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雄略天皇の「宇宙樹」

2680(R2)年6月6日(土)改稿 H29年6月14日(水)初稿
歌の背後に政治あり
ある先生は雄略朝を重視するあまり「古事記は雄略天皇で終わっててもいいぐらい」なことをおっしゃっておりましたw まぁね、俺もそう思わなくもないのは、三重の采女(うねめ)の歌の印象深さってのがあるからだ。この歌は国学者の橘守部が「歌神として称えるに今この歌を第一とす」と激賞している。我々もまぁ味わおうじゃないか。なんなら日本の国歌にしてもいいよ、曲がつけばな。ところで、古事記はよく読んでるつもりでも古代史マニアってのは自分の興味あるとこしか読んでないことが多い。だって古事記は歌物語が多くその歌ってほとんど恋愛モノで、あまり古代史と関係ないから。でもそれだと古事記をほとんど読んでないも同然になっちゃうわけだよ。だいたい現代の学者はハラの中では古事記は作り話だと思ってるので、歌の背景に現実の政治が絡んでるとは思わないで、純粋に一つの作品論として分析したがる。そんなの面白いわけがないw 考えてもみろ、『ウルトラマン』でさえ日米安保条約のすったもんだがなければ生まれなかっただろうがw 

この歌は古事記の「最終章」なのか!?
この歌は「水(みな)こをろ、こをろ」とか「浮きし脂(あぶら)」とか神話の冒頭の言葉が突然出てきて、ひじょうに強い関心をそそる。しかも雄略天皇の末尾なので、もし古事記が雄略天皇の章で終わっていたら全体の冒頭と末尾が呼応していることになり、全体の構成として美しくなる。実際にそういう構想案も太安万侶としてはもっていたのではないか。

ここは読まなくて可
しかし丹比間人宿禰足嶋(たぢひのはしひとのすくね・たるしま)が提出した原資料(丹比氏の伝承した帝皇日継)では少なくとも宣化天皇まではあったはずだし、息長真人子老(おきながのまひと・こゆ)が提出した原資料(息長氏の伝承した帝皇日継)では少なくとも継体天皇まではあったはず。雄略天皇で切られてしまうと継体天皇の正統性を主張する後者や宣化天皇の正統性を印象づける前者の原資料の趣旨がぼやけてしまうので、足嶋も子老もそれは不本意だったに違いない。稗田阿礼に至っては本当は大化の改新か壬申の乱までやりたかったろうが肝心の「稗田氏の」帝皇日継(すめろぎのひつぎ)が推古天皇で終わっていた(なぜそうなってるのかは当ブログで以前に詳しくやったので今回省略)。帝皇日継以外の漢文資料で舒明天皇以降を作っても日本書紀とかぶってしまうし、そこで内容に独自性を出されても稗田阿礼って人は天武皇統の正統性に疑問を呈するようなことをやりかねないので安麻呂としては命がいくつあっても足りない。だから、あくまでも古事記中巻・下巻の趣旨に留めるべく推古天皇で終わらせたんだろう。「古事記中巻・下巻の趣旨」ってのは日本書紀編集部でボツにされた息長氏と丹比氏の伝承を残すことであって、稗田氏の伝承を残すことではない。稗田阿礼が朝廷の語部(かたりべ)として継承していた正規の帝皇日継は漢文に翻訳されて日本書紀の神武天皇以降の巻の根幹部分として活かされていた。息長君は皇極朝で誄(しのびごと)を奏しているが、当時の皇室の本家だから古伝承を奏しているだけで名誉職みたいなもの。丹比連は斉明朝には何とか歴史に登場しているが、たいして高い地位ではなく有象無象の木っ端役人の一人として何人か出てくるだけ。両氏ともそれっきり天武朝の「八色の姓」まで出てこない。それが、息長真人子老と丹比間人宿禰足嶋が大宝元年(AD701年)に揃って従五位下に叙され、ようやく中央貴族としては下っ端に引っかかったわけで、この前も後もず~っと一貫してパッとしてない。壬申の乱で近江朝廷側についたか、中立を守ってしまったため出世しそこなったんじゃないのか? 持統五年(AD691年)に大三輪氏・雀部氏・石上氏・藤原氏など計十八氏に纂記(つぎぶみ)を上進せしめた時にもこの両氏は含まれてない(纂記(つぎぶみ)というのは要するにこのブログの用語でいうと各氏が伝承した各氏ごとの帝皇日継のこと。「各氏族の歴史」ではない)。この時点での官位が低かったせいもあるだろうがそれだけなら十八氏の中にもあまり見かけない官位の低そうなのが含まれるから、本当の理由はこの両氏の伝承が天武皇統にとって都合が悪いものだということがすでに知られていたのだろう。息長氏の伝承は継体天皇の正統性を「血筋」に置いていた。それは単に皇胤ということではなく、応神天皇の指定した皇胤が途絶えたので女系でそれにもっとも近い血筋ということ(男系だけなら応神天皇の皇胤ってのは当時たくさんいた)。天武天皇は先帝(天智天皇)の指名をうけておらず近江朝廷を滅ぼしたのだから、近江朝廷の不徳によって天命を受けた(先帝からの指名でなく。先帝からの指名を上回る権威というと「天命」ぐらいしか言いようがない)のだから、天武天皇としては武烈帝を悪で不徳の帝とし、継体帝は徳があったから天命を受けて皇位についたのだとして、自身の先例(プロトタイプ)として描きたい。実際、日本書紀ではそうなっている。しかし古事記ではそうなってない。古事記の中下巻は日本書紀が捨てた息長氏と丹比氏の伝承を守るために書かれたので「先帝の指名を受けた血筋」が正統だといってる。これは天武皇統の時代にはボツにされて当然だろう。丹比氏の伝承は仁徳皇統の中の3つの王系のうち允恭系の天皇を非難して履中系(顕宗~武烈)を顕彰している。これはなぜなのかよくわからないが、反正系の男系が途絶えた後で、反正系の名代部の伴造だった丹比氏と反正帝の皇女とに婚姻があったのではないかと推測する。反正帝の皇女たちは雄略帝との婚姻を拒否しているので、相対的に丹比氏が允恭系より履中系に肩入れしているのか? そこまではまぁいいんだが、継体帝以降は女系で允恭系を引く欽明天皇の子孫でありかつ天武系でもある現在の皇室ではなくて、宣化天皇の子孫で女系で反正系に縁の深い多治比王以降の丹比君(後の丹比真人)を顕彰しようとするものだったと思われ、これは当時は爆弾のような危険な思想だから当の丹比真人氏によって握りつぶされたと思われる。だから息長氏の主張ほどは明瞭にはなってない。息長氏の主張も現代人からすると注意深く読まないとわからないが、両者とも、とにかく現状の古事記の中巻・下巻の文では何がいいたいのか、なんでそんなわかりにくいことをいってるのか、なぜこんなに話の筋が説明不足なのか、不可解な点が多すぎるので、かなりバッサバッサと切ってしまっていると思われる。政治的に具合の悪いところを意図的に切ったこともあったろうが、平安時代に多人長(おほのひとなが)によって古事記が再発見されるまでの間に保管状況が悪くて破損した箇所も多かったんではないか。いずれにしろ古事記の中巻下巻は大量に情報を補って読まねば訳がわからないところがちょいちょいある。

ともかくそういうわけなので、雄略天皇で区切るという安麻呂のアイディアは稗田阿礼の猛反対でお流れになったと思われるw その前に安麻呂が本当にそんなアイディア出していたかどうかよくわからんが。

三重の采女の境遇

纏向日代宮がでてくる理由
この歌がでてきた宴会は「長谷」でのことだと古事記が明示しているから纏向(まきむく)ではない。纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)は景行天皇の宮都だから、この歌は景行天皇の時代のものだって説もあるが、宮都はその後も長く使うもので一代ごとに壊してるわけではない。式年遷宮みたいに代替わりごとに壊してるイメージは、平安初期にできた新しい「穢れ」感覚に基づくもので、現代人の思い込みにすぎない。平安初期までに日本人は霊的な穢れと物理的な穢れの区別がわからなくなり、見えないものをやたらめったら怖れるようになってから出来てきたのが現在の神道につながる過剰な穢れ忌避の傾向なのである。ほとんど滑稽なまでの域に達しているが、そのくせ目にみえない霊的な穢れにはトンと無頓着で、これではお祓いも糞も意味なかろうと思う。なんて、スピ系な話はさておいて、そういうわけだからそれ以前の記紀に描かれた時代には代替わりの時も先帝の宮殿を壊すこと無く有効活用したに決まってるだろう。政治はどんどん高度で複雑になっていって伴造の率いる部民、官僚のための施設はいくらあっても足りないし、物資倉庫、それから皇位をつがない皇族たちだって、そうそう丁度いい「あまくだり先」がほいほいみつかるとは限らんからしばらくは先帝の宮殿に住んでたろうし、女性の場合はそのまま皇室財産の名義上の所有者としてその宮殿を継承していくこともあったろう。だから纏向遺跡が3世紀の遺跡だったからって、景行天皇が3世紀の人だったということにはぜんぜんならない。記紀にでてくる宮都は歴史を通じていつの時代にもあった可能性が高い(まぁ改築はしてるだろうけどな、それこそ式年遷宮みたいに)。
だからこの歌が歌われた雄略天皇の時代にも「纏向の日代宮」は存在し、景行天皇の時代のまま壮麗な姿をリアルに保っていたのである。ただ天皇がそこにいないってだけで。いや、たまには雄略天皇も別荘として使ったかもしれない。そもそもこの時代の天皇というのは平安時代や江戸時代みたいな儀式や決まりごとで雁字搦めにされた籠の鳥みたいな存在ではないのだから、あちこちに無数にある宮殿(その中には歴代天皇が残した皇居も含む)にいつでも好きなように移り住むことができたはずだ。朝代(各天皇の時代)を宮都の名で表わすのは陛下の御名を直接よぶのを憚ったための慣例的な表現法の一種にすぎず、実際に在位中は引っ越し禁止だったわけではない。一代の間に何度か宮都をかえた天皇は、景行・仲哀・神功皇后・応神・顕宗・仁賢・継体・敏達・推古・舒明・孝徳天皇に例がある(藤原京以前)が、これらとてホームベースの移動だからたまたま伝承が残ったのであって別荘は無数にあったに決まってるだろう。

さて、三重の采女がなぜその纏向の日代宮を歌ってるのかというと、自分が三重の出身だからだろう。三重ってのはヤマトタケル伝説では、印象が悪い土地だ。体調わるくなった倭建命が「足が三ヶ所折れたような気がする」(「吾が足三重の勾がりの如し」の意味には複数の解釈説がある)といったのが三重という地名の起こりだってのは事実ではないだろうが、そういう言い方がされたことは実際にあったんだろう。間違った語源俗解が流布し世間に信じられてしまうって状況は古今東西よくあること。例えばシナの語源は秦ではないし、奈良は土地を均したからではない。それはともかく、采女ってのは住み込みの女性官僚だから、いうなれば女だけの世界。で、雄略天皇はヤマトタケルの再来として仰がれ、ご自身もそう自負していたのもこのブログで以前に書いた。それで三重出身の采女となれば、これはもう采女たちの内輪では虐められたんじゃないかと心配するのが人間として当然だろうw 本人も陛下が三重という土地に悪感情を抱いているのではないかと常々おそれ、何とか故郷のイメージを回復したいと考えていただろう。で、彼女はたまたま歌の才能があったので、以前から三重のイメージソングを考えていたのだろう。
さて、陛下にお酌する機会がめぐってきたが、采女ともなれば言ってみりゃあんた、お酌のプロよ。普通に考えて失敗するわけがない。でも「三重」の采女と聞いて陛下がご機嫌を損ねているのではないかと怖れたから、手足が震えて冷静な判断ができず視野も狭まり、盃に木の葉が落ちてるのも気づかなかった。で、お手打ちになったと。首に刀の刃を当てられるところまでいったんだから絶体絶命、もう今すぐここで死ぬことに決まったわけよ。死ぬと決まったら、長年あたため続けてきた三重のイメージソングを披露しなければ死ぬに死ねないだろう! ここで彼女のハラは決まった。だから堂々と歌えた。「鳥の死なんとする、その鳴くや哀し。人の死なんとする、その言や善し」というが、善いのは言に限るだろうか。

故郷のイメージソングとして事前に作っていた歌だとしたら、この時とっさに作ったのではあるまい。だとすると、この歌に出てくるケヤキの巨木は、宴会の会場に存在したわけではない。故郷のイメージソングなんだから、彼女の故郷にあったケヤキの巨木をモチーフにしてるのだろう。今の「三重県四日市市采女町」は昔でいうと「伊勢国三重郡采女郷」であり、記紀に出てくるヤマトタケルが杖をついたという「杖衝坂」が今も残っている。おそらくこの地に当時はケヤキの巨木があって、ヤマトタケルの杖がたまたまケヤキの枝であって、それを捨てる時に地面に刺したまま残したのが巨木になったという伝説でもあったんだろう。実際ケヤキは「挿し木」のできる植物である(詳細は「挿し木」で検索)

上中下の「3つの枝」の意味
もう三重の采女ってだけで悪いイメージあるんだから、それを避けるんじゃなくていきなり「纏向日代宮」(=ヤマトタケルの時代)と歌い出すことで「そうですよ、私めはあのヤマトタケル伝説の三重の出身ですとハッキリ打ち出してる。そして目の前の、実際にこの歌を聴く人々が聞きながら今まさにみているこの槻(つき:今でいうケヤキ)の巨木を「三重」に見立てて「三重」という言葉から連想されるイメージを変えようとしている。

これ、もう若い人は知らない人もいるかもしれないが日立のコマーシャルで有名な「この~木なんの木気になる気になる名前も知らない木ですから♫」のあの木、もう長いことなぜかケヤキだとばかり思い込んでたけど全然ちがったわw 知らない子はYOUTUBEで検索してね。でもイメージはあんな感じだったんだよw ケヤキがどんな樹だかすぐ浮かばい人でも今のご時世は画像検索すればこれでもかっていうぐらい出てくるからラクなもんだ。
さらに手っ取り早くは「東根の大ケヤキ」で画像検索するのが早いけど。これは山形県にある日本最大の巨木で、樹齢1500年以上、根回りは24m、周囲16m、直径5m。高さ5m半のところで二股に分かれ、西南側のがやや直上して枝を分け、東側も大きく三枝を分けて天空を覆っているという。ケヤキは巨木になるとこういう枝ぶりになるわけで、木によっては上つ枝・中つ枝・下つ枝と三重に見立てたくなるわけだろう。現在の高さは28mだが、1957年の特別天然記念物指定時には35mもあったというから、三重どころか五重塔に例えてもいいぐらいだ(ちなみに法隆寺の五重塔は31m半)。
だが外にでかけて実物みたいもの。さすがに「東根の大ケヤキ」みたいのにはめぐりあえないにせよ、欅坂46の名前の由来にもなった六本木のけやき坂通りだけでなく、都心なら代々木公園にも表参道にもケヤキ並木があり、雑司ヶ谷の「鬼子母神」の大門の通りのケヤキ並木の中には天然記念物に指定されてるのもある(鶯谷の鬼子母神とは別なので注意)。他にも都内あちこちにある。ただ都心のケヤキって、形も大きさもいまいちなのが多いんだよね、できれば天に届きそうな巨大なケヤキがいいんだが(いい写真が撮れたら後日アップします)。時々古い神社の境内にそういうのあったりするよね、皆さんも地元のケヤキを探してみて。

ケヤキの巨木がどんなのか頭に入ってないとこの歌の解釈はうまくない。巨木は、日本のユツカツラ(湯津楓/湯津香木)や中国の扶桑樹と同じく神話上の世界樹宇宙樹への連想がはたらく。だからこれを三重にした上つ枝・中つ枝・下つ枝で天皇の支配する世界をあらわした(「世界樹」という神話的な観念は北欧のユグドラシルだけではなく、全世界の諸民族にあることは、Wikipediaで「世界樹」を検索しといて下さい)。
三重の槻の木、「上つ枝は天を覆へり」。巨木だからその枝が天を覆い隠しているという描写はわかる。ホツエというのは万葉集で「下づ枝」(しづえ)と対で使われてる例があるから「上のほうの枝」だと解釈されるが、カミツエ(上つ枝)という言葉もあるので、ホツエ単独で使われる時の語感だと、上下あるうちの上、あるいは上中下あるうちでの上だというニュアンスは弱いのではないか。ホツエという言葉だけがでてきた最初の段階では「ホツエ」(上つ枝)というのは単に頭上の、見上げた上のほうの枝って意味にきこえるので、上中下の三重構造の「上」だとは誰も思わない。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」と聴いて、初めて「アレッ」となる。ここで聴衆は一時的な混乱に陥る。「じゃ下つ枝は何なんだ」という関心もひくんだが、同時に「天を覆うのは木の枝の全体で覆うんじゃないのか?上の枝だけ?しかも中の枝は東国?」と次々疑問がわく。考えようによっては、覆い隠されてる「天」というのは今ここからみえる天だけであって、「縦」に見上げるばかりでなく、少し「横」に歩いて槻の木の真下から抜ければ天はみえる。「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり、下つ枝は夷(ひな)を覆えり」。上つ枝は広がりが少ないからこの場しか覆ってないが、中つ枝や下つ枝はもっと遠くを覆い隠す。辻褄はあうがこれは理屈であり観念だ。だから、ここでこの巨木は目の前の実際の木でなく、神話上の世界樹に見立てていることが聴き手にも気づかれる。また「上つ枝」と限定してたのは水平移動つまり上下の軸から前後左右の二次元平面に意識をうつすためだともわかる。そうなると上つ枝の「天」も、東国や夷(ひな)に対して天皇のおわします都でもあろう。記紀の雄略天皇には東(あづま=関東)はほとんど出てこず、記紀だけみてると東国とは縁のない天皇と思ってしまうが、有名な埼玉県の稲荷山鉄剣の銘に「ワカタケル大王」が出てきてから、現代人にとっては逆に「関東まで支配していた天皇」というイメージばかり強くなりすぎてる感じがする。あの鉄剣が発見されて学界もマスコミもてんやわんやの大騒ぎになっていた頃、この「中つ枝はアズマ(東国)を覆えり」にすぐ気づき、「古事記ってすげぇな」と感嘆した古代史マニアもさぞかし多かっただろう。しかしこの「中つ枝はアズマを覆えり」という言葉は次の「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」を導きヒナがどこなのか暗示するための言葉。本当に言いたいキモの部分は「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」であって「中つ枝はアズマを」ってのはそれをいうための文学的な修辞にすぎない。詩としてはな。
夷(ひな)は直訳としては「地方・辺境・田舎」ってことで、アズマ(あづま)が東海・関東という具体性をもっているのに、ヒナは具体的にどこだともない。岩波の古典文学大系の注釈では「万葉集に淡路島方面をヒナといってる例があるからヒナは西国だ」と言い切ってるが、この学者はバカじゃないのか。ヒナは東西南北どっちでもありうるが、たまたまその歌ではどっちをさしてるかが問題だろう。関係ない歌をもってきてあの歌で西だからこの歌も西、って話になるわけないだろうに。あるいはまた倭王武の「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」を連想し、このヒナとは九州方面のことだと解釈する人もいるかもしれない。だがそれだとこの歌は単に関東から九州までの日本に君臨する陛下はすごいっていってるだけの歌になってしまって、死刑をまぬがれるほどの強烈なインパクトに欠ける。あるいは雄略天皇の個人的なツボにも入らない。雄略帝にしてみれば技巧を凝らしたおべんちゃらは聞き飽きてるんだから。大事なことはこの歌は一般論としての天皇賛美の歌ではなく、雄略天皇個人へ向けた歌だってことなのだ。それに九州だとすると、一度東へ向いた視点が西へ逆反することになる。それを世界を見回す壮大な王の行為と受けとる人もいるだろうが、俺はそう思わない。なんだがキョロキョロしてせわしない感じになってしまわないか? 正解はこうだ、ケヤキの葉は舞い上がったりせず重力に従って上つ枝から中つ枝、そして下つ枝へと直線的に落ちていくのだから、ここのヒナは都からみてまっすぐ、アズマのさらなる東の奥、道の奥(みちのく)をさしていると解する他にない。じゃミチノクだと明言すれば良かろうになぜヒナだなどと曖昧な言い方をするのか、それは第一には奥羽に限らず、東西南北四方のはて天下のすべての地を含みうるイメージの広がりを残すため。第二には、確かに実際には奥州なんだけど、この時いま話題の場所でアズマの先といえば誰でもわかりきった土地だったから、もったいつけて、期待感を煽ってるわけだよ。「え、雄略天皇の章には古事記も日本書紀も東北のことなんかぜんぜん出てこないじゃん、何がどう話題になってたってんだよ?」という反論が来そうだが、実はそれがそうでない。鉄剣が出土するまでは関東すら雄略天皇と縁がないと思われていたろう、それを思えば記紀に奥羽がでてこないからって雄略天皇が奥羽に縁がなかったとはぜんぜんいえない。それについては後述するとして、第三には掛け言葉で鳥のヒナ(雛)を連想させるため。ちゃんと確認してないが、たしか田舎を意味するヒナ(夷)のヒも、鳥のヒナ(雛)のヒも上代特殊仮名遣いでは甲類のヒのはず。上つ枝にも中つ枝にもないことだが、下つ枝では新しい命が生まれていた。「雛を覆えり」。その土地が、親鳥が翼で雛を覆い守り育てるように、新しい命を守り育てていた、そういう連想が湧く。というか隠しメッセージがある。これは何のことを言ってるのかは後述する。

雄略天皇にとっての陸奥(みちのく)
一つには雄略天皇の崩御後に新羅征伐軍(征伐じゃなくてただの駐留軍の交替かもしれないが)として従っていた蝦夷が吉備で反乱したことがある。ヤマトタケルの蝦夷征伐以来、奥羽の蝦夷(えみし)は朝廷に服属し、応神天皇の時には道路工事の労役についたりしてたぐらいだった。それが仁徳天皇の時には背いて鎮圧されてるが、これは隼別命の乱の一環で、隼別命の乱は全国を巻き込んだ大規模な乱だったのである。雄略天皇崩御の際にも反乱しているからといって、仁徳朝以来ずっと蝦夷は朝廷に心服していなかったのかというとそういうことでもない。雄略帝崩御の際は星川皇子が謀叛を起こしているが、書紀の書きぶりからすると、どうも反乱軍に唆されたとか呼応したとかいうわけではなくて、純粋に蝦夷たちの意図からだけ出たもののように読める。当時の蝦夷からみれば、雄略帝にしろ星川皇子(=吉備氏)にしろ、中華式を有り難がってる連中って意味では同類であり、「大山守=隼別」のラインでつながる海の民・山の民のほうが感性的に近い存在なのであり、彼らが蝦夷を味方に引き入れようにも味方になってくれる可能性が高いとは思えなかったんだろう。ただ、蝦夷が反乱を起こす際に、天皇崩御ときいて「時を失うべからず」と言ってるのが引っかかる。皇帝や君主の代替わりが軍事蜂起のチャンスなんてのは当たり前じゃないかという人もいるだろうが、逆に「だからこそ」戒厳令状態になるわけで、軍事的観点からは必ずしも狙い目ではない。記紀に代替わりでの反乱が多いのは「皇位争い」の皇子たちの戦いだから、逆賊の汚名を免れるために空位期間を狙うのである。皇位争いと無関係な連中の蜂起の場合は関係ない。なのに「時を失うべからず」と言ってるのは特別な意味がある。それは何か…。

雄略朝には伊勢の外宮の鎮座伝説があるが、あれがいろいろおかしいことはこのブログで以前に書いた。あれは丹後から豊受姫神という御祭神を遷座したのではなく、外宮はそれ以前から伊勢にあって、丹後にいた「自称・豊受姫」の人間を招き入れたのである。なんでそういう解釈になるのかというと、原文がそうだから。通常の解釈のほうが無意識に原文に「これは神話だから」というフィルターをかけているのであって、客観的にみれば通例の書き方になってない。で、ほぼ同時期になぜか同じ丹後に浦島太郎の話が出てくるが『丹後風土記』に出てくる「自称・豊受姫」が浮浪していたという伝承地と、浦島太郎というか「浦島子」が助けた亀と一緒に蓬山へ旅立ったという伝承地が、同じ丹後の中で4~5kmぐらいしか離れていない。
毛利康二や大和岩雄など、浦島太郎がいった竜宮城は今の鬱陵島で『梁書』に出てくる扶桑国のことだというのだがその扶桑国の王を『梁書』は「乙祁」というとある。これは固有名詞でなく王をあらわす称号なのだが、仁賢天皇の本名が意祁命(おけのみこと)であることから平田篤胤は「乙祁」とは仁賢天皇のことだといっている。篤胤の説には賛同できないが、しかし、浦島太郎は日本書紀や風土記では「浦島子」(うらしまのこ?/うらのしまこ?)という名前でこれも仁賢天皇の別名「島郎」(しまのいらつこ)と似すぎてね? ただし浦島子が仁賢天皇だという主張では必ずしもない。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟はこの時まだうまれてないと思われるから、その父だろう。仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟は市辺忍歯別王の子ではなく孫か曾孫であることは宣長も推測するところで、民間伝承ではその父は「久米若子」といい、日本書紀が顕宗天皇の別名だとして伝える「来目稚子」という別名と同じなのでこれは襲名だろうと推測したが、仁賢天皇の別名「島郎」も父からの襲名ではないか。史料的価値として問題なくもないが中田憲信が集めた有名な系図集によると、島郎子と久米若子が兄弟で、島郎子の子が仁賢天皇、久米若子の子が顕宗天皇で両帝は兄弟ではなく従兄弟になっている。あるいは両帝の伯父が島郎子だと仮定すると、伯父の四股名を襲名した兄・若乃花と、父の四股名を襲名した弟・貴乃花の「若貴兄弟」が思い出される。一応、「両帝は兄弟で二人の父は久米若子、島郎子という名は久米若子が鬱陵島から帰ってきてからの別名」と仮定しておく(詳細な議論は今回は省略)。この段階ではまだ陸奥の蝦夷との関係はない。しかし豊受姫のほうはどうか。仁賢天皇ときたら誰でも仁賢天皇の姉、飯豊王(いひとよのみこ)を想起すると思うんだが、『陸奥国風土記』には「飯豊山(いひとよやま)。此の山は、豊岡姫命(=豊受姫のこと)の忌庭(ゆにわ)なり。飯豊青尊(いひとよあをのみこと)、物部臣(もののべのおみ)をして、御幣(みてぐら)を奉らしめ賜ひき。故(かれ)、山の名と為す」とある。この物部臣というのは連(むらじ)でなく臣(おみ)とあるから、いわゆる饒速日系の物部氏(物部連:もののべのむらじ)ではなく和邇臣の分流であり、後世「物部首」(もののべのおびと)という氏族の祖先にあたる。飯豊山は現代ではイイデサンと読み、山形・福島・新潟の県境にあり、この山を囲む3県のうち福島県はむろん当時は陸奥国だが、山形県も奈良時代に出羽国が分置されるまで「陸奥国」だった。豊受姫と飯豊王は「陸奥の」飯豊山を介してつながる。飯豊という地名はこの山以外にも青森県、岩手県、そして福島県の中通り地方(飯豊山とは別の地)と陸奥の各地にある。つまり飯豊王は蝦夷に守られ蝦夷に育てられたのであり、蝦夷は飯豊王のシンパなのである。ということはおそらく潜伏中の飯豊王の父や兄弟に対しても蝦夷たちはシンパシーがあったろう(潜在的な支持者なり協力者の立場だった)。雄略朝の末期に、逃亡中の父と娘が丹後で別れて、父は海外(鬱陵島)に身を隠してから、娘のほうが名乗り出たか、少なくとも伊勢神宮が娘を保護することに決めたということではないのか。その結果、飯豊王は雄略天皇生存中にすでに世にデビューはしたが、雄略帝崩御に蝦夷たちが「時を失うべからず」というのは飯豊王の父なり兄弟なりを天皇として擁立するチャンスだという意味になり、そうなれば飯豊王は蝦夷の利益代表としてより高い地位にあがることにもなる。
繰り返すが意祁王・袁祁王の兄弟は市辺押歯皇子の子ではなく孫か曾孫である(このブログの他の頁でも説明している)。だから両帝兄弟の姉の飯豊王女も、市辺押歯皇子が殺され履中皇統が亡ぼされた時に、女性だからって殺戮をまぬがれたのではなく、生まれてなかったのである。父の久米若子(顕宗天皇とは同名だが地方伝承では別人でその父)か橘王(書紀は誤って兄とするが父か祖父だろう)が逃亡して民間に潜伏中に生まれたのだが、女性なので世に出ても大目にみられ殺されはすまいとみて、雄略天皇の前に現われた。それが雄略天皇が吉野で出会った「常世の乙女」の話なのである。彼女と入れ替わりを演じた春日の袁杼比賣(をどひめ)の名は「蘇生・復活」を意味するがこれは一度ほろんだ履中皇統の復活を示唆してもいるかもしれない(彼女は和邇氏の娘だが、陸奥の飯豊山の物部臣も饒速日系でなく和邇氏で同族なのは前述の通り)。
若い頃の大長谷王(雄略天皇)はただ暴れたかっただけで何も考えておらず、皇位を狙っていたのでもない。まだ子供で殺人衝動を抑えられない大長谷王に「あの人は悪い人だからやっちゃっていいんですよ」と唆した大人がいたはずで、おそらくその黒幕は木菟宿禰かその子の平群真鳥のどっちかだろう。そもそも少年だった大長谷王を天皇に祭り上げて美味い汁を吸おうとした者たちは別として、大長谷王本人としたら押歯王と利害対立や敵対関係があったつもりはない。皇位を望んで暴れてたのでもないのだから、押歯王の子孫がいたなら皇位を譲ることもやぶさかでなかったと思われる。むろんそれは困る連中が山のようにいるから、そういう情報は天皇の耳には入らないように遮断される。雄略天皇とすれば、罪のない押歯王をわけもわからないまま何となく殺してしまったのも、おとなになってから後々えらく後悔しただろう。ただそんなことはインタビューしてみなければわからないし、そんな恐ろしい質問をする命しらずもいない。詳細は不明だがすったもんだで、飯豊王女は皇籍に復帰し、飯豊王女が当主として履中宮家が復興した。そこまではよかったが、皇位継承権のない女性だから許されてるのかも知れず、男子の生き残りがいることを天皇に打ち明けるのはもう少し陛下の大御心を知ってから、と思ってるうちに陛下が崩御してしまった。それで意祁王・袁祁王の兄弟を世に出すチャンスを失ってしまった。しかしそれは履中宮家の関係者だけの内輪話であって、雄略天皇には関係がない。雄略天皇にしたら、押歯王の子孫が見つかったら、男子だろうが女子だろうがそれを優遇するのは当たり前で、押歯王への罪滅ぼしは若い頃からの、長年の懸案だったのだから。二王子は記紀では播磨に潜伏していたことになっているがこれは発見された当時の場所であり、民間伝承では尾張説もあれば紀伊説もあり、あちこち移動してたんだろう。飯豊王は弟たちとは別行動で奥州は飯豊山に潜んでいたということになる。この山は『陸奥国風土記逸文』によるともとは豊田山といっていたのが飯豊王のゆかりでのちに飯豊山となったという。さすれば青森や岩手や福島仲通り地方(田村郡)など、東北各地に残る「飯豊」という地名はすべて彼女の潜伏地だったのではないかw 雄略天皇にすれば人生最大の汚点でもあり長年の懸案だった案件が陸奥から出てきた少女によって解決したのである。陸奥とは雄略天皇にとってそういう土地であり、三重の采女が「下つ枝は夷(ひな)を覆えり」と詠う時、その短い詩にこもる万感の想いを書き延ばせば、『その地の果てまでも知ろしめす大いなる陛下。その夷(ひな)=辺境の、陛下の知ろしめす土地が、かつて誤って滅ぼしてしまった履中皇統の血筋の、若い世代(雛)を育てていた土地なんですよ。その辺境の、陛下の知ろしめす土地こそが。』となるだろう。ここまで解釈してようやく、雄略天皇が采女を処刑するのをやめた理由が腑に落ちる。

王権の起源は天地創造に由来する
しかしケヤキの葉は下つ枝で止まらず、さらに下に落ちて盃に入ってしまった。采女としてはこの失態を歌の力でメデタイ話に転換しなければならない。下つ枝よりさらに下に落ちたのだから、これをこの詩の喩えでいえば、陸奥国よりさらに東に行ったことになる。陸奥より東といえば一つの考え方では今の北海道を想定することもできるが、ここはそうではなく、福島沖か三陸沖かわからぬがもはや陸地のない大海を漠然とさしているのだと思われる。海ばかりで国がないけど、国が産まれるかもしれないじゃん、と詠っている。
学者は日本神話はツギハギだと堅く信じこんでるので、この歌も「三重の采女の作詞ではなく国生み神話を伝えた海人族の歌だ」なんぞとボケまくったことをいうのだが、歌も聴く側の人々も国生み神話を知らなければ神話を引用する文学的な効果がないだろう。神話は当時の日本人なら山の民でも海の民でも貴族でも百姓でも、みんな同じ神話を聞き知ってるの。中央政府の語部(かたりべ)のおかげでな。出雲人だけの神話だとか日向人だけの神話だとかそんなものはない。最初から、全体で一つの神話なのである。世界規模で共通なのに狭い日本の中で違ってるわけないだろう。だから王権が成り立ってる。現代人は財力と武力があれば国は成り立つと思ってるのかもしれんがそんな貧相な思考で政治やってるから世の中が悪くなるんだよ。
国生み神話のところで以前に説明したが、鹿児島の桜島とか北海道の有珠山とか、最近話題になった「西之島新島」みたいに海底火山の爆発で新しく陸地ができるって例は火山の多い島国日本では昔からちょいちょい観察されたことだろう。神話の「塩こをろこをろ」、この歌の「水(みな)こをろこをろ」も海底火山の爆発の音(水中なのでゴロゴロゴロ…とかゴゴゴゴ…という籠もった音になる)。しかし小さな盃に落ちたたった一枚の葉から、いきなり「水(みな)こをろこをろ」と言ってもすぐには壮大な火山神話を思い出さないかもしれない。だからウキ(盃)に「ウキシ(浮きし)脂」と先に導入部を用意してる。当時でもその場に列席している者の中にもし頭の悪いやつがいたら、「ウキ(盃)にウキシ(浮きし)はわかるが脂(あぶら)ってなんだ?」ってことになりかねないが、続けて「こをろこをろ」とくれば「あ、あの浮きし脂か」と思い出して最初から気づかなかったことに恥じ入るのだろう。誰でもが同じ神話を知ってるからだよ。陛下の御威光は東の辺境、陸奥国に留まるのではない。天照大神が天皇に授けた世界は「土と水」から出来ているのであり、祈年祭の祝詞に「船の舳先が海の彼方に衝突するまで」とあるように、太平洋のはてまで我が帝国の領海なのである。それを忘れるというのは毎年きいてるはずの祈年祭祝詞を忘れるということであり、不敬であるばかりか大恥だろう。
飯豊王女がやってきた陸奥国の話で感動させておいて、天皇の気持ちはしっかり掴んだが、そこで終わっては失態を繕うのに十分でない。すかさず自分の失態を隠すのではなく顕して、ありのままに天地開闢の話にまでもっていく。朝廷に仕える身分高き大神官でもない一回の采女が歌い上げるには、あまりにネタが尊貴にすぎ、普通ならたじろぎそうなところ。だが彼女のドヤ顔が浮かぶ。これでも私を処刑できますか、と。ここで終わると歌としては完成だが、彼女自身が尊大にみえてしまう。そこでシメに「事の語り言、こをば」がつくわけなのだ。これは大国主と須勢理姫の歌合戦にも出てくる。あれは舞台での演者が「古来より伝わる伝説ではこうです」というナレーションみたいなもの。しかしこの歌は三重の采女の作詞なんだから四角四面に考えると「事の語り言、こをば」がつくのはおかしい。だからこの歌は天語歌(あまがたりうた)といって海部(あまべ)に伝承されたもので個人の作詞でないというのだが、文学表現なんだから四角四面に受け取っちゃダメだろう。三重の采女がいってるのは、自分の歌があまりに出来が良すぎるので、自分の手柄にすると高慢にきこえる。だからこの歌が陛下を讃えているのは、私の独創ではなく古来からの神話をお伝えしたまでです、という謙遜であり遁辞なのである。そしてこれもまた一つの正論だから誰も三重の采女を責められない。

「天語歌」は海人の歌ではない
折口信夫の説では、「あまがたり」の「あま」は天のことではなく「海人」のことで、安曇氏とかの海人系が伝えた伝承だって言うんだが、これただのダジャレじゃね? これがひじょうに疑わしい説だということは、山路平四郎という学者の『「あまはせづかひ」私考』という論文に詳しい。ネットでも読めるから検索してみて下さい。

伝承の過程で洗練されたのではない
(※後日に文章を追加予定)

「少女vs大王」の駆け引き
次に采女の歌に和して大后が詠う。この大后は、一説では若日下部王だというのだが、若日下部王は雄略帝よりもずっと高齢だったと推定しているので、雄略帝の晩年にはとっくに薨去していたのではないかと思う。この歌は仁徳天皇の皇后、磐之媛(記:石之比賣)の歌の丸パクリだから、ここでいう大后というのは磐之媛のことだろう。むろんこの時期に生きていたわけではない。原文には「○○が大后石之比賣命の歌を歌った」とあったのに文字が落ちて、「大后が歌った」になってしまったんだろう。じゃ誰が歌ってるのか、それはいうまでもなく「自称・豊受姫」つまり飯豊王女だろう。この宴会は新嘗祭の宴会だが、飯豊王女のお披露目も兼ねていたのだろう。
歌の意味自体は天皇を讃えるだけの凡庸な歌だが、「酒を勧めなさい」と采女を認め励ましている。天皇の気がかわらないうちに采女の処刑を取り止めた天皇を賛美して三重の采女を支援しているともいえる。で、この歌を磐之媛の丸パクリというと語弊があるが似すぎていて少なくとも「本歌取り」だとか「引用がある」って程度にはいわないとならんだろう。飯豊王は三重の采女の「事の語り言、こをば」が気に入って早速自分も使った。これをつけておけばある意味責任のがれもできる。最後に「事の語り言、こをば」をつけることによって、「この歌は磐之媛の歌にソックリだと思ったでしょう、そうなんです、私の歌じゃないんですw」というニュアンスが出せるのだ。では飯豊王はなんで磐之媛の歌(もしくは磐之媛の歌に似せた歌)を歌ってるのか。磐之媛というと仁徳天皇との仲がよくなく、古事記では最後まで皇后のまま生きていてそのため仁徳天皇と八田若郎女は結ばれなかったことになっているが、日本書紀では和解せぬまま薨去して、仁徳天皇は八田若郎女を「のちぞえ」として迎えたことになっている。どっちにしろ古事記をみても書紀をみても八田若郎女をめぐって夫婦喧嘩したまま和解した様子がない。そんな人をわざわざ思い起こさせるような歌は縁起が悪いのではないか? 一つの案としては、雄略天皇が飯豊王を自分の妃の一人にしようと思ってるような様子がチラホラ見えたか、もしくは(古事記の本文には明記がないが)天皇から求婚されたんだろう、それで「私は磐之媛のような女です、仁徳帝といがみあった磐之媛のように陛下とくっつくことは無いッス」という牽制のメッセージを送ったのではないかなw
天皇からの求婚を拒むということはこの時代、心理的にはかなり難しいことだったろう。だが、三重の采女の歌は、聴く者の意識を世界の神話的根源に遡らせる。だからこの後は、人々は本質的なことだけを考えるようになる。くだらない建前がとりはずされ、本心に生きるようになる。普通なら我慢してしまうことを我慢せず、偽りに生きることをやめ、言いたいことを言うようになった。天皇からの求婚を拒むことができたのは三重の采女から勇気をもらったから、という表現もできるかな。
で、天皇がこれに返しての歌は、宴会の参加者たちを群がる鳥たちに喩えて「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしているわい」といってるだけ。普通に考えるとこの酒盛りしてる人々の中には当然天皇自身も入っている。これは凡庸な解釈をすると「我々は酔っ払いだ」といってる、つまり求婚したのは「酒の上での戯言(ざれごと)じゃ」として求婚を撤回した、とこうなる。あと鳥に喩えた理由が二つ。一つは鳥というのは勝手に飛んできて自由に去っていく「自由の象徴」でもある。「女たちよ、宮中に留まるも去るも君らは自由だ」といっている。だから飯豊王を拘束するようなこと(=求婚)はしない、と。二つめは飯豊王の名「イヒトヨ」は古語でフクロウのこと、これも鳥だ。この宴会場にいる者たちは飯豊王と同じ鳥たちであり仲間だと。しかし以上の説はすべて間違いだと思う。凡庸すぎて、いくら齢とって丸くなったとはいえ、あの雄略天皇がこんな平和ボケした歌を詠むはずがない。「楽しげな鳥みたいな連中が酒盛りをしている」のは、それはそうなんだが、その中に雄略天皇と飯豊王は入ってないのである。この歌には鳥たちとして具体的にウズラ、セキレイ、スズメと3種類でてくる。どれも可愛らしい小鳥だが「微笑ましいなぁ、平和だなぁ」って歌に受け取ってしまったらダメ。それじゃ雄略天皇のキャラ崩壊ってことになるじゃんよw

衆愚どもへの怒りw
よく映像を浮かべてほしい。小鳥たちが遊んでるところにフクロウが入ってきたら? 猛禽類のフクロウは普段からこういう小鳥を捕食してるんじゃなかったっけ? 雄略天皇は飯豊王に「ここに集まってる無能な飲んだくれどもは、お前さんの餌みたいなもんよ」といってるのではないのか? 急に殺伐としてきたなw しかもそう考えてから改めて読むと天皇はこの小鳥たちを単にかわいいといってるのかも疑問だぞ?「ウズラは着飾ってる、セキレイは交尾している(婉曲表現になってはいるが)、スズメは群がり集まっている」と歌ってる。小学館の日本古典文学全集の訳だとスズメのところは群がり集まって餌をついばんでる様子に解釈してるから「食うこと」を象徴している。岩波の古典文学大系だと「難解の句であり明らかでない」としている。目的が明示されず単に集まるという時は、たいてい会議か雑談、世間噺のためだから、後世のスズメの象徴的用法と同じく、群がり集まってどうでもいいウワサ話とか無駄な「おしゃべり」ばかりしている連中という解釈もありだろう。つまりこの3種の鳥はファッションとセックスとグルメ(またはゴシップ)しか興味のない衆愚を象徴しているとも取れる。略してFSG(3つめのGはグルメでもゴシップでも可、両方かねてても可)。『シオン議定書』の3S(セックス・スポーツ・スクリーン)みてぇだなw ファッションはスーツ、ゴシップはスキャンダル、グルメはスイーツに置き換えればこっちも3Sに出来るw つか議定書の3SよりFSGの3Sのほうが頭悪そうw 議定書の3Sのほうがいくらかマシだぞこれw 雄略天皇は若い頃から大陸式の外来文化が大好きで、帰化人を寵用したし、それまで儒教の可否をめぐって対立していた日本人が儒教を受容することで合意したのもこの天皇の時代だった。中華文明を採り入れて見た目ははなばなしく栄えている日本だが、老境に至ってこんな世の中で良かったのかなって気持ちになっていたのではないか。三重の采女の歌の力で、神話的根源へ遡った意識が大事なことを思い出させてくれたのだ、と言ってもいいかも知れない。
そう、雄略帝は王者としての振る舞いと神としての仕事を思い出したのだ。
吉野の山奥で半裸の野蛮人みたいな、というか、自然児みたいな田舎娘と出会っても、場所が場所だからなんとなくそういうものかなで済んでいたが、都の真ん中、文明の中心たる宮廷につれてきたら、万博で展示される珍獣みたいで、じゃなかった、堕落爛熟して腐臭をはなつ現代文明とは対象的な純粋さに、ちょっといいかなと思っちゃって、「わしの皇后になれば栄耀栄華は思いのままw 天下もくれてやるわw」と悪のラスボスが最終回に主人公にいうセリフみたいなこと言ってるんじゃないのかw まぁこのイベントは実際に雄略天皇崩御の直前ぐらいの出来事だと思われるので実際に最終回っちゃ最終回なんだがね。だからさすがにもう寄る年波には勝てず、本気だったかどうかわからない。自分のキャラに殉じた演技だったのだ。だから「事の語り言、こをば」でシメている。これは舞台上のセリフですよ、超訳すれば悪のラスボスの最終回のセリフですよ、と自分で説明している。飯豊王は奥州の山奥で獰猛精悍な蝦夷(えみし)の男女に囲まれて育ったから、猛禽類のその名の通り、少々野蛮で武闘派な少女だったんだろう。バトルヒロインだなw こういう宮崎アニメみたいなのに現代のオタクはハァハァするのかもしれないが、残念なことに雄略天皇自身の性癖趣味とはぜんぜん一致してない。だから天皇もいまいち本気汁が出てない(ちなみに陛下のご趣味は老婆専門であることはこのブログでも何度か言ってる)。

雄略帝は記では宝算124歳、書紀では62歳、在位23年だが、書紀は奈良時代に神功皇后を卑弥呼の時代に合わせるために年代を引き下げた上、応神朝と仁徳朝の在位年数を長めにとったため、雄略~継体朝あたりがぎちぎちに短縮されている。辻褄あわせで編年を構成したのであってむろん信憑性はない。俺の推定では雄略帝の宝算は99歳が正しい。記は25歳も伸ばされているが、これは在位の26年めをまた元年として数え直したからである(古代中国で「後元」といったもの)。在位年数の通算年数を後元だと誤認すると、通算値を出すため前半の25年を2回足してしまうから宝算99歳が124歳になるわけ。

この3つの歌は「天語歌」(あまがたりうた)というとあるので、折口信夫は海部(あまべ)つまり海人族の伝えた歌だといってるが、海の話って「水(みな)こをろこをろ」の一か所だけ、神話だから壮大すぎて日常風景的な磯の香りがしない。そうじゃなくて、あまりに名作すぎるから人口に膾炙するわけで「例のあの歌」じゃ不便だから名前がつくわけだ。これは三重の采女の歌の「上つ枝は天を覆へり」の「天」と「事の語り事こをば」の「語り」、いちばん面白い部分の始まりと特徴的な繰り返し部分ををくっつけて作った名前だろう。
さて、以上の解釈だと、天皇と飯豊王の歌の掛け合いは完結してないような印象になる。つまり続きがあったのではないかと思いたくなる。しかし飯豊王は田舎育ちで歌が苦手だったんだろう。磐之媛の歌をパクってるだけだし。ちなみに昔の天皇や皇族の歌は語部(かたりべ)のネットワークが健在だった時代にはすぐ全国に広まって流行するから、田舎の娘でも磐之媛の歌は知ってたのだ。あるいは天皇の歌の後、同席していた袁杼比賣(をどひめ)が陛下をお諌めしたか、ヤキモチを焼いてみせたかして、飯豊王に助け舟を出したのかもしれない。だから宴会が解散した後も袁杼比賣だけは陛下についていた。それが次の歌のやりとり。

哀しみと幸せのラスト
古事記は続いて袁杼比賣(をどひめ)と天皇の歌のやりとりを載せているが、この宴会と同じ日だとわざわざ細かいことを書いてるから、つまりこの宴会の席ではなくて、宴会が終了して解散した後のことだろう。天皇は宴会では威厳を保たなければならないと思ってかあるいは齢のせいかあまり飲んでなかったんだろう。宴会が退けてから袁杼比賣にお酌してもらっていた。そこで天皇が歌った歌は、「お嬢さん、しっかりお酒ついでくれたまえよ」っていうだけの歌なんだが、お酌に不慣れな若い女子をからかってる歌だという説や、「酒壺(ほだり)をしっかり持てよ」というホダリが男性器の隠語で猥褻な歌なんだとかの説もある。この歌は『琴歌譜』にも乗っていて『琴歌譜』は古代の歌謡を集めて琴の奏法が書かれ、近衛家に伝わった貴重な古文書なんだが、それには「一云」(あるいはいふ、一説に曰く)として、この歌はこの時(晩年の宴会)で雄略天皇が歌ったのではなく、雄略帝がまだ皇子で葛城氏を滅ぼした時、葛城氏の娘の韓日女娘(からひめのいらつめ?)が哀しみ傷んで作った歌だという異説が載ってる。韓日女娘は古事記に韓比賣、書紀に韓媛と書き、この乱より以前から大長谷王に嫁がせることにはなっていたらしい。妃となって清寧天皇の母になっているが、この時期(雄略帝の晩年)には韓日賣もすでに薨去していたと思われる。若い頃の大長谷王(=雄略帝)は少年時代から相手が老若男女とわず(老女を除く)ささいなことでホイホイ殺してしまうので怖がって嫁の成り手がいなかったと書紀に書かれている。だから韓媛も本当は大長谷王の妃になりたくはなかったんではないか。でも父が謀反人として成敗され実家が滅亡してしまったので否も応もなかった。『琴歌譜』が引用する異説が正しかったとしたら、この歌は単に歌として切り取れば表面的には楽しげな軽い歌だが、歌われた背景と込みで解釈すると実は哀しみに満ちた歌だとわかる。
雄略天皇は宴会がひけて別室に移り、ようやく酔っても問題ない時間に安心し、袁杼比賣にお酌してもらった。そこで亡き妃を思い出し、自分が若い頃に犯した罪悪を反芻している。それでこの歌を歌っている。むろん謀反人を滅ぼすことは正義の行為で葛城氏のほうが悪だったのだが、当時の大長谷王は正義のために立ち上がったのではなく、ただ暴れたかっただけなのだし、韓媛にも罪はなかった(当時は江戸時代のような血縁連座制という考え方はなく大罪人の子孫も貴族として残っていることが多い)。飯豊王も世が世なら宮廷で生まれ育ったはずなのだが、女ターザンみたいになっちゃったのは大長谷王が葛城氏を滅ぼした後にまだ暴れたりなくて、履中宮家(=押歯王の一家)を皆殺しにしたからなんだよね。女ターザンは無いわ、スマン、スマンw ともかく自分のための罪滅ぼしだけでなく、亡き韓媛への供養だか慰霊だかのためにも、飯豊王を守ってあげたいという気分になっていたのではないか(この当時は供養なんて概念なかったろうが、まぁ慰霊のようなことで)
これに対する袁杼比賣(をどひめ)の歌がまたいい。ただ一緒にいたいというだけのシンプルな歌なんだが。三重の采女の歌ですら原文も訳文もあげてないのに大サービスw

休みしし 我が大君の

朝とには い寄りだたし 夕とには い寄りだたす

脇机
(わきづき)が 下の

板にもが 吾兄
(あせ)


私だけが知ってるプライベートでお休み中の陛下。その陛下が朝となく夕方となく、いつも、もたれかかっているご愛用の脇息(ひじかけ)になりたい、その下のおしりが直接すわってる床(ゆか)にもなりたい、そうしていつも一緒にその脇息(ひじかけ)や床のようにあなたにぴったりくっついていたいのです。愛するあなた。

※詞の区切り方と行かえは昔の角川文庫(武田祐吉バージョン)をもって至高とすw
※脇机(わきづき)ってのは後世でいう「脇息(きょうそく)」のことだが現代では「キョウソク」っていっても何のことだかわからないだろうね。時代劇でよく殿様が肘をおいてる道具で、肘かけ付きの椅子の肘かけの部分だけもってきたみたいなやつ。やや不正確ではあるが「肘かけ」と訳すしかないかな?

この時の雄略帝は、歴史に残る数々の功績もあれば、見苦しい失態や恥もかいてきた、年齢を重ねた男なわけで、周囲のおとなを心配させていた子供時代と違って、まさに現人神(あらひとがみ)と畏れられ、威厳は天下を圧倒してみな平伏する。しかしすでに90歳を軽く越えてw、気づけば周囲は世代の違う若者ばかり(60歳でも帝からみれば若者w)、やみくもに人を殺しまくっていた少年時代の自分を知る者はみな死に絶えてしまった。孤独だったろうな。その深い哀しみなど、袁杼比賣のような小娘にわかるわけがない。いや、わかるのかも知れない。猪口才な言葉であれこれ慰めようとしても人生経験のない小娘の言葉は安っぽくなる、とも限らない。むしろ小童の言葉を神託として畏怖する文化が最後まで残っていたのが日本で、雄略天皇の出発点も「少年王」だったではないか。だがその少年王も今は年老いて、長生きしすぎたために「幼童神」の文化の最後の残影のようになってしまった。儒教によって日本人は理屈をかたりそれによって自意識を作ることを覚えてしまった。「幼童神」はみずから引き入れた中華文明によって死んだのだ。もう古事記も巻末が近い。ここはすでに現代であり、袁杼比賣は神託を語らない。大貴族の娘だから『論語』と『五経』くらいは仕込まれているんで、もう悠久太古の神託をかたる子供にはなれない。だから安っぽい言葉になることを畏れ、余計なことは言わない。文明以降では神話は文学へと崩れてしまうので言葉は経験の裏打ちあってしか深まらない。だから袁杼比賣は余計な言葉は何もなく、ただ一緒に寄り添っていたいとだけ詠う。陛下の哀しみ、代われるなら妾(わらわ)はこのままここにいたい、と。朝もよりかかり夕方もよりかかる愛用の肘かけに、肘をおいて頬づえつく手をかえるだけで、陛下はなんにも話さない。朝夕いっしょに寄り添ってる肘かけのような味方が、一人はいるの、わたしがその肘かけになれればいいのに。麻生圭子作詞、nobody作曲、1988年、浅香唯『セシル』。YOUTUBEから適当に検索どうぞw 今すぐ聴くようにw

袁杼比賣は浅香唯である
聴いた? 聴いたな、よし。1988年は岡田有希子の自殺から2年後、アイドルソングはかつてのイケイケで少々ぶっとび気味な歌詞から一転して、癒やし系・泣かせ系の、応援ソングっていうの?がでてきた。同じ88年には酒井法子の『GUANBARE』(森雪之丞作詞、馬飼野康二作曲)もあったな。その後、アイドル氷河期に突入して、マイナーアイドル(当時はB級アイドルっていってた)全盛期に。不思議なもんで氷河期の地下アイドルすれすれなB級アイドルが「アイドル文化」としては絶頂期だった。いろいろあるんだが今たまたま思い出すのは中嶋美智代、まだいくらかメジャー組だったと思うが91年のデビュー曲『赤い花束』(遠藤京子作詞、羽田一郎作曲)だな。おとなしい曲調の印象深い歌だった。この頃のアイドルの話は無限に続きキリがないのでやめとくとして、浅香唯に話を戻そうw 浅香唯といえば『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』(1987年)の3代目麻宮サキ=風間唯だが、あれもとんでもない田舎娘って設定だったようなw いいよな田舎娘w ちなみに『セシル』の歌詞の中で「苗字で自分を呼び捨てする いつもの私もおとなしい」って部分、「苗字で」だと思ってる人が多い(ほとんどのサイトも間違ってる)が、俺もそう思ってたんだよ。でも正しくは「幼稚で」らしいな。「苗字で」のほうが幼稚にきこえるけどw みんな「苗字」って聞こえてたのは、そのほうが萌えるからだろうw 雄略天皇の時代には苗字なんてまだ無いわけだが、氏名(うぢな)やカバネはあるわけで、袁杼比賣が自分のことを和邇臣(わにのおみ)ってよんでる絵が浮かぶ。これが春日臣(かすがのおみ)では台なしで、演出家がわかってないってことになるw 俺の計算ではこの時袁杼比賣の年齢はどんなに若く見積もって中3か高1ぐらい、これ以下ってことはありえない。90歳こえてる天皇の前で「この和邇臣のお酌をお受けくだされい」(現代語訳)とか言ってたのかね。
昭和公園のケヤキ

英雄・崇峻天皇殺害の真相

令和2年6月3日改稿 H28年2月17日(水)初稿
(※この頁は「浮屠の乱(用明天皇)」からの続きです)

まえおき(読み飛ばして可)
崇峻天皇も在位が極端に短く、そのため古事記に物語が載って無くても不思議はないが、似たような「在位の短い天皇」は欠史十代の中でいうと武烈・安閑・宣化・用明天皇がいる。しかし、拙ブログの読者ならお気づきのように、別に在位期間が短いから物語がない、という理屈はないのである。短い在位でも大事件というのはありうるし、長い在位でも天下泰平でたいした事件は起きなかった、なんてこともありうるわけで。その天下泰平というのは継体天皇の崩御で終わり、その後は激動の時代が始まったことはこれまでの回で述べてきた。だから欽明天皇以降にかんしていうと物語が載ってないのは、古事記の原資料を伝えた語部(かたりべ)にとって不愉快なネタしかなかったからである。もっと正確にいうと、語部の物語は今でいえばミュージカル風に歌い踊って上演するものなのであり、古事記の原資料はその台本なのである。そのような台本の最後に作られたのが武烈天皇物語(現存の古事記は誤って顕宗天皇物語になってるが)であり、欽明天皇以後の歴史は語部的な価値観が否定されていくような事件ばかりなので、上演の新たな演目は作られなくなったのである。崇峻天皇は古事記では2行くらいで終わり。欠史十代の中では安閑天皇と同じぐらいの分量で、綏靖天皇から開化天皇までの欠史八代でもこんな短い記事はない。しかし安閑天皇は実は内容豊富で書ききれないほどの人だったことはこのブログで書いてきた通りで、従って崇峻天皇も実は書くべきことは多いのだ。

1年遅れの即位か?それとも譲位か?
例えば、崇峻天皇は、書紀は在位5年としているのに古事記では4年という。しかし崩年は記紀で一致している。
一つの解決案としては、即位元年が書紀は1年前倒しに編年していると考えられる。崇峻元年は書紀だと戊申(588年)だが古事記では己酉(589年)が元年で、戊申(588年)は空位ってことになる。この説の問題点は、推古天皇の在位が日本書紀は36年とするのに古事記は37年としており1年長い上に、崩年は記紀で一致しているから古事記に従えば推古元年は崇峻天皇の末年(崩年)とかぶってしまう。通常は「踰年称元」といって即位の翌年を新帝の元年とするのだが、実際は先帝の崩年は新帝の最初の治世でもあるのだから即位のその年(=先帝崩御の年)を元年とすることもありうる。これを「立年称元」という。推古天皇だけが、なぜか珍しく「立年称年」だったということになる。そんなことあるかね?
別の解決案としては、推古天皇も通常とおり「踰年称元」だったとするとその即位は書紀でいう崇峻四年のことになり、そうすると崇峻天皇が崩御した壬子年(592年)を崇峻五年とするのは日本書紀の誤りであり、正しくはこの年はすでに推古元年で、崇峻天皇は前年(崇峻四年)に譲位していたことになる。

立年称元と踰年称元
即位したその年を元年とする方法を「立年称元」または当年称元、エジプト式、アンチデートシステム(antedate system:時前制)などという。これに対して即位した年の翌年を元年として数えるのを「踰年称元」または越年称元、メソポタミア式、ポストデートシステム(postdate system:時後制)などともいう。『史記』をみると中国では古くから「踰年称元」だったが、平勢隆郎の説によると古くは「立年称元」だったのが戦国時代のあたりから「踰年称元」になったという(ただし一時期は有名だった平勢説もいろいろ問題点が指摘されているのでそのまま真に受けるのもアレだが)。日本書紀を信ずる限り日本は昔から一貫して踰年称元でやってたってことになる。現在の日本は皇室典範の規定により、大正以降は立年称元になっている。バカげたことだ。これで令和が4月からという意味不明な議論をするはめになったが官僚や政治家に教養があればこんなバカげた議論はなかったはずだ。

だが書紀の編集方針として「譲位はありえない、崩御してからの即位のはず」という前提で編集しているので、書紀は推古朝を1年遅らせている。

もし崇峻天皇即位が1年遅かったとした場合
書紀をみると戊申(588年)には百済から仏舎利と仏教建築の技術者などが献上されてきたこと、蘇我馬子が百済僧に授戒について質問したこと、尼らを学問僧として派遣したこと、法興寺(飛鳥寺)の建立に着手したこと等が書かれている。『元興寺縁起』でも大枠同じような話が崇峻元年=戊申のこととして出て来る。元興寺も法興寺(飛鳥寺)も同じ寺のことで、この年は元興寺の建立の年でもあるわけだが、天皇空位の年では天皇の統治下での建立ではないことになってしまい格好がつかない。日本書紀では用明二年(587)八月二日に炊屋姫尊(かしきやひめのみこと=額田部皇女)と群臣が泊瀬部皇子(=長谷部王)に即位を勧めて即位させたとある。それで翌年が崇峻元年となるわけだがこれは「踰年称元」だ。この場合、日本書紀は『元興寺縁起』等の仏教系資料に基いて崇峻元年を決めたのだろう。炊屋姫尊と群臣が勧めたからって長谷部王がほいほい天皇になったかといえばそんなことはない。そもそも長谷部王は物部側の人間なのである。それなのに本心を隠して蘇我の側につき崇仏派のふりをしていた。ただし皇族の中では最上位に近いため、物部と蘇我の合戦では形式上は蘇我側の総大将(最高司令官)の地位に祭り上げられていた。むろんその合戦では、自軍を裏切り、工作をしかけて物部に内通して蘇我を総崩れに追い込む計画だったのであるが、いろいろあって巧くいかずチャンスを逸してしまった。そうなると形式上はこたびの合戦の勝利者のトップに立つ人間ということになり、炊屋姫尊でなくともとりあえずまず今回は長谷部王が天皇に、となるのは自然の流れであり、蘇我馬子は内心では少々あやしい(実は物部派では?)と思いつつも表向き反対しづらい。炊屋姫尊の本心としては当然我が子である竹田王を天皇にしたいのだが、日子人大兄王を除けば、自然な順位としては長谷部王が天皇候補であり、竹田王はその次になる。ここで長谷部王が即位してしまうと長谷部王が長生きした場合、竹田王の出番がなくなってしまうので、炊屋姫尊の策としては、この戦では多少でも竹田王に武功を立てさせ、それを長谷部王が針小棒大に褒め称えて辞退すれば、竹田王が即位してもなんとか格好がつく。その空気を察して他の皇子たちも目立たないようにしていた。厩戸王も表向きの武功ではなく裏方の工作をしかけていたのは用明天皇の回で説明した通り。しかし血気はやった竹田王は局地戦で敗れて重傷を負ってしまったらしい。炊屋姫尊にしろ馬子にしろ、物部が壊滅してしまった今、仮に長谷部王が排仏派だったとしても今更なにができようと見くびっていたのかもしれない。長谷部王にしてみれば事やぶれて死ぬはめになることは覚悟していたとしても、まさか自分が蘇我側のトップとして勝利者の栄冠を受けるとはまじめに予想していなかったし、今ここで即位しても用明天皇がそうであったように蘇我馬子の傀儡にすぎないことは理解していた。このたびの勝利は形式上のトップである長谷部王の力でなく蘇我馬子の力なのであるから。だから長谷部王は皇位を辞退して他の皇族、例えば日子人大兄太子(ひこひとのおほえのひつぎのみこ)か竹田王を一旦は推挙したに違いない。だが日子人大兄太子は完全に隠遁気分でシャットアウト、その上、彼の即位は蘇我の利益にも反するから実現はしない。ただ建前上は正統の家系だから推挙してみせることが可能というだけ。竹田王はこの戦の後は歴史から消えてしまうのでこの戦で戦死したのではないかという説も根強いが、前述の通り、おそらく竹田王はこの戦で負傷して瀕死の重傷だったのであろう。長谷部王にしてみれば大歓迎されての即位ではなく「しかたなく選ばれた」次善の策みたいな天皇では、権威も権力もたいして望めず、用明天皇と同じく傀儡になってしまうことは目に見えているから、ここは逃げたい。だから長谷部王からの提案は「竹田王の回復を待ってから竹田王に即位してもらおう」というものだったと思われる。これが逃げを打つ最後の手段だったのだ。そうやって一年間は先延ばしにしたが、しかし竹田王は回復が遅れ、現時点では見通しが立たないと判断されたんだろう。それでもう逃げられなくなってやむなく天皇になったのが589年なのだとすると、その前年の588年は天皇不在の空位の年なのである。ただ絶大な権威をもった炊屋姫尊と絶大な権力をもった蘇我馬子が「長谷部王が天皇です」と勝手に決めつけ宮廷の内外にもそう吹聴していたから世間的にはなんとなくそう思われていたので、またそのほうが都合のよい元興寺(飛鳥寺)でも『元興寺縁起』にある通りこの588年を崇峻元年としている。日本書紀はそれに依拠して編年したのである。あるいは、後付けで「587年は長谷部王の称制だった」ということにした、とも考えられないこともない。
しかし以上のことは考えすぎであろう。もし「一年間の先延ばし」もできなかったとすると、書紀のとおり、やむなく天皇になったのが587年で、崇峻元年は588年でよいことになる。これをムリにも否定して新説を立てなければならないような矛盾はとくにない。

崇峻天皇の戦い
よって、ここは『日本書紀』のいう通り、587年に即位して588年が崇峻元年だとして話をすすめよう。何度もいう通り崇峻天皇は本心では排仏派だったが、心ならずも成り行きで蘇我の傀儡天皇にされてしまった。しかしまだ諦めてはおらず、なんとか蘇我氏を打倒して物部守屋の仇を討とうとしていたのである。

崇峻二年(589年)・天皇のクーデター計画
近江臣蒲(あふみのおみ・かま)を東山道に、宍人臣鳫(ししひとのおみ・かり)を東海道に、阿倍臣枚吹(あべのおみ・ひらぶ)を北陸道に派遣して東国を視察させた。この3人は崇峻天皇の腹心かと思う。徴兵して軍事力を充実させるための下調べだろう。名目は後述のように任那復興(新羅征伐)のためである。この頃、任那復興は国家的な課題とされ、錦の御旗になっていたから怪しまれることはないが、実は天皇の私兵を密かに確保しようとしたのではないか。

三年(590年)八月
任那復興の詔勅。これは(少なくとも建前上は)朝廷あげての共同課題だからどこからも文句が出ない。別な言い方をするとこれを表向きの理由にすればなんでもできる。

四年(591年)十一月四日・クーデター失敗と天皇拘束
この日、5人の将軍に2万の兵を与えて九州まで進ませた。この5将軍のうち4人までは神仏戦争の時の武将で、蘇我馬子の配下だが、5将軍の1人、巨勢臣猿(こせのおみ・さる)は崇峻天皇の腹心かと思われる。おそらくこの時、崇峻天皇のクーデター計画の一部が漏れてしまったのだろう。崇峻天皇はのちに暗殺されてしまったので未遂に終わったが、裏では着々と蘇我打倒のクーデターの準備をしていたのである。未遂に終わったので計画の全貌は不明だが、任那派遣軍の一部がかかわるものだったかと思う。任那復興軍が玄界灘を渡る前に反転して、当時に東国軍も西上、中央で蜂起した天皇のクーデターに呼応して蘇我政府を撃破するという計画だよw そこまでうまくいかないとしても少なくとも脱出できるだけの私兵を確保すれば、あとは全国に檄を飛ばしてなんとかはなる。(※このうち北陸道に派遣された阿倍臣枚吹は今の羽黒山のあたりまでいったか(後述)。和銅5年(712年)に出羽国ができる前には、山形県沿岸部は北陸道の越後国に属し、山形県内陸部は東山道の陸奥国に属していた。近江臣蒲も少なくとも今の福島県川俣町までは行ったんだろう(後述)。川俣町は昔の伊達郡鍬山郷のうちだが伊達郡は10世紀に信夫郡から分置され、その前には信夫郡は一時、石背国に属していた)蘇我打倒といったが要するに排仏派の武力決起であり、神仏戦争の再開である。
それで蘇我馬子・額田部女王・竹田王・厩戸王の崇仏四天王が血相かえて、天皇を拘束・監禁し譲位を迫った。こうなっては崇峻天皇も無力なので従うほかないが、要するに皇位からひきずり降ろされるのだ。崇仏派は次の天皇として当然竹田王を立てようとしたが、崇峻天皇は最後の抵抗を試みた。事実上監禁されているといっても、譲位の発令には譲位の儀式が伴うのでどうしても朝廷に出御がなくてはならない。つまり貴族たちが大勢いならぶところ、公的な場所、人前にでるということだ。そこで事前の段取りとしては、彦人大兄皇子ではなく、竹田王を指名するようにと強制されていた。崇峻天皇もしおらしく服従したふりをして「けして彦人大兄王の名はださぬ」と約束していた。しかしこれは崇仏派を油断させる芝居だった。

崇峻天皇の譲位
で、崇峻天皇は段取りを無視して、竹田王ではなく厩戸王を指名したのである。わずかでも崇仏派に内訌を生じさせようという苦肉の一手だったが、これは予想外の出方で崇仏派は大慌て。「しばし待ち給え」といっても「厩戸王ほど聡明な皇子はなく、次の天皇にふさわしい」と天皇自身がいえば、並み居る群臣たちも「ごもっとも」としかいえない。確かに竹田王よりは優秀だったのだろう。だが厩戸王は「毎度ありー」とはならない。最高権力者の馬子と最高権威者の額田部女王は一説に愛人関係といわれるほど密着しており、その額田部女王は息子の竹田王を天皇にしたいにきまっているから、ここでは皇位を辞退しないと孤立してしまい、あとあと始末されないとも限らない。しかし当人が辞退したところで、崇峻天皇の素晴らしい人選に並み居る群臣たちも盛り上がってしまいいくら辞退しても場の空気は収まらない。この段階ではほとんどの貴族たちはまだ内心では排仏派であり滅亡した物部氏の勢力に同情的だったのであり、崇峻天皇の意図もただちに理解したから、その采配には喝采を送った。厩戸王にしてみればここでウッカリ天皇になったら悲惨な未来しかみえない。なので必死に知恵を絞って生き延びようとした。そこでまず額田部女王を上に立てたまま竹田王は正式な天皇ではないが事実上の天皇とする「称制」を提案したのではないかと思われる。先例としての神功皇后や飯豊女王の先例に鑑みても、神功皇后の場合は次の皇子として品陀和気皇子(応神天皇)、飯豊女王の場合は意祁命(仁賢天皇)がいた。むろん崇峻天皇も粘って、それなら額田部女王を上に立てたまま厩戸王が称制皇子でもよいではないか、となる。群臣もそれに賛成する。称制だなんだいっても事実上の天皇で、その後は本物の天皇として即位するはずとみられるのである。これでは妥協にならない。逃げ道をふさがれ万事窮した厩戸王は、ここで前代未聞の提案をすることになる。称制皇子は竹田王か厩戸王か曖昧にしたままでよいのではないか、どうせ実権は額田部女王が握ってるんだし、称制皇子はあくまで形式上は皇子であって天皇じゃないんだしいなくていいじゃん、と。そこでツッコミが入る、それはつまり、額田部女王が天皇ってことか、と。ここで厩戸王が「まぁそうでないような、そんなような…?」と曖昧なことをいうと話がまた混迷するので「まさにそのとおり!」とスパッと解決できたようなことをいってみせるしかない。で、話の行き先にハラハラしていた竹田王・額田部女王・馬子の3人も、「それ!それ!それでいこう!」と強引に決定して会議を打ち切るほか選択の余地がない。日本最初の女帝、推古天皇=豊御撰炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)はこうして誕生したのである。
(※ちなみに崇峻天皇の譲位(=推古天皇の即位)は崇峻四年(591年、この年の十一月四日かそれ以降)にあったのか、推古元年(592年の十月四日かそれ以前)にあったのかはわからない。もし前者なら踰年称元であり、後者なら立年称元である。書紀の通例からいえば前者のはずだが、今回は初の女帝出現ですったもんだがあったと推測できること、先帝崩御を承けての即位でなく譲位であること、等の異例の事態なので後者の可能性も高かろうと思われる。)

推古元年(592年)十月四日(書紀は誤って崇峻五年としている)
崇峻上皇(書紀は誤って現役の天皇としている)は、猪をさして「いつの日か猪の首を切るように鬱陶しいやつを斬ってやりたいもんだ」といった。宮殿の衛兵は通常より厳重な武装をしていた。この宮はこの段階では仙洞御所(上皇の宮殿)となっていて朝廷ではないが、厳重な監視下におかれていただろう。上皇はここから脱出する計画を密かに練っていたに違いなく、武装兵の増強はその一環だった。

同月十日
嬪(ひん/みめ。妃の階級の一つ、面倒なので以下「妃」と書く)の大伴小手子(おほとものこてこ)は寵愛の衰えてきたのを恨んでおり、このセリフを蘇我馬子にちくった。馬子は上皇(書紀は天皇とする)が自分を嫌っていることを知り大いに驚き、手下を集めて上皇暗殺計画を練った。…と日本書紀はいうのだが、本当かね? 皇子と皇女が生まれているから、おそらく大伴小手子は即位前からの奥さんであり、即位にあたって炊屋姫尊と馬子から押し付けられた妃というわけではないだろう。しかし大伴氏は蘇我についていたから、実家からは監視役みたいな役割も期待されてはいたんだろう。妃としては上皇が血気はやって危険な行動に出て今の幸せをブチ壊しにしないようにと、良かれと思って積極的に監視に務めていたのだろうが、上皇自身にとってはそれは敵対行為なわけで、いまさら寵愛が薄れたも糞もないはずだが…。あるいは上皇様は、妃にも内密に、危険なクーデター計画から妃の身を避けようとしていたのを誤解したのかな。すでに3人の腹心によって東国に準備ができており、万が一の時には妃や皇子たちを落ち延びさせる段取りも着々とすすんでいたのではないか。

皇子たちが逃げ延びた件についてだが。後世の説では崇峻天皇の宝算72歳とか73歳とかの説があるが、岩波版書紀の注釈もそれほど高齢ではあるまいとしている。異母兄弟の用明天皇は36歳説から69歳説までいくつもの伝承があるが、最も古い『水鏡』は36歳としており、これは552年生まれ。用明天皇よりは若いとすれば、どんなに年長でも552年より前に崇峻天皇が生まれたということはありえない。崇峻天皇の皇子、蜂子皇子は出羽三山の伝説では562年に生まれて崇峻天皇が暗殺された時31歳だったことになっているが、これだと父の崇峻天皇が11歳の時に生まれたことになり信じられない。おそらく生まれたばかりの赤ん坊だったか、蜂子皇子本人ではなくその次の世代じゃないのかとも思われる。それから蜂子皇子が黒人またはインド人だったんじゃないのかって話もあって、いろいろ面白い想像が花開くわけだが、この謎解きは次回に譲る。結論からいうと、出羽の羽黒山を開基して「能除太子」と呼ばれたという人は蜂子皇子ではなく、別の皇族である(詳細は次回)。蜂子皇子が出羽に逃げて生き延びたという伝承は、崇峻天皇が東国に腹心を派遣して兵員調達をさせたという史実と関係している。その際に、兵員調達以外にも様々な調査や工作を命じて万が一に備えさせたのだろう。なお小手子郎女と錦代皇女、小手子の父の大伴糠手の3人も奥州に逃げたという伝説が、今の福島県川俣町(昔の伊達郡鍬山郷のうち)に残っており、現地では「小手姫」(おてひめ)と呼ばれているが、『上宮記』に「古氐古郎女」とあるから「小手子」の読みは「こてこ」が正しい。で、「小手姫」は現地で養蚕の指導をしていたというが、最後は蜂子皇子にあえないのを悲嘆して入水自殺したことになっている。養蚕の指導をするほど時間があったのに蜂子皇子に会えないというのはおかしな話だが、これは伝承が崩れて半分は各地にありがちな民話のパターンが混ざってるのである。出羽の羽黒と福島の川俣町ではずいぶん離れているが、狩猟民の文化の色濃い当時の奥羽では往来や通信に不自由はしなかったろう。ただ別々に住んでるのは、羽黒の能除太子が蜂子皇子と別人なら何も不自然ではない。
小手姫像小手姫像(Wikipediaより)

それより馬子が驚いてるのもおかしい。上皇に嫌われてるのは当たり前であって、今更それを知ったからって大いに驚くわけがない。しかも「やらねばやられる」と思って逆に上皇を暗殺したにしては、知ってから暗殺まで20日以上も空いている。こんな呑気な反撃はありえない。密かに脱出の準備を進めている上皇が、スパイも同然の妃の前で不用意な発言したとも思えない。「首を斬ってやりたい」という上皇のセリフは馬子や厩戸王や推古帝や竹田王の4人、あるいは自分を拘束している周囲の全員を漠然とさしているのであって特定個人をいってるのではないのではないか。また特定していない上に、現代の日常の会話でもそうだが、殺してやりたいというのは願望であって「殺す」ではないし口でいったからって本気とも限らない。死ねっていったからって実際に殺すことは現代人ではまずない、それと同じことなのである。馬子が驚くならそんな気分的なことではなく、第一に宮殿内の武装兵に驚いたはずで、小手子妃の通報内容も斬ってやりたいとかのどうでもいいセリフではなく、この武装兵の目的についての情報だったはずだろう。馬子の反応から逆推すれば、武装兵の目的は蘇我殺害ではなかった。馬子にとっても、少なくとも20日間も放置する程度のことにすぎなかった。要するに小手子妃が馬子に通報することを見通していた天皇によって、小手子妃はなんらかの偽情報をつかまされたのである。だから驚いたといっても急に馬子の身が危なくなるようなことではなく、表面的には「上皇様が神功皇后よろしく任那派遣軍を自ら率いて海を渡り新羅を征伐する」と言い出したとか、そんなとこだろう。しかし裏では脱出計画ではないかと疑いもしただろう。

十一月三日
馬子は群臣を騙して東国からの貢を進上するとして、その場で東漢直駒(やまとのあやのあたへ・こま)に天皇を暗殺させた。…と日本書紀はいうのだが、さて? 「東国からの貢」というのは上皇を油断させるためだろう。宮殿の武装兵は東国兵で、近江臣蒲・宍人臣鳫・阿倍臣枚吹が集めてきた連中にちがいない。むろん蘇我馬子に警戒されないような何らかの名目もあり、事前に馬子も了解した上でのことで、馬子も当然、上皇が脱出計画を抱いてる可能性に警戒はしていただろうが、世間の目もあるので完全隔離というわけにもいかない。「東国からの貢」も「3人の腹心とのいつもの会合」として事前に決まっていたことで、蘇我馬子はその機会を利用したのである。むろんこの日以前のある段階で上皇の脱出計画の全貌をつかんだ。その情報を最初につかんだのは蘇我馬子か厩戸王か推古帝か竹田王かはわからないが、この4人はツーカーの仲で一味なので、誰かに入った情報は他の2人にもすぐ伝わるのである。日本書紀は蘇我馬子1人を悪役に仕立てようとしているが、厩戸王と推古帝の2人がまったく関係ないということありえない。4人が共犯だろう。権威と権力をもった朝廷の重鎮が4人とも共犯なんだから、上皇暗殺というとんでもない事態にもかかわらず、さしたる紛糾も起こらなかったのである。むろん群臣百官、貴族たちには心理的な動揺はあったろうが、ここで崇峻上皇の一派だと認定されたら命がないので静かにしてる他ない。ただし4人組も、最初から上皇を暗殺するつもりだったわけではあるまい。現代人は「天皇」というのは地位や役職のように誤解しているから、即位前の皇子や退位した上皇ってのは天皇じゃないただの人に近いように思ってるかもしれないが、胎中天皇の例でわかるように、天皇というのは産まれる前から天皇であり譲位してからも、崩御の後も天皇であり、天皇になったり天皇でなくなったりはしないのである。神はずっと神のままであり、人間はずっと人間のままであり、動物はずっと動物のままであるように、天皇はずっと天皇なのである。それが魂の実態であり、即位したり退位したりというのは社会制度上、同時に天皇が複数いるとややこしいから便宜的に交代してるってことにしてるだけ。それを折口信夫が「天皇霊」が継承されと解釈したのは現代風の考え方に引きずられた誤った説である。だから大昔の人にとっては上皇も天皇となんらその神聖さに違いはない。いくら大臣と太子と女帝の命令でも天皇と同格同等の上皇を殺せといわれて「はい」というやつはこの時代にいない。この時代は反天皇思想なんてまだなくて、天皇は神だと思われていたんだから。しかも崇峻上皇は格別に庶民にも貴族にも人気がないわけでもない。むしろ皇位から引き降ろされてからはアンチ蘇我の旗手として人気があった可能性が高い。だからもし東漢直駒が犯人なら、彼れには上皇を暗殺せざるをえないような何らかの「個人的で特殊な事情」があったか、または駒はスケープゴートで真の下手人は別にいたかだろう。崇峻上皇より権威のある上位者といえば敏達天皇の皇后だった炊屋姫尊しかいない。先帝の皇后は皇位継承問題についても決定的な発言権をもつことは以前にも書いた。用明天皇は中継ぎ的な存在で正統性も危ぶまれるような天皇なので除外される。崇峻天皇を天皇にしたのも事実、炊屋姫尊の意志だった。用明天皇も崇峻天皇も、中継ぎの天皇と見られており、最近の天皇で本物の天皇は敏達天皇である。その皇后だった炊屋姫の権威は用明天皇や崇峻天皇より格上だったろう。ただし、荒事(あらごと)の現場に女帝みずから出てくるのも考えにくいから、推古天皇の勅命を奉じて竹田王がやってきたのではないかとも思われる。竹田王は順当にいくと(日子人大兄王を除いて)崇峻天皇の次の天皇だった。竹田王といえども上皇殺害には正統性がないのではないかといわれそうだが、崇峻上皇が脱出を計画してまたも排仏派を滅ぼそうとしているということは、蘇我と一心同体の推古天皇も標的になっているという解釈が可能である。ならば形式的には逆賊の烙印も押すことができる。一説では蘇我馬子と額田部女王は愛人関係だったともいう。そこまで極端には思わないまでもそれなりに親密な仲だったことは事実だろう。竹田王は推古天皇の実の子なのだから儒教的には崇峻上皇は親の仇であり、親を守るためには上皇に歯向かうこともやむをえない。しかもその親は現役の天皇なのだから、忠でも孝でも理屈は成り立つ。竹田王だけでなく、熱心な崇仏派である厩戸王も「仏教を守る」ために同行した可能性が高い。仏教では王侯だろうが乞食だろうがあらゆる人間は平等無差別で死ねば無になるのであって身分差など認めないから、天皇の死も奴隷の死も等価値なのである。この頃の厩戸王は年齢も若く、理屈をそのまま信じて観念的な理想に燃えてしまう若さゆえの傾向があったろう。仏教原理主義的にいえば天皇の尊厳など否定するのが中二病的でかっこいいのである。まぁ左翼が天皇制廃止を訴えるのと同レベルの話だが。じゃ、政治はどうするんだっていえば、そこは中華式の皇帝制度という合理的で近代的なやり方でやればいいと思ってるわけだよ。本当は儒教と仏教は原理的に両立しないんだが、今も昔も外国の思想については一知半解で「浅い」のが日本人で、「適当に日本式で取り混ぜてればうまくいく」と思い込んでるんだよ。そんなわけないんだけどね。ともかく話を戻すと、竹田王や厩戸王がでてくるシナリオの場合、東漢直駒は竹田王や厩戸王の手勢の1人にすぎなかっただろう。

古事記と書紀で崩御日が10日ズレてるわけ

同月十三日
上皇崩御。日本書紀は三日(つまり暗殺のその日)に崩御したとしているが、古事記ではその10日後の十三日に崩御という。古事記が正しいとした場合、上記の暗殺事件も10日後の話だったとすれば簡単だが、そうとも言い切れない。事件は三日にあったのだが三日に刺されて重体に陥り10日後に崩御とも考えられるし、三日に崩御したのだが前代未聞の事件なので10日間秘匿され改めて十三日に崩御したことにして発表されたとも考えられる。しかしおそらくはどれでもない。真相は、はじめから暗殺する予定ではなく単に脱出計画を阻止して上皇を再度捕縛拘束するのが目的だったと思われる。いきなり殺そうというのは考えにくい。ただ、相手が上皇なので竹田厩戸の手勢がが気おくれしてしまったのと、もともと脱出を考えていたぐらいの上皇だから、宮殿内で小規模な武闘になってしまった。崇峻上皇も自ら剣をとって抵抗し、上皇の身を害さずに捕らえるのは困難なため、戦闘が長引いた。自分を捕らえようとする者どもを前にして、上皇は自分の脱出計画が蘇我にバレてしまったことに気付いた。万事窮す、最期の時はきた。そこで上皇は、その昔、雄略天皇が葛城氏を征し、武烈天皇が平群氏を伐った故事をあげ、両天皇にならって蘇我を討つことを高らかに宣言したにちがいない。あとは味方の生き残りや敵兵の中の者らによってこのことが外へ伝えられるのを期待できるだろう。長谷部若雀命(はつせべわかささぎのみこと)という讃え御名(尊号)は上皇の決起の趣旨に賛同する庶民大衆によって誰からともなく捧げられたものなのである。本居宣長は武烈天皇の「小長谷若雀」という名と混同されたもので単に「長谷部命」というのが正しいとして、今もその宣長説に従う学者が多いが、そんなオタンコナスな説はぜんぜん認められない。さて、仮りに上皇のこの宣言がなかったとしても、乱闘なり異常事態なりが起こっていることが外に漏れると、普通に考えて、何も知らない者たちが上皇に味方しようとして続々集まってくるし、上皇陛下がまたしても蘇我征伐の狼煙をあげたことが広まれば、さらに上皇の思うツボだ。そこで乱闘開始以後の何日かめに、馬子か厩戸王か女帝のうち誰かの発案で、「上皇を殺せる事情をもつ稀有な人材」として東漢直駒に白羽の矢が立った。東漢直駒に上皇暗殺の任を引き受けさせる説得にまた何日かかかって暗殺まで計10日かかった、とも考えられるが後述のようにこの段階では駒はまだ出番でなく、この案は却下したい。別案では、初日から竹田王(か厩戸王?)が上皇の決起を鎮圧するために手勢を率いてきており即日もしくは何日かめ、もしくは10日めの十三日に上皇を逮捕、隔離。十三日になってやはり死んでもらわないと自分らの身は保てないと判断し隔離された空間で上皇を暗殺した。ただしこの乱闘を無かったことにしたい蘇我一派は、崩御はあくまで三日であって十三日ではないという立場を堅持し、後々も上皇の名の「若雀」をけして認めず単に「長谷部命」とのみ称えた。日本書紀は「昔は譲位というものがなく崩御するまで在位していたはず」という前提での編年になっているため推古元年を崇峻五年と書きかえ、その分、推古天皇の在位を1年へらして辻褄をあわせている。

東漢直駒が受けた密命は「天皇殺害」ではなかった

同年同月(日は不明)
この同じ月に、東漢直駒が蘇我河上娘(そがのかはかみのいらつめ)を誘拐した。wikipediaは岩波文庫の注釈を真に受けて崇峻天皇の嬪の一人だと決めつけているが日本書紀のどこにもそんなことは書かれていない。嬪だとはあるが誰の嬪なのかは書紀の文面からはわからない。ただし彼女は馬子の娘である。馬子は彼女が東漢直駒に誘拐されたのを知らずに死んだと思っていた。のちに真相がバレて、東漢直駒は馬子に殺された。…と日本書紀はいうのだが、おかしくないか? 東漢直駒は暗殺犯なんだからそのまま処刑すれば済む。それで真相もバレなくなる。日本書紀の書き方だと、東漢直駒は誘拐犯として殺されたのであって、上皇暗殺とは何の関係もないことになる。しかも、馬子はそれを知らなかったというのだから、当初、河上娘は1人で家出でもしてたと思われたのか? それなら捜索されてもいたわけで大貴族のお嬢様がどうやってゆくえを晦ましていたのか? おそらくは2人の仲は周知で、馬子もしぶしぶかどうかともかく黙認していた程度の仲だった。東漢直駒が天皇暗殺犯だと知られていたら、真っ先にその罪状で処刑されるはずで、誘拐犯として殺されるなんてことはありえない。だから、この段階では上皇は誰に殺されたのか不明だったのである。上皇暗殺の現場に誰もいなかったことになるが、そんなことありうるのかという疑問はひとまずおくと、この男はまず誘拐犯として処刑され、しかるのちに「実は上皇暗殺犯でもあったことが判明した」という順番になる。…これは胡散くさいw 大本営発表じゃないのか? 処刑した後でちょうどいいから濡れ衣きせて「こいつが暗殺犯」ってことにしとけっていう…。上皇殺害の現場に誰もいなかったなら東漢直駒に罪を着せるのは簡単だ。東漢直駒は10日もかかって上皇の決起を鎮圧できず、10日めに竹田王と厩戸王が加勢にきて捕縛できた。もしくは最初から竹田王が捕縛したのであって東漢直駒は手下の1人だった。崇峻上皇が再拘束された後なら、犯人は権力の上層の誰かなのだから誰もみていない隔離された室内で上皇を殺害することが可能で、しかも最後に部屋からでたのは東漢直駒だったと偽証すれば、簡単にスケープゴートにできる。ところで、この河上娘は、嬪(みめ)だとあるから崇峻天皇の妃とする説があるがそんなことは記紀のどこにも書かれていない。嬪は嬪でもこの人は厩戸王の嬪なのである。『聖誉抄』(太子傳聖譽鈔)によると聖徳太子の3人の妃の1人として「河上娘」とあり、その父は馬子とあるので、これは日本書紀でいうと厩戸皇子の正室、刀自古郎女(とじこのいらつめ)と同一人物となる。つまり東漢駒と河上娘は不倫で、厩戸王とは三角関係になる。で、河上娘は行方不明で馬子は娘が死んだと思っていたってのは後付けだろう。実際は厩戸王と分かれて東漢駒と同棲しており、それが長い間、黙認されていたのである。誘拐してすぐ駒が殺されたなら、「娘が死んだと思っていた」なんてことはわざわざ書かれないはずだからな。ここで現代人なら、厩戸王が東漢直駒を憎いと思ってこいつを暗殺犯に仕立ててやろうと思ったんだろうと推理するだろうが、そうはならない。皇族貴族の結婚ってのは多くが政略結婚で必ずしも熱愛が伴うわけではないし、大昔から明治以前まで日本では離婚や再婚についてのタブー意識も全然なかった。厩戸王ぐらいの皇族だとその気になれば嫁なんていくらでも手に入るんだし、仏教思想に夢中になってる中二病青年が女性との恋愛にうつつを抜かすとも考えにくいんだが。しかも他の男と相思相愛の女に? かように、河上娘にさしてご執心でもなかった場合、何か別の見返りと引き換えに河上娘と東漢駒の関係を認めてあげた可能性は高いだろう。もし厩戸王が大きな心で2人の不倫を許していたら? 東漢直駒は深く恩義を感じて、厩戸王の忠実な手先になっていたのではないだろうか。厩戸王本人が許していたからこそ、蘇我馬子もやむなく2人の仲を黙認してたわけだろう。むろん厩戸王は東漢直駒に上皇暗殺など命じていない。密室で殺害した後で権力にものをいわせれば誰にだって罪をなすりつけることは可能だからだ。崇峻上皇を捕縛、再拘束することまでは、推古天皇・大臣馬子・竹田王・厩戸王らの中で合意されており、捕縛の手柄も立場上もっとも風当たりのなさそうな竹田王が「母を守るため」、「厩戸王」が「仏教を守るため」やむなくしたことで、上皇陛下にご翻意を懇願するという形をとる予定だったのだろう。ここまで、東漢直駒の出る幕は実はない。だが乱闘中に崇峻上皇が打倒蘇我と排仏を諦めてないことが判明したため、捕縛の後には即刻死んでもらうしか推古女帝・馬子・竹田王・厩戸王らの選択肢がなくなってしまった。密室だから誰が下手人かはわからないが情況からいって厩戸王か竹田王のどちらかだと一般人は思うだろう。しかしここまで急展開だったため、具体的に誰に罪を着せるかはまだ考えられていなかった。厩戸王・竹田王にも名分があったとして2人の責任を軽くする一方、乱闘の中で負った傷が元で崩御したのだとして、下手人をウヤムヤにするつもりだったんだろう。だがこういう予想外の展開になってしまうと、崇峻上皇が蘇我打倒に立ち上がって返り討ちにあったという悲報はあっという間に全国を駆け巡り、上皇陛下への哀悼と蘇我馬子への怒りと殺害の下手人への憎しみは全国民に燃え盛ってしまった。推古天皇はただでさえ蘇我べったりと見られているので、どうしても下手人の特定と逮捕、処刑を急がねばならない。ただでさえ女帝なんてきいたことがなく、当初から偽天皇よばわりする者はいくらでもいただろうに、事件の後処理を誤れば、推古天皇は上皇殺害の一味とみられ、正統性に著しく傷がつき、ひいては偽天皇の烙印から逃れるため至急の退位もするはめになりかねない。でだ、さぁここで厩戸王の忠実な配下である東漢直駒の出番となる。東漢直駒が厩戸王から受けた密命は、崇峻上皇の遺体が発見された直前に密室から1人で出てきたのは竹田王だったという目撃証言を噂として流すことなのである。実際に庶民にこの噂が流れ始めて、推古天皇は仰天して、噂の出どころを極秘に調査させ、早急に東漢直駒を始末してしまったんだろう。そうすると今度はこれを捜査せずに放置すると東漢直駒を殺害した犯人は竹田王と推古天皇だろうと誰でも考える。そうなっては藪蛇なのでとっさに蘇我馬子が気を利かして自分が殺したことにしたわけだ。自分の娘をかどわかしたやつなんだから馬子が駒を殺してもこれなら一応は理由が立つ。が、庶民がそんなバレバレな嘘を真に受けたとは思われない。ともかくこれで推古天皇と竹田王は非難の的となり、即位元年にして日本初の女帝の権威も暴落、竹田王が天皇になる目は完全になくなった。すべては厩戸王が竹田王をとびこえて天皇の位に一歩近づくための布石だったのである。
ところが、にもかかわらず、皆様ごぞんじのとおり、厩戸王はついに即位できなかった。それはなぜか。

