FC2ブログ

なぜ推古天皇で終わってるのか

2679(R01).09.19 THU 改稿 H28.4.10修正 H26.10.16-17初稿
なぜ推古天皇で終わってるのか
このことは本来は推古天皇の章で扱うべきかとも一見思われなくもないが、これは推古天皇からしてみれば知ったことではなく、あくまでも古事記の編纂者側の見方や考え方の問題なのでやはり別に扱うのがいいだろう。

「儒教時代」説
よくいわれるのは、「中巻は儒教も仏教もなかった時代で、下巻は儒教(というか論語)が伝来してからの時代だが仏教以前だと。なので仏教国家が始まった推古朝で区切ったのだ」と。
だがこれはおかしいのではないか。儒教(というか論語)が伝来したのは応神朝であって仁徳朝でない。むろん、本格的に儒教時代が始まったのが仁徳朝だ、というのは、そこまではまぁ理解できる。しかしそれなら本格的に仏教国家になった推古朝は次ぎの時代の始まりであり、下巻は崇峻天皇で終わらねばならないのではないか。いや、儒教時代と仏教時代とに、もし、わけるのであれば、物部守屋が滅ぼされて蘇我氏の権勢が確立した崇峻天皇から仏教時代を始めるのが適格であり、下巻は用明天皇で終わるのが妥当、とも考えられる。そういうわけで「中巻と下巻の境は応神天皇と仁徳天皇で分かれ、下巻の最後は推古天皇になっている理由」として、儒教時代と仏教時代にわけたからだという説には釈然としないし納得できない。
ちなみに平安時代の偽書『先代旧事本紀』(十巻本)は、古事記中巻にあたる「天皇本紀」が神功皇后で終わっており、古事記下巻にあたる「神皇本紀」は応神天皇から始まり武烈天皇で終わり、「帝皇本紀」が継体天皇から推古天皇まで、となっている。同じ『先代旧事本紀』でも江戸時代の偽書である七十二巻本(『大成経』)では、この後にさらに「聖皇本紀」として聖徳太子の伝記がついている。聖徳太子の活躍したのは推古朝だから、ある意味、崇峻朝と推古朝の間で区切りを置き直したような構成ともいえる。『先代旧事本紀』は「あくまでも聖徳太子リスペクトであって仏教リスペクトではない」ので、聖徳太子の時代に該当する推古天皇で終わるのはわかる。が、その前の時代の区切りを神功皇后と応神天皇の間にしたこととは何の関係もないので、一貫性がない。『先代旧事本紀』が聖徳太子をリスペクトしている理由は、「聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記』『国記』『臣連国造伴造百八十部并公民等本記』が、実は焼失したのではなく、この書物がそれだ」、という趣旨で捏造したのが『先代旧事本紀』だから。もしそれが本当ならこれらの書物(『天皇記』など)は推古天皇の前の崇峻天皇で終わってないとおかしい。にもかかわらず『先代旧事本紀』が推古天皇まである理由は、聖徳太子を顕彰するためにその事績を述べると、当然推古天皇の時代のことを書くことになってしまうからであって、『古事記』が推古天皇で終わっていることとは本来は関係ない。
では『古事記』が推古天皇で終わっている理由と聖徳太子とは関係ないのだろうか。もし関係あるのなら、そのことがわかるような記事、例えば聖徳太子についてもう少し何かのエピソードや物語があってもよさそうだが、『古事記』には何もない。それどころか、後述のように、聖徳太子よりずっと後の、舒明天皇の即位や皇極天皇の時代のことまで書かれているのだから、「ちょうど聖徳太子の活躍した時代をもって区切りとする」という意志があったとは考えられない。

「仁徳王朝」という区切り
ただここで『先代旧事本紀』が武烈天皇と継体天皇の間に区切りを置いてるのは一つのヒントではある。つまり、もし古事記下巻のように仁徳天皇から始まり、神皇本紀のように武烈天皇で終わっていたなら、それは明解に「仁徳王朝」の歴史という一つのまとまりになってるってことだ。しかしそれは「もし」の話であって、現実はそうなっていないのであるから、現実がこうなっている理由を考えねばならぬ。これは何も、後世からの歪曲した見方でもなんでもなく、継体天皇が即位した当時の人々が誰しも容易に思い描いた「一つの区切り」だろう。現に、系譜の部分を除外して物語の部分だけでみると、顕宗天皇で終わっているが、これは実は武烈天皇の事績を誤って顕宗天皇の事績にしているのだということは別の記事で詳しく書いた。つまり物語の部分だけでみると仁徳天皇から始まって武烈天皇で終わっているのであって、『先代旧事本紀』の神皇本紀と同じく、『古事記』下巻はまさしく仁徳王朝の歴史なのである。
それはそれでまぁ良いとしても、それは系譜の部分を除外した場合のことであって、継体天皇以降の系譜が『古事記』下巻に書かれていることの説明にはならない。継体天皇で始まった新王朝の時代を推古天皇で区切ってる理由はあいかわらず不明であり、もし下巻の終わりと中下巻の境とに何か一貫した理論だか歴史観だかあるのでは、という考え方にこだわった場合には、仁徳王朝説では却って一貫性を壊すことになる。これは解決の直接の糸口ではなく、まだ「ヒント」にすぎない。

「伝説時代」説
中巻と下巻の区切りについてよくいわれるのは、応神天皇までの中巻はまだ神々と人間が交渉をもった時代で、半分は神代(かみよ。神々の時代)で、もう半分は歴史時代(人間の世界)であり、両者が混在しており、いわば神話から歴史への移行期だ、と。それに比して、仁徳天皇からの下巻は現代にもありそうなリアリティーあふれ人間味あふるる現実の人間の物語である、と。神話時代でもなく歴史時代でもなく、両者の混在してる段階があるとして、それを「伝説時代」とよぶならば、古事記中巻はまさに伝説時代なのであり、純粋な歴史時代になってからが下巻なのである、と。これは前述の中巻を儒教時代とみなす説とは一体の、上巻を神道の時代(≒神々とともに暮らしていたアニミズムの時代)とみる説の変奏曲ともいえるだろう。
この手の説には中巻を「純粋の歴史だ」といわないところに邪念を感ずる。純粋でないのだからつまるところ「歴史ではまったく無く、史実と認められないことでは神話と同じ」と言いたいわけだろ。そもそも神話と歴史はまったく別次元のもので、中間形態だの移行期だのってのは論理的にありえない。中間形態だの移行期だのってのは、要するに巧く説明つかないから(「どうせ全部デタラメだから」といったら史実(=自説)を組み立てるための素材に使えなくなるので)適当にお茶を濁してるわけだろ。前述の儒教倫理が導入された時代(下巻)の人々の思考が現代人からみて比較的わかりやすいのは当たり前であって、それ以前の純粋にアニミズム的な多神教の世界観で生きていた人々から見えていた世界(中巻)とは違ってみえて当然ではないだろうか。そしてこの説の場合「なぜ推古朝で終わってるのか」の説明はないので、それについての別に独立した巧い説明と組み合わさればまだしも、そうでない場合には素人騙しのもっともらしい言葉遊びとしか思えない。

古事記記載の最新記事は舒明帝即位ではない
つまり、いずれの説も巧い説明としては成り立ってないのである。「中下巻の境と、下巻の終わりが何か関係してる」という説は、一種の思い込みであり、実は関係ないって可能性のほうが高そうに思えてくる。逆に、実は重大な関係があるのだ、という主張をするためには、如上の二説とはまったく別な新説を提示しなければならない。
ところで古事記に書かれた最後の天皇は実は推古帝ではない。舒明天皇は推古帝の次の天皇で、本名は「田村」だが、敏達天皇の段に諸皇子女の一人として名が列挙されてる中の舒明天皇は「田村王」ではなく「坐岡本宮治天下天皇」と書かれている。角川文庫版の『古事記』はこれをもって「古事記の記事中もっとも新しい事実である」と注釈している。考えてみれば、ある天皇が崩御した後というのは「よほどのすぐ直後」でもない限り次の天皇はほぼ決まっているし、曖昧な場合でも二、三ヶ月後にはもう次の天皇が即位しているのが常識なので、推古女帝崩御とあれば自動的に読者の脳内では田村王が即位して天皇になっていることもただちに想起されることだろう。ここまでは格別なんの問題もない。
ところが実はさらにその後の記事までもあるのだ。それが推古天皇の御陵が「大野岡の上」になったのを『のちに』「科長大陵」に遷したという記事。これは通説では皇極天皇即位後から大化改新の前までの間にあったことだとされている。つまりこの推古天皇陵の移転が『古事記』全文の中での最新記事ということになる。この段階では舒明天皇も崩御して皇極天皇の御世だったことになる。なぜ舒明天皇の御世にはふれずに推古天皇で終わらせているのか?

