FC2ブログ

☆五月五日、鯉のぼりと巨木信仰

2678年(令和元年)5月5日改稿 H28年2月17日(水)初稿 同年3月16日(水)修正
「高木神」という神名を「巨木信仰」に関係づける説もあるのだが、それもどうかと思われる。それとは別に、今日はH28年5月5日の子供の日、昔でいうなら菖蒲の節供。で、この菖蒲の節供と巨木信仰が、実は関係が深い。
「菖蒲の節供」は中国起源ではない
菖蒲の節供は、wikipediaの書きぶりからすると中国の風習からきたと思われていて、もしそういうことなら『古事記』とはさして関係ないことになるが、実はそれがそうでもない。折口信夫の説だと、古くからの日本古来の風習が、菖蒲の節句とは別にあって、中国からきた端午の節供と混ざって、現在の日本の風習が生まれたということになる。折口信夫は七夕(たなばた)についても同じことを言っていて、日本古来の信仰風習と、中国伝来のものとが混合、合体しているという。
しかしそれはあくまで折口信夫の説であって、少々異論もないではない。それは両者が混ざる前の段階の、中国の「端午節」と日本古来の信仰とが、本来的に無関係でまったく別のものだったのかどうかという点だ。それについて折口信夫は明言を避けているような印象があるが、祭りの山車(だし)は旗指物(はたさしもの)の元になった依り代(よりしろ)からクリスマスツリーまで議論を広げかけたこともあるので、薄々の予感としては何か世界的な広がりを考えてはいただろう。ただ彼は琉球や台湾の民俗は研究していたが欧米のことまではさすがに専門家でないから掘り下げるまではしなかっただけだと思う。現代の文化人類学では、神話のみならず、祭祀風習でも世界的に共通した要素が多々あることがわかっている。
中国の端午節と、日本古来の菖蒲の節句は、それぞれ最初から現在のような形だったのではない。もとの起源は世界共通の習俗だったのなら、古く遡れば遡るほど、似てくるはずである。

鯉のぼりの起源と巨木信仰
中国の端午節は、旧暦五月五日の行事だが、もとからそうだったわけではない。実は古くは五月五日ではなくて、夏至の日の祭儀であったことがわかっている。端午というのは五月最初の午の日の意味というが、夏至から旧暦五月五日に日付が固定されたのは古いことでこの説は可怪しく、五行説で午が五月に当てられるようになってからの表記だろう。また端午は五月の最初の午の日だともいうが、普通はそういう場合「上午」というのであって端午はおかしい。菖蒲が尚武に通じるという言葉遊びから日本では男児の健全な成長を祈る日になってしまったが、むろん中国・朝鮮・ベトナム等では男女問わない。そして菖蒲の節供といえば「鯉のぼり」だが、これは江戸時代中期までは魚の形ではなくて、立てた竿の上につけた「吹き流し」だった。武士の家の旗指物(はたさしもの)を庶民が真似たものという。これが江戸時代後期までには関東に広がり、明治以降には全国の風習になったという。
これだと鯉のぼりの起源はさほど古くないことになるが、折口信夫はそれよりはるかに古い起源のあるものとみている。折口は、祭りに出てくる山車(だし)やその原型である山鉾、正月に庭に立てる若松、祭りの飾りとして作る繭玉、髯籠(ひげこ)等はすべて同一起源で、神を招く「依り代」だったといっている。もとは単純な樹木だったのが、後には人工的に竿を立てるようになり、やがてその竿に装飾がついて、様々な形式に発展していった。鯉のぼりの原型である「吹き流しのついた竿を立てる」のもその一つで極めて古い風習である。武家の旗指物に対抗するものとして江戸時代の庶民が始めたというのは江戸っ子気質から説明しようとしたもので、いかにもな俗説であって採るに足らんと思われる。
夏至の反対、冬至の祭儀は太陽神の復活を祝う「天の岩戸」の神話の再演であり、お正月の若松も元は冬至に立てた神の依り代であり、遡ればクリスマスツリーと同一起源の「巨木信仰」にまでつきあたる。英国やドイツでは「メイ・ポール」といって5月に高い柱を立てその周りで男女が歌い踊るが、これは暦が長い間にずれてきたため豊穣の女神マイヤの祭りと混同されて一ヶ月前倒しになったもので、北欧諸国の夏至柱やオーストリアの花柱のように、夏至に立てるのが本来の形である。
夏至柱
冬至に立てる神木(若松、クリスマスツリー)と夏至の神木(メイポール、鯉のぼり)が対になっているのである。冬至には太陽神=天空神の祭儀、その真反対の夏至には「母なる大地」の女神の祭儀があった。

夏至の祭りの主祭神は「伊邪那美大神」
欧州の夏至の祭りでは必ず「火」が焚かれる。これは人間の生活になくてはならぬ「火」が、大地母神から生まれたという神話を表わしている。…と聞くと誰でも、伊邪那美命(いざなみのみこと)が火の神、迦具土神(かくつちのかみ)を生んだ話を思い出すだろう。原始信仰においては大地は地底の火の信仰と関係が深かった。オセアニアや太平洋の島々の神話では「火」の起源と大地の母が結びついている。火はもともとはただ一人の老婆だけがその体内(または陰部)に隠し持っていたもので、他の人間は火の存在を知らなかった。ある若者がそれを盗もうとして火事になってしまい老婆は焼け死んだが、火は蛇に燃え移ったため人々が発見し、人間は火で煮炊きできるようになったという。これは明らかに日本の大地母神・伊邪那美命が火神を生んだ話と同系の神話だろう。注目すべきは日本ではかつて夏至の日に女性が「皐月忌(さつきいみ)」と称して穢れを祓い身を清め、その間男性は外出を余儀なくされる風習があった。地方によってはこれを「女天下」「女の家」等とも称する。民話では妖怪「二口女(ふたくちおんな)」が正体を現し菖蒲の霊力で退治されたのが五月五日だったといい、女怪を退治するのは女性の穢れを祓攘する儀礼が五月五日に行われていたことの痕跡とみえる。
futakuchionna.jpg
男児の日どころか完全に女性の日だがこれこそ大地母神の祭儀の面影を残した古態であることは説明を要しまい。男が追い出されて女性が家の主になるという日本の「皐月忌」(さつきいみ)「女天下」「女の家」という夏至の風習は、黄泉国の主人である伊邪那美神が伊邪那岐命(いざなぎのみこと)を追い出した神話を再現したもので、黄泉の大神である伊邪那美神を讃える祭儀の痕跡なのである。

同じ女神の祭祀でも五月の地母神祭儀は主婦が主役だが、四月の女神は年長の姉神、七月の豊穣神は少女の姿をとり、こっちは七夕の元型となる。12月25日のクリスマスの起源はローマ時代の冬至祭で、現在の冬至12月22日とは3日ずれているがこれは途中改暦で修正したからで、月の英語名の語源と占星術の12星座の対応関係からみれば、古くは12月(Dec)1日が冬至だったと思われる。すると6月(Jun)1日が夏至で、極東の旧暦五月にあたり、5月(May)は極東の旧暦四月となる。

☆仏教伝来以前「お盆」はどうしてたのか?

H30・8・20(月)改稿
今日は平成27年8月19日(水)。世の中はお盆休み。
IMG_0106.jpgH30・8・20(月)撮影
お盆
ところで、そのお盆なんだけど「お盆」ってのは単に仏教の行事だと思われてますね。でも本当は日本の固有の先祖信仰と仏教の「盂蘭盆会」(うらぼんえ)が混淆したものだってことは、最近ではようやく誰でも知ってるようになってきました。ところが仏教は日本に来る前に中国の文化とも混淆しており、日本固有の信仰でもなければ本来の仏教でもない要素も多分に含まれてる。

インドの「盂蘭盆会」+中国の「中元節」+日本の「?」
そもそも仏教は先祖供養をしなかったのだが、先祖崇拝に熱心な中国では仏教は受け入れられないので、中国人向けに先祖供養ってのを始めたわけ。中国では正月十五日を「上元」、七月十五日を「中元」、十月十五日を「下元」といって、このうち中元が「生者は贖罪し、死者の罪はこれを赦す日」とされていた。そこで仏教がそれに便乗して始めたのが「盂蘭盆会」。盂蘭盆は「逆さに吊るされた」という意味で、先祖が地獄で苦しんでることをいうらしい。この先祖を供養して救おうというわけ。
だから、今でこそ8月15日になってるけど本来はお盆は旧暦七月十五日でしたね。でこの日付は中国の先祖信仰からきているのであって、本来の仏教とも関係なければ、仏教渡来以前の日本の固有信仰とも関係がない。

仏教以前の日本の祖先祭祀
では仏教以前の日本ではいつ先祖祭祀をやっていたのかというと、それが秋のお彼岸(9月23日頃)だったと思われる。この「お彼岸」も仏教行事になってしまってるけど、こんな行事はインド仏教にも中国仏教にもなく、日本独自だそうだ。旧暦でいうと、旧暦は二十四節気と日付が一定しないので最大で30日ぐらいも前後するが、平均して八月十五日のあたり。つまり早い年だとお盆のすぐ後がお彼岸で、遅い年だと2ヶ月ほど間が空く。先祖祭祀という同じ趣旨の祭儀が1ヶ月おいて2度あるというのはへんだろう。仏教ではあれこれ理屈つけてはいるが、これはもともとの日本の先祖祭祀が秋分の日にやっていたのを、仏教が入ってきてからお盆とダブってしまったものなのである。そしてお盆はふつう十三日が「地獄の釜のフタ開き」と称して「迎え火」を焚き、十六日が「送り火」でその間の4日間なのだが、盆棚(ぼんだな)の飾り付けは七日つまり七夕(たなばた)から始める。この盆棚(精霊棚ともいう)はもともと幡棚(ばんだな)といったのが盆棚(ぼんだな)に訛ったもので、日本固有の信仰である七夕のものであり先祖信仰とは関係なかった。従って本来の精霊棚は先祖の位牌を置いたりはしなかった。七夕は祖先信仰ではなく豊穣豊作を祈る祭儀だったからである。お盆の茄子や胡瓜で作った牛や馬は、盆棚でなく玄関や出入り口の門に飾るのが本当だろう。お盆の行事の「灯篭流し」も本来はお盆でなく穢れを川に流す七夕の行事とお盆の「送り火」が混同してできたのだろう(この七夕も中国からきた要素と日本古来の要素が混じっているがややこしくなるので今回はその話はしない)。盆踊りは地獄で苦しむ先祖の姿を模した踊りだというのは仏教式の後付け説明で、先祖と子孫が一緒に踊を通じて交流するのが主旨で、さらに古くは祖先の霊が憑依したことを表現する踊りだったろう。満月の明かりを利用するため十六日にやるというのも世俗化が進んでからの後付け説明で、盂蘭盆会と合体したからその日付になったにすぎない。お彼岸だと満月とは限らないから「篝火」が必要となる。これがお盆の「迎え火」「送り火」の起源で、篝火だけでは足らないということもない。本来はどんちゃら騒ぎではなく厳粛な儀式であり、由緒ある神社によくみられる「くらやみ祭り」に近い形式だったのであろう。それと別に現在の盆踊りに近いような楽しい行事としては七夕に歌舞音曲が奏された、ただしこれは昼間。夜のお楽しみが伴う歌垣みたいな行事は年中あったろう。旧暦八月十五日のお月見にも満月の明かりを利用した盆踊りのようなものが付随したかもしれない。ともかくも、お盆から仏教の要素や中国の要素を排除して、そこからさらに七夕から引っ張ってきて混同された要素をよりわけていくと、残った風習(日本固有の先祖信仰)は本来はお彼岸の行事だったのが、後にお盆として七月十五日に移されたものなのと思われ、お彼岸はほぼ日付だけ残された痕跡なのである。

神社本庁への提言
で、神葬祭(神道式の葬式)とか仏教色をぬいたはずの神道式の先祖祭祀でも「中元祭」(ちゅうげんさい)といってお盆はやるらしい。中元というのは中国の道教からきているので、こんな漢語くさい言い方はよろしくないと思う。霊祭(みたままつり)という言い方で十分だろう。8月15日にやることが多いらしいが「霊祭」に名を変えて秋分の日にやったほうがいいのではないか。皇室では神仏分離してから春秋のお彼岸を「春季皇霊祭・秋季皇霊祭」として皇室祭祀の大祭に指定するほど重視してきたのに、民間の神葬祭ではお彼岸よりもお盆を重視するとは、神社本庁の怠慢ではないでしょうかね。

・「海の日」に思う(旧作の再録)

H30・7・16(祝)改稿
今日(H28)7月14日は、今から1371年前の皇極四年(AD645年)、当時の暦では六月十三日。この日、蘇我氏の邸宅が焼け落ちて多くの珍宝が蘇我蝦夷(そがのえみし)とともに焼亡してしまった日。その中で『国記』は船史恵尺(ふねのふびとゑさか)が燃える邸宅の中から救い出して中大兄皇子に提出したが、聖徳太子が編纂したという『天皇記』は焼失。古伝承の多くが失われてしまった。この時から、天智天皇の中に古伝承の復元や国史の編纂事業という考えは当然あったはずで、いってみれば7月14日は記紀編纂の出発点となった日でもある。だからこのブログとしては重要な意味のある日であるが、今回はその話ではなくて、その前日の話。

その前日(つまり今から1371年の昨日)は、前皇極四年(AD645年)六月十二日、中大兄皇子(なかのおほえのみこ:後の天智天皇)が蘇我入鹿(そがのいるか)を誅伐した。この日を現在のグレゴリオ暦に換算すると7月13日になる。この日も、いわば大化の改新の出発点になった日であり、歴史的に実に意義深い日である。で、もうずいぶん古い話だが、かつて他の掲示板に書いたものを再掲示しようと思う。
DhS8Se3U0AUopOR.jpgkodainihonnogunjikoukaishi3.jpg

旧作の再掲示
今回再掲示するものは平成17年とあるから11年も前のものだが、最後まで読むと下の方にこれは修正バージョンでオリジナル版は2000年だとある。16年前ですね。若気の至りで書いてるところもあるかと思う。誤字脱字や、事実内容の誤り、現在の自分の考えとの相違点などはいちいち修正していません。現在の私の主張というより過去の資料として読んで下さい。まぁ主義主張としては細かいところを除いて現在も大差ないけどなw

以下、再掲示はじめ

http://www.tetsusenkai.net/column/index.cgi?act=artsel&tree=44&art=1119501040
7月16・17・18日の連休に向けて ~「海の日」に思う~
文責:むらさぎ(非会員・外部寄稿)

平成17年6月23日(木) 13:30

(承前)
さて、今回は前回「民族主義と保守思想は両立するか」(http://www.tetsusenkai.net/column/index.cgi?act=artsel&tree=42&art=1119113892)の続きとして「國體」について考えようと思う。ところで、迫る7月18日は今年は「海の日」であるが、かつては毎年7月20日に固定されていた。この日は実は日本史の大事件である大化改新とも縁の深い日なのである。それで「國體」を考えるよすがとして、まずこの「海の日」と大化改新について語ってみたい。

・7月20日(ただし今年は7月18日)は「海の日」
7月20日は、明治九年に明治天皇が奥羽巡幸の帰途、灯台視察船「明治丸」に乗って、横浜港に帰還した日である。これは文明開化の途上にあった日本の海運業が近代化を終えて軌道にのり一段落した記念すべき日だったという。昭和16年以来この日を「海の記念日」とし、途中からは「海の旬間」というタイトルで、海運・造船・港湾などの海事産業や船員ら及びこれら産業に従事する人々について、国民の理解を深めるため全国各地でいろいろな行事が開催されたという。(しかし個人的には私は港町に生まれ育ったのにそういう行事の記憶はほとんどないのだが?「海の記念日」を運動してきた日本財団の宣伝不足だろうか?)その後、平成七年2月に国民の祝日に関する法律が一部改正され、平成八年(1996年)以後7月20日は「海の記念日」から「海の日」と名を変えその主旨も「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日」として、14番目の国民の祝日となった。その年、初の祝日と成った「海の日」は既に「海の記念日」としては第55回目だったことになる。(一方、同日、日本は「国連海洋法条約」を発行した日でもある。この条約は正式には「海洋法に関する国際連合条約」といい、いわゆる「二百海里法」のことである。)

・祝日と休日
ところが平成十三年(2001年)6月15日「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」が成立。この法律は海の日・敬老の日をそれぞれ7月・9月の第3月曜日に変更して三連休化するという悪法である。これにより平成十五年(2003年)から「海の日」は7月の第三月曜日となった。これでいうと本年平成十七年(2005年)の「海の日」は無意味に二日繰り上がって7月18日となる。まあいろんなことがいえると思うが、ひとつ、「祝日=休日」って発想が根本的にまちがってはいるだろうということだ。休日と切り離したとたん国民の共感を得られなくなるような祝日に意味があるのか?ただの大衆迎合ではないのか?おかみから休日だといってもらわないと休めないような会社(または個人)はその段階でだめな会社(または人間)なのだ。休むための言い訳としての祝日すらも、曜日の都合で縁もゆかりもない日付けにずらされてしまう御時世とは…。むしろ日本人は普段は休んでいいから、なにかの記念日にはそれを祝ってはたらけ、といいたい。昔は、いろいろな祝日が連休になるかならないかわくわくしたものだ。昔は土曜が休日ではなかったというせいもあるが。福田存恒がいったように文化とはそもそも不合理で面倒臭いものでありそれゆえにこだわりとして認識もされ日々の引っ掛かりとして味もあるのである。これは無能政治家が一生に一回くらい法案提出してみたくなり見栄はって無い知恵を絞り余計なことをした一例であろう。そもそも記念日とは、その日付にこそ意味がある。「休日」としての便宜しか考えられてないってこと、これはなにかを記念するという営みではない。記念日というのは本来記念するためにあるのであって単に休むことそれ自体が目的ではないはずだ。毎週日曜を休日とすること自体、日本人にとっては歴史的な根拠などないのだからそれに合わせて歴史的背景のある記念日をないがしろにするのは、文化的自己喪失をすすめるだけではないのか。今からでも遅くない、文化破壊の典型ともいうべき天下の悪法を廃止すべきである。休みたい奴は飛び石になったら間に挟まった平日を休め。そうすればさらに休日が増えて結構であろう。

・天智天皇と天武天皇の兄弟の物語
まぁそれはともかく。大化改新の主役はいうまでもなく中大兄皇子・後の天智天皇であり、戦前までは日本史上の英雄として崇敬されたが、戦後は注目されることも少なく、むしろ弟の天武天皇が面白がられているというのが実情である。それもトンデモ説がだったりするから困ったもんだ。天武天皇がはじめてこのジャンルに取り上げられたのは70年代、佐々克明が「新羅からの使臣・金多遂が天武天皇になったのだ」という説を唱えたのが最初だった。これは佐々克明のオリジナルじではなくて、韓国の説をパクッたものだった。じつは戦前以来、新羅王家の先祖が稲飯尊(神武天皇の兄)からでたとか(これは新撰姓氏録にある伝承である)、あるいは駕洛(から)王家の始祖・金首露が塩乗津彦命(孝昭天皇の子孫)だとかの説があったので、それに韓国人が対抗して「天武天皇=新羅人金多遂」などと言い出したのだろう。その後、日本でも、天智天皇は百済王餘豊だとか、天武天皇は高句麗人泉蓋蘇文がその正体だとか、半島から侵入して日本を征服したのだというようなコジツケ説のバリエーションがふえたが、学問的にはすべてとるにたらないものである。
さて、そもそも天武天皇にまつわる謎というのは、年齢が兄の天智天皇より6歳(5歳だったかな)上であること。大和岩雄の説では、天武天皇は異母兄の漢王・漢皇子(あやのみこ・あやおうじ)と同一人物で、天武が異母兄、天智が異母弟だという。この説は反論があって今のところ信憑性は薄い。が、この年齢問題は大昔からおかしいと思われていたことなので中世からそれなりに研究されていて、一応、北畠親房の両天皇双子説で中世の研究では決着がついているとしてよいと思う。まあ現代の論争ではまだいろいろあるが本稿は古代史談義が主目的ではないので省略する。ちなみに6歳上というのは、日本書紀にはなく中世に紛れ込んできた伝承で、これは夭逝した異母兄・漢皇子の年齢が混入したものだろう。
宝女王(後の皇極天皇)は、はじめ高向王に嫁いで漢王(漢皇子)を生んだが後に離婚して、舒明天皇の皇后になり双子の皇子をお生みになった。そこで私の推理は、漢王(漢皇子)は早逝してしまったので、舒明天皇は高向王を哀れに思し召して双子の1人を賜われた。舒明天皇の手許に残された方が中大兄皇子(後の天智天皇)で高向王の養子に出された方が大海人皇子(後の天武天皇)だったのではないだろうか。
同じ双子でありながら大海人皇子の方は皇位継承順位が大幅に下がってしまった。しかも中大兄皇子よりも大海人皇子の方が優秀な人材だったからややこしい。大海人皇子は自分が「影の皇子」であることを強く意識したにちがいなく、大陸渡来の遁甲の術を学んで忍者の元祖にまでなってしまった。
一方、いささか出来が悪いかと思われた中大兄皇子は、途中省略するがいろいろあって、中臣鎌足とのコンビで西暦645年六月十二日(現在の7月13日)蘇我氏を成敗し大化改新の主役として一躍「光の皇子」となり
天命開別尊(あまつみことさきわけのみこと)と讃えられるに至った。(岩波文庫の「あめみことひらかすわけ」という訓は適切でない。これは崩御後の和風諡号ではなく蘇我誅滅の時の尊号。崩御後の和風諡号は持統天皇が最初。)
大海人皇子は葛木当麻倉首や高向臣や倭漢直や凡海連などを通じて蘇我氏本家と間接的につながっていたので、一般の廷臣たち同様クーデターの計画は知らされていなかったと思われる。
大海人皇子は血筋からいえば中大兄皇子に次ぐ皇位継承者であったのに、これ以後、両者の立場の差は決定的なものとなったが、中大兄皇子・中臣鎌足のコンビの側も知恵者であり実力者である大海人皇子を人材としてかっていた。
六月十九日(現在の7月20日・平成十四年までの「海の日」)は新政府の人事発表があり群臣を集めて盟約を結び「大化」と年号を建てた日だが、日本書紀のこの日の記事には大海人皇子の名はない。が、クーデターにかんでない以上おおっぴらには優遇できないにしても影の参謀あるいは耳目手足として頼りにはしており、ゆえにその時の群臣のひとりとして列席はしていた。
ところが白村江の合戦で、全軍の大将軍だった大海人皇子は惨敗を喫して帰国。もちろん責任問題は生じたはずだが、権力の座にある中大兄皇子にしても今失脚されては困る人材だったため、かばったのである。(白村江遠征軍の総大将はなぜか日本書紀には登場せず氏名不詳だが、前後の事情から判断してこの時期に所在不明の大海人皇子であった可能性が高い。)
白村江の直後、遠征軍は全滅したものの、軍を立て直して整然と退却するだけの余裕はあり、また国内にも強大な大軍団が残っており、プライドを傷つけられた倭国の世論は意気盛んだったと思わるが、ただ唐の実力はそれを上回るかも知れないと危惧するのは大海人皇子や、ごく一部の知識人だけ。この時、唐側に、あわよくば九州ぐらいは奪い取ろうという気分がなかったとはいえない。(実際に九州は唐に併合されたという説もあるが、今のところ珍説の域を出ず、学界では通用していないようだ。)幸い、唐は新羅と対立関係に入ったため、倭国と関係修復せざる得なくなったが、これをチャンスにして新羅とも関係を改善し、新羅に援助し、盾となってもらうという策を考え出しその目的のため裏で糸を引いていたのは、何を隠そう大海人皇子だったであろう。(大海人皇子の周りには親新羅派の人脈が多い)。当時は唐=新羅への反発が大きかったので、この政策は支持が得られにくいものだったろうが、危険をはらんだ微妙な時期の外交戦は切れ者である大海人皇子の采配にまかされていたのだろう。
天智天皇は病気で最期をさとると、この時期は知恵者の大海人皇子に皇位を譲って国難を乗り切ってもらうしかないとも考え始めていた。皇太子・大友皇子のとりまきの蘇我赤兄・中臣金らの5大夫らは、それは困るので大友皇子をそそのかし大海人皇子を排除すべく画策したので、大友皇子は優秀な人物だったことは歴史に徴証があるのだが、さすがに若かったのでついに5大夫らにだまされ、大海人皇子を疑うに至り、壬申の乱に至る。大友皇子の遺児たちは西国ではなくなぜかわざわざ大海人皇子の勢力基盤である東国に落ちのびたがこれは裏事情を知る大海人皇子が彼らを守り匿ったのだと解釈せざるを得ない。
大海人皇子は即位してから国号を「日本」と変更した。日本書紀の天武十二年には明記がないが諸説を検討すると「倭国」から「日本国」に改名したのは西暦683年とする説がよいようである。国号改定は、シナからみれば別の国になったという意味になり、唐と戦った倭国はもう滅ぼして存在しないよ、という外交上の雰囲気作りだったのかも知れない。もっとも国内においては「倭」と書いても「日本」と書いても同じく「やまと」と訓読していたわけで何も変わるものではないが。天武天皇の新政府は、信長政権を継いだ秀吉政権みたいなもので、まったく天智天皇の計画(律令国家建設)を継承するもので、新機軸というべきものはない。しかも壬申の乱は、利権や保身にこだわって改革に乗り気でない旧勢力を一掃する機会となり、天智天皇の改革路線は大きく前進することとなった。記紀の編纂事業も、もともと天武天皇の発案ではなく焼け落ちた蘇我邸から「國記」が取り出されて以降、中大兄皇子が推進していたものであり、日本書紀の編纂委員長は舎人親王なので父(天武帝)を顕彰すべく、天武天皇の落ち度や、天智天皇の功績はほかにもいろいろ隠されているところがある。

・大化改新の歴史的意義
大化改新から壬申の乱までの一連の事件は日本史を画するもので、その前後で日本は大きく生まれ変わった。これに匹敵する事件は明治維新しかない。
それは、倭国というのは、多民族を包含する海洋帝国(国内的には分散的な氏族社会)だったが、半島を失って制海権もなく島国に閉じ込められ、閉鎖的な集権的な律令社会=内陸国家へ移行してしまった。(そもそも律令国家は内陸国家であるシナの文明を輸入したもの。)
この事件はまた封建時代の始まりといってもいい。ゲルマン氏族社会にローマ法学の諸制度(ローマ帝国の枠組み)がかぶさって西欧中世封建社会ができたのと同じく、倭人氏族社会に律令制(シナ帝国の枠組み)がかぶさって荘園や武士が発達した。
遣唐使を廃止した平安朝は太宰府で管理貿易して半ば鎖国のようなものだったが、本来海洋民族としての日本人のパワーはとめることができなかった。庶民は新羅系海賊の影響もあり徐々に海賊化して自由にやるようになった。(これは海賊大将軍藤原純友の乱の背景であり西洋のバイキングの活動と時期的に重なる。)それがやがて室町時代の大内家・細川家という2大海洋帝国になる。これを継いだ本願寺・大友・三好・毛利・島津、そしてそれらを統一した織田・豊臣・徳川も、鎖国以前は強大な海軍をもち、活発な海外貿易をし、また周知のように東南アジア各地に日本人街が存在した。
惜しむらくは江戸幕府の鎖国政策により、海外発展は大幅後退を余儀なくされ、閉鎖的内陸国家的な律令社会の建前は公式観念として温存されてしまったまま明治に至った。頓挫してしまった海外雄飛は開国まで先延ばしになり、日本は欧米列強のはるか後塵を拝するはめに陥った。
こうしてみると大化改新と明治維新は日本史上の単なる二大事件ではなく、相呼応するものであることがわかると思う。これらの日本国家の大変化は、大化改新に発するもので、その立役者は中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)のコンビであって、表立った歴史の流れを大観すると、大海人皇子は単なる継承者というか脇役の感がある。が、オカルト的な興味からは、天文遁甲の達人で国家デザインにもその趣味を存分に活かした天武天皇の方が『ムー』的に面白いってことがあるので、今流行の古代史ファン向けの通俗本では天武天皇の方が主役とした歴史観が出回っている。いわんや逆賊蘇我を悲劇の主役として同情的に描いたり、天武天皇を英雄視する一方で天智天皇を陰謀好きの策謀家に仕立てるヨタ本までが古代史マニアの世界には存在する。トンデモ本や通俗書に目くじらたてるのもどうかとも思うが、國史・國體の観点からはやはり嘆かわしいといわざるを得ない。
さて唐が半島から手を引いて国難が去ると晩年の天武天皇は自分の役割が終わった後も皇位に留まり続けることに悩み鬱々として世を去った。その天武統も称徳天皇で断絶し、光仁天皇から天智統にもどっている。これは大化改新での天智天皇の功績があまりに大きく後々までもその子孫が尊重されていたからである。
そして現在の日本人のほとんどは苗字からいえば源氏、平氏、藤原氏の子孫である。皇室・源氏・平家の三者はすべて桓武天皇から以降次々に別れでたものであり、その桓武天皇は天智天皇の男系の曾孫で、藤原氏はすべて中臣鎌足の子孫。つまり律令国家日本を創設した大化改新の立役者コンビの子孫がそのまま現在の日本国民になっているのである。
大化元年の建元の日は前にいったように六月十九日で、これは現在の暦でいうと7月20日、本来の「海の日」に当たる。これは海を失った日本が内陸国家として再出発した日だったのだがそれが「海の日」とはなんたる皮肉であろう。いや、皮肉ではない。明治以降の日本は、天智天皇と中臣鎌足の子孫として、千年ぶりに、再び「海」をとりもどそうと帝国への道をすすんでいる。「海の日」は海洋帝国再建を御先祖様に誓う日であるべきなのだ。
天智天皇は近江神宮に祀られている。天智天皇は蘇我氏によって滅びかけた日本国家の再建者であり、神武天皇や明治天皇とならび尊崇すべき中興の英主であるとともに、実に日本民族の大祖先なのである。きたる7月16・17・18日の三連休には、近江神宮までは行けないまでも、ただ休みただ遊ぶのではなく、友人との酒の席にあるいはデートのついで・家族サービスのついでに、祖国日本について語らってもよいのではないだろうか。たとえ友人のいないひとりぽっちの人間であってもこのサイトのコラムを読もうというほどの者なら、その体に先祖から継いだ悠遠なる大和魂を分かち合っているはず。近江神宮へ向かってともに遥拝し、日本人としての自覚を新たにしようではないか。
次回は本題に戻って「國體」という言葉そのものからその真義に迫ってみようと思う。(続く)

(本稿は別名で2000年12月9日に日猶板(現存せず。廃墟はhttp://fboard2.jp.cgiserver.net/CrazyWWWBoard.cgi?db=nitiyuura)の新裏板(現存せず)に投稿したものを主に、2002年7月31日に日本論・思想の十字架(http://ueno.cool.ne.jp/mad2001/?)の掲示板(通称寅板)に投稿したものを加え、若干リライトしたものである)

以上、再掲示おわり

・「三人官女と五人囃子」は「三女神と五男神」なのか?

今日3月3日は「ひなまつり」で「桃の節句」。これも一般的な言われ方では中国伝来の「上巳」が日本風に独自に変化してできたもの、だから中国の「上巳節」と比べると共通してる部分と違ってる部分とがある、と。しかし日本の鯉のぼり七夕(たなばた)が中国伝来の要素と中国伝来以前からあった日本独自の要素が混合している、つまり中国からくる前から日本にあったってことはそれぞれの記事に書いた。とすると、桃の節句もあれだ、中国から伝来する前に日本独自のものとしてあったのではないか、と思いたくなる。
桃の節句は中国伝来ではない?
ざっくり検索かけると、ネットではホツマ関係者はそういうこと盛んに言ってるね。モモヒナキ・モモヒナミがどうたらこうたら、と。ホツマツタヱは松本善之助がまだ生きてた頃、ひらがなの『全訳ほつまつたゑ』ってのを出してたんだが、取り寄せようとしたら品切れだった。そこでしかたなく愛媛県の伊予市だったか宇和島市だったかの「自己維新」っていう同人誌のバックナンバーを大量に買って取り寄せた。この同人誌に我が師匠吾郷清彦先生が『直訳ホツマツタヱ』を長期連載してたから。当時はホツマツタヱってこれしか出版されてなくて貴重なものだったんだよね。今は糞みたいなホツマ本が大量に出てるけどさ。今から40年近く前、中学生だったか。夢中で読みまくって、ほぼ暗唱してたね、ホツマツタヱをw その頃は日記かいても部活の活動日誌かいても自然に七五調になったりして、困ったもんだ。いや困ってないけど。嫌な思い出だよ。いや嫌じゃないけど。

「三人官女と五人囃子」は「三女神と五男神」なのか
それでネットみてたら雛人形のお内裏様とお雛様が須佐男命と天照大神で、「三人官女と五人囃子」が三女神(宗像三神)と五男神(忍穂耳命と四人の弟)だって説があったのだが、これはネタ的には面白いけど本当かね?w 困るよこれ、だって世の中には「天照大神男神説」ってのがあるんだよ。ホツマツタヱも男神説だけど、ホツマツタヱとは無関係に大昔からある。この場合、誓約(うけひ)の二神は男同士ということになり、男雛ふたつならべないといけなくなる…。一部のそれ系の人々にはウケそうではあるが、現実の雛人形とはあわなくなる。
ただし、同じ天照大神男神説でもホツマツタヱの場合は、天照大神には瀬織津姫(=向津媛)という皇后が設定されている上、三女神も五男神も(腹違いではあるが)全員とも天照大神を父とした子供たちって設定になってるから問題ないわけだが、ホツマツタヱは江戸時代に捏造された偽書でカミガミの神話を人間の話に置き換えた創作だからそんな説は採用できない。でも男神説は正しいと思うけどな。「天照大神男神説」についてはいずれかの機会にこのブログで詳細をまとめます、昔とりまとめた資料が出てきたらの話だけど。
ともかく、天照大神も須佐之男命も男神だとなると雛人形にこじつけられなくなるw さてどうしたもんか…。あらためて天照大神と須佐男命のコンビは男同士、という前提で雛壇を眺めて考えてみると、下の方に男のコンビがいるぞw 左大臣と右大臣だ。もしやこれが天照大神と須佐男命じゃないの? つまり雛壇は下の方が偉くて上の方が若い世代になっているんじゃ? 逆転の発想だよw ならばお内裏様とは邇々藝命(ににぎのみこと)で、お雛様は木之花咲耶姫(このはなのさくやひめ)ってことで決まりじゃないか。左大臣・右大臣のさらに下(最下層)には仕丁(衛士)のトリオがいるが、これが造化三神だろうw
ただし雛人形を飾るようになったのは江戸時代からって言われていて、これはそうだろう。このブログで何度か書いてるけど、人形や神像を作って祀る文化は古い時代の日本にはなかった(土偶はどうなんだって話はいずれ五穀の起源、オオゲツヒメ神話の機会にやります。埴輪の話は垂仁天皇の機会に。どちらも日常的な崇拝対象ではない)。形代(かたしろ)というヒト型の紙に身のケガレを移して川に流したのは大陸伝来の術で、陰陽道だろう。この形代が人形になったというから、雛人形のルーツは大陸の風習なのであり、日本古来のものではありえない。今の雛人形は寛永雛が直接のルーツで時代的におそらく後水尾天皇と徳川和子がモデルかといわれているらしい。囃子人形が加えられたのは18世紀からで、その頃すでに三人官女と五人囃子が揃っていたのかはしらん。徐々に三女五男の形になってきたのなら最初から神話がモデルだったわけではないだろう。江戸後期なら庶民でも日本神話のことはよく知られていたろうから「三女神と五男神」を雛人形で表現しようって発想はありうるが、あんまり前だとどうだかな。

上巳節(じょうしせつ)
中国の「上巳節」ってのは漢代までは三月の最初の巳の日だったのが三国志の時代から旧暦の三月三日になったとされてるんだが、これは正確には上巳(=三月の最初の巳の日)と三月三日の祭儀(仮に「XX節」とよぶ)とが別々だったのが混同されて一つに統合されたのではないかと思う。端午の節句がは旧暦五月五日だけれども、古い時代の中国では五日に固定されたものではなく夏至の日の祭儀だったことがわかっている。だとすると、その2ヶ月前の「XX節」は二十四節気でいう「穀雨」の日の祭儀だったのではないか。端午節が夏至から五月五日に変更されたように、「XX節」も三月三日に変更されていた。この上巳節と混同されて合体したのはその後だ。端午節が五月の最初の午の日だったというのは誤りで、そういう場合は「端午」でなく「上午」というはずだろう。だから中国の上巳節の内容も、本来の上巳の風習と「XX節」の風習に分解することができる。

・「酉の市」の起源とその信仰の原形

今日、11月23日は勤労感謝の日、正しくは「新嘗祭」なわけだが、新嘗祭の話は以前にもしたので、今日は別の話をしよう。たまたまなんだが、今年は酉の市が三の酉まであって、今日がその三の酉。
(※以下、続きはまた後日、年明けにでも書きます)

・七夕と日本神話

七夕と日本神話(多忙につき内容は後日かきます)

・夏越大祓(なごしのおおはらい)

6月30日は「夏越大祓」(なごしのおおはらい)

※後日に執筆予定

・天長節

今回の記事はただの日記です(^^) 今日は天長節。以前は毎年のように仲間と皇居一般参賀にでかけていたものでしたが、もう長いことごぶさたでした。久しぶりに古い友人がいくときき、わたしも数年ぶりにいってまいりましたっ!
参賀のレポ
猛吹雪の年もあれば雨にふられた年もありましたが、天候にめぐまれる率が異常に高い日でもあります。今日も雲ひとつない青空でした。後ろの人の迷惑にならないように日の丸は控えめに振りつつ、天皇陛下ばぁあんざぁ〜いっと何度も絶叫してきたぜ。俺の声のあまりのでかさに周囲の人に苦笑されたり爆笑された年もありました。今年は外国人のカップルにウケてしまった。数年前と比べるとアジア系の外国人と若者が減って、お年寄りと欧米系の外国人がかなり増えた様子でした。最近の若い人はYOU TUBEで見てるのかな。慈愛あふれるお言葉に大感激。81歳になられたなんですなぁ。当日の映像とお言葉はYOU TUBEにいいものがいろいろありますのでそちらをみて下さい。ただ、陛下のお姿がはっきりみえる上に、マイクの調整が素晴らしくすぐそばで語られているようにはっきり聞こえるので、とても心に響くのですよ。このライブ感はYOU TUBEの動画ではむりかもしれない。若い人はぜひ一度はお参りしてみて頂きたい。
ちなみに19日の記者会見のお言葉はこちら↓(宮内庁HP)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h26e.html
帰りに「三の丸尚蔵館」を見学。

浅草神社めぐり
つれの友人が浅草の鷲神社の御朱印帳がほしいというので地下鉄入谷駅に。そこで食事をしようということになり、カツカレー発祥の店という「河金」で昼飯。
その後「鷲神社」にいくつもりが、大きく道を間違えたついでに「松が谷秋葉神社」(秋葉原地名起源の神社)に参詣。その後、合羽橋の地名の起源になった「かっぱ寺」を見物、「矢先稲荷神社」のほうまでいってしまいました。矢先稲荷の拝殿の天井には、神武天皇から今日までの馬にのった人の絵100枚(歴史的な考証がしっかりなされた上で大和絵風に描かれた素晴らしいもの)が飾られているので有名なんですが、鷲神社で待ち合わせに遅れるので参拝はせず。
千束の「鷲神社」で他の友人2人と合流。うち1人は朝の一般参賀にいったものの間に合わなくて閉めだされ、鷲神社に直行してきたとのこと。残念ながらお目当ての御朱印帳は品切れで明日にならないと入らない。すごくかっこいい他ではみられない御朱印帳だそうで、人気があるようです。で、「今戸神社」の御朱印帳に予定変更。今戸神社は招き猫で有名な神社ですね。御朱印帳も猫の表紙のかわいいデザイン。
その後、浅草の「神谷バー」で忘年会。その後「天狗」東京駅前店で二次会。ここで友人の友人であるインド人(すごく楽しい人でした)が合流、文化の違いとか中国問題とかいろいろ面白い議論で盛り上がり、けっこうな1日となりました。

・冬至の星祭と神話

今日は冬至なんだけど、この日は、太陽の生命力が最も衰えるとともに、新しい太陽に生まれ変わる日でもある。そして冬が始まり気候がどんどん寒くなっていく。そこで伝統行事としても、弱った生命力を回復し新しい生命を取り入れ、冬に備えるという意味のものが行なわれる。伝統的なしきたりによれば、下記に列記するものを食べて栄養を取り、朝粥たべて夜は柚子を浮かべた風呂に入ってあったまれば、一冬の間風邪をひかないと信じられる。

冬至の日に入らねばならぬと定められている風呂
この日は「冬至風呂」と称して柚子湯に入る。流行し始めたのは江戸の銭湯からだが、それ以前から椿・松・柏などの葉や季節の花を風呂に入れて浸かる風習があったと思われる。

この日に飲食しなければならないと定められている7品
冬至の日の朝に小豆粥を食してあったまる。これを「冬至粥」という。小豆粥を食べれば疫病にかからないともいう。「冷酒」。「体の砂払い」と称して「コンニャク」。それに冬至の「と」に因んで、「と」の付く食べ物、カボチャ(別名とうなす)・豆腐・唐辛子・ドジョウ。カボチャは栄養をとるため。またカボチャを食べると中風にならないとも、長生きするともいう。異説として「ん」のつく食べ物だとして、なんきん(カボチャ)・れんこん・うどん等をあげる説もあるが、江戸時代の記録にはない。つかそもそも「と」が付くものというのは後付け理論で、冬至(とうじ)というのは漢語だから古い時代の日本語ではない。カボチャと唐辛子は安土桃山時代か早くても戦国時代に海外から入ってきたので、もともと日本にはなかったはずで、古くは何か別のもの、カボチャは餅とか芋とか栗とかだったろうし、唐辛子は山椒とか生姜、ワサビの類だったと思われる。唐辛子はあるいは柚子だったかもしれない。柚子には種類によって中国原産種と日本原産種がある。つまりここに挙げられてるものは「と」つながりではなく、本来は別の理由であげられていた。というか、ならわしとかしきたりの類なので、特に共通した理由などもともとなかったのかもしれない。

星祭と神話
(以下、後日に追記)

・大祓詞

H26年11月27日初稿
「大祓詞」には新旧2種類ある。原文の中にあった天津罪・国津罪を具体的に列挙してる部分を大正三年に削除した新バージョンが現在の「大祓詞」なんだけど、それ以前の古いままのが旧バージョンって意味。
(以下、続きは後日に)

・新嘗祭

今日、11/23は宮中祭祀で「新嘗祭」の日。まぁいうまでもなくこの日付は明治になってグレゴリオ暦になってからのものでそれ以前は旧暦士月の二度目の卯の日。これをグレゴリオ暦に換算すると現在の12/14を中心として旧暦の日付が動く分の1ヶ月と十二支12日、計約42日間のいつか(最も早い年で現在の12/5、最も遅い年で現在の翌年の1/15)になる。新嘗祭のもっとも簡単な説明としてはお米の感謝祭なわけだが、稲は9月の下旬(ただし早いもので8月の下旬、遅いもので10月下旬)くらいが収穫期なので、稲作の感謝祭だとすると本来なら10月の下旬頃が最適だろう。もし旧暦でやるなら九月となるはず(節切り恒気法で10/7から11/5まで)だが、新嘗祭の日取りでは平均して2ヶ月近く(9月の下旬からすると3ヶ月近く)も遅れることになる。これは米の感謝祭だとするとかなりおかしなことになる。
ちなみに民間の伝統習俗に古い時代の痕跡をみていく民俗学のほうで「刈り上げ」習俗はどうなってるかというと、西日本や南関東では「亥の子」といって旧暦十月の最初の亥の日(寛政暦以前の恒気法で小雪を11/21として計算すると早い年で現在の10/23、遅い年で現在の12/2、平均して11/12、幅が1ヶ月と12日ある)。北関東や甲信越では「十日夜(とおかんや)」といって旧暦十月十日(早い年で現在の11/1、遅い年で現在の11/31、平均して11/16・17、幅が1ヶ月ある)。東北では「三九日」(みくにち/さんくにち)といって旧暦九月九日・十九日・廿九日(霜降を恒気法で10/22とすると九日は10/1-10/30、平均して10/15・16。十九日は10/11-11/19、平均して10/25・26。廿九日は10/21-11/29、平均して11/4・5。節切りでいうと九日は10/15、十九日は10/25、廿九日は11/4)。
じゃあ士月の祭儀はないのかというとそうでもなく、九州や信州で「霜月祭」、奥能登の「アエノコト」、北九州の「丑の日祭」、各地の「大師講」がある。がこれらはあまり一貫性や共通性に乏しい。まず霜月祭は神楽メインで収穫感謝祭なのかどうか不鮮明、アエノコトはあまりにそれっぽいので新嘗祭にあわせて日程が繰り下がってるのではないかと疑われる。丑の日祭は4月にやる地方もあり、必ずしも11月で安定していない。大師講も日程はバラバラでしいていえば11月24日が多いという程度。柳田國男は古く士月に生まれたオホイコという神の長子を祝う風習の祭儀があったことを想定していて、これら士月の諸行事がもとは冬至の祭儀だというのは一理も二理もあり、それはそれで別の機会に詳しく論じたいところだが、米の収穫祭と直接の関係をいうのは疑わしいだろう。いずれにしろ士月の行事は神楽や歌舞、市がメインで、もしこれが収穫感謝祭だとすると約1ヶ月遅いとされているのは新嘗祭と同じである。
で、全国各地の「刈り上げ」の習俗をみてまず気付くのは、東北以外では十月なのに、気候からみてもっとも遅くてよさそうな東北が逆にずばり九月になっていることだ。民俗学の常識的な発想法で僻地に古い習俗が残りやすいとすれば、西日本の「亥の子」(旧暦十月)は比較的新しく、甲信越の「十日夜」(旧暦十月)これに次ぎ、東北の「三九日」(旧暦九月)が最も古いことになる。三九日が10日置きに3回も設定されてるのは要するに旧暦の日付が季節とずれるのでそれに対応するためだろう。「みくにち」と似た言葉で九州北部の「おくにち」(おくんち)という行事があるが、これももともとは旧暦九月九日の菊の節句の行事で「お九日」が訛ったもので、恐らく東北の三九日ももとは最初の九月九日が基本だったのだろう。そうすると菊の節句に古くは日本では米の感謝祭の意味があったと思われる。
ところで、旧暦の日付は毎年動いて季節とずれて(最大約30日のずれ)しまうので、普通に考えると、季節そのもの=二十四節気を基準としたほうがよいとは思わないだろうか。実際、四分至(春分・秋分・冬至・夏至)は石器時代から知られていた上(ただしこの場合は定気法に該当)、大陸から伝来した旧暦でも二十四節気は最初から組み込まれているので、無理に旧暦の日付に拘らずとも二十四節気を基準にする(=節切りの月で行事を決める)ことは、大昔でもたやすいことだったはず。おそらく最も初期には、二十四節気を基準としていたのだろうが、農作業にはより適して便利なやり方をわざわざ廃止して不便な方式に切り替えるというのは自然には考えにくいので、大陸伝来の暦を定着させるために政治的な理由で強制されたとしか考えられない。ちょうど明治の改暦の時に起こったのと似たようなことが、かつてあったのだと思われる(参考:吉村貞司『日本古代暦の証明』六興出版)。そこで思い出されるのが、旧暦五月五日の菖蒲の節供が、古くは「五日」という日付ではなく「夏至」の祭儀だったという事実だ。そうすると、七月七日の七夕や九月九日の菊の節供も、ぞれぞれ古くは2ヶ月後の処暑と霜降の行事だったのではないかという疑いが当然でてくる。霜降は定気法で10/23、恒気法で10/22。当時の暦を利用しただけなら恒気法だろうが、石器時代に遡る「山あて法」で観測した古い伝統に基づいていたとすれば定気法となる。九月十九日は恒気法の節切りでいうと前述の通り10/25となり、定気法の霜降とは2日の差だが、近いといってよいだろう。三九日の日取りは、通常の菊の節句(九月九日)に加えて菊の節句の古い日取りをかなり意識して設定されたのではないだろうか。
いうまでもなく、この霜降(現在の10/23)が新嘗祭の本来の日取りだったというのがわたしの説なわけだが、しかし、だとするとなぜ新嘗祭の日付は「士月の二度目の卯の日」に変更されてしまったのか、という疑問に答えねばならない。これについての謎解きをしようと思う。
(続きは後日、今日は時間ない)

・鎮魂式

今日、11月22日は宮中祭祀の「鎮魂式」の日。その式次第は以下の通り。

1)アチメ神事
大臣以下諸司が神祇官西院の所定の座につき、神祇伯以下が琴師、笛師、御巫(みかんなぎ)、神部(かんべ)、卜部を率いて参入。
神楽「安知女(あちめ)」(阿知女とも書くが当て字なので深い意味はない)
琴師、笛師が「安知女」の曲を奏し、神部及び雅楽の歌人が相和して神楽歌「安知女」を歌い、神部の拍子にのって御巫が「安知女」の歌舞。
その間に「八代物(やしろもの)」別名「八色幣」(やくさのみてぐら)と称する幣帛を供える。 

太刀1口 弓1張 箭1双(2本) 鈴20口 佐奈伎(さなぎ 鐸=鈴の一種)20口 絁(あしぎぬ)1疋 木綿5斤 麻10斤

続いて、次の神饌も供える。

神酒 飯 餅 海の魚 川の魚 鳥 鰒 海菜 野菜 果 塩 水

「安知女」の歌は8首、毎回歌の前に「アチメ(1度)オオオ(3度)」と唱える。

(以下の歌は伝承にもり文句と当て字に多少の相違あり)
1天地に来ゆらかすはさゆらかす 神わがも神こそは きねきこう きゆらならば
2石上振るの社の太刀もがも願ふその児にその奉る
3猟夫(さつを)らが持有木(もたき)の真弓奥山に御狩すらしも弓の珥見ゆ
4登り坐す豊日孁(とよひるめ)が御魂欲す本は金矛末は木矛
5三輪山に在り立てるちかさを今栄えではいつか栄えむ
6吾妹子が穴師の山の山のもと人を見るかに深山縵(みやまかづら)せよ
7魂筥に木綿とりしでて たまちとらせよ御魂上(みたまが)り魂上(たまが)りましし神は今ぞ来ませる
8御魂上(みたまが)り去坐(いまし)し神は今ぞ来ませる 魂筥持ちて去りたる御魂 魂返しすなや

その後、掌典長が祝詞を奏上して掖座に控え、掌典が「糸結びの座」に着き、別の掌典が「御衣匣/御衣筥」(みそはこ)という箱1合を捧持して渡御がある。御衣匣は天皇の御魂代(みたましろ)である御衣(みそ)を納めた柳筥(やないばこ)であり、この段階では御衣に「御魂緒/御玉の緒」と称する木綿(ゆふ)で作られた振り糸も10本ほどついている。その掌典が御衣匣を斎場の案(あん、神事に使う8本脚の机)の上に安置。掌典長は「八開手(やひらで)」(8回の拍手)を4回(計32回)。

2)鎮魂の儀
掌典補が斎場前後の幌(とばり)を垂れ下ろす。
幌(とばり)の中で「宇気槽(うきふね/うけふね)」1隻を伏せ、その上に御巫(古くは猿女君の出身の女性が御巫をつとめたが実際には内掌典という女官が代理をつとめる)が乗る。「宇気槽」とは桶とか盥の類。上に乗った御巫は桙を持って、宇気槽の底を突きながら(一説に踏み鳴らしながら)「ひと・ふた・み・よ・いつ・むゆ・なな・や・ここの・たりや」と唱えて数をよむ。これを「宇気槽の儀」という。最後の「たりや」は「とをありや(十有りや)」の意味という説もあるがしからずして「とをたりや(十足りや)」の意と思う。このヒフミ歌も「阿知女の歌」の一部とされている。
これにあわせてその度ごとに、中臣(実際には掌典)が御衣匣の「御魂緒」を一つづつ結び、神部の拍子に応じて女蔵人(にょくろうど、女官の一種)が案上の御衣匣をゆらゆら振り動かす(これもちょうど10回になるはずである)。
ついで女蔵人が御魂緖を筥に納む。その後、掌典補は幌(とばり)を揚げる。これを「糸結びの儀」という。
ここまでが鎮魂式の前半で、宇気槽の儀と糸結びの儀が同時に進む。「鎮魂(みたましづめ)の儀」という。

3)魂振の儀
掌典長が進み出て御衣匣/御衣筥(みそはこ)を執り蓋を開いて神前に向かって10回振り動かす。のち、もとのところに安置。
御衣(みぞ)・御玉の緒は神殿に入御。
続いて皇后の御衣・御玉の緒の渡御があって、天皇の御衣・御玉の緒と同様の儀式が行われる。(『令集解』(AD868頃?)では2名だった御巫の定員が『延喜式』(AD927)では3名に増員されたが、これは天皇、皇后に続いて皇太子の分も行われるようになったからである。ただし皇后の分は天皇と同日だが、皇太子の分は翌々日の巳の日に行われる。)
これを「魂振(みたまふり)の儀」、または「御衣振動の儀」ともいう。
儀式終了後、大直歌・倭舞あり。

・地久節

おほきさきのみこといやさか
今日は10月20日は地久節(ちきゅうせつ)、皇后陛下の誕生日です。
皇后陛下、傘寿(80歳)のお誕生日のお言葉はこちら↓(宮内庁HP)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h26sk.html

母の日
地久節は、戦前だと「母の日」でもありました。米国式に5月第2日曜になったのは戦後のこと、しかも世界各国で「母の日」の日付はバラバラなので、日本も米国にあわせる必要などなかったろうと思います。

えびす講
ついでにいうと10月20日は「えびす講」の日でもあり、皇后陛下は恵比寿様の申し子だったのでしょうか(^^)
関係ないけど、えびす講といえば、日本橋七福神の一つ、宝田恵比寿神社では昨日と今日、べったら漬の「べったら市」やってますが、今年も行きそびれてしまいました。

敬称
今のマスコミは「皇后様」「美智子様」と言いたがり、陛下をつけないのはけしからんという話がよく聞かれますが、陛下になったのは明治からで本当は殿下だった。個人的には「おきさきさま」という言い方が好き。それだと妃殿下と区別つかないといわれそうだけど、文脈でわかるでしょう。どうしても区別しないと紛らわしい文脈では皇后陛下は「おおきさき様」とお呼びするか皇太子妃殿下と秋篠宮妃殿下は「わかきさき様」とすればよいと思う。ちなみに本来の漢文では陛下・殿下は二人称で、対面してる相手にいう言葉で、天皇陛下とか皇太子殿下とか身位や称号の下につけたりしないし、三人称に使ったりもしないもの。

『橋をかける』
さて、平成10年にニューデリーで開催された国際児童図書評議会での皇后陛下の講演録が『橋をかける』と題して出版されていました。たいへんな名文です。著作権の問題があるのでここで公開するわけにはいきませんが、『橋をかける』は平成21年に文春文庫になっていて今でも売ってます。

・神嘗祭

今日17日は「神嘗祭(かんなめさい)」。戦前だと今日は祭日で、学校や会社が休みだったんだなぁ。
先日、15日も神嘗祭の当日だったので、急に思い出して今書いてるわけだが、正確には神嘗祭は三日間にわたる祭儀で
15日…夕刻「御卜(みうら)の儀」→夜22時・外宮夕大御饌
16日…明け方2時・外宮朝大御饌→正午・外宮奉幣の儀→夕18時・外宮御神楽→夜22時・内宮夕大御饌
17日…明け方2時・内宮朝大御饌→正午・内宮奉幣の儀→夕18時・内宮御神楽
という日程になっており、17日が宮中祭祀での「大祭」で、戦前の休日
10月17日は全国的晴天特異日で今日も天気が良かった。
神嘗祭は旧暦の時代は九月十七日だったが新暦だと時期が早すぎるので一ヶ月遅らせて10月17日になった(つまり旧暦の日付の実際の時期に近づけている)。新嘗祭は旧暦十一月の卯の日だったが新暦になっても一ヶ月遅らせることはしてない(つまり旧暦の日付より実際には1ヶ月早まっている)。現在の新嘗祭はほぼ旧暦十月にあたっている。そのため昔なら約2ヶ月離れていたのが現在は1ヶ月しか間がない。一説には十月を神無月というのは神嘗祭の月だから「神嘗月」といったのが訛って神無月になったともいう。これからすると神嘗祭が旧暦九月十七日というのは元から早過ぎることになる。古くはもっと遅い時期の旧暦十月中の祭儀だったのかもしれない。それと、新嘗祭のほうが神嘗祭より後なのに「新」というのはどうにも納得いかない。元々は順番が逆(というか名前が逆)だったんじゃないのかな。もし神嘗祭が旧暦十月だったとして、新嘗祭がその前だとすると、新嘗祭は旧暦九月だったことになる。つまりこれが今の神嘗祭で、名前が入れ替わってるんじゃないかしら。

15日…天理石上祭、姫路喧嘩祭、新宮熊野速玉祭、たすけあいの日、精神衛生の日
16日…愛媛新居浜太鼓まつり
17日…日光東照宮秋祭、香取新飯神事、神幸祭(各地の神社)、十方ぐれ入り、沖縄そばの日、貯蓄の日
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

カテゴリ
最新記事
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

新語拾遺
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム