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・八王子と八幡神

H28年9月21日(水)初稿
八王子神社と八将神
ウケヒ(誓約)で生まれた三女五男神は、全国の「八王子神社」でも祭られてるが、もちろんご存知の通り、江戸時代までは神仏習合で「八王子宮」とか「八王子権現」とかいって、記紀の三女五男神ではなく、陰陽道(おんみょうどう)の「八将神」(はっしょうじん)を祀っていた。八将神というのはエトに応じて特定の方位を凶にする8人の神で、まぁぶっちゃけ占いのシステムを擬人化ならぬ擬神化したものだ。同じ陰陽道といっても八王子はまた別系統のもので鎌倉時代に八王子と八将神がくっついたらしい(後述)。陰陽道というと大陸伝来のもので日本産じゃないと思われがちだけど、そうとばかりも言い切れない。八将神というのは牛頭天王の8人の子供なんだが、そんな話は中国にも朝鮮にもぜんぜん無いんで、これは日本神話を改作したものだ。平安中期まで日本では神道と仏教は寺社が権威をもっていて勝手な創作はできなかったが、道教だの陰陽五行だのについては野放しだったので陰陽師が研究という名目で好き勝手な改変ができた、つまり日本独自の二次創作が「陰陽道」なんで、中国や朝鮮にないのは当たり前なのである。これが平安末期以降になると、神社でも自社の縁起譚という形で好き放題の創作を始めるようになって、古事記や日本書紀とは噛み合わない「中世神話」といわれるものが作られていく。だから陰陽道でいかにもサンスクリットを漢訳したような、もっともらしい外国っぽい名前が出てきても原典があるとは限らない。昔の米国の映画に、中途半端に日本語らしからぬ名前の日本人がでてきたりするでしょ、あれだよ。八王子の「なんとか天王」って名前も適当にそれらしく漢字ならべただけのチープな創作にみえる(末っ子の蛇毒気神にだけ天王がつかないのは味噌っかす扱いの子でこれが主人公の物語があるんだが、要するに残りの7人はモブ程度の設定しかなかった)。一方、それとは別系統の八将神のモデルになったのは月と5惑星(水金火木土)に羅睺(らごう)と計都(けいと)を加えた8つの星。

羅睺と計都
羅睺と計都は白道(月の軌道)と黄道(太陽の軌道)の2つの交点のうち月が黄道を横切って南から北にぬける昇交点が羅睺(西洋占星術でいうドラゴンズヘッド)、北から南に横切る降交点が計都(西洋占星術でいうドラゴンズテール)で、インド占星術では惑星と同等に扱う。インド伝来のものだから中国でもこれを踏襲したが、日本ではなぜか月の降交点ではなく月の遠地点(西洋占星術でいうリリス)のことを計都としていた(古い時代のインドでは計都は交点でも遠地点でもなくて本来は彗星のことだった)。

ここでそれ「そのもの」でなくモデルだというのは、実際の5惑星とは無関係に、十二支のエトに応じて年ごとにそれぞれの方角に宿るってだけで、もう夜空の星とも何の関係もないものになっているから。四柱推命とかの、干支に基づく現代の占いがおかしいのは、もともと十二支は実際の木星の運行にあわせて決まっていたのを、後漢の頃から面倒くさくなって機械的に回すようになったんで、本来の趣旨を放棄してしまってるんだよね。八王子と八将神の関係は

4得達神天王=歳刑神(水星の精)
5良侍天王==歳破神(土星の精)
3倶摩羅天王=太陰神(月(本来は土星)の精)
1総光天王==太歳神(木星の精)
6侍神相天王=歳殺神(火星(本来は金星)の精)
2魔王天王==大将軍金星の精)※八将神の起源
7宅神相天王=黄幡神(羅睺の精)
蛇毒気神==豹尾神(計都の精)※八王子の主役


八王子とは、もともと蛇毒気神がヒロインで他の7人はモブキャラだった。アラビア数字は長幼の順。1の総光天王が長男で、8の蛇毒気神が末子。
八将神とは、もともと金星を戦の神として「大将軍」といっていた。八将神はそれから派生して後から他の惑星の占いもくっつけて増やしたもの。
※八王子では蛇毒気神だけが女神であとは男。八将神では太陰神だけが女神であとは男。両者かみあってない。

となっているのだが、この中で女神は一神だけで、八王子では蛇毒気神だけが女神であとはぜんぶ男神なんだが、八将神では太陰神が女神で残り七神は男になっている。つまり両者の設定が整合していない。これはもともと別系統のものを後から適当にくっつけたからである。八王子は蛇毒気神の物語のモブキャラであって星占いとは関係なかったのに対し、八将神はもともと星占いの星の神格化であって、まったく違うものだった。ところで、八将神のうち「太陰神」というのは月の精なんだが、古くは土星の精とされており、また「歳殺神」というのは火星の精なんだが古くは金星の精だとされていた。そうするともともと八将神というのは「月と5惑星と羅睺と計都」ではなく「4惑星と羅睺と計都」で土星と金星が2つづつなのに火星がなかったことになる。実はこれ歳破神が太陰神の別名で、歳殺神も大将軍の別名なんだろう。火星にあたる神は最初から無かったとも思えないから失伝してしまったものではないかと一見思ってしまうが、歳刑、歳破、歳殺ってのも適当にこしらえた名前じゃないのかという疑いを禁じ得ない。太陰が土星なのもよくわからないから、後の人が親切に修正してあげたつもりで月に変更したんだろう。八将神の「将」の字は、もともとこれが大将軍から派生したものであることの名残りで、金星を戦争の神とすることは陰陽道以前からの古い伝統があった。そこに陰陽道で他の惑星も後から付け加えたのだろう。日・月・木星・羅睺・計都をそれぞれ太陽・太陰・太歳・黄幡・豹尾というのは旧来の別名や関係用語のもじりだが、水星・土星・火星を歳刑・歳破・歳殺というのは大将軍の別名を適当に割り振ったかもしくは創作したんだろう。ともかく初期の段階では「大将軍(=歳殺)・歳刑・歳破(=太陰)・太歳・黄幡・豹尾」で6神、失われた火星にあたる神を入れても太陽と月がなくて7神しかなかったのである。もともと「七曜」に羅睺と計都を加えるのは「九執」といって「宿曜道」(インド式ホロスコープ占い)のシステムであって、これを「8」に当てはめるには何か1つ落とさねばならない。つまり「七曜」の体系からは「8」には足りず、「九執」の体系からは「8」には余るのだ。かく噛み合わないのはもちろん占いの星と八王子がもともと関係ないからである。占いの星を当てはめる前提としてすでに別体系の「8」柱の神という構造が先行したのであって、後から当てはめようとしたことが推測される。八王子が七王子でも九王子でもなく「8」なのは「牛頭天王の子」だからだろう。牛頭天王と須佐之男命が習合したのはどれぐらい古い話なのか調べてないが、いくらなんでも八将神ができるよりは前だろうから、それなら「牛頭天王が生んだ8柱の御子神」という発想の元ネタは、記紀の三女五男神の神話以外にはない。易の八卦や八方位などが元になってるのなら八将神も占いの道具なんだから容易に対応関係が設定されたはずだが、そういう気配はまったくない。つまり明治以降の神仏分離によって八王子権現の「八王子」は記紀神話の「三女神・五男神」に差し替えられたが、これは実は単に差し替えられただけなのではなく、図らずも本来の信仰に戻ったのだ。もともと占いで使う「九執」(9つの星)は牛頭天王とは関係なかった。これが須佐之男命の8柱の御子神と習合して「八将神」になった結果、九執から1つ減らされて八王子(牛頭天王の子)と同じものという設定ができたんだろう。ところで、八将神はもともと大将軍から派生したものだといったが、戦の神なのであるから八幡信仰とも関係あるかもしれない。