現在に近いと政治的に支障が…。
一つの有力な説として、『古事記』の原資料になっている帝紀(帝皇日継)が推古天皇までしかなかったのではないか、そのために、帝紀に基づいて編纂した古事記も自動的に推古天皇までということになってのではないかという説がある。だが、それでは帝紀はなぜ推古天皇までしかなかったのかという新たな問題が生じる。
帝紀がいつから存在したのかはわからない(個人的には武烈天皇の時にはじめて文字化されたものと思うが今はそれに触れない)が、写本の類がたくさんあって、天武十年(681年)に川島皇子らに命じて帝紀の異同を校合、統一させて決定版を作らせようとした(この時稗田阿礼28歳)、これがのちに『古事記・日本書紀』として結実する。歴史書は普通は先代の君主の代までだから、この段階では形式的に考えると「天智天皇までで終わる書物」になりそうなもの。(大友皇子が即位していた場合には弘文天皇で終わりそうなもの)
現実には、完成が延び延びになって天武天皇から何代も経ってしまった。古事記は元明天皇、書紀は元正天皇の時だから、古事記なら文武天皇まで、書紀なら元明天皇まで書かれていても、物理的にはありえた話である。むろん物理的に可能だからといってギリギリ直前の天皇まで書かねばならないという理由も必ずしもないのであって、書紀が持統天皇で終わりにした理由もあれば、古事記が推古天皇で終わりにした理由もあったはずであろう。あくまでも天武天皇の企画という趣旨を尊重する限り、やはり天智天皇(か弘文天皇)で終わりにするのが自然である。
だが、壬申の乱の敵軍だった天智天皇の歴史を書くと天武天皇の正統性の問題が出てくるのでなかなか書けない。当時の政府の立場としては弘文天皇の即位を認められないのはわかるとしても、天智天皇で終わらせても、当時も天智統と天武統の対立という構図で捉えられていて、弟天武が兄天智の事業を継承したと宣伝しようにもあまりにしらじらしく受け取られて逆効果になりかねない空気があったと思われる。壬申の乱はそれほどの大事件だろう。なにしろ天智天皇の正統な後継者を殺しちゃったんだから。大化改新以降の歴史を描くとすると、皇極天皇時代も孝徳天皇時代も中大兄皇子(天智天皇)がなるべく目立たないように書くのは難しい。中大兄皇子は大化改新のヒーローでありその後は皇極朝後期・孝徳朝・斉明朝・天智朝を通じて本人が崩御するまでずっと歴史の主役だったのだから、ここらの歴史は現在(天武朝)に近すぎて政治的に扱いにくい。
そこで日本書紀は壬申の乱で大友皇子の即位を認めずその部下の5人の貴族と一緒に悪役として、天武帝は悪を倒して天智天皇の事業を引き継いだという側面を強調している。天武帝は天智天皇の娘(持統天皇)を皇后かつ共同統治者としていたのだから女系では天智天皇の後継者ともいえ、実際に天武帝崩御の後は持統天皇が即位し天智系に復帰したような演出となる。日本書紀が持統天皇まで扱っている理由は、壬申の乱のすったもんだの結末として、現在(奈良時代)の皇室が天武系ではあるけれども、正統な天智系を排除したものではなく、持統天皇を通じて天智系でもあるのだ、だから持統天皇の血を引く現在の皇室は正統であり、問題ないのだ、という主張なのである(当時、大友皇子が正統で天武帝は簒奪者ではないかという疑いの声があったため。現に日本書紀には天武天皇を謗ったために刑罰を受けた者が何人もいる)。従って、日本書紀は天智・弘文・天武のうちどの天皇で終わらせても格好がつかず、なんとしても持統天皇まで書かないと具合が悪かったということがわかるだろう。
古事記もまた、日本書紀と同時代の編纂であるから、普通に考えれば天智・弘文・天武のうちどの天皇で終わらせても都合が悪いという点は同じであるが、そもそも継体天皇以降は系譜しか載せてないのだから、どこで終わらせても政治的な問題は生じないのではないかと思われる。あるいは政治的な問題を回避するために系譜しか載せてないのだという説もありうる。しかし系譜だけにすれば問題ないのなら、編纂命令を出した天武帝の直前の代であるところの天智天皇で終わらせておけば歴史書の体裁としては完璧だったのであって、それがなぜか推古帝で終わっている理由は相変わらず判明しない。
万が一、この「政治的な差し障り」が厳重なもので系譜すら書けないということだったとしても、「都合の悪い時代」とは前述の通り、中大兄皇子(天智天皇)が活躍した時代のことで、皇極天皇以降の時代のことである。とすると舒明天皇までは書かれていてもよかったはずである。舒明天皇崩御の時、中大兄皇子はまだ16歳だったからさすがに舒明朝で大活躍したということはないだろう。だから舒明天皇までの歴史書なら、当時の政治情況においてもだいたい当たり障りなかったと思われる。
だが、舒明天皇がなくてその一つ前の推古天皇で古事記が終わってるのだから「政治的に差し障りのある時代だから書かれなかった」という説は成り立たない。そういう理由なら、古事記は舒明天皇で終わっていたはずであろう。なぜ舒明天皇がなく推古帝で終わっているのか?

聖徳太子編纂『天皇記』は原資料ではない
一説に、天武十年(681年)に編纂された帝紀(帝皇日継)の、そのまた原資料となったのは前述の聖徳太子と蘇我馬子が編纂した『天皇記』だったという説もあるが、間違った説である。これは聖徳太子が薨去してしまったため未完成の草稿のうちに中断してしまっていたのが皇極天皇の時に焼失してしまった。焼失してしまったのだからこれが原資料になった可能性はまったくない。聖徳太子が薨去したのは推古朝だから、未完成の草稿ではあるにせよ、崇峻天皇までは扱われていた可能性が高い。
ついでにいうと、この『天皇記』の焼失が、その後の帝紀に様々な異本が生じた原因でもあろう。それで天武帝が帝紀の内容を統一しようとしたのが天武十年の詔勅で、それが後に『古事記』『日本書紀』として結実したわけだ。

なぜ舒明天皇がはずされているのか
以上のように、政治的な事情としては舒明天皇まではOKで、系譜だけなら舒明天皇以降ですらOKなのだから、もし様々な帝紀の異本のうち、どれか一つでも舒明天皇以降までの部分があったなら、『古事記』の最後も舒明天皇までは余裕で含まれたと思われる。帝紀は初めは「ある特定の役割の者」が天皇代替わりの度に代々書き足してゆくものだったろうが、何らかの理由で推古天皇で打ち切られ、後は完成した一つの書物として写本が作られるだけになったものと推測する。この謎を解くにはこれ以外に考えようがない。で、なぜ帝紀が推古天皇で終わっていたのかだが、次の舒明天皇の時に、「天皇代替わりの度にされていた帝紀への書き足し」が停止されたからということになる。ではなぜ舒明天皇の時にそんなことになったのか。

