検討したのか、等という未確定な要素が若干残っており、最終的な合意を裏で確定させるための期間でもあったのかも知れない。
ともかく、平群を滅ぼして一息ついたものの、次の皇位継承問題が確定するまでは、仁賢天皇の6人の皇女が入れ替わり立ち代わり武烈天皇を演じていたのではないか。二次性徴以前なら女児が男児のふりをするのはさして難しくないだろう。しかも後宮は九重(ここのえ)の奥で、貴族大臣といえども目に触れる機会はない。そして一旦天皇に即位してしまうと「天の御蔭、日の御蔭と隠りまさして…」という通り、御簾の陰に隠れて人目に出ないのがしきたりで、性別を確認することは難しい。むろん大臣、大連の貴族のトップともなればおかしいと気づくだろうが、平群氏のような敵対的勢力は武烈天皇が即位する直前に滅ぼされたし、アンチ平群の大伴や物部は秘密に加担していたのだろう。一般の中下級の貴族や官僚は、武烈天皇といえば政治熱心な上に処罰は過酷な人と思って震え上がってるから、誰も性別が怪しいとか突っ込もうなんて命知らずなことは考えない。つまり武烈天皇が残酷で横暴な天皇というキャラを演出したのは性別隠しという目的もあったと思われる。

武烈天皇vsローマ皇帝ヘリオガバルス
それと武烈天皇が11歳で即位、在位8年、18歳で崩御ときくと、古代ローマ帝国の少年皇帝ヘリオガバルス帝を連想する人も多いのではないだろうか。ヘリオガバルスは武烈天皇より約三百年くらい前の人。在位は4年間で、武烈天皇の半分だが、崩御の時18歳だったとこまで同じ(ただしヘリオガバルスの方は反乱軍に殺されたもの。正確には在位3年で17歳で死去ともいうが暦の計算の違いかな?)。めちゃくちゃなアナーキーぶりは武烈天皇をはるかにうわまわるのにこの人は実在の人物なわけだから、武烈天皇の残虐行為が「武烈天皇は実在の人物ではない」という理由にはならない。二人の相異点は、まず武烈天皇の場合は残酷行為だが、ヘリオガバルスの場合は性倒錯(性同一性障害?)であるところが違う。もっともヘリオガバルスの性倒錯には宗教上の背景もあったのは確かだがそれだけでは到底説明つかない。また記紀には出てこないが、武烈天皇にも原伝承には女装伝説が付随していたと思われる。なぜなら武烈天皇はヤマトタケル3世を演じていたから(後述)。そうすると女装は相異点ではなく共通点となる。もちろん武烈帝と一致してないところもある。ヘリオガバルスは、道化や俳優、女性を取り巻きにして淫靡な音楽、贅沢な衣服に豪勢な宮殿、昼も夜もない酒池肉林、奇怪で猥褻な遊び等、絵に描いたような典型的な暴君と、アナーキーさでは桁違いだ(まぁある程度までならばローマ市民のためでもあるのだが…)。さすがに武烈帝についてここまでのことは記紀には書かれてない。ヘリオガバルスは皇帝でありながら美少女の格好した美少年(「男の娘」)という、世界史上まれにみる異端児だから、芸術家たちがこれに魅了されないわけがない。多くの歴史書、文学、絵画、音楽、映画など数々の作品が作られた。アントナン・アルトーの『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』という傑作があり、破滅的(アナーキー)な生涯を詩的に劇的に語り尽くしている。が、アナーキストといっても無政府主義とか壊し屋のこととは限らない。擁護派のレトリックとしては「ヘリオガバルスは18歳の短い生涯に子供のままの素直さ純真さで、己の信じた役割を真摯にまっとうし、それゆえに命を落とした」というような表現になるのだが、まぁ「こりゃダメだw」と思わざるを得ないような批判派の言い分ももちろん事実を表してはいる。
さて、ここで「日本書紀の編集部が武烈天皇の記事を捏造する際にヘリオガバルスの伝記を参考にした」などと言いたいわけではない。そうではなくて、仁賢天皇の皇女たちが武烈天皇を演出する際に、事前にヘリオガバルスの話も知っていた可能性もあるのではないかということだ。三百年も前のことなんだから、ユーラシア大陸を横断して伝わる時間は十分にある。特に、ローマ帝国は漢文では「大秦国」といい、秦氏と縁がある。秦氏はユーラシアのシルクロードからやってきたという説もあり、中国に何度も派遣されている秦氏が大陸の情報を伝えていただろう。允恭天皇の時にやってきた医薬を知る人「金波鎮漢紀武」は「金武」ではなくて「紀武」という名の中国人だったろうと別の記事で以前に推定したが、その時の記事の中で、この人はペルシア人医師「華佗」の末流で、その医術はヘレニズム時代の東地中海(シリアとかパレスチナのあたり)を源流とするものだという話をした(允恭天皇の頁を参照)。この地域もローマ時代にはローマ帝国(大秦国)に含まれるし、ローマと別に「大秦国」と呼ばれたバクトリアも全盛期のペルシア帝国の領内に含まれる。さらにいうと、ヘリオガバルスは、女装して女性のしぐさを真似たりするのが大好きで、宗教的な理由で自分を去勢したとか、自分の体に穴をあけて擬似的な女性器を作ったとか、性転換手術を受けたとかの伝説もある。それらを否定する説もあって実際にそんな手術を受けたのかは真相不明だが、ともかく当時の医学ではそれらの外科手術が可能だった。こういう話は、女でありながら男のふりをしようとしている皇女たちの興味をそそったに違いない。またこういう話を知っていれば、武烈天皇の性別がバレそうな場合に備えて、先手を打って普段からオカマのフリをするという作戦も考えられただろう。むろん女装趣味はヤマトタケルにもあって、あの女装は敵を欺く作戦ではあり得ないことは以前にこのブログで説明した。「ヤマトタケル3世」としてのキャラ設定が考えられていた以上、ヘリオガバルスを知ろうが知るまいが、まぁ似たような演出(=女装趣味)は視野に入れられていただろう。
ヘリオガバルスの治世は宮廷の破廉恥な乱痴気さわぎが名物だったぐらいで軍事的には戦争がない平和な時代だったのに対し、武烈天皇は高句麗や新羅と何度か戦っているようだ(ただし戦場は半島で、国内では戦争はなかった)。ヘリオガバルスは反乱軍に殺されメッタ刺しにされてドブ川に落とされた。帝位は従弟に奪われ、その10年後にセウェルス朝は滅亡。武烈天皇を演じた皇女たちは結婚によってめでたく継体天皇につないだ。もし武烈天皇が演出上の存在で実在していなかったとすると、武烈天皇には悲惨な死もなければ、めでたい大往生もない。実際には死んでないし、そもそも生まれてない、ということになる。

仁賢天皇の皇女たち、三つの謎
古事記では、仁賢天皇は雄略天皇の皇女、春日大郎女(かすがのおほいらつめ)を皇后として高木郎女(たかぎのいらつめ)、財郎女(たからのいらつめ)、久須毘郎女(くすひのいらつめ)、手白髮郎女(たしらかのいらつめ)、小長谷若雀命(=武烈天皇)、眞若王(まわかのみこ)の5人を儲けたという。また和邇日爪臣(わにのひづめのおみ)の娘、糠若子郎女(ぬかのわくごのいらつめ)を妃(≒側室)として春日山田郎女(かすがのやまだのいらつめ)が生まれた。仁賢天皇の記事には出てこないが宣化天皇の皇后の橘之中比賣命(たちばなのなかつひめ)も仁賢天皇の皇女としている。これを日本書紀では、皇后腹を高橋大娘皇女(たかはしのおほいらつめのみこ)・朝嬬皇女(あさづまのみこ)・手白香皇女(たしらかのみこ)・樟氷皇女(くすひのみこ)・橘皇女(たちばなのみこ)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈天皇)・真稚皇女(まわかのみこ)の6女1男とした上で、「ある本では手白香皇女と樟氷皇女の順番が逆になっている」と異説を載せ、和珥臣日爪の娘、糠君娘が春日山田皇女(別名・山田大娘皇女、赤見皇女)を生んだとしている。このうち手白髪郎女=手白香皇女は継体天皇の皇后になり、春日山田郎女=春日山田皇女は安閑天皇の皇后になっている。