応神天皇以前の八幡神(やはたでのかみ)
八幡さまは通常は応神天皇のこととされていて、それはそれでいいのだが、八幡様が武の神なのは神功皇后の朝鮮征伐がなんといっても大きいだろう。応神天皇自身の治世では目立ってデカイ戦争などしていないのだから。ではなぜ応神天皇が八幡神(の中心メンバー)とされるようになったのかは別に考えねばならないが、ともかく軍事関係の側面では、八幡の「8つの旗」は軍旗だという説もある。それならば神功皇后以前から、八幡神は武の神だったことにもなる。八軍団(局所的には八部隊)の軍旗からは満洲族の「八旗」の制度が連想される。満洲八旗でおもしろいのは「3:5」に分かれており、上位三旗は皇帝の直属で、下位五旗はそれぞれ親王(皇族)が率いている。といっても満洲族の八旗制の方がずっと時代が新しいので、別に八幡神が満洲起源というわけではない。八軍制というのは総指揮官のいる本営軍と7軍からなるわけで、これは各部隊をいろいろな陣形に再配置したり作戦行動とらせたりする際に、まず本営軍と7つの軍団を用意したことから始まったんだろうが、自然発生的なもので深い意味はないとすれば七軍制でも九軍制でもいいわけで、「8」になったのは偶然で片付けてもいいし、日本の場合は三女五男神の神話に形どったのかもしれない。それと、記紀では時々「女軍」(めいくさ)という言葉がでてきたりするので、アマゾネスみたいな女性兵士の軍団はあったらしい。8分の3も女性軍団てのはいくらなんでも多すぎるようだが、記紀では叛賊の頭領が女性だったりすることがよくあるし、神功皇后指揮下の軍隊ならあり得るかも(よくわからんが)。もし八軍制なら武内宿禰、中臣烏賊津(なかとみのいかつ)、大三輪大友主(みわのおほともぬし)、物部胆咋(もののべのいくひ)、大伴武以(おほとものたけもつ)が5軍団の5将軍で、女兵士の3軍は親衛隊として神功皇后の妹の虚空津比賣(そらつひめ)が女将軍として率いていたか。が、その前に本当に古代日本に八軍制があったのかどうかは証拠はない。神功皇后も三韓征伐の時にははたして八軍編成だったのかどうだか。通説では八幡の「幡」とは軍旗のことではなくて、神霊の依り憑く神籬とみられているが、それは別に矛盾することではない。祭政一致の時代にはすべてが祭祀に始まり祭祀に終わるのであって、戦争すなわち戦の神を祭ることに他ならぬ。ただ、当時、神功皇后の八軍団の軍旗が三女神五男神の依代を兼ねたものだったとしても、これだけでは宇佐神宮とも応神天皇ともつながらない。
八幡信仰の総本宮である宇佐神宮は、欽明天皇三十二年(AD571年)に応神天皇の託宣があったことに始まるといい、これは『扶桑略記』に引用された同社の縁起譚によるものだ。しかし少なくともこの時期に宇佐神宮が創建されたなんてことはありえない。なのになぜそんな話が伝わっているのかという話は欽明天皇の頁(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-149.html">【悲報】仏教のせいで任那が滅亡http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-149.html)に詳しく書くとしてこっちでは書かないが、宇佐神宮の奥宮の山頂にある3つの巨大な磐座(いわくら)が宇佐神宮の起源というのが定説であり、これはおそらくは旧石器時代に遡るだろうから、たかだか6世紀に始まった等ということはありえない。3つの磐座は宗像三女神の神籬(ひもろぎ)だろう。だがこのままでは三幡しかなく、八幡とは呼びがたい。おそらく八幡神(やはたでのかみ)という名称はどこかの一社一宮の名称から出たのではなく、当初から数ヶ所の総名だったのではないか。例えば、後代でも江戸七氷川とか江戸六弁天とか江戸八富士、銀座九稲荷などと言うごときである。五男神を祀る神社は全国各地にあり、現在でもそれぞれ単独で主祭神となっている神社もあるが、多くは三女五男神をまとめて祀っている。単独で祀っているか少なくとも主祭神になっている神社のうち、あくまで一例であるが以下の通り↓

多紀理比賣命…奥津比咩神社(石川県輪島市)・奥津嶋神社(滋賀県近江八幡市)
市寸島比賣命…比賣神社(富山県砺波市)・都久夫須麻神社(滋賀県長浜市)・【※】厳島神社
多岐都比賣命…多岐神社(新潟県村上市)・石神社(宮城県石巻市)・【※】江島神社(神奈川県藤沢市)
天之忍穂耳命…吾勝神社(岩手県一関市)・石手堰神社(岩手県奥州市)・駒形根神社(宮城県栗原市)・伊豆山神社(熱海)・英彦山神宮
天之菩卑能命…芦屋神社(兵庫県芦屋市)・北野神社(宮城県気仙沼市)
天津日子根命…荒木神社(静岡県伊豆の国市)・多度大社(三重県桑名市)・桑名宗社(三重県桑名市)
活津日子根命…活津彦根神社(滋賀県近江八幡市)・彦根神社(滋賀県彦根市)
熊野久須毘命…熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)


【※】厳島神社と江島神社について。江戸時代に捏造された偽書『ホツマツタヱ』は、奥津嶋神社(滋賀県近江八幡市)が姉神、厳島神社が仲神、神奈川県の江ノ島の江島神社が妹神の、それぞれの旧跡としているが、これは地名・社名から類推してコジツケたものだろう。奥津嶋神社は奧津嶋比賣命を祭神としているが、厳島神社と江島神社は三女神をまとめて祀っている。

これらはどこまで遡れるものかはわからないものもあるが、現存のこれらの神社ではなかったとしても、古い時代にもそれなりに五男神や三女神を単独であるいはひとまとめに祀った神社はあちこちにあったに違いない。それらを総じてヤハタデノカミ(八幡神)と呼んだ時期もあったのだろうが、単独でまたは五男神だけまたは三女神だけを祀った神社の場合は個別の各社をそれぞれ八幡神と称することはなかったんだろう、例えば、赤坂氷川神社の一社だけをさして江戸七氷川とはいわないのと同じ。ただ、それらの中では宇佐は神話の中では五男神のあまくだりに先立って最初に三女神が地上に降りた聖地だから、八幡の総本宮とされたのであって、創建がいちばん古いからではあるまい。欽明天皇の末年まで、三女神五男神を祭った神社がなかった等ということはありえないし、そもそも中世の寺社縁起譚は同人誌の二次創作みたいなもので史料的な価値はない。ただし上述の『扶桑略記』の記事は事件の背後に歴史事実がありそうなのでそれについては欽明天皇の頁(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-149.html">【悲報】仏教のせいで任那が滅亡http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-149.html)で語ることにする。現在では八幡といえば応神天皇のことだから、そうなった経緯を考えねばならないが、八本の軍旗をなびかせて遠征し凱旋する神功皇后の艦隊の勇姿は、戦争中から胎中天皇が八幡神に守護されていることを宣伝する上で視覚的にも効果大だったろう。応神天皇が即位した頃にはすでに「八幡神に守護されし現人神(あらひとがみ)」を縮めて、単に応神天皇自身を「八幡神」とよぶことも、公式な言い方ではなくても民間ではすでに始まっていたのではないか。それなら応神天皇崩御の後ですぐに宇佐に応神天皇が合祀されたということもありうるし、なんなら生前から生き霊(いきりょう)を祀ってもかまわない。まぁ当時は生き霊とはいわなかったろうがそれはともかく。だから八幡神と応神天皇が習合したのは奈良時代以降だなどと考える必要はない。全国各地の八幡宮において応神天皇とセットで八幡神とされているのは神功皇后と比売神(ひめかみ)が多いが、他に仲哀天皇や武内宿禰の場合もある。比売神は普通名詞だからいろんなケースがあるが八幡宮における比売神とは宇佐が八幡の総本宮であることを思えば宗像三女神のことでしかありえない。これが後世、異説を生じ、虚空津比賣(そらつひめ)、玉依姫、豊姫、淀姫、仲姫などの説がでた。これらのうち仲姫を除いてすべて同一人物で神功皇后の妹(応神天皇の姨)。以上まとめると「応神天皇・宗像三女神・神功皇后・仲哀天皇・武内宿禰・虚空津比賣・仲姫」となるが仲姫は実は三姉妹で三人とも応神天皇の后妃になっているのでこれが宗像三女神に擬されているとも考えられ、そうすると残りは5人となり応神天皇・神功皇后・仲哀天皇・武内宿禰・虚空津比賣の5人が五男神に擬されているとも考えられるし、そのような対応関係など考えるのは的はずれかもしれん。

三人官女と五人囃子
ネットみてたら雛人形の「三人官女と五人囃子」が三女神と五男神だって説があったのだが、これはネタ的には面白いけど本当かね?w この話は来年の3月にでも改めてやりますw

・竹田恒泰先生の女系天皇論

平成28年3月21日(休)改稿 平成28年の1月27日(水)初稿
皇位継承問題と竹田宮様からの問題提起
皇位継承問題(男系論vs女系論)をめぐる一連の論争において「天照大神と皇統の間のつながりが男系といえるのかどうか」という議論があるんだけど、保守派知識人が結成した日本国史学会から刊行された「日本國史學」第1号(日本国史学会刊・H24.9.25)に竹田恒泰先生の『アメノオシホミミを生んだ神はどの神か-記紀のウケヒ神話から神統を考える-』という論文が載っており、この中で過去の学界の諸説を紹介した上で、いくつもの新たな問題提起(というか竹田さんの新説のチラ見せ)がなされてる。それを紹介した上でわたしなりの解答案(というか楽しい謎解き)を試みたい。

過去の諸説の紹介
竹田さんはその論文の中で以下のように過去の諸説を列記、紹介している。
1,物実基準説…萩原千鶴、水林彪
 この説は、五男神は天照大神の物実(ものざね)である玉から生まれたから天照大神の子であり、宗像三女神は須佐之男命の物実(ものざね)である剣から生まれたのだから須佐之男命の子なのだという説。
2,息吹基準説…土橋寛
3,行動基準説…毛利正守
 上記の2と3は、事実上同じ意味である。2の息吹は五男神が須佐之男命の息吹から生まれ、三女神が天照大神の息吹から生まれたことを根拠に、五男神は須佐之男命の子であり、三女神は天照大神の子なのだという説。3は実際に産むという行為をした主体が親だという説で、この場合の具体的な行為とは息吹のことだから結局2と3は同じことをいっている。
4,近親婚的(対等)説…本居宣長、荻原浅男、横田健一、山田永、金沢英之
 これは人間に父母両親がいるごとく、天照大神と須佐之男命は二柱ともに、三女神と五男神の親であって優劣はないという説。本居宣長は『古事記伝』の中で「…三女五男共に大御神と須佐之男命との御子にて此レは大御神の御子此レは須佐之男命の御子と云分(わき)は本あらず…」といっている。ただ、この説では、神々を人間体とみなした場合に姉と弟の近親婚のような感じになってしまうので、これをどう考えるのかという問題が派生する。
山田永(対等説の人)は以上の諸説を整理して以下のような模式図(要素分解図)を作った。