帝紀は「いわゆる書物」ではない?
帝紀(帝皇日継)とは本来なんだったのかというと、もちろんそれは語部(かたりべ)の記録である。語部の記録という言い方は矛盾に聞こえるかもしれないが、語部は宮中の重大な祭儀や儀礼の際に、舞台上で儀式の由来譚を「語る」のが仕事であって、稗田氏が猿女(歌舞で仕える巫女)の氏族でもあるようにその語りには歌舞や演劇が付随したろう。従って語部には「台本」のようなものがあったと考えられる。現代の演劇でも台本はあるが役者はそれを「暗唱」するわけである。「語部は『暗唱する者』だから文字記録は関係ない」という思い込みは誤りである。だからこそ天武十年、帝紀(帝皇日継)の記定に語部の稗田阿礼28歳が召しだされたのだろう。古くは文字化されず、それこそ語部の脳内記憶として伝承されたんだろうが、漢字が伝来してからは文字化もされて、代々書き継がれて推古天皇に至った。ただし、文字化されたといっても、基本的には語部の台本なので真の原本は語部の脳内にあり、文字化する際には文字化する人の語り癖や書き癖などの個性がかなり反映されることになる。これは書物にみえても本質的には「書物」なのではなく、文字を介しての「口承」であって、書かれたものが本体ではなく文字を読みあげたその声が本体だからである。そのため、書物としてみた場合にはかなり差異のある様々な写本ができてしまっただろう。また語部というのはライブで聞かせるものだから、同じ歴史を語るにも、客層に応じて毎回語る部分と略する部分が違ってくる。別の話を脇から挿入すると細部で矛盾が出ることが多いが、それも適宜辻褄あわせしてると、同じ帝紀といってもいろいろな違いが出来てくるわけだ。

語部(かたりべ)の廃止と史官(記録官)の創設
語部は古伝承を伝えるのが本業で神道と結びついており、現在の日本のように神仏儒が和合するようになる以前の日本では、語部は神祇派に属しておって、仏教派とは相性がよくない。他にも儒教派がいた。仏教伝来以前にも、儒教をめぐっての対立が仁徳天皇の頃からずっとあって、皇位継承の争いや貴族の謀反などにも絡んでいる(儒教派が漢文を広めるために語部と対立したことは他の記事で書いた)。日本人全般に儒教が受け入れられるようになったのは雄略天皇の頃からと思われる。仏教も同じく、日本人全般に許容されたのは大化改新からだろう。それまでは神道派と仏教派で血みどろの戦いがあったんで、物部と蘇我の戦いの後も負けたからといっていきなり改宗するわけもなく、ますます仏教徒を憎んだだけだろう。最初からいきなり日本人が仏教徒になったわけではない。現代ですら、一般論ではキリスト教を悪いものだとは誰も思ってないだろうが、それでも皇族がミッション系の大学に進学すると苦言を呈する人はいくらでもいるじゃないか。ましてや当時は儒教も仏教も「日本に根付く前」の話であり、儒教や仏教に熱心な天皇や皇族がいると必ずそれに反対する勢力が形成されたのである。
雄略天皇以降は儒教は日本に根付いたので「儒教派」と「神道派」の対立というのはなくなったが、欽明天皇以降は「神道派」と「仏教派」というのができていた。仏教派にとっては語部というのは神道派の巣窟であるから何とかこれを弱めたい。それで舒明天皇の時に「語部」の職掌のかなりの部分が廃止されたのだろう。天皇の御世の記録は歴史として後世に伝えるために語部が暗唱し、漢字伝来以降は記録もしていたと思われる。漢文の得意な帰化人系の氏族が古くから下っ端の書記係を務め、これを史(ふびと)といって政治機関の各所で活躍していたが、語部の言葉は漢文に翻訳すると意味がないので、史(ふびと)は使われず語部が独自に記録していたと思われる。つまり、当初は歴史編纂の仕事は語部の専権事項であった。
ところが、早ければ欽明天皇か敏達天皇の時に、遅くても推古天皇の時に、史(ふびと)にも語部の記録とは別に歴史の記録をさせるようになったと思われる(詳しいことは後述)。敏達天皇は儒教と中国式の歴史書を好んだ人で、欽明天皇の後半から皇太子として政治に参加していたらしい。中国では昔から歴史編纂のために日々記録している役人がおり、この記録に基づいて歴史書が編纂されたという。
敏達天皇は仏教を信じなかったと明記されており、崇峻天皇はよくわからないが蘇我と仲悪かったからあまり仏教に好意もなかったかも知れず、この二人は神道派だった可能性が高い。用明天皇と推古天皇は神仏両方を尊崇していた。だから史官(中国式の記録官)のような係が存在したとしても、敏達・用明・崇峻・推古の4代間は語部を廃止したりはせず併用していたのだろう。
だが次の舒明天皇は推古天皇の遺詔を蘇我氏の力で捻じ曲げて皇位にありついたために蘇我べったりで、そのため公卿百官も天皇を畏れず政務が滞ってしまった。大派王(おほまたのみこ)が「近頃は公卿百官がろくに朝廷に出勤してこない。ちゃんと出勤時間を守らせるように」と大臣(蘇我蝦夷)にいったが、大臣は従わなかったとある。政治がガタガタになればちょっと日照りがあったぐらいでも飢饉になるし、朝廷がユルいなと思って奥羽の蝦夷族が反乱を起こす有り様。にもかかわらず舒明天皇は有馬温泉やら四国の道後温泉やら遊びにでかけ、しかもそのために大嘗祭を延期したりしている。そしてこんな情況なのに、西国の民を徴発して大宮殿(百済宮)を、東国の民を徴発して大寺院(大安寺)を建造した。

国家の非常時だというのに壮大な建築にうつつをぬかして浪費するのは外国によくあるダメ君主の典型例である。他には九重の塔を建てたり設斎(仏教行事)はしている。暗君な上に仏教には熱心な人だったらしい。大宮と大寺の建造のための費用捻出のため、語部は冗官(無駄な役所)として切り捨てられたのだろう。舒明天皇としては語部に興味はないかわりに恨みもないのだが、むろん舒明帝をおだてあげて操っている黒幕は蘇我蝦夷であり、語部の廃止は仏教を布教するための蘇我氏の一手なのである。語部に代わる漢文式の帰化人記録官は早ければすで4代にわたる試用期間があり、遅くても推古朝の途中から試用されてきているので、問題ないこともわかっており、語部サイドもこの頃はすでに猿女氏・稗田氏が弱小氏族ということもあり、命令を受け入れるしかなかったのである。

「史官」の沿革
中国では周王朝の昔から王や諸侯の両脇に「右史」「左史」という記録官がいて、『礼記』によると「右史」は主君の言葉を、「左史」は主君の行動を記録したという(右史が行動で左史が言葉と逆になっている説もあるが時代や国によるのか単なる誤りか不明)。とすると右史は左脳を使うから右手で書き、左史は右脳を使うから左手で書いたんだろうか。そんなわけないかw
img_0.jpg(←右脳と左脳の画像)
右史の記録は『尚書』となり、左史の記録は『春秋』となった。時代がくだると、皇帝の日常の記録は「起居注」といい、皇帝が崩御すると「実録」という皇帝一代の歴史が書かれる。起居注はこの実録を編纂する時の資料に使われる。そして王朝交代があると、前王朝の歴代の皇帝の実録を連ねて「正史」が編纂される。日本の律令時代では右史・左史にあたるものは「内記」「外記」で、起居注にあたるものは「内記日記」という。「外記日記」というのもあるがこっちは天皇の言動の記録ではなく、役人の仕事の記録である。ちなみに、律令時代には「大学寮」という役所が官僚養成機関で今の東大みたいなもの。で、そこの学生になれるのは五位以上の貴族の子と孫、東西史部の子と孫が優先されていた。東西史部というのは、史(ふびと)というカバネをもつ約70ぐらいの帰化人系の氏族を二つに分けたもので、「東史部」は東漢(やまとのあや)氏が統括し、「西史部」は西文(かはちのふみ)氏が率いていた(西文氏は西書氏とも書く)。東漢氏は後漢の霊帝の子孫という阿知使主(あちのおみ)の子孫で、西文氏は大雀皇子(のちの仁徳天皇)やその弟の宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)の家庭教師だった王仁の子孫。阿知使主も王仁も応神天皇の時に渡来してきた人で歴史が古く、従って一族の人数も多い。この両氏の族名はヤマト(今の奈良県)を東と書き、カハチ(今の大阪府)を西と書いているわけで、これは、この両氏が並び称されてセットであることを表わしている。が、古くは倭漢(やまとのあや)・川内文(かはちのふみ)と書いていたのであり、始めの頃はセットでもなんでもなかったのである。『古語拾遺』によると履中天皇の時、「内蔵」(うちつくら)を創立し、阿知使主と王仁の二人を出納記録係にしたという。この記事が正しければ、東漢氏と西文氏がセットになった最初の例で、両氏族の始祖である二人がすでにコンビになっている。だが、まだこの段階では財宝や物資の出納記録係であって歴史記録係ではない。阿知使主は住吉中津王が反乱を起こした時に、履中天皇を救い出した三人の功臣のうちの一人だから、論功行賞の意味もあったのかもしれない。また雄略天皇の時に「大蔵」を設立して、蘇我氏を検校(管理者・責任者)として、秦氏に出納事務を管掌させ、東漢氏と西文氏を記録係としたという。ここでもセットになっている。雄略天皇は身狭村主青(むさのすぐり・あを)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみつかひ・はかとこ)を抜擢・寵愛した。この二人は江戸時代でいえば「側用人」みたいな立場だったらしい。この身狭村主氏(牟佐氏)というのは呉の孫権の息子、孫高の子孫で、東漢氏の配下の氏族だった。檜隈民使氏も東漢氏の分流。書紀にはこの二人は「史部」(ふびとべ)だとも書いてある。この二人は成り上がりだから手足になる配下が少なく、同族の東漢氏の人員や人脈、つまり史(ふびと)仲間が頼みだったろう。ところが西文氏の活躍はみえない。それで東漢氏と西文氏に差がついた。允恭天皇は「君・臣・連・直(あたへ)・造(みやつこ)・首(おびと)」の6階のカバネを制定したが、その子の雄略天皇は帰化人枠としてさらに「史(ふひと)・伎(てひと)」を追加した。これは最下級の「首」と同格と思われる。これまでの「史」は単に記録係の意味しかなかったが、これをカバネの一つとしたわけで、多くの帰化系氏族が下級とはいえ貴族に列することになった(正確には「直」までが貴族で、「造」から下は戦前でいう士族階級とか西洋でいう騎士階級とかに近いが、貴族と庶民に二分割した時の大雑把な意味で下級貴族)。この時、二氏だけが特例扱いで東漢氏は「直」、西文氏は「首」のカバネを賜った。東漢氏の方が2段階も格上の扱いになっているが、東漢氏が「直」になったのはおそらく推古朝になってからで、もともとは秦氏と同格の「造」か西文氏と同じ「首」のいずれかだったのではないかと思う。
継体天皇の頃から、百済から上番(交代)で五経博士がやってくるようになった。五経博士というのは本来は五経のそれぞれを担当する五人の博士だが、書紀には一人しかいないように書いている。むろん五経のすべてに通じている一人の博士を五経博士という言い方もあるのだろうが、おそらく多くの博士たちの首長、リーダー、トップ、代表というような地位の人物をあげているのだろう。その部下だか弟子だかの中に、五経それぞれを専門とする人々が5つのグループとしていたんだろう。偉い先生がたった一人だけで来てもしょうがないわけで。彼ら(=博士)は教師であって実務家ではない。誰に教えるのかというと、皇族貴族の師弟も本人たちが希望すれば受講できただろうが、おもな生徒は秦氏・漢氏・文氏(西文氏)といった書記官を職業とする人々だろう。だから五経それだけの能力をもった弟子たちだか部下たちだかをおおぜい率いつれてきたに違いない。朝廷(=皇室)とは別に、皇族や貴族も個人的に史(ふひと)として帰化人を召し抱えることも増えていっただろう。だから遅くても継体天皇の治世末期までには、どこの氏族でも漢字で書かれた家系の記録のようなものはもっていたと思われる。
その後、欽明天皇の頃は、五経博士と医博士と暦博士の7博士があったうちで医博士・暦博士と五経博士の中の易博士の3博士が重んじられたようであり、五経博士のうち易を除く4博士はあまり重んじられなかった(つまり儒教思想は二の次で実用的なものが重視された)。この博士たちは建前上は交代して百済に帰るはずが実際にはそのまま日本に帰化することも多かったようだが、先生稼業で実務家ではないためか、在来の史(ふびと)たちの存在意義を脅かすものではなかった。が、欽明天皇・敏達天皇の二代間に、百済系の帰化氏族で船史(ふねのふびと)の祖・王辰爾、白猪史(しらゐのふびと)の祖・胆津(いつ)、津史(つのふびと)の祖・牛が大きな功績をあげて屯倉(みやけ)の田令(監督官)や船長(港湾税務官)など各種の管轄権限を獲得し、東漢氏や西文氏の立場は微妙になってきた。特に敏達帝の元年に高句麗からの国書を王辰爾だけがみごとに解読し、東西史部は「数ばかり多くて役立たず」と天皇から叱責されたことは、東漢氏と西文氏にはこの上ない打撃となったろう。敏達帝の六年に日祀部(ひまつりべ)が創設された。これは旧来の日置部(ひおきべ)が縄文以来の原始的な手法で春分・秋分・夏至・冬至等の太陽観測をしていたのに対し、最近の中国の天文学の知識で太陽観測を始めたものだろう。これと同時に「史部」(ふひとべ)に中国式の歴史官僚としての役割も与えられた可能性はきわめて高い。しかし、敏達天皇がもし歴史官の役割を特定氏族を負わせたとしたら、その氏族は船・白猪・津の3氏から出たに相違なく、東漢氏や西文氏が採用されたとは思えないから、古代中国における「右史・左史」のような修史官の役目を特定氏族に負わせたのではなく、既存の「史部」つまり不特定の「史」(ふひと)系の諸氏族たちに自由に書かせて任意に提出させたのではないか、敏達天皇からみるとこれは実験期間、試用期間のようなものであり、任意の自由行動だから守旧派の抵抗勢力(「語部」など)からの抗議もある程度かわすことができる。
その後、用明天皇の時には押坂部史毛屎(おさかべのふひと・けくそ)が物部守屋のついていたことが書かれている。押坂部史は東漢氏の末流で、蘇我氏は白猪史らを重用していたから東漢氏は物部について挽回を狙っていたらしい。大蔵や内蔵の管理を通じてみた場合もともと東漢と西文は蘇我の配下のようなものだから、なんとか蘇我の下からの脱却の機会を狙っていたのかもしれない。しかしご存知の通り、蘇我vs物部の戦争で物部氏は滅亡してしまう。いよいよ追い詰められた東漢氏は、今度は蘇我への忠誠を再び示すため汚れ役を負わされる。東漢直駒(やまとのあやのあたへ・こま)が蘇我馬子の命令で崇峻天皇暗殺に手を下してしまったのだ。この後、ますます栄えていく蘇我氏に、東漢氏はべったりくっついて完全に忠実な配下になっていく。推古女帝の頃、隋に留学僧を派遣しているが、それに東漢氏系の人物が何人も含まれていたのは蘇我氏の口利きがあったからだろう。つまりこの頃には朝廷第一の書記官としてのかつての地位を取り戻していた。これがやがて東漢氏が朝廷の政治に直接関与していくきっかけとなるのだが、それはまた後の話。しかし西文氏は東漢氏のような挽回運動に邁進するようなたくまさしさが無く相変わらず衰退の途上にあったのではないか。東漢氏が「直」で西文氏が「首」と2段階もの格差ができたのはこの頃だろう。そして推古女帝の頃は聖徳太子の活躍した時期でもあり、『天皇記』『国記』『臣連国造伴造百八十部并公民等本記』の編纂事業の下働きとして東漢氏も駆りだされ、喜んで参加しただろう。この時東漢氏は西文氏をも仲間に誘って、格下の氏族として形式はともかく事実上の配下にしてしまったのではないかと思われる。倭漢坂上直(やまとのあやのさかのうへのあたへ)が欽明天皇陵に大柱を建立して名をあげたのは、まさに聖徳太子の編纂事業が始まったのと同年(推古二八年)の十月のことであった(敏達六年よりも、推古二八年の方が「史部」の一部を歴史官僚とした、つまり歴史官僚が始めて創設された年である可能性が高いが、敏達朝の可能性も少しはある)。聖徳太子の死去によって、歴史編纂事業は頓挫したが、東漢氏と西文氏は、そのまま名目上の歴史編纂官として蘇我邸内に職場を持ち続けたのだろう。
さて、前述の通り、舒明天皇になって、帝は西国の民を徴発して大宮殿(百済宮)を建築し、東国の民を徴発して大寺院(大安寺)を建立したが、この時、書直県(ふみのあたへ・あがた)という人が「大匠」(工事監督者・責任者)となったという。書直氏はこれまた東漢氏の分流。日本書紀の原文は「造作大宮大寺。則以百済川側為宮処。是以、西民造宮、東民作寺。便以書直県為大匠」となっている。これだと大宮と大寺の両方の大匠を兼ねているように読めるが、西文氏が出てこない。西の民は大宮、東の民は大寺となっていてその直後に書直県を大匠となす、とあるから、ここは「西民造宮」と「東民作寺」の間に脱文があり、「是以、西民造宮、便以西書某為大匠。東民作寺、便以書直県為大匠」だったのではないか(日本書紀は西文氏を西書氏と書く)。川内文氏を西文氏と書き、倭漢氏を東漢氏と書いて、あわせて東西史部というようになったのはこの頃からと思われる。

皇極朝の記事が紛れ込んでるわけ
というわけで、帝紀が推古天皇で終わっていて舒明天皇が書かれてない理由はわかるわけだが、しかし今度はそうするとなぜ「推古天皇陵の移転」という皇極天皇の時代のことが書かれているのか。ここは単に後世の追記だ、で済ませてしまうこともできるが、それだとやや面白味がない。御陵の移転先の「科長」は蘇我氏の基盤で、この移転も蘇我の全盛期のこととされている。恐らく、皇極天皇の頃に作られた写本の一つに、末尾に「なぜ推古天皇で終わっているのか」を説明する簡単な「あとがき」のようなものをつけた写本があったのではないかと想像する。蘇我氏の繁栄と横暴を述べて語部側の恨み節も少々まぜながら。『古事記』編纂の時に、そんな個人的な恨みだの関係のない蘇我氏の話だのを太安万侶が削除していったら、御陵の移転の部分だけが残ったのではないか。

舒明天皇以降の公式記録はどうなったか
以上の通り、本質的に語部資料であるはずの帝紀に推古天皇までしか載ってない理由はわかった、としよう。が、帝紀とは別に、早ければ敏達天皇以降、遅くても推古天皇以降の歴史は漢文史官「右史」「左史」ならぬ「東史」「西史」の手にまとめられていたはずではないか。それはどこにいったのか。聖徳太子が『天皇記』を編纂するための資料として持ちだされて焼失したとしても、持ちだしたのが推古朝のことだから帝紀とはもとから重複した部分であり、舒明天皇以降の分ではない。が、聖徳太子が薨去した後もその未完成草稿が蘇我邸にありつづけたということは、おそらく歴史編纂局は聖徳太子の遺業を継ぐという名目で、朝廷でなくずっと蘇我邸内に置かれていたのだろう。従って舒明天皇から大化改新までの公式記録は「乙巳の変」で蘇我邸もろとも『天皇記』と同時に焼失してしまったものと思われる。大化改新以降の分はまた公式記録が再開されただろうが、壬申の乱で近江朝の首都が戦場になったため大津宮にあったであろう公式記録も焼失・散逸してしまったのではないか。壬申の乱の後から再開された公式記録はその後、日本書紀を始めとする六国史に活用されたはずである。だから舒明天皇から壬申の乱までの記録は多くの皇族・貴族・豪族らがたまたま持ち合わせた公式記録の断片的な写本を寄せ集めて歴史を復元しなければならなかったと思われる。

結論
舒明天皇以降の帝紀はそもそも最初から存在せず、諸々の貴族・豪族たちがもっていたという各種の帝紀はすべて推古天皇までしかなかったのであろう。もとになった帝紀がそうだから『古事記』も自動的に推古天皇で終わっているのである。

☆古事記の原資料の性質と通説への疑問

2679年(H31年=新年号元年)3月4日改稿 H28年4月30日(土)修正 H26年10月16日初稿
『古事記』の原資料
『古事記』(ふるごとぶみ)の材料が「先代旧辞」(さきつよのふるごと)と「帝皇日継」(すめらみことのひつぎ)から成ることは通説となっている。「先代旧辞」は「本辞」とも「旧辞」ともいい、「帝皇日継」は「帝紀」とも「先紀」ともいう。これらはすべて古事記の序文にしか出てこない名前だが、「帝紀(…)本辞」「帝皇日継(…)先代旧辞」「旧辞(…)先紀」と対語のように出てくる。この「先紀」という言葉はなにか文字づらが漢語として馴染まない印象があり、「本紀」の誤写ではないかと思う。前の2例が帝紀を前、旧辞を後ろに置いてるのに、この例だけ順番が逆なのは「本○」を後ろに置いて対比させてるのだろう。あるいは「本辞」という言葉は「もとつこと」と訓読しても漢語をむりやり直訳してるような違和感があるので「古辞」の誤写かとも思う。
古事記以前の書_new
古事記以前の書_old神代文字_石版
『弘仁私記』(平安時代の日本書紀の講義録)には「帝王本紀」と「先代旧事紀」とあり、同じもの。末尾の「紀」は後世の偽書『先代旧事本紀』に引かれた衍字(誤入した余計な文字)で正しくは「先代旧事」だろう。また『日本書紀』天武10年に川島皇子が修撰した『帝紀』と『上古諸事』もまったく同じもの。
teiki.pngkuji.png

帝皇日継(すめらみことのひつぎ)
「本紀」というのはもともと司馬遷が始めた中国の正史の紀伝体のスタイルで、歴代の皇帝の伝記に、在位中の期間の部分に帝国史の年表を合体させたもの。「帝紀」というのは本紀の別名だが、『漢書』では権力をふるっていた呂后のために「后紀」という項目を立て、他の男性皇帝は「帝紀」としたので「本紀」という名称は使ってない。『後漢書』では通常なら皇后列伝とするところを「后紀」という名にしたので、通常「本紀」というはずの歴代皇帝の伝記を「帝紀」として、「帝紀/后紀」と対比させている。『後漢書』は『漢書』に倣おうとしたのだろう。もちろん古事記序文に出てくる「帝紀」はそれと同じではなく、「日継」という和語の漢訳語として使ってるのだが、本紀というはずのものを日本でも「帝紀」といってるのは漢王朝をリスペクトしていた天武天皇の趣味だろう。それ以前は「帝王本紀」「本紀」「帝皇日継」等と訳していたと思われる。とはいうものの、本紀の和風表現が「日継」で日継の漢語表現が「本紀」、帝王と帝皇も同語、帝王本紀の前半を略せば「本紀」、中を略せば「帝紀」で、皆同じ。「先紀」は「本紀」の誤写でおそらく「先紀」という言葉はもともと存在してなかろう。聖徳太子修撰『天皇記』も川島皇子の『帝紀』も岩波文庫の日本書紀ではスメラミコトノフミと読んでるがスメラミコトノヒツギまたはスメロギノヒツギのほうがよいだろう(岩波の日本思想体系版『古事記』ではスメロギノヒツギと読んでいる。その方が良さげ)。聖徳太子の『天皇記』は焼失して現存しないが大略おなじ内容だったと想像される。

先代旧辞(さきつよのふるごと)
古事記序文の「先代旧辞」と『弘仁私記』の「先代旧事」、まったく同じ。「辞」の字は「耳に聞き口に話す言葉であることを重んじた表現」などともいうが、それはそれで間違ってはいないのだろうが、「古代の出来事、上古の事件」という意味が本然的な意味ではないだろうか。和語としては「コト」の中に「辞」も「事」も片落ちすることなく包含されているのであり、「辞」の一面だけをやたら強調するのもどうかと思われる。また「本辞」という言い方は「本紀」に対応させた表現だとしたら漢文特有の文字遊びみたいなもので正しい名称でない。「古辞」の誤写だとしたら「本辞」という言葉はもともと無かったことになる。川島皇子の『上古諸事』を岩波文庫の日本書紀ではイニシヘノモロモロノコトと読んでるが間違いで、ここはただフルゴトと訓むのが正しい。旧辞=旧事=フルゴト。「上古諸事」はフルゴトを漢語に意訳して字数を書き延ばした表現だから和訓はフルゴトでよい。聖徳太子修撰の『国記』(くにつふみ)と『臣連伴造国造百八十部幷公民等本記』(おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものをあわせておおみたからどものもとつふみ)なるものがあり後者は大化の改新の時に焼失してしまい、前者も現存していないが。これらが「先代旧辞」と関係あるような説もあるが、『国記』は後世の『風土記』のような国ごとの地誌で、『臣連伴造国造百八十部幷公民等本記』は後世の『新撰姓氏録』のような氏族誌だろう。ともに直接に「先代旧辞」の内容に関係するものではない。

通説への疑問
武田祐吉以来の学界の通説として、「帝皇日継」(以下、帝紀という)は天皇の系図に若干の定式的な記述(宮都、陵墓など)が付随したもので「物語」がついておらず、「物語」の部分がつまり「先代旧辞」(以下、旧辞という)なのだ、という。だから上巻(神代の巻)は全部が旧辞だけで出来ており、中巻下巻(神武〜推古の歴代天皇の巻)は帝紀を本体として、それにバラバラにされた旧辞を適宜はめこんで出来ているのだ、というのが学界の通説になってる。しかし本当にそうか?

武田説の問題点
戦後の歴史学説の中には、旧辞は純粋に物語だけで特定の天皇は出てなかったのではないかという説も出た。つまり帝紀と旧辞はまったく別々のものなのに、後から恣意的にくっつけたのだから、たとえば古事記では顕宗天皇の話になってるのに同じ事件が日本書紀では武烈天皇の話になってたり、ってことが起こるのだ、という。だが、それを認めると、記紀の物語はすべて天皇と無関係にならないか。主人公が特定されないのならそれは「民話」ではないか。こうだ、「昔々(つまり時代はわからない)、お爺さんとお婆さんが(つまり不特定の名無しの人物が)云々」という。まぁ、それが「なんでも架空」にもっていきたい連中の目的なんだがな。でも、どこの誰だかわからない主人公の話を、朝廷が後生大切に伝えてきたなんてあるだろうか? それを無理矢理くっつけたって作り話であることは作った本人にも当時の人々にもバレバレだろう。なぜなら、現代が「インターネット社会」であるように、当時は「語部(かたりべ)社会」であって、古伝承は豊富かつ貴族か庶民かを問わず親しまれていたろうから。むろん武田祐吉はあくまで書物の形式のことをいってるんであって、旧辞に特定の天皇が出てこないなんてアホなこた全然考えてなかったかもしれないけど、戦後の学説が生まれてくるような紛らわしさが、武田祐吉の説にあったことも事実だろう。旧辞と帝紀はあくまで別々なら、もし特定の天皇が出てきたらそれは帝紀の要素ってことになるわけで。
keizu_hikarugenji.jpg
※この通り、物語あるところおのずから系図ができる。↑↓
ultra_brothers_家系図

物語と系図が別々ということがありうるのか?
物語が大切に伝承されてきたのはそれが天皇の物語だからであって、だからこそ朝廷において意味があり、それに連なる貴族社会にとっても意味がある。物語ぬきの系図だけであっても、ある程度は事足りるかもしれない。しかし、物語と切り離したら系図上の祖先はまったく無人格な、どんな人柄か想像もつかない、先祖をつなぐ線でしかなくなる。自分らの先祖が皇室の祖先である初期の天皇とともに戦い、国作りに参加してきたという伝承=物語の方こそ、普通に考えれば家柄を誇る上でも単なる系図以上に重要なのではないか。というかこの二つはそもそも切り離して考える必要があるのか、もし切り離したら無意味な断片になってしまうのではないか? 最初にそんな情況だったのなら、そもそもそれらは伝承されなかったであろう。伝承されてきたという事実が、それらは最初から一体のものだったという証拠なのである。従って私はこう考える、「帝紀」には最初から現在の記紀にあるような物語部分はくっついていた。この物語部分は「旧辞ではない」。つまり、古事記だろうが日本書紀だろうが、神武天皇以降はすべて帝紀なのであって旧辞は含まれていないのである。そうすると、旧辞とは何かって問題だが、帝紀以外の残った部分、つまり必然的に旧辞とは神代巻のことだということになる。先代旧辞の先代(さきつよ)とは、単なる漠然とした昔の意味ではなく「神代」のことなのである。
f_kakeizu.gifファンタジー家系図メーカー
※↑このように、物語なきはずの虚名からなる系図であっても、名がキャラを体しておればおのずから物語が生成されざるをえないw 当時の固有名詞が生前の功績にちなんだものなら系図の背後にあったはずの物語も当然にその存在が推定できるのである。

「思い込み」を捨てよう
…という私の説、おかしいと思う? 実はこれ、私の説ではない。ところで武田祐吉という学者は大正から昭和前期くらいの人だから、日本の歴史の中では最近の人だよね。ということは、この「旧辞は物語の部分で帝紀は系図の部分だ」っていう「思い込み」も最近のことであって、昔の人はこのようには考えていなかったということだよ。本居宣長は、帝紀は国史のことであり、旧辞は文字よりも言葉に重きを置いた表現だといってるだけで、これ以上あまりはっきりしたことはいっていない。平田篤胤は旧辞は神代巻のことで、帝紀は神武天皇以降の歴史のことだといった。これ以降は、武田祐吉が妙ちきりんな説を言い出すまで、この平田説が通説になっていたのです。当然、いまだに通説(武田説)に対して承服していない学者もいて、大御所では西郷信綱、有名人では三浦佑之がこの平田の説を支持している(ただし三浦はまだ30代の若い頃の話なので今でもそうなのかどうかは知らんが)
皆さん、もう武田祐吉の説は捨てて、平田説にもどろうよ。古事記の歴代天皇の中の「物語の部分」は、旧辞じゃないんだよw そこも帝紀なんだよ。

・太安万侶と稗田阿礼は同時代か?

2679(H31=新年号元年)・1・23 WED 改稿 H27年6月17日(水)初稿
太安万侶と稗田阿礼はコンビとして力を合わせて古事記を作ったようなイメージがあるが、これは本当なのか? 稗田阿礼が読誦したのは第40代・天武天皇の命令によるが、太安万侶が古事記を完成したのは第43代・元明天皇の時。従って、稗田阿礼と太安万侶は別々の時代の人であり、コンビで仕事してるようなイメージは間違いである。 …というような話をしたこともあるのだが、自信もないので、二人の生没年を確認してみた。

古事記の序文によると、稗田阿礼が天武天皇の命を受けた時、阿礼は28歳とある。普通に読むとこの時は天武二年(AD672年)だと読めてしまうが、天武十年(AD681年)のことだと考える学者が多い。『日本書紀』天武十年(AD681年)に川島皇子らに「帝紀」と「上古之諸事」を記定させたとあり。「帝紀」とは「帝皇日継」(すめろぎのひつぎ)のことで、「上古之諸事」とは「先代旧辞」(さきつよのふるごと)のことであることは、別記事「古事記の原資料の性質と通説への疑問」で説明した通り(※詳細リンク先)。この「帝紀と上古之諸事の記定」が古事記のいう「帝紀と旧辞を削偽定実せよ」との天武天皇の詔勅にあたる事件と考えるとすると、この時、稗田阿礼は28歳で、川島皇子らへの協力者だったのだろう。だが古事記序文をそのまま受け取ると天武天皇の詔勅がでたのは天武二年であり阿礼が28歳だったのも当然その年だから、そうすると古事記が完成した和銅五年(AD712年)には59歳か67歳の二つの説が生ずる。これを仮に若者説と老人説とよぶ。いずれにしろ、まだ生存していた可能性がある。当時の60歳っていうのは今なら70歳くらいの感覚かもしれないので、絶対に生きてたはずだともいえないが、稗田阿礼女性説をとるならば女性のほうが長生きだし、太安万侶と稗田阿礼がコンビを組んで…というイメージも、まんざらアリエナイともいえない。コンビといっても、安万侶に比べて稗田阿礼はかなり身分が低いので対等の関係にはならないだろうが。

ちなみに、稗田阿礼は老人説でいくと大化二年(AD646年)生まれ、若者説でいくと誕生年は計算上、白雉五年(AD654年)となる。太安万侶は誕生年が不明だが、死没年は『続日本紀』と「太安万侶墓誌」とも養老七年(AD723年)としている。もし安万侶が70歳で死去したと仮定すると、若者説だと同年齢となる。またあるいは、太安万侶が大夫に列したのが慶雲元年(AD704年)だからこの年20歳と仮定すると、同年に阿礼59歳(老人説)であり、約40歳も年下となる。
WS000051.jpg
おそらく、安万侶は阿礼より20歳ぐらい下だったのではないか。

さらに絶対的な方法ではないが、安万侶と同時代で似たような昇進の仕方をしている阿倍朝臣首名(あべのあそみ・くびな)と威奈真人大村(ゐなのまひと・おほむら)という人物は二人とも年齢が判明しているので、この二人と比較して安万侶の年齢を推定することもできる。二人の経歴はWikipediaに載ってるから簡単に計算でき、大夫に列した時、首名は41歳、大村は40歳だったことがわかる。それで安万侶が大夫に列した慶雲元年(AD704年)に仮に41歳だったとすると、天武二年(AD672年)に稗田阿礼(老人説)が28歳の時、安万侶は10歳で、阿礼の20歳下だったことになる。天武十年(AD681年)に稗田阿礼(若者説)が28歳の時なら、安万侶は18歳。で、古事記が完成した和銅五年(AD712年)には稗田阿礼67歳か59歳、太安万侶49歳となる。むろんこれは阿倍首名と同じ年齢で大夫に叙任したらという仮定の上での話なので絶対こうだという話ではない。

☆序文の語句

H30年10月17日(水)
(※内容は後日かきます)

☆序文の論旨

今日、H30年10月7日(日)は自主講座で『古事記』序文についての講義。

(※多忙につき内容は後日かきます)

☆上巻だけ読んで古事記を解かると思うな

今日、平成30年9月19日(水)。ある人から以前、「えらい学者であっても上巻ばかり研究して案外、中巻・下巻はおろそかにしている」という体験を語るのを聞いたことがある。「上巻だけ読んで古事記を解ったと思うな、中巻・下巻も大切だ」と念押しされてたろうに、みんな忘れたのかよ…。
f0236270_15413877.jpg
本来の古事記は上巻だけ
(※多忙につき内容本文は後日かきます)

上・中・下巻はもともと別の3つの書物だった
(※多忙につき内容本文は後日かきます)

・古事記「下巻」の隠しテーマ

今日、10月12日は宮内庁での「亀山天皇正辰祭」です。正辰祭ってのは要するに命日ってことですね。 嘉元三年九月十五日に崩御されてるのでこれを現在の太陽暦(グレゴリオ暦)に換算するとAD1305年10月12日となります。Wikipediaなどで10月4日となってる場合があるけれども、Wikipediaは同じ太陽暦でも西洋史との対象する都合で便意上、ユリウス暦に換算してるんで日付がずれてるわけです。この亀山天皇という人は、いわゆる大覚寺統の始祖にあたる人で、兄の後深草天皇が持明院統の元祖ですね。ここから両統の分裂と、やがて南北朝の争乱へと続いていく。ところでこのような王朝分裂、王朝交代的なことは古事記・日本書紀にもでてきますね。今日はちょっとそのことを書こう。
王朝交代
允恭天皇から始まる家系が清寧天皇で切れて、允恭天皇の兄である履中天皇の家系に皇位が戻る。履中天皇も允恭天皇も「仁徳天皇の家系」に含まれます。履中天皇も允恭天皇も込みにした「仁徳天皇の家系」が武烈天皇で切れて、仁徳天皇の弟の若沼毛二俣王の家系に皇位が移る。特に古事記の場合、具体的な物語は顕宗天皇までしかなく、続く仁賢天皇から最後の推古天皇までは所謂「欠史十代」というやつで、物語がなく系譜だけ。この顕宗天皇は「履中皇統」を世に顕した功績でもって「顕宗」の諡を贈られたわけで、ここで物語が終わっているのは要するに古事記の下巻は履中皇統の衰滅とその復活という物語を主要な骨格としている、ということができる。それなら下巻は履中天皇から始まって顕宗天皇に終わっても良かったのではないかと思われるが、実際、現代人の考えるような意味での「テーマに沿った完成度」からいえばそれでもよかった。ただ、当時の感じとしては仁徳天皇から始まる家系が武烈天皇で終わるという歴史がすでにあって、履中皇統の歴史はその中に包括されてしまっているのでどうしても「武烈天皇の終幕=継体皇統の始まり」まではふれずにおけなかったものと思う。

それなら物語抜きの系譜だけでも継体天皇で終わればいいわけで、なぜその後、安閑天皇から推古天皇までの系譜記事がついてるのかという疑問も生じる。そのへんの話はまた「なぜ推古朝で終わってるのか」で詳しくやるとして、要するに推古朝までの中で、どの物語をどのぐらい載せるかという取捨選択で、この王朝交代の話と関係ないものは落とされたということだ。逆にいうと顕宗天皇以降は、『日本書紀』を読めばそれでよく、格別に語部の立場からあれこれの修正は必要ない、というのが太安万侶と稗田阿礼の立場なのであろう。

ところで継体天皇のところに「石井の乱」について一行ばかり出てくる(続きはまた後日)

・語部(かたりべ)に「テーマ性」はありうるか

H27年9月16日(水)初稿
古事記全体を貫くテーマとして「国作り」があり、雄略天皇の章は、その「国作り」が完成したところなのである、という見解があるのだが、はたしてそういえるのか…?
(自分の意見は後日執筆予定)

・古事記の中・下巻は「面白くない」のか?

H27・8・31更新 H27・8・20初稿
世の中には「古事記は上巻は面白いんだけど中巻・下巻がいまいち…」と言う人が時々いる。確かに上巻は神話篇でおもしろい話が満載な上、しかも全体が一つのまとまりになってる。でも中・下巻は天皇一代ごとに話が切れてるし、一人の天皇の中でもミニエピソードみたいのがばらばらに出てきたりして断片的な感じがする。しかし中・下巻の面白さがわからないと量からいって古事記の面白さも3分の1になってしまうわけで、もったいないことこの上ないでしょう。古事記全3巻は、文体の表記こそ統一されてるが、中・下巻は、やはり上巻とはずいぶん違った編集方針でかかれたことは誰でも漠然と感じるのではないだろうか。それは『日本書紀』と比べると瞭然だ。上巻はただ古事記1冊だけを読んでも話がわかる。日本書紀の一巻・二巻と比べても古事記の詳細な内容は見劣りしない。むしろ古事記のほうが詳しいぐらい。ところが逆に、日本書紀でも第三巻の神武天皇の巻から以降、歴代天皇の巻になると、日本書紀は圧倒的に詳細になる。それに比べ、古事記の中・下巻は、スカスカな印象がある。
記紀のおもしろさの違い
古事記は明らかに、恋愛譚や歌物語を書いてるのであって、それからはずれる要素、例えば政治的な駆け引きや、戦争における両軍の作戦だとか、事件の背後にある氏族たちの政治的な位置関係とか、国家体制の話とか、合戦における戦闘シーンの描写とかの、男の子が読んでわくわくするような、たとえば『三国志』や戦国大名の物語みたいな要素は切り落としてしまっている。切り落としすぎて、話の流れがわかりにくくなってるところすらある。だから神武天皇以降の、歴代天皇の話になると、普通の男子なら古事記より『日本書紀』を読んだほうが圧倒的におもしろい。

記紀は内容を分担している?
そもそも古事記がなんであんなに簡単な書き方なのかというと、書紀の方が完成が8年遅れただけで古事記と日本書紀は同時進行で編纂されていたわけで、日本書紀の方が「正史」つまり正統な歴史書として華々しくデビューすることが決まっていた以上、太安万侶(&稗田阿礼?)としては、古事記の読者は日本書紀を当然読んでる人たちだという前提で古事記を構想したはず。つまり日本書紀を読めばわかることは省略している。あくまでも日本書紀の誤りを修正する異説、あるいは日本書紀の不足を補う補説。この二つだけを書いてるのだから書紀に比べてスカスカな感じがするのは当たり前ということになる。古事記が補おうとしたのは主には恋愛譚であり歌物語だろう(それだけではないが)。歴史というのはもっぱら政治史・権力史・国家史であって、そこで色恋沙汰を長々いわれても困る。歴史書である日本書紀としてはそういう部分は切り落とすのはしょうがない。そこで別の書物である古事記の出番となる、つまり古事記と日本書紀は分担しているわけ。

中巻・下巻を楽しむには…
で、古事記の中・下巻も問題なくおもしろいと感じる人は、たまたま古事記の分担してる要素である「恋愛譚と歌物語」がもともと好きな人なのだと思われる。一方、古事記は中・下巻がいまいち面白くないな、と感じる人の場合、日本書紀を読んでみたらよいのではないだろうか。ただし、書紀だけ読んでればいいのかというと日本書紀は量が多く細かいバラバラの話は古事記以上に多いから、物語を楽しむだけの目的で読もうとすると骨が折れるかも。だから、そういうタイプの人が古事記の中・下巻を楽しむには『日本書紀』を参考にしつつ、古事記の物語にプラスして、古事記が切り落とした内容を補いながら読むのがよいと思う。
…で、この先の話は「旧辞」と「帝紀」という言葉が出てくる。旧辞は神話やら伝説といった物語の部分で、帝紀というのは歴代天皇の系図といくつかの項目からなる注釈の一覧のことだと思われている。しかしそれは違うのだ。正しくは旧辞というのは単に神代巻のことで、神武天皇以降の歴代天皇の物語は旧辞でなく、すべて帝紀に含まれる。詳細は「古事記の原資料の性質と通説への疑問」を先に読んでください。
『古事記』はもともと神代巻だけだった?
もしそうだとすると、神武天皇以降の限っていうと、「日本書紀」の方が主で、古事記は補足のような印象になってしまうが、おそらく、まず日本書紀の編集方針ができて最初の草稿ぐらいは出来上がった段階で、古事記編集部がそれを見て「それ(書紀の歴代天皇の部)はマズいんじゃないの」ということになり、急遽、古事記側でも中・下巻を追加して作ることになったと想像する。つまり最初の企画では古事記は上巻だけの全1巻の構成だったのではないか。
こういうと反論されるかも知れない、古事記の序文には天武天皇が最初から旧辞(先代旧辞)と帝紀(帝皇日継)を校訂させようとしたと書いてあるから、当初から歴代天皇の部分(帝紀の要素)も込みだったはずだ、と。でもよく考えると、天武天皇の詔勅が出た段階ではまだ古事記と日本書紀の二つの書物になると決まってはいない。諸氏族のもっている旧辞や帝紀が氏族ごとに食い違っているのでこれを照合して決定版を作れ、といっているだけ。これが後に古事記と日本書紀として結実するわけだけれども、この段階では「完全版旧辞」と「完全版帝紀」が期待されているだけ。天武天皇自身は旧辞と帝紀の2種類の本ができると思ってるわけであって、それを合体させろとは全然いってない。まして、合体した上で一つになるならともかく、古事記と日本書紀という2つの書物になるとは予想すらしてなかったろう。だから、編纂事業がすすんでいくうちに、途中のあるところで古事記編纂室と日本書紀編纂室に分離してしまったと考える他ない。序文はあくまでも古事記完成後に古事記の立場から過去を回顧していってるので、この天武天皇の詔勅を古事記編纂の出発点としていて、日本書紀のことには必要ないから格別ふれてないが、実際には記紀の両方のスタートなのである。だから天武天皇の詔勅には旧辞と帝紀が両方でてくる。でも元明天皇の詔勅はそうではない。和銅四年(711年)九月十八日の元明天皇の詔勅では「阿礼がよめるところの勅語の旧辞を撰録して提出せよ」と太安万侶に命令が下ったわけだが、ここで旧辞とばかりいって帝紀といってない。これは旧辞を早く作れという命令であって帝紀にはふれてない。帝紀は別進行で日本書紀になる予定だったからだろう。最終的に古事記も中・下巻で歴代天皇を扱うことになったので結果的に整合がとれたということになる。古事記は上巻だけだったから、旧辞(ふるごと)だけだったからこそ古事記(ふるごとぶみ)というタイトルなのであって、最初から歴代天皇の部もついていたなら、旧辞と帝紀の合体だったなら「古事帝紀」というタイトルになっていたと思われる。

『日本書紀』にはもともと神代巻が無かった?
もし古事記がもともと上巻だけだったとすると、ひょっとして日本書紀は神代巻がなくて神武天皇から始まっていたのではないか、と誰しも思いつく。実際その通りで日本書紀は中国の正史の体裁にのっとって編纂されたから、「紀」という文字で天皇一代ごとの伝記(在位中は年表式の編年体)が順に並んで全体を構成している。この中では神代の巻だけが基準からハズれている。こんな形式は中国の正史には例がない。「いや、神代巻こそ日本の正史の特色なのだ」というかも知れないがそれは現状を知った上での後付け説明だろう。当初はどうするかで議論になったはずで、現に、江戸時代に編纂された『大日本史』は神武天皇から始まっていて、神代巻は巻頭ではなく志類(後ろの方についてる付録で分野別に書かれたもの)の中の一つという扱いになってる。日本書紀の場合、志類は作られなかったので神代巻は当初は考えられていなかったろう。そもそもなんで日本書紀が編纂されたかといえば、中国の正史の体裁にのっとった歴史書が日本にもあることを海外(特に中国)に示すためである。でなければ漢文で書く必要はなく古事記のような文体のほうが伝承保存という意味ではより適切なはずだろう。中国に日本の正史を示すのが目的なら、むしろ神代巻はいらないのである。こんなものがついてると、かえって不自然であって、無い方が中国の正史のようにみえる。だから『大日本史』は神武天皇から始まっている。

記紀がダブってしまった訳
以上のように、一つの仮説として、当初の企画は「古事記は神代巻だけで歴代天皇は無し、日本書紀は神武天皇からで神代巻は無し」だったのではないかと考えられるのだ。天武天皇が期した「完全版旧辞」と「完全版帝紀」は前者が古事記、後者が日本書紀になるはずだったのである。なにも俺が一人でいってるのではなく、青山学院大学の矢嶋泉教授も、「旧辞が古事記になり、帝紀が日本書紀になったのだ」というような意味のことを唱えているそうです(よく知らんが)。天武天皇は旧辞と帝紀を合わせて1冊にしろとは一言も言ってない。ところが古事記編集部は日本書紀に不満で、日本書紀をただすため、あるいは補うために中巻・下巻を付けた。日本書紀が神代巻を作ったのはその対抗措置なのではないか。古事記の神代巻は決定版をめざしたため異説をたくさん切り捨てているので、それなら日本書紀で拾っといてやろうじゃないか、というわけ。だから日本書紀の神代巻は「一書曰く〜」という形で異伝・異説がたくさん載ってる。
すったもんだで、古事記には中・下巻が付き、日本書紀には神代巻が付いてしまったので、結局内容がダブってしまい、もともとなんで2種類つくったのかわかりにくくなってしまったというわけ。
こうなったまでに至るすったもんだの詳細な経緯というのもあるんだがそこらの詳しい話はまた後日ということで〜
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

カテゴリ
最新記事
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

新語拾遺
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム