FC2ブログ

・推古女帝の崩御日の謎

H29年10月12日(木)投稿 H29年10月11日(水)初稿
墓移転をめぐる問題
『古事記』の墓記事は異例で一度移転したことが書かれている。最初の墓(大野岡陵、今の植山古墳)はもともと推古女帝の先立った息子・竹田皇子の墓で、遺勅により、新しく墓を築くことなく竹田皇子墓に合葬してそのまま天皇陵としたものである。しかし当然それでは天皇陵としては不自然に小規模(一応推古天皇崩御時に拡張工事で二倍にはなったが)であるゆえに、後に天皇にふさわしい規模の新陵(現在の推古天皇陵=科長大陵)がつくられた。これには蘇我氏が自家の縄張りまたはお膝元にあたる南河内に歴代の天皇(敏達天皇、用明天皇、推古天皇)の陵墓を造営することで己の権力を記念かつ誇示するといった思惑も働いたのではないかとの指摘もあり、その時期は蘇我氏の権勢が絶頂を迎えた皇極天皇の時代と推測されている。すなわち「推古天皇陵の移転」は『古事記』全巻の中で最新(最後)の事件ということになる。

薨去の日をめぐる問題
『日本書紀』では推古三十六年三月七日(AD628年4月15日)に崩御とあるが、『古事記』では戊子年三月十五日癸丑日に崩御とあり、日付が異なる。ところがこの年の三月十五日の日の干支は辛酉であって癸丑でない。癸丑日でいちばん三月十五日に近いのは書紀の三月七日説である。つまり記の日付は日付と干支が矛盾しているが紀の三月七日(癸丑)説は矛盾がない。記紀に相違あって真相が定め難い場合は古事記の説をもって第一仮説とするが常套であるべきで、これは紀が癸丑の日に合わせて前に日付をずらしたもので後付けの辻褄あわせであって、一見矛盾にみえる記が史実に近いのではないかと疑われぬこともない。宣長もいうとおり、記の十五日説が後から出た説なら必ず後人が正史たる書紀によって訂正をいれこれを間違いとしてたはずだからである。記紀では異なる暦をもちいたとの説もあるが、1日か2日程度ならともかく同じ年でこれほど日の干支がズレるのは暦制の違いでは説明つきにくい。『日本書紀』の推古三十六年は戊子年に相当するから年の違いということも考えられない。
1)そこでひとつの解決案としては古事記では十五日に崩御した天皇がやけに多いことから、十五日とは何か大葬の礼にまつわるお決まりの日程で本当の崩御日ではないのではないかとも考えられる。なんらかの夜の儀式があって月明かりがあったほうが望ましいので崩御の後、最初の十五日に大葬の礼が催行されたのではないか。古事記では日に干支が付された例はここ1か所しかないから、「癸丑日」は日本書紀をみた人間が早とちりで書きつけたものだろう。この説の場合、日本書紀にはそのような「十五日の夜の儀式」の存在を思わせる記述がまったくないのが難点ではある。加えて、なぜ推古天皇だけ崩御の日付に干支が付されたのかも説明できない。
また別の解決案としては「戊子年三月十五日」と「癸丑日崩」の間に文章の誤脱があったのではないだろうか。これには下記のようにいくつものパターンが考えられる。