山田永の模式図
・霧=<須佐之男命の物実+真名井の水+天照大神の息吹>→三女神
・霧=<天照大神の物実+真名井の水+須佐之男命の息吹>→五男神

土橋寛(息吹説の人)は「物実の交換は『詔り別け』の伏線」だといっている。『詔り別け』というのは天照大神が物実を根拠に「五男神は我が子、三女神は須佐之男命の子だ」と宣言したことをいう。これだと『詔り別け』すること自体に意味があり、自然な流れで『詔り別け』することになるためには事前に物実の交換という事実がなくてはならず、そのために「物実の交換」という話を後から創作したという。しかし何を根拠にそんなことをいうのだろうか。
毛利正守(行動説の人)は「記紀以前の伝承の核は須佐之男命の勝利。従って忍穂耳は須佐之男命の子。その矛盾を解決するために物実の交換が導入」されたのだという。これもただの憶測で、格別に根拠があるように聞こえない。
金沢英之(対等説)は「伝承の核と記紀のテキストでは別次元」だとし、『生む』と『成る』の違いに注目して記紀には「須佐之男命が忍穂耳命を『生んだ』とはない」という。つまり人間の生殖活動と同一視した議論を批判しているわけだ。
神野志隆光は、記紀は「『成』らしめた神を擬制的に『生』んだ神とい」ってるのであって、これは「血縁擬制」であるという。これも上記の金沢英之の議論と同じ趣旨だろう。神野志隆光は上記の4説のうちのどれに入るのか判然としないが、そもそも神話なので現実の血縁のように語ること自体がナンセンスという立場と思われる。ただ、竹田氏は天上界の神々にも系統はあり、それは地上の血統に相当するものではあるが、地上における血統とはまた次元の違うものであるという自説を補強するために引用しているように思われる。(このこと自体は格別よくもわるくもない)

新説の呈示(竹田説の紹介)
竹田氏は上記の山田永の模式図にインスパイア(笑)され、独自の模式図を考案している。それがこれ↓

竹田模式図
・天照大神の行動→霧<須佐之男命の物実+井水+天照大神の息と唾液>→三女神
・須佐之男命の行動→霧<天照大神の物実+井水+須佐之男命の息と唾液>→五男神

この図をみると、(唾液にこだわり(w)があるのがわかるが、複雑になっただけでヒントとしては迂遠に感じる。
ともかく、ここで竹田宮様の一応の結論が呈示される。いろいろ異論はあるがとりあえず竹田氏の主張をまとめると、下記の通り。

1)『系統』と『帰属』は別問題である。
『帰属』というのは、忍穂耳命を始めとする八柱の神々(五男子と三女子)が、天照大神と須佐之男命の「両神の」誓約によって生まれているのだから、天照大神と須佐之男命どちらの子であるともいえるのであるが、五男子(=忍穂耳命含む)は女神である天照大神に帰属し、須佐之男命には帰属しない。そして三女子は男神である須佐之男命に帰属し、天照大神に帰属しない、ということ。『系統』というのは皇統のことで、皇統は男系で繋がっている。両者は一見矛盾しているように聞こえるかも知れないが、『系統』と『帰属』は別問題である。かつて小林よしのり(=高森明勅)と新田均との間で闘わされた「須佐之男命は皇祖神か否か」という論争で、皇祖神は天照大神唯一柱なのではなく、須佐之男命や伊邪那岐・伊邪那美、高御産巣日神など複数の神々が皇祖神であることが明らかになっている。そこで「伊邪那岐神→須佐之男命→忍穂耳命→(以下略)」との繋がりをみれば皇祖神から天皇まで男系で繋がっていることがわかる。ただしここで(男系の)『系統』においては天照大神はつながってないことになる。

2)『神代』と『人代』は別問題である。
『神代』とは神武天皇以前の神々の時代のこと、『人代』とは神武天皇以降の時代のこと。神代には皇位も皇統も存在せず、皇位・皇統は神武天皇から発生している。教育勅語の皇祖をめぐる有名な論争で、井上哲次郎は皇祖とは天照大神であるといい、井上毅は皇祖とは神武天皇であると解釈して対立したが、竹田氏は井上毅の説を支持しているわけ。で、天照大神は永遠に高天原の統治者であり続けているわけで、譲位などはしていない。つまり「継承」はない。万世一系というのは神武天皇以降の話であって、神統譜(=神武天皇以前の神々の系譜のこと)は、万世一系の埒外にある、という。

3)『生殖』と『生成』は別問題である。
五男神と三女神は天照大神や須佐之男命の物実と息吹から生まれたのであり、生物学的な生殖活動で生まれたのではない。神々の性別は人間の男女や生物の雌雄とは別次元である。神話の各所に書かれているように、神々は『生成』するのであって医学上の『生殖』をするわけではない。従って神々に遺伝子はないわけで、Y染色体がどうのという話に百歩譲って妥当性があったとしても、あくまで神武天皇の染色体が問題にされるべきであって、天照大神の染色体などという話はナンセンスである。

以上の竹田説については、なるほどごもっとも、と賛成する部分は多々あるのだが、その一方で、一部どうも読者に誤解を招きかねないのではないかと危惧される表現もいくつかある。まず天照大神をすっとばしていくら繋がっていてもそんな系統に意味があるのかということ。神武天皇からいくら繋がっていようがその前で切れてたらやはり意味がないだろう。天壌無窮の神勅が天照大神から発せられのでわかるように、万世一系とは天照大神から繋がっていることに意味があるのだから。むろん、それは竹田説を誤って受け取った解釈なのであって、竹田説は別に天照大神と神武天皇が切れている等といっているわけではない。『生殖』と『生成』は別だという論理で、天照大神からの繋がりは問題なく説明がついているのではある。が、それなら、「『系統』において天照大神は繋がってないとか、帰属と系統は別だとか、万世一系は神武天皇からだとか」の議論は一切いらないのではないか。天照大神は皇祖神であるが皇祖ではないとか、紛らわしくなるだけの無駄な議論だろう。また天照大神は譲位していないというが、忍穂耳命は「太子」(ひつぎのみこ)とも書かれているわけで、ここは説明が要る。確かに、天照大神は永遠に世界を統治していて譲位していないしそもそも天照大神は天皇ではないのだから、皇室が皇位(?)を天照大神から譲られた事実もない。が、だからといって竹田氏は、歴代天皇が天照大神から「何物も継承していない」といっているわけではない。天照大神から「皇位を」継承すること自体、論理的にありえないが、天照大神から継承され繋がってはいるのである。が、その継承されているものとは皇位ではない。皇位は神武天皇からの継承であって天照大神からの継承は「系統」なのである。わかりやすくいうと、あくまで喩えの一つであるが、清和源氏の「清和」というのは清和天皇の子孫という意味だが、天皇の子孫だからといって清和源氏が代々天皇の位を継承しているのではないし、清和天皇は征夷大将軍だったわけでもない。代々継承しているのは征夷大将軍の職であって、天皇=皇室は別に存在する。皇室もこれと同じと考えたらわかりやすい。皇室は天照大神の子孫であり代々天皇の位を継承してはいるが、天照大神は天皇だったわけではないし、天照大神それ自体は天皇と別に天上に輝いている。皇位と系統の違いとはこういうことだろう。

【序】竹田宮様からの宿題
竹田氏の結論(というか主張)はとりあえず上記にまとめたようなものに落着する。ところで、この論文は、言いたいことをすべて述べたものではなく(字数の都合で?)今回は省略した話があるといっている。その内容を竹田氏は論文の末尾の方になって予告編的にチョイ出ししているのだが、そっちの方が本題より面白いので、以下、そっちを取り上げてみたい。それは以下の5項目である。
Questionの略でQとします。

Q1,古事記がウケヒの前提を示さなかった理由は?
 日本書紀は事前に男子が生まれれば清く正しく、そうでなければ女子が生まれると事前に宣言した上でウケヒ(誓約)をして子を生んでいる。古事記は事前に勝利条件の説明があるべきところが省略されている。これはなぜか。
Q2,忍穂耳命の名に『勝』の字が使われた理由は?
 日本書紀では男子が生まれた時に「われ勝ちぬ」といったので、という理由が書かれており、一応筋が通っているが、古事記では女子が生まれたから勝ったとなっている。それなのに相変わらず男子の方に『勝』の字がついているので、この件については古事記がおかしく日本書紀が正しいという説の方が古来有力視されているほどだ。なぜ古事記は男子の方に『勝』の字をつけたままなのか、単に古事記が間違ってる証拠なのか、それともこれには何か一貫した理由があるのではないか?
Q3,「詔り別け」の信憑性。これは神話に元からあった部分なのか?
 記紀ともに「五男神は天照大神の子、三女神は須佐之男命の子」と割り振ったとあるが、竹田氏は何らかの理由でこれ疑問を呈している。それは何か?
Q4,古事記が「心が清いから女が生まれた」とした理由は?
 仮に日本書紀の「男子が生まれたから勝った」というのが正しかったとして、それを古事記が「女子が生まれたから勝った」に差し替えたとしても、結局須佐之男命が勝ったことに変わりないのだから、話の筋に違いが生じるわけではない。なぜこんな改変をしたのか?
Q5,ウケヒの勝者は誰なのか?
 記紀ともにウケヒ(誓約)の勝利者は須佐之男命だとしているのだが、竹田氏は何らかの理由でこれにも疑問を呈している。その理由とやらが何なのかは不明だが、ともかく、須佐之男命が勝利者でないというのだから、つまり天照大神こそ勝利者だったのだ、というのが竹田さんの主張なのだと思われる。

以上の5項目は竹田氏自身の宿題であると同時に、読者からみれば読者への「謎かけ」とも受け取れる。そこで、ひとつその「謎かけ」に答えてみようと思う(笑)

【破】竹田宮様が用意してるはずの解答をわたしが勝手に推測
Answerの略でAとします。

Q1,古事記がウケヒの前提を示さなかった理由は?
 上記のように竹田さんの考えとしては、おそらく天照大神が誓約での勝利者だというのが神話の原形だった。従って、須佐之男命がその事実をねじ曲げて自分が勝ったのだと虚偽を言い張った、という筋書きなのであろう。そこでもし日本書紀のように事前に勝利条件が明確に示されていると、須佐之男命が後付け解釈で捻じ曲げることが出来なくなってしまう。そこで竹田氏は最初から明示されていなかったとする古事記の方が古伝であると考えたか、もしくは、勝利条件の事前明示を古事記は削除してしまったと考えたのであろう。
A1,須佐之男命が自分勝手な解釈をするという展開を可能ならしめるため

Q2,忍穂耳命の名に『勝』の字が使われた理由は?
 古事記のままだと負けた証拠となったはずの男子神に『勝』の字がついているのは矛盾となるが、それこそが古事記の狙い目であって、「須佐之男命の発言がおかしい」と読者にわからせる仕組みになっていたのではないか。
A2,勝利のシンボルが明確でなければそれを巡っての結果を歪曲することもできないから

Q3,「詔り別け」の信憑性。これは神話に元からあった部分なのか?
 竹田さんは「詔り別け」の記述はもともと神話になかった部分と考えているらしい。確かに竹田説を前提とすると、この「詔り別け」は不要にも思える。それが、神話の改変によってどちらが勝利者なのか不明瞭になってしまった後で、「男子は天照大神の子ですよ」(だから勝ったのは天照大神ですよ)と念押し(もしくはヒント)を書き加えたというわけだろう。
A3,「詔り別け」は天照大神が勝利者であることを読者に示す付加記述(物語内部では自明だから)

Q4,古事記が「心が清いから女が生まれた」とした理由は?
 おそらく竹田さんの脳内仮説では、「男子が生まれたから天照大神が勝ったのだが、須佐之男命が『男子が生まれたから自分が勝った』と歪曲発言をした」というのが神話の原形だった。ところが記紀の編纂者(もしくは記紀の原資料)は、須佐之男命の歪曲発言を事実の描写と即断して、須佐之男命が勝利者なのだと話の筋を誤解してしまった。だが須佐之男命の子は女子なんだからこのままでは辻褄が合わない。日本書紀は男子が生まれたから勝ったというところは古伝のまま残しているが、そうすると男子は天照大神の子でなく須佐之男命の子であるように読めてしまう。そのため「詔り分け」が付加されて男子は天照大神の子であると念押ししている。ここからは解釈の問題で、五男子も三女子も両神によって生まれたのだから日本書紀の改変でも辻褄合わせはぎりぎりセーフだともいえるが、もし五男子はあくまで天照大神の子であって須佐之男命の子ではないと言い張るならば、辻褄あわせは成功していないことになる。そこで古事記は男子が生まれたから勝ったのではなく「女子が生まれたから勝った」のだと設定を逆に書きなおして文句のつけようがないようにしたわけ。
A4,須佐之男命の発言で、自分勝手な事態の歪曲で「自分が清いから男が生まれた」といったのが原形
 神話のこの部分は現代人も文脈を誤解して読んでるように、古事記の語り手(稗田阿礼?)も文脈を誤解していた。それで、修正したつもりで「女子が生まれたから勝った」(=心が清いから女子が生まれた)に改変したのだったが、これは誤りに誤りを重ねるものであった。ちなみに稗田阿礼には女性説もあり、日本書紀に比べると古事記が全般的に女性寄りの記述になっていることが多い。

Q5,ウケヒの勝者は誰なのか?
 以上のように、おそらく竹田さんの脳内仮説としては、男子であり『勝』の字がついた忍穂耳命が天照大神の子であって、誓約の勝利者は天照大神だというものであろう。
A5,ウケヒの勝者は天照大神というのが伝承の古い形

以上、竹田説というのは、あくまでわたしが、竹田氏の未発表の主張を、当該論文にこぼされたヒントから勝手に推測したものであって、実際の竹田説はヒント以外は未発表だからわからない。しかしわたしの説でもない。わたしの説は別にあるので、以下に述べる。

【急】竹田説についての考察もしくは竹田説への反論
Suggestionの略でSとします

Q1,古事記がウケヒの前提を示さなかった理由は?
 竹田さんは「A1,須佐之男命が自分勝手な解釈をするという展開を可能ならしめるため」だという。つまり事前にウケヒの前提(勝利条件)を示す文章はもともと無かったのが古伝であったか、もしくは意図的に削除されたのだということになる。おそらく、あったものを削ったのではなく、もともと無かったのだと思う。竹田説では、勝ったのは須佐之男命ではなく天照大神だというのだが、わたしが思うに、天照大神と須佐之男命が「勝負する」という話ではなく、「須佐之男命の善悪を判定すること」に主眼があったのであって、天照大神自身の善悪や勝敗はもともと関係がない。
S1,その部分はもともと無かった

Q2,忍穂耳命の名に『勝』の字が使われた理由は?
 竹田さんは「A2,勝利のシンボルが明確でなければそれを巡っての結果を歪曲することもできないから」というのだが、わたしが思うに、忍穂耳命の名前には『勝』の字がもともとついていたのであって、辻褄合わせに付けたり取ったりしたものではあるまい。むしろこの名が先にあって、もともと勝ち負けの話ではなかったのに、この名からの着想で神話に勝負形式が後から持ち込まれたのではないかと思われる。忍穂耳命自身の名が「吾勝」なのだから、勝ったのは親ではなく子、天照大神が勝ったのでも須佐之男命が勝ったのでもなく、強いていえば忍穂耳命本人が勝っているという意味でしかない。これは忍穂耳命の名なのである。
S2,もともとついていた

Q3,「詔り別け」の信憑性。これは神話に元からあった部分なのか?
 竹田さんは「A3,『詔り別け』は天照大神が勝利者であることを読者に示す付加記述(物語内部では自明だから)」であって、これももともとの神話になかった文だといいたいのだろうが、わたしはそうは思わない。これは誓約で生まれた子の性別による勝敗判定とはぜんぜん関係のない部分と思う。天照大神は高天原に住み、須佐之男命は地上の出雲に住んでるのだから、いわば別居してるわけだ。この「詔り別け」とは、別居してるから子供の居場所を決めたというだけのことではないのか。誓約(ウケヒ)のシーンで須佐之男命が高天原にいるのは、神話のストーリーの流れからいうと、天照大神に用があって一時的に昇天してきているだけであり、須佐之男命は用が済んだら地上に降りることが決まっているわけだよ。
S3,別居してるから子供の居場所を決めた
(ちなみに、「五男神が天照大神の子、三女神が須佐之男命の子」とされたのは男系原理に基づいたものであることは後述する)

Q4,古事記が「心が清いから女が生まれた」とした理由は?
 竹田さんは「A4,須佐之男命の発言で、自分勝手な事態の歪曲で『自分が清いから男が生まれた』といったのが原形」であり、後に古事記は辻褄合わせを完璧にするために「心が清いから女が生まれた」に改変したのだと考えているのだろう。しかしわたしは、ここはもともと無かった部分だろうと思う。上述のようにこの神話はもともとどっちが勝ったの負けたのという話ではなかったと考えられる。そこに後から勝負形式を持ち込んだ時、記紀で解釈の仕方が違ったので、性別と勝敗の関係が記紀では逆になってしまった。神話の原形では、子の性別でもなく、親の勝ち負けでもなく、単に「良い子が生まれたか、悪い子が生まれたか」だけが問題にされていただろう。例えば、蛭子や淡島の誕生にも、伊邪那岐・伊邪那美は「今産めりし子良からず」といい、産み直しによって大八島を産んでいる。
S4,もともと無かった部分

Q5,ウケヒの勝者は誰なのか?
 竹田さんは「A5,ウケヒの勝者は天照大神というのが伝承の古い形」だと考えている。しかし、わたしはそうは思わない。何度もいうように、そもそも勝ち負けという話でなかった、というのがわたしの考えである。須佐之男命の善なることは、誓約で良い子が生まれたことによって証明されたので、勝ったといえなくもないが、天照大神がそれで負けたわけではない。
S5,そもそも勝ち負けという話でなかった

宣長が引用する谷川士清の説
ここで、本題の男系女系論に戻ろう。「天照大神が女神であるのに、男系での万世一系といえるのか」という問題については、これを「女系天皇を肯定する根拠」として持ち出す女系派に対し、男系派である竹田氏は、天照大神を回避して「伊邪那岐→須佐之男命→忍穂耳命」という男系の繋がりを示した上で、男系とか女系という性別の「系」は神武天皇までしか(=人間にしか)意味をもたず、それ以前の神々は(生物学上の)性別を超越した「系」で(天照大神とも)繋がっているのだ、とした。
若干ややこしいが、その竹田説で一応、筋は通っていると思う。しかしこの議論は、江戸時代にすでに決着していたのである。本居宣長の『古事記伝』にはこうある。

「…物実は毛能邪泥(ものざね)と訓べし書紀には物根(ものだね)とあり佐泥と多泥とは其ノ物も名も通へり後ノ世にも人の母を云には某ノ腹父を云には某ノ種と云フ木草の種子も同じ此も其意なり谷川氏が『五男神は物実日ノ神の物なれば日ノ神は父の如く須佐之男命は母の如し』と云るはさることなり…」

…古事記の『物実』はモノザネと読むのだ。日本書紀は『物根』と書いてモノダネと読ませている。サネとタネとで違っているようだが、その言葉のさす物も同じで言葉も似ている。後世でも、人の母親をいうには「誰それの腹」、父親をいうのに「誰それの種」という言い方をしている。木や草の種も同じで、これもその意味である。国学者の谷川士清(たにがわことすが)氏が『五男神はモノザネが天照大神の物だから天照大神は父親のようなもので、須佐之男命は実際に産む役割をしたのだから須佐之男命は母親のようなものである。逆に三女神の場合は、モノザネが須佐之男命の物だから須佐之男命は父親のようなもので、天照大神は実際に産む役割をしたのだから母親のようなものである』と言われたのはそういうことだ…

(岩波版の古事記は「物実」もモノダネと読み竹田宮は書紀の「物根」もモノザネと読むが宣長説を前提にする限りいずれも問題ない)

これでおわかりだろうか、「詔り別け」の意義が。天照大神の親にも子にも、天照大神自身にも、また須佐之男命の親にも子にも、須佐之男命自身にも、ことごとく「男系原理」が貫徹していることが明らかであろう。誰それの子、という「詔り別け」は、その子の父が誰かを基準にしたものであって、母が誰かを基準にしたものではないのである。

・「宗像大社国宝展―神の島・沖ノ島と大社の国宝」

H28・10・8(土)改稿 H26年10月23日初稿
今日、H26年10月23日は眞子姫様の21歳のお誕生日、おめでとうございます。ネットではアイドルみたいになってるそうですが、ずいぶんとしっかりした方のような印象があります。眞子様といえば小さい頃のウミヘビつかまえて元気に遊んでた映像が有名でした。ウミヘビといえば、出雲大社の使神(みさきがみ)ですね。今年は出雲遷宮の年であるばかりか、高円宮典子姫と出雲国造の若様とのご成婚の年。そして出雲といえば大国主。大国主のお妃は、宗像に坐す多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)。宗像大社のご祭神ですね。…いったい何を言おうとしてるのかといえば、9月に「宗像大社国宝展―神の島・沖ノ島と大社の国宝」という美術館の展示イベントが紹介されていたんで、それには10月4日に行って見学してきましたって話です。場所は日比谷駅からすぐの帝国劇場の9階「出光美術館」です。
(※以下、書きかけ中)
宗像三女神
『日本書紀』第六段の一書第一には天照大神が「汝三神(いましみはしらのかみ)、道の中に降り居(ま)して天孫(あめみま)を助け奉(まつ)りて、天孫の為に祭られよ」と神勅を授けたとある。これによって天降ったが、その降臨の地は宗像大社の地元では福岡県の宗像地方東端の鞍手郡鞍手町の六ヶ岳と伝えているが、そうではなくて正しくは『日本書紀』のいうとおり宇佐である(今の宇佐八幡宮)。六ヶ岳は宇佐への遥拝所のようなものだったのだろう。『古事記』に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、胸形君氏がその祭祀を担っていた。胸形氏は安曇連氏とならぶ海の氏族で、大規模な海上交易を行い今でいえば総合商社のような存在であった。

ムナカタの語源
ムナカタの表記は現在では宗像に統一されているが、むろんこれは当て字で、漢字に意味はない。記紀では他にも「胸形・胸肩・宗形」などの例がある。語源としてはミナカタ(水のある方)という地名からきているという説があるがこの説は誤りである。「水のある方」が地名化するには、泉なり川なり湖沼なりに寄った一角が想定されるのであって、海をさして「水のある方」とはいわないだろう。それはある程度の内陸部での話であって沿岸部ではそのような言い方は成り立ちにくい。今の宗像市の地名は律令時代の宗像郡にまで遡るが、宗像大社の社家が郡司を兼任していたように、そもそもは沖ノ島・筑前大島の2島と宗像市田島の3ヶ所からなる宗像大社が先行して、それに捧げられた神郡として設定されたものである。従ってあくまでも沿岸部が本来のムナカタであって旧宗像郡や現宗像市の内陸部はあとから拡張された領域である。

三女神のそれぞれの神名
三姉妹のそれぞれの名は、記紀で異なり、紀の中でも異説が多い。宗像大社の社伝も独自の異説となっているがこれは時代によってたびたび変更されているので信憑性はなく、現在では宗像大社は『日本書紀』本文の説を採用している。日本書紀のタコリヒメ(田心姫)とタキリヒメ(田霧姫)が同時に登場する伝承がないことから、タキリとタコリは同じ神名の訛りで同一とみる説が有力だが、これも誤りと思う。沖津島の神は姉でタキリヒメだとすると書紀の一書第一では瀛津嶋姫(おきつしまひめ)と田心姫が別々にでてくるからタコリヒメは仲か妹であって、タキリヒメとは別の神である。一書第二では遠瀛(おきつみや)が市杵嶋姫、中瀛(なかつみや)が田心姫、海浜(へつみや)が湍津姫となっているが、三姉妹全員とも市杵嶋姫の別名をもっており、タキツヒメを妹にもってきてる点で古事記と同じだから、ここの遠瀛の市杵嶋姫とはタキリヒメのことだとすれば、やはりタキリとタコリは別の神となる。「タキリ・タコリ・タキツ」が「三姉妹の名なのであろう。書紀の異伝を比べると、三姉妹とも全員が、タコリヒメとイチキシマヒメの説がある。タキリは姉と妹に説があるが仲にない。タキツは姉に説がなく仲と妹に説がある。かように比較すれば、姉がタキリ、仲がタキツ、妹がタコリとも思われなくもないが、そうではなくて『古事記』に準拠して姉のタキリと妹のタキツは確定としたほうが神名の語源・語義の観点からもより妥当と思われる。

沖ノ島  沖津宮 タキリヒメ(多紀理毘賣/田霧姫)・オキツシマヒメ(奥津島比賣/瀛津嶋姫)
筑前大島 中津宮 タコリヒメ(田心姫)・サヨリヒメ(狭依毘賣)・イチキシマヒメ(市寸島比賣/市杵嶋姫)
田島   辺津宮 タキツヒメ(多岐都比賣/湍津姫)・タカツヒメ(高津姫)・へツシマヒメ(邊津島比賣)

狭依毘賣命(さよりひめ)の「さより」とは徐々に近寄る意味。陸地が発達していく結果、辺津島(田島)は九州本島に接触して島でなくなってしまったが、中津島(大島)もまた徐々に本土と近づいている。
姉神が奥津島比賣命(おきつしまひめ、紀:瀛津嶋姫)なら、当然、仲神は「中津島比賣」で妹神は「邊津島比賣」ということになる。
市寸島比賣命(いちきしまひめ、紀:市杵嶋姫)は、記は仲神の名とし、紀本文は妹神の別名とし、紀一書第二・第三は姉神の別名とする。つまり三神共有の別名もしくは三神総称名。イチキシマは神を祭る島の意味とする説があり、もしこれが正しいとすると、辺津島が陸に繋がってしまってから姉神の別名になったもので、本来は三女神の共有の別名だったと思われる。ただ辺津島(田島)が島でなくなったため、後には姉神または仲神の別名としてしか使われなくなって、ついに共有の名であることが忘れられ、諸説を生じたものと思われる。仲女神の別名という説は、沖ノ島がもっぱら禁足地となりよほどの重要な祭儀でないかぎり滅多に立ち入らなくなって、平常の祭儀は中津島(大島)で行われるようになったため、後世では「いちきしま」といえば中津島のこととなったものであろう。
『先代旧事本紀』は辺津宮にます女神の名を「高津姫」とする。このタカツはタキツが訛ったものだろう。
田霧姫は水田の上に立ち上る霧の神格化などという説があるが当て字に囚われた発想で取るに足らない。現代語の「滾る」(たぎる)と同じでエネルギーのほとばしる意。湍津姫の「たきつ」は通説では河川や滝などの激しく流れる意味の動詞だとされている。要するに「滾る」と同系統の言葉。「たきる」と「たきつ」の違いは「ル」は「有る」「入る」など普通の動詞の語尾だが「ツ」は完了の助動詞の「つ」と同音で完了のニュアンスがある。よって最後の妹神の名に相応しいと思える。「タキリ→タコリ→タキツ」は何事かの三段階の変化を表しているだろう。(※書きかけ中)

神社
宗像大社と宇佐神宮の2社は原点にして頂点なので別格とする。
都久夫須麻神社は日本の弁天信仰の発祥地ともいえるところだが、もとは浅井姫命という琵琶湖の女神で、宗像三女神は弁天との習合を通じて後から設定されたようだ。厳島神社は平家が氏神としたため繁栄して、全国に勧請されて厳島神社が増えた。宗像・厳島系の神社は、日本で5番目に多い。江戸時代に捏造された偽書『ホツマツタヱ』は、奥津嶋神社(滋賀県近江八幡市)が姉神、厳島神社が仲神、神奈川県の江ノ島の江島神社が妹神の、それぞれの旧跡としているが、これは地名・社名から類推してコジツケたものだろう。奥津嶋神社は奧津嶋比賣命を祭神としているが、厳島神社と江島神社は三女神をまとめて祀っている。

海外の神話との比較
宗像三女神は以下の3つの側面をあわせもつ。
1)皇祖神。八幡神の中にセットで祭られる「姫神」。天孫を守護し、天孫に奉られる神
2)西の半島や大陸への海上交通路(玄界灘)を守護し、外敵を防ぐという軍神
3)国津神=大国主神の一族の神々と結婚している。豊穣と出産、安産の守護神
世界の神話には、天津神(アスラ神族)と国津神(デーヴァ神族)の双方にかかわりをもち、神々の三機能をすべてあわせもつ大女神が共通して存在する。インド神話におけるサラスヴァティー(弁才天) 、イラン神話におけるアールマティー女神、ギリシア神話におけるアテナ女神である。アフロディーテはアナトリア神話における大女神であったがギリシア神話に取り入れられる際にアテナ神と別神と認識された。しかし古くは同じ神格であった。
アテナは「トリート・ゲネイア」、「トリートーニス」などの別名も持つがこれは三つ子の意味で、元は三姉妹神であった。
またこの大女神は「太陽・水(泉・川・井戸など)・機織り」の三要素が関係する。
ギリシア神話のモイラ三女神、ゲルマン神話のノルン三女神はともに「糸を紡ぐ神」であり、モイラ三女神はギガントマキアーに参戦し、ノルン三女神は世界樹ユグドラシルの根元にある「ウルズの泉」のほとりに住み、ユグドラシルに泉の水をかけて育てる。
(※書きかけ中)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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