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・鵜萱葺不合命に兄弟がいた?

令和元年8月16日(金)改稿 平成28年9月30日(金)投稿 平成28年9月28日(水)初稿
古事記の原形の復元
古事記<上巻>のラストは、神武天皇の兄弟が紹介されている。ここで上巻つまり神話篇は終わっている。だが、これは普通に考えるとおかしい。神武天皇の兄弟の紹介などは本来は中巻の冒頭、つまり神武天皇記の中で書かれるべきだろう。ではなぜ上巻の末尾に書かれているのかだが。
現状では記紀ともに鵜萱葺不合命は一人っ子のように読めるのだが、これは海外の神話と比較してみると、神話の後半が欠落したものと推定できる。ここには本当は神武天皇の兄弟ではなく、鵜萱葺不合命の兄弟が書かれていたのではないかと思われる。その兄弟の名が誤脱した写本をみて、後人が神武天皇の兄弟が書かれていたと誤解した上で復元したのが現在の文面だろう。すなわち『先代旧事本紀』によると火々出見尊は豊玉姫命を后として鸕鶿草葺不合尊を、ついで豊玉姫命の妹の玉依姫命との間に武位起命(たけくらおきのみこと)を儲けたとあり、これが正しければ鵜萱葺不合命には異母弟がいたことになる。古事記の原文では

是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨玉依毘賣命。生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。

とあるが、原形を想像すると

是天津日高日子穂穂手見命、娶豊玉毘賣命、生御子名、○○○(…中略…)○○○、娶其姨玉依毘賣命、生御子名、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、次建久良意伎命。

で、これが以下のように虫食い等で破損すると

是天津日高日子○×△□(中略)○×△□天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。次娶玉依毘賣命、生御子名、○×△□(以下断絶)

原形を忘れられた後でこれをみると鵜葺草葺不合命の兄弟でなく、鵜葺草葺不合命が玉依毘賣命を娶ったかのように読めてしまう。だからそのままこれを修正しようとすると「生御子名」の後ろに神武天皇とその兄弟の名を入れたくなってしまう。その結果こうなる。

是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨玉依毘賣命。生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。

武位起命(たけくらおきのみこと)
先代旧事本紀によると武位起命は倭国造(やまとのくにのみやつこ:この倭の字は今の奈良県をさす用法で奈良県の県知事みたいなもの)の祖先だというのだが、記紀では倭国造の初代の人物は神武天皇の時に任ぜられた椎根津彦(しひねづひこ、記:棹根津日子さをねつひこ)で、神武天皇が東征に向かう途中、海上に船で現われて水先案内人を買って出た人(その後、大和での合戦にも手柄を立てた)だ。これは記紀だけでなく先代旧事本紀の他の場所でもそうなってる。だから後世の系図などでは武位起命は椎根津彦の父ともされているが、これは表面的な辻褄合わせだろう。なぜならそれだと神武天皇と椎根津彦は従兄弟同士になってしまうのに、記紀では神武天皇と椎根津彦は知らない者同士で東征の時に初めて出会ったことになっているからだ。
椎根津彦が祭られている神社は九州を中心に全国に多いがそのうちのたった二社だけ、大分県大分市の「椎根津彦神社」と福井県越前町の「佐々牟志神社」では一緒に武位起命も祀っている。
椎根津彦神社の場所は昔でいうと豊後国の海部郡(あまぐん)にあたり、ここは昔、白水郎(あま:海に潜る漁民)がいたから海部(あま)といったという。字づらからいうと古くは「あまべ」だったのだろう。神武天皇に航路のガイドとして仕えた椎根津彦は一般的な通説として海路に詳しい海洋民だったと考えられており、ここに椎根津彦が祀られているのはまぁわかる。
福井県の佐々牟志神社の伝承では、武位起命は越前にやってきて土着しあのあたり一帯(北陸?越前?)を治めたという(この話はネット情報なんだが、ソース元のサイトのアドレスがわからなくなってしまった)。その伝承が本当ならそこに武位起命が祀られているのはわかる。佐々牟志神社の場所は、昔でいうと越前国の丹生郡にあたる。椎根津彦神社のある豊後の海部郡は佐加郷・穂門郷・佐井郷・丹生郷の4郷で構成されていた。丹生という地名は水銀の鉱山のあるところで全国にある地名だから偶然かもしれないが、越前の丹生郷は古くは極めて広大な郡だったが豊後の丹生郷は狭小だから、もし両者につながりがあるとしたら越前の方から豊後に移住してきた人たちの跡であって、その逆ではあるまい。

計7人兄姉弟だった?
ちなみに『ウエツフミ』では、ホホデミノミコト(火々出見命)はトヨタマヒメノミコトと結婚する前に、タケツヌミノミコト(武津沼海命)の娘ミヲツヒメノミコト(ミホツヒメともあり、漢字なら三穂津媛命か)を妃としてタケサヒコノミコト、ウケチホホヒメノミコト(鵜受毛区千穂大姫)の1子1女。オキツナギサヒコノミコトの娘サナギヒメノミコト(アメノサナギヒメともあり)を妃としてエミヅホアカシノミコトの1子を儲けており、そのためトヨタマヒメが嫉妬で怒り海に帰ろうとするという筋立てになっている。その後にトヨタマヒメノミコト(豊玉姫命)を皇后としてウガヤフキアヱズノミコト(鵜萱葺不合命)、アマツナヲリノミコト(天津直入命)、アマツウスキネノミコト(天津臼杵命)、アマツタケクラオキノミコト(天津武位起命)の4子を産んだので計6男1女になる。
タケツヌミノミコトは『ウエツフミ』では怪物退治の皇軍の武将の一人として何度かでてくる。また別の箇所ではエミヅホアカシノミコトにはエミヅクニカタヤツミミノミコトという息子(母不詳。父の妻についても情報なし)がいて203歳の時ヌチヂノタケル(毛野国の国守)になったという。またウガヤ朝の第四代の名はタマカミヒコ(玉噛彦)なのだが誤ってエミツホアカシとしている箇所がある(ヅでなくツになってるがこれは助詞のツで秋津をアキツ、アキヅの両方に読めるようにどっちでもいいんだろう)。これは誤りでなく別名の可能性もある。というわけは、エミヅホアカリノミコト(アカシでなくアカリ)の娘イススヒメがウガヤ朝の第四代の皇后になっているので舅の名を継承したのではないか、そうするとホアカシとホアカリも同義で同じ名なのか、それともアカリは単純にアカシを誤っただけか。
アマツウスキネノミコトとアマツタケクラオキノミコトの2人はウスキの「タケクラシマノミヤ」で生まれたといい、あるいは双子のように読めないこともない。ウスキは豊後国海部郡の臼杵(うすき:現在の大分県臼杵市が遺称地)か、または日向国臼杵郡(うすき:現在の宮崎県北部に該当)のどちらかだろう。タケクラシマノミヤは「たけくら島」の宮だろうがそれに類した名をもつ島は近隣にない。またなぜ唐突に「宮」(宮殿?)が出てくるのかも不明。同じところで生まれたのになぜ兄弟で大地名と小地名に名をわけているのかも不明。同じ場所なら、ウスキネノミコトもタケクラオキノミコトも同じ人物で別名ではないのか。アマツナヲリのミコトの「ナヲリ」が地名だとは明示されてないが明らかに豊後国直入郡(現在の大分県竹田市直入町が遺称地)の「直入」の地名起源譚だったのだろう。ホホデミのミコトとトヨタマヒメが仲直りして生まれた御子だからとナヲリと命名されたというがそれならアマツナヲリノミコトは鵜萱葺不合命の別名でなければおかしいのではないかとも思う。「ナヲリノミコト・ウスキネノミコト」は「鵜萱葺不合命・武位起命」のそれぞれ別名なのであろう。アマツタケクラオキノミコトが先代旧事本紀でいう「武位起命」に当たる。ウエツフミが「アマツ~」と付けてるのは皇后腹(母がトヨタマヒメ)という意味だという説もあるが、武位起命に関しては母は豊玉姫ではなく妹の玉依姫という先代旧事本紀の説も捨てがたいし、父系によらず母系で天津神の子とそれ以外にわけるのは釈然としない。まして豊玉姫は天津神の姫ではなく国津神(海神)の姫だからさらに辻褄が合わない。一案としては「アマツ」が冠してある3人の名は地名だから天津神の御子とその土地の交わりの意味で「アマツ+地名」という構成になっているのであって、皇后腹を表わしているわけではあるまい。武位起命については上述の通りだが、それ以外の兄弟たちの行跡などは不明。また鵜萱葺不合命の3人の弟の名はすべて地名からとっているが、それ以外の兄弟たちの名前の由来や意味も詳細不明。地図をみると「東の海に面した臼杵市」と「西の山側にある直入町」が東西対称にきれいにならんでいる。「ウスキのタケクラシマノミヤ」というからタケクラ島は臼杵の近辺のはずだが、もともとウスキ(臼杵)とタケクラシマノミヤ(武位島の宮)は別々の土地の可能性もある、なぜならウエツフミは豊後中心主義で朝廷や宮中の関係は豊後国内に設定しようとする傾向があるので要注意だからだ。タケクラシマノミヤが豊後臼杵かその近辺とは限らない。そこで、前述の越前の佐々牟志神社の伝承からすると「武位島の宮」は北陸における武位起命の政庁だったのではないか。坂井市・福井市・鯖江市・越前市をむすぶ盆地がまだ海だった頃を描くと、その内海と日本海に挟まれて福井県の西沿岸部の山地、いわゆる「丹生山地」は南北に伸びる巨大な半島だったことになる。丹生山地は、北は高須山、国見岳、金毘羅山から南は鬼ヶ岳、金華山、矢良巣山のあたりまでの山岳部で、九頭龍川以南の福井市の西部の山地と越前町、それに南越前町の一部を含むあたり。佐々牟志神社はもともとはその東南400mほど離れた三床山に祀られていたというから、この一帯が海だった頃には三床山を含む小山塊は島だったのではないか、それが「タケクラ島」か。もっとも神社そのものでも伝承内容でも、長い間に場所が移動することはあるので、地形だけでみると、この盆地には他にも、行司岳と三里山を含む南の山塊と、城山と大谷公園のある北の山塊があり、三床山の山塊より大きな島だったろうと思われる。これらもタケクラ島の候補になるか。あるいはもっとデッカイ話にするなら、タケクラシマという地名は丹生山地が半島だった時代よりさらにずっと以前の太古に、本州から切れて島だった頃の名残りではないか。その頃なら、国見岳か六所山の麓に「タケクラの宮」があったんだろう。

大洪水の直後をかたる海外の神話
福井県の盆地が海だった頃というのは神武天皇の頃もいわゆる「縄文海進」のせいでかなりの程度は海だったんじゃないかと思うが、面倒くさいので調べないw しかし、前回までの話の通り鵜萱葺不合命の話は7万3000年前の大洪水の直後というとてつもない大昔を想定してるんであって、神武天皇の頃などではない。武位起命の話は記紀にないし、鵜萱葺不合命の弟に位置づけられてるといっても、ある時代に適当にくっつけられたのかもしれない。武位起命の伝承に史実性があったとしても正確な時代までは推定のしようがなく、数万年前だったか数千年前だったか、神武天皇よりちょい前程度のわりかし最近の人なのか、ゼロから創作された架空の人物なのか、まったくわからない。
で、前回の大洪水神話の続きだが、世界の各地に伝わる神話では、大洪水で生き残った主人公、記紀でいえば山幸彦(山佐知毘古)にあたる人物の子孫から人類が再び増え広がったということになっている。それらの例をいくつか出して比較してみよう。

ノアの民族表
ユダヤ神話では、例の「ノアの洪水」の後、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテから人類が増え広がったということになっている。で、セムには息子が5人、ハムには4人、ヤペテには7人で、合計するとノアには16人の孫がいたことになる。ところが読めばわかるがこの16人の名は個人名というより民族名であり、この三人の子孫からでた諸民族の名が列挙されているのだ。この列挙された名の一覧は「民族表」とよばれる。で、キリスト教に権威があった時代はセムが黄色人種、ハムが黒人、ヤペテが白人の祖先だ等といわれて、いまだに「聖書原理主義」を信奉する人々の中には似たようなことをいってる人がいるようだが、ガチの聖書原理主義だと民族表の分析が細かいので逆にむしろ大雑把に3人種にあてはめたりしないものである。またヤペテがインド=ヨーロッパ語族の先祖で、セムがセム語族、ハムがハム語族の先祖と言語でわける発想もあったがこれも19世紀的な偏見で現在では相手にされてない。昔のセム=ハム語族が今ではアフロアジア語族となりその中の下位分類の一つとしてセム語派という用語が残ってるが非論理的なネーミングだ。民族表を実際の地図に配置した研究もあるのだが、おおよそヨーロッパとオリエントを合わせた範囲であり、その諸民族の分布みると、セムの子孫というのは今のサウジアラビア北部を中心とした諸民族で、ハムの子孫というのはエジプトやその周辺の諸民族、ヤペテの子孫というのは黒海の周辺とコーカサスの諸民族をさしている。メソポタミアのあたりはセムの子孫だがハムの孫ニムロデが覇者となってアッシリア、アッカド、バビロニアまで支配したという。アラビア南部はハムの子孫とセムの子孫に重出しており編集ミスっぽい。これは当時のユダヤ人が知る全世界で、その中で諸民族を地理的に大雑把に3分割したもののようだ。肌の色や言語でわけたのではない。これを地域区分とみるとヤペテはまぁわかるが、メソポタミアのあたりはハムなのかセムなのかやや不審。この地理分布を単なる地域とみず、諸民族の文化傾向としてみると、ハム系とセム系は都市文明の民と砂漠の牧畜民のようだが、どっちがどっちなのかはごちゃごちゃ混在して判別しがたい。ヤペテも解釈に困るが黒海を囲む民(海洋民?農耕民?)やコーカサスの山岳民(狩猟民?農耕民?)のようだから、セム・ハムとの対比から推定すれば、ヤペテはもと海洋民か農耕民か狩猟民のいずれかをさしたのが調子に乗って民族表に追加してるうちにもとの趣旨がボヤけてしまったのだろうか。実は、これらの不鮮明さは2種類の民族表をごっちゃに混ぜて編集したからである。聖書は系統の異なる4種類の書物の混ぜ合わせであることはよく知られていると思うが『創世記』第10章はJ資料(南王国系資料)と、P資料(祭司資料)の混成で、民族表もJ系とP系の2種類が混ざっている。より古いJ系の民族表ではハムの子孫についてやたら詳しく、ほとんどハムの話をするのが本題だったようだ。セムの子孫は1代1人の直線系図を細長く続けた後に(ノアを初代として数えた場合の)7代目になって急に13人の兄弟(13民族)を出している。ヤペテに至ってはセムやハムより長兄だというだけで子孫についてはまったく触れておらず、かなり偏った内容だ。これに対し、時代の新しいP系の民族表ではセム・ハム・ヤペテの子孫をなるべく均等に出すように手直したした様子がわかる。手直しの要点は3つ、セムにメソポタミア方面の民族を追加し、そのかわりセムの子孫であるはずのアラビアの民族をいくつかハムの子孫に変更している。またヤペテの子孫がJ資料では失伝して不明になっていたので補い加えた、この3点である。手直しだの補ったのといえば聞こえがいいが、両資料の成立年代は500年以上も離れておりP資料の史料的価値はかなり低い。要するにJ資料の記述に不満をもった後世の人間が改竄、創作したわけだろう。P資料ではハムの子クシを紅海をはさんでエチオピアと南アラビアに分布していた「クシュ人」と解釈して、アラビアの諸民族をクシの子として系図を作成した上、セムの子としてメソポタミアの諸民族を新たに加えている。そのためP資料だけみるとハムがアフリカ、セムがメソポタミアの先祖で、アラビアの遊牧民はハムの子孫であってセムの子孫でないようにみえる。しかしJ資料ではセムの子孫はほぼアラビアの遊牧民だけでありメソポタミアの先祖ではない。
ハムの子クシからメソポタミアの支配者ニムロデがでている。このクシというのはバビロン第3王朝を建てたカッシート(アッカド語でカッシュ)で、ニムロデはメソポタミアの「ニヌルタ」の訛り。ニヌルタはシュメール語「ニン・ウルタ」でニンが主人、ウルタが大地で直訳すれば「大地の主人」。狩猟と農耕と戦闘の神ニヌルタの神名(固有名詞)。アッシリアの王にはこの神の名を帯びた王が2人ほどいるので、バビロン第3王朝の王の中にもニヌルタ神の名を称した王がいたのかも知れないが、ここに出てくるニムロデ(=ニヌルタ)は神名ではなくて、「大地の主人」すなわち「国土の支配者」で「王」をさしている。この場合は「初代の王、建国の王」のことだろう。
つまりJ資料では、ハムの子孫はエジプトとメソポタミアの都市文明(及び両地をつなぐパレスチナ回廊=カナン)であり、セムの子孫は砂漠の牧畜民、というようにきれいに分かれるのだ。P資料は史料的価値に劣り信憑性がないのでスッパリ切り捨て、J資料が古伝承と認められる。
ただし3兄弟を肌の色の起源だとしたのは間違いとしても、3地域でわけたにしろ生業形態でわけたにしろ、トバ・カタストロフでの僅かな生き残りから今の全人類に広がったのなら、結局白人も黒人も同じ先祖から枝分かれしたのだという発想自体は間違いとはいえない。

ギリシアの4種族
ギリシア神話では、ノアにあたる人物はデューカリオンという名で、妻ピュラとの間にヘレン、アムピクテュオーン、オレステウスの3人の息子と、プロートゲネイア、メランティアという2人の娘をもった(他にも息子か娘がいたような気もするが忘れた)。ヘレンには三人の子がおり、長男アイオロスは父ヘレンから王位を継承しテッサリア(ギリシア北部)を得た。次男クスートスはぺロポネソス半島、 三男ドーロスは小アジア西沿岸部を領地に得た。次男のクスートスにはさらにアカイオスとイオーンという二人の息子がいたという。このうちヘレンという名はギリシアの本来の国名で、古代ギリシア人は自分らを「ヘレネス」(ヘレン族)といったことから、逆にギリシア人の最初の先祖として想定された人物。同様に、アイオロスは「アイオリス人」、ドーロスは「ドーリア人」、アカイオスは「アカイア人」、イオーンは「イオニア人」の祖先として民族名から逆に創作された人物である。ただしデューカリオンの子でなく孫の世代になってるが、子の世代もヘレン、アムピクテュオーン、オレステウスの3兄弟になってるので、これも同じ伝承の重複と思う。従ってヘレンというのは元はデューカリオンに捧げられた別名なのであろう。この4つの民族は千年もの間に時代を違えて次々と北方から南下してきて後にギリシア民族を形成した。要するに「すべてのギリシア人は大洪水の生き残りデューカリオンから枝分かれした同族だ」という主張なのである。アカイア人ってのはミケーネ文明を築いた民族で、ドーリア人はミケーネ文明を滅ぼした民族だから、実際にはこの4民族が同系の民族だったのかどうかよくわからない。別々のまったくの異民族同士だった可能性もある(イオニア人はアカイア人の中の一部ともいうがイオニア人の方が先にやってきたという説もありよくわからない)。だとしても、トバ・カタストロフでの僅かな生き残りから今の全人類に広がったのなら、結局もとを辿れば大抵の異民族はみな同じ先祖から枝分かれしたのだという発想自体は間違いとはいえない。

中国の五帝神話
中国人は早くから神話の神々の物語を荒唐無稽と考えたため、これを合理的に解釈しようとして、神々を歴史上の人物に置き換えて再解釈した。だから神々が古代の帝王とされており、これを三皇五帝という。五帝のうち2番めから5番目までは顓頊(せんぎょく)・嚳(こく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)というが、『山海経』に嚳(こく)の別名を「俊」としており、神話学的には、これは舜のことでもともと嚳と舜は同一神格だったと考えられている。そうすると2番めの顓頊(せんぎょく)と4番目の堯(ぎょう)も同一神格の重複だろう。これは同じ神話を別の部族が伝えたため内容に変化を生じて、統一帝国で伝承を統合した時に同一の神話だと気づかなかったためである。大洪水は黄河の氾濫というより現実味のある話に矮小化されているが、大洪水で生き残った人物にあたるのは「嚳(こく)=舜(しゅん)」で、舜が悪人の家族に井戸に投げ込まれた話があるが、実はその時に井戸の中の水底でナマズの姿をした水の神「禹」(う)と出会ってその力を借りて洪水を治めたという話だったと思われる。それが、儒教の教典や古代の歴史書では、禹は帝の命を受けて黄河の治水を担当した大臣という話に改変されているのだ。なので紛らわしいがそれは古代の人間の歴史ではなく神話なのである。
嚳の妃と子については2種の伝承があり、一つは「陳鋒氏の娘を娶って堯を生み、娵訾氏の娘を娶って摯(し)を生んだ」というもの、もう一つは「有邰氏の娘の姜原を元妃として「稷」をうみ(稷は「后稷」ともいい、『山海経』によると俊の子)、次妃であった簡狄(有娀氏の娘)が「契」をうんだ」ともいう。さすれば嚳には4人の妃がいたのだから最初からそう書けばいいのに古い伝説ではなぜかそういう言い方はなく、文脈によってどちらかの伝承だけが書かれる。古くは顓頊と堯、嚳と舜がそれぞれ同一神格だったのだから、前者のほうは嚳と堯を系譜上つなげるために改作されたもので、五帝を通史的に語る時に持ち出される話であり、後者のほうが古伝である。改作される前には「陳鋒氏の娘を娶って堯を生み、娵訾氏の娘を娶って摯を生んだ」のは嚳でなく黄帝=少昊だったはずで、陳鋒氏の娘とは「顓頊の母、蜀山氏の娘」のことだろう(陳は陝西省の地名、鋒は峰で陳鋒氏は西の山の意、蜀山氏とも同義。娵訾というのは燕のことだが氏をつけて擬人化した場合は文句ばかり言ってる人の意味もある。摯というのは少昊の名と同じだが猛禽類のことで名前なのではない。端的に鳥だといってるだけなのだが歴史上の人物に仮構したため「摯という名前の人」にされたもの。摯(親のほう)は少昊で、摯(子のほう)は「窮奇」のこと。この神話については長くなるので解説は後日に譲る)。舜は堯の娘の「俄皇と女英」の姉妹(この姉妹は河の神であり日本でいえば豊玉姫と玉依姫)を娶り、妹の女英は「商均」をうんだ。嚳と舜が同一人物なら、稷・契・商均は母違いの3兄弟となる。
中国では複数部族の神話が統合される際に、舜系の商均と嚳系の稷・契にわかれている。俄皇と女英の姉妹のうち女英から商均が生まれ、俄皇には子がいないことになってるが、おそらく稷・契は俄皇の子で、腹ちがいで分けてるのだろう。姜原・簡狄は後述するように母といっても実は稷・契の属性を神話的に表現するためのキャラなので必ずしも母でなくてもよく妻でもよかったろう。后稷は堯舜に仕えて「邰」に封ぜられたというが、邰は伝承のままでは母(姜原)の実家(有邰氏)である。もとは姜原は母ではなく妻だったのだろう。邰に封ぜられたから有邰氏の娘を娶ったという話の段取りのほうが自然だ。
后稷は周王朝の祖先だがまた農業の官でもある。契は殷王朝の祖先だが、母の名に「狄」の字があり有娀氏の「娀」の字は女偏に「戎」で、戎も狄も牧畜民族や狩猟民族をあらわす。契の字は刃物で印をつける意味だが、この場合は狩猟での獲物または家畜を解体する人を意味してるのかな。商均は「陳」や「胡」という中原の都市国家の祖先だが、都市国家は市場を起源とする。「商均」の名をみれば商業を表わしていることは瞭然だが、陳は商品を陳列する意があるからバザール(市場)をいってるのだろう。胡は後に異民族をさす文字になったが、もともとは肥満した人をさす言葉だったと思われ、それが地名になってるのだから金持ちの国という意味だろう。神話を復元すれば、この3兄弟は農耕民族・牧畜民族・商業民族の祖先という話だったのだろう。
また后稷は周王朝の祖、契は殷王朝の祖でもある。夏王朝が残るが夏とは「賈、価」と同音で、行商する人が「商」であるのに対し、「賈」は店舗を構えて販売する人を意味する。そうすると商均は広い意味では夏王朝の祖先ともいえるのではないか(通常は夏王朝を開いたのは初代の禹で第2代の「啓」は禹の子ということになっているが、一説では「啓」が本来の伝承では開祖(初代)であり禹とは切れてるともいうので、じゃ啓の祖先は誰なのかという問題が派生する。その場合、啓の祖先は商均ではないかと推定しておく)。とすると「稷・契・商均」の3兄弟説は「周・殷・夏の3王朝の同祖説」ということにもなる。単純に地域割りとみれば、周=黄河上流域、殷=黄河下流域、夏=黄河中流域で、「西方・東方・中原」の3地域ともできる。
ちなみに中国の西南部の少数民族の一つ、イ族(彝族)に伝わる大洪水神話では、ノアにあたる人物は「伍牛」という名で、彼の三人の息子のうち長男の子孫がチベット族、次男の子孫が漢族、三男の子孫がイ族の先祖になったという。またナシ族(納西族)の神話では洪水を生き延びた男はツォゼルグといい、彼と天女ツェフボバとの間に生まれた3人の息子がチベット族・ナシ族・ペー族(白族)の始祖となったという。これらもギリシア神話の場合と同じで、もともと関係のない別々の民族だが、近隣の異民族も元を辿れば大洪水の生き残りから枝分かれしたのだという「全人類同祖説」の一種である。

五帝・ギリシア・聖書の3神話の比較
この神話にでてくる人名は、生業をもじって人名に転用していたり(稷とか商均とか)、民族名を人名に転用していたり(アイオロスとかドーロスとか)、ほとんどが観念的に構想されたものばかりで実在性が乏しい。しかし逆にいうと、観念的な構造だけが軸としてしっかり存在してるともいえる。
まず系図の構造としては世界的に3兄弟から人類が枝分かれしたといってるが、そのうちの1人にさらに2人の息子がいたといっている。
アイオロスの娘アルネは海を支配する巨神ポセイドンとの間にアイオロス2世(祖父と同名なので仮に2世とよぶ)を生んだが、赤ん坊が神の子だという話を父が信じず、その子もろとも他の男に嫁に出されてしまったがその家から脱出、アイオロス2世は西方のエオリア諸島(シチリア島の北)に住んだという。后稷の母は巨人の足跡を踏んで稷を生んだが父親不明で生まれたのでその子を捨てようとした。それで弃と名づけた(弃は棄と同じで捨てる意)。長じて西方の邰(今の咸陽の一部)に封ぜられた。父なし子(=神の子)が捨てられ、西方の地で身を立てるという話が共通しており、アイオロスの伝説と后稷の伝説は同じ神話からきている。父なし子(太陽神の子)を生むのは神話では神を祭る巫女か大地母神である。2人のアイオロスはもと同一人物で死と復活の神話だったんだろう。稷は、儒教では歴史上の人間に書き換えられてるから農政大臣だったことになっているが、元はその死体から作物が誕生した(作物として復活した)という起源神話の豊穣神である。西という方角は死後の世界を暗示し、死後の世界の王として復活したとも読める。そうするとこれも世界各地にみられる「国譲り」神話を連想する。国を譲る側はデーヴァ神族で第3機能(豊穣)の神である。実際、甥のアカイオスは伯父のアイオロスが死んだ時にプティア(テッサリアの南部)の領主になったというが、祖父デューカリオンがプティア王だったというから結局アカイオスが始祖以来の王位を継承したことになる。アイオロスからアカイオスへの「国譲り」とも見られないこともない。これは長男なのになぜ西へ去ったのかを説明するために後付けされたで神話なのだろうか。アイオロスは海の民の祖先なのだろうが、中国では東が海であって西に海はないので、普通のただの民=農耕民(稷)に差し替えられている。ドーリア人はヘラクレスの子孫ともされていた。ヘラクレス神話は英国のベオウルフ伝説とともに石器時代に遡る狩猟民の文化の痕跡があるといわれ、名祖ドーロスが得たのは東方の小アジアの地。契が戎狄(狩猟民・牧畜民)をあらわし、契の子孫から出た殷王朝は東方の黄河下流域から起こった。ドーロスと契は対応関係にある。ノアの3人の息子は、セムは前述の通り牧畜民、ハムは都市民だとすると「セム=契」「ハム=商均」と同定できる。
クスートスの特徴は本人だけをみてはやや不鮮明だがミケーネ文明を築いたアカイア人をあらわすアカイオスの父であることを思えば「ハム=商均」と同定できるのではないか。またヤペテは前述の通り黒海沿岸とコーカサスとするP資料は信憑性がなく、J資料では子孫の記述が失伝しており何ともわからない。しかしヤペテが「后稷=アイオロス」に該当することはもはや疑いないだろうから、おそらくヤペテは西のほうの地中海沿岸の海洋民の先祖だったのではないか。

3兄弟の順序
中国神話の復元では稷が兄で契が弟だが、商均が3兄弟のどこに入るのか決め手がない。ギリシア神話に対応させると「稷・商均・契」だが聖書神話だと「契・商均・稷」の順となり契と稷が逆になってしまう。しかしギリシア神話が正しいとも限らない。常にセム・ハム・ヤペテと書かれるためにこの順で生まれたと誤解されがちだが、聖書では子供をならべる場合に必ずしも出生順にかかれてないケースがある(歴代志略上1章17節)。創世記9章24節でハムを「若き子」といってるのは不正確な翻訳で正しくは最も年少の子の意味。同じく10章21節で「セムは(中略)ヤペテの兄」とある部分は昔から2種類の訳本が併存しており、「セムは『最年長であるヤペテ』の兄弟」と訳した例も多い。これだと兄ヤペテ・仲セム・弟ハムとなる。ノアの神話では兄弟の子孫と方角の関係が欠落しているが、前述のように稷=アイオロスが「西」、契=ドーロスが「東」に配置されている。イ族の神話でも兄は(イ族からみて)西方のチベット人の祖、仲は(イ族からみて)東方の漢族の祖、弟がイ族の祖になったというから、もし兄弟の順と方角に一定の規則があるなら聖書はやはり「兄ヤペテ・仲セム・弟ハム」が正しく中国では「稷・契・商均」の順となる。イ族の神話では長男がチベット族の祖だが、稷の母の姜原の「姜」の字はチベット系の民族名でもある。

第3世代の2人
商均の息子は情報がないが、虞国(商均の国)はその後「陳侯」と「胡子」の2ヶ国に別れたのであえていえばこれをコジツケられる。陳は周の武王が舜の正統の子孫と認めてその祭祀を継続させるために陳に封じた由緒ある国家。伯父のアイオロスから甥のアカイオスへと始祖以来の王位が継承されたと読めることは上述した。ハムの子はJ資料ではクシ、ミツライム、カナンの3人(P資料ではフテを加えて4人)おり、いずれも民族名でもはや個人名ですらないがそれはギリシア神話も同じだからさておいて、ミツライムとフテは民族表を形成する過程で加えられたものだろうが、クシとカナンは民族表と無関係に最初から書かれていた可能性が高い。クシの子ニムロデは「世で初めて権力者になった」という。さしづめ日本でいえば神武天皇という位置付けだろう。つまりハム→クシ→ニムロデと続く家系は最初の王の家系なのである。ニムロデの即位が本来はノアからはじまる一連の物語の結末で、洪水伝説と王権起源説話は本来一体のものなのである。ノアの洪水物語自体がもともとメソポタミア神話に由来していることは粘土板から明らかだが、直接のソース元としてはバビロン第3王朝の建国神話だった可能性が高かろう。それを剽窃した際に、ユダヤ人は王権の神聖さを理解できずにバッサリ切り捨てて自分好みに編集したのが今の『創世記』になった。陳侯とアカイオスとクシは神の正系、王の家系を象徴する。
胡は詳細が不明、舜の子孫のはずだが分家末流なのか。イオンは不義の子で、成長後は某国の女王ヘリケの婿に収まってエリキに王都を建設する。不義の子(よその胤)で入婿という「他所者」のイメージで、他人の胤=子供の交換というのはイオン自身が交易=商業活動の象徴なのである。名祖イオンの伝説の舞台はペロポネソス半島なのにイオニアの地名は海を渡った小アジア側にあり、これも遠距離の往来を暗示する。ちなみに胡の字には野蛮人、外国人の意味もある。商人は遠隔地から来るので自然と他所者でもある。カナンについては、『創世記』第10章の民族表が始まるより前の第9章までの物語の中に登場する唯一のノアの孫であることは重要だ。呪われる役どころではあるが、ヤペテの子もセムの子も一切でてこないのは注目すべき点でこれも民族表とは無関係にもとからあったのだろう。民族表が構想される以前の系図の原型ではノアの3人の息子、兄ヤペテ・仲セム・弟ハムと、ハムの2人の子クシとカナンという3世代6人の系図だったと復元できる。イオンは、イオンを我が子だと知らない実の母から邪魔者として殺されそうになり、女王の婿になってからは遠征中に戦死してしまう。カナンは父ハムの行いのせいでセムやヤペテの下僕となる運命を与えられる。どっちも呪われた悲劇の運命というネガティブな位置づけにあるともいえるが、イオンとカナンの話は似てない。これはカナンの話が神話の原形をほとんど保ってないほど改変されてるからだ。創世記第9章のハムとカナンの話はかなりちぐはぐで文章の誤脱が目立つ。詳しい説明は省略するが第9章の前半はもとハムの出生譚だったものでカナンとは関係なく、後半は単に兄クシと弟カナンのうち兄が族長権を継承し、弟はその下僕(家来)になるということで、カナン(=パレスチナあたりのフェニキア系都市群)もクシ(=バビロニア帝国)に朝貢する属国だという主張を神話的に表現したものともいえるが、表面的な物語そのものとしては単に後継者を決める話だった。それを、「カナン人は諸民族の下僕になる」という仰々しい呪いの話にユダヤ人が改変したのは、ユダヤ人とパレスチナ人(カナン人)は領土と信仰をめぐって抗争していたからで、要するにカナン人を憎んでいたからにすぎない。カナン人は実質は遠距離交易で有名なフェニキア商人をさしていた。商人として外からくる他所者という意味では漢字の「胡」の字にも通じる。イオンが戦死するのは神話学でいう第3機能階級(産業従事者)であって第2機能階級(武士・軍人)でないことをあらわしている。陳侯とアカイオスとクシが王家を象徴するのに対し、胡子とイオンとカナンは「他所者、または外に出た者」つまりは商人を象徴している。地名や民族名ばかり。稷・契・商均も生業をあらわすもので本来の人名ではない。

神話の構造
3神話の比較から構造をとりだすと、6人の人格からなる3世代の系図になる。第一世代「A」は大洪水を生き延びた現存人類の始祖。第二世代は「兄B・仲C・弟D」の3兄弟。第三世代は「兄E・弟F」の2人。これで6人。兄Bは西方の海洋農耕民の祖、Cは東方の狩猟牧畜民の祖。弟Dは「商業民=都市民」の祖だといってきたが、西にも東にもいかないのだからその場にとどまって親の土地を相続するわけでつまりこのDが家長=族長(第2代の王)というのが原義だろう。東西へ移った兄たちは土産をもって実家に帰るとそこで交易になる。そこに市場(=都市)ができればそこの監督者もできる。それが弟Dで、「商人のトップと都市の支配者と王とが未分化」な段階を象徴するのがDというキャラ。第三世代は王(E)と商人階級(F)が分化した段階を象徴する。これが原義で、この三世代は国家の進化をあらわしたものである。この「神話構造」だけが共通であって、ドーロスだの商均だのヤペテだのというキャラクターの名前は、諸民族がそれぞれの言葉で適当にこしらえて嵌め込んでいる。従ってそういう名前の人間が実在したのではないし、この系図の構造も、7万3000年前の史実ではなくて、後世からみて観念的に構想されたものなのである。

日本側の系図の復元
記紀神話では鵜萱葺不合命は一人っ子なのでこの神話は欠落していることになるが上述のように『先代旧事本紀』武位起命という弟を誤脱しているのだから、あともう1人、失伝した兄弟がいた可能性が高いだろう。そうなれば3兄弟となり海外の神話と似てくる。ただ、その場合皇祖である鵜萱葺不合命は「弟D」のはずだから、武位起命は「兄B」か「仲C」でなくてはならず、弟だというのは誤りだということになる。これを誤りでなく正伝だとして兄弟順を固守するならば、あるいは鵜萱葺不合命は次世代の「兄E」、武位起命は「弟F」に相当するのではないか。この場合「B・C・D」を探すと上の世代のはずだから火々出見3兄弟になる。『日本書紀』一書第5では4人兄弟で長兄・火明命、次兄・火進命(海幸彦)、仲弟・火折尊(山幸彦)、末弟・火々出見尊となっており、長兄・火明命をカットすれば「B・C・D」に該当しそうにみえる。しかし火折尊(山幸彦)と皇祖火々出見尊を別人とするのは他の諸伝と較べても例がなく、神話のストーリーからも妥当しないのでこの説を採るのは難しい。『ウエツフミ』ではウガヤフキアヱズノミコトは逆に7人の兄姉弟ということになっていていささか多すぎようにみえるが、ナヲリノミコトとウスキネノミコトは鵜萱葺不合命と武位起命の別名ではないかとは前述した通りでこれを引くと5人になる。これを神話の図式にあてはめようとすると、まずウガヤフキアヱズノミコトは皇祖(皇統に続く人物)だから「弟D」に該当することは事前にきまる。するとその2人の兄『ウエツフミ』のタケサヒコ・エミヅホアカシが神話構造の「兄B・仲C」に相当するだろう。タケクラオキが余るが、前にいった鸕鶿草葺不合尊と武位起命の兄弟が「兄E・弟F」に相当するのではないかという説を援用すればタケクラオキが「F」だから、日本の場合「D」とその子「E」が同一人物となり、『長兄B・次兄C・仲弟「D=E」・末弟F』の4兄弟になってしまう。この件については後回しにして、まずは登場人物のキャラ設定を検討してみよう。
エミヅホアカシノミコトはアメノサナギヒメを娶り、タケサヒコノミコトはミホツヒメを娶った。ここで母でなく妻だというのは、姜原と簡狄がそれぞれ稷と契の母でなく妻だったろうと推測したのと同断である。無理矢理いえばタケツヌミの名に海を読み取ることができ、ミホツヒメ(御穂津姫)は農業・稲穂に関する名で姜原に該当するか。ウケチホホヒメは『ウエツフミ』ではタケサヒコの妹だが母のミホツヒメを一世代落として実は嫁だったと考訂したのだから、ウケチホホヒメも妹でなく娘だろう。そして彼女はタケクラオキに嫁いだのではないかと思われる。そうするとタケツヌミ・タケサヒコ・タケクラオキの3世代は名前に「タケ」がついてるがこれは代々嫁の父から継承していることになる。これはアイオロスとその娘アルネの子アイオロス2世が女性を経由して襲名しているのと相似である。簡狄は妹と一緒に玄丘で水浴びをしていた時に玄鳥(つばめ)が卵を生むのをみて妹とその卵を争い、その卵を飲み込んで契を産んだという。この話は記紀で天照大御神と須佐之男命が天之安河原で争い、玉を噛んで御子を生んだ神話と同形だ。水浴びというのは禊ぎでそこに河原があることを暗示する。卵=玉。生まれた子の名が「契」なのは契約の契で、誓約(うけひ)と同義だろう。エミヅホアカシノミコトの娘イススヒメはウガヤ朝第4代天皇の皇后に召され、ウガヤ朝第5代天皇を生んだわけだがイススヒメとは「威滌姫」で禊ぎの姫であり、第4代天皇の名はタマカミヒコ(玉噛彦)で生まれた5代天皇の名もアメツチアカリナスアカタマ(天地明成明玉)。エミヅホアカシノミコトの子(イススヒメの兄か弟)のエミヅクニカタヤツミミノミコトは関東の毛野国の国守になっているからいずれにしろ東方の民の祖先であり、この家系は中国でいう五帝神話でいう「契」に該当するとしていいだろう。ここまでまとめると

兄B・タケサヒコ…………「后稷=アイオロス=ヤペテ」(海洋民・農耕民の祖)
仲C・エミヅホアカシ……「契 =ドーロス =セム」 (狩猟民・牧畜民の祖)
弟D・ウガヤフキアヘズ…「商均=クスートス=ハム」 (王家・商業民族)

椎根津彦は一般に海洋民のイメージではあるが遠隔地(大和)との海上交易をして瀬戸内海を往来していたのだろう。その祖先にあたる武位起命のクラオキとは「高蔵置き」で物資豊富な商人の祖先という意味か。

兄E・鵜萱葺不合命…「陳侯=アカイオス=クシ」 (王家)
弟F・武位起命  …「胡子=イオーン =カナン」(商業民族の祖)

日本の場合、海洋民・狩猟民といえば、これは隼人・蝦夷(えみし)のことではないのか。もしそうならエミヅホアカシノミコトは蝦夷の祖、タケサヒコノミコトは隼人の祖。
さて日本の場合「D」とその子「E」が同一人物だから『長兄B・次兄C・仲弟「D=E」・末弟F』の4兄弟になってしまう。別にこれでもいいのだが、もし系図構造を優先するなら、ウガヤフキアヱズを1世(父)と2世(子)に分けて親子2代で同名だと考えることもできる。これについては、正式な名が「天津日高日子波限建鵜萱葺不合命」(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)という不自然に長い名前なので、これを前後に区切って「天津日高日子波限建命」(あまつひたかひこなぎさたけのみこと)と「天津日高日子鵜萱葺不合命」(あまつひたかひこうがやふきあへずのみこと)の親子に便宜上分けてみよう(日高をヒコと読む説は採れない。その理屈はまた後日)。すると火々出見命と豊玉姫の間に生まれたのはエミヅホアカシ・タケサヒコ・波限建命の3兄弟で、波限建命が姨の玉依姫との間に鵜萱葺不合命と武位起命を生んだ、というふうに復元できる。

第二世代(父・火々出見命、母・豊玉姫)
 兄・タケサヒコ………隼人(海民)の祖
 仲・エミヅホアカシ…蝦夷(山民)の祖
 弟・波限建命(なぎさたけのみこと)
第三世代(父・波限建命、母・玉依姫)
 兄・鵜萱葺不合命
 弟・武位起命

武位起命の妃と推定したウケチホホヒメの名については、ウケチホのチホは高千穂の千穂と同じで越前の丹生山地をウケチホといったのかもしれない。あのへんは北陸と山陰をつなぐあたりで、北陸は高麗人や粛慎人が漂着したり、出雲・三丹は半島や大陸との往来の窓口でもあった。遠隔地と往来交易する武位起命は韓(から)漢(あや)呉(くれ)粛慎(あしはせ)等「とつくにびとの祖」だろうか。
これだと鵜萱葺不合命の母は豊玉毘賣でなく姨の玉依毘賣ということになる。神武天皇が姨玉依毘賣を娶して云々というのは冒頭でいった通り錯簡、誤写の類で、原文を想像すると

是天津日高日子穂穂手見命、娶豊玉毘賣命、生御子名○○○○○○天津日高日子波限建○○○○○○娶其姨玉依毘賣命、生御子名○○○○○○鵜葺草葺不合命、○○○○○○命。

とあって○○○○○○の部分が読めなくなっていたのを飛ばして読むと文意が通じないため娶其姨玉依毘賣命生御子名の12字を修正したつもりで鵜葺草葺不合命の後ろに移動させたんだろう。当人からみて姨である玉依毘賣を娶ったのは神武天皇でなく波限建命である(もっとも『ウエツフミ』ではタマヨリヒメは妹でなくトヨタマヒメの姪であって、ウガヤフキアエズノミコトからみてタマヨリヒメが姨ということではないという設定に変更されている)。神武天皇の兄弟、五瀬命・稻氷命・御毛沼命については神話ではなく歴史なので、後日(来年の6月ぐらい?)に神武天皇の章で扱う。今回のこの部分は観念的に構想された神話の一種(正確には神話でもないが)であって歴史事実ではない。
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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