FC2ブログ

☆ジャックと豆の木

平成30年9月14日(金)改稿 平成30年9月12日(水)初稿
「おまえなんか『木の股』から生まれたんだぞ」←これ
(※後日に執筆予定)

「比礼」(ひれ)はスカーフではない(布でもない)
(※後日に執筆予定)

突然登場するネズミはなぜ大国主を助けるのか
(※後日に執筆予定)

「氷目矢」の謎
(※後日に執筆予定)

ジャックと豆の木
51JENY7VG3L.jpg
(※後日に執筆予定)

・酒の神(その2)

H29年5月18日投稿 H29年5月17日(水)初稿
三橋健・白山芳太郎『日本、神さま事典』(大法輪閣)より。文面には(1)「酒造の神」と(2)「少彦名神」の小見出しタイトル、そしてコラム(3)「温泉と神々」。

その3つの記事だが。
「酒造の神」は大神神社(おおみわじんじゃ)と松尾大社(まつのおたいしゃ)、大神神社を「酒の神」という場合には主祭神の大物主神ではなくて少名毘古那神だと、そして古事記にもある神功皇后の歌の話やらなんやら。松尾大社についてもなんやらかんやらと解説あり。各地の酒蔵で祀られてる「松尾様」(まつのおさま)は女神だと。松尾大社の主祭神は大山咋神(おほやまくひのかみ)と宗像三神の中の姫、中津島姫(市杵島姫)命の二柱だから、この場合後者のことをさしているのか。前者は山の神、後者は山からくだりおちて湧く水の女神ということだろうから、酒をつくる上で大事な良質の水の守り神ということで酒蔵では女神のほうを祀ってるのかな。
「少彦名神」についてもなんやらかんやら書かれてるが、一寸法師のモデルだとも。
「温泉と神々」もなんやらかんやら。全国の温泉神社は多く大己貴神(おほなむちのかみ)少彦名神のコンビを祀ってるし、『伊予国風土記逸文』には瀕死の少彦名神を大己貴命が道後温泉に入れて生き返らせたという伝承がどうのこうの。
大雑把にまとめるとオオナムチノカミとスクナヒコナノカミはコンビでセットの神であり、庶民から崇敬されていた神であり、医薬と酒の神でもあったと。酒と薬は大昔に遡るほど同じものだから。

「酒の神」についてはだいぶ前にこのブログhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-42.html)">「どぶろく祭」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-42.html)のページでも追求したが中途半端でまだ言いたいことの半分もいってない…。でも「酒の神」についてはそっちのページの中でいずれ詳しくやるとして(いつだよってツッコミは無しな、忙しいんだよ!)、今回は別の話。
散漫な流れだが、wikipediaで松尾大社みたら、普通は「まつお」って読んでるが、今でも正式には「まつのお」が正しいとのこと。そして延喜式では「松尾神社」だったが天平二年(720年)に「大社」号を許された。「大社」といってもこの時代すでに本来の意味はなくなって社格をあらわす用語みたいになっていたろう。明治になって社格をあらわす用語が厳格になって「松尾神社」に戻ったが、戦後また「松尾大社」と自称している。もしかしたら全国の松尾神社の総本宮って格式を表現したいのかもしれないが、まぁ「大社」のほうが聞こえがいいからってのもあるだろうけどなw

松尾と日吉、どちらが本社か
松尾大社の主祭神の二柱のうち、中津島姫は宗像大社から秦氏が勧請(分霊)してこの場所に合祀したようだ。宗像からの勧請は戊辰年としかわからないが一般的には天智七年(668年)かと推定されている。もう一柱の、大山咋神は日吉大社の主祭神でもあり、日吉と松尾、どっちが本宮でどっちが勧請したのかはよくわからない。『日吉社禰宜口伝抄』は後世のもので信用できないが「別雷神昇天之時、丹塗箭鳴動飛去在比叡社、其後飛去在乙訓社、又飛去在松尾社」とあり自分とこのほうが先にように書いてある。自称だから証拠にはしにくいし、活玉依姫が別雷神を産んだ場所が比叡山としているのもどうなのか、普通は京都の賀茂だと思いこまれがちだが。火雷神をまつる乙訓坐火雷神社の論者は角宮神社と向日神社の2社あり、角宮神社の社伝では継体六年の創建だから日吉より新しいが、向日神社の社伝では神武天皇の時だから日吉より先なのだ。松尾は秦氏の奉斎だからこの3社(日吉・乙訓・松尾)の中では一番あたらしそうだが、松尾は巨石祭祀の跡地だから秦氏以前からあったわけで(ただし祭神が大昔から大山咋神だったとも限らないが)もしかしたら松尾のほうが本社で日吉のほうが分霊ってこともなくはなさそう。

松尾大社の謎
古事記は大山咋神を「日吉と松尾に坐す」とか「鳴鏑をもつ神」だとか書いてる。古事記の通例では他の神にはあまりこういうことは書かないことで、特例だ。神話全体の中では格別重要とも思われない大山咋神になぜここまで強調するのか、はじめて古事記を読んだ時から不思議だったが、今思えばおそらく稗田阿礼の出自と関係していて、松尾大社の秦氏と稗田阿礼は血縁だったと思われる(後述)。鳴鏑をもつというのは日吉と松尾のうち、とくに松尾を言いたかったということだ。奈良時代の感覚だと、松尾だけかくとなぜ日吉を落とすのか不自然になるから両方書いたんだろうが、そうすると松尾が目立たなくなるので鳴鏑をもつ神とまで書いてあくまで松尾を強調している。
古事記は秦氏に関係する記事ではなぜか書紀より詳しく、書紀よりも秦氏に好意的ともいわれる。だから大和岩雄なんかは秦氏が太安万侶の多氏と雅楽でつながりがあるからその線で秦氏の説が採り入れられてるのだといってる。大年神の系譜も秦氏の伝承を挿入したと推定している。お稲荷さんの宮司も秦氏なんだから秦氏がそういう古伝承を保持していても確かにおかしくはないが、秦氏と多氏のつながりだけではなく稗田阿礼と秦氏のつながりもある。大和岩雄は稗田阿礼を架空視するからこういう言い方はしてないが。

秦氏が賀茂氏の神話をパクったのではない
ざっとネットみたら、活玉依姫の処女懐胎=丹塗矢の神婚譚はナゾ解きの対象として興味そそるみたいで、たくさんのブログがあれこれ論じてるが、通説の引用が多め。『秦氏本系帳』の松尾の話が『山城国風土記』の賀茂の話をパクったとか、この話は賀茂氏の伝承で本来は秦氏のではなかったとかの見方が多いようだ、水谷千秋の説なのかな。しかしそれ逆だろう。『山城国風土記』の話は賀茂氏の伝承じゃなくて秦氏のオリジナルの創作だと思うよ。なぜかというと、同類型の話として天之日矛の阿加留比賣の話、伊豆志袁登賣の話、神武天皇の皇后の話、崇神天皇の大田田根子の話もあり、4つとも古事記にしかなく、秦氏が話の元だと考える説のほうがよかろう。秦氏は他の氏族の神々を採り入れることばかり多く自分自身の信仰をもってなかったなんて説もwikipediaみたらデマわってるが、古事記の4例に秦氏本系帳と山城国風土記の計6例は登場人物や時代設定が入れ替わってるだけで元ネタは同じ類型、物語の構造であることは明らか。既存の他の神話の登場キャラを利用してオリジナルの類型(物語の構造)にハメ込んで神話を創作している。マニ教みたいなやり方だな。
最初のオリジナルは天之日矛の話だろう。なんで次々と創作できるのかというとそもそも最初の話が創作だからだ。むろん全体のすべてがゼロからの創作なのではなく、元の神話に少し手を加えて都合よく改竄したんだろうが「都合よく」ってのは目的がはっきりしている時でないと「都合がいいのかわるいのかって判断」が派生しない。神話に尊厳や重みがあった時代になぜ改竄や創作ができたのか、そしていつ、なんのために天之日矛の話が作られたのか。
秦氏は日本中のあちこちにいたので、格別どこの土地が秦氏と縁が深いの浅いの言ってももしょうがないんだが、続日本紀には奈良時代の西成郡に秦氏がいたことが書かれている。古事記の仁徳天皇の段で秦人に茨田堤(淀川沿いの堤防)と茨田三宅を造らせたとある。直木孝次郎はそれで河内国茨田郡幡多郷(今の寝屋川市、淀川沿い)の「幡多」という地名はこの時の秦氏が住んだところかと推測し、それなら西成郡の秦氏も難波堀江の工事に従事した秦氏の子孫じゃないかと推定している。阿加流比賣神が鎮座したという難波の「比賣碁曽社」は今の東成区東小橋にある「比売許曽神社」だといい、西成と東成で隣の郡だ。「比賣碁曽社」の阿加流比賣の祭祀にも秦氏がかかわってる可能性あるね。

(※多忙につき今日はここまで、続きは後日に)

・阿須波神・波比岐神

H29年5月17日(水)初稿
少名毘古那神、三諸山の神、大年神の子孫
阿須波神・波比岐神
(※多忙につき後日かきます)

・須勢理毘賣は嫉妬していなかった

H29・5・25 THU 改稿 H29・4・20投稿  H29・4・19 WED 初稿
大国主と沼河比賣、須勢理毘賣との歌物語の章の白文(書きくだし前の返り点のない原文)、昭和5年刊の中島悦次『古事記評釋』より。漢字自体は小学生か中学生かわからんが難しい漢字ではないので、音をたどるという意味では誰でも大雑把には読めるが、問題は勉強しないでいきなり音だけ辿っても意味がわからない。ここは長文の「歌」それもミュージカル舞台での視覚的な要素が入ってるので、カナ書きに直したやつを読んで、音感から想像力豊かに感受してほしい。
須勢理毘賣は嫉妬していなかった?
沼河比賣(ぬなかわひめ)と須勢理毘賣(すせりひめ)の歌物語は5首の歌からなっており、通常の説では、これは

1)大国主が越の国の沼河比賣に夜這いをかけた時の歌
2)沼河比賣から大国主への返歌その1
3)沼河比賣から大国主への返歌その2
4)嫉妬する須勢理毘賣に対して大国主から贈った歌
5)それに対して須勢理毘賣から大国主への返歌

ということになっている。(3)と(4)の間に「その夜はあわずて明日の夜、みあひたまひき」とあるが、普通は、ここで大国主と沼河比賣が結ばれて、そのためにこそ須勢理毘賣が嫉妬するという流れと解釈されている。しかし少々全体のバランスが悪くないか? 本当は(4)の直前に「須勢理毘賣からの嫉妬(?)の歌」がないとおかしい。須勢理毘賣が嫉妬したという一文は、(3)までのグループと(4)以降とを物語としてつなげるために挿入されたもので、何か間違いが生じているような気がする。「その日はあわずて明日の夜、みあひたまひき」の文も不審だ。なぜかやたら急いでる大国主に対して、沼河比賣は「そんなに急ぎなさんな」と返している。これはお断りした歌じゃないのか? 古事記の地の文では沼河比賣が一日ずらして受け入れたと書いてるが、受け入れたなら一日ずらす意味はなんなのか? 結局、歌の意味内容からいえば断っているのだが、それだと、続いて須勢理毘賣が嫉妬したという流れにもっていけないから、苦肉の策で「大国主の急ぎすぎ」が問題なのだとして、その日は断ったが翌日なら間が空いたからOKになったという設定にしているわけだ。しかしこれはおかしい。一国の王者たるものが、出雲まで名のきこえた越の国の神(『出雲風土記』によると高志国の意支都久辰為命(おきつくしゐのみこと)の子の俾都久辰為命(へつくしゐのみこと)という神)の娘に求婚するのに日取りの相談もなくいきなり夜這いをかますなんてこがあろうか? 田舎の庶民の伝統習俗としての夜這いでさえ、泥棒や強盗と間違えないように実際は事前に連絡がいっている。まして王と大名の政略結婚みたいな話だろう。だからこのへんは古事記(またはその原資料)の編集者の解釈であって、歌の本意ではない。ここは実際に歌のやりとりをしたのではなく、物語自体がミュージカル仕立てになっているだけで(3)までは大国主が求婚を断られたという話なのである。観客からみるとミュージカル役者は歌っているけれども、ミュージカルで表現されている世界の中ではそのキャラクターは普通に発話している設定であって歌ってるわけではない。それと同じ。(4)はその歌の内容だけからは須勢理毘賣が嫉妬してるのか不明だ。地の文で「嫉妬した」と書いてあるから読者はその前提で解釈するけれども、よく読むと、落ち込んだり悲しんだり心配したりしてる女性へ宛てた歌だというのはわかるが、その女性が嫉妬しているのかどうかはぜんぜん読み取れない。(4)の歌は、須勢理毘賣にわびて大和国(奈良県)へ行こうとして馬に乗りかけの状態で歌ったことになってるが、大和に行くのは話の流れと何の関係もなく唐突に出てくる。なぜ大和に行くことが須勢理毘賣にわびることになるのか、意味がわからない。で、実は、大和には大国主の御子神たちが多く祀られていることから、一時期、大国主の首都は出雲から大和に遷っていたと思われる。だから大和へ行ったというのは大国主が個人で出かけたのではなく、一族を引き連れて移住した時のことだろう。(4)の歌の「退(ひ)け鳥の 我が退け行(い)なば 泣かじとは」は「わしが引かれて行ってしまってもおまえは泣かないと言っても」ではなく「わしがおまえを率いていけばわたしは泣かないとおまえは言うだろう」の意だろう。つまり須勢理毘賣を一人にしない、一緒にどこまでも同行していくと言ってる。だからこそ「わびる」ことになるのであって、従来の解釈では「詫びる」ことにならない。ところがそれも断られて(5)の歌では酒盃をささげて旅立ちを見送り、あなたを信じてますから一人で平気ですといってる。ここは、大昔の別居婚が前提になっていて、別居してるから二人の仲が破綻したと解釈してはならない。だから末尾に「うながけりて(互いに手を取り合って)今に至るまで鎮まります」と書かれている。この鎮まりますというのは出雲大社の摂社「大神大后神社」(御向社)のことだろう。大国主が大和に住んでいた時期も、大国主に代わって后として出雲の本国を治めていたものと思う。
で、問題は、嫉妬していなかったとしたら、越の国での夜這いについての須勢理毘賣の憂い、心配事とはなんだったのか、だが、ヒントとしては(1)の歌でなぜか大国主は「夜が明けてしまう、朝がきてしまう」と焦り、急いでいたことが一つ。沼河比賣の「そんなにあわてるな」というよりは「時期が早い」という趣旨からすると、年齢差の問題だろう。具体的な予想としては、祖父と孫娘のぐらい齢がちがってた(この時代、父娘程度の差なら問題にされない)。須勢理毘賣は嫉妬というより、忠告とか提言にちかい意味でやめさせようとしたのではないか。あるいは自分のダンナより自分の息子の嫁にしたいと思ったのかもしれない。「その夜はあわずて明日の夜、みあひたまひき」という「夜」(よ)は語部(かたりべ)の言葉では「代」(よ)だったのが、筋の辻褄合わせの過程で「夜」と書かれたのだろう。同じヨでも甲類乙類の違いはあるが、奈良時代の創作ではなくてそれより何百年も前からのずっと古い言い伝えだから発音の細かい間違いはこの際どうでもいいw つまり沼河比賣は受け入れ、召されたのだが、大国主にではなく「大国主の子か孫に」嫁いだのである。だから古事記では大国主の系譜の説明のところに沼河比賣は出てこない。これが本来の伝承である。
この歌物語は前半と後半がもともと別の話だったのに、あとからくっつけてひと繋がりの話に仕立てたもののようだ。おそらく大昔に、大国主の誕生から国譲りまでのすべての物語を歌う一大長編叙事詩のようなものがあったのが、散逸して滅びてしまっていたのだろう。その中のごく一部が残っていた。それはたまたま断片が2ヶ所だけ残ったものだから、間が離れている部分で、繋がってもいなかったのだろう。前半の歌物語は大國主が沼河比賣に求婚するも須勢理毘賣は相手と釣り合いとれないのではないかと「憂愁(うれ)える」。須勢理毘賣の予想通り沼河比賣からは時期尚早として断られ、大国主の子か孫の世代との結婚を約して終わる、という話だったと予想する。前半と後半はまったく関係のない別々の章だった。後半は、大国主が出雲から大和へと都をかえることになり、一族を率いて出発するが、須勢理毘賣は出雲の総督として留守をあずかることになり、夫婦はお互いの信頼を確認しあって、須勢理毘賣は大国主の旅立ちを見送るという歌だったのだろう。

大国主は沼河比賣と結ばれなかった?
しかし、こういう反論もあるだろう、『出雲風土記』には父が大穴持命(大国主神)で母が奴奈宜波比賣命(ぬなかはひめのみこと)として御穂須須美命(みほすすみのみこと)が生まれたとあり、『先代旧事本紀』には大己貴神(大国主)と高志沼河姫(こしのぬなかはひめ)との間に建御名方神(たけみなかたのかみ)が生まれたとある、これらをみれば大国主と結婚しているじゃないか、と。
それはそうなんだが、須勢理毘賣の夫の大国主と、沼河比賣の夫の大国主は、同じく大国主とはいっても別人で、つまり祖父と孫が大国主を襲名しているわけなのだ。なぜそんなことがいえるのかというと、『日本書紀』は素盞嗚尊(すさのをのみこと)の子が大己貴(おほなむち)またの名は大国主だといているのに『古事記』では須佐之男の七世孫が大国主神またの名は大穴牟遅神とある。子と七世孫が同名ということは、その間の6代は代々襲名していたのだろう。従って、須勢理毘賣と沼河比賣が世代のずれたそれぞれ別の大国主と結婚したということはまったくありうる推定ではなかろうかw
その6代がすべて大国主&大穴牟遅という別名を襲名していたとすると、初代の八島士奴美神(やしましぬみのかみ)から5代目の天之冬衣神(あまのふゆぎぬのかみ)までは、襲名とは別に本名っぽいものをもっていることになるが、最後の大国主&大穴牟遅だけが本名がわからない。そこでこの6代目の后が沼河比賣だと仮定して、その夫だから「沼河比古神」(ぬなかわひこのかみ)だったと想像してみたい。

・「十七世」?~なぜ世代数があわないのか~

H29年4月19日(水)初稿
沼河比売、須勢理毘売、鳥鳴海神の系譜
(※後日また暇をみて書きます)

・「はなまつり」(4月8日)は仏教行事ではない?

平成30年4月8日(日)改稿 平成29年4月8日(土)初稿
「はなまつり」は仏教行事ではない?
今日、平成29年4月8日(土)は灌仏会(かんぶつえ)、俗にいう「はなまつり」。この日は釈迦の誕生日だというのだが、むろん明治時代にグレゴリオ暦に変更される前は「旧暦の四月八日」だった。本来はインドの暦で二月十五日だったのを大昔の中国人が中国の暦(つまり大雑把にいうと「旧暦」の類)に換算して四月八日になったという。インドの暦は種類が多すぎてよくわからないが、この場合のは春分(今の3月21日前後)に近い新月を元旦とする暦らしい。旧暦の四月は小満(今の5月22日頃)を含む月(朔望月)だから、丼勘定でいうと、現在の5月の初め頃が釈迦の本当の誕生日ということになる。
で、例によって、このブログでは「その仏教行事、本当に仏教からきたの? もとから日本にあったんじゃね?」って話が前半のポイントなんだが、これはネットにそれなりの情報があるので適当に検索してくれれば大筋はわかる。仏教とは格別には関係なく、仕事を休んで

(※多忙につき未完成、後日、続きをアップします)

・「正義」をめぐる対立~「目上が不条理な場合も反逆は許されない」のか?

H29年3月15日(水)初稿
八十神、根の堅州国
(※後日に書く予定)

ワニは鰐でなくウサギは兎でない

2619年(R01)12月13日 FRI 改稿 H29年2月17日投稿 H29年2月15日(水)初稿
以下の記述において、カナ書きの「ワニ」と漢字の「鰐」を区別して書く。「鰐」はいわゆる水棲爬虫類の鰐のこと。ワニは記紀に登場する生き物だがその正体は鰐なのか鮫なのかそれ以外の何かなのか諸説があり、どの説が正しいのか特定せず漠然と「その生き物」をさす。「ウサギ」と「兎」の使い分けもこれに準じる。まぁ途中でぐちゃぐちゃになるかもしれんが。

「因幡の白兎」は何を表わした話なのか
この話はウサギがワニをペテンにかけて、騙されたとしったワニにウサギが復讐される話だ。ウサギとかワニとか、動物が会話してると完全に児童向けの民話みたいな調子なので、これをなんとか歴史として解釈したい人は、ワニをトーテムとした「和邇氏」とウサギをトーテムとした「宇佐氏」、両部族の勢力争いを神話的に表現したものだとか等というのだが、むろんまったく証拠のない話で思いつきの域を出ない。和邇氏と宇佐氏は勢力圏も離れてるし両者が抗争したような事実は文献にもまったく形跡がない。トーテム信仰も存在した事実は確認されてない(動物が出てくればなんでもかんでも針小棒大にトーテム信仰の「形跡」だとして形跡にこじつけるのが関の山、むろんそんな議論に証拠能力はない)。
これも神話である以上、海外にもほとんど同じ似たような神話がたくさん分布している。なので、和邇氏だの宇佐氏だのの日本限定の氏族抗争で説明つくことではない。

ワニは鰐か?鮫か?(1序章)
で、ここのワニ(原文では「和邇」)は昔から鮫のことだとする説と、鰐(クロコダイルとかアリゲーターとかの鰐)でいいのだとする説があって対立している。他にもウミヘビ説、ウミガメ説、龍説、架空の生物説、恐竜説、怪獣説などもあるが省略。このへんの諸説についてはネット上にもあまり見かけないので『星座と干支』(¥600)に詳細をつくしておいた。なのでそちらを買って見て下さい。それらのうちウミガメ説だけ、さわりだけちょっと書くと浦島太郎の民話は「山幸彦と豊玉姫」の神話が崩れてできたものだが、室町時代の御伽草子の段階では助けた亀自身が乙姫本人だったのであり、これは豊玉姫がワニだったという神話と一致している。また江戸時代の偽書『旧事本紀大成経』では豊玉姫の侍女の白玉見媛の正体が巨大な亀だったという話が載っている。これはもと豊玉姫が亀だったという話を、大成経の作者が記紀に依って豊玉姫はワニ(鰐?)のはずと考えたために、ワニ(鰐?)とは別に亀だったキャラクターを豊玉姫とは別人として創作したものだろう。

ワニは鰐か?鮫か?(2現在の通説)
鮫のことをワニとよぶ方言があることは確かだが、これは後世の方言だからどこまで遡れるのかはなんともいえない。岩波・角川・講談社の三つの古事記の注釈ではかなり誤解されやすい説明をしており、ちょっと見、どれも鮫説をとっているように読めてしまう。が、wikipediaみたら鰐説のほうが有力であることを精力的に書いてる人がいた。これ俺じゃないよw それによると鮫説はもうかなり古い説のようだ。そこでもう一度岩波・角川・講談社の三つの古事記をよく読み返してみると、岩波の日本思想大系では「昔の日本人は実際に鰐をみたことがなかったので、蛇や龍などの要素が加わって架空の生き物のようになっていたのではないか」とあり、つまりもとは鰐だったことを認めている。講談社学術文庫のは鮫説を採りながらも「南方では鰐だが、日本では鮫」だとある。「南方では」というのは東南アジアに同じような神話があり、そっちでははっきり鰐だとされているので、それが日本に伝わってきてから鮫に変わったんだって言いたいのだろう。これも「のちには鮫になっちゃったけどもともとは鰐だった」と遠回しにいっているわけだ。松本信廣『和邇其他爬蟲類名義考』によれば日本語のワニと東南アジア諸語の鰐をさす名詞は同じ発音の原語から枝分かれしている。これからすると、奈良時代よりずっと前の、ものすごーく古い時代には日本語の「ワニ」は鮫でなく爬虫類の鰐をさしていたことは揺るがない事実のように一見思われる。その上で、出雲風土記にはあきらかに人食い鮫としか判断できないワニのエピソードがでてくるので、記紀や風土記が編纂された奈良時代にはワニといえば鮫をさすようになっていた。紛らわしいが、奈良時代からみた「古語のワニ」が鮫なのではなく、奈良時代の当時の「現代語のワニ」が鮫だった。現代でも同じ単語が古語か現代語かで意味が違う例はいくらでもある。出雲風土記に出てくる鮫はただの鮫じゃなくてなにか神秘的、霊的な鮫のように書かれているが、アニミズムの時代には鰐だろうが鮫だろうが狐だろうが狸だろうが、すべての生き物は神秘的な力をもっていると考えられていたのでこれ自体は格別なんだも無い。ただ、現代人からみて架空の存在である神秘的な生き物ってのは見た目が一定せず不定形なので、鰐をみたことがない人々にとってのワニという言葉のイメージは「鰐→架空の生き物→鮫」と時代によって3段階に変化してきたのだ。だから神話に出てくる古い段階でのワニは鮫のことではなく鰐だとする説が今では有力になっている。「今では」というのは一時期は鮫説が有力だったからだが、古くはすでに本居宣長が鰐説で、江戸時代の人は見たことはなくても日本にいない外国の生き物についても現代人同様の正確な知識をもっていた。鮫説は喜田貞吉の説だからこっちのほうが後からでてきた新しい説なのである。

ワニは鰐か?鮫か?(3海外との比較)
前述の「日本では鰐から鮫に変化した」ってのは、海外の神話にも例がある。「因幡の白兎」に類する神話や民話は、シベリア、中国(漢族)、中国の少数民族、東南アジア、インド、アフリカにまで広がっているんだが、それらのうちフィリピンのミンダナオ島では鰐ではなく鮫になっていて、日本と同じ変化が起こっている。ミンダナオ島では2011年に6.4mもある巨大なイリエワニが捕まってニュースになったこともあり、鰐がいるのになぜ鮫になっているのかわからない。十六世紀の日本人が移住したりしていた時代に日本から持ち込んだ民話と混ざってるのだろうか?
他にも、東南アジアでは兎がジャッカルになっている例があり、カムチャッカ半島では鰐が鯨になっているという。中国(漢族)の民話では「兎とスッポン」になっていることがあり、シベリアの少数民族の民話では「狐とアザラシ」になっている。インドネシアでは兎と鰐ではなく「ネズミジカと鰐」または「サルと鰐」になっている。ネズミジカというのは別名マメジカともいい、原始的な鹿の一種。小型でその名の通り鼠や兎にイメージが近い。サルはたぶん猿(ape)ではなく猴(monkey)のほうだろう。ただし「兎と鰐」という例が多いからといって、「兎と鰐こそが原形であり、騙すほうがネズミジカ/サル/狐/ジャッカルだとか騙されるほうがスッポン/あざらし/鮫/鯨だとか言うのは後からできた地方的バリエーションにすぎない」、とも即断しづらい。「兎と鰐」というのも後から広範囲に広がっただけでもとは一類型にすぎなかったのかもしれないし、逆に「兎と鰐」が本当に原形だったのかもしれないし、なんだかわからない。が、考えようによってはあれこれ推定できないこともない。

ワニは鰐か?鮫か?(4結論)
ところで中国のスッポン説は気になる。というのは、前述の通り記紀神話のワニについてはウミガメ説もあり、スッポンは淡水棲でウミガメが海水棲というちがいはあれどどちらも亀だ。中国は大陸国家で、ウミガメにあまり馴染みがなかったので民衆の民話としてはスッポンにさしかえられたのではないか。他にウミヘビ説・龍説・恐竜説などがあったが、これらはすべて爬虫類だ。この説話は「陸の生き物vs海の生き物」という構図になってるが、「けもの(哺乳類)vsむし(爬虫類)」という構図でみることもできる。「あざらし/鯨」ってのはカムチャッカやシベリアの寒いところでは大型の爬虫類がいないので、「陸vs海」の枠組みだけが残り海棲の生き物という枠内で変化したものだろう。つまりアザラシ説と鯨説は後出のバリエーションであって原形でない。
で、鰐といっても具体的にはクロコダイル系のイリエワニなのかアリゲーター系のヨウスコウアリゲーターなのか、化石種のマチカネワニなのかと諸説に分かれている。マチカネワニは「トヨタマヒメイア・マチカネンシス」という学名がついているのは豊玉姫からとったものだが理系の勇み足で困ったもんだ。この中でイリエワニは基本は海岸に沿いながらではあるが海を移動する。必要がないからやらないがその気になればかなり沖まで泳いでいくのはなんでもない。ただ、鰐がウサギの毛をむしるなんて器用なことできるのか? ウサギの毛をむしるのに前足を使おうとすると自分の頭がつっかえるから口でやるしかないが、そしたら毛をむしる前に噛み殺してしまうんじゃないのか? 亀やウミヘビだと海に落ちた兎を集団で襲って口で毛をむしるぐらいはできそうだ。ただし、鰐や亀ならウサギがその背中を踏んで海を渡ることはありそうだが、ウミヘビだと無理そうだな。
そこで、今かりに、ワニとはある程度の大きさのある「水棲爬虫類の総称」としておくのも一つの手段ではある。ただ大きな爬虫類というと東南アジアではどうしても鰐ばかり目立つので、長い間にワニ(東南アジア諸言語のワニに相当する語彙)といえば鰐をさすようになってしまったのである。つまり鰐説も後代のバリエーションであって、東南アジア諸言語におけるワニも、原義は「鰐」ではなかった可能性が否定しきれない。

素菟の「素」とは?(1序章)
ワニもややこしいがウサギについても問題がある。「しろうさぎ」は古事記の原文では「素菟」と書かれている。なぜ「白菟」でないのか? この素の字は「白」の意味なのかどうか? 読みはシロでいいのか? 等、昔からいろいろ議論されてきた。本居宣長は「素」は白いって意味ではなくワニに毛を剥がされて裸になってた、つまり毛無しの「素の体」だったからではないかと言っている。それならシロウサギではなくアカウサギじゃないの? 赤裸とはいうが白裸とはいわないじゃん、そこんとこどうよ? だが漢字の素には条件付きでだが「白い」という意味もある。漢字の「素」で白い色を表わす場合は、単にニュートラルに「白いよ」って意味ではなく、もともと何らかの決まった色があるのにそれが抜けて白くなっていることを意味するという。なら、例えば鴉(からす)が白い場合、素鴉(しろがらす)と書くんだろうな。漢字の素の字にとらわれず色の話だけをいえば、昔は、通常なら有色のはずの生き物が真っ白い姿で見つかった場合、神の使いとされた例が多い。その古代信仰からいえば「素菟」とわざわざ書くのは、そこらによくいるどうでもいい白兎ではなく、神の使いだから白かったんだよ、って言いたいがための表記なのだ、という説がある。一見もっともらしいが、この説はダメだろう。現在の真っ白な兎は欧米で作られた品種で、本来の兎の毛の色は多様で、その中に白もあり、例えば山陰地方にも分布するトウホクウサギは冬場は毛が白くなる。なので「白兎の出現」が瑞兆または神からの特別なお使いとされるほど珍しかったとは思われないからだ。「因幡の白兎」にでてくるウサギが神の使いではありえない理由は他にもう一つある。それは…。

素菟の「素」とは?(2素は「白い」の意味ではない)
なにかというと、このウサギはアホすぎて神の使いらしくなく、なんら神々しい活躍をしていない。ワニを騙そうとして悪事をはたらき、逆讐されたのは自業自得。八十神(やそがみ)に騙された点については被害者ではあるが、自分でワニを騙しておきながら、自分が誰かに騙されることはないと太平楽にかまえていたのは、痛い目にあっても反省なく、傲慢にもあいかわらず「頭が良いつもり」だったのか。最後に八十神でなく大国主が八上比賣(やがみひめ)を得る、「汝(な)が命(みこと)ぞ獲(え)たまはむ」といっているが、これは別に予言とか理知的な予測とかではない。原文は「汝命獲之」で、たった4文字の簡略な漢文のため微妙なニュアンスがわからない。だが常識的に考えてこんな屑野郎みたいなアホなウサギに予測能力があるわけがなく、これは「ぼくちんを助けてくれた神だからあんたはえらい、立派な神だ」という自己中心的な物差しで「汝のような立派な神こそが八上比賣を獲得すべきだ」という理想なり願いを語っているにすぎない。「今に菟神といふ」という文があるがこれも別に当時のそのウサギが素晴らしいという意味ではない。これについては後述。そうするとこの「素」の字の意味は「神の使いであるところの、色の抜けた白い動物の白」という意味での「素」ではありえない。ではどういう意味で素の字を使っているのか?

素菟の「素」とは?(3シラには誕生の意味がある)
和語のシラには「白い」という色の意味の他に「誕生」の意味がある。これは柳田国男がつきとめたことで、誕生の穢れを「白不浄」(しらふじょう)といい、胎内くぐり等の儀礼を行う山を「白山」(しらやま)という等、民俗学では有名な事実だ。稲束・稲積ひいては穀霊、または出産のための産屋をもいうがそれらこそが原義で「誕生」の意味はそこから抽象化されて派生したのか、逆に「誕生」が原義で穀霊や産屋のほうが派生義なのか、民俗学界の通説ではどういっているのかはしらない、シラだけに。いや何でもない。シラという語が色の白と無関係だというなら話が違ってくるが、俺の個人的な考えでは色の白とも関係しており、生まれたばかりの生き物が大抵の場合「白っぽい」ことと関係してるのではないか。いや逆で、白色をシロというようになった語源が「生まれたばかり」の意味のシロで、生まれたばかりの物の色だからその色をシロというようになったのだろう。さらにこれを展開すると、個体として生まれたばかりの兎も「シロ兎」だが、生物の種として発生した初期の、進化の原始的な段階にある兎も「シロ兎」とはいえないか。つまり古事記の「素菟」の「素」は白いという意味ではない。「原始的なウサギ」という意味で「シロウサギ」なのであり、この「素」は「原始的な」の意味になる。だから極論すれば、「素菟」の二字で「たねうさぎ」「はつうさぎ」「むかしうさぎ」「もとうさぎ」「ふるうさぎ」等と読んでも一向に差し支えない。

素菟の「素」とは?(4結論)
大国主といえばその神使(みさきがみ)は実は兎じゃなくて鼠なんだって話は前回「十二支と大国主神」でいった通りだが、兎と鼠で全然ちがうのかといえば割りかしそうでもない。暁新世にはパラミスというリス型の齧歯類がいて、これが兎と鼠の共通の先祖らしい。
以前に「「八俣の大蛇」&「大国主の系譜」の解釈」で書いた大国主6代と新生代6期のあてはめからすると、因幡の白兎の神話は人間世界を動物に喩えた寓話ではなくて、漸新世の末期の状態を反映しているはずだ。原始的な最初の兎は始新世前期に出現したがこれは鼠のように地中に巣を作って暮らすアナウサギだった。それが様々な各種の兎に進化したのは漸新世から中新世の初期にかけて北米でのことだったと考えられている。漸新世には北米とユーラシアはつながっていた。一方、鼠の先祖は漸新世に現われた原始ハムスター類が世界中に広がり、それからハタネズミ類(ハタネズミ、ヤチネズミ)が枝分かれして、北米とユーラシアが分離した中新世には真正ネズミ類(マウスやラット、アカネズミ)が現われてユーラシアに広がった。
鼠は門歯が1対の単歯類(ネズミ目)、兎は門歯の裏側に第二門歯のある重歯類(ウサギ目)だが、これは分類上は一纏めにされる中の姉妹関係になっており、種として生物学的には兎と鼠は「グリレス大目」という一族に属する同族なのである。
だから、ちょうどワニを、ある程度しぼった中ではあるが「海棲爬虫類を総称したもの」としたように、シロウサギ(素兎)も「ネズミ類やウサギ類をひっくるめて原始的な哺乳類を総称したもの」として考えることができるのではないか。ワニをシロワニといわないのは、爬虫類は中生代に種としての全盛期をすぎて、新生代にはすでに生き残りにすぎなかったからだ。それに対して哺乳類はこれから発展していこうという時だった。

「滅びゆく爬虫類と栄えゆく哺乳類」ではない
では俺は、兎と鰐の争いという物語は「滅びゆく爬虫類と栄えゆく哺乳類」というテーマを対比的に暗示しているのだ、と言いたいのだろうか? …というと、実はそれがそうでもない。もしそうなら、ワニはもっと悪役に、ウサギは正しい善玉に描かれるべきじゃないだろうか? ウサギは海を渡りたいのならワニにそう頼めばいいだけのこと。それができずにペテンにかけたのは、こっちからお願いして海を渡してもらうと後でお礼をしなければならなくなる、それが嫌だったのか? …とも思ったが、よく考えるとそれなら最後までネタばらしせずに渡りきってから「負けました、こんなに多く仲間を集めることは私にはできません」といってそのまま逃亡すればワニも満足するし八方まるく収まったはず。だからウサギは、単に海を渡りたかっただけでなく、知能を誇りたかったか、ワニを馬鹿にしたかったかのいずれかであって、この話ではウサギは善玉ではなく、ろくでなしなのである。好意的にみても、どうもウサギは子供っぽいキャラに設定されている。
対するワニだが。ワニも、自分が騙された被害者だとしても、復讐するのはワニ自身でなく神の仕事だとして、ウサギのようなカス野郎はむしろ哀れんで放っておけばいいのであって、そこまでの暴力を振るわずともよかれと思われる。が、それはそうなんだが、よく考えてみると第一にワニとウサギの「個体数くらべ」が中断してしまったというだけで、ワニは騙されたっつってもさほど被害というほどの被害はこうむってないのじゃないか? 第二にウサギのような馬鹿を放置して調子に乗らせると後々さらなる悪事をしでかしかねないから、ここできちんと懲らしめておくべき、という考えもありうる。ワニがもし鰐なら、一口でパクっと食べちゃうのも容易だったはずだし、海蛇だったら毒牙で噛み殺すこともできたろう。でもあえてそこまではしてないのがワニのいいところ。懲らしめる程度でやめてる。なので善悪でいえばウサギは悪玉で、むしろワニのほうが中立かやや善玉寄りなわけだよ。あるいは、上述のごとくウサギを「子供っぽいキャラ」だとすれば対比上ワニは「老成したキャラ」として設定されているのだとも考えられる。これはつまり勧善懲悪的な「善と悪」の話ではなく「子供とおとな」あるいは「賢と愚」の話だという解釈もひらかれる。
ウサギは、現在の我々が知る兎ではなく漸新世末期から中新世初期にかけての頃の「素兎」=原始的な初期の兎で、「種(しゅ)として」、生物学的に厳密には「目(もく)として」なのかしらんがそこはアバウトでw、進化論的に若い存在だった。これに対して爬虫類はすでに中生代に全盛期を過ぎた生き残り組である。地球史上には何度かの「大量絶滅」があって、中生代から新生代への変革期(K-T境界)に恐竜が絶滅したのは有名だが、ありがちな話の筋としては、繁栄の中で堕落した者どもは滅ぼされるが「選ばれし一部の者」は生き延びるわけだろw つまり、新生代になっても生き延びた爬虫類(鰐、亀、蛇、蜥蜴etc)は、悪の象徴としての蛇やドラゴンの類=ヤマタノヲロチの党派ではなくて、善なる爬虫類、正義の爬虫類なのである!じゃ~ん!昭和ゴジラやガメラとか爬虫類だけど子供の味方で正義の怪獣だろう、そういうのもあるの。爬虫類はそのあといきなり絶滅するでもなく、現在までも生き残ってそれなりに繁殖して、地球の生物多様性に寄与している。こういうことから考えると「因幡の白兎」の話は結末部分に脱文があり、大国主のとりなしでウサギとワニが和解したか、もしくは大国主ぬきでも、ウサギが反省・謝罪してワニと和解したという後半の部分があったのではないか。

陸上生物が海を越えて分布するのはなぜか
だが、それはまだオチではない。そこで「ウサギとワニは仲良く暮らしました、ちゃんちゃん」で終わっては、最初から喧嘩せず仲良くやってればもっと良かったわけで、更生した元悪人を讃えるような話になってしまう。トラブルが解決した後には情況の進化が残らねばならぬ。進化とは疵痕の別名なのだから。ヒントとして「ウサギが海を渡ろうとした」という点があげられる。
『塵袋』に引用された「因幡風土記逸文」には、この因幡の白兎の話がでてくるのだが、兎はもともと隠岐島にいたわけではなくて、もとは因幡国高草郡にいたのが洪水で海に流され、竹の根につかまったまま隠岐島に漂着したのだという。これは古事記にないからといって後世に付加された尾ひれだとは断定できない。なぜなら、インドネシアではネズミジカと鰐の話になっていることは前述の通りだが、ネズミジカは洪水で川の向こう岸に流されて帰れなくなったという設定なのだ。これは偶然の一致ではあるまい。察するに因幡風土記逸文の話は、もともとの神話の一部で、古事記は省略したか誤脱したのである。
上述のように、ネズミはユーラシアに広がったがアメリカ大陸にはネズミがいなくて先祖の原始ハムスターから進化したハムスター類がネズミの代わりに広がっていた。ハムスターはユーラシアにもアメリカにもいたからネズミより先に広がったのだろう。兎が進化したのは北米だというが、その後ユーラシアにも広がった。海で隔てられた大陸の双方に同じ生物が分布している場合、学者は「大昔はこの大陸はつがなっていたのだ」と考えがちで、もちろんこの場合はそういうケースなのかもしれないが、それでしか説明つかないわけではない。
神話をそのまま真に受けると、洪水で海に流された動物が接壌してない別の陸地に生きたまま漂着したり、海棲動物に寄生して海を渡ったりすることがありうる。
むろん一匹の個体が流れ着いただけでは繁殖できないが、因幡風土記逸文の話が興味深いのは竹林があったから竹草郡といったのだという地名起源譚と絡んで、洪水で兎が流されたというんだが、竹の根につかまって漂流したというのは、つまり竹林ごとウサギの巣が一緒に流されたということをいってる。竹林が地震に強いのは有名だが、根が浅いために大雨や洪水による地滑りには無力なのだという。そしてこの頃のウサギというのは何度もいうように現代の兎とちがって原始的な種類で、ハムスターやハツカネズミのように小型のアナウサギ類に近かった。広大な竹林がこのウサギたちの繁殖地だったら、大規模自然災害によって一気に大量の兎ウサギたちが海に漂流したということがありうる。これで繁殖地域が海を越えて広がったのなら、無神論者でも「大自然がもたらした不思議な偶然」ぐらいのことはいうだろうし、普通の人なら背後に神の意志のようなものを感じることは容易だろう。

鰐の多様性と兎との共生
既述せるごとく現在では鰐の多くは淡水棲だがイリエワニのように海を渡る種もある。ジュラ紀から白亜紀にかけての爬虫類全盛期には純粋に海棲に適応してしまった鰐もあり、ゲオサウルス(白亜紀前期欧州)やメトリオリンクス(ジュラ紀後期欧州)という鰐はかなりイルカっぽくなってるが、ダコサウルス(白亜紀前期アルゼンチン)は「海ゴジラ」の異名をもつように顔がゴジラっぽい。新生代にはまだこういう海に適応した鰐がたくさんいたんではないか。その一方、シモスクス(白亜紀後期マダガスカル)という草食性の鰐もいてこの場合は兎を食ったりはしないわけだ。海蛇の場合は「背に乗る」のがイメージしにくいが兎がハムスターやハツカネズミのように極小だったり海蛇が伝説のシーサーペントのように巨大だったりすれば、なくもなかろう。亀の場合もっともイメージしやすいが、鰐でも苦しくはない。
バルゴン2
↑かつて(つかかなりの大昔だが)特撮史上もっとも美しい怪獣といわれたバルゴンちゃん。もちろんワニ型)

ウサギがワニの背中を歩いて渡海することについては異種間の一時的な共生関係ともいえる。カバの口の中を掃除する鳥の話は有名だろうが、ナイルワニとナイルチドリも同様。共生とまではいえないが各種の鳥は、牛や象や鰐の背に平気で止まってることがあるし鰐をそれをウザがってる様子もない。むろん鳥だけでもない。フロリダ州のオカラ国立森林公園内のオカラハオ川で、鰐をタクシー代わりに使っているアライグマの写真ってのがネット上にある。撮影者はプロの写真家で地元のテレビでも紹介されたというから、匿名氏のコラージュではなかろう。これこそ偶然のハプニングのなせる技で、人間の時間感覚では常時あることではないから生物学上の共生関係の定義にはあたらないだろうが、実は、現代人の感覚ではきわめて珍しいことでもそれは関係がない。何千万年というタイムスパンの中ではかなり頻繁に起こっているともいえるのであり、それだけで十分に生物の渡海分布には寄与しうる。まして、このアライグマはかなり大きくて、現代人が想像するような「因幡の白兎」の兎と鰐の図を彷彿とさせるが、既述のようにこの時のウサギってのはハムスター的に小さいとすると、太古の巨大な鰐の背中に乗るのはさらに容易に思われる。

「菟神」(うさぎがみ)の意味
以上をまとめると、中新世には地球の大陸と生物相がほぼ現在の地球と同じ情況になった、つまり大国主の国作りが完成した時なのであり、ならば、大国主神話の冒頭に置かれた因幡の白兎の話は、そのきっかけとなる前フリとしてふさわしいものであるはずだろう。神話の末尾には脱文があり、大国主のとりなしでウサギとワニが和解したか、もしくは大国主ぬきでも、ウサギが反省・謝罪してワニと和解したという後半の部分があった。これによりウサギたちはワニの力を借りて、海を越えて世界中に増え広がり、その結果、現在と同様の哺乳類分布図ができた。おそらく大国主のとりなしで両者が和解したのであり、だからウサギが「汝(な)が命(みこと)ぞ獲(え)たまはむ」と理想・願望を述べたのは、自分一人を助けてくれたという利己的なことではなく、己れの失策からワニ族との敵対関係に陥ったところを解決し、ウサギ一族の世界への拡大を決定づけた大恩と、「国作り」=生物界の統治の才覚を察知したことからきているのである。
古事記に「木神(きのかみ)名は久々能智(くくのち)の神」とあるところ日本書紀には「木祖(きのおや)句々廼馳(くくのち)」とあるように、神(かみ)という言葉には「祖」の意味もある。菟神(うさぎがみ)というのは「菟の祖先」という意味。だから当時はまだ祖先ではない。だから「『今』に菟神といふ」とあるのであって今=後世の現在からみると兎の先祖だということ。

擬人法ではない
さて、そうすると、「因幡の白兎」の話とは、新生代の生物相の変化という科学的・物理的な事実を擬人法で物語風にあらわしたものだ、と俺は言いたいのだろうか? 実はそれがそうではない。神話と歴史はむろん別のものではあるが、過去における一回性の事件であるという点だけは同じである。歴史がそうであるように物理的な世界の変化も観念の中だけで漠然とは起こらないし、実在の個体の英雄的跳躍によってしか事態はかわらない。だからこのウサギは特定の固有の個体として生存していたのである。喩え話ではなく実際にあった話なのである。

おまけ(読まなくていいんだぞ)

動物がしゃべるのか?
だが、そうすると一つの問題は、兎や鰐がしゃべってるのはどうなんだ、あれも喩えじゃなくて事実なのかと。一つの考え方としては、アニミズム的な世界観というのがある。万物に魂が宿っており、すべての存在は主体的な意識をもつ。その上で二体の動物が共生的な行動をとっている場合、両者には意志の疎通、コミュニケーションが成り立っているとみることができる。だが、あらゆる水準のコミュニケーションをなんでもかんでも言葉だといってしまったら、やはりそれは「喩え」、比喩表現としての「言葉」であって、人間が話す言葉とは意味が違ってしまうだろう。兎と鰐が会話してるのは、動物の個体間コミュニケーションの表現であり、人間の会話に喩えたんだ、ここは擬人法なんだ、といっても、まぁそれでもかまわないし、ここでこのページの議論は終わりにすることもできる。
だが、ここは一つ、このブログの「神話を極力、真に受ける」という原理主義にそって考えてみようw

動物はしゃべることができる
ざっくり検索してみた感じ、言語の起源については定説もなく皆目わからない。ただ人類が発生した後で言語が生まれたと思い込まれてるだけだ。wikipediaをみた感じ、この議論が迷走しているのは「人間のような複雑な言語」と「動物にみられる単純なコミュニケーション」との間に明確な区切りがあるという前提が疑われてないからだ。だが人間の日常会話の99%は実はほとんど意味のない言葉の応酬であり、敵意のない仲間同士であることを確認するための作業だってことはどっかで聞いたことある人も多いだろう。だから反論する時に「だけど」って接続詞を「だから」にかえて賛同するような口調でしゃべるとカドが立たない、つか相手がぼーっと聞き流してると反論されたのに賛同されたように勘違いしてしまうってことが実際に起こる。朝三暮四って四文字熟語は人間を猿に喩えたものだが、それと同じ。普段の日常会話なんてほとんど猿山のサル同士の「毛づくろい」と同レベル。むろん人間は高度に抽象的な難しい議論もできるけど、全員ができるわけじゃない。知能指数が20違うと会話が成り立たないとかっていう話もあるでしょ、聞いたことねーってやつは検索しるw 何が言いたいかというと、言語というものは高度に抽象的な難しい議論もできる仕様にはなってるんだけど、使うほうがバカだから使いこなせてない。名刀村雨でリンゴの皮むいてるような。進化論は好きだが、言語の発生は進化論的な発想では説明がつかない。チョムスキーは言語は突然完成された形で現れると主張して進化論的な発生説を批判しているそうだ(チョムスキーって左翼思想家と思ったら言語学が本業だったんだな)。チョムスキーがそれ以上の議論を展開してるのかはしらんが、最初から完成されてるっていえば、少々気の利いた知識の持ち主ならここで誰しも「言霊学」を想起するだろう。言霊(ことだま)じゃなくて言霊学(ことだまがく)なw 言語の起源というような問題を扱うのなら、オカルチストとしてはこれをスルーしては金返せと言われかねないw オカルト(=神秘学)では常識だが、そもそも音声(言語を構成する根本であるところの音声とそれによって構成される言語)に意味や文法があるのは、音階に意味や文法があり、色彩に意味や文法があり、数理に意味や文法があるのと同じで、同一原理の異なる表われ方にすぎない。文法といったらちょっと違うけど「法則のようなもの」では通じないのでとりあえず文法といっておく。これらは神道霊学でいわれる「音霊」(おとたま)「色霊」(いろたま)「数霊」(かずたま)というものだ。半端な賢人からは「なんだ薄っぺらい(悪い意味での)オカルトじゃね~か」と言われるかもしれないが、その通りですw ただ、結論を導くための、幾何学でいう「補助線」と思って聞きたまへ。音声の音感はそのような根本原理の多様な表われの一つなのであり、古来の言霊学にしろ現在のネット上の言霊学にしろ、現代の言語学でいうところの言語を問題にしているのではなく、音素の音感を問題にしている。つまりシニフィエとシニフィアンの人為的な組み合わせとか文法(言語学での文法)がどうのとかは瑣末な枝葉であって本題でない(縄文時代の日本語は奈良時代のような膠着語ではなかった)。その上で、その根本原理を標準語に喩えれば、言語そのもの自体が「人間界」という「地方」の「方言」なのである。人間界といったが、人間は自然と1対1で対照する関係にはない。人間はルドルフ・シュタイナー(1861~)がいうように、日本なら水谷清(1873~)がいうように、複層的な存在なのである。鉱物は単純だが植物は鉱物性に植物性を加え二重の存在になっている、植物はつまり鉱物性を内包している。動物は同じく植物性を内包し…、そうすると人間は四重の存在なのである。何を言いたいかというと言語が自然界の根本原理であって人間の言語はその方言だという時、理屈の上では動物界や植物界や鉱物界にも言語というか方言がないとつながらないことになる。植物や動物の段階で一回切れたら、人間が言語をもつことはできない理屈だろう。
先ほどのざっくり検索によれば、他愛のない原始的な言語であれば類人猿などは十分に理解したり使いこなせるようだ(文字のような視覚認識もふくんでのことだが)から、象とかイルカのような高度な知能をもっている動物(笑)ならなおのことw いや、詳しくは書かないがこのブログで前に書いたように犬や猫ともコミュニケーションできるって豪語する人は無数にいるわけよ。人間の知的障害者がしゃべってるのはあれは日本語とかの特定の「言語」だよね。要するに動物が言葉を話せない理由のうち、知能が低いからというのはクリアされるw
あと生体の構造的な問題だが喉頭の降下は犬、山羊、鰐にもみられるというが、これはこれらの動物がかつて言語を話していた痕跡ではないか。そして言語に関連するFOXP2という遺伝子はなぜか魚、鳥、鰐、鼠にもあるという。鰐が2回、鼠が1回でてきたなw 偶然にしちゃできすぎてねw

なぜ今の動物はしゃべってないのか
「わかったわかった、お前の与太話はきいたけど、じゃ、なぜ動物は今しゃべってないのか?」って疑問が当然でてくる。神話では、天孫降臨の時に草木や岩石がしゃべっていたのを禁止したって話が祝詞にでてくる。ここだけ切り取ると(日本書紀もそうだが)大国主の支配した世界が邪神や悪霊の掃き溜めみたいにいっていて、その流れで草木や岩石がしゃべってるのも悪いことのように書いてるんだが、ここで現代人からみると、草木岩石がしゃべるのかよって話の他に、仮にしゃべるとしてそれが悪いことなのかよって問題がある。
ここで、日本書紀は皇統の正当性をいうためにわざと大国主の治世を悪くいってるのだ、と解釈する説もあるがそれは不可。なんとなれば古事記はご存知の通り、当の日本書紀でさえも別の場所では大国主が民衆に崇められる偉大な功績をもった神であることを明記しているからだ。これはゼロか100か、白か黒か、善か悪かという極端な話ではなく、天孫降臨の直前ということはつまり大国主の末期であって、長い長い大国主の時代の全体からみると全盛期をとっくに過ぎた後のことなのである。これはあらゆる王朝、あらゆる文明にもいえることであって、ローマ帝国といってもジュリアス・シーザーの頃と軍人皇帝の時代じゃぜんぜん違うし、江戸幕府といっても元和慶安の頃と嘉永文久の頃じゃ違うでしょ。
というと今度は、要するに草木や岩石が(悪い意味で)しゃべっていたというのは世情の混乱をあらわした比喩なのだ、とまたもや寓話説がでてきそうだ。そうじゃなくてストレートにそのままの意味でいいだろう。人間か動物かという二項対立の発想がすでに致命的に才能がない。神々と我々は日常的に会話しているのか?してないだろう。人間は犬猫とも(一部のペットマニア除いて)会話できない。俺は「神/人/動物」の三層論を言いたいのではない。神は人智の及ばない上層を概括したものだからさておくとして、動物も人からみた下層を概括したものだろう。それは前述のように「動物/植物/鉱物」ともわけられようし、動物の中でも鳥獣と虫魚は別の水準だろう。大国主の時代は神々と動物の間に人間が存在しないのだから、動物からみた神々は今の世の人類のごとく、神々からみた動物は今の世の人類のごとき存在だったのです。だから人類の時代になって人類と神々とコミュニケーションがあった程度には、この時代の動物は神々とコミュニケーションしていたはず。それでも今の人間が(一部のペットマニア除いて)動物と会話できないように、当時の鳥獣は虫魚と会話はできなかったのがデフォルトだろう、だからさらなる下層の植物や岩石と神々なり動物なりが会話できるってことが世情の混乱の表現となる。

コミュニケーションはあればよいというものではない
オカルトでは樹木の精が知識なり情報なりを授けてくれる話があるし、妖精さんも多くの場合、虫の霊魂の化身(化身なんてメカニズム的に訳の分からない表現が受け付けないって人は、感受映像でもなんでも好きなようにいいかえればよし)だろう。それらがオカルト的にめでたいのは、非日常的な特異現象であってそれに遭遇できるのは希少で特権的な情況だからである。日常的に万人に開かれている現象だったら、また意味が違ってくる。それはオカルチストや中二病の少年少女のアイデンティティーがどうたらというケチな話ではなくて、人間社会が崩壊してしまうってことだ。人生に悩む思春期の若者が幼稚園児と交流したり、いい歳こいたおっさんおばさんが若者とつきあったりってのも、失った過去を思い出したりして一時の癒やしとしては申し分ないだろう。けど、そういうのに依存したり永続したりするのは病的だろう。会話ができる、意思疎通ができるというのは意識の水準が同化されてしまう、霊的な相互洗脳の情況にある。わかりやすくいったら馴れ合いなんだけど。それだと人間は都合のいい方向、ラクな方向に流れる性質があるため、前向きに進歩することができなくなる。犬や猫がなぜ癒やしの力をもつかといえば、「彼らはしゃべれない」からなのである。理にはふれずにただ情だけを肯定することを「癒やし」というわけだろ。もしぺらぺら喋りだしたらペットは(通説とちがって犬猫は人間と同等の知能をもっているので)人間を堕落させるだけの悪魔になるだろう。あるいはペットと友人(人間)との境がなくなって、知能の劣る分、犬猫の言い分がうざくなって人間の友人のほうがましとなるかもしれない。
神々と人間、または人間と動物といった霊的進化段階の上下の間のコミュニケーションでは対等のコミュニケーションだと上の者が下に引きずられて、例えば人間社会に鳥や獣の価値観をもちこんでしまう。なので、まずは言語を介した詳細な会話は通常はない状態とされ、まれに会話が成り立つ場合でも必ず上から下への命令か、少なくとも立場の上下ということが厳格に守られる。

言葉をしゃべれるだけではコミュニケーションは成り立たない
だから聖書のバベルの塔の話は、世界の諸民族の言語がわかれたという「横の分断」の話だが、外国語なら通訳を挟めば済むことであって何でもない。言語が異なるということそれ自体が本質レベルで大問題になったことなどない。あれは古伝承の意味がわからなくなった後世の聖書作者の改変なのである。バベルの塔の話はちょうど神話と歴史の間に置かれていることに注目すべきだ。元の話は「上は神々との、下は動物との」意思疎通ができなくなったという「縦の分断」の話なのである。大祓の祝詞では天孫降臨の時に「言問ひし磐根樹根立(いはね・きねたち)、草の片葉(かきは)をも言止めて」(しゃべっていた岩石や植物の言葉を禁じた)とあるのは、岩石や植物と動物たちとの間の会話を禁じたのであって動物がしゃべるのを禁じたのではない。この時はまだ人間がいないのだから。ただ、自由にしゃべったからってただちにコミュニケーションが可能になるわけではもちろんない。「神々は目に見えない。人間のような肉体はない。」でも書いたように、お互いにしゃべっていても、相手がしゃべっていること自体を認識すらできない情況がありうる。万物は主体的な自己意識をもつといっても、惑星と黴菌が会話できるのか? 数万年生きてる存在と数日の寿命しかない生き物では意識のあり方も思考内容も世界認識の形も違う。人間同士でも知能指数が20違えば話しが噛み合わない。神々(下層の神々)と人間の間、人間と動物の間、(あるいは人類発生以前なら)神々と動物の間、といった一段階しかちがわないケースではなく、二段階も三段階も離れている場合は、禁じるも許すもなく、どのみち言葉は通じない。だから岩石や植物とのコミュニケーションは今では神々や動物の声を聞くことよりさらに珍しい事件なのである。民話や地方の言い伝え等でたまにしゃべる岩の話なんかがあるが、あんなのは大抵の場合、岩にとりついた狐や狸の霊のしわざで本当に岩がしゃべってるんじゃない。まぁ岩がしゃべってもいいんだけどさ、岩がしゃべる時には岩同士がぶつかったりこすれたりして音をだすのであって気道を使ったような言葉をヒソヒソしゃべるのではない。木や草がしゃべるのも風の力を借りて実際にガサガサ音を立てるのであって人間の言葉をいきなりしゃべるのではない。岩や木には声帯ないでしょ。だから解読するには通訳がいるわけだよ。

・少名比古那神と御諸の山の神

平成28年5月25日(水)初稿
少名比古那神、御諸山の神、大年神の子孫
少名比古那神
『播磨風土記』では大国主は巨人であったように書かれている。対する少名比古那神(すくなひこなのかみ)は一寸法師の元祖。
で、このコンビは、兄弟となって一緒に国作りをし、日本書紀ではさらに病気治しの法を定めた「医療の神」でもあって、一般庶民に広く崇められているとある。
医薬の神ということは、古代では同時に「酒の神」でもあったことになる。酒の神といえば大神神社の大物主神(大国主の和魂)、そして少名比古那神は神功記で「この神酒はわが神酒ならず…」と歌われているのも皆さまご存知の通り。
これは後世の「恵比寿・大黒」のことだろう。むろん「恵比寿・大黒」というようになったのは神仏習合の結果であって、特に恵比寿のほうは複雑な成立過程があって簡単ではなく、蛭子説・事代主説・少名比古那説・山幸彦説があるが、このうち蛭子説・事代主説は室町時代以降にでてきた新しい解釈で古代の考えではない。また山幸彦説は、エビス神と三郎殿が混同される前の三郎殿のことで、エビスのことではない。が、恵比寿神のことは他の記事でも書くから今回はこれ以上ふれないが、七福神と7柱も並べるのではなく、大黒と並べて二神セットで祀る時の恵比寿とは古くは少名比古那のことである。これは蛭子説や事代主説がたかだか数百年前の、はるか後世の創作説であるのに対して、ひじょうに古くにまで遡る実際の古代信仰だった。むろん今のような像ができたのは平安末期以降で、古くは大・小の榊か幣束を並べた素朴なものだったろう。

世界の神話からみた少名比古名神
1)アーリア神話からみた少名比古名神と牛馬の話
インド神話とイラン神話の共通の祖型であるアーリア神話では、牛と馬はともに豊穣・生産を司る第三機能に関係し、第三機能神であるアシュヴィン双神は別名ナーサティアともいうが、このアシュヴィンとナーサティアという二つの名はもともと二人の神のそれぞれの名だったのが、二人の総称に転化したものである。アシュヴィンとは「馬を御する者」の意だが、古くはこの二神それぞれ牛と馬の守護神だったとされる(ネットや書物ではアシュヴィン兄弟神ともされるが、この二神は親がちがうので兄弟ではない。見た目がそっくりで双子のような神という意味で「双神」と称される)。第一機能神(祭祀)には魔術的神と法律的神とがあり、第二機能神(軍事)には紳士的神と暴力的神がいるように、第三機能神には牛に関係する神と馬に関係する神がいる。この最後の牛の神・馬の神というのがアーリア神話でいうアシュヴィン双神で、牛の守護神ナーサティアはスムカ(人名)の子で、親切で、便宜をはかり、人々を援助する神で、著名な神話学者吉田敦彦の説によると大国主神に相当するという。これに対し、馬の守護神ダスラは天上の神の子で、賢明なる知恵の神であるがこの神自身がナーサティアへの贈り物でもある。この神は吉田敦彦の説によると少名比古那神に相当する。兄弟神の類型は日本神話とアーリア神話だけではなく、北欧神話のニョルズとフレイにもみられるという。もっとも、大国主神と少名比古那神は見た目がそっくりではありえないので、その一点はあてはまらない。日本の神々と牛馬の関係を考えるに、日本では第三機能を管掌する国津神の始祖須佐之男命は、比較神話学でいうとギリシアの馬の守護神でもあるポセイドンに相当し、後世牛頭天王と習合している上『日本書紀』では牛馬はともに保食神(うけもちのかみ)が月夜見尊に殺された時に同時に誕生したことになっている。この月夜見尊はむろん『古事記』によって須佐之男命に置き換えられる。中国の牛首人身の神である神農(炎帝・燧人)は、須佐之男と大国主神をあわせたような存在である。神話では少名毘古那神は蛾の皮を衣服にしていたというのだが、蛾からは蚕、その衣服からは繭から採った絹が直ちに連想される。オシラサマの伝説でも馬と蚕は繋がっている。滋賀県の横山神社の祭神は大山祇命・少彦名命・泉龍大神で、宮崎県の霞神社の祭神は大己貴命・少彦名命・保食命だが、両社はともに神仏分離以前には馬頭観音を本地仏としており、また東京都では珍しい駒形神社が昭島市にあるがその祭神は大己貴命・少彦名命。以上のことから整理すると、須佐之男命が牛馬の祖で、大国主神が牛の守り神で少名毘古那神が馬の守り神、という原形が推定できる。
2)シュメール神話からみた医薬神としての少名比古那神
星座の双子座には、ギリシア神話のカストルとポルックスという双子の話が伝わっていて、双子座の主要な二つの星の名にもなっている。カストルとポルックスは二卵性双生児だがそれぞれ一卵性双生児の妹をもっており、だから結局は四つ子ということになる。日本では双子座は「二つ星」と呼ばれ、フェニキアでも双子に見立てられる。バビロニアには、死せるエンキドゥと彼を探しに冥界へ下りていった英雄ギルガメッシュの神話があり、これがギリシア神話の双子の原型だろう。日本では大国主神と少名毘古那神が神様コンビの典型。記紀神話では、神産巣日神(かみむすひのかみ)の命により、大国主神と少名毘古那神は「兄弟」となって国作りに励む(つまり実際には兄弟ではない)。現在一つの星座になっている双子座は、バビロニアではマシュタブバ・ガルガル(大きな双子、現在の双子座、カストールとポルックス)とマシュタブバ・トゥルトゥル(小さい双子、ポルックスの左下に寄り添うラムダ星とゼータ星)に分かれ、四人とも武器をもった男として表されている。これは双子が二組で四つ子だというギリシア神話の元ネタであろう。双子に大小あるのは、大国主神が『播磨風土記』等に巨人だったらしき描写がでてくることと、少名毘古那神がコビトの神(一寸法師)だったことを思い起こさせる。またシュメール語のマシュは双子兄弟とは限らず「仲間・連れ」という意味もあるから「ギルガメッシュ叙事詩」に沿っていえばこれを「双子」というのは誤訳で、本来は「仲間」か「連れ」、意訳しても「義兄弟」か「親友」ぐらいまでが許容範囲だろう。そうすると日本神話の大国主神と少名毘古那神の関係にもよりよく合致する。つまりマシュタブバ・ガルガルは大きな双子ではなく「大男の連れ」、マシュタブバ・トゥルトゥルは小さな双子ではなく「小男の連れ」が適訳だ。ギリシア神話やバビロニア神話(「ギルガメッシュ叙事詩」)の筋立てからいうと、ポルックス=ギルガメッシュが「生」を、カストル=エンキドゥが「死」を表している。大国主神と少名毘古那神が二神セットの場合には前者が「生」を後者が「死」を象徴するが、大国主神自身も根国(ねのくに)に往って復ってきている(つまり一度死んで生き返っている)し、少名毘古那神は海上からやってきて常世国(とこよのくに)に去っている(異界から来て異界に帰る、異界へ去るのは死の暗喩)。大きい双子と小さい双子というのは、大男(ポルックス=ギルガメッシュ)と小男(カストル=エンキドゥ)の親友同士で、双子というのはそれぞれ二つの星がそれぞれの生と死を表していたのではないか(ややこしいかも知れないが大国主神と少名毘古那神の神話は、あくまでもギルガメッシュ叙事詩(そのものではなくその)の元になったシュメール神話と同源なのであって、大国主神と少名毘古那神が直接に星座の双子座と関係するものではない)。双子座は十二星座の三番目だが十二支でみると三番目は寅・虎である。そしてこの虎が医薬とも関係してるのはご存知だろうか。便秘薬の毒掃丸で有名な会社、山崎帝國堂のマークは虎をマークにしている。これは「猛虎一聲掃萬毒」(猛虎一声にして万毒を掃く)という言葉によるという。また『日本書紀』皇極四年四月条には鞍作得志(くらつくりのとくし)が虎から万病を治す針を授かる話がある。それと南方熊楠の『十二支考』にはインドのマラバールでは虎の肩の骨や皮が胃の薬で、ベトナムではその骨を身につけると衰弱者も復活し精神も強くなるとか、『本草綱目』に虎の皮が卒中に効くとか、インドでは虎の皮が痘瘡の薬だとかの話が出てくる。薬といえば原初の薬は聖水=酒だったので、虎と酒も関係してくる。現代でも酔っ払うことを「虎になる」といい、大酒飲みを「大トラ」、酔っぱらいがぶちこまれる場所は「トラ箱」という。医薬との関係は動物の虎からはわかりにくい。これは「寅」の字からきている。この字は通説では真ん中に矢があって両手で矢を伸ばしている象形ともいうが、竹内健の説ではそうではなくて左右は両手ではなく肋骨で、矢は上を向いており、この矢は風、息を表わしている。薬酒を飲んで高揚し、体内を矢(風の象徴)が駆け上がり、はふーと大きな呼吸が出る様を表している。弱った人が薬酒の力で復活するのが「寅」の意味である。また十干の三番目は「丙」だが、丙の甲骨文字は「▽」の酒器が左右に二つ並んだ象形で、「ヘイ」という音は「並」に通じる。その酒器の中身を飲んで復活する様子が「寅」の字ということになる。大国主神と少名比古那神のコンビには病気治しの術の開祖という神話が『日本書紀』にあり、古くから「医薬神」として祭られていた例が多い(中世では薬師如来と習合)。
(※上記の1)と2)は『星座と干支』(星天講)より。詳細はリンク先のサイトまで)

御諸の山の神とは「大国主のドッペルゲンガー」ではない
『古事記』には名前が出てこないが、三輪山の神だから大物主神(おほものぬしのかみ)であるが、古事記には名が明示されていない。『日本書紀』では、三輪氏の祖であるとか、神武天皇の皇后の親であることが書かれているから、やはり大物主神であることは明白だが、なのに古事記と同じくその名が明示されていない。これはなぜかというと、大物主神というのは大国主神が「国譲りをした後」の名前だからだ。この段階ではまだ国譲りはしていないのだから、大物主という名は使えないということだろう。これは記紀がともに大国主を一人しかいないと誤認したから論理的にそう考えたまでのことにすぎない。
で、書紀はその神が「吾は汝が幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)なり」と自称したとしていて、これだとあたかも大国主が自分自身の霊魂と対面・対話しているがごとくであり、現代人はドッペルゲンガー現象みたいのをイメージしてしまうんだが、そしてこの前提であれこれ議論している人もずいぶんいるんだが、本当にこの解釈でいいのか。
よく考えてみると、前回(「八俣の大蛇」&「大国主の系譜」の解釈)にかいたように、大国主は6世代いるのだから、当代を大国主としてその先代はすべて大物主なのである。以前にあげた表を再掲すればこうなる↓

初代・大国主大穴牟遅=八島士奴美神(やしましぬみのかみ)
  后・木花知流比賣(大山津見神の娘)
第2代・大国主大穴牟遅=布波能母遲久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)
  后・日河比賣(淤迦美神の娘)
第3代・大国主大穴牟遅=深淵之水夜禮花神(ふかぶちのみづやれはなのかみ)
  后・天之都度閇知泥神
第4代・大国主大穴牟遅=淤美豆奴神(おみづぬのかみ)
  后・布帝耳神(布怒豆怒神の娘)
第5代・大国主大穴牟遅=天之冬衣神(あまのふゆぎぬのかみ)
  后・刺國若比賣(刺國大神の娘)
第6代・大国主大穴牟遅=別名不詳
  后・沼名河比賣(俾都久辰為命の娘)

このシーンでは大国主がどうやって国を治めていけばいいのかと愁い悩んでいるので、最盛期をすぎて衰退期に入った時期であり、前回までの議論を踏まえていえば、だからこの時の大国主は5代目か6代目なのである。5代目とすると、すでに当人とは別にその先代、つまり大物主が4柱もいることになる。つまりここで出現した御諸の山の神とは、単に大国主の先祖ってことであって、ドッペルゲンガーなどではない。
では書紀のいう「幸魂・奇魂」とはなんのことであろうか?

「幸魂」の訓よみはサキミタマか、サチミタマか?
ところでその話にいく前に、幸魂の読み方に関する問題点が昔からある。
幸魂は「日本書紀」に訓がサキミタマと指定されていることから多くは「さきみたま」と読むのが普通だが、『和名抄』や『名義抄』などにはサチミタマの訓が出ていて両説とも古くからのものと思われ、現在の神道でも、合気道を含むいくつかの流派では文字通り「さちみたま」と読んでいる。サキとは、現代語の幸福の意味に近く、「盛る・栄える」の同類語で、「さきく〜(副詞)」「幸い(さいわい)」「幸わう(さきわう)」などの語源。サキが様態性を表わすのに対し、サチは名辞的。サチとは、漁猟・狩猟での獲物。転じて、そのための道具(弓矢、釣り針など)。さらに獲物が多いこと、幸福。と意味が広がった。後に名詞が続いて熟語になる場合は「サツ〜」。しからばサツミタマとならないとおかしいがそういう用例はなく、奈良時代語だけでは説明つかない。このこともサチミタマ説とサキミタマ説のどちらかを誤りだとは断定しきれぬ所以である。サチの原義は神霊。サチの「チ」は、カミ・ミコト・タマ・ヒ・ミ・モノなどの類語で神霊的存在の一種。獲物をもたらす神霊、もしくは獲物そのものを神霊と見たもの。小刀・刃物・鋤などを意味する「サヒ」と関係する(『ヒ』と『チ』を参照)。遠く語源を溯ればサキもサチも同根で、「盛らしむる・栄えしむる神霊」が「さち」なのであろう。(続く)

・「三宝荒神」は仏教の尊格ではない

H30年8月28日(火)改稿 平成28年4月27日(水)初稿
沼河比売、須勢理毘売、鳥鳴海神の系譜
御穂須須美命は建御名方神のことではない
古事記では大国主の系譜のところに建御名方神が出てこないので、これを不審に思う筋もあろうが、その件については別の頁で考えたのでここではふれない。だが通説では建御名方神の母が沼河比賣だということまでは合意されていて異論がないようだ。なぜそれがわかるのかというと、『出雲風土記』には父が大穴持命(大国主神)で母が奴奈宜波比賣命(ぬなかはひめのみこと)として御穂須須美命(みほすすみのみこと)が生まれたとあり、『先代旧事本紀』には大己貴神(大国主)と高志沼河姫(こしのぬなかはひめ)との間に建御名方神(たけみなかたのかみ)が生まれたとある。だから世の中の通常の解釈では、御穂須須美命は建御名方神の別名で、両者は同一の神ということになっているわけ。
だが、私はそうは思わない。御穂須須美命は『出雲風土記』、建御名方神は『先代旧辞本紀』によるもので典拠がバラバラであり、同一神だと証明できないので兄弟なのかも知れないだろう。出典は不明だが検索すると「三穂須須美」と書いてる例もかなりひっかかる。「御」(み)の字は甲類のミで「三」(み)も甲類だから「三穂須須美」でもまったく問題ない。これは3柱の神の併称だろう。大国主の3人の息子といえば、建御名方神を除けば、阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、鳥鳴海神(かやなるみのかみ)である(『出雲風土記』には加夜奈留美命とあるからこの「鳥」の字はカヤと読むことがわかる)。この3柱は『出雲国造神賀詞』(いづものくにのみやつこのかみよごと)によると阿遅鉏高日子根神が大和の葛城、鳥鳴海神は大和の飛鳥、事代主神は大和の宇奈提(うなで)というようにみな大和に鎮まって皇室を守護する神々でもあり、3柱セットになっている。というと、この3柱は母親がバラバラじゃないのか、という反論もあるだろう。その通り。大国主が6代も続いているのだから、どの大国主の子かはわからない。というと、このうち阿遅鉏高日子根神と事代主は国譲りの神話に出てくるんだから最後の大国主の息子だろう、という反論もあるだろう。そう、それが三穂須須美なのである。大国主大穴牟遅が代々の襲名なら、息子たちの名も代々の襲名ということもありうる。そうすると、その名は役職や地位のようなものになってくる。だから「三穂須須美」というのは村方三役とか三家老とか三大臣とか自民党三役みたいな三つまとめていう言い方なのである。『古事記』が系譜記事で「多紀理毘賣命(たぎりひめのみこと)の生んだ子が阿遲鉏高日子根神で、神屋楯比賣命(かむやたてひめのみこと)が生んだ子は事代主神で、鳥耳神(とりみみのかみ)が生んだ子が鳥鳴海神」だといってるのは、最初の方の大国主から生まれた初代の神々であって、国譲り神話のところで出てくる阿遲鉏高日子根神と事代主神はぜんぜん別の、沼河比賣から生まれたずっと後の世代の神なのである。

大国主の嫡流は諏訪?
阿遲鉏高日子根神を出雲朝第7代として、大国主の嫡流のようにいう説もあるが、それよりは事代主神の系統を大国主の嫡流のようにとらえる見方が多いように見受けられる。実際、崇神天皇の時に意富多多泥古命(おほたたねこのみこと)が出て三輪君(みわのきみ)氏ができてからは中央氏族だから事代主系が嫡流にみえなくはない(古事記は意富多多泥古命を大物主神の子としているが、この件については日本書紀が事代主神の子としているのが正しい)。しかし上記の御穂須須美からすると阿遲鉏高日子根神も事代主神も代々大国主=当主を補佐する役名で、「当主」の世継ぎではないことがわかる。そうすると、もし国譲りがなかったとしたら(あるいは一世代遅れたとしたら)第7代大国主は建御名方神だったのではないだろうか?

