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・浮屠の乱

 H30年3月23日(金)改稿
H28年2月17日(水)
(※この頁は「欽明天皇も「譲位」していた(敏達天皇)」からの続きです)

用明天皇も在位が短い
日本書紀をよむと、用明天皇の冒頭の穴穂部皇子を中心とする一連の事件の流れが理解しにくい。特に敵味方が複雑なのにそこは詳しく書かないで、登場人物の言動も断片的ですっきりしない。
なので、少し補足・補完しながらストーリーをわかりやすく紹介してみる。

皇族たちの立場、ここまでの経緯
穴穂部皇子(あなほべのみこ、記:三枝部穴太部王)は敏達天皇の崩御の後すぐから「皇位を望んでいた」とあるが、これは正確には、蘇我馬子が池辺大兄皇子(いけのべのおほえのみこ)を立てようとして、彦人大兄皇子(ひこひとのおほえのみこ、記:日子人大兄太子)が次の天皇とは限らないという情勢になってからのことだろう。正統な後継が彦人大兄皇子であることは自明であったが、もし彦人大兄皇子の即位がないのなら、次点候補としては池辺皇子も穴穂部皇子も条件は同じである。二人は異母兄弟で、穴穂部には「大兄」とつかないし、後述のように用明天皇在位中に穴穂部皇子は「皇弟皇子」(すめいろどのみこ)と呼ばれるようになるから、上下は判明しているが、まぁ大差なかったのだろう。ただし、蘇我馬子が池辺皇子を擁立したのは仏教の信者(正確には「非神道」ではなくて「容仏派」もしくは「神仏並信派」)だからである。穴穂部皇子もバカではないので、頭ごなしな排仏派では蘇我馬子の支持は得られないし、熱心で真面目な崇仏派では物部守屋の支持が得られないぐらいはわかってただろう。で、宗教問題には興味がなく、大臣たちにまかせておけば文句ないだろうという程度の見識で、これで両派の支持をともに得られるとずいぶん甘い計算をしていたようにみえる。馬子にしたら、神仏並信派とはいえある程度まじめに仏教を奉ずる池辺皇子のほうがいいに決まっている。物部守屋も当初は穴穂部皇子など眼中になく、彦人大兄皇子を支持していたが、用明元年(AD585年、書紀は誤って敏達天皇十四年とする)の八月に彦人大兄皇子が皇位継承候補から降りてしまった(前回の当ブログ参照)ので、称制皇子だった用明天皇の正式な即位が確定した。一応、六月の「仏教制限の約定」が確認されたとは思われるものの、政局としては物部守屋がまずは一敗地にまみれたということになる。先々なんとか挽回したい守屋としては神道派の頼れる皇族と連携したいところだが、礼節のある皇族なら自分で名乗るような図々しい態度は考えものだし、頭のいい皇族ならこんな時に名乗り出るのは政治抗争に突っ込んでいくってことで命がいくつあっても足りないとわかるので出たがらない。池辺皇子が馬子の誘いに乗ったのは、敏達七年に伊勢斎王だった菟道皇女を犯した前科(不倫密通したという意味なのか強姦したという意味なのか不明瞭だが「皇女が犯された」と受動態で表現されている)があって嫌われ、貴族社会に居場所がなかったからで、特殊なケース。とはいえ、愛国心ゆえに天下国家のため危険を顧みずに立とうという志を密かに隠し持つ皇族も少ないながら何人かいた。ただ闇雲に名乗り出るのではなくチャンスを待っていたのだろう。闇雲に名乗り出る人もいて、それが穴穂部皇子だった。だが穴穂部皇子には控えめにいって大局観もなく信仰問題についての見識もなかったから、私利私欲で皇位を望んで居るのだろうとみる者もさぞかし多かったろう。物部守屋としては選択の余地がないので、やむなく「排仏派になるのなら」という条件で穴穂部皇子を支持することにしたのだろう。九月に即位したばかりの用明天皇は同月に詔勅を発して娘の酢香手姫皇女(すかてひめ、記:須加志呂古)を伊勢斎王として捧げているが、これはかつて伊勢斎王の菟道皇女を穢した罪ほろぼしという一面もあったのではないか、だからここで詔勅があったと特筆しておきながら、詔勅の内容は省かれているのは自分の過去の罪に言及していたのだろう。

穴穂部皇子の暴走と物部氏の決起と敗北

翌年(用明二年、書紀は誤って元年とする)の五月
「さきの皇后」(敏達天皇の皇后)である額田部皇女(ぬかたべのみこ)が敏達天皇の殯(もがり)に仕えている最中の広瀬宮(今の広陵町あたり)に穴穂部皇子が押し入って前皇后たる額田部皇女を犯そうとしたという。これだけ聞くとなんて乱暴な破廉恥漢だと思うだろうが、これはアンチがフレームアップしてあたかも欲情にかられただけの単なる強姦魔だったかのように流した話であって、やや同情の余地がある。というのは、崩御の後に新天皇が誰なのか不明瞭な場合は、伝統的に後宮が決定的に大きな影響をもっていた。先帝に最も親しかった后妃が皇位の未来についての考えや諸々の皇族たち一人一人への評価などを身近に聞いていただろうから、故人となった先帝の遺志を代弁するのにこれ以上の権威はない。ほとんどの場合皇后だが、後宮の構成員や個々人の資質や内部の派閥親疎、外部の政治勢力との繋がりの多寡などによって、先帝の母だったり、その時々でもっとも後宮で地位の高い女性が決定権をもつ(継体天皇の即位を決めたのも大伴金村ではなく白髪皇女を始めとする武烈天皇の姉妹たちである。後の時代になるが、南北朝の分かれ目になる後嵯峨天皇の遺志が、二人の息子(後深草天皇か亀山天皇か)のどちらだったのかを鎌倉幕府が確認した時も大宮院(後嵯峨天皇の中宮、西園寺姞子)に諮問している)。この未亡人となった皇后が、新帝即位までの間、朝政を仕切る権威となる。この期間を際限なく延長したのが女帝の起源(推古天皇)なのであるがその話はまた後で。ともかく、この理屈からすると、敏達天皇の正統な後継である彦人大兄皇子が降りた以上、では誰が適任なのかは額田部皇女がなんといいだすかにかかっていることがわかる。これまで額田部皇女が沈黙を守ってきたのは、一つには敏達帝の遺志は彦人大兄にきまっていて他の選択はなかったからだろう。むろん額田部皇女個人の気持ちとしては自分が産んだ竹田皇子を天皇にしたいと思っていた可能性もあるがそれはまだ先のこと。もし額田部皇女からの推薦があれば、かなりの力になることは間違いないのだから、皇位を望む穴穂部皇子が額田部センセイ様からなんとかひとつお墨付きを得られないまでも、「先のみかどがそれがしのことをなんと仰せだったか一言きかせてくだされい!」と思うのは当然だろう。しかし額田部皇女は殯(もがり)の最中で亡き夫の思い出に浸りつつひっそり先帝の魂を祭ってる最中なのだ、こんな時に思い込みが激しく独りよがりな男の粗暴な要求をきいてなどいられない。こういうタイプは現実がみえず自分の要求が通るまでダダをこねるので、「一言きかせてくだされ」に付き合ってしまうと二言三言まで要求され最後には「推薦の言葉」をもらうまで帰らないし無理に押し返そうとすると興奮のあげく逆ギレしてどんな暴れ方をするかわかったものではない。べつに穴穂部皇子に個人的な恨みがあるわけではないが、実際に体験するまでは到底信じられないような、想像を絶するようなめちゃくちゃな既知外が本当にいるんだぞ(老若男女とわず)。でここに三輪君逆(みわのきみ・さかひ)という敏達帝が信頼をよせていた忠臣がいた(「さかふ」とも読めるが「さかひ」がいいと思う)。彼が殯中の広瀬宮の警備を担当しており、穴穂部皇子を頑として中に入れなかった。激昂した穴穂部皇子は大臣の馬子と大連の守屋に相談し、三輪逆を処刑したいと騒ぎたてた。二人は揃ってハイハイと話をあわせたが、穴穂部皇子がこれにかこつけて何か皇位に近づくための策だなとは二人とも見ぬいている。馬子にしたら、穴穂部皇子が額田部皇女お気に入りの三輪逆を殺してしまったら、穴穂部皇子と額田部皇女の仲は回復不能なぐらい険悪になってしまうのがなぜわからないのか不思議だったろう。そうなったら穴穂部皇子の即位は絶望的になくなり、まずます守屋を追い詰めることになって笑いが止まらない。だが、守屋にとっては馬子が擁立した用明天皇を引きずり下ろす機会なのでその話に乗りますよという意味での「ハイハイわかりました」なのである。天皇を引きずり下ろすなんて発想は謀反人じゃないかと思うかもしれないが、用明天皇は正当性のない皇族を権臣が政治的都合で勝手に擁立した「日本史上最初」の天皇なのであってこの時は「かつて前例にない」事態なのである。物部守屋をはじめとするアンチ蘇我の連中から「ニセ天皇」とみられていても何の不思議もない。そこで物部守屋は軍勢を率いて出発したが、なぜか広瀬宮にはいかないで池辺を、つまり用明天皇の皇居のあるところを包囲してしまった。つまり現在の朝廷政府を包囲してしまったのである。紀には守屋と穴穂部皇子の二人で包囲したかのように書いてあるが下文に皇子は「大連のところに行こうとして云々」「…磐余(池辺を含む地域)に着いて云々」等とあるから軍を率いて先ず皇居を包囲したのは守屋だけだとわかる。守屋ははじめからクーデターを敢行するつもりだったが、タイミング悪く蘇我馬子の身柄を取り逃がした。この後、紀では穴穂部皇子(一説には泊瀬部皇子との二人)が三輪逆の逃亡先である海石榴市宮(つばきちのみや、額田部皇女の別荘)に守屋を行かせて殺させたというが、穴穂部皇子は方向違いの磐余に向かっていたともあるから、穴穂部皇子の考えでわざと池辺磐余から守屋を引き離したことになる。おそらくさすがの守屋も用明天皇をニセ天皇じゃないのかと薄々思いながらも、前例のないことだからどこまで過激なことが許されるのか判断つかず、躊躇いがあった。それをみてとった穴穂部皇子は守屋に引き止められることを恐れて自分一人の手で政権奪取を完遂しようとしたのだろう。守屋も天皇殺しの汚名をきる覚悟まではなく、海石榴市宮に行けという穴穂部皇子の命令に従った。とはいえ三輪逆を斬ったところで、額田部皇女との仲が疎遠になるばかりでこっちの陣営には何の得もないのだから、守屋にしたら格好だけで実際に三輪逆を捕まえる気などなかったろうが、末端の兵が先走ったか、蘇我の工作員が潜入していたか、穴穂部皇子に言い含められた者が手を出したか、なんらかの理由で三輪君逆を殺してしまった。紀の一説に「穴穂部皇子が自分で赴いて三輪逆を弓で射殺した」とあるから、これは穴穂部皇子の腹心が守屋の手勢の中に混じっていたというのが真相だろう。守屋は「しまった」と思ったろうがもう遅い。一方、紀には蘇我馬子が穴穂部皇子を諌め説得して諦めさせたとある。ここでどんな説得をしたのかまでは詳細が書かれていないが、察するに「三輪逆を殺した守屋は額田部皇女からは憎まれ、守屋とむすんでいるあなたも額田部皇女の敵になりますぞ。彦人大兄皇子も竹田皇子も額田部皇女もわたくし馬子とともに仏教仲間で一つになりましたぞ、同じ仏教仲間の用明天皇を殺害してはその後だれも支持しませんぞ。三輪逆が死んだ件については守屋に罪をかぶせてこっちに付けば、次の天皇はあなた様」くらいのことは言ったんだろう。実際、これ以降、穴穂部皇子は「皇弟皇子」(すめいろどのみこ)と呼ばれている。天皇の弟は多いのに一人だけこう呼ばれるのはつまり「皇太弟」の格だってことだ。これでコロッと騙されて、包囲を解いてしまったものと思う。守屋は磐余で穴穂部皇子と落ち合って、包囲が解かれていることと馬子が穴穂部皇子の隣にいることに驚き、かつすべてを察した。「三輪逆を斬ってきましたよ」と報告したが、実際は射殺なのに斬ってきたというのは守屋の裏をかいて部下に射殺させた穴穂部皇子への嫌味だろう。これには穴穂部皇子はばつがわるい。すると、蘇我はそらぞらしく心配そうな芝居で「天下はほどなく乱れるだろう」と嘆いてみせた。これも嫌味で、穴穂部皇子になりかわって、守屋にさらにデカイ嫌味で返してやったのだ。天下が乱れるというのは「内乱になれば武力でまさる物部が有利、さぁ我々蘇我は困りますなぁ」という意味だが、物部はもはや玉(ギョク)をもたぬのでせっかくの武力も使いようがないのを見越していってる。だから痛烈な嫌味なわけ。守屋は「おまえのような小物に何がわかるか」と答えているが、武力では物部がまさっていることはその通りなので、ここは「蘇我についてるのはうわべだけで実はおまえなんかに誰も心服してないぞ、おまえは何もわかってないがな」という意味。これは物部の強がりではなくこの段階では本当のことで、守屋はまだ皇族の中に味方をふやせる自信があった。
腹積もりや算段においては守屋はぜんぜん負けてる気はしなかったろうし、客観的にもこの段階ではその通りだったのだが、一般庶民は裏事情まで知らないからそうみない。守屋の考えを読めない蘇我陣営も、これで物部は封じられたと考え、かなり強気になっていただろう。当然、物部と蘇我の仲もどんどん険悪になっていった。

蘇我氏からの反撃クーデター

翌年(用明三年AD587、書紀は誤って用明二年とする)四月二日(05/16g水)
大嘗祭(といっても践祚大嘗祭は当時まだないので毎年の新嘗祭のこと)。四月は旧暦だから今でいう5月で、立夏すぎてるから中国式の暦では夏。大嘗祭は冬にやるものなのにこの年はなぜか夏にやっている。一説には前年の戦乱のため伸びたというが、前年の未遂クーデターは紀の編年では五月になっているので、冬には問題なく大嘗祭ができたろう。五月から始まって冬に及ぶほどの長々と続いた事件のようにも思えない。そもそも延期になったからって冬の行事を夏にやるだろうか? 季節はずれの新嘗祭はこの後も例がないわけではないがいずれも何かの間違いか極めて特殊な事情によるもので一般化できない。神道アンチがわざとへんなことをやったとも考えにくい(神道アンチはそもそも神道の祭祀などやらないだろう)。いちばん自然な解釈としては四月二日には何かの夏祭があって天皇がそれに参加したという記事が誤記されたのか。ただ、この後に起こった事件をみると、最初から蘇我派が守屋を殺害するためのクーデターというか宮廷内乱だったようだ(上に逆らうのをクーデターとはいうが同輩を排除するのをクーデターというのかどうかは知らんがたぶん合ってるだろう)。正面からの戦争では物部に勝てない。だからこれは神道派に十分に相談した上での、特例的な祭祀で、冬には冬でいつもの大嘗祭はちゃんとやっていたのだろう。ただしその場合でも大嘗祭という名前だったかどうかは疑問が残る。原資料は仏教側の資料に基づいた記事なんだろう。神道側からすれば菩薩も如来も観音も区別がよくわからないのと同じような話で、神道の祭祀のことはよくわからない仏教関係者が書いた資料に基づいた記事なのではないか。
で、クーデター計画の予定がこの時期になったのは昨年五月の事件以来、11ヶ月あって、当たり前だがこの間は、蘇我も物部もそれぞれ自派の弱点の補強にこれ努めていたはず。物部の課題は皇族の取り込みで、彦人大兄皇子・宅部皇子(やかべのみこ)・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)が脈あり、この3人のうち彦人大兄皇子は表面的にはやや蘇我寄りだが中立派(実は物部派か少なくとも完全中立派)。宅部皇子は宣化天皇皇子で、内心では物部派だが目眩ましに穴穂部皇子の親友として振る舞っていた(穴穂部皇子は実質は蘇我からも見放されているが形式上は蘇我派)。泊瀬部皇子は穴穂部皇子の同母弟で、守屋と連携していた頃の初期の穴穂部皇子とタックを組んで活動していたほどの積極的なアンチ蘇我だが、大志があり、完全なる蘇我派に扮して敵陣営に潜入していた。おおっぴらな物部派がいないが表面的にはとりあえず穴穂部皇子を神輿にしたままだったと思われる。すでに守屋は穴穂部皇子に実質裏切られており、仲が悪いのも世間に周知ではあるが、穴穂部皇子は情況がかわればまたコロッと帰ってくるタイプだろう。物部にはギョクがなくてしかたなく穴穂部皇子にいつまでもこだわってると思わせておくのが目くらましに丁度いい。ただ、この程度ではまだ物部にとって、再度のクーデターに打って出るようなわかりやすいタイミングとはいえない。対する蘇我の課題は軍事力の確保だったが、物部とならぶ武門の棟梁、大伴氏を引き入れることに成功した。大伴氏はかつては物部氏より格上の将軍家だったが大伴金村が蘇我稲目にはめられて失脚してから大連(おほむらじ)の地位を失っていた。この時の大伴氏とは大伴毘羅夫(おほとものひらぶ)と大伴齧(おほとものくひ)だが、毘羅夫のほうは後世の系譜にも名がなく系統不明。蘇我の滅亡とともに消えてしまった。ともかく、蘇我も物部も自派の弱点を克服しようとしていたが、以上の情況からするとタイミングを掴んだのは蘇我だったとはいえる。
で、クーデター決行のこの時に天皇は発病。これは芝居で出来ることじゃないので、クーデター計画とは別だろう。冬の大嘗祭を夏にやったからバチが当たったとも読めるが、そもそも夏にやらないだろうとは前述の通り。で、例によって天皇は仏教に頼って病気を治そうとしたが、六月約定(仏教約定)に反することになるから物部守屋と中臣勝海は猛反対。しかしこの約定は天皇不在で決められたものだから、当時の感覚では正統性に劣る。いま陛下が仏教に頼りたいと言い出したら引っくり返ってしまう。で、穴穂部皇子が陛下のために皇居に坊さんを連れてきたので守屋が激怒したというが、これは穴穂部皇子の裏切りに激怒したわけではなくて(そんなこた先からわかりきってること)、神聖な皇居に穢らわしい坊さんを引き入れたことに怒っている。これは陛下の急病(天然痘)という突発事態への蘇我と物部の反応だが、水面下で進んでいたクーデター計画は腰砕けになりかけていた。なぜならクーデター計画に参加してる者にとっては、陛下の急病はクーデター計画を喜ばない神の怒りと解釈される余地があるからだ。押坂部史毛屎(おしさかべのふひとけくそ)は帰化人系の氏族でクーデター派だったと思われるが、蘇我を裏切り守屋に内通してしまった。守屋は早速、河内の本拠地に退いて念のため戦争準備に備えたが、必ずしもまだ全面戦争になるかどうかはわからなかった。
中臣勝海は太子彦人大兄と竹田皇子の像を作って呪いをかけたが、ことが成就しないのを悟って彦人大兄皇子に帰服したと書紀は書いている。が、これは事実ではあるまい。呪いをかけたというのは蘇我派の誹謗だろう。「ことが成就しないのを悟り」っていうのは呪いをかけてたんじゃなくて何かの占いをやってた証拠だ。この段階で蘇我側は表面的には穴穂部皇子を時期天皇(皇太弟)としていたがこれは過去の経緯によるもので蘇我の本心ではないことぐらい中臣勝海もしってる。世間の読みでは蘇我の本命は竹田皇子(母は額田部皇女)、そして書紀はこの段階でもまだ彦人大兄を「太子」と書いているように、彦人大兄の正統性は卓越しており、彦人大兄皇子は蘇我についたとはいえどちらかというと中立派で物部討伐軍にも参加していないし、蘇我が勝手に「彦人大兄皇子も仲間だ」と宣伝してるのを黙認してたって感じだろう。そこらの空気は中臣勝海も知り抜いていたろうから、竹田皇子に対してならともかく彦人大兄皇子に対して呪いをかけるということは考えにくいと思う。だからこそ、今回は物部ヤバイと判断した勝海は、神道祭祀で皇室にお仕えする家柄のため崇仏派にはなれないわけだから保身をはかって彦人大兄皇子に帰参するしか選択肢がない。だが帰服した直後に運悪く蘇我の手の者に殺された。あるいは「ことが成就しないのを悟り」というのは部外者か蘇我派の推測であり、実は占いの示した指示に従って、物部と彦人大兄皇子を仲介しようとしたのか。それなら蘇我の刺客に襲われるのは当然かもしれない。
河内に引っ込んだ守屋は、一応、身内の者を馬子に派遣して事情説明しているがまるで馬子が首謀者だとは夢にも気づいてないような素振りのことをいっている。だが、まぁ時間稼ぎの嘘だろうな。対抗する蘇我馬子もさっそく秘密兵器ともいうべき大伴氏に連絡して、大伴毘羅夫は自ら馬子の護衛を買って出た。

同月十五日
用明天皇崩御。古事記では十五日だが書紀では九日に崩御。辻褄あわせとしては「九日に危篤に陥り十五日に崩御」とも考えられるが、古事記にはやけに十五日に崩御する天皇が多いので「九日が正しく十五日は公式な葬儀の日付」かもしれない。両派とも軍備を整え、高まる一方の緊張感だったが、天皇崩御に及んでいよいよ第二の内乱は避けがたい空気になってきた。

丁未の仏乱

用明三年(587年、書紀は誤って用明二年とする)四月
この月に用明天皇が崩御した時はいつ開戦してもおかしくないような情況だった。物部は軍事的にはさっさと蘇我を滅ぼしてしまいたいのだが、手元にギョクがない。手元にないだけで泊瀬部皇子(=長谷部王)や宅部皇子とは裏でつながっていた。問題は穴穂部皇子で、この人は用明天皇の「皇太弟」格だったからもっとも天皇の位に近かった。だが、はたからみると蘇我派のようにも物部派のようにも振る舞っており実はあまり考えてないタイプだった。次の天皇として蘇我馬子が穴穂部皇子を擁立する流れも大いにありえたしそれはむろんまずいことだが、この人は阿吽の呼吸とか腹芸とかできない人な上、すでに用明天皇の大喪の礼では宮廷に僧侶を入れて物部守屋がブチ切れたことがあり、守屋と穴穂部皇子の仲は気まずくなってた。ここで蘇我に利用されては困るが、かといって物部が言って聞かせてもわからないだろう。そこで守屋は自分の手元に隔離しようと考えた。

五月
物部守屋は穴穂部皇子を淡路島に狩猟にいこうと誘った。遊びにかこつけて拉致しようというのだ。この計画は漏れたが、穴穂部皇子に漏れたのではなく蘇我に漏れたのである。

六月七日
炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)と蘇我馬子は穴穂部皇子と宅部皇子を殺害する命令を出した。穴穂部皇子がいつなんどき物部側に走るか想像がつかないし宅部皇子については「彼は穴穂部皇子を煽ってる危険分子だ」とみてたろう。事情はともあれ、自分が天皇でもないのに皇位継承権のある皇族を殺害しようってんだから、この2人がどんなトンデモない人物なのかわかろうってものだ。皇族を拉致しようとした物部守屋もまさか蘇我がそこまでやるとは予想しなかった。逆にいうと、蘇我陣営はそれだけ焦っていたともいえる。武力では物部が勝っているのだから後は物部がギョクを奉じてしまったら崇仏派の陣営は一巻の終わりである。守屋が皇族を擁立できない以上、いくら戦力で上でも意味がない。ここで勝負は八割か九割ついてしまったといえる。いくら軍事力で上でも、我が物部には(少なくとも公式には)皇族がおらず蘇我には皇族がたくさんついているのだから、賊軍になることを虞れて造反者や裏切り者が出てくるし、蘇我も内応をしかけてくるだろう。守屋としたら電光石火で崇仏軍を撃破してさっさと泊瀬部皇子(=長谷部王)を擁立せねばならない。時間をかせがれると強大な物部軍は内部から崩壊する危険があった。泊瀬部皇子は崇仏派のふりして蘇我陣営にいるので、守屋に内通しているスパイでもあるのだが、穴穂部皇子も宅部皇子も亡き今、正確にいうと泊瀬部皇子は守屋の主君なのである。物部の敗因は第一には皇族の身柄を陣営内に確保しそこなったことだが、第二案として戦場において泊瀬部皇子が物部に内通して崇仏軍を裏切るというシナリオはできていたが、物理的な下準備がうまくいってなかった。第二の戦略は未完成だったのが第二の敗因である。皇族将軍であっても実質的な将軍を兼ねていることはいくらでもあることだが、実権の曖昧な「お飾り」にすぎないこともある。泊瀬部皇子がまさにそれで立場上、総大将(総司令官)ではあるがそれはあくまで形式で、蘇我馬子は疑っていた。泊瀬部皇子が初期の頃は排仏派として行動していたことは秘密でもなんでもないことだったから、疑い深い人間からうさんくさく観られるのはやむを得ない。二番手の竹田王や三番手の厩戸王は実質的な武将でそれぞれの部隊を率いていたし、泊瀬部皇子も「長谷部」の部民から徴発した自前の手勢はもっていたろうが、形式上は総大将だから親衛隊にするのが関の山で独自の別行動などできないし、崇仏側の重鎮らとともに幕営内にいるのだから監視されているも同然だ。地位だけはやたら高いものの、これでは本当のお飾りで、内通して裏切るも糞もない。

七月
開戦の火蓋を先に切ったのは蘇我だ。これは物部側の将兵から密かに投降したいとの申し込みがかなりの程度きており、十分いけると踏んだのだろうが、むろんその中には守屋の仕込み、つまりウソの降伏も含まれてはいたろうから、それだけで決断したわけではない。馬子の嫁は守屋の妹で、馬子は守屋の妹にあれこれ吹き込まれて守屋を滅ぼしたという。守屋とその妹は仲が悪かったのか? この時代、不動産を含めた家産を所有、管理しているのは女性だったから、守屋の妹は物部氏内部の、物資の補給先や運用経路について熟知していたのだろう。そこで、蘇我の強みは物資の豊富さなわけだから、物部の兵站を断つ兵糧攻めを献策したのではないか。蘇我は物資の流通も支配していたから開戦よりかなり前の段階で兵糧攻めに持ち込むのは不可能ではない。七月になって蘇我のほうから戦争をしかけたのは秋の収穫の直前で糧秣がもっとも少なくなる時期を狙ったものではないのか。ともかく泊瀬部皇子内通の段取りが整わないうちに蘇我から仕掛けられて開戦してしまった。

この戦争の名前について
この戦争、最近の学者は「物部戦争」といってたはずだがwikipediaみたら「丁未の乱」「丁未の変」「丁未の役」「物部守屋の変」とある。「乱」というのは単に戦乱が起こったという意味でなく「反乱」のことなので、今回のこの戦争にふさわしくない。「承久の乱」とか「応仁の乱」とかは言い方がすでに間違ってる。ちょっと脇道に逸れるが、「天皇の反乱」ってのは論理上ありえないので承久の乱という言い方は間違いなのである。鎌倉では勝手に「主上御謀叛」みたいな言い方してたが無教養な田舎っぺだからしょうがない。「応仁の乱」も室町幕府の内輪もめだから本当は「応仁の陣」とか「応仁の戦」とかだろう。今回のこれは「丁未の変」「丁未の役」はまぁギリギリOKとして、「物部戦争」とか「物部守屋の変」とかはおかしい。これは蘇我から仕掛けた戦争なのだから(いろんな意味で)。先に仕掛けたのが蘇我陣営だから、蘇我視点では「崇仏の戦い」か。中立的には「神仏戦争」だろうと思うがどうかな。

蓋をあけてみないとわからないのが戦というものだが、初戦のうちは、必死で戦う物部の強さは予想通り圧倒的で、蘇我の敗北は確定したかに思えるほどだった。だが、事前の調略が図にあたりやがて物部軍は崩壊した。

この時、厩戸王は四天王の像を作って勝利を祈ったというが、物部側にはカミに祈った者が無数にいたろうし、蘇我陣営では仏に祈った者がこれまた無数にいただろう。だから厩戸王が仏に祈ったこと自体はいちいち記事にするほどのことではない。のちに偉人になったから語り伝えられたエピソードがあってそれを挿入したにすぎない、というのが一般的な解釈だろう。しかし、厩戸王はもし勝たせてくれたら寺を造ろうと祈ったという。これが本当なら神仏を相手に駆け引き・取り引きをしようとしたことになり、これは典型的な黒魔術の類だ。これは厩戸王が実際に物部軍の調略を担当したことを暗示した記録なのである。仏を守護する四天王とは、日本で喩えていえば天皇を守護する四大軍事氏族、大伴・物部・久米・佐伯のことになる。で、何かしらの彼らに有利な条件を餌にして崇仏軍へと誘い込んだのだろう。久米・佐伯は崇仏側にでてこないから物部側に加わっていたろう。大伴は2つに割れて両方にそれぞれ味方する者がいたんだろう。年端もいかない厩戸王がそんな高等な陰謀の主体であるわけないだろうという反論も昔からある。しかしそれは現代人の思い込み。この時代の日本ではヤマトタケルの伝説が事実として信じられ、今でいう仮面ライダーやウルトラマンのように子供なら誰でも「今の世のタケルたらん」と憧れていたのである。現代の親だったら「危ないからバカなこたぁやめれ」と冷やかしたりおちゃらかしたりするんだろうが、当時は「近代主義的なこども観」(=子供とは大人の未完成バージョンにすぎないという考え方)ってのがそもそもない。大人も「カミの憑り坐し」として子供をみてるし、ヤマトタケル、雄略天皇、武烈天皇などの暴虐な少年英雄の類型を内面化しているので、子供の意見とか子供という存在自体を自分より格下とみる風習自体がないのだ。逆に畏怖しているのである。だから封建主義的な長老支配などこの頃の日本には無かったのである。仁徳天皇や宇治若郎子や葛城氏が勧め拡めてきた「儒教」なんてのは、むしろ女子供の支配を打破しようという「おっさんの復権運動」だったのである。まぁ、あれだよ、90年代後半に下北沢あたりでもりあがってた「メンズリブ」みたいなやつだなw

異説・四天王に祈ったのは5年前だった?
ところでこの四天王に祈って勝利できたので、約束通り四天王を本尊とする寺院を推古元年(593年)に建立した。それが今の四天王寺ってことになる。以上は『日本書紀』の記述。ところが『信貴山縁起』では聖徳太子が物部氏を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中で信貴山に至り、そこで戦勝祈願をするや上空に毘沙門天が出現、必勝の秘法を太子に授けたが、その日は寅年、寅月、寅日、寅の刻だったという。太子は自ら本尊を刻み、推古二年(594年)に毘沙門天を祀る寺院を建立した、それが今の信貴山寺なのだという(正式には朝護孫子寺だがまぁ普通は信貴山寺でいい)。『信貴山縁起』ははるか後世に書かれたものなのでこれで古代史を論ずるわけにはいかない。だから学者もこれを史実とはしていない。書紀の記述をパクって四天王寺の縁起を信貴山寺の縁起にすりかえた創作譚だとされている。だが俺はこれも古伝承の断片ではないかと思う。両者を比較すると、毘沙門天は四天王のリーダー格、多聞天の別名なので、四天王か毘沙門天かの違いはこの際ほぼ同じこととしてよいが、年月日と場所が異なる。
用明二年に一番近い寅年は敏達十一年(582年)と皇極元年(642年)だが後者は時代がズレすぎ、とっくに聖徳太子も死んでるので前者のことだろう。前者は書紀よりも5年前になる。寅月は旧暦の正月のこと、敏達十一年(582年)正月の寅日は2回あり、十日(ユリウス暦2月17日・火曜)と二十二日(ユリウス暦3月1日・日曜)があり、どっちか決められない。上述の俺の説では四天王とは大伴氏ら軍事氏族の暗喩であり、厩戸王は彼らに寝返りの打診をして成功したわけだが、こういうのは合戦の最中に急に思いついても成功するものではない。何年も前から下ごしらえを仕掛けておく。調略とはそういうものではないか。なので、この調略が合戦の5年前から始まっていたというのはまったく理にかなっていると思われる。5年前というと厩戸王は数え九才(満8歳)今でいうと小学校二年生ということになるが、幼すぎて陰謀や調略の主体となることは考えられない、なんてことはないってことは上述の通り。ましてや厩戸王は生まれながらの大天才でしかも早熟だった。俺だって小2の頃は『ゴジラvsヘドラ』みて大興奮しつつも公害問題、環境問題について真剣に議論してたわw 他にも天地真理に夢中になってる親戚のにいちゃんみてアイドル文化について考察したり『戦争を知らない子供たち』を歌いながらベトナム戦争支持したり左翼運動に対して国を憂えたりしてたわw ウルトラマンが帰ってくるってんでわくわくしたり、仮面ライダーっていう新番組をみて「これは毎週みよう」と決意してたわw ライダーといえば少年マガジンで連載されてた石ノ森章太郎の『リュウの道』、薄暗い歯医者の待合室で読みながら人類の未来について哲学的に考察を深めてたわw そういうことだから四天王っつったって厩戸王にとってのウルトラ兄弟みたいなもんよ、8歳児なんだからさ。ウルトラマンだって思想的に深いわけでそこは仏教にまさるとも劣らんよ?
あと場所の問題。用明二年の合戦の戦場と信貴山ではだいぶ離れていて、一見関係なさそうだが、確かに合戦のさなかに厩戸王だけこんな突拍子もないところにいたらおかしい。しかし『信貴山縁起』がいうように合戦の5年前ならどうか? 『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には「大和の信貴」でなく「河内の信貴」とある。当時は国境線が今よりもかなり東側を通って信貴山は河内に属していたのか、あるいは信貴山寺が西方の河内にあったのが後になって現在地に移転してきたのか、そこらの話はわからんがとにかく大和と河内の国境の山岳地帯であり、物部守屋の本拠地は今の大阪府八尾市のあたりだから、葛城山地をはさんですぐ裏口を窺う形勢にあり、物部氏の様子をスパイしたり工作をしかけるのには打って付けの場所ではないか。
敏達十一年(582年)の頃は書紀ではほとんど任那の問題ばかりで仏教をめぐる対立などほとんど出てこないが、仏教公伝は欽明朝のことで当初イザコザが多かったことは書紀にかかれているのに、敏達朝になってからパタリと止んだのは、敏達天皇自身が仏教に否定的だったので崇仏派は抑え込まれていたのだ。崩御してから急に排仏派と崇仏派の抗争の話ばかりになるってことは前回、敏達天皇の回にも書いた通り。だから敏達天皇の生存中は、朝廷での議論としては封印されあがってこなかっただけで、朝廷の外に一歩でればあいかわらず欽明天皇の頃のままに排仏派と崇仏派の激しい対立は継続していたのである。そういう中で崇仏派の天才児厩戸王が、排仏派の首領である物部守屋が率いる物部大軍団をどうやって調略しようかとあれこれ作戦を練ったり実際に寝返り工作をしかけたりしていたというのは、まったくありそうなことではなかろうか。

【データA】
敏達十一壬年(AD582)正月壬月、厩戸王九才(8歳)
十日甲日(02.19g 02.17j)火曜
廿二丙日(03.03g 03.01j)日曜

【データB】
用明二年丁年(AD587)七月戊月、厩戸王十四才(13歳)
五日戊日(08.16g 08.14j)木
十七庚日(08.28g 08.26j)火
廿九壬日(09.09g 09.07j)日

七月二十一日
この日に用明天皇の大葬の礼があったからそのだいぶ前には戦争は終結していただろう。ここで物部氏は滅び、蘇我馬子の独裁が確立した。

(※「英雄・崇峻天皇殺害の真相(崇峻天皇)」に続く)
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