2)薨前譲位日説
三月十五日の後で最初にくる癸丑日は五月八日である。元の原文は「三月十五日(…誤脱…)五月八日癸丑日崩」とあったのではないか。では三月十五日の後ろの誤脱したところには何が書かれていたのか。記は崩御以外に日付を書くことはほとんどないので、ここは崩御にも匹敵する、または崩御に類似した重要な事件に違いない。それが崩御の直前とすると、譲位ではなかろうか。そもそも最初の女帝が擁立されたのは忍坂日子人大兄皇子と厩戸皇子(聖徳太子)との皇位争いを先延ばし緩和する意図があった。しかるに女帝の在位があまりに長すぎたため、崩御の直前になっても争いは次世代である田村王(舒明天皇)と山背大兄王にそのまま継続され問題は未解決だった。そこで崩御の後に争乱が起こることを予期した推古女帝が時期天皇(一般的に田村王だったと考えられ勝ちだが疑問もある。推古天皇の意志は山背大兄王だったのではないかと思われるが詳細は今は触れない)への譲位をおこなったのではないか。紀ではもちろん譲位があったなどとは書かれず、三月六日(つまり紀の想定している崩御の前日)病床の推古女帝から田村王と山背大兄王へ遺詔があったとして、その解釈をめぐり朝廷の中で不穏なやりとりが続いた様が書かれる。この記事の中では、権力を掌握していてどちらを擁立するのも自在なはずの蘇我蝦夷の言動が煮え切らず不審である。蘇我蝦夷は父の馬子から権力を継承して間もなかったので権威を誇示するために先帝の指名でなく自分の指名で新帝をきめる必要があった。そこで遺詔を一旦は有耶無耶にして朝廷貴族たちが己の顔色を伺いながら意見をいうさまをプロセスとして実現してみせたのである。蘇我蝦夷にしてみればどちらを擁立するかではなく、どちらを擁立するにしても「蘇我氏の権力によって擁立された」という格好を拵えることが重要であった。むろん二次的には「どちらを擁立するか」という問題はあるが、蝦夷は山背大兄とは溝があり、はじめから懇意な田村王を奉じる存念であったろう(一般的には山背大兄を蘇我系、田村王を非蘇我系とするがこれは本人たちに流れる親の血筋の話。本人たちは、山背大兄が蘇我の娘を妃としていないのに田村王は蘇我の娘を妃としている。将来的にどちらが蘇我にとって「よい皇族」なのかは明らか)。つまり蝦夷にとっては蘇我の総帥の地位を継いで最初の試練が「推古天皇の遺詔に反して別の皇族(蘇我にとって都合のよい皇族)を天皇に立てる」という課題だったわけだ。 以上、元の原文は「戊子年三月十五日辛酉日譲位、五月八日癸丑日崩」とあったのだとの説。

3)遷墓合葬月説
もし「癸丑日」が「癸丑月」の間違いだとすると、もっとも近いのは皇極天皇元年十二月にあたる。上述の天皇陵の移転時期が皇極朝であることはふれたが、この年のこの月は舒明天皇の喪が発され同帝が埋葬された月であるから、推古陵の移転もこの時だったのではないか。以上、元の原文は「戊子年三月十五日辛酉日崩、御陵在大野岡上。後、壬寅年十二月癸丑月、遷科長大陵也」とあったのが誤脱と転倒によって現状の文面となったという説。御陵の移転の年次が示されているというのがこの説の強み(というか面白み)であるが、そのかわり舒明天皇の即位と崩御の記事までも誤脱したのだと言わねばならないのが弱点である。

4)孝徳帝崩年説
記は干支は紀年につかうが日付に使うのはここだけで異例である。もし「癸丑日」が「癸丑年」の間違いだとすると、もっとも近いのは白雉四年(AD652年)にあたる。これは紀では孝徳天皇崩御の前年である。書紀ではこの年、中大兄皇子が関係者全員をつれて大和に帰ってしまった。書紀では孝徳天皇が崩御するのはその翌年だが実際は年内に崩御していたのだろう。そうすると一年の空位がうまれそうだがそうではなく、即位前の斉明天皇と中大兄皇子のコンビで「称制」だったのではないかと思われる。ただし、この説の場合、誤脱の部分が舒明天皇・皇極天皇・孝徳天皇の三代にもわたり、かなり分量が多くなってしまい不自然さが増してしまうのが欠点である。

・なぜ女帝が誕生したのか

H28年11月17日投稿 H28年2月17日(水)初稿
女帝即位までの経緯
(※内容は年明けにでも書きます)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

カテゴリ
最新記事
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

新語拾遺
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム