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・天孫降臨から神武天皇まで「179万2470余年」?

H30年1月17日(水)初稿
今日は平和について。といっても漠然と「平和」というんじゃなくて特に日向三代と関係づけての話だが、これについては「古事記と「平和思想」・後編」で詳しく書くとして今回はふれない。で、今回は日本書紀の中にある日向三代の年代がたった3代で合計「179万2470余年」間だという話についてひとくさり議論しよう。
(※多忙につき後日に執筆予定)

・「猿田」の読みはサルタでない

H29年10月18日(水)初稿
「ー宣長の生涯ー 吉田悦之」と表題のあるプリント、これはたぶん『心力をつくして―本居宣長の生涯―』からの抜粋と思われる。三重県松坂市の「本居宣長記念館」から出てる小冊子。
猿田毘古の猿の字の読みはサルではない
猿女君(さるめのきみ)の名の由来が、猿田毘古神(さるたひこのかみ)という名から取られたと書かれているが、これはただのこじつけでぜんぜん事実とは違っている。これまで何度もいってきたように、歌舞音曲で神に奉仕する巫女を「サルメ」という、そのサルとは歌舞をする意味の「戯(さ)る」という動詞からきており、猿女という表記は当て字にすぎない。一方、猿田毘古神の「猿田」は古くはサルタでは無かったと思われる。猿の字はもとは「狭」だった(旧字体は「狹」だが「狭」の字も異体字として使われた)のを誤写したとも考えられるし、あるいは猿と書いても「猿渡」(さわたり)、「猿島」(さしま)、「猿投」(さなげ)と読む例があるように、この猿もサと読むのだとも考えられる。猿渡・猿島・猿投はいずれも地名で、元はちゃんとサルと読んでいたのが後でサに訛った可能性はあるし、奈良時代まで遡った場合、サだったのかサルだったのかは難しい。地名解釈論や地名語源論からはサのほうが有理だが、サに猿の字を当てるには「猿と書いてサと読む」という教養がないと無理だ。そのような教養が上流社会から流れてきたと考えるしかあるまい。その教養(?)を考えるに、伏見稲荷の祭神5柱のうちの「佐田彦神」は室町時代の『二十二社註式』では「猿田彦神」となっていることからこの猿田はもともとサタ(佐田)と読んでいた可能性もある上、『出雲風土記』にでてくる神話で有名な佐太神社の祭神「佐太御子大神」は通説では猿田毘古神のことである。とならば猿田もサルタではなく正しくはサダまたはサタと読むのだという有職故実まがいの知識が流通していたのではないだろうか。そもそも「狭」(or「狹」)の字だったのを猿に誤写したのは、奈良時代以降である可能性が高いと思う。そのような誤字が発生したのは猿女君(さるめのきみ)という言葉に引っ張られたものだろうが、語部(かたりべ)の文化がまだ根強かった段階では常に朗読されていたから、猿の字で書かれても読み方はサだという知識はなくならなかったはずだ。「猿女の君」という名が猿田毘古からとってつけたという由来譚は古伝承でもなんでもなくて、語部が衰滅していた奈良時代にできた話だろう。

ナマコの口は裂けてるのか?
ナマコといえば佐野量子…。いや、なんでもない(絶対に検索するなよw)。ナマコの口を画像検索してみると肛門みてぇだな。これを「裂けてる」と表現するのが妥当なのかどうかよくわからんね。これも何か「ものの喩え」だろう。嶋之速贄(しまのはやにへ)とは志摩国から皇室への生鮮海産物の速達での献上のことだが、猿女氏もそのご相伴に預かる習わしがあったことは文献上は証明されず、疑わしいとされている。志摩国は伊勢国の一部だったこともあり、広義の伊勢に含まれる。つまり阿邪訶と重なるか少なくとも近い。古くは伊勢志摩のあたりは猿女氏の本拠で、ナマコに限らず、ここらの生鮮品は猿女氏から皇室への献上品だったのだろう。猿女氏は中央における語部(かたりべ)の主管者である。ところで語部が単なる昔話をする人でなく情報伝達に携わる人々であることはこのブログでつとに強調するところだが、物資運送に携わる海部(あまべ)等よりも手ぶらで行ける語部のほうがスピードで勝るので、生鮮品の運送は通常とは別ルートとして、速達便と思われていた語部に任されていたのかもしれない。だからご相伴に預かるも糞も、もともと皇室と同じものを食べていたわけ。それを「皇室から特別に賜るならわしがあったのだ」と言い張るのは、猿女氏が落ちぶれてから作られた説話かもしれない。この神話は本来は、猿田毘古神と天宇受賣命のコンビつか夫婦が海に入り、海の生き物たちを平定して天孫に従わせたということが本題であって、ナマコがどうのって話はどうもいい付け足しだ。
あと、サクという動詞は「裂く」の意味もあるが、心に思ってることを口にだすことを古語で「ホサク」といい、祝い事を述べる言葉をいう時には祝の字をあてて「祝く(ほさく)」、他人の不幸を願う言葉を発する時は呪の字を使って「呪く(ほさく)」と書く。これが縮まって「言祝ぐ(寿ぐ)」等という時の「ホグ」という動詞、あるいは野卑語化して現代語の「ほざく」にもなっている。ホサクのサクは「開く(さく)」(≒咲く)と同源だろう。だから「口をさく」というのは「しゃべれない相手に、しゃべれるようにしてやる」というニュアンスがある。普通の魚たち、原文でいうと「鰭廣物鰭狹物」(はたのひろもの・はたのさもの)とは比較的簡単にコミュニケーションできたが、ナマコみたいな下等動物とは若干コミュニケーションが難しかったという程度の話だったのかもしれない。現代人でも、犬や猫とコミュニケーションできると豪語する人はいくらでもいるが、カブトムシと会話できると真面目に自称する人はそうそういないだろうw ナマコというのも現代語で、原語ではただ「コ」と読まれている。これは蛸(たこ)の語源も「手のあるコ」からきており、蚕も「殻(かひ)をつくるコ」で、下等動物はおおむね「コ」と呼ばれていた。あくまで海の下等動物を全般的にさしていたのが古伝承だろう。従って、本来はナマコの話ではなくて、海の下等動物一般について語っていたのである。
古事記では「海鼠」と書いて意味的にはナマコに限定してるけど、この表記は稗田氏(=猿女氏)の解釈を採用した奈良時代人(具体的には太安万侶)のしわざであって神話の原形ではない。奈良時代には余計なこじつけが付いて「猿女氏が優遇される由来譚」として再解釈されて、「口がきけるようにする」意味の「口をさく」という古伝承が、「口を裂いた」に変えられた。ナマコの口は奇妙な形をしているが「裂けている」という表現は奈良時代人にとっても釈然としなかったのではないかと思う。ただ猿女氏(=稗田氏)を顕彰する伝承なので、稗田阿礼はボツにしかねたのだろう。

・高千穂と出雲の巨大建築だけがなぜ共通なのか

H29年9月20日(水)初稿
高千穂と出雲の巨大神殿だけがなぜ共通なのか
「底つ岩根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて云々」という表現がある。意味は神殿や宮殿の巨大な様をあらわした言葉で、「底つ岩根に宮柱ふとしり」とは地底の岩盤(底つ岩根)に届くような太くて長い柱を使うということ、「高天原に氷木たかしり」とは天空に千木を高々とあげているということ。つまり摩天楼、古代の高層建築のこと。巨木信仰とは関係ない(氷木、千木については後述)。古事記に3回でてくる。3回のうち2回は大国主の住居のことで、1回目は、大国主が根の国から脱出した時に須佐之男命がよびかけたもので、このような大宮殿に住んで地上を治めよ、といった言葉。2回目は国譲りの時に、天孫に地上の統治を譲るかわりに自分(=大国主)の住処を天皇の皇居のように作ってくれ、と言った言葉。普通は、この時の建物はのちの出雲大社の雛形と考えられている(ちなみに記紀では出雲大社という言い方は絶対にせず「出雲神宮」と書かれる)。1回目は「大国主の住む宮殿」、2回目は「大国主を祀った神殿」で1回目と2回目は要するに同じものをさしている。3回目は、天孫降臨の段で高千穂にあまくだった邇邇藝命が、このような大宮殿(=皇居)を建てて住んだという話。つまり「高千穂宮」(たかちほのみや)の描写と考えられていると思う。さらに日本書紀ではもう1か所、神武天皇の皇居「橿原宮」(かしはらのみや)について同様に書かれている。

(大国主、根の国から脱出の段)
於宇迦能山之山本、於底津石根宮柱布刀斯理、於高天原冰椽多迦斯理而居、是奴也。

(国譲りの段)
唯僕住所者、如天神御子之天津日繼所知之登陀流天之御巢而、於底津石根、宮柱布斗斯理、於高天原氷木多迦斯理而、治賜者、僕者於百不足八十坰手隱而侍。

(天孫降臨の段)
「朝日之直刺國、夕日之日照國也。故此地甚吉地」詔而、於底津石根、宮柱布斗斯理、於高天原、氷椽多迦斯理而坐也。

こうしてみると、まず地上を治めた大国主、次いで大国主から国を譲り受けた日向3代、それを継承した神武天皇と、代々の「地上の支配者」の住居であることがわかる。ひらべったくいえば王様の宮殿の立派な様をいってるのだとすれば、まぁ理解はできる。ただ一つ問題は、大国主が地上の支配から退いた後の待遇として同様の神殿を要求していることだが、これはどういうわけだろうか。引退後の大国主の住居と、邇邇芸命の皇居が同様の描写されてるからといってこれが同一地というわけではない。「天孫降臨の地は九州じゃなくて出雲だった」なんてバカなことは言い出さないようになw このブログを継続してみてる人なら説明はわけもないだろう。大国主は確かに地上の支配からは手を引いたので、それだけみれば引退かと誤解してしまうが、そうではなく、日本書紀に書かれているように「あの世」の統治、「目に見えない世界」(幽界、冥界)の支配者に昇格したわけだ。その両者の住処が同様に描写されている。大国主を祀る神殿と現実世界を治める天皇の皇居とが同じに作られている、このことの意味は、我々が生きるこの世界が「現実世界」と「幽冥世界」の二つの世界からできていて両者が同等に重要なのだということだ。二つの建築物はこのことを人々に明示しているのである。我々が「こっちの世界」を治める天皇陛下を崇めるのと同様に、「あっちの世界」を治める大国主を拝まなければならない。そういう教えがあらわされている。