エピローグ・竹田王の謎
竹田王は神仏戦争の後は歴史に登場しなくなるので、その時に戦死したんではないかという説がある。しかし、それなら崇峻天皇の後は厩戸王がそのまま天皇になればいいんで、女帝が登場する理由がなくなってしまうように思う。日子人大兄王と厩戸王の二人の天皇候補の争いを先延ばしするために女帝が立った、という説も比較的通説に近いが、それにも同意できない。日子人大兄王にそこまでの力があるのなら、そもそも用明天皇が即位せずに敏達天皇の後はすぐ日子人大兄王が天皇になったはずだろう。それを蘇我馬子の横槍で用明天皇を即位させることができたんだから、当時よりさらに権力の増大している蘇我馬子が日子人大兄王を無視できないはずがない。だから、女帝を立てて先延ばしにした問題というのは、日子人大兄王と厩戸王の争いではなくて、竹田王と厩戸王の争いなのである。ネットをざっとみてたら、推古天皇即位の直後から厩戸王が摂政になるまでの間(つまり推古天皇が即位してまもなく)に竹田王が薨去したと推測する説がある。この説のほうがややマシに思える。竹田王が薨去したのなら、そもそも額田部女王が女帝になる意味もなかったわけだし、即位しちゃった後であっても、すぐに厩戸王にまた譲位、という選択肢も十分にありえたし、実際にそうなると当時はみな思ったろう。
一つの考えとしては、厩戸王としては、いつでも天皇になれるという情況ができてしまうと、今度は急にあせらずともいいかな、という気分になった。なぜなら、天皇というのは年がら年中、神道の祭祀に追われて忙しいのと、いろいろ制約が多くて自由が効かない。厩戸王は仏教信者で仏教の儀式ならやりたいが神道の祭祀には興味がないのと、仏教の研究(それには書物を読むだけでなく仏教行事や仏教儀式も含まれる)に昼夜うちこみたいわけで、必ずしも天皇になればハッピーずくめということではない。額田部女王はもう即位しちゃったんだから当面は女帝としてがんばってもらって、自分は権力だけちゃっかり頂いて「摂政」という身分に留まった。…というのが真相ではないか。馬子にしてみりゃ同じ傀儡ならどっちでもいい。推古女帝は最愛の息子なき今、甥の厩戸王をもりたてていくことにした、と。だが儀式だらけで身動きがとれないほど天皇が忙しくなるのは平安中期以降で、当時の天皇がそんなキツ苦しいものだったとも思えない。
もう一つ釈然としないことがある。竹田王ほどの重要人物に死亡記事がなくていつの間にか消えてるなんてことあるかね? この人もしかして死んでないんじゃないの? 歴史から消えたというのは政局に出てこないというだけで、つまり政治から手を引いたってことだろう。だが一度でも皇位継承のライバルになった者が「俺は政治引退した」と言ったって安穏に暮らせるものでなく、厩戸王が天皇になったら暗殺の手が伸びるかもしれないし、謀反の疑いをかけられて処刑されるかもしれない。 額田部女王が女帝の地位に留まったのは厩戸王にブレーキをかけて我が子を守るためだったのではないか? なぜ竹田王は政治から足を洗ったのか、よりによってこの時期に。このタイミングだからこそ考えられるのは、要するに崇峻天皇暗殺の下手人は、厩戸王に唆された竹田王だったのか、実は厩戸王本人が下手人だったのか、どっちかはわからないが、いずれにしろ、厩戸王の策で、世間一般の認識では竹田王が下手人ということで世間の批判を浴びることになった。厩戸王の人間性にも絶望したろうし、本人は良かれと思って(あるいは、やむをえずと思って)やったことだから、自分の人間性を全否定してくる世の中にも嫌気がさしたんだろう。そこで家出だよw 竹田王は溺愛されて育ったからヤンチャでワガママだけれども素直で裏表がない。厩戸王のように過剰に知能が高いため人がバカにみえたり小細工を弄して情況を支配しようとするタイプとは違う。同時期にどうなっちゃったのか気になるのがは蘇我河上娘もそうだろう。彼女の情夫、東漢駒が殺されたのもめぐりめぐって竹田王のせい(少なくともその一味のせい)ともいえるわけで、贖罪の意識からなんとなくねんごろになって二人でどこか遠くに逃避行…。なんて筋書きはどうかね? 竹田王の人柄ならありそうじゃんよw 出羽の羽黒山を開基した能除太子というのは崇峻天皇の皇子、蜂子皇子だというが、蜂子皇子は当時30歳というのは伝説の誤りで赤ん坊か子供だったはずだから、彼を守って落ち延びたのは崇峻上皇の旧臣たちだったろう。そういうことがもし本当にあったのなら、竹田王と河上娘もどこか遠方に逃け避って辺境で暮らしたなんてこともありうるんではないか。
そう思って改めて『日本書紀』の推古天皇の巻をみると、実に不思議な、ある事件が目に付く。それは…。おっとここまでw それはもはや崇峻天皇の章で扱うことではないだろう。推古天皇の章で詳細に語りたい。
(※推古天皇に続く)

目弱王の変 ~「神の憑坐」か「少年犯罪」か~

令和元年9月17日 TUE 改稿 平成26年10月15日(水)初稿
仁徳⑯〜武烈㉕の系譜」から続き
根臣(ねのおみ)/大日下王が亡ぼされた理由
根臣ってのは後の坂本氏の祖先で、武内宿禰の子孫。系図は「武内宿禰ー紀角宿禰ー白城宿禰ー(中略)ー根臣ー建日臣(=坂本氏)」。当時、武内宿禰系の諸氏族の首領は葛城氏で、根臣も葛城円大臣(都夫良意富美、つぶらのおほみ)の配下にあったものだろう。葛城氏には二系統あって、襲津彦(そつひこ)の二人の息子のうち、兄・葦田宿禰(あしだのすくね)の系統を北葛城氏、弟の玉田宿禰(たまだのすくね)の系統を南葛城氏というように南北をつけて呼び分けることにする。これは実際に南葛城、北葛城と呼ばれていたわけではなく便宜上の仮称。弟の系統から葛城円(つぶら)がでて、履中天皇の時に大臣となって一族の総領だった。兄の系統のほうが分家みたいなものだが、こちらは娘が履中天皇の妃となって市辺押歯皇子を産んでおり、皇室の外戚になっていた。
葛城一色の履中天皇に比べて、允恭天皇の家系は反葛城系だという説があるが、そうではなく「葛城べったりではない」というだけ。允恭天皇の諸皇子の中では穴穂王が葛城円大臣と連帯したことは「木梨之軽太子の変」で詳しく述べた。円大臣(つぶらのおほみ)は履中・反正2代では真面目さを買われてか才能を認められてか(恐らく後者)、若くして執国事四大夫(閣僚)入りしていた(大蔵大臣相当だったと思われる、詳しくは履中天皇の頁を参照)が、允恭天皇の初期に父親の玉田宿禰(たまだのすくね)の不祥事で閣僚を退いていたのではないかと思われる。この時代は父の罪を子に及ぼさないことが多いので、円大臣が直ちに失脚したわけではないだろうが、それでも立場が悪くはなったろう。最後まで大臣(おほみ)とよばれているので形式上の地位には留まっていたと思われるが、伯父の葦田宿禰(あしだのすくね)か従兄弟の蟻臣(ありのおみ、葛城臣蟻)に、葛城氏の氏上(うぢのかみ、一族の総領)としての事実上の権限が移っていた可能性も高い。円(つぶら)としては、ここでなんとか挽回、逆転したいと模索していたところだろう。根臣は、そんな円大臣と安康天皇をつなぐきっかけになった人物かもしれないし、逆に連絡係として円大臣と穴穂王の間を往復しているうちに穴穂王の寵臣になったのかもしれない。
さて、安康天皇即位以降、まったくおぞましい、とんでもない話が続く。仁徳天皇以降、天皇への忠誠心は年々低下して、当時よほど風紀や治安が乱れて人心も荒廃していたことを伺わせる。根臣のような逆臣が現れるのもそういう風潮あってのことと思う。
ざっと読んだ印象、根臣(ねのおみ)と安康天皇二人の性格にリアリティーがない。もともとの事件の発端になった根臣(ねのおみ)の言動からして普通でない。勅使として仕事してるのに天皇からの贈り物を横からくすねただけでも無計画なのに、さらに自分が勅使なのに天皇に対してわざわざデタラメを報告して、バレないと思ったのだろうか? ところが安康天皇自身もろくに調べもせず真に受けた上、いきなり懲罰軍を送って大日下王をさっさと殺してしまう。ってのも、いくら気が短い人だからってへんだろう。そのままではとても信じがたい。これは大日下王の軍が向かってきてるという偽情報を根臣が流したに違いない。根臣もそこまで周到に準備していなければおかしいだろう。
これは最初から念入りに計画して狙ったもので、根臣は大日下王の妃、長田大郎女に対して天皇が想いを寄せていること(詳細は木梨之軽太子の変を参照)を忖度した上で、安康天皇を煽って討伐軍を出すように仕向けたとも考えられる。ただし根臣は小物で、勝手にだいそれたことをやらかしていたわけではない。似たようなことは誰でも容易に思いつくようで、同意見の人は多いが、ことの裏には皇位継承権のある皇族たちを取り巻いて対立しあっている貴族層の思惑もありそうに思える。そう、根臣を操っている大ボスは葛城氏なのだ。葛城氏は朝鮮半島や大陸との外交と交易の利権を握って過渡に強大になっており、応神天皇は九州の諸県君(もろがたのきみ)を寵用してその娘を妃に入れ、瀬戸内海から九州の水運・水軍を司らしめ、葛城氏の利権を分割、減殺した(詳細は応神天皇の頁を参照)。その娘から生まれたのが大日下王。だから葛城氏にとって諸県君は目の上のたんこぶであって、諸県君の象徴であり権力の源泉が諸県君の腹から生まれた皇子、大日下王であった。
大日下王は大山守命の乱で中立を守ったか何らかの理由で隼人族の管轄権も奪われ、一時的に立場が悪くなっていたが、墨江中津王と協力して速総別の乱を鎮圧するのに功をあげて以来、再び存在感を増していたと思われる。母系のルーツは天孫降臨の聖地日向であり、葛城氏を掣肘するために応神天皇の意志によって生まれた(実父は仁徳帝だが)大日下王は、ただでさえ国粋派や庶民からもかなり人気があったろう。だがそれだけではさすがに葛城氏でもいきなり理不尽に攻め滅ぼすまではいかない。発端は目弱王が生まれたことだろう。これで事情が変わった。
書紀によると大草香皇子(大日下王)は履中天皇の皇女「中蒂姫」を妃として眉輪王(目弱王)を儲けていた。後述するが履中天皇の皇女だというのは書紀の誤り。妃だというのも長田大郎女(ながたのおほいらつめ)と同一人物としたためで、実際は「事実上の妃」ではあっても公式には単に大日下王の宮殿に仮寓していただけと思う。が、そこは一つ屋根の下の男女、ねんごろな関係になって兄媛(えひめ)が生まれた。書紀はこれが眉輪王(目弱王)だとするが、古事記のいうとおり長田大郎女の方が目弱王の母だろう。兄媛がいれば弟媛(おとひめ)もいなくてはおかしいから、目弱王が弟媛ということになる。目弱王は王子と思われているが実は王女だろう。だが王女(兄媛)を産んだ以上、中蒂姫は次は王子を産む可能性もある。これは極めて重大切実なことだった。なぜかというと、中蒂姫は女鳥王の血筋をひく最後の生き残りだからである。葛城氏からみれば、大日下王はこのままでは第二の速総別王、第三の大山守命になりかねない危険な存在だった。
正統性にわずかでも疑問をもたれそうな後ろ暗い安康帝にとっても、大日下王がこの中蒂姫との間に子を儲けたというのは極めて危険なことだったろう。
大日下王のもう一人の妃が長田大郎女。安康天皇にとっては同母姉だが複雑な愛情が絡んでいることは上述の通り。つまり安康天皇と葛城氏は、大日下王を排除したいという目的では一致していた。
根臣は安康天皇の信頼厚かったようで、大日下王が殺されてしまったこともあり、『日本書紀』だと雄略天皇十四年まで悪事が露見しなかった。

第三黒媛と中蒂姫の流転
大日下王の妃は長田大郎女だが、この人は後述するように安康天皇の同母姉という解釈で正しい。日本書紀は履中天皇の皇女の中蒂姫という女性を出して、長田大郎女の別名であるかのような匂わせ方(遠回しな書き方)をしているが、これは安康天皇と長田大郎女の関係が近親相姦ではなかったという希望的観測の可能性を示唆するためで、実際には別人だから書紀はウヤムヤな書き方しかできなかったのである(詳細はこのブログの別の頁に書いた)。で、眉輪王(目弱王)は中蒂姫の子ではなく、古事記のいう通り、長田大郎女の子だろう(どっちの子でも当面のストーリー解説には差し支えないが、後の方で問題になる)。安康天皇が長田大郎女を欲したのは個人的な欲情からで、安康天皇にとってはそれが重要だった。まったく別の政治的な動機から中蒂姫(とその子の兄媛)をも欲したろうが、こちらの件はさほど重要視していなかったのではないか。女鳥王の血筋が皇位の正統性の証になるなんてのはすでに大昔の話で、允恭天皇の権威が確立してからは終わった話でどうでもいいことと考える人も増えていただろう。
書紀によると中蒂姫は履中天皇の皇女で母は黒媛という。ところが履中天皇の頁に書いたが黒媛は三人いる。

・第一黒媛
書紀によれば羽田宿禰の娘で、履中天皇が即位前に住吉仲皇子と争った黒媛。これと別に書紀には住吉仲皇子の乱が平定される時に官軍に捕まった倭直吾子籠が自分の妹で「日之姫」を差し出すことで罪を赦されたという。この二人の女性は恐らく同一人物で推定本名「羽田之日之郎女」。幡梭之若郎女=波多毘能若郞女=若日下部王とは乳母姉妹かと思われる。
羽田宿禰は実の父ではなく「乳母」親だろう。倭直吾子籠の妹というのは、この場合の妹は恋人または妻であってsisterの意ではない。倭直吾子籠は住吉仲皇子のために履中天皇の皇居からこの黒媛を連れ出して捕まった。妹(恋人)というのは追手を欺いてそう自称してたんだろう。だが官軍側でも媛に脱走されたというのは聞こえが悪いから、吾子籠の妹という建前のまま拘束したのでる。

・第二黒媛
履中帝の妃の一人。葛城蟻臣の娘で市辺押歯王の母。本来は「黒媛=黒比賣」という名ではないのだろうが混同された結果、本名不詳になってしまった。書紀では履中天皇の妃になってから宗像神の祟りにあって薨去したことになっているがいろいろ不可解で謎解きが必要。この人も羽田宿禰が「乳母」親だったと思われる。

・第三黒媛
速総別王と女鳥王の間に生まれた娘で推定本名「更黒覆媛/布久呂布比賣」。住吉仲皇子が隼別皇子の乱を鎮圧した際の捕虜だろう。

第一と第三は同一人物の可能性が高い。中蒂姫は第三黒媛の娘なのだが、書紀は第一黒媛の本名「羽田日之郎女」と幡梭之若郎女(=若日下部王の別名)も同一人と誤解したため、中蒂姫の母を幡梭之若郎女だとして「中磯皇女」とも書いている。だが、それらは書紀の誤りで、古事記には幡梭之若郎女が履中帝の妃になったなどとはまったく書かれてない。このへんの話の詳細は履中天皇の頁を参照。
第三黒媛と中蒂姫の母娘は、女鳥王の血筋だから天皇以外の皇族の妃にするのは乱を誘発しかねないので、死んでもらうか非皇族(皇別でない貴族か一般庶民)の嫁になってもらうか一生独身でいてもらうかしかない。だが、仮にも代々皇族同士だけで結婚してきた純血の皇族、しかも本人たちに罪がない以上、理不尽な扱いにも限度がある。第二黒媛が神の祟りで薨去した時、神罰を怖れた履中天皇は反対派の意見を容れてしぶしぶ中蒂姫を手放し、墨江中津王の過去のゆかり残る住吉大社に寄寓させたんだろう(実際には神罰ではない。書紀のこの記事も不可解すぎるので、比賣碁曾社の起源とあわせて後日あらためて解明するが今回はふれない)。書紀によると鷲住王(わしずみのきみ)という名の武勇すぐれた皇族が履中天皇のお召しを無視して住吉邑に住み着いたというが、これは中蒂姫を護衛するためだろう。履中天皇が武力に訴えてもこの王女を取り戻そうとしかねない雰囲気があったのだと思われる。しかし履中天皇はわずか六年の在位で病気で崩御。天皇といえば長生きと相場の決まってる日本でわずか在位六年ってのは天地開闢以来のことで、仲哀天皇の九年より短い。仲哀天皇が神罰にあたって崩御したことは有名な語り草だったし、履中天皇ももしや神罰ではと思わせる情況があれこれあったから、次の反正天皇は一度は怖れて、自分の皇后とはせず他の皇族にくっつけようとしたんだが、その結果、中蒂姫を娶りたいと名乗りをあげた5人の皇族男性、若子王(允恭帝)・大日下王・伊和島王・久奴王・大郎子王は全員ふられた。それで反正天皇は再びもしやと思って皇后にならんかとモーションかけたところ、やっぱり断られた。天皇の思し召しは普通は断れないもので、あえて断るというのは謀反を起こすと宣言するに等しい。そうなると、中蒂姫のもとに結集する勢力はなみなみならぬものになる可能性があるから、これは脅しであって、内乱勃発の一歩手前ということになるが、反正帝には財王という皇子がいたはずだから、あるいはこの皇子とねんごろになった可能性はなくもない。ともかく大事になる前に反正帝もわずか五年で崩御。べつに崩御したのは中蒂姫を皇后にしようとしたせいではないのだろうが、当時の人としたらわからないから、いろいろな可能性を考えたろう。次の允恭天皇も、本来なら中蒂姫を后にしたいところだが、先代が立て続けに崩御したのを目の当たりにみて、万が一この王女を欲したことの神罰だったりしたら嫌だから、念のため、中蒂姫を厚遇はしたが自分の皇后にしようとまではしなかった。どれぐらいの厚遇かはわからないが、かつて仁徳天皇が八田若郎女を処遇したのと同じぐらいではないか。允恭帝が彼女を自分の皇后にするのは、例によって例のごとく大中津姫も許してくれなかったろうし。自分の后にはしないかわりに住吉を出てもらって、自分の宮の側に住んでもらった(允恭天皇の宮都は古事記は「遠飛鳥宮」とするが書紀には書かれてない。「遠飛鳥宮」もいくつかあった宮の一つで即位後に転居した宮。即位前には葛城の朝妻の宮に住んでいたろう。中蒂姫を迎えた宮もその近所のどこか)。ただ、中蒂姫を自分の皇后にできない状態で即位するのは履中・反正の両帝と同様の情況であり、天皇としてはやや権威に欠けている。そこで数年、皇位を辞退し続けたので、この期間、中蒂姫を奉ってその権威の下で実質は允恭天皇が政治を執ってはいたが名目上は空位期間があった(允恭天皇の記事に詳細あり)。允恭天皇の偉大な功績(氏姓の正定ほか)のすべてはこの空位期間になされたことで、実力でその帝徳を示した上で改めて即位したので、即位後は允恭天皇は中蒂姫なしでも十分に権威ある天皇として君臨できた。
中蒂姫はそれで天皇から求愛されなくて済んだわけだが、お役御免となってからは、処遇が問題になる。大中津姫の反対もあって、中蒂姫を天皇が后にできないとあれば、木梨軽太子の妃がふさわしいが、太子は同母妹の衣通姫にぞっこんだから断った。大中津姫が仕切るこの一家に一夫多妻はない。娘の衣通姫も母親と同じで一夫多妻は嫌だったろう。しかし中蒂姫をそれ以外の兄弟にくっつけると、皇位争いの原因になりかねない。そうすると次にでてくる婿の候補は、大日下王だろう。書紀によると反正天皇が崩御した時、次の天皇の候補となりえたのは允恭天皇と大草香皇子(大日下王)の二人しかいなかったと書かれている。允恭天皇自身はすでに自分の権威と自分の子孫の皇位は盤石だと思っているので、大日下王にくっつけるのはなんの問題もない。が、それ以上に若日下部王が一時期、墨江中津王の妃だったので、同じく妃だった第三黒媛と仲良しだったとしたら、中蒂姫も若日下部王に親しんでいたろう。それいわずとも、それ以上に第一黒媛は若日下王と乳姉妹なのだからその縁で大日下王が選ばれたと考える方がいい。大日下王としては、允恭天皇即位によって将来自分が天皇になる可能性もなくなったのに中蒂姫を妃にしたら厄介事に巻き込まれかねない。なにかあったらまた世間は大日下王を担ぎ出して一波乱、なんてこともありえないとはいえない。そこで、中蒂姫は大日下王のもとに一時的に寄寓することになった。いきなり大日下王の妃になったわけではない。まぁ喩えていえばお見合い期間とか交際期間とかお試し期間みたいなものだろう。それも期限をきってるわけでもあるまいから実質は「妃ではない」という建前で永久に居候するつもりだったと思われる。
しかし実際には大日下王の子供を産んだ。兄媛という。兄媛というからには弟媛もいたはずで、たぶん正式な妃である長田大郎女にも後から子供が生まれたってことだろう。だとすると兄媛と弟媛は異母姉妹ということになる(この弟媛は目弱王と同一人物だろう、つまり目弱王は男児ではなく女児)。この時代、皇族でも婚前交渉で子供ができることはよくあることだったろう。それで正式な妃にするかどうかもケースバイケースだったと思われる。長田大郎女も大中津姫の娘だから一夫多妻に反対だったろうし、この時代の男性の一般的な考えとして、子供ができたぐらいで最愛の妻長田大郎女を捨ててまで中蒂姫と結婚させられる義理もぜんぜんない。もうこの宮に同居してるんだから正式な妃であってもなくても似たような情況であり、実質が伴えば形式はウヤムヤにされたのではないかとも思われる。大日下王が滅ぼされた時、中蒂姫も燃え落ちる宮殿と一緒に焼け死んだのではないか。そういうわけで、二人の妃じゃなくて一人の妃のような錯覚が生まれたのではないか。記は長田大郎女一人で物語をすべて説明し、紀は長田大郎女と中蒂姫を同一人とし、どちらも二人いたようには書いてない。だが系譜記事からいって明らかにこの二人は別人である。

同母妹との近親婚だったか
長田大郎女は安康天皇の同母妹である。安康天皇は木梨の軽皇子の近親婚のタブー侵犯に反対する人々によって擁立された天皇だから、同母妹を皇后にすることは本来ありえない、と一見思える。そこで同名の別人とする説もあるのだが、詳細な議論は別の頁でやったのでそちらを参照されたし。結果からいうと、同一人物で安康天皇からみて同母妹なのである。
では、安康天皇は本当に同母妹を皇后にしたのだろうか? 『古事記』では長田大郎女について「皇后」「后」「大后」「大后」の順で四回書かれている。このうち「大后」は現代語でいう「皇后」のこと、「后」はおもに天皇以外の皇族の妃に使われているが、天皇の配偶のうち「大后」以外の女性にもいう。「皇后」が問題で、ここの長田大郎女を皇后にしたという部分と、清寧天皇には皇后がいなかったという部分で、二回しか『古事記』には出てこない。つまり「皇后」という言葉は特定の女性をさすのではなく「皇后という地位・身分」をさす抽象的な言葉として使われているとも考えられ、すると『古事記』のここの文章は「長田大郎女を皇后にした」の意味ではなく「長田大郎女を皇后同然の扱いにした」というニュアンスで読み取れる。「后」と書かれたり「大后」と書かれたり一定しておらず、身分が不鮮明なことが伺われないだろうか。つまり最初に皇后と書いたのは「この後、后と書いたり大后と書いたりしてはっきりしないけど要するに正式な立場ではなかったんだよ」という意味が込められているのだと解釈できる。
もともと二人の関係は、長田大郎女は被害者、安康天皇は加害者の関係だったので、長田大郎女を皇居に迎えて特別待遇にしたのは安康天皇の贖罪行為とみるのがいちばん自然だろう。それでねんごろな関係になるのも理解できることだが、流石に公式に大后には出来なかった。ただ、周囲からみれば事実上のそういう仲ってのは明らかだったので周囲から「大后」と呼ばれても否定せず(正式な称号ではなくニックネームみたいなものとも言い張れる)、もし何かいわれても「同母兄妹なんだから仲がいいのは当たり前だろ、それ以上の関係はないよ」という空気で押し切って言い逃れたんではないかと思われる。
木梨の軽皇子といい安康天皇といい、同母妹が好きだけど、そこらの詳細は「木梨之軽太子の変」の記事を参照。そもそもこの兄弟には異母姉妹が存在しない。允恭天皇には皇后が一人しかいないから。押坂大中津姫は『日本書紀』みると石之姫ほどじゃないが焼餅焼きだったみたいだ。だから側室も許さなかったんだろう。
さて、そもそも皇太子だった木梨の軽皇子が同母妹を后にしたために群臣貴族層から拒否され、そのため安康天皇に皇位が回ってきた(少なくともそういう建前で即位した)わけで、それなのにこんなことをしていれば貴族たちは「何のために皇太子に刃を向けてまでこの人を天皇にしたんだ?」ということになる。人望は急落していただろう。だから暗殺された時の白日子王、黒日子王の反応が冷淡だったわけだ。

安康天皇が神の祟りを受ける予兆
(1)根臣のような悪人を見抜けず寵用しその讒言を容れて激情にまかせて無実の大日下王を殺した(実際には長田大郎女への未練がありそこを根臣に利用され乗せられた)
(2)木梨の軽皇子を討伐して即位したのにその軽皇子と同じく同母妹を后とした(これについては筋が通らない一貫性のなさだけが問題で、同母妹との関係については情状酌量の余地がないでもない)
(3)潔斎して神託を聞くべき神聖な神牀(かむどこ)をあろうことか昼寝に使いそこで夫婦の雑談をした。『日本書紀』だと神牀は出てこないで単に「楼」(たかどの)で宴会した時の話になってるが、神牀が漢文に訳しにくいためだと思う。神牀で宴会やったのかもしれない。
最後の(3)について詳しくいうと、書紀では沐浴するために山宮に行きそこで楼に登って景色を楽しんで宴会したことになっている。沐浴は単に水か湯で体を洗うだけの場合もいうが、宗教的な「禊」(みそぎ)的な儀式にもいう言葉(古代中国にも神道でいうミソギ的な儀式はあったから漢文表現ができる)。書紀は「楼」というかこれは「神牀」(かむどこ)を漢訳できずやむなく「楼」と書いてるだけだから、沐浴も禊の儀式だろう。山宮というのは安康天皇の宮都「石上の穴穂宮」が橿原市石原田という説によれば耳成山か。天理市の田町または田部町とする説ではすぐ東に山地がわさわさあるのでどこか適当な山がいくらでもあったろうが多分石上神宮の背後の山地を使ったのではないか。別に御神託を伺うのに山の中に行く必要はないが、どういう結果が出るかわからないので人目を避けたかったのではないか。
で、安康天皇は神様に何のお伺いを立てようとしたのかだが、恐らくそれは長田大郎女を正式に后妃にすることの可否だろう。この場合の「正式に」ってのは建前上の社会的地位としての「后妃」の称号ではなく、即物的具体的な意味で性交が許されるかということである。兄の木梨軽太子を儒教倫理に反するとして弾劾したのに、自分が同じことしてどうするっていう批判を避けるために「神託」に頼ろうというわけ。以前にも別の記事で詳しく書いたが、この時代はまだ「母が同じだと結婚できない」というルールは一般的でなくて、一部の儒教信奉者だけがいっており、外来思想なわけ(正確には儒教では同父間の結婚を禁じているのであってこれを同母間に置き換えてるのは日本的な歪曲)。この時代はまだ儒教は全面的に容認されたわけではなくて外国かぶれだけが信じるアヤシゲな思想と思われてたから、日本の神々ならOKを出すと予想された。これは必ずしも御都合主義ではない。神道も仏教も儒教もキリスト教も最終的に正しいところで一致するはずと能天気に考えるのは永年の神仏習合で思考能力が蒸発した日本人だけで、そんな訳ないだろ。異なる世界観を同時に認める(=価値相対主義)なら、多様な行動指針に優劣はつけられない。それは「単なる真実」であり御都合主義でもなんでもない(儒教が神道と矛盾しない正義の基準として容認されたのは雄略天皇以降)。
で、実際に長田大郎女についてはOKが出たんだろう。だからこそその後の「直会」(なおらい)という名目で宴会になるわけである。

目弱王の動機と世間からの解釈
記紀は揃って犯行の動機を「父の敵討ち」だとしているが、本当だろうか。これは後世の、記紀編纂者の解釈にすいないのではないか。いくら子供でも、いや純真な子供だからこそ、私憤よりも公の大義をまじめに優先させうる。当時の子供はみなヤマトタケルを手本としたのであって、父の仇などという私情で天皇を殺すなんてことはありえない。7歳といっても頭の中は完全に大人だっていうことはよくあることで、目弱王は、安康天皇が天皇にあるまじき悪人だから殺したのであって、大人もカゲでは天皇を批判していたのを聞いていたのだろう。しかし記紀の編纂の時点では、目弱王の方が犯人として(つまり悪の側として)滅ぼされてしまうことがわかっているので、物語としてわかりやすく犯行動機を説明的に設定してるだけで、深い意味はない。
当時のリアルタイムの人々も、安康天皇が暗殺されたことがわかって、まだ犯人が誰かわからない情況では、まず犯人は例の事件(大日下王の一族を滅ぼした件)の敵討ちだと想像しただろう。大人は、恐れ多くも現人神にあらしゃいまする陛下が悪人だなんてことはおおっぴらには考えたくない。それが露呈すると社会がアノミー化する。だから、安心できるわかりやすい物語に落とし込もうとする。現代の警察の「調書」と同じで、犯人や容疑者がいくら本当のことをいっても、あんまり理解しがたいへんな話だったり、心理的に受け入れがたい話だと、警察は調書に本当のことを書いてくれない。そして「おまえはかくかく思って、だからしかじかの行為に及んだんだろ?」と通り一片のわかりやすい話を勝手に用意して、「そうなんだろ、な」と同意を迫る。猟奇事件のマスコミ報道でも、犯人像は偏見丸出しのステレオタイプになる。警察・マスコミ・世論の三者が、「安心できる・納得できる物語」を求めるからである。不安を煽るような真実は誰も求めない。「ろくでもない人間が天皇に即位することもありうる」なんて危険な話は、当時の人は誰も直面したくない事実だった。「天皇陛下が暗殺されたが、原因は犯人の敵討ちだった」という話なら、なるほど理由はわかったがけしからんと怒って犯人を処刑すれば、社会秩序は守れるのだから、受け入れられる。だが、天皇自身が悪だったとなれば、犯人を処刑しただけでは何の解決にもならない。社会システムの根幹の問題だからだ。
だが、犯人が目弱王だと判明してからは事情がかわってくる。目弱王が子供だったからだ。これは現代人にはわからないことだが、日本でも海外でも、大昔は幼い子供には神性が宿っており、その言葉や行為は時として「神意」の表われとされた。つまり安康天皇の暗殺は神罰だという解釈の余地が当時の人々には確保されたことになるのである。神罰で崩御した例は、仲哀天皇を思い起こせば、「先例もある」。ただし、仲哀天皇の場合は、現人神そのものともいうべき神の御子、胎中天皇として威光あまねき応神天皇がただちに出現したのでアノミー化は切り抜けた。今回はそのようなアテがあるわけではないので、目弱王が子供だというだけでは解決にならない。目弱王が勢いに乗じて即位するところまでいけば良いのだが(そこまでいったとしたとしても何かまだ心もとない感じだが)、逆に瞬殺魔の大長谷王に捕縛されてしまった。こうなると一気に神秘性は薄れる。安康天皇に恨みを抱く、大日下王の残党に利用されたのだろう、所詮子供だな、という推理が有力になっただろう。ここで生じた天皇否定の社会不安(アノミー化の兆し)の行く先はどういう結果に帰結するか、それを語る前にまず目弱王の件を片付けよう。
目弱王だけでなく、彼を捕縛した側の大長谷王も子供なので、なにかしら「神聖演劇」でもみてるような気分にさせられる。むろん、目弱王を弁護してるわけではない。目弱王を情状酌量するには及ばない。しかも、子供だったとしても安康天皇の頚を切り落とした悪行に「子供特有の残酷さ」が見える。倭建命も雄略天皇も「子供特有の残酷さ」が、あの時代だからこそ解放され暴走してる感じがする。それはヤマトタケルから雄略天皇まで変わっていない。

目弱王はなぜ葛城氏のもとに逃げたのか
葛城氏の氏上(うぢのかみ、当主)である都夫良意富美(つぶらおほみ=円大臣)は葛城円(かつらぎのつぶら)。系図は「武内宿禰ー葛城襲津彦ー(中略)ー玉田宿禰(南葛城の始祖)ー円大臣」。根臣とは親戚で同じ武内宿禰の子孫。
安康天皇を反葛城派とみて、目弱王が葛城氏に逃げたのを合理的とみる説もあるが、逆に、葛城氏は安康天皇と連帯していたのに、なぜ安康天皇を暗殺した目弱王が葛城氏のもとへ逃げ入るのか不思議がる説もある。後者が妥当だろう。安康天皇は次期天皇に葛城系の市辺忍歯王を指名していたと書紀にあり、前述の通り葛城系の根臣を腹心としていた。葛城氏を中心とした安康天皇+履中天皇系皇族(市辺忍歯王)はすべて一つのグループなのである。雄略天皇とは対立する市辺押歯王子の後ろ盾である葛城氏に目弱王が逃げ込んだというところに、計画性が感じられるという説もあるが、それは誤った見方だろう。この段階では雄略天皇(=大長谷王)も目弱王と同じ子供であって、政治力などはないし、何度もいうようにこの時は逆に葛城氏と安康天皇とは蜜月だった。つまり目弱王は(黒彦王の手の者に守られつつも)堂々と一人で自首したのである。皇位を望んでいないといってるのは目弱王が男児だという前提での記紀の作文だろうが、恐らく、本当は市辺忍歯王(公式上の次期天皇)のもと(石上の市辺宮殿)へ自首するつもりだったのではないかと思われる。が、実際には黒彦王(の手の者)によって葛城の居城へ連れて行かれてしまった。黒彦王(の手の者)は「道が官軍に遮断された」とか、「葛城にいったほうが忍歯王に落ち合える、今なら忍歯王は葛城邸にいる」等と言い含めて目弱王を騙したのだ。目弱王は一旦は捕縛の身になっていたところを、黒彦王の協力で脱出できたのだから情況的に黒彦王しか頼れる者がいなかった。だが、いくら7歳(満6歳?)といっても、物心つく前から政局のただ中にいる皇族であり、現代人の考えるような子供とは違う。大人の世界の政治抗争も理解していたから今回の天皇暗殺も決意できたのだし、皇族一人一人の政治的立場や所属派閥も熟知していたろう。だから黒彦王の言動が怪しいことも察していたと思われる。その気になれば黒彦王を油断させてその手から再脱出し、自力で市辺宮へ辿り着くぐらいのことは出来たろう。しかしあえて黒彦王(の手の者)に身を委ねたのは、一人で行動することに不安があったのではないか、というのはその名の通り「目が弱かった」(弱視かなにかわからないがなんらかの視力障害があった?)のではないか。本居宣長は「和名抄」を引いて、漢字で「石炎螺」とかく貝の名がマヨワなので「目弱」も「眉輪」もその当て字だといい今の通説になっている。「石炎螺」は今かるく検索した程度では巻き貝の一種ではあるがどういう貝なのか具体的なことはすぐにはわからぬ。漢字の「眉輪」では確かに意味不明だが、かといって貝のマヨワに違いないと限る理由もないんじゃないのか? 視力が悪かったから「目弱王」と呼ばれたのだろう。安康天皇殺害の時、目弱王は「殿の下」(書紀では「楼の下」)で遊んでいたため、安康天皇と大長田大郎女の会話を聞いてしまったという。「楼」の字にとらわれると高床式の建築が想定されるが、ひそかな会話が聞こえるほどだから、かなり低い(脚が短い)もので床と地面の間が接近していたと予想され、高床式ではるまい。外見上の威容を気にする必要のない山中の閉鎖空間に臨時に作った施設だから、である。とはいえ宮殿だから面積はあるわけで、高床式と違って、当然床下は真っ暗で、子供が興味半分で入っていったとしても楽しく長居するとは思われない。だが、もし盲目か少なくとも弱視で日頃から視力にそれほど頼ってなかったとすれば、暗い所で遊んでいたのも得心がいく。民俗学では定説だろうが、三味線で唄ったり物語を語ったりした瞽女(ごぜ)の起源は古代の盲巫で、東北のイタコもその後裔。イタコは最近死亡した近親者の言葉を伝えるが、これは後世の需要に応じた変化で、もとは「盲人が神の言葉を聞く」という古代信仰が源流になっている。どちらも女性であるが、関口裕子や義江明子なんかの説を読んでると、どうも女性に限るようになったのは後世の変化で、古墳時代のような極度に古い時代には性別は関係なさそうだ。だからここでは視覚障害が問題となる。大和岩雄は片目を抉られたような幼童の顔のついた縄文土器(山梨県天神堂遺跡「隻眼の土偶」その他)をあげて(全盲と限らず弱視とか)片目とかも、神の憑依の現われだといっている。目弱王は(1)子供=幼童である上に、(2)視覚障碍者であり、両方の属性はともに「神の言葉を伝える者」であることを現わしている。このことは目弱王の行動が神意の現われではないかと、当時の人々を怖れさせるに十分であった。

黒日子王と白日子王の態度は何を表わすか
記紀には雄略天皇を憚って皇太子とは明記してないが、安康天皇の意志からしても市辺忍歯皇子は事実上の皇太子のようなもので、その上バックは葛城氏なのだから、皇位争いにおいて強敵などは無かった。しいて対抗馬というなら、安康天皇の兄弟である黒彦王と白彦王で、アンチ葛城派(非主流派の弱小貴族層)からはそれなりに期待されていたろう。生母(忍坂大中津姫)の出身が息長系であるって点では、純粋の葛城系である市辺忍歯王よりは、世論の支持があったろうが、なにしろ強大な後ろ盾がない。そのためこの二人は、いまひとつ踏ん切れなかったもののようだ。『日本書紀』では黒彦皇子と目弱王が二人で逃げ込んだことになってるが、黒彦皇子が手引きしたわけではあるまい。
白彦王は楽観的な人で、兄(安康天皇)を信頼し、自分らを見捨てるはずがない、と割りと気楽にかまえていた(その予測は正しかったのであるが)。黒彦王は悲観的な人で、こういう激烈な政治抗争においては安易な中立などありえないと考えた。「確かに兄(安康天皇)本人はそこまで考えてなかったとしても、葛城氏グループとしては我々二人(黒彦王・白彦王)の抹殺まで考えてないとは言い切れない」。身の危険を感じた黒彦王は、目弱王の首を土産に葛城氏(=形式上は南北葛城氏が擁する市辺忍歯王)に帰順しようとして、7歳児の目弱王を騙して投降するつもりが、突発的な展開で自分だけ先に大長谷王に殺されてしまい、目弱王だけが(黒彦王の手の者の導きで?)葛城氏の懐に入った。
ところで安康天皇が暗殺され、激昂している大長谷王に対し、黒彦・白彦の両皇子はずいぶん怠慢な態度を示して殺されているが、この態度はどういう理由から出たのか、詮索した議論をみたことがない。多くの人は記紀の物語を、後世の作り話で史実ではないと思ってるから、事件の真相を推理する気もないのだろう。
黒彦王と白彦王は父帝允恭天皇の薫陶と、木梨軽太子との共感で、もとから木梨軽太子と軽大郎女との関係には寛大だったと思われる。ただ長田大郎女をめぐってはライバルだった(木梨軽太子の変の記事を参照)。それが安康天皇は大日下王に濡れ衣をきせて長田大郎女を我が物にした。そればかりか、もともと允恭天皇の皇子たちは安康天皇自身を含めて息長系皇族であり、履中天皇系(葛城系)皇族とは別の一派であるのに、安康天皇は黒彦王・白彦王を出しぬいていつの間にか葛城氏を自分の手足としていた(ようにみえた)のである。「だが世間の人望は我々息長系皇族にある、だから我が弟(大長谷王)よ、兄が殺されたのも当然だしおまえの立場もよくなる一方なんだからそんなに憤ることはない」というのが黒彦王・白彦王の態度の裏の真意だったのである。だが大長谷王には通じなかった。大長谷王には兄たちの姉妹好きとは別のまた困った性向があり、激情にかられると簡単に人を殺してしまう。計算づくの話は遠回しにいわれてもピンとこなかったらしい。そもそも大長谷王は子供で、この時点では皇位になど興味がないって点では目弱王と同じ。ただ恩義のある兄貴=安康天皇が殺されたことに怒ってるだけなのだから、黒彦王や白彦王の「わかってるよな」はせんぜん通じるわけがない。

忍歯皇子と葛城氏の困惑
安康天皇が暗殺された直後の情況としては、ともかくも次の天皇は市辺忍歯皇子であると漠然と思われていたろう。それは世論も含めて全体的に同意されていたものと思われる。なにしろ書紀の主張が正しければ、安康天皇は次期天皇として市辺忍歯皇子を公式に指名していた(つまり皇太子)か、少なくとも匂わせていた。市辺忍歯皇子は事件を聞いてビックリはしただろうけど次期天皇としては、ここは落ち着いて事態の糾明にあたろう、と構えなおしていただろう。そして犯人が目弱王だときいて二度ビックリしただろうが、この後は、悲しいかな普通の大人にすぎない押歯王は、当時の人間なら誰でも考えるように、安康天皇に恨みを抱いていそうな勢力、例えば大日下王の関係する一族が目弱王を利用して謀反を仕出かしたに違いない、とありきたりな推理をめぐらしただろう。しかし、それならなぜ目弱王は葛城氏のところに逃げてきたのか? 大人の合理主義では割り切れない。これは彼らにとっては偶発的な事態で、押歯皇子と葛城氏はこの情況がすぐ飲み込たとしても、この情況をどう利用するかはすぐには考えがまとまらなかったかもしれない。
この困惑によって、時間をロスしたのが、押歯王と円大臣の命取りになったと思われる。おそらく、疑わしいと思った日向の諸県君(大日下王の母方の一族)を逮捕して取り調べとかしてたんだろう。そうやって時間を無駄にしているうち、どの陣営からも、どの派閥からもまったくノーマークだった大長谷王が乱入してきた。これまた予想外だったにちがいない。
忍歯王=葛城氏としては、目弱王を大逆犯として処刑するという選択肢ももちろんあった。だが、目弱王は幼童であり、神の意志の体現者ではないかと半ば疑われ、半ば畏れられていた。目弱王を処刑すると、神罰をくらった安康天皇の後継者(=押歯王)が神罰に抵抗したように受け取られぬこともない。そうすると忍歯王は悪の後継者になってしまう。かなり迷ったのではないかと思う。

大長谷王の政界デビュー
当初、大長谷王が異常に興奮していた件について、記紀はもちろん現代の研究者も誰も突っ込まないが、「よくわからないが元々イカれてる人だからそんなもんだろ」とでも思ってるのだろうか。
第一に、大長谷王の妃若日下王は(詳細な話は略すが)大長谷王の大のお気に入りであり、好みにピッタリのお婆さんを自分の妃にしてくれた兄安康天皇に深く感謝し、恩人として義理を感じていた。また、兄安康天皇と黒彦・白彦両皇子の間には隙間風が吹いていたことは前述の通り。そこで大長谷王が短絡的に黒彦王・白彦王を犯人と決めつけるのは自然な流れw 第二に、もともとカッとなりやすく、そのたびにほいほい人を殺す人だった。第三に、それにもかかわらず皇族として罰せられなかったのは、母后・忍坂大中津姫という権力者の保護下にいたからである、ということは別の頁で書いた。おそらく、忍坂大中津姫は雄略天皇即位当初の頃ままだ生きていて凶暴な帝のなだめ役をやってるから、この当時も大長谷王は皇太后(=忍坂大中津姫)の保護下に入っていたと思われる。母からすると大長谷王は晩年にできた可愛い息子だが少々イカれた子なので、すでに高齢だった自分の年齢も考慮すると先々心配だったろう。そこで自分の死後も大長谷王を保護・善導してくれる嫁を早めにあてがいたいと思ったのではないか。15歳未満だと当時の基準でも嫁取りには少々早すぎる感じはあるが、平安時代の天皇とか戦国時代の大名とかを思えば、3歳だろうが5歳だろうが7歳だろうがありえない年齢とは全然いえない。しかし母后ではなく、安康天皇おんみずから直々に、若日下王を大長谷王の妃として手配するというような話になってるのは要するに安康天皇が最初から大日下王にからむきっかけを作りたかったのではないかと思われる。そうすると、大長谷王は黒彦・白彦の両皇子と異なり、自分の宮殿をもたず、安康天皇の皇居に母ともども同居していた可能性が高い(この時はまだ大長谷王でも若建王でもなく「長谷王」だったと思われる。「大」の字をつけるのは武烈天皇(本名は「橘王」と推定)が雄略帝の「長谷王」を襲名してから「大/小」を付けて区別したものと思う)。つまり、黒彦・白彦の両皇子はいうまでもなく押歯皇子や葛城氏にも先んじて、事件を真っ先に知りうる立場にいた。それどころか、無政府状態になった宮中のど真ん中に最初から居合わせたのだから、混乱に乗じて、いやそんなつもりはなくても、朝廷の実権を一時的にせよ掌握することになっただろう。皇太后忍坂大中津姫も先々の心配な大長谷王のために少しでも手柄になればと思って多少の知恵を授けたりしたかもしれない。だからそういうわけで大長谷王が率いていた兵は私兵ではなく最初から朝廷の正規軍である可能性が高い。だがそれが有利だとかは大長谷王の計算に入ってはいない。とりあえず暴れたくてしょうがない大長谷王にとって、公的には天皇陛下であり私的には自分の保護者であり実の兄であり恩人が殺されたのは、犯人を殺してよいという言い訳ができたということなのである。
古事記では黒日子王が先に殺され、その後で白日子王が残虐な殺され方をしており、目弱王は二人とは無関係に逃げたように書いてある。日本書紀では、まず白彦皇子が殺され、黒彦皇子と眉輪王は二人で逃亡したことになっている。記紀を総合すると
・1)黒彦王と大長谷王が協力して目弱王を捕らえ尋問した。
→2)黒彦王が目弱王を拉致して逃亡、葛城に投降しようとした。
→3)黒彦王、捕まって言い訳するも殺さる。目弱王は逃亡に成功。
→4)白彦王のもとを捜索(目弱王を匿ったのではないかと疑った)
→5)白彦王の態度に激怒、
という流れが復元できる。日本書紀の流れからいうと、黒彦王を殺す前に、目弱王を捕縛して尋問にかけたとある。
書紀では、目弱王は「皇位を求めてのことではなく、ただ父の仇を討っただけ」と自供しているが、これは前述のように奈良時代の幻想であって「創作された警察調書」にすぎない。しかし大長谷王ただ一人が、目弱王の真実を理解した。大長谷王はこの時こどもで、目弱王よりは4つか5つか齢上だった可能性はあるし、たいして変わらなかった可能性もある。いずれにしろ、こどもの直感でわかったのだろう、目弱王はヤマトタケルになろうとしたのだと。このままでは「今世のヤマトタケル」の美名は目弱王のものになってしまう、というライバル心が大長谷王をこうしちゃいられんと急かしていた。それでヤマトタケルになるには大義が必要で、ただ殺しまくるだけでは埒があかないとやっと気づいたのだろう。
大長谷王から疑われることは、黒彦皇子にしてみれば降って湧いた災難だが、黒彦王・白彦王が日頃から兄安康天皇に批判的だったことは周囲みな知ってることだから、言い逃れ難い。一方、大長谷王の取り巻きも、せっかく大長谷王が大逆犯を捕まえて裁くという手柄を立てられるかもしれないという時に、冤罪で何人もぽこぽこ殺されては、もう一人の犯罪者が暴れてるだけの印象になりかねない。冤罪だろうがあまり関係なく、単に怒ったから殺しちゃうような人なのである。あるいは母の大中津姫がとりなし、なだめたのかもしれない。それもあり、大長谷王は目弱王をどういうふうに料理すべきか考えることにした。ただ目弱王を殺してしまうと、自分が私情による敵討ちをしたことになりかねない。それでは目弱王に負けたことになり、ヤマトタケルにはなれない。ヤマトタケルは若くして薨去したように、生き延びることが目的でないのは、目弱王も大長谷王も同じなのである。だが、この躊躇のせいで、隙をみた黒彦皇子が目弱王を拉致して忍歯皇子と葛城氏の陣営に投降を図った。黒彦王は途中で捕まって処刑されたが、目弱王を取り逃がしてしまった。だが目弱王の逃亡は、まったく大長谷王には思いもかけない幸運という他ない。なぜなら葛城氏が目弱王をその手元に確保している限り、大長谷王は目弱王に手を出せないのだから。大長谷王には、もっとわかりやすい「巨悪」が敵として立ちはだかってくれないと困るのだ。

都夫良意富美の理想と現実
根臣みたいな腐りきったやつと違って、円大臣は『日本書紀』だと死ぬ間際になっても大長谷王子に対して『論語』を引用したりしてちょっとは正義があるようなことを言ってるが、だから儒教はダメなんだ。さっさと目弱王を捕まえて大長谷王子に差し出すのが本当だろう。
目弱王が飛び込んできた時、円大臣は目弱王を大長谷王に差し出せば事無きを得たと思われるが、そうすると次の天皇は事態を収拾した大長谷王になる可能性が高まる。本来なら葛城氏が黒彦王の協力で逆賊目弱王の首をあげる、というシナリオがありえたのだが、ここに至ってはなんとか大長谷王に目弱王を殺させない方策をとるしかない(忍歯皇子にしろ葛城円大臣にしろ、大長谷王の特殊な脳内思考などまったく理解していないから、大長谷王は目弱王を殺そうとしていると思い込んでる)。しかしそうすると自分らも殺せなくなる。逆賊を生かしておきながら、なお名誉を失わず政治的ヘゲモニーを保持する方策として、ここで儒教の教えが名目として引っぱり出されるわけだ。なんだかんだ言っても相手は子供、この段階では円大臣は戦にも負けると思っていない。ここで大長谷王の軍を撃退し、目弱王の仇討ち=「孝」を称揚し、暗殺された安康天皇の「不仁」をあげて僭主に仕立てあげ、さらには庶民に人気の木梨軽皇子を無実だったとして顕彰し、しかる後に長子相続の正統性を主張して、仁徳帝嫡流の市辺押歯皇子を擁立すれば円大臣は儒教の聖人にもなれようってもんだ。ワッハッハ(←悪の高笑い)
緒戦の段階では円大臣の軍勢に余裕があったと思われ、普通なら大勝利を収めてもおかしくない流れだったと思われる(そもそも、朝廷の政治を左右するほどの権力者が、誰の目にも負けが明らかな情況にもかかわらず戦を選択するほどアホだと考えるほうがおかしい)。にもかかわらず、なぜ円大臣が敗れたのかといえば、この儒教の理想が配下の氏族に必ずしも通用しなかったからだろう。葛城氏及びその影響下(配下)の氏族は分裂した。
まず葛城氏内部の二大系列の一つ、葦田宿禰の系統=北葛城氏は、正統な皇位継承者である市辺押歯皇子を奉じており、敵対も味方もせず中立を守ったと思われる。そのおかげで滅亡もしなかったが、せっかくの血縁も雄略天皇によって皇位継承に活かすチャンスを失いパッとしない中流貴族に転落してしまった。先帝の敵討ちをしそびれてしまったら、皇位継承権に瑕がつくことぐらいわかりそうなものだが、葛城氏同士で殺しあってよいものかどうか、そして事態の展開が早すぎて、目弱王が本当に犯人なのかどうか確信もつまでに時間がかかったのだろう。また忍歯王の居城である市辺宮は石上付近にあり、安康天皇の皇居のすぐそばだったにもかかわらず、たまたま蟻臣(葛城臣蟻)は本拠の葛城に帰っていたのかもしれない。それで相互の連絡が不十分になってしまって動きがとれなかったか。
さらに同じ武内宿禰系氏族のうち、武内宿禰の子の平群木菟宿禰(もしくはその子の平群真鳥)が裏切り、大長谷王の側についた。墨江中津王の乱の際に木菟宿禰がやらかした不祥事以来、冷や飯をくってた平群氏は、いつか復活のチャンスを狙っていた。皇位継承争いに踊りでた大長谷王はこれまで成人した皇子が多い中では子供だから勘定に入っておらず、ダークホースであって、確定した背後氏族もない(妃(若日下部王)はすでに老齢で子を生む可能性はないが諸県君とのつながりを保持する上では十分なコネクションといえる。だがこの時はまだ婚約だけで婚儀を整える途上だったので「確定してない」といえる)。平群氏(木菟宿禰か真鳥のいずれか)としてはこれに賭けなければ、次回の再浮上のチャンスはないかも知れないのである。
これらの人々は、一応建前は儒教派(開明派)なのであるが、実際には血縁や富の力によって円大臣にくっついていたのであって、儒教の理想に共感しただけでついていたのではない。むしろそのような絵空事を真面目に主張するような首領には不安を覚えたのであろう。

結末:大長谷王の派閥の新結成
かくして、結果的に葛城氏氏を大長谷王が滅ぼしてしまった格好になったが、このことは、本来ならあまり計画性のなかった大長谷王の行動に大きな影響及ぼしたように思われる。つまり、葛城氏はもともと庶民から評判が悪かったのだが、その葛城氏と結託していた連中は敵であり悪なのだと。それを滅ぼした大長谷王はヤマトタケルなのだと。『日本書紀』は、安康天皇が市辺押歯王に皇位を伝えようとしていたことを、大長谷王は恨んでいたというが、実際にはこの戦争で勝利した結果でてきた判断基準で、後付けではないか。大長谷王はまだ子供であり、天皇になりたいのではなくヤマトタケルになりたかったのである。
そして、この時、なんの働きもしなかった市辺忍歯皇子は、いきなり立場が悪くなったはずである。誰がみても次期天皇は、前代未聞の天皇暗殺という大逆事件を収拾平定した大長谷王だろう。しかも、あの憎っくき葛城氏を滅ぼした「英雄」なのである。市辺忍歯皇子はいきなり影が薄くなったこと甚だしい。葦田宿禰系の北葛城一派と押歯皇子にしてみれば、納得いかない不条理な流れかもしれないが、中立を固く守って大長谷王にまったく協力しなかったのはいかにもマズかった。こんな愚かしい選択をしたのは、大長谷王の思考が、部外者に読めないからでもあるが、おそらく平群氏(木菟宿禰か真鳥)の策謀もあったろう。平群氏にしてみれば自分だけが雄略天皇即位の功臣となりたいので、雄略天皇即位後の葦田宿禰と蟻臣の父子(葛城氏)の発言権を封じなければならない。そこで余計な手出しをするな、と言いくるめる必要があるが、これは簡単だったろう。「大長谷王は子供で、ヤマトタケルになりたいだけで皇位を狙ってるわけではない、思う存分戦わせてやれば満足するはず、もし大長谷王が勝っても、あんなサイコパス皇子が天皇になることを支持するものはいない。一方、円大臣が勝っても、天皇に擁立する皇子は忍歯王しかいないのだから、忍歯王も安泰だしその外戚の葛城蟻臣も地位を失うことはありえない」…という平群の舌先三寸に騙されて、中立を選択してしまったのだろう。
だが、実際は違った。巨悪「葛城氏」が一般庶民にどれだけ嫌われてたか、雲の上の人たちはいまいちわかってなかった。もはや大長谷王の英雄伝説はぶっちぎり。そして庶民は織田信長がサイコパスでも大好き。信長の部下になるのは嫌だけど。信長の部下になってヒィヒィいうのはおまえら貴族どもの仕事だろw、としか思わない。中小の貴族層の中にも、アンチ葛城派は多い。こうなると、次の天皇は誰なのかという「政局」になる。平群氏をはじめとして、大長谷王のとりまきは天皇になってもらおうと必死だろう。こんな明日殺されるかもしれない職場にいて、勝手に辞職もできないならせめて少しでも出世して良い思いしたい。
しかし、記紀の編纂者も現代の学者も当たり前のように雄略天皇が最初から天皇の位を狙っていたかのように考えて、ぜんぜん不思議に思ってないようだが、俺はそう思わないんだよね。大長谷王が天皇の位を狙っていたとは思えない。大長谷王にとって安康天皇は恩人で、その恩人の意志は、押歯王に皇位を渡すことだったのだから。そして、いくら平群氏の奸智をもってしても、大長谷王を操ることはできなかっただろう。
…のだが、ここでまたしても想定外の展開が起きる。押歯皇子の側が勝手に墓穴を掘ってくれたのだ。
以下、押歯王の巻↓に続く。
http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-33.html

「いろせ」と「いろね」
兄の字は、ここでは男同士の兄弟のうちでの兄のほう、という意味なのだから「いろせ」と読んだら間違い。「いろえ」もしくは「いろね」と読まないといけない。「いろせ」だと大長谷王子が女性になってしまう。

仁徳⑯〜武烈㉕の系譜

2679(R1)・8・22 THU 改稿 H26・11・7初稿
仁徳⑯の皇子大日下王の妃で目弱王の母「長田大郎女」と、允恭⑲の皇女で安康⑳の姉「長田大郎女」と、2ヶ所に同一名が出てくる。昔からこの二人が同一人物なのか同名異人なのか、両方の説がある。同一人物だとすると安康天皇は同母の姉を皇后にしていたことになって不合理なので、別人だとする説も根強いわけだが、さて真相は…?
兄弟相続「制度」は無かった
よくいわれ勝ちな誤りに、古代日本は兄弟相続制度があったという説。記紀では反正天皇から兄弟相続が始まる。しかし、実際のところ神武天皇から履中天皇まで、あったのは「末子相続」であって兄弟相続では無い。仁徳天皇は儒教的な「長子相続」を理想として大江皇子(のちの履中天皇)を太子に立てられたのであったが、長男というのは父と年齢差が少ないため自ら在位年数が短くなる理屈。しかもめぐり合わせの悪いことに履中帝の後継者たるべき市辺押歯王はまだご幼少であられたので、弟の水歯別命が「中継ぎ」で反正天皇になられたのではないかと推察する。しかし履中帝と反正帝は年齢差9歳しかない上、兄君の宝算より4歳も早く崩御された(宝算ってのは天子様が崩御された時のご年齢のこと。『古事記』だと歴代の末尾に「天皇の御年、○○歳」とあるあれ)。市辺押歯王が仮に履中帝の末年に誕生したとすると反正帝崩御の時はまだ7,8歳。さすがにこの先は考えていなかったようで、允恭天皇即位の際のすったもんだが起こることになった。こう次々と予定外のことが立て続けに起こったのは、実は簡単に予想できることだったが、儒教の理想を実現するという建前が仁徳天皇ご一家の家風のようになっていたのと、それをまた支持する一派も朝廷内には力があったので、誰も口を挟めなかったものとみえる。しかしアンチ儒教派は内心それみたことかと思ったことだろう。本当は宇治太子の子孫がいればそれが正統できまりだが宇治太子の男系子孫はいない。このへんは後世の安徳天皇から後嵯峨天皇までのすったもんだが思い出される。が、宇治太子の同母妹の血筋ってのがいて、普通ならさしたる重みをもつものではないが、たまたま応神天皇は宇治太子に皇位を譲ろうとしていたことと仁徳天皇に譲る気はなかったことが「二人の皇子への質問」というエピソードで有名になってしまっていたから、皇族(天皇の血を父系でひく者)であることに加えて「宇治太子の同母妹の血筋」が応神天皇以降は「正統な天皇」というふうに(当時の)世間は考えるようになってしまった(このことは奈良時代の皇室には都合がわるい話なので奈良時代に編纂された記紀には一見したところわかりにくくなっている)。
以上は反正帝〜允恭帝の兄弟相続の事情を一例として解説したまでであって、これ以降の兄弟相続の例もすべてみなそれぞれの特殊な「しかるべき特殊事情」あってのことであって、なにかそういう風習やしきたりがあったとは思えない。これを「兄弟相続制だったはずだ」という前提で、記紀の天皇系図を「父子になってるのはおかしい、これはもと兄弟になってた系図を書きかえたんだろう」等というのは古伝承より自己の妄想を優先させたもので本末転倒も甚だしいだろう。

葛城氏の歴史的意義
(後日加筆)

安康天皇は長田大郎女は近親婚なのか?
まず二人の長田大郎女(ながたのおほいらつめ)が同名の別人なのか同一人物なのかが問題となり、もし同一人物の場合には履中天皇皇女なのか允恭天皇皇女なのかが問題となる。もし後者なら、安康天皇は同母の兄妹で結婚したことになるが、通説ではこれは当時タブーとされていたということになっている。まして、安康天皇は、木梨の軽太子の近親婚のタブー侵犯に反対する人々によって擁立された天皇だから、同母妹を皇后にすることは到底ありえない、と一見思われる。そこで、雄略前紀分注に「中蒂姫(なかしひめ、履中天皇皇女)のまたの名を長田大郎皇女」とあり、これでみると安康天皇の同母妹の長田大郎女(紀では「名形郎皇女」)とは同名の別人らしく思える。この説に依拠して、允恭天皇の長田大郎女の長田は紀に「名形」とあるからナガタでいいが、履中天皇皇女の長田皇女の長田は別人なのだからヲサダと読むのではないかという説もある。しかし『古事記』ではナガタは「名方」、ヲサダは「他田」と書いている例があり、書き分けることは出来たはずなのに、このような接近した箇所に出てくるのに別人の名がまったく同じ書き方をされているのはおかしい。また古代人は別名も多かったろうから区別して言う時の別名にも事欠かなかったと思われるのに、紀に出ている中磯皇女(なかしのひめみこ)や中蒂姫という名には一切ふれもせず、すぐ近くに出てくる二人の名前がまったく同じままということがあろうか? ここは普通に読めば同一人物だろう。そこで本居宣長は書紀の分注を援用した上で、同名別人ではなくて同一人物とし、允恭帝皇女説がたんに間違いなのであって履中帝皇女説が正しいとした。しかし允恭帝皇女説は記紀ともに本文で明記するのに、分注を優先させるのはおかしくないか。記紀の本文には中蒂姫の別名が長田大郎女だという話は一切ない。そもそも分注ってのは理解しがたい部分に解釈を加えた解説文であり、あくまで紀編纂の段階の奈良時代の常識からみた場合の一つの解釈説にすぎないのであって古伝承とは別だと心得なくてはならない。この分注もよくみると大草香皇子(記:大日下王)の妹には「長田皇女」、安康天皇の皇后には「中蒂姫皇女」と使い分けていて、別人なのをさりげなく並べて印象操作しようとした跡がみえる。まず間違いなく、もともとの伝承では履中帝皇女の中磯皇女と允恭帝皇女の長田大郎女はまったくの別人である。「別名」とみせかけて近親婚の矛盾を解消できるような合理的な解釈を模索したのがこの分注なのである。同じく近親婚の矛盾を解消できるような合理的な解釈を模索した宣長がこの分注に騙されるのは必然だったといえよう。
では、同母妹を皇后としたことになってしまうこの矛盾はどう説明つくのか、それは安康天皇の回にて詳しくかいたのでそちらを参照されたし。

二人の「幡梭皇女」は?
ところで、紀では大草香皇子の妃で後に安康天皇の皇后になった女性を、一貫して長田大郎女ではなく中蒂姫とよんでいる。これが誤りで正しくは允恭帝皇女の長田大郎女だとしたら、履中帝皇女の中蒂姫はどこでなにをやっていたのか? 記紀の系譜記事にでてくる皇女たちのほとんどはいったい誰に嫁いでどうなったのか不明な女性が多いので、ここでも気にする必要はないかもしれないが、紀の書き様からすると、中蒂姫も長田大郎女と同じく大日下王の妃になっており、のちに安康天皇の后妃となったところまで同じ境遇の女性だったのではないだろうか。だから紀も最低限わずかな曲筆だけで合理化を試みることができたのだと思われる。古事記は登場人物を減らしてストーリーをシンプル化することがよくある。また安康天皇は公式に長田大郎女を皇后にすることは憚られたろうから、名目上は中蒂姫を皇后とするつもりだったに違いない。しかし大日下王の宮殿が落城した際に長田大郎女か中蒂姫のいずれかが大日下王とともに薨去してしまった可能性もある。その場合、生き残りは一人しかいないわけで、その人を書紀は中蒂姫としているが、それは近親相姦があったかのような話を隠蔽したいから人物を差し替えてるわけで、長田大郎女だとしている古事記の方が正しいのではないか。安康天皇は長田大郎女への執着がまさっていて、救出の優先順位から考えてそういう結論になる。これに付随して、そもそも中蒂姫の母は本当に幡梭皇女(=若日下部王)なのかって問題もある。実は幡日若郎女と紛らわしい名前の人物がいてこれと混同されたんではないかと思われるのだが、この問題はとりあえず今はさておいて、ここで大いに注目すべきことに気づく。紀では幡梭皇女は仁徳天皇と髪長媛の間に生まれた皇女となっているのだが、記では応神天皇と泉長比賣(いづみのながひめ)の間に生まれた皇女に幡日之若郎女(はたひのわきいらつめ)、仁徳天皇と髪長比賣の間に生まれた皇女に波多毘能若郎女(はたひのわきいらつめ)と2回でてくる(「毘」の音は濁音の[bi]でなく清音の[hi]であることは当ブログの他の箇所で論じた)。履中天皇の皇后が応神帝皇女では叔母と甥になるが仁徳帝皇女だと異母妹になる。この時代ではどちらもありうるが、後者の場合、これは大日下王の妹の若日下王と同一人物で、この女性は雄略天皇の皇后になる人だから、履中天皇の皇后は前者(応神天皇皇女)で、同名の別人とする説がある。しかし宣長は例によって同一人物説で、仁徳帝皇女が正しく応神帝皇女のほうは存在しないとした。応神天皇の妃の泉長比賣と、仁徳天皇の妃の髪長比賣が名前が似ているので、幡梭皇女の生母を泉長比賣とする誤りが生じたというわけ。ここで宣長が泉長比賣と髪長比賣を同一人物としなかったのは、泉長比賣は大羽江王と小羽江王という応神帝皇子を生んでるし、髪長比賣は大日下王という仁徳帝皇子を生んでるので一方の女性を消し去ることができなかったからだ。しかし開化天皇が庶母(父帝孝元天皇の妃)を自分の皇后にして崇神天皇が生まれた例もあり、泉長比賣と髪長比賣が同一人物でもかまわないのではないか。泉長比賣は父不詳だが「日向の泉の長比賣」とあり髪長比賣は「日向の諸県君の娘、髪長比賣」とあり、同一人物として差し支えるような情報はない。しかも宣長説だと中磯皇女(=中蒂姫)を生んだのは誰か不明になってしまう。古事記ではそもそも中磯皇女(=中蒂姫)が存在してないのだから古事記の記述大系の中では中磯皇女(=中蒂姫)の母が誰かなんて問題自体おこらないのだ。しかし本当に実在しなかった女性を日本書紀がゼロから創作できるなら、もっと大胆にわかりやすくて合理的な話にしたろう。古事記はなんらかの、ある特定の理由(その詳細は後述)によってわざと中磯皇女(=中蒂姫)を無視してるのだ。例によって同一人物とする点において宣長はいつも正しい。しかし記紀の伝承をいつも半分切り捨てることで合理化しるのも宣長の悪癖といえよう。

「髪長媛」と「泉長媛」も同一人物?
では幡梭若郎女は応神帝と仁徳帝どちらの皇女か。記紀の伝承だと髪長媛を見染めた大雀命(のちの仁徳帝)が熱心に運動して父帝の妃になるはずだった髪長媛を譲られたことになっているが、書紀の引く別伝には大雀命は一切でてこない。だから仁徳天皇が髪長媛を見初めたのは応神天皇の妃として二皇子を生んだ後、つまり自分の庶母に惚れて、父帝にお下がりしてくれとせがんだわけだろう。大雀命と髪長媛の間には血のつながりは一切ないのだから、開化天皇の前例とも合致し、当時としては格別へんな話ではなかったものと思われる。そして大雀命との間に大日下王がうまれた。問題は、幡梭若郎女がもし応神天皇の皇女だとしたら、髪長媛が連子として二皇子を応神帝の手許に置いたまま幡梭若郎女だけを連れ子として大雀命に嫁いだことになるが、それなら幡梭若郎女が異父「姉」で大日下王が異父「弟」(しかも叔母と甥でもある)となるはずであるのに、伝承はすべて大日下王が兄で幡梭若郎女が妹となっている。では幡梭若郎女が仁徳帝の娘であった場合はどうなるか。髪長媛は二皇子を応神帝の手許に置き、一身で仁徳帝に再嫁し、そこで大日下王と幡梭若郎女が生まれたことになる。しかし、それではなぜ『古事記』は応神帝皇女説を伝えるのか。兄と妹になっているのは、大日下王が年上で幡梭若郎女が年下で、実際に兄と妹だったから物語の中ではそのまま記述されたにすぎず、異父兄妹であることを否定する根拠にはならない。仁徳帝皇女とする説が生じた理由は、大日下王との兄妹関係から短絡して誤認されたとすれば容易に説明がつくが、仁徳帝皇女が誤って応神帝皇女にされた理由はそれに比べれば考えにくいのではないだろうか。つまり、幡梭若郎女は応神帝皇子を二人生んだ後に、仁徳帝に再嫁して大日下王を生み、しかるのち夫の父である応神帝に出戻って幡梭若郎女を生んだのだと考えるしかあるまい。父の妻が息子に再嫁するのは孝元天皇と開化天皇の例にあるが、この場合は孝元天皇崩御の際に、妃がまだ年若く未亡人にするのは可哀想だったので息子に託したのだとも考えられる。しかし応神天皇と仁徳天皇の場合は父帝は元気だったわけで、いくら元気だからってまさか息子にお下がりした嫁がオヤジに出戻ってくるとは思わなかったろう。これはこれで普通は考えにくいことなのは、確かにその通りなのであるが、実は例外的に今回だけは「いかにもありそう」なことなのである。それは何かというと大雀命は磐之媛(いはのひめ)を妃としていたがこの人がたいへんな焼き餅で有名なエピソードが豊富なのはご存知の通り。髪長媛はその名の通りの美女、しかもこの美女を父帝におねだりした件は歌物語になっているほどのロマンチックな話だから、御正室様が激怒しないはずがなく、大日下王を出産した段階で堪忍袋の緒が切れていびり出してしまったのだろう。あれw 急にリアリティー増したぞw それで幡梭若郎女は応神帝の保護下に舞い戻り、恐怖に怯える髪長媛を応神帝が慰めてるうちに、元は夫婦、昔の関係に戻った、と。そこで生まれたのが幡梭若郎女だった、と。

中磯皇女=中蒂姫
そうすると、応神帝皇女の幡梭若郎女は、まず甥の履中天皇の妃となって中蒂姫を生み、中蒂姫は允恭帝皇女の長田大郎女とともに大日下王の妃となったもの、つまり大日下王の妃は二人いたことになる。しかし幡梭若郎女が最初に嫁いだのは本当に履中帝なのか疑問もある。古事記にはそんな話はない。また中蒂姫の母も幡梭若郎女だとは古事記になく疑問だ。
それはさておいてもとにかくこの二人、中蒂姫と長田大郎女は書紀の系図を信ずれば従姉妹同士だがそうではあるまいから、大日下王にしてみれば履中皇統(葛城系)と允恭皇統(息長系)の一方に偏ることなく両家とパイプをつないで安全を確保したわけではない。中蒂姫を大日下王に斡旋したのは允恭天皇の皇后大中津姫だろう。そして安康天皇は大日下王を攻め滅ぼした後、この二人の妃を両方とも自分のものとし、このうち同母姉の長田大郎女を内縁(の皇后?)とした。もし中蒂姫が生きていたら、公式には中蒂姫を妃としたろう(詳細な議論は安康天皇の記事を参照)。目弱王は古事記の通り長田大郎女の子か、書紀のいうように中蒂姫の生んだ子だったのか、わからない。が、たぶん前者だろう。
先ほどの中蒂姫の母が本当に若日下部王(=幡日之若郎女)なのかという問題もあるがこれは別の機会に譲る。

中蒂姫は目弱王の物語の中での名で、履中天皇の系譜記事の中では「中磯皇女」と書かれている。この「磯」は『万葉集』でもシの音をあらわす万葉仮名として頻繁に使われるから「中磯皇女」という名に特になんの問題もないが、中蒂姫の「蒂」はシと読むとはすぐにはわかりにくい字で、なぜこんな表記があるのかかなり気になる。中磯皇女、中磯姫で済むことだろうに。中蒂姫の「蒂」、岩波文庫の書紀の注では、「へた」は花や実が木にくっついている「足」の部分だから蒂(へた)の字をアシと読み、中蒂=「ナカ・アシ」だから「ナカシ」と読ませたんだという。この場合の「へた」ってのは花のガクの部分のことのようだ。ネットで見かけた他の説では雑草の一種でギシギシというのがあるんだが、このギシギシの「シ」だという。雑草って…。なんだかこの姫の壮絶な人生が察せられるな…。ギシギシは漢字では「羊蹄」と書くんだが「蒂」と「蹄」で似たような字だ。共通するのは「帝」。つまり「中蒂姫」という表記は「帝」(すめらみこと)をかなり意識した表記ではないのか? 本来の名がナカシヒメ(中蒂姫)であって、「中磯皇女」は系譜記事にしか出てこないから、「中磯皇女」というのはあくまで履中天皇の皇女だということを強調した呼び方で、あとから作った表記なんだろう。逆にいえばこの女性は履中天皇の皇女ではない。だが履中天皇の皇女だといわれる何らかの因縁もまたあったわけだろう。それは何か。
CgQAnRrUUAAtVfU.jpgzp_gishigishi-04.jpg茄子のへた←ナスのへた

祖母と孫ほど離れた夫婦?
ともかく話もどすと、この事件の頃の幡梭若郎女(=若日下部王)は古事記では履中帝の妃にはなっていないのだから彼女が履中帝の未亡人であるかないか別としても、少なくとも彼女は応神帝の娘でもあり、すでにかなりの年齢に達していた可能性がある。幡梭若郎女は安康帝からみれば義理の伯母(履中帝の未亡人だった場合)でもあり、大叔母(祖父の妹)でもある。そのような高齢な女性に対して、弟の嫁としてスカウトするなんてことがあるだろうか。しかも母親世代(若日下王)を弟の嫁にしようとして兄である自分はその下の世代(自分の同世代)の方を嫁にしたわけだ。それだけでも不可解なのに、雄略天皇は絶対権力を手にした後も、おそらく母親ほどにも年上の若日下王に満足の様子で皇后にしたままだった。
普通ならありえないと思われるが、ここでまたしても特例な事情があるのを発見する。安康帝が幡梭若郎女を大長谷王の妃に所望する前、反正帝の皇女たちが候補にあがっていたのを、彼女らは大長谷王が短気を起こしてむやみに人を殺すので怖がって結婚の申し込みを拒否してきたという。そういう理由ならどこの女性でも同じ反応しそうなもので、そもそも大長谷王は誰とも結婚できないだろう。しかし安康帝はなぜか幡梭若郎女(若日下王)なら大丈夫だと考え、彼女の兄の大日下王も「こんなこともあろうかと準備して待ってましたっ!」みたいなことをいっているのだ。高齢の未亡人なのにおかしくはないか? しかし、大長谷王の特異な性格に着目すれば、これらの不審な事実を合理的に説明できる。反正帝の皇女らの発言から、大長谷王がささいなことでやたら人を殺しまくっていたことは明らかだが、処罰もされた形跡がないのは皇子だからだけではないだろう。生母の大中津姫(允恭帝の皇后)の絶大な権力の保護下にあったからとしか考えられない。大中津姫は上の子ら(木梨軽太子ら)6人とは母子関係がうまくいっておらずその反動で晩年に生まれた下の3人(大長谷王ら)を溺愛していた(詳細は「木梨軽太子の乱」の記事にて)。その結果、大長谷王はマザコンで熟女好き、母親ぐらいの年齢の女性でないと懐かない性格になっていた。その証拠に、紀には雄略天皇を怖がって誰も諫言する者がないので、皇后(若日下王)がたしなめたところ天皇が反省するというたいへん興味深いエピソードが載っている。しかも大中津姫の最晩年の子だから、大長谷王にとって母のイメージは世間一般でいうお婆さんのイメージにいくらか近かったのではないか。

残された問題
上のほうで何点か宿題にしていた件だが、中磯皇女の生母はいったい誰なのか。この問題は古事記全体のテーマとしても割りと重大なんで、そのうちいつかやります。
目弱王の変」に続く

任那日本府の滅亡と売国奴の陰謀

2679(R1)年06月19日(水)改稿
今日、H28年10月27日は任那(みまな)が滅亡した日。年代でいうとAD562年で、その年の10月27日は金曜日だった。この年は、ごろにゃんだ。ごろにゃんというのは何かというと高校の頃に「任那ほろんでごろにゃん」と年代を暗記した語呂合わせのことだ。
百済優遇から三韓平等へ
百済(くだら)という国は4世紀になって突然できたわけではない。この国の起源については学界の通説は実証主義に囚われすぎて十分に推定可能なことまでみないようにしている傾向がある。百済の始祖「仇台」と夫餘王の「尉仇台」は後漢書などからあきらかに同一人物で、別人とする説にはたいした根拠がない。遼東の公孫度(三国志の群雄の一人)が馬韓人を統治するために夫餘王国から移民を招いて作らせたのが百済で、その建国は2世紀になる。馬韓諸国のうち北方の国々(今の京畿道のあたり)は百済の宗主権下の国々だったろう。だから、通説のいうような「帯方郡楽浪郡滅亡の余波で百済が建国された」というわけではない。公孫淵が滅ぼされて楽浪・帯方が魏に接収されると公孫氏の配下だった百済の宗主権も否定されたので、三国志には馬韓がバラバラの諸国で宗主国もないように書かれているが、実態を反映していない。さて、『日本書紀』では神功皇后は高句麗(こま:高麗の旧表記)・新羅(しらぎ)・任那をさしおいて百済だけを贔屓していたように書いてあるので、これは百済人の捏造記事だという説があるが、なにも不自然なことではなく、事実だったろう。百済優遇の最たるものは比利(ひり)・辟中(へちう)・布弥支(ほむき)・半古(はんこ)の「四邑」といわれる地域をタダでくれてやったことだ。この時は新羅はさほど強大ではなく、高句麗との間に楽浪郡・帯方郡もあったので、新羅や高句麗を牽制するために百済を優遇したわけではない。百済は中国の文物を輸入する際の窓口にあたっていることと、この四邑が今のどこなのかを考えればわかる。四邑の具体的な位置については複数の異説があるが、その中では忠清北道から全羅南道にかけての沿岸部とする説がよい。南米のチリみたいに南北に細長い所領だったろう。この頃の百済の本土は今の京畿道だけの小国だが、楽浪郡や帯方郡が健在で高句麗と衝突することはなく、帯方郡とは密に隣接している。百済と大和の交通は海路だけで、大阪湾から瀬戸内海、玄界灘を渡って半島の西海岸を北上、帯水(今の漢江)を遡って百済王都に至る。半島側の海路は百済が管理しろということだ。そのための4つの港湾都市を含む地域が四邑なのである。この頃の百済は、島津氏と明国に両属していた琉球のように、公孫氏と倭国に両属していたんだろう。琉球と同じく交易で成り立っていた国なのである。神功皇后が百済に四邑を与えたという記事も、継体天皇が百済に四県を与えたという記事をもとに創作した話だなどと、へらっといっちゃうのが現代の学者で、記紀を架空視する時だけやたら軽くなるんだよな、あいつらは。継体天皇の時に割譲した四県、上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)とは地名も実際の場所もぜんぜん違う。ところで、神功皇后の百済支援策の数々は日本書紀の文面としてはたいてい神功皇后の言葉になっているが、実際は百済と日本の国交が開けたのは応神天皇になってからだろう。だから実は応神天皇の百済支援策なのである。だが、武内宿禰は百済への過剰な優遇策では任那・高句麗・新羅の心服を得られないとして「三韓平等策」を応神帝に進言して、途中から政策を変更することになった。その平等ぶりが徹底していたことは応神天皇の回で詳しく書いてあるのでそちらを読まれたい。この策は「我が国は百済や新羅より格上だ」と自負していた高句麗の自尊心をいたく傷つけ、高句麗の日本離れを引き起こしただけでなく、新羅と百済にはお互いに倭國からは平等に遇されるべきという思い込みを与えてしまった。

任那滅亡の遠因
さて、それから年月がたって、524年に任那を新羅が侵略した理由は、498~490年頃(?)に倭国が任那の西部いわゆる四県二郡を百済に割譲したので、それなら東部はこっち(新羅)に権利があるだろうと思ったから。二郡というのは四県割譲の翌年に割譲された土地で、四県と加羅諸国との間にある己汶(こもん)・滯沙(たさ)をいう。滯沙は加羅諸国が日本へ渡るための港で、己汶はその後背地。この二郡が百済領になると加羅の小国群は倭国との交流を百済に管理されるばかりか百済と直接に領土を接することになるので、当然、加羅からは猛反対が起きた。新羅もまたこれには不服で、新羅の言い分としては、百済だけを贔屓することはあってはならないはずなのだ。なぜ任那の西部を百済に割譲したのかというと、475年に百済が高麗(=高句麗の改名or新表記)に北部を奪われ弱小化してたからこれを補強するため。なぜ高麗が百済を侵略したのかというと、高句麗はもともと西の方、満洲平原に進出しようとしていたんだが、342年にそっちの出口を塞がれたので南へ方向転換したわけだ。なぜ西の方が塞がれたというと…この先は今回の結末にとっておこうw

「任那四県」割譲の真相
任那は朝鮮半島の南部、かなり広範な領域を占めていたが、継体天皇の時に西半分を百済に割譲したので半分になってしまった。西半分というのは四県二郡というように王がおらず、倭国から派遣される国司(みこともち)が治めてした。しかし東半分は加羅(から)の諸国で、この諸国は旱岐(かんき)という称号でよばれる現地の世襲首長(つまり王)たちが治めていた。
継体天皇の政府は百済の求めに応じて任那の西部、いわゆる「四県二郡」といわれるところを割譲した。これは当時も問題になり、執政の地位にいた大伴金村(おほとものかなむら)が賄賂を受けたと非難され失脚するほどの政治問題だった。大伴金村を非難する側の表面的な主張としては、第一に金村が百済から賄賂を受けた、第二に、神功皇后がきめた諸国の国境線は神聖絶対のもので安易に変更を加えることはあってはならないということ。百済にこの許可を与える使いだった物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の妻はそういってさらに「後世の人からどんな非難をうけるか」といってダンナに仮病つかわせ仕事から降ろさせた。徳川光圀の『大日本史』は烈女伝のトップに「物部麁鹿火之妻」として彼女の列伝を立てて絶賛している。現代人の目線で非難すると、自国の領土を閣議決定みたいな軽い決断で他国にほぼ無償で割譲するなんてもっての他だが、金村を弁護すると、第一に賄賂というのはこの時代は正当で合法な礼物との線引が難しい。こういうグレーゾーンは今も昔も、政敵を攻撃する都合のいい武器に使われがちなものである。第二に、百済は南下してくる高句麗に対抗するための北の防衛線だが、高句麗に王都を陥され、北部の領土を奪われ、弱小化していた。つまり百済を再び強大化させて北の守りを固める必要があったのである(それでも二郡まで渡したのは明らかに「やりすぎ」で何か裏はあったのだろうが)。神功皇后がきめた国境線というがそれを先に破ったのは高句麗であり、高句麗が命令に従わないのであれば対抗策をとらねば弱小化した百済はやがて完全に滅亡するだろう、そうなっては神功皇后の国境線どころではない。実際、百済の王都が475年に陥落した時は百済は一旦は滅亡したのであって、倭国は当時まだ任那の北部だった熊津(こまなり、今の公州を中心とした錦江流域)の地を与えて百済を復興させたのだった。この時点ですでに百済はそもそも任那から割譲された土地の上にしか存在しない国なのである。これも任那の地を割譲したということに変わりはないのに今回のような非難が起こった様子はない。つまり神功皇后がどうのって仰々しい非難はウヨ的な原理主義で、逆らえない正論をふりまわす「議論封じ」なのであって、最初から意味のある議論をさけて、政敵である金村を失脚させることに的を絞った蘇我稲目の陰謀なのである。勾大兄皇子(安閑天皇)も麁鹿火の妻も、蘇我の宣伝戦略に乗せられていたのだ。四県割譲を日本書紀は512年とするが、490年にこの地を所領とする八人の百済諸侯の爵号が南斉から授与されており、これ以前のはずだから実は489年か490年頃のことだろう(8人のうち5人の領地が四県の地とかぶってる)。この時期は俺の説ではちょうど武烈朝から継体朝への変わり目で武烈帝の大葬の礼から継体天皇の即位式までの時期である。代替わりの間は天皇不在のため外廷は停止する。政治の空白化をさけるため慣例では日頃から内廷をとりしきっている皇后がこの時期は外廷をも主宰する(短期の摂政のようなもの)。これはこの時の特例ではなく、代替わりの時は毎回こうであって慣例なのである。この時の故武烈帝の皇后は「春日娘子」(かすがのいらつめ:実は後に安閑天皇の皇后となる春日山田郎女と同一人物、詳細は宣化天皇の回を参照)であった。建前からすると最終責任としてはこの人の判断ミスだったのだが、金村の進言を却下するほど外交に明るくはなかったんだろう。名目上の政府主班である金村がまずは責めを負うのは当然である。それで槍玉にあげられてる金村だが、その時は大喪の礼の進行と即位式の準備に縛られて深い考慮が及ばず、稲目の息の掛かった官僚の切り盛りに任せてしまったんだろう。現代人の目線で弁護すると割譲というのは用語ミスで、百済は属国なので日本帝国の一部なのであるから、これは今でいう他国への割譲にはあたらない。いわゆる国有機関の「民営化」みたいなものである。ほら民営化っていったら急に良いことに聞こえてきたろw 第一の理想をいえば、高句麗を武力懲罰して国境線を北に押し返すことだが、物理的に不可能だったとは思わない。実際に過去にもこの後にも、高句麗の王都を陥落させたりもしている(後述)。瞬間風速的な成果で終ってるのは当時の日本が平和と繁栄といえば聞こえがいいが高句麗を含めた三韓諸国が格好だけ属国のふりをして崇めてくるのに気分よくして世界情勢を誤り贅沢に慣れて怠惰軟弱となり危機意識に欠け尚武の心を失っていた、要するに軍国主義精神が衰弱してたからなのじゃ~。まぁ儒教の綺麗事に溺れてたせいなんだけどね。儒教というのは「『武』の字は戈を止めると書くのだ、武官いくない、文官えらい、平和主義バンザイ」というトンデモ思想であり、軍国主義の敵なのだ。儒教の理想というのは、小国は忠のこころをもって大国に仕え、大国は慈愛のこころで配下の属国を守るのが立派でうるわしいというんだよ。だからむやみに新羅や百済に無理難題を言いつけるのは大国として恥ずかしいことだというわけ。そんなのに騙されるのかよ、と思うだろうが現代でも金に目のくらんだ経団連が中国共産党の平和工作にすっかり騙されて日中友好を信じてたじゃん。当時だって儒教の理想を真顔で振り回してたアホってのは実際には百済や新羅から賄賂とってる貴族どもだったんだがね。違うのは昔は三韓が倭国に朝貢してきたけど今は日本が中共に朝貢してるってのが逆なだけで、騙されるほうはいつも島国ってのは変わってない。当時の儒教というのは現代でいう憲法9条みたいなものなんだよ。現代でも左翼やリベラルを一掃するのは難しいから、そのために軍拡して北朝鮮や中共を征伐することができないわけだろ。当時も同じだとして、儒教信者どものせいで武力で今すぐ高句麗を北に押し返すことができないなら、次善の策としては、弱体化した百済を強化するために任那の一部をくれてやるんじゃなくて、百済そのものを廃止して百済領をすべて任那とすればよい。これが理想の第二案だ。百済王を廃止してすべて任那日本府の直轄にしろ。まぁこれもできないわけですよ、利権が絡んでるから。合理化したら効率よくなって、強くなって高句麗の南の土地を奪回できるんだが、合理化ってことはリストラされる連中が大量発生する。「儒教的に」それはできない。臣下たちのメシのタネを奪うようでは天皇陛下の帝徳を傷つけることになるからな。現代人にとっての人権だの民主主義だのと同じで、信じられちゃってるからどうにもならない。しかし人権も民主主義も嘘偽り虚妄であって実は人権屋とか政治屋が自分らの金儲けのために切り回してる、それは古代でも同じで、儒教の理想どおりにはなってない。任那四県の割譲には四県の役人も加羅(任那の東半分にあった国々)も猛反対したのに、結局通ってしまったのは、百済からの貢ぎ物(という名の賄賂)が加羅からの貢ぎ物より多かったから。百済は加羅の何倍も大きい国なので当然だろう。これのどこに儒教の理想がある? 後述のようにこれのしわ寄せはめぐりめぐって結局は倭国の首をしめることになる。

欽明天皇の任那トラウマとは
日本書紀では欽明天皇の即位したのは宣化天皇が崩御した539年で元年が540年ということになっている。しかし532年を欽明元年とする資料もあることは継体天皇だったか安閑天皇だったかの回でいった。安閑天皇の元年は534年で、日本書紀はその前の2年間を空位としているが、この2年は実は欽明天皇の1回目の治世だったのだろう。そしたら弟から兄への譲位になるが、それは顕宗・仁賢の両帝という前例がすでにあり別に非現実的なことではない(弟顕宗帝の崩御を承けての兄仁賢帝の即位ではないことはこのブログですでに説明済み)。これは倭国から派遣されていた近江臣毛野(あふみのおみ・けな:人名)が彼の不手際から巻き起こした任那大動乱のさなか、継体天皇の崩御を(戦争中だから)4年も隠したままでいたのだが531年三月には天皇が崩御したという噂が流れてしまったのと十月に百済新羅連合軍が解散して事態が一応沈静化したので、継体天皇から譲位されたということにして翌532年を欽明天皇元年とした。ところがその年の4月には金官國(任那諸国のうちもっとも主要な国、今の釜山あたり)の王族たちが新羅に投降したので、新羅は金官国(そなら)・㖨己呑國(とくことん)・卓淳國(とくじゅん)およびその周辺一帯を併合してしまった。以前に任那の西半分(四県二郡)を割譲したことで倭の直轄領はなくなっていたが、それは少なくとも名目上は朝廷の自己判断で百済に下賜した土地ということになっている。しかしこの532年(欽明天皇の第一治世の元年)には東部の加羅諸国のうち新羅に接していた諸国が新羅に強奪された。この「金官国・㖨己呑国・卓淳国」というのは今の大邸と釜山を結ぶ線を中心とした一帯のこと。つまり新羅と任那の国境線が大きく西に移動したことを意味する。翌533年九月、近江臣毛野が率いる倭の大軍数万の兵は新羅軍を迎撃したが大敗、十月には査察官として派遣されていた調吉士(つきのきし)が日本に帰国して近江臣毛野の無能と暴虐ぶりについての報告が公式に朝廷にあがった(531年の新羅百済連合軍の解散からここまで書紀は誤って530年の出来事としている)。つまり新羅の任那侵略を問責するはずの大軍の派兵が、百済や任那に散々意味不明な迷惑をかけた挙げ句、逆に任那の一部を新羅に奪われるという結果となり、欽明天皇は即位以来、面目まるつぶれの連続だった。これは神功皇后以来、大国として三韓に君臨し続けた大倭王にとって、アメリカにとっての「9.11」のような衝撃的な事件だった。これ以降、三韓諸国は倭國への信頼を失って面従腹背になっていく。自信喪失した天皇は退位を希望。継体上皇(実は勾大兄皇子)も、今回の情況は齢若い欽明天皇には荷が重すぎたとして、改めて翌534年二月七日、勾大兄皇子を即位させ、この年を安閑天皇の元年とした。同日、継体上皇崩御(ただしこれは公式発表で実際はずっと前に崩御していた。新羅派兵のタイミングがよすぎるから新羅または磐井による暗殺の可能性もある)。つまり日本書紀のいう空位2年間は欽明天皇の1度目の在位期間なのである。本当は近江臣毛野の無能無策が原因なのであるが、近江臣毛野は生き恥をさらし続けたあげく進退窮まって野たれ死んでしまったので、さすがに日本人のセンスとしては哀れであって、あんまり口撃もしづらい。そこで無能なこの男に大役をやらせた人事がまずかったのであってむしろ毛野本人は可哀相だろうとなるわけだが、実は近江臣毛野を抜擢したのは継体天皇の情実人事だったから、今度は継体天皇への非難になりかねない。継体天皇は庶民あがりではないものの地方豪族あがりで庶民に近いので勾大兄(安閑)・檜隈高田(宣化)の2皇子ともども人気があり、庶民感情としても今さら手のひらを返しづらい。むろんこの情況を救ってめでたく解決しようとしながら最悪な結果を迎えたのは欽明天皇のせいではない。むしろ故き継体天皇を含め勾大兄皇子(安閑天皇)と檜前高田皇子(宣化天皇)を始めとする群臣貴族たちが一致して欽明天皇を奉じようとして、即位のタイミング、つまり動乱の鎮定を待っていた。だが鎮定したかにみえた任那情勢は一瞬で最悪の事態を迎えてしまった、つまりタイミングを誤って、欽明天皇の即位に花をそえたつもりが完全に裏目にでてしまった。その時に在位してたんだから何も知らない世間の庶民は欽明天皇の手腕に疑念を抱く。しかし欽明天皇は継体帝の最愛の息子で安閑・宣化の両天皇からも最愛の弟なのは有名だったから、欽明天皇のことを悪くもいいづらい。そこで不満のはけ口、スケープゴートが必要になる。それが大伴金村だった。任那四県二郡の割譲がすべての原因だというのは庶民も知っていたが、これを主導したのが金村で、しかも百済から賄賂をとっていたというのは蘇我馬子が漏らしたスクープだった。金村は、武烈天皇の平群討伐が歴史へのデビューでどっちかっていうとアンチ平群の経歴をもっていたので庶民人気も高かったと思われる。なのに今では打って変わって、上は物部などの同僚貴族から下は町の小学生にいたるまで散々に悪態をつかれて天下に身の置き所もない有様だった。まぁロッキード事件がばれた後の田中角栄みたいなもんよ。しかし欽明天皇ただ1人が金村をねんごろに見舞って励ましている。そりゃそうだ、欽明天皇にしてみれば、金村は自分のかわりに非難の的になってるようなもので、金村への非難の言葉をきくたびに天皇自身も針のむしろだったろう。ここまでが欽明天皇の第2回めの即位の前後の情況である。

秦大津父(はたのおほつち)と2匹の狼
皇太子(後の欽明天皇)は幼少の時、「秦大津父(はたのおほつち)という人を寵愛すれば大人になってから必ず天下を治められるだろう」と告げられる夢をみた。そういう名の人を探したら確かにそういう商人(あきんど)が山城国紀伊郡深草里(のちに伏見稲荷大社が建てられた地)にいた。で、なにか変わったことがあったか聞くと、ある時、伊勢に商いにいった帰り、2匹の狼が血みどろの戦いをしていたので「あなたらは貴い神でありながら、そんな荒っぽいことをするとは。猟師からみたら漁夫の利、2匹とも狩られますよ」と喧嘩を仲裁して、親切にも血で汚れた体を洗ってあげて2匹とも生かしたまま逃してあげた、という。皇太子はまさにこのことと喜んで彼を召し使い寵愛は日々深まり、彼が商人であったことから皇室御用達の看板を得て莫大な富を築いた。即位してからは大蔵卿に叙されたという。

秦氏というのは古くから有名な氏族でこれ以前から大蔵の出納を担っていた氏族だから、捜さねばわからないような大津父という人物は秦氏の中でも傍流の末端の無名な人物だったろう。夢にでてきたのは姓はなく「おほつち」だけだったと思われる。これは古事記に出てくる「大土神、またの名は土之御祖神」でウエツフミによれば猿田毘古神の別名であり、猿田毘古神は天皇・皇室を導く神だから、皇太子がそのような夢をみるところまではいかにもわかりやすい話。オホツチなんて名は当時は太郎や花子と一緒でどこにもザラにいた名前だったのか逆に珍しい名前だったのかはわからないが、前者なら誰も名乗り出はせんし捜しようもない。一方、秦大津父という名はむろん大土神とはまったく関係ない。オホツチを「大雷」と解けばカミナリみたいな声のデカイ豪傑であり、「大槌」と解けば巨大なハンマーを持ち歩いてる危ないやつ。だからオホツチというアダ名で呼ばれていたのだ。商人といっても底辺の人足頭(にんそくがしら)から成り上がったタイプだろう。だが皇太子の夢の話をきいて素で「あれ?俺のことかな?」と思うような図々しいタイプは実際いるんだよなぁ。そういうやつが運をつかむ。で、ダメ元で秦氏の氏上(うぢのかみ:本家の族長)に頼み込み、売り込んでもらったんだろう。それで皇太子殿下とのコネができたわけ。信憑性の薄いものではあるが後世の系図だと「丹照」と「国勝」の兄弟が大津父の同世代にいて、その兄弟の父が「宇志」。この3人のうち誰かが氏上だったか。宇志からみると大津父は甥で、丹照・国勝とは従兄弟になってるが、そんな近い親戚のわけないだろう。

さて話を戻すと、皇太子殿下が夢にみるほど神の導きを欲していたのは「天下を治められないかも」という悩みがあったからってことになる。それで、2人の兄である安閑天皇・宣化天皇と、腹違いの欽明天皇との間で皇位継承争いがあったのではないか、秦大津父の話にでてくる2匹の狼というのはこの両陣営の戦いの暗喩ではないのかと推測する説がある。しかしその説の場合、『百済本記』の天皇が后や太子・皇子ともども変死したという話を宣化天皇の一家のことと解釈した上で、それによって欽明天皇が即位しえたとするので、大津父のいう「2匹の狼を両方とも助けた」という話では喩えとして成立していない。第一に、欽明天皇が生まれた時点で、皇位を継承していくのは「旧・仁徳王朝」の血を母系でひく欽明天皇に確定していた。第二に、2人の兄と欽明天皇では年齢が違いすぎて争いになりようがない。安閑・宣化の両帝は最初から、欽明天皇が成長するまでの中継ぎの仮天皇だった。
そうすると欽明天皇の即位は確定事項で、皇太子の地位にあるのに「天下を治められないかも」という悩みは何のことかというと、前章まで読んでくればもうお分かりの通り、半島情勢でしかありえない。2匹の狼ってのは百済と新羅のことだろう。両国とも自国の国益確保にやっきとなっているが、生き残りがかかってるので必死、傍若無人ぶりは豺狼のごとしだ。だが、大津父はそんな狼をやっつけろとは言わず、やさしく教え諭して放置してしまったという。欽明天皇はそれを聞いてどう思ったのか明記されてないが、のちの寵用ぶりからすると、「なるほど」と感心したのだろう。はたして狼のような戦国時代さながらの両国に、そんな「おめでたい平和主義」が通じますかね? どうなることやら、おなぐさみ。おなぐさみも何も、我々が知ってるように任那はどんどん酷いことになっていくわけだが、大津父の立場は当然わるくなったはずだ。もし巧くいってたら、代々大蔵官僚として宮廷貴族の地位に留まったろうが、欽明天皇が崩御して後ろ盾がなくなって居づらくなっていったんだろう。孫の伊侶具(いろぐ)の代に伏見稲荷を創建して宮司になったのは、この一家がその頃すでに朝廷から出ていたことをあらわしている(秦氏の本家は聖徳太子に仕えた河勝(かはかつ)の流れだが大津父は本家とは血が遠く、まったく無名な人だった。河勝は上述の丹照または国勝の子ということになってる)。

「任那復興会議」がぐだぐだに終わった理由
だから欽明天皇はこれに責任を感じてなんとしても任那を取り戻そうと悲願した。で、そのやり方なのだが欽明天皇のみならず当時の日本人は現地の事情を無視する近江臣毛野を派遣して任那のみならず三韓全土を大混乱に陥らせたトラウマがある。それで例の儒教病に磨きがかかり、兵員・武器・兵糧・物資などは出すが、細かいことには口をはさまず、現地人を「信じて任す」ことにした。大東亜戦争もそうだけど日本人はたった一度の失敗にすぐに懲りて「羹を吹く」からな。この場合、現地人というのは任那日本府の役人のことで、日本府は日本の出先機関とはいえ、そこに常駐している者たちは現地のベテランなのだから信用できると踏んだんだろう。ところが『日本書紀』みると肝心の現地(任那)の連中はなぜか売国奴ばかりで新羅と通謀して連日の会議をかき回すばかり。新羅はむろん凶悪な敵性国家、百済だけがまともでまじめで天皇に忠実なように書かれている。これは実は日本書紀が百済側の資料に基づいてるからで、公正でない。新羅が悪なのはその通りとしても、百済が善意の塊みたいな話はウソだし、任那日本府の役人が売国奴なのもそれなりの事情があったのである。つまり朝廷が「信じて任せた」つもりの相手が一枚岩でなかった。新羅と対抗するには任那諸国のような小国でなく、どうしても百済が主力とならざるを得ないが、百済は北に強大な高麗と対しているので新羅と戦うにはどうしても倭国の援軍が必要。しかしヤマト朝廷は前述のトラウマがあるため、現地官僚である任那日本府の太鼓判がないと絶対に派兵などしない。ところが任那日本府と百済はめちゃくちゃ仲が悪いから、任那はあーでもないこーでもないと屁理屈をこねて会議を先延ばしにする。

三者三様の立場
用明天皇の回や崇峻天皇の回でやったように『日本書紀』の記述にそいながら事件の流れを追っていくと面白いが、今回ちょっと時間がないのでかいつまもう。新羅としたら任那を形式上は侵略していないつもりなのである。百済への割譲は合法的なものであって侵略ではなかったが、倭国が同じように新羅へも割譲してくれないのなら、任那(この場合は加羅諸国)がみずから進んで新羅に投降し合併されるという形式をとるしかない。実際に、三国史記によると新羅は524年に「王みずから南境を巡って地を拓いた」とあるがこれが日本書紀でいう金官・碌己呑の2国併合という事件に該当し、三国史記は続いてこの時に「加耶國王が来会した」とずいぶん穏便な書き方をしているが、実際に敗北者を併合するという形式でなく極力「対等の合併」という形式をとったのだろう(加耶国王とは金官の旱岐と碌己呑の旱岐)。とはいえ任那諸国(&倭国)からすれば事実上の新羅による加羅侵略だったから、これが近江臣毛野が率いる6万の大軍が新羅征伐に向かってドタバタの大混乱になっていく直接の原因となった(この中で新羅は一旦は2国を手放し再独立させているが、532年にこの2国に卓淳国を加え3国を併合した)。新羅は他国を併合した際、その王族らをとてつもなく優遇してみせたことは金官国の王族のその後の大出世と大繁栄からあきらかにわかる。それをみた加羅諸国では、身分や地位が保証されるのなら、いつ滅ぼされるかと怯えながら小国のトップでいるより大国の貴族でいるほうがマシと思ったろう。百済は「百済と任那は兄弟も同然」と口ではいうが、任那の西半分を自分のものにしたばかりか、任那を新羅から守るためと称して、加羅の諸国に郡領(郡令とも書く)と軍主を派遣していた。郡領というのは内政の顧問官で、軍主というのは駐留百済軍の将軍。つまり百済は任那の東半分も実質支配下に置いていた。これでは百済がいかに美辞麗句(天皇への忠誠とか任那復興とか)を並べても加羅諸国はついていかない。天皇も加羅の陳情を容れて百済に「郡領と軍主をひきあげろ」と命令しているにもかかわらず百済は無視していた。百済にしてみたら「そんなことしたら新羅が攻めてくるし百済兵ぬきで任那は新羅の侵略に抵抗できないだろう」ということだ。実際は加羅諸国が勝手に新羅に投降しないように武力で抑えているわけ。日本が勝手にソ連や中共と同盟しないように米軍が駐留してるようなもんよ。ちなみに日本府の役人のトップに「吉備臣」なる者がいるが、吉備氏の一族は百済に割譲された任那四県の国司を勤めていたことが知られている。このことから角林文雄は四県が百済領になった結果、四県の国司が失職して(利権を失って)、阿羅國(東半分の加羅諸国の一つ)に寄生していたのが「任那日本府」だと推定している。四県割譲よりもずっと以前から日本府は存在しているのでこの角林の推定は間違いだが、どっちにしろ四県割譲は加羅諸国にとっても日本府にとっても不愉快なことに変わりないから、彼らは「百済憎し」で凝り固まっていたことは大いに有り得る。彼らは新羅と通謀して、高麗に百済を攻めさせたりしていた。百済からしたら「陰謀」なのだが彼らにしてみたら百済を懲らしめてやったのであり「正義の鉄槌」のつもりだろう。そんなことをして任那が新羅に滅ぼされたら自分もオシマイだろうに、と思うかもしれないが、一つの可能性としては彼らは百済も新羅も見下しており、新羅ごときに任那を滅ぼせるはずがないとタカを括っていたか、もう一つの考えとしては任那が新羅に併合されたら、ヤマトの朝廷に顔のきく自分は新羅王のもとで重用されるはずと傲慢にかまえていたのだろう。実際に当時の新羅は「多民族合衆国」の様相を呈しており、日本での出世を諦めた負け組の中には、再チャレンジを目指して新羅に帰化した日本人も多かったろう。百済も新羅も日本府の役人も自分のことしか考えてない。しかしヤマトの朝廷には外交センスがまるでなく、加羅諸国はヤマト朝廷が自分らを守る意志も能力もないと諦めていた。そこで任那の永存がむりなら、すべてが百済領になってしまうと新羅と百済のパワーバランスが大きく崩れるし、せめて任那を東西にわけるというビジョンがありうる。加羅諸国は過去の経緯で仲の悪い百済に併合されるぐらいなら、待遇のいい新羅領になることを選ぶ。

高麗の衰退と百済・新羅2国の逆襲
ネットで検索すると高句麗の最大領土の地図ばかりでてくるののと『広開土王碑文』の勇ましい誇大宣伝のおかげで現代人は高句麗というと強大な国というイメージがある。が、当たり前だが時代によって盛衰するわけで、この頃の高麗は広開土王の頃ほど強くない。広開土王の後を継いだ長寿王は膨張政策をやめて文治政治にうつり、427年に山奥の丸都から、中華文明かおる楽浪郡の中心、平壌に遷都した。これで文明開化はすすんだものの精悍な好戦民族は軟弱になってしまい、北方への睨みはきかなくなり469年には「勿吉」という本来なら高麗の属民のような狩猟民族が独立して百済とくんで南北から高麗を挟み撃ちにした。これは北方民族の雄としての高麗のアイデンティティーにかかわるばかりか高麗の滅亡に直結しかねない事案でもある。もはや勇猛な狩猟民族といえば勿吉のことであり、文明化して農民化した高麗のことではないのである。この問題を永久に解決するため高麗は475年に3万の大軍で百済を滅ぼしその地(ほぼ今の京畿道あたり)を併合した。百済が敗れたのは百済の蓋鹵王が暗愚で高麗からの間諜に騙され国庫がカラになっていたからという。これ以前の百済は高麗と五分五分の戦いのできる国で高句麗の中心部まで攻め込んだこともあったのだが、この後、百済人は南に逃げ熊津の地を任那から分けてもらってそこに国家を再建したのは上述の通り。ただし、滅亡経験というのは旧弊を一掃する機会となり国家目的に沿った改革を容易にするし新領土の面積、人口とも再建後の第二百済はかつての百済と比べて見劣りするものでもなく、なにか百済が弱小になったかのような印象をもつのは正しくない。だから新羅と百済が連合すれば、この時期の高麗から領土を奪還できるというのはぜんぜん空想的なことではなかったのである。そして実際のところ、百済と新羅は任那をはさんではライバルだが、北の高麗に対しては共闘関係にあり、しばしば同盟を結んでいた。
551年、百済新羅連合軍は高麗の南部を奪い取り、国境線を大きく北上させた。この時、高麗から奪取した土地のうち東半分は新羅が、西半分(今のソウルを中心とした一帯、京畿道)は百済の支配に戻った。これは任那四県を割譲した根本原因である「475年の高麗南進」以前の状態に戻ったということだ。以後、高麗がこの地を取り戻すことは永遠になかった。

百済の衰退と新羅の隆盛
と、まぁ、ここまでは喜ばしい話だった。ところが…。
552年、とてつもなく嫌な大事件が起こった。百済が新領地を手放し、新羅に奪われてしまったのだ。この結果、百済は北と東を新羅に覆われる格好となり、百済と高麗の間には直接に接壌する国境がなくなった。新羅が強大化し、大きくパワーバランスが崩れたといえる。これは将来、百済や任那が滅ぼされてすべて新羅に統一されることを予感させるにたる大事件だが、嫌なことから目をそらしたい連中は新羅と百済を同等にみて「二国が協力してこそ高麗に対抗できるのであって、新羅一国ではどうせ高麗にすぐ奪い返されるだろう」と予想したり、あるいは「合戦は勝ったり負けたり、領土は取ったり取られたり、毎度のことだ気にするな、ほれドンマイドンマイ」とお気楽なこといってたに違いない。しかし実際には「取ったり取られたり」にならず竹島や北方領土のように「取られっぱなし」になった。尖閣諸島もそのうちヤバイだろ。こうなったには、ある必然の理由があったのである。それは何かというと百済の場合は「人材不足」だったのである。百済は任那の四県二郡を貰い受けたが、それは倭國との取り決めであって、任那人にしてみれば自分らの頭越しに勝手に決められたことだから、喜んで百済人になろうとは思わない。日本の戦国時代でも同じだが、合戦して負けたからこそ勝者にひざまずき、その栄光の下に参加するのであって、戦ってもないのに頭を下げられるかっての。しかも任那人は天皇直轄領の民だったのであり、江戸時代でいえば「天領の百姓」で田舎大名の領民とは格が違うというプライドもある。だから百済政府は信頼できる現地人を採用して新領地任那を統治することができず、中央から人材を大量に投入することになる。そしたら北方の人材が不足するのは当然だろう、人間は増えないのに領土が広がったのだから。めぐりあわせの悪いことに、南方経営の便宜のために百済は538年に南方の泗沘に遷都して国名も「南扶餘」と称しており、北の経営にはますます便宜の悪い状態になっていた。北の新領地に人材を回すのにやや遅れが出て守りが薄くなったために新羅からの侵略に対応できなかったのだ。百済と較べて、新羅は前述のごとく外人歓迎・新人優遇の気風があって外国人からみると帰化の対象として魅力的なのである。新領地の人間も事前に新羅の評判を知っており、新羅からの占領軍がくるとすぐその場で新羅に仕官するから人手不足ということがない。こうなると江戸の仇を長崎で、ではないが、北の失地を南で取り返すべく、百済はますます任那侵略に執着し、そうなるとますます任那人から嫌われる。一方、新羅は遅くとも568年までに咸鏡南道までも高麗から奪い、朝鮮半島の大部分を占める大国に躍り上がった。

「仏教で滅びた百済」と「仏教で隆えた新羅」の差とは?
新羅と百済の盛衰の分かれ目は、仏教の影響もある。仏教には「国家鎮護」の護国宗教という一面もあるが、それは方便にすぎず仏教の本筋ではない。なので仏教に心酔して理解が深まると、国家や氏族を軽んじ出家や解脱に憧れるようになる。
中国(梁)は、当時は南朝の梁で、その都である建康は、朝鮮半島や日本の崇仏派にとって憧れの、東アジアの仏教文化の中心であった。梁の武帝は「皇帝菩薩」と称され、出家して寺に入ろうとして臣下たちに引き戻されたり、寺に莫大な寄付をして財政を圧迫し国民を苦しめたりていたがその結果は5年も続いた「侯景の乱」(548~552年)で華やかだった帝都建康は灰燼に帰し皇帝も幽閉先で泣き言をいいながら死んだ。これは日本や三韓の仏教マニアには大きな動揺を与えたが、もとより仏教では「諸行無常」である、何をかいわんやw
高麗(高句麗)も仏教は栄えたが道教も人気があり、個人道徳としての仏教、護国のための仏教という傾向は新羅や百済と共通だが、しいて高句麗の特色をあげるなら、仏教は道教のために高麗(高句麗)国内では新羅や日本ほどの独占的な地位は占められなかった。高麗(高句麗)では道教が先に土着信仰と習合していたのではないか、そのため仏教の影響をある程度抑制したのではないかと思われる。
百済(南扶餘)では早くから儒教や漢字文化になじんでいたため早くから理知的な気風があり呪術離れしていた。儒教が根付いていたため仏教はすぐには受容されなかったが一度受容されるとその思想的な影響を受け、また人工国家(征服王朝)という特徴から儒教なり仏教なりが選択されると土着信仰が打ち捨てられる傾向が強かった。百済の支配階級(夫餘人)と庶民階級(馬韓人)とでは祭祀の形態はだいぶ違っても神話はおそらく似たようなもので、夫餘系による同化も難しくなかったと思われるが、漢人系の貴族も多く、支配階級はかなりの程度、漢化しており、あまり伝統的な信仰に配慮しなかったのではないか。漢化した人間の文明観からすると土着信仰では国家を統合できないのだ。百済仏教には戒律を重んじる山林仏教の特色があり、これは本格的に教義が理解されていた証拠である。倭国に仏教を伝えた百済の聖明王の「聖」の字は聖徳太子の「聖」と同じく仏教の篤信者、仏法の守護者を表わす。聖明王は梁の武帝を追うように554年、新羅の雑兵ふぜいにつかまり惨めに斬首された。日本にいた百済王子の餘昌は蘇我に「なんでこんなことになったのか」と泣き言をいったところ、蘇我は「百済では最近、祖先の神を祀ってないじゃないか。祖神ってのは遠い神代、草木がしゃべっていた大昔に天からくだってきて国を建てた神のことだ」といっている。本来の正しい仏教では祖先を祀らない。先祖供養をすることがあっても仏教の本題ではない。そしてここで蘇我がいってる神話は日本の天孫降臨神話であるが、馬韓の土着神話、あるいは百済が北方からもってきた夫餘系の祖先神話などもほぼ同じような神話で、当時の人々はみな同じ神だと認識していた。百済では理知的な思考のおかげで土着信仰と仏教が併信されず、取捨選択で考えられていた。が、社会統合のため土着信仰でなく仏教を押し付けるのも、土着信仰を押し付けるのも同じことではないか。百済仏教には弥勒信仰もあるが、これは新羅からきたんだろう。弥勒信仰は土着の太陽信仰と共通の土台があり、百済でも土着信仰の感性はまだ死滅しきってはいなかったと思われる。ここで重要なことは、日本で仏教派だったはずの蘇我が、いざとなったら仏の功徳など国家安泰の役に立たないと、仏教の価値観を正しく理解していることである。つまり蘇我が仏教派なのは日本のためではなく、自分が解脱して来世すくわれるためなのであり、腹の底では日本が滅びようが重要でないと思っているのか、もしくは仏教も信じてはおらず政治抗争の道具に使っているだけなのである。日本仏教の最大の擁護者である蘇我にここまでいわれながら、餘昌は目が覚めず、翌555年には新羅に殺された父王の供養のため出家しようと言い出し、臣下たちに引き止められている。インドの宗教思想や中国の政治制度といった「高度文明」に目がくらんでしまった人間はいまさら田舎くさい土着の神々などばからしくて信じられないのだ。ふつうは父の仇の新羅を征伐しようと言い出すべきところ、逆にあの亡国皇帝梁の武帝にならおうとは何事ぞ。こういうのをカルトに洗脳されているというのであって、上の者がこうではどうして下の者が国のため命を投げ出そうと思うだろうか。
新羅(鶏林)は高麗や百済よりもはるかに文化(中華文化)が遅れ、土着信仰を除けば儒教や道教の影響ももとから弱く、当初はともかく一旦公認されると仏教を妨げるものはなかった。が、仏教の受容は教義についての本格的な理解というよりも、どちらかというと高麗や百済に対抗するためという国家目的であり、そのため最初から仏法と王法の一致を旨とする「鎮護国家」、そして「弥勒信仰」という仏教の中では枝葉だが土着の太陽信仰と類似した部分が選択された。そのため新羅仏教は百済仏教とは逆に、国家を解体するのではなく、氏族的対立を超えて国家統合に向かわせる力として作用した。土着の太陽信仰は日本の天照大神とも通じるもので、日本支配から脱却するためにも土着信仰を世界普遍のものに昇華させようとして弥勒信仰が選ばれたのかもしれない。
任那(加羅)は、もとからの任那人と日本府の役人とで違いがあったろう。もとからの任那諸国では、仏教に興味をもつのがかなり遅れた。地理的に中国から遠いという理由もあったろうが、二大強国に挟まれて呻吟しており、国力に余裕がなくて、新羅仏教も百済仏教も有閑階級の道楽ぐらいにみていたのではないか。百済の圧力で仏像つくったりしているがこれは最初から日本へ贈るためのもので、任那の主体的な行動ではない。この任那の仏教への無関心は、長い間、日本を仏教の自然流入から守る防波堤となっており、だから日本に仏教が公式に伝来したのも「任那の頭越し」だったのである。それ以前、522年の司馬達等による仏教私伝も、彼は梁の出身とあるから百済からきたといっても「百済経由で梁から」きたのであり、任那は関係がない。ただし任那日本府の役人は蘇我氏と強い結びつきがあり、ほぼ全員仏教徒だったろう。個人的にみていけば、ミーハーなナンチャッテ仏教徒もいれば正しく教義を理解しているマジメな仏教徒まで、いろいろだったではあろうが、組織としてみれば百済への対抗意識と、百済への侮蔑意識があって、経文や仏像といった実物の入手には不利であり、百済の仏教を貢ぎ物にする点数かせぎを苦々しく思っていたことだろう(ちなみに日本府の役人が仏教徒になったのは蘇我の影響だから、日本への仏教伝来より後の話である)。
日本(倭)はまだこの頃、仏教を公式に受容するのかしないのか、もしするとしたらどういう形になるのかという国家的決断を先延ばしにしている段階で、崇仏派は蘇我氏とその近辺の皇族を含めてまだまだ少数派であった。それもほぼ百済仏教の思想である。新羅的な仏教というのは知られてはいたが、新羅を無教養な田舎者と蔑む百済人の影響で無価値と思われていた。無関心派や排仏派のほうがまだまだ多数であって、その中心はバラモン階級(神官階級)に該当する中臣氏や、「仏教の教えでは戦場で国のため命を捨てることができない」とするクシャトリア階級の物部氏がいて、仏教の扱いはこの先どう決まるのか渾沌としていた(百済では神官階級に該当するものが「学者」なので理論で仏教に論破されればそれまで。新羅ではこの頃すでに金氏が王位を独占していた。金氏はもともと巫覡の一族で、武門の朴氏、富財の昔氏とともに三権分立をなし本来の王というのはいなかったが、朴昔の二氏は364年に一度滅ぼされ解体されており、この時「麻立干」(ましゅうかん)という称号ができ、初めて国内王権が確立した。そのため王族自身が巫覡的な一面を担っており、王族とは別勢力となる力をもった神官階級(日本でいえば中臣氏のようなもの)がおらず、王家が崇仏にきまってしまえば「強大な排仏派」というものは形成されにくい)
しかし欽明天皇自身の判断不能とそれによる中立的態度、政治的な実力者である蘇我氏の崇仏運動は朝廷の政治的動向に大きく影響していたろう。こと任那問題に関しては軍部を除けばこの問題にかかわる文官(事務官僚的氏族)は吉備氏のような古来からの名門氏族だろうが帰化人系の下級事務官僚的氏族だろうがみな蘇我の影響下にあり、彼らに崇仏派が多かったろう。そして仏教というのはつまるところ個人主義思想であり、国家軽視してまで自氏族を優先する儒教(国益無視して省益優先する現代の官僚みたいなもの)よりも、輪をかけて私利私欲に論拠を提供しやすい(この時代の仏教というのは現在の我々の理解しているような「日本化した仏教」ではないことに注意)。日本は仏教伝来するや、ただちに受容した」などというのは無知をさらけだすデタラメな説であり捏造された歴史にすぎない。日本が最終的にどのように仏教を受容するのかが確定したのは、聖徳太子の時代ではなく、大化の改新の時なのである。聖徳太子はまだ試行錯誤の段階だった。そこらのすったもんだは今回のテーマではないのでふれない。が、ただ、仏教を遅れて受容したために(大化の改新の頃までには)後出しジャンケンのように百済の例、新羅の例を参考にできたとはいえよう。といっても鎮護国家仏教なら問題ないのかといえばそうはいかない。奈良時代の大仏大伽藍などは国富の浪費であって梁の武帝と何もかわらない。梁の武帝の仏教だって寺院は国家鎮護を売りにしていたのである。新羅や後世の日本がマシだったのは、仏教をあくまで文化や習俗や実用的な呪術として受け容れたのであって「教義を真に受けたのではない」、そして実際に信仰しているのはあいかわらず土着の原始的な部族宗教すなわち王権(≒伝統的共同体≒国家主義≒國體信仰)なのであって仏教ではない、という点が重要だろう。しかしそれであっても万全ではない。建前はやがて本音を侵食していくからだ。

滅亡までの経緯(562年正月~八月)
562年正月、『日本書紀』によると新羅は任那の残っていた部分(加羅諸国のうち10ヶ国)を併合して任那は消滅した。欽明天皇の綺麗事にまみれた泣き言みたいな詔勅が載っているが、新羅は片田舎の小国で恩知らずだとちょいとだけ罵倒も入ってるが、日本は新羅に対して本当によくしてきたと自国の無能無策を棚にあげて人の良さを切々と語っており、日本人なら思わず同情してしまうような内容だが、当の新羅人・任那人・百済人は「こりゃダメだ」と思ったろう。日本書紀はどういうつもりでこんな編集してるのか。ある意味、大東亜戦争の開戦の詔勅(終戦じゃなくて開戦のほう)に似てる。我が帝国はなんの悪気もなく世界平和のためにがんばってきたんだが、英米支蘇蘭がわかってくれない、本当は開戦したくないんだけど趨勢のおもむくところやむなく開戦するよ、みたいなのが開戦の詔勅で、気勢のあがらないこと甚だしい。任那が滅ぼされたというけど、今回も新羅が暴力的に併合したのではなく、おそらく任那諸国がみずから進んで新羅に帰服したという形式をとったと思われる。ヤマト朝廷が無能で働かないのだから、現実にある百済支配から任那人が逃れるすべはこれしか残ってないのだ。儒教的にいえばヤマトに徳がたりないということだよな。
↓ありがちな歴史地図。ずいぶん古い説に基づいて描かれている。あまり真に受けないように、特に任那の西半分は間違い多し。
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で、今後の対策なんだが、もし倭軍が新羅を攻めて京畿道を奪回してしまうと流れ的に百済に与えることにならざるを得ないが、いまや新羅と任那は同一会派なのであり、新羅を攻めること自体が百済を益し、それはただでさえ爆発炎上している新羅や任那の倭国(&百済)への反感を増大させる。かといって任那を滅ぼした新羅を放免して百済を攻めるのは筋が立たない。任那から百済兵をひかせればいいのだが、そんなことは百済は絶対承知しない。新羅も百済も自分に都合のいい命令しかきかない。命令を強制するに派兵するしかないが、軍事行動は大伴氏や物部氏の手柄になって彼らの地位や権力の増大につながるから蘇我としてはなるべく戦争はしたくない。八方塞がりなわけだが、任那日本府のトップだった吉備氏は昔は平群氏の配下だったがこの頃は蘇我氏の配下だったろうし、任那利権の元締めはこの時代では蘇我氏だから新羅百済両国を手玉にとって任那を切り売りしていたのは蘇我氏なのである。蘇我の牛耳る政府としては八方塞がりでも腹は痛まないが、倭国の国内世論としては任那を滅ぼした新羅への憎悪で爆発しており、大伴・物部の率いる軍部も新羅征伐じゃぁ~と大騒ぎになっていたはずである。欽明天皇の思わず同情を誘うような詔勅の効果はその怒りを倍増させていただろう。だから蘇我大臣としてはしぶしぶではあるが新羅討伐軍を派兵せざるをえなくなった。
七月になって大将軍・紀臣男麻呂(きのおみ・をまろ)と副将軍・河辺臣瓊缶(かべのおみ・にへ)が率いる日本軍(おそらく正しくは日本百済連合軍)が、任那回復をめざして百済領内から出撃したが、河辺臣瓊缶が無能でそのめちゃくちゃな戦術のせいで新羅に散々に打ち負かされた。おまけに河辺臣は人情にも義理にもはずれたスキャンダラスなエピソードまで残してきた。この戦いは『三國史記』では「百済が攻め込んできたが逆襲して殺したり捕らえたりした者が千人にもなった」とある。今頃になってようやく援軍を出したんだろうが遅すぎる。この大敗で、天皇はじめ国民も大きなショックを受けたが、蘇我を始めとする現実派は、これで頭を冷やして理性的になってくれればいいと思ったろう。しかしそう都合よくはいかない。新羅は格下の属国で取るに足らない弱小国と長年みなしてきた日本が継体朝の末期に新羅に大敗して任那の東部を奪われてから、このところずっと押されっぱなしで、ついに任那が滅亡した直後の最後の決戦でまたしても大敗したのである。新羅は現地の民心を得ているので強い。任那人すればから敗北したから良かったのであって、もし新羅が負けたらまた百済の支配下に戻されるのではないかとヒヤヒヤものだった。そういう事情も国内ではようやく理解されてきたが、だからって怒りが収まるかといえばそれとこれとは別だ。軍事的な敗北だけでもプライドがずたずたなのに、加羅諸国の心も新羅になびいている、つまり「徳」の面でもまけているというのが絶対にゆるせない、認められない。思い込みの袋小路に入った人間はうまくいかないとますます意固地になるものよ。ちょうどいいことに敗北の直接の原因になった無能将軍の河辺臣ってのは蘇我氏の一族だから、これ実力を考慮しない情実人事をこの期に及んでいまだにやっていたってことだ。大伴氏や物部氏を将軍に起用しなかった点からも蘇我大臣は最初からマジメにやる気なかったろ。怒りの矛先は戦犯蘇我大臣に向く。あらたいへんw だが、ここは軍を立て直してもう一度新羅征伐を、とはならなかった。蘇我大臣としては戦争はうんざりなんで、戦ではなく「徳」の面で新羅に勝つべきだと主張しただろう。「おまえがいうな」と一斉にツッコミがきたろうけどな。次なるいくさは大伴氏や物部氏に出馬してもらうというのが世論の要求だろうが、さすがに蘇我とならぶ執政の地位にいる物部は蘇我が全力で却下した。これ以上物部の発言力や威勢が高まるのは蘇我としては断固許容できない。なので大伴金村失脚以来、低迷している大伴氏から将軍が出るはずだ。次に、徳にそむくいくさはできぬ、つまり任那の現地人の民心に背いてまで新羅を直接攻めることはできぬ。じゃどうするかだが、高麗と百済は直接に隣り合っておらず間に新羅領があるから、遠交近攻策に則れば、今後、百済は高麗に臣属する可能性がある。新羅に大敗したまま事態を放置すると、半島における任那領が存在しない今、百済への日本のヘゲモニー低下は免れない。新羅も百済も倭国を必要としなくなれば貢はこなくなり、半島における日本の権益は崩壊する。ゆえにこれ以上手を拱いてヤマト朝廷の無為無策をさらけておくわけにもいかない。こうなると高麗しか攻める相手がいないのだ。というわけで、いささか唐突ではあるが、今度は高麗征伐軍を派兵することになった。え?もろん高麗から何かを引き出そうというわけではないからやや意味不明な戦争ではある。ただ倭国の威力を示せばことたりるので高麗を滅ぼす気も領土を奪う気もないのだが、怒りに燃えてるので戦意だけは高揚して無駄に士気の高い軍はできる。高麗といえば、任那問題にしろ新羅問題にしろ、根本的な原因は高麗の存在につきるのだから、高麗征伐が可能なら話は簡単なのであり、本気をだせばそれが可能だということが証明される。もっとも問題の係争地はいまや新羅領なのだから高麗を攻めて領土を取っても飛び地になるばかりで、新羅には関係がないし、前述のようにこの頃はすでに高麗より新羅のほうが強大になっていたので、高麗問題は消えて新羅問題にスライドしていたのだが。本当は新羅を成敗しなければ任那の回復にならない。現地の親新羅派の任那人を虐殺しても新羅を滅ぼすか、さもなければ百済が滅びるのを無視しようとも断固として百済に任那から手を引かせるか、いずれかしなければ植民地経営などできないのだろうが、建前からいえば徳にそむくことは日本人にできないし、本音をいえばいちどまみれた利権の絡まりは自分では断ち切れず決断を先延ばしにする。そしてエネルギーを持て余して、首を切られた鶏みたいに国家の運命を迷走させる。
八月、倭国は、大伴連狭手彦(おほとものむらじ・さでひこ)という引退していただろう老将軍を引っ張り出して、高麗に遠征させた。任那が滅亡してドタバタな時になぜそれをほったらかして高麗なのか、それは後で説明するとして、狭手彦は百済側が提案した戦略を採用したというが、百済は何度も高句麗領内深く侵攻したことがあり地理に詳しかったのだろう、それとこの時点では百済と高麗は接壌していないので陸路だけで直接には高麗にいけない。一つの方法としては新羅に道を借りる手があるが、今回は任那紛争のさなかだからそれは考えにくい。そうではなくて水軍で海から高麗に上陸する作戦だったろう。これは大昔、404年に帯方(今の黄海道のあたり。京畿道も帯方の一部だがそっちは当時百済領になっていた)に急襲をかけたことが『広開土王碑文』にある。これも海上から上陸したもので、今回はその再現となる。狭手彦は倭国百済連合軍を率いて王都平壌に攻め入り、高麗王を撃退しその王宮から様々な宝物を奪取した。この時、新羅が高麗を助けようと南から攻める虞れもあったろうが、新羅は新領地の保全につくして出てこなかった。倭軍が大軍だったせいもあろうが新羅は高麗を同盟者として役不足とみたのもあろうし、狭手彦が新羅に対していくらかの援軍を出すように命令してたかもしれない。この戦いで高麗から奪取した宝物のうちいくつかは蘇我稲目に捧げられたというから、この戦争の企画者は蘇我稲目で、先月の河辺臣の失敗を挽回する意味もちょっとはあったのだろう。さて、領土の一片を取ったわけでもないが狭手彦の成果は話だけは華々しい。大伴の精鋭・物部の大軍を集め、国運をかけた遠征だったろうし、国内の賢人が出撃前の狭手彦に国家戦略を授けたか献じたかしていたと思われる。『日本三代実録』によると狭手彦は高麗にしばらく留まって敏達天皇の時に帰国したという。十年ちかくにもなるがその間ずっと戦っていたのではなく講和のあと国使として外交交渉していたのだろう。狭手彦がいたと思われる期間、高麗・新羅・百済の3国は戦っていない。狭手彦は高麗に十年もいたのだから奪取した領土を恒久的に確保できるほどの兵力はあったと思われるが、狭手彦のもくろみは高麗を無駄に苦しめて憎しみを買うことでなく、絶対優位な立場で交渉することなのである。これからの敵は中国や新羅になるとして高麗と百済の同盟を固めたものと思う。だから任那のことは狭手彦の眼中になかった。百済は新羅から差をつけられてしまいこのままでは滅亡が迫っているとあせっているから、任那から手をひくことは絶対にありえない。任那回復が欽明天皇の悲願であることは恐れ多いが、百済を排除するという決断ができない以上、現地の住民の民意に背いてまで任那を再独立させることは果てしもなく混乱を継続させるだけだ。これは崇仏派か排仏派か問わず、もののわかった連中には合意されていただろう。ただ、任那の中には前年まで百済の郡領や軍主がいたわけで当然、任那人にも百済派という一派も形成されていた。それで狭手彦が率いる倭国百済連合軍の威力を背景にして、一時的にだが加羅諸国のうち何ヶ国かが再独立したらしい。『三国史記』新羅本紀の記述からそれが推測できる。

滅亡の最終局面(562年九月十四日)
562年九月、三國史記によると伽耶(=加羅)が新羅に謀反を起こしたのでこれを鎮圧したとある。謀反が起きてから鎮圧までが九月中のことのいように書いてあるが、歴史書ではよくあることだが簡便に一行ぐらいの短い書き方をされている場合は往々にして省略があり、鎮圧されたのが九月という意味で、謀反が起こったのはそれ以前である可能性もある。高麗に遠征して高麗軍を撃破し、高麗王を王宮から追い出すほどの倭軍にしてみれば、新羅から任那を奪回するなど容易いはずだ。だから伽耶の独立派は狭手彦の高麗遠征からの凱旋軍の帰路にあわせて蜂起したのだろう。だが狭手彦は高麗に留まり、帰国したのは高麗から奪取した宝物を運ぶ輸送部隊だけで本隊ではなかった。伽耶の再独立のニュースは狭手彦にも届いていただろうが、狭手彦は独立軍を見殺しにした。おそらくヤマト中央政府からの指示だからでもあったろうが、建前で任那独立といいながら、その実は百済への帰属を主張する勢力だったからだろう。彼ら「親百済派」は任那の中では少数派なので、彼らを支援するのは任那の多数派に反することになる。大将軍狭手彦の方針が無視である以上、百済政府には独力で独立軍を支援しなければならないが、この時は百済の主力は狭手彦の指揮下にあったし、加羅に駐留していた軍主たちの率いる百済兵も、狭手彦の高麗征伐に参加させられたためにかなりの人員がひきあげられており手薄になっていたんだろう。現代人からすると「いや、高麗征伐してる暇があるならその軍をもって任那をさっさと再建しろよ」と思うだろうが、日本府の役人だった吉備臣らとつながっている蘇我稲目は、現地人=任那人の民意をよくしっており、彼らは独立したところで、骨の抜かれたぐにゃぐにゃな指導力しかない倭国の下でまたしても百済の実質支配下に逆戻りするしかないのをよく見抜いており、それならぶっちゃけ「復興されたくない」わけよ。で、再独立をめざした反乱軍は新羅の将軍・異斯夫に平定され、任那は最終的に滅亡した。この事件は九月十四日(辛巳日)、当時の西洋の暦(ユリウス暦)に換算すると「AD562年10月27日(金)」で、つまり今日(グレゴリオ暦だと10月29日)

…のはずなんだが、『三国史記』では九月とはあるが日付までは出てない。この「十四日(辛巳日)」という日付の典拠が不明。なんだっけ? まさか『桓檀古記』じゃあるないなw

この後、日本は任那復興という国家目的と儒教のきれいごとという二つの建前に縛られてますます迷走していく。これを両立できると信じれるのは「非武装中立論」みたいな阿呆陀羅経を信じれるのと同じで、そういう意味では日本人はあまり進歩してなかったともいえるが、これでも一応ウヨなので日本サゲしたいわけではない。カルトに洗脳されてる間は世界中のどこの民族でもこんなもんだろう。ただしカルトには洗脳「されてる」哀れな連中とは別に、洗脳「してる」側の主体がある。左翼の理論なんて机上の空論で本当は昔ならソ連、今なら特亜の都合にあわせてなんとでも辻褄あわせて変化してくる。この場合は、朝貢と称して賄賂をもってきて腰低くして揉み手で擦り寄ってきて日本天皇を賛美しつつ夢みたいな綺麗事をいう連中だ。重役は下に操られ放題のアホのままいてくれたほうが中堅管理職は万事やりやすい。ヒラはいい迷惑かもしれんが。

世界史的な意義
高句麗は342年に西の前燕(鮮卑の慕容部族)に国都を陥され壊滅している。高句麗が朝鮮半島を南下して倭国と衝突するようになったのはこの後で、つまり鮮卑族の勃興によって西方への進出を阻止されてしまったから。この鮮卑という遊牧民は、モンゴル高原から「北匈奴」を追い出し、その一部はフン族となってヨーロッパを支配した。ゲルマン民族の大移動はその余波で、これで西ローマ帝国が滅亡して中世ヨーロッパが誕生する。東アジアでは鮮卑族が中国を支配して隋唐帝国ができる。だから古代から中世への世界史の大変動は鮮卑族が起こしたのだともいえる。唐(=鮮卑)と日本が戦った白村江の戦いで、日本は半島の権益をすべて失い律令国家へと変貌したが、これも古代から中世へという世界史の変動(=鮮卑の膨張とその影響)の一部だったわけだ。400年、朝鮮半島において高句麗と倭國が激突したが、この時の高句麗軍は歩騎あわせて5万という。その背後には鮮卑からの圧力があったわけで、本当の敵は高句麗ではなく鮮卑だったのである。だから後には「高麗=百済=日本」の三国同盟ができて、唐に抵抗することになる。以来、663年の白村江の戦いまで続くわけだが、任那の滅亡はその長いすったもんだの一幕だったのである。

日月神示 天日津久神社 の謎を解く

2679(R1)・6・6 THU 改稿 H29・4・29 SAT 初稿
今日、平成29年4月29日(祝)はいわゆる「昭和節」で、昭和大帝生誕116周年。なのに俺はウヨの奉祝イベントにも行かずに、のんきに千葉県成田市にある麻賀多神社(まかたじんじゃ)に行ってきましたよ。正確には皆に「ついていった」って感じだが。で、この麻賀多神社の境内社に天日津久神社(あめのひつくじんじゃ)あり。岡本天明がここの麻賀多神社の社務所で自動書記(お筆先)したあの有名な「日月神示」(ひつくしんじ/ひつきしんじ)は、「国常立尊」(くにのとこたちのみこと)または「天之日月神」(あめのひつくのかみ/あめのひつきのかみ)という神がおろしたのだという。国常立尊と天之日月神は同じ神の別名なのか、それとも両神は別々で「国常立尊が神示をくだした神」であるのに対し、「天之日月神は岡本天明との仲を取り持った神」という関係なのか、不明。いずれにしろ天之日月神はこの天日津久神社の祭神ということらしい。日月神示についての詳しい情報はネット上にいくらでもあるので興味ある人は適当に検索して調べて下さい。つか、日月神示という文字につられてこのブログに辿りつくような人はとっくに詳しい人だろうから改めて調べるまでもないか。では当ブログでは今回は何を問題にするのかというと、天日津久神社の由来根源について考えたい。天日津久神社とは別に、この麻賀多神社のほうも古代史のあれこれで面白いネタはつきないのだが、麻賀多神社については「房総の国造(くにのみやつこ)と太陽信仰」に譲り、この頁では天日津久神社について考えよう。
「ヒツク」と「日月」
この天日津久神社は岡本天明のお筆先がでるまでは、由来も祭神も一切不明で、しかも同名の神社は日本中に一つもないという。祠を新造する前の古い写真では「天之日津久神社」とあり「之」の字があったが新しくなってから「之」の字を省いたのは昔の書き方に戻したのだろう。すなわちこちらさんのサイト「古代であそぼ」のこの頁(http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/tb2mgt-b1.htm、残念ながら今みたらリンク切れ、R1・5・16)の記事によると昭和40年代の由緒書には「天日津久神社」とあり、安政五年(1858年)の『成田名所図会』にも「天日津久社」とあり、いずれも「之」の字が入っていない。
で「日津久」とはどういう意味の言葉だろうかと考えるに、普通は「日津久」=「日月」の意味だと思われがちだ。しかしなぜヒツキじゃなくてヒツクなのかが気になる。もともと日月の意味の古い言葉がヒツクだったのか? それとも逆に、日月神示が有名になってしまったために何となくヒツクは日月の意味だと思い込まれてるだけで実はぜんぜん別の意味の言葉だったのか? 
本居宣長は、万葉集に「月夜」をツクヨと読ませているのを根拠に「古い形がツクでそれがのちにツキになったのだ」と憶測して、月読命の「月読」をツクヨミと読ませている。これと別に『万葉集』の東国方言でも月をツクといっていた。これらの理屈からいうと、確かに「ヒツクとは日月の意味の古い言葉だ」といっていえないこともなくはない。

「ヒツクは日月のことだ」と仮定した場合:その1
そうするとやはり「日月」説でいいのか? この説も妥当だと思われないこともない。それは岡本天明が受けた神示で「天之日月神」(あめのひつきのかみ)と名乗っているからでは必ずしもない。天日津久神社という名前は全国どこにもないというが、似たような名前で「日月神社」(にちげつじんじゃ)なら結構あちこちにあるからだ。もしかして天日津久神社も、もともとは日月神社だったのではないだろうか。
「日月神社」は千葉県内では10社以上ある普通の神社だから、もし天日津久神社がもともと日月神社なら、話はわかりやすい。対して、ヒツクが日月でないとしたら後述のようにやたらいろいろな説が考えられてしまうけれども、いずれにしろ珍しい神社であることにはかわりないことになる。現在の麻賀多神社では境内にいくつもの摂末社が並んでみな同じ造り、同じ大きさに整理されているが天日津久神社のみが特別扱いのようになっている。これは境内が整備された時すでに「日月神示」が有名になっており全国に信者、支援者がいたためだろう。しかし、前述サイトの資料をみても江戸時代には他の摂末社と同等の扱いであり、現在のように特に天日津久神社だけが他の境内社と別格だった様子はない(なお境内社のうち天日津久神社を含む5社は前述の安政五年(1858年)の『成田名所図会』に摂社としてあげられていることから、明治以降の神社統合のせいで麻賀多神社に吸収されたわけではない、ということがわかる)。
ただ、この場合、ありふれた「日月神社」がなぜここだけ「天日津久神社」になっているのかがわからない。一つの考えとしては、江戸国学は農民や町人にも広まったから「月は古くはツクだった」という知識をもった人がたくさんいただろう(その説が正しいかどうかは実はかなり問題あるのだが煩雑になるので今はふれない)。それで、わざと古めかしく見せようとして日津久(ひつく)に変えたのだろうか。前述のサイトに引用されし『成田名所図会』も、この神社の建つ丘は「稷山(あわやま)」というのだが、粟山と書けばいいものをわざわざ「稷山」と書くもったいぶりを後人のサカシラとして笑ってる。これは丁度いいw サカシラな人の存在を想定すると推理はらくになる。境内社5社のうち印旛国造神社(いなばのくにのみやつこじんじゃ)、馬来田郎女神社(まくだのいらつめじんじゃ)、猿田彦神社の3社は記紀にでてくる由緒正しい神や人を祀っている。これに比べると、「日月神社」は安直に太陽と月を並べただけの名前だし漢語よみで新しい信仰のようにきこえるし記紀に典拠もない無知蒙昧な田舎の土俗信仰のように感じられたんだろう、そこで、国粋的な国学のセンスからは月日神社(つきひじんじゃ)と改名したいところだが、それだけでは同境内他社の由緒に比べてあいかわらず見劣りする。せめて古めかしくみせるために生半可な知識からヒツキをヒツクとし、あまつさえいたずらに天(あめの)の字を冠して荘厳さを加えた。…というのが真相ではないのかな? 時代はズレるが、同じように国学系のジレッタントが関与していたと思われるのは、また同じ境内社の一つが明治までは「幸霊神社」(サキミタマの神社?)だったのが昭和には「孝霊神社」(孝霊天皇の神社?)になってる。これも日月神社を天日津久神社に書き換えるのと同じ発想だろう。ただし今は「幸霊」に戻っているので、あるいは「孝霊」はただの誤記で実は最初から一貫して「幸霊」だった可能性もなくはない。「幸霊」はサキミタマと読むのだろうか? 境内社は2社を除いてみな由来や素性がはっきりわかるのに、天日津久神社とこの幸霊神社の2社だけがよくわからない。大国主神の奇魂・幸魂を祀ったのだろうか? それとも埼玉(さきたま、今の埼玉県行田市、古墳で有名なところ)の関係かな? 今のさいたま市にも「日月社」がある(昔のサキタマは今の行田市なので今のさいたま市では印旛国造(麻賀多神社のある成田市を領域とする国造)からみて方向はあってるが距離が少し足りない。だがまぁ大雑把に武蔵国ってことでいいだろ)。今の袖ヶ浦市・木更津市にあたる馬来田国造ゆかりの馬来田郎女神社もあるんだから埼玉神社があってもおかしくはないわけで、旡邪志国造(埼玉)・馬来田国造・印旛国造(麻賀多神社)の国造トライアングルで何かつながってたのか? あるいは本当に孝霊天皇か? 孝霊天皇は古事記によると吉備を征伐している(日本書紀にはこの話は出てない)んだが、後述のように東国にしかないはずの日月神社がなぜかめずらしく西日本では吉備国の岡山市にだけあるんだよね。これ何か関係あるのかな?
それと現在の境内社はどういうわけか9社もあり、「青麻神社」「天神神社」「三峯神社」「古峯神社」の4社が増えている。この4社は前述の古文書にも書かれてない。そのうちの一つの「天神神社」は普通に考えれば菅原道真の天満宮に違いないが、天日津久神社と「天」の字がかぶっているから、何か関係あったのかな? もう一つ「青麻神社」は総本宮が仙台にあり、北極星と太陽と月を祀っているので別名「三光宮」ともいう。これ北極星をぬけば「日月」。天日津久神社が「日月神示」以降、特別の意味が生じてしまったので改めて日月神社の代わりとして勧請してきたんだろうか? 
とはいえ、ヒツクは日月のことだという俺の推理が間違ってるかもしれず、ヒツクは「日月」とは無関係なまったく別の言葉である可能性もあることはある。

「ヒツクは日月の意味ではない」と仮定した場合:その1
前述のように月の古い言い方がツクだったとしても、なんで千葉県のここ一か所だけにそんな古い言い方が残ってるのか不自然きわまりない。だから、仮に「津久」が月の意味ではなかったとした場合どうなるのか。
「津久」といえば、高い柱を立ててその上に登って曲芸をするのを「津久舞」その柱を「津久柱」そのお囃子を「津久囃子」というらしい。麻賀多神社と同じ千葉県の東西両端にこれがある。千葉県の西端、野田市には「野田の津久舞」という雨乞いの神事が伝わっている。千葉県の東端、旭市の太田八坂神社の祇園祭で催すエンヤホー(陰陽法)という神事でも津久柱に登って曲芸をする。ちなみにこの太田八坂神社のすぐ近くに「日月神社」という神社が3つもある(後述)。津久がつく地名としては津久井、津久浦、津久田(≒佃)、津久戸、津久野、津久波(≒筑波/津久葉/築羽/筑葉/築波)、津久見、津久礼などがあり、これらの地名は津久舞と関係あるのか、あるいは津久は何らかの地形を表わしてる言葉なのか。はたまた「佃」「営田」をツクダと読むのは「作り田」の意というから津久舞も「作り舞」なのかな?(「津久柱、津久囃子」も「津久舞柱、津久舞囃子」の略だろう) だが「日」とつなげて「日の津久舞」の略で「日津久」としても雨乞いの神事らしいから「日の~」という意味がわからない。日(ひ)は干物(ひもの)の「ひ」、旱(ひでり)の「ひ」に通じ雨乞いには縁起が悪いからつけないはずだ、というのは根拠薄弱な決めつけとしても、「雨乞津久舞」(あまごいのつくまい)と書いたのを雨(アマ)を「天」と当て字書きして「乞」の字を「日」に誤写したと考えたほうがありそうじゃないのかな?
「津久」という表記にこだわらないで考えてみると、霊憑(ひつく)なら、まさに自動書記した岡本天明のように「神霊が憑く」意味となるし、檜木菟(ひ・つく)ならヒノキとミミヅク? 干作(ひつくり)で何か干物のようなものでも作ることか? また仮にヒツキと読んだとしても日月の意味とは限らず、樹木の檜槻(ひつき、ヒノキとケヤキ)もありうる。射日儀礼を弓矢でなく槍でやってたので「日突き」とか? ヒツギと濁音もありなら、「日嗣」(ひつぎ)と解いた場合でも皇位を意味するヒツギと、皇太子や跡継ぎを意味するヒツギとがありうる。その他には、神聖な忌み火を継承していく「火継」(ひつぎ)、遺体を納める棺柩(ひつぎ)等も思いつく。「日付」(ひづけ=暦日)の神とか「火付け」(ひつけ=放火)の神ってことはあるまいな。

「ヒツクは日月のことだ」と仮定した場合:その2
…というふうに、「日月」説をさけた場合は縛りがないからやたらにいろいろなアイディアがでてくる。ただ思いつきを手当たり次第に並べても埒があかないわけだが、オカルト関係サイドの方々は「古事記は七通りの読み方がある」(←王仁三郎だっけ?)だの「日月神示は8通りの読み方がある」だのってノリが好きなので「すべての説はある一面では正しい」と日本人的に八方丸く納めて思考停止してしまう人が多いんだろうなw しかしダジャレや掛け言葉のような文芸的表現ならわかるが、7通りも読み方があったらそれって意味を伝えるという文章のそもそもの存在意義にかなってないんじゃないのか? 7つの文章にわけて書いたほうが効率いいじゃんよ? 本当にそんなに多くの読み方ができるためにはカタカムナみたいに最初から無意味な文章を書かねばならない。なるべく意味がわからないような抽象的な詩だ。でもこんな詩は技巧に堕ちたもので、文芸文学として良い作品とはいえない。外国語(特に詩)だと翻訳者によって十人十色の訳ができてしまうことはあるが(ゾロアスター教の「アヴェスタ」もそうだ)、だがそれは見た目の単語の選びや言い回しがいろいろなだけで言わんとするもの、示さんとする世界は同じものなのであって、内容まで十人十色なのではない。
俺はオカルト大好きなので、雑誌の「ムー」的なものならUFOも幽霊も超能力もネッシーも超古代文献もムー大陸も神様もあの世も「と学会」も、その他いろいろ信じてるんだが(みんな勘違いしてるけど「と学会」もオカルトの一種だからなw)、「古事記は七通りの読み方がある」だの「日月神示は8通りの読み方がある」だのって話だけは信じてないんだよ。
俺がここに思いつきレベルの珍解釈をあれこれ並べ立てるのはあくまでボケ防止の頭の体操だ。じゃなくて、あくまでブレーンストーミングだw だから解釈説は多くてもほとんどが間違いで正解は一つ、俺の好きな言い方でいうと正解に至るための補助線だよ、補助線は正解を得た後は無用になってしまうが、正解に到達するために「必要なもの」なのだ。けして「どれも正しい」とか「こんなにいろいろな読み方ができる、スゲー」なんてことではない。
だから、「ヒツクとは日月のことではない」という俺の推理がことごとく間違ってるかもしれず、ヒツクとはズバリ「日月」の意味だったのだ、という可能性もあることはある。本当のところはよくわからないが、仮に(あくまで仮にだよ)天日津久神社はもともとは「日月神社」だった、としてあれこれ調べたのが、後半の「おまけ1:日月神社の研究」「おまけ2:全国の日月神社の一覧」だ。日月神社そのものをめぐる一連の議論の難点は、天日津久神社と必ずしも関係ない話になってるかもしれないという身も蓋もない話だが、もしも天日津久神社が「日月神社」だったとしたら、房総半島の西南部の富津市の日月神社から勧請した(分霊をうけてきた)ものである可能性が非常に高いと思う。もっとも、富津の日月神社がいつ建立されたのかによっては成り立たない推論なんで、そこは確認しなければならないが面倒なのでやらない。この神社は「景行朝にヤマトタケルが蝦夷征伐の途上、上総国鬼泪山(きなだやま)の鬼退治をした時に、この地に日月の幟を立てて祈ったのが創始」というが、社伝の類は適当に作ったものも多くどこまで信用できるかわからない。だから古くからあると自称してても実は新しかったり、逆に、建立の縁起譚でいわれてる年代よりもずっと古かったり、なんてことはよくあること。だから「確認する」っていったって簡単な話ではない。由来書きにこうありました、チャンチャン♬ でおしまいではないのだ。富津の日月神社が本当のところいつできたのかは興味あったら自分で調べてみて下さい、役割分担ってことでw 富津の日月神社が、当時存在してなかったとしても、それ以前に廃絶した日月神社があったかもしれないじゃないか、とか、別のところにあったかも知れないじゃないかとか、学問的な手続きを無視した「可能性の話」だけならなんとでもいえるわけで、ほとんどのアマチュア研究家の文章ってのは一種のお筆先みたいなもんだからな。厳密な学術論文は味気ないもので、すばらしい論文ってのは隠し味にちゃんとお筆先要素がふりかけてある。今の世の中は知っておかないと先にすすめない知識が増えすぎてしまって一人でなんでもカバーはできない。だから学問に徹すると専門バカになってしまわざるをえない仕組みがそこにある。何か普遍的に「ものを考えよう」とすれば思考の節約をしないと何にも到達できない、それがいわゆる電波とかトンデモの効用でもある。…というような意味のことを阿基米得先生もいってたろw だからいいよもう、「天日津久神社の勧請元が富津の日月神社だ」ってのは俺の無根拠な憶測、ヤマカン、思いつきのでたらめ、神の啓示ってことでw そっちのほうが信用できるだろむしろw え?だめ?
(富津の日月神社と天日津久神社の関係について詳しい話の続きは後半で)

「ヒツクは日月の意味ではない」と仮定した場合:その2
こういう謎解きでは、普通は第一に、神社の由緒書きとか地元の伝承などから入るのが常道だが、天日津久神社は由来不明なのだからしょうがない。第二に、ヒツクという読みを前提にあれこれ推理(というかコジツケ)してきたんが、どうしたもんだかなぁと思いつつ、あらためて「天日津久」の字づらを眺めてみると前3字は「天津日」(あまつひ)の間違いじゃないのかとも思われる。ヒツクなんていう耳慣れない妙な響きだから悩むが、アマツヒなら如何にも和風で古典にいくらでも用例のある古語だ。しかしこの場合「久」の字の処理に困る。そもそも「天日津」までは訓読みで最後の「久」だけが音読み、チグハグなのも妙だ。これ字の間違いでないとしたら読み方の間違いじゃないのか、3字とも音読みなら「じっしんきゅう」「にっしんく」「にしく」? 天までいれたら「てんじつしんきゅう」「てにしく」? ニシクという言葉の当て字か? そうじゃなくて3字とも訓読みなら「ひつひさ」が正しい読み方だろうに。むろんニシク説にしろヒツヒサ説にしろそれで急に何かが解明されるわけではない。やはり「日津久」という文字づらに誤記が含まれてるのではないかと疑われてならない。というのも、不自然な単語のせいで意味不明な場合ってのは伝写の過程で誤記、誤写が起こってることが多いからな。
ところで、今いった通り、天日津久神社には由来伝承が失われて存在しないが、麻賀多神社には詳しい由来書きがある。その中で応神天皇の時代に印旛国(いなは/いには)の初代国造(くにのみやつこ)伊都許利命(いつこりのみこと)が稚日霊命(?)の霊夢をうけて、かつてヤマトタケルがこの地に埋めたという七つの玉を掘り出したのが始まりという。印旛国/印波国というのは今の佐倉市や成田市のあたり(印旛郡)。稚日霊命という名は御祭神の稚産霊神(わくむすひ)と見た目が紛らわしいが、「稚日孁命」(わかひるめ)のつもりだろう。この由来書きによれば応神二十年(書紀の編年で289年だが実際はこれより数十年前)に初代国造によって創建された当初は今の奥宮に稚日霊命と稚産霊命の2柱が祀られていたのだが、後に推古十六年(608年)、今の本宮の地に稚産霊命だけが遷座し、奥宮には稚日霊命だけを祀るようになったという。これは太陽神と豊穣神の組み合わせで、伊勢の内宮外宮の関係と同じく、古代オリエントやインカ帝国など世界中でみられる祭祀形態である。ところで神社ではよくあることだが、遷座した跡地にも「元宮」等と称して小さな祠を立てたり、それを境外摂社としたりする例がある。だから、稚日霊命と稚産霊命を別々にそれぞれの社殿に祀るようになってからも、相方の神を境内の小祠に「元宮」として祀っていたということはありうるだろう。例えば、奥宮のほうではどうなっているか未確認だが、いくつもある境内社の中の一つに「八代稲荷」というのがある。奥宮のある「船形」の北に隣接して「八代」という地名がありそこに八代稲荷神社があるのでそれの分霊だろうが、初めからそうだったとは限るまい。八代を中心として船形などの近辺を含む一帯は、律令時代の印旛郡「八代郷」にあたり、ヤツシロと読んでるが語源としては麻賀多神社があったからヤシロ(社)といったのを和銅六年(713年)の諸国郡郷名著好字令(俗にいう「好字二字令」)によって「八代」と書いたために読みまでヤツシロになってしまったものという説がある。だから境内社に八代稲荷があるからってこれが北の八代地区にある八代稲荷神社から勧請したのだとは即断できない。八代稲荷神社こそが本殿主祭神の稚日霊命に対して境外摂社として稚産霊命を祀ったものの名残りではないだろうか、境内の八代稲荷はその元宮跡ではないか。あるいは古地名からいえば古くは神域が広大で八代稲荷神社まで広がっていた可能性も高いだろう。同様に、本宮のほうでは本殿主祭神の稚産霊命に対して境内摂社として稚日霊命を祀ったのが天日津久神社なのではないか。つまり天日津久神社の祭神は稚日霊命ではないかということだ。もと「天日霊女」(あめのひるめ)だったのを「天日津久」に誤写したか。さらに伝承では「ヤマトタケルが埋めた地下の玉のありかを稚日霊命が霊夢で伊都許利命に知らせた」というのだから、稚日霊命を讃えて「霊告の神」(ひつぐのかみ/ひつげのかみ)ともいったのではないか。この場合、ヒツゲ/ヒツグが訛ってヒツクになったとも考えにくいから、ヒツクとは霊告(ひつげ/ひつぐ)という言葉の古い形だろう。だがこの場合「霊告」(れいこく)という漢語は「霊視」みたいでやや現代語くさいが「神告」だの「夢告」だのという漢語がありうるからまぁよしとしよう。ただ「ひつげ/ひつぐ」が漢語と無関係な自然な大和言葉としてありえたのかは微妙な気もするなw 前述の如く、ヒツが訓でクだけ音という不細工な表記にも不審感が残るので、やはり誤写説のほうがいいか。誤写説でいくなら、別案もある。同じ境内社に馬来田郎女神社があるが、馬来田郎女は継体天皇の皇女で馬来田国(まくたのくに、今の袖ケ浦市や木更津市のあたり)の国造(くにのみやつこ)と縁があったことがわかる。馬来田国造の家系は古事記でも国造本紀でも天津日子根命(あまつひこねのみこと)の子孫ということになっているから、馬来田国造の始祖を祀った「天津日子根神社」だったのではないかとも思われる。もとは「天津日子根」だったのを末尾の根が誤脱、日と津の前後を誤って「天日津子」、「子」の字を「久」に誤写したか。

結論(?)
以上の議論(的な雑談)をふまえて、心証的には「日月」説を妥当だとする人、いや「日月」説は無いなと思う人、いろいろだろう。最終的には確実な決め手があるわけでない。
まぁ今回も「謎を解く」っていうほど解いてないんですわーw 日月神示ってタイトルに引かれてきたスピ系の人いたらごめんね。
おまけ1:「日月神社」の研究
さて本題に入ろうw まぁこっちもこれで、研究ってほどの内容ではないんだがw 

1)「日月神社」との出会い
日月神社の存在に私が初めて気づいたのは、信州の南の奥、飯田市の遠山郷(ちなみに信州三大秘境の一つ)で八百年の伝統をもつ有名な「霜月まつり」にお参りした翌日、カーナビの地図の片隅にその名を見つけたのが最初だった。その時は日月神示を連想させる社名に「おやっ」と思ったが一人旅ではないので寄り道せず。だから「出会い」というかまだ出会ってないんだが、ちょっと気になって検索してみると同名の神社は関東を中心にポツポツでてくる。はじめ十数社だったが、いろいろ手をかえ品をかえて検索しているうちに51社にもなってしまった。まだあるかも知れない。

2)「日月神社」の読み
日月神社の「日月」はほとんどニチゲツと読んでいるようだがこれは呉音と漢音をちゃんぽんにした慣習読み。東京都所沢市と静岡県静岡市のは漢音でジツゲツ、秋田県仙北市に2社あるうちの一方は呉音でニチガツと読む。神奈川県伊勢原市のと千葉県長生村のも同じくニチガツ。月の呉音はガツじゃなくガチが本当だがニチガチと読む例はまだみない。静岡県森町のはジツゲツだが振り仮名の書き方も決まっていて「ぢつげつ」だそうだ、これってただの間違いが定着しただけと思うが…。変わったところでは八戸市のは「御日月」と書いてオニガツと読む。これただの当て字で「鬼」とか「二月」の意味なら除外しなきゃならんが詳細が不明。奈良県奈良市と長野県駒ヶ根市の2例では「月日神社」(つきひじんじゃ)といい、青森県十和田市のは社名は日月神社なのに位置する土地は月日山(つきひやま)という。漢語でニチゲツなら"the sun & the moon"だが、和語でツキヒだと天体ではなく時間の流れを意味する"days & months"に聞こえる。しかし、月日貝(つきひがい)は赤と黄色の色違いの二枚貝なので太陽と月に見立てた名前というが、これヒツキガイとはいわないな。そこで古語辞典みると「日月」(じつげつ)と「月日」(つきひ)の両方ともに、真っ先に天体の太陽と月だとあるが、2行目からは暦日(歳月)の意味での用例ばかり。通常の卓上古語辞典のレベルでは「日月」(ひつき)という単語はなく、はたして天体の太陽と月を昔の和語でヒツキといったのかどうか、言ったとしても大和言葉としては耳慣れた感じがせず漢語の直訳にきこえる。おそらく漢字で「夫婦」と書いても「めおと」と読むのと同じで、漢語で「日月」と表記しても大和言葉では「つきひ」と読むのが本当なんだろう。実際、日月神社はわずかな例外を除いてほとんどは音読みしている。これからすると日月神社自体、比較的新しい信仰のような印象を与える。国粋的な気分からすると音読みでなく訓読みするのが正しい、と言いたくなる一方、国学的な知性からはヒツキなんてこなれない和語もどうなのかってことで、月日神社(つきひじんじゃ)に改めたのが奈良県と駒ヶ根市の2例なんだろう。日月の語順のまま古語めかして訓読したのが日津久神社か?

3)「日月神社」のご祭神
その名の通り、ほとんどのケースでは日神と月神(月夜見尊/月読命など)がご祭神になっている。日神は天照皇大神(あまてらすすめおほみかみ)等の例もあるが、なぜか大日孁貴尊(おほひるめのむちのみこと)が多い。天照大神という神号は尊貴にすぎて月神と対等に並んでる印象が薄れてしまうからだろうか?
例外として山形県東根市の日月神社は祭神が倉稲魂神(うかのみたまのかみ)・天照皇大神・豊受大神の3柱、静岡県森町の日月(ぢつげつ)神社、千葉県大多喜町のも祭神は大日孁貴命のみで、この3社は月神なし。逆に神奈川県愛川町のはご祭神が月夜見命だけ。日神、月神の片方しか祀らずして「日月神社」というのはおかしな話だ。もしかしたら別宮になっていて二社でセットだったのが一方が廃絶したまま合祀しなかったのか?
もっと酷いので日神も月神も祀ってないところが2社。一つは東京都八王子市の日月神社で祭神が伊弉諾命・伊弉冊命だけ。ここは古くは「両輪宮」と称したといい、両輪とは日輪・月輪(にちりん・がちりん、ひのわ・つきのわ)に相違あるまいから、かつては日神・月神が主祭神だったろうが、入れ替わりの伊弉諾命・伊弉冊命もまんざら無関係ではない。神奈川県伊勢原市の日月神社は日神・月神の他にも伊邪那岐命・伊邪那美命が祭神に加わっているし、新潟県上越市の例ではかつて白山社と合併したため伊邪那美命も合祀している。偶然だろうか。「白山社と合併したから」という由来までも疑う気はないが、元から何かつながりがあっての合併ではないかと思いたくなる。富士河口湖町の浅間日月神社は戦後に日月神社と浅間神社が合併したものだから木之花咲耶姫も合祀されているが、これも事務的物理的な事情だけだったのかどうか。飯田市の日月神社は神仏分離後に浅間様を合祀しているというから明治の神社統合なのかもしれないがやはり何かのつながりが元からあったのではないか。山形県東根市の日月神社は豊受大神も祭神に加わっている。伊邪那美命は大地母神、豊受大神は豊穣の女神、木之花咲耶姫は山の女神でもあるが日光感性神話における聖母(マリヤの処女懐胎の神話的元型)。これらの女神は太陽神にセットで祀られる神格で、きわめて古い土着信仰に由来する。後述するが「太陽と月をセットに」するのは新しい信仰であって別のものだ。民俗学でよくいわれるように月はもまた古くから豊穣をもたらす存在だが、ここは新旧が混淆しているのだろう。
奈良県の月日神社も日神・月神を祀っていない。ここの祭神は与止日女神(よとひめ)・旱珠日神(かんずひのかみ)・満珠月神(まんずつきのかみ)の三柱という。与止日女というのは神功皇后の妹で葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の夫人、古事記には虚空津比賣命(そらつひめ)という名で出てくる。九州各地の伝説によると与止日女はシホヒルタマ(塩乾珠/潮干玉)シホミツタマ(塩盈珠/汐満玉)を得て皇后に献上し新羅征伐を補佐した人。この伝説は後世の勘違いからでたもので、神功皇后の玉は潮の干満をあやつる玉とはぜんぜん無関係な別の玉だったばかりか、日月とも関係ない。そればかりか、潮干珠・汐満珠も、日月と関係ない。奈良県の月日神社の由来書が二個珠を日月にこじつけてるのは問題外で、後人のなぐさみから出た創作であり、カンズ、マンズって音読みしてるのもお話にならない。やらかしたのはよほど無教養な人間だとわかる。境内の由緒書きも諸説ならべて有耶無耶にしてるが、その中では『日読み、月読みの「暦」つくりが云々』という一文が注目される。もし「旱珠・満珠」に日月をこじつけただけならこの神社は通常の日月神社の例には入れられないが、逆にもともと社号が「月日神社」だったのなら旱珠・満珠とは無関係な由来があったとしなければなるまい。最大限に好意的に解釈すれば、与止日女神社と月日神社という無関係な二社が諸々の事情で一社に合祀されたために混同が起こったんだろう。

4)日月神社の謎
日月をならべた意匠は現在の神道の中にないわけではない。日輪・月輪は神社の境内の灯籠や、庚申塔その他でも彫られている例はある。民間信仰だけでなく、奈良平安の頃の朝廷の儀式では青龍・白虎・朱雀・玄武の四旗と日像・月像の旗が立てられたし、大嘗会では「悠紀殿・主基殿」に日像・半月像が飾られた。ただしこれらは大陸の陰陽説の影響だろう。青龍・白虎・朱雀・玄武の図案、意匠が大陸伝来のものであって純粋日本古来のものではないことは明らかだろうが、それと同じこと。陰が月(太陰)、陽が日(太陽)だから中国では陰陽説をあらわすシンボルに使うのだが朝廷でも当初それを真似、のちに陰陽道が成立してくると民間にも流出し、土着信仰にも陰陽道が混淆してきた。だから古い時代からあったものではなく、当初はあくまで意匠であって古い時代の信仰を反映しているわけではない。神田祭のポスターはここ連年アニメキャラばっかりだが、これもあくまで意匠であって神田明神がアニメ信仰の神社というわけではないのと似たような話(大雑把にいえばなw)。
小学館「日本民俗文化大系」の第2巻『太陽と月』をみると、日本各地の古くからの太陽信仰や月信仰にまつわる様々な習俗や祭りを取り上げ、しかもそれらを歴史や文化人類学、神話学などの観点からも分析して、詳しく紹介している。ところがネットでざっとみた感じ、上にあげた各地の日月神社がそれらの古い信仰とかかわってるような話が少ない。たまたまネットに書かれてないだけで現地ではそれなりに何かあるのかもしれないが、もっと気になるのは「日本民俗文化大系」第2巻『太陽と月』では太陽信仰も月の信仰も詳しいのだが、それぞれ完全に別々の扱いになっていて、「太陽と月のセットにこだわった信仰習俗」というのがまったく存在せぬがごときである(日本書紀の顕宗天皇の記事にわずか2行ばかりふれているがそこから議論を広げてはいない)
日神を祀る神社は日本中やたらに多いし、月神だけを祀る神社は珍しいがこれもないわけではない。そしてそれらの神社のもとになってる信仰の内容は神道学でも民俗学でも研究されつくしてかなり明らかになっているのだが、しかし、それらはネットで発見した全国51社にのぼる「日月神社」の最大の特徴「太陽と月をセットにした信仰習俗」という点にはまったく何もふれるところがないのだ。「そういう信仰はきいたことがない、そんなものはありません」と民俗学界は言っているような印象すら受ける。これはどういうことなんだろうな?
オカルト的に考えると、そもそも森羅万象の神々は八百万といっても、母なる大地伊邪那美神と父なる天空伊邪那岐神の間に生まれこの父母=地上の引力圏内の存在にすぎない。月がたいしたもんだといったって比較の対象によっては地球の衛星にすぎないともいえるわけで、太陽の大きさに比べたら、いくら地球が月を従え八百万の神々を抱え込んでいるといっても、まったく比較にならないぐらいほど小さい存在なのだ。それほど、とんでもなく途方もなくトテツもなく滅相もない存在が太陽なのである。だから神話の中の月神は、神々の王たる天照大神に比べると古事記ではまったくなんの活躍もせず、日本書紀ではその光が日に次いで尊いとされながらも、保食神(うけもちのかみ)を殺して天照大神に叱責されている程度の存在にしか書かれてない。「三貴子」の一柱とされてはいるが、実際は八百万神々(やおよろずのかみがみ)の中の一柱にすぎない。つまり陰陽説にもとづく中華式の「日月並尊」ではなく、日本の古来の信仰は「太陽一尊」なのである。「日月ならべ尊ぶ」のは中国の陰陽思想の影響で、これはずっと後になってから大陸から入ってきた発想だろう、というところまでは容易に想像がつく。

5)「日月セット」信仰の起源
日神と月神がならんで登場するのは日本書紀の顕宗天皇三年の条で、唐突に神がかりで託宣があり、日神と月神を祀ることになったという。これを多くの学者が、壱岐に祀られていた月神と対馬に祀られていた日神を畿内に勧請したと解釈している。が、原文にはそんなことはぜんぜん書いてない。壱岐県主(いきのあがたぬし)の一族の者を月神を祀る神官に、対馬下県主(つしまのしものあがたぬし)の一族の者を日神を祀る神官に任命したというだけ。学者は地方にばらばらに存在した土着神をヤマト朝廷が勝手に御都合主義的に組み合わせて神話体系を創作したような話にもっていきたいからそういう発想になりがちだが、それでは海外の神話との類似を説明できなくなって比較神話学が成り立たなくなる。確かに壱岐には月神、対馬には日神を祀る神社があるが、一族の本拠地なんだから畿内から両島に勧請することは当然ありえる話であり、客観的にはどっちが先かはわからないが、個人的には対馬壱岐に日神月神がデフォルトで祀られている筋合いがそもそもないと思う。対馬壱岐の日神月神も、起源は顕宗天皇三年の事件から始まるのであってそれ以前に対馬壱岐に祀られていたのではあるまい。

6)「日月神社」は暦の神か?
この時の託宣は阿閉臣事代(あべのおみ・ことしろ)が任那へ赴任した時のことというから何か朝鮮がらみなのはわかる。当時の日本で「どうしても太陽と月を同等に重んじて組み合わせて考えなければならないこと」というと、暦の制作しか考えられない。

【余談】元嘉暦の採用
日本書紀の編年は神武天皇から前半は唐の儀鳳暦、後半の持統天皇までは宋の元嘉暦で書かれているというのが大雑把な通説だが、この二つの暦の代わる時点つまりどこまでが儀鳳暦でどこからが元嘉暦かは、仁徳紀八十七年(399年)十月と安康三年(456年)八月の間であることが確実にわかるだけで、暦日の分析だけでは明確に設定することができない。唐の儀鳳暦で書かれているというのは日本書紀の編集部が昔の事件の日付の干支を後世の暦で推算してきめたという意味だが、例えばこのサイト「倭国の暦法と時刻制度」でも通説に疑問を呈している。普通に考えれば元嘉暦の前にもその時代ごとの中国暦を使っていたと考えるのが穏当だろう。ただ、日本書紀は日付に干支をふる必要があったため儀鳳暦で再計算しなおす羽目になったのだろう。しかしある時期から元嘉暦なのは考古学的にも証明されている。中国の宋で初め元嘉暦を実施したのが445年だからそれ以前だと日本にはありえない。445年にほぼ同時に日本でも実施されたということも絶対にありえないことでもないが、比較的穏当なところだと、百済は450年に宋に朝貢しているからこの時に百済を経由してすぐ日本へも元嘉暦が伝わったとも考えられるし、翌451年に倭王済が宋に朝貢しているからこの時でもよい。日本書紀の編年では453年に允恭天皇崩御、454年から456年までが安康天皇の治世、457年が雄略天皇元年となっているがもちろんこの編年は史実ではなく日本書紀の編集部が推定したものだから、実際にどの天皇の時代なのかはすぐにはわからない。だが早くて445年、遅くて456年、その間に日本で元嘉暦に切り替わったことは間違いない。
ちなみに顕宗天皇の実際の在位期間は456年よりは後としても、そんなに離れてもいないだろう。

で、当時の日本には自力で暦を作成する技術がなく、毎年百済が「暦本」を献上していた。太陽の運行の観測は巨石文化や神社建築から四分四至も知られていたことがわかる。ヤマト朝廷の「日置部」(ひおきべ)は旧石器時代からの伝統をひいて太陽神の祭祀と太陽の観測を不可分のものとして管掌していたろう。だが、月の運行はかなり複雑なので中国の天文学でも精密な計算ができるようになるのはかなり遅かったぐらいだし、日本では朝廷に専任の部署もなかったので中国の天文学を輸入するしかない。敏達天皇の時に「日祀部」(ひまつりべ)が置かれ、日置部は朝廷の灯火を管轄するだけになった(灯火を太陽の分霊とみる習俗は上述の「日本民俗文化大系」の第2巻『太陽と月』にもでてくる)。この「日祀部」は大陸式の天文学を取り入れたもので、百済からの暦博士(れきはかせ)の上番が百済の衰退に伴って滞ってきたので自力での暦の作成が期されたのだろう。だから名は日祀だが実際は日月両方の観測をしたと思われる。これを日月祀(ひつきまつり)とか月日祀(つきひまつり)とかいったのでは日置部が守旧派=抵抗勢力となって「そっちは月祀(つきまつり)に専念しろ」ということになるからあえて日祀と称したのだろう。そうすると顕宗天皇の時に初めて「日月ならべ尊ぶ」祭祀が始まったというのは日祀部を創立するための前哨戦だったと思われる。阿閉臣事代が任那に赴いたのは暦博士(暦作成の技術者)をリクルートするためかその事前調査だろう。百済でなく任那といったのは、百済は暦本の献上や暦博士の上番を利権にしていたから、百済の警戒を避けるため。対馬県主や壱岐県主をわざわざつれてきて祀らせたのは、この両氏族は中臣氏につらなる卜部氏(うらべし)の係累で、いわば神道祭祀の家柄でもあるから、大陸の文化を喜ばない国粋的な抵抗勢力(名目は「日月並尊」への抵抗でもある)に対する目眩まし人事なのである。しかも対馬や壱岐の出身者は朝鮮や支那の文化とも比較的親しみがあるからうってつけの人材だ。

7)日月神社の分布
日祀部を管掌した氏族を日奉氏(ひまつりし)という。日祀部や日奉氏は大和・下総・上総・飛驒・越前・土佐・筑後・肥後・豊前に分布している。この他にも、日祀部はネット上の「コトバンク」引用の歴史事典によると武蔵・上野にもあるといい、日奉氏は『日本古代氏族事典』によると山城・陸奥にもいたという。これを日月神社51社の分布と比較すると、大和1社・下総3社・上総9社・武蔵5社・陸奥8社、計26社がこじつく。飛驒・越前・土佐・筑御・肥後・豊前・上野・山城はどこもゼロ、残24社が浮く。あまりうまく重なってるようでもないが、日月神社はあくまでたまたまネットで拾ったものだし日祀部や日奉氏もたまたま記録に残ったものの集積だから、それを考慮するとまぁこんなものではないか。日月神社の中心地帯である関東地域で日祀部や日奉氏と重なってるのが注目される。
国造(くにのみやつこ)の分布とも比較してみたが、あまり意味のある分析はできなかった。

【余談】太陽と月が暗喩するもの
「太陽と月」のセットが象徴する、または暗喩するものは何かというと、それは時代ごと地域ごとの、文化・民族・宗教などによっていろいろで、それ専門の詳しい研究もあるだろうから、今からいうことはその中での一つにすぎないが。
古代日本の前述のような「太陽一尊」思想の下でわざわざ「太陽と月」を並べてみせると、どういうニュアンスが醸し出されてしまうだろうかと想像する。月は見かけ上は太陽と同じような大きさに見えるし、太陽を除けば天上界にならぶもののない発光体、偉大なる光源であり、八百万の神々の中でも格別に図抜けて尊い神のようでもある。そういう意味では太陽に極めて似てもいる。似てもいるし並ぶほどの存在でものすごく尊貴な存在なのであるが、にもかかわらず「一番ではない」。それが月の微妙なところではないだろうか。日本神話もそうだが「太陽と月は兄弟だ」とする神話は海外にも多い(天照大神を女神とする場合には「姉弟」だが)。兄弟は同じ血をひく同胞なのだから当然のように似た者同士なのであるが、王族(日本の場合は皇族)の兄弟だと、王位(日本の場合は皇位)を継承できるのは一人しかいない(一時的な即位なら兄弟相続が可能だが、そうではなくてどちらの子孫が王位を継承していくかということ)。つまり非常に有力な皇位継承者が二人いて優劣つけ難く、お世継ぎが確定しない場合である。
なんでこんなことを言ってるのかというと、日月神社を調べていると、その創建伝承に日本武尊(ヤマトタケル)を持ち出す例と、壬申の乱の落人を持ち出す例がままあるのに気づく。ヤマトタケルの本名は小碓命(をうすのみこと)で双子の兄、大碓命(おほうすのみこと)がいた。壬申の乱の落人とは弘文天皇(=大友皇子)だったりその后だったり伝説によっていろいろだが、敗れた近江朝廷は天智天皇の一族で、壬申の乱は弟の天武天皇と兄の天智天皇(の子)との戦いだった。天智天武の両帝はどちらが年長なのかという議論もあるが、中世の碩学北畠親房は「双子説」だった(もっとも親房は二人の出生年を間違えてはいるが)。「太陽と月」の表象は、双子の兄弟あるいは百歩譲って双子であるなしにかかわらず兄弟、それも兄弟間で一悶着あった兄弟を連想させる。倭建命(ヤマトタケル)が兄の手足をもぎ取って投げ捨てた瞬間や、壬申の乱などは太陽と月が衝突して闇をなす日食にも喩えられようか。だがこれらの連想は後世になって日月神社の由来を説明するために日月並立のイメージから呼び起こされたものだろう。
日食の日に生まれた双子の兄弟が戦いあって勝ったほうが…ってどこかで聞いたような話だなと思ったら、これ『仮面ライダーBLACK』の設定だなw ♪光と闇のぉーはてしないぃーバトルゥ~♫ ヤマトタケルの冒険も壬申の乱もブラックサンとシャドームーンの戦いだったのである!
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そしたら源平合戦も南北朝の争乱も戊辰戦争もこれでいけるなw しかしヤマトタケル兄弟が最初のブラックサンとシャドームーンではない。どこまでも遡れば、日本史をつらぬくすべて内乱の背後には、邇々藝命(ににぎのみこと)と邇藝速日命(にぎはやひのみこと)の兄弟にまでいきつく霊的構造があるのだ! …というのはウソです! なんでもかんでも饒速日命にこじつける「ニギハヤヒ電波」の信者の皆さん、ネタ提供してやったぞw 本当は「宇宙の創造ビッグバーンの太古に生まれた双子の神、光明神アフラマズダと暗黒神アーリマンの永遠の戦い」というのが大元の元ネタだが、ゾロアスター教では太陽も月も善なる存在なので「太陽と月の戦い」という話はないからな。
後世の人間が考えた妄想とは別に、実際の、自然界における太陽と月はけして戦わない。太陽と月には、そもそも対等に戦うなど馬鹿げているほどの落差があって、衛星は惑星に従い、惑星は恒星に従うという厳然たる上下関係、人でいえば慈愛と忠誠で結ばれた「君臣」ともいえる封建的関係にあるのだっw 日本における「日月セット」信仰の起源は日本書紀に出てくる顕宗天皇三年の神勅から始まるのは明らかだが、この顕宗天皇も「仲のよい兄弟」で有名なのは偶然だろうか? このブログでは別の記事で何度も書いてるが、弟の顕宗天皇は兄(意祁王おけのみこ:仁賢天皇)に先立って即位したが、あらかじめ在位年数を限って兄に譲位する予定であって、実際に兄に譲った(崩御したのではないことは後述の別頁参照)。流浪の身からご落胤として発見された時の少年期の物語からしてすでに「兄弟の物語」として喧伝され、世間からみた二人のキャライメージは出来上がっていた。履中宮家(履中天皇の子孫の家系、このブログでは仮に履中宮家とよんでます)の家訓としては最初から長子相続なので弟の袁祁王(をけのみこ:顕宗天皇)が即位するという選択は当初はなかったのだが、なぜこうなったのかという事情説明は他の頁に長々かいているのでカテゴリー清寧天皇顕宗天皇の記事を参照。顕宗天皇はいってみれば本物の天皇でなく、最初っから、中継ぎ、仮の天皇みたいな建前で即位している。こういう、「天皇であるのかないのかよくわからない中間的な存在」(中間的な天皇)というのは「中天皇/中皇命」(なかつすめらみこと)という(ナカツスメラミコトの「ナカツ」を初め、古代の人名につく「ナカツ」の意味については、他にも「中継ぎ」説、「神と人の仲をとりもつ」説、「二番手」(準天皇/亜天皇)説、「次男/次女」説、「ナカという地名」説などがある。ケースバイケースでどれもありうることで、一つの説が正しく他が間違いということではない)。「本当の天皇」が「太陽神の御子」であるのに対して、こういう「天皇であるのかないのかよくわからない中間的な存在」は、月で喩えられた可能性はあるのではないか。顕宗天皇三年の神勅でも、なぜか先行して二月一日に月神を祀れという神勅だけが出ており、日神の神勅は後に遅れて四月五日になって出ている。これも弟が先に即位していることを雰囲気的に肯定する意図もあるのではないか。朝廷の朝儀における「日月旗」は大陸伝来の文化であって国粋的なものではないのはもちろんだが、何か採用時のきっかけみたいなことを考えるのなら、案外この顕宗天皇の時かもしれないなとは思わなくもないな。どうよ? それと、前述の、奈良県の月日神社も主祭神の与止比賣(よとひめ)は神功皇后の妹でその補佐役だから、これも姉妹を日月に喩える気分が響いてるかもしれない。意祁王・袁祁王の兄弟のように「仲の良い」姉妹として。

国造関係でただ一つの収穫は下総国の東端、旭市にあった。同市には日月神社が3つ、5kmほどの距離間に集まっている。東・西北・西南の3社のうち西北のは壬申の乱敗れた近江朝廷の后が九十九里浜まで落ち延びて落命した時、持参の日月旗(天皇のしるし)を納めたのが始まりという。東のはそれとは別に文治三年(1187年)の創建という。ここから南に下がって、上総には弘文天皇が逃げてきたという伝説があり、弘文天皇陵(大友皇子の墓)というのがある白山神社は、ちょうど後述の富津市の日月神社と大多喜町の日月神社の中間に位置する。そういう伝説を否定するつもりはないしそれに近いような史実があってもよいだろうが、日月神社の由来を「日月旗」とするのはいただけない。北の下総に戻って、旭市のあたりは律令以前には下海上国(しもつうなかみのくに)で国造は他田日奉氏(をさだのひまつりし)。日奉氏の存在はみすごすわけにはいかないw しかも「他田」は敏達天皇の宮号で敏達天皇は「日祀部」を創立した天皇なのである。今の旭市の日月神社そのものがそれだとも限らないが、日月神社の総本宮があった痕跡ではないのか? 
それと麻賀多神社の境内社の馬来田郎女神社は継体天皇の皇女、馬来田郎女(まくだのいらつめ)を祀ってるというが、この皇女の名からすると、馬来田国造(まくだのくにのみやつこ)がこの皇女の乳母だったか嫁ぎ先だったかが御料地だったかしたのだろう。馬来田国は今の袖ヶ浦や木更津のあたりだがここには日月神社はなく、一番近くて富津に1社ある。富津や君津のあたりは昔は須恵国(すゑのくに)だから別だが、国造家は同系の同族。いずれにしろなんで北に遠く離れた麻賀多神社にこの皇女が祀られているのか。麻賀多神社のあたりは古の印波国(いには/いなはのくに)であり、境内社に印旛国造神社もあり、1kmほど離れた奥宮に初代国造の伊都許利命(いつこりのみこと)の墓という古墳もある。印波国造家は多氏の系統であり馬来田国造とは別だが国造同士で何か交流があったことは馬来田郎女神社の存在から明らかだから、それなら天日津久神社はもとは富津市の日月神社から分霊したものではなかったのか。麻賀多神社はヤマトタケルが埋めた玉を応神天皇の時代に掘り起こしたのが起源だというが、前述の通り、富津の日月神社もヤマトタケルが創始したというから、麻賀多神社が富津から勧請してくるというのも縁のない話でもなかろう。むろんヤマトタケルが日月の旗を立てたなどというのは後世の創作がまるわかりであまり真に受けるべき伝承とも思えないが、その伝説にでてくる鬼泪山のちょい東にヤマトタケルの九頭龍退治の伝説のある鹿野山あり、ここは日月神社から東に10kmほどの地点。日月神社から南に20kmほどいって安房国(あわのくに)に突入すると東京湾カーフェリーの浜金谷港、鋸山日本寺の秘境があって観光によいだけでなくなかなかすごいところ。もしや富津の日月神社こそ総本宮かと思いたくなるが、須恵国も馬来田国も律令時代の上総国内で、日月神社は上総に集中しておりこれを国造別にみると9社のうち5社が伊甚国(古事記では「伊自牟国」(いじむのくに)と書く。今の茂原市、いすみ市のあたり)にある。数でいえばここがセンター。伊甚国造は関東の国造に多い出雲系の家系でその本拠地らしき古墳に近いのは長生村の日月神社。だが、そもそも房総丘陵の山がちなところに建てられたのが初期で、平地の神社はただの鎮守様として住民が勧請して広がったものだろうから、大多喜町の日月神社のほうが総本宮に近かったろう。関東平野のかなりの部分が海だった頃は房総丘陵は関東最東端の山地だった。下海上国(旭市)の日月神社は利根川の下流域がどんどん東に広がって開発が進んでから日奉氏とともに移っていったんだろう。

おまけ2:全国の「日月神社」の一覧
51社の分布をみると半分が関東で25社。関東の南に続く駿遠甲信に14社、東に接する奥羽越に9社。「天日津久神社」と同じ下総には3社しかない(それも旭市だけ)が、上総をあわせて千葉県内とすると関東25社のうち半分ちかくの10社が天日津久神社と同じ千葉県内にあることになる。天日津久神社ももともとは日月神社だったのではないかという推理もまんざらではなさそうに思える(?)。で、この分布図を、日奉氏(ひまつりし)や日祀部(ひまつりべ)、国造(くにのみやつこ)の分布図と重ねてみたら何かおもしろいことがわかるのではないかと思ったが下海上国造の件以外はぱっとしない。上総は9社と集中している。上総国は6つの国造(くにのみやつこ)を統合してできたので、上総国内をさらに国造別にみてみると伊甚国造(いじむのくにのみやつこ、上総国の東南部)だけで5社もあり、明らかにここが分布の中心のように思えてしまうが、視覚的にマッピングしてみると房総半島は広大で関東規模でみると案外ちらばってたりするんで即断もしがたい。
しかし…。忙しいのに何やってんだかな俺は…。

※このリストは日月神社を発見しだい追加しているので常時増加しています(現在51社)


関東25社
茨城県2社
・日立市(久自国造の領内?)
・古河市(茨城県だが昔は下総国。さらに昔は新治・筑波・下毛野・旡邪志の4国造の境界に近く、所属が推定し難い。川の流れは時代によって変化したろうしこのへんは昔は海だったろうから所属を確定するのは無意味かもしれないが川の流れから強いていえば栃木県か?)
栃木県2社
・益子町
・足利市(天道山の山頂含む一部が神域だったらしく山頂に「日之宮」そのすぐ近くに「月之宮」かなり離れて鳥居。2宮あわせて日月神社という。荒れ気味)
埼玉県2社
・さいたま市(社名「鹿手袋日月社」、都心からだと一番近い。麻賀多神社境内「幸霊神社」と関係あり?)
・所沢市(読みはジツゲツ)
東京都2社
・八王子市(祭神が伊弉諾命伊弉冊命のみ。古くは「両輪宮」と称す)
・青梅市
神奈川5社
・胸刺国造1……横浜市(社名は「日月社」、日待月待の祭事あり。その場所を「日夜の杜」といったが後に「日の森」、現在は「日の森谷」という)
・相武国造2
 ……海老名市(祭神は大日孁貴命、月夜見命。弥生神社の境外末社、男女の隕石が御神体)
 ……愛川町(祭神は月夜見命のみ。境内に江戸時代の二十三夜塔あり)
・師長国造1…伊勢原市(読みはニチガツ。祭神は天照皇大御神・月読命・伊邪那岐命・伊邪那美命で4柱)
・甲斐国造1…藤野町(社名は「日月両宮」。石尾楯神社の境内社。神奈川県のこのあたりは古くは相模ではなく甲斐に含まれていた)
下総国3社(千葉県北部)
・下海上国造3…旭市に3社国造は日奉氏。壬申の乱の弘文天皇の妃の漂着伝説あり)
・印波国造0……成田市(麻賀多神社境内社「天日津久神社」。参考に書いてるだけでカウントはせず)
上総国9社(千葉県中部)
・武社国造2
 ……山武市
 ……芝山町
・上海上国造1…市原市(「姉埼神社」の境内末社。一棟の祠に10社以上も祀られ本当に小さくなってるが。ちなみに姉埼神社は上海上国造の本拠地)
・伊甚国造5
 ……白子町
 ……長生村(読みはニチガツ。伊甚国造の本拠地に近い)
 ……いすみ市に2社(「新田日月神社」は建長元年1249大日霎貴命、慶長元年(1596)月夜見命を合祀、その地を「日居森」という。「造式・大舟谷・矢指戸日月神社」は「雑鋪・大舟谷日月神社」と同じ、雑鋪は造式の旧表記。ヤマトタケルが日を拝したのが始まりで貞観年間に月神を合祀、その地を「日月谷」という。この両社は「大原はだか祭」18社のうちの2社、新田が北側で山寄り、造式が南側で海寄り)
 ……大多喜町(現在の祭神は大日靈貴命だけ。ヤマトタケルが鬼泪山の鬼退治の際に日月旗を立てたという。日月神社の最初の総本宮?)
・須恵国造1……富津市(三貴子を祭神とす。天日津久神社はここから勧請?)
甲信駿遠14社
山梨県4社
・都留市
・上野原市
・富士吉田市
・富士河口湖町(「大石浅間神社」戦後に日月神社と浅間神社が合併したので木之花咲耶姫を合祀。「浅間日月神社」ともいう)
科野国1社(長野県北部)
・長野市
諏方国3社(長野県南部)
・岡谷市(社名は「月日大御神神社」、読みは不明だが「つきひおおみかみじんじゃ」?)
・駒ヶ根市(社名「月日神社」つきひじんじゃ
・飯田市(神仏習合時代に阿弥陀仏、今は浅間様を合祀。「霜月祭」で有名な遠山郷15社の一つ)
駿河国1社(静岡県東部)、静岡市(読みはジツゲツ。廬原国造)
遠江国5社(静岡県西部、房総に次ぐ第二のセンター
・素賀国造1……森町(読み書きは「ぢつげつ」祭神は大日孁貴命のみ。かなり山奥)
・遠淡海国造4…浜松市に4社(「日月熊野神社」「上村日月神社」他2社。浜松市だから一応遠淡海国としたが天竜区で上記の森町よりさらに山奥ほとんど信州)
奥羽越9社
新潟県1社 上越市(白山社と合併したため伊邪那美命も合祀)
山形県2社
・山形市
・東根市(祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、天照皇大神、豊受大神の3柱で月神なし)
秋田県2社 仙北市に2社(1社は読みはニチガツ)
岩手県2社
・釜石市(「甲子郷日月神社」古くは「日月宮」といった。下の洋野町のよりわずかに東に位置し、おそらく最東端か)
・洋野町
青森県2社
・八戸市(「御日月神社」読みはオニガツ。鬼とか二月の意味で当て字ならはずさなければならないが不詳。下の十和田市のよりわずかに北に位置し、おそらく最北端か)
・十和田市(社名は日月神社だが場所は月日山(つきひやま)という)
西国3社
山城国0社 京都市「月読神社」(式内葛野坐月読神社に比定。参考までにあげるだけ、カウントせず)
奈良県1社
 ……奈良市(社名は「月日神社」つきひじんじゃ。ここの祭神についての考察はこの頁の本文参照)
 ……橿原市「天満神社」(式内目原坐高御魂神社の論社。参考までにあげるだけ、カウントせず)
兵庫県0社 三木市の「日月之宮」は新興宗教の施設らしいのでカウントせず
岡山県2社
 ……岡山市に2社(それぞれが最西端と最南端。麻賀多神社境内「幸霊神社」と関係あり?)
 ……浅口市「日月水火神社」(ひつききびじんじゃ)は新興宗教「三穂の家」なのでカウントせず
壱岐国0社 「箱崎八幡神社」(式内月読神社の論社。参考までにあげるだけ、カウントせず)
対馬国0社 「阿麻氐留神社」(式内阿麻氐留神社に比定。参考までにあげるだけ、カウントせず)

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『古事記』下巻の意図

2679年(H31年・新年号元年)3月22(金)改稿 H28年2月17日(水)初稿
『古事記』は武烈天皇を悪王とはしていない
武烈天皇はあれこれと残虐な行為を嗜んでいた悪王で有名だが、それは『日本書紀』に描かれた武烈天皇であって、『古事記』にはぜんぜんそんなことは書かれていない。これは『日本書紀』が、中華式の王朝交代にみせかけるために、仁徳系の最後の武烈天皇を暗愚に、息長系の最初の継体天皇を英邁に、それぞれ脚色したものだということは以前にも書いた。しかし『日本書紀』は余計な脚色をプラスしただけで、事実を消したりはしていない。実際の人物像は逆で、武烈天皇は聡明果断な英雄であり、継体天皇の方が失政が目立つ。つまり事実と真逆の脚色をしているために、記述が矛盾してチグハグになっている。
『古事記』は余計な脚色をしておらず、武烈天皇については良くも悪くもいってないが、以前に説明した通り、志毘臣(=平群鮪)を成敗したのは顕宗天皇ではなく、まだ皇子だった頃の武烈天皇(=小長谷若雀命)だったとする『日本書紀』が正しく、『古事記』はこの点については誤っている。本来この記事があったとすれば『古事記』の武烈天皇はかなり果断で英雄的なイメージだったはずである。これに対して、『古事記』では継体天皇にも何らの記事がなく、いわゆる「闕史十代」の3人めとされている。が、よくみると、ただ一言、たったの一行で、「磐井の乱」(紀:磐井、記:石井)が起こったので物部荒甲(紀:物部麁鹿火)と大伴金村の二将軍にこれを鎮圧させた話だけが載っている。これだけみると武烈天皇が平群氏を滅ぼしたように、継体天皇も磐井を滅ぼして功績をあげているように一見おもわれる。が、ではこの一行を加えることで『古事記』は継体天皇を顕彰しているのだろうか?

「磐井の乱」とは
詳細は継体天皇のところでいうべきなので、ここでは簡単に説明する。
新羅が金官(そなら:今の慶尚南道の金海(キメ))と喙己呑(とくことん:今の慶尚北道の慶山(キョンサン))という2ヶ国を侵略したため、継体天皇は新羅を征伐して2ヶ国を復興しようとして、近江臣毛野(おうみのおみ・けぬ)という者を将軍として、彼に6万もの大軍を授けた。新羅がこの2国を併合したにはやみくもにいきなり侵略したのではなく、長い経緯があるんだが今回はそこは省略。で、九州の筑紫国造だった竺紫君石井(つくしのきみ・いはゐ)は新羅と結託し、任那派遣軍を阻止するため反乱を起こした。ここで磐井が謀反を起こしたのは、これもそれなりの理由があったわけだが、その話は継体天皇の回でやることにして今回(武烈天皇の回)ではやらない。いちいち長くなるので。さて、近江臣毛野は6万もの兵力を持ちながら磐井の反乱軍をどうすることもできず、後からきた物部大連荒甲(もののべのおほむらじ・あらかひ)が磐井を平定した。それでやっと近江臣毛野は任那に着任したのだが、その間にたっぷり時間をかせいだ新羅に翻弄されたのもあり、本人の無能さのせいで味方であるはずの任那や百済とトラブルを起こし、任那諸国に大混乱をもたらし、任那諸国からは怒りを買い、百済には日本政府の政治音痴がバレてしまい、半島南部における日本の権威は地に堕ちた。
つまり、「磐井の乱」という一つの独立した事件があったのではなくて、「継体天皇の新羅征伐」という7年間も続いた一連の大事件の中に、「磐井の乱」というわずか1年(足かけ2年)の一幕があるにすぎない。

継体天皇に批判的な『古事記』
磐井の乱そのものは鎮圧されたが、乱の余波は甚大な被害をもたらした。それは任那の大混乱であり、ひいては任那日本府滅亡の遠因となっている。しかも、悪の元凶というべきは近江臣毛野だ。
この近江臣というのは竹内宿禰系で、羽田氏の同族なんだが、滋賀県の高島市を本拠として、継体天皇が生まれ育った三尾の高島宮(書紀には「高島郡三尾の別業」ともあり)があったところ。つまり継体天皇とは個人的に深いつながりがあった。このことから角林文雄などは、無能なやつを抜擢したのは「継体天皇の情実人事」だとまで言ってる。確かに物部麁鹿火の時と違って、大軍を率いて出陣したわりに詔勅もでてない。これは通常の正規の手続きでの任命でない可能性がある。中央政府から何度も帰還命令が出てるのに無視してたのも、継体天皇じきじきの命令でなければ帰還するわけにはいかないという事情があったのかもしれない。
ともかく角林文雄の説が正しければ、この無能な若者を抜擢したのは継体天皇本人なのである。いってみれば磐井の乱は継体天皇の功績というよりも、最大の失政であり、わざわざこの件だけを唯一書き加えているのだから、当時の事情に詳しい人がみれば『古事記』が継体天皇を顕彰しているどころか遠まわしに批判していることは明らかである。『古事記』は
この御世に、竺紫君石井、天皇の命に従わずて礼無きこと多かりき。かれ物部荒甲の大連、大伴の金村連の二人を遣わして、石井を殺さしめたまひき
とあるが、これは精一杯、遠まわしに書いてあるのであって、歴史的事件の説明としては要領を得ていない。ここは客観的に遠慮会釈なくいえば
この御世に近江臣毛野を遣わして任那を惑わしめ乱さしめたまひき
と言うことなのである。ただし、ここで、継体天皇を擁護しておくと、実は「磐井の乱」の直前に継体天皇は崩御しており、新羅征討軍として準備された6万の軍を解散するわけいもいかず、喪を隠して迅速に半島問題を解決してから崩御を発表しようとしたらしいのだが、詳細はここでは触れない。ただ、そういう事情をもし原編纂者が知っていれば、これは継体天皇個人への批判ではないことになるが、おそらく知らなかったろう。(これは継体天皇じきじきに近江毛野に帰還命令を出せなかった理由でもある。本人がすでに崩御していたので)

では『古事記』は誰を顕彰しようとしているのか
『古事記』の下巻は、仁徳系統が断絶し、(仁徳系と同じく応神天皇の別れだが)別系統の継体天皇が応神系を継ぐという、「応神皇統」の物語なのだ、と誰しも言いたくなるだろうが、前述のようになぜか継体天皇には批判がましい雰囲気がある。継体天皇を顕彰しようと思えば他にもいくらでも記事があるのに「磐井の乱」だけをいうのは解せない。
そこで別の説としては、系譜しかない闕史十代を除いて物語だけでみると、仁徳天皇に始まり、顕宗天皇に終わっているので、市辺押歯王が雄略天皇に殺されて履中天皇の系統が一旦途絶え、その後、仁賢・顕宗の兄弟が復位して履中皇統(仁徳天皇の嫡流)を復興させるという、仁徳(=履中)系の復興をテーマとした壮大な歴史の物語とみる説がある。この説の場合、仁徳系だからといって履中系と允恭系を同一視せず、允恭系の允恭・安康・雄略・清寧の4帝のことは悪王として描いているか、少なくとも称賛してはいないのだ、とする。そして、あくまで履中系を称賛するのが目的だという。しかしそれだと、武烈天皇で断絶してしまうわけだから、「めでたく大団円」とはいかないだろうと思う。
ならば、第三の選択として、断絶の悲劇を描くというテーマ設定もありえたはずだが、実際の『古事記』は明らかにそういう趣旨にはなっていない。では『古事記』は磐井の乱をいうことで何を意図しているのか?
第4の説として、継体天皇の回でいうべきことなのでここでは簡単にしかふれないが、531年三月に天皇が崩御したという『百済本記』は伝聞だという体裁になっており、ストレートに事実だとはいってない。朝廷は継体天皇の喪(実際は丁未527年に崩御)を隠していたので、531年十月に日本府の毛野と対峙していた百済新羅連合軍が解散(書紀は誤って前年のことにしている)して任那問題のすったもんだが一段落したのを機に、継体帝から欽明天皇への譲位を発表したんだろう、だから532年を欽明天皇元年とする史料(『元興寺縁起』とか『法皇帝説』とか)が残ってるわけ、つまり書紀のいう空位2年間は本当は欽明天皇の在位期間だったのだ。だがその後、任那情勢は沈静化するどころかますます混乱して目も当てられない情況に突入していき、欽明天皇の在位はわずか2年で、兄の安閑天皇の即位となる。この時は継体帝(というか上皇だが)は生きている建前だったから、継体上皇の意志ということにして「まだ幼い欽明天皇では現下の困難な情況を乗り切れない」から、欽明天皇が十分成長するまでの間、有能で年長の安閑天皇に一時的に天皇になれ、と遺言して継体上皇は崩御した、という公式発表にしたのである。安閑天皇は任那四県割譲問題の時も情況を正しく認識している憂国派として登場してるし、書紀は安閑天皇に期待し依存する継体天皇の詔勅を載せているほどで、実際に崩御した527年以降といわず、継体天皇がまだ若い頃、まだ近江や越前を治めていた頃から二人の有能な息子に補佐されてきていたんだろう。だから混迷うずまく継体朝の末期は実質、まだ皇子だった安閑天皇と宣化天皇の兄弟が事態を捌こうと四苦八苦して駆けずり回っていた。近江臣毛野が起こした一連の騒乱があった当時、世間では、継体天皇とその嫡子欽明天皇の頼りなさ、それに比べてこの間に活躍した勾大兄皇子(のちの安閑天皇)と檜前高田皇子(のちの宣化天皇)の兄弟の有能さと聡明さが際立ち、内外の人望を集めたと思われる。つまり当時の人なら「磐井の乱」と聞いただけで、継体帝・欽明帝の父子への気まずさと、安閑・宣化の兄弟への称賛を同時にセットで連想したのである。
つまり『古事記』が遠まわしに意図しているのは、安閑天皇と宣化天皇への顕彰であり称賛なのである。ただし安閑天皇には子孫はいないので、安閑天皇を意図的に顕彰・称賛しようという勢力は思い当たらない。宣化天皇の子孫は丹比氏であり、宣化天皇の四世孫(玄孫)多治比真人島(たぢひのまひと・しま)は天武・持統の両朝に仕えて左大臣に昇り、その息子たちも記紀が編纂された奈良時代にみな朝廷に重きをなして、繁栄していた一族だった。奈良時代は草壁皇子の系統だけが皇位を独占しようとしていたのに対し、草壁系統は断絶の危機にあり、それが奈良時代に何人もの女帝が立った原因でもある。そこで、草壁皇子以外の天武天皇の系統の皇族たちや、天智天皇の系統の皇族たちには皇位継承の可能性が残されていたのである。丹比氏も、遠縁とはいえ、当時活躍中だった者たちは宣化天皇の五世孫であり、これは継体天皇が応神天皇の五世孫だったのと同じ。では、この丹比真人氏が自分らの祖先である宣化天皇を顕彰しようとしたのかというと、それがそうではない。

『古事記』下巻は「多治比連に伝わった帝紀」である
この多治比真人嶋の父は多治比王といい、乳母氏族(養育氏族、扶養氏族ともいう)が丹比連氏(のちに丹比宿禰氏)だったことから、多治比王の名で呼ばれた。宣化天皇の子孫である丹比公氏(のちに丹比真人氏)と丹比連氏(のちに丹比宿禰氏)とは別系統の別氏族ではあるが、深い関係で結びついてはいる。
丹比連氏はもともとは尾張連氏の傍流、分家で、反正天皇が誕生してその乳母となった時に、仁徳天皇からの特別の思し召しによって、尾張氏から別れて一家を起こした。反正天皇が皇子の頃に山の民の管領に任ぜられたため、補佐役の丹比氏も山の民の首領的存在になっていく。反正宮家は男系子孫が途絶えてしまったが、ずっと時代が下がって継体天皇の曾孫多治比王の乳母になり、その子孫の丹比公(丹比真人)氏と縁付いた。そのため宣化天皇の御名代である檜前部(ひのくまべ)も管領したし、秩父の丹党は宣化天皇の子孫と称するも、太田亮は檜前部の子孫だろうと推定している。秩父は東日本きっての聖山なのでここに山民の首領たる丹比氏が土着するのはむしろ当たり前で、そこらのありきたりなことしか言わない連中のように後世のこじつけだ等と決めつける理由はない。
秩父三山の一つ、宝登山は蝋梅(ろうばい)で有名。いちど行ってみてほしい。俺もいったけど香りが強くて素晴らしい。
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『古事記』下巻は丹比連氏の伝承に基づいているという説が昔からあり、さらに具体的に奈良時代の多治比島(丹比島)や、丹比間人宿禰足嶋(たぢひのはしひとのすくね・たるしま)が関与しているという説もある。記紀編纂の時、多治比嶋は有力者として関与できる立場にはあったが、新しい氏族であるため独自の伝承としてはさほど古いものはもっていなかった。しかし天之火明命の子孫と称する丹比宿禰氏は極めて豊富な古伝承をもっていたので、丹比真人氏の有力者を通じて記紀編纂に採用してもらおうとしたのだが、丹比宿禰氏は下級貴族で、上層貴族の世界の、皇位継承をめぐる不穏な空気に疎かった。それで、丹比宿禰氏が提出した史料は、良かれと思って丹比真人氏を顕彰してあったのだろうが、そんなものは丹比真人氏からすると謀反の意志を疑われかねない危険きわまりない爆弾のようなものだったから、当然却下した。そういうわけで丹比宿禰氏は『日本書紀』に食い込むことには失敗したが、何かのルートで太安万侶か稗田阿礼とは接触できたのだろう。

古事記は日本書紀とは違って、古い書き方を残そうとしている。なのに、「すくね」という言葉に限ってのみ「足尼」という古い書き方でなく「宿禰」という新しい書き方のままなのが不思議だったのだが、丹比氏は天武十三年に「八色の姓」の第3位である「宿禰」を賜り、連から昇格している。「足尼」と書いては読みが同じスクネでも制度としては「宿禰」と関係がない。「宿禰」を強調し、連想してもらい、自家のカバネを顕彰したかったんだろう。

このブログの別の記事で書いたが『古事記』は当初、神代巻だけの予定で、『日本書紀』は神武天皇以降だけで神代巻は無しになる予定だった。帝紀の編集部(=『日本書紀』の編集部)は稗田阿礼の「帝皇日継」はもちろん、その他の多くの資料を採用したが、息長氏と丹比氏の古伝承に対しては、史料的な価値は高いのに、それぞれの事情(あるいは政治的事情)で排除した。『古事記』編集部は義憤から、それらの価値ある伝承を採用して、息長氏の伝承から中巻を、丹比氏の伝承から下巻を作ったのである。だから『古事記』の中巻・下巻は稗田阿礼の「帝皇日継」と同じではなく、息長氏と丹比氏の伝承以外は最低限必要なこと以外はすべて切り落としている。もともとの稗田阿礼の「帝皇日継」の内容は『日本書紀』に採用済みだからだ。
丹比連氏は反正天皇=多治比水歯別命(たぢひのみづはわけのみこと)の乳母氏族でもあったが、二皇子二皇女がいたにもかかわらずその後の反正天皇の子孫は伝えられていない。しかし反正天皇の御名代(みなしろ、所領)の管理者だった丹比連氏はその後も当主不在となった「反正宮家」の管理人だったのではないかと思われる。雄略天皇に嫁ぐことを拒否したと伝わる反正天皇の皇女らのその後は不明だが、あるいは丹比連氏に降嫁していたかもしれない。とすると、丹比連氏は当面の庇護を雄略系の諸天皇にではなく、「履中宮家」に求めていたと考えられる。そう考えれば、前述の、『古事記』下巻が允恭系を称賛せず、履中系を主軸とした構成になっている理由がわかる。
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(※中巻の経緯についてはまた別の機会に譲る。)

増税で国がもちなおした例は世界史上にない

2679年(H31年=新年号元年)3月21日改稿 H28年7月13日(水)初稿
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聖帝(ひじりのみよ)
仁徳天皇といえば、新古今の「高き屋に登りて見ればけぶり立つ民の竈はにぎはひにけり」が有名。現代の資本主義政治とは雲泥隔絶の理想政治だとして、もてはやすのがウヨの道だが、実際はそんな甘いものでもなかったろう。甘くないってのは、庶民にとってだけでなく、仁徳天皇の境遇のことも含めてだが。
ただ、ここは儒教的な観点から語られて、経済学的な観点から語られてるわけではないから、あたかも税を止めた3年間、他になにもやってなかったように錯覚してしまうが、そんなこともないだろう。皇室が3年ぐらい貧乏ぐらししたからって、全国の貧民の生活水準が一斉にあがったりするもんかね? もともと我が国の皇室には贅沢という伝統はなくて、日頃から質素なお暮らしをなされておられることぐらい、竹田先生はもちろん昔から右寄りの先生方が力説するところであり、ウヨなら、じゃなかった帝国臣民なら常識だろう。もともと金のかかってない皇室がさらに節約したところでたかが知れてるんじゃないの? 葛城氏とかの豪族のほうがよほど豪勢な暮らしをしていただろう。
これは経済学に疎い語部(かたりべ)が、仁徳天皇の事績を一貫した経済政策と思わないでバラバラに並べたから、朝廷の一貫した経済政策という全体がわからなくなってるのである。語部(かたりべ)というのは、現代に喩えていえば経済学じゃなくて歴史関係。あるいは、映画業界とかアニメ業界とか舞台演劇とか「表現」にかかわる人。だから経済学や経済政策のことは専門外なのだ。
茨田堤・丸邇池・依網池・難波堀江・小梯江・墨江津は秦人(はだひと)がかかわってる。これ一つ一つはかなり大規模な土木工事で、中国からきた秦氏の土木技術が活かされてるというのは昔からよくいわれることだが、そのことが意味する重大性については、割に軽く見過ごされてもいるのではないか。当時の日本の技術は中国の技術を使いこなしており、日本と中国とでその水準に大差なかったということが一つ。それだけでない。技術だけあってもそれを大規模工事として実現するには労働力を大規模に動員する権力とそれに応えうる安定した社会、そして統一的に管理される巨大な財源が必要である。仁徳天皇陵を現代の技術でつくろうとしたらどうなるのかという大成建設の試算では驚愕の結果となったのは有名かと思うが、現代の古代史マニアが漠然と思ってるような未熟な社会では到底ありえず、相当に発展した国家と進んだ社会がすでにあったことは明白だろう。古代史マニアはすぐに諸勢力間の武力抗争の話ばかりしたがる傾向があるが、彼らの想定する部族連合も地域王朝も無根拠な妄想にすぎない。財源は、神功皇后の朝鮮征伐以来、大陸との交易が活発化。交易はあらゆる産業(金貸しを除いて)の中でもっとも効率よく莫大な富を生み、好景気が続くが、古今東西に通ずる一般論として、経済活動の活発化は自然と貧富の差を産む。政府予算にしろ貴族豪族への普請割り当てにしろ、財源としてすでに申し分なかったろう。経済の活発化が貧民を生むのであって、貧民への救済措置は古代エジプトの時代から公共事業にきまっている。堤・池・堀、すべて土を掘り出すわけでこの大量の土を積み上げたのが御陵になる。ケインズがいったように公共事業ってのは「土を掘ってまた埋める作業でもいい」って話そのままではないか。
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↑エジプトのピラミッド建設w だがこの絵もウソ、もっと気楽な職場だった

ただ一言いっておくと、公共事業とか民間委託とかいっても、当時は委託先が氏族共同体とか村落共同体であって、共同体ってのは企業のような意味での「営利目的」ではなくて、そもそも再分配のための存在だから富をばらまけば間違いなく庶民に届く。しかし現代の公共事業とか民間委託ってのは委託先が企業なんだよね。企業ってのは「営利目的」であって「うちは慈善事業じゃねぇよ」って理屈が建前として通ってしまう。だから企業の懐に入るだけで庶民に金が届かない。仁徳朝の政治は、いわれるほど理想どおりでもなくて問題含みだった(後述)と思うが、現代の政治に比べればはるかにましだったろう。

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2仁徳天皇は非モテ」に続く

☆清寧帝崩御から飯豊王の執政が始まるまでのすったもんだ

2679年(H31年=新年号元年)1月16日改稿 H27年10月21日(水)初稿
清寧天皇は病弱ではなかった
清寧天皇には皇后がいないが、歴史上何人かいた他の独身天皇と違って、これといった理由が不明。生まれた時から白髪だったので、体が弱かったと推測してそのため皇后を立てられなかったとする説もあるが、それは無い。日本人の髪は「黒」ではなく、医学的には「黒と白」の2種類である。劣性遺伝子のため発現形として稀なだけで、生まれた時から全白髪とか、白と黒のまだらとかの日本人はそこそこいた(過去形でいうのは現代では染色技術が進んでるので子供の頃から隠し通すことができるようになったので世に知られなくなったのである)。昔は小学生の頃に「葬式饅頭」なんてあだ名をつけられたやつはよくいたものである。
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また『日本書紀』では清寧天皇の御名を「白髪武広国押稚日本根子尊」として、岩波日本書紀は御名の読みを「白髪(しらかの)武広国押(たけひろくにおし)」と区切るが、個人的には「白髪武(しらかたける)広国押(ひろくにおし)」と区切る方がよいように思う。シラカタケルは父帝雄略天皇のワカタケルを継ぐものだろう。「広国押」は国土を広げたか広大な諸国を威圧、圧服せしめたような辞で、病弱な天皇の名とは到底考えられない。皇子の頃から雄略朝後半の戦役には将軍格の武将としてほとんど参戦していたのではないか。また皇后(おほきさき)がいなかったとは書いてあるが妃(みめ)も無かったとは書いてない。記紀に書かれた后妃や皇子女は、系譜上、重要な人以外はたまたま残ったもので、記紀の相違を調べれば脱漏や入れ違い等の誤りもある。特に雄略天皇から武烈天皇までは系譜上の欠落がかなり欠落が多く、大化改新の時の蘇我邸炎上で失われたまま復元できなかった箇所だろう。

皇后の候補となりうる女性は希少だった
『日本書紀』の皇后には2種類あり、
(A)最初から皇后として立てられる身分の高い女性(それも葛城/尾張系・和邇/春日系・息長系などを女系で引く皇族が理想とされていた。例外もあり)と、
(B)もともとは妃だったのだが後に自分が生んだ皇子が後に天皇となったため記録上は皇后とされた女性
の2種類である。A型の皇后はある特定の理由で立てられなかったにしろ、比較的身分の低い妃や皇女はいた可能性は高い。もし皇子がいればその妃は自動的に皇后(B型)として記されたろう。あるいは早逝した皇子がいたかもしれない。
ところで、当時皇后を誰にするかはその天皇の政治力を左右する問題であり、皇室と民間とを問わず、当時は女性の経済基盤が大きく、結果的にそれが権力を支えることになる。その上でなおかつA型の皇后で、となると、実は皇后にふさわしい候補というのは大昔でもそうそうぞろぞろいた訳でもないことがわかる。
たとえば皇極天皇は初め高向王に嫁いでいたが、舒明天皇の皇后となるため離婚しているし、間人皇女も孝徳天皇の皇后だったが年齢が違いすぎて形式的なものだったようだ。同世代に皇后にふさわしい同世代の女性がたまたまいなかったのだろう。
かく考えた上で改めて清寧天皇の立場になってみると、同世代の皇族女性というとまず、異母妹の春日大娘は仁賢天皇の皇后になってるから、清寧天皇とは年齢が離れすぎていたのだろう。次に、反正天皇の皇女たちは雄略天皇が皇子だった頃に妃に候補にされたぐらいだから世代が違いすぎる。反正天皇の皇子、財王(たからのみこ)にもし王女がいたら釣り合いそうだが、財王は早逝したか息子がなかったらしくその子孫のことは記録がない。履中天皇の皇女には飯豊皇女と中磯皇女がいて、中磯皇女は大日下王の妃になってその後安康天皇の皇后になってるから清寧天皇とは世代ちがい。もう一人の方、飯豊皇女は、日本書紀引用の『譜第』によれば市辺押歯王の娘という説もあったぐらいだから(もしそうなら清寧天皇と同世代)、系譜上では一つ上の世代だったとしても生まれが遅かった可能性があり、清寧天皇にぴったりだったろう。
…といいたいところだが、履中天皇皇女の飯豊皇女と中磯皇女は実は同一人物なのである(詳しくはこのブログ内の別ページで)。

飯豊王は二人いた?
その飯豊王なんだが、実は、名前の紛らわしい人が二人いて、履中天皇皇女の飯豊王(叔母)と市辺押歯王の王女の飯豊王(姪)がいてそれぞれ別人だという説がある。詳細はwikipediaに書いといたのでそっち見て下さい。…といっても wikipedia に書いたのはほんの序の口で、・袁祁王の詠(ながめこと)のページに書いたように、二人の飯豊王は実は叔母と姪でなく二世代か三世代も離れている。
飯豊王(上の世代の方、青海郎女。中磯皇女の別名)は「目弱王の乱」があった時、女性だったので雄略天皇による殺害をまぬがれたのではなく、「大日下王の変」の時に薨去していたんだろう。仮に生存していたとしたら、清寧天皇の皇后としては世代が違い高齢だったろう。飯豊王(下の世代の方、忍海部女王)は逃亡、潜伏中の一家に生まれたが、雄略朝の末期に伊勢神宮に保護され、その後、和珥氏の仲介で名乗り出て、雄略天皇からはたいそう気に入られた。このへんの事情はこのブログの他のところで書いた。この時、履中宮家が復興しその女当主に収まったんだろう。
そう考えると、清寧天皇からみて飯豊王は皇后としては申し分ない。允恭家の当主となった清寧天皇としては、まさに最高の皇后候補、それが飯豊王だったはずだ。
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平群家の皇室乗っ取り計画
ではなぜ飯豊王は皇后にならなかったのか。それはつまり「妨害された」のだろう。当時の最高の血筋を伝える女性を天皇と奪い合うような人間といえば平群氏しか考えられない。平群氏は初代の都久宿禰(つくのすくね)が履中天皇(該当記事参照)の時にヘマをこいてからは長らく冷や飯をくっていたが、その子の真鳥(まとり)が雄略天皇の即位に多大な貢献をして(このあたりの話はまだ書いてないのでいずれ詳しくやるつもり)、大臣(おほおみ)となって、かつての葛城氏の利権をそっくり受け継いだ。当時絶大な権力をもっていたのはこの平群氏であった。しかし大臣を輩出した葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏はすべて竹内宿禰(たけのうちのすくね)から出た家系で、かつ管轄分野も「外交・貿易・財務」と同一であって要するに同じ氏族である。名目は四つの氏族なのだが、実質は同一氏族の中の四つの家系といったほうがよく、竹内氏の中の葛城家・平群家・巨勢家・蘇我家だと思った方が現代人にはわかりよい。
真鳥の子が平群鮪(へぐりのしひ)。『古事記』では志毘(しひ)『日本書紀』では鮪(しひ)と書く。この鮪(志毘)が歌垣で袁祁王(後の顕宗天皇)と争い、最後に急襲をかけられ滅ぼされているがこの時「宮廷貴族たちは朝は朝廷に集まるけれども昼は志毘の邸宅に集まっている」といわれており、平群家が権勢を誇っていたことがわかる。
雄略天皇生存中は雄略天皇によって頭を押さえられていた大臣平群真鳥(へぐりのまとり、鮪の父)だが、若い天皇に代替わりして御し易しとみたのだろう。『日本書紀』によると雄略天皇崩御後、早速星川皇子(ほしかはのみこ)が反乱したが、このクーデターは白髪皇子(のちの清寧天皇)と大伴室屋(おほとものむろや)によって阻止され失敗した。星川皇子を養育した乳母氏族である星川氏は平群氏の同族(葛城系)であり、直接に軍事行動に参加しようとした吉備氏は平群家の家臣筋であるから、結局平群真鳥が首謀者なのはあからさまに誰でもわかったろう。しかし、すでに平群家の権力は強大で、しらばったくれる真鳥を追及できなかった。しかしこの一件で平群家と允恭家の関係は最悪の状態、というか関係は破綻したろう。これは真鳥の政治戦略での選択肢をあとあと狭めていく結果となる。允恭家との関係を切り捨てざるをえなかった真鳥の次の手が、仁徳王朝の嫡流たる履中家の姫であり当時皇族中でもっとも血筋のよい飯豊王を、息子の志毘(鮪)と結婚させて平群王朝を開かんとした纂奪計画である。
履中家は男子が雄略天皇に皆殺しにされて唯一生き残った飯豊王(=青海郎女=中磯皇女)もすでに世になく、潜伏していた飯豊王(=忍海部女王)が雄略帝に見出されて履中宮家が「忍海宮」として復興されていた。飯豊王(=忍海部女王)はその女性当主である。ただでさえ皇室に並ぶほどの権勢を誇っていた平群家が、もし飯豊王(履中家後継者)を妻にしたらどうなるか。清寧天皇の皇室(=允恭家)からみても宗家にあたる履中家の資産を、平群家が併合してますます強大化して皇室を凌ぐことになるだろう(儒教的には男系が途絶えればそれで終わりだが、名跡とは別に、資産に関しては女系で継承する習慣があり、それは原始時代には世界共通だったと思われるほどの、極めて古い風習だ。日本では中世まで続き、皇室御料は女院名義になっていたことは有名)。

飯豊王(履中宮家)は清寧帝(允恭皇統)と平群家との板挟み
ただここで読者諸兄の中には「飯豊王自身の個人的な男の好み(好きなタイプ)はさておいて、皇室を守るためにも清寧天皇の后になるのが皇族として当然の崇高な使命だろう、なぜ悩むことがあるのか」と、飯豊王の不忠ぶりを怒る人もいるだろう。だが現代でも同じだと思うが、リアルタイムで政局の渦中にいる時は様々な情報、説得、宣伝に取り巻かれ、何が正義で何が悪なのかわかりにくいものではないだろうか。今でも原発とかTPPとか、保守派の中でも意見が割れるでしょ。
個人的な好き嫌いをいえば、当時の皇族貴族といった高貴な女性は古典的なイスラム、アラビアの女性とか平安時代の高貴な女性のように人前に出ることは滅多になく、身内の男性以外に出会う機会は、意図的な出会いがセッティングしやすい伝統的なイベントぐらいだったろうから、事実上の見合い婚しかなく純粋な意味での恋愛結婚はもとから無かったろう。

皇族と皇親のちがいこの場合「平群氏は皇族ではないから皇位継承争いに参戦できないだろう」という反論は無効である。当時は臣籍降下という手続きがないので、皇族と皇別貴族の区別は曖昧だった(というか皇族という枠組みがまだ無かった)。平群真鳥は開化天皇の5世孫(記紀では孝元天皇の5世孫とするが誤り。詳細は孝元天皇の頁を参照)で、これは継体天皇が応神天皇の5世孫なのと同程度の遠縁であり、お世継ぎがいないのだから次の天皇は俺らだと、真鳥と鮪(志毘)が自負していたとしてもおかしくない。継体天皇の祖先が応神天皇以来、代々「○○王」と書かれ、ずっと皇族だったようにみえ、平群氏のカバネが「臣」(おみ)なので早々と臣籍降下しているように錯覚してしまうが、天皇からわかれて4、5代ぐらいしかたってないのなら当時はキミ(君/公)だったと思われる。継体天皇も『上宮記』逸文に「乎富等大公王」(をほどのおほキミ)とあるのはその名残りと思う。キミ(君/公)というのは皇親であって、「皇親」ってのは皇族とは違い、現代にはない概念だから現代人にはわかりにくいだろうが、今でいうと皇族であるようなないような、貴族のランクで一番上なのか皇族に含まれるのか、曖昧なのである。例えば、英国で王族でもなんでもないタクシーの運転手が王位継承100番目だったりするようなことを思い浮かればよい。記紀は「奈良時代からみて」平群氏は臣(おみ)だったから真鳥や志毘(鮪)を平群臣「の祖」と書いてるのであって、「当時」臣(おみ)だったのではない。継体天皇にも「王」と書いてるけど、これは「みこ」ではなく「きみ」に当て字する時にわざわざ公や君でなく王の字を選んだのであろう、後に継体天皇になったことを奈良時代の人は知ってるから。

で、平群家が履中皇統の生き残りの飯豊王と結婚したがるのは、履中家からきた仁賢天皇が允恭家の雄略天皇皇女を皇后にしたり、息長系からきた継体天皇が先帝武烈天皇の姉を皇后にしたりするように、遠縁からきて即位した天皇が先代皇室の皇女を皇后にするのと同じなわけだ。
飯豊王にしてみれば清寧天皇(允恭家)と平群鮪(平群家)からの二択になる。だがこの両家は皇位争いにおける条件が平等ではない。允恭皇統には清寧天皇(本命)とその石木王(補欠)の二人しかおらず、断絶の危機は完全には去ってないが、平群氏には志毘以外にも男子候補が無数にいたろうからだ。平群を悪だと断定して完全に拒否するのが本当に正義なのかどうかその段階ではなんとも微妙だったろう。(石木王の家系については下記の囲みコラム参照)
飯豊王の立場は後世の推古女帝が皇室と蘇我氏の板挟みにあったのと似ており、それで清寧天皇と志毘臣の間で中立を保ち、両者の求婚への返答を先延ばしにしたのであろう。
そういうわけで清寧天皇と鮪(志毘)は、二人で飯豊王を取り合っていた。飯豊王は如上のように単なる高貴な女性という存在ではないのであって、他の女性に皇子を産ませればいいという問題ではない。もし他の女性を妃/妻にすれば、飯豊王はライバルになびいてしまう可能性が高いから、清寧天皇と志毘(鮪)はお互いとも独身のままで頑張って張り合っていたわけ。

石木王の家系について石木王(いはきのみこ)は日本書紀は清寧天皇の異母兄としているが、実はもっと遠縁で、従兄弟か、従兄弟の子ぐらいだろう。允恭天皇の男系子孫であるから允恭宮家の皇位継承権者であることには問題はないが、具体的な家系については議論がある。石木王を日本書紀では磐城皇子(いはきのみこ)と書き、雄略天皇が吉備稚媛を妃として磐城皇子と星川皇子を生んだとあり、この二人がつまり清寧天皇の異母兄と異母弟である。しかし、顕宗天皇の皇后である小野難波王(をののなにはのみこ)は允恭天皇の曾孫、磐城皇子の孫、丘稚子王(をかのわくごのみこ)の娘だともある。この磐城皇子は同一人物だとすると雄略天皇と允恭天皇、どちらの皇子か? 允恭天皇には記紀ともにこんな皇子の記述はないので、雄略帝の皇子と判定したくなるが、なぜ日本書紀には允恭天皇の皇子だという記述もあるのか、注として書かれてはいるものの「一本に曰く」などの異説としての紹介ではないので正説として書かれているようにも感じられる。吉備稚媛は雄略帝の妃になる前には吉備臣田狭(きびのおみ・たさ)の妻で、離婚させられた上で妃にされたので、前夫との間に二人の男子がいた。田狭が妻が美人だと吹聴したため雄略帝に妻を召し上げられる羽目になった話も日本書紀にでてくる。これだけみると雄略帝がひどい人に思えるが、さすれば田狭もこの美女を略奪婚で得たのであって、田狭のさらに前の前夫がいたのではないか。それが允恭天皇で、允恭天皇と吉備稚媛の間に磐城皇子が生まれたのだとすると、系譜の線としては辻褄があうが、年齢的に無理。もちろん允恭天皇が吉備稚媛らしき女性と関係をもったという伝承もない。ところで、古事記は石木王の父についてはふれていないが、難波王は石木王の娘だとしていて、丘稚子王が出てこない。つまり日本書紀は石木王と丘稚子王の父子関係を間違って逆にしているのではないかと疑われるのである。さすれば、吉備稚媛の前々夫とは允恭天皇ではなくて丘稚子王だったのではないか。
むろん丘稚子王も允恭帝の諸皇子の中には出てこないが、これを解釈するにとついては二案ある。一つは、允恭帝が皇后の反対で妃にできなかった衣通郎姫(そとおしのいらつめ)という女性(皇后の妹)がいて、允恭帝は彼女のもとに何度も通って、皇后ともめている。この人との間には子は生まれなかったことになっているが、実は皇子がいて、皇后が薨去するまでの間、長らく密かに匿われていたため、公式な記述から長いこと落ちていたのではないか。それが丘稚子王だとする案。もう一つは、丘稚子王は允恭天皇の皇子でなく孫だったのではないか。木梨軽王か黒日子王か白日子王の子だったのなら、記紀に説明がなくても不自然さは薄まる。この場合、白日子王が候補として第一だろう。日本書紀には八釣白彦皇子とあり、明日香の八釣(やつり)に住んでいたらしい。八釣の邸宅は石木王の娘、難波王まで伝領され、難波王と結婚した顕宗天皇はその地に宮をかまえたのだろう。顕宗天皇の宮を古事記では「近飛鳥宮」(ちかつあすかのみや)としか書かないがこれは文字が誤脱していて、日本書紀では「近飛鳥八釣宮」とある。(「近飛鳥」と「遠飛鳥」はどっちが大和でどっちが難波だという議論もあるが長くなるので別の機会に)

清寧帝の崩御は暗殺ではありえない
春正月に、清寧天皇が未婚のまま崩御して、皇子がいなかったが、自分の崩御後の允恭家の行く末と允恭皇統の継続について、心配はしていたといっても完全に絶望するほどでもなかったろう、清寧天皇本人にしてみれば異母兄の石木王がいるのだから(実は異母兄でなく、従兄弟の子であることは上述)。清寧天皇が飯豊王に固執したのは平群氏の専横を抑えるためである(恋愛感情も無かったとは断言できないが、衣通姫(木梨軽太子の妃)や大中津媛(允恭帝の皇后)から察すると允恭家の女性たちは美人遺伝子のかわりにありきたりな女のサガ丸出しなタイプが多そうなのに対し、石之日売(仁徳帝の皇后)から察する葛城遺伝子を濃いめに継ぐ履中家は個性的な分、面白い人たちというかキャラの強いタイプの女性が多そうではある。適当だが。どっちがいいかは清寧天皇の個人的な趣味)。清寧天皇の崩御はタイミングが良すぎるのでこれを暗殺と考えたくなるが、それは無いだろう。清寧天皇崩御でいきなり平群が有利になるわけでもなく、それどころか平群にとっては鬱陶しい石木王(いはきのみこ=磐城皇子)が天皇になる可能性を開くからだ。清寧天皇がもし長寿に至ったとしても、立后を妨害されたまま持久戦なら皇子は石木王の系統しか存在しないことに変わりはない。この石木王は日本書紀をみると謙虚でまじめな人物で、自分から天皇になろうというような人ではない。星川の乱では、その事実上の参謀で謀反を唆した吉備姫は実母、謀反の名目上の首魁である星川皇子は実弟だったが、反乱の直前にその母と弟を諌めているぐらいだから、忠実清廉高潔な君子であって、平群の傀儡になるような人でもない。母と弟の罪を理由に皇位継承権を辞退し、わざわざ難波吉士(なにはのきし)という帰化人系の三流貴族の娘を妃にして、さっさと皇位争奪レースからは降りていたのではないかと思われる(娘の難波王はその名から実母か養育氏族のいずれかが難波吉士氏と推定される)。石木王の父(書紀は誤って父子関係を逆にしている)の名が「丘」稚子王(をかのわくごのみこ)だが、丘の字からみて、この王子の生母の出身氏族かまたは養育氏族(乳母の出身氏族)は紀「丘」前久米連(きのをかざきのくめのむらじ)だろう。この氏族も星川の乱の主要メンバーとして参加して殺されており、紀丘前久米連が不名誉な死に方をして氏族が没落し、石木王は後ろ盾を失っていたろう。ルーツが白日子王なら雄略帝に不忠のカドで誅殺された人の子孫だし、衣通郎姫の隠し子なら、大中津姫のとりまきの流れを汲む允恭宮家においては、さらなる冷遇を受けたはず。あくまで傍流として、いずれにしろ部屋住みの婿養子みたいな扱いだったろう。だが清寧天皇の崩御の後は、一転して允恭宮家の建前上の当主になった。
この石木王が皇位継承権者からはずれるに足る致命的な理由はないはずだが、もし辞退せずとも、石木王と仲が悪い平群氏は、「石木王は謀反人(吉備稚媛)の血をひいているから」という建前で猛反対したろう。その謀反の黒幕の癖にな。自分が黒幕であるという事実に気付かないように目をそらさせるためにも、悪役を立てて「こいつが犯人だ」と言い続けるのがよいという、平群の政治宣伝が功を奏して石木王は一部の理解者に守られつつも世間的には評判の悪い皇族として汚名を着せられたままの状態だったと思われる。実際、石木王の生母と異父弟のとんでもない所業は許されるものではないが、彼自身は関係がない。しかし溢れる富と権力を握って世に時めく平群父子に憧れる者や媚を売ろうと話をあわせる者は無限にいたろう。不条理だが、皇族を中傷するのに本人でなくその家系や血筋をもちだすヤカラは現代にもウンザリするほどいるのをみればおおよそ想像がつこうというものだ。それでも石木王が退かねば平群に暗殺されるだけのこと。清寧天皇なき今や、石木王は允恭宮家の唯一の男子で、允恭家の当主(といっても実権は母方の血筋のよい故清寧天皇の姉妹たちが握って本人はお飾りだろうが)なのだから、このことはつまり「允恭家が皇位継承争いから降りた」ということを意味する。
かく、石木王の線がないとなると、自然といつかは平群父子に皇位は転がり込んでくるのだから、清寧天皇が刺客を放って鮪(志毘)を暗殺するというのならともかくその逆は理屈にあわない。皇室は度重なる皇位継承の殺し合いのせいで後継者不足だが、平群氏は一族がワンサカいたろう。平群氏の方が現状のままで有利、優勢なのである。

こじれる後継問題
当然、崩御後に後継者問題が生じた。この時の皇位継承候補は石木王の他、仲哀系や息長系がいた。石木王は当時まだ薨去していた可能性もなくはないが、どっちにしろ上述の通り石木王の線はない。残りは仲哀系と息長系の2つが記紀が皇族扱いして書いてるのでこの2系統だけと思ってしまうが、前述の通り、平群家を含めた皇別氏族でまだ4、5代しか経てないものとなると相当数いたはず。問題は、単なる血筋だけで比べたらどれも五十歩百歩だったろうが、平群氏は財力・権力・地位・名誉が当時ズバ抜けていたということだ。
このままいくと平群が天皇になるって話で終わりそうだが、問題は2つあり、一つは大伴氏や物部氏など一部の大貴族が平群家に心服しておらず、彼らが無理矢理にでも弱小な枝葉皇族をかつぎあげて平群氏に対抗する恐れがあったこと。二つめには平群家がかつての葛城家の利権を丸呑みする形で継承していたために「第二の葛城家」と見られ、庶民層にはいちじるしく評判が悪かったと思われること。葛城家が庶民に嫌われていたということについては以前に別の頁で詳しく書いたからここでは繰り返さない。これだけで平群氏が悪なのは明白なのだが、雲の上で浮世ばなれした生活してる皇族貴族にはわからないんだよね、ブラック企業で働いて四畳半で貯金もなく暮らしてる庶民の気持ちなんか。麻生や安倍だってわかってないだろう。
平群家としては、皇室の正統につらなるもっとも高貴な血筋をもつ女性と結婚して、皇室と一体化すれば、大伴・物部や庶民に対して有無をいわさず(天皇として)君臨できるようになる。ちょうど折よく(?)、允恭宮家は石木王を除けば切れてしまって、履中宮家ともども男性がほぼいない女所帯になってしまった。単に婚姻によって皇室を乗っ取るのが平群の目的なら、允恭家の女性も候補になりそうなものだが、第一に允恭家は履中家と比べて、平群の同族だった葛城家の血が薄くそれだけ親近感もなく感情的に距離があったこと、第二に星川皇子の乱が潰えたことによって平群家と允恭家の関係は破綻して気まずい関係になっていたと思われること(清寧天皇に謀反した星川皇子の首謀者だった平群家に対して、允恭家の後宮はひどく不快感を抱いていたことは間違いあるまい)、第三に、本心から儒教を信奉してた葛城家とは違って、単なる政治的利用にすぎぬとは思うが、葛城家と同様、平群家も建前は儒教派であり(ファッションとしての中華趣味は両家共通)、彼らにとっては長男の家系でかつ先に即位している履中皇統こそが皇室の嫡流・直系・本家なのであり、允恭家などは庶流・傍系・分家にすぎず、飯豊王に比べると允恭家の女性皇族たちは二段も三段も格が落ちると評していたのではないか、むろん仲の悪い允恭家へに対する誹謗という側面もあったのだろうが。
その雲の上の飯豊王だが、次の天皇が不分明な場合、中世では皇太后(先帝の皇后)にお伺いを立てて先帝の遺志を確認することが行われたが、古代でも先帝の喪の期間は外廷(朝廷)が機能停止するので、内廷(=後宮)がすべてを主宰する情況が生まれる。従って時期天皇が誰かという決定には後宮の女性たち、わけても彼女らのリーダーたる皇太后の意向が絶大な力をもったことが、記紀の諸伝承のはしばしから伺われることは先学の指摘するところである。そこで古事記によると「日継しらすべき御子を飯豊王に問ふ」ということになった。このことからわかることは重大だ。なんとなれば、飯豊王を当時の人々が清寧天皇の皇后と同格もしくはそれに準ずる人物、つまり次の天皇を指名する権限をもつ人物とみなしていた、ということだから。独身の天皇が言い寄っていた女性なのだから、彼女を皇后に準ずる扱いとするのは天皇の遺志を重んずることにもなるわけで、允恭家やこれを支持する貴族たちも反対しにくい。しかし「日継しらすべき御子を飯豊王に問ふ」の飯豊王を若井敏明の説では叔母/皇女の方だとする。だがわたしはこの説を支持しない。この頃、飯豊王(若井の説では叔母/皇女だが、実は三世代も前の人なので)とっくに死んでるのである(おそらく目弱王の乱の時、大日下王の落城とともに)。
飯豊王に決めてもらうという方法には平群家も反対したろうが、雄略天皇の申し子みたいな人だから権威と人気は絶大でどうしようもない。その上うまい代案もない。案の定、次の天皇に平群を指名せず、予想外にもよりによって石木王を指名したことだ。

履中宮家の戦略
実は飯豊王は履中家の後胤(つまり意祁王と袁祁王)を密かに隠していた(そもそもこないだまで一緒に潜伏してたんだから当たり前だが)。飯豊王の当初の計画では、この後胤は宿敵である允恭系の天皇が途絶えた場合(つまり清寧天皇が崩御し、かつ石木王の系統も途絶えた場合)に、世に出す計画で、允恭皇統(=雄略皇統)が永続した場合には指名手配も解除されないから、そのまま永久に隠し通すしかない(自分が雄略天皇に公認されたのは女だからであって、男ならどうなったかわからない。逮捕され処刑されていた可能性があったと考えていた)。この後胤=二皇子はまだ幼く、昔は夭折が多かったことと、仮に允恭家と和解できて指名手配が解除されても、平群から暗殺などで狙われる恐れがあった(清寧天皇は前述の通り暗殺ではなかったと推測するが当時も暗殺じゃないのかと疑う者は多かったろう)ことから、不用意に公表などできない。まだまだ長い間、この先も極秘事項とするつもりだったろう。
隠し玉の二皇子を活かすには、平群の皇位簒奪を阻止する必要がある。平群天皇なんてものが実現したら二皇子は人畜無害な存在となって晴れて表に出せるかわりに、永久に皇位はやってこない(平群氏には男性が多いため)。かといって、允恭家の天皇=雄略皇統が続く限り、二皇子の指名手配が解除される可能性も低いことにかわりはない。が、しかし平群氏は軍事的に滅ぼしたりしない限り、自然状態では断絶の可能性が限りなく低いのに対し、允恭=雄略宮家はわずかながらその可能性があり、允恭家が断絶した場合は二皇子は継承順位からいって平群よりも上位になるわけだ。よって飯豊王としては痛し痒しな選択ではあるが、石木王を指名する他にやりようがなかったはずだ(これはわたしの個人的な推理であり、記紀には飯豊王が石木王を指名したとは書いてない)。
しかし、石木王は断固として皇位を拒否、平群も猛反対、仲の悪い両者が飯豊王の前で連帯するという奇妙な展開に。石木王は自分が退くのはいいとしても、かといって平群天皇の実現にはなおさら大反対だったろうから何か代案を出したはずで、仲哀系(品夜和気王の子孫、のちの倭彦王の祖先)とか息長系(のちの継体天皇の祖先)を出したろう。息長系は考えようによっては応神天皇の正統ともいっていえなくもないほどで、格式や権威は低からざりしも、当時はまだ越前や尾張に勢力を延ばす前で、この頃は近江の一部を支配する豪族レベルに落ちていた。近江は東西交易の要衝だからそれなりに富強だったと思われるが、そこで取引される物資も外国製品の買い入れとそのための東国の物資の売り出しだから、大財閥である竹内氏(葛城家ついで平群家)の経済的な搾取下(もしくは下請け企業のような状態)にあったも同然だったろう。
仲哀系(品夜和気王の子孫、のちの倭彦王の祖先)は間人連(はしひとのむらじ)氏と蘇宜部首(そがべのおびと)氏の祖先である。おそらくこの頃は間人君(はしひとのきみ)と称する氏族だったと思われる。蘇宜部とは蘇我氏の部曲(かきべ)でありそれを管理したのが蘇宜部首だからこの家系は早くから蘇我氏と婚姻関係で結ばれていたのだろう。そうすると、蘇我氏は平群と同じく竹内系氏族に属し、この頃は平群が総帥だから蘇我はその家臣筋であり、この仲哀系も家柄の格式はともかく、実際の権力関係では平群の配下のようなものだったろう(ただし履中家と仲哀系との間にも婚姻関係が結ばれていた可能性もある。記紀には脱漏しているが)。
このように平群の全盛期においては仲哀系も息長系も物理的なリアリティーはなかった。その上、仲哀系や息長系をもちだすのは、仁徳系に属する履中家や允恭家の全否定になり、その意味では平群(=開化系)をもちだすのと大差ないので、飯豊王が同意するわけもない。まぁ石木王の提案はテーブルをひっくり返すようなもので当時の情況では遠回しに「俺はしらん」といってるのとかわりないものだったろう。

庶民のデモ行進
これで事態は膠着したが天皇が決まらなくては政治が停滞する。そこで朝は飯豊王の坐す「葛城の角刺宮」で連日の新帝擁立会議がダラダラ続き、昼は平群邸に主だった貴族が集まって平群氏を天皇に擁立するための相談を行うようになったろう。古事記に「貴族たちは朝は朝廷に集うが昼は平群邸に集まっている」と書かれている情況が始まったのがこれだ。そうなると当然、アンチ平群派の貴族は、角刺宮にしか行かないから、二重政府の様相を呈してくる。これに最も危機感を抱いたのは一般庶民だろう。庶民にしてみれば、天皇は平群以外ならもう誰でもいいので、他の貴族たちに飯豊王を支援するように訴える意味で、国民運動が起こった。書紀には「時の詞人」(一般庶民の無名の歌手)が「すばらしい宮殿だという角刺宮を見物に行きたいものだ」という歌を詠んだという話が出てくる。これは一般人が積極的に角刺宮へお参りに出かけることで、平群派の貴族が売国奴であり庶民の敵であることをアピールするデモ行進みたいなもの。(竹内系の葛城や平群が、今でいう経団連とマスコミと左翼文化人がごっちゃになったようなものであることは以前に別の記事で詳しく書いた)

飯豊王の交際
書紀によると、清寧三年の秋七月のこととして、飯豊青王女が、角刺宮においてある男と性交して(與夫初交)「やってみたらなんてこともない。もう男に興味なし」と言ったという妙な記事がある。

飯豊王の「謎の男」?なぜこんなへんな記事があるのか古来議論されてきた。現在の学界では記紀の伝承にある程度は史実の反映を認めつつも基本的にお伽噺として受け取る理解が主流なので、この伝承にもあまり歴史的な意味での解釈はなされず放置され気味である。一方、民間在野の古代史マニア業界では、愛することを禁じられた悲劇の巫女王の淫猥なスキャンダルとして面白おかしく論じたり、具体的に相手の男を詮索する説がある。一例としては、相手の男性は、皇后がいなかったとされる清寧天皇だったと推測する説もある(竹内睦泰)。しかし清寧天皇と飯豊王の結婚には「実は同母兄妹だった」というような系譜伝承を無視した設定でも仮構しない限り、障害となるような原因が考えにくい(系図が改竄されているなら晴れて二人の関係を明記しても問題ないことになるのにそうなってはいない)。清寧天皇と飯豊王は独身同士であるから関係をもったとしてもそのこと自体は不倫でもない。また巫女に処女性を要求するようになるのははるか後世の風習にすぎず、昔に溯るほど夫婦で神官(男巫・女巫)だったり、孫のいる老婆が巫女だったりする例が多いことは、関口裕子や義江明子らによって究明されてきた(いうまでもないが当時婚前交渉が禁じられていたわけでもない)。

飯豊王が「ある男」と性交に及んだのは『日本書紀』では清寧天皇在世中のように書かれているが二皇子発見の後になっており、『古事記』に照らしてみれば清寧天皇崩御の後になる。なので清寧天皇が春正月に崩御したその年の秋七月のことだろう。今時の芸能人でもいちいち自分の性生活をマスコミに公表したりはしない。無意味だから。これが歴史書に載るのは、当時これが政治的な意味をもったからで、いったいこの男が誰なのかというと、こんなことを公表して政治的な意味をもつ相手というと、流れからして平群鮪(志毘)しかいないだろう。庶民の猛反対に驚いた志毘(鮪)は既成事実を作ろうとして飯豊王に迫った。ただし二人の関係は、二皇子の存在が公表される以前の、まだ飯豊王も将来の皇位をどうすべきか迷っていた頃の話だろう。
庶民の大騒ぎ(=庶民の意思表示)に、平群家は驚いたが、罪もない庶民を武力で鎮圧しようとすれば、アンチ平群派の大伴氏や物部氏が黙ってない。あせった志毘(鮪)は既成事実を作ろうとして飯豊王に肉体関係を迫った。つまり夜這いをかけた。これは当時の上流階級でも婚姻の申し込みに該当する行為である。
飯豊王は二皇子の存在を極秘事項にしていたが、具体的にどこにいるのかもむろん知っていただろう。だから彼女は平群を天皇にする気などさらさらないしかし現状では石木王・仲哀系・息長系には可能性が低そうで、このまま何もしなければ、(あるいは二皇子のプロデュースに失敗すれば)平群天皇の実現は時間の問題、それなら「保険として」だが、未来の皇后も悪くないかという判断だろう。実は当時は、現代人が考えるような一夫多妻制はなく、多夫多妻制というと誤解があるが、そもそも現代人が思い浮かべるようなきっちりした婚姻制度が、概念からして無かった。ただでさえそうなのに飯豊王は奥州の蝦夷たちと一緒に暮らしてきた田舎育ち(詳細は当ブログ内の他ページで)。ところが鮪臣は中華趣味の財閥の御曹司で儒教倫理にふれる機会の多い環境で育っている。当時はまだ彼のようなのは少数派ではあっても、ともかく性行為と「制度としての結婚」の直結という考えを現代人以上に(儒教的に)持ってたんだろう。
かくして志毘(鮪)は角刺宮にも押し入って肉体関係まで結び、事実上の天皇然として振る舞った。
これに驚いたのは飯豊王だ。予想外の展開に頭を抱えたろうが、自分のせいだからどうしようもないない。二皇子の件を公表するのはまだまだ先の予定だったが、こうなってはそんな悠長なことは言ってられなくなった。ただちに履中皇統の後胤が生存し、密かに匿ってきたことを告げ、志毘臣とは交際をやめ、絶縁したということだろう。

福井県の「青海神社」今の福井県高浜町の青海神社の境内には飯豊王が禊したという池がある。飯豊王は平群鮪とつきあったのを後悔してこんな遠方まで禊にいったのだろうか。ちなみにこの神社の所在地の旧称は若狭国大飯郡青郷村で、「飯」「青」の字が飯豊青尊(いひとよあをのみこと)、または青海娘女(あをみのいらつめ)という名と関係ありそう。またこの地は「海部」(あまべ)で飯豊王の部民だったとも伝わる。
こんな遠くまで出かけた理由の一つには、その頃の都(難波〜奈良盆地とその周辺)は葛城氏や平群氏に象徴される大陸文化が全盛で、純和風な文化が衰退しており、平群に嫌気をさしていた飯豊王は、古めかしく素朴な文化を訪ねる旅に出たのではないかとも考えたくなる。また、このついでに、日本海を挟んだ大陸との交流も視察したのではないか。当時の日本は朝鮮半島の南部を支配して、北朝鮮を領土とする高句麗と対立していた。瀬戸内海と並んで日本海沿岸にも軍港や帰化人集団が多かったろう。これがのちのち、履中家の勝利と平群氏の滅亡に、意外なところでつながってくるのだが、それはまたあとで。

二皇子の発見
この間、仁賢・顕宗の兄弟を確保していた志自牟(しじむ)という人は、『日本書紀』では細目(ほそめ)という名でこの地の忍海部(おしぬみべ)の管理人であることと明記されている。この事実は重い。忍海部は全国に散らばる所領でその領主は飯豊王。これを根拠に若井敏明という先生は最初から飯豊王が兄弟を隠していたという説を出しており、俺も賛同する。百歩譲ってそこまで勘繰らずとも、発見が公表される前に秘密裏に極秘情報の第一報が朝廷の誰よりも先に忍海部の主人である飯豊王に入った可能性は著しく高かったであろうことは否定のしようがない。兄弟発見の情報を得た飯豊王は一旦は二人に秘密の護衛をつけて世に隠したまま、前述のように戦略を練り上げ、安全な時が来るのを待ったってことになるが、飯豊王はもっとずっと前から、というか最初から把握しているのである、自分も逃亡しながら連絡は取りあってたんだから。
清寧天皇崩御の後、石木王を新帝に指名したが、それに反対する平群氏が飯豊王と結婚して履中皇統の乗っ取りに出てきたので、もはや二皇子を公表するしか平群の野望を阻止する手立てはない。
兄弟が発見されなかったならば、飯豊王が志毘(鮪)を拒絶しようがしまいが、後々の皇位継承者がいない情況なのだから遅かれ早かれ平群氏の天下はやってくるのであり、真鳥・志毘の父子は反主流派の皇族貴族の動向にさえ目を光らせていれば枕を高くして寝ていられたことであろう。あとは二皇子の身柄を安全に確保すること(平群による暗殺がありうる)と、政界に地味にこっそりデビューさせることは不可能(「あんた誰?」ということになる)だから、庶民に知らせるという意味でも、芝居がかった華々しいデビューが演出された。これは平群の裏をかくために企画された演出と思う。
かくして仁賢天皇・顕宗天皇の兄弟が登場したことで事情が一変してしまった。鮪(志毘)が、天皇をも恐れぬような権勢を奮っていた最中であったことと、にもかかわらず顕宗天皇のために突然に計画が無効にされてしまったこと、これらの背後事情があって始めて、記紀の伝える顕宗天皇と志毘臣の歌垣における激突が理解しうるのである(歌垣伝承の主人公を『日本書紀』が顕宗天皇でなく武烈天皇のことだと誤ってしまった理由は別に考察あり。別記事を参照)。

飯豊王の執政が始まる
二皇子が発見されたのは書紀では清寧二年の冬十一月のことになっているが、清寧天皇の崩御後とする『古事記』の方が正しいので、清寧天皇が春正月に崩御したその年の冬十一月、つまり飯豊王と鮪の結婚交渉が破談になった七月から4ヶ月後と推定する。この4ヶ月はさまざまな仕掛けや演出、段取りを極秘にすすめた期間と思う。平群にしてみれば驚いたを通り越して、開いた口がふさがらなかったろう。二皇子はまだ子供だったので、いきなり即位というわけにもいかないが、これには応神天皇と神功皇后の先例がある。そこで、飯豊王は兄の意祁王(=仁賢天皇)を皇太子に指名して、自らは摂政に就任した。摂政というか「垂簾の政」だよな。また履中天皇自身が長男で儒教に基づいて仁徳帝の皇太子になったので、履中皇統は代々長子相続をアイデンティティーとした。当然、兄の意祁王が継嗣であり、袁祁王(=顕宗天皇)が即位するという発想はこの段階ではまだぜんぜんなかったと思われる。
ところで、履中皇統は母系では葛城氏であるが、この頃はすでに世代を経て遠縁になっており、飯豊王の執政が実現したのは、平群真鳥にしてみれば苦々しく思いながらやむなく黙認したにすぎない。このへんは後世の推古天皇と蘇我氏の協力関係とは全然似ていない。推古朝は蘇我の専横の時代であるということはまったく否定のしようがないが、その一方で推古天皇が単なる傀儡だったわけでもなく、蘇我の権力は女帝の権威に依存していたため、女帝の筋を通すべきところでは蘇我が手出しをできないことが度々あった。このことは平群氏と飯豊王の関係でも同じことがいえるだろう。ただし、相違の方が大きい。蘇我氏の場合は、推古天皇を立てているのは聖徳太子を即位させるためだった。聖徳太子が早逝したためこの計画は潰れてしまったが。そして蘇我は田村王(=のちの舒明天皇)を擁立する方針にかわる。ともかく自派にとって都合のいい天皇候補を即位させるための前フリ、下準備が女帝擁立だった。だから推古天皇が次期天皇として山背大兄王を指名した時には、蘇我蝦夷は遺詔を歪曲して田村王を擁立するという力技に訴えざるをえなかった。ところが平群氏と飯豊王の場合には、次の天皇候補について同一目的で一致しているわけではない。意祁王・袁祁王には平群の同族の葛城の血は入っているが、平群の血は入ってないし、こないだまで平群氏自身が次の天皇だという話だったのだからむしろ意祁王・袁祁王は横から出てきた邪魔者でしかない。飯豊王は、蘇我を翻弄した推古天皇のような複数のカードは持ってなかった。従って、一応皇太子が決まってしまった以上は、表面的には平穏を装う他ないが、この情況では飯豊王と平群氏は協力者という要素はほとんどなく、潜在的に敵同士に近いのである。
「袁祁王と平群氏の激斗!」に続く

宇佐神宮の創建は欽明朝ではない

2679(H31=新年号元年)・1・15改稿 H28年2月17日(水)初稿
欽明朝のイントロ
欽明天皇は、この前後のあたりの天皇の中ではかなり有名なほうじゃないかな? それは「仏教公伝」の時の天皇だからだ。しかし若干ディープめの古代史マニアなら、もう一つ欽明天皇で強い印象があるはず。それは「任那日本府」の滅亡だね。欽明天皇といえば「仏教公伝」と「任那滅亡」ですよ、でかいトピックが二つもあり、どっちを取り上げてもかなりの長文になるし、また面白い。
それなのに、なぜ『古事記』には記事がなく、系譜だけの、いわゆる「欠史十代」なのか。もうおわかりですね、このブログでは何度もいってるように、語部(かたりべ)の演目にできないような話ばかりだから。「仏教公伝」については語部は基本的に中臣氏や物部氏のように排仏派なわけで、最終的に物部氏が敗れる話だし、任那の滅亡は無能な日本外交が右往左往する話であって、これらに起承転結つけて物語化しても、公の場所で上演してウケるようなものではない。興ざめにしかならない。中世以降には仏教の影響もあったりなかったりして悲劇を味わい楽しむ文化も生まれたが、当時はまだ語部の上演は「大御代を讃えるもの」という枠組みがしっかりあったんでしょう。

仏教の伝来
→「仏教公伝」を参照

任那の滅亡
→「任那日本府の滅亡と売国奴の陰謀」を参照

宇佐神宮が創建されたのは欽明天皇の時代ではない
一般的に宇佐神宮の創建は欽明天皇三十二年(AD571年)だというのだが(wikipediaもそうなってるが)、その典拠は『扶桑略記』である。この年に応神天皇の神霊が出現して名乗りをあげ、これが宇佐神宮の始まりだというのだが、まったく信用できない。現在の宇佐神宮は一般の参拝者のための里宮で、本当の「奥宮」は4kmか5kmほど南に離れた御許山の九合目にある大元神社で、この神社は山頂にある巨大な三個の磐座(いわくら)を御神体とする拝殿にあたる。磐座信仰は石器時代にまで遡る巨石文化で、たかだか6世紀に始まった等ということはありえないし、三個というのはつまりこの磐座が宗像三女神の神籬(ひもろぎ)に相違ない。ではこの欽明天皇三十二年(AD571年)の出来事とは何なのか? 本当に宇佐神宮の創建の話なのか、原文をみてみよう。

(扶桑略記 欽明天皇)卅二年辛卯正月一日甲子、天皇第四皇子橘豐日尊【用明天皇也】之妃、穴穗間人皇女、夜夢金色僧、容儀大艷。謂曰:「吾有救世之願、願蹔宿后腹」妃問云:「為誰?」僧曰:「吾救世菩薩、家在西方」妃答:「妾腹垢穢、何宿貴人?」僧曰:「吾不厭垢穢、唯望尠感人間」妃答:「不敢辭讓、左右隨命」僧懷懽色、躍入口中。妃即驚悟、喉中猶似呑物。自此以後、始知有賑。經于八月、言聞于外。又同比、八幡大明神顯於筑紫矣。豐前國宇佐郡厩峯菱瀉池之間、有鍛冶翁、甚奇異也。因之、大神此義絶穀、三年籠居、即捧御幣祈言:「若汝神者、我前可顯」、即現三歳少兒云。以菜託宣云:「我是日本人皇第十六代譽田天皇廣幡八幡麿也。我名曰護國靈驗威身神大自在王菩薩。國々所々垂跡於神明。初顯坐耳」。一云、八幡大菩薩、初顯豐前國宇佐郡馬城岑、其後移於菱形少倉山、今宇佐宮是也。【已上出彼緣起文】

欽明三十二年一月一日甲子の日(一月一日は己酉であって甲子でない。この年の甲子は一月十六日・三月十七日・五月十八日・七月十九日・九月十九日・十一月二十日)、欽明天皇第4皇子橘豐日尊(後の用明天皇)の妃、穴穗間人皇女の夜の夢に金色の僧侶があらわれていうには「この世に生まれ出てこの世を救おうと思うから、しばらくお妃の腹を借りたい。(中略)吾れは救世観音である」(中略)そうしてその僧が妃の口の中に飛び込んだという夢だった。この後、妃は妊娠に気づいた。この話は八月がすぎて(/8ヶ月後に?)から知られるようになった(それまで口外していなかった/胎児の言葉が腹の外に聞こえるようになった?)。話が変わってこれと同じ頃のことだが、八幡大明神が九州にあらわれた。豊前国宇佐郡の厩峯と菱瀉池(ひしがたのいけ)の間に(/厩峯の菱瀉池のあたりに?)、鍛冶屋の爺さんがいたが、これがはなはだ不思議な爺さんであった。
変な爺さん
それで大神此義(/比義?)(おほがこれよし/なみよし?)という者が3年間ひきこもって穀物断ちをして、しかるのち御幣を捧げ「もしあなたが神なら正体をあらわしたまえ」と祈ったところ、その爺さんは三歳児に変身し、託宣していわく「我れはこれ日本の人皇第16代応神天皇、広幡八幡麻呂なり。我が名を護国霊験威身神大自在王菩薩という」。八幡大菩薩は全国各地に垂迹しているがこれが初めての出現なのである。一説によると、八幡大菩薩は豊前国宇佐郡の馬城岑に初めて現われ、そののち菱形少倉山に移ったが、これが今の宇佐神宮である。以上は宇佐神宮の縁起文に出ている(この縁起文というのは現在の宇佐神宮の社伝のことではなく失われた書物である。現在の宇佐神宮の社伝ははこの扶桑略記に基づくもので、ここでいってる縁起文のことではない)

これをみると欽明三十二年の出来事は、聖徳太子の母である穴穗間人皇女がの夢に観音様がでてきて「おまえの腹を借りてこの世に産まれたい」といったという、つまり聖徳太子が観音様の生まれ変わりだという伝説であって、応神天皇の神霊が宇佐に出現したという話はそれに続けて「同じ頃」の出来事として書かれている。同じ頃というのは数日差なのか数ヶ月差なのか数年差なのかも漠然としていて何ともわからないので、応神天皇の出現が欽明三十二年の出来事とは必ずしもハッキリとは決められないだろう。しかも本文では応神天皇の神霊が出現したというだけでこれが宇佐神宮の創建の起源だとは書かれてない。あくまで「一説として」八幡大菩薩が宇佐に初めて出現したのが宇佐神宮の始まりだという説を参考までに追記しているだけ。しかもこの一説のほうはその出現がいつなのか書いてない。ここに追記したのはあくまでも『扶桑略記』の作者(皇円という坊さん)の判断にすぎない。というか欽明天皇の頃に八幡大菩薩だの護国霊験威身神大自在王菩薩だのというわけがないので話自体が全体的に平安時代の創作だろう。「救世観音」ってのも11世紀以降にでてくるものだし。ただ、聖徳太子の出生譚と同じ頃としているのが気になる。聖徳太子は敏達三年(AD574年)元旦の生まれだから、欽明三十二年(AD571年)に妊娠ということはありえない。だからこの話があったとしたら敏達二年(AD573年)の二月頃でないと計算があわない。それがなぜこの年にこんな話があるのかというと、一つのヒントは応神天皇のご神託がたまたま「同じ頃」だっただけなのかということ。もしかしてこの2つの事件はセットで、連続した一つの事件なのではないか。救世観音の生まれ変わりが妃の腹に宿ったと言い出したのが八月。九月に大葬の礼が終わっているので八月はまだ殯(もがり)の期間中。蘇我馬子は皇太子である訳語田皇子(をさだのみこ)をさしおいてもずっと一貫して池辺大兄皇子(いけのべのおほえのみこ)の擁立を望んでいただろう。しかし皇太子訳語田皇子の継承は欽明天皇在位中から確定していたばかりが事実上の摂政として数年も政務を執っているほどなので、今更どうにもならない。せめて訳語田皇子(=敏達天皇)の次の天皇とすべく池辺大兄皇子を皇太子にするように運動をしたのではないか。池辺皇子は斎王を犯した前科があったためさすがに仏教派にも人望がないので、その子が救世観音の生まれ変わりというのは池辺皇子本人から目をそらして次世代の希望をかかげて仏教派を取り込むための宣伝だろう。仏教派だけが団結しても敏達天皇の即位は阻止できないが、「神道派の天皇が即位するのだから次は仏教派の天皇で」という雰囲気の醸成には使える。
さて、それに対して宇佐神宮のご神託が出て来るのは、わかりきった話で、八幡神は孝謙天皇と道鏡の事件でもご神託を発したことで有名な通り、皇位の守り神なのである。なぜ八幡が皇位の守護神になったのか。その起源はおそらく仁徳天皇の時代の「隼総和気の乱」だろう。その件の詳細については仁徳天皇の頁(「速総別王の乱の登場人物」https://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-55.html)でやるとして、ここでは触れないが、ともかく蘇我馬子が敏達天皇即位にむけて、その際には池辺皇子を皇太子にとかなんとか申し出てきたのではないだろうか。扶桑略記の話は伝承の断片に粉飾してただの示現譚になってしまっているが、この時に宇佐八幡からの神託として敏達天皇の正統なる即位を言祝ぐ神勅がでたのだろう。むろん蘇我馬子は今回の敏達天皇の即位を阻めるとまでは最初から思ってないのではあるが、世間一般は宮中奥深いところでの政局政情までは知らんわけで、ともかく蘇我はいずれ池辺皇子を擁立する気満々だと庶民は見ており、訳語田皇子が排除されて池辺皇子が即位するかもしれぬと危ぶむ声がさぞかし多かったんだろう。だから八幡神の神勅という形で蘇我に釘をさしておくのは大いに国民感情を安定させたと思われる。

・清寧天皇・補遺

H30年12月29日(土)改稿 H27年10月21日(水)初稿
「大」倭根子か「稚」日本根子か
清寧天皇の名は古事記では「白髪大倭根子命」(しらかのおほやまとねこのみこと)だが日本書紀では「白髪武広国押稚日本根子尊」(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこと)。「武広国押」については前にちょいと書いたからいいとして、大倭根子と稚日本根子はどっちが正しいのか。「大〜」と「稚(若)〜」というのは、普通は親子とか兄弟でつける一対の名だから、考えられるのは兄か父が「大倭根子」で清寧天皇は「稚日本根子」(若倭根子)だったのが、のちに息子か弟ができて「若倭根子」の名を譲り、父か兄から「大倭根子」の名を貰い受けたのだ、と考えられないだろうか。そうすれば清寧天皇に二つの名があることが説明できる。石木王は清寧天皇の兄ではなく義理の母の連れ子だが、日本書紀は清寧天皇の異母兄だと勘違いしているのは、雄略天皇一家には一応、(養子ではないが)漠然と養子的な存在として受け入れられ、清寧天皇が生まれてからはその兄弟分として処遇されていたのではないか。だから「大倭根子、若倭根子」の名を対でもつのは、その兄弟分としての地位が与えられたという表現だったのではないかと思う。星川皇子が生まれてからは、星川皇子が「稚宮星川皇子」(わかみやのほしかはのみこ)と書かれてもいるので、この稚宮(わかみや)がつまり稚日本根子命と同じ意味だろう。そこで清寧天皇は「中倭根子」と称してもいいところだったが、石木王は謙虚な人でかつ聡明なので事前に皇位争いの危険を察知して、尊号を固辞して皇太子(白髪王)に大倭根子の名を譲ったものと思う。だから天皇になった時点では古事記の「大倭根子」の方が正しい。日本書紀は、二つの伝承から選ぶ際に、清寧天皇が若くして崩御したので単純にそれに似つかわしい方を選んだまでのことと思う。

星川の乱
雄略天皇崩御の直後、星川皇子が反乱を起こしたことは『日本書紀』に詳しいが『古事記』には書かれていない。この乱の黒幕が平群氏だと推定したことは前に書いた。平群氏と皇室の水面下での対立はこの後もずっと尾を引き、武烈天皇即位までの様々な事件の前提になっている。そのため星川皇子の乱を知らないと、諸々の事件がバラバラな説話にみえてしまい、一貫した歴史の動きとして認識できなくなってしまうのだ。『古事記』は歴史書ではなく、恋愛譚と歌物語を紹介することに主眼を置いているので、この星川皇子の乱についてはスッポリ落としている。が、現代人はどうしても歴史の流れを把握した上で全体を理解したいと思うだろう。
星川皇子の乱の経緯を詳しくやりたいのだが、『古事記』の体裁では、先帝の崩御から新帝の即位までの間に起こったことは、すべて先帝の章の末尾に含む形式になっている。『日本書紀』では逆に新帝の「即位前紀」に含む形式になっていることが多い。当ブログでは『古事記』の体裁にならって、雄略天皇のカテゴリー記事で詳しくやることにする。

☆仏教公伝

H30年11月20日改稿 H28年11月20日初稿
今日、11月20日は仏教が伝来した日だ。年代でいうと538年説と552年説が有名で、受験勉強の時には俳句や川柳みたいに「仏教は午後に(552)なったらゴミ屋(538)行き」と覚えた人も多いだろう。後述のように日付は十月某日説、十月十二日説、十二月某日説の3つあるが、3説を比較すれば十二月説は間違いだろう。十月十二日をユリウス暦に換算すると、538年説の場合は11月19日に。552年説の場合は11月13日になる。ところが、実は538年説も552年説も誤りで、正しくは546年なのである。俺の説だが。546年の十月十二日は11月20日(火)である(グレゴリオ暦への換算では11月22日)
公伝と私伝
民間交流を通じて私的に入ってきた仏教については性質上、記録に残りにくいため具体的にいつ頃どのように入ってきたのかは不明である。後述の鞍作達等(くらつくりのだちと)の例は、あくまでも記録の上での最古というだけで、実際はこれより古い時代に入っていた可能性はある。鞍作達等の例が記録に残ったのは本当に最初の仏教伝来であり当時の人々の好奇心を集め話題になったためなのか、それとも当時多くあった民間伝来の一つにすぎなかったのに、彼の孫が仏師として有名になったため、偶々これだけ記録に残ってしまっただけなのか、そのへんのことはよくわからない。これらの事件を後述の「公伝」に対し「私伝」とよぶ。「公伝」というのは客観的にはいろんな意味がありうるが、俗に日本への「仏教公伝」という場合には、国家間での公式外交の一部として仏教の推薦が行われたことをいい、具体的には百済の聖明王が欽明天皇へ経典や仏像を献上した事件をいう。

先行した事態
仏教は、新羅へは高句麗を通じて徐々に伝わっていた。新羅においてはその後、激しい崇仏論争を経てAD527年(法興王の時)に公認された(526年説もあり)。

552年説と538年説
日本への仏教伝来は『日本書紀』はAD552年、『元興寺縁起』等ではAD538年とされ、古来から両説がある。

『日本書紀』
(欽明十三年)冬十月 百濟聖明王 更名 聖王 遣西部姬氏達率怒唎斯致契等 獻釋迦佛金銅像一軀 幡蓋若干 經論若干卷 別表

『上宮聖徳法王帝説』
志癸島天皇御世 戊午年十月十二日 百齋國主明王 始奉度佛像経教并僧等 勅授蘇我稲目宿禰大臣令興隆也

『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
大倭國佛法 創自斯歸嶋宮治天下天國案春岐廣庭天皇御世 蘇我大臣稻目宿禰仕奉時 治天下七年歳次戊午十二月度來 百濟國聖明王時 太子像并灌佛之器一具 及説佛起書卷一筐度

日付でいうと書紀が十月(日付不明)、帝説が十月十二日、元興寺縁起が十二月としている。これらからするとおそらく帝説の「十月十二日」がよさそう。戦後は国史への反発から記紀の価値をなるべく低めにみるという左翼的な空気によって、538年説が史実であるかのように扱われた時期が長かった。かといって538年説に説得力あるかというとそうでもない。80年代くらいから学界の中でも両説を同等ぐらいに信用できないとみる意見(これは同等ぐらいに信用できると遠まわしにいったもの)や、当時の国際情勢に照らして552説のほうを比較的マシにみる意見などがちらほら出るようになった。2010年代は出版界やネット言説に左翼的ゆりもどしが各所にみられるが、仏教伝来についても70年代に退行したような短絡的で無内容な言説がみられる。これは538年説は議論を二朝並立論にもっていきやすいため、反皇国史観をよころぶ蛆虫どもが538年説に固執しているのである。かといって552年説が正しいわけでもない。552年説は「三時説」と符合しすぎて偶然とは思えない。その不可解さが解決しない限り、無検討に採用はできない(後述の「三時説」を参照)。

(1)吉祥干支説
538戊午年も552壬申年も“ともに”「たんなるめでたい干支にあてただけ」として疑う説がある。戊午年や壬申年を「めでたい」とする思想が存在したのかどうかは未確認で正直いってよくわからない。しかし壬申年は、一説に釈迦の入滅の年だとされているので、仏教には関係があり、若干の議論が必要である。釈迦入寂が仏教徒にとってはちょっと「めでたい」年とは合わないように思われるかもしれないが、そうではない。壬申の釈迦入滅は、久遠の仏陀の本質にかえり涅槃に入ったわけで仏教的には「めでたい」のである。死去を「めでたくない」として忌避したり悲しんだりする気持ちは、仏教の立場からは現世への“執着”であって解脱を妨げるものなのである。ただし干支は中国のものだから、釈迦入滅の年が壬申だったというのは中国でできた説だろうと思われるが、インド天文学(占星術)の類似概念を干支に訳したものもあり、素人にはちょっと見で判断できない。しかしいずれにしろ後世にできた説。ただ、日本では中世以来みられるが中国やインドに同じ話があるのかどうかは情報不足。もし日本独自の説なら、紀の552年説に基づいて日本で発祥した国内オンリーの説となり、この説に基づいて552年説が生まれたというのは逆さまな話となる。もっとも、釈迦入滅の年がいくらめでたかろうが、なぜその干支を公伝の年にしなければならないのかは不明。記念すべき年だから?

