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1古事記はなぜ敗北者にやさしいのか

2679年(令和元年)9月16日改稿 平成29年5月11日(木)初稿
福井と敦賀
ずいぶん前だが、後輩に誘われて福井に旅行したことがある。名物ソースカツ丼、鶏の唐揚げも美味かったし飲み屋も良かった。福井には五つの神社に祀られた「福偉神」(ふくいじん)ってのがあって福井出身の歴史上の5人の偉人、継体天皇・新田義貞・柴田勝家・橋本左内・松平春嶽で街おこししてた。この中ではもちろん古事記に関係あるのは継体天皇なわけで、継体天皇ゆかりの足羽山(あすわやま)には同帝を祀った足羽神社(あすわじんじゃ)や、同天皇の巨大な石像その他あれこれあって観光によし。福井での継体天皇についてもおもしろい話が無限にあるがそれは今回の本題ではない。ここの足羽神社の御祭神をめぐる諸問題については「阿須波神・波比岐神」の頁であれこれ論じる予定。
福井滞在中にちょっくら足を伸ばして敦賀の気比神宮にお参りにいってきた。ここはもちろん古事記にでてくる大神社で、応神天皇がいまだ皇太子だった時に、禊(みそぎ)のために武内宿禰(たけしうちのすくね)と二人でやってきたという神社だ。だから「禊の神様」なんだろうな本当は。今の気比神宮は、じゃなくて、今の神社はどこも、豊年満作・無病息災・交通安全・事業繁栄・恋愛成就・試験合格・健康長寿みたいなことばかりいってるけどさw まったくスルーするのもしらじらしいから言っとくと今じゃ敦賀といえば原発銀座の一角で「もんじゅ」も近い、原発問題までやってたらキリがないし古事記と関係ないからふれないが。関係ないこともないか、禊の神様だし。どこの地方都市もそうだが敦賀の街もなんかさびれた感じで昼間からやってる店を探すのがたいへんだった。けど、さすが北陸の港町、寿司は美味かったな。港には崇神天皇の時に任那からきた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の銅像が立ってる。港を見下ろす城趾、織田信長に滅ぼされた朝倉氏の金ヶ崎城址もある。源平時代にもあった城で、南北朝の頃には恒良親王・尊良親王を奉じて新田義貞が足利軍を迎え撃ったのもこの金ヶ崎城だった。ふもとの金崎宮には恒良親王・尊良親王が祀られている。
廃炉になる実験炉もんじゅtsuruga_town_street.jpg←ツヌガアラシト像、じゃなくてメーテルと鉄郎。同じようなものではあるが。

香坂王・忍熊王の乱
古事記では神功皇后が香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)の叛乱を近江に鎮めたとの記事に続いて、次の気比神宮参りの記事も近江から若狭を経由して敦賀にいったように書いてあるので、反乱を穢(けがれ)とみなし、この穢れを祓うため反乱の現場だった近江から直接に敦賀をめざして禊をしにいったんだと解釈する説もある。が、反乱討伐の当事者だった神功皇后や将軍たちは穢れず、皇太子と武内宿禰の二人だけが穢れるというのはへんな話だ。日本書紀では、反乱の制圧が神功皇后摂政元年、気比神宮参詣が同十三年だから、12年も経ってからのことで鎮圧と気比参りは無関係な別事件にみえる。だから当然、近江や若狭の経由地もなんらふれることなく都(磐余稚桜宮)から直接に敦賀にいったかのように読める。これは時期に関しても、反乱とは別事件としていることも、日本書紀が正しい。がそれ以外の諸点については大筋で古事記が正しいだろう。古事記がどうしてそういう誤りを犯したのかっていうと近江から若狭経由で直接いったという伝承があったからだろう。実はこの時はまだ成務天皇時代の「志賀の高穴穂宮」(今の大津市)をそのまま使っており、磐余の稚桜宮(奈良県橿原市)はまだ無かったと思われる。古事記は年代を書いてないからあたかも反乱の直後であるような誤った印象を読者に与えてしまう。書紀は独自の歴代天皇フォーマットで宮都の奠定は元年であるはずというパターンで書いてしまったため十三年の気比詣では大和の稚桜宮から敦賀までの経路にわざわざ近江、若狭を記述する意味が不明になってしまうのでこの2国の名は削除したのだろう。しかし古事記では近江から行ったにしてももし直接敦賀を目指したのなら、わざわざ若狭を経由したことを書く意味あるのか。文面は何かを探すように近江、若狭をさまよっているうちに気比大神が皇太子の夢に現れたように書かれている。だから気比参りは夢での神示に導かれたもので、最初から敦賀を目指したわけではあるまい。では皇太子はなんの目的で近江、若狭方面をさまよっていたのか? これは武内宿禰だけがお供で、普段から一緒の母后と別行動なのが第一のヒント。皇太子(のちの応神天皇)は神功皇后摂政元年の前年の十二月十四日生まれだから、この時(神功皇后摂政十三年二月八日)は数え才では13歳だが満年齢では12歳、というのが第二のヒント。これは「としのほし」とも呼ばれる歳星(さいせい=木星)が黄道を一周する節目で、占星術でいうと木星リターン、ひらべったくいえば干支(えと)のめぐりでいう最初の「年男」(としおとこ)にあたる年齢で、現代なら小学校の最後の年。中学高校の修学旅行の予行演習的な、宿泊学習とかの行事のある学年じゃないか? おそらく何か年齢相応な、一種の通過儀礼みたいなものだろう。この頃の男児は数え才13歳か満12歳で、両親とは別行動で、宿泊旅行するならわしがあったと推測する。これは神話に伝わる須佐之男命の冒険譚をなぞるもので、冒険だから目的地が決まっていてもいいが、あらかじめ決めずに放浪の旅でもいいわけなのだ。そういえば、ものごころついてからずっと婆さんと二人暮らしだった俺が、田舎を飛び出して東京に住む両親の元に移ろうと決心して一人列車に飛び乗ったのは小学校6年生だったなぁ。俺のことはどうでもいいが。

生きていた忍熊王
記紀では忍熊王は死んだことになってるが、琵琶湖に落ちて水死しようって時にもノンキに歌なんか詠んでることになっておりちょい不自然。日本書紀だと忍熊王は琵琶湖の南端、有名な「瀬田の済し」で水没したが遺体がみつからず、数日後に宇治川で発見されたという。これはニセの遺体じゃないのかとは誰でも妄想することで、だからなのか、後世の福井県越前町の劔神社(つるぎじんじゃ)の社伝では、忍熊王は応神十三年二月に都(大津?)を脱出して敦賀から海路北上、敦賀郡伊部郷(今の越前町)の梅浦から上陸、伊部臣(=忌部臣:いむべのおみ)が座ヶ嶽(くらがたけ)に祀っていた神剣を得、現地(越前町一帯?)の悪者を退治したという。座ヶ嶽ってのはgoogleマップで見つからず近所に似たような名前の烏ヶ岳(からすがたけ)だろうかとも思ったがそうではなく、劔神社の北300mほどのところの小山だった。山としては表示されないが頂上に「座ヶ岳社」という祠がありこちらで検索すれば出てくる。記紀では垂仁天皇皇子五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)が鳥取川上宮(今の阪南市のあたり)で千本の剣を作ったとある。この剣はその千本の剣のうちの一振りという。忍熊王は郷民から都留伎比古(つるぎひこ)と呼ばれて土着したという。明示はされてないが御公儀から何のお咎めもないのは要するに反乱については裏でひそかに御赦免されたってことで、建前上は反乱の首謀者だから表向き御赦免にはできないが、何者かに騙されてのことで、本人には情状酌量の余地があったと判定されたか。まぁ応神天皇が生まれるまでは、次の天皇は誰しも香坂王か忍熊王のどっちかだと思ってたんだから、新羅征伐の留守番役やってる時に「合戦のさなかに天皇陛下が戦死して次の天皇が生まれたばかり」なんて速報をきいても「え?どういうこと?俺の立場は?」となるのもわからなくはない。そこで熊襲か新羅に心を寄せる者がいてあることないこと吹き込んだら、謀反といわずとも武力に訴えても真相を問いただそう、という気にならんでもない。
仮にこれ本当だとすると、首都に10年以上も潜伏してたことになるので、武内宿禰が匿っていたのだろう。それに十三年二月は皇太子(応神天皇)と武内宿禰が気比神宮にお参りにいった時。つまり都から脱出といっても、おそらく皇太子のお供に身をやつしてのことだろうから、皇太子の気比参詣は表向きは13歳の通過儀礼でも、裏では忍熊王を越前に逃がすための隠密作戦だったわけだw 近江~若狭を彷徨っていたのも「逃亡した忍熊王を捜索している」という建前でのカモフラージュか。越前で退治した梟賊ってのも、もしかしたら香坂王・忍熊王を唆して謀反させた黒幕で、そやつを追いかけてのことだったのかも知れんねw そやつの正体が熊襲なのか新羅人なのか、熊襲派または新羅派の日本人なのかはわからんが、越前に逃げたのは海路で新羅に逃亡しようとしていた可能性が高いだろうな。

気比神宮がむすぶ古事記と南北朝
建武の新政がつぶれた時、後醍醐天皇らは京都から逃げて比叡山に立て籠もったが、尊氏と和議を結んで(事実上の降伏だが)尊氏の支配する京都に戻ることになったが、下山する前に恒良親王に皇位を譲って、上皇の資格で京都に還幸した。恒良親王(つか天皇)は新田義貞らとともに北陸平定のために敦賀に向かった。この頃の気比神宮は北は佐渡に至るまでの北陸諸国に領地をいくつももっていて、南朝側の大勢力でもあった。大宮司の気比氏治・斉晴の父子は金ヶ崎城を築いて恒良親王(つか天皇)御一行を迎え、足利軍を迎え撃った(金ヶ崎城の戦い)が、気比氏治の一族含めおもだった武将の多くが討ち死に、恒良親王(つか天皇)は捕らえられ、京都に護送された。この恒良親王は実際に天皇だったことは三種の神器も継承していただけでなく、多くの綸旨などが残っていることからあきらかだが、歴代に加えられていない。明治になって弘文天皇や長慶天皇が復活したのに、まったく筋が通らないが、結局明治の判断基準ってのは水戸学であり太平記史観なんだよね。恒良親王の即位を公式に認めてしまうと「後醍醐天皇が建武中興の時から吉野朝を開いた時まで一貫して天皇だった」という理屈が成り立たなくなる。だから後醍醐天皇の知略つまり足利軍への目くらまし作戦だったという後醍醐天皇賛美に回収しておきたいわけだろう。失礼にもほどがあるだろう、恒良親王に対して、そして皇位の重み、皇位の尊厳に対して。南北朝の正統論をどう整理するかは細かい話がいろいろあるが、世間でよくいうのは明治天皇の勅裁で南朝の正統が決まったといわれているが詔書も勅書も勅語もあるって話をみたことがない。ただの閣議決定だったんじゃないのかって疑いもある。正統性の議論は簡単でなく今回は議論の詳細にふれないが、塩焼王、北白川宮(東武天皇)とならんで恒良親王が天皇として認められていないことは、日本人の正義とは何かという哲学の営みに重大な障害を及ぼし、ひいては日本文化の思想的欠陥の根本原因になっている。大日本帝国臣民たるもの、すべからく恒良親王を天皇として今すぐ崇敬奉賛しなければならないし、尊称をもってするに仮に「金ヶ崎天皇」「越前天皇」「敦賀天皇」「気比天皇」等とせば如何。なんでこんなことを言ってるのかというと本日平成29年5月11日(木)は本来なら「越前天皇正辰祭」の日だからだっ! 崩御の建武五年四月十三日(1338年5月11日)から数えると「679年祭」となる。
気比神宮はかように、上代では記紀の応神天皇、中世では南北朝の争乱に関係してる。記紀に描かれた時代には、皇族が地方にくだって土着して地方勢力になるというパターンが多いんだが、後醍醐天皇も皇子たちに兵をつけて全国各地に派遣、南北朝の争乱が長引くと、結局その皇子たちは各地に土着して南朝伝説を残したり、地元の武将たちの先祖になっていく。後醍醐天皇は上古の皇族のありかたに復古したのだ、ともいいたくなる。
が、そうするとしかし、記紀のは統一中央政府から平和的に派遣されてきて土着するんであって、日本人同士殺しあい実力で土地を奪ってた南北朝の内乱と同じパターンとはいえない、という反論もあるだろう。しかし記紀では、平時に中央から派遣されて地方に土着する通例のパターンだけではなく、内乱で滅ぼされた側の皇族の子孫(つまり朝敵の子孫)が御赦免になって地方貴族の先祖になっている例がかなり多い。つかほとんどこれ。こんなことをいうと一部の人には拒否されてしまいそうだが、実は案外、南北朝時代こそが記紀に描かれた時代(というか古事記の下巻)といちばん似ているのだ。

謀反した皇子たちのリスト
誰しもご存知のごとく、記紀には反乱だの戦争の話がそれなりに出てくるんだが、書紀にはない古事記の著しい特徴として、反乱の敗北者にひじょうに同情的であるというようなことがよく言われる。本当かね? 以下に列挙してみよう。

五瀬命(在位?)…那賀須泥毘古(ながすねひこ)
綏靖帝即位前…多藝志美々命(たぎしみみのみこと)
孝霊朝…?(吉備国の誰か)
崇神朝…?(高志道のまつろわぬ人ども)
崇神朝…?(東方十二道のまつろわぬ人ども)
崇神朝…玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)
崇神朝…建波邇安王(たけはにやすのみこ)
垂仁朝…沙本毘古(&皇后沙本毘賣)
景行朝…熊曽建(くまそたける)兄弟二人
景行朝…出雲建(いずもたける)
景行朝…相武国造(&東方十二道のまつろわぬ人ども&蝦夷)
仲哀朝…?(熊曽国)
神功皇后摂政期…新羅(&百済)
神功皇后摂政期…香坂王&忍熊王
仁徳帝即位前…大山守命
仁徳朝…速総別王(&女鳥王)
履中朝…墨江中王
安康帝即位前…軽太子(&軽大郎女)
安康朝…目弱王
雄略帝即位前…黒日子王&白日子王
雄略帝即位前…葛城都夫良意富美(&目弱王)
雄略帝即位前…市辺之押歯王
顕宗帝即位前…平群志毘臣(しびのおみ)
継体朝…竺紫君石井(つくしのきみ・いはゐ)

以上は古事記に記述のあるものだけで、日本書紀に書かれてるのに古事記にない分は省いてるので、史実の統計としては意味がないが、日本書紀は量が多くてめんどくさいからやめた。厳密な統計は各自でやって下さいw
この24例のうち、皇族…11例(上4、下7)、中央貴族…2例(下巻のみ)、地方貴族…4例(上3、下1)、土豪の類…3例(上巻のみ)、固有名詞も肩書もなく不特定多数と思われるもの…4例(上巻のみ)で全体でみても半分近くが皇族で圧倒的に多いがとくに仁徳天皇以降になると中央での皇族間の争いや、皇室vs貴族の内訌が主になるのがわかる。皇族11例のうち、黒日子王&白日子王はよくいえば巻き込まれただけ、わるくいえば愚か者扱いで悪役ではないがお世辞にも好意的とか擁護されてるとかともいえない。市辺之押歯王にもあからさまな好意は感じられないが悪役でもない。この二組は主体的に謀反を起こしたわけではなくただの被害者だから除外すると以下の9例が残る。

多藝志美々 × ◇…公式には殺されてるが民間伝承ではそもそも謀反してない人
建波邇夜須★  ●…公式にはないが[俺の説では]地方貴族として子孫あり
沙本毘古王★ 
香坂&忍熊△ ○ △…公式には殺されてるが民間伝承では御赦免になった人
大山守皇子▲ ◎
速総和気王▲ ○
墨江中津王★ ×
軽之皇太子☆ ○ ☆…討伐されたが処刑は免れた人
目弱輪之王★ ×
 ★…討伐され殺された人 
 ▲…公式には殺されてるが民間伝承では逃亡して生き延びた人
 ◎…地方貴族として公式に子孫あり
 ○…公式にはないが民間伝承では子孫と称する者あり
 ×…当人が滅ぼされて子孫なし

この9例を並べて眺めていると、乱の勃発情況と謀反人の子孫の処理に特色がある。
反乱勃発時に、現職の在位中の天皇に敵対した例は3例しかなく、その時の天皇を非難する理屈をもっていたこともあるにはあるが建埴夜須毘古王と隼総別王は情況に追い詰められてやむなく蜂起したという側面が強そう。目弱王は理屈だけ。沙本毘古の乱は書紀だと垂仁天皇在位中のことになってるが品智和気王の年齢から逆算するとやはり皇位の代替わりの時を狙った事件であることがわかり、書紀の編年は誤っている。沙本毘古を含む6例は先帝崩御と新帝即位の間に蜂起している。朝敵の汚名を回避するために当然だろう。

歴史書としての体裁にこめられた意図~記紀のちがい
ちょっと脇道の話。日本書紀は中国の正史の体裁に倣ってるので、先帝崩御と新帝即位の間の話は新帝の即位前紀とし、新帝を主人公に書いてる。これだとオチがわかってて勝つ側を最初から正義として書く他になくなる。でも古事記は厳密に例外なく、先帝崩御と新帝即位の間の話は先帝の話の続きとして扱っている。つまり新帝即位までは誰が正義なのかわからないという立場を堅持してるのだ。これを全編に渡って一貫させてるのは、要するに(すべてではないにせよ、一つには)日本書紀で謀反人扱いされる木梨軽太子を擁護するためなのである。だから日本書紀では「神功皇后摂政期間」が前代の仲哀天皇とも後代の応神天皇とも独立して設定されてるが、古事記では神功皇后の話はすべてあくまでも仲哀天皇の続きという扱いになってるのだ。「大山守命の変」も「乱」でなく「変」というべきだろう。これも仁徳天皇への反乱ではなく、空位の期間で起こった皇族同士の戦いって扱いになってる。反乱を起こす側の気持ちとしてはあくまで正義の蜂起なのだから謀反人にはなりたくないわけで、だから11例のうち7例が空位の時に起こっており、天皇在位中の反乱は「建波邇安王・沙本毘古王・速総和気王・目弱王」の4例にすぎない。とはいえ、建波邇安王と速総和気王はままならぬ情況に追い詰められての挙兵であり、沙本毘古王も伝承を精査してみると天皇代替わりの空位の期間を狙っての挙兵だったんだが計算違いがあって戦争が伸びてしまいそのうちに相手方が即位してしまったケースだとわかる(沙本毘古王の乱については垂仁天皇の項で書いたのでそちらも参照)。建波邇安王ぐらいか、完全に悪役とされるのは。多くは淡々とした記述であって擁護もしてないが悪意まるだしな感じでもない。沙本毘古王の場合はその上垂仁天皇と沙本毘賣のカップルを主役とした物語の中での脇役の扱いだからこれも好意にしろ悪意にしろ熱意が感じられない。

首謀者本人は大抵殺されてるのは当然として、その子孫の扱いはどうか。沙本毘古・山守命は、本人は処刑されても子弟が助命・御赦免され子孫が確実に名のある地方貴族として存在した(2例)。隼別・軽太子は、民間伝承による異説では当人の子孫の家系が存在したという(2例)。埴夜須王は俺の個人的な説で子孫に該当する氏族の存在をつきとめた(1例)。この4例は子孫が根絶やしにはされなかった(≒できなかった?)ことになる。残り5例では子孫が続かなかったにしても、忍熊王は前述の劔神社に伝わる伝承で助命・御赦免されたという(1例)、多藝志耳はそもそも謀反してなかったという異説もある(1例)。この2例は子孫が確認できないだけで地方に土着して住民に慕われた(忍熊)か、地方に赴いてそこに宮殿を建てて定住した(多藝志耳)ようには書かれている。つまり9例のうち7例までは地方に土着したという説があるのだ。
内乱で叛賊として敗れながらも地方に土着するというパターンは、足利軍に敗れながらも各地に散って伝説を残した南朝の親王たちと似てないか。
この7例のうち、隼総和気王・忍熊王・多藝志美々命の「地方土着説」の3例は古典史料とはちがう水準の、民間伝承や後世の偽書やらが出所なので、どこまで真実味があってどこまでウソなのか、本来ならこのブログでいつものように詳しく議論しなければならないが、時間がないのでいずれそれぞれの関係する項目でやるとして、ただ忍熊王の乱の解説だけは気比神宮がらみで今回ちょっとやっときました。
古事記と南朝の類似は、ただ「皇族が地方に散って土着する」という類型の話だけではおもしろくない。ここにもう一つ、判官贔屓(ほうがんびいき)の問題がある。よくいわれるように判官贔屓の起源は源義経ではなく、義経以前から日本人の感情に強く存在したもので、神話や民話の「貴種流離譚」が先行している。

判官贔屓と貴種流離譚のちがい
貴種流離譚が神話の類型だからといって、この類型に則った伝承が「史実ではない」とはいえない。古代人は「創作譚の類型」だという認識をもっておらず、無意識に自我のモデルとする。それを「神話がいまだ生きている社会」というわけだろう。貴種流離譚の背後には、律令制以前の時代に皇位を継がない皇族が地方に下って土着するという一般的な制度(ないし習俗)があったことと、律令崩壊後の古代末期には皇族・貴族の多くも地方民に迎えられ武士団の頭首になっていったことがある。これらの実例のうち悲劇性が伴う例は、あったことはあっただろうが、極めて少なかったと思われる。悲劇性が貴種流離譚の定義の一部なら「貴種のたんなるあまくだり」はもちろん貴種流離譚ではない。あくまで貴種流離譚を人々が忘却し難くせしめ、何かの事件に触れるたびにそれを想起せしめる社会的な背景、ぐらいの意味ね。
ちなみに判官贔屓は悪役、正確には悪の親玉を必要とするが、貴種流離譚では虐め役程度の端役の悪はストーリー上いたとしても本質的な悪を象徴するキャラはいてもいなくてもよい。また貴種流離譚はハッピーエンドが典型でそれを欠くのは完全型とはいえないが、判官贔屓は必ずしもハッピーエンドであってもなくてもよい、等の違いがある。
日本神話では大国主や山幸彦も貴種流離譚に入れられることが多いが流離のタイプが異世界モノになっててやや厳しいかもしれない。典型的なのは須佐之男命だが、世界各地の神話が相互に相似である以上、民族文化形成に及ぼす神話の影響力は限定的であって、これら神話がただちに日本人の判官贔屓の起源だとはいえない。やはり神話類型を神話としてでなく、具体的なディティールを伴った現実の歴史として体験しなければならないとすれば、人代の日本武尊(やまとたける)の存在がはてしもなく大きいだろう。ちなみに日本武尊は実在の人物なw 宝賀寿男先生もそうおっしゃってたろw 判官贔屓現象そのものである中世以降量産された義経の物語は史実ではないが、しかし源義経は歴史上の実在の人物である。まったくの神話の中で完結する話ではダメなのであり、感情が憑依するための「歴史的事実」を必要とする。そういう意味では、記紀に描かれたヤマトタケルの物語に事実ではない要素が混入していたとしても、それを理由に日本武尊が架空の人物だったということにはならない。義経物語の多くが史実でないことを理由に、源義経が架空の人物だとはいえないのと同じこと。まぁ義経はジンギスカンになったんだけどさw なってもならなくても、義経の実在はゆるがないよ?w
後世の、完成してしまった判官贔屓ってのは、客観的・中立的で冷静な理性での思考判断を無視し、盲目的・直情的に弱者や敗北者の肩をもつ気持ちのことだが、起源において最初からそうだったということはありえないわけで、弱者・敗北者が実は正しかったという理屈は神話類型の段階ではちゃんと備わっている。歴史的体験の段階では倭建命(やまとたける)だが、これは二つの側面があり、一つには父帝から虐められて辺境に追いやられた(個人的にはそれ史実とは思わないが)のと、あとはただの偶然の不運が原因なので、後述のような深刻なイデオロギー問題がない。二つめには「未完の王権」という形で逆説的に王権のあるべき形を示すことになっていく。後者は雄略天皇以降に回顧されながら形成された「ヤマトタケル観」かもしれないが、ヤマトタケルの再来としての雄略天皇、武烈天皇そして(中略)大化の改新での天智天皇や承久の変での後鳥羽上皇、南北朝の大塔宮護良親王、戊辰戦争での北白川宮などへとつながっていく。前者のイデオロギーというのは皇位の正統性の理論のことだが、それについては後述。
いずれにしろヤマトタケルの段階では貴種流離譚とはいえても、盲目的直情的な衝動としての後世でいう判官贔屓の段階にはまだ成ってない。忍熊王も後世の伝説ではハッピーエンドだから貴種流離譚としては完成しているが、情状酌量の経緯を読むとこれも悪人の出てこない話になっており、古事記の上巻まではまだ判官贔屓の類型にはあたらなさそう。では下巻はどうか。

下巻には一貫したテーマがある
古事記の下巻になるとまた情況というか枠組みがかわる。
一人め、大山守命は地の文では観念的・建前的に悪役認定されてるが、物語の中の歌の解釈では逃されてるようにも読める。
二人め、隼総和気王。古事記は、速総和気王と木梨軽太子という二人をとくに擁護してるようでもある。軽太子と比べると速総和気王は在位中の天皇への反乱だからか、さすがに控えめで、逃亡中の二人の悲哀を歌物語にしてるだけで、必ずしも反乱を正当化しているとは理屈の上ではいえないかもしれない。しかし謀反人の境遇を美しい文学に仕立て上げるのは遠回しの擁護といわれても仕方ない。だから婉曲な表現になるわけで、在位中の現職の天皇(つまり今上陛下)に対する謀反はやはり堂々とストレートには擁護できないのは大日本帝国臣民として当然だろうw 
三人め、墨江中津王。民間伝承まで探しても子孫がみつからないのは目弱王と墨江中津王だけだ。目弱王は7歳で処刑されたので子孫がないのが当然だが、墨江中王についてはもしかしたら俺の探し方が足りないだけかも知れない。この人は他の反乱者たちに比べてあまり同情されてない感じがする。歌物語もない。その理由として、文学方面からの発想だと、女性を騙して(婚約者になりすまして)媾合したという話があるから、女性が多かった語部(かたりべ)の評判が悪かったのか、女性を力で強奪するタイプの男だからロマンチックな歌物語にしづらかったのか、等とも考えられるが、そうではなくて、実は皇位の正統性にかかわる別の問題がある(後述)。もっとも墨江中王の乱では履中天皇の陣営のやりくちも隼人を騙して使い捨てにするなどホメられたものではなく古事記が天皇の側を擁護しているともいいにくい。
四人め、木梨軽太子。速総和気王に比べると「木梨軽太子の変」(「乱」でなく「変」だぞw)は空位(天皇不在)の下での皇族同士の戦いだから、余計な縛りはなく、一貫して「太子」という称号で呼んでることからも安康天皇への皮肉を含んでいるし、文学的にはここが古事記のクライマックスといってもいいぐらい高く評価されていて、それほど古事記は木梨軽太子の物語を美化することに全力を注いでるのだ。
五人め、目弱王。情況的に追い詰められたわけでもないのに自分の意志だけで現職の在位中の天皇に謀反したのは目弱王だけ(暗殺だが)。目弱王の場合、安康天皇が神罰をうけてもおかしくない「悪の天皇」であることが、暗殺されるまでの記述の端々に暗示されている。これも目弱王に対して古事記が好意的だ、といっていいのではないか。
以前からいってる私説として、大山守命の乱・速総別王の乱・墨江中王の乱は無関係に起こったのでなく、一続きの、仁徳王系の正統性をめぐって続発的に起きた「一つの争乱」だと考えている。また目弱王による暗殺は、結果的に木梨軽太子のための報復にもなっていて軽太子の乱と目弱王の乱も安康天皇をめぐる一つの争乱ともいえる。そうすると下巻の5つの乱は実体としては「2つの乱」としてみることができる。2つの乱のうち前の乱を速総和気王、後者を軽太子で代表させれば、古事記(の下巻)は天皇側ではなく反乱側の立場になった書物だという一面すら浮かんでくる。とはいえ、結論を急がず、まずは落ち着いてあらためてながめると、明らかに擁護しているのは隼総別王と軽太子、逆に比較的悪役度が高そうなのは(上巻からだが)多藝志美々命と建波邇夜須王か。両極として2例えらんでみたが、総じて中立的に描いてるといってよいのではないか、と一見いいたくなる。しかし中立性、客観性を強調するのはだいたいの場合、自己の主張をもっともらしくみせるため、という演出であることが多いのではないだろうか。あるいは逆の言い方をするなら、自己の主張が偏りのない中立的で客観的な判定であると信じるがゆえに、全編にわたって中立的表現をしようという衝動が起こるのだともいえよう。伝承の内容の細部が確定していれば演出表現にも限界があるだろうから、文面上の擁護の度合いが内心での好意の度合いと必ずしも一致しないかもしれないがそれはともかく、ここには謀反人の擁護というタブーさえも踏み越えるほどの、何らかの確信をもった主張が読み取れる。
大山守命の乱から始まった争乱は、なぜ墨江中王の乱で終わったのか、大山守命の乱・速総別王の乱には無い特徴、乱を終わらせた原因があり、それが反乱に同情的な人々を興ざめさせたんだろう。今回はそれについて詳しい解説をする時間がないが、要するにそれまでは反乱者の正統性を保証する「あること」が体制側、つまりこの場合は墨江中王と対立していた履中天皇の側に移ってしまったからなのだ。「あること」ってのはこのブログを読んでる人には想像つくかもしれないがちょっと今回は時間がなくて詳しい話ができない。ともかくそうすると允恭宮家には正統性がないことになる(ただし允恭天皇自身は別。その理由は今回は省略)。だから允恭宮家の軽太子は正統な天皇として同情されてるのではなく、冤罪被害者として同情されている。冤罪事件が起こること自体や仇討ちのターゲットとなったこと自体が允恭宮家(具体的には安康天皇)への婉曲な非難にもなっている。

日本的正義の二類型「水戸黄門」と「忠臣蔵」
國體が萬世一系であって王朝交代がないということは、天皇の権威は絶対であり天皇は常に必ず正しいのだと短絡できる。しかし、ナマミの天皇は聖書のような書物でもなければハンコ押し機械でもないわけで、人格と個性をもった人間だ(現人神であることとは矛盾しない)。だから現実には「仏教に洗脳された天皇」だの「儒教に心酔した天皇」だのがぞろそろ実在したわけで、当然ながら「民主主義をうっかり信じちゃった天皇」だの(以下略)という問題が生じる。太平洋戦争で開戦する羽目になるまで国家運営が後手後手になったのは昭和天皇が民主主義の段取りを重んじてたからだし、終戦したのは民主主義の段取りを無視したからできたわけだし、今上陛下が遠回しな言い方しかしないのも民主主義を重んじてるからだろう。でも国民にまかせておけばうまくいくのか? そんなこと当の国民自身どこまで思ってるのか? でも天皇が民主主義だっていってる以上、俺らにはどうにもできない。
御公儀(おかみ)が悪である場合、もしくは悪とまでいえないまでも正しくない(間違ってる)場合、庶民はどうすればいいのか。一つには最初から「上の者」には地位に見合った正義を要求することだが、上の者が目を曇らすことなく真実を見通すには「下の者」の世情に通じていなければならない。だから「上の者」が日頃からお忍びで俺らの身近にいるのだという願望が生まれる。それが文化類型「水戸黄門」だろう。これには仁賢・顕宗の両帝兄弟が庶民に身をやつし長い間、民間に暮らしていたという伝説からの影響も大きいだろう。また継体・安閑・宣化の三帝一家が、質素で貧乏な弱小田舎大名で庶民に近かったという考え方もあったかもしれない(実際には地方貴族でも弱小でもなかったのでこれはあくまで庶民の願望が混ざってる)。水戸黄門が江戸時代以来、現代までいかに根強い人気を誇ってきたかはここではふれない。しかし都合よく水戸黄門みたいな役人や政治家ばかりではない。そこで追い詰められた日本人の選択肢が「赤穂浪士」となる。文化類型としての赤穂浪士であって史実の赤穂事件とは別だから「忠臣蔵」といったほうがいいか。忠臣蔵には権力欲もなければ上昇願望もない。ただ身を捨てて正義を明らかにするだけだ。幕府には建前があるから最終的には謀反という扱いになったけれども、庶民は彼らの「自己犠牲の精神」に喝采し正義として称賛したし、公権力も庶民の行為を弾圧することはできなかった。水戸黄門と忠臣蔵、この二類型は実は別々でない。高貴な人物がお忍びで出歩くことは、もちろんあってもいいのだが、普通じゃないだろう。ところが高貴な人が必ずお忍びでなければならない情況というのもある。謀反に失敗して逃亡、潜伏中の貴公子。あるいは処断され追放刑や流刑になった貴公子。あるいは現在、劣勢ながらも追っ手の大軍と戦っている最中の貴公子。彼らの多くは天皇に背いたのでなく、不正に皇位を狙う悪の皇子と戦って敗れ、裁かれたのだ。彼らの物語が悲劇でなく終わればそれは貴種流離譚として完結するはずだが、南北朝時代には彼らの問題は個々の人生から生じているのではなく、日本全体の、天下国家の倫理の源泉、社会の統合原理にまで直結していた。つまり南朝善玉論を前提にする限り、勝ってる側=今の御公儀(おかみ)は悪で、落人(現に敗けてる人)はみな無前提に正義になる。判官贔屓の起源は実に南朝の勢力が敗北、地方に土着し民間に溶け込んだことから発しているのではないか。
当時の朝廷の公式な歴史観に反してまで『太平記』が読まれ人気を博したのはこのためだったのではないか、そしてこれに先駆けること数百年前に起こったのが記紀に描かれた皇子たちの反乱と、彼らに対する同情心であり、それを書き残した『古事記』である。これは実は天皇の権威をゆるがす一大事でもある。なぜなら南朝伝説の息づく里の庶民は精神的な「錦の御旗」を手にしたことになるからである。これは必ずしも法的に有効である必要はない。天皇がすべての価値の源泉である以上、レゾンデーテルだの実存だのアイデンティティーだのにかかわる問題だからだ。役人だの既存の権力に認定してもらってようやく効力をもつような「偽の錦旗」ではない、法の上の法、真の意味での「錦の御旗」ではないか。万民が天皇と一体であるという境地「一君萬民」の思想がこれだよ、だから楠木正成のような下賤の者でもすべてを超えて後醍醐天皇と一体の瞬間を得ることがある。この意味でなら、太平記は古事記の中世的展開であり、古事記は太平記のプロトタイプだった。
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2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓」に続く

7息長王朝の由来【後編】~応神記末尾の系譜の謎とき~

R1年8月22日(木)改稿 H28年7月13日(水)初稿
6「春山秋山の物語」は神話でなく寓話である」から続き

争ったのは「兄弟二人」ではない
皇子たちの争い(争いとは限らないが皇位をめぐる皇子たちの物語)だとしても、秋山春山の物語のよう特に「二人」の争いだと人数を限る意味もない。寓話の中では「八十神」(やそがみ)が求婚したとあるんだから、春山秋山兄弟のライバルは大勢いたと解釈できる。
応神記の末尾にある第三息長王家の系譜に続けて、不審なことに突然根鳥王(ねどり)の系譜の続き(根鳥王の2人の王子、中日子王と伊和島王)と、堅石王(かたしは)なる系統不明の人物の系譜(堅石王の子、久奴王)がでてくる。ここは継体天皇に続く第三息長王家の系譜なのに、無関係な記事が混ざっている。根鳥王は応神記の冒頭の、古事記では通例の系譜記事に出てくるのだからそこに記述すればいいのに、なぜかそこにはなく、末尾のここに息長系図に並んで出てくるのはどういうことか。ここもただの錯簡、誤入で深い意味はないのだとするのが常道だろうが、それもつまんないので、一案としては、わざわざここ(大郎子で止まる系譜記事)に列記してるのはつまり、一人の姫を大郎子と争いあった貴公子たちのリストなのだろう。大郎子・中日子王・伊和島王・久奴王で4人だが、この4人はこれまで名が出てないからわざわざ出したんだろう。
寓話にするなら登場人物を「五人兄弟」としたほうが戦隊シリーズとかセーラームーンみたいで盛り上がるのではないか。じゃなかった、『竹取物語』の五人の貴公子に通ずるのではないか。そもそも春と秋しかないってのがおかしい。普通は四季を揃えるだろう。夏山については青葉壮夫、雨男、ハダカ男…等が考えられるし、冬山なら枯木壮夫、白雪壮夫、木枯らし男、雪男…等がありだろう。さらには土用山(つちゐやま)の晴間壮夫がいたはずだw 五行説でなく『周礼』の六官説なら天山(あまやま)地山(つちやま)加えて6人にできる。天山なら日照り壮夫、青空壮夫、被さり壮夫。地山なら荒金(あらかね)壮夫、地震(なゐふり)壮夫、載せ壮夫。両方あわせて7人、『竹取物語』だと貴公子5人の他に天皇も出てくるから8人にまで増やせる。やみくもに増やせばいいというものでもないが。現在残っている物語は、かいつまんだ簡略バージョンなのであろう。ちなみに干支は崇神天皇の頃に入ってきたので、干支を説明するための原理としての五行説も早くから知られていただろう。それとなぜ山であって、川や谷や野原じゃないのかだが、ネット情報では、奈良時代には春の女神は東の佐保山の佐保姫、秋の女神は西の竜田山の竜田姫、夏の女神は(南の某山の?)筒姫、冬の女神は(北の某山の?)宇津田姫とされたともいうが、夏と冬については典拠がわからない。実際には川や谷にカミが鎮まっていることはよくある話だが、なぜか神奈備山とはいっても神奈備川とか神奈備谷なんて言い方は聞かない(理屈の上ではそういう言葉があってもいいとは思うのだが)。谷でも川でもなく四方の「山」と関連付けされているのは、奈良盆地という地形のせいではなくて、『山海経』にも通ずる古い信仰に由来しているのかもしれない。日本では佐保山と竜田山の間に土用山にふさわしいような山らしい山はないが、佐保山の佐保姫だのは古い文献にない。竜田姫は古くから風の神で西から吹いてくるからその対称となる神として後から佐保姫が想定されたんだろう。古くは世界の中心の山として大和三山わけても香久山が神聖視されたが、大和三山にも恋争いの伝説があるから、畝傍山と耳成山の三角関係は春山秋山の物語ともしかして同じ話なのではないかとも思える。中国でも東は山東省の「泰山」、南は湖南省の「衡山」、西は陝西省の「華山」、北は山西省の「恒山」、中央の河南省の「嵩山」を五岳というが、古くは華山を除いて四岳だった。また四兄弟が四方位に配されるのは天照大神の五男神、大国主の四人の息子など、神話類型の一つともなっている。

「堅石王」の系譜の復元
で、前述の中日子王(なかつひこ)・伊和島王(いわじま)・久奴王(くぬ)の3人のうち、久奴王の父の堅石王の系統がわからない。地名を手がかりにすると、堅石という地名は、本折宣長が『和名抄』から筑前国穂波郡の堅磐郷をあげている。調べたらこれは今の飯塚市の片島だという。Googleマップで適当に検索するとw、塩尻市に広丘堅石がある(ただし読みはカタイシ)。塩尻市には「広丘○○」という地名がいくつもあり、調べたらこれは複数の村が合併して「広丘村」ができた時の名残りで、だから広丘堅石も元は「堅石村」だ。ここは律令時代の「覚志(かがし)の駅」でカガシがカタイシに訛ったともいう。ホントかね?w 堅石は塩尻市の北部にあり、仁徳天皇に背いた両面宿儺(ふたものすくな)が出現したという飛騨の大鍾乳洞(ただしここが本当にその原伝承地なのか疑問もないではないが)の真東一直線のところにある。その子の久奴王のクヌってのは静岡県静岡市の久能か同県袋井市の久努だろうな。根鳥王の2人の子のうち「中日子」(なかつひこ)と似た名前は、倭建命の孫の須賣伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこ)、仲哀天皇=帯中日子命(たらしなかつひこ)、仁徳天皇の兄の額田大中日子命(ぬかだのおほなかつひこ)がいる。「中津」は普通は次男の意味だろうが額田大中日子の「大」は、誰か先に生まれてる皇子がいるのだがそっちは側室腹、こっちは次男だが正室腹、という意味かな。漢文でいう「伯」と「孟」みたいなものか。中日子王が根鳥命の次男とすると、長男の名がなく次男と三男の名があげられてることになるがなぜなのか、3つの案がありうる。第一案は、ここは系譜を語る記事ではなく姫取り争いに参加した皇族たちのリストなのだとして、だから長男は姫取り争いに参加しなかったからあげられてないのだろうか? 第二案は、根鳥王は大田君(おほたのきみ)の祖先であり、この大田ってのは今の岐阜県の大野町・神戸町・池田町の3町にまたがる領域で大雑把にいえば美濃国の西部。だから中日子王のナカツは次男の意味ではなく地名だとしたら同じ美濃国の地名で、岐阜県の東端、中津川市か。中津川は川の名が本ではなく「中津」という地名が先だという。第三案としては、墨江之中津王とも名前が似ているからもしかして同一人物じゃないのか。原文に「根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王。次伊和嶋王」とあるのは「大雀命、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王」と「次、根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、伊和嶋王」が混線したのではないかと思う。石之比賣に三腹郎女が追い出されてから、根鳥王と三腹郎女がくっついたんではないか。だとすると根鳥王からみて自分の次男という意味ではないことになり、長男がいない謎が解ける。ここは第三案を取りたい。そうすると墨江之中津王は皇女腹で、葛城氏の娘から生まれた兄の履中帝や弟の反正帝よりも血筋が格上ということになり、反乱の理由の一つがみえてくる。伊和島は不明。能登半島の輪島か四国の宇和島? この伊和島王が大田君の祖先で、姫取り争いの参戦者だろう。
ところで、このままだと堅石王が誰の子かわからない。原文を眺めてみると「又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又堅石王之子者、久奴王也」となっており、系譜記事としては文字の脱落があると考えるしか無い。そこで以下のA・B・Cの3説がありうる。
A説は「根鳥王の一家の系譜」説。もっとも普通に考えれば直前とのつながりを示す文字の脱落だろうから、(1)堅石王が根鳥王・中日子王・伊和嶋王の3王のうち誰かの別名である(この場合久奴王は応神帝の皇孫)か、もしくは(2)堅石王は中日子王・伊和嶋王の異母弟で、三腹郎女とは別の女性から生まれたか(この場合久奴王は応神帝の曾孫)、(3)堅石王は中日子王・伊和嶋王いずれかの子(この場合久奴王は応神帝の四世孫)であるか、のどれかのはず。原文を推定復元すると
(1)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{伊和嶋王、亦名}堅石王之子者、久奴王也。
(2)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{一妻之子、}堅石王之子者、久奴王也。
(3)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{伊和嶋王之子、}堅石王之子者、久奴王也。
(3)は嫁争いに参戦するには他のメンバーと比べてちょっと世代が離れすぎてしまうので(1)か(2)だろう。これらA説の場合、この系譜は最後の「久奴王」一人だけを掲げることが目的である。
B説は「根鳥王と某王(迦多遅王?)、両家の系譜」説。
根鳥王の系譜とならんでるんだからそのフォーマットでいうと「又」と「堅石王」の間に脱落があるのが容易にわかる。復元すると
・又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{○○王、娶××××××、生子、}堅石王之子者、久奴王也。
となるだろう。○○王は若沼毛二俣王や根鳥王と同世代とすると応神天皇皇子の誰かだろうが、ちょっとわからない。大山守命か速総別命かと考えれば面白くはあるが、なんともわからぬ。これまで系譜上の名前としてしか出てきていない地味な皇子かもしれないが記述の順番からいえば根鳥王よりは後に記述されていて、なおかつ子孫がいなさそうな宇治若郎子を除外すると、速総別王・大羽江王・小羽江王・迦多遅王・伊奢能麻和迦王の5人が残る。岩波の日本思想体系の古事記の注釈では、堅石王は迦多遅王の別名かという一案をだしてるが、カタシハとカタヂ、カタはいいが「シハ」と「ヂ」の違いが「類義の別名」なり「同語の訛り」なりで説明つくかどうか? 推定欠落部分の「〇〇王」は速総別王、「娶××××××」は「娶庶妹女鳥王」としたほうがわかりやすく面白いが、さしたる根拠もないのでここは禁欲してw、シとチの相互訛りは実際あることなので岩波思想体系の説に屈するわけではないが本居宣長の気づきに敬意を表して仮に「堅石王=迦多遅王」と同定して、原文を推定復元すると
・又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{迦多遅王、亦名}堅石王之子者、久奴王也。
となり、B説の場合、この系譜は「中日子王・伊和嶋王・久奴王」の三人を掲げることが目的である。
C説は「根鳥王と伊奢能麻和迦王、両家の系譜」説。応神天皇の系譜記事では、高木之入比賣から生まれた伊奢之真若命と葛城之野伊呂賣から生まれた伊奢能麻和迦王が重複してるのが気になる。書紀と照らせば伊奢能麻和迦王の母は高木之入比賣であってるはずで、葛城之野伊呂賣と伊奢能麻和迦王は系譜記事の末尾にあるから何かの注釈だったのだろう。原文は
・又娶、葛城之野伊呂賣、生御子、伊奢能麻和迦王。
で、この文の直前の語句が「次、迦多遲王」だから、つなげて読むと
・次、迦多遲王(又)娶、葛城之野伊呂賣、生御子、伊奢能麻和迦王。
という文が浮かぶ。しかし「伊奢能麻和迦王」は応神天皇の皇子であることが明らかだから、「娶、葛城之野伊呂賣、生御子」と「伊奢能麻和迦王」の間に脱文があるんだろう。「伊奢能麻和迦王」も後続の文章が落ちているため文末のようにみえるが、それだと意味ある文章に復元できないから、これは次の文の主語だろう。その「伊奢能麻和迦王」を主語とする文の断片が、若沼毛二俣王の系譜の中に唐突にでてくる
・又堅石王之子者、久奴王也
なのである。これは直前の文と意味がつながるように復元するならば、「又」は「娶」の誤記、途中に脱字があって
・娶堅石王之子【△△△王(♀)、生子】者、久奴王也
なのではないか(【】の中が推定復元した部分)。「娶、葛城之野伊呂賣、生御子」と「伊奢能麻和迦王」の間の脱文もこの【】内の女性の名前だったと思われる。これをつなげると
・次、迦多遲王(又)娶、葛城之野伊呂賣、生御子【△△△王(♀)】。伊奢能麻和迦王、娶{堅石王之子【△△△王(♀)、生子】者、久奴王也
と復元できる。つまり久奴王は伊奢之真若命の子で、堅石王(=迦多遲王)の孫なのではないか。伊奢之真若命は書紀では深河別(ふかがわのわけ)氏の祖先で、岩波文庫の書紀の注では飛騨国荒城郡深河郷(今の岐阜県古川町)とあるが今は古川町は合併して飛騨市の一部になっている。Googleマップだとまた「古川町○○」という地名がいろいろある。塩尻市の「広丘○○」と同じパターンだ。その中では「古川町数河」というのが深河に似てるくさい。前述の両面宿儺の両面とは「北面(越中)と南面(飛騨)」あるいは「西面(飛騨)と東面(信濃)」に顔が利くって意味だとかの説もあり、飛騨(数河)と北信(堅石)にはもとからつながりがあったのか。ともかく両面宿儺が成敗された跡地に、静岡県あたりにいた久奴王の子孫が移封されていって深河別の先祖になったらしく思われる。C説の場合、この系譜は「伊和嶋王・久奴王」の二人を掲げることが目的である。
で、以上のA・B・Cの3説のうちどれが正しいかは何とも決められないが、後世に地方豪族として残った3氏という観点から、とりあえずC説でいってみよう。

貴公子のメンバー
そうするとこの系譜記事では、姫の取り合いに、若沼毛二俣王の一家(息長氏)から大郎子、根鳥王の一家(大田氏)からは伊和嶋王、伊奢之真若王の一家(深河氏)からは久奴王の3人がエントリーしたということを言っているのだと解読できる。この人たちは仁徳天皇や速総別命を第一世代とした場合の第二世代である。
この嫁取り争いは允恭天皇(秋山)と大日下王(春山)の時のことすれば、履中天皇崩御後のことで「大日下王・雄朝津間王(允恭天皇)・大郎子・伊和島王・久奴王」の5人で、当時在位中だったと思われる反正天皇自身もエントリーした可能性がある。
前回では、春山霞壮夫が大日下王で秋山下氷壮夫が雄朝津間王だろうという見当だったが、さらに「六官」の職掌を基にして適当に想像すると天山が反正帝、地山が伊和島王、夏山が久奴王、冬山が大郎子王か。ともかくも竹取物語の貴公子(天皇も入れると6人)と数が一致する。キャラクターとしては反正帝が石作皇子、伊和島王が安倍御主人、久奴王が大伴御行、雄朝津間王が車持皇子、大郎子王が石上麿足に、それぞれ該当しそう。竹取物語の貴公子は文武朝に時代設定されているので、天皇は当然文武天皇なわけだが、そうするとかぐや姫のモデルは、梅原猛の説に出てくる紀皇女ではないかと思われる。そうすると大日下王の役どころは弓削皇子か。
竹取物語では誰もかぐや姫をものにできなかったわけだが、こちらは異なり中斯知命は大日下王とくっついた。だがこれは正式な結婚だとは限らず、寄寓していただけではないのか? 大日下王には長田大郎女という妃(=正室)がすでにいたのだから。
中斯知命は住吉邑に在住し、履中天皇はその在位中にずっとモーションをかけつつも成就せずに崩御。反正天皇が即位するとほぼ同時に、反正帝自身を含む6人による姫とり争いがスタートした。この中ではまず雄朝津間王が病身ゆえに他に遅れをとっていたが、反正天皇も崩御した時、次の天皇として大日下王と雄朝津間王の二人しか適当な人物がいなかったと書紀はいう。残りの3人は女系の血筋その他なんらかの事情でこの二人ほど格が高くは無かったのだが、だからこそ中斯知命をものにすれば一発大逆転もありえたということだろう。で、すったもんだで天皇には雄朝津間王が病身のまま即位して允恭天皇となる。允恭天皇は数年間ねばったがヤキモチ焼きの皇后のために身を引いたのか、結局中斯知命は大日下王とくっつき、その後允恭天皇の病気も治った。

恋争いの決着
しかし当時は離婚も再婚もわりかし自由だったので、これで最終結果とはならない。允恭天皇自身は身を引いたとしても大日下王と中斯知命の相性が悪かったら離婚してもらって、中斯知命を皇太子の木梨軽王の妃に迎えたかったことだろう。軽王が実の妹に懸想してたとしても当時は一夫多妻なのだから差し支えない。允恭天皇や軽王はさほど執着してなかったとしても、中斯知命を妃とした大日下王の名声があがり、皇位継承者として大きくクローズアップされてしまうから、允恭天皇父子の周辺では大日下王を危険視し、大乱になる前に片付けるべし、等と物騒な声も当然に湧いてくる。
『古事記』に載ってる春山秋山の物語はこのへんまでに該当する内容で終わってる。しかしそれは現在の古事記は春山秋山の物語が途中で終わっていて続きの部分が散逸してしまっているからだろう。

第三世代の争い
木梨軽王が政変で失脚し安康天皇の時代になってからはどうか。当時は離婚や再婚が格別恥でもなくありふれていたろうから安康天皇本人がその気になれば離婚を強要して中斯知命を后に迎えるという強硬手段もありえたと思われるが、安康天皇本人は長田大郎女にご執心で、中斯知命にはさほど興味をもたなかった。ただし嫌いな訳でもないから、政治的に利用価値の高い結婚ならチャンスを待って受け入れ態勢だけはあるよ、っていうアピールぐらいはしてたかもしれない。ならば理屈の上では雄略天皇のエントリーもありうるが雄略天皇はおそらく目弱王と年齢的に大差ないのと、そもそも皇位にも関心なかったと思われる。他に、履中皇統から市辺押歯王が当然のように参戦したに違いない。反正天皇の子は古事記で財王がいるがこれは書紀だと財皇女になっている。古事記では性別不明な名は男子を前提としているともされるが、あくまでそういう傾向が強いというだけで絶対とはいえない。だから財王は女性の可能性がある。また書紀では高部皇子がいるが、古事記では多訶辨郎女となっている。高部皇女を皇子に誤ったか多訶辨郎子を郎女に誤ったかは五分五分だが、財王は女子とすれば文字の訂正なく記紀を合致させることができる。二人とも女性なのではないかと思うが、仮に男子だったとしてもまったく活躍が伝えられておらず、体が弱かったか、病気か事故で早世されたと考える他ない。だから反正皇統からはエントリー無しだった可能性もあるが一応考慮に入れとこう。
そうすると第三世代でエントリーした候補(もしくは本人はそのつもりなくても周囲から勝手に候補とみられた人々)は「木梨軽王・安康天皇・大長谷王(雄略天皇)・市辺押歯王・財王」と在位中の天皇を入れて5人。

寓話の誕生
だが「大日下王の変」で大日下王が安康天皇に滅ぼされた時、中斯知命もいっしょに燃え落ちる宮殿とともに薨去してしまったのではないかと思われる。『竹取物語』のかぐや姫が月の世界に帰っていくのは死の暗喩である。後世に書かれた『竹取物語』の元になった物語(「原・春山秋山物語」)では、大日下王と中斯知命の夫婦の死まで描かれていただろう。この話は大日下王と中斯知命の夫婦に同情しその死を悲しむとともに、現職の天皇である安康帝の悪行を非難するものでもあるから、当然おおっぴらには言えない。それで寓話の体裁をとる。
さて、燃え落ちる宮殿から救出されたのが忘れ形見の「兄媛」だが、若日下王に引き取られたとするのが普通なら自然だが、そうならず長田大郎女に引き取られて一緒に安康天皇のもとにいたんだろう。なぜか。目弱王が中蒂姫の腹なのか長田大郎女の腹なのか決めがたいが、中蒂姫の腹だとしても兄媛ともども長田大郎女に引き取られることはありうる。兄媛という以上「弟媛」もいたはずだが、弟媛が同母姉妹なら二人とも「聖なる血筋」の継承者だし、長田大郎女の娘だったとしても最愛の姉の子には違いない。姉妹のどちらかに兄弟がいてそれが「目弱王」だったのか、姉妹のいずれかが「目弱王」と同一人物だったのか。後者なら「目弱王」は女児だったってことになる。女児なら、殺さずとも安康天皇が手元に置いておこうとしたのは当然ということになる。
「目弱王」の変で安康天皇が暗殺され「目弱王=兄媛」も葛城氏落城とともに薨去したことになっているが、実際には救出され生き延びたんだろう(このへんの詳しい話は別の記事で書きます)。兄媛は今度こそ若日下王に引き取られたと思われるが、若日下王はそのまま雄略天皇の皇后に収まる。雄略天皇と兄媛のは年齢的に大差なかったと思われ、二人ともこの段階ではまだ子供である。

継体天皇の祖先の正統性
『住吉大社神代記』によれば、仁徳天皇の時代に波多毗若郎女(はたひのいらつめ)(=若日下王)の夢に神が現れ「吾は住吉大神の御魂なり、為婆天利神またの名を猪加志利之神」と名乗った、そこで津守宿禰を神主としてこの神を祀らせ、為加志利津守連らを祝としたという。これによれば兄媛の保護者である若日下王は、住吉大社ともともと縁がある。
速総別命と女鳥王が反乱の全盛期に本拠にしたのも住吉大社、その後、墨江之中津王の本拠となって黒媛(日之媛)を得、のちに黒媛は中磯皇女(=中斯知命)を抱いて履中天皇のもとを辞して鷲住王に守られながら住吉邑に住んだという。黒媛が阿加流比賣のモデルだから、阿加流比賣を祭神とする赤留比売命神社と楯原神社の間のどこかに黒媛の宮殿があったのだろう。ここはいうまでもなく東住吉区の杭全や平野区の喜連など息長氏の本拠にすっぽり入っている。住吉が速総別の反乱軍の本拠だった頃は息長氏は弱小勢力でどちらからも重視されていなかっただろうがそれでも近江への国替えが命じられて一時的に河内和泉から撤退していたのかも知れない。そのため中津王の乱でも巻き込まれずどちらに味方すべきか悩まずに済んだ。中津王の乱の後に、戦乱が終わって名目が消えたので、ようやく近江から河内和泉に戻ることが許されたんだろう。
兄媛にとって住吉は因縁の深い地だから、成長後は若日下王の配慮で住吉に居住したか、あるいはそもそも黒媛以来の御料地として住吉邑を兄媛が相続していたのかも知れない。いずれにしろ成長して独立した兄媛が住吉に住もうとしたのは当然だったが、そこはすでに旧主である息長王家の支配地に戻っていた。その時の当主は大郎子だから、当時の上流社会の結婚相手の探し方として、兄媛が自分の保護者として大郎子を選んだというのが自然な流れではないかと思われる。ここにおいて宇遅之和紀郎子の同母妹女鳥王の女系の血は、黒媛、中斯知命、兄媛を通じて息長王家に継承されることになった。また兄媛は大郎子の保護下で住吉に黒媛や中斯知命から継承してきた赤玉を祀った。それが比賣碁曽社の鎮座、始まりなのである。
大郎子が中斯知命の娘、兄媛を妃としてからの息長氏は代々、一代ごとに地方勢力と姻戚になって継体天皇の頃には近江・美濃・尾張・越前と広がる巨大な勢力になっていた。これは中斯知命の尊貴な血統のおかげだったのかもしれない。

応神天皇はなぜ大雀命(仁徳天皇)を後継に指名しなかったのか

2679年(R1年)年7月3日(水)改稿 H30年6月22日(金)修正 H25年7月17日(水)初稿
2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓」から続き

大山守命と大雀命
この質問の意図は、宇治皇子(記:宇遅若郎子)に皇位を譲りたいと思っていたからだという記の解説は説明不足でこれだけだと腑に落ちない。「大雀命の意見が朕と同じである」といったところで、皇位の譲り先は天皇自身が決めることで、大山守命や大雀命が何をいったとてどうにもなるものでもあるまい。
応神天皇には多くの皇子がいたが、その中で有力な後継者候補が大雀命だった。大雀命は他の記事では実際に「太子」と書かれており、この時もすでに「太子」とされていたと考えられる。根鳥・若沼毛二俣・隼別の3皇子はこの時まだ生まれていないか幼すぎて問題外とされた。最年長と思われる額田大中彦と次兄と思われる大山守命が外された理由は不明。単に出来の良し悪しで選ばれただけかもしれないが…。なので実際には大雀命から宇治皇子(記:宇遅若郎子)への「太子の変更」の問題だったのであり、大山守命が有力後継者「三人の中の一人」だったわけではあるまい。ではなぜ大山守命が出てきたのかは後述する。
(※古代日本の「複数太子制」については別のところで詳論する)
応神天皇も年少の宇治皇子に譲ろうと考えていた。ところが、後述するがこの頃、日本には儒教が入ってきており、大雀命と宇治皇子(記:宇遅若郎子)は帰化人の王仁博士を家庭教師につけて『論語』を学んでいるほどだった。儒教では兄をこえて弟が立つのは「長幼の序」を乱す行為であり、礼にかなっていないとされる。従って、大雀命と宇治皇子がもし儒教原理主義者だった場合、最年長の額田大中彦、なんらかの理由で額田大中彦がダメなら次兄の大山守命が太子となるべきと考える可能性が高い。そこでこの二皇子の考えを問いただしたのが今回の謎かけだったというのだが、それなら大雀命一人に問いただせばすむ話なのに、なぜ大山守命まで引っ張りだされたのかというと、それは、大山守命は儒教の存在はしっていただろうが格別信者というわけではない。だから弟が皇位を継ぐことになんら疑問はないはずで、伝統的習慣に従って皇位を辞退するだろうというのが父帝応神天皇の予想だったろう。そうなれば、儒教かぶれの大雀命もまさか兄に皇位を強要することも出来ず、折れて、宇治皇子の立太子に納得せざるをえない。これが応神天皇の計算だったと思われる。こう考えないとなぜ大山守命が同席しているのか説明できない。
ところが、二つの計算違いが起こった。一つは、大山守命が父帝の意図を察知できず、「上の子のほうがかわいい」と答えてしまったこと。「年長の子とより幼い子とではどちらが可愛いか」という質問は、つまり大山守命にも大雀命にもそれぞれすでに二人以上の子供をもっているという前提での質問だろう。普通に考えれば幼い子のほうが可愛いのではないかとも思えるが、知恵が回るようになってきた頃の子供はまた反応が面白くただ可愛いだけの幼児とは異なった愛くるしさがある。どっちが可愛いといってもいずれも一般論ではありうることで正常の範囲から逸脱することではない。確率としては大山守命の子のほうが大雀命の子より年長であり、わんぱくで面白い盛りであるのを父に報告がてら弟にも自慢したいという他愛もない気持ちだったのかもしれない。しかしこのリアクションは父帝を大いにがっかりさせたろう。「こいつは政治家に向かない」と。そこで大雀命が儒教原理主義を発揮して、兄を立てるような発言つまり「わたしも上の子が可愛いと思います」と大山守命に同意したら、父帝の目算はすべておじゃんになってしまい、不穏な空気のまま宇治皇子の立太子を強硬することになったであろう。だがここで第二の計算違いが起こった。記によると大雀命は宇治皇子を後継者にしたいとの父帝の意図を察知したのだといい、紀によると、大雀命は父帝のがっかり顔をみてすべてを察知したことになっているが、さて…? おそらく、父帝の表情から何かおかしいと気づいて「下の子のほうが可愛い」と大山守命とは逆のことを言ってみたまでのことであり、本当に宇治皇子の立太子という意図まで気づいていたのかどうかはわからない。しかし、とにもかくにも、大雀命の発言が父帝の立場を救ったわけで、当然「大雀、汝の言葉こそ我が意の通り」と陛下は大喜び。
しかし大雀命が儒教を捨てたわけではないことは後々あきらかになる。儒教はまだこの段階では国教でもなんでもない「外国のちょっと変わった教え」ぐらいにすぎないので、天皇の意志に背く正当な理由にならなかったのである。大雀命は単に「下の子が可愛い」とだけいってるのではなく「上の子は成人してるから安心だが下の子は未成人だから心配だ」という奇妙な言い訳のようなことをいってる。これは逆にいうと上の子も下の子も成人してしまえば条件は同じだともとれるし、未成人で心配な者を天皇にすべき、ともとれる。大雀命がもし父帝の意図を理解したのならこんなへんな話はしないのではないか? 大雀命はともかく「下の子が可愛い」と答えるのが正解だとまでは察知したが、その意図まではサッパリ量りかねていたので、念のため「あくまでこういう意味においては、ってことです」と逃げ道を用意したのだろう。応神天皇からみれば、大雀命に対しても「こいつは何を見当ちがいなことを言ってるんだ?」と思ったはずだが、同時にまた自分自身の情況がみえてないことを自覚して慎重な言葉選びをした大雀命を、大山守命よりは多少は評価したと思われる。

この後、大山守命には「山海之政」(うみやまのまつりごと)が命じられた。同じことを紀には「掌、山川林野」とあり。これはなんのことかというと、応神朝では記紀ともに山守部・海部(紀:海人)を設置とあり、記ではさらに山部・伊勢部の設置があり、これら4つの部民が関係するのは明らかだろう。山部は山林の産物を貢納する部民、海部は海産物を貢納する部民。海部は普通はアマベと訓むが、ウミベまたはワタベと訓んでもさしつかえないと思う。アマベは漁労水産業としての一面が、ワタベは海軍または海上運輸業の面が強調されると思う。山守部というのは山部と同じものとする説や、大山守命の私領地とする説もあるがそうではなく、山林の保守管理をする部。山部は産物を収穫する部で山守部とは別だが、山守部は山部に付属ないし所属していたらしい。伊勢部は伊勢国の海部のことという説があるがそうではなく、磯部・石部・伊西部とも書き、海部の一種。浜辺での産物を担当するだけで通常の海部ほど多角的な活動はしない。山部・山守部・海部・伊勢部はいずれも関東から九州まで全国各地に設定された。
大山守命が任じられたのはこれらを統括するポスト。
この時期にこのようなポストが必要とされたのは、神功皇后以来、半島や大陸との貿易が活発化した結果、輸出品の開発や各地の物資の流通を管理する必要がでてきたからだろう。海洋民や山岳民というのは交易民でもあり物資の流通を担っていた人々でもあった。いわばこのポストは今でいう経済産業大臣であって、極めて重要な地位であったろう。
このポストはおそらくかなりの膨大な事務作業(むろんその多くは下っ端の役人がやるんだがその管理と情況掌握だけでも)忙殺されるポストであって、応神天皇父帝の言葉を表面通り受け取ってしまう大山守命の性格は政治家より堅実で地道な官僚向きだと判断されたのだと思う。
ところでこれによって大山守命は全国の山岳民と海洋民の首領となったともいえるのだが、定住農耕民に比べると、山の民・海の民の文化は保守的因習的土着的であって、容易に大陸の漢文化を受容しなかった。漢文明は定住農耕民を前提とした文化で、狩猟採集の文化は「夷狄」とみなすのでもともと山人・海人にはなじまない。さらにいえば弥生文化の後継者である平野部の農民よりも、はるかに縄文文化を色濃く残していた人々だともいえる。大山守命が自分の使命に忠実に邁進すればするほど、大山守命を「我らが殿様」と仰ぐ人々の利益代表と化していかざるを得ない。三韓征伐以来の大陸文化受容政策に反対する守旧派の頭領に押し上げられていく(この話は次回の「大山守命の乱」に続く)。
大雀命は次期天皇の地位はお召し上げになったが、「食国之政(をすくにのまつりごと)を執りもちて白したまへ」と命ぜられた。紀には「太子を輔け、国事を知らせ」とあり、どちらも宇治太子(=将来の天皇)の補佐というより、摂政に近いようなニュアンスになっている。だがこれは大雀命が天皇になったという事実からの後付けバイアスがかかっている。不当な即位を少しでも合理化したいという気持ちから出た表現だろう。当時はまだ、天皇自身の身の上になんの問題もないにもかかわらずわざわざ実権のない名目上の天皇と、実際に政治を行う摂政に分けるという発想はなかったろう(天皇の身の上に問題がある場合は当然摂政もありうるがここはそのケースに当たっていない)。大雀命がそんなに優秀なら太子に留任させればいいのであって、応神天皇が宇治皇子を太子と定めた以上は、「食国之政」や「知国事」は宇治太子の専権でなければおかしい。
実際には応神天皇が大雀命に期待した仕事は「韓国之政」や「知韓事」つまり「外交」だっと思われる(ちなみに、「食国之政」や「知国事」は「韓国之政」や「知韓事」とあったのを記紀がことさらに改竄したと強弁しなくても、和語の「くに」がそもそも日本列島内部だけをさすとは限らない。「我が国」「この国」といった時、何に対していってるのかによっては、当時は三韓諸国もわが帝国の一部だったのだから。ついでに米国も外務省を国務省っていってるしw)。大雀命は早くから外交に関与していたことは大阪に常駐していたらしいこと、武内宿禰と懇意であること、葛城氏の娘を妃としていたこと等から推測できる。大阪は海外の使節と物資が上陸するところで、検問所のような役所が北九州と別に大阪にもあったろう。武内宿禰は神功皇后の新羅征伐の時の功臣で、当時の三大臣とは、祭祀を担当した烏賊津臣と、軍事を監督した三輪大友主と、内政を総括した武内宿禰だった。この功績により武内宿禰とその後裔は、対外交易を氏族の利権としたが、貿易は莫大な富を生むのでそれを利権とする外務大臣は自ずから大蔵大臣を兼ね、その地位は葛城氏→平群氏→巨勢氏→蘇我氏と世襲されていく。そして大雀命の、未知の情況に対する慎重な態度は、父帝応神天皇の目からみて、半島や大陸の海千山千のスレた外交官や国際商人を相手にするに適していると思われたかもしれない。しかし大雀命の最大のバックボーンとなった葛城氏は、多くの帰化人たちを手下に組み入れ、あまりにも海外の文化に馴染みすぎ、贅を極め財閥化して、庶民の目にはハイカラ趣味ではあっても外国の手先のような存在と映り、国内ではあまり人気がなかった。
図式化していってみれば大山守命の下には守旧派・伝統派・土着派・国粋派の人々が集まり、大雀命の下には開明派・進歩派・漢文派・国際派の人々が集まり、自然と両者の対立の形勢となっていったものと思われるのだ。
(ついでにいうと宇治若郎子が分掌したのは「軍事」だったと思われるがそれについては前章で述べたとおり)
応神天皇
↑小室三兄弟(橋爪・副島・宮台)も実は仲が悪いって副島隆彦が言ってたな。なぜ仲良く出来ないのかw あの世で師匠が怒ってるよw

矢河枝比賣・葛野の歌
(後日加筆予定)

矢河枝比賣・蟹の歌
(※この記事は「楽浪(ささなみ)と楽浪郡」に移動しました)
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楽浪(ささなみ)と楽浪郡」に続く

楽浪(ささなみ)と楽浪郡

2678(令和元)年4月24日(水)改稿
今日は平成30年6月22日(金)、カニの日。古事記にもカニは出てくる。
矢河枝比賣・蟹の歌
この歌は、敦賀からやってきた蟹が木幡まできて美少女と出会ったっていう歌なんだが、難解な句が多く、古来から学者同士でも議論がある。

まず、「蟹が酷い道(=敦賀から近江を経由する道)をやってきた」という前半と「我(天皇)がスイスイ歩いていったら木幡で美少女と会ったよ」っていう後半をどうつなげて解釈するかで説がわかれる。
小学館の日本古典文学全集の古事記(つまり荻原浅男だな)は「この歌の中の『ワ(我)』は表面的には蟹のことだが裏の意味では応神天皇で、二重性をもたせた『ワ(我)』だ」という。つまり「我(蟹)が敦賀から近江を経由してやってきて木幡で美少女と会ったよ」という意味と「我(天皇)が敦賀から近江を経由してやってきて木幡で美少女と会ったよ」という意味が二重になった歌だと。土橋寛(つちはしゆたか)は「蟹が難儀して歩くような酷い道を我(天皇)がスイスイと難なく歩いていくと木幡で美少女にあったよ」と解釈する説。つまり前半は天皇の歩く「道」を修飾している部分。蟹が陸あるいたらちょっとした凸凹でも難儀するだろうから、あまり難儀な道の喩えとしてどうなのかと思うが、この問題は後の方で自然消滅する(後述)。
一つの完結した作品として鑑賞する場合は、普通はこの土橋説か荻原説、どっちかの説で問題ないかのように思われる。多少の矛盾は「そこは文学なんで」。

だがそこで終わらせたら学者の仕事はなくなってしまうんで、いくらか踏み込んで議論してる説がある。
武田祐吉は、「蟹は北からきたのに、大和から佐々那美(ささなみ、近江の西南部)へ向かう道(佐々那美遅(ささなみぢ、ササナミ路)の途中で木幡の道で、というのは前半と後半のつづき具合がおかしい、前半の蟹の歌は「かづき息づき」までで、後半は大和から佐々那美へ行く途中木幡で少女にあうという別の歌であって、それに蟹の歌の一部が結びついて歌われたんだろう」という説。つまり武田は佐々那美遅(ささなみぢ)を「大和から佐々那美へ向かって行く道」と解釈している。佐々那美は神功皇后が忍熊王の乱を鎮圧するところでは「沙々那美」と書かれている。風土記逸文では「細浪」、万葉集では「楽浪」とも書かれている。今のどこなのかはいろんな言われ方があって正確な範囲ははっきりしないが、近江の南部または南西部だとも、志賀郡のあたりともいう。
この武田説に対し、岩波文学大系の古事記(つまり倉野憲司だな)は「土橋説も武田説も物語に即して解釈しようとするから矛盾があるようにみえるんで、この歌を物語と切り離せば、『難儀な道だが俺様(蟹)が難なく歩いていくと少女にあった』という歌で、自然な歌として難なくとける」という。「宴席における一般的な祝言の歌が特定の物語(=応神天皇の物語)に結び付けられたために多少の矛盾が生じた」のだと。こういう倉野憲司みたいな説は学者ウケするんで、おそらく通説になってるんだろう。だが一般的な歌を特定の物語に結びつけたというのなら、伝承化する前の段階で「創作」だった段階があるはずで、それなら伝承者を僭称する創作者がもっとちゃんと矛盾なく作り込んだんじゃないのか。そういう疑問に配慮せず、物語を事実として具体的な政治的事件にむすびつけず物語構造の問題に回収してしまう議論と同様、歌を成立の経緯で解体して文学性を不当に低減させる議論ではないかと思われる。

「ササナミ路」とはどの道?
この歌、前半と後半のつづき具合がおかしいというのは、蟹が北からきてるのに、天皇は大和から近江に向かっていて、方向が逆だからなんだが、天皇の歩いている方向は二つの根拠から判断されてる。一つは歌の中の「シナダユフ ササナミヂ」(しなだゆふ 佐々那美路)という句、もう一つは古事記の地の文で「近淡海国に越え幸(いでま)す時」と説明があるから。

まず佐々那美は既述のごとく近江の西南部をいう地名というのが通説で、いま便宜的に通説を前提として話をすすめる。「佐々那美路」は「佐々那美の中を通ってる道」という解釈でも十分に許容範囲だとは思うが、普通に解釈すれば「佐々那美に向かって行く道」というのが語感的に自然。だから、大抵の学者は宇治や木幡のあたりから近江に続く道と判断してる。ただ、上述の荻原浅男の説では蟹と天皇は二重写しの存在で、歩いたコースも同じだから、荻原一人だけは「湖西の古道。湖南の佐々那美に通じる道」としている。岩波の日本思想大系の古事記(佐伯有清かな)は、「佐々那美路を湖西の古道とするとシナダユフがその地勢にあわないから、宇治から佐々那美にぬける道」とするのが正しいだろうとして、荻原説を否定している。

佐々那美路を修飾しているシナダユフという言葉について、本居宣長はシナは坂道、タユフは「たゆたふ」の意だといい、武田祐吉はシナは「級」で、段のある、高低のある意。ダユフは不明としつつも一案としてダは田、ユフは「結う」。シナダユフとは高低があって段のある田が連続している意ではないかと自信なさげにいってる。武田の方がちと苦しいが、荻原浅男は武田寄りの解釈でシナは階級、階段。シナダユフで高低のある意という。佐伯有清は、シナは高低のあるもので「坂道だ」として武田説を統合しつつもはっきり宣長支持、タユフについても宣長寄りで「たゆみ」「たゆたひ」と同根として‏いる。こまけぇことはさておけば実質問題ここまではどの説でも大差ないのだが、ただ、佐伯はタユフは「疲れ滞る意だ」と付け加えている。それで「しなだゆふ佐々那美路」とは、荻原説だと単に高低のある道ってだけのことにすぎないが、佐伯説では「歩き疲れて進まなくなるような坂道」なのである。おそらく荻原は高低があっても緩やかなもので、湖西の平原でもあてはまると考えているのだろうが、佐伯説だとそれだと「シナダユフという形容が地勢からいってあわない」、だから湖西の道ではなく宇治から近江にぬける道のことだ、となる。ここまで説明してきてこんなこというのもアレだが、以上の学者の議論はあまり水準が高いとはいえない。ほとんどコジツケの感があり、こんな手法でいいなら、なんとでも無限にいえるんだが。こういう憶測だらけの議論はわれわれアマチュアの古代史ごっこに任せてだな、学者は誠実に「語義未詳」で済ませとくのが学問的態度だぞw 「語義未詳」で終わらせると金返せって文句いわれるだろうから素人を喜ばす芸の一つも見せたくなるだろうが、そこをぐっと堪えるのも学者の矜持だろうよ。シナダユフの俺の解釈は後回しにするが、ただ、ここまでの議論をみる限り、宣長から佐伯までみな適当な思いつきのようなことを言っており、天皇の歩いた方向を決定づけるような根拠になるとはぜんぜん思えない。ついでにいうとシナダユフが語義未詳となると「酷い道、難儀する道」という解釈が消えるので、土橋寛の「蟹が難儀して歩くような酷い道を我(天皇)がスイスイと難なく歩いていくと木幡で美少女にあったよ」という解釈は「蟹がやってきた道を我(天皇)も歩いていったら木幡で美少女にあったよ」となり酷い道なのにスイスイ歩いたってニュアンスは消え、「目の前に料理として出された蟹、この蟹が歩いた道なんだなぁ」という感慨だけに変わる。
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このほうがいいだろう、酷い道の喩えに「蟹が難儀する」ってのは前述のようにへんだもの。

もう一つの根拠、古事記の地の文で「近淡海国に越え幸(いでま)しし時」と説明がある。だから大和から近江に向かう途中なのだ、というのだが、これは成り立たない。日本書紀でも、近江に行幸したとあり、その時に通り道の宇治で詠んだ「国の秀も見ゆ」も出てくる。だが書紀はそれっきりで終わり、蟹の歌がない。古事記は続けて「木幡に到りませる時」として蟹の歌の話になるので、うっかりすると「大和→宇治→木幡→近江」というコースを脳内に描いてしまい、すべて近江への往路と思ってしまうが、本当にそうか? 書紀によれば「近江行幸」が本務のはずだが。和邇氏の姫とのお見合いが真の目的だから近江には形だけちょこっと入っただけだという説は採れない。都によびつければ済むんだからw 応神天皇のバックボーン、息長氏の本拠ってことや、少年時代の敦賀行幸のことなどを考えても、お見合いが本題だったかお見合いはあくまでオマケだったかに関わらず、近江行幸はそれとしてきっちりやったに決まってるだろう、わざわざ行ったんだから。当然、琵琶湖一周ぐらいしたろ。そしたら、宇治での「国の秀も見ゆ」の時は往路だとしても、木幡での蟹は帰路だったってこともありうるんでないのカニ? こうなると、学界では少数派のような印象のある荻原説&土橋説が全俺の中で脚光を浴びてくる、つまり蟹の歩いてきた方向と天皇の歩いてきた方向が一致してるわけよ。だから武田説のように前半と後半とで矛盾してるとは思わないし、倉野説のように二つの別々の歌をくっつけたんだと考える必要もない。

じゃ、荻原説が正しかったのかというと、それで終わる話でもない。土橋説では蟹は道の険阻をいうための喩えとして出てくるので、天皇とは関係ないが、荻原説では蟹と天皇は同一行動をとっているのでいわば同一存在。ところが歌の途中で突然カイツブリ(鳰鳥)にも喩えられている。カイツブリのように水に潜ったり息つぎしたり、というのだ。荻原は「蟹の生態としては奇妙だから海人(あま)の動作を蟹に投影したんだろう」と言ってるが、なんでそんなものを投影しなければならんのか? 倉野は息をつくのが主で潜るのは軽く添えただけというが、それならカイツブリもってくるのはおかしくないか、文学表現として意味がわからない。どうも蟹とカイツブリは別の何かではないか? 蟹はイチヂ島、ミ島に到着したと詠ってるが、この島はどの学者も不明としている。荻原浅男は「竹生島や沖島ではあるまい」というが薄々そう思ってるから出た言葉で、島というからにはそれぐらいしかない。

イチヂ島は市杵島姫のイチキ島や厳島と同じく「斎(いつ)く島」(神を祀ってる島)「著しく神聖な島」の意で、ミ島(御島)はその言い換え、具体的には竹生島や沖島や多景島を想定されてるんだろうが、浦島伝説の蓬莱島のような架空の島であり、海底異界である「わたつみの宮」(竜宮城)を海上の島に見立てたもの。蟹はそこまでしか行ってない。そこでカイツブリが潜ったり息継ぎしたりってのは、海底の竜宮城に行こうとして潜るんだが、竜宮城は島として海上にあるので潜ったつもりが同時に頭が海面に出てしまうという空間の歪みの表現でもある。海外の神話では脱皮を繰り返して成長していく生命力から蟹を成長を司る水の精とみなされていたが、日本でも『古語拾遺』に掃守連(かにもりのむらじ)の祖天忍人命が、豊玉姫に鵜萱葺不合命が産まれた際に、産室にいた蟹を箒で追い払ったという。なぜそんなところに蟹がいたのか神話では不明だが、蟹は出産を終えた豊玉姫本人の姿で、箒というのは掃除の道具ではなく、玉串(お祓い棒)のような神官が祭祀で使う神具(実際には木の枝)であり、「追い払った」のではなく「お祓いをした」んだろう。豊玉姫は蟹じゃなくてワニじゃなかったか、というだろうが、ワニの正体についてはいろんな説があって爬虫類の鰐とは限らない。豊玉姫の場合はどれが正しいというのでもなく、鰐でもあり鮫でもあり海蛇でもあり亀でもあり龍でもある、海の精霊のようなものであって、具体的な生物学的な意味でのなんらかの生物という話ではない。蟹座の蟹も古い時代のエジプトでは甲虫(スカラベ)、シュメールやインドでは蟹でもあり亀でもあったし、縄文土器では月を兎や蛙であらわす。中国では兎は雨期に亀となり亀は乾期に兎となるという言い伝えがあり、兎と蝦蟇と蟹はすべて月の精として同一だった。これらの生き物は神話上の概念としてはどれも互換可能な同一の精霊、生命を育む水の精霊をあらわしているのである。国つ神がドラゴンや蛇など爬虫類であらわされるのに対し、本智和気皇子の鵠(くぐい)やヤマトタケルの白鳥のように、天つ神や皇族男子は様々な鳥をシンボルとしている。浦島太郎の物語では乙姫の正体は亀で、浦島太郎は鶴に変身してしまう。浦島太郎の物語の元型が海幸山幸の神話だから、豊玉姫のワニとセットで山幸彦もなんらかの鳥でありうる。つまり蟹とカイツブリは豊玉姫と山幸彦の物語を暗喩しており、同時に矢河枝比賣と応神天皇を暗示している。蟹とカイツブリが出会うイチヂ島は架空の竜宮城的な存在だから、文学的に(ご都合主義的に)実質どこをさしてるかはなんとでもいえるが、明らかにこの歌は「木幡での宴席は竜宮城のように楽しく夢のような世界だ」といっており、カイツブリと蟹の喩えは天皇自身と矢河江比賣をさしている。

「シナダユフ」の新解釈
で、蟹とカイツブリ(鳰鳥)が揃ったところでシナダユフが出てくる。似た言葉に「級照るや」(しなてるや)という言葉がありこれは「鳰の湖」(にほのうみ、琵琶湖の別名)にかかる枕詞。琵琶湖を「鳰の湖」というのは野洲郡邇保郷の「邇保」からきたらしい。今の近江八幡市の「十王町」と同市内で隣接する「江頭」のいずれかもしくは両地をあわせたあたりらしい。もっとも、琵琶湖を「鳰の湖」というのは中世から起こったことで古代には無かったことといわれるが、記録がないから無かったというのは学問的ではあっても、絶対の根拠でもない。「級照るや」とシナダユフ、無関係ですますには似すぎてないか? 関係あるとすれば、もともと「鳰鳥」がすでにシナダユフを導き出す縁語だったんだろう。もしくは「息づき」に続いてすぐシナダユフなのだから、「息」と「シナ」が関係ありそう。岩波日本書紀の「級長戸辺命」(しなとべのみこと)の注釈みると「シは息とか風のことでナは長い、シナは息長の意」とあるから、息とシナが縁語であるのは間違いない。また「トはツの訛りで変化しやすい音」ともあり。シナダユフのシナダはシナトの意味(もしくは訛り、もしくは古形)で「風」の意だろう(あるいは風の古語か雅名)。ユフがわからないが、第一案として「呼ぶ」かな。シナダユフは「風をよぶ」の意味。第二案として、万葉時代の「通ふ」(かよふ)の東国方言「かゆふ」の意か。これだとシナダユフは「風かよう」の意味。第三案として、「寄る」に継続反復の助動詞「ふ」が付いた「寄らふ」が縮まって「寄ふ」になって「ユフ」に訛ったか、ユラフに訛ってからユフに縮まったか。正確にはユフがもともとの形で、後世(奈良朝)の文法だとヨラフになるってことだろう。そんな文法ないというのは反論として無効。国語学の射程は奈良時代までしかフォローできないので、奈良時代にすでに文法違いの古語になっていた言葉は国語学の理論では解釈できない。で、ユフが「寄らふ」と同義だとすると「段々に近づいてくる、徐々に寄ってくる」の意だから、シナダユフは「風が(息が)徐々に近づいてくる」の意味となる。これ何のことかと思うだろうが、この場合の風というのは単なる風ではなくて、第一に気候のこと、第二に風は風でも西から吹いてくる風、西風のこと。この二つの意味が同じ言葉になるってのは意味わかるよね? 北緯30度以上の地帯では偏西風が吹いてるわけで、古代文明のおもだったところではエジプトとインドを除く全地域に共通の現象。だから、世界各地の神話や習俗、迷信などでは風は西という方角と強く結びついてるのだ。中国では八門八風といって8つの方角から吹いてくる8つの風にそれぞれ名前がついてるが、甲骨文字の段階では4つしかなかった。西から吹く「折風」または「不周風」だけが古い神話に出てくる元祖で、後は後世に付加されたものだ。で、天気予報みてれば誰でもすぐわかることだが、日本では気候は、九州から関西へ、関西から中部、関東へ、というように西から徐々に移動している。つまりだよ、シナダユフ、「風が徐々に寄ってくる」というのは西から徐々に東へ天気が変わってくる、雲が流れてくる現象のことではないのかな。まぁ第二案の「風かよう」でも、風といえば西に決まってるので結果的にほとんど同じであり、第一案の「風をよぶ」でも呼べば近寄ってくるんだからこれも結果的にほとんど同じだが。
「みほどりの かづきいきづき しなだゆふ ささなみぢを」は「鳰鳥が潜ったり息継ぎをしたりしながら近寄ってくる、その息が近寄るという佐々那美の道を」と訳せる。「風が寄ってくる」にしろ「風を呼ぶ」にしろ「風かよう」にしろ、シナダユフという言葉は地形をいうものでは無かった。だから佐伯有清がいうような「地勢にあわない」などということにはならない。

楽浪郡との関係w
問題は、佐々那美という土地がなぜシナダユフ(風を呼ぶ/風かよう/風が寄る)といわれるのか、だが。まず佐々那美は、古事記の中で神功皇后が忍熊王の乱を鎮圧したところでは「沙々那美」と書かれ、『近江国風土記』逸文では「細浪」、『万葉集』では「楽浪」とも書かれる。読みはどれもササナミ。楽浪といえば今の北朝鮮にあった楽浪郡を連想するが、もちろん通説ではそれとこれとは無関係だという。万葉集では楽浪の他にも「神楽浪」とか「神楽声浪」と書かれた例もある。なので「楽」の字でササと読ませるのは、お神楽(かぐら)の合いの手のササ(さぁさぁ?さっさ?)という掛け声からとってるらしい。つまり当て字、文字遊びだ。だから楽浪郡とは関係ないという。地名の語源としては『近江国風土記』逸文では「淡海国者(中略)一名云細波国。所以目前向観湖上之漣漪也」(淡海国は一名を細波国(ささなみのくに)と云ふ。目前に湖上のさざなみを向かい観るゆえなり)とあるが誰でも思いつく言い方で採るにたらない。地名研究の方では海ではなく山並み、山地の地形からきてるらしいがこれもどうだろうねぇ…?
シナは風とか息のことだと岩波の日本書紀の注にあるのは前述の通り(この注釈は大野晋だろうな)。するとシナダユフは息をする、息継ぎをするの意でもありうる。「鳰鳥の かづき息づき」という句がシナダユフを導き出す縁語になってるんだから、ここは「カイツブリが潜ったり息継ぎしたりするように、息継ぎして発するササという声と同じ地名のササナミへの道」と訳せる。掛詞(かけことば)の序詞(じょことば)になってるわけだ。

ここで終わりにしてもいいのだが、普通すぎてつまらんなw オマケに俺の説、つまりは通説に反するネタを投下してみようw
実は佐々那美の地は楽浪郡とも縁浅からぬ土地柄なのである。佐々那美=滋賀郡には大友氏・三津氏・穴太(あなほ)氏・錦部氏などの帰化人系の氏族が住んでいた。これらの諸氏族は共通して後漢の献帝の子孫と自称しており、要するに東漢(やまとのあや)氏の同族である。東漢氏は大和国高市郡の檜前に本拠があったが、これは朝廷にお仕えする都合上、中央の都に移住したわけで、もともとは近江の滋賀郡にいたんだろう。日本では漢の字を「中国」の意味で訓読する場合はアヤと読む。これは「楽浪」の朝鮮語読みからきている。朝鮮語で「楽浪」は [lak-lang] と [ak-lang] の2種類の発音があり、李丙燾の有名な説では原住民語のアラという地名に中国人が漢字をあてたのが「楽浪」で、アは中央、ラは国土を意味する語尾だという。辰韓人が楽浪人を阿残とよぶのも「我が残りの人」という意味ではなく「阿良(アラ)の残賊」の意味だとも。そうすると、どうもアラってのは北朝鮮の原住民が「中国/中原」という漢字語を自民族の言葉に意訳して作った造語っぽいな。中国人も原住民が中国をアラと呼んでることを認識した上で、占領地を統治する出先機関を楽浪郡(アラ=中国)と名付けた。GHQが日本を占領してBeikoku州に改名するようなもんだな。で、東漢氏は楽浪郡に長くいて任那の阿羅(弁韓の安邪国)を経由してきたけれども、(自称だけかもしれんがともかく)後漢の献帝の子孫なわけで、アイデンティティーとしては朝鮮人ではなく中国人なわけだ。楽浪からやってきた漢氏の集団が住んでたからその地も「楽浪」と呼ばれたんであって、ずっと後になってから訓読してササナミという地名を作り出したんだろう。

で、これで終わりでもいいんだが、もうちょいゴリ押ししてみようw
何が気になるって、楽浪の読み方2つ、アラとササナミがあるうちの、ササナミの中にアラが含まれてる。朝鮮語では「徐羅伐」を「徐那伐」と書いたりするようにラ行とナ行が音通で交代しやすい。だからササナミも元はササラミだったかもしれんよ? 分解すれば「ササ・アラ・ミ」。もしかしたらササナミってのは近江の楽浪を訓読みしてできたんじゃなくて、もともと本家本元の楽浪郡のことじゃあるまいか? ササはサキ(先/前)の意で中国の出先機関だから「ササ・アラ」か、もしくはササは細かい・小さいの意だから中国本土の「大中国」に対して楽浪郡はそのミニ版「小中国」だから「ササ・アラ」か。ミは「ササラ海」で琵琶湖のことか、もしくは楽浪郡は中国に見(まみ)える、中国が見えるから「ササラ見」か。漢字文献の記録はあくまで記録上のもので、原住民の言葉を反映していない。高句麗は原住民の言葉ではコウクリじゃなくて「コマ」、百済もヒャクサイじゃなくて「クダラ」、モンゴル時代には北京は「カンバリク」、泉州は「ザイトン」だったけど漢文で記録するとそれはわからなくなる。中国の文献だけじゃいくら調べても百済の読みがクダラで高句麗がコマだとは絶対にわからない。記録上は「倭」でも、倭人たちは「ヤマト」と発音してたんであって自分たちが「ワ」だとは思ってなかった。中国では異民族と国境を接する郡は「辺郡」といって、事実上の植民地であって中国人と異民族が混在していた。そういうところでは、中国人が認識する漢字語の地名とは別に原住民語の地名が並行しただろう。だから楽浪郡の時代に、原住民語で楽浪郡を「ササナミの国/ササラミの国」と言ってたってことも絶対ないともいえないのではないか。

いや、百歩譲って楽浪郡がササナミだったとしても、朝鮮原住民の言葉が日本語なのはおかしくないか? というツッコミもあるだろう。だが、それが実はおかしくない。それについては2通りの考え方ができる。(以下、後日に執筆予定)
なお、6月22日は「ボーリングの日」でもあるのでこの動画をどうぞw↓

百済の朝貢、大山守命の乱」に続く

☆神武不殺☆平和の王権

2679年(令和元年)4月3日改稿 平成27年10月16日(金)初稿
神武不殺の剣戟士

「神武不殺」と周の文王
神武天皇の名前は本当は神武天皇じゃなくて神倭伊波余毘古命(かむやまといはれひこのみこと)であるのは皆様ご存じの通り。「神武」という諡号(おくりな)は奈良時代になって淡海三船(おうみのみふね)という人(弘文天皇の曽孫)がつけた名前だから神武天皇本人は知ったこっちゃないし『古事記』にも、もともと神武天皇とは書かれてない。「神武」という諡号の由来は『易経』の中に出てくる「神武不殺」(しんぶふさつ)という言葉からきてる。で調べてみると

『易経』繋辞伝上11

古之聰明睿知、神武而不殺者夫

いにしへの聰明睿知、神武にして殺さざるものか

とある。これは周の文王を讃えた言葉という。
黄河文明で有名な殷王朝の末期、殷の紂王は酒池肉林にふけっていた。
↓「爵」、酒器。殷代青銅器は酒をつぐ器と肉を盛る器ばっかでまさに酒池肉林w まぁ実は酒と肉ってのはお供え物で祭祀に熱心だったってことなんだけどね
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黄河文明で有名な殷王朝の末期、殷の紂王は酒池肉林にふけっていた。天下の衆望は周国の文王に集まっていた。周の文王の勢力は日々強大化して、すでに天下の三分の二を保ち、すなわち殷王朝を武力討伐するのに十分な軍事力を保有していたにもかかわらず、あえて戦争を避けて時を待った。軍事力や刑罰でなく、民が自ずから帰服するのを待つ。これが「不殺」。殺さずして戦争に勝ってしまうというのは、人智を超えた神秘的な武力だから「神のような武」で「神武」。まぁここまでは調べればわかる話。
問題はこれと神武天皇(神倭伊波余毘古命)の関係だが、奈良時代になってつけた名前だから生存してた当時のリアルタイムの神武天皇とは関係ないっちゃないんだが、しかし淡海三船もまるで無関係な名前を贈ったわけでもないだろう。それなりに考えて諡号を奉贈したにちがいない。

「東征」と「東遷」のちがい
神武天皇の東征は『日本書紀』では全行程が7年間に切り詰められてるが、『古事記』では筑紫に1年、安芸に5年、吉備に8年と長期滞在していておそらく全行程では20年ぐらいと思われる。
20年というと、モノスゴイ大戦争のように思うかもしれないがそんなことはない。20年間も休みなしに戦い続けるというのは経済的にも不可能なことで、実際の会戦は最後の数年の間に数回しかない。
そもそも神武天皇の東征は「東征」ではなくもともとは五瀬命(いつせのみこと)の「東遷」だったことは、『古事記』と『日本書紀』共通で書いてある。つまり日向国から大和国への「遷都」が本来の目的であり、那賀須泥毘古(ながすねひこ/長腿彦)を討伐することは遷都の大事業に付属する部分にすぎない。もし那賀須泥毘古を討伐することそれ自体が最終目的ならば、さっさと攻め滅ぼしてしまえばよかったはずだが、それは目的ではない。最終目的はあくまで平和と繁栄であって、さっさと敵が潰れりゃ後はどうでもいいってものではなかったのだ。

東征はどんな戦争だったのか
皇軍は那賀須泥毘古の支配圏である大和国の近辺に迫るまで、ぜんぜん誰とも戦っていない。つまり九州、中国あたりまでは完全に皇軍の支配圏内だった。天照大神の神勅は邇々藝命に豊葦原瑞穂国の全体を統治せよというものであって、一方、大国主は出雲一国だけの主ではなく、出雲一国を譲ったのでもなく、葦原中つ国の全体を譲ったので、両者呼応しており、邇々藝命から代々継承してきた五瀬命は当時すでに日本全体に君臨していたのです。
それに対して敵は大和一国にすぎないので、こちらには余裕があった。
これほどゆっくり進んだのは、はじめは那賀須泥毘古を刺激せず、徐々に近づき、その間も支配圏内の民生安定策と生産活動の傍ら、戦争準備をすすめたわけで、急激な戦争準備と違ってなるべく庶民に負担のかからないやり方だったといえる。急激に進軍すると賊軍を無駄に刺激して、防衛のために向こうから先手を打って攻めてくるかもしれない。仰々しい大決戦は華々しいが損害も大きい。敵は大和盆地とわずかに紀州の一部を支配してるだけなので、大和包囲網を敷くのは容易だったろう。問題は、この包囲網は八方からいきなり攻めるためのものではなかった。20年間もの間、包囲しただけで精神的な威圧は加えたろうが、糧道を断ったわけでもない。やがて、敵側の武将や庶民が、このままでは負けてしまうと思って逃亡を始める。そこで降伏をすすめる。敵も味方も苦しめず自主的に帰服するのを待ち、血ぬらさずに鎮圧しようという作戦。
しかし、どうしても敵が降伏しないので、このまま永遠にダラダラ続けるのは戦争が永続することとなりかえってよくないことなので、ある時期を区切ってついに合戦に及んだわけだが、その頃にはもう敵は最初の頃と比べてかなり弱体化していたと思う。

「神武」という諡号
このように、十分な軍事力がありながら、無駄な殺生を避けた征戦は、周の文王に通じるとして「神武」の諡号が奉られたのでしょう。ここまでの話(特に神武天皇の戦争がどんなだったか)は、淡海三船が考えたであろうことを推定したまでです。

雑談
神武の反対は「凶武」。ただし2chなどでは「神武不殺☆平和の王権」の対語として「武烈必殺★残虐の王権」ってパロディが昔あった。武烈天皇の素晴らしさについては言いたいことが山ほどあるが、いつかの機会にまた…。
神武不殺の剣戟士

☆1獣姦のタブーが出てくる理由

2679(H31・新年号元年)年2月改稿 H27(2015)年11月11日(水)初稿
「国の大祓」(くにのおほはらへ)の問題2点
「天津罪国津罪」(あまつつみ・くにつつみ)の話になると、昔は獣姦が多かったのかと言い出す人がいて、「獣姦のタブー」についてあれこれ議論になる場合もあるのでそれについて書いときたい。
『古事記』には仲哀天皇が神罰によって不慮の崩御を遂げた後、国民の犯した罪科の類をいろいろ取り集めて「国の大祓」をしたとある。神罰を受けたのは仲哀天皇なのに、なぜ「国民の」罪科を集めるのかという疑問に答えねばならないが、それは後回しにするとして、その罪科の中の種類をあげて「生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚牛婚鷄婚犬婚」とあり。原文は

取國之大奴佐而(奴佐二字以音)、種種求「生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚牛婚鷄婚犬婚」之罪類、爲國之大祓而
國の大奴佐(おほぬさ)を取りて、「生剥(いけはぎ)・逆剥(さかはぎ)・阿離(あはなち)・溝埋(みぞうみ)・屎戸(くそへ)・上通下通婚(おやこたはけ)・馬婚牛婚鷄婚犬婚(うまたはけうしたはけとりたはけいぬたはけ)」の罪の類ひを種々(くさぎさ)(ま)ぎて「國の大祓」をなして

とあり。このうち前半の「生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸」は天津罪(あまつつみ)、後半の「上通下通婚・馬婚牛婚鷄婚犬婚」は国津罪(くにつつみ)に属するものだが、天津罪も国津罪も全部のリストがあがってるのではなくて、選抜されてあがっている。なぜ全部でなく、一部が選ばれている(一部が落とされている)のかは説明が必要だが、それは後回しにするとして(全部のリストは延喜式の『大祓詞』にある)、天津罪の方が重罪だという説もあれば、反対に国津罪の方こそ重罪だという説もあり、なぜ二つに分かれているのか、両者の違いは何なのか、この「天津罪・国津罪」なるものがどういう意味をもち、いかなるものなるのかをめぐって、実に多くの多様な議論があって、簡単でない。

「畜犯せる罪」とは
とまぁそこまではいいとして、この日にたまたま話題になってのは、国津罪の中の「馬婚牛婚鷄婚犬婚」。『大祓詞』では「畜犯せる罪」(けものおかせるつみ)とあり、これを細分化して表現したのが『古事記』の「馬婚牛婚鷄婚犬婚」で同じ事をいっており、獣姦のタブーのことだというのが通説だ。『大祓詞』の「畜犯せる罪」を、獣姦のことではなく自分が飼っている動物が犯した罪のこと(飼い主である人間がその罪を受けること)だという説もあるが、その場合は「馬婚牛婚鷄婚犬婚」とは別々の罪ということになるので、「馬婚牛婚鷄婚犬婚」の方は相変わらず獣姦説でしか解釈できない。
ここに獣姦がでてくるからといって、「昔はこういうの普通にやってたんかのー」等と思ってはならない

神話や民話の中の人獣婚
ギリシアや日本もそうだがタブーとはされない人獣婚や近親婚は、多くの場合、神話か民話の中での話である。神話の場合それは遠い時代の神々の行為であって人間世界のことではない。民話の場合それは昔々知らない時代の話か、遠いどこかの知らない土地での話かのどっちかであって匿名の主人公による教訓話や寓話になっている(起源としては神話の崩れたものではあるのだが)。つまりどちらも現実にはありえない話か、少なくとも滅多にないことという前提になっているのである。江戸時代の春画にでてくるエイ(鱏)タコ(蛸)も、いうなればマンガ(空想譚)であって現実ではないが、一つ問題としては魚介類とやっちゃうってのはここでいういわゆる獣姦のうちに入らない可能性もある。
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↑江戸時代の春画、人魚と蛸(作者不明)。クリックで拡大w

獣姦は2種類ある
獣姦を日常的にやってる社会などというのは未開部族にもない。人間の嫁よりも簡単に済むとなるとその社会は崩壊するからだ。非婚化のすすんだ現代で虹嫁が重宝されるのをみれば理屈はわかると思う。おそらく原始時代にはなおさらなかったろう、原始人は現代人より本能が発達してるってことでは良い意味で動物に近いだろうから。動物は同種でしか交尾しない。牛は馬鷄犬と交雑しないし、鶏も馬牛犬と交雑しない。本能の壊れた文明人だからこそ変態になれるんであって、変態性欲とは、一種の「知性によって歪められた性欲」なのである。「知性によって歪める」といっても2種類あり、一つは完全にタブーが解禁された情況で本能の壊れた人間が性欲を追求した場合の変態、これはかなりの程度、恵まれた生活を維持できる先進国にしかない現象で男女ともにあり、好きでわざわざ人間より動物を好む性向。もう一つは男にしかない現象で、人間の女性のかわりに動物を使うもの。これは脳内で人間に変換してるという意味で「知性によって歪める」といってるわけだが、この場合、好きで動物を選んでるのはなく、出来れば女とやりたいのだが、やむをえず動物で済ましてるというケース。
いずれにしろ、世界史上、世界のどこでも異端的行為(少数者の行為または反社会的行為)とみなされる獣姦それ自体は存在した。存在したからこそこれを禁止するタブーも旧約聖書の『出エジプト記』をはじめ、世界中にあるわけだ。

獣姦が多発する環境とは
前述の通り獣姦には「人間の相手がいるのに好きでわざわざやる男女」と「本当は女とやりたいのだが、やむなく動物をかわりにする男」の2種類あるといったが、前近代では後者がほとんどだろう。有名なところでは大航海時代に西洋の船乗りたちが食料を兼ねて生きたヒツジやヤギを船に乗せて飼っていた。このヒツジやヤギで発散してたわけ。あとはインカ等の遊牧民の男性は家畜をつれて人間社会から長期間隔絶されるので、その間、家畜のヤギやリャマで済ましたという。これらの例でも「必ずやってた」わけではないが、かといって「稀な話」というわけでもなく、どれぐらいの割合で頻発してたのかその度合いがわからないのでモヤモヤする。しかし「女性がまったくいない情況に男性が長期間おかれる」という情況は同じである。
これからすると、植民地や新規の開拓地などでも、女性の少ない情況なのだから多発するのではないかと推定できる。
植民地でも新規の開拓地でもないところで、似たような情況がありうるかどうか考えると、領土に比して人口過剰な情況というのが考えられる。人口が順調に伸びてしまうと、田畑が分割相続されて農民は貧農へ転落していく。かといって一括相続すると、相続できない多数の人間があぶれる。人口が増大傾向にある社会というのは国内が平和で経済発展期にあたることが多く、経済発展期というのは同時に貧富の差が拡大する時期でもある。昔は一夫多妻はごく普通のありふれた話だから、勝ち組の男は奥さんを何人もかかえることが出来る。負け組は人間の嫁が手に入らない。夫婦生活を営むに必要な資産がない。「畜犯せる罪=馬婚牛婚鷄婚犬婚」が男の問題であって女が関係ないのは、一夫多妻制があるからだ。

同性愛と近親相姦は?
獣姦にはしる前にホモにいくだろう、とも当然考えられるが、ホモはさして問題でない。というのは、古代では(というか前近代では)日本だろうが海外だろうがほとんどの地域では同性愛に寛容な文化圏が多かったから。ただ、同性愛も人間同士のつきあいだから、あまりに性格に問題のある人間は、同性が余ってても相手を確保できない。ホモでもレズでも立派な人間はいくらでもいるってことはありえるのでそれだけでは罪とされないのである。が、異性からも同性からも、とにかく人間から嫌われるやつが獣姦にはしってるのならば、それは人格的に問題があるからお祓いの対象となる、つまり性格の悪さが穢れの一種とみなされてるわけだろう。
「上通下通婚」は近親相姦のことだが、『大祓詞』では同じことが「己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪」と、くどくどしく言い換えられている。これだと「母と息子」だけが問題視され、「父と娘」は度外視されてるような印象を受ける。だが前述のように「男があぶれる」という人口問題(もしくは一夫多妻という婚姻制度の問題)としてみれば、男はそもそも嫁がいないのだから娘が存在せず(父にならない)、女は(一夫多妻制だから)結婚相手の男が不足すること自体がない(父を夫の代用品にする必要がない)わけなのである。そしてこの母子相姦は、病理としては同性愛と獣姦の中間段階と考えられる(同性愛は格別に病気というわけではないが人口のアンバランスという環境によって強要された場合を一種の社会病理と仮定)。つまり他人に相手にされない(同性愛もできない)問題児でも、家族からはやむなく許容してもらえる、または家族からは(出来が悪いほど)特に愛されるということはよくある。その家族も死に絶えて(もしくは家族にすら見捨てられて)獣姦しか残らなくなる、という順番なのである。
もし古代日本が一夫一婦制に拘った社会で、一夫多妻が厳格に禁じられていたら、「己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪」は「己が親犯せる罪・己が子犯せる罪・親と子と犯せる罪・子と親と犯せる罪」と書かれたところだろう。実際に「父と娘の近親相姦」という例も多少はあったからこそ『古事記』では単に上通下通婚(おやこたはけ)と書いてるのかも知れないが。

原因は人口問題
話を戻すと、近親相姦や獣姦が社会問題となるぐらいなんだから、当時の日本は人口過剰だったのではないかと思われる。
当時の日本(特に九州)が人口過剰だったと思われる件については、「三韓征伐」の頁に書いたのでそちらを参照。

☆見当はずれな保守派の啓蒙運動

2679年(H31=新年号元年)・2月 改稿
今日は平成29年2月11日(祭)の紀元節。今回は建国記念日にまつわるお話。
昨年は神武天皇即位から数えて皇紀2,676年だったわけだが、神武天皇は在位76年で崩御してるので、崩御から数える「正辰祭」(仏教に喩えれば年忌法要みたいなもの)としてはちょうどぴったり2600年祭にあたる年だった。
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なので東京在住でもこころある一部の人の手元にはそれ関連のパンフやチラシの類が届いていたらしく、一年遅れではあるが俺もそれっぽいものをみた。神武天皇二千六百年大祭についてはレポ記事や関連動画などもネット上にあるので適当に検索あれ。
善意で古伝承を歪曲する人たち
(※後日かきます)

見当はずれな「保守派の啓蒙運動」
(※後日かきます)

戦時中・戦後右翼・今の保守、3派のうち「八紘一宇」の解釈で正しいのはどれ?
(※後日かきます)

☆萬邦無比の國體?

2679年(H31年=新年号元年)2月改稿 H27年11月17日(火)初稿
ここに1枚のプリントがある。H27年11月13日(金)に代々木の「日本文化興隆財団」に行ったら、受け付けに前回の資料として置いてあったもの。「君主制国家の一覧」と題され、世界の君主制国家全29カ国とその人口、現在位中の君主の名が表になっている。この29カ国はヨーロッパ・アフリカ・アラブ諸国・アジア・オセアニアの5地域に分類されてる。他にイギリス連邦に加盟してイギリス国王を元首とする国が15カ国あげられている。この表の下には「(参考)東京書籍『世界各国要覧10訂版』(平成12年刊)」とあり。またその下には「各国における最近時の君主制の歴史」と題し、日本・イギリス・スペイン・サウジ・ドイツ・ロシア・トルコ・イラン・中国・韓国のそれぞれの王室の発足から廃止までを年表にとってその長さを帯で表している。これは「(参考)加藤雅信著『日本社会入門1天皇』平成16年、大蔵省印刷局刊」とあり。
世界の君主制
人口の大小が関係あるのか?
まず最初の表は、人口の大小しか比べる部分がない。日本が1億2641万(H12年)で断トツに多い。2位のタイが6千万台、3位の英国が5800万。4位スペイン3900万。2000万台がモロッコ、サウジ、ネパール、マレーシア。1000万台がベルギー、オランダ、カンボジア。しかし人口が多ければ偉いというなら中国が一番偉いわけで、君主制と人口の大小は格別に関係あるようでもないが…。

地域別の傾向
地域別には欧州10ヶ国で最多、アラブ圏とそれ以外のアジアがそれぞれ7ヶ国づつ。アフリカ3ヶ国、オセアニア2ヶ国。昔は天皇制廃止を訴える左翼に力があったので、保守派はいろいろな天皇制擁護論を展開してものだった。進歩派がなにかと欧州は進んでる、欧州を見習えという割に、実は君主制の国は欧州に多いのだ、これは歴史が古く継続してるからであって、アジア、アフリカ等の悲惨な植民地の歴史をもってる国にこそ君主制は少ないのだ、とかなんとか言ってたものだ。その程度の理屈で左翼が「はい。わかりました」と言うわけもなかったわけだが。

国号の問題
これらの国々の国号みると「○○王国」が16ヶ国で最多、大公国が1,公国が2,首長国が1.そして政体の表示がついてないのが9ヶ国。この9ヶ国のうちスペインは正式名称を特に決めておらず「スペイン王国」といっても特に間違いではない。バーレーンはH12年の頃とかわって現在は「バーレーン王国」になってる。マレーシアとサモアは、複数の王家(もしくは首長家)が交代で元首なり国王なりになる仕組み。これもかなり変わってるので、国名に出してないのか。アラブ首長国連邦の場合は各州の首長とは別に連邦の大統領がいる(実際には有力な首長が大統領を兼任してるとしても)んだが、マレーシアは首長が首長のまま輪番制で元首になる。サモアは首長と元首が別々の概念なのだが、事実上一致してるというややこしい仕組みで、共和制なのか君主制なのかよくわからない。日本にたとえていうと憲法に天皇条項がなくて大統領制なのに、歴代大統領は皇室からしか出ない、みたいな感じのものらしい。
まぁこれらの国々は事情はわかったが、問題は残りの5ヶ国、オマーンとブルネイ、カタールとクウェート、そして日本だ。
オマーンとブルネイは君主号がスルタンなので、訳せば王国にあたるだろう。カタールとクウェートは君主号がアミールでこれは「首長」と訳されてる。しかしバーレーン王国の王様はスルタンではなくて「マリク」といい、スルタンよりはデフォルトで王に意味が近い。アラブ諸国で国名に「王国」とか「首長国」とかつけない例があるのは英語に翻訳しにくいために国連に登録する時に略してしまうのか、あるいは独裁的で民主主義が名ばかりの国が多いからあまり君主制の国だって強調したくないのかな。または、単にアラブ圏の風習でいちいち国名の後ろに政体をくっつける習慣自体が根付いてないのか。(日本で根付いてるのは明治時代に一生懸命西洋語を直訳して使おうと努力した結果)
で、最後に残った日本。日本はなぜ日本国で政体がついてないのかな? まぁ政体くっつけると帝国になっちゃうのだけどね。天皇はemperorと訳されてもkingとは訳されないので「日本帝国」にしかならんよね。これGHQに「帝国とかやめろ」と言われてそのままずるずる現在に至ってるだけなんで、もうそろそろちゃんと「日本帝国」というべきじゃね?

歴史の長さ(王室の古さ)
最後の表の10ヶ国のうち、現在も君主制国家なのは日本・英国・スペインで、イギリスが1066年発祥になっていて日本を除くと一番古いが、これってノルマン朝から英国王室の歴史としてるわけだな。スペインは1479年からになっているがこれはカステラ王国とアンゴラ王国が合併してスペイン王国が出来た年からの勘定。他でやや長いのは1299年建国のオスマン・トルコ、1392年建国の李氏朝鮮。(その他の国は省略)
日本は表の左側に接して(抜けて?)いて、この表が西暦何年を日本の建国とみなしているのか読み取れないが、目盛り均分でみると表の左端は西暦400年ぐらいに当たりそうにみえる。大和朝廷の日本統一がそれぐらい(巨大古墳の出現、広開土王碑文あたり)という説に基づいてるのかな? それにしても日本だけが異常に長くみえるような表になってる。まぁエチオピア王国の方が日本よりずっと古いんだけどね、今はないけど。現存中では日本が古い。しかし、そもそも制度自体が同じ君主制といっても千差万別で、それぞれ異質でそれぞれの文化なり特徴なりがあってのものだろう。単純に古さを数字で競って、優劣を決めることが出来るのかな? 最後の表なんか皇紀2600年をもちだすまでもなく、西暦400年の段階で他国よりも圧倒的に古いってことを示してどうしたいのか? 外国よりふるけりゃいいってのは相対評価じゃないの? 俺はあいつよりは勝ってるって話でしょ。西暦400年で済むなら紀元前660年の話はどうなったんだ、あの話なくていいじゃん。あんまり史実っぽくない神話めいた話はむしろ迷惑ってことなのか? 一体どういうことだってばさ。
こういう表で見せるってのは、わが日本の歴史が古いってことの大雑把な目安と感覚的な刷り込みにはなる。が、歴史が古いってこと自体が素晴らしいのだということが、これだけだと説明不足で伝わらないだろう。断絶がないってこと自体は、伝統文化に継続性とそれから派生する安定性や豊穣性をもたらしてる。ただし、こういう話は「そもそも君主制自体が悪で、けしからんものだ」と思ってる人には何の意味もない話だろう。江戸時代に水戸学者や国学者が、我が国の「萬世一系の國體」を誇ったが、それは王朝交代の頻繁な中国に対して誇ったのであって、そもそも「民主主義が正しく、大統領制がすぐれており、君主制は野蛮で未開な文化の名残り」ぐらいに思ってるような連中に対して万世一系を誇っても、何のことだか話が通じないだろう。

☆八紘一宇と天壌無窮

2679年(H31年=新年号元年)2月改稿 H27年11月16日(月)初稿
二月十一日は「建国記念の日」だがこの日付は日本書紀の記述を明治になって太陽暦に換算したもの、というのは常識だが、それ知ってるだけでは足らない。日本書紀にある天照大神から瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にくだされた■天壌無窮の神勅の全文と、神武天皇が即位の際に発せられた■橿原奠都の詔の全文くらいは日本人の最低限の教養として覚えておくべき。古事記にもそれぞれの該当箇所があるからよく探してみれ。
建国記念「の」日?
ちょっと気になるのが建国記念「の」日。この「の」字がどうしてもひっかかる。これは建国記念日法案を通す時に社会党を黙らすため(というか社会党に妥協して)「2月11日は日本が建国された日じゃない」けども、この日に建国をしのぶ日にする、という、もって回った訳の分からない理屈でつけた名前だよね、皆様ご存知の通り。当時の自民党が、念願の建国記念日法案を通すために知恵を絞ってやっと実現にこぎつけたという苦労はわかるけど、それから何十年もたっていまだにこんなアホな呼び方を我々がし続ける必要あるのか? 普通に堂々と「建国記念日」といえばいいんじゃないの? つか本当はGHQに禁止された戦前の「紀元節」を復活させるための法案だったわけだよ。普通に堂々と紀元節」っていえばいいんじゃないの? そこんとこどうなのよ?

日本建国の理念とは?
ところで、「橿原奠都の詔」は昔は「八紘一宇の詔勅」といったのではなかったか? 橿原奠都の詔と言っても間違いではないが、これだと単に都を定めたというだけに聞こえる。この詔勅がいってるのは日本建国の理念は一言でいえば「八紘一宇」である、ということで、ここがミソなわけだろう。新田均先生の本を読んだ人の中には、「八紘一宇」は島地黙雷とか田中智学とかのナンミョウ系の造語で世界侵略主義だからよくなくて、正しくは「八紘為宇」だ、という人がいるのだが、それは間違いです。八紘一宇も八紘為宇も同じ意味です。万世一系も天壌無窮も皇統連綿も同じ意味であるように、漢文ってのは文字をかえていろいろな言い方するもんなのよ。八紘一宇は間違いだけど八紘為宇は正しい、なんて左翼の言葉狩りみたいな物言いはやめてくれよな。八紘一宇の詔勅はこれ↓

『日本書紀』原文
…頼以皇天之威、凶徒就戮。雖辺土未清、餘妖尚梗、而中洲之地、無復風塵。誠宜恢郭皇都、規摸大荘。而今運属屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常、夫大人立制、義必隨時。苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寳位、以鎮元元。上則答乾靈授國之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇。不亦可乎…

読み下し
(前略)…皇天(あまつかみ)威(みいつ)を頼(かがふ)りて、凶徒(まがひと)就戮(はら)はれぬ。辺土(とがき)いまだ清めえず、餘妖(しこ)なほ梗(あら)ぶるとも、中洲之地(なかつくに)、風塵(さはり)無し。誠(まさ)に皇都(みやこ)を恢郭(ひら)きて、大荘(みあらか)を規摸(た)つるべし。今運(くに)屯蒙(わか)く民心(たみ)朴素(すなほ)にして、巣に穴に棲住(す)み、習俗(くにぶり)惟常(かはらず)とも、それ大人(をさたるもの)制(のり)を立(さだ)むれば、義(ことわり)時に隨(したが)はむ。苟(いやしく)も民に利(かが)あらば、何(いかに)ぞ聖造(みち)に妨(そむ)かむ。山林を披拂(ひら)き、宮室(おほみや)を經營(をさめつく)りて、寳位(あまつひつぎ)を恭(つつ)しみ臨(しら)して、元元(たみくさ)を鎮むべし。上(かみ)は乾靈(あまつかみ)の國を授けたまひし徳(のり)に答へ、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(まさみち)を養ひたまひし心(みこころ)を弘めむ。然る後(のち)、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あまがした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(な)さむ。亦(また)可(よ)からざらめや…(後略)

現代語訳
天佑神助によって叛賊は成敗された。辺境(外国)はいまだ平定されず暴虐の徒が残っているが、幸いこの日本は平和になった。まさに都を定めて宮殿・政庁を建てる時である。(辺境の)発展途上地域では民心も純朴であり、あいかわらず(家もなく)樹の上や洞穴に住んでいるというが、指導者が良い政治をすれば、かならず結果がでる(彼らも家に住めるようになる)だろう。民のためならば何をやっても道理からはずれることはあるまい。今こそ山林(=未開の象徴)を拓いてわが家(=皇居・政庁)を建て、天皇に即位してすべての庶民を安心立命に導くのだ。これは、上は天照大神の「地上を統治せよ」との神勅に答え、下は天孫ニニギノミコトが高千穂峰に天降り地上を平定し、平和を実現した趣旨を布教することにもなる。そうして(=家を建て即位して)都(の宮殿・政庁)が国内を統合するように、地のはてまで覆う屋根で世界を一つの家のようにしようではないか。できないことではあるまい。

海外への関心の発端・飯氷命と御毛沼命
津田左右吉は神武天皇の存在を否定してる癖に、この八紘=天下ってのは大和盆地の外のことで神武天皇はとりあえず大和だけ征服したんだ等と矛盾したことをいってるが、漢文の「八紘」の語意は全世界のことだから、八紘一宇は海外の国々とも統合していこうという趣旨であって、なんの問題もない。日本を平定した後に、じゃ次は海外へ、というのは昔ならごく普通の発想だろう。しかし神武天皇の念頭にあったのは兄二人、飯氷命(いなひのみこと)と御毛沼命(みけぬのみこと)だったろう。御毛沼命は「浪の穂を跳みて常世国に渡った」とあり、この常世国は外国である。「浪の穂を跳みて」ということごとしげな表現は大海原を横断していくようなニュアンスだろう。跳躍の「跳」の字を使っていることも注目。「常世国はあの世で海の底に沈んだんだ」等という意味ではない。また飯氷命は『新撰姓氏録』に「稻飯命は新羅國王となった」とある。つまり神武天皇が海外に関心を示したのは、兄二人の行く方を探すという趣旨もあったものと思われる。常世国信仰は西は熊野から東は常陸までの東海地方の海のはてにあるとされた国で、そこから南に向かえばフィリピンとかインドネシア、ニューギニアがありうる(中国だったら漢(あや)とか呉(くれ)とかいって常世国とはいわなかったろう)が、黒潮に流されたなら北米大陸に行き着く可能性が高い。新羅は孝霊天皇の時に、天之日矛(あめのひぼこ)が渡来してきて、これが飯氷命の子孫だろうと思われ、その後、開化天皇・崇神天皇・垂仁天皇と三代に渡って朝鮮半島との関係が出てくる。そこでもう一方の御毛沼命の子孫はどうなったんだということで話題に上がり、垂仁天皇の時に多遅摩毛理(田道間守)を常世国に派遣することになったんだろう。
神武天皇は、自分の兄弟である飯氷命と御毛沼命が海外に生きていると確信して、よしやその二人がどこか未知の国に土着して帰国しなかったとしても、その二人に象徴される海外の国々と日本は、自分ら兄弟と同じように、国同士も兄弟国になれるはずだと夢想したのではないだろうか。
八紘一宇_築地

なぜ日本の始まりが二つあるのか?
ところで、天壌無窮の神勅は天孫降臨の時のもので、八紘一宇の詔勅は神武天皇で、時期が違う。そのため、日本の始まりが2回あるかのような印象になってる。
邇々藝命の天降りをもって国の始まりと考えるのは、奈良時代まで(もしくは平安時代前期まで)根強い発想であり、神武天皇よりもはるかに重大視されていた。これは「原初の王」または「王朝」そのものの起源が、人間世界の起源(人類の起源)と結びついているという神話的な世界観に基づく。
各種の祝詞等でも、なにかの起源を語り出したり、皇朝の権威の源泉を語ったりする場合、神武天皇をもちだすのではなく天孫降臨をもちだすことの方が圧倒的に多い。
大和言葉では『日本書紀』でも諸々の祝詞でも、(国を)「はじめる」も「たてる」も同様に天孫降臨についていう。

神武天皇から始まるという観念は中国式である
時代がくだり、神話的世界観よりも中国の漢文の歴史が学問とみなされるようになると、中国式の歴史書に準じて初代天皇である神武天皇の即位こそ日本の始まりだという認識が自然と湧いてくる。
ただし古い時代の大和言葉では神武天皇の事績について(国を)「たてた」とか「はじめた」とか、あまり言わない。これらの表現は現代語風な和語であって、古い時代の表現としては何か違和感を感じる。
神話(先代旧辞)と歴代天皇の物語(帝皇日継)は、それぞれに名があることからも、本来は別々に考えられていた。これが一体のものとされたわけは、海外から異質な知識体系が伝来して後、それとは別の、民族固有伝統土着文化=ヤマトの知識体系という一括りの枠が認識されるようになったからであろう。
とはいえ、『古事記』本文は、上巻(神代記)と中・下巻(神武記以降)との間の異質さはあるにせよ、『日本書紀』ほど設計的に区分の形式を与えようとはしておらず、また本文中で神武天皇を初代であるとは必ずしも明解には語ってないのである。これは記が本来の形のまま先代旧辞(上巻)と帝皇日継(中・下巻)を単純に並べただけで、それ以上の印象操作をしなかったことによる。
神武天皇から区切る発想(=神代のことはひとまず置く発想)は、大陸で『漢書』以降に定まった「断代史」(王朝交代ごとに、つまり一つの王朝ごとに歴史を区切り、自我の所属対象を設定したり、世界観の単位としたるする王朝観)の形式の影響下で生まれたものである。『日本書紀』は明確にその形式に準拠して編纂された。紀においては神武天皇が「初代」であることは強調され明記されている。しかし歴代天皇の歴史を物語る書物の巻頭に神代の物語をおき、両者を一体としたのは、同時進行で編纂されていた『古事記』の影響だろう。
この、中華風の歴史書の体裁を希求する先には、当然、より徹底した『大日本史』がある。『大日本史』は神武天皇から始まる。神代については志類(分野別の付録)の「神祇志」の中の、前半部として扱うにすぎない。江戸時代の『大日本史』において神代と人代の分離は徹底された。
上述のように、古い時代の大和言葉では、天孫・邇々藝命について「いにしえ天降りて国を建てたまひし神」とも「国を肇めたまひし神」ともいわれるのに対し、神武天皇についてはそのような表現はみられない。神武天皇をことさら建国の始祖とみなす発想は、すでに述べたごとく、シナの歴史書の影響を受けた後世の人間や、荒唐無稽な神話を回避しようという近代人の合理主義根性によって生まれたのである。
日本の始まりは神武天皇ではなく、邇々藝命の天孫降臨である。神武東遷は大化改新や建武中興や明治維新みたいなもの。

八紘一宇と天壌無窮の思想上の関係
世界は一つ、という八紘一宇は空間に対する普遍主義だが、これは天壌無窮、万世一系という時間に対する普遍思想を横倒しにして空間に転写したものである。

☆なぜ「兄」だけ叛いて「弟」ばかりが帰順するのか

H30(2018)年11月7日改稿 H27(2015)年11月13日(金)
神武天皇の大和でも戦いの時の敵側の兄弟の話。
竹内健の「太郎次郎神」仮説
(以下、続きは後日執筆予定)

☆3「国王」をコニキシと読むのは間違い

H30年10月3日改稿 H27年12月9日(水)初稿
『古事記』に出てくる外国の王
p.217の<神功皇后の新羅親征>の章から、初めて外国の君主というものが出てくる。外国の君主をさす言葉は「國王」3回、「國主」5回、固有名詞1回で古事記には計9回で、人数にすると5人。このうち百済王が1人、新羅王が3人、新羅王子が1人。百済王は「照古王」、新羅王子は「天之日矛」という固有名詞が伝わっているが3人の新羅王は固有名詞は不明なので仮にA、B、Cとする。

p.218「其國王」「新羅國主」(神功皇后に征伐された新羅王A。『日本書紀』には名が波沙寐錦(はさむきん)とあり)
p.237「百濟國主」「照古王」(照古王というのが名。応神天皇時代に朝貢してきた百済王
p.243「新羅國王」(天之日矛の父新羅王B
p.244 p.245(l.4 l.9)「其國主之子」(天之日矛のこと)
p.284「神良國王」(允恭天皇の時代、薬方を知る大使「金波鎮漢紀武」を派遣してきた王新羅王C

普通に大和言葉で読めば「國王」は「くにきみ」、「國主」は「くにぬし」だろうが、同一人物に対して「王」の字も「主」の字も使っており意味の区別は無さそうだ。本居宣長は王の字をすべて主の字に統一しているが、わざわざそこまでするほどのことにも思われない。そして宣長は「國主」をクニヌシとは読まず、当時の韓の言葉だとしてウシキ(于斯岐)と読んだという話がネットのどこかにあったような気がするのだが、ウシキというのは『日本書紀』にでてくる任那人の名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかき)という名の頭の3文字だろう。なぜこれが「國主」の意味になるのかわからない。しかし『古事記伝』にあたってみたら宣長はウシキとは読んではいない。コニキシと読んでいる。

新羅の「國王」は「コニキシ」ではない
『日本書紀』が外国の王をコニキシと読ませているので宣長もそれに倣って同じく読むのだといっている。『周書』という中国の歴史書の中に百済の王の称号は「鞬吉支」(こんきし)というとあり、本当はコンキシなのだが、昔の日本語には母音なしで子音だけのン[n]の表記が無かったので[n]を飛ばしてコキシと表記したか、母音[i]を補ってコニキシと表記してた。この「鞬吉支」が『日本書紀』の古訓のコニキシと同じ言葉だろうとは宣長も気づいていた。だから、コニキシはあくまで百済の王号であって、新羅や任那や高句麗の王号ではないことも宣長は知っていた。宣長はさらに、朝鮮の歴史書によると新羅は「尼師今」という称号を使っていたことがわかるので、ここはニシキンと読むべきかとも思われる、とまで言っておきながら、しかし『日本書紀』では新羅の王もコニキシと読ませているのでそれに従う、といっている。つまり間違いではあるが、昔からそう読んでるようなのでここは便宜的に昔からの間違いのままに読む、といっている。『日本書紀』には手厳しい宣長にしては随分な態度じゃないか? いつもの宣長なら『日本書紀』の粗雑な誤りを批判するところだろうに…。宣長はコニキシの語源がわからず、外国の王ならすべてあてはまるような語源なり意味なりを想像していたのかもしれない。それにしても『古事記』にでてくる国主はほとんど新羅王ばかりで百済王は1人しか出てこないのにすべてコニキシで押し通すのは酷いんじゃないの?
平田篤胤は宣長のように一律にコニキシと読むのには異議を唱えた。コニキシは百済王のことで、新羅王の場合はムキン(寐錦)が正しいとした(この場合のンは[n]でなく[m]なので、母音を補えばムキムまたはムキミとなる。ニシキン(尼師今)のンも同じでニシキミまたはニシキムとなる)。
これはどう考えても平田篤胤がまともで、宣長のいっていることはおかしい。まるで理屈になってないように思える。百済の王はコニキシで、任那の王はカンキ、高句麗の王はオリコケ、みな違う。それぞれ民族や文化の違う国なのだ。新羅の国王をコニキシと呼ぶのは、中国の皇帝をスルタンと呼んだり、ソ連の書記長をマハラジャと呼んだり、イギリスの女王を大汗(ハーン)と呼んだり、イスラムのカリフを天皇と呼んだり、ローマ教皇をファラオと呼んだり、天皇を書記長と呼んだり、アメリカの大統領をカリフと呼んだりするようなもので、そりゃおかしいだろう。宣長のやってることはこれと同じだと思うんだが、どうなの?

尼師今(ニシキン)か寐錦(ムキン)か?
宣長は新羅の「國王」の読みの案としてニシキン(尼師今)も考慮に入れていたことはさっき言った通りだが、篤胤のムキン(寐錦)とは一致していない。ニシキンというのはムキンの訛りで、同じものだという説もあるが、何か証拠があっての話なんだろうか? ニシキンがムキンに訛るようには思えないんだが。
実は新羅王の君号がなんなのかは簡単な問題でない。新羅王は時代によっていろいろな称号を使っているのでややこしい。朝鮮の歴史書『三国史記』によると初代は「居西干」、第2代は「次々雄」、第3代から18代まで「尼師今」、19代から22代まで「麻立干」。第22代の智証麻立干の在位4年めの時(AD503年)麻立干を改めて初めて「国王」と称したという。『三国遺児』は尼師今を「尼叱今」と書き16代までが尼叱今で17代から麻立干だとする。
ところが『三国史記』も『三国遺児』も後世に編纂されたもので信頼性が低い。『三国史記』で第5代の婆娑尼師今は『日本書紀』では「波沙寐錦」と書かれ、尼師今ではない。17代の奈勿尼師今は『三国遺事』では奈勿麻立干だが、広開土王碑文の中では「新羅寐錦」とかかれており尼師今でも麻立干でもない。
450px-Chungju_Goguryeo_Stele.jpg
19代の訥祇麻立干は、中原高句麗碑文では「東夷之寐錦」と呼ばれており麻立干ではない。また前述の通り第22代の智証王の時に麻立干から国王にかわったはずだから、23代の法興王は最初から「国王」でなければおかしい。だが蔚珍鳳坪碑によると法興王の君号は「寐錦王」となっている。つまり新羅の歴代の王の称号は実際には「寐錦」だったのであり、AD503年に麻立干を改めて初めて国王と称したというのも実際には「寐錦」を「寐錦王」に変えただけだったことがわかる。

蔚珍鳳坪碑によって6世紀の新羅は「葛文王」と「寐錦王」の二重王制だったことがわかる。「葛文王」というのは『三国史記』に頻繁にでてくる。追封の王号だというのだが情報が少なく、親身説・崇上説・地名宮号説・準王説・父系相続制への過渡的現象説・王室尊重説があるがよくわからないとされてきた。「寐錦王」は502年以前には「寐錦」だったのだから、「葛文王」も「葛文」だったんだろう(三国史記はすべて「葛文王」に書き換えている)。考古学的な事実としては502年以前の新羅王の王号は「寐錦」であって「居西干」も「次々雄」も「尼師今」も「麻立干」も存在しない。しかし丸切りのデタラメでもあるまいから、「葛文/寐錦」の存在と矛盾ないようにうまく説明できなければなるまい。長い間、あれこれ四苦八苦して考えてきたが、「居西干」も「次々雄」も「尼師今」も「麻立干」もどうも王号ではなくて個人名の一部か、もしくは日本でいうカバネのようなものらしい。高麗時代の漢文仕込みの知識人はカバネなんてものは理解を超えているので王号とカン違いしたのだろう。

2chからのコピペ
ほとんど俺が一人でしゃべってるw

51 :世界@名無史さん:2015/09/06(日) 21:03:20.12 0
新羅の国王の称号が居西干、次次雄、尼師今、麻里干と耳慣れない名前なんですがこれらは一体どういう意味なんでしょうか?

52 :世界@名無史さん:2015/09/07(月) 07:50:08.08 0
昔氏なんじゃない???
今の朝鮮半島にはない本貫!

