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邪馬台への行程【その7】~水行陸行、里数への換算~

改稿:2679年[R01]12月18日WED (初稿:2679年[R01]10月21日MON)
邪馬台への行程【その6】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その6】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「而」か「或」か
さて、ようやく水行陸行の日数表示が実際どれぐらいの距離なのかという問題だが、まずは倭人伝の中で使われてる「里」の単位に換算するところから始めようと思う。
日数表記のところから里数を割り出すというのはつまり「一万二千里は奴国までの距離」ってことに変更される前の状態を復元することである。
不弥国を内陸に置く説はともかく、九州説でも畿内説でも不弥国は海岸をもってることがほとんどで、投馬国またしかり。なので放射式で伊都国から、順次式で不弥国から投馬国への水行は問題ないとして、邪馬台国の「水行十日陸行一月」が問題だ。
「水行十日陸行一月」の解読には3つ説があり、

(A)連続説。まず水行して然る後に陸行する。
(B)選択説。もし水行すれば十日、もし陸行すれば一か月という二つのルートから選ぶ。
(C)混在説。水行したり陸行したり。水行した分だけ合算すると十日ぐらい、陸行した分だけ合算すると一か月。

(B)の選択説の場合は水行は陸行の3倍計算となる。(C)の混在説はちょっとありえない気がする。普通これは陸行に含めるだろう。そこらをこだわったのなら「乍水行乍陸行、計日、水行十日陸行一月」と書かれたろうけど何が疑問といって、中国人の水行というのは川をいう場合が多く、いずれも悠々たる桁外れな大河でそれに比べると日本の川は小川のせせらぎか急峻な滝みたいなもの。中国人の感覚では水行とは言わなかったのではないか。川を使ったっていっても内陸部だからこれは陸行だと認識されそう。絶対に(A)の連続式にしか読めない書き方なら「水行十日陸行一月」となるが原文のままでも漢文として普通に読み流せば連続式に受け取るのが自然だから、「而」の字を入れるのはややくどい書き方かもしれない。もし間違いなく(B)の選択式に読んでほしいと陳寿が思ったのなら「水行十日陸行一月」とか一字を補ってあるべきだが、その字がないからといって絶対に選択式には読めないこともないからややこしい。例によって「而」か「或」か一字の誤脱を想定すればまたどっちともいえるし、なぜ陳寿はわずか一字を惜しんだのかと深読みすれば「誤読を誘っている」とも思えるw

で、日数の換算だが、ご存知の通り『唐六典』の数値をみると以下のごとし。この数字は唐代のものだが三国時代も事情は大差ないだろう。

『唐六典』


凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里。
水行之程、船之重者、泝河日三十里、江四十里、余水四十五里。
空船泝河四十里、江五十里、余水六十里。
沿流之船、則軽重同制、河日一百五十里、江百里、余水七十里。

水行は1日あたり30里~150里、陸行は30里~70里でばらつきが酷いw 
『唐六典』の数字を使ってありえそうな最大値と最小値をみると、最短の30里を使って放射式+選択式だと邪馬台国までわずか300里。最長で陸行70里、水行150里を使って順次式+連続式だと投馬国まで3000里、邪馬台国まで3600里、計6600里。最短300里で最長6600里なんだから、その間の数字はすべて可能性があることになる。ホントかよw さらに誤写の可能性もあるから「二十日」が実は「二日」「十日」等の間違いだとか、「一月」が「一日」の間違い、とかもありうる。これらを組み合わせるとさらに幅が広がってとりとめもなくなりそうだがしょうがないw どの数値が正しいか(現実にあてはまるか)は、実際にその道を行軍してみた者でないとわからないが、1日あたりの行軍距離について上述のごとく豊富な数値があるので、机上の数字だけなら自在に伸縮可能でなんとでも辻褄あわせはできる。

日数表示は何里か?
ところで、一万二千里が邪馬台国でなく奴国までの距離ってことに設定変更された時に、初期モデルの3000里を消してわからなくするために日数表示にしたんだとすると、単純な計算で簡単に復元できるなら3000里を隠した意味がない。放射式だと2800里だが【その1】で説明した通り、俺の説では伊都国と不弥国の間は500里だと考えるのでその場合は2500里になる。ここの里数3000 or 2800 or 2500里は隠したいわけだから、換算数値を好きなように当てはめれば何通りにも推定はできるが「これが正しい里数だ」というのはわざと確定しないように書かれてるのだとは思われる。作者の気分になってみると元の「3000里」(「3000 or 2800 or 2500里」だが煩雑なので以下《3000里》と書く)を、なにも読者のためにご丁寧に換算して日数表記にしてくれたという保証はないぞw つか奴国までが一万二千里に変更された以上、不弥国から邪馬台国までが《3000里》である必要がなくなっているのだから、そもそも換算前の《3000里》という数値が消えている、無意味になっている。ということは、この日数表示は《3000里》とまったく関係ない数字だということも十分にあり得るのではないだろうか。
そうはいっても「わからないように書いてあるんだから、わかるわけないだろ」だけで終わりにしては「金返せ」って言われかねないw なので憶測レベルの議論にすぎないが、もう少し詳しめに結論めいた議論に力技でもっていってみたいw

孫栄健みたいに水行十日も陸行一月も1200里のことで「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説もありうる。ただ孫栄健の説の場合、投馬国の水行二十日が浮いたまま放置されてる。これは当然2400里で、放射式だとすると何のための虚構なのか意味不明になってしまうから順次式だとして、合算すると3600里になる。「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説にこれをあてはめると「10分の1にした上で3倍にした数字」だ。投馬国の位置は「一万二千里」の中では3分の2の地点になり、奴国まで一万二千里として文面上に記述されたルートの上では対馬国上陸地点にあたる(半周を加える前の地点)。ここまでは確かに水行だけなので、ここまで二十日だったとして、倭国内ルート(対馬国上陸地点から奴国まで)は水行と陸行が混在してる。これをすべて水行に換算すると十日、すべて陸行に換算すると一月。水行換算値と陸行換算値が併記してあるのは要するに水行が陸行の3倍の速さだと示すため、ということになる。だがこの説だと、少し無駄で煩雑すぎる気がする。水行も陸行と同じで40里という極めて単純な設定なのではないか? 陸行は邪馬台国のルートではなく投馬国と邪馬台国ルートの合算だとすれば、投馬国まで水行800里、邪馬台国まで水行400里で合計1200里。陸行も同じく1200里。どっちも「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だとした方がシンプルではある。陸行が両行程の合算だっていうのがアレだがw

しかし、よく考えるとそこまで消し去らなくても、もともと日数換算が『唐六典』にあるように伸縮自在なのだから、一度日数にしてしまうと、「換算前の里数」か「特定の換算値」のいずれかをを事前に知ってる者でない限り、里数に復元できない仕組みになってる。つまり一般読者には解読される心配がないし、機密に与る上層部の一部には「換算式によって(《3000里》に)復元できるから嘘は書いてませんよ」というアピールになる。
そう考えるとやはり計算すれば《3000里》になるはずだ。その前提で考え直してみたのが以下。

九州説だと伊都国からの放射式で方角は字のまま南としても、南に水行できないのと思うのだが、これは出発時の方角でなく起点からみた終点の位置する方角とすれば、途中の行路が東西南北どっちを向いててもいいという解釈で乗り切れる。ただし『唐六典』では馬は70里、徒歩と驢馬は50里、車は30里というが、選択式で2800/2500里をこなすには1日あたり水行で300里近く、陸行で100里弱も行かないとならないからムリ。連続式か混在式なら1日あたり「水行130里、陸行50里」で計2800里(水1300+陸1500)にでき、水行を100里にする(水1000+陸1500)か陸行を40里にする(水1300+陸1200)ならば計2500里にできる。川下りコースで黄河が150里、長江が100里だから130里は若干きついが絶対ありえない速さではないだろう。問題はそこでなく、水行した後それに近い距離もしくはそれ以上の距離を陸行するのが九州内では難しい。「迂回することになっても途中までは陸路より海路(もしくは河川)で行った方がよくて、かつ、上陸してから水行できない内陸を海路と同距離もある地点」なんて九州内にありえない。なので連続式でなく混在式とした方がいくらかマシだが、それでもどうかな? そこで選択式で「水行二十日陸行一月十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行140里、陸行70里で2800里とできるし、「水行二十日陸行一月二十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行125里、陸行50里で2500里とできる。『唐六典』の陸行70里は馬を使った場合だから人間で40日を踏破するのは厳しいとすれば、端数がでるが「陸行二月」でもよい。1日50里で2800里には2ヶ月めの4日前に到着する計算になり、同じく「陸行一月半」とすれば2500里には2ヶ月めの4日前に到着で、数日余る分には何の問題もない。これなら九州のどこにももっていけそうだが、水行だけでも陸行だけでも行けるのだから九州の沿岸部に限られてしまう。筑紫平野の真ん中や熊本平野の奥や阿蘇カルデラの中にもってく説だと厳しい。宇佐説、鹿児島説、日向説なんかは問題ない。

畿内説でいうとまず順次式だとして、瀬戸内海航行だと近畿との境か手前で上陸することになり意味がわからない。だから日本海航行だと考える。方角からいって投馬国を三丹(但馬丹波)だと仮定すると、水陸の「混在説」がよいようにみえる。この場合の水行とは川を船でいくことで海路ではない。しかしGoogleマップを使うと、この間徒歩40時間しかないw 1日に6時間か7時間歩いたとして6日。すると「陸行一月」も里程と同様、5倍に誇張されてるんじゃないのか? ともかく「陸行一月」だけで行けるとなると、「水行十日」が浮いてしまう。なのでこれを投馬国の「水行二十日」の重出誤記だとしてもいいのだが、ちょっと保留しとくw 陸行30里、水行70里とすると、順次式で投馬国まで1400里、邪馬台国まで水行700里陸行900里で計1600里。合計3000里。重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がこれだとして畿内説に当てはめると(日本海航行で)投馬国は但馬じゃなくて出雲っぽい。出雲だとすると「南」は「東而南」の誤脱ではなく「東」の誤りだということになるのがどうもな…。
第二案として、陸行30里で投馬国から邪馬台国まで900里。「水行十日」は「水行二十日」の重出誤記として無視すると、残りの投馬国まで2100里だから水行105里と決まる。里数の割り当てはいいような気がするが「105里」が半端で不自然だな…。
第三案として、三国志の中では司馬懿の公孫淵討伐戦での行軍速度、1日40里を基本にすべきだという説もあって、確かにごもっともに聞こえるので採用してみる。この場合水行は60里とすると、投馬国まで1200里、邪馬台国まで水行600里陸行1200里で計1800里。合計3000里。これも重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がへんだ。瀬戸内航路だと陸行はわずかにならないとおかしいし、日本海航路でも半分以上も陸行するなんてありえない。
第四案として、陸行は40里のまま、邪馬台国への「水行十日」は投馬国の経路の重複誤記として無視し、邪馬台国は陸行だけだとすると、投馬国から邪馬台国まで1200里。残りは投馬国まで1800里だから、水行は1日90里と決まる。計3000里。これで郡から邪馬台国まで一万二千里になる。数字の辻妻はきれいに合うが(というか無理矢理あわせてんだから当然だが)、これも里程の割り当てが微妙に地理にあわないような…(陸行が多すぎて不自然)。まぁ魏志の設定上の地理だから実際の地理に一致しなくていいともいえるが。

以上どの説もそれぞれ欠点あり、辻褄合わせ感が強いw 自分で書いてアレだが、どれもびみょうに間違ってるような気がするしなw …そう、重要な何かが欠けているのだ…。
倭人伝2
水行陸行の謎解き
やはりここはアレの出番だろう。そう、「春秋の筆法」ですw 出たw
倭人伝の冒頭で韓地の行路の説明が、海岸に沿って水行したとも内地をジグザグに陸行したともとれる書き方になっていて、二つのルートをあえて混在させていた。こんな不可解な書き方をあえてしているのは意図的な「文の違え」で、言外に何かを示そうとする「春秋の筆法」なのである。両方のコースを行くことは物理的に不可能なので、一方を選択しなければならないが、どちらのコースを進んでも(水行しても陸行しても)同じ「七千里」になる。ここで示されているのは第一に「陸行と水行はどちらかを選ぶ」のであって連続式や混在説で読んではいけないということ、第二に「陸行しても水行しても出発地と到着地は同じ、距離も同じ」ということ。つまり投馬国から邪馬台国までの行程は「春秋の筆法」の示すところに従って「水行すれば十日、陸行すれば一月」となる。
これで考えていくと、放射式の場合は上述のごとく1日あたりの距離数をオーバーしてしまうのでムリ。さすれば前述のごとく「水行二十日陸行二月」もしくは「水行二十日陸行一月半」の間違いだったということになる。
順次式では水行は100里となる。『唐六典』でも川下りの場合は黄河で1日150里、長江なら100里、それ以外の川で70里。日本海の東行は潮の流れに乗るのだから中国の大河に比べて1日100里は軽くありえるだろう。すると投馬国までの水行二十日はちょうど2000里となる。で、邪馬台国までは1000里でないと困るので陸行のみで1月を30日とすると平均値は「1日33.3333…里」。1日35里とすると29日(旧暦の小の月)で「1015里」で15里余るが、まぁ前述の放射説の場合と同様、目的地にその日数で達すればよいのだから15里余っても問題ないはずだ、普通ならね。しかし魏志倭人伝の里程や日数は初めから仕組まれたもので普通の計測値ではないのだから、端数が出るのはどうも釈然としない。キリのいい表現で「3日で100里」のつもりだと思われる。ただ、このルートが「但馬~大和」間だとすると基本陸行で水行はないのだから「水行十日」は「水行したら十日」の意味ではない。水行はできないし、しないのだが「陸行の日数を水行に換算したら十日になるよ」という意味なのではないか(そんなややこしいことは言わずに単純に選択式だというだけでも差し当たり問題ないが)。
で、不弥国から投馬国までは水行2000里(=水行二十日)、投馬国から邪馬台国まで陸行1000里(=陸行一月)、あわせて3000里という至ってシンプルなことになる。

瀬戸内海航路の場合、安芸や吉備で上陸して陸行するはずがなく大阪湾のあたりから上陸するしかないから、投馬国をギリギリ東の神戸市須磨区としてもまだ水行が多すぎ陸行が不足する。河川航行も陸行に含んだとしてこれだから大和川の河川航行を水行にいれたらますます不自然。かといって、大和は内陸なのだから「選択式で陸行しない」のだ、ともできない。ゆえに瀬戸内航路は間違いで日本海航行が正しく、投馬国はやはり但馬と確定する。そのはずだが…。
もし以上の説で確定した場合、現実の日数は不弥国から投馬国まで水行4日、投馬国から邪馬台国まで陸行6日だろうが、それは一万二千里が実は2400里を5倍したものだからここの日数も5倍になってるだろうという推測による。
ホントか? まだ釈然としない。どうも大事なことを忘れている。
「邪馬台への行程【その8】」に続く。

邪馬台への行程【その6】~「二郡遂滅韓」の真相と張政の使命~

改稿:2679年[R01]11月20日WED (初稿:2679年[R01]10月23日WED)
邪馬台への行程【その5】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その5】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
三韓情勢の経緯:時系列
魏が公孫氏を滅ぼして二郡を接収し、卑弥呼が親魏倭王になって以降の歴史を辿りながら説明しよう。
AD240年は正始四年で帯方太守弓遵が魏帝の詔書や金印を倭に届けた年でもある。これで倭国が魏に対して「月支国体制をやめろ」と言ってくれる可能性がなくなった、と伯済国は思ったんだろう。それで伯済国は自力で月支国体制を破壊するため辰王を攻撃した。『三国史記』では百済と新羅が外交上初めて接触したのはAD63年になっているがこれは創作だとして、対立であれ友好であれ両国が国交をもつのはもっとずっと後の337年というのが通説だが、根拠がよくわからぬ。『三国史記』ではAD240年に百済が新羅に攻め込んだというが理由も結末も、戦場がどこかも書いてない。この事件とは、帯方郡が実施した「辰王月支国体制」に反対する馬韓が辰王を攻めたが馬韓軍は帯方郡の兵に邪魔されて敗北したという話なのではないか。『三国史記』では攻め込んできた百済に対して新羅が何かリアクションしたようなことも書いてない。この場合、百済(馬韓)軍を撃退したのは魏軍の単独行動な上、戦場は馬韓域内の月支国周辺だから新羅の反応が書かれてないわけだ。しかし新羅があえて百済に反撃しなかったのは、新羅も月支国体制をやめたかったんじゃないのか? 月支国体制それ自体は、辰韓の膨張であり強大化だから初めは辰王も喜んだろうが、抵抗する馬韓人(伯済国)は治め難く効果はあがらなかったんだろう。そうなると辰王(于老)も嫌気がさし、もともと魏に強要されたことだから本国に戻りたくなる。AD240年の事件があってから伯済国も辰王も「月支国体制はダメだ」という点で一致していることを確認しあい、対魏同盟ができたんではないかと思われる。

赤烏七年(AD244)の紀年銘鏡からこの年に呉と倭の関係に何らかの進展があったとみられる。それに対抗するように翌正始六年(AD245)難升米に黄幢が下賜される。黄幢は魏の同盟軍であることを示す旗印で、かつては卑弥弓呼(男王)との戦いのために用意されたといわれていたが、最近では魏に反抗的な韓への制圧のためという説がある。男王国との戦いに「魏との連携」を宣伝してもさしたる意味がないように思う。実際に魏軍が海を越えて援軍にくる可能性などほとんどないことぐらい相手もすっかりお見通しだろう。かといって対韓戦のためでもない。魏と韓の戦争は翌正始七年(AD246)に高句麗討伐戦の派生的事件として「偶発的に」起こったのだから、事前に予知できたとも思われないし、魏に背く韓族を討伐する倭軍は魏の友軍なのは周知のことだから、わざわざ魏の旗印を立てたところで、味方に対しても敵に対してもさして意味がない。そうじゃなくてだね、この黄幢はあきらかに倭国の水軍が直接に呉に攻め入る時のためのものであって、これを下賜するというのは「呉への侵攻」を催促してるということだ。それ以外になんの意味もない。外交戦における、「赤烏七年」に対する魏の逆襲なのである。
ところが、実際に黄幢が難升米に届けられたのは正始八年(AD247)で、普通は、この間、黄幢は帯方郡に留められていたと考えられている。が、そんなことある? 詔書も黄幢も極めて重大な案件で、郡まで届いてれば倭国へ渡すのはなにも困難はない。だから途中までは届けられて狗邪韓国の一大率のもとにあったのではないかと思われる。正始六年(AD245)に「黄幢を下賜した」というのは魏の都、洛陽での話であってそれが帯方郡に届いたのが翌正始七年(AD246)、それから帯方郡の役人である張政がそれを倭国へもってく途中、たまたま後述の魏韓戦争が起こってしまったので、狗邪韓国の一大率か張政のどちらかが「これは使えるかも、いや使うべきかも」と考えて相談し、倭国にすぐには送らず一時的に一大率の手許に留めていたのだろう(もしくは一大率が自分の判断で張政を拘束したか。黄幢は軍旗なので、難升米の判断とは無関係に一大率の権限だけで拘束できる)。

AD246年に魏の毌丘倹が高句麗を破って王都を占拠すると東川王は日本海へ逃亡、そこから北の沃沮へ行ったが、敗残兵の中には南の濊や辰韓の方面に逃げたものもあったので、当初は東川王がどっちに逃げたのかわからなかったんだろう。新羅本紀では245年(恐らく246年の誤り)に高句麗が新羅に攻め込み、于老が将軍として戦ったが敗北したとある。この事件について『隋書』新羅伝にはこうある。

『隋書』新羅伝
魏將毌丘儉討高麗、破之、奔沃沮。其後復歸故國、留者遂為新羅焉。故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬

これからすると攻め込んできたのは高句麗の敗残兵の部隊で、彼らが新羅を征服して新しい支配者になったか、さもなくば新羅は敗北したのではなく彼らを匿い受け入れ高い地位を与えて厚遇して帰化させたか、いずれかであるように読める。魏志韓伝によると、この時、辰韓の那奚国を含む8ヶ国(濊に近い辰韓北部)を楽浪郡の管轄に移そうとしたという。那奚国は韓伝では辰韓12国のうちの冉奚国として出ている(慶尚北道義城郡玉山面)。ここは新羅時代の熱兮県(泥兮県)、衛氏朝鮮の尼谿相参が原住民支配のための本拠地とした「尼谿」の地。異民族との交渉窓口として楽浪郡は濊を管轄し、帯方郡は韓を管轄していたが、逃亡中の東川王が紛れ込んでるかも知れない高句麗の敗残兵の行方を捜索するため、韓の一部を濊とまとめて楽浪郡の管轄に一本化しようとしたのだろう。が、魏志がいうところでは通訳のミスで(辰韓の8ヶ国を楽浪郡に併合して県にすると誤解して?)馬韓の臣幘沾韓国が激怒して戦争になった。しかし通訳のミスなんてのは嘘くさい。原因が辰韓と楽浪郡との問題なのに、なぜ辰韓でなく馬韓の臣幘沾韓国が帯方郡に攻め込むのか。その理由はもちろん上述のAD240年に結ばれたとおぼしき伯済国と辰王との対魏同盟が発動したからである。それだけでなく、馬韓と辰韓は対立しているようだが、高句麗擁護派という点でも一致していたろう。これは後世の6世紀にも新羅と百済が任那をめぐって対立しつつ同時に高句麗に対しては同盟関係にあったことと似ている。

ところがこの戦争で、魏と同盟国であるはずの倭=狗邪韓国の一大率は黄幢を死蔵したまま動かなかった。おかげで二郡は大敗した。
帯方太守が戦死するほどの大戦になったのだから蜂起したのは臣幘沾韓国の1ヶ国ってことはあるまい。魏志韓伝では、この戦争で

二郡遂滅韓


二郡遂に韓を滅ぼす
二郡は韓を滅ぼした滅韓

といってるが、馬韓はバラバラでまとまってなくて、もともと国のテイをなしてないのだから滅ぼしたも糞もないだろう。辰韓(新羅)もこの後の歴史をみれば滅亡した様子は全然ない。なので実は韓を滅ぼしてはいないってことがわかる。同じことを

魏志三少帝紀
韓那奚等、數十國、各率種落、降


韓の那奚らの数十ヶ国おのおの種落を率ゐて降る

ともあり、「滅ぼした」等とは本紀ではまったく言ってない。実際は韓の国々の降伏を受け入れただけのことだとわかる。しかしこの程度のことを韓伝では「滅ぼした」というのはあまりに大袈裟すぎる。滅ぼしてもないのに「滅ぼした」っていうのは春秋の筆法で、実質は「敗けいくさ」なのにあえて「勝った」と嘘を書いてるのではないか。後漢書では帯方郡を分割する前の楽浪郡が18県6万1492戸、人口25万7050人というがこれは全盛期のもので、黄巾の乱以降の人口減少を反映してない。晋書では楽浪郡が6県3700戸、帯方郡が7県4900戸、あわせて13県8600戸しかない。公孫康が帯方郡を作って人口を回復させた成果を考慮しても、晋書の数値は晋の全盛期の記録だろうから、三国時代はもっと少ない。この半分ぐらいではないか。兵は1戸から一人づつ出すので、当時の二郡の兵力はあわせてもせいぜい4、5000ぐらいじゃないか? 晋書の数値そのままでも兵9000弱。対する韓は馬韓のうち伯済国が動員できるのは馬韓の3分の1として兵3万以上、辰王が2万以上、これら連合して兵6万弱。しかし上述のように降伏したのが数十国というからもしこれが誇張でなければ「三韓あわせて七十余国で十四五万戸」の半分としても兵力7万、これはかなり少なめな見積もりだが、まぁ数十国というのは伯済国が勝手に数十国の代表と称して降伏しただけで、魏もそこはわかってて降伏を受け入れてる。実際に一大率の許可なく伯済国にそこまでの動員力はないだろう。それでも伯済と辰王あわせて兵5万なのだから、普通に考えると魏に勝ち目はぜんぜん無い。しいていば、滅ぼしたというのは「辰王が月支国にいて馬韓を治めるという体制」(もしくは「伯済国の臣智が月支国で馬韓の部族会議を主宰する体制」でも可)を廃止したということを誇大に表現しただけなのではないか。この体制はわずか9年間しか続かず、辰王はもともとの本国辰韓に帰った(もしくは部族会議を解散して伯済国の臣智は本国伯済に帰った)。この体制を廃止したのも馬韓からの要求に屈したのだろう。

プロの学者にも古代史マニアにもありがちな間違いとして、「二郡遂滅韓」を真に受け、これで箕準の系統の辰王が滅ぼされたんだという人が多い。が、それなら魏の手柄として明記されそうなもの。ところが辰王がどうなったのか何も書かれてない。これは辰王体制を作ったのが魏でそれは韓族に滅ぼされたから、あえて中国の恥(実は司馬懿の恥)にふれてないのも春秋の筆法である。

馬韓といっても実態は伯済国を中心にまとまっていた馬韓北部の国々であり、百済軍の将軍が臣幘沾韓国の臣智だったから魏志はあたかもが臣幘沾韓国が主体のように書いてるが、これは伯済国の存在を匿すため。『三国史記』ははるか後世に書かれたものだから史実から酷くズレてるが、それでも百済本紀の同年の条に当時百済王だった古尓王(こに王)が「左将(百済軍のトップ)の真忠なる者に楽浪郡を襲撃させたが復讐を恐れた古尓王は楽浪郡に謝罪した」とある。真忠の姓「真氏」は百済八大姓の一つで臣幘沾韓国の「臣」に通ずる。真忠は中国風の名前に改変されてるが臣幘沾韓国の臣智だったんだろう。同時期の辰韓=新羅の動きもわかる。高句麗の敗残兵が辰韓に逃亡してきたことを、『三国史記』は高句麗が新羅に攻めてきたとして、しかも年次も1年まちがっている。この時、将軍于老は高句麗軍に敗れて馬頭柵まで退却したという。馬頭柵は後世の馬忽郡だとすると今の京畿道抱川市で、3世紀には帯方郡の南部にあたる。ここに退却というのは地理的におかしいので、逆に攻め入ったって話だろう。魏韓戦争の際、于老は辰王として辰韓の兵を率いて、臣幘沾韓国の辰智が率いる馬韓の兵とともに帯方郡へ攻め込んだんだろう。退却というのは高句麗兵を追い出さず招き入れたって話が間違って伝わったもの。

さて、魏志の三少帝紀で「数十国が降伏した」というのも、その実は伯済国が(辰王を含む)数十国を代表して謝罪したっていう程度のことだった可能性が高いんじゃないのか。しかし、なぜ謝罪したのか? 郡を一国に喩えれば太守はその国王であり、それを殺したのだから大勝利だろう。そのまま二郡を滅ぼすことなど造作もないことと思われる。「二郡遂滅韓」なんてのは春秋の筆法どころか大嘘もいいところで、これは本当は「二遂滅」というのが真相だろう。弁韓は参戦してないから、辰韓と馬韓で「二韓」ね。

ところが不可解なことに、勝利した側が自分から折れて謝罪したのである。おそらく、巨大な軍事力をもちながら戦争中には動かなかった弁韓の一大率が仲に入って取りなしたのではないか。仲裁者である一大率を伯済国を含めた諸国は「畏憚」してるんだから命令を聞く他ない。もっとも一大率には軍事指揮権があっても外交権がないから、伊都国の難升米を呼び出したんだろう。難升米が提案した講和の条件はこうだ、(1)月支国体制は廃止。(2)伯済国は韓の非を認め、韓を代表して魏に謝罪する。実を取った伯済国は名を捨てるわけだ。(3)魏は韓を代表しての伯済国の謝罪を受け入れる。そうすると事実上伯済国は「韓の数十国」の代表ということになってしまうし、伯済国が自然に復権するだろうが、魏はそれを黙認する。だが名目上は魏は「こっちが勝った」ってことにできる。一大率としては男王派の辰韓まで守る気はなかったが、そこは伯済国が三韓すべての代表者として振る舞うために、謝罪組のリストに辰韓も入れるようにと、難升米に手を回したんだろう。これなら伯済国は辰王との対魏同盟も守れたことになる。魏は実質は敗北なんだが、仲裁者の難升米は魏の率善中郎将であり、二郡の太守より格上なんだから逆らえない。魏の率善中郎将の裁きはすなわち魏の裁きである。魏が韓に謝罪させたんだから、これを勝利と言わずしてなんとするw 魏は実を取りそこねたが名を取れた訳である。またこの時、一大率が預かっていた詔書と黄幢は難升米に渡すことができたはずだが書かれていない。なぜかというと張政の使命は詔書と黄幢を倭王卑弥呼に渡すことであって難升米に渡すことではないからである。ただ軍事戦略上、一時的に一大率のもとに留めたにすぎぬ。

新羅が高句麗の敗残兵を庇護して自国に帰化させたことで両国は関係がよくなりAD248年には初めて同盟関係に入った。しかし新羅と百済はずっと前からすでに仲が悪くなって久しく、魏韓戦争での同盟関係もAD255年に壊れることになる。

しかし今回の一大率と難升米の動きは馬韓と辰韓にはトクだが、魏にしたら自分は裏切って一兵も出さず逆に恩を売ってくるという卑怯で姑息な態度にみえたはず。帯方郡では一大率の動きに「倭国はどういうつもりだ」と不審を覚えたろう。戦死した弓遵に代わって、この年か翌正始八年(AD247)かわからぬが王頎が帯方太守として転任してきた。王頎は東川王を追撃していた武将で、つまり今回の戦争の原因に直接関与していた男でもある。だから今回の事態の真相究明と戦後処理の責任者として打ってつけの人物だった。そんな話はすぐに倭国に伝わり、同年中に倭国から載斯と烏越の二人(「載斯烏越」という一人の名ではない)が帯方郡にやってきて、男王との戦いがあったために軍を動かせなかったのだと事情説明というか、言い訳をした。魏志に

倭女王卑弥呼、與狗奴國男王卑弥弓呼、素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃狀

とある。実際に前年、魏と韓の戦争中に、倭国内でも男王と女王の戦争があって男王を滅ぼしたんだろう。男王が亡んだということを帯方郡に報告するということは、男王派である辰韓への威嚇(ないし帰服の勧告)にもなる。ここで「相攻撃する狀を説く」とのみあって男王を亡ぼしたとはいってないが、まだ残党の掃除までは終わらず、三韓諸国の動向も最終的なところまでみえていなかったので言葉を濁したんだろう。かなり微妙だが厳密には確かにそれは嘘ではない。これに対し太守王頎は、

遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之

と。えーと、「檄を為りて告諭す」は、狗奴国と仲良くしろと言ったとかの、脳味噌が腐ってるとしか思えない解釈が横行してるんですが、そんな訳ないだろ! 世間にありがちな説では倭国と帯方郡とのやりとりを「情報不足や勘違い、あるいは虚偽宣伝での外交戦」みたいにいう人も多すぎる。帯方郡のような「辺郡」といわれる役所は異民族交渉のプロであると同時に軍隊でもあるから諜報も発達してるんで、男王がすでに亡ぼされたことぐらいとっくに把握してたろう。告諭したのは同時にもってきた詔書の内容なんで、それ以外のことではない。詔書が書かれたのは正始六年(AD245)だからその詔書には狗奴国との不和の件も韓族との戦争の件も出てくるはずがない。じゃ、その詔書には何が書かれていたのかというと、そもそもの魏にとっての、「倭国の存在意義」そのものの件だよ。対呉同盟、それ以外になにがあんの?「因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之」の意味は超訳すれば「魏韓戦争は突発的な事件であり、黄幢の本来の目的とは関係ない。韓族との講和交渉では、敗けいくさだったのに勝ったことにしてくれたから、その恩に免じて今回は細かいことは不問に付すけど、詔書と黄幢は今度こそしっかり渡しましたよ、ちゃんと呉を攻めて下さいよ」ってことだ。世間では魏がすごく大国で東夷はしょぼくれてるように思ってる人が多いが、それは根拠のない思い込み。人口規模と軍事力で圧倒的な差があり「魏<韓<倭」なので気を使ってるのである。味方になって呉を攻めてくれんのならいいが、ウッカリ機嫌を損ねてこっちが攻められたらAD246の魏韓戦争のような大事になってしまう。相手が韓だから二郡が滅亡する手前まで行っても倭に止めてもらえたが、相手が倭だったらその程度の損害で済むはずがない。
この魏韓戦争が一段落したので、張政は難升米と一緒に狗邪韓国から渡海してようやく伊都国に着いた。ここから詔書と黄幢をもって邪馬台国へ行こうとした。詔書と黄幢はどちらも重大な物件で、おろそかな扱いをしたら高級官僚でも首が飛ぶクラスのもので、当然、倭王に直接渡すべきだからだ。しかし魏志倭人伝の記述では、なぜか率善中郎将にすぎない難升米に渡している。率善中郎将は(校尉も)四品相当だからけして低い官位ではなく、州刺史や郡太守より格上なほどだが、それでも本来なら倭王の代理になれる訳がない。張政の塞曹掾史は七品でかなり下だから難升米には逆らえないだろうが、ただでさえ難升米の権力が絶大で「いいから黙って俺に渡せ」と言われれば仮に張政の官職(名目的地位)が高かったとしても従わざるを得ない状況を示しているだろう。魏としては建前上の辻褄をあわせるためには難升米を倭王そのものか少なくとも倭王の正当な代理だとみなして納得するしかない。外交に関しては一切を任されてるんだから魏からみれば事実上の倭王そのものである。難升米は倭国内部の規則では軍事指揮権はないのだが(一大率とは別人だから)、一大率は外交権がなく、魏使は一大率と直接交渉できない。魏の方から軍事行動を要請するにも窓口が一つしかないのだから結局は難升米を通すしかない。魏からすると難升米一人が全権者であり倭王みたいなものになる。

ところで張政の「塞曹掾史」って肩書だが、掾史は役所の長。曹は役所で、馬曹、車曹、戎曹、金曹、法曹、倉曹、鎧曹、戸曹、水曹と職務によっていろいろあるわけだが、「塞曹」というのは他に例がなくなんのことだかわからない。張政は帯方郡の役人じゃなくて中央から派遣されてきたんだという説もあるが、それならこんな妙な肩書はどうなのか。帯方郡がオリジナルで設置した官だろうから、やはり郡レベルの役人だろう。「塞」の字は軍事要塞のこととみて、辺境守備隊のようなものとする説があるが、そんなありきたりの役人ならもっとメジャーな職名が普通にありそうに思われる。で、もしやこれ狗邪韓国なり伊都国なりに常駐する帯方郡の役人の肩書じゃあるまいか。伊都国は「兵万余」(魏略の戸万余は誤写)を擁する巨大な軍事基地だし、狗邪韓国も一大率が常駐してたなら同様だったろう。

三韓への倭からの影響
繰り返しになるが、魏の建前では馬韓をとりまとめる者は存在せず、臣智の称号をもつ国々の主帥らが思い思いに帯方郡から魏の官爵をもらっていることになってる。その中には馬韓だけでなく狗邪国や安邪国といった弁韓の国も入ってるのは上述の通り。しかし辰韓の国はない。辰王も魏から官爵をもらってる様子はない。辰韓と馬韓が対立していたのなら、馬韓が親魏派で、辰韓が反魏派のようにみえる。が、「辰王月支国体制」は魏が馬韓を抑えるために辰韓の力を借りた体制だから、矛盾しており、だからどのみち瓦解するのは時間の問題だった。「月支国部族会議体制」だったとしても伯済国の王位を否定するものだから反発は大きかったろう。魏は伯済国が公孫氏の係累であることを重視してその宗主権を否定したのに、なぜ馬韓は親魏派になり魏の官爵をもらうのか。なぜ辰韓は馬韓の支配まで任せられたのに反魏派なのか。

その謎の鍵は倭国だろう。239年の親魏倭王、大夫難升米の率善中郎将、都市牛利の率善校尉の件は倭国からも帯方郡からも、三韓へ向けて広報があったろう。それで馬韓も弁韓も倭にならって率善邑君、帰義中郎将、都尉、伯長といった官爵を受けるようになったが、辰韓はそうしなかった。

「帰義侯中郎将」とあるのは誤りで「侯」は衍字。邑君は大国の首長で臣智に与えられ、邑長は小国の首長で臣智でない者に与えられる。中郎将、都尉、伯長の3つはすべて武官で、邑君の部下に与えられる。しかし、実際はどれぐらい多く与えられたのか、さして多くなかったのか一切不明。

新羅本紀では218年・222年・224年・240年に百済と新羅が戦争してるのでこの頃の辰韓と馬韓の仲の悪さが察せられるし、232年と233年は倭国が新羅に攻め入り233年の戦では于老が倭を撃退、249年には倭人が于老を殺したという。この話は日本書紀にも「宇留助富利智干」(うる・そほりちか)を殺した話として出てくる。つまり倭国と辰韓も仲が悪かった。当時の倭国は男王と女王に分かれて争っていたことは三韓にも知れ渡っていたろう。だから同じく仲の悪い辰韓と馬韓は、一方が男王についたら他方は女王につく道理。伯済国の方が辰韓よりも帯方郡に近く、馬韓での宗主権さえ認めてくれるのなら出来れば魏とは仲よくしたいのが本音だから、新魏派の女王国に寄りたいわけよ。辰韓はそれに比べると帯方郡からかなり離れてるし、辰王は古くから代々続く血筋で、血統意識も強いから、女王(その実は女王を担がねばならない男弟)よりも単独で正統性を主張できてる男王を本物っぽく感じるわけ。で、弁韓だが、ここには狗邪韓国にもうひとつの「一大率」が常駐してるんだから当然、女王の支配圏。つまり辰韓は女王と敵対している男王国を支持していた。辰韓が魏の官爵を拒否していた理由はこれ以外に考えられない。
もっとも倭国では率善中郎将は難升米、率善校尉は牛理と、名前も、そして何をした人かも明記されてるが、韓では諸国の臣智の中には官爵を授かってる者がいるというだけで、誰がどの官爵を受けたのか一切書かれてない。辰王だけでなく弁王も伯済国の臣智も魏の官爵をもらってないばかりか名前のわかってる者が一人も出てこない。このことから韓では魏の官爵というのは、あまり重要な人物でなくても臣智でさえあればもらえるレベルの、多分に形式的なもので、おそらく帯方郡と倭国及び他の三韓諸国に対して「私は親魏派(&女王派)ですよ」と明示する程度の意味しかなかったのではないかと思われる。東夷伝の中では、夫餘伝や高句麗伝には王の名とか固有名詞が出てくるが、これは独立国の歴史を説明するため必要だから。韓に重要人物が一切でてこないということは、邑婁伝や東濊伝や沃沮伝と同じで、統一国家ではなかったのみならず、東濊や沃沮が高句麗の属国だったことを思い起こさせる。同じように、三韓もまた倭の属国だったのである。

馬韓の実態
魏志韓伝の解読はこれくらいにして、ようやく元の話に戻れる。書紀の「百済・新羅・任那」と魏志の「馬韓・辰韓・弁韓」の境界線が一致しないことだ。

この頃は伯済国の宗主権は馬韓の北部と西海岸沿岸部だけと思われ、中部、南部の馬韓は伯済国の下にはなかった。そこは魏志韓伝のいうような、無秩序に放置された権力の空白地帯だったとは考えられないし、別な言い方をすれば北に伯済国、南に弁韓があってその緩衝地帯だった等ということもありえない。
もし狗邪韓国に常駐していた一大率が『日本書紀』のいうような任那日本府のようなものだったとすると、その管轄範囲である任那とは、弁韓地域にとどまらないもっと広域の地名である。後世の任那の範囲は加羅諸国(弁韓)だけでなく継体天皇の時に百済に割譲した四県二郡も任那に含まれている。その前には雄略天皇の時に「久麻那利」(熊津:くまなり)の地を、さらにその前には神功皇后の時に四邑を百済に下賜している。「久麻那利」は今の公州市(馬韓の古蒲国)のことだが、この場合は公州を中心とした一帯(忠清南道のほぼ全域と忠清北道の西半分?)。四邑は比利(ひり)、辟中(へきちう)、布彌支(ほむき)、半古(はんこ)でそれぞれ現在地は、忠清南道の西海岸が比利(庇仁)。全羅北道の西海岸の北が辟中(金堤)で南が布彌支(茂長)。全羅南道の西海岸が半古(羅州か潘南)。以上の四県二郡・久麻那利・四邑はすべて馬韓の地であり百済に下賜される前には任那の一部だった。つまり『日本書紀』では弁韓だろうが馬韓だろうが関係なく、新羅や百済が領有してないところはすべて任那の一部という扱いになってる。
このことから察するに、伯済国の宗主権の及ぶ馬韓諸国を除いた残りすべての馬韓諸国は、狗邪韓国に常駐した一大率の管轄下にあったと考えるべきだろう。伯済国・辰王(辰韓)・弁韓(一大率)という、まとまった政治勢力に囲まれて、広大な馬韓が政治権力の空白地帯だなんてことは不自然すぎてあり得ることではない。

しかしそうすると、前述の馬韓の「綱紀すくなく、邑落雑居し、よく相制御すること能わず」という文から、揉め事を治めることもできない有様はどうしたことか、とツッコミが入るかな? どうも「邑落雑居」という言葉からすると、敵対する者同士が雑居してるようにも聞こえる。
さらに韓伝には馬韓について

國邑各立一人、主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑、名之為蘇塗(中略)諸亡逃、至其中、皆不還之。好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠、而所行善悪有異


国々には「天君」という司祭職が「蘇塗」という神殿施設を管理しているが、そこはアジールの機能があって、犯罪者が逃げ込むと逮捕連行できないので、好んで悪事をなす

と。これ単に与太者や不良グループやギャングが横行して治安が悪いということを言ってるのではない。神官がなぜ悪の手助けをするのかといえば簡単で、日本国内の事情と同じく、土俗信仰の神官だからそういうものを馬鹿にする儒教や中国人が嫌いで、魏と結んでいる女王も嫌いな「男王派」だから。「好んで賊をなす」の「賊」ってのは魏や女王派からみての賊であり、辰韓や男王派からすれば正義の蜂起、義挙なのである。
この文の後すぐに続けてこうある、

其北方近郡諸國、差暁禮、其遠處、直如囚徒奴卑相聚


其の北方の近郡に近き諸国はいささか礼を暁るも其の遠き処はただ囚徒奴卑の相聚まる如きのみ
北部の帯方郡に近い諸国はいくらか「礼」を知ってるが、遠いところ(南部の馬韓)はまるで囚人か奴隷のようだ

という。これ馬韓の未開ぶり、野蛮さを表わした文だと思われがちだが、そうだろうか? 南北で非対称になってないか。「礼」は現代人が考えるようなマナー、エチケット、礼儀作法のことではなく、儒教の「礼」の概念だろう。もともと

『礼記』
礼不下庶人、刑不上大夫


礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず

というように、礼は士大夫のもので庶民は関係なかった。だが孔子は身分に関わらず誰でも礼を含む学問をして君子になれるとした。つまり理論上は囚人や奴隷でも礼を学んだ者はありうる。
庶民でなく支配階級の問題なのであるから「礼」のもっとも重要な意味は上下関係、指令系統のつながりのことなのである。北部の諸国が「礼」を知るというのは伯済国を通じて魏がその諸国に命令できるという意味であり、伯済国がそれら諸国を把握してるという意味でもある。「差暁」もニュアンスの微妙な言葉で「差」は「やや、ちょっと、すこしだけ」の意味なのに「暁」は「よく知ってる、深く知ってる」の意味だ。これを合わせて「差暁」と言ってるので「ちょっとしか知らない」のか「詳しくよく知ってる」のか、訳が分からない。これはどういうことかというと、馬韓諸国(の中の反魏派、男王派)は魏をよく思ってないから反抗的なんだが、よりによって魏が馬韓の代表権を取り上げたはずの伯済国を通せば(力づくで)従わせることができる。こいつらは「礼」を知ってんだか知らないんだか、という皮肉なのである。
これに対して南の方では囚人や奴隷のようだというんだが、未開ぶりや野蛮さを表現する言葉など他にいくらでもありそうなのに、この喩えはへんじゃないか? 高貴な囚人もいれば立派な恰好した奴隷もいるんだから。これは未開ぶりや野蛮さを言ってるのではなく、「強制された境遇」をいってるのである。馬韓諸国は北が伯済国の支配下、南が弁韓の一大率の支配下にあって分割されてるが、どちらも親魏派かつ女王派である。しかし馬韓諸国の中には辰韓と同じく男王派で反魏派という人々がたくさんいた。辰韓も、こっちの仲間になれと盛んに誘いをかけてもいただろう。馬韓の北部(京畿道)は伯済国を中心にまとまっていたんだろうが(いささか礼を暁る)、馬韓の中部南部(忠清道・全羅道)では一大率の武力の下で厳重に管理されてるから囚人か奴隷のようで(囚徒奴卑の如し)反抗できない、ということを言ってるのだ。囚人は看守に、奴隷は主人に逆らえないように、馬韓人も一大率には逆らえない。が、抗争がないわけではない。囚人同士、奴隷同士の争いがある。雑居してる「男王派=反魏派」vs「女王派=親魏派」の騒動が絶えない(綱紀すくなくよく相制御すること能わず)、「女王派=親魏派」は馬韓においては体制派なので臣智たちが守ってくれるが、それに対抗する「男王派=反魏派」は蘇塗の天君たちが味方してくれてたんだろう。一大率がいくら軍事力あっても古代人はカミガミには手を出せない。伯済国や倭国(女王国)からみれば、この馬韓の騒動はぜんぶ辰韓が悪いのである。一方、辰韓からみると伯済国も弁韓も悪の陣営なのだから、両者は仲が悪くて当然なのだ。

結局、魏志韓伝の描く3世紀の三韓の政治的な境界線は表にすぐわかるように書かれてない。馬韓の中南部は弁韓と一つの勢力なのであり、馬韓の北部はすでに伯済国を中心にまとまっており、三韓の実態は4世紀以降の任那・百済・新羅が鼎立していた情況と大差ないのだ。しかしそれは魏志韓伝の文面に表われない。馬韓が北と南で別の国になってることがわからないように書いてあるし、魏韓戦争も「二郡が韓を滅ぼした」と真逆のことを書いている。
魏が消したはずの伯済国の存在、月支国体制の愚策ぶり、AD246年の魏韓戦争での大敗と屈辱的な講和。馬韓と弁韓に対する一大率の絶対権力、三韓における帯方郡の無力さ。それら魏(というか晋だけど)の面子にかかわることはすべて建前上、無かったことにされている、春秋の筆法で。

百済建国と馬韓の分割
馬韓は3世紀の段階ではすでに「伯韓」か「済韓」とでも書くべき存在だったが、伯済国の宗主権を否定した魏では一時代前の馬韓という名称を使ったのである。高句麗は121年に玄菟郡、その翌年には遼東郡に攻め込んでいるが、2回とも自国の兵以外に濊貊(江原道の東濊)と馬韓の兵を伴っている。魏志によると正始六年(245年)以前には東濊は高句麗に属していたとあるから、高句麗軍の中にに東濊兵がいるのはわかる。が、馬韓兵もいたのだから121~122年の頃は「馬韓と高句麗の関係」はすでに「東濊と高句麗の関係」と同じものになっていたように思われる。つまり馬韓は高句麗に支配されていた。その支配の根拠地として築かれたのが「乾馬国」で、馬韓という名はこれから起こったことは今回のシリーズの【その1】に書いた通り。121~122年の高句麗の二郡への侵攻に対し、高句麗の宿敵である夫餘は漢帝国に援軍を出して二郡を救っている。この時、高句麗軍に東濊兵のみならず馬韓兵もいたことに、夫餘も気付き、対抗上、高句麗から馬韓を奪い、我が物にしようとしたんだろう。それが伯済国の建国と、伯済国による馬韓北部の制圧へと繋がっていく。

『三国史記』百済本紀では後来の侵入者として馬韓の北部に勝手に国を建てた百済が、馬韓王と対立し、ついに戦争で馬韓を滅ぼしその領土をそっくり頂いたことになっているが、学界の通説では馬韓王などというものは存在せず、馬韓の諸国を長い年月をかけて少しづつ併合していったことになっている。『日本書紀』の描写は微妙で、最初の方では任那日本府の勢力圏と百済の間にはどこにも属さない小国がたくさんあるような雰囲気なんだが、後の方になるといつの間にか任那と百済は国境線で接してることになってる。このへん、特に最初の方の記述は『日本書紀』の文面もずいぶんと不可解なことになっていて、神功皇后が新羅の不正を糾すために派遣した荒田別(あらたわけ)の軍が新羅を降伏させた後に、なぜか関係のない加羅七国(弁韓)を平定し、さらに西(馬韓の地域)に移動すると「四邑おのづから降りぬ」(4つの国が降伏した)。この四邑は加羅七国とは遠く離れてるので、その間の地帯がどうなってたのか説明がない。ここは誤脱があり、降伏したのは四邑を含む馬韓全体なのではないか。四邑を百済に下賜する話との間に文章が抜けているのである。
中国側の史料がいうように百済の実質的な建国が公孫度と尉仇台によるものとすればそれは2世紀後半で、馬韓のうち北部(京畿道)の諸国をとりまとめていた。それより南にすぐには進出できなかったのは、馬韓の抵抗が大きかったんだろう。そこで書紀が伝える百済(伯済国)と日本(倭)の国交樹立の説話の通り、百済の方から日本にわざわざ「属国になりたい」とアクセスしてきたのは馬韓を制圧するのに支援を取り付けるためとしか思えない。しかし実際に日本と百済の共同作戦となると、馬韓はことごとく倭(日本)に降伏した。なぜかというと、百済の侵略に抵抗していた「馬韓」(乾馬国を中心とする中部、南部の諸国)は建前上は高句麗の属国だったんだろうが、本国が遠く離れているので目の前の百済と戦うにはアテにできない、かといって百済の下につくのも嫌だから。そうなると百済についていた北部の馬韓も「じゃ俺たちも一緒に日本に」となるから、北部諸国の連合体としての百済は崩壊してしまう。日本としては百済との国交もあり、百済が独力で勝ち取ってきた宗主権を、関係ない日本が横からでてきて否定するわけにもいかない。なので、自主的に降伏してきた馬韓の中部と南部は任那の勢力圏に含むことにはしたが、すでに伯済国の配下になっていた北部の諸国は伯済国(百済)の宗主権をそのまま安堵してあげたってわけだろう。乾馬国は今の全羅北道の益山だからかなり南に寄っており、『三国史記』がいうような北方に存在した初期の百済がいきなりそこまで併合しちゃう話は辻褄が合わない。
邪馬台への行程【その7】」に続く。
【その7】では水行陸行の日数を倭人伝での里単位や実際の距離に換算します。

邪馬台への行程【その5】~「至」と「到」・辰王・三韓~

改稿:2679年[R01]11月19日TUE (初稿:2679年[R01]10月23日WED)
邪馬台への行程【その4】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その4】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「至」と「到」の使い分けを春秋の筆法でみると?
倭の諸国の行程で、狗邪韓国と伊都国だけ「到」の字で、他はすべて「至」になっている。この二文字は、使い分ける場合には「到」が最終目的地で「至」はそれ以外の通過点ということになるが、必ずそう使い分けると決まってるわけでもない。漢文の用例を大量に調べあげる人は昔からいて、使い分けてる例もあればまったく同じに使ってる例もあり、いろいろ。

倭人伝で「到」の字の使われている狗邪韓国と伊都国に、本来なら「到」の字を使うべき邪馬台国を加えた3ヶ国で「到」の字の使い分けの組み合わせは以下の8パターンがあり得る。

(A)邪馬台国にのみ「到」
(B)伊都国にのみ「到」
(C)狗邪韓国にのみ「到」
(D)3ヶ国とも「到」
(E)「到」の字なし(「至」で統一)
(F)伊都国と邪馬台国に「到」
(G)狗邪韓国と邪馬台国に「到」
(H)狗邪韓国と伊都国に「到」

(A)と(E)は通常の書き方であり問題なく、特に(E)は『梁書』と同じでもある。(B)と(F)はやや異例だが魏使が常駐するという伊都国の特殊性に鑑みて理解できなくはない。問題は狗邪韓国に「到」の字を使う(C)(D)(G)(H)で、この4つは以下の3通りの解釈ができる。

(甲)「至」と「到」を同義の文字として使い分けず混用している
(乙)使い分けようとしたのだが狗邪韓国の「到」はただの誤記
(丙)「春秋の筆法」で遠回しにウラの意味を示そうとしている

上記3通りのうち、一応(甲)と(乙)は無いものとする。話が終わっちゃうからねw
で、もし春秋の筆法だとしても(C)と(G)はわかりやすい。実は狗邪韓国までしか行ってない、倭国に行ってないってことを示しているわけだろう。だが (D)と(H)は倭国内にも「到」の字があるんだから「狗邪韓国までしか来ていない」とは読めないし「伊都国までしか来ていない」と言いたいのならなぜ狗邪韓国に「到」の字があるのか意味がわからない。この、意味がわからない最後の(H)が倭人伝の書き方で、もし使い分けるとすれば最後の終着点である邪馬台国で「到」の字を使うべきなのにそうなっていないんだから、一応、倭人伝では「使い分けられてはいない」。伊都国は魏の使いが常駐するところで倭国滞在中の定宿(じょうやど)だったろうから「到」の字でもいいような気もするが、それは邪馬台国で「到」の字を避けた理由にならないし、狗邪韓国で「到」の字を使った理由にもならない。だから、通常の漢字の意味からすると、どうも使い分けは無いっぽい。そう正しく理解したればこそ『梁書』ではすべて「至」の字で統一してるわけなのだ。そんなこんなで論争史が長い割りに、最近はどうやら最終的にはたいした意味はなかったってことに落ち着きそうな気配だ。

だが、「にもかかわらず」昔は使い分け説の方が有力だった。使い分け派の眼目は2つあり、1つは魏使が伊都国を最終目的地としていて、邪馬台国へは行ってない説。もう1つは伊都国を中心とした「放射状説」(「到」の字だけが放射説の根拠ってわけではないのはもちろん知ってるが)。放射説はさておいても、行ってない説はありえないことはすでに説明したが、そもそも「到」の字が伊都国にのみ使われてるならともかく「狗邪韓国」にも使われてるんだから、両方に共通する説明ができなければおかしい。狗邪韓国からも放射状の行程があるとして「日数表記」の邪馬台国と投馬国への出発地とみる説もあるが、なんで伊都国からなり不弥国からなりの、もっと近いところからの行程が抜けていきなり狗邪韓国からの直行コースが出てくるのか意味がわからない。
また狗邪韓国は明らかに通過点であり最終目的地ではない。そこに数日でも停泊したに違いないとか、倭国の領海に接してて、ここから倭国だからとか、いろいろ理屈をいう人がいるがまったく関係なくね? 区切りっぽい何か雰囲気あればなんでもコジツケようってだけじゃん。狗邪韓国と伊都国だから漠然とした雰囲気だけは確かに共通してるが、そんな程度でも「到」の字を使ったのなら終着点の邪馬台国にはなおさら「到」の字じゃないとおかしい。そういうつかみどころの無いムード話なら無いのと同じで、あるんだと絶叫するだけアホだぞw 普通はここで解決とするわけだが、俺は釈然としないね…。お前も釈然としないだろw アホだからなw 陳寿も俺らアホの仲間かw そう、一字の違いに「微言」を隠すという秘技「春秋の筆法」を駆使する陳寿先生が、不用意な雰囲気レベルの感覚や気分で適当に字を変える漢(おとこ)のはずがないじゃないかぁ。

さて本題に入ろう。ういろう食おう。春秋の筆法には、表面上の意味と裏に隠された真意があり、前者は一般人向けだから漢文として普通に読んだ場合の理解。『梁書』はこの水準で魏志を抜粋引用したわけだ。現代の通説もこっちの解釈だな。だが、注意深い読者は「あれ? なんで「至」と「到」を書き分けてんだろ? 通常の漢字の意味での使い分けに合ってなくね?」と気づく。が、春秋の筆法を知らないと「まぁ、行程の中の区切りっぽい地点だからなんとなく到の字の方が雰囲気あってるよな」という浅い理解で終わってしまう。しかし邪馬台国で「至」になってるのに気づけば疑念が深まるはずで、ここで「ははぁん、伊都国までしか行ってないのかな?」と一瞬思うんだが、もしそれが隠された真意なら狗邪韓国は普通に「至」で済ませて、わざわざ「到」の字なんか使わない。つまりここで陳寿が言いたいことは「魏使は伊都国までしか行ってない」なんてことではありえない。
『梁書』のように全部「至」で通すか、もし使い分けるのなら順次式なら邪馬台国でのみ「到」、放射説なら伊都国でのみ、もしくは伊都国と邪馬台国で「到」。直行式も放射説も狗邪韓国で「到」の字が出る筋合いはない。
このような一見乱れたような「到」の字の使い方が意図的な「文(ふみ)の錯(たが)え」なのである。

伊都国と狗邪韓国に何かの共通点があることを示そうとしているのはわかるが、それは何か。むろんそれは本文中で明示されているはずだ。といっても狗邪韓国には弁韓の一国であることと、倭への出港地(実は韓への入港地だがそれはともかく)ということ以外なにもなく、この2点は伊都国に共通させようがない。

そこで伊都国をみると

(1)代々の王がいる
(2)代々の王がいるがその王は倭の女王の支配下にある
(3)帯方郡の使者はいつもここに駐在する
(4)一大率がいる

と、かなり豊富な情報がある。で、この4点すべて狗邪韓国にも共通してるのだろうか?

(1)は、もしそういう事実があったのなら、そのまま書いても何の不都合もなさそうだから「春秋の筆法」の出る幕もないだろう。だから実際に魏志韓伝には「十二国また王あり」とある。これは弁韓の12国をさすというのが定説だが、各国ごとに王がいて12人の王なのか、12国を統べる1人の王がいるのか解釈が分かれる。弁韓12国をすべる1人の王というのはつまり弁韓の王で、この他に「辰王」というのがいてこれは字づらからして辰韓の王だろうから、弁韓の王は「弁王」ということになる。馬韓の「馬王」とかもいたんじゃないのかと思われ。春秋の筆法で隠されてるのである(なぜ辰王だけ出て馬王と弁王は出てないのかの理由など今回は邪馬台国と関係ないので詳しくやらないが)。
この場合の弁王というのは後世の加羅諸国の盟主だった金官国=駕洛国(3世紀の狗邪韓国、書紀の「南加羅」:今の慶尚南道金海)の歴史を記した『駕洛国記』に出てくる金氏王朝ではない。同じく加羅諸国の盟主だった伴跛国(=大加羅国、3世紀の弁辰半跛国:今の慶尚北道高霊)の王家である。後世の『三国遺事』等では駕洛国を伽耶諸国の中心国としているが、『日本書紀』では6世紀の南加羅の滅亡後の加羅諸国(=弁韓諸国)の盟主は大加羅=伴跛国が主体のように読める。なので、通説では加羅諸国における宗主の地位が前者から後者に移ったとされることが多いが、実は後者の方が弁韓の盟主としては古い。なぜなら今回のシリーズの【その1】で詳しく説明したから根拠は省略するが弁韓の「弁」は弁辰半跛国(原文に「半路国」とあるのは誤写)の「半」で、弁韓とはもともと「半跛韓国」の意味から付いた名前だからだ。つまり弁王(=弁韓の王)というものは弁辰半跛国の、半跛国王である。さらに魏志韓伝に

臣智或加優呼『臣雲遣支報・安邪踧支・濆臣離兒不・例拘邪秦支』廉之號


たぶん「臣智或加優呼『臣雲新暹支・安邪踧支・臣濆雞辰支・拘邪秦支』之侯號」の誤記。
「例」の字は「佝」か「𠛎」の誤記で「佝拘」または「𠛎拘」は1字で済む字を誤って二度書きしたもの(衍字)。
「兒」の字は「辰・兂・冘・卂・先」のどれかの誤字で、いずれもシンと読む。

臣智あるいは優れるものに加へて呼ぶに「臣雲新の暹支」「安邪の踧支」「臣濆雞の辰支」「拘邪の秦支」の侯号あり
臣智たちのうち、あるものは強大で地位が高いので、「馬韓の臣雲新国の臣智」「弁韓の安邪国の臣智」「馬韓の臣濆沽国の臣智」「弁韓の狗邪国の臣智」という(4人の)諸侯としての称号を加えて呼ぶ
【注】「臣雲新国・安邪国・臣濆沽国・狗邪国」が優れるものだが馬韓の国と弁韓の国が区別なく混ざってることに重大な意味がある。なお、ここの文を最初に「臣雲新(国)の遣支報・安邪(国)の踧支・臣濆沽(国)の不例・狗邪(国)の秦支廉」と解読したのは李丙燾という昔の学者で、彼は「遣支」は「険側」の別表記、「踧支・秦支」は「臣智」の別表記で「不例」は「樊濊」の別表記とした。また「報」と「廉」は名前かとしている。しかし「不例」は「樊濊」だというのは音韻的にムリじゃないか? ここにあげているのは「優れるもの」であり諸国の中のトップクラスだろうから、階位2位の険側や3位の樊濊が混じっているとするよりも、すべて臣智と考えた方がよい。他にも俺の説であれこれ修正を加えた。

とあり弁韓の中では安邪国の臣智(=踧支)と拘邪国の臣智(=秦支)が「優」(まされるもの)だった(臣智は大国の首長の称号)。つまり3世紀にはすでに狗邪韓国(=金官国)も有力になってはいたが王より下の臣智であって、王ではないことがわかる。ここに半跛国が出てこないのは半跛国の首長は臣智より格上の「弁王」だからだろう。李朝時代の伝説では大加羅の初代の伊珍阿鼓が次男で、金官国の初代の首露王が三男の兄弟だという。二人はAD43年に即位してるから3世紀にはすでに二つの王家が存在していたことになるが、3世紀には金官国(狗邪韓国)の王は(弁韓諸国の内部では王と認められていたかもしれないが)、魏志韓伝の建前では王と認められておらず臣智の位に留まっていたことがわかる。

(3)もまた、もしそういう事実があったのなら、そのまま書いても何の不都合もない。なのに書いてないのだから単純にそういう事実は無かったとも考えられるし、差し支えはないのだが重要じゃないから省かれたとも考えられる。ただ、後述のようにここに一大率がいたのなら帯方郡の使者が常駐していてもさほどへんではないし「到」の字義からしてそれもまたあり得そうではあるが、まぁ、どっちでもいいことだから関係ない。

そうすると春秋の筆法で隠された事実は(2)と(4)だとわかる。ただしこのブログの別記事で伊都国の「統属女王国」の部分は『魏略』逸文と照合の上、「奴国に属す」の意味であり「女王国に統属する」の意味ではないとした(詳細は該当記事参照)。伊都国にいるけどそれは伊都国王ではなく奴国王であり、伊都国に出向してるだけだ、と。そうなら(2)も狗邪韓国の王は狗邪国にいたが、狗邪国王ではなく近隣の別の国の王であり、狗邪国には出向してるだけだということになる。これも別に魏の建前に抵触するとは思えないので、このような事実があったとしても隠す必要はないわけで、そんな事実はなかったから書かれてないのだとも考えられるし、隠したわけではなくたまたま書かれてない(重要でないから省かれた)だけかもしれないし、そこは決め手がないが、まぁどっちでもいい。しかし通説どおりの「倭の女王の支配下にある」という解釈も、結果的にその意味だけは生きている。なぜかというと(4)の一大率がいてこれは倭王の派遣した官で管轄下の諸国を支配してるのだから「統属女王国」の文字があってもなくても、一大率がそこにいるのならそこは倭国の領土も同然ということになる。つまり春秋の筆法によって隠された事実とは「一大率が伊都国と狗邪韓国の両方に一人づついた」ってことだよ。一大率は「女王国以北を検察する」んだが、三韓の諸国も確かに女王国以北には含まれる。そして「諸国これを畏憚」して、その様は「刺史の如し」だよ。こんなものが弁韓の狗邪国(今の金海)にいたといったら、へんに聞こえるか? ちょっとした歴史マニアなら全然へんには聞こえない。まさに任那日本府そのものじゃんw

もう一つの「一大率」
任那日本府については左巻きがうるさいので、これを実在したと考える学者でも、あーでもないこーでもないと遠回しな理屈をつけて朝鮮総督府のようなものとは違うんだと力説してる。が、総督府だったら困るのは歴史的な経緯でいろいろと面倒くさいことになってる現代人の都合であって、古代人の知ったこっちゃないんじゃないかい? 任那日本府というのはね、これはね、朝鮮総督府みたいなもんなんですよwww んなわけないっつのw まぁでも韓国統監府ぐらいのものではあるよwww え?違いがわからない? そんな歴史オンチは豆腐の頭にカドぶつけて氐ねw 氏ねなんていってないぞ、氏質都札じゃなくて氐質都札ですから。間違えないでね原田実先生w つかこんなネタ誰もわからねぇか、みんな歴史オンチなんだからぁ、ホントにもう。これからはね、皇国史観ですよ、団塊の爺婆の皆さん! まぁ冗談は顔だけにして話もどそう。『新撰姓氏録』には崇神天皇の時に任那が新羅と争ってるために将軍の派遣を要請してきたので、和邇氏の祖、塩乗津彦命(しほのりつひこのみこと)が任那に渡り鎮守となったという話が出てくる。ここで将軍というも鎮守というも「宰」(みこともち)のことで鎮守将軍はその役割を漢文的に表現したもの。すなわちこれが任那日本府の起源であり、AD391年どころか神功皇后の新羅征伐よりずっと古い。現代の学者は古記録や古伝承を後世に作られた説話とみなして史料的価値を認めず、任那日本府の起源を『広開土王碑』に出てくるAD391年の倭国の半島進出に求める見解が多い。これだと卑弥呼の時代に任那日本府のようなものがあるはずないということになるが、俺は卑弥呼の時代すでに一大率が狗邪韓国(=弁辰狗邪国)にも派遣されていたと考えるから、むしろ記紀や古伝承が正しいと思うんだよね。

邪馬台国がそのまま大和朝廷だという説の場合には、伊都国の一大率が後世の太宰府帥の前身だという言い方は昔からありふれてる言説だ。任那日本府の日本府という字は奈良時代の表記で、篤胤以来『続日本紀』の注に引用された『仮名日本紀』によって古くは「倭宰」と書きヤマトノミコトモチと読んだと考えられているが、大宰府も和訓ではオホミコトモチノツカサと読む。任那日本府も宰(ミコトモチ)、大宰府も宰(ミコトモチ)。2つの宰(ミコトモチ)、2つの一大率がセットになって対馬海峡をはさんで呼応しているのである。
後世の律令で大宰帥(だざいのそち)の帥がソチまたはソツと読むことから倭人伝に出てくる一大率の率もスイではなくソツと読むべきだという説はだめ。大宰帥の読み方は一大率をソツと誤読したことから始まったもので、一大率はスイが正しい。またミコトモチというのは日本国内文献でさかのぼれる最古の言い方ではあるが、さすがに3世紀の言葉ではない。以前にこのブログでは伊都国の大官「爾支」(にき)が一大率のことだと推定した。だとすると狗邪韓国の一大率も日本語では「爾支」(にき)だったと思われる(今回の記事ではわかりやすさを重視して「一大率」と書いてるが、頭の中では「爾支」(にき)と変換しながら読まれたし)。

さてw 任那日本府(のようなもの)が、はたして3世紀にすでにあって、当時中国から邪馬台国と呼ばれたヤマト朝廷が朝鮮半島を支配していたのであろうか?www「魏志倭人伝にそんなこと書いてないじゃん」とツッコまれるだろうか? そんなことはもしあったとしても、魏の建前ではそれは認められなかったとしたら、ストレートに書かれてないのは当然じゃんよ。
ちょっとこのへんは三韓の情況が魏志にどう書かれているかという話とも関連してくるので、以下、詳しく展開しよう。

※↓日本の古代史オタに間違った古代史像を刷り込んだ罪深い地図
井上秀雄
どこがおかしいかわかるかな? 最低でも5か所はあるよw ちなみに井上秀雄は(今じゃ)別に学界の通説でもないからなw

辰王と月支国の謎解き
もし狗邪韓国に常駐していた一大率が『日本書紀』の任那日本府のようなものだったとすると、その管轄範囲は任那である。で、『日本書紀』の描く朝鮮半島南部の様子は東の新羅、西の百済、南の任那と三区分になっているが、これは魏志韓伝の辰韓・馬韓・弁韓という区分とは国境線が一致してない(詳細は後述)。
ただしこの『日本書紀』の認識は、新羅が辰韓を、百済が馬韓を統合した4世紀以降の情況を反映させたもので3世紀の情況ではないというのが定説だろう。3世紀の三韓の情況は魏志韓伝を基本に考えるのが常套になっており、一見したところ『日本書紀』の記述とはまったく違ってみえる。だが、この魏志韓伝には「辰王」なる者が出てくるんだが、この記述に矛盾があって解釈がややこしく、その部分には学界にも通説があるわけではない。だからまずは魏志韓伝を解読してみようじゃないか。

魏志の馬韓伝によると、馬韓は朝鮮王の箕準がやってきて馬韓を征服して韓王を名乗ったがその子孫は途絶えたともいってる。この話は事実ではないということはいずれ機会を改めて詳細に説明したい。今回は省略するが、カタクナに信じたがる人がいるので今仮に百歩譲って事実だとしても、その王家はすでに消滅して存在していないという。

其俗、少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雑居、不能善相制御


その俗、綱紀すくなく、国邑に主帥あれども邑落雑居し、よく相制御すること能わず

とあり、馬韓の諸国はバラバラ勝手に存在して、馬韓全体をまとめる王(つまり馬王)のようなものは無い。王がいないから無秩序になってると言いたいらしいが、自治が機能していれば東濊や沃沮のように王がなくても争乱なく穏やかに治まってるはず。伯済国(書紀でいう百済)も出てくるが、馬韓諸国の中の一つにすぎず、当然、馬韓を支配するような存在だったようには書かれていない。それなのに

辰王、治月支國


辰王は月支国に治す

とあり。この辰王がクセモノで、業界では「ニギハヤヒ電波」に次いで「トンデモ辰王説」が多くてウンザリする。俺も長い間、箕子朝鮮実在説と辰王のトンデモ解釈に振り回されて遠回りしたけど、ああいうのって面白いからなかなか目が覚めないんだよ…。それはさておき、魏志韓伝では辰韓の説明の前なのに唐突に辰王なるものが出てくるが、冒頭に「辰韓は古の辰国なり」とあり、「辰韓=辰国」なら「辰韓王=辰国王」だろうし、要するに、読んで字のごとく辰王とは辰韓の王でしかない。辰王(辰韓の王)の宮殿や政庁は馬韓の月支国にあったという意味になる。月支国は誤記で「目支国」が正しいというのが有力説だが、見た目かっこいいのでこのまま月支国と書くことにする。なお辰王と箕準の関係も一切ふれられてないし、なぜ辰韓の王が辰韓でなく馬韓にいるのかも馬韓伝の中では説明がない。かといって辰韓伝を読んでも、辰王が馬韓にいるということは辰韓伝の中では書いてない。馬韓は政治的には一つのまとまりではないのだから、馬韓が辰王を任命してるとか、馬韓が辰王を使って辰韓12国を支配してるとかはどうにも考えにくい。岡田英弘は帯方郡との交易のための通商代表部を置いてたんだというが、それが中国からみて王というほどのものなら金印なり銀印なりと一緒に官位を授けそうに思われるが、そういう話も一切ない。馬韓の臣智たちにはいろんな官位を授けているのに、だ。古くは李丙燾を初め何人かの学者が魏から官爵をもらっていた臣智たちは辰王の宮廷にいた辰王のとりまきのようなことを言ってるが、李丙燾の個人的な解釈であって、本文にそんなことは書いてない。原文は辰王についての文と魏の官爵についての文の間に「臣智或加優呼、臣雲遣支報・安邪踧支・濆臣離兒不・例拘邪秦支、廉之號」が挟まっており、それに続けて

其官有、魏率善邑君・歸義中郎将・都尉・伯長


(原文の「歸義候中郎将」の候の字は衍字)

とある。だから「其の官」の「其の」ってのは臣雲新国・安邪国・臣濆沽国・狗邪国の4ヶ国に代表される臣智たちのことであって辰王ではない。魏志は劉昕と鮮于嗣を派遣して帯方、楽浪を平定したという記事に続けてすぐ

諸韓國臣智、加賜邑君印綬、其次與邑長


諸韓国の臣智に邑君の印綬を加賜し、其の次なるものには邑長を与ふ

とあるのにここにも辰王はでてこない。二郡を接収してすぐ「辰王ぬき」で臣智たちに官爵を与えている。安邪国と狗邪国は馬韓でなく弁韓だが、辰韓の国は一つも入ってない。馬韓と弁韓の、各国の首長である臣智たちは辰王とは無関係に各自で帯方郡から官位を受けている。辰王は辰韓の王なんだから、どうも「馬韓・弁韓」と「辰韓」とでは政治的な立ち位置に違いがありそうだ。また、後漢書を拡大解釈して辰王は三韓ぜんぶの王だと言いたがる人がいるが、それも魏志の記述に反する。

辰韓伝では

(辰韓の)十二国は辰王に属す

とあるから辰韓はどうやら王を中心に一つにまとまってるように受け取れる。つまりこれが『日本書紀』でいう新羅のことで、多少は国境線のズレはあったとしてもほぼ同じものと見ゆる。ただ、問題点があり、原文は

辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立為王


辰王は常に馬韓人を用ゐてこれをなし、世々相継ぐ。辰王みづから立って王となるを得ず

となっている。辰王は馬韓出身らしいが代々続いているんだから辰韓人も同然じゃないのか?「不得自立為王」(自分では王になれない)ということについて『魏略』では辰韓12国が馬韓に支配されてるからだと解釈してるが、そんな力のある辰王が馬韓人なのに、馬韓はまとまりがなく上記のような有様なのはどういうことか理解に苦しむ。「自分では王になれない」ということが馬韓の支配下にあることをいってるのなら辰王は辰韓人のように聞こえるし、逆に辰王自身が馬韓人なんだから馬韓から任命されてる総督のようなものだとすると「自分では王になれない」なんて辰韓人の立場のようにいうのもおかしくないか? しかも「自分では王になれない」といいながら辰韓の王は昔から代々続いてる家柄だとも書いている。ならば何者かが王を任命するにもその王を否認して別の王を擁立するにも、どのみち特定の家系からしか王を選べないことになる。それと辰王は辰韓じゃなくて馬韓にいるというのが事実なら極めて重大な話だろうに、辰韓伝にはそんな話は一切ない。これは単に部族会議で王を推戴することによって王に貴族層が承認を与え忠誠を誓う儀式のことを言ってるにすぎまい。特に新羅は王家が3つあって王位をたらいまわしにしていたが、新羅の貴族層は六部といって慶州盆地の豪族でもあり、3王家が居住地を通じて六部のうちの3部とそれぞれ結びついてもいた。3王家の王位争いに貴族層の利害が複雑に絡まり、代替わりのたびに会議での駆け引きが重大なものになったろう。

『新唐書』東夷伝新羅条
事必與衆議、號「和白」。一人異則罷


事必ず衆と議り、『和白』と号す。一人異なれば則ち罷む
事を行うに必ず会議をひらき、これを『和白』という。一人でも異を唱えれば決定しない

とあり。その「和白」で次の王が決まるから「自分では王になれない」のであって、馬韓から送り込まれてくるからではない。馬韓はバラバラであり、まとまった勢力ではないのだから、辰王が馬韓人だといっても「馬韓という一つの勢力」を代表してるわけでもない。辰韓人は中国からきた移民だと書いてあるから、馬韓人だというのは要するに中国系の移民ではなくもともとの原住民系の家柄だということにすぎない。

問題はその辰王(書紀でいう新羅王)が馬韓の月支国にいたという件だ。
日本書紀の描くところでは魏志のいう馬韓にあたる地域は北が百済で南は任那で分割されてることになってる。けして支配者のいない権力の空白地帯ではない。これは魏志でも馬韓が政治的なまとまりをなしてない、ただの地域名でしかないことに一脈通ずる。ただ、百済の存在が魏志と書紀とで違う。

『三国史記』百済本紀では百済の建国はBC18年、『三国史記』新羅本紀では新羅の建国はBC57年というが、もちろんこれらは後世に作られた伝説だとして学界では認められてない。漢籍史料では3世紀まで「馬韓・弁韓・辰韓」の時代であって「百済・新羅」は4世紀から登場するからだ。馬韓が最後に晋に朝貢したのが290年で、『晋書』慕容載記に346年のこととして百済が出てくるのが史料上の初出だから、この間56年間に伯済国が馬韓を統合して百済になったとするのが定説で、百済本紀で近肖古王が即位したという346年を百済の建国とみなすことが多い。同様に、辰韓が最後に晋に朝貢したのが287年で、前秦に新羅が朝貢した377年が史料上の新羅の初見だから、この間90年間に斯蘆国が辰韓を統合して新羅になったとするのが定説で、新羅本紀で奈勿王が即位したという356年を新羅の建国とみなすことが多い。
だが、馬韓と百済の関係はいろいろ問題があるからわかるとしても、辰韓と新羅は完全に連続しており、馬韓百済のケースと一緒くたにはできない。辰王というのは日本書紀や三国史記にでてくる新羅王と同じものだろう。

百済についていえば学界の定説も『三国史記』の伝説も、ともに従い難い。
後漢書や魏志では公孫度と夫餘王の尉仇台が婚姻を結んでおり、周書や隋書では夫餘系の仇台なる者が百済を建国したというが、『通典』では百済は夫餘王の尉仇台の後裔だとしていることから、仇台と尉仇台は同一人物とわかる。「いや別人で後世に混同されただけ」という説も有力だが、それはこれらの中国系の伝承は後世のもので信頼性にかなり問題あるからなのである。だからこれらの伝承を否定して、魏志韓伝の記述を信用して「この頃の伯済国はまだ馬韓の中の一国にすぎない」とされているわけだ。
だが、少なくとも2世紀以降に公孫度が遼東で自立して以降、百済(魏志の伯済国)を含めた馬韓北部の諸国と公孫氏とは密接な同盟関係だったと推定することは許されないだろうか。公孫氏の支配した5郡の人口は不明だが晋書地理志には帯方郡4900戸、玄菟郡3200戸、楽浪郡3700戸、遼東郡5400戸、東莱郡6500戸。三国時代にはもっと少なかったろうがとりあえず晋代と変化なかったと仮定して計2万3700戸(東莱郡を除いたら1万7200戸)しかない。高句麗3万戸は濊2万を従えていたから実質5万戸。夫餘8万戸との同盟がなければ高句麗に抵抗していくことはムリ、まして14~15万戸もある三韓を公孫氏が独力で抑え込むなど不可能である。三国志を読んでると公孫氏が自力で群雄として遼東に割拠していたかのように書かれているが、人口からみると現実には夫餘王の保護国だったとしか思われない。独力では南に接する馬韓を抑えられないから夫餘の力を借りるし、だから馬韓の北部を統合した百済は夫餘系だという伝承が残ってる。すべて整合的であって、百済が夫餘系だとする伝承を後世の創作とみなす最近の動向はいきすぎだろう。つまり公孫氏が健在だった頃は、伯済国は夫餘を後ろ盾とする者同士として公孫氏と同盟関係にあり、馬韓の北部を支配下に置いていたのではないか。馬韓の3分の1でも3万戸になるから、伯済国と公孫氏はほぼ対等な同盟関係だったこともありうる。公孫淵が滅ぼされた時に、伯済国は魏からみて公孫氏の係累と看做され(実際に血縁もあった)、馬韓への宗主権が否定されたんだろう。だから馬韓には王(に該当するような存在)は無いというのが魏の建前なのである。

一つの案としては「辰王治月支國」(辰王は月支国に治す)には誤記があるとすればどうか。辰王でなく「馬王」だったというのがいちばん安直ではある。が、辰王ではなく「辰支」だったとも想像できる。臣智は「遣支」や「踧支」、「秦支」とも書かれているから、「辰支」でも通じる。で「辰支は月支国に治す」と。中心となるべき伯済国が謹慎せざるを得ない情況で、馬韓の有力な辰智たちは月支国に集まり連絡協議会をもった。一種の部族会議で、王の不在の情況を乗り切ろうとしたのだと解釈する。あるいはこの「辰支」(=臣智)は複数の臣智たちではなく、伯済国の臣智ではないか。伯済国の臣智は月支国を治所として馬韓北部の諸国を束ねる実質上の馬韓王だった。あるいは両説折衷して、複数の臣智たちによる部族会議ではあるが議長(実質リーダー)は伯済国の臣智だった。馬韓北部の王なのではあるが、魏がその地位を否認したため公式には王とは書けず『三国志』の中では一階級下の臣智になっている。一応、王位を否定された身なので自国を会議場にするのは憚られる。だから伯済国の勢力圏の最南端にあたる月支国を会場とした(京畿道と忠清道の境に近い)。ここなら勢力圏外の馬韓諸国への呼びかけにもなる。月支国(正しくは「目支国」だが)の位置は、今の忠清北道の陰城、忠清南道の禝山と木川で3ヶ所の説がある。当時の百済の勢力圏の南の境は安城川と思われ、この川はほぼ京畿道と忠清道との道境に重なり、いちばん離れた木川でも安城川まで20kmぐらいしかない。

「この誤字説でかまわない、これで解決だ」と思うのだが、納得しない人もいると思うので、ここは誤字は無しとして、そのまま辰王(辰韓の王)がなぜか馬韓の月支国にいたと文字通りに受け止めることにしてみよう。この場合はなぜこんなへんなことになっているのかその理由を考えなければならない。
帯方郡は、伯済国の宗主権を否定したはいいが、

其人性、彊勇

とあるように馬韓は精悍凶暴で手を焼く存在なので直轄支配は困難だった、そこで辰王に馬韓の統治を依頼したのではないか。「夷を以って夷を制する」の策である。ちょうど公孫氏が馬韓の統治を夫餘王に依頼したのと同じである。
そういうわけだから、辰王は本国から遠く離れた月支国に半ば人質のような状態できたわけではあるまい。大軍を率いて占領軍のように駐留したんだろう。これは有能な将軍でもある王でなければ務まらない。
『三国史記』によれば当時の新羅王は助賁尼師今(サヒ/じょふん、尼師今は称号)で、従兄弟の息子にあたる于老(ウル/うろう)という王族を娘婿にしていた。『三国史記』ではわからないが当時の新羅は二重王制で、この場合、于老の岳父である助賁尼師今が「葛文」(かつぶん/カスミ)、助賁尼師今の娘婿である于老が「寐錦」(むきん)の位にある(AD502年に葛文は「葛文王」、寐錦は「寐錦王」と改称され、これらの王号は韓国で出土した石碑に出てくる)。于老は『三国史記』では即位することなく死んだが王子でありその子も後に新羅王になってるほどの王族中の王族で、大将軍として兵権を握り、あちこち出征して活躍してたから、辰韓の王都(斯蘆国)から遠く離れた月支国にしばらくいたことがあってもさして問題ないだろう。『日本書紀』でも「宇留助富利智干」(うる・そほりちか)として出てくるが、新羅王だとしているのは『日本書紀』のミスではなく、本当に新羅王だったのである(尼師今も王号だが寐錦の訛りではなく昔氏王朝の称号。助富利智干は「舒弗邯」と同じだが臣下の位階ではない。これが位階の第一位の名に使われたのはずっと後世で、当時はまだ新羅の位階制はできてなくて、魏志がいう臣智から邑借までの5つしかない)。
そういうわけで、助賁尼師今は辰王として辰韓本国にいたまま、同時に于老ももう一人の辰王として月支国に赴いていたのだと考えられる。
邪馬台への行程【その6】」に続く。
【その6】ではちょいわかりにくい今回の話を時系列で説明します。

邪馬台への行程【その4】~狗奴国は九州か東国か・使訳通ずる30国の数あわせ~

改稿:2679年[R01]10月22日TUE 初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その3】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その3】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
実は、魏使は邪馬台国まで行っていた?
「会稽東冶」の問題はまだ半分で、重大な議論が残っているが、その前に片付けておかないとならない話を先にする。
ちょっと話もどるが、それは魏の使者が邪馬台国まで本当に行ってたのかどうか。まぁ邪馬台国論争ではポピュラーなネタの一つではある。
そもそも「邪馬台国までの一万二千里」が「奴国までの距離」ってことに作り直すはめになった根本理由は、魏の使いが邪馬台国へ行かなかった(=北九州から出なかった)からだと一応思われる。その根拠は、第一に魏使は伊都国に常駐するとあること、第二に「不弥国までの里数表示」と「投馬国と邪馬台国への日数表示」という二種類の記述があり、後半の日数表示は倭人からの伝聞記事だとも考えられること、第三に倭の諸国への行程は「至」の字が使われているのになぜか狗邪韓国と伊都国のみ最終地点をあらわす「到」の字が使われていること。これらのことから魏の使いは伊都国より先には実際は行ってないのではないかという、有名な説が大昔からある。これもカタクナな反対論がある一方で、有力視もされてた。だが、これはたして本当にそうか? よく考えるといろいろおかしいと思うのだが…。

広大なシナ大陸を縦横無尽に駆け巡った三国志の武将らにしたら、北九州から畿内大和にいくぐらいたいした距離じゃない。だから物理的に行けなかったとはまったく考えられない。
なので、中には卑弥呼が面会を拒否したと考える人もいるかも知れない。武装親衛隊にガードされ「会う者少なし」とあるから容易なことでは面会できない様子はわかる。しかしこれは平常モードの話であって、ハレの重要な祭儀の時とか、国家の重大な案件の場合でも常にそうだとしたら、この人は女王といっても傀儡で実態はただの監禁された人ってことになる。なんでそんなことがありうるのかというと卑弥呼は宗教上の存在で神に仕える神聖な巫女で、補佐していたという「男弟」が実権を握っていたからというのだ。こういう説を真に受ける人は「ヒメ・ヒコ制」という古い学説に影響うけたままいまだに目が覚めてないんだろう。「ヒメ・ヒコ制」批判は長くなるから省略するが、卑弥呼は王なら誰でもという程度の普通の意味では神に仕えていたろうが、格別に祭司だの巫女だのという存在ではない。「鬼道」の2文字だけからそういう妄想を膨らませる説が多いが、そもそも「鬼道」が原始的な部族宗教でも土着宗教でもアニミズムでもシャーマニズムでもないし、日本の神道でもなければ中国の道教でもなんでもない。「鬼道」の意味については別の記事で詳しく書いたので今回は省略するが、要するに卑弥呼は祭祀王でも巫女王でもなく、高貴な血筋によって王であるところの普通の王なのである。たまたま女性だからって巫女だ祭司だと短絡すべきでない。「会う者すくなし」といっても昔の皇族貴族の女性はみんな奥に隠れており来客にすら襖や屏風を挟み、外出時も庶民に顔を見られないようにイスラム女性みたいに厳重に隠していた。ましてや王ともなれば当たり前ではないか。男でも昔の天皇というのは容易に面会できず、できても簾をはさんで顔はみえない。ましてや女性ともなれば当たり前ではないか。しかも当時は男王国と敵対しており、刺客やテロへの対策もある。
あるいはこう考える人もいるだろう、魏の使いは倭王に要求するであろう臣下としての服属の礼を回避するために会わなかったのだ、と。だがそれも理由じゃないと思う。前にも書いたが、中国人は建前に対してけして四角四面ではない。礼も法もその運用は情況に応じてなんとでも変化すること日本人以上に柔軟で、中国人同士の抗争に生き延びるために異民族に頭を下げるなんてまったく平気だし、派閥のボス(司馬懿)のメンツを立てるためなら土下座でも裸踊りでもなんでもやる。むろん異民族の側も敵対時はともかく和親の相手にまでそこまで失礼な要求もしない。隋の頃、聖徳太子と「どっちが格上か」みたいな建前や形式といったくだらないことで争って追い返された裴世清は「綏遠の才なし」(異民族を手玉にとる才覚がない)と中国人からも酷評されてる。会うこと自体はどっちの側にも問題ないはずで、和親の外交はお互いに利益で結ばれたのだから当然だろう。
別の理由を考える。畿内大和に向かうのになぜ瀬戸内海の穏やかな海を行かず日本海の荒波を行かねばならないのだろうか? 男王国の領域については別の記事で詳しく書いたので省略するが、黒潮文化圏とかなりの程度重なっており、女王国が吉備(の陸上)を押さえていたとしても、男王国の海賊は瀬戸内海に出没しており、女王が制海権をとれなかったのではないか。海賊といっても男王からすれば正規の海軍であり、女王の方こそ海賊なのだが。かといって日本海航路なら安全ともいえない。北九州に大軍を駐留させるような余力が魏にあったとは到底思えないので、魏使の警護は倭国が担当することになる。むろん女王の威信にかけても刺客の類は撃退する用意があったろうが、魏使の安全が守られればよいという問題でもない。倭国の領内で外交使節を襲うような不埒な反逆勢力の存在それ自体が、国使の眼前にあらわになることが問題である。魏も倭国の内部事情は知ってるのだが、だからよいとはならない。魏にしてみれば一万二千里から使いを出してくれて、呉との戦いに力を貸してくれるのならば女王でも男王でもいいわけだ。だが女王国と男王国は、同一民族の同一国民の上で支配階級だけが割れている状態だから、失態をしでかすことは命取りになる。常に敵方より上の力量をみせつけねばならない。そういう中で日本海航路をとった場合でも、魏使への襲撃があっただけで問題になる。だから安全をとって魏使を九州に留めていたのか。しかしそれならなおさら邪馬台国まで強く招いたはずだ。なぜなら会えないのならそれは女王の外交が男王に阻止されたことになるからである。この程度の警護も不安だとすると九州と畿内の連絡は常に男王国の勢力によって揺さぶられていたことになり女王国は成立不可能である。卑弥呼は倭国のすべての国力を結集し、大倭王の名誉にかけても、なんとしても魏の使いを王都邪馬台国へ迎え入れようとしただろう。だからこれも違うな。
あるいは少し似てるが、倭と魏には同盟内容について認識のズレがあり、それが事務レベル、例えば難升米と梯儁が相談して処理しており、中国向けと日本向けの詔書を捏造していた、とか? これはアレだ、豊臣秀吉と明の万暦帝の間で小西行長と沈惟敬がやった欺瞞外交のようなこと。これなら直接女王からあれこれ聞かれるとマズイかもしれない。しかしこれは「郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」とあり通り、卑弥呼から直接派遣されている一大率の厳重な管理下にあったからムリだろう。

倭国の使いもはるばる洛陽までいって魏の皇帝に面会してるのに倭王が魏の使いとの接見を拒否するのは対等でもなく、不自然だ。お互いに会いたかったろうとも思われる。あっちからみれば異民族の女王なんてエキゾチックだし、こっちからみれば三国志の武将だぞw 現代でも女性の三国志オタなんていくらでもいるだろうがw これはね、両思いなの。だから倭国と魏使のどちらが接見を拒否したにしても、やむを得ない理由なの。一方的に拒否したのか、協議のすえ合意してやめたのかはわからないが。
いったい何が問題なのか? 魏使に行けない理由なく、倭王また歓迎せんとすれどもやむなくお流れになったとすれば「やむなく」の真相は何か。ポイントは二つある。一つはさっきから言ってる「本音と建て前」の使い分け。もう一つは呉の存在、これしか考えられない。

呉は西南諸島づたいの航路で倭国と交渉をもったと想像する説も、有力ではないがこれまた昔からある説だ。すでに別記事で書いてるが、狗奴国(男王国)と呉の外交は230年に失敗破綻しており、あせった呉はまだ決裂前だった公孫淵や高句麗にも仲介してもらって、邪馬台国(女王国)との外交になんとかこぎつけた。その証拠が赤烏元年と赤烏七年の紀年銘鏡である(この鏡が男王国=狗奴国のものではありえないことはこのブログでは説明ずみ)。

別の記事にも書いたが、紀年銘鏡の年代が新しいことをもって卑弥呼の時代と無関係とする説は採れない。たとえ時代の下ったものであろうとも、その「年」に特別に銘紀するに値する何らかの特別な年だという知識がなければ「銘」にならないだろう。卑弥呼より後の時代にも「その年が特別な年だ」という歴史の記憶が継承されていたということになる。

赤烏元年(改元は九月)は景初二年だから魏と女王国の国交が開けた年よりも一年早い。238年説だと同年になるが魏への使いは公孫淵征伐のドタバタの中での突発的な事件だったから、そんな最中に呉との新規国交なんてのは考えにくく、これ以前からの長い下ごしらえ期間が想定される。つまり倭国との外交に関しては、呉は魏よりも先輩だったのだ。だから伊都国には魏の使いも常駐していたが、呉の使いもいた。しかし倭国の北九州随一の軍事基地(=伊都国)の中で揉め事は起こしたくても物理的に起こせない。魏使と呉使は表面上はいがみあいながらも裏では情報交換もしていたろう。魏の建前としては女王国は中華皇帝としての魏の正統性を支持したことになっているので、魏使は呉使が女王国にきている事実を公にはできない。しかし中国人らしく現実ともそれなりに付き合っており、いちいち伊都国での許可は要るものの、邪馬台国(畿内大和)へも非公式には何度も行っており、非公式には卑弥呼とも何度も接見していたに違いない。それはもちろん呉使も同じだろう。北九州にも畿内にも、一介の平凡な中国系帰化人を装った間諜や密偵の類は、魏も呉もわんさか放って情報収集はしていたはずだし、倭国側もそれは承知のこと。卑弥呼の宮廷で魏人と呉人が同席することも珍しくなかったろうし、倭国としてはむしろそういう方が賑やかで喜ばれる。しかしそれはあくまで私的な交流であり、公式なセレモニーで同席するのはまた別なこと。公式なセレモニーでは呉使と同席するわけにはいかない。しかし倭国は魏を特別扱いせず、呉を排除するような配慮は拒否した。親魏倭王つったってこっちからおねだりした訳でなくあっち(司馬懿)の都合でくれたわけだろ。239年(238年説もアリ)の朝貢も司馬懿の手下から頼まれたのであってこっちから希望していったわけではない。どこの国でも外国からの使いは見世物(アトラクション)であるとともにそれ以上に自国の徳を示すもので、この上ないアクセサリーなのである。だから王都邪馬台国には魏の客も呉の客も常にそろってないと不揃いで不格好で物寂しいのである。蜀人も非公式にはいなかったとも限らない。

魏人(ぎひと:中国北部の住民)と呉人(ごひと:中国南部の住民)は言語も習俗も顔つきも体格も違っている。記紀を信ずる限り昔の日本人は北方中国人と南方中国人を同一民族とは認めず、前者を「漢人」(あやびと)、後者を「呉人」(くれびと)と呼んで区別していた。

しかしそうはいっても例えば正始四年の件などは会わずに済ませることはできない。そこでどうしたか?

当時の倭王は江戸時代みたいに「禁中並公家諸法度」に縛られてたわけではない。律令時代以前の天皇はその気になれば独裁権力をふるうこともできたし、景行天皇のように西は九州、東は関東と、自由に行幸もできた。かなり時代が下っても近江や吉野、吉備ぐらいはちょくちょく行けたんだから卑弥呼の時代なら九州へ行くぐらいどってことないだろう。おそらく卑弥呼みずから北九州に行幸して、そこで公式なセレモニーとして接見したんだろう。それぐらいのサービスはするよ? 国見(領地の視察)も王の仕事だし、個人的に旅行だってしたかろうし。会場はもちろん奴国である。この場合、外国の使いは伊都国から許可なしには出られないのだから、カドを立てることなく呉人を公式に排除できるというわけよw 完璧だねw

「会稽東冶の東」は男王国であり女王国でない?
ここらで、ようやく宿題にしていた問題に戻ろうw 会稽東冶の話の続きだ。
「会稽東冶の東」は実は行程記事の中には無くて、気候風土や習俗文化、物産などの紹介コーナーに出てくる。そこの中で、倭国の気候や文化が南方系だということを示している中で倭国は「会稽東冶の東」にありの一文も含まれる。つまりこの一文は「距離&方角という地図上の位置」ではなくて、距離や方角は多少は不正確かもしれないが「文化圏」的で「人文地理」的な位置だよ、というニュアンスで受け取るべきだろう。
ところでこの習俗記事は前半の方に「其風俗、不淫」とあるのにだいぶ離れた後ろの方に「婦人不淫、不妒忌。不盜窃、少諍訟」と似たような話がまた出てくる。産物の紹介も前の方では「種禾稲、紵麻、蚕桑緝績。出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。」とあるのに、これもだいぶ離れた後ろの方に「出真珠、青玉。其山有丹。其木有楠、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏号、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黒雉。」とまた出てくる。なぜ2か所に分かれて別々に出てくるのか。重複記事があるため散漫で粗雑な印象があり、これは複数の資料を陳寿が不用意につなぎあわせたんだろうという見解が多い。

水野祐の説だとこの記事は「所有無、與儋耳朱崖同。」までの前半と、「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。」から始まる後半に分かれているという。確かにこう切り分ければ重複記事はないことになる。また「倭地温暖」というのも文章としてへんだ。倭地の話をしてる途中なんだから「其の地、温暖」となるか、なんだったらいきなり「温暖」でも文意は通る。「倭地」と断りが入ってるのはもともとここが文頭だったことが窺がわれる。
そしてこの記事の直前が「…次有奴国、此女王境界所盡。其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。自郡至女王国万二千余里。」となっているが、「自郡至女王国万二千余里」という文は「女王国の『南境』まで万千里」という意味で、狗奴国は女王国の南にあるんだから、これは「狗奴国の『北境』まで万二千里」というのと意味の上では同じとなる。つまり「自郡至女王国万二千余里」という文はまだ狗奴国の説明の一部なのである。
まぁしかし「狗奴国の『北境』まで万二千里」という解読は苦しい。もしそれが正しいのなら、それならそうともっとわかりやすい書き方をしたはずだ。俺の説としては「自郡至女王国万二千余里」という文は狗奴国の説明の後に入ってるのは妙だからここは錯簡で、「…此女王境界所盡」と「其南有狗奴国…」の間に入っていたのではないかと考える。そうすれば「狗奴国の『北境』まで万二千里」なんていう不自然な解釈しなくても、文意の通りがスッキリしてひじょうによくなる。
ともかく水野祐の説を続けると、習俗物産の記事は狗奴国の直後に続く記事なのだから、前半は狗奴国の習俗の説明だったのではないか。つまり前半パートは邪馬台国の習俗でないが、後半は邪馬台国の習俗や物産であって狗奴国の習俗物産ではない。
で、もしそうだとすると、南方系を示唆する3つの記述、刺青の件も「会稽東冶の東」も「儋耳・朱崖」も、すべて狗奴国の記述であり、邪馬台国は関係なかったことになる、と。
水野祐はさらに重要な指摘をしている。習俗物産記事の前半パートと後半パート、それに『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事、この3つを比較対照して、どうも倭人伝は前半パートと後半パートを比較させようという意思がなく、前半パートと『漢書』地理志の共通性を強調しようとしていることを明らかにしている。前半パートは中身の半分は独自記事だがもう半分ぐらいは『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事からのそのまま転載(パクリというかほぼコピペ)が混在しており、コピペ部分についてはコピペなんだから個人的にはどうも事実とは認めにくいような気がする。が、具体的にそれぞれの記事を個別に検討すると実際に日本にあったものとして問題ないという説もあり、だとするとコピペなんだけど偶然にも事実と一致したのか、事実を書いたら偶然にもコピペっぽくなっちゃったのか、どっちなのかはわからない。いずれにしろわざわざ「儋耳朱崖と同じ」と念押しするのは書かれてる内容が事実かどうかに関わらず意図するところがあろう。

水野祐は邪馬台国九州説だし、狗奴国も魏に入朝していたという説だったり、昔の学者なので他にもいろいろおかしなことを言っており、司馬懿の都合による政治的歪曲という観点も抜けている。そのため、なぜムリしてまで南方系を強調しているのか説明が不十分な印象があるが、それは現代になってからみてるからで、昔の俺なんかひじょうによくできた秀逸な説だと感心したものだ。
後半パートで南方系を思わせる記事というと、しいていえば「倭地温暖」くらいしかないが、温暖の2文字だけではどの程度の南方なのかつかみどころがない。熱海ぐらいの緯度でも温暖っちゃ温暖なわけで。「皆徒跣」(はだし)というのも江戸時代でも庶民は裸足が多かった。華北の冬は寒さ厳しく野菜など採れないから「冬でも野菜を生食する」のは倭国が温暖だという話の流れだというが、腐敗しやすいはずの夏でも生食だというのだからむしろ北方のイメージだということもできる。つまり後半パートにはハッキリと「南方系だと断定できるような記述は無い」。
確かに南九州の隼人なら南方系と言われて納得できるが、北九州を含む倭国全体の習俗物産がはるか南のはての海南島と同じというのはあまりにも違和感がある。それが、南方系と思わせる記述はすべて狗奴国のみについての説明だというのだから、好都合に思われたのだ。

ところがこれは相当に古い説であるにもかかわらず、あんまり有名でもないし通説化してる様子もない。おそらく学界では反論もいくつか出されていて、あまり支持されてないんだろうな。
そう思って水野説への反論を試みると、狗奴国の習俗だという前半パートはさらに前後に分かれ、刺青の話ばかりしてる前半が「会稽東冶の東に在るべし」で終わり、後半の習俗物産記事は「儋耳・朱崖」と似た習俗物産ばかりを集めたパートで、だから「有無するところ儋耳・朱崖と同じ」で終わってるわけだ。つまり、考えようによっては、狗奴国と邪馬台国の習俗物産を別々に書いてるわけではなくて、やはり全部が倭国全体の習俗物産記事であり、水野祐がいう狗奴国の習俗物産というのは単に「刺青パート」と「儋耳・朱崖との共通点パート」にすぎないのだ、とも考えられる。

では通説と水野説、どちらが正しいの?
どちらが正しいのかわかりにくくなってること自体が一つの大きなヒントだろう。通説が正しいのなら、陳寿はもっと記事を整理して書いたはずで、重複感のある粗雑な編集はしなかっただろうし、水野説が正しければ、こっちは狗奴国の記事、こっからは狗奴国以外の記事として誤解のしようがないようにわかりやすく書くことは造作もないことだったろう。
要するに陳寿は「わざとわかりにくくしてる」のである。出たw「春秋の筆法」だなw 春秋の筆法は、現実が権力者にとって都合が悪い場合にもちだされる筆法だから、通説と水野説のうち、一方が現実の倭国だがそれは権力者(この場合は司馬懿)にとって都合が悪いものであり、もう一方が司馬懿にとって都合よく歪曲した倭国像なのである。

前述のように倭国が「会稽東冶の東」にあるというのは「南方系の習俗と物産がどうのこうのという話とは無関係に」呉越地方の中国人の認識だったのであり、わざわざ捏造した話ではない。それは魏(というか司馬氏)にとっては都合のいい話なのだからそのまま採用すれば済む話であり、採用したからこそ方角を90度まげて呉越地方の中国人の認識に合わせた。
この上、そこからさらに遠い南の海南島の習俗物産をコジツケる意味など本来は無いはずなのである。だが、魏としては女王国が「会稽東冶の東」にあることを期待してるのに、実際は女王国と対立している男王国の方が呉の隣国だった、なんてことでは倭国と魏の同盟が呉への抑止力にならない。事実は「会稽東冶の東」にあったのは、倭国は倭国でも女王国ではなく狗奴国だった。そこに90度まげて邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってきた結果、狗奴国のものだった南方系の習俗と物産を邪馬台国も共通していないと筋が通らないことになった。
つまり水野祐の説が現実の倭国を反映している。帯方郡からのレポートによれば倭国は九州から東の方に延びており、呉越地方の中国人の認識と違っていたばかりか、格別に南方系と思われるような習俗も物産もなかった。そこで狗奴国の習俗物産記事に続けて北九州諸国の習俗物産記事を置き、わざと混同を誘う構成になっているのである。普通に読めば通説の読み方で問題ないように感じるのだが、途中に「倭地」という不要の二文字をわざわざ挿入しているのは「春秋の筆法」でいう「文の錯(たが)え」ではあるまいか。「ここでおかしいと気づけ」というシグナルなのである。

狗奴国の「東国説」と「九州説」は矛盾しない
すでに他の記事で詳しく書いたので簡単に済ますが、方角が90度曲がってるんだから「南」というのは実は「東」だ。女王国の南にある狗奴国は、正しくは女王国の東。で、最近の有力説である狗奴国東国説もいろいろだがその中の一つで、狗奴国は今の静岡県だとする説がある。後世に久努国造があったところが遠江国山名郡久努郷と同国周智郡久能郷(ともに静岡県袋井市、ただし和名抄の周智郡に久能郷は無く明治の郡制施行時の久能村が名残り)だが、駿河国安倍郡(会星郡)久能郷(いまの静岡県静岡市)も遺称地だとすると、狗奴国はほぼ伊豆地方を除く静岡県の大部分を占めていたと思える。この場合、狗奴国の官である「狗古智卑狗」の「狗古智」は静岡県の菊川をさす地名「菊」と助詞の「つ」とするのが穏当だが、面白くはないw そうではなく旧来の説に従って肥後国菊池郡(熊本県菊池市)のままでよいと思われる。東国説と九州説は矛盾するものではなく実は両立するからである。
鞠智城跡
※鞠智城(7世紀)の復元された八角形鼓楼。ここは律令制下の菊池郡城野郷に含まれる。3世紀の狗古智国もここかこの近辺にあったろう。一方、めんどくさいから画像は出さないが、静岡県袋井市に久努国造を祀る「七ツ森神社」(山名郡久努郷)あり、そこから1km半(徒歩20分)のところに久野城跡(戦国時代)がある。ここは律令制下では山名郡ではなく周智郡だが、西にすぐ隣接して久能という地名(かつての周智郡久能村)が残り、七ツ森神社からも近い。3世紀の狗奴国も久能城跡かその近辺にあったろう。

狗奴国を「春秋の筆法」で読む
対馬国の大官が卑狗といい、一支国の大官も卑狗というとあるのだから、そこまで読んできた中国人は「卑狗」とみれば特定の国を治める大官のことだと理解している。地方統治官は担当地名の下に官名をつけて、例えば上党郡の太守は「上党太守」、楽浪郡の太守は「楽浪太守」というのだから、対馬国の卑狗は「対馬卑狗」、一支国の卑狗は「一支卑狗」だと自然に受容している。ここで「狗古智卑狗」という字の並びを目にしたら、説明など無くとも自然と「あ、狗古智国の大官だな」と直ちに了解されよう。つまり狗奴国とは別に「狗古智国」という国の存在が暗示されている(間接的に示されている)。別々の国なんだから、狗奴国は東海道だけど、狗古智国は九州にあったってことで何の問題もない。魏志倭人伝の文面ををよく見ると、狗古智卑狗は男王の官だとは書いてあるが狗奴国の官だとは書いてない。ゆえに狗奴国にいたとは限らない。
で、菊池郡は北九州の女王国支配下の諸国からみると南であり、畿内からみると西になるので、90度傾けると北九州からは西、畿内からは北になる。西だと倭国と呉の間に女王と敵対する男王国が挟まることになり、女王国が直接呉への脅威とならないので具合が悪い。北だと「南方系の習俗や物産をもった国が北で、そうでない国が南」になってこれまた具合が悪い。なので狗古智国は方角どころか国名すら明記してないのである。一方、東海地方にあった狗奴国は他の国々と同じく90度傾けて、女王国の南にもってきた。そうやって「女王国の南」という同じ場所に狗古智国と狗奴国を重ねあわせた。しかし「狗古智卑狗」という官名から読者は「狗古智国」の存在を想定するのだが、文面上は狗奴国しか出てこないので、読者は不審に思い「文の錯え」に気づく、という寸法よ。

「使訳所通三十国」の謎
冒頭に「使訳所通三十国」(使訳、通ずるところ三十国)とあるのも春秋の筆法で、余とか可とか許とかの概数を示す文字が無く、30国ピッタリであることをにおわせている。「におわせている」というのは概数を示す文字が無くても下一桁がゼロなんだから「いやこれは概数なのだ」と「解釈」で押し通せる余地が残っているからである。これもわざわざどっちとも受け取れるように書いてあるわけだ。30国ピッタリとする説が多いが、はっきりしてるのは28ヶ国であり、従来の説では残り2国は次のA・B・Cの3つの候補から2つ選ばれる。

(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国、

だいたい(AB)を加えて30国として(C)は入れない説か、(A)(B)のどちらかのみ入れて29国とし「三十国というのは概数なのだ」と割り切る説が多い。つまり(C)は人気がないw
しかし(A)を倭国に勘定することはできないのはずっと前の方で説明した通りで除外される。第二の奴国も意図的な国名重出であることは説明済みだから「餘旁遠絶21国」は誤りで「餘旁遠絶20国」が正しい。つまり(A)(B)を加算する訳にはまいらぬ。
(C)が人気ない理由だが、狗奴国は女王国と敵対していて、女王国は魏の友邦なのだから「味方の敵は俺にも敵」の理屈からいえば魏と狗奴国が通交していたはずはない、だから「魏の使訳が通じていた国ではない」という判断だろう。
だが、本当にそうか? 倭人伝には「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」(いにしえより以来、その使いの中国に詣でるやみな大夫と自称す」とある。この一文は刺青パートの中にあり、従って本来は狗奴国の記事だったはず(正確には狗古智国だが)。狗奴国(正確には男王国だが)の使いが中国に行ってると書いてある。ちなみに有名な話だがこの部分は『魏略』逸文では「聞其舊語、自謂太伯之後」(その旧語を聞くに倭人みづから謂ふ呉の太伯の後なりと)になってる。ここは『魏略』が原資料のままで陳寿が書き変えたものだ。魏略の文は倭人の刺青が呉越の習俗と共通してるといいたいだけで、春秋時代の呉も越も刺青文化は共通してるから、なんの忖度もなく呉も越も一緒に出しているわけだ(呉の先祖の太伯も刺青で有名な人)。渡邉義浩は、呉と倭の文化的な親近感を出すと呉が倭を朝貢国とする正統性が出てしまうから陳寿が書き変えたとか訳のわからぬことをいってるが、春秋時代の呉と三国時代の呉ではぜんぜん関係ない国なんだからそんなことある訳ないだろw 表面的なことだけいえば、呉と越とは臥薪嘗胆の故事で有名な通り激戦して最後は越が呉を滅ぼしたわけだから、呉と倭の関係を消して、倭と越の相似性だけを強調し、春秋時代の越が呉を滅ぼしたように三国時代の呉も越に似た倭に気をつけろという脅かしだという解釈なら可能だろう。しかしそれなら「聞其舊語、自謂太伯之後」の10文字を消すだけでいいのであり、わざわざ「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」なんて書きたす必要はない。この文はここだけ刺青の話から浮いており唐突な感じを与えるし、「聞其舊語、自謂太伯之後」と字づらが似ていて明らかに魏略の文を参考にして書いた作文だとわかる。
この部分は春秋の筆法によって狗奴国(実は狗古智国)の習俗だとわかるのだが、倭国全体の習俗であるようにも読めるという二重構造になってるのだから、「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」の一文も通常の解釈では女王国についての説明であり、裏の意味としては男王国についての説明である。

「自稱大夫」のオモテの意味
オモテの意味については簡単だ。卑弥呼と魏との外交で、倭国側の窓口として一切を仕切ったと思われる難升米が「大夫」として出てくる。難升米が大夫であること自体は、だから何だってことでもないのであって、だから自称も糞もない。大夫というのは支配階級、貴族層ぐらいの意味で、一国の外交官なら中国でいう大夫に相当する程度の身分なのは当たり前であり、いちいち話題にすらならない。それなのにあえて「自称」だというには、それなりのニュアンスが込められている。難升米という人はかつての奴国王の直系の子孫であり、卑弥呼から全権を任され、今でも対中国外交の最高責任者としてすべてを采配してるのだから、先祖の奴国王とやってることはほとんど同じなのである。後漢帝国の建前としては「漢委奴國王」にしたつもりで、なおかつ今もその子孫が同じことしてるのだから、中国からみた場合、この人は今でも実質は倭王なのである。にもかかわらず、倭国側では王ではなくて「大夫」だと。大和言葉でいえばキミ(君、王)ではなくてオミ(臣、大夫)なのである、と。中国側の感覚とズレるから、これは倭国側が自称してるんであって、中国としたら難升米が実質倭王みたいなもんだといっている。中国からみたら実務はすべて難升米から出てるから、本当に卑弥呼の意図なのかどうかわかりにくかったんだろう。重要な儀式とかただの親睦会的な場では女王とコミュニケーションできたろうが、肝心の国際政治外交という実務的な議論には「難升米に任せてある」として女王は顔出してくれないし意志の表明もない。本当に女王と外交してるのか、難升米に騙されてるのかもよくわからないし、確かめようがない情況を表わしている。

「自稱大夫」のウラの意味
ウラの意味としては当然、ここの大夫は男王が派遣する大夫ということになる。陳寿は呉と倭の親近性を示す文を削除するかわりに文意を換骨奪胎して、狗奴国(正確には狗古智国だが)もまた中国に朝貢したことがあるとわざわざ念押ししてるのだ。念押しの割には「魏朝への朝貢だ」と明記しているわけでもなく、この場合の中国に魏は入ってるのかどうか、そこはボカしており、解釈次第でどっちとも取れるように書いてある。もし魏へ入朝したことがあるのなら狗奴国もまた「使訳の通じてる諸国」の一つだということになるわけだが、そう明記できないのは実際には狗奴国は魏と通交したことがなかったからではないか。

狗奴国は魏に朝貢した?しない?
水野祐は陳寿の作文を真に受けて「狗奴国もまた帯方郡に朝貢していたのだ」というのだが…。狗奴国でも狗古智国でもいいが、とにかく男王国の使者が相手にされるかどうかはともかく郡までは行っていたというだけならギリギリ認めてくれる人もいるかも知れない。が、帯方郡の使者は男王国(狗奴国でも狗古智国でも可)に行くわけがないと思う人の方が多いだろう。魏の建前では倭の女王が魏を中華における唯一正統の皇帝として認めてくれたことになっており、だから卑弥呼が呉や蜀と交流があるって話はタブーになる。そのような事実はあったとしても記録から抹殺される。しかし実際は紀年銘鏡にある通り、呉と女王国は交流していたという話は別の記事で詳述した。女王国が魏だけに朝貢するのは魏を中華皇帝と認めることであり、これは魏としては親魏倭王(男王国を認めず、卑弥呼を倭国全体を代表する唯一の大倭王として認めること)とバーターのつもりなのである。だから女王の二股外交は魏にしたらひじょうに不愉快な事態で、もし卑弥呼がこの態度を改めないのであれば、対等の原則によって魏もまた卑弥呼の敵である卑弓弥呼(男王)と通交する権利を有するだろう。舐められたら終わりなんや。男王は過去の経緯から魏には興味なかったかもしれないが、魏にしてみたら呉への圧力になるなら女王でも男王でもいい。中国でいう朝貢というのはもちろん公式な使者の方が望ましいが、民間の商人が交易のついでに帯方郡の官僚に手土産を差し出せば、非公式な使者であっても「朝貢」として立派に成立する(岡田英弘の解説による)し、そうであるなら逆に帯方郡からでも交易にこじつけて商人に委託すれば男王の配下の首長に連絡をつけることもできたろう。玄界灘の制海権は女王が握っていたろうが、五島列島の西の海と済州島の間を往復する航路がありうるので伊都国の検問を通らずに韓と通交できるし、仮に通常航路であっても民間人を装ったり帯方郡の魏人に託したりと、一大率の検問を抜けることはできなくはない。

ただしこれは「物理的にはありうる」というだけのことで、やはり狗奴国は(狗古智国も)魏には使いを出してなかったと思われる。実は男王国には中国から公式の使者はきていなくても、中国人はたくさんいたから、魏人がスパイを潜りこませて情報収集するのは容易だったはずだ。亶洲(澶洲)というのは男王国のことだという話は別記事で書いた通りだが『三国志』呉主孫権伝や『後漢書』東夷伝によると亶洲には徐福の子孫がいて数万戸になっているという噂が中国側にはあった。この徐福の子孫というのは実のところ呉の戸籍を離脱して逃げてきた難民(亡命者)だろう。呉は人口不足のため孫権自身がいっているように税と兵役の負担が重い上、戸籍離脱して逃亡する者は重罪だ。亶洲を求めて探検隊を出した理由の一つは、この逃亡民を連れ戻すためでもあったろう。むろん逃げてきた連中は帰りたくないから「我々は呉から逃げてきた呉人ではなく、呉が建国されるよりずっと前に移民した秦人の子孫だ」と嘘をつく必要があった。つまり男王国には呉からの難民が一定数いて、それなりの安定した暮らしを維持していたと推定できる。
伊都国に駐在する魏人は一大率の許可の下で(公式の許可か非公式の黙認かわからぬが)狗古智国に情報収集のためのスパイを送り込んでいたと思われる。一大率としては許可したくないだろうが物理的に阻止できないから、欺かれるぐらいなら先に許可した方がよい。許可はしようがしまいがスパイ活動はお互いやるのが当たり前で、やらないことはあり得ないのだから。そして、呉人たちが本国に帰ったらそれだけ呉の国力が回復するんだから、魏の役人としても当然、帰って欲しくないだろう。だから徐福の子孫だと偽称している呉人たちは魏人に保護を求め、魏人の情報収集に協力するし、魏の公式見解としても「彼らは呉から逃亡してきたのではなく徐福の子孫だ」ということになる。それだけでなく魏人は呉人を男王の使者に仕立てて帯方郡につれていくぐらいのことはしたろう。実際はそんな手のこんだ面倒なことはせず、単に魏人が男王国からも使者が来たと自称しただけかもしれない。「自古以来、其使(男王国からの使者)詣中國、皆自稱大夫」は陳寿の作文であって虚構なのだから後者の方が可能性が高い。重要なことは「魏朝には女王国からも男王国からも朝貢の使者がきた」という「建前」なのである。

建前では男王国もまた「使訳通ずるところ三十国」に含まれるわけがご理解いただけたろうか。(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国の三者のうち、(A)(B)は含まれない(含まれたらおかしい)ことは再三いった通りだが(C)を入れてもまだ29国。しかし前述のように倭人伝の文面には隠れているが、男王国には狗奴国とは別に狗古智国があることが「春秋の筆法」によって示されているので、これを加えてピッタリ三十国となる。三十国という数字自体が「あれ、計算が合わないぞ」と気づかせるための「文の錯え」なのである。
邪馬台への行程【その5】」に続く。
【その5】では「至」と「到」の使い分けの謎を「春秋の筆法」で解きます。

邪馬台への行程【その3】~方角のズレと「会稽・東冶」の読み~

初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その2】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その2】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「方角の傾き」は誤りではなく意図的なもの
日数表示の部分が九州説だと原文のまま南へ、畿内説ではなんだかんだ理屈をつけて東にもっていくわけで、方角が決まらないと気分的に落ち着かないw 方角論で有名な話は、末蘆国・伊都国・奴国の比定地を実際の地理でみると、反時計回りに北に45度傾いている(東の方が北寄りに、西の方が南寄りに傾いてる)というのが通説だ。正確には真東より30度ほど北、つまり東北東になっている。これを魏志の「東南」に比べると75度のズレともいえる。この数値は八分法に当てはめると、どっちかっていうと45度より90度に近く、当然ながら傾きは45度でなく90度だという説もある。ただこれは海岸線を目途にしたもので、奴国を太宰府あたりまで広がってたとして、奴国から不弥国へのコースを嘉麻市や穂波市を通って直方市へ抜ける道を陸行したとすれば、極めて大雑把な話ではあるが45度のズレだともいえるが、ちょい苦しい。あるいは、もともと魏志倭人伝の表記は45度づつにわける八分法なので、22.5度前後は切り捨てか切り上げになって表記上は45度のずれとなるという大雑把なものである、だから45度でいいのだというのだが、これは「75度が切り上げで90度にならず、なぜか切り捨てで45度になってる言い訳」として成立してない。実は日の出の方向がどうしたの夏至の日の出がどうのって理屈でこのズレを説明するには45度が限界で、90度だと説明に困窮するからだ(厳密には45度でも無理だが)。だからって90度説が正しいわけでもない。あと、これまた有名な室賀信夫の説(九州説には評判わるい説だがw)。李氏朝鮮の「混一疆理歴代国都之図」や宋代の「古今華夷区域総要図」をもちだし、中世の中国人や朝鮮人は実際には東に伸びてる日本列島を、南に伸びてると勘違いしていたから、おそらく古代でも同様だったのだ、というあれ。一時期は話題になり、これで畿内説に決定したかのような勢いだったが、古代にまでもそのような地理観が一般的に行われていたという説には実証性が弱く、批判が多い。実際、今では一般に(アマチュアだけでなく学界でも)あまり支持されてないように思う。俺も賛成しないw 中世の中国朝鮮での誤った地理観は魏志倭人伝の影響という説の方が妥当だろう。

この室賀説も古代人の地理観を稚拙なものと決めつけている点で「日の出の方角説」と五十歩百歩といえよう。まさに三国時代に生きた有名な学者、裴秀が作った『禹貢地域図』を読めば当時すでに測量術や地理学が大いに発達していたことがわかる。「指南魚」とか「指南車」という精巧な方位磁針もあって方角を誤ることもない(ただし、現代では磁方位が反時計回りに約7°傾いてるが当時は時計回りに10°傾いていた)。ゆえに昔のことだからどうせこんなもんだろと見くだした舐めプは許されない。高度な技術をもった当時の国家の軍隊が方角を間違えたりめちゃくちゃな里単位を使ったりすることはありえない。そういうことがあったらそれは間違ったのではなく、ある特定の意図の下で、あえて、わざとそうしたのである。一万二千里という現実を無視した途方もない数字も、政治的な都合による誇張であることはもはや定説になっているといってよいだろう。しからば方角もおそらくは政治的な理由で曲げられたのだろうとは誰しも容易に推測できる。45度説と90度説のどちらが正しいかにかかわらず、これはわざとズラして書いてるのである。東西と南北を取り違えた地理観がーとか、日の出が夏至がどうのこうのっていう、古代人が方向音痴だったみたいな与太話はすべて却下すべきだろう。

で、「方角のズラし」も事実の歪曲ではあるのだが、ただの歪曲ではなく「一万二千里」と同じく当然「春秋の筆法」に則っている。だからよく読めば「あれ?これ傾けてるな」って気づくようになっている。「なんのために」わざわざ傾かせているのかという議論は後で詳しくやるとして、まず「方角の傾かせ」が現われている「春秋の筆法」を解いてみよう。

その最初のヒントが韓伝にでてくる「州胡」だ。これは今の済州島のことだというのが定説だが、言い方としては「馬韓の南」か「韓(三韓全体)の西南」のどちらかのはずが、文面上は「馬韓の西」と書かれている。実際の地理を、反時計回りに45度か90度ずらさないと「馬韓の西」にはならない。この角度の問題も私が「春秋の筆法」だと気づいたのは韓伝の記述の謎解きの結果だった。韓伝は韓と倭が海で隔てられてるようにも書いてるし、韓の南は倭で、韓と倭が接壌してるようにも書いてる。だから井上秀雄(この人はもう死んでるが)みたいに韓国の南部に倭があったんだって主張する人が根強く残ってるが、海で隔てられてるともあるせいで有力説になってるとはいえない。こういう矛盾ある記述こそ「文の違え」(ふみのたがえ)で春秋の筆法のツボなんであって「海で隔てられてるのかvs接壌してるのか」の二択じゃない。「南は倭に接す」とあるのだから前回までに説明した「弁辰○○国」と「弁○○国」の使い分けからいえば「弁軍弥国」「弁楽奴国」の2か国だけが倭に接していることになり他の「弁辰○○国」はすべてこの2か国より北に設定されてる。「弁楽奴国」は春秋の筆法によって暗黙に出航地だと示されているので倭ではなく海に面している。しかも倭と接してるのは弁辰瀆盧国だとわざわざ一か国だけあげていて、倭への出航地は表面上は「狗邪韓国」になっている。設定上の位置関係は繰り返しになって恐縮だが、東西四千里の海岸線があってその中央が「弁楽奴国」(東端からも西端からも2000里、郡からは6000里)、東端が「弁辰瀆盧国」(郡から8000里)、その間に「弁辰狗邪国=狗邪韓国」(東端から1000里、隣の楽奴国からも1000里。郡からは七千里)という配置になっている。このうち倭に接しているのは東端の瀆盧国だけで、それ以外の二国は倭と往来する港湾都市だから海に面していることになる。しかし実際には瀆盧国は今の釜山なんだからその南は海しかなく倭と接壌していたとは考えられない。むりにもというならすごく狭小な倭人居留地が半島内にあったとでも考えるしかないがそんなの無いのと同じで特筆する意味はない。倭国内にも韓人の所領はあったろうし韓地にも倭人の領地は当然あったろうが、国として認識されたかってことは別問題だ。だが少なくとも魏志の建前では瀆盧国「だけ」は倭と接壌していたとわざわざ特筆されてる。これは韓伝の冒頭に三韓全体の地勢として「南(の国境は全面)が倭に接してる」ように書かれているのとも矛盾する。冒頭の書き方だと馬韓の南も弁辰の南も一様に倭であり、南側に海があるようには受け取れない。両者に共通してるのは瀆盧国だけ。瀆盧国「だけ」はどっちの説でも倭と接している。

瀆盧国の位置について謎解きをすると、『後漢書』は(三韓全体の中では)辰韓は東北、弁韓は東南だというからこの二韓だけでいうと辰韓が北で弁韓が南なのだが、実際の24国の配置をみると辰韓が東北で、弁韓が西南になってる(だから「辰韓が北で弁韓が南」だといっても、「辰韓が東で弁韓が西」だといっても、どっちも嘘をついたことにはならない)。精密な地図じゃなくて模式図で表わすと、西北の隅から東南の隅へ対角線が引かれ、この対角線を境として弁韓と辰韓に分かれる。
『後漢書』によらずとも、魏志は(三韓全体で)弁韓の位置にふれずただ「東西は海をもって限り(中略)西は馬韓、東は辰韓」としかいってないのだから、東の海には辰韓が面してるのであり、弁韓は東の海に面していない。「南は海なのか倭なのか」を曖昧にしたままではあるがこの条件で弁韓の領域を最大に見積もって境界線を引いても、やはり境界線の東端は韓地の東南の隅になる。
面としてはパッキリ分かれているんだが、この境界線は弁韓と辰韓に共有されている。境界線(対角線)の東南の隅の点も、当然共有していることになる。つまり瀆盧国は弁韓(弁辰)の東南の隅にあってこの「点」の部分を含んでいるのである。瀆盧国は「弁瀆盧国」でなく「弁辰瀆盧国」だから建前上は南の海には面していないし、この模式図(対角線のある図)でも、東の海にも南の海にも面していないことに、ちゃんとなっている。
そして東夷伝の認識では「韓は倭の西北、倭は韓の東南」だといってるのだから、瀆盧国が「倭と接する」というその地は、まさに瀆盧国が保有する「韓の東南の隅の点」のことをさしている。「点」というのはあくまで模式図の上でのこと、魏志の想定上の地理であるが、面でも線でもなく「点」だというのが重要なのだ。
「(三韓全体としてみると)東西は海をもって限り、南は倭と接す(つまり南は海ではない)」という地理認識と「弁辰瀆盧国(だけ)が倭と接す」という矛盾する二つの地理認識から、それぞれの地図を作って比べると、瀆盧国を蝶番(ちょうつがい)として倭国を反時計回りに韓地から引き離すと韓と倭の間に西から海水が流れこんで海になる。州胡(済州島)もあえて倭地と一緒のレイヤーに乗せてあるのは明らかだろう。倭が真南にきて韓とくっつくと州胡も倭と同じレイヤーだから、州胡が韓(三韓全体)の西南にあったのなら時計回りに45度動いて、馬韓の南にあったのなら90度動いて、いずれも馬韓の西になる。韓の南はすぐ倭で、倭と韓は陸でくっついてるのだから済州島が浮かぶ海は南にないのだ。この海が入り込まないで韓と倭がくっついてるのが建前であり、この場合、倭は韓の南へ伸びている配置になり、倭は会稽東冶の東になるのである。この場合、倭と接する国は韓にいくつもあるはずなのに、あえて瀆盧国しかあげてないのが「春秋の筆法」で、瀆盧国以外を倭と切り離すには、瀆盧国の保有する「点」を中心に回転させる他ない。魏志の方角は八分法だから最低限の切り離しで済ませようとしたら45度になるし、前述の通り90度の設定かもしれない。

「会稽の東」と「東冶の東」は別?
で、方角のズレが当時の人々の誤認ではなく、意図的なものだとしたら、目的があるはずだ。なんのために方角が45度(または90度)傾かせられたのか?
旧来の誤認説の場合は、倭国が「会稽東冶の東」にあると誤解されていた、という話とセットになっていた。しかしそこで意図的に方角を傾けていることが明らかになったのだから、要するに会稽東冶の東には無い倭国を会稽東冶の東にむりやりもってくるために方角を傾けた、ということになる。ということは魏志の原資料では倭国は南ではなく東か東南に伸びていたのである。
…のはずなのだが、しかし、本当に当時の中国人の認識では倭国は「会稽東冶の東」では無かったのかというと、それがそうでもない。

倭人伝には「計其道里、當在會稽東冶之東」(その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし)とある。地名としての会稽は今の浙江省の紹興、東冶は今の福建省の福州。この解釈は3つの説がある。

(1)「会稽郡の中の東冶県」の意味。
(2)「会稽東治」で会稽での禹王の統治の伝説をさすという説。
(3)「会稽」と「東冶」二つの地名の並記。


(1)と(3)は東冶(とうや)、(2)は東治(とうち)で字が違う。

(2)は東冶はないことになって会稽だけが問題となり、(1)は東冶だけが問題となるのに対し、(3)は会稽と東冶の二ヶ所をあげているという解釈になる。
当時は東冶県は会稽郡でなく建安郡に属していたので(1)はないという説もあるし、必ずしも正規の郡県にとらわれず「広義の会稽地方の中の東冶」という解釈もできないことはないともいう。東冶(とうや)の原文は東治(とうち)になっているのでこれは誤写というのが通説だが、(2)は東治(とうち)のままで正しいとする。だが「…の東」とあるのだからその直前は地名でないといささか不自然だろう。「会稽東冶」は四字熟語のようになんども出てくるのに「会稽東治」は例がないので誤写説の方が自然ではある。しかし、会稽(紹興)東冶(福州)をつなぐ線はほぼ今の浙江省の海岸線で、北緯でいうと紹興は屋久島(北緯30度ぐらい)、福州は沖縄(北緯26度ぐらい)に近く、その中間は奄美大島のあたり。だから地図でみると倭国は東というよりかなり東北になるんで、(2)の説の方がいくらか正確になるように見える。

東冶については『三国志』呉主伝に亶洲の人が会稽に交易にくるといい、「東県」(たぶん東冶県の脱字)の住民がまれに亶洲に辿りつくという。『後漢書』東夷伝では亶の字が澶になってるが同じことが書いてあり「東県」が「東冶県」になっている。倭国が「会稽東冶の東」だというのは要するに亶洲も倭国も同じ国だということを暗示している。ここで亶洲から来る時には東冶といわず会稽に来るといい、亶洲へ行く者は会稽からといわず東冶から流れていくと言っていることに注意。「会稽の東」は亶洲からくる方角であり、「東冶の東」は亶洲へいく方角である。東冶は『三国志』にもちょくちょく登場する当時の海上交通のターミナルである重要な港湾都市だった。東冶県がそうなった理由を推測するに、その東がすぐ台湾の北端で、そこから西南諸島を伝って鹿児島へいくルート(南航路)が開けており、交易物資の大陸側における収積場だったからではないかと思われる。つまり中国から亶洲へいくなら、会稽でなく東冶が出港地になる。倭人が五島列島や済州島から東シナ海を横断して会稽に行くことはあっても、中国人はこのルート(北航路)は使わない。そういう訳で『三国志』呉主伝や『後漢書』東夷伝をみれば会稽と東冶の二ヶ所をあげることに意味があるのは明らかであって、「会稽の中の東冶」の意味でもなければ東治(とうち)でもないことがよくわかるだろう。

で、倭人伝の方角が実際の方角とズレて傾いてる理由だが「会稽東冶からは東でなく東北だから、東になるように45度傾けてある」のだろうか、と言うと、そうではなくて、傾けた理由は別にあると思われる。
倭人伝に書かれた南方系の習俗が南九州に及んでいたのならば、中国人からみてその習俗は「儋耳・珠崖」(海南島)と同じというのだから、中国人の目には海南島から九州までの間に存在したはずの台湾人も沖縄人もすべて同じに見えていた可能性が高い。あるいは、違って見えていたのにあえて同一視しようとしたか。そのどっちであるにしろ、「その習俗は倭人の習俗」という認識なのだから魏志は会稽東冶の東に広がる同じ習俗圏を広く倭と呼ぼうとしているとも見える。その場合は、会稽東冶の「真東」に該当する西南諸島もまた「倭の一部」と認識されていたことになるので、「九州は会稽東冶の東じゃなくて東北だ」という議論は意味がなくなる。
そうではなくて、あくまで倭国は九州であり、西南諸島は含まないとすると(そんな仮定は不可能だと思うがとりえずそう仮定すると)、厳密な方角からいえば確かに東でなく東北なのだが、四分法で90度の広がり(会稽からは八分法で45度の広がりでもよい)をもってみれば、航路の説明としては大雑把にいって間違いとはいえない。とくに南航路では台湾、石垣島、宮古島を伝っていったろうから一旦は東南へ進んだのであり、出港地からみると「亶洲が東北にある」という印象は薄かったろうし「物の言い方」としては「東のほう」で問題ない。してみれば「東北でなく東」というのは会稽東冶の現地情報だった。
ここまでは当時の中国人の普通の認識であって、魏志に特有の意図的な誇張や方角の歪曲は入ってない。渡邉義浩なんか『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書)の中で「本当は会稽の東なのに倭国の位置をさらに南に引き下げるために東冶をくっつけた」みたいなことを言ってるが本当に三国志の専門家なのかね?

「会稽東冶」の政治的背景
倭国を「会稽東冶の東」にもってったのは倭国の風土、自然環境についての情報から中国人が本当にそう信じていたという説もあるが、上述の通り、現地の中国人は風土や自然環境の情報とは無関係に、航路の方角によって漠然と「会稽東冶の東」と言っていただろう。しかし魏が使節を交換する中で得られた実際の情報では、倭国は北九州から東(または東南)に伸びており、会稽東冶の東になっていなかった。これは倭国が「会稽東冶の東」にあると考えていた中国人にとっては新発見だった。

だが魏の公式見解(というか司馬懿の意向)では、倭国は呉からそんなに離れてるのではなくぜひとも会稽東冶の(つまり呉の)すぐそばにあってほしい。そこで90度(または45度)意図的に傾けた地理が想定された。魏志や魏略の原資料は誤ったわけではなく、司馬懿の功績を大きくするために意図的に方角を傾かせて呉の近くに倭があるように繕ったのだと思う。それ以外に、わざわざこんなことする理由は思いつかない。

大月氏は一万里の彼方だけど、魏と蜀が涼州を奪い合って死闘を繰り広げたその涼州には月氏系を含めた有名な遊牧民の残党が盤踞しており、魏も蜀も彼らを味方につけようとしていた。もっともこの頃の大月氏は中国が勝手にそう呼んでいただけで別系統の民族(クシャナ朝)だし、涼州の月氏人がインドの大月氏の動向を気にしたものかかなり疑問もあるが、魏は政治宣伝としての効果を期待したからこそ「貴霜」と呼ばずあえて「大月氏」と呼び続けたとも考えられる。親魏大月氏王と親魏倭王は同等で一対だからこそ曹真の功績に匹敵する司馬懿の功績としての意味があるわけで、当然、同様に呉への威圧という効果が期待されていた。

ただし呉に向けての宣伝ではなく魏の国内向けの宣伝で、司馬懿が呉を威圧しているという功績を称揚するものだ。夷州や亶州(澶州)の人間が会稽に交流にきていたことは後漢書に書かれている(この夷州・亶州が日本のことだというのは別のページに詳しくかいた)通り、倭国が本来の正しい位置にあっても呉に対する威圧としては十分で、それは海洋事情については魏より詳細な情報をもっていたであろう呉の方がよくしっていただろう。だが内陸にすむ中国人には東シナ海が大きすぎて呉への抑止力になるのか疑問に思うだろう。それでは司馬懿の功績も半分に聞こえてしまう恐れがある。

倭人伝の行程つまり五倍里のまま「一万二千里」だとはるか南のはて、それこそインドネシアのボルネオ島やスラウェシ島のあたりになる。これじゃ「会稽東冶」もクソったれもあったもんじゃないw 『石刻禹跡図』は1137年だからかなり後世のものだが三国時代の司馬氏に仕えた裴秀が作った『禹貢地域図』の影響で作られたという。これによると高麗(今の韓国)の南端から瓊州(今の海南島)まで約五千里というから、朝鮮半島の南端から台湾の北端までその半分で約2500里。これを北にずらすとだいたいソウル(帯方郡)から福州(東冶)までと同じぐらい(約2500里)にみえる。渡邉義浩は上述の著作の中で「『石刻禹跡図』は朝鮮半島南部から海南島まで約五千里とあるから、『禹貢地域図』では朝鮮半島南部から会稽の背後まで約五千里としていたことになる」と書いてるが、正気で言ってるのかね? まさか海南島を「会稽の背後」とは言わないだろうから「周旋五千里」に目が眩んで錯乱してるんだろう。海南島は遠くて、台湾だの会稽東冶だのは朝鮮と海南島の間ぐらいにある。だから目分量で半分の約2500里になるのは世界地図に照らせば誰がやっても明瞭にわかる。概数だから2600里でも2400里でもいい。『後漢書』郡国志によると洛陽から遼東郡まで三千六百里、玄菟郡まで四千里、楽浪郡まで五千里という。これを目安にしてみると帯方郡から会稽東冶の東の海上まではアバウトに2500里前後にみえる。前述の渡邉義浩の見立て(約五千里)は半分にしないと合致しない。上記の禹貢図から察しても、中国人は中国本土の地理については正確な情報を当然もってるから、これぐらいは容易に推定できる。「一万二千里に誇張しなければならない」という課題が発生した時には、一万二千里を五で割って、実測2400里と設定すれば実際の数値に近いと目算したのではないか。
ただし初期のシンプルプランだと方角が変わるのは不弥国から先の3000里分であり、十分意味のある変化といえるが、改訂された現状プランでは方角が傾いてるのは末蘆国から先だから先端のわずか600里にすぎず、これだと方角が変わっても変化が無いから日数表示の分も距離に加算されていると考えられる。つまり北九州と邪馬台国の間は、方角を変えることで邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってこれる程度には離れているということだ。邪馬台国を含む倭国のおもな領域が九州内に収まっているのなら、南への距離の延長だけで済むのであり、わざわざ方角をかえる意味がない。

それと「一万二千里」に誇張した段階でインドネシアまでぶっ飛んでしまってんので、これでは「呉に対して脅威を与える魏の同盟国」にもならない。「会稽東冶」にもってくるためには5倍誇張では大きすぎ、1.5倍と2倍の間ぐらいでいい。しかしそんな倍率は魏志に出てこないし、会稽東冶については距離の誇張でなく方角ズラシで対処したことは明らかだ。そうするとこの二つの歪曲は両立しない。距離が誇張されてると知る人で初めて倭国が呉の近くなんだと騙されることができ、一万二千里を真に受ける人は会稽東冶の東には馬韓があると考えるか、さもなければ会稽東冶の東はるかハワイのあたりに倭国があると考えるはめになる。しかし一万二千里は数字の上だけのことなのに会稽東冶は習俗文化の具体的でふんだんな記事とともに考察された文なので、どちらが嘘でどちらが本当かは容易に判断がつくだろう。おそらく「会稽東冶の東」をみて「一万二千里は嘘なんだな、誇張されてるんだな」と気づかせる意味もあるんだろう。肝心なのは「倭国は会稽東冶の東である」ということである。

一万二千里を真に受けるとインドネシアになっちゃうから、実際に邪馬台国インドネシア説というのはあった。有名だから知ってる人も多いだろう。それは北アジア史の権威で遊牧民族の歴史について数々の名著のある内田吟風の唱えた説で、ジャワかスマトラにあった「耶婆提国」を邪馬台国とする。耶婆提はヤヴァドヴィーパ[yava-dvipa]の音訳で、AD411年にここを訪れた法顕が『仏国記』で紹介している。この説は素人ではなく学界の大物が主張したのが珍しい。しかし残念なことに後年撤回している。
この他に南方説としては小林恵子の奄美説(電波古代史学者の小林恵子と同一人物で本人の最初期の若き日の著作)、加瀬禎子のフィリピン・ルソン島説(耶婆提国とみるのは内田吟風と同じだがジャワ・スマトラでなくルソンとする)、木村政昭の沖縄説(琉球大の海洋地質学者。今も地震研究そのほかで活躍中)がある。いずれもジャワ・スマトラ説の前では迫力不足。
倭人伝の「其の道里を計るに当に会稽東冶の東に在るべし」を真に受けると奄美大島や沖縄、「投馬国(台湾?)まで水行二十日そこから邪馬台国まで水行十日陸行一月」を真に受けるとルソン島の南端あたりになるので、これら南方説の論者はだいたい「真に受ける系」の人が多いと言い得る。
この中で木村政昭はさらに「ムー大陸沖縄説」を言い出したところが面白い。戦前の日本人のインドネシアへの思い入れといい、ムー大陸と竹内文献一派との関係といい、邪馬台国とムー大陸は日本人にとって魂の故郷とか失われたルーツとかを象徴するという意味で深層心理的には似たような面がありそうである。
普通のオタクならここでモスラの歌やインファント島の土人の踊りの動画だすところ。そっちじゃなくて、こっちってのがツウでっしゃろw
ちなみに章炳麟(明治〜戦前、中国の政治家)がこの耶婆提国を南米エクアドル(漢字表記:耶科陀爾)とする説を唱えた。その説自体は邪馬台国に絡まないのだが、これとは別に幸田露伴が耶婆提国なら耶科陀爾(エクアドル)より日本の邪馬台国のほうが似てるだろうと突っ込んだ。この両説を都合よくくっつければ「邪馬台国南米説」もたちどころに組み立てることができる。

45度説と90度説での邪馬台国の位置関係
では、方角が傾いてるのは意図的なものだとして、それは45度なのか、それとも90度なのか? 90度説より45度説の方が若干ややこしいので、まず90度説から検討してみる。

90度説
90度説だと順次式でも放射式でも方角は日本海航路より瀬戸内海航路の方が自然にみえる。順次式だと邪馬台国までの水行と陸行が「and」なら投馬国は中間地点で広島県福山市鞆町鞆か。「or」なら邪馬台国までの3分の2ぐらいの距離で岡山県玉野市玉か。順次式で「or」の場合「陸行」が説明しづらくなってしまう。大きくは日本海航路でも角度の広がりからいって投馬国が出雲だとしても但馬だとしてもそこへの南(実は東)はだいたいそういえる範囲ではある。が、投馬国がもし但馬だとすると邪馬台国への南は「西南」(実は東南)の誤りだとでもしないと苦しい。だとすると投馬国は出雲が妥当か。水行陸行の具体的な距離がどのぐらいなのかは詳しくは後でやるとして、ともかく順次式の場合「水行・陸行」の距離をむちゃくちゃ短かめにとっている。
放射式だと特になんの問題もない。が、問題なさすぎて邪馬台国も投馬国も、候補が多すぎて絞れないw しいて言えば邪馬台国を畿内大和とすると順次式ほど酷くはないが放射式でも「水行・陸行」の距離をかなり短くとってる。だいたい北九州から畿内大和までは陸行だけで半月ぐらいが適正だから「陸行一月」とは倍もの差がある。この、水行陸行の具体的な距離がいったいぜんたいどのぐらいなのかの考察は後の方でやります。

なお、日本海航行説の場合なぜ瀬戸内海を通らないのかという説明も必要だが、それは後の方で「魏の使いが邪馬台国に行ったか行かなかったか論争」のとこで一緒にやるからここではやらない。
それと畿内説か九州説か問わず、投馬国と邪馬台国の水行陸行は郡から直接いくルートなんだという説もあるが唐突で受け入れ難い。張明澄も「そんな漢文の読み方はない」と一蹴していた。ここまでガイドしてきてなんで急に郡から説明しなおしになるのか? そもそも邪馬台国への案内なのだから不弥国までのルート説明は邪馬台国につながってないことになって意味不明になる。日数は一万二千里の日数だという説も方角を傾けた分の里数が少なすぎて方角をかえる意味がなくなるので採れない。

邪馬台国と投馬国がどこなのかという話は水行陸行の日数の問題のところで検討する。それまでお預け。

45度説
45度説の場合、放射式は成り立たないので順次式のみが考察の対象になる。
模式図的には邪馬台国は北九州(不弥国)からみて「はるか東南」ということになる。不弥国から投馬国へいく南というのは東南ということになり、畿内説の場合は九州東北部から瀬戸内海へ向かう方角となる。九州説の場合でも放射説を使わず順次式で不弥国から九州東北部の岸に沿って進み、豊後や日向の方向へ行けばよい。放射説だと伊都国から南にしろ東南にしろ二十日も水行できるような大きな川がない。まぁ2日も歩けば有明海に出ちゃうので何とでも言いようはあるが…。畿内説の場合、波の荒い日本海より瀬戸内海の方がよさそうだが、玄界灘に比べれば日本海もたいしたことないし、行きの場合は日本海の方が潮の流れに乗って高速で行ける。帰りは瀬戸内海航路を使ったろうが、行きは日本海と両方ありうる。ただ、瀬戸内海航路だと、投馬国を周防にしても吉備にしても方角的に邪馬台国=大和との位置関係が難しくなる。神戸市須磨区を投馬国とすればなんとかなりそうではあるが、投馬が須磨(すま)になったってのはもしかしたらやや厳しいかもしれない。
日本海航路だと、南は実は東南なのだから、投馬国が但馬だとすると実に都合がいいのだが、不弥国から投馬国への南(東南)が整合しないのが難点。
そこで、不弥国から投馬国への「南」は誤字があるのではないかという、九州説からは評判の悪いいつものアレ。一応、3通り考えられる。

(A)「東」(実は東北)の誤りとする説
(B)「東南」(実は東)の誤りとする説
(C)「東而南」(東北に行ってから東南に折れる)の誤脱だという説

(A)の場合、不弥国から東北に進んで投馬国=出雲に到着、そこから東南に向きを変えて邪馬台国へ向かうことになる。
投馬国が出雲だろうが但馬だろうが「邪馬台国への南」とあるのは実際は東南のこと。
(C)の場合、はじめ東行(つまり北東)して出雲沖あたりで南(つまり東南)に方向転換して投馬国をめざす、と。この場合、模式図の方角では邪馬台国は北九州からはるか東南にある。

以上、45度説の根本的な問題は、日本列島が北九州から東南方向に伸びている、という地理観を魏人がもっていたという前提があるわけで、これは実際の日本地理とはずいぶん乖離している。前述のように当時の中国人はすぐれた測量技術や発達した地理学があったのに、そこまで間違った地理観をもっていたとは、どうも考えにくいようにも思われる。
だが、陸行水行の日数をどう考えるかによっては、上記の(A)説をもとにして、45度説でありながら邪馬台国を真東にもってくることもできるのだ。日数を距離に換算する話は後回しにしてここでは詳しくはしないが、冒頭の「韓地では内陸をジグザグに陸行しようが、海沿いを水行しようが、同じく七千里」という話を思い出そう。あれは水行も陸行も同じ距離だということを暗示したのではないだろうか。そうすると不弥国から投馬国までの「水行二十日」と、投馬国から邪馬台国までの「水行十日プラス陸行一月」が等距離になり、投馬国は不弥国と邪馬台国とのちょうど中間点にあたるので、出雲の方が但馬説よりよさそうにも見える。出雲説の場合、出雲から水行十日で但馬に上陸し、そこから陸行一月で邪馬台国に到着。ちょうど良い。
投馬国が出雲なのか但馬なのかという議論は後回しにして、なにが言いたいのかというと理念上は不弥国と邪馬台国との間の中間点では直角に曲がってるんだからこの航路は直角二等辺三角形を描き、邪馬台国は不弥国からみて真東に当たることになる。北九州から真東ではどんなに長距離を行っても「会稽東冶の東」にはならないが、これを45度傾けると、真東が「東南」になり、「会稽東冶の東」を延長した先と交わる。ただ、2000里か3000里も離れた「はるか東方」になり、呉への牽制になるのかという問題はあるが、一応、理論上は「会稽東冶の東」に違いない。
邪馬台への行程【その4】」に続く。
【その4】では狗奴国の謎に迫る! そして使訳通ずるところ三十国の「30国」のリストはの謎を解明!?

邪馬台への行程【その2】~女王国と周旋五千里の謎~

改稿:2679年[R01]10月20日SUN (初稿:2679年[R01]10月10日THU)
邪馬台への行程【その1】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その1】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「女王国」という言葉
女王国という言葉は本来は男王国の対語で、倭国が男王派と女王派にわかれていたという情況を反映していた。女王国は「女王が支配する諸国=女王を支持する諸国」、男王国は「男王が支配する諸国=男王を支持する諸国」の意味。だから理屈だけいえば、邪馬台国も女王国だけど、奴国も女王国(の一部)ではあるわけだ。倭人伝に出てくる「女王国」という言葉を、読者は邪馬台国のことだと錯覚して読んでるが、実は奴国のことだったりする。しかし言葉の定義上、嘘をついてるわけではない。実際、倭人伝には「女王国」という言葉は5回でてくるが、文脈から判断するに、そのうち4回は単に奴国をさしている。

魏志倭人伝にでてくる「女王国」と「女王」のリスト


(A)「皆統屬女王國」◎
(B)「自女王國以北其戸数道里可得略載」 ◎
(C)「自郡至女王國萬二千餘里」 ◎
(D)「自女王國以北特置一大率檢察諸國」 ◎
(E)「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」 ●

(1)「南至邪馬壹國女王之所都」
(2)「次有奴國此女王境界所盡」 △
(3)「其南有狗奴國其官有狗古智卑狗不屬女王」△
(4)「傳送文書賜遣之物詣女王」
(5)「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」●
(6)「倭女王遣大夫難升米等」
(7)「其年十二月詔書報倭女王曰」
(8)「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」

【魏略】「女王之南又有狗奴國女男子爲王」▲
(魏志では「女王之南」が「其南」になってる)

無印(1)(4)(6)(7)(8)の女王は、「卑弥呼という人物」を指し「王の地位にある女性」そのまま。
△(2)(3)は「女王の勢力圏」、お前らの好きな言葉でいえば「女王国連合」、つまり本来の「女王国」という言葉の使い方。 女王の二文字だけでも文脈上は女王国の意味。例えば「ロシア皇帝が宣戦布告した」といっても「ロシア帝国が宣戦布告した」といっても同じこと。
◎(A)(B)(C)(D)の「女王国」はまさに「奴国」の誤記、いや奴国をあえて女王国と書いた例。(C)だけが意図的なもので他は誤記かもしれないが。
●(5)はもし誤写がないとするとなぜ「女王」と人間を出してるのか不可解だから「女王国」か「奴国」の誤写だろう。「女王国」だったとするとその意味は卑弥呼の勢力範囲(=諸国の範囲、女王国の本来の意味、「女王国連合」の全体)か邪馬台国か奴国かの三つありうる。卑弥呼の勢力圏の意味だとすると、範囲が広すぎて起点が漠然としてしまうので、「奴国」なり「邪馬台国」なりと書かれてあるのがもっとも自然であり、女王国とか女王とあるのはへんだ。へんではあるが距離や方角の起点を示す時は「女王」とあろうが「女王国」とあろうがすべて「奴国」か「邪馬台国」のいずれかを指すと解釈せざるをえない。この場合、もと奴国とあったのを女王なり女王国なりに誤写したのだとはいえても、もと邪馬台国とあったのを誤写したというのは字づらからいって苦しいから、「女王之都」とあったのが誤脱したんだといった方がいくらかマシだが、あえて邪馬台国と書かず女王とか女王国とか漠然とさせてるのはやはり普通でなく、奴国を意識してるのではないか。奴国を女王に誤写した可能性もあるし、誤記ではなくわざと「女王国」と書いてあったのに国の字が誤脱した可能性もある。詳しくは後述。
●(E)も「奴国」のこと。だが、△印と同じく女王国連合の全体と受け取りたい人が多いかも知れない、俺もそう思ってた時期がある。もと「魏略」の冒頭で半島から海を渡った先にも倭があるという趣旨の文だったが、陳寿が切り‏離して遠く離れた末尾に置いた時に、ある目的をもって「女王国東」と補い、もともと無かったはずの倭国の領域を文章の上だけで東に想定したもの。詳しくは章を改めて以下に述べる。
▲【魏略】の女王は魏志では「其の南」になってて『魏志』の文脈からは「奴国の南、女王国全体の南、邪馬台国の南」の三通りの解釈がありうる。魏略の方が原形なら邪馬台国を女王国と誤記することは考えにくいし、女王国全体の南では広すぎて起点が定まりにくい。そうするとここの女王は奴国のことだと一見思われる。狗奴国は肥後菊池郡としても南は後述するように45度(別説で90度)傾いて東南のことだから奴国から東南では菊池郡にならない。東国説の場合は邪馬台国から東(90度説だと表記上は南)だから、こっちの方が合ってるが、ならば邪馬台国とあるべきでこれを女王とは書かないだろう。邪馬台国を女王と誤記することも考えにくい。ともかく邪馬台国は字づらからありえず、かつ、奴国の線も消えるなら、文面上は「女王国」だったとしか考えられないが、女王国(の全体、勢力範囲)は普通は広すぎて方位や距離の起点とはされない。苦肉の策だが、「女王国」が例外的に方位や距離の起点になりうる場合が一つだけある。それは対象が特定の国邑(=点)ではなく、女王国と同程度の広がりをもっている(=面)場合だ。つまりここには文字の誤脱があり「女王国之南、男王国あり」もしくは「男王国は女王国之南にあり」という文章だったのではないか。

「周旋五千余里」の謎
●(E)の原資料は『魏略』で冒頭の「倭在帯方東南大海中依山島為国」の後にすぐ続けて「度海千里復有国皆倭種」とあり。前の文はもちろん『漢書』地理志の「夫樂浪海中有倭人為百餘國㠯歳時來獻見云」に基づいた文だが、ここの「海中」は「海を渡った先」の意味ではない。『山海経』海内南経にに「甌居海中、閩在海中」(甌越(今の浙江省)は海中にいて閩越(今の福建省)は海中にあり)、『漢書』天文志に「朝鮮在海中」(朝鮮は海中にあり)と。『戦国策』にも用例があったが検索しても出てこないな。朝鮮も甌越も島ではなく中国と陸続きである。この場合の「海」は "sea","ocean" ではなく「晦」(かい)と同義で「暗い」の意味。「暗い」というのは中華文明の光が届かない化外の地、異民族の世界ということ。陸続きか島なのかはぜんぜん関係ない。逆にこの「海」に囲まれた内側が文明世界でありこれを「海内」という。義満が明の皇帝に送った国書に「某、幸に国鈞を秉り、海内虞(おそれ)なし」とあったあの「海内」も同じ。もし "sea","ocean" の意味なら「海中」でなく「海上」と書けば間違いがないが、「海中」でも "sea","ocean" の意味の場合も当然あるから文脈をよくみて判断しなければならない。『漢書』地理志の「楽浪海中」は楽浪(今の北朝鮮)の海中というのだからそれは今の韓国の地をさしている。もし日本列島をさすのなら楽浪ではなく「真番海中」でなければおかしい。真番は今の韓国の地で、半島南部を「韓」というのは後漢になってからで、前漢の頃は真番郡が廃止されても「韓」という呼称はまだ発生する前で「真番」と呼び続けていた。真番の住民が倭人ってことになる。ところが「真番海中、倭人あり」ではなくて「楽浪海中、倭人あり」なのだから、今の韓国の地の住民は当時は倭人と呼ばれていたことになる。だから『魏略』冒頭の「倭在帯方東南大海中依山島為国、度海千里復有国皆倭種」をそのまま読めば表面上は「倭は朝鮮半島にあるが、海を渡った先の日本列島も倭国だ」っていう意味にしか取りようがない(さらに詳しくはいずれ解説します。いつか任那日本府についての議論で扱うだろう)。つまり『魏略』は朝鮮半島の南部も倭だっていう前提の文章だった。これは「魏志では半島に倭があったとは書かれてない」という前述の俺の主張とは矛盾しない。時代が違うのだ。

※なお「山島」は通常なら「山がちの島」とか「平地の少ない島」ぐらいにとるのが普通だろうが、鈴木貞一によると「山島」には「半島」の意味があるという。「半島」は西洋語を翻訳して作った現代語で漢文にはない言葉。「崎」は険しい山、「岬」は細長い谷間のことで、どちらも半島の意味に使うのは日本で始まった転用(もしくは誤用)で、本来の漢文にはない。ただ「埼」の字は未確認で、もしかしたら半島の意味があるかもしれない。「山島」で半島を表わし得るというのは、上に突き出た土地が「陸にあるのが山で、海にあるのが島」だから、「山島」とくっつけると「陸側に半分くっつき、海側に半分でている地形」で半島のこととなる、という理屈だろうか? もし鈴木貞一の説が本当なら『魏略』のいう「倭在…依山島為国」の文は「倭が半島にあった」と解釈することが可能になる。ただ、この場合でも「山島」は「半島の意味しかない」というわけではないので、絶対の根拠にはならない。

韓も倭も「百餘国」だが、三国志の三韓合計78国と宋書の倭(東55国、西66国)合計121国を加算すると199国で、これを倭韓で平均すれば「百餘国」でぴったり合ってるともいえる。「三韓」の諸国が三世紀に計78国、五世紀に海北95国だから、前漢代に「百餘国」といってるのは半島南部の諸国の概数として不適とはいえない。国造本紀(144国)や隋書(120国)や五世紀の121国から推定して三世紀日本列島も「百餘国」だったというのも概数として問題はない。精密な数字が一致することは偶然で考えにくいが、四捨五入したおおまかな概数が一致するのはよくあることで何の問題もない。誤解ないように念押しするが、これは前漢の頃は倭国が半島を支配してたのに後漢になってから半島が独立したということではない。半島の原住民(倭人)が日本へ引き上げて別の人種(韓人)に入れ替わったという意味でもない。「中国人側からの呼び名」が変わっただけ。三国時代にはすでに半島の「韓」と列島の「倭」に呼び分けることが起こっていたので、この部分は誤解ないように切り捨てるべき部分だったが、陳寿はこの前漢代の知識に基づく文章を切り離し、「ある目的をもって」末尾に移動したのである。その時に「女王国東」と補った。陳寿の意図については後述する。原文の『魏略』では「女王国の東」だとも書いてないし単に「東」だとも書いておらず「千里の海を渡った先にも倭」としかいってない。これは半島の倭と対馬の倭の関係をいってるにすぎない。だから冒頭に書いてあるわけなのだ。
東千里の倭種は女王国じゃないんだから、じゃそれは男王国=狗奴国だろうと『後漢書』は解釈しているが、誤りに誤りを重ねるものだ。実際、狗奴国は東にあったんだが、范曄が正確な情報をもっていたわけでは全然ない。二度まちがいを重ねた結果、偶然ただしくなっただけ。
陳寿としてはこの「倭種」なるものは女王国でも男王国でもない倭国のつもりだったろう。
なぜそんなことがわかるのか?
上記の●(E)と●(5)の文は問題の「周旋五千里」とくっついたひとまとまりの文になっている。
倭人伝には

参問倭地、絶在海中洲嶋之上、或絶或連、周旋可五千餘里


倭の地を参問するに海中洲島の上に絶えて在り、あるいは絶えあるいは連なり周旋五千余里ばかり

という文がある。「周旋」はうっかりすると「ぐるっとめぐる」って意味だから一つの陸地の周囲か複数の島々を囲む距離(ぐるっと回って同じ所に戻る)と思われやすく、実際プロの学者からアマチュアまでそういう解釈の人が多い。しかし三国志の「周旋」の用例を調べた人のレポでは20件ぐらいあるうちのほぼすべてで「転々としながらあっちに寄りこっちに寄りして進む」の意味で使われているという(ネットで見たけどアドレスは忘れましたw)。つまりくねってはいるが一本の道だとも受け取れる。だから、国語学者の山田孝雄は「周旋とはみずからが旋転(めぐりまわる)する意味」であるといっているけどこの場合の「みずからめぐる」というのはフィギュアスケートやバレエダンサーみたいに自分の身体を回転させるということでなく「めぐりながら(あちこち寄りながら)歩く」ってことだろう。だが、辞書レベルでも丁寧に調べたら「同じ場所に戻るようにぐるっと回る」という意味も絶対に無いという訳でもなさそうだ。
ともかくこの前提で、例えばこの「五千余里」を一万二千里から韓地の七千里を引いたもので機械的な計算で出した数字にすぎないという説も有力なのだが、簡潔を尊ぶ漢文において、そんなわかりきった数字をわざわざ明示する意味はない。
小人国1侏儒国(小人国)
そもそもこの記事の該当文面は●(E)の「女王の東千里に国名不詳の国があり」、●(5)の「その南に侏儒国があり女王から四千里。裸国と黒歯国がうんたら」にすぐ続いて「周旋五千里」で閉めている。「習俗記事の後、歴史事件記事の前」に置かれており、行程記事から遠く離れていて、本筋の行程記事とは関係ないようだ。●(E)は前述したように『魏略』の倒錯した文だから切り捨ててしかるべきだったが、行程記事とは別のこんなところにもってきて原文になかった「女王の東千里」を補ってる。なんでこんな余計なことをしてるのか? おそらく「周旋五千里」は初期モデルでのコースで対馬国から邪馬台国までの5000里のことだったと思われる。これは最初に「一万二千里」と一緒に広報されてしまっていて引っ込みつかない情報だったんだろう。ところが改訂モデルだと対馬国から奴国まで4000里なのだから、1000里不足する。だから1000里分、水増ししなければならない。そこで先ほどの廃棄されるべきだった『魏略』の文を都合よく再利用したのだが、無いものを有るといっただけだから国名が無いのである。その名無し国から四千里も行った先のこと(侏儒国)まで情報あるのに、そのずっと手前の国の名前がわからないっておかしいだろう。存在しない国をあるように見せかけるために、わざと侏儒国とか裸国、黒歯国といった『山海経』に出てくる神話上の国、当時の中国人にとっても実在かどうか半信半疑な国と一緒に書いてるわけなのだ。「参問」というのは魏の使いが自分で確認したわけではなく倭人から聞いた話だという意味。数あわせのため追加した千里分の「名無し国」は詳しいことは書けないので伝聞ってことにしてある。本当にそんな国があるのならストレートに書けばいいんでわざわざ「参問」などと断りを入れたりはしない。

なぜ里程でなく日数になってるのか
さて。次には、なんで投馬国からは里程でなく日数で書かれているのかという問題。
一万二千里にするため誇張したにしても、それならそれで邪馬台国までの区間も里数で示せばよく、なぜそこだけ日数なのか? よくいわれる説としては魏使は投馬国と邪馬台国には行ってないので倭人からの伝聞で書いた、隋書倭国伝に

夷人、不知里數、但計以日。


夷人、里數を知らず、ただ計るに日をもってす。

とあるから里数の情報は得られなかったんだ、という説。しかしなんで隋代というずっと後になってそんなことがわかるんだ? 隋といえば推古天皇、聖徳太子の時代で「里」の単位を知らないなんてことはありえない。そもそも隋の使者である裴世清が倭国にきたことも隋書に書かれてるんだからその時代の倭国の文化情況もよく見聞してたはずだろう。卑弥呼の時代の話だというなら三国志の段階で書かれたはずで隋になってやっと確認とれたなんてことはありえない。これは倭国の大きさを「東西五月行、南北三月行」と説明する直前の文だから、なぜ里数で書かないのかを言い訳するための前置きなのである。現代の我々が「魏の使いは投馬国と邪馬台国へは行ってないんだな」と推理するのと同じく、隋書の編集部も三国志の倭人伝をみて「日数表記に変わったところは魏の使いは行ってないんだな」と理解したからこそ、言い訳に利用できたんだが、なぜ理解できたのかというとそれこそ孫栄健のいう「春秋の筆法」で、普通に読めば邪馬台国までいくと一万二千里を超えてしまうからだ。「邪馬台国まで一万二千里」を「奴国までが一万二千里」に書き換えたため、奴国を経由して邪馬台国まで行ってしまうと「1万5100里」になってしまう(奴国から不弥国まで百里、不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里)。現代人からするとどうせ誇張ならそれでも別によさそうに思うかもしれないが、それならなぜ最初から「1万5100里」だと宣伝しないのか、「一万二千里」という話はなんだったのか、そんないい加減でいいのかってことになる。「一万二千里」という数字はすでに景初三年(239年)のイベントで大々的に宣伝されてるので今さら引っ込みつかない、だから「1万5100里」は隠してしまいたい。そこで実際に行ってない行程はわざわざ日数換算に置き換えて里数に単純に合算できないように阻止してあるわけ。
日数表示というのは別に当時の倭人が里という単位をしらなかったからではない。当時の倭人だけでなく、当時の中国人も、現代の中国人も、現代の日本人もみんな日常的に使ってる物差しなのだ。考えてもみろ、自宅から会社までとか、大学から新宿とか渋谷までとか距離を聞かれてキロメートルで答えるやついないだろ? 地下鉄で30分とか山手線で15分とかと答えるはずだ。その方が体感でわかりやすく、実用的で便利だから。里数の方は役人が測量担当者を引き連れて、測量して回る。そのデータを地元の役所(例えば帯方郡)に保管したり中央に送ったりする。だから理論上は実際に行ってないと測量できない。むろん実際は伝聞で里数も把握してたろう。自分で測量しなくても倭国に聞けば教えてくれたはずだ。「軍事機密なんだから教えるわけないだろ」という人もいるが、そんなこたぁないんだよ。当時は邪馬台国だろうがどこだろうが中国系の移民(合法移民も不法難民も含む)もいれば帰化人系の下級貴族だってそれなりにいたのは魏志倭人伝に倭国の使者の中に中国人の名前の者がいるのでわかる。だから、魏の使いも部下を邪馬台国のすぐそばまで派遣したって何も不自然なことはない。ただ合法的にそこらの景色見て歩いてこさせるだけで大雑把な里数ぐらい把握できてしまう。むろん測量しなければ正確なものではないが、大雑把な情報でもさしあたり無いよりずっとマシのはずだ。そんなこと当然、倭国の側もわかってるから、軍事機密だなぞと仰々しくもったいぶって教えない、なんてことはありえない。「ハイハイ、どうぞ」と2秒で差し出すに決まってる。

むろんそれで得た結果が「水行二十日」「水行十日陸行一月」に反映してるかどうかは別だよ。日本書紀の推古朝での隋使裴世清の旅程日数から、ほぼ妥当だという説もあるが、裴世清の旅程は最短最速で進んだわけでもなさそうだし、日数から距離に換算できる性質のものじゃないだろう。むしろ推古朝の朝廷(聖徳太子?)が魏志倭人伝の記述にあわせてわざわざ日数かけて移動させ、もったいぶって見せたんだろう。三国志にでてくる倭国は超大国であるように誇張されている上、当時の隋でも推古朝廷でもその三国志の倭国がこの倭国だと思ってたわけだから、これに便乗して大国に見せかけるぐらいのことは当然やる。

それに前述のように「邪馬台国まで一万二千里」が中国側の都合で先に決まっていたんだから、倭人から聞いた実際の里数とは無関係に、機械的に「郡から楽奴国まで6000里、渡海に3000里で、上陸地の不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里」と割り振られたという想像は前の方で書いた通り。それがずっと後になって「奴国まで一万二千里」に改定されたから、この余分な3000里の部分が里程に合算されないように日数表示に変更されたのだろうと容易に理解できる。
で、魏の使いがはたして伊都国までしか行かず卑弥呼に会ってないのか、それともちゃんと邪馬台国まで行って卑弥呼に会ってるのかという問題と、日数表記の「水行二十日」「水行十日陸行一月」が具体的にどれだけの距離なのかという問題。この二つの問題については後の方で必ずやりますから、その前に「方角」の問題を片付けないといけない。
邪馬台への行程【その3】」に続く。
【その3】では方角が傾いちゃってる謎を解きます。日の出の方角を東としたからではないし日本の地理を古代人が誤解してたからでもありません。「会稽東冶」についての議論、そして「狗奴国」が東海地方なのか熊本県なのか、どっちなんだって話も。

邪馬台への行程【その1】~一万二千里と春秋の筆法~

改稿:2679年[R01]10月19日SAT (初稿:2679年[R01]10月03日THU)
※【その8】までありますが、内容がつながってるので一気読みして下さい。
前置き
今回は邪馬台国問題の中でもいちばんくだらない、じゃなかった、いちばんメジャーな「帯方郡から邪馬台国へ」のコースをどう解読するかって問題に挑戦してみる。

韓地七千里の謎

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里

最初のこの文からもう謎だらけw
「循海岸水行」の意味は海岸にそって航行するんだから韓地の西海岸を南下し一回東に折れてから韓地の南海岸にそって東行するとしか読めない。よって「歴韓國」は韓国の海岸を経ていく意味になる。それなのに「乍南乍東」とあり、小刻みに南いったり東いったりすることだから、これだと「歴韓國」は北西から南東に向かって韓国の内陸をジグザグに進んだように読める。この文の解釈はこの二つの説が対立しているが決着はつかないと思う。なぜならどっちもその通りに書いてあるわけだから。
※これを途中まで沿岸航路で行って、途中から上陸してジグザグコースを陸行するような地図を作ってる人がいるけど実際にはそんな不便なコースはありえない。内陸の場合、南韓江と洛東江の水運を使うからだが、後述の魏略逸文には「乍南乍東」が無くこれが元ネタと思われるというのもある。

また「歴韓國」が上陸せず海沿いを水行する意味と、ジグザグに陸行する意味のどちらもありうるのならば、物理的にいって「韓国を歴ず」しては倭国に行けないわけだから、この三文字は要らないのではないか。簡潔を尊ぶ漢文においては無駄な文字は極力排される。ゆえに、なぜこの三文字が挿入されたのか、何らかの意味がなければならない。「韓国を歴て」は2つの解釈があり、「韓国を通過して」の意味であって海路は該当せず、「乍南乍東」と繋がって「陸行」を表わす言葉だという説と、上陸せず海岸に沿って進むんでも「韓国を歴て」という漢文は問題ないんだという説とがある。単語レベルの正否は俺には決められないし、これだけなら何とでも言えそうだ。その一方で、内陸ジグザグコースの場合、南漢江を最上流まで遡上し峠を歩いて越して洛東江を川下りしたんだから「乍南乍東」の方もたとえ内陸であっても「水行」なのだという説もあり、中国での水行といえば川をいうことが多いぐらいだから、それもありだと一見思える。が、本文には純粋な陸路なのか川を使ったのか明示がない。実際には川を使ったとしてもあえて水行だとはいってないのは、編者の陳寿としては内陸の川なので海路に対する陸路だということにしたいのだろう。そうすると、あくまで「この文脈では」という条件つきだが、「歴韓国」は陸行を示すという説の方がよさそうだ。つまり「循海岸水行」の「水行」と「歴韓国乍南乍東」の「陸行」を対称的に並べているのだ。
帯方郡から狗邪韓国までの行き方が海路と陸路の両方あるのは、まぁ別にそりゃそうだろってだけのことで問題はないし、狗邪韓国に着くことにはかわりないのでどっちでもいいっちゃいいんだが、なぜか魏志は二つの行き方をごっちゃに書いてる。これは普通ではない。おかしい。
あえてこう書いてる理由は、これから倭国への道を書くに当たって「二つの行き方をごっちゃにして書くよ」という前ふりなのではないだろうか?

二つめの問題は「其の北岸の狗邪韓国」。この「北岸」は

(1)「倭の北部にある沿岸部」と解釈する説
(2)「倭からみて北の方にある岸」と解釈する説
(3)「南の倭の海」と「北の韓の岸」が接してる意味とする説

がある。これ単なる地理情報としては「南岸」でないとおかしい(この場合「其の」は「韓の」の意味になる)。「韓の北岸」ではなく「倭の北岸」という意味ならあってるというのが上記の3つの説だが、そうか?「其の」が「韓の」の意味だろうが「倭の」の意味だろうが、普通は北側が海で南側が陸の状態を「北岸」というのであり、倭の北岸なら九州北部の沿岸部しか該当しないし、韓の北岸はそもそも地形上存在しない。このことは明治初期の学者から言われてることで、当時の人ほど漢文に精通してるとは到底思えない現代人が「いや北岸のままで問題ないんだ」といくらいっても説得力がない。だから現代人でも問題ありと認めて解釈説を立てるのが普通で、上記のような3つの説があるわけだ。北岸は「南岸」の誤記だとすれば話は簡単だが、そういう説はない。ということは、解釈で切り抜けられると思われているわけだが、実際うまくいってる訳ではない。(1)の場合「狗邪韓国」はつまり倭の領地(もしくは倭人居留地?)で(3)は韓地には倭の領地はないが海は倭の領分(領地?勢力圏?)だとみているわけだが、どちらもなぜそんなわかりにくい書き方をするのか、意味がわからない。もっとわかりやすく明示する書き方はいくらでもあったろうに、自然な解釈で切り抜けに成功しているとは思われない。(2)が明治以来の有力説だが、他が文章表現として不自然すぎるから比較的マシというだけのことで、なぜとつぜん「倭から見て」なんて視点をかえなければならないのか?
「倭からみて」ってことは韓から倭にいく時の視点とは逆に、倭から韓へ帰る時の視点だ。つまり往路と復路、二つの行き方がごっちゃになってる。これ先に「循海岸水行」と「乍南乍東」の併記によって「二つの行き方をごっちゃにして書くよ」とお知らせあったわけだが、その二つの行き方というのが実は「往路と復路」のことだと暗示しているのではないだろうか?w
ちなみに魏志の原資料になったともいわれる『魏略』には「乍南乍東」も無ければ「其の北岸」も無くて実にすっきりしている。

『魏略』 從帯方至倭 循海岸水行 暦韓國      到   拘耶韓國 七十餘里 
『魏志』 從郡 至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

あきらかに陳寿が「わけのわからない謎かけ」を意図して文字を追加しているのだ。

第三の問題は出港地である狗邪韓国はどこなのか?
狗邪韓国は韓の東南といい、通説では慶尚南道の金海とされる。金海は釜山の西に隣接してるので確かにパッと見、東南の隅にあるように見える。だが魏志は「東南だ」とはいってるが「東南の隅だ」とは言ってない。
帯方郡から韓の東南「狗邪韓国」まで七千里。このコースは西海岸を南下すること4000里、そこから東に折れて南海岸を東行すること3000里で計七千里とみる説にしろ、内陸をジグザグに進むという説にしろ、どっちのコースでも狗邪韓国は東南は東南なのだが「東南の隅」ではなく東南の隅から1000里てまえの地点になる(内陸ジグザグコースの場合も同じ、定規で図面つくってみればわかる)。韓地は方四千里だから「東南の隅」なら七千里ではなく8000里になる。「狗邪韓国」が金海なら東南の隅で8000里になりそうなものだが。そこで「狗邪韓国」は「弁辰狗邪国」と同じものというのが通説なのだが、両者を別の国だとして、今の金海は「弁辰狗邪国」であり「狗邪韓国」はそこより1000里ほど西にあったのではないかという説も出てくる。別の国だという説では「弁辰狗邪国」は弁韓の中の一国だが、「狗邪韓国」は馬韓・弁韓・辰韓のどれでもなく、魏志に「其の北岸狗邪韓国」とあるのは「倭の北岸」で倭国の領土だという。国名に韓とはっきりついてるのに倭だというのはちょっとどうなのかと思うが…。ともかく仮にこの説でいくとどうなるか。

魏志には「弁辰瀆盧国は倭に接す」とあり、まるで瀆盧国だけが倭と国境を接しているかのような書きぶりだ。上記の前提でいくとこの場合の倭は海の向こうではなく韓地内の倭だろうから、「狗邪韓国」のことだと考えるのが普通の流れだろう、あくまで狗邪韓国と弁辰狗邪国を別とする説の場合だが。で、瀆盧国は今の釜山市東莱区という津田左右吉の説が通説になっており、他に巨済島説があるがこっちは有力でない。

『三国史記』地理志によると巨済島には東西南北4つの郡県があり、うち北が「裳郡」、西が「買珍伊県」というのが知り得る最古の古地名とわかる。李朝末期の儒学者丁若鏞(丁茶山)は『我邦疆域考』の中で「鏞案、瀆盧國者、今之巨濟府也。本裳郡、方言裳曰斗婁技。與瀆盧聲近」(自分が思うに瀆盧国は今の巨済府である。もと裳郡で、朝鮮語で裳を「斗婁技」という。瀆盧と発音が近い)といっている。裳(呉音:じゃう/現韓:san)の訓斗婁技は "tu-lu-ki" だというがグーグルで現代韓国語の発音を調べたら "dulugi" という。これはローマ字表記の問題で同じ発音だろう。裳は韓国語でチマ(チマチョゴリのチマ)というのではないかと思うんだが、 "dulugi" で通じるのかどうか俺は知らない。やはり裳郡の裳は普通に考えると土着語の音写であって漢字に意味はないと思うのだが。これに対し、任那日本府の研究で有名な末松保和は買珍伊(呉音:めちんい/現韓:mae-jin-i/古韓:mai-tor-i/古和:めとり?)が瀆盧と同音だという。

東莱だと「倭であるところの狗邪韓国」との間に「倭ではない弁辰狗邪国」が挟まり、倭と接することができない。巨済島だとすると「倭であるところの狗邪韓国」が北でその南に「倭ではない弁辰瀆盧国」があることになり、「東西は海をもって限り南は倭と接す」という韓の地勢にあわない。そもそも島だからどこにも接してない。東莱説にしろ巨済島説にしろ「倭と接す」というのは土地が繋がってるって意味じゃなく海を隔てて交通していることだという説もあるが、それなら瀆盧国に限る意味はないし、語彙としてもむりやりな解釈で学界の中でも外でもほとんど相手にされてないと思う。現実の地形はそりゃそうだろうが、それを魏志が正しく認識してたなら「接する」とは書かないはずで、なんの謎解きにもなってない。巨済島説に対し、釜山市東莱区(新羅時代の「東莱郡」)の東莱が瀆盧の地名の痕跡だという通説の方がはるかに説得力があり、瀆盧国は今の釜山市のうち洛東江の東側の大部分を占めていたと思われる。狗邪国は釜山の近くではあるが釜山でなく、釜山の西にある金海というところであって、釜山とは別である(洛東江の河口を挟んで東が釜山、西が金海)。さてそこで「弁辰狗邪国」はどこか内陸にあって、金海にあったのは「倭であるところの狗邪韓国」だとすれば、瀆盧国問題だけは一応辻褄があう。しかしこの場合は「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」が通説どおり同じ国だとしても結局その位置つまり倭への出航地は金海ということに変わりはない。
この話は「出航地が今の金海なのかそれとも他のどこかの場所なのか」という問題なわけだが、なんでそんな問題があるのかというと以下の対馬海峡での謎解きに続く。

倭人伝のありえない逆行コース
まず韓の東南の狗邪国から渡海して対馬国、一支国(壱岐)を経て、九州の北西にあたる末盧国(松浦、場所は諸説あるがとにかく九州の西北部)に上陸、そこからまた行程は続くわけだが、実際にはこんなコースを取ったはずがない。対馬海峡は強い潮が西から東へ流れており、船が流されてしまう。なので古代では(前近代では)、韓国から九州に南下する時は、もっとずっと西寄りの港から出て、対馬、壱岐を経て、九州の東北部に入港するし、逆に九州から韓国へ北上する場合には九州北西部(松浦郡のあたり)から出発して、壱岐、対馬を経て韓国の東南部(それこそ狗邪国、今の金海、釜山)に着岸する。これがお決まりのコースなのだが、魏志倭人伝では奇妙なことに潮の流れに逆らって、本来なら九州から韓国へ行く時のコースを逆行している。当時はこれは物理的に不可能なんで、これを知ってる人は狗邪韓国を釜山よりずっと西の方だと考える人もいて、あるサイトでは慶尚南道の固城半島だといってるが、さしたる根拠はあげられてない。また別のサイトではさらに西の、全羅南道の光陽だという説を主張している。

光陽(クヮンヤン)は狗邪と発音が似てるが百済時代に「馬老」といったのを統一新羅の時代に「晞陽」(きよう)と改名したもの。現代韓国語だと晞陽はシーヤン、馬老はマーナオ、狗邪はクサに聞こえる。古い発音は、狗邪は日本語読みの方が近く、馬老は正確な発音は不明だが子音をみるかぎりとても狗邪と似てるとは思われない。

また船舶考古学や航海術に詳しい人は、上陸地の末蘆国は九州の東北部にあったという珍説をいう羽目になる。例えば坂田隆『卑弥呼と邪馬台国』は福岡県遠賀郡岡垣町の波津、吉木あたりとし、小説家の高木彬光や東京商船大学名誉教授の茂在寅男も宗像市神湊だとする。

茂在寅男は、壱岐対馬の現在にも伝わる船の下に帆を張るという変わった帆の使い方=潮帆(しおぼ)に注目して、当時の帆船もそうであったと推定する。潮帆は、潮夕と海流が強いための工夫から生み出された帆船であり、壱岐からの黒潮の分派の流れに乗って辿り着くところを比定すれば「神湊」は自然推力で辿りつく事のできる場所になるという。

こういうふうに理系の人は文献に物理的にありえないことが書かれていれば文献を否定して物理的にありえる方を採る。しかし俺は文系なんで、物理的にありえなくても、地名比定の上からは末蘆国は松浦郡でしかありえないと思うし、宗像あたりにもってくのは史料に現われた残存古地名の分布からして無理矢理な違和感を抱く。
このコース逆行は明らかに現地の実情を知らない者が簡単な地図だけ見ながら頭の中で組み立てたコースだ。もとの資料には正しくコースを進んだという記述があったろうが、わざと距離数をかせぐためにこんなことをしたんだろうとはすぐ気づく。帯方郡は北西にあり、倭国は南東にあるんだから、この対馬海峡を渡るところでは行きは「\」だが帰りは「Z」字型になる。渡海だけなら「\」でも「/」でも距離に大差ないが「Z」の場合、九州側の陸行と韓国側の陸行「二」の部分が加算され、それだけ距離が余計に長くなるわけだ。行きは「\」だけ。帰りは「/」+「二」=「Z」。普通に考えると「\」のコースだと邪馬台国まで一万二千里に不足したので「Z」コースを採用して数字を水増ししたのだろうと考えやすい。実測ではそんなに遠くないのだが、曹真の「親魏大月氏王」に対抗するという司馬懿の政治的な都合で「一万二千里」という数字が要請されたってのは、ほぼ通説で、もう超有名なネタなので詳しい説明は省略する。
つまり魏志は「わかっててあえて逆コースを進んだかのように書いてる」。
ここであの「其の北岸」問題ですよw 普通は「南岸」とあるべきに「倭からみて北にある岸」だと書いてる。視点が倭からの視点になってるのは、いうまでもなく韓地から倭に渡る時の視点ではなく「倭から韓に渡る時の視点」なわけで「其の北岸狗邪韓国」と書かれている段階で「これは実は韓から倭へいくコースじゃなくて倭から韓にくる時のコースなんですよ」とさりげなく示していたのだとわかる。これも「春秋の筆法」ですなw(「春秋の筆法」については後述)

【壱岐の西南】倭からの出航地点
では「Z」の四隅(「\」と「/」を重ね合わせた「X」の四隅)は具体的に今のどこなのかというと、左下の出航地点である末盧国は『古事記』に末羅県(まつらのあがた)、『日本書紀』に松浦県、『先代旧事本紀』では末羅国造(まつらのくにのみやつこ)として出ており、穂積氏の流れという。穂積氏は饒速日系の物部氏の分流という系譜伝承があって一般にはこれが信じられてるが、カバネが連でなく臣なので、饒速日系の物部ではなく和邇氏系の物部だろう。国造に昇格したのはかなり後で、県主(あがたぬし)だったと思われる。倭人伝では対馬国・一支国・末蘆国の3ヶ国だけが「海洋民族」であると強調していることは中世の倭寇を思い出させる。16世紀に松浦党の倭寇は長江の上流まで攻め上り、対馬・壱岐・松浦は中国と朝鮮から「海上の三島」と呼ばれて怖れられた。倭寇の本拠地だったからである。3世紀においても倭国の水軍の先鋒はこの3ヶ国だったとみて間違いない。末蘆国の場所は遺跡がいくつかある唐津説が有力だが、西彼杵半島説、佐世保説、伊万里説、呼子説、名護屋説もある。潮流から考えるとおそらく平戸のあたり(陸でつながってないといけないというなら対岸の田平町)が末盧国だと思うが、領域の広がりを考えれば唐津の遺跡地帯が中心で港はそこから離れていたとしてもいいし、さしあたり九州西北部の沿岸地方なら他のどの説でもよい。

【壱岐の東南】倭への着岸地点はどこか
次に右下の着岸地点だが、これはおそらく不弥国だろう。人口の説明に「戸」を使ってるのに一支国と不弥国だけが「家」の字を使ってる。これを社会構造とか家族制度がこの二国だけ他と違ってたとか言ってる説もあるがいくらなんでも深読みのしすぎだろw 確かに、「戸」と「家」の使い分けも漢文にはちゃんとあって、例えば現代中国語での話だが、一人の男性がかかえてる自分の全家族が「戸」だとすると、その男性に三人の奥さんがいた場合「三家」という場合があるそうだ。これから推定すると「戸」と「家」を使い分ける場合には「戸」の方が大きな単位で「家」はそれを構成する下位の単位のようだ。律令時代の日本では平均25人からなる「郷戸」とそれを構成する平均5~10人の「房戸」の二層構造があった。それはあくまで律令時代のことで三世紀には関係ないという説もあるが、三世紀にすでにそのような社会構造の原形があったことが倭人伝から推測できる。すなわち魏志倭人伝には

有屋室、父母兄弟、臥息異處。

とあり。考古学でわかってる弥生時代の普通の民家というのはせいぜい5~6人しか住めない。当然、家屋(建築物)は核家族のためのものと考えざるをえない。魏志がいってる「父母兄弟」とは既婚の成人男性からの視点だから、核家族は「屋室」(独立した建築物)に住んでいたという意味。複数の「屋室」が集まって大家族を構成してるわけだろう、つまり律令時代の「房戸」が倭人伝でいう「屋室」にあたる。わざわざ「屋室あり」と断ってるのは倭人伝でいう「戸」とは別の話をしてる。倭人伝でいう人口単位の「戸」が中国の戸(これは郡県の平均から5人くらいと判明してるので核家族でしかありえない)と似たような核家族なら「有屋室、父母兄弟、臥息異處」(住宅ごとに、自分の親夫婦や自分の兄弟の家族がそれぞれ分かれて住む)なんて当たり前のことはわざわざ書かれるはずがない。つまり中国の「戸」は核家族だが倭国の「戸」は大家族であり、律令時代でいえば「房戸」ではなく「郷戸」にあたる。これを漢文の「戸」と「家」の使い分けにあてはめれば郷戸が「戸」で房戸が「家」になるが、先にいったように中国領内の郡県(中国人居住地域)では「戸」は核家族の単位であるから、「家」と同じで変わりはない。つまり漢文では「戸」と「家」を使い分けることもあるが、同じように「戸」と「家」をまったく同義に使うこともちゃんとある。意味のある使い分けの時はその使い分けの意味が表面的に読んでもわかるように書かれる。だが、漢文によくありがちな、ただの同語の言い換え、別表現の場合も当然ある。今回は根拠のない勝手な深読みをしない限り、意味の違いが読み取れないのだから「ただの同語の言い換え」に該当する。しかしその上で(それに反してでなく)これは一支国から直接に不弥国に渡ったことを示すのではないか、という説も昔からある。一方、末盧国には官名が出てない。伊都国と隣接して伊都国の一部だから実際に役人がいなかったんだという説もあるが、五百里とあるんだから末盧国は伊都国とかなり離れてないとおかしいし、人口が伊都国の4倍もあるんで、役人はいたはずだろう。中世には対馬、壱岐、松浦は倭寇の本拠地で「海上の三島」といわれセットにされてた。なので末盧国も対馬国や一支国と同じく「卑狗」と「卑奴母離」がいただろう、これが省略されたのは実際には魏使が立ち寄らなかったことを示すのだ、という昔からある説が妥当。「家」の字と末蘆国に官名が出てないのはどちらも「文(ふみ)の錯(たが)え」であり、両方セットで一つの「春秋の筆法」なのである。官名が無いのは官に会わなかったから、なぜ会わなかったかといえば行ってないから。通常「戸」で人口を表わすのに一支国と不弥国だけ「戸」でなく「家」になってるのは、この二国が密接な特別の関係にあることを示すため、それは一支国から渡航して末蘆国に向かわず直接に不弥国に上陸することを示す。つまり「行き」の正しいコースを暗示してるのである。
これで「\」コースの右下の着岸地は不弥国だとわかる。
潮流から考えるとおそらく遠賀川の下流、遠賀町にあったとされる「岡県」(をかのあがた)が不弥国だろう。『日本書紀』に出てくる岡県主熊鰐(をかのあがぬし・くまわに)が周防の海から筑紫の海までを采配していた話があり、遠賀町のみならず北九州市の全域が岡県だったと思われる。この岡県主はおそらく、安曇氏と並んで古代の「2大総合商社」といわれる宗像氏の一族で、当時は遠賀郡と宗像郡は分離せず一つの圏域だったろう。当時は遠賀町は海の底で遠賀川は深い入江というか南北に長い巨大な内湾だった。これは地質学者は「古遠賀潟」といっている。これの東隣りの洞海湾は今は埋め立てで細長くなってるが昔は「クキの海」と言ってやはり巨大な内湾だった。神武天皇が立ち寄った「岡田宮」の旧跡地も洞海湾のすぐそば。「古遠賀潟」と「クキの海」は奥の方では江川と堀川という二つの川で繋がっており往来も可能。この二つの巨大な湾内に、本州から韓に渡る船と韓から本州へ行く船とのターミナルとして大量の船が停泊していただろう。まさに「海の国」だから不弥国は于弥国の誤記なのである(馬韓の不弥国とはコジつかない。つか馬韓の不弥国は「不弥支国」の誤記というのが定説だから「于弥」と「不弥支」ではぜんぜん別になる。もし「不」の字を活かすなら古遠賀潟と洞海湾の「二つの海」だから「二海」(ふみ)の国といったのかもしれないが、まぁ「不」は「于」の誤写とする方が穏当だろう)。于弥国の長官は「多模」(たも)、これをタマ(玉?魂?)あるいはトモ(伴)と解する説もあるが、船を泊める意味の動詞「とむ」(泊)、物資を確保、保管する意の「たもつ」(保)、支給する意味の「たまふ」(給)、ものを運ぶ意味の動詞「たむ」(回・運)、蓄積する意味の動詞「たむ」(留・蓄)等と関係ありそう。これらの動詞の名詞形の古い形で、物資の流通を管掌する長官の意味ではないか。以上の北九州市説は、于弥国の範囲が西は宗像、東は洞海湾まで含み巨大な2つの湾を「海の国」と称したのだという説。

日本書紀の岡県主(をかのあがたぬし)の関係する神社が洞海湾側には岡田宮、古遠賀潟には岡湊神社があり、古代の岡県は二つの海を包括していたことが想像できる。ヲカは陸地をいう一般的な言葉で、浜田遺跡のある若松区などは、洞海湾と古遠賀潟に挟まれた巨大な中洲だったんだろう。船から降りることを「ヲカにあがる」というように、陸からみれば不弥国(海)、海からみれば岡県(陸)なのである。東の洞海湾と西の古遠賀潟をつなぐ北の江川と南の堀川に囲まれた八幡西区大字浅川のあたりが不弥国の中心と目される。ここに日ノ峯山という火山があり、頂上には三つの巨石と、宗像の沖ノ島遺跡と同系の5世紀に遡る祭祀遺構が発見されており、巨石信仰はそれよりさらに古くに遡る。付近の日峯神社に伝わる伝説ではここの神が火を灯して遭難船を導いたという。日ノ峯山の3つの巨石のうち一つは付近の神社に移されて今は2つ‌になってしまっているが、3つの巨石は宇佐神宮の奥宮である御許山の山頂の3つの巨石と共通し、あきらかに宗像三女神の神籬だろう。不弥国の多模(=岡県主:をかのあがたぬし)は宗像氏だと推定する理由の一つがこれ。上臈岩日峯神社の境内に移された「上臈岩」。あとの2つ「琵琶岩」と「国見岩」は日ノ峯山山頂に残されている。写真は神社公式ページより。

他の説で日本海沿岸部にみる説では、博多湾説、津屋崎町説もある。北九州市説でなくても、さしあたりは九州東北部の沿岸地方なら他のどの説でもよい。ダメなのは宇美町や穂波、太宰府など内陸にみる説や、国東市とか行橋市とかの瀬戸内海沿岸にもってくる説で、これらは不弥国が対馬海峡を往来する通常航路における北九州への常用の上陸地点だということに考慮が及んでないのでアウト。

【対馬の西北】韓からの出港地点
で、次に左上の出港地だが、「春秋の筆法」で邪馬台国業界に一世を風靡した孫栄健の説で、魏志韓伝の馬韓・辰韓・弁韓に重出国名がそれぞれ2回づつあるのは「春秋の筆法」であり、倭人伝に国名重出する「奴国」に注意を払えという合図なのだという。ちょい正確にいうと、弁韓の国名重出というのは弁韓と辰韓に一つづつ跨っており、「三韓それぞれに一つづつ」とキレイにまとまってない。これは孫栄健の理論でいうと「春秋の筆法」であり「文の錯(たが)え」であって、特別な意味があるはずなんだが、なぜか孫栄健氏はそこまで指摘しながらスルーして、特に意味のあることは何も言ってない。まず馬韓では

有、01爰襄國 02牟水國 03桑外國 04小石索國 05大石索國 06優休牟涿國 07臣濆沽國 08伯済國 09速盧不斯國 10日華國 11古誕者國 12古離國  13怒藍國 14月支國 15咨離牟盧國 16素謂乾國 17古爰國 18莫盧國 19卑離國 20占離卑國 21臣釁國 22支侵國 23狗盧國 24卑彌國 25監奚卑離國 26古蒲國 27致利鞠國 28冉路國 29兒林國 30駟盧國 31内卑離國 32感奚國 33萬盧國 34辟卑離國 35臼斯烏旦國 36一離國 37不彌國 38支半國 39狗素國 40捷盧國 41牟盧卑離國 42臣蘇塗國 43莫盧國 44古臘國 45臨素半國 46臣雲新國 47如来卑離國 48楚山塗卑離國 49一難國 50狗奚國 51不雲國 52不斯濆邪國 53爰池國 54乾馬國 55楚離國、凡五十餘國


※わかりやすく番号ふりました

とあり「莫盧国」が18番目と43番目に重出している。合計が「五十余国」とボカされてるので、この重出が同名の別国なのか、誤って2回書かれたのか、これだけではわからない。仮に重出だとすると54ヶ国。不弥国のところで言ったように「37不彌國 38支半國 39狗素國 40捷盧國」のところは「不弥支国 半狗国 素捷盧国」と改訂する内藤湖南の説が定説で、こうすると不弥支が『日本書紀』の布弥支(ほむき:忠清南道の新豊)、半狗が『日本書紀』の「半古」(はんこ:全羅南道の羅州)と現地比定できる。なので1国へってしまうが、李丙濤の説では「48楚山塗卑離國」を「楚山国」と「塗卑離国」にわけるので合計の国数はかわらないことになる(楚山国は全羅北道の井邑)。次に辰韓をみると

有、01-01s巳柢國 02-02s不斯國 03-01b弁辰彌離彌凍國 04-02b弁辰接塗國 05-03s勤耆國 06-04s難彌離弥凍國 07-03b弁辰古資彌弥凍國 08-04b弁辰古淳是國 09-05s冉奚國 10-05b弁辰半路國 11-06b樂奴國 12-06s軍彌國 13-07s軍彌國 14-07b弁辰彌烏邪馬國 15-08s如湛國 16-08b弁辰甘路國 17-9s戸路國 18-10s州鮮國 19-11s馬延國 20-09b弁辰狗邪國 21-10b弁辰走漕馬國 22-11b弁辰安邪國 23-12s馬延國 24-12b弁辰瀆盧國 25-13s斯盧國 26-14s優由國、弁辰韓合二十四國

とある。国名に「弁辰」とついてるのが弁韓の諸国、ついてないのが辰韓の諸国。で、数えると計26ヶある。馬延国が19番目と23番目に重出、軍弥国が12番目と13番目に重出している。馬延国は慶尚北道の孝令と杞渓で2ヶ所に比定地があるから重出でなく同名の二ヶ国あったんだともできるし、孝令と杞渓は割りと近いので両地域にまたがる一つの大国だったともできる。13番目は「弁」の字がついてるから弁韓だとすると、弁韓の軍弥国は慶尚南道の泗川で、12番目の辰韓の軍弥国は慶尚北道の金泉と、これも両所に比定地がある。なので現代の読者からすると26ヶ国でも良さそうに思われるのだが「辰韓も弁韓もきっちり12ヶ国づつで弁辰韓あわせて24ヶ国」と本文で念押ししてるんだから著者としては同一国の重出だとわかってほしいに違いない。少なくとも陳寿の意図はそうだ。馬延国が辰韓の重出分だから、軍弥国の方は弁の字もついてるし弁韓の重出分かな、と思ってしまうが、そうすると辰韓がまだ1国不足するので、軍弥国も辰韓に入れざるを得ない。これで、重出分を省いて「弁韓・辰韓それぞれ12国づつ」になる。「春秋の筆法」を最初にもちだした孫栄健が言うには、「馬韓・辰韓・弁韓」にそれぞれ一回づつ「国名重出」が出てくるのは、次の倭人伝にまたも出てくる「国名重出」の国、つまり「奴国」に注目しろというシグナルだというのだが、俺はそれだけじゃないと思うんだよねw 孫栄健はここまでしか言ってないが、これで解決したと思うと「春秋の筆法」を読みそこねてしまう。
数合わせの上では軍弥国は辰韓のはずなのに重出分はなぜ「弁」の字がつくのか? 軍弥国はあくまで辰韓の国だとすると「三韓それぞれひとつづつ重出」ではなく「辰韓にふたつあって、弁韓には無い」という偏ったことになってるんだから、これぞ「文の錯え」で「義例」を示すものだ。これは孫栄健の主張する理屈からいえば「軍弥国と弁軍弥国に注目しろ、注意を払え」というシグナルであるはずだ。そうすると不思議なことに気づく。弁韓の諸国は頭に「弁辰」とつくことになってるのに、2ヶ国だけ「弁」一字だけになってるのがある。それが「弁楽奴国」と「弁軍弥国」だ。弁1字の国も2ヶ国だから「重出」だ。そうするとこの「重出」現象というのは、最後にでてきた「弁楽奴国」に注目しろ、という意図なんだろう。昔の説ではこの2ヶ国が「弁韓」で後は辰韓と「弁辰」が11ヶ国づつ、つまり弁韓と弁辰は違うのだという説もあったが、それも誤りで、魏志の説明に従う限り、弁韓も弁辰も同じものと解釈せざるを得ない。かつてはなぜ魏志が「弁韓」と「弁辰」を書き分けているのか意味不明だったのだ。
魏志は辰韓と弁辰は雑居してて地域を分けられないようなことを言っており、だから国名も「二十四国」ごちゃまぜに並べている。岡田英弘なんかこれを真に受けて弁韓と辰韓はモザイク状に混在しているようなことを言ってるが、プロの学者にも素人マニアにも賛同者はいない。実際の諸国の比定地を地図でみると、多少の例外はあるが大雑把にいって洛東江の東北側には辰韓、西南側には弁韓とわかれており、なんらかの理由で意図的に魏志韓伝が嘘をついてるのが明らかだ。『後漢書』東夷伝では「西が馬韓、東北が辰韓、東南が弁韓」と修正されておりこれが正しい。なのに魏志では「西が馬韓、東が辰韓」とだけ言って、弁韓の地は辰韓に含ませている。だから「弁辰」という用語は「辰韓の中の一部であるところの弁韓」という意味で、ここだけの独自用語なのである。ところが例外的に「弁辰○○国」ではない「弁○○国」があったらどうなるか。それは辰韓に含まれない・辰韓からは独立した区域としての弁韓、ということになるだろう。『後漢書』の「西が馬韓、東北が辰韓、東南が弁韓」という正しい地理認識でいえば弁韓は辰韓の南にあり、従って弁韓のさらに南は、海に面しているか、倭と接しているかのいずれかでしかない。つまりこの「弁韓の楽奴国」というのは狗邪国と同様、南の海に面した港なのではないか、倭国への出航地なのではないか。弁辰瀆盧国ただ1国だけが格別に倭に接していると特筆されながら「弁辰」であって「弁」でないのは、建前上は海に面していないことになり、陸地でつながってる(接壌している)と言いたいのだろう。そうすると海に面しているのは「弁」の2国、弁楽奴国と弁軍弥国しかない。が、弁軍弥国は辰韓の軍弥国の重出であり、前述の通り、軍弥国が弁韓だと数があわなくなるからこの国は辰韓であり、従って弁韓の軍弥国というのは国名重出によってみえた幻、名前だけの虚構の国だ。すると弁韓つまり南の海に面してるのは弁楽奴国ただ1国だけとなる。
楽奴国を楽浪郡にあった楽都県にコジツケる説はぜんぜんダメ。「楽」の字は朝鮮語では古くから[ak]と[rak]の両方あり、前者は日本や中国では滅びてしまった古い発音の名残りと認められ、楽奴は「アナ」と読める。慶尚南道と全羅南道の境界でもある蟾津江の東沿いに岳陽という地名がある。新羅時代の岳陽県で、この岳陽(旧字体で「嶽」陽)は現代韓国語で[ag-yang]、[ag]の[-g]は鼻濁音[-ng]に近く、古代日本人の耳にはアヤかアナに聞こえたろう。岳陽県に改名する前は「少多沙県」といい、蟾津江に沿って南下するとすぐ南が慶尚南道の河東。ここは新羅時代には「韓多沙郡」があった。この「韓」は「大」の意味のカンという新羅語をあらわすための当て字であり韓国の「韓」ではない。「大多沙郡」というに同じ。県は郡の下部区域で「少多沙県」は「大多沙郡」に含まれる。楽奴(=岳陽)という名も、弁韓の全体を12ヶ国に分けたのなら少多沙も大多沙も「楽奴国」に含まれていたろう。ここは『日本書紀』では「滯沙」(たさ)と書いて、継体天皇の時に任那から百済に割譲した「四県二郡」の「二郡」が「己汶」(こもん)と「滯沙」。この時、加羅の諸国は「滯沙の津」は任那から日本へ貢ぎを運ぶための港だからといって百済への割譲に猛反対した。それほど重要な港があった。
※なおネットでみたある論文では魏略逸文の引用の中で弁韓を弁辰としているから、この春秋の筆法は陳寿の仕込みではなく『魏略』の段階ですでにあったことになる。しかし維基の中國哲學書電子化計劃で翰苑の全文を確認したところ魏略韓伝では弁韓となっており弁辰という語彙は出てこない。翰苑以外の引用魏略で弁辰となってる例があるのか、当該論文の誤植なのか不明。

以上、「国名重出」を手がかりにした「春秋の筆法」によって「楽奴国」に辿りついたわけだが、これは孫栄健の中途半端な与太話を俺が完成させてあげただけだから付き合う必要がなく、国名重出じたいがただの誤記で「春秋の筆法」なんてものははじめから無いんだという立場であってもよい。それでも『日本書紀』によって出港地は「滯沙の津」だと最初に推定できれば、『三国史記』地理志の古地名から魏志韓伝の「弁楽奴国」は簡単に導き出せる。陳寿が魏志東夷伝を書いてた時には『日本書紀』だの『三国史記』だのという便利な書物はない。本文の中にヒントを隠したという説は昔からあったが、たいていは妄想半分のパズルごっこにすぎず、学者が相手にするようなものではなかった。1982年の孫栄健の『邪馬台国の全解決』はそれを漢文解読に必須な「春秋の筆法」であって、これを認めないやつは学者として失格だという脅かしで補強したところが新しかったw

【対馬の東北】韓への着岸地点
四隅のうち最後に残った右上の着岸地点だが、もちろん狗邪韓国のことだ。狗邪韓国は現在の金海(釜山の隣)という通説のままで異論ない。「其の北岸」という言い方が倭から韓にむかう時の視点であることも既述。すでに述べたごとく瀆盧国が巨済島とは考えにくく、瀆盧国は釜山つまり「東南の隅」(郡から8000里)の地点にあたる。そこより西の手前1000里(郡から七千里)の「狗邪韓国」が金海。「楽奴国」は河東。他に弁一字の「軍弥国」も辰韓の軍弥国とは別にあったとすると弁韓12国が13国になってしまうが、別に13国になってもいいとすれば軍弥国もまた弁の1字がついてる以上、南が海に面してたのは上述の通りで、既述だが今の泗川。楽奴国と軍弥国の、魏志の脳内設定での距離の離れ具合はわからぬが、西から順に「楽奴・軍弥・狗邪・瀆盧」と並んでいたと想像される。そうではなく、軍弥国は辰韓の方だけが実在で弁韓の軍弥国は存在しなかったと考えるのが穏当だろうが、まぁさしあたりどっちでもいい。(瀆盧国の位置問題については後半、「方角」のズレの議論で詳しく解析する、ここではやらない)
以上で韓側と倭側の、出港地と入港地、あわせて4ヶ所が確定した。

倭へ韓からの往路 … 弁楽奴国→対馬国→一支国→不弥国
倭から韓への復路 … 狗邪韓国←対馬国←一支国←末盧国

次に伊都国と奴国についてだが、その話にいく前に、「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じか別かという問題を片付けよう。(それとなぜか瀆盧国だけが「倭と接する」という問題もあるがそれはずっと後の方で方角についての議論で一緒にやります)

「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じか別か
「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」が別だとする説には、半島内に倭の領地(支配圏)があったという説と密接に結びついてる。この説の何が気に入らないかといって、半島内に倭領を想定する説の場合、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の外部に倭領(=狗邪韓国)があったようなことをいう。これは記紀の伝承と異なっておる。皇国史観に反するから却下w 高句麗も百済も新羅も大日本帝国の属国であり藩屏だろw 韓における倭国の勢力圏の議論した方が面白い話がたくさんあるのだが、ちょっと今回の話とズレるので、いつか任那日本府について議論する時にまとめてやりたいとは思ってます。ただ、「狗邪韓国と弁辰狗邪国は通説どおり同一国なのだがその国は倭国の一部だったのだ」という人もいるのだから、「狗邪韓国と弁辰狗邪国が同一国なのか別の国なのか」という問題と、「狗邪韓国が倭国の領土だったかどうか」という問題は一応は別の議論として分けなければならない。同一国だったからって「倭国の一部だ説」が不利になるわけではないから安心しろw
狗邪韓国と弁辰狗邪国が別の国だという人々は、「弁辰狗邪国」は弁韓(弁辰)の中の一国だが、「狗邪韓国」は馬韓・弁韓・辰韓のどれでもなく、馬韓・弁韓・辰韓とならぶ4つめの狗邪韓なのだ、そして魏志に「其の北岸狗邪韓国」とあるのは「倭の北岸」の意味で、4つめの狗邪韓は倭国の領土だから三韓の中に入ってないのだ、というのだが、本当かね?w
狗邪韓国の「狗邪」は韓国の中の一部で小名(下位区分)もしくは都市名、「韓」は広い範囲をいう大名もしくは民族名。こういう構造は他にも、魏の正始八年(247年)に冊封された「不耐濊王」という有名な県王がある。不耐は不耐県という一つの県城の名、濊は民族名でもあり広域名でもある。不耐城にいて周辺の濊族の王でもあった。江原道にいた「東濊」も東の方にいる濊の意味ではなく「東暆濊」の略だろう。臨屯郡の郡治所「東暆県の濊」だから「東暆濊」。沃沮も住民は濊人だったというから「夫租穢」の意味だろう。玄菟郡の最初の郡治所「夫租県の濊」ということ。高句麗も「高句驪県の濊侯」。これらの例では中心部の名が、それが仕切る圏域の全体の名に転化していくことに注意。もう一つ有名な例では、魏志韓伝では二郡に反乱をおこした国を「臣幘沾韓」(しんさくてん韓)といってる。これは馬韓の中の「臣濆沽国」(しんふんこ国)の誤記というのが通説で同じ国(今の京畿道の陽城)。これも「都市名+民族名」になっており、「臣幘沾韓」は「狗邪韓」と同じ表記法なのがわかる。では「臣幘沾韓」は馬韓・弁韓・辰韓・狗邪韓とならぶ「第5の韓」なのか? どうなんだ? そこのところどうなのよ? 漢籍史書を原文で読みなれた人は直感的にわかると思うけど、現代語のセンスで漢字みてる人はここまで説明してもまだ自分がへんな読み方してたって気づかないかもしれんね。だがここで狗邪韓国は弁辰狗邪国と同じもので「韓の一部であって倭ではない」ということをしっかり腑に落としてもらわないと、後々の謎解きが行き詰まってしまう。理屈がわかっても感覚的に納得できないという人の中には、あるいは「半島に倭国の勢力圏があった」って話を否定されたように感じるから直感的に納得できないって人もいるだろう。うんうんわかる、俺もウヨだものw しかし、そういうことには全然ならないってことを【その2】か【その3】でちゃんと説明するので安心してくれw つかむしろ期待してこのまま読み進んでくれw

さらにいえば、実は「馬韓・弁韓・辰韓」も同じ理屈でできている。「馬韓・弁韓・辰韓」の語源は大昔の古い説をいまだにふりまわしてる人がいるが、これは「乾馬韓・半跛韓・斯蘆韓」の略だ。馬韓の「乾馬国」(全羅南道の金馬堵)を中心とした諸国だから「乾馬韓国」=「馬韓」というともされるが、そうじゃなくて「乾馬韓国」も「乾馬韓」も「馬韓」もただ「乾馬国」のことで、後にこの名で54国を代表させるようになった。そのことは濊の諸例からも推測がつく。中心部の地名が全体の総名に転化していく。辰は「斯蘆」(シラ)を別の当て字で書いただけで同じもの、斯蘆国を中心とした韓の諸国が「辰韓」だというが正確にいうと「辰韓の斯蘆国」といっても「斯蘆韓」(=辰韓)といっても同じもので「斯蘆国」のこと。これが辰韓十二国の全体をさすというのは順序が逆で、「斯蘆国」で全体を代表させているのである。辰韓は12国全体の名になったのは後のこと、もとは「斯蘆国」=「斯蘆韓国」=「辰韓国」なのである。弁韓は「半跛国」の半だから半韓とあるべきだが『魏略』で王莽の頃の話として辰韓と牟韓というのが出てくる。この牟韓が普通は弁韓の誤記だろうとされてるのだが、もと半韓だったのを牟韓に誤記したのではないか。その牟韓をさらに弁韓に誤記した。半も弁も偶然にも発音がほとんど同じだが、うるさくいえば「半韓」がただしい。これは日本書紀にでてくる「伴跛国」とおなじ国でもともと弁韓とは「伴跛国」のことなのであり、これが代表する12か国をのちに弁韓というようになった。

これらの例から「都市名+民族名」という構成の方が一般的で、「弁辰○○国」というのは魏志の特有なへんな言い方なのがわかる。むろんなんでそんなへんな言い方をしてるのかという訳はすでに述べた通りで、弁韓を辰韓の中に含めなければならない事情があったから。すると、邪馬台国へのルート説明の中でなぜ「弁辰狗邪国」でなく「狗邪韓国」になってるのか、どっちでもいいなら同じ東夷伝の中なんだから「弁辰狗邪国」で押し通せばいいのに、と何もしらない人は思うだろうが、もちろんそれはできない。「弁辰○○国」という言い方はそもそも無いので、ただ魏志東夷伝の中でのみ、国名重出の「文の錯え」によって楽奴国を出港地だと気づかせるためだけに、一回こっきり使われた表現だから。「弁辰○○国」というのは辰韓に含まれる弁韓のことだから南の海に面してちゃマズイわけ。弁辰瀆盧国は理論上(設定上)海に面してない(海にではなく倭に接してることになってる)から弁辰でかまわないが、狗邪国は「現実の入港地」兼「仮想上の出港地」だから海がある、だから「弁○○国」ならいいが「弁辰○○国」とは書けない。「弁○○国」も楽奴国を導き出すための道具として使用済みで二ヶ国しかないから楽奴国を導きだせるようになってるんで、三ヶ国になったらパズルが解けなくなる。だからここだけ突然ノーマルな「狗邪韓国」という書き方に直ってるのだ。逆にいえばなんで他のところは「弁辰○○国」なんて書き方してるのか、それに気づけとサインを送ってるのだともいえる。
さらにいうと、馬韓の方はともかく辰韓と弁韓については二十四国すべて比定地があって、慶尚南北道の全域に24国が散在しており、この南に倭地が入るようなスペースが無い。土地の配分からみても「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じ国とした方がよさそう。井上秀雄の著作『古代朝鮮』に入ってる東夷伝の地図でネットで拡散されて有名なのがあるが(まちがいだらけで有名な?w)これなんかでは弁韓と馬韓の南にやけに細長く倭地を設定しているがそのせいで弁韓の領域が不自然に狭くなってる。まるで弁韓諸国の南部のかなりの国を倭地に入れないと無理だぞこれw

往路と復路の里数の差は?
さて本題に戻ろう。韓と倭それぞれの出航地点と着岸地点、あわせて4つの港が確定した。そこで、だ。往路「\」と帰路「Z」の差「二」の分は、倭人伝の設定では何里に相当するのか、それがわからないと何里分が水増しされて一万二千里になったのかがわからない。これについて、韓国側の方は説明ずみで、狗邪韓国と弁楽奴国の間は1000里。
で、倭国側だが。伊都国と奴国の位置については諸説に大差なく、通説のとおりでいいと思うが、末蘆国から不弥国までの実際の配置みると方角が45度傾いている。この方角の件については後述するとして今は触れない。末盧国と不弥国の間は順次式(連続直行式。以下「順次式」とよぶことにする)でも合計700里(末盧と伊都の間が500里、伊都と奴国の間が100里、奴国と不弥の間が100里)、放射説の場合は600里しかない。実際の地形からいうと奴国と不弥国の間が詰まりすぎてるから順次式で「四百里」の「四」、放射説で「五百里」の「五」の字が誤脱したんだろう。それなら合計1000里で、韓国側の長さと一致する。軍事センターである伊都国は両端(末盧国と不弥国の間、1000里)の真ん中にあったことになってちょうど良い。まぁ、さしあたり一致させないで順次連続式700里、放射説600里のままでもかまわないが。

あともう一つ、「家」の字からみて、倭人伝が一支国から不弥国への直行を示唆してるのは間違いないのに一支国から不弥国までの里数が明示されてない。建前上は末盧国にいってることになってるのだから明示のしようがないのだが、「楽奴国」と「対馬国」の間もそうだ。このへんの「渡海」にかんする里数はぜんぶ千里で統一されてるように思える。韓国と対馬の間、対馬と壱岐の間、壱岐と九州の間は地図でみると明らかにバラバラであって等距離にはまったくみえない。なのに倭人伝ではどれも千里で等距離だと言い張っている。とにかく海は等距離で一律に千里だってのが倭人伝での「設定」「お約束」になっている。そんなに大雑把でいいのかと言われそうだが、里程の誇張は平均して5倍。10倍説や短里説もあるが何にしろ、一定の倍率から実際の里数を割り出せるかといえば、それがそうならない。明治時代の白鳥庫吉から言われてることだが、平均して5倍といっても、平均偏差がデカすぎて拡大率が一定になってないのだ。だから一律に5分の1にしたからって実際の地形に合うわけではない。しかし方角はズレ方に一定の規則がありそうだ。これも明治時代から言われてること。そうするとこの話は「方角のおかしさ」は修正すれば正しいという話にもなるがその話は後回しにして、まずは、この行程はどうやって書かれたのかというと、明らかに実際の地図を見ながらではない。距離が適当だが方角が正しい、というのはシンプルな概念図とか模式図みたいなものが想定できる。

最初に設定された「一万二千里」
前の話に戻るが、本来なら普通に邪馬台国までの道のりを説明するためだけには自然と「\」コースになるわけで、帯方郡から「楽奴国」まで6000里、楽奴国から対馬、一支をへて不弥国まで3000里。あと残り3000里しかないから、仮に放射説を前提にすると伊都国まで200里、伊都国から邪馬台国まで2800里となる。順次式の場合は不弥国から投馬国を経て邪馬台国まで3000里に設定されていたと推定できる。6+3+3、合計一万二千里。今仮に方角の話は抜いてるが里数だけみるとこうなる。簡単である。至ってシンプル。単位が「千里」になっていて端数がないのは、この「千里」は単位とは別の漠然と「遠いこと」を表現する言葉でもあって、実測数値ではないことを暗示する。だから手を加える前の、もとの記録は末蘆国と伊都国間の五百里とか伊都国奴国間の百里ももともと記載なく「伊都国は末蘆国と不弥国の間にあり」「奴国は伊都国のそばにあり」ぐらいの書き方だったろう。手を加える前というか、最初に「一万二千里」にあわせて誇張した里程を作ったのがこれ。地理的な最短距離を示すだけなら不弥国以外の北九州諸国への行程など加算する必要もないし、だから伊都国を起点とした放射状の読み方も成立する余地がない。むろん伊都国についての説明がもともと原史料に無かったとも決めつけられないし、個人的には放射説を必ずしも否定はしない。「地理的な最短距離を示すだけなら」という仮定の話である(ただし放射説の根拠の一つ「至」と「到」の使い分けの件は放射説の根拠にはならない。別の意味がある。「至」と「到」の件は面白いので後でとりあげます)。この段階では距離の「日数での表示」なども無かったと思われる。みえみえの政治宣伝用の捏造なんだからあんまり複雑なもの作る意味もない。複雑な嘘は足がつきやすくボロが出やすい。実測地図は機密事項として当然、司馬懿のもとにあがってたはずだが、司馬懿は政治宣伝のため「一万二千里」の世間向けの報告書を創作させた。岡田英弘は上司の張華のために陳寿が誇張したようにいってるが、一万二千里は魏略の段階で出てるので岡田英弘の説は間違い。公孫淵を滅ぼして卑弥呼の使者が帯方郡にきてすぐ、司馬懿の命令で当時幽州刺史だった毌丘倹が手下の文官、たぶん当時帯方太守だった劉夏にでもやらせたんだろう。

「一万二千里」は奴国まで?
ところが、現状の倭人伝の行程はそうなっていない。ありえない逆行コースを使って韓地七千里、渡海3000里、末蘆国から伊都国と奴国を経て不弥国まで700里。ここまでで1万700里だから残り日数表示の部分は1300里しかない。放射式に読むと伊都国まで1万500里だから残り1500里。だから「邪馬台国は不弥国から1300里にあるはずだ」あるいは「伊都国から1500里にあるはずだ」といまだに主張する人がいる。ところで、奴国までは1万600里だから、対馬国の方四百里と一支国の方三百里の半周づつ計1400里を加算すると奴国がちょうど一万二千里になる。これ孫栄健がはじめて発見したようなこと自称してるけど、ホントかね? 似たようなことはそれ以前から何人か言ってたような気がするがなw しかし奴国までと邪馬台国まで、どちらも一万二千里で等距離、なんて偶然あるかね? ないよねw だから孫栄健は奴国を中心とした女王国連合の名が邪馬台国だと言い出したし、もっと昔は(あるいは今もか)女王国と奴国が同じ国か別のかはともかく「一万二千里という数字は邪馬台国とは関係ないんだ」として、九州の女王国(一万二千里の国)と畿内の邪馬台国(日数表示の国)が同時に別々に並立していたという「二王国並立説」や、九州の女王国が東遷して畿内の邪馬台国になったのだという「東遷説」もあったし、俺も何十年も前から女王国とは邪馬台国のことじゃなくて奴国のことではないかと疑っていた。というのは魏略や広志、三国志の別写本などで時々「奴国」を「女国」と誤記した例や、「女王国」の王の字が抜けて「女国」になっちゃってる例が散見されるんで、これはもしや「奴国」を「女国」に誤まり、それを不可解に思った人が字を補って「女王国」になったのではないか、と。個人的にはそれがほぼ確信だったんだが、細かいところでいくつか矛盾が残り、その時は結論でなかった。今思えば女王国は奴国を誤写したもので、女王国はもともと奴国と書かれていたはずだと思い込んでいたのが混迷の原因だった。原文では奴国になっていたとすると魏使が邪馬台国に行ってない(卑弥呼に会ってない)ことが丸わかりな文章になってしまうので、どうもおかしい。これは誤写などではなく、最初から意図的に女王国と書いてるのである。
女王国と邪馬台国が並立していた(もしくは女王国が東遷して邪馬台国になった)とかの事実があったのなら、それならそうと、ストレートにそう書いてあるのが普通だろう。一部の学者は、陳寿もよくわからないまま原資料を適当に綴り合せただけだというようなことをいうが、史書の編纂は歴史を崇拝する漢民族の名誉ある仕事であり、万世不朽に残るかも知れない一世一代の大業だろう、修史官の面目にかけて訳わからない文章をそのまま放置はしないと思うんだよね。例えば『後漢書』のように切り貼りして筋が通るようにリライトしちゃうか、さもなくば倭人伝の他の箇所にもあるように「詳細知るべからず」とか一言付け加えるとか、なんかかなんかあってしかるべきだろう。わざわざ分かりにくく書いたとすればそれなりの理由もなければならない。そう考えるとやはり女王国と邪馬台国の二つの勢力があったわけではなく、一万二千里はもともと邪馬台国までの里程だったものを、政治的な事情により、奴国までの里程としても読めるように、後から書き換えたのでわかりにくくなったんだと思われる。

改訂された「一万二千里」
まず前述のような韓地6000里、渡海3000里、上陸地の不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里、計一万二千里というシンプルモデルがあったのに、その後ずっと経ってから、ある事情で、一万二千里の地点を邪馬台国よりもずっと手前にもってこなければならなくなった。その事情はもちろんアレだよ、魏の使いは実は邪馬台国まで行ってないってことがバレそうになったんだろう。なぜ行ってなかったのかって理由は後の方で詳しくやるとして、ともかく行ってなかったって前提で話を進める。不弥国は着任する時の通り道、末盧国は任務終了して帰る時の通り道、奴国にも何かの用事で行くことはあるが普段は伊都国に駐留しているのであって、九州内の諸国は実際にぜんぶ行ったことがあるが、投馬国と邪馬台国には実は行ってない(だからって物理的・論理的には必ずしも卑弥呼に会ってないってことにはならないが、邪馬台国に行ってないなら普通は卑弥呼に会ってないと解釈されちゃうのはやむを得ない)。このことは役所の建前からはあっちゃならないことなんだが(だからいまだに魏の使いは卑弥呼にあったはずだと言い張る学者もいる)、本音と建前の使い分けなら日本人以上にうまいのが中国人で、普通の中国人なら大昔から建前は軽んぜられてるのでどうでもいい。だが司馬懿は政治家なのでそうもいかない、当時の中国では建前違反をスキャンダルに仕立ててライバルの追い落としに使うこともあった。陳寿も葬式のやり方だか喪の服し方だかがちょっと違っただけで失脚させられたからな。おそらく司馬懿も不本意ながら魏使の実態は承知はしていて、一応秘密にしていたんだろう。ところが正始五年(AD244年)に曹爽と司馬懿が不仲になってから、安心できなくなってきた。互いのは派閥にスパイが入り込んでるし、万が一にも情報が漏洩してしまい、司馬氏を誹謗するネタに使われたら困る。むろん公式には魏の使いが邪馬台国まで行ってない(卑弥呼に会ってない)なんてことは絶対に認めない。が、理屈もなくやみくもに認めないというよりは、できればウマい説明がつくに越したことはない。
そこで第一には奴国までしか行ってなくても一万二千里に達してはいること、第二に、その事が「以前から公表されてる情報とも矛盾がない」ように仕立てること。この両方をいっぺんに辻褄あわせた「最新レポート」を捏造せざるを得なくなった。どうやってそんなことが可能なのかというと、「女王国」という概念を使えばよい。当時の倭国は女王国と男王国に分かれて争っていた。女王国ってのは女王の傘下の国々(邪馬台オタクの好きな言葉でいえば女王国連合)のことなので広い範囲をさすものではあるが、当時にそれを構成する国々一つ一つも女王国には違いない。北九州の諸国も邪馬台国もすべて女王国なので、邪馬台国へはいってなくても極端な話、対馬国にいっただけでも理屈の上では女王国に行ったことにはなるのである。
魏の使いが実際に行った北九州の中での、政治経済文化の中心地は奴国だから、奴国までで一万二千里ってことにした。だがこれだけだと「奴国にしかいってない。邪馬台国に行ってない」のが丸わかりなので、奴国を「女王国」に書き変えてある。だから、そういう原資料に基づいた魏志倭人伝は読みようによっては奴国まででちょうど一万二千里になるようにも出来てるのである。邪馬台国論争に詳しい人は、有名な例の「伊都国までしか行ってない説」を思い浮かべて「奴国じゃなくて伊都国だろ」と言うだろうが、ちょっと違う。なぜ末盧国でも于弥国でもなく、伊都国でもなく、奴国なのかというと、伊都国は軍事基地ではあっても田舎であり、「人口・経済・文化・政治」の中心(民意が集約される都会)というわけではない。卑弥呼から派遣されてる一大率も、奴国から出向してる奴国王(現代人は伊都国王と誤解してるが)も、魏からの国使も、みな普段は、機密漏洩防止の都合上、警備の容易な伊都国で日常的な外交事務を行ってるが、公式の会議や儀式の時は奴国に移動して派手な政治宣伝をかねたイベントとしてやったに決まってるだろう。奴国が当時の北九州の中心なのである。
最初の設定のままだと、奴国までは韓地6000里、渡海三千里、于弥国から百里で計9100里(于弥国と奴国の間を400里とする説の場合でも9400里)しかない。そこで本来なら帰路であるはずのコースを逆行したというありえない設定にすると、韓地七千里、渡海三千里、末盧国から伊都国まで五百里、伊都国から奴国まで百里で計1万600里。まだ不足する1400里は対馬の「方四百里」と壱岐の「方三百里」から二辺を足して埋め合わせ、一万二千里とした。こういう場合の距離とは、A国の中心点とB国の中心点との間での距離をいうのであって、領土の半周を数え込むなんておかしな計算は中国の史書にも前例がなく、「普通は」しない。それをあえてやってるのはもちろん情況が「普通でない」からである。後になってからの辻褄合わせだからこんなことをやってるのである。だから「対馬国」と「一支国」の間は「南」と方角があるが、狗邪韓国から対馬国への航路と、一支国から末盧国までの航路は方角が書いてない。仮想上の方角を書くと「西南」で「東から西へ」逆行してることになり、事情を知らない中国人には不審に見えるだろう。ただでさえ捏造なんだから不信感をもたれるようには書きたくない。かといって実際の方角を書くと「東南」(西から東へ)になり狗邪韓国と末蘆国の位置に合わない。方角を書こうにも実際の方角と仮想上の方角がバッティングしてしまうから書くに書けないのだ。
なお、改訂前のプランでは放射説だとシンプルさに欠けてすっきりしないので順次式が正しいと思われるんだが、改訂後の現状プランでは順次式でも放射式でもどちらでも行けそうだと一見、思われる。放射式の読み方がもし正しいとした場合、この改訂の時に伊都国中心の行程に書き直されたんだろうが、さて…。順次式か放射式かで邪馬台国と投馬国の位置は違ってくるので、ここは大事なところだが、その前に「女王国」という概念について整理しておこう。
邪馬国への行程【その2】」に続く。
【その2】では「女王国」という概念について解析し、周旋五千里の数字に隠された意味を展開します。

天磐船(あめのいはふね)、巨石文化の一つ

2679年(R01)09月18日改稿(H28年7月18日初稿)
今日は「海の日」
今日、H28年の「海の日」(第3月曜)は7月18日(祝)。「海の日」は「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」日ってことになってる。もとは、1876年(明治9年)明治天皇の東北地方巡幸の際それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をし7月20日に横浜港に帰着したことにちなんだもの。

日本人は縄文以来の海洋民族
日本は海に囲まれた島国であり、従って日本民族は海洋民族である。…といいたいところだが、本当に海洋民族として世界に出たのは最近では明治以降と、その前は鎌倉時代〜安土桃山時代の「倭寇」の頃と、その前は半島を支配下においていた大和時代と、その前は縄文時代には太平洋を渡っていたという説もある(この説にはいろいろ問題もあるが今回はふれない)。

磐船伝説
全国各地の巨石文化の中には、「磐船」(いわふね)と呼ばれてる巨岩がちょいちょいあるんだが、だいたい地元の伝説では饒速日命(にぎはやひのみこと)の神話にこじつけられてることが多い。饒速日命については後日、機会を設けて詳しく論ずることにして、今回は天磐船(あめのいはふね)の話をしたい。
饒速日命が天之磐船に乗って大空から降りてきた話それ自体は簡素ながら『日本書紀』にも一言だけ書かれているから、関係はあることはわかるが、しかし『古事記』には邇藝速日命はでてくるが天からおりてきたとかいう話はまったく無い。これは空飛ぶ船の信仰ではなく海上の船なのである。また、巨石文化は通常、新石器時代の遺物とされるが日本では新石器時代は縄文時代に相当する。縄文時代以来の信仰伝統なのである。

「磐船」の具体例
天磐船でいちばん有名な巨石は大阪府交野市の磐船神社の磐船、それに次いで大阪府河南町の磐船神社の磐船がある。大阪府内にはこれ以外にも、磐船伝承がまた2ヶ所ある。一つは大阪府天王寺区味原町のあたりに磐船山という丘があって、そこにあった磐船が天長三年(826)の洪水で丘が崩れて埋没してしまったという。今はその磐船山も平地にされて消滅、住宅地になっている。すぐ近くに阿加留比賣(あかるひめ)伝説で有名な比売許曽神社があり、もともとは比売許曽神社に属する磐座だったらしい。もう一つは東大阪市岩田町の石田神社(いわたじんじゃ)でこの神社の北の方に欽明天皇の頃までは二つの墳丘と巨大な岩船があったがその後、埋もれてしまい、墳丘も徐々に小さくなって今では完全に消滅してしまっている。この2ヶ所は饒速日伝説の地に比較的近い。さらに遠方だと、宮崎県都農町の尾鈴山には「天の磐船」とよばれる巨石があり、日南市の潮嶽神社(うしおだけじんじゃ)には海幸彦が磐船に乗って流れついたという伝承がある。滋賀県東近江市の猪子山の岩船神社にも磐船とされる巨岩がある。新潟県村上市(旧・岩船郡)の石船神社には磐船そのものはないが様々な磐座(巨石)があるのでいずれかが磐船だったのではないかと思われ、また茨城県城里町の石船神社は全国でも珍しいことに鳥石楠船命を御祭神としている。この神を祀るのは東京だと墨田区の隅田川神社がある。山梨県にも複数の石船神社と「磐舟」の地名がある。長崎県の五島列島、茨城県の磐船村、静岡県などその他にも全国各地に磐船があるという。巨石の磐船そのものでなくとも栃木県に岩船山、福井県に磐船神社があり、これらは地名だけだが探せば伝説なり磐座(巨石文化)なりみつかるのではないか。
岩船山
↑栃木県岩舟町の岩船山。特撮番組のロケ地で有名。コスプレイヤーが爆発をバックに撮影会したりするところ。岩舟町は新海誠の『秒速5センチメートル』の舞台としても有名w

船なのに山にある理由
ところで磐船とされる巨岩は山の中に多い。だから空から降りてきて山頂に降り着いたという話になるんだろうが、前述の大阪府天王寺区味原町の磐船山や、東大阪市岩田町の石田神社の墳丘は、地形からみてすぐ思い出すことがある。それは、往古には大阪平野はかなりの部分が海だったということだ。当時なら、味原町の磐船山や、石田神社の墳丘は、航行の目印にちょうどいい島か岬だったはずである。大阪平野も奈良盆地も海だった時代には生駒山地と葛城山地は南北に続く巨大な岬というか細長い半島だった。交野市の磐船神社の磐船街道を通って南に山岳地帯をぬけた平地部(生駒市の一部)は大昔は港だったのだろう。次に河南町の磐船神社は葛城山地の中で、この山を降りた西側(大阪府側の太子町や河南町)の平地も港だったろう。ここの磐船石は全体の形が船なのかどうか疑問もなしとしない。ここには48個もの磐座があるといい、明らかに眺望のよい巨石もあるので、なにか別の岩を誤って磐船とよんでいるのであって他のいずれかの岩が本来の磐船ではないのかとも思われる。福井県の岩船神社も、栃木県の岩船山も、大昔には海に面していたことは地形を一見して想像できる。つまり磐船とされる巨石のあるところや、岩船という地名が残っているところは太古には海辺だったところで、どれも原始時代の港の跡だろう。巨石文化はもちろん神の依り代としての岩を祀るのだが、船をかたどった岩というのはいわゆる「船魂」(ふなだま)信仰だろう。山の中で船魂とは一見おかしく思われるかもしれないが、後世でも三島神社や大杉神社、安波信仰など、山の神が航海の守り神として信仰されることが多い。これは山が航海の目印になることと関係している。磐船伝説とは船魂信仰なのである。

雄大なる海人の世界観
このことは太古の日本、特に巨石文化の全盛期(縄文時代)にも、日本人が海洋民族だったことを如実に示しているのではないか。その伝統は冒頭に書いたように現代まで断続的に続いていたのである。『延喜式』の祈年祭(としごひのまつり)の祝詞は、天照大神への決意を述べているが、海の民にふさわしい雄大な野心にあふれたものになっており、

(前略)…伊勢に坐(ま)す天照大御神の大前に白(まを)さく、皇神(すめがみ)の見霽(みはる)かし坐す四方(よも)の国は、天(あめ)の壁立(かきた)つ極(きは)み、国の退立(そぎた)つ限り、青雲の靄(たなび)く極み、白雲の墜坐向伏(おりゐむかふ)す限り、青海原(あをうなばら)は棹柁干(さをかぢほ)さず、舟の艫(へ)の至り留(とどま)る極み、大海原に舟満ち都都氣(つづけ)て、…(後略)
伊勢神宮に鎮座されます天照大神の御前に申し上げます。大御神様が天上界からはるかに見渡されます世界の国々は、天が海にくっついてみえる水平線のはてまで、たなびく雲が地平線に沈む彼方まで、船の櫂も舵も乾く暇のないほど航海を続け、船首の先が最後の未知の陸地に突き当たるまで、広大なる大海洋に無数の船を浮かべつらねて(以下略)

とある。草原の民がつまり馬の民であるように、海の民とはすなわち「船の民」なのである。『延喜式』は平安時代にまとめられたものだが、そこに採録された祝詞はそれ以前の古いものである。白村江の戦いから倭寇の発生までの期間は、日本が島国に閉じこもっていた時期だが、この期間でさえ海洋民族伝統は古式が残りやすい祭祀儀礼に残存していた。縄文の海洋伝統と平安王朝をつなげることを短絡的だと批判するのは当たらない。この祝詞は平安時代を遡るつい数百年前にゼロから作られたのではなく、縄文一万年の伝統の末端だったことは、天磐船が『日本書紀』にもはっきり書かれていることからも容易に推測できる。そしてその精神は倭寇の時代にまでつながっているだろう。インドの東端を含む東南アジア全域を股にかけた倭寇の活動圏は西洋の大航海時代の海賊にも劣らぬ世界最大の広がりをもっていた。
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「海の民」と「山の民」
問題は、倭寇の終焉から明治開国までのイメージが強すぎてここばかり注目すると「日本人は海洋民族なんて言い草は嘘っぱちじゃねぇか」という主張が出てくる。まぁ日曜日に家で寝てばかりの親父しかみてない子供が「うちのお父さん怠け者」と思い込むようなもんだけどね。
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しかし日本列島の面積の9割は険しい山々で、そこで育まれた「山の民」の文化もある。日本人は山岳民族だともいえるのである。さらには平野部では水稲工作二千年の伝統があり、この一面だけを強調すれば「日本人は農耕民族だ」という言い方にもなる。日本は「海・平野・山」の三重の文化構造をもっている。ただし強いていえばこの中では農耕文化はいちばん新しい最近に加わった要素で、根幹・基層にあるものは縄文以来の「海と山」の文化だろう。この「海の民と山の民」は異民族同士でもなく対立関係にあるのでもない。美濃や信濃の山の中に安曇部(あずみべ)という安曇氏(海の民の宰領)の部民がかなり多いのは奇異なこととされ注目もされている。むろん信州の数多の盆地も大昔は巨大な湖だったり、さらなる太古には海ともつながっていたから、海人の痕跡があってもいいんだが、さすがに超古代文明っぽい話になってしまうので、もう少し平凡な別の解釈としては、一つには安曇氏の海上輸送業が主要な物流ルートを担っていたため、内陸部の交易路も日本海と太平洋をつなぐ視点で安曇氏によって管理されていたことを示しているのである。まぁ超古代文明でもいいんだけどさw

海からきた邇藝速日命と天からきた邇々藝命
かように饒速日命伝説と磐船伝説が結びついているのは、饒速日命が船魂(ふなだま)に守られていたことを示し、むしろ饒速日命はふつうの船に乗って海上を渡って大和に入ったことの証拠なのであって、磐船に乗ったのでも天から降りてきたのでもないことになる。だから『古事記』には邇藝速日命が天から降りてきたとはぜんぜん書かれていない。邇藝速日命は天からおりてきたのではなく海をわたってきたのである(大和にかかる枕詞「そらみつ」が饒速日命が磐船に乗って空から大和をみたからだという話しがあるがこれも後から作った話で真実ではない。なぜそういえるのかという議論は大和(やまと)の語源と関係している。詳しいことはまた別の機会に「懿徳天皇」のページに書く予定。だがまだ書いてない、いつか書きます)。『日本書紀』では古事記と違って、饒速日命は「天磐船」に乗って天からくだってきたことになっているが、これは平地が広がって昔は海だったことが忘れられてから、磐船が山の中にあるから天からおりてきたのだと思い込んだ後世の俗説を取り込んだもので正しくない。
※「UFO(空飛ぶ円盤)と日本神話」もご参照あれ。

倭国は「部族連合」ではない

2679(R1)・6・15 SAT 改稿
今日、平成29年1月24日は「邪馬台国の日」なんだよね。「邪馬台国の日」についての詳細は昨年の「薄れゆく邪馬台国」を参照。そっちにも書いてるが今年は邪馬台国ブーム50周年の記念すべき日なんだが、去年に予想した通り、格別なんのイベントもないよw いかにスタレたジャンルかっていうことだよなぁ。で、今日は去年かいた「薄れゆく邪馬台国」の続きがほったらかしなのでちょっと書こう。年に1回かよw 本当はもっと頻繁に書きたいのだが、余暇がなさすぎる…。

※この写真、桃の種にみえないね。一瞬うんこかと思った。きれいどころでアイドルディオのMOMO(森野文子&大山アンザ)の写真でも貼ろうかと思ったが、昔すぎてあんまりいい画像が見つかんない。うんこでがまんしてくれw
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平成元年の2月、吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見されてしばらく大騒ぎ。おもに騒いでいたのはマスコミで、吉野ケ里をズバリ邪馬台国だといってたのは古田武彦ぐらいしか浮かばない(本人は後で撤回している)が、それでも当時は雰囲気的に九州説の方が勢いづいた感じは否めない。それが平成の初め。で、平成の終わりには、平成30年5月、以前に纒向遺跡で出土していた桃の種が炭素C14測定法でAD135~230年、卑弥呼と同時代のものだと判明。つまり邪馬台国界隈の平成は「九州の吉野ケ里に始まり畿内の纒向で終わったのである。しかし桃の種の件、最近は畿内説で決まりのような空気もあったのでさして驚かなかったとはいえ、若干のニュースになっただけで平成初めの吉野ケ里の時のようなバカ騒ぎにはぜんぜんならなかった。時代は変わったんだなぁ。30年前の吉野ケ里の時は、出版界も便乗本たくさん出して大儲けしたのに。邪馬台国そのものが、日本人の関心のマトじゃなくなってるんだよね。そもそも平成の30年は日本の右傾化の30年でもあって、世の中にあわせて万世一系の天皇賛美の皇国史観の本でも出しゃよかったのに、時代に逆行して「古事記日本書紀はデタラメだーっ、天皇は侵略者で朝鮮人で、系図は捏造だから万世一系じゃなくて、正しいのはぼく(左翼爺はなぜか自称に「ボク」っていうよなw)のかんがえたさいきょうのこだいし」みたいな70年代からタイムスリップしてきたようなアホな本ばっかり出し続けてきたから、そりゃ普通の日本人は「邪馬台国なんか議論したがるやつは頭のおかしな非国民」だと思うようになったのも当然じゃないのかな。


「国」の字には二つの意味がある
もともと「國」という漢字は城郭都市の意味であって、現代人が考えるような「くに」の意味はなかった。現代人が考えるような「くに」の意味の漢字は「邦」だった。この字はさらに古くは「方」で、殷の時代には土方、虎方、鬼方、人方、井方、巴方、召方、羌方、印方、吉方、大方、危方、盂方、林方、箕方、𢀛方、苦方、龍方、馬方、蜀方、𠭯方といった勢力がでてくる。これらの「~方」は殷からみての異民族だが、現代風にいえば「フランス国、ドイツ国」という時の「~国」に相当し、諸外国の意味。この「方」の字が周の時代には「邦」になった。それが漢になって、漢の高祖劉邦の諱「邦」の字を憚って、邦の字の代わりに國の字を使うようになった。「邦家→國家」「相邦→相國」という具合。現在ふつうに使われる「国家」という言葉も、本当は「邦家」だった(古事記序文に「国家」の意味で「邦家」という表記があるがこれが本来の書き方。ただし「中国」はもともと「中国」であって「中邦」の換え字ではない)。似たような例は多く、唐の太宗李世民の「民」の字に代わりに「人」を使って「庶民」を「庶人」と書いたり、同じく「民」の字の代わりに「戸」を使って「民部尚書」を「戸部尚書」と書いたりしたことも有名だろう。
しかし國の字の本来の意味、本来の用法も消えたわけではないから、ここにおいて「國」の字には「國の字の本来の意味」と「邦の字の意味」の2種類の意味が出来てしまった。邦の字の代わりに國の字が選ばれたのは、封建領主が所領として都市を与えられる場合は「國」(=都市)が封建体制下での「領邦国家」(大名領とか旗本領みたいなもの)という意味で「くに」の意味にやや近くなるからだろうが、かえって紛らわしい。実際に魏志倭人伝をみると、邪馬台国だの伊都国だの投馬国だのといった国々がでてくるが、個々のそれとは別にそれら全体を「倭国」といっている。これは朝鮮半島についても同じで、狗邪国だの月支国だの瀆盧国だのでてくるが、それとは別に「韓国」という言い方も出てくる。邪馬台国だの伊都国だの投馬国だのの「国」は都市とか集落、都邑の意味であって我々現代人が思い浮かべるような意味での「くに」ではない。都邑・城邑・国邑・城市・都市・都城、すべて同じ意味で城郭都市のこと。細かいことをいうといろいろややこしいのだが思いっきり大雑把にいうと、中国では中央から派遣されてきた役人(県令)が治めている都市を「県」といい、県の集まりを「郡」といい、世襲領主(諸侯)が治めている都市(または都市の集まり)は「国」のままで県とか郡とかいわない。単純化していうと前者は中央集権的で「郡県制」、後者は地方分権的で封建制という。だから制度じゃなくて見た目の景色だけいえば県も国も同じものである。我々現代人が思い浮かべるような意味での「くに」は邪馬台国の国じゃなくて(これは都市の意味)、「倭国」とか「韓国」と書かれている方の「国」で、こっちは本来なら「倭邦」とか「韓邦」でもよかったわけだ。
で、次に、邪馬台国だの伊都国だの投馬国だのといった「個々の国々」は、その全体であるところの「倭国」に対してどの程度の独立性をもっていたのか、ということが問題になる。
記紀では、この当時、地方の国々を治めていたのは国造(くにのみやつこ)で、大和朝廷が国々の国造を任命していたことになってるが、神聖なる民族の大宝典である古事記・日本書紀の伝える尊い古伝承を信じない不敬な連中は、「国造」という制度をずっと時代が下がってからできたように思っている(せいぜい5世紀から、とするのが多数派)。なので魏志倭人伝に出てくる「国」を国造の「国」だとか県主(あがたぬし)の「県」だとかのことだとは彼らは思わない。しかし記紀を信じる限り、魏志倭人伝の「国の官」とは記紀でいう「国造」や「県主」に相当することは明白だろう。国造は、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では徐々にふえて最終的に144ヶ国もあったという。これは大化の改新以降、国司制に移行する直前の数だろう。『隋書』では「軍尼120人あり」といい、この軍尼(くに)も推古天皇の頃の国造のことだというのが通説。隋書の軍尼120人とほぼ同数で、時代が違ってるだけでどちらも国造のことだろう。それから『宋書』の倭王武の上表文にも自分の先祖の功績として「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」とあり、あわせて121ヶ国となる。これを時代順にならべると
・3世紀…100余国「分かれて百余国、国々に官あり」(『三国志』)
・5世紀…121ヶ国「東は五十五国、西は六十六国」(『宋書』)
・6世紀…120ヶ国「軍尼百二十人あり」(『隋書』)
・7世紀…144ヶ国「国造百四十四あり」(『先代旧事本紀』)
だいたい100ちょいで推移しているのがわかる。これ全部おなじものだろ。国造だよ。

国々には「王」なくして「官」あり
後漢書東夷伝には倭について「百余国みな王あり」として、それら諸王の上に「大倭王」がいるとしている。だが魏志倭人伝によると、倭国には王とよべる者が3人しかいないことになっている。後漢書東夷伝はずっと後になってから魏志倭人伝の文面を杜撰にリライトしたものだから、両者が食い違っている場合は、通例、魏志が正しく後漢書が誤りとされるのだが、「いやいや後漢書にも正しいところがあるんだ」として自説を組み立てる人もいる。しかし両者のズレは後漢書東夷伝が魏志倭人伝に隠された「春秋の筆法」に対する解答として書かれたために生じたとするとすべて解決する仕組みになっている。このへんのこと(なぜ後漢書はそのような記述があるのか等)は今回のテーマではないのでいずれ機会があれば詳しくやりたいが、とりあえず今回は、通説どおり後漢書東夷伝は史料的価値が魏志倭人伝より数段も劣り使えないのだということだけ確認しておく。
魏志倭人伝のいう3人の王とは、1人は邪馬台国の女王卑弥呼、もう1人は伊都国王、3人目は狗奴国王の卑弓弥呼。この3人の王については後の方で詳しく論じるが今かんたんに説明すると、伊都国王は代々女王の属国で有名無実な存在だったし、卑弓弥呼は卑弥呼と対立しており互いに否定しあう関係だから、卑弥呼側の「建前」からいえば卑弥呼と伊都国王の2人しかおらず、中国からみた「実質」は卑弥呼と卑弓弥呼の2人ということになる。卑弥呼は邪馬台国にいたけれども、邪馬台国だけを支配していたのではなく倭国全体の王であり、邪馬台国は倭国の首都みたいなもの。天皇は東京にいるけど東京だけの天皇でなく「日本天皇」であり、「東京天皇」とはいわない。それと同じで、卑弥呼は邪馬台国王ではなく「倭王」なのである。だからその倭王の地位をめぐって、狗奴国にいた卑弓弥呼も狗奴国だけの王だと自称していたのではなくて、倭国全体の王、「倭王」だと自称していたのだろう。
それ以外の国々、対馬国・一支国・末盧国・奴国・于弥国・投馬国などには王はおらず、官がいたとある。「王」というものは存在せず「官」が治めていた。この事実は、はてしもなく重い。部族連合国家などと寝言をいってる連中はショックを受けてしかるべきだと思うが彼らは字が読めないのだろうか。官だからこれを任命して派遣したものがいることになるが、文脈上、それは倭王すなわち邪馬台国にいた卑弥呼にほかならない。倭国は分かれて百余国、そのうち狗奴国にいた卑弥弓呼の下についたのが何ヶ国あったのか不明だが、少なくとも30ヶ国は卑弥呼の支配下にあった(30ヶ国というのは文面上あきらかな最低限の数であり、多ければ百余国のうちほとんどが卑弥呼の支配下だった可能性もあるにはある)。これらの国々を支配していたのは「王」(=独立した地方首長)ではなく「官」(=卑弥呼が任命した役人)なのである。これは意味内容からいえば中央集権的な郡県制である。ただ、郡とか県というのは中国の制度の用語なので倭国の国々に伊都県とか奴県とかかくと中国の直轄領地みたいにみえてしまうので、ニュートラルに城郭都市をあらわす文字として「国」と書かれているわけなのだ。

記紀にでてくる「国造」の実態
参考までに記紀にでてくる国造(くにのみやつこ)も歴史辞典の類では大和朝廷から任命された地方官だとある。ただ、第一に、一代ごとに中央から赴任するのでなくもとから現地にいた現地の首長を任命するのが中国と違う(ただし記紀の伝承では初代は中央からいったケースが多い。「大和朝廷と無関係にもとから現地の首長だった」というのは現代人の思い込みにすぎない)、第二に一代ごとに都に戻るのではなく、世襲官僚であることが違う。世襲だから一度任官して任地に定住すると、土着化が始まり、勢い「封建制」の様相を呈する。したがって見よう考えようによっては、郡県制より封建制に近いともいえる。しかしそもそもの権力の源泉が、中央(=天皇)から任命された事実にこそあって、地生えの成り上がりではないのだから、国造氏族が交代したり県主に格下げされたりということが起こる。その身に帯びる地位も支配している土地も、本質的に「天皇から与えられたもの」だからである。これは例えば江戸時代の幕藩体制が形式上は封建制でも内実は徳川絶対王政といわれるように、どの部分に着目するかでなんとでもいえるわけだが、形式や名目でなく実質がどうなのかを問題にすべきだろう。国造でも時代によって氏族名が変わっている例があり、これは江戸時代の大名のように改廃された例と思われる。また国造は実際はみかけほど強大な財政基盤も動員力もない。なぜかというと「葛城部」だの「大伴部」だのの、「~~部」という、名代(なしろ:皇族の領地)や部曲(かきべ:中央貴族の領地)が全国に満ち満ちており(部民制)、それらの各地から中央に年貢が送られたり駐在員が往来するわけだから、日本全土と中央との結びつきは強固な上、国造が支配するのは名代や部曲といった「部民」を除いた残りのわずかな土地だから、国造は戦国大名のように一円支配をしているわけではないのだ。だから吉備王国だの毛野王国だの筑紫王国だのといった強大な地方勢力なんてのはそもそも存在のしようがない。魏志倭人伝の「国々」も国ごとの王はおらず官が治めていたのだから、その実態は記紀に描かれた国造や県主と大差ないだろう。つか魏志倭人伝の「国々」はまさに朝廷からの出先機関としての国造や県主のあり方を正しく書いているとすらいえる。魏志倭人伝のいう「諸国」とはズバリ国造や県主のことをいってるのである。

「刺史」の如きもの、とは?
魏志倭人伝には「国中に刺史の如きものあり」という。この「刺史の如きもの」は「一大率」(いちだいすい)の説明のようにも読めるし、一大率とは別に「刺史の如きもの」があるようにも読め、両方の説があるが、普通は前者の解釈が行われている。
(一大率の「率」はソツと読む説とスイと読む説があり前者が通説だが個人的にはスイが正しいと考える。理由はいずれかの機会にゆっくり説明します、長くなるので今回はふれない。一大率は「一人の有力者」ぐらいの意味で、特定の官職ではなく称号でもない。官名としては後の方で出てくる)
刺史というのは皇帝が地方に派遣する査察官で、これが巡回にくるとなると、普段は王様のようにふんぞり返って独裁者のように怖れられている郡の太守が青くなって狼狽し、街中をきれいに掃除して美女と珍味を揃えあらゆるおもてなしの準備をし、土下座してお迎えする。何事もなく刺史が無事に帰っていくと、緊張の糸が切れた太守様は血の小便が出るという。何がいいたいかというと刺史というのは生殺与奪の権をもつ絶対権力者で、諸国の首長が震え上がるほどのものである。だから一大率には「諸国これを畏憚す」(おそれ憚っている)とある。諸国がもともと対等の者同士で「倭国」という連合体をつくったのならば、こんなことはありえない。江戸時代の大名にとっての御公儀からの使者、将軍御名代みたいな存在である。この権威はどこからくるのかだが、一つには一大率を派遣している卑弥呼の宗教的な権威が考えられるし(わかりやすくいうと皇室や朝廷の「御威光」のこと)、もう一つは武力や財力といった具体的な力が考えられる。それも他を圧倒している力でなければ成り立たない。

「一大率」と「卑奴母離」の役割
諸国の「官」(=首長)は「卑狗」(ひこ)といい、「副」は「卑奴母離」(ひなもり)という、とあり。王とも侯ともいわず「官」というのは前述の通り、中央への従属の強さ、独立性の無さをあらわしているが、副は単なる副官とか単なる次長ていどの意味ではない。ヒナモリのヒナは田舎とか辺境の意味、モリは防人(さきもり)のモリと同じく防衛軍、武官。つまり「卑狗」と「卑奴母離」はただの長官と次官ではなく、内政を担当する文官と軍事を担当する武官であり、権限を分けて牽制しあう制度だろう。これは記紀の伝承でも初期の頃は派遣軍のトップが二人以上の複数であることが多く、一人の大将軍にすべてまかすことがないのと共通している。諸国の卑奴母離は一大率から派遣されてそれぞれの兵力を率いて北九州各国に駐留していたのだろう。つまり内政の卑狗と、軍事の卑奴母離は指令系統が別々だったと思われる。そうすると、ある一ヵ国を文武両面こみで一人で一元的に支配している地方首長は存在しなかったことになる。投馬国と邪馬台国を除く北九州域内の諸国の長官はいろいろな名称なのに副官はすべて「卑奴母離」。伊都国だけ卑奴母離じゃないのはそこは一大率の本部だからだろう。末盧国に官名の記述がないのは省略で、実際は対馬国・一支国と同じである、「対馬・壱岐・松浦」の3地域はセットだから(後述。ただしなぜ末盧国だけ官名が省略されてるのかという話は道程論を解明する機会に譲り今回は触れない)。北九州全域の兵力はすべて一大率の一元的な指揮下にあった(逆にいうと北九州だけが一大率の権限が及ぶ担当範囲)。
次にその強大な軍事力を支える財力だが、「国々有市、交易有無」に続く「使大倭監之」の読み方は平野邦雄の「便ち大倭のこれを監するに」と読んで一大率の説明とする説が今の通説ではないかと思う(「大倭」とはよく言われるような「官名」ではない。じゃ、何かという議論もあるが今回は省略、また別の機会に詳しくやります)。そうすると一大率は軍事機構ではあるけれども、商業行為を監督していたわけだが、近代の三権分立以前には世界どこでも軍事権と警察権が分離しておらず、日本でも律令以前には兵隊さんもお巡りさんもごっちゃに「物部」(もののべ)と称されていた。ただし一大率が市場監督官でもあったからといって、これが財源だったわけでもないだろう。軍事と財源を一元化するとそこに独立勢力のようなものが生まれ、中央集権がうまくいかない。市場(バザール)は自然状態のまま放置していると暴力団が仕切るようになるので国家の武力が駐在して治安と公正な取引を監視するんだが、給料は他から(国から)でるのであってミカジメ料で食ってたら民間組織になってしまい国家機関ではなくなってしまう。中国の軍管区が軍閥として自前で企業経営しているのが連想される。具体的には奴国王が財政を負担したと思われるがそのへんの詳細は後述。
王金林も「魏志倭人伝の文章からは倭国の実態が自立した国々(部族)の連合体だなどとはぜんぜん読み取れない。まったく逆で、強力な中央集権国家だ」と書いている。

「共立」という言葉は部族連合を意味しない
倭国が連合国家とか部族連合のような体制で、絶対的な天皇など存在しなかったという考え方の原因は他にもある。魏志倭人伝には、卑弥呼は自分で勝手に王になったわけではなく「共立」された(卑弥呼をみんなで立てて王とした)とあるので、なにか強大な王権がまずもって存在したわけではないのだ、と解釈して、中心になるような王に統一されてないのなら、なにか連合体のような体制なんだろうと短絡してしまうのだ。だが、「共立」の2文字だけからそこまで妄想を膨らますのは飛躍のしすぎ。「共立」というのは魏志の高句麗伝で高句麗王の二人の子のうち兄ではなく弟を立てた時や、夫餘伝では夫餘王の嫡子でなく庶子を立てた時にも使ってる言葉で、まず異民族の王の歴史を語る際に初代の王が即位することを「◯◯、初立」(初めて立つ)と表現し、その後の歴代を「次、△△立、次、××立、次、●●立…」(次に誰それ立つ)というように「次立」または「立」で表わす。ただ、なにか異常事態が起こって嫡子でない者が後を継いだ時は、「自立」(みずから立つ)とか「共立」(ともに立つ)という。自立は、既存の支配勢力の力を借りないで(あるいはそれに武力で反抗して)実力で王位についたことをいう。共立は、イレギュラーな人選だけど次善の策で王様になってもらったことをいう。こういうことは山尾幸久や上田正昭も彼らの自著の中でいってることなんで、今では通説的な理解の仕方だろう。が、山尾だか上田だか忘れたが、それをいう本人が舌の根も乾かぬうちから部族連合体制がどうの言いだすってどういうことなんだ? 魏志倭人伝とは無関係に「所与の事実」になっていて(要するに思い込み)、文字は読めてもその意味が歴史像に矛盾するので脳が拒否してるんだろうね。まぁ、少なくとも魏志倭人伝の文面は部族連合国家の根拠にはなっていない。
さて、みんなから要請されて王になるのは秀でた実力者がいない、責任をとれるリーダーがいないからこそ選択されるもので、「全体責任は無責任」って仕組みにも聞こえるが、そういうこととも限らない。嫡子でない者が後を継ぐといってもいろいろな情況があってとても一概に「こういうこと」とズバリ特定の実状をあげることは不可能なのだ。自立といっても勢力が分裂してしまい、小勢力の王にしかなれないような「自立」もあり、この場合は実力がないのに自立したケース。共立といってもそれは形式だけのことで実力のあるキングメーカーが裏で情況をあやつってることもありうる。なので自立にせよ共立にせよ、表面的な決まり文句に近い表現というか決まり文句なのである。きわめて形式的な用語であって、その2文字だけからは何ら背後実態を推測できず、「共立」の2文字から、女王が立つのは倭国としてはイレギュラーな事態ですよってことがわかるにすぎない。
ただし「共立」の2文字を離れて他の記述をみると女王を「佐治」する男弟がおり、これが実質権力者(=実際の王)で、女王は祭祀だけやってたって説も大昔からある。女王は宮殿の奥深く武装兵に守られその姿を見た者は少ないという。これはご神託を受けるためにはお籠りして精進潔斎しなければいけないからだというのだが、疑問もあり、一種の「二重王制」だとしても、政治の実権は「男弟」で、卑弥呼は祭祀だけ、と短絡してはならない(詳しくは別の機会に譲る)。

倭王卑弥呼・狗奴国王卑弓弥呼・伊都国王某の関係
こういうして一つ一つ潰していくと、魏志倭人伝には、当時の倭国が連合国家だったという話はぜんぜん書かれてない。それどころか強力な中央集権国家とさえ解釈可能な話がでてくる。いってみりゃ「統一国家」だよ、3世紀にすでになw 神武天皇の昔から、最初から統一国家だったという古事記・日本書紀の建前に一致してるんだよ、魏志倭人ですらも。だが、そうすると「王が3人もいる」っていう分裂気味な事態はどう説明つくのかってことだが、伊都国王「名無し」と狗奴国王「卑弥弓呼」はどちらも一般からはかなりの誤解があると思うので後半はその話をしよう。

伊都国王はいなかった。いたのは奴国王
狗奴国王卑弓弥呼については後回しにして、まずは伊都国王の件から片付けよう。前述のように、伊都国王は代々女王の属国で有名無実な存在だったから実質は無い。
伊都国は「世王あるもみな女王国に統属す」(代々の王がいるが女王の属国だ)というのだが、たとえ名目だけ形式だけの王であるにせよ、なぜ伊都国にだけ王がいるのか? 奴国ならわかる。金印で有名だもの。北九州の勢力分布をみると、奴国だけで2万戸あり、対馬国から于彌国まで全部あわせても1万戸でありやっと奴国の半分。つまり奴国だけが飛び抜けて超大国であり、あとの諸国はザコばかり。伊都国は1000戸しかないんだから奴国の20分の1の国力しかない(伊都国は『魏略』では一万戸になっているので1000戸は間違いという説への批判は後述)。だから奴国にだけ王がいるというのはわかるが伊都国にだけいるというのは筋が通らない。この王はもともとの伊都国の王ではなく、金印の奴国の王の子孫だろう。中国人が「世王」(代々の王)という時、後漢時代の金印の奴国王が念頭になかったはずはない。一つの解釈としては中国からの使節が駐在するのは伊都国で、ここには一大率も駐留してるから、事務の都合上、奴国王も伊都国に出向してただけでこの王は伊都国にいるからって伊都国王というわけではない、とも考えられる。もう一つの案としては、原文に錯簡があってもともと伊都国とは無関係な記事で、奴国について書かれた文だったとも考えられる。伊都国の記述は魏志倭人伝とその原資料となったと思しき『魏略』とで違いがある。まぁ原資料ではなく同時代に並行してできたんだって説もあることはあるが、一般的には魏略が先行して魏志倭人伝はそれを参考にしたといわれている。

(魏略逸文)
東南五東里、至伊都國。戸萬餘。置曰爾支、副曰洩渓觚・柄渠觚。其國王、皆屬王女也。


(魏志倭人伝)
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
※魏略の「東南五里」は「東南五百里」の誤り、「皆屬王女也」は「皆屬女王也」の誤りというのが通説。

これを比べると魏略には「郡使往來常所駐」がない。また「其國王、皆屬女王也」とあった部分が魏志倭人伝で「世有王、皆統屬女王國」に書き直されている。だが魏略では、伊都国の後は狗奴国の説明に続いているので、魏志倭人伝はこの間に投馬國・邪馬台国・偏旁二十ヶ国の説明を後から割り込ませたものだという人もいる。井上秀雄らが昔からいってるように、魏志倭人伝は魏略をも含めた5~6種類の系統の異なる資料の切り貼りなのでこういうことが起こる(むろん正確を期すための編集作業であって、誤ってそうしたのだとは限らないが)。伊都国の後に出てくるはずの奴国と于彌国の部分は散逸したままなんだろう。むろんそれとは逆に、魏志倭人伝が正しく、魏略はもともとあったはずの奴国と于彌国と投馬國・邪馬台国・偏旁二十ヶ国の部分が散逸しているために、伊都国の後にいきなり狗奴国が続くようにみえるのだ、という解釈もありうる。
「どこそこ国王」という言い方は南北朝の頃から一般化していくが、この時代は国の字を入れず「どこそこ王」という。魏国王だの呉国王だの言わず、魏王とか呉王というように。だから「漢委奴國王」も宮崎市定が「この時代に国王はおかしい」といっていたように、かなり特殊な事情を考慮しないと王号に込められた意図が解読できない。当時の語感では、もし奴国の王が倭国全体の王なら国の字を入れず「奴委王之印」にならないとおかしい。これは倭国全体の王ではなく奴国1国だけの王だから、わざわざ「奴國王」といってる。だからこれは「委の奴の國王」ではなく「委の奴國の王」と区切らないといけない(「漢」の字が上につくつかない、「之印」が後ろにつくつかないの話もあって面白いが別の機会に譲る)。だから『魏略』の「其國王」はわざわざ「國王」などと不自然な用語を入れずとも単に「其王」で文意は通じるのであり、「國」の字がどうも余計にみえる。これは「舊」(旧)の誤字ではないか。『魏志』の「世有王」と比較すれば、もと「有舊王」とあったのだろう。「皆屬王女」の王女は女王の誤というのが通説だが、さらに國の字も落ちており『魏志』の「女王國」と同文だったんだろう。ここの「女王國」は「奴國」の誤記で(正確には誤記でなく意図的なもの、詳しくは「邪馬台国行程論」でやります)、奴国に属するとは(戸籍や家系が)奴国に「所属する」ような意味で「有舊王皆屬奴國」とは、昔は王がいたが代々みな奴国の人つまり奴国王だったということ。『魏志』は「世々王有りしも」と過去形に読み、「統属す」と一語に読まず「統」は王統(王家の系統、血統)の意味。「統皆」の誤転かもしれない(「皆統」のままでもいいが)。あるいは通説どおり「統属す」と一語に読んで、(その過去の王が)奴国の支配を受けていたとしてもいいが、この場合はその王(の子孫、現在の奴国の大官)が奴国から派遣されている情況をやや不正確に伝えたものと解釈する。
奴国王は後漢光武帝から金印を与えられた(57年)あと、安帝の時(107年)にも「倭国王帥升等」の朝貢の記録がある。「帥升」が名で「等」は複数形の「たち」だが、王の字は主の間違いで、国王ではなく倭国の「主帥」で名が「升」という解釈が最近の通説じゃないのかと思う。この時の倭国主帥升を、かつては伊都国王や末盧国王に擬する説もあったが過去のものであり、奴国王(の子孫)とみるのが通説と思う。岡田英弘は後漢の当時の内部情勢を分析した結果、この時の朝貢は後漢の政局上の都合で、後漢の方から頼まれて行ってやったのであって倭国の事情は関係ないもので、中国側のための一種の政治ショーだったとしている。金印は帯方郡との交易(役所相手の交易)にだけ必要なもので、民間同士の交易や中国の民間人と倭国との交易には必要がない。帯方郡が赤字のせいで規模も機能も縮小し、対倭国関係の窓口業務を倭国側に委任したのが「奴国王」で、奴国王は倭国側の諸国の「主帥」たちの交易事務を中国のために取りまとめてあげる係である。だが完全なる政治ショーにすぎない107年の朝貢は賑やかしで多くの倭の有力者がきたって印象にしたいから、後漢書には倭国主帥升「等」と複数形で出ている。金印の奴国だけでなくいままで来なかった倭人たちが大勢きたってほうが都合が良いケースだから。
代表の「升」は倭国主帥たちの一人でもあるが同時に奴国王でもあるはずだが、明示されていない。これは誤字脱字があるのだろう。もともとここは誤字で有名な箇所で、文献によって「倭面土地王帥升等」とか「倭面土国王帥升等」など様々あり、岡田英弘などは「国王」を誤って二回書いたんだろうといってるが、原文は『通典』にあるような「倭面土地王師升等」が近い。これはもとは「倭国王他主帥升等」だろう。これも「倭国王他主帥等」(倭国王の升のほか主帥たち)だったのが「倭国王他主帥等」と升の字の位置が飛んでしまっている。
で、後漢代までは中国人にとって倭といえば窓口係の奴国しか直接にはしらないわけだから、魏志倭人伝でも魏略でも、伊都国の説明のところで、これがあの有名な(?)奴国王の国ですよ、という意味で「代々の王がいる」と書いてるわけなのだ。北九州きっての大都会である奴国の手前で、田舎の伊都国に使節が留められるが、文化や経済の中心と政治や軍事の中心が同じとは限らない。奴国が経済の中心なのに、一大率が伊都国に常駐するわけは、中世には対馬・壱岐・松浦が「海上の三島」と呼ばれ倭寇の本拠地として怖れられたが、卑弥呼の時代も三韓を睨む海軍の主力は対馬国・一支国・末盧国の海洋民だったんだろう。倭人伝ではこの3ヶ国だけに「海洋民族的な習俗」が書かれている。西には「海上の三島」の手綱を握り、東には経済の中心たる大都市「奴国」があって、その間に置かれた伊都国はそれ自体が総合司令部にして軍事基地であり、住民が千戸というのはすべてが軍人軍属とその家族だろう。『魏略』に「戸萬餘」とあるのは魏志の「有千餘戸」とは書き方が違うし、官名の前に入っており位置も違う。だから「戸萬餘」と「有千餘戸」は同じことの異説ではなく明らかに別のことを書いている。これは戸数のことではなく「萬餘」の誤記だろう。普通は一戸から兵一人を出すから、人口千戸の伊都国に万の兵がいるというのは万のうち1000だけが伊都国の兵で、残り9000は奴国で徴発された兵だろう(今回は触れないが倭国の1戸が房戸ではなく郷戸だという説を採れば1戸から5人の兵を徴発でき、万のうち半分の5000が伊都国で徴発できたとしてもよい)。あるいは特定のどこの国と限らず、北九州のあちこちの諸国から徴兵して1万の常備軍がいたと解釈した方がいいかもしれない。
これに対して、後世の太宰府があったあたりは奴国の遺跡と推定される須玖岡本遺跡のすぐそばで(ほぼ隣接)、奴国は後世の太宰府の役割を分有していたのではないかとも思える。奴国王(の子孫)はまったくの無力なのではなく一大率が管轄する軍事以外の内政と経済を司り、一大率を経済的に支えたんだろう。江戸時代に朝鮮との間を取り持った対馬藩のように、奴国王は239年(238年説でも可)以前は外交も担当していたかもしれない。239年の外交で活躍した大夫難升米の難は奴国の「ナ」で、3世紀の中国人が奴国と訳したのを奈良時代の日本人は儺県(なのあがた)と書いた。難升米の升は107年の倭国王升の升で、襲名だろう。つまり難升米が奴国王(の子孫)である。

奴国王もいろいろいる倭の主帥の一人だから倭国王升といっても倭国主帥升といっても間違いではない。中国からみて「主帥」というのは渠帥と同じで、政治勢力としての事実上の力の存在を認めただけで物理的存在としては認識してるよ、格付けはしてないが、という意味であり、中国からみて主帥でも日本国内では国造だったり県主だったりする。例えば室町時代の「守護大名」を李氏朝鮮は「巨酋」と呼んでいた。朝鮮にしてみれば「強大な野蛮人の酋長」だが日本国内では朝廷の官位ももってるし幕府の要職についていたりするのと同じ。王というのは上述のようにこれも中国側からみての話で、主帥の中からリーダーになりそうなの(もしくはすでにリーダー的なやつ)を選んで窓口業務を委任して他の主帥たちを取りまとめてもらう。それが王。ランクによって「邑君」だったり「侯」だったりするが奴国の首長は「王」とされた。だからあくまで「奴国だけの首長」であって実体も倭国全体の支配者ではない。中国の郡というのは自分で交易をやって稼がないといけないので民間を排除して貿易を独占しないといけない。それで日本でいう勘合貿易みたいに「金印」を使う。本当は郡で面倒な事務をぜんぶできるなら金印など発行しなくていいのだ(だから実際に郡に力のあった前漢の時代には倭人と楽浪郡の往来が盛んだったにもかかわらず金印など発行されてないのである)。公孫度が遼東半島で独立してからは金印など使ってないだろう。公孫淵が滅んで卑弥呼が魏と直接外交を始めたので難升米は王(中国が主帥を格付けした王)を廃業して「大夫」を名乗ることになり、外交の結果、卑弥呼が親魏倭王になった。

なお、奴国王は金印の文面からして、奴国一国だけの王ではありえず日本全体の王だったはずだと言い張る人がいる。だが印の文面からわかるのは中国側の理念であり、建前にすぎない。実際に倭国の窓口を取りまとめてもらってるのだから、中国からみれば事実上の倭国全体の王だってことには変わりない。ただ、それが倭国内の事実に一致してるなら『委奴王之印』か『漢委王之印』でよかったはずで、『奴國王』などという境域を狭く絞ったような言葉をわざわざ入れないのではないか。これは後漢の側も事実と理念の不一致を認識していたからだろう。

『魏略』の「其国王、皆属王女也」の国王は普通に読めば伊都国王だが「皆」とあるので複数いたと勘違いする。だから対馬国から末盧国までの国々にも官である卑狗の上に「皆」王がいたと誤解する人もいるだろう。『後漢書』がそれで「百余国みな王あり、その大倭王は邪馬台国に治す」と書いたが浅薄だ。各国の卑狗の上にその国の王がいたんだという説をなす者がたまにいるが、それはありえない。なぜなら、卑狗(ひこ)は記紀や風土記にでてくる地名の下に付けてその土地の神や土地の首長らの名とする「○○(ツ)ヒコ」のヒコだから、これより格上の存在というのは考えられない。もし王がいたら卑狗こそが王に相当するだろう。だから(もし後漢書の認識が正しかったら)「国王は卑狗と称す」とか「其の王、号して卑狗と曰ふ」とか「卑狗と号す、華言王也」とか書かれたはずだ。『魏略』は逸文だから文字の欠落があるのだろう。陳寿は「世有王、皆統属女王国」と書き直した。つまり代々の王のことだとして、代々の王が「皆」という意味に解釈している。陳寿は文字が欠落する前の『魏略』をみていたので正しく解釈できたのかもしれない。ただし、おかしい点が一つある。この国王が伊都国王にしろ奴国王にしろ先祖代々、女王国に属したということは物理的にありえない。卑弥呼の前は男子をもって王としていたというから卑弥呼は初の女王ってことだ。すでに先祖となっている卑弥呼以前の先代の者たちが、当代(その時代の現代)にしか存在しない卑弥呼の国に属することは物理的にありえない。今は女王がいるが昔は男王がいた邪馬台国に属するという意味なら「世々王あるも皆倭王に統属す」となるか、「世々王あるも今の王は女王国に統属す」とならねばおかしい。ところで魏志に「自郡至女王國萬万二千餘里」とあるところ魏略には「自帶方至女國萬万二千餘里」とあり、「自女王國以北其戸數道里可得略載」は広志逸文では「百女国以北其戸數道里可得略載」になっている。これらの「女国」は普通は「女王国」の誤りとされているが、この「女国」は「奴国」とも誤りやすい。『魏略』の「皆属王女也」は「皆属奴也」で伊都国に駐在はしてるけど(籍は)奴国に所属している、という意味になる。

話を戻すと、魏志倭人伝が書かれている段階では伊都国王はおろか奴国王という地位や名目もすでに存在せず、中国に対しては王ではなく「大夫」と称するようになっている。ただ奴国の首長というのはあいかわらず続いてるわけで「王の子孫だから王家」というぐらいの意味で「世々王ありしも」と過去形に読めば、意味は整合させられる(そこまでせずとも奴国王と卑弥呼の歴史上の関係が認識されず曖昧な書き方になったってことでもよかろうが)。
難升米が奴国の首長なのであれば、リアルタイムでは奴国の王ではなく「官」だろう。官でないと他の国々と比べて一貫しない。そう思って改めて官名を見直すと、奴国の長官は「兕馬觚」、伊都国の副官が「泄謨觚」で大昔からどちらもシマコかシメコの音写だろうとされている。同音だからこれは同語で、同格者ではないかな。さらにいえば難升米の「升米」もシメかシマと読める。日本書紀引用の文では「難斗米」(なとめ)になってるが升の字でいこうw 兕馬觚・泄謨觚・升米の三者は、もし固有名詞なら同一人物、もし役職名なら同格同一の役職だろう。(いろんな当て字があるのは何人もの中国人がその都度、自分なりに音写したからで、当時は文書行政ではなく口頭政治の時代だったから、特定の言葉ごとに決まった書き方はなかった(インカ帝国の実例があるように文字がなくとも大帝国の運営は可能)。かなり後世の奈良時代になっても固有名詞などは同一人物でありながらいろいろな当て字をしている。奴国ではこのシマコが長官だが、伊都国では副官に相当し、伊都国では長官が「爾支」という。この「爾支」の解釈は以下の3説がある。
 ①稲置(いなき
 ②主(ぬし
 ③禰宜(ねぎ
だがこれ、どれも間違いと思う。「支」の字が倭人伝では[k]音に対応してるので[s]音に読むのはつらい。「主」説は成り立たないだろう。「稲置」じゃ徴税官だから拡大解釈しても経済官・農政官っぽいし、「禰宜」では祭司・神官らしくなる。いずれも伊都国にいたであろう軍事色の強い役職とイメージがあわない。これは
 ④和(にき
だろうと推定する。「和」(にぎ)は、3世紀の発音なら「にき」だったろう、「安らかにくつろぐ。なれ親しむ」の意味の古語「にきぶ」という動詞がニギの古い発音がニキだった痕跡である。饒速日命(にぎはやひのみこと)のニギと同じで、「和合させる者、平和にする者」つまり平定する者。平定とは軍事的に平定するのだから要するに将軍のことである。これ伊都国に常駐していたという一大率そのものに他ならんだろう。伊都国の官を「爾支」といい副を「泄謨觚」という、とあるところに、伊都国の一大率と元奴国王(正確には奴国王の子孫)難升米のコンビで北九州を差配していたことが端的にあらわれていると思う。伊都国のもう一人の副官、「柄渠觚」の解釈が難しい、ざっと見たところ以下のような諸説があった。
 ①日槍(ひほこ)
 ②彦子(ひここ)
 ③日置子(へきこ)
 ④関彦(せきひこ)
このうち①②は岩波文庫の注釈にあった。③は水野祐の説、④はネットの拾い物。①については風土記の伝説で伊覩県主が「天日槍」(あめのひぼこ)の子孫と称したことが出ている。そうすると柄渠觚は伊覩県主そのもので、この場合は官名というより敬称か通称のようだが、祖先の名を襲名してるうちに官名か称号のようなものに転化していたとすればいいか。そしてそれなら「日槍の子孫」という意味のヒホココ(日槍子?)の音が落ちたのだろうか、しかし伊都国だけが固有名詞由来というのは面白くない。他の官名と同じくなんらかの機能を表わした言葉だとした方が蓋然性が高そうに思う。②は泄謨觚を「妹子」として「妹子/彦子」で男女のセットとする説。③は泄謨觚を「島子」として浦島伝説の「浦島子」がもと首長の称号だったとし、島子というのは占有者の意だとする。浦島伝説には「日置里」という地名が出てくるが、「日置」は灯台や烽火などの火を管理する者とする。④は泄謨觚と柄渠觚を別々の官とせず同語の別表記とする。関彦は関所の管理者。伊都国(または一大率)の機能と関係ありそうな点で③④は①②よりはかなりマシに思える。ただ同一語の別表記を連続して書いたというのは奇異の感が否めず、通説どおり二つの官とすべきだろう。泄謨觚と柄渠觚の間に「次」の字が無いのは、上下の格差がなく二人の副官が対等であることを示しているのであり、同一官名の別表記ということにはならないと思う。灯台の管理者にしろ関所の管理者にしろ、どちらも面白いと思う。そこで、あるいは
 ⑤率子(ひきこ)
という説も一度は考えてみた。諸国の卑奴母離たちを統率する武官のことだ。ここまでは③④⑤はなんらかの機能を名詞化したものだという面白さにおいては同等ぐらいかと思うのだが、優劣はつけにくい。そこで俺の最終案は
 ⑥引替(ひきこ)
という説。これについての詳しい説明は長くなるので、いずれ機会があったら。今回は省く。なので説明なしでは納得いかないという場合は、便宜的(暫定的)に⑤を俺の説とみなしてもいいです。
「爾支」は一大率=「刺史のごときもの」だろうから、国造でも県主でもなく、中央から派遣されてくる「宰」(みこともち)で、葛城氏・平群氏・毛野氏・和珥氏・紀氏・的氏などの中央の大貴族または皇族であり現地人ではない。1,2年とか長くても4,5年とかで交代したんだろう(律令時代の太宰帥は任期5年)。
(※不彌国についても一般的な邪馬台国論では重要な点が見落とされてるが今回は直接関係ないのでふれない)

狗奴国王と卑弓弥呼は別人だった
中学生の頃、魏志倭人伝を初めて読んだ時、狗奴国の記述でまっさきに違和感があったのはその官である「狗古智卑狗」と王である「卑弓弥呼」がかなり離れたところで別々にでてくることだ。普通はある国の説明をする時にまず元首である国王、その次に総理大臣の説明と続くのではないかw なんだかなぁとは誰も思わないのかね?
で、原文の卑弥呼弓(ひみここ)を卑弓弥呼(ひこみこ)の誤転であるとし、彦御子=「皇子」の意味だとする説が大昔からある。Wikipediaは佐藤裕一の説(2006年)だとか言い張ってるけどそんな最近の説なわけねーだろw これ本人が宣伝で書いてるのかね? そんなこたどうでもいいとして、「倭国全土の女王である卑弥呼と争ってる皇子」ということは、これはつまり卑弥呼と卑弓弥呼が倭王の地位をめぐって争ってるのであって「王位継承争い」ってことだ。もしも、卑弥呼が記紀にでてくる皇族女性の誰かだとしたら、卑弓弥呼も皇族男性であり、記紀によくありがちな「皇位継承争い」であって、卑弥呼と卑弓弥呼はかなり血縁が近い皇族同士である。皇子ということはまだ勝手に即位して天皇だと称していたわけではなく、「俺が即位すべきだ」と主張してるだけで地位は皇子に留まってたようだな。しかし記紀では、皇位継承争いは男性皇族同士の間で起こるのであって、女性と男性なら起こらない。だからこの争いは実際には「卑弥呼の男弟」と「男王卑弓弥呼」との争いなのである。正統性において一歩劣っていた「男弟」が、姉を擁立することで実質的な倭王の地位を手に入れた。それを不服とする「卑弓弥呼」も自立し、倭国を2つに割って争いになった、と。さっきもいったが「卑弓弥呼」とは「彦御子=男皇子」の意味で、正統の天皇たるべき皇子は自分だと自称していただけで、まだ即位しておらず、すでに天皇だと自称していたわけでもなさそうだが、魏志倭人伝ははっきり「男王」としているのは、事実上の独立勢力の首長という意味で王といってるのだろう、中国からすれば実質的な政治勢力の状況を把握することが目的であって、倭人の内部のよくわからない建前はどうでもいい。そうすると女王というのも、中国人からみると、卑弥呼あっての「男弟」であって、「男弟」が卑弥呼を擁立したようにはとても思えなかったんだろう。だから姉の方を女王とみなして弟の方は「姉を佐治している」と叙述した。だが、倭国内部の建前では、弟の方が当時の天皇であって、姉が女帝だったわけではない可能性がある。「卑弓弥呼」もその名からする限りまだ皇子の反乱であって南北朝の対立みたいにはなってない。なのに三国志が二人の王がいて分裂していると書いたのは、この「王」は実質的な二大勢力のトップという程度の意味らしく見える。実際、卑弓弥呼も中国に向けては倭王と称したかもしれない。説明が面倒だろうし、中世には日本国王と称した懐良親王の例を思えばこれも外交戦術だろう。

卑弥呼は倭国全土の王であって、邪馬台国だけの女王ではない。邪馬台国はただそこを首都にしているだけ、という話はすでにした。そうすると男王卑弓弥呼も倭国全土の王、大倭王(に俺がなるべき)だと自称していたはずで、狗奴国王ってわけではないのではないか? みんな卑弓弥呼といえば狗奴国王だと思い込んでるでしょ。魏志倭人伝には「卑弓弥呼は狗奴国に治す」とは一言も書いてないので、どこにいたかはわからないのだ。百余国のうち、卑弥呼に属する国々(女王派)と、卑弓弥呼を支持する国々(男王派)に分かれていたんだろうから、狗奴国以外にも卑弓弥呼が本拠地に選べる国はいろいろあったろう。倭人伝には「有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗」とあり「男子をもって王となす」は男王を推戴しているって意味だから、狗奴国は男王派だといってるだけで必ずしも狗奴国内に卑弓弥呼がいたという意味に限定できないぞ、この文は。「その官に狗古智卑狗あり」も「その」が男王をさしているなら卑弓弥呼に仕える配下という意味しかないから、必ずしも狗奴国にいなくてもよい。どこかに派遣されていてもよいわけだ。狗奴国に常駐してそこを治める官でなくても意味は通じる。つまり卑弓弥呼と狗古智卑はぜんぜん別の場所にいた可能性もあるし、どっちの人も狗奴国にいたとは限らず、へたすっと二人とも狗奴国にいなかった可能性もある。この卑弓弥呼と狗古智卑狗を別々の場所にいたとする説も大昔からあって、狗奴国を熊県(肥後の球磨郡)とした上で狗古智卑狗は菊池郡にいた、球磨郡が本拠で菊池郡は北九州勢力に対峙する前線基地なのだという説。あと最近うるさい東国説。この場合、狗奴国の比定地は近江、美濃、尾張、遠州、駿河と諸説あって範囲もいろいろ考えられるが、狗古智卑狗の持ち場は遠江の菊川か。球磨[k-m]よりはクナ[k-n]に近い地名が多いのも東国説に有利。東国説は記紀の伝承との対比や考古学からみた場合にも魅力的だ。一方、魏志倭人伝の原資料を復元すると南方系習俗の記述がすべて狗奴国に関わっているという水野祐の説や、狗奴国は女王国の南という魏略に照らして(この女王国は実は奴国の誤記なので)、魏志の文は「女王国を中心とした諸国の南」でなく最後の「奴国の南」と解釈するのが文献からは(論理上は)正しいだろう。つまり九州説と東国説はどちらも正しい。おそらく原文の「其南有狗奴國、男子為王」と「其官有狗古智卑狗、不屬女王」の間に脱文があり、「次有狗古智國」の6字が抜けてるんだろう(倭の国名のわかってるのが29国で「三十国」に1ヶ国足りなかったのがこれで三十国になる)。卑狗が地名の下についてその地の首長をあらわすのだから、狗古智卑狗は当然「狗古智国」の官なのである。東海地方の「狗奴国」も熊本県の「狗古智国」もどっちも男王国で、両方あるんでよい。それは邪馬台国も奴国も伊都国もみな女王国だというのと同様なのである。当時の中国人は、狗古智国に代表される南九州の勢力を、誤って狗奴国という東国の地名で呼んでいたのだろう、なぜそんな混同をしたかというと、どちらも卑弓弥呼の支持勢力(=反女王派)=「男王国」だったからである。東国の方が主力だから狗奴国の名だけは聞こえるが、魏からの使節は北九州にいるので、どうしても具体的な情報は南九州の勢力の話ばかりになる。東国と九州では方角が真逆であり、そうすると男王派の勢力は東西に分裂しているようだが、その中間の連絡ポイントとして熊野や紀伊が浮かぶ。狗奴国は熊野だという説も昔からあるが、音韻の類似は肥後の球磨と同等だから今回はそれを根拠とはしない。だが、ここらも抑えておかないと男王派は東西の連絡が途絶してしまう。卑弓弥呼の勢力圏は紀伊を含んでいたとすると、太平洋沿岸部の黒潮文化圏、黒潮経済圏び諸国が男王派だったと推定される。最盛期には倭国の百余国のうち30ヶ国ぐらいは男王派だったのではないか?
(※邪馬台国が魏と友好だったように狗奴国は呉とつながっていたのではないかという説に対してのあれこれ面白い議論もあるが今回は省略)

卑弥呼から台与へ、女王の経緯
東国と紀州熊野、そして九州肥後。この勢力配置は中世の南北朝の争乱での南朝を思わせる。南朝は奥羽と九州に有力な拠点をもち本部を吉野に置いていた。卑弥呼と卑弓弥呼の王位継承の争いとは、中世の南北朝の争乱と似たような情況だったのである。

卑弥呼の先代の男王を仮に「男王乙」とよぶ。男王乙は王位についたものの、なにか正統性に問題があったんだろう。そこで皇族の一人、卑弓弥呼が男王乙に抗議を申し立てたが当然ながら話はまとまらず、内乱になった。もしくは卑弓弥呼は抗議もせずにいきなり謀反を企てた。卑弓弥呼(=彦御子)は固有名詞ではなく単に男性皇族の意味だ。固有名詞は魏志倭人伝からは不明。それで倭の百余国はそれぞれ男王乙か、卑弓弥呼かのいずれかについた。これが魏志倭人伝にいう「相攻伐すること歴年」という部分で、歴年とは三国志では5~6年をさすという説と7~8年をさすという説があるが、とにかく戦乱になった。ということはおそらく卑弓弥呼は男王乙のもっていない正統性かそれに近いものをもっていたのかもしれない。で、女王卑弥呼を立てて戦乱を鎮めたとあるから、卑弥呼は女性でありながら何か卑弓弥呼を上回る正統性か少なくとも同等の正統性をもっていたに違いない。正統性のない男王乙は卑弥呼を王に立てることで「正統性がない」という政権批判をかわすことに成功したんだろう。卑弥呼を佐治していた男弟というのがすなわち「男王乙」本人だろう。卑弥呼と先代の男王は姉弟ということになる。女王は例外的存在な上、古代日本では末子相続だったことを思えば、姉に正統性があり弟に正統性がないというのは考えにくいことだが、第一に異母姉弟なら姉の母は高貴な女性で弟の母は血筋の格の低い女性だったということが考えられるし、第二には「男王乙」の先代で、卑弥呼と乙の共通の父、仮にこれを「男王甲」とよぶ。男王甲が卑弥呼を後継に指名していた、あるいは乙は王位についてはならぬと遺言していた等が考えられる。ただ、女性を後継に指名していたというのは考えにくいから卑弥呼と結婚した王子に王位を譲るつもりだったのかもしれない。異母兄妹での結婚は当時はタブーではなく推奨されていた。そうすると男王乙は最初から卑弥呼と結婚すれば問題ないわけでなぜそうしていないのかがわからない。また卑弓弥呼の正統性というのも、男王甲からの後継指名があったか、もしくは卑弥呼と結婚したものが王にという遺言があったのなら卑弥呼と卑弓弥呼は夫婦だったのかもしれない。男王乙が卑弥呼をさらってきて王を自称していたのか…? そうすると卑弥呼と男王乙と卑弓弥呼は3人とも異母兄弟だろう。記紀でも皇位の争いはだいたい兄弟間で起こっている。共立という言葉は単にイレギュラーな継承をさす決まり文句であって男弟(=男王乙)が黒幕だろう(共立という文字にこだわって男王乙を含む有力貴族たちの相談で卑弥呼を王にきめたとしてもよい)。
ともかく卑弥呼が立って、戦乱は鎮まった。つまり卑弓弥呼の正義の挙兵が正統性のない反逆になってしまうほど卑弥呼には正統性があったんだろう。しかし卑弓弥呼は勢力が弱まっておとなしくなっただけで、卑弥呼が死ぬまで抵抗勢力として存在し続けた。魏志倭人伝の記述では卑弓弥呼の勢力が滅亡したのが卑弥呼の死の直前なのか同時なのか直後なのか、あるいは滅びずにその後も長く存続したのか曖昧でつかめない。一説では、魏の帯方郡から韓の叛乱に対して加勢してくれと救援要請がきたがそれを断るための口実として卑弓弥呼とことをかまえている最中だからとしたまでのことだともいう(この説はネットでみたw)。だとすると卑弥呼が死ぬ前に卑弓弥呼の勢力が先に滅んでいることになる。その可能性も高いとは思うがなんともわからぬ。卑弥呼の後を継いだ男王は男王乙の復権なのか、別の男王丙(仮名)なのか、卑弓弥呼なのか。丙だとしたらこれは乙の息子だろう。しかし「国中服せず」またも内乱で数千人も殺されたという。これは男王丙がその父の乙と同じく正統性に欠けるところがあって、乙に抵抗した卑弓弥呼のように、丙に抵抗した「王子丁」(仮名)がいたのだろうか。もしくは卑弓弥呼の勢力がまだ存在していて丙を攻撃したか。あるいは卑弥呼の死後に即位した卑弓弥呼に乙の子、丙たちが復讐したか。そこで卑弥呼の宗女(同族の娘、一族の女)である台与(13歳)を立てて王としたら治まった。卑弥呼の時とまったく似たパターンが二度くりかえされたわけだが、台与を立てたのはさっきの登場人物の中の誰なのかわからぬ。台与を立てた者が勝利者だろうが(正確には台与を立てたから勝利した)、まったくのダークホース、王子戊(仮名)ってこともありうる。

宗女の宗は宗族の宗で、漢語としては男系家族だが、皇族も男系原理でできているから、卑弥呼と台与だけでなくここでの登場人物はすべて同じ一族である。記紀で皇位継承争いをやってるのは同じ皇族同士であるのと同じ理屈。

☆「天皇」という君号の起源(前編)

2679年(令和元年)5月改稿 H28年5月11日(水)初稿
5月11日は「天皇」号の日
『古事記』も『日本書紀』も神武天皇の段階から「天皇」と書いてスメラミコトと読んでいるが、これはもともと天皇と書いていたわけではなく、国内的には古くは「治天下大王」(あめのしたしらすおほきみ)と言っていたことが金石文によってわかっている。中国の歴史書の中では、対外的には「倭王」と呼ばれ、自称もしていたことになっている。「王」というと格下の属国みたいに受け取って不快に思う人がいるのだが、中国では、ペルシア帝国の皇帝やイスラム帝国の皇帝やローマの皇帝などもすべて「王」としか呼ばないので、倭王といったからってそれだけでは実際に中国の属国だったという証拠にはならない。『万葉集』の用例だと、過去の天皇の場合には「天皇」をスメロギと読み、今上天皇の場合には「天皇」をオホキミと読んでいることから、金石文の「大王」はその文字が刻まれた時点での今上であることと一致する。よって、金石文の時代にも過去の天皇についてはスメロギ、またはスメラミコトといっていた可能性が高いだろう。万葉集には「王」「皇」「大王」「大皇」などがいずれもオホキミと読んでいる。オホキミだけだと天皇か皇族か前後の文脈によってもわからないことが稀にあり、天皇であることを明示するために「治天下」を前につけるわけ。
書き方についていうと、初期の天皇に関しては、記紀は遡って「天皇」と書いてるだけで、実際にはいつから天皇と書いていたのかわからない。天皇という称号が使われていた現存最古の実例は飛鳥から出土した木簡に「天皇」と書かれていたもので、これは天武六年(677年)のものなので、この頃にはすでに「天皇」と書かれていたことが確実ではある。「治天下大王」や「倭王」が、いつから、なぜ天皇と書くようになったのかは後述するように諸説があるのだが、学界では天武天皇の頃からというのが通説になりつつある。で、俺は学界の通説が8割ぐらい正しいと思っているが、2割ほどオリジナルの説ももっているので、今回はそれを披露したい。なぜって、今日は平成28年5月11日、天皇号統一の日だからだ。明治の初期の頃、清国との外交文書のやりとりで国書に「日本国天皇」とあったところ、清国から「天皇という称号はあまりに神聖至上の号なので受け入れられない」といわれたので「日本国皇帝」に改めた。ただしそこで皇帝に統一されたわけではなく、以後も天皇と皇帝が日本国内でも混用されて一定していなかった。これが天皇に統一されたのは昭和11年(1936年)5月11日からであった。これは外務省が勝手にやっていたことであって格別なにかの法制上の手続きを踏んだものではない。この時期になぜ外務省が天皇に統一したのかはわからないが、外務省はその約一ヶ月前の、同年4月18日に国号を「大日本帝国」に統一しており、その流れではないかと思われる。この背景には当時の世論とか空気、政府の思惑、その他いろんな事情があったんだが、『古事記』には関係ないのでこのブログではとりあえず無視する。5月11日が「天皇号の日」であることわかって頂ければ十分である。

律令に定められし「天子・天皇・皇帝」
記紀が編纂された奈良時代には、律令の定めで、詔書においては「天皇」、祭祀においては「天子」、華夷においては(国内国外に対しては)「皇帝」と、3通りの称号の使い分けが定めされていた(従って、日本の天皇は天皇であって「皇帝でない」という理屈は誤り)。ただしこれらは書き方の違いであって、読み方はスメラミコトかスメミマノミコトだとも定めされていて、読みは一致している。記紀は歴史書であっても「詔書」ではなく、国内国外に向けられた書物だから「皇帝」とあるべきだが、なぜか記紀のどちらも「天皇」という書き方をしているのはえらく不審なことだ。
これを考えてみるに、律令の定めは理想ないし論理上のことで、現実には諸条件を無視して天子や皇帝より天皇ばかりが慣例的に多用されていたのだろうか。唐の律令でも、祭祀においては「天子」、華夷においては「皇帝」という規定があったが、当然ながら「詔書においては天皇」などという規定はない。この規定は何がおかしいかというと、天子と皇帝の使い分けは明白で問題ないのだが、詔書というのは祭祀にも華夷に対しても使うわけだから、いってみれば天皇は何にでも使えるといっているのと同じではないか? 中国では天子と皇帝の二つで間に合っているところに、日本の律令ではムリヤリ天皇を追加したため、オールマイティで昔から(律令以前から)使ってる天皇だけが優勢となり、天子と皇帝は後退してしまったのではないかとも思われる。

中国人にはどう説明されたか
外国からの視点でみると、日本の君主が天皇と称していることを、中国人も遅くても宋代には知っていた。宋代には日本の王の年代記からの引用という形で歴代の天皇の諡号と「天皇」という称号が日本側の自称だとして知られていた。「日本の王の年代記」というのは記紀の類書で、この頃は記紀が流布してその類書も書かれていたのがわかる。『新唐書』もこの宋代に編纂されたもので、だから『新唐書』日本伝には歴代天皇の諡号が出てくるし、それが「天皇」と自称していたことも書かれている。宋代になって始めて知った等ということは遅すぎて信じられない。公式には認めないという立場のために中国側の記録に残ってないだけで、唐の頃すでにリアルタイムで知られていたはずだろう。
唐の前は『隋書』で、ほぼ推古天皇の頃の情報として、倭王の号は「阿輩雞弥」(おほきみ=大王)であり、これは中国語でいうと「天児」(天の子)という意味だ、とある。日本のスメミマノミコトは、あくまでも太陽神の子孫という趣旨であって儒教的な意味での天子ではないから、中華式の天子と区別するために天児と書いたのだろうが、まぁ要するに大雑把に短くいえば天子のことだ。607年の遣隋使では有名な「日出づる処の天子」と称している、これ。オホキミが天子の意味だという話はこの遣隋使の国書とも一致している。阿輩雞弥をアメキミ(天王)と読む説もあるが不可。阿は推古遺文など古い用例ではアでなくオを表わすことがあるので「大王」説の方がよく、金石文の「治天下大王」とも一致する。後述するようにこの当時、中国向けではなく朝鮮諸国向けに「天王」という称号を使っていたという説もあるが、天皇をアマキミとは読まないように、この天王も漢字文化の中での熟語だからアマキミとかアメキミという大和言葉で分割するような読み方をしたとは考えにくい。こうしてみると607年の段階ではまだ、少なくとも中国に対しては天子と称することはあっても天皇という書き方は使っていない。『日本書紀』によると608年の遣隋使の国書では「東天皇、敬(つつし)んで西皇帝に白す」とあり、これが天皇号ができた最初だという説もある。確かに、どんなに早くてもここが限界で、これ以上以前に天皇号があったとは思えないが、個人的にはこの段階ではまだ「天皇」ではなかったと思う。その理由は後述する。
その前、『宋書』等に出てくる倭の五王などはみな「倭王」と書かれている。これは中国のいつもの諸外国に対する扱い。さらにその前、『三国志』にでてくる邪馬台国の卑弥呼も「倭王」と書かれているが、「卑弥呼(ひみこ)という名の女性を王とした」のではなく「一人の女性を王とした上で、卑弥呼と名付けた」とあることから、卑弥呼というのは固有名詞ではなく一種の称号と考えられている。ヒミコという日本語の解釈は本居宣長は「姫児」説だがその根拠を読むと思いつきの域を出ないもので妥当性がない。ヒミコは「日の御子」の意味で、太陽神の子孫を意味し、律令制で天子をスメミマノミコトと読んだのと同じ趣旨と思われる(ただし「日の御子」と「皇孫(スメミマ)」はちょいニュアンスが異なる。スメミマノミコトはスメラミコトと違って古いものでなく奈良時代に創出された可能性がある。これについては後述)。『後漢書』では「大倭王」とあり、「倭王」なら通常の表現だが、この大倭王という表現はどういうニュアンスなのか、学者はあまり触れないが「諸王の中の王」という意味ではないことは確かだ。倭国には王は3人しかおらず、そのうち1人(伊都国王)は形式的な王号をもつだけで卑弥呼の完全なる配下、もう1人(狗奴国王)は敵対者だからそもそも存在を許容しあってる仲ではない。普通に漢文として考えると国名につける大は天子の王朝を意味するが、『後漢書』が倭王を天子と認めることはありえないので、倭王が天子を自称していたという記述の断片か、もしくは単に「強大なる」倭国の王という意味のどちらかでしかない。こうしてみると倭の五王は官爵をもらおうとして腰を低くしているので表にあらわれてないが、我が国の君を太陽神の子孫とみる思想は卑弥呼の時代から律令時代まで国内では一貫していたように思われる。

天皇号の創出についての諸説
推古朝説、天智朝説、天武朝説がある。これらを並べて検討してみる。
1,推古朝説
津田左右吉の説で、前述のように「東天皇、敬しんで西皇帝に白す」の国書が最初だという説。後述の「天王」説を唱えた宮崎市定も、それまでの「天王」をこの時に「天皇」に変更したのだといっている。推古朝説は少し昔までほとんど定説といっていいぐら最有力説だった記憶があるが、津田左右吉の影響力はすごかったんだな。現在ではあまり支持されてない。俺も支持しない。この説がありえない理由は後述。
2,天智朝説
この説を唱えている人も複数いたような気がするが、代表的なのは岡田英弘かな。白村江の敗戦でびっくりした天智天皇は急いで律令制国家への道を邁進して、近江令を作った。倭国から日本へという国号改定も、倭王から天皇へという君号改定も、すべてこれで一元的に説明する説。日本国号の件ではすでに別のページで岡田英弘の誤りを指摘しておいたが、天皇号についても、天智朝説はありえない。その理由については後述。
3,天武朝説
最近、有力な説。この説の場合、天皇の語源が「天皇大帝」という道教の神だとした上で、天武天皇の個人的な道教趣味から付けられたともいう。これについての反論は後述(道教趣味が理由になるなら斉明朝も候補になるはずだがそういう説はあまり聞かない)。
4,持統朝説
天武天皇の個人的な称号であったのを、持統天皇になってから歴代の称号となった説。
5,文武朝説
大宝律令で決められた説。

「天皇」の語源説その1
津田左右吉の説で、天皇というのは、前述のように道教の神である「天皇大帝」からとったという説。この説がおかしい点は多々あるが、まずはなぜ後半の「大帝」の2文字が切り落とされているのかがぜんぜん説明できてない。略するにしても「天皇」「大帝」「天帝」などの例もあったならばそれら諸例あわせて正式には「天皇大帝」だったろうと推定もできるがそんな例はない。しかも略していいなら略しようによっては「皇帝」ともなるのだから、最初から「皇帝」で問題ないのではないか。次に「天皇大帝」ってのは、北極星の神、天の神である。しかしこの時代、本当に「天皇大帝」という言葉が知られていたのか疑問もある。天皇大帝という言葉は『春秋緯合誠図』に出てくるというが、これは「緯書」の一つで、何度も法により厳禁され、隋の時代には焚書されてほとんど残っておらず、現在「緯書」だとして知られているのは出所の怪しいものが多く、史料として使えない。確かなものとしては『晋書』があるがこれは唐の太宗の頃に編纂されたものだから、推古天皇の頃の日本にはまだ存在していない。第三に、六世紀半ば以降、道教の最高神は「元始天尊」であり、それ以前というと『書経』や『詩経』といった非常に古い書物には「昊天上帝」とある。継体天皇の頃には五経博士がいたから日本でも遅くともその頃には『書経』や『詩経』は知られていたはずの書物である。「昊天上帝」は、のちの天皇大帝とも同一のものという。ならば「元始天尊」や「昊天上帝」でいいではないか、なぜダメなのか?「天皇大帝」説の場合、なぜ道教の神名を君号に転用しようという珍妙な発想になったのかという点も問題となる。斉明天皇または天武天皇自身の道教趣味で説明されることが多いが、そもそもこれは天上の神の名であって、人間の称号ではない。天武天皇ぐらいの道教オタクでなくても、道教に詳しい人ならそんな錯誤的なことは恥ずかしくて絶対やらないだろう。これに対して、唐の高宗皇帝が実際に「天皇」と称してたじゃないか、という反論もあるだろうが、こっちの天皇は初めは天皇大帝の意味ではなかった。これについての詳細は後述する。

「天皇」の語源説その2
紛らわしいが、中国には「天皇大帝」という新しい言葉とは別に、「天皇」という言葉が古くからある。中国の神話で、神代には三代の「皇」、次いで五代の「帝」が続き、この八代の時代を「三皇五帝」と総称する。このうち三皇は天皇・地皇・泰皇で、この中では泰皇が一番尊いのだという。秦の始皇帝が三皇の「皇」の字と五帝の「帝」の字をあわせて始めて「皇帝」という言葉を作ったのは有名な話である。だから岡田英弘がいう、皇帝とは「光り輝く天の神」の意だとの説は、皇と帝の2文字の字源を別々に遡ったあとに恣意的にくっつけた説で、二重三重に誤りである。さて三皇五帝は太古の聖人君主の称号だから、例えば日本のスメラミコトが聖人君主として「天皇」と称しても問題ないようにきこえるかもしれない。しかし、それならなぜ天皇より格上の「泰皇」にしないのだろうか。また、そういう意味なら既存の「皇帝」の皇は三皇の皇なのだから、すでに天皇・地皇・泰皇の意味が含まれているのだ。わざわざ天皇に絞る意味がわからない。そこで「天皇大帝」が出てくるわけだが、これがダメな理由は前述の通り。唐の高宗が天皇を称した理由は後述する。

「天皇」の語源説その3
宮崎市定や角林文雄は「天王」説を唱えている。『日本書紀』に2ヶ所、「天王」と書かれており、どちらも百済三書の一つ『百済新撰』からの引用で461年と478年の条。これは天皇の誤写とする説もあるが、もともと天王だったのであり、書紀は天王を天皇に書き換えた際、2ヶ所だけ修正漏れがあったのだという(もしくは百済三書の引用部分は天王のままだったのだが後世の写本なので誤って天皇と誤記している)。天王というのは五胡十六国の異民族王朝が事実上の皇帝の地位につく直前の情況で称したもので、皇帝よりわずかに一歩劣るが、ほぼ皇帝と同格の称号だという。
map_五胡十六国
318年に匈奴の靳準が漢(前趙)の天王に即位してから、436年に北燕の天王だった馮弘が滅ぶまでの約120年間、多くの王朝と諸々の民族に跨って続いてきた称号である。この頃はまだ「皇帝」というと中国人の君主、漢民族の君主という印象があって、例えば匈奴が漢帝国よりも強大だった時代でも君号は「単于」(漢語の天子にあたる匈奴語)で通し、けして皇帝と称することはなかった。君主は異民族出身で配下の貴族や支配民は多民族という国家の君主として、皇帝でもなく単于でもない民族の枠を超えた君号が模索されたようにも思える。この「天王」号は普通は436年で終わったとされている。が、436年から461年までの間のある年に、倭王によって引き継がれ、以後、三韓からは倭王は「天王」「貴国天王」「可畏天王」等とよばれていたのではないか、ということを論証したのが宮崎市定や角林文雄の「天王」説である。皇室、皇后、皇太子などの皇はコウと読まれるのに、天皇の皇はコウでなくオウなのは、皇后や皇太子という律令の用語が制定された時期よりも、天王の方がはるかに由緒が古くて定着していた時期が長いからなのである。二人は奈良時代までの天王と書かれた用例も夥しく存在していることも明らかにしている。津田左右吉や大和岩雄は天王説になぜか冷淡だが。

最後の北燕天王馮弘の子孫が日本の貴族になっていた
最後の天王は今の満州の遼西地方に割拠していた北燕国の馮弘だった(姓が馮氏で名が弘)。馮弘が天王の位に即いたのは430年で、438年に殺される時までの間のいつの段階かで天王から皇帝に自分で昇格しているがそれがいつかはわからない。430年に馮弘の代になると北燕の勢いは衰えて中国の北朝の「北魏」に押されていた。危機を覚えた馮弘は435年に、北朝の北魏と対立している南朝の宋に使者を送り名目上その臣下となって、宋から燕王に叙任された。ただしこれは必ずしも天王から王への格下げではない。この「燕王」の位とは宋の朝廷内における席次、つまり「宋の爵位では王だ」ということにすぎず、自国内ではあいかわらず天王(または皇帝?)と称していただろう。とはいえ馮弘は結局それまで属国視して見下していた高句麗に頼ることになって436年に国を捨て一族あげて高句麗に亡命した。ここに天王だか皇帝だかの馮弘の君位は実体を失い名目だけとなる。同じ名目だけまら、まだ宗主国「宋」の裏付けのある燕王のほうが現実味があるので国際的にはこの段階から燕王と呼ばれていたのではないかと思われるが、こんな境遇になってもまだ保護者のはずの高句麗に高慢な態度を示し続けたというから、彼の自意識ではまだ天王だか皇帝だったんだろう。
高句麗ははじめは馮弘を駒として使えると考え、馮弘の太子の馮王仁を人質にとりながらも、北魏に対して馮弘をとりなした。馮弘に盾になってもらって北魏との緩衝地帯を残そうとしたのだろう。が、北魏の追及は厳しく、巧くいきそうもない情勢だった。それを見て取った馮弘は、太子を人質にとられていたことの恨みもあって、高句麗とも縁を切り中国の南朝の「宋」へ逃亡しようとして宋に助けを求めた。宋は馮弘を解放して宋に引き渡すように高句麗に命令したが、宋へ行かれては高句麗は北魏に対して申し開きが立たず追い込められてしまうので馮弘とその一族十数人を殺した。これが438年。
で、宮崎市定は、高句麗の情報がただちに倭国に伝わったかどうかはわからない、高句麗と倭国の間に密接な情報流通がなかったにしろ、高句麗と百済の間、それと百済と倭国の間には密接な情報流通があったことは疑いないとした上で、この北燕の馮弘の滅亡譚も遅かれ早かれ倭国に伝わったはずで、しからば「皇帝でもなく王でもないという、この天王という称号は何ぞ」という話になったに違いない、その格式をきけば倭王みずからこの称号は倭の大君主にこそふさわしいと思っただろう、と。
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ここまでは、そんなこともあるのかなって程度の話でまぁいいのだが、日本の帰化人系の貴族の中に、実はこの馮弘の子孫だという氏族がいるのだ。『新撰姓氏録』には、山代忌寸氏(もとは「山背画師」)、河内忌寸氏(もとの「河内連氏」)、台忌寸氏、凡人中家氏の4氏はすべて同祖で、後漢献帝の息子の魯国の白龍王から出たという。ところが後世の系図では、河内連氏の先祖の白龍王とは、北燕国の馮弘のことだという。確かに後漢献帝の息子に「魯国の白龍王」なる者はおらず、ここは『新撰姓氏録』の錯簡だろう。『新撰姓氏録』は誤字が多いことで知られ、良い写本が無い。燕の字は「庶」等と誤写された例があり、魯の字も「魚」と誤記される例にあげられることがあり、『新撰姓氏録』が魯国といってるのは燕国を誤ったものとしてよかろう(燕→庶→魚→魯)。北燕は別名「黄龍国」ともいったので、もとは黄龍王と書いてあったのだろう。黄の字の線の潰れた略草体を白の字だと誤認して「白龍王」になってしまったものか。この系図によると魯国白龍王馮弘には馮崇、馮朗、馮邈の3人の息子がいて、このうち馮邈の子が馮安君、その子が馮倫、その子に馮烏と馮黒人の兄弟あり、兄の馮烏が河内氏の祖、弟の馮黒人が山背画師の祖という。むろんこれは後世の系図で、馮安君以降の部分は信憑性が薄い。実際の歴史では、馮弘の息子らの間に後継者争いが起きており、腹違いの弟の馮王仁が太子となったため、身の危険を感じた馮崇、馮朗、馮邈の3兄弟は国を捨てて北魏に亡命してしまった。馮朗の娘は後に北魏の太皇太后として権勢を振るったが、馮邈は柔然に再亡命しており、だから馮邈の子孫が倭国に帰化するのいうのは考えにくいが、もしかしたら馮安君は親父の馮邈とは不仲で、高句麗に人質になった馮王仁についていったのではないか。馮王仁のその後が詳細でないが『三国史記』には馮弘の宋への亡命を阻止するため馮弘とその子孫十数人を殺したとあり、この時に馮王仁も殺されたと考えてしまいやすい。が、亡命したといっても馮弘は北豊という遼東の西(高句麗領としては西の辺境)に城を与えられていたのであって、馮王仁は人質だったから一応馮弘らとは別の場所(高句麗の王都)に隔離されていたはずである。またこの時は馮弘を宋に迎えるための宋からの使者、王白駒が七千もの兵力を率いて来ており、馮弘らを殺した高句麗の将軍が返り討ちにあっているから、馮弘の一族でも生き延びて宋に帰化した者もさぞかし多かったろう。また馮王仁や馮安君が北豊を遠く離れた高句麗の都に軟禁されていたとしても、高句麗が宋に配慮して解放したか、自力で脱出したかして百済方面に逃れた可能性もある。
ただしこれは後世の系図であって史料的な価値に問題あるので、宮崎市定がこれを知っていたとしても、まぁ論文の中では出さんだろうし、またこんな後世の系図にたよらずとも、馮弘の滅亡の一件から「天王」号が倭国に伝わることがありえたというのは宮崎市定のいう通りである。

「天王から天皇へ」の時期
436年から461年の間というと倭の五王の時代で、倭の五王は中国から官爵をもらおうと腰を低くしていたので、中国に対して天王と称することはなかったが、百済や新羅、高句麗に対しては天王と称していた可能性はある。特に百済は高句麗の圧力に耐えかねていた時期だから、倭王に天王の称号を献上して臣礼をとっていたのだろう。
推古朝説への批判
さて、宮崎市定は、聖徳太子が隋への国書に、それまでの天王を天皇にかえて「東天皇、敬しんで西皇帝に白す」と書いたのが天皇号の起源だというのだが、承服できない。天王という称号は、宮崎市定自身もいっているように直接の語源としては牛頭天王・四天王・毘沙門天王・梵天王・帝釈天王といった仏教の尊格からきている。天王号が始まった五胡十六国の時代の中国では空前の仏教ブームが起きており、上記の「なんとか天王」の類はすべて仏法の守護者という特徴で一致しているのである。つまり天王は単なる皇帝ではなく「仏教の守護者」という側面をもつ。遣隋使の時、執政の地位にいた聖徳太子は熱烈な仏教マニアで、当時、仏教を日本に根付かせるため布教に心を砕いていた聖徳太子が、こんな素晴らしい称号を廃止して、天皇大帝などという道教丸出しな用語に基づいて道教くさい称号を採用するなんてことはまったく考えられないことだ。東大寺文書(唐招提寺文書だったかも)には遣隋使の国書の引用が含まれるが、そこには「東天王敬白西皇帝」となっているのである! つまり書紀の東天皇云々の条も、もともと天王とあったのを天皇に書き換えている可能性が非常に高い。
天智朝説への批判
では天智天皇はどうだろうか。天智天皇は近江令で律令国家をめざしたが、中華式の帝国をつくろうとしたわけで、後世の律令にあるように「天子」「皇帝」の称号も規定されただろう。普通に考えて倭王などはもっての他だが、天王とかの中途半端なウヤムヤなものでもなく、ここで中華式の「天子」「皇帝」とはっきり条文化されたことは疑いない。むろんどう書いても読みはスメラミコトであってただの表記の問題なのだから、国内向けとしては大した問題ではなかったろう。そうすると、倭王という称号がいらないのと同様、天王という称号もいらなくなるはずで、実際、中国でもそれまで天王と称していた王朝がさらに強大化して、天王を捨てて「皇帝」と称し始めるという例は多々あった。日本でも同じように、皇帝や天子の号が新規に定められたら天王号は要らなくなったはずで、要らないのだから天王を天皇に書き換えようという発想も出て来ようがない。もし天王を残すとすれば「天子は祭祀に称する所」「皇帝は華夷に称する所」と並んで「天王は仏事に称する所」という規定があったことを推定はできる。しかしそれは「天王」を補助的な別号として残す可能性はありえるという程度の話であって、天智朝において「天皇」がでてくる幕はぜんぜんないことにかわりはない。
668年の近江令以降、スメラミコトは天子または皇帝と書かれ、天王という表記は一旦消えてしまったのではないかと思われる。つまり宮崎市定がいうような「天王から天皇へ」というような改定は起こりようがないのだ。天王は一旦消えて「皇帝と天子」という完全な中華式が採用されたろう。それが中華式の帝国を築くという大化改新のそもそもの趣旨にかなうことであったはずだ。

「天皇」という君号の起源(中編)に続く

☆五月五日、鯉のぼりと巨木信仰

2678年(令和元年)5月5日改稿 H28年2月17日(水)初稿 同年3月16日(水)修正
「高木神」という神名を「巨木信仰」に関係づける説もあるのだが、それもどうかと思われる。それとは別に、今日はH28年5月5日の子供の日、昔でいうなら菖蒲の節供。で、この菖蒲の節供と巨木信仰が、実は関係が深い。
「菖蒲の節供」は中国起源ではない
菖蒲の節供は、wikipediaの書きぶりからすると中国の風習からきたと思われていて、もしそういうことなら『古事記』とはさして関係ないことになるが、実はそれがそうでもない。折口信夫の説だと、古くからの日本古来の風習が、菖蒲の節句とは別にあって、中国からきた端午の節供と混ざって、現在の日本の風習が生まれたということになる。折口信夫は七夕(たなばた)についても同じことを言っていて、日本古来の信仰風習と、中国伝来のものとが混合、合体しているという。
しかしそれはあくまで折口信夫の説であって、少々異論もないではない。それは両者が混ざる前の段階の、中国の「端午節」と日本古来の信仰とが、本来的に無関係でまったく別のものだったのかどうかという点だ。それについて折口信夫は明言を避けているような印象があるが、祭りの山車(だし)は旗指物(はたさしもの)の元になった依り代(よりしろ)からクリスマスツリーまで議論を広げかけたこともあるので、薄々の予感としては何か世界的な広がりを考えてはいただろう。ただ彼は琉球や台湾の民俗は研究していたが欧米のことまではさすがに専門家でないから掘り下げるまではしなかっただけだと思う。現代の文化人類学では、神話のみならず、祭祀風習でも世界的に共通した要素が多々あることがわかっている。
中国の端午節と、日本古来の菖蒲の節句は、それぞれ最初から現在のような形だったのではない。もとの起源は世界共通の習俗だったのなら、古く遡れば遡るほど、似てくるはずである。

鯉のぼりの起源と巨木信仰
中国の端午節は、旧暦五月五日の行事だが、もとからそうだったわけではない。実は古くは五月五日ではなくて、夏至の日の祭儀であったことがわかっている。端午というのは五月最初の午の日の意味というが、夏至から旧暦五月五日に日付が固定されたのは古いことでこの説は可怪しく、五行説で午が五月に当てられるようになってからの表記だろう。また端午は五月の最初の午の日だともいうが、普通はそういう場合「上午」というのであって端午はおかしい。菖蒲が尚武に通じるという言葉遊びから日本では男児の健全な成長を祈る日になってしまったが、むろん中国・朝鮮・ベトナム等では男女問わない。そして菖蒲の節供といえば「鯉のぼり」だが、これは江戸時代中期までは魚の形ではなくて、立てた竿の上につけた「吹き流し」だった。武士の家の旗指物(はたさしもの)を庶民が真似たものという。これが江戸時代後期までには関東に広がり、明治以降には全国の風習になったという。
これだと鯉のぼりの起源はさほど古くないことになるが、折口信夫はそれよりはるかに古い起源のあるものとみている。折口は、祭りに出てくる山車(だし)やその原型である山鉾、正月に庭に立てる若松、祭りの飾りとして作る繭玉、髯籠(ひげこ)等はすべて同一起源で、神を招く「依り代」だったといっている。もとは単純な樹木だったのが、後には人工的に竿を立てるようになり、やがてその竿に装飾がついて、様々な形式に発展していった。鯉のぼりの原型である「吹き流しのついた竿を立てる」のもその一つで極めて古い風習である。武家の旗指物に対抗するものとして江戸時代の庶民が始めたというのは江戸っ子気質から説明しようとしたもので、いかにもな俗説であって採るに足らんと思われる。
夏至の反対、冬至の祭儀は太陽神の復活を祝う「天の岩戸」の神話の再演であり、お正月の若松も元は冬至に立てた神の依り代であり、遡ればクリスマスツリーと同一起源の「巨木信仰」にまでつきあたる。英国やドイツでは「メイ・ポール」といって5月に高い柱を立てその周りで男女が歌い踊るが、これは暦が長い間にずれてきたため豊穣の女神マイヤの祭りと混同されて一ヶ月前倒しになったもので、北欧諸国の夏至柱やオーストリアの花柱のように、夏至に立てるのが本来の形である。
夏至柱
冬至に立てる神木(若松、クリスマスツリー)と夏至の神木(メイポール、鯉のぼり)が対になっているのである。冬至には太陽神=天空神の祭儀、その真反対の夏至には「母なる大地」の女神の祭儀があった。

夏至の祭りの主祭神は「伊邪那美大神」
欧州の夏至の祭りでは必ず「火」が焚かれる。これは人間の生活になくてはならぬ「火」が、大地母神から生まれたという神話を表わしている。…と聞くと誰でも、伊邪那美命(いざなみのみこと)が火の神、迦具土神(かくつちのかみ)を生んだ話を思い出すだろう。原始信仰においては大地は地底の火の信仰と関係が深かった。オセアニアや太平洋の島々の神話では「火」の起源と大地の母が結びついている。火はもともとはただ一人の老婆だけがその体内(または陰部)に隠し持っていたもので、他の人間は火の存在を知らなかった。ある若者がそれを盗もうとして火事になってしまい老婆は焼け死んだが、火は蛇に燃え移ったため人々が発見し、人間は火で煮炊きできるようになったという。これは明らかに日本の大地母神・伊邪那美命が火神を生んだ話と同系の神話だろう。注目すべきは日本ではかつて夏至の日に女性が「皐月忌(さつきいみ)」と称して穢れを祓い身を清め、その間男性は外出を余儀なくされる風習があった。地方によってはこれを「女天下」「女の家」等とも称する。民話では妖怪「二口女(ふたくちおんな)」が正体を現し菖蒲の霊力で退治されたのが五月五日だったといい、女怪を退治するのは女性の穢れを祓攘する儀礼が五月五日に行われていたことの痕跡とみえる。
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男児の日どころか完全に女性の日だがこれこそ大地母神の祭儀の面影を残した古態であることは説明を要しまい。男が追い出されて女性が家の主になるという日本の「皐月忌」(さつきいみ)「女天下」「女の家」という夏至の風習は、黄泉国の主人である伊邪那美神が伊邪那岐命(いざなぎのみこと)を追い出した神話を再現したもので、黄泉の大神である伊邪那美神を讃える祭儀の痕跡なのである。

同じ女神の祭祀でも五月の地母神祭儀は主婦が主役だが、四月の女神は年長の姉神、七月の豊穣神は少女の姿をとり、こっちは七夕の元型となる。12月25日のクリスマスの起源はローマ時代の冬至祭で、現在の冬至12月22日とは3日ずれているがこれは途中改暦で修正したからで、月の英語名の語源と占星術の12星座の対応関係からみれば、古くは12月(Dec)1日が冬至だったと思われる。すると6月(Jun)1日が夏至で、極東の旧暦五月にあたり、5月(May)は極東の旧暦四月となる。

・沈没した神仙島の謎【前編】~夷洲・亶洲をめぐる大冒険~

2679(R1)・4・23 TUE 改稿
今日、平成30年6月23日(土)は沖縄慰霊の日だというのでツイッターみたら左翼がはりきってるなぁ。左翼のほうがネトウヨより声がでかいのは珍しい。ウヨからするといろいろネタがある中の一つにすぎないから意欲がさほど湧かないんだろうけど左翼の特徴の一つでイベント性が重視されるので(「この日だけはここに集まれ」みたいな意識)、瞬間風速的な「一点突破」みたいのでは左翼が勝つことがありますw まぁそんな話はこのブログとは基本的に関係ないのでさておいて、沖縄の話だが。古事記には沖縄は出てこないので、直接には関係ないわけだけど、柳田國男とか折口信夫といった民俗学者が何度も訪沖して、日本古代の社会や文化を考える材料にしてきた。そういう流れで「古事記」にまつわる研究でも沖縄の久高島に伝わる神事、イザイホーをとりあげたものもあって、このブログでも記事にしたことがありました、そういえば。(「イザイホーhttps://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-72.html)。そういうわけで今回は沖縄を入口にして古代史の話をしよう。
日本側からみた沖縄 ~「掖玖」とはどこか?~
古事記には出てこないといったが、日本書紀では推古二十四年(AD616)に掖玖人30人が来て定住したとあり、この掖玖人(やくひと)の「掖玖」を今の屋久島のことだと通説ではいうのだが、なぜ種子島をさしおいて屋久島だけ登場するのか? あるいは種子島と屋久島をあわせて「掖玖」といってるのか? 下野敏見は「いろいろおかしい」といって考察を加えた結果「掖玖」を南西諸島の総称だとした上で、「掖玖」はもともと屋久島のことだったのだが屋久島が重要な島だったので西南諸島の総称になったと中途半端なことをいっておる。以下に述べるように他の島と併記されてるのだから一概に総称だとも決められないように思うがどうだろう?
AD657(斉明三年)に覩貨邏人(とからひと)が漂流したため「海見嶋」(あまみしま)を経由して来朝。この覩貨邏人とは、丸山二郎は南西諸島のトカラ列島とする説、岩波版日本書紀の注(井上光貞?)はタイの吐和羅(ドヴァラヴァティ)とする説、竹内理三はビルマの驃国とする説だが、どれも古い説で、今では中央アジアのバクトリアの吐火羅(トハリスタン=大夏)だというのが通説になっていると思う。ともかくこの時点で「海見嶋」(あまみしま、今の奄美大島)が認識されてるのだから、そこより手前の吐噶喇列島・屋久島・種子島は当然しられていたはずだ。しかし記録には「掖玖」だけが先行し、吐噶喇列島も種子島もこの段階では出てこないのはどういうわけか?「掖玖」は屋久島ではなくて、人口も国力も大きな「別の島」のことじゃないのか?
AD677(天武六年)に多禰島人等(たねしまのひとら)を饗応したとあり、多禰島は今の種子島だろうからこれが種子島の初登場。多禰島人「等」とあるから複数で、種子島の他いくつかの島人の意味だろうから、少なくとも「奄美大島・吐噶喇列島・屋久島」の人々が含まれていたはずだが、それなら先行してメジャーな「掖玖」が代表になって「掖玖島人等」と記述されそうだが? つまり「等」の中に「掖玖」は含まれなかったと考えるのが妥当だろう。しかし種子島にもっとも近い屋久島を含まずして「種子島など複数の島々」という海域は想定しにくい。つまり「掖玖」は屋久島ではなくて、もっと南の別の島ではないのか?
AD682(天武十一年)に、多禰人・掖玖人・阿麻彌人それぞれに禄を賜るとあり。通説では種子島の住民・屋久島の住民・奄美大島の住民のことだが、吐噶喇列島が無視されてるのは微細な島々で人口が少なかったか、もしくは無人島だったんだろうか。さっきから言ってるように掖玖というは今の屋久島でないとすれば、ここでいう「多禰」というのは種子島だけでなく屋久島も含んでいるということだろう。現に、のちに多褹国司が設置された時は「多褹国」の名の下に今の屋久島も含まれていた。
AD698(文武二年)文忌寸博士(ふみのいみき・はかせ、博士というのは人名)が南島に派遣され、翌699年(文武三年)に多褹・掖玖・菴美・度感等人が役人に連れられて来て土地の産物を献納し、官位や禄を賜っている。度感島との交通はこの時が始めてという。度感島は今の徳之島という説と吐噶喇列島(の宝島)という説とがある。掖玖を今の沖縄本島とした場合、徳之島に上陸せずとも奄美大島から沖縄へ航海することはできるし、吐噶喇列島に上陸せずとも種子島や屋久島から奄美大島へ航海することは可能だから、どちらにせよAD699年になって始めて「度感島」の住民がきたというのは別に不自然ではない。
大宝二年(AD702)多褹国司が創設された。能満郡(のまぐん)・熊毛郡・馭謨郡(ごむぐん)・益救郡(やくぐん)の4郡からなり、前2郡が今の種子島、後2郡が今の屋久島ということになっていて、すでに知られていたはずの吐噶喇列島や奄美大島が含まれてない。その理由がいまいちピンとこないんだが? その4郡の中に奄美大島も含まれてるんじゃないの?
和銅七年(AD714)奄美・信覚および球美等の嶋人52人がやってきた。信覚は今の石垣島、球美は今の久米島というが、沖縄本島が未登場なのに久米島や、はるか先の石垣島が出てくるのはおかしくないか?これより前の段階で、沖縄本島は別の名ですでに登場してるのではないか?
『唐大和上東征伝』によると天平勝宝五年(AD779)鑑真が「阿児奈波」に漂着したとあり、これがのちに訛って沖縄になったんだろう。「阿」の字は推古遺文など古い例ではアでなくオにあてる用法がある。「児」(兒)は何かキ音をあらわす別の字の誤写(忌貴几鬼其只癸など、どれもありうるが鬼の字が近いかな?)。とすれば「阿鬼奈波」はオキナハと読める。吉川弘文館の『日本史地図』ではオキナワとルビがあるが、同書の昔の版ではオチナハになっていた。「児」をチと読むのはウチナーグチとかなのかな? ネットではむりしてオコナワとルビふってるやつがいるが1字だけ訓読みもおかしいだろ。
天長元年(AD824)多褹国が廃止になり大隅国に合併された時、能満郡も熊毛郡に合併吸収され、益救郡は馭謨郡に合併されて、熊毛郡(種子島)と馭謨郡(屋久島)の2郡体制になったとされている。しかしそれなら屋久島は益救郡という名前になるのが普通だろうに、おかしくないか? 昇曙夢の『大奄美史』ではもともと熊毛郡は種子島のこと、馭謨郡は屋久島のことで、能満郡と益救郡はそれより南の島々のことだったとしている。これが正解だろう。おそらく能満郡が奄美大島、益救郡が沖縄本島だったが、この2郡は書類上の企画段階に留まり、実現する前に多褹国自体が廃止になったってことじゃないのか。
つまり日本書紀や続日本紀にでてくる「掖玖」ってのは屋久島じゃなくて沖縄のことではないだろうか?

中国からみた沖縄 ~「琉球」とはどこか?~
琉球は『里見八犬伝』に「『琉』と『球』の2つの玉」って話がでてくるが、もちろん作り話で、『隋書』流求国伝に「流求」とあるのが最初。その他には流虬、留休とか流求とか留仇とか書かれたので「琉」も「球」も当て字だとわかる。新唐書には流鬼とも。宋代には「幽求」、元代には「瑠求」とも書いた例がある。吉川弘文館の『世界史地図』では隋代の「流求」も唐代の「瑠求」もハッキリと今の台湾の位置に書かれているが、不正確でたいへんよろしくない。隋唐の頃の「流求」については沖縄説と台湾説があって公式には論争は決着していないことになっている。が、ネットであれこれ読んでみたぶんには、沖縄説のほうが良さげだなw ただ、議論が混迷する原因としてもともとの史料が沖縄と台湾を混同していたという指摘もあって、その混同した認識が歴史上の概念になってるのなら、沖縄と台湾を分ける意味が薄いようにも思える。隋唐の頃には沖縄か台湾のいずれだったにせよ、宋元の頃には情報が混乱してきて、沖縄も台湾もごっちゃに含めて漠然と「流求」「幽求」「瑠求」などと呼んでいた。明代には沖縄に建国された新王国が公式に「琉球」を名乗ったため、ようやく「沖縄を大琉球、台湾を小琉球」として区別するようになったという。だが、その頃には今の台湾はすでに「台員・大員・大円・台湾・大湾」等と呼ばれていて江南の沿岸の辺民には認識されていたので、「沖縄と混同されていた」というのはずいぶんとまた妙な話じゃないか? だから混同されていたのではなく、沖縄も台湾も含む広大な範囲がもともと琉球だったのではないの? まぁ、そこらのことはずっと後の新しい時代になってからの謎だから、このブログでは時間を惜しんで謎解きはせず、すっとばしていこう。

「琉球」と「掖玖」の関係
『隋書』流求国伝によると大業三年(AD607)、煬帝は朱寛に命じて東海の異俗を探らせ、朱寛は流求国にいたり国人を拉致してきた。翌大業四年(AD608)流求は国交を拒絶、朱寛は「布甲」(鎧の類い)を持ち帰ったが、それをたまたま来朝していた倭国使に確認したところ倭国使は「これは『夷邪久国』の人が用いている物です」と答えた。隋書には明記がないが前後の流れからしてその時の倭国使は蘇因高(小野妹子)で間違いない。この「夷邪久国」というのは日本書紀でいう「掖玖」と同じものだろうから、書紀では推古二十四年(AD616)が「掖玖」の初登場だが、大業四年(AD608)の段階でもすでに日本人は「掖玖」(=夷邪久)をよく知っていた(「邪久」の前についてる「夷」の字については後述)。そののち(大業四年=AD608より後)煬帝は再度流求を討伐し、流求国の王宮を焼き数千人を捕虜にした。中国を統一した隋が勢力を外に広げようとした一環が流求侵略であり、これを大業四年(AD608)に知った日本も西南諸島を防衛線として意識せざるをえなくなり、推古二十四年(AD616)から始まり天長元年(AD824)多褹国廃止で終わる200年間に渡る南方政策の歴史となる。国内を統一した中国は強大な敵がなければ四方を侵略して膨張政策をとる。日本からすると、日本と中国は朝鮮を通る「北の道」と琉球を経由する「南の道」とでつながっているのであって、統一帝国の登場によって日本はただちにこの「二つの道」を警戒しなければならなくなる。これは地政学的パワーバランスという端的な「事実」だから、時代を超えて何度もくりかえす。現在の日本が置かれている環境も…。いや、やめておこうw
さて、日本書紀の「掖玖」は他の島々との併記ででてくるから一見したところ沖縄本島をさしているようにも思ってしまうが、沖縄本島には「阿鬼奈波島」という固有名がある。本来は「掖玖」は西南諸島の総称だが、必然的にその中心たる沖縄本島も含まれるので、周囲の島々は詳細を明らかにするために名を列記されるが沖縄本島の島名(阿鬼奈波)は略されるのが通例になっていたんだろう。この「夷邪久」を屋久島のことだと決めつけて日中間(倭隋間)のカン違いだといってるブログがあったがそうではなく、日本語のヤク(掖玖=夷邪久)は沖縄を中心とした西南諸島のことだろうから、結局、中国からいう「流求」と日本からいうヤク(掖玖=夷邪久)はまったく同一地名で、中国語か日本語かの違いにすぎない。実は中国語の流求と日本語のヤクは語源も同じらしいのだがそれについては後述する。

「夷洲」は台湾ではない?
隋より前の、南北朝時代には沖縄も台湾も知られていなかった。というか記録にない。が、三国志には「夷洲・澶洲」(いしゅう・たんしゅう)というのが出てきて、このうち夷洲というのが台湾だという説があるから、その後、隋代に再発見されるまで中国からは忘れられていたということになる。「夷洲・澶洲」というのは三国志の呉の孫権が、征服しようとして海軍を差し向けたが敗北、失敗したという島。これがまた邪馬台国の時代の日中外交と絡んで面白い話に展開するんだがそれは後回しとして、ともかく「夷洲」が今の台湾だというのが定説で、「澶洲」については諸説があったが(詳しくは後述)、今は種子島だとする説が最有力。

「夷洲」の「洲」の字は朱崖とならべて書かれる場合はなぜか氵が取れて「州」になるが、夷州という行政区画があるわけでなく、「洲」の字で書かれる方が多い。「洲」の字は「島」のことだが、なぜ「夷島」「澶島」じゃないのか? 氵なしの「州」の字にニュアンスを通わせたい意図があったのか、はたまた「洲」の字までが音写なのか? また「澶洲」の「澶」の字も氵なしの「亶」と書かれることもあるが、書き分けの法則性がなさそうなのでどっちでもいいんだろう。氵の有無で字書では微妙に意味が違うが、今回の場合は地名であり指すところに違いはない。「亶」が正しいならわざわざ氵つける意味がわからないから一見「亶」は略字にも思えるが、他の氵のついてる字についていえば、意味もなく不規則に略されるなんて聞いたことがない。人偏にはそういうのよくあるが…。後世の中国で「亶」の方がメジャーになったのは中国国内に「澶州」という行政区画ができて紛らわしかったんだろう。こっちの「澶州」は「澶淵の盟」という世界史用語で有名。だがそれはずっと後の時代になってからのこと。「澶」の氵は「洲」の字に釣られたかしてもともと間違いの可能性もある。なお、「澶」はセン、「亶」はタンと読まれる傾向があるが、正しくはどっちの字にもセン、タン両方の読み方がある。このブログでは「亶」でなく「澶」と書くことにするが、必ずしも「亶」が間違いで「澶」が正しいというわけでもない。

通説どおり「澶洲」が種子島だとすると、「夷洲」=台湾との間に存在している沖縄がすっとばされるわけで、これはちょっと不自然ではないかな? それで後述の「澶洲」沖縄説も出てくるわけだが、仮に「澶洲」が種子島で確定して動かせないのならば、「夷洲」の方を沖縄にもってこれないか?
「夷洲」については『三国志』呉志の孫権伝の他に、同時代の呉の武将沈瑩(しんえい)が著した『臨海水土志』がある。Wikipediaはこの両書をあげ「これらの場合の夷洲は台湾島の特徴に合致する。またこのような島嶼は中国南部の沿岸には台湾島以外に見当らないため、この時代には中国文明が台湾を認識していたと考えられている」と断言しているが無茶だぞこれ。確かに『臨海水土志』の中には後世の台湾先住民と共通する話もあるが、『隋書』流求国伝とも似ている。隋唐の琉球については沖縄説、台湾説、両者の混同説があるのは前述の通り。当時の記述のうち無前提で台湾か沖縄か断定できる記述などぜんぜん存在せず、比較のしようもないのに何が「台湾島の特徴に合致する」だ、アホじゃないのか。辰国と真番を同一視して「辰国錦江流域説」を唱えたことで有名な市村瓚次郎っていう大昔の学者が、「夷洲台湾説」の元祖でもあるんだが、おかしなことに『臨海水土志』には「夷洲は臨海郡の東南、二千里」とある。当時の臨海郡は今の温州と寧波の中間あたりで今も臨海という地名が残ってる。地図みればわかるが、そこから東南へ二千里だとズバリ沖縄本島、もしくは沖縄本島と宮古島の間を少し抜けるぐらいじゃんよ。誤差を考えても沖縄とするのが妥当じゃないだろうか(方角8分法だから22度30分の広がりがある)。台湾だと方角は東南ではなく真南になるし、二千里というには台湾は近すぎる。この二千里じゃ距離があわないってのは台湾説を唱えた市村瓚次郎本人が自分で認めてるんだよ(「東洋学報」1918所載『唐以前の福建及び台湾に就いて』を確認済み)。根拠あやふやな説が、さして疑問ももたれずいまだに継承されてるんじゃないのかと疑われる。だが、俺は「夷洲に台湾を含まない」といいたいわけでもない。西南諸島の西南端として台湾北部が認識されていた可能性は当然あるだろうし、なんなら台湾全島が含まれてもなんら差し支えない。隋唐の頃ですら根本史料が沖縄と台湾を混同していたなら、それより数百年前の『臨海水土志』の一部情報が沖縄と台湾を混同していてもおかしくないだろう。

「東鯷人」
「夷洲」は三国時代になって初めて登場する地名だが、それより古い時代となると「東鯷人」(とうていひと)というのがあり、『漢書』地理志の呉地条に「会稽海外、東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」と出ている。『後漢書』東夷伝にもほぼ同文があるが、これは漢書からの孫引きだから史料的な価値は低い。ちなみに「東鯷人」の読みはトウテイジンじゃなくてトウテイヒトな。倭人もワジンじゃなくてワヒト。筑摩文庫の正史三国志は「倭人」に「わひと」と正しくルビがふってある。さすがだなw 岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』の注釈には「鯷」の字はナマズだ、とあり。昔、これ読んで東シナ海に巨大なナマズが泳いでる怪獣映画みたいなシーンが浮かんで秘境ロマンな気分になったのを思い出す。
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さて、海洋冒険伝奇ロマンな気分になったところで話をすすめようw 三国時代以降にも「東鯷」とか「鯷海」という表現が詩文にはあるから、後漢代を通じて東鯷人・東鯷海・東鯷国などの概念が行われたことは確実と思われる。「東」の字は青海省の「西傾山」との対語で、詩的表現における東西軸の世界観になってる。もともと世界への夢想を含んでいた言葉だといえる。ある意味「東のはて」というニュアンスかな。

なぜ西傾山が「西のはて」なのか
西傾山というのは青海省河南モンゴル自治県(青海湖の東南東、百数十キロ)に実在する山で、東南から西北に向かって斜面になってるので(傾斜しているので?)「西傾山」という名がついたらしい。この頃の中国人の世界認識では西域(中央アジア)も天竺(インド)も大秦国(ローマ帝国)も知っていたので、当然「西傾山」が西のはてだと本心から思っていたわけではない。にもかかわらず、詩文では東のはてを表わす「東鯷」とセットで象徴的に西のはてを表わす言葉として使われている。なぜか? 同じ青海省には古代民族「月氏」が居住していたという祁連山もあり、その西のとなり東トルキスタンには神話上の世界の中心である「崑崙山」の名をとってつけられた「崑崙山脈」もあり、特に崑崙山は西のはてに住む女神「西王母」がいるとされる。象徴的、文学的な意味での「西のはて」だから実際に西のはてでなくてもいいのだが、それなら「崑崙山」をもってきて「西崑」とか「西崙」とかいえばいいのではないかと一見、思われる。「西傾山」にはそれっぽい神話もないし、「傾」の一文字だけで「地のはて」という意味を表わすこともできない。しかし、普通、詩文で「山」のつかない「西傾」の2文字だと、太陽や月が西に傾くことで、日没、夕日、月の入り、等を表わすことが多い。天の川を別名「傾河」ともいうのは天の川が明け方に西の方に傾くからだともいう。壮大な話だよなw このことから「西傾」という言葉のニュアンスは理解はできるが、これだけでは崑崙山を差し置いてまで「西のはて」の代名詞になった理由とは考えにくい。
実は三国志の頃は「西傾山」のあたりは中国の領土でなく氐(てい)や羌(きょう)というチベット系の強盛な民族がいて、そのほぼ真東に百数十キロメートルのところに、魏の隴西郡と蜀の陰平郡との国境があった。氐や羌はある時は魏について蜀と戦い、またある時は蜀の味方となって魏を攻めた。つまり「西傾山」は三国志の登場人物にとっては「もっとも西の戦場」なのである。
するとそれと対になってる「東鯷」も三国志の登場人物にとっての「もっとも東の戦場」のことと察せられる。

岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』はナマズ説しか出してないが、ネットみてたらナマズという意味の他にカタクチイワシの意味があるという。確かに漢和辞典で確認したらそうなってる。カタクチイワシなんて魚は知らんかったが、イワシの一種で「ヒシコ」、「シコ」、「ヒシコイワシ」ともいい、シラスはほとんどこれの稚魚でウナギの稚魚より多いらしい。ウナギだとばかり思ってたわw で、カタクチイワシは九州と韓国の周辺海域にしか生息しないから東鯷人は九州だって説をいってるサイトがあったが、Wikipediaには「西部太平洋に生息し、樺太南部から本州の日本海・太平洋岸、台湾・広東省まで分布する」って書いてるぞ。岩波文庫はナマズ説だがよく考えたら淡水魚じゃん、ちょっと海という状況にそぐわないんじゃないか?(和田清かな?) おかしいと思って念のため諸橋轍次大漢和全十三巻で確認したところ「ひしこ」(=カタクチイワシ)の意味で使うのは日本での話でもともとの漢字の意味じゃないw 道理で岩波文庫の注釈にはナマズ説しか出てないわけだw ネットみてたら中国語の字書サイトでもカタクチイワシの意味があがってるので騙されてたわw ちなみに中国語では「鯷」の字に「鮎」だとあるがこれは中国語でナマズ。日本ではアユの意味に使ったのでわざわざ「鯰」という字を創作した。いわゆる「国字」というやつ。しかし今では中国語でも「鯰」の字を輸入して「鯰」と「鮎」両方ともナマズの意味で使ってる。中国は自国の文化に関するものでも日本からの輸入癖がある。文化大革命以後、一切の文化は無くなってしまって現在あるのはその後に日本や台湾から逆輸入(もしくは丸パクリ)してるのばかり。字書のネタ元も諸橋轍次大漢和を粗雑にパクってるだけじゃあるまいね? 諸橋轍次大漢和の凡例として日本独自の意味を示す「国」の記号の意味を、データ打ち込んでた若い中国人プログラマーに理解できず機械翻訳でそのまま書いちゃったんだろう。おそらく今後、未来の中国人は日本での独自の意味だと知らず「鯷」はカタクチイワシだと信じていくことになる…。そうして自国の古典漢文も正しく解釈できなくなっていく…。そんなこたいいとして、なぜ淡水魚であるナマズの名がついているのか、あいかわらず大きな不審点ではある。他の意味ないのかもっと調べてみたら、「鯷」「鮧」「鮷」「䱱」 は相互に異体字だという。それならこの4字は発音も意味も同じはずだが、字書の説明ではやはり微妙に意味の範疇がちがう。

 [魚是] 
音:テイ・ダイ・シ・ジ 意味:なまず、大なまず、[国:ひしこ]

 [魚弟]
音:テイ・ダイ 意味:大なまず
(中国語サイトでは「大」ナマズではなく、普通のナマズ。あとネット字書」ではスケソウが追加されてる)

 [魚夷]
音:テイ・ダイ 意味:大なまず
音:シ・ジ 意味:なまず(江東語)
音:イ 意味:しおから、「鯸鮧」(こうい)でフグ(鯸だけでもフグ)、「鮧鯊」(いさ)でフカ(鯊だけだとハゼ)
(どの音に対応するか不明だがネット字書ではエソ(これも魚の一種)が追加されている)

 [魚帝]
音:テイ・ダイ 意味:なまず、サンショウウオ、黒魚
音:テイ・タイ 意味:大鱧(この「鱧」は日本でいうハモのことではなく、大ナマズ、ヤツメウナギ、ウナギ等のことらしい)


※「鯷」の字の音について「東鯷人」と熟した場合のみだが、『漢書』地理志の音注に
・孟康曰音題晉灼曰音鞮師古曰孟音是也
・孟康曰く音『題』、晉灼曰く音『鞮』。師古曰く孟の音、是也。
・孟康の説では音は『題』(ダイ)、晉灼の説では音は『鞮』(テイ)。顔師古がいうには孟康の説(ダイ)が正しい。
とあるが、これを日本語で「東テイ人」でなく「東ダイ人」と読め、との意味では必ずしもない。当時の中国語の発音の推定音価は古い説ではあるが藤堂漢和(初版)によると
「題」…上古音:deg 中古音:dei
「鞮」…上古音:ter 中古音:tei
「鯷」…上古音:deg/der 中古音:dei
となってるから、この音注の意味はt音でなくd音で読めということらしい。上記の字書によるかぎり、ダイかテイかでは意味は変わらないので習慣どおり一応「東テイ人」と読むことにする。また顔師古は唐代の人なのでその説が正しいとも限らない。

こうしてみると、ナマズと大ナマズの違いがいまいち不鮮明だが、ともかくナマズ・大ナマズの意味だけが共通しているので、その意味の場合、相互に異体字だが、ナマズ以外の意味の場合は別の字ってことなのか? 異体字だとしてならべてみると、旁の部分の「是」「弟」「帝」はどれも同じ「テイ」の音を表しているのが明らかだが「夷」だけ異質にみえる。しかし篆書だと「弟」と「夷」は字体が紛らわしいので混同されたという説が大昔からある。もしそうなら、「鮧」は本来はイで「しおから・ふぐ・ふか」だったのに、「鮷」と混同されたがゆえに後からテイ・ダイという音と「大なまず」の意味が生じたことになる。だがそれだけではシ・ジの音が説明できない。その音は「是」を旁にもつ「鯷」の字のものだ。「鮷」の字が介在してはじめて「鮧」の字に「鯷」の音と意味がくっついたのか? ここで注目すべきは「鮧」がシ・ジの音で読まれナマズの意味をもつのは「江東語」つまり揚州の方言だとある。揚州は呉越の地、会稽を含む揚子江下流域のこと。ズバリ東鯷人と接触していた地域じゃないか。もしや東鯷人のことを現地では東鮧人といってたのか? だとするとなぜ中央では「鯷」の字にかえたのか? 「テイ」の音は「夷・鮧」を「弟・鮷」に誤記したから派生したんで元は「イ」だ、とは決められない。東鮧人が元でそれをまず東鮷人に誤ったのだとまではわかるとしても、それが今度は東鯷人に書き換えられた理由がわからない。あるいは現地では東鮧人と書いて東テイ人と呼んでいたので、中央の文人は鮧の字をテイと読むのを誤りと感じて「鯷」に修正したんだろうか。だとすると「東イ人(夷・鮧)ではない東テイ人」とはなんなのか? 音の問題さえなければ、「鮧」は「夷洲」の「夷」だから「東鯷人=東鮧人=東夷人=東夷=東夷洲=夷洲」でぜんぶ同じもの、で解決なんだろうが、問題は現地では「夷洲」をイ洲でなくテイ洲と呼んでいた可能性があることだ。その意味は是洲? 弟洲? 帝洲? 東夷も東テイと読むとするとその意味は東是? 東弟? 東帝? 「夷」や「弟」をわざわざ「是」に書き換える意味はなさそうだが、「帝」の字はあからさまに不穏当だな…。元は「東帝人」「帝洲」だったりして…? だんだん思考が危険水域に入ってきたかw
危険水域といえばだ、この岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』は何がヤバいって、初版本だと参考文献の中に『日韓正宗遡源』が混ざっててあらららと思ったもんだが、新訂版では案の定削除されとったって話w この話を当時八幡書店の社員だった原田実氏に話したらあっという間に契丹古伝復刻版の解説に書かれてしまったのも良い思い出よ。
…なんて話はさておいて、穏当な議論に話題をかえようw 東鯷人の二十余国を魏志倭人伝の国名しかわからない偏旁二十国のことだという説もあるが、さすがに原資料の出所が違うだろう。で、まずは一応、夷洲と切り離して考えるとして、この東鯷人というのは会稽の海外なのだから、ちょい考える分には台湾か沖縄のいずれしかないと思われる。しかし五島列島を初めとする九州西部から東シナ海を渡って直接に江南地方と交流するコースもあったろうから、九州も考慮に入れられないこともなかろう。「二十余国」という字づらからは西南諸島の主だった島々が種子島から台湾の北端まで沖縄中心に20島が点々と連なっている様子が浮かぶ。しかしそれなら「二十余国」ではなく「二十余島」となりそうだが。この国々が地上で隣接してるなら、台湾が「二十余国」に分かれているということか? あるいはごっちゃに西南諸島の約10島と台湾各地の約10地域をあわせて「二十余国」なのか。ちなみに九州のうち、朝鮮の方が近すぎて直接に東シナ海を渡ることのありそうもない北部や東部を除いて、会稽郡まで行きそうなエリアを島ごとにあげると、五島列島・済州島・甑島・天草諸島・諫早半島(肥前三半島)、これに西南諸島とのつながりで薩摩半島・大隅半島を加えて7島。自然地理学の分類をしてるのではないから半島も中国への海に突き出ていれば島と同等のエリアとしてよい。西南諸島は種子島・屋久島・宝島・奄美・喜界島・沖縄・久米島・徳之島・沖永良部・宮古島・石垣島・西表島の12島、台湾も入れれば合計で20島。これでどや? 九州まで入れるのはどうかって声もありそうだが、前述のごとく「東鯷」には「東のはて」のニュアンスがあり、中国では歴代正史の注釈家たちも日本のことだという解釈が多い。要するに実体がどうこうではなく当時の中国人からどうみえていたかという問題だ。

地名語源
「琉球」の語源についてはネットで検索したら5つか6つ出てきたが、その中で興味を引くのは、ヤク(掖玖=夷邪久)が琉球の語源だという説で、それぞれ論証の仕方は違うが2,3人いた。「流・留」は隋唐の頃は[lieu]に近い発音だったらしい。子音を落とせば[ieu]、「ヤ」は開けば「イア」になる。が、これだけではちょっと恣意的で強引に聞こえるかもしれない。だが、琉球の語源説でもう一つ、検索してたらもとは「魚(うよ)の国」と言い、次第にウヨノク→ユークーへと変化して琉球の字を当てるようになったという説に出くわしたw 魚(うよ)ってのは琉球弁なのかな? 古語では「ウヲ」とも「イヲ」ともいうし、隋書に「夷邪久」とあり、夷の字も音写の一部とするとヤクは古くは「イヤク」だったことになるがこれはイアクからヤクへの移行過程の音。ゆえに初期に魚を「イウ」といった段階が想定できればイウク→イアク→ヤク(掖玖)という流れと、イウク→ユークー→ルークー(流求)、またはイウクに子音[l]がついてリウクー(流求)という流れが想定できる。そしてこの説のもう一つの魅力は、「魚の国」ってところ。「東鯷人」ももとは「鯷」が国名だろう。原住民が現地語で「魚の国」といったので、中国人は魚偏の「鯷」(もとは「鮧」か「鮷」か「䱱」?)で表わした。

おまけ:屋久島の古名は「コロ島」だった
「ヤク」は沖縄本島を中心とする琉球諸島全体の名前であって、もともとは屋久島のことでは無かったという前提からすると、屋久島を馭謨郡(ごむぐん)というのは、つまり屋久島の本来の名が「馭謨島」(ごむじま)だったという可能性を強く示唆する。しかしこの名はいろいろ不自然だ。第一に、濁音から始まる言葉は日本の古語としてかなりおかしい。この地名は「○○ごむ」だったのを和銅六年(713)の「好字二字令」で地名の前半が略されたのではないだろうか。あるいは「謨馭」(むご)だったのを誤って転倒したか。第二に、「謨」の字は呉音でモだが、どうしてここではムと読まれてるのか? ムは土地の訛り(?)で、モが正しいんじゃないのか。
これを解決するために古史古伝の登場だw 正しくは「超古代文献」なw そろそろこれ出さないと「金かえせ」って言われかねないからなw いわゆる古史古伝の一つである『神道原典』によると太古、九州の南にもう一つ「ツクシ島」というのがあり面積は九州の約2倍もあったという。普通は「ツクシ島」といえば今の九州のことだから『神道原典』の独自用語の「ツクシ島」とは混同しないように注意しなければならない。で、約8千200年前にツクシ島は沈没したが、その残りが屋久島で、当初は屋久島という名ではなく「オノコロ島」と称したという。ふと気づいたことに、馭謨郡の「馭」の字の読みはゴでいいが、オノゴロ島を古事記が「淤能碁呂島」と書くところ、書紀は「磤馭慮島」と書いており、やはりゴの音の当て字に使っている。むろん巨大な島が沈没したとか古事記の淤能碁呂島が屋久島にあったとかの与太噺を真に受ける必要はないが、屋久島の名前については興味深い情報ではある。一方『ウエツフミ』にはイザナギノミコトが大八洲を生んだ後で、大八洲とは別に、アメノヤスノカワラ(天之安之河原)のアマツマサゴ(天津真砂)を蒔いたところ8つの島が出来たといい、その8島の中の一つが「コロシマ」でその名を「イクツフキ」という、とあり。名前が2つあるのは、古事記で「隠岐島をオシコロワケという」等とあるのと同じで、イクツフキというのは神としての名だろうから、地名としては「コロ島」でよい。吾郷清彦はこのコロ島をインド洋及び東インド諸島のことだとし、田中勝也は今のどこだかわからないとしているが、『神道原典』をヒントにすれば屋久島のことではないだろうか。
「謨」の字を「髏・龍・蠟・轤・録」等のロと読む字の崩し字と誤ったとすると、屋久島のもとの名はゴム島(馭謨島)ではなくゴロ島であり、『ウエツフミ』のコロ島とほぼ同名。『神道原典』のオノコロ島の前半が落ちたものとも考えられる。またM音とN音は相通じ相互に転訛する例があるから、『神道原典』のいうオノコロ島は記紀の淤能碁呂島とは無関係で、元はオモコロだったのがオノコロに訛った可能性もある。馭謨が「謨馭」の転倒だったとするとモゴと読める。これは「オモゴロ」略して「モゴロ」といってたのを好字二字令により表記上は一字落として「謨馭」と書いていたものの、読みはモゴロのままだったのだろう(旧国名や旧郡名に例がある)。

琉球&沖縄についてのまとめ
以上まとめると、第一に日本からみた場合『日本書紀』や『続日本紀』で「掖玖」といってるのは今の屋久島のことではなく、沖縄のこと、もしくは沖縄を中心とした西南諸島のことである。「掖玖」が特定の島々の名と並んでてくる時は「それ以外の(沖縄を中心とするすべての)島々」という意味。第二に中国からみた場合、隋唐以降の「琉球」はすべて今の台湾のことではなく、沖縄を中心とする西南諸島のことである。「琉球」にはその西端部として台湾も含みうるが、台湾が中心なのではない。そして第三に「掖玖」も「琉球」も同一語源から出ている同じ言葉と考えられる。

「夷洲」は本当に固有名詞なのか?
ところで台湾にせよ沖縄にせよ「夷洲」という名には違和感を覚えないだろうか? 「夷」の字は東夷諸民族の総称だろう。固有名詞にふさわしくないような気がする。イヤクの頭音に「夷」の字を使うのも同じ意味で音写文字としてやや不適切な感じ。だからここは「夷洲であるところの邪久」という意味と「イヤクの音写としての夷邪久」を二重にした文字表記であるか、または「夷洲邪久国」(夷洲の邪久国)とあったのに洲の字が抜けたか、はたまた邪久の右肩に小さく夷洲と注があったのが本文に紛れ込んだかしたのだろう。いずれにしろ大業四年(AD608)の段階の段階ではかつて「夷洲」と呼ばれていたという過去は確定した知識だから夷の字にとやかくもなかったのはわかる。しかしそのずっと前の三国時代に「夷洲」と呼ばれたのはどういうわけだろう? 中央の知識人階級にとっては「東鯷」「東鯷国」「東鯷洲」「鯷」「鯷国」「鯷洲」でもよかったろうが、これは中国人からの名で本人たちの自称ではないので、実際に彼らと交易していた江南の辺民は彼らの自称「ヤク」に近い音でよんでいたのではないだろうか? 例えば「イヤク・イアク・イウク等の音写の頭音「イ」に「夷」の字を当てたんだ」といっても成り立たないこともないが、その場合「夷」でなく別の文字が当て字に選ばれた可能性が高いと思う。やはり音写文字に「夷」の字は違和感がある。大胆な発想だが「夷洲」とは実は「易洲」の誤記が定着してしまったものではないだろうか? 「夷」と「易」は音読みが同じ「イ」(中古音 [i] または [yi] )で、「平坦ででこぼこがない」等の同じ意味も共有している。それでもし「夷洲」が誤りで「易洲」が正しかったとすると、易の字はもう一つ別の音をもつ。漢音「エキ」呉音「ヤク」、意味は「変える・変わる」。そしたら「易洲」というのも「ヤク」(魚の国)の音写ってことになるだろう。まぁ「イヤク・イアク・イウク等の音写の頭音「イ」に「夷」の字を当てたんだ」という説にもし説得力があるなら最初から「易」の字には出る幕はないが。「東鯷」も「夷洲」も、「東夷」の字義からしてかなり広漠な東夷の島々を指す普通名詞と考えられるが、発音からすると「東テイ人」または「テイ洲」という音で呼ばれる固有名詞的な概念があったかもしれない。「夷洲」(東夷の島々)は観念上のものだが、現実の島は具体的にそれぞれ固有性をもっており、「テイ」(是?弟?帝?)の島々もあれば「ヤク」(掖玖=琉球=易洲)の島々もあり、さらに「澶洲」もあり、それ以外の島々もあったわけだろう。

東鯷人は「東鯣人」だった?
さて、鯷の字に「鮧」という異体字があったことから、「東鯷人=東鮧人=東夷人=東夷=東夷洲=夷洲」で東鯷人は夷洲のことだと思われるわけだが、夷洲がもし易洲の誤りだというなら東鯷人ももしかしたら東「鮧」人ではなく東「鯣」人だったのではないか、とすぐ思いつく。誰でも思うよな?w 「鯣」の字はスルメのことだけどこの字をスルメの意味に使うのは例によって日本人だけで古代中国でそんな意味はない。この字はウナギで、「鱺鯣」と2文字でいうこともある。そこでこの「鱺」の字を調べたら意味は「大ナマズ」だと。ウナギを意味する文字はまだあり 「鯣」と似たくさい字で「鰑」という字もあり、こっちはウナギの他にライギョの意味もある。ウナギの意味として「鱺なり」という引用がある。どうやら鱺は大ナマズだけでなくウナギの意味もあるらしい。「鰑」の字についてはさらに「鱺一作鱧或作鰑」とあり、鱺と鱧と鰑は同じ意味でどれを書いてもいいようだが、ウナギの意味の場合だけなのかウナギでも大ナマズでも共通なのか判然としない。しかしウナギの意味に限定しても「鱺鯣鰑鱧」の4文字はどれもイコールなのはわかった。ところで「鱧」の字には先程の見覚えがあるだろう、上述の「䱱」の字のところで「大鱧」のことだとあった。「鱧」の大きいのが「䱱」で、逆にいえば「䱱」の小さいのが「鱧」だといってる。「鱺鯣鰑鱧」の4字に共通した意味はウナギで、「鯷鮷鮧䱱」の4字に共通した意味はナマズ。そうしてみるとここでいってる「大小」の比較というのは「太いか細いか」ってことをいってるらしい。これつまり「エキ洲(沖縄を中心とする西南諸島)はウナギのように細く、テイ洲(日本列島)はナマズのように太い」ということを示しているのか、あるいはまた「大小」というのは「鯷=鮧」が「大」(東夷の島々、広義の夷洲だからエキ洲もテイ洲も含む)で、「鱧=鯣」が「小」(エキ洲、狭義の夷洲)だということか。

「亶洲」をめぐる論争史
では澶洲はどこなのかw
「夷洲」が沖縄だとすると(あるいは屋久島を含む西南諸島だとしてもよいが)、この場合「澶洲」がどうなるか。ここは呉の孫権がなんとしても探し出そうとして、発見できなかった将軍を二人も処刑したほどの重要地なのだが。古く明代には、朱元璋や陳仁錫によって夷洲も澶洲も日本のことだと考えられていた。漢書地理志に「夷洲、会稽海中にあり歳時を以て来たり貢見すと云ふ」とあり、三国志に「(倭は)その道里を計るにまさに会稽東冶の東に在り」といい、後漢書に「(澶洲の)人民時に会稽に至りて市す。会稽東冶県人、海に入りて流移し澶洲に至る者あり」と。つまり澶洲も倭も、会稽の東方の海上に位置する。どちらも歴史に特筆されるほどの規模をもった国なんだから、中国の歴代正史しか読んでない昔の中国人が「倭国も澶洲も結局同じもの」と考えるのは普通だろう。ただ澶洲のみならず夷洲までも日本のことだとすると、夷洲と澶洲それぞれ日本国内のどこなのかって問題も生ずる。
…ところが、1918年に市村瓚次郎が澶洲は今の海南島だと主張した。海南島が「珠崖郡」一つに統合される前は「珠崖郡・儋耳郡」に分かれていたので儋耳(たんじ)のタンが澶洲(たんしゅう)のタンだという。これに対し1925年、白鳥庫吉が種子島説をだした。三国志では海南島に当てはまる場合はちゃんと「珠崖・夷州(夷洲)」と書かれる例なのだし、漢代に郡があった海南島を発見できずに引き返すなんてのもありえないので、種子島説の方がましだ。ここまでが戦前の流れ。
戦後になって1955年に徐徳麟が、1969年に手塚隆義が、それぞれ澶洲日本説を出して昔ながらの伝統的な解釈が再評価されるかと思われたが、日本説はウケなかった。この場合、問題があるとすればなぜ倭国と明記されないのか、そしてなぜ倭国でなく澶洲という変わった名が新しく出てきたのか。この謎解きは後の方でやるとして、ともかく澶洲が倭国だとすると呉と魏の世界規模の外交戦がみえてくるが、後述するようにBC230年に呉が夷洲と澶洲に出兵したのは魏や蜀の異民族対策と連動したことで、東夷をめぐる魏と呉の世界戦略の対立の一環とみる説がまともだろう。だが、戦後まもない頃は、古代人の世界認識能力を矮小化してみる傾向が学界にもあって、世界戦略を展開するようなダイナミックなデカい話はウケず、古代は万事素朴で質素でしたぁーっていうちまちました歴史観がよしとされた。今でも一部の爺婆はこんな古代史像から抜け出せてないだろ。岡田英弘はルソン島説だがこれはもともと1977年の内田吟風の説(騎馬民族畑の先輩の説そのまま)。ルソン島説は、澶洲の字はセンとも読める(氵つけても無くてもタンとセンの両方の読みがある)のでルソンの「ソン」が澶洲(せんしゅう)のセンだっていうのかな、しかしルソン島説もまた魏と倭の関係を睨んだ呉の東方戦略の話とリンクしない。1984年に江向栄・夏応元が済州島説を出した。この後、1997年に許永璋がインドネシア説を出したがぱっとせず、しばらくの間、種子島説と済州島説は2大有力説であり続けた。その後、種子島のなんとか遺跡から3世紀の中国製の食器だかが出土したとかで、種子島説が一躍最有力説に躍り出たもよう。学界では今はもう「澶洲は種子島」ってことで確定らしい。
なのにWikipediaでは沖縄説が書かれている(ただし出典不明。木村政昭のことかな? 宜野湾市の北谷(ちゃたん)のタンか、恩納村の谷茶(たんちゃ)のタンだっていうのだが、この人は人類の発祥もビッグバーンも沖縄起源と言いかねない人なので以下ry)。このうち海南島説・ルソン島説・インドネシア説は「夷洲が台湾だ」という前提があると思われるので却下してよいが、種子島や済州島だったとしても沖縄を無視した格好になり、台湾との間があきすぎるので、木村政昭が沖縄説を言い出すのも、気持ちはわかる。だがこのブログでは夷洲が広義の夷洲(東夷の島々)と狭義の夷洲(ヤクまたはテイをさす)に分けてみたい。そうすると沖縄は狭義の夷洲のうちヤクに該当するので、澶洲のもっていき先は日本説・種子島説・済州島説しか残らない。種子島説と済州島説は澶洲のタンという音を地名で説明できるが、しかし、どちらも呉が必死になって探すような価値があるとは思えない。済州島説のすぐそばには韓国本土があり、種子島のすぐそばには九州本島がある。経済規模ではるかに大きな地域に隣接してるのに、どうして韓国や九州の情報がなくて済州島や種子島といった特定の小島の情報だけがはるばる伝わるのか? 人間と物資と情報の三者の流通として、そんなことありうるのか? だから普通に考えれば現代の学者よりも、夷洲も澶洲も日本のことだとごく自然に認識してた明代の朱元璋や陳仁錫のセンスの方がまともなんだよ。『隋書』のセンスも同じ。『隋書』倭国伝によると倭国に「秦王国」というのがあり(豊前国京都郡?)そこの人は(習俗や服装が?)中国と同じである、だから(倭国を)夷洲だとしているけど疑わしくそれが本当かどうか明らかにできない、とある。岩波文庫の注釈は「夷洲は台湾のことだからここで疑ってることは正しい」とまたしてもアホな注釈つけてるが、『隋書』が編まれたのは唐代で、その頃までは修史官に任ぜらるほどの文化人なら「夷洲」といえば倭国のことだと一般的に思われていた証拠だろこれ。『隋書』は疑ってるけど、疑った結果なにかが判明した様子もなく、「夷洲=倭国」という認識は「夷洲=日本」となって明代まで続いたわけだよ。
…というと、夷洲も澶洲もごっちゃに日本だっていうのがまともなのかよ、と言われるかもしれない。しかしだよ、もう一度「夷洲」という名をよく考えてみよう。前述の繰り返しになるがこれは「東夷の島」という普通名詞に限りなく近いニュアンス、語感をもつ。固有名詞らしく響かない。東シナ海に浮かぶ島なら、台湾も沖縄も日本も済州島もすべて含まれる。ただ、実際の庶民同士の民間交易では中国からみて自国に近い台湾や沖縄を指していることが多かったろう。そんなこた当たり前で『臨海水土志』の射程が短くても、もって異とするまでもなし。たまたま『臨海水土志』の夷洲が沖縄と台湾(後世の琉球の範囲)を指しているとしても、「そこもまた」夷洲なのである。なんら矛盾しないのだ。東鯷人も同じく、観念上は台湾人も沖縄人も日本人も済州島人も、みな東鯷人なのである。「東夷」なんだから。

◆予告編◆
だが、もちろん話はここで終わりではない。
澶洲が日本だとすると、なぜ『三国志』には澶洲は倭国だと明記されてないのか?
第一に、歴史に詳しい人なら、澶洲が出てくる3世紀には魏vs呉、倭の女王国vs男王国の外交戦があったことが何か関係してるんだろうと想像つくだろうし、第二に、澶洲には徐福伝説もついていて徐福のネタだけで膨大な議論があるw これらの諸問題をそれぞれバラバラに扱ってる書物やサイトはあるが、実は相互に密接にかかわっているのだ。
すべての謎解きは「沈没した神仙島の謎【中編】~魏呉蜀×「邪馬台国vs狗奴国」の外交戦~」に続くw

☆「日本」という国号の起源

2679年(令和元年)4月18日改稿
4月18日は「日本国号の日」smile.jpg
『日本書紀』が我が国の名を「日本」と書いているところ、『古事記』は「倭」と書いている。どちらもヤマトと訓むので、これは別の名ではなく単なる表記の違いにすぎないが、もとは倭と書いていたのをある時期から日本と書くようになり、さらにその後、読み方までニッポンまたはニホンと音読みするようになったというのは誰でも知ってるだろう。で、この日本という表記がいつ頃なぜ出てきたのかという問題は、古代史マニアなら誰でも自説をもっているぐらいポピュラーなネタで、インターネットには自称古代史研究家たちによる珍説奇説があふれかえっている。で、俺は学界の通説が8割ぐらい正しいと思っているが、2割ほどオリジナルの説ももっているので、今回はそれを披露したい。なぜって、今日はH28年4月18日、日本国号統一の日だから。明治以来、日本の国号は日本国、大日本国、日本帝国、大日本帝国などいろいろな言い方があったんだが、昭和11年(1936年)4月18日に当時の外務省は「大日本帝国」に統一した。肝心の「日本」の2文字が合っていればどれも問題なさそうであり、典型的なお役所仕事なのが明白だ。しかもこれは外務省の内規にすぎず法的根拠はなかったのに、一般には正式な決定であるかのように受け取られた。この背景には当時の世論とか空気、政府の思惑、その他いろんな事情があったんだが、『古事記』には関係ないのでこのブログではとりあえず無視する。4月18日が「日本国号の日」であることわかって頂ければ十分である。

「日本」と「倭」の関係についての諸説
まず、ネット上のものも含めて、九州王朝説、任那日本府説、物部氏説、天武天皇説、蝦夷地名説、百済別名説などがある。知ってる人には言わずもがなのことだが、これらの諸説に共通する前提として、『旧唐書』と『新唐書』がともににもともと倭国だったがそれとは別に日本という小国があったとしていて、『旧唐書』は日本が倭国を併合したとあり、『新唐書』は逆に倭国が日本を併合した時に日本の国名も採用したのだという。これをどう解釈するかで説がわかれる。

1)古田武彦の九州王朝説はもともと九州に倭国があったのだが白村江の戦いで滅亡し、最終的には今の関西にあった日本国に併合されたという説。これはネットでも人気のある説で、ネット上にはそのバリエーションもたくさんある。しかし有力な批判もたくさんあって、学界では相手にされてない。
2)任那日本府説は騎馬民族征服説で有名な江上波夫の説。任那(朝鮮の南部)に騎馬民族が作った国が日本で、その日本が倭国(日本列島)を征服したという説。任那日本府というのは日本書紀の造語であってそんな言葉はなくリアルタイムでは「任那倭宰」といっていたというので、この説も騎馬民族征服説ともども葬り去られて古いのだが、ネットでは時々この説の信者が現れる。
3)大和岩雄の天武天皇説は、壬申の乱で勝利した天武天皇が倭国から日本へ改名したのだという説。従って、この場合の、日本が倭国を併合したという話は、大海人皇子が率いる東国軍が弘文天皇をトップとする近江朝廷を滅ぼしたことに該当する。大和岩雄自身は珍説奇説を唱えることもあり、在野の学者だから学界の一般を代表するものではないが、670年から702年までの間で、国が真っ二つに分かれて戦うような大戦争といえば壬申の乱しかないので、「天武天皇が倭国から日本へ改名した」とまで言わずとも、日本が倭を併合したという話は壬申の乱のことを伝聞したものだろうという点だけは、大庭脩が指摘して以来、ほぼ学界の通説となっている。ただ、正式に日本に改名されたのは大宝律令(701年)で、という学者も多く、天武天皇が改名したというのは学界の定説にはなっていない。大宝律令説はギリギリまで遅めにみてるわけだが、なぜそこまで引っ張らねばならないのか、必然性が理解しにくい。ただの左翼根性じゃないのかと勘ぐりたくなる。大宝律令説への批判は後述するが、ともかく、天武三年(674年)三月七日には日本で始めて銀が産出したと対馬から報告があり、この銀をすべての天神地祇に献上し、官僚貴族たちにも下賜した。書紀では日本全体をさすヤマトは「日本」と書き、今の奈良県をさすヤマトは「倭国」と書き分けているのに、この条文では例外的に日本全体をさして「倭国」と書いている。これはこの時までは倭国と書いていたのをこの時に日本と改名したことの名残ではないか。天武十二年(683年)正月二日には三本足の雀が献上されこれを瑞祥として天武帝から長い詔勅が出され大宴会が催されている。大和岩雄は、改名した日付をこの天武三年(674年)三月七日か、同十二年(683年)正月二日のどちらかが「改名された日付」だとして、この2案に絞っていた。これは後に「禰軍墓誌」の発見によって決着する。
4)百済別名説は、倭国は百済の属国だという説が70年代から北朝鮮や韓国で流行していたが、平成23年(2011年)に発見された「禰軍墓誌」に日本という国名が書かれており、これが日本列島の国ではなく、百済の別名のように読めることから、前述の任那日本府説と似たような説を新たにつくることができる。つまり百済(=日本)が滅亡した時に倭国に逃げた亡命百済人が倭国を征服して日本国ができた、と。またこれとは無関係に、新羅にも日本という別名があったという説があり、新羅が倭国を征服して日本国を作ったというバリエーションもすぐできる。「禰軍墓誌」については後述する。

上記の四説は日本が倭国を併合したという『旧唐書』に従っている。これに対し『新唐書』のほうが正しいとして倭国が日本を征服したのだというのが下記の三説。

5)谷川健一の物部氏説では、神武天皇以前に饒速日命に始まる物部氏の勢力(王朝?)が関西を支配していて、大阪府の草香には太陽信仰の中心があって「日下の草香」(ひのもとのくさか)と呼ばれていたという。つまり『新唐書』の倭国が日本を併合したというのは神武東征のこととなる。しかし時期があわないし、草香を日下と書くのもここに日祀部(ひまつりべ)があったことで説明は十分に思える。この物部説も今では否定されている。
6)高橋富雄の蝦夷地名説は、坂上田村麻呂が東北の蝦夷の地の石碑に「日本中央」と書いた伝説その他の事例から東北を「日本」といっていたことがわかる。『日本書紀』が今の宮城県仙台平野を「日高見の国」といっていて、この日高見は日本と同義ではないかとし、「大祓詞」に天孫が「大日本日高見国」を治めるとあるのは日本一国の美称ではなくて、大日本(おほやまと=倭国=西日本)と日高見(=日本=蝦夷の地)を併称したものだという説。ただし倭国による日本の征服を斉明天皇の時の阿倍比羅夫による征夷としているのでこの説も時期があわない。後世、東北地方を日本と呼ぶようになった経緯については後述する。
7)前述の百済別名説を逆転したような話で、倭国百済合体説。亡命してきた百済王族から、天智天皇は百済王位の証である「大刀契」(だいとうけい)を献上され、ここに百済王をも兼ねる存在となり、旧来の倭国と百済とが合体して新しくできた国として日本を名乗ったのである、という説。岡田精司だったか誰か忘れたが以上のようなことをいっていた。ここで「禰軍墓誌」の誤読に基づいて、百済の別名が日本だったとすると、倭国が日本を吸収したというような理屈が成り立つ。

『新唐書』の説は後世の知識で辻褄合わせに書き直したものというのが通説で、『旧唐書』の方がオリジナルであるから、上記の三説はどちらも不可である。

「日本」に改名した時期の絞り込み
改名した時期についていうと『旧唐書』によって670年に唐に到着した遣唐使までは「倭」と自称していたことがわかる。また「日本からの使者」と自称した遣唐使の最初は粟田真人だという。彼は702年に唐に到着している。『旧唐書』日本伝では長安三年(AD703)としているが『旧唐書』武后本紀と『通典』がともに長安二年(AD702)としているので、703年説は誤記だろう。『続日本紀』によると確かに文武天皇大宝元年(AD701)に粟田真人(あはたのまひと)を遣唐使に任命、翌二年(AD702)に出航している。となると倭から日本への改号は、早くて670年、遅くて702年、その間の出来事であると絞られる。
後述の「禰軍墓誌」と『日本世記』も採用できるなら678年から686年頃までの間と、さらに絞れることになるがこれについては後述。これと別に岡田英弘は『三国史記』新羅本紀を盲信して日本への改号は670年のこととしているが、これは旧唐書の670年の記事と703年の記事の間に改号の話が書かれているので直前の670年の記事の続きだと誤読したもの、というのが通説であって『三国史記』の独自伝承などではない。岡田英弘はたいした根拠もあげず断言調で言う割りにこういうポカミス(?)が多いので要注意人物だ。これとも別に、702年に則天武后が日本と名付けたのだという説がある。唐の許し無しに勝手に改名できないはずだ、と。こういう人は、もし則天武后が認めなかったら倭国は日本への改名を中止したとでもいうのだろうか。702年は明らかに日本側からの自称であるが、日本側の自称を則天武后が認めたから則天武后が日本と名付けたことになるのだ、という理屈はおかしいし、反対されてそれを押し切って始めて自称したことになるとでもいうのだろうか…。日本の国内でいつ発表したかということとは無関係に、端的な事実として対中国外交で始めて「日本だ」と公式に伝えたのが702年であることにかわりはないが、それだけのことにすぎない。単なる情報認識を「許可」「容認」と自然に思い込んでしまう心理は相手に対する卑屈さ以外の何物でもなかろう。我々はニホンとよぶが英語圏でジャパン、中国でリーベン、韓国でイルボンとよぶのは各国が国内で勝手にやってることで、別に日本が許可するとかしないとかの問題ではない。高句麗が高麗と改名したのは450年頃で、高句麗からの国書もずっと「高麗」だったと思われるが、中国側は520年まで無視して「高句麗」と呼び続けていた。しかしそれで国交が揉めたわけではない。倭国が天子と自称しようが、天王あるいは天皇と自称しようが、向こうは勝手に「倭王」と言い直してくる。それは各国が勝手に自国の都合でやってることであり、それを、武力を用いても自国の論理を強要するか、喜んで相手の主張を受け入れるか、どっちつかずでスルーするかは、その時々の政治的な都合と力関係、エネルギー効率、特定目的意識などの諸要素で決まる。中国はどちらかというと異民族との国交を必要としている場合が多いので、相手の自称を認めないまでも、それを理由に揉め事を起こすぐらいなら無視することが多め。ちなみに『日本書紀』では南朝の宋も梁も一切その国号を認めず「呉国」(くれのくに)で押し通してる。南朝の国々の自称を日本は認めなかったことになるのかというと、そうではなく、単に日本国内での呼び方が「くれ」だっただけだろう。外交文書には当然相手の正式な国名を書くにしても、国内では日本語を使っているのであって「くれ」という日本語があるのだから、国内でわざわざ相手にあわせて宋だの梁だのと呼んであげなければならない理由はない。日本国内の日本人で、アメリカ合衆国を「ベイコク」といわずいちいち「ユナイテッド・ステーツ」といってるやつがいたらアホだろう。

「禰軍墓誌」の解釈
「禰軍墓誌」の一文を一部の人は「日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した」と訳してるが、その部分の原文は 「…于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅風谷遺甿負盤桃而阻固…」となっている。この原文みると「負」になってる字を、訳の方は「信」と読んでるのか? 「負う」とした方が意味は通るが。ともかくこれだと単に「百済の別名として」日本って言葉を使ってるだけで「百済にいた倭人」だけを「日本」といったという解釈はできない。日本とか扶桑とか、もともとは漠然と東のはてをさす架空の地名だった。だから日本とか扶桑という名で具体的にはどこをさしてるのかは文脈によってかわってくる。禰軍という人は高句麗・百済・新羅・唐・倭国が入り乱れた戦いの中で出世した人だから、その生涯を讃える墓誌には各国の名を書かざるを得ないんだが当時の国際情況は流動的で、唐が突然どの国と和親しその国と戦争するかわからない情況だった。だからあまり特定の国をやっつけたって自慢しにくいので各国の名を当時の架空の地名に置き換えて書いてる。この墓誌では百済とか倭国とかの正式な国名を言いたくないから、わざと架空の地名をもってきてボカして書いてる。事件レポートとかで「埼玉県の鈴木一郎さん31歳(仮名)」とかいう時の仮名のようなもの。でもこの文章よめば当時の人は何のことだかわかるようにはなってる。だから、扶桑とか日本とか風谷とか盤桃とか、ぜんぶ当時は正式な地名として使われてない言葉ばかり選んでるわけ。そうと気づけば、この墓誌に書かれている「日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ…」というのは、単に「百済の残党が倭国に逃げた」といってるに過ぎず、何の問題もなくすんなり解ける。事物の名を雅語に置き換えるのは漢文ではよくあることだ。当時はまだ日本も扶桑も、漠然と東の方にある国っていう意味しかないんだが、中国の古代神話では、扶桑の方がより東で、日本はその近く(手前側つまりちょい西)っていう設定に一応はなってる。だから、百済のことを日本、倭国のことを扶桑と表現してるわけ。従って、百済そのものの別名として日本という名が実際にあったわけではないし、まして百済在住の倭人集団を日本と呼んでいたということにもならない。逆にいうと、百済の別表現で日本という単語をもってこれたということは、この墓誌が書かれた678年(天武七年)の段階では当時まだ倭国は日本に改名していなかったということがわかる。改名済みだったら百済を差すのにわざわざ日本という単語は選ばなかったはずだから。

結論・改名の正確な時期(対中国)
つまり改名の時期は遣唐使の情報から「670年〜702年の間」とされてきたが「禰軍墓誌」のおかげで「678年〜702年」と絞られることになった。となると天武三年(674年)に倭国から日本に改名したということはありえないから、大和岩雄のもう一つの候補である天武十二年(683年)説の方が正しいことになる。これに対して、前述の701年の大宝律令説もあるが、これはダメだ。『三国史記』新羅本紀の孝昭王七年(698年)には「日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す」とあるからすでに日本になっている。また『日本書紀』に引用されて書物に『日本世記』という書がある。天武朝の末頃(686年)に編纂されたものだから、その頃には日本になっていたのがわかる。日本書紀は倭の字をすべて日本に書き換えているが、書物の題名まで書き換えることは当時も歴史の常道としてないことなのだ。また天武十年(681年)の飛鳥浄御原令で日本になったとの説もあるが、この年は律令の編纂を命令した年であって完成した年ではない。大宝律令説もそうだが、国名変更を必ずしも律令の制定と絡めて考えなければならない必然性はない。国名は所詮は地名であって法ではなく、律令は王朝を規定するものではなく王朝が律令を規定するのである。王朝=天子は法の上に立つ。国号=「朝号」の改定を律令と絡めようというのはよほど年代推定の手がかり探しに窮しているのだろうが、大和岩雄のように天武紀をよく読みこめば、不自然な(理由の不明瞭な)宴会が何度か開かれており、背後の政局がいろいろ推察されるケースがある。宴会の理由と思しき瑞祥なども三本足の鳥など「日本」という国号と関係の深いものが出てくることがある。上限は「禰軍墓誌」によって678年、下限は『日本世記』によって686年。その間の候補として681年説(飛鳥浄御原令説)と683年説(大和岩雄)があるが、前者はすでに述べたように無理。670年説(岡田英弘)・674年説(大和岩雄)・701年説(大宝律令説)・702年説(武后命名説)は皆はずれる。

改名の理由(…&本当に改名だったのか?)
天武天皇が改名したといっても、前述の通り、表記を変えただけで読みは一貫してヤマトなのだから、国内的には国名を変更してはいないともいえる。ただ、書かれた文字がすべてである中国人に向けてのみ改名しているのだ。これは白村江の戦いで負けた前政権(倭国)と現在の天武政権とは別の国ですよ、というアピールである可能性は高いとは思うが、そんなコスいやり方が通用するのかというツッコミも、言われてみれば反論しにくいが、壬申の乱というのは関ヶ原の戦いと戊辰戦争をあわせたような、史上最大の大戦争だったので、それを経験した当事者が王朝交代を気取ってみせても文句を言われる筋合いはないって気分もわかるんで、この時期に国名表記をかえることになった理由には格別疑問は残らない。天武天皇が改名した理由についていろんな人がいろんなことを言ってるが、これ以外の理由はどれもこれも過大に評価してはならない。例えば、蘇我氏についても宗賀・巷我・蘇賀など様々にかかれたように、当時は発音=読みが「名前」なのであって漢字表記はなんでもよかった。倭だろうが日本だろうが所詮「当て字」なのであって、国名はヤマトで何も変わりないわけで、国内向けとしてはインパクトはかなり弱かったろう。それだけでなく、後述のように、日本と書いてヤマトと読むこと自体は、それまでも公式・正式な書き方とされてなかっただけで、そういう書き方自体はもっと前からあったのだとしたら、なおさら驚きのない話だったろう。
また「改名」ではなく「表記方法の変更」だとわかれば、なぜまだ倭国だったはずの天智天皇以前までもさかのぼって「日本」と書いているのかも理解できる。これは実は高句麗にも前例があり、前述の通り450年頃に「高麗」と改名したのは国名の変更ではなく、これもただの表記の変更(ただし中国に向けてのみ「改名」)で、自国語での自称は「コマ」だったと思われる。

第2章(前編)対中国と対朝鮮で時期が異なる説
ところで、新表記を決めるにあたって「日本」以外にも候補はいくつもありえたはずで、後世に日本の別名としてあげられた中国の神話上の地名としては日本の他にも「日下」「日域」「日東」「扶桑」「扶木」「若木国」「蓬莱」「方丈」「瀛洲」「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「烏卯国」「阿母郷」等がある。それらの中からなぜ「日本」が選ばれたのかという問題はある。おそらく正式な名称ではないながらも、倭国の別名として日本という名は並行して使われたのていたからではないか。これは何もわたし個人の説ではなく、本居宣長は中国に対して日本を使うより前に、中国には倭と称するが三韓(朝鮮)諸国には日本と称していた時期があったとしている。宣長は、大化元年(645年)七月に高句麗と百済に下賜した詔書に「明神御宇日本天皇」と書かれていることから、対中国では702年の遣唐使から日本という名を使ったが、三韓(朝鮮)諸国に対してはそれ以前から日本を使っていたのではないかと考えた。現在ではこの部分の「日本」は『日本書紀』が書き換えたものとして宣長の説は否定されているが、個人的には宣長の方が正しいのではないかと思う。なぜか。書紀に引用された百済三書のうち『百済記』と『百済新撰』は倭と書いているのに『百済本記』だけが日本になっている。書紀が一律に日本に書き換えたというならなぜ『百済記』と『百済新撰』は倭のままなのか説明がつかない。そこで小林敏男は、日本という名は「百済から倭国を呼ぶ表記」として成立し、国号として正式に採用される以前から、ヤマトを日本と書く行為が流行していたのではないかと推測している。このことは軽く流してはならない。これは事実上、宣長説の復権だからだ。
さてそこで、百済三書ではいつまで倭で、いつから日本になっているのかを調べると、武烈四年(502年)に百済の昆支王子(こんきせしむ)が倭国にやってきたという『百済新撰』の記事が「倭」の最後で、継体三年(509年)に久羅麻致支弥(くらまちきみ)が日本から百済に派遣されてきたという『百済本記』の記事が「日本」の初出だ。さすれば「502年〜509年」の間に倭から日本への改名があったことがわかる。しかしこの時期に国名をかえねばならないような特別な理由として一体なにがあったのだろうか?

第2章(中編)「于山国」について
この頃、新羅は現在の鬱陵島にあたる「于山国」(うさんこく)を亡ぼして併合している。
『三国史記』新羅本紀によると、新羅は503年にそれまで様々に書かれていた国名を「新羅」に統一し、尼師今(にしきん)という君号を「国王」に変更した。505年には悉直国(しっちょくこく)を併合して悉直州(日本海沿岸地方)を置き、異斯夫(ゐしふ)という臣下を悉直州の軍主(地方長官)に任命。512年には異斯夫は何瑟羅州(かしらしゅう)の軍主となるが、悉直州も何瑟羅州も同じものの別名で、ただ州治所が悉直(今の江原道三陟市)から何瑟羅(今の江原道江陵市)に遷ったため州名もそれに応じて変わっただけのようだ。この年、異斯夫は現在の鬱陵島にあたる「于山国」を攻めて服属させたといい、異斯夫列伝にも同じことが書かれているが、これがおかしい。鬱陵島の対岸の三陟にいた時は何もなく、北に遠ざかった江陵に遷ってから島を攻めたというのは不自然だ。原資料には何瑟羅州の軍主になった時とあったために編纂者の金富軾は512年のことと判断したのだろうが、州の治所が移転しただけなのにまるで別の州の軍主に転任したかのような書き方になってるのは、悉直州と何瑟羅州が同じ州だと知らない者が誤認に基づいて書いた原資料を、金富軾がそのまま載せているのだ。同じ州の軍主なのだから異斯夫は2回ではなく1回しか軍主になっていない。軍主になった時に于山国を服属させたというのは、従って実は512年ではなく505年のことなのである。
この「于山国」だが、毛利康二は『梁書』にでてくる「扶桑国」とはこの于山国であることを詳細に論証している(その詳細は面倒なので引用しないが別の機会に詳しくやるかもやらないかも)。新羅に征服される前の于山国は仏教の栄えた独立王国として中国にもその名が知られていたのである。毛利康二は『三国遺事』にでてくる延烏郎(えんうろう)と細烏女(さいうじょ)が日本の国王になったという話に出てくる日本とは、日本列島の倭国とは関係なくて、この鬱陵島のことだったというが賛成できない。『三国遺事』はかなり後世の書物だから、その日本とは日本列島の日本(かつての倭国)のことと考えるのが普通だろう。ただ、延烏郎と細烏女の伝説なぞ持ち出さずとも、扶桑というのはもともと中国の神話にでてくる架空の地名を借りたもので、現地の土着語ではないし、鬱陵島の本来の地名でもない。そして日本というのも元は中国の神話上の地名で、東をはてをさす漠然とした言葉だったという点では、扶桑の類語というか、ほぼ同義語、同語なのであり、于山国(鬱陵島)には扶桑国の他に「日本国」という別名もあっただろうことは容易に想定できる。そして、扶桑にしろ日本にしろ、どちらも、後年倭国がそう呼ばれることになった名でもある。これは偶然だろうか。前述の、百済が倭から日本へ呼び名を変えた時期(502年〜509年)に、于山国が新羅に征服された505年はまさに含まれているではないか。
『日本書紀』雄略二十二年に浦島子が蓬莱山に行った話がでている。『丹後国風土記』では蓬山になっていてこちらが正しく、書紀が蓬莱山と書くのは蓬山を蓬莱山の略記だと誤解したからだが、蓬は扶桑の「扶」と音通、蓬莱山の山は于山国の「山」で、蓬山=扶桑=于山はいずれもフサンの音写である。鬱陵島の扶桑国は中国にまで有名だったのだから、鬱陵島に独立国があることは倭国にも知られていて当然だろう。それが浦島伝説の複数の元ネタのうちの一つなのである。

第2章(後編)倭国から日本へ改名した時期(対三韓)
毛利康二は平安時代にも鬱陵島の住民が山陰地方に流れついた例をあげているから、于山国が新羅に滅ぼされた時、倭国に逃げてきた者もそれなりにいたのではないか。倭は新羅を属国とみなしていることは于山国にも知られていたろうが、仮に知らなかったとしても、彼らが倭王(天皇)に助けを求めることはありうる。彼らが第二の故郷と定めた倭国に、改めて扶桑または日本という名をつけたのではないか。そもそも扶桑も日本も、于山国の本来の名ではなく、中国の神話にでてくる仮想上の地名であり、東のはてを漠然とさしたものである。しかしその名を借りた国家は新羅に滅ぼされてなくなった上、倭国は鬱陵島よりも東へと広がっているのだから、むしろ倭国のほうが扶桑や日本の名にふさわしい。ただし、その時には扶桑の名は選ばれず、日本という名だけが採用された。そのわけは、扶桑国がすでに仏教の栄えた国としてだけでなくその他の特殊な文化も含めて中国に有名になっていたので、現実の倭国とのイメージのギャップが大きかったためと思う。我が国の別名として扶桑が使われたのは三百年以上あとの貞観元年(859年)のことで、この頃は倭国とは別に扶桑国が存在したこともほぼ忘れられていたのである。
なお、新羅も于山国を併合したことで扶桑もしくは日本を名乗る資格を得たわけで、そこで国名改定の議が起こった。『三国史記』新羅本紀によると、新羅は503年にそれまで様々に書かれていた国名を「新羅」に統一し、尼師今という君号を「国王」に変更したというが、この記事はすこぶる怪しい。考古学的に判明している事実としては、この後も新羅は長いこと寐錦王と葛文王の二重王制であり、まだ「国王」制ではなかったのである。503年の事実はそれまでの寐錦を寐錦王、葛文を葛文王に改めたというだけであり、君号改定の記事だからついでに国名改定の件も同記事に書かれただけだろう。国名改定の方は実際には2年後の505年の話なのだ。つまり于山国を併合したからこそ国名改定の議題が生じたわけで、今まで何の支障もなかったのに、この時になって訳もなく国名改定の議がでてきたとしたらおかしいだろう。しかし倭国が日本と改めることになったので、新羅には扶桑も日本も使わせないことになったのだろう。「いろいろな言い方があったのを新羅という表記に統一した」というのは、その真相は国名変更が沙汰止みになって「新羅」に固定させられたということなのである。むろん、とはいっても非公式な私称としては稀に使われた。唐の頃になってもまだ新羅の別名として日本が使われることがあったのはこの名残だろう。ちなみに『日本書紀』の編年では505年は武烈天皇七年にあたるが、武烈天皇は実際はもっと前の人で、この頃はとっくに継体天皇の時代になっていたと思われる。

第2章(補足)「于山国」はもとから新羅領だった?
ところで、新羅が于山国を勝手に征伐すると、それを口実に倭国が干渉してくる恐れがあったはずだ。現に、524年に新羅が金官(そなら、今の金海)と喙己呑(とくことん、今の慶山)という2ヶ国を併合した時は、日本は新羅を成敗するため6万もの大軍を派兵して任那が大騒ぎになったことがある(この時の将軍が近江臣毛野)。鬱陵島は任那にはふくまれないが、理屈はなんとでもつく。当時の国際社会は現代と違って、「たとえ国力に大差があっても独立国ならお互いに対等だという建前」が存在しない。「罪もない于山国に攻め入るとは極悪非道、よって悪を糺すための正義の軍だ」と称して、高句麗や倭国や百済が攻め入ってこないとも限らない。通常ならそのはずなのだが、今回はそういう情況が見あたらない。実は、于山国はもともと新羅の一部だという認識が、五世紀の初めぐらいから倭国にも高句麗にも共有されていたのではないかと思われるのだ。それはなぜか。
神話上の樹木である「扶桑樹」が生えているという空想上の漠然とした地名だった「扶桑国」がにわかに具体性を帯びてきたのは前漢の頃からだった。漠たる神話に尾ひれがついて具体化するのはよくある話ではあるが、この前漢の頃というのは漢の武帝が朝鮮を併合して楽浪・玄菟・臨屯・真番の四郡を置いた時代でもある。このうち東経で最も東なのが今の朝鮮半島の江原道にあった臨屯郡でその郡治所のあった県を「東暆県」といい、日本海に望む今の江陵市にあった。東暆とは「東を見る」という意味で、江陵から日本海を渡って東へいけば鬱陵島がある。この鬱陵島の遠望が、中国の文献にみられる「扶桑」の描写の元ネタになったことを毛利康二は発見している。陸地ならば山を越え谷を渡って万里を行軍してきて朝鮮半島を制圧した漢帝国も、沿岸航行ができない四方絶海の孤島となると、わずか100kmの海でも手が出なかったとみえる。この行きたくても常人には手の届かないところが、仙人の住む島というイメージに合致もしていただろう。江原道は濊(わい)という民族の居住地で、彼らは統一政権を作らず集落に分かれたまま、ある時は高句麗、またある時は中国の楽浪郡に服属していた。鬱陵島も初期の住民はこの濊人で、本土の濊人と同じく初期には高句麗の属領だったのだろう。
ところが五世紀になってから新羅の内紛があり、それには高句麗がかかわっていた(※本当はこっから先が面白いのだが、続きは後日執筆予定)


おまけ集

おまけ1東北の「日本」について
坂上田村麻呂が奥州に攻め入った時、矢尻で「日本中央」と彫り込んだ石碑があったという。偽作説もあるが昭和24年(1949年)に青森県東北町から出土したものが有名である。あるいは源義経が奥州逗留期という説もあるが、どちらも誤りで正しくは弘仁二年(811年)の文屋綿麻呂のことである。室町時代には、津軽の武将安藤康季が後花園天皇に「奥州十三湊日之本将軍」と名乗った例がある。安土桃山時代には豊臣秀吉の手紙の中で、奥羽をさして「日本」と呼んでいる。
以上のように東北地方を日本という理由だが、東北をさす場合の日本は必ず「ヒノモト」と読み、ニホンでもヤマトでもない。単に東方を意味する言葉であることがわかるが、よりによってこんな紛らわしい言葉がなぜでてきたのか。
おそらくこの起源は、上記のように弘仁二年(811年)の文屋綿麻呂の「日本中央」だろう。喜田貞吉は樺太や千島列島まで含めると、この石碑が出土した青森県東北町がちょうど日本列島の中心となることを指摘している。つまり文屋綿麻呂が彫りつけた「日本中心」とは「ヒノモト・モナカ」ではなく「ヤマト・モナカ」の意味だったことがわかる。この時点では、日本と書けばヤマトのことであって、まだ東北を日本(ひのもと)という習慣は生まれてなかった。しかしその後、この石碑が「つぼのいしぶみ」として有名な伝説になるとともに、日本列島の地形に関する知識も失われていき「日本中央」が蝦夷の地の中央の意味に誤解されるようになったのだろう。このことから奥羽の別名としての日本(ひのもと)が生まれた。

おまけ2「大和」という表記の起源
(※この文章はこちらに移動しました→「継体天皇にはなぜ物語がないのか」)

おまけ3「倭」の字は「于」だった?
その他、「倭」という漢字の起源や由来についても、通説とは少しだけ異なる自説があるのだが、『三国志』にでてくる「汙人国」を『後漢書』は「倭人国」と書いているところから、汙と倭は同音か同義であるとわかる。汙の字を「濊」(わい)のことだとする説もあるが、三世紀には倭と濊は別民族になっていたがそれでも言語系統はかなり近かった。さらに古くは倭も濊も同一民族だったのだろう。倭の字は周王朝の始め頃までしか遡れないが、この汙の字が倭と同字だとすると、古く夏王朝の時代に、「于夷」という民族がいたという。他に畎夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷がいてこれらをまとめて九夷といった。畎夷は「犬戎」、白夷・赤夷は「白狄・赤狄」、風夷は山東半島の風姓の諸国、黄夷・陽夷は長江流域の小国、これらはそれぞれ後世の春秋時代の諸民族にあてはめが可能である。このうちの于夷が後の倭人なのであろう。ここまでは似たようなことをいってる人が他にもいるのだが、この「于」は何を意味しているのか。おそらく音写だろうが、古い発音はなんだったのか。長沢和俊『シルクロード』だったか岩村忍『中央アジアの歴史』だったか忘れたが(どちらも講談社学術文庫)、中央アジアのホータンは前漢の頃までは「于闐」(うてん)と書かれており、この漢字で書かれた地名のさらに古い発音は、おそらく[yu-tu-vi(bi?)]だったろうと推定されるという。とすると、vi(bi?)の部分がなんだかよくわからんが、于が[yu]で、闐が[tu-?]だろう。于の字は[yu]。ヤマトの頭音と[y]が通じる。臣瓚だか如淳だか師古だか忘れたが「倭の音は一戈の反」(「一」「戈」の反切)という。上古音の推定は諸説あってあれだが一は[yit]または[iet]、戈は[kaj]または[kuar]だから反切するとヤマトの「ヤ」に限りなく近い。そうすると倭面土もヤマトと読みたくなるがこれは岡田英弘がいうように国王の2文字を誤って重ね書きした「倭国王国王」がさらに誤記されて「倭面土国王」になったものというのが正しそう。であっても倭の音が初期には「ヤ」で、ヤマトからきている可能性は否定できない。ヤマトって言葉がそんな古い時代からあったのか、なかったのか、それはわからないが、三千年もの間に発音が変化して、于と倭はぜんぜん別の音になってしまったが、もともとは同じ音だったのである。

おまけ4「ヤマト」の語源
(※この文章はこちらに移動しました→「懿徳天皇」)

・「天皇」という君号の起源(中編)

2679年(H31年=新年号元年)1月30日(水)改稿
※「天皇」という君号の起源(前編)からの続きです

天武帝が「天皇」と称した理由
では天武天皇はなぜ「天皇」を始めたのか? 天武天皇も即位した当初は、天智天皇(もし大友皇子が即位していたら弘文天皇も)のように「天子」と「皇帝」の二つで回していたはずである。通説にいうとおり、唐の高宗が674年に天皇と称したのを真似たのだろうが、ここで問題は三つある。
第一、高宗と天武帝、どちらが先か。仮に高宗が先だとして、天武帝はそれを知った上でそれを真似たのか、知らずに独自に考えたことなのか。
第二、天武帝はなぜ天子や皇帝ではダメで、新たに天皇と称する必要があったのか。
第三、そもそも天皇が三皇の一つの「天皇」でなく「天皇大帝」のことならば、天武帝と無関係に、唐の高宗自身も天皇と称するのはおかしいことになる。なぜ高宗は天皇と称したのか。
第一の問題については、当時は唐と新羅が交戦中で、日本と唐の往来も断絶しがちであり、天武帝が高宗の天皇号を知っていた可能性はない、という説がネット上にあったが、そんなことはない。『三国史記』新羅本紀には675年の二月に紛争があって唐の高宗と新羅王がやりとりをしているから、高宗からの書状には「天皇」とあったはずであり、それについての説明も使者からうけたろう。そして『日本書紀』では同年の二月と三月、続けて新羅からの使者がきているから、そこで最新情報は得られた。そんな細かいことをいわずとも、まだ局地戦の続いている不安定な時期だからこそ各国とも情報網をはりめぐらし、民間のパイプや情報収集工作は常時怠りなかったはずであり、公式の使者の交換が書かれてないから情報が途絶していたはずだなんてのは馬鹿げている。そこで、なぜ高宗が天皇などというきいたこともない珍妙な称号を始めたのか、その経緯も日本側は詳細に知ったに違いない。当時は君主の称号は重大で、格上の国も格下の国も互いに相手の君号に関心を寄せざるを得なかったろうから当然である。で、天武帝の立場として普通に考えると天子と皇帝でまったく問題はなく、新たな称号など必要ないように思える。従って、天武帝が独自に「天皇」号を考えだすというのは、まぁ人間の趣味はクリエイティブなものだから絶対にありえないとはいえないわけだが、やはり必然性には乏しいと言わざるを得ない。
第二の問題については、今答えてしまったが、天武帝の立場として普通に考えると天子と皇帝でまったく問題はなく、新たな称号など必要ない。従って、もし高宗の「天皇」号の事情を聞かなければ、日本天皇は誕生せず、この先もずっと天子と皇帝だけで後世までいった可能性が高い。これらは「普通に考えて」のことであるが、現実はそうならなかったのだから、ここでは普通でないことが起こっているのである。普通でないこととは、言い換えれば「特殊なこと」である。つまり、高宗の「天皇」号の特殊な事情が、天武天皇の特殊な立場にとって極めて都合のよいものだったのである。それは何か。その答えが第三の問題の回答ともなる。

唐の高宗が「天皇」と称した経緯
高宗の妃の一人、則天武后ははじめはおとなしくしていて高宗のお気に入りとなり、多くの妃たちの中から順当に昇格して、655年(日本では斉明天皇元年)には皇后まで登りつめた。ひじょうに知能が高く策略家でもあったので政治にも口を出すようになり、次第に高宗以上の権勢を振るい出した。660年に新羅とくんで百済を滅ぼしたのも、663年に白村江の戦いで倭国を破ったのも則天武后だった。政権を完全に掌握した武后に恐怖を覚えた高宗は、664年に武后を排斥しようとしたが武后に察知され失敗、高宗は皇帝とは名ばかりの籠の鳥も同然となる。こうした中で674年、高宗は皇帝から「天皇」へ、武后は皇后から「天后」へと称号を改め、二人を「二聖」とよばせた。この称号改定は則天武后の都合によるもので、高宗は強要されたのである。ちなみにこの頃はすでに『晋書』はできており、北極星を「天皇大帝」という名でよぶ風習はできていた。高宗は後に死没した後で「天皇大帝」という諡号を贈られてはいるが、ここで天皇と称した時の段階では天皇大帝との関係はない。また天后は媽祖(まそ)という道教の女神の称号にもなっているが、媽祖信仰は宋代以降に出てきたものだからこの時代にはまだ無い。皇后という称号は「皇」帝の「后」の意味だから、皇帝の臣下にすぎず、どうしても皇后では皇帝より格下である、そこで、夫婦が対等となる称号として考えだされたのが「天皇と天后」だった。この称号を解読すると、「帝」という絶対者を連想させる文字を外し、三皇(天皇・地皇・泰皇)の中では泰皇には劣る(つまり一番ではない)天皇を出して、その配偶には天の字を共通させて天后としている。皇帝と皇后も皇の字が共通しているが、皇帝が三皇五帝の略なのに対し、皇后の皇は后の形容辞(皇帝のものという意味)だからぜんぜん対象ではない。しかし天后は新規につくられた言葉だから自然に読めば「天皇の后」という意味に読む人間はいない。「天皇と天后」の字づらは「天子と天女」または「天人・天女」に似ている。天人・天女ならば対等だが、天子と天女では、漢の武帝と西王母の伝説も連想され、天女の方が上にも感じる。天后という言葉は後世、道教で最も人気の女神「媽祖」の称号にもなっているように、女神クラスのニュアンスがあり、対等の配偶は「天帝」となろう(この時代、伝説時代の君主である五帝を「五人帝」として、自然界や人間の運命を支配する神々を「五天帝」という言い方があった)。要するに「天帝・天后」は神なのであるが天皇や皇帝は人君の称号にすぎない。ここに則天武后の意図があり、高宗の天皇号は最初から天后とセットで意味をもつのである。つまり「形式上は対等だが実質的には奥さんの方が上」というイメージを打ち出すことが目的の称号なのである。
天后は天皇の格下の存在ではなく、理屈の上では共同統治者なのであるが、実際には則天武后の独裁で、高宗はお飾りだった。しかし唐王朝からの対外的な公式の説明としては当然ながら「則天武后が聡明であるゆえに対等の共同統治者とされた」ということだけで、スキャンダラスな情報は排除されたろう。

天武帝の微妙な立場
天武帝は壬申の乱で勝利したが、その正当性は微妙だった。江戸時代の水戸学者たちの中でも、大友皇子が天智天皇の正統な後継者で、大海人皇子は謀反して天智系から皇位を奪い取ったのではないかという「天武簒奪論」がさかんに唱えられた。『日本書紀』にも天武帝を誹謗したとして何人もの人間が流刑になったりしており、当時から天武帝に批判的な人々が多かったことがわかる。ところで、壬申の乱より以前から、大海人皇子は兄である天智天皇の娘(つまり自分からは姪)を四人も妃にしていた。これは傍系から入った仁賢天皇・武烈天皇が雄略王朝の女性を皇后にしたり、継体天皇が仁賢天皇の皇女を皇后にしたのと同じような効果をもつ。従って、もしその四人のうち誰かが産んだ皇子が将来あとを継いでいけば、天武系は女系を通じて天智天皇の子孫ということにもなり、天武帝の正統性を大きく裏付けることになる。…とまでいったら行き過ぎかもしれないが、少なくとも露骨な簒奪論を抑制する効果をもつ。しかもこの四人のうちの一人、鸕野讚良姫(のちの持統天皇)は、聡明で活発、壬申の乱の軍中にも同行して作戦会議にも参加して、大海人皇子を補佐したほどで、天武帝の即位後は政治の場にも同席して諸事を捌き、事実上、天武帝の共同統治者であった。天智天皇の娘が実際に実権を握っているということ自体が、天武簒奪論を弱め、さらには天武系の正統性への疑義を封ずる傾向に作用したことはもちろんだろう。つまり、天武帝にとって、鸕野讚良姫の存在は自身の正統性を保証するもので何よりも大切な宝だった。
こういう情況にあって、唐からもたらされた情報は、唐では皇帝と皇后の称号をかえて、夫婦対等な「天皇と天后」となったというのだ。天武帝は「コレダ!」と閃いたに違いない。鸕野讚良姫を優遇して自分の正統性を明示するのにこれ以上の名案はない。天智天皇の娘と自分は対等なのであり、けして天智系を下に置いているのではない、という最高のアピールではないか。
この情報は天武四年(675年)の二月と三月にやってきた新羅の使いのいずれかからもたらされ、天武帝と鸕野讚良姫はさっそく夫婦して称号改定の相談を始めただろう。翌年の正月元旦、意味不明なイベントが書かれている。朝廷の官僚貴族たちに、それぞれの官位に応じて大規模な下賜品つまり天皇皇后からの大プレゼント大会があり、その日のうちに大宴会が開かれた。続いて同月十六日には射的大会が催され(今でいえばビンゴ大会みたいなこと)、同日にまた宴会。『類聚国史』によるとこの時の宴会は日本最初の「踏歌節会」(とうかせちえ)だったという。踏歌というのは後には日本化して変形していったが、当時は中国伝来の歌舞で足を踏み鳴らして群舞するもの。十六日という日付は満月を待ったものだろう。つまり外庭で夜まで賑やかに歌舞い踊っての大宴会だったと思われる。これらの大宴会は何のためとも書かれてないが、おそらくこの元旦で君号改定が発表され、天武帝は始めて「天皇」、鸕野讚良姫は「天后」となった。そのお披露目パーティーなのである。ではなぜ現在残っている『日本書紀』にはそのことが書かれず、なんのための宴会だかわからなくなっているのか。もちろん都合の悪いところを後から削除したからだが、では、これのどこが都合悪かったのか。
かるた_持統天皇春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山

持統天皇の身のふりと則天武后の失脚
天武十五年(686年)天武天皇崩御。しかし皇太子の草壁皇子は体が弱く、すぐに即位できる情況ではなかったので、「天后」鸕野讚良姫が称制することになった。称制というのはわかりやすくいうと摂政みたいなこと。これより3年前の683年、唐の高宗が没し、則天武后は高宗に「天皇大帝」という諡号をつけた。これはよく考慮したものではなくて、天皇から連想される既存の単語を適当につけただけの投げやりな諡号である。次の天子として中宗を、ついでその弟の睿宗を擁立していた。二人とも則天武后の実の息子だが、二人とも何の実権もない傀儡だった。この頃の唐の君号がどうなっていたのか不鮮明でよくわからないが、おそらく則天武后は「天后」の地位に留まり、中宗や睿宗には「皇帝」号も「天皇」号を許さず、「天子」とのみ称させていたのではないか。「天皇・天后・天子」と並べると「父・母・子」のセットに見えてしまい、天子は、いかにも天后より格下の扱いのような印象になる。この頃はまだ則天武后が失脚する前だから則天武后の実態は日本に伝わっておらず、持統「天后」は則天武后に倣って、夫の亡き後、息子の保護者たらんとしていたのだろう。689年、草壁皇子が薨去し、やむなく持統「天后」は草壁皇子の忘れ形見、自分からは孫にあたる軽皇子(のちの文武天皇)が成長するまでということで翌年の正月に即位して持統天皇となった。
天武天皇自身の感覚としては「天皇と天后」というセットの称号は、歴代からみればイレギュラーなものであり、あくまで自分の特殊事情に基づくもので、子孫代々継承するような趣旨の称号ではないと考えていただろう。それをわかっているからこそ鸕野讚良姫は、草壁皇子が薨去した後、即位にあたって天皇ではなく、則天武后に倣って「天后」の表記のままスメラミコトに即位したのであろう。あるいは人はこういうかも知れない、最愛の夫の事業を継承するという意味を込めてここは一つ天后ではなく「天皇」に即位したのではないか、と。それもありうるが、自分が夫に成りかわるというのは何か違うのではないか。草壁皇子にかわって軽皇子を「天皇」にすることが目的であって自分がなることが最終目的ではない。最愛の夫は「天皇」と完全に同格の「天后」という称号を残してくれたのだから、これに乗らないでどうする。
持統天后の即位に影響されたわけではあるまいが、同年九月に則天武后は息子の睿宗を廃位して、自分が天子の位につき、唐王朝を「周」と改名した。つまり李氏から武氏への易姓革命である。しかしこのニュースを日本側は大スキャンダルとは受け取らなかったと思われる。これまでずっと則天武后は素晴らしい女性という大本営発表みたいな話しか出てなかったろうし、その上、新王朝の建国だから中国からも公式には良い話が流れてきたはずである。たしかに易姓革命は衝撃的だが、易姓革命には「禅譲」と「放伐」の2種類あり、前者の場合は譲った方も譲られた方も立派な人って建前だし、中国では革命も普通だってのは日本人も知っているし、国柄が違うんだからまぁそんなもんだろうと気にしなかったのではないか。実際そのへんの反応が何も伝わってないのは、意図的に隠されたわけではなく、当時の人もリアクションに困惑したのだろう。ちなみに前述のとおり、大事件の情報はどうしても入ってくるもので、則天武后の簒奪を、702年の遣唐使まで日本人は知らなかったという説はありえない。むろん公式には知らなかった、聞いてないというふりをすることは政治的な行動としてありうるが、それを真に受けるのはどうかと思われる。
天智天皇の娘である持統天后がもし則天武后と同じことをするなら、天智天皇の皇子たち(自分の兄弟)を優遇し、仮令え自分が産んだ子でも天武帝の皇子は排斥する、ということになったはずだが、持統天后はそうせず、697年に草壁皇子の子である文武天皇に譲位した。今回の中国の例では李氏と武氏は別の一族だが、日本では天智と天武は兄弟であるばかりかお互いに近親婚だらけなので、肉親同士の分裂が起こった場合でも中国とはかなり事情が違う。譲位後の天后は「太后」ということもできたろうが、おそらく訓読みをオホキサキか過去の皇極天皇に倣ってスメミオヤノミコトにかえて、表記は天后のままだったろう。天武天皇と天后は共同統治者として同時並立していたのだから、天皇が天武から文武に変わっただけで天后は形式上そのままで差し支えない。また持統天后自身もこの称号に愛着あったろう。
さて、文武天皇が即位するにあたって、この段階ではまだ、称号は天皇を使わず、天子と皇帝だけで間に合わすという選択も当然ありえたと思われるが、実際には「天皇」が採択された。これは持統天后の意図が働いていたのではないか。我が孫は最愛の夫の継承者であり、そういう者にしか「天皇」という称号は許さない。持統天后の脳内の決意としては「天皇」とは夫天武と我れ持統の両者の血を受け継ぐ者という意味なのであり、文武天皇に「天皇」を採択させたのは、皇位は永久に草壁皇子の系統に限るという宣言なのである。ただ、そうすると、称徳天皇で「天皇」は終わったはずで光仁天皇からは「天子」と「皇帝」の二本立てに戻らないとおかしいが、なぜそうならなかったのかについては後述する。
ともかく、天武帝個人のプライベートな称号だった「天皇」が(草壁系の皇族に限るとはいえ)代々の日本国君主の君号として確定したのは文武天皇の即位の697年からなのである。
701年に大宝律令ができて律令国家の面目も完備し、702年に遣唐使(正確には遣周使)が派遣され、則天武后に歓迎される。ここで倭国が日本と改名したことも「公式に」伝わった。内々の情報としてはもっと早く伝わっていたはずであるが。持統天后は703年に崩御し、2年後の705年には則天武后が失脚して周は唐に戻ってしまった。則天武后の悪女悪役ぶりがようやく世の中に広く知られるようになったのはこれ以降であり、すでに持統上皇は崩御した後のことなのである。つまり、持統上皇の在世中は、則天武后は素晴らしい女性で通っていたので、天后という称号にも美しい響きがあったが、それが一転して世紀の大悪女を思わせる醜悪な言葉にかわってしまった。
だから、それ以降に編纂された『日本書紀』では天后の文字は消されてしまい、適宜、即位前の天后は皇后に、在位中の天后は天皇に、譲位後の天后は上皇に、それぞれ置き換えられた。それは当時の考えとしては歴史の捏造でなく持統天皇の名誉のためなのである。

天武帝の立場は微妙でなく普通だった?
(※後日執筆予定)

「天子」の訓はスメミマノミコト(皇孫尊)でいいのか?
ところで、天皇(というより特に天子)のもう一つの和風よみであるスメミマノミコトは、直訳すれば「皇孫の尊」であって、直訳の上では太陽神天照大神の孫と限る言葉ではなく、一般的に天皇の孫という意味でしかない。むろん「孫というのは代々の天皇がみな天照大神の孫なのだって意味だ」、あるいは「天照大神から天壌無窮の神勅を受けて降臨した孫の邇々藝命と歴代天皇が同格なのだ」っていう思想表明なのだ、という解釈は理解できるし、スメミマノミコトという呼称を定めた律令の趣旨も確かにその通りなのだろうが、なぜこんな婉曲な表現なのか? アメミマノミコト(天孫の尊)ならまだわかるが、このアメミマという言葉も天孫という漢語をむりやり訓読みして作った言葉のように聞こえ、あまり古い大和言葉ではないのではないかと思うが、それにしてもスメミマノミコトのような普通の皇族みたいな言葉よりもアメミマノミコトのほうが神聖至尊の由来を直(じか)に表わしていように、なぜこの選択なのか。
天照大神の子孫を意味する表現としてはスメミマ、アメミマ等の「孫」系の表現の他にアマツカミノミコという「子」系の表現もあった。ただし子孫一般を意味する大和言葉はウミノコ(生みの子の意味)とかハツコ(端子の意味で「裔」と書く)であり、ウミノマとかハツマという言葉はない。『万葉集』に宇美乃古とあって古いことから、記紀の「子孫」という漢語はだいたいウミノコと訓まれている。また皇族は代々「王」と称してこの王の字もオホキミまたはミコと読まれる。天皇から別れて何代目であっても皇族ならミコ。「コ」には子孫の意味もあることがわかる。しかし平安時代以降の後世はさておいて、上古には「マ」で子孫を表わした例はない。卑弥呼は「日の御子」の意味だといったが、この御子も子孫の意味だろう。『古事記』では邇々藝命と神武天皇のことをどちらも「天神御子」(あまつかみのみこ)または「天神御子之命」(あまつかみのみこのみこと)といっており、「孫」とは絶対にいわない。この場合の「天つ神」とは邇々藝命からみて父の忍穂耳命のことではなく、神武天皇からみて父の鵜萱葺不合命のことでもない。文脈上、邇々藝命からみても神武帝からみても、天照大神をさしている。だからこの「御子」も「子孫」の意味だ。
天皇を意味する大和言葉としては、明らかにアマツカミノミコノミコトの方が古風であり、天皇の孫という意味しかなかったスメミマノミコト(天皇の孫)を天皇そのものの訓として転用したのは奈良時代に始まった新しい風習だろう。
このスメミマノミコトは、スメミオヤノミコト(皇祖母尊)とセットだったのではないかと思われる。スメミオヤノミコトは皇極天皇が譲位して上皇となってからの称号だが、同じ女帝で譲位した持統天皇も自然とスメミオヤノミコトと称されたろう。前の方で「天后」の譲位後の訓はスメミオヤノミコトだったと推測した通り。従って、スメミマノミコトというのは持統上皇の孫にあたる文武天皇にあたり、当初は「天皇」という称号の訓ではなく単に文武天皇個人をさしていたにすぎない。
天子の訓は、古くはスメミマノミコトではなくて、アマツカミノミコノミコト、アマツヒノミコノミコト、アマツミコノミコト等の「子」系の言葉だったのではないかと思われる。これをスメミマノミコト(皇孫尊)にさしかえたのは元明天皇だろう。元明天皇は自分と聖武天皇の関係、及び持統天皇と文武天皇の関係を、天照大神と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の関係の再現として演出する意図があったと思われる。それを思いついたのは即位大嘗祭に猿女(さるめ)として奉仕した稗田阿礼との出会いがきっかけである。この件についてはこの記事のラストの方でもう少し詳しく書く。
なおこれとは別に、この件は国史編纂事業が『古事記』と『日本書紀』に二分してしまった原因でもあるのだが、その話は今回の本題からずれるのでまた別の機会にする。

「天皇」という君号の起源(後編)に続く

・闕史八代の論

平成30年12月27日(木)改稿 H30年7月18日(水)初稿
(※多忙につき内容は後日執筆)

☆イエス・キリスト、日本に来たるw

平成30年12月25日改稿
本日、皇紀2677年6月4日(日)は6月の第一日曜。ということは。「第54回キリスト祭」の日である! といっても行ったことないんだけどね、遠すぎて。青森県の山奥だからなぁ。
(追記:ポスターはH30年のよりH29年の方がよりシュール!)
20170518_1910582.jpgChrist Festival 2018
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いつの日か、今の人生のすべてのしがらみから解放されたら、きっと俺は行くんだ、そしてキリストの墓にお参りして、キリストTシャツを着て、キリスト饅頭とキリストラーメンを食べ、キリストワインに酔ってナニャドヤラーを踊るんだ…。
日本のキリスト伝説(?)
こういうへんなお祭りがあるうちは日本の将来はだいじょうぶだと思われる。…それはいいんだが、これが『古事記』となんの関係があるのかというと、俺もよくわからない。じゃなくて、実は全然ない。じゃなくて、日本にきたなら垂仁天皇の時代だな、『日本書紀』の編年に準拠すれば。でも記紀に書かれてないから来てないと思うよ? ただの乞食だと思われたのかな、古事記だけにw 当時の日本人に「キリストです」と名乗ったところでそんな有名人だとは思わないからな。いや当時はキリストもまだ有名人になる前だけど。ということは、もし本当に日本にきてたとしても、記紀に載ってないのは当然のことで、記紀にないから来てないともいえないわけだ。よっしゃw なにが「よっしゃ」だかわからんが。歴史事実かどうか別として考えてみると、キリストの話は神話学的にはひじょうに興味深くて、日本の神話とも関係あるような話にもっていくことも可能っちゃ可能なんだよね。でもその前にひと通り馬鹿話もしておこうw

若い頃のキリスト
キリストって2回きてんだよなw 一回目は若い時でキリストが30~33歳ぐらいで布教はじめる前の経歴が不明なんで、この間、日本に修行にきてたとかなんとか。ご存知の人も多いだろうがこれは元ネタがあって、海外ではインドに行ってたって説が大昔からある。まぁ細かくは諸説あるんだろうが、エメラルド・タブレット(の偽物w)で有名なモーリス・ドリール博士だ。オカルト出版の老舗で有名な霞ヶ関書房から『カバラの真義』だの『ヨガの真義』だの「~~の真義」シリーズが邦訳。真義が好きみたい。この博士もエジプト、チベット、インドのカシミールにいってたという。エドガー・ケイシーはインドやエジプトにさらに加えてペルシアにも行ってたという。まぁこの人たちは霊能者なんで、学説じゃないが。もっと極端なのはリバイ・ドーリングの『宝瓶宮福音書』。自動書記だけどさ。日月神示だって自動書記なんだから細かいことはいうなw これによると若い頃のキリストは世界漫遊してたことになってて、ギリシア・ペルシア・メソポタミア・エジプト・インド・チベットの賢人たちと会合したことになってる。チベット人の名前が「メングステ」っていうんだけど、本当かねこれ。チベット語的に合ってるのかな。傑作なのは、これの邦訳を出した霞が関書房の社長が「日本に来てないじゃないか!?」となって著者に直接問い合わせたけど返事なかったそうなw チベットまできたなら日本まですぐなのに、と思ったのかなw でもリバイ・ドーリングってチベットをシナの一部かシナの代表だと思ってるフシがあってちょっと基本知識的にやばいんだよw いくらなんでもあの時代の中華文明を世界から除外するのかどうかと思うが、たぶん知識不足がバレるのが怖くてキリストを行かせられなかったんだろうねw なのに「本当に日本に来てないのか?」なんて問い合わせには困ったろうなw いや困んないんだった、霊能者は都合のいい言い訳を山のようにもってるからなw まぁでも竹内文献的には日本にも来たわけだw ユダヤ人なんだから世界中どこでもいけるだろうw 当時だって世界のユダヤネットワークすごいよw ホントかよw

キリストは本当に男だったのか?
純粋に実証主義的歴史学をきつきつに追求したら、キリストは架空の人物になりかねないわけだが、このブログでは当然そういう野暮なことは言わないw
ユダヤの伝説ではマリヤは娼婦で、ユダヤを支配するためローマが派遣していた進駐軍のローマ兵との間に生まれたのがイエスだという。もしこれが正しいとすると「イエスはアーリア人だった」というヒットラーの説となぜか一致してしまうなw ユダヤ人は貶めようとしてこんな話を作ったのだとばかりも決めつけられない。マグダラのマリヤの存在を思えば、売春婦であること自体は卑しいことではないかもしれない。どうであれキリスト当人が性産業従事者を差別するとは思えないでそ。なぜか欧州のキリスト教社会は性に過剰に厳しくやたらうるさい文化を作ってしまったが、なぜなのか、それはそれで面白い議論だが、今回はスルー。キリストの母が貧しい娼婦だったとしても、最近の人は性的な倫理観がゆるくなってるし人権意識も発達してるので、さほどケシカランとか卑しい人間だとか思わないのではないか。むしろそういう境遇に身近な人間のほうが、宗教家として思想性が深まるのではないか。…っていう理屈もありうるじゃんよ、孔子も貧乏な母子家庭の出身だったし。
まぁユダヤ人の意図はイエスを貶めようとしたのかもしれないが、これと逆に日本人はもちあげるよw イエスは秦王国の王子だか秦氏の王子(氏族長の子?)だかって説がある。この当時の秦氏ってまだ日本にきてなくて朝鮮半島の「秦韓」にいた頃だろうに分かって言ってるのかねこれw 秦王がユダヤまでお出ましになったとか考えにくいから、マリヤが若い頃朝鮮半島にいて秦韓の王宮にお仕えしてたことがあったってことかね? ユダヤ人の国際的ネットワークのすごさがこの事からもわかるだろw さらに!そんな程度でびっくりしてる場合じゃないぞ、浜本末造だったか森佐平だったかはイエスは日本の皇子で、彼が「天国の父」といったのは日本の崇神天皇のことだといってたぞw  娼婦の子になったり皇子になったり忙しいなw でも俺の説だと崇神天皇はもっと前の人なので時代があわない。キリストが日本に来たあたりは俺の計算だと景行天皇ぐらいの頃なんだよね。え?お前の説なんか聴いてないって? まぁまぁそういわず聴いてくれよw 仮に崇神天皇の時代だとして、キリストが日本国内を通って東北にいったとすると、関東を経由するじゃん。崇神天皇の時代だから、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と遭遇したんじゃないかって想像した人がいたわけよ。それが幻の迷著『謎の東国 豊城入彦命とキリストの大予言』(1987年、渡辺明著、吾妻書館)です。もう大昔に古本屋に売ってしまったので内容うろ覚えだが、小説仕立てで、たしか天皇から関東の統治を任され豊城入彦命(崇神天皇の皇子)がいろいろ人類の幸福とか政治のこととかで考えたり悩んだりしてるモノローグが延々と続き、後半ラスト近くで唐突に西方の聖人がやってくる。で、なぜかごく自然に二人は出会って淡々と会話する。…というだけなんだが、お互いに初対面なのに相手みてビックリもしないし「あんた誰?」状態にもならず、まるで知り合いみたいに話が合うというw オチも確か無かったような気がする。少なくともストーリーの面白さは求めちゃダメ。じゃ二人の会話にテーマ性みたいのがあるのかというとこれもちょっと掴みどころがなかったような。平和とか人類の幸福とかいわれてもな。抽象的な単語ならべただけじゃカルト宗教のチラシと同じで具体的な内容はないよう? よほどへんな趣味の持ち主でもない限り、ネットで探して買って読んでも絶対後悔すると思う。しかし、さっきの俺の説だとこの頃はもう豊城入彦命はとっくに薨去して、その孫の彦狭島王(ひこさしまのみこ)の時代じゃないかと思われる。いやそもそも毛野氏が関東にいったのは彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけ)からで、豊城入彦命から三代間はまだ大和の都にいたんだから、キリストが東国で豊城入彦命に会うっていう設定がおかしいんだ。じゃ、大和で会ったことにすればいいなw
キリストが「天国の父」といったのは崇神天皇のことでキリストは皇子だったという浜本末造だったか森佐平だったかの説に戻って、あるいは、崇神天皇ではなくて、その当時の天皇、つまり景行天皇だったとするとどうか。景行天皇が九州征伐に向かった時、神夏磯媛(かむなつそひめ)と速津媛(はやつひめ)という九州西部の女酋長が一族を率いて天皇に従ったという。神夏磯媛のいたところは京(みやこ)といい、今の大分県行橋市のあたり、速津媛のいたところは速見邑(はやみのむら)といい今の大分県杵築市のあたり。この京(みやこ)というのは律令時代の豊前国京師郡で、ここは秦氏の巨大な本拠地で、有力な説では『隋書』倭国伝にでてくる「秦王国」があったところという。秦氏といえばユダヤ人、というのがお約束w とすると神夏磯媛や速津媛はユダヤ系の血を引く女性だった可能性がひょっとしてもしかしたら…? 景行天皇には80人も皇子がいたというが記紀に名前が残っているのはそのうち21人しかないから、この二人の女性が皇子を生んでいてもおかしくないw 二人のうちどちらが聖母マリヤなのかっていう問題はあるが、それはさておき、こんなところにユダヤ人がいたなんて、いまさらながらユダヤ人の国際的ネットワークのすごさが(以下ry
それと、歴史上の実在のイエスはかなりブサイクな男だったらしい。初期の教父たちの書簡などには、人は見た目で判断してはいけない、主は眉が太いの唇が厚いの目が小さいの頬が骨ばってるのと、いろいろ残っていて、総合するといかりや長介みたいな顔になる。今時の若者にいかりや長介といっても通じないかもしれんが適当に画像検索どうぞ(若い頃のいかりやな)。美形のキリスト像は「信者からはそう見えてる」ってだけで実際に美形だったわけじゃない、とw やはりそういう人じゃないと人のつらさや心の傷みはわからないのだろう、イケメンにもっともらしいこと言われても腹立つだけだしなw
さらにはキリストは去勢していたという珍説もある。有名なのはスコプチの説だが、18世紀ロシアの新興宗教だからってデタラメとは限らんよw ユダヤ教は民族宗教だから去勢なんてとんでもないことだが、初期のクリスチャンは教父か修道僧か一般人かを問わず、自主的に去勢した男性がちょいちょいいたようなのだ。「あなたの手が姦淫を犯すならその手を切り落としなさい、全身が地獄におちるよりマシだから」みたいな言葉が聖書(マタイ伝5章27~31節)にあったろう、あの精神に基づけば去勢はありうることになる。だから3世紀にすでに去勢を推奨するヴァレリウス派という宗派もあり、東ローマ帝国では去勢聖職者の制度と去勢修道士の修道院もあったし、去勢した聖職者の中には皇族出身者もいればコンスタンチノープル総主教にまでなった人もいた。だから去勢という考えはスコプチの時代になって突然出てきたわけではないし、なんら恥でもスキャンダラスなことでもなかったのだ。
さらに!そんな程度でびっくりしてる場合じゃないぞ、去勢した男性どころか、そもそも女性だったという奇説もある。大昔の「ムー」の外電記事だから詳細が不明なんだが。英国のある教会に捧持されていたキリストの遺骨の破片という聖遺物をある生化学者が分析したら女性の骨だったというので、それを根拠にしてイエスの本名はイエシェ(イエスの女性形)といい、聖母マリヤは救世主が女性では世間が認めてくれないと思って男性として育てたのだ、という説を唱えた。イエスはりつけの時に天幕が裂けて世の中が真っ暗になったと福音書に書かれているが、これは下着がとれて女性であることがバレたことの表現らしい。本当かねw イエスの女性形が「イエシェ」だってのはアラム語かギリシア語かヘブライ語のどれかで文法的にあってるのかな? 去勢者だという説の場合、バレたらまずいって話は一切きかない。格別秘密でもなく、十字架上でふんどしが取れても誰も驚かないってことか。救世主が女性であるほうがよほどスキャンダルだとは、現代とはずいぶんと価値観がちがうものだなぁ。それと、現代のオタクは女性化というとすぐ美少女前提で妄想が始まるのかもしれないが、ちょっと待て。もし女性説と先ほどのブサイク説がどっちも正しいとすると、あまり想像したくないことになるんだが。でもよく考えると「男、ブサメン」だったとしたら格別おもしろみもなければ深い意味も生じず「だから?」「あっそ」で終わってしまうんじゃないか? 美人じゃなくて女性として苦労人のほうが宗教家としては深みありそうではある。
ところで、面白い理屈がひねり出せるのならイエスが7人いても8人いても一向に差し支えないのだが、もし去勢した男だって珍説と女性だって奇説を両立させるには最低でもイエスが2人いないといけない。そんな都合いい話があるのかというと、なぜか丁度うまいことにルドルフ・シュタイナーという気のいいおっさんがイエスは2人いたって説を唱えてんだよ、これがまた(詳細は後述)。おれは学生時代、教育心理学の論文でこのおっさんをネタにしたら「優」をもらえたんだよ、だからシュタイナー好きw

イエスの兄弟たち
竹内文献では十字架にかかって殺されたのは弟のイスキリであって本人は逃亡して助かったことになってるが、これも独創的な妄想ではなく、姿形の似た何者かが身代わりになったというのは海外でも昔からある説だ。例えばイスラム教でもそう考えられてるのは今では日本人も知ってる人が多いかもしれないが、もちろんイスラム教が最初に言い出したのではなく、キリスト教の初期からそういうことをいう人は何人もいた。まぁ死人が生き返ったと言い張る集団がいたら、とりあえずのリアクションは自然とそうなるだろうけどな。ただし弟の名がイスキリだってのは竹内文献の独自性だよw ウケを狙ってんのか、何なんだろうな、いくらなんでもイスキリってw イエス・キリストを東北弁で訛らせて縮めたんかと思われるだろうが、「石切神社」ってあるじゃん、石切(いしきり)も東北弁だと「いすきり」に聞こえる。石切…、石工? フリーメーソン!? …なんて連想は好き者へのネタ提供ということでやめておくw 話を戻して、イエスの兄弟はヤコブ、ヨセフ(親父と同名)、シモン、ユダの4人の兄弟、それに姉妹たち。姉妹は少なくとも2人で、もっといた可能性はあるが詳細不明(ネット情報では姉妹2人と断定している例が多いが正確でない)。これだけの兄弟姉妹がいたから、誰かが身代わりになったか。としたらそいつがイスキリと同一人物だなw
あるいは弟子のトマスは双子といわれるが誰と双子なのか不明。それでこのトマスが実はイエスと双子だったのだという説もあったはずだが、何の本で読んだのか忘れてしまった。トマスはユダという別名(つか本名)も持っているので、イエスの兄弟ユダと同一人物か。この説の場合、カトリックの教義上、イエスに実の兄弟がいてはまずいので福音書ではトマスとユダが同一人物であると明示することを避けてわからないように書かれているというわけだ。しかしトマス自身はその後も生きているので十字架で死んだのは双子の片割れでないとおかしい。双子の片割れのもう一人といえばこの説の場合イエスなのだから、トマスとイエスが双子だったとしてもイエスの身代わり説を説明する材料には使えない。

カトリックの「従兄弟」説・正教会の「先妻の子」説
この兄弟姉妹だが、マリヤは処女のままでかつイエスは神の独り子でないと教義上こまるので、カトリックでは兄弟姉妹ではなく従兄弟・従姉妹だとしていて、ギリシア正教ではヨセフの先妻の子たちということにしている。俺も若い頃は「そんなの宗教上の都合による歪曲じゃないか、本当は兄弟たくさんいたんだろ」と頭ごなしに決めつけて、クリスチャンでもないのになぜか教会に怒りを覚えていたものだが、まぁ待てw この「従兄弟」説がややこしく入り組んでて、とにかく面白いのだ。面白ければいいのかっていうかもしれんけど、そうですよw ってか、まぁ最後のオチまで読んでから怒れw ヨセフの弟クロパの子シメオンというイエスよりに先に生まれた従兄がいるので、カトリックではこれが兄弟シモンと同一人物だとする。アルファイの子ヤコブという人物は、アルファイ(アラム語)がクロパ(ギリシア語)と同じ意味なのでクロパと同一人物とすると、シメオンとヤコブは兄弟で、イエスの兄弟ヤコブとアルファイの子ヤコブも同一人物となる。丁度うまい具合に「ヤコブとヨセフの母マリヤ」という女性と「クロパの妻マリヤ」(こちらは聖母マリヤの妹だともいう)という女性がいるのだがこの二人も同一人物とすると、「ヤコブとヨセフの母マリヤ」のヤコブとヨセフはイエスの従兄弟となるから、イエスの兄弟のヤコブとヨセフと同一人物とすれば、ユダを除く3人の兄弟はすべて従兄弟だったということになる。ただし聖母マリヤの妹のマリヤとヨセフの弟クロパとの間に生まれたのはヤコブとヨセフだけでシメオンはクロパと先妻の子ということになる。また兄ヨセフと弟クロパの兄弟は、姉妹で同名のマリヤ姉妹と結婚していたことになるし、さらにそれ以前ヨセフもクロパも先妻との間に子が生まれていたことになる。イエスの弟ユダとイエスの妹たちについてもカトリックは従兄弟従姉妹とするのだろうが、その場合その部分だけ系図線が不分明なので、ここだけ正教会の説でヨセフの先妻の子としてもよい。ただし、ユダだけは前述の「トマスと同一人物でイエスとは双子」って説があるから、先妻の子じゃなくてマリヤの子でないといけない。これはカトリック的にはまずいんだろうが俺はカトリック信者ではないのでスルー。従ってヨセフの先妻の子はイエスの姉妹たちだけとなる。

シュタイナーの「二人のイエス」説
ルドルフ・シュタイナーの「二人のイエス」説だと前述の去勢者イエスと女性イエシェが両立できるので便利だ。シュタイナーによると、父ヨセフ・母マリヤ・息子イエスの3人家族というのがナザレとベツレヘムにそれぞれあったという。ヨセフ、マリヤ、イエスという名は当時のユダヤにありふれた名前なのでここまではありうる話としていい。ベツレヘムのイエスは『マタイ伝』準拠で、父ヨセフはソロモンの末裔(王系)、生まれた時に東方の博士の訪問を受けた。ヘロデ王の幼児虐殺を避けるため一時期エジプトに逃げていた(『マタイ伝』では人口調査の登録のためにヨセフとマリヤがベツレヘムに出かけていた時に生まれたとしているが、この段階ではナザレからきたわけではなくどこの夫婦なのか明記していない。なのでシュタイナーはもともとベツレヘムの夫婦だったと解釈してるんだろう)。ナザレのイエスは『ルカ伝』準拠で、父ヨセフはナタンの末裔(司祭系)、生まれた時に羊飼いの祝福を受けた。ヘロデ王の幼児虐殺の後に生まれたというから、ナザレのイエスのほうが歳下になる(BC6年生まれとBC4年生まれか?『ルカ伝』でも人口調査の登録のためにヨセフとマリヤがベツレヘムに出かけていた時に生まれたとしているがナザレ人の夫婦でありナザレからでかけていったのだと明記している。当時のベツレヘムは寒村で、ここで生まれたという設定は救世主誕生の預言にあわせたムリヤリな創作だろうというのが定説だが、野暮なつっこみは禁止ってことでw)。
ベツレヘムのイエスはゾロアスターの生まれ変わりで、ナザレのイエスは仏陀のアストラル体が取り巻いていたという。ここでゾロアスターと仏陀が出てくるのはエッセネ派の関係だろうかね? 当時のユダヤ教の宗派にはサドカイ派とパリサイ派とエッセネ派があったが、エッセネ派というのは複数の派閥をごっちゃに総称したもので一つの教えではない。純粋のユダヤ教じゃなくてゾロアスター教や仏教の影響を受けたものもあったようで、かなり異教的な教派もあったようだ。「洗礼のヨハネ」の教団や、死海文書で有名なクムラン教団、そしてイエスの教団などもエッセネ派の一つだった可能性が高い。初期のキリスト教が普通のユダヤ教とちがって去勢や独身非婚に肯定的なのもエッセネ派からの影響だといってる人もいる。ゾロアスターがどうの仏陀がどうのっていう話はどうでもいいようだが、二人のイエスの性格の違いを推察するための(妄想するための?)参考にはなるやろ。
さて、ナザレのイエスは一人っ子だが、ベツレヘムのイエスには弟妹が何人もいた。ここでベツレヘムのイエスは12歳で死んでヨセフも死に、後家さんになったマリヤは子供たちを連れてナザレに引っ越し。その頃ナザレではマリヤが死に、ヨセフとイエスの男二人暮らし。そこで出会ったヨセフとイエスは再婚したと。だからイエスと他の兄弟姉妹とは血がつながってないことになる。うまいこと考えたなw
この際、ベツレヘムのイエスは死ななかったことにすれば、イエスはずっと二人いたことにできる。人智学のややこしいオカルト理論では、ベツレヘムのイエスは12才で死ななきゃ治らないわけだが、俺は人智学の信者じゃないんでそんなこたぁどうでもいい。イエスが二人いることになると、イエスをめぐる異説がいろいろ統合できる。男で去勢していた説と女性説も両立するし、二人のうちどちらかは、マリヤが娼婦やってた時のローマ進駐軍の兵士の子ってこともありうる。秦王国の王子だか天皇の皇子だかって御落胤説もあったw ベツレヘムのイエスの方がアーリア的要素に縁がありナザレのイエスのほうが女性的で優しそうだから、ベツレヘムのイエスが進駐軍と娼婦の子で去勢者、BC6年生まれだから兄。ナザレのイエスが本名イエシェ(女性)で御落胤、BC4年生まれだから妹。とキャラを割り振ったらどうか(御落胤説は「王子だか皇子だか」から「王女だか皇女だか」に変更になるけど)
このヨセフとマリヤの夫婦が2組いたって説は、カトリックでいうところの、ヨセフとマリヤ(姉)の夫婦とクロパとマリヤ(妹)の夫婦の2組からイエスとその従兄弟たちが生まれたという説にずいぶん似ている。だから両説を合成したら面白いと思うのだが、つまり兄ヨセフとマリヤ(姉)の兄姉夫婦と、弟クロパとマリヤ(妹)の妹夫婦は、お互いの配偶者と死に別れて再婚したというストーリーだ。この二人目のイエスは、カトリックの「従兄弟」説にあてはめた場合、クロパとマリヤ(妹)の間の息子ということになり、ヤコブとヨセフは第一イエスからは従兄弟だが第二イエスからは正真正銘の弟ということになる。
ただし、クロパとマリヤ(姉)が早く死去して、残されたヨセフとマリヤ(妹)が再婚したのか、それともヨセフとマリヤ(妹)が早く死去して、残されたクロパとマリヤ(姉)が再婚したのかが決められない。それが決まらないとベツレヘムのイエス兄とナザレのイエシェ妹、どちらがどちらの夫婦の子か特定できない。

ジェイムズ・D・テイバーの「再婚」説
ところでジェイムズ・D・テイバーの説では「ヤコブとヨセフの母マリヤ」も「クロパの妻マリヤ」も聖母マリヤと同一人物で、ヨセフの死後にマリヤがクロパと再婚して生まれたのがイエスの兄弟たちだという。再婚というアイディアはルドルフ・シュタイナーの「二人のイエス」説に似ている。シュタイナーの説では早く死去するのはベツレヘムのヨセフとナザレのマリヤで、再婚するのはナザレのヨセフとベツレヘムのマリヤだから、シュタイナーの説とテイバーの説との対応関係をみると、マリヤ(妹)がナザレのマリヤ、クロパがナザレのヨセフに該当することになる。すると、シュタイナー説でのナザレのイエスはクロパとマリヤ(妹)の間の子で、ヤコブとヨセフの兄となる。イエシェだから姉だが。ここまではよい。ただ、この組み合わせからだとユダ(トマス)と双子の兄弟はベツレヘムのイエスになってしまう。ユダはヨセフの子だから、娼婦をやってた時にローマ兵の胤で生まれたイエスと双子ではありえないことになってしまう。…と一見思われる。が、実は人間の精子は膣内で数日間も生きていることがあり、まれに胤ちがいの双子というのが生まれることは、今の世の中インターネットがあるので誰でもすぐいくつもの事例を確認して、これが嘘じゃないことがわかる。双子なのに見た目があまりに似てないからすぐわかったろうが、父ヨセフは器がでかいからそんなこた気にしないのだ。そうでないと救世主の父にはなれん。
大事なところはそこではない。夫婦が死に別れってのはあまりに哀しいので、ここは一つ、死に別れではなく一回離婚して、嫁さんを交換してから再婚したほうがめでたいのではないだろうか。こういうのは当時のユダヤ社会の倫理観ではどうなんだろうか、よくわからないが、多少は荒れた家庭とか爛れた関係とかの渦中にいたほうが宗教家としては思想性が深まるってもんでよろしいんじゃないでしょうか。それで聖徳太子も偉くなったって、豊田有恒もいってたろw 実際、喧嘩別れしたとは限らず兄弟姉妹カルテットで仲良しだったのかもしれんのだし。ただ、シュタイナー説にしろテイバー説にしろ一つの夫婦しか生き残ってないのだから、シュタイナー説で死んだことになってるベツレヘムのイエス以外の全部の子供たちをクロパ(ナザレのヨセフ)とベツレヘムのマリヤ(姉)の夫婦が引き取ったことになる。死んだことになってる人たちを俺が設定変更して生きてたことにしたのが、「ベツレヘムのヨセフとナザレのマリヤ(妹)それにベツレヘムのヨセフの連れ子ベツレヘムのイエス」の3人となる(ベツレヘムのイエスは形式上はベツレヘムのヨセフとは父子でナザレのマリヤとは叔母と甥だが、どちらも実際の血のつながりはない)。
…と、これで完成のはずだが、どうも釈然としないな。ベツレヘムのヨセフとクロパ(ナザレのヨセフ)の兄弟が、姉妹をそれぞれ嫁としただけでなく、兄弟ともマリヤ姉妹と結婚する前に先妻がいたってのがどうもな。偶然にしてはできすぎじゃね?
ここは逆転の発想が必要だ。ベツレヘムの兄ヨセフとベツレヘムの姉マリヤの夫婦、ナザレの弟クロパとナザレの妹マリヤの夫婦、この2組がまずあって、その後このカップルが離婚して嫁交換再婚したとばかり思い込んでるが、その前にヨセフにもクロパにも先妻がいたというのだから、つまりこのカップルはこれから離婚するのではなく、一度嫁交換した再婚後の組み合わせなのである。もともと兄ヨセフと妹マリヤとの間に娘たちが生まれ、弟クロパと姉マリヤとの間にシメオンが生まれていた。その後、兄の嫁が妹で弟の嫁が姉なのはおかしいって話になったかならないかわからないが何らかの理由で離婚して交換再婚。その後、ヨセフと姉マリヤの間にイエスと双子のユダが生まれ、クロパと妹マリヤの間にイエシェとヤコブとヨセフが生まれた、というわけだろう。
しかしそうなると、姉マリヤだけが聖母ではなく、妹マリヤも聖母っぽい感じになるな。シュタイナー説だとヨセフも二人、マリヤも二人だからどっちも聖母あつかいか? マリヤが二人いていいなら、前述の神夏磯媛と速見媛も、どっちがマリヤかで悩む必要がなく両方ともマリヤでいいw

キリストの伝記は太陽神話?
ところで、キリストの兄弟は、男がシメオン・イエス・ユダ(トマス)・ヤコブ・ヨセフの5人と、姉妹が最低2人で正確な人数不明ってことだったが、仮に姉妹は2人だったとする。で、イエスが二人いたという説で、かつ、二人のイエスのうち一人は女性のイエシェという説だと、イエシェが三姉妹の妹ということになり、5男3女の8人兄弟姉妹ということになる。…5男3女? と言えば、古事記関係者だったらすぐ思い浮かぶのが、雛祭の五人囃子と三人官女。じゃなくて、天照大神と須佐男命の誓約(うけひ)で産まれた五男神と三女神だろう。天照大神と須佐男命はお互いの物実(ものざね)を交換して8柱の御子神を生み、ベツレヘムのヨセフ(兄)とナザレのクロパ(弟)はお互いの嫁を交換して8人の子を生む。これ、偶然の一致なんだが、むりやり「偶然ではない」と言い張ってみよう。キリストが死んで復活するところは、太陽が死んで復活する冬至の祭儀がクリスマスの起源で、エジプトの太陽神ホルスや、イランの太陽神ミトラの、いわゆる太陽神話がもとになってるという説が大昔からある。ミトラは日本神話では天照大神にあたり、天の岩戸の神話とも共通している要素がある。シベリアの先住民の神話でも「昔、五本指の男の子と三本指の女の子がいて、その二人からこの部族(もしくは人類)が生まれた」という神話があり、「5男3女」という数字と性別の組み合わせは普遍的な古伝承らしい。

一度目の日本訪問と三年間の布教活動
イエスは、ヨハネから洗礼を受けて3年間の布教活動をする以前の経歴が不明だが、竹内文献は日本に留学だか修行だかしにきていたんだという。21歳の時、日本にきて12年間修行したという(つまり33歳で日本を去り帰国した時34歳ってこと? 12年間って数字にこだわるなら15歳か16歳で来てないと計算あわないような気がする)。前述のドリール博士によると、イエスは13歳(たぶん満年齢)で両親とエジプト旅行、16歳の時に単身で再度エジプトへ。そこからチベット(のシャンバラ)にテレポートw、20歳の時カシミールを漫遊。25歳でエジプトに戻り1年間ピラミッドで暮らす。ナザレに帰ったのが26歳、洗礼のヨハネの教団にアクセス。3年後の29歳の時に布教開始、33歳で磔の刑。ドリール博士はイエスの誕生をBC6~7年頃としているが、仮に刑死をAD33年とすると計算があわない。上記の年齢はBC1年かAD元年の生まれでの計算か、もしくはBC4年誕生として刑死をAD30年とする説と思われる(通説ではイエスの処刑はAD33年説が最有力で次いでAD30年説が有力)が、まじめに計算する意味はないかw 前述の宝瓶宮福音書によるとイエスがインドに来たのは12歳(以下すべて満年齢)。で、15歳の時にチベット入り。24歳の時、西へ戻ってペルシアに。そしてユダヤに帰国したのは29歳、翌年ヨハネから洗礼を受け、36歳で刑死、復活。宝瓶宮福音書は木星の周期にあわせて12年毎(12歳・24歳・36歳)に人生の大事件があったと設定し、十字架にかけられたのは36歳としている。がここではそれを問題にする必要はないし真に受ける必要もないだろう。宝瓶宮福音書もおそらくBC4年誕生説に準拠していると思われるが、それだとBC6年説であてはめると十字架で刑死したのは38歳の計算になる。ドリール博士の説でも宝瓶宮福音書でも日本にはきてないが、竹内文献では逆に日本以外に行ってないw 上述の通りイエスは2人いたんだから、この世界漫遊は一方のイエスの話であり、もう一人のイエスは日本でもいい。ペルシアやインドにいったのはアーリア要素の濃いイエス兄のほうだろうから十字架にかかった時をAD33年とすると、彼は38歳だったことになる。
で、3年間の布教活動の間、2人は同行せず別行動だったろう。なぜなら福音書には「もう一人のイエス」に該当しそうな人物がでてこないからだ。兄妹といっても血がつながっておらず、顔つきも体つきもぜんぜん似てなかったと思われるので影武者の役もできない。歴史事実に配慮すると(ここまでやりたい放題かきまくって今さら配慮する意味あるのかってツッコミもごもっともだが、思考実験ですからw)、性別を除けばイエシェのほうが史的イエスにやや近い。それは何もイエスはアーリア人だったというヒットラー説に反論するためだけではなく、顔面ブサイクという点だけからいってるのでもない。福音書のイエスの教説はゾロアスターよりは釈迦に近いという説があるからだ。『仏教とキリスト教』(堀堅士:レグルス文庫)によるとイエスの教説はほぼすべて仏教経典からのパクリでできてるからなw レグルス文庫だから創価学会系だな。逆のことをいってる本もあり『神道と仏教をただす(上・下)』(森山諭:荻窪栄光教会)によると仏教はほとんどキリスト教のパクリでできてるみたいだぞw ウィキペディアで著作欄みるとわかるけどこの人は異教や異端への攻撃に人生捧げたみたいな人。どっちがどっちのパクリでもいいけど結論としては「似たもの同士仲良くやれ」w 釈迦の伝記とイエスの伝記の似てる部分(全体のことではなくて、悪魔の誘惑と闘うとこ)ってのは、もともとどちらもゾロアスターの伝記をパクった部分で、仏教もキリスト教もゾロアスター教から影響を受けているのがわかる。まぁエッセネ派の中には仏教の影響を受けてるのもあったらしいのでイエスの言葉の中に多少仏教と似たような教説があっても別におかしくはない(そもそもインドいったのチベットいったのって話してるわけだしな、いやこの頃のチベットに仏教あったのかって話もあるが)。さて、じゃイエス兄はその頃なにをやっていたのかというと、『マルコ伝』第9章にイエスと自称して癒やしのわざを行っていた偽イエスの話がでてくる。こいつじゃね? 弟子のヨハネがこの偽ヨハネをシメてきたらイエスに逆に叱られたという。これは兄のイエスだったんじゃないのか。

磔刑と復活
で、すったもんだで十字架にかかって死んで生き返ったと。ただの仮死状態だったのか何らかのトリックを使ったのか、イスラム教のいうように身代わりになった人がいたのかキリスト教のいうように本当に生き返ったのかなんてことはこの際どれでもいい。「死んだ人が生き返るわけないじゃん!」と目くじらを立てる必要もない。中国でもインドでも大昔から死人が生き返ったなんて話はちょいちょいある話なんだから。日本でいうと、奈良県の石上神宮に伝わる「十種神宝」の秘法が有名だよね。「振るへ、振るへ。ゆらゆらと振るへ。かく為せば、既に死(まか)るもよみがへる」ってやつ。ようつべにインチキくさい動画がたくさんあるから検索してみ。
問題は、2人のイエスが同時に十字架にかかるまではありうる(同じような行動してたのなら同じ罪状になりうるから)。しかし2人のイエスが同時に生き返ったとすると偶然にしては確率的に珍しいことになるから、おそらく十字架刑に課せられたのは一人で、もう一人のイエスがその身代わりになったのではないか。だから当然、復活したのはその身代わりのほうなのであるw 福音書ではその2人が混同されて1人になってしまっているわけだ(復活してないとはいってない)。…と言いたいところだが2人のイエスは既述のごとく外見がまったく似ておらず影武者には到底なれない。3年間の布教期間の主役がイエシェだっていう話の流れからいうと十字架にかかって復活したのも当然彼女のほうだろうから、兄イエスは裏方で官憲への工作や、もし仮死状態説でいくなら介抱の段取りとかしてたのではないか。むろんオカルト的な復活説の場合は介抱は要らんが、キリスト教の復活説をそのまま信じた場合でも、死刑済みのはずの死刑囚が肉体をもったまま生きてそのへんうろつくわけにもいかんだろう。警察につかまって「あれ?生きかえったの? じゃ死刑やりなおしだね」みたいな話になっても面倒だからな。そこで隠れ家とかあれこれ段取りが必要になったはずだ。

復活後、二度目の日本行きw
復活後のイエスはすぐに昇天したわけではなくて、竹内文献によるとなぜかシベリア経由で日本にきて十字架事件から4年目の2月26日、八戸市の貝鞍の港に上陸(別の説では津軽側の蟹田から上陸)、戸来村(今の新郷村)に住み着いて106歳で没したことになってる。が、インドのカシミールにも墓があってキリストはここで112歳で死んだという。小説『ダヴィンチ・コード』の元ネタ、『レンヌ・ル・シャトーの謎』(これは小説ではなくトンデモ説の本、「ムーブックス」みたいなもんか)ではマグダラのマリヤがイエスの胤を宿したまま南フランスにきて娘サラを産んだのがメロヴィング朝の始まりとか、イエス本人がローマ経由でやってきたとかいうらしい。イギリスにもキリストがきたって話があるそうだ。モルモン教では北米にきたっていってるし、みんな自分のとこに来て欲しいんだなw これを全部まとめると、またもや世界漫遊の旅になりそうだが、まさにそういう説を唱えてるのが前述のドリール博士だ。
ドリール博士によるとイエスは復活後11年間グノーシスを弟子に教え(ドリール博士の考えではイエスはグノーシス主義らしいがそれはこの際どうでもいいので無視w)、(44歳の時?)ローマで半年、エジプトで2年間教育し、(46歳6ヶ月の時?)中国へ向かった。華北のユダヤ人に1年間布教、その後中国全土を旅行してからチベットに向かう(かなりタイトだが後々辻褄あわなくなるのでチベットへの出立を48歳の時と仮定)。チベットの超人が住む『エデンの園』で5ヶ月間毎日2回の説法、その後チベットのシャンバラに行き4年半滞在しシャンバラ144人の超人大師の首長となる(これはまとめて「チベットに4年11ヶ月=約5年の滞在」でいいだろうw この時点で53歳?)この後、南太平洋地下のレムリア大陸へ行き暗黒霊魂を解放、次いで地球中心核に入り最暗黒の霊魂を3ヶ月間指導(南太平洋の島に3ヶ月滞在したと解釈しとくw かなり厳しいが後々計算があわなくなるので往復で1年くらいとしてこの時点で54歳?)。(54歳から?)地表に戻り、ギリシア、パレスチナ、スカンジナビアをめぐった後、南北アメリカ大陸に渡る(1年で中東に戻ったと仮定して3国めぐりに1年間で計2年とすると米国への出立時点で56歳?)米国各地で9年間布教(移動時間は9年に含む。これで65歳となる計算)。この後、北極の北方シャンバラへ行き、35年間、地球第7黄金サイクルの秘密準備を行い、満100歳の日から10日目に全世界の弟子の面前で(?)アストラル体脱出による最後の教えを説く。その時、頭部から冷火を発し全身を燃焼し尽くして北極点から宇宙へ昇天。跡には大きな輝くダイヤモンドの塊のようなようなものが残り、これが北方シャンバラの塔に今も保管されている。ふぅ…。これによると54歳から65歳までギリシア、パレスチナ、スカンジナビア、南北アメリカをめぐったというからパレスチナ→ギリシア→[ローマ→南仏]→スカンジナビア→アメリカとコースの中にローマ南仏観光を割り込ませれば『ダヴィンチ・コード』も丸く収まるんじゃね? ただ100歳で死んだとは考えられないから、100歳の時インドにいってカシミールで112歳で死んだわけだろう。日本にはきてないが、これはイエス兄で、イエシェ妹は復活後すぐ日本にきたのだとすれば問題ない。

イエスの子孫
ただ、イエス兄は去勢してるからメロヴィング朝の先祖にはなれない。マグダラのマリヤが妊娠した状態でローマにきたというが父親は一番近くて双子のトマスかな。胤違いの双子でも遺伝子の半分は同じ母から継承しているし、その上もし一卵性だったらさらに共通になるんで、まぁこれで遺伝子的にはほとんど問題ないんじゃないか。つかマグダラのマリヤは育ての親で、生みの親はイエシェでもいいんじゃないか、だって兄妹といってもぜんぜん血はつながってないわけだし。その場合、10代か20代の時の子供としないといろいろ辻褄あわせにくいが、なんとかはなる。しかし、生まれたのはサラという娘だからメロヴィング朝にイエスの血が…っていっても女系での話なんだよな。アジア的な王権論では女系で入ってても有り難みちょっと薄れるけど…。つかヨーロッパだって「サリカ法」だから男系主義じゃんよw これ歴史にうとい現代人の創作ネタだからこうなってんのかね? 一方、青森県戸来村ではw、八戸太郎天空、または戸来太郎大天空と称し、ユミ子(または「ミユ」とも)という女性を妻として三人の娘をもうけたという(子孫は戸来村に三家が存在)。こっちも娘だよw でも本人が女なんでこれはおかしい。ユミ子ってのはイエシェ自身の日本名だろうw ずっと男のふりをしてたんだから男性名と女性名両方あってもおかしくないw あと十字架から4年目って設定だから40歳。経産婦ならまぁぎりぎり出産可能かね。それよりは一回目の来日で作った子供って設定に変更したほうが無難かね。八戸太郎ってのはだんなの名か? ここまできて性別を隠す必要はないはずだが、長年の習慣で男のなりがラクだから男性名と女性名を使い分けていたのか? だんなは誰なんだ? …そこで前述の豊城入彦命だよっ! 女だったってことなら、豊城入彦命との出会いも別な意味がでてくるw いや、俺の世代計算だとその孫の彦狭島王になるわけだが、彦狭島王は体弱かったみたいだから、キリストみたいな頑丈そうな女は好まれたかもしれないねw でもキリストには女児3人しか生まれなかったんだから、彦狭島王の息子の御諸別王(みもろわけ)はキリスト腹じゃないな。やはり外国人枠だと側室どまりだったか。それとも、やはりサラの父と同じでトマスかな、そしたら一回目の来日にはトマス同伴でないとおかしい。これもありうるけどなw いや、ありうるも糞も、それ以前に「八戸太郎」ってこの時代の名前じゃありえんけどなw こまけぇことは(以下ry
さらに、女児3人の他に男児も産まれた可能性がある。というのは京都にある地名の「太秦」(うずまさ)、ここが秦氏の本拠地だったわけだが、アラム語で「イエス・メシヤ」にあたる「イシュ・メシャ」が訛って「ウズマサ」になったというあれ。佐伯好郎が言ってたよw これ実はもとから地名だったわけではなく、もとは秦酒公(はたのさけのきみ)という雄略天皇の時代の族長に下賜された「称号」だった。秦氏の族長が「イエス・メシヤ」を名乗っていた、というのは彼自身がイエスの直系の子孫だと自認してりたということじゃないのか。古代ユダヤの氏族制からいって、男系でつながっていないと子孫だという自負はもたれないはずで、つまりイエスに男児が生まれてないとこの称号の話が成立しない。その前にイエス本人が生殖能力のある男でないと男系継承が成り立たないわけで、秦酒公の祖先は、母がイエシェであるかないかを問わず、父が去勢前の兄イエスか、双子のユダ(トマス)のどちらかでないと辻褄があわない。ただ、日本の秦氏がキリストの子孫ということになると、秦氏の子孫であるところの鹿児島の戦国大名島津氏もキリストの子孫ということになる。そういえば島津氏の家紋は「丸に十文字」…。鹿児島藩は水戸や会津と同様、明治以前、江戸時代にすでに神仏分離、廃仏毀釈を進めていた珍しい藩だが、神道の流派としては「造化三神だけ」を崇める国学の一派を信奉していた。造化三神…。三位一体の神かw ちなみに、これが天照大神だけの一神教を作ろうとしていた長州との妥協で明治政府の神道事務局の神殿に「天照大神と造化三神あわせて四柱」が祭られ、後々「祭神論争」の大騒ぎにつながっていくのは有名な話。

トマスは達磨大師だった!?
トマスはイエスの双子の兄弟で、イエスの子孫ってのは実はトマスの子孫じゃないのかとも思われるトマスだが、このトマスはキリスト死後にインドに布教しにいったことで有名だ。トマスの伝記には長い物語があり、その中で一度中国にも布教しにいって戻ってきてからまたインドでの布教をAD68~75年くらいまで続けて殉教したという。前述の森山諭はAD43年の冬、後漢の光武帝の時に西羌人(チベット系の民族)が漢帝国に武力侵入して将軍馬援に撃退されたが、その時にキリスト教関係の書物を残していったという話と、達磨大師はトマスをモデルに作られた(トマス伝を仏教風に改竄した?)のだという説を紹介している。いや、達磨って生存年代がトマスより何百年も後だけど…。むりやりだのぅ。どうもトマスは達磨で、チベット族の中国侵攻のどさくさまぎれに達磨が布教にきたのだと言いたいらしい。別にそれでもいいんだけど(いいのかw)、中国での布教はなぜやめたのか。うまくいかなかったのか、それとも弟子を残して任せてきたのか。そのへんもウヤムヤで釈然としない。やはりトマス程度が来ても、イエスキリストが来たって話ほど妄想を掻き立てる力が弱いのか、風呂敷の広げ方が中途半端な感じがするのがなんだかなぁ。達磨は禅宗においてはものすごく偉大な人物であるので、トマスっていうよりはるかにインパクトがある。キリストの双子の弟にして影武者、いや、もしなんならこの際キリスト以上に偉大で重要な人物としてリスペクトした何かおもしろい歴史妄想譚はできないものか…?

とりあえずこのブログでは今回、キリストの墓だのキリスト来日説の真相は問わないことにするw 来てるわけないんだけどさw まぁ堅いこと言わずに脳みそ柔らかくいこうよ、脳軟化症レベルでw 真相については大昔「地球ロマン」に連載した有賀竜太大先生のレポ以上に詳しいものなんかそうそうあるわけもないんで、今さら俺が細かいことあれこれいう気もない。

☆本居宣長の真の功績とは

平成30年11月5日改稿 H29年10月18日(水)初稿
「ー宣長の生涯ー 吉田悦之」と表題のあるプリント、これはたぶん『心力をつくして―本居宣長の生涯―』という小冊子からの抜粋と思われる。
宣長に対する一般的な評価

篤胤は宣長を歪めてはいない

宣長の最大の功績は『古事記傳』ではない

(※内容はいずれ暇な時に書きます)

☆高麗(こま)=高句麗

H30年10月更新
今日H26年10月22日は、満洲にあった古代王国「高句麗」が唐に攻められて滅亡した日。天智元年(AD668年)十月と『日本書紀』にはあるが日付が不明。『新唐書』には九月十三日となり、十月は日本が詳細な情報を最終的につかんだ時期が十月ってことだと思われる。現在の暦に換算すると10月22日、今日。
10月22日という日付
『新唐書』の唐の総章元年九月十三日をグレゴリオ暦に換算すると10月25日になるんだが、ユリウス暦では10月22日。1582年10月15日以降はグレゴリオ暦一択だが、同年同月の4日以前はユリウス暦で換算すべきと思う。
・BC45年1月1日からAD1582年10月4日まではユリウス暦で換算すべき。ここをあえてグレゴリオ暦で換算しても西洋史との対照ができない。
・BC44年以前にはユリウス暦自体が存在してない。グレゴリオ暦で換算するのは海外の歴史との対照のためではなくて、現在の暦(=グレゴリオ暦)の季節でいったらいつごろだろうな、という自然科学的な時期というか季節感をしるため。

高句麗と高麗
高句麗は、五世紀の中頃に高句麗から高麗に改名したんだけど、改名っていうよりは「書き方」を変えただけだから、改名じゃない。だから、建国に遡って「おれたちは高麗だ」っていったんだよね。ちょうど倭国が日本に変えたのと同じ、『日本書紀』は神武天皇から日本って書いてるでしょう、それと同じ。倭国だった頃まで日本というのはおかしくね、というのは当たらない。名前を変えたんじゃなくて「書き方」を変えた。だから『日本書紀』には高句麗じゃなくて高麗としか書いてないんだよね。で、「高麗」は日本ではコマと訓んでたが、日本は「高句麗」まで音読みで「高麗」になってからいきなりコマとい読みだすってことは考えにくいので、「高句麗」だった昔からコマと呼んでいたに相違なかろう。

国王は「おりこけ」
『古事記』には外国の「国主」や「国王」という言葉が出てきて、これを本居宣長は一律にすべてコニキシと読んでる(本当はコンキシなのだが、昔の日本語にはンの発音が無かったので実際はコニキシと発音してたろうけど、そもそもこの単語は外国語なのだから日本語読みはコニキシでも表記はコンキシのほうがより正しい発音(鞬吉支)に近い。NHKのアナウンサーが野球の「チーム」をティームと発音するのはすごく違和感がある。
とにかく、宣長がコニキシと訓んだのは書紀の古訓によったのだろうが、平田篤胤は宣長のように一律にコニキシと読むのには異議を唱えた。コニキシは百済王のことで、新羅王の場合はコニキシと読んだら誤りでムキンが正しいとした(この場合のンはnでなくmなので、ンの発音なしとすればムキムまたはムキミとなる)。
古事記には外国の国王や国主は8回でてくる。そのうち百済は応神天皇の時の照古王1回だけで残りは全部新羅だ。神功皇后の時2回、天の日矛のところで4回、允恭天皇の時に1回で新羅は計7回でてくる。高麗王(高句麗王)は古事記にはでてこない。
(続きはまた後日)

☆沈没した神仙島の謎【後編】

沈没した神仙島の謎【中編】~魏呉蜀×「邪馬台国vs狗奴国」の外交戦~からの続きです。
今日は平成30年10月15日(月)、熊野速玉大社の例祭。熊野といえば…。そう、徐福ネタw いよいよ完結編w といっても徐福ネタは枝道なので残ってる議論をさっさと片付けて、本題の「沈没した神仙島」の話をしないとならんw

(※ただいま多忙につき内容は後日かきます )

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☆百済(くだら)の照古王

H30年10月改稿
今日、H28年10月13日は、朝鮮半島の西部にあった古代王国「百済」が唐に攻められて滅亡した日。天智称制二年(AD663年)九月七日のことだと『日本書紀』にはある。『資治通鑑』には八日だとして1日ずれてるが記事の詳細さからいえば日本書紀をとるべきだろう。現在の暦に換算すると10月13日、今日。ちなみにAD663年の10月13日は金曜日だった。「13日の金曜」だな。
10月13日という日付
天智称制二年九月七日をグレゴリオ暦に換算すると10月16日になるんだが、ユリウス暦では10月13日。1582年10月15日以降はグレゴリオ暦一択だが、同年同月の4日以前はユリウス暦で換算すべきと思う。
・BC45年1月1日からAD1582年10月4日まではユリウス暦で換算すべき。ここをあえてグレゴリオ暦で換算しても西洋史との対照ができない。
・BC44年以前にはユリウス暦自体が存在してない。グレゴリオ暦で換算するのは海外の歴史との対照のためではなくて、現在の暦(=グレゴリオ暦)の季節でいったらいつごろだろうな、という自然科学的な時期というか季節感をしるため。

話題豊富な百済w
百済については、現代の韓国人の先祖なのか、いや現代韓国人とは別の民族でつながってないんじゃないのかとかの議論や、今上陛下の詔にあった「深いゆかり」つまり桓武天皇の母方の先祖がどうのって一連の議論、そのほか重要な話や面白い話がたくさんある。ちょっと書ききれないが。なので今回はさわりだけ。百済・新羅・高麗・任那の話を詳しくやってるとそれだけでもう古事記ブログとは別のブログを3つか4つ用意したほうがいいぐらいの量になってしまうので、正直どうしたもんかとも思うんだが…。

百済(くだら)という国名
最近の教科書はペクチェと読ませてるらしい。これって現代韓国語読みであって別に古代の百済人がそう自称してたわけでもなんでもない。百済(ひゃくさい)というのと同じでタダの音読みであり、いうなら古代朝鮮語ですらない。これは日本と書いても倭と書いてもヤマトと読むようにもともとの百済語の本来の国名だろう。韓国語でクンナラ(大国)が訛ったんだという説はデタラメである。大きいことをクンというのは現代韓国語であって古語でない。古くはカンだったはずで、しかもこれは新羅語であって百済語でない。じゃ、クダラの語源は何なのかというと、時間がないのでそれはまた次回にとっておこうw

照古王からみた応神天皇の年代
『古事記』との関係でいえば百済は応神天皇の時に照古王が朝貢してきた話しかでてこない。この照古王の名「照古」ってのは当て字で、『日本書紀』では肖古王、『新撰姓氏録』では速古王、『三国史記』という朝鮮の歴史書では肖古王または素古王とあり、みな同じ発音だからどれが正しいということはない。ところで『三国史記』百済本紀には歴代の百済王がでてくるわけだが、『日本書紀』に出てくる百済王と名前はほぼ一致しているのに、年代があわない。120年(干支の2回分)ずれてて、日本書紀のほうが古く、三国史記のほうが時代が新しくなってる。そこで、通説では日本書紀が時代を古くみせるために引き上げたというのだが、本当だろうか。この120年繰り上げ説は戦前から一貫して学界の通説のようになってきたが、疑おうと思ってみると実はさほど確固とした根拠はなかったことがわかるのだ。最大の根拠は『宋書』など中国側の史書にでてくる百済王の名が、三国史記にあってるようにみえることだが、これは倭の五王の名と日本書紀の天皇の名をこじつけるのと同じで、なんとでもいえることなのである。実際に戦前に日本書紀原理主義の立場から中国側資料の百済王の名前を検討した例があり、完璧ではなかったがそこそこいい線までいってたぞw 漠然と読めば三国史記のほうが合ってるように思ってしまうのはある意味当たり前で、三国史記の編者の金富軾(きんふしょく/きんふしき)というおっさんが勝手にそういう前提で三国史記の記事を書いてるんだから。古代朝鮮史の専門家の井上秀雄は、「もともと原資料は干支だけで書かれて具体的に何年なのかわからなかったので、日本書紀と三国史記がそれぞれで具体的な年代にあてはめたのであり、どっちが正しいってことではない」といっている。つまり日本書紀と三国史記の一方が正しくて他方が間違ってるというような簡単な話でもない。
第一に、三国史記だと肖古王ってのが2人いて、時代の後のほうを「近肖古王」と書いている。時代の先のほうを仮に「肖古1世」とし、近肖古王を「肖古2世」とする。ちなみにどっちの肖古王も息子(次代の王)の名が仇首王という同じ名なのでこれも「仇首1世」「仇首2世」ということにする。同じ名前の親子の組み合わせが時代をこえて存在することから、この親子を同一人物とする説がある。魅力的な説ではあるが、仮に日本書紀の120年繰り上げられた百済王の年代が正しいとして、書紀は肖古2世以降しか関知してないから、それ以前の百済王の年代は三国史記をそのまま認めると、当然重複する120年間が発生するわけだが、その120年間の冒頭の10年くらいは仇首1世の末期と肖古2世の初期でかぶっている。がそれだけであり、1世の親子と2世の親子が同一人物の親子だと主張しようにも、年代からはあんまりピタリ重なるとはいいにくい情況なのだ。
第二に、日本書紀と三国史記の120年差について、両者の中間とって60年ずれてた、なんてこともありえないとはいえない。実際に田中卓は仁徳天皇の巻に出てくる百済関係記事は120年じゃなくて60年の繰り上げだといってる。まぁこの説自体は必ずしも信憑性はないがあくまでいろいろ考えられるという一例だ(ちなみに田中卓は、かつては神武天皇以下、欠史8代の実在を主張したのと王朝交代説をこてんぱんに批判したウヨのヒーローだったが女系天皇派になって晩節を汚した老害。まぁもともと邪馬台国九州説だったし辰韓と秦韓が同じこともしらないアホだったからちょっと怪しいとは思ってたんだが。『住吉大社神代記の研究』とかいい仕事もやってんだが今思うと典型的な専門バカタイプだったのかな…? …って関係ない雑談だがべつに学術論文じゃないんだから脇にそれてもいいだろ)。
第三に、日本書紀の肖古王は三国史記の肖古2世のことで、日本書紀はこの肖古2世より前の百済王は出てこない。日本書紀の建前では日本と百済の国交が開けたのはこの肖古王2世の時だということになってるからだ。しかし三国史記では肖古2世よりずっと前に肖古1世がいたことになってるわけだから、もし日本書紀の天皇の編年をやたら短縮せずそのまま認めた上で、三国史記の百済王の編年も同時に認めたとすると、肖古1世が応神天皇の時代に朝貢してきた王じゃないのかという発想がありうる。これは三国史記と日本書紀の折衷案にみえる。しかし日本書紀の編年では応神天皇が即位した時すでに三国史記の肖古1世は死んで仇首1世に代替わりした後だ。そもそも日本書紀では120年繰り上げられたはずの肖古2世も同様に応神天皇即位の前に死んでいるのだ(日本書紀のデフォルトの状態で)。いうまでもなくもっとも信用できないのは日本書紀の天皇の在位時期で、三国史記は60年サイクルの当てはめがいい加減なだけで干支はあってると考えられる。以下、120年繰り上げられている書紀の肖古2世をA、三国史記の肖古2世をC、中間の60年差のをBとして全部の組み合わせを列挙すると

・古事記の照古王が肖古1世(166即~214薨)だとした場合、応神崩御の甲午年は214年で、応神天皇崩御と肖古1世薨去は同じ年。もし応神天皇の在位期間が61年以上あったとしたら甲午年は274年でも可。

・古事記の照古王が日本書紀の肖古2世A(226即~255薨)だとした場合、応神崩御の甲午年は274年で、応神天皇の在位期間は最短でも20年以上。もし80年以上あったとしたら甲午年は334年でも可。甲午年にこだわらず日本書紀の応神帝崩御年310年説をとった場合でも応神帝の在位期間が56年以上あればギリギリ肖古2世Aでも応神天皇に朝貢できたはずだが書紀は在位41年としているので肖古2世Aはハズレる。

・古事記の照古王が肖古2世B(286即~315薨)だとした場合、応神崩御の甲午年は334年で、応神天皇の在位は最短でも20年間以上。もし80年以上の在位なら甲午年は394年でも可。甲午年にこだわらず日本書紀の応神帝崩御年310年説をとった場合でも肖古2世Bの在位期間中なので肖古2世Bは応神天皇に朝貢できる。

・古事記の照古王が三国史記の肖古2世C(346即~375薨)だとした場合、応神崩御の甲午年は394年で、在位は最短でも20年間あったことになる。

以上が組み合わせのすべてで、いろんな解決法がありうるが、最後の説が世間一般の通説そのものか、もしくは通説に近い。だが、実は肖古2世だとすると書紀のA、三国史記のC、その中間のBのいずれの場合も俺の年代推定のやり方ではこれ以降の年代が押せ押せのギチギチになって入り切らなくなってしまうのだ。ただし今はそれについての詳しい議論はさておいて、古事記に出てくる照古王は肖古1世だとして話をすすめる。まず古事記が正しく日本書紀が間違っているという鉄則に従うと、日本書紀は天皇の年代を古くみせるために引き上げられてるといわれがちだが、そうではなくて逆に引き下げられてることがわかる。すなわち、日本書紀の編年よりも応神天皇の在位期間がもっと前でないと、肖古1世は物理的に応神朝に朝貢できないのがその証拠だ。日本書紀の編年と照合すると、肖古1世が薨去する直前に即位したての応神天皇に朝貢したケースでは日本書紀は約60年ほど年代を引き下げてることになるし、逆に応神天皇崩御の直前に即位したての肖古王1世が朝貢してきたケースでは、日本書紀は140年以上も年代を引き下げてることになるのだ。平均すると約100年(±40年)ほど古く引き上げた年代が本当の応神天皇の在位期間なのである。これをさらに古事記の崩年「甲午年」で絞り込むと該当する年は214年しかない。214年説をとった場合、応神天皇は九月で肖古1世は十一月の同じ年に死んだことになるが、肖古1世は応神天皇に殉死したのかな。その一つ前の甲午は154年でこれだと肖古1世が即位した時すでに応神天皇は崩御していたことになってしまうし、一つ後の甲午は274年で仮に日本書紀に従って応神朝が41年間とすると応神天皇が即位した時すでに肖古1世は薨去していることになる。もっとも、日本書紀の編年は信用できないのだから在位41年説を無視してもいいわけで61年と仮定すればギリギリ間に合わせることができる。しかし神功皇后の摂政期間が長いので応神天皇が即位した時はそれなりの年齢をすぎてたろうから60年もの長い在位は考えにくいのではないか。

百済の建国は4世紀ではない?
(続きはまた後日)

☆沈没した神仙島の謎【中編】~魏呉蜀×「邪馬台国vs狗奴国」の外交戦~

神の序章・「下町三山」は徐福の三神山だった!?
nihboriyama203.jpg蓬莱
doukanyama30.jpg方丈
asukayama22.jpg瀛洲
日暮里山(にっぽりやま:画像1枚め)は、古くは「新堀山」(しんぼりやま/にいぼりやま)とよばれた。「日暮里」と当て字されたのは、王維の詩が出典になっている。

「臨高台送黎拾遺」

相送臨高台 相送りて高台(かうだい)に臨み
川原杳何極 川原(せんげん)杳(くら)くして何ぞ極まらん
日暮飛鳥還 日暮れて飛鳥(ひてう)還り
行人去不息 行人(かうじん)去って息(や)すまず

日暮里山は、飛鳥山(あすかやま:画像3枚め)とセットになっていて、この王維の詩の中の「日暮」が新堀山に、「飛鳥」が飛鳥山の当て字に使われてる。その飛鳥山は徐福伝説で有名な熊野新宮の浜王子を勧請したという王子神社に隣接し、アスカ山という地名も、有名な徐福の上陸地として石碑も立っている阿須賀神社から勧請した社があったことによる。道灌山(どうかんやま:画像2枚め)には向陵稲荷神社があるが、もとは当地にあった佐竹氏の屋敷に祀られていた稲荷だという。しかし佐竹氏が邸内にとりこむ以前にも古くから祀られていたのではないか。道灌山の地名は室町時代の太田道灌、あるいは鎌倉時代の関道閑にちなむともいわれるが、コジツケだろう。地名学の通説としては稲荷(とうか)の訛りだと見られるからだ。その起源は古く、道灌山には縄文遺跡も弥生遺跡もあり、その太古悠遠なることが知られる。日暮里山には諏方神社があり、飛鳥山には前述の王子神社があるが、それらが勧請されたのも、もともとその地が聖地として太古から崇められてきたからではないだろうか。
道灌山は、薬草の採集地としても有名で、徐福が探し求めた仙薬の地とはここであろう。日暮里山は特産の名物「谷中生姜」の発祥地でもあり、生姜は漢方で生薬として使われることから、やはり徐福が探した仙薬との線が浮かぶ。大昔は関東の内陸まで海が入り込んでおり、日暮里山・道灌山・飛鳥山は3つの島だったのである。

【補足】
このブログを閲覧された方から、日暮里山も道灌山も区別なくそのへん一帯はすべて道灌山なのではないかと御指摘いただいたので、自分の考えを説明したします。
地名の範囲は時代とともに縮まったり広がったりしながらその範囲が移動することもあり、あるいはまた誤認がそのまま定着してしまった例もある。地名の乱れはこれを正して本に復すべきと考えるか、時代とともに変わっていって良いのだからすでに定着した地名はそのまま放置すべきと思うかは人それぞれ。俺の第一の関心は「古くはどうだったか」ってことであって、現状けしからんから名称を変えろともハラの中では思うしたまにそういうことを煽り半分で主張することもあるがそれはこのブログの第一の主旨ではない。その上で言うのだが、現在では日暮里山の西日暮里公園内に「道灌山」だという表示(案内板)が立っているように、日暮里山も道灌山もごっちゃに混同されている。この案内板のせいだと思うのだが、ほとんどのサイトでは道灌通りの北の山(向陵稲荷や開成高校がある方)も南の山(西日暮里公園や諏方神社がある方)もまとめて道灌山と呼んでいる。なので両方区別なくこのへん一帯がすべて道灌山だという認識は現状それで格別問題ない。
で「古くはどうだったか」って問題だが、現下においても「一帯がすべて道灌山」という認識とは異なる理解も少数ながら存在しており、あるサイトでは「北を日暮里山、南を道灌山」と俺とは逆にして紹介している。また別のサイトでは北を「諏方台」、南を道灌山としている。諏方神社も諏方台通りも無い方を諏方台というのはさすがに間違いだと思うのでこの人が南北を間違えているとすると北が道灌山になる。真相を探るべくネットで検索すると安政三年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では現在の西日暮里4丁目付近に「道灌山」と記されているという情報がいくつも出てくる。が、現在の西日暮里4丁目には向陵稲荷や開成高校がある北の山が含まれ、西日暮里公園や諏方神社のある南の山は西日暮里3丁目であって含まれない。はたして「根岸谷中日暮里豊島辺図」なのか失念してしまったが俺がみた古地図では北の山が「道灌山」、南の山が「日暮里山」と書かれ、はっきり区別されていた。またあるサイトでは南の山を二つに分けてこのうち西日暮里公園を「道灌山」、諏方神社を「ひぐらし山」として区別した上、北山を「日暮里山」だとしている。つまりこの人の認識では道灌山をはさんで日暮里山とひぐらし山が離れて別々にあることになるが、語源からいっても日暮里山とひぐらし山が別の山だなんてことがあるのだろうか? そのサイトでは特に根拠をあげてはいないがおそらく諏方神社の石碑に「新堀山」とあるからだろう(「新堀山」で検索すれば画像と情報がでてくる)。新堀山はいうまでもなく日暮里山と当て字する前の古い表記である。つまりこの人のいう「ひぐらし山」というのは本来の日暮里山そのものに他ならない。上述のごとく道灌山の語源は太田道灌でも関道閑でもなく稲荷山(とうかやま)の訛りであることは地名学的にも動かないと思うので、もし両山を区別するのであれば、向陵稲荷のある北山こそ道灌山であって、これは上記の「根岸谷中日暮里豊島辺図」の認識とも合致する。如何。


今日、平成30年9月28日(金)は台湾の「教師節」なんだって。教師節ってのは孔子の誕生日で、孔子が生まれたBC551年の旧暦八月二十七日をグレゴリオ暦に換算すると9月28日になるらしい。しかし孔子の誕生日は俺の知る限り『公羊伝』がBC552年の十一月庚子日、『穀梁伝』が同年十月庚子日とし、『史記』がBC551年とするだけで日付は不明、これだけのはずだが、『史記』がBC551年としたのは当時は十月から新年が始まる暦があったのでそれだと十月から翌年になるから。普通に正月から年がかわるという切り方でいえば、当然BC552年が正しくBC551年は誤りであって「現在の9月28日」説も根本から成り立たない。いったい「BC551年の八月二十七日」説はどっから湧いて出たんだろう? 

実際の日付を推定するにはどのような暦法を想定するかで計算結果がぜんぜん違ってしまう。例えば『公羊伝』が正しければBC552年の十一月の庚子は十七日で現在の12月25日(クリスマスだなおいw)という説や、十一月の庚子は十五日で現在の10月14日という説がある。また『穀梁伝』が正しければ同年十月の庚子は二十一日で現在の10月3日という説、十月の庚子は二十二日で現在の10月8日という説などがある。

で、キリストの墓や釈迦の墓が日本にあるぐらいなんだから、孔子も日本に来てて良さそうなもんだが、だからこそキリスト釈迦のネタ元の竹内文献では孔子も来てることになってるんだがそれはさておいて、とw まさにそういうことが『漢書』地理志にある。

・然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云

・然して東夷は天性柔順、三方の外と異なる。故に孔子、道行はれざるを悼み、海に桴を設けて九夷に居らんと欲す。所以あるかな。それ樂浪海中に倭人あり、分れて百餘國となす。歳時をもって來たり獻見すと云ふ。

孔子が海を渡って「九夷」に行こうとしたという話のネタ元は『論語』で、子罕篇 第13章に「子欲居九夷」(子、九夷に居らんと欲す)、公冶長篇 第7章に「子曰、道不行、乘桴浮于海」(子いわく、道行われず、桴に乗りて海に浮かばん)とある。

「九夷」というのは時代によって意味がちがう。
『三国志』では東夷伝に倭人を含む7つの民族が出ているがこれを九夷というには2つ足りない。そこで烏桓・鮮卑を加えて9にするか、三韓を3つに数えれば9になる。三韓を一つに数えた場合でも、貊(=高句麗)の他に「小水貊」というものがあり東沃沮の他に「北沃沮」があるといってるので高句麗と沃沮を2つづつに数えれば9になる。後漢の頃の李巡の説では、九夷とは「玄莵、楽浪、高麗、満飾、鳧臾、索家、東屠、倭人、天鄙」だという。ここの「高麗」は高句麗、「索家」(さっか)は蒼海郡(さうかいぐん)で「玄莵(郡)」「高麗」「索家」の3つはほとんど同じ場所を別名で三回だしただけの杜撰なものだ。「満飾」は靺鞨のことという説もあるが靺鞨は7世紀の民族でこんな古くに靺鞨の名はまだないから誤り。正しくは南満洲にあった地名で漢代の遼東郡の文県、『魏略』には「満」とある。今の遼寧省営口市。「鳧臾」(ふゆ)は舟山群島とする説もあるがそうじゃなくて夫餘(ふよ)だろう。「東屠」は烏桓(烏丸)のこと。烏桓は古くは東胡といい、さらに古くは屠何といった。「天鄙」は鮮卑。「倭人」は日本列島の倭人ではなく東屠(烏丸)と天鄙(鮮卑)の間にかかれているんだから満洲にいた倭人だろう。もしくは、日本列島の倭人だとすると韓国あたりが空白になってしまうから、初期の頃は朝鮮半島の住民を倭人といっていたので、その倭人だろう。しかしこの李巡の説は内容が杜撰で正史に書かれた東夷の情報とは食い違いが多く、当時どれだけマトモな説と受け取られていたのか、かなり疑問だ。さらに古くは「畎夷、于夷、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷」のことをいったのだという。白だの赤だの観念的な名前なので創作だろうという説もあるが、創作ならもっと色なら色で揃えたはずで、不規則なのはなんらかの実態の反映と思う。やや強引な当てはめやコジツケになりそうだが、ムリにも推定してみると「畎夷」は犬戎、「于夷」(うい)は淮夷、「方夷」は方の字のつく地名が中国にはあちこちあるがこの場合は今の河南省禹州市のあたりにいた民族、「黄夷」は黄国で河南省潢川県にあった国、「白夷」は白狄、「赤夷」は赤狄、「玄夷」は『山海経』に出てくる玄丘之民で後の玄莵郡、「風夷」は山東半島の風姓の諸国、「陽夷」は陽国で山東省沂南県にあった国。ただし方夷と玄夷はなにかの誤字の可能性もありそう。こうしてみると後漢の頃や三国志の頃の九夷とはぜんぜん意味が違う言葉で、東西南北あちこちの異民族のことを言っており、特に「東の民族」に限った言葉ではない。このうち「于夷」(うい)のことを春秋時代には特に「東夷」というようになり、戎狄蛮とともに東西南北に割り振る発想が出てきた。戦国時代には東夷が東方の異民族という意味になったのでそれまでの東夷は「淮夷」と呼ばれるようになった。

したがって孔子の頃の九夷ってのは「東方の」異民族という意味ではないのだ。さらには九夷というのは特定の民族をさす言葉ですらなく、漠然とどこかの異民族ってぐらいの意味。まれに世界史地図で「淮夷」の位置に「九夷」と書いてあるのがあるがあれは間違いだから信じるなよ! まぁ公冶長篇 第7章の方は魯のあたりから近い海、今の連雲港から出航したらだいたい今の韓国の南端に行き着きそう。日本へ行こうとしたって解釈もギリギリできなくもないかもだが、子罕篇 第13章はムリなんで、孔子が日本へ行こうとしたって解釈に「九夷」をもちだすのは『漢書』を編纂した班固の独自解釈(もしくは創作)だぞw ただし、孔子もすったもんだあって結局、日本には来なかったわけだけど、いきさつ上、来なかったってことであって、物理的に来れなかったって意味ではない。だからそれよりずっと後の時代の徐福なんかなおさら日本に来れなかったわけがない。もし来てないとすれば物理的に来れなかったんじゃなくて、そりゃ、孔子と同じでなんらかの理由で意図的に来なかったんだろうなw ちなみに東京で月イチで『論語』の楽しい勉強会もやってるのであなたも一度参加してみませんか、興味あったらお問い合わせください。
※続き物です。必ず【前編】から見て下さい。リンクはこちら↓
沈没した神仙島の謎【前編】~夷洲・亶洲をめぐる大冒険~から続き

「瀛洲・方丈・蓬莱」はどこか?
今回はその徐福の話だよw 前編から引き続いてる「澶洲」の話でもあるんだが、『三国志』では澶洲に徐福の子孫が住み着いてるという珍奇な記事が目につく。
徐福来朝帰化の伝承地は青森県から鹿児島県まで日本各地に夥しくあり、古代史マニアにも大人気で、委細つくして調べあげた研究サイトがネットにはわんさかあるので適当に検索ドゾー。それらの中でも、富士山説は後周(AD951- 960)に書かれた『義楚六帖』に端を発しており最古のもの。紀州熊野説は1368年に絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)という日本の坊さんが明に渡って明の太祖に「熊野に徐福の祠がある」と吹き込んだのが最初。この2説は起源の古さという点で他の諸説より抜きん出ている。また各地の伝承といっても断片的なものや些末なものが多く、他愛もないコジツケで終わってるのもあれば、そうかと思うと富士山説や八丈島説などのように詳細な伝承もあって、落差が大きい。それら諸説のうち、冠絶して詳細なのが佐賀県佐賀市の金立山説(及びその周辺、西の八女市まで含む)で、日本中の徐福伝承地の中から、富士山説・熊野説に加えてこの佐賀説の合わせて3つが、特に注目される。3つといえばアレだよ、アレw 司馬遷の『史記』によると徐福は東方海上の三神山、「瀛洲・方丈・蓬莱」を目指したというw 徐福伝説の佐賀説・熊野説・富士山説の3説が、「瀛洲・方丈・蓬莱」に対応してるように思えてくる。誰でも思えてくるよな?w
kinryusan50.jpg金立山

江戸時代には熊野・熱田・富士を三神山ということが多かったが、これは画題であって具体的に瀛洲・方丈・蓬莱をそれぞれどれかに当てはめたわけではない。似たようなことを考えた人は昔からいたもので、二三例をあげれば、平田篤胤は蓬莱は九州の北、瀛洲は九州の西にあり、この二山は海底の幽郷で現実のものではないとしつつも方丈だけは現実の土地で淡路島のことだとした。『ホツマツタヱ』では瀛洲が琵琶湖の沖島で方丈が仙台あたり。仙台の太白山か栗駒岳かな。船体井上赳夫の説では瀛洲が隠岐島で阿蘇と群馬の浅間山が方丈と蓬莱だったかな? ネット上では「瀛洲が九州で方丈が四国で本州が蓬莱」だという説、「蓬莱は出雲で瀛洲は阿蘇で方丈が富士」という説もみかけた。他にも俺がいま忘れてるだけで大昔からいろいろな説がある。

だが、三神山の伝説は、徐福の頃にはすでにあったもので、徐福がらみで初登場したわけではない。だから、三神山について考察する際には徐福関係の情報にとらわれてはならない。六朝時代に書かれた『十洲記』によると中国からみて蓬莱の方が瀛洲よりいくらか遠く、方丈は東海の真ん中だというから「瀛洲・方丈・蓬莱」の三神山が日本なら、日本を3地方に分けるとしてとりあえず西から順に「九州・近畿・関東」のことじゃないのかと大雑把に把握される。 
「瀛」の字の原初の意味は「ふえる」とか「かくす」とかだったらしい。オキの訓は「水量が山のように多い、大海」か「波のかなたに隠れる」というニュアンスからきてるのだろうが、文字の原義からはズレてきているかも知れず、戦国期以前の地名として解釈するのは容易でない。「州・洲」は川や海で区切られた土地(島)の意だから日本だとすれば本州と途切れた九州のことかな。方丈は狭い部屋の意味があるから奈良盆地のことか。昔は奈良盆地の北半分は海だったので、横長の長方形の盆地だったろう。
蓬莱は雑草の生い茂った未開地の意味があり、関東平野だろう。関東平野も海だった時期が長く、本格的な開拓がかなり遅かった。蓬も莱も、薬草にもなるが雑草でもある。関東の聖なる山といってもいくらでもある。上州浅間山、野州日光、常陸の筑波山、房総なら麻綿原の清澄山w 埼玉県の秩父三山も有名だし、神奈川県の丹沢の大山も忘れちゃいけない、なんたってここには「ヨセフの塚」があるからなw いや、何でもないw しかしまぁ知識のない外国からの渡来人がパッと見で富士山に惹かれてしまうのはこりゃもうしょうがないわけよ。
方丈の候補を奈良盆地及びその周辺で探すと、大和三山の他、三輪山、葛城山、宇那手、飛鳥の神名備もあって、聖なる山には事欠かないが、山岳信仰といったらなんといっても背後の吉野山だろう。役小角の金峰山、談山神社の多武峰、水銀の神ともいわれる丹生津姫(にふつひめ)を祀るともいう丹生川上神社もある。80年代には電通に乗せられて天河弁財天でキャーキャーいってる薄らニワカもいたが、由緒正しいオタクの押しは玉置神社やろw
tamaki_machigata192.jpgtamaki_machigata152.jpgtamakisan184.jpg玉置山
「熊野三山」は三つの山ではなく三つの神社のことだけれども、玉置山は熊野本宮の奥宮だともいわれてるわけで、熊野三山を山岳信仰としてみる場合には、中心となる聖なる山は玉置山しかありえない。それはともかく、奈良盆地は広大な山々の北の一角にちょこんと付いてる感じ、熊野はその南側の玄関であり、黒潮ルートで海上から来た場合には、ここが入口になるわけよ。
そして瀛洲の候補、九州で聖なる山といえば高千穂だろう。実は延岡市の五ヶ瀬川の昔の河口だったあたりにも徐福伝説があり、「徐福岩」ってのが残ってる。こっから遡上すれば、有名な日向の高千穂峡に到達するし、金立山の東南、八女市の山内にも徐福伝説があり、ここは金立山と高千穂の中間地点でもある。
徐福の話はそれだけで一つの大きな問題系をなしており、議論は尽きないが、とりあえず「澶洲」をめぐる議論に必要なことだけ先に書いといた。他の面白ネタは後述。

夷洲討伐と澶洲探索の政治的背景
AD222年に劉備が呉征伐に失敗してから、呉と蜀は友好関係に転じていた。その上で、魏蜀に遅れて229年に孫権も皇帝に即位すると、蜀と呉は同盟して天下二分をめざすことになった。これまでも三国はそれぞれに東西南北の異民族を味方に引き入れるための外交(戦争や同盟)を展開しており、例えば蜀は225年に諸葛孔明が孟獲を捕らえて異民族の居住地である西南地方を併合、呉は226年以降、交州の豪族士氏を滅ぼし扶南(カンボジア)・林邑(南ベトナム、後のチャンパ王国)・堂明(ラオス)に朝貢させたりしていた。そうした中で229年に魏はクシャナ帝国のヴァースデーヴァ王(波調)を朝貢させるという大成功を収めた。これが曹真の手柄で、敵対派閥の司馬懿が対抗するため倭王卑弥呼の使者を招いたというのも岡田英弘のおかげで有名になった話。だがそれは魏の国内の話であって、外からみれば、呉も、魏に対抗するため倭から朝貢してもらおう、となる。天下二分の盟約のもとでは倭や韓といった東夷諸国は呉に朝貢すべき国々であるとともに、同時に、大月氏などの西戎諸国は蜀に朝貢すべきものであって、偽天子の魏に朝貢すべきではないのだから。ちなみに呉には大月氏出身の支謙という坊さんが来ており孫権の保護下で仏教を布教していたし、呉と大月氏も東南アジア諸国を介して交流があった。ただ天下二分の建前では大月氏は蜀に朝貢すべき国だから呉としては朝貢を公式には要求できない(非公式・非合法にはできる)。タイ以西は蜀の領分とされたらしく当時繁栄していたビルマの「驃国」は呉の朝貢国とはなっていない。それどころか歴史には残ってないが蜀は西南夷を服従させた後、驃国との交流をもったと推測する説もある。230年、孫権は衛温と諸葛直の二将軍に兵1万を与え、夷洲・澶洲へ向かわせた。
illust4944thumb.gif富士山
翌231年、夷洲の原住民を数千人拉致して帰ってきたが、兵のほとんどを疫病で失っていた。また澶洲へは遠すぎて行けなかったという。衛温と諸葛直は責任を取らされて二人とも処刑されたが、これは処刑されるほどの失敗だったのか? また後漢書には一般庶民ですら澶洲から会稽にきて交易してるといってるのだから、「澶洲が遠すぎて行けなかった」なんてことは明らかに事実に反することで、言い訳にすぎない。処刑に値するような何か大きな失敗があったことを隠蔽するための言い訳だとすると、澶洲にはちゃんと到達したのだが、朝貢を促すための外交交渉に失敗し、それどころか敵対関係に陥って戦争になり、ほぼ全滅に陥ったのだろう。つまり疫病で兵を失ったというのも嘘。中華思想というのは異民族を蔑むことだと誤解してる人が多そうだが、そうじゃなくて異民族に尊敬されることが重要なのである。中華皇帝にとって異民族に背かれるというのはもっとも恥ずべきことであり、この二将軍の失敗で、即位したばかりの皇帝孫権の面目は丸つぶれになった。こう考えないと、単に遠征で敗北したわけでもなく探検隊の目的地が見つからなかっただけで死刑になるというのは不自然すぎる。
ではなぜこの外交は失敗したのかというと、呉の高圧的な態度のせいだろう。三国とも異民族に対してはアメとムチ、物資の贈与(国内では下賜と称しているが実際には献上)と武力討伐、友好と圧力を使い分けているのは当然だが、この時代の中国は国力が下がっており、魏は烏丸や南匈奴を配下に引き入れて騎馬軍を編成し、蜀は孟獲のような西南夷を登用したように、異民族の協力なしでは国が成り立たないから、敵対するよりは下手に出て融和策をとることが多い。ところが魏蜀と比べると呉は融和が少なく武力行使が多い。その理由はいろいろあるが一つには異民族(この場合は「山越」)が国内に多かったせいもあっただろう。また三国とも人口不足に悩んでいたが、呉は異民族狩りで人口を補っていたため、異民族との関係を魏や蜀のように円滑に運営するノウハウが無かったか、少なくとも巧くはなかった。で、衛温と諸葛直は澶洲に辿り着いたはいいが、上から目線で偉そうな態度をとったため相手の国王だか外交官だかを不快にさせてしまった。そこで頭を下げればよかったのに、あせった二人は武力で脅しをかけ、これが裏目に出て火に油ってことに。逆襲されて澶洲から叩き出されて逃げ帰ってきたのだろう。

呉と同盟したのは狗奴国ではない!
しかし呉としてはここで終わるわけにはいかない。記録は残ってないが、その後も呉は交渉を試みて、ある程度うまくいったのではないかと思われる。それは呉の年号が書かれた二枚の鏡から察せられる。山梨県の古墳からでた赤烏元年紀年銘鏡と兵庫県宝塚市の高塚古墳からでた赤烏七年紀年銘鏡だ。
さてその二枚の鏡からどう考えるかだが、女王国が魏の属国になったと思い込んでる徒輩の発想では、少なくとも呉へのシンパシーを表明するような振る舞いは卑弥呼からみて反逆を疑われかねない程度にはヤバイことだったろうから、当時の兵庫県宝塚市と山梨県にはアンチ卑弥呼の勢力がいたと予想するわけだ。そしてそれは、魏志倭人伝をみるかぎり、狗奴国のことであり、卑弥弓呼を中心とする男王国(男王派の諸国)以外にありえんだろう、だから、邪馬台国と敵対していた狗奴国が、呉と同盟していたのではないか、というわけ。こういう説は大昔からあるんだが、今ひとつ力をもたないのは歴史書の裏付けが弱いから。が、呉の年号の鏡が2枚もあったら考古学方面からの補強は十分すぎると、普通なら思われる。しかし出土地が…。山梨県のは、最近うるさい「狗奴国東国説」を援用すれば辻褄はあうが、兵庫県宝塚市のは、邪馬台国畿内説だと親魏反呉派の中心であるはずの邪馬台国に近すぎる。邪馬台国九州説で畿内に狗奴国があったすればよいが高槻市と和泉市から魏の年号鏡がでているから畿内では狗奴国より邪馬台国の方が勢力ありそう。第二に兵庫県と山梨県では離れすぎてるので説明が難しい。鏡の配置からすると親呉派は東西に分断されていたことになってしまう。そもそも狗奴国の位置については畿内説もあるが肥後(球磨郡~菊池郡)説もあり東国説もある。男王卑弓弥呼は狗奴国一国で孤立してたのではなく、最少でももう1ヶ国「狗古智国」という男王傘下の国があったろう。それは対馬国・一支国について「その大官(長官。つまり太守、知事のようなもの)を卑狗と曰ふ」とある通り、対馬国の大官は「対馬卑狗」、一支国の大官は「一支卑狗」となるわけで、当然「狗古智卑狗」というのは「狗古智国」の大官だろうと推定できる。魏志倭人伝には狗古智卑狗が卑弓弥呼に仕える官だとはあるが狗奴国の官だとは書いてない。九州(肥後菊池郡)の狗古智国も、東海道(静岡県袋井市)の狗奴国も、どちらも女王国と敵対する男王派(卑弓弥呼派)なのである。これを三国志が混同してるのは、ちょうど隋唐の中国人が台湾と沖縄を混同して琉球と呼んでいたのと同じようなことなのであるw ただ肥後菊池郡と静岡県袋井市では離れすぎているので、中間地点の熊野あたりも中継基地として押さえていただろう。内藤湖南の畿内説の継承者で、最初に箸墓を卑弥呼の墓だといったり最初に日本海航行説を出した天才、笠井新也は、狗奴国を熊野地方だとする説を唱えていたのである。南九州・熊野・東海道は海路で結ばれている。四国から房総までの海は忌部氏の海上移動ルートであり、駿河を中心に熊野から茨城県までは常世(とこよ)信仰の分布圏、茨城県沿岸から三陸岩手県までは安波信仰(大杉信仰)の分布圏でもある。これらはどれも「黒潮文化圏」の一面なのである。そして、この勢力配置は、室町時代の南北朝の争乱の南朝勢力に似ている。南朝は吉野の山奥に本拠を置いて、東の奥州は鎮守大将軍北畠顕家が率い、九州は征西将軍懐良親王が治めた。女王卑弥呼と男王卑弓弥呼の争いも「倭王」の地位をめぐる王位継承争い、南北朝の抗争のようなものなのである。
しかし、魏の紀年銘鏡も呉の紀年銘鏡も、どちらもちゃんと古墳から出てくるということは、一方の派閥が完全には滅ぼされず、和解した上で統合したってことなのか? もし一方が滅ぼされたなら、そんな反逆罪に問われかねない不穏な鏡を副葬品になんかできないのではないか? 親呉派=男王派が滅ぼされたなら、そもそも呉の年号の入った鏡自体がうやうやしく埋葬されて平穏に存在の許された古墳から出てくる、なんてことはなかったと思われる。それこそ金印みたいに畑を耕してたら土中から出てきた、というならわかるが…。狗奴国&男王卑弥弓呼がどうなったのかは魏志倭人伝に書かれてないので、狗奴国が邪馬台国をほろぼして大和朝廷になったっていう説もあるのだが、『晋書』では邪馬台国の卑弥呼の倭国がそのまま倭の五王の倭国になったように書かれており、これが当時の中国人の認識だったことがわかる。『晋書』の記述に従えば、女王と男王が「和解して平和裏に統合した」可能性も必ずしも排除はされないが、普通に考えれば男王派は女王によって完全に滅ぼされたか、屈服して女王に帰順したか、いずれにしろ敗けちゃったって可能性が一番高いだろう。そうすると、どうもこの呉の年号の入った鏡ってのは「男王派(狗奴国派)のものではない」のではないかと思われる。
卑弥呼を中心とする倭国の勢力(=女王国)は当時は魏と連帯してたとはいえ、だからって倭国が国内で公式に魏の年号を採用してたとも思えないし、カン違いしてる手合が多いが、波調(ヴァースデーヴァ)本人にしてみれば「親魏大月氏王」の金印もらったからって魏の属国や魏帝の臣下になったつもりは無かったろう。倭国も同じで、魏の属国になったわけではない。岡田英弘がいうように、倭国が魏に朝貢したのも卑弥呼が親魏倭王になったのも、すべて魏の側の内部事情、司馬懿の都合なのであり、倭国にしてみれば「頼まれたから行ってやった」んで、こっちが頼んだわけではない。だから倭としては呉から使者がきても「来るものは拒まず」だろう。呉が澶洲にいって失敗したって話は男王国との交渉に失敗したんだろう。ということは澶洲とは男王国(男王派の国々)のことだとも思われる。そうすると夷洲が女王国(女王派の国々)か(夷洲ってのは、台湾も夷洲だが沖縄も夷洲だし、日本も夷洲なのである。その時々の文脈によって解釈がかわる。固有名詞化する前の「夷洲」という言葉は本来は「東方の異民族の島」という普通名詞なのだから)。で、呉と男王の交渉が失敗したと卑弥呼が聞けば、男王への対抗上、女王としては「なんならアンタの国(呉)はウチで拾ってあげてもよくてよ、はぁと」ということになる。岡田英弘が詳しく解析しているように、魏志倭人伝は司馬懿の功績を顕彰せねばならない経緯があるので魏が倭国からの支持をとりつけたかのように書いてある。実際には魏と呉は倭国からみて等価値、両者同等の扱いだった、なんてことは、陳寿としては死んでも書けない(実は陳寿が使った原資料の段階で手が加わっていたのだがその件は今回はふれない)。だから夷洲も澶洲も会稽の東として倭国と同じ場所のように匂わせるだけで、ズバリ倭国のことだと明記はされてないのである。

従って、前の方で書いたように陳寿は三国志で「夷洲・澶洲」を倭国と同じ場所だと何度か念押ししてるのは、場所が同じらしいとは思っても呉の歴史資料が十分でなく確信がもてなかったのだ、というわけではない。あるいは、夷洲と澶洲ならべてる記述者の気分としては、澶洲の人々もエスニシティとしては夷洲(=沖縄を中心とする西南諸島)の人々と同系の南方民族ってことで、北九州や畿内の「倭種」とは別民族ってことだと考えたわけでもない。倭人伝の習俗記事は前後に分断されているため重複している項目があり、一方は女王国のもの、他方は狗奴国(実際は狗古智国)のものだ(早大教授水野佑の説)。どちらも広義の倭国の一部として出ている。だから倭であるかないかということはエスニシティの問題ではなく政治的な所属の問題なのである。呉が倭国と交渉をもったということが明記されると、「大倭王に朝貢させた=魏を支持させた」という司馬懿の功績が無意味になってしまうから、ボカして書いてるのだ。倭の女王は実際は呉とも交流してるんで、魏だけを正統だと認めたわけではなかったのである。
『肥前國風土記』松浦郡値嘉島條に「此の島の白水郎の容貌は隼人に似て恒に騎射を好みの言語俗人に異なれり」と、五島列島のあたりの人の習俗が隼人と同じだったようなことが書いてあり、律令の定めでは毛人(蝦夷)・肥人・阿麻弥人(奄美人)も「夷人雑類」とされている。これらはエスニシティーとしては隼人と同一民族だろう。この「肥人」の読みはクマビト、ヒビト、コマビトの3説あり、このうちコマビトが誤りだとは容易に推測できる。長らくクマビトと読んで肥後国球磨郡にいた種族と思ってきたが、詳しい議論は省略するがあれこれ考証した結果ヒビトと読むのが正しいというのが現段階の結論だ。五島列島のあたりは肥前国に含まれ、そこの住民は肥人といえる。そして「正倉院文書」天平五年の右京計帳に阿太肥人床持賣と見え、同十年の駿河國正税帳に遠江國使肥人部廣麻呂があり、「肥人」は京都にも遠江・駿河にもいたことがわかる。西の肥前・肥後、東の遠江・駿河の組み合わせは男王卑弥弓呼の勢力圏と重なる。

後漢書は澶洲について「人民時に会稽に至りて市す」(澶洲人は時々会稽まで交易にきている)と、「所在絶遠にして往来すべからず」(遠すぎて行ったり来たりできない)と、まったく逆のことを二つ並べて書いてる。「所在絶遠にして往来すべからず」は三国志での呉が澶洲探索に失敗したことをいってるんだろうが、言うまでもなく日本と中国の間で「行ったり来たりできない」なんてのはありえない話で、「人民時に会稽に至りて市す」が真相をあらわしている。

徐福伝説と狗奴国の関係
ここまできてようやく徐福の話に戻れる。徐福伝説の金立山・熊野・富士のうち、まず肥前佐賀の金立山は、男王国の西の拠点である狗古智(肥後菊池郡)とは目と鼻の先でほとんど隣接しておる。男王国の東の拠点、狗奴国は静岡県袋井市にあった「久努」が遺称地だが、静岡市の久能山のあたりまで広がってたんだろう。久能山なら、富士山への登山口まで60kmぐらいしかないし(1日7時間歩いて2日の距離)、徐福伝説の地である三保の松原ともほぼ隣接している。つまり徐福の3大伝承地「金立山・熊野・富士」というのは、ちょうど男王国の3大拠点に一致しているのである。
そしてようやっと澶洲の話に戻れるが、三国志は澶洲に徐福の子孫が住んで人口数万家もあるという。これは伝聞の形でかかれているから本当かどうかは当時は未確認情報だったわけだが、岡田英弘は「当時の中国は人口減少に悩んでいて洛陽ですら7万戸はなかったろう、邪馬台国の7万戸がホントなら驚異的な大都市だ」といっている。もし澶洲の人口数万家が本当なら奴国でも二万戸しかなく、投馬国の五万戸、邪馬台国の七万戸に匹敵する大勢力ということにならないか? つか三国志の東夷伝全体からみても、当時(3世紀の段階で)数万家もの人口を抱え込んだ国なり勢力は倭国を除くと「夫餘の(国全体で)八万戸」という話と、「馬韓全体で十余万戸」「弁韓、辰韓あわせて四、五万戸」という話が目立つぐらいで他はぜんぜんたいしたことない。人口不足を解消するため異民族を「人狩り」していたほどの孫権なら、魏に対抗するため澶洲を探したくなるのも道理だろう。しかし男王卑弓弥呼からすれば、異民族政策で良い噂のきかない呉より、同盟相手にはより強大な魏の方が望ましい。しかも安徽省亳州市の曹操の一族の墓から「有倭人以時盟不」(倭人時を以て盟するや)と書かれた磚(せん:レンガ)が出土し、曹氏の一族が倭人と関係をもっていた可能性が高まった。
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磚には建寧三年(AD170年)の年号を記したものがあるので、墓の主は曹操の父曹嵩(そうすう)とは同世代だろう。この墓の主は「会稽曹君」といい、会稽郡の太守だったらしい。それなら当然、夷洲人や澶洲人を知っていただろう。AD170年ということは、倭国ではまだ男王と女王の対立が起こるよりずっと以前のことになる。つまり男王か女王か問わず、倭人なら呉に比べれば魏と最初から近い関係があった。当初、呉の澶洲探索隊が失敗に終わったのはこういう背景があったわけだ。

倭国の外交戦略
さて、では女王国も最初から同盟相手として魏を選んでいたのかというと、そうとも限るまい。
蜀と燕(遼東半島の公孫氏)は東西に離れてはいても、相当はやい段階で協力を模索していたとしてもおかしくない。214年の夏に劉備が益州牧となり益予荊の3州をもって自立してから、221年四月に皇帝に即位するまでの6年間、『三国志』では諸葛孔明がずっと成都にいたようなことを書いてるが、詳細な記事は一切なく「謎の6年間、空白の6年間」とよぶ研究者もいて、孔明はこの間いったい何をやっていたのかと疑問を呈している。偶然にも倭王権が継承問題おこして男王と女王に分裂することになった最初の時期にあたっている。孔明はおそらくこの6年間に燕(公孫氏)の実力を見定めるために秘密の外交使節をやりとりしていたのではないか、むろん公孫氏は歓迎して実力のほどを示そうとして、公孫氏をバックアップする東夷諸民族の情報も(多少、盛ったりはしつつも)開示したに違いない。そういうわけで蜀もまた東夷の情勢については一定以上の知識をもっていたと推定できる。後漢が四分五裂してより燕(公孫氏)は夫餘と婚姻を結んで高句麗を牽制し、夫餘の分国を馬韓に作らせ(百済の建国)、高句麗の影響力を馬韓から排除しようとしたが、東夷の諸民族とは一般的にうまくやっていたようにみえる。それはつまり倭国ともうまくやっていたということだ。
倭国の内部では、大陸が統一されるとその矛先は異民族に向かうのがパターンだから、中国は分裂していたほうがいいという考えもあるし、大陸の戦乱がいつまでも続くと難民(=不法移民)が増えて困るというのもある。前者なら呉や蜀を支援して魏がこれ以上強大にならないようにしなければならないが、後者ならもっとも強大な魏にさっさと中国を統一してもらって中国人が安心して暮らせるようにしてもらうべきだってことになる。前述のように男王も女王も曹氏一族に親密だったのならば魏との同盟は自然な流れではあるものの、天下に縦横しようという大戦略としては燕(公孫氏)・蜀・呉の三国同盟で魏を牽制するという戦略になるのが普通だろう。だから卑弥呼自身はアンチ魏だったのではないかと思われる。それは倭人伝に卑弥呼が「鬼道に事え、よく衆を惑わす」とあることからもわかる。鬼道というのは、アニミズムや道教も含め「儒教からみて正統でない宗教や信仰」を漠然とさしている言葉だが、もし道教だったら「五斗米道」とか「天師道」とか「太平道」とかそのまま書けばいいんで、わざわざ「鬼道」なんていう、もってまわったウヤムヤな言い方はしないだろう。そうすると、アニミズムとかシャーマニズムとか原始宗教とか部族宗教とか、要するによくわからない未開人の宗教だということになるが、これもおかしい。別に、倭国は儒教という正しい宗教を知らぬ「異民族」って建前なのだからそんなの当たり前であり、普通ならいちいち書かれないことだ。それがわざわざ書かれてるのは「よく衆を惑わす」という言葉にポイントがある。斎藤忠は「惑わす」というのは(民や国を)「治める」の意だとして用例をあげていたような記憶があるが、普通に治めるだけならそう書けばいいのであって「惑わす」とはいわない。これは訳のわからない呪術をやってるという意味ではなくて「鬼道につかえ」ている、つまり儒教の大義名分にあわないことをしてるという意味なのだ。なんのことかというと、紀年銘鏡からわかるとおり、倭国は(というか卑弥呼は)呉とも通交しており、「正統な中華王朝は魏だけであり呉や蜀は偽帝であり僭主であり、要するに『悪』だ」ということを認めず、呉や蜀を支持するようなことすら時には言ってしまって衆を正しく導かない、呉や蜀にも名分があって三国が同等であるかのように衆が思ってしまう、だから「衆を惑わしてる」ということだよ。

外交史・同盟相手の変遷
では229年から時系列で歴史をたどってみる。
「呉・蜀・燕(公孫氏)と東夷諸国はみな大同盟して魏を包囲するというのが当たり前の大戦略」なのだが、なんでおかしくなったかというと、一つには蜀と呉には「天下二分の取り決め」とそれに基づく縄張り意識があって、建前上、蜀と倭は直接には交流できなかった(距離が遠く離れてたからできなかったわけではない)。二つには、倭国が内部で争ってたから。公孫氏の得ていた情報としては、今の倭国は女王卑弥呼派と男王卑弓弥呼(ひこみこ=男皇子)派にわかれてどちらが正統か争ってること、外交策としては昔からの縁で魏を支持してる派があるのみならず、女王本人のように呉や蜀と同盟して魏を抑える案もあって特に決まってはいないから、外交政策としては暫定的に公孫氏の流れに追随している、というところまで。ところが230年に呉の水軍が澶洲(倭国)を探索しにいって撃退されたらしい、という情報をキャッチした公孫氏は倭国の内部事情を探った上で、どうも呉を撃退したのは女王ではなく男王らしいと知り、男王派の軍事的な実力を認めて、対倭外交では女王派でなく男王派(つまり親魏派=反呉派)になることを決めたんだろう。だから公孫氏と呉はそれまでうまくいっていたのに233年の三月になって公孫淵が突然呉の使者の首を斬って魏に寝返ってしまった。この頃、倭国は激烈に新羅(当時の言い方では辰韓の辰王だが以下便宜的に新羅と書く)と戦争しており、有名な新羅の于老将軍のエピソードがある。233年の五月に卑弥呼の使者が新羅にきてるがこの年のこの月は倭軍が新羅に押し寄せた時でもある(卑弥呼の使者を三国史記は干支1運(=60年)誤っている)。新羅は倭に近く交流も頻繁で深いので、倭の国内事情を最初から知っていて、もともと男王派(狗奴国派)なのである。その頃の倭国は男王も女王も「来る者は拒まず」以外の世界戦略をとくにもっておらず、理想や観念はともかく実務的なことは現地まかせで、公孫氏は隙にやってたと思われる(自意識では公孫氏を管理または支援していたつもりだったろう)。そのため公孫氏が男王派になって魏につくと決めた以上、女王としては遼東半島に派兵して公孫氏を成敗するか、さもなくば当面放置するしかない。が、それは「公孫氏に対して」の話であって、大問題ではない。ただ、公孫氏を介在させた外交ができなくなったわけで、倭国の建前が中国に対してワンクッション置かれなくなるだけのこと。一方、本音をいえば、そもそも倭国は国内が割れているのだから対外的にたくましく合従連衡の戦国に乗り出していく余裕はない、という意見もあり、それなら中国の覇権争いでトップランナーである魏を承認しておけば、とりあえず当面はラクができる。もし実利だけいって不足ならば、魏こそが正統で呉や蜀はいんちき政権だっていう理屈だっていくらでもいえる。外交を担当した難升米や、卑弥呼の男弟らはそこらの細かいことはなんとでも繕っていくつもりだったろうし、女王本人も含めて意見の大きな対立があったわけでもなかろう。それというのも、中国の論理(つか司馬遷の論理)では、魏呉蜀のうち一つが正統であとの二つは存在すること自体が悪であり征伐の対象なのだから、日本がどれか一つに朝貢するだけで、もう、その一国だけを正統と認めたことと受け取られる。大陸の問題に日本が介入したとみなされるのだが、それは中国人の一人相撲で、こっちの知ったことじゃないからだ。だがこちらの態度が大きな影響力をもつなら無碍にもできない。だからもし難升米や男弟が本心から魏だけを支持していたのなら(そんなことはないが仮にそうだとしたら)、女王は最後まで納得せず「呉や蜀も認めてやらんと問題じゃろ?」とかいって渋ったり粘ったりしてたかもしれない。女王国政権が大陸の覇権争いに対して中立だったのは、考古学的にも推定できる。それが紀年銘鏡にある赤烏元年(AD238年)なのである。『三国志』は前述の都合で載せてないが、呉の使者がついに卑弥呼のもとに到着して、ウマいこと外交関係を取り結ぶことに成功したんだろう。
それと、それ以前に遡って、公孫淵がのちに滅ぼされてしまったので記録はないが、青龍三年(235)の紀年銘鏡があり、これは諸葛孔明が死んだ翌年で、魏が公孫氏へ軍を振り向ける余裕ができた頃。この年、危機を覚えた公孫氏が倭国に保護なり支援なりを求めたのだろう。むろん魏に対しては、倭国との仲介を担う気があることをアピールすると同時にバックに倭国がついてることもにおわせる、という外交もやろうと思えばできることになった。中華思想の建前に縛られてる魏がそういう情況を把握すれば、女王との国交樹立に道がついたともいえるわけで、もう魏にとって男王との結びつきはかなり軽いものになった。男王はそれで全然かまわない、卑弓弥呼としては「継続性」と「血筋」へのこだわりから、三国の中では蜀にシンパシーを感じていたのではないかと想像する。魏と女王国とが近づいたのは男王卑弥弓呼にとっては、「昔から義理があって切れない相手が向こうから手を切ってくれた」おかげで世界戦略がやりやすくなったってことでもある。ただ、呉と男王はどちらも自分が偉くて相手の方が頭をさげてくるのが当然という思い込みがある点で似たもの同士だったんだろう。実際には魏も蜀も異民族に対してある時は臣従してその力を借りたりまたある時は対等の同盟をしたりしていたのである(正史には異民族を臣従させたかのように書いているが文章表現だけ)。呉との関係がおじゃんになってしまったことについては、男王国は痛いともなんとも思ってなかったと思われる。上述のごとく、当時の中国は人口減少に苦しむ弱小勢力で、倭国は巨大な人口を抱える大国だった。現代とはちょうど逆なのだ。男王派としては大陸に友邦をつくらずとも、女王派に勝つことは十分できるのであって、大陸の友邦なんて、海を越えて援軍にきてくれたところでどれほど役に立つかすら疑問だったろう。むしろ、ちゃんころに媚びてる連中として女王派を蔑んでいた可能性すらある。呉にしてみれば澶洲探索の失敗(=男王との国交樹立の失敗)で東夷外交が全面崩壊した後なわけで女王国との国交樹立は最低限のメンツを保ったことにはなったが、それだけにすぎず、女王は魏と呉を同等に扱ってるのだから呉が魏に勝ったってわけでもない。なにより「呉・蜀・燕の対魏包囲陣」ができたわけでは全然ないのだから、三国間の外交戦では魏が勝ったってことだ。反魏の諸国が包囲網を作ることができなければ、各個撃破されるだけで、ここから大きく情勢が転換していく。
それより以前すでに高句麗も236年には呉から魏に鞍替えしていて、赤烏元年(238年)に卑弥呼と孫権の外交がなったものの、すぐ翌年(一説では同年)魏は倭王の使いを洛陽に招き(例の親魏倭王)一気に逆転した。公孫淵はあらためて呉に救援を依頼したが、孫権は公孫淵の変節に怒っていたので取り合わない…。という流れ。魏による各個撃破が始まり、まず燕が滅ぼされた。遣使が景初三年でなく二年だという説では、倭国は迅速な外交でパワーバランスの急変に応じたというのだが、どうだろうか? 案外、倭国は衝撃的な大事件だとは受け取らなかったのではないか。男王派か女王派か問わず、魏を支持する場合であっても、それは公孫氏を滅ぼすことを許容するという意味ではなかったろうが、緩衝地帯としての公孫氏を必要としていたのではなく単に自分の属国という程度の認識だったろう。その昔、漢の武帝が朝鮮を滅ぼして四郡を置いた時、三国志の時代とは比較にならないほどの全盛期の強大な漢帝国が玄界灘まで迫ってきた。おそらく当時の倭国は恐慌し社会不安も絶頂だったろう。その悪夢は男王国でも女王国でも伝承され記憶に刻まれていたはずだが、三国時代の魏だの呉だのは前漢とは比較にならならないほど弱い。だから男王国も女王国も、公孫には上から目線で、できるだけ支持と支援を与えてきたつもりだったのだが、両者が敵対していたため、どちらかにつかねばならないという中国式の発想に縛られた公孫淵の判断を狂わせた。だから元をたどれば倭国自身が悪いのだ。仲間割れってのはするもんじゃないね。

おまけ・景初二年か景初三年か
魏への朝貢は、景初二年(238年説)と景初三年(239年説)があって、有名な論争のネタになっている。普通に考えると景初三年が正しく景初二年は誤記で決まりなのだが、捻くれた考えをすると、景初二年はまだ魏と公孫の戦いの真っ最中だからありえない、というのはそれこそありえないし、景初三年だと先帝の喪中に外交のお披露目や親魏倭王の叙任など考えられないというのも一理ある。最大の根拠は戦争終結後の景初三年では外交戦略上の意味が薄れるという説で、これもごもっともだと思われる。が、景初三年の紀年銘鏡があっても景初二年のはないから、考古学からいっても景初三年が正しいだろう。国際関係の変化に素早く対応したわけでは全然なく、今回も向こう(司馬懿の手下である帯方郡の役人)から頼まれて行ってあげたのである。ただ『晋起居注』からの引用に「明帝」の字があり、何もないところにこの2文字が紛れるのも不自然すぎてただの誤りとも考えにくく、これを重視すると景初二年説も捨てがたい。思うに、記録にいちいちなくても「非公式」の使者のやりとりは常時あるので、当然景初二年にもあったのだが、ドタバタで献上品の十分な用意もなく、正式な使者は改めて三年になったんだろう。だから公式には景初三年で正しいのだが、それ以前に使者のやりとりが無いと考えて歴史を構想しては間違えるのではないか。

◆予告編◆
だが、もちろん話はここで終わりではない。
澶洲が日本なら、澶洲のタン(またはセン)の音はどこのなんという地名を写した音なのか? 徐福は本当に日本に来たのか? そして沈没した伝説の島とは…?
そういうわけで「沈没した神仙島の謎【後編】~いま謎は紐解かれた!(仮)~」に続くw(後編のサブタイは未定ですw)

タモリ倶楽部、「下町三山」を踏破!
なお日暮里山のすぐそばには世界的な観光地「谷中銀座」と「よみせ通り」がある。遊びにきてくれたらビールぐらいおごろうw

☆仏教伝来以前「お盆」はどうしてたのか?

H30・8・20(月)改稿
今日は平成27年8月19日(水)。世の中はお盆休み。
IMG_0106.jpgH30・8・20(月)撮影
お盆
ところで、そのお盆なんだけど「お盆」ってのは単に仏教の行事だと思われてますね。でも本当は日本の固有の先祖信仰と仏教の「盂蘭盆会」(うらぼんえ)が混淆したものだってことは、最近ではようやく誰でも知ってるようになってきました。ところが仏教は日本に来る前に中国の文化とも混淆しており、日本固有の信仰でもなければ本来の仏教でもない要素も多分に含まれてる。

インドの「盂蘭盆会」+中国の「中元節」+日本の「?」
そもそも仏教は先祖供養をしなかったのだが、先祖崇拝に熱心な中国では仏教は受け入れられないので、中国人向けに先祖供養ってのを始めたわけ。中国では正月十五日を「上元」、七月十五日を「中元」、十月十五日を「下元」といって、このうち中元が「生者は贖罪し、死者の罪はこれを赦す日」とされていた。そこで仏教がそれに便乗して始めたのが「盂蘭盆会」。盂蘭盆は「逆さに吊るされた」という意味で、先祖が地獄で苦しんでることをいうらしい。この先祖を供養して救おうというわけ。
だから、今でこそ8月15日になってるけど本来はお盆は旧暦七月十五日でしたね。でこの日付は中国の先祖信仰からきているのであって、本来の仏教とも関係なければ、仏教渡来以前の日本の固有信仰とも関係がない。

仏教以前の日本の祖先祭祀
では仏教以前の日本ではいつ先祖祭祀をやっていたのかというと、それが秋のお彼岸(9月23日頃)だったと思われる。この「お彼岸」も仏教行事になってしまってるけど、こんな行事はインド仏教にも中国仏教にもなく、日本独自だそうだ。旧暦でいうと、旧暦は二十四節気と日付が一定しないので最大で30日ぐらいも前後するが、平均して八月十五日のあたり。つまり早い年だとお盆のすぐ後がお彼岸で、遅い年だと2ヶ月ほど間が空く。先祖祭祀という同じ趣旨の祭儀が1ヶ月おいて2度あるというのはへんだろう。仏教ではあれこれ理屈つけてはいるが、これはもともとの日本の先祖祭祀が秋分の日にやっていたのを、仏教が入ってきてからお盆とダブってしまったものなのである。そしてお盆はふつう十三日が「地獄の釜のフタ開き」と称して「迎え火」を焚き、十六日が「送り火」でその間の4日間なのだが、盆棚(ぼんだな)の飾り付けは七日つまり七夕(たなばた)から始める。この盆棚(精霊棚ともいう)はもともと幡棚(ばんだな)といったのが盆棚(ぼんだな)に訛ったもので、日本固有の信仰である七夕のものであり先祖信仰とは関係なかった。従って本来の精霊棚は先祖の位牌を置いたりはしなかった。七夕は祖先信仰ではなく豊穣豊作を祈る祭儀だったからである。お盆の茄子や胡瓜で作った牛や馬は、盆棚でなく玄関や出入り口の門に飾るのが本当だろう。お盆の行事の「灯篭流し」も本来はお盆でなく穢れを川に流す七夕の行事とお盆の「送り火」が混同してできたのだろう(この七夕も中国からきた要素と日本古来の要素が混じっているがややこしくなるので今回はその話はしない)。盆踊りは地獄で苦しむ先祖の姿を模した踊りだというのは仏教式の後付け説明で、先祖と子孫が一緒に踊を通じて交流するのが主旨で、さらに古くは祖先の霊が憑依したことを表現する踊りだったろう。満月の明かりを利用するため十六日にやるというのも世俗化が進んでからの後付け説明で、盂蘭盆会と合体したからその日付になったにすぎない。お彼岸だと満月とは限らないから「篝火」が必要となる。これがお盆の「迎え火」「送り火」の起源で、篝火だけでは足らないということもない。本来はどんちゃら騒ぎではなく厳粛な儀式であり、由緒ある神社によくみられる「くらやみ祭り」に近い形式だったのであろう。それと別に現在の盆踊りに近いような楽しい行事としては七夕に歌舞音曲が奏された、ただしこれは昼間。夜のお楽しみが伴う歌垣みたいな行事は年中あったろう。旧暦八月十五日のお月見にも満月の明かりを利用した盆踊りのようなものが付随したかもしれない。ともかくも、お盆から仏教の要素や中国の要素を排除して、そこからさらに七夕から引っ張ってきて混同された要素をよりわけていくと、残った風習(日本固有の先祖信仰)は本来はお彼岸の行事だったのが、後にお盆として七月十五日に移されたものなのと思われ、お彼岸はほぼ日付だけ残された痕跡なのである。

神社本庁への提言
で、神葬祭(神道式の葬式)とか仏教色をぬいたはずの神道式の先祖祭祀でも「中元祭」(ちゅうげんさい)といってお盆はやるらしい。中元というのは中国の道教からきているので、こんな漢語くさい言い方はよろしくないと思う。霊祭(みたままつり)という言い方で十分だろう。8月15日にやることが多いらしいが「霊祭」に名を変えて秋分の日にやったほうがいいのではないか。皇室では神仏分離してから春秋のお彼岸を「春季皇霊祭・秋季皇霊祭」として皇室祭祀の大祭に指定するほど重視してきたのに、民間の神葬祭ではお彼岸よりもお盆を重視するとは、神社本庁の怠慢ではないでしょうかね。

☆「紫神社」の謎を解く

H30・8・19(日)改稿
今日、平成28年8月17日(水)。世の中はお盆休み。なので今回はお盆にまつわる雑談でもしようかと思うんだが、どうせなら古事記とか神話とか古代史とかに関係した話をしたい。私のお盆はここ数年、変化が激しく「いつものお盆」という「型」のようなものはないのだが、今年にかんしていえば14日(日)に朝だけコミケ、サークル参加なので仲間にまかせて申し訳ないと思いつつ一人だけ早引けして国際展示場正門から直で東京いって新幹線で田舎さがり。16日(火)の夕方に田舎から帰京してそのまま仕事にいき、17日(水)もお盆前の仕事のすったもんだとコミケの後処理のすったもんだでどたばた続き。で、お盆で帰省してお墓参りしたついでに、故郷の懐かしい神社もいくつか回ってきたんでその話でもしようかと思うんだけど、その中の一つで今回は「紫神社」の話。
「紫さん」の謎
「紫神社」という名の神社は全国各地にあるが、祭神の違いなどから複数の系統があるらしく、総本宮はどこなのかよくわからぬ。ネットでざっとみたところ宮城県仙台の紫神社(松島明神/紫明神)が有名でそこから勧請したものが多そうではある。
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故郷の浜見山の紫神社(通称:紫さん)は縁起によると、越後国の柏崎から斎藤四郎兵衛和泉盛方なる者が移住してきた時に、その屋敷内に紫明神と観音様を勧請したことに始まるという。なのでもともと柏崎にあった神なのかと思ってたんだが、どうも誤解があるようだ。柏崎からきたのは本人だけで、ここの神は移住の記念に仙台の紫神社から勧請したのではないかと思われる。紫という名は斎藤家の家紋が藤の花の紫であったことから名付けられたというが、勧請した神が紫明神だったからだろうに、なんでこんな不自然な話がついてるのか。この由来譚自体がどこまで本当の話なのか、もうすでに信憑性が乏しい。で、仙台の有名なほうの紫神社(=松島の紫神社)は相当な古社でたいしたものだが、祭神の由来がわからぬ。祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)なのだが、これは古い時代の祭神ではないだろう。天之御中主神が祭神の神社は古くは妙見信仰が習合していたところが多かったと思われる。水天宮の天之御中主神は江戸時代の国学思想に基づいて明治になってから追加したもので妙見信仰とは関係ないがそういうのは例外だろう。ところが浜見山の紫神社の祭神は豊受姫であってぜんぜん違っておる。これはこの神社の始まりに紫明神と一緒に観音を祀ったというから、観音様が明治の神仏分離で豊受姫という女神に置き換えられたのではないかと一応は思われる。しかしそれならなぜ天之御中主神は消えたのか? 出典が不明になってしまったのが残念だが、この神社は大昔は「紫天神」といっていたはずで、ならば祭神は菅原道真だとばかり思いこんでいたのだが、あとで調べてみたら「紫天神」という名はどこにも見当たらない。どういうことなんだろう? ここを管理しているのは北野神社という別のところで、逆にいうとこの紫神社は北野神社の境外末社ということになる。北野神社はいうまでもなく天神様だから何か混同しているのかもしれない。昭和50年に国文社から刊行された『鎮守の森』(第5巻)によるとここの祭神は「屋船豊受姫命・木花咲耶姫命」の2柱となっている。しかしいくら調べても「木花咲耶姫」のほうは現在の情報としてはどこからも出てこない。現在はまるで最初から豊受姫だけだったのように錯覚させられてしまう。このように、現在では典拠が不明でも、失われた情報というのはありうるので、紫天神という呼称もただの勘違いで済ますことができない。で、天之御中主神がどこにいっちゃったのかって話だが、お社の脇に石碑が2つあり、一つは古峰社で、もう一つは「青麻三光宮」。
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写真は3枚ともH30・8・20(月)撮影
どちらも江戸時代の参拝旅行の記念に建てたものらしく、青麻三光宮の石碑には「天保二年辛卯二月」と日付もある。で、古峰はわかりやすいのでとくに問題ないが、青麻三光宮というのは仙台にある「青麻神社」のことで、青麻は青麻沢という地名、三光はそこの祭神である天之御中主神・天照大神・月読命のこと。出たw 天之御中主w 松島の紫神社と同じだ。なにかここの紫神社と関係のある神社として青麻神社が選ばれている可能性はないか? 三光は太陽と月と北極星で、天体信仰の神社である。ちなみに青麻神社は裏に岩窟があってその中に三光を祀ったものという平安時代の縁起譚が伝わっている。
もしこの岩窟が東(真東なら春分と秋分、北東や南東にずれていれば冬至や夏至)を向いていて日の出の光が入り込むようになっていれば、岩窟の中に祀ったというのは石器時代にさかのぼる太陽信仰の典型的なパターンで、天之御中主神と月読命はあとから加えられたのかも知れない。また岩窟が北を向いていれば北極星信仰が先で後から太陽と月が加えられたか。いったことないのでなんともわからぬが、地図で拝殿・本殿の向きをみた感じ、東南を向いており、人間は北西の日没を拝する形になる。しかし背後が山で日没など拝めそうにないし、角度も南にブレすぎて夏至の日没の向きとはあわない。
だが洞窟祭祀と太陽信仰は日本はもちろん世界的にも普遍的にみられる関係なので、青麻神社の場合は月と星はおまけでついてきたもので元々が太陽信仰だった可能性もないではない。とすると紫神社の2柱の女神というのも太陽神の信仰とセットになった古いものかもしれず、浜見山の紫神社の由来伝承に出てくる観音様というのも、女神が先で江戸時代には仏教と習合して観音様ということにされたのではないかとも思える。
まぁ「謎を解く」と壮語するほど謎は解いてないけど、とりあえず今回はこんなとこで。これ以外の他所の紫神社にも、太陽と豊穣にまつわる説明のある神社や、蒼然様(駒形明神とかオシラ様みたいな馬に関係した信仰)がらみの神社などあってちょっと整理に手間取りそう。

☆東武天皇(古事記からみた象徴天皇のルーツ)

H30年8月3日(金)改稿
今日は平成28年8月3日(水)、東武天皇即位の日。src_41687359.jpg
北白川宮能久親王は戊辰戦争の東軍に擁立され旧暦慶応四年六月十五日(新暦8月3日)、「東武天皇」として即位した。ちなみに8月4日(旧六月十六日)は「大政」に改元された日付であって即位の日ではない。この話はこの話であれやこれや面白いんだが、とりあえず古事記とは関係がないので取り上げるつもりはなかったんだが、あえて「古事記からみた近代史」という視点でいってみたい。
東照権現から東照御祖命へ
家康が死後「東照権現」(とうしょうごんげん)として祀られたがこの東照宮ってのは皇室の伊勢神宮に対抗して「関東の天照大神」という意味を込めたといわれるが、本当だろうか。東照権現の本地である薬師如来が「東方瑠璃光浄土」の主だから、京都西国に対して関東の江戸幕府の守護仏とされたのであって、東照権現の「東照」とは「東方の瑠璃光」の言い換え、別表現なのである。むろん裏読み深読みしたい人は「裏の意味は関東の天照大神なんだが東方の瑠璃光の意味にすぎないと言い訳できるようになってるんだ」というかも知れないが、まぁ決め手のないところでそうともいえるってレベルの話。ところで本居宣長は漢語を嫌って和風に「東照御祖命」(あづまてるみおやのみこと)と読んだ。ならば、東武天皇も「アヅマタケルノスメラミコト」と訓読みできるんじゃないか。

「東武」の意味
東武天皇の「東武」は武蔵国の東部で、東武鉄道や東武デパートの東武と同じ。だが、狭くは「江戸」をさしている場合もある。またさらに、武の字は武家(将軍家)の意味にもとれる。で、世の中には、武士の本拠関東(あづま)の神武天皇の意味だという人もいる。しかし神武天皇に例える意味はあるのか疑問もなくはない、寛永寺の門跡が即位したとして神武天皇とか初代のなにかという要素は乏しい。現代人がおかしいのであって、当時の感覚としては伝統の継承に価値なり正統性なりがあるのであって初代を強調することに意味はない。従って、当時の気分としてはこの「武」は神武天皇ではなくて「公武一体」とか「武家」(将軍家)とかいう時の武で、武士のための天皇、幕府に擁立された天皇というニュアンスにとるのが穏当だろう。そういう文脈で武の字を訓ずれば、将軍の意味ならイクサノキミ、武士ならモノノフまたはモノノベと読みたいところだが、字そのままにタケルと読んでも面白いことになる。クマソタケル、イヅモタケルのように、「タケル」というのはその土地を実力で支配する有力者、豪族という意味もある。東武をアヅマタケルと読めば、関東の支配者の意味だ。「東国の武士たちの首領たる天皇=関東の武士に擁立された天皇=幕府の天皇」と結果的に同じ意味になる。

タケルの系譜
タケルといえば、ヤマトタケルが連想される。ヤマトタケルの強烈なイメージは、一世一代のもので後継者が現れるとは思われなかったが、雄略天皇が登場して「ワカタケル」と称される。さらに武烈天皇が雄略天皇を模倣して、雄略天皇が葛城氏を滅ぼしたように、武烈天皇は平群氏を滅ぼした。これで「英雄」の一つの類型が定まった。この型の一貫した要素の一つは「少年」であり、19歳で蘇我氏を滅ぼした天智天皇にもそのイメージが引き継がれている。承久の変において後鳥羽上皇は自らを天智天皇に擬した。建武の中興における護良親王には、放浪と悲劇の英雄ヤマトタケルの姿が重なる。豪放磊落で痛快なエピソードをもちながら22歳で崩御した江戸時代の後光明天皇も加えることができるかどうか。後鳥羽上皇と護良親王は敗北者で、雄略・武烈・天智の三帝は成功者だという違いはあるが、ヤマトタケルは成功者とも敗北者ともいいにくい。しかしイメージとしては悲劇性に彩られているので、後鳥羽上皇や護良親王はぜんぜんミスマッチではない。むしろ、雄略天皇には目弱王という「少年英雄」のイメージをめぐるライバルがおり、天智天皇には崇峻天皇という先行した敗北者がいた。目弱王や崇峻天皇はタケルに成り損ねたもう一人のタケルたちなのであり、彼らは悲劇性や敗北を担い、もう一人の成功者とは光と影のように対になって、元型たるヤマトタケルの要素を分け合う。そして、東武天皇=北白川宮能久親王もまた、親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には許されて皇族に復帰したが、人々は戊辰東軍(旧幕府軍)に親近感を寄せていたし、親王も積極的に庶民の前に出た。現人神として絶対的な威厳をもって畏怖された明治天皇に対して、国民に親しまれる皇族という新しいモデルを提示した北白川宮は、光と影、裏と表のように皇室のイメージを担っていったが、陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげた。
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旧幕臣の多かった当時のマスコミは敬愛する北白川宮(=東武天皇)に深く同情して、現代のヤマトタケルと称賛した。北白川宮の新しい皇族のありかたに注目していたのが誰あろう即位前の大正天皇であり、大正天皇の理想とする天皇像は北白川宮をモデルとしたものであった。そして昭和天皇が敗戦後に、新しい天皇像を模索した時に引き出されたのが大正天皇であり、北白川宮だった。つまり象徴天皇の源流は東武天皇なのである。

日本文化の源流としてのタケルと象徴天皇制の起源
ヤマトタケルのイメージはその後の日本史の中で様々に展開して、日本文化のもつ著しい特徴の源流となった。アナーキーで凶暴、卑怯な騙し討ち、残酷、陰惨、サイコパス…。そういった原始の子供の荒御魂(あらみたま)が、「悪」(悪源太、悪左府、悪党)と可愛く儚い「幼童天皇」に分離して、子供から荒御魂が抜けたが「子供の世界」の認識が残った。これが古代~中世を通じて、アニメやマンガ等のサブカルチャーを含む現代日本文化の核なのである。それにまとわりつく女戦士のイメージは、倭建の女装、熊襲の女酋から、神功皇后、巴御前へと続くだろう。「甘え」の文化(泣き言と擬似マザコン)の起源でもある。強さの基準としての蝦夷征伐「東国造(あづまのくにのみやつこ)の任命」は、後世の征夷大将軍の起源につながっている。なぜ荒ぶる子供が排除されず逆に大切にされるのか?この議論はおもしいが量が多くなる。しかし今回は以上のような話をしたいのではなくて、現在の「象徴天皇制」もまた、タケルたちの最後につらなる東武天皇から提供された一つのモデルだったということだ。北白川宮が、そのような皇族のありかたをプロデュースし得たのは、本人が最後の上野宮様(寛永寺門跡=東叡大王)だったことによる。江戸時代には長い間、天皇と将軍は対等の礼とされていたのでこれだけみると江戸時代の日本は二頭体制にみえるが、実は上野宮も天皇や将軍と同格とされていたので、実際は三頭制だった。そして上野宮は江戸の庶民との交流や精神的な結びつきが極めて強く、公家のトップとしての天皇、武士の領袖としての将軍とならんで「江戸庶民の殿様」ともいうべき第三の権威だった。国民との心の紐帯を核に置く象徴天皇のありかたとは、上野宮寛永寺門跡の制度をルーツとしているのである。

・現代語訳はすべてダメ

本日、平成30年7月28日(土)、わたしの個人的な知り合いの先生がご逝去されました。
佐久間靖之先生49佐久間靖之先生25
お通夜はしあさって31日(火)、告別式は8月1日(水)、ともに蔵前のセレモニーホール浄念にて予定されております。不肖わたくしも両日とも参列せていただいてご冥福をお祈りしつつ、先生とお別れしてまいる所存です。

当ブログの内容はこの先生とはなんの関係もございません。このブログは、先生とは無関係に、わたし(ブログ主)が古事記の感想や個人的な意見をまとめた個人ブログです。

H30.8.1 追記
お通夜、告別式ともに恙無く執り行われ、不肖わたくしも両方とも参列せていただき、先生のご冥福をお祈りしつつ、お別れしてまいりました。

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・「海の日」に思う(旧作の再録)

H30・7・16(祝)改稿
今日(H28)7月14日は、今から1371年前の皇極四年(AD645年)、当時の暦では六月十三日。この日、蘇我氏の邸宅が焼け落ちて多くの珍宝が蘇我蝦夷(そがのえみし)とともに焼亡してしまった日。その中で『国記』は船史恵尺(ふねのふびとゑさか)が燃える邸宅の中から救い出して中大兄皇子に提出したが、聖徳太子が編纂したという『天皇記』は焼失。古伝承の多くが失われてしまった。この時から、天智天皇の中に古伝承の復元や国史の編纂事業という考えは当然あったはずで、いってみれば7月14日は記紀編纂の出発点となった日でもある。だからこのブログとしては重要な意味のある日であるが、今回はその話ではなくて、その前日の話。

その前日(つまり今から1371年の昨日)は、前皇極四年(AD645年)六月十二日、中大兄皇子(なかのおほえのみこ:後の天智天皇)が蘇我入鹿(そがのいるか)を誅伐した。この日を現在のグレゴリオ暦に換算すると7月13日になる。この日も、いわば大化の改新の出発点になった日であり、歴史的に実に意義深い日である。で、もうずいぶん古い話だが、かつて他の掲示板に書いたものを再掲示しようと思う。
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旧作の再掲示
今回再掲示するものは平成17年とあるから11年も前のものだが、最後まで読むと下の方にこれは修正バージョンでオリジナル版は2000年だとある。16年前ですね。若気の至りで書いてるところもあるかと思う。誤字脱字や、事実内容の誤り、現在の自分の考えとの相違点などはいちいち修正していません。現在の私の主張というより過去の資料として読んで下さい。まぁ主義主張としては細かいところを除いて現在も大差ないけどなw

以下、再掲示はじめ

http://www.tetsusenkai.net/column/index.cgi?act=artsel&tree=44&art=1119501040
7月16・17・18日の連休に向けて ~「海の日」に思う~
文責:むらさぎ(非会員・外部寄稿)

平成17年6月23日(木) 13:30

(承前)
さて、今回は前回「民族主義と保守思想は両立するか」(http://www.tetsusenkai.net/column/index.cgi?act=artsel&tree=42&art=1119113892)の続きとして「國體」について考えようと思う。ところで、迫る7月18日は今年は「海の日」であるが、かつては毎年7月20日に固定されていた。この日は実は日本史の大事件である大化改新とも縁の深い日なのである。それで「國體」を考えるよすがとして、まずこの「海の日」と大化改新について語ってみたい。

・7月20日(ただし今年は7月18日)は「海の日」
7月20日は、明治九年に明治天皇が奥羽巡幸の帰途、灯台視察船「明治丸」に乗って、横浜港に帰還した日である。これは文明開化の途上にあった日本の海運業が近代化を終えて軌道にのり一段落した記念すべき日だったという。昭和16年以来この日を「海の記念日」とし、途中からは「海の旬間」というタイトルで、海運・造船・港湾などの海事産業や船員ら及びこれら産業に従事する人々について、国民の理解を深めるため全国各地でいろいろな行事が開催されたという。(しかし個人的には私は港町に生まれ育ったのにそういう行事の記憶はほとんどないのだが?「海の記念日」を運動してきた日本財団の宣伝不足だろうか?)その後、平成七年2月に国民の祝日に関する法律が一部改正され、平成八年(1996年)以後7月20日は「海の記念日」から「海の日」と名を変えその主旨も「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日」として、14番目の国民の祝日となった。その年、初の祝日と成った「海の日」は既に「海の記念日」としては第55回目だったことになる。(一方、同日、日本は「国連海洋法条約」を発行した日でもある。この条約は正式には「海洋法に関する国際連合条約」といい、いわゆる「二百海里法」のことである。)

・祝日と休日
ところが平成十三年(2001年)6月15日「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」が成立。この法律は海の日・敬老の日をそれぞれ7月・9月の第3月曜日に変更して三連休化するという悪法である。これにより平成十五年(2003年)から「海の日」は7月の第三月曜日となった。これでいうと本年平成十七年(2005年)の「海の日」は無意味に二日繰り上がって7月18日となる。まあいろんなことがいえると思うが、ひとつ、「祝日=休日」って発想が根本的にまちがってはいるだろうということだ。休日と切り離したとたん国民の共感を得られなくなるような祝日に意味があるのか?ただの大衆迎合ではないのか?おかみから休日だといってもらわないと休めないような会社(または個人)はその段階でだめな会社(または人間)なのだ。休むための言い訳としての祝日すらも、曜日の都合で縁もゆかりもない日付けにずらされてしまう御時世とは…。むしろ日本人は普段は休んでいいから、なにかの記念日にはそれを祝ってはたらけ、といいたい。昔は、いろいろな祝日が連休になるかならないかわくわくしたものだ。昔は土曜が休日ではなかったというせいもあるが。福田存恒がいったように文化とはそもそも不合理で面倒臭いものでありそれゆえにこだわりとして認識もされ日々の引っ掛かりとして味もあるのである。これは無能政治家が一生に一回くらい法案提出してみたくなり見栄はって無い知恵を絞り余計なことをした一例であろう。そもそも記念日とは、その日付にこそ意味がある。「休日」としての便宜しか考えられてないってこと、これはなにかを記念するという営みではない。記念日というのは本来記念するためにあるのであって単に休むことそれ自体が目的ではないはずだ。毎週日曜を休日とすること自体、日本人にとっては歴史的な根拠などないのだからそれに合わせて歴史的背景のある記念日をないがしろにするのは、文化的自己喪失をすすめるだけではないのか。今からでも遅くない、文化破壊の典型ともいうべき天下の悪法を廃止すべきである。休みたい奴は飛び石になったら間に挟まった平日を休め。そうすればさらに休日が増えて結構であろう。

・天智天皇と天武天皇の兄弟の物語
まぁそれはともかく。大化改新の主役はいうまでもなく中大兄皇子・後の天智天皇であり、戦前までは日本史上の英雄として崇敬されたが、戦後は注目されることも少なく、むしろ弟の天武天皇が面白がられているというのが実情である。それもトンデモ説がだったりするから困ったもんだ。天武天皇がはじめてこのジャンルに取り上げられたのは70年代、佐々克明が「新羅からの使臣・金多遂が天武天皇になったのだ」という説を唱えたのが最初だった。これは佐々克明のオリジナルじではなくて、韓国の説をパクッたものだった。じつは戦前以来、新羅王家の先祖が稲飯尊(神武天皇の兄)からでたとか(これは新撰姓氏録にある伝承である)、あるいは駕洛(から)王家の始祖・金首露が塩乗津彦命(孝昭天皇の子孫)だとかの説があったので、それに韓国人が対抗して「天武天皇=新羅人金多遂」などと言い出したのだろう。その後、日本でも、天智天皇は百済王餘豊だとか、天武天皇は高句麗人泉蓋蘇文がその正体だとか、半島から侵入して日本を征服したのだというようなコジツケ説のバリエーションがふえたが、学問的にはすべてとるにたらないものである。
さて、そもそも天武天皇にまつわる謎というのは、年齢が兄の天智天皇より6歳(5歳だったかな)上であること。大和岩雄の説では、天武天皇は異母兄の漢王・漢皇子(あやのみこ・あやおうじ)と同一人物で、天武が異母兄、天智が異母弟だという。この説は反論があって今のところ信憑性は薄い。が、この年齢問題は大昔からおかしいと思われていたことなので中世からそれなりに研究されていて、一応、北畠親房の両天皇双子説で中世の研究では決着がついているとしてよいと思う。まあ現代の論争ではまだいろいろあるが本稿は古代史談義が主目的ではないので省略する。ちなみに6歳上というのは、日本書紀にはなく中世に紛れ込んできた伝承で、これは夭逝した異母兄・漢皇子の年齢が混入したものだろう。
宝女王(後の皇極天皇)は、はじめ高向王に嫁いで漢王(漢皇子)を生んだが後に離婚して、舒明天皇の皇后になり双子の皇子をお生みになった。そこで私の推理は、漢王(漢皇子)は早逝してしまったので、舒明天皇は高向王を哀れに思し召して双子の1人を賜われた。舒明天皇の手許に残された方が中大兄皇子(後の天智天皇)で高向王の養子に出された方が大海人皇子(後の天武天皇)だったのではないだろうか。
同じ双子でありながら大海人皇子の方は皇位継承順位が大幅に下がってしまった。しかも中大兄皇子よりも大海人皇子の方が優秀な人材だったからややこしい。大海人皇子は自分が「影の皇子」であることを強く意識したにちがいなく、大陸渡来の遁甲の術を学んで忍者の元祖にまでなってしまった。
一方、いささか出来が悪いかと思われた中大兄皇子は、途中省略するがいろいろあって、中臣鎌足とのコンビで西暦645年六月十二日(現在の7月13日)蘇我氏を成敗し大化改新の主役として一躍「光の皇子」となり
天命開別尊(あまつみことさきわけのみこと)と讃えられるに至った。(岩波文庫の「あめみことひらかすわけ」という訓は適切でない。これは崩御後の和風諡号ではなく蘇我誅滅の時の尊号。崩御後の和風諡号は持統天皇が最初。)
大海人皇子は葛木当麻倉首や高向臣や倭漢直や凡海連などを通じて蘇我氏本家と間接的につながっていたので、一般の廷臣たち同様クーデターの計画は知らされていなかったと思われる。
大海人皇子は血筋からいえば中大兄皇子に次ぐ皇位継承者であったのに、これ以後、両者の立場の差は決定的なものとなったが、中大兄皇子・中臣鎌足のコンビの側も知恵者であり実力者である大海人皇子を人材としてかっていた。
六月十九日(現在の7月20日・平成十四年までの「海の日」)は新政府の人事発表があり群臣を集めて盟約を結び「大化」と年号を建てた日だが、日本書紀のこの日の記事には大海人皇子の名はない。が、クーデターにかんでない以上おおっぴらには優遇できないにしても影の参謀あるいは耳目手足として頼りにはしており、ゆえにその時の群臣のひとりとして列席はしていた。
ところが白村江の合戦で、全軍の大将軍だった大海人皇子は惨敗を喫して帰国。もちろん責任問題は生じたはずだが、権力の座にある中大兄皇子にしても今失脚されては困る人材だったため、かばったのである。(白村江遠征軍の総大将はなぜか日本書紀には登場せず氏名不詳だが、前後の事情から判断してこの時期に所在不明の大海人皇子であった可能性が高い。)
白村江の直後、遠征軍は全滅したものの、軍を立て直して整然と退却するだけの余裕はあり、また国内にも強大な大軍団が残っており、プライドを傷つけられた倭国の世論は意気盛んだったと思わるが、ただ唐の実力はそれを上回るかも知れないと危惧するのは大海人皇子や、ごく一部の知識人だけ。この時、唐側に、あわよくば九州ぐらいは奪い取ろうという気分がなかったとはいえない。(実際に九州は唐に併合されたという説もあるが、今のところ珍説の域を出ず、学界では通用していないようだ。)幸い、唐は新羅と対立関係に入ったため、倭国と関係修復せざる得なくなったが、これをチャンスにして新羅とも関係を改善し、新羅に援助し、盾となってもらうという策を考え出しその目的のため裏で糸を引いていたのは、何を隠そう大海人皇子だったであろう。(大海人皇子の周りには親新羅派の人脈が多い)。当時は唐=新羅への反発が大きかったので、この政策は支持が得られにくいものだったろうが、危険をはらんだ微妙な時期の外交戦は切れ者である大海人皇子の采配にまかされていたのだろう。
天智天皇は病気で最期をさとると、この時期は知恵者の大海人皇子に皇位を譲って国難を乗り切ってもらうしかないとも考え始めていた。皇太子・大友皇子のとりまきの蘇我赤兄・中臣金らの5大夫らは、それは困るので大友皇子をそそのかし大海人皇子を排除すべく画策したので、大友皇子は優秀な人物だったことは歴史に徴証があるのだが、さすがに若かったのでついに5大夫らにだまされ、大海人皇子を疑うに至り、壬申の乱に至る。大友皇子の遺児たちは西国ではなくなぜかわざわざ大海人皇子の勢力基盤である東国に落ちのびたがこれは裏事情を知る大海人皇子が彼らを守り匿ったのだと解釈せざるを得ない。
大海人皇子は即位してから国号を「日本」と変更した。日本書紀の天武十二年には明記がないが諸説を検討すると「倭国」から「日本国」に改名したのは西暦683年とする説がよいようである。国号改定は、シナからみれば別の国になったという意味になり、唐と戦った倭国はもう滅ぼして存在しないよ、という外交上の雰囲気作りだったのかも知れない。もっとも国内においては「倭」と書いても「日本」と書いても同じく「やまと」と訓読していたわけで何も変わるものではないが。天武天皇の新政府は、信長政権を継いだ秀吉政権みたいなもので、まったく天智天皇の計画(律令国家建設)を継承するもので、新機軸というべきものはない。しかも壬申の乱は、利権や保身にこだわって改革に乗り気でない旧勢力を一掃する機会となり、天智天皇の改革路線は大きく前進することとなった。記紀の編纂事業も、もともと天武天皇の発案ではなく焼け落ちた蘇我邸から「國記」が取り出されて以降、中大兄皇子が推進していたものであり、日本書紀の編纂委員長は舎人親王なので父(天武帝)を顕彰すべく、天武天皇の落ち度や、天智天皇の功績はほかにもいろいろ隠されているところがある。

・大化改新の歴史的意義
大化改新から壬申の乱までの一連の事件は日本史を画するもので、その前後で日本は大きく生まれ変わった。これに匹敵する事件は明治維新しかない。
それは、倭国というのは、多民族を包含する海洋帝国(国内的には分散的な氏族社会)だったが、半島を失って制海権もなく島国に閉じ込められ、閉鎖的な集権的な律令社会=内陸国家へ移行してしまった。(そもそも律令国家は内陸国家であるシナの文明を輸入したもの。)
この事件はまた封建時代の始まりといってもいい。ゲルマン氏族社会にローマ法学の諸制度(ローマ帝国の枠組み)がかぶさって西欧中世封建社会ができたのと同じく、倭人氏族社会に律令制(シナ帝国の枠組み)がかぶさって荘園や武士が発達した。
遣唐使を廃止した平安朝は太宰府で管理貿易して半ば鎖国のようなものだったが、本来海洋民族としての日本人のパワーはとめることができなかった。庶民は新羅系海賊の影響もあり徐々に海賊化して自由にやるようになった。(これは海賊大将軍藤原純友の乱の背景であり西洋のバイキングの活動と時期的に重なる。)それがやがて室町時代の大内家・細川家という2大海洋帝国になる。これを継いだ本願寺・大友・三好・毛利・島津、そしてそれらを統一した織田・豊臣・徳川も、鎖国以前は強大な海軍をもち、活発な海外貿易をし、また周知のように東南アジア各地に日本人街が存在した。
惜しむらくは江戸幕府の鎖国政策により、海外発展は大幅後退を余儀なくされ、閉鎖的内陸国家的な律令社会の建前は公式観念として温存されてしまったまま明治に至った。頓挫してしまった海外雄飛は開国まで先延ばしになり、日本は欧米列強のはるか後塵を拝するはめに陥った。
こうしてみると大化改新と明治維新は日本史上の単なる二大事件ではなく、相呼応するものであることがわかると思う。これらの日本国家の大変化は、大化改新に発するもので、その立役者は中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)のコンビであって、表立った歴史の流れを大観すると、大海人皇子は単なる継承者というか脇役の感がある。が、オカルト的な興味からは、天文遁甲の達人で国家デザインにもその趣味を存分に活かした天武天皇の方が『ムー』的に面白いってことがあるので、今流行の古代史ファン向けの通俗本では天武天皇の方が主役とした歴史観が出回っている。いわんや逆賊蘇我を悲劇の主役として同情的に描いたり、天武天皇を英雄視する一方で天智天皇を陰謀好きの策謀家に仕立てるヨタ本までが古代史マニアの世界には存在する。トンデモ本や通俗書に目くじらたてるのもどうかとも思うが、國史・國體の観点からはやはり嘆かわしいといわざるを得ない。
さて唐が半島から手を引いて国難が去ると晩年の天武天皇は自分の役割が終わった後も皇位に留まり続けることに悩み鬱々として世を去った。その天武統も称徳天皇で断絶し、光仁天皇から天智統にもどっている。これは大化改新での天智天皇の功績があまりに大きく後々までもその子孫が尊重されていたからである。
そして現在の日本人のほとんどは苗字からいえば源氏、平氏、藤原氏の子孫である。皇室・源氏・平家の三者はすべて桓武天皇から以降次々に別れでたものであり、その桓武天皇は天智天皇の男系の曾孫で、藤原氏はすべて中臣鎌足の子孫。つまり律令国家日本を創設した大化改新の立役者コンビの子孫がそのまま現在の日本国民になっているのである。
大化元年の建元の日は前にいったように六月十九日で、これは現在の暦でいうと7月20日、本来の「海の日」に当たる。これは海を失った日本が内陸国家として再出発した日だったのだがそれが「海の日」とはなんたる皮肉であろう。いや、皮肉ではない。明治以降の日本は、天智天皇と中臣鎌足の子孫として、千年ぶりに、再び「海」をとりもどそうと帝国への道をすすんでいる。「海の日」は海洋帝国再建を御先祖様に誓う日であるべきなのだ。
天智天皇は近江神宮に祀られている。天智天皇は蘇我氏によって滅びかけた日本国家の再建者であり、神武天皇や明治天皇とならび尊崇すべき中興の英主であるとともに、実に日本民族の大祖先なのである。きたる7月16・17・18日の三連休には、近江神宮までは行けないまでも、ただ休みただ遊ぶのではなく、友人との酒の席にあるいはデートのついで・家族サービスのついでに、祖国日本について語らってもよいのではないだろうか。たとえ友人のいないひとりぽっちの人間であってもこのサイトのコラムを読もうというほどの者なら、その体に先祖から継いだ悠遠なる大和魂を分かち合っているはず。近江神宮へ向かってともに遥拝し、日本人としての自覚を新たにしようではないか。
次回は本題に戻って「國體」という言葉そのものからその真義に迫ってみようと思う。(続く)

(本稿は別名で2000年12月9日に日猶板(現存せず。廃墟はhttp://fboard2.jp.cgiserver.net/CrazyWWWBoard.cgi?db=nitiyuura)の新裏板(現存せず)に投稿したものを主に、2002年7月31日に日本論・思想の十字架(http://ueno.cool.ne.jp/mad2001/?)の掲示板(通称寅板)に投稿したものを加え、若干リライトしたものである)

以上、再掲示おわり

・斎宮(いつきのみこ)、王権の三機能の展開

H30年1月26日(金)改稿 H29年6月22日初稿
清子姫様が19日付けで伊勢神宮の祭主にご就任あそばされたことを伊勢神宮が20日に発表した、とマスコミが21日に報道した。ややこしいな(今日は22日で以上はすべてH29年6月の話)。さて、伊勢神宮の祭主って昔から女性皇族が務めてるような記憶があるので、斎宮と印象がかぶるが、実はぜんぜん違うもの。詳細は適当に検索して勉強して下さいw 俺も調べてみたら昭和二十二年(1947年)に就任した北白川房子内親王が最初の女性祭主だから、最近のことだ。推古天皇の時に初代が就任したという、伊勢祭主の長い歴史の中ではそれまで一貫しておっさんが就任している。祭主というのは偉いことは偉いんだが元々は世襲官僚の一種で、斎宮とは本質的にも別物だ。確かにそうなんだが、北白川房子内親王以降、4代続けて皇族女性ってのはかなり特殊な事態であって、祭主のイメージを斎宮的なものに近づけていきたいという無言の意志を感じるのは俺だけだろうか。まぁそれが良いこととしても悪いこととしてもいずれにしろ微妙な問題を孕んでるような気がするが、現代の問題は当ブログの関知するところではない。とはいえ「斎宮的なもの」とはなんぞ、というこちら側の設定とは無関係な、心理的・人類的・文化的な事実としての「斎宮的なもの」つまり王権に直接つながっているという属性をもった上での「巫女的なもの」が迫ってくるのであって、現代の問題のみならず古今東西にわたる普遍的な問題でもある。…というような念仏はどうでもいいとして、なにがいいたいかというと普遍的な問題というのはつまり日本独自の問題ではない、ということだ。斎宮だ天皇だといっても日本独自のなにかではない。もし日本に独自性があるとしたら、原始王権がそのまま保存された世界唯一の君主制だといえるかいえないか微妙なところ。原始王権とは何か、それは祭祀王・軍事王・生産王の3機能が一つになって分離していないことである(神話学の三機能論の援用なw)。というと、それなら天皇はすでに原始王権ではない、ということになりそうだが、3要素が分割されて別のものになったとしたら、確かに天皇は原始王権ではない。しかし、内在する3要素が時代情況にあわせて自在に外に分出展開し、また時代によって自在に自己に回収する力を残していたとしたらどうだろうか。実際に、神武天皇以降、現代まで天皇のありかたはそのように展開してきたんじゃないのか。以下はその具体例の一覧である。いうまでもないが、これをみれば天皇の本質を「祭祀王」だというのは完全なる誤りであることが明白だろう。

(※続きはまた今度かきます)

・総(ふさ)の語源は「麻」ではない

H29・7・29(土)改稿 H29年5月31日(水)初稿
今日、H29年5月31日(水)はこりずにまたも成田の麻賀多神社いってきました。めんつは違いますが。今回は2度め。大評判(?)の初回の記事(常時更新中)を未読のかたはまずそちらをお読みください。
首相夫人昭恵さんと大麻w
麻賀多神社といえばつい最近、安倍首相夫人のアッキーこと昭恵ねぇさんが大麻関係者との交流を「週刊新潮」に書かれちゃった(先月4月6日発売号)。これ車内広告とかで見た人も多いだろう。あの記事にでっかく大麻関係者の聖地だのオカルト神社だのってw まぁオカルト神社ってのは半分本当だけど大麻ってのはどうなのか。関係あるっちゃあるけどそんなこといったら日本中の神社はぜんぶ大麻ぬきじゃ成り立たないほど関係あるわけで、麻賀多神社が特別どうのこうのってことはないんじゃないのか? どうせオカルトよばわりするんなら『日月神示』がどうのより、せっかく神代文字で書かれた由来書があるんだからそっちも取り上げてくれや、と願わずにはいられないw この由来書だが、神代文字の真偽は別として、読んでみたところ文章は漢字と仮名で書かれたものを後から神代文字で描き直したものっぽい。内容も江戸時代に書かれたものだろう。神代文字も数ある中からなぜ出雲文字が選ばれてるのか…? と、興味もつきないがそれはともかく、麻賀多神社と大麻の関係だが、週刊新潮には麻賀多の「麻」の字と神紋(神社の家紋みたいなもの)が麻紋だから麻と縁が深いって2つしか根拠があげられてない。これだけみるとほとんど言いがかりみたいな話だ。で、よく調べてみると以下の如し。

麻賀多神社は「麻」と関係なし。千葉県は「麻」と関係あり。
『古語拾遺』にかかれている有名な話で、神武天皇の時に忌部氏の分派が総国(今の千葉県)に渡り、その地を開拓して麻を生産したので総国(ふさのくに=麻の国)といった、という話がある。木綿(ゆふ)が採れたから「結城郡」といったともある。通常はこれは下総国の相馬郡布佐郷(今の我孫子市の布佐)と同国結城郡結城郷(今の結城市の中心部)のことだと考えられていると思うが、郷土資料の『印旛郡誌』によるとフサのほうは印旛郡(今の成田市)のことで、麻を生産して献上したから「麻県」(あさのあがた/あさがた)といったという。麻県(あさがた)が麻賀多(まかた)になったというわけ。まぁ我孫子市から成田市までの広い範囲と思えば地域のずれについてはさしたる矛盾ではないし(間に印西市と栄町を挟むことになるが)、「麻県」という地名が本当にあったとしてもよいのだが、それなら麻県がのちに国に昇格して「総国」になったという流れのはずで、麻県(あさがた)が麻賀多(まかた)になったなんてこたぁあるわけないと思うんだよねw それ本当ならアサガタ(麻県)を音読みしたらマケンになるはずだし音写表記なら「阿佐賀多」とこそ書け、なんで一字だけ訓のまま「麻賀多」になるのか、しかも賀の字を清音のカに読む理由も説明不能で、アサガタがマカタに訛る道理がない。マカタとアサガタ(麻県)はまったく無関係と断定できる。『印旛郡誌』自身が麻県は付近の「麻野」という地名に残るといってるのだからやっぱり麻賀多とは別だと遠回しにいってるようなもんだ(ただし今のところ付近に「麻野」という地名発見できず)。
ついでにいうと他の語源説で、もと勾玉(まがたま)といってたのを、三種の神器と同じ名は恐れ多いからとして最後のマを削ってマカタにしたという説もあるんだが、これも後世のコジツケにすぎない。勾玉なんて大昔は三種の神器以外にもピンキリでたくさんあったことは誰でもしっており、だから勾玉という名が皇室に対して恐れ多いなんてことにはならないし、あいかわらずマ「ガ」タでなくマ「カ」タになったわけもわからない。麻賀多神社のHPには罪深いことに『「麻の国で多氏が賀す神の社」と訓読みすることができます』などと書いている。これ書く意味あんの? 宮司さんの思いつきでしょw これ素人がボーッと流し読みしたらマガタの地名由来と早とちりするだろうな、実際そういう人多いと思うよ。このHPが言ってるのはマガタの語源ではなく、当て字する時の漢字選びの話にすぎない。マカタの語源に諸説ある中でまともなのは「間潟/真潟」説だろうな。現在の本宮のある「台方」、奥宮のある「船形」、台方に隣接する「下方」等の地名はすべて「~潟」が語源でこのへんは陸と海が入り組んだ入江だったんだろう。麻賀多神社の境内も地面の土に無数の貝殻がみえる。ここが昔、貝塚だったのか海底だったのか、または貝塚を掘り返した土で整地したのか、いずれにしろ海が目前に迫った場所だったと思われる。
で、話もどるけど、麻県というのは伝承どおりなら、総国の前身であるはずで、麻賀多神社のある一角だけをさしてるわけではない。千葉県全体が麻と関係深いっていうならわかるが、麻賀多神社だけが特別に…ってことにはならない。麻紋も本来は家紋の一種なんだから、この家紋の家は大麻関係者ってことになるのか、ならんだろう。

房総の国造(くにのみやつこ)の歴史
さて、総国(ふさのくに)の中心というか発祥の地は前述のごとく、我孫子市・印西市・成田市の3市にまたがるあたり、ということに仮定したみたが、我孫子の布佐と成田の麻賀多、どっちが本家なんだって話はこの際どうでもいい。しかしこれ本当かね? 国造(くにのみやつこ)の分布をみると上総6、下総3、安房2となっているが安房は養老二年(718年)に初めて上総から分置したもの。なので本来は上総の一部だから安房を上総に含めていうと国造は上総8、下総3となる。で設置年代が不明な千葉国造と長狭国造を除くと、例外なく上総の7国造は成務朝、下総の2国造は応神朝に創立されている。千葉国造は大私部直氏(おほきさきべのあたへ)で私部は敏達朝の創設だから、(国造氏族が途中で他氏と交替することはままあることなので断定はできないが)千葉国造が設立されたのも敏達朝の可能性がなくもない。そうすると房総の国造の中ではかなり新しいことになる。成務朝は全国の国造が一斉に設置された時だから格別なんだもないが、その頃は下総にはまだ国造が置かれなかったわけだ。つまり千葉県の開発は南から始まって北上していったということだ。『古語拾遺』によると神武朝に房総半島にやってきたという忌部の一族が最初に住み着いたのは阿波(後の安房郡)で、故郷の粟国(あはのくに:徳島県=阿波国)の名をとって同じ名を付けたという。これからすると総国の最初の発祥地は安房郡(今の館山市・鋸南町・南房総市)ってことにならないか。我孫子市だの成田市だのってのは、てんで方向違いだ。

上総ができたのは安閑天皇の時ではない
そして成務天皇の時、8国造を置いたというのはこの総国を8分割したってことだろう。この地はのちの安房と上総をあわせた範囲で、ここは丘陵地帯で大昔には巨大な島だったろう。が、後世でいう下総はもとは海の底でかなりあとまで広大な潟(入江)や湖沼が広がっていて少ない陸地も湿地帯だったんだろう。だから人もたいして住んでないし国造も置かれなかった。応神天皇の頃になってやっと3国造が置かれたから、ここで「下総・上総」という呼び分けが始まったものと思う。『帝王編年記』は上総国が安閑元年(534年)にできたように書いてるが、これは日本書紀の同年に上総国に屯倉を置いたとあるのが上総の初出なので短絡しただけだろう。総が上総と下総に分かれたのはそうではなくて、応神朝に3国造が置かれた時と思う。

ウィキペディアの誤り
ちなみにウィキペディアによると、上総の北西部の上海上国造(かみつうなかみ)と下総の東部の下海上国造(しもつうなかみ)の間に武社国造(むさ)が位置していることから、もともと広大な「海上国」ってのがあってそこに後から「武社国」が割り込んできて分割されたとか菊麻国造(くくま)が台頭してきて海上国は弱体化したのだという説が書かれている(原島礼二の説)。しかしそんなことあるかね? 旧事本紀の設置年代記事を信じる限り、上海上国の東をふさぐ武社国と北をふさぐ菊麻国は、上海上国と同時期に設置されてるわけで、あとから割り込んできたとか後から台頭してきたとかって何の根拠でいってるのか? 上海上の国造は出雲氏、下海上の国造は安倍氏の分かれ(他田日奉氏)で系統も違うし。確かに設置当初は「上海上」じゃなくて「海上」だったろうけど、海上(うなかみ)というのは海沿いの地をありふれた地名だったのではないかとも思われる。応神天皇の時、もう一つ「海上国」ができたから上下で呼び分けただけで深い意味はないのじゃないか? あるいは百歩譲って、後世でいう下総に相当する一帯を「海上(うなかみ)」といっており、海上国造の管轄になっていたか。そうすると菊麻国と武社国はどうなるんだというだろうが、上海上国からみて東にある武社国はともかく、北の菊麻国は小国だった。菊麻国造は「菓麻国造」または「久久萬」とも書き、律令下での市原郡菊麻郷にあたる。古事記に「大国小国の国造を定めた」とあるように、国造には律令下の郡の規模をもった大国と、律令下の郷の規模しかない小国があったという説がある。国造に大小の2種あったというのは古事記に照らしてその通りと思われるが、その大小がピッタリ後世の郡と郷に対応してるわけではなかろうけどもまぁ規模を推定する上で参考程度にはしてもよかろう。菊麻国造はそういう意味では房総8国造の中で唯一の「小国造」で、台頭してきたも糞も、上海上国造と下総3国造との間の陸海の交通を妨げるような存在ではなかったのではないか。妨げていたならむしろ通行料をとることでようやく国造として成り立っていた可能性すらある。しかし同じ可能性なら、当時は海岸線の形が今とぜんぜんちがってるんだから問題なく海でつながってた可能性のほうを考えたい(面倒なので今回そこまで精査はしないが)。

幻の「布佐国造」(ふさのくにのみやつこ)
こうすると、応神朝にできた3国造は海上国造から分置したってことになるだろう。成田の麻賀多神社のある印旛郡のあたりはようやくこの時に国造に昇格して印波国造(いなはのくにのみやつこ)になったもので、麻県の発祥地みたいな話はどうもうさんくさいこと限りない。もっと酷いのは我孫子の布佐でこっちはまったく出番がないことになる。我孫子の布佐にある竹内神社の伝承では神武朝に「布佐国造」(ふさのくにのみやつこ)が置かれたというが、むろん学界ではそんな国造は認められてない。麻賀多神社のいう「麻県」にしろ竹内神社のいう「布佐国造」にしろ、神武朝に設立されたのなら安房郡(今の南房総市・館山市)かその近隣にあったはず。で、下総方面は標高だけでいえば広大な平野のようだがその頃まだかなりの面積が海の底で陸地も湖沼や湿地帯が多かったと思われる。
で、実際の地名を調べると、いすみ市と御宿町の境に「布施」(いすみ市側が上布施・御宿町側が下布施)、大多喜町に「総元」、勝浦市に「総野」等の地名がある。これらは昔の村の名の名残で古いもの。この三点をむすんでみると大多喜町・勝浦市・御宿町のあたりが「フサの国」発祥の地の候補としていいようにみえる。もっともたまたま奇跡的に残った地名とすると、可能性のある想定範囲はもっと広くみていいかもしれない。

実は「総(ふさ)=千葉県」も麻と関係なかったw
ウィキペディアには藤原京出土木簡により上総・下総の「総」の字が文武三年(699年)の段階では「捄」(手偏に求、音はキュウ)だったことがわかったって事が書いてるが、それにくっつけて「だからフサは麻のことで合ってたんだ、「総」の字には麻の意味がないが、「捄」の字だから麻でいいんだ、史料(=『古語拾遺』)が再評価されたんだ」みたいなアホな方向に引っ張ってて、なんじゃこりゃな文章になっている。「捄」の字は現代ではほとんど使わない字のせいか辞書によって解説がちがってたりするんだが、藤堂明保学研漢和大字典にはこんな意味は載っておらず、諸橋轍次大漢和全13巻だと5番目にようやく果実のフサ、フサ状の果実とある。しかしこれは借字で、本字は「莍」(草冠に求、音はキュウ)。捄もめったに使わない字で熟語が「捄敗」しか載ってない(この場合の捄は「救」と同義同音)。諸橋漢和には多くの意味が載ってるが藤堂の説ではこの字は手に「集める」が本義らしい。とすると、細長い紐のようなものを束にして握ると房状になるから結果的にフサ状のものという意味も派生するわけだろう。白川静の『字訓』だと、「捄」の字はフサ状のものを数える単位でもあったようで、だから「莍」でなくわざわざ「捄」の字を使うんだろう、「手にとって」数えるわけだから。現代でいうと葡萄やバナナを1房(ひとふさ)、2房(ふたふさ)と数える時のあのフサだ。フサ状の果実について諸橋漢和の用例には椒・萸・樧(木偏に殺)があり、植物の名は紛らわしくわかりにくいが、ざっとみたところ椒はサンショウ、萸はグミ、またはサンショウの一種、樧もグミの一種らしい。画像検索で見比べてみればわかるが、これらの実は麻以上にまさにフサ状になってるわけで、麻だけがフサとよばれる筋合いはない。あいかわらずフサの地名の由来が麻からきたのだという証拠にはなってない。麻を何本も束ねてたらせばフサになるからって説もあるが、そういうのは「説」ですらない。麻でなくても何だってフサ状にすればそれがフサなのは当たり前で、何も言ってないに等しい。
これに対して「総」の字(旧字体は「總」だが便宜上「総」で代用する)は地名のフサ(上総・下総)以外に、もともとフサの訓はなかったのか、フサの意味と関係ないのかというと、そんなことはない。諸橋漢和の8番目に「ふさ」がある。色のついた紐を束ねてつくった、車や馬の飾り。「ふさ 房 車馬の飾り」で画像検索するよろし。むろん麻とは関係ないし、車馬の飾りであるフサが原義でその結果「車馬の飾り状のもの」全般をフサというようになった、というわけでもあるまい。だが、白川静の『字訓』の説では「ふさふさ」したものが原義だから、車馬の飾りもフサ状の果実も派生義としては同等のようだ。捄の字が「総」に差し替えられたのは早ければ701年の大宝律令からってこともありうるが、おそらく和銅六年(713年)の「諸国郡郷名著好字令」ではないか。捄の字はフサ状の果実またはフサを数える単位にすぎないが、総の漢字はおさめる・ひきいる・とりしまる等(総領・総監・総統)の意味があり、動詞として「ふさねる」(古語:ふさぬ)とも読む。「ふさねる」は和語としての原義は「束にする」という意味だが、そこから派生して統轄する・総覧する・総裁する(=統治する)の意味があるからカッコイイ、こっちの方が「好字」だってわけだろう。だが、地名のフサを表わしているんだから基本的には「総」でも「捄」でもフサという地名(発音)を表わすための表記であり、いってみればただの当て字なわけで、地名の語源がはたして「フサ状の何か」だったかどうかはわからない。
さて、ここまで踏まえた上で『古語拾遺』の伝承を検討してみよう。忌部氏が房総半島に入植してきたのはいいんだが、そこで初めて「フサの国」と名付けたってのは本当かね? その前から(縄文時代から)人が住んでたのは明らかなので地名はあったはずだが。そもそも「麻のことを『フサ』ともいう」、ってのが本当なのかどうか。それならグミ(茱萸)もフサ、山椒もフサ、葡萄もフサって別名がないのはどういうわけだ? 大槻文彦の『大言海』も上田万年の『大日本国語辞典』もフサを麻の古名としているが、そのソースってのが『古語拾遺』以外には無いわけだよ。岩波文庫の『古語拾遺』の注釈(書いた学者は西宮一民)に「麻のことを総(ふさ)と言ったことは他書に例がない」とはっきり書かれている。本当に麻が由来なら「アサの国」と名付ければいいんで、わざわざ山椒やグミや葡萄と紛らわしいフサという言い方するかね? 「麻の育ちが良かったから」ってのもおかしい。そもそも麻は雑草の一種だってことを忘れちゃいませんかね? 麻なんてもんはあーた、日本中どこも草だらけよw 大草原不可避www 四国からはるばる千葉県まできて「麻の育ちがよい」ってそんな大事件なの? これ(=『古語拾遺』の伝説)って結局、よくいえば「地名起源説話」、身も蓋もなくいえばコジツケだろう。麻は神具をつくる材料だから神具製造の部民である忌部(いみべ)が麻の栽培もやってたわけだが、彼らが自分らの職能に関係づけた地名起源説話を語るのはさもありなんと思われる。が、あらゆる書物、あらゆるサイトがこれを真に受けて「総(捄)の国という名は『麻』の意味でござんす」とやらかしてるのはいかがなものか。
よって「フサの国」ってのは本当は麻とは関係のない別の語源があったんじゃないのかと思われる。

諸説乱舞
ではフサの語源は正しくは何なのかというと、それはわかりません。wikipediaが引用する『地名用語語源辞典』「ふさ」の項によると、フサグ(塞)の語幹で「何かをさえぎる地」のこと、ボサの転で「雑草などの茂み、やぶ」の意、フシ(節)の転で「高所」のこと、クサ(朽、腐)の転で「崩壊地形」を示すなどの説があるが、あくまでも仮の説である。…そうです。どれも狭小な地名ならありそうだが広域地名としてはピンとこないな。
「わかりません、ハイ終わり」では金返せって言われかねないので、何かひねり出してみよう。トンデモ古代史の世界では「扶桑国」を上総・下総のフサにこじつける説が昔からある。中国の神話にでてくる伝説の土地で、太陽の昇る東のはてにあるという「扶桑」の木が生えてるところが「扶桑国」。扶桑の読みは旧仮名で書くと「フサウ」これを上総・下総のフサにこじつけるのははたして電波説かどうか。
ところで漢字の「扶桑」には太陽の意味もないし日の出の意味もないので、これは何か異民族の言葉を漢字に音写したのではないかという説も昔からある。毛利康二はサンスクリットのudaya(太陽が昇る地にある山)、朝鮮語のアチャム(朝の意味)も出しつつ、最後はギリシア神話の太陽神ヘリオスを導く暁(あかつき)の女神の名エオス"Eos"のアッティカ方言バージョンの「へオス」"Heos"からきている、な~んて言ってるぞ。本当かねw

麻ではなくて朝だった?
太陽信仰のあった鬱陵島の古名を「于山国」という。上記の毛利康二は『日本書紀』雄略二十二年に浦島子が辿りついた蓬莱山とは今の鬱陵島のことだという説を唱えている。『丹後国風土記』では蓬山になっていてこちらが正しく、書紀が蓬莱山と書くのは蓬山を蓬莱山の略記だと誤解したからだが、蓬は扶桑の「扶」と音通、蓬莱山の山は于山国の「山」で、「于山」は宇佐八幡宮の「宇佐」にも通じる。「蓬山=扶桑=于山=宇佐」(ハサ=フサ=ウサ)はいずれも同じ言葉からいろいろに変化したものだろう。この地名の語源解釈はともかくとして、于山国と扶桑からして、太陽信仰とむすびついた地名なのはわかる。で、この語源だが、毛利康二は韓国領の鬱陵島について考えてるから朝鮮語のアチャムがどうのっていってるが、房総の「総(ふさ)」を考えるのなら日本語のアサ(朝)で十分だろう。現代語の「朝」("morning")は古語ではアサとアシタの2つの言い方があり、もしかしたらアサの方は古くは日の出の意味だったのかも知れんね。問題はフサだが、天咲(あさ)と日射(ひさ)の中間の訛りかな。「日刺方(ひさかた)の」って天(あめ、あま)、雨、空、日、光、月、雲などにかかる枕詞(まくらことば)もある。日置(ひおき)が「ヘギ」に訛ったりすることを思えばヒサとフサは大した違いじゃないし、「麻の古名がフサ」で通るぐらいなら「朝の古名がフサ」でも問題なくね?
とてつもなく古い言葉とくに人名、地名といった固有名詞は奈良時代にはすでに意味不明になっていることがあり、だからこそ地名由来を説明する説話が作られるのだが、奈良時代文法や奈良時代の単語構造分析だけでは古い言葉は辿れない。ある程度の飛躍が必要になる。これをトンデモだ電波だというなら、これまた一興w 一応俺は「わかりません」とお断りを入れてるからなw

邪馬台国は房総半島にあったw
さぁここで、こないだの日月神社のレポートを思い出していただきたいw あの時は「日月神社の総本宮は千葉県大多喜町の日月神社」と推定したが、前述の「フサ」地名の発祥地候補、大多喜町の「総元」は日月神社の南5kmちょいのところ。また鴨川市の二子という地名があるがここは大昔の日置部があったところ。日置部は日祀部ができる以前には太陽信仰と太陽観測をつかさどっていた。ここは大多喜町の「総元」からも勝浦市の「総野」からも30kmぐらいか。
ここで、さらにトンデモ説の話をしようw この両「フサ」地名と鴨川市二子の中間あたりに麻綿原(まめんはら)高原がある。鈴木正知が唱えた「邪馬台国房総半島説」によると、邪馬台国は、千葉県大多喜町と鴨川市にまたがる「麻綿原高原」の鴨川市側にある「清澄山」にあったのだという。麻綿原は天之原(あまのはら/あめのはら)の訛りで、総国(ふさのくに)はもちろん扶桑国だとw 麻の字もあるぞ、これも朝だったんじゃ?w たぶん磐座もあるよ、面倒だから調べないけど。
麻綿原高原を中心にすると、東はいすみ市の上布施、御宿町の下布施、西は鴨川市の二子を含む東西40~50km、南北10~20kmぐらいの範囲(房総半島の東南部)が原初の「フサ国」ではないかとw ここはGoogleマップでみると房総の忌部氏の最初の上陸/開拓地と推定される安房郡(館山市・南房総市)とは東西両隣の関係にある。またすぐ南にも朝夷郡(あさひなぐん)という思わせぶりな名をもった郡と隣接している。アサヒナは日当たりの良い土地の意味ともいわれるが、アサヒというように東の海に面していて、朝夷郡と長狭郡の2郡でちょうど旧安房国の東半分にあたる。
まぁ邪馬台国がこんなとこにあったわけ無いけど、四国から忌部氏がやってくるよりずっと以前から、大多喜町から鴨川市にかけての一帯のどこかあたりに太陽信仰のセンターがあってそれで「フサの国」と呼ばれたんではないか。のちに日祀部(ひまつりべ)につながっていく日月神社(の前身?)が創建された時もそれでこの地が選ばれたんだろう。

・天満宮と『古事記』

H29・5・26(金)改稿 H29年5月25日(木)初稿
毎月25日は天神様の縁日なわけだが、今日のH29年5月25日(木)は湯島天神の例大祭と上野の五條天神の神幸祭が重なる。湯島では今日は祭典(儀式)だけやって賑やかしのいろんな行事は27日(土)28日(日)にやる。五條天神は今年は三年に一度の大祭で大神輿と大行列が出るがこれがやっぱり今日じゃなくて28日(日)に出る。今の世の中、週末にあわせないと何かと不便なんだろうな。せっかく週末にしてくれても俺は今年は土日とも忙しくてだめだ。大行列はネットに動画であがるだろうけどな。ちなみに5月27日(土)は昔の海軍記念日なんだが、今回はその話は無し。
湯島天神・五條天神と『古事記』のつながり
五條天神は奈良だか平安初期だがの古い追儺の儀式を保存していて節分の時にやってる。「白朮(うけら)の神事」っていって一人で行ったことも仲間で行ったこともある。あれはいかにも本物っぽくて古代の習俗とか儀式に興味ある人には面白い。一方、湯島天神は受験シーズンには伊予柑だったか金柑だったかポン柑だったか、受験生じゃない人にもただで配りまくってたことがあって俺も美味しくいただきました。あれは毎年の行事なのかな?
で、この湯島天神が古事記となんの関係があるのかというと、あまり関係ない。強いていえば湯島天神は雄略天皇2年の創建という。まだ道真先生うまれてないよw だからもともとの御祭神は菅原道真じゃなくて天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)だったとの事。今は境内摂社の「戸隠神社」に祀られてる。あれ信州の九頭龍権現の戸隠神社とは関係なかったんだな…。ずっと九頭龍の戸隠神社からの分霊かと勘違いしてたよ。でも信州の戸隠も主祭神が天手力雄命だから紛らわしいことこの上ない。社伝でどう言ってるかはともかく、実際は信州の戸隠から勧請したのが湯島神社の起源かもしれんね。
で、上野の五條天神が古事記となんの関係があるのかというと、これまたあまり関係ない。強いていえば五條天神のある上野のお山は本当は「忍ヶ岡」(しのぶがをか)といい、この上に摺鉢山古墳という古墳がある。古墳なんだけどぜんぜん保護されてないっていうか頂上にずいぶん長いことホームレスが住んでた。今もいるのかどうか知らんが。この忍ヶ岡自体が一つの巨大な古墳なのだ、どーん。…と言いたいところだが、この古墳はたまたま一つ残っただけで他にもたくさんあったのが開発で消滅したらしい。
ところで五條天神の「五條」って社名は京都の五條天神から取ってるんだが、上野の五條天神にしろ京都の五條天神にしろ主祭神は医薬神の少彦名神(すくなひこなのかみ)であり菅原道真と関係ない。ただ、せっかく天神って名だからって菅原道真も合祀してるから結果的に「いわゆる天神様」ってことでもあるという、これまたややこしいことになっている(スクナヒコナノカミが天津神なのかって問題があるが今回はふれない。ちょい言うと実はそういうロジックがありえなくもないのだがまぁ詳しくは別の機会に)。上野の場合は、江戸初期の頃は五條天神(少彦名神)と北野天満宮(道真)が相殿になっていて今の摺鉢山古墳にあったという。それが寛永寺の建立のため移転になったもの。社伝では京都から勧請したわけではなくその前からあってヤマトタケルが大己貴神・少彦名神を祀ったことになってるが、古墳がらみとしたら社伝のいうように古いのかも。

伝説の背景にあった古代の「部民制」
五條ってのは菅原氏の家名でもある。菅原氏は鎌倉時代以降、高辻家・五条(=五條)家・東坊城家・唐橋家・清岡家・桑原家の6家にわかれた。菅原氏は垂仁天皇の御前で相撲をとった野見宿禰(のみのすくね)の子孫土師氏が改名したもので、その流れで宮廷の相撲イベントを取り仕切る「相撲司」の家柄だったのが菅原六家の中の「五條家」だった。なぜ他の5家をさしおいて五條家だけなのかはよくわからないが。
そして俺の故郷の伝説には「五條中納言昭次卿」って人物が出てくる。ずいぶん古い話だが故郷の観光用パンフに「京都からきた中納言顕実卿の伝説がどうたらこうたら」と書いてあった。このパンフは東日本大震災より何年も前のものなので実物が残っておらず確認しようがないが、当地の羽黒神社の伝承では顕実(あきざね)ではなくて「平安時代の嵯峨天皇の時の五條民部中納言菅原昭次(あきつぐ)卿」となっている。まぁ市内各所の言い伝えによって微妙に名前が違ってるなんてこたぁよくあることだ。この人がいろいろあって生き別れになっていた妻子と再会するという長い物語が伝わってるんだが、五條家は鎌倉時代の五條高長から始まるので、嵯峨天皇の時ってのはありえない。菅原顕実とか昭次という人名も歴史にみえないし中納言だの民部卿だのって高官なら記録に残ってるだろう。だからこれは伝説にすぎず史実ではないのだが、どこまで本当かはともかく闇雲に後世の創作と決めつけるのも夢がないので、今回もいつものように、力技で極力可能性を見積もってみようw
歴史に名が残ってないのだからいたとしても五條家の末端の人だろうし、そしたら中納言だの民部卿だのって高官ってこともありえないので、中世の武士の名乗りみたいなもの(つまり自称)だろう。これならありうるんじゃねw
鎌倉武士たちが全国にあった各々の所領に散っていくのは鎌倉末期から室町初期のあたりという。この頃なら五條家の遠縁の者もかなり増えていた頃だろう。京都では食えない下級の公家衆やその郎党縁者たちは平安時代から戦国時代まで数百年間ずっと地方へのあまくだりを繰り返してきた。ほら、確かに五條昭次って人が実在してやってきても不思議ないように思えてきたろw
東北には「菅原」って苗字がけっこう多い。小学校のクラスメートにも何人もいたし、隣県に住む従兄弟も「菅原」だった。本家本流の公家の菅原氏の子孫なら菅原じゃなくて高辻か五条か東坊城か唐橋か清岡か桑原じゃないとおかしいだろう、というツッコミはニワカの言うことw 確かに、現在菅原という苗字の人が全部菅原道真の子孫のはずがないが、少しはいてもいいだろうw なぜかっていうと、土師古人(はじのふるひと)が奈良時代に菅原古人(すがはらのふるひと)に改姓する前の、古い時代の土師氏は土器つくりという庶民の生活に密着した職能を担っていた上、記紀による限り極度に古い一族でもあるから、全国的にその子孫が広がっていてもおかしくはない。その中にはもちろん土師部の部民や菅原氏の荘園の領民、また菅原氏が本所(荘園の実質上の管理者)を兼ねた全国の天満宮の所神領の民になった人々も当然いただろう。そういう土師氏の一族らが、道真の子孫でなくても同族の有名人の威名にあやかって、菅原を称することがあったのだろう。一族の者や支配下の部の民が中央の本家の姓を名乗る例は、安倍氏や毛野氏、大伴氏、和邇氏などに例がある。こう考えれば、全国の菅原さんが少なくとも道真の親類縁者の子孫である可能性はあるって気がしてきたろw

菅原道真と平将門の関係
ただし菅原を称した人々の動機はそれだけではない。天満宮への信仰が篤いのはなにも奥羽だけではなく全国的なもので、歴史上の偉人が多い中に天皇でも皇族でもない道真だけがなぜ特別な存在になっているのか、なぜこんなに信仰されるのかを考えてみよう。さして知識ない人だって、道真先生がこの上もなく尊崇されたし、とにかくすごい人気なのは薄々わかるはず。だから大昔の人は自分がわずかでも道真公に関係があるだけでも誇らしく、うれしくなって「菅原」を称したくなったんじゃないのかな。でも現代人は道真がそれほどまでの人だったってことにピンと来ない人が多いんじゃないか、道真って学問がすごくできたってことと、遣唐使を廃止したことと、左遷された恨みに雷様になって悪い政治家を祟り殺したことぐらいしか知らないでしょう。これじゃ昔の人の道真公に対する思いがさっぱりわからなくて当然なんだよ。
『将門記』にでてくる有名な話だけど、巫女が神がかりして、八幡大菩薩が平将門に「新皇」の位を授けた時、位記(公式の証明書みたいなもの)を捧げたのが左大臣正二位菅原道真の霊だったという(この段階ではまだ右大臣のはずで左大臣というのは誤記)。巫女というが、原文は「昌伎」になっている。注釈に「平譯作『娼妓』、然此訓かむなぎ、巫女也」とある。これは遊女(あそびめ)、現代語でいう売春婦のこと。古代オリエントの「神殿娼婦」が有名だが、海外でも日本でも大昔は巫女が売春婦の起源になっていて重要な祭儀には遊女(というか巫女)の参加が不可欠なものも多かった。全国の遊郭ももとは大きな神社の近くにあった。だから巫女といってもこの巫女は上流階級出身の高位の巫女ではなく、最下級の庶民的な巫女だ。八幡大菩薩自身が直接巫女に神がかりしたのか、巫女に憑依した霊が八幡大菩薩の神勅を伝えたのか原文では判然としないが、将門記の作者が勝手に書いてるんじゃないだろう。将門自身が道真の生まれ変わりという説は(たぶん将門は道真が死ぬ前に生まれているので)かなり後になってできた説だろうが、巫女の神がかりにこういう台詞があったのなら、道真への死後の官位の追贈も庶民にしられていたってことだし、庶民は当初から将門と道真を関係づけてみていたと思われる。原文ではどこの神社の巫女だともないからフリーランスの「流しの巫女」ってこともありうるが、いきなりこんな神がかりする場所はやはり神社の境内だろうから、まぁどこかの八幡宮か天満宮だろうな。海音寺潮五郎の小説だと天神(=天満宮)になっていたような気がする。
要するに、道真死後わずか一世代(30年)のうちに、すでに天満宮=天神様っていうのは八幡様とならんで地方の庶民にまで親しまれる神様になってたってことだ。これは道真在世中、もしくは死後すぐに庶民から崇敬されたと考えないとなかなか理解しにくいことのはずで、在世中の道真の行跡が庶民にもよく理解され評価され、畏怖され思慕され、信仰される本当の理由になっていたということではないのか。道真に対する上記のような広く篤い信仰は、死後のタタリっていうショッキングなオカルト話だけで説明つくことでない。
では菅原道真の生前の業績とはなんのことか? それを我々が普通の知識として知っているといえるのか?

(※まだ書きかけ途中なので続く。続きはまたいずれ(来年の3月ぐらいに?)書きます)

・江戸二十五天神

H29・4・21 FRI 改稿 H27/1/25初稿
今日(H27/1/25)は初天神。菅原道真の誕生日と命日がどっちも25日だったので毎月25日は天神様の縁日なのだが、とくに1月25日は「初天神」(はつてんじん)、12月25日は「終天神」(しまいてんじん)といい、初天神には「鷽替え神事」が行われる。
江戸時代には「江戸二十五天神」というのがあって、梅島の「梅島天満宮」、三ノ輪の「綱敷天満宮(梅林寺境内)」、入谷の「小野照崎神社(渡會天満宮)」、上野の「五條天神」、湯島の「湯島天神」、本郷三丁目の「桜木神社(桜木天神)」、神楽坂の「朝日天満宮(現・蛍雪天神、赤城神社境内社)、江戸川橋の「天神町北野神社(新宿区)」、亀戸の「亀戸天神」、半蔵門の「平河天満宮」、東新宿の「西向天神」、後楽園の「北野神社(牛天神)」(文京区)、根津の「根津神社(相殿に菅原道真)」、御茶ノ水の「神田天神(神田明神境内社)」、下高井戸の「菅原神社」などがある。さらに北野神社は板橋区、中野区、練馬区にもあり、六郷土手の「北野神社(落馬止め天神)」も江戸時代から有名。他に大田区には蒲田にもある。他にもいちいちあげないが合計すると25を軽く超えてしまう。リストは江戸時代から諸説あって一定でないから合計すると25より多くなってしまう道理だ。
これらのうち亀戸天神、根津神社、神田明神の3社は准勅祭社、湯島天神は神社本庁別表社、これに五條天神と赤城神社を加えた6社は有名で大きな神社。小野照崎神社(下町八社の一つ)、西向天神、牛天神の3社もなかなか立派な神社で、桜木神社は小さいが、どの神社も地元に根付いていてるのかそれなりに賑わってる。平河天満宮も大きさは桜木神社と同じくらいだがビル街にあるせいかやや寂しい感じがなくもない。梅島天満宮はとても小さくて境内も狭く寂しい感じ。綱敷天満宮は小さな祠みたいになってる。今小さいところも江戸時代には大きくて賑わってたんだろうけど…。

去年の初天神では「梅島天満宮」の後、電車(梅島→三ノ輪)で梅林寺境内の「綱敷天満宮」に行きそこからはすべて徒歩で入谷の「朝日山辨天院」→「小野照崎神社」→「五條天神」→「湯島天神」(五條天神と湯島天神で鷽替え神事見物)→「桜木神社」→桜木神社と本郷三丁目駅の間にある「冨士浅間大神」をめぐった。天神様は6社、途中で寄り道した朝日山弁天は習合系のお堂(どっちかっていうと寺院)、冨士浅間大神は石碑。
今年のコースは全行程徒歩で鶯谷の「元三島神社」→「小野照崎神社」→上野の「三峰神社」→「五條天神」→「湯島天神」(五條天神と湯島天神で鷽替え見物)→「桜木神社」→湯島の「湯島御霊神社」→御茶ノ水の「妻恋神社」→「神田明神」。このうち天神様は5社、途中で3社に寄り道。去年の冨士浅間大神の石碑は祠ができていて元富士神社だったとわかる、だが境内が荒れ気味で雰囲気が薄気味悪かったので寄らず。駒込の富士神社はよい神社だけど…詳しくは→http://www.geocities.jp/jf1zhe/119HTML/fugigongen.html。妻恋神社はお正月の初夢みるために枕の下に敷く「宝舟」の絵の起源だとか説明板にあったのだがいつの間にかなくなってる。サイトにもない。起源説を撤回したのだろうか。


どこの小さな神社でも季節柄、豆まきの年男・年女を募集してるけどそんなに集まらないんだろうなぁ。でも日曜のせいか参拝客も多く、(小さい神社にもかかわらず)ご祈祷の申し込みしてる人もかなりいた。上の世代の人たちは不景気のせいか神頼みが流行してるってのもあるんだろうけど、それ以上に若い世代で日本古来の習俗や文化が見直されてる傾向が大きいと思う。

・「三人官女と五人囃子」は「三女神と五男神」なのか?

今日3月3日は「ひなまつり」で「桃の節句」。これも一般的な言われ方では中国伝来の「上巳」が日本風に独自に変化してできたもの、だから中国の「上巳節」と比べると共通してる部分と違ってる部分とがある、と。しかし日本の鯉のぼり七夕(たなばた)が中国伝来の要素と中国伝来以前からあった日本独自の要素が混合している、つまり中国からくる前から日本にあったってことはそれぞれの記事に書いた。とすると、桃の節句もあれだ、中国から伝来する前に日本独自のものとしてあったのではないか、と思いたくなる。
桃の節句は中国伝来ではない?
ざっくり検索かけると、ネットではホツマ関係者はそういうこと盛んに言ってるね。モモヒナキ・モモヒナミがどうたらこうたら、と。ホツマツタヱは松本善之助がまだ生きてた頃、ひらがなの『全訳ほつまつたゑ』ってのを出してたんだが、取り寄せようとしたら品切れだった。そこでしかたなく愛媛県の伊予市だったか宇和島市だったかの「自己維新」っていう同人誌のバックナンバーを大量に買って取り寄せた。この同人誌に我が師匠吾郷清彦先生が『直訳ホツマツタヱ』を長期連載してたから。当時はホツマツタヱってこれしか出版されてなくて貴重なものだったんだよね。今は糞みたいなホツマ本が大量に出てるけどさ。今から40年近く前、中学生だったか。夢中で読みまくって、ほぼ暗唱してたね、ホツマツタヱをw その頃は日記かいても部活の活動日誌かいても自然に七五調になったりして、困ったもんだ。いや困ってないけど。嫌な思い出だよ。いや嫌じゃないけど。

「三人官女と五人囃子」は「三女神と五男神」なのか
それでネットみてたら雛人形のお内裏様とお雛様が須佐男命と天照大神で、「三人官女と五人囃子」が三女神(宗像三神)と五男神(忍穂耳命と四人の弟)だって説があったのだが、これはネタ的には面白いけど本当かね?w 困るよこれ、だって世の中には「天照大神男神説」ってのがあるんだよ。ホツマツタヱも男神説だけど、ホツマツタヱとは無関係に大昔からある。この場合、誓約(うけひ)の二神は男同士ということになり、男雛ふたつならべないといけなくなる…。一部のそれ系の人々にはウケそうではあるが、現実の雛人形とはあわなくなる。
ただし、同じ天照大神男神説でもホツマツタヱの場合は、天照大神には瀬織津姫(=向津媛)という皇后が設定されている上、三女神も五男神も(腹違いではあるが)全員とも天照大神を父とした子供たちって設定になってるから問題ないわけだが、ホツマツタヱは江戸時代に捏造された偽書でカミガミの神話を人間の話に置き換えた創作だからそんな説は採用できない。でも男神説は正しいと思うけどな。「天照大神男神説」についてはいずれかの機会にこのブログで詳細をまとめます、昔とりまとめた資料が出てきたらの話だけど。
ともかく、天照大神も須佐之男命も男神だとなると雛人形にこじつけられなくなるw さてどうしたもんか…。あらためて天照大神と須佐男命のコンビは男同士、という前提で雛壇を眺めて考えてみると、下の方に男のコンビがいるぞw 左大臣と右大臣だ。もしやこれが天照大神と須佐男命じゃないの? つまり雛壇は下の方が偉くて上の方が若い世代になっているんじゃ? 逆転の発想だよw ならばお内裏様とは邇々藝命(ににぎのみこと)で、お雛様は木之花咲耶姫(このはなのさくやひめ)ってことで決まりじゃないか。左大臣・右大臣のさらに下(最下層)には仕丁(衛士)のトリオがいるが、これが造化三神だろうw
ただし雛人形を飾るようになったのは江戸時代からって言われていて、これはそうだろう。このブログで何度か書いてるけど、人形や神像を作って祀る文化は古い時代の日本にはなかった(土偶はどうなんだって話はいずれ五穀の起源、オオゲツヒメ神話の機会にやります。埴輪の話は垂仁天皇の機会に。どちらも日常的な崇拝対象ではない)。形代(かたしろ)というヒト型の紙に身のケガレを移して川に流したのは大陸伝来の術で、陰陽道だろう。この形代が人形になったというから、雛人形のルーツは大陸の風習なのであり、日本古来のものではありえない。今の雛人形は寛永雛が直接のルーツで時代的におそらく後水尾天皇と徳川和子がモデルかといわれているらしい。囃子人形が加えられたのは18世紀からで、その頃すでに三人官女と五人囃子が揃っていたのかはしらん。徐々に三女五男の形になってきたのなら最初から神話がモデルだったわけではないだろう。江戸後期なら庶民でも日本神話のことはよく知られていたろうから「三女神と五男神」を雛人形で表現しようって発想はありうるが、あんまり前だとどうだかな。

上巳節(じょうしせつ)
中国の「上巳節」ってのは漢代までは三月の最初の巳の日だったのが三国志の時代から旧暦の三月三日になったとされてるんだが、これは正確には上巳(=三月の最初の巳の日)と三月三日の祭儀(仮に「XX節」とよぶ)とが別々だったのが混同されて一つに統合されたのではないかと思う。端午の節句がは旧暦五月五日だけれども、古い時代の中国では五日に固定されたものではなく夏至の日の祭儀だったことがわかっている。だとすると、その2ヶ月前の「XX節」は二十四節気でいう「穀雨」の日の祭儀だったのではないか。端午節が夏至から五月五日に変更されたように、「XX節」も三月三日に変更されていた。この上巳節と混同されて合体したのはその後だ。端午節が五月の最初の午の日だったというのは誤りで、そういう場合は「端午」でなく「上午」というはずだろう。だから中国の上巳節の内容も、本来の上巳の風習と「XX節」の風習に分解することができる。

・國學院博物館「特別展 火焔型土器のデザインと機能」

今日は友人と一緒に、國學院大學博物館でやってる「特別展 火焔型土器のデザインと機能」を見学してきた。
火焔型土器の年表が掲示されてたんだが、「松本零士の漫画に火焔型土器が登場」とか「星野之宣の漫画に火焔型土器が登場」とか「水木しげるの漫画に火焔型土器が登場」とか、やたら漫画の話ばっかり多すぎだろw あれ絶対、スタッフにオタクがいて「やっと俺のムダ知識が役に立つ時がきた!」とか思ってたんだろうな。そうに違いない。
縄文文化圏は地理的概念としての日本列島に重なる
縄文といえば古事記がらみでもいろんなネタがあって何の話しようか迷うほど。縄文についてはあらゆる角度から研究した様々な書物が出てるわけなんだが、例えば土器の特徴にも地域差があって「何々文化圏」みたいに線引きした地図とかがある。こういう縄文文化そのものを細かくわけてみるという方向性での研究ばかり多すぎるから、縄文といってもいろいろバラバラなんだと思いがちだけど、実は縄文文化ってのは日本列島全国的に均質性が高い文化なんだよな。弥生時代もそうだけど、日本列島が異文化圏によって分断されておらず、縄文文化なり弥生文化なりが地理的概念としての日本列島とほぼ重なっている。なのに、細かくわけてみせる研究(=学者の得意な重箱の隅つつく研究)ばっかりで、縄文文化を全体として海外の諸文化と比較するという視点で書かれたものが驚くほど「無い」。理由はキミにもわかるよね? 縄文やると「日本すげー」に短絡する素人を量産してしまうから、学者はやりたがらないの。

人類の土器文化は日本に発祥して、西へ広がった
とりあえず、今回の企画展じゃなくて同じ國學院博物館の中の通常展のほうの解説文の一つが、どうしても気になった。なにが書かれていたのかというと、人類文明史上、最古の土器は「東アジア」だと。よく読むと、日本のが一万六千年前、アムール川流域や華中・華南でも一万二千年前のが出ている、だから「東アジア」だっていってる。これ四千年も差があるのをむりに一纏めにしてる理由は、いうまでもなく「日本が」「日本が」って言いたくないってことだろ。べつに学者がそういわなくても、それを聞いた素人が「日本すげー」っていきなり言い出さないように、細心の注意を払ってるわけだ。いまだに学界ってのはそういう空気が強いんだなぁ。日本オリエント学会ですらそうなんだから國學院なんかなおさらだろうw ただ、仮にその議論に乗っかって東アジアだといってみても、中華文明の源流である黄河文明の地域や、朝鮮人(のごく一部?)がこころの故郷と憧れる満州地域、及び朝鮮半島は含まれていない。北はアムール河流域(つまり満洲とロシアの国境地帯)、南は華中・華南(つまり長江流域とそれ以南)だから、日本列島の南北両端からそれぞれ西へ延びて、全体として「半円弧」というか「三日月地帯」みたいな分布図になる。この図形はどうみても、日本列島から発祥して北ルートと南ルートでそれぞれ時系列的に「後から」外に発展していった図でしかない。それ以外に解釈のしようがない。四千年も差があるしな。

・「酉の市」の起源とその信仰の原形

今日、11月23日は勤労感謝の日、正しくは「新嘗祭」なわけだが、新嘗祭の話は以前にもしたので、今日は別の話をしよう。たまたまなんだが、今年は酉の市が三の酉まであって、今日がその三の酉。
(※以下、続きはまた後日、年明けにでも書きます)

・「譲位」の古代史

H28年11月18日(金)改稿 H28年7月13日(水)初稿
本当かね?
今日(H28年7月13日)、知り合いからメールが入り、今上陛下がご譲位のご意向を示されたと。ご高齢の陛下にあまりに馬車馬のように働かせている今のシステムは問題あり、制度に「譲位」を盛り込むのはよいことと思う。皇室典範に譲位がなく終身制なのは皇位を政争の具にしないためだったが、明治初期の頃はまだ天皇にはとってうもない権威とかなりの権力が伴っていたわけで、現在ではこの規程は時代にあわない。
とはいえ、宮内庁公式サイトに何も無し。まだガセ報道の可能性がわずかに…。明日の朝まで様子みるか…。こないだのというかずいぶん前の女系天皇論争で「陛下のご意向」を勝手に捏造するやつがいることがわかったから、真相はすぐにはわからんね。ネットみてたら宮内庁も内部で割れてて派閥抗争が酷いらしいし。

記紀に描かれた時代「譲位」はよくあることだった?
一般的な思い込まれとしては、古代の天皇には譲位はなく、崩御まで在位していたと考えられている。皇極天皇が孝徳天皇に譲位したのが日本史上最初の譲位だというのが通説だ。不確かな例ではこれ以前に継体天皇が安閑天皇に譲位したという異説が『日本書紀』に参考記事としてでてくる。しかし日本書紀の編集部もこの説には自信がなく、本文では採用されなかった。
しかし、記紀を精査してみれば、譲位は案外と頻繁にあったことが推測できるのである。記紀ははっきりとわかりやすくは明記していないが、おそらく譲位しただろうと思われる天皇は、孝安天皇、景行天皇、顕宗天皇、欽明天皇、崇峻天皇、推古天皇がいる。そもそもほとんどの天皇は『日本書紀』では譲位してないことになっているのだが、『古事記』は記述が簡単すぎて譲位したのか崩御まで在位したのか明瞭でない。そこで崩御年月日や在位年数が記紀で食い違ってる例をよく分析考察してみると、譲位したと考えないと辻褄のあわないことがよくある。もっとも上記の諸例のうち、上皇として長く生存したのは顕宗天皇だけで、他はだいたい譲位後まもなく崩御された例が多そう。崇峻天皇は暗殺されたことで有名だが実は譲位後だった。欽明天皇は2回譲位しており1回目は兄の安閑天皇に、2回めは皇太子の敏達天皇への譲位。欽明天皇の2回めの譲位と、推古天皇の譲位の場合は病状が重くなってからの譲位で譲位後まもなく崩御している。孝安天皇と景行天皇は譲位の詳細不明。特殊な例として継体天皇の場合があり、実際は崩御したのだが崩御が隠されて継体朝が建前上は続いていた。だから形式上は譲位といっても実際は譲位でない。

・塩焼王と女系天皇問題

塩焼王(しおやきおう)という愉快な名前の人がいた。奈良時代の皇族。きっと顔も性格も名前と同じく愉快な人だったのではないだろうか。でもこの人の人生は愉快でない。恵美押勝の乱で天皇に擁立されたが、乱が鎮圧されてしまい、この天皇も殺害された。つまりこの人は天皇だったのである。
「不称天皇」とは何か
塩焼王は「不称天皇」の一人である。不称天皇とは、本当は天皇だった可能性があるにもかかわらず、現時点では「天皇ではなかった」とされている歴史上の人物のことである。「そんな用語は聞いたことがない」といわれるでしょうが、実際あんまり広まってないからね。この用語は我が師匠、吾郷清彦先生がつくった用語なのである。だから吾郷先生の弟子筋の人はみな知ってる。この不称天皇にはさらに4つの分類があったりしてなかなか複雑な概念なのだが、今回この話は本題でないので詳しい話は別の機会にする。

所謂「女系天皇」をめぐる問題
ところで不称天皇が「本当は天皇であるのに天皇と称されない」のに対し、これとは逆に、「天皇でないのに天皇と称される」例も存在する。それにもいくつかのタイプがあるわけだが、一つには女帝もこれに含まれる(世間では女帝のことを「女性天皇」と言いたがる向きがあるが、馬鹿げた表現に聞こえる。なぜ「女帝」と言わないのか理解に苦しむ)。女帝といえば小泉内閣の末期、平成でいえば16年から18年ぐらいだったか、皇位継承問題がもちあがった。皇位継承というけれども議論の焦点は女帝をみとめるかどうかだった。といってもこれもまだ表面的な言い方で、本質は母系を認めるかどうかだった。世間では「男系/女系」という言い方がされるが、厳密にはこれはおかしな言い方で、正しくは「父系/母系」だ。平成末期というのはこの議論が一般にも認識された時期であるが、狭い世界つまりウヨ界隈では、敬宮内親王殿下ご生誕の時にすでに当時の電網右翼「鐵扇會」の掲示板に通りすがりの匿名氏が「女帝万歳、愛子天皇陛下万歳」とかなんとか書き捨てていったことがあり早速物議を醸し出したことがあった。以来、ずっと議論はあったのである。平成17年(2005)9月25日にmixi内のコミュニティー「女系天皇に断固反対する会」ができて、私もそこにはよくカキコしてた。このコミュニティーは今はほぼ停止状態だけれども、同年12月10日(土)には橿原神宮において第一回「皇統の未来を守るオフ」が開催(主催者は今も関西で活躍しておられる彦十郎先生)。これに東京からはるばる駆けつけたのも素晴らしい思い出だ。翌年の平成18年(2006)6月10日には「皇室と日本を考える」が発足。このように、母系天皇は偽帝であり僭主であり、絶対容認できないと一貫して主張してきた。ただ、女系天皇に反対することまでは、保守派としては格別珍しいことではなく、わざわざこのブログで力説するほどのことではない。中には保守派であっても母系天皇を認める一派があり、小林よしのり、高森明勅、あとは西部邁のとりまきの欧米流近代主義保守の連中(富岡とか)と小室三兄弟の長兄橋爪大三郎(これも近代主義者)がこれにあたるが、保守派の中ではきわめて少数派(ジャーナリストやもともと左翼系の論客は含めてない)であって、ドンブリ勘定でいえば大雑把に「保守派は母系天皇を認めない」と断言してよい。そんな中で私が主張し続けてきたのは父系か母系かを問わず、女帝そのものに反対してきたということだ。比較的めずらしいんだよね、保守派でも父系の女帝は容認できるとする人がわりかし多いから。なぜ女帝に反対してるのか、あるいは父系の女帝までは容認している保守派はなぜ母系天皇に反対しているのか、そのへんの話は検索すればいろいろな論客のサイトで読めると思うので適当に調べてくだされ。

水戸学の欠陥
さて塩焼王の話に戻ろう。塩焼王は天皇だったという我が言い分に対して、「反乱軍が勝手に擁立したんだろう」、と言うなかれ。この世は「勝てば官軍」でいいはずないだろう。恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)は敗北したから「乱」とされているんであって、勝っていたらいまごろ正統な天皇だったわけだ。弘文天皇や南朝の天皇のように名誉回復された天皇がいる一方で、塩焼王のようにいまだ不当な扱いをうけている天皇もある。明治時代に南朝や弘文天皇のように扱われなかったのは、もちろん明治政府の基準が「水戸学」だったからで、水戸学は儒教的な大義名分論に基いて三種の神器の有無で正統かそうでないかをわけ、北朝の天皇を歴代からはずした。しかしこれには嘘が入ってる。本当は水戸学の基準はただの「太平記史観」であり徳川家の先祖である新田氏を賊軍ではなく忠義の臣下だったというのが本当の狙いなのである。まぁ水戸学の話はまた無限に話が広がってしまうので今回はやめとこう。

傀儡であることは自体は「正統でない」という理由にならない
恵美押勝はそんなに立派な人だとは思わないが彼と対立した孝謙上皇(女帝)が正統だとも思わない。近江天皇(塩焼王)が即位した時、皇位にいたのは孝謙天皇ではなく淳仁天皇だった。淳仁天皇はおいたわしいことに実権を取り上げられ、孝謙上皇が不当にもすべてを支配していた。淳仁天皇をお連れ申し上げることを阻止された仲麻呂は、やむなく塩焼王に即位を要請したのである。ことが成った暁には、皇位を淳仁天皇に奉還すればいいことで、戦争という非常事態の中で許される範囲のことといえよう。氷上天皇(塩焼王)が勝利した場合、淳仁天皇をどう扱ったかはわからないが仲麻呂個人の結びつきからすれば淳仁天皇に皇位奉還した可能性が高いだろう。近江天皇と仲麻呂は、淳仁天皇に謀反したのでは断固ない。正統なる天皇である淳仁天皇を抑圧する孝謙上皇と対立したのである。

正統な天皇と僭主の区別はその時その場ではわからないことも多い
日本人にとって2人の天皇が並び立った時や、天皇と上皇が対立した時にどっちにつくべきか、あるいは中立を守るべきかはケースバイケースで悩ましい問題ではあろう。三種の神器の有無、大嘗祭の既催か未済か、先帝の指名の有無、皇太子の位にいたか否か、即位までの手続きの正当性(中世なら治天の院宣、現代なら皇室典範に則っているか)、そして帝徳。ここでいう帝徳とは人柄がいいとか能力があるとか立派な見識をお持ちだとか、何者かに擁立された傀儡であるか逆に自主勢力であるかとか、右寄りのあるいは左寄りの思想なり政策なりをお持ちだとか、国民を大事に思われるお気持ちがものすごいとか逆に国民をないがしろにしてるとか、そういう個々のことではない。それらを超越して(「含めて」ではなく「超越して」)天照大神をはじめとした神々に信任されているという「感じ」のことなのである。まぁそれでわかるってもんでもないが、天皇には父系の実系でつながってる人物である限り「偽帝」とか「僭主」とか決めつける絶対的な基準はないのだ。それは神がきめることで人間にはわからない。たぶんこっちだろうな、と思うだけのこと。

しかし鉄則もある
が、ここで一つのわかりやすい基準もある。それは「女帝には正統性がない」という鉄則だ。海外の女帝はそれぞれの文化圏における伝統的な理論または異端の理論によってそれぞれ正統だったり非正統だったりいろいろなケースがあるだろうがそれはどうでもいい。ここでいう女帝とは女性天皇のこと。女帝はあくまでも一時的な、便宜上の、仮りの、中継ぎの存在であり、摂政に毛が生えた程度のものなのである。だから当然、日本史上10代8人に及ぶ女帝も、歴代に数えるのをやめなければならない。これは江戸時代にやってた水戸学が徳川家肝煎りの明正天皇を歴代からはずすのは政治的に問題あったためで、神功皇后をはずすのがやっとこさだった。しかし明治になっても江戸のまま進歩の止まった水戸学に準拠したのは失敗で、皇室典範に女帝を禁じたはずの明治政府の復古政策が徹底せず一貫性を失してしまったわけだ。たいへん悔やまれるので一刻も早く女帝は歴代からはずすべきだ。かつて北朝の天皇に対してやったことなんだから今から女帝に対してできないなんてことはないだろう。で、戦前は北朝の天皇は「北主一代」「北主二代」と言った。この「主」という漢字は事実上の勢力があったことは認めるが正統の君主の称号は認めないというニュアンスのある文字で、失礼なことこの上ないと思うのだが、女帝に対して「女主一代」「女主二代」というように使うのは適切ではないだろうか。

10月21日は「近江天皇正辰祭」
話を戻すと、近江天皇と藤原仲麻呂のコンビが戦った相手は淳仁天皇ではなく、むしろ淳仁天皇を救い出そうとしたのであり、孝謙女帝と戦ったのだということ。いや正確には「ということ」じゃなくて「といえること」だが。本名そのままに「塩焼天皇」では気が引けるので(裕仁天皇とか明仁天皇とかいわないのと同じ)、仮りに「近江天皇」とか「氷上天皇」と仮称し奉らんと思ふ。近江で即位し近江で崩御されたから(天智天皇を淡海先帝ともいいこれは淡海後帝(弘文天皇)の存在を想定したものともいうが別に紛らわしくはないだろう)、氷上というのは臣籍降下していた時の姓。今日、10月21日(月)は近江天皇が殺された日なので、天平宝字八年九月十八日(AD764年10月、ユリウス暦では17日、グレゴリオ暦では21日)から1252周年なのである。ぜんぜん区切りはよくないが。

・七夕と日本神話

七夕と日本神話(多忙につき内容は後日かきます)

・夏越大祓(なごしのおおはらい)

6月30日は「夏越大祓」(なごしのおおはらい)

※後日に執筆予定

・神話の構造と古典の章立て

H28年5月18日(水)初稿
『日本書紀』の章立て
古事記は格別に章立てはしてないわけだが、『日本書紀』は以下のように各章に題名がついている。()内はそれに該当する古事記の部分。

第一巻・神代上
 神代七代章 …(天地のはじめ)
 大八洲生成章…(国生み島生み)
 四神出生章 …(神生み、黄泉国、三貴子の誕生)
 瑞珠盟約章 …(天照大神と須佐之男命との誓約、三女神五男神の誕生)
 宝鏡開始章 …(天の岩戸)
 神剣出現章 …(八俣の大蛇、大国主)
第二巻・神代下
 天孫降臨章 …(葦原中国の平定、天孫降臨、木花之佐久夜毘売)
 海宮游幸章 …(海幸山幸)
 神皇承運章 …(鵜萱葺不合命、神武天皇の兄弟)

これの面白いところは「瑞珠」「宝鏡」「神剣」とついており「三種の神器」の由来を強調した名称になっているのが特徴。「八咫鏡(やたのかがみ)と天の岩戸」、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八俣の大蛇」の組み合わせはまさしくその通りで妥当だが、玉と誓約(うけひ)はどうなのか。誓約では玉と剣が両方でてくるのであって玉が主役とはいえないし、そもそも三種の神器の八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は誓約の物語とは関係していない。なのでややバランスの悪い構造理解といえる。
三種の神器のそれぞれの名は後世には固有名詞のようになったが、もともとは普通名詞であったと思われる。なので、同じ名だからといって同一のものとは限らないし、逆に名前が違っているから別のものとも限らない。例えば、伊邪那岐命が三貴子にそれぞれの支配領域を分けた時に「御倉棚神」(みくらたなのかみ)という玉が出てくるが、これが八尺瓊勾玉のことだろう。国生みのはじめに、天之沼矛(あめのぬほこ)が出てくるが、これは草薙剣と同じ意味をもつ。ツルギは武器が発達して種類が増えてから出てくた名前で、古くは武器はみなホコといったのであって、天之沼矛と書かれているからといって槍のようなものに限定して考える必要はない。これらの神器を授けるのは世代交代を意味してもいる。伊邪那岐命に「この漂へる国を修理り固め成せ」と命じて天之沼矛を賜ったのは、それによって「伊邪那岐命」の時代が開幕したことを告げる。そして、伊邪那岐命が「汝は高天原を知らせ」と命じて天照大神に御倉棚を賜り、同時に「汝は海原を知らせ」と須佐之男命に命じたのは、ここに伊邪那岐命の時代が終わって、天照大神と須佐之男命の時代が始まったことを意味する。最後に、天照大神は八咫鏡に剣と玉も添えて邇々藝命に天壌無窮の神勅をくだし、ここに邇々藝命の時代が始まって今に至る。このように三種の神器は神話の中の時代の区切りに関係している。

『先代旧事本紀』の章立て
『先代旧事本紀』は以下のようにわかれている。

神代本紀 巻一 …(天地のはじめ)
陰陽本紀 巻一 …(国生み神生み)
黄泉本紀    …(黄泉国、禊、三貴子)※1
神祇本紀 巻二 …(誓約、天の岩戸)
天神本紀 巻三 …(葦原中国の平定)
地祇本紀 巻四 …(八俣の大蛇、大国主)
天孫本紀 巻五 …(饒速日尊(にぎはやひのみこと)のあまくだり)※2
皇孫本紀 巻六 …(天孫降臨、木花之佐久夜毘売、海幸山幸、鵜萱葺不合命、神武天皇の兄弟)※2

※1黄泉本紀は十巻本では独立せず、内容は陰陽本紀に包括されている。七十二巻本・三十巻本などでは別立。
※2皇孫本紀は別名天孫本紀ともいい、天孫本紀も別名皇孫本紀という、とあり。つまり言葉の意味は同じだが、区別するために便宜上使い分けているわけでどっちがどっちの名でもよい、という趣旨らしい。

天神と地祇との起源・相克・統合の過程に力点をおいた名称になっているのが特徴である。しかしスッパリ分かれてるわけでもない。黄泉国は「地下」の物語、天の岩戸は「天上」の物語、八俣の大蛇は「中国」(天下=地上)の物語で、三つの世界が語られている。
その後で、国津神による国造り、天津神による国向け(国譲り)、皇祖邇々藝命による肇国(天降り)がありこれはそれぞれ「地」、「天」、「天地の合一」に対応している。邇々藝命が人皇の祖という意味では「地・天・人」と対応しているともみられる。

・「天皇」という君号の起源(後編)

H28年5月11日(水)初稿
天皇という君号の起源(中編)より続き

草壁系が途絶えたのになぜ「天皇」号が使われ続けたのか
理屈からいえば「天皇」というのは草壁系のスメラミコトのことなのだから最後の「天皇」は称徳天皇であって、光仁天皇からは天智天皇の近江令の精神に立ち返って「皇帝」「天子」の二本立てに戻り「天皇」号は廃絶するべきだったろう。実際にそのような選択肢はあったはずだが、天皇号の見直しは見送られ、永久に天皇号が使用されることになった。それはなぜか。

元明天皇の時に『古事記』が、元正天皇の時に『日本書紀』が編纂されたが、これは神武天皇にまで遡って「天皇」という称号を使っている。これはスメラミコトの漢字訳であり、当て字なのだから「天皇」でも「皇帝」でもそれ以外の何かでも、別に何の問題もないはずだが、天皇号が採用されたのは草壁系のアイデンティティー、すなわち天武の父系と天智の母系を継ぐ「草壁系」だけが始祖「神武」以来の皇位を継ぐ正統唯一の存在だという意志の表われだろう。
文武天皇の次の元明天皇も、その次の元正天皇も「天皇」と称している。これはもし則天武后の失脚がなければ「天后」になっていた可能性が高いがそれはさておき、この天皇という漢字表記は草壁皇子の系統の者だけが初代「神武」以来の皇位を継ぐ、という宣言、少なくともそういうイメージを込められた表記だったことは説明した。元明・元正という二代の女帝が続いたのも草壁系で文武天皇の子、首皇子(のちの聖武天皇)の成長を待つためであった。つまり、記紀が出来た時の建前としては、皇位というものは永久に草壁系の皇族子孫に継承されていくべきもので、まさか聖武天皇の次で断絶するなんて縁起の悪い予想は口に出すのも憚られたのは当然だろう。草壁系の皇族が永久に皇位を継いでいく=天皇が永久に続くのだから、過去のスメラミコトがすべて天皇表記でも「スメラミコト=天皇」で一貫しており問題はない。そういうわけで、この時代にできた『日本書紀』は神武天皇以来、歴代のスメラミコトを「天皇」と書いているわけなのである。
ただし『古事記』は書紀とは別の表記法をとるという編集方針を立てていたのだから、例えば万葉集や延喜式祝詞みたいに「皇命」(すめらみこと)とか金石文みたいに「大王」(おほきみ)という書き方をした方が古風でもあり、古事記の趣旨からいっても太安万侶や稗田阿礼もそうしたかったろうが、「天皇」という表記を使えという厳格な指示か、場の空気があったんだろう。

天皇号が単なるスメラミコトではなく「草壁系の天皇」を意識した号であることは聖武天皇・孝謙天皇・舎人親王の3人が皇帝を称していることからも傍証できる。
天平宝字二年(AD758)八月一日、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位して上皇となったがこの時「宝字称徳孝謙皇帝」という尊号を献上された。八月九日には2年前に崩御していた聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号と「天璽国押開豊桜彦尊」の諡号を贈っている。また同時に草壁皇子を「岡宮御宇天皇」とよぶことにされた。翌年天平宝字三年(AD759)には淳仁天皇の父、舎人親王に「崇道尽敬皇帝」と諡を奉った。

『逆説の日本史』で有名になった井沢元彦がいうには「皇帝」を名乗ってるのは易姓革命を意識したもので、坊さんの道鏡に皇位を譲るつもりだったから、といってるが、孝謙天皇と道鏡がめぐりあうのはこの3年後なので井沢元彦の説は成り立たない。ただし、一応、この頃はすでに藤原仲麻呂が権勢を振るい始めていたので、仲麻呂の支那かぶれ趣味の現われだろう。彼は当然、漢文にも精通しており、天皇という称号が中華王朝(律令時代は日本も中華式の帝国をめざしていた)としては不自然というか、漢文文明の文脈ではやや不細工な感じがして「皇帝」号の方を好んだ可能性は推察できる。しかしここで注目されるのは、聖武天皇を皇帝としたのと同じ日に草壁皇子を「天皇」号を贈っているという対象性、そしてもう一つは、聖武天皇が崩御に際して、孝謙天皇に「皇太子として道祖王(ふなどおう)を立てるように」と遺詔していたことだろう。道祖王は天武系ではあるが草壁系でない。つまりスメラミコトに即位することはできても天皇ではない。中国の王朝交代=易姓革命には該当しないが、草壁系から非草壁系への「王系交代」が起こることになる。『続日本紀』は代々の天皇の巻の表題に和風諡号を使っているが、孝謙天皇の巻の表題について「出家したので和風諡号がない、なので生前の宝字称徳孝謙皇帝を表題に使う」とし、重祚(称徳天皇)の巻には「高野姫天皇」(これも生前の号)としているがこれはおかしい。聖武天皇も生前に出家していたが崩御2年後に和風諡号が贈られた。孝謙天皇(=称徳天皇)は生前にも倭根子天皇とか高野姫天皇とか和風な呼ばれ方もされていたのだから、和風諡号を撰案して奉ることは容易であったはずだ。おそらく始めの在位は天皇号でなく皇帝号で、重祚してから天皇号を使ったのではないかと思う。皇帝だった孝謙天皇の後を継いだ淳仁天皇も天皇でなく皇帝だったと思われる。淳仁天皇もその父の舎人親王も草壁系ではない。道祖王や淳仁天皇、舎人親王の3人は草壁系ではないから天皇でなく皇帝だったというのはわかりやすい理屈だが、聖武天皇と孝謙天皇が「皇帝」とされたのはどういうことかというと、聖武天皇は非草壁系の道祖王に皇位をわたすように遺詔し、孝謙天皇も当初はその予定だったがすぐ皇太子を非草壁系の大炊王(のちの淳仁天皇)にさしかえた。つまり聖武天皇と孝謙天皇はどちらも非草壁系に皇位をわたそうとしていた。これは草壁系の永続を前提とする「天皇」の名においてはいかにも気まずいので、王系交代を中華皇帝の「禅譲」に見立てたのではないか。禅譲する方もされる方も皇帝の論理の中にあるのであって、天皇の論理(草壁系永続の論理)からははずれるのである。

ただしこれらの理屈は前述のように主には藤原仲麻呂の個人的な思想のようにも思える。その後、孝謙天皇は淳仁天皇を廃位した時に「天子を奴とするも奴を天子とするも汝の思いのままにせよ」という聖武天皇の遺詔を持ちだして重祚したが、『続日本紀』の表題をみると重祚してからは天皇号を使ったようだ。仲麻呂の乱を鎮圧した後で彼の中華式論理に嫌気がさしていたのもあろうし、権力の正統性を聖武天皇の遺詔に求めている。いうまでもなく聖武天皇の威信は草壁系の嫡流たることにある。

ともかく、現実の歴史は称徳天皇で草壁系は断絶し、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位。本来ならここで「天子」と「皇帝」の二本立てに戻らないとおかしいわけだが、そうはならなかった。なぜか。
光仁天皇の即位後、政情がすぐ安定したわけではないので、天皇号を廃止するというような、天武系(草壁系)をいきなり刺激するようなことはしたくなかったろう。それやるなら政情が安定してからだが、草壁系の皇后の井上内親王やその所生の皇子、他戸親王が即位3年目で廃されるというすったもんだがあり、さらに3年後の二人の急死による怨霊への恐怖で寺を建てたりしたが、その翌年には天変地異、そして光仁天皇本人の病気、その4年後には崩御しており、天皇号をどうするかなんていう形式にかかずらわってる暇は無かった。
光仁天皇の時代には日本書紀の続きとなる歴史書の編纂(のちの『続日本紀』)も計画されたが完成しなかった。この段階では孝謙天皇までの歴史書として想定されていたから、仮にこれが完成していたとしても登場する天皇すべて「天皇」でも問題は起こらない(ただし孝謙天皇は皇帝だった可能性があるのは前述の通り)。なぜ孝謙天皇までなのかというと、淳仁天皇(淡路廃帝)と称徳天皇(孝謙天皇の重祚)を正統と認めるかどうかまだ当時の空気としては意見をまとめるのが難しかったからだろう。淳仁天皇は在位中に皇位を取り上げられ廃帝にされたまま諡号も贈られていなかったが、明治天皇がそうしたように名誉回復することも可能だったはずだし、称徳天皇を崩御の後に形式上廃帝扱いとすることも可能だった。選択肢として、四通りの形式が用意できたのである。またそれによって、現皇室(光仁天皇)の権威の源泉なり正統性なりの理屈も変わってくる。そうすると編集方針をめぐって意見も4派に分かれて揉めまくっていた可能性もあるだろう。ただし目立つのが嫌いで苦労人の光仁天皇個人としては、天智系統の復活なんて大々的な宣伝はせず、何食わぬ顔でまるで草壁系が続いてるようなすっとぼけた態度で、余計な波風立てない方針を望んでいたようにも思われる。
次の桓武天皇は草壁系に遠慮する必要はなくなっていた上『続日本紀』を完成させる余裕もあり、記述範囲は当の桓武朝にまで及んでいるから、その気になれば「天皇」号を問題視することも理屈の上では可能だったと思われる。実際、桓武天皇にはかなりの中華趣味があって、中華式の儀式を取り入れたりしているし、「皇帝」号も多用していた。『続日本紀』の桓武天皇の巻の表題も「今皇帝」になっている。しかし、やはり天皇号の見直しはされなかった。これはなぜなのか?

考えられる理由としては、
第一に、天皇より古い「天王」号が親しまれ馴染まれていた。天皇の読みも天王と同じくテンワウ(現代語:テンノウ)であり、感覚的にはひじょうに古くから使われた「天王」号の延長のように感じられ、「皇帝」よりははるかに親しみ深かったのだろう。
第二に、上記第一と裏表な話で、「皇帝」という称号は天智天皇の近江令から採用されたもので、歴史が新しくなじみが薄かったと思われる。
第三に、天武帝の段階での国史編纂計画は、天智帝で終わる『大倭史記』であり、天武帝以降の歴史は遠い将来『日本書』としてまとめられる予定だった。そこでは天皇号は天武天皇個人(一代きり)の称号であり、君号は「皇帝」が使われるはずだった。ところが元明天皇の代になってから急遽変更になり、天武・持統の両天皇まで追加されることになり、表題も『日本書』とされ、同時に神武天皇以降の歴代のスメラミコトがすべて「天皇」と書かれてしまった。天武・持統が考えていた歴史観と元明天皇の歴史観はかなりちがっているのだがそのへんの事情や経緯はまた別の機会にするが、神武天皇以来「天皇」表記にすることになったのだから、天智系だの天武系だのといって称号を区別する意味がなくなってしまった。
第四に「天皇」号についていえば、記紀が完成するずっと前の段階で「天后」という文字が抹殺されていたため、天武天皇が創案した天后とのセットとしての天皇、持統天皇が意味づけた草壁皇統としての天皇という側面が薄れ弱まってしまっていた。
第五に光仁朝・桓武朝では井上皇后と他戸親王の「怨霊」が問題になっていた。これは井上皇后個人の怨恨ではなく、草壁系を絶滅させたことによる祟りという側面もある。そこで草壁系を表わす天皇号を継続させることが怨霊を慰撫することになると考えられた。これについては確定案ではなく微妙なところもあるが、長くなるのでこの記事の最後に「草壁系の怨霊問題」という題でまとめておく。
第六に『日本書紀』編纂の段階では日本語を漢文にどう置き換えるかという問題意識があったから、いわば創造的行為としての翻訳が焦点となっており、そのような精神の下では「既成事実」などは重みをもたず、むしろ絶えざる再検討の対象となる。が、『続日本紀』の頃は、漢文に熟練した官僚が増えてきて、過去の表記をやたら恣意的に変更しないという歴史の常道が意識されてきた。つまり言葉に対するセンスが真逆になっており、すでに『日本書紀』ができてしまっているという「既成事実」は、天皇号を踏襲させるほどの重みをもっていた。

既成事実として『日本書紀』では神武天皇以来、代々天皇表記になっているというのはその通りなのだが、全面改訂するといっても単に文字の機械的な訂正だからさして難しくはなかったはずだ。光仁・桓武二代経って、これはすでに天武系がどうの草壁系がどうのという話とは矛盾した情況になっているわけでこの矛盾を調整するために『日本書紀』を全面改訂するという選択肢もまったくありえたろう。だが、そうはならなかった。その理由としては、上記の6案をあげてみた。

怨霊としての草壁系
桓武天皇の時に編纂された『続日本紀』の構成をみてみると、桓武天皇の途中の延暦十年(AD791)で終わっている。これは『続日本紀』が完成した延暦十六年(AD797)の6年前にあたり、ぎりぎりまで現代史を含めようとしている。これは現代人の発想からは、何てこと無い当たり前のことのように思われるが、やや不審でないこともない。
天武帝の生前には、おそらく想定していた歴史書は天智帝(もしくは弘文帝)で終わる内容で構想されていただろう。天武帝はこの段階ではまだ死んでないし、治世の途中で切ったらキリが悪い。中国の歴代正史は「断代史」といって『漢書』以降は王朝ごとの歴史になっている。天武帝の治世から始まる歴史書は、自分の子孫が作るものであって天武帝自身が作るものではない。それが持統天皇まで含めて『日本書紀』になってしまった経緯はいろいろあるわけだが(今はふれないが)、『古事記』は中巻と下巻を区切り(応神天皇と仁徳天皇の間)、『先代旧事本紀』は神皇本紀と帝皇本紀を区切っている(武烈天皇と継体天皇の間)のも、王朝というか家系の交代に注目した点で、すべて似たようなセンスといえよう。
こうしてみると、桓武天皇が歴史書を編纂するにあたっても、自分の治世まで含めないで考えていたのではないかと思う。それが普通なのだ。歴史書の区切りとしては称徳天皇で終わりにして、光仁天皇以降の歴史は後世の人間に任すというのがもっとも穏当かつ常識的な選択だったと思われる。
それがなぜ自分の治世の途中まで含むという編集方針になったのか?

いうまでもなく区切らないというのは、自分自身(桓武天皇)まで、太祖神武帝から天智系も天武系もなく、ひと繋がりで「断絶はない」という観念の表明である。これは前王朝に対する優位の主張を放棄し、歴代天皇の中に自らの家系の価値を埋没させることではあるのだが、同時に、断絶した前王朝を万世一系の欠くべからざる一部として救い出すことでもある。こんなことは近代以降でこそ当たり前のことだが、当時は皇室典範が無く、傍系から入って皇位継承するというのは諸臣貴族層の利害や思惑が絡まって、正統なのか簒奪なのかどうかという線引きをめぐって空気が緊張し、客観的な判断が難しくなる。だから正統性の主張が重要なのだが、不幸にして当時の政治思想といえば儒教理論が力をもったために、つい前王朝(前の家系)の不徳をあげつらうことになりがちだったと思われる。それを、よりにもよって歴代の中でも支那かぶれの度合いの高い方に入る桓武天皇が、なぜ断ち切ることができたのか。それはひとえに、当時流行しつつあった「怨霊信仰」によるのだろう。
光仁天皇の治世は打ち続く天変地異が井上皇后と他戸親王の怨霊の仕業とされ、桓武天皇になってからも早良親王の怨霊に悩まされ、当時は深刻な問題だった。桓武天皇は井上内親王(廃后)に皇太后の号を贈り、早良親王に「崇道天皇」の号を贈っている。他戸親王は当時12歳でわけわからないうちに巻き込まれただけだから天皇号までは贈らなかったようだ。

怨霊信仰の起源については儒教(というか儒教と道教に分離する前の古代中国の祖霊信仰)でいう、死者は男系子孫からの祭祀でないと受けることができないので、男系子孫が断絶すると死者はあの世で困窮するという信仰と、仏教の因果応報思想と、神道の荒御魂(あらみたま)だか祟り神(たたりがみ)だかの思想が混淆して日本で独自に形成された新しい信仰である。従って怨霊信仰は、中国的な「子孫断絶」と、仏教的な因果応報から免罪なのに殺された者の無念が正当に報われるという面、そして神道の荒御魂つまり生者にタタリをなすという3要素からできている。怨霊信仰の起源は(1)聖徳太子説、(2)大津皇子説、(3)長屋王説、(4)藤原広嗣説があるが、(1)と(2)は誤りと思う。聖徳太子の頃に怨霊信仰があったら子孫を根絶やしにされることはなかったろう。大津皇子には粟津王という子がいたがその子孫はぜんぜん活躍しておらず名も知られていないのですぐに断絶させられたに違いない。つまりこの頃には怨霊信仰はまだ確立してなかったのではないか。長屋王の怨霊は疫病となって藤原四兄弟を殺した。長屋王の子孫が高階氏として存続が許されたのは怨霊をなごめる意味あいがあったのである。逆にいうと、子孫がいれば怨霊をなごめやすいが、子孫の断絶した怨霊はそれだけ怖ろしく手強いということになる。平安前期までに早くも崩れて上記のいくつかの条件(子孫の有無、免罪、無念の思い等)がぬけても庶民の人気によって怨霊とされていったりするようになっていくが、初期のうちは「子孫が断絶してるかどうか」が怨霊の怖ろしさの分かれ道だったのである。

ところでこの怨霊信仰は中国的な歴史編纂の思考とは相容れないものだ。中国の正史の思想は滅びた前王朝を悪として断罪することで、新王朝の正統性を主張する。それだと、怨霊信仰の立場からいうと前王朝が怨霊になってしまう。だから、天武帝以来構想されてきた中国的な正史の枠組みそれ自体が、桓武天皇によって破棄されたのだと思われる。むしろ、前王朝の家系をどうやって慰霊するか(怨霊にさせないか)が課題になってくる。とはいえこの頃はまだ怨霊信仰ができたばかりの時代だから、怨霊の条件も後世のようにユルユルではない。天武天皇の子孫は断絶しておらず、文屋氏・高階氏・清原氏などその後もずっと続いているから、天武系がそれだけで怨霊視されることはなかったろう。ただ、これら天武系の氏族は、いずれも天武系ではあっても草壁系ではない。草壁系の男子が断絶したのは自然の作用で桓武天皇のせいではないが、草壁系(というか持統天皇の子孫)は男系も女系もすべて断絶している。自然でなく誰かの陰謀で断絶させられた女系というのは、長屋王の変での吉備内親王と、光仁朝になってからの井上内親王がいる。前者には光仁・桓武が責めを負う筋合いにないが、後者は最後に残った持統天皇の血筋を光仁天皇が断ったことになる。

草壁系の子孫はいた?
ただし、草壁系は残っているとする異説があり、それは高円氏の始祖である高円広世(たかまどのひろよ)が文武天皇の皇子だと推測するもの。母の石川刀子娘(いしかはのとじのいらつめ)が和銅六年(713年)に嬪の称号を廃された際に、成世も皇籍を剥奪されたという。これはあくまで角田文衛の推測であって高円成世の両親は不明。『続日本紀』には石川刀子娘が皇子を生んだような話はない。石川刀子娘は同じく嬪だった紀竃門娘(きのかまどのいらつめ)と一緒に廃されているが原因は不明で、詳細は省かれている。これがもし本当なら草壁系は高円氏として続いていることになるが、もしそれなら称徳天皇の後は高円氏が皇籍に復帰したのではないかと思う。首皇子を天皇にしようとする藤原氏の謀略だという説もあるが、おそらく二人の嬪は品行不正で廃されたのではないか、それも高円広世の父が本当に文武帝なのか疑われたのだろう。梅原猛の説だと、文武天皇の妃は紀皇女だったが弓削皇子との不倫が原因で妃を廃されたという。紀皇女の乳母氏族は紀氏で、紀竃門娘もその出身だから、紀竃門娘はもともと紀皇女のお付き官女だったのだろう。弓削皇子は文武三年(699年)に推定27歳の若さで薨去しているが梅原説が正しければ始末されたってことだろう。その頃には紀皇女も廃妃され離婚して、一応決着ついていたはずである。713年になって石川刀子娘の不倫が疑われたのは、高円広世(当時は広成皇子)が弓削皇子の胤だと疑われたということではないか、だから一緒に紀竃門娘も廃されているのはかつて紀皇女と石川刀子娘の間を手引きしたのは紀竃門娘だったということだろう。いや、高円広世が弓削皇子の胤かどうかは断言できないが、弓削皇子と紀皇女の不倫があった頃、紀竃門娘と石川刀子娘も紀皇女のとりまきの一人としてその交友圏内にいて、弓削皇子をとりまく男性らと不品行に及んでいたのではないかと疑われた過去があったのではないか。そんな昔のことが713年になって改めて問題にされたのは、広成皇子が成長して弟の首皇子(聖武天皇)と比べて父に似てる似てないの話にちょうどなる時期に重なっている。だから広成皇子の本当の父が誰なのかはわからないが、少なくても当時疑われるようなことがあったからこそ皇籍を剥奪されたのである。本当の父が誰であっても当時は草壁系の男子は文武天皇しかいないから、どのみち高円広世は草壁系ではない。弓削皇子も天武系ではあるが草壁系ではない。
さらに、草壁系は女系でならば繋がっているとする異説もあり、長屋王の子の桑田王が高階氏として継続している。『続日本紀』では桑田王の母は吉備内親王の子としているので、それなら女系を通じて草壁系ということになる。しかし長屋王邸宅跡から出た木簡に「石川大刀自」または「石川夫人」として出てくる人名がみつかり、これが『本朝皇胤紹運録』に桑田王の母として出てくる「石川忠丸の女」と同一人物だろうということになり、『本朝皇胤紹運録』に信憑性がでてきた。『続日本紀』は吉備内親王の3人の子に並べて桑田王まで書いた時に母についての注記が漏れたのだろう。
ところで高円広世の母である石川刀子娘と、桑田王の母である石川大刀自は同じ石川氏で世代もまったく同世代。もしかして姉妹か。まさか同一人物ということはあるまいな。同一人物だったら文武天皇の嬪を廃されてから長屋王に拾われたのか。そうすると高円広世の父は長屋王の可能性も理屈の上では出てくるが、もしそうなら桑田王がそうしたように父を隠す必要はなかろうから、やはり高円広世の父は長屋王ではないと思われる。あるいはまだ文武帝の嬪だった頃の不倫相手が長屋王で、その頃に長屋王の胤で生まれたのが広成皇子だったとしたら、長屋王の実の子であってもその事実は隠されたろう。この場合、広成皇子は桑田王の同母兄となる。
しかしこれらはすべて憶測にすぎず、万が一この通りだったとしても、「長屋王謀反の讒言を聖武天皇が信じたのは石川刀自をめぐる父(文武帝)と長屋王の三角関係を知ったからではないか?」等という週刊誌のゴシップ記事みたいなどうでもいい話のネタになる程度で、格別にだからなんだという面白い展開にはならない。当面の議論としては、どっちみち草壁系は残っていないということにかわりはない。

ともかく、そういうわけで、他戸親王と井上皇后の母子は、女系・男系含めて草壁系の最後の生き残りだったことになる。ということは怨霊信仰として考えた場合、「井上皇后個人の怨み」というレベルではなく、草壁系全体の祟りということが考えられたはずであろう。草壁系とは天武帝と持統天皇を父母とするが、天武系はいくつもの系統が子孫として残っているから怨霊としてはさほど恐ろしくはない。問題は持統天皇だろう。井上皇后の怨霊とは、いうまでもまくその背景に持統天皇の怨霊の可能性というとてつもない影を背負っているのだ。持統天皇がとんでもないスーパーウーマンだったことは有名であり、伝説化してこの時代までも語り草になっていたに違いない。ただでさえそんなとてつもない猛女が怨霊になったりしたら、こんな怖ろしいことはないだろう。

京都の御霊神社の御祭神は時代的にこれより後の(平安前期の)怨霊をあわせ祀っているが、主要な6柱の怨霊の他に、後から祀られたという由来不明の2柱がある。それが火雷天神と吉備聖霊で、火雷天神は名号からいえば菅原道真だが時代的にあわない。吉備聖霊は吉備真備とする説もあるが彼は怨霊になる筋合いがない。御霊神社の公式見解としては、祭神6柱の荒御魂が火雷天神で、和御魂(にぎみたま)が吉備聖霊という。
推測するに、吉備聖霊は吉備内親王ではないかとする永井路子の説が当たりだろう。ただ、吉備内親王はだんなの長屋王の変の巻き込まれただけで、彼女を祀るなら長屋王も祀らないとバランスがとれないように一見思われる。長屋王には子孫がいるが、吉備内親王には子孫がいないから? それもあるが、草壁系の中で怨霊になりうるような非命に倒れた女性は、井上皇后を除くと吉備内親王しかいない。だから持統天皇の代わりに選ばれたのではないか。火雷天神とは「火徳天皇」つまり天武天皇のことではないか。「火雷天神と吉備聖霊」とは「天武天皇と持統天后」のことではないだろうか。

持統天皇の怨霊をなごめるには「天皇」号の永続というのは持統天皇への慰霊の意味があったのではないか。『続日本紀』の構成が、中国式の断代史に倣わず、草壁系と天智系との間に区切りを置かないのは、形式上は断絶を認めないことで、草壁系の継承者として振る舞うということにも通じる。
もっとも、通常ならば、草壁系にのみ許されたはずの「天皇」号を天智系が使ったらその方が失礼なんじゃないのか、むしろそのせいで祟りを受けたらどうするんだ、という発想もありうる。むしろ天皇は尊貴な称号だから遠慮するのが怨霊を敬うことだ、と。だがその「通常」は元明天皇によってすでに破られていたのである。それは国史編纂事業の度重なる予定変更のことである。

天武天皇の考えていた国史編纂構想では、天智天皇までで終わる『大倭史記』であって、歴代天皇の称号スメラミコトは「天皇」でなく「皇帝」と書かれる予定だった。天武天皇以降の歴史は『日本書』となる予定だったがこれは天武天皇の仕事ではなく、ずっと後世の子孫のすべきことと考えられた。この場合でも、天武・持統の夫婦だけが「天皇・天后」でそれ以降のスメラミコトは「皇帝」に戻るはずだった。しかし以上のことは天武天皇の考えであって、持統天后の考えではない。文武天皇の即位に際して皇帝ではなく天皇の称号だったことは持統天后の意志であることは既述した。則天武后が死去した705年以降のある段階で、元明天皇の判断により持統「天后」の称号は抹消され天皇・皇后・皇太后にそれぞれ書き換えられた。その後、和銅元年(AD708)十一月廿一日の大嘗祭で、元明天皇は稗田阿礼と知り合い、皇位の由来である天孫降臨神話にいたく興味をもつようになったと推定する。和銅四年(AD711)九月十八日には太安万侶と稗田阿礼に神代巻(先代旧辞)の完成を急がせたが、この時には帝皇日継にはふれていない。この時、元明天皇が打ち出した新企画は、それまで、神代巻(先代旧辞)は『大倭史記』や『日本書』のような歴史書(帝皇日継)とは別の書物になる予定だったが、大倭史記25巻の前に神代巻2巻と後ろに天武持統3巻を加えて計30巻とし、タイトルを『日本書』として大倭史記は企画ごと無しとして、歴代の君号も神武以来「天皇」で統一するということだった。なぜこのような変更したのかというと、よくいわれることだが、天照大神と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の関係に、持統天皇と文武天皇を擬そうとして、これによって正統性を主張しようとしたのだといわれる。しかし、これを発想したのはおそらく持統天皇自身ではなく、元明天皇だったろう。元明天皇と聖武天皇の関係も祖母と孫だが、自分を直接に天照大神に擬するのは恐れ多い。もし持統天皇の段階でこの発想があったら、天皇という称号を文武天皇に使わせる意味がなく(そんな珍妙なことをしなくても天照大神たる持統天后の孫というだけで文武皇帝の正統性は完璧だから)、天皇号は天武天皇一代のものに留まったはずだった。従って、元明天皇の新企画では、新しい歴史書は、必ず神代巻で始まってなければならず、持統天皇で終わらなければならないことになるが、こんなことは絶対に天武天皇の段階で出てくる発想ではない。またこうなると、天皇という文字の由来が、天武と持統の夫婦の正統を継承するものだという趣旨にこだわって天智以前に使わない、というのは王朝の断絶を連想させて逆効果になりかねない。だから歴代ぜんぶ天皇号で統一したのである。

従って、草壁系の怨霊化を怖れる光仁・桓武朝としては、元明天皇の趣旨をも忖度した場合「草壁系にのみ許されたはずの天皇号を天智系が使ったらその方が失礼なんじゃないのか、むしろそのせいで祟りを受けたらどうするんだ」という発想は却下される。それよりも天皇号を継続することで天武系(草壁系)をも万世一系の中に包摂して断絶感をなくしたほうが慰霊になると判断される。

『日本書紀』の誕生
ところで、以上のように天皇号の起源を則天武后にからめて説明する説は、俺のような者ですら思いつくぐらいだから、実は学界ではかなり昔からあった説である(ただし俺はちゃんと読んだことはない)。とはいえ、そういう説があるってことは大雑把に断片的に見聞するものの、なかなかその詳細に触れることはない。というのは、なぜかこの説については、素人や一般人が手にとるような書店に出る商業出版物に乗らないのだ。これは庶民が古代史に求めたがるものと学者が提供したがるものの間にギャップがあるからではないか。天皇号の起源を中国の悪女則天武后、及び天武・持統両帝の夫婦関係に求める説は、右寄りの人にも左寄りの人にも相当ウケが悪いようなのだ。左巻きの気持ちはよくわからんが、適当に想像すると、彼らにとって天皇なんていう単語は抑圧的な封建主義の象徴であるべきで、フェミニストみたいな女性尊重の趣旨から出てきた称号だったというのはずいぶん奇妙に聞こえるのだろうか。最近の風潮でも、皇后をまるで「天后」のように崇めまつる自称保守派がいるが、もともと宮中祭祀は天皇の専権事項で皇后がかかわるような伝統は無い。これは今のお后様から始まったことで、あくまで天皇陛下をお助けするのが趣旨で、皇后が主役なわけではない。…おっと、話がずれたが、ともかく、我々にとって本当に大切なのはスメラミコトであって、肯定するにしても否定するにしても「天皇」という文字や「てんのう」という発音が問題なのではない。そんなものはもともと外国語なのだからエンペラーと何も違わないではないか。
元明天皇は、正統性に疑問がないでもない天武=草壁系の皇位を守るために始めて皇后を経ずに即位した最初の女帝だった。「皇位とは何か」という問題を常に意識していたはずだろう。元明天皇の即位大嘗祭において猿女(さるめ)として奉仕していた者たちが古き神話を伝えるという語部(かたりべ)の後裔だときけば、その長なる稗田阿礼(ひえだのあれ)を必ずや召し出して話を聞こうとしただろう。国史編纂局の中にあった「中華スタイル」の歴史書にこだわる風潮を、語部出身の稗田阿礼は嘆いていたと思われる。儒教のロジックに依存する者は儒教のロジックで滅びる。『古事記』は雄略天皇も武烈天皇も絶対神聖至尊の現人神(あらひとがみ)として他の諸帝となんらの差別も設けていない。徳の有無だとか人格の素晴らしさとか、天皇の天皇たる所以には何の関係もないことであり、一介の庶民が床屋談義にそういうことを言い出すことが謀反の始まりなのである。…おっと、話がずれたが、ともかくそういうわけで、稗田阿礼は、天孫降臨神話に由来する万世一系の尊さを元明天皇に説いた。元明天皇は天啓をうけた思いで聞いたに違いない。気付いたのだ、中華式のロジック(=有徳者と不徳者の家系交代)に依存して天武=草壁系の正統性を宣揚するために四苦八苦することの愚かさに。元明天皇は、それまで天武帝の考えていた「断代史」形式の歴史書をつくることをやめ、冒頭に置いた神代巻と、ラストに置いた持統天皇とで歴史をはさみ、持統天皇を天照大神に、文武天皇を瓊瓊杵尊に擬して、草壁系もまた神話に由来する歴代スメラミコトに他ならないことを示した。草壁皇統の正統性は、近江朝廷の不徳にも天武天皇個人の帝徳にもよらず、天壌無窮の神勅によるのである。その意味では、草壁系の他系(天智系など)に優越するところは無い。無いが、それで十分すぎるほど十分なのである。スメラミコトの権威、スメラミコトの正統性は儒教のロジックに依存すべきではないのだ。

・照葉樹林帯文化とその問題点

H28年4月29日(祝)改稿 H28年1月20日(水)初稿
今日、H28年1月20日(水)は昨年末の大晦日に伊勢神宮の庭燎奉仕(にわびほうし)に参加してきた人たちの報告を聞かせて頂く機会があった。素晴らしい話、面白く興味深い話、いろいろ。年末に電話もらい、ゆく年くる年にも映るというので一生懸命テレビみたけど画面が真っ暗でちょっとわからんかったw 一瞬映ったらしいw
照葉樹林帯文化の3要素
3種類の地図がある。おそらく欠端實(かけはたみのる)の本からのコピーと思われる、照葉樹林帯をあらわすアジアの地図で、うち一つは「東亜半月弧」という名でよんでいる。「東亜半月弧」とは照葉樹林文化のセンターで雲南高地を中心にブータン・アッサムから湖南省に至る範囲。残り二つの地図は微妙に照葉樹林帯の範囲が違ってるがまぁ大雑把な位置は共通で、東南アジアの奥地・中国西南部の奥地から、中国の江南のほぼ全域に広がり、朝鮮半島の南辺をかすめ、フォッサマグナから西の西日本と新潟県、それと房総半島を含めそれより西の太平洋沿岸が含まれる。雲南省の研究者である欠端實(かけはたみのる)の説で40年も前の説。照葉樹林帯文化の特徴としては、
(1)ツバキやシャシャンボの景色。古事記の石之比賣の歌「つぎねふや〜」に出てくるツバキ、サシブ(現代語シャシャンボ)
(2)麹(こうじ)の文化。どぶろく、三輪大社(日本の酒の起源、崇神天皇)
(3)歌垣。(顕宗天皇の章)

アートに表現された照葉樹林帯文化?
『天のうづめの命』とタイトルある絵画の絵葉書のカラーコピーがある、元の絵は83.5×208.8cm、小杉放菴(こすぎほうあん)昭和26年(1951)。おっぱいと腹を出して踊るお多福顔の女性、絵の左の端には巨大な黄金の日輪が描かれている。戦後の日本人を鼓舞するために描いたという。絵のモデルは笠置シズ子。ある人から聞いた話では出光美術館の所蔵だが、それはもともとタンカーの出光丸の中に飾られていた縁によるという。
古事記の世界は、理屈のないおおらかな世界であることが現れていて、それは照葉樹林帯の文化でもある、というようなことをいう人もいるのだが、この絵から照葉樹林帯がどうのまでもっていくのはいくらなんでも飛躍がすぎないか?

問題点
欠端實の説は、良い事づくめの話で結構なんだけど、一つ注意を促しておきたいことは、照葉樹林帯文化論は、あくまでも「該当文化圏に日本も含まれる」といっているだけで、「日本人の先祖が東南アジアなり中国の西南奥地なりからやってきたんだ、あそこがルーツなのだ」というオチには直結しない、ということだ。なぜなら、「文化圏」というものは相対的なものであって、Aという文化圏がルーツだというのならその「A文化圏」のそのまたルーツはどこなんだという話になる。遡っていけば、全世界の文化圏の数はどんどん少なくなっていく。これは物理的にそうなのだ。7万年前のトバ・カタストロフによって人類のほとんどが死滅した結果、現在の人類はわずか1万人にまで減少したとも、または現在の人類は少なくて1,000組、多くても1万組の夫婦から進化したともいわれている。世界の神話、世界の文化はもともと一つのものから枝分かれしたのである。どの段階で日本人になったのかなんて区切りは、人為的・便宜的な線引きにすぎない。なぜなら、文化はちょっとづつ変わるものである時にげろっと別の文化になったりはしないからだ。
照葉樹林帯文化論に依存してあれもこれも説明しようとするなら、それは「気候風土一元論」に陥ることになる。もし日本文化の真髄が気候風土に依存するのなら、日本列島を離れてしまった者は日本民族であり続けることが出来なくなってしまう。昨今のネット言説から察するに保守派若年層はそういう考え方を受け入れつつあるようにも思えるが、そういう発想自体が戦後的であって、けっして戦前的でも明治的でもないし前近代的でも伝統的でもない。そもそも温暖化だの氷河期だのいわれるように気候風土は長い間には変わるもので、それは天壌無窮とか万世一系とかいう「時間に対する超越意識」とは両立しない。はっきり言って「気候が変わってんすけど日本人どうなるんすか?」って問題にぜんぜん答えられていない。ダメでしょこれ。こういうのは70年代に流行って今では嘲笑の的でしかない「農耕民族論」や、今でもネット保守層に悪影響の多い「海洋民族論」と一緒で、アイデンティティー不安に対する心理学的な処方箋にすぎず、学問とは関係のない俗説、与太話だと思われる。当然、歴史(re:既視)の解明や古代の真実とは関係がない。

・神々の姿は妖怪そのもの、土俗文化に現れる神々

差別語について
未開だの土人だのという言葉は今の世の中では差別だとして使われなくなってる。土人というのは記紀にも出てくる言葉でその土地の土着の人という意味であり本来は差別的な言葉ではなく、記紀では「くにつひと」もしくは「くにびと」と読まれている。原住民すらも原始人の「原」だっていうんで先住民と言い換えられている。俺なんか原始人も大好きなのでむしろ先住民より原住民って言葉の方を選ぶんだが。(嘘です。正しくは文脈とニュアンスの整合性に応じて先住民と原住民を使い分けてる。)さらに極端になると「なんでアフリカの部族抗争については『部族』という言葉を使うんだ、アフリカ以外で同じような事件があっても『民族』抗争といっているだろう、これは差別じゃないのか」という声もある。俺なんかむしろ部族の方が好きなんで若い頃は民族主義に反対して部族主義を唱えていたほどなんだが。原住民も未開も部族も差別を意図して使っているのではなく、わたし自身はこれらの言葉を愛用しているので先に男割りしておく。

祖霊との出会い
春分の日は、また「お彼岸」の日でもある。お彼岸というのは現在では仏教行事になっているが、もともとの起源は仏教とは関係がないもので、それ以前から日本含め世界各地に共通にあった原始的な信仰である。これについては、またいつか別の機会に詳しくやるとして、今回はお彼岸の話ではない。
今日、H28年3月20日(日)の春分の日は、お彼岸にふさわしく祖霊に出会うような体験をした。この日は、久しぶりに会った古い友人と、銀座のエルメス本店でやっていた「YÔKAÏNOSHIMA」シャルル・フレジェ展をみてきたのである。(展示内容の詳細は以下のアドレスを参照)
サイト→http://www.maisonhermes.jp/ginza/gallery/archives/14259/
動画→https://www.youtube.com/watch?v=kWVMM7qQxEI
日本列島の北から南まで全国各地の伝統的な民俗行事では、人々が精霊や神々や祖霊や架空の動物などに扮して踊ったり、なにかの役割を演じたりする。その姿を撮影した写真の展示なんだが、一つ一つは、まぁ田舎の昔ながらの村祭りにあるかな、という程度のものも無いわけではないが、改めてみると奇怪なものが多い。ナマハゲそのものならば、化け物といっても典型的であり見慣れてもいて驚きはないが、ナマハゲのバリエーションとなると、見慣れてないせいか、改めて、未開部族の奇怪な扮装を連想させるものがある。ナマハゲのような鬼タイプの系統のわかりやすい怪物ではなく、なんとも得体の知れない妖怪としか言いようのないものも多く、諸星大二郎の『マッドメン』を思い出させるものもある。マッドメンは“mad men”=「狂人」ではなく“mud men”=「泥の男」の意味。全身に泥を塗り奇怪な土面を被った者たちでニューギニアのアサロ族の祭礼で祖霊に扮した姿である。写真展に登場している日本の祭礼の例では、腰蓑つけて全身真っ黒に塗りたくった子供たちも衝撃的な異人類に扮することに成功しているし、鹿踊りの鹿や虎舞いの虎も実在の動物というより空想上の怪物(神獣)にみえる。その他、鳥の羽で飾り立てた北米インディアンの酋長や、陰茎を誇張表現したペニスケースを連想させる扮装もあり、すべてそれぞれの祭礼に登場する祖霊や神や怪物の姿を表している。
そしてこれらが、アフリカ、アマゾン、ニューギニア等の未開部族のようにみえるのが(あくまでよい意味で)衝撃的だ。改めて写真の枠に収まると「こういう見え方もするのかぁー」と驚くが、元の実体がもし動画となって動き語れば、どこにもありそうな日本の田舎の伝統芸能の衣裳として脳が判断してしまい、なんの感慨もない見慣れた映像としか受け取れなくなるのだろう。これはまったく写真の技がみせる「客観的」な形象だ。社会や村組織といった人間集団を思わせるものは背景に一切置かず、森林・海辺・野原などの自然の中だけに「それ」がいるだけでここまで印象が変わってしまう。

原始への憧れ
今回の写真展に出てきた虎舞いは別の地方のものだが、私の出身地にもほぼ似たような虎舞いは伝承され、幼少時から見慣れていたが、このような感慨を生む見え方は考えたことも無かった。物心ついた頃はすでに「中に人間が入って演じている」という、斜に構えたというか、冷めきった見方しかしていなかった。すでにテレビは怪獣ブームで、幼児期のわたしは「中に人が入って演じているってわかった上で楽しんでいる」という態度を周囲の大人から強要されていた。そのせいかも知れない。
だが、写真展の鹿踊りの鹿は、説明書きによるとわたしが生まれ育った故郷のすぐ近隣の郷土芸能のものだった。おそらくテレビニュース等では何度も見聞しているはずだが、ナマで見たという記憶はない。しかし、記憶がないだけで幼児期にリアルで体験していたのではないか、その時の衝撃が、記憶の淵に深く沈殿し、潜在意識に影響していたのではないか。だからわたしはその後の長い人生、一貫して、怪獣や怪人や妖怪が好きで、中でも『モスラ』や『怪獣王子』や『アマゾンライダー』の大ファンで、視覚的には未開部族や土俗文化っぽいもの、物語的には原住民ものや秘境ものに強いフェティズムや憧れを抱くのではないだろうか、と思わなくもない。
まぁ多かれ少なかれこういうの好きな人は多いだろうとは思うけども、近頃はまったく興味ない人もいるようなので。しかしこういうことにまったく興味ない人に限って、古代史の解明とか古事記の解釈とかを論じていたりするケースがまま見られるのだが、そういう人の議論は個人的にはまったく信用に値しないと思うんだが、どうだろうね?

普遍か固有か
冒頭で「民族主義ではなく部族主義を」といったが、その趣旨は、部族というと「遅れてて未開」、民族(国民、“nation”)の方が「進んでて文明的」という、明治以来取り憑かれてきた浅はかなる進歩主義はもうそろそろやめた方がいいのではないか、等という問題提起では必ずしもない。そうではなくて、読んで字のごとし。日本国内では長州と会津は無理に仲良くしなくてもよく、青森県内では津軽と下北は無理に仲良くしなくてもよいのではないか。北米インディアンや、アイヌや、奥羽の古代蝦夷(えみし)は部族ごとに同盟関係と敵対関係が交錯していたから、白人入植者や和人や大和朝廷と同盟する部族と敵対する部族とに分かれて同士討ちをしていたが、同じように日本の戦国時代も、九州のキリシタン大名はポルトガルと、奥州の伊達政宗はスペインと同盟していたし、幕末には薩長は英国と、幕府はフランスと結んでいた。それは悲劇をもたらすことももちろんありうるが、多様性や文化的な豊かさをももたらす。日本が北米インディアンやアイヌのようにならなかったのはある程度健全に機能していた王権があったからだが、王権の起源を外来の征服者・侵略者とする誤った説を基に捏造された「原住民史観」などの議論もあり、長くなるので今回はふれない。
話をもどして、この写真展の感想を通じてわたしが言いたいことは、日本人のルーツがニューギニアやアマゾンだとかという話ではなく、日本人の程度が未開の土人なみだとかという話でもまったくない。
今回のこの写真展でいちばん気が利いてるのは、最後のコーナーにヨーロッパ各地のワイルドマンの写真が展示されていることだ。ワイルドマンというのは欧州各国の伝統行事に登場する怪物の扮装で、安直にいうとナマハゲの西洋版。これらはキリスト教以前の、古代ゲルマン人や古代ケルト人や古代ローマ人の多神教に由来する。で、これの何が気が利いてるというのかというと、説明書きを読むまで、西洋のコーナーに移っていることに気付かない。これは誰でもそうだろう。伝統行事のために妖怪や神や動物に扮装した日本