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・ウガヤ朝

H30年3月20日(火)初稿
ウガヤ王朝
ウガヤフキアヘズってのは実は襲名で、代々「ウガヤフキアヘズ」と名乗った王様(≒天皇)がいて、72代続き、その73代目が神武天皇だったという説があるんだが、このブログでここまで好き放題書き散らかしたからには、このウガヤ王朝についても一言くらい何か言っておかないと済まされまい。え? 済まされる? このブログの読者ってそんな薄い連中だったのか、
ガッカリだな(´・ω・`) 冗談は顔文字だけにして、ウガヤ王朝についてはwikipediaでも見といてください。なぜならwikipediaのあのページ書いたのほとんど俺だから。面倒くさがり屋のために直リンクまで貼っといてやるからな。親切だなぁ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウガヤフキアエズ王朝
世間でいうところのウガヤ朝ってのは偽書にでてくるもので中世から近代にかけての創作が多い。そこに書かれたものはもしかしたら断片的には古伝も含まれてるのだろうが(特に『ウエツフミ』)しかし基本的にダメなのは日本書紀を信ずるかぎり日向3代で179万年2000年間なわけで、そのうちウガヤ朝はファゴ・カタストロフから始まると考えて約7万年間。普通ウガヤ朝は73代とされ最後の2代は五瀬命と神武天皇だから71代しかない。平均すると1代あたり約1000年。これでは代数がまだまだ足りないw ウガヤ朝がたったの73代しかないってのはこれを創作した当時の人の想像力の限界であって、富士宮下文書だの竹内文献だのっては原始以来の古伝承ではない。じゃウガヤ朝は無かったのかというとそれも微妙。これについての詳細な議論は「神話論」ではなく「歴史論」のカテゴリーになるので、後日、神武天皇の回でやることにする。『古事記』にでてくる「穂々手見命は五百八十歳」とかの話もその中でやる。今回はやらない。

・豊玉姫は離婚していない

H30年3月20日(火)初稿
今回はhttps://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-163.html">「大洪水と海の怪獣」https://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-163.htmlの中の「豊玉姫は離婚していない」という章の詳細バージョンになります。

イントロダクション
記紀では火遠理命(山幸彦)が豊玉姫の出産を覗き見したために二人は別れ、姫は竜宮城に帰ってしまうことになってるんだが、『ウエツフミ』では取り巻きの家来たちになだめられて結局仲直りし、実家に帰るのはとりやめになったという。これは『ウエツフミ』はその後も子供産んだり、二人であちこち巡幸したりするので、ここで別れると他の話が成立しなくなる。他の話もいろいろ古伝承が含まれていると思うので、ここは「別れないで仲直りした」という『ウエツフミ』のほうが正しいと判断する。記紀が「二人は別れた(離婚した)よ」といってるのは、書紀の一書に詳しいが、要するに「異界」との自由な交通が昔はあったのに今はそれがありえなくなっていることを説明するための寓話なのである。書紀の「一書曰く」では夫婦で「陸地からの使いが龍宮城にきたら留めて返さない、竜宮城からの使者が陸上世界にきた時も海に帰さない」という取り決めをしている。これは伊邪那岐・伊邪那美の話のパクリだろう。実際には大昔から現代まで、不思議な体験をする人はいるんで「異界」との往来は今でも断絶することなく続いてる。つまり火遠理命(山幸彦)と豊玉姫は「離婚してない」。(ここまでは前回と同じことを詳しく書き直したもの)

歌の順番で意味が変わる!?
古事記では姫が鵜萱葺不合命を置き去りにして海へ去った後に、妹の玉依姫を陸上に派遣するのだが、その時に豊玉姫からの歌を預かってきたことになっている。だが夫君がそれに答えて作った歌はどうやって海底の豊玉姫に届けられたのか謎だ。だから書紀では、豊玉姫が海へ去る時の段階でまず夫君が歌を贈ったことになっており、妹の玉依姫が言付かってきた歌は豊玉姫からの返歌ということになっている。だから歌の順番が記紀で逆になっているわけだが、ここは古事記があきらかにおかしく、書紀の方が正しいだろう。
で、順番を書紀のように入れ替えると、歌の解釈がちがってくる。豊玉姫の歌は夫君を称賛してる歌なんだから、別れの場面だとすると、過去の思い出になっていく現在をかみしめてるような感じになる。一方、それに答える夫君の歌は「あなたを忘れられない」と歌ってるのだから、やはりこれから私はあなたの思い出を抱きしめて行きていきます、みたいなニュアンスになる。しかし順番が逆だったら…? 旦那の歌は返歌ではなくて最初に贈ったのだからニュアンスが変わる。「あなたを忘れられない」正確には「忘れじ」で否定の意志だから「忘れるつもりはない」、忘れる気はない、つまり別れるつもりはないって意味じゃんよ。で、嫁の歌はそれに答えて旦那を絶賛してる歌なんだから、これは「別れたくない」って話に同意してるわけだろう。ちなみに『ウエツフミ』では姫は竜宮城に帰ってないし、歌のやりとりも陸上でのことになってる。

古事記と書紀での歌のバージョンちがい

赤玉は緒さへ光れど白玉の君が装ひし貴くありけり (古事記)

赤玉の光はありと人は言へど君が装ひし貴くありけり(日本書紀)

書紀は、「白玉の」という句がない。そのため歌の意味が、赤玉は素晴らしいが美しく装った「君」の姿のほうがもっと素晴らしい、と玉と君(の装い)を比較しているようで対比がうまくない。古事記の「白玉の」も大抵の解説みてると「白玉のような(君の姿)」と解釈するので君の姿(装い)を白玉に喩えた上でようやく赤玉とならべているわけ。しかし、ここで「装ひ」といってるのは実際に白玉を身につけている姿をいってるのではないか? そうすると書紀は「人は言へど」と逆説でつないでるのに「白玉の」が抜けているので「君」が身につけているのは「赤玉」のように読めないこともない。すると、赤玉はただでさえよく光るけれども「君」が身につけていることによってなおさら貴く光りますよ、赤玉が。…って意味になってしまう。だからここはどうしても「白玉の」が抜け落ちているんだろう。書紀のバージョンにむりに「白玉の」をぶちこむと五七五七七の和歌の歌体が破れてしまうが、この歌はいわゆる短歌形式が成立するより前の古代歌謡だから気にしなくていいのではないか。それに書紀のは「人は言へど」が気になる。古事記だと赤玉が素晴らしいといってるのも姫自身の評価のようにきこえるが、書紀だと、必ずしも姫は赤玉を素晴らしいとはいってない。赤玉がよく光ると言ってるのは「人」、この場合、世間の庶民とか、このカップル以外の他人がいってるのであって、姫は最初から白玉だけを評価してるように聞こえる。なぜ一般人は赤玉を評価するのか、そこにも意味があるとしたら後々の謎解きのためにもこの「人は言へど」の句も入れたい。いっそのこと古事記と書紀を混ぜて

赤玉の緒さへ光はありと人は言へど 白玉の君が装ひし貴くありけり

というのが原形だったのではないか。歌体は「五十六五七七」でちょっと旋頭歌(五七七五七七)の変形に思われる。記紀は、夫の命の歌が短歌形式だったので、歌のやりとりとして対比させるためにわざと姫の歌も縮めて短歌形式に押し込んだんだろう。その際、古事記は「人は人は言へど」を切り落とし、書紀は「白玉の」を切り捨てたわけだろう。

塩乾珠(しほひるたま)と塩盈珠(しほみつたま)
ここで、玉が二つ出てくるのだが、無関係な玉をならべて比べてるのではなく、赤と白でもともとセットの玉なのではないかとも思える。二個でセットの玉といえば、大津波を起こして海幸彦を懲らしめた塩乾珠(しほひるたま)と塩盈珠(しほみつたま)のことじゃないのか。誰でもそう思うよね?

ところで、宮崎県の鵜戸神宮にこれの実物が伝わってるって話がある。
「古事記にも登場する神宝 「潮満珠(しおみつたま)」「潮涸珠(しおふるたま)」を戦後初めて一般公開」
http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51748146.html
【上記サイトより引用】「潮満珠」は丸い水晶型、「潮涸珠」は大きさの違う円柱を4段重ねた形で約5~7センチ。(リンク先に画像あり)
ほんとかねこれ?w 昭和45年(1970年)の火災で古記録が焼失したため由来不明になってしまい、神社もよくわかってないみたいだし、公式サイトでも情報が一切ないので、本物だともおおっぴらに言いにくいんだろうね。それにこれだと白と赤のセットになってない。

お神楽なんかで神功皇后が海底の磯良(いそら)から干珠・満珠を得る話があって二つの玉がでてくる。お神楽の小道具は後世の創作だろうからアレだが、実際に白い玉と赤い玉で表現されてることが多い。まれに金玉と銀玉のこともあるが、白玉と赤玉ってのは豊玉姫の歌からの着想だろう。潮干珠(しほひるたま)は赤や金で水を干上がらせる熱を表現し、汐満珠(しほみつたま)は白や銀で満ちてくる水を表して表わしてるんだろうと察せられる。

赤玉と白玉の素材は何か?
白玉は読んで字のごとく「はくぎょく」だという説もありうる。玉(ぎょく)=翡翠は硬玉(ジェダイト)と軟玉(ネフライト)があり、軟玉の方は安物だが、軟玉の中でも特に色が白くて透明感のあるのを中国では羊脂玉といって、例外的に硬玉より価値が高いという。だが、国文系では普通は白玉といえば真珠のことだと言われている。
赤玉については『本草和名』という平安時代の薬物辞典に琥珀を「アカタマ、一名アマタマ」と読ませてるので琥珀も赤玉の一種とはいえるんだろうがどうだろう? 琥珀って赤っていうより黄色いイメージだよな。まぁ日本の古語では黄色、オレンジも広い意味では「アカ」、緑も紫も広い意味では「アヲ」なんだろうが釈然としない。琥珀をアカタマというのはアマタマの誤りで、琥珀はもともとアマタマ(飴色の玉の意)だけが正しかったんじゃないかな。契沖は赤玉は瑪瑙のことだといっており、こっちのほうがいくらかマシに思えるが、瑪瑙は縞模様に特徴があり、そんなに真っ赤っ赤一色というものでもない。
『延喜式』の臨時祭式によると国造神寿詞にでてくる白玉、赤玉は白水精と赤水精だというので、この歌に出てくる赤玉、白玉もそうかもしれない。白水精はまぁ普通の透明な水晶だろうが、赤水精というのは薄ピンク色した「紅水晶」(ローズクォーツ)のことかな? 検索してみるとローズクォーツの他にも、「赤水晶」(鉄水晶とも、赤鉄水晶ともいう)という種類と「ストロベリークォーツ」という種類があり、どれも鉄分を含んでるので赤みがでる。画像でみると赤水晶(赤鉄水晶)は他の2種類と違って本当に赤い。真珠や琥珀だとかなり小さくなりそうだし、セットとしてみたらバランスも難しそうだから、水晶ではないだろうか。

二人の歌の意味は正しくはこう
赤玉が潮干珠で白玉が汐満珠だとしたら、歌の解釈もちょっとおもしろくなる。物語では、白玉は海幸彦を懲らしめる波を起こす玉なのに、赤玉は降参した海幸彦を救うべく波を引かせる玉なのだ。赤玉は水を干上がらせるのだからすんごい光熱のエネルギーを発して、さぞかし強烈に輝いたんだろう。その光で人々を救ってくれたわけだ。だから赤玉の光ってものはすごいんだと『人』(一般の人々)は言うわけ。しかし、この話(つまり大洪水神話)の本題は人類の刷新、この世の大掃除なわけだから、白玉で津波を起こすのが本題で、それを身につけ使いこなして大業をなしたる我が殿の尊さは妾(わらわ)が存じております、と。こういう意味になる。これだと夫君の偉大さを称賛してはいるので何の問題もないようだが、裏の意味としては、山幸彦は白玉だけを身に装ってるわけではなく、二つの玉を使いこなしてるのだから当然、赤玉も白玉も身に装ってるのであって、この玉は竜宮城から持ち帰ったもので、いってみれば竜宮城出身で山幸彦の嫁になった豊玉姫自身の暗喩でもある。玉を身につけている夫君を称賛してるのは、自分が寄り添ってる夫君を称賛してるのであって、別れの歌ではない。

旋頭歌だとしたら?
さらにいうと、記紀を混ぜて原形を復元(?)してみたら旋頭歌みたいになったと上の方でいったが、旋頭歌は問答歌でもあるんだよね、そう思ってよくみると、上の句の「赤玉は緒さへ光はありと人は言へど」はかなり形が崩れてはいるけど元々は火遠理命の問いの部分で、下の句の「白玉の君が装ひし貴くありけり」が豊玉姫の答えのようでもある。上の句は火遠理命が大洪水から救われた人々に自分が称賛されていると自賛していることになるが、むろん裏の意味は、これから生き残った人々と新しい国作りをしていくんだから、夫婦として一緒に素晴らしい国を作っていこうというお誘いである。下の句は説明はすでにしたのでくりかえさないが姫からのOKの返事になる。そうするとこの歌だけでやりとりが完結していることになるが、夫君が先に詠んだはずの「沖つ鳥鴨どく島に我が率寝し妹は忘れじ世のことごとに」の歌が浮いてしまう。この歌もむりに二分割すれば旋頭歌だとして解読できなくもないし、個人的にもそうしたいところだが、いい加減にしろと怒られそうなので、ここは百歩譲って別な方法を考えると…。実は『ウエツフミ』では初めて陸上にきた豊玉姫が、鵜萱葺不合命を産む前に、火遠理命に二人の妻と二男一女がいたことを知って嫉妬するというシーンがあり、そこで歌のやりとりがあり、産屋を覗き見する話とは関係ないことになっている。『ウエツフミ』では歌で揉め事が一つ解決して、その後で、産屋覗き事件が勃発する。記紀はそれが原因で別離&歌のやりとりとなるわけだが、『ウエツフミ』では産屋覗き事件は家来たちになだめられて終わり。歌も関係ないことになっている。つまり両方を総合すると歌が関係してくるタイミングは2回あったことになる。だから「沖つ鳥…」の歌は、産屋の件より前に詠まれたもので産屋覗きによって生じた別れる別れないのすったもんだとは無関係の、別のトラブルの時の歌なのだ、といえないこもない。しかし、姫が機嫌を損ねて歌で解決なんてシーンが立て続けにでるのもなんだか不自然な気もする。『ウエツフミ』もいろいろ改変しすぎてむりしてるのではないか。やはり「沖つ鳥…」の歌も旋頭歌としてみたほうがいいような気がちらほらと…。

そもそも「覗き見」自体あったのかよっていう…。
そもそもなんで覗きなんかして揉めるのかというと、豊玉姫が海と陸との交流を遮断するに至った原因を説明するためである。しかしそこは伊邪那美神話にヒントを得て神話学でいう「見るなのタブー」の枠組みを使って後世につくられた寓話であって、真正の原始神話ではない。事実は覗き見はしてなかったと思われる。覗き見しようとしたのではなく否応なしに見えてしまったんだろう。8尋(=約12メートル)のワニが入る産屋が巨大すぎて未完成だったわけでしょ。構造上みえるよこれ。普通サイズの産屋なら未完成でも遠くに離れて視界にいれない、ということができるが、未完成の巨大建築物の中に妊婦を放置していったら母胎にも新生児にもどんな危険があるかわからないだろう。それに海の中の人の正体がワニだということはこの時代の人間には常識で、あらためて驚くことでもなかったはずだ。見えちゃったのは未完成の産屋の倒壊の危険から母子を守るためだったんだから、姫もそれで怒ったりしない。ただ、実家に帰ることはよくあったろう。後世のように夫婦は同居するという決まりはなく、仲が良くても円満な別居夫婦というのがあって「招婿婚」というのはその残存形態である。奈良時代になると招婿婚はあってもその起源になった極端に古い形式である「原始の別居婚」は理解できなくなっていて、別居してんなら別れたんだろうというのが自然な理解になっていた。だからあの歌も二首とも、本当はどのタイミングで詠まれたのかはわからない。揉めてなくてずっと仲良かったんだから。鵜萱葺不合命が生まれて、親子三人で川の字になってる時に歌のやりとりをしたのかもしれないし。
【参考文献】『星座と干支』 星天講より今なら¥600で発売中! おもしろいからぜひ買ってw

・悪いのは山幸彦の方じゃないの?

H30年2月21日(水)初稿
悪いのは山幸彦の方じゃないの?
「海幸山幸」の神話については、このブログではhttps://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-158.html">「大洪水伝説」https://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-158.htmlhttps://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-163.htm">「大洪水と海の怪獣」https://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-163.htmlで説明した通りなので、まずはそっちを読んで頂きたい。
その上での話だが、海幸山幸の物語は、後半で弟(山幸)が竜宮城にいって超自然的なパワーを身につけて勝者になり兄(海幸)のほうが降伏して臣下になるという筋があるから、まるで兄が悪者で弟が善玉のような印象があるが、前半だけの段階では、よく読むと悪いのは釣り竿と弓矢の交換を無理強いした弟であって、兄が怒るのも無理ない。それだけでなく、職人の道具というのは名人ほどかけがえの無いもので「代替え」の利くものとも限らない。弟がいくら五百個、千個の釣り針を作って返そうと、量の問題ではないのだ。自分の剣を鋳潰したことや釣り針の量の多さは「誠意の表われ」とはいえるだろうが、その誠意を汲み取ってもらえるかどうかは加害者の都合で決まるわけではない。被害者がその誠意を認めることができない、なんていうのもよくあることで、詳細な事情を知らぬ者が「なんで誠意を認めないんだ」と被害者側を責めるのはめちゃくちゃな話だろう。そう考えてみると山幸彦が陥った窮状は自業自得でもある。
それなのに、物語の展開としてはなぜか兄の海幸が悪者みたいな流れになり、弟が上に君臨する身分となり兄が臣下、というより奴隷に近い境遇に落ちる。勧善懲悪がテーマだとしたら完全に破綻している。むろん「神話は必ずしも勧善懲悪を語るのが目的ではないのだからかまいやしないのだ」という人もいるかもしれない。が、それはあくまで一般論であって、この話には当てはまらない。「海幸山幸の物語」の場合は前回までの話でしてきたように、実は「ノアの方舟」みたいに悪人(≒堕落した人類)が大洪水(≒津波)で滅ぼされるという世界各地に共通に存在する大洪水神話のバリエーションなのである。だからこれも広い意味では「勧善懲悪」的な側面があるだろう。
ただ「何が善で何が悪なのか」が現代人とはちょっと考えかたが違っているのだ。

【前掲のページから引用】
「海佐知毘古(海幸彦)・山佐知毘古(山幸彦)」というのは、「海幸彦・海幸姫たち」と「山幸彦・山幸姫たち」をいう普通名詞であって、その略称もしくは擬人化していってるので、海洋民族(漁労民)と山岳民族(狩猟民)のこと。だから固有名詞ですらない。この両民族が兄弟だというのは、文化の違いはあってもすべての民族は同じ人類だということを表わしているのである。

海洋民も山岳民も、大洪水(大津波)で滅んでしまったんだから、結局海幸彦も山幸彦も堕落した人類なのであり、格別にどっちが善でどっちが悪でもない。ただ、神に選ばれた「生き残り」は海洋民でなく山岳民の出身だった。それはなぜか。

【前掲のページから引用】
その原始時代の海の民と山の民は隔絶した世界に暮らしてるのではなく交易もするし密に接しているのであり、利害関係も深まる。船のほうが高速に大量の物資を運べるので、交易が活発になればなるほど富は海洋民族のもとに集まり、海洋帝国はどんどん強くなり、海の文明はどんどん栄えていく。(…中略…)それに対して山の民は貧乏臭くなって流行文化からも取り残され、要するに田舎っぺになっていく。そこには嫉妬や憧れが生じる。なので、まず先にちょっかいを出したのは山の民のほうで、なんとしても海に進出して豊かになろうとした。

つまり釣り針と弓矢の交換をなんとしてもしてみたかったのは山幸の方であって、海幸彦にしてみればまったく興味のないことだったわけ。だが、山幸彦は、文明への憧れという向上心をもっていた。それが必ずしも理性的とはいえない「実行動」へと己れを駆り立てるパトスだかリビドーだかの、よくわからない生命力をもっていた、といってもよい。だから海幸彦に断られても、しつこく交換しようとおねだりできる。文明人はそんな図々しさ(=生命力)を持ち合わせてないので、断られたら無駄な行動はさっさとやめて「まぁいいや」と他の合理的な目的に関心を移してしまう。
空気を読んだりするのは京都のお公家さんとか文明人のすることで、純朴な(=単細胞な)未開人は訳も分かってない癖に行動していろんなことをブチ壊しにする迷惑な存在でもあるが本人は善意でやってるので始末が悪い。頭がいいと先が読めてしまうので行動しなくなる。しかしそれは人間の存在意義をゆるがす。なぜなら人間がこの世に生まれてきた目的は、文明の結果を享受することではなく、文明を発展させるその経過に注力することであり、何かに成功することではなく、失敗も含めた多様な体験をすることだからだ。だから生命力の枯渇した文明人は神の目からみると存在価値がない。バカで、迷惑で、自己中心的であっても、行動することをやめない、無謀な挑戦をあきらめない、生命力のある者が神に愛される。むろんこれは比較的そういう傾向があるという大雑把な話であって、暴力的で自分の欲求で目がくらみ他人を傷つけることに痛痒を感じない野蛮人はいくら生命力があっても天罰の対象になる。だから海洋民も山岳民もみんな滅ぼされた。

【前掲のページから引用】
海の世界も飽和してるので、そこに無理にでも新参者が割り込もうとすればトラブルになる。ここで山の民が勝利すれば、日本史や世界史における「中世」的な展開(蛮族による文明の更新)になるのだが、この時はそうならなかった。海の民と山の民が海で争えば海を知り尽くしているベテランのほうが勝つのは当たり前で、山の民の中から大望を抱いて進出してきたとある弱小な一部族はいまさら山にも戻れず、慣れない海に孤立してしまった。普通だとこの山からきた部族は滅亡して終わりなのだ

合理的に考えれば、兄の海幸彦が正しく、弟の山幸彦は自業自得だと前の方では言ったが、山幸彦が要求した弓矢と釣り竿の交換は「相互の経験の多様化」であり、それを拒否した兄の態度は「現在の成功の上に安穏とあぐらをかくこと」である。神の目からみてどちらが善か。しかも前述の「合理的に考えれば、兄の海幸彦が正しく、弟の山幸彦は自業自得だ」という考えは「合理的」ではあるが「人智で考えた合理」ではないのか。バカを相手に理論で攻めたら何とでもやりこめることはできるだろうが、正論かならずしも正義ならず。理性の刃は自分にも向かってくる。合理的に考えることを突き詰めたら子供も作らない方がいいしそもそも自分も最初から生まれてなければ何の問題もなかったって話に必ずなる。古今東西、文明の爛熟期に宗教思想や哲学思想が煮詰まってくるとだいたいこういう結論になるもので、ネットでたまたま見かける範囲だと現代人でもあんま変わってなさそう。

【前掲のページから引用】
が、ここで奇跡がおきた。進退きわまって滅亡に瀕したこの弱小部族こそが大災害の中から生き残ったのだ。なぜ奇跡が起きたのかというと、それは簡単だ。大災害で崩壊した帝国だの滅亡した文明だのっていうのは、爛熟しすぎて、堕落腐敗していることが多いわけだが、それに対して、神に愛されるのはいつの時代も腐りきった文明人ではなくて「気高い野蛮人」なのである。

・父の許可なく勝手に結婚する女神たち

H30年2月21日(水)初稿
「私(わたくし)に産む」とはどういう意味か?
木之花佐久夜毘賣は「この天つ神の御子は、私(わたくし)に産むべからず、かれ請す」というのだが、この「私」ってのは、岩波の日本思想大系の解説をみると、どうも現代人が考えるような公(おおやけ)の反対の「私」の意味とほぼ同じような意味に解釈されているらしい。しかし皇室のお世継ぎ様かもしれない子供を妊娠したんだから「ワタクシに産むべきでない」なんて当たり前にも程があるだろう。いちいち言うこと? 萬幡豊秋津師比賣が邇々藝命を産んだ時も、豊玉毘賣が鵜萱葺不合命を産んだ時も、そんな「言わずもがな」なことはもちろん言ってない。まぁ忍穂耳命と萬幡豊秋津師比賣のアベックは天上界の神霊で最初から肉体ももってないだろうから現代人が想像するような意味での妊娠を経て産んだわけではないだろうからさておいて、豊玉毘賣の場合は「天つ神の御子を海原に産むべきにあらず、かれ(陸上に)参り到つ」と言っている。豊玉毘賣のセリフは海に帰っていたんだから事情はわかる。
しかし木之花佐久夜毘賣は事情が違っている。これ逆にいうと、当時の一般平民の女性は妊娠をいちいち旦那に報告せず、勝手に産んでたってことなのかな。そうすると父系制社会ってのは成り立たなくなるけど。かといって母系社会だってことにもならない。母方で「系」が成り立っていたって証拠がなにもない。で、現代の民俗学者がいまいちわかってないのは、「父系制でない」(父系に限らず「系」が成り立ってない状態も含む)ってことは「祖先信仰が成り立たない」ってことなのだ。近世以降の日本の庶民社会は「選系家族」といって、父系でも母系でもない。これを「双系」というのは誤り。選系は「系」を擬似的に作り出すもので「無系」ともいう。系がないから、祖先も子孫も「無い」のよ。生物学的な観念としての祖先や子孫のことじゃない。崇拝、信仰される霊的なキャラクターとしての先祖のことだよ。その証拠にほとんどの日本人は自分の曾祖父さんの名前すらいえないだろw 先祖が源氏か平家か、馬の骨かすら知らない。そんな「祖先信仰」なんてあるかっつのw イエス・キリストが誰だかしらないキリスト教徒みたいなもんだろ。本来のインドの仏教は四十九日すぎると六道のどれかに生まれ変わって別なものになっちゃうから、あの世から子孫を見守るなんてことはありえないし、生まれ変わってとっくにあの世に霊として存在していない先祖を祀るなんてこともありえないんだよ。それを中国人の儒教の形式に押し込めたために三回忌まで先延ばしにされたんだが、それが日本にきてさらに三十三回忌まで延長された。でもこの三十三年間はエンマ様のお裁きを待ってる期間なわけで、喩えていえば有罪判決を待ってる犯罪者の勾留期間のようなもの。子孫をあの世から見守ったりする余裕はない。仏教の追善供養とか年忌法要ってのは刑務所に捕まってる先祖に差し入れしたりするようなもんよ。こういうのは、子孫に福を与えたりバチをあてたりする偉大な力をもった神として祖霊を崇める「祖先信仰」とはぜんぜんちがう、本質的に別のものだ。で、三十三回忌すぎると普通は「弔いあげ」といって、ホトケでなくなってカミサマになる、等という。民俗学者はこれを説明して、故人は三十三回忌で個性(個人としての人格)を失って、「先祖」という漠然とした集合霊のようなものに合体する、等という。日本の民俗学者は信仰の外見・形式・形態にしか興味ないからこれを平気で「祖先信仰」などと呼んで疑問ももたないが、この「先祖」は厳密には「先祖の霊」などでは最早なく、「祖先」という無人格で不特定な記号的概念にすぎない。その実体は無。生まれ変わっていくんだからあの世に留まって子孫を守る祖先神にはならない。六道を輪廻しているはずの祖先たちをむりやり祖先信仰の形式に接ぎ木すべくひとからげに人格化(神格化?)したもので、自他の区別もないから特定の祖先というわけでもない、きわめて人工的で便宜的な概念なのである。まぁこれは近世の例だから、仏教渡来以前の大昔とはちがうだろうとは思われるが、その一方で、七回忌・十三回忌・三十三回忌というのは中国仏教にもインド仏教にもない日本独自の風習だから、仏教以前にあったものが仏教式に変形して伝わってきたものである可能性が高いのではないか。
「弔いあげ」なんて本当の祖先信仰にはあるわけないのだが、これは仏教伝来より以前からあった可能性がある。神様に祀り上げるのではなくて、実態は33年間かけた「お別れの儀式」にすぎない。
しかし、こういうと「そんな代々の先祖の名前までわかるような系図もってるのはごく一部だろ」と言われる。その通り。お公家さんとか、一部の大名ぐらい。そういう上流階級では血筋、とくに父方の血筋が重要になる。特定の家系と呼ぶに値するほどのご大層な「系」に属している者を、皇族とか貴族というのであって、皇族や貴族でもなければ「祖先信仰」など成立するはすもない。
そこで一つ、重要なキーポイントは、佐久夜毘賣「だけ」が邇々藝命と結婚する前に「父の許可」を得ようとしたことだ。

父の許可なく勝手に結婚している女神たち
須勢理毘賣は、父(=須佐之男命)の意向もきかず勝手に大穴牟遅神と「マグハヒして相婚」している。豊玉毘賣も、父(=海神)の許可なく勝手に火遠理命を「見感(みめ)でてマグハヒして」、その後で父に報告している。この二例だけみると、昔の女神たちは家父長制と無縁な存在で自由に恋愛、結婚しているようにみえる。ところが、佐久夜毘賣「だけ」が邇々藝命と結婚する前に「僕はえ白さじ、僕が父大山津見神ぞ白さん」つまり父が決めることだと言っている。ここは、大国主が建御雷神に対してすぐに答えず、事代主神、建御名方神という二人の息子の同意を求めたという話に関連づける説もあるが、関連づけたところで何かが解明されるわけでもない。この違いは簡単なことで、須勢理毘賣と豊玉毘賣のケースでは女神のほうから男神に惚れたのであって、大穴牟遅神や火遠理命が女神にアプローチしたわけではない。しかし、木之花佐久夜毘賣は逆で、邇々藝命の方から言い寄られた。ということはつまり、「女神の意志で男神を選んだ場合には本人の意志だけで性交なり結婚なりが成立するが、男神から選ばれた場合は自分の意志では返答できず父に判断を委ねる」のだろうか。そのような定式化してみても、なぜそのような違いがうまれるのかがわからない。
実は両者にはもう一つ違いがある。須勢理毘賣は大国主を「いと麗しき神」とは思ってはいたが何者であるかその正体を知らず、結婚してから後で父から「こは葦原色許男といふ神ぞ」と聞かされている。豊玉毘賣も火遠理命を「麗しき人」とのみ思って誰だかわからないまま関係を結んで、後から父に「こは天津日高の御子、虚空津日高ぞ」と教えられている。しかし、木之花佐久夜毘賣は逆で、邇々藝命の方から名を問われて答えているので、文面にあらわれてはいないが邇々藝命本人も当然、佐久夜毘賣に対して自分が何者か相互同時に名乗っていると想定される。つまり前2ケースでは、女神はどこぞの馬の骨かもしれない得体のしれない男を自分の意志で気に入ったケースなのであり、後者ははじめから高貴な血筋の男性とわかっているケースなのである。

・天孫降臨から神武天皇まで「179万2470余年」?

H30年1月17日(水)初稿
今日は平和について。といっても漠然と「平和」というんじゃなくて特に日向三代と関係づけての話だが、これについては「古事記と「平和思想」・後編」で詳しく書くとして今回はふれない。で、今回は日本書紀の中にある日向三代の年代がたった3代で合計「179万2470余年」間だという話についてひとくさり議論しよう。
(※多忙につき後日に執筆予定)

・「猿田」の読みはサルタでない

H29年10月18日(水)初稿
「ー宣長の生涯ー 吉田悦之」と表題のあるプリント、これはたぶん『心力をつくして―本居宣長の生涯―』からの抜粋と思われる。三重県松坂市の「本居宣長記念館」から出てる小冊子。
猿田毘古の猿の字の読みはサルではない
猿女君(さるめのきみ)の名の由来が、猿田毘古神(さるたひこのかみ)という名から取られたと書かれているが、これはただのこじつけでぜんぜん事実とは違っている。これまで何度もいってきたように、歌舞音曲で神に奉仕する巫女を「サルメ」という、そのサルとは歌舞をする意味の「戯(さ)る」という動詞からきており、猿女という表記は当て字にすぎない。一方、猿田毘古神の「猿田」は古くはサルタでは無かったと思われる。猿の字はもとは「狭」だった(旧字体は「狹」だが「狭」の字も異体字として使われた)のを誤写したとも考えられるし、あるいは猿と書いても「猿渡」(さわたり)、「猿島」(さしま)、「猿投」(さなげ)と読む例があるように、この猿もサと読むのだとも考えられる。猿渡・猿島・猿投はいずれも地名で、元はちゃんとサルと読んでいたのが後でサに訛った可能性はあるし、奈良時代まで遡った場合、サだったのかサルだったのかは難しい。地名解釈論や地名語源論からはサのほうが有理だが、サに猿の字を当てるには「猿と書いてサと読む」という教養がないと無理だ。そのような教養が上流社会から流れてきたと考えるしかあるまい。その教養(?)を考えるに、伏見稲荷の祭神5柱のうちの「佐田彦神」は室町時代の『二十二社註式』では「猿田彦神」となっていることからこの猿田はもともとサタ(佐田)と読んでいた可能性もある上、『出雲風土記』にでてくる神話で有名な佐太神社の祭神「佐太御子大神」は通説では猿田毘古神のことである。とならば猿田もサルタではなく正しくはサダまたはサタと読むのだという有職故実まがいの知識が流通していたのではないだろうか。そもそも「狭」(or「狹」)の字だったのを猿に誤写したのは、奈良時代以降である可能性が高いと思う。そのような誤字が発生したのは猿女君(さるめのきみ)という言葉に引っ張られたものだろうが、語部(かたりべ)の文化がまだ根強かった段階では常に朗読されていたから、猿の字で書かれても読み方はサだという知識はなくならなかったはずだ。「猿女の君」という名が猿田毘古からとってつけたという由来譚は古伝承でもなんでもなくて、語部が衰滅していた奈良時代にできた話だろう。

ナマコの口は裂けてるのか?
ナマコといえば佐野量子…。いや、なんでもない(絶対に検索するなよw)。ナマコの口を画像検索してみると肛門みてぇだな。これを「裂けてる」と表現するのが妥当なのかどうかよくわからんね。これも何か「ものの喩え」だろう。嶋之速贄(しまのはやにへ)とは志摩国から皇室への生鮮海産物の速達での献上のことだが、猿女氏もそのご相伴に預かる習わしがあったことは文献上は証明されず、疑わしいとされている。志摩国は伊勢国の一部だったこともあり、広義の伊勢に含まれる。つまり阿邪訶と重なるか少なくとも近い。古くは伊勢志摩のあたりは猿女氏の本拠で、ナマコに限らず、ここらの生鮮品は猿女氏から皇室への献上品だったのだろう。猿女氏は中央における語部(かたりべ)の主管者である。ところで語部が単なる昔話をする人でなく情報伝達に携わる人々であることはこのブログでつとに強調するところだが、物資運送に携わる海部(あまべ)等よりも手ぶらで行ける語部のほうがスピードで勝るので、生鮮品の運送は通常とは別ルートとして、速達便と思われていた語部に任されていたのかもしれない。だからご相伴に預かるも糞も、もともと皇室と同じものを食べていたわけ。それを「皇室から特別に賜るならわしがあったのだ」と言い張るのは、猿女氏が落ちぶれてから作られた説話かもしれない。この神話は本来は、猿田毘古神と天宇受賣命のコンビつか夫婦が海に入り、海の生き物たちを平定して天孫に従わせたということが本題であって、ナマコがどうのって話はどうもいい付け足しだ。
あと、サクという動詞は「裂く」の意味もあるが、心に思ってることを口にだすことを古語で「ホサク」といい、祝い事を述べる言葉をいう時には祝の字をあてて「祝く(ほさく)」、他人の不幸を願う言葉を発する時は呪の字を使って「呪く(ほさく)」と書く。これが縮まって「言祝ぐ(寿ぐ)」等という時の「ホグ」という動詞、あるいは野卑語化して現代語の「ほざく」にもなっている。ホサクのサクは「開く(さく)」(≒咲く)と同源だろう。だから「口をさく」というのは「しゃべれない相手に、しゃべれるようにしてやる」というニュアンスがある。普通の魚たち、原文でいうと「鰭廣物鰭狹物」(はたのひろもの・はたのさもの)とは比較的簡単にコミュニケーションできたが、ナマコみたいな下等動物とは若干コミュニケーションが難しかったという程度の話だったのかもしれない。現代人でも、犬や猫とコミュニケーションできると豪語する人はいくらでもいるが、カブトムシと会話できると真面目に自称する人はそうそういないだろうw ナマコというのも現代語で、原語ではただ「コ」と読まれている。これは蛸(たこ)の語源も「手のあるコ」からきており、蚕も「殻(かひ)をつくるコ」で、下等動物はおおむね「コ」と呼ばれていた。あくまで海の下等動物を全般的にさしていたのが古伝承だろう。従って、本来はナマコの話ではなくて、海の下等動物一般について語っていたのである。
古事記では「海鼠」と書いて意味的にはナマコに限定してるけど、この表記は稗田氏(=猿女氏)の解釈を採用した奈良時代人(具体的には太安万侶)のしわざであって神話の原形ではない。奈良時代には余計なこじつけが付いて「猿女氏が優遇される由来譚」として再解釈されて、「口がきけるようにする」意味の「口をさく」という古伝承が、「口を裂いた」に変えられた。ナマコの口は奇妙な形をしているが「裂けている」という表現は奈良時代人にとっても釈然としなかったのではないかと思う。ただ猿女氏(=稗田氏)を顕彰する伝承なので、稗田阿礼はボツにしかねたのだろう。

・高千穂と出雲の巨大建築だけがなぜ共通なのか

H29年9月20日(水)初稿
高千穂と出雲の巨大神殿だけがなぜ共通なのか
「底つ岩根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて云々」という表現がある。意味は神殿や宮殿の巨大な様をあらわした言葉で、「底つ岩根に宮柱ふとしり」とは地底の岩盤(底つ岩根)に届くような太くて長い柱を使うということ、「高天原に氷木たかしり」とは天空に千木を高々とあげているということ。つまり摩天楼、古代の高層建築のこと。巨木信仰とは関係ない(氷木、千木については後述)。古事記に3回でてくる。3回のうち2回は大国主の住居のことで、1回目は、大国主が根の国から脱出した時に須佐之男命がよびかけたもので、このような大宮殿に住んで地上を治めよ、といった言葉。2回目は国譲りの時に、天孫に地上の統治を譲るかわりに自分(=大国主)の住処を天皇の皇居のように作ってくれ、と言った言葉。普通は、この時の建物はのちの出雲大社の雛形と考えられている(ちなみに記紀では出雲大社という言い方は絶対にせず「出雲神宮」と書かれる)。1回目は「大国主の住む宮殿」、2回目は「大国主を祀った神殿」で1回目と2回目は要するに同じものをさしている。3回目は、天孫降臨の段で高千穂にあまくだった邇邇藝命が、このような大宮殿(=皇居)を建てて住んだという話。つまり「高千穂宮」(たかちほのみや)の描写と考えられていると思う。さらに日本書紀ではもう1か所、神武天皇の皇居「橿原宮」(かしはらのみや)について同様に書かれている。

(大国主、根の国から脱出の段)
於宇迦能山之山本、於底津石根宮柱布刀斯理、於高天原冰椽多迦斯理而居、是奴也。

(国譲りの段)
唯僕住所者、如天神御子之天津日繼所知之登陀流天之御巢而、於底津石根、宮柱布斗斯理、於高天原氷木多迦斯理而、治賜者、僕者於百不足八十坰手隱而侍。

(天孫降臨の段)
「朝日之直刺國、夕日之日照國也。故此地甚吉地」詔而、於底津石根、宮柱布斗斯理、於高天原、氷椽多迦斯理而坐也。

こうしてみると、まず地上を治めた大国主、次いで大国主から国を譲り受けた日向3代、それを継承した神武天皇と、代々の「地上の支配者」の住居であることがわかる。ひらべったくいえば王様の宮殿の立派な様をいってるのだとすれば、まぁ理解はできる。ただ一つ問題は、大国主が地上の支配から退いた後の待遇として同様の神殿を要求していることだが、これはどういうわけだろうか。引退後の大国主の住居と、邇邇芸命の皇居が同様の描写されてるからといってこれが同一地というわけではない。「天孫降臨の地は九州じゃなくて出雲だった」なんてバカなことは言い出さないようになw このブログを継続してみてる人なら説明はわけもないだろう。大国主は確かに地上の支配からは手を引いたので、それだけみれば引退かと誤解してしまうが、そうではなく、日本書紀に書かれているように「あの世」の統治、「目に見えない世界」(幽界、冥界)の支配者に昇格したわけだ。その両者の住処が同様に描写されている。大国主を祀る神殿と現実世界を治める天皇の皇居とが同じに作られている、このことの意味は、我々が生きるこの世界が「現実世界」と「幽冥世界」の二つの世界からできていて両者が同等に重要なのだということだ。二つの建築物はこのことを人々に明示しているのである。我々が「こっちの世界」を治める天皇陛下を崇めるのと同様に、「あっちの世界」を治める大国主を拝まなければならない。そういう教えがあらわされている。

ミヤ(宮)とヤシロ(社)
よくいわれることだが、神社というのは仏教寺院の影響でできたので、もともとは建物はなかった等という。それは一般の鎮守様(土地ごとの守り神、産土神)では確かに恒常的な建築物ではなかったのだが、全部のあらゆる神社がそうだったと決めつけるのは間違いだ。このブログでも以前、別のところで書いたので以下に引用しておく。

http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-27.html">2応神帝の諸皇子の母系ルーツと陵墓http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
(前略)…神宮と神社の違いを格式の上下と考えるのは現代人の考えで、本来は物理的な違いをいった。ヤシロ(社)とは太古の磐座(いわくら)や、沖縄のウタキ(御嶽)のように、建物がなくて雨ざらしなもので、特別な祭礼の日だけ臨時の建物を作るからヤシロ(屋代)という。これに対してミヤ(宮)とは現在の神社のように恒久的な神殿を建設したもので、古代ではある特定の事情による特殊な部類だった。伊勢・石上・香取・鹿島が有名だが、出雲大社と高千穂神社も正しくは「神宮」。出雲と高千穂は神話によって恒久的建築が義務付けられているためで、石上・香取・鹿島は武器庫を兼ねているから、伊勢はもともと皇居内の神器奉安所が外部に独立したため、恒久的な建造物となっている。つまり出雲と高千穂を除く4神宮は、御神体が樹木や岩石ではなく、雨ざらしにできない神器・神宝の類だから「神宮」なのである。同様な事情がある場合には無名なものも神宮または宮と称されてに違いない。あとは中央の伴造、地方各地の国造が祀っていたと思われる神社も本来は今でいう官庁や県庁といった建物の中に神を祀ったものなので、造の字はヤシロツコではなくミヤツコと読まれる…(後略)

http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html">出雲国造は天穂日命の子孫ではないhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html
(前略)…国造は、国造本紀によれば、ほほ半分が成務天皇の時に設置されたもので、それ以前とそれ以後に置かれたものが約4分の1づつ。これは景行天皇の時の倭建命の熊襲平定や蝦夷征伐の後を受けてのことだが、もし国造の分布が大和朝廷の勢力範囲だとすると、倭建命以前の朝廷は全国に飛び飛びに橋頭堡を確保していた以外、長年にわたって畿内に閉じ込められていたような形勢となり、崇神天皇の四道将軍派遣の例から考えても不自然不合理に思われる。国造は単なる地方豪族ではなく大和朝廷から任命された地方統治官であるが、あたかも律令制の「国司」以前に国造があったように、成務天皇の「国造制」以前にも類似の仕組みがあったとしなければならない。連(むらじ)の語源が邑主(むらぬし)でその邑(むら)や、県主の県(あがた)がいずれも律令制での郡のように、国よりは規模の小さいものと思われるが、県主が国造より古い起源を有するのは通説だし、邑主が元の意味を失って連(むらじ)に変化していることを考えればこれまた古い起源といわねばらなない。その上で、邑の支配者が邑主、県の支配者が県主なら、当然ながら国の支配者を「国主」といった時代が国造に先行してあったのではないかと思われる。
では国主が国造に置き換えられていったとして、国主と国造の違いは何か。
国史には国造伴造(くにみやつこ・とものみやつこ)とセットで表れる。国造のカバネは直(あたへ)、伴造のカバネは造(みやつこ)が多いことから、もともと造といえば伴造のことだったのではないかと思われる。この事からすると、国造は伴造に遅れてできた制度らしい。後に国造の制度ができてから、国造と区別するため、それまでの造をあらためて伴造というようになったのだと推測する。造の語源説は「宮ツ子」説と「御奴」説がある。wikipediaには「御家ツ子」説が載ってるがこれは「宮ツ子」と「御奴」に分岐する前の段階まで遡らせたもので意味がない。宮とは「神の宮」で、伴造はそれぞれ担当する専門分野の守護神を祀るんだろう。山部は山の神、海部は海の神、鍛冶部は鍛冶の神、服部は機織りの神…というように。ツコは助詞のツに子(氏子の子)だがミヤツクリ(造)ミヤツカへ(仕)のニュアンスもあるんだろう。この時代は自然の岩や樹木を神籬(ひもろぎ)として今の神社建築のようなものはなかった(祭儀の時に臨時の建物を仮設するのでこれをヤシロ(屋代)という)が、伴造が祀る神は官衙(官庁の建物)の中だから必然的にヤシロではなくミヤ(恒久的神殿建築)となる理屈だ。
国造は倭建命の事業の後を受けたものとは書いたが倭建命の活動は単に軍事的征服併合をしたのでも、土豪山賊の退治をしたのでもなく、古事記をみると頻繁に出てくるが、本質は「荒ぶる神」をまつろわすことにあった。神だから、目に見えない霊を鎮圧祓攘し、祭りなおすことが本題で、古代人にとっては、豪族や反抗勢力を物理的に抑圧または撃破するのは神祇祭祀の派生的な現象と考えられたのではないかと思う。然る後に新たな支配地に置かれた国造とは当然、土地の神を祭ることを任務としたものであろう。ゆえに国造は国土を治めるにあたってその土地の神、つまり国魂神(くにたまがみ)を祀る。国魂神ってのは後世の「諸国一之宮」とはやや趣旨が違うが似たようなもので「広域の産土神(うぶすながみ)」だと思えばよい。国造とそれ以前の国主との違いとは、後世でいうところの「諸国一之宮」的なその地方の土地神を祀る神社の宮司に、その地方の統治を委ねたのが国造、ということになると思う。これら土地神の祭祀も、国衙(地方官庁の建物)の中に祭られたからクニノ「ヤシロ」ツコでなくクニノ「ミヤ」ツコとなるわけ…(後略)

・日本の建国(国の始まり)は2つある?

H29・2・15初稿
(※後日かきます)

・元始祭

H29年1月3日初稿
(※現在多忙につき後日に執筆予定)

・鵜萱葺不合命に兄弟がいた?

令和元年8月16日(金)改稿 平成28年9月30日(金)投稿 平成28年9月28日(水)初稿
古事記の原形の復元
古事記<上巻>のラストは、神武天皇の兄弟が紹介されている。ここで上巻つまり神話篇は終わっている。だが、これは普通に考えるとおかしい。神武天皇の兄弟の紹介などは本来は中巻の冒頭、つまり神武天皇記の中で書かれるべきだろう。ではなぜ上巻の末尾に書かれているのかだが。
現状では記紀ともに鵜萱葺不合命は一人っ子のように読めるのだが、これは海外の神話と比較してみると、神話の後半が欠落したものと推定できる。ここには本当は神武天皇の兄弟ではなく、鵜萱葺不合命の兄弟が書かれていたのではないかと思われる。その兄弟の名が誤脱した写本をみて、後人が神武天皇の兄弟が書かれていたと誤解した上で復元したのが現在の文面だろう。すなわち『先代旧事本紀』によると火々出見尊は豊玉姫命を后として鸕鶿草葺不合尊を、ついで豊玉姫命の妹の玉依姫命との間に武位起命(たけくらおきのみこと)を儲けたとあり、これが正しければ鵜萱葺不合命には異母弟がいたことになる。古事記の原文では

是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨玉依毘賣命。生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。

とあるが、原形を想像すると

是天津日高日子穂穂手見命、娶豊玉毘賣命、生御子名、○○○(…中略…)○○○、娶其姨玉依毘賣命、生御子名、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、次建久良意伎命。

で、これが以下のように虫食い等で破損すると

是天津日高日子○×△□(中略)○×△□天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命。次娶玉依毘賣命、生御子名、○×△□(以下断絶)

原形を忘れられた後でこれをみると鵜葺草葺不合命の兄弟でなく、鵜葺草葺不合命が玉依毘賣命を娶ったかのように読めてしまう。だからそのままこれを修正しようとすると「生御子名」の後ろに神武天皇とその兄弟の名を入れたくなってしまう。その結果こうなる。

是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、娶其姨玉依毘賣命。生御子名、五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命、次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命。

武位起命(たけくらおきのみこと)
先代旧事本紀によると武位起命は倭国造(やまとのくにのみやつこ:この倭の字は今の奈良県をさす用法で奈良県の県知事みたいなもの)の祖先だというのだが、記紀では倭国造の初代の人物は神武天皇の時に任ぜられた椎根津彦(しひねづひこ、記:棹根津日子さをねつひこ)で、神武天皇が東征に向かう途中、海上に船で現われて水先案内人を買って出た人(その後、大和での合戦にも手柄を立てた)だ。これは記紀だけでなく先代旧事本紀の他の場所でもそうなってる。だから後世の系図などでは武位起命は椎根津彦の父ともされているが、これは表面的な辻褄合わせだろう。なぜならそれだと神武天皇と椎根津彦は従兄弟同士になってしまうのに、記紀では神武天皇と椎根津彦は知らない者同士で東征の時に初めて出会ったことになっているからだ。
椎根津彦が祭られている神社は九州を中心に全国に多いがそのうちのたった二社だけ、大分県大分市の「椎根津彦神社」と福井県越前町の「佐々牟志神社」では一緒に武位起命も祀っている。
椎根津彦神社の場所は昔でいうと豊後国の海部郡(あまぐん)にあたり、ここは昔、白水郎(あま:海に潜る漁民)がいたから海部(あま)といったという。字づらからいうと古くは「あまべ」だったのだろう。神武天皇に航路のガイドとして仕えた椎根津彦は一般的な通説として海路に詳しい海洋民だったと考えられており、ここに椎根津彦が祀られているのはまぁわかる。
福井県の佐々牟志神社の伝承では、武位起命は越前にやってきて土着しあのあたり一帯(北陸?越前?)を治めたという(この話はネット情報なんだが、ソース元のサイトのアドレスがわからなくなってしまった)。その伝承が本当ならそこに武位起命が祀られているのはわかる。佐々牟志神社の場所は、昔でいうと越前国の丹生郡にあたる。椎根津彦神社のある豊後の海部郡は佐加郷・穂門郷・佐井郷・丹生郷の4郷で構成されていた。丹生という地名は水銀の鉱山のあるところで全国にある地名だから偶然かもしれないが、越前の丹生郷は古くは極めて広大な郡だったが豊後の丹生郷は狭小だから、もし両者につながりがあるとしたら越前の方から豊後に移住してきた人たちの跡であって、その逆ではあるまい。

計7人兄姉弟だった?
ちなみに『ウエツフミ』では、ホホデミノミコト(火々出見命)はトヨタマヒメノミコトと結婚する前に、タケツヌミノミコト(武津沼海命)の娘ミヲツヒメノミコト(ミホツヒメともあり、漢字なら三穂津媛命か)を妃としてタケサヒコノミコト、ウケチホホヒメノミコト(鵜受毛区千穂大姫)の1子1女。オキツナギサヒコノミコトの娘サナギヒメノミコト(アメノサナギヒメともあり)を妃としてエミヅホアカシノミコトの1子を儲けており、そのためトヨタマヒメが嫉妬で怒り海に帰ろうとするという筋立てになっている。その後にトヨタマヒメノミコト(豊玉姫命)を皇后としてウガヤフキアヱズノミコト(鵜萱葺不合命)、アマツナヲリノミコト(天津直入命)、アマツウスキネノミコト(天津臼杵命)、アマツタケクラオキノミコト(天津武位起命)の4子を産んだので計6男1女になる。
タケツヌミノミコトは『ウエツフミ』では怪物退治の皇軍の武将の一人として何度かでてくる。また別の箇所ではエミヅホアカシノミコトにはエミヅクニカタヤツミミノミコトという息子(母不詳。父の妻についても情報なし)がいて203歳の時ヌチヂノタケル(毛野国の国守)になったという。またウガヤ朝の第四代の名はタマカミヒコ(玉噛彦)なのだが誤ってエミツホアカシとしている箇所がある(ヅでなくツになってるがこれは助詞のツで秋津をアキツ、アキヅの両方に読めるようにどっちでもいいんだろう)。これは誤りでなく別名の可能性もある。というわけは、エミヅホアカリノミコト(アカシでなくアカリ)の娘イススヒメがウガヤ朝の第四代の皇后になっているので舅の名を継承したのではないか、そうするとホアカシとホアカリも同義で同じ名なのか、それともアカリは単純にアカシを誤っただけか。
アマツウスキネノミコトとアマツタケクラオキノミコトの2人はウスキの「タケクラシマノミヤ」で生まれたといい、あるいは双子のように読めないこともない。ウスキは豊後国海部郡の臼杵(うすき:現在の大分県臼杵市が遺称地)か、または日向国臼杵郡(うすき:現在の宮崎県北部に該当)のどちらかだろう。タケクラシマノミヤは「たけくら島」の宮だろうがそれに類した名をもつ島は近隣にない。またなぜ唐突に「宮」(宮殿?)が出てくるのかも不明。同じところで生まれたのになぜ兄弟で大地名と小地名に名をわけているのかも不明。同じ場所なら、ウスキネノミコトもタケクラオキノミコトも同じ人物で別名ではないのか。アマツナヲリのミコトの「ナヲリ」が地名だとは明示されてないが明らかに豊後国直入郡(現在の大分県竹田市直入町が遺称地)の「直入」の地名起源譚だったのだろう。ホホデミのミコトとトヨタマヒメが仲直りして生まれた御子だからとナヲリと命名されたというがそれならアマツナヲリノミコトは鵜萱葺不合命の別名でなければおかしいのではないかとも思う。「ナヲリノミコト・ウスキネノミコト」は「鵜萱葺不合命・武位起命」のそれぞれ別名なのであろう。アマツタケクラオキノミコトが先代旧事本紀でいう「武位起命」に当たる。ウエツフミが「アマツ~」と付けてるのは皇后腹(母がトヨタマヒメ)という意味だという説もあるが、武位起命に関しては母は豊玉姫ではなく妹の玉依姫という先代旧事本紀の説も捨てがたいし、父系によらず母系で天津神の子とそれ以外にわけるのは釈然としない。まして豊玉姫は天津神の姫ではなく国津神(海神)の姫だからさらに辻褄が合わない。一案としては「アマツ」が冠してある3人の名は地名だから天津神の御子とその土地の交わりの意味で「アマツ+地名」という構成になっているのであって、皇后腹を表わしているわけではあるまい。武位起命については上述の通りだが、それ以外の兄弟たちの行跡などは不明。また鵜萱葺不合命の3人の弟の名はすべて地名からとっているが、それ以外の兄弟たちの名前の由来や意味も詳細不明。地図をみると「東の海に面した臼杵市」と「西の山側にある直入町」が東西対称にきれいにならんでいる。「ウスキのタケクラシマノミヤ」というからタケクラ島は臼杵の近辺のはずだが、もともとウスキ(臼杵)とタケクラシマノミヤ(武位島の宮)は別々の土地の可能性もある、なぜならウエツフミは豊後中心主義で朝廷や宮中の関係は豊後国内に設定しようとする傾向があるので要注意だからだ。タケクラシマノミヤが豊後臼杵かその近辺とは限らない。そこで、前述の越前の佐々牟志神社の伝承からすると「武位島の宮」は北陸における武位起命の政庁だったのではないか。坂井市・福井市・鯖江市・越前市をむすぶ盆地がまだ海だった頃を描くと、その内海と日本海に挟まれて福井県の西沿岸部の山地、いわゆる「丹生山地」は南北に伸びる巨大な半島だったことになる。丹生山地は、北は高須山、国見岳、金毘羅山から南は鬼ヶ岳、金華山、矢良巣山のあたりまでの山岳部で、九頭龍川以南の福井市の西部の山地と越前町、それに南越前町の一部を含むあたり。佐々牟志神社はもともとはその東南400mほど離れた三床山に祀られていたというから、この一帯が海だった頃には三床山を含む小山塊は島だったのではないか、それが「タケクラ島」か。もっとも神社そのものでも伝承内容でも、長い間に場所が移動することはあるので、地形だけでみると、この盆地には他にも、行司岳と三里山を含む南の山塊と、城山と大谷公園のある北の山塊があり、三床山の山塊より大きな島だったろうと思われる。これらもタケクラ島の候補になるか。あるいはもっとデッカイ話にするなら、タケクラシマという地名は丹生山地が半島だった時代よりさらにずっと以前の太古に、本州から切れて島だった頃の名残りではないか。その頃なら、国見岳か六所山の麓に「タケクラの宮」があったんだろう。

大洪水の直後をかたる海外の神話
福井県の盆地が海だった頃というのは神武天皇の頃もいわゆる「縄文海進」のせいでかなりの程度は海だったんじゃないかと思うが、面倒くさいので調べないw しかし、前回までの話の通り鵜萱葺不合命の話は7万3000年前の大洪水の直後というとてつもない大昔を想定してるんであって、神武天皇の頃などではない。武位起命の話は記紀にないし、鵜萱葺不合命の弟に位置づけられてるといっても、ある時代に適当にくっつけられたのかもしれない。武位起命の伝承に史実性があったとしても正確な時代までは推定のしようがなく、数万年前だったか数千年前だったか、神武天皇よりちょい前程度のわりかし最近の人なのか、ゼロから創作された架空の人物なのか、まったくわからない。
で、前回の大洪水神話の続きだが、世界の各地に伝わる神話では、大洪水で生き残った主人公、記紀でいえば山幸彦(山佐知毘古)にあたる人物の子孫から人類が再び増え広がったということになっている。それらの例をいくつか出して比較してみよう。

ノアの民族表
ユダヤ神話では、例の「ノアの洪水」の後、ノアの三人の息子セム、ハム、ヤペテから人類が増え広がったということになっている。で、セムには息子が5人、ハムには4人、ヤペテには7人で、合計するとノアには16人の孫がいたことになる。ところが読めばわかるがこの16人の名は個人名というより民族名であり、この三人の子孫からでた諸民族の名が列挙されているのだ。この列挙された名の一覧は「民族表」とよばれる。で、キリスト教に権威があった時代はセムが黄色人種、ハムが黒人、ヤペテが白人の祖先だ等といわれて、いまだに「聖書原理主義」を信奉する人々の中には似たようなことをいってる人がいるようだが、ガチの聖書原理主義だと民族表の分析が細かいので逆にむしろ大雑把に3人種にあてはめたりしないものである。またヤペテがインド=ヨーロッパ語族の先祖で、セムがセム語族、ハムがハム語族の先祖と言語でわける発想もあったがこれも19世紀的な偏見で現在では相手にされてない。昔のセム=ハム語族が今ではアフロアジア語族となりその中の下位分類の一つとしてセム語派という用語が残ってるが非論理的なネーミングだ。民族表を実際の地図に配置した研究もあるのだが、おおよそヨーロッパとオリエントを合わせた範囲であり、その諸民族の分布みると、セムの子孫というのは今のサウジアラビア北部を中心とした諸民族で、ハムの子孫というのはエジプトやその周辺の諸民族、ヤペテの子孫というのは黒海の周辺とコーカサスの諸民族をさしている。メソポタミアのあたりはセムの子孫だがハムの孫ニムロデが覇者となってアッシリア、アッカド、バビロニアまで支配したという。アラビア南部はハムの子孫とセムの子孫に重出しており編集ミスっぽい。これは当時のユダヤ人が知る全世界で、その中で諸民族を地理的に大雑把に3分割したもののようだ。肌の色や言語でわけたのではない。これを地域区分とみるとヤペテはまぁわかるが、メソポタミアのあたりはハムなのかセムなのかやや不審。この地理分布を単なる地域とみず、諸民族の文化傾向としてみると、ハム系とセム系は都市文明の民と砂漠の牧畜民のようだが、どっちがどっちなのかはごちゃごちゃ混在して判別しがたい。ヤペテも解釈に困るが黒海を囲む民(海洋民?農耕民?)やコーカサスの山岳民(狩猟民?農耕民?)のようだから、セム・ハムとの対比から推定すれば、ヤペテはもと海洋民か農耕民か狩猟民のいずれかをさしたのが調子に乗って民族表に追加してるうちにもとの趣旨がボヤけてしまったのだろうか。実は、これらの不鮮明さは2種類の民族表をごっちゃに混ぜて編集したからである。聖書は系統の異なる4種類の書物の混ぜ合わせであることはよく知られていると思うが『創世記』第10章はJ資料(南王国系資料)と、P資料(祭司資料)の混成で、民族表もJ系とP系の2種類が混ざっている。より古いJ系の民族表ではハムの子孫についてやたら詳しく、ほとんどハムの話をするのが本題だったようだ。セムの子孫は1代1人の直線系図を細長く続けた後に(ノアを初代として数えた場合の)7代目になって急に13人の兄弟(13民族)を出している。ヤペテに至ってはセムやハムより長兄だというだけで子孫についてはまったく触れておらず、かなり偏った内容だ。これに対し、時代の新しいP系の民族表ではセム・ハム・ヤペテの子孫をなるべく均等に出すように手直したした様子がわかる。手直しの要点は3つ、セムにメソポタミア方面の民族を追加し、そのかわりセムの子孫であるはずのアラビアの民族をいくつかハムの子孫に変更している。またヤペテの子孫がJ資料では失伝して不明になっていたので補い加えた、この3点である。手直しだの補ったのといえば聞こえがいいが、両資料の成立年代は500年以上も離れておりP資料の史料的価値はかなり低い。要するにJ資料の記述に不満をもった後世の人間が改竄、創作したわけだろう。P資料ではハムの子クシを紅海をはさんでエチオピアと南アラビアに分布していた「クシュ人」と解釈して、アラビアの諸民族をクシの子として系図を作成した上、セムの子としてメソポタミアの諸民族を新たに加えている。そのためP資料だけみるとハムがアフリカ、セムがメソポタミアの先祖で、アラビアの遊牧民はハムの子孫であってセムの子孫でないようにみえる。しかしJ資料ではセムの子孫はほぼアラビアの遊牧民だけでありメソポタミアの先祖ではない。
ハムの子クシからメソポタミアの支配者ニムロデがでている。このクシというのはバビロン第3王朝を建てたカッシート(アッカド語でカッシュ)で、ニムロデはメソポタミアの「ニヌルタ」の訛り。ニヌルタはシュメール語「ニン・ウルタ」でニンが主人、ウルタが大地で直訳すれば「大地の主人」。狩猟と農耕と戦闘の神ニヌルタの神名(固有名詞)。アッシリアの王にはこの神の名を帯びた王が2人ほどいるので、バビロン第3王朝の王の中にもニヌルタ神の名を称した王がいたのかも知れないが、ここに出てくるニムロデ(=ニヌルタ)は神名ではなくて、「大地の主人」すなわち「国土の支配者」で「王」をさしている。この場合は「初代の王、建国の王」のことだろう。
つまりJ資料では、ハムの子孫はエジプトとメソポタミアの都市文明(及び両地をつなぐパレスチナ回廊=カナン)であり、セムの子孫は砂漠の牧畜民、というようにきれいに分かれるのだ。P資料は史料的価値に劣り信憑性がないのでスッパリ切り捨て、J資料が古伝承と認められる。
ただし3兄弟を肌の色の起源だとしたのは間違いとしても、3地域でわけたにしろ生業形態でわけたにしろ、トバ・カタストロフでの僅かな生き残りから今の全人類に広がったのなら、結局白人も黒人も同じ先祖から枝分かれしたのだという発想自体は間違いとはいえない。

ギリシアの4種族
ギリシア神話では、ノアにあたる人物はデューカリオンという名で、妻ピュラとの間にヘレン、アムピクテュオーン、オレステウスの3人の息子と、プロートゲネイア、メランティアという2人の娘をもった(他にも息子か娘がいたような気もするが忘れた)。ヘレンには三人の子がおり、長男アイオロスは父ヘレンから王位を継承しテッサリア(ギリシア北部)を得た。次男クスートスはぺロポネソス半島、 三男ドーロスは小アジア西沿岸部を領地に得た。次男のクスートスにはさらにアカイオスとイオーンという二人の息子がいたという。このうちヘレンという名はギリシアの本来の国名で、古代ギリシア人は自分らを「ヘレネス」(ヘレン族)といったことから、逆にギリシア人の最初の先祖として想定された人物。同様に、アイオロスは「アイオリス人」、ドーロスは「ドーリア人」、アカイオスは「アカイア人」、イオーンは「イオニア人」の祖先として民族名から逆に創作された人物である。ただしデューカリオンの子でなく孫の世代になってるが、子の世代もヘレン、アムピクテュオーン、オレステウスの3兄弟になってるので、これも同じ伝承の重複と思う。従ってヘレンというのは元はデューカリオンに捧げられた別名なのであろう。この4つの民族は千年もの間に時代を違えて次々と北方から南下してきて後にギリシア民族を形成した。要するに「すべてのギリシア人は大洪水の生き残りデューカリオンから枝分かれした同族だ」という主張なのである。アカイア人ってのはミケーネ文明を築いた民族で、ドーリア人はミケーネ文明を滅ぼした民族だから、実際にはこの4民族が同系の民族だったのかどうかよくわからない。別々のまったくの異民族同士だった可能性もある(イオニア人はアカイア人の中の一部ともいうがイオニア人の方が先にやってきたという説もありよくわからない)。だとしても、トバ・カタストロフでの僅かな生き残りから今の全人類に広がったのなら、結局もとを辿れば大抵の異民族はみな同じ先祖から枝分かれしたのだという発想自体は間違いとはいえない。

中国の五帝神話
中国人は早くから神話の神々の物語を荒唐無稽と考えたため、これを合理的に解釈しようとして、神々を歴史上の人物に置き換えて再解釈した。だから神々が古代の帝王とされており、これを三皇五帝という。五帝のうち2番めから5番目までは顓頊(せんぎょく)・嚳(こく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)というが、『山海経』に嚳(こく)の別名を「俊」としており、神話学的には、これは舜のことでもともと嚳と舜は同一神格だったと考えられている。そうすると2番めの顓頊(せんぎょく)と4番目の堯(ぎょう)も同一神格の重複だろう。これは同じ神話を別の部族が伝えたため内容に変化を生じて、統一帝国で伝承を統合した時に同一の神話だと気づかなかったためである。大洪水は黄河の氾濫というより現実味のある話に矮小化されているが、大洪水で生き残った人物にあたるのは「嚳(こく)=舜(しゅん)」で、舜が悪人の家族に井戸に投げ込まれた話があるが、実はその時に井戸の中の水底でナマズの姿をした水の神「禹」(う)と出会ってその力を借りて洪水を治めたという話だったと思われる。それが、儒教の教典や古代の歴史書では、禹は帝の命を受けて黄河の治水を担当した大臣という話に改変されているのだ。なので紛らわしいがそれは古代の人間の歴史ではなく神話なのである。
嚳の妃と子については2種の伝承があり、一つは「陳鋒氏の娘を娶って堯を生み、娵訾氏の娘を娶って摯(し)を生んだ」というもの、もう一つは「有邰氏の娘の姜原を元妃として「稷」をうみ(稷は「后稷」ともいい、『山海経』によると俊の子)、次妃であった簡狄(有娀氏の娘)が「契」をうんだ」ともいう。さすれば嚳には4人の妃がいたのだから最初からそう書けばいいのに古い伝説ではなぜかそういう言い方はなく、文脈によってどちらかの伝承だけが書かれる。古くは顓頊と堯、嚳と舜がそれぞれ同一神格だったのだから、前者のほうは嚳と堯を系譜上つなげるために改作されたもので、五帝を通史的に語る時に持ち出される話であり、後者のほうが古伝である。改作される前には「陳鋒氏の娘を娶って堯を生み、娵訾氏の娘を娶って摯を生んだ」のは嚳でなく黄帝=少昊だったはずで、陳鋒氏の娘とは「顓頊の母、蜀山氏の娘」のことだろう(陳は陝西省の地名、鋒は峰で陳鋒氏は西の山の意、蜀山氏とも同義。娵訾というのは燕のことだが氏をつけて擬人化した場合は文句ばかり言ってる人の意味もある。摯というのは少昊の名と同じだが猛禽類のことで名前なのではない。端的に鳥だといってるだけなのだが歴史上の人物に仮構したため「摯という名前の人」にされたもの。摯(親のほう)は少昊で、摯(子のほう)は「窮奇」のこと。この神話については長くなるので解説は後日に譲る)。舜は堯の娘の「俄皇と女英」の姉妹(この姉妹は河の神であり日本でいえば豊玉姫と玉依姫)を娶り、妹の女英は「商均」をうんだ。嚳と舜が同一人物なら、稷・契・商均は母違いの3兄弟となる。
中国では複数部族の神話が統合される際に、舜系の商均と嚳系の稷・契にわかれている。俄皇と女英の姉妹のうち女英から商均が生まれ、俄皇には子がいないことになってるが、おそらく稷・契は俄皇の子で、腹ちがいで分けてるのだろう。姜原・簡狄は後述するように母といっても実は稷・契の属性を神話的に表現するためのキャラなので必ずしも母でなくてもよく妻でもよかったろう。后稷は堯舜に仕えて「邰」に封ぜられたというが、邰は伝承のままでは母(姜原)の実家(有邰氏)である。もとは姜原は母ではなく妻だったのだろう。邰に封ぜられたから有邰氏の娘を娶ったという話の段取りのほうが自然だ。
后稷は周王朝の祖先だがまた農業の官でもある。契は殷王朝の祖先だが、母の名に「狄」の字があり有娀氏の「娀」の字は女偏に「戎」で、戎も狄も牧畜民族や狩猟民族をあらわす。契の字は刃物で印をつける意味だが、この場合は狩猟での獲物または家畜を解体する人を意味してるのかな。商均は「陳」や「胡」という中原の都市国家の祖先だが、都市国家は市場を起源とする。「商均」の名をみれば商業を表わしていることは瞭然だが、陳は商品を陳列する意があるからバザール(市場)をいってるのだろう。胡は後に異民族をさす文字になったが、もともとは肥満した人をさす言葉だったと思われ、それが地名になってるのだから金持ちの国という意味だろう。神話を復元すれば、この3兄弟は農耕民族・牧畜民族・商業民族の祖先という話だったのだろう。
また后稷は周王朝の祖、契は殷王朝の祖でもある。夏王朝が残るが夏とは「賈、価」と同音で、行商する人が「商」であるのに対し、「賈」は店舗を構えて販売する人を意味する。そうすると商均は広い意味では夏王朝の祖先ともいえるのではないか(通常は夏王朝を開いたのは初代の禹で第2代の「啓」は禹の子ということになっているが、一説では「啓」が本来の伝承では開祖(初代)であり禹とは切れてるともいうので、じゃ啓の祖先は誰なのかという問題が派生する。その場合、啓の祖先は商均ではないかと推定しておく)。とすると「稷・契・商均」の3兄弟説は「周・殷・夏の3王朝の同祖説」ということにもなる。単純に地域割りとみれば、周=黄河上流域、殷=黄河下流域、夏=黄河中流域で、「西方・東方・中原」の3地域ともできる。
ちなみに中国の西南部の少数民族の一つ、イ族(彝族)に伝わる大洪水神話では、ノアにあたる人物は「伍牛」という名で、彼の三人の息子のうち長男の子孫がチベット族、次男の子孫が漢族、三男の子孫がイ族の先祖になったという。またナシ族(納西族)の神話では洪水を生き延びた男はツォゼルグといい、彼と天女ツェフボバとの間に生まれた3人の息子がチベット族・ナシ族・ペー族(白族)の始祖となったという。これらもギリシア神話の場合と同じで、もともと関係のない別々の民族だが、近隣の異民族も元を辿れば大洪水の生き残りから枝分かれしたのだという「全人類同祖説」の一種である。

五帝・ギリシア・聖書の3神話の比較
この神話にでてくる人名は、生業をもじって人名に転用していたり(稷とか商均とか)、民族名を人名に転用していたり(アイオロスとかドーロスとか)、ほとんどが観念的に構想されたものばかりで実在性が乏しい。しかし逆にいうと、観念的な構造だけが軸としてしっかり存在してるともいえる。
まず系図の構造としては世界的に3兄弟から人類が枝分かれしたといってるが、そのうちの1人にさらに2人の息子がいたといっている。
アイオロスの娘アルネは海を支配する巨神ポセイドンとの間にアイオロス2世(祖父と同名なので仮に2世とよぶ)を生んだが、赤ん坊が神の子だという話を父が信じず、その子もろとも他の男に嫁に出されてしまったがその家から脱出、アイオロス2世は西方のエオリア諸島(シチリア島の北)に住んだという。后稷の母は巨人の足跡を踏んで稷を生んだが父親不明で生まれたのでその子を捨てようとした。それで弃と名づけた(弃は棄と同じで捨てる意)。長じて西方の邰(今の咸陽の一部)に封ぜられた。父なし子(=神の子)が捨てられ、西方の地で身を立てるという話が共通しており、アイオロスの伝説と后稷の伝説は同じ神話からきている。父なし子(太陽神の子)を生むのは神話では神を祭る巫女か大地母神である。2人のアイオロスはもと同一人物で死と復活の神話だったんだろう。稷は、儒教では歴史上の人間に書き換えられてるから農政大臣だったことになっているが、元はその死体から作物が誕生した(作物として復活した)という起源神話の豊穣神である。西という方角は死後の世界を暗示し、死後の世界の王として復活したとも読める。そうするとこれも世界各地にみられる「国譲り」神話を連想する。国を譲る側はデーヴァ神族で第3機能(豊穣)の神である。実際、甥のアカイオスは伯父のアイオロスが死んだ時にプティア(テッサリアの南部)の領主になったというが、祖父デューカリオンがプティア王だったというから結局アカイオスが始祖以来の王位を継承したことになる。アイオロスからアカイオスへの「国譲り」とも見られないこともない。これは長男なのになぜ西へ去ったのかを説明するために後付けされたで神話なのだろうか。アイオロスは海の民の祖先なのだろうが、中国では東が海であって西に海はないので、普通のただの民=農耕民(稷)に差し替えられている。ドーリア人はヘラクレスの子孫ともされていた。ヘラクレス神話は英国のベオウルフ伝説とともに石器時代に遡る狩猟民の文化の痕跡があるといわれ、名祖ドーロスが得たのは東方の小アジアの地。契が戎狄(狩猟民・牧畜民)をあらわし、契の子孫から出た殷王朝は東方の黄河下流域から起こった。ドーロスと契は対応関係にある。ノアの3人の息子は、セムは前述の通り牧畜民、ハムは都市民だとすると「セム=契」「ハム=商均」と同定できる。
クスートスの特徴は本人だけをみてはやや不鮮明だがミケーネ文明を築いたアカイア人をあらわすアカイオスの父であることを思えば「ハム=商均」と同定できるのではないか。またヤペテは前述の通り黒海沿岸とコーカサスとするP資料は信憑性がなく、J資料では子孫の記述が失伝しており何ともわからない。しかしヤペテが「后稷=アイオロス」に該当することはもはや疑いないだろうから、おそらくヤペテは西のほうの地中海沿岸の海洋民の先祖だったのではないか。

3兄弟の順序
中国神話の復元では稷が兄で契が弟だが、商均が3兄弟のどこに入るのか決め手がない。ギリシア神話に対応させると「稷・商均・契」だが聖書神話だと「契・商均・稷」の順となり契と稷が逆になってしまう。しかしギリシア神話が正しいとも限らない。常にセム・ハム・ヤペテと書かれるためにこの順で生まれたと誤解されがちだが、聖書では子供をならべる場合に必ずしも出生順にかかれてないケースがある(歴代志略上1章17節)。創世記9章24節でハムを「若き子」といってるのは不正確な翻訳で正しくは最も年少の子の意味。同じく10章21節で「セムは(中略)ヤペテの兄」とある部分は昔から2種類の訳本が併存しており、「セムは『最年長であるヤペテ』の兄弟」と訳した例も多い。これだと兄ヤペテ・仲セム・弟ハムとなる。ノアの神話では兄弟の子孫と方角の関係が欠落しているが、前述のように稷=アイオロスが「西」、契=ドーロスが「東」に配置されている。イ族の神話でも兄は(イ族からみて)西方のチベット人の祖、仲は(イ族からみて)東方の漢族の祖、弟がイ族の祖になったというから、もし兄弟の順と方角に一定の規則があるなら聖書はやはり「兄ヤペテ・仲セム・弟ハム」が正しく中国では「稷・契・商均」の順となる。イ族の神話では長男がチベット族の祖だが、稷の母の姜原の「姜」の字はチベット系の民族名でもある。

第3世代の2人
商均の息子は情報がないが、虞国(商均の国)はその後「陳侯」と「胡子」の2ヶ国に別れたのであえていえばこれをコジツケられる。陳は周の武王が舜の正統の子孫と認めてその祭祀を継続させるために陳に封じた由緒ある国家。伯父のアイオロスから甥のアカイオスへと始祖以来の王位が継承されたと読めることは上述した。ハムの子はJ資料ではクシ、ミツライム、カナンの3人(P資料ではフテを加えて4人)おり、いずれも民族名でもはや個人名ですらないがそれはギリシア神話も同じだからさておいて、ミツライムとフテは民族表を形成する過程で加えられたものだろうが、クシとカナンは民族表と無関係に最初から書かれていた可能性が高い。クシの子ニムロデは「世で初めて権力者になった」という。さしづめ日本でいえば神武天皇という位置付けだろう。つまりハム→クシ→ニムロデと続く家系は最初の王の家系なのである。ニムロデの即位が本来はノアからはじまる一連の物語の結末で、洪水伝説と王権起源説話は本来一体のものなのである。ノアの洪水物語自体がもともとメソポタミア神話に由来していることは粘土板から明らかだが、直接のソース元としてはバビロン第3王朝の建国神話だった可能性が高かろう。それを剽窃した際に、ユダヤ人は王権の神聖さを理解できずにバッサリ切り捨てて自分好みに編集したのが今の『創世記』になった。陳侯とアカイオスとクシは神の正系、王の家系を象徴する。
胡は詳細が不明、舜の子孫のはずだが分家末流なのか。イオンは不義の子で、成長後は某国の女王ヘリケの婿に収まってエリキに王都を建設する。不義の子(よその胤)で入婿という「他所者」のイメージで、他人の胤=子供の交換というのはイオン自身が交易=商業活動の象徴なのである。名祖イオンの伝説の舞台はペロポネソス半島なのにイオニアの地名は海を渡った小アジア側にあり、これも遠距離の往来を暗示する。ちなみに胡の字には野蛮人、外国人の意味もある。商人は遠隔地から来るので自然と他所者でもある。カナンについては、『創世記』第10章の民族表が始まるより前の第9章までの物語の中に登場する唯一のノアの孫であることは重要だ。呪われる役どころではあるが、ヤペテの子もセムの子も一切でてこないのは注目すべき点でこれも民族表とは無関係にもとからあったのだろう。民族表が構想される以前の系図の原型ではノアの3人の息子、兄ヤペテ・仲セム・弟ハムと、ハムの2人の子クシとカナンという3世代6人の系図だったと復元できる。イオンは、イオンを我が子だと知らない実の母から邪魔者として殺されそうになり、女王の婿になってからは遠征中に戦死してしまう。カナンは父ハムの行いのせいでセムやヤペテの下僕となる運命を与えられる。どっちも呪われた悲劇の運命というネガティブな位置づけにあるともいえるが、イオンとカナンの話は似てない。これはカナンの話が神話の原形をほとんど保ってないほど改変されてるからだ。創世記第9章のハムとカナンの話はかなりちぐはぐで文章の誤脱が目立つ。詳しい説明は省略するが第9章の前半はもとハムの出生譚だったものでカナンとは関係なく、後半は単に兄クシと弟カナンのうち兄が族長権を継承し、弟はその下僕(家来)になるということで、カナン(=パレスチナあたりのフェニキア系都市群)もクシ(=バビロニア帝国)に朝貢する属国だという主張を神話的に表現したものともいえるが、表面的な物語そのものとしては単に後継者を決める話だった。それを、「カナン人は諸民族の下僕になる」という仰々しい呪いの話にユダヤ人が改変したのは、ユダヤ人とパレスチナ人(カナン人)は領土と信仰をめぐって抗争していたからで、要するにカナン人を憎んでいたからにすぎない。カナン人は実質は遠距離交易で有名なフェニキア商人をさしていた。商人として外からくる他所者という意味では漢字の「胡」の字にも通じる。イオンが戦死するのは神話学でいう第3機能階級(産業従事者)であって第2機能階級(武士・軍人)でないことをあらわしている。陳侯とアカイオスとクシが王家を象徴するのに対し、胡子とイオンとカナンは「他所者、または外に出た者」つまりは商人を象徴している。地名や民族名ばかり。稷・契・商均も生業をあらわすもので本来の人名ではない。

神話の構造
3神話の比較から構造をとりだすと、6人の人格からなる3世代の系図になる。第一世代「A」は大洪水を生き延びた現存人類の始祖。第二世代は「兄B・仲C・弟D」の3兄弟。第三世代は「兄E・弟F」の2人。これで6人。兄Bは西方の海洋農耕民の祖、Cは東方の狩猟牧畜民の祖。弟Dは「商業民=都市民」の祖だといってきたが、西にも東にもいかないのだからその場にとどまって親の土地を相続するわけでつまりこのDが家長=族長(第2代の王)というのが原義だろう。東西へ移った兄たちは土産をもって実家に帰るとそこで交易になる。そこに市場(=都市)ができればそこの監督者もできる。それが弟Dで、「商人のトップと都市の支配者と王とが未分化」な段階を象徴するのがDというキャラ。第三世代は王(E)と商人階級(F)が分化した段階を象徴する。これが原義で、この三世代は国家の進化をあらわしたものである。この「神話構造」だけが共通であって、ドーロスだの商均だのヤペテだのというキャラクターの名前は、諸民族がそれぞれの言葉で適当にこしらえて嵌め込んでいる。従ってそういう名前の人間が実在したのではないし、この系図の構造も、7万3000年前の史実ではなくて、後世からみて観念的に構想されたものなのである。

日本側の系図の復元
記紀神話では鵜萱葺不合命は一人っ子なのでこの神話は欠落していることになるが上述のように『先代旧事本紀』武位起命という弟を誤脱しているのだから、あともう1人、失伝した兄弟がいた可能性が高いだろう。そうなれば3兄弟となり海外の神話と似てくる。ただ、その場合皇祖である鵜萱葺不合命は「弟D」のはずだから、武位起命は「兄B」か「仲C」でなくてはならず、弟だというのは誤りだということになる。これを誤りでなく正伝だとして兄弟順を固守するならば、あるいは鵜萱葺不合命は次世代の「兄E」、武位起命は「弟F」に相当するのではないか。この場合「B・C・D」を探すと上の世代のはずだから火々出見3兄弟になる。『日本書紀』一書第5では4人兄弟で長兄・火明命、次兄・火進命(海幸彦)、仲弟・火折尊(山幸彦)、末弟・火々出見尊となっており、長兄・火明命をカットすれば「B・C・D」に該当しそうにみえる。しかし火折尊(山幸彦)と皇祖火々出見尊を別人とするのは他の諸伝と較べても例がなく、神話のストーリーからも妥当しないのでこの説を採るのは難しい。『ウエツフミ』ではウガヤフキアヱズノミコトは逆に7人の兄姉弟ということになっていていささか多すぎようにみえるが、ナヲリノミコトとウスキネノミコトは鵜萱葺不合命と武位起命の別名ではないかとは前述した通りでこれを引くと5人になる。これを神話の図式にあてはめようとすると、まずウガヤフキアヱズノミコトは皇祖(皇統に続く人物)だから「弟D」に該当することは事前にきまる。するとその2人の兄『ウエツフミ』のタケサヒコ・エミヅホアカシが神話構造の「兄B・仲C」に相当するだろう。タケクラオキが余るが、前にいった鸕鶿草葺不合尊と武位起命の兄弟が「兄E・弟F」に相当するのではないかという説を援用すればタケクラオキが「F」だから、日本の場合「D」とその子「E」が同一人物となり、『長兄B・次兄C・仲弟「D=E」・末弟F』の4兄弟になってしまう。この件については後回しにして、まずは登場人物のキャラ設定を検討してみよう。
エミヅホアカシノミコトはアメノサナギヒメを娶り、タケサヒコノミコトはミホツヒメを娶った。ここで母でなく妻だというのは、姜原と簡狄がそれぞれ稷と契の母でなく妻だったろうと推測したのと同断である。無理矢理いえばタケツヌミの名に海を読み取ることができ、ミホツヒメ(御穂津姫)は農業・稲穂に関する名で姜原に該当するか。ウケチホホヒメは『ウエツフミ』ではタケサヒコの妹だが母のミホツヒメを一世代落として実は嫁だったと考訂したのだから、ウケチホホヒメも妹でなく娘だろう。そして彼女はタケクラオキに嫁いだのではないかと思われる。そうするとタケツヌミ・タケサヒコ・タケクラオキの3世代は名前に「タケ」がついてるがこれは代々嫁の父から継承していることになる。これはアイオロスとその娘アルネの子アイオロス2世が女性を経由して襲名しているのと相似である。簡狄は妹と一緒に玄丘で水浴びをしていた時に玄鳥(つばめ)が卵を生むのをみて妹とその卵を争い、その卵を飲み込んで契を産んだという。この話は記紀で天照大御神と須佐之男命が天之安河原で争い、玉を噛んで御子を生んだ神話と同形だ。水浴びというのは禊ぎでそこに河原があることを暗示する。卵=玉。生まれた子の名が「契」なのは契約の契で、誓約(うけひ)と同義だろう。エミヅホアカシノミコトの娘イススヒメはウガヤ朝第4代天皇の皇后に召され、ウガヤ朝第5代天皇を生んだわけだがイススヒメとは「威滌姫」で禊ぎの姫であり、第4代天皇の名はタマカミヒコ(玉噛彦)で生まれた5代天皇の名もアメツチアカリナスアカタマ(天地明成明玉)。エミヅホアカシノミコトの子(イススヒメの兄か弟)のエミヅクニカタヤツミミノミコトは関東の毛野国の国守になっているからいずれにしろ東方の民の祖先であり、この家系は中国でいう五帝神話でいう「契」に該当するとしていいだろう。ここまでまとめると

兄B・タケサヒコ…………「后稷=アイオロス=ヤペテ」(海洋民・農耕民の祖)
仲C・エミヅホアカシ……「契 =ドーロス =セム」 (狩猟民・牧畜民の祖)
弟D・ウガヤフキアヘズ…「商均=クスートス=ハム」 (王家・商業民族)

椎根津彦は一般に海洋民のイメージではあるが遠隔地(大和)との海上交易をして瀬戸内海を往来していたのだろう。その祖先にあたる武位起命のクラオキとは「高蔵置き」で物資豊富な商人の祖先という意味か。

兄E・鵜萱葺不合命…「陳侯=アカイオス=クシ」 (王家)
弟F・武位起命  …「胡子=イオーン =カナン」(商業民族の祖)

日本の場合、海洋民・狩猟民といえば、これは隼人・蝦夷(えみし)のことではないのか。もしそうならエミヅホアカシノミコトは蝦夷の祖、タケサヒコノミコトは隼人の祖。
さて日本の場合「D」とその子「E」が同一人物だから『長兄B・次兄C・仲弟「D=E」・末弟F』の4兄弟になってしまう。別にこれでもいいのだが、もし系図構造を優先するなら、ウガヤフキアヱズを1世(父)と2世(子)に分けて親子2代で同名だと考えることもできる。これについては、正式な名が「天津日高日子波限建鵜萱葺不合命」(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)という不自然に長い名前なので、これを前後に区切って「天津日高日子波限建命」(あまつひたかひこなぎさたけのみこと)と「天津日高日子鵜萱葺不合命」(あまつひたかひこうがやふきあへずのみこと)の親子に便宜上分けてみよう(日高をヒコと読む説は採れない。その理屈はまた後日)。すると火々出見命と豊玉姫の間に生まれたのはエミヅホアカシ・タケサヒコ・波限建命の3兄弟で、波限建命が姨の玉依姫との間に鵜萱葺不合命と武位起命を生んだ、というふうに復元できる。

第二世代(父・火々出見命、母・豊玉姫)
 兄・タケサヒコ………隼人(海民)の祖
 仲・エミヅホアカシ…蝦夷(山民)の祖
 弟・波限建命(なぎさたけのみこと)
第三世代(父・波限建命、母・玉依姫)
 兄・鵜萱葺不合命
 弟・武位起命

武位起命の妃と推定したウケチホホヒメの名については、ウケチホのチホは高千穂の千穂と同じで越前の丹生山地をウケチホといったのかもしれない。あのへんは北陸と山陰をつなぐあたりで、北陸は高麗人や粛慎人が漂着したり、出雲・三丹は半島や大陸との往来の窓口でもあった。遠隔地と往来交易する武位起命は韓(から)漢(あや)呉(くれ)粛慎(あしはせ)等「とつくにびとの祖」だろうか。
これだと鵜萱葺不合命の母は豊玉毘賣でなく姨の玉依毘賣ということになる。神武天皇が姨玉依毘賣を娶して云々というのは冒頭でいった通り錯簡、誤写の類で、原文を想像すると

是天津日高日子穂穂手見命、娶豊玉毘賣命、生御子名○○○○○○天津日高日子波限建○○○○○○娶其姨玉依毘賣命、生御子名○○○○○○鵜葺草葺不合命、○○○○○○命。

とあって○○○○○○の部分が読めなくなっていたのを飛ばして読むと文意が通じないため娶其姨玉依毘賣命生御子名の12字を修正したつもりで鵜葺草葺不合命の後ろに移動させたんだろう。当人からみて姨である玉依毘賣を娶ったのは神武天皇でなく波限建命である(もっとも『ウエツフミ』ではタマヨリヒメは妹でなくトヨタマヒメの姪であって、ウガヤフキアエズノミコトからみてタマヨリヒメが姨ということではないという設定に変更されている)。神武天皇の兄弟、五瀬命・稻氷命・御毛沼命については神話ではなく歴史なので、後日(来年の6月ぐらい?)に神武天皇の章で扱う。今回のこの部分は観念的に構想された神話の一種(正確には神話でもないが)であって歴史事実ではない。

・文明の揺籃

平成28年9月29日(木)投稿 平成28年9月28日(水)初稿
「ウガヤフキアヘズ」とは?
鵜萱葺不合命(うがやふきあへずのみこと)という神名は、呪文のような不思議な味わい深い語感がある。何度でも復唱したい。木村鷹太郎の説だと(出たw 俺たちのキムタクw)ウガヤというのはギリシア語で、父なる天空神ウラノスのウと、大地母神ガイヤをあわせて「ウガヤ」といったのだと。鈴木貞一これを受け、富士文書にフキアヘズでなく「不二合須」(ふじあわす)とあるからウガヤフジアワスとは「天地の和合一致」を意味するのだと。しかしそんなデッカイ話にしてしまうと抽象的すぎて、鵜萱葺不合命の固有の役割、固有の存在意義みたいなものがみえなくなってしまう。そもそも富士文書自体が近代の捏造・創作だから問題外だし、木村鷹太郎も俺たちのキムタクだからさておいて。まず問題点は、そもそも産屋の屋根を「鵜の羽」で葺くことがあるのか? 普通は大昔の家といえば茅葺きなわけで、これは日本独自のものと誤解している人がいるが、そうではなく、全世界どこも共通である。で、一つの解釈としては家一般の話ではなく「産屋」(うぶや)だから鵜の羽を使ったという説がありうる。鵜の羽が安産のお守りになるという信仰が数十年前まで沖縄とか中国とかに残っていたらしいので、かつてはそれが世界的に広まっていたのかもしれない。理屈としては鵜は魚をまるごと飲み込んだりまた吐き出したり自由にできるから「鵜飼」ってのもあるわけで、この自由に出したり入れたりってのにあやかってスルリと出産しようってことらしい。一見、もっともと思ってしまうがちょっと待て。このような呪術的な発想、つまりフレーザーがいうような感染呪術だの類感呪術だのの世界は、確かに現代の合理主義以前の人類のもっていた世界観ではあろうが、それとこれの2つしか人類はもったことがないのではない。それ(呪術的世界観)も、これ(現代的世界観)も、あくまで様々ありえる世界観の中の一つにすぎない。現代的な合理主義的世界観はわずかな歴史しかもたないが、呪術的世界観は数万年の歴史をもっているのだ、と断言して本当にいいのか? 呪術的世界観だって5千年とかせいぜい1万年ぐらいの歴史しかもってない可能性はないのか? 一応、海幸山幸の物語が前回までの話の通り「ファゴ・カタストロフ」の伝承だとすると、鵜萱葺不合命の時代が始まったのは7万年前。一つの世界観の寿命が1万年として、我々のしらない世界観があと5つくらいあって、呪術的世界観は6つめ、現代的世界観は7つめ、なんてことはないの? そこんとこどうよ?
鵜萱葺不合命はトバ・カタストロフの直後で、いってみれば前時代の文明とともに昔の人類がきれいさっぱり滅亡した直後で、ゼロから歴史をやり直すところなわけだろう。呪術的世界観なんていう長い歴史に裏打ちされた複雑な体系をもった世界観はまだなかったのではないか。みじかくいうと鵜の羽で屋根を葺いた理由は、もっとはるかに単純かつ素朴な理由であって、安産のおマジナイだのいう呪術すらまだない時代だったってことですよ。
鳥の羽で屋根を葺くには大量の鳥の羽がいるわけで、安産祈願のため(?)たくさんの鳥をわざわざ殺したのかと思ってしまうが、そうじゃないだろう。文明が滅亡して原始時代からやり直そうとしてる時に無駄なことはやらないので、ありあわせの、その場で余ってるものを資材にしただけのことでそれ以上の深い意味はないのではないか? 矢羽にするため乱獲されてトキが絶滅したことを知ってる現代日本人には、鳥の羽が余るという事態があまり実感できないかもしれない。が、個人的な経験では、広大な砂浜いっぱい見渡す限り遠い先まで、鳥(たぶんウミネコ)の羽が大量に落ちている風景を思い出す。幼児期の記憶だから実際にはさほど広い砂浜じゃなかったのかもしれないが、人間がまだ地球にそれほど増え広がっておらず鳥や獣のほうが繁殖してた時代にはいくらでもありうる風景じゃないだろうか。
まぁ別に「ウ」といったからって現代語(この場合、奈良時代も現代に含むw)の「鵜」だとは限らないわけで、数万年前にはウミネコをウといったかカモメをウといったか、それ以外のなんかの鳥をウといったか、まったく推知のしようもない話だろう(そもそもウガヤフキアヘズ自体が奈良時代語への翻訳であって数万年前の原語ではないのではないかという意見もあるだろうが、その議論についてはまた別の機会に譲り今回はスルー)。ウとは、最初にいったギリシア語でウラノス(天空)のことだという説に引き返していえば(いや別にその説を信じてるわけではないが)、天を覆うほどの巨大な鳥の伝説が、中国にもインドにもアラビアにも伝わっている。今は絶滅して知られていない巨大な鳥がいて、その羽も大昔はありふれていたのかもしれない。あとあんまりウマイ話ではないが、鳥は天神のシンボルなので、その羽で屋根を覆うのは、竜だのワニだのの爬虫類系で象徴される地上の女神を、夫である天神の子が庇護するという象徴的な意味があるかもしれない。もっともその屋根は完成しなかったのであるから、第五人類においては「ダンナは嫁を守りきれない」という運命を表現してるのかもしれぬ。まぁ男女平等の立場からいえば一方的に女性が守られるべき存在ってのも違うような気がするし、守れるかどうかより守ろうとするかどうかが重要みたいよ、女性からすると。神話では、豊玉毘賣が主導権とってて火々出見命のほうが受け身で一貫していて、守ってもらわねばならないような女性のようには描かれてない。
ウの羽で葺こうとした屋根が完成しないうちに豊玉毘賣が海底の竜宮城からやってきて「産まれる~」と言い出したわけで事前の打ち合わせはあったらしいことは記紀にも書かれてはいるが、そこは異種交配で互いの文化に疎いからいろいろ不具合があって、計算違いしたんだろう。現代ですらダンナの家とヨメの家でそれぞれの「常識」をめぐって思い込みから行き違い、トラブルになるなんてよくあることw 豊玉毘賣が出産の際には八尋(約16m)の巨大怪獣に変身するわけで、そのための産屋も巨大なものにならざるをえない。巨大建造物だからこそ完成が遅れたわけだが、それは表面的で即物的な情況としてのみ見てはつまらん。この時は、第五人類(現在の我々)が誕生して人類の新しい歴史が始まるところなのである。豊玉毘賣が異形の正体をあらわすのは人類の歴史が未知との遭遇であることの象徴というか、象徴といったらつまらん、「神のお示し」なのである。そして歴史とは際限なくあらわれる未知との遭遇であるがゆえに、未知を解明しようとする文明は、新たな挑戦の連続となる。そのため人類の文明は永遠に屋根が葺きあえないように未完成なのであり、要するに「人類は発展途上の神である」ってヒットラーくんも言ってたよ。

ナギサ原人
ちょい話をトバ・カタストロフに戻して、この大異変で生き残った人々は潮がひくまで数千年間海辺でくらすことを余儀なくされ、いわゆる「ナギサ原人」(われわれの先祖)になったものと思われる。 「ナギサ原人仮説」とは、人間の体毛が失われた理由を説明するため、人類が半ば海の中で暮らしていたのではないかという仮説で「アクア説」ともいう。しかし7万年前というのはすでに新人(現代人と同種)であって、とっくに原人などではない(原人ってのは北京原人とかジャワ原人で、時代も違うし我々の先祖ではないことも判明している)。なのでナギサ原人という言い方はおかしいんじゃないか、「ナギサ新人」なのではないかと突っ込まれるかもしれない。その通りなんだが、ナギサ原人仮説から発想を拝借したのが俺の「ナギサ新人」というオリジナル説なのだ。で、もとのやつは「類人猿から猿人にすすむ過程で直立歩行も海の中で始めた」という仮説だったので本当いうと「原人」というのもおかしい。「ナギサ類人猿」か「ナギサ猿人」のはずだ。で、wikipediaによると、これはもともと「アクア説」の方が本当の名で、「ナギサ原人」って言葉を創作したのは斎藤守弘みてぇだなw さすが天才w ナギサ原人という言葉は『鉄人タイガーセブン』に出てきたムー原人みたいでなかなかよい(正しくはナギサ新人だけど)。ともかく、7万年前の大津波を境に、それ以前の人類はほぼ絶滅し、わずかな生き残りからその後の人類が増えていったことは前回に書いた通り。しかし生き残りには2種類いた。一つは現在の我々の祖先である。山幸彦が海底の海神の宮に逃れ、豊玉姫(その正体は海の大怪獣。ワニともサメとも龍とも伝えられる)と結ばれて、ウガヤフキアエズノミコト(現生人類)を生んだという神話は、大異変の際に、海と交渉をもつことで何らかの適応進化した人々だけが生き延びたということを表わしているのではないだろうか。「海と交渉をもつことで何らかの適応進化」ってのはなんのことだか漠然としてよくわからないと思うが、俺もわからない。神話では「ワニと混血した」と思いっきりストレートにいってるが、これを現代人向けにオブラートに包むと「海と交渉をもつことで何らかの適応進化うんたらかんたら」になる。しかしこれだとオブラートに包みすぎていまいちわからない。そこで包み方を中途半端にして半開きにすると、ナギサ原人だかナギサ新人だかの『ムー』っぽい味わいを醸し出せるわけだ。料理と同じで難しいんだよっ 「じゃ何か、進化ってのは毛がなくなったことか」といわれるかもしれないが、それだとハゲは進化っていってるみたいであまりかっこよく聞こえないw ナギサ原人だとなんとなく中二的にもすごいこといってるみたいじゃん(正しくはナギサ新人だが)。従って、これ以前の人類(=第四人類)はわれわれとちがって毛深いというか全身に体毛のある人種だったと思われる。

隼人と磯良その2 ~人魚の伝説~
じゃ、その毛深い連中=第四人類の生き残り(海に適応しなかった連中)が山人・鬼・サトリの怪・イエティ・サスカッチなどの伝説に残ったのかも、と言いたいところだがそうでもない。アステカ神話では、第二人類が滅びて第三人類の時代になった時、第二人類の生き残りが猿になったというから、雪男だのヒバゴンだのの類人猿の系統のUMAは第二人類の生き残りのようなのだ。第二人類ってのは日本神話の対応先では大国主の時代にあたり、火々出見命の時代ではない。火々出見命の時代はアステカ神話の対応先では第四人類で、彼らが津波と洪水で滅亡して第五人類(今の我々)が生まれた時、第四人類の生き残りは魚になったという。これは日本神話では海幸彦の子孫が隼人だという部分と対応していることが明らかだ。魚なんてのはこれよりずっと前から存在したわけだから、アステカ神話でいってるのは魚全般のことではなく「ある種の魚」のことをさしている。もと人間だった魚というのは、普通の魚の一種というよりは、半魚人とか「人魚」の類をいってるんではないか。普通はそういうのは妖怪や妖精の類なのであるが、SFっぽくいえば海底人類とか未確認生物(UMA)でもかまわない。これは海底原人の起源説話で、海底原人とは世界各地に伝わる半魚人のことで、日本では神功皇后の中世説話の中で、三韓征服にも協力したという「磯良」(いそら)という妖怪があらわれる。磯良は皇室に忠実な海底人類のような未確認生物として伝わっている。中世説話では「安曇磯良」「磯武良」「磯良丸」などともいうがこれらは中世的な変化で新しい感じがする。『ウエツフミ』に「イソスサリ」が3回、「ミソスサリ」が5回でてくるが、これが名辞的に古態を伝えているだろう。「スセリ/スサリ」は「後ずさり」などの語源で「後退する」の意味。ホスセリは火が退く=衰える。イソラは海へ退いていった者の意。ホスセリのミコトが海幸彦と結び付けられ同一視されたのは語感の近さのせいもあろう。おそらく記紀神話の原型では、海幸彦の子孫は海に飲み込まれて海底に暮らすようになって海底人類(半魚人・人魚・一種の妖怪・妖精の類い)の祖先となった、というのが元の話だったと思われ。記紀で、「隼人が海幸彦の子孫だ」というのは、隼人が潜水の得意な種族だったので、磯良のイメージに近かったこともあり、磯良とさしかえる説があったと推定したのは前回までの通り。

・大洪水と海の怪獣

平成28年の9月28日(水)初稿
地質学との比較
(前回からの続き)洪水(または津波)が続いた期間は、聖書のノアの方舟の話では40日間だったとするが、それ以外の神話では40日ではなくて7日、9日、12日、60日、数ヵ月、7年半、52年、104年、200年など、それぞれの神話によっていろいろだ。が、これらの数字は聖書の「40日」にしろ、マヤの「52年」にしろ、それぞれの文化習慣で特定の期間をあらわす決まり文句みたいなもので深い意味はあるまい。ただ長い期間続いたといってるだけ。実際には数百年か数千年の大変動だったにちがいない。このような大異変は実際あったとしても何万年も前のことであり、聖書のいうような数千年前というような最近のことではありえないし、チグリス・ユーフラテスの両大河の流れるイラク平原という狭い区域での話でもありえない。必ずや世界規模の気候変動の一環として現れたものと推定できる。
で、日本書紀の179万年2470余年(神武前)を桁ごとにわけて、邇々藝命の時代がドンブリ勘定で約100万年間、火々出見命の時代がドンブリ勘定で約70万年間、鵜萱葺不合命の時代がドンブリ勘定で約9万5000年とすると、邇々藝命の時代が洪積世カラブリアン期、火々出見命の時代が洪積世中期以降にあたり、その境は78万1000年前という。海幸山幸物語(洪水神話)が火々出見命の終わりで鵜萱葺不合命の始まりだからなにかそういう地質学的な現象が約9万5000年前にあったらちょうどいいんだが、現代の地質学でなにか関係してそうなものといえば「トバ・カタストロフ」というのがあり、wkipediaによるとインドネシアのスマトラ島のトバ火山が7万5000年前~7万年前に爆発したため地球の劇的な寒冷化がおよそ6000年間続き、地球はそのまま「ヴュルム氷期」に突入、現生人類は総人口がわずか1万人にまで激減。遺伝子のボトルネック効果が起こり多様性が失われた(生き残りが特定の集団だったということ)。遺伝子の解析によれば、現世人類は極めて少ない人口(1000組-1万組ほどの夫婦)から進化したことが想定されている。あといわゆる「原人」(北京原人とかジャワ原人とかのホモ・エレクトゥスの類)もこれで絶滅したのだとか、人類の衣服が発明されたのもこのためとかいうネタ的に面白い話もかかれている。そういうわけでこのトバ・カタストロフが洪水神話のもとになっているのではないかと思われる。年代推定には神話の側に正解があるわけではなくて地質学に依存しているのだから、2万年ぐらいのズレはどうでもいいが、普通は氷河期には海岸線が後退して陸地が広がるので、どうも、洪水だの津波だのとはイメージがつながらないのが困りもの。もっとも、大洪水だの大津波だのは一時的な災害で、海岸線の後退はきわめて長期の現象だから、矛盾なく両立はするのだとしたら「イメージがつながらない」というのはあくまで雰囲気レベルのことにすぎない。だから、どうでもいっちゃどうでもいいんだが…。…と思っていたところ、2015年10月に偶然、下記(A)の情報を得た。検索してみたら続いて(B)の記事も出てきた。
(A)【地質学】火山噴火による「メガ津波」が世界を襲うかもしれない…73,000年前に300mの津波が起きていたと発見(2015年10月02日の記事)
http://blog.livedoor.jp/jyoushiki43/archives/52005018.html
(B)人類は7万年前に絶滅寸前、全世界でわずか2000人(2008年04月25日の記事)
http://gigazine.net/news/20080425_extinction_70000_years/
これらの記事中に「トバ・カタストロフ」という言葉は出てこず、原因となった火山噴火がスマトラ島のトバ火山ではなく、西アフリカの西側の大西洋に浮かぶ火山群島からなる小国カーボベルデだとしている。7万3000年前というのはトバ・カタストロフと時期がかぶってるし、べつに2ヶ所で噴火してもいいわけだし、それになんといっても全世界的な規模で高さ300mの大津波が起こったというのはまさに大洪水神話にぴったりw その後2015年10月3日にコロンビア大学の研究チーム(2008年の発表と関係ある団体なのかは不明)による発表があり噴火したのはカーボベルデの火山、ファゴ山で、津波の高さは800フィート(243メートル)だと(正確には243.84メートル)。一旦米国向けに換算し直してあるのかな? 300メートルなら984.25197フィートだから、もしかして原典は820フィートだったのかもしれん。この事件に名前がないのは困りもの。専門家はどう呼んでいるのかしらないので、便宜上「ファゴ・カタストロフ」と呼んでおこう。

豊玉毘賣はワニかサメか龍なのか
竜宮城は夢じゃないから塩乾珠(しほひるたま)塩盈珠(しほみつたま)だけでなく嫁までもらってきた。俺はオカルチスト(神秘主義者)なんで、「異界にいってきたというのは夢をみたってことの神話的表現なんですよ」みたいな現代人向けの合理化はしない。で、この豊玉毘賣(とよたまひめ)はワニだったわけだが、これも民俗学でいう「異類婚姻譚」の元祖みたいなもの。異類婚姻譚ってのは人間に化けた動物が人間と結婚するという民話によくあるパターンで、動物が女に化けて人間の男と結婚する話もあれば、動物が男に化けて人間の女と結婚する話もある。その動物もいろいろなケースがあって猿、犬、狐、馬の例があるが、哺乳類に限らず、鶴女房の話は有名だろう、これは鳥だ。爬虫類なら蛇、亀、さらに下等な生き物だとカエル、魚、クモ、極めつけはハマグリなんてのもある。動物だけじゃなくて妖怪の場合もあって、雪女、河童、木霊、山姥、鬼。さらには天女とか神様の類である場合もある。そして子供が生まれる話もあれば子供ができないケースもあり、最後まで添い遂げる話は浦島太郎(原作の方)のように例外的で、最後は別れてしまう話が多い。これはこの話が明るみに出る時には正体がバレたケースだからであって、正体がバレずに添い遂げた例では世間に気づかれないのだからそもそも事例にカウントされない。だから別れてしまうケースがほとんどのように錯覚してしまうが、正体が夫婦間ではバレていても世間には秘密にしていることもありうる。人間になりすましたまま生活することが可能であることから、彼らは人間であることがわかる。つまり異類(動物とか妖怪とか神とか)と人間が直接に交合するのではなくて、あくまでも異類がまず人間に化けて、人間の姿、人間の肉体をもってから結婚相手として現れてくるのであって、獣姦みたいのとは違う。結婚相手はその時はあくまで人間なのだ。だから後になって正体がどうのと言い出すのは、人間は人間でもあいつは普通じゃなかったという思い出を説明するための後付けなんだともいえる。普通じゃない人の遺伝子を引き継ぐからその子孫は特別の家系になったり偉大な人物が生まれたり、名のある氏族となって繁栄したりする(そこは話によっていろいろ)。しかし異類は実は人間だったのである、といってみても、異類と異界とはセットになっているのだから、異類が人間なら異界は異文化をもった人々(異民族?)の集落のことなのだという説明に落着するのだろうか。なんだかみみっちい世界観だな。やはりメカニズムはよくわからないが、動物や妖怪の類が人間に変身することはありうるし、「竜宮城」のような海中異界や天狗の住む山中異界や壺の中の世界や「鼠浄土」みたいな地底異界や、異次元空間のような「桃源郷」や「隠れ里」は本当にあって彼らはそこからやってくるのではないか。個人の運命や世界の歴史に対して、理屈の通らない世界から、神々が干渉するのだ。ただし「人間として」彼らはやってくる。我々はいつまでも彼らの正体に気づかない。もしあなたが俺の正体に気づいて、俺のことを宇宙人だっと言い張っても、世間からあなたが既知外あつかいされるだけだ。

豊玉姫は離婚していない
豊玉姫は離婚して「わだつみのいろこの宮」(竜宮城)に帰ってしまったと思われているが、そうではない。そこらの事情は『星座と干支』(¥600)に詳しいのでそちらを読んでもらうとして、簡単にふれると原始時代の招婿婚では夫婦が別居しているのは当たり前で、奈良や平安の頃の結婚制度も一応、招婿婚とはいわれているが同居期間が長くなってしまっているので、別居というと離婚したんだという解釈になってしまうのだが、原始時代の感覚では別居してても結婚が破綻したのでも愛が冷めたのでもない。古事記には豊玉毘賣が「赤玉は緒さへ光れど白玉の君が装ひし尊くありけり」と読み、穂々手見命が「沖つ鳥鴨どく島に我が率寝し妹は忘れじ世のことごとに」と応えたとある。これだと姫が夫をほめながら残念がってる歌で、夫は別れた奥さんを忘れられないといってる歌のように解釈してしまう。しかし日本書紀では先に夫の歌があって姫がそれに応えて詠んだことになっており、順番が逆だ。日本書紀の順番だと夫が「おまえを永遠に忘れない」と先に愛情を宣言して、その後に姫が夫を素晴らしい人だとほめている。これは和解の後にあらためて愛情を確認しあってる歌ではないか。実際『ウエツフミ』では和解したというストーリーになっており離婚してない。離婚したというのは、海中異界(竜宮城の世界)と現実世界は往来できたのに今はそれができなくなってることを説明するために豊玉姫が往来を遮断したのだという寓話であって、かなり後になってからできた形で、太古悠遠の古伝承ではない。原始時代には異界との往来は可能であると信じられていたからである。

隼人と磯良その1 ~隼人は海佐知毘古の子孫ではない?~
記紀神話では、海佐知毘古(火照命または火闌降命)は助かって、山幸彦に仕返しされて苦しんだ時の姿を真似たのが「隼人舞」の起源であり、その子孫が今の隼人族だとして、隼人の首長である阿多君(あたのきみ)がその舞を皇室に奉納する由来を説明し、隼人の服属の起源を述べている。が、古事記のこの部分は平安時代以降に日本書紀に基いて誰かが書き加えた部分だろう。稗田阿礼と太安万侶が作ったままの712年のバージョン(もしくは編纂の原資料となった「旧辞」)では、塩盈珠で溺らせて滅ぼした後に、塩乾珠で波を鎮めたというだけの話で、隼人は出てこなかったと思われる。もとは隼人は海佐知毘古はまったく何の関係もなくて、海佐知毘古の子孫でもなかった。隼人が宮廷に仕えるようになったのは応神天皇の頃からで、神代に遡るような古い由来などではないのだ。なぜその頃に隼人が朝廷に仕えるようになったのかという説明は応神天皇か仁徳天皇の回でやることにして今回は触れない。学界の一部では、海幸山幸の神話自体が隼人自身の伝えていたもので、朝廷がそれを記紀に採り入れられたなどと言ってる者がおるが、そうではなくて、もともと日本を含めて東南アジアや太平洋に広く分布していた神話である。だからこの神話類型を伝えた民族はどの民族も必ず山幸彦(に該当するキャラ)の子孫と称する(日本神話の場合は、山住だから津波で助かったという理屈だったと思われる)。従って、隼人が仮にこの神話を伝えていたとしても海幸彦の子孫だと自称していたことはありえない。日本書紀は海幸彦と隼人をむりやり結びつけて、隼人が意味不明な踊り(「隼人舞」)で宮廷に仕えることになった由来は、海幸彦が溺れる様を踊りで表わしたことに始まるんだといってるが「隼人舞」は現在に伝わっていないから、本当にそんな踊りだったのかどうかはわからない。現在の地方芸能の「隼人舞」がネットの動画にあり、これは復元と称してるけど、実は近代の創作であるから見当違いなものである可能性が高い。隼人は皇族の個人個人に召し使われ雑務を担当する(近習隼人)だけでなく武力で皇室を護衛する役目(兵衛隼人)を負わされていた(なぜそれが応神天皇の時に必要になったのかは応神天皇の頁に譲る)。だから「隼人舞」というのは舞踊とはいえ、美学的・芸術的な要素を重んじたものではなく、威圧的で極めて勇壮、ほとんど軍事教練のようなものだったと思われる。溺れる様を表わした滑稽な芸能だという説は日本書紀の記述に騙されている。隼人を侮蔑したようなこの伝承は、古伝ではなくて、墨江之中津王の乱で、曽婆訶理(そばかり)という名の隼人に木菟宿禰(つくのすくね)が主君殺しの罪状を着せて殺してしまった(このへんの細かい話は反正天皇の頁を参照)。この時に木菟宿禰が隼人の印象を悪くしようとしてネガキャンをした時の影響で生まれた説がその後ひろまっていったのだろう。隼人の首長層を代表する吾田君(あたのきみ)等の諸氏族の多くは、火酢芹命(海幸毘古)の子孫ではなく景行天皇の皇子、豊国別(=豊戸別)の子孫である日向国造(諸県君)の分流だろう。ただし有力な氏族であっても大隅直(おほすみのあたへ)は純粋に隼人系の出身かもしれない(純粋に隼人の出身であっても海幸彦と関係ないことには変わりない)。
しかし、いくら木菟宿禰が隼人を貶めようと思っても、海幸彦と隼人をつなげるイメージ連鎖が事前に存在しなければ、こんな悪口は思いつかない。そこで、隼人とイメージの近いものとしては「磯良」(いそら)があげられる。磯良というのは中世の伝説に登場する神で、歌舞音曲に誘われて海からあらわれ、顔や体に牡蠣などの貝殻がついた醜い姿という。神とはいっているが妖怪、妖精に近い。川澤哲夫と杉原勇三の説だと、この磯良と隼人が同一のイメージで同一視されていたという。山陰から九州にかけての地方では、海面に出たり消えたりする岩礁を「ハエ」という。で、通説では磯良というのは岩礁の神格化(岩礁や貝類、藻類、魚類の化身)とされている一方で、隼人は海に潜って魚介を獲る漁撈民(海人)だ。隼人の語源はこのハエからきており、隼人は岩礁部に生活して漁業を営んでいたという説。確かに岩礁と海士は、海面から出たり消えたりするとこが似てる。で、私個人の考えとしては、隼人の語源をハエ人と解くのは頂けないし、磯良は妖怪みたいなもんだが隼人はれっきとした人間なので両者はまったく無関係だとも思う。隼人が岩礁に住んでいたというのも極端すぎる。海洋民の要素を強調するあまり内陸民(騎馬や農耕)としての一面も軽視している。が、にもかかわらずなぜこの説が面白いかというと、つまり古伝承では海幸彦の子孫は隼人ではなく磯良だったのである。「隼人は海幸彦の子孫だ」という貶言が有効だったのは(有効がどうかは別にして少なくとも意図が他者に伝わるには、あるいは木菟宿禰がそういう罵詈を思いついたのは)磯良と隼人の間にイメージ連鎖があったからだろう。
しかし、そうはいっても奈良時代に改めてこの説をボツにする選択もあったはずだが、日本書紀引用の「一書」にはほとんど採用されている。この背景を考えると、日本書紀が完成した養老四年(AD720年)には隼人の大反乱が起こっている。ちなみにこの時の戦争で太安万侶も勲功を立てたといわれている。この大反乱は突然起こったのではなく、20年も前から前哨戦なり予兆のようなものがあった。文武四年(AD700)覓国使(べっこくし:今でいう辺境調査隊のようなもの)が九州南部各地で原住民から襲われたため朝廷は武器を集め大宝二年(AD702)現地に派兵して日向国の東南部を分割して唱更国(後の薩摩国)を設置した。『古事記』が完成した翌年の和銅六年(713)には大隅国を設置、翌七年(714)には豊前国から二百戸五千人を移住させている。つまり記紀の編纂事業が大詰めに入ってる期間は、隼人の統治が政治的に大問題となっていた時期と重なるのである。当時の空気としては、隼人との戦争の機が刻々と熟しつつある中で、勇壮な隼人舞をしってる上方(かみがた)の人々は貴族も庶民も隼人の武力を恐れてしまうが、政府の公式な態度としては「隼人なにするものぞ、やつらはもともと我々にに仕える連中ではないかっ!」と官民を鼓舞する必要あったし、政府関係者でなくともそういう煽りは歓迎したろう。だから隼人舞の起源を「あれはやつらの惨めな敗北の様を表わしているんだ」と歪曲した木菟宿禰の説は、政府ならずとも当時の空気一般としてはかなり魅力的なものだったのである。(続く)

・【速報】世界最古の釣り針、沖縄で発見

H28年9月20日初稿
沖縄県南城市の島のひとつの洞窟にあるサキタリ洞遺跡で、2万2380年前から2万2770年前(後期旧石器時代)の、世界最古の釣り針が出土。旧石器時代の漁労具は国内でも初。大きさは1・4センチ。「沖縄県立博物館・美術館」(那覇市)が19日に発表、国内マスコミは20日に報道。ただし、すでに海外では16日にニュースになっている。同館は「陸上での狩猟が中心と考えられていた旧石器時代の新たな一面がうかがえる貴重な資料」としている。同じ地層からは研磨用とみられる砂岩の小片も出土した。2012年の発掘調査で発見され、同じ地層に含まれる複数の木炭を分析し年代を特定。この地層からは、今まで貝器(スクレイパーやビーズ)を発見しているだけでなく、オオウナギやイラブチャー、アイゴなどの骨も少し見つかったので、こうした魚を釣るのに使ったと推測。素材はニシキウズ科の巻き貝製(例えばサラサバテイ・高瀬貝など)で、巻き貝の底部を割って三日月形にし、さらに砥石のようなもので磨きこんで先端が徐々に細くなるようにとがらせていた。従来の世界最古はパプアニューギニアで発見された1万8千年前から2万年前のもの。東チモールのジェリマライ遺跡で発見されたものは「2万3千年前から1万6千年前の間」とされて年代が特定できなかった。この東チモールでの発見も2011年でつい最近。国内では神奈川県横須賀市の夏島貝塚で出土した1万年前から9千年前(縄文時代)の釣り針が日本最古とされていたが今回はそれより1万年以上古い。詳細は下記のリンクを。

・国内のニュース「沖縄で世界最古の釣り針 横須賀出土より1万年超古く」(東京新聞・20日/詳細あり
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201609/CK2016092002000258.html
・同博物館のFB「『世界最古の釣り針発見!(南城市サキタリ洞遺跡)」(20日)
https://www.facebook.com/OkinawaMuseumArtMuseum/photos/a.539996146055616.1073741826.152757311446170/1052305184824707/?type=3&theater
・まとめサイトw「日本で世界最古の釣り針が見つかる 海外の反応
(こんなニュースにでくわした・18日/レス欄だけでなくコメント欄も参照
http://stumbleon.blog.fc2.com/blog-entry-1945.html
・海外のニュース「World’s oldest fishhook found on Okinawa」(Science・16日)
http://www.sciencemag.org/news/2016/09/world-s-oldest-fishhook-found-okinawa
「英BBCでも報じられ世界的ニュースになった」と書いているブログもあるけど、そうなの? 日本じゃまったく騒がれてないような気が…?
ちなみに竹内文献だと山幸彦が行った竜宮城は沖縄ってことになってたなw 竜宮=琉球ってダジャレでw

・大洪水伝説

平成28年8月26日(金)投稿 平成28年の8月24日(水)初稿
海幸山幸の物語は「寓話」である
有名な「海幸山幸(うみさちやまさち)」の物語、または「御幸換え(みさちかえ)」の物語ともいう。浦島太郎と竜宮城の話の元ネタでもある。で、前回書いたように、天孫降臨以降はそのままストレートな神話ではなく「寓話」として読まねばならない。

大陸民族と海洋文明
前回までに書いた通り、これは数十万年も続いた火々出見命の時代(洪積世中期以降)の最末期の情況を表した神話である。間氷期(氷期と氷期の間)の温暖な時期には氷河が融けて海岸線が上昇し、陸地面積が狭くなる。海岸線が前進するということは平野部が水没して、リアス式海岸のような山と海がいきなり接する地形が増えるということだ。この時代はまだ農業はない。「物語の途中で海幸彦も山幸彦も田をもってたって話が出てくるじゃないか、だから海幸彦も山幸彦も農民だろう」といわれるだろうが、あの「田」というのは農業でいうところの田圃のことではなくて、野生の穀類(この時代は水稲種はなく陸稲種のみ)の繁殖地を囲って狩場(縄張り)にしているだけなのだ。それならハタケ(畑・畠)じゃねぇかといわれそうだが、漢字の「田」の字はもともとタンボもハタケも含む文字であって、区別する時はタンボは水田、ハタケは陸田(白田)という。日本語の「タ」も田圃のこととは限らない。タは「立てる」のタで、古語の「立てる」は現すとか成り立たせるという意味がある。ト(ところ)やチ(つち)を立てた(整えたり意味付けしたりした)のが「タ」なのである。土(ち)を認識したり確保したのが所(と)で、所(と)を整地したり耕したり何らかの手(て)を加えたのが田(た)。田圃もタに含まれるが、田圃だけがタなのではない。そしてこの野生の穀類の生えてる土地も、「高田」「下田」と書かれている。傾斜の急な険しい山の中だから「高田」「下田」というのであって平野でないことがわかる。ともかく平野が極度に少ないので、人間は山で狩猟するか海で漁するかしかない。「海佐知毘古(海幸彦)・山佐知毘古(山幸彦)」というのは、「海幸彦・海幸姫たち」と「山幸彦・山幸姫たち」をいう普通名詞であって、その略称もしくは擬人化していってるので、海洋民族(漁労民)と山岳民族(狩猟民)のこと。だから固有名詞ですらない。この両民族が兄弟だというのは、文化の違いはあってもすべての民族は同じ人類だということを表わしているのである。で、間氷期(氷期と氷期の間)の温暖な時期だから人間の活動は活発になって人口密度が高まる。この時代はまだ現代人が想像するような意味での「諸々の様々の各種の民族」ってのは存在しない。原始人だから縄張りとしての土地をもってはいてもその土地を永続的に管理するわけでもないから定住性が弱く、土地に縛られないから、特定の国土に密着した特定の民族というものが生まれにくい。せいぜいが海の民と山の民という二大派閥(二大民族?)があるだけ。

実はこれに似た情況はつい最近の世界にもあったのである。大航海時代以降、極東の日本人と西のポルトガル、スペインが世界の海に繰り出した頃、大陸は北元(モンゴル)、明、チムール帝国が鼎立した。チムール帝国はムガール帝国・サファービー朝・オスマントルコに分裂したが、モンゴルの東半分と明は清に統合され、モンゴルの西半分からロシアが独立、東の清と西のロシアが陸の二強となる。海では英仏蘭の鼎立から英仏二強へ。19世紀にはついに大陸の最強最大勢力となったロシアと、フランスを降して七つの海の覇者となった英国との間で「グレート・ゲーム」(昔は「世界最大の対立」等と訳された)の時代となり、そのまま米ソ冷戦まで続く。地政学ではハートランドvsリムランドの対立として定式化されているこの英vs露のグレート・ゲームの時代や、米ソ冷戦の時代は、まさに近代の「海幸vs山幸」的な情況だった。民族性が希薄な原始時代もこれと似たような分かれ方をした時期があったのである。まぁ山岳狩猟民と平原遊牧民は違うけどな。

その原始時代の海の民と山の民は隔絶した世界に暮らしてるのではなく交易もするし密に接しているのであり、利害関係も深まる。船のほうが高速に大量の物資を運べるので、交易が活発になればなるほど富は海洋民族のもとに集まり、海洋帝国はどんどん強くなり、海の文明はどんどん栄えていく。「なんだよ文明って。原始人じゃなかったのかよ」と言うなかれ、文明ってのは物質文明のことじゃないって西郷隆盛もいってたろw それでわからなければ面倒だからここは超古代文明ってことで納得してもらおうかw それに対して山の民は貧乏臭くなって流行文化からも取り残され、要するに田舎っぺになっていく。そこには嫉妬や憧れが生じる。なので、まず先にちょっかいを出したのは山の民のほうで、なんとしても海に進出して豊かになろうとした。海の世界も飽和してるので、そこに無理にでも新参者が割り込もうとすればトラブルになる。ここで山の民が勝利すれば、日本史や世界史における「中世」的な展開(蛮族による文明の更新)になるのだが、この時はそうならなかった。海の民と山の民が海で争えば海を知り尽くしているベテランのほうが勝つのは当たり前で、山の民の中から大望を抱いて進出してきたとある弱小な一部族はいまさら山にも戻れず、慣れない海に孤立してしまった。普通だとこの山からきた部族は滅亡して終わりなのだが、ここで奇跡がおきた。進退きわまって滅亡に瀕したこの弱小部族こそが大災害の中から生き残ったのだ。なぜ奇跡が起きたのかというと、それは簡単だ。大災害で崩壊した帝国だの滅亡した文明だのっていうのは、爛熟しすぎて、堕落腐敗していることが多いわけだが、それに対して、神に愛されるのはいつの時代も腐りきった文明人ではなくて「気高い野蛮人」なのである。

浦島太郎と竜宮城
「海神(わだつみ)の鱗(いろこ)の宮」ひらべったくいえば竜宮城、3日のつもりでいたら3年たってたとかとかいうように時間の速さが違う。これは心霊学(スピリチュアリズム)とかでも昔から言う話で、高級霊界(神界?天界?)ほど時間の進みが速く、現界に近いほど(低級霊界ほど)時間の流れる速さも近くなる。オカルトに興味ある人ならこれと似たくさい話はどっかで聞いたことあるだろう。キリスト教だと7日で天地を創造したって話にくっつけて「神の一日は人間の千年」などと説明することがあるが、これはクリスチャンでもない者が正確に1000倍だって意味に受け取る必要はなく、アバウトな一例ぐらいに思えばいい。だから竜宮城ってのは実際の海底都市ではなくて「あの世」の一種だな。民俗学っぽくいえば「海中異界」、オカルトっぽくいえば海底霊界(?)。民話では、海だけでなく「山中異界」というのもあるし、よくわからない不思議な世界に紛れ込んじゃったという民話は種類も多い。こういうのは本当に偶然に紛れ込んでしまったと本人は思っていても、実はわけがあって神々に導かれているんだろう。それがどういう理由でなのかは本人にもわかる場合もあるだろうし、最後までわけわからないまま終わる場合もあるかもしれない。この「海幸山幸物語」の場合も、最初から神に導かれてのことだった。
異界などというものはただの幻覚とか夢かもしれないが、まぁオカルトってのはそういう可能性も込みでの話だから気にするな。ちなみに「幻覚の中の世界」とか「夢の世界」も定義しだいによっては「異界」の一つだともいえる。で、単なる個人の「へんな体験話」としては異界に紛れ込んでわけのわからない経験をしたままそれで終わりという意味不明な体験の場合もあるのだが、伝説とか民話として語り継がれる定番のお話では、異界に行って財宝を得るとか知恵を授かるとかのパターンが多い。これは民俗学でいう民話の類型だけでなく、現実にもある。ミシンの開発に行き詰まっていたエリアス・ハウが夢でヒントを得て特許をとり大金持ちになった話は有名だろう。夢もまた異界なのであって、財宝を直接もってくることはできなくとも知恵を持ち帰ることはできるのだ。「海幸山幸物語」の場合は、結果的には大災害の予知や生き残れる場所を知ったということだろう。

「潮が満ちて溺れる」のは津波の暗喩
竜宮城から持ち帰った塩盈珠(しほみつたま)を出したら海水が満ちてきて海佐知毘古は溺れ、助けてくれというから塩乾珠(しほひるたま)を出したら海水が引いていって海佐知毘古は助かった。ただの潮の干満で溺れるやつはいないんで、これは津波が襲ってきたか、もしくは本当に陸地がなくなるほどの海岸線の上昇があったかのどちらかでしかない。海佐知毘古というのは個人名ではなくて海洋民族のことだとしたら、これは津波で海洋帝国が崩壊したとか、海岸線の異常な上昇で海洋文明が水没したとかの話を伝えた寓話だろう。
ただ古事記や日本書紀では海佐知毘古は助かってその子孫が今の隼人族だってことになってるが、これは隼人が意味不明な踊り(「隼人舞」)で宮廷に仕えることになった由来を説くために結びつけたものだ。が、もとは隼人はまったく何の関係もなくて、海佐知毘古の子孫でもなかった。海佐知毘古の子孫は少なくとも人間としては残っていない。子孫は海に飲み込まれて海底に暮らすようになって磯良(いそら)という妖怪になったというのが元の話だったと思われる(なんでそんなことがいえるのかって話はまた次回かその次にでも詳しくやろう)。隼人が宮廷に仕えるようになったのは応神天皇の頃からで、神代に遡るような古い由来などではないのだ。なぜこの磯良が隼人とさしかえられたのかという説明は応神天皇か仁徳天皇の回でやることにして今回は触れない。
ともかく海佐知毘古は滅ぼされてしまった。で、塩乾珠(しほひるたま)を出したら海水が引いていって助かったというのはこのまま津波が上昇し続けると山佐知毘古も自分まで溺れそうになるから塩乾珠(しほひるたま)を出して津波を鎮めたということで、つまり自分が助かるためであって海佐知毘古を助けるためじゃない。自然災害ってのはそんなに甘くないんで、神話もなにかホンワカした牧歌的なのが神話だと思ってる人がいるがそんなわけないだろう。残酷な話やヒドイ話もたくさん出てくるのが神話であって、それは自然が人間に優しいだけではないのと同じなのである。別に原始人は未来の子孫の癒やしブームに乗っかろうと思って神話を伝えたわけじゃない。つかそもそもご先祖様である原始人の信仰を捨ててしまった背教者どもに神話をあげつらう資格なんてないだろう。
堕落した人類が津波で滅亡するという話は、ノアの方舟の話にも似ている。あっちは津波ではなく洪水だが、「洪水神話」とひとまとめに呼ばれている神話類型は世界中にいろいろなバージョンがあって、中には洪水でも津波でもなく大雨だとしている例もある。これを洪水神話とよぶのは便宜的にノアの方舟の話をを典型的なものとみなしての命名にすぎない。

世界の洪水伝説
旧約聖書に出てくるノアの洪水伝説は、バビロニアの伝説を適当に改作したもので、当事者の名がノア、セム、ハム、ヤペテというのは取るに足らないお話。もとのバビロニアの洪水伝説も、そのもとはアッシリア、さらにシュメールと遡ることができる。もちろん、ノアという名前ではなくアッシリアの王立図書館の粘土板によれば「ウトナピシュティム」。これはバニロニアの「ウラバッツ」にあたり、その別名「カシサトラ」はシュメール神話の「カシストラトラ」まで遡る。ちなみにシュメール神話では洪水だけではなく「津波と洪水」でありこちらが原型である。 この話しはまったくのでたらめというわけでもない。世界中に類似の伝説があるので、なにか大昔に世界規模で大異変がおこり少数の人間が生き残ったという事実があったのかも知れない。
ただし、ノアという名前はそれぞれの神話によりいろいろ。ギリシア神話では「デユーカリオンと妻ピュラ」、北欧神話では「ベルガルメル夫妻」となっている。ちなみにギリシア神話と北欧神話でも洪水でなく津波となっている。インド神話では「サチュラワタ(=マヌ)と7人の聖者」、イラン神話では「イーマと千組の夫婦」、ブリテン島のケルト神話では「ドワイファンとドワイファック」、アイルランドのケルト神話では「セサール女王とその臣下たち」、北米のマンダル族の神話では「ヌモクモクバー」、北米のガラニ族では「タマンデレ」、中米のトルテカ神話ではコフコフ(=テオシパクトリ、=テスピ)と妻ホチケツアアルと子供たち他6組の夫婦。南米のチブチャ族では「ポチカ夫妻」、南米トスカロラ族では「タマンデレ」という。このトスカロラ族の神話では主人公タマンデレと対立する「アリクテ」という名の、仲の悪い兄弟が登場し、日本神話でいう海幸彦の役どころとなっている。
日本の海幸山幸物語と似たようなのは他にもあり、岩波文庫の日本書紀の注釈では以下の3例をだしている。セレベス島では「カブルサン」という主人公が大雨をふらせ悪友を退治する。ここでは悪い兄が悪友になっている。パラオ島の神話では「アトモロコト」という主人公が父にいじめられ海底の娘「リリテウダウ」と結ばれる。リリテウダウは日本でいう豊玉姫で、悪い兄は悪い父に変わっている。カンボジアでは世界が水でおおわれていた時代に「ラクサクン」という王が、悪い妾から逃れ正妻(水神の娘)と結ばれる。悪い兄は悪い妾に変わっているが、正妻(水神の娘)というのが豊玉姫(海神の娘)にあたる。このように日本、太平洋、東南アジアでは洪水でなく大雨や大潮(津波)になっている。
シュメール、ギリシア、北欧、インカ、アラスカの神話では洪水だけではなく、洪水と大潮(津波)とし、マヤ神話では大雨としている。 他にもインドネシア、リトワニア、北極エスキモー、中米マヤ、南米インカ、アラスカのトリンギット族。北米ではダコタ族、スー族、チカソー族、ホピ族などに同類型の神話がある。
「悪い兄弟」「悪友」「いじめる父」「悪い妾」設定はいろいろだが、どれも間違いではなくどれが正しいということでもない。すべて地上の争いごとの象徴であって、これらの神話のメッセージは「地に争いが満ちた時、ある者が海の神の助力を得て海の波をコントロールし、大異変をおこして人類を滅ぼした」という内容だったのが長い間にいろいろに変化したものだろう。

・日光感性神話と処女懐胎

平成30年01月21日(日)改稿 平成28年8月25日(木)投稿 平成28年8月24日(水)初稿
生き物の堕落と滅亡の予感
木花之佐久夜毘賣命(このはなのさくやひめのみこと)の妊娠に対して、邇々藝命(ににぎのみこと)が一夜で妊娠したというのは疑わしいとしたため、姫は産屋(うぶや)に火をかけ、もし不倫の子なら幸いないだろう(母子ともに焼死するだろう)、もし本当に邇邇藝命の子なら無事に産まれるだろうと誓を立てて、その産屋に入って、結果無事に生まれたわけだが、これに続いて日本書紀の第五の一書にいうには、鹿葦津姫(かしつひめ、佐久夜毘賣の別名)が「我が産んだ御子も我が身も、火難にあったのにすこしも傷つかず。天孫よご覧になられましたか」と問うと、瓊々杵尊は「もとより実の子とわかっていたが、一夜での妊娠であることから疑いを抱く者があるだろうことを予測して、天神の子は一夜で妊娠させることができることと、汝(=姫)に「霊異の威」あること、生まれてきた皇子たちに「超倫の気」あることを人々にわからせるため、わざといったのだ」と答えたという。日本書紀の原文では「衆人」という表記だが、この「疑いを抱くであろう人々」とは当時の国民一般人をさしている。つまり邇々藝命の時代の末期には、人々から信じる心が失われ疑り深い性質になっていた。といってもこの頃の国民というのは人間ではなく、動物たちであるであることは前回このブログで書いた。

火山の女神
木花之佐久夜毘賣命は富士山の神として有名だが、富士の女神が木花之佐久夜毘賣だとされるようになったのは江戸時代からである。とはいえ、富士山とむすびついたのは佐久夜毘賣がもともと火山と関係あったからだろう。この女神が火山だというのは、通常の神話解釈ではなく、この話はそのままストレートな神話ではなく「寓話」なのである。天孫降臨以前と以後では同じ神話という一つの種類のものではない。現代人は区別せず、まったく異質な表現形式をごっちゃに神話と呼んでいるが、古事記や日本書紀の神話は、天孫降臨を境に、異質な伝承を竹に木を継いだように無理やり繋げている。なぜこんなことになっているのかという話もあるが今回はそれはさておいて、ともかく寓話として読んでいくと、木花之佐久夜毘賣命は大山津見神(山の神)の娘なのだから、本人もある意味「山」なのである。で、産屋に火を放ったというのは火山噴火をあらわしている。古事記は八尋殿(やひろとの)といっていてその産屋が桁外れに巨大であったことを表わしているが「山」だからである。産屋(うぶや)というのは出産のための場所だが、山の幸を産み育てる山そのものが、山の幸(山に住む生き物たち)の産屋なのである。山の神は旧暦の正月十二日(あるいは二月十二日)に出産するから山に入ってはいけないという民俗信仰がある。この日は山自体が産屋になるから覗いてはいけないわけだろう。一般論としての山の神は、山の幸なる動物や植物を生むわけだが、その際、当たり前だがいちいち噴火しているわけではない。この神話はそういう日常的な山の神の話ではぜんぜんなくて、ギリシア神話や中国神話やマヤ神話やアステカ神話と比較対照すると、火山噴火で邇邇藝命の時代が終わってしまったことを表している(詳細は後日)。だから、ここで木花之佐久夜毘賣は穂々手見命(ほほでみのみこと)を産んでるわけだが、堕落した動物たちは火山噴火によって滅ぼされてしまい、新しく穂々手見命の時代が始まったことを表している。
前回に書いたように、邇邇藝命の時代が約100万年間で「洪積世カラブリアン期」にあたるとすると、次の火々出見命の時代は「洪積世中期」以降にあたる。で、この時代は現生人類(ホモ・サピエンス)が出現した時代でもある。だから次の火々出見命の時代とは「人類の時代」ともいえる。

日光感性神話と処女懐胎
邇々藝命(ににぎのみこと)は生まれてすぐ天降ってきたがその姿は「延喜式祝詞」には「天之御蔭日之御蔭(あめのみかげ・ひのみかげ)と隠れまさして云々」とあり、目に見えない存在だと考えられていた。後世、天皇が御簾などに隠れて人前に姿をみせないという風習が生まれたのはこの神話をなぞったものだ。見えない神と結婚して子を生んだ木花之佐久夜毘賣命(このはなのさくやひめのみこと)は、言い様によっては「夫なくして子を産んだ」とも言いうる。これは神話学では「日光感性神話」という名で分類される神話の別バージョンなのである。この類型の神話は世界中にある。その多くは、太陽の光が処女に入って妊娠するというもので、そこで生まれた人物が建国して王朝を開く(または初代王の数代前の先祖になる)、というパターンが多い。この場合の「太陽光線」はその見えない神の別表現で、その神が太陽神の子(日本の場合は孫だが、子でも孫でもこの際意味は同じ)であることを示す。ペルシアの太陽神ミトラも太陽神であるから似た神話をもっており、これがさらに歪められて処女懐胎という聖書のキリスト誕生説話になったことは有名だ。そうするといわゆる日光感性神話やキリスト誕生説話は、「人類起源神話」としてみなおすことができる。

人類の誕生
木花之佐久夜毘賣命は大山津見神(山の神)の娘なのだから、本人もある意味「山」なのであるが、しかし同時にまた、山の神の娘なのだから、姫自身が、山の神が産み育てている「山に住む生き物たち」の暗喩でもある。この神話は、人類は山に住む生き物から生まれた(進化した)といっている。しかしそれはあくまで肉体の進化であって、それだけである生き物が人間の魂をもつようになったわけではない。人類の父は「あまくだってきた目に見えない神」なのであり、人類は父系的には「天なる神の子」なのである。我れは必ずしも霊肉二元論の立場にたつ者ではないが、人は霊と肉からなるという霊肉二元論では、人間の肉体はスタートレックみたいに「炭素ユニット」だという場合には、有機体である限り猿の身体も人間の身体も大差ないし、タンパク質の塊にすぎないとみれば人肉500gも豚肉500gも大差ない。霊肉二元論の立場では、霊からすれば身体はすべて義体のようなもので、魂にこそ価値も意味もあろう。しかしそういうふうに肉体をなにか卑しいものであるとか格の低いものであるかのように考えるのは土人や原始人の感性ではないだろう。人間の肉体が具体的にどんな生物から進化したにしろ、それはすべての生き物を産み育てる山の神を母として生まれたのであって、肉体は母なる神からの大切な贈り物なのである。人類は母系的には大地の女神の子孫なのであり、肉体は生き物たちを育む山の神の娘から引き継いだ。なぜ生物は進化するのか、生物はエントロピー増大の法則によって退化していくのであってそのままでは進化しない。天からの干渉があった時だけ一気に進化する。

三兄弟の名前
木花之佐久夜毘賣から生まれた「三つ子」の皇子の名は、記紀ではいろいろな説がある。それらの諸説を比較して、似たような名前を同一人物として整理すると、どうしても四人になってしまい、三つ子というのに合わない。そこで、古事記と書紀の一書(第六)、一書(第八)の3つの説では、長兄の火明命(ほあかりのみこと)を上の世代に弾き出して、邇邇藝命の兄弟としている。「火明」という名は、火照・火進(書紀)・火折(書紀。記では火遠理)等の兄弟と同一シリーズなのは見た目に明らかで、これらは兄弟なのである。しかしそうすると、伝承からいえばここが「三つ子」でなければならないはずなのに、4人になってしまう。長兄か末弟を切って3兄弟にするしてしまえば辻褄はあうが、末弟の山幸彦(やまさちひこ)が火遠理(書紀では「火折」「火夜織」等)に確定しているので、弟のほうは切れない。で、長兄が押し出されて上の世代にハミ出してるわけだ。こういうやりかたはもう一つあり、書紀の一書(第三)では誓約(うけひ)によって生まれた五男神を六男神としていて「熯之速日命」(ひのはやひのみこと)を追加しているが、五男神を六にしてる例は他になく、これが何かの間違いなのはわかる。で、この神の名はこれは一世代下の邇々藝命・邇藝速日命の兄弟のうち、邇藝速日命の名にずいぶん似ている。おそらく「兄・熯之速日、仲・邇藝速日、弟・邇々藝」の三兄弟だったのではないだろうか。日本書紀本文では、火明命を兄弟の末尾に付記して、書紀一書第二では兄弟の真ん中に後入しているが、いずれも誤りで、書紀一書第三・第五・第七ではちゃんと長兄としている。ただ書紀はいずれの場合も火照命は消し去っている。三兄弟にするために子孫のいない火照をはずしたのだ。火明命は尾張連氏の祖、火闌降命(ほすそりのみこと)は吾田君(隼人)の祖、火折尊は皇室の祖だから、火照命には子孫がない(古事記は火照命を海佐知毘古にしてしまったが『新撰姓氏録』みれば誤りとわかる)。あとは三男の火須勢理命(紀では火闌降・火酢芹・火進などと書く)が海幸彦で、四男の火遠理命(紀では火折・火夜織などと書く)が山幸彦に設定される。で、三兄弟なのか四兄弟なのかという問題が残るが、火明を上の世代にずらしたのは小賢(さかしら)にすぎないのは上のほうで説明した通り。これは「三つ子」って話を「だから三兄弟のはず」と短絡したから生じた誤りなのである。末弟の山幸彦=火遠理(火折)が三つ子の後に生まれた四男なのだとみれば何の矛盾もない。
ただし、三つ子が生まれたのは火々出見朝の冒頭、開始の頃の話なのに、海幸山幸の話は火々出見朝の最末期の話なので、これを分けて考える必要はある。四兄弟の名は、火が初めに燃え上がる意味、火の盛んに燃える状態、火の燃える様が衰える、そして火が最終的に消える、という出火から鎮火までの諸段階を表していると一応されている(火須勢理は火が盛んに燃え進む意味だという説があるが誤りで、逆に火が衰えて後退していく意味。詳細な議論はいずれやるかもやらないかも)。が、なぜそんなものを表さないとならんのかがわからない。岩波版日本書紀の注釈には「炎のどの状態がどの神名に対応するのか必ずしも明らかでなくなんとでもいえそう」だと書いてある(意訳でつw)。だからこれは、あながち炎が燃え上がってから消えるまでの諸段階を表したものだときめつける必要はない。もし「三つ子」という伝承にこだわるのなら、火須勢理と火遠理はほとんど意味が同じ言葉だから同じ神だとして、三兄弟でよいのではないか。ただし、まだ「三兄弟」という形式が何を表しているのかわからない。火山活動の活発な時期が三回あったという意味なのか、もしくは初期のホモ・サピエンスが三系統(3つの亜種)にわかれていたのか、あるいは氷河期を2回はさんで温暖な時期(間氷期)が3回あったってことか。このようにまぁいろいろと楽しくコジツケ可能なわけだが、もちろん、格別なんの意味もない可能性もあるよw

「海幸と山幸」の話とのつながり
「179万年がどうのこうの」って話からすると、火々出見命の時代は何十万年かあるわけだから、開始期の「三つ子の話」と最末期の「海幸山幸の話」では数十万年の年月がある。だから海幸と山幸は「三つ子の誕生」とはまた別の寓話なのである。が、一応、格好の上では、海幸彦と山幸彦(火々出見命)の兄弟の話は、「三つ子」の話の後に続く話なので、話をつなげるために、三つ子の末弟の別名「火須勢理=火遠理」をむりやり分けて海幸山幸の二人の兄弟に割り振ったのではないかとも思える。つまり、日本書紀は三つ子の末弟(火須勢理)と海幸彦を同一人物と設定することで安直に話をつないでいるのである。古事記はそれをさらに火照命に誤った。ただ、三兄弟にしろ、海幸山幸の兄弟にしろ、火々出見命の中の一人なのであるから『日本書紀』の第五の一書に三兄弟(末弟は火折)の後に火々出見命を加えて四兄弟としているのは山幸彦を加えたもので案外古い形なのかもしれない。

・「王権」は人類の存在に先立つ

平成28年8月24日(水)初稿
貝に手を挟まれて溺れる?
猿田毘古神が比良夫貝(ひらぶがひ)に手をはさまれて溺れるという妙な話が出てくる。神話にまじめにつっこむのもアレだが、貝に手をはさまれたぐらいで普通は溺れないので、巨大な貝だとみてシャコガイの類と想定する説もある。ただし通説では宣長以来ツキヒガイ(月日貝)というのが有力説。しかし『古事記伝』みたら宣長も伊勢の漁民がそういってたとか、あまりたいした根拠はあげてない。ツキヒガイはせいぜいホタテぐらいの大きさなのでこれで溺れるのはむり。じゃ今でいうどの貝なのか? 「平らになる」という意味の動詞ヒラブ(四段活用)があるが、このヒラブと同じ言葉なのかどうかは不明。奈良時代には比良夫・比羅夫(ひらぶ)という男性名がやたらあるのでよほど良い意味なのか、人名のヒラブとヒラブ貝のヒラブは同語なのかたまたま発音同じだけで別語なのかもわからない。ところで『ウエツフミ』は猿田毘古神の別名をオオツチミオヤノミコトといっている。この神名は古事記には大土神(おほつちのかみ)またの名は土之御祖神(つちのみおやのかみ)として出てくる。『神社啓蒙』では伏見稲荷の上社の神は「土祖神」(つちのおやのかみ)としており、上述の『二十二社註式』では「(伏見稲荷の)上社・猿田彦命、三千世界の地主神とは是れなり」とある。伊勢内宮には「大土御祖神社」あり、外宮には「土宮」というのがあって祭られ、土地や地面のこと一切をつかさどる神とされている。これらから逆推すれば、猿田毘古神は地面・土地そのものの神格化でもあり、地面・土地そのものがこの神の身体なのである。だから猿田毘古神は地表すべてを歩き知り尽くしている道祖神ともされるわけだ。そしてその地表とは、永遠に地表なのではなく海になったり陸になったりを繰り返している。陸地が沈没して海底となる(底度久御魂)。それがまた地殻変動によって上昇(都夫多都御魂)、再び陸地となる(阿和佐久御魂)。これは地質年代的な長期の間におこる地殻変動で、特定の時期の話ではない。
だから「阿邪訶にましし時」とあるのを宣長は猿田毘古神が天孫降臨の道案内をした後に、阿邪訶(今の三重県松阪市のあたり)に住んでたと解釈しているが、そうじゃない。天孫降臨の後はつねにそば去らず皇室を守護する神であって、「阿邪訶にましし時」とは天孫降臨より以前の大国主の時代の話である。大土神は須佐之男命の孫の世代だから、邇邇藝朝の初めに突然出現したのではなく、大国主の時代を通じて居たことは居たに違いない。古い地名は長い間に範囲が拡大したり縮小したり移動したりするので、阿邪訶を一概に今の松阪市ときめつける必要はない。阿邪訶は「朝明」の意味で東が海に開けたところの意味だろう。いまの伊勢国(とピッタリ重なるわけではもちろんないが)を漠然とアザカの国ともいったのだろう。大国主の時代については今でいう新生代のことだとは以前にこのブログで書いた(「八俣の大蛇」&「大国主の系譜」の解釈)。その記事を読めば(あるいは「新生代」をググれば)、新生代の中に「陸地が海に沈みあるいは海から陸地が浮上する」現象が多々あったことがわかる。

ちなみに『ウエツフミ』では、「阿邪訶にましし時」ではなくて、海幸山幸の物語の中で、竜宮城にオオツチミオヤノミコト(=猿田毘古神)がヤマサチヒコを迎えに行くために海底に沈んでいく時の話になっている。これも誤りではない。これは後日「海幸山幸の物語」について扱う回でいうことにするが、海幸山幸の物語も大洪水・大津波の話なのだ。いずれにしろ地質年代的な長期の間には何度も起こる地殻変動なのだから特定の時期の話ではないが、それでも比較的めだつ(地球史的な規模で目立つ、あるいは地球史的にはそうでもないが人間からみた視点で目立つ)地殻変動とそうでもない地殻変動があるわけで、個人的には『ウエツフミ』のように海幸山幸神話に関係づけたほうがよいようにも思う(しつこいようだが、だからといって古事記が間違いという意味ではない)。

大地そのものが巨大な貝に飲み込まれて沈む。こんな巨大な貝といえば、タヒチに伝わる創世神話にでてくる原初神タンガロアが住んでいた巨大な二枚貝が思い出される。この貝の上の殻は天空で、下の殻は大地で、世界はこの貝の中にある。ヒラブとは何か「広がり」とかの意味ではないか、あるいは「孕み貝」の訛りか。タヒチの創世神話に出てくる貝は海外の開闢神話にでてくる「宇宙卵」と同じ概念で、卵でも貝でも要するに同じもので原初の渾沌(カオス)そのもの。猿田毘古神を咥えたヒラブ貝は、できあがった後(開闢の後)の世界だから、渾沌ではないが、引き続き秩序世界(コスモス)なり日常世界(ノモス)なりを喩えたもので、神話学でいう宇宙樹・世界樹とならぶ「世界貝」とも言い得る。ただ、この章は、俺が忘れてるだけかも知れないが、海外の神話にもあまり類例がないように思う。書紀にも他の神道文献にもなく古事記の独自記事だが、本来は単に、猿田毘古神と天宇受賣命のコンビが海中に入ったという話だったのを、猿田毘古神にかんする注釈が本文に紛れ込んだ部分ではないかと思う。

海の平定
では、なんで猿田毘古神と天宇受賣命のコンビが海に入らねばならなかったのか? 前からの続きで考えると、建御雷神らの活躍で地上は平定されたが、海はまだだった。天照大神から邇邇藝命に与えられたこの地球は陸地と海からできているのである。だから海の平定は猿田毘古神と天宇受賣命のコンビに委ねられた。ただし「海の征服」というと、海上だけの人間世界の征服のようにきこえるが、そうじゃなくてここは「海中の生き物」を対象にしている。海の中には天孫に歯向かうような愚か者はいなかったので、武神を派遣する必要がなく、ただ「海陸ふくめた全世界の道程・道路」に詳しい猿田毘古神・天宇受賣神の夫婦神に任せるのが最も適任で効率よかったという理屈。この時代まだ現代人が想像するような意味での人間(ホモ・サピエンス)はいないので、邇邇藝命は人間を統治していたわけではなく、すべての生き物を統治していた。というと、「動物や植物を『統治』する…?」と不可解に思うかもしれない。…のだが…

邇々藝命の時代の「国民」とは「人間」のことではない
しかし、少なくとも表面的には簡単なことで、農民だろうが狩猟民だろうが環境を自分なりに「治めている」(管理している)、他の生き物を治めていることは誰も否定しないだろう。そしてその人々を天皇が統治している。天皇(に限らず本来「王」(皇帝ふくめて君主一般の意味だぞ)というもの)は、人間だけを「我が民」とするのではなく鳥・獣・虫・草木までも民のうちなのである、つまり環境問題を治めるのが本来の仕事で、現代人の考える狭い意味での政治はその中に含まれるごく一部なのである。ただ時代的に現代はその一部が肥大しているだけであって、この状況が未来も永劫続く不変の状況だなんぞと思ってはならない。ただし、ただの環境問題なら現代人にも理解はできる。そうではなく、アニミズム的な観点からは、鳥・獣・虫・草木は合理的に利用すべき環境とか、守るべき生態系とかではなくて、鳥・獣・虫・草木がまさにそれであるだけで治めらるべき「民」そのものなのである。だから「悪しき民」は伐採や駆除(つまり「成敗・征伐」)の対象となり、「良き民」は育成され顕彰されるという理屈になる。現代人は人間でないものに知能や感情を認めないから、たとえば納豆菌に勲章やるとか真面目には考えないし、駆除する害獣に対して判決理由を長々と読み上げたりしない。でも『風土記』とかみてるとそれに近い例ではないかと思われる伝承をちょいちょい目にする。そういうのが当たり前だった時代が何十万年もあったのであり、現代人の常識なんてここ200年ぐらいのうわっつらの、ぺらいものにすぎない。だから現代でも、鯨を人間以上にみなすような連中がいてもなんの不思議もない。実際、自分の飼ってる犬や猫のほうが見ず知らずの他人よりも各自の人生における意味は明確でかつ重いだろう。遠い世界の名も顔もしらぬ人間がいくら死のうが苦しもうが、なかなか自分の責任に関係づけることは難しい。つか関係ないって理屈が正しいかもしれないのだ、よくわからないが。こういう現代人の心の中に巣食うアニミズムの残滓を否定するのではなく延ばして行けば、やがて太田龍センセの「参議院を廃止して動物院を作れっ!」というテーゼに続いていくかいかないかよくわからないが、そこまでいけば民主主義のインチキが目前に暴かれてしまうから、動物院はなかなか作らせてもらえないだろうなw

王権の存在は人類の発祥に先立つ
まぁ太田龍の話はどうでもいいとして、ここで重要なのは、現代人は「王制も含めて政治制度はすべて人間が作ったもの」と思ってるわけだが、神話においてはそうではない。邇々藝命は、地上を統治する者として君臨してきたのであって、これは王制・王権の確立をいっているのだが、天孫降臨の段階では人類はまだ発祥していない。「天照大神も人間、伊邪那岐命も人間、天之御中主神も人間」と思い込んで古代史妄想してるタイプにはどうせ何言っても通じないんだが、もう一度いうと、つまり王権・王制というものは「人類に先立つ」のである。こういうとまた現代人の発想からは受け入れ難く聞こえるだろうが、例えば、ちょっとした人間集団にもリーダー的な人物(というか立場?)は必ず生じる。これだけみると人間の文化のように思うが、猿でも狼でも集団生活する哺乳類はみな「群れのボス」をもつ。してみれば、ちょっとした集団にリーダーが自然発生するのは人類の文化ではなくそれに先立つ「自然界のなにか」であるにすぎない。さらにいえばアリやハチの世界には女王蟻、女王蜂というのがいる。階級制が消滅したことも人類史上いまだない(現在も階級はある、建前上ないというのは現実にあるかないかとは別問題)。
それとここで「王」という文字を使っていることに対し、天皇だ皇帝だっていうアホなツッコミは無しな。頭の悪いウヨが有り難がる理屈で「王なんてのは県知事クラス、皇帝だと独立した文明だ」っていう与太話があるわけだが、それこそ支那の理屈を真に受けないと成り立たない理屈やんけw 俺はウヨはウヨでも頭のいいウヨなんで、別の理屈をいうぞ。秦の始皇帝以前には「天子」の称号は「王」だったのである。秦始皇帝みたいな中二病患者が創作した「皇帝」なんていう珍妙な称号よりも、儒教の理想時代とされた周王朝で使われた「王」のほうが格上だって理屈がなぜわからんのか? 王は一音節で一文字の「古語」であり「雅語」であり土人の言霊だから、あれこれインテリの小賢(さかしら)で作った感満載の「新語」の皇帝よりも絶対的に(相対的でなく)格も高ければ威力もあるのは当たり前だろう。ここでいう威力とは、空間的には最大広義の全首長制に概念を広げつつ、時間的には「原初の君主制=原始首長」に発想や連想を及ぼす言葉の力をいう。皇帝だの天皇だのでは出来上がったシステムの話にしかならない。それで議論しても起源や本質には届かない。

・五伴緒(人類部族説)

H28年7月29日(金)改稿 H28年7月28日(木)投稿 平成28年7月27日(水)初稿
五伴緒神
邇々藝命(ににぎのみこと)の天孫降臨に従って地上にきた神々のうちの5柱の神を「五伴緒神」(いつとものをのかみ)といい、日本書紀では「五部神」と書く。この5柱の神は5つの部族の祖先でもある。ただし、実際の神話の原文には様々な齟齬や問題点が見られ、それら諸問題を如何に解明するかはいくつかの説がある。
またこの「5」は東西南北に中央を加えた数字で、5部族とは、世界の東西南北の全人類(もしくは列島内の東西南北の全日本人)を象徴的に表現するものである(本当はもっとややこしい理屈があるが今回は省略)。要するに、『天孫とともに高天原から天降ってきたのが日本人(この場合は天皇に所属する人の意)であり日本人は天孫民族である』という神話的な観念を表している。

記紀の伝承

1 天兒屋命    中臣連氏
2 布刀玉命    忌部首氏
3 天宇受賣命   猿女君氏
4 伊斯許理度賣命 鏡作連氏(=作鏡造氏)
5 玉祖命     玉作連氏(=玉祖連氏)

天孫に随行して天降ってきた神々はこれらの他にもあるのに、なぜこの特定の5神が選ばれているのか不審である。天兒屋命・布刀玉命は左右大臣の格であるのに、伊斯許理度賣命・玉祖命は忌部の伴造(部民の長)にすぎず、アンバランスな感が否めない。
これについては、本来は作鏡氏や玉祖氏は忌部氏の配下であったが、忌部氏は大化改新の波に乗れず大きく衰退した上、壬申の乱でいくらかの功を上げてなんとか消滅の危機をまぬがれたほどで、そのために作鏡氏や玉祖氏が忌部氏から自立する傾向を生んだ。作鏡氏が造(みやつこ)姓、玉祖氏が連(むらじ)姓であるのに忌部氏はそれよりはるかに格下の首(おびと)姓であったのはそのような歴史が反映している。ちなみに、天武九年に忌部氏は首から連に昇格し、やっと作鏡造を抜いて玉祖氏に並んだ。天武十二年(683年)に忌部氏と玉祖氏はともに宿禰姓に昇格、同年に作鏡氏は造から連に昇格。『古語拾遺』には推古朝の仏教隆盛期に忌部氏は衰退したようなことを匂わせているが、それなら忌部・中臣ともにその頃に首に降格されたものでそれ以前には忌部も中臣と同じ連だったのではないか。中臣は大化改新で連に復帰したが忌部はその機会を逃してしまった。あるいは別の案としては、カバネ制が確立した允恭朝・雄略朝の頃には、漢文派の葛城氏や平群氏が強く、語部派の中臣氏・忌部氏は冷遇されて首姓しかもらえなかったのではないかと推測する。史料から証明はできないが、中臣氏が連に昇格したのは大化改新からではないか。
で、本来なら配下であるべき作鏡氏や玉祖氏のほうが格上になって忌部氏の支配から自立してしまった。これはもと一つだった大伴氏と中臣氏が二氏に分離したのと同じく、氏族分断策の一環だったのかもしれない。作鏡氏(大和)として自立しなかった者は、忌部の支配下の「筑紫忌部」(金作部)に留まった。玉祖氏(周防)として自立しなかった者は忌部の支配下の「出雲忌部」(玉作部)に留まった。忌部には他に「讃岐忌部」(笠縫部)・「紀伊忌部」(楯縫部)・「阿波忌部」(木綿作部)の3部あるがこれらからは自立勢力は生まれていない。鏡や玉という「宝物」の製作に携わっていた部民が両氏族として独立したのは、蘇我氏や平群氏、葛城氏などに有力な政権氏族に重用されたということも考えられる。

物部の二部
天孫降臨に随行した神々には、大伴氏の祖・天之忍日命、久米氏の祖・天津久米命の二神もいる。しかしこの二神は五伴緒の中に数えられてはいない。大伴・久米の二氏は、祭祀氏族(または物品製造工芸氏族)の二忌部(作鏡部の作鏡氏と作玉部の玉祖氏)に対比して、軍事氏族として「二物部」(大伴部の大伴氏と久米部の久米氏)と総称できる。有名な物部連氏は後世に出てきた皇別氏族なのでここでは関係ない(物部氏が饒速日命の後裔というのは誤りで、いずれこの問題も取り上げる)。前者が太玉命の管轄下にあったことからすれば、この二物部は児屋根命の指揮下にあったのではないだろうか。傍証として『ウエツフミ』では神武天皇時代の大伴氏の祖の道臣命(みちのおみのみこと)をナカトミ・チノオムドノミコト(中臣道之臣人命)と呼んでいる。中臣氏と大伴氏はもともと同祖であり、軍事担当の家柄と祭祀担当の家柄に後世分裂したもの。

忌部の五部
五伴緒神は天岩戸神話に活躍した神々であることに注目する見解があるが、岩戸神話の記述からは「5」という数字は導かれない。鏡作造氏と玉作連氏(玉祖連氏)は、『日本書紀』(一書第二)や『古語拾遺』にあるように、「五忌部」(忌部五部)に該当するものであり、本来なら五忌部の中から三氏を差し置いてこの二氏だけ格別に選抜される謂われがない。『日本書紀』(一書第二)では他の忌部も天岩戸神話で活躍している。この二氏は上述のように後世、忌部首氏から自立したために忌部氏と対等の扱いになっているのだが、本来は忌部氏に率いられる下位の部族であるから、ここでは忌部氏に包括されるとして、除外するべきである。
というわけでこの二氏(玉祖・作鏡)を除外すると、五伴緒ではなくて三伴緒が正しいのか、もしくは誤って脱落した2神が他にいるのかが問題となる。通説では、この5部族の5はツングース系種族や遊牧民など、北方民族によくある部族連合の数であるという(例えば高句麗の五部制の如き)が、おそらく原典においては「…天宇受賣命、」と「五伴緒矣。」の間に脱落があって他の2神の名があったものと思われるのである。

「5」の由来
天孫降臨に従って地上にやってきた神々及びその子孫である氏族は多いにもかかわらず、なぜ特定の5部族だけ選ばれ、特記されるのかが問題である。
『新撰姓氏録』では氏族は皇別・神別・諸蕃に大分類され、その神別は天神・地祇・天孫に小分類されているが、ほとんどの氏族は実際には皇別か諸蕃であって、極めて少数の天神系氏族(中臣連氏と忌部首氏)と地祇系氏族(三輪君氏と尾張連氏)が例外的に存在するに過ぎない。そうすると、すべての氏族は結局のところ5系統しか存在しないことになる。五伴緒の「5」と関連づければ、この5氏でなければならない。尾張氏は通常は天孫系とされるが誤りで、正しくは地祇系である。三輪氏は崇神天皇の時代に表に登場したがその先祖は志木県主(磯城県主)である。磯城県主の地位は孝元天皇~開化天皇の頃までに物部氏の系統に入れ替わって、元の県主家は没落していたのを崇神朝になって見出された。従って、磯城県主にはまったく別の二つの系統の家柄がある。とはいえ、地祇系の氏族の祖神がここにでてきたのでは地祇ではなく天神系の氏族になってしまうので道理が通じなくなってしまうのではないかとも危惧されるが、「伴緒」は伴のリーダーであって、伴(とも)=部族そのものではないことに注意すべきである。

豊受媛神と尾張連
該当する神話の原文の前後をみると、相当の混乱があり、『古事記』の「この二柱の神は五十鈴宮(伊勢内宮)に祭る」の文で、この二柱がどの神なのか判然とせず諸説が入り乱れている。宣長は天照大神と思金神とするが生憎古い時代には思金神は内宮に祭られてない(宣長自身がいうように思兼神が伊勢神宮関係の書にでてくるのは後世のもの)。邇々藝命と思金神と解釈して「五十鈴宮『を』祭る」と読む説もあるが、そのすぐ後に登由宇気神が外宮にます神という文が続くので、ここは「五十鈴宮(伊勢内宮)『に』祭る」が自然。思金神と手力男神とする説は脈絡がなく難しい。そしてその直後に登由宇気神が出てきている文の流れが古来の注釈家たちから唐突であると不審がられている。察するに「この二柱云々」の前に一度登由宇気神と何らかの神が出ていて、その二柱が云々という文章があり、一旦切れてから「天照大神は伊勢内宮に、登由宇気神は伊勢外宮に」という意味の文章が続く形だったに相違ない。
登由宇気神=豊受媛神は、神話の第三機能(=豊穣と生産)を司る神であり、尾張氏の祖先である阿遅鉏高日子根神もまた大国主神の四柱の子の中では第三機能神に該当する。ここに両者になんらかの関係が認められる。おそらく葛城において尾張氏はその祖・阿遅鉏高日子根神のみならず豊受媛神をも自らの部族と職掌の指導神として祭っていたのではないか。

某神と三輪君
前段で説明したごとく、登由宇気神と並んで何らかの神が記されていたが、原文の脱落誤写により、その神は不明となっている。一案として、登由宇気神の前後に登場している神名として、石門別神と手力男神があり、この両神のうち一方を候補とみなすこともできるが、三輪氏との関連付けは難しい。三輪氏は大国主神の四柱の子の中の一神、事代主神の子孫である。事代主神は宮中八神の一神であるが、天孫に国譲りをして去った国津神の一族がなぜ宮中八神に祭られているのか不審がられ、古くから議論されてきた。宮中八神から抽象的な創造力を意味する五柱の産霊神を除き、残りの具体的な意味内容をもった三神は大宮乃賣神(おほみやのめのかみ)・御膳都神(みけつかみ)・辞代主神(ことしろぬしのかみ)である。大宮乃賣神は通説では天宇受賣命であり皇室の鎮魂儀礼の神である。御膳都神は通説では豊受媛神であり阿遅鉏高日子根神を介して尾張氏と繋がる。辞代主神はいうまでもなく事代主命と同一神である。『日本書紀』(一書第二)によると国譲りの交渉が決着した際に、大物主神と事代主神は国津神の代表として一度天高市(あめのたかいち。高天原の都)に昇り、天孫降臨の前に地上に戻っている。この時、地上に戻ったのは大物主神だけで事代主神は一時天上に留まり、天孫降臨の際に改めて天孫に従って地上に帰ってきたとすれば辻褄は合う。

皇室と猿女君
五伴緒の中で、天宇受賣命を伴緒とする猿女君氏について考えるに、猿女氏は実は天宇受賣命の子孫ではない。父系では開化天皇の後裔で皇別氏族、比賣陀君(ひめだのきみ)と同一氏族。なので本来はここにあるべきでないかのように一見思われる。また神話にあげられたリストのままでは5部族の中に皇室・皇族は含まれておらず、皇族を加えると6部族になってしまう。これも不審である。だが、この二つのことをよく考え合わせると、天宇受賣命は天孫降臨の一団の中での役割としては天孫に近侍し守護し奉る「保母」や「乳母」のような存在であり『古語拾遺』には「今の世に内侍の善言美詞をもて君臣の間を和らげ宸襟を悦懌ばしむる如し」と説明されるように、喩えていえば律令でいう「内侍司」であるから、5部族の中の一つが皇室であるのならば、同時に皇族管理担当=律令制下の「正親司(おほぎみのつかさ)」として五伴緒に列挙されているのである。5部族の一つを猿女君氏とするのは天宇受賣命に添えた後世の注による誤りで、正しくは天宇受賣命を伴緒とする伴(部族)に該当するのは何某氏でもなく皇族それ自体(中世風の言い方をすると「王氏」)であろう。
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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