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・わび・さび・もえ

H29年12月13日(水)初稿
「萌え」と「つのぐむ」は意味が同じではない
先生は葦牙(あしかび)、植物の芽が「芽吹く」こと=「萌え騰がる」ことを生命力の表現として、神世七代もその生命力の展開としている。そうすると神世七代は生命力の具体的展開と受け取るのは当然の流れで、参加者から神世七代の神々の名前の意味についての質問があったが、先生は詳細な回答は拒否されたw いろんな古事記の解説書にたくさん説が出てるからそれを見て気に入った説を選べとw ただ、この神々の名が、世界ができあがってくる様子をあらわしたものだということは認められていたが。ただ、角杙神(つのぐいのかみ)を例にあげこれも植物の芽吹きであり「萌え」に通ずると。そしたら、別な人からの意見だか質問だかで『早春賦』の歌詞に「つのぐむ」が出てくるって話になって人生の先輩方々が歌いだしたw 『早春賦』については各自検索してくだされ。YOUTUBEに動画もあっていい歌だよ、検索して実際に聞くように。聞いたか? 聞いたな、よし。まぁ俺は知らなかったんだけどさw かくして、角杙神が植物の発生をあらわしているなら、活杙神は動物の発生をあらわしているだろう。そうやって神世七代が、世界が創造されていく7段階をあらわしているだろうという推定ができる。
だが、ここで「萌え」と「角ぐむ」を同水準でイコールとみなすことはできない。「萌え」のアシカビヒコヂは「コト天つ神」で隠身(かくりみ)、目に見えない世界。角杙は「神世七代」で具体的展開。両者は世界ができあがってくる順番として段階が異なるだろう。
別天神のうち名前が列挙されているだけの4柱とは別に、「ウマシアシカビヒコヂの神」だけは、長い説明がついており、クラゲなす漂へる時、アシカビの如く萌えあがる物によりて成りませる神だとある。ここで原文も「萌」の字が使われており、この漢字は諸育物が芽を出す意味。しかし、だからといって、炎が燃焼する意味じゃないぞ、と念押しするのはよろしくない。それは漢字にとらわれた結果、「萌え」と「角ぐむ」の区別がつかなくなっているのである。
漢字にとらわれた発想は、言霊(コトダマ)を殺してしまうのだ。「萌え」とは植物が芽を出す時のような若々しくみずみずしい生命のエネルギーの湧出なのではあるが、それは同時に爆発的に「燃え」上がる揮発性の火炎とも、深いところで通じあっているのであって、両者は別なのではない。まだ生命とよべるものが存在していなかった太古の地球に、生命が誕生したその瞬間、それは生命だとも生命ではないともよべない中間的で両面的な存在だったのである。アニミズムは生物だけに魂を認めるものではない。生物と非生物にへだてはないのである。そこからさらに遡れば、生命どころか物質すら存在していなかった宇宙の始まり、「無の世界」がある。コトアマツカミはそこで生まれたのである。そこに物質が誕生したその瞬間、それは物質だ(有)とも物質でない(無)ともいえる中間的、両面的な何かだったのである。そうすると生物と非生物はつながっており、物質(有=存在)と非物質(無=非存在)もつながっており、結局われわれ一人一人は最終的に宇宙の始まり、究極の無にまでつながっているのである。なぜエントロピーに逆らう「生命力」なるものが存在しているのかは、唯物論では説明できない。小さな虫にも我々一人一人にも宿る生命力は、遠く悠久の宇宙開闢に淵源しているのである。

わび・さび・もえ
してみれば、「侘び・寂び・幽玄」をパロって「わび・さび・萌え」等というのも必ずしもめちゃくちゃな話ではない。美意識の概念として『認識されたのは「侘び・寂び」は江戸時代からで、「萌え」はつい最近のことだが、単語それ自体は「わび・さび」は『万葉集』からあるように「もえ」は『古事記』冒頭に遡る。
ただし、もちろん「わび・さび」と「もえ」の違いはある。「わび・さび」は枯れ草のような、しょぼくれたものに深い味わいを感じる爺さんの枯れた心境のような雰囲気だが、「もえ」は若々しく、美少女キャラを追っかけまわすような生殖衝動につっぱしってる感じ、悪くいえばイカ臭さが漂う。本来、「侘び・寂び」は「幽玄」とセットであり、幽玄への入り口、幽玄が到来する予感が「侘び」であり、幽玄からの出口、幽玄が遠ざかっていく余韻が「寂び」であった。しかしこの幽玄というのがわかりにくい。これは、ある究極の境地をさす記号的な言葉で、説明不可能なものである。神秘体験にも比すべきであろうか。
逆にいえば幽玄とはゼロ記号であって、その時々の話のレベルに応じて、適当な概念をぶちこみ、議論の構造だけを楽しむことも可能である。ならば、ここで幽玄のかわりに「萌え」を代入してみよう。「もえ」の反対の「なえ」は植物のしおれた様のことだが、直接の語源は若々しくもなく醜いものをみた時のちんぽの脱力の様をいってるのだろう。「もえ/なえ」の力動は本能的で生物的で原始的で非文化的であるが、それだけに原初的であり神(=自然)に近いともいえる。「侘び・寂び」は「萎え」をポジティブに捉え直したものともいえるだろう。本当は人為であり文化の力であるものを、あたかも自然であるかのように見做すものであり、これこそ文化なのではあるが、「わび・さび」はあたかも「もえ」の影のごとくであり、「もえ」なくてはその影も存在できない。
例えば、「わび」は蛭子しか生まれなかった時の気分である。わびしいのではあるが、未来を待ちわびてもいる。
「萌え」は国生み神生みで活躍中の伊邪那岐・伊邪那美の気分である。天津神諸々の命じるままに、天意のままに活動している最中であり、雑念のない無私の境地、上位の神と一体(カミとミコト、神人合一)の状態であり、そういう意味では幽玄とも言い得よう。
「さび」は伊邪那岐・伊邪那美が別離したあとの気分であり、伊邪那岐神は高天原の「日之少宮」に、伊邪那美神は「黄泉国」にそれぞれ鎮まっている状態である。

・隠身(かくりみ)

H29年12月21日(木)改稿 H28年3月16日(水)初稿
「身を隠した」のではない?
ある先生が言うには、「身を隠したまひき」とはいうが、「ある時まで隠れてなかったものが、その後で、ある時に隠れた」というような意味ではなく、最初から目に見えない存在であることをいっているのだ、と。それはまったく「我が意を得たり」とヒザを叩きたくなることだよね。この部分、古事記の原文では「隠身也」とある。普通にこのまま読めば「隠身(かくりみ)なり」。カクリミってのはウツシミ(現身)の反対で目に見えない存在のこと。敬語や時制の言い回しに配慮すれば「隠身にましき」「隠身なりき」「隠身にませり」等いろいろ考えられる。が、「隠身也」の「隠」と「身」の間に返り点を打って読めば「身を隠すなり」とも読み下せるわけだ。これに時制と敬語を加えて「身を隠したまひき」と読んでるが、「(はじめっから)身を隠していらっしゃいます」の意味であって、ある時点から「身をお隠しになりました」という意味ではない、というようなことは宣長もいってる。しかし、それなら現代人には、やはり「隠身にませり」がいいかな。(「〜き」は過去形だが「〜り」は存続・継続の助動詞)
隠身の反対は「現身」(うつしみ)。水谷清なんかは五種神等として以下のようなことをいっている。

五種神等 五種神身、五種神界、その他いろいろにいう


カクリミ(隠身)……絶対神。天之御中主神
カゴリミ(仮凝身)…創造神。天之御中主神を除く別天つ神と神世七代の神々
カガリミ(耀身)……統一神。天照大神
カケリミ(駛身)……自在神。上記以外の天津神・国津神、八百万神々。
カギリミ(限身)……限定神。天皇、現人神
いちばん下を三次元世界、自在神の世界を4次元、最上位を7次元神界として、昔はよく「8次元なんてのは無い、7次元までしかないのだ」というような主張が新興宗教界隈ではなされたものだったが、今はそんなことをいうやつはいない。量子力学の議論の中に「11次元がどうのこうの」って話がでてきたからなw

こういうふうに神々を5種類にわけようというアイディアはさほど悪いものでもないように思うが、それを命名するのにカケリミだのカガリミだの、言葉遊び丸出しなコジツケ専門用語を創作するのはいかがなものかと思われる。ましてや「7次元神界」がどうたらとか実体視するのはデンパ説、とんでも説の始まりだぞ。まぁ言い出しっぺの水谷清からしてアレだが、こういうのはあくまで便宜的な分類で、幾何学における補助線のようなものと思っておいたほうがいいだろう。コトダマ系の霊学神道にありがちだけど正直やめてほしいわ。

「コト天つ神」とは何か
別天神(ことあまつかみ)の別(こと)は「殊に(ことに)」とか「異なる」とかいう時のコトで、「別格の」とか「特別の」とかいう意味である。現代語にしていちばんわかりやすいのは「超〜」ってやつだろう。コトアマツカミとは、「超アマツカミ」ってことだ。
この場合の「別」をワケと読んで「ワケアマツカミ」という説もあるが、ワケは地霊につかう接尾辞なのでよろしくない。
ちなみにJKが言い出した若者言葉の「チョ~○○」(接頭辞の「超」)の、語源になった「超古代史」という言葉は、我が師匠の吾郷清彦先生が最初に作ったと思われているがさにあらずw 鈴木貞一のほうが先だぞw

・天之御中主神は北極星ではない?

H27年10月29日(木)投稿 H27年10月27日(火)初稿
天之御中主神は加上説では説明できない
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は後から創作されたものだという説がある。いわゆる「加上説」(架上説)というものだが、萩野貞樹先生は「アメノミナカヌシは消せるか その「架上」の説を中心に」(『現代思想』1986年11月号)という論文で、加上説では説明できないといっている。その論文はもうずいぶん古いもので(昭和六一年)内容はもうすっかり忘れました。興味のある人は萩野さんの『歪められた日本神話』 (PHP新書)でも読んで下さい。この人の説には賛成できないところもあるけれども、まぁ普通の学者の本よりはおすすめです。

北極星ではない
これは北極星の神格化で、中国の道教の影響だという説もあるのだが、本当だろうか? 道教での北極星は神格化されて「天皇大帝」「紫薇大帝」という神になっている。これが日本に入ってきたなら、そのまま「天皇大帝」とか「紫薇大帝」などと呼んで拝めばいいわけで、わざわざ日本風の名前に作り変える必要はないだろう。それまで無かった神をいきなり持ちだしても「なんだそれ」ってことにならないか?(妙見信仰のつながりはずっと後になってから習合したのであって天之御中主神の起源とは関係がない)。そもそも日本人は星に興味をもたない民族だったという説もあるが、これも信用ならない。確かに記紀の神代巻には星の話がほとんど出てこない。日本書紀に一ヵ所、天津甕星(あまつみかほし)が出てくるだけ。
しかし日本に土着の天文学がなかったとはいえない。四分至(春分・秋分・冬至・夏至)は石器時代から知られていたから中国の文化とは無関係に観測されていた。日本では古くから「日置部(ひおきべ)」(のち訛って「へぎべ」)があり、これが太陽の祭祀と観測を管掌したのだろう。だが、中国製の暦が採用されてから暦の製作は阿直岐史氏や西文首氏などの帰化人系の氏族に管掌され、日置部は形骸化して、平安時代には宮中の灯火(太陽の分霊とされ聖別された火)を管理する部署に零落してしまった。それが敏達天皇の時になって日祀部(ひまつりべ)が新たに設置されたのは、中国式の天文学が導入されたのだろう。日本書紀には、敏達天皇は中国の文化を好んだとある。その前、継体天皇の時に儒教の五経博士を招聘して中国文化を大々的に輸入したがその頃に天文学も入ってきたのだろう。暦自体はさらにそれ以前の五世紀の頃から「元嘉暦」という中国式の暦を使っていた。そうやって中国式に置き換えていくと古い日本式の天文学は伝承が途絶える。例えばインドでも、アレキサンダー大王以降、ヘレニズム天文学や西方の占星術が導入された結果、それ以前のインドの古い占星術などは消滅してしまった。わずかに痕跡を留めているために辛うじて「かつて別系統の占星術が存在したことが窺われる」程度にすぎない。
そもそも神道は山、海、火、水、万物はすべて神々だと考える多神教だから、当然、夜空の星々もカミガミだと考えたのは当然で、よほどの未開部族でも北極星ぐらいは知ってるので、当然、日本でも北極星の神というものはあったろう。
だが天之御中主神が宇宙の中心だからって北極星とは限らんよ? 天之御中主神は目に見えない存在だ。『古事記』には「身を隠したまひき」とある。これは原文では「穩身也」なので「隠身(かくりみ)にませり」「隠身なりき」「隠身にましき」等とも読める。でも北極星は目に見えるんだから「隠身」とはいえない。
ただ、昔の日本人が「宇宙には中心があるにちがいない」と想定したのは、北極星の存在からヒントを得たのかもしれない。北極星はまだ宇宙の中心ではなくて、目に見えない世界に中心がある、というのが『古事記』の説だろう。

宇宙の泡構造
ところで、現代の天文学では宇宙の構造を銀河フィラメントとヴォイド(超空洞)から成る泡構造だという。しゃぼん玉のようなものを想像してみると、銀河フィラメントはグレートウォールともいい、いわゆる天体が存在している空間だが、これはしゃぼん玉の薄皮のようなもので、しゃぼん玉の中は何も存在していないからヴォイド(超空洞)という。このしゃぼん玉=泡がいくつも積み重なっているのが宇宙の構造だという。大量の泡つぶを全体としてみると宇宙の中心はないように思うが、泡の一粒つづは球体なのだから、当然中心はある。目に見えない中心が。それにこの泡構造だってデタラメに積み重なってるわけじゃなくて、球体の薄皮なのかもしれないしな。太陽系に中心あり、銀河系に中心あるのだから、それから類推すれば大構造にも中心はあるだろう。

天之御中主神は「0」(ゼロ)なのではない
ところで天之御中主神が万物の始まり、宇宙の始まりだからゼロを表してるのだという人がいるのだが、それは違うんじゃないのか? 喩え話ではあるけれども、数字でいうならゼロじゃなくて「1」なのではないか。
天之御中主神はある時に「成った」のだからそれ以前には「無かった」のであり、始めあるものは必ず終わりがあるように、時間的に永遠の存在ではない。それは中心ができたから同時に周辺もできるように、空間的な無限でもない。始めと終わり、中心と周辺という、相対的な存在であって絶対神ではない。では無限、永遠、絶対の神というものはないのかというと、それもあると思う。なぜなら、あらゆる存在はなんでもカミであるというアニミズム的な発想を貫徹させると、天之御中主神以前の無の状態もやはりカミなのではないかと思われるからだ。それを関口野薔薇先生は「成りまさぬ神」といっている。
天之御中主神に続いて次々に「成りませる神」がでてくる。「成りませる神」がいるのだからそれ以前には「成りまさぬ神」がいたはずだ、という。それは「成ってない」のだから名がない。何もないわけではなく、そこには高天原という「場」はあったように書かれている。高天原に天之御中主神という中心点が生まれると同時に周辺が構造化され、有限な時空が起動し始める。これが「初めの時」だろう。
天之御中主神がいまだ成らざる時の高天原は初めもなく終わりもなく中心も周辺もない、無限永遠のゼロ時空である。アニミズム的発想を貫徹させると、山や海がカミであるように高天原もカミでないとおかしい。そうすると、この「成りまさぬ神」というのがカミとしての高天原そのものではないか。そしてその「成りまさぬ神」(=高天原)がゼロであり「初めも終わりもなく中心も周辺もない無限、永遠」をあらわすとして、有限の始まり天之御中主神が「1」だ。

・「造化」という言葉は正しくない

H27年10月27日(火)初稿
ムスヒ(産霊)と「造化」
造化三神というけれども、造化ってのは中国の道教の言葉だよね。神道の産霊(ムスビ)は「創造」と訳しても「造化」と訳してもいいけど、翻訳だから大雑把な言い換えにしかならない。「創造」というとキリスト教の神の創造とごっちゃになりやすいし、「造化」というと道教の造化とごっちゃになりやすい。太安万侶は序文を漢文で書いてるから、序文の中では中国風に造化といってるだけで、当たり前だが本文では造化という中国語は出てこない。ちょうど英語に訳す時に“create”と訳すようなのと同じような趣旨で「造化」と漢文訳してるだけ。
じゃ西洋の「創造」と東洋の「造化」と日本の「ムスビ」はそれぞれどう違うのか。

西洋の「創造」とムスビとの違い
ユダヤ教の創造説の場合、神は自分の中でなく自分の「外側」に世界を造る。ただし創造とはいうものの、一説によると、原語のもともとの単語のニュアンスは手工業のような意味の「工作」ではなく、心の中から作り出すという意味で、芸術作品のように「生む」と訳しても大きな間違いではないらしい。
キリスト教の創造説の場合、汎神論や理神論などといったややこしい話はさておいていうと、基本的にはユダヤ教と同様、神の中にではなく、神の外側に世界を作ったと考える。また、神と被造物の関係は、陶工と壺(作品)の関係である。これに対し、ムスヒは工作的に造るというニュアンスではなく「生み出す」という点で異なる。
イスラム教の創造説は、汎神論といって、この世界それ自体がアラーの現われであるという考え方。大雑把にいうと。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教いずれにしろ、何かの発生・出現・生成という現象の背後に、上位の存在者(=神)の「意志」を想定する点では、神道のムスヒと共通である。作られたこの世界とは別にその外側に神がいるっていうのは矛盾した考え方で神道はそんな不自然な考え方はしない。また汎神論というのは「唯一神=この世界そのもの」という考え方で、現代人好みな発想なのか時々こういうこと言い出す人は多い。しかしこれは山の神も海の神も福の神も疫病神も一緒くたに同じ神の現われだとして、いきなり世界イコール神とか宇宙イコール神とかに話が飛んでしまう点で一神教に近く、多神教とはぜんぜん噛み合わない。

東洋の「造化」とムスビとの違い
記紀は漢文文化全盛の奈良時代に編纂されたため漢文的表現を借用して書かれており「造化」という言葉が出てくる(ただし古事記の序文の中でだけ。日本書紀には出てこない)。西洋の創造説との差異を強調したいばかりにこの「造化」という言葉でムスヒを説明したがる向きもわかるが、ムスヒと造化の違いはあたかもムスヒと創造が異なる如くである。道教や儒教など中国思想では、世界は渾沌であった当初から本来の性質を内蔵しているという。その性質が潜在している状態から、自然と表出・展開していく過程が宇宙の生成である。天地大宇宙に限らず万物はそれぞれが内包する性質の自然の展開によって変化していく。これが造化である。これは一見ムスヒと似ているようであるが、「自然」が非人格的に展開するとする立場であり、それぞれの個性をもった特定のカミガミの存在はない。これは量的には「汎神論」、質的には「理神論」といわれるものであって、多神教である神道とはまったく相容れないものである。多神教=神道では、自然現象の背後には個性と自意識をもったカミガミの意図的な働きがあるのだと考えるのであって、なにか科学法則のようなものに基づいて自然界が自動的に駆動してるのだとは考えない。造化とムスビの相異なることかくのごとしだ。

ムスヒは「陰陽説」ではない
ムスヒは往々にして「陽/プラス/天」のタカムスヒと「陰/マイナス/地」のカミムスヒとの「ムスビあわせ」によって作用すると云われる。これは誰でも思いつくわかりやすい教説であり、よくいわれかつ流布もしていることで、とくに批判すべきこともないが、ただムスヒの観念やタカムスヒとカミムスヒの二元論が中国の陰陽説のコピーであるとはいえない。なんとなれば二元論は東アジアのみならず世界中にあり、高度文明圏のみならず未開部族の民俗文化にも男/女、善/悪などの二元論的構造が頻繁にみられるからである。これらはすべて人類の発想法の根本に由来する普遍的な現象であり、中国の陰陽説が太古に世界中に輸出された痕跡だとは誰もいわないだろう。
中国の陰陽説は歴史も古く様々な内容に詳しく考察されているので、妥当なところも多い。同質(陽どうし陰どうし)は反発し、異質(陰と陽)はくっつく、陰きわまって陽をなし、陽きわまって陰をなす、など。しいて差異をあげるならば、中国の陰陽説では易の八卦や六十四卦のように、二倍また二倍と分かれ増えていって万物に至るのであるが、最初の太極は二度と現われない。記紀神話でも天之御中主神は最初に登場するだけのようだが、高皇産霊・高皇産霊の後は常立神(独神)、イザナキ・イザナミの後は天照大神、というように段階ごとに「天御中主」の影ともいうべき「中極」が表われ、そこからまた下位の陰陽へ再分出する。結び目を作りながら広がっていく網状の展開であり、分離・細分化しながら広がっていくだけの中国的な陰陽説とは異なる。すなわち陰と陽の他に中心という第三のものが介在する。これをわたしの師匠の吾郷清彦先生は「ムスビ弁証法の網状展開」といってる。天地のはじめから何段階くだっても神話のどこでも常に中心軸が立ち、人間の時代になっても続く。これが「スメロギ」の概念の根本にもつながってるだろう。
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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