(2)讖緯説
538戊午年も552壬申年も“ともに”「五行説に基づく干支革命説(讖緯説)」として疑う説がある。538年説は「戊午革運」説に基づくという説。しかし辛酉革命や甲子革令をあえて避けてまで戊午革運を取ったというのは、やや意図が読めない話で不審。紀をみるとAD538戊午年〜AD541辛酉年〜AD544甲子年のあたりは連年、半島情勢が激動しているが、格別に541年が革命で544年が革令にふさわしいような事件になっているとも思えない。また壬申をこの三革説と同様にみる説があるらしいが詳細不明。壬は「水の陽」で、申は「金の陽」で五行説としては「相生」の関係でむしろ安定を意味し、特に革命を暗示するものではない。五行説とは無関係に壬申革命説に近いようなものが存在したとすると、「壬申の乱」以降に発生したものと思われる(養老五年の詔に「庚申年は事故の多い年だ」とかの話は「壬申の乱」に引っ掛けた創作であって実在した諺ではないことについてはいずれ「讖緯説」について論じる際に説明するかもしないかも)。なので、壬申革命説によって仏伝552年説を説明することは時系列として不可能となる。

(3)公私別伝説
538年説をとる『帝説』をみると、552年説の紀とは同じ情況ではないように読める。後者は朝廷において公式の事件のように書かれているが、前者は蘇我氏の私邸での内輪の出来事のようで、登場する仏像や経典も一致しない。つまり両者は別の事件であり、「公伝」は552年が正しく、538年説は蘇我氏が本格的に仏教信仰はじめた記念的な年であって「公伝」の年ではない。この説も魅力的ではあるが、パズル解読の面白さがなくなるためが、ネット上の議論ではいまいちウケない。

(4)暦換算錯誤説
当時の朝鮮半島では複数の暦制が行われており、紀年にズレがあった。日本に仏教を伝えた百済の聖明王の即位には以下のように4つの説がある。

A『三国遺事』即位干支では癸巳年。最も近い癸巳は513年
B『三国史記』百済本紀では523年即位(立年称元なので同年が元年)
C『日本書紀』(おそらく原史料は『百済本記』)では継体十八年(524年)に即位
D『三国遺事』治世年数累積計算では527年が元年

韓国の忠清南道公州宋山里の武寧王陵から出土した買地券石によって、武寧王薨去と聖明王即位は523年であったことが判明しており、よって上記のうちではB説が正しい。またB説とC説は1年差だから、Cは実は523年即位で踰年称元法により翌年524年を元年とした表現があったのを、524年即位だと誤認した記事とも思われる。AとDは14年差であり、ちょうど仏教伝来の538年説と552年説の14年差に一致する。538年は上記のAでは聖明王二十六年、552年は上記のDでも聖明王二十六年となる。このことから百済側では仏教を伝えた事件が聖明王二十六年と考えられていたと推測した上で、聖明王二十六年はBの暦では548年にあたる。つまり実際の仏教公伝の事件があった年次は548年であろう、という説。この説が正しい場合でも、上記のような立年称元と踰年称元の錯誤によって、ある段階から549年とする誤りが流布していた可能性はある。

ただしCの暦のように踰年称元法による表現もあったとすると549年説も論理上はありえなくはない。梁では548年に侯景の乱が起こって中国は552年まで大混乱に陥る。乱が勃発した翌年549年の十月、百済は侯景の乱を知らずに梁に使者を出したことが百済本紀に書かれている。使者は侯景に捕らえられて乱が終結するまで帰国できなかった。日本への仏教公伝の時の百済からの使者は『日本書紀』によると十月、『上宮聖徳法王帝説』では十月十二日、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では十二月としている。百済による仏教公伝は、梁が仏教によって栄えているという実態が売りなので、侯景の乱以降に仏教を伝えたということは考えにくいが、上述のように549年十月の段階で百済が乱の勃発を知らなかったとすれば、この時(549年十月)に日本と梁に同時に使者を出したことになる。仮りに549年説が正しかったとしても、上記のような踰年称元と立年称元の錯誤によって、ある段階から548年とする誤りが流布していた可能性はある。

この説は、もし「聖明王二十六年」という伝承が正しいなら問題ないが、そもそもこの年代の時点ですでに誤りを含んでいた場合には実際の公伝の年次ではないことになる。

公伝年の確定1~真相の検討~
学界では他にも、半島情勢からの推測とか、仏教史の方からとか、いろんな観点から様々な年代説が提案されてきたが、おそらく546年が正しい。上記の聖明王の即位年についてCとDは3年差となるが、当時の朝鮮半島では3年ほどズレが生じる2種類の暦が混用されていた。そこで上記の549年説に3年のズレがあったと仮定して修正すると546年となる。また仏教系史料(『元興寺縁起』や『上宮聖徳法皇帝説』等)が一致して主張する「欽明七年」説に信憑性を認めた上で、紀の編年にあてはめると欽明七年はやはり546年となる。紀によると欽明六年九月に、百済は丈六の仏像と願文をつくり、天皇とその属国が仏教によって祥福を得んことを祈ったという。これは仏教伝来の前準備であり、その翌年に仏教を伝えたのであろう。

公伝年の確定2~538年説・548年説・552年説の発生~
そうすると仏教史料の伝える538年説(欽明七年説)は、欽明元年を誤って532年としたために計算を誤ったものであり、「欽明七年」という伝承それ自体は誤っていなかったことになる。また紀の552年説(欽明十三年説)も、上記の549年説(欽明十年)の3年差のズレを修正するつもりで加減を誤ったため正解の七年でなく十三年(6年差)になってしまったものであろう。百済史料の聖明王二十六年(548年)も『日本書紀』によると百済から日本への遣使があった年である。なのでその2年前の546年の遣使(仏教公伝)と記事が紛れたのだろう(548年の遣使は任那をめぐる軍事問題の報告と請願のための遣使であって仏教とは関係がない)。

北方仏教
日本で初めての本格的寺院建築は飛鳥寺。この伽藍配置は高句麗の清岩里廃寺に類似するが、もちろん原型は北魏あたりだろう。

三時説と公伝年1/歴史背景
正像末の三時説はインド(或いは西域?)起源と思われるが、特に北斉(AD550-577年)の頃から浄土系の善導祖師などにより盛んに唱えられた。正法の期間については五百年とする説と、一千年とする説があったが、釈迦没年については漢訳仏教の伝承では周の穆王の五十二年(BC949年?)とされていたので、五百年説ではAD552年(北斉代)に末法に入りしたことになり、浄土系の祖師らにとってこの思想が都合良かった。支那で釈迦入滅がBC949年と信じられていたとしたら、正法千年説であってもAD52年には像法の時代に入ることになる。そして仏教が中国にもたらされたのは不明だが、後漢の永平十年(AD67年)の白馬寺の故事が有名で、この時期はギリギリではあるが既に像法の世に入っていることになる(ちなみに曹洞宗の越前永平寺はこの年号に由来する)。つまりはシナには正法は伝わらなかったことになってしまうのだけれども、そのような伝来時期が問題になった形跡は見られない。そのわけは、実際にはAD67の頃にはすでに中国の民間ではかなりの程度仏教が流布していたので、実際の伝来はもっと早かったのだということは知られていたからである。白馬寺の故事は後から回顧して記念的な事件とされたわけで、いわば「中国仏教発祥伝説」である。しかしそれなら、わずか数年の差しかないのだし、どうせ伝説なら正法の時期内に伝来したことにすればよかったのにとも思われる。そう考えてみると、この「三時説」というのは六世紀中頃以降に盛んになった浄土系のプロパガンダにすぎず、それまでは中国の仏教本流ではあまり相手にされていなかったのである。『日本書紀』で仏教公伝とされる西暦換算552年が、中国で主流とされる千五百年説での末法に入る年に当たるってのは一見したところ偶然とは考えにくい。百済の聖明王も、このことは当然知っていただろう。聖明王としては末法入りした仏教を献上しても賞味期限の切れた贈り物になってしまうので、当然それ以前に献上したのであって、『日本書紀』の552年説は史実ではない。新羅や日本に仏教が公伝された六世紀中頃は、像法も末法も一般には知られてなかった(あるいはさほど意識されてなかった)んだろうが、聖明王としては「三時説」を新羅派や反百済派に政治的に利用されては困るので気を使ったということだろう。

三時説と公伝年2/日本書紀が552年説を採用した理由
しかし後世『日本書紀』編纂時には552年公伝とされた。これをわざわざ末法の世にあわせるために改竄したというのは不可解である。末法に入る年(552年)に設定したのは排仏派(神道派か儒教派)の記録を紀が参考にしたからだという推測は否。排仏派はそもそも仏教の教義の一部である「三時説」を採用するはずがないからである。この紀の説が余りにも「三時説」と符合しすぎているのも確かなので、552年説は「三時説」を何らかの意味で意識した創作説(想像説)とみなすのが最も自然に思われるが、そうではないことは上述の通り。紀の編纂当時、仏教公伝は欽明朝という伝承が存在した上で538年説と552年説しかなかったとすれば、ともに暦換算の錯誤から生まれた説だとはいえ、552年説は真実の年次とは6年差で周辺に波及する矛盾も少ない。それに比べ、538年説は矛盾が大きく安閑朝と宣化朝が消失してしまうので紀の編集部としては552年説しか選択の余地はなかったのである。

三時説と公伝年3/仏教史料が538年説を採用した理由
しかしそれは『日本書紀』の都合であって仏教界の都合ではない。聖徳太子が隋と国交を開いて以来、最新の仏教思想である浄土思想とともに「三時説」も入ってきて、五百年説では公伝の時期(552年)が既に末法に入っていたことが判明して、大問題になったか、少なくとも些か都合が悪かった。仏教界としては末法入りしてからの伝来というのは好ましくないから実はもっと早かったのだといえるならそのほうがよいとも考えただろう。そこで、古くから保持してきた伝承(十年ちかく繰り上がった538年説)をあえて採り続けてきたのである。 

三時説と公伝年4/後世への影響
その後シナの「三時説」でも千年説が有力だと判明し、それならば552年は単に像法後期入りになるので我が国でも千年説を取って、AD552年はまだ像法中期だったとされ問題は静まった。その結果、1052年に末法の世に入るとの説が主流となった。AD752年の大仏造営は釈迦佛を基準とする末法到来を300年後に控えて、ビルシャナ佛による正法興隆を目指した…或いは末法到来に備えて像法であってもその威儀を末法期以降にまで伝えようとしたものとも言えるだろう。しかし仏教界の一部では繰り上げられたままとなった。ここにおいて、記録上は552年説と538年説が残されることになったのである。
(538年説が後世にもたらした「二朝並立論」については継体天皇の頁を参照)

継体朝の仏教伝来(私伝)
『扶桑略記』には『延暦寺僧禅岑記』の引用として、継体十六壬寅年(AD522)に司馬達等が渡来後に始めて仏像を礼拝し、蘇我氏と協力した、とある。ちなみに、司馬達等の孫は鞍作鳥(仏像技能工)。こういった私的な仏教信仰は渡来人を中心に当然に日本各地にあったろう。新羅でも公認(公伝)が526年で、私的には高句麗・百済とあまり変わらない時期に入っていただろう。鞍作村主司馬達等(祖父)。その子は司馬多須利(父)。その子が鞍作止利(本人)。『扶桑略記』によれば「大唐漢人案部村主司馬達止」とあり継体朝に入朝したというので、止利は帰化三世になる。司馬達等は『元享釈書』などでは南梁の出身で百済を経て渡来したといい、司馬という姓からしても純粋の百済人ではなく、普通に考えれば中国(梁)から百済への移住者の子孫ということになるが、中華式の姓は中国人以外でも名乗り得るので中国人だという決め手としては絶対ではない。ペルシア人という説もある。

「止」を「と」の当て字に使うのは和語の「とめる・とまる」の「と」ではなく、上古音の音読みである。寺・時・峙・持・待・畤は音読み「ジ」だが上古音はすべて「ト」。「社」も上古音は「シャ」でなく「ト」。寺の上の「土」が原意と原音を表わす。

・氏姓(うじかばね)制度

H30年6月28日(木)改稿 H26年11月4日(火)初稿
「氏族名解説の内からかばねについて」と題されたコピー資料が手元にある。三浦佑之『口語訳古事記』からの抜粋コピーだなこりゃ。
急に話かわるけど、このコピー資料つくった人は、なんで三浦佑之の本からのコピーなんだろう。三浦佑之のファンなのかな? 三浦佑之についていうと、明治大学の講演ききに行ったことがあるんだが、胡散臭い団塊左翼かと思った。古代人に対して「低脳で哀れな未開人」という上からの視線で見下したような表現が言葉の端々にちょいちょい出てくるんだよ。岩波や朝日あたりの進歩的文化人かオマエは、とつっこみたくなるが、実際そっちの文化圏の人なんだよねw こういう御先祖様に敬意ないやつの論文なんてどうせ学匪まるだしな左翼論文だろうと思うから読まないw 彼は平成14年にいきなり『口語訳古事記』で売れ出したけど、ちらっと立ち読みしたが、なんじゃこの本はw 反天皇主義に満ちた左翼仕様じゃねぇかw まぁAmazonレビューでこのへんはちゃんと指摘してる人が何人かいるし、ネット時代の良いところだな。なぜバカ売れしたのかは、今となっては左翼出版界のゴリ押しだったとしか思えない。実は若い層はそんなに買ってないと思われる。この手の講演会ってマスコミの宣伝に弱そうな団塊世代とか爺婆しか来てないもん。三浦の訳は格別ひどい例だけど、三浦のみならず、基本的に口語訳でいいと思った本をみたことが無い。訳してる本人の解釈が強烈に反映されるので、本当に素の古伝承を受け伝えるのとは違っちゃうんだよね(比較的マシなのは角川文庫版の後半に付録でついてる口語訳。これは中立的な印象がある)。古事記を本当に知りたい人は三浦の駄本なんか買ってないで、もとい、口語訳で満足してちゃダメだと思うね。
(※この記事は未完、書きかけ中です)

臣(使主)



君(公)
カバネとしてのキミは「君」とも「公」とも書かれる。AD712年にできた『古事記』では古態を保存するため「君」のみで「公」は使わない。古くは「君」の字を使ったのである。
君姓(きみカバネ)の者でもAD684年の「八色の姓」の新制以降は「真人(まひと)」姓を与えられた者と与えられず「君」姓に留まった者に分かれた。AD720年の『日本書紀』では息長系氏族(応神天皇皇子稚渟毛二派王の子孫から別れでた諸氏族、及び同じくその皇子の子孫である継体天皇以降に別れでた諸氏族)については「公」を用い、仲哀天皇以前にわかれた氏族と、稚渟毛二派王以外の応神帝皇子から出た氏族には「君」を用いる(仁徳天皇から武烈天皇までの間に分かれでた氏族は安康天皇の子孫と称する孔王部首氏のみ)。『日本書紀』のこの使い分けは後に「真人」姓を与えられた者の先祖については新しく「公」の字で表記し、そうでもない者には旧来通り「君」の字を用いたものである。従って、「公」姓の氏族はすべて「真人」姓になっているわけだから、この段階ではリアルタイムで「公」の字で称したことのある氏族はかつて一度も存在したことがなく、実際には「真人」と「君」に分かれていた。
『続日本紀』によると天平寶字三年(AD759)十月に「天下の諸姓には君の字が著しい。公の字を以て換えよ」と命令が出て、ここで真人から漏れていた君姓の氏族はすべて「公」の字に統一されることになった。
そのはずであったがAD815年にできた『新撰姓氏録』をみると多くは「公」の字に改まっているものの、弱小な氏族ばかりではあるがまだいくつか「君」の字で書かれる氏族が残っている。ただし規則性がみつからず、使い分けがあったわけではなさそう。単なる誤記としてはやや数が多すぎるようにも思えるので、慣習的な表記に従っただけかと思われる。つまり公式には「公」の字で統一すべしとされたが、一部は旧式の表記のままであった。それはAD759年以降は本来は違法なはずであったが、放任・黙認され続け、AD815年の段階では事実上公認されてしまったとみる他ない。一部の氏族が旧来の表記に拘った理由は憶測やこじつけでよければいくつか考えられないこともないが基本的に不明であるというしかない。

別(和気)
「別」という言葉は白日別、豊日別というように『古事記』上巻の国生み島生みの神話に出てくる、土地そのものを神格化した神の名としてでてくる。つまりワケという言葉はなにか「土地に密着」した言葉だということはわかる。つまり「その土地に土着したものがワケ」なのであろう。が、地方にあまくだった連中はみんな土着したことにかわりないのでは? というツッコミもあろう。これは程度の問題なのであるが当然そこには線引きがある。地方に所領をえても必ずしも現地に定住するのでなく、本人は中央にいて代官を派遣してるだけということもあれば、現地と中央を往来している場合もあり、これらは土着とはいえない(初期の毛野氏などがこの例)。また現地の女性を嫁にとって継嗣の男子を産ませてるうちは、これも土着したとはいえない。よそ者に、あるいは新しくあまくだってくる新領主に、「この土地の女」として自家の娘を差し出せるようになって初めて土着したといえるわけだろう。ちなみに、ワケというカバネは選号でなく加号でもありうる。従って「君」であり同時に「別」だったりってことや、「臣」であり同時に「別」だったり、ってことや「直」であり同時に「別」だったり、ってことがありうる。たとえば倭建命の王子、建貝児王は「宮首之別」氏の祖とあるのを先代旧事本紀では「宮道君」とあり、また別の王子、足鏡別王が「鎌倉之別」「小津石代之別」「漁田之別」の3氏の祖とあるが、これが先代旧事本紀ではそれぞれ「竃口君」「尾津君」「揮田君」とあり、どれも「別」が「君」になってるが通説では同じ氏族の別名だと考えられている。これらの氏族は「君」でもあり「別」でもあった。



造(国造・伴造)


県主
稲置(稲寸)

村主

阿毘古(我孫)

宿禰(足尼)




カバネの歴史

最古層
君・臣・神・民

第二層
連・県主・村主・使主・神主・宮主・道主

第三層
首・史・伎・椋人

六色の姓:允恭朝

二姓の追加:雄略朝

八色の姓:天武朝

・イザイホー

H30.6.23(土)更新 平成27年4月15日(水)初稿
今日はイザイホーの話。イザイホーというのは沖縄の久高島に伝わる神事。この島は沖縄の神話で、シネリキヨという男神とアマミキヨという女神が最初にあまくだって国造りを始めた島だといい、この二柱の神は古事記でいう伊邪那岐伊邪那美にあたる。たぶん「いざない法」が訛ってイザイホーになったんだろう。民俗学の方ではかなり有名なので、その詳細についてはネットで検索すればいくらでも出てくると思う。なのでまずはそれらでみて大雑把なことはわかっといてください。めんどくさいから俺は解説しない(笑)。

で、今日の話で重要なのは、古事記によく出てくる「巫女的な女性」。巫女「的」ってなんだ? 巫女そのものとは違うのか? イザイホーについて知ればわかるように、久高島ではすべての女性が巫女としてこの神事に参加してたんだよね。すべての女性だから、普段は彼女らは普通の一般人なわけ。なにか、神社に所属してるような「専従の巫女」ではない。古事記の解説の中で時々でてくる「巫女的な女性」って言葉があるが、この場合の「巫女『的な』女性」ってのは要するにそういうこと。普段から常時24時間365日、巫女をやってる人って意味ではない。普段は皇族女性だったり一般庶民の女性だったりしているわけだ。

・浮屠の乱

 H30年3月23日(金)改稿
H28年2月17日(水)
(※この頁は「欽明天皇も「譲位」していた(敏達天皇)」からの続きです)

用明天皇も在位が短い
日本書紀をよむと、用明天皇の冒頭の穴穂部皇子を中心とする一連の事件の流れが理解しにくい。特に敵味方が複雑なのにそこは詳しく書かないで、登場人物の言動も断片的ですっきりしない。
なので、少し補足・補完しながらストーリーをわかりやすく紹介してみる。

皇族たちの立場、ここまでの経緯
穴穂部皇子(あなほべのみこ、記:三枝部穴太部王)は敏達天皇の崩御の後すぐから「皇位を望んでいた」とあるが、これは正確には、蘇我馬子が池辺大兄皇子(いけのべのおほえのみこ)を立てようとして、彦人大兄皇子(ひこひとのおほえのみこ、記:日子人大兄太子)が次の天皇とは限らないという情勢になってからのことだろう。正統な後継が彦人大兄皇子であることは自明であったが、もし彦人大兄皇子の即位がないのなら、次点候補としては池辺皇子も穴穂部皇子も条件は同じである。二人は異母兄弟で、穴穂部には「大兄」とつかないし、後述のように用明天皇在位中に穴穂部皇子は「皇弟皇子」(すめいろどのみこ)と呼ばれるようになるから、上下は判明しているが、まぁ大差なかったのだろう。ただし、蘇我馬子が池辺皇子を擁立したのは仏教の信者(正確には「非神道」ではなくて「容仏派」もしくは「神仏並信派」)だからである。穴穂部皇子もバカではないので、頭ごなしな排仏派では蘇我馬子の支持は得られないし、熱心で真面目な崇仏派では物部守屋の支持が得られないぐらいはわかってただろう。で、宗教問題には興味がなく、大臣たちにまかせておけば文句ないだろうという程度の見識で、これで両派の支持をともに得られるとずいぶん甘い計算をしていたようにみえる。馬子にしたら、神仏並信派とはいえある程度まじめに仏教を奉ずる池辺皇子のほうがいいに決まっている。物部守屋も当初は穴穂部皇子など眼中になく、彦人大兄皇子を支持していたが、用明元年(AD585年、書紀は誤って敏達天皇十四年とする)の八月に彦人大兄皇子が皇位継承候補から降りてしまった(前回の当ブログ参照)ので、称制皇子だった用明天皇の正式な即位が確定した。一応、六月の「仏教制限の約定」が確認されたとは思われるものの、政局としては物部守屋がまずは一敗地にまみれたということになる。先々なんとか挽回したい守屋としては神道派の頼れる皇族と連携したいところだが、礼節のある皇族なら自分で名乗るような図々しい態度は考えものだし、頭のいい皇族ならこんな時に名乗り出るのは政治抗争に突っ込んでいくってことで命がいくつあっても足りないとわかるので出たがらない。池辺皇子が馬子の誘いに乗ったのは、敏達七年に伊勢斎王だった菟道皇女を犯した前科(不倫密通したという意味なのか強姦したという意味なのか不明瞭だが「皇女が犯された」と受動態で表現されている)があって嫌われ、貴族社会に居場所がなかったからで、特殊なケース。とはいえ、愛国心ゆえに天下国家のため危険を顧みずに立とうという志を密かに隠し持つ皇族も少ないながら何人かいた。ただ闇雲に名乗り出るのではなくチャンスを待っていたのだろう。闇雲に名乗り出る人もいて、それが穴穂部皇子だった。だが穴穂部皇子には控えめにいって大局観もなく信仰問題についての見識もなかったから、私利私欲で皇位を望んで居るのだろうとみる者もさぞかし多かったろう。物部守屋としては選択の余地がないので、やむなく「排仏派になるのなら」という条件で穴穂部皇子を支持することにしたのだろう。九月に即位したばかりの用明天皇は同月に詔勅を発して娘の酢香手姫皇女(すかてひめ、記:須加志呂古)を伊勢斎王として捧げているが、これはかつて伊勢斎王の菟道皇女を穢した罪ほろぼしという一面もあったのではないか、だからここで詔勅があったと特筆しておきながら、詔勅の内容は省かれているのは自分の過去の罪に言及していたのだろう。

穴穂部皇子の暴走と物部氏の決起と敗北

翌年(用明二年、書紀は誤って元年とする)の五月
「さきの皇后」(敏達天皇の皇后)である額田部皇女(ぬかたべのみこ)が敏達天皇の殯(もがり)に仕えている最中の広瀬宮(今の広陵町あたり)に穴穂部皇子が押し入って前皇后たる額田部皇女を犯そうとしたという。これだけ聞くとなんて乱暴な破廉恥漢だと思うだろうが、これはアンチがフレームアップしてあたかも欲情にかられただけの単なる強姦魔だったかのように流した話であって、やや同情の余地がある。というのは、崩御の後に新天皇が誰なのか不明瞭な場合は、伝統的に後宮が決定的に大きな影響をもっていた。先帝に最も親しかった后妃が皇位の未来についての考えや諸々の皇族たち一人一人への評価などを身近に聞いていただろうから、故人となった先帝の遺志を代弁するのにこれ以上の権威はない。ほとんどの場合皇后だが、後宮の構成員や個々人の資質や内部の派閥親疎、外部の政治勢力との繋がりの多寡などによって、先帝の母だったり、その時々でもっとも後宮で地位の高い女性が決定権をもつ(継体天皇の即位を決めたのも大伴金村ではなく白髪皇女を始めとする武烈天皇の姉妹たちである。後の時代になるが、南北朝の分かれ目になる後嵯峨天皇の遺志が、二人の息子(後深草天皇か亀山天皇か)のどちらだったのかを鎌倉幕府が確認した時も大宮院(後嵯峨天皇の中宮、西園寺姞子)に諮問している)。この未亡人となった皇后が、新帝即位までの間、朝政を仕切る権威となる。この期間を際限なく延長したのが女帝の起源(推古天皇)なのであるがその話はまた後で。ともかく、この理屈からすると、敏達天皇の正統な後継である彦人大兄皇子が降りた以上、では誰が適任なのかは額田部皇女がなんといいだすかにかかっていることがわかる。これまで額田部皇女が沈黙を守ってきたのは、一つには敏達帝の遺志は彦人大兄にきまっていて他の選択はなかったからだろう。むろん額田部皇女個人の気持ちとしては自分が産んだ竹田皇子を天皇にしたいと思っていた可能性もあるがそれはまだ先のこと。もし額田部皇女からの推薦があれば、かなりの力になることは間違いないのだから、皇位を望む穴穂部皇子が額田部センセイ様からなんとかひとつお墨付きを得られないまでも、「先のみかどがそれがしのことをなんと仰せだったか一言きかせてくだされい!」と思うのは当然だろう。しかし額田部皇女は殯(もがり)の最中で亡き夫の思い出に浸りつつひっそり先帝の魂を祭ってる最中なのだ、こんな時に思い込みが激しく独りよがりな男の粗暴な要求をきいてなどいられない。こういうタイプは現実がみえず自分の要求が通るまでダダをこねるので、「一言きかせてくだされ」に付き合ってしまうと二言三言まで要求され最後には「推薦の言葉」をもらうまで帰らないし無理に押し返そうとすると興奮のあげく逆ギレしてどんな暴れ方をするかわかったものではない。べつに穴穂部皇子に個人的な恨みがあるわけではないが、実際に体験するまでは到底信じられないような、想像を絶するようなめちゃくちゃな既知外が本当にいるんだぞ(老若男女とわず)。でここに三輪君逆(みわのきみ・さかひ)という敏達帝が信頼をよせていた忠臣がいた(「さかふ」とも読めるが「さかひ」がいいと思う)。彼が殯中の広瀬宮の警備を担当しており、穴穂部皇子を頑として中に入れなかった。激昂した穴穂部皇子は大臣の馬子と大連の守屋に相談し、三輪逆を処刑したいと騒ぎたてた。二人は揃ってハイハイと話をあわせたが、穴穂部皇子がこれにかこつけて何か皇位に近づくための策だなとは二人とも見ぬいている。馬子にしたら、穴穂部皇子が額田部皇女お気に入りの三輪逆を殺してしまったら、穴穂部皇子と額田部皇女の仲は回復不能なぐらい険悪になってしまうのがなぜわからないのか不思議だったろう。そうなったら穴穂部皇子の即位は絶望的になくなり、まずます守屋を追い詰めることになって笑いが止まらない。だが、守屋にとっては馬子が擁立した用明天皇を引きずり下ろす機会なのでその話に乗りますよという意味での「ハイハイわかりました」なのである。天皇を引きずり下ろすなんて発想は謀反人じゃないかと思うかもしれないが、用明天皇は正当性のない皇族を権臣が政治的都合で勝手に擁立した「日本史上最初」の天皇なのであってこの時は「かつて前例にない」事態なのである。物部守屋をはじめとするアンチ蘇我の連中から「ニセ天皇」とみられていても何の不思議もない。そこで物部守屋は軍勢を率いて出発したが、なぜか広瀬宮にはいかないで池辺を、つまり用明天皇の皇居のあるところを包囲してしまった。つまり現在の朝廷政府を包囲してしまったのである。紀には守屋と穴穂部皇子の二人で包囲したかのように書いてあるが下文に皇子は「大連のところに行こうとして云々」「…磐余(池辺を含む地域)に着いて云々」等とあるから軍を率いて先ず皇居を包囲したのは守屋だけだとわかる。守屋ははじめからクーデターを敢行するつもりだったが、タイミング悪く蘇我馬子の身柄を取り逃がした。この後、紀では穴穂部皇子(一説には泊瀬部皇子との二人)が三輪逆の逃亡先である海石榴市宮(つばきちのみや、額田部皇女の別荘)に守屋を行かせて殺させたというが、穴穂部皇子は方向違いの磐余に向かっていたともあるから、穴穂部皇子の考えでわざと池辺磐余から守屋を引き離したことになる。おそらくさすがの守屋も用明天皇をニセ天皇じゃないのかと薄々思いながらも、前例のないことだからどこまで過激なことが許されるのか判断つかず、躊躇いがあった。それをみてとった穴穂部皇子は守屋に引き止められることを恐れて自分一人の手で政権奪取を完遂しようとしたのだろう。守屋も天皇殺しの汚名をきる覚悟まではなく、海石榴市宮に行けという穴穂部皇子の命令に従った。とはいえ三輪逆を斬ったところで、額田部皇女との仲が疎遠になるばかりでこっちの陣営には何の得もないのだから、守屋にしたら格好だけで実際に三輪逆を捕まえる気などなかったろうが、末端の兵が先走ったか、蘇我の工作員が潜入していたか、穴穂部皇子に言い含められた者が手を出したか、なんらかの理由で三輪君逆を殺してしまった。紀の一説に「穴穂部皇子が自分で赴いて三輪逆を弓で射殺した」とあるから、これは穴穂部皇子の腹心が守屋の手勢の中に混じっていたというのが真相だろう。守屋は「しまった」と思ったろうがもう遅い。一方、紀には蘇我馬子が穴穂部皇子を諌め説得して諦めさせたとある。ここでどんな説得をしたのかまでは詳細が書かれていないが、察するに「三輪逆を殺した守屋は額田部皇女からは憎まれ、守屋とむすんでいるあなたも額田部皇女の敵になりますぞ。彦人大兄皇子も竹田皇子も額田部皇女もわたくし馬子とともに仏教仲間で一つになりましたぞ、同じ仏教仲間の用明天皇を殺害してはその後だれも支持しませんぞ。三輪逆が死んだ件については守屋に罪をかぶせてこっちに付けば、次の天皇はあなた様」くらいのことは言ったんだろう。実際、これ以降、穴穂部皇子は「皇弟皇子」(すめいろどのみこ)と呼ばれている。天皇の弟は多いのに一人だけこう呼ばれるのはつまり「皇太弟」の格だってことだ。これでコロッと騙されて、包囲を解いてしまったものと思う。守屋は磐余で穴穂部皇子と落ち合って、包囲が解かれていることと馬子が穴穂部皇子の隣にいることに驚き、かつすべてを察した。「三輪逆を斬ってきましたよ」と報告したが、実際は射殺なのに斬ってきたというのは守屋の裏をかいて部下に射殺させた穴穂部皇子への嫌味だろう。これには穴穂部皇子はばつがわるい。すると、蘇我はそらぞらしく心配そうな芝居で「天下はほどなく乱れるだろう」と嘆いてみせた。これも嫌味で、穴穂部皇子になりかわって、守屋にさらにデカイ嫌味で返してやったのだ。天下が乱れるというのは「内乱になれば武力でまさる物部が有利、さぁ我々蘇我は困りますなぁ」という意味だが、物部はもはや玉(ギョク)をもたぬのでせっかくの武力も使いようがないのを見越していってる。だから痛烈な嫌味なわけ。守屋は「おまえのような小物に何がわかるか」と答えているが、武力では物部がまさっていることはその通りなので、ここは「蘇我についてるのはうわべだけで実はおまえなんかに誰も心服してないぞ、おまえは何もわかってないがな」という意味。これは物部の強がりではなくこの段階では本当のことで、守屋はまだ皇族の中に味方をふやせる自信があった。
腹積もりや算段においては守屋はぜんぜん負けてる気はしなかったろうし、客観的にもこの段階ではその通りだったのだが、一般庶民は裏事情まで知らないからそうみない。守屋の考えを読めない蘇我陣営も、これで物部は封じられたと考え、かなり強気になっていただろう。当然、物部と蘇我の仲もどんどん険悪になっていった。

蘇我氏からの反撃クーデター

翌年(用明三年AD587、書紀は誤って用明二年とする)四月二日(05/16g水)
大嘗祭(といっても践祚大嘗祭は当時まだないので毎年の新嘗祭のこと)。四月は旧暦だから今でいう5月で、立夏すぎてるから中国式の暦では夏。大嘗祭は冬にやるものなのにこの年はなぜか夏にやっている。一説には前年の戦乱のため伸びたというが、前年の未遂クーデターは紀の編年では五月になっているので、冬には問題なく大嘗祭ができたろう。五月から始まって冬に及ぶほどの長々と続いた事件のようにも思えない。そもそも延期になったからって冬の行事を夏にやるだろうか? 季節はずれの新嘗祭はこの後も例がないわけではないがいずれも何かの間違いか極めて特殊な事情によるもので一般化できない。神道アンチがわざとへんなことをやったとも考えにくい(神道アンチはそもそも神道の祭祀などやらないだろう)。いちばん自然な解釈としては四月二日には何かの夏祭があって天皇がそれに参加したという記事が誤記されたのか。ただ、この後に起こった事件をみると、最初から蘇我派が守屋を殺害するためのクーデターというか宮廷内乱だったようだ(上に逆らうのをクーデターとはいうが同輩を排除するのをクーデターというのかどうかは知らんがたぶん合ってるだろう)。正面からの戦争では物部に勝てない。だからこれは神道派に十分に相談した上での、特例的な祭祀で、冬には冬でいつもの大嘗祭はちゃんとやっていたのだろう。ただしその場合でも大嘗祭という名前だったかどうかは疑問が残る。原資料は仏教側の資料に基づいた記事なんだろう。神道側からすれば菩薩も如来も観音も区別がよくわからないのと同じような話で、神道の祭祀のことはよくわからない仏教関係者が書いた資料に基づいた記事なのではないか。
で、クーデター計画の予定がこの時期になったのは昨年五月の事件以来、11ヶ月あって、当たり前だがこの間は、蘇我も物部もそれぞれ自派の弱点の補強にこれ努めていたはず。物部の課題は皇族の取り込みで、彦人大兄皇子・宅部皇子(やかべのみこ)・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)が脈あり、この3人のうち彦人大兄皇子は表面的にはやや蘇我寄りだが中立派(実は物部派か少なくとも完全中立派)。宅部皇子は宣化天皇皇子で、内心では物部派だが目眩ましに穴穂部皇子の親友として振る舞っていた(穴穂部皇子は実質は蘇我からも見放されているが形式上は蘇我派)。泊瀬部皇子は穴穂部皇子の同母弟で、守屋と連携していた頃の初期の穴穂部皇子とタックを組んで活動していたほどの積極的なアンチ蘇我だが、大志があり、完全なる蘇我派に扮して敵陣営に潜入していた。おおっぴらな物部派がいないが表面的にはとりあえず穴穂部皇子を神輿にしたままだったと思われる。すでに守屋は穴穂部皇子に実質裏切られており、仲が悪いのも世間に周知ではあるが、穴穂部皇子は情況がかわればまたコロッと帰ってくるタイプだろう。物部にはギョクがなくてしかたなく穴穂部皇子にいつまでもこだわってると思わせておくのが目くらましに丁度いい。ただ、この程度ではまだ物部にとって、再度のクーデターに打って出るようなわかりやすいタイミングとはいえない。対する蘇我の課題は軍事力の確保だったが、物部とならぶ武門の棟梁、大伴氏を引き入れることに成功した。大伴氏はかつては物部氏より格上の将軍家だったが大伴金村が蘇我稲目にはめられて失脚してから大連(おほむらじ)の地位を失っていた。この時の大伴氏とは大伴毘羅夫(おほとものひらぶ)と大伴齧(おほとものくひ)だが、毘羅夫のほうは後世の系譜にも名がなく系統不明。蘇我の滅亡とともに消えてしまった。ともかく、蘇我も物部も自派の弱点を克服しようとしていたが、以上の情況からするとタイミングを掴んだのは蘇我だったとはいえる。
で、クーデター決行のこの時に天皇は発病。これは芝居で出来ることじゃないので、クーデター計画とは別だろう。冬の大嘗祭を夏にやったからバチが当たったとも読めるが、そもそも夏にやらないだろうとは前述の通り。で、例によって天皇は仏教に頼って病気を治そうとしたが、六月約定(仏教約定)に反することになるから物部守屋と中臣勝海は猛反対。しかしこの約定は天皇不在で決められたものだから、当時の感覚では正統性に劣る。いま陛下が仏教に頼りたいと言い出したら引っくり返ってしまう。で、穴穂部皇子が陛下のために皇居に坊さんを連れてきたので守屋が激怒したというが、これは穴穂部皇子の裏切りに激怒したわけではなくて(そんなこた先からわかりきってること)、神聖な皇居に穢らわしい坊さんを引き入れたことに怒っている。これは陛下の急病(天然痘)という突発事態への蘇我と物部の反応だが、水面下で進んでいたクーデター計画は腰砕けになりかけていた。なぜならクーデター計画に参加してる者にとっては、陛下の急病はクーデター計画を喜ばない神の怒りと解釈される余地があるからだ。押坂部史毛屎(おしさかべのふひとけくそ)は帰化人系の氏族でクーデター派だったと思われるが、蘇我を裏切り守屋に内通してしまった。守屋は早速、河内の本拠地に退いて念のため戦争準備に備えたが、必ずしもまだ全面戦争になるかどうかはわからなかった。
中臣勝海は太子彦人大兄と竹田皇子の像を作って呪いをかけたが、ことが成就しないのを悟って彦人大兄皇子に帰服したと書紀は書いている。が、これは事実ではあるまい。呪いをかけたというのは蘇我派の誹謗だろう。「ことが成就しないのを悟り」っていうのは呪いをかけてたんじゃなくて何かの占いをやってた証拠だ。この段階で蘇我側は表面的には穴穂部皇子を時期天皇(皇太弟)としていたがこれは過去の経緯によるもので蘇我の本心ではないことぐらい中臣勝海もしってる。世間の読みでは蘇我の本命は竹田皇子(母は額田部皇女)、そして書紀はこの段階でもまだ彦人大兄を「太子」と書いているように、彦人大兄の正統性は卓越しており、彦人大兄皇子は蘇我についたとはいえどちらかというと中立派で物部討伐軍にも参加していないし、蘇我が勝手に「彦人大兄皇子も仲間だ」と宣伝してるのを黙認してたって感じだろう。そこらの空気は中臣勝海も知り抜いていたろうから、竹田皇子に対してならともかく彦人大兄皇子に対して呪いをかけるということは考えにくいと思う。だからこそ、今回は物部ヤバイと判断した勝海は、神道祭祀で皇室にお仕えする家柄のため崇仏派にはなれないわけだから保身をはかって彦人大兄皇子に帰参するしか選択肢がない。だが帰服した直後に運悪く蘇我の手の者に殺された。あるいは「ことが成就しないのを悟り」というのは部外者か蘇我派の推測であり、実は占いの示した指示に従って、物部と彦人大兄皇子を仲介しようとしたのか。それなら蘇我の刺客に襲われるのは当然かもしれない。
河内に引っ込んだ守屋は、一応、身内の者を馬子に派遣して事情説明しているがまるで馬子が首謀者だとは夢にも気づいてないような素振りのことをいっている。だが、まぁ時間稼ぎの嘘だろうな。対抗する蘇我馬子もさっそく秘密兵器ともいうべき大伴氏に連絡して、大伴毘羅夫は自ら馬子の護衛を買って出た。

同月十五日
用明天皇崩御。古事記では十五日だが書紀では九日に崩御。辻褄あわせとしては「九日に危篤に陥り十五日に崩御」とも考えられるが、古事記にはやけに十五日に崩御する天皇が多いので「九日が正しく十五日は公式な葬儀の日付」かもしれない。両派とも軍備を整え、高まる一方の緊張感だったが、天皇崩御に及んでいよいよ第二の内乱は避けがたい空気になってきた。

丁未の仏乱

用明三年(587年、書紀は誤って用明二年とする)四月
この月に用明天皇が崩御した時はいつ開戦してもおかしくないような情況だった。物部は軍事的にはさっさと蘇我を滅ぼしてしまいたいのだが、手元にギョクがない。手元にないだけで泊瀬部皇子(=長谷部王)や宅部皇子とは裏でつながっていた。問題は穴穂部皇子で、この人は用明天皇の「皇太弟」格だったからもっとも天皇の位に近かった。だが、はたからみると蘇我派のようにも物部派のようにも振る舞っており実はあまり考えてないタイプだった。次の天皇として蘇我馬子が穴穂部皇子を擁立する流れも大いにありえたしそれはむろんまずいことだが、この人は阿吽の呼吸とか腹芸とかできない人な上、すでに用明天皇の大喪の礼では宮廷に僧侶を入れて物部守屋がブチ切れたことがあり、守屋と穴穂部皇子の仲は気まずくなってた。ここで蘇我に利用されては困るが、かといって物部が言って聞かせてもわからないだろう。そこで守屋は自分の手元に隔離しようと考えた。

五月
物部守屋は穴穂部皇子を淡路島に狩猟にいこうと誘った。遊びにかこつけて拉致しようというのだ。この計画は漏れたが、穴穂部皇子に漏れたのではなく蘇我に漏れたのである。

六月七日
炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)と蘇我馬子は穴穂部皇子と宅部皇子を殺害する命令を出した。穴穂部皇子がいつなんどき物部側に走るか想像がつかないし宅部皇子については「彼は穴穂部皇子を煽ってる危険分子だ」とみてたろう。事情はともあれ、自分が天皇でもないのに皇位継承権のある皇族を殺害しようってんだから、この2人がどんなトンデモない人物なのかわかろうってものだ。皇族を拉致しようとした物部守屋もまさか蘇我がそこまでやるとは予想しなかった。逆にいうと、蘇我陣営はそれだけ焦っていたともいえる。武力では物部が勝っているのだから後は物部がギョクを奉じてしまったら崇仏派の陣営は一巻の終わりである。守屋が皇族を擁立できない以上、いくら戦力で上でも意味がない。ここで勝負は八割か九割ついてしまったといえる。いくら軍事力で上でも、我が物部には(少なくとも公式には)皇族がおらず蘇我には皇族がたくさんついているのだから、賊軍になることを虞れて造反者や裏切り者が出てくるし、蘇我も内応をしかけてくるだろう。守屋としたら電光石火で崇仏軍を撃破してさっさと泊瀬部皇子(=長谷部王)を擁立せねばならない。時間をかせがれると強大な物部軍は内部から崩壊する危険があった。泊瀬部皇子は崇仏派のふりして蘇我陣営にいるので、守屋に内通しているスパイでもあるのだが、穴穂部皇子も宅部皇子も亡き今、正確にいうと泊瀬部皇子は守屋の主君なのである。物部の敗因は第一には皇族の身柄を陣営内に確保しそこなったことだが、第二案として戦場において泊瀬部皇子が物部に内通して崇仏軍を裏切るというシナリオはできていたが、物理的な下準備がうまくいってなかった。第二の戦略は未完成だったのが第二の敗因である。皇族将軍であっても実質的な将軍を兼ねていることはいくらでもあることだが、実権の曖昧な「お飾り」にすぎないこともある。泊瀬部皇子がまさにそれで立場上、総大将(総司令官)ではあるがそれはあくまで形式で、蘇我馬子は疑っていた。泊瀬部皇子が初期の頃は排仏派として行動していたことは秘密でもなんでもないことだったから、疑い深い人間からうさんくさく観られるのはやむを得ない。二番手の竹田王や三番手の厩戸王は実質的な武将でそれぞれの部隊を率いていたし、泊瀬部皇子も「長谷部」の部民から徴発した自前の手勢はもっていたろうが、形式上は総大将だから親衛隊にするのが関の山で独自の別行動などできないし、崇仏側の重鎮らとともに幕営内にいるのだから監視されているも同然だ。地位だけはやたら高いものの、これでは本当のお飾りで、内通して裏切るも糞もない。

七月
開戦の火蓋を先に切ったのは蘇我だ。これは物部側の将兵から密かに投降したいとの申し込みがかなりの程度きており、十分いけると踏んだのだろうが、むろんその中には守屋の仕込み、つまりウソの降伏も含まれてはいたろうから、それだけで決断したわけではない。馬子の嫁は守屋の妹で、馬子は守屋の妹にあれこれ吹き込まれて守屋を滅ぼしたという。守屋とその妹は仲が悪かったのか? この時代、不動産を含めた家産を所有、管理しているのは女性だったから、守屋の妹は物部氏内部の、物資の補給先や運用経路について熟知していたのだろう。そこで、蘇我の強みは物資の豊富さなわけだから、物部の兵站を断つ兵糧攻めを献策したのではないか。蘇我は物資の流通も支配していたから開戦よりかなり前の段階で兵糧攻めに持ち込むのは不可能ではない。七月になって蘇我のほうから戦争をしかけたのは秋の収穫の直前で糧秣がもっとも少なくなる時期を狙ったものではないのか。ともかく泊瀬部皇子内通の段取りが整わないうちに蘇我から仕掛けられて開戦してしまった。

この戦争の名前について
この戦争、最近の学者は「物部戦争」といってたはずだがwikipediaみたら「丁未の乱」「丁未の変」「丁未の役」「物部守屋の変」とある。「乱」というのは単に戦乱が起こったという意味でなく「反乱」のことなので、今回のこの戦争にふさわしくない。「承久の乱」とか「応仁の乱」とかは言い方がすでに間違ってる。ちょっと脇道に逸れるが、「天皇の反乱」ってのは論理上ありえないので承久の乱という言い方は間違いなのである。鎌倉では勝手に「主上御謀叛」みたいな言い方してたが無教養な田舎っぺだからしょうがない。「応仁の乱」も室町幕府の内輪もめだから本当は「応仁の陣」とか「応仁の戦」とかだろう。今回のこれは「丁未の変」「丁未の役」はまぁギリギリOKとして、「物部戦争」とか「物部守屋の変」とかはおかしい。これは蘇我から仕掛けた戦争なのだから(いろんな意味で)。先に仕掛けたのが蘇我陣営だから、蘇我視点では「崇仏の戦い」か。中立的には「神仏戦争」だろうと思うがどうかな。

蓋をあけてみないとわからないのが戦というものだが、初戦のうちは、必死で戦う物部の強さは予想通り圧倒的で、蘇我の敗北は確定したかに思えるほどだった。だが、事前の調略が図にあたりやがて物部軍は崩壊した。

この時、厩戸王は四天王の像を作って勝利を祈ったというが、物部側にはカミに祈った者が無数にいたろうし、蘇我陣営では仏に祈った者がこれまた無数にいただろう。だから厩戸王が仏に祈ったこと自体はいちいち記事にするほどのことではない。のちに偉人になったから語り伝えられたエピソードがあってそれを挿入したにすぎない、というのが一般的な解釈だろう。しかし、厩戸王はもし勝たせてくれたら寺を造ろうと祈ったという。これが本当なら神仏を相手に駆け引き・取り引きをしようとしたことになり、これは典型的な黒魔術の類だ。これは厩戸王が実際に物部軍の調略を担当したことを暗示した記録なのである。仏を守護する四天王とは、日本で喩えていえば天皇を守護する四大軍事氏族、大伴・物部・久米・佐伯のことになる。で、何かしらの彼らに有利な条件を餌にして崇仏軍へと誘い込んだのだろう。久米・佐伯は崇仏側にでてこないから物部側に加わっていたろう。大伴は2つに割れて両方にそれぞれ味方する者がいたんだろう。年端もいかない厩戸王がそんな高等な陰謀の主体であるわけないだろうという反論も昔からある。しかしそれは現代人の思い込み。この時代の日本ではヤマトタケルの伝説が事実として信じられ、今でいう仮面ライダーやウルトラマンのように子供なら誰でも「今の世のタケルたらん」と憧れていたのである。現代の親だったら「危ないからバカなこたぁやめれ」と冷やかしたりおちゃらかしたりするんだろうが、当時は「近代主義的なこども観」(=子供とは大人の未完成バージョンにすぎないという考え方)ってのがそもそもない。大人も「カミの憑り坐し」として子供をみてるし、ヤマトタケル、雄略天皇、武烈天皇などの暴虐な少年英雄の類型を内面化しているので、子供の意見とか子供という存在自体を自分より格下とみる風習自体がないのだ。逆に畏怖しているのである。だから封建主義的な長老支配などこの頃の日本には無かったのである。仁徳天皇や宇治若郎子や葛城氏が勧め拡めてきた「儒教」なんてのは、むしろ女子供の支配を打破しようという「おっさんの復権運動」だったのである。まぁ、あれだよ、90年代後半に下北沢あたりでもりあがってた「メンズリブ」みたいなやつだなw

異説・四天王に祈ったのは5年前だった?
ところでこの四天王に祈って勝利できたので、約束通り四天王を本尊とする寺院を推古元年(593年)に建立した。それが今の四天王寺ってことになる。以上は『日本書紀』の記述。ところが『信貴山縁起』では聖徳太子が物部氏を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中で信貴山に至り、そこで戦勝祈願をするや上空に毘沙門天が出現、必勝の秘法を太子に授けたが、その日は寅年、寅月、寅日、寅の刻だったという。太子は自ら本尊を刻み、推古二年(594年)に毘沙門天を祀る寺院を建立した、それが今の信貴山寺なのだという(正式には朝護孫子寺だがまぁ普通は信貴山寺でいい)。『信貴山縁起』ははるか後世に書かれたものなのでこれで古代史を論ずるわけにはいかない。だから学者もこれを史実とはしていない。書紀の記述をパクって四天王寺の縁起を信貴山寺の縁起にすりかえた創作譚だとされている。だが俺はこれも古伝承の断片ではないかと思う。両者を比較すると、毘沙門天は四天王のリーダー格、多聞天の別名なので、四天王か毘沙門天かの違いはこの際ほぼ同じこととしてよいが、年月日と場所が異なる。
用明二年に一番近い寅年は敏達十一年(582年)と皇極元年(642年)だが後者は時代がズレすぎ、とっくに聖徳太子も死んでるので前者のことだろう。前者は書紀よりも5年前になる。寅月は旧暦の正月のこと、敏達十一年(582年)正月の寅日は2回あり、十日(ユリウス暦2月17日・火曜)と二十二日(ユリウス暦3月1日・日曜)があり、どっちか決められない。上述の俺の説では四天王とは大伴氏ら軍事氏族の暗喩であり、厩戸王は彼らに寝返りの打診をして成功したわけだが、こういうのは合戦の最中に急に思いついても成功するものではない。何年も前から下ごしらえを仕掛けておく。調略とはそういうものではないか。なので、この調略が合戦の5年前から始まっていたというのはまったく理にかなっていると思われる。5年前というと厩戸王は数え九才(満8歳)今でいうと小学校二年生ということになるが、幼すぎて陰謀や調略の主体となることは考えられない、なんてことはないってことは上述の通り。ましてや厩戸王は生まれながらの大天才でしかも早熟だった。俺だって小2の頃は『ゴジラvsヘドラ』みて大興奮しつつも公害問題、環境問題について真剣に議論してたわw 他にも天地真理に夢中になってる親戚のにいちゃんみてアイドル文化について考察したり『戦争を知らない子供たち』を歌いながらベトナム戦争支持したり左翼運動に対して国を憂えたりしてたわw ウルトラマンが帰ってくるってんでわくわくしたり、仮面ライダーっていう新番組をみて「これは毎週みよう」と決意してたわw ライダーといえば少年マガジンで連載されてた石ノ森章太郎の『リュウの道』、薄暗い歯医者の待合室で読みながら人類の未来について哲学的に考察を深めてたわw そういうことだから四天王っつったって厩戸王にとってのウルトラ兄弟みたいなもんよ、8歳児なんだからさ。ウルトラマンだって思想的に深いわけでそこは仏教にまさるとも劣らんよ?
あと場所の問題。用明二年の合戦の戦場と信貴山ではだいぶ離れていて、一見関係なさそうだが、確かに合戦のさなかに厩戸王だけこんな突拍子もないところにいたらおかしい。しかし『信貴山縁起』がいうように合戦の5年前ならどうか? 『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には「大和の信貴」でなく「河内の信貴」とある。当時は国境線が今よりもかなり東側を通って信貴山は河内に属していたのか、あるいは信貴山寺が西方の河内にあったのが後になって現在地に移転してきたのか、そこらの話はわからんがとにかく大和と河内の国境の山岳地帯であり、物部守屋の本拠地は今の大阪府八尾市のあたりだから、葛城山地をはさんですぐ裏口を窺う形勢にあり、物部氏の様子をスパイしたり工作をしかけるのには打って付けの場所ではないか。
敏達十一年(582年)の頃は書紀ではほとんど任那の問題ばかりで仏教をめぐる対立などほとんど出てこないが、仏教公伝は欽明朝のことで当初イザコザが多かったことは書紀にかかれているのに、敏達朝になってからパタリと止んだのは、敏達天皇自身が仏教に否定的だったので崇仏派は抑え込まれていたのだ。崩御してから急に排仏派と崇仏派の抗争の話ばかりになるってことは前回、敏達天皇の回にも書いた通り。だから敏達天皇の生存中は、朝廷での議論としては封印されあがってこなかっただけで、朝廷の外に一歩でればあいかわらず欽明天皇の頃のままに排仏派と崇仏派の激しい対立は継続していたのである。そういう中で崇仏派の天才児厩戸王が、排仏派の首領である物部守屋が率いる物部大軍団をどうやって調略しようかとあれこれ作戦を練ったり実際に寝返り工作をしかけたりしていたというのは、まったくありそうなことではなかろうか。

【データA】
敏達十一壬年(AD582)正月壬月、厩戸王九才(8歳)
十日甲日(02.19g 02.17j)火曜
廿二丙日(03.03g 03.01j)日曜

【データB】
用明二年丁年(AD587)七月戊月、厩戸王十四才(13歳)
五日戊日(08.16g 08.14j)木
十七庚日(08.28g 08.26j)火
廿九壬日(09.09g 09.07j)日

七月二十一日
この日に用明天皇の大葬の礼があったからそのだいぶ前には戦争は終結していただろう。ここで物部氏は滅び、蘇我馬子の独裁が確立した。

(※「英雄・崇峻天皇殺害の真相(崇峻天皇)」に続く)

・6渡り鳥の産卵は瑞兆なのか?

h30・01・23(火)改稿 H28年10月12日(水)初稿
5速総和氣王の乱」から続き

仁徳朝の実態
今日10月14日ってちなみに淳仁天皇と順徳天皇の正辰祭、略して淳仁順徳天皇祭なんだよね。淳仁天皇は崩御1251周年、順徳天皇は崩御774周年って意味でもある。ぜんぜん区切りよくないけど。wikipediaみると淳仁天皇の崩御は11月10日、順徳天皇の崩御は10月7日になってるが、あっちはユリウス暦での換算、宮内庁の正辰祭の日付はグレゴリオ暦での換算、日付は違っても物理的には同じ日です。淳仁天皇ってのは天皇でありながら先の女帝・称徳法皇と対立して敗北、皇位を追われ、まもなく病没なされたがこれは暗殺だろうといわれ、ながらく淡路廃帝とよばれていたお方。順徳天皇も上皇になってからのことだが承久の変で鎌倉幕府軍に敗北、佐渡に流されたお方。天皇たる地位にある御方でも、戦争で敗北することはあるし、そうなったら皇位から降ろされたり、島流しになったり殺されたりする。古事記に書かれた時代も同じ。
仁徳天皇も即位前には兄の大山守命と、即位後には弟の隼総和気と戦っている。大山守命も敗北したから「反乱」で済まされてるけど、もし勝っていたら、大山守命が天皇になっていたかもしれないわけだ。そして仁徳天皇は天皇でなく「大雀王の乱」という扱いになっていた。隼総和気王が勝っていたら、仁徳天皇の在位期間はどういう扱いになっていたのか、南北朝時代の「正中の変」みたいに武力で皇位をとりあう例が早まったはず。どちらも一代で決着したから王朝分裂にはならなかったが、危ないところではあった。そもそも父の応神天皇の在位中には反乱だの内乱だのは一度もない。権威絶大で天下太平だったのです。なぜ仁徳天皇の代でこうなってしまったのか、記紀をろくに読んだこともない現代人は仁徳天皇といえば理想化された伝説上の天皇と思い込んでるが、実態はさにあらず。日本書紀は仁徳天皇を英主として誇張し、古事記また「聖帝」と尊称すること書紀と異ならざれども、書紀においてすらその粉飾の跡歴然たり、古事記においては寧ろ無能無力の暗君たるを隠さんともせず。これ堂々たる抗議にあらずして何ぞ。仁徳帝への非難の声当時より盛んなればこそ確かなる事実として語部に伝承されたるにあらずや。
拙ブログの愛読されておられる方々が何人かいらっしゃって、そういう方々はすでにご存知の通り、「隼総和気の乱」というのは「大山守命の乱」の第2回戦・継続戦・復活戦という側面が強い。このブログでも大山守命の乱についてはまだまだ説明不足ではあるが。古事記は敗北者への叙情を歌物語として美しく歌い上げる例が多いがこれを後世の日本人によくあるただの判官びいきとみては十分でない。古事記は、日本書紀の儒教式歴史観への抗議の書でもあるのだ。逆賊、叛賊の類に対して「美しい悲劇の主人公」に仕立てるということを、敗北者への憐憫、日本人の美徳や文化の深みみたいな話で片付けることはできない。敗北者への同情はただちに勝利者への非難に通じるのは古代でもまったく同じ、いや古代のほうが厳しいだろう。

渡り鳥の産卵は瑞兆なのか?
雁(かり)は冬は日本、夏はシベリアで過ごす渡り鳥で、日本では産卵しないのに、珍しいことがあったと。で、記紀ではこれを「瑞兆」「吉兆」だとして、ことほいでるんだが、本当にメデタイのか? 自然の摂理に反した異常現象なのだから「不吉な凶兆」である可能性や、少なくとも吉でも凶でもない中立ということはないのか? 日本書紀によると旧暦三月五日というから、冬を越した雁たちがこれからぼちぼち北方へ飛び去ろうとしている頃だ。何かの迷い鳥とか体調不良の鳥が一羽だけ産卵したというなら、これまでもまったく見たことも聞いたこともないということは無いのではないか。ある程度の数の雁が、つまり群れの単位で産卵したということなら、シベリアと日本の気候が寒冷化していた可能性が高い。日本も同様に寒冷化していただろう。そしたら農業は不作の見通しになるかすでに不作の年を経験してるだろう。経験豊富な年寄りほど「雁が産卵するのは不吉」と判断したはずだし、仁徳天皇にしろ武内宿禰にしろそれぐらいの知識はあってもぜんぜんおかしくない。武内宿禰の歌も唐突に汝(仁徳帝)の御子(子孫)が永遠に統治するしるしとして雁が卵を産んだのですと言ってるだけ。雁の産卵がなぜメデタイのか説明もなく、日本書紀は理屈が理解できなかったから不審に思って、このオチの部分(最後の歌)をばっさりカットして、「長生きしてるけど雁の産卵は聞いたこと無いですなぁ」という歌だけ残してる。「じゃ、凶兆だとして、この凶兆を歌のもつ霊力で吉にかえるおマジナイをやったわけだろ」、と考える人も出てくるのではないかと思う。
それはまぁそうなんだが、しかし待て。雁は原文では「加里」とある。歌の部分だから1音1字で書かれてるわけだが、雁をカリというのは純粋な和語ではなく雁(ガン)の訛りだ。馬(マ)からウマ、梅(メ)からウメ、銭(セン)からゼニ、みたいなやつな。純粋な和語ではカリでなくアキサというらしい。じゃなぜここではアキサでなくカリといってるのか。「雁」の字に限らず漢字は意味が広くとれるので、あえてカリといってるのは漢字の「雁」を連想させるためだろう。アキサと、それと近縁の何かをわざと混同させているのだ。ところでアヒルという言葉は室町時代からでそれ以前には家禽としてのアヒルは日本にいなかったという説もあるがホントかね? 近縁種のガチョウは古代エジプトから飼育されてるんだが。ちなみにカモもカリと同じで「雁」(ガン)の訛り。地名の加茂・賀茂は「醸す」のカモで鳥とは関係ない。鴨を家禽化したアヒルも、雁を家禽化したガチョウも同じカテゴリーで認識されていたと思う。アヒルといっても現在のアヒル、または家禽化されたものとは限らない。大昔から日本にいるカルガモは渡りをしないで年中国内にいる。現代の生物学では雁とアヒルでは種がちがうが、同じカモ科カモ目で、昔は漠然と「野生のアキサと家禽のアヒル」または「渡り鳥のアキサと通年生息のアヒル」と大別して認識されていたのではないか。とすると意図的にカリという言葉を使うのは「アキサとアヒル」を意図的に混同させるためであろう。
アヒルやカルガモが国内で産卵するのは当たり前だ。これを渡り鳥の産卵という不吉な現象にわざわざ見立ててることになる。古事記では日女島に行幸した時、行った先で雁が卵を産んだとしているのに、日本書紀では茨田堤で雁が卵を産んだことが発見され、役人を派遣して事実を確認したとあり、その場所に行幸したとは無い。これを比べるとどうも同じ話のようにみえない。茨田堤で発見されたのは事実だが、凶兆とされ、対応は一時保留されていたのではないか。または吉とも凶ともされなかったので放置されたか。後日、日女島へ行幸した時に仁徳天皇は雁の卵の件を思い出し、武内宿禰を召し出して歌のやり取りをしたか、あるいは日女島での雁の卵はヤラセか。いずれにしても日女島での歌のやり取りは、凶兆とされた茨田堤の雁の卵(または吉とも凶ともされなかった茨田堤の雁の卵)を吉兆と再解釈してみせるためのショーだったのだろう。
ここで「茨田堤」と「日女島」という2つの地名が気になる。日本書紀によると茨田堤はなかなか完成せず、仁徳天皇が夢で川の神から人柱を要求された。要求はどこに住んでる誰と具体的だったので、帝は該当者を人柱にして堤を完成させたという。人柱、つまり人間を生け贄とした。歴代天皇の中でも、罪のない国民を拉致してきて生け贄にした天皇というのはなかなかいない。これだけでも酷いのに、生け贄の2人のうちの一人は自分の知恵で川の神を屈服させ、生け贄になることを免れたばかりかそれで堤はちゃんと完成したという。生け贄を要求する神は神といっても実態は魔物のことで、多神教のカミは高貴で神聖なカミ(高級霊)だけでなく人間の霊魂や、妖精や妖怪や魔物(低級霊)も含む。帝は低級霊に屈服したのに庶民のほうが自力で魔物を制したという事件は、仁徳天皇の威信を当時どれほど深く傷つけたかわからない。庶民から笑いものにされた史上初の天皇だったかもしれない。隼総和気の反乱の背景の一つでもあろう。仁徳帝にとってトラウマのような場所、それが茨田堤で、まさにその場所で雁が卵を産んだのだ。これが凶なら、生け贄事件は今後も仁徳帝にとって傷であり恥であり続けるという暗示に受け取られようが、もし逆にこれが吉なら、仁徳帝の威信が回復する予兆と意味付けできる。
「日女島」は、今出版されてる古事記や日本書紀の注釈では大阪の西淀川区の姫島と決めつけたものが多い。ここには姫島神社があり、阿加流比賣が祀られているが、たぶんここじゃないだろう。ここは稗島といってたのを江戸時代に記紀にこじつけてわざわざ姫島と改名したらしい。阿加流比賣が祀られた最初の神社の候補は他にも東成区の比売許曽神社や、平野区の赤留比売命神社(三十歩神社)や楯原神社があるが、おそらくは、大阪市大正区の八坂神社境内摂社の姫島竜神社ではないかと思われる。まぁ、仁徳天皇の頃すでに大阪各所に分社があったとして何の問題もないわけで、必ずしもここだと決めなければならないものでもないが…。これらの諸社は例の比賣碁曽社(ひめごそのやしろ)だ。「例の」というのは以前にこのブログで書いた、息長氏の本拠があった住吉の平野区の産土神ってことだ。息長氏を近江に国替えして、海外進出論(新羅征伐論)の浪人どもの中心になっていた危険人物を退去させたが、人々はこれに不満を抱き、民間の語部(かたりべ)どもは春山秋山の物語をつくって仁徳天皇を風刺した、というところまでは話した。あの経緯によって、比賣碁曽社は当時は庶民の娯楽芸能のセンター(従って情報発信のセンター)になっていたとともに、比賣碁曽社は新羅征伐を連想させる場所なのである。新羅征伐といえば神功皇后そして天津神の神託によって皇位を授けられた胎中天皇=応神天皇。神功皇后伝説の主要な登場人物である武内宿禰をこの場所にわざわざ呼び出したのはこの連想を一層確かなものとするためであり、応神天皇伝説を再演してみせるためだろう。神功皇后の神がかりのシーンで武内宿禰は琴を鳴らしたように今回も琴を鳴らした(古事記には明記してないが神功皇后の神がかりの際に琴を担当したのは武内宿禰だったと日本書紀にある)。琴を鳴らすのは神託を仰ぐ儀式だが、ここではたんに自作の歌に興を添えているだけだ。が、むろん自分の歌を神託になぞらえているわけだ。その歌はまず普通に「長生きしてるけど雁の産卵は聞いたこと無いですなぁ」と歌う。これは武内宿禰の個人的な意見の表明。次に琴を鳴らして、つまり神の託宣として、「汝(仁徳帝)の御子(子孫)が永遠に統治するしるしとして雁が子(卵)を産んだのです」と歌う。鳥は神話の中では天津神の象徴として出てくる。普通は産卵しない鳥(=天津神)が今回この日本で子を産んだという歌は、それが詠まれた場所の力によって、応神天皇の誕生を否が応でも連想させる。これが威信回復のためのショーだというのは庶民にも丸わかりではあるが、わざわざ日女島にきてこれをやるのは一般向けのアピールでもあり、相当気を使った演出とともにそれなりに下層民へ向けたバラマキもあったろう。庶民は現金なもので、案外こんなので「人気」は回復するのである。「威信」が回復したかどうかはわからんが。
で、これを企画演出したプロデューサーは記紀には片鱗も書かれてないが、石之比賣ではないかと思われる。一応、ダンナは皇位にあって在位してるが、隼総和気の乱もこの頃まだ終結しておらず、茨田堤の一件でも落ち込んでいたのだろう。それも原因は八田若郎女の入内に自分が反対してるせいなのだが、石之比賣の言い分としては「八田若郎女など妃にしなくても、仁徳帝は応神天皇の正統の後継者として問題ないのだ、『八田若郎女か女鳥王かどちらかを妃にしないと正統でないのだ』という世間の考えは間違っているのだ」、と声を大にして訴えたいところだろう。武内宿禰は年齢からしてもこの頃はとっくに隠居してたと思われる。でなければ老害化して嫌われていた可能性もあるだろうが、いずれにしろこの老人を引っ張り出せるのは石之比賣をおいて他にいたとは思われない。葛城氏の総領たる襲津彦(曽都比古)がスキャンダルにより失脚、他の息子や孫もいい加減なのが多かったが、すでに葛城系の皇太子(後の履中天皇)も生まれて外戚となっていたし、いろいろ不安や問題はあるにしろ、ともかく葛城氏は平安時代の藤原氏のごとくに繁栄しつつあった。人間ってのは年寄りになるほどウルサ方になっていくし、ほどほど繁栄してる時には気も緩みがちで、ウルサ方は鬱陶しくなる。つまり老害だ。こういう爺さんの相手するのは孫娘が上手いってのもよくある話で、もしや武内爺さんの介護役って地位が石之日賣の権力の源泉の一つだったりする可能性もあるんじゃないのかねw
ちなみに「汝が御子や終(つひ)に治らむと雁は卵生(こむ)らし」の「終(つひ)に」は原文では「都毘邇」(つひに)とあり、この毘の字を濁音で[bi]と読んだら意味が通らなくなる。毘の字の読み方は[hi]だという証拠は古事記の中に数々あるがこれもその一つ。毘古・毘賣の読み方はビコ・ビメでなくヒコ・ヒメが正しい。
これ書紀は仁徳五十年のこととしているが後述のように仁徳朝は32年間しかないので実は仁徳十五年のことだろう。この年は「茨田堤」で雁が卵を産んだ報告があった年で、日女島でのイベントは3年後の仁徳十八年と思われる。

巨木伝説と日本独自の太陽暦
「神名帳」の和泉国大鳥郡に等乃伎神社があり、これは現在、等乃伎神社(とのきじんじゃ)がある(大阪府高石市取石2-14-48)。高樹があったところという。境内には楠木が植えられているが、大昔はここに巨大な楠木があったのだろう。大昔はこの神社のすぐそばまで海だったというから、淡路島もよくみえたんだろう。淡路島にある柏原山・諭鶴羽山・妙見山を「淡路三山」というが、地図をみると直線上に高安山・等乃伎神社・柏原山・諭鶴羽山がならぶ。妙見山だけはこの線から大きく北にずれていて関係ない。この直線は30度ほど北に傾いており、冬至の日の出の方角と夏至の日没の方角を結ぶ線になる。等乃伎神社の大楠から、冬至の日の出をみると太陽はちょうど「高安山」から昇る。また夏至の日没をみると太陽はちょうど「淡路島」の諭鶴羽山または柏原山に落ちる。逆にいうと夏至の日没には大楠の影が「高安山」に向かって延びていく。冬至の日の出の時には大楠の影が「淡路島」の諭鶴羽山か柏原山をさして延びていくわけ。諭鶴羽山の山頂には「諭鶴羽神社」がありこれも由緒の古い神社。この巨木信仰は、暦を制作するための太陽観測と結びついており、太陽信仰でもあることがわかるだろう。如上の「影がさす」の意味も理解できれば「国中が日陰になって邪魔だ」とかの解釈はありえない(物理的にもありえないが)。「だから伐った」という理由も成立しない。
船を造るため、という理由も成立しない。仮に、いくら木材が不足したからといってこんなとてつもない太陽信仰そのものともいえる神聖なる御神木をばっさりやっちゃって、問題なかったのか? 東京オリンピックのための街中の整備のためと称して都内の樹齢100年以上にもなる街路樹が何百本も容赦なく伐採されてるが、ちゃんと検討されたのか、都民としては寝耳に水なんだが。まったくゼネコンの金儲けのためのオリンピックならやめちまえと思うがな。これらの樹木を育てるのにどれだけ年月かかってるのかわかってるのか。まぁ現代の話はさておいて、この古事記にでてきた巨木も自然に倒れたのならしかたないがそういうふうにも書かれてないし、天皇の威令あってこそ伐採できたという話なのだろうか? 当時も批判はあったのではないか。いくら造船業が盛んになったの、輸送船や軍艦が不足したのといっても、御神木を伐らねばならぬほど木材が不足するとは考えにくい。日本中が禿山になっていたとでもいうのか? この謎解きは後回しにして、まず船の話をしよう。 
巨大な御神木を伐って「枯野」という高速船を造ったという話なんだが、『日本書紀』は仁徳天皇ではなく応神天皇の時の話としている。いずれにしろ応神朝~仁徳朝は海上輸送と海軍が発達して巨船の建造が盛んだったのだろう。書紀によると、応神五年十月に長さ十丈(約30.3m)の船を造らせそれを「枯野」と名付けた、そして応神三十一年八月、耐用年月のきた「枯野」を分解してその材木で塩を焼いたという。この間、約26年弱。ざっと検索してみたら現代でも貨物船の耐用年月は20年~25年という記述や、法定上は総トン数2000トン以上の船舶で15年とする記述などが見つかる(この「トン」はメートル法の重さの単位ではなくヤードポンド法の容積の単位。加山雄三のクルーザーが30.56mで総トン数104トンだとか、総トン数20トンの船だと全長15m~20mくらいだとか、カティサークが65mで963トンだとか出てくるので、「枯野」は約100トンぐらいに相当かな?)。この時代で30mの巨大高速船が26年弱も耐用年月があったというのはかなり高度な造船技術があったということになる。
で、御神木と高速船「枯野」号との関係なんだが、結論からいうと、「枯野」は御神木から造った船ではない。書紀と古事記の食い違いからそれがわかるのだ。
この話は、3つの部分からできている。
 a)和泉国の兎寸河(とのきがは)にあった巨大な木の話
 b)「枯野」(かるぬ)という高速船の話
 c)燃え残りの材木から作った琴の話
そして、日本書紀にもほとんど同じ話があるのだが、書紀の場合、仁徳天皇ではなく応神天皇の話となっている上に、a)の巨木の話が無くてb)とC)だけで話ができている。で、上述のように建造から廃棄までが約26年も経っている。これおそららくb)の「枯野」という高速船が造られたのが応神天皇の時で、c)の耐用年月のため分解して燃やして琴を作ったのが仁徳天皇の時だったのを、古事記は仁徳天皇、書紀は応神天皇の巻の中にひとまとめにしたのだろう。しかしa)の巨大な御神木の話は書紀に無くて古事記にしかないのだから仁徳天皇の時の話であり、だから書紀では「枯野」は仁徳帝の時ではなく応神帝の時に、和泉国の御神木からではなく、伊豆国のただの材木から普通に造られたことになっている。伊豆国田方郡の狩野郷(今の伊豆市のうち修善寺町と旧天城湯ヶ島地区)には、『天城越え』で有名な「浄蓮の滝」のある狩野川が南北に流れている。伊豆市の旧天城湯ヶ島地区の松ヶ瀬には、狩野川のほとりに「軽野神社」(延喜式内社)があり、応神天皇五年に伊豆国に造船を科した際の造船所跡とも、船材を樹る山口祭斎行の場所とも云われるという。その真偽はともかく狩野郷とか狩野川とか軽野神社とかの「狩野」「軽野」がカルヌ(枯野)の元になった地名か、少なくとも枯野にちなんで付けられた地名だろうから、書紀の伝承は否定できない。
そうするとb)c)の話とa)の話は元は無関係で、a)の原形は御神木を伐って船の建材にした(ただし一般的な船であって「枯野」ではない)という話だったんだろう。船を作ったって部分が共通だったため古事記はこれを混同してひとつづきの話にしてしまっている。御神木の話は仁徳天皇なのに、枯野を建造したのは応神天皇だから、そのままだと時系列がおかしくなるので古事記ではすべて仁徳天皇での出来事としているわけ。
そうすると仁徳天皇の時に御神木を伐った当時は、「軽野」はすでに現役中で、まだ廃棄される前だったんだろう。だから伐った御神木で船を造ったというのは木材としてもったいなかったからというだけで深い意味はなく、御神木を伐った理由も「船を造るため」ではありえない。上述のように御神木まで伐らねばならないほど木材が不足したとも思えない。
では御神木はどういう理由で伐られたのか? 国中が日陰になって邪魔だからというのは物理的にありえない。そもそも、こんなすんごい御神木を伐っちゃって、当時の人はタタリとか怖くなかったんだろうか? むろんタタリを怖れる人々からの猛反対もあったに違いないが、あるいはこういう意見もあるかもしれない、「伐採にあたっては巫女の神懸りかもしくは占いで神の意志を伺って許しを得る、という神事、祭祀が行われた」んだろう、と。しかし俺はそうは思わない。伐採したい側もそれに反対する側も、自分の側を非とする御神託がでたら困るから、神意を伺うようなことはあえて避けたろう。で、伐採しようって側はなぜそんなことを言い出したかだが、タタリが怖いというのはこの御神木の本来の存在意義を認めた上で、御神木と無関係な別の「ある目的」のために伐らねばならない場合に「タタリが怖い」となって、御神木は守られ、その「何らかの別の企画」は頓挫するわけだろう。「タタリが怖くない」のは御神木の存在意義そのものが邪魔だという場合だ。つまり御神木とは無関係の何らかの目的があるわけではなく、御神木を滅ぼすことそれ自体が目的なのである。
この御神木の信仰とは、上述のように、暦を制作するための太陽観測と結びついていた。この暦は、旧石器時代の巨石文化に遡るもので、「山当て法」という原始的な太陽観測によって四分至(春分・夏至・秋分・冬至)を知るシステムだが、そこまで出来ていたら独自の太陽暦など容易にできたはずであり、この時代には中国の陰陽暦とは別の独自の太陽暦があったんだろう。
これに対して中華式の暦は遅くとも応神朝には採り入れられていた。おそらく「後漢四分暦」といわれる暦で、朝廷や上流貴族には命令なので早く普及したろうが、庶民はそうはいかない。日本には独自の太陽信仰にもとづく暦があり、伝統的な習俗とも結びついているので庶民階級には中華式の暦はなかなか普及しなかった。それで伝統的な暦の中心を廃絶させる意図があったのではないだろうか。だが、こういう急激な漢化政策がまた仁徳天皇への批判となり、大山守の乱以来の、国粋派からの反感をよぶのであった。

八田若郎女は「皇后だった」のか?「皇后じゃなかった」のか?
ところで、古事記は石之比賣が最後まで皇后だったことになっていて、八田若郎女とは結婚していないのに、日本書紀では磐之媛が途中で都合よく薨去してくれたので、後添えとして八田皇女が皇后になれたことになっている。だから女鳥王の玉釧のエピソードも皇后役が古事記と日本書紀では別人だ。ここのところは普通は古事記が正しい(というか伝承の原型)というほうが有力で、日本書紀が正しいという説はきいたことがない。日本書紀は仁徳天皇を有徳の英主に、武烈天皇を不徳の暗君に仕立て上げて、王朝交替(易姓革命)のように演出(脚色)しているという通説からすると、磐之媛に振り回されっぱなしの仁徳天皇があまりに情けないので、日本書紀は「帝はちゃんと希望通り八田皇女を皇后にできたのだ」ということにして歴史を改竄したのだ、ということになる。普通に考えると、なにも磐之媛が死んだことにしなくても、妃が増える分にはいいじゃないかと思われそうだが、書紀の建前からいうと皇族が格下の「妃」で、貴族の娘が格上の「皇后」なのは筋が通らないし皇后は頂点であって同時に二人は制度上ありえない。かといって磐之媛が廃后(妃に降格とか、離婚とか)されたらトンデモナイ大事件になって朝廷の大混乱は想像もつかないから、捏造しなければならない話が無駄に増えてしまう。だからアッサリ死んでもらった訳だろう。石之比賣の目が黒いうちは、八田若郎女が妃になるなんてことは絶対にありえないのだから。
では書紀がいう、「仁徳朝の後半は八田皇女が皇后だった」という話はデタラメということになるのか? いくら日本書紀でもそこまで自由な創作はさすがに許されなかったんじゃないだろうか? おそらく八田若郎女は本当に皇后になったんだろう。ただしその事実が、古事記の記述と齟齬をきたすものであってはならない。石之比賣が皇后である事態と抵触せず、同時に成立するような意味での「八田皇后」。そんな矛盾だらけの話ありえなさそうだが、実はそれがそうでもない。
そもそも八田若郎女を妃にしたいというのは単なる恋愛感情もあるにせよ、それだけではなく、このブログで何度も説明しているような「政治的な理由」なわけだ。隼和気の乱が起こって天下二分の形勢になってくると、最早「お后様がコワイから」で済まされない。なにしろ敵は、八田若郎女と同等の価値をもつ女鳥王と結婚しているのだから、現状、上は朝廷の貴族たち臣連国造伴造(おみ・むらじ・くにのみやつこ・とものみやつこ)から、下は田舎の百姓、村娘、一介の町人、町娘に至るまで、腹の中ではむこうこそが正統の天皇だと思っている。そんなの気にしてないのは葛城氏とその取り巻き、及び帰化人ぐらいだろう。
そこで帝としては、八田若郎女と結婚はできないものの、せめて「なにかしら皇后っぽい地位」につけて、世間に対して彼女を優遇してみせないとならない。これなら石之比賣から叱られることもない。「なにかしら皇后っぽい地位」ってのは何のことやらわからぬが、そもそも八田若郎女が天皇としての正統な血筋の体現者なのだから、女帝を知ってる後世の我々からみると彼女を天皇にしてしまえばいいじゃないかとなる。しかしこの時代は女帝という概念すらなく、それに近いのは神功皇后の例だけ。言葉で説明すれば「天皇の母である摂政」。八田若郎女は独身なのだから今は天皇の母ではないが、将来の天皇の母になるかも、ならないかもわからない人ということは最低限できる(か?w)。神功皇后は天皇ではないから同時に息子の応神天皇がいた。記紀では神功皇后が薨去してから応神天皇が即位したことになっているが、これは奈良時代の観念で編年したため建前上そうなってるんで、実際は応神天皇は生まれた時から「天皇」とされていたのである。でなければ、何十年にもわたる神功皇后の摂政期間は「大空位時代」ってことになりかねない。だから仁徳天皇は自分が在位のままで、妹の八田若郎女を「応神天皇にとっての神功皇后的な存在」ということにした。「母と息子」ではなく「妹と兄」だが、男女のセットという意味ではまぁ似たようなもんだろうw たぶん大后(おほきさき:意味は現代語でいう「皇后」)という称号を献上したんだが、皇后は皇后でも、仁徳天皇の皇后「ではない」って建前にしたんだろう。
漢文の皇后(こうごう)は天皇の正妻で、産んだ息子が天皇になると皇太后(こうたいごう)に昇格する。律令制以前の日本では、天皇の正妻はオホキサキ(大后)で、皇極天皇の頃からは天皇の母や祖母はスメミオヤ(皇祖母)というようになるが、古くは産んだ息子が天皇になっても相変わらずオホキサキ(大后)。だからオホキサキには漢文でいう皇后と皇太后の両方の意味があることになる。で、八田若郎女に捧げられたと思われる「大后」という称号は、耳には石之比賣の称号と同じに聞こえるが、実質は石之比賣の大后ではなく神功皇后の「大后」だ。神功皇后は古事記では「大后」とよばれているが、仲哀天皇は崩御した後で応神天皇が在位していたはずだから、皇后は皇后でも、現在の天皇の配偶「というわけではない」(皇太后すなわち現在の天皇の「母」)。しかし八田若郎女には夫がいないから子供もいないので当然「天皇の母」ではありえないが、おそらく「仁徳天皇の配偶となって皇子(未来の天皇)を産む」という未来を確定事項として、地位称号を先取りしたものではないだろうか。「大后(=皇太后)なんだけど夫も子供もまだいない」とか「大后(=皇后)なんだけど現在の天皇の配偶ではない」という「なんだかよくわからない地位」は「よくわからない」から古事記は完全に無視。そもそも古事記の伝承を担った後宮の女性からすれば「地位は后妃だが、相手の男はいないよ」なんて処遇はバカにされてるか詐欺のように感じるので、無かったことにされたんだろう。「よくわからない」んだから日本書紀の編集部もよく理解できず、書紀では短絡的に「仁徳天皇の皇后」だったと解釈して処理してるのである。
神功皇后は応神天皇の母であるから、日常的な振る舞いとしては応神天皇より格上だったと思われる。仁徳天皇も名目上は在位しているけれども「朕は不徳なれば妹に政治を委ねてこれに仕えよう」といって妹の八田若郎女を目上と崇めた。だから大后の称号も彼女に下賜したのではなく「献上した」のである。そこまでしないと八田若郎女になんらかの処遇をしたように世間からはみえない。理屈ではなくて「世間からどう見えるか」がこの場合重要なのである。これは現在の我々からみれば事実上の「女帝」と解釈していいと思う。神功皇后も事実上の女帝ではあるが、形式的にはあくまで皇后であって同時期には応神天皇が在位していた(皇太子だったとしているのは奈良時代の改変)。

仁徳朝の編年
日本書紀は、仁徳二年に磐之媛が立后、三十五年に磐之媛が薨去。三十八年に八田皇女が立后(2年間は皇后なし、これは磐之媛の服喪の期間という設定だろう)、八十七年に仁徳天皇崩御とする。87年間の内訳は「皇后不在1年→磐之媛皇后34年間→皇后不在2年→八田皇后50年間」となる。
しかし仁徳天皇が87年も在位したってのは、むろん日本書紀の編年で、事実ではない。古事記だと、応神天皇の崩御が甲午年、仁徳天皇の崩御が丁卯年だから、この間、33年しかない。干支ひとまわり加算すると、93年になる。応神天皇崩御と仁徳天皇即位の間には宇遅若郎子の一件で2年の空位があるから、それを差し引くと仁徳天皇の在位は31年。ただし古事記では空位3年との明示はなく「多日を経ぬ」とあるだけで具体的な年数はわからぬ。がここは足掛け3年の意味を書紀が誤解したものとして空位1年とみる(その理由は後述)と32年。干支の1運をたして92年。こうすれば書紀の87年と5年差にまで縮まるが、古事記によると仁徳天皇は宝算83歳(日本書紀では宝算不明)なので、在位87年だの92年だのは無理。在位32年説だけが残る。
実際の在位は32年しかないから、磐之媛が薨去した仁徳三十五年とは実際には履中三年になる。履中五年には履中天皇の妃(黒媛)が薨去した事件があり、もしや磐之媛の薨去と関係するかも。日本書紀は「仁徳六十七年に備中での笠県守(かさのあがたもり:人名)による水虬(みづち)退治の話があった後、妖気ようやく動いて、叛く者一人二人始めて起こった。そこで天皇は善政に努めたので天下太平となり二十余年間なにごとも無かった」、と書いている。これ文法的には、87年間の在位のうち仁徳六十七年という年だけ謀反が起こって、その前も後も平和だったという意味の文章だ。これの何がおかしいかというと「叛く者一人二人」の具体的な内容が何も書かれてないし、これ以前の四十年に隼別の乱、五十三年に新羅への出兵、五十五年に蝦夷の乱、六十五年に飛騨の両面宿儺の乱もあったのに、六十七年になって「始めて起こった」というのは書紀の記述内容に矛盾している。これは明らかに再編集した時の修正ミスで、「二十余年」がもとは「十二年」だったんだろう。治世のうち最初の十二年までは平和だったがその後、宿儺の乱や隼別の乱が起こった(「叛く者一二始めて起こる」)というのが原形だろう。それと平和から戦乱への変わり目の象徴的な事件として、備中での水虬退治があげられているわけだが、これとよく似た事件が仁徳十一年の茨田堤の人身御供で、この事件で仁徳天皇が世間からの笑いものになってしまったことは別のページで書いた。この事件で仁徳帝の威信が地に落ちたことは間違いないので、ちょうど平和から戦乱への転換した時期に合致している。どちらもヒョウタンを使っての人間の知恵の勝利をいってるが、茨田堤では河伯(かはのかみ)として一応神様扱いなのに、備中の話では水虬(みづち)としていて完全に魔物扱い。おそらく備中の話は、茨田堤の人柱問題が進行している最中に起こったことで仁徳天皇を諌めるため(もしくは非難するため)の作り話か芝居だろう。それが同時に人柱になる者にとっては生き延びるためのヒントになっている。水虬は爬虫類系の化け物だからこれが暴れていたのは夏だろう。茨田堤の話は十一年の冬十月というがこれはあくまでも堤の建設に着工した日付であって事態が完了した日付ではない。すると水虬退治は翌十二年の夏、茨田堤の話が落着したのはその直後だろう。また初めて八田皇女を妃にしようと言い出したのも、磐之媛に初めて拒否されたのも二十二年春正月だが、これも正しくは十二年。隼別の乱は仁徳四十年だが八田皇女が皇后になった年を元年として数えると八田皇后三年であり、おそらく隼別と女鳥王の駆け落ち事件は仁徳十三年の事件だろう。八田皇女が立后したという仁徳三十八年は仁徳十八年ではないかと思う。
他にも書紀に書かれている全事件はその年次をことごとく修正して年表を作り直さねば史実を復元できない。五十三年の新羅への出兵は八田皇后十六年にあたり、実は仁徳十六年の事件。五十五年の蝦夷の乱は八田皇后十八年にあたり、六十五年の宿儺の乱は八田皇后二十八年にあたる。この二つの乱は実は仁徳十五年に勃発して仁徳十八年に終息したんだろう。四十一年の百済の酒君(さけのきし)の不敬事件は八田皇后四年にあたり、おそらく仁徳十四年。新羅も百済も、それぞれの国内で仁徳天皇に忠誠を誓う派閥と、隼別王側について仁徳天皇の朝廷を軽んずる派閥に分かれていたのだろう。
他の事件も多いが大量になるのでここでは書かない。だが、もう一度まとめると、仁徳天皇の治世は十二年まではうまくいっていたが、茨田堤の件で権威失墜。翌十三年には速総別王と女鳥王が駆け落ちしてからは、蝦夷、隼人、新羅、飛騨が隼別王の側について大乱となった。十八年に八田若郎女を摂政皇后(というか女帝的な地位)に立ててようやく大乱は終息した。

仁徳朝の編年
日本書紀 「皇后不在1年間→磐之媛皇后34年間→皇后不在2年→八田皇后50年間」 計87年間
 修正値  「通常期間12年間 →→→→ 戦乱期5年間 →→→→ 八田皇后14年間」 計31年間

・永遠の乙女~吉野川妖精事件~

H29・11・13(月)改稿 H29年4月12日(水)初稿
まえふり
俺の世代は「男も少女マンガ読むのか」と初めて言われた世代で、俺も同世代の例に漏れず高校の時は友人(男)と一緒に『ぶ~け』を毎号読んで、ある時は単純に面白がって盛り上がり、またある時はえらそうに作品論を語りあったりしてたもんだが、ストーリーとかはほとんど忘れたw まぁそれぐらい、恋愛話とかは興味ないというか、少年マンガな戦争ものとか合戦とか武将とかのほうが好き。でもおかげで(何が「おかげ」だかわからんが)、今でも「レディースコミックYOU」とか読んでるよ。面白いよなw あの雑誌、OL向けな作りしてるけど、田舎の主婦と都会のおっさんしか読んでないんじゃないの?
で、『古事記』の話だが、このブログで前から言ってることだが、古事記の元になった語部(かたりべ)系の資料は、女性の好みにあわせて編集されているっぽい。これだけでは稗田阿礼が女性だってことにはならないが、語部の多くが女性だった可能性はある(稗田阿礼の話は猿女氏の女系継承の実態の解明と絡んで長くなるので今回は省略。これは面白い議論なので、いずれ詳しくやります)。雄略天皇の章も血湧き肉踊る合戦の話は皇子の時(安康天皇の章)に一件あるだけで、即位してからは女がらみのノンキな(ロマンチックな?)歌物語ばかりで、文学的には御大層なものなんだろうが、太平記とか三国志とかみたいなカッコイイ世界を期待してると正直ねむくなる。俺は小学生の頃から古事記を読んでるので、そういう色気づく前の少年時代の感想はよく憶えてるわけよ。

「吉野の童女」の章ってどんな話かというと…
だが中学とか高校とかの思春期にもなれば、多少は艶っぽい話もわかるようになるわけで、例えばこの雄略天皇の章では、雄略天皇(その時の天皇自身の年齢は若いのか老けてるのか不明)が、神仙の住む世界とされた吉野の山奥、吉野川のほとりで謎の乙女と出会ってその場で結婚したという。結婚つったって、単に体の関係に及んだってことを婉曲に表現しただけで婚儀など無かったのか、体の関係までいかなかったけど形式的な婚儀はあったよって意味なのか、両方あったってことなのか不明瞭(現代人が読むと不明瞭だが後述するようにここでは肉体関係をもったという意味の表記になっていることが判明している)。で、結婚だか性交だかまでしたのに、その後に宮中に連れ帰ったのか実家に置き去りにしたのかも不明瞭。その後、また別の機会に吉野のその場所に行ったんだが、そこで乙女に再会したのか、宮中からその乙女を同行したのかも不明瞭。仮に再会したのだとしても、約束があって期日どおりに来たのか偶然の再会なのかも不明瞭。ここで乙女は天皇の琴の音にあわせてただ舞うだけ、天皇は乙女の舞にあわせて琴を弾き、最後に一首詠むだけ、で終わり、最後まで乙女の素性も名も不明。…という話がでてくる。これは原資料が書かれた段階ではあまりに有名な話なので細部については当時の日本人みな熟知していたのだろう。だから略された。語部の芝居の台本だからな。例えば忠臣蔵のワンシーンを歌舞伎にする時にいちいち詳細な設定を述べないのと同じなのである。むろんそれだと現代人にとっては文章が簡単すぎて情況がさっぱりわからないことになる。それが古事記のこの章だよ。
この話はそういうわけで曖昧模糊としてまるで白昼夢のようだが、このポワ~ンとした感じが、特定の女子、どちらかというと漠然と一方的に好きなクラスメイトとかじゃなくて、付き合ってる最中の彼女か、舞と琴で共同作業だし。そういう彼女がいて舞い上がってる感じ、いや舞い上がってるんじゃなくて恋愛に酩酊してる感じか、そういう特定の女子に対する思春期の気分をうまく表わしてるようで、この章だけは好きだった(ということは今も好き)。「あぐらゐ」も「神の御手もち弾く」も雄略帝が「神がかり」の状態にあることをあらわすという説もあるがその説は不可。「神がかり」してるのは乙女のほうであって琴を弾いてる天皇は審神者(さには)の役割のはず。神がかりしてるのが乙女だとしても実際に神がかりの状態にあるのか、あくまで文学的な表現=喩えとしてそういってるのかは不明瞭。ラストの締めで歌を詠むのが乙女でなくて天皇だけなわけだからここは乙女が天皇に惚れたんでなくて天皇が乙女に惚れた話ではある。両思いなのか天皇からの片思いなのかは不明瞭。不明瞭だらけw 天皇サイドとしては、神がかりでこそなかったにしろ、恋してる最中って俗にいうポワ~ンとなってるってことで(喩えでいえば「神がかり」なのか「悪魔つき」なのかは知らんが)我を失ってることにはかわりないわけだよなw

名前も素性もしらない少女?
さていつもの謎解きに入ろうw
まず、現代の天皇の行幸を思い浮かべればわかるが、素性の知れぬ謎の乙女なんて天皇の一行と出会えるわけがない。だからここは語部の創作(とまでいかずとも演出、脚色)であるか、もしくは、これが事実なら天皇がお忍びで出かけたってことだろう。雄略天皇はもともと「お世継ぎ様」として生まれたわけではなく、皇位についたのはドタバタのイレギュラーな事件の結果としてである(雄略帝が最初から皇位を狙っていたような説をなす者もいるが、現代風の価値観にもとづく決めつけにすぎない。このへんの議論はいずれ市辺押歯王の受難の章で詳しくやるつもり)。わざわざ天皇の位という堅苦しく不自由な立場を望んだわけではないのだからこそ「お忍びで」って機会が増やされることになる。だからこそ『万葉集』の冒頭の歌、有名な「こもよみこもち…われこそはのらめ、いへをもなをも」の有名な歌があるわけだろう、あれもすでに即位していて、その上で「お忍び」で出歩いた時としなければたとえ貴族の娘だとしても一介の娘と天皇がお互いの正体を知らずに野外で対面しているという情況がありえない。

彼女は「妖精のニンフィーちゃん」なのか
で、この吉野川の乙女は名前も素性も知れないような書きぶりだが、そんなことがありうるか? 天皇や男性皇族は確かにあちこちに胤をばらまくのも仕事のうち、という側面があるにはあるが、その場合は胤をばらまいた先がどこなのか政府公式の官庁がしっかり把握していなければ意味がない。だからこの乙女が実在の女性だったら、名前や氏素性は知れているはずで、名も無き庶民層であっても天皇と絡んだ女性は古事記にはしっかり名前が書き残されている(大魚、置目など)。そこで、この乙女は人間でなく、吉野川の川の精霊だなんて説も出てくる。精霊説は現代の学者の説で、吉野が神仙郷だと信じられ、『万葉集』や『懐風藻』に神婚譚が伝わっているという前提が根拠になっているが、それは奈良時代の吉野観であってそれよりはるか以前の雄略朝の時代とは情況が違う。懐風藻などの伝説も文芸上の創作であって、厳密には「伝承」ではない。雄略帝の御製「あぐらゐの神の御手もち弾く琴に舞ひする乙女、常世(とこよ)にもがも」という歌の「常世にもかも」は単に「永遠にこのままであってほしいなぁ」という意味にすぎず、異界としての「常世国」(とこよのくに)の神仙郷の観念はこの時代まだ無い。さらに、こういうシチュエーションはケルト神話とかにありそうだけど日本神話ではあまり聞かないパターンじゃなかろうか。日本なら速秋津日女神(はやあきつひめのかみ)なり瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)なりが現身(うつしみ)をあらわした等というところだろう。ちょうど同じ雄略天皇の章で葛城の一言主神が現身をあらわした話がでてくる。だから別に、川の女神だか水の妖精さんだかが現れて天皇の琴にあわせて舞い踊ったりしても、別にそこまでなら不審には思わない。俺は神様を信じてるからなw 西洋では水の妖精は美しい女性の姿だが、妖精と人間が結婚するにはタブーを守らねばならず、妖精が水のそばで夫に罵倒されると水に帰ってしまう、夫が不倫した場合妖精は夫を殺さねばならない、水に帰った妖精は魂を失う…。タブー多いなw そのため悲恋物語が多く伝えられている。この知識があって初めて『水色のプリンセス -水の精-』(作詞三浦徳子、作曲小室哲哉、編曲ユーミンの旦那)の詞の意味がわかるw ようつべで聞いてみろよw だが古事記のこの部分がおかしいのは、ケルト神話だって「その乙女は川の精霊で云々」と明言されるところ、この乙女が吉野川の精霊ならそう書けばいいのに単に「をとめ」だとしか書かれておらず、普通に読めば人間の少女だろう。読み手が意識を集中してこの子は精霊だと積極的に思いながら読まないと、彼女が精霊なのかどうかは甚だしく不明瞭であり、自然に読めない。だから普通の人間の少女とみるのが理性の上では妥当なんだが、川の精霊だっていう学界の説もフワ~ンとした魅力を感じないこともない。折衷案としては、突飛なことをいうようだが、人間の女の子が「妖精さんごっこ」をしていたのではないか? そういえば実は今年は「コティングリー妖精事件」100周年だったのだっ!!!
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こんな年にこんな文章かいてるのか、感慨深い。こうなったら書かねばなるまい、俺の妖精体験をなw
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まぁここは一つ俺の話をきいてくれw それはセーラームーンもまだこの世になかった80年代、『ムー』や『トワイライトゾーン』の読者コーナーに最終戦士と神託の巫女、竜の民を名乗るいわゆる前世少女が大量に出現していた(その全盛期は岡田有希子の後追い自殺が話題になっていた頃にかぶる)。当時、妖精のシルフィーちゃんとお話できるという少女(?)がいるっていうんで何かの機会にあったことがある(甘ブリのシルフィーちゃんより30年か40年も古い)。会ってみたらその頃はすでにまともになってて少々残念であった、シルフィーちゃんがいるならブルキーちゃん、ニンフィーちゃん、ピグミーちゃん(しつこいが甘ブリじゃないからサーラマちゃん、ミュースちゃん、コボリーちゃんではない)もいるだろう、呼び出してもらって四大精霊の力で世界征服しようと思ってたのにな、きんたまに毛の生えた歳にもなって。あの当時は妖精がみえると自称(?)する女の子ならちょいちょいいたもんだったが「お話できる」ってのはさすがに珍しかった(一応、念のため言っておくと、あの頃はオウム真理教事件の前だったので、オカルトや今でいうスピ系なものに対して「いかがわしいものだ」という嫌悪感が世間にはまだぜんぜんなかった)。
で、そういう俺の個人的な体験からいうとだな、雄略天皇の時代にも不思議系だのスピ系だのって女の子はいたろって話よ? 雄略天皇自身もまた別の意味で不思議系だし、そういう意味では不思議はないw おれ今うまいこと言ったw ともあれ現時点では「人間説・精霊説・折衷説」を棚上げして先に進もう、謎の解明はまず外堀から埋めるのだ。
ちなみに『水色のプリンセス -水の精-』がニンフィーちゃんなら『森のフェアリー』(作詞作曲かしぶち哲郎、編曲ユーミンの旦那)はシルフィーちゃんっぽい。『水色のプリンセス -水の精-』はゾロアスター教的な決断のテーマがあって実存主義的。それに比べると『森のフェアリー』は若干お花畑度が高いけどようつべで聞いてみて。リンクはあえて貼らないから検索してね♬

4人の女性は誰と誰が同一人物なのか?
とりあえず名前が出てこない理由は後まわしにして、この乙女、古事記の原文では初めて会った時は「童女」と書いていて、二回目に吉野に行幸した時は「嬢子」と書いていて、どちらも「をとめ」と読んでる本が多いので、今この文章ではさっきから「乙女」と書いてるんだが、「童女」という文字に着目してみると、日本書紀の雄略天皇の巻に「童女君」(をみなぎみ/わらはきみ)という女性が出てくるのが思い当たる。それによると童女君という女性は春日和珥臣深目(かすがのわにのおみ・ふかめ)の娘で采女(うねめ)として宮中に仕えていたが天皇に召されて一晩で妊娠してしてしまった。で生まれたのが、のちに仁賢天皇の皇后になる春日大娘(かすがのおほいらつめ)別名・高橋皇女だという。「童女君」という名は固有名詞らしくなく、本名不明なままこんな言い方されてる后妃は前後に例がない。無名の庶民出身ならともかく、堂々たる大貴族の娘なのに。そこで和珥臣深目の娘「童女君」は日本書紀にあって古事記に無く、丸邇臣佐都紀(わにのおみ・さつき)の娘「春日之袁杼比賣」(かすがのをどひめ)というのが古記事に有って日本書紀にない。なので、深目と佐都紀は同一人物で、童女君の本名は「袁杼比賣」だろうと推測できる。岩波の日本思想大系の古事記(古典文学大系じゃない方)の注だと吉野川の乙女は精霊だとした上で、童女君=袁杼比賣を同一人物としている。それでもなぜ書紀ではこの人についてだけ本名を書かずに童女君なんて呼んでるのかという謎は残る(謎解きは後の方で)。また袁杼比賣でややこしいのは、雄略天皇が袁杼比賣を求めて春日の金鉏岡(かなすきのをか)に出かけた時に一人の媛女(をとめ)に出会ったがその媛女が逃げて岡に隠れてしまったという。この媛女も名前が不明。本居宣長はこの媛女は袁杼比賣とは別人だという。吉野川でも名無しの乙女のエピソードがあったからここの媛女も名無しのままでなんら問題ないと考えたんだろうが、そうすると書紀には吉野川の乙女も出てこないから論理上は「吉野の名無し乙女」「金鉏岡の名無し媛女」「袁杼比賣」「童女君」の4人のうち誰と誰を同一人物とするかで13通りの説ができ、4人とも別人説、4人とも同一人物説を加えて15通りの説ができる。このうち吉野の乙女は「童女」とも書かれているから、気分的にはもしこれが精霊でなく人間ならば「童女君」とも同一人物と思いたくなる。どちらもなぜか本名が出てこない珍しさも共通。それと、金鉏岡の媛女については話の流れからして袁杼比賣だと受け取るのが自然で、だから現在の通説では袁杼比賣のことだと一応なっている。ただし通説に従うなら、なぜ袁杼比賣だと名乗らず不明瞭なまま尻切れになってるのか? 袁杼比賣はこの後、別の話の中でちゃっかり宮中の女性として再登場しているので、金鉏岡で逃げ切ったもののその後なんとか帝は彼女を手に入れたのか、もしくは彼女は金鉏岡で逃げ切れなかったか、どちらかなのだが、金鉏岡のエピソードはぷっつり尻切れになっている。これはなぜなのかという謎は残る(この謎解きもこの文章の後の方で)。が、ともかく通説では「金鉏岡の乙女=袁杼比賣」であり、通説とまではいかないまでも「袁杼比賣=童女君」説も有力な見解のようだ。

同一人物説を否定する三つの反論
これに俺の説「吉野の乙女(童女)=童女君」をくっつけると結局全員が同一人物となるんだが、吉野の乙女までも同一人物に入れる案には三つの反論がありうる。第一の反論は、吉野では初見で「婚」したとあり、すでに「婚」している同一女性にまた「婚」するため金鉏岡に出かけるのはおかしいから吉野の乙女と「金鉏岡の乙女=袁杼比賣」は別人だと考える人もいるかもしれない。だが日本思想大系の古事記の訓読補注の類子義一覧の中にある「婚・共婚・相婚・合・御合・目合・娶・嫁」の使い分けの項をみると、「婚」の字は現代人が考えるような社会制度(家庭の一員としての地位や関係の確定)としての結婚や儀式としての結婚の意味ではなく、ともに寝て妻として抱く、つまり肉体関係をさすきわめて具体的な意味として使われているという。ということは同一カップルが何度「婚」しても特にへんではないのではないか。百歩譲って、初回にしか使わないとしても、金鉏岡に袁杼比賣を求めて出かけたのは吉野の乙女が実は春日の袁杼比賣だと聞かされてからそれを確認にいったのだろうから、この段階では帝にとってはまだ吉野の乙女と袁杼比賣は別人かもしれないわけで、建前上は袁杼比賣とは初対面になる予定なのである。はい解決。第二の反論だが「婚」の字が肉体関係のことだとすると、今度は童女君は采女として宮中にいてそこで一夜のセックスで妊娠して春日大娘を産んだんだが、ここの「一夜の性交」ってのは彼女の初体験だったと早合点しやすい。確かに文意としてはそれを含意していると受け取るのが自然か、もしくはそうでないと誤読になる可能性もないではない。その場合、吉野の乙女は吉野で帝と出会った時に「婚」した、つまり肉体関係があったのだから、宮中に連れ帰ってもすでに処女でなく、「一夜で」という表現に妥当しないのではないか、という反論がありうる。これについての謎解きは二案ある。A案は、現代人の古代の習俗や信仰に対する思い込みや決めつけの可能性はないか。処女信仰があったようには思われないので、少なくても前回の交合より半年以上あいてれば大雑把に「一夜で」と言ったのではないだろうか。B案は、百歩譲ってここは彼女の初体験だったとしよう。だがその一夜は大奥でのことではなく、吉野川でのことだったのだろう。これなら矛盾はない。日本書紀をみると、ことの発端はヨチヨチ歩きの春日大娘をみての雄略帝と物部目の会話の中で、帝が「一夜しかやってない、ただし一晩で七回やったけどなw」と言っているのだから、春日大娘は1歳半か2歳にはなっており、帝のセリフはあくまで「回想として」言っているのであって、その一夜が皇居の中だったという証拠はまったくない。はい解決。第三の反論は、もし吉野の乙女が「袁杼比賣=童女君」だとすると堂々たる中央の大貴族の娘ということになり、都で召されるのではなく、なぜ辺鄙な吉野の山奥にいたのか不自然になる。むろん大貴族なんだから、天皇が吉野に行幸するように和邇臣も一家で吉野に物見遊山にいくぐらいはありうるけれども、そういう予定は政府に把握されているはずで天皇も知ることができる。あるいはお忍びというのは天皇と袁杼比賣がすでにカップルとして出来ていて、この二人のお忍びだったからお互いに偽名を使い、往路は別行動で現地で合流したのだと考える人もいるかもしれない。その場合はなんでそんな迂遠なことをするのかわからない。天皇のお忍びが楽しいのは知らない庶民と出会うからで、大貴族の娘が相手なら堂々とどこでもなんでもできるわけで忍ぶ意味がない。さて、どう解く?

「童女」と「嬢子」の使い分けの意味
第三の反論についての、一つのヒントは吉野の乙女が「童女」だったという点だ。この女性は、名無しの状態では普通名詞でヲトメ(乙女)と呼ばれている。原文だと吉野の初回が「童女」、二回目に吉野に行った時が「嬢子」、金鉏岡では「媛女」と書かれ、どれも訓はヲトメ。媛の字は姫と同じヒメの訓に使われる。強いていえば姫がやや格上か齢上、媛がいくらか格下か齢下なニュアンスがあるが、明確なことでなく幼女から老婆までありうる。嬢の字は娘と同じイラツメの訓にも使われる。イラツメは固有名詞化している場合にはこれまた幼女から老婆までありうるわけだが、普通に地の文で「嬢」「娘」が出てきたら結婚可能年齢までの女性を表わしているだろう(親子関係をいうムスメには「娘」でなく「女」の字が普通)。そして「童」、これは媛や嬢と違って、かなり幼い子供だろう。童女も嬢子も読みは同じヲトメでいいのか? 吉野の初回が童女で二回目が嬢子というのは、文字の使い分けであってかなり年月が開いてることを表わしてないか? 昔のロリコンはハイジ(7歳まで)、アリス(8~11歳)、ロリータ(12~15歳。16歳以上はロリコンに入らない)と三段階に分類されていたもんだ。気持ちわるっw だってこれ性的対象としてごっちゃに考えることはできないだろ。ロリータは生物学的には正常の範囲で、後述のように時代によっては容認されていたが、現代でも11歳以下を性的対象とするのは所謂ペドフィリアに認定される。もっともインドやイスラム圏で9歳前後でも認められている例もあるから人類全体の客観的な基準かどうかは難しいが、一律な規定は社会規範のためであるから成熟の個体差を理由にはできない。ただ、性規範のゆるい社会ほど「成熟の個体差」を理由とする例外が認められやすいとはいえそう。それと昔の日本にしろイスラム圏にしろ、初潮前の幼妻は形式的な結婚だけで性交は初潮まで待つのが普通だったから、「結婚可能年齢と性交可能年齢」は社会規範としても分けて考えねばならない(現代なら「結婚可能年齢と婚約可能年齢」になるか?)。現代の日本人女性の初潮は、早い方の平均が10歳で遅い方の平均が14歳という。後述のように大昔の日本女性の結婚可能年齢は満年齢に換算していうと13歳からで、貴人は12歳から認められた。この13歳(貴人は12歳)という数字は形式的な結婚の可能年齢だけではなくて、これまでの話を踏まえていえば、初潮がきていれば同時に性交可能年齢ともされたはずだろう。
ともかく、漢語の語感としても「童女」と「嬢子」を同一視するのは乱暴、粗雑すぎる。それでよく古事記の文学性がどいうのって言ってるなw 童女は「をみな/をむな」の他にも「めのわらは」もしくは単に「わらは」とも訓め、おそらくは「うなゐ」(または「うなゐめ」?)とも訓みうるだろう。そこで書紀が「童女君が采女だった」というその采女についてもいろいろ議論があるが長くなるので省略。律令制では13歳以上30歳以下(のちに16歳以上20歳以下)と年齢制限ができたが、古くはもっと若かったことは采女の語源が「ウナヰ女(め)」だという説があることからわかる(ウナヰという古語については室町時代の宗祇という連歌師の説によると数え才で十二、三歳までだという)。浅井虎夫は『女官通解』の中で律令の規定と年齢があわないことを理由に采女の語源がウナヰメからきているという説を否定しているが、現に雄略紀に「童女君」が采女だったと明記されているのをみれば、古くは采女の適齢は13歳以下だったことは確実だろう。この話を根拠にして雄略天皇をロリコンよばわりしているサイトがあるが、当時の基準でもロリコンといえるのか? 幕末の頃だと結婚は16~19歳の間が普通で、14歳以下はほぼ政略結婚のみ。遊女は18歳から一人前、もっとも「振袖新造」という見習い遊女は15歳からこっそり客を取ったという。

昔の女性の結婚年齢の推定
ところが時代を遡って、頼山陽(1832没)または梁川星巌(1858没)の作だという俗謡に

 三条木屋町 糸屋の娘
 姉は十六 妹十四
 諸国大名 弓矢で殺し
 娘二人は 目で殺す


とあり。数え才十四=満13歳は「目で殺す」年齢だった。この俗謡はいろんなバージョンがあって、姉妹の歳が二十一と二十になっていたり、十八と十六、あるいは十七と十五になっていたりもする。このうち十八以上になっているケースは不審。なぜかというと「娘十八番茶も出花」という諺の古い形は「鬼も十七番茶も煮花(鬼も十七山茶も煮端)」といい、本来娘といえるのは十七(満16歳)まで。従って熟語「十六女」の義訓は「いろつき」、「十八女」は「さかり」と読むがこの「さかり」は現代人が考えるような少女の可愛い盛りという意味ではなく「さかりがつく」のサカリなのである。若さや美しさを称賛した言い方ではなく、十八(17歳)は性欲のさかりという意味なのだ。だからこの俗謡で十八以上になっているバリエーションは、若く美しい娘と思ったら実は結構年齢がいっていたという驚きと称賛と解釈するのが正しいと思われる。で、この中で「妹十四」のバージョンから13歳で性愛の対象となっていたことがわかる。大昔から江戸時代後期まで、女性の満13歳は結婚が当たり前で、遊女なら満13歳から客をとった。ただし江戸後期には政略結婚の場合は満12歳からだったという。これを一般論でいいかえれば特に身分の高い人々は普通より1年早い満12歳から、と解釈してもいいだろう。平安時代の『梁塵秘抄』には「女の盛りなるは十四五六歳」とあり満13~15歳だから現代だと中学生にあたる。つまり江戸後期の情況は平安時代から約700年もの間、続いていたものだ。おそらく弥生時代や古墳時代も大差ない。

『ウエツフミ』では七歳までをワラハ、八~十三歳をウナヰ、十四~二十歳をイカシヲ・イカシメというとあり、これも満年齢に換算すると12歳まではウナヰ、13歳からイカシになる。昔はヲトメというのは結婚適齢期の女性の称だろうから「童女」をヲトメと読むのは相応しくなかろう。ただ『ウエツフミ』を参照するとワラハでは幼すぎるようでもあり、ウナヰかヲムナと読むのがよい。日本書紀の「童女君」もヲミナギミかヲムナギミと読まれているがウナヰギミかウネメギミでもよかろう。wikipediaにワラハキミと読んでるのは以上の議論から不適切。
「ヲムナ/ヲミナ」と「ヲトメ」の違いについては、推定されうる最古の原義から、奈良時代にはすでに意味がずれて使われているので、奈良時代当時の現代語としてみるか原理主義的に最古の用法を押し当てるかで読み方に差が出る。昔は男女をさす言葉がたくさんあって、「オキナ/オミナ」は歳のいった男女、「ヲキナ/ヲミナ」は若い男女だったと思われる。このオは「大きい」のオ、「老いる」のオ。ヲは「小(を)」、「幼し(をさなし)」のヲ。「キ・ミ」の部分が「男・女」なのはわかるだろう。これらとは別に「ヲトコ/ヲトメ」という語があり、角川の古語辞典みたらヲトコ・ヲトメの「ヲト」の部分は動詞ヲツの変化で若いって意味だという。これが単に若い男女の意味だとするとヲキナ/ヲミナとかぶってしまうが、おそらくは若いか老けてるかって話ではない。動詞「をつ」(上二段活用)には「生まれ変わる・若返る・よみがえる・元に戻る」等の意味があり、世代交代による生命の更新すなわち生殖可能年齢にある男女をヲトコ/ヲトメといったのだろう。本来はオキナ/オミナの若い方とヲキナ/ヲミナの年長の方がヲトコ/ヲトメの枠とかぶっていたんだろうが、やがてかぶってる部分はヲトコ/ヲトメに吸収されて、ヲキナ/ヲミナは「ヲグナ(童男)/ヲミナ=ヲムナ(童女)」と訛って生殖にはまだ早い男女の意味となり、オキナ/オミナは「オキナ(翁)/オウナ(媼)」と訛って生殖能力を失った男女の意味となったんだろう、と素人がちょっと調べると思いつく(まぁ学界の定説でどうなってるのか知らんが素人言語学は恥さらしになることが多いのでこんへんにしとくが、ちょっとどうでもいい話すると、ヲトメが未通女の意味になったのはかなり後の話で、漢語の「処女」ももとは未通女の意味ではなく、結婚前で実家にいる女という意味。就職(つか仕官)せず実家にいる男は「処士」といった。英語の“virgin”も本来は単に「若い女」の意味しかなかった)。
そういうわけで、古事記で表記が「童女」から「嬢子」にかわっているのは、初め吉野に行った時に出会った少女が13歳以下だったのが2回めに行った時には14歳以上になっていたという年月の経過を表わしている。

天皇は吉野に何をしにいったのか?
さてようやく第三の反論の話に戻るが。吉野の乙女というか、都にいるはずの中央貴族の娘である袁杼比賣は、なぜか吉野にいて、その時13歳以下だった。なぜ吉野にいて、なぜ天皇と会ったのか、なぜお互い名乗らないのか? 短絡的に考えれば天皇と袁杼比賣は一緒に吉野にいったんなら自然なんだが。一つの解決案としてはこれは二人ではなく、同行者の中では袁杼比賣は主要メンバーでなく、有象無象の一人、モブキャラにすぎなかったのではないか。だから天皇は袁杼比賣に気づくのが遅かったのだろう。こういうシチュエーションは現代でいうと具体的にどういうイベントなのか想像してみると、ズバリ幼稚園だか小学校だかの遠足だろう。なんで天皇がそんなもんに同行するのかというと、小学校といってもそこらの鼻たらした田舎のガキではなくて、皇族や上級貴族のお坊ちゃまお嬢ちゃまが入学する戦前の学習院初等科みたいなもんなんだろう。ガキの頃田舎で鼻たらしてたのは俺ですが。なんていうと「またお前は突拍子もないことを…」と言われるかもしれないが、日本書紀によると雄略天皇五年三月七日、天皇は蜾蠃(すがる)という者に蚕(こ)を集めさせたところ、児(こ)だと聞き誤って全国から嬰児を集めてきたので、天皇は大爆笑して、宮殿のすぐそばに「少子部」(ちひさこべ)を創立して、蜾蠃に「お前がこの子らを養え」と命じて「少子部連」(ちひさこべのむらじ)とカバネを賜ったとある。学者は「少子部はよくわからないが宮中で召し使う子供を資養する部民だろう」などと漢字が読めればアホでも想像つくような炭酸の抜けたコーラみたいなことを言ってるが、このブログを前から読んでる人なら、雄略天皇は即位した時まだ丸っきりの少年だったことを思い出すと思う。別の頁で書いたが俺の計算では雄略天皇は目弱王と同年齢かせいぜい4つか5つ上ぐらいだろう。即位した時7、8歳かせいぜい12、3歳な上、なりたくて天皇になったのでもないから政治は允恭天皇以来の公卿大伴室屋(おほとものむろや)が取り仕切っていたのではないかと思う。とすると「少子部」っていうのは幼帝のための「ご学友」だろう。「全国から集めた」とあるのも、高貴な血筋だけでなく優秀な子供を集めたことをいってると思われ、卒業生は身分高きも卑しきも朝廷を背負って立つ人材とみられたに違いない。少子部がいつ廃止になったかは不明だが、記録に残ってないだけでかなり後の時代まで存在していたのではないか。もし雄略天皇がまだ7歳~15歳の間だったとしたら生徒の一人として遠足に参加したのだろう。成人した後であっても、大昔に自分が卒業した母校みたいなものだし、天皇の肝煎りで創立された「勅旨の小学校」なのだから創立何十年目かの記念に、かしこくも陛下みずから何百人もの小学生を、泊りがけの遠足に引率し給う、なんてことは大いにありうるわけさw(どっちでもここは成り立つがこれは雄略天皇の最晩年の、老齢になってからのことと個人的には考えている、後述)。古代史を考える時でも現代人はすっかり忘れているが、古事記の天皇は皇子の頃に活躍することが多い。なぜかというと即位してしまうと「天皇は一般人に姿を見られてはいけない」というタブーがある。これは皇統の起源である高天原からあまくだってきた邇々藝命(ににぎにみこと)が目に見えない神だったという原始信仰に基づくタブーなのだが、詳細は神話の頁に譲りここではふれない。ともかくそのため天皇になると宮中の奥で暮らすようになり、朝廷で廷臣に会う時も玉座の前に御簾が降りていて姿がみえないようになっているのは時代劇等でもご存知の通り。行幸の時も輿や車から顔出したりはしない。だから活動的な天皇には「お忍び」行動ってのが欠かせないことになるが、子供相手ならこのタブーに引っかからない可能性がある。このブログでたびたび言ってるように、子供は大人にみえないカミを見たり、カミと会話したりしている。民俗学では大人からみると子供はカミの憑坐(よりまし)で、その言葉は神託であり、カミに近い存在と考えられた。だからもしかして、天皇は人(=おとな)に姿を見られてはならないが、子供(=神)に見られるのは許容されていたのではないか。とすると、子供たちとの行動は「お忍び」でないとできないことが堂々とできる数少ない機会になる。むろん臣連(おみ・むらじ)などの上級貴族やあれこれの役人たち、警備の武官も遠足の場にはたくさんいたはずだが「お忍び」モードと同様、文官は庶民に身をやつし警護はいわゆる私服で、便宜上「天皇を見えていない」ふりをしたり、天皇が「匿名の知らない人」であるかのように振る舞ったりして対応したのだろう。だからみんな「あの人が天皇だ」とは分かってはいるのだが天皇自身は周囲に聞こえるような形では「朕は天皇なりよ」とは名乗れない。名乗らない相手にはこっちも名乗らないのが社会のルールだから、教育の場で子供にだけ名乗れとはいえないわけで、匿名のおじさんと匿名の少女の関係にならざるを得ない。そういう情況で雄略天皇はたまたまお気に入りの美少女をみつけて身体の関係を結んだ。周囲の役人はすべて分かってるが、性交可能年齢に達していない子供もたくさんいるのでその場では事はおおっぴらにされず、何事もなかったように普通に遠足は終了したんだろう。だから名前はその場では明らかにされない。これが初回の吉野遠足、吉野川での水浴びごっこ(禊の実習か?)の真相だろう。第三の反論はこれで解決。ドヤッ

万葉集の「名のり」の歌との関係
だがこの推理はあたってるのか? ちょっとここまでの謎解きでわかった話をまとめてふりかえってみると、雄略天皇は何百人もの子供たちを引率して吉野川のほとりに泊りがけの遠足にでかけ、たまたま妖精のような美少女を見出し、気に入って一夜を過ごしたが、一夜で七回もやるだけの時間があったのだからちゃんと隔離された空間でのことだろう。だからそこではお互いに名乗っていた可能性はある。ただ都に帰還して遠足が無事終了するまでは「建前」は守らねばならない。で袁杼比賣は他の子らと一緒に行動しているので、遠足が終了すると他の子らがそうであるように袁杼比賣も自分の家=和邇氏の邸宅に自動的に引き取られた。だが天皇としては吉野川で見初めた妖精のような美少女をそのまま捨て置けぬ。百歩譲って仮に寝所で秘密裏に名乗りあってはいなかったとしても周囲の役人がすべての子供を把握しており、天皇の相手が誰だったかなんてすべてお見通しのはず。だから後日、日を改めて天皇は袁杼比賣を訪ねていった、むろん公式に「名乗る」ため。それが金鉏岡の話だ。
さて、雄略天皇と「名乗り」といえば、誰でもこの頁の最初の方であげた万葉集の「こもよみこもち…我こそはのらめ、家をも名をも」の歌が浮かぶはずだ。「今こそは名乗るぞ」というこの歌は前提として名乗りたくとも名乗れなかった期間がやっと終わったという開放感とよろこびに満ちているとは感じないか? 万葉集のこの歌は古事記にも書紀にもないが、記紀の伝承の中に組み込ませようとすれば、該当しそうなところは古事記の金鉏岡での話の他ない。この歌は「丘」での歌で「この丘に菜つます子」と詠んでるが、これは金鉏岡で袁杼比賣を見つけたシーンだろう。金鉏岡のエピソードは古事記では不自然に尻切れになっているが、後半の記事が誤脱していて、その誤脱した記事というのが万葉集の冒頭にあるこの歌に違いない。ここで初めて天皇と謎の乙女は名乗りあい、謎の乙女の素性が「和邇氏の娘の袁杼比賣」と「公式に」知れたわけ。
そうすると彼女が采女になって宮中に出仕したのは当然金鉏岡の事件の後になる。天皇は遠足から帰還した後も建前上は「袁杼比賣」の名をいうわけにはいかず「あの(名の知れぬ)童女君に会いに行かねば」とだけ呼んでいたろうから、周囲は面白がってその女性に「童女君」という渾名がついた。金鉏岡の事件の後は公式にも袁杼比賣になったはずだが、日本書紀がなぜ本名を出さず「童女君」としか書かないのかというと、原資料が語部の舞台の台本しかなかったからだろう。そこでは演劇の興として「童女君」と呼称されることがストーリー設定上の効果なのである。むろん「袁杼比賣」の名は知っていても、現在の記紀を読んでる我々でさえ4人のうち誰が同一人物なのか説が分かれている。日本書紀の編集部は厳密な史料上の証拠としては同一人物と確定できなかったから、原史料に忠実に書いたのだ。
で、袁杼比賣が采女となって宮中入りしてからは、まだ何もしてないのに腹がふくらんで出産、春日大娘皇女が誕生したわけだ。
春日大娘皇女が1歳か2歳かわからないがヨチヨチ歩きした頃、物部連目(もののべのめのむらじ)の諫言により、春日大娘皇女が帝と袁杼比賣との一夜の交わりで生まれた子だと確定した。邇々藝命と木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)の故事から、一夜のちぎりだけで生まれた子は神聖なる「神の御子」と考えられたから、この子を産んだ袁杼比賣の権威も高まり、雄略天皇の感慨もひとしおだろう。「一夜で妊娠するもんかな」という帝の疑問は、神の子を授かったというだけでなく、自分がすでにいつ崩御してもおかしくない老齢で、この歳で子供ができたという喜びも含んでいたろう。そこで二人の思い出の地、吉野に行幸となり、天皇の琴にあわせて皇后(袁杼比賣)が舞う。ここで天皇は「あぐらゐの神の御手もち弾く琴に舞ひする乙女、常世(とこよ)にもかも」と詠う。
古事記は「吉野」という土地の話としてまとめてしまっているので二回目の吉野行幸を一回目の後にくっつけてしまい、そのため時系列が乱れて金鉏岡と順番が狂っている。書紀は后妃皇子女の記事は冒頭にまとめて書いてるために吉野行幸よりずっと前に春日大娘皇女が生まれたかのように錯覚してしまうがそうではなくて、かなり遅く最晩年に生まれたものと思う。
「神の御子」なる春日大娘皇女は雄略天皇なき後の混迷する政局の中で、朝廷の中心的な権威として存在し続け、最後は仁賢天皇の皇后となって5人の子を産んだ。この間に飯豊女王(いひとよのひめみこ)の執政期間もあったが、その間も宗教的な権威は春日大娘皇女の方がはるかに高かっただろう。神の子なのだから、春日大娘皇女をキリストに、雄略天皇をキリストの父ヨセフに喩えるならば、ヤハウェの役どころは誰か。やはり袁杼比賣は妖精(カミ)の化身だったのではないか。

もう一つの真相(?)その1
…などと気の利いたセリフで閉めようと思ったが、まだ終わらないw
西洋では心優しい女性が死ぬと水の妖精になるとか、少女の守護霊になるとかいう。ここで唐突に水木しげるの『河童の三平』を思い出す。水難にあって行方不明になった少年「三平」の身代わりに河童の「かん平」が三平になりすまして人間世界で暮らすっていう話だったかな? すっかり忘れてしまった。これは西洋やアフリカに伝わる、妖精による「取り替えっ子」の伝承がモチーフなのかな? 誰でも子供の時には「自分は両親の本当の子じゃないんだって妄想を抱く」ことがあるけれども、これは何らかの効用のあることらしく、日本でもつい40年か50年ぐらい前までは親が子供に「おまえは橋の下から拾ってきたんだ」とか、今なら児童虐待っていわれそうなことをわざわざいう文化があった(はっきり明言するか匂わせ散らつかせる程度か真面目にいうかふざけていうかの違いはあるにせよ)。西洋の「とりかえっ子」の民話はバリエーション豊富で、取り替えられてきた妖精の子が醜かったり無能だったりするだけでなくその逆のケースもままあり、見ようによってはキリスト生誕伝説も民俗学的には「取り替えっ子」の伝承のバリエーションともみえる。キリストは生まれた時から同一人物なので父がヤハウェかヨセフかっていう問題はあっても「とりかえっ子」には該当しなさそうだが、シュタイナーの説では父ヨセフと母マリヤ、息子イエスという二組の同名の家族がベツレヘムとナザレにそれぞれあり(当時のユダヤではヨセフもマリヤもイエスも日本でいう「たけし」「ゆうすけ」みたいなありふれた名なのでここまではいかにもありそうな話)、12歳の時にベツレヘムのイエスと父ヨセフが死んで寡婦マリヤは他の子らを引き連れてナザレへ。ナザレでは母マリヤが死んでイエスと父ヨセフが二人暮らし。ここで両者が再婚したと。この説によるならベツレヘムのマリヤにとってナザレのイエスは良い意味での「とりかえっ子」だろう。有名な川内康範大先生の『正義のシンボル コンドールマン』の主人公はもう子供じゃないが、これは精霊(?)がすでに死んでる三矢一心という名の男の姿を借りただけで、なりすましじゃなくてたまたま似てるだけの人を演じている。
でだ、冒頭であげた吉野の乙女についての「人間説」「精霊説」「折衷説」のうち、折衷説ってのは要するに「妖精ごっこ説」だったわけだが、いくらなんでもあれはヒドイので(笑)、代わりに「妖精とりかえっこ説」はどうだろう。晩年の雄略天皇はよせばいいのにがきんちょを引き連れて遠足にいったが、これがまずかった。今は管理教育が発達して、何にでもあれこれウルサクなってるんだろうが、60年代末や70年代初頭の小学校は文字化されたルールよりも「言われなくてもわかってるはずの常識」に寄りかかってる感じが強かった。そういう情況では教師の権限が強くて、今なら大問題になりそうな体罰も普通だった。今の子供は都会も田舎も上品そうだけど、昔の田舎の小学生なんて元気が余りすぎて動物園の動物みたいなガキがいくらでもいたんよ。遠足ってのは旧所名跡とか風光明媚な名所にいくんだが後者の場合、田舎だと断崖絶壁とか吊り橋とかかなり危険な場所ってこともありうる。で、先生のいうことを聞かないで、あるいはわざと逆のことをして騒ぐやつが必ずいたもんだ。こんな調子だから、遠足いった先の事故で何年かに一人は死んでたよ。昔ほど、子供は死ぬもんだったんだよ。いくらでも逃げられそうな田舎ののどかで開放的な踏切でさえなぜか汽車(電車じゃなくて汽車)に跳ねられて死んだ器用なクラスメートもいた、あれはいまだに謎だが。雄略天皇が引率した遠足でも、事前に調べた安全なところで川遊び(≒禊の実習)したんだろうが、行っちゃだめっていってもあちこち行きたがるのが子供なんで、おとなの目を盗んで危険水域で溺れ死んだ子もいたんじゃないのかな。可哀相にな。俺ですら可哀相に思うのに、こどもたちを喜ばそうと思って引率してきた雄略天皇のショックったらないと思うよ。そこで川の妖精だか水の女神だかが、埋葬された少女の墓の前に佇む陛下をお慰め奉ろうと思って、その子に変身して現れたにちがいない。天皇はびっくりしたろうが、亡くなった子の親も哀れだし、この際そのままなりすましてもらうことに相談がまとまった。しかし親元に長くいると別人であることがバレてしまう可能性が高いので、「遠足に行った先で天皇の目に止まってお気に入りになった」ってことにしてさっさと大奥入りしてしまえという算段なわけだよ。そういえば、童女君の父の名は和珥臣深目だがこのフカメってのは「水の深いところ」って意味のフカミ(深水)の意味か、もしくは「川(や沼や泉や湖)の神」って意味のフチカミ(淵神)の意味ではなかろうか? 水の妖精の父としてふさわしい名前だと思うが。ドヤッ
そうすると、春日之袁杼比賣と童女君を同一人物とする説ではその父である丸邇臣佐都紀と和珥臣深目も同一人物の別名と考えるわけだが、もし深目が精霊の父で深目本人も水の神(?)だとすると、もう一つの名、佐都紀が亡くなった幼女の父なんだろうか、そしたら深目と佐都紀は別人となる。この場合、深目をワニ氏のようにいうのは丸邇臣佐都紀との混同によるものだろう。
だが、どうも引っかかる。新嘗祭で舞われる「五節舞」(ごせちのまい)ってのがあるんだが、この吉野川の乙女の伝承が五節舞の起源だって説がある。五節舞は平安時代には新嘗祭での舞になってしまったがもともと古くは五月の舞だったと推定されてる。袁杼比賣の父の名が佐都紀(サツキ=五月)ってのは偶然だろうか? そこで謎解きのために一旦遠回りになるが、まずは「五節舞起源説」について考えよう。

「五節舞」起源説の可否
『続日本紀』天平五年五月五日の条では、元正上皇のために阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が五節舞を舞った。この時聖武天皇が「天武天皇が礼楽を定め五節舞を作った」といってるが、極めて簡単な文言なので詳細はわからない。別のところで書いたように奈良時代の皇室は天武系で、天武天皇を神格化・神聖化しようとしていたから、本当に天武天皇が創案したのかどうかは何ともわからない。学界でもこれはあくまで「当時の起源説話」であって天武天皇が実際に作ったとは考えられていない(俺は説話とすら思わない。宣伝だろう)。延喜(901-923年)の頃に惟宗公方(これむねのきんかた)が書いた『本朝月令』には天武天皇が吉野に行幸した時に天女が空中に現れ(天武天皇以外には見えなかったという)、袖を5回振ったのが五節舞の起源だとあるが、日本書紀の天武天皇の記述にはそんな話はまったくない。本居宣長は『本朝月令』の話は古事記の吉野の乙女の話に似てるから古事記からパクって作った話だろうという。これに基いて、吉野の乙女が五節舞の起源だという説があるらしいのだが(「らしい」というのは俺はそんな説みたことないから)、学界では天武天皇創始説よりもさらにバカにされてるみたいだな、プンプン。学者が否定するのも一見したところ当然で、宣長は別に「吉野の乙女が五節舞の起源だ」と言ってるのではぜんぜんない。そうではなくて本朝月令の記事がインチキで惟宗公方の創作だといってるにすぎない。だがちょっと待ってくれよ! 惟宗公方(か、公方が典拠にした原資料の著者)は、なんでこんな捏造をわざわざしてるのか? おそらく天武天皇が作ったというのはやはり奈良時代の政治事情からきた誇張で、天武帝は舞の人数・正確な振り付け・キャストの選抜法や音楽やスタッフの規定など、法制度的なことを整備制定したり、五節を音楽の五声にこじつけたりの理論化をしたりってのは本当なんだろうが、五節舞とよばれる舞自体は通説どおりそれ以前からあったのだろう。で、本当の起源は吉野の乙女だったんだが、朝廷に仕える惟宗公方の立場としては続日本紀という正史の記述に背くことはできないから、雄略天皇の伝承を天武天皇にさしかえて書いたわけさ。その天女が天武天皇にしか見えなかった、というところは皮肉だろうなw 公方じゃなくて公方が典拠にした原資料ですでにこうなってたんだろうが「袖を5回振った」なんてのは「五節」の字づらにコジツケた与太話にすぎない。さらにはるか後世(まずほとんど江戸時代)の天川弁財天の縁起ではこの天女が吉祥天だってことになってるが問題外。もし雄略天皇の吉野の乙女が起源だという伝承が最初から無かったのなら当時マイナーだった古事記の伝承にネタにして惟宗公方(もしくは原資料作者)が二次創作をする動機も意味もない。二次創作というのは矛盾する二つのことを整合させるという「決まった目標」があるから書けるのであって(アニパロなら自分の性癖)、まったく自由の精神状態からは発動しないのだ(偽書の類もだいたいそう)。

「夏至の祭儀」とは?
平安時代と違って奈良時代には五節舞は新嘗祭と限らず年中いろいろな祭儀やイベントのおりふしに舞われた。さらに古くは「五節舞・田舞」と併称され、五月の農耕儀礼にともなう庶民的な舞だった。つまり五節舞というのは「五月の節会の舞」という意味だった。和語ではサツキマヒと言ってたんだろう。
で、この五月の神祭儀礼だが、中国から伝来した「五月五日の端午節」と日本古来の「皐月忌」(さつきいみ:夏至の祭儀)が奈良時代の朝廷では混交しつつあったろうけれども、雄略天皇の頃はまだまだ純粋の日本風の皐月忌で、大陸の端午節のニュアンスは薄かったろう。皐月忌については以前に書いた記事「鯉のぼりと巨木信仰」を参照してもらうとして、これは大地母神の祭儀で、少女神の祭儀は別にある。で、皐月忌には女性が身を清めて穢を祓い、この間、男性は家から追い出されるので地方によっては「女の家」とか「女天下」ともいう。これ伊邪那美命が黄泉国から伊邪那岐命を追い出した故事の再演になっている。だから前掲の記事では「夏至の祭儀とは大地母神の祭儀だった」と結論づけたのだったが、旧暦では夏至を含む月が「五月」だ。「五節舞が本来は田舞と同様の農耕儀礼だった」っていう学界の説はそれはそれとして大ハズレではないが、やや漠然としすぎではないか、正鵠を得たとも言い難いと思う(正鵠は射るのでなく得るらしい。どうでもいいが)。吉野の乙女の話がもし五節舞の起源ならば、雄略天皇の吉野川への遠足は五月の夏至の頃だったんだろう。今の暦だと6月22日頃が夏至だから、梅雨の最中で、山の中の川なんて大雨で増水したりして危険じゃないのかと思われる。昔の人は現代人よりもはるかに地形や気候に敏感で詳細な知識があったろうから、わざわざこんな時期に開催してるのは不審だ。考えられるとしたら、夏至だからこそわざわざやってるんで、つまりこの遠足は夏至の祭儀の一部ないしバリエーションなのである。大地母神の祭儀にこどもの遠足? …どういう取り合わせだよと疑問に思う人は、いないだろう。もうわかったよねw この遠足はおそらく女児だけが参加した。それも初潮を迎えた女児だけで。これは女子の成人儀礼(イニシエーション)なのである。だから行きは子供なんだが、帰りはすでに性交も許されるおとなの女なのである。昔のテレビ番組でアフリカだかニューギニアだかアマゾンだか忘れたが、部族中の初潮を迎えた女子が着飾って集まってよくわからない踊りを踊ってる映像をみたような気がするんだが、もちろんそれは女子の成人の儀式だった。吉野川の遠足も主旨としては似たようなイベントだったのではないか。男にももちろんある。俺が7歳の時には「お山がけ」と称して故郷の市の内外から集まった7歳男児が集団で山伏みたいな格好させられて、さる神社の裏手にある険しい山に長時間かけて登るっていう儀式があって、さらに昔はこれをやらないと一人前の男とみなされなかったそうだ。女子は川で禊して、男は山に登るって対称性がある。桃太郎の冒頭「お爺さんは山へ、お婆さんは川へ」。これで男の山登りは冬至の日、なんて実例があるといいのだがあいにく俺の田舎の風習では秋の行事だったんだ。こんなのは一例で詳細な議論するにはもっと多彩な例に基づかねばならないが面倒だから今は省略して先を急ごう。

ヲドヒメとはどういう意味か?
五節舞なんて興味ないから今回はスルーするつもりだったが、謎解きが暴走してこれも一つの重要な鍵に思えてきたからやむなく取り上げた。袁杼比賣の父の名が佐都紀だという意味を考えるに、五月の成人儀礼の時に現れたから五月の子って意味なのかな? そしたら深目だけでなく佐都紀も妖精の父の名であって、亡くなった少女の実の父とは別人ってことになるが、それならなぜ「ワニ氏」という特定の実在の姓をもってるのか? 一案として少々コジツケっぽいが、五月の成人儀礼でおとなの女になったすべての女性は、五月に生まれ変わったのだから五月生まれの五月の子、サツキの子って意味じゃないか? そしたら丸邇臣佐都紀は吉野川遠足の監督責任者だったのか、と思いたくなるが、イベント全体の総指揮者の娘がたまたま事故死して妖精と入れ替わるなんてことあるか? 確率はともかくありうることではあるが、普通に考えれば主宰責任者は少子部連蜾蠃のはずではないか。どうも少女の肉体は死んでなくて継続してると考えないと特定の氏族の血を引く娘として後々まで認識されるのはおかしいと思う。本当に人間の父母から生まれたわけではない存在なら、ワニ氏の娘として後々まで振る舞い続けるのは当時の氏族制社会の中でムリがありすぎる。でもさぁ、学界が「吉野の乙女は川の精霊だ」って言い張るからこの路線でむりやり引っ張ってみようw そこでだ、死んだと思った少女が現れたんだから「よみがえり」なわけだけど、一般的に「よみがえり」といわれる事件は、諸例ごとに実態は多様だ。例えば上述の「溺れ死んだ幼女の身代わりに妖精さんが現れた」とする案では、見た目はそっくりでも肉体はモデルにされた人間(この場合は遺体だが)とはまったく別の存在ってことになる。ウルトラセブンみたいなもんね、セブンの場合はモデルにされた人は生きていたが。しかしコンドールマンの場合はどうか。肉体は三矢一心の肉体(正確には遺骨)なんだが本人は死んでて彼の魂はあの世いき。で、ゴールデンコンドルという鳥の精霊だか鳳凰の雛だかが彼の遺骨と合体してコンドールマンが誕生したんだが、コンドールマンが三矢一心に化けている間も、別人なんだから三矢一心の記憶も自意識もない。姿を借りているというより肉体を借りている感じ。ウルトラマンの場合、ハヤタは意識を失ってるだけで死んでおらず肉体はウルトラマンに乗っ取られたまま活動してる。吉野の乙女の場合、例えていえば、ハヤタの魂はすでにあの世にいっててウルトラマンが分離するとハヤタの肉体も死んでしまうような情況だよ。コンドールマンもたぶん同じケースだろう。
一方、たぶん、フカメにしろサツキにしろ事件が解決してから回想的につけられた渾名なんだろう。父親本人は事件に直接関与していないただの親だ。ここまでくると、じゃ袁杼比賣(をどひめ)のヲドってなんだ?っていう話に当然なりますわね。宣長は仮名遣い(後世でいう上代特殊仮名遣い)の観点から賀茂真淵の説を否定していたが、自分では代案を出せなかった。愚考するに古事記に淤縢山津見(おどやまつみ)とあるところ岩波思想体系の古事記の注釈では淤縢(おど)を「降り処」(おりど)としてミゾオチの意味かとしている。しかし書紀に弟山祇(おとやまつみ)とあるのだから「淤縢(おど)=弟(おと)」と定置していいのではないか? 縢も杼も乙類のド、弟のトも乙類。さすればヲドヒメは「小弟媛」の意味かとも思えるが、この解釈で何かが解決するわけでもない。次に舞がうまいんだからヲドリヒメ(踊り媛)の意かとも思ったが、古い時代のヲドルは激しく動く意味はあってもダンスの意味はまだなかったのではないかと思わなくもない。万葉集にもヲドリという単語はでてきて、マヒ(舞)は静かでメロディアスで横の動きが主、ヲドリ(踊)は激しくリズミカルで縦の動き、等といわれているがこんな区別はいつからだろうか。古事記にはヲドリは出てこない。しかしここまでのストーリーを解明(笑)した後ではまた別の連想が働く。第三案として、袁杼比賣は一回死んで生まれ変わった人なんだから、ヲチヒメ(変若媛)の意味ではないか? 「をつ」という動詞はすでに解説したように元に戻るとか若がえるって意味。不老不死をもたらす月の雫を万葉時代の日本語で「をちみづ」と言った。ヲトコ・ヲトメの「ヲト」も「をつ」の変化というのは既述のごとく、ゆえにヲチヒメはヲトヒメでありえ、ヲト=ヲドなのは、古事記の淤縢(おど)が書紀で弟(おと)と書かれるようなもので同じ言葉である。ヲドヒメとはヲチヒメ(変若媛)つまり一度死んでよみがえった媛という意味だろう。あれだよ、一度死んだ主人公が謎の生命体と合体してヒーローとなるんだが、何も知らない仲間からは「不死身の男」と言われるという…。
ウルトラマンが最終回でハヤタの肉体と分離して光の国に去っていったように、妖精さんも媛の肉体からいつか去っていくのではないか、と雄略天皇はおそれた。だから、彼女との思い出の場所に行幸した時、彼女の舞をみて「常世(とこよ)にもかも」(永遠にこのままでいてほしいなぁ)と詠ったのである。「光の国」ってのはM78星雲の中の惑星の名前な。
こういう話はさほど突拍子もない経験ではない。恋人が二重人格を病んでいたとして、治癒がすすんで人格が統合されていくと片方の人格は消える。それは望んでいたことなのであるが、長年(苦労や苦心の記憶を伴った期間)のつきあいのうちに知らず知らずのうちに愛着が生じていることがある。消えていった人格の方をこそ愛していたと気づくのである。現代の医療では本来の人格を殺して偽りの人格を残すようなことを平気でやってるような気がするが、これは治療にあたる医師のみならず正常に暮らす一般人の多くが本当の自分を殺すことでおとなになったから、どれが本当の人格なのか、もう感覚が麻痺してるのではないか。古代では多重人格という時の「人格」はそれぞれが実在する霊であり、去ることはあっても消えることはない。最終回がすぎてもウルトラマンは光の国にいるようなものだ。だから、忘れた頃にウルトラマンは二度三度と帰ってきた。もし悪しきものとして追い出したりしたらこちらがどんな危機に陥っても二度と助けにきてはくれないだろう。

もう一つの真相(?)その2
…などと気の利いたセリフで閉めようと思ったが、まだ終わらないw
「五節の舞」が五穀の豊穣を祈る舞であるならば、ここで水の女神だの川の妖精だのばかりで、豊穣の女神の名がまったくあがってないのはどうしたことか。具体的には豊受媛(とようけひめ)等が真っ先に浮かぶ。豊受大神といえば伊勢の外宮の祭神で、雄略天皇の晩年に、丹後国から伊勢に移って鎮座したのが外宮の始まりということになっている。しかしその説は後世の記述ばかりで記紀にはそんなことはまったく書かれていない。そもそも伊勢神宮は創建の初期から内外ニ宮制だったと思われる。それはいうまでもなく太陽神と豊穣の女神をともに祀るのが古代の世界各地に普遍にみられる祭祀形態だからだ。で、雄略朝説の出典元である『止由気宮儀式帳』『丹後風土記逸文』『大神宮諸雑事記』をよくみると、きわめて奇妙な話だが、どうも神社から神霊を勧請したような書き方ではなく、生きているナマミの現実の女性を迎え入れたような表現になっている。このことも不思議なことに誰も問題にしてないが、例によって神話的表現ですましてるんだろう。しかしもう歴史時代に入ってるのにここだけ神話が割り込んで浮いた感じなのはおかしくないか。私はずばりこれは本当に一人の人物だったのだと思う。ではこの豊受大神だと自称してそれが伊勢神宮でも受け入れられるような人間とはいったい誰だったのか? そしてなぜこの特定の時期に、なぜ丹後という特定の場所からやってきたのか? 豊受媛が伊勢に移ったのと、吉野の乙女の事件はどちらも雄略朝の末期。この符合からすると吉野の謎の乙女は伊勢からきた豊受姫だったのではないかという妄想が、当然わいてくる。誰でもわいてくるだろ?w 吉野宮は広大な吉野全域からすると北の端で大和盆地からは入り口にすぎない。伊勢から宇陀を通ってくると、大和から行幸してくる天皇と待ち合わせる場所として不自然なことはまったくない。
吉野の乙女=妖精いれかわり説の場合、もともとの和邇氏の娘(袁杼比賣)の魂と、妖精さんだか川の女神だかが入れ替わるって話であって、肉体は一貫して和邇氏の娘のものだから、肉体は一つ。物理的には誰とも入れ替わっておらず、現代風にいうならただの二重人格症状という身も蓋もない、矮小な話にすぎない。しかし、自称「豊受比賣」と春日の袁杼比賣、ここに二人の娘がいる。この二人が実際に入れ替わったのではないか? なんのために? 自称「豊受比賣」を天皇に引き合わせるための和邇氏の策略か? あるいは自称「豊受比賣」が強引に天皇に会おうとしてこの遠足に潜入したために起こった突発的なハプニングなのか?
このブログを以前からみてる人はこの自称「豊受比賣」が誰なのか、なんのために現われたのか、たいだい予想できると思うが、今回この記事あまりに長くなりすぎたので謎解きの続きはまた別の機会にでもやります。今回はこれでおしまい。

・推古女帝の崩御日の謎

H29年10月12日(木)投稿 H29年10月11日(水)初稿
墓移転をめぐる問題
『古事記』の墓記事は異例で一度移転したことが書かれている。最初の墓(大野岡陵、今の植山古墳)はもともと推古女帝の先立った息子・竹田皇子の墓で、遺勅により、新しく墓を築くことなく竹田皇子墓に合葬してそのまま天皇陵としたものである。しかし当然それでは天皇陵としては不自然に小規模(一応推古天皇崩御時に拡張工事で二倍にはなったが)であるゆえに、後に天皇にふさわしい規模の新陵(現在の推古天皇陵=科長大陵)がつくられた。これには蘇我氏が自家の縄張りまたはお膝元にあたる南河内に歴代の天皇(敏達天皇、用明天皇、推古天皇)の陵墓を造営することで己の権力を記念かつ誇示するといった思惑も働いたのではないかとの指摘もあり、その時期は蘇我氏の権勢が絶頂を迎えた皇極天皇の時代と推測されている。すなわち「推古天皇陵の移転」は『古事記』全巻の中で最新(最後)の事件ということになる。

薨去の日をめぐる問題
『日本書紀』では推古三十六年三月七日(AD628年4月15日)に崩御とあるが、『古事記』では戊子年三月十五日癸丑日に崩御とあり、日付が異なる。ところがこの年の三月十五日の日の干支は辛酉であって癸丑でない。癸丑日でいちばん三月十五日に近いのは書紀の三月七日説である。つまり記の日付は日付と干支が矛盾しているが紀の三月七日(癸丑)説は矛盾がない。記紀に相違あって真相が定め難い場合は古事記の説をもって第一仮説とするが常套であるべきで、これは紀が癸丑の日に合わせて前に日付をずらしたもので後付けの辻褄あわせであって、一見矛盾にみえる記が史実に近いのではないかと疑われぬこともない。宣長もいうとおり、記の十五日説が後から出た説なら必ず後人が正史たる書紀によって訂正をいれこれを間違いとしてたはずだからである。記紀では異なる暦をもちいたとの説もあるが、1日か2日程度ならともかく同じ年でこれほど日の干支がズレるのは暦制の違いでは説明つきにくい。『日本書紀』の推古三十六年は戊子年に相当するから年の違いということも考えられない。
1)そこでひとつの解決案としては古事記では十五日に崩御した天皇がやけに多いことから、十五日とは何か大葬の礼にまつわるお決まりの日程で本当の崩御日ではないのではないかとも考えられる。なんらかの夜の儀式があって月明かりがあったほうが望ましいので崩御の後、最初の十五日に大葬の礼が催行されたのではないか。古事記では日に干支が付された例はここ1か所しかないから、「癸丑日」は日本書紀をみた人間が早とちりで書きつけたものだろう。この説の場合、日本書紀にはそのような「十五日の夜の儀式」の存在を思わせる記述がまったくないのが難点ではある。加えて、なぜ推古天皇だけ崩御の日付に干支が付されたのかも説明できない。
また別の解決案としては「戊子年三月十五日」と「癸丑日崩」の間に文章の誤脱があったのではないだろうか。これには下記のようにいくつものパターンが考えられる。

2)薨前譲位日説
三月十五日の後で最初にくる癸丑日は五月八日である。元の原文は「三月十五日(…誤脱…)五月八日癸丑日崩」とあったのではないか。では三月十五日の後ろの誤脱したところには何が書かれていたのか。記は崩御以外に日付を書くことはほとんどないので、ここは崩御にも匹敵する、または崩御に類似した重要な事件に違いない。それが崩御の直前とすると、譲位ではなかろうか。そもそも最初の女帝が擁立されたのは忍坂日子人大兄皇子と厩戸皇子(聖徳太子)との皇位争いを先延ばし緩和する意図があった。しかるに女帝の在位があまりに長すぎたため、崩御の直前になっても争いは次世代である田村王(舒明天皇)と山背大兄王にそのまま継続され問題は未解決だった。そこで崩御の後に争乱が起こることを予期した推古女帝が時期天皇(一般的に田村王だったと考えられ勝ちだが疑問もある。推古天皇の意志は山背大兄王だったのではないかと思われるが詳細は今は触れない)への譲位をおこなったのではないか。紀ではもちろん譲位があったなどとは書かれず、三月六日(つまり紀の想定している崩御の前日)病床の推古女帝から田村王と山背大兄王へ遺詔があったとして、その解釈をめぐり朝廷の中で不穏なやりとりが続いた様が書かれる。この記事の中では、権力を掌握していてどちらを擁立するのも自在なはずの蘇我蝦夷の言動が煮え切らず不審である。蘇我蝦夷は父の馬子から権力を継承して間もなかったので権威を誇示するために先帝の指名でなく自分の指名で新帝をきめる必要があった。そこで遺詔を一旦は有耶無耶にして朝廷貴族たちが己の顔色を伺いながら意見をいうさまをプロセスとして実現してみせたのである。蘇我蝦夷にしてみればどちらを擁立するかではなく、どちらを擁立するにしても「蘇我氏の権力によって擁立された」という格好を拵えることが重要であった。むろん二次的には「どちらを擁立するか」という問題はあるが、蝦夷は山背大兄とは溝があり、はじめから懇意な田村王を奉じる存念であったろう(一般的には山背大兄を蘇我系、田村王を非蘇我系とするがこれは本人たちに流れる親の血筋の話。本人たちは、山背大兄が蘇我の娘を妃としていないのに田村王は蘇我の娘を妃としている。将来的にどちらが蘇我にとって「よい皇族」なのかは明らか)。つまり蝦夷にとっては蘇我の総帥の地位を継いで最初の試練が「推古天皇の遺詔に反して別の皇族(蘇我にとって都合のよい皇族)を天皇に立てる」という課題だったわけだ。 以上、元の原文は「戊子年三月十五日辛酉日譲位、五月八日癸丑日崩」とあったのだとの説。

3)遷墓合葬月説
もし「癸丑日」が「癸丑月」の間違いだとすると、もっとも近いのは皇極天皇元年十二月にあたる。上述の天皇陵の移転時期が皇極朝であることはふれたが、この年のこの月は舒明天皇の喪が発され同帝が埋葬された月であるから、推古陵の移転もこの時だったのではないか。以上、元の原文は「戊子年三月十五日辛酉日崩、御陵在大野岡上。後、壬寅年十二月癸丑月、遷科長大陵也」とあったのが誤脱と転倒によって現状の文面となったという説。御陵の移転の年次が示されているというのがこの説の強み(というか面白み)であるが、そのかわり舒明天皇の即位と崩御の記事までも誤脱したのだと言わねばならないのが弱点である。

4)孝徳帝崩年説
記は干支は紀年につかうが日付に使うのはここだけで異例である。もし「癸丑日」が「癸丑年」の間違いだとすると、もっとも近いのは白雉四年(AD652年)にあたる。これは紀では孝徳天皇崩御の前年である。書紀ではこの年、中大兄皇子が関係者全員をつれて大和に帰ってしまった。書紀では孝徳天皇が崩御するのはその翌年だが実際は年内に崩御していたのだろう。そうすると一年の空位がうまれそうだがそうではなく、即位前の斉明天皇と中大兄皇子のコンビで「称制」だったのではないかと思われる。ただし、この説の場合、誤脱の部分が舒明天皇・皇極天皇・孝徳天皇の三代にもわたり、かなり分量が多くなってしまい不自然さが増してしまうのが欠点である。

・2顕宗天皇の玉音放送

H29年10月11日(水)初稿
一昨年、H27(2015)年11月18日(水)の話で、下巻つまり仁徳天皇以降、登場人物が理屈っぽくなっているということ。下記の5例(下記には6例あるが当時は(5)が抜けていたので5例)。

(1)仁徳記…石之比賣(いはのひめ)の台詞「不敬罪で処刑されるのはよくある話で変わったことではないが云々(以下略)」
(2)履中記…隼人の曾婆訶理に対して水齒別王のモノローグ「吾がために大功あれど君を弑するは不義」
(3)允恭記…大前小前宿禰の台詞「もし兄弟で戦えば必ず(後世の)人に笑われよう」
(4)安康記…都夫良意富美(つぶらおほみ)の台詞「臣下が王宮に助けを求めるのは聞くが王子が臣下の家に逃げ込むとは例がない、自分は負けるだろうが自分を頼ってきたこの王子は決して見捨てない」
(5)雄略記…志幾の大県主の台詞「奴(やつこ)にあれば奴(やつこ)のまにまに覚らずて過ち作れり」
(6)顕宗記…意祁王の台詞「父の仇だからといって天皇陵を破壊すれば後世に非難される、ただし父の仇は報いざるべからず」

これと同じ話が今回(10/11)も出たが、前回は5例だったのが今回は(5)が追加されて全6例になっている。
経済発展と儒教の影響
中巻の最後の方で、神功皇后の新羅征伐があり新羅を馬甘(うまかひ)、百済を「渡之官家」(わたりのみやけ)と定めて以来、海外交易の影響で経済発展があり、それが年々積み重なって富裕層は栄華を極めたけれども、貧富の差が拡大して下層では治安の悪化が進んでいた。中巻の最後の応神天皇の頃はまださほど酷くはなかったが、儒教が入ってきて仁徳天皇と宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)は論語を学んでいた。当初、儒教は中華かぶれの金持ち階級のもので、反儒教派(神道派)と対立しており、何度かあった皇位継承争いにもこの二派の対立が大いに影を落としていた。上記の6つの台詞のうち4つまではこの時代のもので、上記の(1)から(4)の中には、儒教の影響を受けた発想もあれば、そういう風潮を非難する言葉もある。両方あるのはつまり、神道派(=国粋派)も対抗的に自己形成されるので、鏡に写したように理屈を言わざるを得なくなるから。
中華かぶれの売国財閥は葛城氏だったがこれは雄略天皇に滅ぼされ、反儒教派はスッキリ溜飲を下げたのも束の間、庶民人気の高い雄略天皇自身が大陸文化を大好きで帰化人を寵用したのと、わかりやすい悪役としての葛城氏も最早ないので、ついに儒教は全国民に受容されるに至った。しかし雄略天皇即位の功臣、平群氏がかつての葛城氏の利権をそっくり引き継いでいたため、やがて「第二の葛城氏」としての正体をあらわしはじめ、清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇の3代は平群氏との間で水面下の綱引きの時代だった。
雄略天皇一代の治世をかけて、儒教は完全に日本人に根をおろしていた。といっても後世の日本人と同じものがこの時にできたというわけではない。平安時代以降、仏教が日本人の精神世界を席巻すると日本人の民族性から儒教色は薄まってしまった。なので、仏教以前の日本人(といっても、あくまで雄略朝から大化改新までの期間)は純粋に神道的な民族だったというわけではなく、むしろ今の中韓人に似たところも今の日本人よりは多かったのです。
そういう中で、上記の(6)の台詞がでた。
儒教以前の天皇は、自然界の神々の秩序の一環としての原始王権であり、疑問を差し挟む余地もなく、神々への信仰と天皇への忠誠が一体として繋がっていたので、揺るぎない権威があった。自然界の神々の秩序の一環としての原始王権とは、神道風に言い換えれば天津神国津神八百万の神々(あまつかみくにつかみやほよろづのかみがみ)の中の一柱としての現人神(あらひとがみ)ということでもある。そこは疑問を差し挟む余地がないから、なんらかの理由による謀反があっても、議論は起こらない。議論にしようにもこれ以外の価値体系がそもそも存在しないのだから当然だろう。
儒教は、日本人に知的ゲームを授けた。君主がいかに君主たるか、臣下がいかに臣下たるか、様々なロジックがある。例外的に謀反が謀反でなく義挙とみなされる場合はどのような場合か。忠と孝が矛盾する場合はどういう行動をとるべきか。暗君と賢臣の対立の際にどちらにつくべきか。たとえ反逆の徒に堕ちようと桃園の誓いを破れるのか…等々。そもそも儒教は王朝交代もありうることを前提としているために、万世一系の天皇とか君主絶対という考えはない。こういうロジックのゲームは、厳しい人格陶冶の修行が伴わないと、ただの利己主義の自己弁護になりやすい。しかも当時の日本人は初めて理屈で自分を語る習慣を体験したので免疫がなく、自己の語る言葉を自意識と錯覚してこれこそ正義の実践なのだと迷走していく。実は単純なロールモデルの組み合わせにすぎないのだが。
上流階級が上記の(1)〜(5)のような台詞を吐いて理屈を言い合っていると、儒教もしらず論語も読んだことない一般庶民も次第に感化されていく。庶民は儒教という大陸文化の粉飾がないから、上流階級の風潮をただの利己主義として受け取っていく。そして世の中は貧富の差が激しく治安が悪化していってるんだから、「泥棒にも三分の理」といった体の屁理屈が世の中に蔓延していく。しかし(ごく一部の賢人を除いて)当時の人々は貴族も盗賊もそれを屁理屈だとは理解できず、真っ当な理論だと思っていた。ちょうど現代でも同じことが…いや、やめておこうw

顕宗天皇の玉音放送
顕宗天皇と兄の意祁王(仁賢帝)は、幼少期から二人で過ごしてきて、阿吽の呼吸もあれば腹の底までお互いに知り尽くしている仲であり、今さら意見の対立などあるはずもないのだが、顕宗天皇は兄貴ほどは大和魂が据わってないので、やはりそこは現代人、感情的には雄略天皇が許せなかった。兄貴としては弟を叱るのは簡単だが、感情をむりに抑えつけるのは心理学的にもよろしくない。そこでドラマセラピー(演劇療法)を試みた。兄の意祁王は以前から、人々が薄っぺらい儒教モドキの理屈をもてあそび天皇の権威が軽くなってることを憂いていたが、そんなこととはつゆ知らない庶民の中には、この兄弟が雄略天皇の一族にどんな復讐するのか面白おかしく取り沙汰して不埒な床屋政談を楽しむ者もあったろう。またも皇室が割れて殺しあうようなことになれば喜ぶのは平群家とその取り巻きだけなのだが。意祁王は弟天皇のドラマセラピーを兼ねて、弟天皇と二人で、ひと芝居うった。だからここの対話は記紀ともに歌舞伎か講談みたいに芝居がかっている。これは最初から芝居として上演されることを狙って演出されており、語部(かたりべ)の演劇というのは今でいうテレビや映画みたいなものであり、民衆がこれをみて政局を理解することが了解されているのである。つまり、これは国民道徳の再建のための、国民への呼びかけでもあった。(雲の上の事件は格別、機密扱いにでもしない限り、大小となく語部によって演劇化され庶民に知られ語部のネットワークによってあっという間に全国に流布されることになる。詳細は「雄略帝は英雄なのか?(附説:語部とは)」参照)
流浪の貴公子だった顕宗天皇と意祁王は、ついに即位までは辿り着いたが、まだ平群家との潜在的敵対関係は続いており、平群氏の勢力はいまだに強大で侮れないとはいえ、顕宗天皇の即位によって戦略上の選択肢を減らしてしまい、平群の次なる戦術として允恭宮家と履中皇室との抗争再燃を画策してくるのは目に見えていた。その抗争の理論的根拠は儒教の仇討ち思想なのである。この対話のメッセージは「皇室は仇討ちはしない、儒教思想には基づかない。天皇の位は、個人的な仇討ち等の私憤を超越するものであって、その権威は絶対である」という宣言であり、「だから国民も儒教(=利己主義)はほどほどにね、アンドこれからも平群と戦う皇室に応援よろしくね」という国民へのメッセージなのである。
古事記はネットでも原文、書き下し、現代語訳ぜんぶ読めるし、文庫本も何種類も売ってるので、読んでる人は多いだろう。なので日本書紀を引用する。

天皇謂皇太子億計曰「吾父先王無罪、而大泊瀬天皇射殺棄骨郊野。至今未獲。憤歎盈懐。臥泣行号。志雪讎恥。吾聞『父之讎不与共戴天、兄弟之讎不反兵、交遊之讎不同国』。夫匹夫之子、居父母之讎、寝苫枕干不仕、不与共国。遇諸市朝、不反兵而便闘。況吾立為天子、二年于今矣。願壌其陵、摧骨投散。今以此報、不亦孝乎」。
皇太子億計歔欷不能答。乃諌曰「不可。大泊瀬天皇正統万機、臨照天下。華夷欣仰、天皇之身也。吾父先王雖是天皇之子、邁遇屯亶、不登天位。以此観之、尊卑惟別。而忍壌陵墓、誰人主以奉天之霊。其不可毀一也。又天皇与億計、曾不蒙遇白髪天皇厚寵殊恩、豈臨宝位。大泊瀬天皇、白髪天皇之父也。億計聞諸老賢、老賢曰『言無不酬、徳無不報。有恩不報、敗俗之深者也』。陛下饗国、徳行広聞於天下。而毀陵、翻見於華裔、億計恐其不可以莅国子民也。其不可毀二也」。
天皇曰「善哉、令罷役」。

天皇、皇太子億計に謂ひて曰はく「吾が父の先王、罪なし。而るを大泊瀬天皇、射殺して骨を郊野に棄てつ。今に至るも未だ獲ず、憤歎、懐に盈つ。臥しては泣き、行きては号び、讎恥を雪がんと志す。吾れ聞く『父の讎は共に天を戴かず、兄弟の讎は兵を反さず、交遊の讎は国を同じくせず』と。それ匹夫の子も、父母の讎に居れば苫に寝て干を枕にして仕へず、国を共にせず、諸の市朝に遇はば兵を反さずして便ち闘ふ。いはんや吾れ天子と立ちて今に二年矣。願くはその陵を壊して骨を摧きて投散せん。今此れを以て報いなば、また孝ならざらめや」。
皇太子億計、歔欷して答ふること能はず。乃ち諌めて曰はく「可からず。大泊瀬天皇は万機を正し統ねて天下に臨照せり。華夷、欣仰せしは天皇の身なり。吾が父の先王、是れ天皇の子と雖も、屯亶に邁遇して天位に登らず。此れを以て之れを観れば、尊卑、惟れ別なり。而るに忍びて陵墓を壊さば、誰を人主としてか以て天の霊に仕へん。其れ毀つべからざる一つ也。また天皇と億計は、曾て白髪天皇の厚寵と殊恩に遇ふこと蒙らざれば、豈に宝位に臨まんや。大泊瀬天皇は白髪天皇の父なり。億計、諸の老賢に聞けり、老賢曰はく『言は酬いざる無く、徳は報いざる無し。恩有って報いざるは敗俗の深き者なり』と。陛下、国に饗し、徳行、広く天下に聞こゆ。而るに陵を毀ち、翻って華裔に見せしむれば、億計、恐らくは国に莅み民を子ふこと其れ以てすべからざらん。其の毀つべからざる二つ也」。
天皇曰はく「善き哉、役を罷めしめん」と。

この対話は、まず顕宗天皇が国民の風潮をあげ、それに賛意を表しているふりをして、意祁王の意見を聞く。が意祁王はそれを全否定して天皇を諌め、天皇が反省するという流れ。国民に直接に説教するのではなく兄が弟を諌める形式を借りているのである。

記紀の比較1 ~内容は食い違っているのか?~
なお、この対話は記紀で相異がある。古事記は「雄略帝は一つには天皇であり一つには叔父である、単に個人的には仇だからという趣旨だけをとるのは誤りだから、仇討ちと両立させるべき」といってるのに日本書紀は「一つには天皇であり、一つには自分らを天皇にしてくれた恩人の父だ。恩を仇で返すような人間がどうやって天下を治めるのか」といって仇討ちを全面否定している。記紀で共通してる理由は「天皇であること」だけ。記紀の理屈を機械的に整理するとこうなる、古事記の理屈では「天皇にして、かつ自分らの叔父」だってのは仇討ちを全否定するほどの重みはないので、仇討ちと両立させることになる。が、日本書紀の理屈だと「天皇にして、かつ自分らを天皇にしてくれた大恩人の父」だってのは仇討ちを全否定するに十分な重みをもつ、ということになる。
そうすると記紀ではその思想内容もかなり違うのかといえば、もちろん古事記ではこれはさらに否定される「前フリ」にすぎない。実際には、古事記では御陵の片隅の土を少し壊しただけ。この「少し」ってのはまさか御陵の10%とかの大規模な破壊ではないだろう。文脈から察するに、象徴的、建前的に「わずかに」壊したにすぎない。形式的で象徴的な行為としてやっているので、実質はなんの報復もしてないのだ。思想内容としては仇討ちを全否定する日本書紀と、結果的には同じである。
そう、同じ。古事記がいう「叔父」にしろ、日本書紀がいう「恩人」にしろ、場合によっては心ならずも背かざるを得ない情況がありうるが、「天皇」にだけはそれは無いのである。個人的な関係である「叔父」や「恩人」を尊ぶことはの「大義」ではなく私事の「小義」なのであり、これを天皇より優先させたり、天皇への絶対忠誠と同等のように考えて天秤にかけるのは「儒教からの悪影響」なのである。雄略帝について、古事記はにおいて「天皇」であるのみならずにおいて「叔父」でもあるといい、日本書紀はにおいて「天皇」であるのみならずにおいて「恩人」でもあるといってる。これは、すでに日本人が義理だの人情だのその板挟みだのという儒教の理屈に染まっているため、もしも次期天皇である皇太兄(意祁王)自身が国民に対して儒教道徳を全否定して唯一天皇への忠誠を要求すると、国民からの反発もありえると考え、意祁王がやむなく配慮したのである。

記紀の比較2 ~原形の復元~
繰り返すと、上述のごとく、古事記を「少し掘ったことで公の尊王忠君と私怨を両立させた」のだと解釈するのは表面的な理解で、日本書紀が「予定変更して御陵の破壊を全面中止した」としているのと実質は古事記も同じであり、表現の違いにすぎない。
で、この表現の違いはどうしてできたのかというと、古事記がよくやるように後半の筋を略してしまった(もしくは原資料が古事記編纂時すでに破損していた)ので、それに合わせて弟天皇の結びの台詞も改変したからなのだ。古事記では顕宗天皇の台詞で意祁王の行啓に「幸行」(=行幸)という天皇にしか使わない言い方がされてる。これは意祁王を天皇扱いしてるのではなくて、顕宗天皇の台詞と意祁王の台詞が入れ替わってしまった痕跡だろう。すなわち顕宗天皇の台詞は(少し掘られた後で意祁王の説明を聞き)誤りに気づいた天皇が「この御陵を修繕するのは他人を遣わすべからず、専ら僕自ら行かん」といい、意祁王が「然らば命の随に幸行ませ」と答える、というのが原形だったと思われる。真相は兄が少し壊したところは弟天皇みずから後で修繕したのだろう。そこまで込みで一つの芝居だったと思れる。

記紀の比較3 ~原形主義と漢文の優劣~
古事記は原資料の段階で文章が前後錯簡して意味不明になっていたのを奈良時代に意味を通ぜしめんと適当に添削したため、原文の意図が失われた(≒わかりにくくなった)と推測する。
その結果、古事記は念入りに読まないとその趣旨を誤読しそうな表現になっているので、日本書紀では漢文の特性を活かしたストレートな趣向にしているわけなのだろう。書紀は、多少、台詞や行動を改作しているが、この物語で言いたかった本来の趣旨は間違えないようになっている。古事記の方は、まるで公義と私怨を両立させたかのような誤解を生むことになったが、すべては、たとえわかりにくくなろうとも原資料の形をできるだけ遺そうとした古事記の編纂意図によるのである。それは、一つの歴史書としての完成形態をめざした日本書紀との違いでもある。「古事記は尊王と復讐を両立しているのだ」という誤った解釈は、後世的な折衷主義に陥っており、仁賢帝の意図も貫徹されず、政治的な情況との関係(=前述及び後述の平群氏問題)も不鮮明になる。つまり古伝承の趣旨を壊してしまう解釈になる。これに対し、日本書紀は具体的な文面としては手を加えすぎだが、その分、本来の趣旨はちゃんと表現されているといえよう。
ただ書紀は文飾がアレなので、漢文特有の空々しさもなくはない。だから、記紀が編纂された当時の奈良時代の人は古事記を斜め読みして「仇討ちと両立させた」と誤解釈しても、もはやこれに何の疑問も抱かず、書紀を斜め読みして「仇討ちを全否定」する文章をみても漢文の見事さに気を取られて思想的な深みに入らない(現代でいえばカッコイイと思ってやたら英語を使いたがる典型的なアホと同じで、奈良時代から現代まで、漢文を珍重する人の多くは人格陶冶の厳しさとリアルに連動することなく、無意識のうちに建前のスローガンのように流している。現代でも哲学や思想が実際は趣味娯楽として消費されてるのと同じで、昔も漢文は鑑賞の対象にすぎない。現代でも、リベラルぶった言論人の多くは出版利権のムラ社会でポジショントークしてるだけなわけだろ、リベラル思想を体現してる立派な左翼なんてどこにいるんだよw)。奈良時代の皇位継承をめぐる数々の紛争の背後にある精神情況がこれだよ。

思想史上の意義
さて、この玉音放送にも比すべき、語部の上演を通じたメッセージによって、中国の思想だった儒教がようやく「日本化」した。すなわち中国人には「萬世一系の天皇」という観念が欠落していて、宗族制に依存して生きているため、「忠」ではなく「孝」こそが世界観を成り立たせる本質的な価値として優先され、王権は相対的なものにすぎない。だから支那流の儒教を真に受けていたうちは天皇への謀反にも儒教の理屈がこじつけられてきた例が記紀にいくつもあり、当時はまだ儒教は胡散臭いものと見られていたのである。だが、今後は「忠」が絶対であり「忠」が「孝」を超越するものという「日本的儒教」が確立していくことになる。これは当時の政局という水準でみれば、儒教を含めた中華の文物を売りにしつつ皇位簒奪を目論む平群氏に対し、平群氏のイデオロギー的な根拠を否定しようとする皇室、その両者の対立という構図になるのではあるが、日本史の長いスパンでいえば思想的な革命といっていい。こういう「日本流の儒教」の考え方は奈良時代以降、仏教思想によって希薄化されていくものの、中世にも、あるいは断続的に何度も現われ、あるいは一部の思想家に受け継がれて江戸時代に続き、水戸学や国学で再確認されて大政奉還につながっていく。

仁徳王朝の発祥の物語の再演
なお、この兄弟の対話は、復活したばかりの履中皇統が、仁徳王朝の正統・嫡流であることの宣言としても読めることは以前に書いた。再言すると、履中宮家は仁徳王朝の嫡流であるが、仁徳王朝は正統性が疑われる筋があった。本当は宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)が皇太子なのに、大雀命(おほささぎのみこと)と譲り合い、自殺してしまったためやむなく大雀王が即位して仁徳天皇になったが、正統な血筋に近い宇遅能和紀郎子の二人の同母妹を后にできず、妃にできた速総和気(はやぶさわけ)に反乱を起こされている。しかし同時に皇位の互譲というのは仁徳王朝の創業の神話でもあり、今ここにいる継嗣が一人ではなく二人の兄弟であることは、仁徳王朝の正統を継ぐ者であるというムードを演出する良い材料になる。宇遅能和紀郎子と大雀王は頑なに譲りあったため一方の自殺という重苦しい展開になったが、今回は二人とも交互に即位するという解決法で、忌まわしい過去を模擬的にやり直したことになる。

・「墨江之中津王の乱」の謎と背景

H29年9月24日(日)更新 H26年4月16日(水)初稿
履中天皇
住吉中津王の乱
この物語の腑に落ちないところは水歯別皇子が「俺の命令に従ってやったことだから約束通り褒賞しなくてはならんが主君殺しには違いないから処刑しよう」なんていう訳の分からない理屈で、自分の手足となって働いた曾婆訶理(そばかり)を騙し討ちにしてしまうことだろう。いくらなんでもこれは誰がどうみてもおかしな話で、これがもし事実なら、もう二度と誰も水歯別皇子についていかないだろうし、反正天皇として穏便に即位できたとも思われない。そこで『日本書紀』をみると例の謎理論をもちだしたのも、隼人(書紀では曾婆訶理でなく刺領巾(さしひれ)という名)を処刑したのも、水歯別王ではなくて木菟宿禰(つくのすくね)ということになっている(木菟宿禰は古事記では「都久宿禰」と書かれるがこの物語には出てこない)。しかし水歯別皇子だろうが木菟宿禰だろうが、言ってることやってることがおかしいことに変わりはない。合理的に考えると、殺すことそれ自体が目的で、例の謎理論はそのための「言いがかり」だったしか考えられない。ではなぜ殺すのかというと、曾婆訶理が最初から悪の根本で、住吉中王(記:墨之江中津王、紀:住之吉仲王、このブログでは適当に書きます)の反乱の黒幕だったか、または口封じのどちらかがありうる。前者はいくらなんでも無理な想定でありそうもないし、それなら訳の分からないややこしい罠にはめずとも堂々と殺すチャンスはいくらでもあったと思われる。後者の口封じだった場合、水歯別王か木菟宿禰のどちらかに「やましい裏」があったということだ。つまり住吉中津王の反乱に通じていて、そのことを曾婆訶理に知られてたんだろう。そういえば水歯別皇子は住吉中王を成敗にいった時に、戦術に悩むこともなく住吉中王の近習であるはずの曾婆訶理(=刺領巾)に直行、面会して寝返りを奨めている。これも絶対ありえないことともいえないが、やや不審な感じはしないでもない。前から面識があったのではないか? つまり住吉中王の手先として履中天皇の命を狙って追いかけてきたわけだが、書紀をみると履中天皇はすでにかなりの手勢に守られてるので暗殺の機会がなかなかつかめなかったのだろう。…と推測した場合、今度は、ではなぜ犯人(水歯別王か木菟宿禰のどちらか)は住吉中王を裏切って履中天皇についたのか? それはもちろんその時点で住吉中王のクーデターが失敗していたから。書紀をみると住吉中王は履中天皇の妃候補の黒媛を天皇になりすまして密かに犯し(黒媛自身も気付かなかった)、履中天皇もそれに気づいて両者に溝ができたとあり、これからすると住吉中王は一応武装蜂起の計画を練る時間的余裕があったはず。実際に「密かに兵を起こして云々」とあり、兵を起こすのも段取りや時間がいる。履中天皇がその気になればすぐに処罰もできたはずだが黒媛に配慮してか、磐之姫が生存していて兄弟の殺し合いを牽制していたのか、ともかくすぐには処罰しなかった。磐之姫(記:石之比賣)は仁徳天皇と別居して山城の筒城宮にいたろうが仁徳天皇崩御にあたって難波の高津宮(今の大阪市中央区)に帰ってきていたろう。書紀では仁徳三十五年に磐之姫薨去とあるが仁徳朝は実際は31年しかないので仁徳三十五年とは実は履中四年なのである。住吉中津王にしてみれば処刑待ちの針の筵でもあるが同時に反乱の準備をするための天がくれた時間でもあった。まずは八田皇后に取りなしを頼み、その裏で叛乱の準備をすすめたんだろう。
ところが、実際にクーデター起こしてみたら、阿知直(あちのあたへ)の活躍で天皇の身柄を取り逃がしたのは第一の失敗、第二に、差し向けた追手、安曇連浜子(あづみのむらじ・はまこ)と倭直吾籠子(やまとのあたへ・あごこ)も追撃に失敗、安曇連氏も倭直氏も海人族で、住吉中津王が海を支配していたことがわかる。こうなったら天皇が逃げ込んだ石上神宮を急襲するしか手はない。が、この段階では磐之姫がかなりの権力を握っていて、彼女に気付かれないうちに迅速にことをなす必要があった。
先帝崩御から新帝即位までの期間は後宮の女性とくに皇太后(になる予定の女性つまり先帝の皇后)がよろず取り仕切るならわしがある。書紀では即位前の事件ということになっているが、古事記ではすでに履中天皇が即位した後の大嘗祭でのことになっている。しかし天皇が逃亡して不在なので、先帝崩御から新帝即位までの期間に準じて、皇太后が万時を掌握決済することになるだろう。八田皇后も生きていて絶大な権力はあったろうが、古事記にある通りこの人は「仁徳帝の后妃」になれなかったのであり、磐之媛の薨去後に帝ののちぞえになったという日本書紀は作為的なもの(皇后という称号はもっているが「仁徳帝の配偶」という意味ではない)。だから、こと「仁徳天皇家」の家の中の主人という地位に基づく「皇位交代期の皇太后権力」はあくまで磐之媛のものであって、八田皇后はいくら権威や権力があっても本人が「後宮の女性」ではないのでどうにもならない。逃亡した履中天皇に中津王が追手をさしむけ都の外で殺させる分には、磐之姫に気付かれぬうちに遂行できても、天皇が逃げ込んだ石上神宮は朝廷の武器庫でもあり物部氏の牙城でもあったから、いわば軍事要塞基地であって、防衛の軍備を整えてしまったようなもの。こちらも派遣軍を編成しなければならず、磐之姫の検閲は免れない。住吉中津王は磐之媛をどう騙すか、あるいはどう説得するかで四苦八苦する羽目に陥ったろう。同じことは天皇方にもいえ、磐之姫と敵対する八田皇后はなにかと中津王を擁護しつつも、都では攻撃軍にも防衛軍にも武力行使を停止するよう圧力をかけてくる。むろん皇太后磐之姫の裁定が下るのは時間の問題である。実はこのブログの別記事に書いたが、住吉中津王は磐之媛の産んだ皇子ではなく阿貝知之御原郎女(淡路三原皇女)が産んだ皇子らしく思われる。皇太后は履中天皇の生母なのだから、彼女が裁定したら中津王に不利になる可能性が高い。よくても、強引に和平を強要され、すべては無かったことにされる可能性が高い。しかしそんなことでは危機のさらなる悪化と先延ばしにすぎないので、暗殺合戦になるしかない。
古事記では水歯別王が曾婆訶理を誘うのに「俺が天皇になりお前は大臣になる」といってるがこれは少しおかしい。書紀では履中天皇が瑞歯別皇子を(乱の平定後に)皇太子に立てており、そして古事記ではこの反乱が即位前ではなく即位後のこととしているから、水歯別王はこの事件の前に事実上の皇太子である。中津王の乱の前から次の天皇に決まっていたっぽい。先帝崩御の後に履中天皇と住吉中津王は不和になっているし乱の起こった時点で住吉中津王が皇太子となる可能性はない。書紀では即位後、瑞歯皇子が皇太子になってるから、乱の最中の段階で皇太子を正式に決めていなかったとしても順当に考えて水歯別王が事実上の皇太子でしかありえない。中津王が勝利してしまえば履中天皇がきめた皇太子の地位は水の泡だから、理屈の上ではこの台詞も問題なさそうだが、違和感がぬぐえないのは、この台詞は「乱を鎮定したらすぐ水歯別王が履中天皇をさしおいて即位する」みたいに聞こえる。だからへんなのだ。書紀では刺領巾(=曾婆訶理)に「敦く報いむ」(手厚く褒美をとらす)とは言ってるが、大臣にしてやる等とは当然いってない。じゃ言ってなかったのかというとそれは書紀が古事記に出てくる大臣に任命してから殺す茶番劇を省略したため不要な台詞になったから書かれてないだけで、その茶番劇がある以上、言ったことは事実だろう。書紀が省略した理由は、書紀ではすでに皇太子である瑞歯別皇子が「天皇を殺して俺が天皇に」なんていうのは台詞としておかしいからだ。台詞はあった、だが水歯別王の発言ではない。もし住吉中津王の発言なら、それをそのまま書いても問題ないはずだし約束の当事者は敵で、すでに滅亡してしまったのだから律儀に約束を遂行してあげる必要もない。そうすると、発言の主は木菟宿禰の発言でしかありえまい。しかし、刺領巾(=曾婆訶理)を誘ったのは木菟宿禰ではなくあくまで瑞歯別皇子になっている(だから書紀では例の台詞がない)。つまり、例の台詞は、ぜんぜん別のところで発せられたものなのではないか。だとすると木菟宿禰はもともと住吉中津王の側で、大嘗の宴会で天皇を酔い潰したのも宮殿に火をかけたのも、木菟宿禰の指図でこの隼人が下手人だったのである。だからこの隼人は別人からそれぞれ別の命令を受けてることになる。まず木菟宿禰(と住吉中津王)から「大臣にしてやる」といわれて履中天皇を襲い、次に水歯別王から「褒美とらすから」といわれて住吉中津王を暗殺した。
書紀の書き様からは、木菟宿禰の意見を受け入れて瑞歯別皇子が処刑したように受け取れるが、例の茶番劇の成り立ちからいうとここは木菟宿禰が自分で殺したのでなければ劇が成立しない。おそらく水歯別王は隼人の処刑を後から聞き、疑問を抱いたろうが、強くも出れない事情があった。書紀では履中天皇の代官というか査察官として木菟宿禰が瑞歯別皇子の行動を見届ける役という建前になっているから、常時二人で行動したはずで、瑞歯別皇子が刺領巾を味方に引き入れることができたのは木菟宿禰の紹介なのだろう。瑞歯別皇子は住吉中津王を殺して自分の潔白を証明しなければならないが、格別に作戦も大軍もなく手詰まりになりかねないところに、木菟宿禰が恩を売ったわけだ。しかしこの曾婆訶理が木菟宿禰と結託しており、もともと住吉中津王の側だったことがバレると木菟宿禰の立場も危ういので、そこらは瑞歯別皇子には秘密にしていた。なら記紀で隼人の名前が違ってる理由もわかる。木菟宿禰に利用された曾婆訶理が本名(?)で、瑞歯別皇子に雇われた刺客の刺領巾なる者は、瑞歯別皇子の前でのみ名乗った偽名だろう。古事記では処刑のあった大阪の山口で1泊、大和の飛鳥で禊のために1泊、計2泊かけて石上神宮にいる帝に復奏したことになっているが書紀では直行したことになっている。これは書紀が瑞歯別皇子の忠節ぶりを示すため、などではなく、本当に瑞歯別皇子の代理も兼ねて木菟宿禰が直行したのであろう。木菟宿禰としてみれば代理としての事後報告で真相を歪曲したり天皇自身の認識や世論対策としてたっぷり先入観をふきこんでおく工作を急がねばならない。水歯別王は事件の全貌を薄々察知してショックを受けたから1泊休んで、また禊のために1泊とった。悪人を1匹殺したぐらいで1日がかりの禊をしたなんて記事は他にないから、よほどのことだったと考えたほうがよい。
では木菟宿禰はなぜバレないでのうのうとその後も首相格でいられるのか、もちろん口封じで曾婆訶理を殺してしまったからである。多少ならず疑いはかけられたろうが、証拠隠滅してしまえば後はなんとでも言い逃れ得る。まぁバレてはいたんだが、最初から住吉中王を倒すために味方のふりをしていたまでのこと、と開き直っていたのかもしれない。それにしたって証拠が残ってないからできることだが。とはいえ、履中天皇の当初1回だけ首相格として5大夫(貴族のトップ5)に列したものの、名前だけでその後は歴史から消えてしまう。おそらく信用ならんやつだと敬遠され、やがて閑職に追いやられたのだろう。平群氏(木菟宿禰の家系)が復活するのは息子の平群真鳥(へぐりのまとり)が雄略天皇に仕えてからなので、しばらくの間は平群氏のドン底時代が続いたわけだ。

反乱の原因は「黒媛へのレイプ」ではない
ところで、なぜ住吉中津王は反乱を起こしたのか? 乱が鎮定された後、水歯別王が皇太子になっている。これは論功行賞というものではなくて、履中天皇には当時まだお世継ぎ様(市辺の押歯王)が生まれてなかったか、もしくはまだ幼少だったわけだろう。それで弟に皇位がいくんだから順番からいえば三男の水歯別王じゃなくて次男の住吉仲王となるはず、と一見思えるが前述のように。つまり中津王は反乱など起こさず黙ってても皇位が転がり込んできたはずだ。考えられるのは乱を起こしたら継嗣から外されたのではなく、乱を起こす前から履中天皇と中津王の仲が悪くなっておりこのままいけば中津王をさしおいて弟の水歯別王が皇太子になるということが事前に確実視されていた、と考える他ない。ではなぜ二人の仲が悪くなったのか? 一つには仲の良し悪しとは別に、前述のごとく中津王は磐之媛の腹ではなかった(異母兄弟)から、それで皇太子にされなかったんだろう。しかしそんな皇子はいくらでもいるんで、中津王一人だけが謀反せねばならぬほどの不満を抱いた理由にならない。中津王は、「履中天皇が即位したら弟の水歯別王が皇太子に立てられるのであって自分は皇太子に指名されないだろう」と早い段階で確信していただろうが、これだけでは叛乱の動機としては弱すぎる。
それを説明するため日本書紀では黒媛のエピソードが書かれているわけだが、これは日本書紀編集部の解釈にすぎず、納得できない。第一の理由は、この説だと二人の間にひびが入ったのは、仁徳帝崩御(書紀だと正月十六日、古事記だと八月十五日)より以降のことになり、とても勝ち目のあるクーデターを準備する時間的余裕がない。第二の理由は、書紀の話では中津王が黒媛を寝取ったのは衝動的で突発的な行為だったように書いている。確かに男もいろいろなタイプがいるので一概には断定もできなかろうが、ただでさえ皇室のメンバーで天下国家に携わるべく教育されてきた貴公子が女一匹のために天下を戦乱に巻き込むかね? しかも惚れあった同士でもなく婚約者になりすまして一発ハメるだけだぞ? しかも準備不足で勝ち目のないクーデターだぞ? しかも先帝の大葬の礼の最中で新帝も即位していない緊張感のある時に、次期天皇の皇后陛下を寝取るやつなんている? 日本書紀の説ではもし中津王が黒媛を寝取らなければ関係悪化の原因もないわけで。それがなんでこんな自暴自棄なことするよ? そんなに追い詰められるような何があったのか情況がさっぱりわからない。だから何度もいうように黒媛を寝取るよりずっと前の段階で兄弟の仲は悪くなっていて、中津王はクーデターの準備をずっと前から着々とすすめていたとしか考えられない。
では、伊邪本和気王(=のちの履中天皇)と仲津王の間になにかあったのか。

4人の皇子たちの名前からわかること
この皇子たちの名前と父帝崩御の時の数え年齢は、長男が「大江の伊邪本和気王」(おほえのいざほわけ)59才。次男の「住吉の仲津王」(すみのえのなかつみこ)推定54-55才(±3)? 三男は「丹比の水歯別王」(たぢひのみづはわけ)50才。四男「男朝妻若子宿禰王」(をあさづま・わくごのすくね)33才。四男は「若子」とついてるように年齢が上の3人よりかなり離れている。

大江が今のどこかについては2説あり、大阪湾のどこかなんだがあのへんは時代による海岸線の変化が激しくて特定はできないという説と、難波の堀江のことだという説がある。前者の説はどうでもいいとして、難波の堀江は仁徳天皇が一代をかけて開削した運河で、単数か複数か具体的なルートがどこかは諸説があるが大雑把に皇居である高津宮(大阪市中央区)つまり上町台地の北を通って西に向かい直接大阪湾に注いでいたらしい。神武天皇の上陸地点が日下(くさか、生駒山麓の西側。東大阪府日下町)だったことからもここまで海だったわけだが、仁徳天皇の頃には西側が塞がって上町台地の東には日下江(くさかえ:草香江)という巨大な湖が広がっていて、それを西の瀬戸内海とつなげたともいう。淀川があるじゃないかと思うが当時は淀川はその日下江に注いでおり瀬戸内海に直接にはつながってなかった。
日本語で単に「江」といった場合「入江」のことだろうから、難波の堀江の全体を大江といったのではなく堀江の河口、海への出口のこともさしうるが、文字通り巨大な江のことなら難波の堀江で海水が流入した日下江のことじゃないのか。これをなぜ日下江といわず大江というのかというと、日下には神武天皇以来の上陸地つまり港町である「日下の津」があって、そこには大日下王(おほくさかのみこ、紀:大草香皇子)が管領していた。この人の御生母様、髪長媛は南九州の隼人を支配する日向国造・諸県君(もろがたのきみ)氏の出身で、彼らは海の民でもあったから、応神天皇は彼らを引き上げて葛城氏(直接にはその配下の吉備氏)の勢力を削ぐため瀬戸内海の航行を彼らに任せるとともに、信用ならない取り巻きとは別に忠実な召し使いとして純朴な隼人を採用した(「近習隼人」(ちかづかへのはやと)の起源)。だからその皇子(応神天皇からしたら孫)は日下(くさか)にいて大日下王とよばれた。だが、大雀王のもう一人の妃で葛城氏出身の磐之媛は嫉妬心から(もしくは嫉妬のふりをして)髪長姫を応神天皇のもとへ追い返した。応神天皇崩御後、仁徳天皇は難波の堀江の河口、海への出口の近くに港を作った、これが「難波の津」の起源で今の大阪城の東のほうにあったらしい。「難波の津」の管理者として本来なら大日下王が任命されるのが筋だが、大日下王は大山守命の乱に際して、父(大雀王)につかず、伯父(叛乱側)に味方したか、少なくとも中立派だったかして、権限を取り上げられてしまったんだろう。そこで葛城氏を始めとする竹内系の諸氏族は葛城系の皇子たちのいずれかを推したんだろう、仁徳天皇もどうしたもんだか迷ったろうが結局、どちらの皇子でもない、弟の隼和気王を任命した。速総和気王はバックに強力な氏族もなく生母の格式も低い皇族なので、葛城氏からすれば扱いやすいし、大日下王からすれば気安い仲で、割りかし融通がきく、と一時は思われたんだろうが、葛城氏ほか武内系の氏族は隼別王をゴリ押しバックアップする形で大日下王の介入を阻止してしまって、大日下王は隼別王の下請け的な存在になってしまったものと思う。隼別王としては大日下王に対して気まずいながらも、無力の枝葉皇族で、今をときめく大権力者の葛城氏やその取り巻きしかいない朝廷の流れには逆らえない。その後すったもんだでこの人が反乱し、その後処理で九州の隼人の総監の地位は隼別王から大日下王が取り戻したものの、改めて「難波の津」は葛城系の皇太子伊邪本和気王の直轄ということになった。ここで荷揚げされる物資を管理するので、大日下王のいる「日下の津」は流通のセンターとしての機能を大きく損なってしまった。
大江というのは「難波の堀江の河口、海への出口のこともさしうる」とは前述した。「難波の堀江の河口、海への出口」とはつまり「難波の津」のことだ。実際は「日下江」全体をいってるのだが、大日下王を憚ってあえて直接な言い方を避けているのではないかと思う。実際に「日下伊邪本和気」(くさかのいざほわけ)と名乗ったこともあったかも知れないが、名前がかぶるのですぐやめたんだろう。
(※ちなみにこの「大江」は書紀が「大兄」としてるがこれは奈良時代に大江という地名がわからなくなってたから書紀の編集部が当て字だと解釈したんだろう。実際に長男だから「大兄」と称していた事実があってもいいんだが、それなら「伊邪本の大兄」のように名前の後ろにつくはずで、前につける例はない。)

住吉は今の大阪府住吉区にあった「住吉の津」と神戸市東灘区の住吉があり、後者(神戸の住吉)は神功皇后以来の伝説に彩られており軍港だったのではないか、つまりここを牙城とする者(かつては隼別王、のちに住吉中津王)は海軍を掌握していた。それぐらいでなけりゃ謀反など起こす気にはなれんよ? 流通経済的に重要なのは前者(大阪の住吉)で、そこで検問を受けた物資は大和川を遡上して大和に入る。当時は「難波の津」よりも重要な港だったろう。尾張連というきわめて古く皇室とも縁が深い氏族があるが、その枝分かれの津守氏がこの「住吉の津」を取り仕切っていた。新興勢力である北(難波の津)の商人と、旧勢力である南(住吉の津)の商人の間では当然ながら激烈な経済競争が起こったろう。起こるよな、普通は。実は東国との交易路としても「住吉の津」から山越えしていったん伊勢に出てから尾張に北上するよりも、「難波の津」から山城へ水路で北上して近江に出たほうが北陸にも東山道にも東海道にも、はるかに便利。だからこの後、長期スパンでは住吉の津は衰退して難波の津が栄えていく。
(※ちなみにナカツミコってのは普通に考えると「2番めの王(みこ)」ってことであって「ナカツの王」(=ナカツという名の王)じゃない。この兄弟たちの生前の通称は、上から「大兄王・仲津王・中弟王(/弟王)・若子王(末弟王/末之若子王)」とかなんとかだったんだろう。即位せず謀反人で終わったので通称しか残らなかったんだろう。本当なら「住吉のなんとかワケ」だったろうな。そうすると仲津王だけ(今いったような経緯で)名前がないことになる。しかしまた別の考えもありうる。人名の「ナカ」が次男・次女の意味だっていうのは漢文の字(あざな)で使う「仲」の用法を和風に転用したものだが、その他に、「大~・中~・若~」という三人兄弟(姉妹)または親子3代の同名にも使いうる。3つめにはただの地名の可能性もある(筑前や常陸その他、各地の地名にあり)。4つめには、中皇命(なかつすめらみこと)のような「中継ぎ」の人という意味。5つめには中臣(なかとみ)はナカツオミの音便で、このナカツというのは「神と人の中を執りもつ、神と人の中つなぎ」の意味。さて、このブログの別の頁で書いたんだけど、墨江中津王は、他の兄弟とは異腹(つまり石之比賣ではなく別の女性の子)だと思われ、そしたら多分「次男」の意味のナカではないのではないか。で、地域としての「住吉郡」(まぁ当時は律令の「国郡郷」制ではないがとりあえず)も、政治的施設としての「住吉の津」も、住吉大社が機能的センターだったに違いない。そこで中津王の名の「中」が気になる。墨江中津王は実際に住吉大社の神官を兼ねていたのではないか。むろん津守氏の宮司はいたろうから、その上の、伊勢神宮でいえば「祭主」のような地位が考えられる。この名、ナカツミコ(仲皇子/中津王)のナカは神と人をつなぎとりもつ神官の意味なんだが、本人の身分が皇族であって臣下ではないからナカツオミ(中津臣=なかとみ)とならずにナカツミコ(中津皇子)となるわけだろう。実はこのナカという言葉が後々の謎解きのキーとなっていく)
「住吉中津王」という名になったのは隼別の乱を平定してからのことで、その前は「淡路の中津王」か「三原の中津王」だったと思われる。中津というのは上述のように神職のこと。今の南あわじ市にある「大和大国魂神社」の神職を兼ねていたんだろう。このことは、皇位にはほど遠い有象無象の皇族の一人だったことを思わせる。この皇子が皇位も狙える有力な皇族に成り上がったのは、隼別の乱を平定するに際してなにか大いなる功績をあげたことによるとしか考えられない。淡路にも水軍があったことは応神紀にも「淡路の水夫」があって吉備の姫を船で送らせる話が出て来る。彼が淡路水軍を率いて活躍したことは容易に想像できる。隼別王の乱を平定した後は、住吉に本拠を遷して、海の民を支配することになったんだろう。
ちなみに「大和大国魂神社」の現在の住所は南あわじ市の榎列上幡多。上幡多・下幡多は榎列(えなみ)地域に含まれる各町の一つで、古くは「幡多村」といった。ここは中央貴族「羽田臣(はたのおみ)」の部曲(かきべ、貴族の私有地で中世の荘園のようなもの)の一つだったところで、住吉中津王は当初から羽田氏と関係が深かったことがわかる。帰化人の秦氏じゃなくて武内宿禰系の羽田氏の方ね。おそらく羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)は中津王の乳母だったのではないか。これは後々重要なポイントになってくるのでお忘れなく。

丹比(たぢひ)は今の大阪府の東南、内陸部だが、住吉の津を中心とする港湾都市圏に接していたろう。河内国と大和国の境をなす金剛山系の東の斜面が大和の葛城で、西の斜面が河内の石川郡・錦部郡。古くは丹比郡・石川郡・錦部郡を含んで広義の「多治比」(たぢひ)だったのではないかと思うが、まぁ含んで無くても律令時代の丹比郡は東の石川郡と錦部郡の両郡を挟んで大和国に近い。金剛山系はのちに役行者(えんのぎょうじゃ、役小角)が現れて修験道の中心地になっていくように、山の民のセンターの一つ。ネットの古代史趣味者たちのブログでは、タジヒの当て字に「丹」の字を使うのは丹砂を採掘する山の民がどうのとか、山窩(さんか)の蝮採り業者をタヂヒという話とか、遠く関東の秩父の丹党が丹比氏の子孫で山の民でつながってるとか、いろいろ(他の人が言ってる話が)あるが面倒なので検討はしない。要するに大雑把にいえば丹比という土地は「山の民」と縁が深いところで、この地を本拠とする丹比連氏も山の民と縁が深いことになるが、この丹比氏も津守氏と同じで尾張連の分家で、ただ津守氏が海の民、丹比氏が山の民をそれぞれ分担しているだけで同族なのだ。つまり次男の中津王は「海の民」の総長、三男の水歯別王は「山の民」の頭首ということになる。これも隼別王の下請け的な存在だったのが叛乱平定後には独立したんだろう。ちなみに水歯別皇子は乳母氏族が丹比氏だったと思われるので、生まれた時から縁の深い土地。

じゃ、長男の伊邪本別王も「難波の津」なんだから海の民のボスじゃんよ、ってことになるかというと、それがそうならない。なぜか。後世の例だが、「難波」(今でいう大阪市の北部)には帰化人系の氏族がやたら多いのに、「住吉」(今の大阪市の南部)にはまったくいない。なぜそうなったのかを考えると、第一に新興地帯じゃないと帰化人が食い込めないってのもあったろう。第二に「住吉の津」は大和川から大和へ通じてるわけで、飛鳥とか纏向(まきむき)とかの奈良盆地南部に宮都があった時代ならいいんだろうが、そこから伊賀越えにしろ伊賀の南を通るにしろ山越えして伊勢に出ないと東国との交易ルートが開けない。「難波の津」は難波の堀江から日下江を通じて淀川水系を遡上し山城へいく。山城は若狭湾つまり北陸・山陰へ通じる要衝で、山陰は三丹(丹波・丹後・但馬)から出雲、そして新羅へという「日本海航路」がある。北陸も高句麗(こま)や粛慎(あしはせ)といった北方民族との交易ルートに通じる。公式で大規模な移動には中継を支える経済力のある瀬戸内海ルートが適しているが、個人的な商業活動とか不法移民にとっては日本海ルートのほうが早くてなにかと便利。西は長州、出雲沿岸から若狭湾、北は越前の敦賀あたりまでは韓漢の移民も多かったろう、ただしあくまで通行が多かっただけでそこに定住したわけではない。崇神朝~景行朝はちがうだろうが、仁徳朝の頃から韓漢からの移民は難波の津までスルッときてそこに定住したんだろう。だから、「難波の津に帰化人系の氏族が多い」というのはあくまで後世の話だが、その前段階として、おそらく当初から移民の街ではあったんだろう。これに対して住吉の津は、はるか後世になっても帰化人系の氏族がほとんどいない、と直木孝次郎先生もいってたよw ここは息長氏の本拠だった平野区も近く、反移民派で対外強硬派の巣窟だったことは別の記事で書いた通りで、昔ながらの日本人勢力が根を張っていたわけだ。「海の民・山の民」ってのは考古学でいう弥生文化=水稲耕作に服さない連中なのだからこれが縄文文化の伝統を引く生粋の原住民なわけで、帰化人とは別枠だ。こうして整理すると長男は「帰化人担当」で次男と三男は「原住民担当」だってことにならんか。仁徳天皇も「いまだ皇位継承しないはずの皇子」だった頃、父帝から「韓政」の担当に任命されたこと、前にもこのブログで解説してある。韓政(からまつり)つまり「外交と貿易」だ。その、仁徳天皇の専門分野をそのまま引き継ぐことを命ぜられたのが長男だったわけだろう。そしてかつて大山守命が担当した海山の政は一時は隼総和気王に任されていたと思われるが隼総和気の乱の後、中津王と水歯別王に分割されたんだろう。

速総和気命との関係
隼総和気の母は桜井田部連(さくらゐのたべのむらじ)の祖先で、その桜井という地名は、今の東大阪市池島町か富田林市桜井町かで両説が対立している。これはどっちが間違いということではなく、富田林市桜井町が元の櫻井氏の本拠だったが、隼総和気王が大山守命の職掌を継承してからは、桜井氏は隼総和気王に従って東大阪市池島町にも進出したんだろう。池島町はその名の通り昔は「島」であんまり古い時代に遡りすぎると海の底ってことになりかねない。池島町は「日下の津」からすぐ西南にあたり、ここから東に当時は陸路か海路かわからんが7~8kmで上町台地にあたり、住吉の津も遠くないが、上町台地をこえていくとすると、どちらかというと住吉の津よりは難波の津のほうが近い。むろん息長氏が本拠としていた平野区のあたりはさらに近い。池島町には後に「桜井屯倉」が置かれるようになるが、難波の津が本格始動する前にはここが海上交易の統括所だったんだろう。一方、富田林市桜井町は律令時代には河内国石川郡で、丹比郡と大和国との間に挟まり、金剛山系の西側の斜面にあたる。つまり、富田林市桜井町の桜井氏は山の民を管轄する旧家・本店、東大阪市池島町の桜井氏は海の民を管轄する分家・新店、そしてその両方が棟梁として仰ぐのが隼別皇子というわけよ。こうみれば、隼総別王がもっていた海と山の利権が中津王と水歯別王に分割された情況がわかりやすいと思う。

四兄弟の妃の出身
朝妻は大和・近江・丹後の3ヶ所に地名がある。このうち近江は妃の大中津姫の実家、息長王家の本拠だからその関係か。良港で海部(あまべ)があったらしい。丹後の朝妻は猟場があったらしい。が、近江・丹後の朝妻は背後関係の深読みが思いつかない。普通は大和の朝妻と考えられているが、ここは葛城の中の小さな一角で、一見したところ特に政治的な意味はなさそう。ただ、大和の朝妻には朝妻首(あさづまのおびと)、近江の朝妻には朝妻手人(あさづまのてひと)という朝鮮系の帰化人がいた(テヒトは「伎」とも書きカバネの一種)。おそらく朝妻首は伴造(=部民の管理者)で、朝妻手人はその管理をうける部民だろう。その縁でか、のちに男朝津間若子王は允恭天皇となってから新羅の名医に病気を治してもらったりする流れになるが、これは結果的なことでこの段階で意図的になにかあったわけではないだろう。大和岩雄の説では近江の朝妻手人は近江の息長氏とも関係が深く古伝承を伝えたから奈良時代に「海語連」になったんだといってるが、これも後々のことで、当時(仁徳朝~履中朝)のリアルタイムには関係がない。
(※ちなみに、この四兄弟は名前の冒頭に大江の・住吉の・丹比の・朝妻と四ヶ所の地名がついているんだが四男の允恭天皇だけ地名(男朝津間)の下に助詞の「の」が入らないのはなぜだ? これは「の」を入れて「をあさづま『の』わくごのすくね」と読まないといけないんじゃないのかと思うが、角川も岩波も講談社のもすべて「の」が無く岩波の日本書紀も「の」がない。平安時代以来の注釈書(弘仁私記とかの類)にそういう読みの指定でもあるのか? どういうわけなんだろうな。
それと、朝妻の地名だけ頭に「を」(記:男、紀:雄)がついてるので、長子の「大・江」と末子の「小・朝妻」を対象させたという説もある。しかし例えば雄略帝と武烈帝は「大長谷/小長谷」と同じ地名だから大小で区別しているので、まったく別の地名をさらに区別する意味がないし例もないように思う。名前につけるなら「大帯日子/若帯日子」のように普通は「大/小」じゃなくて「大/若」で区別するのだし、大小とったら長子の地名部分は「江」だけになってしまう。実は男女で対になった地名というのは日本国内にかなりたくさんあるから、おそらくもともと男朝妻(をあさづま)という地名で、これに対する女朝妻(めあさづま)が先に消滅してしまったので区別する意味がなくなり後に男の字が省略されたんじゃないのか。仮に、丹後の朝妻か、近江の朝妻を「女朝妻(めあさづま)」に比定する説もありえなくはないが、あまり遠隔地で男女をつける例はないように思うので、大和の葛城圏内の割りと近くではないかと思われるw)

四男(末子)若子宿禰王(のちの允恭天皇)は上の兄3人とは歳が離れているので母の実家の葛城にずっといたわけだろう。病弱で上の兄たちから軽んじられていたといってるがまぁこれは即位の挨拶での修辞だからあまり真に受けるべきではないが、末子相続が当たり前の時代に長子相続しようっていうんだから、上の兄たちも公式の場ではことさら弟をもちあげるわけにもいかず、病弱でかわいそうな弟を心ならずも貶めてたこともあったろうな、建前に縛られちゃってかわいそうに、今の皇族と同じだよ。まずは自由と人権を奉還してから皇族にお伺いを立てるべきだろう。でなけりゃ建前に寄りすがって生きてる似非ウヨ似非サヨに本当の大御心なんてわかるわけないがに。病弱で半分放置されぎみだったからなのか知らんけど、兄弟の中で末っ子だけが息長系の妃を娶ってる。大中津姫は応神帝の孫とはいえ女系では第二息長系であり、第三息長氏の始祖である若沼毛二俣王の娘。当時はまだ息長王家はさほどの権威も実力もない存在で、俺が当時いきてれば俺から「日本のロックフェラー」と呼ばれたであろう名門財閥葛城氏の娘黒媛(くろひめ)を妃とした長男や、代々皇族に妃をだす家柄である和邇氏から妃をとった三男と比べると、四男(末子)若子宿禰王はやや軽んじられてるといわれてもしかたがない。次男は謀反人として成敗されたため記録がないが、おそらく津守氏(ということはつまり、代々皇族に妃をだす家柄である尾張氏)の娘か、もしくは大日下王の娘を妃にしていたのではないか。あるいは上述のごとく養育氏族だった羽田氏の娘を妃にしていたということもありうる。普通に考える限り、一見この3パターンのどれか、もしくはそれぞれ1人で計3人くらい妃がいてもおかしくないだろう。

「黒媛」の謎
ここでちょい脇道にそれるが、大日下王の妹、若日下王(=幡日之若郎女)は書紀では履中天皇の妃になっているが古事記にはそんなことは書かれていない。もしや若日下王は履中天皇ではなくて墨江中津王の妃だったのではないかとも思われる。中津王は海の民の支配者といっても、淡路の海人族が勢力基盤の中心であり、瀬戸内海の水運を支配する大日下王と絆を深めるためその妹を妃に…というのは皇族貴族の結婚として自然な縁だろう。で、墨江中津王が殺された後、若日下王はしばらく実家に帰っていて、のちに雄略天皇の皇后になった(あるいは墨江中津王が殺された後、若日下王は履中天皇に召されて皇妃になり履中帝の最晩年には書紀のいう通り皇后にもなっていたと仮定した場合、履中帝崩御の後は皇妃(皇后より格下の奥さん、側室)だった黒媛とソリがあわなかったか何かしらんが何らかの理由で実家に戻っていたのだろう)。記紀ともに黒媛の父は普通は蟻臣(ありのおみ:葛城氏)だとしているが、書紀は羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね:羽田臣)だとする別伝をのせている。岩波文庫の日本書紀の注は「伝承による違い」という説明にならない説明をしているが、黒媛が一人なら事実もどっちかだろう。しかし二つの伝承があるのはどっちも正しいのではないか? つまり一方が間違いなのではなく、葛城氏の娘と羽田氏の娘、両方とも妃だったのだろう。だが二人とも黒媛なのは偶然ってこともありうるが普通は同じ天皇の妃になった時点でどちらかが改名するだろう。ところで倭直吾子籠(やまとのあたへ・あごこ)が履中天皇から謀反の罪で処刑されようとした時、妹の日之媛(ひのひめ)を采女(うねめ)として差し出して罪を赦されたって話があるんだが、いろいろおかしい。
第一に、日之媛という名は雄略天皇に捧げられた釆女の名と同じだから、代々釆女の襲名だという説が岩波文庫版の書紀の注釈にあり、それだとこの名はどってことないインパクトに欠ける名前のように受け取ってしまう。が、へんにこだわった習慣が生まれるには起源になった事件があるはずで、書紀は本文でこれが起源かと疑っているのだから、この段階ではまだ襲名も習慣もできる前である可能性が高い。その上で考えると、日之媛(ひのひめ)という名前はかなり高貴な印象がある。日之御子(ひのみこ)といえば「天津神の御子」と同じく天皇を連想する。この時代、女帝という概念すらまだないから、「天皇と同じくらい尊貴な女性」というニュアンスだ。これに該当するのはこの時代だと八田若郎女と女鳥王の二人しかいない。その二人と同等な女性と言ってるのではないか? 
第二に、謀反大逆の罪の贖いとしては采女一人ってのは明らかにバランスがおかしい。この日之媛ってのは倭直みたいな三流貴族の娘でも采女なんぞでもないんだろう。吾子籠の妹というのは漢字の「妹」の意味ではなく和語の「イモ」つまり自分の恋人って意味だろう(書紀は漢文なのに日本特有の意味で漢字を使ってることがあることは雄略紀の注釈で有名な事実)。実際の「彼女」とは限らない。恋人も、もともとは両想いのカップルだけでなく片想いも含めた「恋する人」の意味だし、「我がイモとしたき女」の略で「我がイモ」といっても口語表現ならありうる。あるいは同行していた女性の正体を偽るため、表面上は自分の嫁ということにしていたという可能性もある。
ここで履中帝の妃の「黒媛」には蟻臣の娘と羽田八代宿禰の娘の二人いたことを思い出す。この日之媛こそが羽田八代宿禰の娘じゃないのか? ただ、それでもまだ謀反の罪を帳消しにするほどの高貴な娘ではないので、この差し出された娘というのは、あるなんらかの意味で「羽田八代宿禰の娘」とも言いうる立場の女性ではあったが、実は羽田矢代宿禰の実の娘というわけでもなかったんだろう(詳細は後述)。ところで、反正天皇の皇女で日本書紀が「香火姫」(かひひめ)と書くところ古事記は「甲斐郎女」(かひのいらつめ)と書いている。してみればこれは「~ひめ」と「~のいらつめ」は入れ替え可能な実例だ。日之媛は羽田氏の娘なんだから「羽田日之媛」(はたのひのひめ)ともいわれただろう、この媛を郎女に入れ替えると「羽田日郎女」(はたのひのいらつめ)となる。これ若日下部王の別名、幡日之若郎女(はたひのわかいらつめ)と紛らわしい、だから書紀は両者を間違えているのだ。以上をまとめると、「応神天皇の皇女で大日下王の妹は若日下部王、別名幡日之若郎女。この人は墨江中王の妃となったが夫の謀反の後は実家に帰って、のちに雄略天皇の皇后になる。履中天皇の妃にはなっていない。この人とは別人なのが、羽田八代宿禰の娘で倭直吾子籠の妹(実際は妹ではないが)だった人で名は日之媛、別名羽田日之郎女。この人は履中天皇に献上された」。
日之媛は中津王の側にいて、吾子籠も中津王の側だったので、天皇方に寝返ったことを隠して騙して日之媛を拉致連行してくることを条件に赦されたってことだろう。

そうすると履中天皇の皇女である中磯皇女(なかしのひめみこ)の母は誰なのか? 書紀は幡日皇女だとするのだが上述のようにこの人は履中帝の妃ではなく墨江中津王の妃だと推定される(墨江中津王の妃でのちに履中帝の妃になったとしても可)。なら、中磯皇女の母は、履中帝の妃で羽田氏の娘(実際は娘ではないが)「羽田日之郎女」のほうである可能性がある。書紀によると黒媛は神罰にあたって死んでしまったと書いてるが羽田之汝妹(はたのなにも)という言葉を出してこの媛が羽田氏の娘のほうであることを暗示している。つまり俺が考証した「羽田日之郎女」だ。妃になってから死去するまで数年あるからその間に中磯皇女が生まれたとしても一見辻褄はあってるようにみえるが、はたしてこれで正しいのか?
(※この問題については後に譲るが、一つだけオマケにいうと、中磯皇女・中蒂姫の「中」は墨江中津王の「中」で、中蒂姫の母というのは墨江中津王の前妃で、中蒂姫は連れ子であって履中帝の子ではないのではないか?)

「黒媛」は固有名詞ではない
さて、ここまで情況を解明してもまだ中津王の謀反の理由はでてこない。
ここで前述の話に戻るが、書紀がいう「黒媛ネトラレ事件」はなぜ起こったのか、そもそも黒媛ってそんな価値ある女だったのか? そこで上述の如く、羽田八代宿禰の娘は正しくは「羽田日之郎女」であり、葛城蟻臣の娘の「黒媛」とは別人だとしたわけだが、「羽田日之郎女」にも黒媛という渾名があってもそれはそれで問題ない。履中五年九月十九日に神罰があたって薨去した黒媛(これは実は乱と関係のある別の真相があるが今はふれない)は羽田八代宿禰の娘だったのではないかとは岩波文庫の日本書紀の注釈にも書かれている。それに対して、葛城蟻臣の娘は市辺押歯王を産んだ黒媛で、それぞれ別人だろう(市辺押歯王は履中天皇の最晩年にはまだ妊娠中の胎児で崩御後に誕生した可能性があり、だとすると履中五年に薨去した妃から生まれる道理がない)。黒媛なんて名は記紀にも複数でてくることから当時はありふれた名前だったと思われてる。というかこれは本名ではなく髪の美しさをホメた美称だといわれてる。つまりニックネームで、お水の「みゆき」「しのぶ」みたいなもんじゃないのか。黒媛がただの源氏名で二人いてもいいなら三人いても四人いてもいい道理。
ところで、隼総別の乱は「女鳥王」という「皇位の正統性の証そのものともいうべき爆弾女」の存在なくしては始まらなかったわけで、兄弟が取り合いした黒媛もそういう女性でないと辻褄あわないと思われる。だが羽田八代宿禰の娘にしろ葛城蟻臣の娘にしろ、きっての大貴族のお嬢様だから世間的にはすごい女性だけど、皇族の男性が天下を騒乱に巻き込んでまで命がけで奪うほどの女とは思えないんだが。といっても女鳥王なき今、八田皇女がまだ生きていたとしても年齢的にもう再婚って歳でもなかったろうし、最早そんな女性はいない。…はずだが。以前からこのブログでは何度もいってるように、隼総別王と女鳥王は古事記だと大和の曽邇で、書紀だと伊勢で殺されたことになってるが実は生き延びて反乱が継続していた。だからこの二人には娘がいて乱が鎮圧された時に捕虜になっていたとしたら?w あるいは女鳥王の娘ではなく、女鳥王本人だったとしても世代的・年代的にギリギリ間にあう。

クーデター勃発までの経緯
いや、女鳥王の血をひく娘なり、女鳥王本人なりがいてもいいんだが、そういう女性がいただけではまだ中津王の乱の原因にはならない。仮に彼女を「第三黒媛」と呼ぼうw 履中天皇が本音では第三黒媛を皇后にしたかったってのはわかる、父帝仁徳天皇がついに果たせなかった偉大な聖婚となるはずだからな。しかし第三黒媛がもし女鳥王だったら彼女は父帝に対して謀反を起こした大罪人、儒教的には死刑が適切だろう。女鳥王の娘なら無罪ではあるが立后はさすがに儒教精神からは憚られる。現実には唯一正統の血をひき、燃え落ちる隼別の牙城の火の中からも不死鳥のように生き延びて再び世に現われた第三黒媛の権威はもはや偽天皇の疑いのかかる仁徳皇統をうわまわっており、死刑なんかにしたらそれこそ謀反の一つ二つ起こるぐらいでは済まない、倭国大乱ってことになりかねないほどの存在になっていたのではないか。朝廷は、「女鳥王はただ隼別という悪人にたぶらかされ騙されていただけなのだ、彼女は謀反人に拉致されていた被害者であって謀反人ではないのだ」、としてこの矛盾を解消したことにするしかないが、「雀(ささぎ)とらさね」と歌までつくって隼別を煽っていた黒幕なのは庶民にすらバレバレなので、世間が、いや特に貴族層の中のウヨ派(=女鳥派)が納得したとは到底思われない。ここで儒教主義は破綻しているのである。まぁ戦後民主主義もアメリカ様から押し付けられたんだか下賜されたんだかした段階で民主主義としては理屈が破綻してるわけだが。ここで中津王が第三黒媛を寝取ろうと思いついた理由があるとしたら、一つしかあるまい。第三黒媛をどこからか見つけて保護した(というか捕獲した)という偉大な功績を立てたのは中津王本人であり、世間もそれを熟知しており、第三黒媛と結婚する優先権は中津王にあるかもしれないという空気が少なくとも世間の半分ぐらいを覆っていたんだろう。また第三黒媛が中津王の妃になるのなら、天皇たるもの(=履中帝)が謀反人を皇后にするなんていう奇怪な事態は回避できる、という理屈も(少々むりやりだが)なくもない。当然、中津王は第三黒媛の立后に対して異議申し立てをしたくなるが、にもかかわらず履中天皇は最終的に自分の皇后に立てることにした。日本書紀は第一黒媛(羽田矢代宿禰の娘)が薨去した後に幡日皇女を皇后にしたとあるが、書紀では皇族出身の配偶は最初から彼女だけなのになぜか前半は彼女は立后されず、黒媛を妃(≒側室)としているだけ。これ要するに、前半は第三黒媛を皇后にしようとネバっていたため皇后の位を空席にしていたってことだろう。そのうちに第一黒媛は薨去してしまった。
第一黒媛と第三黒媛とは同一人物だろう。第三黒媛は平定された謀反人の子なのだから捕虜であって、家臣もないし身寄りがない。だが皇族として処遇するために「親がわり」の存在、あるいは最低限の家臣が必要だ。それで中津王は自分の養育氏族「羽田臣」を当てたんだろう。つまり羽田矢代宿禰と第三黒媛(=第一黒媛)は乳母親(めのとおや)と乳母子(めのとご)の関係であり、ある意味では「父娘」といえる(もっともこれは中津王による形式的な「設定」にすぎなかった可能性もある)。
履中天皇にしてみれば他に選択肢があったのかもかなり微妙だ。第三黒媛を自分以外の誰かに嫁がせれば世間はそっちを天皇となるべき正統な人間とみなしかねない情況になっていた。「兄弟の互譲」ってのは仁徳系にとって暗い記憶につながるし、儒教主義をアイデンティティーとする仁徳宮家としては長子相続の掟を打ち立てなくていいのか、長子相続の主旨から父帝仁徳天皇が長男を皇太子にたてていた、その遺志を守るためには謀反人(またはその娘)を皇后にしなければならないという矛盾は目をつぶるしかない。またこの時はまだ磐之媛も生存しており、彼女の鶴の一声で「第三黒媛」は伊邪本大兄の皇后に立てることに決まった可能性もある(むろん「第三黒媛」本人は同意せず)。

ここで隼総別の乱の終焉についてだが、乱が最終的に鎮定したのは仁徳天皇の最晩年で早くても崩御の数年前、遅ければ崩御の直前くらいかと思う。最後の根拠地は住吉大社だったと考えられる(その話は別の記事で)。第三黒媛(生き残りの娘かまたは女鳥王本人)というのは住吉大社(ただの神社ではなくて城壁をめぐらした一大軍事港湾都市。例えば石上神宮も軍事基地だったのと同じようなこと)かもしくはその近隣で捕獲されたんだろう。速総和気王の支持者は、大山守の乱の時と同じく海の民・山の民で葛城氏や仁徳天皇の進める儒教化・中華文明開化への反対者、帰化人優遇策への反対者で、外交では強硬派、文化的には国粋派…。これすべて息長氏の本拠にあった「比売碁曾の社」にたむろしていた連中の特徴と一致する。「比売碁曾の社」があったのは今の東成区の比売許曽神社とされがちだがここは下照姫を祀った社でぜんぜん関係ない。正しくは平野区の赤留比売命神社か式内楯原神社のあたりだろう。ここから東へ7~8kmで住吉大社つまり「住吉の津」で中津王がいたところ。今の平野区は「住吉の津」の後背地で「広義の住吉」に含まれていたろう。中津王の生母は磐之媛ではなく淡路三原皇女だが、応神紀に「淡路の水夫」がでてくることから当時は淡路にも水軍があったことがわかり、彼が「海の民」の支配をまかされたのもこの縁か。中津王は最終的に謀反人になってしまったためその功績は消されて記録にないが、実際に速総別の乱を鎮圧した時の最大の功労者は中津王だったのではないか。速総別王が最後の砦にしていた住吉大社を中津王の艦隊が攻め落としたんだろう。その時に捕獲した敵の要人の中に女鳥王と第三黒媛の母娘がいた。だから中津王にしてみればまさに「奇貨居くべし」、いきなりこの事実を発表するんじゃなくて、まずは丁重に扱って懇ろな関係になっておくのが当然だろう。あるいは彼女らに従う右翼過激派だか速総和気の旧家臣だかが、姫様を奉って中津王と一味になろうと中津王をそそのかしたのかもしれない。さらには第三黒媛みずから、敗死した隼別のカタキを討つため、墨江中津王を誘惑した、なんてことも考えられないか? 書紀では正月十六日に仁徳帝崩御、十月七日に大葬の礼、翌年二月一日履中天皇即位。この間に乱の勃発から終結までが入る。古事記では八月十五日に仁徳天皇崩御、乱が勃発したのは大嘗会だからほぼ十一月前後。ただし古い時代には新嘗祭は九月だったとする説もあり、古事記はすでに履中天皇が即位していたように読めるので、先帝崩御の直後にあわただしく即位したことになり、儒教の礼の精神からは不審。中津王の叛乱は、書紀は誤って一年繰り上げているのではないかと思われ、この大嘗会は仁徳帝崩御の年の大嘗会ではなく、翌年の履中天皇即位元年の大嘗会なのだろう。
おそらく中津王は、大葬の礼の十月七日の当日かその数日後に「第三黒媛」発見の特報を発表したかお披露目した。このせいで皇位継承の行く末が曖昧になったがむろんそれは中津王の狙い通り。すったもんだで「第三黒媛」を皇后に立てることになったが、媒(なかだち)として中津王を立てたと書紀はいう。第三黒媛はいわば捕虜なのでいままで手許に隠してきた中津王しか保護者がいない。当時の形式として「媒を立てる」ことが必要なら、中津王以外に該当者がないわけで、伊邪本別王としたら不愉快で不本意きわまりないが仕方ない。

黒媛ネトラレの真相
となると、書紀のいう事件の顛末はかなり脚色されてるようだ。宮廷で上演される語部の演目の台本としては天皇を悪者にはできないから、ストーリーを転がすにはどうしても中津王を悪者にするしかない。実際には、中津王が兄のフリをして黒媛を寝取ったなんて事実はなかったはずだ。なぜならずっと前からとっくに二人は懇ろだったから。中津王がもし彼女を事前に手なづけておくことができなかったら、謀反を起こそうとは思わなかったろう。もしこの時に同衾したなら最後の別れを惜しんでのことで、黒媛も同意の不義密通となる。しかし中津王は大事を前にそんな迂闊なことは差し控えたに決まってると思うがどうよ? もし前夜に密通してたとしたら、伊邪本別王の問に対して黒媛は最後までトボけたはずで、書紀がいうようなウッカリ気づかせるようなことはいわないだろう。また前夜に何もなかったとしたら、書紀が書いてるような会話もなかったのであり、むしろ伊邪本別王の心の中に無理やり中津王と引き離した黒媛への罪悪感と、彼女の心はまだ中津王のものだと察知した不快さがあっただけだろう。第三黒媛はクーデターのことはまったく関知してなかった可能性もあるし、中津王とはグルだった可能性もあり、そこは判断がつかない。もし後者だった場合には、履中天皇を油断させる役目があったはずだ。『水戸黄門』で悪代官をお色気で油断させる由美かおるが思い出されるなw だが宮廷で上演する語部(かたりべ)としては天皇を悪役とかカッコワルイ役どころとかにする演出はできないわけだから、わかりやすい乱の原因として中津王が黒媛を犯したという話づくりになる。ここは創作なのだが、第三黒媛の存在が乱の根本的で本質的な原因であることは説明すると長くて複雑なのは大衆も周知なので、舞台の芝居で象徴的に示せばそれでよく、文句はでないのである(あるいは奈良時代には第三黒媛の存在は天武皇統にとって都合わるい話として削除されていた可能性もある。特に履中帝が正統性を確保するために女鳥王(かまたはその娘)を娶った話は天武天皇が鵜野讃良姫を娶った話とかぶってしまって具合がよろしくない。がこの話は今回はふれない)。そういうわけで、日本書紀は女性をめぐる三角関係が乱の原因のようなことをいってるが、例によって語部(=女性集団)の昼メロドラマ趣味に迷わされてるんで、記録を丹念に拾っていくと実はもっと壮大な政治的背景があることがわかるのだ。
で、翌年の履中天皇即位が控えているので、年末までには中津王は表面的には第三黒媛を兄貴に渡すことに同意して、兄を天皇として立てていくことになった。これが年末までの流れ。だが中津王が同意しても、肝心の第三黒媛本人が同意せず、履中天皇即位後も皇后の座は空席のまま推移したってわけだ。それだと兄妹の仲はまたしても不穏なものになってくるので、その年の大嘗会は兄弟の和解を演出する方向でもりあげようということになっていた。むろんその裏で着々とクーデターの準備をすすめていたわけだが。

残された問題
実際には伊邪本別王の派閥と中津王の支持者が半々で朝廷は割れてしまっていたのだろう。だから木菟宿禰が当初は住吉中津王の側についていたとしてもなんら不思議ではないし、そういう者もさぞかし多かったろう。水歯別王も最初から一貫して伊邪本別王の側だったのか? 山の民を率いるものとしてクーデターへの協力を要請されていたということもありえなくはないが、おそらくライバルは一人でも少ないほうがいいとして何も知らされてなかったんではないか。その場合は中立だったと思われる。だから疑いをかけられたわけで、伊邪本別王からの疑いをはらすべく中津王の首を取りにいくハメになったことは記紀にある通り。書紀が最初から「履中天皇側を正義だとしていた」ように書いてるのは後に反正天皇になったから美化しているのであって、それなら疑いをかけられるはずがない。乱の終結後、伊邪本別王は即位して履中天皇となるが、日本書紀によると履中五年に「第一黒媛」(羽田八代宿禰の娘つまり俺が復元した名前では「羽田日之郎女」)が宗像三女神の祟りをうけて薨去してしまう。これの原因が神罰で命を取られるほどのことなのか不可解で、しかもなぜ直接に関係のない第一黒媛に祟るのかも説明がない。これも実は中津王の乱の後処理に関わることなのだが、時間がないのでまたの機会に。それと履中天皇の皇子女の中には第三黒媛から生まれたらしき人がいる。この人もまた歴史をかえる運命を背負っていくことになるわけだが、その話もまた今度。

・氏姓制度の正定と木梨之軽太子の変

平成28年8月1日(火)更新 平成26年6月18日(水)初稿
允恭天皇
允恭天皇即位が遅滞した事情
『日本書紀』によると、反正天皇崩御後に、允恭天皇は即位を拒み、廷臣たちを困らせた。これは当時軽んじられていた皇位を重からしめんとする允恭天皇の深謀遠慮であった。天皇が軽んじられていたというのは重大な情況だが、これは履中・反正と在位の極端に短い天皇が2代続いたからというのも当然あるし、それ以外にも、このブログで何度もいってる仁徳皇統の正統性への疑義というのも当時の政治問題だった。むろんここで允恭帝がただ闇雲に即位を遅らせるだけでは皇位の権威が回復するというものでもない。まずは皇位の外に権威が移ってしまった、その権威を利用しつつ時をかせぎ、その期間のうちに允恭天皇がおのれ自身の知恵と力をみせて廷臣たちや世間を驚かせ尊敬を勝ち取る。つまり帝徳を発揮することでしか皇位それ自体を重からしめることはできないのだ(なんのことをいってるのかわかりにくいかもだがこのブログを読んでる人にはピンとくるはず)。
紀では、允恭天皇による空位は1年ほどにすぎないが、実はもっと長期であった可能性があり、本居宣長は紀の反正帝殯の記事のずれから即位固辞で生じた空位を5年間とみている。紀では年代を短縮するのに半分に割るという手法をとった痕跡が多々あるので、この5年は実は10年にも該当するだろう。紀の編年では允恭元年はAD412年に当たるが、実際の允恭朝はずっと時代が古いだろう。
さて、この頃、葛城系の権臣は、平群木菟宿禰(都久宿禰)は既に没していたか隠居モードに追い込まれていたか知らんがともかく勢いを失っており、その甥・玉田宿禰が権臣であった。履中・反正・允恭の三兄弟はいずれも母系が当時権勢を奮っていた葛城氏の系統(生母・磐之媛は玉田宿禰の伯母)であり、いわば主流派。允恭帝の他に皇位継承の候補として大草香王がいたがこの王は母系が「諸県の君」といい九州の大豪族ではあるが中央では弱小氏族といわないまでも、葛城氏のような大貴族に比べれば影響力、存在感、ともにかなり落ちる。ゆえに反主流派の貴族連合が推すところであった。ところが履中帝が生母と同じ葛城系から皇后(玉田宿禰の従姉妹)を立てたのに対し、水歯王(反正帝)は和邇氏、若子王(允恭帝)は息長系(皇族系)から妃を立てていて、それぞれの背後の勢力の相互関係は微妙であった。すなわち允恭帝は主流派でありながら、必ずしも専制権力を得られない情況にあった。それに初期の段階では貴族層からの人望もなかったと思われる。末子継承という伝統に反して、長子相続を実現するため、仁徳皇室ではことさらに長男の大兄王をほめあげ、末子の若子王をあまりよくはいわない風潮があった。それは宮内庁の広報プロデューサーが何も仕事しなかったとしても、日本人ってのは事実をみたり真実に従うやつは村八分、あれこれ忖度して空気をよむっていう本能に従う動物みたいな連中だからなw 実は末弟の若子王こそが知恵すぐれた「隠れた賢人」であることは皇族貴族のごく一部、帳内(とねり)、召し使い、取り巻きどものごく一部しか知らない事実であって、貴族層一般の認識では体が不自由な上に愚鈍で取り柄のない人物と目されていた。とはいっても当時の日本人と現代の団塊世代をごっちゃにするのはあまりに暴論w 建前に従ってるのは上級貴族や帰化人などの「葛城派」の一派だけで、インターネットじゃなかった語部(かたりべ)のネットワークを通じて庶民はみな実情を知っていたので、人望(=今風にいうなら支持率)は庶民層でみるとむしろ若子王の評判はそんなに酷いものではなかったのである。ちょうど朝日新聞の調査とインターネットでは与野党の支持率が真逆になるようなアレだよw とはいっても絶大な人気というほどでもない。これはちょうど保守系の政治家や評論家でもネトウヨから一回うさんくさいと思われてしまうと評判を取り戻すのがなかなか難しいっていう情況に似てる(かな?w)。結局、若子王もまた仁徳皇統に属する人なんで、允恭天皇が庶民の支持を得られるかどうかはその問題をどう解決するかにかかっていたのだ。

允恭天皇の政略結婚戦略
A)ここに「飯豊郎女=青海郎女」という人がいた。通説では(というか記紀の系譜では)履中帝の皇女であり、嫡流家の皇女であるとともに純然たる葛城系の皇族でもある(飯豊女王には履中天皇皇女の「青海郎女」と市辺押歯王の娘「忍海部女王」の二人いて別人)。允恭帝は葛城氏に近づくため、この飯豊王を皇后として即位するつもりだったと思われる(飯豊王の本拠「忍海」と允恭帝の本拠「朝津間」はともに葛城の域内で、朝津間とは後世の葛上郡内の浅妻で今の御所市大字朝妻。後世、忍海郡と葛上郡は隣接しているが、忍海が表玄関の位置なのに対し朝津間は葛城のより奥地)。しかし、葛城系が強くなることに難色を示す貴族連合とそれに推される妃・大中津姫(息長系=皇族系)の反対で、難渋しているうちに数年がすぎた。やがて紀にかかれた玉田宿禰の誅殺事件がおこる。玉田宿禰が驕慢な不敬行為から事態がこじれて討伐された事件だ。これで葛城氏が失脚してしまったために飯豊王との婚姻が不要になってしまったものと思われる。
B)ここに「中磯皇女=中蒂姫」という人がいた。通説では(というか書紀の系譜では)履中帝の皇女であり、嫡流家の皇女であるのみならず母の草香幡梭皇女(=若日下部王)は応神天皇の皇女であるとともに大日下王とは異父同母の兄妹。書紀によればこの中磯皇女は後に伯父にあたる大日下王の妃に召されたことになるがそれはまだずっと先の話で、この時はまだ未婚独身だった。允恭帝は葛城氏に対抗するためこの日向国造系の中磯皇女を皇后として即位するつもりだったと思われる(大日下王の一族が葛城系を抑止するために生み出された存在だという話はこのブログでたびたび言ってる通りなので今回は詳細は省略)。当然、葛城系からの猛反対と、嫉妬心をもやす大中津比賣の反対で、難渋しているうちに数年がすぎた。やがて紀にかかれた玉田宿禰の誅殺事件がおこる。玉田宿禰が驕慢な不敬行為から事態がこじれて討伐された事件だ。これで葛城氏が失脚してしまったために中蒂姫との婚姻で葛城を抑止する必要がなくなってしまった。そこで嫉妬深い大中津比賣はここぞとばかり中蒂姫を大日下王の妃としてくっつけてしまった。
C)上記のA,Bにでてくる「飯豊王」と「中蒂姫」は同一人物である。
(以下、省略部分はじまり)

(※後日シラフの時に書きます、疲れた)

(以上、省略部分おわり)
しかし葛城氏は玉田宿禰の子・葛城円大使主(都夫良意富美)が後を継ぎ、強大な氏族として存続し、挽回のチャンスを狙っていた。円大使主(円大臣)は儒教の信奉者であるから、主君を主君とも思わない父・玉田宿禰の態度を憎んでいたと思われ、父とは逆に、允恭天皇に忠誠を誓っており、それで葛城氏の地位の世襲も認められたものと思う。

「金波鎮漢紀武」の正しい解釈と読み
この人の名前、岩波文庫は「こむはちむかむきむ」、角川文庫は「こみばちにかにきむ」と読んでるけどデタラメな読み方だと思うんだよね。意味も、金が姓で武が名前、波鎮漢紀は波鎮と漢紀にわける説と4文字で一つにみる説とがあるが、いずれにしろ称号の類だという。これは二つにわけている解説のほうがデタラメ。だからって4文字で一つにみるのも間違ってる。
まずそもそも、この時代の朝鮮に「金」なんて中国式の姓はまだ無いのよ、新羅王家が初めて金氏を称したのは6世紀なんだから。冒頭の「金」ってのは何かっていうと「金官」の官の字が誤脱したかもしくは省略表記。「金官」ってのは「そなら」と読んで今の釜山のあたりになった国、任那の諸国の中の一つ。崇神天皇の末年に任那からやってきたきた蘇那曷叱知(そなかしち)の頭文字の「そな」と同じ。どうしても姓だというのなら、新羅人ではなくて中国人だろう。『三国志』に金奇とか金尚という人名がでてくる。金旋という武将も有名で、朝鮮半島とは無関係にもともと中国には金氏という姓がある。これなら読みはコンになる(コミとかコムと書いてるのは当時の日本にンの発音がなかったので日本訛り)。
波鎮漢紀は『日本書紀』や朝鮮の『三国史記』等にでてくる「波珍サン」(サンの字は冫に食、意味も発音も「餐」と同じ)のこと。サンってのはカンキ(干支、旱岐、干岐)の新羅訛り。新羅でも古くはサンと訛らずカンキまたはカンと書かれていた。ただし上代特殊仮名遣いで「紀」は乙類、「岐」は甲類だから波鎮漢紀が波珍干岐とでは、「当て字が違うだけで同じ語だ」とはいえない。称号としては波珍干という3文字の用例が多いのだからここも波鎮漢紀じゃなく「波鎮漢」までが称号(爵位)だろう。そうすると名前は「武」ではなく「紀武」となる。それと、書紀の古訓では「波珍」はハトリと読むことになってる。だから正しい読みは「そな(ら)・はとりかん・きむ」か「こん・はとりかん・きむ」。
ところで『三国史記』には波珍干を一名「海干」とも書くとある。現代韓国語で海のことをパダというのだが、ハトリってのはパダの古語だとすると「海」は意訳、「波珍」は音写ってことになる。波珍干は後世にはただのランキングを示すだけの官位の一つになったが、この頃はまだそうではなくて、具体的な役職だったんだろう。海の担当ってのはつまり海外との交渉で、「波珍干」というのは当時の外務大臣って意味と思われる。「金」がもしコンでなくソナラだったら任那出身ということになるが、日本と交渉するのに、任那出身者を登用するのはこれまたもっともな話ではなかろうか。
そして名前の「紀武」だが、この2文字だけでも中国人の名前のようにもみえる。紀氏という姓があり、『三国志』に紀元龍、紀亮、紀孚、紀瞻という人名が出てくる。他に紀陟(きちょく)は呉の政治家、紀霊は袁術の配下の武将で有名。もし金が中国の姓の金氏で個人名が紀武だとしたらこの人のフルネームは「金紀武」となるが、ちょっと不自然な名前じゃないか? 紀武がただの当て字でキムという任那語の人名の可能性もなくはない。その場合は任那人で新羅に帰化してたのかもしれないが、帰化したのならすでに新羅人なのだから頭に「金」(そなら)とつくのはへんだ。
この人は姓が紀氏で名が武、紀武という中国人で金官(そなら)=任那に帰化してたか、もしくはキムという名の任那人だった(当時の任那人には姓というものはまだ無かった)。が、たまたま外交使節として新羅にきていたのが、新羅王に頼まれて臨時の外務大臣として日本に派遣された。それでただの波珍干でなく「金波珍干」といったわけ。外国人を外国人のまま大臣に採用するのは「客卿」といって昔はどこの国でもあったこと。特に、新羅、百済、高句麗はどこも他国人が互いに入り込んでたし、日本も含めてこの四ヶ国には中国からの帰化人がいたし、『日本書紀』には百済王に仕えていた日本出身の日本人の閣僚や官僚が何人も出てくるし、『三国史記』には新羅に常駐していた「倭国大臣」という役職が出てくる。
ところで、この紀武という人は『三国志』にでてくる天才医師「華佗」の末流だろう。華佗には3人の弟子がいて、それから始まったそれぞれの流派が中国に広がっていた。で、この華佗という名は先生を意味するペルシア語“xwaday”の音写で、華佗の医術は麻酔を使った外科手術など西方の医術の特徴をもつ。なので華佗はペルシア人だったという説がある。その西方の医術は、ヘレニズム時代の東地中海で全盛を迎え、現代医学のような麻酔を使った複雑な外科手術もこなしていたという。それがペルシアを経由して極東に伝わっていたということだ。

氏姓制度の正定
(後日加筆予定)

允恭天皇の崩御
『古事記』は允恭帝の宝算78歳とするがこれは本居宣長のいうとおり治天下年数を誤って宝算とした誤伝であり、この年数は反正帝の崩御から起算されている。

木梨の軽の皇子の変
この変事は『日本書紀』だと安康天皇即位前紀に入ってる。『古事記』だと允恭天皇崩御の後、安康天皇即位の前にある。そこでは単に「天皇」というだけで允恭天皇をさしており安康天皇は穴穂命とよんでるから、一応、章立てとしては安康天皇即位前記ではなく允恭天皇崩御後記という分け方になるんだろう。だからこの記事もカテゴリーとしては「允恭天皇」としておく。

近親婚制と近親相姦
古代の日本では異母兄妹婚はOKだが同母兄妹の間では近親相姦とみなされタブーだった(以下「兄弟姉妹」を「兄妹」と略す)。このことは古代史マニアならずとも有名な話だが、時代による変遷があって一概なことはいえないのではないか。通説では「セとイモ」は「夫と妻」が原義であり、姉妹から見て兄弟を「セ」、兄弟からみて姉妹を「イモ」というのは後発の引伸義で、言語からはもともと古い時代には兄弟姉妹婚がデフォルトだったとみられている。同母であっても兄弟姉妹婚がタブーとはされない社会は、古代エジプトや古代ペルシア等が有名な他、世界の各地にたくさんあげられるので、古代日本でもタブーとはされていなかったことは容易に想像できる。
ではなぜ、いつから異母間では許され、同母間では禁じられるようになったのか。

日本における同母兄妹婚禁止の起源
それはおそらく儒教の影響で、仁徳天皇以降の新しい傾向と思う(詳細は応神天皇または仁徳天皇の関連別記事で)。ただ、一片の法律や命令で長年の習俗文化がそうそう簡単に変わるわけもないことはこれまた世界に例の多いこと。また馴染みのない外国の文化をもってこられたら反発も強い。そこで日本人の特異な神仏習合というか「足して二で割る」折衷方式をとった。つまり儒教原理主義ならば近親婚は一切ご法度なのだが、国粋伝統派に配慮して、片親が違っていれば兄弟姉妹でも可としたわけだ。これはうまくいったはずだ。なぜならもともとから同母間の兄妹は少なかったから。記紀には一つもない。なぜ同母兄妹婚が少ない(無い)のかというと、皇族貴族の結婚というのは多かれ少なかれ氏族と氏族の結合であり政略結婚的な面がある。妻の実家は、自分や自分と妻の子にとって強力な後ろ盾となる。皇位継承争い等も往々にしてそれぞれの皇子の母方の氏族の争いという面もある。ところが同母兄妹だと同じ一族だからこの新しい力を加えることができないし、そのような結婚から生じた一族は発展が望めず急速に凋落していく。いわば人材の無駄使いで、こういう即物的な理由で同母間の結婚が嫌われたのであって、何か宗教的なタブーだとか、優生学的な経験則が根拠になっていたわけではあるまい。むろん庶民はそんなことは気にしないので自由に同母兄妹でも結婚していたのだろうが、それが全結婚の半分以上だったのか、禁止されていなかっただけで極めて珍しいことだったのか、そういう比率はわからない。

当時は本当に近親相姦に該当したのか
さて『古事記』だと木梨の軽皇子が同母妹と愛しあってしまった事件は允恭天皇崩御と安康天皇即位の間に起こったことになっているが『日本書紀』だと允恭天皇在位中にことが露見したものの、梨の軽皇子は皇太子だから罰するわけにいかず、同母妹の衣通姫だけを伊予に島流しにしたことになってる。本居宣長はこのへんの経緯をことが露見したが允恭天皇の判断で罰せられずただ「宥めた」(≒訓戒注意した?)だけで済んでいたのを、允恭天皇崩御の後に、人々が穴穂皇子(=安康天皇)の支持に回ったのだと解釈している。
たしかに記紀の矛盾をもっとも当たり障りなく調整すればそういう解釈になるわけだが、恐れ多くも先帝陛下がお定めになられた皇太子殿下に対して、人々(少なくとも朝廷貴族の半分?)が刃向いたてまつるほどの重大なタブー犯罪だったのならば、「皇太子だから罰することができない(日本書紀)」とか「父帝が『宥めた』だけで済ました(宣長)」というのはおかしいのではないか? 当時はこのタブーが意識化されてまだ間もない頃で、人々はまだ「儒教の建前はそうだけど日本人は昔からやってきて今でも庶民はやってるし」ぐらいの軽い受け止め方だったと考えないと、宣長の想定する父帝允恭天皇の態度は解せない。
そうすると、木梨の軽皇子が責められた理由は近親相姦だったというのは穴穂皇子の側のプロパガンダ(政治宣伝)であって、本当は単なる皇位継承争いだったのだろうか。穴穂皇子の側についた人々も、単なる派閥のしがらみでそうなったにすぎず、「近親相姦してケシカラン」と本気で思っていたわけではなかろう。注目すべきことに、木梨の軽皇子の歌物語には、木梨の軽皇子と衣通姫のカップルを責める言葉が一つも出てこない。それどころかこの物語は『古事記』の中でも屈指の美しさとロマンチックなものでたいへんに力が入っており、物語を伝えた宮中の語部(かたりべ)その担い手は恐らく猿女(さるめ)とよばれる女性たちだが、彼らはこの二人を憐憫と同情をもって記憶していたことが確実で、これは『古事記』全編の中でも、謀叛人の扱いとしてはかなり異例なことである。穴穂皇子は人望で勝利したのではなく、後述するように巧みな軍略で勝利したのであって、いわば騙し討ちだった。それが語部たちにはしっかり伝えられていたという一つの傍証とはいえまいか。

兄弟対立の背景:兄妹間の心理面
兄妹間の欲情関係というのは心理学的には権威主義的な抑圧度の高い母親の下で起こりやすいという。実は允恭天皇の后妃は大中津姫一人しかおらず、従ってこの兄妹には異母兄妹がそもそも存在しない。后妃が複数いる場合、后妃間で比較されがちなので子育て競争となりやすく当然のように子女は愛情たっぷりに育てられる。が、后妃が一人しかいないのは多くの場合、嫉妬深い皇后が他の妃の存在を許さないからで、大中津姫も石之媛ほど極端ではないが、尻込みする旦那の背中を押して天皇に即位させたり、自分の妹をしぶしぶ二人目の妃として差し出したが天皇がその妹に会いに行くのもやめさせるというエピソードが『日本書紀』にでてくる。女傑ではあるが亭主を尻に敷いてもいて、子供には厳格な母親だろう。とくに夫である允恭天皇に差し出した妹と、娘の軽大郎女はともに「衣通姫」という別名をもっていることから、美人で名高くかつ外貌のよく似た叔母と姪だったと思われる。こういう娘が母親に虐待されることもひじょうによくある話であり、この場合兄弟との欲情関係が発生しやすいともされている。
むろん当時はこのようなことは格別にタブー侵犯だとはされなかったのだし、宮廷貴族の間ではこの兄妹にいくらかの同情は集まっていたろうし、父帝允恭天皇は大后の力で天皇になったものの晩年は政治についての考え方も相違して心が離れており(詳細は允恭天皇の記事を参照)大后の性格をいちばんよく知っていて、軽皇子を罰するどころか「おまえも苦労してるよなぁ」と(宣長の言葉を借りれば)『宥めた』わけだろう。
この兄妹は9人兄妹だが、大長谷王と二人の妹は幼少で齢が離れていたのがわかるので除くと、男4人女2人となる。年齢は「軽・長田・黒・穴穂・軽女・白」の順なので、一番近い兄と妹がくっつきやすいとすれば「軽と長田」「穴穂と軽女」のカップルとなり黒彦王と白彦王が余るのが順当ではある。が虐待されていた軽大郎女を守ろうとする心理は、兄妹たち全員のリーダーである長男、軽太子にはとくに強く、そこで軽太子と軽大郎女のカップルができたわけだが、軽大郎女の直近の兄である穴穂王も軽大郎女に懸想しており軽太子を密かにライバル視していた。また軽太子と軽郎女の関係に対しては、他の兄妹も表面上は太子に共感して支援しているわけで表立っての抵抗は心理的にできない。その分、長田大郎女に愛情が向かい、長田大郎女をめぐっては黒彦・穴穂・白彦の三人がライバル同士となる。この争いを回避するため長田大郎女は早めに大日下王に嫁いでしまったのだろう。
安康天皇暗殺後の態度からしてこの3人はもともと親密な仲とはいえない関係だった。姉妹2人のうち妹の軽大郎女(衣通姫)は軽太子とねんごろになっていて例の事件の中で心中。長田大郎女は後述のように(詳細は目弱王の変を参照)安康天皇(穴穂命)と後々すったもんだでねんごろになっていき、それで余った白彦王と黒彦王はしらけている状態になるわけだ(が、このことはまた後の話)。

兄弟対立の背景:儒教派と国粋派
軽太子と軽大郎女の兄弟愛は、父帝允恭天皇が「宥め」て済ましたために公許されたかにも見えたが、そもそも「宥め」なければならない事態になったのは、はじめ軽太子が軽郎女との関係を内密にしておりそれが「悪事の露見」という形でばれてしまったからだった。これは宮廷にこの事を「犯罪」とみる一派と、允恭天皇のように犯罪とはみない人々がいたことを意味する。大山守皇子の反乱以来、日本には開明派(儒教派・漢文派)と国粋派(土着派・語部派)の対立ないし「スレ違い・行き違い」がずっと伏流水のように潜在しており、いくつもの政変に関わっているのだが、允恭天皇は全体的にはやや国粋派よりの中間派だった(詳細は允恭天皇の記事)。しかし宣長説からみると兄弟婚については国粋派の見解に同意だったわけだ。だが、ここで開明派が「悪事」として告訴したことによって、軽太子をライバル視する穴穂王は軽太子を追い落とす大義名分を発見してしまったのである。この段階で穴穂王はまだ結婚している様子がないので、婚姻によって特定の氏族を後ろ盾にするということができないでいたと思われる。穴穂王にとっては開明派の貴族たちの支持をとりつけるということは初めて自分の勢力基盤を作り出すことでもあった。
この開明派の巨頭が葛城氏であって、この頃は葛城円大臣(都夫良意富美)がその氏上(うぢのかみ、氏族のトップ)だった。円大臣は允恭天皇に忠誠を誓っていたとはいえ、それは彼の儒教原理主義に従って主君の「地位」に忠義立てしていたまでのことであって、允恭天皇個人の人柄に結びついていたわけではない。だから、たとえ允恭天皇が指名した後継者であっても、兄妹婚という儒教倫理に反するような皇太子なら、別の皇子を擁立したいと考えたろう。
葛城円大臣の父は玉田宿禰だが、葛城氏は玉田宿禰と葦田宿禰の兄弟から二系にわかれ、葦田宿禰の家系は履中天皇とその皇子市辺押歯皇子の二代に渡って后妃を出して血縁関係にあったため、葛城氏全体としては市辺押歯皇子を天皇に擁立したいところだが、内部事情ではこの血縁は分家筋の葦田系のことで、本家筋の円大臣はまだ皇室との血縁を結ぶに成功していなかった。そこで、円大臣と穴穂王の協力関係ができたわけだ。允恭天皇の大后、大中津姫は息長系皇族の出身なので木梨軽太子も穴穂王も、本来ならば履中系に比べて葛城氏からは縁遠いわけだが、円大臣としては両方に保険をかけた形となる。が、年齢的に釣り合う娘がいなかったのか穴穂王との血縁には至っていない。安康天皇(穴穂命)はまだ皇子がいなかったからだろう、自分の後は市辺押歯皇子を天皇にと考えていたと『日本書紀』にある。

戦いの経緯:軽矢と穴穂矢
さて木梨軽太子と穴穂王の戦いは、木梨軽太子のほうが準備不足でいかにも不意をつかれた様子であり、これは允恭天皇の崩御をタイミングをあらかじめ狙っていた計画的なクーデターだったと断定できる。木梨軽太子は物部大前小前宿禰大臣の家に逃げた。大前宿禰は履中天皇の頃から仕える宿老級の大臣だがこの頃は引退してたかもしれない。だがここに逃げたといううのは、物部氏が軍事担当氏族でありその首領の家は城にも匹敵するものだったろうし、緊急の戦時にはまず選択肢にあがるというのが一つ、もう一つは物部氏が儒教派と対立する国粋派で、葛城氏と事前に共謀している可能性が低いとみたこともあるだろう。
この時、木梨軽太子は銅で矢を作り穴穂王は鉄で矢を作ったという。弓筈のことか鏃のことが矢の身の部分のことか諸説があるがまぁ鏃のことだろう。物部氏は兵器製造を司る氏族でもあるから矢を作るための設備もあったろう。本来は合金の青銅にするところそのような暇もなかったか素材の錫や鉛がなかったか、ともかく銅だけで急造したということらしい。鉄の鏃は甲冑への貫通力が高く最強だが、動物の骨や石で作った鏃も殺傷力はある。鉄に及ばないが青銅製の鏃も使える。しかしただの銅で刀を作っても岩にぶつければぐにゃっと曲がるように、銅製の鏃も弱そうだ。骨鏃や石鏃にも劣りそうな印象がある。もし利点を考えるとすれば骨や石や合金に比べると製造に手間がかからず、鉄ほど融点も高くないので短時間での量産ができるということと、「軽矢」という名の通り軽量で射程距離が非常に長かったのではないか。この抵抗はおそらく穴穂王の側からすると予想外の強力さで、対抗策として鉄の矢をこちらも急造した。これは葛城氏という日本最大の富を誇る財閥氏族が財力に物を言わせて物部の城を屈服させたというわけ。しかし「穴穂矢」という名称は後世なくなってしまったため、現代人からすると「とってつけの名」という印象があるが、軽矢と穴穂矢がどちらも一定の年月日本国内で併用され続けていた期間があったことになる。
この戦いは『日本書紀』の編年から判断すると長くても一ヶ月以内で終了している。

戦いの結末
大前宿禰はとにもかくにも一度は軽太子を匿って穴穂王と刃を交えたにもかかわらず、途中で態度をかえ、軽太子の身柄を穴穂王に差し出した。これによって物部氏が打撃を被ったとか処罰されたとかいう様子はないから、降伏というより和解に近い。そもそも天皇不在の特殊な状況で、誰も謀叛人ではないという合意がなされたものと思われる。木梨軽皇子の処断も交渉の途中では皇位継承権を失うだけで処罰はない可能性も残されたろうし、実際にも死刑ではなく島流しに収まったことからも、謀叛や反乱の首謀者=叛賊だとレッテル張りをすることは当時の空気として難しかったろう。世間は必ずしも穴穂王と葛城氏の連合体に対して正義の側だとはみなしておらず、むしろ安康天皇が人望を失った原因になったとすら考えられるのだ。

・袁祁王の詠(ながめこと)

H29年07月13日(木)改稿 H27年10月21日初稿
一枚は「新室楽」(にいむろうたげ)、もう一枚は「大国主神」と表題あり、古事記の原文(返り点はついてるが)のコピーで、前者は弟皇子(のちの顕宗天皇)のが詠(ながめこと)のシーンであり、後者は櫛八玉神(くしやたまのかみ)が大国主神に祝福の言葉(「祝詞」のようなもの)を述べるシーンである。で、この弟皇子の「詠」(ながめこと)にしろ、櫛八玉神の言葉にしろ、「この二例は通常の歌の表記と違って漢字一字一音になっておらず、地の文と同じ表記になっている」。櫛八玉神の言葉は「歌ひて曰く」ではなく単に「云はく」と書かれ、詠も「詠に(を)歌ひて曰く」ではなく「詠して曰く」と書かれる。詠については「荘重におもおもしく声を長く引いて歌う、あとは崇神記の巫女の歌の二例しかない」。

古事記の原文(白文)で、
1,国譲り神話の末尾、「云」の字に注目(岩波の古典文学大系より)
2,顕宗天皇の舞(二王子の舞)の部分。「詠」の字に注目(岩波の古典文学大系より)
3,顕宗天皇の歌垣の部分、「歌」の字に注目
4,須佐男命の歌や倭建命の歌。これは漢字一文字一音で「歌」を表記している例


詠(ながめこと)は古事記に一例しかない?
古事記原文にあたってみたところこの「二例」というのは崇神記にでてくる謎の女の歌と応神記にでてくる国巣の歌の二ヶ所のことだとわかった。ただこの二例は通常の歌のように漢字一字一音で書かれてる上、詠の字を「ながめことする」ではなく単に「うたふ」とか「(歌を)よむ」と読んでる。解釈のしようによっては詠だとも歌だとも受け取れるような書き方なので、要するに「詠」は広い意味での歌の一種なのだろう。
ただし、顕宗天皇の「詠」と櫛八玉神の言葉だけが「歌」の扱いではなく地の文と同じ書法なのは、どういう意味があるのかというと、どうたら「これは歌ではない」ということのようだ。「歌ではない」とわざわざ断るのはセリフとして長くて内容が文学的なので、読者がうっかり歌だと思ってしまうことを予想して、あえて地の文と同じ書法にしているということらしい。素人考えではなんでも気持ちよくしゃべれば自ずから歌だろう、と思ってしまうが、歌か歌でないかは何か線引きというか定義のようなものがあるらしい。崇神記と応神記の詠はたとえ詠の字が使われててもあくまでナガメコトではなく「よむ」「うたふ」で通常の歌のことであって、地の文でかかれた清寧記にでてくる弟皇子の詠だけがナガメコトなのだ、ということのようだ。

袁祁王の詠の訳
弟皇子の詠(ながめこと)の現代語訳、石川淳『新釈古事記』より。これはちくま文庫のやつだな。著作権の都合でここに丸写しで書くわけにはいかんが。しかしこの訳も良いように思わない。「見れば五十隠くる山の三尾の」の句の訳が、石川淳の訳ではわかりにくいが、山の稜線がはためく赤旗に隠れたり見えたりする様をいってるように解釈してる。角川文庫も山の稜線が隠れる意味にとってるが、これは生い繁った竹林に山の稜線が隠れてる、つまり竹林のすごさをいってる。で、だからそのすごい竹林を切り開き、切った竹を押しなびかすのがすごいってことになる。やや迂遠な感じもしてピンと来ないがこんなもんなのかな。それ以外のたいていの本では敵が山に潜れる意味にとってる。しかしそれだと、次の「竹を切り伏せ押しなびかす」のが天下を治めることに喩えられるようなスゴイことなのかどうか、つながりがよくないような気もする。理屈で辿ると、一本の小さい竹を斬り伏せてもぜんぜんすごくないわけだから、ここはその竹林が広大で壮大だっていう説明が必要に思う。そしたら最初読んだ感想では一番ピンとこなかったけど、この三者の中では角川文庫の訳がよいように思えてきた。

他書との比較
この「詠」は『日本書紀』や『播磨国風土記』に載ってるのはかなり内容が違うので、比較してみるといろいろ面白い。(以下後日に書くかも書かないかも)

宣長の気づき/史実の発掘
『古事記』でも『日本書紀』でも『播磨風土記』でも、一つ共通していることがある。それはこの詠では、二皇子が市辺押歯王の子だとはいっておらず、「子孫」だといってることである。これがなぜ重大かというと、発見された時に少年だとすると、雄略天皇の治世が長すぎて、市辺押歯王が薨去した時に生まれてないことになってしまうからだ。
允恭帝崩御が甲午年、雄略帝崩御が己巳年、この間35年しかないが、目弱王の乱の時、雄略帝はこどもだったとあり、その雄略帝は宝算124歳だから、35年間では入りきらない。そこで本居宣長は1運(干支の1周60年)とばして次の己巳年が雄略帝の崩御年だとして、95年間とした。そこから安康天皇の在位期間を『日本書紀』から3年間として引き算して、宣長は雄略帝の在位期間は92年間だとした。(この計算だと目弱王の乱の時、雄略帝はすでに34歳のおっさんになってしまい、こどもではないから、この計算も正解ではない。詳しい計算はまた別の機会にやるとして、とりあえずこれでいくと仮定して)その上で宣長は、二皇子は市辺押歯王の子ではなく孫なのではないかと推測している。

系図の復元案?
『日本書紀』顕宗天皇即位前紀に引用された『譜第』によると、押歯王の子は億計王(意祁)、弘計王(袁祁)の他に、居夏姫、飯豊女王、橘王がいたという。飯豊女王は有名でこのブログでも何度もとりあげているのでさておいて、居夏姫と橘王は系図に名が出てくるだけでどんな人かわからない。しかし、もし意祁王・袁祁王の兄弟が押歯王の子でなく孫ならば、この橘王がその間をつなぐ人物ではないか。つまり『譜第』は錯簡により系図の線が乱誤しているのであり、橘王は意祁王・袁祁王の父なんだろう。
また、中田憲信は各地の系図や諸伝承を収集して『皇胤志』という系図集に取りまとめたが、その中の系図では、市辺押歯王の二人の子は「島郎子(しまのいらつこ)」と「来目稚子(くめのわくご)」で、前者の子が「意祁(仁賢天皇)」、後者の子が「袁祁(顕宗天皇)」になっている。つまり仁賢天皇と顕宗天皇は兄弟ではなく従兄弟(いとこ)だと。でこの二人の父に該当する兄弟は、紀州の岩窟に隠れ住んだとある。ちょい検索してみると和歌山県日高郡美浜町三尾の「三穂の岩室」という洞窟があってそこに確かにそういう地方伝説がある。もとは万葉集にでてくるもので「久米若子」(くめのわくご)が住んでいたというのだが、これが顕宗天皇の別名と同じなので、顕宗天皇のことかとも思えるが、それにしては一人だけで、兄皇子が出てこないし、万葉集ではこの人が皇子だとも天皇だともないし、記紀には顕宗天皇が紀州に隠れていたなんて話もない。土地の伝説では記紀と少し話が違ってて、市辺押歯王の子が久米若子王で、丹波に逃げていたが、意祁王(仁賢天皇)袁祁王(顕宗天皇)の二人の子が生まれたのでこの兄弟を臣下に託して、自分は紀伊に移り、この洞窟に隠れていたという。
久米若子と橘王が同一人物なら、二皇子は押歯王の孫である。もし橘王と久米若子が親子ならば、二皇子は押歯王の曾孫ということになる。
しかしさらに忘れられている人がいて、、二皇子は押歯王の曾孫どころか玄孫かもしれない。それは押歯王の同母弟に御馬王という人がいtほぼ同時期に殺されている。押歯王は履中天皇の最晩年の子と思われるのに同母弟がいるのは不審だ。赤ん坊でも皇太子だった応神天皇は特別としても、兄の押歯王はたとえ子供だったとしても弟がいたならそれなりの年齢で、皇太子に立てないことはない。なのに息子を立太子せず弟の反正天皇を皇太子にしている。これは履中天皇即位の時点でまだ押歯王が生まれておらず、崩御の時点でも生まれたばかりの赤ん坊で(昔は子供は7歳まで)無事育つかどうか不確定とされていたからだろう。そんな押歯王に弟がいたとは考えにくいから、御馬王は弟でなかったとしたら息子でしかありえないだろう。二皇子が復権して押歯王の遺体の捜索をした時も、御馬王の遺体が問題になった様子はないし、御馬王は逃亡中に軍に捕獲され殺されたことになっているが、替え玉を囮にしてまんまと逃走、地方に潜伏したのであろう。そして御馬王が潜伏中に儲けた王子が橘王だとすると、二皇子は履中天皇の五世孫の可能性もある。これは応神天皇と継体天皇の間の世代数とちょうど同じである。

・宮廷文化と庶民文化

H29年7月12日(水)初稿
袁祁命と志毘臣の歌垣

(※多忙につき内容は後日かきます)

・二皇子の舞

H29年6月15日(木)投稿 H29年6月14日(水)初稿
(※多忙につき後日にアップ)

・「タヂヒ」という精霊

H29年6月14日(水)改稿 H26年5月21日(水)初稿
丹比郡と丹比連氏
反正天皇の御名は「蝮之水歯別命」(たぢひのみづはわけのみこと)。この蝮(たぢひ)というのは河内国の丹比郡(たぢひぐん)のことで、平安後期に丹北郡・丹南郡に分かれ、明治になって丹北郡から八上郡(やかみぐん)が分割された。wikipediaによると今の「松原市・大阪狭山市・堺市東区・堺市美原区の各全域と、大阪市東住吉区・大阪市平野区・八尾市・藤井寺市・羽曳野市・堺市北区の各一部」に相当するというから、かなり広大な範囲。タヂヒという古語にはヘビの蝮(まむし)と、タデ科の雑草(「タデ食う虫も好き好き」のタデ)の一種のイタドリをいう二つの意味があるから、この丹比郡も、イタドリの生い茂る原野で、マムシもたくさん生息していたんだろう。
この丹比(たぢひ)の地を本拠とした氏族で、丹比連(たぢひのむらじ)という氏族がおった(丹比氏は「多治比氏」とも書くが今回は丹比を採用)。この氏族は『新撰姓氏録』等によると火明命(ほあかりのみこと)の子孫といい、古代きっての大族にして名族たる「尾張連」(をはりのむらじ)の分家筋ということになるが、この氏族が尾張氏から分家して丹比氏として独立したのは、実は反正天皇ご誕生と同時であったと自称している。だが、本当かどうか? 姓氏録の伝承を意訳要約すると以下の通り。

火明命の子孫の尾張氏の一族に色鳴宿禰という人がいた(イロナリノスクネかシコヲノスクネか読み方がわからないが仮にイロナリ説をとっておく)。仁徳天皇の御代に、水歯別命は淡路島でご誕生になられたが、その時イタドリの花びらが風にのって飛んできて皇子の産湯に落ちた。色鳴宿禰はその様子をみて「天神寿詞」を唱え申して、さらに「蝮之水歯別命」と御名を名づけ奉った。そこで諸国に「蝮部」(たぢひべ)を設定し、皇子の所領となし、色鳴宿禰をその宰(この場合は代官みたいなこと)に任命し、蝮部を管理させた。これによって「丹比連」を氏姓としたのである(=尾張氏から丹比氏が分離独立したのである)(蝮部は丹治部・丹比部・多治比部などとも書くが今回は蝮部を採用。姓氏録は丹治部と書いてる)

これはいわゆる乳母(めのと)という制度で、たまたま尾張氏の者から水歯別皇子の乳母を選んだんだがそれが機縁で新しい氏族が生まれるとは珍しい。珍しいだけでなく不自然で不審に思う。尾張氏の一族の者が皇子の乳母になったところまでは本当だろうが、その時点ではまだ彼らは尾張氏から独立してなかった(丹比氏になってなかった)ろう。乳母になっただけでいきなり別氏族にはなった例はない。俺が忘れてるだけかもしれないが。蝮部(たぢひべ)も皇子誕生と同時に創設されたというのは嘘だ。皇子なら誰でも無条件に名代(なしろ)を設定してもらえるわけではなく、毎回なんらかの特別な理由がある。古事記にも日本書紀にも蝮部の設立が「誕生と同時だった」等とは一切ない。
丹比氏ができたのは、十分に成長した後の皇子が「山の民」の管轄を任されて丹比の地に本格的に本拠地を構えてからだろう。蝮部が設定されたのも、皇子の任務を遂行するための財源という意味があったろう。乳母だった者たち(つまり尾張氏の一部)も家臣として蝮部の管理にあたるべく(つまり伴造(とものみやつこ)として)皇子に従って丹比に移住した。尾張氏の者で丹比部の伴造に任じられた者がいた、実質的にも形式的にもそれが丹比氏の始まりなのである。
あとここに出てくる「天神寿詞(あまつかみのよごと)」とは神道業界でいう有名な「中臣寿詞」(大嘗祭に際して中臣氏が読み上げる祝詞)とは別のもので、皇室の子孫繁栄を寿ぐもので代々皇室に多くの后妃を入れてきた尾張氏の家系に伝わった独自のものだろう。

蝮部のゆくえ
反正天皇には少なくとも一人の皇子(財王)がいたはずだがその子孫についての伝承がなく、本人が早逝したか、子孫がいたとしても早くに断絶したのだろう。他に三人の皇女がいたので、本来なら蝮部はこれら皇女たちのうちの誰かが継承者したはずで(分割されたなら名前も3つになったと思われるがそういう様子がない)、皇女たちの嫁ぎ先は不明だが、皇女は蝮部という所領をもって、おそらくはさほど遠縁ではない皇族同士と結婚し、蝮部の所有権が皇室の外に流出することを防いだと思われる。あるいは嫁ぎ先が書かれてないのは丹比連一族の男性に降嫁したか。その場合は蝮部は特定皇族の所有下ではなく歴代天皇の直轄になったと思われる。しかしいずれにしろ、宣化天皇の曾孫の多治比王の代になってからその子孫、丹遅公(たぢひのきみ)氏の配下に組み入れられたものと思う(多治比王の生母か乳母のいずれかが丹比連のはず)。

蝮部の役割とタヂヒという概念
蝮部は名代(なしろ)つまり皇族の領地の一つと考えられており、それなら租税を納める単なる農地と農民ということになるが、それではなくて職業部も兼ねていた可能性もなくはない。ヘビのマムシは薬用になるから、これを捕獲して薬種を製造する部民がいたとも考えられる。雑草のイタドリも食用にも薬用にもなるが、こっちは専門の部民などいなくても普通の農民が各自で必要に応じて勝手に採集、加工してたろう。
そもそもタヂヒとはマムシのことでもイタドリのことでもなく、精霊の一種であって、そのタヂヒが、ある時はマムシの姿で現われ、また別のところではイタドリとして現れるという古代信仰があったのだろう。現代人からみると、両者はまったく関係なさそうに思えるが、ヘビと野草が同一の名をもつ例は、たとえば幻の怪蛇ツチノコは別名「ノヅチ」というが、ノヅチは『古事記』では野神、『日本書紀』では草の祖という「カヤヌヒメ」という女神の別名でもある。そしてイタドリは歯磨きの道具でもあり、それでマムシの牙や、歯の立派な反正天皇=ミヅハ(立派な歯)という名前ともつながってくる。
昔の日本では「房楊枝」を使って歯を磨いていた。鎌倉初期、曹洞宗の開祖道元は中国にいった時に今の歯ブラシに近いものを見ていたが嫌悪感をもよおして「これは靴磨きの道具で歯磨きの道具ではない」といい、日本の房楊枝をほうを賞賛している。この房楊枝がいつからあるのかわからないが、遅くても奈良時代には(房楊枝かどうかわからないが)楊枝で歯を掃除する習慣はあったらしい。で、房楊枝以前にはイタドリの棒っきれで磨いていたという説があるのだ(正確には並行して両方のやり方があったという説)。棒っきれで磨けるのかよと思うが、現在でもアフリカでは木の枝で歯を磨いているという。この木の枝はなんの木でもよいわけではなくてそれ用の種類の木でないといけないのだが、ちらっと検索してみたところ、使う木の種類は北アフリカのアラブ圏とサハラ以南でも違うし、東はインドや西のモロッコでも地域によって違うらしい。ただ、木の枝の横の部分で直接歯をこする感じのと先端を砕いてブラシ状にして使うやり方がごっちゃに混同されてるようなサイトもある。ここで思い出すのが、豊川悦司主演の『丹下左膳 百万両の壺』。この映画の中で、野村宏伸演じる道場主の朝の寝起きシーンで嫁(麻生久美子)が用意した洗顔道具に木の枝のようなものが確かにあったw あぁ、歯磨き道具のつもりだな、と思ったが理解できた観客はいたのだろうか? しかし江戸時代で剣術道場経営してるぐらいならやはり房楊枝だろうと思うのだが…? ほんとにあんな棒っ切れみたいなもんで磨いてたのか?
(以下、後日加筆)

・1「置目老媼」とは何者だったのか?

H28・12・26WED改稿 H27(2015)年11月18日(水)初稿
置目老媼の話の疑問点
置目老媼の話は、何げなく読んでると、他愛もない(心温まる?)エピソードで、格別なにか問題あるようでもない。文学趣味から論じられることがあっても、古代史マニアの詮索の対象になってるところも見たことがない。なのでスルーしてもよいのだが、それだとやや面白くないので、あえて検討してみよう。
この話も、よく考えるといろいろおかしなところがある。

(A)まず、市辺押歯王が殺害されて埋められた時は、盛土をせずどこに埋めたのかわからないようにされたという。それなのに埋めた場所を知っているというのは、現場をリアルタイムで隠れ覗き見ていたということだ。そして、老媼はその頃、かなりの幼女でないと年代的に辻褄があわないが、そんな幼女が死体を飼い葉桶にいれて埋めているところを目撃したら、それだけでもショックでトラウマになりそうだが、正確にその場所を覚えていられるのだろうか? 幼児期の記憶の風景が、実際どこだったのか大人になってから調べてみたら、思ってたのとぜんぜん違う場所だった、なんてことはよくある。

(B)そして、何より疑問なのは、市辺押歯王の遺体を求めて埋葬しなおすというのは一刻も早く済ませたいのが人情だろう。日本書紀は編年を切り詰めて、兄弟が発見された翌年に顕宗天皇即位となっているため、どうしても即位後のこととしてしか書けなかったのだ、という解釈もできるが、古事記もまた即位後のこととしているのが不思議だ。以前に書いた通り、実際には発見された時、兄弟はまだ少年で、顕宗天皇即位の時30歳だから20年近くの間が空いている。つまり市辺押歯王の遺体探しやその葬儀は、即位のずっと前に済んでいてもよさそうなのに、なぜ即位まで為されなかったのか?

(C)それに置目の素性について日本書紀は狭々城山君(ささきやまのきみ)の祖、倭袋宿禰(やまとぶくろのすくね)の妹だというから、れっきとした貴族階級ではある。しかし古事記は淡海国の賤しき老媼とのみあり、一般庶民どころか賤民だったのではないかという解釈も可能な書きぶりだ。この落差は見過ごせないほど大きい。なぜ二説に分かれたのか。

(D)古事記には「民を起こして土を掘り」(人民を徴発して土を掘り)とあり、大規模な発掘捜査をやったようにも読める。置目の証言で最初から場所がわかっているなら、数人で掘ればよいのであって(なんなら一人で掘っても可)人民を徴発する必要がない。だから『日本書紀』には「民を起こして」とは無く、取り巻きのお付き武官にでもささっと掘らせたか、もしくは兄弟自身が自ら掘ったような印象になってる。これは日本書紀が原伝承の不自然なところに手を入れてるのであって、古事記が本当だろう。

(E)偉大な功績に報いるのに、莫大な褒美を与えるのはよくある話で理解できるが、「そばに置いて頻繁に呼び寄せる」というのは褒美なのか? 普通は莫大な褒美をもってさっさと故郷に帰りたいだろうし、高貴なお方の話し相手なんて、たまにならともかく、毎日のように相手させられたら肩がこってたまらんのではないか? これは褒美じゃなくて「一緒に暮らしたい」ってことだろう。身分差がデカいので同室同居はできないが、せめて毎日あってお話ししたいってこと、つまり家族として暮らしたいというふうにしか詠めない。

謎とき
(D)からすると置目の証言ははじめから必要なかったのであって、埋めた場所を知っていたというのも事実ではないのだろう。ではなぜ置目という老婆がでてきたのか、別の理由が必要になる。顕宗天皇としてはこの老婆を優遇することが最初から目的だったのではないか? 遺体の在処を覚えていたというのは、彼女を優遇するための名目だったのではないかと思う。なぜ賤民にすぎない一介の老婆を優遇しなければならないのか、理由はまったくわからないが、大胆に憶測すれば、顕宗天皇の実の生母だったとか、それぐらいの理由でしか(E)は説明つかない。日本書紀では意祁王(仁賢天皇)・袁祁王(顕宗天皇)の兄弟の母は葛城蟻臣(ありのおみ)の娘、荑媛(はえひめ)ということになっているが、古事記では記載がない。すでに別の記事で書いたように、意祁王・袁祁王の兄弟は市辺押歯王の子ではなく孫(もしくは曾孫)だった。ということは荑媛(はえひめ)は母でなく祖母であって、母は不明となる。そして『播磨風土記』には両皇子の母を「手白髪命」としている。仁賢天皇の皇女にも「手白髪郎女」がいるからこれを伝承の混乱として切り捨てる説もあるが、祖母と孫娘が同名を襲名していてもおかしくないだろう(「飯豊王」の例と同じ)。仁賢天皇の皇女の名から逆推して、仁賢天皇の生母の名が「手白髪命」なのは動かない。仁賢天皇と顕宗天皇は同母兄弟ということになっているが、訳あって顕宗天皇の実母のことは伏せられていたのだろう。
天皇として即位するまで遺体の回収が行われなかったのではなく、日本書紀の即位元年二月の詔に「広く御骨を求むれども能く知る者莫し」とあり、簡単な調査や小規模な捜索はずっと前からされていたように読める。履中宮家の私有民を使っての小規模な捜索は前からやってたのだろう。平群氏と抗争中の一介の皇子で必ずしも皇統の行く方が不透明だった時には、大規模な国民の徴発はやりづらかった。まだ市辺押歯王の子孫から天皇が出ていないうちは、市辺押歯王の葬儀は履中宮家の私事なのだから、国民を大規模に使役するのは非難をうける可能性もある。だが天皇に即位した今こそチャンスだった。ぐずぐずしていたらまた平群が巻き返してきて情況が悪い方にかわってしまわないとも限らない。かくして、遺骨の発見と回収は置目老媼とは無関係に、無事に済んだ。
日本書紀の顕宗元年二月には、老人たちを集めて顕宗天皇みずから一人一人に質問したが、置目はその中の一人だったという。しかし闇雲に年寄りを集めても埒があくものではない。遺体を埋めた場所について知ってそうな老人たちでなければならないが、そんな人どうやって集めるの? 企画自体に無理がないか? これは置目老媼の登場を説明するための後付け説明で、実際にはこんなシーンはなかったのだろう。古事記はシンプルに、いきなり置目老媼が都に出頭して埋めた場所を明かしたことになっている。これもやや不自然ではあるが、事前に全国に呼びかけたというのなら、日本書紀よりはましだろう。袁祁王は生き別れの生母をなんとか呼び寄せたいと願っていたが、政治抗争中のことゆえ人質になったり何らかの形で敵に利用されないとも限らないし正体が明かせず身分が賤しいままだと公式に護衛をつけるのも宮殿に住まわせるのもままならない。袁祁王は意祁王の同母弟ということになっているので、公式に母という扱いはできない。また履中皇統の再興が成るまでは私事に余力を割くわけにも参らぬ。
そこで天皇になった今こそ身近に呼び寄せて、本当のことは明かせずとも、家族のように暮らしたわけだろう。生母だということが明かせないから、他の理由が必要になる。それが「遺体の場所を知っていた」という仮想の手柄話なのである。上記の(C)について日本書紀は、倭袋宿禰は妹の置目の功績によって、狭々城山君の本姓を回復したというが、これは置目を倭袋宿禰の妹だとすることによって、賤民身分ではなく貴族の末流だとするための方策だろう。それを条件に一度潰れた狭々城山氏を復興させたのだ。やはり賤民のままでは、皇宮に出入りしたり天皇と家族同然につきあうというのは周囲が許さなかった。

親子ならなぜ老衰が帰郷の理由になるのか
日本書紀では置目による遺体回収が元年二月、それで置目が皇宮のそばに住むことになり、翌年の九月には老衰を理由に故郷の近江に帰ったことになっており、一年半ちょいの期間となっている。本当の親子ならここで帰郷するのはおかしいと思うかもしれないが、この頃はまだ平群氏が滅んではおらず天皇といえども政敵に取り巻かれているのだから、顕宗天皇の優遇の仕方に不審を抱き、実の生母は賤民だったというスキャンダルが暴かれないとも限らない、という情況になってきたのだろう。別に生母が賤民であること自体がスキャンダルであるかどうかは考え方次第ではあるが、隠していたことが不利になる。始めから明かしていれば問題ではなかったのだが、記紀は古伝承の断片であり、完全版ではないからどうしても穴があり、経緯に不明なところがあるが、生き別れになったままよもや再会する日があろうとは本人も周囲も思ってなかったのかも知れない。
それで息子のためを思って自ら身を引いたのではないだろうか。実際のところは老衰もしてなかったのだろう。以前にとりあげた和歌山県の地方伝承だと、両天皇の父「久米若子」は兄弟が宮中に引き取られた後も、民間に潜んで一人で暮らしていたようにも聞こえるので、置目老媼も近江(設定上の偽の故郷)に帰ったのではなく夫である久米若子王のもとに帰ったのではないだろうか。息子はもう大丈夫だが老境で一人暮らしの夫の方が心配になったのだと思う。

政治政策としての一面
…と、ここで終わりにすると置目の話は顕宗天皇の個人的な物語になってしまうが、政治政策としての意味も当然ある。この頃の日本は経済発展をとげて景気が良かったが、それは同時に貧富の差の拡大した時代でもあることは、このブログの他の記事でも何度かいってきた。それで治安の悪化も社会問題になっていたと想像される。当時は氏族や家族という血縁共同体が個々人の社会保障の役割をも担っていたのだが、離散家庭や寡婦などの孤独者はセーフティーネットがなく、まだ体力の衰えないうちに徒党を組んで愚連隊になるしか生きる道がない。置目老媼は宮中に出入りする必要から、形式上、倭袋宿禰の妹という扱いにはなってはいたが、もともとただの賤民であることは周知の事実だった。しかも、実は別に市辺押歯王の遺体の在処を知ってたわけでもなかったらしいという噂も広がったかもしれない。しかしそれでもなおかつ天皇みずから一介の賤民の寡婦を手厚くもてなしてる。これは貧乏人を虫けら程度にしか思わず労働争議を起こしてばかりいる富裕層への圧力だと庶民は受け取ったはずだ。顕宗天皇は富裕層(とくに行政の末端にいる地方豪族)の責務として統治領内の貧民を保護し福利厚生を図るべきことを自ら身をもって示したのではないだろうか。

跛行儀礼と猪甘老人の真相
この話に関連して、山代猪甘老人(やましろのゐかひのおきな)を処刑した話に触れなくてはならない。弁当をカツアゲされただけで身分の低い老人を処刑するのはいかがなものかと思われなくもないが、今でこそ天皇陛下でも当時は逃亡中の危機に怯える子供であって、よほど怖い思いをしたのかも知れず、あれこれ大人ぶれというのも可哀想かも知れないが、本人を斬刑にしたところまではともかく、一族みな臏刑(膝の筋を断つ刑)に処したのはどういうことか、日本ではこの時代も連座制の風習はなく、謀反人の子孫でも地位を失わない例が数多くある。察するところこの一族(ヤカラ)とは愚連隊行為を働いていた一団という意味で、かの老人もその一人だったにすぎまい。
なお、古事記は続けて「それで今(奈良時代)に至るまで、山代猪甘の子孫が山城から大和へのぼる日は必ず跛行する」といっている。膝の筋を切られたからといってそれが遺伝するわけもなく、連座制がなかったのだから子孫代々同じ刑を受けたということもありえない。なのでこれは事実ではない。が、那良戸(ならと。大和から山城へ抜ける国境)における「跛行儀礼」の起源譚として語っているのである(国境といっても、外国との境ではなく今でいう県境のこと)。「跛行儀礼」については適当にネット検索して調べて下さい(いろいろ難しい説明が出てきますがこのブログでは省略)。垂仁天皇のところですでに国境とは盲(めしひ)・跛(あしなへ)に出会う可能性のあるところという認識が出ている。実際に行き場のない身体障害者がどこにも属さない場所としての境界に集住していたのだろう。民俗学や人類学では、境界領域は通常の秩序が消失して渾沌が垣間見られる(/渾沌が湧きだす)危険なところとされている。現実に、行きずり強盗やカツアゲが発生する場所であって、子供時代の袁祁王は被害にあったわけだ。
ただこの場合の強盗、追い剥ぎの類は、一方的に逮捕処刑してるだけでは根本的な解決にはならない。山代猪甘も目に刺青をしていたとあり、平均的な庶民階層ではなく、賤民か前科者かともかく底辺の下層民だった。それは障害者も同じだったろう。古事記が顕宗天皇の時代に跛行儀礼の起源譚を載せるのは、実際に顕宗天皇が跛行儀礼を初めて定めたことを暗示してるかもしれない。もとは、障害者にいくらか恵むことで、彼らの霊威によって通行の安全を保証してもらう行為だったと思われるが、貧困が蔓延して治安が悪化すると、愚連隊の偽装障害者が通行税をゆするようになる。山代猪甘の一族に処した臏刑(膝の筋を断つ刑)は彼ら愚連隊の偽装障害者たちに与えた罰だったのだろう。偽装障害者が通行人の財布の中身を奪ってしまうと本物の障害者はますます困窮する。境界領域は魔物が出現する危険な場所だから、魔除けの儀式が必要となるのだといっても、その儀式は本物の身体障害者にしかできない儀式とされねばならない。通行税のように人々は彼らに物品を支払って通る。これが「跛行儀礼」の社会福祉的な一面であり、顕宗天皇の貧民救済策の一つだったのだろう。

顕宗天皇の人となり
顕宗天皇の性格を紹介して、こう書かかれている。

【原文】
天皇久居辺裔、悉知百姓憂苦。恒見枉屈、若納四体溝隍。布徳施恵、政令流行。恤貧養孀、天下親附。

天皇久しく辺裔に居(ま)して、百姓の憂ひ苦しみをことごとく知りたまへり。恒に枉げ屈(くじ)かれたるを見ては、四体を溝隍に納(なげい)るるが若し。徳を布(ひろ)め恵みを施し、政令流行(おこな)はる。貧しきを恤(めぐ)み孀(やもめ)を養ひ、天下親(むつ)び附く。

【翻訳】
顕宗天皇は長いこと田舎ぐらしだったため、士農工商の悩み苦しみをことごとくご存知であった。庶民を虐める役人の不正を見ては、我が身がドブに投げ捨てられたように憤った。即位してからは徳治と福祉の政策はしっかり行われ、貧民を救い、寡婦(置目老媼のこと)を養って手本を示したので、天下万民が助け合い、治安の悪化は解消された。

『日本書紀』顕宗天皇即以前紀より

御陵の土
この物語についてはhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-216.html)">「顕宗天皇の玉音放送」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-216.html)に続きます。
※最後に、古事記の物語が顕宗天皇で終わってるのはなぜか、という問題がありますが、これについてはまたいずれ詳しくやります。

・「氏姓制度」はいつできたのか?

H28・12・25(日)改稿 H28年12月14日(水)初稿
「言い方」のややこしさ
専門用語ってなぁ、ややこしいもんでね。「氏姓」は「うぢ・かばね」と読んでも「しせい」と読んでもいいことになってる。意味も同じ。ところが「姓氏」と書いた場合には読みは「せいし」か「うぢ」であって、「かばね・うぢ」とは読まない。なぜかというとカバネってのは日本独自のものでこれを表わす漢字は無いので、「姓」の字でカバネを表わすのは当て字みたいなもんなわけだ。本当なら「加婆禰」と書くしかない。「骨」と書いてカバネと読ますのもあって、姓の字よりはマシと思うんだがそれでも当て字には変わりない。中国の「姓」も「氏」も日本でいえばウヂに該当し、中国では併称して「姓氏」というのであって、「氏姓」と逆に書くのはウヂ・カバネを表わす時の日本人の書き方。あえて区別すると春秋戦国の頃の中国の姓は源氏、平氏とかの「源」「平」で、氏は「北条」「徳川」みたいな苗字のようなものだったが、奈良時代にはまだ苗字はないので当時の日本人は姓も氏も区別なく「うぢ」のことだと受け取った。だから古事記の序文にも「は稗田、名は阿礼」とあるのを「ウヂはヒエダ、ナはアレ」と訓んでますわな。そんな長々しい前置きはいいんだけども、この日にでた質問で、「氏姓制」ってのはいつできたんだっていうのがあった。まぁすったもんだ議論あってオチとしては大昔からもともとあったもんで、いつからともなく自然に出来たんであって、「この時できた」とはいえないという話だったんだが、そういう「オチ」にもっていったのにも私は加担してたんで、この説明を否定しているわけではない。だから「それはいいいんだけども」と言明している通り。そうなんだが、詳しくいうと、もうちょっと詳しい言い方もあるんだな。その場ではタイムスケジュール的に時間を割けないから簡単にいうしかないってこともある。で、さっきの前置きなんだが「大昔からある、もとからある」ってのはウヂとカバネのことなわけよ。ウヂ(氏)とカバネ(骨)ってのはもともと別なもので、その別なものを組み合わせるから新しい制度ができるわけよ。だから「ウヂ・カバネ」と「ウヂ=カバネ制度」ってのは次元の違うものなんだ。

「氏姓制」ができたのはいつか
通説では「ウヂ=カバネ制」は雄略天皇の時にできたという。なぜそれがわかるのかというと、書紀では「◯◯の臣、■■」とか「××の連、△△」というお定まりの人名の称え方が雄略天皇から始まってる。それ以前は、「◯◯の臣の祖、■■」とか「××の連の祖、△△」という言い方になっている。つまり「大伴連氏」だの「葛城臣氏」だのというカバネとウヂが定式的に結合したのは雄略天皇からで、それ以前は「大伴連の祖」「葛城臣の祖」ではあっても「大伴連」「葛城臣」そのものではないって理屈だ。しかし実際に日本書紀の文面を調べてみると、清寧天皇以降でも「~の祖」という言い方はちょいちょい出てくるし、安康天皇以前では「~の祖」がつかない例はたくさんある。学界では倭王武が雄略天皇だという仮説を前提として、大抵のことはなんでもかんでも雄略天皇の頃に始まったといっておけば無難で穏当だという安直な発想がはびこってるのではないか。雄略天皇の頃に「ウヂ=カバネ制」が「ほぼ」完成したという言い方はありだろうが、雄略天皇と允恭天皇は一代しか違わないのだから、記紀を信じて允恭天皇の氏姓の正定をもって「ウヂ=カバネ制」ができたと称してなんの問題もないような気がする。で、允恭天皇がウヂ&カバネを正しく定めたという以上、ウヂやカバネはもっと前からあったのだ。江戸時代の国学者の説では、允恭天皇は単に祖先を偽ったり系譜を捏造したりした連中を暴いたのではない。「正して定める」とは、新しい秩序を創出したのであって、これまでも格式の上下はあったものの、かなり漠然としていたカバネの順位を「君(きみ)>臣(おみ)>連(むらじ)>直(あたへ)>造(みやつこ)>首(おびと)」の6段階として整頓したものだ。雄略天皇はこれにさらに帰化人枠として「史(ふひと)」と「伎(てひと)」を加えたがこれは首と同格のレベルかと思われる。最近では鎌倉幕府ができたのはいつなのかっていう議論があったのと似たような話だが、どの段階でできたというのは、視点の置き所が「最終的な完成」なのか「実質が伴った時」なのか「もはや動かせない未来が決定づけられた最初の契機」なのかによって話がかわってくる。客観的にいえば、「段階的にできてきた」のである。仮に「ウヂ=カバネ制」が最終的に完成したのが雄略天皇の時だとするならば、その前段階として允恭天皇のウヂ&カバネの正定があって、それを踏まえての雄略天皇だった、と。(繰り返しになるが個人的な意見としては雄略天皇ではなく、允恭天皇の時に完成したといってもかまわないと思う)。

カバネ形成の諸段階
カバネの類をやたらに並べてみると、極めて雑多であり無秩序な印象となる。このことからアホな学者は氏姓制ってのは整ったものでなく、かなり後世になって(5世紀、人によっては6世紀)大雑把な仕組みとして作ったかのようにいうが、真相はまったく逆だろう。雑多な感じがするのは歴史が長いからなのである。幾度も変革を重ねてきてその度に古いものの名残りが下(周辺)に残り新しいものが上(中心)に追加される。だから逆にいうと、原初の段階では複雑なのではなくむしろシンプルでわかりやすいものだったはずである。従って、カバネを考察するには最古層・古層・中層・表層(新層)をわけてみないといけない。しかもカバネ自体が自然発生的なものなのだから、これらのうち現時点で「いわゆるカバネ」とされているもの(=複雑で雑多とされているもの)は表層(新層)でしかない。
【1】原初の段階では、カミ(神)・キミ(君)・オミ(臣)・タミ(民)という概念がありこれがカバネの最古層をなす。きわめてシンプルだ。ただしこの段階ではカバネという総称はまだない。
【2】次の古層には宮主(みやぬし)・道主(みちぬし)・国主(くにぬし)・県主(あがたぬし)・邑主(むらぬし)・郷主(さとぬし)・戸主(とぬし)というものがあったと推定する。これらもシンプルでわかりやすいが、まだカバネとはいわない。宮主・道主・国主などは例えば「丹波道主命」とか「宮主矢河江姫」とか古代人の人名の一部や称号として痕跡がみられる。邑主(むらぬし)はつまり連(むらじ)として後にカバネとなった。県主は大和朝廷の職制の一部となった。また律令時代の里長・里正・郷司・郷主・郷令・郷長などは「さとおさ」と訓まれるが、古くはサトジだったのではないか。『ウエツフミ』にはサトジといい、これはサトヌシが訛ったんだろう。また古代では女性への敬称として「刀自(とじ)」という言葉がよくでてくる。これは戸主(とぬし)の訛りで家長(=主婦)の意味。漢語の主婦というのも雑用係という意味ではなく「主人たる婦人」の意味であり、「主人」の女性形。刀自のジを高倉下(たかくらじ)のジと関係付けて、ヌシ(主)とは別系統の言葉のように考える説もあるが不可。高倉下も本来は高倉主だろう。ホツマ信者には何いっても無駄だが。
【3】次に、命(みこと)や和気(わけ)や足尼(すくね)があり、これが中層。これらは学者によっては「原初的カバネ」ともいい、「いわゆるカバネ制」におけるカバネではないが、原始的な称号とか敬称のようなもの、という。
【4】比較的新しいのが「~ヒト」系で、これについては後述する。
学者は、カバネであるかないかの判断基準を「氏姓制」の一部をなすかどうかに置いてるのだが、それは後世からみた視点であって、カバネの本義に基いていない。上述したが本来、ウヂとカバネは別々の概念であり最初から一体のように思うのはよろしくない。どこからカバネになったのか、という問題は、なぜカバネというのかという問題にかかわっている。カバネの語源には「屍」説、「株根」説、「不易(かはらね)」説、「皮骨」説などいろいろな説があるが当を得たものがない。これはカラボネ(体骨)の訛りだろう。カラダ(身体)というのは社会的・文化的に付与された属性という意味ではなく、生物学的・医学的・物理的な身体のことである。「骨肉の争い」という言葉があるが、骨というのは父系の血筋、肉というのは母系の血筋をいい、これはインド発祥の考え方で中国に入り、中国で一般的な考え方となっていた。さて、ここからは2段階にわかれた別の話がある。実系の血筋を根拠にする文化では、なにか観念的に思弁で構想された理屈に根拠を置いたのでは権威をもたない。カバネ=体骨(からぼね)とは直訳すると「父系の(養子を介在しない実系の)血筋」のことになる。現代人にわかりやすく超訳すれば「おまえのY染色体は何だ?」ってことだ。祖先が何者かという観点では、後世の『新撰姓氏録』にあるように第一に皇別・神別・諸蕃の3大区別が重要であり、第二に皇別の中では天皇から分かれて何世代たっているのかという血縁「距離」が問題となる。従って、カバネという名辞ができたのは、この「皇別・神別・諸蕃の3大区別」が政治問題・社会問題として意識されてきてからであり、允恭天皇よりはだいぶ前のことだろう。允恭天皇の時にはすでに「天皇から分かれて何世代たっているのか」が問題になっていた段階だからだ。なぜそんなことがいえるのかというと、上述のように江戸時代の国学者以来、允恭天皇はカバネを6段階にランキングしたと推測されているのだが、このランキングの上位のあたりでは明らかに天皇との血縁距離が基準になっているからだ。従って、現代の歴史学者の歴史観とは齟齬するが、允恭天皇の段階ではすでにカバネの語源・本義から離れて、カバネがなんというか「一種の爵位みたいなもの」に転化しつつあったのである。
【4】ではカバネという名辞ができた段階=「皇別・神別・諸蕃の3大区別」が問題として意識された段階とはいつのことだろうか? それはいうまでもなく仁徳天皇だろう。このブログでは再三いってることだが、仁徳天皇は儒教の理想をかかげ、儒教的封建社会をめざした。儒教派にとってはそれが文明開化だったのである。しかし儒教の人徳主義と、土着の血統主義は、原理的に衝突するのであって相容れない。だから土着派(=固有文化保守派=国粋派)は儒教派との抗争(論争)の必要に迫られてカバネという概念に到達したのである。記紀の文面からはそういうことはなかなか読み取れないが、歴史的には漢字文化派(儒教派)が勝利して土着派は消えていったので文字資料に残らなかっただけで、ロジカルに推定はできる。以上まとめると、仁徳天皇の頃にカバネという名辞と概念がむすびついた(と推測)。この段階では「皇別・神別・諸蕃」の区別が政治問題・社会問題として意識された。
【5】皇族は古事記では「~~王」と書かれ、これは「~~のミコ」と読まれ勝ちだが、岩波の日本思想大系本では「~~のオホギミ」と訓んでいる。そして臣(おみ)のカバネをもった氏族は皇別氏族である。つまりキミとオミの区別は、天皇から枝分かれして近いか遠いかという問題に帰結する。この遠近はあくまで父系でのことである。日本では母系の影響力が強く、家族(うから)・徒輩(やから)・同胞(はらから)等の「カラ」は母系のつながりが本義で、財産なども女系で継承された。これに対してウヂ(氏)は父系のつながりをいったが、母系継承の影響力が強大なために往々にして身分の低い者については父系の血筋は軽視あるいは無視され、父系という観点からすると血縁を無視した疑似血縁集団になりがちだった。これが父系母系の両方を軽視あるいは無視するようになって完全な疑似血縁集団になったのが中近世の「家」制度である。允恭天皇が「祖先を偽る者を正した」のであるが、その場合の先祖とは父系の先祖であって母系の先祖のことではない。そして父系の先祖を明らかにするだけでは意味がない。それぞれの氏族の祖先を確定した次には、それに基いてランキングしなければ、社会秩序を再建することにならない。允恭天皇の課題は、否応なしに強大な力を発揮してあれこれに介入してくるヨコのつながり(母系)ではなく、それを掣肘するものとしてのタテの序列(父系)を問題にしている(歴史的な背景としては允恭天皇と、外戚として権勢を振るう葛城氏との微妙な関係があるのはいうまでもない)。以上、まとめると允恭天皇の改革によって、6段階のランキングができて、カバネは本義からずれて「爵位」のような側面を帯びるようになった。この段階では皇別の中で天皇から遠いか近いかが問題とされる。近い者は君(きみ)、遠い者は臣(おみ)のカバネが授けられた。

「氏姓制」の完成
允恭天皇より前の段階ではまだ「制度」として未完成だったのである。なにがちがうのかというと、允恭天皇はウヂとカバネを「それぞれ」正定したのであって、ウヂとカバネは本来は別の概念だったわけだが、允恭天皇の改革によって、ウヂとカバネが連動して貴族社会が一つの秩序に編成された。

なぜ「6階級」なのか
ちなみになぜ6段階なのかというと、二つの理由が考えられる。一つは聖徳太子の冠位十二階が、六階を「大/小」でわけたものだからこれも6段階に回収できる。これが5階でもなく6階なのは中国の官品制に対応するためというのが宮崎市定の説で、允恭天皇のカバネ制が6階なのも同じ理由だろう。もう一つの説としては、騎馬民族の十進法と関係あるかも知れない。例えば匈奴の場合、皇帝である「単于」の下に、一万騎を率いる首長が24人いてこれを「万騎」とか「二十四長」と称した。ここまでは十進法ではないが、万騎を率いる二十四長の下は「仟長」(千人長)、「佰長」(百人長)、「什長」(十人長)がいるというふうに十進法で編成されていた。
(※書きかけ中)

「氏姓制」の変質と崩壊、天武天皇の「八色の姓」

現代にも現存するカバネ的な発想、その利点と弊害、カバネ制の復活と文明の再生

・「反正」という諡号

H28年12月14日(水)初稿
「反正」という諡号
反正天皇という諡号をみて「正義に反した天皇」と解釈したのは佐治芳彦だが、「反正」は漢文で「正義の状態に戻す」って意味。中国での辛亥革命の後、軍閥が割拠してすったもんだしてた時にも「反正之檄」という檄文がでたことがあったような記憶があるがちょい思い出せない(検索にひっかからず)。墨江中津王の乱を鎮定して履中天皇を都に戻し奉った功績から捧げられた諡号であるのはあきらかで、「正義に反した天皇」とか訳の分からないこといってる佐治芳彦は、歪曲曲解したいわゆる古史古伝ネタで本を売りまくった人ですな。

・金も飢ゑを療(いや)さず、玉も冷えを救はず

H28年11月24日(木)改稿 H28年2月17日(水)初稿
欠史十代としての宣化天皇
宣化天皇も安閑天皇と同じく「欠史十代」の中の一つで、簡単な記事だけで物語がない。『日本書紀』みても分量が少ないので、古事記がなにか事情あって格別に記事を減らしたとかわざと短くしているというわけではないことはわかる。宣化天皇は在位期間も短く、もともと記事が少ないのは当然だろう。

宣化天皇をめぐる人々の年齢差
古事記では継体帝は宝算43歳とあるが、これだと息子の安閑・宣化両帝の方が父親より齢上になってしまうので、日本書紀のいう82歳説の方が正しい。古事記が43歳といってるのは在位年数を誤って宝算としたもの。同じ例は本居宣長が指摘しているように允恭天皇のところにもある(ちなみに古代史マニアの世界では「二倍暦」説が人気だが、学界では認められてない。俺も二倍暦説は無理だと思う。二倍暦についての批判はいずれ別の機会に詳しくやることにして今回はやらない)。安閑・宣化の兄弟は継体帝がまだ若い頃の息子で、計算してみると継体天皇が16歳の時に安閑天皇が生まれ、翌年17歳の時に宣化天皇が生まれている。継体天皇がまだ皇位継承の候補でもなんでもなかった頃から、二人の息子はある時は近江で、またある時は越前や尾張で、長いこと父を補佐してきたに違いない。この程度の年齢差だと、ほぼ同世代の同輩にかなり近く、上司と部下というより同志のようなものだろう。それに対して継体天皇が即位した後に生まれた欽明天皇は晩年に生まれた皇子で、祖父と孫くらいに離れている。欽明天皇の年齢は記紀では不明で、後世の歴史書でも複数の説があるが、その中でもっとも年齢を若くみる『一代要記』では欽明天皇の宝算を62歳とする。これを採用すると、欽明天皇が生まれた時、継体天皇61歳・安閑天皇45歳・宣化天皇44歳・欽明天皇1歳となる。しかしいろいろな理由で、欽明天皇はさらに歳下だったのではないかと思う。私説では宝算50歳とみるので、これによると欽明天皇が生まれた時、継体天皇73歳・安閑天皇57歳・宣化天皇56歳・欽明天皇1歳となる。この場合、手白髪命は45歳前後での高齢出産だったことになるが、奈良時代の井上内親王も45歳で他戸親王を産んでるのでありえないことでもなかろう。

継体朝までの歴史の概観
日本がもっとも衰退したのは崇神天皇の時でこの時は疫病の流行により日本民族が滅亡しかかった。その後、次第に回復していき、神功皇后の時には新羅・百済まで支配、海外との交易が活発になる。海外交易による好景気によって、応神朝〜仁徳朝〜雄略朝〜武烈朝と時代がくだるに従って徐々に国内は豊かになっていき、継体天皇の時には空前の大繁栄時代となった。しかし物質的繁栄は精神的退廃とセットになっていることが多く、政治的にも精神的にも、かなり乱れた時代でもあったのだが、それは経済的な繁栄と矛盾するものではない。だが、任那四県二郡の百済への割譲のあたりから不穏な影がさす。任那の混乱はこれによって始まるからだ。この事件は日本書紀では継体六年(AD512年)のこととするが、正しくはAD490年以前である。490年というのは日本書紀ではまだ仁賢朝だが、正しくはすでに継体朝が始まっている。四県二郡の獲得によって大きく南に領土を拡大した百済をみて、新羅も任那諸国への野望をもって南進してきた。それを掣肘するための派兵が、人選を誤ったために大混乱のもととなったが、角林文雄の説では、この人選の誤りは継体天皇の情実人事によるものなのである(任那派遣軍の将軍に近江毛野(あふみのけな)を任用したことをさす)。継体天皇は内政においては有能だったことが多くの地方伝承からわかるが、それは地方の国造クラスとしてふさわしい能力であって、国家レベルの政治家に必要なのは「外交問題」を処理する能力なのである。このごたごたを治めたのは即位前の二人の皇子(安閑、宣化)だったのである。

宣化天皇即位の事情
本当なら継体天皇の嫡子は欽明天皇で、すぐにも即位すべきだったが、継体天皇末期の任那のゴタゴタをなんとかして治めたのは勾大兄皇子(まがりおほえのみこ:のちの安閑天皇)と檜前高田皇子(ひのくまのたかだのみこ:のちの宣化天皇)だった。二人は弟を擁立するため苦心して任那の混乱をなんとか収束させたが、欽明天皇が11歳(『一代要記』によって宝算62歳説をとるなら23歳)で即位したとたん不祥事が続いて任那は再度混乱、在位2年で投げ出すような形で兄の安閑天皇に譲位したのだろう。この2年間は日本書紀では空位期間としているが実際には欽明天皇が在位していたのである(この2年間の事件は日本書紀では継体25年以前に繰り上がっているが、時系列がめちゃくちゃで、前後矛盾が多く修正して復元するとかなりの事件がこの2年間のことだったのがわかる)。欽明天皇はこれで懲りてしまって、自分には君主としての器に欠けることを痛感していた。それでまずは安閑天皇に即位してもらい、安閑天皇が崩御してからは宣化天皇に即位してもらった。この両天皇の期間は、欽明天皇の見習い期間だったわけだ。

安閑朝と宣化朝
安閑天皇の治世は形の上ではわずか2年だが、継体朝の後期はほぼ安閑天皇が政務を取り仕切っていたので政治的指導者としての実績は長い。ところで、『南史』梁本紀第七、梁の高祖武帝の中大通六年(AD534年、日本では安閑元年)閏十二月丙午(この月の丙午日は廿八日にあたる)の条には「(首都の建康(今の南京)からみて)西南の方角で雷鳴が二度、響いたとある。これは西暦に換算するとすでに年が明けておりユリウス暦535年2月16日(金)にあたる(グレゴリオ暦だと2月18日だがこういう時はユリウス暦を使う)。この雷鳴とはインドネシアのクラカタウ火山の大噴火の爆音だろうという説が有名だ。この噴火で島が二つに分断されてスマトラ島とジャワ島になった(それまでは両島はつながっていて一つの島だった)。噴煙は地球を一周し、東ローマ帝国の記録では1年半にわたって空が暗がりに包まれたという。東は日本から西はヨーロッパ、それに加え中南米までも、世界的規模で気候の急激な寒冷化が起こり、535年からの10年間はここ二千年の間で地球が最も寒冷な気候だったという。この後、世界各地で飢饉や疫病、戦争などが勃発、蔓延していく(日本も同じ)。ただし疫病に関してのみは噴火のせいではなく同年に彗星が落下してきたのが原因らしい。日本では翌年(安閑二年=535年)の正月の段階では、まだ繁栄を謳歌するあまり安閑天皇が五日間に渡る宴会を催すほどだったが、その後まもなく、日本にも寒波が襲ったろう。当時の日本人は寒冷化の原因が遠い南洋での噴火だとはわからなかったろうが、やがて冷害・洪水・旱魃などによる大飢饉がくることを予想した賢人も当然多かったはずだ。安閑天皇は、あれこれと理由をつけて全国各地に数多くの「屯倉」(みやけ)を設定している。「屯倉」は朝廷中央の直轄で、広大な農地と農民が付属して経営され、膨大な武器や食料を貯蔵する。これは任那問題がこじれてやがて大規模な戦争が必要になることを見越した政策だったが、食料備蓄は飢饉への備えも兼ねることになったと思われる。が、当時の日本人は長年続いた好景気に慣れてしまって、国家の心配というと外交や政治や文化については論じたり争ったりすることはあっても経済問題を憂慮する習慣がなくなっていた。そこで、宣化元年(536年)五月、以下の詔勅が発せられた。

「食者天下之本也。黄金万貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。夫筑紫国者遐邇之所朝届。去来之所関門。是以海表之国候海水以来賓。望天雲而奉貢。自胎中之帝泪于朕身。収蔵穀稼。蓄積儲糧遥設凶年。厚饗良客。安国之方。更無過此。故朕遣阿蘇仍君。加運河内国茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稲目宿禰。宜遣尾張連、運尾張国屯倉之穀。物部大連麁鹿火宜遣新家連、運新家屯倉之穀。阿倍臣宜遣伊賀臣、運伊賀国屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫・肥・豊三国屯倉。散在県隔。運輸遥阻。儻如須要。難以備卒。亦宜課諸郡分移。聚建那津之口。以備非常。永為民命。早下郡県、令知朕心」

(食は天下の本である。黄金が万貫あっても飢えを癒すことはできないし、真珠が千箱あっても寒さをしのぐことはできない。筑紫は海外から朝貢にくる通り道、往来の関門である。応神天皇以来、ここに籾種を蓄えてきた。凶年に備えて蓄え、外国からの使いをもてなし、もって国を安んずることこれ以上の策はない…中略…もって非常事態に備え、永遠に民の命を守れ。早くそれぞれの任地に行って、朕が意図を知らしめよ)

この詔勅を発して、貴族たちを大動員して全国の屯倉から九州へ大量の籾種を運ばせた。「食は天下の本。黄金が万貫あっても飢えを癒すことはできないし、真珠が千箱あっても寒さをしのぐことはできない」というのは、当時はバブル経済のように金銀財宝や贅沢品をもてはやす風潮があったので宣化天皇はこれを戒め、迫り来る危機に備えることを訴えたのである。そして九州に重点的に配置したのは、もとの趣旨では任那や新羅といった三韓への派兵の兵站という意味があったのだが、急遽、海外から来るであろう難民の対策(難民の入国を阻止することも含む)や、国内が弱った時の外国からの侵略への備えも考慮した上で、軍備よりも食料確保を主体としたものに変更されたのであろう。国家の大事は情報と食糧とエネルギーである。現今の第一次産業のお寒いこと、食糧安保はどうなっとるんや。宣化天皇の詔勅を謹みて農業政策をまじめに考え直したほうがよいのではないかね。

春日山田皇女(安閑帝の后)の執政
宣化天皇が崩御すると、いよいよ欽明天皇が再登板せざるをえなくなったが、そんな段階ですら「自分は齢が若く(といってもこの時18歳、『一代要記』の宝算62歳説によればこの時30歳)、知識が浅く、まだまだ政治には習熟していない」といって山田皇女(安閑天皇の皇后)に政治を委ねようとした。まして、安閑天皇が崩御した時にはもっと若いのだから、自分が継ぐのではなく次兄の檜前高田皇子(=宣化天皇)に即位してもらったのは当然だ。そういうわけで日本書紀が欽明天皇の即位元年としている年は実は二度目の即位なのである。さてこの春日山田皇女(安閑天皇の皇后)に執政の任につくように願ったという話は日本書紀にあるのだが、この話はおかしいのではないか。代替わりの際に、新帝即位までの一時期、先帝の后が政治を執るのは慣例であって別におかしなところは何もないが、安閑天皇や宣化天皇は「仮の天皇」(=中継ぎの天皇)という雰囲気がつよく、おそらく後宮の中での最高権威は継体天皇の皇后だった手白髪命で、彼女はこの時期まだまだ薨去するような齢ではなかったはずだ。百歩譲っても直前の天皇である宣化帝の后だった橘仲津媛に執政を願い出るのならまだギリギリわからないでもないが、なぜ春日山田皇女なのか、意味がわからない。だが武烈天皇の回で書いたように、春日山田皇女は勾大兄皇子(安閑帝)に嫁ぐ前に、武烈天皇の皇后を演じていたのである。詳細は省くがいろんなあれこれの計算からすると、武烈天皇崩御と継体天皇即位の間はおそらく1年か2年、空いていたと思われ、そうするとこの期間は武烈天皇の皇后だった人物が執政していた可能性がひじょうに高まる。実際、春日山田皇女が執政していたという事実が伝承されていたのだろう。だが日本書紀は春日山田皇女といえば安閑天皇の后としか思ってないから武烈継体の間には入れなかった。欽明天皇は彼女のそういう実績を踏まえて、執政を願い出たとも考えられるが、おそらく別の理由だろう。四県の割譲は彼女のせいとはいえないが、当時(490年の前後1~3年?)かりそめにも執政の地位にいたので責任を感じていたのではないか。だからこの時ちょうど自信喪失して宣化帝の後を継ぐ気になれなかった欽明天皇は、ちょうどいいと思って春日山田皇女に挽回する機会をさしあげようとしたのではないかと思う。しかし彼女は政治はこりごりなので辞退した。日本書紀によると、四県割譲事件の際に猛反対した一人が勾大兄皇子(安閑帝)であった。宮廷内で割譲に反対することは、すなわち春日山田皇女を非難することと同じであり、彼女を苦しめることになっただろう。勾大兄皇子はそれに責任を感じて謝ったり慰めたりしてるうちに良い仲になって結婚しちゃったわけよ。まったく何が縁だかわからんね世の中は。

欽明朝からの歴史の概観
さて安閑、宣化の二代の名君によって任那はなんとか収まったがそれは一時的なものに終わった。なぜなら、宣化天皇の後は人材が枯渇してしまったからだ。おっとりしたボンボン育ちの欽明天皇のみならず、臣・連(おみ・むらじ)の居並ぶ貴族たちも、長く続いた経済的繁栄のために精神的にすっかりたるんでおり、この後、日本の歴史は十四世紀の南北朝時代までの長い長い坂道を転落していく衰退の時代に突入していくのである。もっともこの頃から世界各地が荒廃して激動の世界史に突入するので、短期的には日本だけの話ではないが、やがて中国では大唐帝国、中東ではサラセン帝国(アッバース朝)を築いて繁栄の時代を迎えたのに対し、西欧は暗黒の中世に突入。日本も律令制の導入でどうにかしのごうとしたが、西欧の中世は、部分的には見直す説もあるものの、全体としては最終的に巧くいったのかどうか評価は微妙だろう。日本の場合は仏教の物珍しさから仏教を入れたはいいが、仏教は蘇我氏と物部氏の政争の具となって内乱となり、任那は完全に滅亡し、蘇我の専横。それに対する大化の改新は新時代への適応としては的確で素晴らしかったとは思うが白村江に戦うも日本軍は全滅。その後、仏教に迷って国家が迷走していったので、仏教の悪影響が大きかった。そのせいだけではないが奈良時代には早くも律令制が教条化・硬直化したため、宇多天皇と菅原道真による「寛平の治」で律令国家から王朝国家への大改革を迎える。これは当時の政府の力量に見合わない権限を放棄したもので、この結果、地方分権化と武士の勃興による戦乱・混乱の時代を開くことになる。それにしても確固たる人材が輩出して国民文化が健全で上下団結しておれば、ここまで迷走・衰退したはずはない。同じ頃、中国や中東も四分五裂してモンゴル系やトルコ系の遊牧民が優勢になっていくが、日本の武士も同じ日本人を食い物にするのでなく大陸に進出すればよかったのである。日本人がくだらない内乱で無駄に人材や国力を消耗しなければ、任那復興はおろか大陸進出は史実より数百年も早かっただろう。

安閑・宣化両帝の人柄
日本書紀をみると、兄の安閑天皇の性格は「是天皇為人、墻宇凝峻、不可得窺。桓桓寛大、人君之量」(幼少の頃から器量ぬきん出て、そのすぐれることははかりしれないほどだった。武威にすぐれ、寛大で、上に立つ者としての器量(指導力)をもっていた)とあり、この指導力(人君之量)というのは継体朝の末期から自身が即位する直前までの十年近く、有能なる「天皇代理≒摂政」を務めていたことをさしている。それに対し1歳違いの弟の宣化天皇は「是天皇為人、器宇清通。神襟朗邁。不以才地、矜人為王。君子所服」(清らかで(=金や物に執着がなくて)、さばさばした人柄で、心(=内面)の朗らかなることも並でなかった(逆にいうと外見はクールな感じだったのかも知れない)。才能や地位で人にほこったり皇族ぶった顔をすることもなく、道義をわきまえた君子たちがすすんで天皇に従った)とあり、二人とも、歴代にあまり例のないほど絶賛されている。どちらも名君だったのだろう。兄弟で名君というと仁賢天皇・顕宗天皇が思い出される。あちらは兄が冷静な知性派で、弟が感情豊かな行動派だったが、こちらは兄のほうが快活で弟の方が控え目な感じ。兄と弟でキャラの傾向が逆なのがおもしろい。

・なぜ女帝が誕生したのか

H28年11月17日投稿 H28年2月17日(水)初稿
女帝即位までの経緯
(※内容は年明けにでも書きます)

・欽明天皇も「譲位」していた

H28年11月4日(金)改稿 H28年2月17日(水)初稿
欽明天皇も「譲位」していた
敏達天皇が皇太子になったのは欽明十五年(AD554年・18歳)正月七日説(欽明紀)と欽明二十九年(AD568年・32歳・月日不明)説(敏達前紀)とがある。これは前者が正しい。後者の568年だが、どうも古代ではこの下一桁が西暦で68になる年は特別な意味があったようで、今回は詳しい話は省略するが、この年は立太子の年ではなく、おそらく摂政的な地位についたのであって事実上欽明天皇は上皇的な地位に退いたのであろう。月日が明記されていないが、前からの計画的な予定でもあって元旦から皇太子は事実上の天皇になったのだろう。通常なら元年に書かれる后妃子女の記事が、敏達天皇の場合四年の条に書かれているのも注目される。これは元年にあるべき記事を誤って四年に入れたのではないか。なぜ誤ったかというと、敏達元年を3年前とする紀年法があって、それに基づいて書かかれた記録だったのではないだろうか。この場合の敏達元年は書紀でいう欽明二十九年にあたるのである。先ほどの推測を前提にいえば、欽明天皇からすると事実上の譲位だったのだが、記録上はそうみえないので日本書紀がきっちりした歴史書の形式で書こうとするとあたかも終身在位制のようにみえてしまうのである。欽明天皇は自分の徳の足りなさを自覚して、優秀な敏達天皇に早くから期待していたので、早く譲位したかったものと思われる。

欽明天皇の在位は32年間でなく31年間が正しい
ついでにいうと、後述のように敏達天皇の崩御は古事記と書紀とで1年ずれている。にもかかわらず古事記も日本書紀も敏達天皇の在位は14年間だったとして一致しているので、敏達天皇の公式の元年は日本書紀よりも1年早いことになる。ということはその分、欽明天皇の在位が1年へることになる。ところで日本書紀は欽明三十一年に蘇我稲目が薨去したとあるのだが、より資料的な価値が高いとされる『元興寺縁起』では己丑年に蘇我稲目が薨去とありこの己丑は欽明三十年にあたる。つまり書紀の記事はすべて(もしくは末期のほうだけ?)1年づつ繰り下がっている可能性があり、そうすれば末年の三十二年は実は三十一年となる。また『上宮聖徳法皇帝説』も、欽明天皇の治世は「41年」とあるが原文は「卌一年」で、この「卌」(40)という漢字は「卅」(30)と紛らわしく誤写された例も古来多い。そこで、元々は「卅一年」だったと考えられる。「卅一年」つまり「31年」である。

敏達天皇の崩年が記紀で1年ずれているわけ
敏達天皇については古事記と日本書紀では崩御の年月日が食い違ってる。そういう例はいくらでもあるし、どってことないじゃんと思われるかもしれないが、このへんの時代になると日本書紀も記述が詳細になってくるので、事件の解釈がかわってくることがありうる。
古事記では甲辰年(AD584年)四月六日に崩御、日本書紀では敏達十四年(AD585年)八月十五日に崩御で1年と4ヶ月ほどもずれてる。日本書紀では、このずれの期間中いろんなことがあったがすべて敏達天皇が生存しているという建前になっている。で、次の用明天皇は在位2年で丁未年(587年)に崩御としている。これに対し古事記では用明天皇の崩御年が日本書紀と同じなのに用明天皇は治天下3年としているのだから、585年は敏達天皇の末年ではなく正しくは用明天皇の元年だったのである。
書紀では十三年二月までは任那復興をめぐる外交記事ばかりで、敏達天皇がいかに任那回復に尽力していたかがわかる。ところが同年の九月以降は仏教とそれをめぐっての崇仏派・蘇我氏と排仏派・物部氏との抗争の話ばかりとなる。この間に大きな変化があったことが窺われるのだが、古事記が正しければまさにこの間の四月に仏教嫌いの敏達帝が崩御してるのだから、その後に蘇我馬子が仏教を押してきたというわけだろう。そうすると翌年の九月に用明天皇が即位したという日本書紀がただしければこの年は空位だったことになるが、古事記はこのなぜ年を用明元年としているのか?
その前にまず排仏派が押す押坂日子人大兄王(おしさかのひこひとのおほえのみこ)と崇仏派が押す池辺王(いけのべのみこ)とで皇位継承が決まらなかったという情況が考えられる。日子人大兄は古事記が王(みこ)でも命(みこと)でもなく「太子」(ひつぎのみこ)という異例の書き方をしているほどで、当時は正統の皇太子格であり、当然、日子人大兄王が即位すべきところだが、ここは蘇我馬子が横槍をいれてきたんだろう。排仏派の天皇が何代も続いては仏教は永遠に日本に根付かない。蘇我としては崇仏派の皇子である池辺王に天皇になってもらいたい。そこで引っ張れるだけ引っ張っていたんだろう。蘇我氏にそんな力がいつの間に出来たんだ?と思われるかも知れないが、あれこれの推測に困難はない。巨勢男人の大臣(おほおみ)の地位は巨勢氏に継承されず一代に終わったが、巨勢氏が滅ぼされたわけでもなく、子孫はそれなりの中級貴族として遇されている。これは以前にこのブログで書いた平群臣・木菟宿禰(つくのすくね)が落ちぶれたパターンだ。木菟宿禰については前のやつ読んでもらうとして(ブログ内検索ができる、右側の下のほう)、要するに巨勢男人は「磐井の乱」とそれに続く近江毛野の不祥事(任那の大混乱)において、首謀者かどうかわからぬが何らかの関与を疑われたのである。ただ証拠不十分な上、本人は事態の終結以前に死んでいるので不問に付されたのである。葛城氏が滅んだ後にその利権は平群真鳥が継承したが、同じパターンを推定すると、蘇我高麗と蘇我稲目の父子いずれかもしくは両方は、巨勢男人の下にありながら忠勤に励んでいたのを評価されたか、あるいは巨勢男人の陰謀を密告したのではあるまいか。ともかくも、蘇我は、葛城→平群→巨勢と引き継がれてきた大臣の位を継承した。それにはいうまでもなく外交と財政にかんする利権が伴っていたことは何度もいってるので繰り返さない。

「称制」とは?
ただし、そうはいっても彦人大兄皇子(=日子人大兄太子)の正統性を無視していきなり池辺王を即位させるほどの力はまだ蘇我にはなかった。そこで敏達天皇の皇后であり通常なら次期天皇の指名に大きな発言力をもつ額田部皇女の「称制」皇子として、池辺王を擁立したのではないか。橘豊日尊(たちばなとよひのみこと)と尊号を奉ったのもこの時と思う(この名は諡号ではない)。「称制」というのは、中国で皇帝が幼少の場合、ご生母様(大抵の場合ご生母様は先帝の后で皇太后)が皇帝の代理を務めることをいう。これと似てるが少々違いもあるのが日本式の「称制」で、天智天皇がやった「称制」は天皇が幼少とは限らず、実権も天皇本人がもつ。ただし正式な即位はせず皇太子のままでいる。形式上は斉明天皇(天智帝のご生母)ついで間人皇女(孝徳天皇の后)を上に立てていたので中国の「称制」と同じ用語を使ったらしい。天智天皇の実権は大化の改新からずっと続いていたと思われるが、そうすると用語として「称制」に該当するのは大化の改新(645年)以降の皇極天皇と斉明天皇の在位期間中も含まれるはずだが、日本書紀は斉明天皇の崩御の翌年を天智「元年」としていて、正式に即位した年(668年)を元年とはしていない。天智天皇の特殊で日本的な「称制」がいきなりでてきたとは不自然で、その前に先駆的な段階としてもっと中国式に近い「称制」があったのではないか、それが用明天皇の段階であろう。つまり先帝の后である額田部皇女と未即位だが事実上の天皇である池辺王とのコンビで「称制」としたのであろう。古事記はこの称制の年を治世の初年として数えて「治天下3年」といっている。

敏達天皇崩御から用明天皇即位までの政局政情の推移
敏達十四年(AD584年・書紀は誤って十三年とする)四月六日(ユリウス暦5.20(土)グレゴリオ暦だと22日、以下、jはユリウス暦、gはグレゴリオ暦。gは略してjのみ書く。両者は2日ずれる
古事記のとおり敏達帝はこの日に崩御したとして、通常だと翌年の正月か二月、遅くても三月か四月には新天皇の即位がある。正月とか二月が一番多い。次の天皇が誰かでもめそうなのでまずは敏達天皇の皇后である額田部女王の預かりとなったと思われる。蘇我馬子はあくまでも池辺皇子を押し、彦人大兄皇子の即位に反対した。ここは馬子は大きな賭けでもあったかもしれないが額田部女王も本心では彦人大兄皇子の即位を望んでいないのをしっていたから目算があった。額田部皇女はまだ幼い竹田王を将来の天皇にしたかった。池辺皇子が即位しても傀儡だから竹田王が成長したら譲位させることができるが、彦人大兄皇子が即位したら竹田王には永遠に出番がなくなってしまう。池辺王の擁立に対して物部守屋や中臣勝海は激怒したろうし、決定的な対立はこの時から生じたに違いない。物部としたらこの時に蘇我を滅ぼすという選択や、そこまでいかずとも日子人大兄太子の即位を強行するという選択もあったはずだが、日子人大兄太子は紛争になることを恐れてひとまず折れた。守屋や勝海もまだ馬子の腹の奥までは読めず様子見すべきと慎重に考えたのかもしれない。こっちが折れたらすぐにも池辺王が即位するという差し迫った情況ではないという判断もあったろう。実際、ただちに池辺王が即位したわけでもない。池辺王は斎宮を強姦した前科があって、すぐに即位できるほどの人望はない。そういう人物しか手持ちの玉(ギョク)がないのがこの時の蘇我氏の弱みで、馬子もダメ元でスネてみせただけだろう。もし即位が強行されたら遅参して謝罪すればいいやと軽く考えていた程度で、ここまでうまくいくと思わず、根回し不足、準備不足だったのだ。そこで今度は馬子も折れて、正式な即位ではなくて、皇子のままで天皇に準じた立場という程度に留めた。これにはむろん額田部皇女の押しもあったろう。さすがに日子人大兄太子を押しのけて正式に即位させるというのは額田部皇女でも言い出しにくいが「称制」なら実権は額田部皇女がにぎるのであって用明天皇は形式的な存在とも受け取れる(実際そうだった)し、反対派を説得しやすい。そこでめでたくこの年が用明元年となったわけだが、これが翌年二月十五日までのこと。

用明元年(AD585年・書紀は誤って敏達十四年とする)二月十五日(3.21j水)
蘇我馬子は仏塔を建てて大会設斎(読経して会食する仏教行事)を開催している。これは用明天皇称制元年と決まって一応の勝利をみたので祝杯の行事のつもりだろう。普通ならちょうどこの頃に新天皇の即位があるはずだが、この段階では用明天皇はまた称制皇子であって正式な天皇ではないので、即位式のあるべき日と同じ日にこれみよがしに仏教行事を盛大にやって、崇仏派の勝利を誇示したのだろう。だがこの年、思わぬ事態が起こった。年末まで残り10ヶ月の間に、疫病が大流行して多くの死者がでたのだ。

三月一日(4.5j木)
こうなっては用明天皇も正式な即位どころではない。物部守屋と中臣勝海が「仏教をやめないと、故父帝より今上陛下まで疫病のせいで民がおおぜい死にますぞ」と申し上げ、びびった天皇によって仏教廃止ということになった。書紀ではまだ敏達天皇が生存して在位しているという建前なので、ここの故父帝(原文では「考天皇」)とは欽明天皇のことである。しかし古事記に従えばこの時の天皇とは用明天皇のことである。

三月三十日(5.4j金)
それから一ヶ月、仏教廃止命令は出たものの、蘇我氏を始めとする仏徒は従わなかったのだろう。しびれをきらした排仏派は実力行使に出て、守屋と勝海の主導で廃仏毀釈を実行したのだが、天皇と大連(守屋)が疱瘡にかかっただけでなくそれが国中に流行して、仏像を焼いたからじゃないのかという噂まで広がってしまった。ここでいう天皇とは、書紀は敏達天皇とするが正しくは用明天皇のことで、大連は守屋しかいないがかなり不審。物部守屋は信念に揺らぎがみえない。ただの噂が記事に紛れ込んだのだろうか。それとも、二人ともここで死去した様子はないが疱瘡にかかってすぐ治ったのか?  ともかく国中に疫病が蔓延している中で、華々しく正式な天皇として即位する自信は池辺王にもなく、彦人大兄皇子も皇位を堂々と要求するほどの自信はなかった。その二人を押す排仏派も崇仏派も、今回の廃仏毀釈事件の後は、疫病が収まるまでしばらく停戦となったらしい。

六月(日付不明、7.3j火~7.31j火)
天皇(池辺皇子)と守屋が疱瘡にかかったので、排仏派と崇仏派のどちらかが一方的に立場が弱くなったわけではないが天皇が疱瘡にかかったのだから崇仏派のほうがやや分が悪い。六月には蘇我馬子も「自分の病気が重くなってきたので仏教にすがりたい」とお願いしてきた。疱瘡とは明示してないし、仏教を認めてもらうための言い訳もあるだろうが、実際に病気だったのは本当だろう。とするとやはり疱瘡の可能性が高いと思われる。そこで蘇我馬子だけが例外的に仏教を許された。書紀が引用する異説では、馬子の信仰再開に対抗して物部・中臣も廃仏毀釈を再開、しかし馬子も抵抗したという。だがこの説を書紀本文は採用していない(末端の小競り合いぐらいはあったんだろうが)。物部守屋と中臣勝海にしてみれば、今回の許可では仏教はあくまで蘇我一人しか拝めないのだから、仏教の扱いについては、排仏派の勝利で決着したという認識だったろう。このままでは蘇我は分が悪いので、疫病流行の原因が廃仏だという噂を流した。不自然な噂は意図的なものだろうとバレバレなので庶民には効かないのだが、下々の感覚に疎い雲の上の方々のほうが、「庶民の間ではこういわれておりますぞ」ってのに弱い。儒教をまじめに信じてる皇族や貴族ほど「庶民が~」を持ち出されると弱いのだ。それで排仏派の心が揺らいでくると、反比例して蘇我サイドには精神的な余裕がでてきた。そこで新たな妥協が成立したのではないか。日子人大兄太子は排仏のせいで疫病が流行ったのだという世の中の噂を信じたか、もしくは廃仏のせいとまでは信じないものの、疫病の発生は儒教的には君主の不徳のせいと考えられるから弱気になっていったと思われるのだ。

八月十五日(9.14j金、書紀はこの日に敏達帝が崩御したとするがそれは間違い
この日、日子人大兄太子は皇位継承争いから全面的に降り、それで池辺王の「称制でない」正式な即位がようやく確定したのだろう。が、そんなことは守屋や勝海がタダで容認するはずがないが、肝心の日子人大兄太子が疱瘡を病み(この頃にはとっくに治っていたとは思われるが)自分には帝徳が足らぬと固辞、こんな情況では「それなら私が」と図々しく名乗りを上げる第三候補もおらず、守屋大連にもやりようがない。このチャンスに蘇我は、おそらく、池辺王の即位を認めるかわり、六月の裁定を尊重したまま仏教論争はむしかえさないという約定を提案したのだと思われる。これで物部や中臣は妥協して、用明天皇を正式な天皇として推戴した。むろんこんな約定は後々なんとでも理由がついて反故にされるのであるが、物部としてはこの約定を反故にするようなら蘇我など滅ぼしてしまえばいいぐらいに思っていたのだろう。また六月の時点での仏教許可も蘇我氏代々に許したのか、蘇我馬子一代限りに許したのか、馬子個人一人に許したのか、蘇我氏の配下の諸氏族すべてに許したのか、はっきりわからない。相互に都合のいい解釈をして両派それぞれ勝手に納得していたのかもしれない。そのへんのいい加減さは後々の火種になりかねないが、お互い細かいことには目をつぶった。なぜなら、早く形だけでも円満解決を神仏に報告したかったからだろう。というのも、この頃おそらくようやく世の中の疱瘡流行が一段落して、疫病は神の怒りか仏の祟りかはわからぬが、当時の人にとってはそのどっちかではあるわけだから、双方ともにこれ以上は派手な争いごとは控えようという気分になっており、ここは多少は妥協しても話をまるめなければという意志を互いに感じつつあり、つまりは「機が熟していた」のである。八月十五日を日本書紀は敏達帝の崩御の日としているが、前年四月に崩御してこの頃まで殯(もがり)が続いていることはありえないことではない。実際の殯は一年にも満たないことが多いが建前上は三年間続けることになっていたのだから。日本書紀は八月十五日に殯の記事があることからこの日を崩御の日と即断して編年したのだろう。

九月五日(10.3j10.5g水)
で、その約定が成立した結果、用明天皇は正式に即位した。蘇我としたらもっと早く日程を繰り上げたかったろうが、吉日を占いで選んだのだろう。この間20日間ほどは人望のない池辺皇子が支持を固めるための政治運動、身も蓋もなくいえば蘇我氏によるバラマキに費やされたとも考えられる。

用明二年(AD586年・書紀は誤って用明元年とする)

(※「浮屠の乱(用明天皇)」に続く)

・4速総別王の乱の登場人物

H29・8・3(木)改稿 H27・12・26初稿
(応神天皇⑮)」は3人の后妃と結ばれ、「(中日売命なかつひめのみこと」との間には「天皇、仁徳⑯(大雀命)」が生まれ、その仁徳帝は「大后、石之比賣命」と結ばれている。また応神帝と「(矢河枝比売やかわえひめ」との間には「(宇遅能和紀郎子)」「八田若郎女」「女鳥王」の3人が生まれ、「(糸井比売いといひめ」との間に「速総別王」が生まれている。この系図と別に「将軍いくさのきみ、山部大楯連とその妻」は、「将軍にとっては「かの王ミコたち」も主君筋である、(速総別と女鳥)」。
3石之比賣の嫉妬の本当の理由」から続き

「隼総和気の乱」の背後と一面
記紀の流れからいうと、仁徳天皇が女鳥王を召そうと思ったのは八田若郎女を諦めたから、諦めたのは后の石之比賣に屈したから。しかし実際は女鳥王が重要視されており、菟道稚郎子(=宇治若郎子)が自害する寸前に言い残した「我が妹の八田皇女(=八田若郎女)を後宮に召し入れたまえ」という遺言は「雌鳥皇女(=女鳥王)」だったのを書紀が八田皇女に書き換えたか、「八田皇女と雌鳥皇女」とあったのを雌鳥皇女だけを意図的に落としたものだろう。(八田若郎女に比べてなぜ女鳥王が特別なのかという議論は他の記事で詳論する、このページでは取り扱わない)。
仁徳天皇ははじめから女鳥王は落とすのが難しいとみて、順番を踏むように振る舞って、まず姉のほうとくっつこうとしたのである。さいわい、姉のほうが仁徳天皇のことが好きだったのでそこまではよかったのだが…。以前に書いたように八田若郎女か女鳥王のどちらかを后にしないと仁徳天皇は正統性を保持できない。女鳥王が仁徳天皇の不甲斐なさをみて拒否したのは誰にでも理解できることで、そこまでは女鳥王を非難する人は少ないだろう。まぁ中には陛下のお召しを拒否するなんて不敬は許せないって人もいるだろうしそれはそれで一つの道だとは思うがこの時点では仁徳帝にはニセ天皇の疑いがかかっていたから「陛下のお召し」には該当しないというのが女鳥王の考えなのである。ニセ天皇とはどういうことかというと、応神天皇が次の天皇を指名した時に大雀王(仁徳帝)はその指名から漏れたという厳然たる事実のことだ。当時それはみんな知っていた。ちょっとここは大山守命の乱の詳細を説明しないと話がつながらないかもしれないのだが、今回はその話ではないのでやむをえず飛ばすが、女鳥王が仁徳天皇のお召しを拒否する一番の早道はとっとと他の男とくっついてしまうことだが(それでも万全とはいえないまでもだ)、八田若郎女と女鳥王の姉妹はたんなる皇族女性ではなく、「この女性と結婚した皇族だけが正統の天皇だ」とみなされかねない危険な存在なのである。たとえばもし女鳥王が「ささぎ取らさね」と歌わなければ、隼総和気に対して反乱を唆したりしなければ、仁徳天皇はこのカップルを祝福したのかという問題がある。前例としては応神天皇が召そうとした髪長姫を息子の大雀王がおねだりした例があり、この時は円満に父が譲った。しかし今回はそんなことはありえないと踏んだからこそ、身を守るために戦うしかなかった。…というと「純愛のためにがんばった」っていう何か良い話にきこえるが、女鳥王は仁徳天皇に対して正統性を付与することを拒否したばかりか、順位は遠いにしてもまがりなりにも皇位継承権をもっている皇子(=隼別王)と駆け落ちしたわけだから、「仁徳天皇はニセ天皇。本当の天皇は隼別王です」と天下万民にむけて高らかに宣言したも同然なのである。これは、要するに、この瞬間から中世の南北朝時代のようなことになったのである。むろん仁徳天皇を完全に正統だと認める派閥もあった。それは皇位継承権者である宇治若郎子から直接ゆずられたんだから、何の問題もない、という説。葛城氏やその事実上の氏上(うぢのかみ)でもある石之比賣などはそういう考えである。この人たちを仮に葛城派とよぶ。ただ、宇治若郎子が遺言した「我が妹を後宮に」って話が、皇位の条件だったのだ、と解釈するのがアンチ葛城派なのである。ただし、こういう形式的な違いで対立していたのはあくまで建前での話であって、このブログでいつもいうように、抽象的には葛城派というのは漢文派・中華文明派・儒教派・漢文式官僚制推進派・帰化人優遇移民推進派なのであり、アンチ葛城派というのは国粋派・語部派(反漢字派)・神道派・伝統社会保全派・移民反対派なのである。具体的勢力としては葛城氏という外交と貿易を司る氏族とその取り巻き、帰化人系氏族に対して、それ以外全部ということになる。全部といっても行動主体は海の民・山の民と彼らに連なる氏族、妃を入れることで葛城系と競合する尾張氏や和邇氏(尾張氏は津守氏を通じて海の民ともつながりがある)、大伴・物部といった軍事氏族(大伴は山部や佐伯部、久米部を通じて山の民の係累でもあるし、物部は和邇氏と近い)、神道祭祀氏族であるがゆえに儒教を容れられない中臣氏や忌部氏(中臣氏と大伴氏は実は同族でもある)、等々。ただし雄略天皇に葛城氏が滅ぼされてからは儒教は公認されたので、儒教自体は論点にならなくなるが、葛城氏にかわって平群氏がその地位と役割を継承していき、対立構造はそのまま継続した。
大山守命の乱で反乱軍の主力(正確には反乱ですらないのだが今回は詳細にはふれない)になったと思われる山の民、海の民は隼総和気の管掌になっていた(仁徳天皇の皇子たちは20歳そこそこでまだ配下を心服させるほどでなかった)。そのため、この乱はかなり長引いた。記紀ではあっさり片付いたように書かれているが、これは語部の歌物語しか資料がなかったからだろう。隼総和気と女鳥王は脱走しようとしたが、書紀は伊勢で、古事記だと大和で、討ち取られたとある。しかしそれは嘘で、二人とも生き延びて九州と東海地方の両側から逆に大和から攻め上った(隼総和気の乱の全体像についてはまたいずれ、今回は時間なし)。ところでなんで逃亡に成功して脱出できたんだなんて事ががわかるのか。

女鳥王の玉釧(たまくしろ)・前編
1)三人の思惑のズレ
書紀では、皇女の死体を晒すのはよくないとして身につけた玉を取るなとわざわざ事前に皇后(書紀では石之比賣ではなく八田皇女)が指示したとある。戦場でのこんな細かいことを皇后が指示するのはおかしくないか。書紀では八田皇女(=八田若郎女)なので、実の妹を気遣ったのではないかといわれるかもしれないが、実の妹を気遣うのなら「身につけた玉を死体から剥ぐな」という前にそもそも生かしたまま逃したいと思うはずだろう。しかも古事記では皇后=石之比賣だから、この「事前に云々」はカットされ、古事記では皇后(石之比賣)は事前になにか命じたことにはなっていない。結論からいうと事前に「玉を取るな」と命じたってことでは書紀が正しいが、そう命じたのは八田皇女ではなく、石之比賣なのである。
その説明の前に、まずここで八田若郎女と石之比賣と仁徳天皇は三者三様にもくろみが違う。八田若郎女と石之比賣の二人は、隼総和気の処分は仁徳天皇の随意にすればいいと思っているが、八田若郎女は妹の女鳥王を何とかして救いたいし、石之比賣は逆に女鳥王はなんとしても排除したい、亡き者にできればなお結構。この2人に対し、隼総和気は謀反人だからこうなってしまった以上、仁徳天皇としては立場上なんとしても処刑しなければならないのだが、女鳥王は生きたまま取り戻さないとならない。八田若郎女も女鳥も妃にできてないだけでも問題なのに、宇治若郎子に続いて女鳥王まで死なせてしまったとあってはまずます評判が悪くなる。八田若郎女と仁徳天皇は女鳥に死なれたら困るという共通点があるが、八田若郎女にしてみたら戻ってこれないならせめて逃亡に成功して生きていてほしい。が仁徳天皇にしてみると逃亡されたら死なれてしまったのと同じぐらいダメージがある。
そこで、八田若郎女は追手の将軍に女鳥王を逃がすように極秘の指令を与えたのだろう。

2)両将のプロフィール
追撃した将軍は大伴氏でもなく物部氏でもない。隼別王の叛乱の噂は前からあったとしても、現時点ではただの駆け落ちだから、大伴・物部といった本格的な軍部を仰々しく出動させるまでもないとされたのもあったろうし、大伴・物部は隼別王に好意的であまり乗り気でなかったっていうのもあったろう。むろん二王は裸一貫で逃げたわけではなく、いくらかの手勢(武装集団)に守られての脱出行。ただし護衛の規模はわずか数名だったのか、予想外に大規模な軍隊だったのか、そのへんの加減はわからない。古事記は悲劇としての舞台演出上の都合で二人ぼっちのような印象を狙っているが、手勢に守られていなかったとも明示はしていない。そこで今回の追撃軍の将軍に選任されたのは、山部大楯連(やまべのおほだてのむらじ)。逃亡者は宇陀から山越えをして伊勢にぬけると推定されていたから、山岳行動にすぐれた山の民が適任だという理屈だろう。ただしこの人は山部つまり山の民を管轄する氏族で、かつて大山守命の配下にいたのだから、隼総和気にも好意的だったと思われる。書紀では二人の逃亡者を追ったのは吉備品治部雄鮒(きびのほむちべのをふな)と播磨佐伯阿俄能胡直(はりまのさへき・あがのこのあたへ)だがどっちも随分と身分が低い(前者は部姓だし、後者は直姓だが記名が雄鮒の後になってるし、風土記その他から二人とも地方豪族にすぎないこともわかっている)。だから一見したところでは、古事記のいう通りこの時の将軍は山部連大楯の方が自然に思ってしまう。だが日本書紀では清寧天皇の時に伊予来目部小楯が功績により山部連になったとあり、同一人物を古事記では最初から山部連小楯と書いている。つまり古事記では山部連氏は仁徳天皇の代から継続して存在しているという建前なのに、日本書紀では山部連は清寧天皇の代にできたもので仁徳天皇の頃には存在してないかのような印象を与える。「山部」自体は古くからあったにしろその伴造の「山部連氏」が古くからあったとは限らぬわけでこれは書紀のほうが正しいかもしれない。古事記は「山部連の祖」と書くべきところ、遡らせて「山部連」と書いてるのだろう。さらに、来目(久米)と佐伯はどっちも大伴の配下で、久米舞を伝えたのは実際には久米氏ではなく佐伯氏というぐらい近しい関係にあり、佐伯部(さへきべ)というのはもともとは蝦夷(えみし)を編成した辺境防衛軍や要塞駐留軍をいったのだが、蝦夷は狩猟採集をして山の幸を貢納する「山の民」でもあるから、佐伯部はおのずから山部でもある。また古事記の山部連小楯を書紀は伊予来目部小楯といっており同一人物だから、山部は来目部(久米部)でもある。久米部は諜報員や秘密工作員、わかりやすくいえば忍者のことだが、以上のことから大雑把ながら「佐伯部=山部=久米部」(つまり「蝦夷=山の民=忍者」)と定式化できる。しかも山部連小楯(=伊予来目部小楯)は播磨国司だったのだから、書紀のいう「播磨佐伯直阿俄能胡」と古事記のいう「山部連大楯」はどうも似た臭い関係で、同一人物ではないかとも思える。万が一、別人だとしてもかなり近い関係で阿俄能胡は大楯の腹心だろう。書紀は「玉手」という地名起源説話に取材してるので、直接関係のない将軍の名が落ちているまま採録されたんであって、死刑にされなかったわけではない(土地の献上でまぬがれたのは影武者の遺体をつかまされて本人たちに逃げられた罪であり、処刑されたのは女鳥王の手足の玉を着服した罪で、それぞれ別。罪と罰の軽重がアンバランスだが詳しくはこの頁内で後述)。吉備品治部は吉備氏の一族だから葛城氏の配下で、いわば石之比賣皇后に近い筋だ。だから阿俄能胡は八田皇女の人選、雄鮒は磐之媛(=石之比賣)の人選だ。山中での行動を得意とする阿俄能胡がまず選ばれたが、これが八田皇女の息がかかった人間だと気付いた磐之媛がウラに何かありそうだと察知して念のため我が「手の者」を押し込んだんだろう。

3)不可解な皇后の指図の謎解き
それぞれ自分の手下に追わせたいのは当然で、仁徳天皇は二人の顔を立てて、将軍二人制にした。ただ、これは日本でも西洋でも中国でも例があるがトップが一人でない軍隊ってのはろくなことになったためしがない。阿俄能胡は雄鮒を警戒して自分の腹心にだけ密命を伝え、雄鮒には偽の死体を埋めてみせた(仮に「大楯=阿俄能胡」、同一人物説で)。そもそも殺してしまったのならその場で埋めずに首実検が必要だろう。その場で埋めるというのは隠蔽工作でしかない。だから八田若郎女は「玉を取るな」ではなく、証拠の品として玉を取ってこいといったのだ。せめても遺体となる妹に気遣ってるふりして、「遺体の手足に我が妹女鳥王の玉がついていたらその遺体こそ我が妹女鳥王の遺体ですよ」という錯覚をばらまいてるんだよ。ディスインフォメーション工作だな。そしてその玉を、わざと石之比賣の目につくところで見せ、あたかも本当に殺したようにみせかける計画だったのだろう。本当に殺すつもりなら遺体を証拠にもってくるのは当たり前でこんな命令が出ることはありえない(むろん遺体の実物がないのは不審を買うわけだが、そこは後述のような言い訳の用意もされたと思われるし、阿俄能胡の一族や配下には替え玉の遺体に志願する女性もいたろう)。磐之媛はその命令が出たことを知ったので、わざわざ逆のことを言った、「玉を取るな」と。そういう経緯がないとこの命令は不自然だ。反乱というのは天下国家の一大事で、こんな時に皇后であり国母ともあろう者が謀反人の遺体の心配してる場合か!? しかもあの鬼のようなコワモテの石之比賣が夫の恋人候補だった女性に対してそんな細かい気を使うのか!? …というと、こんな反論がくるかもしれない、「そういうキャラのはずの石之比賣だからこそ、意外な一面をみせることに文学的な妙味と、古事記がもつ多面的な人間性に対する深い理解があるのだ」、と。まーねー。それはわかるんだけどさー。それなら、せめて「服をぬがすな」とか「下着をとるな」って話になるべきじゃないの? 手足の玉を取るのが下着や服をさておいてまでの「辱め」になるのか!? やっぱりおかしいってば。これは八田若郎女の策(=逃亡幇助・逃亡隠蔽策)を封ずるための、石之比賣からの反撃なのであり、結果的に「朝令暮改」になってしまったんだろう。

4)追撃軍の経緯
さて、追撃する将軍のうち密命を帯びた阿俄能胡の立場になってみると、隼総和気と女鳥は二人でくっついてるから、ただでさえ同行してる兵士や将校らがみてるところでどちらか一方を逃してもう一人を捕まえるということを自然に演じるのはかなり難しい。雄鮒も雄鮒で、阿俄能胡がへんな工作しないように監視しろという密命を帯びていただろうからなおさらだ。古事記は大和の宇陀で、日本書紀は山越えした後の伊勢で二人に追いついて殺したというが、宇陀で殺された二人は影武者で、阿俄能胡はこれで使命をはたしたとして遺体を運んで帰還しようとしたが、雄鮒の情報網に逃亡者らしき集団の目撃情報が入り、影武者であることがバレた。しかし逃亡側にとっては時間かせぎにはなった。宇陀の曽邇村から隼別王と女鳥王は伊勢にいかず伊賀を北にぬけ近江に入った。のちに近江山君稚守山(あふみのやまのきみ・わかもりやま)という者が協力者として発覚するが、近江山君というのは狭々城山君(ささきやまのきみ)ともいい、近江の蒲生郡・神埼郡(今の東近江市のあたり)を本拠とする氏族。しかし逃亡者は別方向の伊勢に向かったと偽情報を流しておいた。これは隼別と女鳥王の仕業ではなく阿俄能胡が自分で流した偽情報。だから追撃軍は書紀のいうようにそのまま北の伊賀と南の高見山地の間を東に山越えをして伊勢に出た。北上して近江に入った隼別と女鳥王は、まずは一旦、佐々木山君が匿ったんだろう、佐々木山氏は山部だからもともと縁が深い。ただし稚守山は帝都(難波の高津宮)にいたので、現地の指揮をとったのはその妻だった。そして一行は、近江の