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☆「紫神社」の謎を解く

H30・8・19(日)改稿
今日、平成28年8月17日(水)。世の中はお盆休み。なので今回はお盆にまつわる雑談でもしようかと思うんだが、どうせなら古事記とか神話とか古代史とかに関係した話をしたい。私のお盆はここ数年、変化が激しく「いつものお盆」という「型」のようなものはないのだが、今年にかんしていえば14日(日)に朝だけコミケ、サークル参加なので仲間にまかせて申し訳ないと思いつつ一人だけ早引けして国際展示場正門から直で東京いって新幹線で田舎さがり。16日(火)の夕方に田舎から帰京してそのまま仕事にいき、17日(水)もお盆前の仕事のすったもんだとコミケの後処理のすったもんだでどたばた続き。で、お盆で帰省してお墓参りしたついでに、故郷の懐かしい神社もいくつか回ってきたんでその話でもしようかと思うんだけど、その中の一つで今回は「紫神社」の話。
「紫さん」の謎
「紫神社」という名の神社は全国各地にあるが、祭神の違いなどから複数の系統があるらしく、総本宮はどこなのかよくわからぬ。ネットでざっとみたところ宮城県仙台の紫神社(松島明神/紫明神)が有名でそこから勧請したものが多そうではある。
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故郷の浜見山の紫神社(通称:紫さん)は縁起によると、越後国の柏崎から斎藤四郎兵衛和泉盛方なる者が移住してきた時に、その屋敷内に紫明神と観音様を勧請したことに始まるという。なのでもともと柏崎にあった神なのかと思ってたんだが、どうも誤解があるようだ。柏崎からきたのは本人だけで、ここの神は移住の記念に仙台の紫神社から勧請したのではないかと思われる。紫という名は斎藤家の家紋が藤の花の紫であったことから名付けられたというが、勧請した神が紫明神だったからだろうに、なんでこんな不自然な話がついてるのか。この由来譚自体がどこまで本当の話なのか、もうすでに信憑性が乏しい。で、仙台の有名なほうの紫神社(=松島の紫神社)は相当な古社でたいしたものだが、祭神の由来がわからぬ。祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)なのだが、これは古い時代の祭神ではないだろう。天之御中主神が祭神の神社は古くは妙見信仰が習合していたところが多かったと思われる。水天宮の天之御中主神は江戸時代の国学思想に基づいて明治になってから追加したもので妙見信仰とは関係ないがそういうのは例外だろう。ところが浜見山の紫神社の祭神は豊受姫であってぜんぜん違っておる。これはこの神社の始まりに紫明神と一緒に観音を祀ったというから、観音様が明治の神仏分離で豊受姫という女神に置き換えられたのではないかと一応は思われる。しかしそれならなぜ天之御中主神は消えたのか? 出典が不明になってしまったのが残念だが、この神社は大昔は「紫天神」といっていたはずで、ならば祭神は菅原道真だとばかり思いこんでいたのだが、あとで調べてみたら「紫天神」という名はどこにも見当たらない。どういうことなんだろう? ここを管理しているのは北野神社という別のところで、逆にいうとこの紫神社は北野神社の境外末社ということになる。北野神社はいうまでもなく天神様だから何か混同しているのかもしれない。昭和50年に国文社から刊行された『鎮守の森』(第5巻)によるとここの祭神は「屋船豊受姫命・木花咲耶姫命」の2柱となっている。しかしいくら調べても「木花咲耶姫」のほうは現在の情報としてはどこからも出てこない。現在はまるで最初から豊受姫だけだったのように錯覚させられてしまう。このように、現在では典拠が不明でも、失われた情報というのはありうるので、紫天神という呼称もただの勘違いで済ますことができない。で、天之御中主神がどこにいっちゃったのかって話だが、お社の脇に石碑が2つあり、一つは古峰社で、もう一つは「青麻三光宮」。
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写真は3枚ともH30・8・20(月)撮影
どちらも江戸時代の参拝旅行の記念に建てたものらしく、青麻三光宮の石碑には「天保二年辛卯二月」と日付もある。で、古峰はわかりやすいのでとくに問題ないが、青麻三光宮というのは仙台にある「青麻神社」のことで、青麻は青麻沢という地名、三光はそこの祭神である天之御中主神・天照大神・月読命のこと。出たw 天之御中主w 松島の紫神社と同じだ。なにかここの紫神社と関係のある神社として青麻神社が選ばれている可能性はないか? 三光は太陽と月と北極星で、天体信仰の神社である。ちなみに青麻神社は裏に岩窟があってその中に三光を祀ったものという平安時代の縁起譚が伝わっている。
もしこの岩窟が東(真東なら春分と秋分、北東や南東にずれていれば冬至や夏至)を向いていて日の出の光が入り込むようになっていれば、岩窟の中に祀ったというのは石器時代にさかのぼる太陽信仰の典型的なパターンで、天之御中主神と月読命はあとから加えられたのかも知れない。また岩窟が北を向いていれば北極星信仰が先で後から太陽と月が加えられたか。いったことないのでなんともわからぬが、地図で拝殿・本殿の向きをみた感じ、東南を向いており、人間は北西の日没を拝する形になる。しかし背後が山で日没など拝めそうにないし、角度も南にブレすぎて夏至の日没の向きとはあわない。
だが洞窟祭祀と太陽信仰は日本はもちろん世界的にも普遍的にみられる関係なので、青麻神社の場合は月と星はおまけでついてきたもので元々が太陽信仰だった可能性もないではない。とすると紫神社の2柱の女神というのも太陽神の信仰とセットになった古いものかもしれず、浜見山の紫神社の由来伝承に出てくる観音様というのも、女神が先で江戸時代には仏教と習合して観音様ということにされたのではないかとも思える。
まぁ「謎を解く」と壮語するほど謎は解いてないけど、とりあえず今回はこんなとこで。これ以外の他所の紫神社にも、太陽と豊穣にまつわる説明のある神社や、蒼然様(駒形明神とかオシラ様みたいな馬に関係した信仰)がらみの神社などあってちょっと整理に手間取りそう。

・天満宮と『古事記』

H29・5・26(金)改稿 H29年5月25日(木)初稿
毎月25日は天神様の縁日なわけだが、今日のH29年5月25日(木)は湯島天神の例大祭と上野の五條天神の神幸祭が重なる。湯島では今日は祭典(儀式)だけやって賑やかしのいろんな行事は27日(土)28日(日)にやる。五條天神は今年は三年に一度の大祭で大神輿と大行列が出るがこれがやっぱり今日じゃなくて28日(日)に出る。今の世の中、週末にあわせないと何かと不便なんだろうな。せっかく週末にしてくれても俺は今年は土日とも忙しくてだめだ。大行列はネットに動画であがるだろうけどな。ちなみに5月27日(土)は昔の海軍記念日なんだが、今回はその話は無し。
湯島天神・五條天神と『古事記』のつながり
五條天神は奈良だか平安初期だがの古い追儺の儀式を保存していて節分の時にやってる。「白朮(うけら)の神事」っていって一人で行ったことも仲間で行ったこともある。あれはいかにも本物っぽくて古代の習俗とか儀式に興味ある人には面白い。一方、湯島天神は受験シーズンには伊予柑だったか金柑だったかポン柑だったか、受験生じゃない人にもただで配りまくってたことがあって俺も美味しくいただきました。あれは毎年の行事なのかな?
で、この湯島天神が古事記となんの関係があるのかというと、あまり関係ない。強いていえば湯島天神は雄略天皇2年の創建という。まだ道真先生うまれてないよw だからもともとの御祭神は菅原道真じゃなくて天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)だったとの事。今は境内摂社の「戸隠神社」に祀られてる。あれ信州の九頭龍権現の戸隠神社とは関係なかったんだな…。ずっと九頭龍の戸隠神社からの分霊かと勘違いしてたよ。でも信州の戸隠も主祭神が天手力雄命だから紛らわしいことこの上ない。社伝でどう言ってるかはともかく、実際は信州の戸隠から勧請したのが湯島神社の起源かもしれんね。
で、上野の五條天神が古事記となんの関係があるのかというと、これまたあまり関係ない。強いていえば五條天神のある上野のお山は本当は「忍ヶ岡」(しのぶがをか)といい、この上に摺鉢山古墳という古墳がある。古墳なんだけどぜんぜん保護されてないっていうか頂上にずいぶん長いことホームレスが住んでた。今もいるのかどうか知らんが。この忍ヶ岡自体が一つの巨大な古墳なのだ、どーん。…と言いたいところだが、この古墳はたまたま一つ残っただけで他にもたくさんあったのが開発で消滅したらしい。
ところで五條天神の「五條」って社名は京都の五條天神から取ってるんだが、上野の五條天神にしろ京都の五條天神にしろ主祭神は医薬神の少彦名神(すくなひこなのかみ)であり菅原道真と関係ない。ただ、せっかく天神って名だからって菅原道真も合祀してるから結果的に「いわゆる天神様」ってことでもあるという、これまたややこしいことになっている(スクナヒコナノカミが天津神なのかって問題があるが今回はふれない。ちょい言うと実はそういうロジックがありえなくもないのだがまぁ詳しくは別の機会に)。上野の場合は、江戸初期の頃は五條天神(少彦名神)と北野天満宮(道真)が相殿になっていて今の摺鉢山古墳にあったという。それが寛永寺の建立のため移転になったもの。社伝では京都から勧請したわけではなくその前からあってヤマトタケルが大己貴神・少彦名神を祀ったことになってるが、古墳がらみとしたら社伝のいうように古いのかも。

伝説の背景にあった古代の「部民制」
五條ってのは菅原氏の家名でもある。菅原氏は鎌倉時代以降、高辻家・五条(=五條)家・東坊城家・唐橋家・清岡家・桑原家の6家にわかれた。菅原氏は垂仁天皇の御前で相撲をとった野見宿禰(のみのすくね)の子孫土師氏が改名したもので、その流れで宮廷の相撲イベントを取り仕切る「相撲司」の家柄だったのが菅原六家の中の「五條家」だった。なぜ他の5家をさしおいて五條家だけなのかはよくわからないが。
そして俺の故郷の伝説には「五條中納言昭次卿」って人物が出てくる。ずいぶん古い話だが故郷の観光用パンフに「京都からきた中納言顕実卿の伝説がどうたらこうたら」と書いてあった。このパンフは東日本大震災より何年も前のものなので実物が残っておらず確認しようがないが、当地の羽黒神社の伝承では顕実(あきざね)ではなくて「平安時代の嵯峨天皇の時の五條民部中納言菅原昭次(あきつぐ)卿」となっている。まぁ市内各所の言い伝えによって微妙に名前が違ってるなんてこたぁよくあることだ。この人がいろいろあって生き別れになっていた妻子と再会するという長い物語が伝わってるんだが、五條家は鎌倉時代の五條高長から始まるので、嵯峨天皇の時ってのはありえない。菅原顕実とか昭次という人名も歴史にみえないし中納言だの民部卿だのって高官なら記録に残ってるだろう。だからこれは伝説にすぎず史実ではないのだが、どこまで本当かはともかく闇雲に後世の創作と決めつけるのも夢がないので、今回もいつものように、力技で極力可能性を見積もってみようw
歴史に名が残ってないのだからいたとしても五條家の末端の人だろうし、そしたら中納言だの民部卿だのって高官ってこともありえないので、中世の武士の名乗りみたいなもの(つまり自称)だろう。これならありうるんじゃねw
鎌倉武士たちが全国にあった各々の所領に散っていくのは鎌倉末期から室町初期のあたりという。この頃なら五條家の遠縁の者もかなり増えていた頃だろう。京都では食えない下級の公家衆やその郎党縁者たちは平安時代から戦国時代まで数百年間ずっと地方へのあまくだりを繰り返してきた。ほら、確かに五條昭次って人が実在してやってきても不思議ないように思えてきたろw
東北には「菅原」って苗字がけっこう多い。小学校のクラスメートにも何人もいたし、隣県に住む従兄弟も「菅原」だった。本家本流の公家の菅原氏の子孫なら菅原じゃなくて高辻か五条か東坊城か唐橋か清岡か桑原じゃないとおかしいだろう、というツッコミはニワカの言うことw 確かに、現在菅原という苗字の人が全部菅原道真の子孫のはずがないが、少しはいてもいいだろうw なぜかっていうと、土師古人(はじのふるひと)が奈良時代に菅原古人(すがはらのふるひと)に改姓する前の、古い時代の土師氏は土器つくりという庶民の生活に密着した職能を担っていた上、記紀による限り極度に古い一族でもあるから、全国的にその子孫が広がっていてもおかしくはない。その中にはもちろん土師部の部民や菅原氏の荘園の領民、また菅原氏が本所(荘園の実質上の管理者)を兼ねた全国の天満宮の所神領の民になった人々も当然いただろう。そういう土師氏の一族らが、道真の子孫でなくても同族の有名人の威名にあやかって、菅原を称することがあったのだろう。一族の者や支配下の部の民が中央の本家の姓を名乗る例は、安倍氏や毛野氏、大伴氏、和邇氏などに例がある。こう考えれば、全国の菅原さんが少なくとも道真の親類縁者の子孫である可能性はあるって気がしてきたろw

菅原道真と平将門の関係
ただし菅原を称した人々の動機はそれだけではない。天満宮への信仰が篤いのはなにも奥羽だけではなく全国的なもので、歴史上の偉人が多い中に天皇でも皇族でもない道真だけがなぜ特別な存在になっているのか、なぜこんなに信仰されるのかを考えてみよう。さして知識ない人だって、道真先生がこの上もなく尊崇されたし、とにかくすごい人気なのは薄々わかるはず。だから大昔の人は自分がわずかでも道真公に関係があるだけでも誇らしく、うれしくなって「菅原」を称したくなったんじゃないのかな。でも現代人は道真がそれほどまでの人だったってことにピンと来ない人が多いんじゃないか、道真って学問がすごくできたってことと、遣唐使を廃止したことと、左遷された恨みに雷様になって悪い政治家を祟り殺したことぐらいしか知らないでしょう。これじゃ昔の人の道真公に対する思いがさっぱりわからなくて当然なんだよ。
『将門記』にでてくる有名な話だけど、巫女が神がかりして、八幡大菩薩が平将門に「新皇」の位を授けた時、位記(公式の証明書みたいなもの)を捧げたのが左大臣正二位菅原道真の霊だったという(この段階ではまだ右大臣のはずで左大臣というのは誤記)。巫女というが、原文は「昌伎」になっている。注釈に「平譯作『娼妓』、然此訓かむなぎ、巫女也」とある。これは遊女(あそびめ)、現代語でいう売春婦のこと。古代オリエントの「神殿娼婦」が有名だが、海外でも日本でも大昔は巫女が売春婦の起源になっていて重要な祭儀には遊女(というか巫女)の参加が不可欠なものも多かった。全国の遊郭ももとは大きな神社の近くにあった。だから巫女といってもこの巫女は上流階級出身の高位の巫女ではなく、最下級の庶民的な巫女だ。八幡大菩薩自身が直接巫女に神がかりしたのか、巫女に憑依した霊が八幡大菩薩の神勅を伝えたのか原文では判然としないが、将門記の作者が勝手に書いてるんじゃないだろう。将門自身が道真の生まれ変わりという説は(たぶん将門は道真が死ぬ前に生まれているので)かなり後になってできた説だろうが、巫女の神がかりにこういう台詞があったのなら、道真への死後の官位の追贈も庶民にしられていたってことだし、庶民は当初から将門と道真を関係づけてみていたと思われる。原文ではどこの神社の巫女だともないからフリーランスの「流しの巫女」ってこともありうるが、いきなりこんな神がかりする場所はやはり神社の境内だろうから、まぁどこかの八幡宮か天満宮だろうな。海音寺潮五郎の小説だと天神(=天満宮)になっていたような気がする。
要するに、道真死後わずか一世代(30年)のうちに、すでに天満宮=天神様っていうのは八幡様とならんで地方の庶民にまで親しまれる神様になってたってことだ。これは道真在世中、もしくは死後すぐに庶民から崇敬されたと考えないとなかなか理解しにくいことのはずで、在世中の道真の行跡が庶民にもよく理解され評価され、畏怖され思慕され、信仰される本当の理由になっていたということではないのか。道真に対する上記のような広く篤い信仰は、死後のタタリっていうショッキングなオカルト話だけで説明つくことでない。
では菅原道真の生前の業績とはなんのことか? それを我々が普通の知識として知っているといえるのか?

(※まだ書きかけ途中なので続く。続きはまたいずれ(来年の3月ぐらいに?)書きます)

・神話の構造と古典の章立て

H28年5月18日(水)初稿
『日本書紀』の章立て
古事記は格別に章立てはしてないわけだが、『日本書紀』は以下のように各章に題名がついている。()内はそれに該当する古事記の部分。

第一巻・神代上
 神代七代章 …(天地のはじめ)
 大八洲生成章…(国生み島生み)
 四神出生章 …(神生み、黄泉国、三貴子の誕生)
 瑞珠盟約章 …(天照大神と須佐之男命との誓約、三女神五男神の誕生)
 宝鏡開始章 …(天の岩戸)
 神剣出現章 …(八俣の大蛇、大国主)
第二巻・神代下
 天孫降臨章 …(葦原中国の平定、天孫降臨、木花之佐久夜毘売)
 海宮游幸章 …(海幸山幸)
 神皇承運章 …(鵜萱葺不合命、神武天皇の兄弟)

これの面白いところは「瑞珠」「宝鏡」「神剣」とついており「三種の神器」の由来を強調した名称になっているのが特徴。「八咫鏡(やたのかがみ)と天の岩戸」、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八俣の大蛇」の組み合わせはまさしくその通りで妥当だが、玉と誓約(うけひ)はどうなのか。誓約では玉と剣が両方でてくるのであって玉が主役とはいえないし、そもそも三種の神器の八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は誓約の物語とは関係していない。なのでややバランスの悪い構造理解といえる。
三種の神器のそれぞれの名は後世には固有名詞のようになったが、もともとは普通名詞であったと思われる。なので、同じ名だからといって同一のものとは限らないし、逆に名前が違っているから別のものとも限らない。例えば、伊邪那岐命が三貴子にそれぞれの支配領域を分けた時に「御倉棚神」(みくらたなのかみ)という玉が出てくるが、これが八尺瓊勾玉のことだろう。国生みのはじめに、天之沼矛(あめのぬほこ)が出てくるが、これは草薙剣と同じ意味をもつ。ツルギは武器が発達して種類が増えてから出てくた名前で、古くは武器はみなホコといったのであって、天之沼矛と書かれているからといって槍のようなものに限定して考える必要はない。これらの神器を授けるのは世代交代を意味してもいる。伊邪那岐命に「この漂へる国を修理り固め成せ」と命じて天之沼矛を賜ったのは、それによって「伊邪那岐命」の時代が開幕したことを告げる。そして、伊邪那岐命が「汝は高天原を知らせ」と命じて天照大神に御倉棚を賜り、同時に「汝は海原を知らせ」と須佐之男命に命じたのは、ここに伊邪那岐命の時代が終わって、天照大神と須佐之男命の時代が始まったことを意味する。最後に、天照大神は八咫鏡に剣と玉も添えて邇々藝命に天壌無窮の神勅をくだし、ここに邇々藝命の時代が始まって今に至る。このように三種の神器は神話の中の時代の区切りに関係している。

『先代旧事本紀』の章立て
『先代旧事本紀』は以下のようにわかれている。

神代本紀 巻一 …(天地のはじめ)
陰陽本紀 巻一 …(国生み神生み)
黄泉本紀    …(黄泉国、禊、三貴子)※1
神祇本紀 巻二 …(誓約、天の岩戸)
天神本紀 巻三 …(葦原中国の平定)
地祇本紀 巻四 …(八俣の大蛇、大国主)
天孫本紀 巻五 …(饒速日尊(にぎはやひのみこと)のあまくだり)※2
皇孫本紀 巻六 …(天孫降臨、木花之佐久夜毘売、海幸山幸、鵜萱葺不合命、神武天皇の兄弟)※2

※1黄泉本紀は十巻本では独立せず、内容は陰陽本紀に包括されている。七十二巻本・三十巻本などでは別立。
※2皇孫本紀は別名天孫本紀ともいい、天孫本紀も別名皇孫本紀という、とあり。つまり言葉の意味は同じだが、区別するために便宜上使い分けているわけでどっちがどっちの名でもよい、という趣旨らしい。

天神と地祇との起源・相克・統合の過程に力点をおいた名称になっているのが特徴である。しかしスッパリ分かれてるわけでもない。黄泉国は「地下」の物語、天の岩戸は「天上」の物語、八俣の大蛇は「中国」(天下=地上)の物語で、三つの世界が語られている。
その後で、国津神による国造り、天津神による国向け(国譲り)、皇祖邇々藝命による肇国(天降り)がありこれはそれぞれ「地」、「天」、「天地の合一」に対応している。邇々藝命が人皇の祖という意味では「地・天・人」と対応しているともみられる。

・えびす神

H27.8.27.THU更新
えびす講
今日は11月20日。毎年この日は高崎えびす講はじめ全国各地で「えびす講」や「えびす祭」あり、前月の10月20日にやるところも多い。これはもともと旧暦の10月20日の行事だったので、同じ日付のままの地方と月遅れでやるようになった地方に分かれたため、10月と11月の二通りあるんだよね。他に関西では「十日戎」(とおかえびす)といって正月10日にやるところもあり、正月のを「商人(あきんど)えびす」、10月や11月のを「百姓えびす」といって両方やる地方もあるという。

エビス神の2つのルーツ
もとは「衣毘須(えびす)」と「三郎殿」というまったく別々の神だったのがのちに混同されて「恵美寿三郎」という一人のキャラクターが生まれた。「衣毘須」は商業や交易の神だが疫病除けの神でもあり、エビスという名の元になっている。「三郎殿」は海の神で、釣竿をもち鯛を抱えたお馴染みのデザインは「三郎殿」からきている。
現在えびす様の総本宮とされる西宮神社は、古くは延喜式の「大国主西神社」であって、もともと恵比寿だの蛭子だのを祀っていたのではなかった。その大国主西神社が平安時代には広田神社の支配下に入ってその末社となり、「浜の南宮」とよばれるようになっていた。そこで幾柱もの神々が祀られていたが、その中に「夷(衣毘須)」「三郎殿」という二神があった。「夷(衣毘須)」を祀っていたおやしろは今の西宮神社の境内社の「沖恵美酒神社」となり、「三郎殿」のほうは同じく西宮神社の境内社である「南宮神社」となっている。

「三郎殿」とは何か
「浜の南宮」はもともとは海辺の泉を祀ったおやしろだったらしい。「三郎」というのはもとは「三浪」、さらにその前は「三海」の誤写と思う。広田神社の副祭神である住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)のことだろう。しかし「三郎」と誤ってからは、邇々芸命(ににぎのみこと)の三男、山幸毘古(やまさちひこ)と混同されるようになった。現在の南宮神社の祭神は、豊玉姫命・市杵島姫命・大山咋命(一説に大山祇命)・葉山姫命となっている。このうち葉山姫命は広田神社の発祥の巫女の名で旧名「御斎殿」(おときとの)という。これは「おほいつきどの」の訛りで巫女の祭儀場のことだろう。「三郎殿」の「〜殿」というのは神社としては違和感のある名だが、もともと「三海社・御斎殿」の併称だったわけだ。市杵島姫命は弁財天女と注がある。弁天様は川、湧き水、泉、湖沼などに祀られる女神であるから、前述の海辺の泉に弁天が祀られていたのを、後から神道風によびかえたものに違いない。大山咋命はもと不動明王だったのを神道風に言い換えたのだろう。三郎殿の本地仏は不動明王だったから、ここでいう大山咋命が三郎殿(=山幸毘古)である。日本では不動明王は、弁天様のように泉や池のほとりに祀られる風習があるが、弁天様と違うのは、あくまで山の中の泉、山の中の湧き水、山の中の池のほとりに祀られる。不動明王は山の存在でありながら水に関係する。それは山幸毘古でありながら竜宮城へ行き海の浪を支配する力をもった神に通ずる。だから山幸毘古の本地仏として不動明王が選ばれた。ゆえにその配偶神として豊玉姫命も祀られているのは当然といえよう。

三郎と合体する前のエビスはどんなだったか
エビスというのはエミシ(蝦夷)の訛りで、そもそもは奥羽(東北地方)の狩猟民のことだった。7世紀の飛鳥時代から平安時代前期の10世紀にかけて、蝦夷征伐で捕虜になったり降伏してきたりした蝦夷を「俘囚」とよんで、南は九州まで日本の各地に分散して住まわせていた。しかし土地に根付いて農業に従事することを強制されておらず、政府が生活費を支給していたので、生活物資の自力補給を名目にすれば移住先と奥羽を往復することも事実上許されていたと思われる。俘囚の中には、移住先と奥羽を往復して交易活動に従事する者もいたろう。もともと、基本的に狩猟民は交易民でもある。そして遠隔地交易は莫大な富を生む。当時は治安が悪かったので、行商人は武装必須であった。武装といってもみすぼらしい甲冑ではなく、金持ちにふさわしく外国製つまり唐風の美麗な甲冑だったろう。その姿は毘沙門天に代表される四天王と同じとなる(毘沙門天自身も武神というだけではなく財富神でもある)。仏教の天部の尊格は本来はインドの神々だが、中国や日本で像形される場合はなぜか中国の唐の時代の甲冑姿で造形される。日本では毘沙門天の信仰は鞍馬寺から発祥した。鞍馬の山奥は鬼の世界があると信じられていたが、この鬼とはもちろん俘囚=蝦夷のことであろう。鞍馬は京都と日本海をつなぐ要衝の地で、ここに北陸・山陰の物産が集積して市が開かれ、その市場に武装商人である俘囚=蝦夷(えみし)が定期的にやってきただろう。だから延暦十五年(796年)、鞍馬で毘沙門天の信仰が発祥したのである。富を蓄え力をもちすぎた俘囚は9世紀頃から大規模な反乱を起こすようになったので、寛平九年(897年)に俘囚を奥羽に送還した(しかしどこまで実行されたかは疑問ももたれている)。こうして毘沙門天のコスプレして遠方からやってくる大金持ちのイメージできた。神としての夷(エビス)は本地仏が毘沙門天とされていたのはこういうわけである。

武装商人が祀っていた「商業の神」とは?
エビスという言葉はもともと俘囚や蝦夷をさす一般名詞であって固有名詞ではない。俘囚出身の武装商人(エビス)たちが祀ってる神という意味で「エビスが祀る神」、「エビスガミ」といっていたものが、約言して単にエビスというようになったのである。ではこのエビスガミはどんな神様だったのだろうか?
ヒントの第一は、後世の民間習俗を探ると、恵比須を女神とする地方もあった。女神説はあるいは、中世以降に記紀神話の神々で説明付けされるようになる以前の古い信仰の名残かも知れない。江戸時代に捏造された偽書『ホツマツタヱ』は記紀の蛭子を「ヒルコヒメ」として天照大神の姉としているがその元ネタは民間伝承からきていたのかも知れない。
ヒントの第二は、上述の「えびす講」にある。地方によっては「とおかんや(十日夜)」または「大根の年取り」などという民間習俗があるが、これとエビス講とは同系同根のものである。これらはへんな風習が地方ごとに伝わっていて面白い。実はこれらはまだ太古の神嘗祭(かんなめのまつり)が宮中祭祀だけでなく民間でも行われていた頃の名残りである。
ヒントの第三は、恵比寿神を祀る神社では拝殿に鈴をつける。これは、えびす様は耳が遠いから、という民間信仰に基づく。拝殿をドンドンと叩いたり拝殿の裏に銅鑼や鉦をつけておく風習もある。えびす様はビッコだとかチンバだとか片足だとして杖を奉納する習俗もある。そのほか、全盲説、片目説、両手無い説、右半身(または右目右耳右手右足)無い説、両手両足無い説、等さまざまなバージョンがある。
以上のことを総合すると、エビス神の本来の神格は豊受比賣神だったのではないかと想像される。不具神という説は、手足をばらばらにされたまま祀られた縄文時代の土偶と同じく、須佐之男命に殺されたことでその身に五穀を実らした大宜都比賣神のことであろう。神嘗祭(かんなめさい)は現在の宮中祭祀ではかなり変わってしまっているが、もとは米だけでなく、十種の穀物を捧げる神事であったのだろう。

後世の諸説
「衣毘須」も「三郎殿」も当然記紀にでてこない名だが、室町時代以降、記紀の中の神々のうち、いずれかの神の別名だという説が出てきた。以下の諸説は、現在、各神社で行われている説である。民間信仰では、恵比寿様の雰囲気は地域や職業によって御利益などの信仰が多少食い違っていた。漁村・漁民の「浜エビス」、都市部・町人の「商人(あきんど)エビス」、農村・農民の「百姓エビス」があり、祭日(または講の日)も異なるのは前述の通り。以下の神々の共通点は、大なり小なり海にかかわる神であることであり、これらの神々は異界としての海との交流によって人々に幸をもたらすと考えられた。

蛭子ひるこ
蛭子は、『古事記』と『日本書紀』では相違がある。古事記では国生み島生みに先立って生まれたが、生まれてすぐ葦舟に乗って海に流れていった。書紀では月夜見尊の次ぎ、素戔嗚尊の前に生まれ、三歳なるも脚立たず、鳥磐楠船に乗せて流す、日神月神の弟(三男)でスサノヲの兄という。この蛭子が恵比須神のことだというのは中世の室町時代にでてきた新しい説であり古代に遡る説ではない。むしろ下記の三説と比べても最も新しい説であるが、それだけに観念的であり、エビス信仰の様々な面を統合しうる雰囲気がなくもない。ところで、もし天照大神が女神だとすると蛭子は次男ということになり、普通の感覚では「三郎」と称するのはへんな話だが、中世には現在と違って、天照大神男神説も今よりは有力だったのである。民間俗説に蛭子は海を支配するともいう。全国の恵比寿を祭る神社では、恵比寿を蛭子のことだとする神社がもっとも多く、その総本宮は西宮神社である。

少名比古那神すくなひこなのかみ
少名比古那神は、海外からやってきて大国主神の国作りを補佐した知恵の神。神功皇后の御歌にこの神は岩の上に立っているとあり、これは岩に神が降り立つという信仰と関係がある。常に大国主と並び称されるコンビの神で、この2神は医薬の神ともされた。ゆえに神仏習合では薬師如来が本地仏だとされていることもある。本来は関係ないはずの大黒天と恵比寿神がセットにされた理由は、大国主神が大黒天に習合したからである。恵比寿とは少名比古那神のことだと推定したのは江戸時代の平田篤胤であるが、そのはるか以前、恵比寿という神格が平安末期に創作される以前から、大国主神と少名比古那神は2神セットで庶民に信仰されていたことが『日本書紀』に明記されている。神話学的にも極めて古い起源を有する信仰であり、「百姓エビス」の信仰にもつながっているだろう。現在、恵比寿を少名比古那神とする民間信仰は全国の海岸部や奥羽東北地方に散見する程度で少ないが、海上に突き出た岩をエビスとよぶ地方もあり、現在の恵比須像が岩の上にたっている姿は少名比古那神からとられたものである。

事代主神ことしろぬしのかみ
事代主神は釣竿をもって魚を治めていたという。コトシロは言葉を意味するが、ものごとを交換する意味(交易・商業)もあり(言葉は意味の交換、交易は物資の交換)、豊宇気比賣神とならんで市場で祀られる神々の一つだったのではないか、つまり武装商人の祀った神だったのではないかと思われないこともない。上の方でそれは豊宇気比賣神だと推定したが、別に、多神教なんだから一柱だけとは限らず、二柱でも問題ない。ただし、文献記述上は、この事代主神が恵比寿のことなのだというのは早くとも鎌倉時代ぐらいに出てきた説であって、けして古いものではないが、上述の「商人(あきんど)えびす」のイメージに近いように思う。事代主神は、味鉏高日子根神・加夜奈留美(鳥鳴海)神・建御名方神と四兄弟であるがその中で特に三男だという話はない。が、現在では恵比寿を事代主神のことだとする神社も蛭子説ほどではないがきわめて多くその代表格は今宮戎神社である。蛭子系と事代主系の神社は全国に混在しているが、やや蛭子系が東日本、事代主系が西日本に偏ってる傾向もみてとれる。

山佐知毘古(山幸彦)やまさちひこ
山佐知毘古(火遠理命)は、燃える産屋の中から生まれた三つ子の三男。兄から借りた釣り針を探して竜宮城(海神のいろこの宮)へ行き、海の波を操る力を得た。海との関係の深さでは蛭子とならんで、少名比古那神や事代主神をしのぐ。「海幸」というぐらいで「浜エビス」の源流にふさわしい。釣竿は事代主神ももっていたが、事代主神の神話には鯛は出てこないので、釣竿をもち鯛を抱えた姿は山幸彦の神話から題材を採ったものであり、事代主神からではないだろう。現在では恵比寿を山幸彦のことだとする神社は九州に散見するが、少ない。「博多どんたく」には夫婦恵比寿(めおとえびす)といい、男女で対になった恵比寿様が登場する。また佐賀県には双躰恵比寿と称して、やはり男女で対になった恵比寿様の像もある。これらは山幸彦と豊玉姫のことであろうと思われる。

・祓戸4神/禊と祓

H26年11月26日初稿 (H24年6月25日(月)のメモによる)
H24年6月25日(月)のメモ、4つの項目がある。■一つは宣長によるカミ(神)の定義。■もう一つは有名な宣長説による祓戸の4神と古事記の神との対応関係。これは瀬織津姫=禍津日神、速開都比賣=伊豆能賣、気吹戸主=神直毘大直毘と対応表させた上で「(古事記の)三神と速佐須良比賣」が祓戸の4神だという説。■三つめは(1)伊邪那岐命が禊の前に身に着けていたものを脱ぎ捨てた話、これを「祓い」という。(2)伊邪那岐命の「禊」、(3)須佐之男命の岩戸事件の後に贖い物を祓具(はらへつもの)として提出させた話。宣長説だけではなく現代の学者の説でもあるが「(1)(2)(3)は別のものであったようだが混同または同一視されてきた。この三つをまとめてハラエまたはハライというようになった」という説。■四つめは『万葉集』からの引用で、憶良と人麻呂の有名な「言霊」と「言挙げせぬ国」についての和歌。
大祓詞にでてくる4神のうち速開津比賣(あやあきつひめ)は記紀に出てくるのだが、他の3神、瀬織津比売(せおりつひめ)・気吹戸主(いぶきどぬし)・速佐須良比売(はやさすらひめ)は記紀にないため、昔から詮索の対象とされた。

神道五部書の説
記紀には出てこないが、「神道五部書」には若干の記述がある。すなわち五部書の一つ『倭姫命世記』に瀬織津姫神は皇大神の荒魂で八十枉津日神の別名であり荒祭宮の祭神とし、また気吹戸主は神直毘・大直毘神の別名で豊受神の荒魂だとし、『御鎮座次第記』と『御鎮座本紀』は気吹戸主を豊受神=月神の荒魂とし、『御鎮座傳記』に速佐須良比売は須佐之男命と同様に伊邪那岐命の檍原での禊祓で鼻を洗った時に生まれた神としている。つまり

天照大神= =伊邪那岐命の左目=八十枉津日神= =瀬織津比売
豊受神=月神=伊邪那岐命の右目=神直毘・大直毘神=気吹戸主
須佐之男命==伊邪那岐命の鼻=         =速佐須良比売

という位置付けがなされていた。「神道五部書」は中世の外宮で豊受神を天照大神と同等もしくはそれ以上の神とするために捏造された偽書なのでこのような設定がでてくるのであり、異質な神々を同じ神の別名だとしてくっつけるのは信用ならない。伊勢の祭官、荒木田氏の古記録によって、内宮の荒祭宮の祭神はもともとは瀬織津比売ではなかったことも判明している。従って、この五部書の説は後世の創作であり、デタラメであって、参考にしたりヒントにしたりしてはならないものなのである。

本居宣長の説
ところが本居宣長は神道五部書を偽作だとしながらもその捏造説をヒントにして、大胆な憶測を加え、瀬織津比売を禍津日神、速開津比売神を伊豆能賣神、気吹戸主を直毘神とそれぞれ同一神とした。こうして『大祓詞』にでてくる出自不明の4神のうち3神を、伊邪那岐命の禊に成りませる神々に同定したのであるが、速佐須良比売は未決で浮いている。ちなみに、速佐須良比売は神名の類似や「根の国にいる」ということから須勢理毘売命(すせりひめ)のこととする一案を出している。

禍津日神 =瀬織津比売
直毘神  =気吹戸主
伊豆能賣神=速開津比売
勢理毘売命=速佐須良比売

勢理毘売命は大国主の妃神であるから、ここだけ他の3神と異色でバランスが悪いことこの上ない。が、宣長はさらにそれだけでは飽き足らず、瀬織津比売=大屋毘古神=禍津日神であり、気吹戸主=天之吹男神=直毘神=大戸日別神とし、また速佐須良比売=風木津別忍男神というように、やたらと神々を同定した。これらは多少の類型や対比に着目してみたもので、たいした根拠のない憶測説にすぎない。そもそも「神道五部書」は鎌倉時代の偽書であって古伝を知る上で参考にならないことは宣長自身が念押ししてることなのに、辻褄合わせやこじつけの誘惑に負けたとしか言いようがない。が、後世の神道界では深い検討もなく漠然と受け入れ、瀬織津姫とは禍津日神のことだとする説が通説のように流布している現状である。

平田篤胤の説
篤胤は月読命と須佐之男命を同一視して、須佐之男命を月神だとした。そのため篤胤の神観は二元論的な構造をもつ。宣長は「神道五部書」が豊受大神を月神としたことを捏造として否定したため、「禍津日神=瀬織津比売」のコンビネーションを天照大神にくっつけたり、「直毘神=気吹戸主」のコンビネーションを月読命にくっつけたりはしなかった。しかし篤胤は、太陽神と月神(=須佐之男命)の相克/融和の神話を善悪吉凶という現象と関連付けて解釈したため「天照大神=大直毘神」「須佐之男命=枉津日神」という関連付けが成立する。

【日】天照大神の和魂 =大直毘神(伊吹戸主) (&伊豆能賣=速開津比売)
【月】須佐之男命の荒魂=枉津日神(瀬織津比売)(&速佐須良比売)


大國正隆の説
正隆は宣長の「速速開津比売=伊豆能賣」説を否定して、「瀬織津比売=伊豆能賣」説を唱えた。そればかりか天照大神や須佐之男命を持ちだした篤胤の悪影響を受けて、あれやこれやと屁理屈をつけて、宣長が否定したはずの「神道五部書」にかなりの程度戻ってしまっている。さすがに豊受大神と月神を同一視はしていないが、気吹戸主を豊受大神の荒魂だとしている。

天照大神の荒魂=瀬織津比売=八十禍津日神=伊豆能賣
豊受大神の荒魂=気吹戸主 =神直毘神
須佐之男命  =速佐須良比売
????????  =速開津比売


『ウエツフミ』の説
『ウエツフミ』ではイザナキノミコトの禊祓の際に、ハヤサスラヒコ・ハヤサスラヒメの二神が、イヅノヲ・イヅノメの二神の後、底津・中津・上津の3海津見神の前に生まれたとし、またイブキドヌシ・イブキドヒメの二神がその底・中・上の3筒之男命の後に生まれ、そのイブキドヌシ・イブキドヒメの次ぎに、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメが生まれたとしている。これは禊ぎ祓いの神だからというので禊で生まれたとしているのだろうが、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメは神生みの最初のほうでも生まれており(つまり記紀と同じ)、この禊のところでまた生まれてるから2回生まれたことになっており、編集が未整理なままになっている。瀬織津比売の誕生については記述がない。この『ウエツフミ』もまた偽書とされており、これが正解というわけではないが、神道五部書のように記紀に登場する既知の神々のどれかに「当てはめ」をやろうとはしていない点は好感がもてる。

若干の問題と考察
さて、ではこの3神がどういう神々なのか推理しなければならないが神道五部書の理論は中世人特有のこじつけ発想で一揃いの神々をまた別の一揃いにみえる神々に当てはめるという整理の仕方でできており、まったくアテにならない。普通に考えたら、速秋津日子神・妹速秋津日女神が生まれたところで、他の3神も生まれたとあったのが記紀から落ちていると予想をつけるのが穏当な推理だろう。あるいは逆に、大祓詞の中で4神セットになってるからって神話の中でも一緒に生まれたとは限らないかも知れない。『ウエツフミ』のように禊の段で一緒に生まれたのだというのも一つの推理ではあろうが、祓戸神の中には速開津比賣神のように禊とは別にそれよりずっと前に生まれたことが記紀によって確定している神もいる。『ウエツフミ』はこの神をも禊で生まれたことにしようとしたがそれは当然ダメだろう。もし各神バラバラでよいのなら、禊の段に限定する必要はなく、他にも関係付けられそうなシーンが神話の何ヶ所かにある。たとえば瀬織津比売は明らかに川や滝の女神だから、水の神・弥都波能賣神(みつはのめのかみ)や、泣澤女神(なきさはめのかみ、この神は泉や湧水の神との説あり)が生まれた前後のあたりで一緒に生まれたのではないか、同じ水の女神ということで。あるいは、気吹戸主は根国底国との境に接するところにいて、速佐須良比賣はずばり根国底国にいるわけだが、黄泉津比良坂で伊邪那岐命、伊邪那美命が最後の話をした時、日本書紀では速玉之男神(はやたまのをのかみ)事解之男神(ことさかのをのかみ)が生まれたというから、気吹戸主と速佐須良比賣はこの時に一緒に生まれたのかもしれない、「根国底国とこの世の境」と「黄泉津比良坂」は似ているという考えで。いずれも、そうとも考えられるし、こうとも考えられるという程度の話で決め手のある話ではないが、記紀に登場する既知の神々の別名だと考えねばならない必要も必然性もない。「神道五部書」の説をいじくり回してきた江戸国学の所説は、完全に廃棄すべきであろう。そもそも記紀は古伝を完全に網羅したものではない。古事記にあって書紀にない伝承や、書紀にあるのに古事記にない伝承もある。ということは、たまたま記紀ともに載せ漏らした伝承も当然あったわけで、それらのうちには『風土記』『新撰姓氏録』『古語拾遺』『先代旧事本紀』などの古書に偶然にも拾われることもあったろうが、そういうのは奇跡の類で、多くは現代に伝わらず失伝してしまったと考えるのが当然だろう。だからこそ記紀の伝承は貴重きわないないものなのである。『大祓詞』の4神のうち3神が記紀にみえないからといってそれはおかしい「のではなく」当然そういうこともあるってことにすぎない。
(続きはまた後日に加筆、今日は時間なし)

・戸隠神社と皆神山(&九頭龍神)

H26年10月31日初稿 (H24年の10月17日(水)のメモによる)
前後から推測するにH24年の10月17日(水)18日(木)の一泊二日で友人らと北信州の旅行にいっていたんだった。戸隠神社やら、皆神山やら、松代大本営やら、真田宝物館やら、いろいろ見て回りました。とはいっても忍者と蕎麦と温泉メインでしたがw
戸隠神社には『古事記』にも出てくる神様が祀られているので今回はこの話で。
象山神社
歴史上の有名人、象山(しょうざん)先生。とてつもない大天才で幕末の偉人。吉田松蔭の師匠で、高杉晋作からは師匠の師匠にあたる。この先生を祀った象山神社(ぞうざんじんじゃ)にお参り(その隣に象山の生家あり)。
象山先生といえば、大河ドラマ『花神』で、いきなり面会にきた高杉晋作(中村雅俊)に向かって「…そうか…。おまえが寅(=吉田松蔭=篠田三郎)の弟子か」と感慨深そうにつぶやく象山(南原宏治)の味わいのある演技が忘れられんw 南原宏治という俳優は好きな俳優だったのだが、残念なことに晩年は、幸福の科学にハマッてしまって『ノストラダムス戦慄の啓示』に神様の役で出てるらしいw うはっw 役どころビッタリじゃん、これは見たいw
それはさておき「象山」という号は生家の近くにある「象山(ぞうざん)」という山からとったらしく地元では象山も「ぞうざん」と読むというが、象山自身が「俺の名は『しょうざん』と読む」と書き残しているので「しょうざん」が正しい。ゾウは呉音、ショウは漢音なので、号としては漢音でよまないといかん、という考えだろう。地元の象山(ぞうざん)と「山のように気宇壮大なものに象(かたど)る」という意味を掛けてるのだと思う。

松代大本営と天武天皇の信濃遷都
松代大本営は象山神社のすぐ近くにある。これはなかなかすごいところで日本人なら誰でも一度はみてきて頂きたい。戦時中にここに首都機能が移る可能性があったわけだが、実は『古事記』編纂の企画を最初に打ち出した天武天皇
も、首都を信濃に移そうとしたことが『日本書紀』天武十三年(AD684)の記事に出てくる。信濃は『古事記』にもあるように古くは「科野」と書いていたのを後に「信濃」と書くようになりさらに信州ともいうようになったわけだが、仁義礼智信の五徳を木火土金水の五行にあてはめると「信」は土で方位は「中央」にあたる。それで五行電波で有名な吉野裕子の説によると、天武天皇が科野に遷都する計画を立てた頃に科野から「信濃」への改字があったのではないかという。それはまぁいいんだが、信濃遷都というのは天智天皇の近江遷都と同じく、この時点ではまだ白村江の戦いの続きで唐が攻めてくるかもという危機感があったことがわかる。しかし偶然にもこの年は唐では、日本に好意をもつ則天武后が権力を奪い始めた年でもあり、則天武后はもともと対外戦争を好まないことから、日唐戦争の再開はまずありえない政局となっていき、信濃遷都も立ち消えになっていったわけである。

皆神山
皆神山は人工のピラミッドという説もあるが、実際には自然の造形で人工ではないことはwikipediaにも詳しい。ここの頂上にある熊野出速雄神社のご祭神は、境内の説明看板によると熊野出速雄命(くまのいづはやをのみこと)・少名毘古那神・泉津事解男神(よもつことさかをのかみ)・速玉男神(はやたまをのかみ)となっているが、『参拝のしおり』では出速雄命・伊邪那岐命・伊邪那美命・速玉男命・豫母都事解男命となっている。このうち少名毘古那神・伊邪那岐命・伊邪那美命は『古事記』にもでてくる有名な神。事解男神・速玉男神は『日本書紀』で伊弉諾尊伊弉冉尊が黄泉津比良坂で分かれる時に生まれた神々で熊野三山のご祭神でもあるからわかるとして、主祭神の「熊野出速雄命」という神様は記紀にでてこないが、建御名方神の御子神だという。建御名方神の13柱の御子神のうちの第2神「伊豆早雄命」と同一名なのでそれだろう。ところで、この神社の境内の解説看板が酷いw 皆神山は宇宙船の航行基地で、御祭神の4神は実は宇宙船のパイロットだとか書いてあるw 70年代のUFOブームの頃に竹内文献の一派から出てきた説だろうけど、宮司がそういう趣味の人なのかな。毎年5月5日に地元自治会で『ピラミット祭り』が催されてるそうで、村おこしには役立ってるようだ。こういうブッ飛んだ神社は他に阿蘇の幣立神社なども有名ですぬ。

松代地震観測センター
ところで信濃遷都の企画があった天武十三年(AD684)という年は天変地異級の大地震が一度ならず起こった年でもあるんだが、偶然にも(というかコジツケというか)、松代も昭和40年から5年半も続いた松代群発地震で有名なんだよね。それが後の日本の地震研究の発端にもなったという。なので松代大本営のすぐ近くに「松代地震観測センター」(正確には「気象庁精密地震観測室」というらしいが?)って地味な建物があり、内部にすばらしい見学コースもあり。こういう美しい自然に囲まれた地域で、大自然の猛威について考えさせられると、しみじみカミの悠大さと不思議さを感じざるをえないもの。しかし、人員も少なそうだし寂れた感じのところだったなぁ。日本の地震行政は大丈夫なのか? 象山神社・松代大本営・皆神山・松代地震観測センターはすべてレンタサイクルで一日で回れる範囲にあります。

戸隠神社
山奥の神社で、神仏分離以前には神仏習合の山岳信仰=修験道の寺院だったと思われがちで、実際その通りなんだが、他の多くの神仏習合の寺社ではまず仏が祀ってあったのを神仏習合説によって明治に仏から神にきりかえて寺から神社に変更したのとは異なり、寺ながらも元から神道の神を祀っていたのであって、ご祭神は今もそのまま変わっていないとのこと。従って、神仏習合以前のさらに古い時代にはやはり神社(または磐座信仰=神社建築以前の神道)だった可能性がある。現在では宝光社・火之御子社・中社・九頭龍社・奥社の5社体制。
「火之御子社」の主祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)で、他に高皇産霊命(たかむすびのみこと)・栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)も祀られている。このうち栲幡千々姫命というのは『古事記』でいう萬幡豊秋津師比賣(よろづはたとよあきつしひめ)つまり忍穂耳命のお后様。他の4社が神仏分離以前には「〜院」と称する寺だったが、この火之御子社は最初から一貫して神社だった。「中社」のご祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもひかねのみこと)。「奥社」のご祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、戸隠神社の中心的な主祭神。つまり5社のうち3社は天の岩戸神話に直接登場する神々だということ。
「宝光社」のご祭神は天表春命(あめのうわはるのみこと)。『古事記』にも出てくる思兼神(おもひかねのかみ)には天表春命・天下春命(あめのしたはるのみこと)という二人の子があり、兄の表春命は阿知祝(あちのはふり)の祖、弟の下春命は知々夫国造(=秩父国造)の祖。阿知というのは現在の下伊那郡の西部、長野県の西南端にある阿智村のこと。信州を縦断して峠越えして東海道に出るルート、東の秩父へ出るルート等の交通路があったことが伺える。前者は秋葉権現の信仰で結ばれた秋葉街道(現在の国道152号)とも重なる。
「九頭龍社」のご祭神は九頭龍大神。これは記紀とは関係がなく、神仏習合の時代には「九頭龍権現」といっていた。ちょっと戸隠と関係ないけど、浅草観音の境内にも戸隠から勧請された九頭龍権現が祀られており、金龍権現と九頭龍権現の祠が二つ並んでいる。金龍権現のほうは3月18日と10月18日の年2回、境内で「金龍の舞」といって中華街みたいな龍の出し物やってるんだよね。関係ないけど。

「九頭龍」について
(今日は時間切れにより、以下は別の機会に追記します)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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