53 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 13:49:14.25 0
>>51

>次次雄

ススオだから、スサノオと何らかの関係があるのではないかという人がいるのだが。

54 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 18:26:34.00 O
>>51
王は複数の部族の回り持ちだろうか

55 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 18:41:11.73 0
>>51の質問には韓国の歴史学者でもまともに答えられそうにないな

56 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 19:26:32.61 0
面白い時代が全く無いのが逆に凄い朝鮮史

57 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:15:51.70 0
>>7
白頭山って中朝国境の山だろ?エベンキと全然場所が違うじゃないか
シベリアに北上したのか?それにサハ共和国はヤクートだろ?エベンキはもっと西と違うんか?
>>23
高句麗は貊族 新羅に住む濊族に近い種族 扶余は百済と済州島に移住した民族

58 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:19:40.21 0
>>53
次次雄がどうやったらススオになるんだよ
ジジユウな

59 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:30:36.34 0
エベンキ含むツングースの故地はアムール川流域だろ

60 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:35:35.94 0
麻里干はマライヒでいいのかな

61 :世界@名無史さん:2015/09/09(水) 20:56:09.81 0
麻里干?麻立干(まりつかん)のことか
麻立は切株という意味、干は首長の尊号で語源は鮮卑族等遊牧民が使っていた汗(かん)と一緒

62 :世界@名無史さん:2015/09/10(木) 04:06:56.89 0
麻立干は「麻袖干」の誤字って説もある。
この場合「立」は「袖」の誤記じゃなくて略字または異体字とも考えられる。
だが多分「麻立干」も「麻袖干」も「麻袖立干」の略表記だろう。
さらに「麻袖」を略して後半だけ書いたのが「楼寒」
切り株だって説は8世紀の金大問の説でどこまで信用できるかわからない
「麻立」じゃなくて「麻袖立」か「麻袖」が正しかった場合、切り株説は成り立たない
新羅は寐錦王と葛文王の二重王制だったんだけど、それを一元化する動きがあって
実権をもってる方を麻袖立干といった。だから三国史記で麻立干とされてる王が
実際には寐錦王だったのか葛文王だったのか三国史記みてるだけだとわからない。
三国史記みてると騙されてしまうが、実際には尼師今の呼び方を麻立干に変更した
というわけでもなく、麻立干の前は尼師今といってたというわけでもない。
三国史記は中国の王朝みたいに一元的な王が代々続いてるって思い込みで
原史料を解釈してるから真に受けてはだめ。

63 :世界@名無史さん:2015/09/10(木) 04:23:27.16 0
次々雄は覡(男の巫)の意というがこれもどこまで本当が不明。
「慈充」とも書くので日本語のチチ(乳)と関係づけて女王だった
という説もあるがこの説も思いつきの域を出ず、信憑性はないだろう。
男巫説をとる場合、シャーマニズムが支配していた社会だからというが
なぜ第2代の一人だけが男巫なのかそれだけでは説明がつかない。
男巫というより神官のようなものと思ったほうがよさそう、
これは王号えはなく、建国途中の草創期に一時的にでてきた役職で
葛文(政治担当)と次々雄(祭祀担当)で
二重首長制やってたのではないか、この時まだ正式な王はいなかったと思われ。

64 :世界@名無史さん:2015/09/18(金) 00:17:54.27 0
>>62は>>51,>>60-61へのレス

>>63は>>51,>>53,>>58,>>へのレス

65 :世界@名無史さん:2015/09/19(土) 09:34:37.33 0
>>52
尼師今は昔氏の称号だった可能性はないでもない

ちなみに昔氏ってのは朝鮮に残ってないと言われがちだが実は3000人ほどいるらしい
もっとも、一姓あたりの人口がでかすぎる朝鮮の基準からでは
3000人クラスだと「ほとんどいない」に等しいのかも知れない

66 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 05:16:55.22 0
>>51,>>65
三国史記の尼師今は広開土王碑や日本書紀、出土した新羅王碑文では
すべて寐錦になってるから、寐錦が正しいのだろう
安直な解決として尼師今は寐錦が訛ったものと言われ勝ちだが
尼師今と寐錦が同語源だとか同意語だとか詳細に検討した研究はなく
寐錦がはたして尼師今に訛るのかどうかもあやしい
三国史記と三国遺事は一度全部の称号を「王」に書き換えてしまった原資料
(崔致遠の『帝王年代暦』)を後から粗雑に復元してものなので、
寐錦をしらずに尼師今で埋めてしまったものらしい
(そのため三国史記と三国遺事では尼師今と麻立干の境目も2代ずれてる)
実際のところは寐錦と尼師今は別々の称号で、葛文や次々雄や麻立干のように
使い分けられていたのではないかと思われ

67 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 16:55:59.72 0
葛文って国王の弟の称号とかになっていたよな
真徳女王の父、国飯(真興王の弟)も葛文王と呼ばれていたような

68 :世界@名無史さん:2015/09/21(月) 18:42:43.85 0
弟じゃなくて父の弟、つまり叔父とかじゃない?
後見人っぽい存在らしいから王より歳上と思う

あと三国史記だとただの称号みたいな扱いにされてわかりにくいけど
二重王制なんだからどの王の時の葛文王かって問題がある
生まれてから死ぬまでずっと葛文王だったのかどうか
死ぬまでってのはわkるとしてもいつ葛文王になったのかは重要
三国史記の記述だとそこらはわからなくなってる

69 :世界@名無史さん:2015/09/22(火) 18:53:13.34 0
>>66
尼師今ってのは直訳すれば「歯」のことで
歯が多い=年齢が高い=「有徳者」って意味だというがどうなのか?
歯ってのは乳歯から永久歯に生え変わる段階でも増えるが13歳で生え揃ってしまうので
高齢や長寿とは関係がない。歯が高齢長寿の象徴なのは、入れ歯のなかった時代、
歯がなくなった老人にまた歯が生えてくることがまれにあり
これを日本では「みづは(瑞歯・稚歯)」といって長寿のしるしとされた。
新羅にも似たような例が知られていたのだろう。
漢字の「齢」も歯の生え方のことでこれで年齢の違いがわかるから年齢の意味になる。
しかし尼師今が本当に歯の意味なのかどうかはわからない。

これは俺の憶測だが
長寿がどうして王の意味になるのか?長寿だと有徳者で、だから王?かなり苦しくないか
(金大問の解釈説は麻立干の切り株説にしろ尼師今の歯説にしろコジツケっぽい苦しい説明が多い)
これは王ではなく、この称号を長寿のにこじつけるための当時の言葉でのダジャレ説明だったのではないかと思う
金大問の時代にはすでになぜ長寿にこつじけなければならなかったのか不明になってしまっていたので
長寿者=有徳、だから王、という二重のコジツケをしたものだろう
…という可能性もないではないが、あくまで俺個人の推測。実のところなんとも判断のしようがない。

それと、奈勿と実聖の2王は、三国史記では尼師今、三国遺事では麻立干とする。
なぜこの違いが生じたのか。尼師今から麻立干へ、王権が強大化した過程ぐらいに軽く流されて
あまり注意が払われないが、そんな単純なものじゃないだろう
尼師今は実は(その時期は)存在せず寐錦だったことと
>>62で書いたとおり麻立干と寐錦は別次元の称号であること等からいって
この2王の称号には、もっと複雑な経緯がある。

70 :世界@名無史さん:2015/09/23(水) 18:25:57.97 0
17代奈勿は中国に朝貢した時は「楼寒」と称しこれは麻立干のことだとされているから
奈勿が麻立干だったのは疑いなく、確実な史実とみていい。
(広開土王碑文では奈勿を麻立干とも楼寒ともよばず「東夷之寐錦」と呼んでるが)
だから三国遺事は、16代訖解までが尼叱今(三国遺事は尼師今を尼叱今と書く)で奈勿から麻立干と判断したんだろう。
ではなぜ三国史記は2代もずれてるのか。恐らく18代実聖が麻立干だという確証が得られなかったからだろう。
三国史記は麻立干より前は一律に尼師今にしてしまってるのと、無駄に漢文が読めて
漢字の「字義」でこじつけるのが好きなため楼寒と麻立干の「音」の一致に気づかなかったのだろう
それで三国史記は実聖までが尼師今、19代訥祇から麻立干と判断したわけだ
以上の考察からして奈勿は麻立干であって尼師今ではないのだから
三国遺事が正しく三国史記は間違いなのかというと、そう簡単でない。
実聖が麻立干だったら三国史記の異説は生じない。しかし尼師今でもないのだから
実聖の称号はなんだったのか?という問題が生じる。

71 :世界@名無史さん:2015/09/26(土) 00:39:17.34 0
居西干は高句麗語の「古雛加」だろうというのが有力説。
古雛加は高句麗国内において王に次ぐ最上位の貴族たちの称号。
隋書に高句麗が魏の将軍貫丘倹に撃破された時の残党の一部が南下して新羅を建国したという伝説が記されていることから
初代の赫居世居西干はその時の新羅を建国した高句麗人を、年代を遡らせたものではないかと思われなくもない。
しかし三國史記だと新羅王の系統はそれ以前から続いておりここで王朝交代があったようにみえない。
新羅本紀には245年に高句麗兵が攻めてきたとあり、これが年代的には逃亡した高句麗軍の南下に相当する。
(魏軍が高句麗本国を撃破した年を三國志は246年とするが
貫丘倹碑文が出土しており242年が正しいことが判明している)
248年には高句麗と講和しているから、一部新羅に迎えられて留まった者たちがいたとしても多くは本国に引き上げたんだろう。
(後世の新羅の貴族層にも高句麗系を自称する者がいないし)
246年に辰韓のうち8国を帯方郡の管轄から楽浪郡の管轄に移そうとしたのは
この南下した高句麗兵の捜索と追撃のためで当初はこちらに高句麗王が紛れ込んでる可能性もあった。
ところがそれに馬韓が反発し二郡と戦争になった。二郡は太守が戦死するほど苦戦したが結果的に勝利。
百済本紀にはこの年楽浪郡を攻撃したがすぐ謝罪したとある(246年)。
つまり辰韓馬韓はなぜか高句麗兵を迎え入れて匿おうとしているようには思えるが、
逃亡中の高句麗軍には先住民を征服して新羅を建国するような力はなかったろう。
だから3世紀に古雛加を自称する高句麗人が新羅に寄寓していたとしても、
初代の王号に使われるいわれはないように思う。

72 :世界@名無史さん:2015/09/28(月) 17:54:19.90 0
だが「古雛加=居西干」という言葉自体は高句麗建国以前からあってもおかしくない。
古雛加は高句麗の王の一族(王の兄弟や王子)が称する号で、他に、高句麗五部のうち
絶奴部と消奴部の首長も特別に古雛加を称することが許されていた。
桂婁部の首長がいわゆる「高句麗王」。
おそらく順奴部と灌奴部の首長は他の2部のような世襲首長ではなく
王の兄弟や王子が補任されたのだろう
結局、王領である桂婁部以外の4部の首長が古雛加だったのではないか。

古雛加はもとは王にも該当する首長の称号だったのだろうが
高句麗侯を中心に5つの県侯が連合して高句麗王ができた時、
古雛加たちの上位に「王」ができたので
それまでの古雛加たちは王に次ぐ最上級貴族ということになったのだろう
従って、新羅初代の赫居世の称号「居西干」(=古雛加)も
その段階ではまだ王号だったのである

73 :世界@名無史さん:2015/09/30(水) 00:19:56.47 0
古雛加に似たものとして匈奴の左賢王・右賢王が浮かぶ
左が「東部方面」、右が「西部方面」を表し帝国を五部に分けて
東南は左賢王、東北は左谷蠡王、西南は右賢王、西北は右谷蠡王
そして中央は単于(=遊牧民の皇帝)の直轄。で5つの地域。
中央には左骨都侯・右骨都侯がありこれは単于の側近。定員各1で6人。

高句麗の古雛加は常時数人はいたらしいが定員のようなものはわからない
高句麗の五部制と古雛加の定員に関係があったのかどうかも不明
百済(475年以前の前期百済)にも左賢王・右賢王があった
(百済にも五部制はあったが左右賢王とは関係ない)
辰韓には「右渠帥」という地位があったので当然「左渠帥」もあったろう
また衛氏朝鮮の最後の王は「右渠王」といい史記では固有名詞扱いされているが姓も不明であり
これは西方面軍の将軍という意味で、当然「左渠王」もいただろう
衛氏朝鮮の「左渠王・右渠王」も辰韓の「左渠帥・右渠帥」も、
匈奴や百済の「左賢王・右賢王」と同じ趣旨で、左が東部方面、右が西部方面を表す
前2世紀の衛氏朝鮮の「右渠王」がいた場所は平壌で、後1世紀の辰韓の「右渠帥」がいた廉斯とは今の忠清南道の西北部だという。
朝鮮半島全体では南を東、北を西ということがあり、赫居世が前1世紀としてその頃の慶州
(後に新羅の王都)が「左渠王」「左渠帥」の位置として考えられる

74 :世界@名無史さん:2015/10/01(木) 19:59:33.62 0
そうすると新羅の初代、赫居世の称号である「居世干(古雛加)」とは辰韓の「左渠帥」のことだったとわかる
匈奴の左賢王・右賢王の「賢」は匈奴語の「屠耆」だが、百済の左賢王・右賢王は意訳で、匈奴語ではなかろう
匈奴語なら左骨都侯・右骨都侯の「骨都侯」が「古雛加」と音が近く語源的にも関係ありそう
骨都侯は単于の后の実家の者で、トルコ語の「qudu:義父」に漢語の「侯」がついたものという説がある
高句麗でも絶奴部の首長は高句麗王に妃を出す家柄なので「古雛加」を称するという
「古」の上古音は[kag]、「雛」の字は日本語読みではスウ。日本上代語(万葉語)で父を「かそ」という。
高句麗語と日本語は類縁だという説が思い出される
「ちち」が義父・養父・伯父・叔父まで含む広い意味で「かそ」が実父、生みの親だが
語源からいうと「かそ」は子供を数える説(岩波版日本書紀の注)、または彼の処=外の人説(白川静)、稼ぐ人説
「ちち」のチは乳、血、精液など、霊的な力ある液体をみなチといったのが語源
語源からすると本来はカソが義父でチチが実父だったのが後に逆転したものと思われる
「骨都[トルコ語:qudu]」「古雛[上古音:kadzu/中古音:kotsu]」「かそ[kaso]」は同語源で「父(義父)」の意味だろう
百済の左賢王・右賢王の「賢王」も、辰韓の右渠帥の「渠帥」も、漢字で意訳したものだから
原語は「古雛加」や「居世干」に近い発音だったと推定できる。

75 :世界@名無史さん:2015/10/02(金) 19:51:15.69 0
>>71-74は>>51(居西干)へのレス

>>67(葛文王)
1988年に発見された蔚珍鳳坪碑文からすれば524年の時点では寐錦王と葛文王の二重王制だったことが明らかだが
『三國史記』や『三国遺事』は辛うじて葛文王という称号を断片的に伝えるのみ。それどころか
『日本書紀』によれば第5代婆娑は尼師今でなく「波沙寐錦」であり
広開土王碑文によれば第17代奈勿は尼師今でなく「新羅寐錦」であり
中原高句麗碑文によれば第19代訥祗は麻立干でなく「東夷之寐錦」であり
迎日冷水碑文によれば第22代智証は麻立干でなく「葛文王」であり
蔚珍鳳坪碑文によれば第23代法興王は、王は王でも「寐錦王」だった
しかるに『三國史記』や『三国遺事』は金石文に一切あらわれない尼師今をもちいるばかりか
寐錦王/寐錦という用語をまったく伝えておらず史料としての信憑性が疑われる。
『三國史記』がいう「503年に君号を麻立干の君号を改め新羅国王とした」という記事は、
それまでの葛文・寐錦という称号をそれぞれ葛文王・寐錦王に改めたという意味だと考えるしか選択の余地がない。
従って『三国史記』に表れる葛文王のうち503年以前のは、もともとただの「葛文」であり「葛文王」は後世の追記だろう(続く)

76 :世界@名無史さん:2015/10/03(土) 22:40:28.88 0
葛文王は、王の父・伯父叔父・妃の父(つまり舅)・王の兄弟・女王の配偶などに与えられる称号だが
『三國史記』や『三国遺事』からはその詳細や正確なところはわかりにくい。
最初の葛文王である日知葛文王は儒理尼師今の兄でもあり同時に舅でもある
次ぎの許婁葛文王は婆娑婆尼師今の舅
三人めの摩帝葛文王葛文王は祇摩婆尼師今の舅
してみればもともとの意味は「王の舅」=「王の義父」だろう。だからまさに「居西干」(古雛加)と同義である。
(続く)

77 :世界@名無史さん:2015/10/05(月) 00:11:23.73 0
「左渠帥・右渠帥」の渠帥は根本的にいって意訳(既存の漢語)だから音写の可能性を考える必要はないが
渠は上古音[giag](ガ)中古音[gio](ゴ)、帥はスイ[siued→siui]とソツ[siuet]の二音があり
カス・カソ・コス・コソの音写も兼ねているとみることもひょっとしてもしかしたらアリかもナイかも

葛[上古音:kat]は、古雛加の「古雛[katsu]」にあたる。では「文」は何か?
高句麗末期の独裁者、淵蓋蘇文(姓が淵氏、名が蓋蘇文)の高句麗語の読みはイリ・カスミ(伊梨柯須彌)だったことが日本書紀からわかるが
これによって高句麗人は「文」の字をミと読んでいたことがわかる(蓋蘇文=カスミ)
しからば葛文の文もミと読んだ可能性がある
(新羅語はむろん高句麗語ではないが、当初から独自に新羅語という特定言語が存在したわけではなく
高句麗百済語(夫余語)、馬韓語(先住民語)、倭語、漢語(辰韓語)などが混淆してできたものである)
ところで蓋蘇文は西部の大人(消奴部の首長)だったというから、3世紀に遡る伝統によって「古雛加」を称することが許されていたはずである。
それだけで彼が古雛加だったことを推定するに十分ではあるが、
栄留王を殺害して宝臧王を擁立した時に「本来の古雛加として」自分の娘を宝臧王にあてがった可能性もあろう
(ただし蓋蘇文の娘が妃になったことは歴史書にはみえないから俺の個人的な憶測にすぎないが)。
ところで『後漢書』は古雛加を「古鄒大加」としている。雛と鄒はほぼ同じ音を写した字として問題ないが
古鄒大加は「古鄒文加」の誤写ではあるまいか。「大加」という言葉が他にでてくるのでそれに引きずられて誤ったものと思う
つまり古雛加はもともと古鄒文加の略称であり、蓋蘇文は本名ではなく古雛加(古鄒文加)の土着語的な表現だと思われる
(加は遊牧民の「汗」の語源で、大人(首長)の意味)
古鄒文[katsumi]が原語で、葛文[katmi]はすなわちその「新羅訛り」だろう

78 :世界@名無史さん:2015/10/06(火) 20:27:20.34 0
古鄒文加から逆推すれば503年に葛文王と改号される以前には「葛文干」だった可能性もあろう
また居西干も誤記で「居西文」だった可能性もなくはない
(大・丈・文・干・天などは相互に誤写されることのある文字)
「加」または「干」がつくかつかないかでは多少意味が異なる
「骨都・古鄒・居西・葛・古鄒文・居西文・葛文・かそ・かすみ」は義父(=舅)または父そのものに近いが
「骨都侯・古鄒加・居西干・古鄒文加・葛文干」は「義父をふくめて父にも相当する地位の称号」の意味になろう
とするとやはり初代の赫居世は居西「文」ではなく居西「干」でよさそう
葛文王は「葛文王」に書き直されるの前には「葛文」だったか「葛文干」だったかは
時代によって異なる(ただし503年以降は「葛文王」のままで正しいが)

ちなみに日本で上皇の住居を仙洞御所といいその訓を「かすみのほら」という
「仙人の住む山奥の霞のかかった洞」という意味だが
仙洞を訓読みするなら、まずは「やまびとのほら」となるだろう
カスミとはもしや「父身」(かそみ)という古語の残存ではないだろうか
もっともそれいうなら「かすみの宮」という用例がないのが弱みだが
「かすみの洞」が本来の形ならやはり「霞」でいいような気もするが
まぁそういう連想もあったという程度の話で(続く)

79 :世界@名無史さん:2015/10/07(水) 21:23:39.29 0
「舅」も平安時代には「しひと」と言っていた(シヒト→シウト→シュウトと訛ってきた)
シヒトとは「しる人」この「しる」は「治める・領する」の意味。これを敬語にしたのが「しらす」
一般の民間でも妻の父が大きな力をもっていた頃の名残りだろう
平安時代といえば天皇とその外祖父である藤原氏摂政関白が思い起こされる
自分の外孫を幼少のうちに即位させ、自分は摂政として政権を握るというのは藤原政権の最終形態だが
天皇が幼少でない場合、舅または外祖父が関白となる
これは葛文王が王の舅であり、婿である寐錦王と共同統治する体制に似ている
天皇と摂関は形式上はまだ君臣上下の関係だが
新羅の場合はお互いに対等の王家である。そこで記紀に書かれた初期の皇室の歴史をみると
遠縁の皇族が皇位継承する場合、先帝の一族の女性を皇后に立てるケースが
顕宗天皇から光仁天皇まで少なくとも6例ある
これらの場合、先帝と新帝は義父と婿の関係になる。新羅の三王家も相互にこの関係を繰り返した
ただし日本の場合、先帝はすでに崩御しているケースがほとんどで
舅(義父)というより配偶女性(皇后)の権力が大きかった
これは後に女帝になっていくわけだがそこも新羅の女王の出現と同じで
新羅もまた女性(王妃)の権力がもともと大きかったろう
また実の父子の場合でも、奈良平安の頃から一貫して上皇のほうが権威があったので
院政時代になって急に逆転したわけではない。

葛文王が父(または義父)の意味なのだから寐錦とは息子(または婿)の意味ではないかと察せられる。
ムコ(聟)の語源は「迎える子」だの「向かう子」だのいわれるが庶民的な語源俗解で取るに足らない
ムスコ(息子)と関係ありそうだが不明。ともかく「コ」は男性をあらわす語尾だから語根は「ム」
寐錦(ムキン)とは「息子・君」の意味ではないだろうか
寐錦の「錦」も尼師今の「今」も[kiem]で語尾の子音は[n]でなく[m](続く)

80 :世界@名無史さん:2015/10/09(金) 00:14:37.13 0
神話の三機能説(F1,F2,F3)で
第3代儒理と昔脱解はF3、初代朴赫居世はF2、第2代南解と金閼智はF1に関係する伝承がある。
これでみると朴氏だけは初代から第三代までがF2、F1、F3にそれぞれ対応しているが
各氏の初代だけで比べると朴氏がF2,昔氏がF3,金氏がF1に対応している。
この伝承が単に神話として構成された作り話でなく、もしも史実を反映しているとしたら、
初期の新羅は三王家が交代で王になったのではなく、
祭祀権・軍事権・財政権に三分して同時並立していたことになる。

称号でみると次々雄は男巫だからF1に相当している。
とすると可能性としては居西干はF2、尼師今はF3に対応しているかもしれない。
これを再整理すると「朴氏=居西干、昔氏=尼師今、金氏=次々雄」となる
金氏は初代から6代目の仇道まで代々即位してないことになってるからこれといった称号も記録されてないが
実は次々雄という地位を世襲していたのではないか
とすると、尼師今というのは誤りで正しくは寐錦だったとされ勝ちなのであるが
尼師今と寐錦は語源も語義も別々の称号だとすると、
尼師今が含む長寿の意味はF3に含まれる機能の一部だから昔氏の8人の王だけは寐錦でなく尼師今だったというのは史実の可能性が高い。
(偶然か必然か、日本書紀や新羅碑文から寐錦だったことがわかっている王の中に、昔氏の8人の王は含まれていない)
尼師今(歯=歯が多い=年長、長寿=有徳者≒資産家)
居西干(古雛加)は骨都侯や左右賢王など遊牧民の指導者に由来するように
(また「渠帥」という漢訳の文字からしても)軍事的指導者であり王というより将軍に近い
二重王制どころか三重王制(というより三権分立?)の可能性がでてきたわけだが
語源的には「居世干」と「葛文王」は同語なはずで
そうするとこの三重王制と「寐錦×葛文」(息子と父)の二重王制との関係はどうなってるのか(続く)

81 :世界@名無史さん:2015/10/10(土) 23:11:14.36 0
葛文と寐錦の二重王制を日本と比較した場合、
実の父子と観れば院政、聟と舅と観れば皇室と摂関家の関係が浮かぶのは前述のとおりだが
さらに新羅三王家に似た情況として持明院統と大覚寺統の両統迭立がある
この時は例えば持明院統の天皇が在位している場合、皇太子は大覚寺統から出るという決まりだが
この時代は治天の上皇が実権者で天皇は実権がなく皇太子のようなものといわれたから
形式上の皇太子は実質的には「皇太子の皇太子」であって二代先まで決めていたわけだ
新羅の場合もこれに非常によく似ており、
葛文が上皇で寐錦を天皇とみれば、または葛文が天皇で寐錦が皇太子とみれば
異姓間で王位をたらい回しにするための制度とみることができなくはない。

また古代エジプトでは、先代ファラオの実の息子であろうが赤の他人であろうが、
先代のファラオの皇女の配偶でなければファラオになれなかった。
こちらのほうも新羅の例によく似ている
葛文と寐錦が「舅と聟」ばかりでなく「父子」の例もあるのは、王位の追号とは限らないだろう

これらから考えると二重王制は次ぎの王が誰かをめぐって内乱になることを事前に避けるためのものであろうかと思われ。
この場合、次ぎの王が自分の息子(同姓)であろうが、娘聟(異姓)であろうが、趣旨は同じ。

そうすると「寐錦×葛文」の二重王制は
どうやら「三統鼎立」を安定的に維持するためのものだったと想像はつくが
そしたら今度は「そもそもなぜ新羅には王家が三つもあるのか」という問題にいきつく(続く)

個人メモ
朴氏の初代は慶州盆地の六邑の長が迎た

その問題にいく前に、麻立干に戻りたい
神話学の三機能の話がでたついでに、高句麗でも同じように初期王権神話に三機能がでてくる。
初代朱蒙(東明王)がF1、二代類利(瑠璃王)がF2、三代無恤(大武神王)がF3だというのだが
吉田敦彦

さて三國史記を表面的にみると最初の葛文は日知葛文王だがこれは問題がある

時代が下がっていくと金氏の同姓間でも葛文王が普通になっていくが
初期の頃は異姓の舅に限っていたと思われるからだ
日知は第3代儒理の義父でもあるが兄でもあり朴氏同士の同姓婚となっている。
だが日知は後に第9代昔伐休の舅になっているから葛文王になったのはこの時であって
第3代儒理の義父になった時はただの同姓の伯父であってまだ葛文王にはなってなかったのではないか。
第7代朴逸聖の舅の名は朴支所礼王であって葛文王とはされてないのだがこれも朴氏で同姓なのである

そうすると実のところ最初の葛文王は日知ではなく
第5代婆娑(朴氏)の舅である許婁葛文王(金氏)こそが最初の葛文王だったのであろう
この婆娑尼師今は『日本書紀』では「波沙寐錦」と書かれ文献上確認できる最初の「寐錦」だ
つまり最初の「寐錦」と最初の「葛文王」がすでにセットになっていたことがわかる

はじめ赫居世が居西干の地位についた時、この居西干は韓の「左渠帥」の意味であり王ではなかった
第2代南解が次々雄になったのも父赫居世が死んだから王位を継いだのではなく
赫居世は生存してあいかわらず居西干=左渠帥の地位についており
ただ長男の南解に祭祀を司らせただけだったのだろう(次々雄=祭司長)
居西干の地位を引き継いだのは弟の日知で、後世の三国史記では日知葛文王と書かれるが
この日知葛文王はこの段階ではまだ葛文干で居西干のことと思われる
同じく第3代の儒理が尼師今になったのも父の南解が死去して後を継いだのではなく
息子の儒理に一般行政(内政・財政)を担当させたという意味。
儒理の後、昔氏の脱解が尼師今を継いだがこれは昔氏が朴氏よりも莫大な財産をもっていたから。
尼師今という地位は資産家でないと務まらない。以後、昔氏が尼師今の地位を世襲。
また金氏が登場して、南解の死後は次々雄の職は閼智が継いだと思われる
もともと赫居世は軍事的征服者で平定の後は一時的な軍政ぐらいで役目は終わり
昔氏は財政問題のために朴氏が招き寄せたもの。金氏が最初から新羅王の本命だったと思われる
なので南解が次々雄になったのも、儒理が尼師今になったのも、金氏と昔氏が到着するまでの便宜的な措置だったとみられる
儒理の甥にあたる婆娑は金氏の許婁の娘と結婚したので朴氏と金氏の婚姻がなり
両家を結ぶ婆娑が新羅王にふさわしいとなった。それで婆娑は「寐錦」許婁は「葛文」の称号を帯びて
二重王制が始まった

屠耆をモンゴル語の「čige:正直」、トルコ語コイバル方言の「sagastex:賢」
匈奴語の「賢」は意訳で匈奴語では「屠耆」(シャキ)といったという。屠はトでなくシャ(尸とった者が音をあらわす)

P. Boodberg(1936年)は、この官が単于族の姻族に占められていることより、トルコ語の「qudu:義父」に漢語の「侯」が付いたものと解し、
白鳥庫吉(1941年)はモンゴル語の「khutuk」、トルコ語の「kut, kutluk:威厳神聖」に比定し、
L. Bazin(1950年)は「幸福をもたらす者」の義を有する古モンゴル語「qurtulγu」であると想定した。

☆2三韓征伐

H30年10月2日改稿 H25年5月15日(水)初稿
この記事は仲哀天皇即位から新羅征伐までを扱う。
仲哀天皇のあらすじ
ここのところのあらすじは、まず熊襲の反乱があり、仲哀天皇が熊襲征伐のために九州にきている。しかし神託があって「熊襲はさておいて新羅(しらぎ)を討て」ということになったのだが、神勅を信じなかった仲哀天皇は神罰をうけてあえなく崩御。「次の天皇は妊娠中の皇后の胎の中の子であるぞ」とのご神託により、天皇を胎に宿した神功皇后が摂政に。その皇后が軍を率いて海を渡り、新羅を征服した。…という話なのだが。

問題点
70年代くらいまで、遅れて野蛮な日本が、文化の進んだ先進国の朝鮮に攻め込むことができたはずがない等というアホ丸出しなことを真顔をいう連中がいくらでもいたものだが、さすがに最近はそんなのは団塊世代の老害のぞいてめっきりいなくなってきた。実際は、朝鮮の歴史書『三国史記』の新羅本紀には、倭国が新羅に攻め込んだ話がこれでもかというぐらいたくさん出てくる。なので、それらの中のいずれかが、神功皇后の軍だということは最初から容易に想像できたことだ。学界でも当時の倭国が朝鮮半島南部に何らかの権益を有していたことは大筋認められているようだ。これは一回か二回出兵があったかどうかなんてことよりも、重大なことのはずだが…。「何らかの」なんて言い方は、かなりボカした言い方で、まだまだタブーというか気まずい空気が学界にはあるんだろう。
まぁそこまではいいのだが、神功皇后の新羅征伐を事実だったと認める人であっても、「なぜこの時期に?」ということを深く考える人はあまりいないのではないか? よくあるのは、次の二つの言い方で、一つは、古墳時代になって畿内の生産性があがり巨大古墳を作るような国力の蓄積があり、その国力が外へ溢れ出たのが朝鮮への出兵になったという言い方。この場合、生産力というのが農業のことなのか、統一政権ができて海外貿易の窓口一本化したことによる収益(貿易の独占)のことなのか、その両方なのか判然としないがともかく。もう一つはあとは倭の五王の倭王武の上表文にあるように、日本列島の諸国が統一されて、国内戦争がなくなってしまい、それで余力を海外に向け…。という、豊臣秀吉の唐入りみたいな話。

神武天皇から成務天皇までのあらすじ
記紀に準拠して考えると、神武天皇から孝昭天皇まではなんとなく平和そうだが、孝安天皇から徐々にあやしくなり始め、崇神天皇の時に、疫病で日本人が滅亡した。『古事記』にはほとんど全滅しかかったとあり、『日本書紀』には国民の半分が死んだとある。この時がドン底で、近代国家であっても国民の50%がいきなり死ぬような疫病があれば、国家機構が崩壊してアナーキーな社会が現出する。それこそ『北斗の拳』みたいな世界になりかねない。崇神天皇は神々を祭って疫病を止め、制度を改め国を立てなおして、四道将軍を派遣した。
が、北陸道と東海道は平定したものの、奥羽が課題として残り、これは後にヤマトタケルの物語に続く。また四道将軍のうち山陰方面を担当した彦坐命(ひこいますのみこと)は、出雲がうわべに服属の姿勢を表したので山陰の東部、但馬に留まり、出雲勢力は温存され、最終的な平定はヤマトタケルに持ち越された。そして九州は四道将軍の管轄外。ヤマトタケルが征伐した九州、出雲、奥羽の3ヶ所は四道将軍が行けなかったところなのである。

なぜ熊襲が反乱したのか?
熊襲は、かつて倭建命によって平定されたはずだが、その次の世代になって早くもまた反乱が起こったのはなぜかという疑問がある。崇神天皇以来、四道将軍、そしてヤマトタケルと、ヤマト朝廷は外へ広がっていったわけだが、これを戦乱の時代というのは正しくない。戦争は外延で起こってるのであって、その内側はどんどん景気がよくなっている。ちょうど戦国時代が日本全体でみると戦乱の時代なのに、有力な戦国大名の領内では人々が平和と繁栄を享受できたのと似たようなことだろう。平和と繁栄の下では自ら人口増加率があがる。農民は田畑を分割相続しているとあっという間に没落してしまうから、ある程度分割が進むと相続からあぶれてしまう人が大量に出てくる。そういう人たちは新天地を求めて移動する。フロンティア=辺境を求めるのだから東国の人は奥羽を、西国の人は九州を、とりあえずめざすだろう。奥羽は未開拓の地が多いのと、当時はそもそも東国の人口は西国ほどではなかったこともあり、急にどうこうはなかったが、九州は歴史の古い土地だからもとから人がいて、国内の他の地域と同様、人口過剰気味だったところに移民が吹き溜まったために、主だった平野部には耕すべき土地はすでにまったく余ってなかった。やむなく、山中に入って段々畑や畑を作るがそれもすぐ一杯になる。山に入ったものの、そこも人だらけで土地がない。かといって狩猟採集に従事しようとしても、古くから伝統的にそれやってる連中が先にいるので、過剰人口は歓迎されない。切羽詰まった彼らは、やむなく山賊稼業に転身するわけだ。(クマもソも険しい山奥という意味の地名であって、そういう部族や種族がいたわけではないことは別の記事で詳しく書いた)
つまり、熊襲が反乱したというが『日本書紀』では実際は「貢納せず」で、ヤクザや愚連隊や与太者集団だから決まった税金も収めないで独立国家よろしく好き勝手やってたってことなのである。16世紀の西洋の国家権力の及ばない海賊島みたいもの。

人口問題とその解決
そういうわけですべての原因は、人口問題だったのである。人口問題の解決は、海外への移民しかない。だからご神託では新羅のことを「金銀財宝で目がくらむような国」といってるのは、戦前の移民政策で満州やブラジルが夢の新天地であるような宣伝文句で移民を釣ったのと似たようなことだろう。もっとも戦前の移民奨励の宣伝文句はいんちきもあったが、ご神託にはいんちきは無いので、新羅が(ある意味で)黄金の国だったのは本当だ。ただし新羅国内では金鉱もかなりあったようだが鉄鉱の方がメインで、黄金は満州方面からの輸入も多かったのではないかと思う。

「新羅」(しらぎ)という国
(※後日に書き足し予定)

新羅征伐はいつなのか
上述の通り、倭軍が新羅に攻め込んだ事件は歴史上にたくさんあるのだが、そのうちどれが神功皇后の新羅征伐に該当するかは以下のようにいくつもの説がある。
AD391年説
『日本書紀』では神功皇后が新羅を服属させた時、微叱許智(みしこち)なる者を人質にとったとある。微叱許智は『三国史記』では未斯欣と書かれ、402年に倭国に人質にされた。402年の直前にある倭兵の襲来はというと、新羅本紀には393年の事件として倭軍が攻めてきて新羅の都を包囲した話がある。ここまでだけなら393年説ってのがあるよ、で終わるのだが、明治13年に発見された広開土王碑の碑文によって、391年に倭人が半島に攻め込んだ事実が明らかになった。そこで、学界では神功皇后とはいわないが、任那日本府(的なもの)の起源として、広開土王碑文の事件(倭兵による391年の半島攻略)をあげる見解が多い。『三国史記』もその史料的な価値を疑おうと思えば疑えるわけで、碑文の方がより信憑性はある。神功皇后実在説の中ではたとえば安本美典も珍しく学界の趨勢に従って(?)この391年の事件を重視していたような記憶がある。貝田禎造の説では神功皇后の新羅征伐は390年とする。この説は二倍暦どころか四倍暦に基づく計算だから問題外だが、実質的には391年説と同じ事件ということになり、まぁ広い意味では「391年説」のバリエーションとみられる。ただ、391年説の問題点は、第一に広開土王碑文の記述はたまたま残った記録であって長い年月の間に起こった事件の中から大事件をピックアップしてくれたものではない。ゆえに数多い「倭国からの侵攻事件」の中から碑文にあるからという理由だけでピックアップするのは妥当でないということ。第二に、393年の新羅王都包囲戦は倭国が敗けたことになっている(393年の事件は碑文でいう400年の戦いのことだろうが今はふれない)。むろん対高句麗戦争という全体からみれば局地戦で敗けただけだが、対新羅関係としてみれば局地戦だろうがなんだろうが敗けているので、神功皇后の戦争には該当しない。第三に、微叱許智が人質になったのは『三国遺事』では390年のことという(『三国遺事』では美海、未叱希、未叱喜と書く)。もしこっちが正しければ391年の戦争より前になってしまって具合がわるい(とはいえ微叱許智の件に関しては、別な時の人質を神功皇后の巻に書き入れたのは書紀の誤りだとして済ませることもできるが)。第四に、仲哀天皇が崩御したはずの壬戌年は、391年前後のあたりに近いとなると362年と422年であって、あまりにも間が空きすぎ、記紀の古伝承と整合性がとれない。第五に、碑文によれば情況は391年から404年までの13年間にもわたる「倭と高句麗との戦い」であって「高句麗征伐」とはいえても「新羅征伐」とはいえない。新羅や安羅や百済も参戦国として出てくるが、あくまで脇役にすぎない。393年の記事は新羅本紀の記事だから新羅目線で書かれているが、碑文に語られた情況の中に位置づけると、大動乱の一幕にすぎず本筋じゃない。あくまで新羅征伐だとする古伝承とあわない。
AD364年説
前述のとおり『三国遺事』では美海(=微叱許智)が人質になったのは390年だから、それより前の戦争というと、かなり間があいてしまって少々具合がわるいが364年の事件がある。通説に従って倭王讃を履中天皇だと仮定した場合、仁徳天皇崩御の丁卯年を427年、応神天皇崩御の甲午年を394年として積み上げていくと、仲哀天皇崩御の壬戌年が362年となるので、その直後で『三国史記』新羅本紀に記されたいちばん近い倭軍の侵入はやはり364年の事件となる。wikipediaには364年説を大平裕の説としているが、同じ理屈を使って遡れば誰がやっても同じ結論になるから、この説は昔からありふれた説であって、大平裕が最初に言い出した説ではない。この説の場合、応神天皇が父帝崩後の364年の生まれだとすると実の父は仲哀天皇ではありえないことになるが、神功皇后の軍が新羅を征伐した時は応神天皇が生まれる前ではなくすでに生まれた後で2歳になっていたとすれば問題ない。この説が学界で有力でないのはそもそも神功皇后が実在だとされてないからで、このような当てはめは無意味ということだろう。むろん俺は実在したと思うけど、だからってこの説を支持するわけにはいかない。たとえばこの戦いでは倭国の側が敗けたことになっている。また倭王讃を履中天皇だとする最初の仮定が間違っていた時にはこの説は成り立たないし、古事記の崩年干支を何巡はさむか考慮せず単純に最短で積み上げるのは書紀の編年を不当に引き下げる目的でされている。
AD346年説
日本書紀の編年が干支2巡(=120年)引き上げられているという有名な説を機械的にあてはめれば神功皇后の新羅征伐は320年になるが、あいにく丁度その年には倭国による新羅侵攻はない。その近くで探すと26年前の294年と、26年後の346年があるが、前者は長峯城という一城を攻めただけの小規模な事件で該当するようにみえない(しかも新羅が勝っている)。後者は、気候変動の研究で有名な山本武夫もこの346年に倭国が新羅を侵略した事件を神功皇后の新羅征伐だとする(山本武夫は二倍暦説を使っているが使わなくても346年説は成り立たないことはない)。しかし、この戦いも新羅が倭を撃退したことになっているので具合がわるい。また今風な諸説の中では学界の風潮に逆らって最も古めに見積もっている説だとはいえるが、日本書紀の年代を引き下げていることにはかわりがない。仲哀帝崩御の壬戌は302年と362年で、やはり上記の364年説の場合と同じく整合しない。
AD233年説
『日本書紀』の別伝にはこの時の新羅王の名を「宇流助富利智干」(うるそほりちか)としている。それに付随して「一に云はく」として、この王が天皇を侮辱する発言をしたため、日本の将軍に殺され、短いエピソードを伝えている。それによると、新羅王を処刑して埋めた後、新羅宰(しらぎのみこともち:新羅を治める総督のようなもの、氏名不詳)を一人置いて日本軍は引き上げた。新羅王の妻が新羅宰を誘惑して、王の死体を埋めた場所を聞き出すと、新羅宰を殺してその死体を新羅王の棺の下に埋めた。天皇これを聞き知り新羅を滅ぼそうと派兵したところ、新羅ではその故王の妻を殺して謝罪したという。この王「宇流助富利智干」は『三国史記』に出てくる于老(うろう)と同一人物だというのが通説だ(姓が昔氏なので「昔于老」ともいうが、この時代の新羅にはまだ中国式の一文字姓は無かった)。『三国史記』によると、于老は有力な王族の一人ではあるが王ではない。231年に大将軍に就任し、233年に倭兵が侵入してきた時、于老は将軍としてこれを撃退した。244年「舒弗邯」(じょふつかん)に昇格。これは後世には位の名(正一位とか従一位みたいなもの)になったが、この頃は政治と軍事の最高指導者を指したもので日本で例えれば摂政と征夷大将軍を兼ねたようなものだろう。書紀の「助富利智干」もこれのことというのが通説で、ソホリチカと読むのが当時の新羅語だろう。244年から249年までの間のある時、于老は倭国の使臣葛那古(かなこ)の前で軽い冗談のつもりで天皇を侮辱する発言をしてしまい、それを伝え聞いた倭王は怒って将軍于道朱君(うどうしゅくん:うだのすくね?)に新羅を攻めさせたが、于老が謝罪したのでこの時は戦争にはならなかったらしい。だが于道朱君は于老を赦さず、249年(本紀では249年、列伝では253年)に于老は殺された。味鄒王の時(262年~284年)倭国大臣(氏名不詳)がやってきたので于老の妻(助賁王の王女で名は「命元」。命元夫人という)は接待を買って出て、宴会の席で倭国大臣を酔わせて殺した。倭人は怒って金城(新羅の王都)を攻撃してきたが勝てず引き返したという。しかし味鄒王の時には倭が攻めてきたという記事はなく、強いて探せば262年に金城の西門が焼け民家百軒が類焼したとあり、これが倭兵のしわざなのかな? ともかく、日本書紀と三国史記にはこのように細部は違うが似たくさい話がそれぞれに伝わっていて、通説では、もとは同一の物語だったろうということになっている。書紀のいうようにこの事件が神功皇后の新羅征伐の直後のことだとすると、神功皇后の新羅征伐は233年のことになる。ここで一つ重要なことは、神功皇后の遠征の最大の特徴というのはただの軍事行動ではなく超常現象を伴っていることなのだ。超常現象というと語弊があるが、神懸りとか占いの話ではなくて、異常気象のことだ。突風と大波が起こって日本の艦隊があっという間に新羅に到着、新羅の国土に津波が襲ったという。伝承の中ではそれは神功皇后に味方する風の神、海の神のしわざということになっているから超常現象といってもいいと思うが、要するに局所的な異常気象だろう。倭人が新羅を襲ったという記述は『三国史記』の中に夥しくでてくるが、戦争中に異常気象を伴ったという記事は、121年と233年の2回しかない(百済と新羅の戦争で大風が吹いたことも一度か二度あるがそれは倭国は関係してないので除く)。また仲哀天皇が崩御したはずの壬戌年も233年に最も近いのは182年と242年だが、182年に仲哀天皇が崩御して神功皇后の軍が新羅に攻め入るまで51年も間が空くとは考えられないから、神功皇后が新羅へ侵入していた時に仲哀天皇は負傷したまま九州で臥せっていたと仮定して、9年後に崩御したとすればなんとか辻褄あわないこともない。しかし、233年の戦いは侵攻した倭軍が于老に撃退されてるので、これが神功皇后の新羅征伐だというのは具合が悪い。
AD200年説
日本書紀の編年をそのまま西暦にすると新羅征伐は200年であり、日本書紀原理主義の西川権などはこの立場。が、丁度この年に倭人が攻めてきたという話も『三国史記』にないし、古事記で仲哀天皇が崩御した年にあたる壬戌年は182年と242年になるがどちらも新羅征伐があった200年とは離れすぎている(日本書紀原理主義の場合は古事記を無視するわけだが、「崩年干支重視説」はそうではない)。そもそも書紀は神功皇后を卑弥呼の時代にあわせるためにこういう年代設定にしているのだから信用できない。ちなみに『日本書紀』のいう200年の前後で、倭人が新羅に攻め込んだ事件を探すと、200年の前だと121年まで約80年さかのぼる。200年より後だと208年にある。208年のは国境での小競り合いで王都占領に及ぶような本格的な戦争ではない。121年説については後述。
AD121年説
『日本書紀』では新羅征伐の時の新羅王は「波沙寐錦」(はさ・むきん)としているが、これは『三国史記』でいう「婆娑尼師今」(ばさ・にしきん、在位80~112)のこと(寐錦と尼師今は王号であって名前ではない)。あいにくこの王の在位期間に倭国の侵入はないが、この王の前だと73年、後だと121年がある。73年のは木出島での局地戦だから除外していいだろう。121年のが3つの点で興味をひく。第一には、123年に倭国と講和したとあるからこの戦いは足掛け3年間の大戦だったことになる。第二に、大戦中の122年の干支が壬戌でこれは仲哀帝崩年干支と同じ。第三にこれが重要なのだが前述の233年説のところでいった異常気象の件。戦争中の122年に東から大風が吹いて木が折れ瓦が飛んだ。都の人々は「倭兵が大挙して来る」といい争って山谷に逃げたという。原文は以下の通り

『三國史記』新羅本紀 祇摩尼師今

十年(121年)(…中略…)夏四月、倭人侵東邊。
十一年(122年)
 夏四月、大風東來、折木飛瓦、至夕而止。都人訛言、「倭兵大來」、爭遁山谷。王、命伊飡翌宗等、諭止之。
 秋七月、飛蝗害穀、年饑多盜。
十二年(123年)春三月、與倭國講和。

これみると121年に倭が攻めてきたように読めるが、翌年の本軍とは別に先遣隊だろう。あるいは「夏四月」の重複誤写ではないかと思われる。その場合「倭人侵東邊」の五文字は「十一年(122年)」のほうの「夏四月」の下に続けて書かれていたのだろう。むろん原文通りだとしても特に支障はないが。仲哀天皇の崩御は書紀では二月、古事記では六月になっているが恐らくここは書紀が正しい。陣中なので崩御は秘匿され、情況の落ち着いた六月に崩御したことにして公表したんだろう。書紀は九月に進軍し十月に講和したことになっているが三国史記では前年四月から戦っており、122年の四月の大風が皇后の本軍の到着に相当する。これが本当なら九月も十月もまだ戦いの途中である。翌年三月は書紀では忍熊王・籠坂王の反乱とその鎮圧があった年だから、三国史記が講和を翌年三月としているのはつまりこの反乱は新羅と同盟した反乱だったのだろう。だから新羅との最終的かつ本格的な講和はそれが鎮定された三月だったわけ。

前述の西川権は、日本書紀原理主義に基いて新羅征伐はあくまで200年のことだとし、『三国史記』はその事実を隠すため80年前のことに書き換えたのだという。しかし、古事記の仲哀帝の崩御年とも『三国史記』のほうが一致し、むしろ書紀のほうが合わない。

『三国史記』は書紀よりも約400年も後の12世紀に書かれたのだから信用できないともいわれるが、新羅は滅亡せず、宮殿も役人も王族も古記録も、焼け落ちることなくそのまま温存されてそっくり次の高麗王朝に引き継がれた。だから古い伝承が残っている。史料的価値が低いのは高句麗本紀や百済本紀という大昔に滅ぼされた国の歴史を書いた部分であって、新羅本紀はそうではない。高句麗本紀や百済本紀は、新羅本紀からの転載や中国の歴史書からの記述で埋められ、独自の伝承はわずかで他愛もない与太話が多い。全体量も新羅と比べると圧倒的に少ない。

人質になった微叱許智は四世紀の人であることと、殺された宇流助富利智干は三世紀の人であることは動かないので、神功皇后紀に微叱許智や宇流助富利智干がでてくるのは書紀の間違い。どっちも神功皇后とは関係ないエピソードだが、対新羅戦争にまつわる有名事件をごっちゃに神功皇后の記事に押し込んだんだろう。これは通説でもある(ただし学界の通説と私の説では、伝承をひとまとめに神功皇后紀に押し込んだといってはいるが、学界ではその伝承をいちいち事実だとはみない。俺は神功皇后の時代にあてはめたのが間違いなだけで個々の伝承は史実だとする)。事実古事記の神功皇后記には微叱許智も宇流助富利智干も出てこない。
121年説の問題は、多くの説が天皇の長過ぎる寿命と在位年数を引き下げているのに、日本書紀は古くみせようと引き上げているのではなく(神功皇后を卑弥呼の時代にあわせるため)むしろ逆に約80年も引き下げているのだということになる。これについては日本書紀全体の編年論となり、神功皇后や三韓征伐だけの話で終わらないので別の機会にまとめることにする。

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☆皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・中編

昨日、平成30年9月12日(水)、ある人が現在、上野の東京博物館で開催中の特別展「縄文―1万年の美の鼓動」をみてきたっていう感動を興奮して語りだすのを聞く機会があったんだが。俺も実は先月の22日(水)に友人らと見てきたんだよね。で、その人がいうには縄文時代は世界的にも素晴らしい高度な文明だった、と。
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そして紀元前660年は東博のパンフによると縄文晩期であり、縄文時代に含まれる、と。こんな高度な文明があったのだから、神武天皇はやっぱり実在したんだ、と。まぁこのように力説されたわけよ。
…で。昔は今と違って縄文時代というのは階級の上下のない原始共産制社会で、クニだのもなくて木の葉や毛皮で作った服をきて完全に狩猟採集だけの未開部族がウッホウッホ言ってたっていうイメージで、弥生時代が始まるのは前3世紀とされていたから、元前660年といえば縄文時代じゃねぇか、こんな時代に神武天皇いたわけないだろということになっていた(とくに左翼が揶揄的にそんなこと言ってた)。それでも神武天皇はいたんだと言いたい場合、生存年代を弥生時代以降(つまり前3世紀以降)に引き下げる説にならざるを得ない。それが具体的にいつなのかはそれこそいろんな説があったわけだが、この条件下で最も古めに見積もると弥生の始まりと神武天皇が同時期になるわけで、つまり神武天皇の東征、建国が弥生時代の始まりだという歴史観ができる…。そう、原住民史観だなw もっともこれは『ムー』とかの超古代史の方面の話で、古代史マニアの世界(邪馬台国オタクとか)ではもっとめちゃくちゃ新しい時代まで引き下げるのが主流だから、神武天皇と「縄文から弥生への移行期」は元々なんの関係もない。ところが平成15年(2003年)に佐倉の歴博が炭素14C測定法で前10世紀にくりあげてからは紀元前660年にはすでに弥生時代だったことになり、昔の左巻きの論法からすると、逆に神武天皇がいてもおかしくはないってことになってしまった。ざまあ見ろってんだよなw もっとも当時から古く引き上げすぎだっていう批判もあったから、力技で「ちょうど前7世紀あたりが妥当だろう」といえばやはり神武天皇とこじつけ可能w(まぁそんなこというやつはいないんだけどね、一代あたりの寿命がどうたらの話で。詳細は後述)。
さて、今回の東博の「縄文展」では縄文の終わりと弥生の始まりが前4世紀だったか前5世紀の中頃になってたような気がする。これ東博の公式見解なんかね? 歴博が前10世紀にくりあげて話題になった時には東博も尻馬に乗って大々的に企画展やったのを覚えている。見に行ったもの。「古く引き上げすぎだ」って批判なんて、歴博・東博は無視してたよなw 今になって何事もなかったように引っ込めるとは…(それでも旧説よりは100年か150年引き上げてるが)。Wikipediaでは「縄文時代の終わりについては(…中略…)紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある」としてボカしている。「紀元前数世紀から紀元前10世紀頃まで」って、幅ありすぎだろうw これは諸説が乱立、対立してるというより、むしろ要するに縄文から弥生へという大昔の所謂「弥生大革命」みたいな「事件」があったわけでなく、長い年月をかけて徐々に移行してったって考え方に傾きつつあるってことじゃなかろうか。
…というわけで前置きが長くなったが、神武天皇の話題がでた記念に、以前に【前編】だけ書いてほったらかしだったやつの続きを。
(※多忙につき後日に執筆予定)

☆埴輪(はにわ)の日

(※書きかけ中)
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・うんこ大研究

H30年6月27日(水)改稿 H30年6月20日(水)初稿
ウンコに秘められたる大いなる謎
初代皇后様を紹介するのに、矢が流れてきて観音様を突いたって話だけでも「えっw」ってなるのに、その直前に唐突にトイレ内で大便しているシーンが出てくるってのが凄いな。日本書紀以上の、比ぶるもの無き、いとも尊き至高の神典にして「民族の大宝典」(by津田左右吉)たる神聖『古事記』に大便だよ! 世の中の普通の人たちが古事記の講演会とか勉強会とかに参加した時も、皆たいていは神妙にこれ読んで、何事もなかったような顔で取り澄ましてることが多いだろw なんだかなぁ。なんの驚きもなんの疑問の声もないって、おかしんじゃないのか? 俺がおかしいの? こういうことは触れちゃいけないの? しかも古事記の原資料になった語部(かたりべ)の伝承は、猿女(さるめ)という宮廷の巫女、つまり女性たちによって担われたという説も有力だが、女性の方が男性より汚物への拒否感が強いだろうに、なんて思うのはジェンダー差別でフェミのおねぇちゃんに叱られるんだろうか。あるいは時代差で性差を埋めることができるかどうか、古代人の排泄物や排泄行為に対する感覚は現代人とは違うんだというならそれでもいいが、それならどこがどう違うのか具体的に説明してくれや。糞便に霊威を感じていたから排泄行為は神事と同じく慎んで行うべきことだった、という説とか、どうなんかねぇ。それなりにもっともらしくもあるが、なんともいえない。一方、時代や性別が違っても、人間の感性にはかわらないと思われる部分もある。例えば、幼児ってウンコだのシッコだのって話が大好きだろう、そっちに話がいくとはしゃいじゃって笑いが止まらなくなることがある。これは男児でも女児でも古代でも現代でもかわらないんじゃないか? おとなでもウンコがどうのってタイトルをみれば、なにか笑わせにきてる記事なんだろうと察知するわけで、この記事を読んでるあんただって「ウンコ大研究」ってタイトルに惹かれて読んでしまったんじゃないの? 古今東西「笑い」には魔除けの効果(お祓いの効果)があるとされてる。糞便自体に魔除けの作用があるから喜ばれるのか、糞便の穢れを祓うために本能的に笑うのか、そこらはわからないが…。

うんこの本質的議論は可能なのか?
古事記でウンコが出てくる記事というと、伊邪那美命(いざなみのみこと)の排泄物から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘賣神(はにやすひこのかみ・はにやすひめのかみ)が生まれたという神話、天岩戸の事件で須佐男命が自分の排泄物を撒き散らしたという神話、この神武天皇の皇后伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)の母の件、あとは崇神天皇の時、建波爾安王(たけはにやすのみこ)の反乱軍が敗残して逃亡する時にウンコを漏らしたので屎褌(くそばかま)といったのが訛って久須婆(くすば)になったという地名起源譚(今の枚方市楠葉、ただし今の読み方はクズハ)、神功皇后の時の大祓(おほはらへ)の項目の一つに屎戸(くそへ)というのが出てくる。これで5件しかない。このうち須佐之男命の乱行に出てくるウンコは天津罪(あまつつみ)の話でまさに神功皇后の大祓に出てくる屎戸と同じことだから実質4件しかなく、地名起源譚はダジャレで説明するこじつけ話でウンコそのものの本質とは関係なかろうから、それ引くと3件しかない。これだけから古代人の排泄物(または排泄行為)への考え方を体系的に論じることは難しそうだが。天津罪について論じればこれだけで長大な議論になってしまうのでここで詳細を語ることはできないが、結論だけいうと屎戸をクソトと読んで呪術にむすびつける説は否定される他、排泄物に対する古代人特有のなにかを引き出すような分析結果はない。伊邪那美命は人間ではなく大地母神なので、大地からの排泄物は人間の排泄物とは物理的に違うものなので同一視できない。結局この話は、この話単体で考えるしかない。

大物主か事代主か
そういうわけで一旦ウンコの話は離れて考察しよう(ウンコの話にはのちほど戻ります)。
大物主が化けた矢が流れてきたんだから、姫がうんこしてたこの川は、三輪山のそばを流れてる川だと誰しも思い込みがちだろう。普通に地図から考えると三輪山の南の裾野を流れる大和川か、北の裾野を流れる纏向川とか。maxresdefault.jpg
しかし古事記では神武天皇のお后(きさき)比賣多々良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)が大物主神の子で、三嶋湟咋(みしまのみぞくひ)の娘、勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)が皇后の母だということになっている。矢につつかれたのは結婚前だろうから、親の三嶋湟咋のところで暮らしてたはず。この三嶋というのは律令時代の河内国三島郡のことというのが通説で今の大阪府茨木市・摂津市・吹田市・高槻市の一帯のこと。茨木市には溝咋神社(みぞくいじんじゃ)ってのがあって神武天皇の皇后と皇后の母が主祭神になってる。大昔のことだからここがその一家が住んでた場所だとは限らないが、大雑把な目安にすると、この神社のすぐ横に安威川(あいがわ)という一級河川が流れている。aigawadum.jpgこの川だろうw まぁカレーでも食ってくれw 安威川カレーじゃなくて安威川の景色については適当に画像検索してみて下さい。いい写真いっぱいありすぎて選べなくてさw 下流の方はもう昔の面影ないが、中流・上流の田舎の風景はいかにも厠(かわや)が似合いそうな写真いくつもあったよw
とはいっても、後述するように、通常想像されてるような厠とは限らない。通常いわれている大昔の厠についても適当に検索してみてくだされ。想像図もあれば考古学上の復元図もある。水洗の原理としては平城京の厠が近いんだろうが、あれは常時靴を履いてる役人が使う厠なので、今回の厠とはいくらか違っていると思われる(詳しくは後述)。下の写真は、秋葉原の万世橋トイレ、川の上にあるからまさに現代の「厠」(かわや)ではあるまいか。俺は昔のオタなので秋葉原にはよくいったもんだ、懐かしい。今でもちょいちょい行ってるけどな。中野はもっと行ったけどなw 最近は秋葉原いくっていっても末広町の「魔術堂」か「秋葉原制作所」か昌平橋の「江戸遊」ぐらいなもんよ。town20151020154304.jpg
話を戻して、日本書紀では、神武天皇巻と神代巻とでそれぞれちょっと違った話が出ており、神武天皇巻では皇后になった媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の母は三嶋溝橛耳神の娘で玉櫛媛(たまくしひめ)、父は事代主神となっており、一方、神代巻では大三輪神(要するに大物主)の子が姫蹈鞴五十鈴姫だという話と、異説として母が三嶋溝樴姫、別名が玉櫛姫、父は事代主神ともいう。母の名前の相違などは別名ってことで済ましてもいいのだろうが、説話としては全然ちがっており、書紀の神代巻では事代主神は八尋熊鰐(やひろのわに)になって玉櫛姫のもとに通ったとはあるものの、古事記のような矢に化けたとかその矢が川に浮かんで流れてきたとかの話は全然ないし、まして「姫のトイレ中に…」なんて話もカケラも出てこない。ただ父の名からして場所は三島の溝咋神社のあたりと推定できるってことは古事記とかわらない。川は安威川だろうw
実は書紀によると第二代綏靖天皇の皇后五十鈴依媛も事代主神の娘で(媛蹈鞴五十鈴媛の妹)、綏靖天皇は叔母と結婚したことになっている。古事記では師木県主(しきのあがたぬし)の祖、川俣毘賣(かはまたひめ)だが、書紀の異説でも磯城県主の娘、川派媛となっていて古事記と同じ。これからすると「事代主神=磯城県主」ということになる。磯城県(師木県)というのは後世には式上郡と式下郡にわかれたところで奈良盆地の東南部のかなり広いところ。県主(あがたぬし)は今でいえば県知事とか市長みたいなものだからこれは肩書で、固有名詞ではない。県主という役職にいたんだからこの場合の事代主は神ではなくて普通の人間の名前だろう。神武天皇が即位した時、弟磯城(おとしき)名は黒速(くろはや)を磯城県主に任命したとある。これがもし本当なら、理屈からいって事代主は弟磯城と同一人物で、弟磯城も事代主も本名でなく、本名は黒速ということになる。第三代安寧天皇の皇后は、古事記では師木県主波延(はえ、河俣毘賣の兄)の娘の阿久斗比賣(あくとひめ)。書紀では事代主神の孫で鴨王の娘、渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)。書紀の異伝では磯城県主葉江の娘の川津媛(かはつひめ)、父の名は古事記と同じ「ハエ」(波延=葉江)で、鴨王と同一人物だろう。鴨王の読みはカモノキミでもカモノミコでも違和感が強いから「鴨主」(かもぬし)か「鴨玉」(かもたま)の誤記で、県主ハエと同一人物であり、磯城の県主の地位を継いでいたんだろう。
大物主神が「蛇」としての現身(うつしみ)をあらわすことがあるという信仰があったように、当時の信仰としては事代主神も「鰐」としての姿をもっていた。だから普通の人間のはずの「県主」の事代主が、八尋熊鰐になって姫のもとに通ったなんて話になっちゃったわけは、人名の事代主が神話上の神々の一柱である事代主神と混同されたから、と考えるのが穏当だが、もちろん両者は何の関係もないのに偶然名前が同じというのではなく、実際に磯城県主の家は代々事代主神の子孫だと信じられていたのだろう。後世の資料では磯城県主を饒速日命の子孫つまり物部氏だとされていることが多いが、これは入り聟のような形で途中から物部系に入れ替わってしまったからで、磯城県主の家系には新旧2系統ある。その旧の方の県主だが、磯城県というのは後世の磯城郡(式上郡・式下郡)とほぼ同一地域だろうに、出雲の神である事代主を名乗るのはどういうわけか。磯城の中には三輪山も含まれ、磯城県の中心地と目される「志貴御県坐神社」(しきのみあがたにますじんじゃ)は大神神社(三輪大社)のすぐそばにあるので、むしろ古事記のように大物主神の方が良さげではないか。
そこで考えるに綏靖天皇の皇后、川俣毘賣と同名の河俣神社というのが橿原市の雲梯町(うなでちょう)にある。延喜式内社で古くは「高市御県御坐鴨事代主神社」(たかいちのみあがたにいますかもことしろぬしじんじゃ)といった。
ここは磯城県ではなく高市県(律令時代の高市郡)だから、師木県主(磯城県主)だって話が実は高市県主の間違いだったならすんなり解けるんだが、そうもいかない。高市県主は通説では天津日子根神の子孫で、磯城県主とは別系統になっているからだ。だが、詳しい議論してる暇がないので結論だけいうと、天津日子根神の子孫という氏族は多いがすべて女系を名乗ってるのであって男系は開化天皇の子孫だと思われる。だから神武天皇の頃はまだ高市県主というのは無いはずだ。律令以前の大和六県の時代、奈良盆地の南部は、東の磯城県、西の葛城県(後世の葛上郡・葛下郡)、中央の高市県にわかれていただろうが、さらに古くは高市県は北の「宇奈提」と南の「飛鳥」にわかれていたんじゃないだろうか。なぜかというに磯城県の三輪山と高市県の河俣神社は、『出雲国造神賀詞』(いづものくにのみやつこのかみよごと)にでてくる都を囲む東西南北4つの神名備のうちの2つに該当しており、東の大物主が三輪山、北の事代主神の神座が「宇奈提」(うなで)で現在の橿原市雲梯町つまり河俣神社の住所。西は葛木(葛城)の鴨、ここがが阿遅須伎高孫根命、南は飛鳥で賀夜奈流美命。このうち三輪山を中心とする東部が磯城県で、西の葛城が葛城県だが、東西が離れてる割りに南北は狭いので北の「宇奈提」と南の「飛鳥」は一緒にされて中央の「高市県」になっている。だから高市県ができる前の、さらに古い時代には文字表記は不明だが「ウナデ県」とか「アスカ県」があったのではないか。宇奈提県とか飛鳥県というのは歴史に残ってないが『新撰姓氏録』には「飛鳥直」(あすかのあたへ)という氏族がいて天事代主神の子孫だというから、飛鳥直氏が飛鳥県主の子孫である可能性は高いと思われる(飛鳥坐神社の現在の社家、飛鳥氏は大神朝臣(つまり三輪氏)とも飛鳥直ともいうが後世の創作系図かもしれずここでは触れない)。4つの神名備のうち3つは事代主神の子孫とされた磯城県主の一族が祝(はふり)を務めたのだろうが、本家は断絶して物部系になってしまって、後に大物主神の子という三輪氏が起こって三輪山の祭祀をするようになり、高市県が置かれては開化天皇系の高市県主が宇奈提の事代主神を祀るようになり、古い磯城県主の子孫は飛鳥直だけになってしまったんだろう。
事代主神は大国主神(=大物主神)の子なので、大物主の子孫も事代主の子孫も意味は同じになる。ただし伝承で大物主神の子という時には父なくして生まれた不思議な出生譚をいっており、これは三輪氏の祖先の意富多々泥古(おほたたねこ)の出生譚であり、ここでいう県主たちの家系の話とは関係がない。旧の磯城県主の一族は事代主神の子孫ではあっても、異常出生神話はともなっておらず、単に祖先の神名を県主が名乗っていただけだった。それが時代がくだって三輪山の祭祀者が三輪氏になってから、伝承が混乱したのである。

この話は原典になかった竄入である
そういうわけで、神武天皇の皇后の母が大物主神の子を妊んで産んだという話は、後世の誤伝であり、事実は事代主という名の人間(磯城県主)が父親だった。
書紀の神武天皇巻ではそういう不思議な出生譚はぜんぜん一言も書かれてない。他にも荒唐無稽な話は平気で載せているのだから、非合理な御伽噺だから切り捨てたという解釈はできない。書紀の神代巻でも本文(正文)ではなく一書第六という異説の中でしかも「又曰く」という引用で二重に信憑性の低い説という扱いになっている。古事記は本文で書かれているが、古事記ではクソという言葉は前の方で書いたように全部で5件の話があるのにそのうち4件は必ず「屎」の字を使ってる。しかしこの勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)の話だけはなぜか「大便」と書いてる。つまり原資料の系統が違うのだ。この説話はもともとの古事記になかった部分で、太安万侶は書いていない。稗田阿礼が真正の古伝承かどうか疑わしいとしてボツにした話で、誰か後世の人が竄入したか、参考までに注釈として付加されていたのを、伝写の誤りで本文に誤入したんだろう。

類型説話のリスト
むろん後世の作り話であって史実ではなかったとしても、神話学的な観点から考察する意味もないわけでもない。

(1)勢夜陀多良比賣の話と同系類似の説話には
(1')書紀の皇后の母は事代主神だという説、
(2)『山城国風土記』の玉依姫と別雷神の話、
(2')『秦氏本系帳』の松尾大社の話、
(3)崇神天皇の時の意富多々泥古(おほたたねこ)の話、
(4)日本書紀の百襲媛(ももそひめ)の話(箸墓伝説)、
(5)天の日矛の話、
(6)古事記中巻末の春山秋山の兄弟神の話、がある。

男神の化身である矢が川を下ってくるのは(2)(2')と共通、男神の象徴としての矢は(6)、大物主神が女性と交わるのは(3)(4)と共通。だが(2)では川遊び、(2')では川で洗濯をしていたら矢が流れてきたので拾って帰ったというだけで、排泄をしていたのではないし、もってきた矢を家に置いていただけで自然に妊娠したことになっており、観音様を突かれたという直截な表現も(1)(5)だけ。配偶神は(2)では火雷神(ほのいかづちのかみ)、(2')は松尾大明神(大山咋神?)、(5)は太陽、(6)は春山霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)、生まれた子は(1)(1')は娘で皇后になる、(2)(2')は男児だが昇天してしまってその子孫は無し、(3)は男児でその子孫は三輪氏、(4)は妊娠せず、(5)は女神の阿加流比賣神(あかるひめ)、(6)では不明。

説話の比較と分析
矢は丹塗矢(にぬりや)つまり赤く塗った矢ということになってるが、これは雷を表わす。神話での象徴としては、日本でも海外でも雷は天上の火で、火はまた蛇でもある。(2)では火雷神となっている。ところが大物主神の現身が蛇だという話があっため、それで矢の正体が実は大物主神だったという形で結びつく。しかし本当は蛇ならなんでも火や雷に関係あるのかというと古い神話ではそうじゃない。大物主の蛇は火や雷とは関係がなかったんだが、時代が下がるといろいろ混同されてくる。(2)の火雷神は「雷=天上の火」をいってるが、これは(6)の太陽が古い形で、阿加流比賣神の母は観音様に日光が差し込んで阿加流比賣神を生んだ。大物主神とするのはあとから別系統の神話がくっつけられたので一番新しい。そもそも矢は空を飛ぶもので川を流れてくるっておかしいだろう。神の矢なら飛んで来ればいいのだ。もちろん(3)の意富多々泥古は大物主神の子なのだがこの話には矢も川も出てこない。もともと関係ない別の話だったのだ。なんで川を流れてくるのかというと、川ってのは水源が山の中にあって、河口は海に注ぐ(例外的に湖沼ってこともあるが)。山の中には先祖の霊たちが住んでる異界があると信じられていて民俗学で「山中異界」という。だから最近まで墓地というのは山に作るものだった(現在まちなかに墓地があるのは住宅地が広がったため)。死んだ人の魂は山に帰って先祖と一緒に暮らす。逆に、生まれてくる赤ん坊の魂はそこから流れてきて母胎に宿る。だから子供が、自分がどこから生まれたのか親に聞くと、昔の親は川で拾ってきたと答えたわけよ。桃太郎がどんぶらこ流れてきたってのもこの信仰の変形。しかしその流れてくるものが「矢」だというのは後世の創作であって古伝承じゃないよ。だから(2)(2')は記紀には載ってない。川から流れてくるのは普通の人間の赤ん坊の魂で、そこらの一般人の誕生にすぎず、神の現れとか神の誕生とかを語ってるはずなのに「川から流れてきて」なんて言ってるのは、もう古い神話が崩れてしまって民話になりかかってる状態。(3)(4)では大物主神が女性のもとに通うけれども、矢になんか変身したりはしてない。これが古い形。しかしもちろん(2)(2')にも古い要素はあり、雷ってのは神の示現ともされたが、そこに現れる神とは人間じゃないから天に昇るわけ。川から流れてくるってのは取って付けで、この神話は雷(神の矢)が落ちて天神が現れるってところに意義がある。だから(2)(2')の玉依姫は上賀茂神社の御阿礼神事(みあれしんじ)の阿礼乙女(あれをとめ)のことだというのが通説だが、御阿礼神事は山での祭儀であって川は関係ない。
このように(1)はいろいろ混ざったり変形したりして出来てる。

「よりリアルな表現」が編集方針
(1')~(6)では性行為を遠回しに表現してるのを(1)では矢が観音様を突いたというように、よりわかりやすく表現というかリアルな表現に一歩近づけてるわけだが、それは理解できるとしても、大便をしていたという設定に必要性があったのか。当時の女性は立ちションしてたので、大便じゃないと水面を流れてくる矢が届かないってことか? しかし大便でも厠の床は水面より上にあるはずだから、矢はトビウオみたいに水面からジャンプしたはずだろう。水面からジャンプできるんなら、立ちションだったとしても問題なかったように思われる。そうするとやはりこの矢にはそんなジャンプ力など無くて、下半身が水中にあったのではないか。(2)では川遊び、(3)では洗濯だったわけで、これらはもしや下半身が水中にある状態を表わしてるのかもしれない。そう考えるとよりリアルに表現しようという方針の下では大便に変更された理由も自然とわかってくる。ただ突っ立ってるだけだと観音様が下を向いてしまうため、流れてくる矢に当たるには下半身が水中にあるだけではなく、腰を曲げて尻を川上に向けるか、もしくはしゃがんだ状態で川上に向いてないといけない。川遊びや洗濯では腰を曲げようがしゃがもうが必ずしもそういう向きにならないが、大便でしゃがむ時は必ず川上を向くだろう、なぜかといえば川上に向いてないと、後ろから何か危ないものや汚いものが流れてくるのに気づかなかったりする虞れがあるからだ。「前向いてたのに矢には気づかなかったのかよ」と言われてしまいそうだが、それは気づかなかったんだなぁ。神の矢だからなw すごい速さで流れてきてあっというまに突かれてしまったか、直前まで人間の目に見えなかったかしたんだろう。神の矢だから速いだの見えないだのいうのなら最初から水面からジャンプできるって設定でもいいだろうとも言われそうだ。それも確かにその通りで、人情としてはまぁごもっともではあるが、神様の内輪の都合までは人智の及ぶところにあらず。家で飼われてる犬や猫が飼い主の勤め先の会社の都合を理解できないのと似たようなことなので、説明しろと無茶を言うでない。で、矢は水面を浮かんでくるので、下半身が深すぎてもいけないし、逆に水面より上に出てしまってもいけない。そうすると厠の床は実は水面下で足は水に浸かった状態にあり、しゃがんだ時の尻の位置の上下によって、観音様及び肛門の位置を水面より上にも下にもできたんだろう。ちょい昔ならこういう想像は滑稽で現実性なく、アホかといわれかねなかったが、現代ではウォッシュレットが普及しているので逆になるほどと実感しやすい。つまりこれが最も原始的なウォッシュレットであり合理的な推定である。ウォッシュレットだってすぐ慣れちゃったけどこれが世に出て初めて見た時は「水が噴き出して肛門あらうのかよw」となんとなく滑稽な感じだったろw(ものごころつく前にすでにウォッシュレットがあった若者世代を除く) むろん、そんな大昔から日本にはウォッシュレットがあった!…っていう話でもない。今でも南アジア~東南アジアでは紙じゃなくて水で処置している。日本も古層文化は太平洋・東南アジアの文化と共通しているというのは通説だが、こういうところでもそういう一面が垣間見られるってことだろう。あと、「厠の床が水面下だと足は水浸しになるだろ」というかもしれないが、大昔の日本は裸足が普通で履物という文化は無かった。足の皮が厚くなって裸足の生活に慣れると履物という文化がバカバカしくなるので、上流階級でも特別な正装をする時しか履物は使わず、オフタイムは庶民と同じ裸足だったと思われる。裸足文化では帰宅のたびに頻繁に足を洗ってるので、排泄のために足を洗うはめになるのはむしろ合理的なことであって面倒でもなんでもない。現代人がトイレのたびに手を洗ってるのと同じこと。

結論
つまり、勢夜陀多良比賣(せやだたらひめ)がウンコしてたって話は、川から流れくだってきた矢が観音様に命中するって情況を作り出すための設定以上のなにかではないだろう。深い意味は無い。

・「毘古・毘売」は「ビコ・ビメ」ではない

H30年5月31日(木)改稿 H24年7月18日(水)初稿
開化天皇48年に加羅人が帰化?
八幡愚童訓』という八幡大菩薩の功徳を述べた中世の書物の中に、外敵が日本に攻め込んできた例があげてあり、開化天皇48年に(敵兵の数が)20万3千人、仲哀天皇の世には20万3千人、神功皇后の時には3万8千人、応神天皇の世に25万人、欽明天皇の世は34余万人、敏達天皇の世、推古天皇の治世下には43万人、天智天皇元年には2万3千人、桓武天皇6年には40万人…とあり。もろんこれらは中世の創作なので真に受ける必要はないが、それぞれ創作の元になった事件がありそうではある。例えば桓武天皇は蝦夷征伐、天智天皇は白村江の戦い、推古天皇の時は新羅征伐(ただし途中で中止になってるが)、敏達天皇のは敏達10年に辺境に蝦夷の侵寇があった事件、欽明天皇のは新羅による任那滅亡、応神天皇のは応神16年の新羅懲罰、神功皇后のは有名な三韓征伐ではなく神功49年の加羅7国と馬韓4邑の征伐のことだろう。仲哀天皇のが有名な三韓征伐に当たる。そうしてみると開化天皇だけが元になりそうな話がない。
が、これはどこから出てきたのかというと、平安時代の日本書紀の講義録で『弘仁私記』という書物に「開化天皇御宇、大加羅人帰化、而以来既有文字云々」とあり、これだろう。『弘仁私記』を仮に信じたとしても、実際は外敵が攻めてきたわけではなく「大加羅人」が帰化しただけ。大加羅というのは今の慶尚北道の高霊にあった国で書紀で「伴跛国」(はへのくに)として出てくる国と、慶尚南道の金海(現在の釜山といったほうがわかりやすいが)にあった国で「金官国」(そならのくに)があってどちらも「大加羅」という別名をもつ。が、ここの大加羅はどっちでもなく、口承でオホカラ(大漢)といってたのに後から適当に漢字をはめただけだろう。加羅人も含まれるが中国人も含んで漠然と外国人の意味でいってると思われる。むろん、そうではなくてあくまで具体的な「大加羅」国から来たんだ、という説でも不可ではないが、それだと次ぎの崇神天皇の時代にきた加羅人があまりに不慣れで不案内なのはちょっと不審に思う。
そういうわけで開化天皇の頃に、かなりたくさんの帰化があったと思うのだが、この頃、大陸や半島で戦乱があり、難民みたいのがきたんだろう。なんでこんなことを言ってるのかというと、次の崇神天皇の時に疫病があって日本人が絶滅しかかったのだが、疫病の病原体は外国人がもってくる場合がある。(※この時の疫病について詳しくはこのブログの「神道ルネサンス」の記事を参照)

日子坐命の系譜
(今日は時間切れ。後日に加筆予定)

「庶母を后に」の意味
(今日は時間切れ。後日に加筆予定)

「毘」の字の発音は濁音[bi]ではない?
神名や人名の後についているヒコ(彦)・ヒメ(姫)は、『古事記』だと「比古・比賣」、「日子・日女」、「毘古・毘賣」などと書かれる。このうち「比古・比賣」と「日子・日女」はどちらも「ヒコ・ヒメ」[hiko,hime]と読まれているが、「毘古・毘賣」は濁音で「ビコ・ビメ」[biko,bime]と読まれている。毘沙門天(びしゃもんてん)の毘(び)の字だから、濁音で読みたくなる気持ちは確かにごもっとも。
ところで、清音でも濁音でも意味は同じだろうが、ある人の名前では清音なのに別な人の名前では濁音だったりする。なぜ濁ったり濁らなかったりするのだろうか? 古事記の文面とにらめっこしても、どうも規則性があるようでもない。古事記の神名や人名には割とこの濁音の「毘古・毘賣」が多いんだが、例えば神様だと「猿田毘古神」とか「金山毘古神・金山毘賣神」とか「大屋毘古神」とか「須勢理毘賣命」とか、人名だと「神倭伊波礼毘古命」とか。さぁ、発音してみましょう、「かむやまといわれこのみこと…」。
実は、わたしは大昔からこの名前の下につく「ビコ・ビメ」が、どうにも耳障りでいかん。「かむやまといわれ『こ』のみこと」だろ? 「ヒコ・ヒメ」が正しく「ビコ・ビメ」は何かおかしいんじゃないかとずっと思ってきた。「俺はそう思う」ってだけなら、俺の単なる思い込みだとか慣れの問題にすぎないとも考えられる。だがずっと引っかかってたのは、開化天皇の名前「稚日本根子彦太日日天皇」(わかやまとねこひこおほひひのすめらみこと)について岩波の日本書紀の注釈に「ヒヒは古事記には毘々とあり、毘は濁音ビの仮名であるから、ビビと仮名づけすべきとも思われるが、濁音で始まる語は考えにくいのでヒヒとする」とあるわけよ。つまり毘の字はビじゃなくてヒだってこったろこれ。どうなのよ? それで「毘」の字問題はくすぶりながら長いこと俺の心の中にわだかまっていた。
ある時、大学の図書館で見たんだが、どっかの大学の紀要だったか学術雑誌のバックナンバーだったかに、國學院かどっかの先生が書いた「古事記の『毘』は濁音でなく清音」だって主旨の論文が載ってたんだよね。我が意を得たりと膝を叩いて、後で読もうと思ってたんだが、メモを紛失してしまって、その論文の掲載誌も著者名もわからなくなってしまった。だからその論文がどういう根拠で「濁音じゃない、清音だ」といってるのか未だにわからない。かえすがえすも悔やまれるw 
ともかく『古事記』に5ヶ所ほど「この『毘』の字は濁音じゃなくて清音じゃないの?」と思われる場所があるので以下に列挙する。

1)孝元天皇の系譜には「葛城長江曽都古」、仁徳天皇の系譜には「葛城之曽都古」とあってソツコなのに、履中天皇の系譜記事では「葛城之曽都古」となっておりこれだとソツコだ。
※ちなみに岩波古典文学大系の『古事記 祝詞』と小学館の『古事記 上代歌謡』は履中天皇記の「曽都比古」が「曽都毘古」になっている。岩波日本思想大系の『古事記』は履中天皇記に「曽都比古」が出てくる。

2)垂仁天皇の系譜に「沼羽田之入賣命」(ぬばたのいりめのみこと)という名が出てくるが同じ記事中にもう一度「沼羽田之入賣命」として出てくる。古事記では「日」の字は常に清音で読まれることになっているのでこの人の名は「ぬばたのいりめ」のはず。

3)開化天皇の系譜に「依網之阿古」(よさみのあこ)という氏族がでてくる。「依網」が氏族名で「阿毘古」がカバネ。また景行天皇の系譜には「木國之酒部阿古」(きのくにのさかべのあこ)が出てくる。「酒部」が氏族名で「阿比古」がカバネ。「阿毘古」も「阿比古」も同じカバネだろうが、もし読みも同じなら阿比古をアビコとは読めないだろうから、アヒコが正しいのではないか?

4)応神天皇の皇女に「幡之若郎女」(はたのわかいらつめ)がいて、仁徳天皇の皇女には同名の「波多能若郎女」(はたのわかいらつめ)がいる。
※ちなみにこの二人について、本居宣長は同一人物とした上で、応神天皇皇女というのは誤りで仁徳天皇皇女が正しいという。宣長の説に対して日本思想体系の古事記は「同名でも同一人物とは限らない」という。俺の説は同一人物ではあると思うが、仁徳天皇皇女説がむしろ誤りで応神天皇皇女説が正しい。そのへんの話はこのブログの他のページ「仁徳⑯〜武烈㉕の系譜」で書いてるからここでは書かない。
同一人物の同じ名だから、(3)と同じ理屈で「波多毘」はハタヒと清音で読むのが正しいだろう。

5)仁徳天皇の雁の卵の条に出てくる武内宿禰の歌の一部「つにしらむとかりはこむらし」(終に知らんと雁は卵生むらし」の「つひに」は原文では「都邇」とある。ここは「終に」の意味だから「ツビニ」と濁音で読んだら意味が通らない。だから上述の(1)(2)(3)(4)は残念ながら濁音で読むのが通例になっていて、よろしくないと思うのだが、この(5)だけは諸説みなツヒニと清音で読んでるわけなのだ。矛盾してね? してるよな?

「毘」の字が清音だと、あの耳障りな「ビコ・ビメ」が全滅してスッキリするのだが、例えば平群の志毘臣(鮪臣)もシビでなくシヒになる。鮪(まぐろ)を意味する古語もシビでなくシヒだったってことになるが、ホントかね? それにこの議論は、本居宣長以来の定説「古事記は清音と濁音の書き分けが厳密である」という前提での話なわけであり、丸山林平みたいに「同じ字でも清音に読む場合と濁音に読む場合が混在している」という説の場合にはあまり意味のない議論になる。しかし丸山説は現在の学界ではどういう扱いになってるのか、通説になってるほど高く評価されてるのやら、異端説として相手にされてないのやら、俺はよく知らない。誰か詳しい人にききたいぐらいだわ。

・皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・前編

H30年5月22日(火)改稿 H30年5月16日(水)初稿
序章
日本書紀は神武天皇の即位をBC660年に当たる辛酉の年に設定している。明治時代、那珂通世(なかみちよ)は、これは讖緯説によって計算されたのだという説を唱えた。この説は、推古九年(AD601年)の辛酉年を逆算起点として1260年遡った辛酉年を日本開国の年としたのである、という説。以上の那珂通世の説を「神武元年讖緯逆算説」と仮名する。
那珂通世の説のバリエーションとしては、岡田英弘の説がある。讖緯説では1260年を1蔀という単位で呼ぶ(蔀の読みは「ぼう」)のだが、彼は、1蔀は1260年ではなく1320年だとしてAD663の白村江の敗戦(=百済滅亡)を逆算起点とし(ただしこの年は甲子年ではなく1年前の癸亥年)、一蔀を溯った甲子年(神武四年)に最も近い辛酉年を神武元年としたのだという説を唱える。
「神武元年讖緯逆算説」は現在のところ定説化しており、「だから紀元前660年というのはデタラメであり、神武天皇はいなかったんだ」もしくは「神武天皇はずっと時代が後の人なんだ」という不敬なヨタ話が古代史マニアを中心に広まっておる。嘆かわしい!w 嘆かわしいよな、おまえもウヨならw 今年は皇紀2678年じゃなかったのかよ!?w え、どうなのそこんとこ、ってことになる。保守派の間抜けさん方は「伝統だから史実でなくてもいいんだ、キリストだって西暦元年に生まれてないじゃんよ」なんてブサヨに輪をかけた屁理屈いってるが、そんな御託は特高警察の前でいえっつのw 特高警察もうないけどw キリスト教原理主義者に通用するかってのw 当然、大日本帝国臣民としては國史の尊厳を守護し、國體を護持せんがため、那珂通世の説の方こそむしろデタラメであることを断固訴えていかねばなるまいてw 

【1】讖緯説の概要
讖緯説とは、シナにおいて、国家の興亡を予言する理論をいう。迷信の一種。詳しい議論をする前に、基礎知識として「讖緯説とは何か」ということについて以下の述べていく。ちょっとややこしくて面倒に思われるかもしれないが、これがわからないと話にならないので、しばらくつきあってちょうだい。

【2】経と緯
もともとは機織りの用語で、「経(けい)」は縦糸、「緯(ゐ)」は横糸。紙が発明される以前の書物は、縦に細長い木簡や竹簡を左右に並べてその上端と下端をそれぞれ紐で結んだことから、縦糸を意味する「経」の字が書物の意味をもったともいい、縦糸のイメージからまっすぐの筋道(倫理規準)の意味になったともいう。儒教の経典を「経書」「○○経」などとよぶのはこれに由来する。
これに対し、前漢の末頃から、経書のこじつけ解釈による予言書が捏造されるようになり、これを「緯書」といった。これはオモテの教典である「経」に対してウラ(秘密)の予言書という意味で「緯」の字を使っている。讖緯の「緯」はこれのこと。七経(『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』『孝経』)に対してそれぞれ何種類もの緯書が作られ、これを七緯(しちい)と総称する(例えば「詩緯」にもいろいろな書物があってそれらを総称して「詩緯」という。同じように「書緯」「礼緯」も特定の書の名ではなく分類名である)。孔子の作というが前漢末の偽作である。隋代までに続々と作られた。
『三国志』で有名な荀彧(荀或)の従兄にあたる荀悦(148年 - 209年)の著『申鑑』五篇の中の一つ『俗嫌』に「世に称す、緯書は仲尼の作なりと」とあるが、これが緯書という名辞の出典としては初出(現代まで残っている中では最古の例)である。ただしこの文は後述の荀爽(荀彧(荀或)と荀悦の叔父)の「緯書はホントは前漢の末頃に捏造されたもの」という説を紹介した文章の中からの引用である。
ちなみに古代中国の天文学・占星術において、十二辰(黄道上の12星座)を「十二経」、七曜(1週間のことではなくて日月5星)を「七緯」とよぶこともある。

【3】讖と緯
讖(しん)と緯(ゐ)は厳密な定義からは別のものである。讖とは未来を予言することであり、未来記や予言書の類を「讖記」などという。これに対し、狭義の緯書は上述の通り経書の注釈書の一種である。しかし、現在残っているのは逸文や断片的なものであるが、讖記も緯書も、神話や伝説、迷信、占星術や暦注占法、風水地理、五行説など、神秘学的な未来予知に関するあらゆる要素から成っていたことがわかる。が、後述のように日本のものは五行説による干支の解釈と数字の処理だけでできている。いずれにしろ、中国では、讖も緯も要するに同内容であり、両者の違いは経書へのコジツケが有るか無いかという形式的なことにすぎない。このことから「讖緯」と一纏めにして呼ばれる。「讖緯の説」「讖緯思想」「図讖」(としん)などともいう。

【4】中国における讖緯説の歴史
前漢末から隆盛し、後漢では建国の祖たる光武帝本人を含め貴族(政治家)や学者(知識人)まで広く信奉され、大流行したので「内学」とまで呼ばれた。当時は緯書が孔子の述作であると広く信じられており、後漢末の人、鄭玄(じょうげん:AD127年 - 200年)は、儒教経典のほとんどに注釈をつけた有名な大学者であるが、彼もまた讖緯五行の説を信じ、すべての解釈にこれを混じえるという有り様であった。
しかし少数派ながら讖緯説を否定する者らもいた。後漢の建国されるや王充(AD27年 - 100年頃?)あり、彼はその名著『論衡』において緯書を非合理で民衆を惑わす「虚妄の言・神怪の書」と激しく罵倒。次いで、後漢の盛期には張衡(AD78年 - 139年)あり、彼は予言がもたらす社会的弊害を述べ立て大衆が讖緯に取り憑かれていることを慨嘆、その禁圧を奏請した。もっとも張衡は正統な伝統にのっとった占星術や易断などを否定していたわけではなく非正統で異端の邪説を否定したものである。最後に、後漢の滅びんとするや荀爽(AD128年 - 190年)あり、この人は三国志で有名な荀彧(荀或)の叔父だが、その著『弁讖』で緯書を孔子の述作とする通説を否定し前漢末に作られたものと論断。以上のうち張衡は「図讖は哀帝の際に成る」と明言しており前漢末だとする荀爽の説と一致する。哀帝という皇帝は、権勢を振るっていた王莽を逼塞させていた名君だったが25歳で早逝。王莽に暗殺されたんだろう。この期間、王莽は取り巻きに命じて「符命」(天命のしるしとなる瑞祥の類)や「讖文」(王莽が天子になるとの予言)の類をせっせと量産していたことは歴史に明らかな傍証がある。
この後も讖緯説の人気は衰えなかったが、もてはやしたのは後漢王朝だけで、西晋の武帝(司馬炎)、五胡十六国の秦王符堅、南朝宋の孝武帝、梁の武帝、隋の文帝など、国家を脅かす危険思想として何度も禁令を出した。隋の煬帝は、讖緯を奉じる学者は死刑に処する等、厳しく禁圧し、讖緯に関する書物を焚書したため、緯書は散逸した。その上、唐になって『五経正義』(七世紀半ば頃)が出ると正統な儒教の立場からは異端の邪説とされ、継承した学派も存在しない。明清になって、諸書に引用された逸文から復元が試みられるようになり、逸文の集成が何種類も出ており中には30巻以上にもなるものもある。

【5】日本での受容と情況

(5-1)日本伝来の時期
明治時代の那珂通世(なかみちよ)は、『周書』百済伝に「百済の俗は(…前略…)陰陽五行を解し(…中略…)卜筮占相の術を解す(…後略…)」とあることから、讖緯説が百済に入ってきていたとするが、陰陽五行は漢字文化に付きものであり、卜筮占相の術は世界のどこにもあり、なんら奇異なことではない。この文章が讖緯説の存在の証明になるというのは飛躍ではないか。むろん無かったとの証明にもならないが。
ついで那珂通世は欽明天皇十四年に百済から易博士・卜書が奉献され、推古天皇の時に遁甲・方術の書が貢納されて、天武天皇に至っては本人みずから天文遁甲をよくした、後に陰陽道おこって律令時代には陰陽寮ができたのだから革命革令などの運数の術もあったはず、とここも浅薄な飛躍ですましている。この文章のどこからも「革命革令などの運数の術もあったはず」という結論は出てこない。那珂通世の主張を文献史料はなんら裏付けていないのだが、那珂通世は「易」「卜」「占」「陰陽」「五行」等の文字をみただけで味噌も糞も讖緯説だと即断してしまう。彼は讖緯説と易の区別もついてないし、讖緯説とたんなる陰陽五行説の区別もついていない。また千年に及ぶような長大な年数を扱う周期論が何種類も存在したことは『後漢書』その他から知れてることであって、今さら改めて強調しても那珂通世の説をなんら補強しない。否定もしないが。
ただ、岩波版日本書紀の注釈に「遁甲・方術」が同レベルのものを併記したかのように読めるのは問題で、考課令の記述や現代の奇門遁甲の類から推定すると、遁甲は方術(占い)の一種であり、この文は「遁甲と方術」ではなく「遁甲をはじめとする方術の類」と解釈すべきだろう。そして現代の奇門遁甲の類から推定すると、今ここで問題にしている「長大な運数の術」は遁甲ではなくそれ以外の方術に含まれそうだとはいえる。
那珂通世は聖徳太子の頃にはすでに讖緯の書の類がその手元にあったろうというのだが、緯書についての研究論述も多く讖緯説の第一人者と目される安居香山は、「中国で禁圧され、つまり中国でも手に入らないような書物が、おおっぴらにせよわざわざこっそりにせよ交易物資として百済や日本に流通したとは考えにくい」として批判している。しかし、物資のやりとりをする通常の貿易ではなく、亡命者や移民が自ら持ちだしてくる場合は、安居香山の想定は適用できない。また、三善清行(みよしきよつら)以前のある段階で入ってきたことは事実であり、7世紀半ばすぎると悪評が固定してしまうので、それ以前でないと不自然とすると、やはり南北朝期から隋唐初期にかけての帰化が運んできたとみるほかなく、文献の記述で時期を絞れば推古朝とならざるを得ない。
しかし那珂通世が聖徳太子云々をいったわけは彼が1260年説に固執したため結果的に聖徳太子が…と言わざるを得なくなっただけで、聖徳太子それ自体から導かれたわけではない。聖徳太子は『天皇記』という歴史書(?)の編纂を手がけていたが、それが『日本書紀』のような編年体で神武元年からことごとく毎年の年次を記したものだったと決めつけることはできない。『天皇記』なるものは、『古事記』序文に記自身の素材となったという「帝皇日継」「帝紀」「先紀」という名であらわれるものと類似のものとみる説があるが、とすれば『天皇記』もまた紀でなく記に近いものだったのではないか。なら、讖緯説が出てくる余地がなくなって那珂通世の説は崩壊する。聖徳太子には自分の編纂する歴史書に、偽ってまで年月日をいちいち記入しなければならない動機がない。彼の構想したものは『古事記』のような素朴なものだった可能性もある。実際、天武天皇のお声がかりで『古事記』ができているのだからなにも不思議はない。水戸藩士の青山延于が編纂した『皇朝史略』は『大日本史』を節略したものであるが、上代の部分は当然に『日本書紀』を根本とした内容になっている。なのに、わざわざ日本書紀の年月日を信憑性がないからとはずして推古十二年以前は『古事記』の書き方に直してあり、推古十二年から年月日を付している。聖徳太子もこのやりかたでなんら不都合なかったろう。
もっとも推古十二年以前に暦制がなかったわけではない。それは『古事記』でも崩年干支月日がある通り。ただ歴史的事件の記録は語部の台本の他は、「乙巳の変」の時の蘇我邸炎上のため焼失し、断片的な資料しか残らなかった。聖徳太子はその前の時代なので、歴史書を編纂しようとしたらもっと資料に恵まれていたろう。
上述の通り、讖緯説は推古朝に入ってきた可能性が高いが、聖徳太子はそれを歴史の捏造に転用しようとはしなかった。聖徳太子にはそうすべき動機がなかった。神武元年をBC660年と算定した者がいることは確かだが、それは聖徳太子ではなかった。

(5-2)「三善清行」以前の情況
推古朝に伝来した讖緯説は、遁甲方術の一部として、しばらくの間は担当の者の任務として保管的・官僚的に伝承され、流行りも廃れもしなかったと思われる。
天武天皇が天文遁甲に関心をもったが、言葉の上ではその中には讖緯説は含まれない。が、紀がふれないだけで讖緯説にも重大な関心をもったに相違なく、天武天皇には様々な瑞祥や五行説による縁起かつぎの癖がみられる。しかし、五行まみれのこの天武帝ですら、千年規模の長大な運数の術を用いた形跡がない。天武天皇の段階では神武元年はすでにBC660年と確定していて変更ができなかった。1260年説や1320年説は天武天皇にとって都合がよろしくないので、もしこの段階で神武元年が確定しておらず、天武天皇が讖緯説で自由に設定したのだとしたら、絶対に1260年説や1320年説ではなくまったく別の讖緯説を使ったろう。
遁甲の術や讖緯説のような高度に体系だったものでなく、干支や五行にかんする素朴な迷信の類があったことがわかる記録は、奈良時代にもちらほら見える。一例をあげると(そしてこれは最古の例でもある)養老五年の詔に「世の諺に『申年に事故あり』という、去年は庚申年だったから水害と旱が多かった」とある。が、これだけの断片で詳細は不明。内容が具体化するのは平安時代、三善清行(みよしきよつら)の意見封事からである。

おまけながら、上文を解説するに、これは五行説とはまったく関係がない。また庚申といっても後世の「庚申待ち」や「庚申購」の思想とも関係はない。そもそも「庚申信仰」それ自体が五行説に基づいて発生したのではない。
養老四年が「庚」申年なのは偶然でここでは文脈上の意味はなく、ただ「申」年であった(これも偶然だが)ことをいっているにすぎない。「気候の乱れは天子の不徳が原因で起こる」という儒教の考えに基づくと、この文は天皇の不徳を指摘することになってしまうので、ここは「天皇のせいではなく申年だったからで、しかたがないんだ」という趣旨なのである。では本当に申年に事故が多いという諺があったのかというと、それも疑問。わざわざ「世間の諺に曰く」等とつけるのは不審で、実際にそんな諺なり理論なりがあるのなら、ただ「申年だったから水害と旱が多かった」と簡潔にいうだけで同時代の人に十分通じたはず。この時代、申年で重大な事故といえばまっさきに浮かんだであろうことば「壬申の乱」だろう。あれは天武天皇が意図的に起こしたのではなく申年だったから起きたのであって事故のようなもの、というニュアンスを漂わしている。この時期はまた天武系の皇室の時代で、天智統に皇位が帰っていないので、天武帝には非はないという建前が堅持されており、国家的悲劇たる大乱の原因は自動的にそれ以外の何かのせいになる。「世の諺に『申年に事故あり』」と言われれば、当時の人は誰も反対できない。有無をいわせず強制的に同意させるレトリックなのである。

(5-3)革命勘文
AD901年、醍醐天皇に三善清行が献納した『革命勘文』(本来は「請改元応天道之状」と題する「意見封事」、原文は『群書類従』第貮拾六輯雜部に所収)に『易緯』『詩緯』からの引用と称する文がある。これが本当なら緯書の逸文が断片的に残ったことになる。その一部を以下に掲げる。あとあとの謎解きに関係してくるので、念入りに読んでよくよく理解しておいてちょうだい。

原文:
「易緯云、辛酉爲革命、甲子爲革令。
鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲爲一元。四六二六交相乗、七元有三變、三七相乗、廿一元爲一蔀、合千三百廿年。
(中略)詩緯云、十周參聚、氣生神明。戊午革運、辛酉革命、甲子革政(後略)」


 読み下だし:
「易緯」に云く、辛酉を革命とし、甲子を革命とす。
(「易緯」の)鄭玄(の注に)曰く、天道遠からず、三五にして反(かへ)り、六甲を一元とす(1甲=10年、1元=60年)。四六(240年)二六(120年)交はり相乗じ(ここまで360年周期説)、七元に三変あり(420年間に3回の事変が起こるという第2の説)三七相乗じ(=21元)、二十一元を一蔀となし、合わせて千三百二十年(第3の説)
(中略)「詩緯」に云く、十周(1周=36年、10周=360年。これは前述の240年と120年の組み合わせを説明するためのもので360年は一つの王朝の寿命でもある)を參聚(10周×3=1080年。3聚は3基、3推ともいう)して、氣、神明(新たに天命を受ける聖人)を生ず。戊午革運、辛酉革命、甲子革政(後略)

 注釈:
21元が1蔀なのだから1260年でなければならないのに1320年とはっきり書かれている。「22元のはずを誤って21元と書いてしまったのだ」と解釈することできない。直前に「三七相乗じ」とあるように第2の説の「七元に三変」を引いているのであって「3×7=21」をいってるのだから、ここは22でなくて21が正しい。1260年説と1320年説、どちらをとるにせよ、後段では「十周參聚」として1080年説をいっている。これは第1の説の360年周期説の話の続きだから、第3の説を無視した流れになっている。1260年か1320年かという問題はあくまで第3の説の中だけでの話で、第1説・第2説とは関係がない。ちなみに鄭玄注のうち、第2の説までは他書にも同文があるが、第3の説は日本独自。

この文章だが「易緯に付された鄭玄(じょうげん)による注」のいうところが問題の一蔀循環説である。「詩緯」のほうは有名な「三革説」の出典である。しかし「易緯」も「詩緯」も特定の書の題名ではなくそれぞれ何種類もある書物の分類名である。それを特定の書物のタイトルであるかのように使っている。

(5-4)清行引用の讖緯説の起源
讖緯説の発生時期については概略の項で述べた通り「前漢の末」であるが、讖緯説の中でも特に「鄭玄の注」を典拠とする一蔀循環説がどの時点で発生したのかは判然としない。理論上は早くても前漢の末であり、後漢末の鄭玄(じょうげん)の注が初出であるとすれば、遅くてもこの頃にできたか、もしくは後述の岡田英弘説のように「鄭玄自身の創作」ということになる。

(5-5)日本での受容情況
日本では、格別弾圧されたわけでもなく、室町時代までは讖緯説に基づいた言説や讖緯の書からの引用と称する文章が時々あった。南北朝の頃には孔子の作ではなく前漢末期の偽作だとして非難する知識人がいたが例外的な存在だろう。その後は、やはり散逸、隠滅して消えていった。そのため日本の讖緯説は、三革説と一蔀循環説ぐらいしかわからないのだが、これらは中国の讖緯説にはまったく存在せず不審に思われていたことが平安末期の『台記』(藤原頼長の日記)の康治三年(AD1144年)条や鎌倉末期の元応三年(AD1321年)の中原諸緖の勘奏にある。五行説と数理上の処理だけで成り立っており、前述のような「神話や伝説、迷信、占星術や暦注占法、風水地理」などの豊富な史料を含む支那の讖緯説とはやや趣きも異なる。そのため、後述のように三革説にしろ一蔀循環説にしろ日本独自のものであってそもそも中国由来のものではないのではないかという疑いがある。

【6】「三革説」とは何か
三革説とは、上記の通り『革命勘文』に引用された「詩緯」を典拠とする説で、戊午革運・辛酉革命・甲子革政(=甲子革令)をいう。これらの干支は、月や日や時間でなく、「年」の干支である。戊午の年には革運、辛酉の年には革命、甲子の年には革政が起こり、この7年間は(60年サイクル末尾の6年と最初の1年)、60年に一度の変わり目であるとの説。『革命勘文』の原文は上記の通り簡素で「辛酉だとどうして革命になるのか」の説明がない。三善清行が前年の昌泰三年(AD901年)に提出した意見封事(「預論革命議」)ではあれこれ理屈めいたことをいってるが釈然としない。それを超訳すると「来年の2月は革命(大事件が起こる)年です、謀叛が起こるのは240年周期と120年周期で420年間に3回で、中国の歴史では黄帝から唐まで、日本でも神武天皇から天智天皇まで、ピタリとこの通りになっておりますから来年の事変に備えて御用意下さい、変革の際には必ず武力を行使し悪を誅殺するものです、革命というのは、64卦の「革」の卦は下が「離」で上が「兌」の組み合わせですが、五行説でいうと「離」は「火」で「兌」は「金」を意味し、上なる金属は下なる火熱によって変形する(革まる)、だから火と金の組み合わせは上下が害しあう(つか下が上を害する)というわけです」と。64卦の「革」の説明にはなっているが、なぜ辛酉が革命なのかの説明は一切ない。にもかかわらず「来年は革命だ」と、いけしゃーしゃーと大予言を披露している。(が、後述の通りこの予言は実は醍醐天皇と藤原時平がわざといわせていることなので当たるに決まっていた)
辛酉革命については、唐の王肇が著した『開元暦紀経』に「辛酉為金、戊午為火。火歳革運、金歳革命。尤協革卦之躰」と簡便な説明になっていて、これが初出または典拠という。といっても、上記の「預論革命議」と比べていくらかマシではあるにせよ、後述する通り、さほど釈然とする説明にはなってない。王肇という名は中国人の名前としてはありふれたもので特に問題はないが、イザヤ・ペンダサンや一橋文哉と同じくダジャレもじりの匿名にも思える(イザヤ・ペンダサンは「イザや、ペン出さん(さぁペンを出そう)」、一橋文哉(いちはしふみや)は「一ツ橋グループ(小学館や集英社等)のブン屋(新聞記者)」、峠洞之介先生(とうげほらのすけせんせい)は「洞ヶ峠をきめこむ」のもじり)。肇は「肇国」の肇、「王肇」で王家の始まりの意。この『開元暦紀経』の引用は『天暦御記』応和四年(AD964年)条が初出で、この年は甲子年だった。で、なんて書いてあるかというと「詩説(詩緯のことか?)によれば今年は(甲子だから)革命にあたるが開元暦紀経によると(甲子は革令であって)革命でない。この両説は一致せず同じでない。なので一概に今年は革令とも言いがたい」というような趣旨を数術家が上申したという話。このとおり『開元暦紀経』というタイトルが出てくるだけで直接に文章の引用はない。そうではなく「文面の引用」があるのはやや時代が下がって承暦四年(AD1080年)の大江匡房の勘奏が初出。応和四年にすでに該当の文面があったと仮定しても、いずれにしろそれより古い時代にはみられない、むろん原書も散逸して日本にも中国にも存在していない。清行の時代にあったならなぜこの簡便な説明を引用せず「革」の卦の説明で誤魔化してるのか。答えは簡単で『開元暦紀経』が清行晩年の創作で、AD901年の段階ではまだ理論はできてなかったのだろう。

甲子革政は甲子革令ともいう(『革命勘文』の全文の中では甲子について革政が1回、革令が3回)。『革命勘文』の全文から察するに、「革運」は革命の予兆として政治情勢の変化をいい、「革命」は必ずしも政権交代などを意味せずなんらかの意味で政権が刷新されること(やや御都合主義に感じるが)、「革政」と「革令」は革命後の新政府が新しい政治制度・政令を発布するというような流れ。この「革政」と「革令」はまったく同じ意味で使われている。一説には革運や革命を含めた三つを総称して「三革令」ともいう、との説があるが『革命勘文』の中には三つの総称として革令というような言い方は無い。

古来から現代まで干支にこじつけられた五行説に基づいた解釈があれこれいわれている。例えば、戊午は「火性」の午が中心(戊は土性で方位では中央に該当)に来るから炎上する、辛酉は過酷さを意味する「金性」が重なり辛は陰なので人心が冷酷で破壊的な世の中になる等。しかし金は西にずれるので戊申や己酉のほうが酷くないと戊午の説明と比べておかしくないか? 辛酉のように同性が重なるほうが酷いなら戊午よりも丙午や丁巳のほうがもっと炎上するはずだが?(実際にその理屈で後世に丙午の迷信が生まれた) これらはすべて五行説では割り切れておらず、後付けの屁理屈でしかない。そしてこれらの起こりは中国ではなく三善清行からすべて始まっている。ただし辛酉の前年の庚申も悪い年とされ陰陽道からくる庚申塔の信仰が残るが、これは清行とは関係なく中国からきている。甲子や甲寅を1サイクルの始めとするのも清行とは無関係で中国のもの。

【7】「一蔀循環説」とは何か

(7-1)一蔀説の基本説明
一蔀循環説とは、上記の通り『革命勘文』に引用された「『易緯』に付された鄭玄(じょうげん)による注」を典拠とする説で、そのいうところは「1甲」(10年間)を6つ合わせて「1元」(干支60年の一巡りのこと)というのだが、21元を1蔀とし、1蔀は1320年であるといっている。このサイクルで天下が一変するような国家(王朝)の大興亡が起きるという説。「蔀」の字は「ぼう」と読む。ただし内容は三つの周期を示している。240年+120年で計360年の周期、420年ごとの区切りのそれぞれの中に3回の変事が起こるとの説、そして420年(=7元)を3周した1320年の周期である。ただし420年を3周すると1260年のはずで、60年多すぎる。その理由は後述。

(7-2)二十二元か、二十一元か
1運60年✕21元では1260年であって、1320年には60年つまり1元たりない。室町時代に絶世の大学者とされた一条兼良は、元と蔀は計算起点の干支が違うのだという典拠不明な理由によって、1蔀は1320年なのだが蔀と元は計算起点が1年ずれているため1蔀の末年は22元の末年より前であって(つまり満22元に達しておらず)まだ21元めの内なのだという説を唱えたが、むりやり辻褄を合わせようとしたもので問題外。そこで、1320年というのは単なる計算間違いで1260年が正しいとする説と、二十一元というのは表現の問題で1320年が正しいとする説とに分かれている。
1260年説は明治時代の那珂通世(なかみちよ)である。1320年説には、古い時代のものと戦後の説があり、戦後でた説では起点の最初の一元(前回の周期の最後の一元)を加えるという説と次回新周期の最初の一元を加えるという説があるがなぜ加える必要があるのか意味不明。どっちもわかったようなわからないような有耶無耶な説明で取るに足らない。1320年説で最も古いのは、まず引用している本人の三善清行の説で、彼は神武天皇の辛酉年や甲子年にあった事柄から歴代の事件を経て天智天皇にふれ「神武元年から斉明七年まで1蔀1320年に相当する、次の天智天皇元年(正しくは称制元年)が新たな1蔀の初めだ」とわざわざ書いているので、彼の念頭にあったのは明らかに1320年サイクルでしかありえないが、かといって1260年説を否定するような具体的な理論を展開しているわけでもない。戦後の岡田英弘も1320年説だが彼も清行と同じく、1260年否定説を具体的に展開しているわけではなくただ問答無用に1320年が正しいと独り善がりをいってるにすぎない。
鄭玄の注の中にすでに1320年という数字がはっきりと明示されている。その一方で、本文に説明されている(つまり讖緯説それ自体の)数字のメカニズムからはどう弄っても1320年という数値は絶対に出て来ようがないのも確か。つまりこれは「どちらか一方が正しくもう一方が誤り」と単純に断定するだけではどうしても解決不可能な矛盾が残ってしまうのである。これをむりやり合理的に解釈しようとしたらコジツケ以外の方法があるのか? 那珂通世の1260年説は長らく学界の通説となっているが最近は岡田英弘のおかげで1320年説も有力にみえる。しかしながら、三善清行と一条兼良と那珂通世と岡田英弘、このうち誰がより正確に讖緯説を理解しているのか。全員に共通している誤解は「この讖緯説には論理が一貫してるはずだ」という思い込みではないのか?

(7-3)起点は無いのか184年なのか
起点となる年はわからない。というか特に無い。讖緯説それ自体には具体的に「この年が」という指定がされてない。神武天皇即位の辛酉年をこの讖緯説のサイクルの起点にするのは三善清行が『革命勘文』の中で自分の発想を開陳している文であって、あたり前だが、引用されている鄭玄の説ではない。ずっと昔の(漢代の)中国人が親切にもはるか後世の(奈良時代の)日本人のためにわざわざ讖緯説を考えてあげた等ということはありえない道理で、讖緯説それ自体は神武元年(BC660年)を起点としているわけではない。これについては平安時代の三善清行も明治時代の那珂通世も了解・認識している。ただ清行はその上で、讖緯説を日本にあてはめるのならば神武天皇から起算するのがよかろうと前提して持論を展開してるというわけ。
しかし岡田英弘は、AD184(甲子年)を起点として起算した数値だという新説を唱えた。後漢王朝のAD184に始まった「黄巾の乱」以降、中国は大混乱に陥り人口大減少と未曾有の荒廃が続き、ついに国土の北半分(当時の感覚では中国本土のすべて)を北方民族に奪われ、東晋の頃にはようやく江南に亡命政権を保つことになった。岡田英弘は、一蔀循環説は鄭玄の創作であるとし、この「黄巾の乱」による大崩壊の衝撃がきっかけで作られたものという。

おまけ:一蔀循環説を創作した犯人は鄭玄ではない
岡田英弘は、一蔀循環説は鄭玄の創作であるとし、この「黄巾の乱」による大崩壊の衝撃がきっかけで作られたものというが、ホントかね?w そんなことあるわけないと思うのだがw
岡田英弘は1320年サイクル説に立つので、AD184年の前はBC1137年。AD184年の次はAD1504年となる。ただし、AD184年を起点としつつも1260年サイクル説をとる説も理論上はありえる。その場合はBC1077年とAD1444年となる。BC1137年は、当時の歴史観では、有名な殷周革命の頃に近い。殷周革命は儒教的な歴史観においてはまさに中国史上最大の事件の一つといってよく、天下国家が興亡する大周期に当たっているとするのに都合よかろう。BC1077年は周の康王二年、周王朝初期の平穏期でこうはいかない。岡田英弘が1320年説を採り1260年説を捨てた本当の理由はこのへんだろうよw 殷周革命は(現代の歴史学説ではBC1027年説などがあるがそれとは別に)中国の伝統的な説でもいくつかの説があるが、BC1122年説が有名であり、その他の説もだいたいその前後である。BC1137年はその15年前に当たるので、殷王朝末期の混乱期だとして「ほぼ適切」とみるか、「ピタッと革命の年だったならともかくズレてますやんw」とみるかは微妙なところで何とでもいえそうではある。また、そこまで大きな年代を扱うなら殷周革命より1サイクル前の神話的聖天子の黄帝の頃までフォローしたものでないと、長大な歴史を大枠でとらえるという理論になりえない。岡田の説ではこの大周期は鄭玄の創作なのだから、それなら、鄭玄はフリーハンドでなんとでも出来たはずであり、必ずやそうしたはずである。しかるに2サイクル遡ると黄帝に届かずこれまた半端なところにあたってしまう。

【8】一蔀説と三革説の日本起源説

(8-1)一蔀説と三革説は本当に中国から伝来したのか?
前漢末から後漢に流行した「緯書」は隋の煬帝により禁圧され散逸、日本に伝来した「易緯」「詩緯」に逸文として残るのみであって、その実態は不明である。大陸で散逸・失伝した漢籍が日本に残っているという例は珍しくないことなので、緯書の逸文が日本に残ったという話もここは信じたい気になるのであるが、このケースでは政争絡みの展開であって、自然の成り行きだけでたまたま逸文が残ったのかどうかは微妙なところ。

(8-2)革命勘文の疑惑
一蔀循環説を歴史上最初(記録に残っている限り)に言い出したのは、中国人ではなく、上述の日本の三善清行で、その「意見封事」として出された『革命勘文』の中で唐突に出てきたものであり、それまでまったく知られていなかった。この『革命勘文』は提出された年の昌泰四年(AD901年)が改元すべき年だと主張しており、表面的には単なる改元案の上申にみえる。
この頃、藤原氏本流を排して側近政治を進めようとする宇多上皇と菅原道真らその近臣たち(藤原忠平など藤原氏の一部を含む)のグループがあり、藤原時平を頂点とする藤原氏本流とその一派との対立関係があった。この頃、醍醐天皇にはまだ皇子がなく、宇多上皇は藤原氏と縁がなく道真の娘婿でもある斉世親王を皇太子にしようとしていたが、醍醐帝は将来生まれるであろう自分の皇子に継がせたいから当然に父の宇多上皇と対立して、時平と結んで藤原氏との協力路線をとっていた。「醍醐帝-時平」派が道真に濡れ衣を着せ突如左遷したのは斉世親王の立太子を阻止するためであり、これが昌泰四年(AD901年)の正月、所謂「昌泰の変」である。かねてより道真に個人的な怨恨を抱く三善清行は当然のように「醍醐帝-時平」派の一人だった。その翌月、準備していたかのように清行は「意見封事」を提出し、今年は辛酉年であり大革命の年であるから改元をすべきと主張したが、その内容(『革命勘文』)は神武天皇以来、最近までの辛酉年や甲子年を振り返り、辛酉年は革命(的な大事件や大乱)、甲子年には革令(新制度の発足)等があるという讖緯説を検証している。この文章の真の目的は「だから辛酉年に起こった今回の道真の謀叛も捏造ではなく事実だったのだ」と傍証し「醍醐帝-時平」派を正当化することにあった。すべては道真を排斥せんとした時平と清行が結託した策謀であった。
ちなみに中国では「蔀」は76年間をさし、1320年または1260年をさすという例はない。中国の古代天文学ではメトン周期を1章というが、後漢四分暦では4章=1蔀、20蔀=1紀=1520年、3紀=1元=4560年とした。これと別に『後漢書』によると、4蔀=1徳=304年とし、1徳304年は、五行のいずれかの徳を有する一つの王朝の寿命に該当し、5徳が一周する1520年を一つの周期とみる考え方があったことがわかる。前漢王朝が約300年続いたことから出た説と思われる。また引用の「詩緯」の1080年(360年×3)周期説もあった。清行はこれらにヒントを得て、独自説を創作したのではないか。もし鄭玄の注なるものが古来からの本物なら、簡単な計算ミスが気づかれないはずがない。よくみると肝心の鄭玄の注が、すでに先行していた緯書の類の文言に続けて2種類の周期説を併記したものである。これは既存の文を活用して360(240+120)年周期説と7蔀(420年間)3変説を並べ、後者は7蔀3変の数字を引いて3×7=21とまで明示して自然に1320年周期説が出てくるように拵えてある。だが、肝心のいちばん面白い1320年の部分だけが中国の逸文に欠けているのはおかしくないか。中国の緯書にも類似の文面はあるが肝心の「三七乗じて二十一元、合わせて千三百二十年」という部分だけがないのだ。普通は肝心の部分を引用して瑣末な部分を略すのである。もとの形は360年説と420年説を併記しただけだったとみるのが自然な形だろう。真相はこのいちばん面白い部分こそ清行の創作して追加した部分なのである。清行は360年説と420年説を利用しながらなんとか昌泰四年を大事件の年であると証明する方法を模索して、それを古人に仮託して権威づけに成功したのだが、ことは進行中の政治的策謀の渦中にあり期日はボスから突然指定されてくる。のんびり構想を練ったり修正を加える余裕がなく、拙速のまま出さざるを得なかったのだろう。
中国には、この他にも長大なサイクルを想定する神秘主義的な歴史観はいくつか存在するが、これらは単位年数や循環サイクルの数値が異なっていて、日本にしか出典のない一蔀循環説とまったく噛み合ない。これら中国の諸説はいつまで溯りうるかは不詳だが、その多くはおそらくは宋代から清代にかけての間に創作されたものであろうから、三善清行が主張する「鄭玄の注」なるものが仮に本物だとしても噛み合わないのは当たり前だが、鄭玄の時代=後漢末の讖緯説の全体像も不明であり、「鄭玄の注」なるものが本物かどうか検証もできない。本物なのだが中国では隠滅してしまい、しかも中立的な経緯で偶々発見されたものならまだしも、このような政治的なからみで突然出てきたものであり清行の創作の疑いは払拭しえない。
三革説についても、中国でも戊午・辛酉・甲子に対する意味付けはあるが、あくまで易学的な干支ごとの吉凶判断にすぎず、それが「三革説」として確立・定式化してはいない。日本で三革説に基づく改元をするようになったのは、三善清行の提唱による昌泰四年(AD901年)を「延喜」と改元したのが最初である(中国ではこのような例はない)。

(8-3)岡田説と「超辰」の問題
岡田説でも日本起源説を打破することはできぬ。『日本書紀』は天武天皇皇子舎人親王が編纂責任者であって、父のライバルだった天智天皇には冷淡であって近江令ほか数々の功績についても明言をさけたり、天智紀は時代が近いのに 原資料がいい加減で年代が錯綜したりしている。神武即位がもし讖緯説(の1320年周期説)によるのならばそれは天智朝を 神武即位に次ぐ日本史の重要事件と認めることになるが、このような『日本書紀』の特色からはかなり不自然に思われる。
岡田説によれば1蔀の起点の一つはAD184年である。しかし現存する逸文からは格別にこの年についての言及はみられない。讖緯説そのものは岡田がいうような内容を一切語っていない。これは岡田英弘が、自身の常日頃展開しているシナ史にかんする自説を、讖緯説をダシにつかって再演してるだけではないかとも思われる。
そもそもこの壮大な周期を想定する説は、陰陽五行説で意味づけられた干支が正確に60年で一周するという前提がないと成り立たないが、公式にそうなったのはAD85年にそれまでの三統暦を廃し後漢四分暦が施行されてからであって、本来は木星の実際の運行に従って「超辰」していた。「超辰」とは例えば子年の翌年は丑年なのに一つ飛ばして寅年になるようなことで木星の公転周期は正確には11.862年で12年にちょっと足りないので約86年ごとに「超辰」しないとならなかった。つまり干支の一周は「正確に60年ピッタリ」ではなかったのである。鄭玄ほどの知識人がこんな常識をしらなかったわけがない。(公式に、といったのはBC95年の乙酉を飛ばしてこの年を丙戌にして以来、実質的に超辰は行われていなかったため。しかし本来は超辰すべきとされていたことはかわらない)。例えば、ある年が辛酉だとしても「あれ?木星の位置からすると今年は本当は酉年じゃなくね?今年が酉年なのはなし崩しに超辰やめちゃったからで論理的な根拠なくね?」という疑問を抱かない者はよほど漢学の素養に欠ける者だけだろう。従って中国に残っている讖緯説は、長大な周期を想定する諸説であっても、特定の干支の年を起点としているものは一つもないのである(ずっと後世の宋代以降に創作された理論は別)。日本と朝鮮ともに干支で年を紀する習慣はすこぶる古いが、日本人は歴史上、実際に超辰を体験したことはなかった。
ただ、それを理由に、前漢末の本来の讖緯説とは別に、後漢末にAD184(甲子年)を起点とする新しい讖緯説が生まれたという岡田の着想がなんらかの事実を言い当てている可能性を完全否定することも出来ない。岡田の本意はAD184に黄巾の乱が起こったということが重要であり、この年がたまたま甲子年であったことは本質的なことではない、と微修正すればどうにかなる可能性はなくもない。

(8-4)結論
すなわち一蔀循環説と三革説は『日本書紀』成立より後に、日本国内で発生した可能性が高い。

【9】讖緯説と皇紀の関係(※ここまでのまとめ)

(9-1)讖緯逆算説
日本書紀は神武天皇の即位をBC660年に当たる辛酉の年に設定している。明治時代、那珂通世(なかみちよ)は、これは讖緯説によって計算されたのだという説を唱えた。この説は、推古九年(AD601年)の辛酉年を逆算起点として1260年遡った辛酉年を日本開国の年としたのである、という説。以上の那珂通世の説を「神武元年讖緯逆算説」と仮名する。
那珂通世の説のバリエーションとしては、岡田英弘の説がある。彼は、一蔀1320年説を採用してAD663の白村江の敗戦(=百済滅亡)を逆算起点とし(ただしこの年は甲子年ではなく1年前の癸亥年)、一蔀を溯った甲子年(神武四年)に最も近い辛酉年を神武元年としたのだという説を唱える。

(9-2)那珂通世(讖緯逆算説)への反論
しかし第一には那珂通世の1260年説は一蔀1320年を十分に否定できていない。従って逆算起点は天智称制元年(AD661年)の辛酉年である可能性が残る、第二には推古九年(AD601年)は逆算起点にふさわしいような重要な事件は見当たらない、等の批判が昔からある。推古九年説にしろ天智称制元年説にしろ、逆算起点にふさわしい大事件がないという点では説明が苦しいことにかわりはない。神武元年から1260年たった辛酉年はAD601年で、聖徳太子が斑鳩宮を建てたというだけで格別なにか重大な事件があったわけではない。1320年説では、1サイクル回った辛酉年はAD661年で、天智天皇元年だが称制の元年であって正式に即位した元年ではなく、白村江の戦いの年ではあるが、この年は開戦しただけで決着したのは翌年だし、区切りのいい大事件は無い。つまりどちらも実際の歴史にあてはめた場合、しっくり来るような説にはなっていない。
岡田英弘の説では辛酉は革命、甲子は革令という讖緯説の論理を無視して、とにかく大事件なら辛酉でも甲子でもどっちでもこじつけてよいという考えにみえる。むしろ革命にふさわしい百済滅亡(白村江の敗戦)を革令であるべき甲子(の前年)に当てている。甲子年AD664年には冠位26階の制定ぐらいでめぼしい大事件がない。冠位26階は既存の冠位制度を微修正しただけで、革命の後を受けた新政府発足を思わせる革令というほどの大事件には程遠い。さらに、もし岡田が辛酉革命も甲子革令も同じようなものだと考えるのなら、なぜ一蔀を溯った甲子年をぴたり神武元年にしなかったのかの説明が苦しい。これだと1320年の大周期よりも60年ごとにくる小周期の辛酉の方が重要であるようにもみえる。ちなみに、実際に甲子年に初代の王が即位したとする例として、新羅の建国伝説がある。これは『日本書紀』より後に作られた話であるが。
さらに岡田説では、讖緯説の大サイクルの起点はAD184年であり、その1周前の起点はBC1137年と自動的に定まるから、日本書紀のBC660年説は讖緯説にぜんぜん噛み合わず、むしろ讖緯説を否定しているともいえる。
まぁなんだかんだすったもんだあるが要約すると4つある。結論だけまとめると以下の如し

【1】
讖緯説によって逆算されたとしても、逆算起点とされる年次が選ばれた理由が不明瞭のままである。斑鳩宮の建設はなんら大事件ではないし、とくに天智天皇を起点とする説の場合は『日本書紀』の編集方針からいって不自然

【2】
讖緯説が信じられるようになったのは律令国家から王朝国家へ移行して以降だが、この移行期に平安貴族層の人生観や世界観に大きな変化があって迷信の時代に突入することは家永三郎等の研究によって夙に知られている。三善清行(みよしきよつら)はまさにその時期にずばり該当する。それ以前には正統的な儒教的教養からすれば讖緯説は異端であって公式な歴史書に採用すべき理論でないと考えられらたのではなかろうか

【3】
『日本書紀』編纂時点で日本国内に讖緯説に類する素朴な迷信が存在したことは判明しているが、三善清行がいうような高度に体系化された理論が存在したとか、それが広く支持されたり信じられていたとか等という記録も形跡もなにもない

【4】
神武天皇元年の推算根拠となったという問題の理論は、中国の讖緯説には存在しない。この日本独自の讖緯説は『日本書紀』編纂時点より後の時代に日本国内で捏造されたものである疑いが濃厚

(9-3)現代の通説に対する評価
讖緯逆算説は、明治初期の学説であるが、当然ながら当時も反論は賛同論と同じくらい学界の内外問わず多々あったものと思われるが現在ではそれらを一覧することは不可能である。神武天皇架空説と日本書紀年代造作説が常識化した戦後まもない頃の歴史学界では何ら深い検討もされずもてはやされ、今も学界の内外で広く流布している。
《次回予告》
さて、神武元年が讖緯説で計算されたものではないとしても、その事は、「じゃあ紀元前660年ってのが本当なのかどうか」って話とは、直接は関係ないw 偶然にも本当に前660年かも知れないのだからw 偶然でもいいのだが本当にそうならそうだと証明しなければならない。本当の神武元年は西暦でいったら何年なのかって話は、それはそれとして重要ではある。それに加えてもう一つの問題もある。それは、「紀元前660年」とする『日本書紀』の編年が事実であるかないかにかかわらず、讖緯説と関係ないのなら、いったい何を根拠にどういう計算で出てきたものなのかって問題だ。「史実がそのまま伝承されただけで深い意味はないんだよ」って話なら簡単なんだが、そうは問屋がおろさないわけでw
「皇紀(BC660年)は讖緯説に基づいてない・中編」に続く

・円野比賣はブスではなかった?

H30年4月24日(火)改稿 H24年12月19日(水)初稿
円野比賣の物語の不可解
ブスだから追い返したってのは酷い話に思えるが、今でも親が勝手に結婚相手をきめるイランでは、結婚当日に新郎新婦が初対面なので、面食い同士だといろんな悲喜劇が起こるそうだ。丹波という遠方からくる妃候補で当時は写真もなかったろうが、ブスお断りなら事前に情報リサーチも出来たろうし、似顔絵を提出させることも出来たろうし、似顔絵じゃなくても天皇が顔にこだわってるとなれば事前調査官が盛った報告するはずもない。この話の真相は、そんなへんな話だったのだろうか、推理してみよう。
まず記紀で姫たちの名前が姉妹の順がちがってる、同じ古事記の中でも何ヶ所か違ってる。これはなぜなのか。一見どうでもいいような小さな記述の「食い違い」に、重大な謎解きのヒントが隠されてることが多いのだ。

A,開化記の系譜では3姉妹でこの3人は同母姉妹

比婆須比賣(ひばすひめ)、眞砥野比賣(まとぬひめ)、弟比賣(おとひめ)

 B,古事記の后妃皇子女の記事ではこの順で3姉妹だけ

氷羽州比賣(ひばすひめ)、沼羽田之入毘賣(ぬばたのいりひめ)、阿邪美能伊理毘賣

 C,古事記の沙本毘賣(さほひめ)の推薦の言葉では2人だけ

兄比賣(えひめ)、弟比賣

 D,紀の狭穂媛(さほひめ)の推薦の言葉では名前は明示されず5人という人数が明示されている

(※5人の名前の明示なし)

 E,古事記の物語ではこの順で4人

比婆須比賣、弟比賣、歌凝比賣(うたごりひめ)、圓野比賣(まとぬひめ)

 F,書紀の物語ではこの順で5人

日葉酢媛、渟葉田瓊入媛(ぬばたにりひめ)、真砥野媛、薊瓊入媛(あざみにりひめ)、竹野媛

上記のうちAは理解しやすい。この3人は丹波之河上之摩須郎女(たにはのかはかみのますのいらつめ)という立派な地方豪族の娘を母として生まれた同母姉妹で、その他は異母姉妹ということだろう。異母姉妹のほうが書かれてないのは単なる書き漏らしで系譜記事ではよくあること。Bの3人は皇子皇女を生んだ人だけの名があがり、子供を産まなかった人は略されてると思われる。これも系譜記事ではよくあること(ただし法則のようにきっちり決まってるわけではなく子のない人も書かれていることもある)。Cが重要で、もともとサホヒメは4人とか5人を推薦してはおらず、最初から2人しか推薦していなかったことがわかる。Dは書紀の編者が物語の全体をみて人数を訂正したつもりなんだろう。AとEでは姫の順番が違っているがEは原文よめばわかるが残された2人と返された2人にわけてるために順番がおかしくなってるので、Eは姉妹順ではない。長幼の順はAが正しいと思われる。姫たちのうち、日羽州姫、沼羽田媛、薊媛は子供がいるから死んだ人もいれて最低でも4人いるのは確実。古事記では竹野媛はでてこず死んだのは円野媛。書紀では死んだのは竹野媛で円野媛は返されていないのだが、子供がいなかったことになっている。おそらく円野媛と竹野媛は同一人物の別名で、書紀は誤って別人と思ったために、円野媛を妃にしたが本当は死んでるんだから子供がいないのは当然ということになる。あるいは追い返したことを悔やんで、死後ではあるが改めて妃としたというようなことがあって、記録上は子供のいない妃として書かれた資料があったのかもしれない。古事記では2人追い返したことになってるのに書紀では1人になってるのは、歌凝媛まで自殺したらたいへんだというので急遽呼び戻してめでたく妃になれたものと思う。2人が追い返されたにもかかわらず円野媛のセリフでは「同じ兄弟のうち」といってる。「兄弟」は「えと」ではなく「はらから」と読んで同母姉妹をいってると思われ、「日羽州姫と弟媛が残されたのに自分だけが」、という意味にとれる。さすれば、一緒に返されたという歌凝媛は異母姉妹となる。同母三姉妹のうち兄姫と弟媛は普通に考えれば長姉と末妹だから、円野媛(=竹野媛)は中津媛という別名ももっていたと思われ、日羽州姫と兄姫が同一人物なのも確実。問題は歌凝媛だけ異母姉妹なので年齢順でどこに入るのかわかりにくい。沼羽田媛(姉)と薊媛(妹)の順番は動かず、このどちらかが歌凝媛でもう一人が弟媛のはず。Eの4人姉妹の配列は弟媛より歌凝媛が妹のようにみえるが前述のとおり真ん中で切れて2人づつ並べたものだから、歌凝媛は円野媛より姉だと思われる。Fの5人配列のうち、3人同母姉妹の真ん中のはずの竹野媛(=円野媛)が末妹になることはありえないから最後の竹野媛の名は無意味な追記で、そうするとFの薊媛が円野媛からみて妹だから弟媛と同一人物であり、歌凝媛が沼羽田媛と同一人物だろうと推定できる。

四姉妹の確定  ※次姉ヌバタノイリヒメ除く3人の母は丹波之河上之摩須郎女(貴人)


長姉・ヒバスヒメ(霊蓮姫)     通称/エヒメ(兄姫)

次姉・ヌバタノイリヒメ(夜干玉入媛) 通称/ウタゴリヒメ(唱凝媛)←※この人だけ異母姉妹

仲妹・タカヌヒメ?(竹野媛?) 通称/タケルヒメ?(猛媛?) のちの改名/マトヌヒメ(円野媛)

末妹・アザミノイリヒメ(薊入媛)   通称/オトヒメ(弟媛)

この姉妹はすべて花の名がついており、これが幼児期からの本名と思う。日羽州はヒバの木もあるがヒは霊妙なという意味の接頭辞でハスの花からとった名と思う。竹野媛は竹の花、滅多に咲かないが、マトノ・マトヌのほうは植物が思いつかないので竹野媛が本名と思う。薊媛はアザミ。沼羽田媛(歌凝媛)のヌバタはヒオウギの種子をヌバタマというのでそれか、ヒオウギの花も念頭に置かれてるのだろう。同母3姉妹の通称としては「兄姫、中媛、弟媛」だったと予想できる。
なお、古事記が竹野媛の名を消してる理由だが、開化天皇の妃にも竹野比賣がおり、この人も晩年は丹波(後の令制でいうと丹後だが)に帰ったという地方伝承があるらしい。この人の話と混同してるわけではない、というのが古事記の主張かとも思えるが、そうではなくて、古事記は悲劇の死者を笑いものにすることを憚って、あえて本名の竹野媛とは呼ばなかったのではないかと思う。書紀では一貫して竹野媛であり、円野媛は別人で妃に無事なれたことになってる。あるいは書紀は丹波に帰ったという開化天皇妃の竹野媛と混同してるのかもしれない(ここらの矛盾の解決については後述)。名前が同じだから同一人物とは限らず、名前が違うから別人だとも限らないが、別人の場合、記紀は極力表記を変えたりして混同しないようにしているように思える。古代の皇族貴族の名前は特徴的なのが多いし、皇族貴族なら別名も多いから、そっくり同じ名の場合は同一人物である可能性が高いだろう。ただし竹野媛は地方豪族の娘でしかも安直でありふれてそうな名前だから同名異人がいてもおかしくない上、開化天皇妃のほうとは時代も違うのでなおさら問題ない。

お話の復元
丹波道主命(=旦波比古多々須美知宇斯王)の4人の娘は同母から生まれた兄姫(日羽州姫)・仲媛(竹野媛)・弟媛(薊媛)と、別の母から生まれた歌凝姫(沼羽田姫)がいた。が、もともとサホヒメが推薦したのは5人でも4人でも3人でもなく古事記によれば最初から兄姫(日羽州姫)・弟媛(薊媛)の2人だけだった。従って、丹波から召し出したのも最初からこの2人だけだったはず。彼女らの父の丹波道主命も、頼まれもしないのにむりやり娘4人を押し出したとは思われない。おそらく他の2人の姉妹、歌凝媛と竹野媛はダメ元で立候補しただけなのではないか。丹波側とすれば「聞くところによれば故皇后様のご指名は『兄姫・弟媛』だったとのことでござる」としか情報ないわけで(都の朝廷の認識でも「文言としては」まったく同じ)、これは考えようによっては解釈の幅ができる。つまり「兄姫・弟媛」というのはニックネームみたいなもので本名ではないから(本名なら日羽州姫・薊媛)、「姉妹のうちで齢上のものと齢下」という普通名詞として受け取ることもできる。そしたら日羽州姫と竹野媛の組み合わせでも「兄姫・弟媛」だし、竹野媛と薊媛の組み合わせでも「兄媛・弟媛」だし、なんなら異母姉妹だけれども沼羽田媛と竹野媛でも「兄媛・弟姫」といっていえないこともない。ここは一つ、4人で都へ上がって確認して頂いたほうが間違いがないのではございませぬか、お父上? と、竹野媛に言われれば「まぁそれもそうかな」となってしまう親ごころw 丹波道主命も、天皇にむりやり4人押し付けるというのはありえない話で、普通に考えれば、この4人のうち2人と限らず、もし気に入った娘がいれば3人でも4人でも、また逆にお気に召さなかったら2人といわず、0人でも1人でもかまわないという主旨だろう。さて一方、この時の垂仁天皇とすれば前皇后サホヒメの遺言大事と思ってる段階なので、遺言通りに実行しようとしてるのに、4人も来てしまった。遺言になかった2人は、命令もしてないのに勝手に上京してきた娘たちであって何かの手違いだろうから追い返すのは当然であり、残酷な措置でもなんでもないし、この2人も格別ブスだったわけでもあるまい。サホヒメは推薦の理由に「浄き公民」(記)、「志ならびに貞潔(いさぎよし)」(紀)とあり、性格や人徳を問題にしているのであって「美貌」はあげていないのだ。なぜサホヒメが兄姫(日羽州姫)・弟媛(薊媛)を推薦したのに竹野媛を推薦からハズしているのか訳を考えると、竹野媛は性格に問題があったからとしか考えられない。追い返された後も、「ブスだから追い返されたと世間は思うだろう」というわけで恥じてるが、実際に世間がどう思うかは以上の経緯からすると、「呼ばれてないのに押しかけたから追い返された」のであって「ブスだから」とは思わないはずであり、せいぜいのところ「性格がおかしいから」だろう。「ブスだから〜と世間が〜」というのは、「美醜だけが人間の価値」という本人の信念を投影した妄想にすぎない。アイドルになれなかったから僻んでる中2病とかメンヘラ女子みたいなものではないだろうか。そもそも本当に竹野媛の主張が一般的に通用する妥当な事実なら、なぜ歌凝媛は自殺しないのか。おそらくブスだったのは竹野媛でなく歌凝媛なのではないか。竹野媛の考えではブスは元からブスなのだから、ブスだと思われるのは改めてのことではなく元々で、そんなことでは死ぬ理由にはならない。が、美女がブス認定されるのは死ぬに値する恥なわけだろう。竹野媛はブスどころか姉や妹にもまさる絶世の美女だった可能性がひじょうに高いと思う。自分の美貌を使いこなせず持て余してメンヘラになるってのは今の世の中でもよくあることじゃないか。ここで歌凝媛のキャラを考えるに、「うたふ」には訴える、主張する、唱導する、説明する等の意味があり、「こる」には精巧を極める等の意味があるから、「うたごりひめ」は言葉が巧みで、竹野媛が誰かとトラブったりした時に取りなしたり、興奮した竹野媛をなだめるのがウマかったのではないかと思う(歌凝媛はニックネームで本名は「沼羽田媛」)。察するところ歌凝媛は温厚な性格でいつも竹野媛に巻き込まれてるタイプだったのがいつの間にか問題児である竹野媛の「おもり役」になってしまい、そのうち何をやりだすかわからない竹野媛の監視役として重宝がられてたのではないかと思う。さらにいえば、3姉妹の母は古事記に名のあがる地方豪族なのに対し、歌凝媛の母は身分の卑しい婢女だったのかもしれない。それで幼少期を推測すると、姉妹から爪弾きにされた竹野媛が、上から目線で歌凝媛にくっつくようになり、歌凝媛も初めはしかたなくつきあっていたのかも知れない。ともかく、歌凝媛が、上京する竹野媛についていったのも竹野媛から「強引に誘われ、つきあわされた」のと同時にその反面では自分から「心配でついていった」という面もあるんだろう。それとは別に朝廷では竹野媛の自殺にショックを受け、あわてて歌凝媛のほうはまだ生きているうちに呼び戻したところ、歌凝媛も立派な人物であることがわかったので、この人も妃に取り立てられることになった。この人物は3姉妹とは異母姉妹なので、サホヒメとの交流がなく、それでサホヒメのアンテナにかかってなかったものと思う。竹野媛も死後ではあるが改めて妃とされた。その際竹野媛のままでは縁起が悪いので「円野媛」と改名されたんだろう。竹野媛も歌凝媛と同じくニックネームだと思われ。本名は不明だが前述の通り通称は「仲津媛」か「仲媛」だろう。丹波の「竹野」という地名に関係付ける説もあるが、そうではなく「猛々しい性格の媛」という渾名で、死後の「円野媛」は「あの世では円満な性格になってほしい」という願いが込められているのではないかと想像する。どっとはらい

真相
記紀の記述はおそらく「心醜き云々」の「心」の字が抜け落ちた原資料があってそれでブスの話だと勘違いしたか、あるいは『古事記』にはよくあることだが、語部(かたりべ、たいていは女性)が女性の視点で話をおもしろく作ってしまったのだろう。最初のうちは、円野媛を笑いものにする構成だったのが、途中から語部の活動として上演されることがなくなり、舞台の台本から歴史読み物に改編されるに従って、演出意図が忘れられ、悲劇だか喜劇だかわからなくなってしまったものと思う。
弟国(おとくに)は兄国(えくに)の対語で、弟国が後に乙訓郡となり、兄国が葛野郡になった。同じような兄国と弟国の対は伊勢国にもあり、各地にあったようだ。人口が増えて張り出した部分が大きくなって独立すると元の領域が「兄」で新地は「弟」というわけ。だから姫が落ちたから「落ち国」なんてのは典型的な「地名起源譚」つまりコジツケであり事実ではない。ただし、乙訓郡には「羽束師」(はつかし)という地名が残っており、延喜式内社があるほど古い地名なので、あるいは、竹野媛がここを通りかかった時に「恥づかし」という言葉を連想して死にたくなったってことはあったのかもしれない。

出雲と丹波の古代史
そんなことよりも、サホヒメが推薦した2人の妃が「丹波道主命」の娘だったというのが実は重要なことで、別なところで詳しく書くが、先代の崇神天皇が四道将軍を派遣して北陸・東海・山陽は問題なく統治したが、山陰だけは丹波一国に留まっていた。それは丹波に通じる要路を塞ぐ武埴安彦王と丹波の兇賊玖賀耳之御笠との反乱があったためで、この二者がつながっていたのは当然としても、その背後の出雲もまたこの反乱に一枚噛んでいた、つまり三者はつながっていたと見ねばならぬ。出雲はしばらくは何食わぬ顔で反乱とは無関係を装っていたが、ついに発覚して四道将軍のうちの2人、吉備津彦と武渟名河別が派遣されて当時の出雲の首長「出雲振根」が成敗されてしまった。振根の後継として「鵜濡渟」(うかづくぬ)を命じたが、この時に山陰道の総督としての地位を失い、丹波国が出雲にかわって山陰道の総督府(のようなもの)になったと思われる。四道将軍として丹波を担当した日子坐命は大和と各地を移動して活躍した痕跡がみられるがそれだけでなく国内治安の根本は外国からの難民問題にあるので、朝鮮半島への進出を考えており、多忙を極めていたので、山陰総督の地位は息子の丹波道主がついた。丹波道というのは出雲道を改名したもので現代語でいう山陰道のことだろう。道主は国主とか県主とかいうのと同じで山陰道の道主(国造本紀では石見国造も崇神朝に設置されたというから、大出雲はこの時、現在の出雲と石見に分割されたのだろう)。しかし垂仁天皇の代になって反乱を起こしたサホヒコ・サホヒメは日子坐命の息子・娘で、当然日子坐王の一族の地位の低下は防げず、丹波道主命の出雲への圧力も弱まらざるを得ない。また朝鮮半島進出の企画も大きく出遅れてしまった。サホヒメは出雲にまた不穏な情勢が起こることを危惧するとともに、自分のせいで迷惑をかけた一族に挽回のチャンスを賜るように考えて、丹波道主命の娘たちを推薦したのではないだろうか。サホヒコの乱で一時はどうなるかとみえたこの一族も、日羽州姫が景行天皇の生母となり2人の妹も皇子皇女の母となったことで完全に復活した。またサホヒメが生んだ品智別命も、丹波道主の使命=出雲統治を継承すべき天命の子だったといえよう。実際、出雲はまたも朝廷への反抗的態度がみられ、垂仁天皇は物部十市根大連を派遣して出雲大社を管理させるという情況になっていた。そんな頃、品智別命は成長してから、出雲大神に導かれて出雲大社を再建するきっかけとなった。その後は、日子坐命のあとを追って朝鮮半島に渡ったという説があるが、それはまた別の機会としよう。
このように『古事記』はバラバラな説話の寄せ集めではなく、すべてが綿密につながって大きな歴史となっているのである。

マトノヒメ生存説
ところで書紀では竹野媛が輿から落ちて死んだとあるが、よほど打ちどころが悪くないと輿から落ちたくらいでは死ねないだろう。だから古事記では円野比賣は「峻淵」に落ちて死んだとある。「峻」は断崖絶壁としても、「淵」の字があるから大河か湖を想像するが、五億百万歩譲って「峻淵」を川や湖沼に限らぬとすれば、輿に乗って山道を進む途中で輿から谷間に身投げしたようなイメージも浮かぶ。しかし、あまり一般道から離れた山奥を行く事は考えにくい。川は、平地を行ったとして乙訓のあたりで探しても桂川ぐらいしかない(古くは「葛野川」といった)。そもそも平地を行ったとも思えないんだよね。桂川を上って船旅が主だったはずで、途中で物見遊山でもしようとならない限り、上陸しないし、輿にも乗らんだろう。では桂川に入水自殺したのか? それも不可能だとは思わないが、確実に死ねるような断崖絶壁でもなさそうに思う。高さのある橋から落ちるとヤバそうではあるが、それでも急流でもない限り(あるいは浅瀬でもない限り)確実ではなく流れが穏やかで深いところだと高めな橋から落ちても簡単には死なさそうだが、どうだろう。橋を渡る状況自体が考えにくい気もするし…。書紀によると旧暦八月一日だから大雑把に現在の9月上旬?、川に落ちたら確実に凍死というほどの季節でもなさそう。計画的な自殺なら体に岩とか縛り付けてってこともありうるが、お供の者共がたくさんいる中でそれも難しかろう。むりやり合理化すると、まず何らかの理由で桂川から途中で上陸し、通常のコースから逸脱して輿に乗って方向違いの山奥に向かった、そこで山奥の断崖絶壁から飛び降りて…。となる。恥ずかしくて北の実家にも帰れないがむろん南の都にも戻れないのだから、西か東へゆくしかないが、羽束師を基点と仮定すると、東は今の京都伏見区や宇治市で、平地が続き町々も多かったろう。西はすぐ今でいう長岡京市だが、この市は東半分が市街地だが西半分は山。ここらの山に入り込んだものと思われる。この山地をどんどん入っていけば、身投げにほどよい感じの断崖絶壁はいくつか見つかるんじゃないか。別案として、ギリギリ乙訓の圏内ということで桂川を北上した先、嵐山やその手前の松尾大社のあたりはかなり山が迫っており、桂川からも近い。ここらで自殺のチャンスを逃したらもう乙訓の範囲は抜けてしまう。
まぁ場所はどこだったにせよ、通常ルートを逸脱する命令はお供の者共も困ったろうが傷心の姫様に「気晴らしの物見遊山だ」と言われればしょうがないし、歌凝媛も一緒だし、命令に従うしかなかったろう。古事記によれば、乙訓に到達する前に、相楽(今の木津川市か精華町のあたり)で一度首吊り未遂もしてるが、これは本当に未遂だったのが狂言だったのかもわからない。もし未遂なら呑気に危険な山道を物見遊山させるとも思いにくい。実際に狂言だったのかどうかは別としておそらく当時の周囲の判断としては狂言と思われたのではないか。それである程度は気が晴れてもう馬鹿なことはするまいと周囲は油断していたのだろう。入水もそうだが、急な思いつきの自殺の場合、飛び降りだと、現代のようにビルが乱立してるわけでもないので、適切な場所選びをしないと確実には死ねない。この時代は首吊りのほうがまだ確実なイメージがあったろう。従って一度首吊りで失敗した自殺志願者が二度目は飛び降り、というのはパターンとして冷静な第三者は想像しなかったのではないか。
そういうわけで、無計画な咄嗟の自殺なら、もしかして、ちょっと怪我したくらいで、結局死なずに生きていたのではないかな。なぜそう思うかというと、本当に可哀想な人は必ず現地に美しい伝説が残ってるもんなんだよね、日本ってのは『万葉集』の大昔からそういう国なの。でも乙訓にも丹波にもそれっぽい遺称地や伝説がない。乙訓といっても今の長岡京市と向日市の全域、京都市西京区、南区、伏見区の一部も入り、とても広いのに自殺現場が特定されてないしお墓もないし神社もない。前述の羽束師にも円野媛(=竹野媛)に関することは伝わってない。
ということは、やはり生きていたのだろう。竹野媛(=円野媛)みたいな人は一旦反省して心を入れ替えれば、パワフルで陽気な美人になるんだよ。故郷に一旦帰ったものの、居づらいだろうから名前を変えてどこか遠くに移り住んだのではないかと思いたい。あるいは反省して、父の仕事を手伝って暮らしたか。それならまず出雲に向かったはずだな。都にはとりあえず恥ずかしいから死んだことにしといてもらって。実は岡山県美作市に「真殿」という地名がある。これはマトノヒメと何か関係があるんじゃ…。ここは旧国名でいうと美作国だけど、美作国ってのは和銅六年(713)に備前国から分置したもの。そして備前・備中・備後は律令制になってからの名称で、これらは元々は「吉備国」である。さて、垂仁朝後期の出雲の首長は、襲腿の子の岐比佐都美(きひさつみ)だが、この名は「吉備のサツミ」であって、この人はもともと吉備の出身ではないかと思う。キビとキヒでは発音が違うから別の言葉とすべきだが、方言では古い言い方が残るので中央でキビといっても現地ではキヒといってた可能性もなくはない。美作という地は交通の便の悪いところで古代には内陸山間の孤島のようなところだった上、丹波にはほど近いので、生き延びて世を忍ぶ円野媛が隠れ住むに最適ではないか。しかも美作の語源は美酒(うまさけ)だというぐらいなのでグレて酒に溺れたい人に向いているw 実は竹野媛が死んだとされる乙訓での帰郷ルートにあたる桂川には、乙訓に入る最初の合流点の大山崎町に酒解神社あり、乙訓から抜ける直前の桂川沿いに松尾大社あり、どちらも酒の神とされてるんだよね。そしたらその近辺には必ず酒の市があったに違いなく、憂さ晴らしに酔っ払ってた可能性はないのか? そうやって元気に発散してる人は結局自殺しないと思うんだよね。で美作の話に戻ると、美作は出雲からもほど近く、山陰の群雄尼子氏が美作を領していたこともある。襲腿はどうもダメ人間っぽいのできっと酒好きだろうw 円野媛と襲腿は酒が取り持つ縁だか、どういう巡り合わせだかで出会い知りあって、子供(=岐比佐都美)が生まれた。時に、出雲に派遣されていた査察官は物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)だったが、物部のネットワークは全国にくまなくあるので、この子が出雲の後継者として見出され、物部十千根大連によって出雲に送り込まれたのであろう。円野媛もついていったかも知れない。そこで品遅別皇子と出会う、と。…というのはさしたる根拠もない想像にすぎないが、まぁ死なずに生き残った円野媛がどこで何やってたにしろ、第二の人生で痛快に成功して楽しく過ごした、ってことに小説ならしとくね、俺は。

百済の朝貢、大山守命の乱

H30年4月23日(月)改稿 H25年10月16日(水)初稿
カミナガヒメの入内
髪長媛(記:髪長比賣)は諸県君氏の娘、この諸県(もろがた)というのは今の宮崎県の南部。古くは日向国というのは今の宮崎県だけでなく鹿児島県も含んでいた。諸県君(もろがたのきみ)というのは『先代旧事本紀』によると景行天皇が九州に御親征の折り、現地のミハカシヒメ(記:美波迦斯毘賣/紀:御刀媛)との間に生まれた豊国別皇子の子孫であるという。このミハカシヒメっていうのは別名「襲之武媛」(そのたけるひめ)といい素性不明で日向に熊襲退治してる景行天皇が突然召し入れたことになってるが、前後の経緯から察するに、熊襲梟帥(くまそたける)の娘で、天皇の命により父を殺した市乾鹿文(いちふかや)と同一人物だろう。書紀では市乾鹿文は父殺しの罪で処刑されたことになっているので、ミハカシヒメは別人とせざるを得なかったんだろう。市乾鹿文の妹、市鹿文(いちかや)がなぜか火国造にされてるが意味がわからない。火国は後世でいえば肥後、これは襲国造の間違いだろう。だから「襲之武媛」(そのたけるひめ)という別名も襲国の梟帥(タケル)という意味で辻褄があってるんで、この姉妹は姉妹ではなくもともと同一人物だろう。だからミハカシヒメと景行天皇との間に生まれた豊国別皇子を、記紀では日向国造の祖といっており、旧事本紀では応神天皇の時、豊国別皇子の孫の「老男」(おいを)という者を日向国造に任じたとあり、これは書紀の応神十一年に出てくる牛諸井(うしもろゐ)と同一人物だろう(後世の系図では老男と牛諸井を親子にしていてその可能性もなくはない)。旧事本紀が国造任命を応神天皇の時としているのはこれにこじつけたのだろう。もとは「襲国造」だったのである。襲国は今の宮崎県北部のことだが、ヤマトタケルの熊襲征伐が完了してからは「諸県」(宮崎県南部)に本拠を移して、宮崎県北部から鹿児島県下まで管轄し、豊国別皇子が生まれてからは「諸県君」と称した。生まれる前や皇子の幼児期は母の襲之武媛(=ミハカシヒメ)が記紀や風土記などによくみられる女性首長として取り仕切ってたんだろう。だから後世の系図類では諸県君も日向国造も同一氏族としている。書紀では景行天皇の時すでに諸県君の一族で泉媛という者と会見したという記事があることから、応神天皇の時の髪長媛と景行天皇の時の泉媛とを同一視することを疑問視する説もあるが、天皇が孫に会ったと思えば問題ないんじゃないかな?
で、この諸県君だが、皇室に近い皇族であるとともに九州きっての大豪族だ。皇族系とはいえ遠隔地の地方豪族から后妃が立つ例は多くない。神功皇后以来、半島との交通が活発化している折り、九州の政治が重要になってきて、諸県君氏の存在感も増していたのではないかと思われ、諸県氏は海の民として瀬戸内海の海上警備と海上輸送を担ったろうが、それだけではない。隼人族の領袖として、近習隼人(ちかつかのはやと)のリクルート(人員の調達確保)も担ったろう。近習隼人は皇族個人につく「ボディーガード兼召使い」で、政治上の機密や個人のプライバシーにも接することがありうるので、忠誠心が篤く純朴で意志が固い人材でなくてはならない。隼人はそこが見込まれたんだろう(ちなみに隼人と熊襲はまったく別の概念)。
紀をみるに大雀皇子は早くから政治に関与していて(現代風にいえば閣僚入りしていて)、髪長媛を見染めたのも大阪でのことでその頃は大阪(当時の言い方では難波)に常駐していたらしい。いうまでもなく大陸や半島からの使者に対しては表玄関であり、海外の物資が荷揚げされるところでもある。
応神天皇が九州の大豪族の娘をあえて大雀皇子に与えたのも政治的な背景があったのではないだろうか。とくに葛城氏との関係では大雀皇子は癒着しすぎて身動きがとれなくなっていくことを予想して、葛城氏を牽制する意味があったと思われる。だからカミナガヒメから生まれた大日下王(おほくさかのみこ)は、思想的にも、また支持勢力からいっても、葛城氏からみて邪魔物になっていき、後々の内乱の火種となっていく…。

国栖
(土蜘蛛との関係など、後日加筆予定)

三韓の朝貢
「朝貢にきた『新羅人』に作らせたのが『百済池』なのだ」ってのは前後つながっていない。この文章はおかしく、途中の言葉が落ちている。紀では高麗人・百済人・任那人・新羅人がきて、彼らに作らせたのが「韓人池」だという。両書照合して察するところ、高麗池・百済池・任那池・新羅池があってそれらの総称が「韓人池」なのであろう。記の文章は単なる誤脱なのか省略表現なのかわからないがとにかく誤解を与える文章になっている。ここで注意すべきはなぜか四者が同時に居合わせていること、これは日本からわざわざ呼びつけたか、もしくは大使館的なものがあって多くの外国人が常駐していたかのいずれかである。農業用の貯水池を作らせたというのは徳川時代に幕府が伊達氏や島津氏に土木工事を課したのを連想させる。ただ、高句麗は任那のような小国と違い大国であるから、ここで見栄を張りたいところ。新羅と百済もお互いに対抗意識があったろう。しかしそこで各国に自由に作らせたら小国任那がいちばん不利になる。そこで武内宿禰が工事の総監督として、あれこれ調整したんだろうが、西川権の説では、各国の担当する池の大きさを厳密に同等にし、三韓平等主義を押し出したのだという。すると、工事規模を国力の小さい任那にあわせたろうから、高句麗にしたらさしたる苦役ではないが、見栄を張る機会を奪われたばかりか百済・新羅のような格下や、それどころか任那ごときゴミとも対等に並ばされるという屈辱だったことになる。(ちなみにこの頃はまだ楽浪郡や帯方郡が健在で、高句麗・百済・新羅の三国抗争が起こる前のことで、三国が倭国ぬきで直接外交することもまだなかった)
西川権の説では、神功皇后は百済だけを偏愛して過剰に恩恵を与えていたが、それでは朝鮮半島の国々をまるく治めることは出来ないと苦々しく思っていた応神天皇は自分の代になってから母后の外交路線を変更したというわけ。だが、俺の説では、百済と日本の国交が開けたのは実際は応神天皇からで、神功皇后の時代には百済はまだきてない。だから神功皇后の百済優遇というのは、実際は応神朝の前半の政策で、応神朝の後期になってから武内宿禰の主導で三韓平等策にきりかわったものと思う。この武内宿禰の方針=「三韓平等政策」は、後々朝鮮半島に大波乱を起こす火種になっていく。
百済池は奈良県広陵町百済にある池(池はあるがちょい検索しただけでは池の名は判明せず)のことだという説や、韓人池は奈良県田原本町(たわらもとちょう)唐古にある唐古池のことだとの説もあるが、どちらもさして確実な根拠のあることではない。広陵町と田原本町は隣り町でここらに4つ並んだ池が昔はあったのかも、とした上で、グーグルマップで見た感じだと、広陵町のが「百済池」だとして、田原本町立平野小学校の西に隣接する池が「新羅池」、田原本警察署の北西200mほどにある池が「高麗池」、唐古池が「任那池」ではないかとも思える。しかし、池は奈良盆地には大小無数にあって、長い間には埋められてしまった池、新しく掘られた池、拡大工事で複数の池がつながり一つになったり、大きな池が埋められて複数の池に分断されたり、いろいろあったろうから今ではどれがどれだかわからないっこないなぁ。どこそこが「なんとかの池」だというのはわたしの妄想で、これ以上は現地在住の郷土史研究家でないとむり(^^;)

百済の朝貢
A)馬
百済が馬をもってきたってのがなぜ大事件かというと、神功皇后以来、新羅は御馬甘(みまかひ)、百済が渡屯家(わたりのみやけ)と定められてきた。渡屯家は紀には高句麗・百済・新羅を「内官家屯倉(うちつみやけ)」としたとあり、新羅の御馬甘は「飼部(みまかひ)」と書いてる。ミヤケというのは要するに皇室の直轄としたということで、貴族の諸氏族に与えないということ。記紀では朝鮮関係に貴族たちが関与してるけれどもあくまで皇室の代官であって領主ではないということだろう。ただ、大陸の文化を吸い上げるストローとしては古くから中華文明に親しんでる百済一国あれば事足りるんで、そうすると新羅の存在意義が薄れる。そこで騎馬文化にかんしてのみは新羅の担当とした。新羅は高句麗との交流が深く、高句麗はいわゆる騎馬民族ではないが、騎馬民族と接してその文化も早くから取り入れていたから、中国から間接的に輸入するよりよかった。しかし百済は新羅の役割も奪い取ろうとしたのだろう。牡牝一対の馬ということは、これは本番ではなくてあくまで見本ではないか?「ほら、新羅の馬より良いでしょう?」というアピール、セールス、宣伝、売り込みなわけだ。だがそういう他人の縄張りを踏み荒らすようなことをすると、新羅だって黙ってるわけにはいかない。新羅も中国の中華文化を直輸入して百済を通さずに日本に送ろうとするわけで、後々自分の首を締めることになっていく。
B)大鏡と横刀
紀では「七枝刀」と「七子鏡」になっている。石上神宮の神宝で有名な「七支刀」だ。書紀は神功皇后の時だとし、古事記は応神天皇の時だとしているのだから、書紀のいう「七枝刀&七子鏡」と古事記のいう「横刀&大鏡」は別のものとも考えられないこともないが、ともに目立って特筆大書されているのだから同一事件とみるのが自然であり、実際同じものとするのが通説のようようだ。だが七枝刀も七子鏡もかなり特異な形状でそれゆえに特筆したのなら、古事記が単に「大鏡と横刀」としか書かないのはおかしくないか? しかも七支刀は湾曲していない直剣に枝がついてるんだが「横刀」という文字には、後世の日本刀のように湾曲した刀ではないかという印象がある。石上神宮の「七支刀」の銘文の泰始四年についてはAD268年説、369年説、468年説の他にもまだあるが、それらの議論の中では宮崎市定の解釈に圧倒的に信憑性を感じる。宮崎の説はAD468年で、倭王興か倭王武の時代だとしていて、興と武の兄弟は通説だと安康天皇か雄略天皇にあたる。わたしは倭の五王についての通説には反対で、倭王興が安康天皇だとも倭王武が雄略天皇だとも思ってないが、神功皇后や応神天皇よりは後の時代の天皇のうち誰かではあるだろう。で、銘文の「泰始四年」については468年説以外にもいくつも説があるが、どれを採ってもわたしが考える神功皇后や応神天皇の時代に当てはまらない。だから「七支刀と七子鏡」は神功皇后の時代でも応神天皇の時代でもあるまい。古事記のいうとおり応神天皇の時代に献上されたのは「大鏡と横刀」であって、「七支刀と七子鏡」ではなかったのである。ちょいと想像をたくましくすれば、応神天皇の時以来、天皇の代替わりには百済から鏡と刀剣を献上するのが習わしになっていたのではないか? そして七代目の時の記念として造られ贈られたのが「七支刀と七子鏡」だったのではないか? 応神天皇から七代目というと雄略天皇になる。が、雄略天皇も七支刀銘文の示す年代にあわない。「応神天皇から七世代」を表わしたものとすると安閑・宣化・欽明の3天皇だがこれも時代があわない。ではいったいどの天皇の時なのかというと、ちょうど「応神天皇から七世代」で年代もぴったりあう天皇が一人いる。それは…(続きは後日に加筆予定)
C)韓鍛・呉服
(後日に加筆予定)

大陸系の二大氏族の帰化
A)秦造
(後日に加筆予定)
B)漢直
(後日に加筆予定)

酒の歴史
(後日加筆予定)

オホヤマモリの乱
(後日加筆予定)
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5息長王朝の由来」に続く

・「ウガヤ朝」論に偽書は不要

H30年4月18日(水)初稿

建国か?肇国か?
黒板勝美が「日本には肇国(ちょうこく)あって建国なし」と言って以来、「建国じゃないんだ、肇国といえ」って人が我々ウヨの中には一定程度いる。ここで、肇国と建国の概念上の違いという一つの問題系が存在するわけだが、今回はその問題については(いずれ必ずこのブログでやりますが)とりあげずスルーして、便宜上、建国も肇国も同じ意味として使う(今回のみ。議論が煩雑になるのを避けるため)

「神武天皇が日本を建国した」なら神話時代には日本は無かったのか?
「神武天皇が建国した」のだというためには、神話と歴史(ここでいう歴史とは神武天皇以降をさす)を分離した上で(いずれにしろ何らかの意味では分離しまた別の何らかの意味では継続するのであるが「何らか」の内実が多様でありうる)、神話を何らかの意味で虚構虚説とし、神武天皇を日向の一角のみ(または日向一国、または九州のみ、または近畿を除く西日本の盟主、または群雄割拠(もしくは平和であるにせよ統一政権のない諸部族並立状態)の一勢力ぐらいに看做して、初めて神武天皇が諸民族を統合して新たにヤマト民族を創出したのである、という物語を作らねばならない。
だがこの歴史観は、『日本書紀』から『大日本史』へと深まった誤読の系譜を引き継いだ上で、それをさらに現代的合理主義的(というより単に現代にありふれた先入観)な古代史像に落着させた二重の曲解である。

民族創成の問題
神武天皇が初めて諸民族を統合してヤマト民族を創出したのだと解釈するのは著しく現代風な状況認識の形式であり御都合主義である。
その諸民族統合の事績はいかに平和的に諸民族が自主的に帰化してきたものであっても、帰化される側の主人が既存の「自民族」の主体性を失うことは考えにくい。つまり新たな民族の誕生ではなく、旧来の民族の膨張・発展として認識されるはずである。日本が朝鮮や台湾を併合して五族協和を実現したからといって、改めてその時の天皇が第一代を宣言することは考えられない。幕末には清国・朝鮮と合邦して日本国の国号を廃して「大東国」としよう、との案もあったが、神武天皇の場合、対等の合邦のパートナーたちがいた様子はまったくない。
東遷の一団が、固有の文化を組織的に伝承しうる程度の民族集団の体すら成していない放浪者であれば、はじめてヤマトに定住創立された組織を、既存のいかなる民族とも別の新民族と認識することもありうるが、あいにく記紀の東征伝承はそのようには全然よめない。

国土領域の問題
神話において、すでに伊邪那岐美命が大八洲を生み、その上に大国主神までの物語の展開があり、その国土が邇々藝命に譲られたのであるが、この伊邪那岐美命が生み大国主神が活躍した国土の範囲は、どう狭くみても明らかに北陸を含む西日本全土が含まれる。従って、それを継承した神武天皇においてはすでに大和は勢力圏であり、未知の新彊ではない。ヤマトは日向からみて外国だったわけでもないのだから、神武天皇(正確には皇兄五瀬命)の東征が、ヤマト征服や領土拡大を意味することはありえない。

王権継受の問題
鵜萱葺不合命は、君臨していなかったのだろうか? 統治する領民をもっていなかったのであろうか? だとしたら大国主神から譲られたという邇々藝命の遺領はなんだったのか? 邇々藝命は地上を統治せよとの神勅を奉じて天降ったものの、統治すべき国土がなかったであろうか。神話を意図的に曲解せぬ限り、日向三朝の神々は明らかに何らかの意味で地上における統治者であり君主であり王であった。
地上統治の神勅は神武天皇に降されたのではなく、神武天皇の遠い祖先に降された。神武天皇の父に至るまで代々、天下を統治してきたからこそ、東征の出発の時点で組織立った軍団だったのである。神武天皇がバックボーンをもたない風来坊で、先祖をとばしてそれこそ劉邦や朱元璋が天命を受けたように直接本人が地上統治の神勅を受けたのなら、「初代」の意味はわかりやすい。しかし、あいにく伝承ではそうなっていない。
日向三朝みな天照大神の神勅を奉じその系譜を受け継ぐ君主だったのであるが、ならばそれは天皇ではないのか? にもかかわらず神武天皇が初代とは、君主としての地位の何がかわったのか? 何も変わってないではないか。だとすれば神武天皇が改めて初代として即位したとはどういう意味なのか?

神武天皇は建国していない
神武天皇は初代ではない。天皇としては最初に登場する人物だから、なんとなく初代だなと理解されるだけで、『古事記』本文は必ずしも神武天皇が初代であると明示的には語っていない。『日本書紀』はそうではない。神武天皇を「はつくにしらすすめらみこと(始馭天下之天皇)」と呼んで、日本王朝の太祖・高祖・始祖として明解に位置づけている。このように古事記と日本書紀は違っている。書紀は中華式の正史をめざしたものだからそういう編集方針に則って古伝承を解釈しているのは当然だろう。それは奈良時代の解釈なのであって古伝承の真意なのではない。古伝承の原型においては、神武天皇は建国していないのだ。

歴史の消失点
神武天皇とは、歴史の始まりである。歴史の始まりとは記録または伝承の始まりである。
現在、豊富にある現在のついての詳細な記録も年々歳々散逸し、伝承は月日とともに簡略化していく。近い過去は情報量が多く、遠い過去は伝承が少ない。
考古学に頼っても、ある年代から前は文字史料は出土しなくなる。溯った先に、そのような歴史の消失点があり、その先は「先史時代」と呼ばれている。
ある程度、政治史が再構成できる程度に文字史料が残っている(もしくは発見されている)のもので最古のものは、メソポタミア文明とエジプト文明であって、どちらも今から約4800年前か4900年前である。丼勘定で約5000年前としよう。これより前が「先史時代」である。未来から溯っていけばここが歴史の消失点であり、原始から降りてくればここが歴史の出発点である。あくまで現時点では。
やがて何千年か何万年かすれば、この「起点」は大きくズレる。人類史の始まりはペルシア戦争の頃となり、さらにはローマ帝国からとなり、百万年もすれば、第二次世界大戦からとなる。そのたびに、それ以前の記録も伝承も失われる。
あと数万年もすれば、徳川時代は15人の将軍の名の他は系図すらも残らず一切が不明になり、さらに何十万年かすると武家時代800年の歴史は源頼朝・足利尊氏・徳川家康の3人の名しか伝わっていない。その頃には初代天皇は明治天皇ということになっているかも知れない。
現時点において、神武天皇が初代であるとは、そのような意味においてである。

先史王朝
ウガヤ王朝は、後世の偽作であるが、神話と歴史の接合部分をいかに理解するかを考えた場合、神武天皇以前にも天皇がいたという発想は、直観としてはまったく正しい。神武天皇は、実際には第537代なのか第3184代なのか第19064代なのか、なんだかよくわからないのである。特定の何かの歴史ではなく、(世界人類史の全体像=)「歴史そのもの」についていえば、「始まりはわからない」が正解である。「始まり」がどうなっているのかという疑問に答えるのは、歴史ではなく、科学であり、かつて科学の役割は神話が負っていたのである。従って、神武天皇の直前に置かれている日向三朝の神話(=神話の最末尾)は、現代の科学で歴史の直前に置かれる、生物としての人類の発生(=人類の進化)の物語として読まれねばならない(具体的にはこのブログのそれぞれの頁を参照)。

・1倭建の熊襲征伐

H30・3・22(木)改稿 平成25年1月16日(水)初稿
小碓皇子の性格
ヤマトタケル伝承には徹頭徹尾、よくいえば倒錯の美学、わるくいえば変態のエッセンスだかエキスだかがつめこまれてる。
小碓皇子は幼年から凶暴で、双子の兄の大碓皇子の両腕両足をささいなことから引きちぎってしまった。この話は古事記にのみあり、日本書紀にはない。ヤマトタケルについては古事記(倭建)と日本書紀(日本武)ではかなり雰囲気がちがう。日本書紀は脚色が甚だしく、たとえば薨去した時も三十路すぎの成人のように書いているが、実際は書紀のいう総角(あげまき)から齢かさにみても14・15歳、童男(をぐな)という名辞から低めにみた場合9歳〜13歳ぐらい。今でいう小学生か中学生だが、小学生と中学生では肉体的にも情欲的にも落差が大きい。が、昔はこの落差を越えたら諸事情で数年おくらせる一部の人を除いてほとんど元服しちゃったろうから、アゲマキ(総角)といういでたちもヲグナ(童男)という呼称も、二次性徴が始まる前であることを強く示唆している。極端な想定として9歳の可能性もあると思ってきいてほしい。
他にも古事記の方がより原型に近いと考えられている部分が多い。しかし大碓皇子はそれでも生きていて、子孫の氏族を残している。書紀は「大碓皇子が逃げまわって顔を出さなくなった経緯」を明らかにしている通り、古事記が冒頭にもってきたのは間違いで「熊襲征伐の後、蝦夷征伐の前」の出来事としないと、なぜ大碓皇子が朝飯にでてこなかったのか説明がつかなくなる。
倭建(ヤマトタケル、書紀:小碓皇子)は、ありあまる知恵と何者をも怖れぬ好奇心をもてあましていたために周囲から理解されない不遇な少年だったように思われる。双子の兄の手足をもぎとってしまったのは、兄を自分とは違う何者かにしてしまいたかったのだろうか、とも思うが、もうひとりの自分を傷つけるという一種の自傷行為ではなかったか。…いや、兄貴が朝でてこないっつーだけで手足バラバラにして便所に捨てたって段階でもう普通の発想は通用しないんで、あれこれ忖度しても「馬鹿の考え休むに似たり」で意味ないかも。彼の内面は人智の彼方にあり、理解できるはずと思い込むのは傲慢かもしれない。

熊襲の首領は女だった
熊襲とは何かという問題は、本が一冊かけてしまうほど量があるが、とりあえず今の話の流れで最低限必要な注釈だけしとくと、どうも熊襲の首領ってのは毛むくじゃらの関取みたいな体格した熊五郎じゃなく、女酋(女性酋長)だったらしいのだ。書紀によると景行天皇に征伐された九州各地の豪族や土蜘蛛などの首長たちに、かなりの程度女性首長がいるから、熊襲の首長が女性でもぜんぜんおかしくないのだが、書紀によると景行天皇に成敗された熊襲梟帥(くまそたける)の二人の名が厚鹿文(あつかや)と乍鹿文(せかや:岩波の書紀はサカヤと読ませてるがセカヤだろう)で、その娘が市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の姉妹。日本武尊に成敗された熊襲梟帥は取石鹿文(とろしかや)という名。彼らの名の下についてる「カヤ」は、奄美大島で女性の名前の下につける「加那」の古い形ではないか、西郷隆盛の奥さんの「愛加那」は有名だが、他にも安加那、鍋加那、むちゃ加那、バア加那などという女性の名が伝わっている。しかも書紀は市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)ははっきり娘だと明記しているのに、古事記も日本書紀も、クマソタケルの性別を明示していない。「~~カヤ」という名は全員女性だろう。女性といっても例えば女子プロひとつとっても往年のキューティー鈴木からアジャコングまで(齢がばれるが)幅が広いので一概にどうこういいにくいが、古事記の頃には熊曽建が女性であることが忘れられていたとも思われない。女酋説の根拠は古事記とほぼ同年代に編まれた日本書紀に断片的に出てくるからだ。おそらく語部(かたりべ)が猿女(さるめ)といわれた女性からなっていたため、男女の話とすることを嫌ってヤオイないしBL的な解釈をしたのだろう。女の肛門に剣をぶっ刺すような嫌悪感を催す醜い話は異性間恋愛至上主義からは認められないか、あるいは逆に、男に混ざって男同然に暮らした女たちへの嫉妬で男に変えられたか、前者も後者も現代的すぎて古代人の感性からは考えにくいような気もしてそのへんの事情は不鮮明だが、ともかく熊襲の首領はおねぇちゃんか婆さんか、美人かブスかはわからんが女性だった。

熊襲国にいった本当の理由
記紀によるとこの凶暴な小碓皇子をみて、景行天皇は、熊襲征伐をさせることを思いつく。父・景行天皇との会話に、70年代までの若者にありがちな、なにやら気まずい家族の肖像を浮かべるというのも一つの面白い解釈ではあるが、そうではなく、父子間に実際に冷たい風が流れてたのではなく、彼のキャラに思えば、熊襲征伐を希望したのは本人の意志だったのかも知れない。
実は当時の朝廷の最大の問題は熊襲ではなくて出雲だったんだが、出雲は御神託を盾にとっていたので問題が微妙であり、やっつければいいという簡単な話ではない。そこいくと熊襲の方がただの叛乱勢力だから簡単だ。だが小碓命が出雲でなく熊襲に向かったのは、そんな政治的な理由ではなく、単に山陰より九州の方が遠いから、より遠いところまで行ってみたかっただけで深い意味はないんじゃないかと思われる。そう、出雲建(いづもたける)や熊曾建(くまそたける)を殺そうというのではなく、それはどうでもよくて、単に未知の世界への好奇心だったってのがいちばん可能性高いだろう。
出雲だろうが熊襲だろうが叛乱勢力の真っ只中に入っていくなんて、普通はヤナこったろうが、小碓命はなんとも思わない。世間離れというかピントがずれていたというか、行けば必ず戦いになるとか戦えば必ず負けるとかの、アホでもいえる低レベルな予測は、戦いとは正々堂々と戦うものだという思い込みに縛られてる凡人だけの恐怖感情にすぎない。当時の凡人は小碓皇子を天然ボケ呼ばわりしていたのだろう。わずかの伴(記紀を総合すると熊襲征伐では一行6人、蝦夷征伐では2人加わって8人)しか連れることを許されなかったと解釈する向きは、やはり冷遇されていたのだという。

ちなみに一行6人の内訳なんだが、書紀によれば弓の得意な美濃弟彦公(みののおとひこのきみ)とその子分3人、伊勢石占横立(いせのいしうらのよこたち)・尾張田子稲置(をはりのたごのいなぎ)・尾張乳近稲置(をはりのちぢかのいなぎ)で一行5人、弟彦は甥の可能性がなくもないがその他はいずれも身分低い。蝦夷征伐からは料理担当の久米七拳脛(くめのななつかはぎ)・大伴武日(おほとものたけひ)・吉備武彦(きびのたけひこ)が加わる。しかし古事記によると七拳脛は最初から一貫して同行していたようだから最初は6人となる。
6人というと水戸黄門一行や戦隊シリーズを連想する。戦隊シリーズではないが、セーラームーンもタキシード仮面いれると6人。美濃弟彦っていうのは弓が得意なんだから水戸黄門なら風車の矢七、セーラームーンなら矢七の風車のように薔薇を投げるタキシード仮面(=まもちゃん)の役どころ。石占横立は占いしそうな名前だからレイちゃんだな。水戸黄門ならカタブツの助さんだろう。七拳脛は料理が得意なまこちゃん、温厚で優しそうな格さん。乳近稲置はよくわからないが「乳」の字の連想(?)で紅一点のお銀、現役アイドルの美奈子ちゃんで決まりだなw 田子稲置はまったくわからないが残り物で亜美ちゃん&黄門様。参謀役というか知恵袋みたいなキャラってことで一つお願いしたい。小碓皇子は主人公なんだからもちろんうさぎだw うさぎは水戸黄門でいうとうっかり八兵衛だよな。

冷遇ではなくて軍隊を召し連れてはいても彼らを使う気はなかったと思う。なぜなら彼にはマジメに戦うことに興味がなかったから。(怖かったからでも弱かったからでもない)。むろん現代の平和主義思想も彼には無縁だし、正々堂々という発想も彼にはあるわけがない、だからこそ「そこで狡猾な悪知恵を働かせたのが女装作戦なのだ(と言ってるも同然の)説」も、よくいわれるありふれた解説だ。だが、後からみてるから当然のようにいうけれども、そうなのか?

「男の娘(こ)」の元祖ではあるのだが…
単身、女装して美少女になりすます(変態萌え要素その1)。よりによってなんでその作戦なんだ? 書紀によると日本武尊は身長約3mもあるのに。それで女装が作戦として成立するっつのは普通は「おかしい、何かある」と思うんだが、学者は倭建(ヤマトタケル)など架空の人物で史実のわけがないと思ってるので細かい部分の矛盾には注意を払わないんだよね。俺は史実として話を進めるけどね。さて、狡猾な悪知恵のつもりすら倭建皇子にはないのだろう。これは狡猾だけでできる仕業ではない。悪知恵ではなく「胆の太さ」に驚くべきだろう。いや、彼は神経が太いというより、神経の無いタイプだ。そして、なんとなくおもしろそうだからやっていたのだ。深い意味などなく。女装した目的は「紛れ込むために女装して女に化けた」のだとは考えにくい。どう考えてもますます目立ってしまう。紛れ込むなら普通に熊襲の兵士に化けた方がいい。3mだし。単に熊襲が宴会してるのをみて、普通に混じって一緒に酔ってただけなのではないか? で、人気者になり酔った勢いで座興で女装してふざけてただけなのではないか? 小碓皇子の女装趣味を知っていればこそ、伊勢神宮の叔母ヤマトヒメは女性の衣装を別れに甥に与えたのだろう。その段階で、彼は女装に夢中で熊襲など忘れてる。

ヰタ・セクスアリス?
そして小碓皇子はクマソタケルの肛門に剣を入れ(変態萌え要素その2)て、瓜を割るようにクマソタケルの胴体を真っ二つにしてしまう。なぜ肛門なんだ??? どうせ殺すなら首を斬れ、首を。おしりの穴はうんこを出すところで、剣を入れるとこじゃありませんよ。熊襲たちと楽しくすごした安心感で、いつもの遊び心が噴出してしまったのか。子供はケツの穴とかの話だいすきだからなぁ。ここの経緯を推測するに、女装が熊襲の首領に気に入られてしまったんだろう。3mとはいえ少年。昔は兵士・武士の間では男色(お稚児さん趣味)は必須。そこで倭建もケツが危なくなった。所詮は15歳の童貞少年、そういう世界まではまだ理解できず、酔っ払ってることもあって激怒のあまり、そういうつもりは無かったのだが、つい斬り殺してしまった。古事記になぜか「肛門に剣を刺し貫いた」とある謎は、これで辻褄が合うw …と、面白可笑しくまとめたいところだが、前述のように熊曽建は女だったとなると、いきなりエロくなってくる(が、前述の通り婆さんやブスの可能性もあり、美女とは限らない)。ともかくそうなると、誰が考えても、剣を肛門にでなく普通(?)に膣にぶっ刺しそうに思われるだろう。前述の9歳〜13歳説をとって、子供だから膣口の存在を知らなかったとしても、割れ目があったからそこから引き裂いてみたくなったってのなら、子供の好奇心ってそういうものかなと思わなくもない。しかし実際は肛門だったのである。四つん這いで逃げる相手を後ろから刺したら肛門に入っちゃったのだろうか。子供がよくやるカンチョーみてぇだな。この場合でも肛門と膣のどちらにも入り得るが、たまたま肛門だったということでいいのではないか(「肛門に剣」とは「膣にペニス」のことで、つまり強姦の暗喩だという解釈にこだわる人もいるだろうが、賛成できない。よほどの不都合がない限り、なるべく文面のままストレートに受け取りたい。この箇所に暗喩表現がでてくる必然性はないと思う)。よく海水浴で子供がイソギンチャク見つけると指つっこんでみたくなって、実際つっこんで喜んでるじゃん、面白がって何度もやってるうちに掻き回したりして、残酷にもイソギンチャクをバラバラにしてしまったりする。あれと似たようなことだろう。だとすると、もはや膣でも肛門でも何でもよくなってくる。肛門か膣かどころか、そもそも熊曽建が男か女かってことすら問題ではなくなってくる。大事なことは、ここで倭建は人体を分解して面白がって遊んでるようにも思えるってことだ。先程、熊曽建が女だとエロくなるといったのは我々からみての話であって、彼にしてみれば相手が男だろうが女だろうが感情に変化は起こってないように思える。この段階ではまだ彼は恋愛感情をしらないのだ(15歳説をとった場合、皇族だから既に妃がいてもおかしくはないが、書紀では「まだ総角(あげまき)」といってるから年齢に無関係に妃のいなかった頃である可能性が高いのではないか、正規の妃があてがわれても大人が勝手に段取ったお見合い同居みたいなものだから恋愛が発生したかどうかは別問題でもある)。兵士・武士の男だけの世界にありがちな男色(お稚児さん趣味)であろうとも、海賊船の女船長が特権を行使しようとしたのだとしても(たとえ美人でも)、恋愛に興味のない童男(をぐな)=子供からみた場合、わけのわからないキモいものが襲ってくることにかわりはない。逆にいうと、それまでそういう体験がなかった白紙の状態なわけだから、これがトラウマとなり、男と対等な女しか愛せなくなった可能性はある。さらに女性を女性として扱わず、男同然の存在として扱う性向が身についたとしたら、当時の女性にとって(現代でさえ一部の女性にとっては)それは抑圧でなく解放であった可能性はあるだろう。
というのも、弟橘媛の話やヤマトタケル薨去の記事をみると、かなり女性にもてたように思われるのだ。兄の手足をばらばらにした事といい、かなり猟奇的で残酷なようだが、知恵の発達の早い子供は残酷なもので、昆虫などを分解してみたいという衝動を抑えられないものだ。「子供」や「成人」というのは近代に発見された概念で、原始的な感性の中に生きていた古代人は何歳になっても、雄略天皇や武烈天皇のように、知的好奇心の爆発を縛るような人為的社会的な作り物の規範を持ち合わせない自然人・自由人が多かったと思われ。また雄略・武烈朝でもふれるが、このような人物は往々にして同性異性とわずに非凡な魅力に富んだキャラクターとなる。

「建」の字の謎
タケルという名は書紀では「武」と書いてるのでなにか良い意味のように思われているし、実際に良い意味なんだろうが、それは「もとから」ではない。タケルを武と書くのは理解できるが、古事記はなぜ「建」と書くのか? 建の字に古語のタケル・タケシ・タケブなどの意味はない。後世の例だが健御名方神(たけみなかたのかみ)、健磐龍命(たけいはたつのみこと)など、旧事本紀その他で「健」と書く例がままあるが、後世の書き方で古い時代を反映してるのかどうかわからぬ。だが井上光貞(だったかな?)が四書五経の用例や古い字注を根拠に「建」にも「健」の意味があることを明らかにした。つまりもともと「建」の字は人偏ないままでも「健」と同義でもあるというわけだ。しかしそんな遠回りな論証せずとも、金石文では人偏を省く習慣があり(億→意、伎→支、倶→具、健→建、佐→左、仕→士、倭→委、など)古事記は金石文の字体をよく採用していることから、タケルと読ませている「建」の字は「健」の人偏を省いたものだという説もありうるんじゃないかね? ただ、古語のタケル・タケシ・タケブは古語辞典をみるとわずかに一例ほどを除いて荒々しい意味ばかり並んでおり、健の字の「すこやか」というような穏やかなニュアンスはない。もともと語尾の「武」は語頭にある時と同様タケと読まれてたんだが江戸国学以降、タケルが正しいということになっている。中村啓信は美称のタケと違って、タケルは野蛮で荒々しい意味だから、「日本武」も平安朝以来の「ヤマトタケ」が正しいと言ってるが、通説にはなってはいない。松本善之助はホツマ信者だったので末尾のタケルも「タケ」と読むこと(ヤマトタケルではなくヤマトタケ)にこだわった上で、神名や人名につく「タケ」は獰猛を意味する「たけだけしい」ではなく、「物事にたけた人」などという時の「長じる」(すぐれる)の意味だといっていたが、『ウエツフミ』でも地名につくタケルは朝廷から任じられた公式の国守(≒国主)の意味なのでウエツフミ信者(中里義美その他)もほとんどが松本善之助と同じようなことをいっていた。タケを認めない通説ではタケルは良い意味と悪い意味どっちにもなる言葉だが、タケとタケル両方認める説の場合、意味の違いもそこにある。しかし語尾のタケ説は江戸国学以来の詳細な論証があるのでいまだに有力説にはなってない通り、やはり語形としてはタケルが正しい。が、意味は時代によって変わるんで、だから同じ言葉なのに良い意味が悪い意味にかわり、悪い言葉が良い言葉に変わることがある。タケミカヅチなど、語頭のタケは良い意味で字も「武」でよいと思うが、ヤマトタケルなどの語尾につく「タケル」はそれと意味が違う言葉なのではないか。書紀はクマソタケルのタケルを梟帥と書いている。梟帥(きょうすい)という漢語は、一定地域に盤踞する凶賊のこと。梟雄、梟才、梟将、梟名、梟臣、梟悍などの漢語があり、梟という漢字は「勇猛・武勇・きびしい・荒々しい・激しい・強い」って意味だがニュートラルではなく「悪人・悪党」のニュアンスが強い。だから梟帥というのは地方独立政権のリーダーとかのかっこいいニュアンスではない。現代人向けにわかりやすくいうと縄張りをもったヤクザや広域暴力団の組長、マフィアやギャングのボス、山賊の頭目みたいなやつ。たしかに力ある有能なリーダーでもあるが、「朝廷の権威を畏れず、政府に服属せず抵抗していることが、猛(たけ)り狂ってる、たけだけしい、獰猛で凶悪だ」ってニュアンスを込めていう言葉だったんだろう。つまり謀反人だ。神武紀にでてくる、大和国磯城邑(磯城郡)にいた磯城八十梟帥(しきのやそたける)、高尾張邑(葛城郡)にいた赤銅八十梟帥(あかがねのやそたける)、景行紀で日本武尊に討たれた川上梟帥(かはかみたける)は肥後国球磨郡を支配したタケル。ヤソタケルを「多人数のタケル」の意味で使ってる文例もわずかにあるが、明らかに個人名として出ているのが多いから「大勢力を率いるタケル」「手下の多いタケル」の意味だろう。さらに国の規模にまで強大になったのが、山陰のほとんどと吉備の一部を支配した出雲建(いづもたける)、九州の中央部を支配した熊曽建(くまそたける)。書紀は熊襲八十梟帥(くまそのやそたける)ともいってるが兄弟(和語の「えと」、年齢の長幼で性別の意味はない)で兄(姉)のことだろう。弟(妹)にあたるのが上述の川上梟帥。
猛(たけ)り狂ってるリーダーをタケルというわけ。だからもとは「建」じゃなくて「猖」だったんじゃないかと思われる。これが草書で崩れた字形をみて「建」に誤写したんだろう。語頭のタケは「武」でよかったのに、太安万侶(おほのやすまろ)は少しでも古い表記に統一する方針で古事記を編纂しようとしたので、「建」が古いと判断したとたん早とちりして語頭のタケも語尾のタケルも一律ごっちゃに「建」の字に差し替えてしまった。奈良時代にはもうそういう違いもわからなくなっていた。

「ヤマトタケル」という渾名にこめられた本当の意味
だから熊曽建が、いまわの際にヤマトタケルという名を献(たてまつ)った、なんてことはありえない。当時はまだタケルという言葉は美称でもないし褒め言葉でもなかったんだから。「謀反人を成敗にきたんだぞ」と自称してる人に向かって「謀反人」みたいな含みのあるタケルという名を献上するはずがない。じゃぁ、剣でさしぬかれた熊曽建が「しばし待たれい!申すべきことあり!」といまわのきわに言おうとしたのはなんだったのかってことだが、悪党が死に際に言い残すセリフは決まっている。「これで勝ったと思うな…」だ。もっと強大な悪、黒幕、ラスボスの存在を明かして主人公を脅かして死んでいく、ってことにだいたいのお話ではなってるw 熊曾建が臨終の時に言ったのは、出雲建のことだったんだろう。この頃の朝廷にとって最大の問題は、中央からあまくだってきた品智別命(ほむちわけのみこと)を追い出して独立勢力のようになっていた出雲だ。その出雲の首領は熊曾建とも連携してたんだろう。支援もしていたかもしれない。「俺のことを熊襲のタケル(謀反人)といってるが、なぁに本当のタケル(大悪人)は他にいるぞ。出雲のあいつこそが『出雲タケル』(出雲の謀反人)だわ」と。ちなみに出雲建というのはアダ名で、当然本名ではない。この時はじめて言われたんだろう。本名は不明だが仮に「飯入根」(いひいりね)としておく。小碓皇子は出雲に行く気なんてなかったんだが、こう言われて初めて出雲に立ち寄る気になった。倭建(ヤマトタケル)という名前は出雲建という言葉を聞いて自分で思いついたんだろう。熊襲建のセリフ「我にましてタケき男はいましけり」と聞けばそれは自分のことを指しているとは小碓命も気づくが、それに続くセリフが出雲建という裏ボスの説明だったもんだから、(え?俺の話じゃないの?)となったわけだろう。熊襲建が倭建という名を献上しなかったのも当然で、「熊襲の叛乱者」、「出雲の叛乱者」というのは意味がわかるが、ヤマト=帝都の反乱者というのは「天皇陛下が御謀反」みたいな支離滅裂なニュアンスになるからだ。でも小碓皇子は頓着しない。彼は政局には興味ないので、出雲が熊襲を裏で操っていたかどうかは聞いてない。おまえより俺が強いって話の後になぜ出雲建がでてくるんだ、そこは俺のことかと思ったのに…と。ただ強弱の指標としてタケルという言葉を受け取ったから、自分のことなら倭建(ヤマトタケル)になるはずなのに、ということなのだ(この場合のヤマトとは日本ではなく今の奈良県の意味。書紀が「日本」の字を当ててるのは拡大解釈ですでに原意を錯誤している)。
そうするとヤマトタケルという名は、当時の人の語感からすると突拍子もない妙ちくりんなもので、けしてカッコイイものでも堂々たるものでも尊貴な感じのものでもなかったのである。取り巻きの者たちは「皇子様やめてください」とお願いしただろう。タケルという言葉が尊厳をもつようになったのは、ヤマトタケルが出雲と奥羽を平定するという前人未到の偉大な功績を残して、白鳥となって昇天するという衝撃的な記憶を残したからなのだ。それでタケルといえばヤマトタケルのことを誰でも連想するようになってしまった。言葉の意味が変わってしまった。ヤマトタケル以前と以後とでは「タケル」という言葉のニュアンスは、いや意味は、ぜんぜん違うのである。

出雲建いづもたける
九州の帰路の出雲でも同じような卑怯きわまりない手口が繰り返される。ヤマトタケルは古代の人間なんだから近代的な発想で卑怯だのなんの言ってもしょうがないんで、古事記も、さも当たり前のように書き流している。しかし、これは男の戦い方ではない。これはやはり語部が女性たちだったからだろう。この戦い方の何が問題なのか、古事記の語り手は明らかに理解していない。男は卑怯な戦い方では自分を納得もできないし本当に勝った気分にもなれない愚かな生き物なのだ。…しかしそれも後世のくだらない発想に洗脳された男の発想であって、いにしえの世には男と女のちがい(=ジェンダーw)なんてものはたいしてなかったか、あっても今よりよほど薄いものだった可能性もある。
倭建命が木刀と真剣を取り替えて出雲建(いづもたける)を騙し討ちした有名な話は、日本書紀では崇神天皇の時代に出雲振根(いづもふりね)が同じ手口で弟の飯入根(いひいりね)を殺した話になっており、書紀では日本武尊が出雲を征伐した話はでてこない。これは同じ話だから、記紀のどっちが本当なのかってことになる。が、倭建命のやりくちはあまりにエグいので、日本武尊をかっこいい英雄に描こうとしていた書紀の編集部は悪役である出雲振根がやったという説のほうを採用したんだろう。その逆は考えにくい、もともと悪人がやった手口なのに古事記がわざわざ倭建命のやったことに書き換える? それはない。書紀でも歌の中にイヅモタケルが出て来るが書紀の文脈だと弟の飯入根がイヅモタケルになってしまう。建=タケルってのは地名の下につけてその地方の勢力のある豪族をいう。なのに、弟の飯入根は兄の出雲振根の手下のように書かれており、出雲振根がタケルならわかるが飯入根をタケルと言うのはおかしい。倭建命に騙し討ちをくらった出雲建は、おそらく崇神天皇の時代に殺された飯入根の子孫だったんだろう。書紀は「飯入根の子孫」を「飯入根の別名」だと誤って、崇神天皇の時代の事件にしてしまった。
ちなみに出雲建は、垂仁天皇の時代に、出雲の新国主として都からあまくだってきた品智和気命(ほむちわけのみこと)を追い出して半ば独立していたが、出雲大神の御神託を楯にとっていたので朝廷も手を出せずにいた。
出雲建が強大だったのは、もちろん朝鮮半島との貿易の収入もあったろうが、なによりも出雲大神のご神託を最大限に政治宣伝に活用して、出雲人の民意を結集するのに成功したからだろう。そこへ、九州で熊襲征伐を終えた倭建命が立ち寄ってきて、出雲建と友となったという。倭建命の武勇はすでに鳴り響いてはいたが、なにぶんまだ子供にすぎない。とりあえずどんな子供か、人間を判断しようと会ってみたら、父景行天皇への不満をぶちまけ、出雲建に協力しようと申し出たんだろう。出雲建にすればこの皇子は次期天皇になる可能性もあるわけで、未来の天皇のお墨付きをもらったも同然、これで叛賊の汚名からも逃れられるというわけだ。しかし気を許した途端にあっさり子供の奸計に嵌められて成敗されてしまった。倭建命はやることが極端なので、もしや出雲建の一族は遠縁の者に至るまでことごとく殺されたかもしれない。普通なら畏怖の対象である出雲大神やそれに仕える神官や巫女たちに対してもまったく容赦はなかったと思われるが、これで四道将軍以来、ずっとゴタゴタ続きだった出雲はようやく平定された。

2倭建命の東征の地図」に続く

・2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓

H30・1・24 WED 改稿 H26・11・8初稿
系図資料(コピー)が1枚あり。応神天皇の皇子女のうち5人、大山守命・大雀命(仁徳天皇)・宇遅能和紀郎子・八田若郎女・女鳥王の父系と母系のルーツがわかるように書かれた系図。大山守命と菟道稚郎子尊のそれぞれの陵墓についての情報が書いてある。
1古事記はなぜ敗北者にやさしいのか」から続き

概要
兄の大山守命・仲の大雀命・弟の宇遅能和紀郎子(以下、宇治太子または宇治皇子)の3人は父帝応神天皇がそれぞれに役割を与え、応神帝崩御のあとには皇位争いの内乱と皇位の互譲という物語で有名であり、この系図はその3人の背後事情を血筋という観点からみることになる。

五百之入日子命の「太子」について
日本では古来、末子相続が慣例となっており、太子が複数存在することがあるが、これは後から生まれた皇子が太子になるため、その前に太子とされていた兄皇子が「前太子」、そのまた兄皇子が「前々太子」となる。が、記録上は一律に「太子」とよばれるため、外見上、太子が同時に複数存在するようにみえるだけなのであって、本居宣長の太子複数存在説はいただけない。しかしこの説をとるにせよ宣長説をとるにせよ、景行天皇には3人の太子がおり、応神天皇には2人の太子がいたがどちらも不審なことではないことはわかって頂けると思う。

なぜ宇治若郎子が選ばれたのか
大山守命と大雀命の母は姉妹でともに品陀真若王の娘。品陀真若王は景行天皇の孫で、つまり大山守命と大雀命は母系もまた皇族出身である。すると、母が和邇氏の娘である宇治皇子(記:宇遲能和紀郎子)よりも格上ではないかと現代人は考えるだろうが、応神天皇は二人を退けて、宇治皇子を皇太子にした(記の用語では「太子」(ひつぎのみこ)だが、以下、便宜的に現代語に訳して皇太子とよぶことにする)。別にこれは宇治皇子が二人の兄よりも才覚優秀だったからではないことは物語から想像がつく(このうち最も優秀なのは大雀命だが比較すればの話で父帝が満足するほどだったかは後で論じる)。能力の有無だけが判断基準というのはあまりに現代風な考え方だろう。皇族というのは第一に皇位継承権(優先順位の先後はあるにしろ)、第二に漠然とした家格の上位があっても、それ(皇族出身であること)が必ずしも「后妃として(もっと正確には皇太子の生母として)ふわしい家柄の諸条件」のうちで第一位の条件ではなかったところに古代の皇室の面白さがある。
さて品陀真若王は父系では皇族だが、母系では尾張氏の系統。尾張氏というのは和邇氏と同様、代々皇室に后妃を出している家柄。この和邇氏と尾張氏は「后妃をだす」という役割をもたせられた特別な氏族であり、皇位に近い皇族男子はこの両氏のいずれかの娘を娶ることが多かった(この両氏がなぜそのような特殊な役割を与えられるのかという話は今回は別の機会に論じ今回は省略)。「和邇>尾張」という優先順位を定式化してしまえば宇治皇子が太子になった理由は簡単に説明つくのであるが、記紀の全体でみると、尾張氏の娘と和邇氏の娘ではどちらかというと和邇氏のほうが優先されたのような雰囲気が感じられるというだけで、そのような定式化が可能なほど顕著な差があるのかどうかは不明。それよりも皇族を一旦介して薄まった尾張氏の血筋よりも、皇族を介さず直接に和邇氏の娘から生まれたほうが有利という考え方もできる(大山守命と大雀命は尾張氏の血が25%だが、宇治皇子は和邇氏50%)。

宮主矢河枝比賣の「宮」とは?
しかしそれも決め手ではない。宇治太子の生母、宮主矢河枝比賣(みやぬし・やかはえひめ)の「宮主」が気になっていたのだが、この宮とは皇族の宮殿でなければ神の宮でしかないだろうから、本人が皇族でないから夫である応神帝の別宅という意味で宮といったのだろうか、しかしそんな例は他にない。この宮は神の宮で、矢河枝比賣はその女宮司か、少なくとも巫女さんだったのだろう。矢河枝比賣は宇治の木幡で応神帝を迎えたのでもとからそこに住んでいたかのように決めつけ、延喜式内の許波多神社などに関係づけることもできようが、許波多神社はずっと時代が後の創建なのではずれる。むしろ宇治神社(&宇治上神社)のほうが関係ありそう。宇治神社(&宇治上神社)は創建不詳だが宇治太子の居住した「桐原の日桁宮」跡という伝承があるから、その宮は生母の矢河枝比賣の邸宅に太子が住むようになってから宮号で呼んだものだろう。磐座もあるからとてつもなく古い信仰の場だったことも間違いない。
しかしそれゆえにこそ今回は違うのである。磐座信仰の聖地を昔は「宮」とは絶対にいわなかったはずだから。宮主矢河枝比賣の「宮」はやはり木幡とも宇治とも関係がないのである。宇治の木幡の邸宅(後の「桐原の日桁宮」)は、矢河枝比賣の邸宅ではなく実は父の日触大臣(記:和邇之比布礼能意富美)の別宅だったんだろう。大臣というくらいだから帝都に住んでいたはずで宇治あたりに常駐していたとは思われない。これは近江に行幸した応神天皇の経路に一族の別荘があるので、旅の途中で一時おもてなししたという話にとるべきだ。
では宮主矢河枝比賣の「宮」とは何か。神宮と神社の違いを格式の上下と考えるのは現代人の考えで、本来は物理的な違いをいった。ヤシロ(社)とは太古の磐座(いわくら)や、沖縄のウタキ(御嶽)のように、建物がなくて雨ざらしなもので、特別な祭礼の日だけ臨時の建物を作るからヤシロ(屋代)という。これに対してミヤ(宮)とは現在の神社のように恒久的な神殿を建設したもので、古代ではある特定の事情による特殊な部類だった。伊勢・石上・香取・鹿島が有名だが、出雲大社と高千穂神社も正しくは「神宮」。出雲と高千穂は神話によって恒久的建築が義務付けられているためで、石上・香取・鹿島は武器庫を兼ねているから、伊勢はもともと皇居内の神器奉安所が外部に独立したため、恒久的な建造物となっている。つまり出雲と高千穂を除く4神宮は、御神体が樹木や岩石ではなく、雨ざらしにできない神器・神宝の類だから「神宮」なのである。同様な事情がある場合には無名なものも神宮または宮と称されてに違いない。あとは中央の伴造、地方各地の国造が祀っていたと思われる神社も本来は今でいう官庁や県庁といった建物の中に神を祀ったものなので、造の字はヤシロツコではなくミヤツコと読まれる。
宮主矢河枝比賣の「宮」はこのようにヤシロではないタイプの神宮であろう。

石上神宮とのつながり=宇治太子は軍事担当?
ところで『先代旧事本紀』だと、宮主矢河枝比賣は和邇氏の娘でもなければ宮主矢河枝比賣という名でもなく、物部氏の娘「山無媛」または「香室媛」ということになっている。父の名は物部連多遅麻(もののべのむらじ・たぢま/原文:物部多遅麻連公)といい、この人は石上神宮に斎き仕えたという。「山無媛」または「香室媛」というのは別名で同一人物なら、宮主の「宮」は石上神宮ではないか。だが和邇氏の出身でないと宇遲能和紀郎子が皇太子になった理由がうまく説明できないから、やはり記紀がいうように和邇の比布禮能意富美の娘というのが正しいか? 『先代旧事本紀』は宇遲能和紀郎子・八田若郎女・女鳥王の同母兄妹の母を「山無媛」または「香室媛」としているだけでなく、宇遲之若郎女の母の袁那辨郎女も、宮主矢河枝比賣の妹ではなく香室媛の妹だとしている。これからすると香室媛というのは宇遲能和紀郎子・八田若郎女・女鳥王の生母ではなく乳母か? ただし袁那辨郎女は香室媛の妹であり、宇遲之若郎女は和邇系でなく物部系の皇女かもしれない。というのも、八田若郎女・女鳥王は仁徳帝が皇后にしようとするのを磐之媛に猛反対されて失敗しているが、宇遲之若郎女にはそういう話がなく古事記は妃の一人としているからだ(これは古事記のいつもの書き方で肉体関係をもったという意味であり、公式の妃になったという意味では必ずしもなく、書紀では妃の中に入れられてない。子供がいないのは公式に妃になる前に磐之媛にいびりだされてしまったんだろう)。山無媛というのは香室媛とは齢の離れた姉で、宮主矢河枝比賣の母ではないか? 和邇氏も軍事氏族であってたびたび将軍をだしているので、物部氏とつながりあってもおかしくない。それに物部多遅麻というのは景行天皇の頃の人で神功皇后まで仕えたというから、その娘が応神帝の妃では少し世代が離れており、妃の母ぐらいがいいだろう(同名別人説や襲名説で合理化するのもアリだが)。ただ、『先代旧事本紀』は歴代物部氏の当主が石上神宮の宮司だったような書き方になっており、宮主矢河枝比賣(=香室媛でも山無媛でも)が石上神宮に関係していたような記述はみられない。だが『先代旧事本紀』は後世の偽書なのであまり四角四面に真に受ける必要はない。物部氏の当主が歴代石上神宮を宰領したというのは常識論からの推定で書いている可能性が高く、さほど史料的な価値があるとも思われない。父の名が多遅麻というのはこの人は但馬国と縁があるわけで、あるいは宮主矢河枝比賣は但馬の出石神社の宮司だったのではないかとも思われる。出石神社も御神体が神宝なので、恒常的な建築物つまり神殿があったに違いなく、上述の定義でいえば神社でなく神宮だったはずである。さらに折衷的な考えとしては、初めは出石神社の宮司だったのであるが石上神宮の宮司に栄転して大和にやってきたところを応神天皇に見そめられたんだ、ってストーリーもありうる。生母が朝廷の武器庫でもある石上神宮の女宮司だったとしてもそうでなかったとしても、上記にように母方の祖母を物部氏の出身、乳母も物部氏とみれば、宇遲能和紀郎子は物部氏との関係が深い。御名代の宇治部を管掌した宇治氏(宇治部氏)も物部氏の一族であり、乳母(養育氏族)が物部なのは間違いない。また実は物部氏には複数の系統があり、饒速日の子孫とされている人々の多くは、実は和邇氏の分流である。『先代旧事本紀』は何度も念押しするように後世の偽書であり、歴史上にでてくる物部とついた名前を寄せ集めてすべて同一家系であるかのようにつないで系図を創作したものであって信憑性が薄い。物部には饒速日命の子孫と和邇氏の子孫の両方があるが、物部と物部はどっちも和邇氏。従って、和邇の日触大臣(ひふれのおほみ、記:丸邇之比布禮能意富美/紀:和珥臣祖日触使主)と物部多遅麻は同一人物で、山無媛=香室媛というのも単に宮主矢河枝比賣の別名にすぎない可能性もないではない。が、一応、祖母や乳母が物部氏で父が和邇氏としておく(ただし饒速日系の物部が衰退したのは隼別の乱で隼別の側に加担したからであり、この段階ではまだそれなりに有力だったろう)。
さて、のちに応神天皇の命令として、大山守命は「山海之政」をせよ、大雀命は「食國之政」(をすくにのまつり)をとって申したまえ、宇遲能和紀郎子は「天津日繼」しらせ、と分担されたことになっているが、これの何がおかしいかというと、大雀命が政治の実権を行えといってるのだから、宇遲能和紀郎子は天皇になれといっても権力のない形式だけの天皇になってしまうことだ。権威と権力が分離して、天皇が権威だけの存在になったのはずっと後のことであって、この頃はまだそういう分離はない。これは大雀命の即位を知っている後世の人が仁徳天皇の即位を合理化するためにバイアスをかけているのであって、「食國之政」というのは「韓國之政」(からくにのまつり)の誤記だろう。大雀命が外交を担当していたのは書紀の中にいくつも傍証が残っている。ここらの話はhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-22.html)">「大山守命と大雀命」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-22.html)に詳しく書いたのでそちらをみてもらうとして、その頁では宇遲能和紀郎子の職掌についてふれなかったが、二人の兄がそれぞれ職掌をもったように、宇遲能和紀郎子もなんらかの職掌を与えられたのではないか。応神天皇は新羅征伐という大遠征、大規模な軍事行動から誕生した天皇であり、この皇室の当時の気風は何よりも軍事を重んじただろう。後世でいえばお公家さんの雰囲気とは程遠い、将軍家のような尚武の家に近い。ならば皇太子たるものにふさわしい職掌は「軍事」だろう。物部氏との関係の深い宇遲能和紀郎子は「軍事」を担当したと考えられる。

大山守命と宇治太子の陵墓からわかる問題
(後日加筆予定)

八田若郎女の名前の由来
大和国添下郡に矢田郷あり(今の大和郡山市の矢田町)、八田若郎女(やたのわかいらつめ、紀:八田皇女)が生まれたところという伝承があるがホントかね? 延喜式に「矢田坐久志玉比古神社」(やたにいますくしたまひこじんじゃ)あり、今も同名の神社が矢田町にあり、別名「矢落ち神社」。饒速日命が射た三本の矢のうち二本目が落ちたところがこの神社で、だから「矢田」という地名になったというが、これは後世の創作だろう。古事記には八田若郎女の名が9回でてくるが「矢田」と書く例は一つもない。矢田部は八田部と書く例があるが、氏族名の「矢田部氏」はすべて「矢」の字。これは八田と書くと読み方がヤタかヤツタかわからないから、ヤタと読ませるために後になって矢田という書き方がでてきたんだろう。最初から矢田だったら後になって八田という書き方が出てくる合理的な理由がない。きっかけとしては、八田部の伴造が軍事氏族である物部系だから武器の「矢」に変えたんだろう(矢田部氏は物部は物部でも饒速日系ではなく、また和邇氏系の物部でもなく、後述のように鴨氏の系統の物部だったと推定できる。『先代旧事本紀』の系譜は後世に組み立てたもので史料的価値はない)。矢田坐久志玉比古神社の祭神の久志玉比古神(=櫛玉彦命)は玉作部の祖神で天明玉命、櫛明玉神ともいう。この神社ができたのは八田若郎女が「ある理由から」玉を作るため玉作部を招いたのが始まりだろう。玉作部は忌部氏の支配の系列で、だから饒速日命とはもともとは関係ないが、隼別の乱で忌部氏が衰退した一方、矢田部氏が饒速日命を祖先だとして合祀したため櫛明玉神と饒速日命が習合して(混同されて)「櫛玉饒速日命」という名前ができた。
そういうわけなんで、もとは「八田」が正しい。ここで生まれたから「八田若郎女」という名になったってわけではなく、仁徳朝の後半、皇后になってからここに住むことになったのだと思われるが、その理由は後述する(皇后といっても日本書紀にあるような仁徳天皇の配偶者という意味ではない。ややこしいのでこの話は別の記事でやります。なお、仁徳天皇の宮都「高津宮」は今の大阪城跡あたりというが、大阪城と矢田坐久志玉比古神社の間は約25km、現代人の足で徒歩5~6時間)。一案としては八田若郎女が生まれたのは丹波国何鹿郡(いかるがぐん)八田郷(今の京都府綾部市の東八田・西八田)だろう(東八田地区は八代町・黒谷町・於与岐町・上杉町・梅迫町・安国寺町・中山町、西八田地区は上八田町・七百石町・中筋町・岡安町・淵垣町・下八田町)。ここは出石神社のある但馬から宇治、木幡へのルートの途中でもある。ただ、ここで生まれたから八田皇女といったのではなく八田皇女が生まれたからその名がついたんだろう(直接には矢田部が置かれたからだろうが)。のちに大和国添下郡に住んだので、彼女の名をとって八田(矢田)となった(八田郷は石川県にも富山県にも茨城県にもあり単に矢田部があったからで済まさずあれこれ関係づけも可能だがネタとして格別おもしろい展開が考えつかないのでやめておく)。別案としては、大和国添下郡の八田(矢田)に住む前は例えば「石上皇女」とか、なんとかかんとかの、ぜんぜん別の名前だったのが、大和郡山の八田に住むようになったからその地名から「八田皇女」と呼ばれるようになったと考える人もいるだろう。しかし独立して住まいをもったら「郎女」とはいわないような気がするのに、八田若郎女という名は八田に住むようになる前から(父天皇の宮にそのまま住んでいた時から)すでに八田若郎女とよばれていたようにも読める(古事記にでてくる話は内容からいうとどれも八田若郎女が八田に住むようになる前のエピソードばかり)。なので、誕生時から「八田」という名だった可能性も高い。
で、考えてみると、妹の名が「女鳥」で兄弟に「大雀」「根鳥」「隼別」、皇族に「飯豊」(フクロウの意)、貴族に「都久」(ミミズクの意)、「真鳥」(ワシの意)というように鳥の名のついた人が多いから、これも鳥の名か。ヤタという鳥はないがヤタガラス(八咫烏)ならある。ただこれはただの鳥でなく神鳥・霊鳥でもあるから畏れ多いとしてヤタに略した、カラスだけだとただのカラスに聞こえてヤタガラスだってわからなくなるからな。「ホントかよw」って思われるだろうが『新撰姓氏録』に記載の矢田部氏は、左京・山城・大和・摂津・河内それぞれに在住の計5氏でてきて、このうち丹波・但馬やあるいは宇治にいちばん関係深そうな(いちばん距離の近い)山城国の矢田部氏は、その祖先が物部氏ではなく「鴨県主同祖。鴨建津身命の後」とある。鴨建津身命ってのは八咫烏に変身して神武天皇を導いた人物で、鴨県主ってのは大和の葛城の加茂じゃなくて京都の上賀茂・下鴨のほう。八田若郎女の養育氏族が鴨氏で、そのため鴨氏の一派が矢田部の伴造になって矢田部氏ができた。これならヤタガラスにちなんでヤタ皇女と名付けられることは大いにありうる。もちろん「但馬出石⇆何鹿郡八田郷⇆上賀茂下鴨⇆木幡宇治⇆石上神宮」とすべて通り道にある。
ところで大和添下郡八田郷の矢田坐久志玉比古神社の話に戻ると、饒速日命が射た3本の矢のうち二の矢以外の残りの2本が落ちたところには「一の矢塚」と「三の矢塚」があり、両者はこの神社を挟んで南北1km半、徒歩20分くらい。大雑把に大和民俗公園の西側の一帯にあたる。なんでこんなことを紹介してるのかというと、鳥越憲三郎の説で邪馬台国は奈良県の大和郡山市の矢田地区だという説があり、それに乗っかってもう地元では30年以上も「卑弥呼コンテスト」ってのをやって町おこししてる。あまり宣伝に熱心でないのが残念だがw 鳥越憲三郎の説の何が珍しいかというと、邪馬台国畿内説は多いけど具体的に奈良県の中のここだという説は肥後和男の三輪山麓説、新妻利久の飛鳥説ぐらいでこの2つは例外で、他にあまり聞いたことがなく、漠然と大和国、今の奈良県ってだけで済ましてる人が多かったのだ。もっとも、平成21年=2009年に纏向遺跡で宮殿跡だか神殿跡だかが発見されて大騒ぎになって以来、今では三輪山麓説(=纏向説)は主流だろうけどさ。鳥越憲三郎は物部がらみで言ってるわけで、そこは賛同できないのだが、物部ネタとはまったく無関係に「大和郡山市矢田町説」はアリと思うんだねw まぁその話は今回は関係ないんでやめときますが。

女鳥王の「メドリ」ってどんな鳥?
女鳥王(めどりのみこ、紀:雌鳥皇女)の名前が「鳥」なんだがメドリという鳥がどんな鳥だか解説がない。牝鶏(めんどり)の意味かとも思う人もいるだろうがどうだろう?「牝雞之晨」(ひんけいのしん)という諺があり、俗に「メンドリ鳴けば国ほろぶ」「メンドリ鳴けば家ほろぶ」とかいうもの。この諺の真相についてはhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-95.html)">「女が先に言っちゃダメなのか?」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-95.html)であれこれ書いたのでよかったらどうぞw 女鳥王は夫(というか彼氏)の隼別に向かって「隼は天に翔り、ササギ取らさね」と反乱を煽った本人だから、女鳥=牝鶏(めんどり)という仇名がついてるのか? 侮蔑の意図でつけられた名なら、中国の妖怪で「女鳥」(ぢょちょう)とか「雌鳥」(しちょう)というのがあり夜に人間を襲う、あるいは日本で妖怪ウブメと混同された姑獲鳥(こかくちょう)と似たようなものらしい。ただし中国では天女の羽衣型の民話にでてくる天女のことを「女鳥」ということもある。赦すべからざる反逆者でありながら同時に美しい叙事詩の主人公という、侮蔑と賛美の両面をあらわした当て字なのか。だとするとこれは隼別の反乱が勃発した後についた名前で、それ以前は別の名前だったことになる。この説もおもしろくはあるが、当時は鳥の名をもった人が多いんだし、姉のヤタ皇女もヤタガラスからとった名だとしたら、メドリも最初から普通に鳥の名だった可能性が高いのではないか。メドリが「メ」という鳥の意味ならいちばん近いのは「シメ」か? シメはアトリ科の小鳥で「シー」と鳴くからシメというのだとか。「メ」はスズメ、カモメ、ツバメ等というように鳥を意味する接尾語だとか。それならメドリは「鳥鳥」になってしまうが、一説にはこのメは「群れ」の約訛というからメドリは「群れ鳥」? シメは別名ヒメともいうのは、つまり「ヒー」に聞こえる人もいるってことか? ネット情報では「チチッ」「ツイリリーッツー」「キィー」「チッチッチー ピッピッピー ツィチッ」等と鳴くというからシーやヒーじゃなくて「チー」に近いらしい(奈良時代のサ行はツァ・ツィ・ツゥ・ツェ・ツォだったという説もあるがw)。ヒメドリというホオジロ科のかわいらしい小鳥もあるのだが、紛らわしいことにヒメドリとヒメ(=シメ)は別種で「ジージージー」と鳴くらしい。ヒメドリは姫鳥と書くらしいがこれが当て字でなければ鳴き声とは関係ないのかな? 生き物の名で「ヒメ~」というのは小型種にいうことが多く、ヒメドリも雀や普通の小鳥類より小さめ。しかしこのヒメは女巫の意味かもしれない。似たような名にミコドリというのがある。これはホオジロ類の総称で「巫鳥」または「鵐」と書く。ミコ(巫女)なら女性にきまっているので、姫鳥の姫は「女巫(ひめみこ)」の意味か? 漢字で巫鳥と書くのは大昔の中国で鳥の声を聴いて占う「鳥占い」に使った鳥だからという。ミコドリはシトドともいい(さらに古くはシトト)、巫鳥と書いてシトドと読んでいたのにそのまま字のままにミコドリと読んだのだといわれているが、古くからミコドリという言い方があったとしてもなんら差し支えない。生物学的にはヒメドリはミコドリの中の一種ということになるが、よほどの鳥好きかある程度見慣れないことには素人は区別つかんよ。語源論としてはヒメもミコも女巫(ぢょふ)のこととして、普通はシメの漢字は「鴲」だが、諸橋轍次大漢和には「鵐」の字に「しとど」の訓の他「ふなしうずら」(斑無鶉)ともある一方、「鴲」の字は「しめ」の他に「しとど」もあるんで、まぁこのへんはどれも大雑把に同じ鳥の枠としていいんじゃないか。シトド/シトトは「神鳥」とも書いたようで、栃木県小山市に「神鳥谷」(しととのや)という地名あり、横浜市に神鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ)という神社がある。またこの「神鳥」という文字列はシトトリとも読むので「シト鳥」が語源という説もある。すると意味の部分は「シト」だけになる。これはシチだったのが後ろにトリが付いてシトトリに訛ったんじゃないのか。シチというのはつまりシーだったりチーだったりするシメの鳴き声だろう。あるいはホオジロ科の総称(シメは生物学的にはホオジロ科じゃないが大雑把に似たような小鳥の総称)なんだからシーと鳴いたりチーと鳴いたりするいろいろな各種の鳥ってことだろう。同一の概念なんだが、巫女が占いに使うという点からはヒメドリ・ミコドリ等といい、鳴き声からはシメドリ・シメ・シトト・シトトリ・シチトリ・シチ等といっていたんだろう。女鳥王(めどりのみこ)という名はヒメドリ・シメドリからついたんじゃないか? あるいはもとは「神鳥王」(しととりのみこ)だったのを、隼別の反乱から「牝鶏」(めどり)と仇名つけられたのか。
さて、神意を問う占いは巫女(みこ)の役目で、ホオジロ類は神聖な鳥だと考えられたわけだがこのような名をもつ女鳥王はもともと巫女的な存在だったんだろう。母の跡を継いで(あるいは母とともに)石上神宮や出石神社で巫女をやっていたのではないかと思われる。だが姉の八田皇女は「郎女」という称号から推定して応神天皇の皇居の中で育ったんだろう(養育氏族(乳母)は前述のごとく鴨県主と推定)。妹のほうの乳母氏族は田道間守の子孫の三宅連(みやけのむらじ)だろう。ちなみに隼別王の母は糸井比賣だが、三宅連の分家に糸井造(いとゐのみやつこ)があり、糸井比賣の母(隼別の祖母)はその出身と思われる。つまり隼別と女鳥王は(異母兄妹ではあるが母方をみても)縁もゆかりもないところに恋愛だけでくっついたんでなく、もともと縁戚関係があったんだろう。三宅連の本拠である但馬の出石神社から北に7kmほどに「三宅」という地名も残り、そこに式内・中嶋神社あり、三宅氏の祖先の一人、田道間守(多遅麻毛理)を祀る。出石神社から南に20kmほどに糸井谷(いといだに)という地名があった(今は朝来市和田山町に含まれる。googleマップだと「糸井渓谷」)。小さな谷間だが、検索したらなかなかおもしろい土地柄らしい。ここにはあの有名な式内・佐伎都比古阿流知命神社もある。ここに祀られる佐伎都比古阿流知命(さきつひこあるちのみこと)は天之日矛が但馬に来た時に娶った麻多能烏(またのを)の父、前津耳(さきつみみ)のことという説があり、糸井造の本家である三宅連氏の女系の祖先にあたる。糸井谷は糸井造の但馬における本拠(大和と但馬にいた)で、速総別王もまた出石神社と縁があったと推定できる。さらには、母の矢河枝比賣が妃として召された時に、もし皇女が2人生まれたら2番めの姫は母本人(矢河枝比賣)の代わりに石上神宮の巫女にするという話でもあったか。宮主矢河枝比賣という名からいちばんありそうなのは、妃になった後も応神天皇の行幸を時々迎えて合宿する(w)だけで、普段は天皇とは別居して石上神宮の女宮司を継続していた可能性が高そう(いまだにめちゃくちゃな古代史像を信じてる人がいるが、昔は女性神官や巫女に「処女」だの「独身」だのという縛りは無かったって事実が明らかになっている。当たり前だが男巫にも童貞という条件はない。またこの頃は招婿婚が完全に形骸化する前の段階で、庶民階級では別居夫婦はごく当たり前にいくらでもいたと思われる。皇族や貴族の夫人たちも似たようなもので建前上の本宅はあったとしても実際はあちこちの女性の家を移動して暮らしたんだろう。天皇の后妃たちも後世の「後宮」のように全員が全員おなじ一つの皇居の中に同居していたと考える必要はぜんぜんない)。

他の皇子の動向
今回のこのプリントには省略されてる皇子も何人かいる。

額田大中日子命(ぬかだのおほなかつひこのみこと)
今の岐阜県池田町にあった「額田国造」はこの皇子と関係ありそう。廣田照夫の説では「額田国造」を美濃西部から近江東部に及ぶ大国だったとして、この皇子を両面宿儺(ふたものすくな)の一人(もう一人は伊奢之真若命)としている。だが額田国造は律令時代の美濃国池田郡「額田郷」で郷規模の「小国」(国造には大国・小国の別があった)だから、もしこの皇子と深い関係があったとしても大きな力は無かったんではないか。それに宿儺が双子だったとしたら後述の大羽江王・小羽江王のほうが双子っぽい(両面宿儺についてはいろいろおもしろい話が多いので別の機会で扱う)。
この人はその名の通り、長男で最初に生まれた男子だったのだが、よくある「惣領の甚六」ってやつで、日本書紀でも大雀命を困らせたエピソードが載ってる。ナカツというのは中臣(なかとみ)の語源が「中津臣」というのと同じで、長男だから祭祀を担当したことからついた名、とする説がありうる(基本は末子相続制だが、歴代の長男が祭祀を担当)。もう一つは後述の大羽江王か迦多遅王のどっちかが先に生まれており、実質は次男なのでナカツヒコ(仲は次男の意味)だが、正室腹だけでいうと最初の子なので大中日子(直訳すれば「偉大なる次男」)だという説もありうる。記録に残るような有力な子孫は無し。ただし後世の額田部氏は外交を担当した氏族で(この皇子の子孫ではなく物部系だが)大阪府の重要地点(現在の額田地域とはちがうが)だったからそれなりに期待はされてたんだろう。額田大中日子命は大山守命のシンパと見なされがちだが、本人はそういうわけでもなくて、何も考えてないタイプじゃないかと思われる。

伊奢之真若命(いざのまわかのみこと)
この人は額田大中日子命や大山守命の同母弟だが、その名の通り、早逝したか、かなり齢が離れていたのではないか。逆にいうと齢が離れていてあまり親しみがなかったために兄貴たちの派閥に属さずにすんだ。…というのも、どうも異母兄の大雀命とのほうが仲良かったっぽい。異母姉の阿貝知能三原郎女(あはぢのみはらのいらつめ)と結婚したことになってるが、この姉は実は大雀命の妃だったっぽい。それが石之比賣の例の嫉妬で追い出され、それを身請けしたのが伊奢之真若命ってことらしい(詳細はこのブログ内の別の記事にて)。子孫が深河別(ふかがはのわけ)という飛騨の地方豪族になってる。これは隼総別の乱での功績によるものと思う(額田大中日子命と伊奢之真若命のコンビを両面宿儺(ふたものすくな)の正体だとする説があるがそれについては別の記事で詳しく)。

根鳥命(ねとりのみこと)
この人は大雀命の同母弟。子孫が大田君(おほたのきみ)という美濃の地方豪族になってる。これも隼総別の乱での功績によるものと思う。ネトリってのが何のことかわからぬが大雀命はじめ鳥の名をつけることがこの時期の流行のようだから鳥の一種だろう。ただ、どんな鳥だかわからない。「ネ」は大穴牟遅の「ナ」と同じく地面の意味とすれば、クイナの一種で(クイナの多くは飛べる種類だが)飛翔能力のない鳥のことか。現在ではオセアニアにしかいないが、飛翔能力のない鳥は絶滅しやすく現在の種類もだいたい絶滅危惧種が多い。日本にも昔は飛べない鳥がいたんだが絶滅してしまって記録や伝承にないんだろう。根鳥皇子は、富士宮下文書では大山守皇子や隼別皇子と一緒に富士に逃れてそっちに土着したことになってるがこれは後世の創作であって事実でない。

速総別命(はやふさわけのみこと)
大山守命と同じく、この人も謀反人なのに命(みこと)という敬称がついてる。これは、古事記編纂者の価値判断の反映もあるが、それのみに留まらず、反乱側に対して当時から好評価があったことの反映だろう(もしくは女鳥王の配偶になったから?)。生母の身分が低いので、もし反乱を起こさず平穏に生涯を終えたなら、後述の大羽江王や迦多遅王のようにヒラの王(みこ)どまりだったと思われる。あと、天皇の名が「雀」なのに「隼」を名乗るってのがどうも不審に思う。もとの名は「桜井王」(さくらゐのみこ)とかの平凡な名だったんじゃないのか。このブログ内の別記事で書いたが、日向国造を引き上げたのは葛城氏の専横を抑止するためだったが、応神天皇が崩御して重しがなくなると、葛城系は日向國造系の皇子たちを排除にかかり、両者の妥協としてかつぎだされたのは速総別だった。

速総別王は、大山守命の乱の後、大山守命の職掌を継いで、海の民・山の民を束ねることになった。これは本来なら大日下王の役目であるが、大日下王は応神天皇が葛城氏を掣肘するために日向国造の娘に産ませようとしたところ、その娘を息子の仁徳天皇に譲って、その結果生まれた皇子。だから、大日下王が強大な武力と財力を管掌することになるのは葛城氏としてはおもしろくない。仁徳天皇自身が葛城系の石之比賣皇后に頭があがらないので、息子の大日下王を押すにも限界があったんだろうが、あるいは大山守の乱の時に、大山守命に味方したか中立を守ったために、隼人族の管轄権を取り上げられたんだろう。この頃は近習隼人といって、皇族の身の回りの世話をする取り巻きの隼人がいたが、これは応神天皇が始めた制度であり、その手配は大日下王が管理していた。大日下王は瀬戸内海の航行も支配していたが、大山守命の下請け的な存在でもあり、職務上も関係が深かったので、大山守の乱ではつい判断に迷いが生じて出遅れてしまったんだろう。ただし海の民・山の民は葛城氏とは相性がよろしくないので、葛城系の皇子に管理させるのはこころもとない。それで速総別王に白羽の矢が立ったと思われる。速総別王は母の出自が低いので、皇位継承の可能性はまずないとみられていた上、後ろ盾になってくれそうな強大な氏族がない。大名の三男坊なら部屋住みで飼い殺しになるところだが、命ぜられればなんでもこなす便利屋みたいな存在だったのかもしれない。で、おそらく大山守命のもとで下働きみたいなことをしてたんだろう。なので葛城氏からも警戒されることなく、海の民・山の民の総領の地位を継承するように命ぜられた。同時に、大日下王にかわって隼人族の統帥もすることになった。葛城氏としては出来る限り大日下王の力を弱めておきたい一方で、速総別を危険視はしていないのである。この頃の人名に鳥の名がついてることが多い。大雀(おほささぎ)のササギはミソサザイという小型の雀のような鳥、都久宿禰(つくのすくね)のツクはミミヅク、飯豊王のイヒトヨはフクロウ、平群真鳥のマトリは鷲のこと。女鳥王と根鳥王にも考証があるがここでは省略。しかしどれも別(わけ)はつかない。別の字は基本的に地名につくものだから、速総別王のハヤブサは鳥ではなくて、九州の「ハヤト族の地」の支配という意味で「ハヤトワケ」といっていたのを、女鳥王が謀反をけしかけて「隼(はやぶさ)は天にかける、雀(ささぎ)とらさね」と歌を詠んだ時に掛詞で「隼別」という名を作ったのである。大日下王の母方の出自は日向国造でこの頃の日向は今の宮崎県だけでなく鹿児島県(薩摩・大隅)まで含んでいたのだから、大日下王と隼人との関係は深く、世間は隼人といえば大日下王。大日下王といえば隼人というぐらいに思ってたろう。だから新任の皇子には「隼人別」という名を与えるぐらいでないと、大日下王の影を薄められない。もとの名は桜井王とでもいっていたのであろう。記紀には隼人の乱が仁徳朝に起こったようには書いてないが、先代旧事本紀には痕跡らしきものがないでもない。それは国造本紀に、薩摩国造は仁徳天皇の代に曰佐(をさ:通訳のこと)を直(あたへ)にした、また大隅国造は仁徳天皇の代に「伏布」なる者を曰佐にして大隅国造に任じたとある。これの何が不審かというと、薩摩の豪族のカバネは実際には君姓であって直姓はむしろ大隅の豪族のカバネであること、大隅では曰佐のままで国造に任じられているのに、薩摩では曰佐から直に昇格しているにもかかわらず「国造に任じた」との記述がないこと等である。これはもとの記事が混乱しており、おそらく伏布は速総別の乱に功績があって曰佐から直に昇格し、隼人の首長として認められたのではないか。この子孫が大隅の直姓の豪族たちだろう。これに対して薩摩にも大隅にも多い君姓の豪族は日向国造からの分家だろう。隼人の首長といってもこの頃の隼人は薩摩大隅の二国だけでなく肥前・肥後にも広がっていた。だから地図でいえば広大な支配権があるようにみえるが、あくまで隼人の徴用と規制、統率を任務としたもので、国造のような地方統治官ではなく、日常的一般行政にタッチしたわけではあるまい。

当初の彼の任務は、大山守命の下での、山の民・海の民の物流管理で、大山守の乱の後は職務上、大山守命の後釜のような立場になりつつあったが、それは事実上の話であって公式になんだってことではない。しかし今度はそれに加えて大日下王や大羽江・小羽江王を下請けに使ってその上に立ち、九州からの近習隼人の調達も管領することになった。だから「ハヤトふさねの命」といわれたんだろう。「ふさねる」とは統轄する、総裁するの意味。わざわざそういうのは、「大日下王らは最早そういう立場ではない」とわからせる意図なのだ。いや、ハヤトフサネじゃなくて単に「ハヤトワケ」と言ったのかもしれんが。それが鳥の名をとってハヤブサワケ(隼別)になったのは女鳥王の「隼は天に翔ける(中略)ササギ取らさね」の歌ができてからだろう。これは文学上の修辞であって本来の名前ではなかった。九州のハヤトには鳥の隼の意味はないし、ハヤトを隼人と書くようになったのもこれが起源と思われる。

大羽江王・小羽江王(おほはえのみこ・をはえのみこ)
この二人は名前からすると双子っぽいな。この場合のハエっていうのは山陰地方や九州や淡路島の方言に残ってるが、沖の岩礁や浅瀬をいう。生母が日向国造の娘で、おそらく本人たちも九州で生まれたんだろう。他の皇子たちの多くは「命」(みこと)という敬称がつくのにこの人らはただの王(みこ)。父帝からの期待としては近習隼人の調達を任せた日向国造の任務をゆくゆくは継承する氏族の祖になることだったろうが、生母が大雀命に下賜され、異父弟の「大日下王」が生まれてからは、おそらく大日下王が摂津の草香に常駐し、大羽江王・小羽江王が日向国に常駐して、瀬戸内海の両端にいて呼応しつつ、海上航行を支配する大日下王を補佐する立場になっていたのではないかと思われる。子孫はいたんだろうが、若い頃から九州に土着していたので中央の伝承に残らなかったんだろう。

迦多遅王(かたぢのみこ)
この人もヒラの王(みこ)。たぶん応神天皇の最初の子。日本書紀は削除して載せないのは生母が上の世代すぎて辻褄があわないと思われたんだろう。この人は後半の系譜にでてくる「堅石王」と同一人物という説がある。堅石についてはいろんな解釈があるが、長野県塩尻市の地名と関係あり、武内宿禰の娘の怒能伊呂比賣(ののいろひめ)を介して、伊奢之真若命の系統につながっているらしい。武内宿禰の系統といえば葛城系であって、大雀命とは親しく、大山守命や大日下王とはいまいち距離があったと思われる。

大雀命のお妃選び
(後日加筆予定)
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3大山守命と大雀命」に続く

・出雲国造は天穂日命の子孫ではない

H29.12.09 SAT 更新
60年に1度の出雲遷宮(平成25年)と高円宮典子女王殿下のご婚約(平成26年5月27日発表)が話題になっていた頃だったと思うが、出雲大社についてならこれっていう小冊子『出雲大社由緒略記』(以下、由緒略記)があることを、さる人にすすめられて知った。出雲大社の由来はもちろん、様々な祭儀、摂社末社、歴史に至るまであらゆることを網羅して120頁以上もある。現在のは平成15年の第41版で700円。ただし出雲大社でしか売ってないので直接注文する必要がある。
疑問の始まり
由緒略記の第十章の「出雲国造」では、古い版だと初代の天穂日命(アメノホヒノミコト、記:天之菩卑命/紀:天穂日命。このブログでは原典にあわせてどっちも使います)からの歴代が17代宮向までの全部でてたと思うんだが、新版では第2代から11代までなんの説明もなし。第12代鵜濡渟(うかづくぬ)から14代岐比佐都美(きひさつみ)までの解説はあるが、15代、16代も飛ばしてから17代宮向の説明になってる。鵜濡渟は書紀、岐比佐都美は古事記に出てくる名前だが、由緒略記のこの部分の元ネタとなったと思しき書物で『出雲国造伝統略』(以下、伝統略)という本がある。これは千家武主(千家尊福の姉の夫)という人が千家家に伝わる社伝をまとめた幕末頃の書物。古本屋で探したらかなり高価になりそうな本だが、ありがたいことに国会図書館のデジタルコレクションで見れる(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815092">『出雲国造伝統略』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815092)。これだと鵜濡渟は氏祖命(うぢのおやのみこと)、岐比佐都美は来日田維穂命となっている。こっちは社伝として出雲に伝わっていた名前なのだから、記紀に伝わってたほうを別名として、(伝統略のように)こっちの名で出すべきじゃなかったのかと思う。

まぁそんなことはどうでもいいのだが、由緒略記では来日田維穂にキヒタホとルビがふってあるが、維の字だけが音読みってのはおかしくないか? 維の字は綱紀の綱と同じ意味があり、ここはツナと訓読みさせるつもりで書かれているのではないかと思うが…。名前の一部にツナが入る人は、尾張連の祖「尻綱根」(しりつなね)が思い出される。で、もしそうなら正しい読みはキヒタツナホとなる。ネット検索してたら来日田維穂命には別名「来日狭維」とも「来日維穂」ともあり、維の字をツナと読むとしたらそれぞれキヒサツナ、キヒツナホとなり、前者は古事記の岐比佐都美に最も近くなる。ついでにいうと宮向も由緒略記ではミヤムとルビがふってあり、これは別に間違いではないが、高向玄理の「高向」がタカムコと読まれてることからするとミヤムの可能性もありそうに思えるし、記紀の現在の刊行本ではたいていの場合、纒向日代宮の「纒向」はマキムク、高向王の「高向」もタカムクと読んでいる。宮向もミヤムと読んだほうが古代っぽくてよいと思うね。

まぁそんなことはどうでもいいのだが、由緒略記では17代の宮向の時、出雲姓を賜ったとして、「建保二年八月庁宣」を典拠にあげている。庁宣ってなんだと思って伝統略のほうで確認してみると、たしかに「建保二年八月新院庁御下文に云はく」として短い文が引用されている。wikipediaでは順徳天皇の下し文だとしているが、院庁だから後鳥羽上皇じゃないのか?
まぁそんなことはどうでもいいのだが、読んでみると「人代の後、始めて出雲姓を賜り国造と為す」とあり、この「始めて」が「出雲姓を賜り」だけにかかって文が切れて「国造と為す」のか、「始めて」は「出雲姓を賜り国造と為す」の両方にかかるのかがわからない。

「出雲姓を賜り」の謎解き
伝統略では代々の当主がこの「出雲宮向」以降はみな「出雲〇〇」という名になっていて先代(16代)「淤宇足奴」(おうのすくぬ)以前は個人名だけででていることからも、一見すると宮向が「始めて」出雲姓を賜ったというのは辻褄があっているようにみえるが、少しおかしくないか? これ以前、「出雲氏」という名前は存在しなかったことになるが、天之菩卑命から淤宇足奴までの家系は「出雲氏」でなければ、なんと称したのか? 古代出雲は意宇郡(今の松江市)を中心として熊野大社を奉ずる東部の勢力と、出雲郡(今の出雲市)を中心として杵築大社(今の出雲大社)を奉ずる西部の勢力に分かれて争っていたという、今流行りの説を援用すれば、出雲氏の前は意宇氏か杵築氏だったという仮説も不可ではなさそうに一見思える。しかし記紀や『新撰姓氏録』等には天皇が氏族の名を賜う話はいくつもあるが、全例において、功績を讃えてその功績にちなんだ名を、それ以前の名とは別に新たに下賜するパターンと、新しい氏族が発祥した時に天皇が名を賜うという場合では単に地名をそのまま与えるパターンの二つしかない。伝統略にしろ院庁下し文にしろ、宮向がどんな功績で「出雲」という氏族の名を与えられたのか不明だし、もともと出雲にいるのに改めて「出雲氏」と名乗らせるのでは何を顕彰しようとしているのかわからない。宮向の代にいきなり発祥したなら「出雲氏」という名をもらうのもわかるが、出雲氏はべつに宮向を初代として発祥したわけではなくそのずっと前から存在している。また出雲というニュートラルで中立的で素朴な呼び方は出雲の支配者なのだから自然発生的に最初からあったと考えられる。なので、もとから称していた出雲氏という氏族名を「公認」したのだという解釈をする人もいるかもしれない。しかし、宮向の代になってこれといったきっかけも理由も何もなく突然朝廷が改めて公認したという理屈も苦しいのではないか。これまで出雲氏で通っていたならこれからもそれでなんら問題なく、朝廷にも出雲側にも、あえて公認というメリットも必然性もない。旧名が意宇氏または杵築氏だったと仮定しても、事情は同じ。東西にわかれていた勢力が「ちょうどこの頃に」統合されたと解釈できるような伝承も記録もない。
そこでわたしの考えなのだが、これは本当は出雲という氏族名を賜ったのではなく「出雲臣」の臣というカバネを賜ったという意味ではないかと思う。古代のカバネについて無知な中世人が「姓(カバネ)を賜う」の「姓」という漢字だけをみて氏族名と即断して誤ったものと思う。

漢字の「姓」は日本でいうウヂ(氏)の意味でカバネという意味はない。カバネは日本独自なので漢字には訳せず「可婆禰」と書くしかない。「姓」や「骨」と書いてカバネと読ませるのは便宜的な当て字、超訳の類。

さてそこで、宮向の先代の淤宇足奴は伝統略には「また意宇宿禰(おうのすくね)と称す」とあり、書紀の仁徳天皇即位前紀にでてくる淤宇宿禰と同一人物であることがわかる。

足奴の「足」は先代旧事本紀や推古遺文や金石文に宿禰のことを「足尼」とあり、スクと読むのはわかる。「奴」の字はネット検索では「努」の字になってる例もある。金印で有名な「奴国」(なこく)からナと読みたくなるが記紀万葉集では「奴」も「努」もヌか乙類のノを表わす文字であって、ナの音符ではない。とはいえこの表記が奈良時代のものとも限らず、後世の人がネの当て字のつもりで書いた可能性も高く、結局ナ・ヌ・ネ・ノ、いずれの可能性もあるわけだが、ここは個人的趣味的判断でスクヌと読んでおく。どれで読んでも記紀でいう「宿禰」のことで意味は同じ。

その淤宇宿禰のことを書紀では「出雲臣の祖」とあり「出雲臣」とは書かれてない。あくまで「祖」であって出雲臣そのものではない、と。宮向が始めて「出雲臣」を賜ったのならば、書紀のこの書き方は整合している。もっともこのことは出雲氏に限ったことではなく、記紀の登場人物は允恭天皇以前にはみな「○○臣の祖、誰それ」「△△連の祖、何某」とあり、それが雄略天皇以降になると「祖」の字がとれて「○○臣、誰それ」「△△連、何某」となる。このことからいわゆる氏姓制度(ウヂ=カバネ制)は雄略天皇から始まったと考えられている。
伝統略には、出雲宮向が「允恭天皇元年、国造と為る」とあり、その直後に引用の院庁下し文の「人代の後、始めて出雲姓を賜り国造と為す」がすべて允恭元年のことであるかのように錯覚してしまうが、検索してみたら宮向が国造になったのは允恭天皇元年という説と反正天皇4年という説があるらしい。宮向という人名に付属した記録だからどちらも出雲側の伝承だろう。両説ともに活かすなら折衷案として、宮向はまず反正4年に「国造」になり、間をおいて允恭元年に「臣」のカバネを賜ったのではないかといいたいところだが、実のところ「允恭4年」が正しく、反正4年や允恭元年は単純な誤記だろう。允恭4年には有名な「氏姓の正定」のあった年だから、この時に臣姓を賜ったという話なわけ。「氏姓制度は雄略朝から」といったがそれはあくまで氏とカバネが有機的に結びつき全体でシスティマティックなものとして完成されたのが雄略朝、ということであって、カバネそれ自体はむろんその前から存在したので、允恭天皇から臣のカバネを下賜されたこと自体に疑問を抱く必要はない。
ではこれ以前には、出雲氏はカバネをもっていなかったのか? 別のカバネだったのか? もとから臣だったのが「公認」されたってことか? これについては下記の国造の問題と合わせて考えないとならないので、詳細は後述。

「国造と為り」の謎解き
ところでさきほどの淤宇宿禰について書紀には国造だとは一言も書いてない。これはおかしいのではないか。これも宮向が允恭元年か反正4年(修正して允恭4年)に始めて国造になったのであって、それ以前には出雲国造という称号はなかったとすれば話は合う。天之穂日命からいきなり初代国造だというのも後世の言葉を遡らせていっているのだとみればさしたる問題ではない。国造本紀には「崇神天皇の時に宇加都久怒(=12代鵜濡渟)を初代の出雲国造に定め賜う」とあり、これを根拠に第12代とされる鵜濡渟こそ初代の国造だという説も大昔から根強いわけだが、『先代旧事本紀』は平安時代の偽書であって、貴重な古伝資料も含まれつつも、隅から隅まで完全に信用できるものでもない。書紀の崇神天皇の時代にあった出雲の紛争事件を国造の起源にこじつけたもので、平安時代の一つの「解釈説」と思う。そもそも記紀には崇神天皇の時に出雲国造を任命したなんて話はまったくない。古事記では垂仁天皇の時、岐比佐都美を出雲国造の「祖」とあっても出雲国造だとは無く、書紀の仁徳天皇の時代の淤宇宿禰にも国造の件がまったく触れられてないことからしても、少なくとも出雲国造という「名称」は第17代の宮向の代(天皇でいえば允恭天皇の時)から始まったとするのが妥当だろう。
では次に、そしたら、「出雲の松江市(もしくは出雲市?)辺りの領主と出雲大社の宮司を兼ねたような地位」のことを、国造(くにのみやつこ)という前はなんといってたのかっていう疑問が生じる。特に称号はなかったのか? 何か別の称号があったのか? もとから国造と私称していたのを「公認」されたという意味か?

国造は、国造本紀によれば、ほほ半分が成務天皇の時に設置されたもので、それ以前とそれ以後に置かれたものが約4分の1づつ。これは景行天皇の時の倭建命の熊襲平定や蝦夷征伐の後を受けてのことだが、もし国造の分布が大和朝廷の勢力範囲だとすると、倭建命以前の朝廷は全国に飛び飛びに橋頭堡を確保していた以外、長年にわたって畿内に閉じ込められていたような形勢となり、崇神天皇の四道将軍派遣の例から考えても不自然不合理に思われる。国造は単なる地方豪族ではなく大和朝廷から任命された地方統治官であるが、あたかも律令制の「国司」以前に国造があったように、成務天皇の「国造制」以前にも類似の仕組みがあったとしなければならない。連(むらじ)の語源が邑主(むらぬし)でその邑(むら)や、県主の県(あがた)がいずれも律令制での郡のように、国よりは規模の小さいものと思われるが、県主が国造より古い起源を有するのは通説だし、邑主が元の意味を失って連(むらじ)に変化していることを考えればこれまた古い起源といわねばらなない。その上で、邑の支配者が邑主、県の支配者が県主なら、当然ながら国の支配者を「国主」といった時代が国造に先行してあったのではないかと思われる。
では国主が国造に置き換えられていったとして、国主と国造の違いは何か。
国史には国造伴造(くにみやつこ・とものみやつこ)とセットで表れる。国造のカバネは直(あたへ)、伴造のカバネは造(みやつこ)が多いことから、もともと造といえば伴造のことだったのではないかと思われる。この事からすると、国造は伴造に遅れてできた制度らしい。後に国造の制度ができてから、国造と区別するため、それまでの造をあらためて伴造というようになったのだと推測する。造の語源説は「宮ツ子」説と「御奴」説がある。wikipediaには「御家ツ子」説が載ってるがこれは「宮ツ子」と「御奴」に分岐する前の段階まで遡らせたもので意味がない。宮とは「神の宮」で、伴造はそれぞれ担当する専門分野の守護神を祀るんだろう。山部は山の神、海部は海の神、鍛冶部は鍛冶の神、服部は機織りの神…というように。ツコは助詞のツに子(氏子の子)だがミヤツクリ(造)ミヤツカへ(仕)のニュアンスもあるんだろう。この時代は自然の岩や樹木を神籬(ひもろぎ)として今の神社建築のようなものはなかった(祭儀の時に臨時の建物を仮設するのでこれをヤシロ(屋代)という)が、伴造が祀る神は官衙(官庁の建物)の中だから必然的にヤシロではなくミヤ(恒久的神殿建築)となる理屈だ。
国造は倭建命の事業の後を受けたものとは書いたが倭建命の活動は単に軍事的征服併合をしたのでも、土豪山賊の退治をしたのでもなく、古事記をみると頻繁に出てくるが、本質は「荒ぶる神」をまつろわすことにあった。神だから、目に見えない霊を鎮圧祓攘し、祭りなおすことが本題で、古代人にとっては、豪族や反抗勢力を物理的に抑圧または撃破するのは神祇祭祀の派生的な現象と考えられたのではないかと思う。然る後に新たな支配地に置かれた国造とは当然、土地の神を祭ることを任務としたものであろう。ゆえに国造は国土を治めるにあたってその土地の神、つまり国魂神(くにたまがみ)を祀る。国魂神ってのは後世の「諸国一之宮」とはやや趣旨が違うが似たようなもので「広域の産土神(うぶすながみ)」だと思えばよい。国造とそれ以前の国主との違いとは、後世でいうところの「諸国一之宮」的なその地方の土地神を祀る神社の宮司に、その地方の統治を委ねたのが国造、ということになると思う。これら土地神の祭祀も、国衙(地方官庁の建物)の中に祭られたからクニノ「ヤシロ」ツコでなくクニノ「ミヤ」ツコとなるわけ。

出雲国造の最初が允恭4年だとすると、成務天皇の国造全国化策よりかなり遅れたことになるが、出雲はもともと国主が出雲大社を祀っていたから改めて国造にしなくとも事実上、最初から天然の国造なのであり、そもそも全国に設置された国造のモデルになったのが出雲であった可能性も高いだろう。従って、出雲の場合は具体的にこの時に国造になったということはなく、なんとなく漠然といつの間にか国造なので、本来なら改めて任命はされていなかったはずと思う。それならなぜ「淤宇宿禰までは国造でなく宮向から国造になった」という話になってるのかというと、それは簡単で、允恭4年の「氏姓の正定」で臣姓を賜った際に、改めて国造であることが自他に認識されたということで、しいていえばこれがいわゆる「公認」ということではなかろうか。

出雲の歴史(崇神朝~允恭朝)
さて本題に入る前に、以下、氏祖命(=鵜濡渟)から宮向までの出雲史を一旦まとめてみよう。

出雲振根
書紀の語る経緯では、出雲の神宝を崇神天皇の天覧に供するという名誉が与えられた(なぜそこに至ったのかという考察はまた別のところで詳述)が、当主の出雲振根(いづものふるね。以下、振根)が九州に出張中だった(何しにいってたのかって考察はまた別のところで)ので、次弟の飯入根(いへりね)が独断で、末弟の甘美韓日狭(うましからひさ、以下、韓日狭)と子の鵜濡渟の二人に神宝を奉戴させ大和に行かせた。九州から帰った振根はこれに怒っており数年後に飯入根を殺してしまう。韓日狭と鵜濡渟はこの事件を朝廷に訴え、朝廷は吉備津彦と武渟名河別を派遣して振根を処刑。出雲氏は恐れて出雲大社を祭らなくなった。それからしばらくして丹波国(なぜ出雲でなく丹波なのかが重要なのだがそれはまた後述)で出雲の神宝にかんするご神託があり朝廷はこのご神託によって、勅命をもってまた出雲の神を祭らしめたという。(次の垂仁天皇の時には出雲に神宝があるという前提で別の話が始まっているので、この時、神宝も返還されたと考えられる)。

韓日狭と鵜濡渟
国造本紀は「出雲の神を祭れと勅命を受けたのは鵜濡渟である」と推定して「崇神朝に宇迦都久怒(=鵜濡渟)を(初代の)国造に定め賜う」と記事を作成したのが明らかだ。しかし書紀には「(再び元のように)祭らしめた」とはあるが、誰に祭らしめたのか、つまり出雲氏の後継として誰を立てたのか書かれていない。普通に考えれば飯入根が死んでいるのだから韓日狭か鵜濡渟の名をあげるところだが、まるでまったく別の出雲人に祭らせたような印象がある。「恐れて祭らず」とあるのも神宝をもってかれてしまったからとも取れるが、「恐れて」とある通りかなり脅しが効いたものと思う。吉備津彦と武渟名河別はどちらも四道将軍ですでにその名は轟いていたろう。まさか手ぶらでいったわけではなくそれなりの軍勢もついていたろうし、しかも二人も派遣したというのは最初から威圧して脅し上げる方針だったのは明らかで、振根は抵抗する術もなく簡単に捕まった上、殺人罪でただちに処刑された。で、「祭らず」となるのだから、この時、出雲大社の祭祀権は事実上剥奪されたわけで、出雲国内の行政権も同断と思う。要するに「滅ぼされた」ので、一時的にせよ出雲氏は権威も権力もまったくない状態で「(再び元のように)祭らしめた」というのは、祭祀権だけは再交付したということだろう。(ところでふりかえってみるとなんで朝廷は出雲にこんなに厳しくあたっているのかと感じるむきもあろうかと思うが、別に意味もなく最初から潰してやろうという意地悪でもなく、異民族だからデフォルト設定で敵対していたのでもなく、実は然るべき理由があったのだが、それについては後ほど詳述する)

襲髄と野見宿禰
伝統略の系譜では鵜濡渟の後、13代襲髄命と続く(この時代の出雲の当主にミコトとつけることは記紀にはないことで、鵜濡渟も岐比佐都美もミコトはつかない。伝統略は自家の祖先として敬称つけてるのであって歴史的にミコトと尊称されていたのではないと判定される)。襲髄は由緒略記はカネスネと読んでるがソスネとも読めそう。伝統略ではこの襲髄が野見宿禰の別名だというのだが無理だろう。書紀に詳しく出てるのに土師氏の祖とはあっても出雲氏の祖だとは一言もない。後世の系図では野見宿禰は襲髄と同一人物説の他に、襲髄の子だという説、韓日狭の子とする説などがあり、後者二説では出雲氏の当主でない。つまり野見宿禰は土師氏の祖ではあっても、その子孫から出雲氏がでたわけではないことになっていて、書紀の書きぶりに合致している。世代数からみると襲髄の子とするよりも韓日狭の子という説のほうがよさげにみえる。
で、野見宿禰は垂仁天皇に召しだされ寵愛されたが、これに反して襲髄命はあまり朝廷の覚えめでたくない人だったらしく、垂仁天皇に出雲の祭祀権がまたも召し上げられている。書紀では垂仁天皇が物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)に「しばしば人を派遣して出雲の神宝を調査させているが明瞭な報告をきいたことがない。おまえがいけ」と命じ、その後十千根大連に神宝を管理させたという。なんとなく出雲側のサボタージュぶりが感じられる話だが、神宝を大和に奪い取ってきたわけではなさそうなので十千根大連が出雲に赴任したということだろう。

岐比佐都美と品智別命
十千根(とをちね)が出雲大社の宮司になったのは垂仁26年のことで、ずっと後の垂仁87年に石上神宮の宮司に転任している。これを書紀が品智別命(ほむちわけのみこと)の一件よりずっと後のこととしているのは古事記に照らして辻褄があわないので、品智別命の事件より前のこととすべきで、そうすると品遅別命を岐比佐都美が迎えた頃は出雲大社の宮司は岐比佐都美でなく物部十千根大連だったのだろう。あるいは物部十千根は大連という職責上、現地に常駐できず岐比佐都美を代官としていた可能性もある。
その後、品智別命をめぐる一件があったわけだが、古事記によるとこの時、朝廷は菟上王を派遣して出雲神宮を建てたという。しかしそれまで神宮が無かったとも考えにくいから、振根が処刑され出雲氏が衰退してから、運営費用が調達できず神殿自体が小さくなっていたのだろう。それではいけないというので出雲大神の神意の発動となり、品遅別命が呼び寄せられた、と。その結果、大社を運営する費用を賄えないといけないので恐らく14代岐比佐都美はこの時に事実上の出雲国主の地位を回復し、十千根大連の支配から脱却したと考えられる。
ここで「事実上」といって形式的にはまだのようなことをいったわけは、本来なら朝廷の意図としては品遅別命を出雲国主として天降りさせるところで、旧来の出雲氏は新しい領主である品遅別命の家臣団に組み込まれるはずであろう。岐比佐都美もそれは承知の上で、一族の娘(たぶん自分の娘)、肥長比賣(ひながひめ)を差し出した。

「蛇女からの逃亡」は「聖婚儀礼」の神話ではない
だが、この縁談がうまくいかず、品遅別命は大和に逃げ帰ってしまったかのように書かれている。古事記がいうのには、肥長比賣の正体が蛇だったので逃げたとあり、蛇の字は岩波古典文学大系をはじめほとんどの本ではヲロチと読んでるが、岩波日本思想大系ではヘミと読んでいる。ヲロチとヘビ(ヘミ)は同じじゃないんで、字からすると単にヘビ・ヘミ(さらに古風には「ハバ」)のほうがいいんじゃないか? ヲロチと読むのは肥長比賣の正体を霊的な存在とみてるんだろうが、俺はそうは思わないんだよね。肥長比賣は肥河(今の斐伊川)の精霊で、聖婚儀礼を語る神話だという説が主流だが賛成できない。それだと品遅別命は聖婚儀礼に失敗して逃げ帰ったことになるが、そんなことありうるかね? もしも反対勢力の邪魔があったなら戦争になるだけのこと。それならそう書けばいいんで、なにも神話仕立てにボヤかして書く必要はぜんぜんない。それに都からあまくだってきた新しい主人に、旧来の土地の支配者が娘をさしだして血縁をむすぶのは、新しい支配者が現地の旧主の血を女系で受け継ぐという古来から中世までも続く習わしで、一族の娘(つまり実在の女性)でもない川の精霊(霊的存在?)なんぞを差し出しても意味がない。そうではなくて、もし、一族の娘たる実在女性の肥長比賣が聖婚儀礼において川の精霊の役を演じたのだというのなら、今度は結局、書かれてもいない聖婚儀礼を勝手に想定してるだけで、実在の女性が政略結婚に差し出されたことと矛盾なく両立してしまう。
そういうわけなんで、肥長比賣の話を、なんらかの祭祀儀礼が反映しているとはいえても、聖婚儀礼だとは思わない。蛇女が男を追いかけるのは道成寺物語(安珍・清姫の話)や『白蛇抄』の元ネタになった中国の民話「白蛇伝」などがある。これらの源流を遡ると伊邪那美が伊邪那岐を追いかけた神話にゆきつく。道成寺物語は伊邪那岐・伊邪那美の古代神話を仏教説話に翻案したものだ。この神話を再演する儀礼が「皐月忌」(さつきいみ)というもので、旧暦の五月五日あるいは夏至の日に女性だけが家の中に閉じこもって穢れを祓い身を清める儀式を行う。前日の夜から男は家を追い出され家全体を女性が取り仕切るので「女の家」とか「女天下」ともいう。「蛇体の肥長比賣から品智別命が逃げた」って話をなんらかの祭祀儀礼と結びつけるのならこれだろう。一般庶民の場合は、家が女性に占拠されて男は家の外に出るわけだが、肥長比賣は出雲の新国主の妃であるから、彼女が取り仕切るのは宮殿ではなく出雲国全体なわけで、当然、夫たる品遅別命も宮殿の外にでるだけではなくて出雲国の域外に出なければならない、ということだろう。ただ、これだと毎年反復される儀式になってしまい、一回性の歴史的事件ではなくなってしまう。
政治史としては、政略結婚が破談して、品遅別命が逃げたんだから、通常の反復性の儀式だけで終わってるはずがない。儀式が終わったら戻るはずだが、古事記の書き様では尻切れな文章になってるのでこれっきり品智別命は戻らなかったようにも戻ったようにもなんともわからない。日本書紀は「言葉がしゃべれた」段階で用が済んで大和に帰ったようなニュアンス。品遅別命が儀式として「逃げる真似」をするっていうのは、アンチ朝廷派にとっては品遅別命をそのまま追い出すなりドサクサ紛れに暗殺するのに丁度いい機会だ。これは大掛かりな儀式の影で武装部隊だか暗殺部隊だかが動いたんだろう。つまり皇子が逃げる真似をしたんじゃなく本当に逃げ出した理由は単純で「命を狙われたから」。岐比佐都美は先代からの嫡流でなく庶流の出身で、はえぬきの出雲人でなく、美作にいたところを物部十千根連に見出されて出雲国主の地位につけてもらった(このへんの詳しい話は垂仁天皇のカテゴリーのどこかにあり)。なので朝廷との関係は良好だが、出雲の土着勢力の中には反対派がいたんだろう。とくに出雲振根の子孫もいたろうし、彼らは岐比佐都美をはじめとする鵜濡渟の子孫一族から出雲国主の地位を奪還したかったろう。蛇の正体をあらわした肥長比賣は「海原を照らして」追ってきたという。いくら船上に火を焚き上げたところで昼間だったら「海原を照らして」とは言わないだろう。これは暗い黄泉国を伊邪那岐が脱走するシーンの再演だから夜の儀式なわけで、その夜に紛れて弓矢だか吹き矢だかを構えた暗殺部隊が襲ってきたんだろう。

肥長比賣の「正体が蛇」とは?
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一族の娘でなければ意味がないのだからこの人はもちろん人間だが、伝承を信じて「本当に見た目は蛇だったんだ」とすると、これはどういう解釈をしたらいいのか、3つ考えられる。第1案としては、先天異常説。第2案、超常現象説。そして第3案として心理錯覚説、この3つが考えられる。以下、一つづつ説明しよう。
まず先天異常説だが。先天性の四肢欠損のような状態がありうる。現代人の近代的な人間観からは、身体の一部の欠損や過剰(多指症など)は、一律な人間像から逸脱したものとして忌まれるが、原始時代やその感性をひきずっていた古代の初期では逆に神の顕現として崇められることがある。今でもインドでは手足が何本もあるタコ娘が神の子として崇められてたがこのたび目出度く手術して普通の娘になっちゃったとか、東南アジアのどっかでは尻尾のはえた子供が神の子だとして親が手術を拒否してたなんてニュースをネットでみたことがある。出雲には蛇信仰があったという説から精霊説を支持する人もいるが、それなら現実の蛇娘はなおさら大切にされたんじゃないの? ちなみに岐比佐都美の娘だとすると母は円野比賣の可能性があるかもしれない(詳細は垂仁天皇の頁にあり)。
次に超常現象説。メカニズムは現代科学で説明できないが、この人は興奮すると蛇に変身してしまう特異体質だったんだろう。「んなことあるかいw」とツッコまれるだろうが、得体のしれないものに遭遇することは長い人生においては誰にもありうることなんだよ、自分でも説明つかないから皆いわないだけでさ。解明は未来の科学者にまかせておこうw
最後の心理錯覚説。これはいちばん安直な解決策ではある。「品智別命からみれば、そう見えた」でもいいよ最悪。心理学的なすったもんだでどうにか説明できるんだろ、投げ槍だけど。ただ、手足のない姿をみて一瞬だけびっくりして理性を失った瞬間、出雲の蛇信仰という知識背景が目の前の事態を解釈する文化コードとして作用したとすれば、先天異常説と心理錯覚説は両立しないこともない。出雲の蛇信仰によって肥長比賣が蛇だとして崇められていたなら「彼女が蛇だ」とは事前に品智別皇子も言葉としてはきいていただろうが、それが具体的にどういう意味なのかは聞かされていなかったのではないか。
極論するとそこらはどうでもいいわけで、大事なことは「縁談が破談したわけではない」ってことだ。逃げ出したのは本来は祭祀儀礼の一部だから、本当に政略結婚が失敗したというわけではない。先天異常で蛇みたいな体だったにしろ、超常能力で蛇に変身したにしろ、気の迷いで蛇に見えちゃったにしろ、どれもこの時代の人、しかも皇族の皇子なら現代人とちがって神秘的で神々しいことだと受け入れちゃいそうに思える。出雲側もそう思ったからこそ娘を差し出してるわけだ。ましてやこの時代の上流階級の結婚ってのは恋愛よりも政略結婚なのは当たり前で、多少ブサイクだからって逃げ帰るなんてことは絶対にありえない(記紀では邇々藝命が石長比賣を追い返したとあるが、参考までに『ウエツフミ』では姉妹二人とも召し入れたとある。『ウエツフミ』もその全部が信用できるものではないが、『先代旧事本紀』にもたまには真正の古伝承が混ざってるのと同じ)。
品遅別命が逃げてるといっても実際は肥長比賣から逃げていたのではなく暗殺部隊から逃げていたんだし、肥長比賣は「憂いて」追いかけてきてるんだから品遅別命を気に入ってるみたいだぞ。で、上述のように品智別命も相手が蛇だったぐらいで逃げるようなタマではない、相手が蛇ならこっちは鳥なんでさw なんのことだかわからないやつは聖婚儀礼説を唱える資格ないね、神話学の勉強が足りないぞw 「蛇だったから逃げた」というのは、古事記の原資料が語部(かたりべ)が朗唱したり劇として上演したりする時の台本だったから。演出効果というのもあるが、直接には上演時間の都合上、話を端折ってしまったのでなぜ逃げるのか理由が必要になったんだろう。

むろん出雲の守旧派といっても、なんの根拠もなく私利私欲だけでは、都からあまくだってきた皇子を追い出したり殺したりできるものではない。おそらく肥長比賣かそこらのただの巫女かが神がかりして神託したか、あるいは占いで神の意志が明らかになったのだと思われる、「品智別命は出雲国主たるべからず」と。当時、出雲側でも朝廷でも共通して認識していたのは「品遅別命がしゃべれなかったのは出雲大神の意志の発動で、その意図は神宮の再建にあった」ってことだ。で、それなら中央の朝廷からすると、品智別命がそのままあまくだって縁深き出雲の国君になるのは当然で自然の流れ。だが土着派は、四道将軍より前の時代の、移民ビジネスとか半島との密貿易とかでウハウハだった時代に戻りたいんだから、朝廷派の岐比佐都美の存在すら鬱陶しい、そこに皇族の皇子が新君主として来られたら甘い汁はぜんぶ横取りされてしまう。そこでクーデターだ、と言いたいところだが、当時は天皇の権威は絶大で、踏ん切りつけるのも簡単でない。天皇より上の権威というとカミ(神)しかない。そこで捏造でなく、本当にご神託があったもんだから、反体制気分に一気に火が着いたってことなのだ。祭祀儀礼は全共闘や団塊世代の古代史マニアが考えるような「権力の隠れ蓑」ではない。神意が現れると信じられたからこその祭祀儀礼なのだから、もし皇子が逃げおおせたらそれも神意の表れ、もし皇子が暗殺者の矢に倒れたらそれも神意の表れ、ってことになりかねない。こうなるともう占いも同然だけど「神意を問う」ことは要するにそういうことだし。

但馬国の豪族たちの情況
肥長比賣も途中からおかしいと気付いて、儀式どおり追いかける風を装いつつ、岐比佐都美ら朝廷派のグループと一緒に脱出(彼女は岐比佐都美の一族の娘でないとおかしいだろうから、土着派ではありえない)。皇子は先に但馬あたりで上陸していたろう。皇子にやや遅れて肥長比賣や岐比佐都美らも合流。但馬には当時、北東部の出石郡には三宅連の祖(天之日矛の子孫)、中央部から南西部にかけての養父郡には神部直の祖(三輪氏系)、南東部から南部にかけての朝来郡には多遅麻君の祖(日子坐王の子孫)の三大豪族がいた。豪族というか正確には「地方貴族」だけども、雰囲気的にここでは豪族といっておく。正確にいうと、養父郡の神部直氏はもしや当時はまだいなかったかもしれないのでこれは除いて考えてもよい。三宅氏は皇族系ではないので格式は落ちるがこの頃すでに歴史のある古い氏族なので強大になってたろう。垂仁朝では田道間守・日高(比多訶)・清日子の3兄弟の頃にあたる(比多珂は神功皇后の母方の祖父)。多遅麻氏はずっと後に大日下王の部民「日下部」の伴造となって「日下部氏」とも呼ばれるようになるが、それはまだ遠い先の話。多遅麻氏は開化天皇皇子の日子坐命が四道将軍の一人となって丹波の凶賊を平定しそのまま土着したもので歴史は新しいが皇室に近い皇族であり格式は高い。四道将軍の一人としての日子坐命は出雲を含めた山陰道(当時は「丹波道」(たにはのみち、たにはぢ)といっていた)全域を平定する使命を帯びていたのに、出雲がうわべに帰服してきたので進軍が丹波に留まってしまっていたのである。息子二人のうち沙本毘古を大和の帝都におき、丹波道主命を現地丹波において仕事をまかせ自分はもっと大きな「ある目標」に向かっていたが「沙本毘古の叛乱」のゴタゴタで停滞、しかし沙本比賣の死の間際からの推薦で丹波道主の娘たちが垂仁帝の後宮に入り、一族はいくらか面目を立て直していた(記紀では死んでることになっている円野比賣がもしかしたら出雲に関係しているがその話は別の頁に書いた)。また品遅別王についていた二人の傅役、曙立王と菟上王の兄弟は大俣王の子で日子坐王の孫。神功皇后の祖父加邇米雷王と成務朝になってから但馬国造に任じられる船穂宿禰の兄弟も若筒木王の子で日子坐王の孫。これらの孫たちもこの頃すでに生まれて祖父や父を補佐して活躍していたろう。
出雲から逃げてきた品智別皇子たちは彼ら但馬の豪族たちに守られて、但馬の北西部の二方郡の二方国造(これは出雲系)と対立する形勢になった。二方国造はむろんバックに出雲があってその支援を受けている。この段階ではすでに伯耆や因幡も(自主的にかやむを得ずか別として)出雲派になってたんだろう。これで出雲は叛乱勢力となり、半ば独立したようになったが、おそらく名目は出雲大神のご神託を盾にとって「品遅別皇子のあまくだりの撤回を朝廷に請願したいだけである」と公称した。ご神託とあっては朝廷も闇雲な軍事介入が憚られる。ここで情況は膠着したまま次の景行天皇の時代に突入。この膠着はやがて、神託も気にしない暴虐な人物の登場によって破られるだろう。
しかし、ともかく但馬では田道間守3兄弟を中心とする三宅連の一族、日子坐王と丹波道主の父子を中心とする多遅麻君の一族、の但馬2大勢力と、品智別王の率いる家臣団が出会ったのであり、これが後々の新しい動きにつながっていく。
古事記では船を陸に揚げて山を越して帰ってきたといってるが本当に大和に帰ったのならそんな無駄なことをする意味がない。主要な幹線となる河川には船は頻繁に往来しており公用の船も完備されていただろう。但馬に行っただけだから元の伝承では「最初に乗った船しか使ってない」のだが、大和に逃げ帰ったと思ってるから「陸路もあるのに最初に乗った船だけで大和に帰った」というおかしな話になり、その様子を物語風に想像すると船を引っ張って山を越えてきたという話になるわけ。菟上王に神宮(のちの出雲大社)を再建させたという話も、景行天皇の時に「出雲建」(いづもたける)が平定された後のことを、ここにまとめて書いている。古事記はここで一つの物語の完結として表現上こうなってるだけで実際はこの時に再建されたわけではない。品遅別命の一団を追い出した土着派(その首領は「出雲建」)としては、独立すれば朝鮮貿易のあがりを独占できるから自力で神宮を再建できると思っていただろうが、実際には朝廷が再度派遣してくるであろう官軍(実際には但馬軍)に備えるための軍備が優先され、先延ばしになっていたので、出雲が完全に平定された後になって菟上王が再建に着手したのだと思われる。

出雲建と三島足奴
出雲側の伝承(『出雲国造伝統略』)だと、岐比佐都美の次が15代・三島足奴(みしまのすくぬ)。この間、古事記では倭建命によって出雲建が成敗されたことになっているのに、それにはまったく触れてない。これは『出雲国造伝統略』が日本書紀に準拠して古事記を無視したからだろう。倭建命が木刀と真剣を取り替えて出雲建を騙し討ちした有名な話は、日本書紀では崇神天皇の時代に出雲振根が同じ手口で弟の飯入根を殺した話になっており、書紀では日本武尊が出雲を征伐した話はでてこない。これは同じ話だから、記紀のどっちが本当なのかってことになるが、極論いえばどっちでもいいんで、「殺した、成敗した」って事実や、どっちが勝ったのかってことが歴史の推移変遷には重要であり、絞め殺したか斬り殺したか銃殺したか毒殺したかなんてのはどうでもいいw しいていえば倭建命のやりくちはあまりにエグいので、日本武尊をかっこいい英雄に描こうとしていた書紀の編集部は悪役である出雲振根がやったという説のほうを採用したんだろう。その逆は考えにくい、もともと悪人がやった手口なのに古事記がわざわざ倭建命のやったことに書き換える? それはない。書紀でも歌の中にイヅモタケルが出て来るが書紀の文脈だと弟の飯入根がイヅモタケルになってしまう。建=タケルってのは地名の下につけてその地方の勢力のある豪族をいう。なのに、弟の飯入根は兄の出雲振根の手下のように書かれており、出雲振根がタケルならわかるが飯入根をタケルと言うのはおかしい。『出雲国造伝統略』にはそういうわけで出雲建はでてこないが、いたんなら、万が一出雲建が岐比佐都美の息子で三島足奴や肥長比賣の兄弟だったとしても、母が土着系の例えば出雲振根の子孫で、三島足奴や肥長比賣とは母親が違うんだろう。それでもともと土着派と親しい人物だったんだろう。兄弟ではなく従兄弟くらいかもしれない。なんにしろ三島足奴の兄弟か伯父か従兄弟か甥か、もしくは出雲振根の子孫の一族か。
前代、品遅別命を追い出して出雲を事実上独立させた勢力の首領で、出雲建と称されたのはよほど強大な勢力だったと思われ、最終的には北は隠岐、西の石見から東の但馬国二方郡(ふたかた、但馬の西部)、南は美作あたりまで勢力圏を拡大していたのではないか(瞬間風速的には吉備地方まで臣従させたかも)。これはもちろん朝鮮半島との貿易の収入もあったろうが、なによりも出雲大神のご神託を最大限に政治宣伝に活用して、出雲人の民意を結集するのに成功したからだろう。そこへ、九州で熊襲征伐を終えた倭建命が立ち寄ってきて、出雲建と友となったという。倭建命の武勇はすでに鳴り響いてはいたが、なにぶんまだ子供にすぎない。とりあえずどんな子供か、人間を判断しようと会ってみたら、父景行天皇への不満をぶちまけ、出雲建に協力しようと申し出たんだろう。出雲建にすればこの皇子は次期天皇になる可能性もあるわけで、未来の天皇のお墨付きをもらったも同然、これで叛賊の汚名からも逃れられるというわけだ。しかし気を許した途端にあっさり子供の奸計に嵌められて成敗されてしまった。倭建命はやることが極端なので、もしや出雲建の一族は遠縁の者に至るまでことごとく殺されたかもしれない。普通なら畏怖の対象である出雲大神やそれに仕える神官や巫女たちに対してもまったく容赦はなかったと思われる(倭建命のアナーキーな性格についてはこのブログの他の記事に書いた)。これで四道将軍以来、ずっとゴタゴタ続きだった出雲はようやく平定されたわけだが、その代償として出雲大神の権威はかなり損なわれ、一時的にせよ権威失墜、権威低迷ということになったろう。出雲の権威と神秘性が復活するのは但馬の豪族たちと品智別命の次なる功績によってなのであるが、その話は長くなりすぎるのでまた別の機会に。
ここでともかくも岐比佐都美らは一旦は出雲に帰り、三島足奴に代替わりしたんだろう。品智別命が新しい出雲氏の祖になるという話がご神託がでておじゃんになった以上、このまま岐比佐都美の子孫が継承していくしかない。一方、品智別命は出雲大神に拒否されたとも解釈できるので、もう出雲へはいかず肥長比賣と一緒に一時的に但馬に留まったと思う。そもそも品遅別命がしゃべれなかったのからして出雲の神の神意の発動で、それは物部氏を代官とした朝廷直轄体制を廃して、自立した国造体制に戻して出雲神宮(のちの出雲大社)を新築・運営していく財源を確保するため、その体制転換のきっかけとして一時的に皇子の降臨が必要だったということなんだが、これは表面的または二次的な問題で、本当の神の目的というか「神の経綸」は別のところにあった。その話は品遅別命と肥長比賣の二人が今後どうなっていったのかっていう面白い話につながっていくが、今回のテーマとはずれるのでここでは省略する。

意宇足奴と出雲宮向
上述の「伝統略」の記載ではこの三島足奴が15代で、その後は16代・意宇足奴(書紀の淤宇宿禰)に続く。
だが、岐比佐都美が垂仁朝の人で淤宇宿禰は仁徳朝の人だから、その間に景行・成務・仲哀・応神の4世代あることになるのに、三島足奴の1世代しかないことになっている。しかも三島足奴にはなんの功績も事件も伝えられてない(上述のように出雲建の話もない)。これは系図に大きな脱漏があるということでいいな? 大三島足奴・中三島足奴・若三島足奴の親子3代の襲名だったって説でも、あるいはなんなら武内宿禰みたいにものすごい長生きだったって説でもかまわないんだが、まぁ系図の粗漏というのが穏当なとこだろう。この「三島」だが誰でも思いつくのは書紀で神武天皇の皇后、姫蹈鞴五十鈴姫の実家が摂津の三島で、皇后の父が事代主命ということになっている。この事代主命は大昔の事代主神の子孫だろうが、つまりこの頃、摂津の三島に出雲系の人物が住んでいたということになる。今でも大阪府高槻市に「三島神社」があって事代主命が祭神になっている。するとこの三島足奴も、生粋の出雲はえぬきではない。『伝統略』の主張通り、岐比佐都美の息子だとすると母親の実家が摂津の三島の人なのかな? あるいは本人が父(岐比佐都美)の後を継ぐ前に摂津に赴任していたとかなんとか。詳細は不明だが畿内摂津になんらかの縁のある人だろう。
で、その次の16代・淤宇宿禰は仁徳朝の頃の人(仁徳紀にでてくる)、ただし大和に常駐していたようで出雲在住のようでもない。これは当時の国造は大名の参勤交代みたいに出雲と都を往復していたのか、それともあるいは淤宇宿禰がまだ若い頃で国造の地位を継ぐ前に都に出仕してた時の話なのか、事情は不明だが、なんとでも説明つかないこともない。その次の17代が前述の、允恭朝に出雲国造に任じられた宮向である。

以上の歴史は、本当は垂仁天皇の記事や景行天皇の記事にそれぞれ分けて書くべき内容だが、天皇ごとに分散して書いてしまうと「歴史の流れ」がわかりにくくなるので、ここでまとめて読んでくれたほうがわかりやすいかと思う。

出雲国造は天之菩卑命の子孫ではない
1)出雲国造の系図の謎
ところで急に話かわるんだが、じゃなかった、さて本題に入ろう。
出雲氏(=出雲国造)の姓(カバネ)は臣(おみ)だ。なぜ直(あたへ)でも連(むらじ)でもなく君・公(きみ)でもなく、「臣」なのか? 普通は国造に多いのは「直」だし、神別氏族は「連」だろう。「臣」は孝元天皇以降に分かれた皇別氏族に多い。このことから出雲氏は、もしや神別ではなく(天之菩卑能命の子孫ではなく)、皇別氏族じゃないのかと疑われる。つまり天之菩卑能命の子孫は途絶えて、途中から別の系統になってるのでは?
そこで気になるのが第12代・鵜濡渟、なぜ彼が「氏祖命」(うぢのおやのみこと)なのか、系譜ではその先代ともつながっており、ここで区切る意味が薄い。国造の初代だからというのも信憑性の薄い先代旧事本紀に基づくもので、日本書紀をみるかぎり「国造」とはない。書紀では鵜濡渟は出雲振根の弟の子だが、出雲振根の弟は飯入根と甘美韓日狭の二人いて、どっちの子かわからない。あるいはもう一人、別の弟がいたか。この兄弟は『姓氏録』だと天之菩比命から12世孫だから鵜濡渟は13世孫のはずだが、国造本紀ではなぜか11世孫になっている。「伝統略」では天之菩比命から阿多命まで11代で、出雲振根はこの阿多命の別名だとして、氏祖命(鵜濡渟)はその子で12代めということになってる。書紀によれば鵜濡渟は出雲振根の甥のはず、甥でも息子でも世代数は同じだが。そうかと思うと、系図によっては出雲振根・飯入根・甘美韓日狭の三兄弟は阿多命の息子になってる系図もある。これらを比べるといろいろ辻褄あってない。出雲振根が阿多命の子だというのは鵜濡渟を13世孫にするための数合わせであって、出雲振根と阿多命を同一人物とする「伝統略」のほうが古伝に近いのではないか。

2)謎解きのカギは「阿多命」
で、この阿多命という名が気になる。出雲振根とまったく同時代(崇神朝)に、武埴安彦の妻の吾田媛(あたひめ)という女性がでてくるのだ。このアタを南九州のアタだとみて、隼人系の人だという説もあるのだが、そこにもってく前に、南九州よりずっと近い出雲に、しかも同時代に「阿多命」がいたってことのほうがはるかに重要だろう。男性だから当然「阿多比古」ともいったろう。そうすると阿多比古と吾田媛は夫婦とか兄妹とか息子母とか父娘とかの、男女の対でよくある同名の「ヒコ・ヒメ」のパターンだ。で、吾田媛は埴安王の嫁だから出雲振根(=阿多命)と夫婦ってことはありえない。吾田媛の夫と阿多命の父が別人なのだから母と息子の関係も成立しない。吾田媛が娘で阿多命が父だとすると、ありえなくはないが、出雲振根の事件は同時代といっても四道将軍の発遣よりもかなり後の事件だし、埴安王がかなり上の世代(孝元天皇の皇子)でむちゃくちゃ老人だったろうから、かなり可能性が低そう。やはり普通に兄妹か姉弟とみるのが穏当だろう。
つまり埴安彦と出雲振根は婚姻関係でつながっていたのであり、埴安彦(記:波邇夜須毘古)の叛乱のバックには出雲勢力がいたと推測できる。
ここで鵜濡渟は出雲振根の弟の子だという。弟というから「飯入根の子か?それとも甘美韓日狭の子か?」と思ってしまうがもしどちらかの子なら書紀もわかりやすくそう書けばいいんで、これはどっちの子でもないんだろう。漢字の「弟」は男に限るが、これは大和言葉の「オト」に当てた字で、もとの意味は性別にこだわらない齢下の弟や妹のことである。「エ」(兄)も男の兄と限った意味ではなく、姉も「エ」といったのと同じ。そしたら「弟の子」っていうのは妹の吾田媛の子って意味ではないのか。

3)結論とまとめ
当然、鵜濡渟の父は埴安彦王である。埴安王の乱が鎮定された時、子供だった鵜濡渟は乳母らや家臣らに守られて、母の実家の出雲振根の家に逃れてきて、そのまま寄寓してたんだろう。
そうすると鵜濡渟は「男系でみるかぎり」天之菩比命の子孫ではなくて、孝元天皇の孫ということになる。孝元天皇から分かれでた氏族といえば「臣」姓が多いことで有名だが、まさしく出雲氏は「臣」姓である。
実際にカバネが「臣」だということからいえるのは、伝承が途絶えて現代からはわからなくなっているが、氏姓制度が始まった初期の頃までは、出雲国造が孝元天皇の子孫だってことはみんな知ってたってことだ。
俺でも気づいたんだから出雲氏に伝承の11代「阿多命」の名を知ってさえいれば、俺と同じようなことを考えた人は大昔からさぞかし多かったに違いない。出雲氏の先祖の中には、鵜濡渟を「氏祖命」と称して真実を暗示した人もいたのかもしれない。だが出雲氏全体としてみれば、討伐され滅ぼされた謀反人の子孫というよりは、皇室より古い神代以来の家系だ、天之菩比命の子孫だといったほうが聞こえがいいわけだろう。
とはいえ「でも、女系ではちゃんとつながってることになってるじゃん」と言われるだろうな。確かにその通りなんだが、だからって平和な婿入りみたいな形でそれ以前の出雲氏の体制をそのまま引き継いだのだ、とはいえない。書紀にある通り、四道将軍の討伐をまぬがれて以来の悪業を暴かれて、実質的に一回滅ぼされている。第12代鵜濡渟の登場で改革と新規スタートが期待されたが、女系で半分はつながっていたがゆえにこそ、同族に甘く、中途半端に終わった。その後、出雲の国外(美作)で育ち出雲守旧派とのシガラミが少ない第14代岐比佐都美が円野比賣と一緒に丹波からの後援を受け、品遅別皇子を奉じて朝廷の威光を輝かしたが、それが急進的すぎて出雲建という反動を引き起こした。出雲の旧弊が一掃されたのは倭建命によって出雲建が成敗され、第15代三島足奴が国主の座にすえられてからだろう。

4)オマケ
同じように、大三輪氏も意富多々泥古(=大田々根子)の子孫ではなく開化天皇の子孫だと思われるが、そっちの話は今回の話ではないのでまたいつか。

・サホヒメは同情に値するヒロインなのか?

H29年9月10日(日)改稿 H24年11月21日(水)初稿
以下、『古事記』は記の1字で、『日本書紀』は紀の1字に略します

紀によると倭大神が大水口宿禰に神憑りして「先帝(崇神天皇)は神祇の祭祀に努めたが根本を明らかにせず末節に留まったが、天皇(垂仁天皇)がその不足をも祭れば天下太平ならん」との神勅があった。これから推察するに、垂仁天皇一代はすべて崇神天皇の大事業を継続、完遂することに費やされた。記紀にある垂仁天皇の事績はバラバラの記事なのではなく、すべてこのことに集約されていくように相互に関係していると思われる。崇神天皇の事績がそうであるように垂仁天皇の事績も大きく神事と軍事の二面からなる。

伊勢神宮の鎮座
例えばテキストp.170に「倭比賣命は伊勢の大神宮を拝き祭りたまひき」とあり、これが垂仁天皇二十六年(BC4年)の伊勢神宮の創建をさす(「伊勢式年遷宮」も参照)

サホヒコの乱
さて、沙本彦(サホヒコ、記:沙本毘古)は彦坐命の子。彦坐命(ヒコイマスノミコト、記:日子坐命)は先代崇神朝において丹波の凶賊陸耳之御笠を征伐、その他にもいろいろ活躍して、その勢力は播磨、近江、美濃にまで広がった。沙本彦は当初その彦坐命の嫡子で強大な勢力を引き継いでおり、それで逆心を抱くようになったものか。先代の埴安(ハニヤス、記:建波邇夜須毘古)の乱は行き詰まったあげくの反乱だったが今回の乱は用意周到に練られた計画だった。埴安の乱は大彦(オホヒコ、記:大毘古)が鎮圧したがその跡地の山城国は大彦の一族が継承せず、彦坐命に与えられた。p.154に彦坐命は「山代之荏名津比賣(やましろのえなつひめ)」を娶ってることからわかる。彦坐命の管轄たる丹波方面との要路にあたるからあわせて管理させたものだろう。したがって埴安彦に仕えてした部下たちも多くが新しく彦坐命、わけてもまだ古参の部下の少ない沙本彦の配下に加わったはず。その中には、旧主埴安の謀叛に共感していた者も少なからずあり、新しい上司である沙本彦に「あなたなら出来る」とお世辞がてら煽る者もいたのであろう。

この物語の本当の主人公はサホヒメなのか?
沙本彦はまず親密で意の通じた同母妹沙本媛(サホヒメ、記:沙本毘賣)が皇后なのを利用して、暗殺をもちかけるのだが、仮に妹がこの企みを断ったり、失敗したりしても大丈夫なように二重三重に手は打ってあったものと考えねばなるまい。沙本媛は一度は天皇の首に刃を当てたのだから、夫ではなく兄をとったのだが、これは覚悟の決まった決断ではなく、「最愛の夫と兄の殺し合い」という事態に直面して苦悩は続いており、謀叛が成功しても沙本媛の苦悩は存続する。心ならずも、とはいえ自分の意志で兄の側に立ったのだから謀叛が成功すれば苦悩は存続するにしてもやや小さくなることは明らかだが。そしてこの時、皇后はすでに皇子を妊んでいた。みるからに妊婦だったらいかに沙本彦といえども夫の殺害を唆そうとはしなかったろうから、妊娠初期だったろう。これが沙本媛の優柔不断の原因になったとしたら、妊娠さえなければ悩むことなくさっさと天皇を裏切り兄のもとに走ったのかな? そう考えると「美しい文学」がいきなり「醜い女の生命力」にみえてきて興ざめだが。そうだとしても、兄を止めることができない上に、天皇に知らせることで兄の命が危なくなるという恐れから夫を守ることはもっとできないという、己の無力さに絶望もしていたろうから妊娠云々にかかわらず苦悩はあり、文学性は成立する。しかし完全に無力感に打ちのめされていたのではなく、天皇に謀叛を白状してからは、肚が座って、反乱軍に加わることに決断した。つまり優柔不断から事態を悪化させた者が腹を括って決断しなおす物語でもあるわけだが、この時、反乱軍と官軍のどちらが優勢だったのか、先行き不透明だったのかで、物語の印象がまったく違ってくる。物語として「あらまほしき」は、夫への贖罪と兄への一途な愛を貫くため、敗北のきまった反乱軍へ悲愴な決意で身を投じるというシナリオでなければディレクターがOK出さないだろうが、さて。前述のごとく、周到な用意をめぐらす余裕のあった沙本彦が、妹一人に反乱の成否を賭けるというのはちょっとありえなさそうに思われる。妹が兄の軍に身をよせた時点では、反乱軍が優勢か、少なくとも先行き不透明な段階だったのではないか。紀はこの反乱を垂仁五年としているのだが、二年の段階で品智別命(ほむちわけのみこと)がすでに生まれていることになってる。記では籠城の最中に生まれたことになっており、紀では沙本彦が妹に計画をもちかけたのが四年九月二十三日、それが発覚したのが五年十月一日になっている。記の通り籠城中に生まれたとして乱の勃発が十月ではその年内に生まれた可能性は低いだろう。二年にすでに生まれているなら乱の勃発は元年であり、沙本彦が妹に計画をもちかけたのがその前年という紀の説によれば、計画は崇神朝の末年となる。皇位継承の隙を狙うのは謀叛の計画としては王道でこれが史実に近いだろう。しかも紀によれば先代、崇神朝の末年、任那から半島情勢が風雲急を告げる使者が来たり、垂仁朝の当初も新羅や任那の使者がきている。『新撰姓氏録』ではこの間、日本から将軍が派遣されているが、文武未分離の時代だから、沙本彦の父、彦坐命も含めて朝廷の並み居る重臣は軍旅に出征して帝都は留守だったのではないか。その隙を狙った半ばクーデター的な反乱だったとしたら、勝敗がつかず長引いたとしてもおかしくない。記は、文学的な説明をするので天皇が皇后を愛するあまり攻撃の手を緩め、それで長引いたかのようにいうが、それだけでなく、実際に反乱軍が強大で簡単にいかなかったのだ。反乱軍が籠城してるのもあくまで最終局面であって、記は恋愛物語に不要な戦争の推移を省略してる。
要するに、現代人は思い込みから、女性視点で沙本媛を悲劇のヒロインに仕立てつつ読むので、いかにも文学じみてしまい史実にみえなくなっているが、如上のように史実厨として史実設定で分析検討すれば、より現実にちかい心もようが浮かびあがってくる。沙本媛の苦悩は当初だけで、一貫して謀叛軍の側に立ち、官軍への帰順を細工を弄してまで断固拒絶して「恋に死ぬ」強い女として描かれてる。しかしそんな女だからこそ男からみても魅力的であるわけで、つまりこれは女性の苦悩の話ではなく、裏切られてもなお女を愛し続ける垂仁天皇の「男の純情」の物語なのである。

「夫と兄」はどう読むべきか
そしてもう一つ、当時の文化情況の話もある。それは同母の兄妹の恋愛が当時は許されなかったという説があるが、本当だろうか。この件については実は大いに疑問があり、詳しくは「木梨軽太子の変」の頁で書いた。とりあえずは、沙本彦・沙本媛の兄妹は所謂「ヒコ・ヒメ」のセットになっており、これは二人の仲が発覚してから呼ばれたか自称したかであろう(ただし、民俗学や古代史でいう「ヒメ・ヒコ制」という考え方があるが、あれとは違う。詳細は今回はふれないがいずれかの機会に論じたい)。垂仁天皇は一貫してもう一つの名「佐波遅比賣(さはぢひめ)」と呼んでいたに違いない。沙本彦は妹に「夫と兄といづれか愛(は)しき」と問い、妹は「兄ぞ愛しき」と答えるのだが、この「夫と兄」を、岩波版(倉野憲司)は「ヲとイロセ」、講談社学術文庫(次田真幸)は「ヲとイロエ」(日本思想大系本も同)、角川文庫(武田祐吉)は「セとイロセ」と訓んでいる。紀は「兄と夫と」と順番が逆になっていて、岩波日本書紀は「イロセとヲウト(ヲヒト)」、岩波訓読日本書紀(黒板勝美)は「コノカミとセ」と読んでる。この他にもいろんな読み方があるが(例えば夫はツマとも読める)、諸書古本屋に売っ払ってしまって記憶も薄れここに引用できない。
ただしこれらの中で「兄」をイロエまたはイロネと読むのは、まるで二人が同性の兄弟か姉妹みたいな印象があるので間違いではないのかと思う。
第二に、ここは沙本彦が異母兄でなく「同母」だという親密さを強調しつつ妹に迫るところだから「セ」じゃなく「イロセ」のはずだと考えたくなる気持ちはわかるが、それは理屈にすぎないのではないか。口語ではセだけで同母兄・異母兄の両方含み得る上、先程あげた諸例からすると、夫も兄も「セ」と読むことが可能ということ、つまり「セとセといづれか愛しき」とも論理上は読めるわけだが、ここは口語での会話なのだから、イントネーションや表情や仕草での補完ができたとすれば、実際に沙本彦が「セとセと…」と発言した可能性があるってことだ。これは実は重大で、同一単語ならば語感に従った語源が想起され、本質的にどちらが「セ」なのか、という問い詰めになる。発話してるのは沙本彦なので、裏には「セとは本来、夫ではなく兄なんだし」っていうニュアンスが強くあるってことだ。
第三に「コノカミとヲ」とか「セとヲウト」とか「ヲとイロセ」では単語の長さのバランス悪くないか?「ヲヒトとイロセ」か「ヲとセ」のどちらかだろう。
実は誰の読み方か忘れたが、「ヲとセといづれか愛しき」と読んでる本もあって、「これだっ!」と思ったことがある。ここは親密な関係での口語なのだから「ヲとセ」の一択しかない。一音節で伝わる。津軽弁の「わ、な、け」を思い出してほしい。もっといえば助詞も無駄、「ヲセいづれ愛し↗?」と読むべきだろう。「セセいづれ愛し↗?」でも明らかに意味は伝わる。「二人のセどちらが好き?」の意でなんら紛らわしくない。が、太安万侶があえて別の文字を使ってるではないかとの反論もありえよう。これは順番に関係してるかもしれない。「夫と兄」であり「兄と夫」になってない。さきほどの兄をイロセと読む説と同様、自分を強調する趣旨からはまず「兄と夫」とあるべきではないか? しかし公式には彼女のセは夫のほうであった。つまりこの順番に込められたニュアンスは「まず、セといえばむろん亭主のことだよなw ところで、もう一人本当のセがいるよな?」ということだろう。

「稲城」とはなんぞ
この反乱で反乱軍は稲城(いなき)を築いて抵抗した。この稲城は俵を積んで即興の防壁にしたもので、俵があればさしたる準備のない緊急な場合に短時間で設置できる、敵の矢を再利用しやすい、等の利点が考えられるため、この謀叛が用意周到だったという私説には不利だといわれるやもしれない。しかし大々的に城壁工事など始めたら密かに陰謀を進めることにならない。しかし俵は平時からしかるべきところにあって当たり前なのだから、秘密の段取りさえあればよい。この稲城がすぐ燃えそうな上、柔らかくてさして役に立たないもののように思われるかもしれないが、そうではなく水を吸収しやすく粘土でしっかり固めて、秀吉の一夜城みたいに堅固な城を素早く築くものらしい。ちょっと情報源は手元にないが縁のある人は俺と同じソースに出会ってくれ。稲城は雄略紀にもでてくる。従って、この城が燃えたのは「三匹の子豚」に出てくる藁の家みたいに、俵を積み上げたからではない。安土城だって炎上するんで、稲城云々とは関係ない。

ホムチワケの命
ここまでなんだかんだ書いてきたが実は「沙本彦の乱」ってのは序章であって、次の品智別命(ホムチワケノミコト、記:本牟智和気命)の話の前ふりにすぎない。で、この肝心の品智別命の話の詳細はhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html)">「出雲国造は天穂日命の子孫ではない」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html)のほうにも書いてあるのでそちらをご覧あれ。

・「おきよ丸」と「起きよ祭」

H27年11月15日投稿 H27年10月16日(金)初稿
H27年11月13日(金)に代々木の日本文化興隆財団に行ったら置いてあった資料プリント、半分は「おきよ丸」と九州の地図、左半分は、上に『古事記』による神武東行路(地図)、下には2枚の地図があり1枚は「神武天皇の苦戦の足跡(大阪から)」と題する地図、これは三重県の一部と奈良県、大阪府、和歌山県を含む紀伊半島の地図、もう1つの地図はその地図の勝浦と書いてあるあたり(熊野川の河口の南側から勝浦湾まで)の拡大図。どちらも古事記や日本書紀に書かれた神武天皇の行路中の様々な事件が今のどのあたりで起きたことなのか詳細に書き込まれていて、イメージが湧きやすくたいへん良い地図と思う。ただし、日本書紀にはあっても古事記にはない多くのエピソードについてもその場所が同定されているので、日本書紀に興味ない人には意味ないかも。何かの書物からのコピーと思われるが元ネタは不明。だが「『古事記』による神武東行路」という地図は小学館の日本古典文学全集の『古事記 上代歌謡』のP.160からとったものだが、なぜか東征路の「征」の字が消されて手書きで「行」に直されてる。プリント右半分の九州の地図は、宮崎県内に、天岩戸神社、高千穂神社、美々津、西都原、宮崎神宮、鵜戸神宮、そして鹿児島県境を挟んで霧島神宮のすぐそばに皇子原。鹿児島県内では、可愛山陵、高屋山上陵、鹿児島神宮、宮浦神社、霧島神宮、吾平山上陵が示されている。可愛山陵には「えのやまのみささぎ ニニギノミコト」、高屋山上陵には「たかやのやまのえのみささぎ ヒコホホデミノミコト」、吾平山上陵には「あひらのやまのえのみささぎ ウガヤフキアエズノミコト」と手書きで追記あり。おきよ丸については「③おきよ丸」と題して昭和九年は神武天皇御東遷二六○○年にあたり、これを記念しておきよ丸御東行巡路漕舟大航軍が計画され、昭和十五年に挙行された。おきよ丸御東行は神武天皇御東遷当時の船を再現し、…(以下は点線で略されている)」とあり、何かの本からのコピー。昭和九年と御東遷と昭和十五年の3語には手書きの傍線あり、昭和十五年には「※建国2600年(皇紀)」、おきよ丸には(起きよ丸)とそれぞれ手書きで追記あり。また帆船の写真があり、その下に「美々津港から船出するおきよ丸」と題あり。その他、手書きで「黒ばえ 七つばえ」とあり、黒ばえの下には山を表したのか「へ」の字のような線、七つばえの下には波を表したような曲線(波線)がある。「起きよ祭=旧暦八月一日」と大きめに手書きで書かれている。以下、このページではこのプリントについての解説と解読と注釈と雑談。
「日向三朝」とは
九州の地図についてはわかりやすい話で、邇々藝命(ににぎのみこと)、火々出見命(ほほでみのみこと)、鵜萱葺不合命(うがやふきあへずのみこと)の3代を「日向三朝」というのだが、他にも「日向三代」「高千穂三代」「高千穂三朝」等いろいろにいう。ぜんぶ混ぜれば「日向高千穂三朝代」。昔の日向は宮崎県だけでなく鹿児島県も含んでいた。で、ずっと高千穂だけにいたわけではないから、高千穂三朝というより日向三朝といった方がよいとうに思う。朝も代もこの場合ほとんど同じだが朝の方が意味が広い。併記する場合、漢語では朝代とはいうが代朝とはいわない。
日向三朝は、『新撰姓氏録』の用語だと天神(あまつかみ)でも地祇(くにつかみ)でもない「天孫」(あめみま)という分類に該当。ただし、『新撰姓氏録』でいう天孫は天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子孫も含むから3代じゃなくて4代だけど。しかし天之忍穂耳命の子孫だという氏族は、いずれもすべて史実上は皇別氏族だったり神別氏族だったり諸蕃氏族だったりするので、実際には忍穂耳命の子孫は(邇々藝命の子孫である皇室以外には)存在しないことになる。(物部氏も含めてなw 物部氏は饒速日命の子孫ではないw)。

神宮とは
プリントの右半分にある九州地図にあげられている神社のうち、霧島神宮、鹿児島神宮、鵜戸神宮、宮崎神宮はそれぞれ日向3代と神武天皇を祀る神社で、これに忍穂耳命を祀る英彦山神宮、天照大神を祀る伊勢神宮、そして伊邪那岐命を祭る伊弉諾神宮を加えると、直系の歴代をまつる神社のリストになる。

・淡路の伊弉諾神宮:伊邪那岐命
・伊勢の皇大神宮:天照大神
・豊前の英彦山神宮:忍穂耳命 ←×
・大隅の霧島神宮:邇々藝命 ←×
・大隅の鹿児島神宮:火々出見命
・日向の鵜戸神宮:鵜萱葺不合命
・日向の宮崎神宮:神武天皇

これがみな「神宮」と称しているんだが、神宮という称号は現在の定義と、その言葉の起源における意味があまりに乖離しすぎて問題だ。本来の意味では「神社が格下で神宮が格上」等という意味はぜんぜん無かったのである。これは明治になって作った格付け用語の「神宮」であってもともとの意味ではない。…が、この話も、詳しい話は垂仁天皇の出雲「神宮」か履中天皇の石上神宮のあたりにでもすることにして、今回はスルー。
それよりも、英彦山神宮はべつに忍穂耳命の総本宮でもなんでもないし格別に皇室とも関係ないだろう。忍穂耳命を主祭神とする神社は吾勝神社(岩手県一関市)・石手堰神社(岩手県奥州市)・駒形根神社(宮城県栗原市)・伊豆山神社(熱海)がある。

天孫3代の山陵
で、日向三代の御陵だが、神様にお墓があるってどういうことだよ、やっぱり人間じゃねぇかとなりそうだが、そうでもない。神様に墓があるってのは、そもそも現代人の墓の概念が後出なので、もともとの墓の意味が違うのだ。そこらは伊邪那美命の御陵が広島県の比婆山なのか和歌山県の有馬なのかって議論でするので、今回はやらない。それはそれとして、この3陵がぜんぶ鹿児島県内にある。これは実は正しくない。山陵の候補地は九州各地に伝承があり、特に宮崎県内にも有力な候補地があったのだが、明治になって公式に決定する時に、薩摩藩閥の意向でなんの議論もなく勝手に決められてしまった。宮浦神社というのは神武天皇ゆかりの神社だが、宮崎県の日南市にも同名の神社あり、そちらでは神武天皇の母、玉依比賣の実家で神武天皇幼少時の住居という。鹿児島の方の宮浦神社は、神社の由緒書きによると「神武天皇御東征遷前に度々おいでになった仮の宮居であった処」という。

神武天皇生誕の地
皇子原は神武天皇生誕の地という伝承がある。が、実は神武天皇が生まれたところは九州の各地に伝承地があり、ちょっと検索しただけでも①佐土原(佐野の森)、②高原町佐野(皇子原)、③志布志町佐野、④東串良町宮下(イヤの前)、⑤鹿児島県加世田市があるという。この他にもどこだがに狭野町だか佐野町だかってとこにも古伝承があったはず。今となっては確かめるすべもないわけだが、神武天皇の別名「若御毛野」、兄の名「三毛野入野」かたすると「毛野」つまり北関東が関係あるかも知れない。というと、九州から勢力を拡大していったって思い込んでる人は「そんな馬鹿な」となるんだが、大国主の段階ですでに北陸まで勢力にしてたんでしょ。播磨風土記みれば播磨もそうだし、大物主神話をみれば大国主の勢力は大和まで含んでた。つか天照大神が豊葦原瑞穂国は天孫のしらすべき国といってるのは、記紀ともに、当時しられた全世界という意味でいってる。邇々藝命が譲り受けた領土は出雲と九州じゃなくて、すでに日本全土は統治の対象だったのです。神武天皇は栃木や群馬で生まれた可能性もあるよ、いやほんとに(笑)

神武元年はBC660年ではないってことの本当の意味
昭和九年を御東遷二六○○年とするのは、昭和十五年(=建国2600年)と6年しか差がない。これは『日本書紀』の説に拠っている。『古事記』では東征は20年近くかかったこちょになっており、日本書紀は古伝承を切り詰めている。もっとも、それをいったら日本書紀に依拠して計算された紀元前660年を神武元年とする説もどうなんだって話になるわけだが、確かにそうだ。しかし、だからって「そんな古いはずはない」って話にはならないんで、本居宣長は日本書紀の編年を後世のさかしらで作ったものであって信用ならないとはいったが、それは現代人が思うような「そんな古くはないはずだ」って話ではない。「もっと古いかもしれないし、新しいかもしれないし、偶然にも日本書紀に近いかもしれないし、なんだかわからない」という趣旨でいってるのである。このへんの話もいずれ詳しくすると思う。今回は省略。

「おきよ祭」
「おきよ祭」については適当に検索して下さい。wikipediaの「美々津」の項にも詳しい既述があるのでそれを見て下さい。普通にいい話なので、皆さんにも広く知れられてほしいものですな。wikipediaはそのうち改変されたり削除されたりってことがありうるので早めに見といて下さいよ。

「黒ばえ、七つばえ」の謎
検索したところ、七つばえとは日南海岸からみえる奇岩で「七つ八重」と書き、別名「七つ岩」「ビロ岩」「小場島」ともいうらしい。しかし「黒ばえ」についてはわからなかった。日南海岸というと、鵜戸神宮の近くではあるが、何か神武天皇にまつわる伝承でもあったのかどうか?

・神武朝

H27年11月14日投稿 H24年6月20日(水)初稿
久米歌
神武天皇の治世
(この項かきかけ。後日執筆予定)

・國造と県主2

平成27年10月15日(木)投稿 平成27年10月14日(水)初稿
中・下巻の区切り
ある人から、中・下巻の区切りがなぜ応神天皇と仁徳天皇の間で分かれてるのかという質問を頂いた。これについてはhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-4.html">「なぜ推古天皇で終わってるのか」http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-4.htmlにいろんな説を書いています。

國造と県主
(後日加筆)

・6天翔ける巨大怪鳥ヤマトタケル

平成27年10月14日(水)初稿
5草薙剣と倭建命の最期をめぐる議論」から続き

「別」のカバネ
倭建命の系譜のところで「別」(ワケ)というカバネの存在が目立つ。http://2651023.blog.fc2.com/blog-category-8.html">「氏姓(うじかばね)制度」http://2651023.blog.fc2.com/blog-category-8.htmlの方に書いておいたのでそちらを参照。

白鳥ではない
さて今日の本題だが、御陵にたまたま鳥が止まったので、倭建命の遺族はこれを故人の魂だと思って追いかけたという話。この鳥、『古事記』には「白鳥」(しらとり)とも「白智鳥」(しろちどり)ともあり、白鳥(ハクチョウ)のことだという説が主流になっている。ハクチョウではなく、白いチドリだという説もある。
ハクチョウ説は「シロチドリ」の「チ」を「の」と同じ意味の助詞の「ツ」とみて「白の鳥」という意味に解釈している。しかし「白き鳥」(現代語なら「白い鳥」)ならわかるが、「白の鳥」はこなれない日本語でずいぶん不自然な感じがする。ハクチョウは垂仁天皇のところにもでてきたように古代語では「ククヒ」(鵠)であってシラトリではない。シラトリはただ単に「白い鳥」だというだけでハクチョウとは限らない。古事記には「智鳥」(ちどり)だとは書いてあっても「鵠」(くくひ)だとはどこにも書いておらず、しかも四つめの歌には「浜つ千鳥」とはっきり出てくる。この浜つ千鳥は前に出てくるハクチョウとは別の鳥だから、前後つながっておらずおかしい。そこでこれを解決するため3つの説がある。一つは序的な句つまり「浜つ千鳥」という言葉全体が次の「浜よ行かず」の「浜」にかかる序詞だとする説。二つめは白鳥の比喩とする説。三つめはもともとこの物語とは無関係な民謡をハメ込んだものだからつながってなくて当たり前という説。しかしそんなややこしいこと言わずとも最初からチドリならすんなり単純な解釈で読める。もともとこの千鳥という部分がハクチョウと無関係なら、なんで古事記は「白智鳥」などと紛らわしい書き方をしたのか。「白鳥」とも書いているのだからそれで通用するはずである。そしてなぜ「鵠」(くくひ)という言葉がまったく出てこないのか。
『日本書紀』は白鳥としか書いてないのでこれは今のハクチョウなのか単に白い鳥という意味で書いてるのか判断できないが、本当にハクチョウなら垂仁天皇のところと同じように「鵠」と書けばいいのであって、これは日本書紀がわざとハクチョウに誤解させようとして曖昧に書いてるのである。日本書紀は古事記とちがってヤマトタケル伝説を叙情的な悲劇ではなく偉大な英雄譚として描こうとしているので、可愛いらしいチドリではふさわしくない、ここは一つ雄大な大空を優雅に飛翔するハクチョウを想像してほしい、というのが日本書紀編集部の意向なわけ。だがそんな捏造創作に従う必要はない。
つまり、これはハクチョウではなく「白いチドリ」なのである。ハクチョウ説は間違い。

バァ、フラワシ、パビルサグ
人が死んでその魂が体の外に出ていくと鳥になって飛んでいくとされた。むろんその鳥は目には見えない鳥で、ごくまれに目に見える場合もあるというのはあたかも幽霊の目撃談がごくたまにあるようなものだろう。
魏志東夷伝によると弁韓では死者の魂を大鳥の羽根で空に飛ばしたという。中国の『神仙伝』には会稽の介象が死後、白鶴と化したとあり、『呉越春秋』には葬儀で鶴の舞が上演されたという。インドのアッサム地方(ブータン、バングラディッシュ、ミャンマーに囲まれた地域)のアオナガ族は死者の魂は青鷹の姿をしているという。古代イランのゾロアスター教では「フラワシ」は有翼の人間の姿で、これが東西に伝わり、東に伝わったものは仏教が取り入れて「天人・天女」となり、西に伝わったのはキリスト教が取り入れて「天使」になった。古代バビロニアの「パビルサグ」という神は上半身が人間で鳥の胴体と合わさった姿で表された(半人半馬のケンタウロスの馬を鳥に換えたような姿)が、実はこの「パビルサグ」はシュメール文明まで遡ると特定の神ではなく、「祖先の霊」のことだった。古代エジプトでは死後の人間の魂は「バァ」といって、人間の頭と首から下は鳥の体でパピルスに描かれていた。ヨーロッパの民話の中にも死者が鳥になる話が多い。北米のフルン族は死者の魂は山鳩の中に移るという。メキシコのトラスカラン族では貴族が死ぬとその魂は美しい歌う鳥になる。ブラジルのイカンナ族では勇者の魂は美味なる果実を食する美しい鳥になる。そのほか、魂が鳥になって飛び立つという説話は東南アジア、南洋、アフリカ等にも見られるという。昔は日本だけでなく全世界で、人が死ぬとその魂は鳥になって天に昇るという信仰があったことがわかってもらえると思う。
ただ、そういう信仰があったということと、たまたま見かけた鳥が必ずその葬儀の最中の人の魂なのかどうかということはまた別問題である。倭建命の御陵に、たまたま鳥が舞い降りたのをみて、遺族が、故人の魂の化身だと思い込んだわけだが、まぁいくら古代人でもその鳥が墓の下からでも出てこない限り、どっかから飛んできたぐらいではまさか故人の魂だなんぞとは普通は即断しない。…はずだったんだが、今回は「ある特別の事情」で、その鳥を故人の魂だと信じてしまった。その事情とは何か、以下に謎解きをしていこう。

「葬送儀礼の反映」ではない
この章に出てくる4つの歌が大葬の礼で歌われる「大御葬歌」になったということから、この説話自体が、葬送儀礼の反映であるという説があり、通説にもなっているようだが、疑問だと思う。田んぼに這いまわって大声で泣いたとか、笹の切り株に足を踏み抜いてもその痛みを忘れて鳥を追い掛け回したとかの描写を、葬送儀礼と関係する、あるいは葬送儀礼の反映である、等とする解説本がやたら多い。「関係する」とか「反映である」とかは具体的にどういうことなのか。古代に実際に行われていた葬送儀礼が描写されてるということだろうが、倭建命の遺族たちが実際にそのような儀礼を行ったのか? それとも彼らはそんな儀礼は行ってないのだが稗田阿礼か太安万侶が奈良時代の葬送儀礼に基づいてここの描写を創作したという意味なのか? おそらく後者の意味だろう。というのは、仰々しく泣き喚く葬送儀礼は中国大陸や朝鮮半島のもので、古い時代の日本にはなかったと思われるからである。『古事記』上巻の天若日子(あめわかひこ)の葬儀でも、「遊」(あそび)をしたとあり、このアソビというのは本居宣長がいうように「楽」=歌舞(うたまひ)のことである。ただし、本居宣長がいうには「死去というのは天照大神が天岩戸に閉じ籠ったのに似ており、天照大神を岩戸から誘い出すために神々が楽しげに歌い踊ったように、死者に生き返ってもらいたいという趣旨で葬儀の参列者が歌舞をなすのである」といっていることから、この歌舞は死者を悼むしんみりしたものではなくて、飲めや歌えやのドンチャラ騒ぎに近いものを宣長は想定しているようだ。また魏志倭人伝や後漢書東夷伝などに書かれた当時の倭国の風習でも、葬儀の参列者は「飲食」し「歌舞」するとあり。最近までも、地方の一部ではお通夜や本葬儀直後の会食や火葬の待ち時間の間などに飲めや歌えやのドンチャン騒ぎをやらかす風習はわずかながら残っていた。
天若日子の葬儀ではキジ(雉子)が「哭き女」(なきめ)役をやったとあり、これを朝鮮の「泣き女」(お金で雇われて葬儀で大泣きする職業)のようなものとする説があるが、鳥や獣や虫が「鳴く」のは何も悲しんで鳴くのではなく、一般的に声や音を出すのはすべて「鳴く」という。漢字は当て字なので「哭き女」と書いてあるからといって漢字の意味にとらわれてはならない。キジの鳴き声は「ケーン」という甲高くて勇ましい声であり、いわゆる職業的「泣き女」の声とはまったくイメージ違いだ。キジ(雉子)が担当したというナキメとはおそらく葬儀の司会者のような役だろう。どんちゃん騒ぎを仕切るには声のデカくてよく通る声でないと務まらないのである。
ただし天の岩戸がどうのこうのという宣長の説はやや理屈っぽい。そうではなくて単に死去は使命(ミコト)を受けてこの世に生まれた者が使命を終えて復奏(カヘリゴト)することでお目出度いことだからお祝いの宴会を張るわけだろう。死を悲しむという発想は仏教や儒教の影響で発生したものでもともとの日本人の文化ではない(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-7.html">「復奏(カヘリゴト)」http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-7.htmlを参照)。だがそうするとこういう反論もあるかもしれない、「確かに平均寿命を超えて天寿を全うしたのならめでたいが、不幸な事故や病気による死だったり、あるいは暴力事件に巻き込まれたり謀反の主犯として成敗されたり、死刑囚としての刑死、鬱病による自殺、神を侮辱したり冒涜したことによる祟りによる死、等もめでたいのか、と。そう考えれば天若日子や倭建命の例は、めでたくない方、悲しむべき方に入るのではないか、と。俺も確かにかつてはそう考えていました。天寿を全うした死はめでたくて葬儀は飲めや歌えやのドンチャラ騒ぎであっても、そうではない不幸な死は「穢れ」であり悲しみ悼む葬儀になるはずだ、と(戦死は名誉なのでまた別。これは戦前の軍国主義とは無関係に古代世界に普遍の信仰。ゲルマン神話のヴァルハラが一例)。しかし天若日子の死は謀反人の刑死であり、天若日子と誤認された阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねのかみ)が激怒してるぐらいに天若日子の死は穢れとされていた。にもかかわらずその葬儀では「遊」(アソビ=歌舞)があった。思うに、不幸な死に方をした人に対しても、天寿を全うした人であるかのように葬送してあげるのが慰霊ということだったのではないだろうか。だから死に方がどうだろうと、みな等しく飲めや歌えやのドンチャン騒ぎであの世に送ってあげたのだと思う。
よくありがちな解説書に出てくる「葬送儀礼」説はおかしい。だいたい赤の他人を金で雇って泣き真似してもらったり、儀式だからって大げさに這いまわって大声あげて泣く真似を形式に従ってやる、などという心の実の欠けた形式ばかりの悲しみを演じるその姿は荘厳な儀式などではなく常軌を逸した「痴態」というのであり、まともな日本人の感覚からいってそんな儀礼があったとも思えない。宣長は谷川士清からの伝聞として熊野地方の職業的「泣き女」の風習があったことをもって古代の風習の名残りかもといってるが、それは上古の帰化人村の子孫だろう。
とすると、倭建命の場合も「飲めや歌えやの『楽しい』ドンチャラ騒ぎ」になるはずだったのが、なぜ「田んぼに這いまわったり、笹の切り株に足を踏みぬいても痛みを忘れて鳥を追いかけまわしたり」ってことになったのか? 大陸式や半島式の葬送儀礼なら形式に従って大声をあげて泣く、というのはわかるし、遺体もしくは棺のそばで這いまわって泣くのも『礼記』問喪に「孝子(中略)匍匐して哭す」とあるが、わざわざ「田んぼに落ちて」それをやるとか「笹の切り株に足を踏みぬいて歩く」なんてのは中国大陸や朝鮮半島の葬送儀礼にも聞いたことがない。これを葬送儀礼だと言いはる学説はおかしいのではないか。これは明らかになんらかの突発的な異常事態が起こっているのであって、形式に従った葬送儀礼などではない。では一体なにが起こっているのか、その謎解きをしよう。

実在した巨大怪鳥
カギは「鳥」にある。通常、死者の魂が鳥になって飛んでいくという信仰はあったが、たまたま鳥を見かけたぐらいでは葬儀中の今この死者の魂だとは普通は即断しない。にもかかわらず何らかの事情で倭建命の遺族は白いチドリを倭建命の魂だと思い込んでしまった。…というところまでの話はした。
で、問題はこの鳥の「大きさ」なのである。この白い鳥、大きさが尋常じゃなかった。「八尋」というから15mにもなる。翼を広げた左右の幅をいってるのか、クチバシから尻尾の先までの長さをいってるのか不明だが、いずれにしろとてつもない巨大怪鳥であり、これなら古代人だろうが現代人だろうが仰天して動顛して正常な判断力を失ってしまうだろう。
現存種で最大の鳥はアホウドリで、全体的に白っぽい鳥なのでこれが『古事記』に出てくる「白智鳥」に当てはまりそうに思えなくもないが、それでも全開翼長が最大で2m半しかない。それ以上の巨大な鳥がいるのかといえば、それがいるのだ。現代のUMA(未確認生物)として、世界の各地で報告されている。それらの中には、古代の伝説や神話に出てくる巨大な鳥(名称は国や民族によっていろいろ)ではないかと言われるものもあるのだ。アフリカの中部から南部にかけて「コンマガトー」、「オリチアウ」、「アイラリ」、「バジ・クイ」、「ガゴウラ・ゴウパプア」等とよばれ、たびたび目撃されていて最大で3m半にもなるという怪物がある。コウモリや空飛ぶ古代翼竜に似ており、オオコウモリの巨大種という説もある。ニューギニアにも似たような目撃談が多く、ジュラ紀の翼竜のランフォリンリクスのような長い尾をもった「ローペン」(6m)と、白亜紀のプテラノドンのように後頭部に突起をもった「デュアー」(7m)の2種類がいる。ジャワ島にもこれの同類と思われる「アフール」という鳥がおり、ベトナムにも出現したという。北米では通例5m前後、最大で10mの目撃例もあるという巨大なコンドルらしき鳥に襲われたという事件が何例があって、北米インディアンの神話に出てくる鳥の名をとって「サンダーバード」と呼ばれている。これは530万年前の絶滅種で、全開翼長7m半もある「アルゲンタヴィス」という猛禽類の生き残りという説がある。こうも世界各地に存在しベトナムにも出るというなら、日本にもいそうだが、明治12年には愛知県安城市の三河安城で、全長八尺(2m半)、片翼のみで九尺五寸(3m)もある鳥が撃ち落とされ当時『安都満新聞』で報道された。両翼あわせて6mを優に超える大きさだから、上記のアルゲンタヴィスやデュアーに並ぶことになる。ただ、これらはいずれも8尋(=15m)に比べると小さい。15m以上ありそうなものというと伝説上のものではあるが中国では「鵬」という大きさ数千里もある鳥がいて、飛び上がると太陽が隠されてあたりが真っ暗になったという。数千里までくるといくらなんでも逆に大きすぎるが、「シンドバットの冒険」にロック鳥という、象をいっぺんに3頭も捕まえて飛び去る(しかもその象はヒナの餌)という巨鳥が出てくる。こっちならどうか。この鳥のことは古代ペルシア以来、インドから中東にかけての広い世界で知られており、古代ペルシアから伝わっていた。マルコ・ポーロの『東方見聞録』ではマダガスカルに生息するロック鳥の羽がモンゴルの大ハーンであるクビライ汗に届けられ、有名なイブン=バットゥータの『旅行記』にも出てくるという。16世紀にも英国人がインド洋でみたという目撃談がある。まぁそういうわけで、鳥なのかコウモリなのか翼竜なのか不明だが、その正体がいずれにせよ、巨大な鳥はともかく実在することはおわかりと思う。

ホフマンのラバー・ダック
ところで『古事記』にでてくるこの鳥は、前述の通りハクチョウでも猛禽類でもなく、チドリだという。白鳥なら巨大でも優雅で神秘性があるし、巨大な猛禽類なら怪獣みたいでサマになるが、千鳥は普通、クチバシが短く頭部が大きく全体的に丸っこくて、見た目が可愛い。群れを成している。たくさんの鳥が群れてるから1000羽もいる鳥で「千鳥」というのだという語源説は俗解(こじつけ)で取るに足らない。鳴き声に由来するという説か、単に「小さい鳥」だからチドリといったという説がマシ。その千鳥が、15mもの巨大さとなると、なんというか「ホフマンのラバー・ダック」みたいな印象がある。「ホフマンのラバー・ダック」が何かわからない人は適当に検索してみて画像を見て下さい。簡単にいうと巨大なアヒルです。イメージとしては巨大な「ひよこ」といったほうがよい。ちなみに香港のビクトリア湾でしぼんでしまって世界的に話題になったやつは高さ16m半。8尋=約15mなので、大きさは近い。
これだけでもかなりシュールでマンガチックな映像が浮かぶが、『古事記』に書かれた情況はもっと突拍子もないことになっている。ホフマンのラバー・ダックは海に浮かぶだけで空は飛ばない。これが空を飛んで襲ってきたら…?

真相の解明
倭建命の葬儀で、通常どおり「飲めや歌えやの宴会」が始まろうとしたその時、大きさが15mもある巨大なチドリが出現した。参列者は腰をぬかして驚き、ある者は「田んぼに落ちた」が腰が抜けてるので田んぼの中であたふたするだけで田んぼから出られない。またある者は悲鳴をあげて逃げまわった。必死で逃げまわるから「笹の切り株に足を踏みぬいて」血だらけになっても止まるわけにもいかず「痛みを忘れて」走りまわるしかない。これが真相である。
倭建命が鳥になったというのは『古事記』の本文に書かれてはいるが、登場人物の判断として書かれているのではなく、本文(つまりナレーション)だから稗田阿礼か太安万侶の判断であり、葬儀の参列者がそう思ったとは書かれていない。あるいはそもそも原文みると「於是、化八尋白智鳥」の直前にはとくに「倭建命」とは無いのだから、「化」の字は「出」の誤字だろう。倭建命が八尋白智鳥に化身したのではなく、倭建命とは無関係に八尋白智鳥が出現したのである。
つまり遺族=参列者はその巨大なチドリをみて倭建命の魂だとは思ったわけではなく、ただ驚いて逃げ回ってただけなのである。「忘其痛、以哭追」という原文も、写本をつくる際も思い込みで読みながら写してるから「追」の字の前に「被」の字がつい抜けてしまったか、あるいは「追」は「逃」の誤字だろう。本当は海の方へ逃げるのではなく陸の方へ行きたいところだが気が動転して冷静さを失ってるのと、チドリの方が素早い上にその動きが読めないから、先回りされて陸側から来られると勢い海の方へ逃げざるを得ない。葬儀会場はしっちゃめっちゃかで葬儀どころではなかったろう。だがこのチドリ自体は、格別、人間を害することを目的としているわけではないので、しばらく追い回した後はさっさと飛び去ってしまった。
この後、古事記によるとこの巨大怪鳥は河内國の志幾(今の大阪府羽曳野市の軽里大塚古墳)に現れた。日本書紀ではまず大和國の琴弾原(奈良県御所市富田)に現れ、次いで河内國の古市邑(古市郡は志紀郡の南に隣接するが昔は郡境線がずれており『古事記』でいう志幾と同じ場所。当時は志幾の中の古市だった)に現れたという。チドリのような小さい鳥一羽なら、そんな遠くに現れても同じ鳥だとは誰も思わないだろう。ハクチョウなら、あるいは垂仁天皇の時の先例があるから緊急総動員で追跡できたかもわからないが、それもかなり難しかったろう(垂仁天皇の時はハクチョウが神の使いで出雲に導くという目的のためゆっくり移動したと思われるが今回はそんな手加減はない)。そもそもハクチョウではないのだから、小さなチドリ一羽では追跡は普通に考えるとムリ。ハクチョウでもまぁ無理だろう。奈良県や大阪府にももともとハクチョウぐらいいくらでもいただろうし、チドリなんぞ全国に無限にいたろう。ハクチョウだろうがチドリだろうが、どれがその鳥なのかわかるわけないじゃん。これが15mもの巨大怪鳥だからこそ、次は大和國の琴弾原に出たの、次は河内國の志幾に出たの、と話題にもなり、追跡せずとも自らその移動が知れたわけなのである。
一般の学者は15mの巨大怪鳥だとは思わないから、ハクチョウを追いかけて3ヶ所に御陵を作ったというムリな話も「そりゃこれはただのお伽話だから」とみなし、何の疑問も抱かない。やつらはそもそも「古事記・日本書紀」は史実ではなく未開人の妄想ぐらいにしか思ってないから筋道立てて合理的に考えようとはしないのだ。歴史学者って生物学は素人のくせになんで事実じゃないと決め付けるのか、そんな凡庸な判断ならそれこそ素人にも出来るわい。じゃ15mもの巨大怪鳥が合理的なのかよってツッコミも、もっともだろうが、それは現代人だけではなく、当時の古代人でも同じであって、訳がわからないから「あれは倭建命の魂だったのだ」って納得するのがようやくやっとこすっとこのところだったと思われる。だから八尋白智鳥が出現してすぐ「倭建命の魂だ」と思ったわけではなく、八尋白智鳥がどこかに飛び去って一段落してから、やっとそういうことを思いつく余裕が「後から」できて、あんな怪物が何度も出現したらたまらんから鎮魂慰霊の意味で巨大怪鳥の止まったところに御陵を作ったわけ。現代人でも、ゴジラなんて映画の中のものだけど、太平洋戦争の英霊の怨念がどうのこうのって意味づけして楽しんでるでしょ。古代人も同じでいきなり怪獣でてきても意味わからんから、神の怒りだとかなんとか意味づけするわけよ。今回の場合は情況からして「ヤマトタケル先生の化身なのじゃ〜」という解釈がいちばん腑に落ちたであろうことはいうまでもなかろう。
そんな怪物が実在するのかよって言われても、それは俺が答える義務はない。一応なるべく古伝を尊重し、原文に沿って事実を想定するとこうなる、という話ですから。でも多分、わけのわからない怪獣は実在するよ。今でもな。そして地球上の何億人かの中の一人が、得体の知れない怪異生物に遭遇する事件の当事者になる。それはあなたかも知れんのですぞ(笑)。

【おまけ】古事記は文学ではない
さて従来、古事記の「天翔る白鳥と御葬歌」の章は「波瀾に富んだ英雄にふさわしい高潔でロマン的な終章であり、悲劇的英雄の最後を叙情的に語りあげた傑作」ということになっているのであるが、本当だろうか。この記事で書いてるわたしの解釈によれば、一見したところ怪獣スペクタクルか、へたすっとコメディタッチな話になってしまいそうだが。じゃ俺の解釈は古伝説をバカにしてるのだろうか? 俺は「と学会」系なの? むろんそうではない。そもそもヤマトタケル伝説を「文学的に素晴らしい」と持ち上げる言説は戦後左翼歴史観全盛の時代でも一貫していわれ続け、その文学的な価値は不自然なまでに称賛されてきた。要するに、「これは史実じゃないんだけどね」という話とバーター&セットになってたのである。別に、近代的な歴史学が成立する以前にできた資料に対しては、史実であるかないかという話と、文学的な出来がいいのかわるいのかという話は、無関係に両立するのだからどうでもいいっちゃどうでもいいのだが、問題はこの「文学的な価値」なのである。古事記の中のある部分が、たまたま文学的に素晴らしいってことは、あってもいいし、実際あるだろう。だが、古事記全体の本質を「文学」で総括していいのか? そもそも「文学」というのはただの「物語」とは違う概念なのである。文学という「ものさし」は西洋起源の、西洋文明の価値基準なのだが。語部(かたりべ)は、べつに文学を語り伝えたつもりはなかったろう。少年が、化石の恐竜や天文学の話にわくわくするのはなぜなのか。自然界のすべてに神々を感じるアニミズムの感性が、子供のうちはまだ枯れてないからではないのか。神話は、いや神話に限らず、広く上古の言説は、みな、「文学と自然科学と芸術と宗教と政治と私生活道徳」とが分化する以前の「原初の言葉」としかいいようのないものなのである。そのようなジャンル分けは後世のもので、ジャンル分けが細分化されるほど言葉は無力化していく。目先の具体的な問題には速攻で力を発揮する専門家の言葉ほど、存在することそれ自体に由来する本源的な苦悩にはまったく役立たない。ジャンル分けにとらわれてはならない。『古事記』を文学的な意味でばかり素晴らしいと称賛するのは、古事記に対する侮辱であり冒涜なのである。アニミズムの時代には文学は存在しないし、自然界と一体で生きていた時代にそもそも文学は必要ない。文学は、目の悪い人にメガネが必要、足の悪い人に杖が必要なように「現代人に必要」なのであって古代人の知ったことではなく、古事記が言いたいことでもなく、稗田阿礼が子孫に伝えたかったことでもない。80年代以降に増えてきた怪獣映画や特撮番組への批評も、文学批評のレベルに目線を落としたものばかりで、「おまえ本当に怪獣の魅力について本質いってんの?」ってものが多過ぎないか? さらにいえば文学はあくまで人間中心であってカミがいない。人間中心でないこととは、なんだかわけのわからないもの(悪なのか善なのかもわからない)を認めた上でそれを排斥するのではなく「畏怖の念」でもって崇敬するのである。まともな怪獣批評があれば、東日本大震災の時も石原慎太郎レベルの幼稚な物言いではないマトモな評論がありえたはずだったのである。ヤマトタケル伝説を文学として解釈して称賛する議論はすべて「悪」なのである。なぜならそれはすべてを整合的に解体して現代人の考え方の下に古伝承を隷属せしめようとするものだから。それは近代的な思考であり、聖なるものを残さない。神道の「死」に手を貸すものだから。文学という概念がすでに形式であって、古事記をそれに当てはめようというのは古事記を殺そうというのと同じことだ。何度でもいうが「古事記は文学でない」。文学的な出来の良さは付随的または派生的なものであって、どうでもいいことだ。

7景行天皇の系譜」に続く

・綏靖天皇

H27年9月17日投稿 H24年7月18日(水)初稿
當藝志美々命の変
「當藝志美々命の変」は神武天皇と綏靖天皇の間の時期に起こったんだが、古事記はこれを神武記の中に入れている。古事記の建前では、神武天皇崩御後であっても、まだ次ぎの正式な天皇が決まってないのだから、當藝志美々命が専横していた期間はこれはまだ「神武天皇時代の続き」という考えなわけ。ところで、『日本書紀』だとこの期間は「空位」になってる。記事の扱いとしては神武天皇紀ではなく綏靖天皇紀に入ってるけれども、それは物語の主役が綏靖天皇だからであって、その期間が綏靖天皇時代だ、という主張ではない。神武時代でもなく綏靖時代でもなく「空位」だと。天皇としては空位だけれども、事実上の政権者は當藝志美々命で、要するにこの空位というのは神武時代でも綏靖時代でもなく「當藝志美々命時代」だと遠回しにいってるわけだ。だが、これは『古事記』も『日本書紀』も実は同じことを言ってる。この期間(當藝志美々命が実権を握っていた期間)は「綏靖天皇が『まだ』即位していなかった期間」である、と。これで誰も何もあやしまず、「あっそう」で終わるところだろうが、俺っちはちょい疑問があるのだなぁ。
まず古事記では、すでに崩御したはずの神武天皇の時代がまだ続いてるような区切りになってる(これは後の神功皇后の扱いでも同じ、まだ仲哀天皇時代が続いてるような形式になってる)。
日本書紀は空位を設定していて、しかも日本書紀全編にわたって頻繁に出てくるが、空位というのは後世だとかなり重大な事件である。
(続きは後日執筆)

・安寧天皇

H27年8月20日投稿 H24年7月18日(水)初稿
「闕史八代」架空説への反論

(※執筆中)

・5草薙剣と倭建命の最期をめぐる議論

平成27年5月13日(水)初稿
国思歌と倭建命の死
4倭建の蝦夷征伐」から続き

(後日加筆)

6天翔ける巨大怪鳥ヤマトタケル」に続く

・懿徳天皇

H27年4月16日投稿 H24年7月18日(水)初稿
農耕文化の起源
(※後日に執筆予定)

「ヤマト」の語源
神武天皇は「神倭伊波礼日子」、二代とんで懿徳天皇は「大倭日子」、また一代とんで孝安天皇は「大倭帯日子」、孝霊・孝元の二代は「大倭根子」、開化天皇は「若倭根子」とついている。この「倭」(やまと)、といっても漢字の「倭」(わ)の字の話じゃなくて「ヤマト」という日本語の話だが、普通は「もともと今の奈良県をさす地名で、後に日本全体の国名にもなった」と考えれている。本当にそうなのかどうかの議論もまぁひと通りあるんだけども、とりあえず今はさておいて、今あげた6人の天皇の名前に入ってるヤマトは今の奈良県をさす地名と考えられている。本当にそうなのかどうかの議論もこれまたあるんだけども、今回はその問題もさておいて、ヤマトの語源について、考えたい。ミーは通説とはかなり違った見解をもってるのだが、(※以下、後日に加筆)

追記:「ヤマト」の語源については「大和」にかかる枕詞で「そらみつ」という言葉がヒントになる。しかし、これは通例いわれるような饒速日命(にぎはやひのみこと)が天磐船(あめのいはふね)に乗って空から大和国をみたという伝説とは一切関係がない。詳細は後日ここに書く予定。

・孝昭天皇

H27年3月19日投稿 H24年7月18日(水)初稿
和邇氏の発祥
後日に追記予定

・孝安天皇

H27年2月19日投稿 H24年7月18日(水)初稿
世の乱れ初め
(中身は後日執筆予定)

書紀にない「吉備諸進命」の謎と大陸の情勢
(中身は後日執筆予定)

・7景行天皇の系譜

H27年2月1日投稿 H25年3月20日(祝)初稿
6天翔ける巨大怪鳥ヤマトタケル」から続き

(議論の詳細は後日加筆予定)

・豪族の力

H27年1月30日初稿
「豪族の力」と題する文章がある、講談社学術文庫の『氷川清話』(勝海舟)のp.196である。豪族っていっても、現代の歴史学用語でよくいう豪族じゃなくて、古来からの俗語としての豪族だが、要するに現地に根付いた土着の地方名士ってのは強大な力をもってると。それは平成の世の現代でもその通りだろう。田舎いくと地元警察や地元マスコミも配慮するような田舎大名、じゃなかった地方名士が隠然とした力もってたりするね。勝海舟は鎌倉時代の畠山重忠と江戸時代の本間氏(出羽の大地主)をあげている。勝海舟のいいたいことは豪族が各地に割拠することを悪いことのように考える人がいるが、そうではなくてむしろ豪族を保護育成すべきである、彼らが国の力になるのだから、ということ。
「豪族」という用語の是非
一般論としては、まぁそうともいえるねって話でこれはこれで良いと思うのだが、現代の歴史学用語でよくいう「豪族」ってのは律令制以前の支配階級(中央か地方か問わず)のことで、葛城氏、物部氏、蘇我氏、平群氏、多氏、毛野氏、安倍氏、和邇氏、春日氏、中臣氏、大伴氏、尾張氏、出雲氏、忌部氏、三輪氏…等々のことだよね。しかしわたしはずっと以前からこの用語は適正なのかと疑ってる。これらは正しく「貴族」であって豪族とよぶのはへんじゃないか? なぜなら(以下続く)

・2倭建命の東征の地図

H27年1月29日(木)改稿 初稿も同日
小学館の古典文学全集の『古事記 上代歌謡』のp.219に、「古事記による倭建命の東征路」という地図がある。この小学館の古事記は注釈が文学方面からの解説に偏ってる感じがして、わたしは滅多に開かない本なのでこれまで気付かなかったんですね〜。
1倭建の熊襲征伐」より続き

どこまで行ったのか?
この地図みると東のはては常陸の筑波山までいって引き返したようにみえるけど、ご存知の通り、『日本書紀』ではちょっとコースがちがってる部分がある。それと『古事記』では陸奥の旅程を省略してしまってるので全部の行程が書かれてはいない。日本書紀で日本武尊が陸奥に上陸した「竹水門」(たかのみなと)を、常陸のあたりとする説もあるが、はっきり陸奥国だと明記してるからそれはない。福島県の相馬市の海岸に比定する説もあるが福島県沿岸は大きな入江がないため古代では交通のセンターとなるような良港がなかった。成務天皇が制定した国造は宮城県の南部まで及んでるのだし武内宿禰が「撃ちて取りつべし」と報告した日高見国(ひだかみのくに)は仙台平野だっていう説もあるから、松島湾から塩竈市のあたりに上陸したものと思う(竹水門の「竹」は多賀城の「多賀」だろう)。小椋一葉の説によると、倭建命を御祭神とする神社が点在して続いていて、岩手県一関市で途絶えそこから北にないことから、倭建命は一関まで進軍して引き返したと推測している。神社の御祭神が根拠になるのかよくわからないが、多賀城のあたりに本拠をおいて陸奥出羽(東北)のあちこちに出撃したんではないかと思う。日本書紀は景行天皇四十年に東征に出発、景行四十三年にその帰路で薨去されたとしてあしかけ4年としつつも、個々の出来事に年月日がないので何年のことかわからないが、陸奥に入る前までのことはほとんど景行四十年の出来事で、陸奥から出た後のことはほとんど景行四十三年の出来事と思う。つまり、奥羽での蝦夷征伐に2年ぐらい費やしたと想像する。なぜならこここそ蝦夷の本場であり、東征の目的は蝦夷征伐なんだから、ここに行かなかったら何しにいったのかわからない。その証拠に、あとあと歴史にあらわれる蝦夷の首長たちの多くは、皇別氏族であることをあらわす「君」(きみ)のカバネをもっているんだが、中には上毛野君(かみつけぬのきみ)や下毛野君(しもつけぬのきみ)の子孫もいたろうが、多くは倭建命の子孫だったのではないか。倭建命の六人の子のうち、子孫から氏族が出てないのは若建王(母:弟橘媛)だけであり、これは記事が欠落したもので、おそらく蝦夷の首長たちが「君」カバネをもっているのはその子孫だからと思われる。古事記はこの奥羽での活躍をばっさり切り落としてるが、その訳は、なにも殺伐とした戦争だけで歌物語になるようなロマンチックな話が無かったから、とは思えない。伝承が脱漏しているんだろう。

3弟橘媛」に続く

・3弟橘媛

H27年1月27日初稿
2倭建命の東征の地図」から続き

皇后陛下の『橋をかける』http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-8.html
さて、平成10年にニューデリーで開催された国際児童図書評議会での皇后陛下の講演録が『橋をかける』と題して出版されていました。たいへんな名文だという人もいるようです。著作権の問題があるのでここで公開するわけにはいきませんが、『橋をかける』は平成21年に文春文庫になっていて今でも売ってます。
この中で、皇后陛下はとくに倭建命と弟橘比賣の物語をとりあげて深みのある感動的な解説を加えておられます。俺みたいなもんにはなかなか出来ない視点だった。

4倭建の蝦夷征伐」に続く

・孝霊天皇

2675年(H27)1月26日投稿 (H24年7月18日(水)初稿)
吉備征伐
(※書きかけ中)

天之日矛
(※書きかけ中)

・4倭建の蝦夷征伐

H27年1月24日投稿 (H25年2月20日(水)初稿)
倭建命の蝦夷征伐から美夜受比賣の話まで。
3弟橘媛」から続く

(議論の詳細は後日加筆予定)

5草薙剣と倭建命の最期をめぐる議論」に続く

6息長王朝の由来【中編】~春山秋山の物語は神話ではなく寓話~

H25年12月18日(水)初稿
5息長王朝の由来」から続き

「秋山と春山」は寓話である
三部構成のうち前篇と中篇のつながりは明瞭だが、一見したところ中篇と後篇のつかながりが不鮮明であるため、人によっては日矛や春山の神の話とその後の系図はそれぞれ無関係な別々の記事とみる説も出てくる。だが「秋山と春山の兄弟争いの物語」は次に続く若沼毛二俣王の系図と何らかのつながりをもっていたのではないかと想像される。ここで奇異なのは歴代天皇の歴史事件(少なくとも形式と建前では神話ではなく歴史)の中に、唐突に「秋山と春山の物語」という「民話」が割り込んでいるということ。神話は、歴史上の事件のような絶対年代は示されないが、それでも相対時間(各事件の前後関係、事件が生起する順序)はある。しかし「秋山春山の物語」はそれすらなく、神代のことだとしても人間の時代のことだとしても、時系列としてどこに入るのかわからない。これは時代は明示されず「昔、昔あるところに…」という民話のパターンに該当する。だが実はこれ民話でもない。民話なら前後のつながりがありえないので歴史の途中にぶちこむ意味がない。これは兄弟争いの物語だから、皇位継承争いの事件を暗示しているという説もある。もしそうならこれは意図的に創作したわけだから民話の形を借りてはいても、民話ではなく「寓話」とよぶべきだろう。ネットでは大山守命(おほやまもりのみこと)の反乱を暗示したものだという説もあり、もしそうなら春山の霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)は大雀命(おほささぎのみこと:後の仁徳天皇)や宇遅和紀郎子(うぢのわきいらつこ)の側を表わし、秋山の下氷壮夫(あきやまのしたひをとこ)は大山守命に該当することになる。以前は、これはかなりイケてる説かなと思っていたのだが、よく考えてみるといろいろおかしい。これでは第一に天之日矛(あめのひぼこ)や伊豆志袁登賣(いづしをとめ)を引き合いに出す理由がわからない。第二に、若沼毛二俣王とのつながりが不明。第三に、なぜ寓話に仕立てたのか。普通、ある事件を寓話に仕立てるのは、はっきり明示できない事情があるからで、一つには天皇の悪行を批判するような場合がありうる。しかし大山守命の乱を鎮定したのは誇れる功績だし実際に記紀には堂々と書かれているのに、改めて寓話にする意味がない。そこで考えられるのは、大山守命とは関係がなく、「春山の霞壮夫」は後世にその子孫から継体天皇を出した若沼毛二俣王のことであり、「秋山の下氷壮夫」とは太子の地位からハズされたにもかかわらず皇位を継いだ仁徳天皇のことではないか。ならば寓話にした理由は二つ考えられる。一つはこれだとこの寓話は、仁徳天皇(か、またはその子孫の天皇のうちの誰か)を批判していることになる。記紀では天皇の失敗や恥や悪行をはっきり書いているとはいっても、過去の歴史になってしまっているから許されているのであって、同時代にも堂々と天皇批判ができたかというとそれは問題だろう。だからもしこれが天皇を批判した寓話だとすると、その天皇の在世当時に作られた寓話でないと辻褄があわない。この寓話は、仁徳天皇(か、またはその子孫の天皇のうちの誰か)をなぜかどういう理由でか批判しつつ、だから子孫は武烈天皇で絶えるのだと暗示しつつ、それに対して、なぜか但馬の出石(いづし)の神である難波の比賣碁曽社(ひめごそのやしろ)の阿加流比賣神(あかるひめのかみ)の娘を娶った(?)若沼毛二俣王の家系(の誰か)をもちあげつつ、その子孫から継体天皇が出て皇位を継いだことはもっともなことだと正統化する、そういう趣旨の寓話であろうとまずは推定できる。あるいは別に、もう一つの案としては、古事記は編纂された奈良時代の時点で、この話が皇室にとって何らかの意味で不都合、それも公的に記述することが憚られるほど重大に不都合なものだったのではないか、だがこれを書き残さないと日本書紀とは別個に古事記を編纂する意味がなくなるのでやむなく史実として直接表現するのではなく寓話という形にせざるをえなかった、とも考えられる(後者にかんしては話が複雑になるので今回はふれない)。

継体天皇の祖先が隼別王という異説の是非
だがこの場合、「若沼毛二俣王=春山、仁徳帝=秋山」と固定しきることはできない。「継体天皇=春山、武烈天皇=秋山」という当てはめでもよいはずだ。若沼毛二俣王から継体天皇までの系図は、こうなってる↓

応神天皇―若沼毛二俣王―大郎子おほいらつこ―乎非王をひ―彦主人王ひこうし―継体天皇

だからこの家系の歴代のうち誰が「春山」でもありうるわけだ。例えば「大郎子が春山で、履中・反正・允恭の3帝のうち誰かが秋山」という組み合わせでもいいし、「乎非王が春山で、安康・雄略の両帝のうちどちらかが秋山」かもしれないし、「彦主人王が春山で、清寧・仁賢・顕宗の3帝のうち誰かが秋山」という可能性もなくはない。若沼毛二俣王から継体天皇までの歴代のうちの誰かの妃の正体が伊豆志袁登賣であればよいのだから。また、この寓話は若沼毛二俣王の子孫について語るための前フリに相当するはずで、
(1)争いに勝った「春山の霞壮夫」を例えば若沼毛二俣王だと仮定すると、伊豆志袁登賣とは百師木伊呂辨(ももしきいろべ、別名:弟日賣眞若比賣命)のことであり、「春山の霞壮夫の母」とは息長眞若中比賣(おきながまわかなかひめ)のこととなる。そうすると百師木伊呂辨の父は咋俣長日子王(くひまたながひこのみこ)であるから、咋俣長日子王は阿加流比賣と結婚していたことになる。
(2)「春山」を例えば大郎子だと仮定すると、伊豆志袁登賣とは中斯知命(なかしちのみこと)という女性をさすことになり、「春山の霞壮夫の母」とは百師木伊呂辨のこととなる。中斯知命は出自などの情報が書かれてないので、この場合、阿加留比賣に該当するのが誰なのかは不明。
(3)春山を乎非王だとすると、伊豆志袁登賣とは牟義都君伊自牟良(むげつのきみ・いじむら)の娘、久留比売命(くるめひめ)。春山の母とは中斯知命。伊自牟良は阿加流比賣と結婚していたことになる。
(4)春山を彦主人王だとすると、伊豆志袁登賣とは三尾君乎波智(みをのきみ・をはち)の娘、振媛(ふりふめ)。春山の母とは久留比売命。乎波智は阿加流比賣と結婚していたことになる。
(5)春山を継体天皇だとすると、伊豆志袁登賣とは候補がたくさんいて特定し難いが仮に安閑・宣化両帝の母を伊豆志袁登賣とすると尾張連草香(をはりのむらじ・くさか)は阿加流比賣と結婚していたことになる。欽明天皇の母、手白髪命を伊豆志袁登賣とした場合には、雄略天皇の皇女春日大郎女(かすがのおほいらつめ)が阿加流比賣に該当することになる。
以上の5パターンの中では(2)の説がよさそうに思える。第一の理由は、第三息長王家3代目の乎非王は『上宮記逸文』、4代目の彦主人王は『日本書紀』にでてくるが、古事記には2代目の大郎子までしか出てこない。そこで系譜の記述が途切れているからである。大郎子の妃のこともまったくふれてない。妃のことやら何やらとこの先を書いていけばやがて継体天皇にぶつかるはずだがあえてそこまで書かないでここで止めているのはつまり大郎子が「春山の霞壮夫」だと示唆しているのではないか。第二の理由は、第三息長王家歴代の妃は4人まではどこの氏族の出身なのか『上宮記逸文』に明記されているのに、ただ一人、大郎子の妃の中斯知命だけが出自不明でどこの誰だがわからない。これはただの錯簡、誤脱にすぎないとするのが常道だろうが、一説には出自が卑賤、つまり名もない庶民あがりの女性だったため書くに書けなかったのだという説もある。しかしそれなら古事記にもよくあるように「一妻(あるみめ)」と書けばよい。命(みこと)という敬称はこの時代、天皇と皇后の他には特に有力な一部の皇族だけに使われる敬称で、この人が卑賤な身分の出身とは考えられない。だから逆に、ある「憚り」があって意図的に書いてないのではないか。例えば反逆者の血を引いている、とか。あるいは高貴すぎる女性だったとか。皇女よりも高貴な女性といえば普通に考えれば女帝ぐらいしかないがむろんこの時代にはまだ女帝などというものは存在していない。では一体なんなのか…?
上述のように古事記では3代目と4代目の記述が欠落し、4代目(彦主人王)の記述がある日本書紀でも3代目のことはまったく書いてない。そのため記紀だけでは、継体天皇が応神天皇の五世孫だとは書いてあっても、具体的に応神天皇のどの皇子の四世孫なのかがわからない。そのため中世には、継体天皇は隼別王の子孫だという誤解が広まっていた。例えば一番有名なのでは北畠親房の『神皇正統記』では上述の息長王家の系図が

応神天皇―隼總別皇子―大迹王―私非王―彦主人王―継体天皇

※大迹王(おほと)は大郎子の別名、意富々杼王(おほほと)のこと、私斐は弘斐(をひ)の誤記で乎非王に同じ。

となっている。このうち大郎子から継体天皇までは細かい字の間違いなどを除けばほぼ一致しているのに、初代の若沼毛二俣王(紀:幼稚渟毛二派皇子)が隼總別皇子になっている。隼總別皇子には大迹王という子はいないし、大迹王=大郎子=意富々杼王の父は若沼毛二俣王であって、隼總別皇子ではない。学説の多くは古代からみてはるか後世の、中世にでてきた伝承には信憑性が低いとして、これを単なる間違いで切り捨てておしまいにするのが常道なのではあるが、ちょっと待て。錯簡、誤写だとしてもその過程があるだろう。原型は『上宮記逸文』のように若沼毛二俣王になっていたはずだ。それに速総和気王の名が紛れ込んだのはそれなりの原因がある。代々、父は一人づつでしかありえないから大郎子の父はあくまで若沼毛二俣王であって速総別王ではありえないが、乎非王の祖父は2人いるはずなんだから、若沼毛二俣王と速総別王、この2人が乎非王の祖父でも何の問題もない。つまり中斯知命ってのは速総別王の娘なのではないか。親房の採録した伝承は、おそらく現在の『上宮記逸文』から脱落していた中斯知命の注釈の一部の名残りなのだろう。ただし速総別王と中斯知命の関係を、ただちに「父と娘」だと決めつけることもできない。「祖父と孫」かもしれないし、曽祖父と曾孫」の関係かもわからん(後述)。いずれにしろ速総別王の子孫ということは速総別王の妃であった女鳥王の血を引いている可能性もある。というか、これで伊豆志袁登賣(=中斯知命)を皇子たちが奪い合うことになるのか謎が解けただろう。八田若郎女(やたのわかいらつめ)と女鳥王の姉妹は、このいずれかと結婚した者が「正統の天皇」になる、という考えがあったことはこのブログのあちこちでたびたび書いている通り(この記事でも後述)。しかし誰もこの2人のいずれかを妃にして天皇になれた者はおらず、八田若郎女の血は絶え、女鳥王を妃にした速総別王は天皇になる前に亡ぼされ、女鳥王もその時に一緒に薨去した。しかしこの2人の子孫で女鳥王の血を引く女性がいたら…?「そんな女性はいたとしても反逆者の子孫として忌避されたはずだ」とはいえない。この時代、反逆者の子孫であっても名のある地方豪族として生き残っている例が多いことから、連座制のような考え方はなかったと考えられるからだ。むしろ父(?)の罪のせいで肩身の狭い思いをしている可哀相な人ということにもなりかねない。それで正統な天皇の証になる女性なら、有力な男性皇族なら誰しも夫として名乗りをあげ、奪い合いになっただろう。この構図どこかで見覚えはないだろうか。そう、『竹取物語』、かぐや姫だ。

寓話の分析
如上の復元系図からいえば中斯知命が伊豆志袁登賣で、大郎子が「春山の霞壮夫」になるはずだが、これだけではまだ「秋山」を特定できない。ここで問題は、「秋山」に喩えられた誰か(仁徳天皇とは限らないが仁徳系の誰か)がやらかした批判さるべき行為とは何か、神の娘を娶ったとはどういうことか、若沼毛二俣王(なり大郎子なり)と比賣碁曽社との間にどんな関係があったのか。これらが不明なのは、寓話だからわかりにくいのではなくて、この部分が古事記が完成した時のままではなく、誤写や錯簡、虫食いなどでかなり破損した後の伝本だということが考えられる。寓話といってももっと明瞭な歴史的な事件の合間にわかりやすい意味をもって嵌めこまれていたのが、写本の保管が悪くて断簡になってしまったために、かなりの文章が失われてしまって前後のつながりが不明になってしまったのだろう。
春山秋山の兄弟が取り合いをする女神は「伊豆志袁登賣神」という名だが、これは「但馬の出石という地名にちなむ少女」という意味の普通名詞であり、本名は隠されている。そして古事記が「この神の娘である伊豆志袁登賣神」という時の「この神」について、「8柱の神のうちその神か不明」という間抜けな注釈をつけてる者がいるが、それはこの直前にある「伊豆志之八前大神」という言葉を「この神」だと誤認したものだ。しかし「伊豆志袁登賣神」は但馬の出石(いづし)にいたわけではない。出石にも多数の少女たちがいただろうから、出石の中の特定の少女を「出石乙女」とよぶはずはない。そこにいるのは全員「出石乙女」なのだから。出石とはぜんぜん違う場所だからこそ、そこに住む多くの少女の中から特定の一人を「出石の地にゆかりある少女」と呼ぶことに意味がある。伊豆志河(=出石川)という実在の川が出てくるが、寓話の中ででてきてもあまり意味はない。寓話だから場所の設定も変えてあるだろう。で、この場所は本当はどこなのかだが、伊豆志袁登賣の親がどこにいたのかを考えれば自ずからわかる。伊豆志袁登賣の親である「この神」というのは、この段落(中篇)の冒頭にでてくるのだから、前の段落の話つまり前篇=「天之日矛の話」の全体を承けているのであって、「この神」とは、天之日矛の話のヒロインである阿加流比賣神に他ならない。いや「この神」とは天之日矛のことだという説もあるが、阿加流比賣と天之日矛は一時的にせよ夫婦だったので、「この神」が天之日矛だとすると伊豆志袁登賣はその娘で辻褄はあってるようだが、実は伊豆志袁登賣の父が天之日矛だとは限らない。阿加流比賣は天之日矛から逃げ回っていた上、伊豆志袁登賣が生まれたのはその後なんだから離婚した後のこと。
阿加流比賣神は「難波(なには:今の大阪)の比賣碁曽社に坐す」と明記されているのだから、伊豆志袁登賣も秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫もぜんぶ但馬の出石での話だとは限らず、これだけでは場所を特定できない。
兄弟の争いというと「海幸山幸の物語」を連想するのが、海幸山幸の話は、兄が弟をいじめる話であり、兄の目的は弟をいじめる他に特にないのであって皇位を狙っているわけではない。性格の悪い者がいじめる側で、清く正しい者が被害者になるという不条理をいっている。それに対して秋山春山の話は一人の女性を取り合う話で、例えば『竹取物語』等の類型である。前述の八上比賣をめぐって八十神が争う話で、秋山春山の話でも、この二人だけでなく「八十神」が伊豆志袁登賣と結婚しようとしたができなかったとある。
では、なぜ特定の女をめぐって争うのかというと、民話化された段階では牧歌的な恋愛譚になるわけだが、むろんそれだけではなく、例えば皇位継承ならば、その特定の女性と結婚することが自分の正統性を固めるために有利になるわけだ。仁徳天皇が石之比賣(いはのひめ)に妨害されながらも、しつこく八田若郎女(やたのわかいらつめ)を妃にしようとしたのも、その同母妹の女鳥王に求婚したのも、すべてこれ。この二人の女性は正統な皇位継承者だった宇遅若郎子の同母妹であってもっとも正統に近い血筋であった。第一世代でいうと、秋山は仁徳天皇で、春山は女鳥王のハートをゲットした速総和気王(はやぶさわけのみこ)にあたる。するとこれは謀反人の速総別王をもちあげて仁徳天皇を批判することになるわけで、これならわかりにくく寓話の形で流布した理由というのは説明がつくが、当時でも庶民はもっとストレートな非難をしていたのではないかとも思う。阿加流比賣神と皇位の関係はもうとっくに想像つくだろうが、宮主矢河枝比賣やその娘の女鳥王が石上神宮や出石神社の女宮司かすくなくとも巫女だったことは以前にこのブログの別の記事に書いたとおり。

第二世代での黒媛をめぐる争い
第二世代でいうと、女鳥王の血を引くと想像される中斯知命を妃とした大郎子が「春山の霞壮夫」だということになりそうだが、大郎子は第三世代でその父の若沼毛二俣王がいる。秋山は履中、反正、允恭の三天皇のうち誰か。しかしこれらの人々は誰かと恋争いをしたという伝承はない。履中天皇だけは即位前に住吉仲王(墨江之中津王)と黒媛をめぐってすったもんだがあった。この黒媛というのは羽田矢代宿禰の娘だが、履中天皇の妃で葛城蟻臣の娘の黒媛という女性もいて、同一人物とみられているが別人と思う。履中帝の妃の黒媛は途中で宗像三女神の祟りにあって薨去してしまうがその時に「羽田の汝妹」(はたのなにも)といわれているから、どうも薨去した妃というのが羽田矢代宿禰の娘らしい。他に履中帝は幡日之若郎女(記:若日下王)を后にして中磯皇女をもうけたとあるが、古事記にはそんなことは書いてない。倭直吾子籠(やまとのあたへ・あごこ)が謀叛の罪で捕らわれた時、妹の日之媛を履中帝に采女として献上したが、その程度で赦されるのはおかしいし、戦場に妹がいたのもへんだ。この女性が特別な存在であることが推察される。日之媛という名も天皇(日之御子)なみの高貴な名ではないか。羽田氏の娘だとすると「羽田日郎女」という別名が復元でき、幡日之若郎女と紛らわしいから、書紀は混同しているのである。仁徳天皇が追いかけた吉備の黒日賣は吉備海部直(きびのあまべのあたへ)の娘だが、海部というのは全国にいて、吉備氏の血縁ではなく、倭直(倭国造)の係累という。つまり黒媛の兄という倭直吾子籠の配下なのである(倭直は神武天皇を導いた海人の祖、椎根津日子の子孫で海部の首領)。そして倭直吾子籠は海の支配を任されていた住吉仲王の配下。最初に履中天皇と住吉仲王とが争った「黒媛」というのは「日之媛」のことであり、これが倭直の妹だったり海部直の娘だったりするのはある時点から海の支配者である住吉仲王の間接的な保護下にいたことを示している。また羽田氏の娘になったりするのは羽田氏の娘のほうの黒媛が幡日之若郎女(若日下王)と乳母姉妹で、羽田矢代宿禰は幡日之若郎女(若日下王)の乳母(めのと)親だったんだろう。書紀が誤って幡日之若郎女(若日下王)を履中天皇の后だとしたのはその間に生まれた中磯皇女の母を明示したくなかったからである。本当の母は黒媛で、履中天皇即位前に住吉仲王に騙されて不倫させられた女性である(ただしこれは履中天皇の側に立った表現)。だから父は本当は履中天皇なのか住吉仲王なのか不明で、公式には履中帝の皇女であっても世間ではなんとみたか。中磯(なかし)皇女は別名、中蒂姫(なかしひめ)といい、大日下王の妃となった。ナカシという名はどうも「中斯知命」のナカシチと同一人物くさい。では「中斯知命=中蒂姫」の母、黒媛というのは女鳥王のことかというと、年齢的にむりそうだから速総別命と女鳥王の間に生まれた娘だろう。速総別命を平定した時に、墨江中津王が黒媛を確保したが、仁徳天皇は石之比賣のせいで黒日賣も妃にできず、墨江中津王に託したんだろう。この時すでに皇太子のはずの大江之伊邪本和気王(履中天皇)との皇位争いの内乱の兆しが胚胎したのである。
中斯知命=中蒂姫が伊豆志袁登賣だとすると、黒媛(日之媛)が阿加流比賣ということになる。そうすると阿加流比賣を追い回した天之日矛は仁徳天皇か履中天皇のいずれかになるが、仁徳天皇は皇子だった頃に剣をもった姿を「ほむだの日の御子おほささぎ」と讃えられ、履中天皇は書紀では「剣太刀日之御子」(つるぎたちひのみこ)と呼ばれ、どちらも「剣」に関係して「日の御子」と呼ばれている。前者はあまりにも前すぎて情況が関係してこない。履中天皇が「剣太刀日之御子」と呼ばれたのは黒媛(これは羽田矢代宿禰の娘の方)が神罰で薨去した時にきこえた声だというが唐突すぎて経緯がわからないから、前者の引用ではないか。仁徳帝の後継者としての呼称なのではあるが、あえて天之日矛を連想させる呼称が選ばれている。

第二世代での中蒂姫をめぐる争い
書紀では、中蒂姫は大日下王の妃になったことになってる。そうすると、春山の霞壮夫というのは大日下王のことになるが、そういえば「春」は五行説で「木」でありそれは方角でいうと「東」になる。大日下王のクサカ(草香)を「日下」と書くが「日下」は漢語で東方の地をいう。五常(仁義礼智信)のうち、春や東と同じく木徳にあたるのは「礼」で、『古事記』では安康天皇が大長谷王の妃として若日下王を迎えようとした時、大日下王は言葉も態度も礼を尽くした人物として描かれる。
では秋山の下氷壮夫は誰か、履中天皇だとも思われやすい。が、反正天皇崩御の後で、朝廷の群臣たちが「いま天皇にふさわしい皇族は大草香皇子と雄朝津間稚子宿禰皇子(允恭天皇)の二人しかいない」といっており、その時点では二大有力者だったことがわかる。秋山の下氷壮夫は8年の間、病に苦しんだことになってる。履中天皇の崩御も書紀は「病没」だったとしているが、書紀によると允恭天皇は允恭3年に新羅からきた名医に治してもらうまで即位前から病気だったというから、秋山とは実は允恭天皇のことではないのか。即位してから3年、その前5年間はちょうど反正天皇の在位期間にあたるので、この「姫獲得バトル」が勃発したのは履中天皇崩御の時点ではないのかと思われてくる。また秋は五行説では「金」であり、方角では西。大和では葛城が西で、允恭天皇の本拠地「葛城の朝津間」がある。さらに西の河内とすれば、允恭天皇が都とした「河内飛鳥」がある。また『周礼』では六官のうち秋官は司寇で今でいう「司法、刑罰、裁判、警察」の関係をつかさどり、六部尚書の「刑部」にあたる。允恭天皇はカバネを偽称する者どもを裁いてカバネ秩序を再建した人物で「金德」にふさわしい。后の忍坂大中津姫のために忍坂部を定めたというが忍坂部を「刑部」とも書くのは全国カバネ大改正という「裁判関係の財源」として設定されたからだろう。
ただ、そうなると中斯知命が大郎子の妃になったっていう『上宮記』逸文の記述と矛盾してくるが、中田憲信の系図集である『皇胤志』には大郎子の妃は中斯知命ではなく「中斯命の娘の兄媛(えひめ)」となっている。『皇胤志』は今では失われた貴重な資料を丹念に収集したもので、玉石混交ではあるが参照する価値はある。『上宮記』を引用した『釈日本紀』の本文によって中斯知を中斯にしたのは本居宣長の説に依ったんだろうが、むろんこれは誤りで原文どおり中斯知のままでよい。中田憲信は中斯命を男性で兄媛の父だと解釈してるのだろうが、中田がみた系図も古資料の断片、残骸だから父の名は誤脱しているのである。兄媛は大日下王と中蒂姫の子だと自然にきまる。

物語の類型化
一人の女性の愛を争う話は類型化しており、『竹取物語』が有名だがこれは最終段階の形で、それ以前に長い変遷の歴史がある。『万葉集』では大和三山の伝説、葦屋処女(あしやをとめ)の伝説、真間手児奈(ままのてこな)伝説、桜児(さくらこ)伝説があるがこれらはヒロインの女性が自殺する話であり、「春山秋山の物語」よりずっと後世になってから登場したものである。古事記の因幡の八上比賣(やがみひめ)も伊豆志袁登賣も同じような情況でありながら自殺などせず意中の男と結ばれる話であって、これが伝承の古態である。高貴な女性は男を選んで子供を作るのが仕事の一部なので、複数から求愛されることは悩みにならない。ヒロインが苦悩の末に自殺するパターンは、物語の設定を庶民の女性に設定するようになってからのことである。ここらの話は『処女墓伝説考』(関口裕子:吉川弘文館)に詳しく興味深い議論が展開されている。

神の御子?
ところで、「伊豆志袁登賣」が「この神」の娘という時、この神を阿加流比賣神(新羅の赤玉)とすると天之日矛と同時代、崇神天皇以前の欠史八代の頃であり、応神朝や仁徳朝からすると、はるかいにしえの女神である。日本書紀の説によってこの神を名無し童女(任那の白石)としても、崇神天皇末年のことで、いささか時代が古すぎる。いずれにしろ今、目の前にいるこの少女の母ではありえない。そこで、通説では「神の女(むすめ)」を「神の女(みこ=巫女)」と読み替え、神社に仕える巫女のことだと解釈している。まぁそれはそれでありかなとは思うのだが、そればかりではあるまい。目に見えない存在であるカミと、普通の人間の間に子供が生まれることはちょいちょいあったみたいなのだ、古代の神話を信ずる限りではなw 女性が、男神の化身と交わって子供を生むパターンの方が多いが、逆に男性が女神(が化身した女性)と交わって子供を生んでもらうパターンもある。これを事実だとしたらオカルト的な解釈をしなければならないが、まぁそういう設定というか世界観なわけで現代人の立場からつっこんでもしょうがない。しかしそれならいくら古代でもかなり奇異な話だからもう少し物語の中で説明されてもいいようにも思われるが、原資料がすでに断簡だったとしたら伝承の欠損でありやむをえない。むろん前述のように、強引にオカルト的な解釈で押し通さなくても、単に伊豆志袁登賣に該当する女性(例えば中斯知命でも宮主矢河枝比賣でも誰でもよい)が神社(中斯知命なら比賣碁曽社、宮主矢河枝比賣なら石上神宮、女鳥王なら出石神社など)の巫女をやってたってだけのことでも一応、文章表現上の理屈は通るのだが、寓話に即して考えると、この巫女は多くの男性から求婚されている。民話なら美人だから求婚されたのだってだけで話は進むのだが、「歴史事実を翻案した寓話」にはならないし、美人だとも一言も書かれてない。この場合、単なる巫女という意味での「神の女」ではなく、何らかの特殊な女性だったからではないのか。それが何なのかは後述するとして、伊豆志袁登賣に該当する女性の母親が彼女を妊娠中の夢に阿加流比賣神がでてきて「わが娘を与える」とかなんとかご託宣があったとかの短いエピソードが付随していたのかもしれない。夢で御託宣を得る話は崇神天皇にもあり後世の物語にも甚だ多い。ともかく多くの男性から求婚されるに値するなんらかの神秘的なアドバンテージがあったに違いない。それは何かというとむろんこのブログで常にいう正統の天皇の証たる「宇遅和紀郎子の同母妹の血筋」なのである。

まだ残る、次なる謎解き
春山の霞壮夫は大日下王だった、秋山の下氷壮夫は允恭天皇だった。これが結論、これでいいのだろうか? これだと滅ぼされた大日下王を顕彰慰撫し、允恭天皇を貶しているようだが、この程度のことならわざわざ寓話化する必要がない。記紀はもっと露骨に天皇の悪事を書いたり、反逆者の美化などはざらにやってるので今さらこの程度のこと、そのまま書けばいいだろう。まだ何か足りない。おそらく「大日下王を顕彰慰撫し、允恭天皇を貶しめる」のはわざわざそれが本題のように勘違いさせるために寓話にしているのである。わざわざ? つまりそれは本題ではない。では本題とは?
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7応神記末尾の系譜の謎とき」に続く

・国造と県主

平成26年12月21日投稿 (平成25年4月17日(水)初稿)
成務天皇一代を扱う。
国造と県主
(後日に加筆予定)

・孝元天皇

H26年12月19日投稿 (H24年7月18日(水)初稿)
二代孝元天皇とは
『神道原典』の話。たぶん嘘だと思うんだよね。そのわけは(以下続く。続きは後日加筆)

荒羽吐系の天皇だった?
『東日流外三郡誌』の話。たぶん嘘だと思うんだよね。なんとなれば(以下続く。続きは後日加筆)

武内宿禰は孝元天皇の子孫ではない?
『住吉大社神代記』の話。これは本当だと思うんだよね。(以下続く。続きは後日加筆)

・漢字はいつ伝来したか

H26年12月12日初稿
今日12月12日は「漢字の日」だっていうから、なにか歴史的な由来でもあんのかと思ったら、平成7年(1995年)に「良い字一字」=「1(いい)2(じ)1(いち)2(じ)」の語呂合わせで適当に作った日だとさ。馬鹿にしてんのかよw もっともこういう言葉遊びができるのも、日本に漢字が入ってきたおかげでもある。ドイツ語だろうがフランス語だろうがダジャレや言葉遊びはもちろん豊富にあるが、やはり日本ほど複雑で多様な言葉遊びのある言語はなかなかないんじゃないか。
この日を勝手に決めたのは財団法人日本漢字能力検定協会っていうウサンくさい利権団体なんだが、漢字ってのは検定試験で能力きまるような薄っぺらい文化じゃないんだよね、そこをわかってもらうための協会ならともかく、逆に検定試験を主催するとか余計なことしやがって。学校の古典の授業ふやして古文漢文教育を振興させるとか、漢文よめないアホは公務員として採用しない法律つくらせる運動とか、舊字體でかつ漢文で書かれてゐない公文書は法的に無効とする法律作らしむとか、教育勅語と歴代天皇暗記してゐないあほには参政権も與へず高校受験資格も與へないとか、そういう布教活動でもやれつつの。
まぁそんな話はさておいて、毎年やってる「今年をあらわす漢字」のばかでっかいお習字、清水寺でやってるやつ。あれ決めてんの清水寺じゃなくてこの日本漢字能力検定協会っていうウサンくさい利権団体が募集して集計して応募者の多数決で決めてだったんだな。てっきり清水寺の坊さんが勝手に決めてんだと思ってたよ。そして今年をあらわす漢字は「税」だって…。これについては面白いツッコミからつなんまい文句まで、マスコミやらネットやらの各所であれこれ言われてるので吾輩のブログでは触れない。
漢字はいつ伝来したのか
ところで漢字はいつ伝来したのだろうか。応神天皇の時に王仁博士が日本に漢字を伝えたという説があるが、もちろんこれは間違いで、王仁が伝えたのは『論語』と『千字文』という2つの書物であって、漢字はその前からある。魏志倭人伝をみると、中国から倭国への使者が九州に到着すると「津に臨んで捜露し差錯するを得ず」つまり係の官吏が国書を検見して間違いのないようにする、というから女王卑弥呼の頃は倭国側には明らかに漢文をよく読める人がいた。これは3世紀の話だが、それ以前、2世紀前半から中頃にかけてのものとされている弥生土器の破片で漢字が刻まれたものもあった。さらにそれ以前「漢委奴國王」の金印だって漢字がわからなければ意味がない。この金印はAD57年で『日本書紀』の編年では垂仁天皇86年にあたる。その先代、崇神天皇の崩御年が『古事記』では干支で書かれてるのは、それ以前に干支が伝来しており、遅くても崇神天皇の治世中に「干支紀年法」が公式に採用されたものと思われるわけだが、その際に干支だけ伝来して漢字がぜんぜん伝来しないということは考えにくいから、干支の伝来と漢字の伝来は同時期とすべきだろう(干支や暦の話はそれだけで膨大な長い話になるので今回は触れず漢字の話だけする)。

ではその干支やら漢字やらの伝来がいつかというと記紀には具体的に書かれてはいないが、帰化人が渡来した記事があればそれに付随して漢字がきたと推測はできる。すると崇神天皇最末期(実際に朝廷に謁見できたのは垂仁天皇最初期)にきた蘇那曷叱知(そなかしち)がまず候補にあがるが、それまでみたこともきいたこともなかった干支という得体のしれないものがいきなり公式採用になるのは不自然だから、それよりかなり前に伝来して、世の中に広まり馴染んでいた後でないとおかしいだろう。そうして改めて『日本書紀』をみると崇神天皇11年「異俗多帰」とあり翌12年の詔勅に「異俗重訳来、海外既帰化」といってるのは前年の「異俗多帰」のことをさしている。つまり海外から帰化人がきたといってるので、この時に漢字もきたという想像はしたくなるだろう。ただしこれは難民がきたぐらいの話だと思うので、漢字を流暢に使いこなせるような名のある上流階級が含まれていたかどうかはわからない。それ以前にも、記紀にはないが、以前開化天皇のところで取り上げた『弘仁私記』の「開化天皇御宇、大加羅人帰化、而以来既有文字云々」の説がある。これも難民程度のものと思うのだが、特に「文字」の伝来を強調していることから半島の加羅人(からびと)ではなく、大陸の漢人(からびと)のことだと推測する。漢字伝来についてはここまでしかわからない。

記紀に登場する帰化人の多くは、名のある貴族つまり上流階級で、漢字をしってるのは当たり前だが、それ以前から、歴史に名の残らない大勢の帰化人がいたと思われる。崇神天皇11年や12年の記事はその一例だろう。ただしこちらは要するに大陸の戦乱を避けてきた難民であり、漢字の知識はさしたるものではなかったろう。古来中国では漢字の知識をもっているのは上流階級の他は一部の知識人だけで、庶民はほとんど文盲だった。それらの難民の中にたまさか漢字に熟練した人が混じっていたとしても、そもそも現代のような人権意識が発達した時代でさえ難民には偏見や差別がある。大昔はほとんど賤民や蛮族程度にみられたろうからそんな者どものもちこんだ文化自体よい目ではみられなかったろうから、そんな情況で漢字が「なにかよいもの」として受容されることもなかったろう。
人類学では、文字文化をもたない部族に対して、人類学者が文字の読み書きを実演して便利さを示しても、評価も感心もされないという報告がある。無文字社会というのは、文字がなくても問題なく社会が成り立ってるから「無文字社会」というのであって、文字の需要がないのである(神代文字の議論はそれだけで膨大な長い話になるので今回は触れない)。
漢字に価値を認め、これを積極的に採用したのは応神天皇の時代で、中国の文化を浅くでなく深く知る必要があると認識されてからだろう。『論語』が伝来して王仁を師として諸皇子が漢文を学んだ。しかしそれまでの長い間の偏見があったから、これを不愉快に思う人たちもさぞかし多かったろう。またこの後も、上流階級ではなかなか漢字を学ぼうとしなかったか、あるいは漢文に熟達していたとしても自ら漢文を書いてみせるのは卑しいことのように振るまい、わざわざ下級の貴族つまり帰化人系の貴族に書記官としての役割を与えていた。後漢皇帝の後裔の東漢(やまとのあや)氏、王仁の子孫の西文(かふちのふみ)氏は史(ふひと)つまり漢字を扱う書記官ではあるが、貴族としてはかなり低い地位でしかない。
(続きはまた後日に)

・タヂマモリはどこに行ったのか?

H26年11月30日初稿
何かお菓子の箱に入っていたであろう説明書きがある。「家紋入りどら焼き田道間守」というお菓子の会社のもので「ごあいさつ」とタイトルがある。田道間守の伝説ととその会社の商品説明が書いてある。URLも書いてある(http://www.mmjp.or.jp/tajimamori/)ので詳しいことはその会社のHPを見て下さい。こんなどら焼きいつ食ったのかな? 記憶にはないが。
(本題は後日に記入予定、今日は時間なし)

5息長王朝の由来【前編】~天之日矛~

H25年11月20日(水)初稿
4百済の朝貢、大山守命の乱」から続き

「天之日矛」の物語は応神朝での出来事ではない
(※「天之日矛」については孝霊天皇のところで詳しくやりますのでそちらを参照)

息長氏の拠点は摂津にもあった?
もし息長系から継体天皇がでたことを正統化もしくは単に讃仰するための物語だとすると、「秋山春山の物語」は継体天皇以降に追加されたことになるが、こんなわかりにくい表現をする意味がないし、阿加流比賣神(=比賣碁曽社)と皇位の関係もあいかわらず不審だ。そこで、まだ若沼毛二俣王の子孫から天皇が出るとは誰もしらない段階、早ければ仁徳朝、遅くても武烈朝で、すでにこのような物語があったのだと考えられる。
ところで、比賣碁曽社の女神は朝鮮から逃げてきた神だという(古事記では新羅から、日本書紀では任那から)。朝鮮から逃げてきた神を奉ずる一族があるとすれば、彼らの目的は朝鮮にその神を送り返すのが目的であろう。そこまで極端でなくとも、朝鮮に進出しようとしている者にとってのご利益が期待される神だったとは思われる。これは何も軍事的な進出とは限らない。商業上の進出でもいいし、なんでもいいわけだが、まぁ安直に考えれば往々にして朝鮮征伐とかの物騒な話になりやすいだろうとは思われる。で、次にはそれが息長の一族と何の関係があるのかという話になる。
そこでまずは息長系皇族(=息長氏)と比賣碁曽社との地理的な関係を確認しておこう。若沼毛二俣王から始まる「第三息長王家」の一族の本拠地は近江で、後に越前にも拡大したが、もともとは摂津(大阪市平野区)から発祥したのだという説もある。ネットでも出回っている有名な大阪の地方伝承『北村某の家記』によると、倭建命(ヤマトタケル)の王子、息長田別王(=第二息長王家の始祖)は、大々杼国大々杼郷(摂津国住吉郡伎人郷、今の大阪府平野区の喜連)にあまくだり、そこの国造だった黒城という者の娘、黒姫を娶って、杙俣長日子王を儲けた。つまり息長田別王と咋俣長日子王は今の大阪府に住んでいた。その地で息長田別王は狭山池の水を引いて田地を広げ、川(水路)を掘って水を淀川に注がしめたという。狭山池とは大阪狭山市内にある日本最古のダム式溜池で、古事記によると垂仁天皇の皇子、印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)が作った。日本書紀では崇神天皇の時代に作られたという。咋俣長日子王には3人の王女が生まれ、真ん中の息長眞若中比賣は応神天皇の妃となって若沼毛二俣王(=第三息長王家の始祖)を生んだ。以上は神功皇后の時代のことであったという。応神天皇の御世に、その若沼毛二俣王も同地にあまくだり、母の妹の百師木伊呂辨(ももしきいろべ)を娶って、7人の子を儲けた。仁徳天皇の時代になってから、その7人の子の中で、大郎子(別名:意富富杼王)は近江に渡って近江の息長氏の祖となり、沙禰王(さねのみこ)は現地の息長氏を継いだと。また大々杼郷は、咋俣長日子王の名をとって、後世「杭全郷」と改名された。これは今の大阪市東住吉区の杭全(くまた)とう町名に残っている(平野区喜連の北西に隣接)。これがなんらかの史実を反映しているとすると、息長氏は畿内摂津の家系と近江の家系に枝分かれして二系統あったことになる。また日本書紀では継体天皇の母は越前の三尾君の娘、振媛(ふりひめ)ということになっているが、この伝承では、沙禰王の娘、真若郎女ということになっている。真若郎女と振媛はともに彦主人王(ひこうしのみこ)の妃ではあったが別人で、真若郎女が早逝したため、継体天皇は振媛に預けられたのだという。ここで彦主人王に注目すると、普通に考えると彦主人王は近江の息長氏だから、近江にいたのであり、滋賀県高島市安曇川町の「田中王塚古墳」が彦主人王の墓だとされている。ところで通常、継体天皇陵というと、大阪府茨木市太田3丁目の「太田茶臼山古墳」がそれ(宮内庁認定)だということになっているが、考古学の通説ではこれは誤りで、正しくは大阪府高槻市郡家新町の「今城塚古墳」こそが継体天皇陵だということになっている。では「太田茶臼山古墳」は誰の墓なのかというと、仁藤敦史の説ではこれこそが彦主人王の墓なのだという。つまり仁藤敦史の説では、継体天皇(=第三息長王家)は越前や近江からきたのではなく、もともと(少なくとも親の代から)畿内に基盤をもっていたのだというのだ(太田茶臼山古墳のある茨木市は旧摂津国島下郡)。俺の考えでは、息長王家が畿内に基盤をもっててもいいんだが、後背地として近江にも最初から所領があったと思われる。なぜかというと第一息長王家がもともと近江発祥であって近江に所領をもっていたから、神功皇后が入内の時に化粧料として近江の所領のいくつかが一旦は皇室御料に入り、それがのちに第三息長王家に分与され伝領したのではないか。神功皇后の兄弟、大多牟坂王は開化記だと多遅麻国造の祖だが、景行記では意富多牟和気の名で淡海之安国造の祖とある。あるいは、この『北村某の家記』が言っている、かなり初期の段階から摂津あたりに重要な拠点の一つをもっていたという話は、第二息長王家についての伝承であるから、第一息長王家の近江領と第二息長王家の畿内領とが、第三息長王家において結合・合体したのではないかと考えられないこともなくはない。だがその意富多牟和気の娘の布多遅比賣がヤマトタケルの妃になっているのだから、近江の化粧料というのは神功皇后でなく布多遅比賣のものでこの時に第二息長王家のものになったとも考えられる。それなら若沼二俣王の母は第二息長王家の出身だから、そのまま近江の所領が第三息長王家の近江における本拠地となったわけだろう。息長田別王は布多遅比賣とは血縁はないが実の母は無名で庶民出身(いわゆる卑母)だから経済基盤がなかったので、布多遅比賣の息子の稲依別が犬上君&建部君の祖先となって自立した際に異母兄弟の息長田別王に近江領を譲ったということはありうるのではないか。ともかく息長王家は畿内(摂津、今の大阪市南東部)に定住とまではいかずとも、現地管理者として分家を置いて、近江の本拠地とは頻繁に往来していたのではないか、というぐらいのことは考えられる。

比賣碁曽社と息長氏の結びつき
次に、難波の比賣碁曽社に鎮座した女神は古事記では「新羅の」阿加流比賣神といい赤玉の化身だが、日本書紀では「任那の」白石の化身の童女とあるだけで固有名詞のようなものは出てこない。この比賣碁曽社は現在のどこかというといくつもの候補がある。普通は大阪市東成区東小橋の「比売許曽神社」をあてることが多いが、大阪市平野区平野の「赤留比売命神社」(杭全神社の境外社)や、大阪市平野区喜連の「楯原神社」も阿加流比賣神を祭神としている。他に大阪市西淀川区姫島町の「姫島神社」、大阪市中央区高津の高津宮境内「比売古曽神社」もある。長い歴史の間には移転や改廃を繰り返したであろうから、どれが本物でどれが偽物という話でもないが、赤留比売命神社と楯原神社は上記の息長氏の本拠、杭全(東住吉区)から喜連(平野区)にまたがる範囲に含まれており、東成区の比売許曽神社とも4〜5kmしか離れてない。息長の一族とこの神社は密接な関係があり、もしかしたら息長氏の氏神だったのかもしれない。むろんいつ鎮座したのかという時期の問題、最初の場所はどこかという問題はある。また記紀ともに「難波の」といってる。「難波の津」「住吉の津」といった場合には難波と住吉は截然と別の場所だが、単に難波(なには)といった場合はどうか。現代語だと大阪市中央区と浪速区のあたりが「難波(なんば)」だそうだが、最も古くは難波崎(なにはのみさき)で今の大阪城のあたりだから時代によってはかなり広い範囲をさしてる。また記紀がいってるのは「最終的に」ここに鎮座した、つまり奈良時代にはここにあったという意味であり、応神天皇の時代にすでにここにあったという意味ではない。墨江中津王の乱の時にもまだなかったのではないかと思う(詳細は後述するが阿加流比賣神の御神体の赤玉は本来なら出石神社か石上神宮のいずれかになければおかしいはずで、それがなぜか難波の比賣碁曽社に遷座したわけだから、いつ・なぜそうなったかの経緯があるはずだ)。
前述の『北村某の家記』の舞台、現在の大阪府平野区の喜連は古の摂津国住吉郡伎人郷だと思れ、ここに最初にあまくだってきた息長田別王は第二息長王家の始祖であり、倭建命の子。倭建命は西の熊襲、東の蝦夷を征伐しつつも、国内の治安の根本原因は海外にあり、国内平定の後は半島問題その後は大陸問題と続くことを見通していただろう。これは国内統一であまった武力をもてあまして海外に向ける、ということではない。国内の治安悪化の原因は海外からの難民と不法移民であり、その発生原因は大陸の戦乱にあり、根本的かつ最終的には大陸を平定しなければゴキブリ叩きをやってるのと同じできりがない。だから、ゆくゆくは半島問題、大陸問題に焦点が移るであろうことは倭建命はわかっていたのである。その後、神功皇后の新羅征伐あり。これでそれまでマイナーだった「息長」の氏名はいっきにメジャーになった。「息長」といえば誰でもまっさきに思い出すのは「息長帯比賣」つまり神功皇后の名であろう。それは大昔の人々でも変わらない。神功皇后の登場以降は、息長氏の名はいちいち朝鮮征伐を連想させるものだったに違いない。倭建命の息子の息長田別王は父の偉業を継ぐべく最初から遠大な目標があって、海外への玄関である北九州とならぶ国際都市にあまくだってきたのだろう。ちなみに今回は詳しくは語らないが、日子坐王に始まる第一息長王家も新羅とは格別に縁が深い家系である。さて息長田別王の子、咋俣長日子王は3人の娘を儲けた。この三姉妹のうち、姉は倭建命の子、若建王の妃となり、仲は応神天皇の妃となって若沼毛二俣王を生み、妹は甥の若沼毛二俣王の妃となった。

大雀命からの息長氏への処遇
話はかわるが、もし息長氏が海外への雄飛を望んでこの地にきたのならば、朝鮮に攻め渡って征服し、日本に面従腹背する新羅王を廃位して自分が新しい新羅王になろうというぐらいの意気込みがあったろう。そんなことばかり妄想していれば夢の一つぐらいは見るというもの。その話が広まれば、同じように海外で一旗あげようという不満分子は大量に集まってくる。ここで注目される人物が百師木伊呂辨で、モモシキとは後世に「大宮」にかかる枕詞になったように、建物の広大な様。これは大勢の食客を養ってたってことではないか。イロベは女性だが、イロハ(血のつながった女性)の古い形だろう。書紀はイロハを「実の母、生母」の意味に使ってるが、岩波文庫版の注釈の通り間違っている。ただし「血のつながった女性」の中に「実の母」も含まれるんだから、ここは婉曲表現なのであって、さすところは「母上様」「ご母堂さま」ってこと。この頃まだ百師木伊呂辨は未婚で独身だった可能性があるが、彼女を神功皇后に見立て、皇太子クラスのしかるべき皇族に嫁いで、将来うまれるお世継ぎを応神天皇に見立ててるんで、不敬罪にあたる可能性があるから婉曲表現なのである。しかし時代はすでにかわっていた。日本帝国の三韓支配は名目的なものになりつつあったが、外国貿易の利権が莫大な富を生んで日本は物質的には繁栄の一途に向かい、多分に形式的とはいえ三韓も属国の礼をとって我らが帝国のメンツは守られていた。しかし憂国派の目からみれば日本は亡国の危機に瀕しているのであって、体制派などはすべて売国奴にしかみえないのだが、やたら征伐だ合戦だと血の気の多いことをぶちあげる時代錯誤な連中は過激派なのであって、体制派からすると危険分子なのである。日本はいにしえより敬神の念篤き神々の国で、祭政一致の神権政治を理念と(少なくとも名目上は)しているので、ご神託という概念自体は問題はないのだが、政府の公式見解や隠された本音から逸脱したご神託を勝手に宣伝するのは反政府活動であり、現代でいわばカルト教団みたいなものに相当する。
そういう対外過激派(強硬派)にいちばん困るのは、外交の責任者だろう。それはこの時期(応神朝)においては、ズバリ仁徳天皇だったのである、ただし即位前の「大雀王」だが。応神天皇の三皇子のうち、大山守命は今でいう産業経済大臣、大雀命が外務大臣、宇遅若郎子が国防大臣だったことは、すでに「大山守命と大雀命」で書いたのでそちらをご参照あれ。この頃、若沼毛二俣王は生まれてないか未成年だったため皇太子候補にはあがらなかったのだと思われるが、もしそうでなかったら他の多くの皇子たちと同様、選抜に漏れる程度の人材だったことになる。大雀命が日向の髮長比賣(かみながひめ)を娶ったのも一目惚れしたからではなく、職務上の目的が深く関係しているのだが今回はふれない。大雀命はいうまでもなく一時は皇太子の地位にもあり現職の外務大臣でもあるから体制派であり、葛城氏ともべったり。ここで百師木伊呂辨をかつぐ強硬派を放置すると右翼団体の巣窟となってしまう可能性もある。まぁなってしまっても取るに足りない存在だったかもしれないが、民心の掌握のためにも、念のため取り込んで自己の守護神としておきたいところ。しかし、ウヨのアイドル百師木伊呂辨に自分が求婚してもどうせ石之日賣(いはのひめ)の妨害が入るのは目に見えている。そこで弟の若沼毛二俣王に譲ったのではないか。仁徳天皇は弟なる若沼毛二俣王を、将来は自分の片腕として一時は期待していたかもしれない。しかし自分が比賣碁曽の神の娘にぜんぜん興味ないふうでもサービスというかアピールにならないから、一応、形式的な求婚ぐらいはした上で、百師木伊呂辨が若沼毛二俣王を選んだという形に取り繕ったのではないか。これに庶民は大喜び。庶民は「出来レース」とは知らないから面白おかしい雑談のネタにしたろう。しかし古事記には大雀命の失敗や屈辱がたくさん出てくるのだからこの程度の話を寓話に仮託しなければならないほどの禁忌があったとは思われぬ。だから寓話のもとになった事件はこれのことではなく別の事件だろう。

近江への国替え:表面上の理由
その後、すったもんだの末、大雀命は即位して仁徳天皇となったのだから、外務大臣の役割はいよいよ弟の若沼毛二俣王に譲られてもよかったのではないのか、と一見思われなくもない。しかし上述の「北村某の家記」によると、若沼毛二俣王の息子の大郎子(おほいらつこ)の代に仁徳天皇の命令で近江に移ったという。「北村某の家記」の設定では息長王家はこの時初めて近江の地を得たことになっているが、前述のようにそれは間違いで近江にももとから土地がある。これは「北村某の家記」自体が自家の由来を誇るためのものだろうから明示されてはいないが、摂津の本拠をお召し上げになったわけで、実質のところ息長一族は左遷、国替えになったのではないか。旧居には大郎子の弟の沙禰王が残ったが、窓口的な中継地を置いたにすぎず、勢力というほどのものを残したわけではあるまいと思う。仁徳天皇はなにもいじわるをしたわけではなくて、代替え地としていくらかは近江での加増もあったかもしれない。だが、語部(かたりべ)の魔の手にかかったらこれも「女を取られた恨みで…」みたいな色ボケな歌物語にでもされたところだろう。腐女子がなんでもウケとセメの二元論でBLにしてしまうのと同じ、いつの世にもこじらせた女にかかるとなんでも一色に染められてしまう。
とりあえず、今回の国替えの表面的な理由は「速総別命の乱」だろう。記紀では計画段階でバレて逃亡するはめになり逃亡の途上で征討軍に追いつかれ、反乱は未遂で終わったように書かれているが、それは語部の歌物語の部分しか資料が残って無かったからそうなったんで、速総別は伊勢から東海道へまんまと脱出して全国の味方に蜂起させ、自分は本拠を熊野から全盛期には住吉にまで前進させるほどだったのである(このブログの他の記事を参照)。本拠を住吉に進めたというのは南北朝時代の南朝にもあったことで地政学から説明されるべき共通性だろう。仁徳天皇としては対抗上、住吉周辺を一時的にでも直轄化しなければならなかった。
むろんこの建前からは、戦乱が終結したらまた旧領に戻れるはずだ。のちに実際そうなる。

近江への国替え:その深層
仁徳天皇の悩みは大后石之日賣(いはのひめ)の実家である葛城氏の権勢があまりに強大すぎることで、葛城氏の権勢の源泉は外交と貿易だが、外交と貿易は本来は天皇大権に属すべきものであった。というのは天皇が格別にどうのでも日本が特別こうのでもなく、原初の王権そのものの本質にかかわることで文化人類学的な問題なのである。そこは話がずれるのでスルーして、ともかく、息長氏が海外雄飛を考えていたとしたら、当然帰化人への関心も深く、海外については当代一の専門家を自負していたはずの葛城氏とはむしろ良好な関係だった可能性もある。むろんそこは対等の関係ではない。第二息長氏は、息長田別王と杙俣長日子王の父子が二代続けて母不詳、杙俣長日子王は妃も不詳。これは皇族としては致命的で、名もない一般庶民の女性とばかり結婚しているため強大な豪族のバックボーンがない、弱小貴族みたいな存在だった。従って葛城氏のような強大な中央貴族と縁付くのは願ってもないこと。葛城氏としては、パートナーとしての皇族が、仁徳天皇の系統以外にも増えるのはそんなに悪いことではないが、弱小皇族の一つ二つ、緊近火急の重要さもない。しかし仁徳天皇としては今のところ皇室は葛城氏の唯一無二のパートナーであることが国家の安定のために重要だった。息長氏が葛城氏と婚姻した形跡がないのは、葛城氏が息長氏をマイナー皇族として軽んじていたか、はたまた仁徳天皇からの横槍があったからなのか、あるいはその両方があったのかとも思われるが、それら以上に、葛城氏と仁徳天皇が問題視したのは息長氏を取り巻く右翼過激派の連中だったのではないか。息長一族がたまたま葛城系と婚姻関係がないのも右翼人気の理由の一つだったに違いないが、それは本当にたまたまなので、息長氏としては過激派庶民を切り捨てて体制派に仲間入りできれば御の字だったはずだった。が、太平楽な息長氏は庶民しかも自分らのファンを切り捨てることは思いもよらなかった。建前と奇麗事を純心に奉る息長氏の家風のせいで息長氏は政局にも世情にも疎かった。ために、体制派に入り込むことを歓迎していたのだがそれを態度で表わす必要に気づかなかった。この動きのなさは、体制派からみると煮え切らないようにみえたのだろう。真相は不明だが、葛城氏が息長氏を危険視したということは当時の勢力からみてありそうもないので、息長氏みずから、みすみすチャンスを逃したということかと思われる。
近江への国替えは第三息長氏になってからの発令ではあるが、仁徳天皇の考えはこうだ、応神朝では「宇遅若郎子が天皇になり大雀命が外相として補佐していく体制」が想定されていた。この想定では自分の監督下で若沼毛二俣王に外交を手伝わせるというのもありえたが、予定がかわって自分が天皇となると、そこまで管理できず、若沼毛二俣王は本当に外務大臣になってしまう。そうすると必然的に息長一族と葛城氏との関係も深まる可能性が高い。それよりは自分の皇子たちに分散的に葛城氏の力を振り分けたほうがよく、若沼毛二俣王には降りてもらおう、と。また、瀬戸内海の交易は葛城氏の子飼いの配下である吉備氏がすべて押さえてしまっており、今から息長氏が食い込む余地はないとみて、新しいフロンティアとして東国を提案したのかもしれない。近江は東日本と西日本をつなく物資輸送の大動脈であり、広い意味では国際的総合商社である葛城氏の下請けになってしまうとしても、それなりの地位と繁栄を約束されるのであって、さほど悪い選択でもなかった。また近江は、第一息長王家の始祖である日子坐命(ひこいますのみこと)が近江の三上(みかみ)の息長氷依比賣(おきながひよりひめ)を娶って丹波比古多々須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)を生んだというのが最初期の「息長」という名の登場であり、息長王家の発祥の地でもある。息長氏としては本来の本拠に帰ったことになる。

寓話誕生
そうすると「阿加流比賣(の娘)との結婚はなんだったんだ、新羅にいかず近江にいっちゃうなら意味ないのでは?」という疑問も当然うまれる。まさにその通りで、こたびの国替えの段階ではまだ「神の娘」伊豆志袁登賣は出現していないし、彼女をめぐる争いも勃発していないのである。まだその話までいってない。で、この国替えに息長氏は不満なかったとしても、息長王家を征大将軍に奉って海外で一発あてようとしていた浪人どもや、百師木伊呂弁をアイドル視していた貧民層(不平分子)たちは怒り爆発だったのではないか。息長氏が本拠とした平野区喜連のあたりは『北村某の家記』によると仁徳朝に帰化した呉人を住まわせたので「伎人郷」といったという(日本書紀では仁徳五十八年に呉国が朝貢してるからこれと関係あり?)。これだと息長王家が近江に転出したのと入れ替わりに呉人を移住させたようでもある。呉人の移住には、それを管掌した葛城氏の勢力の扶植と、息長色の一掃、つまり過激派(不平派庶民)の排除という意味もあっただろう。
ところでアンチ葛城派の中には語部(かたりべ)勢力も加担していたと思われる。語部というのは中央の宮廷の中のものと思い込まれているがそんなことはありえない。地方にも国造(くにのみやつこ)の管理下の語部があったことがわかっているし、文字のない時代には生活に根付いた民間の語部が庶民の通信や情報(=文字や文書の代替機能)を担っていただろう。文明開化派の葛城氏は、漢字の普及を推進し、口頭政治から文書政治への改革を唱導していただろうが、それは原始以来の権威を守ろうとする宮廷の語部(かたりべ)とは真っ向から対立したはずである。語部の職務の一つとして、演劇の上演がある。古来からの伝承をただ口頭で暗唱するのが仕事ではなく、猿女(さるめ)と称する歌舞音曲で神楽に奉仕する巫女たちも語部の一部なのである(サルメのサルは歌舞演技の意味の動詞「戯(さ)る」であって動物の猿とは関係ない。猿の字は当て字。このへんの議論は川田順造の『無文字社会の歴史』(1976,岩波書店)もなかなかおもしろくて参考になる)。通常、語部の上演の題目は古来から伝えられてきた神話や歴史上の事件(それらの中には現代では史実でなくただの伝説とされるものも含む)であり、だからこそ語部の権威は守られるのであって、創作など言語道断だが、ここで奇跡的に「事実上の創作が許される条件」ができてしまった。それは「神託」である。おそらく上述のように夢の中で「汝に子を授ける」という神告を受けたというのが最初の原形だったのだろう。夢でなく本当に巫女の御託宣だったのかもしれないが、この際、形式はなんでもよい。古伝承の中にはまったく聞いたこともない話ではあっても、御神託の中にでてきた話ならば否定するわけにはいかない。虚偽ならざればそれは事実と観念される。物語とは事実を語るための器であり、すべからく語部の題材なのである。
上述のように、息長王家は反政府派のシンボルとなってしまっては国家からみたらカルト教団みたいなものだといったが、しかしカルトといえばすぐに叩く宗教嫌いのネトウヨでも、右寄りのカルト教団には甘くなるw「キリストの幕屋」とか良い宗教じゃん、俺は入らないけど。「宗教は阿片」のはずの左翼でも、左巻きな教団とは連帯してるのと同じようなこった。夢は古代オリエントの昔から神秘的な神からの知らせと考えられてきて記紀にも例があるが、往々にして支離滅裂で不可解なものであり、それゆえにこそ謎解きの対象となり、古代オリエントの時代すでに夢占い、夢判断の術が発達していた(M・ローウェ&C・ブラッカー著、島田裕巳他訳『占いと神託』海鳴社)。夢(=神託)の中の物語を解読する。解読することで意味がわかる。そのままでは意味がわからない。寓話とは、「おかみ」(政府≒天皇)に対する不平不満を庶民が主張する際に最適の手法ではないか。さらにわかりやすくいえば江戸時代の「忠臣蔵」みたいなものである。建前上は室町時代の歴史物であって江戸時代とはなんの関係もないのだが、これを楽しむ庶民は実は赤穂浪士の話であることはみんな知っていた。ここで神聖不可侵なる古伝承(つまり神話)の拘束から解放され、体制批判のためという条件はありつつも、自由に様々な寓話を創作できるような情況が整ってきていた。

寓話の真意
とはいえ、息長王家の子孫から将来まさか継体天皇が出るとは当時は誰も知らないわけで、だからこれは皇位継承争いは関係ないし仁徳王朝を否定して息長王家を即位させようという政治運動でもない。当時は何といったかわからないが今でいうウヨも、若沼毛二俣王もしくはその子孫をかつぐという発想はほとんど無かったろう。そうではなくて息長王家の「お嬢」百師木伊呂辨を「今世の帯比賣」(現代の神功皇后)ともてはやす方向性だ。モモシキ(百敷)は後世「大宮」にかかる枕詞になったようにかなり広大な建物を想像させる。そこそこの皇族・貴族なら当然それなりの邸宅なり城なりを構えていたろうがわざわざこんな名がついてるのはよほどのことだろう。大量の食客を召し抱えて住まわせていたのではないか。
中田憲信の「東国諸国造系譜」によると天津彦根命の子の天目一箇命は別名を明立天御影命、または天津麻羅命といい、その妹に「比売許曾命」があり、別名を「息長大姫刀自命」または「淡海比賣命」という。そしてこの女神は天日矛命の「后神」だという。天日矛の后というのはつまり阿加流比賣のことで、この女神を天津彦根命の娘だというのは思弁と付会で作られた後世の説にすぎないが、別名を息長大姫刀自命、淡海比賣命というのが興味深い。前者は息長一族の女族長の意味で、百師木伊呂辨にふさわしいように思ってしまうが、これは百師木伊呂辨のことではない。息長氏の女系の祖にあたる中斯知命をずっと後になってから回顧的に追尊したんだろう。淡海比賣というのも、前半で「伊豆志袁登賣が出石にいたはずがない」といったのと同じ理由で、必ずしも近江出身だとか近江在住だとかと決めつけることはできない。
若沼毛二俣王は何ら大志を抱かずとも、その妃の方が現代の神功皇后たらんという野望をもっていた可能性もないでもなさそう。百師木伊呂辨は若沼毛二俣王からみて女系で同族の伯母(おば)である。イロベは「母」の字の古訓「イロハ」のさらなる古形だが、意味は母ではなく女のことである。この「ハ」は、男からみた「母=オモ」でもなく、男からみた「彼女=イモ」というのでもなく、男女から等距離のノンセクシャルでニュートラルな、単に「女性」のニュアンスの方が古くは強かった(母を強調したければオモ、性愛の対象としての女性を強調したければイモといったはず)。これは独身男性からみたアイドルではなく、老若男女の区別ない「万民のリーダー」としてのキャラが求められたということだ。男性は平和を求めてなぁなぁで回していこうとしてるのに女性の方が先鋭化して戦争を止められなくなってしまうというのは承久の乱のあたりの公家社会を彷彿とさせるが、ミクロなところでは現代もかわってない。
「秋山春山」の寓話の一部は、息長一族が近江へ後退することになったことの由来譚ではあるが、この段階ではまだ阿加流比賣は登場しない。仁徳天皇の治世は天下太平だったのではないかという反論もあろうが、日本書紀をよく読むと実はそうでもなかったことがわかる(詳しいことは分量が多くなってしまったので今回はふれないが)。仁徳朝の政乱には、新羅や蝦夷の反乱というわかりやすいものの他に、宿儺(すくな)という怪人や、蛟(みづち)の祟りといった超自然的なものが特徴にある。すなわち「神の祟り」である。天皇を罰することができるのは天皇よりも格上の存在しかないからだ。実際には、仁徳帝の時代に起こった新羅の不貢や蝦夷の反乱も、唆している者というか後押ししてる者がおり、それは日本の世論なのである。そも、経済発展の中で拡大する貧富の差。時を同じくして、文明開化策(大陸の文化の採用)が進む。どちらも主導しているのは葛城氏(=竹内宿禰とその息子たち)、そして葛城氏と閨閥をなす仁徳天皇なのである。大山守命の乱の時点で、憂国派は一度は敗れたものの、比賣碁曽の神の娘という新たなシンボルを得て、再集結しつつあった。これを放置する選択は政権としてありえないから、不平派は潰されてしまったんだが、権力をもってしても庶民の口をふさぐことはできない。上演活動まではおおっぴらには憚りあっても、娯楽の少ない時代に「語り聞くだけの物語」でも相当な訴求力があったろう。これが庶民の世論を統合した結果、政権へのプレッシャー、反政府派(=謀反組)の皇族貴族への心理的な後押しとなって、ついには速総和気王(はやぶさわけのみこ)の乱に結実するのである。
このような語部の力は、当局の警戒の対象となる。さすがに仁徳天皇がみずから弾圧を加えると、忠臣蔵がお伽話でなく事実だと認めることになってしまうので手を出せなかったが、次の履中天皇は履中四年、諸国に国史(くにのふびと)を置いた。これは漢字を使う書記官の設置を義務付けたのである。様々な情報のうち、どれが与太噺でどれが正統なニュースであるのか、当時はそれは政府の公式の文書になっているかどうかで決まる。語部がいっただけではネットの書き込みと同じ扱いなのである。
この寓話は、古事記の下巻の歴史に通底して流れる「開化派=漢字」vs「国粋派=語部」という構図(人々の政治認識)の最初の雛形となった。この後に起こってくる下巻に記された様々な事件の背後にはすべてこの構図が横たわっている。古事記の下巻が、乱の敗者になぜか好意的な歌物語を捧げている例が多いのはこのためである。
ただ早くから原文の破損が酷くて、文面を改修するたび趣旨が不明瞭になっていったものだろう。なにかの暗喩だと思って読むと、皇位継承争いの喩え話だろうとはすぐに思いつくような話になってしまっているが、上述したようにそれでは解決つかないことが多い。これが神話でも歴史でもない寓話の形をとっているは、仁徳朝から武烈朝までの時代の中でのいずれかの次期に実際に流布した話だからだとしか考えようがない。発端としては御神託は命令の形になりやすく物語の形にはなるまいから、直接の神託ではなく、息長王家の歴代のうち誰か、もしくはその妃がみた夢とその解釈という形で流布しつつ、名も無き庶民によって徐々に改作されていったのではないかと思う。現在の古事記に採録されているのは断片で、長文版はそれこそ夏山の青葉壮夫、冬山の枯木壮夫(?)の類も総登場した娯楽巨編で、なんの暗喩なのかもわかりやすいものだったろう。ちなみに息長氏が近江に移住した時は「比賣碁曽社」はまだ阿加流比賣に該当する女性の宮殿すらなかったろうが、後々になって神社になってからは近江に勧請したのではないかと思う。が、それらしい痕跡はない。長浜市に式内上許曽神社の論社とされる「富田町八幡神社」があり、同市の高山町にも「上許曽神社」があって名前が似てるが祭神は一致しない。また琵琶湖の南端に近い大津市の三井寺(園城寺)境内に有名な新羅善神堂がある。息長氏が本拠とした琵琶湖北東部とは真反対だが、畿内から移住してきた時の通路にあたる。この神は円珍が唐からの帰国の航海を守ったという話で有名だが、三井寺の地主神との説もあり、ならば三井寺よりもかなり古くからその地にあったとになる。伝承は途絶しているが、あるいはこれが比賣碁曽社の痕跡か。
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「春山秋山の物語」は神話ではなく寓話」に続く

・5酒楽(さかくら)の歌

H26年11月12日投稿 (H25年9月18日(水)初稿)
「日本古謡による五つの歌」と題して、藤原義久(1939ー)という人が(S.55.10.15)の日付で書いた文章がある。五つの歌とは、風俗歌、催馬楽、雑歌などでいずれも『古代歌謡集』(岩波古典文学大系3)には載っている。藤原義久は作曲家で、日本の古代歌謡に曲を付けたのだが、昭和55年に清水喜承氏とK・リヒターという2人の演奏家によって初演された時の文章らしい。
清水喜承という方は小学生の合唱コンクールの審査員もなさるお方で、皇太子殿下のお師匠様。K・リヒターはよくわからないが、もしドイツのカール・リヒターのことだとすると1981年に死去しているので、死の前年ということになる。
藤原義久の文章は5つの歌の曲のイメージを簡単に説明したもの。
五つの歌の最後に、『古事記』の「酒楽(さかくら)の歌」が載っている。この歌につけられた曲のイメージは「酔っ払って目が回るが意気軒高、いささか滅茶苦茶な気分(要約意訳)」とあり、どんな歌い方が適切なのか(or本来はどういう歌い方だったのか)をめぐっていろいろと空想が膨らむ。
(わたしの意見、感想などは後日に加筆。今日は時間なし)

・4神功皇后の治世

H26年11月11日投稿 (H25年6月7日(金)初稿)
神功皇后は誰の摂政なのか?
記紀ともに神功皇后には「崩」とか「陵」とか天皇にしか使わない文字を使って特別扱いを示してはいるが、実際に神功皇后は即位していないので女帝(女性天皇)ではない。『日本書紀』には「摂政」だとはっきり書いてある。摂政てのは天皇の代理で、亡夫・仲哀天皇の代理だという解釈と、応神天皇が幼少なのでその代理だという二つの解釈がありうるが、いったいどっちの摂政なのだろうか。
『古事記』では神功皇后の事績はすべて仲哀記の中に含まれているので、神功皇后の「摂政」というのは「亡き仲哀天皇の代理」という解釈にみえる。ただし記には「摂政」だともなんだとも書いてなくて、肩書きだけでは歴代の皇后(大后)と同じにみえる。
『日本書紀』の章立ては、仲哀天皇紀と応神天皇紀の間に「神功摂政紀」をおいて、仲哀天皇紀にも応神天皇紀にも含めていない。中世にはこの章立てから誤解して神功皇后を歴代の代数に数えたり、酷いのでは「神功天皇」とする書物もあったがむろん紀にはそんなことは書いてない。ただし、古代の書物では仲哀朝を「穴門の豊浦宮の御世(筑紫の橿日宮の御世)」、応神朝を「軽島の豊明宮の御世」というように神功皇后の摂政期間を「磐余の稚桜宮の御世」とよんで区別しているから、どっちからも独立させる書紀の形のほうが本来なのかもしれない。
しかし、ならば神功皇后はいったい誰の摂政なのだろうか。なぜこんな疑問が起こるのかといえば、摂政がいる期間でもその年代は(摂政される側の)王や皇帝の年号や即位年数で数えるのが普通だろう。例えば「仲哀九年」の翌年が「神功摂政元年」で「神功摂政六十九年」まで続いているが、普通なら「仲哀十年」から「仲哀七十八年」までとなるはずだ。しかし天皇や皇帝が幼少のためとか病気のために摂政をたてるという話はあるが、すでに崩御している人の代わりに摂政を立てるという話は前代未聞で例がなさそうに思う。摂政という用語からなじみのあるイメージとしては、幼少の応神天皇の摂政だと考えたほうがしっくりくる。
しかし応神天皇はこの期間、即位していないのだから正確には皇太子であっても天皇ではない。天皇でない人の「摂政」ってのはおかしくないか? 普通なら応神天皇が幼少ながらも即位して天皇となり、そこで「幼帝だから」ということで「摂政」の登場、となるはずだ。紀では「仲哀九年」の翌年が「神功摂政元年」で「神功摂政六十九年」に神功皇后は崩御しその翌年が「応神元年」となっているが、この場合「仲哀九年」の翌年は「応神元年」であるべきで、紀が「応神元年」としている年は本当は「応神七十年」でなければ筋が通らない。しかし実際には応神天皇は即位せず「空位」期間となっているので、応神天皇の摂政だとはいえない。だから「仲哀○年」も「応神○年」も使えないわけだ。しかし「空位」ってのは当時でも後世でも大問題で一刻もあってはならないこととされていた。それなのに記紀ではこの期間、問題になっていた様子がない。つまり事実上の天皇がいたのだが、この場合の事実上の天皇とは実権力の有無ではなく正統性のことである。そう考えると、やはりそれは幼少であっても応神天皇以外にありえない。応神天皇は「神の申し子」という神秘性から、当時の人々の考え方からすると絶大な権威を帯びていた。「胎中天皇」といわれたという。つまり即位する前から、否、生まれる前から天皇なのであって、今さら改めて即位したのしないのってレベルをはるかに超越していた。当時は当たり前だがまだ「摂政」という漢語は使われていなかったのだから、紀が摂政と表現するのは、あくまで奈良時代の見方で状況説明的に「わりかし近い概念として」摂政という言葉をもちだしてるにすぎず、実際に「摂政」の厳密な定義がピッタリ当てはまるわけではない。
当時は仲哀天皇崩御の翌年が「元年」とされても神功皇后の摂政元年ではなく応神天皇の元年と認識されていたのではないかと思われる。神功皇后が崩御して改めて応神天皇の即位元年から数えたが、これは年号制度が始まる前の古代中国でいう「後元」というものに近い(在位の途中でまた元年から数え始めること)。即位の前から事実上の天皇だったというのは後世の天智天皇の「称制」とも通ずる。
ここで二つの問題が生じる。
一つは、書紀は「後元」や「称制」という言葉を使ってもよさそうなのに、いやそのほうが意味がよりピッタリくるのに、なぜあえて「摂政」としたのか。ただしこれは『日本書紀』編纂の歴史観の問題、つまり奈良時代の思想の問題で、『古事記』の内容に描かれている時代とは関係ない話になる。
二つめは古事記はなぜ神功皇后の期間を応神天皇の条ではなく仲哀天皇の条に含めたのか。この問題は、古事記全体の編集方針によっている、ただし太安万侶でなく稗田阿礼の方針だが。これは皇位継承の争いに対して中立的な態度を守るため、先帝崩御から新帝即位までの期間はわざわざ先帝の治世に含めるというカタクナな絶対方針に従っているのだろう。日本書紀みたいにこの期間を新帝の「即位前紀」に入れてしまうと、歴史の叙述がどうしても未来の天皇の側=勝利した側の視点でしか描けなくなってしまう。古事記は周知のごとく敗残者の側に多大な同情をよせた書物である。しかし神功皇后についても応神天皇の摂政ではなく、仲哀天皇の治世のように扱ってる。ここはもし神功皇后の章として独立させないのであれば明らかに応神天皇に含めねばならないところなのだ。それをあえて仲哀天皇に入れてるのは、ダブルスタンダードにならぬようにという一貫性のためではない。これはいわゆる「春秋の筆法」ってやつだ。ここで読者に気付いてもらいたいのだ。古事記は、先帝と新帝の間の期間はなにがなんでも断固として先帝に含めるのだと。皇子と皇子の争いは、勝って天皇になったほうが正しかったとは必ずしもみていない、新帝即位までは両者はあくまで対等で善悪が決まってなかったのだ、という立場なのが古事記だぞ、ぞ。古事記は速総別の乱にしても軽太子の乱にしても、反乱を起こした謀反人の側を主役とした歌物語が多く、文学的にもそれらが高く評価されてる。これは前近代社会では「謀反人を美化し、天皇を非難する行為」とみなされてもしかたがないだろう。

・崇神朝のキーワードと登場人物

H26年11月9日初稿
片側が「崇神天皇の条のキーワード」と題する資料、もう半分が「崇神天皇の条の登場人物」と題して系図が書いてある、2枚の紙を並べてコピーして1枚にした仕様。
前者の「崇神天皇の条のキーワード」については、内容が4項目にわけてそれぞれ3ヶ所から5ヶ所ほど要所が抜粋されている。(以下は写しではなく要約)

〈后妃と御子〉
(1)后妃の出自
(2)豊鋤入日賣、伊勢斎宮
(3)埴輪の起源(殉死の廃止)ただし垂仁天皇の時の話

〈三輪山の大物主神
(1)疫病流行で人民尽きなんとす
(2)神牀(かむどこ)、神夢
(3)神々の祭祀「悉に遺し忘るることなく」
(4)「国家安平らけくなりき」

〈建波邇安王の反逆〉
(1)四道将軍(山陽道は孝霊天皇)
(2)平け和しめ=「言向けやわす」
(3)丸邇坂に忌瓮(いはひべ)
(4)ハニヤスとクニブクの試し矢の結果
(5)復奏(かへりごと)

〈初国知らしし天皇〉
(1)四道将軍の凱旋
(2)調(みつぎ)
(3)「初国知らしし御真木天皇」
(4)依網池、軽の酒折池

後者の「崇神天皇の条の登場人物」のほうは、孝霊⑦から垂仁⑪までの系図と大物主神から意富多多泥古までの系図。皇室系図のほうは四道将軍のうち3人、山城国に任じられた建波邇安王、天照大神を笠縫邑に祭った豊鋤入日賣がみな歴代天皇の異母兄弟で、人垣(=埴輪)の起源となった倭日子命が垂仁⑪の同母弟、東方十二道に派遣された建沼名河別命は開化⑨の甥(崇神⑩の従兄弟)であることが図示されている。意富多多泥古に至る系図には、大物主神が大国主神の和魂(にぎみたま)であると注記。意富多多泥古の父、建甕槌命には建御雷神とは同名異神と注記。
(この資料についてのわたしの意見や感想、注意書き、ツッコミ、雑論メモなどはまた後日)

・「神道ルネサンス」

H26年11月6日修正 H24年9月19日(水)初稿
后妃と皇子女
后の御真津比賣(みまつひめ)と同名の人物が崇神天皇の同母妹にあり、こちらは大彦の娘と明示あるから同名異人とみなされているが、同一人物の可能性もまったくなくもない。これについての詳しい議論は開化天皇の項に譲り、今回はふれない。
また豊木入日子命(とよきいりひこのみこと、紀:豊城入彦命)は、上毛野君・下毛野君らが祖とある(キミ(君・公)というカバネについてはカバネ論のページを参照)。毛野公(けぬのきみ)氏は仁徳天皇の時に上毛野・下毛野の二氏に分かれたが、後世まで関東の王者ともいうべき大族。紀には弟の活目入彦尊(のちの垂仁天皇)を皇太子にすると同時に、兄の豊城入彦命には東国を治めさせたとある。ただしこの段階ではまだ本人が関東に在住したわけではなく、たまに出向く程度で普段は代官を派遣してたぐらいだろう。豊木入日子命の子の八綱田命も都に在住していて垂仁天皇の時にサホヒコの乱に対処している。その子、彦狭島王は景行天皇の時(つまり倭建命の東征の後で)東山道十五国の都督に任じられた。この東山道十五国というのは「東山道十国他あわせて計十五国」の略称で、紀編纂の頃の令制国での数え方であって当時の言い方ではない。東海道は後世の令制国でいうと8ヶ国しかないが、紀が編纂された段階では信濃の南半分は「諏方国」として独立してたし後に東海道に編入される武蔵国はまだ東山道に入れられていたから10ヶ国あった。これに関東の東部の4ヶ国と甲斐国をたして15国といったんだろう。この範囲は、豊木入日子命から彦狭島王まで代々管轄してきた範囲を表している。「国造本紀」では彦狭島王はこの時、毛野国造になったように書いてある。「豊木入日子命以来、東国の総督ではあるが、直轄地としては毛野国だ」ということだろう(この毛野国はまだ上野と下野に分割される前なので今の群馬県と栃木県南半分)
これは事実上、日本を東西にわけて統治するということだが、なぜこの時代に東国総督が置かれたのかというと、この頃までに日本は弥生文化がますます深まったが、東日本との西日本では文化の在り方に徐々に差が大きくなっていった。東国では縄文以来の古い文化が根強く、西国とは住民の気質にも違いが大きくなってきた。しかも西日本では海外から持ち込まれた疫病の流行で淘汰されたのは免疫のない縄文系の遺伝子をもつ人々のほうが多かったと思われるので、ますます東国との違いが目立つようになったろう。そのため中央での一元処理的な行政は不適切になりつつあったのである。

神々の祭祀(疫病退治)
崇神天皇の御代は疫病で始まった(紀では崇神5年)。『日本書紀』は人口が半減したといい『古事記』は国民が全滅したという。これを読むたび思い出すのは、渡来系弥生人によってもたらされた疫病によって縄文人の人口大減少が起こったという説だ(もっとも、縄文人の疫病説は確かな証拠によって証明されたものではなく「あってもおかしくはない」という程度のことなので、注意が必要だが。最近の説では、現在の日本人の弥生顔は、古墳時代の江南(中国南部)からの帰化人がもたらした遺伝子であって、古墳時代までまだほとんどの日本人は縄文系だったという者もある。また縄文から弥生への変化は文化的なもので遺伝子上の変化は少ないとする説(長浜浩明の説)もある。

縄文人を大減少させたこの疫病の正体は、天然痘だとか結核だとか様々な説があるが、変わった説では「B型肝炎」という説と「成人T細胞白血病/リンパ腫」という説だろう。どちらもウイルス性の病気だが、成人T細胞白血病は鹿児島や沖縄、北海道にウイルスをもったキャリアが多い。またB型肝炎ウイルスの9種類のタイプのうち、日本人に多いのはBタイプとCタイプで、Cタイプのウイルスをもった人は九州北部から本州にかけての弥生系が強い地域に多く、Bタイプのウイルスを持った人は縄文系が強いといわれる地域に多い。朝鮮半島ではほとんど100%がCタイプ、中国でも80%はCタイプである。これらのウイルス性の病気では、縄文系と弥生系が選別されて、大流行の後には人種交代が起こると考えられるわけだ。この説はかつてはなるほどと思って信奉していたんだけど、最近は考えが変わってきた。この説の大きな弱点の一つは、伝染しにくいということで、異性間での感染と母子感染だけなので他地域に広がることがない。長い年月をかけて徐々に進行する人種交代なら疫病を持ちだして説明する必要がそもそもない。爆発的な大流行というのは考えにくいので、記紀の伝承にも合致しないということである。
なお、『ホツマツタヱ』は、崇神天皇が庶母(開化天皇の后)を后にしたことがタブーに触れ、それで疫病が起こったのだとするが、これは古代の婚姻制度を知らない江戸時代の素人の想像説にすぎず取るに足らない。

ただ、そうだとしても、崇神天皇の時代のこの疫病が海外からもたらされたことはほぼ確実に間違いない。アメリカ先住民の消滅はかなりの程度ヨーロッパ人のもたらした梅毒にも原因があった。日本の南北朝時代の疫病多発も、ヨーロッパのペストと時期が近い。モンゴル帝国全盛期の活発な国際交流がユーラシアに四川・雲南の疫病を広めたという。当時日本もモンゴル帝国統治下の中国と盛んに交流していた。記紀の伝承では「出雲の神」の祟りということになっているが、実はこの「出雲の神」も記紀では海外を平定することに深い関係をもった伝承が多い。
難民の増加は治安の悪化をもたらす。紀によると疫病の翌年、全国に流民が発生し、治安は悪化。丹波には謀叛を起こして独立した者さえいた。治安の悪化はもちろん疫病のためだけではなく、孝霊天皇や開化天皇の時代から問題になっていた難民(大陸の戦乱から逃れてきた)の存在があることはいうまでもない。
難民問題は、いかに早急に日本人に同化させ、日本人としての道徳を植え付けるかということ以外には根本的解決はない。また同時にすさんだ国民道徳を立て直さなければ、治安問題の解決はありえない。崇神天皇はそれまで宮中に祀られていた天照大神を大和国笠縫邑に巨大なヒモロギを建設して、一般庶民が自由に参拝できるように取りはからった(これが後に移転して今の伊勢神宮の起源となる)。これにより、日本人は天照大神の子孫であるという認識を浸透させるためで、いってみれば、これは弥生時代の「國體明徴運動」であった。
なお『神ながらの道 -日本人に潜在する創造的生命意識を解明する-』を著したジョーゼフ・ウォレン・ティーツ・メーソン(J・W・T・メーソン)の説では、この頃神祇への信仰が劣化していたので、神道に永遠なる宗教的生命をもたらす方策を立てたのが崇神天皇だったといい、これを「崇神天皇の神道ルネサンス」(古道復興)とまでよんでいる。
それと紀には疫病を鎮めるために祀った大物主神の神勅に「外国が帰順してくる」という一見、脈絡不明の文があるが、当時の人々が潜在意識では「この疫病の根本原因は外国問題である」ということを薄々察知していたということの証拠であろう。
「大坂神・墨坂神(境界の守り神)に武器(盾と矛)を祀った」というのは、畿内を封鎖したことをいう(紀では崇神9年のこととしてある)。疫病そのものは発生の翌々年(崇神7年)に終わったが、治安が乱れて一度酷い目にあった人間には警戒心と猜疑心が生まれるので、いったん崩壊した安全神話は容易には元にもどらない。したがって治安状態はすぐには回復しなかった。畿内では「國體明徴運動=神道ルネサンス」が成功したが、治安のよい畿内めざして流民が入ってくるので、一時、畿内を封鎖したのである。

オホタタネコノミコトはなぜ求められたか:大物主神の御子
天孫降臨の時の定めにより、皇統を守護する四つのカムナビ(三輪・宇奈提・葛城・飛鳥)は事代主命と味耜高彦根命の子孫が祀ることになっていたが、いつしか子孫も途絶え、物部氏の系統が県主の地位についていた。崇神天皇は神夢により、正しい子孫である大田田根子を探し出し、三輪の大物主神を祭らせた。…そう、かつては思っていたのだが、最近まったく別の説に思い至った。
(以下、後日加筆予定)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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