記紀を比べてみて、通説では、記の高木郎女と紀の高橋大娘皇女が同一人物、記の財郎女と紀の朝嬬皇女が同一人物として、記では橘皇女=橘之中比賣命を書き漏らしたのだろうとしている。残りの人々は名前からして一致しているので問題ない、と。
しかし待て。
第一に、記紀が食い違ってる時には古事記を正しいとするのが宣長以来の常道だ。だから飯田武郷が『日本書紀通釈』でいってるように橘之中比賣命というのは財郎女の別名という説が正しく、古事記が書き漏らしたわけではあるまい。「中(なかつ)」というのは兄弟の真ん中という意味もあるが、次男とか次女に使われることも多い。日本書紀は父(継体天皇)の皇后(手白香皇女)より息子(宣化天皇)の皇后(橘皇女)の方が齢上なのはおかしいと思って、修正したつもりで橘皇女を手白香皇女の下に割り込ませたのだろう。だから書紀は矛盾を隠すために「中(なかつ)」を削って単に「橘皇女」と書いてる(宣化天皇の巻では「仲」の字が復活しているが姉妹を並べてるところではないから矛盾が目立たない)。安閑・宣化の両天皇は継体天皇が若い頃の生まれなので父と年齢が近く、晩年に若い奥さんをもらった場合、息子の嫁より親父の嫁のほうが若いってことはありうる。
第二に、久須毘郎女と手白髮郎女の順番に両説があることだが、これは双子だから順番が曖昧なのではないか。昔は、胎内で先にできたのが奥にいるため兄姉が後から生まれてくるという考えでもあったのか、先に生まれたのを弟妹、後から生まれたのを兄姉とすることも多かった。双子の後先の決め方はかなりいい加減なものだったのである。出生時に仮に後先が決まっても成長したら兄が小さく妹が大きくなってしまったなんてこともある。そしたら順番まちがえていたとして訂正することも気軽にあったろう。
第三に、真若王の性別。「真若」は男女の別なく名前の一部に使われる例の多い言葉なので、これだけでは男女を決められないが、書紀に「真稚皇女」とあるから女性だ、という説が多い。しかし、古事記は女性の名は性別がわかるように書いているため、性別不明の名は一般的に男性と解釈されており、男性説と女性説がある。「たまたま」日本書紀に皇女とあるから女性だろうという安直な説が出るわけだが、日本書紀がなく古事記だけなら通常通り男性の皇子とされたはずだ。つまり古事記の趣旨としては遠回しながら男性のつもりで書いている。しかし書紀の女性説も根拠あってのことだろう。書紀は公式の歴史書なので、最終的な判定に基づいて女性としているのだが、古事記はリアルタイムの情況を反映しているのではないか、つまり当初は真若王は男性として暮らしていた時が長かったのではないか。おそらく末っ子の真若王は、実在しない武烈天皇の影武者も時々は務めたこともあったのだろう。
さて、本当は次女(朝嬬皇女)であるはずの橘皇女を書紀が双子と武烈天皇の間に入れているのは、この双子が、出生時には三つ子だったと宣伝されたことを想像させる。むろん三つ子のうちの一人が皇子で、当初は橘皇子と呼ばれたのだろう。橘といえば仁賢・顕宗の両天皇の兄弟に「橘王」がいるが、これは実は兄弟でなく、父か祖父で、市辺押歯皇子から両天皇へ血筋をつないだ人物であることはこのブログで以前に書いた。その名を称するのは皇統をこの家系でつないでいくという宣言でもあり祈りでもあったろう。実在しない橘皇子は、赤ん坊や幼児の頃は替え玉でも誤魔化せるがある程度人前にでる機会が避けられない年齢になってからは次女の財郎女(朝嬬皇女)が演じることが多かったのだろう。三つ子は三人一緒に登場した方が実在を強調できる。
当時は新生児の死亡は現代ほどは珍しくなかったものの、女子ばかり続けて6人も7人も生まれるのは不自然で、これは後宮に入り込んだ平群の手の者が、皇子が生まれた場合には殺害していたに違いない。そこで仁賢天皇の側としては平群の間者を欺く必要があった。側室腹に生まれた山田皇女は安閑天皇の皇后になっているから、普通に考えれば手白髪郎女(継体皇后)を含む双子より齢下だろうが、財郎女の例もあるから年齢の順番でどこに入るかわからない。が、手白髪郎女(継体皇后)と仮想上の(書紀のいう)橘皇女(宣化皇后)との間とすれば、三つ子と同時期となる。おそらく出産予定日の近づいた糠若子郎女(妃≒側室)が実家の和邇氏の邸宅へ帰り、間者の目をそちらに釘付けにしておいて(妃から生まれても男子ならば皇太子になる)、その隙に予定日を偽っていた皇后が双子を生んだのだろう。この時にもし男子が生まれれば良し、女子だったら「男女の双子」とする予定が、本当に双子が生まれてしまったので急遽2女1男の「三つ子」に設定変更したのだろう。これは間者のいない隙になされた工作だから平群側には(この時は)バレなかった。

武烈シスターズ(武烈天皇の中の人)
1長女・高木郎女
別名は高橋大郎皇女、これは生母の春日大郎女の別名と同じ名だから襲名だろう。ということは末っ子の真若王を産んですぐ(もしくは同時に)春日大郎女は薨去されてしまい、早くから長女が姉妹たちの母親代わりになっていたことを想像させる。つまり、姉妹たちの中では、まとめ役でリーダー格。高橋というのは地名で、今の天理市の中に「高橋邑」(たかはしむら)というのがあったという(日本書紀の崇神天皇の巻に出てくる)。それが母の所領になっていて、それを襲名と同時に継承していたのだろう。
2次女・朝嬬皇女
武烈天皇をおもに演じていた。古事記では「財郎女」としている。タカラには御神体とか依り代、カラダ(体)の意味があるがこの名はずっと後になってから(武烈天皇崩御の後)のもの。さらに後には武烈天皇の設定上の本名「橘王」からとって「橘之中比賣」とも称した。しかし本来の元々の名は書紀のいう通り「朝嬬皇女」。この「朝嬬」というのは葛城の地名で「賢帝」として有名な允恭天皇の名にもある。この人も允恭天皇に似て聡明な人だったのだろう。允恭宮家と履中宮家が仁賢天皇夫妻において合体したので、允恭宮家の遺産はこの人が継承者として選ばれ、旧允恭宮家の人々に推戴されていて、本人もたびたび葛城へ出向いたのだろう。むろん実際には葛城には行ってなくて、都で武烈天皇=橘皇子を演じていたのだが、朝嬬皇女は出かけてることなってるのだから同席しなくても怪しまれずにすむという寸法よ。日本書紀に武烈天皇が「政治的判断に的確だった」とあるのは、もっぱら聡明な朝嬬皇女が朝廷での政治も担当していたということだろう。どうしても朝嬬皇女と武烈天皇が同席しなければならない場合は長女の高木郎女が代役をすればよい。高木郎女も当然、高橋の地に出かけることが多くても不思議はない。これも表向きは高橋邑に出かけたことにしておいて実は都にいて、朝嬬皇女の代役で武烈天皇を演じたこともあったろう。
3三女(三つ子)・久須毘郎女(実は双子)
この名のクスヒ(奇霊)とは「神秘・不思議・霊妙」を意味する古語だから、超能力者だったんだろう。この時代の霊能といえば、なんといっても「巫女の神懸かり」みたいのが思い浮かぶ。平群の魔の手によって出生時に殺害された皇子は、本来は健康に育って皇太子になるはずだったわけで、そういう皇子の霊が、久須毘郎女の口を借りて様々な託宣をし、6人の皇女たちの活躍を助けたこともあったろう。いわばキャラ担当。そういう意味では、この説は武烈天皇は肉体をもたないとしてもその人格の実在までも否定する説では必ずしもない。もちろん、「殺された皇子の霊」の託宣とおおっぴらに言ったら皇子は殺されてることになり平群氏と直接戦争になってしまうので、一般向けには霊感の強さで知られていたのだろう。霊感というのは当時の人にとっては神秘的でカリスマでもあったのである。実際のところ久須毘郎女も本当に霊感が働いたこともあったろうし演技の場合もあり、いろいろだったろう。
4四女(三つ子)・手白髪郎女(実は双子)
「手白髪」という名は祖母の名を継いだもので、祖母は伊賀の手白髪(地名)の久米部(くめべ)、つまり今でいう忍者の元祖みたいなものであることも以前に書いた。変装の術だの、変わり身の術だの、刺客からの護身術だのを担当指導していたのは手白髪郎女だったろう。あるいは、武烈天皇が戦場に出た平群氏との戦いの時など、自ら剣を振るって悪人を成敗するような場面では手白髪郎女が武烈天皇を演じていたかも知れない。また武烈天皇は「裁判を好み、隠れたる冤罪は必ず晴らした」という。これも秘密の情報収集網をもっていたからこそのことと思われる。
0小長谷若雀天皇(三つ子)(後の武烈天皇、実は姉妹たちの演技)
出生時(の設定上)の名は橘王(たちばなのみこ)。武烈天皇はおもには朝嬬皇女が演じていたとはいえ、特徴が固定しすぎてもマズイので他の姉妹も入れ替わり立ち代わり演じていただろう。
5異母姉妹・春日山田郎女皇后
書紀によれば武烈天皇には父不詳の「春日娘子」(かすがのいらつめ)という皇后がいたというが、これは春日山田郎女のことだろう。異母姉弟なら当時は結婚相手として問題なく自然であり、結婚生活を演出できれば性別への疑いを軽減できる。つまり山田郎女も皇女たちの1人として武烈天皇の演出に参画していたことになる。
6末弟・真若王(実は末妹)
武烈天皇を演じた女優として1人の特定女性が決まっていたわけではなく、皇女たちも武烈天皇の設定とは別に各人として存在していることになっている、つまり武烈天皇は本体が実在しないのだから、万が一の不測の事態に備えようと、真若王が誕生した時に男児として育てることにしたのだろう。実体をもった弟皇子を用意したわけである。真若王は365日24時間男のふりをしなければならないのだから、姉たちのように別の自分に戻ってストレスを分散することができず、かえって大変だったようにも思えるし、逆に、性別だけ偽ればよいので、二役を演じなければならない姉たちよりはいくらかラクだったようにも思えるし、よくわからないが、あるいは、男装を強要されたのではなく、たまたま個人的な趣味からノリノリで男装してただけかも知れない。今で言う性同一性障害や、そこまでいかずとも異性装趣味みたいなケースもありうるだろう。武烈天皇を演じる場合も当然多かったと思われる。性同一性障害の場合、過剰に男らしく振舞おうとして、平均的な男性よりも暴力的な性格になりがちで、武烈天皇の暴力的な側面は真若王が担当していたかも知れない。もし性同一性障害でもなく異性装趣味もなかったとしたら、単にストレスで暴力的になってただけか。

継体天皇父子と武烈姉妹との結婚
四女の手白髪郎女が継体天皇の皇后、側室腹の山田皇女が安閑天皇の皇后、次女の橘之中比賣(財郎女)が宣化天皇の皇后になったが、橘之中比賣がやや齢上で手白髪郎女と山田皇女はほぼ同年齢と推測される。年齢の順番は結婚相手と関係ない。継体天皇の息子は他にも多いので、他の3人の皇女もみな継体天皇の皇子たちの誰かと結婚したのだろう。たまたま天皇にならなかった皇子たちの妃の情報は記紀に載ってないだけである。手白髪郎女1人だけは息子たちから相手を選ばず継体天皇本人を選んだが、それは、たまたま本人の好みがオヤジ趣味だっただけで深い意味はない。なぜなら皇統をつなぐためだけならば若い息子たちと結婚した方がよかったはずだからである。
前述のように(あるいはこのブログの別頁で述べたように)、継体天皇の一家が朝廷で重きをなしたのは清寧天皇の頃からで、かなり前から、一応、公卿クラスの1人という程度の上級貴族ではあったのだ。結局、次の天皇を決めたのは、この皇女たちが継体天皇の一家の息子たちを気に入ったからなのであろうが、皇別(皇胤)系の諸氏族の中では、継体天皇の父、彦大人王が越前と、継体天皇自身が尾張と、それぞれ政略結婚で勢力を広げたのが大きい。一旦は、地方豪族にまで格落ちしていたのが政略結婚で強大化し、それでのしあがってきたのである。履中宮家は、仁賢・顕宗兄弟の出自もあって、庶民文化には寛容な宮廷文化があったところに、やはり地方豪族として中央の朝廷よりは庶民に近い文化傾向をもつ継体天皇家=息長氏の人々の性格は、履中家の人々=仁賢天皇の皇女たちと相通ずるところ多かったろう。

武烈天皇の絶大なる権威
武烈天皇の御名、小長谷川若雀命の「小長谷」は雄略天皇の「大長谷」からとっていることは上に書いたが、「若雀」の部分は仁徳天皇の「大雀」からきているのは一目瞭然で、これもよく言われること。系図をみると、武烈天皇は絶世の大英雄・雄略天皇の血をひくただ一人の男子であり、同時に履中・反正・允恭の3つの家系の元祖にして聖帝といわれた仁徳天皇の嫡流(長男の長男の長男の長男)である。このことから前之園亮一は、武烈天皇の血筋の権威は冠絶して高く、歴代の普通の、並の天皇とはわけが違うといってる。平群真鳥が開化天皇5世孫だとか、継体天皇が応神天皇5世孫だとか、倭彦王が仲哀天皇5世孫だとかいっても、その高貴さでは武烈天皇の足元にも及ばなかったろう、従って、継体天皇が出自を飾るために応神天皇5世孫と称した等ということはありえない、仮にそのように自称してもその程度の貴族はありふれていて出自を飾る意味がなく役に立たなかったろう、といっている。これだけの絶大な権威をもっているということ、なみの天皇ではないということは、政策における反対者や政治的敵対者を萎縮させ、つまり恐怖政治や独裁による思い切った大改革が可能になるということを意味する。強大な平群氏に対するクーデターにしても味方を結集する上で、武烈天皇(この時は皇太子)を擁立できたことが成功の要因だっただろう。平群氏滅亡の後では、継体天皇を擁立できたのも武烈天皇の大御心という名分があったからこそ、極めて円滑にすんなりと滞りなく皇位の移譲が済んだろう。実際には武烈天皇になりすました皇女たちが継体天皇を選んだのだが。
継体天皇の父や祖父はすでに朝廷でそれなりの地位にあったこともすでに以前に書いた。顕宗・仁賢・武烈の三代の間に、継体天皇とその二人の息子も朝廷の重鎮として地位を高めていたろうし、仁賢天皇の皇女たちと継体天皇の息子たちとの縁組も実のところは武烈朝の下でなされただろう。

平群氏の滅亡の歴史的な意義
まぁ、武烈天皇「女性説」や武烈天皇「非実在説」はわたしの空想であって、あまり真面目に受け取られても困るのだが、それとは別に、平群氏の滅亡の歴史的な意義は重大であり、本来なら大いに語らねばならない。しかし、これについてはこのブログの他の記事でも書いてるので繰り返さない。武烈天皇が平群氏を滅ぼしたのは仁賢十一年十一月十一日、これを現代の暦に換算するとAD498年12月11日になる。(これはグレゴリオ暦で、もしユリウス暦に換算するなら12月10日だがこの場合グレゴリオ暦の方がいいだろう)。むろんこの年代は日本書紀によるもので実際の年代ではない。実際はこれより20年くらい前なのではないか。ともかく便宜上、日本書紀の年代で計算すると、今日、2016年12月11日(金)は武烈必殺節1517周年なのである。この偉大な功績によって漢風諡号を「武烈」という。武烈とは戦場での手柄、軍事的功績の意味で、この武烈という諡号を贈られた皇帝は中国では3人いる他、新羅にも武烈王あり、みな同じ趣旨。この後、巨勢氏が大臣(おほおみ)になっていることから、平群氏の利権は巨勢氏に引き継がれたと見られるが、巨勢氏は第二の平群氏いな第三の葛城氏になることは出来なかった。これは顕宗天皇の工作(半島での紀生磐宿禰の乱)によって平群氏の利権システムがかなりの程度、破壊・分解されてしまったためである。それを再建したのは蘇我氏だったが、それはまた後の話である。
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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