三宝荒神
ところで、台所の神様で「三宝荒神」(さんぽうこうじん)というのがある。三宝は仏教がもっとも貴ぶべしとする「仏・法・僧」というが、格別に台所の神には何の関係もない。三宝に万能のご利益があるのなら、いくさの神は三宝八幡、学問の神は三宝天神、安産の神は三宝水天宮、商売の神は三宝稲荷となぜいわない? この三宝とは中世の文献では「三方荒神」とか「三保荒神」等と書かれた例があるから、ただの当て字であって「仏法僧」のことではない。三宝荒神は日本の土着信仰で、仏教はもともとは関係なかったのである。「荒」の字は「あれる・あらい」の他に「すさむ・すさみ」の訓もある。ミホススミの「ススミ」を「荒(すさ)み」の意にとって当て字したのが三宝荒神(みほすすみのかみ)なのであろう。これがなぜ台所の神なのかというと、出雲の神々(=国津神の系統)というのは神話学でいうと第三機能神に分類され、生産や豊穣を司る神々だからである。それらの神々の始祖は須佐之男命、総帥は大国主神、そして実務にあたる三大幹部が三穂須須美(三宝荒神)というわけなのだろう。
IMG_0140.jpgH30・8・28(火)撮影
荒神様には三宝荒神の他に地荒神(ぢこうじん)というのもあり、これはまた三宝荒神とは別の話になる。こっちは例のアラハバキとも関係あって面白い話がいろいろあるが今回は関係ない話なのでふれない。

大国主の后たちは宗像三女神?
ところで大国主には多くの妃がいる。その中の一人は宗像三女神の姉神、多紀理比賣(たきりひめ)である。ところで記紀で多紀理比賣から生まれた二柱の兄妹神の母を『ウエツフミ』ではタキリヒメではなくスセリヒメだとした上でスセリヒメの別名をタギタマヒメとしている。この別名は多紀理比賣の「理」の字を宝玉の意にとって「タマ」と訓読したもので、要するに多紀理比賣と須勢理毘賣との同一神説を出しているわけだ。そういえば大国主の系譜伝承に須勢理毘賣が登場しない。子がなくても后の名は一応あげてから「子(みこ)ましまさず」と注釈的に付記するのが通例なのに正妻が登場しないのは不審だが、すでに多紀理比賣の名で出ているのだとすればすんなり解ける。また大国主の妃には系統不明の女神、神屋楯比賣(かむやたてひめ)もいるが、『先代旧事本紀』では宗像三女神の末妹、高津姫としている。記で宗像三女神の末妹を多岐都比賣(たきつひめ)と書いているのがこれだろう。この旧事本紀の説によって神屋楯比賣は多岐都比賣の別名であろうとは宣長も推測するところだ。そうすると三女神の残りの一人、市寸島比賣(いちきしまひめ)も、大国主神の妃になっているのではないか、多くの妃神たちのいずれかがその別名なのではないか、と当然想像される。候補としては、稲羽の八上比賣(やがみひめ)、高志の沼河比賣、鳥耳神の3神があがるが、八上比賣以外は父神の名が判明しているから、宗像三女神(須佐之男命の娘)ではありえない。では八上比賣が市寸島比賣の別名なのだろうか? 三穂須須美の流れからいうと鳥耳神が市寸島比賣の別名と思いたいところだが…。ところがちょうどうまいことに、古事記の系譜記事には八上比賣の母子のことがスポッと脱け落ちているから、「八上比賣神に娶ひて生みませる子、木俣神またの名は御井神。また」という文がどこかにあったはずなのだ。その場所が、「…また八島牟遅能神の女」と「鳥耳神に娶ひて…」の間なのではないか推定される。そこに脱文を挿入すると、鳥耳神の父神と思われていた八島牟遅能神(やしまむぢのかみ)が、実は父神不詳と思われていた八上比賣の父神だったことになり、あらたに鳥耳神の父神が不詳となる。

・𧏛貝(キサガイ)は「赤貝」ではない

H28年5月15日(日)改稿 平成28年3月23日(水)初稿
八十神の迫害、根の堅州国
キサガイ(?)とウムガイ(蛤)
八十神によって焼き殺された大国主を、𧏛貝比賣(きさがひひめ)・蛤貝比賣(うむがひひめ)のコンビが生き返らせたとある。で、この𧏛貝(きさがひ)・蛤貝(うむがひ)というのは、今でいう赤貝(あかがい)と蛤(はまぐり)のことだというのが定説。このうち蛤はまぁいいとして、キサガイは本当に赤貝のことなのか? 赤貝ってのは寿司ネタによくあるやつで、現代人もよく知ってる貝だが、本当に昔はこれをキサガイといったのだろうか? 実は赤貝のことをキサガイと言っていたという確実な証拠は存在しない。赤貝説は本居宣長が言い出したことだが、宣長がなぜそういう説を立てたかというと、『和名抄』を根拠にしていたのである。『和名抄』には、「蚶」の字のもともとの意味(漢字本来の意味=中国での意味)は今の赤貝のことだという話と、「蚶」の字の訓はキサだという話を並記しているだけなのだが、この二つは別件である。宣長はこれを短絡・混同して、𧏛の字は同じくキサの訓をもつ「蚶」の誤写だとした上で赤貝のことだとした。
赤貝はこんにち寿司ネタでお馴染みだが、この通説は誤りである。植物名や虫魚の名は、漢字が意味する本来のものと和名(訓読み)がさすものとがズレてしまっている例が甚だ多い。「蚶=キサ」が今の赤貝だというのは『和名抄』が引用する『唐韻』の蚶の字の説明に出てくる貝の特徴(貝殻に縦横に筋目模様があるという)を根拠としているので、蚶の字とキサの訓とのつながりが誤っていた場合には、要するに今の赤貝のことを昔の中国人は「蚶」(かん)と呼んでいたということでしかなく、日本のキサガイの説明とは無関係となる。キサは刻むと同語源で赤貝に特徴的な縦筋の刻み目に由来するというが、今の赤貝のイメージを前提にした後付けにすぎない。後世のニュアンスで刻むというとキャベツの千切りみたいにやけに細かく切り刻む印象があるが、それが間違いの元である。キサは階(きざ)、段(きだ)の古語に通じ諸段階や階層性が原義で、生物学で巻き貝の渦巻きの重なりのことを「螺層」(らそう)というように、キサガイは何重にか巻き上がった巻き貝のことに他ならない。実際に昔の日本人には親しみ深かった細螺(きさご)という巻き貝が日本全土の海域に分布する。これは後世に庶民にもっとも馴染みのある特定の貝の名になったもので、もともとは巻き貝一般をキサガイと言ったものと思う。キサガイ・ウムガイが「細螺・蛤」の意味になったのは最も代表的な貝の名に定着してしまっただけで、もともとは巻貝・二枚貝の一般名詞だろう。

・どぶろく祭

H26.12.7改稿 H26.11.28 FRI 初稿
こないだの22日(土)23日(祭)24日(休)の連休は新嘗祭(≒勤労感謝の日)で連休だったわけですが、今日、11月28日(金)は日本橋の小網神社の新嘗祭ということで毎年恒例の「どぶろく祭」やってます
http://www.koamijinja.or.jp/topics.html
今年取れた新穀で作ったどぶろくを参拝者に振舞います(午前9時~午後6時まで)。また今日は国指定無形民俗文化財の里神楽舞の奉納が正午過ぎからやってます。
酒解神
酒の神として有名なのはなんといっても「松尾様」と崇められる松尾大社だが、なぜ酒の神ということになったのかは判然とせぬ。この神社は秦氏と関係が深いので、一説には「秦酒公」(はたのさけのきみ)と関係あろうともいうが、この人物の伝承には酒にまつわる話はまったくない。またこの人名の酒はお酒のことじゃなくサケという音を表わすただの当て字なんじゃないかとも思われる。桂川を挟んで松尾大社からすぐのところにある梅宮神社も酒の神で「酒解神」(さかとけのかみ)を祭る。大山祇神が娘の木花咲耶姫の婚姻の時に酒を造ったという神話があるので、中世には「この酒解神とは大山祇神のことだ」とする説が起こった。その説が妥当かどうかはわからないが、松尾大社のご祭神も大山咋神で山の神だから、何か関係がりそうにも思えるが、具体的なことが不明で困惑する。山は関係ないのではないか。松尾大社と梅宮神社はこんなすぐ近くになってどちらも酒の神で有名なのに、酒神の由来起源の説明がお互いにぜんぜん共通していないのは不思議だ。思うに、古い時代には梅宮神社は松尾大社の境内摂社で、それがゆえに松尾大社は酒の神として信仰されていたのではないか。その梅宮神社が移転して境外摂社となっても松尾大社での酒神の信仰は続き、その後ついに独立してぜんぜん関係ない神社になってしまったため、なぜ松尾大社が酒の神なのか由来が不明になってしまったものだろう。
桂川にそって下ると、今の大山崎町に離宮八幡宮と酒解神社があり、両社とも梅宮神社と同じ「酒解神」を祀っている。今の離宮八幡宮があった場所にかつては酒解神社があり、今の酒解神社の場所はさらにその前の時代にあった(と推定された?)場所に再建したものらしい。同じ酒解神を祀っている梅宮神社との関係は不明だとされるが、創建年代から普通に考えれば、この大山崎町から分祀勧請したのが梅宮神社だろう。そして元々の酒解神社は「玉手」から来た神だという。玉手というのは御所市内に玉手駅がある。昔の葛城は今の葛城市ではなく御所市のほうが中心で、「鴨」のつく神社が多い。いうまでもなく味耜高根彦神(あぢすきたかひこねのかみ)を祭る「高鴨神社」が総本宮というか葛城の中心である。そして『古事記』ではこの神を迦毛太御神(かものおほみかみ)とまで称している。
梅宮神社のご祭神は「酒解神(さかとけのかみ)・酒解子神(さかとけこのかみ)・大若子神(おほわくごのかみ)・小若子神(こわくごのかみ)」の4柱で、俗にこれを大山祇神・木花咲耶姫命・瓊々杵尊・彦火火出見尊だというのだがむろんこれは中世に起こったこじつけ説で取るに足らない。
酒解(さかとけ)からして何のことかわからぬが、この言葉から霹靂(かむとけ。雷鳴雷光のこと)という言葉を思い出す。松尾大社は「鳴鏑をもつ神」で丹塗矢に化身し川にいた秦氏の娘を妊ませたというが、鳴鏑も丹塗矢も雷鳴雷光の象徴で、これは『山城国風土記』に出てくる火雷神が化けた丹塗矢を持ち帰った玉依比賣が賀茂別雷命(かものわけいかづちのみこと)を生んだ話とも、もちろん同系の類話。この火雷神は乙訓神社に祭られているがこの神社はちょうど松尾大社と大崎山町の中間にあたる。この話からすると酒解神は大山咋神や火雷神にあたり、若子神は別雷命や「秦氏の娘の生んだ子」のことだろう。この話は太古から伝わったという意味での神話ではない。『古事記』に出てくる大物主神と勢夜陀多良比賣との間に比賣多多良伊須氣餘理比賣が生まれた話の構成を借りた創作で、記紀の神話と中世の縁起譚の類との中間段階のものである。従って、この話の類型は三輪の大神神社にルーツがあるとみてよいと思う。上述のh

この「酒解神」についてはいくつも問題があり、わたし自身の考えもあるにはあるが、まだ十分に煮詰まってないので未来の宿題としておく。

佐牙彌豆袁神・佐牙彌豆賣神
『延喜式神名帳』に「造酒司坐酒殿神二座、酒彌豆男神・酒彌豆女神」とあって由緒正しい神であることがわかる。『新撰姓氏録』には「大鷦鷯天皇の御代、韓国より参ゐ来つる人、兄曽々保利、弟曽々保利二人。天皇「何の才有りや」と勅し、皆「造酒の才有り」と。御酒を造らしむ。ここに麻呂(まろ)に酒看都子(さかみつこ)と号を賜ひ、山鹿比咩(やまかひめ)に酒看都女(さかみつめ)と号を賜ふ。因りて酒看都(さかみつ)をもって氏と為す」とあり、これからするとどうやら記紀にでてくる須々許理(すすこり)のことだとわかる。兄弟はアニ・オトウトではなくエ・トで、性別関係なく同姓同士で齢上と齢下のことなので、ここは兄妹(セ・イモ)の間違いではないかと思うが、姓氏録の文章はかなり切り詰めてるだけでなく断簡して欠落が疑われる部分が多いので、もしかして弟曽々保利と山鹿比咩は別人かもしれない。
(この神社と須々許理についてはいろいろ論ずべき問題が多いが今日は時間ないので後日に加筆、ただし少名比古那神が関係あることは前もって記す)

少彦名神
大神神社

(※未完、まだ半分もいってない。このままでは数々の謎解きが放置されてしまうw 後日に続きをやれればと思ってます)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

最新記事
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

新語拾遺
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム