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・欽明天皇も「譲位」していた

H28年11月4日(金)改稿 H28年2月17日(水)初稿
欽明天皇も「譲位」していた
敏達天皇が皇太子になったのは欽明十五年(AD554年・18歳)正月七日説(欽明紀)と欽明二十九年(AD568年・32歳・月日不明)説(敏達前紀)とがある。これは前者が正しい。後者の568年だが、どうも古代ではこの下一桁が西暦で68になる年は特別な意味があったようで、今回は詳しい話は省略するが、この年は立太子の年ではなく、おそらく摂政的な地位についたのであって事実上欽明天皇は上皇的な地位に退いたのであろう。月日が明記されていないが、前からの計画的な予定でもあって元旦から皇太子は事実上の天皇になったのだろう。通常なら元年に書かれる后妃子女の記事が、敏達天皇の場合四年の条に書かれているのも注目される。これは元年にあるべき記事を誤って四年に入れたのではないか。なぜ誤ったかというと、敏達元年を3年前とする紀年法があって、それに基づいて書かかれた記録だったのではないだろうか。この場合の敏達元年は書紀でいう欽明二十九年にあたるのである。先ほどの推測を前提にいえば、欽明天皇からすると事実上の譲位だったのだが、記録上はそうみえないので日本書紀がきっちりした歴史書の形式で書こうとするとあたかも終身在位制のようにみえてしまうのである。欽明天皇は自分の徳の足りなさを自覚して、優秀な敏達天皇に早くから期待していたので、早く譲位したかったものと思われる。

欽明天皇の在位は32年間でなく31年間が正しい
ついでにいうと、後述のように敏達天皇の崩御は古事記と書紀とで1年ずれている。にもかかわらず古事記も日本書紀も敏達天皇の在位は14年間だったとして一致しているので、敏達天皇の公式の元年は日本書紀よりも1年早いことになる。ということはその分、欽明天皇の在位が1年へることになる。ところで日本書紀は欽明三十一年に蘇我稲目が薨去したとあるのだが、より資料的な価値が高いとされる『元興寺縁起』では己丑年に蘇我稲目が薨去とありこの己丑は欽明三十年にあたる。つまり書紀の記事はすべて(もしくは末期のほうだけ?)1年づつ繰り下がっている可能性があり、そうすれば末年の三十二年は実は三十一年となる。また『上宮聖徳法皇帝説』も、欽明天皇の治世は「41年」とあるが原文は「卌一年」で、この「卌」(40)という漢字は「卅」(30)と紛らわしく誤写された例も古来多い。そこで、元々は「卅一年」だったと考えられる。「卅一年」つまり「31年」である。

敏達天皇の崩年が記紀で1年ずれているわけ
敏達天皇については古事記と日本書紀では崩御の年月日が食い違ってる。そういう例はいくらでもあるし、どってことないじゃんと思われるかもしれないが、このへんの時代になると日本書紀も記述が詳細になってくるので、事件の解釈がかわってくることがありうる。
古事記では甲辰年(AD584年)四月六日に崩御、日本書紀では敏達十四年(AD585年)八月十五日に崩御で1年と4ヶ月ほどもずれてる。日本書紀では、このずれの期間中いろんなことがあったがすべて敏達天皇が生存しているという建前になっている。で、次の用明天皇は在位2年で丁未年(587年)に崩御としている。これに対し古事記では用明天皇の崩御年が日本書紀と同じなのに用明天皇は治天下3年としているのだから、585年は敏達天皇の末年ではなく正しくは用明天皇の元年だったのである。
書紀では十三年二月までは任那復興をめぐる外交記事ばかりで、敏達天皇がいかに任那回復に尽力していたかがわかる。ところが同年の九月以降は仏教とそれをめぐっての崇仏派・蘇我氏と排仏派・物部氏との抗争の話ばかりとなる。この間に大きな変化があったことが窺われるのだが、古事記が正しければまさにこの間の四月に仏教嫌いの敏達帝が崩御してるのだから、その後に蘇我馬子が仏教を押してきたというわけだろう。そうすると翌年の九月に用明天皇が即位したという日本書紀がただしければこの年は空位だったことになるが、古事記はこのなぜ年を用明元年としているのか?
その前にまず排仏派が押す押坂日子人大兄王(おしさかのひこひとのおほえのみこ)と崇仏派が押す池辺王(いけのべのみこ)とで皇位継承が決まらなかったという情況が考えられる。日子人大兄は古事記が王(みこ)でも命(みこと)でもなく「太子」(ひつぎのみこ)という異例の書き方をしているほどで、当時は正統の皇太子格であり、当然、日子人大兄王が即位すべきところだが、ここは蘇我馬子が横槍をいれてきたんだろう。排仏派の天皇が何代も続いては仏教は永遠に日本に根付かない。蘇我としては崇仏派の皇子である池辺王に天皇になってもらいたい。そこで引っ張れるだけ引っ張っていたんだろう。蘇我氏にそんな力がいつの間に出来たんだ?と思われるかも知れないが、あれこれの推測に困難はない。巨勢男人の大臣(おほおみ)の地位は巨勢氏に継承されず一代に終わったが、巨勢氏が滅ぼされたわけでもなく、子孫はそれなりの中級貴族として遇されている。これは以前にこのブログで書いた平群臣・木菟宿禰(つくのすくね)が落ちぶれたパターンだ。木菟宿禰については前のやつ読んでもらうとして(ブログ内検索ができる、右側の下のほう)、要するに巨勢男人は「磐井の乱」とそれに続く近江毛野の不祥事(任那の大混乱)において、首謀者かどうかわからぬが何らかの関与を疑われたのである。ただ証拠不十分な上、本人は事態の終結以前に死んでいるので不問に付されたのである。葛城氏が滅んだ後にその利権は平群真鳥が継承したが、同じパターンを推定すると、蘇我高麗と蘇我稲目の父子いずれかもしくは両方は、巨勢男人の下にありながら忠勤に励んでいたのを評価されたか、あるいは巨勢男人の陰謀を密告したのではあるまいか。ともかくも、蘇我は、葛城→平群→巨勢と引き継がれてきた大臣の位を継承した。それにはいうまでもなく外交と財政にかんする利権が伴っていたことは何度もいってるので繰り返さない。

「称制」とは?
ただし、そうはいっても彦人大兄皇子(=日子人大兄太子)の正統性を無視していきなり池辺王を即位させるほどの力はまだ蘇我にはなかった。そこで敏達天皇の皇后であり通常なら次期天皇の指名に大きな発言力をもつ額田部皇女の「称制」皇子として、池辺王を擁立したのではないか。橘豊日尊(たちばなとよひのみこと)と尊号を奉ったのもこの時と思う(この名は諡号ではない)。「称制」というのは、中国で皇帝が幼少の場合、ご生母様(大抵の場合ご生母様は先帝の后で皇太后)が皇帝の代理を務めることをいう。これと似てるが少々違いもあるのが日本式の「称制」で、天智天皇がやった「称制」は天皇が幼少とは限らず、実権も天皇本人がもつ。ただし正式な即位はせず皇太子のままでいる。形式上は斉明天皇(天智帝のご生母)ついで間人皇女(孝徳天皇の后)を上に立てていたので中国の「称制」と同じ用語を使ったらしい。天智天皇の実権は大化の改新からずっと続いていたと思われるが、そうすると用語として「称制」に該当するのは大化の改新(645年)以降の皇極天皇と斉明天皇の在位期間中も含まれるはずだが、日本書紀は斉明天皇の崩御の翌年を天智「元年」としていて、正式に即位した年(668年)を元年とはしていない。天智天皇の特殊で日本的な「称制」がいきなりでてきたとは不自然で、その前に先駆的な段階としてもっと中国式に近い「称制」があったのではないか、それが用明天皇の段階であろう。つまり先帝の后である額田部皇女と未即位だが事実上の天皇である池辺王とのコンビで「称制」としたのであろう。古事記はこの称制の年を治世の初年として数えて「治天下3年」といっている。

敏達天皇崩御から用明天皇即位までの政局政情の推移
敏達十四年(AD584年・書紀は誤って十三年とする)四月六日(ユリウス暦5.20(土)グレゴリオ暦だと22日、以下、jはユリウス暦、gはグレゴリオ暦。gは略してjのみ書く。両者は2日ずれる
古事記のとおり敏達帝はこの日に崩御したとして、通常だと翌年の正月か二月、遅くても三月か四月には新天皇の即位がある。正月とか二月が一番多い。次の天皇が誰かでもめそうなのでまずは敏達天皇の皇后である額田部女王の預かりとなったと思われる。蘇我馬子はあくまでも池辺皇子を押し、彦人大兄皇子の即位に反対した。ここは馬子は大きな賭けでもあったかもしれないが額田部女王も本心では彦人大兄皇子の即位を望んでいないのをしっていたから目算があった。額田部皇女はまだ幼い竹田王を将来の天皇にしたかった。池辺皇子が即位しても傀儡だから竹田王が成長したら譲位させることができるが、彦人大兄皇子が即位したら竹田王には永遠に出番がなくなってしまう。池辺王の擁立に対して物部守屋や中臣勝海は激怒したろうし、決定的な対立はこの時から生じたに違いない。物部としたらこの時に蘇我を滅ぼすという選択や、そこまでいかずとも日子人大兄太子の即位を強行するという選択もあったはずだが、日子人大兄太子は紛争になることを恐れてひとまず折れた。守屋や勝海もまだ馬子の腹の奥までは読めず様子見すべきと慎重に考えたのかもしれない。こっちが折れたらすぐにも池辺王が即位するという差し迫った情況ではないという判断もあったろう。実際、ただちに池辺王が即位したわけでもない。池辺王は斎宮を強姦した前科があって、すぐに即位できるほどの人望はない。そういう人物しか手持ちの玉(ギョク)がないのがこの時の蘇我氏の弱みで、馬子もダメ元でスネてみせただけだろう。もし即位が強行されたら遅参して謝罪すればいいやと軽く考えていた程度で、ここまでうまくいくと思わず、根回し不足、準備不足だったのだ。そこで今度は馬子も折れて、正式な即位ではなくて、皇子のままで天皇に準じた立場という程度に留めた。これにはむろん額田部皇女の押しもあったろう。さすがに日子人大兄太子を押しのけて正式に即位させるというのは額田部皇女でも言い出しにくいが「称制」なら実権は額田部皇女がにぎるのであって用明天皇は形式的な存在とも受け取れる(実際そうだった)し、反対派を説得しやすい。そこでめでたくこの年が用明元年となったわけだが、これが翌年二月十五日までのこと。

用明元年(AD585年・書紀は誤って敏達十四年とする)二月十五日(3.21j水)
蘇我馬子は仏塔を建てて大会設斎(読経して会食する仏教行事)を開催している。これは用明天皇称制元年と決まって一応の勝利をみたので祝杯の行事のつもりだろう。普通ならちょうどこの頃に新天皇の即位があるはずだが、この段階では用明天皇はまた称制皇子であって正式な天皇ではないので、即位式のあるべき日と同じ日にこれみよがしに仏教行事を盛大にやって、崇仏派の勝利を誇示したのだろう。だがこの年、思わぬ事態が起こった。年末まで残り10ヶ月の間に、疫病が大流行して多くの死者がでたのだ。

三月一日(4.5j木)
こうなっては用明天皇も正式な即位どころではない。物部守屋と中臣勝海が「仏教をやめないと、故父帝より今上陛下まで疫病のせいで民がおおぜい死にますぞ」と申し上げ、びびった天皇によって仏教廃止ということになった。書紀ではまだ敏達天皇が生存して在位しているという建前なので、ここの故父帝(原文では「考天皇」)とは欽明天皇のことである。しかし古事記に従えばこの時の天皇とは用明天皇のことである。

三月三十日(5.4j金)
それから一ヶ月、仏教廃止命令は出たものの、蘇我氏を始めとする仏徒は従わなかったのだろう。しびれをきらした排仏派は実力行使に出て、守屋と勝海の主導で廃仏毀釈を実行したのだが、天皇と大連(守屋)が疱瘡にかかっただけでなくそれが国中に流行して、仏像を焼いたからじゃないのかという噂まで広がってしまった。ここでいう天皇とは、書紀は敏達天皇とするが正しくは用明天皇のことで、大連は守屋しかいないがかなり不審。物部守屋は信念に揺らぎがみえない。ただの噂が記事に紛れ込んだのだろうか。それとも、二人ともここで死去した様子はないが疱瘡にかかってすぐ治ったのか?  ともかく国中に疫病が蔓延している中で、華々しく正式な天皇として即位する自信は池辺王にもなく、彦人大兄皇子も皇位を堂々と要求するほどの自信はなかった。その二人を押す排仏派も崇仏派も、今回の廃仏毀釈事件の後は、疫病が収まるまでしばらく停戦となったらしい。

六月(日付不明、7.3j火~7.31j火)
天皇(池辺皇子)と守屋が疱瘡にかかったので、排仏派と崇仏派のどちらかが一方的に立場が弱くなったわけではないが天皇が疱瘡にかかったのだから崇仏派のほうがやや分が悪い。六月には蘇我馬子も「自分の病気が重くなってきたので仏教にすがりたい」とお願いしてきた。疱瘡とは明示してないし、仏教を認めてもらうための言い訳もあるだろうが、実際に病気だったのは本当だろう。とするとやはり疱瘡の可能性が高いと思われる。そこで蘇我馬子だけが例外的に仏教を許された。書紀が引用する異説では、馬子の信仰再開に対抗して物部・中臣も廃仏毀釈を再開、しかし馬子も抵抗したという。だがこの説を書紀本文は採用していない(末端の小競り合いぐらいはあったんだろうが)。物部守屋と中臣勝海にしてみれば、今回の許可では仏教はあくまで蘇我一人しか拝めないのだから、仏教の扱いについては、排仏派の勝利で決着したという認識だったろう。このままでは蘇我は分が悪いので、疫病流行の原因が廃仏だという噂を流した。不自然な噂は意図的なものだろうとバレバレなので庶民には効かないのだが、下々の感覚に疎い雲の上の方々のほうが、「庶民の間ではこういわれておりますぞ」ってのに弱い。儒教をまじめに信じてる皇族や貴族ほど「庶民が~」を持ち出されると弱いのだ。それで排仏派の心が揺らいでくると、反比例して蘇我サイドには精神的な余裕がでてきた。そこで新たな妥協が成立したのではないか。日子人大兄太子は排仏のせいで疫病が流行ったのだという世の中の噂を信じたか、もしくは廃仏のせいとまでは信じないものの、疫病の発生は儒教的には君主の不徳のせいと考えられるから弱気になっていったと思われるのだ。

八月十五日(9.14j金、書紀はこの日に敏達帝が崩御したとするがそれは間違い
この日、日子人大兄太子は皇位継承争いから全面的に降り、それで池辺王の「称制でない」正式な即位がようやく確定したのだろう。が、そんなことは守屋や勝海がタダで容認するはずがないが、肝心の日子人大兄太子が疱瘡を病み(この頃にはとっくに治っていたとは思われるが)自分には帝徳が足らぬと固辞、こんな情況では「それなら私が」と図々しく名乗りを上げる第三候補もおらず、守屋大連にもやりようがない。このチャンスに蘇我は、おそらく、池辺王の即位を認めるかわり、六月の裁定を尊重したまま仏教論争はむしかえさないという約定を提案したのだと思われる。これで物部や中臣は妥協して、用明天皇を正式な天皇として推戴した。むろんこんな約定は後々なんとでも理由がついて反故にされるのであるが、物部としてはこの約定を反故にするようなら蘇我など滅ぼしてしまえばいいぐらいに思っていたのだろう。また六月の時点での仏教許可も蘇我氏代々に許したのか、蘇我馬子一代限りに許したのか、馬子個人一人に許したのか、蘇我氏の配下の諸氏族すべてに許したのか、はっきりわからない。相互に都合のいい解釈をして両派それぞれ勝手に納得していたのかもしれない。そのへんのいい加減さは後々の火種になりかねないが、お互い細かいことには目をつぶった。なぜなら、早く形だけでも円満解決を神仏に報告したかったからだろう。というのも、この頃おそらくようやく世の中の疱瘡流行が一段落して、疫病は神の怒りか仏の祟りかはわからぬが、当時の人にとってはそのどっちかではあるわけだから、双方ともにこれ以上は派手な争いごとは控えようという気分になっており、ここは多少は妥協しても話をまるめなければという意志を互いに感じつつあり、つまりは「機が熟していた」のである。八月十五日を日本書紀は敏達帝の崩御の日としているが、前年四月に崩御してこの頃まで殯(もがり)が続いていることはありえないことではない。実際の殯は一年にも満たないことが多いが建前上は三年間続けることになっていたのだから。日本書紀は八月十五日に殯の記事があることからこの日を崩御の日と即断して編年したのだろう。

九月五日(10.3j10.5g水)
で、その約定が成立した結果、用明天皇は正式に即位した。蘇我としたらもっと早く日程を繰り上げたかったろうが、吉日を占いで選んだのだろう。この間20日間ほどは人望のない池辺皇子が支持を固めるための政治運動、身も蓋もなくいえば蘇我氏によるバラマキに費やされたとも考えられる。

用明二年(AD586年・書紀は誤って用明元年とする)

(※「浮屠の乱(用明天皇)」に続く)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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