ミヤ(宮)とヤシロ(社)
よくいわれることだが、神社というのは仏教寺院の影響でできたので、もともとは建物はなかった等という。それは一般の鎮守様(土地ごとの守り神、産土神)では確かに恒常的な建築物ではなかったのだが、全部のあらゆる神社がそうだったと決めつけるのは間違いだ。このブログでも以前、別のところで書いたので以下に引用しておく。

http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-27.html">2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
(前略)…神宮と神社の違いを格式の上下と考えるのは現代人の考えで、本来は物理的な違いをいった。ヤシロ(社)とは太古の磐座(いわくら)や、沖縄のウタキ(御嶽)のように、建物がなくて雨ざらしなもので、特別な祭礼の日だけ臨時の建物を作るからヤシロ(屋代)という。これに対してミヤ(宮)とは現在の神社のように恒久的な神殿を建設したもので、古代ではある特定の事情による特殊な部類だった。伊勢・石上・香取・鹿島が有名だが、出雲大社と高千穂神社も正しくは「神宮」。出雲と高千穂は神話によって恒久的建築が義務付けられているためで、石上・香取・鹿島は武器庫を兼ねているから、伊勢はもともと皇居内の神器奉安所が外部に独立したため、恒久的な建造物となっている。つまり出雲と高千穂を除く4神宮は、御神体が樹木や岩石ではなく、雨ざらしにできない神器・神宝の類だから「神宮」なのである。同様な事情がある場合には無名なものも神宮または宮と称されてに違いない。あとは中央の伴造、地方各地の国造が祀っていたと思われる神社も本来は今でいう官庁や県庁といった建物の中に神を祀ったものなので、造の字はヤシロツコではなくミヤツコと読まれる…(後略)

http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html">出雲国造は天穂日命の子孫ではないhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html
(前略)…国造は、国造本紀によれば、ほほ半分が成務天皇の時に設置されたもので、それ以前とそれ以後に置かれたものが約4分の1づつ。これは景行天皇の時の倭建命の熊襲平定や蝦夷征伐の後を受けてのことだが、もし国造の分布が大和朝廷の勢力範囲だとすると、倭建命以前の朝廷は全国に飛び飛びに橋頭堡を確保していた以外、長年にわたって畿内に閉じ込められていたような形勢となり、崇神天皇の四道将軍派遣の例から考えても不自然不合理に思われる。国造は単なる地方豪族ではなく大和朝廷から任命された地方統治官であるが、あたかも律令制の「国司」以前に国造があったように、成務天皇の「国造制」以前にも類似の仕組みがあったとしなければならない。連(むらじ)の語源が邑主(むらぬし)でその邑(むら)や、県主の県(あがた)がいずれも律令制での郡のように、国よりは規模の小さいものと思われるが、県主が国造より古い起源を有するのは通説だし、邑主が元の意味を失って連(むらじ)に変化していることを考えればこれまた古い起源といわねばらなない。その上で、邑の支配者が邑主、県の支配者が県主なら、当然ながら国の支配者を「国主」といった時代が国造に先行してあったのではないかと思われる。
では国主が国造に置き換えられていったとして、国主と国造の違いは何か。
国史には国造伴造(くにみやつこ・とものみやつこ)とセットで表れる。国造のカバネは直(あたへ)、伴造のカバネは造(みやつこ)が多いことから、もともと造といえば伴造のことだったのではないかと思われる。この事からすると、国造は伴造に遅れてできた制度らしい。後に国造の制度ができてから、国造と区別するため、それまでの造をあらためて伴造というようになったのだと推測する。造の語源説は「宮ツ子」説と「御奴」説がある。wikipediaには「御家ツ子」説が載ってるがこれは「宮ツ子」と「御奴」に分岐する前の段階まで遡らせたもので意味がない。宮とは「神の宮」で、伴造はそれぞれ担当する専門分野の守護神を祀るんだろう。山部は山の神、海部は海の神、鍛冶部は鍛冶の神、服部は機織りの神…というように。ツコは助詞のツに子(氏子の子)だがミヤツクリ(造)ミヤツカへ(仕)のニュアンスもあるんだろう。この時代は自然の岩や樹木を神籬(ひもろぎ)として今の神社建築のようなものはなかった(祭儀の時に臨時の建物を仮設するのでこれをヤシロ(屋代)という)が、伴造が祀る神は官衙(官庁の建物)の中だから必然的にヤシロではなくミヤ(恒久的神殿建築)となる理屈だ。
国造は倭建命の事業の後を受けたものとは書いたが倭建命の活動は単に軍事的征服併合をしたのでも、土豪山賊の退治をしたのでもなく、古事記をみると頻繁に出てくるが、本質は「荒ぶる神」をまつろわすことにあった。神だから、目に見えない霊を鎮圧祓攘し、祭りなおすことが本題で、古代人にとっては、豪族や反抗勢力を物理的に抑圧または撃破するのは神祇祭祀の派生的な現象と考えられたのではないかと思う。然る後に新たな支配地に置かれた国造とは当然、土地の神を祭ることを任務としたものであろう。ゆえに国造は国土を治めるにあたってその土地の神、つまり国魂神(くにたまがみ)を祀る。国魂神ってのは後世の「諸国一之宮」とはやや趣旨が違うが似たようなもので「広域の産土神(うぶすながみ)」だと思えばよい。国造とそれ以前の国主との違いとは、後世でいうところの「諸国一之宮」的なその地方の土地神を祀る神社の宮司に、その地方の統治を委ねたのが国造、ということになると思う。これら土地神の祭祀も、国衙(地方官庁の建物)の中に祭られたからクニノ「ヤシロ」ツコでなくクニノ「ミヤ」ツコとなるわけ…(後略)

・日本の建国(国の始まり)は2つある?

H29・2・15初稿
(※後日かきます)

・元始祭

H29年1月3日初稿
(※現在多忙につき後日に執筆予定)

・「王権」は人類の存在に先立つ

平成28年8月24日(水)初稿
貝に手を挟まれて溺れる?
猿田毘古神が比良夫貝(ひらぶがひ)に手をはさまれて溺れるという妙な話が出てくる。神話にまじめにつっこむのもアレだが、貝に手をはさまれたぐらいで普通は溺れないので、巨大な貝だとみてシャコガイの類と想定する説もある。ただし通説では宣長以来ツキヒガイ(月日貝)というのが有力説。しかし『古事記伝』みたら宣長も伊勢の漁民がそういってたとか、あまりたいした根拠はあげてない。ツキヒガイはせいぜいホタテぐらいの大きさなのでこれで溺れるのはむり。じゃ今でいうどの貝なのか? 「平らになる」という意味の動詞ヒラブ(四段活用)があるが、このヒラブと同じ言葉なのかどうかは不明。奈良時代には比良夫・比羅夫(ひらぶ)という男性名がやたらあるのでよほど良い意味なのか、人名のヒラブとヒラブ貝のヒラブは同語なのかたまたま発音同じだけで別語なのかもわからない。ところで『ウエツフミ』は猿田毘古神の別名をオオツチミオヤノミコトといっている。この神名は古事記には大土神(おほつちのかみ)またの名は土之御祖神(つちのみおやのかみ)として出てくる。『神社啓蒙』では伏見稲荷の上社の神は「土祖神」(つちのおやのかみ)としており、上述の『二十二社註式』では「(伏見稲荷の)上社・猿田彦命、三千世界の地主神とは是れなり」とある。伊勢内宮には「大土御祖神社」あり、外宮には「土宮」というのがあって祭られ、土地や地面のこと一切をつかさどる神とされている。これらから逆推すれば、猿田毘古神は地面・土地そのものの神格化でもあり、地面・土地そのものがこの神の身体なのである。だから猿田毘古神は地表すべてを歩き知り尽くしている道祖神ともされるわけだ。そしてその地表とは、永遠に地表なのではなく海になったり陸になったりを繰り返している。陸地が沈没して海底となる(底度久御魂)。それがまた地殻変動によって上昇(都夫多都御魂)、再び陸地となる(阿和佐久御魂)。これは地質年代的な長期の間におこる地殻変動で、特定の時期の話ではない。
だから「阿邪訶にましし時」とあるのを宣長は猿田毘古神が天孫降臨の道案内をした後に、阿邪訶(今の三重県松阪市のあたり)に住んでたと解釈しているが、そうじゃない。天孫降臨の後はつねにそば去らず皇室を守護する神であって、「阿邪訶にましし時」とは天孫降臨より以前の大国主の時代の話である。大土神は須佐之男命の孫の世代だから、邇邇藝朝の初めに突然出現したのではなく、大国主の時代を通じて居たことは居たに違いない。古い地名は長い間に範囲が拡大したり縮小したり移動したりするので、阿邪訶を一概に今の松阪市ときめつける必要はない。阿邪訶は「朝明」の意味で東が海に開けたところの意味だろう。いまの伊勢国(とピッタリ重なるわけではもちろんないが)を漠然とアザカの国ともいったのだろう。大国主の時代については今でいう新生代のことだとは以前にこのブログで書いた(「八俣の大蛇」&「大国主の系譜」の解釈)。その記事を読めば(あるいは「新生代」をググれば)、新生代の中に「陸地が海に沈みあるいは海から陸地が浮上する」現象が多々あったことがわかる。

ちなみに『ウエツフミ』では、「阿邪訶にましし時」ではなくて、海幸山幸の物語の中で、竜宮城にオオツチミオヤノミコト(=猿田毘古神)がヤマサチヒコを迎えに行くために海底に沈んでいく時の話になっている。これも誤りではない。これは後日「海幸山幸の物語」について扱う回でいうことにするが、海幸山幸の物語も大洪水・大津波の話なのだ。いずれにしろ地質年代的な長期の間には何度も起こる地殻変動なのだから特定の時期の話ではないが、それでも比較的めだつ(地球史的な規模で目立つ、あるいは地球史的にはそうでもないが人間からみた視点で目立つ)地殻変動とそうでもない地殻変動があるわけで、個人的には『ウエツフミ』のように海幸山幸神話に関係づけたほうがよいようにも思う(しつこいようだが、だからといって古事記が間違いという意味ではない)。

大地そのものが巨大な貝に飲み込まれて沈む。こんな巨大な貝といえば、タヒチに伝わる創世神話にでてくる原初神タンガロアが住んでいた巨大な二枚貝が思い出される。この貝の上の殻は天空で、下の殻は大地で、世界はこの貝の中にある。ヒラブとは何か「広がり」とかの意味ではないか、あるいは「孕み貝」の訛りか。タヒチの創世神話に出てくる貝は海外の開闢神話にでてくる「宇宙卵」と同じ概念で、卵でも貝でも要するに同じもので原初の渾沌(カオス)そのもの。猿田毘古神を咥えたヒラブ貝は、できあがった後(開闢の後)の世界だから、渾沌ではないが、引き続き秩序世界(コスモス)なり日常世界(ノモス)なりを喩えたもので、神話学でいう宇宙樹・世界樹とならぶ「世界貝」とも言い得る。ただ、この章は、俺が忘れてるだけかも知れないが、海外の神話にもあまり類例がないように思う。書紀にも他の神道文献にもなく古事記の独自記事だが、本来は単に、猿田毘古神と天宇受賣命のコンビが海中に入ったという話だったのを、猿田毘古神にかんする注釈が本文に紛れ込んだ部分ではないかと思う。

海の平定
では、なんで猿田毘古神と天宇受賣命のコンビが海に入らねばならなかったのか? 前からの続きで考えると、建御雷神らの活躍で地上は平定されたが、海はまだだった。天照大神から邇邇藝命に与えられたこの地球は陸地と海からできているのである。だから海の平定は猿田毘古神と天宇受賣命のコンビに委ねられた。ただし「海の征服」というと、海上だけの人間世界の征服のようにきこえるが、そうじゃなくてここは「海中の生き物」を対象にしている。海の中には天孫に歯向かうような愚か者はいなかったので、武神を派遣する必要がなく、ただ「海陸ふくめた全世界の道程・道路」に詳しい猿田毘古神・天宇受賣神の夫婦神に任せるのが最も適任で効率よかったという理屈。この時代まだ現代人が想像するような意味での人間(ホモ・サピエンス)はいないので、邇邇藝命は人間を統治していたわけではなく、すべての生き物を統治していた。というと、「動物や植物を『統治』する…?」と不可解に思うかもしれない。…のだが…

邇々藝命の時代の「国民」とは「人間」のことではない
しかし、少なくとも表面的には簡単なことで、農民だろうが狩猟民だろうが環境を自分なりに「治めている」(管理している)、他の生き物を治めていることは誰も否定しないだろう。そしてその人々を天皇が統治している。天皇(に限らず本来「王」(皇帝ふくめて君主一般の意味だぞ)というもの)は、人間だけを「我が民」とするのではなく鳥・獣・虫・草木までも民のうちなのである、つまり環境問題を治めるのが本来の仕事で、現代人の考える狭い意味での政治はその中に含まれるごく一部なのである。ただ時代的に現代はその一部が肥大しているだけであって、この状況が未来も永劫続く不変の状況だなんぞと思ってはならない。ただし、ただの環境問題なら現代人にも理解はできる。そうではなく、アニミズム的な観点からは、鳥・獣・虫・草木は合理的に利用すべき環境とか、守るべき生態系とかではなくて、鳥・獣・虫・草木がまさにそれであるだけで治めらるべき「民」そのものなのである。だから「悪しき民」は伐採や駆除(つまり「成敗・征伐」)の対象となり、「良き民」は育成され顕彰されるという理屈になる。現代人は人間でないものに知能や感情を認めないから、たとえば納豆菌に勲章やるとか真面目には考えないし、駆除する害獣に対して判決理由を長々と読み上げたりしない。でも『風土記』とかみてるとそれに近い例ではないかと思われる伝承をちょいちょい目にする。そういうのが当たり前だった時代が何十万年もあったのであり、現代人の常識なんてここ200年ぐらいのうわっつらの、ぺらいものにすぎない。だから現代でも、鯨を人間以上にみなすような連中がいてもなんの不思議もない。実際、自分の飼ってる犬や猫のほうが見ず知らずの他人よりも各自の人生における意味は明確でかつ重いだろう。遠い世界の名も顔もしらぬ人間がいくら死のうが苦しもうが、なかなか自分の責任に関係づけることは難しい。つか関係ないって理屈が正しいかもしれないのだ、よくわからないが。こういう現代人の心の中に巣食うアニミズムの残滓を否定するのではなく延ばして行けば、やがて太田龍センセの「参議院を廃止して動物院を作れっ!」というテーゼに続いていくかいかないかよくわからないが、そこまでいけば民主主義のインチキが目前に暴かれてしまうから、動物院はなかなか作らせてもらえないだろうなw

王権の存在は人類の発祥に先立つ
まぁ太田龍の話はどうでもいいとして、ここで重要なのは、現代人は「王制も含めて政治制度はすべて人間が作ったもの」と思ってるわけだが、神話においてはそうではない。邇々藝命は、地上を統治する者として君臨してきたのであって、これは王制・王権の確立をいっているのだが、天孫降臨の段階では人類はまだ発祥していない。「天照大神も人間、伊邪那岐命も人間、天之御中主神も人間」と思い込んで古代史妄想してるタイプにはどうせ何言っても通じないんだが、もう一度いうと、つまり王権・王制というものは「人類に先立つ」のである。こういうとまた現代人の発想からは受け入れ難く聞こえるだろうが、例えば、ちょっとした人間集団にもリーダー的な人物(というか立場?)は必ず生じる。これだけみると人間の文化のように思うが、猿でも狼でも集団生活する哺乳類はみな「群れのボス」をもつ。してみれば、ちょっとした集団にリーダーが自然発生するのは人類の文化ではなくそれに先立つ「自然界のなにか」であるにすぎない。さらにいえばアリやハチの世界には女王蟻、女王蜂というのがいる。階級制が消滅したことも人類史上いまだない(現在も階級はある、建前上ないというのは現実にあるかないかとは別問題)。
それとここで「王」という文字を使っていることに対し、天皇だ皇帝だっていうアホなツッコミは無しな。頭の悪いウヨが有り難がる理屈で「王なんてのは県知事クラス、皇帝だと独立した文明だ」っていう与太話があるわけだが、それこそ支那の理屈を真に受けないと成り立たない理屈やんけw 俺はウヨはウヨでも頭のいいウヨなんで、別の理屈をいうぞ。秦の始皇帝以前には「天子」の称号は「王」だったのである。秦始皇帝みたいな中二病患者が創作した「皇帝」なんていう珍妙な称号よりも、儒教の理想時代とされた周王朝で使われた「王」のほうが格上だって理屈がなぜわからんのか? 王は一音節で一文字の「古語」であり「雅語」であり土人の言霊だから、あれこれインテリの小賢(さかしら)で作った感満載の「新語」の皇帝よりも絶対的に(相対的でなく)格も高ければ威力もあるのは当たり前だろう。ここでいう威力とは、空間的には最大広義の全首長制に概念を広げつつ、時間的には「原初の君主制=原始首長」に発想や連想を及ぼす言葉の力をいう。皇帝だの天皇だのでは出来上がったシステムの話にしかならない。それで議論しても起源や本質には届かない。

・五伴緒(人類部族説)

H28年7月29日(金)改稿 H28年7月28日(木)投稿 平成28年7月27日(水)初稿
五伴緒神
邇々藝命(ににぎのみこと)の天孫降臨に従って地上にきた神々のうちの5柱の神を「五伴緒神」(いつとものをのかみ)といい、日本書紀では「五部神」と書く。この5柱の神は5つの部族の祖先でもある。ただし、実際の神話の原文には様々な齟齬や問題点が見られ、それら諸問題を如何に解明するかはいくつかの説がある。
またこの「5」は東西南北に中央を加えた数字で、5部族とは、世界の東西南北の全人類(もしくは列島内の東西南北の全日本人)を象徴的に表現するものである(本当はもっとややこしい理屈があるが今回は省略)。要するに、『天孫とともに高天原から天降ってきたのが日本人(この場合は天皇に所属する人の意)であり日本人は天孫民族である』という神話的な観念を表している。

記紀の伝承

1 天兒屋命    中臣連氏
2 布刀玉命    忌部首氏
3 天宇受賣命   猿女君氏
4 伊斯許理度賣命 鏡作連氏(=作鏡造氏)
5 玉祖命     玉作連氏(=玉祖連氏)

天孫に随行して天降ってきた神々はこれらの他にもあるのに、なぜこの特定の5神が選ばれているのか不審である。天兒屋命・布刀玉命は左右大臣の格であるのに、伊斯許理度賣命・玉祖命は忌部の伴造(部民の長)にすぎず、アンバランスな感が否めない。
これについては、本来は作鏡氏や玉祖氏は忌部氏の配下であったが、忌部氏は大化改新の波に乗れず大きく衰退した上、壬申の乱でいくらかの功を上げてなんとか消滅の危機をまぬがれたほどで、そのために作鏡氏や玉祖氏が忌部氏から自立する傾向を生んだ。作鏡氏が造(みやつこ)姓、玉祖氏が連(むらじ)姓であるのに忌部氏はそれよりはるかに格下の首(おびと)姓であったのはそのような歴史が反映している。ちなみに、天武九年に忌部氏は首から連に昇格し、やっと作鏡造を抜いて玉祖氏に並んだ。天武十二年(683年)に忌部氏と玉祖氏はともに宿禰姓に昇格、同年に作鏡氏は造から連に昇格。『古語拾遺』には推古朝の仏教隆盛期に忌部氏は衰退したようなことを匂わせているが、それなら忌部・中臣ともにその頃に首に降格されたものでそれ以前には忌部も中臣と同じ連だったのではないか。中臣は大化改新で連に復帰したが忌部はその機会を逃してしまった。あるいは別の案としては、カバネ制が確立した允恭朝・雄略朝の頃には、漢文派の葛城氏や平群氏が強く、語部派の中臣氏・忌部氏は冷遇されて首姓しかもらえなかったのではないかと推測する。史料から証明はできないが、中臣氏が連に昇格したのは大化改新からではないか。
で、本来なら配下であるべき作鏡氏や玉祖氏のほうが格上になって忌部氏の支配から自立してしまった。これはもと一つだった大伴氏と中臣氏が二氏に分離したのと同じく、氏族分断策の一環だったのかもしれない。作鏡氏(大和)として自立しなかった者は、忌部の支配下の「筑紫忌部」(金作部)に留まった。玉祖氏(周防)として自立しなかった者は忌部の支配下の「出雲忌部」(玉作部)に留まった。忌部には他に「讃岐忌部」(笠縫部)・「紀伊忌部」(楯縫部)・「阿波忌部」(木綿作部)の3部あるがこれらからは自立勢力は生まれていない。鏡や玉という「宝物」の製作に携わっていた部民が両氏族として独立したのは、蘇我氏や平群氏、葛城氏などに有力な政権氏族に重用されたということも考えられる。

物部の二部
天孫降臨に随行した神々には、大伴氏の祖・天之忍日命、久米氏の祖・天津久米命の二神もいる。しかしこの二神は五伴緒の中に数えられてはいない。大伴・久米の二氏は、祭祀氏族(または物品製造工芸氏族)の二忌部(作鏡部の作鏡氏と作玉部の玉祖氏)に対比して、軍事氏族として「二物部」(大伴部の大伴氏と久米部の久米氏)と総称できる。有名な物部連氏は後世に出てきた皇別氏族なのでここでは関係ない(物部氏が饒速日命の後裔というのは誤りで、いずれこの問題も取り上げる)。前者が太玉命の管轄下にあったことからすれば、この二物部は児屋根命の指揮下にあったのではないだろうか。傍証として『ウエツフミ』では神武天皇時代の大伴氏の祖の道臣命(みちのおみのみこと)をナカトミ・チノオムドノミコト(中臣道之臣人命)と呼んでいる。中臣氏と大伴氏はもともと同祖であり、軍事担当の家柄と祭祀担当の家柄に後世分裂したもの。

忌部の五部
五伴緒神は天岩戸神話に活躍した神々であることに注目する見解があるが、岩戸神話の記述からは「5」という数字は導かれない。鏡作造氏と玉作連氏(玉祖連氏)は、『日本書紀』(一書第二)や『古語拾遺』にあるように、「五忌部」(忌部五部)に該当するものであり、本来なら五忌部の中から三氏を差し置いてこの二氏だけ格別に選抜される謂われがない。『日本書紀』(一書第二)では他の忌部も天岩戸神話で活躍している。この二氏は上述のように後世、忌部首氏から自立したために忌部氏と対等の扱いになっているのだが、本来は忌部氏に率いられる下位の部族であるから、ここでは忌部氏に包括されるとして、除外するべきである。
というわけでこの二氏(玉祖・作鏡)を除外すると、五伴緒ではなくて三伴緒が正しいのか、もしくは誤って脱落した2神が他にいるのかが問題となる。通説では、この5部族の5はツングース系種族や遊牧民など、北方民族によくある部族連合の数であるという(例えば高句麗の五部制の如き)が、おそらく原典においては「…天宇受賣命、」と「五伴緒矣。」の間に脱落があって他の2神の名があったものと思われるのである。

「5」の由来
天孫降臨に従って地上にやってきた神々及びその子孫である氏族は多いにもかかわらず、なぜ特定の5部族だけ選ばれ、特記されるのかが問題である。
『新撰姓氏録』では氏族は皇別・神別・諸蕃に大分類され、その神別は天神・地祇・天孫に小分類されているが、ほとんどの氏族は実際には皇別か諸蕃であって、極めて少数の天神系氏族(中臣連氏と忌部首氏)と地祇系氏族(三輪君氏と尾張連氏)が例外的に存在するに過ぎない。そうすると、すべての氏族は結局のところ5系統しか存在しないことになる。五伴緒の「5」と関連づければ、この5氏でなければならない。尾張氏は通常は天孫系とされるが誤りで、正しくは地祇系である。三輪氏は崇神天皇の時代に表に登場したがその先祖は志木県主(磯城県主)である。磯城県主の地位は孝元天皇~開化天皇の頃までに物部氏の系統に入れ替わって、元の県主家は没落していたのを崇神朝になって見出された。従って、磯城県主にはまったく別の二つの系統の家柄がある。とはいえ、地祇系の氏族の祖神がここにでてきたのでは地祇ではなく天神系の氏族になってしまうので道理が通じなくなってしまうのではないかとも危惧されるが、「伴緒」は伴のリーダーであって、伴(とも)=部族そのものではないことに注意すべきである。

豊受媛神と尾張連
該当する神話の原文の前後をみると、相当の混乱があり、『古事記』の「この二柱の神は五十鈴宮(伊勢内宮)に祭る」の文で、この二柱がどの神なのか判然とせず諸説が入り乱れている。宣長は天照大神と思金神とするが生憎古い時代には思金神は内宮に祭られてない(宣長自身がいうように思兼神が伊勢神宮関係の書にでてくるのは後世のもの)。邇々藝命と思金神と解釈して「五十鈴宮『を』祭る」と読む説もあるが、そのすぐ後に登由宇気神が外宮にます神という文が続くので、ここは「五十鈴宮(伊勢内宮)『に』祭る」が自然。思金神と手力男神とする説は脈絡がなく難しい。そしてその直後に登由宇気神が出てきている文の流れが古来の注釈家たちから唐突であると不審がられている。察するに「この二柱云々」の前に一度登由宇気神と何らかの神が出ていて、その二柱が云々という文章があり、一旦切れてから「天照大神は伊勢内宮に、登由宇気神は伊勢外宮に」という意味の文章が続く形だったに相違ない。
登由宇気神=豊受媛神は、神話の第三機能(=豊穣と生産)を司る神であり、尾張氏の祖先である阿遅鉏高日子根神もまた大国主神の四柱の子の中では第三機能神に該当する。ここに両者になんらかの関係が認められる。おそらく葛城において尾張氏はその祖・阿遅鉏高日子根神のみならず豊受媛神をも自らの部族と職掌の指導神として祭っていたのではないか。

某神と三輪君
前段で説明したごとく、登由宇気神と並んで何らかの神が記されていたが、原文の脱落誤写により、その神は不明となっている。一案として、登由宇気神の前後に登場している神名として、石門別神と手力男神があり、この両神のうち一方を候補とみなすこともできるが、三輪氏との関連付けは難しい。三輪氏は大国主神の四柱の子の中の一神、事代主神の子孫である。事代主神は宮中八神の一神であるが、天孫に国譲りをして去った国津神の一族がなぜ宮中八神に祭られているのか不審がられ、古くから議論されてきた。宮中八神から抽象的な創造力を意味する五柱の産霊神を除き、残りの具体的な意味内容をもった三神は大宮乃賣神(おほみやのめのかみ)・御膳都神(みけつかみ)・辞代主神(ことしろぬしのかみ)である。大宮乃賣神は通説では天宇受賣命であり皇室の鎮魂儀礼の神である。御膳都神は通説では豊受媛神であり阿遅鉏高日子根神を介して尾張氏と繋がる。辞代主神はいうまでもなく事代主命と同一神である。『日本書紀』(一書第二)によると国譲りの交渉が決着した際に、大物主神と事代主神は国津神の代表として一度天高市(あめのたかいち。高天原の都)に昇り、天孫降臨の前に地上に戻っている。この時、地上に戻ったのは大物主神だけで事代主神は一時天上に留まり、天孫降臨の際に改めて天孫に従って地上に帰ってきたとすれば辻褄は合う。

皇室と猿女君
五伴緒の中で、天宇受賣命を伴緒とする猿女君氏について考えるに、猿女氏は実は天宇受賣命の子孫ではない。父系では開化天皇の後裔で皇別氏族、比賣陀君(ひめだのきみ)と同一氏族。なので本来はここにあるべきでないかのように一見思われる。また神話にあげられたリストのままでは5部族の中に皇室・皇族は含まれておらず、皇族を加えると6部族になってしまう。これも不審である。だが、この二つのことをよく考え合わせると、天宇受賣命は天孫降臨の一団の中での役割としては天孫に近侍し守護し奉る「保母」や「乳母」のような存在であり『古語拾遺』には「今の世に内侍の善言美詞をもて君臣の間を和らげ宸襟を悦懌ばしむる如し」と説明されるように、喩えていえば律令でいう「内侍司」であるから、5部族の中の一つが皇室であるのならば、同時に皇族管理担当=律令制下の「正親司(おほぎみのつかさ)」として五伴緒に列挙されているのである。5部族の一つを猿女君氏とするのは天宇受賣命に添えた後世の注による誤りで、正しくは天宇受賣命を伴緒とする伴(部族)に該当するのは何某氏でもなく皇族それ自体(中世風の言い方をすると「王氏」)であろう。
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浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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