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邪馬台への行程【その7】~水行陸行、里数への換算~

改稿:2679年[R01]12月18日WED (初稿:2679年[R01]10月21日MON)
邪馬台への行程【その6】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その6】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「而」か「或」か
さて、ようやく水行陸行の日数表示が実際どれぐらいの距離なのかという問題だが、まずは倭人伝の中で使われてる「里」の単位に換算するところから始めようと思う。
日数表記のところから里数を割り出すというのはつまり「一万二千里は奴国までの距離」ってことに変更される前の状態を復元することである。
不弥国を内陸に置く説はともかく、九州説でも畿内説でも不弥国は海岸をもってることがほとんどで、投馬国またしかり。なので放射式で伊都国から、順次式で不弥国から投馬国への水行は問題ないとして、邪馬台国の「水行十日陸行一月」が問題だ。
「水行十日陸行一月」の解読には3つ説があり、

(A)連続説。まず水行して然る後に陸行する。
(B)選択説。もし水行すれば十日、もし陸行すれば一か月という二つのルートから選ぶ。
(C)混在説。水行したり陸行したり。水行した分だけ合算すると十日ぐらい、陸行した分だけ合算すると一か月。

(B)の選択説の場合は水行は陸行の3倍計算となる。(C)の混在説はちょっとありえない気がする。普通これは陸行に含めるだろう。そこらをこだわったのなら「乍水行乍陸行、計日、水行十日陸行一月」と書かれたろうけど何が疑問といって、中国人の水行というのは川をいう場合が多く、いずれも悠々たる桁外れな大河でそれに比べると日本の川は小川のせせらぎか急峻な滝みたいなもの。中国人の感覚では水行とは言わなかったのではないか。川を使ったっていっても内陸部だからこれは陸行だと認識されそう。絶対に(A)の連続式にしか読めない書き方なら「水行十日陸行一月」となるが原文のままでも漢文として普通に読み流せば連続式に受け取るのが自然だから、「而」の字を入れるのはややくどい書き方かもしれない。もし間違いなく(B)の選択式に読んでほしいと陳寿が思ったのなら「水行十日陸行一月」とか一字を補ってあるべきだが、その字がないからといって絶対に選択式には読めないこともないからややこしい。例によって「而」か「或」か一字の誤脱を想定すればまたどっちともいえるし、なぜ陳寿はわずか一字を惜しんだのかと深読みすれば「誤読を誘っている」とも思えるw

で、日数の換算だが、ご存知の通り『唐六典』の数値をみると以下のごとし。この数字は唐代のものだが三国時代も事情は大差ないだろう。

『唐六典』


凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里。
水行之程、船之重者、泝河日三十里、江四十里、余水四十五里。
空船泝河四十里、江五十里、余水六十里。
沿流之船、則軽重同制、河日一百五十里、江百里、余水七十里。

水行は1日あたり30里~150里、陸行は30里~70里でばらつきが酷いw 
『唐六典』の数字を使ってありえそうな最大値と最小値をみると、最短の30里を使って放射式+選択式だと邪馬台国までわずか300里。最長で陸行70里、水行150里を使って順次式+連続式だと投馬国まで3000里、邪馬台国まで3600里、計6600里。最短300里で最長6600里なんだから、その間の数字はすべて可能性があることになる。ホントかよw さらに誤写の可能性もあるから「二十日」が実は「二日」「十日」等の間違いだとか、「一月」が「一日」の間違い、とかもありうる。これらを組み合わせるとさらに幅が広がってとりとめもなくなりそうだがしょうがないw どの数値が正しいか(現実にあてはまるか)は、実際にその道を行軍してみた者でないとわからないが、1日あたりの行軍距離について上述のごとく豊富な数値があるので、机上の数字だけなら自在に伸縮可能でなんとでも辻褄あわせはできる。

日数表示は何里か?
ところで、一万二千里が邪馬台国でなく奴国までの距離ってことに設定変更された時に、初期モデルの3000里を消してわからなくするために日数表示にしたんだとすると、単純な計算で簡単に復元できるなら3000里を隠した意味がない。放射式だと2800里だが【その1】で説明した通り、俺の説では伊都国と不弥国の間は500里だと考えるのでその場合は2500里になる。ここの里数3000 or 2800 or 2500里は隠したいわけだから、換算数値を好きなように当てはめれば何通りにも推定はできるが「これが正しい里数だ」というのはわざと確定しないように書かれてるのだとは思われる。作者の気分になってみると元の「3000里」(「3000 or 2800 or 2500里」だが煩雑なので以下《3000里》と書く)を、なにも読者のためにご丁寧に換算して日数表記にしてくれたという保証はないぞw つか奴国までが一万二千里に変更された以上、不弥国から邪馬台国までが《3000里》である必要がなくなっているのだから、そもそも換算前の《3000里》という数値が消えている、無意味になっている。ということは、この日数表示は《3000里》とまったく関係ない数字だということも十分にあり得るのではないだろうか。
そうはいっても「わからないように書いてあるんだから、わかるわけないだろ」だけで終わりにしては「金返せ」って言われかねないw なので憶測レベルの議論にすぎないが、もう少し詳しめに結論めいた議論に力技でもっていってみたいw

孫栄健みたいに水行十日も陸行一月も1200里のことで「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説もありうる。ただ孫栄健の説の場合、投馬国の水行二十日が浮いたまま放置されてる。これは当然2400里で、放射式だとすると何のための虚構なのか意味不明になってしまうから順次式だとして、合算すると3600里になる。「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だって説にこれをあてはめると「10分の1にした上で3倍にした数字」だ。投馬国の位置は「一万二千里」の中では3分の2の地点になり、奴国まで一万二千里として文面上に記述されたルートの上では対馬国上陸地点にあたる(半周を加える前の地点)。ここまでは確かに水行だけなので、ここまで二十日だったとして、倭国内ルート(対馬国上陸地点から奴国まで)は水行と陸行が混在してる。これをすべて水行に換算すると十日、すべて陸行に換算すると一月。水行換算値と陸行換算値が併記してあるのは要するに水行が陸行の3倍の速さだと示すため、ということになる。だがこの説だと、少し無駄で煩雑すぎる気がする。水行も陸行と同じで40里という極めて単純な設定なのではないか? 陸行は邪馬台国のルートではなく投馬国と邪馬台国ルートの合算だとすれば、投馬国まで水行800里、邪馬台国まで水行400里で合計1200里。陸行も同じく1200里。どっちも「一万二千里」を10分の1にしただけの虚構の数字だとした方がシンプルではある。陸行が両行程の合算だっていうのがアレだがw

しかし、よく考えるとそこまで消し去らなくても、もともと日数換算が『唐六典』にあるように伸縮自在なのだから、一度日数にしてしまうと、「換算前の里数」か「特定の換算値」のいずれかをを事前に知ってる者でない限り、里数に復元できない仕組みになってる。つまり一般読者には解読される心配がないし、機密に与る上層部の一部には「換算式によって(《3000里》に)復元できるから嘘は書いてませんよ」というアピールになる。
そう考えるとやはり計算すれば《3000里》になるはずだ。その前提で考え直してみたのが以下。

九州説だと伊都国からの放射式で方角は字のまま南としても、南に水行できないのと思うのだが、これは出発時の方角でなく起点からみた終点の位置する方角とすれば、途中の行路が東西南北どっちを向いててもいいという解釈で乗り切れる。ただし『唐六典』では馬は70里、徒歩と驢馬は50里、車は30里というが、選択式で2800/2500里をこなすには1日あたり水行で300里近く、陸行で100里弱も行かないとならないからムリ。連続式か混在式なら1日あたり「水行130里、陸行50里」で計2800里(水1300+陸1500)にでき、水行を100里にする(水1000+陸1500)か陸行を40里にする(水1300+陸1200)ならば計2500里にできる。川下りコースで黄河が150里、長江が100里だから130里は若干きついが絶対ありえない速さではないだろう。問題はそこでなく、水行した後それに近い距離もしくはそれ以上の距離を陸行するのが九州内では難しい。「迂回することになっても途中までは陸路より海路(もしくは河川)で行った方がよくて、かつ、上陸してから水行できない内陸を海路と同距離もある地点」なんて九州内にありえない。なので連続式でなく混在式とした方がいくらかマシだが、それでもどうかな? そこで選択式で「水行二十日陸行一月十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行140里、陸行70里で2800里とできるし、「水行二十日陸行一月二十日」の誤記だったとすれば1日あたり水行125里、陸行50里で2500里とできる。『唐六典』の陸行70里は馬を使った場合だから人間で40日を踏破するのは厳しいとすれば、端数がでるが「陸行二月」でもよい。1日50里で2800里には2ヶ月めの4日前に到着する計算になり、同じく「陸行一月半」とすれば2500里には2ヶ月めの4日前に到着で、数日余る分には何の問題もない。これなら九州のどこにももっていけそうだが、水行だけでも陸行だけでも行けるのだから九州の沿岸部に限られてしまう。筑紫平野の真ん中や熊本平野の奥や阿蘇カルデラの中にもってく説だと厳しい。宇佐説、鹿児島説、日向説なんかは問題ない。

畿内説でいうとまず順次式だとして、瀬戸内海航行だと近畿との境か手前で上陸することになり意味がわからない。だから日本海航行だと考える。方角からいって投馬国を三丹(但馬丹波)だと仮定すると、水陸の「混在説」がよいようにみえる。この場合の水行とは川を船でいくことで海路ではない。しかしGoogleマップを使うと、この間徒歩40時間しかないw 1日に6時間か7時間歩いたとして6日。すると「陸行一月」も里程と同様、5倍に誇張されてるんじゃないのか? ともかく「陸行一月」だけで行けるとなると、「水行十日」が浮いてしまう。なのでこれを投馬国の「水行二十日」の重出誤記だとしてもいいのだが、ちょっと保留しとくw 陸行30里、水行70里とすると、順次式で投馬国まで1400里、邪馬台国まで水行700里陸行900里で計1600里。合計3000里。重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がこれだとして畿内説に当てはめると(日本海航行で)投馬国は但馬じゃなくて出雲っぽい。出雲だとすると「南」は「東而南」の誤脱ではなく「東」の誤りだということになるのがどうもな…。
第二案として、陸行30里で投馬国から邪馬台国まで900里。「水行十日」は「水行二十日」の重出誤記として無視すると、残りの投馬国まで2100里だから水行105里と決まる。里数の割り当てはいいような気がするが「105里」が半端で不自然だな…。
第三案として、三国志の中では司馬懿の公孫淵討伐戦での行軍速度、1日40里を基本にすべきだという説もあって、確かにごもっともに聞こえるので採用してみる。この場合水行は60里とすると、投馬国まで1200里、邪馬台国まで水行600里陸行1200里で計1800里。合計3000里。これも重出誤記だなどといわずにすむが、里程配分がへんだ。瀬戸内航路だと陸行はわずかにならないとおかしいし、日本海航路でも半分以上も陸行するなんてありえない。
第四案として、陸行は40里のまま、邪馬台国への「水行十日」は投馬国の経路の重複誤記として無視し、邪馬台国は陸行だけだとすると、投馬国から邪馬台国まで1200里。残りは投馬国まで1800里だから、水行は1日90里と決まる。計3000里。これで郡から邪馬台国まで一万二千里になる。数字の辻妻はきれいに合うが(というか無理矢理あわせてんだから当然だが)、これも里程の割り当てが微妙に地理にあわないような…(陸行が多すぎて不自然)。まぁ魏志の設定上の地理だから実際の地理に一致しなくていいともいえるが。

以上どの説もそれぞれ欠点あり、辻褄合わせ感が強いw 自分で書いてアレだが、どれもびみょうに間違ってるような気がするしなw …そう、重要な何かが欠けているのだ…。
倭人伝2
水行陸行の謎解き
やはりここはアレの出番だろう。そう、「春秋の筆法」ですw 出たw
倭人伝の冒頭で韓地の行路の説明が、海岸に沿って水行したとも内地をジグザグに陸行したともとれる書き方になっていて、二つのルートをあえて混在させていた。こんな不可解な書き方をあえてしているのは意図的な「文の違え」で、言外に何かを示そうとする「春秋の筆法」なのである。両方のコースを行くことは物理的に不可能なので、一方を選択しなければならないが、どちらのコースを進んでも(水行しても陸行しても)同じ「七千里」になる。ここで示されているのは第一に「陸行と水行はどちらかを選ぶ」のであって連続式や混在説で読んではいけないということ、第二に「陸行しても水行しても出発地と到着地は同じ、距離も同じ」ということ。つまり投馬国から邪馬台国までの行程は「春秋の筆法」の示すところに従って「水行すれば十日、陸行すれば一月」となる。
これで考えていくと、放射式の場合は上述のごとく1日あたりの距離数をオーバーしてしまうのでムリ。さすれば前述のごとく「水行二十日陸行二月」もしくは「水行二十日陸行一月半」の間違いだったということになる。
順次式では水行は100里となる。『唐六典』でも川下りの場合は黄河で1日150里、長江なら100里、それ以外の川で70里。日本海の東行は潮の流れに乗るのだから中国の大河に比べて1日100里は軽くありえるだろう。すると投馬国までの水行二十日はちょうど2000里となる。で、邪馬台国までは1000里でないと困るので陸行のみで1月を30日とすると平均値は「1日33.3333…里」。1日35里とすると29日(旧暦の小の月)で「1015里」で15里余るが、まぁ前述の放射説の場合と同様、目的地にその日数で達すればよいのだから15里余っても問題ないはずだ、普通ならね。しかし魏志倭人伝の里程や日数は初めから仕組まれたもので普通の計測値ではないのだから、端数が出るのはどうも釈然としない。キリのいい表現で「3日で100里」のつもりだと思われる。ただ、このルートが「但馬~大和」間だとすると基本陸行で水行はないのだから「水行十日」は「水行したら十日」の意味ではない。水行はできないし、しないのだが「陸行の日数を水行に換算したら十日になるよ」という意味なのではないか(そんなややこしいことは言わずに単純に選択式だというだけでも差し当たり問題ないが)。
で、不弥国から投馬国までは水行2000里(=水行二十日)、投馬国から邪馬台国まで陸行1000里(=陸行一月)、あわせて3000里という至ってシンプルなことになる。

瀬戸内海航路の場合、安芸や吉備で上陸して陸行するはずがなく大阪湾のあたりから上陸するしかないから、投馬国をギリギリ東の神戸市須磨区としてもまだ水行が多すぎ陸行が不足する。河川航行も陸行に含んだとしてこれだから大和川の河川航行を水行にいれたらますます不自然。かといって、大和は内陸なのだから「選択式で陸行しない」のだ、ともできない。ゆえに瀬戸内航路は間違いで日本海航行が正しく、投馬国はやはり但馬と確定する。そのはずだが…。
もし以上の説で確定した場合、現実の日数は不弥国から投馬国まで水行4日、投馬国から邪馬台国まで陸行6日だろうが、それは一万二千里が実は2400里を5倍したものだからここの日数も5倍になってるだろうという推測による。
ホントか? まだ釈然としない。どうも大事なことを忘れている。
「邪馬台への行程【その8】」に続く。

邪馬台への行程【その6】~「二郡遂滅韓」の真相と張政の使命~

改稿:2679年[R01]11月20日WED (初稿:2679年[R01]10月23日WED)
邪馬台への行程【その5】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その5】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
三韓情勢の経緯:時系列
魏が公孫氏を滅ぼして二郡を接収し、卑弥呼が親魏倭王になって以降の歴史を辿りながら説明しよう。
AD240年は正始四年で帯方太守弓遵が魏帝の詔書や金印を倭に届けた年でもある。これで倭国が魏に対して「月支国体制をやめろ」と言ってくれる可能性がなくなった、と伯済国は思ったんだろう。それで伯済国は自力で月支国体制を破壊するため辰王を攻撃した。『三国史記』では百済と新羅が外交上初めて接触したのはAD63年になっているがこれは創作だとして、対立であれ友好であれ両国が国交をもつのはもっとずっと後の337年というのが通説だが、根拠がよくわからぬ。『三国史記』ではAD240年に百済が新羅に攻め込んだというが理由も結末も、戦場がどこかも書いてない。この事件とは、帯方郡が実施した「辰王月支国体制」に反対する馬韓が辰王を攻めたが馬韓軍は帯方郡の兵に邪魔されて敗北したという話なのではないか。『三国史記』では攻め込んできた百済に対して新羅が何かリアクションしたようなことも書いてない。この場合、百済(馬韓)軍を撃退したのは魏軍の単独行動な上、戦場は馬韓域内の月支国周辺だから新羅の反応が書かれてないわけだ。しかし新羅があえて百済に反撃しなかったのは、新羅も月支国体制をやめたかったんじゃないのか? 月支国体制それ自体は、辰韓の膨張であり強大化だから初めは辰王も喜んだろうが、抵抗する馬韓人(伯済国)は治め難く効果はあがらなかったんだろう。そうなると辰王(于老)も嫌気がさし、もともと魏に強要されたことだから本国に戻りたくなる。AD240年の事件があってから伯済国も辰王も「月支国体制はダメだ」という点で一致していることを確認しあい、対魏同盟ができたんではないかと思われる。

赤烏七年(AD244)の紀年銘鏡からこの年に呉と倭の関係に何らかの進展があったとみられる。それに対抗するように翌正始六年(AD245)難升米に黄幢が下賜される。黄幢は魏の同盟軍であることを示す旗印で、かつては卑弥弓呼(男王)との戦いのために用意されたといわれていたが、最近では魏に反抗的な韓への制圧のためという説がある。男王国との戦いに「魏との連携」を宣伝してもさしたる意味がないように思う。実際に魏軍が海を越えて援軍にくる可能性などほとんどないことぐらい相手もすっかりお見通しだろう。かといって対韓戦のためでもない。魏と韓の戦争は翌正始七年(AD246)に高句麗討伐戦の派生的事件として「偶発的に」起こったのだから、事前に予知できたとも思われないし、魏に背く韓族を討伐する倭軍は魏の友軍なのは周知のことだから、わざわざ魏の旗印を立てたところで、味方に対しても敵に対してもさして意味がない。そうじゃなくてだね、この黄幢はあきらかに倭国の水軍が直接に呉に攻め入る時のためのものであって、これを下賜するというのは「呉への侵攻」を催促してるということだ。それ以外になんの意味もない。外交戦における、「赤烏七年」に対する魏の逆襲なのである。
ところが、実際に黄幢が難升米に届けられたのは正始八年(AD247)で、普通は、この間、黄幢は帯方郡に留められていたと考えられている。が、そんなことある? 詔書も黄幢も極めて重大な案件で、郡まで届いてれば倭国へ渡すのはなにも困難はない。だから途中までは届けられて狗邪韓国の一大率のもとにあったのではないかと思われる。正始六年(AD245)に「黄幢を下賜した」というのは魏の都、洛陽での話であってそれが帯方郡に届いたのが翌正始七年(AD246)、それから帯方郡の役人である張政がそれを倭国へもってく途中、たまたま後述の魏韓戦争が起こってしまったので、狗邪韓国の一大率か張政のどちらかが「これは使えるかも、いや使うべきかも」と考えて相談し、倭国にすぐには送らず一時的に一大率の手許に留めていたのだろう(もしくは一大率が自分の判断で張政を拘束したか。黄幢は軍旗なので、難升米の判断とは無関係に一大率の権限だけで拘束できる)。

AD246年に魏の毌丘倹が高句麗を破って王都を占拠すると東川王は日本海へ逃亡、そこから北の沃沮へ行ったが、敗残兵の中には南の濊や辰韓の方面に逃げたものもあったので、当初は東川王がどっちに逃げたのかわからなかったんだろう。新羅本紀では245年(恐らく246年の誤り)に高句麗が新羅に攻め込み、于老が将軍として戦ったが敗北したとある。この事件について『隋書』新羅伝にはこうある。

『隋書』新羅伝
魏將毌丘儉討高麗、破之、奔沃沮。其後復歸故國、留者遂為新羅焉。故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬

これからすると攻め込んできたのは高句麗の敗残兵の部隊で、彼らが新羅を征服して新しい支配者になったか、さもなくば新羅は敗北したのではなく彼らを匿い受け入れ高い地位を与えて厚遇して帰化させたか、いずれかであるように読める。魏志韓伝によると、この時、辰韓の那奚国を含む8ヶ国(濊に近い辰韓北部)を楽浪郡の管轄に移そうとしたという。那奚国は韓伝では辰韓12国のうちの冉奚国として出ている(慶尚北道義城郡玉山面)。ここは新羅時代の熱兮県(泥兮県)、衛氏朝鮮の尼谿相参が原住民支配のための本拠地とした「尼谿」の地。異民族との交渉窓口として楽浪郡は濊を管轄し、帯方郡は韓を管轄していたが、逃亡中の東川王が紛れ込んでるかも知れない高句麗の敗残兵の行方を捜索するため、韓の一部を濊とまとめて楽浪郡の管轄に一本化しようとしたのだろう。が、魏志がいうところでは通訳のミスで(辰韓の8ヶ国を楽浪郡に併合して県にすると誤解して?)馬韓の臣幘沾韓国が激怒して戦争になった。しかし通訳のミスなんてのは嘘くさい。原因が辰韓と楽浪郡との問題なのに、なぜ辰韓でなく馬韓の臣幘沾韓国が帯方郡に攻め込むのか。その理由はもちろん上述のAD240年に結ばれたとおぼしき伯済国と辰王との対魏同盟が発動したからである。それだけでなく、馬韓と辰韓は対立しているようだが、高句麗擁護派という点でも一致していたろう。これは後世の6世紀にも新羅と百済が任那をめぐって対立しつつ同時に高句麗に対しては同盟関係にあったことと似ている。

ところがこの戦争で、魏と同盟国であるはずの倭=狗邪韓国の一大率は黄幢を死蔵したまま動かなかった。おかげで二郡は大敗した。
帯方太守が戦死するほどの大戦になったのだから蜂起したのは臣幘沾韓国の1ヶ国ってことはあるまい。魏志韓伝では、この戦争で

二郡遂滅韓


二郡遂に韓を滅ぼす
二郡は韓を滅ぼした滅韓

といってるが、馬韓はバラバラでまとまってなくて、もともと国のテイをなしてないのだから滅ぼしたも糞もないだろう。辰韓(新羅)もこの後の歴史をみれば滅亡した様子は全然ない。なので実は韓を滅ぼしてはいないってことがわかる。同じことを

魏志三少帝紀
韓那奚等、數十國、各率種落、降


韓の那奚らの数十ヶ国おのおの種落を率ゐて降る

ともあり、「滅ぼした」等とは本紀ではまったく言ってない。実際は韓の国々の降伏を受け入れただけのことだとわかる。しかしこの程度のことを韓伝では「滅ぼした」というのはあまりに大袈裟すぎる。滅ぼしてもないのに「滅ぼした」っていうのは春秋の筆法で、実質は「敗けいくさ」なのにあえて「勝った」と嘘を書いてるのではないか。後漢書では帯方郡を分割する前の楽浪郡が18県6万1492戸、人口25万7050人というがこれは全盛期のもので、黄巾の乱以降の人口減少を反映してない。晋書では楽浪郡が6県3700戸、帯方郡が7県4900戸、あわせて13県8600戸しかない。公孫康が帯方郡を作って人口を回復させた成果を考慮しても、晋書の数値は晋の全盛期の記録だろうから、三国時代はもっと少ない。この半分ぐらいではないか。兵は1戸から一人づつ出すので、当時の二郡の兵力はあわせてもせいぜい4、5000ぐらいじゃないか? 晋書の数値そのままでも兵9000弱。対する韓は馬韓のうち伯済国が動員できるのは馬韓の3分の1として兵3万以上、辰王が2万以上、これら連合して兵6万弱。しかし上述のように降伏したのが数十国というからもしこれが誇張でなければ「三韓あわせて七十余国で十四五万戸」の半分としても兵力7万、これはかなり少なめな見積もりだが、まぁ数十国というのは伯済国が勝手に数十国の代表と称して降伏しただけで、魏もそこはわかってて降伏を受け入れてる。実際に一大率の許可なく伯済国にそこまでの動員力はないだろう。それでも伯済と辰王あわせて兵5万なのだから、普通に考えると魏に勝ち目はぜんぜん無い。しいていば、滅ぼしたというのは「辰王が月支国にいて馬韓を治めるという体制」(もしくは「伯済国の臣智が月支国で馬韓の部族会議を主宰する体制」でも可)を廃止したということを誇大に表現しただけなのではないか。この体制はわずか9年間しか続かず、辰王はもともとの本国辰韓に帰った(もしくは部族会議を解散して伯済国の臣智は本国伯済に帰った)。この体制を廃止したのも馬韓からの要求に屈したのだろう。

プロの学者にも古代史マニアにもありがちな間違いとして、「二郡遂滅韓」を真に受け、これで箕準の系統の辰王が滅ぼされたんだという人が多い。が、それなら魏の手柄として明記されそうなもの。ところが辰王がどうなったのか何も書かれてない。これは辰王体制を作ったのが魏でそれは韓族に滅ぼされたから、あえて中国の恥(実は司馬懿の恥)にふれてないのも春秋の筆法である。

馬韓といっても実態は伯済国を中心にまとまっていた馬韓北部の国々であり、百済軍の将軍が臣幘沾韓国の臣智だったから魏志はあたかもが臣幘沾韓国が主体のように書いてるが、これは伯済国の存在を匿すため。『三国史記』ははるか後世に書かれたものだから史実から酷くズレてるが、それでも百済本紀の同年の条に当時百済王だった古尓王(こに王)が「左将(百済軍のトップ)の真忠なる者に楽浪郡を襲撃させたが復讐を恐れた古尓王は楽浪郡に謝罪した」とある。真忠の姓「真氏」は百済八大姓の一つで臣幘沾韓国の「臣」に通ずる。真忠は中国風の名前に改変されてるが臣幘沾韓国の臣智だったんだろう。同時期の辰韓=新羅の動きもわかる。高句麗の敗残兵が辰韓に逃亡してきたことを、『三国史記』は高句麗が新羅に攻めてきたとして、しかも年次も1年まちがっている。この時、将軍于老は高句麗軍に敗れて馬頭柵まで退却したという。馬頭柵は後世の馬忽郡だとすると今の京畿道抱川市で、3世紀には帯方郡の南部にあたる。ここに退却というのは地理的におかしいので、逆に攻め入ったって話だろう。魏韓戦争の際、于老は辰王として辰韓の兵を率いて、臣幘沾韓国の辰智が率いる馬韓の兵とともに帯方郡へ攻め込んだんだろう。退却というのは高句麗兵を追い出さず招き入れたって話が間違って伝わったもの。

さて、魏志の三少帝紀で「数十国が降伏した」というのも、その実は伯済国が(辰王を含む)数十国を代表して謝罪したっていう程度のことだった可能性が高いんじゃないのか。しかし、なぜ謝罪したのか? 郡を一国に喩えれば太守はその国王であり、それを殺したのだから大勝利だろう。そのまま二郡を滅ぼすことなど造作もないことと思われる。「二郡遂滅韓」なんてのは春秋の筆法どころか大嘘もいいところで、これは本当は「二遂滅」というのが真相だろう。弁韓は参戦してないから、辰韓と馬韓で「二韓」ね。

ところが不可解なことに、勝利した側が自分から折れて謝罪したのである。おそらく、巨大な軍事力をもちながら戦争中には動かなかった弁韓の一大率が仲に入って取りなしたのではないか。仲裁者である一大率を伯済国を含めた諸国は「畏憚」してるんだから命令を聞く他ない。もっとも一大率には軍事指揮権があっても外交権がないから、伊都国の難升米を呼び出したんだろう。難升米が提案した講和の条件はこうだ、(1)月支国体制は廃止。(2)伯済国は韓の非を認め、韓を代表して魏に謝罪する。実を取った伯済国は名を捨てるわけだ。(3)魏は韓を代表しての伯済国の謝罪を受け入れる。そうすると事実上伯済国は「韓の数十国」の代表ということになってしまうし、伯済国が自然に復権するだろうが、魏はそれを黙認する。だが名目上は魏は「こっちが勝った」ってことにできる。一大率としては男王派の辰韓まで守る気はなかったが、そこは伯済国が三韓すべての代表者として振る舞うために、謝罪組のリストに辰韓も入れるようにと、難升米に手を回したんだろう。これなら伯済国は辰王との対魏同盟も守れたことになる。魏は実質は敗北なんだが、仲裁者の難升米は魏の率善中郎将であり、二郡の太守より格上なんだから逆らえない。魏の率善中郎将の裁きはすなわち魏の裁きである。魏が韓に謝罪させたんだから、これを勝利と言わずしてなんとするw 魏は実を取りそこねたが名を取れた訳である。またこの時、一大率が預かっていた詔書と黄幢は難升米に渡すことができたはずだが書かれていない。なぜかというと張政の使命は詔書と黄幢を倭王卑弥呼に渡すことであって難升米に渡すことではないからである。ただ軍事戦略上、一時的に一大率のもとに留めたにすぎぬ。

新羅が高句麗の敗残兵を庇護して自国に帰化させたことで両国は関係がよくなりAD248年には初めて同盟関係に入った。しかし新羅と百済はずっと前からすでに仲が悪くなって久しく、魏韓戦争での同盟関係もAD255年に壊れることになる。

しかし今回の一大率と難升米の動きは馬韓と辰韓にはトクだが、魏にしたら自分は裏切って一兵も出さず逆に恩を売ってくるという卑怯で姑息な態度にみえたはず。帯方郡では一大率の動きに「倭国はどういうつもりだ」と不審を覚えたろう。戦死した弓遵に代わって、この年か翌正始八年(AD247)かわからぬが王頎が帯方太守として転任してきた。王頎は東川王を追撃していた武将で、つまり今回の戦争の原因に直接関与していた男でもある。だから今回の事態の真相究明と戦後処理の責任者として打ってつけの人物だった。そんな話はすぐに倭国に伝わり、同年中に倭国から載斯と烏越の二人(「載斯烏越」という一人の名ではない)が帯方郡にやってきて、男王との戦いがあったために軍を動かせなかったのだと事情説明というか、言い訳をした。魏志に

倭女王卑弥呼、與狗奴國男王卑弥弓呼、素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃狀

とある。実際に前年、魏と韓の戦争中に、倭国内でも男王と女王の戦争があって男王を滅ぼしたんだろう。男王が亡んだということを帯方郡に報告するということは、男王派である辰韓への威嚇(ないし帰服の勧告)にもなる。ここで「相攻撃する狀を説く」とのみあって男王を亡ぼしたとはいってないが、まだ残党の掃除までは終わらず、三韓諸国の動向も最終的なところまでみえていなかったので言葉を濁したんだろう。かなり微妙だが厳密には確かにそれは嘘ではない。これに対し太守王頎は、

遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之

と。えーと、「檄を為りて告諭す」は、狗奴国と仲良くしろと言ったとかの、脳味噌が腐ってるとしか思えない解釈が横行してるんですが、そんな訳ないだろ! 世間にありがちな説では倭国と帯方郡とのやりとりを「情報不足や勘違い、あるいは虚偽宣伝での外交戦」みたいにいう人も多すぎる。帯方郡のような「辺郡」といわれる役所は異民族交渉のプロであると同時に軍隊でもあるから諜報も発達してるんで、男王がすでに亡ぼされたことぐらいとっくに把握してたろう。告諭したのは同時にもってきた詔書の内容なんで、それ以外のことではない。詔書が書かれたのは正始六年(AD245)だからその詔書には狗奴国との不和の件も韓族との戦争の件も出てくるはずがない。じゃ、その詔書には何が書かれていたのかというと、そもそもの魏にとっての、「倭国の存在意義」そのものの件だよ。対呉同盟、それ以外になにがあんの?「因齎詔書黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之」の意味は超訳すれば「魏韓戦争は突発的な事件であり、黄幢の本来の目的とは関係ない。韓族との講和交渉では、敗けいくさだったのに勝ったことにしてくれたから、その恩に免じて今回は細かいことは不問に付すけど、詔書と黄幢は今度こそしっかり渡しましたよ、ちゃんと呉を攻めて下さいよ」ってことだ。世間では魏がすごく大国で東夷はしょぼくれてるように思ってる人が多いが、それは根拠のない思い込み。人口規模と軍事力で圧倒的な差があり「魏<韓<倭」なので気を使ってるのである。味方になって呉を攻めてくれんのならいいが、ウッカリ機嫌を損ねてこっちが攻められたらAD246の魏韓戦争のような大事になってしまう。相手が韓だから二郡が滅亡する手前まで行っても倭に止めてもらえたが、相手が倭だったらその程度の損害で済むはずがない。
この魏韓戦争が一段落したので、張政は難升米と一緒に狗邪韓国から渡海してようやく伊都国に着いた。ここから詔書と黄幢をもって邪馬台国へ行こうとした。詔書と黄幢はどちらも重大な物件で、おろそかな扱いをしたら高級官僚でも首が飛ぶクラスのもので、当然、倭王に直接渡すべきだからだ。しかし魏志倭人伝の記述では、なぜか率善中郎将にすぎない難升米に渡している。率善中郎将は(校尉も)四品相当だからけして低い官位ではなく、州刺史や郡太守より格上なほどだが、それでも本来なら倭王の代理になれる訳がない。張政の塞曹掾史は七品でかなり下だから難升米には逆らえないだろうが、ただでさえ難升米の権力が絶大で「いいから黙って俺に渡せ」と言われれば仮に張政の官職(名目的地位)が高かったとしても従わざるを得ない状況を示しているだろう。魏としては建前上の辻褄をあわせるためには難升米を倭王そのものか少なくとも倭王の正当な代理だとみなして納得するしかない。外交に関しては一切を任されてるんだから魏からみれば事実上の倭王そのものである。難升米は倭国内部の規則では軍事指揮権はないのだが(一大率とは別人だから)、一大率は外交権がなく、魏使は一大率と直接交渉できない。魏の方から軍事行動を要請するにも窓口が一つしかないのだから結局は難升米を通すしかない。魏からすると難升米一人が全権者であり倭王みたいなものになる。

ところで張政の「塞曹掾史」って肩書だが、掾史は役所の長。曹は役所で、馬曹、車曹、戎曹、金曹、法曹、倉曹、鎧曹、戸曹、水曹と職務によっていろいろあるわけだが、「塞曹」というのは他に例がなくなんのことだかわからない。張政は帯方郡の役人じゃなくて中央から派遣されてきたんだという説もあるが、それならこんな妙な肩書はどうなのか。帯方郡がオリジナルで設置した官だろうから、やはり郡レベルの役人だろう。「塞」の字は軍事要塞のこととみて、辺境守備隊のようなものとする説があるが、そんなありきたりの役人ならもっとメジャーな職名が普通にありそうに思われる。で、もしやこれ狗邪韓国なり伊都国なりに常駐する帯方郡の役人の肩書じゃあるまいか。伊都国は「兵万余」(魏略の戸万余は誤写)を擁する巨大な軍事基地だし、狗邪韓国も一大率が常駐してたなら同様だったろう。

三韓への倭からの影響
繰り返しになるが、魏の建前では馬韓をとりまとめる者は存在せず、臣智の称号をもつ国々の主帥らが思い思いに帯方郡から魏の官爵をもらっていることになってる。その中には馬韓だけでなく狗邪国や安邪国といった弁韓の国も入ってるのは上述の通り。しかし辰韓の国はない。辰王も魏から官爵をもらってる様子はない。辰韓と馬韓が対立していたのなら、馬韓が親魏派で、辰韓が反魏派のようにみえる。が、「辰王月支国体制」は魏が馬韓を抑えるために辰韓の力を借りた体制だから、矛盾しており、だからどのみち瓦解するのは時間の問題だった。「月支国部族会議体制」だったとしても伯済国の王位を否定するものだから反発は大きかったろう。魏は伯済国が公孫氏の係累であることを重視してその宗主権を否定したのに、なぜ馬韓は親魏派になり魏の官爵をもらうのか。なぜ辰韓は馬韓の支配まで任せられたのに反魏派なのか。

その謎の鍵は倭国だろう。239年の親魏倭王、大夫難升米の率善中郎将、都市牛利の率善校尉の件は倭国からも帯方郡からも、三韓へ向けて広報があったろう。それで馬韓も弁韓も倭にならって率善邑君、帰義中郎将、都尉、伯長といった官爵を受けるようになったが、辰韓はそうしなかった。

「帰義侯中郎将」とあるのは誤りで「侯」は衍字。邑君は大国の首長で臣智に与えられ、邑長は小国の首長で臣智でない者に与えられる。中郎将、都尉、伯長の3つはすべて武官で、邑君の部下に与えられる。しかし、実際はどれぐらい多く与えられたのか、さして多くなかったのか一切不明。

新羅本紀では218年・222年・224年・240年に百済と新羅が戦争してるのでこの頃の辰韓と馬韓の仲の悪さが察せられるし、232年と233年は倭国が新羅に攻め入り233年の戦では于老が倭を撃退、249年には倭人が于老を殺したという。この話は日本書紀にも「宇留助富利智干」(うる・そほりちか)を殺した話として出てくる。つまり倭国と辰韓も仲が悪かった。当時の倭国は男王と女王に分かれて争っていたことは三韓にも知れ渡っていたろう。だから同じく仲の悪い辰韓と馬韓は、一方が男王についたら他方は女王につく道理。伯済国の方が辰韓よりも帯方郡に近く、馬韓での宗主権さえ認めてくれるのなら出来れば魏とは仲よくしたいのが本音だから、新魏派の女王国に寄りたいわけよ。辰韓はそれに比べると帯方郡からかなり離れてるし、辰王は古くから代々続く血筋で、血統意識も強いから、女王(その実は女王を担がねばならない男弟)よりも単独で正統性を主張できてる男王を本物っぽく感じるわけ。で、弁韓だが、ここには狗邪韓国にもうひとつの「一大率」が常駐してるんだから当然、女王の支配圏。つまり辰韓は女王と敵対している男王国を支持していた。辰韓が魏の官爵を拒否していた理由はこれ以外に考えられない。
もっとも倭国では率善中郎将は難升米、率善校尉は牛理と、名前も、そして何をした人かも明記されてるが、韓では諸国の臣智の中には官爵を授かってる者がいるというだけで、誰がどの官爵を受けたのか一切書かれてない。辰王だけでなく弁王も伯済国の臣智も魏の官爵をもらってないばかりか名前のわかってる者が一人も出てこない。このことから韓では魏の官爵というのは、あまり重要な人物でなくても臣智でさえあればもらえるレベルの、多分に形式的なもので、おそらく帯方郡と倭国及び他の三韓諸国に対して「私は親魏派(&女王派)ですよ」と明示する程度の意味しかなかったのではないかと思われる。東夷伝の中では、夫餘伝や高句麗伝には王の名とか固有名詞が出てくるが、これは独立国の歴史を説明するため必要だから。韓に重要人物が一切でてこないということは、邑婁伝や東濊伝や沃沮伝と同じで、統一国家ではなかったのみならず、東濊や沃沮が高句麗の属国だったことを思い起こさせる。同じように、三韓もまた倭の属国だったのである。

馬韓の実態
魏志韓伝の解読はこれくらいにして、ようやく元の話に戻れる。書紀の「百済・新羅・任那」と魏志の「馬韓・辰韓・弁韓」の境界線が一致しないことだ。

この頃は伯済国の宗主権は馬韓の北部と西海岸沿岸部だけと思われ、中部、南部の馬韓は伯済国の下にはなかった。そこは魏志韓伝のいうような、無秩序に放置された権力の空白地帯だったとは考えられないし、別な言い方をすれば北に伯済国、南に弁韓があってその緩衝地帯だった等ということもありえない。
もし狗邪韓国に常駐していた一大率が『日本書紀』のいうような任那日本府のようなものだったとすると、その管轄範囲である任那とは、弁韓地域にとどまらないもっと広域の地名である。後世の任那の範囲は加羅諸国(弁韓)だけでなく継体天皇の時に百済に割譲した四県二郡も任那に含まれている。その前には雄略天皇の時に「久麻那利」(熊津:くまなり)の地を、さらにその前には神功皇后の時に四邑を百済に下賜している。「久麻那利」は今の公州市(馬韓の古蒲国)のことだが、この場合は公州を中心とした一帯(忠清南道のほぼ全域と忠清北道の西半分?)。四邑は比利(ひり)、辟中(へきちう)、布彌支(ほむき)、半古(はんこ)でそれぞれ現在地は、忠清南道の西海岸が比利(庇仁)。全羅北道の西海岸の北が辟中(金堤)で南が布彌支(茂長)。全羅南道の西海岸が半古(羅州か潘南)。以上の四県二郡・久麻那利・四邑はすべて馬韓の地であり百済に下賜される前には任那の一部だった。つまり『日本書紀』では弁韓だろうが馬韓だろうが関係なく、新羅や百済が領有してないところはすべて任那の一部という扱いになってる。
このことから察するに、伯済国の宗主権の及ぶ馬韓諸国を除いた残りすべての馬韓諸国は、狗邪韓国に常駐した一大率の管轄下にあったと考えるべきだろう。伯済国・辰王(辰韓)・弁韓(一大率)という、まとまった政治勢力に囲まれて、広大な馬韓が政治権力の空白地帯だなんてことは不自然すぎてあり得ることではない。

しかしそうすると、前述の馬韓の「綱紀すくなく、邑落雑居し、よく相制御すること能わず」という文から、揉め事を治めることもできない有様はどうしたことか、とツッコミが入るかな? どうも「邑落雑居」という言葉からすると、敵対する者同士が雑居してるようにも聞こえる。
さらに韓伝には馬韓について

國邑各立一人、主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑、名之為蘇塗(中略)諸亡逃、至其中、皆不還之。好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠、而所行善悪有異


国々には「天君」という司祭職が「蘇塗」という神殿施設を管理しているが、そこはアジールの機能があって、犯罪者が逃げ込むと逮捕連行できないので、好んで悪事をなす

と。これ単に与太者や不良グループやギャングが横行して治安が悪いということを言ってるのではない。神官がなぜ悪の手助けをするのかといえば簡単で、日本国内の事情と同じく、土俗信仰の神官だからそういうものを馬鹿にする儒教や中国人が嫌いで、魏と結んでいる女王も嫌いな「男王派」だから。「好んで賊をなす」の「賊」ってのは魏や女王派からみての賊であり、辰韓や男王派からすれば正義の蜂起、義挙なのである。
この文の後すぐに続けてこうある、

其北方近郡諸國、差暁禮、其遠處、直如囚徒奴卑相聚


其の北方の近郡に近き諸国はいささか礼を暁るも其の遠き処はただ囚徒奴卑の相聚まる如きのみ
北部の帯方郡に近い諸国はいくらか「礼」を知ってるが、遠いところ(南部の馬韓)はまるで囚人か奴隷のようだ

という。これ馬韓の未開ぶり、野蛮さを表わした文だと思われがちだが、そうだろうか? 南北で非対称になってないか。「礼」は現代人が考えるようなマナー、エチケット、礼儀作法のことではなく、儒教の「礼」の概念だろう。もともと

『礼記』
礼不下庶人、刑不上大夫


礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず

というように、礼は士大夫のもので庶民は関係なかった。だが孔子は身分に関わらず誰でも礼を含む学問をして君子になれるとした。つまり理論上は囚人や奴隷でも礼を学んだ者はありうる。
庶民でなく支配階級の問題なのであるから「礼」のもっとも重要な意味は上下関係、指令系統のつながりのことなのである。北部の諸国が「礼」を知るというのは伯済国を通じて魏がその諸国に命令できるという意味であり、伯済国がそれら諸国を把握してるという意味でもある。「差暁」もニュアンスの微妙な言葉で「差」は「やや、ちょっと、すこしだけ」の意味なのに「暁」は「よく知ってる、深く知ってる」の意味だ。これを合わせて「差暁」と言ってるので「ちょっとしか知らない」のか「詳しくよく知ってる」のか、訳が分からない。これはどういうことかというと、馬韓諸国(の中の反魏派、男王派)は魏をよく思ってないから反抗的なんだが、よりによって魏が馬韓の代表権を取り上げたはずの伯済国を通せば(力づくで)従わせることができる。こいつらは「礼」を知ってんだか知らないんだか、という皮肉なのである。
これに対して南の方では囚人や奴隷のようだというんだが、未開ぶりや野蛮さを表現する言葉など他にいくらでもありそうなのに、この喩えはへんじゃないか? 高貴な囚人もいれば立派な恰好した奴隷もいるんだから。これは未開ぶりや野蛮さを言ってるのではなく、「強制された境遇」をいってるのである。馬韓諸国は北が伯済国の支配下、南が弁韓の一大率の支配下にあって分割されてるが、どちらも親魏派かつ女王派である。しかし馬韓諸国の中には辰韓と同じく男王派で反魏派という人々がたくさんいた。辰韓も、こっちの仲間になれと盛んに誘いをかけてもいただろう。馬韓の北部(京畿道)は伯済国を中心にまとまっていたんだろうが(いささか礼を暁る)、馬韓の中部南部(忠清道・全羅道)では一大率の武力の下で厳重に管理されてるから囚人か奴隷のようで(囚徒奴卑の如し)反抗できない、ということを言ってるのだ。囚人は看守に、奴隷は主人に逆らえないように、馬韓人も一大率には逆らえない。が、抗争がないわけではない。囚人同士、奴隷同士の争いがある。雑居してる「男王派=反魏派」vs「女王派=親魏派」の騒動が絶えない(綱紀すくなくよく相制御すること能わず)、「女王派=親魏派」は馬韓においては体制派なので臣智たちが守ってくれるが、それに対抗する「男王派=反魏派」は蘇塗の天君たちが味方してくれてたんだろう。一大率がいくら軍事力あっても古代人はカミガミには手を出せない。伯済国や倭国(女王国)からみれば、この馬韓の騒動はぜんぶ辰韓が悪いのである。一方、辰韓からみると伯済国も弁韓も悪の陣営なのだから、両者は仲が悪くて当然なのだ。

結局、魏志韓伝の描く3世紀の三韓の政治的な境界線は表にすぐわかるように書かれてない。馬韓の中南部は弁韓と一つの勢力なのであり、馬韓の北部はすでに伯済国を中心にまとまっており、三韓の実態は4世紀以降の任那・百済・新羅が鼎立していた情況と大差ないのだ。しかしそれは魏志韓伝の文面に表われない。馬韓が北と南で別の国になってることがわからないように書いてあるし、魏韓戦争も「二郡が韓を滅ぼした」と真逆のことを書いている。
魏が消したはずの伯済国の存在、月支国体制の愚策ぶり、AD246年の魏韓戦争での大敗と屈辱的な講和。馬韓と弁韓に対する一大率の絶対権力、三韓における帯方郡の無力さ。それら魏(というか晋だけど)の面子にかかわることはすべて建前上、無かったことにされている、春秋の筆法で。

百済建国と馬韓の分割
馬韓は3世紀の段階ではすでに「伯韓」か「済韓」とでも書くべき存在だったが、伯済国の宗主権を否定した魏では一時代前の馬韓という名称を使ったのである。高句麗は121年に玄菟郡、その翌年には遼東郡に攻め込んでいるが、2回とも自国の兵以外に濊貊(江原道の東濊)と馬韓の兵を伴っている。魏志によると正始六年(245年)以前には東濊は高句麗に属していたとあるから、高句麗軍の中にに東濊兵がいるのはわかる。が、馬韓兵もいたのだから121~122年の頃は「馬韓と高句麗の関係」はすでに「東濊と高句麗の関係」と同じものになっていたように思われる。つまり馬韓は高句麗に支配されていた。その支配の根拠地として築かれたのが「乾馬国」で、馬韓という名はこれから起こったことは今回のシリーズの【その1】に書いた通り。121~122年の高句麗の二郡への侵攻に対し、高句麗の宿敵である夫餘は漢帝国に援軍を出して二郡を救っている。この時、高句麗軍に東濊兵のみならず馬韓兵もいたことに、夫餘も気付き、対抗上、高句麗から馬韓を奪い、我が物にしようとしたんだろう。それが伯済国の建国と、伯済国による馬韓北部の制圧へと繋がっていく。

『三国史記』百済本紀では後来の侵入者として馬韓の北部に勝手に国を建てた百済が、馬韓王と対立し、ついに戦争で馬韓を滅ぼしその領土をそっくり頂いたことになっているが、学界の通説では馬韓王などというものは存在せず、馬韓の諸国を長い年月をかけて少しづつ併合していったことになっている。『日本書紀』の描写は微妙で、最初の方では任那日本府の勢力圏と百済の間にはどこにも属さない小国がたくさんあるような雰囲気なんだが、後の方になるといつの間にか任那と百済は国境線で接してることになってる。このへん、特に最初の方の記述は『日本書紀』の文面もずいぶんと不可解なことになっていて、神功皇后が新羅の不正を糾すために派遣した荒田別(あらたわけ)の軍が新羅を降伏させた後に、なぜか関係のない加羅七国(弁韓)を平定し、さらに西(馬韓の地域)に移動すると「四邑おのづから降りぬ」(4つの国が降伏した)。この四邑は加羅七国とは遠く離れてるので、その間の地帯がどうなってたのか説明がない。ここは誤脱があり、降伏したのは四邑を含む馬韓全体なのではないか。四邑を百済に下賜する話との間に文章が抜けているのである。
中国側の史料がいうように百済の実質的な建国が公孫度と尉仇台によるものとすればそれは2世紀後半で、馬韓のうち北部(京畿道)の諸国をとりまとめていた。それより南にすぐには進出できなかったのは、馬韓の抵抗が大きかったんだろう。そこで書紀が伝える百済(伯済国)と日本(倭)の国交樹立の説話の通り、百済の方から日本にわざわざ「属国になりたい」とアクセスしてきたのは馬韓を制圧するのに支援を取り付けるためとしか思えない。しかし実際に日本と百済の共同作戦となると、馬韓はことごとく倭(日本)に降伏した。なぜかというと、百済の侵略に抵抗していた「馬韓」(乾馬国を中心とする中部、南部の諸国)は建前上は高句麗の属国だったんだろうが、本国が遠く離れているので目の前の百済と戦うにはアテにできない、かといって百済の下につくのも嫌だから。そうなると百済についていた北部の馬韓も「じゃ俺たちも一緒に日本に」となるから、北部諸国の連合体としての百済は崩壊してしまう。日本としては百済との国交もあり、百済が独力で勝ち取ってきた宗主権を、関係ない日本が横からでてきて否定するわけにもいかない。なので、自主的に降伏してきた馬韓の中部と南部は任那の勢力圏に含むことにはしたが、すでに伯済国の配下になっていた北部の諸国は伯済国(百済)の宗主権をそのまま安堵してあげたってわけだろう。乾馬国は今の全羅北道の益山だからかなり南に寄っており、『三国史記』がいうような北方に存在した初期の百済がいきなりそこまで併合しちゃう話は辻褄が合わない。
邪馬台への行程【その7】」に続く。
【その7】では水行陸行の日数を倭人伝での里単位や実際の距離に換算します。

邪馬台への行程【その5】~「至」と「到」・辰王・三韓~

改稿:2679年[R01]11月19日TUE (初稿:2679年[R01]10月23日WED)
邪馬台への行程【その4】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その4】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「至」と「到」の使い分けを春秋の筆法でみると?
倭の諸国の行程で、狗邪韓国と伊都国だけ「到」の字で、他はすべて「至」になっている。この二文字は、使い分ける場合には「到」が最終目的地で「至」はそれ以外の通過点ということになるが、必ずそう使い分けると決まってるわけでもない。漢文の用例を大量に調べあげる人は昔からいて、使い分けてる例もあればまったく同じに使ってる例もあり、いろいろ。

倭人伝で「到」の字の使われている狗邪韓国と伊都国に、本来なら「到」の字を使うべき邪馬台国を加えた3ヶ国で「到」の字の使い分けの組み合わせは以下の8パターンがあり得る。

(A)邪馬台国にのみ「到」
(B)伊都国にのみ「到」
(C)狗邪韓国にのみ「到」
(D)3ヶ国とも「到」
(E)「到」の字なし(「至」で統一)
(F)伊都国と邪馬台国に「到」
(G)狗邪韓国と邪馬台国に「到」
(H)狗邪韓国と伊都国に「到」

(A)と(E)は通常の書き方であり問題なく、特に(E)は『梁書』と同じでもある。(B)と(F)はやや異例だが魏使が常駐するという伊都国の特殊性に鑑みて理解できなくはない。問題は狗邪韓国に「到」の字を使う(C)(D)(G)(H)で、この4つは以下の3通りの解釈ができる。

(甲)「至」と「到」を同義の文字として使い分けず混用している
(乙)使い分けようとしたのだが狗邪韓国の「到」はただの誤記
(丙)「春秋の筆法」で遠回しにウラの意味を示そうとしている

上記3通りのうち、一応(甲)と(乙)は無いものとする。話が終わっちゃうからねw
で、もし春秋の筆法だとしても(C)と(G)はわかりやすい。実は狗邪韓国までしか行ってない、倭国に行ってないってことを示しているわけだろう。だが (D)と(H)は倭国内にも「到」の字があるんだから「狗邪韓国までしか来ていない」とは読めないし「伊都国までしか来ていない」と言いたいのならなぜ狗邪韓国に「到」の字があるのか意味がわからない。この、意味がわからない最後の(H)が倭人伝の書き方で、もし使い分けるとすれば最後の終着点である邪馬台国で「到」の字を使うべきなのにそうなっていないんだから、一応、倭人伝では「使い分けられてはいない」。伊都国は魏の使いが常駐するところで倭国滞在中の定宿(じょうやど)だったろうから「到」の字でもいいような気もするが、それは邪馬台国で「到」の字を避けた理由にならないし、狗邪韓国で「到」の字を使った理由にもならない。だから、通常の漢字の意味からすると、どうも使い分けは無いっぽい。そう正しく理解したればこそ『梁書』ではすべて「至」の字で統一してるわけなのだ。そんなこんなで論争史が長い割りに、最近はどうやら最終的にはたいした意味はなかったってことに落ち着きそうな気配だ。

だが、「にもかかわらず」昔は使い分け説の方が有力だった。使い分け派の眼目は2つあり、1つは魏使が伊都国を最終目的地としていて、邪馬台国へは行ってない説。もう1つは伊都国を中心とした「放射状説」(「到」の字だけが放射説の根拠ってわけではないのはもちろん知ってるが)。放射説はさておいても、行ってない説はありえないことはすでに説明したが、そもそも「到」の字が伊都国にのみ使われてるならともかく「狗邪韓国」にも使われてるんだから、両方に共通する説明ができなければおかしい。狗邪韓国からも放射状の行程があるとして「日数表記」の邪馬台国と投馬国への出発地とみる説もあるが、なんで伊都国からなり不弥国からなりの、もっと近いところからの行程が抜けていきなり狗邪韓国からの直行コースが出てくるのか意味がわからない。
また狗邪韓国は明らかに通過点であり最終目的地ではない。そこに数日でも停泊したに違いないとか、倭国の領海に接してて、ここから倭国だからとか、いろいろ理屈をいう人がいるがまったく関係なくね? 区切りっぽい何か雰囲気あればなんでもコジツケようってだけじゃん。狗邪韓国と伊都国だから漠然とした雰囲気だけは確かに共通してるが、そんな程度でも「到」の字を使ったのなら終着点の邪馬台国にはなおさら「到」の字じゃないとおかしい。そういうつかみどころの無いムード話なら無いのと同じで、あるんだと絶叫するだけアホだぞw 普通はここで解決とするわけだが、俺は釈然としないね…。お前も釈然としないだろw アホだからなw 陳寿も俺らアホの仲間かw そう、一字の違いに「微言」を隠すという秘技「春秋の筆法」を駆使する陳寿先生が、不用意な雰囲気レベルの感覚や気分で適当に字を変える漢(おとこ)のはずがないじゃないかぁ。

さて本題に入ろう。ういろう食おう。春秋の筆法には、表面上の意味と裏に隠された真意があり、前者は一般人向けだから漢文として普通に読んだ場合の理解。『梁書』はこの水準で魏志を抜粋引用したわけだ。現代の通説もこっちの解釈だな。だが、注意深い読者は「あれ? なんで「至」と「到」を書き分けてんだろ? 通常の漢字の意味での使い分けに合ってなくね?」と気づく。が、春秋の筆法を知らないと「まぁ、行程の中の区切りっぽい地点だからなんとなく到の字の方が雰囲気あってるよな」という浅い理解で終わってしまう。しかし邪馬台国で「至」になってるのに気づけば疑念が深まるはずで、ここで「ははぁん、伊都国までしか行ってないのかな?」と一瞬思うんだが、もしそれが隠された真意なら狗邪韓国は普通に「至」で済ませて、わざわざ「到」の字なんか使わない。つまりここで陳寿が言いたいことは「魏使は伊都国までしか行ってない」なんてことではありえない。
『梁書』のように全部「至」で通すか、もし使い分けるのなら順次式なら邪馬台国でのみ「到」、放射説なら伊都国でのみ、もしくは伊都国と邪馬台国で「到」。直行式も放射説も狗邪韓国で「到」の字が出る筋合いはない。
このような一見乱れたような「到」の字の使い方が意図的な「文(ふみ)の錯(たが)え」なのである。

伊都国と狗邪韓国に何かの共通点があることを示そうとしているのはわかるが、それは何か。むろんそれは本文中で明示されているはずだ。といっても狗邪韓国には弁韓の一国であることと、倭への出港地(実は韓への入港地だがそれはともかく)ということ以外なにもなく、この2点は伊都国に共通させようがない。

そこで伊都国をみると

(1)代々の王がいる
(2)代々の王がいるがその王は倭の女王の支配下にある
(3)帯方郡の使者はいつもここに駐在する
(4)一大率がいる

と、かなり豊富な情報がある。で、この4点すべて狗邪韓国にも共通してるのだろうか?

(1)は、もしそういう事実があったのなら、そのまま書いても何の不都合もなさそうだから「春秋の筆法」の出る幕もないだろう。だから実際に魏志韓伝には「十二国また王あり」とある。これは弁韓の12国をさすというのが定説だが、各国ごとに王がいて12人の王なのか、12国を統べる1人の王がいるのか解釈が分かれる。弁韓12国をすべる1人の王というのはつまり弁韓の王で、この他に「辰王」というのがいてこれは字づらからして辰韓の王だろうから、弁韓の王は「弁王」ということになる。馬韓の「馬王」とかもいたんじゃないのかと思われ。春秋の筆法で隠されてるのである(なぜ辰王だけ出て馬王と弁王は出てないのかの理由など今回は邪馬台国と関係ないので詳しくやらないが)。
この場合の弁王というのは後世の加羅諸国の盟主だった金官国=駕洛国(3世紀の狗邪韓国、書紀の「南加羅」:今の慶尚南道金海)の歴史を記した『駕洛国記』に出てくる金氏王朝ではない。同じく加羅諸国の盟主だった伴跛国(=大加羅国、3世紀の弁辰半跛国:今の慶尚北道高霊)の王家である。後世の『三国遺事』等では駕洛国を伽耶諸国の中心国としているが、『日本書紀』では6世紀の南加羅の滅亡後の加羅諸国(=弁韓諸国)の盟主は大加羅=伴跛国が主体のように読める。なので、通説では加羅諸国における宗主の地位が前者から後者に移ったとされることが多いが、実は後者の方が弁韓の盟主としては古い。なぜなら今回のシリーズの【その1】で詳しく説明したから根拠は省略するが弁韓の「弁」は弁辰半跛国(原文に「半路国」とあるのは誤写)の「半」で、弁韓とはもともと「半跛韓国」の意味から付いた名前だからだ。つまり弁王(=弁韓の王)というものは弁辰半跛国の、半跛国王である。さらに魏志韓伝に

臣智或加優呼『臣雲遣支報・安邪踧支・濆臣離兒不・例拘邪秦支』廉之號


たぶん「臣智或加優呼『臣雲新暹支・安邪踧支・臣濆雞辰支・拘邪秦支』之侯號」の誤記。
「例」の字は「佝」か「𠛎」の誤記で「佝拘」または「𠛎拘」は1字で済む字を誤って二度書きしたもの(衍字)。
「兒」の字は「辰・兂・冘・卂・先」のどれかの誤字で、いずれもシンと読む。

臣智あるいは優れるものに加へて呼ぶに「臣雲新の暹支」「安邪の踧支」「臣濆雞の辰支」「拘邪の秦支」の侯号あり
臣智たちのうち、あるものは強大で地位が高いので、「馬韓の臣雲新国の臣智」「弁韓の安邪国の臣智」「馬韓の臣濆沽国の臣智」「弁韓の狗邪国の臣智」という(4人の)諸侯としての称号を加えて呼ぶ
【注】「臣雲新国・安邪国・臣濆沽国・狗邪国」が優れるものだが馬韓の国と弁韓の国が区別なく混ざってることに重大な意味がある。なお、ここの文を最初に「臣雲新(国)の遣支報・安邪(国)の踧支・臣濆沽(国)の不例・狗邪(国)の秦支廉」と解読したのは李丙燾という昔の学者で、彼は「遣支」は「険側」の別表記、「踧支・秦支」は「臣智」の別表記で「不例」は「樊濊」の別表記とした。また「報」と「廉」は名前かとしている。しかし「不例」は「樊濊」だというのは音韻的にムリじゃないか? ここにあげているのは「優れるもの」であり諸国の中のトップクラスだろうから、階位2位の険側や3位の樊濊が混じっているとするよりも、すべて臣智と考えた方がよい。他にも俺の説であれこれ修正を加えた。

とあり弁韓の中では安邪国の臣智(=踧支)と拘邪国の臣智(=秦支)が「優」(まされるもの)だった(臣智は大国の首長の称号)。つまり3世紀にはすでに狗邪韓国(=金官国)も有力になってはいたが王より下の臣智であって、王ではないことがわかる。ここに半跛国が出てこないのは半跛国の首長は臣智より格上の「弁王」だからだろう。李朝時代の伝説では大加羅の初代の伊珍阿鼓が次男で、金官国の初代の首露王が三男の兄弟だという。二人はAD43年に即位してるから3世紀にはすでに二つの王家が存在していたことになるが、3世紀には金官国(狗邪韓国)の王は(弁韓諸国の内部では王と認められていたかもしれないが)、魏志韓伝の建前では王と認められておらず臣智の位に留まっていたことがわかる。

(3)もまた、もしそういう事実があったのなら、そのまま書いても何の不都合もない。なのに書いてないのだから単純にそういう事実は無かったとも考えられるし、差し支えはないのだが重要じゃないから省かれたとも考えられる。ただ、後述のようにここに一大率がいたのなら帯方郡の使者が常駐していてもさほどへんではないし「到」の字義からしてそれもまたあり得そうではあるが、まぁ、どっちでもいいことだから関係ない。

そうすると春秋の筆法で隠された事実は(2)と(4)だとわかる。ただしこのブログの別記事で伊都国の「統属女王国」の部分は『魏略』逸文と照合の上、「奴国に属す」の意味であり「女王国に統属する」の意味ではないとした(詳細は該当記事参照)。伊都国にいるけどそれは伊都国王ではなく奴国王であり、伊都国に出向してるだけだ、と。そうなら(2)も狗邪韓国の王は狗邪国にいたが、狗邪国王ではなく近隣の別の国の王であり、狗邪国には出向してるだけだということになる。これも別に魏の建前に抵触するとは思えないので、このような事実があったとしても隠す必要はないわけで、そんな事実はなかったから書かれてないのだとも考えられるし、隠したわけではなくたまたま書かれてない(重要でないから省かれた)だけかもしれないし、そこは決め手がないが、まぁどっちでもいい。しかし通説どおりの「倭の女王の支配下にある」という解釈も、結果的にその意味だけは生きている。なぜかというと(4)の一大率がいてこれは倭王の派遣した官で管轄下の諸国を支配してるのだから「統属女王国」の文字があってもなくても、一大率がそこにいるのならそこは倭国の領土も同然ということになる。つまり春秋の筆法によって隠された事実とは「一大率が伊都国と狗邪韓国の両方に一人づついた」ってことだよ。一大率は「女王国以北を検察する」んだが、三韓の諸国も確かに女王国以北には含まれる。そして「諸国これを畏憚」して、その様は「刺史の如し」だよ。こんなものが弁韓の狗邪国(今の金海)にいたといったら、へんに聞こえるか? ちょっとした歴史マニアなら全然へんには聞こえない。まさに任那日本府そのものじゃんw

もう一つの「一大率」
任那日本府については左巻きがうるさいので、これを実在したと考える学者でも、あーでもないこーでもないと遠回しな理屈をつけて朝鮮総督府のようなものとは違うんだと力説してる。が、総督府だったら困るのは歴史的な経緯でいろいろと面倒くさいことになってる現代人の都合であって、古代人の知ったこっちゃないんじゃないかい? 任那日本府というのはね、これはね、朝鮮総督府みたいなもんなんですよwww んなわけないっつのw まぁでも韓国統監府ぐらいのものではあるよwww え?違いがわからない? そんな歴史オンチは豆腐の頭にカドぶつけて氐ねw 氏ねなんていってないぞ、氏質都札じゃなくて氐質都札ですから。間違えないでね原田実先生w つかこんなネタ誰もわからねぇか、みんな歴史オンチなんだからぁ、ホントにもう。これからはね、皇国史観ですよ、団塊の爺婆の皆さん! まぁ冗談は顔だけにして話もどそう。『新撰姓氏録』には崇神天皇の時に任那が新羅と争ってるために将軍の派遣を要請してきたので、和邇氏の祖、塩乗津彦命(しほのりつひこのみこと)が任那に渡り鎮守となったという話が出てくる。ここで将軍というも鎮守というも「宰」(みこともち)のことで鎮守将軍はその役割を漢文的に表現したもの。すなわちこれが任那日本府の起源であり、AD391年どころか神功皇后の新羅征伐よりずっと古い。現代の学者は古記録や古伝承を後世に作られた説話とみなして史料的価値を認めず、任那日本府の起源を『広開土王碑』に出てくるAD391年の倭国の半島進出に求める見解が多い。これだと卑弥呼の時代に任那日本府のようなものがあるはずないということになるが、俺は卑弥呼の時代すでに一大率が狗邪韓国(=弁辰狗邪国)にも派遣されていたと考えるから、むしろ記紀や古伝承が正しいと思うんだよね。

邪馬台国がそのまま大和朝廷だという説の場合には、伊都国の一大率が後世の太宰府帥の前身だという言い方は昔からありふれてる言説だ。任那日本府の日本府という字は奈良時代の表記で、篤胤以来『続日本紀』の注に引用された『仮名日本紀』によって古くは「倭宰」と書きヤマトノミコトモチと読んだと考えられているが、大宰府も和訓ではオホミコトモチノツカサと読む。任那日本府も宰(ミコトモチ)、大宰府も宰(ミコトモチ)。2つの宰(ミコトモチ)、2つの一大率がセットになって対馬海峡をはさんで呼応しているのである。
後世の律令で大宰帥(だざいのそち)の帥がソチまたはソツと読むことから倭人伝に出てくる一大率の率もスイではなくソツと読むべきだという説はだめ。大宰帥の読み方は一大率をソツと誤読したことから始まったもので、一大率はスイが正しい。またミコトモチというのは日本国内文献でさかのぼれる最古の言い方ではあるが、さすがに3世紀の言葉ではない。以前にこのブログでは伊都国の大官「爾支」(にき)が一大率のことだと推定した。だとすると狗邪韓国の一大率も日本語では「爾支」(にき)だったと思われる(今回の記事ではわかりやすさを重視して「一大率」と書いてるが、頭の中では「爾支」(にき)と変換しながら読まれたし)。

さてw 任那日本府(のようなもの)が、はたして3世紀にすでにあって、当時中国から邪馬台国と呼ばれたヤマト朝廷が朝鮮半島を支配していたのであろうか?www「魏志倭人伝にそんなこと書いてないじゃん」とツッコまれるだろうか? そんなことはもしあったとしても、魏の建前ではそれは認められなかったとしたら、ストレートに書かれてないのは当然じゃんよ。
ちょっとこのへんは三韓の情況が魏志にどう書かれているかという話とも関連してくるので、以下、詳しく展開しよう。

※↓日本の古代史オタに間違った古代史像を刷り込んだ罪深い地図
井上秀雄
どこがおかしいかわかるかな? 最低でも5か所はあるよw ちなみに井上秀雄は(今じゃ)別に学界の通説でもないからなw

辰王と月支国の謎解き
もし狗邪韓国に常駐していた一大率が『日本書紀』の任那日本府のようなものだったとすると、その管轄範囲は任那である。で、『日本書紀』の描く朝鮮半島南部の様子は東の新羅、西の百済、南の任那と三区分になっているが、これは魏志韓伝の辰韓・馬韓・弁韓という区分とは国境線が一致してない(詳細は後述)。
ただしこの『日本書紀』の認識は、新羅が辰韓を、百済が馬韓を統合した4世紀以降の情況を反映させたもので3世紀の情況ではないというのが定説だろう。3世紀の三韓の情況は魏志韓伝を基本に考えるのが常套になっており、一見したところ『日本書紀』の記述とはまったく違ってみえる。だが、この魏志韓伝には「辰王」なる者が出てくるんだが、この記述に矛盾があって解釈がややこしく、その部分には学界にも通説があるわけではない。だからまずは魏志韓伝を解読してみようじゃないか。

魏志の馬韓伝によると、馬韓は朝鮮王の箕準がやってきて馬韓を征服して韓王を名乗ったがその子孫は途絶えたともいってる。この話は事実ではないということはいずれ機会を改めて詳細に説明したい。今回は省略するが、カタクナに信じたがる人がいるので今仮に百歩譲って事実だとしても、その王家はすでに消滅して存在していないという。

其俗、少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雑居、不能善相制御


その俗、綱紀すくなく、国邑に主帥あれども邑落雑居し、よく相制御すること能わず

とあり、馬韓の諸国はバラバラ勝手に存在して、馬韓全体をまとめる王(つまり馬王)のようなものは無い。王がいないから無秩序になってると言いたいらしいが、自治が機能していれば東濊や沃沮のように王がなくても争乱なく穏やかに治まってるはず。伯済国(書紀でいう百済)も出てくるが、馬韓諸国の中の一つにすぎず、当然、馬韓を支配するような存在だったようには書かれていない。それなのに

辰王、治月支國


辰王は月支国に治す

とあり。この辰王がクセモノで、業界では「ニギハヤヒ電波」に次いで「トンデモ辰王説」が多くてウンザリする。俺も長い間、箕子朝鮮実在説と辰王のトンデモ解釈に振り回されて遠回りしたけど、ああいうのって面白いからなかなか目が覚めないんだよ…。それはさておき、魏志韓伝では辰韓の説明の前なのに唐突に辰王なるものが出てくるが、冒頭に「辰韓は古の辰国なり」とあり、「辰韓=辰国」なら「辰韓王=辰国王」だろうし、要するに、読んで字のごとく辰王とは辰韓の王でしかない。辰王(辰韓の王)の宮殿や政庁は馬韓の月支国にあったという意味になる。月支国は誤記で「目支国」が正しいというのが有力説だが、見た目かっこいいのでこのまま月支国と書くことにする。なお辰王と箕準の関係も一切ふれられてないし、なぜ辰韓の王が辰韓でなく馬韓にいるのかも馬韓伝の中では説明がない。かといって辰韓伝を読んでも、辰王が馬韓にいるということは辰韓伝の中では書いてない。馬韓は政治的には一つのまとまりではないのだから、馬韓が辰王を任命してるとか、馬韓が辰王を使って辰韓12国を支配してるとかはどうにも考えにくい。岡田英弘は帯方郡との交易のための通商代表部を置いてたんだというが、それが中国からみて王というほどのものなら金印なり銀印なりと一緒に官位を授けそうに思われるが、そういう話も一切ない。馬韓の臣智たちにはいろんな官位を授けているのに、だ。古くは李丙燾を初め何人かの学者が魏から官爵をもらっていた臣智たちは辰王の宮廷にいた辰王のとりまきのようなことを言ってるが、李丙燾の個人的な解釈であって、本文にそんなことは書いてない。原文は辰王についての文と魏の官爵についての文の間に「臣智或加優呼、臣雲遣支報・安邪踧支・濆臣離兒不・例拘邪秦支、廉之號」が挟まっており、それに続けて

其官有、魏率善邑君・歸義中郎将・都尉・伯長


(原文の「歸義候中郎将」の候の字は衍字)

とある。だから「其の官」の「其の」ってのは臣雲新国・安邪国・臣濆沽国・狗邪国の4ヶ国に代表される臣智たちのことであって辰王ではない。魏志は劉昕と鮮于嗣を派遣して帯方、楽浪を平定したという記事に続けてすぐ

諸韓國臣智、加賜邑君印綬、其次與邑長


諸韓国の臣智に邑君の印綬を加賜し、其の次なるものには邑長を与ふ

とあるのにここにも辰王はでてこない。二郡を接収してすぐ「辰王ぬき」で臣智たちに官爵を与えている。安邪国と狗邪国は馬韓でなく弁韓だが、辰韓の国は一つも入ってない。馬韓と弁韓の、各国の首長である臣智たちは辰王とは無関係に各自で帯方郡から官位を受けている。辰王は辰韓の王なんだから、どうも「馬韓・弁韓」と「辰韓」とでは政治的な立ち位置に違いがありそうだ。また、後漢書を拡大解釈して辰王は三韓ぜんぶの王だと言いたがる人がいるが、それも魏志の記述に反する。

辰韓伝では

(辰韓の)十二国は辰王に属す

とあるから辰韓はどうやら王を中心に一つにまとまってるように受け取れる。つまりこれが『日本書紀』でいう新羅のことで、多少は国境線のズレはあったとしてもほぼ同じものと見ゆる。ただ、問題点があり、原文は

辰王常用馬韓人作之、世世相繼。辰王不得自立為王


辰王は常に馬韓人を用ゐてこれをなし、世々相継ぐ。辰王みづから立って王となるを得ず

となっている。辰王は馬韓出身らしいが代々続いているんだから辰韓人も同然じゃないのか?「不得自立為王」(自分では王になれない)ということについて『魏略』では辰韓12国が馬韓に支配されてるからだと解釈してるが、そんな力のある辰王が馬韓人なのに、馬韓はまとまりがなく上記のような有様なのはどういうことか理解に苦しむ。「自分では王になれない」ということが馬韓の支配下にあることをいってるのなら辰王は辰韓人のように聞こえるし、逆に辰王自身が馬韓人なんだから馬韓から任命されてる総督のようなものだとすると「自分では王になれない」なんて辰韓人の立場のようにいうのもおかしくないか? しかも「自分では王になれない」といいながら辰韓の王は昔から代々続いてる家柄だとも書いている。ならば何者かが王を任命するにもその王を否認して別の王を擁立するにも、どのみち特定の家系からしか王を選べないことになる。それと辰王は辰韓じゃなくて馬韓にいるというのが事実なら極めて重大な話だろうに、辰韓伝にはそんな話は一切ない。これは単に部族会議で王を推戴することによって王に貴族層が承認を与え忠誠を誓う儀式のことを言ってるにすぎまい。特に新羅は王家が3つあって王位をたらいまわしにしていたが、新羅の貴族層は六部といって慶州盆地の豪族でもあり、3王家が居住地を通じて六部のうちの3部とそれぞれ結びついてもいた。3王家の王位争いに貴族層の利害が複雑に絡まり、代替わりのたびに会議での駆け引きが重大なものになったろう。

『新唐書』東夷伝新羅条
事必與衆議、號「和白」。一人異則罷


事必ず衆と議り、『和白』と号す。一人異なれば則ち罷む
事を行うに必ず会議をひらき、これを『和白』という。一人でも異を唱えれば決定しない

とあり。その「和白」で次の王が決まるから「自分では王になれない」のであって、馬韓から送り込まれてくるからではない。馬韓はバラバラであり、まとまった勢力ではないのだから、辰王が馬韓人だといっても「馬韓という一つの勢力」を代表してるわけでもない。辰韓人は中国からきた移民だと書いてあるから、馬韓人だというのは要するに中国系の移民ではなくもともとの原住民系の家柄だということにすぎない。

問題はその辰王(書紀でいう新羅王)が馬韓の月支国にいたという件だ。
日本書紀の描くところでは魏志のいう馬韓にあたる地域は北が百済で南は任那で分割されてることになってる。けして支配者のいない権力の空白地帯ではない。これは魏志でも馬韓が政治的なまとまりをなしてない、ただの地域名でしかないことに一脈通ずる。ただ、百済の存在が魏志と書紀とで違う。

『三国史記』百済本紀では百済の建国はBC18年、『三国史記』新羅本紀では新羅の建国はBC57年というが、もちろんこれらは後世に作られた伝説だとして学界では認められてない。漢籍史料では3世紀まで「馬韓・弁韓・辰韓」の時代であって「百済・新羅」は4世紀から登場するからだ。馬韓が最後に晋に朝貢したのが290年で、『晋書』慕容載記に346年のこととして百済が出てくるのが史料上の初出だから、この間56年間に伯済国が馬韓を統合して百済になったとするのが定説で、百済本紀で近肖古王が即位したという346年を百済の建国とみなすことが多い。同様に、辰韓が最後に晋に朝貢したのが287年で、前秦に新羅が朝貢した377年が史料上の新羅の初見だから、この間90年間に斯蘆国が辰韓を統合して新羅になったとするのが定説で、新羅本紀で奈勿王が即位したという356年を新羅の建国とみなすことが多い。
だが、馬韓と百済の関係はいろいろ問題があるからわかるとしても、辰韓と新羅は完全に連続しており、馬韓百済のケースと一緒くたにはできない。辰王というのは日本書紀や三国史記にでてくる新羅王と同じものだろう。

百済についていえば学界の定説も『三国史記』の伝説も、ともに従い難い。
後漢書や魏志では公孫度と夫餘王の尉仇台が婚姻を結んでおり、周書や隋書では夫餘系の仇台なる者が百済を建国したというが、『通典』では百済は夫餘王の尉仇台の後裔だとしていることから、仇台と尉仇台は同一人物とわかる。「いや別人で後世に混同されただけ」という説も有力だが、それはこれらの中国系の伝承は後世のもので信頼性にかなり問題あるからなのである。だからこれらの伝承を否定して、魏志韓伝の記述を信用して「この頃の伯済国はまだ馬韓の中の一国にすぎない」とされているわけだ。
だが、少なくとも2世紀以降に公孫度が遼東で自立して以降、百済(魏志の伯済国)を含めた馬韓北部の諸国と公孫氏とは密接な同盟関係だったと推定することは許されないだろうか。公孫氏の支配した5郡の人口は不明だが晋書地理志には帯方郡4900戸、玄菟郡3200戸、楽浪郡3700戸、遼東郡5400戸、東莱郡6500戸。三国時代にはもっと少なかったろうがとりあえず晋代と変化なかったと仮定して計2万3700戸(東莱郡を除いたら1万7200戸)しかない。高句麗3万戸は濊2万を従えていたから実質5万戸。夫餘8万戸との同盟がなければ高句麗に抵抗していくことはムリ、まして14~15万戸もある三韓を公孫氏が独力で抑え込むなど不可能である。三国志を読んでると公孫氏が自力で群雄として遼東に割拠していたかのように書かれているが、人口からみると現実には夫餘王の保護国だったとしか思われない。独力では南に接する馬韓を抑えられないから夫餘の力を借りるし、だから馬韓の北部を統合した百済は夫餘系だという伝承が残ってる。すべて整合的であって、百済が夫餘系だとする伝承を後世の創作とみなす最近の動向はいきすぎだろう。つまり公孫氏が健在だった頃は、伯済国は夫餘を後ろ盾とする者同士として公孫氏と同盟関係にあり、馬韓の北部を支配下に置いていたのではないか。馬韓の3分の1でも3万戸になるから、伯済国と公孫氏はほぼ対等な同盟関係だったこともありうる。公孫淵が滅ぼされた時に、伯済国は魏からみて公孫氏の係累と看做され(実際に血縁もあった)、馬韓への宗主権が否定されたんだろう。だから馬韓には王(に該当するような存在)は無いというのが魏の建前なのである。

一つの案としては「辰王治月支國」(辰王は月支国に治す)には誤記があるとすればどうか。辰王でなく「馬王」だったというのがいちばん安直ではある。が、辰王ではなく「辰支」だったとも想像できる。臣智は「遣支」や「踧支」、「秦支」とも書かれているから、「辰支」でも通じる。で「辰支は月支国に治す」と。中心となるべき伯済国が謹慎せざるを得ない情況で、馬韓の有力な辰智たちは月支国に集まり連絡協議会をもった。一種の部族会議で、王の不在の情況を乗り切ろうとしたのだと解釈する。あるいはこの「辰支」(=臣智)は複数の臣智たちではなく、伯済国の臣智ではないか。伯済国の臣智は月支国を治所として馬韓北部の諸国を束ねる実質上の馬韓王だった。あるいは両説折衷して、複数の臣智たちによる部族会議ではあるが議長(実質リーダー)は伯済国の臣智だった。馬韓北部の王なのではあるが、魏がその地位を否認したため公式には王とは書けず『三国志』の中では一階級下の臣智になっている。一応、王位を否定された身なので自国を会議場にするのは憚られる。だから伯済国の勢力圏の最南端にあたる月支国を会場とした(京畿道と忠清道の境に近い)。ここなら勢力圏外の馬韓諸国への呼びかけにもなる。月支国(正しくは「目支国」だが)の位置は、今の忠清北道の陰城、忠清南道の禝山と木川で3ヶ所の説がある。当時の百済の勢力圏の南の境は安城川と思われ、この川はほぼ京畿道と忠清道との道境に重なり、いちばん離れた木川でも安城川まで20kmぐらいしかない。

「この誤字説でかまわない、これで解決だ」と思うのだが、納得しない人もいると思うので、ここは誤字は無しとして、そのまま辰王(辰韓の王)がなぜか馬韓の月支国にいたと文字通りに受け止めることにしてみよう。この場合はなぜこんなへんなことになっているのかその理由を考えなければならない。
帯方郡は、伯済国の宗主権を否定したはいいが、

其人性、彊勇

とあるように馬韓は精悍凶暴で手を焼く存在なので直轄支配は困難だった、そこで辰王に馬韓の統治を依頼したのではないか。「夷を以って夷を制する」の策である。ちょうど公孫氏が馬韓の統治を夫餘王に依頼したのと同じである。
そういうわけだから、辰王は本国から遠く離れた月支国に半ば人質のような状態できたわけではあるまい。大軍を率いて占領軍のように駐留したんだろう。これは有能な将軍でもある王でなければ務まらない。
『三国史記』によれば当時の新羅王は助賁尼師今(サヒ/じょふん、尼師今は称号)で、従兄弟の息子にあたる于老(ウル/うろう)という王族を娘婿にしていた。『三国史記』ではわからないが当時の新羅は二重王制で、この場合、于老の岳父である助賁尼師今が「葛文」(かつぶん/カスミ)、助賁尼師今の娘婿である于老が「寐錦」(むきん)の位にある(AD502年に葛文は「葛文王」、寐錦は「寐錦王」と改称され、これらの王号は韓国で出土した石碑に出てくる)。于老は『三国史記』では即位することなく死んだが王子でありその子も後に新羅王になってるほどの王族中の王族で、大将軍として兵権を握り、あちこち出征して活躍してたから、辰韓の王都(斯蘆国)から遠く離れた月支国にしばらくいたことがあってもさして問題ないだろう。『日本書紀』でも「宇留助富利智干」(うる・そほりちか)として出てくるが、新羅王だとしているのは『日本書紀』のミスではなく、本当に新羅王だったのである(尼師今も王号だが寐錦の訛りではなく昔氏王朝の称号。助富利智干は「舒弗邯」と同じだが臣下の位階ではない。これが位階の第一位の名に使われたのはずっと後世で、当時はまだ新羅の位階制はできてなくて、魏志がいう臣智から邑借までの5つしかない)。
そういうわけで、助賁尼師今は辰王として辰韓本国にいたまま、同時に于老ももう一人の辰王として月支国に赴いていたのだと考えられる。
邪馬台への行程【その6】」に続く。
【その6】ではちょいわかりにくい今回の話を時系列で説明します。

邪馬台への行程【その4】~狗奴国は九州か東国か・使訳通ずる30国の数あわせ~

改稿:2679年[R01]10月22日TUE 初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その3】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その3】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
実は、魏使は邪馬台国まで行っていた?
「会稽東冶」の問題はまだ半分で、重大な議論が残っているが、その前に片付けておかないとならない話を先にする。
ちょっと話もどるが、それは魏の使者が邪馬台国まで本当に行ってたのかどうか。まぁ邪馬台国論争ではポピュラーなネタの一つではある。
そもそも「邪馬台国までの一万二千里」が「奴国までの距離」ってことに作り直すはめになった根本理由は、魏の使いが邪馬台国へ行かなかった(=北九州から出なかった)からだと一応思われる。その根拠は、第一に魏使は伊都国に常駐するとあること、第二に「不弥国までの里数表示」と「投馬国と邪馬台国への日数表示」という二種類の記述があり、後半の日数表示は倭人からの伝聞記事だとも考えられること、第三に倭の諸国への行程は「至」の字が使われているのになぜか狗邪韓国と伊都国のみ最終地点をあらわす「到」の字が使われていること。これらのことから魏の使いは伊都国より先には実際は行ってないのではないかという、有名な説が大昔からある。これもカタクナな反対論がある一方で、有力視もされてた。だが、これはたして本当にそうか? よく考えるといろいろおかしいと思うのだが…。

広大なシナ大陸を縦横無尽に駆け巡った三国志の武将らにしたら、北九州から畿内大和にいくぐらいたいした距離じゃない。だから物理的に行けなかったとはまったく考えられない。
なので、中には卑弥呼が面会を拒否したと考える人もいるかも知れない。武装親衛隊にガードされ「会う者少なし」とあるから容易なことでは面会できない様子はわかる。しかしこれは平常モードの話であって、ハレの重要な祭儀の時とか、国家の重大な案件の場合でも常にそうだとしたら、この人は女王といっても傀儡で実態はただの監禁された人ってことになる。なんでそんなことがありうるのかというと卑弥呼は宗教上の存在で神に仕える神聖な巫女で、補佐していたという「男弟」が実権を握っていたからというのだ。こういう説を真に受ける人は「ヒメ・ヒコ制」という古い学説に影響うけたままいまだに目が覚めてないんだろう。「ヒメ・ヒコ制」批判は長くなるから省略するが、卑弥呼は王なら誰でもという程度の普通の意味では神に仕えていたろうが、格別に祭司だの巫女だのという存在ではない。「鬼道」の2文字だけからそういう妄想を膨らませる説が多いが、そもそも「鬼道」が原始的な部族宗教でも土着宗教でもアニミズムでもシャーマニズムでもないし、日本の神道でもなければ中国の道教でもなんでもない。「鬼道」の意味については別の記事で詳しく書いたので今回は省略するが、要するに卑弥呼は祭祀王でも巫女王でもなく、高貴な血筋によって王であるところの普通の王なのである。たまたま女性だからって巫女だ祭司だと短絡すべきでない。「会う者すくなし」といっても昔の皇族貴族の女性はみんな奥に隠れており来客にすら襖や屏風を挟み、外出時も庶民に顔を見られないようにイスラム女性みたいに厳重に隠していた。ましてや王ともなれば当たり前ではないか。男でも昔の天皇というのは容易に面会できず、できても簾をはさんで顔はみえない。ましてや女性ともなれば当たり前ではないか。しかも当時は男王国と敵対しており、刺客やテロへの対策もある。
あるいはこう考える人もいるだろう、魏の使いは倭王に要求するであろう臣下としての服属の礼を回避するために会わなかったのだ、と。だがそれも理由じゃないと思う。前にも書いたが、中国人は建前に対してけして四角四面ではない。礼も法もその運用は情況に応じてなんとでも変化すること日本人以上に柔軟で、中国人同士の抗争に生き延びるために異民族に頭を下げるなんてまったく平気だし、派閥のボス(司馬懿)のメンツを立てるためなら土下座でも裸踊りでもなんでもやる。むろん異民族の側も敵対時はともかく和親の相手にまでそこまで失礼な要求もしない。隋の頃、聖徳太子と「どっちが格上か」みたいな建前や形式といったくだらないことで争って追い返された裴世清は「綏遠の才なし」(異民族を手玉にとる才覚がない)と中国人からも酷評されてる。会うこと自体はどっちの側にも問題ないはずで、和親の外交はお互いに利益で結ばれたのだから当然だろう。
別の理由を考える。畿内大和に向かうのになぜ瀬戸内海の穏やかな海を行かず日本海の荒波を行かねばならないのだろうか? 男王国の領域については別の記事で詳しく書いたので省略するが、黒潮文化圏とかなりの程度重なっており、女王国が吉備(の陸上)を押さえていたとしても、男王国の海賊は瀬戸内海に出没しており、女王が制海権をとれなかったのではないか。海賊といっても男王からすれば正規の海軍であり、女王の方こそ海賊なのだが。かといって日本海航路なら安全ともいえない。北九州に大軍を駐留させるような余力が魏にあったとは到底思えないので、魏使の警護は倭国が担当することになる。むろん女王の威信にかけても刺客の類は撃退する用意があったろうが、魏使の安全が守られればよいという問題でもない。倭国の領内で外交使節を襲うような不埒な反逆勢力の存在それ自体が、国使の眼前にあらわになることが問題である。魏も倭国の内部事情は知ってるのだが、だからよいとはならない。魏にしてみれば一万二千里から使いを出してくれて、呉との戦いに力を貸してくれるのならば女王でも男王でもいいわけだ。だが女王国と男王国は、同一民族の同一国民の上で支配階級だけが割れている状態だから、失態をしでかすことは命取りになる。常に敵方より上の力量をみせつけねばならない。そういう中で日本海航路をとった場合でも、魏使への襲撃があっただけで問題になる。だから安全をとって魏使を九州に留めていたのか。しかしそれならなおさら邪馬台国まで強く招いたはずだ。なぜなら会えないのならそれは女王の外交が男王に阻止されたことになるからである。この程度の警護も不安だとすると九州と畿内の連絡は常に男王国の勢力によって揺さぶられていたことになり女王国は成立不可能である。卑弥呼は倭国のすべての国力を結集し、大倭王の名誉にかけても、なんとしても魏の使いを王都邪馬台国へ迎え入れようとしただろう。だからこれも違うな。
あるいは少し似てるが、倭と魏には同盟内容について認識のズレがあり、それが事務レベル、例えば難升米と梯儁が相談して処理しており、中国向けと日本向けの詔書を捏造していた、とか? これはアレだ、豊臣秀吉と明の万暦帝の間で小西行長と沈惟敬がやった欺瞞外交のようなこと。これなら直接女王からあれこれ聞かれるとマズイかもしれない。しかしこれは「郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」とあり通り、卑弥呼から直接派遣されている一大率の厳重な管理下にあったからムリだろう。

倭国の使いもはるばる洛陽までいって魏の皇帝に面会してるのに倭王が魏の使いとの接見を拒否するのは対等でもなく、不自然だ。お互いに会いたかったろうとも思われる。あっちからみれば異民族の女王なんてエキゾチックだし、こっちからみれば三国志の武将だぞw 現代でも女性の三国志オタなんていくらでもいるだろうがw これはね、両思いなの。だから倭国と魏使のどちらが接見を拒否したにしても、やむを得ない理由なの。一方的に拒否したのか、協議のすえ合意してやめたのかはわからないが。
いったい何が問題なのか? 魏使に行けない理由なく、倭王また歓迎せんとすれどもやむなくお流れになったとすれば「やむなく」の真相は何か。ポイントは二つある。一つはさっきから言ってる「本音と建て前」の使い分け。もう一つは呉の存在、これしか考えられない。

呉は西南諸島づたいの航路で倭国と交渉をもったと想像する説も、有力ではないがこれまた昔からある説だ。すでに別記事で書いてるが、狗奴国(男王国)と呉の外交は230年に失敗破綻しており、あせった呉はまだ決裂前だった公孫淵や高句麗にも仲介してもらって、邪馬台国(女王国)との外交になんとかこぎつけた。その証拠が赤烏元年と赤烏七年の紀年銘鏡である(この鏡が男王国=狗奴国のものではありえないことはこのブログでは説明ずみ)。

別の記事にも書いたが、紀年銘鏡の年代が新しいことをもって卑弥呼の時代と無関係とする説は採れない。たとえ時代の下ったものであろうとも、その「年」に特別に銘紀するに値する何らかの特別な年だという知識がなければ「銘」にならないだろう。卑弥呼より後の時代にも「その年が特別な年だ」という歴史の記憶が継承されていたということになる。

赤烏元年(改元は九月)は景初二年だから魏と女王国の国交が開けた年よりも一年早い。238年説だと同年になるが魏への使いは公孫淵征伐のドタバタの中での突発的な事件だったから、そんな最中に呉との新規国交なんてのは考えにくく、これ以前からの長い下ごしらえ期間が想定される。つまり倭国との外交に関しては、呉は魏よりも先輩だったのだ。だから伊都国には魏の使いも常駐していたが、呉の使いもいた。しかし倭国の北九州随一の軍事基地(=伊都国)の中で揉め事は起こしたくても物理的に起こせない。魏使と呉使は表面上はいがみあいながらも裏では情報交換もしていたろう。魏の建前としては女王国は中華皇帝としての魏の正統性を支持したことになっているので、魏使は呉使が女王国にきている事実を公にはできない。しかし中国人らしく現実ともそれなりに付き合っており、いちいち伊都国での許可は要るものの、邪馬台国(畿内大和)へも非公式には何度も行っており、非公式には卑弥呼とも何度も接見していたに違いない。それはもちろん呉使も同じだろう。北九州にも畿内にも、一介の平凡な中国系帰化人を装った間諜や密偵の類は、魏も呉もわんさか放って情報収集はしていたはずだし、倭国側もそれは承知のこと。卑弥呼の宮廷で魏人と呉人が同席することも珍しくなかったろうし、倭国としてはむしろそういう方が賑やかで喜ばれる。しかしそれはあくまで私的な交流であり、公式なセレモニーで同席するのはまた別なこと。公式なセレモニーでは呉使と同席するわけにはいかない。しかし倭国は魏を特別扱いせず、呉を排除するような配慮は拒否した。親魏倭王つったってこっちからおねだりした訳でなくあっち(司馬懿)の都合でくれたわけだろ。239年(238年説もアリ)の朝貢も司馬懿の手下から頼まれたのであってこっちから希望していったわけではない。どこの国でも外国からの使いは見世物(アトラクション)であるとともにそれ以上に自国の徳を示すもので、この上ないアクセサリーなのである。だから王都邪馬台国には魏の客も呉の客も常にそろってないと不揃いで不格好で物寂しいのである。蜀人も非公式にはいなかったとも限らない。

魏人(ぎひと:中国北部の住民)と呉人(ごひと:中国南部の住民)は言語も習俗も顔つきも体格も違っている。記紀を信ずる限り昔の日本人は北方中国人と南方中国人を同一民族とは認めず、前者を「漢人」(あやびと)、後者を「呉人」(くれびと)と呼んで区別していた。

しかしそうはいっても例えば正始四年の件などは会わずに済ませることはできない。そこでどうしたか?

当時の倭王は江戸時代みたいに「禁中並公家諸法度」に縛られてたわけではない。律令時代以前の天皇はその気になれば独裁権力をふるうこともできたし、景行天皇のように西は九州、東は関東と、自由に行幸もできた。かなり時代が下っても近江や吉野、吉備ぐらいはちょくちょく行けたんだから卑弥呼の時代なら九州へ行くぐらいどってことないだろう。おそらく卑弥呼みずから北九州に行幸して、そこで公式なセレモニーとして接見したんだろう。それぐらいのサービスはするよ? 国見(領地の視察)も王の仕事だし、個人的に旅行だってしたかろうし。会場はもちろん奴国である。この場合、外国の使いは伊都国から許可なしには出られないのだから、カドを立てることなく呉人を公式に排除できるというわけよw 完璧だねw

「会稽東冶の東」は男王国であり女王国でない?
ここらで、ようやく宿題にしていた問題に戻ろうw 会稽東冶の話の続きだ。
「会稽東冶の東」は実は行程記事の中には無くて、気候風土や習俗文化、物産などの紹介コーナーに出てくる。そこの中で、倭国の気候や文化が南方系だということを示している中で倭国は「会稽東冶の東」にありの一文も含まれる。つまりこの一文は「距離&方角という地図上の位置」ではなくて、距離や方角は多少は不正確かもしれないが「文化圏」的で「人文地理」的な位置だよ、というニュアンスで受け取るべきだろう。
ところでこの習俗記事は前半の方に「其風俗、不淫」とあるのにだいぶ離れた後ろの方に「婦人不淫、不妒忌。不盜窃、少諍訟」と似たような話がまた出てくる。産物の紹介も前の方では「種禾稲、紵麻、蚕桑緝績。出細紵、縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。」とあるのに、これもだいぶ離れた後ろの方に「出真珠、青玉。其山有丹。其木有楠、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏号、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黒雉。」とまた出てくる。なぜ2か所に分かれて別々に出てくるのか。重複記事があるため散漫で粗雑な印象があり、これは複数の資料を陳寿が不用意につなぎあわせたんだろうという見解が多い。

水野祐の説だとこの記事は「所有無、與儋耳朱崖同。」までの前半と、「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。」から始まる後半に分かれているという。確かにこう切り分ければ重複記事はないことになる。また「倭地温暖」というのも文章としてへんだ。倭地の話をしてる途中なんだから「其の地、温暖」となるか、なんだったらいきなり「温暖」でも文意は通る。「倭地」と断りが入ってるのはもともとここが文頭だったことが窺がわれる。
そしてこの記事の直前が「…次有奴国、此女王境界所盡。其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。自郡至女王国万二千余里。」となっているが、「自郡至女王国万二千余里」という文は「女王国の『南境』まで万千里」という意味で、狗奴国は女王国の南にあるんだから、これは「狗奴国の『北境』まで万二千里」というのと意味の上では同じとなる。つまり「自郡至女王国万二千余里」という文はまだ狗奴国の説明の一部なのである。
まぁしかし「狗奴国の『北境』まで万二千里」という解読は苦しい。もしそれが正しいのなら、それならそうともっとわかりやすい書き方をしたはずだ。俺の説としては「自郡至女王国万二千余里」という文は狗奴国の説明の後に入ってるのは妙だからここは錯簡で、「…此女王境界所盡」と「其南有狗奴国…」の間に入っていたのではないかと考える。そうすれば「狗奴国の『北境』まで万二千里」なんていう不自然な解釈しなくても、文意の通りがスッキリしてひじょうによくなる。
ともかく水野祐の説を続けると、習俗物産の記事は狗奴国の直後に続く記事なのだから、前半は狗奴国の習俗の説明だったのではないか。つまり前半パートは邪馬台国の習俗でないが、後半は邪馬台国の習俗や物産であって狗奴国の習俗物産ではない。
で、もしそうだとすると、南方系を示唆する3つの記述、刺青の件も「会稽東冶の東」も「儋耳・朱崖」も、すべて狗奴国の記述であり、邪馬台国は関係なかったことになる、と。
水野祐はさらに重要な指摘をしている。習俗物産記事の前半パートと後半パート、それに『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事、この3つを比較対照して、どうも倭人伝は前半パートと後半パートを比較させようという意思がなく、前半パートと『漢書』地理志の共通性を強調しようとしていることを明らかにしている。前半パートは中身の半分は独自記事だがもう半分ぐらいは『漢書』地理志の「儋耳・朱崖」の記事からのそのまま転載(パクリというかほぼコピペ)が混在しており、コピペ部分についてはコピペなんだから個人的にはどうも事実とは認めにくいような気がする。が、具体的にそれぞれの記事を個別に検討すると実際に日本にあったものとして問題ないという説もあり、だとするとコピペなんだけど偶然にも事実と一致したのか、事実を書いたら偶然にもコピペっぽくなっちゃったのか、どっちなのかはわからない。いずれにしろわざわざ「儋耳朱崖と同じ」と念押しするのは書かれてる内容が事実かどうかに関わらず意図するところがあろう。

水野祐は邪馬台国九州説だし、狗奴国も魏に入朝していたという説だったり、昔の学者なので他にもいろいろおかしなことを言っており、司馬懿の都合による政治的歪曲という観点も抜けている。そのため、なぜムリしてまで南方系を強調しているのか説明が不十分な印象があるが、それは現代になってからみてるからで、昔の俺なんかひじょうによくできた秀逸な説だと感心したものだ。
後半パートで南方系を思わせる記事というと、しいていえば「倭地温暖」くらいしかないが、温暖の2文字だけではどの程度の南方なのかつかみどころがない。熱海ぐらいの緯度でも温暖っちゃ温暖なわけで。「皆徒跣」(はだし)というのも江戸時代でも庶民は裸足が多かった。華北の冬は寒さ厳しく野菜など採れないから「冬でも野菜を生食する」のは倭国が温暖だという話の流れだというが、腐敗しやすいはずの夏でも生食だというのだからむしろ北方のイメージだということもできる。つまり後半パートにはハッキリと「南方系だと断定できるような記述は無い」。
確かに南九州の隼人なら南方系と言われて納得できるが、北九州を含む倭国全体の習俗物産がはるか南のはての海南島と同じというのはあまりにも違和感がある。それが、南方系と思わせる記述はすべて狗奴国のみについての説明だというのだから、好都合に思われたのだ。

ところがこれは相当に古い説であるにもかかわらず、あんまり有名でもないし通説化してる様子もない。おそらく学界では反論もいくつか出されていて、あまり支持されてないんだろうな。
そう思って水野説への反論を試みると、狗奴国の習俗だという前半パートはさらに前後に分かれ、刺青の話ばかりしてる前半が「会稽東冶の東に在るべし」で終わり、後半の習俗物産記事は「儋耳・朱崖」と似た習俗物産ばかりを集めたパートで、だから「有無するところ儋耳・朱崖と同じ」で終わってるわけだ。つまり、考えようによっては、狗奴国と邪馬台国の習俗物産を別々に書いてるわけではなくて、やはり全部が倭国全体の習俗物産記事であり、水野祐がいう狗奴国の習俗物産というのは単に「刺青パート」と「儋耳・朱崖との共通点パート」にすぎないのだ、とも考えられる。

では通説と水野説、どちらが正しいの?
どちらが正しいのかわかりにくくなってること自体が一つの大きなヒントだろう。通説が正しいのなら、陳寿はもっと記事を整理して書いたはずで、重複感のある粗雑な編集はしなかっただろうし、水野説が正しければ、こっちは狗奴国の記事、こっからは狗奴国以外の記事として誤解のしようがないようにわかりやすく書くことは造作もないことだったろう。
要するに陳寿は「わざとわかりにくくしてる」のである。出たw「春秋の筆法」だなw 春秋の筆法は、現実が権力者にとって都合が悪い場合にもちだされる筆法だから、通説と水野説のうち、一方が現実の倭国だがそれは権力者(この場合は司馬懿)にとって都合が悪いものであり、もう一方が司馬懿にとって都合よく歪曲した倭国像なのである。

前述のように倭国が「会稽東冶の東」にあるというのは「南方系の習俗と物産がどうのこうのという話とは無関係に」呉越地方の中国人の認識だったのであり、わざわざ捏造した話ではない。それは魏(というか司馬氏)にとっては都合のいい話なのだからそのまま採用すれば済む話であり、採用したからこそ方角を90度まげて呉越地方の中国人の認識に合わせた。
この上、そこからさらに遠い南の海南島の習俗物産をコジツケる意味など本来は無いはずなのである。だが、魏としては女王国が「会稽東冶の東」にあることを期待してるのに、実際は女王国と対立している男王国の方が呉の隣国だった、なんてことでは倭国と魏の同盟が呉への抑止力にならない。事実は「会稽東冶の東」にあったのは、倭国は倭国でも女王国ではなく狗奴国だった。そこに90度まげて邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってきた結果、狗奴国のものだった南方系の習俗と物産を邪馬台国も共通していないと筋が通らないことになった。
つまり水野祐の説が現実の倭国を反映している。帯方郡からのレポートによれば倭国は九州から東の方に延びており、呉越地方の中国人の認識と違っていたばかりか、格別に南方系と思われるような習俗も物産もなかった。そこで狗奴国の習俗物産記事に続けて北九州諸国の習俗物産記事を置き、わざと混同を誘う構成になっているのである。普通に読めば通説の読み方で問題ないように感じるのだが、途中に「倭地」という不要の二文字をわざわざ挿入しているのは「春秋の筆法」でいう「文の錯(たが)え」ではあるまいか。「ここでおかしいと気づけ」というシグナルなのである。

狗奴国の「東国説」と「九州説」は矛盾しない
すでに他の記事で詳しく書いたので簡単に済ますが、方角が90度曲がってるんだから「南」というのは実は「東」だ。女王国の南にある狗奴国は、正しくは女王国の東。で、最近の有力説である狗奴国東国説もいろいろだがその中の一つで、狗奴国は今の静岡県だとする説がある。後世に久努国造があったところが遠江国山名郡久努郷と同国周智郡久能郷(ともに静岡県袋井市、ただし和名抄の周智郡に久能郷は無く明治の郡制施行時の久能村が名残り)だが、駿河国安倍郡(会星郡)久能郷(いまの静岡県静岡市)も遺称地だとすると、狗奴国はほぼ伊豆地方を除く静岡県の大部分を占めていたと思える。この場合、狗奴国の官である「狗古智卑狗」の「狗古智」は静岡県の菊川をさす地名「菊」と助詞の「つ」とするのが穏当だが、面白くはないw そうではなく旧来の説に従って肥後国菊池郡(熊本県菊池市)のままでよいと思われる。東国説と九州説は矛盾するものではなく実は両立するからである。
鞠智城跡
※鞠智城(7世紀)の復元された八角形鼓楼。ここは律令制下の菊池郡城野郷に含まれる。3世紀の狗古智国もここかこの近辺にあったろう。一方、めんどくさいから画像は出さないが、静岡県袋井市に久努国造を祀る「七ツ森神社」(山名郡久努郷)あり、そこから1km半(徒歩20分)のところに久野城跡(戦国時代)がある。ここは律令制下では山名郡ではなく周智郡だが、西にすぐ隣接して久能という地名(かつての周智郡久能村)が残り、七ツ森神社からも近い。3世紀の狗奴国も久能城跡かその近辺にあったろう。

狗奴国を「春秋の筆法」で読む
対馬国の大官が卑狗といい、一支国の大官も卑狗というとあるのだから、そこまで読んできた中国人は「卑狗」とみれば特定の国を治める大官のことだと理解している。地方統治官は担当地名の下に官名をつけて、例えば上党郡の太守は「上党太守」、楽浪郡の太守は「楽浪太守」というのだから、対馬国の卑狗は「対馬卑狗」、一支国の卑狗は「一支卑狗」だと自然に受容している。ここで「狗古智卑狗」という字の並びを目にしたら、説明など無くとも自然と「あ、狗古智国の大官だな」と直ちに了解されよう。つまり狗奴国とは別に「狗古智国」という国の存在が暗示されている(間接的に示されている)。別々の国なんだから、狗奴国は東海道だけど、狗古智国は九州にあったってことで何の問題もない。魏志倭人伝の文面ををよく見ると、狗古智卑狗は男王の官だとは書いてあるが狗奴国の官だとは書いてない。ゆえに狗奴国にいたとは限らない。
で、菊池郡は北九州の女王国支配下の諸国からみると南であり、畿内からみると西になるので、90度傾けると北九州からは西、畿内からは北になる。西だと倭国と呉の間に女王と敵対する男王国が挟まることになり、女王国が直接呉への脅威とならないので具合が悪い。北だと「南方系の習俗や物産をもった国が北で、そうでない国が南」になってこれまた具合が悪い。なので狗古智国は方角どころか国名すら明記してないのである。一方、東海地方にあった狗奴国は他の国々と同じく90度傾けて、女王国の南にもってきた。そうやって「女王国の南」という同じ場所に狗古智国と狗奴国を重ねあわせた。しかし「狗古智卑狗」という官名から読者は「狗古智国」の存在を想定するのだが、文面上は狗奴国しか出てこないので、読者は不審に思い「文の錯え」に気づく、という寸法よ。

「使訳所通三十国」の謎
冒頭に「使訳所通三十国」(使訳、通ずるところ三十国)とあるのも春秋の筆法で、余とか可とか許とかの概数を示す文字が無く、30国ピッタリであることをにおわせている。「におわせている」というのは概数を示す文字が無くても下一桁がゼロなんだから「いやこれは概数なのだ」と「解釈」で押し通せる余地が残っているからである。これもわざわざどっちとも受け取れるように書いてあるわけだ。30国ピッタリとする説が多いが、はっきりしてるのは28ヶ国であり、従来の説では残り2国は次のA・B・Cの3つの候補から2つ選ばれる。

(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国、

だいたい(AB)を加えて30国として(C)は入れない説か、(A)(B)のどちらかのみ入れて29国とし「三十国というのは概数なのだ」と割り切る説が多い。つまり(C)は人気がないw
しかし(A)を倭国に勘定することはできないのはずっと前の方で説明した通りで除外される。第二の奴国も意図的な国名重出であることは説明済みだから「餘旁遠絶21国」は誤りで「餘旁遠絶20国」が正しい。つまり(A)(B)を加算する訳にはまいらぬ。
(C)が人気ない理由だが、狗奴国は女王国と敵対していて、女王国は魏の友邦なのだから「味方の敵は俺にも敵」の理屈からいえば魏と狗奴国が通交していたはずはない、だから「魏の使訳が通じていた国ではない」という判断だろう。
だが、本当にそうか? 倭人伝には「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」(いにしえより以来、その使いの中国に詣でるやみな大夫と自称す」とある。この一文は刺青パートの中にあり、従って本来は狗奴国の記事だったはず(正確には狗古智国だが)。狗奴国(正確には男王国だが)の使いが中国に行ってると書いてある。ちなみに有名な話だがこの部分は『魏略』逸文では「聞其舊語、自謂太伯之後」(その旧語を聞くに倭人みづから謂ふ呉の太伯の後なりと)になってる。ここは『魏略』が原資料のままで陳寿が書き変えたものだ。魏略の文は倭人の刺青が呉越の習俗と共通してるといいたいだけで、春秋時代の呉も越も刺青文化は共通してるから、なんの忖度もなく呉も越も一緒に出しているわけだ(呉の先祖の太伯も刺青で有名な人)。渡邉義浩は、呉と倭の文化的な親近感を出すと呉が倭を朝貢国とする正統性が出てしまうから陳寿が書き変えたとか訳のわからぬことをいってるが、春秋時代の呉と三国時代の呉ではぜんぜん関係ない国なんだからそんなことある訳ないだろw 表面的なことだけいえば、呉と越とは臥薪嘗胆の故事で有名な通り激戦して最後は越が呉を滅ぼしたわけだから、呉と倭の関係を消して、倭と越の相似性だけを強調し、春秋時代の越が呉を滅ぼしたように三国時代の呉も越に似た倭に気をつけろという脅かしだという解釈なら可能だろう。しかしそれなら「聞其舊語、自謂太伯之後」の10文字を消すだけでいいのであり、わざわざ「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」なんて書きたす必要はない。この文はここだけ刺青の話から浮いており唐突な感じを与えるし、「聞其舊語、自謂太伯之後」と字づらが似ていて明らかに魏略の文を参考にして書いた作文だとわかる。
この部分は春秋の筆法によって狗奴国(実は狗古智国)の習俗だとわかるのだが、倭国全体の習俗であるようにも読めるという二重構造になってるのだから、「自古以来、其使詣中國、皆自稱大夫」の一文も通常の解釈では女王国についての説明であり、裏の意味としては男王国についての説明である。

「自稱大夫」のオモテの意味
オモテの意味については簡単だ。卑弥呼と魏との外交で、倭国側の窓口として一切を仕切ったと思われる難升米が「大夫」として出てくる。難升米が大夫であること自体は、だから何だってことでもないのであって、だから自称も糞もない。大夫というのは支配階級、貴族層ぐらいの意味で、一国の外交官なら中国でいう大夫に相当する程度の身分なのは当たり前であり、いちいち話題にすらならない。それなのにあえて「自称」だというには、それなりのニュアンスが込められている。難升米という人はかつての奴国王の直系の子孫であり、卑弥呼から全権を任され、今でも対中国外交の最高責任者としてすべてを采配してるのだから、先祖の奴国王とやってることはほとんど同じなのである。後漢帝国の建前としては「漢委奴國王」にしたつもりで、なおかつ今もその子孫が同じことしてるのだから、中国からみた場合、この人は今でも実質は倭王なのである。にもかかわらず、倭国側では王ではなくて「大夫」だと。大和言葉でいえばキミ(君、王)ではなくてオミ(臣、大夫)なのである、と。中国側の感覚とズレるから、これは倭国側が自称してるんであって、中国としたら難升米が実質倭王みたいなもんだといっている。中国からみたら実務はすべて難升米から出てるから、本当に卑弥呼の意図なのかどうかわかりにくかったんだろう。重要な儀式とかただの親睦会的な場では女王とコミュニケーションできたろうが、肝心の国際政治外交という実務的な議論には「難升米に任せてある」として女王は顔出してくれないし意志の表明もない。本当に女王と外交してるのか、難升米に騙されてるのかもよくわからないし、確かめようがない情況を表わしている。

「自稱大夫」のウラの意味
ウラの意味としては当然、ここの大夫は男王が派遣する大夫ということになる。陳寿は呉と倭の親近性を示す文を削除するかわりに文意を換骨奪胎して、狗奴国(正確には狗古智国だが)もまた中国に朝貢したことがあるとわざわざ念押ししてるのだ。念押しの割には「魏朝への朝貢だ」と明記しているわけでもなく、この場合の中国に魏は入ってるのかどうか、そこはボカしており、解釈次第でどっちとも取れるように書いてある。もし魏へ入朝したことがあるのなら狗奴国もまた「使訳の通じてる諸国」の一つだということになるわけだが、そう明記できないのは実際には狗奴国は魏と通交したことがなかったからではないか。

狗奴国は魏に朝貢した?しない?
水野祐は陳寿の作文を真に受けて「狗奴国もまた帯方郡に朝貢していたのだ」というのだが…。狗奴国でも狗古智国でもいいが、とにかく男王国の使者が相手にされるかどうかはともかく郡までは行っていたというだけならギリギリ認めてくれる人もいるかも知れない。が、帯方郡の使者は男王国(狗奴国でも狗古智国でも可)に行くわけがないと思う人の方が多いだろう。魏の建前では倭の女王が魏を中華における唯一正統の皇帝として認めてくれたことになっており、だから卑弥呼が呉や蜀と交流があるって話はタブーになる。そのような事実はあったとしても記録から抹殺される。しかし実際は紀年銘鏡にある通り、呉と女王国は交流していたという話は別の記事で詳述した。女王国が魏だけに朝貢するのは魏を中華皇帝と認めることであり、これは魏としては親魏倭王(男王国を認めず、卑弥呼を倭国全体を代表する唯一の大倭王として認めること)とバーターのつもりなのである。だから女王の二股外交は魏にしたらひじょうに不愉快な事態で、もし卑弥呼がこの態度を改めないのであれば、対等の原則によって魏もまた卑弥呼の敵である卑弓弥呼(男王)と通交する権利を有するだろう。舐められたら終わりなんや。男王は過去の経緯から魏には興味なかったかもしれないが、魏にしてみたら呉への圧力になるなら女王でも男王でもいい。中国でいう朝貢というのはもちろん公式な使者の方が望ましいが、民間の商人が交易のついでに帯方郡の官僚に手土産を差し出せば、非公式な使者であっても「朝貢」として立派に成立する(岡田英弘の解説による)し、そうであるなら逆に帯方郡からでも交易にこじつけて商人に委託すれば男王の配下の首長に連絡をつけることもできたろう。玄界灘の制海権は女王が握っていたろうが、五島列島の西の海と済州島の間を往復する航路がありうるので伊都国の検問を通らずに韓と通交できるし、仮に通常航路であっても民間人を装ったり帯方郡の魏人に託したりと、一大率の検問を抜けることはできなくはない。

ただしこれは「物理的にはありうる」というだけのことで、やはり狗奴国は(狗古智国も)魏には使いを出してなかったと思われる。実は男王国には中国から公式の使者はきていなくても、中国人はたくさんいたから、魏人がスパイを潜りこませて情報収集するのは容易だったはずだ。亶洲(澶洲)というのは男王国のことだという話は別記事で書いた通りだが『三国志』呉主孫権伝や『後漢書』東夷伝によると亶洲には徐福の子孫がいて数万戸になっているという噂が中国側にはあった。この徐福の子孫というのは実のところ呉の戸籍を離脱して逃げてきた難民(亡命者)だろう。呉は人口不足のため孫権自身がいっているように税と兵役の負担が重い上、戸籍離脱して逃亡する者は重罪だ。亶洲を求めて探検隊を出した理由の一つは、この逃亡民を連れ戻すためでもあったろう。むろん逃げてきた連中は帰りたくないから「我々は呉から逃げてきた呉人ではなく、呉が建国されるよりずっと前に移民した秦人の子孫だ」と嘘をつく必要があった。つまり男王国には呉からの難民が一定数いて、それなりの安定した暮らしを維持していたと推定できる。
伊都国に駐在する魏人は一大率の許可の下で(公式の許可か非公式の黙認かわからぬが)狗古智国に情報収集のためのスパイを送り込んでいたと思われる。一大率としては許可したくないだろうが物理的に阻止できないから、欺かれるぐらいなら先に許可した方がよい。許可はしようがしまいがスパイ活動はお互いやるのが当たり前で、やらないことはあり得ないのだから。そして、呉人たちが本国に帰ったらそれだけ呉の国力が回復するんだから、魏の役人としても当然、帰って欲しくないだろう。だから徐福の子孫だと偽称している呉人たちは魏人に保護を求め、魏人の情報収集に協力するし、魏の公式見解としても「彼らは呉から逃亡してきたのではなく徐福の子孫だ」ということになる。それだけでなく魏人は呉人を男王の使者に仕立てて帯方郡につれていくぐらいのことはしたろう。実際はそんな手のこんだ面倒なことはせず、単に魏人が男王国からも使者が来たと自称しただけかもしれない。「自古以来、其使(男王国からの使者)詣中國、皆自稱大夫」は陳寿の作文であって虚構なのだから後者の方が可能性が高い。重要なことは「魏朝には女王国からも男王国からも朝貢の使者がきた」という「建前」なのである。

建前では男王国もまた「使訳通ずるところ三十国」に含まれるわけがご理解いただけたろうか。(A)狗邪韓国、(B)第二の奴国(餘旁遠絶21国説)、(C)狗奴国の三者のうち、(A)(B)は含まれない(含まれたらおかしい)ことは再三いった通りだが(C)を入れてもまだ29国。しかし前述のように倭人伝の文面には隠れているが、男王国には狗奴国とは別に狗古智国があることが「春秋の筆法」によって示されているので、これを加えてピッタリ三十国となる。三十国という数字自体が「あれ、計算が合わないぞ」と気づかせるための「文の錯え」なのである。
邪馬台への行程【その5】」に続く。
【その5】では「至」と「到」の使い分けの謎を「春秋の筆法」で解きます。

邪馬台への行程【その3】~方角のズレと「会稽・東冶」の読み~

初稿:2679年[R01]10月21日MON
邪馬台国への行程【その2】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その2】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「方角の傾き」は誤りではなく意図的なもの
日数表示の部分が九州説だと原文のまま南へ、畿内説ではなんだかんだ理屈をつけて東にもっていくわけで、方角が決まらないと気分的に落ち着かないw 方角論で有名な話は、末蘆国・伊都国・奴国の比定地を実際の地理でみると、反時計回りに北に45度傾いている(東の方が北寄りに、西の方が南寄りに傾いてる)というのが通説だ。正確には真東より30度ほど北、つまり東北東になっている。これを魏志の「東南」に比べると75度のズレともいえる。この数値は八分法に当てはめると、どっちかっていうと45度より90度に近く、当然ながら傾きは45度でなく90度だという説もある。ただこれは海岸線を目途にしたもので、奴国を太宰府あたりまで広がってたとして、奴国から不弥国へのコースを嘉麻市や穂波市を通って直方市へ抜ける道を陸行したとすれば、極めて大雑把な話ではあるが45度のズレだともいえるが、ちょい苦しい。あるいは、もともと魏志倭人伝の表記は45度づつにわける八分法なので、22.5度前後は切り捨てか切り上げになって表記上は45度のずれとなるという大雑把なものである、だから45度でいいのだというのだが、これは「75度が切り上げで90度にならず、なぜか切り捨てで45度になってる言い訳」として成立してない。実は日の出の方向がどうしたの夏至の日の出がどうのって理屈でこのズレを説明するには45度が限界で、90度だと説明に困窮するからだ(厳密には45度でも無理だが)。だからって90度説が正しいわけでもない。あと、これまた有名な室賀信夫の説(九州説には評判わるい説だがw)。李氏朝鮮の「混一疆理歴代国都之図」や宋代の「古今華夷区域総要図」をもちだし、中世の中国人や朝鮮人は実際には東に伸びてる日本列島を、南に伸びてると勘違いしていたから、おそらく古代でも同様だったのだ、というあれ。一時期は話題になり、これで畿内説に決定したかのような勢いだったが、古代にまでもそのような地理観が一般的に行われていたという説には実証性が弱く、批判が多い。実際、今では一般に(アマチュアだけでなく学界でも)あまり支持されてないように思う。俺も賛成しないw 中世の中国朝鮮での誤った地理観は魏志倭人伝の影響という説の方が妥当だろう。

この室賀説も古代人の地理観を稚拙なものと決めつけている点で「日の出の方角説」と五十歩百歩といえよう。まさに三国時代に生きた有名な学者、裴秀が作った『禹貢地域図』を読めば当時すでに測量術や地理学が大いに発達していたことがわかる。「指南魚」とか「指南車」という精巧な方位磁針もあって方角を誤ることもない(ただし、現代では磁方位が反時計回りに約7°傾いてるが当時は時計回りに10°傾いていた)。ゆえに昔のことだからどうせこんなもんだろと見くだした舐めプは許されない。高度な技術をもった当時の国家の軍隊が方角を間違えたりめちゃくちゃな里単位を使ったりすることはありえない。そういうことがあったらそれは間違ったのではなく、ある特定の意図の下で、あえて、わざとそうしたのである。一万二千里という現実を無視した途方もない数字も、政治的な都合による誇張であることはもはや定説になっているといってよいだろう。しからば方角もおそらくは政治的な理由で曲げられたのだろうとは誰しも容易に推測できる。45度説と90度説のどちらが正しいかにかかわらず、これはわざとズラして書いてるのである。東西と南北を取り違えた地理観がーとか、日の出が夏至がどうのこうのっていう、古代人が方向音痴だったみたいな与太話はすべて却下すべきだろう。

で、「方角のズラし」も事実の歪曲ではあるのだが、ただの歪曲ではなく「一万二千里」と同じく当然「春秋の筆法」に則っている。だからよく読めば「あれ?これ傾けてるな」って気づくようになっている。「なんのために」わざわざ傾かせているのかという議論は後で詳しくやるとして、まず「方角の傾かせ」が現われている「春秋の筆法」を解いてみよう。

その最初のヒントが韓伝にでてくる「州胡」だ。これは今の済州島のことだというのが定説だが、言い方としては「馬韓の南」か「韓(三韓全体)の西南」のどちらかのはずが、文面上は「馬韓の西」と書かれている。実際の地理を、反時計回りに45度か90度ずらさないと「馬韓の西」にはならない。この角度の問題も私が「春秋の筆法」だと気づいたのは韓伝の記述の謎解きの結果だった。韓伝は韓と倭が海で隔てられてるようにも書いてるし、韓の南は倭で、韓と倭が接壌してるようにも書いてる。だから井上秀雄(この人はもう死んでるが)みたいに韓国の南部に倭があったんだって主張する人が根強く残ってるが、海で隔てられてるともあるせいで有力説になってるとはいえない。こういう矛盾ある記述こそ「文の違え」(ふみのたがえ)で春秋の筆法のツボなんであって「海で隔てられてるのかvs接壌してるのか」の二択じゃない。「南は倭に接す」とあるのだから前回までに説明した「弁辰○○国」と「弁○○国」の使い分けからいえば「弁軍弥国」「弁楽奴国」の2か国だけが倭に接していることになり他の「弁辰○○国」はすべてこの2か国より北に設定されてる。「弁楽奴国」は春秋の筆法によって暗黙に出航地だと示されているので倭ではなく海に面している。しかも倭と接してるのは弁辰瀆盧国だとわざわざ一か国だけあげていて、倭への出航地は表面上は「狗邪韓国」になっている。設定上の位置関係は繰り返しになって恐縮だが、東西四千里の海岸線があってその中央が「弁楽奴国」(東端からも西端からも2000里、郡からは6000里)、東端が「弁辰瀆盧国」(郡から8000里)、その間に「弁辰狗邪国=狗邪韓国」(東端から1000里、隣の楽奴国からも1000里。郡からは七千里)という配置になっている。このうち倭に接しているのは東端の瀆盧国だけで、それ以外の二国は倭と往来する港湾都市だから海に面していることになる。しかし実際には瀆盧国は今の釜山なんだからその南は海しかなく倭と接壌していたとは考えられない。むりにもというならすごく狭小な倭人居留地が半島内にあったとでも考えるしかないがそんなの無いのと同じで特筆する意味はない。倭国内にも韓人の所領はあったろうし韓地にも倭人の領地は当然あったろうが、国として認識されたかってことは別問題だ。だが少なくとも魏志の建前では瀆盧国「だけ」は倭と接壌していたとわざわざ特筆されてる。これは韓伝の冒頭に三韓全体の地勢として「南(の国境は全面)が倭に接してる」ように書かれているのとも矛盾する。冒頭の書き方だと馬韓の南も弁辰の南も一様に倭であり、南側に海があるようには受け取れない。両者に共通してるのは瀆盧国だけ。瀆盧国「だけ」はどっちの説でも倭と接している。

瀆盧国の位置について謎解きをすると、『後漢書』は(三韓全体の中では)辰韓は東北、弁韓は東南だというからこの二韓だけでいうと辰韓が北で弁韓が南なのだが、実際の24国の配置をみると辰韓が東北で、弁韓が西南になってる(だから「辰韓が北で弁韓が南」だといっても、「辰韓が東で弁韓が西」だといっても、どっちも嘘をついたことにはならない)。精密な地図じゃなくて模式図で表わすと、西北の隅から東南の隅へ対角線が引かれ、この対角線を境として弁韓と辰韓に分かれる。
『後漢書』によらずとも、魏志は(三韓全体で)弁韓の位置にふれずただ「東西は海をもって限り(中略)西は馬韓、東は辰韓」としかいってないのだから、東の海には辰韓が面してるのであり、弁韓は東の海に面していない。「南は海なのか倭なのか」を曖昧にしたままではあるがこの条件で弁韓の領域を最大に見積もって境界線を引いても、やはり境界線の東端は韓地の東南の隅になる。
面としてはパッキリ分かれているんだが、この境界線は弁韓と辰韓に共有されている。境界線(対角線)の東南の隅の点も、当然共有していることになる。つまり瀆盧国は弁韓(弁辰)の東南の隅にあってこの「点」の部分を含んでいるのである。瀆盧国は「弁瀆盧国」でなく「弁辰瀆盧国」だから建前上は南の海には面していないし、この模式図(対角線のある図)でも、東の海にも南の海にも面していないことに、ちゃんとなっている。
そして東夷伝の認識では「韓は倭の西北、倭は韓の東南」だといってるのだから、瀆盧国が「倭と接する」というその地は、まさに瀆盧国が保有する「韓の東南の隅の点」のことをさしている。「点」というのはあくまで模式図の上でのこと、魏志の想定上の地理であるが、面でも線でもなく「点」だというのが重要なのだ。
「(三韓全体としてみると)東西は海をもって限り、南は倭と接す(つまり南は海ではない)」という地理認識と「弁辰瀆盧国(だけ)が倭と接す」という矛盾する二つの地理認識から、それぞれの地図を作って比べると、瀆盧国を蝶番(ちょうつがい)として倭国を反時計回りに韓地から引き離すと韓と倭の間に西から海水が流れこんで海になる。州胡(済州島)もあえて倭地と一緒のレイヤーに乗せてあるのは明らかだろう。倭が真南にきて韓とくっつくと州胡も倭と同じレイヤーだから、州胡が韓(三韓全体)の西南にあったのなら時計回りに45度動いて、馬韓の南にあったのなら90度動いて、いずれも馬韓の西になる。韓の南はすぐ倭で、倭と韓は陸でくっついてるのだから済州島が浮かぶ海は南にないのだ。この海が入り込まないで韓と倭がくっついてるのが建前であり、この場合、倭は韓の南へ伸びている配置になり、倭は会稽東冶の東になるのである。この場合、倭と接する国は韓にいくつもあるはずなのに、あえて瀆盧国しかあげてないのが「春秋の筆法」で、瀆盧国以外を倭と切り離すには、瀆盧国の保有する「点」を中心に回転させる他ない。魏志の方角は八分法だから最低限の切り離しで済ませようとしたら45度になるし、前述の通り90度の設定かもしれない。

「会稽の東」と「東冶の東」は別?
で、方角のズレが当時の人々の誤認ではなく、意図的なものだとしたら、目的があるはずだ。なんのために方角が45度(または90度)傾かせられたのか?
旧来の誤認説の場合は、倭国が「会稽東冶の東」にあると誤解されていた、という話とセットになっていた。しかしそこで意図的に方角を傾けていることが明らかになったのだから、要するに会稽東冶の東には無い倭国を会稽東冶の東にむりやりもってくるために方角を傾けた、ということになる。ということは魏志の原資料では倭国は南ではなく東か東南に伸びていたのである。
…のはずなのだが、しかし、本当に当時の中国人の認識では倭国は「会稽東冶の東」では無かったのかというと、それがそうでもない。

倭人伝には「計其道里、當在會稽東冶之東」(その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし)とある。地名としての会稽は今の浙江省の紹興、東冶は今の福建省の福州。この解釈は3つの説がある。

(1)「会稽郡の中の東冶県」の意味。
(2)「会稽東治」で会稽での禹王の統治の伝説をさすという説。
(3)「会稽」と「東冶」二つの地名の並記。


(1)と(3)は東冶(とうや)、(2)は東治(とうち)で字が違う。

(2)は東冶はないことになって会稽だけが問題となり、(1)は東冶だけが問題となるのに対し、(3)は会稽と東冶の二ヶ所をあげているという解釈になる。
当時は東冶県は会稽郡でなく建安郡に属していたので(1)はないという説もあるし、必ずしも正規の郡県にとらわれず「広義の会稽地方の中の東冶」という解釈もできないことはないともいう。東冶(とうや)の原文は東治(とうち)になっているのでこれは誤写というのが通説だが、(2)は東治(とうち)のままで正しいとする。だが「…の東」とあるのだからその直前は地名でないといささか不自然だろう。「会稽東冶」は四字熟語のようになんども出てくるのに「会稽東治」は例がないので誤写説の方が自然ではある。しかし、会稽(紹興)東冶(福州)をつなぐ線はほぼ今の浙江省の海岸線で、北緯でいうと紹興は屋久島(北緯30度ぐらい)、福州は沖縄(北緯26度ぐらい)に近く、その中間は奄美大島のあたり。だから地図でみると倭国は東というよりかなり東北になるんで、(2)の説の方がいくらか正確になるように見える。

東冶については『三国志』呉主伝に亶洲の人が会稽に交易にくるといい、「東県」(たぶん東冶県の脱字)の住民がまれに亶洲に辿りつくという。『後漢書』東夷伝では亶の字が澶になってるが同じことが書いてあり「東県」が「東冶県」になっている。倭国が「会稽東冶の東」だというのは要するに亶洲も倭国も同じ国だということを暗示している。ここで亶洲から来る時には東冶といわず会稽に来るといい、亶洲へ行く者は会稽からといわず東冶から流れていくと言っていることに注意。「会稽の東」は亶洲からくる方角であり、「東冶の東」は亶洲へいく方角である。東冶は『三国志』にもちょくちょく登場する当時の海上交通のターミナルである重要な港湾都市だった。東冶県がそうなった理由を推測するに、その東がすぐ台湾の北端で、そこから西南諸島を伝って鹿児島へいくルート(南航路)が開けており、交易物資の大陸側における収積場だったからではないかと思われる。つまり中国から亶洲へいくなら、会稽でなく東冶が出港地になる。倭人が五島列島や済州島から東シナ海を横断して会稽に行くことはあっても、中国人はこのルート(北航路)は使わない。そういう訳で『三国志』呉主伝や『後漢書』東夷伝をみれば会稽と東冶の二ヶ所をあげることに意味があるのは明らかであって、「会稽の中の東冶」の意味でもなければ東治(とうち)でもないことがよくわかるだろう。

で、倭人伝の方角が実際の方角とズレて傾いてる理由だが「会稽東冶からは東でなく東北だから、東になるように45度傾けてある」のだろうか、と言うと、そうではなくて、傾けた理由は別にあると思われる。
倭人伝に書かれた南方系の習俗が南九州に及んでいたのならば、中国人からみてその習俗は「儋耳・珠崖」(海南島)と同じというのだから、中国人の目には海南島から九州までの間に存在したはずの台湾人も沖縄人もすべて同じに見えていた可能性が高い。あるいは、違って見えていたのにあえて同一視しようとしたか。そのどっちであるにしろ、「その習俗は倭人の習俗」という認識なのだから魏志は会稽東冶の東に広がる同じ習俗圏を広く倭と呼ぼうとしているとも見える。その場合は、会稽東冶の「真東」に該当する西南諸島もまた「倭の一部」と認識されていたことになるので、「九州は会稽東冶の東じゃなくて東北だ」という議論は意味がなくなる。
そうではなくて、あくまで倭国は九州であり、西南諸島は含まないとすると(そんな仮定は不可能だと思うがとりえずそう仮定すると)、厳密な方角からいえば確かに東でなく東北なのだが、四分法で90度の広がり(会稽からは八分法で45度の広がりでもよい)をもってみれば、航路の説明としては大雑把にいって間違いとはいえない。とくに南航路では台湾、石垣島、宮古島を伝っていったろうから一旦は東南へ進んだのであり、出港地からみると「亶洲が東北にある」という印象は薄かったろうし「物の言い方」としては「東のほう」で問題ない。してみれば「東北でなく東」というのは会稽東冶の現地情報だった。
ここまでは当時の中国人の普通の認識であって、魏志に特有の意図的な誇張や方角の歪曲は入ってない。渡邉義浩なんか『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書)の中で「本当は会稽の東なのに倭国の位置をさらに南に引き下げるために東冶をくっつけた」みたいなことを言ってるが本当に三国志の専門家なのかね?

「会稽東冶」の政治的背景
倭国を「会稽東冶の東」にもってったのは倭国の風土、自然環境についての情報から中国人が本当にそう信じていたという説もあるが、上述の通り、現地の中国人は風土や自然環境の情報とは無関係に、航路の方角によって漠然と「会稽東冶の東」と言っていただろう。しかし魏が使節を交換する中で得られた実際の情報では、倭国は北九州から東(または東南)に伸びており、会稽東冶の東になっていなかった。これは倭国が「会稽東冶の東」にあると考えていた中国人にとっては新発見だった。

だが魏の公式見解(というか司馬懿の意向)では、倭国は呉からそんなに離れてるのではなくぜひとも会稽東冶の(つまり呉の)すぐそばにあってほしい。そこで90度(または45度)意図的に傾けた地理が想定された。魏志や魏略の原資料は誤ったわけではなく、司馬懿の功績を大きくするために意図的に方角を傾かせて呉の近くに倭があるように繕ったのだと思う。それ以外に、わざわざこんなことする理由は思いつかない。

大月氏は一万里の彼方だけど、魏と蜀が涼州を奪い合って死闘を繰り広げたその涼州には月氏系を含めた有名な遊牧民の残党が盤踞しており、魏も蜀も彼らを味方につけようとしていた。もっともこの頃の大月氏は中国が勝手にそう呼んでいただけで別系統の民族(クシャナ朝)だし、涼州の月氏人がインドの大月氏の動向を気にしたものかかなり疑問もあるが、魏は政治宣伝としての効果を期待したからこそ「貴霜」と呼ばずあえて「大月氏」と呼び続けたとも考えられる。親魏大月氏王と親魏倭王は同等で一対だからこそ曹真の功績に匹敵する司馬懿の功績としての意味があるわけで、当然、同様に呉への威圧という効果が期待されていた。

ただし呉に向けての宣伝ではなく魏の国内向けの宣伝で、司馬懿が呉を威圧しているという功績を称揚するものだ。夷州や亶州(澶州)の人間が会稽に交流にきていたことは後漢書に書かれている(この夷州・亶州が日本のことだというのは別のページに詳しくかいた)通り、倭国が本来の正しい位置にあっても呉に対する威圧としては十分で、それは海洋事情については魏より詳細な情報をもっていたであろう呉の方がよくしっていただろう。だが内陸にすむ中国人には東シナ海が大きすぎて呉への抑止力になるのか疑問に思うだろう。それでは司馬懿の功績も半分に聞こえてしまう恐れがある。

倭人伝の行程つまり五倍里のまま「一万二千里」だとはるか南のはて、それこそインドネシアのボルネオ島やスラウェシ島のあたりになる。これじゃ「会稽東冶」もクソったれもあったもんじゃないw 『石刻禹跡図』は1137年だからかなり後世のものだが三国時代の司馬氏に仕えた裴秀が作った『禹貢地域図』の影響で作られたという。これによると高麗(今の韓国)の南端から瓊州(今の海南島)まで約五千里というから、朝鮮半島の南端から台湾の北端までその半分で約2500里。これを北にずらすとだいたいソウル(帯方郡)から福州(東冶)までと同じぐらい(約2500里)にみえる。渡邉義浩は上述の著作の中で「『石刻禹跡図』は朝鮮半島南部から海南島まで約五千里とあるから、『禹貢地域図』では朝鮮半島南部から会稽の背後まで約五千里としていたことになる」と書いてるが、正気で言ってるのかね? まさか海南島を「会稽の背後」とは言わないだろうから「周旋五千里」に目が眩んで錯乱してるんだろう。海南島は遠くて、台湾だの会稽東冶だのは朝鮮と海南島の間ぐらいにある。だから目分量で半分の約2500里になるのは世界地図に照らせば誰がやっても明瞭にわかる。概数だから2600里でも2400里でもいい。『後漢書』郡国志によると洛陽から遼東郡まで三千六百里、玄菟郡まで四千里、楽浪郡まで五千里という。これを目安にしてみると帯方郡から会稽東冶の東の海上まではアバウトに2500里前後にみえる。前述の渡邉義浩の見立て(約五千里)は半分にしないと合致しない。上記の禹貢図から察しても、中国人は中国本土の地理については正確な情報を当然もってるから、これぐらいは容易に推定できる。「一万二千里に誇張しなければならない」という課題が発生した時には、一万二千里を五で割って、実測2400里と設定すれば実際の数値に近いと目算したのではないか。
ただし初期のシンプルプランだと方角が変わるのは不弥国から先の3000里分であり、十分意味のある変化といえるが、改訂された現状プランでは方角が傾いてるのは末蘆国から先だから先端のわずか600里にすぎず、これだと方角が変わっても変化が無いから日数表示の分も距離に加算されていると考えられる。つまり北九州と邪馬台国の間は、方角を変えることで邪馬台国を「会稽東冶の東」にもってこれる程度には離れているということだ。邪馬台国を含む倭国のおもな領域が九州内に収まっているのなら、南への距離の延長だけで済むのであり、わざわざ方角をかえる意味がない。

それと「一万二千里」に誇張した段階でインドネシアまでぶっ飛んでしまってんので、これでは「呉に対して脅威を与える魏の同盟国」にもならない。「会稽東冶」にもってくるためには5倍誇張では大きすぎ、1.5倍と2倍の間ぐらいでいい。しかしそんな倍率は魏志に出てこないし、会稽東冶については距離の誇張でなく方角ズラシで対処したことは明らかだ。そうするとこの二つの歪曲は両立しない。距離が誇張されてると知る人で初めて倭国が呉の近くなんだと騙されることができ、一万二千里を真に受ける人は会稽東冶の東には馬韓があると考えるか、さもなければ会稽東冶の東はるかハワイのあたりに倭国があると考えるはめになる。しかし一万二千里は数字の上だけのことなのに会稽東冶は習俗文化の具体的でふんだんな記事とともに考察された文なので、どちらが嘘でどちらが本当かは容易に判断がつくだろう。おそらく「会稽東冶の東」をみて「一万二千里は嘘なんだな、誇張されてるんだな」と気づかせる意味もあるんだろう。肝心なのは「倭国は会稽東冶の東である」ということである。

一万二千里を真に受けるとインドネシアになっちゃうから、実際に邪馬台国インドネシア説というのはあった。有名だから知ってる人も多いだろう。それは北アジア史の権威で遊牧民族の歴史について数々の名著のある内田吟風の唱えた説で、ジャワかスマトラにあった「耶婆提国」を邪馬台国とする。耶婆提はヤヴァドヴィーパ[yava-dvipa]の音訳で、AD411年にここを訪れた法顕が『仏国記』で紹介している。この説は素人ではなく学界の大物が主張したのが珍しい。しかし残念なことに後年撤回している。
この他に南方説としては小林恵子の奄美説(電波古代史学者の小林恵子と同一人物で本人の最初期の若き日の著作)、加瀬禎子のフィリピン・ルソン島説(耶婆提国とみるのは内田吟風と同じだがジャワ・スマトラでなくルソンとする)、木村政昭の沖縄説(琉球大の海洋地質学者。今も地震研究そのほかで活躍中)がある。いずれもジャワ・スマトラ説の前では迫力不足。
倭人伝の「其の道里を計るに当に会稽東冶の東に在るべし」を真に受けると奄美大島や沖縄、「投馬国(台湾?)まで水行二十日そこから邪馬台国まで水行十日陸行一月」を真に受けるとルソン島の南端あたりになるので、これら南方説の論者はだいたい「真に受ける系」の人が多いと言い得る。
この中で木村政昭はさらに「ムー大陸沖縄説」を言い出したところが面白い。戦前の日本人のインドネシアへの思い入れといい、ムー大陸と竹内文献一派との関係といい、邪馬台国とムー大陸は日本人にとって魂の故郷とか失われたルーツとかを象徴するという意味で深層心理的には似たような面がありそうである。
普通のオタクならここでモスラの歌やインファント島の土人の踊りの動画だすところ。そっちじゃなくて、こっちってのがツウでっしゃろw
ちなみに章炳麟(明治〜戦前、中国の政治家)がこの耶婆提国を南米エクアドル(漢字表記:耶科陀爾)とする説を唱えた。その説自体は邪馬台国に絡まないのだが、これとは別に幸田露伴が耶婆提国なら耶科陀爾(エクアドル)より日本の邪馬台国のほうが似てるだろうと突っ込んだ。この両説を都合よくくっつければ「邪馬台国南米説」もたちどころに組み立てることができる。

45度説と90度説での邪馬台国の位置関係
では、方角が傾いてるのは意図的なものだとして、それは45度なのか、それとも90度なのか? 90度説より45度説の方が若干ややこしいので、まず90度説から検討してみる。

90度説
90度説だと順次式でも放射式でも方角は日本海航路より瀬戸内海航路の方が自然にみえる。順次式だと邪馬台国までの水行と陸行が「and」なら投馬国は中間地点で広島県福山市鞆町鞆か。「or」なら邪馬台国までの3分の2ぐらいの距離で岡山県玉野市玉か。順次式で「or」の場合「陸行」が説明しづらくなってしまう。大きくは日本海航路でも角度の広がりからいって投馬国が出雲だとしても但馬だとしてもそこへの南(実は東)はだいたいそういえる範囲ではある。が、投馬国がもし但馬だとすると邪馬台国への南は「西南」(実は東南)の誤りだとでもしないと苦しい。だとすると投馬国は出雲が妥当か。水行陸行の具体的な距離がどのぐらいなのかは詳しくは後でやるとして、ともかく順次式の場合「水行・陸行」の距離をむちゃくちゃ短かめにとっている。
放射式だと特になんの問題もない。が、問題なさすぎて邪馬台国も投馬国も、候補が多すぎて絞れないw しいて言えば邪馬台国を畿内大和とすると順次式ほど酷くはないが放射式でも「水行・陸行」の距離をかなり短くとってる。だいたい北九州から畿内大和までは陸行だけで半月ぐらいが適正だから「陸行一月」とは倍もの差がある。この、水行陸行の具体的な距離がいったいぜんたいどのぐらいなのかの考察は後の方でやります。

なお、日本海航行説の場合なぜ瀬戸内海を通らないのかという説明も必要だが、それは後の方で「魏の使いが邪馬台国に行ったか行かなかったか論争」のとこで一緒にやるからここではやらない。
それと畿内説か九州説か問わず、投馬国と邪馬台国の水行陸行は郡から直接いくルートなんだという説もあるが唐突で受け入れ難い。張明澄も「そんな漢文の読み方はない」と一蹴していた。ここまでガイドしてきてなんで急に郡から説明しなおしになるのか? そもそも邪馬台国への案内なのだから不弥国までのルート説明は邪馬台国につながってないことになって意味不明になる。日数は一万二千里の日数だという説も方角を傾けた分の里数が少なすぎて方角をかえる意味がなくなるので採れない。

邪馬台国と投馬国がどこなのかという話は水行陸行の日数の問題のところで検討する。それまでお預け。

45度説
45度説の場合、放射式は成り立たないので順次式のみが考察の対象になる。
模式図的には邪馬台国は北九州(不弥国)からみて「はるか東南」ということになる。不弥国から投馬国へいく南というのは東南ということになり、畿内説の場合は九州東北部から瀬戸内海へ向かう方角となる。九州説の場合でも放射説を使わず順次式で不弥国から九州東北部の岸に沿って進み、豊後や日向の方向へ行けばよい。放射説だと伊都国から南にしろ東南にしろ二十日も水行できるような大きな川がない。まぁ2日も歩けば有明海に出ちゃうので何とでも言いようはあるが…。畿内説の場合、波の荒い日本海より瀬戸内海の方がよさそうだが、玄界灘に比べれば日本海もたいしたことないし、行きの場合は日本海の方が潮の流れに乗って高速で行ける。帰りは瀬戸内海航路を使ったろうが、行きは日本海と両方ありうる。ただ、瀬戸内海航路だと、投馬国を周防にしても吉備にしても方角的に邪馬台国=大和との位置関係が難しくなる。神戸市須磨区を投馬国とすればなんとかなりそうではあるが、投馬が須磨(すま)になったってのはもしかしたらやや厳しいかもしれない。
日本海航路だと、南は実は東南なのだから、投馬国が但馬だとすると実に都合がいいのだが、不弥国から投馬国への南(東南)が整合しないのが難点。
そこで、不弥国から投馬国への「南」は誤字があるのではないかという、九州説からは評判の悪いいつものアレ。一応、3通り考えられる。

(A)「東」(実は東北)の誤りとする説
(B)「東南」(実は東)の誤りとする説
(C)「東而南」(東北に行ってから東南に折れる)の誤脱だという説

(A)の場合、不弥国から東北に進んで投馬国=出雲に到着、そこから東南に向きを変えて邪馬台国へ向かうことになる。
投馬国が出雲だろうが但馬だろうが「邪馬台国への南」とあるのは実際は東南のこと。
(C)の場合、はじめ東行(つまり北東)して出雲沖あたりで南(つまり東南)に方向転換して投馬国をめざす、と。この場合、模式図の方角では邪馬台国は北九州からはるか東南にある。

以上、45度説の根本的な問題は、日本列島が北九州から東南方向に伸びている、という地理観を魏人がもっていたという前提があるわけで、これは実際の日本地理とはずいぶん乖離している。前述のように当時の中国人はすぐれた測量技術や発達した地理学があったのに、そこまで間違った地理観をもっていたとは、どうも考えにくいようにも思われる。
だが、陸行水行の日数をどう考えるかによっては、上記の(A)説をもとにして、45度説でありながら邪馬台国を真東にもってくることもできるのだ。日数を距離に換算する話は後回しにしてここでは詳しくはしないが、冒頭の「韓地では内陸をジグザグに陸行しようが、海沿いを水行しようが、同じく七千里」という話を思い出そう。あれは水行も陸行も同じ距離だということを暗示したのではないだろうか。そうすると不弥国から投馬国までの「水行二十日」と、投馬国から邪馬台国までの「水行十日プラス陸行一月」が等距離になり、投馬国は不弥国と邪馬台国とのちょうど中間点にあたるので、出雲の方が但馬説よりよさそうにも見える。出雲説の場合、出雲から水行十日で但馬に上陸し、そこから陸行一月で邪馬台国に到着。ちょうど良い。
投馬国が出雲なのか但馬なのかという議論は後回しにして、なにが言いたいのかというと理念上は不弥国と邪馬台国との間の中間点では直角に曲がってるんだからこの航路は直角二等辺三角形を描き、邪馬台国は不弥国からみて真東に当たることになる。北九州から真東ではどんなに長距離を行っても「会稽東冶の東」にはならないが、これを45度傾けると、真東が「東南」になり、「会稽東冶の東」を延長した先と交わる。ただ、2000里か3000里も離れた「はるか東方」になり、呉への牽制になるのかという問題はあるが、一応、理論上は「会稽東冶の東」に違いない。
邪馬台への行程【その4】」に続く。
【その4】では狗奴国の謎に迫る! そして使訳通ずるところ三十国の「30国」のリストはの謎を解明!?

邪馬台への行程【その2】~女王国と周旋五千里の謎~

改稿:2679年[R01]10月20日SUN (初稿:2679年[R01]10月10日THU)
邪馬台への行程【その1】」よりつづき。前の議論を踏まえているので必ず【その1】から読んで下さい、でないと話がわかりません。
「女王国」という言葉
女王国という言葉は本来は男王国の対語で、倭国が男王派と女王派にわかれていたという情況を反映していた。女王国は「女王が支配する諸国=女王を支持する諸国」、男王国は「男王が支配する諸国=男王を支持する諸国」の意味。だから理屈だけいえば、邪馬台国も女王国だけど、奴国も女王国(の一部)ではあるわけだ。倭人伝に出てくる「女王国」という言葉を、読者は邪馬台国のことだと錯覚して読んでるが、実は奴国のことだったりする。しかし言葉の定義上、嘘をついてるわけではない。実際、倭人伝には「女王国」という言葉は5回でてくるが、文脈から判断するに、そのうち4回は単に奴国をさしている。

魏志倭人伝にでてくる「女王国」と「女王」のリスト


(A)「皆統屬女王國」◎
(B)「自女王國以北其戸数道里可得略載」 ◎
(C)「自郡至女王國萬二千餘里」 ◎
(D)「自女王國以北特置一大率檢察諸國」 ◎
(E)「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」 ●

(1)「南至邪馬壹國女王之所都」
(2)「次有奴國此女王境界所盡」 △
(3)「其南有狗奴國其官有狗古智卑狗不屬女王」△
(4)「傳送文書賜遣之物詣女王」
(5)「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」●
(6)「倭女王遣大夫難升米等」
(7)「其年十二月詔書報倭女王曰」
(8)「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」

【魏略】「女王之南又有狗奴國女男子爲王」▲
(魏志では「女王之南」が「其南」になってる)

無印(1)(4)(6)(7)(8)の女王は、「卑弥呼という人物」を指し「王の地位にある女性」そのまま。
△(2)(3)は「女王の勢力圏」、お前らの好きな言葉でいえば「女王国連合」、つまり本来の「女王国」という言葉の使い方。 女王の二文字だけでも文脈上は女王国の意味。例えば「ロシア皇帝が宣戦布告した」といっても「ロシア帝国が宣戦布告した」といっても同じこと。
◎(A)(B)(C)(D)の「女王国」はまさに「奴国」の誤記、いや奴国をあえて女王国と書いた例。(C)だけが意図的なもので他は誤記かもしれないが。
●(5)はもし誤写がないとするとなぜ「女王」と人間を出してるのか不可解だから「女王国」か「奴国」の誤写だろう。「女王国」だったとするとその意味は卑弥呼の勢力範囲(=諸国の範囲、女王国の本来の意味、「女王国連合」の全体)か邪馬台国か奴国かの三つありうる。卑弥呼の勢力圏の意味だとすると、範囲が広すぎて起点が漠然としてしまうので、「奴国」なり「邪馬台国」なりと書かれてあるのがもっとも自然であり、女王国とか女王とあるのはへんだ。へんではあるが距離や方角の起点を示す時は「女王」とあろうが「女王国」とあろうがすべて「奴国」か「邪馬台国」のいずれかを指すと解釈せざるをえない。この場合、もと奴国とあったのを女王なり女王国なりに誤写したのだとはいえても、もと邪馬台国とあったのを誤写したというのは字づらからいって苦しいから、「女王之都」とあったのが誤脱したんだといった方がいくらかマシだが、あえて邪馬台国と書かず女王とか女王国とか漠然とさせてるのはやはり普通でなく、奴国を意識してるのではないか。奴国を女王に誤写した可能性もあるし、誤記ではなくわざと「女王国」と書いてあったのに国の字が誤脱した可能性もある。詳しくは後述。
●(E)も「奴国」のこと。だが、△印と同じく女王国連合の全体と受け取りたい人が多いかも知れない、俺もそう思ってた時期がある。もと「魏略」の冒頭で半島から海を渡った先にも倭があるという趣旨の文だったが、陳寿が切り‏離して遠く離れた末尾に置いた時に、ある目的をもって「女王国東」と補い、もともと無かったはずの倭国の領域を文章の上だけで東に想定したもの。詳しくは章を改めて以下に述べる。
▲【魏略】の女王は魏志では「其の南」になってて『魏志』の文脈からは「奴国の南、女王国全体の南、邪馬台国の南」の三通りの解釈がありうる。魏略の方が原形なら邪馬台国を女王国と誤記することは考えにくいし、女王国全体の南では広すぎて起点が定まりにくい。そうするとここの女王は奴国のことだと一見思われる。狗奴国は肥後菊池郡としても南は後述するように45度(別説で90度)傾いて東南のことだから奴国から東南では菊池郡にならない。東国説の場合は邪馬台国から東(90度説だと表記上は南)だから、こっちの方が合ってるが、ならば邪馬台国とあるべきでこれを女王とは書かないだろう。邪馬台国を女王と誤記することも考えにくい。ともかく邪馬台国は字づらからありえず、かつ、奴国の線も消えるなら、文面上は「女王国」だったとしか考えられないが、女王国(の全体、勢力範囲)は普通は広すぎて方位や距離の起点とはされない。苦肉の策だが、「女王国」が例外的に方位や距離の起点になりうる場合が一つだけある。それは対象が特定の国邑(=点)ではなく、女王国と同程度の広がりをもっている(=面)場合だ。つまりここには文字の誤脱があり「女王国之南、男王国あり」もしくは「男王国は女王国之南にあり」という文章だったのではないか。

「周旋五千余里」の謎
●(E)の原資料は『魏略』で冒頭の「倭在帯方東南大海中依山島為国」の後にすぐ続けて「度海千里復有国皆倭種」とあり。前の文はもちろん『漢書』地理志の「夫樂浪海中有倭人為百餘國㠯歳時來獻見云」に基づいた文だが、ここの「海中」は「海を渡った先」の意味ではない。『山海経』海内南経にに「甌居海中、閩在海中」(甌越(今の浙江省)は海中にいて閩越(今の福建省)は海中にあり)、『漢書』天文志に「朝鮮在海中」(朝鮮は海中にあり)と。『戦国策』にも用例があったが検索しても出てこないな。朝鮮も甌越も島ではなく中国と陸続きである。この場合の「海」は "sea","ocean" ではなく「晦」(かい)と同義で「暗い」の意味。「暗い」というのは中華文明の光が届かない化外の地、異民族の世界ということ。陸続きか島なのかはぜんぜん関係ない。逆にこの「海」に囲まれた内側が文明世界でありこれを「海内」という。義満が明の皇帝に送った国書に「某、幸に国鈞を秉り、海内虞(おそれ)なし」とあったあの「海内」も同じ。もし "sea","ocean" の意味なら「海中」でなく「海上」と書けば間違いがないが、「海中」でも "sea","ocean" の意味の場合も当然あるから文脈をよくみて判断しなければならない。『漢書』地理志の「楽浪海中」は楽浪(今の北朝鮮)の海中というのだからそれは今の韓国の地をさしている。もし日本列島をさすのなら楽浪ではなく「真番海中」でなければおかしい。真番は今の韓国の地で、半島南部を「韓」というのは後漢になってからで、前漢の頃は真番郡が廃止されても「韓」という呼称はまだ発生する前で「真番」と呼び続けていた。真番の住民が倭人ってことになる。ところが「真番海中、倭人あり」ではなくて「楽浪海中、倭人あり」なのだから、今の韓国の地の住民は当時は倭人と呼ばれていたことになる。だから『魏略』冒頭の「倭在帯方東南大海中依山島為国、度海千里復有国皆倭種」をそのまま読めば表面上は「倭は朝鮮半島にあるが、海を渡った先の日本列島も倭国だ」っていう意味にしか取りようがない(さらに詳しくはいずれ解説します。いつか任那日本府についての議論で扱うだろう)。つまり『魏略』は朝鮮半島の南部も倭だっていう前提の文章だった。これは「魏志では半島に倭があったとは書かれてない」という前述の俺の主張とは矛盾しない。時代が違うのだ。

※なお「山島」は通常なら「山がちの島」とか「平地の少ない島」ぐらいにとるのが普通だろうが、鈴木貞一によると「山島」には「半島」の意味があるという。「半島」は西洋語を翻訳して作った現代語で漢文にはない言葉。「崎」は険しい山、「岬」は細長い谷間のことで、どちらも半島の意味に使うのは日本で始まった転用(もしくは誤用)で、本来の漢文にはない。ただ「埼」の字は未確認で、もしかしたら半島の意味があるかもしれない。「山島」で半島を表わし得るというのは、上に突き出た土地が「陸にあるのが山で、海にあるのが島」だから、「山島」とくっつけると「陸側に半分くっつき、海側に半分でている地形」で半島のこととなる、という理屈だろうか? もし鈴木貞一の説が本当なら『魏略』のいう「倭在…依山島為国」の文は「倭が半島にあった」と解釈することが可能になる。ただ、この場合でも「山島」は「半島の意味しかない」というわけではないので、絶対の根拠にはならない。

韓も倭も「百餘国」だが、三国志の三韓合計78国と宋書の倭(東55国、西66国)合計121国を加算すると199国で、これを倭韓で平均すれば「百餘国」でぴったり合ってるともいえる。「三韓」の諸国が三世紀に計78国、五世紀に海北95国だから、前漢代に「百餘国」といってるのは半島南部の諸国の概数として不適とはいえない。国造本紀(144国)や隋書(120国)や五世紀の121国から推定して三世紀日本列島も「百餘国」だったというのも概数として問題はない。精密な数字が一致することは偶然で考えにくいが、四捨五入したおおまかな概数が一致するのはよくあることで何の問題もない。誤解ないように念押しするが、これは前漢の頃は倭国が半島を支配してたのに後漢になってから半島が独立したということではない。半島の原住民(倭人)が日本へ引き上げて別の人種(韓人)に入れ替わったという意味でもない。「中国人側からの呼び名」が変わっただけ。三国時代にはすでに半島の「韓」と列島の「倭」に呼び分けることが起こっていたので、この部分は誤解ないように切り捨てるべき部分だったが、陳寿はこの前漢代の知識に基づく文章を切り離し、「ある目的をもって」末尾に移動したのである。その時に「女王国東」と補った。陳寿の意図については後述する。原文の『魏略』では「女王国の東」だとも書いてないし単に「東」だとも書いておらず「千里の海を渡った先にも倭」としかいってない。これは半島の倭と対馬の倭の関係をいってるにすぎない。だから冒頭に書いてあるわけなのだ。
東千里の倭種は女王国じゃないんだから、じゃそれは男王国=狗奴国だろうと『後漢書』は解釈しているが、誤りに誤りを重ねるものだ。実際、狗奴国は東にあったんだが、范曄が正確な情報をもっていたわけでは全然ない。二度まちがいを重ねた結果、偶然ただしくなっただけ。
陳寿としてはこの「倭種」なるものは女王国でも男王国でもない倭国のつもりだったろう。
なぜそんなことがわかるのか?
上記の●(E)と●(5)の文は問題の「周旋五千里」とくっついたひとまとまりの文になっている。
倭人伝には

参問倭地、絶在海中洲嶋之上、或絶或連、周旋可五千餘里


倭の地を参問するに海中洲島の上に絶えて在り、あるいは絶えあるいは連なり周旋五千余里ばかり

という文がある。「周旋」はうっかりすると「ぐるっとめぐる」って意味だから一つの陸地の周囲か複数の島々を囲む距離(ぐるっと回って同じ所に戻る)と思われやすく、実際プロの学者からアマチュアまでそういう解釈の人が多い。しかし三国志の「周旋」の用例を調べた人のレポでは20件ぐらいあるうちのほぼすべてで「転々としながらあっちに寄りこっちに寄りして進む」の意味で使われているという(ネットで見たけどアドレスは忘れましたw)。つまりくねってはいるが一本の道だとも受け取れる。だから、国語学者の山田孝雄は「周旋とはみずからが旋転(めぐりまわる)する意味」であるといっているけどこの場合の「みずからめぐる」というのはフィギュアスケートやバレエダンサーみたいに自分の身体を回転させるということでなく「めぐりながら(あちこち寄りながら)歩く」ってことだろう。だが、辞書レベルでも丁寧に調べたら「同じ場所に戻るようにぐるっと回る」という意味も絶対に無いという訳でもなさそうだ。
ともかくこの前提で、例えばこの「五千余里」を一万二千里から韓地の七千里を引いたもので機械的な計算で出した数字にすぎないという説も有力なのだが、簡潔を尊ぶ漢文において、そんなわかりきった数字をわざわざ明示する意味はない。
小人国1侏儒国(小人国)
そもそもこの記事の該当文面は●(E)の「女王の東千里に国名不詳の国があり」、●(5)の「その南に侏儒国があり女王から四千里。裸国と黒歯国がうんたら」にすぐ続いて「周旋五千里」で閉めている。「習俗記事の後、歴史事件記事の前」に置かれており、行程記事から遠く離れていて、本筋の行程記事とは関係ないようだ。●(E)は前述したように『魏略』の倒錯した文だから切り捨ててしかるべきだったが、行程記事とは別のこんなところにもってきて原文になかった「女王の東千里」を補ってる。なんでこんな余計なことをしてるのか? おそらく「周旋五千里」は初期モデルでのコースで対馬国から邪馬台国までの5000里のことだったと思われる。これは最初に「一万二千里」と一緒に広報されてしまっていて引っ込みつかない情報だったんだろう。ところが改訂モデルだと対馬国から奴国まで4000里なのだから、1000里不足する。だから1000里分、水増ししなければならない。そこで先ほどの廃棄されるべきだった『魏略』の文を都合よく再利用したのだが、無いものを有るといっただけだから国名が無いのである。その名無し国から四千里も行った先のこと(侏儒国)まで情報あるのに、そのずっと手前の国の名前がわからないっておかしいだろう。存在しない国をあるように見せかけるために、わざと侏儒国とか裸国、黒歯国といった『山海経』に出てくる神話上の国、当時の中国人にとっても実在かどうか半信半疑な国と一緒に書いてるわけなのだ。「参問」というのは魏の使いが自分で確認したわけではなく倭人から聞いた話だという意味。数あわせのため追加した千里分の「名無し国」は詳しいことは書けないので伝聞ってことにしてある。本当にそんな国があるのならストレートに書けばいいんでわざわざ「参問」などと断りを入れたりはしない。

なぜ里程でなく日数になってるのか
さて。次には、なんで投馬国からは里程でなく日数で書かれているのかという問題。
一万二千里にするため誇張したにしても、それならそれで邪馬台国までの区間も里数で示せばよく、なぜそこだけ日数なのか? よくいわれる説としては魏使は投馬国と邪馬台国には行ってないので倭人からの伝聞で書いた、隋書倭国伝に

夷人、不知里數、但計以日。


夷人、里數を知らず、ただ計るに日をもってす。

とあるから里数の情報は得られなかったんだ、という説。しかしなんで隋代というずっと後になってそんなことがわかるんだ? 隋といえば推古天皇、聖徳太子の時代で「里」の単位を知らないなんてことはありえない。そもそも隋の使者である裴世清が倭国にきたことも隋書に書かれてるんだからその時代の倭国の文化情況もよく見聞してたはずだろう。卑弥呼の時代の話だというなら三国志の段階で書かれたはずで隋になってやっと確認とれたなんてことはありえない。これは倭国の大きさを「東西五月行、南北三月行」と説明する直前の文だから、なぜ里数で書かないのかを言い訳するための前置きなのである。現代の我々が「魏の使いは投馬国と邪馬台国へは行ってないんだな」と推理するのと同じく、隋書の編集部も三国志の倭人伝をみて「日数表記に変わったところは魏の使いは行ってないんだな」と理解したからこそ、言い訳に利用できたんだが、なぜ理解できたのかというとそれこそ孫栄健のいう「春秋の筆法」で、普通に読めば邪馬台国までいくと一万二千里を超えてしまうからだ。「邪馬台国まで一万二千里」を「奴国までが一万二千里」に書き換えたため、奴国を経由して邪馬台国まで行ってしまうと「1万5100里」になってしまう(奴国から不弥国まで百里、不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里)。現代人からするとどうせ誇張ならそれでも別によさそうに思うかもしれないが、それならなぜ最初から「1万5100里」だと宣伝しないのか、「一万二千里」という話はなんだったのか、そんないい加減でいいのかってことになる。「一万二千里」という数字はすでに景初三年(239年)のイベントで大々的に宣伝されてるので今さら引っ込みつかない、だから「1万5100里」は隠してしまいたい。そこで実際に行ってない行程はわざわざ日数換算に置き換えて里数に単純に合算できないように阻止してあるわけ。
日数表示というのは別に当時の倭人が里という単位をしらなかったからではない。当時の倭人だけでなく、当時の中国人も、現代の中国人も、現代の日本人もみんな日常的に使ってる物差しなのだ。考えてもみろ、自宅から会社までとか、大学から新宿とか渋谷までとか距離を聞かれてキロメートルで答えるやついないだろ? 地下鉄で30分とか山手線で15分とかと答えるはずだ。その方が体感でわかりやすく、実用的で便利だから。里数の方は役人が測量担当者を引き連れて、測量して回る。そのデータを地元の役所(例えば帯方郡)に保管したり中央に送ったりする。だから理論上は実際に行ってないと測量できない。むろん実際は伝聞で里数も把握してたろう。自分で測量しなくても倭国に聞けば教えてくれたはずだ。「軍事機密なんだから教えるわけないだろ」という人もいるが、そんなこたぁないんだよ。当時は邪馬台国だろうがどこだろうが中国系の移民(合法移民も不法難民も含む)もいれば帰化人系の下級貴族だってそれなりにいたのは魏志倭人伝に倭国の使者の中に中国人の名前の者がいるのでわかる。だから、魏の使いも部下を邪馬台国のすぐそばまで派遣したって何も不自然なことはない。ただ合法的にそこらの景色見て歩いてこさせるだけで大雑把な里数ぐらい把握できてしまう。むろん測量しなければ正確なものではないが、大雑把な情報でもさしあたり無いよりずっとマシのはずだ。そんなこと当然、倭国の側もわかってるから、軍事機密だなぞと仰々しくもったいぶって教えない、なんてことはありえない。「ハイハイ、どうぞ」と2秒で差し出すに決まってる。

むろんそれで得た結果が「水行二十日」「水行十日陸行一月」に反映してるかどうかは別だよ。日本書紀の推古朝での隋使裴世清の旅程日数から、ほぼ妥当だという説もあるが、裴世清の旅程は最短最速で進んだわけでもなさそうだし、日数から距離に換算できる性質のものじゃないだろう。むしろ推古朝の朝廷(聖徳太子?)が魏志倭人伝の記述にあわせてわざわざ日数かけて移動させ、もったいぶって見せたんだろう。三国志にでてくる倭国は超大国であるように誇張されている上、当時の隋でも推古朝廷でもその三国志の倭国がこの倭国だと思ってたわけだから、これに便乗して大国に見せかけるぐらいのことは当然やる。

それに前述のように「邪馬台国まで一万二千里」が中国側の都合で先に決まっていたんだから、倭人から聞いた実際の里数とは無関係に、機械的に「郡から楽奴国まで6000里、渡海に3000里で、上陸地の不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里」と割り振られたという想像は前の方で書いた通り。それがずっと後になって「奴国まで一万二千里」に改定されたから、この余分な3000里の部分が里程に合算されないように日数表示に変更されたのだろうと容易に理解できる。
で、魏の使いがはたして伊都国までしか行かず卑弥呼に会ってないのか、それともちゃんと邪馬台国まで行って卑弥呼に会ってるのかという問題と、日数表記の「水行二十日」「水行十日陸行一月」が具体的にどれだけの距離なのかという問題。この二つの問題については後の方で必ずやりますから、その前に「方角」の問題を片付けないといけない。
邪馬台への行程【その3】」に続く。
【その3】では方角が傾いちゃってる謎を解きます。日の出の方角を東としたからではないし日本の地理を古代人が誤解してたからでもありません。「会稽東冶」についての議論、そして「狗奴国」が東海地方なのか熊本県なのか、どっちなんだって話も。

邪馬台への行程【その1】~一万二千里と春秋の筆法~

改稿:2679年[R01]10月19日SAT (初稿:2679年[R01]10月03日THU)
※【その8】までありますが、内容がつながってるので一気読みして下さい。
前置き
今回は邪馬台国問題の中でもいちばんくだらない、じゃなかった、いちばんメジャーな「帯方郡から邪馬台国へ」のコースをどう解読するかって問題に挑戦してみる。

韓地七千里の謎

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里

最初のこの文からもう謎だらけw
「循海岸水行」の意味は海岸にそって航行するんだから韓地の西海岸を南下し一回東に折れてから韓地の南海岸にそって東行するとしか読めない。よって「歴韓國」は韓国の海岸を経ていく意味になる。それなのに「乍南乍東」とあり、小刻みに南いったり東いったりすることだから、これだと「歴韓國」は北西から南東に向かって韓国の内陸をジグザグに進んだように読める。この文の解釈はこの二つの説が対立しているが決着はつかないと思う。なぜならどっちもその通りに書いてあるわけだから。
※これを途中まで沿岸航路で行って、途中から上陸してジグザグコースを陸行するような地図を作ってる人がいるけど実際にはそんな不便なコースはありえない。内陸の場合、南韓江と洛東江の水運を使うからだが、後述の魏略逸文には「乍南乍東」が無くこれが元ネタと思われるというのもある。

また「歴韓國」が上陸せず海沿いを水行する意味と、ジグザグに陸行する意味のどちらもありうるのならば、物理的にいって「韓国を歴ず」しては倭国に行けないわけだから、この三文字は要らないのではないか。簡潔を尊ぶ漢文においては無駄な文字は極力排される。ゆえに、なぜこの三文字が挿入されたのか、何らかの意味がなければならない。「韓国を歴て」は2つの解釈があり、「韓国を通過して」の意味であって海路は該当せず、「乍南乍東」と繋がって「陸行」を表わす言葉だという説と、上陸せず海岸に沿って進むんでも「韓国を歴て」という漢文は問題ないんだという説とがある。単語レベルの正否は俺には決められないし、これだけなら何とでも言えそうだ。その一方で、内陸ジグザグコースの場合、南漢江を最上流まで遡上し峠を歩いて越して洛東江を川下りしたんだから「乍南乍東」の方もたとえ内陸であっても「水行」なのだという説もあり、中国での水行といえば川をいうことが多いぐらいだから、それもありだと一見思える。が、本文には純粋な陸路なのか川を使ったのか明示がない。実際には川を使ったとしてもあえて水行だとはいってないのは、編者の陳寿としては内陸の川なので海路に対する陸路だということにしたいのだろう。そうすると、あくまで「この文脈では」という条件つきだが、「歴韓国」は陸行を示すという説の方がよさそうだ。つまり「循海岸水行」の「水行」と「歴韓国乍南乍東」の「陸行」を対称的に並べているのだ。
帯方郡から狗邪韓国までの行き方が海路と陸路の両方あるのは、まぁ別にそりゃそうだろってだけのことで問題はないし、狗邪韓国に着くことにはかわりないのでどっちでもいいっちゃいいんだが、なぜか魏志は二つの行き方をごっちゃに書いてる。これは普通ではない。おかしい。
あえてこう書いてる理由は、これから倭国への道を書くに当たって「二つの行き方をごっちゃにして書くよ」という前ふりなのではないだろうか?

二つめの問題は「其の北岸の狗邪韓国」。この「北岸」は

(1)「倭の北部にある沿岸部」と解釈する説
(2)「倭からみて北の方にある岸」と解釈する説
(3)「南の倭の海」と「北の韓の岸」が接してる意味とする説

がある。これ単なる地理情報としては「南岸」でないとおかしい(この場合「其の」は「韓の」の意味になる)。「韓の北岸」ではなく「倭の北岸」という意味ならあってるというのが上記の3つの説だが、そうか?「其の」が「韓の」の意味だろうが「倭の」の意味だろうが、普通は北側が海で南側が陸の状態を「北岸」というのであり、倭の北岸なら九州北部の沿岸部しか該当しないし、韓の北岸はそもそも地形上存在しない。このことは明治初期の学者から言われてることで、当時の人ほど漢文に精通してるとは到底思えない現代人が「いや北岸のままで問題ないんだ」といくらいっても説得力がない。だから現代人でも問題ありと認めて解釈説を立てるのが普通で、上記のような3つの説があるわけだ。北岸は「南岸」の誤記だとすれば話は簡単だが、そういう説はない。ということは、解釈で切り抜けられると思われているわけだが、実際うまくいってる訳ではない。(1)の場合「狗邪韓国」はつまり倭の領地(もしくは倭人居留地?)で(3)は韓地には倭の領地はないが海は倭の領分(領地?勢力圏?)だとみているわけだが、どちらもなぜそんなわかりにくい書き方をするのか、意味がわからない。もっとわかりやすく明示する書き方はいくらでもあったろうに、自然な解釈で切り抜けに成功しているとは思われない。(2)が明治以来の有力説だが、他が文章表現として不自然すぎるから比較的マシというだけのことで、なぜとつぜん「倭から見て」なんて視点をかえなければならないのか?
「倭からみて」ってことは韓から倭にいく時の視点とは逆に、倭から韓へ帰る時の視点だ。つまり往路と復路、二つの行き方がごっちゃになってる。これ先に「循海岸水行」と「乍南乍東」の併記によって「二つの行き方をごっちゃにして書くよ」とお知らせあったわけだが、その二つの行き方というのが実は「往路と復路」のことだと暗示しているのではないだろうか?w
ちなみに魏志の原資料になったともいわれる『魏略』には「乍南乍東」も無ければ「其の北岸」も無くて実にすっきりしている。

『魏略』 從帯方至倭 循海岸水行 暦韓國      到   拘耶韓國 七十餘里 
『魏志』 從郡 至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

あきらかに陳寿が「わけのわからない謎かけ」を意図して文字を追加しているのだ。

第三の問題は出港地である狗邪韓国はどこなのか?
狗邪韓国は韓の東南といい、通説では慶尚南道の金海とされる。金海は釜山の西に隣接してるので確かにパッと見、東南の隅にあるように見える。だが魏志は「東南だ」とはいってるが「東南の隅だ」とは言ってない。
帯方郡から韓の東南「狗邪韓国」まで七千里。このコースは西海岸を南下すること4000里、そこから東に折れて南海岸を東行すること3000里で計七千里とみる説にしろ、内陸をジグザグに進むという説にしろ、どっちのコースでも狗邪韓国は東南は東南なのだが「東南の隅」ではなく東南の隅から1000里てまえの地点になる(内陸ジグザグコースの場合も同じ、定規で図面つくってみればわかる)。韓地は方四千里だから「東南の隅」なら七千里ではなく8000里になる。「狗邪韓国」が金海なら東南の隅で8000里になりそうなものだが。そこで「狗邪韓国」は「弁辰狗邪国」と同じものというのが通説なのだが、両者を別の国だとして、今の金海は「弁辰狗邪国」であり「狗邪韓国」はそこより1000里ほど西にあったのではないかという説も出てくる。別の国だという説では「弁辰狗邪国」は弁韓の中の一国だが、「狗邪韓国」は馬韓・弁韓・辰韓のどれでもなく、魏志に「其の北岸狗邪韓国」とあるのは「倭の北岸」で倭国の領土だという。国名に韓とはっきりついてるのに倭だというのはちょっとどうなのかと思うが…。ともかく仮にこの説でいくとどうなるか。

魏志には「弁辰瀆盧国は倭に接す」とあり、まるで瀆盧国だけが倭と国境を接しているかのような書きぶりだ。上記の前提でいくとこの場合の倭は海の向こうではなく韓地内の倭だろうから、「狗邪韓国」のことだと考えるのが普通の流れだろう、あくまで狗邪韓国と弁辰狗邪国を別とする説の場合だが。で、瀆盧国は今の釜山市東莱区という津田左右吉の説が通説になっており、他に巨済島説があるがこっちは有力でない。

『三国史記』地理志によると巨済島には東西南北4つの郡県があり、うち北が「裳郡」、西が「買珍伊県」というのが知り得る最古の古地名とわかる。李朝末期の儒学者丁若鏞(丁茶山)は『我邦疆域考』の中で「鏞案、瀆盧國者、今之巨濟府也。本裳郡、方言裳曰斗婁技。與瀆盧聲近」(自分が思うに瀆盧国は今の巨済府である。もと裳郡で、朝鮮語で裳を「斗婁技」という。瀆盧と発音が近い)といっている。裳(呉音:じゃう/現韓:san)の訓斗婁技は "tu-lu-ki" だというがグーグルで現代韓国語の発音を調べたら "dulugi" という。これはローマ字表記の問題で同じ発音だろう。裳は韓国語でチマ(チマチョゴリのチマ)というのではないかと思うんだが、 "dulugi" で通じるのかどうか俺は知らない。やはり裳郡の裳は普通に考えると土着語の音写であって漢字に意味はないと思うのだが。これに対し、任那日本府の研究で有名な末松保和は買珍伊(呉音:めちんい/現韓:mae-jin-i/古韓:mai-tor-i/古和:めとり?)が瀆盧と同音だという。

東莱だと「倭であるところの狗邪韓国」との間に「倭ではない弁辰狗邪国」が挟まり、倭と接することができない。巨済島だとすると「倭であるところの狗邪韓国」が北でその南に「倭ではない弁辰瀆盧国」があることになり、「東西は海をもって限り南は倭と接す」という韓の地勢にあわない。そもそも島だからどこにも接してない。東莱説にしろ巨済島説にしろ「倭と接す」というのは土地が繋がってるって意味じゃなく海を隔てて交通していることだという説もあるが、それなら瀆盧国に限る意味はないし、語彙としてもむりやりな解釈で学界の中でも外でもほとんど相手にされてないと思う。現実の地形はそりゃそうだろうが、それを魏志が正しく認識してたなら「接する」とは書かないはずで、なんの謎解きにもなってない。巨済島説に対し、釜山市東莱区(新羅時代の「東莱郡」)の東莱が瀆盧の地名の痕跡だという通説の方がはるかに説得力があり、瀆盧国は今の釜山市のうち洛東江の東側の大部分を占めていたと思われる。狗邪国は釜山の近くではあるが釜山でなく、釜山の西にある金海というところであって、釜山とは別である(洛東江の河口を挟んで東が釜山、西が金海)。さてそこで「弁辰狗邪国」はどこか内陸にあって、金海にあったのは「倭であるところの狗邪韓国」だとすれば、瀆盧国問題だけは一応辻褄があう。しかしこの場合は「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」が通説どおり同じ国だとしても結局その位置つまり倭への出航地は金海ということに変わりはない。
この話は「出航地が今の金海なのかそれとも他のどこかの場所なのか」という問題なわけだが、なんでそんな問題があるのかというと以下の対馬海峡での謎解きに続く。

倭人伝のありえない逆行コース
まず韓の東南の狗邪国から渡海して対馬国、一支国(壱岐)を経て、九州の北西にあたる末盧国(松浦、場所は諸説あるがとにかく九州の西北部)に上陸、そこからまた行程は続くわけだが、実際にはこんなコースを取ったはずがない。対馬海峡は強い潮が西から東へ流れており、船が流されてしまう。なので古代では(前近代では)、韓国から九州に南下する時は、もっとずっと西寄りの港から出て、対馬、壱岐を経て、九州の東北部に入港するし、逆に九州から韓国へ北上する場合には九州北西部(松浦郡のあたり)から出発して、壱岐、対馬を経て韓国の東南部(それこそ狗邪国、今の金海、釜山)に着岸する。これがお決まりのコースなのだが、魏志倭人伝では奇妙なことに潮の流れに逆らって、本来なら九州から韓国へ行く時のコースを逆行している。当時はこれは物理的に不可能なんで、これを知ってる人は狗邪韓国を釜山よりずっと西の方だと考える人もいて、あるサイトでは慶尚南道の固城半島だといってるが、さしたる根拠はあげられてない。また別のサイトではさらに西の、全羅南道の光陽だという説を主張している。

光陽(クヮンヤン)は狗邪と発音が似てるが百済時代に「馬老」といったのを統一新羅の時代に「晞陽」(きよう)と改名したもの。現代韓国語だと晞陽はシーヤン、馬老はマーナオ、狗邪はクサに聞こえる。古い発音は、狗邪は日本語読みの方が近く、馬老は正確な発音は不明だが子音をみるかぎりとても狗邪と似てるとは思われない。

また船舶考古学や航海術に詳しい人は、上陸地の末蘆国は九州の東北部にあったという珍説をいう羽目になる。例えば坂田隆『卑弥呼と邪馬台国』は福岡県遠賀郡岡垣町の波津、吉木あたりとし、小説家の高木彬光や東京商船大学名誉教授の茂在寅男も宗像市神湊だとする。

茂在寅男は、壱岐対馬の現在にも伝わる船の下に帆を張るという変わった帆の使い方=潮帆(しおぼ)に注目して、当時の帆船もそうであったと推定する。潮帆は、潮夕と海流が強いための工夫から生み出された帆船であり、壱岐からの黒潮の分派の流れに乗って辿り着くところを比定すれば「神湊」は自然推力で辿りつく事のできる場所になるという。

こういうふうに理系の人は文献に物理的にありえないことが書かれていれば文献を否定して物理的にありえる方を採る。しかし俺は文系なんで、物理的にありえなくても、地名比定の上からは末蘆国は松浦郡でしかありえないと思うし、宗像あたりにもってくのは史料に現われた残存古地名の分布からして無理矢理な違和感を抱く。
このコース逆行は明らかに現地の実情を知らない者が簡単な地図だけ見ながら頭の中で組み立てたコースだ。もとの資料には正しくコースを進んだという記述があったろうが、わざと距離数をかせぐためにこんなことをしたんだろうとはすぐ気づく。帯方郡は北西にあり、倭国は南東にあるんだから、この対馬海峡を渡るところでは行きは「\」だが帰りは「Z」字型になる。渡海だけなら「\」でも「/」でも距離に大差ないが「Z」の場合、九州側の陸行と韓国側の陸行「二」の部分が加算され、それだけ距離が余計に長くなるわけだ。行きは「\」だけ。帰りは「/」+「二」=「Z」。普通に考えると「\」のコースだと邪馬台国まで一万二千里に不足したので「Z」コースを採用して数字を水増ししたのだろうと考えやすい。実測ではそんなに遠くないのだが、曹真の「親魏大月氏王」に対抗するという司馬懿の政治的な都合で「一万二千里」という数字が要請されたってのは、ほぼ通説で、もう超有名なネタなので詳しい説明は省略する。
つまり魏志は「わかっててあえて逆コースを進んだかのように書いてる」。
ここであの「其の北岸」問題ですよw 普通は「南岸」とあるべきに「倭からみて北にある岸」だと書いてる。視点が倭からの視点になってるのは、いうまでもなく韓地から倭に渡る時の視点ではなく「倭から韓に渡る時の視点」なわけで「其の北岸狗邪韓国」と書かれている段階で「これは実は韓から倭へいくコースじゃなくて倭から韓にくる時のコースなんですよ」とさりげなく示していたのだとわかる。これも「春秋の筆法」ですなw(「春秋の筆法」については後述)

【壱岐の西南】倭からの出航地点
では「Z」の四隅(「\」と「/」を重ね合わせた「X」の四隅)は具体的に今のどこなのかというと、左下の出航地点である末盧国は『古事記』に末羅県(まつらのあがた)、『日本書紀』に松浦県、『先代旧事本紀』では末羅国造(まつらのくにのみやつこ)として出ており、穂積氏の流れという。穂積氏は饒速日系の物部氏の分流という系譜伝承があって一般にはこれが信じられてるが、カバネが連でなく臣なので、饒速日系の物部ではなく和邇氏系の物部だろう。国造に昇格したのはかなり後で、県主(あがたぬし)だったと思われる。倭人伝では対馬国・一支国・末蘆国の3ヶ国だけが「海洋民族」であると強調していることは中世の倭寇を思い出させる。16世紀に松浦党の倭寇は長江の上流まで攻め上り、対馬・壱岐・松浦は中国と朝鮮から「海上の三島」と呼ばれて怖れられた。倭寇の本拠地だったからである。3世紀においても倭国の水軍の先鋒はこの3ヶ国だったとみて間違いない。末蘆国の場所は遺跡がいくつかある唐津説が有力だが、西彼杵半島説、佐世保説、伊万里説、呼子説、名護屋説もある。潮流から考えるとおそらく平戸のあたり(陸でつながってないといけないというなら対岸の田平町)が末盧国だと思うが、領域の広がりを考えれば唐津の遺跡地帯が中心で港はそこから離れていたとしてもいいし、さしあたり九州西北部の沿岸地方なら他のどの説でもよい。

【壱岐の東南】倭への着岸地点はどこか
次に右下の着岸地点だが、これはおそらく不弥国だろう。人口の説明に「戸」を使ってるのに一支国と不弥国だけが「家」の字を使ってる。これを社会構造とか家族制度がこの二国だけ他と違ってたとか言ってる説もあるがいくらなんでも深読みのしすぎだろw 確かに、「戸」と「家」の使い分けも漢文にはちゃんとあって、例えば現代中国語での話だが、一人の男性がかかえてる自分の全家族が「戸」だとすると、その男性に三人の奥さんがいた場合「三家」という場合があるそうだ。これから推定すると「戸」と「家」を使い分ける場合には「戸」の方が大きな単位で「家」はそれを構成する下位の単位のようだ。律令時代の日本では平均25人からなる「郷戸」とそれを構成する平均5~10人の「房戸」の二層構造があった。それはあくまで律令時代のことで三世紀には関係ないという説もあるが、三世紀にすでにそのような社会構造の原形があったことが倭人伝から推測できる。すなわち魏志倭人伝には

有屋室、父母兄弟、臥息異處。

とあり。考古学でわかってる弥生時代の普通の民家というのはせいぜい5~6人しか住めない。当然、家屋(建築物)は核家族のためのものと考えざるをえない。魏志がいってる「父母兄弟」とは既婚の成人男性からの視点だから、核家族は「屋室」(独立した建築物)に住んでいたという意味。複数の「屋室」が集まって大家族を構成してるわけだろう、つまり律令時代の「房戸」が倭人伝でいう「屋室」にあたる。わざわざ「屋室あり」と断ってるのは倭人伝でいう「戸」とは別の話をしてる。倭人伝でいう人口単位の「戸」が中国の戸(これは郡県の平均から5人くらいと判明してるので核家族でしかありえない)と似たような核家族なら「有屋室、父母兄弟、臥息異處」(住宅ごとに、自分の親夫婦や自分の兄弟の家族がそれぞれ分かれて住む)なんて当たり前のことはわざわざ書かれるはずがない。つまり中国の「戸」は核家族だが倭国の「戸」は大家族であり、律令時代でいえば「房戸」ではなく「郷戸」にあたる。これを漢文の「戸」と「家」の使い分けにあてはめれば郷戸が「戸」で房戸が「家」になるが、先にいったように中国領内の郡県(中国人居住地域)では「戸」は核家族の単位であるから、「家」と同じで変わりはない。つまり漢文では「戸」と「家」を使い分けることもあるが、同じように「戸」と「家」をまったく同義に使うこともちゃんとある。意味のある使い分けの時はその使い分けの意味が表面的に読んでもわかるように書かれる。だが、漢文によくありがちな、ただの同語の言い換え、別表現の場合も当然ある。今回は根拠のない勝手な深読みをしない限り、意味の違いが読み取れないのだから「ただの同語の言い換え」に該当する。しかしその上で(それに反してでなく)これは一支国から直接に不弥国に渡ったことを示すのではないか、という説も昔からある。一方、末盧国には官名が出てない。伊都国と隣接して伊都国の一部だから実際に役人がいなかったんだという説もあるが、五百里とあるんだから末盧国は伊都国とかなり離れてないとおかしいし、人口が伊都国の4倍もあるんで、役人はいたはずだろう。中世には対馬、壱岐、松浦は倭寇の本拠地で「海上の三島」といわれセットにされてた。なので末盧国も対馬国や一支国と同じく「卑狗」と「卑奴母離」がいただろう、これが省略されたのは実際には魏使が立ち寄らなかったことを示すのだ、という昔からある説が妥当。「家」の字と末蘆国に官名が出てないのはどちらも「文(ふみ)の錯(たが)え」であり、両方セットで一つの「春秋の筆法」なのである。官名が無いのは官に会わなかったから、なぜ会わなかったかといえば行ってないから。通常「戸」で人口を表わすのに一支国と不弥国だけ「戸」でなく「家」になってるのは、この二国が密接な特別の関係にあることを示すため、それは一支国から渡航して末蘆国に向かわず直接に不弥国に上陸することを示す。つまり「行き」の正しいコースを暗示してるのである。
これで「\」コースの右下の着岸地は不弥国だとわかる。
潮流から考えるとおそらく遠賀川の下流、遠賀町にあったとされる「岡県」(をかのあがた)が不弥国だろう。『日本書紀』に出てくる岡県主熊鰐(をかのあがぬし・くまわに)が周防の海から筑紫の海までを采配していた話があり、遠賀町のみならず北九州市の全域が岡県だったと思われる。この岡県主はおそらく、安曇氏と並んで古代の「2大総合商社」といわれる宗像氏の一族で、当時は遠賀郡と宗像郡は分離せず一つの圏域だったろう。当時は遠賀町は海の底で遠賀川は深い入江というか南北に長い巨大な内湾だった。これは地質学者は「古遠賀潟」といっている。これの東隣りの洞海湾は今は埋め立てで細長くなってるが昔は「クキの海」と言ってやはり巨大な内湾だった。神武天皇が立ち寄った「岡田宮」の旧跡地も洞海湾のすぐそば。「古遠賀潟」と「クキの海」は奥の方では江川と堀川という二つの川で繋がっており往来も可能。この二つの巨大な湾内に、本州から韓に渡る船と韓から本州へ行く船とのターミナルとして大量の船が停泊していただろう。まさに「海の国」だから不弥国は于弥国の誤記なのである(馬韓の不弥国とはコジつかない。つか馬韓の不弥国は「不弥支国」の誤記というのが定説だから「于弥」と「不弥支」ではぜんぜん別になる。もし「不」の字を活かすなら古遠賀潟と洞海湾の「二つの海」だから「二海」(ふみ)の国といったのかもしれないが、まぁ「不」は「于」の誤写とする方が穏当だろう)。于弥国の長官は「多模」(たも)、これをタマ(玉?魂?)あるいはトモ(伴)と解する説もあるが、船を泊める意味の動詞「とむ」(泊)、物資を確保、保管する意の「たもつ」(保)、支給する意味の「たまふ」(給)、ものを運ぶ意味の動詞「たむ」(回・運)、蓄積する意味の動詞「たむ」(留・蓄)等と関係ありそう。これらの動詞の名詞形の古い形で、物資の流通を管掌する長官の意味ではないか。以上の北九州市説は、于弥国の範囲が西は宗像、東は洞海湾まで含み巨大な2つの湾を「海の国」と称したのだという説。

日本書紀の岡県主(をかのあがたぬし)の関係する神社が洞海湾側には岡田宮、古遠賀潟には岡湊神社があり、古代の岡県は二つの海を包括していたことが想像できる。ヲカは陸地をいう一般的な言葉で、浜田遺跡のある若松区などは、洞海湾と古遠賀潟に挟まれた巨大な中洲だったんだろう。船から降りることを「ヲカにあがる」というように、陸からみれば不弥国(海)、海からみれば岡県(陸)なのである。東の洞海湾と西の古遠賀潟をつなぐ北の江川と南の堀川に囲まれた八幡西区大字浅川のあたりが不弥国の中心と目される。ここに日ノ峯山という火山があり、頂上には三つの巨石と、宗像の沖ノ島遺跡と同系の5世紀に遡る祭祀遺構が発見されており、巨石信仰はそれよりさらに古くに遡る。付近の日峯神社に伝わる伝説ではここの神が火を灯して遭難船を導いたという。日ノ峯山の3つの巨石のうち一つは付近の神社に移されて今は2つ‌になってしまっているが、3つの巨石は宇佐神宮の奥宮である御許山の山頂の3つの巨石と共通し、あきらかに宗像三女神の神籬だろう。不弥国の多模(=岡県主:をかのあがたぬし)は宗像氏だと推定する理由の一つがこれ。上臈岩日峯神社の境内に移された「上臈岩」。あとの2つ「琵琶岩」と「国見岩」は日ノ峯山山頂に残されている。写真は神社公式ページより。

他の説で日本海沿岸部にみる説では、博多湾説、津屋崎町説もある。北九州市説でなくても、さしあたりは九州東北部の沿岸地方なら他のどの説でもよい。ダメなのは宇美町や穂波、太宰府など内陸にみる説や、国東市とか行橋市とかの瀬戸内海沿岸にもってくる説で、これらは不弥国が対馬海峡を往来する通常航路における北九州への常用の上陸地点だということに考慮が及んでないのでアウト。

【対馬の西北】韓からの出港地点
で、次に左上の出港地だが、「春秋の筆法」で邪馬台国業界に一世を風靡した孫栄健の説で、魏志韓伝の馬韓・辰韓・弁韓に重出国名がそれぞれ2回づつあるのは「春秋の筆法」であり、倭人伝に国名重出する「奴国」に注意を払えという合図なのだという。ちょい正確にいうと、弁韓の国名重出というのは弁韓と辰韓に一つづつ跨っており、「三韓それぞれに一つづつ」とキレイにまとまってない。これは孫栄健の理論でいうと「春秋の筆法」であり「文の錯(たが)え」であって、特別な意味があるはずなんだが、なぜか孫栄健氏はそこまで指摘しながらスルーして、特に意味のあることは何も言ってない。まず馬韓では

有、01爰襄國 02牟水國 03桑外國 04小石索國 05大石索國 06優休牟涿國 07臣濆沽國 08伯済國 09速盧不斯國 10日華國 11古誕者國 12古離國  13怒藍國 14月支國 15咨離牟盧國 16素謂乾國 17古爰國 18莫盧國 19卑離國 20占離卑國 21臣釁國 22支侵國 23狗盧國 24卑彌國 25監奚卑離國 26古蒲國 27致利鞠國 28冉路國 29兒林國 30駟盧國 31内卑離國 32感奚國 33萬盧國 34辟卑離國 35臼斯烏旦國 36一離國 37不彌國 38支半國 39狗素國 40捷盧國 41牟盧卑離國 42臣蘇塗國 43莫盧國 44古臘國 45臨素半國 46臣雲新國 47如来卑離國 48楚山塗卑離國 49一難國 50狗奚國 51不雲國 52不斯濆邪國 53爰池國 54乾馬國 55楚離國、凡五十餘國


※わかりやすく番号ふりました

とあり「莫盧国」が18番目と43番目に重出している。合計が「五十余国」とボカされてるので、この重出が同名の別国なのか、誤って2回書かれたのか、これだけではわからない。仮に重出だとすると54ヶ国。不弥国のところで言ったように「37不彌國 38支半國 39狗素國 40捷盧國」のところは「不弥支国 半狗国 素捷盧国」と改訂する内藤湖南の説が定説で、こうすると不弥支が『日本書紀』の布弥支(ほむき:忠清南道の新豊)、半狗が『日本書紀』の「半古」(はんこ:全羅南道の羅州)と現地比定できる。なので1国へってしまうが、李丙濤の説では「48楚山塗卑離國」を「楚山国」と「塗卑離国」にわけるので合計の国数はかわらないことになる(楚山国は全羅北道の井邑)。次に辰韓をみると

有、01-01s巳柢國 02-02s不斯國 03-01b弁辰彌離彌凍國 04-02b弁辰接塗國 05-03s勤耆國 06-04s難彌離弥凍國 07-03b弁辰古資彌弥凍國 08-04b弁辰古淳是國 09-05s冉奚國 10-05b弁辰半路國 11-06b樂奴國 12-06s軍彌國 13-07s軍彌國 14-07b弁辰彌烏邪馬國 15-08s如湛國 16-08b弁辰甘路國 17-9s戸路國 18-10s州鮮國 19-11s馬延國 20-09b弁辰狗邪國 21-10b弁辰走漕馬國 22-11b弁辰安邪國 23-12s馬延國 24-12b弁辰瀆盧國 25-13s斯盧國 26-14s優由國、弁辰韓合二十四國

とある。国名に「弁辰」とついてるのが弁韓の諸国、ついてないのが辰韓の諸国。で、数えると計26ヶある。馬延国が19番目と23番目に重出、軍弥国が12番目と13番目に重出している。馬延国は慶尚北道の孝令と杞渓で2ヶ所に比定地があるから重出でなく同名の二ヶ国あったんだともできるし、孝令と杞渓は割りと近いので両地域にまたがる一つの大国だったともできる。13番目は「弁」の字がついてるから弁韓だとすると、弁韓の軍弥国は慶尚南道の泗川で、12番目の辰韓の軍弥国は慶尚北道の金泉と、これも両所に比定地がある。なので現代の読者からすると26ヶ国でも良さそうに思われるのだが「辰韓も弁韓もきっちり12ヶ国づつで弁辰韓あわせて24ヶ国」と本文で念押ししてるんだから著者としては同一国の重出だとわかってほしいに違いない。少なくとも陳寿の意図はそうだ。馬延国が辰韓の重出分だから、軍弥国の方は弁の字もついてるし弁韓の重出分かな、と思ってしまうが、そうすると辰韓がまだ1国不足するので、軍弥国も辰韓に入れざるを得ない。これで、重出分を省いて「弁韓・辰韓それぞれ12国づつ」になる。「春秋の筆法」を最初にもちだした孫栄健が言うには、「馬韓・辰韓・弁韓」にそれぞれ一回づつ「国名重出」が出てくるのは、次の倭人伝にまたも出てくる「国名重出」の国、つまり「奴国」に注目しろというシグナルだというのだが、俺はそれだけじゃないと思うんだよねw 孫栄健はここまでしか言ってないが、これで解決したと思うと「春秋の筆法」を読みそこねてしまう。
数合わせの上では軍弥国は辰韓のはずなのに重出分はなぜ「弁」の字がつくのか? 軍弥国はあくまで辰韓の国だとすると「三韓それぞれひとつづつ重出」ではなく「辰韓にふたつあって、弁韓には無い」という偏ったことになってるんだから、これぞ「文の錯え」で「義例」を示すものだ。これは孫栄健の主張する理屈からいえば「軍弥国と弁軍弥国に注目しろ、注意を払え」というシグナルであるはずだ。そうすると不思議なことに気づく。弁韓の諸国は頭に「弁辰」とつくことになってるのに、2ヶ国だけ「弁」一字だけになってるのがある。それが「弁楽奴国」と「弁軍弥国」だ。弁1字の国も2ヶ国だから「重出」だ。そうするとこの「重出」現象というのは、最後にでてきた「弁楽奴国」に注目しろ、という意図なんだろう。昔の説ではこの2ヶ国が「弁韓」で後は辰韓と「弁辰」が11ヶ国づつ、つまり弁韓と弁辰は違うのだという説もあったが、それも誤りで、魏志の説明に従う限り、弁韓も弁辰も同じものと解釈せざるを得ない。かつてはなぜ魏志が「弁韓」と「弁辰」を書き分けているのか意味不明だったのだ。
魏志は辰韓と弁辰は雑居してて地域を分けられないようなことを言っており、だから国名も「二十四国」ごちゃまぜに並べている。岡田英弘なんかこれを真に受けて弁韓と辰韓はモザイク状に混在しているようなことを言ってるが、プロの学者にも素人マニアにも賛同者はいない。実際の諸国の比定地を地図でみると、多少の例外はあるが大雑把にいって洛東江の東北側には辰韓、西南側には弁韓とわかれており、なんらかの理由で意図的に魏志韓伝が嘘をついてるのが明らかだ。『後漢書』東夷伝では「西が馬韓、東北が辰韓、東南が弁韓」と修正されておりこれが正しい。なのに魏志では「西が馬韓、東が辰韓」とだけ言って、弁韓の地は辰韓に含ませている。だから「弁辰」という用語は「辰韓の中の一部であるところの弁韓」という意味で、ここだけの独自用語なのである。ところが例外的に「弁辰○○国」ではない「弁○○国」があったらどうなるか。それは辰韓に含まれない・辰韓からは独立した区域としての弁韓、ということになるだろう。『後漢書』の「西が馬韓、東北が辰韓、東南が弁韓」という正しい地理認識でいえば弁韓は辰韓の南にあり、従って弁韓のさらに南は、海に面しているか、倭と接しているかのいずれかでしかない。つまりこの「弁韓の楽奴国」というのは狗邪国と同様、南の海に面した港なのではないか、倭国への出航地なのではないか。弁辰瀆盧国ただ1国だけが格別に倭に接していると特筆されながら「弁辰」であって「弁」でないのは、建前上は海に面していないことになり、陸地でつながってる(接壌している)と言いたいのだろう。そうすると海に面しているのは「弁」の2国、弁楽奴国と弁軍弥国しかない。が、弁軍弥国は辰韓の軍弥国の重出であり、前述の通り、軍弥国が弁韓だと数があわなくなるからこの国は辰韓であり、従って弁韓の軍弥国というのは国名重出によってみえた幻、名前だけの虚構の国だ。すると弁韓つまり南の海に面してるのは弁楽奴国ただ1国だけとなる。
楽奴国を楽浪郡にあった楽都県にコジツケる説はぜんぜんダメ。「楽」の字は朝鮮語では古くから[ak]と[rak]の両方あり、前者は日本や中国では滅びてしまった古い発音の名残りと認められ、楽奴は「アナ」と読める。慶尚南道と全羅南道の境界でもある蟾津江の東沿いに岳陽という地名がある。新羅時代の岳陽県で、この岳陽(旧字体で「嶽」陽)は現代韓国語で[ag-yang]、[ag]の[-g]は鼻濁音[-ng]に近く、古代日本人の耳にはアヤかアナに聞こえたろう。岳陽県に改名する前は「少多沙県」といい、蟾津江に沿って南下するとすぐ南が慶尚南道の河東。ここは新羅時代には「韓多沙郡」があった。この「韓」は「大」の意味のカンという新羅語をあらわすための当て字であり韓国の「韓」ではない。「大多沙郡」というに同じ。県は郡の下部区域で「少多沙県」は「大多沙郡」に含まれる。楽奴(=岳陽)という名も、弁韓の全体を12ヶ国に分けたのなら少多沙も大多沙も「楽奴国」に含まれていたろう。ここは『日本書紀』では「滯沙」(たさ)と書いて、継体天皇の時に任那から百済に割譲した「四県二郡」の「二郡」が「己汶」(こもん)と「滯沙」。この時、加羅の諸国は「滯沙の津」は任那から日本へ貢ぎを運ぶための港だからといって百済への割譲に猛反対した。それほど重要な港があった。
※なおネットでみたある論文では魏略逸文の引用の中で弁韓を弁辰としているから、この春秋の筆法は陳寿の仕込みではなく『魏略』の段階ですでにあったことになる。しかし維基の中國哲學書電子化計劃で翰苑の全文を確認したところ魏略韓伝では弁韓となっており弁辰という語彙は出てこない。翰苑以外の引用魏略で弁辰となってる例があるのか、当該論文の誤植なのか不明。

以上、「国名重出」を手がかりにした「春秋の筆法」によって「楽奴国」に辿りついたわけだが、これは孫栄健の中途半端な与太話を俺が完成させてあげただけだから付き合う必要がなく、国名重出じたいがただの誤記で「春秋の筆法」なんてものははじめから無いんだという立場であってもよい。それでも『日本書紀』によって出港地は「滯沙の津」だと最初に推定できれば、『三国史記』地理志の古地名から魏志韓伝の「弁楽奴国」は簡単に導き出せる。陳寿が魏志東夷伝を書いてた時には『日本書紀』だの『三国史記』だのという便利な書物はない。本文の中にヒントを隠したという説は昔からあったが、たいていは妄想半分のパズルごっこにすぎず、学者が相手にするようなものではなかった。1982年の孫栄健の『邪馬台国の全解決』はそれを漢文解読に必須な「春秋の筆法」であって、これを認めないやつは学者として失格だという脅かしで補強したところが新しかったw

【対馬の東北】韓への着岸地点
四隅のうち最後に残った右上の着岸地点だが、もちろん狗邪韓国のことだ。狗邪韓国は現在の金海(釜山の隣)という通説のままで異論ない。「其の北岸」という言い方が倭から韓にむかう時の視点であることも既述。すでに述べたごとく瀆盧国が巨済島とは考えにくく、瀆盧国は釜山つまり「東南の隅」(郡から8000里)の地点にあたる。そこより西の手前1000里(郡から七千里)の「狗邪韓国」が金海。「楽奴国」は河東。他に弁一字の「軍弥国」も辰韓の軍弥国とは別にあったとすると弁韓12国が13国になってしまうが、別に13国になってもいいとすれば軍弥国もまた弁の1字がついてる以上、南が海に面してたのは上述の通りで、既述だが今の泗川。楽奴国と軍弥国の、魏志の脳内設定での距離の離れ具合はわからぬが、西から順に「楽奴・軍弥・狗邪・瀆盧」と並んでいたと想像される。そうではなく、軍弥国は辰韓の方だけが実在で弁韓の軍弥国は存在しなかったと考えるのが穏当だろうが、まぁさしあたりどっちでもいい。(瀆盧国の位置問題については後半、「方角」のズレの議論で詳しく解析する、ここではやらない)
以上で韓側と倭側の、出港地と入港地、あわせて4ヶ所が確定した。

倭へ韓からの往路 … 弁楽奴国→対馬国→一支国→不弥国
倭から韓への復路 … 狗邪韓国←対馬国←一支国←末盧国

次に伊都国と奴国についてだが、その話にいく前に、「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じか別かという問題を片付けよう。(それとなぜか瀆盧国だけが「倭と接する」という問題もあるがそれはずっと後の方で方角についての議論で一緒にやります)

「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じか別か
「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」が別だとする説には、半島内に倭の領地(支配圏)があったという説と密接に結びついてる。この説の何が気に入らないかといって、半島内に倭領を想定する説の場合、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の外部に倭領(=狗邪韓国)があったようなことをいう。これは記紀の伝承と異なっておる。皇国史観に反するから却下w 高句麗も百済も新羅も大日本帝国の属国であり藩屏だろw 韓における倭国の勢力圏の議論した方が面白い話がたくさんあるのだが、ちょっと今回の話とズレるので、いつか任那日本府について議論する時にまとめてやりたいとは思ってます。ただ、「狗邪韓国と弁辰狗邪国は通説どおり同一国なのだがその国は倭国の一部だったのだ」という人もいるのだから、「狗邪韓国と弁辰狗邪国が同一国なのか別の国なのか」という問題と、「狗邪韓国が倭国の領土だったかどうか」という問題は一応は別の議論として分けなければならない。同一国だったからって「倭国の一部だ説」が不利になるわけではないから安心しろw
狗邪韓国と弁辰狗邪国が別の国だという人々は、「弁辰狗邪国」は弁韓(弁辰)の中の一国だが、「狗邪韓国」は馬韓・弁韓・辰韓のどれでもなく、馬韓・弁韓・辰韓とならぶ4つめの狗邪韓なのだ、そして魏志に「其の北岸狗邪韓国」とあるのは「倭の北岸」の意味で、4つめの狗邪韓は倭国の領土だから三韓の中に入ってないのだ、というのだが、本当かね?w
狗邪韓国の「狗邪」は韓国の中の一部で小名(下位区分)もしくは都市名、「韓」は広い範囲をいう大名もしくは民族名。こういう構造は他にも、魏の正始八年(247年)に冊封された「不耐濊王」という有名な県王がある。不耐は不耐県という一つの県城の名、濊は民族名でもあり広域名でもある。不耐城にいて周辺の濊族の王でもあった。江原道にいた「東濊」も東の方にいる濊の意味ではなく「東暆濊」の略だろう。臨屯郡の郡治所「東暆県の濊」だから「東暆濊」。沃沮も住民は濊人だったというから「夫租穢」の意味だろう。玄菟郡の最初の郡治所「夫租県の濊」ということ。高句麗も「高句驪県の濊侯」。これらの例では中心部の名が、それが仕切る圏域の全体の名に転化していくことに注意。もう一つ有名な例では、魏志韓伝では二郡に反乱をおこした国を「臣幘沾韓」(しんさくてん韓)といってる。これは馬韓の中の「臣濆沽国」(しんふんこ国)の誤記というのが通説で同じ国(今の京畿道の陽城)。これも「都市名+民族名」になっており、「臣幘沾韓」は「狗邪韓」と同じ表記法なのがわかる。では「臣幘沾韓」は馬韓・弁韓・辰韓・狗邪韓とならぶ「第5の韓」なのか? どうなんだ? そこのところどうなのよ? 漢籍史書を原文で読みなれた人は直感的にわかると思うけど、現代語のセンスで漢字みてる人はここまで説明してもまだ自分がへんな読み方してたって気づかないかもしれんね。だがここで狗邪韓国は弁辰狗邪国と同じもので「韓の一部であって倭ではない」ということをしっかり腑に落としてもらわないと、後々の謎解きが行き詰まってしまう。理屈がわかっても感覚的に納得できないという人の中には、あるいは「半島に倭国の勢力圏があった」って話を否定されたように感じるから直感的に納得できないって人もいるだろう。うんうんわかる、俺もウヨだものw しかし、そういうことには全然ならないってことを【その2】か【その3】でちゃんと説明するので安心してくれw つかむしろ期待してこのまま読み進んでくれw

さらにいえば、実は「馬韓・弁韓・辰韓」も同じ理屈でできている。「馬韓・弁韓・辰韓」の語源は大昔の古い説をいまだにふりまわしてる人がいるが、これは「乾馬韓・半跛韓・斯蘆韓」の略だ。馬韓の「乾馬国」(全羅南道の金馬堵)を中心とした諸国だから「乾馬韓国」=「馬韓」というともされるが、そうじゃなくて「乾馬韓国」も「乾馬韓」も「馬韓」もただ「乾馬国」のことで、後にこの名で54国を代表させるようになった。そのことは濊の諸例からも推測がつく。中心部の地名が全体の総名に転化していく。辰は「斯蘆」(シラ)を別の当て字で書いただけで同じもの、斯蘆国を中心とした韓の諸国が「辰韓」だというが正確にいうと「辰韓の斯蘆国」といっても「斯蘆韓」(=辰韓)といっても同じもので「斯蘆国」のこと。これが辰韓十二国の全体をさすというのは順序が逆で、「斯蘆国」で全体を代表させているのである。辰韓は12国全体の名になったのは後のこと、もとは「斯蘆国」=「斯蘆韓国」=「辰韓国」なのである。弁韓は「半跛国」の半だから半韓とあるべきだが『魏略』で王莽の頃の話として辰韓と牟韓というのが出てくる。この牟韓が普通は弁韓の誤記だろうとされてるのだが、もと半韓だったのを牟韓に誤記したのではないか。その牟韓をさらに弁韓に誤記した。半も弁も偶然にも発音がほとんど同じだが、うるさくいえば「半韓」がただしい。これは日本書紀にでてくる「伴跛国」とおなじ国でもともと弁韓とは「伴跛国」のことなのであり、これが代表する12か国をのちに弁韓というようになった。

これらの例から「都市名+民族名」という構成の方が一般的で、「弁辰○○国」というのは魏志の特有なへんな言い方なのがわかる。むろんなんでそんなへんな言い方をしてるのかという訳はすでに述べた通りで、弁韓を辰韓の中に含めなければならない事情があったから。すると、邪馬台国へのルート説明の中でなぜ「弁辰狗邪国」でなく「狗邪韓国」になってるのか、どっちでもいいなら同じ東夷伝の中なんだから「弁辰狗邪国」で押し通せばいいのに、と何もしらない人は思うだろうが、もちろんそれはできない。「弁辰○○国」という言い方はそもそも無いので、ただ魏志東夷伝の中でのみ、国名重出の「文の錯え」によって楽奴国を出港地だと気づかせるためだけに、一回こっきり使われた表現だから。「弁辰○○国」というのは辰韓に含まれる弁韓のことだから南の海に面してちゃマズイわけ。弁辰瀆盧国は理論上(設定上)海に面してない(海にではなく倭に接してることになってる)から弁辰でかまわないが、狗邪国は「現実の入港地」兼「仮想上の出港地」だから海がある、だから「弁○○国」ならいいが「弁辰○○国」とは書けない。「弁○○国」も楽奴国を導き出すための道具として使用済みで二ヶ国しかないから楽奴国を導きだせるようになってるんで、三ヶ国になったらパズルが解けなくなる。だからここだけ突然ノーマルな「狗邪韓国」という書き方に直ってるのだ。逆にいえばなんで他のところは「弁辰○○国」なんて書き方してるのか、それに気づけとサインを送ってるのだともいえる。
さらにいうと、馬韓の方はともかく辰韓と弁韓については二十四国すべて比定地があって、慶尚南北道の全域に24国が散在しており、この南に倭地が入るようなスペースが無い。土地の配分からみても「弁辰狗邪国」と「狗邪韓国」は同じ国とした方がよさそう。井上秀雄の著作『古代朝鮮』に入ってる東夷伝の地図でネットで拡散されて有名なのがあるが(まちがいだらけで有名な?w)これなんかでは弁韓と馬韓の南にやけに細長く倭地を設定しているがそのせいで弁韓の領域が不自然に狭くなってる。まるで弁韓諸国の南部のかなりの国を倭地に入れないと無理だぞこれw

往路と復路の里数の差は?
さて本題に戻ろう。韓と倭それぞれの出航地点と着岸地点、あわせて4つの港が確定した。そこで、だ。往路「\」と帰路「Z」の差「二」の分は、倭人伝の設定では何里に相当するのか、それがわからないと何里分が水増しされて一万二千里になったのかがわからない。これについて、韓国側の方は説明ずみで、狗邪韓国と弁楽奴国の間は1000里。
で、倭国側だが。伊都国と奴国の位置については諸説に大差なく、通説のとおりでいいと思うが、末蘆国から不弥国までの実際の配置みると方角が45度傾いている。この方角の件については後述するとして今は触れない。末盧国と不弥国の間は順次式(連続直行式。以下「順次式」とよぶことにする)でも合計700里(末盧と伊都の間が500里、伊都と奴国の間が100里、奴国と不弥の間が100里)、放射説の場合は600里しかない。実際の地形からいうと奴国と不弥国の間が詰まりすぎてるから順次式で「四百里」の「四」、放射説で「五百里」の「五」の字が誤脱したんだろう。それなら合計1000里で、韓国側の長さと一致する。軍事センターである伊都国は両端(末盧国と不弥国の間、1000里)の真ん中にあったことになってちょうど良い。まぁ、さしあたり一致させないで順次連続式700里、放射説600里のままでもかまわないが。

あともう一つ、「家」の字からみて、倭人伝が一支国から不弥国への直行を示唆してるのは間違いないのに一支国から不弥国までの里数が明示されてない。建前上は末盧国にいってることになってるのだから明示のしようがないのだが、「楽奴国」と「対馬国」の間もそうだ。このへんの「渡海」にかんする里数はぜんぶ千里で統一されてるように思える。韓国と対馬の間、対馬と壱岐の間、壱岐と九州の間は地図でみると明らかにバラバラであって等距離にはまったくみえない。なのに倭人伝ではどれも千里で等距離だと言い張っている。とにかく海は等距離で一律に千里だってのが倭人伝での「設定」「お約束」になっている。そんなに大雑把でいいのかと言われそうだが、里程の誇張は平均して5倍。10倍説や短里説もあるが何にしろ、一定の倍率から実際の里数を割り出せるかといえば、それがそうならない。明治時代の白鳥庫吉から言われてることだが、平均して5倍といっても、平均偏差がデカすぎて拡大率が一定になってないのだ。だから一律に5分の1にしたからって実際の地形に合うわけではない。しかし方角はズレ方に一定の規則がありそうだ。これも明治時代から言われてること。そうするとこの話は「方角のおかしさ」は修正すれば正しいという話にもなるがその話は後回しにして、まずは、この行程はどうやって書かれたのかというと、明らかに実際の地図を見ながらではない。距離が適当だが方角が正しい、というのはシンプルな概念図とか模式図みたいなものが想定できる。

最初に設定された「一万二千里」
前の話に戻るが、本来なら普通に邪馬台国までの道のりを説明するためだけには自然と「\」コースになるわけで、帯方郡から「楽奴国」まで6000里、楽奴国から対馬、一支をへて不弥国まで3000里。あと残り3000里しかないから、仮に放射説を前提にすると伊都国まで200里、伊都国から邪馬台国まで2800里となる。順次式の場合は不弥国から投馬国を経て邪馬台国まで3000里に設定されていたと推定できる。6+3+3、合計一万二千里。今仮に方角の話は抜いてるが里数だけみるとこうなる。簡単である。至ってシンプル。単位が「千里」になっていて端数がないのは、この「千里」は単位とは別の漠然と「遠いこと」を表現する言葉でもあって、実測数値ではないことを暗示する。だから手を加える前の、もとの記録は末蘆国と伊都国間の五百里とか伊都国奴国間の百里ももともと記載なく「伊都国は末蘆国と不弥国の間にあり」「奴国は伊都国のそばにあり」ぐらいの書き方だったろう。手を加える前というか、最初に「一万二千里」にあわせて誇張した里程を作ったのがこれ。地理的な最短距離を示すだけなら不弥国以外の北九州諸国への行程など加算する必要もないし、だから伊都国を起点とした放射状の読み方も成立する余地がない。むろん伊都国についての説明がもともと原史料に無かったとも決めつけられないし、個人的には放射説を必ずしも否定はしない。「地理的な最短距離を示すだけなら」という仮定の話である(ただし放射説の根拠の一つ「至」と「到」の使い分けの件は放射説の根拠にはならない。別の意味がある。「至」と「到」の件は面白いので後でとりあげます)。この段階では距離の「日数での表示」なども無かったと思われる。みえみえの政治宣伝用の捏造なんだからあんまり複雑なもの作る意味もない。複雑な嘘は足がつきやすくボロが出やすい。実測地図は機密事項として当然、司馬懿のもとにあがってたはずだが、司馬懿は政治宣伝のため「一万二千里」の世間向けの報告書を創作させた。岡田英弘は上司の張華のために陳寿が誇張したようにいってるが、一万二千里は魏略の段階で出てるので岡田英弘の説は間違い。公孫淵を滅ぼして卑弥呼の使者が帯方郡にきてすぐ、司馬懿の命令で当時幽州刺史だった毌丘倹が手下の文官、たぶん当時帯方太守だった劉夏にでもやらせたんだろう。

「一万二千里」は奴国まで?
ところが、現状の倭人伝の行程はそうなっていない。ありえない逆行コースを使って韓地七千里、渡海3000里、末蘆国から伊都国と奴国を経て不弥国まで700里。ここまでで1万700里だから残り日数表示の部分は1300里しかない。放射式に読むと伊都国まで1万500里だから残り1500里。だから「邪馬台国は不弥国から1300里にあるはずだ」あるいは「伊都国から1500里にあるはずだ」といまだに主張する人がいる。ところで、奴国までは1万600里だから、対馬国の方四百里と一支国の方三百里の半周づつ計1400里を加算すると奴国がちょうど一万二千里になる。これ孫栄健がはじめて発見したようなこと自称してるけど、ホントかね? 似たようなことはそれ以前から何人か言ってたような気がするがなw しかし奴国までと邪馬台国まで、どちらも一万二千里で等距離、なんて偶然あるかね? ないよねw だから孫栄健は奴国を中心とした女王国連合の名が邪馬台国だと言い出したし、もっと昔は(あるいは今もか)女王国と奴国が同じ国か別のかはともかく「一万二千里という数字は邪馬台国とは関係ないんだ」として、九州の女王国(一万二千里の国)と畿内の邪馬台国(日数表示の国)が同時に別々に並立していたという「二王国並立説」や、九州の女王国が東遷して畿内の邪馬台国になったのだという「東遷説」もあったし、俺も何十年も前から女王国とは邪馬台国のことじゃなくて奴国のことではないかと疑っていた。というのは魏略や広志、三国志の別写本などで時々「奴国」を「女国」と誤記した例や、「女王国」の王の字が抜けて「女国」になっちゃってる例が散見されるんで、これはもしや「奴国」を「女国」に誤まり、それを不可解に思った人が字を補って「女王国」になったのではないか、と。個人的にはそれがほぼ確信だったんだが、細かいところでいくつか矛盾が残り、その時は結論でなかった。今思えば女王国は奴国を誤写したもので、女王国はもともと奴国と書かれていたはずだと思い込んでいたのが混迷の原因だった。原文では奴国になっていたとすると魏使が邪馬台国に行ってない(卑弥呼に会ってない)ことが丸わかりな文章になってしまうので、どうもおかしい。これは誤写などではなく、最初から意図的に女王国と書いてるのである。
女王国と邪馬台国が並立していた(もしくは女王国が東遷して邪馬台国になった)とかの事実があったのなら、それならそうと、ストレートにそう書いてあるのが普通だろう。一部の学者は、陳寿もよくわからないまま原資料を適当に綴り合せただけだというようなことをいうが、史書の編纂は歴史を崇拝する漢民族の名誉ある仕事であり、万世不朽に残るかも知れない一世一代の大業だろう、修史官の面目にかけて訳わからない文章をそのまま放置はしないと思うんだよね。例えば『後漢書』のように切り貼りして筋が通るようにリライトしちゃうか、さもなくば倭人伝の他の箇所にもあるように「詳細知るべからず」とか一言付け加えるとか、なんかかなんかあってしかるべきだろう。わざわざ分かりにくく書いたとすればそれなりの理由もなければならない。そう考えるとやはり女王国と邪馬台国の二つの勢力があったわけではなく、一万二千里はもともと邪馬台国までの里程だったものを、政治的な事情により、奴国までの里程としても読めるように、後から書き換えたのでわかりにくくなったんだと思われる。

改訂された「一万二千里」
まず前述のような韓地6000里、渡海3000里、上陸地の不弥国から投馬国経由で邪馬台国まで3000里、計一万二千里というシンプルモデルがあったのに、その後ずっと経ってから、ある事情で、一万二千里の地点を邪馬台国よりもずっと手前にもってこなければならなくなった。その事情はもちろんアレだよ、魏の使いは実は邪馬台国まで行ってないってことがバレそうになったんだろう。なぜ行ってなかったのかって理由は後の方で詳しくやるとして、ともかく行ってなかったって前提で話を進める。不弥国は着任する時の通り道、末盧国は任務終了して帰る時の通り道、奴国にも何かの用事で行くことはあるが普段は伊都国に駐留しているのであって、九州内の諸国は実際にぜんぶ行ったことがあるが、投馬国と邪馬台国には実は行ってない(だからって物理的・論理的には必ずしも卑弥呼に会ってないってことにはならないが、邪馬台国に行ってないなら普通は卑弥呼に会ってないと解釈されちゃうのはやむを得ない)。このことは役所の建前からはあっちゃならないことなんだが(だからいまだに魏の使いは卑弥呼にあったはずだと言い張る学者もいる)、本音と建前の使い分けなら日本人以上にうまいのが中国人で、普通の中国人なら大昔から建前は軽んぜられてるのでどうでもいい。だが司馬懿は政治家なのでそうもいかない、当時の中国では建前違反をスキャンダルに仕立ててライバルの追い落としに使うこともあった。陳寿も葬式のやり方だか喪の服し方だかがちょっと違っただけで失脚させられたからな。おそらく司馬懿も不本意ながら魏使の実態は承知はしていて、一応秘密にしていたんだろう。ところが正始五年(AD244年)に曹爽と司馬懿が不仲になってから、安心できなくなってきた。互いのは派閥にスパイが入り込んでるし、万が一にも情報が漏洩してしまい、司馬氏を誹謗するネタに使われたら困る。むろん公式には魏の使いが邪馬台国まで行ってない(卑弥呼に会ってない)なんてことは絶対に認めない。が、理屈もなくやみくもに認めないというよりは、できればウマい説明がつくに越したことはない。
そこで第一には奴国までしか行ってなくても一万二千里に達してはいること、第二に、その事が「以前から公表されてる情報とも矛盾がない」ように仕立てること。この両方をいっぺんに辻褄あわせた「最新レポート」を捏造せざるを得なくなった。どうやってそんなことが可能なのかというと、「女王国」という概念を使えばよい。当時の倭国は女王国と男王国に分かれて争っていた。女王国ってのは女王の傘下の国々(邪馬台オタクの好きな言葉でいえば女王国連合)のことなので広い範囲をさすものではあるが、当時にそれを構成する国々一つ一つも女王国には違いない。北九州の諸国も邪馬台国もすべて女王国なので、邪馬台国へはいってなくても極端な話、対馬国にいっただけでも理屈の上では女王国に行ったことにはなるのである。
魏の使いが実際に行った北九州の中での、政治経済文化の中心地は奴国だから、奴国までで一万二千里ってことにした。だがこれだけだと「奴国にしかいってない。邪馬台国に行ってない」のが丸わかりなので、奴国を「女王国」に書き変えてある。だから、そういう原資料に基づいた魏志倭人伝は読みようによっては奴国まででちょうど一万二千里になるようにも出来てるのである。邪馬台国論争に詳しい人は、有名な例の「伊都国までしか行ってない説」を思い浮かべて「奴国じゃなくて伊都国だろ」と言うだろうが、ちょっと違う。なぜ末盧国でも于弥国でもなく、伊都国でもなく、奴国なのかというと、伊都国は軍事基地ではあっても田舎であり、「人口・経済・文化・政治」の中心(民意が集約される都会)というわけではない。卑弥呼から派遣されてる一大率も、奴国から出向してる奴国王(現代人は伊都国王と誤解してるが)も、魏からの国使も、みな普段は、機密漏洩防止の都合上、警備の容易な伊都国で日常的な外交事務を行ってるが、公式の会議や儀式の時は奴国に移動して派手な政治宣伝をかねたイベントとしてやったに決まってるだろう。奴国が当時の北九州の中心なのである。
最初の設定のままだと、奴国までは韓地6000里、渡海三千里、于弥国から百里で計9100里(于弥国と奴国の間を400里とする説の場合でも9400里)しかない。そこで本来なら帰路であるはずのコースを逆行したというありえない設定にすると、韓地七千里、渡海三千里、末盧国から伊都国まで五百里、伊都国から奴国まで百里で計1万600里。まだ不足する1400里は対馬の「方四百里」と壱岐の「方三百里」から二辺を足して埋め合わせ、一万二千里とした。こういう場合の距離とは、A国の中心点とB国の中心点との間での距離をいうのであって、領土の半周を数え込むなんておかしな計算は中国の史書にも前例がなく、「普通は」しない。それをあえてやってるのはもちろん情況が「普通でない」からである。後になってからの辻褄合わせだからこんなことをやってるのである。だから「対馬国」と「一支国」の間は「南」と方角があるが、狗邪韓国から対馬国への航路と、一支国から末盧国までの航路は方角が書いてない。仮想上の方角を書くと「西南」で「東から西へ」逆行してることになり、事情を知らない中国人には不審に見えるだろう。ただでさえ捏造なんだから不信感をもたれるようには書きたくない。かといって実際の方角を書くと「東南」(西から東へ)になり狗邪韓国と末蘆国の位置に合わない。方角を書こうにも実際の方角と仮想上の方角がバッティングしてしまうから書くに書けないのだ。
なお、改訂前のプランでは放射説だとシンプルさに欠けてすっきりしないので順次式が正しいと思われるんだが、改訂後の現状プランでは順次式でも放射式でもどちらでも行けそうだと一見、思われる。放射式の読み方がもし正しいとした場合、この改訂の時に伊都国中心の行程に書き直されたんだろうが、さて…。順次式か放射式かで邪馬台国と投馬国の位置は違ってくるので、ここは大事なところだが、その前に「女王国」という概念について整理しておこう。
邪馬国への行程【その2】」に続く。
【その2】では「女王国」という概念について解析し、周旋五千里の数字に隠された意味を展開します。

倭国は「部族連合」ではない

2679(R1)・6・15 SAT 改稿
今日、平成29年1月24日は「邪馬台国の日」なんだよね。「邪馬台国の日」についての詳細は昨年の「薄れゆく邪馬台国」を参照。そっちにも書いてるが今年は邪馬台国ブーム50周年の記念すべき日なんだが、去年に予想した通り、格別なんのイベントもないよw いかにスタレたジャンルかっていうことだよなぁ。で、今日は去年かいた「薄れゆく邪馬台国」の続きがほったらかしなのでちょっと書こう。年に1回かよw 本当はもっと頻繁に書きたいのだが、余暇がなさすぎる…。

※この写真、桃の種にみえないね。一瞬うんこかと思った。きれいどころでアイドルディオのMOMO(森野文子&大山アンザ)の写真でも貼ろうかと思ったが、昔すぎてあんまりいい画像が見つかんない。うんこでがまんしてくれw
momonotane.jpg
平成元年の2月、吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見されてしばらく大騒ぎ。おもに騒いでいたのはマスコミで、吉野ケ里をズバリ邪馬台国だといってたのは古田武彦ぐらいしか浮かばない(本人は後で撤回している)が、それでも当時は雰囲気的に九州説の方が勢いづいた感じは否めない。それが平成の初め。で、平成の終わりには、平成30年5月、以前に纒向遺跡で出土していた桃の種が炭素C14測定法でAD135~230年、卑弥呼と同時代のものだと判明。つまり邪馬台国界隈の平成は「九州の吉野ケ里に始まり畿内の纒向で終わったのである。しかし桃の種の件、最近は畿内説で決まりのような空気もあったのでさして驚かなかったとはいえ、若干のニュースになっただけで平成初めの吉野ケ里の時のようなバカ騒ぎにはぜんぜんならなかった。時代は変わったんだなぁ。30年前の吉野ケ里の時は、出版界も便乗本たくさん出して大儲けしたのに。邪馬台国そのものが、日本人の関心のマトじゃなくなってるんだよね。そもそも平成の30年は日本の右傾化の30年でもあって、世の中にあわせて万世一系の天皇賛美の皇国史観の本でも出しゃよかったのに、時代に逆行して「古事記日本書紀はデタラメだーっ、天皇は侵略者で朝鮮人で、系図は捏造だから万世一系じゃなくて、正しいのはぼく(左翼爺はなぜか自称に「ボク」っていうよなw)のかんがえたさいきょうのこだいし」みたいな70年代からタイムスリップしてきたようなアホな本ばっかり出し続けてきたから、そりゃ普通の日本人は「邪馬台国なんか議論したがるやつは頭のおかしな非国民」だと思うようになったのも当然じゃないのかな。


「国」の字には二つの意味がある
もともと「國」という漢字は城郭都市の意味であって、現代人が考えるような「くに」の意味はなかった。現代人が考えるような「くに」の意味の漢字は「邦」だった。この字はさらに古くは「方」で、殷の時代には土方、虎方、鬼方、人方、井方、巴方、召方、羌方、印方、吉方、大方、危方、盂方、林方、箕方、𢀛方、苦方、龍方、馬方、蜀方、𠭯方といった勢力がでてくる。これらの「~方」は殷からみての異民族だが、現代風にいえば「フランス国、ドイツ国」という時の「~国」に相当し、諸外国の意味。この「方」の字が周の時代には「邦」になった。それが漢になって、漢の高祖劉邦の諱「邦」の字を憚って、邦の字の代わりに國の字を使うようになった。「邦家→國家」「相邦→相國」という具合。現在ふつうに使われる「国家」という言葉も、本当は「邦家」だった(古事記序文に「国家」の意味で「邦家」という表記があるがこれが本来の書き方。ただし「中国」はもともと「中国」であって「中邦」の換え字ではない)。似たような例は多く、唐の太宗李世民の「民」の字に代わりに「人」を使って「庶民」を「庶人」と書いたり、同じく「民」の字の代わりに「戸」を使って「民部尚書」を「戸部尚書」と書いたりしたことも有名だろう。
しかし國の字の本来の意味、本来の用法も消えたわけではないから、ここにおいて「國」の字には「國の字の本来の意味」と「邦の字の意味」の2種類の意味が出来てしまった。邦の字の代わりに國の字が選ばれたのは、封建領主が所領として都市を与えられる場合は「國」(=都市)が封建体制下での「領邦国家」(大名領とか旗本領みたいなもの)という意味で「くに」の意味にやや近くなるからだろうが、かえって紛らわしい。実際に魏志倭人伝をみると、邪馬台国だの伊都国だの投馬国だのといった国々がでてくるが、個々のそれとは別にそれら全体を「倭国」といっている。これは朝鮮半島についても同じで、狗邪国だの月支国だの瀆盧国だのでてくるが、それとは別に「韓国」という言い方も出てくる。邪馬台国だの伊都国だの投馬国だのの「国」は都市とか集落、都邑の意味であって我々現代人が思い浮かべるような意味での「くに」ではない。都邑・城邑・国邑・城市・都市・都城、すべて同じ意味で城郭都市のこと。細かいことをいうといろいろややこしいのだが思いっきり大雑把にいうと、中国では中央から派遣されてきた役人(県令)が治めている都市を「県」といい、県の集まりを「郡」といい、世襲領主(諸侯)が治めている都市(または都市の集まり)は「国」のままで県とか郡とかいわない。単純化していうと前者は中央集権的で「郡県制」、後者は地方分権的で封建制という。だから制度じゃなくて見た目の景色だけいえば県も国も同じものである。我々現代人が思い浮かべるような意味での「くに」は邪馬台国の国じゃなくて(これは都市の意味)、「倭国」とか「韓国」と書かれている方の「国」で、こっちは本来なら「倭邦」とか「韓邦」でもよかったわけだ。
で、次に、邪馬台国だの伊都国だの投馬国だのといった「個々の国々」は、その全体であるところの「倭国」に対してどの程度の独立性をもっていたのか、ということが問題になる。
記紀では、この当時、地方の国々を治めていたのは国造(くにのみやつこ)で、大和朝廷が国々の国造を任命していたことになってるが、神聖なる民族の大宝典である古事記・日本書紀の伝える尊い古伝承を信じない不敬な連中は、「国造」という制度をずっと時代が下がってからできたように思っている(せいぜい5世紀から、とするのが多数派)。なので魏志倭人伝に出てくる「国」を国造の「国」だとか県主(あがたぬし)の「県」だとかのことだとは彼らは思わない。しかし記紀を信じる限り、魏志倭人伝の「国の官」とは記紀でいう「国造」や「県主」に相当することは明白だろう。国造は、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では徐々にふえて最終的に144ヶ国もあったという。これは大化の改新以降、国司制に移行する直前の数だろう。『隋書』では「軍尼120人あり」といい、この軍尼(くに)も推古天皇の頃の国造のことだというのが通説。隋書の軍尼120人とほぼ同数で、時代が違ってるだけでどちらも国造のことだろう。それから『宋書』の倭王武の上表文にも自分の先祖の功績として「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」とあり、あわせて121ヶ国となる。これを時代順にならべると
・3世紀…100余国「分かれて百余国、国々に官あり」(『三国志』)
・5世紀…121ヶ国「東は五十五国、西は六十六国」(『宋書』)
・6世紀…120ヶ国「軍尼百二十人あり」(『隋書』)
・7世紀…144ヶ国「国造百四十四あり」(『先代旧事本紀』)
だいたい100ちょいで推移しているのがわかる。これ全部おなじものだろ。国造だよ。

国々には「王」なくして「官」あり
後漢書東夷伝には倭について「百余国みな王あり」として、それら諸王の上に「大倭王」がいるとしている。だが魏志倭人伝によると、倭国には王とよべる者が3人しかいないことになっている。後漢書東夷伝はずっと後になってから魏志倭人伝の文面を杜撰にリライトしたものだから、両者が食い違っている場合は、通例、魏志が正しく後漢書が誤りとされるのだが、「いやいや後漢書にも正しいところがあるんだ」として自説を組み立てる人もいる。しかし両者のズレは後漢書東夷伝が魏志倭人伝に隠された「春秋の筆法」に対する解答として書かれたために生じたとするとすべて解決する仕組みになっている。このへんのこと(なぜ後漢書はそのような記述があるのか等)は今回のテーマではないのでいずれ機会があれば詳しくやりたいが、とりあえず今回は、通説どおり後漢書東夷伝は史料的価値が魏志倭人伝より数段も劣り使えないのだということだけ確認しておく。
魏志倭人伝のいう3人の王とは、1人は邪馬台国の女王卑弥呼、もう1人は伊都国王、3人目は狗奴国王の卑弓弥呼。この3人の王については後の方で詳しく論じるが今かんたんに説明すると、伊都国王は代々女王の属国で有名無実な存在だったし、卑弓弥呼は卑弥呼と対立しており互いに否定しあう関係だから、卑弥呼側の「建前」からいえば卑弥呼と伊都国王の2人しかおらず、中国からみた「実質」は卑弥呼と卑弓弥呼の2人ということになる。卑弥呼は邪馬台国にいたけれども、邪馬台国だけを支配していたのではなく倭国全体の王であり、邪馬台国は倭国の首都みたいなもの。天皇は東京にいるけど東京だけの天皇でなく「日本天皇」であり、「東京天皇」とはいわない。それと同じで、卑弥呼は邪馬台国王ではなく「倭王」なのである。だからその倭王の地位をめぐって、狗奴国にいた卑弓弥呼も狗奴国だけの王だと自称していたのではなくて、倭国全体の王、「倭王」だと自称していたのだろう。
それ以外の国々、対馬国・一支国・末盧国・奴国・于弥国・投馬国などには王はおらず、官がいたとある。「王」というものは存在せず「官」が治めていた。この事実は、はてしもなく重い。部族連合国家などと寝言をいってる連中はショックを受けてしかるべきだと思うが彼らは字が読めないのだろうか。官だからこれを任命して派遣したものがいることになるが、文脈上、それは倭王すなわち邪馬台国にいた卑弥呼にほかならない。倭国は分かれて百余国、そのうち狗奴国にいた卑弥弓呼の下についたのが何ヶ国あったのか不明だが、少なくとも30ヶ国は卑弥呼の支配下にあった(30ヶ国というのは文面上あきらかな最低限の数であり、多ければ百余国のうちほとんどが卑弥呼の支配下だった可能性もあるにはある)。これらの国々を支配していたのは「王」(=独立した地方首長)ではなく「官」(=卑弥呼が任命した役人)なのである。これは意味内容からいえば中央集権的な郡県制である。ただ、郡とか県というのは中国の制度の用語なので倭国の国々に伊都県とか奴県とかかくと中国の直轄領地みたいにみえてしまうので、ニュートラルに城郭都市をあらわす文字として「国」と書かれているわけなのだ。

記紀にでてくる「国造」の実態
参考までに記紀にでてくる国造(くにのみやつこ)も歴史辞典の類では大和朝廷から任命された地方官だとある。ただ、第一に、一代ごとに中央から赴任するのでなくもとから現地にいた現地の首長を任命するのが中国と違う(ただし記紀の伝承では初代は中央からいったケースが多い。「大和朝廷と無関係にもとから現地の首長だった」というのは現代人の思い込みにすぎない)、第二に一代ごとに都に戻るのではなく、世襲官僚であることが違う。世襲だから一度任官して任地に定住すると、土着化が始まり、勢い「封建制」の様相を呈する。したがって見よう考えようによっては、郡県制より封建制に近いともいえる。しかしそもそもの権力の源泉が、中央(=天皇)から任命された事実にこそあって、地生えの成り上がりではないのだから、国造氏族が交代したり県主に格下げされたりということが起こる。その身に帯びる地位も支配している土地も、本質的に「天皇から与えられたもの」だからである。これは例えば江戸時代の幕藩体制が形式上は封建制でも内実は徳川絶対王政といわれるように、どの部分に着目するかでなんとでもいえるわけだが、形式や名目でなく実質がどうなのかを問題にすべきだろう。国造でも時代によって氏族名が変わっている例があり、これは江戸時代の大名のように改廃された例と思われる。また国造は実際はみかけほど強大な財政基盤も動員力もない。なぜかというと「葛城部」だの「大伴部」だのの、「~~部」という、名代(なしろ:皇族の領地)や部曲(かきべ:中央貴族の領地)が全国に満ち満ちており(部民制)、それらの各地から中央に年貢が送られたり駐在員が往来するわけだから、日本全土と中央との結びつきは強固な上、国造が支配するのは名代や部曲といった「部民」を除いた残りのわずかな土地だから、国造は戦国大名のように一円支配をしているわけではないのだ。だから吉備王国だの毛野王国だの筑紫王国だのといった強大な地方勢力なんてのはそもそも存在のしようがない。魏志倭人伝の「国々」も国ごとの王はおらず官が治めていたのだから、その実態は記紀に描かれた国造や県主と大差ないだろう。つか魏志倭人伝の「国々」はまさに朝廷からの出先機関としての国造や県主のあり方を正しく書いているとすらいえる。魏志倭人伝のいう「諸国」とはズバリ国造や県主のことをいってるのである。

「刺史」の如きもの、とは?
魏志倭人伝には「国中に刺史の如きものあり」という。この「刺史の如きもの」は「一大率」(いちだいすい)の説明のようにも読めるし、一大率とは別に「刺史の如きもの」があるようにも読め、両方の説があるが、普通は前者の解釈が行われている。
(一大率の「率」はソツと読む説とスイと読む説があり前者が通説だが個人的にはスイが正しいと考える。理由はいずれかの機会にゆっくり説明します、長くなるので今回はふれない。一大率は「一人の有力者」ぐらいの意味で、特定の官職ではなく称号でもない。官名としては後の方で出てくる)
刺史というのは皇帝が地方に派遣する査察官で、これが巡回にくるとなると、普段は王様のようにふんぞり返って独裁者のように怖れられている郡の太守が青くなって狼狽し、街中をきれいに掃除して美女と珍味を揃えあらゆるおもてなしの準備をし、土下座してお迎えする。何事もなく刺史が無事に帰っていくと、緊張の糸が切れた太守様は血の小便が出るという。何がいいたいかというと刺史というのは生殺与奪の権をもつ絶対権力者で、諸国の首長が震え上がるほどのものである。だから一大率には「諸国これを畏憚す」(おそれ憚っている)とある。諸国がもともと対等の者同士で「倭国」という連合体をつくったのならば、こんなことはありえない。江戸時代の大名にとっての御公儀からの使者、将軍御名代みたいな存在である。この権威はどこからくるのかだが、一つには一大率を派遣している卑弥呼の宗教的な権威が考えられるし(わかりやすくいうと皇室や朝廷の「御威光」のこと)、もう一つは武力や財力といった具体的な力が考えられる。それも他を圧倒している力でなければ成り立たない。

「一大率」と「卑奴母離」の役割
諸国の「官」(=首長)は「卑狗」(ひこ)といい、「副」は「卑奴母離」(ひなもり)という、とあり。王とも侯ともいわず「官」というのは前述の通り、中央への従属の強さ、独立性の無さをあらわしているが、副は単なる副官とか単なる次長ていどの意味ではない。ヒナモリのヒナは田舎とか辺境の意味、モリは防人(さきもり)のモリと同じく防衛軍、武官。つまり「卑狗」と「卑奴母離」はただの長官と次官ではなく、内政を担当する文官と軍事を担当する武官であり、権限を分けて牽制しあう制度だろう。これは記紀の伝承でも初期の頃は派遣軍のトップが二人以上の複数であることが多く、一人の大将軍にすべてまかすことがないのと共通している。諸国の卑奴母離は一大率から派遣されてそれぞれの兵力を率いて北九州各国に駐留していたのだろう。つまり内政の卑狗と、軍事の卑奴母離は指令系統が別々だったと思われる。そうすると、ある一ヵ国を文武両面こみで一人で一元的に支配している地方首長は存在しなかったことになる。投馬国と邪馬台国を除く北九州域内の諸国の長官はいろいろな名称なのに副官はすべて「卑奴母離」。伊都国だけ卑奴母離じゃないのはそこは一大率の本部だからだろう。末盧国に官名の記述がないのは省略で、実際は対馬国・一支国と同じである、「対馬・壱岐・松浦」の3地域はセットだから(後述。ただしなぜ末盧国だけ官名が省略されてるのかという話は道程論を解明する機会に譲り今回は触れない)。北九州全域の兵力はすべて一大率の一元的な指揮下にあった(逆にいうと北九州だけが一大率の権限が及ぶ担当範囲)。
次にその強大な軍事力を支える財力だが、「国々有市、交易有無」に続く「使大倭監之」の読み方は平野邦雄の「便ち大倭のこれを監するに」と読んで一大率の説明とする説が今の通説ではないかと思う(「大倭」とはよく言われるような「官名」ではない。じゃ、何かという議論もあるが今回は省略、また別の機会に詳しくやります)。そうすると一大率は軍事機構ではあるけれども、商業行為を監督していたわけだが、近代の三権分立以前には世界どこでも軍事権と警察権が分離しておらず、日本でも律令以前には兵隊さんもお巡りさんもごっちゃに「物部」(もののべ)と称されていた。ただし一大率が市場監督官でもあったからといって、これが財源だったわけでもないだろう。軍事と財源を一元化するとそこに独立勢力のようなものが生まれ、中央集権がうまくいかない。市場(バザール)は自然状態のまま放置していると暴力団が仕切るようになるので国家の武力が駐在して治安と公正な取引を監視するんだが、給料は他から(国から)でるのであってミカジメ料で食ってたら民間組織になってしまい国家機関ではなくなってしまう。中国の軍管区が軍閥として自前で企業経営しているのが連想される。具体的には奴国王が財政を負担したと思われるがそのへんの詳細は後述。
王金林も「魏志倭人伝の文章からは倭国の実態が自立した国々(部族)の連合体だなどとはぜんぜん読み取れない。まったく逆で、強力な中央集権国家だ」と書いている。

「共立」という言葉は部族連合を意味しない
倭国が連合国家とか部族連合のような体制で、絶対的な天皇など存在しなかったという考え方の原因は他にもある。魏志倭人伝には、卑弥呼は自分で勝手に王になったわけではなく「共立」された(卑弥呼をみんなで立てて王とした)とあるので、なにか強大な王権がまずもって存在したわけではないのだ、と解釈して、中心になるような王に統一されてないのなら、なにか連合体のような体制なんだろうと短絡してしまうのだ。だが、「共立」の2文字だけからそこまで妄想を膨らますのは飛躍のしすぎ。「共立」というのは魏志の高句麗伝で高句麗王の二人の子のうち兄ではなく弟を立てた時や、夫餘伝では夫餘王の嫡子でなく庶子を立てた時にも使ってる言葉で、まず異民族の王の歴史を語る際に初代の王が即位することを「◯◯、初立」(初めて立つ)と表現し、その後の歴代を「次、△△立、次、××立、次、●●立…」(次に誰それ立つ)というように「次立」または「立」で表わす。ただ、なにか異常事態が起こって嫡子でない者が後を継いだ時は、「自立」(みずから立つ)とか「共立」(ともに立つ)という。自立は、既存の支配勢力の力を借りないで(あるいはそれに武力で反抗して)実力で王位についたことをいう。共立は、イレギュラーな人選だけど次善の策で王様になってもらったことをいう。こういうことは山尾幸久や上田正昭も彼らの自著の中でいってることなんで、今では通説的な理解の仕方だろう。が、山尾だか上田だか忘れたが、それをいう本人が舌の根も乾かぬうちから部族連合体制がどうの言いだすってどういうことなんだ? 魏志倭人伝とは無関係に「所与の事実」になっていて(要するに思い込み)、文字は読めてもその意味が歴史像に矛盾するので脳が拒否してるんだろうね。まぁ、少なくとも魏志倭人伝の文面は部族連合国家の根拠にはなっていない。
さて、みんなから要請されて王になるのは秀でた実力者がいない、責任をとれるリーダーがいないからこそ選択されるもので、「全体責任は無責任」って仕組みにも聞こえるが、そういうこととも限らない。嫡子でない者が後を継ぐといってもいろいろな情況があってとても一概に「こういうこと」とズバリ特定の実状をあげることは不可能なのだ。自立といっても勢力が分裂してしまい、小勢力の王にしかなれないような「自立」もあり、この場合は実力がないのに自立したケース。共立といってもそれは形式だけのことで実力のあるキングメーカーが裏で情況をあやつってることもありうる。なので自立にせよ共立にせよ、表面的な決まり文句に近い表現というか決まり文句なのである。きわめて形式的な用語であって、その2文字だけからは何ら背後実態を推測できず、「共立」の2文字から、女王が立つのは倭国としてはイレギュラーな事態ですよってことがわかるにすぎない。
ただし「共立」の2文字を離れて他の記述をみると女王を「佐治」する男弟がおり、これが実質権力者(=実際の王)で、女王は祭祀だけやってたって説も大昔からある。女王は宮殿の奥深く武装兵に守られその姿を見た者は少ないという。これはご神託を受けるためにはお籠りして精進潔斎しなければいけないからだというのだが、疑問もあり、一種の「二重王制」だとしても、政治の実権は「男弟」で、卑弥呼は祭祀だけ、と短絡してはならない(詳しくは別の機会に譲る)。

倭王卑弥呼・狗奴国王卑弓弥呼・伊都国王某の関係
こういうして一つ一つ潰していくと、魏志倭人伝には、当時の倭国が連合国家だったという話はぜんぜん書かれてない。それどころか強力な中央集権国家とさえ解釈可能な話がでてくる。いってみりゃ「統一国家」だよ、3世紀にすでになw 神武天皇の昔から、最初から統一国家だったという古事記・日本書紀の建前に一致してるんだよ、魏志倭人ですらも。だが、そうすると「王が3人もいる」っていう分裂気味な事態はどう説明つくのかってことだが、伊都国王「名無し」と狗奴国王「卑弥弓呼」はどちらも一般からはかなりの誤解があると思うので後半はその話をしよう。

伊都国王はいなかった。いたのは奴国王
狗奴国王卑弓弥呼については後回しにして、まずは伊都国王の件から片付けよう。前述のように、伊都国王は代々女王の属国で有名無実な存在だったから実質は無い。
伊都国は「世王あるもみな女王国に統属す」(代々の王がいるが女王の属国だ)というのだが、たとえ名目だけ形式だけの王であるにせよ、なぜ伊都国にだけ王がいるのか? 奴国ならわかる。金印で有名だもの。北九州の勢力分布をみると、奴国だけで2万戸あり、対馬国から于彌国まで全部あわせても1万戸でありやっと奴国の半分。つまり奴国だけが飛び抜けて超大国であり、あとの諸国はザコばかり。伊都国は1000戸しかないんだから奴国の20分の1の国力しかない(伊都国は『魏略』では一万戸になっているので1000戸は間違いという説への批判は後述)。だから奴国にだけ王がいるというのはわかるが伊都国にだけいるというのは筋が通らない。この王はもともとの伊都国の王ではなく、金印の奴国の王の子孫だろう。中国人が「世王」(代々の王)という時、後漢時代の金印の奴国王が念頭になかったはずはない。一つの解釈としては中国からの使節が駐在するのは伊都国で、ここには一大率も駐留してるから、事務の都合上、奴国王も伊都国に出向してただけでこの王は伊都国にいるからって伊都国王というわけではない、とも考えられる。もう一つの案としては、原文に錯簡があってもともと伊都国とは無関係な記事で、奴国について書かれた文だったとも考えられる。伊都国の記述は魏志倭人伝とその原資料となったと思しき『魏略』とで違いがある。まぁ原資料ではなく同時代に並行してできたんだって説もあることはあるが、一般的には魏略が先行して魏志倭人伝はそれを参考にしたといわれている。

(魏略逸文)
東南五東里、至伊都國。戸萬餘。置曰爾支、副曰洩渓觚・柄渠觚。其國王、皆屬王女也。


(魏志倭人伝)
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
※魏略の「東南五里」は「東南五百里」の誤り、「皆屬王女也」は「皆屬女王也」の誤りというのが通説。

これを比べると魏略には「郡使往來常所駐」がない。また「其國王、皆屬女王也」とあった部分が魏志倭人伝で「世有王、皆統屬女王國」に書き直されている。だが魏略では、伊都国の後は狗奴国の説明に続いているので、魏志倭人伝はこの間に投馬國・邪馬台国・偏旁二十ヶ国の説明を後から割り込ませたものだという人もいる。井上秀雄らが昔からいってるように、魏志倭人伝は魏略をも含めた5~6種類の系統の異なる資料の切り貼りなのでこういうことが起こる(むろん正確を期すための編集作業であって、誤ってそうしたのだとは限らないが)。伊都国の後に出てくるはずの奴国と于彌国の部分は散逸したままなんだろう。むろんそれとは逆に、魏志倭人伝が正しく、魏略はもともとあったはずの奴国と于彌国と投馬國・邪馬台国・偏旁二十ヶ国の部分が散逸しているために、伊都国の後にいきなり狗奴国が続くようにみえるのだ、という解釈もありうる。
「どこそこ国王」という言い方は南北朝の頃から一般化していくが、この時代は国の字を入れず「どこそこ王」という。魏国王だの呉国王だの言わず、魏王とか呉王というように。だから「漢委奴國王」も宮崎市定が「この時代に国王はおかしい」といっていたように、かなり特殊な事情を考慮しないと王号に込められた意図が解読できない。当時の語感では、もし奴国の王が倭国全体の王なら国の字を入れず「奴委王之印」にならないとおかしい。これは倭国全体の王ではなく奴国1国だけの王だから、わざわざ「奴國王」といってる。だからこれは「委の奴の國王」ではなく「委の奴國の王」と区切らないといけない(「漢」の字が上につくつかない、「之印」が後ろにつくつかないの話もあって面白いが別の機会に譲る)。だから『魏略』の「其國王」はわざわざ「國王」などと不自然な用語を入れずとも単に「其王」で文意は通じるのであり、「國」の字がどうも余計にみえる。これは「舊」(旧)の誤字ではないか。『魏志』の「世有王」と比較すれば、もと「有舊王」とあったのだろう。「皆屬王女」の王女は女王の誤というのが通説だが、さらに國の字も落ちており『魏志』の「女王國」と同文だったんだろう。ここの「女王國」は「奴國」の誤記で(正確には誤記でなく意図的なもの、詳しくは「邪馬台国行程論」でやります)、奴国に属するとは(戸籍や家系が)奴国に「所属する」ような意味で「有舊王皆屬奴國」とは、昔は王がいたが代々みな奴国の人つまり奴国王だったということ。『魏志』は「世々王有りしも」と過去形に読み、「統属す」と一語に読まず「統」は王統(王家の系統、血統)の意味。「統皆」の誤転かもしれない(「皆統」のままでもいいが)。あるいは通説どおり「統属す」と一語に読んで、(その過去の王が)奴国の支配を受けていたとしてもいいが、この場合はその王(の子孫、現在の奴国の大官)が奴国から派遣されている情況をやや不正確に伝えたものと解釈する。
奴国王は後漢光武帝から金印を与えられた(57年)あと、安帝の時(107年)にも「倭国王帥升等」の朝貢の記録がある。「帥升」が名で「等」は複数形の「たち」だが、王の字は主の間違いで、国王ではなく倭国の「主帥」で名が「升」という解釈が最近の通説じゃないのかと思う。この時の倭国主帥升を、かつては伊都国王や末盧国王に擬する説もあったが過去のものであり、奴国王(の子孫)とみるのが通説と思う。岡田英弘は後漢の当時の内部情勢を分析した結果、この時の朝貢は後漢の政局上の都合で、後漢の方から頼まれて行ってやったのであって倭国の事情は関係ないもので、中国側のための一種の政治ショーだったとしている。金印は帯方郡との交易(役所相手の交易)にだけ必要なもので、民間同士の交易や中国の民間人と倭国との交易には必要がない。帯方郡が赤字のせいで規模も機能も縮小し、対倭国関係の窓口業務を倭国側に委任したのが「奴国王」で、奴国王は倭国側の諸国の「主帥」たちの交易事務を中国のために取りまとめてあげる係である。だが完全なる政治ショーにすぎない107年の朝貢は賑やかしで多くの倭の有力者がきたって印象にしたいから、後漢書には倭国主帥升「等」と複数形で出ている。金印の奴国だけでなくいままで来なかった倭人たちが大勢きたってほうが都合が良いケースだから。
代表の「升」は倭国主帥たちの一人でもあるが同時に奴国王でもあるはずだが、明示されていない。これは誤字脱字があるのだろう。もともとここは誤字で有名な箇所で、文献によって「倭面土地王帥升等」とか「倭面土国王帥升等」など様々あり、岡田英弘などは「国王」を誤って二回書いたんだろうといってるが、原文は『通典』にあるような「倭面土地王師升等」が近い。これはもとは「倭国王他主帥升等」だろう。これも「倭国王他主帥等」(倭国王の升のほか主帥たち)だったのが「倭国王他主帥等」と升の字の位置が飛んでしまっている。
で、後漢代までは中国人にとって倭といえば窓口係の奴国しか直接にはしらないわけだから、魏志倭人伝でも魏略でも、伊都国の説明のところで、これがあの有名な(?)奴国王の国ですよ、という意味で「代々の王がいる」と書いてるわけなのだ。北九州きっての大都会である奴国の手前で、田舎の伊都国に使節が留められるが、文化や経済の中心と政治や軍事の中心が同じとは限らない。奴国が経済の中心なのに、一大率が伊都国に常駐するわけは、中世には対馬・壱岐・松浦が「海上の三島」と呼ばれ倭寇の本拠地として怖れられたが、卑弥呼の時代も三韓を睨む海軍の主力は対馬国・一支国・末盧国の海洋民だったんだろう。倭人伝ではこの3ヶ国だけに「海洋民族的な習俗」が書かれている。西には「海上の三島」の手綱を握り、東には経済の中心たる大都市「奴国」があって、その間に置かれた伊都国はそれ自体が総合司令部にして軍事基地であり、住民が千戸というのはすべてが軍人軍属とその家族だろう。『魏略』に「戸萬餘」とあるのは魏志の「有千餘戸」とは書き方が違うし、官名の前に入っており位置も違う。だから「戸萬餘」と「有千餘戸」は同じことの異説ではなく明らかに別のことを書いている。これは戸数のことではなく「萬餘」の誤記だろう。普通は一戸から兵一人を出すから、人口千戸の伊都国に万の兵がいるというのは万のうち1000だけが伊都国の兵で、残り9000は奴国で徴発された兵だろう(今回は触れないが倭国の1戸が房戸ではなく郷戸だという説を採れば1戸から5人の兵を徴発でき、万のうち半分の5000が伊都国で徴発できたとしてもよい)。あるいは特定のどこの国と限らず、北九州のあちこちの諸国から徴兵して1万の常備軍がいたと解釈した方がいいかもしれない。
これに対して、後世の太宰府があったあたりは奴国の遺跡と推定される須玖岡本遺跡のすぐそばで(ほぼ隣接)、奴国は後世の太宰府の役割を分有していたのではないかとも思える。奴国王(の子孫)はまったくの無力なのではなく一大率が管轄する軍事以外の内政と経済を司り、一大率を経済的に支えたんだろう。江戸時代に朝鮮との間を取り持った対馬藩のように、奴国王は239年(238年説でも可)以前は外交も担当していたかもしれない。239年の外交で活躍した大夫難升米の難は奴国の「ナ」で、3世紀の中国人が奴国と訳したのを奈良時代の日本人は儺県(なのあがた)と書いた。難升米の升は107年の倭国王升の升で、襲名だろう。つまり難升米が奴国王(の子孫)である。

奴国王もいろいろいる倭の主帥の一人だから倭国王升といっても倭国主帥升といっても間違いではない。中国からみて「主帥」というのは渠帥と同じで、政治勢力としての事実上の力の存在を認めただけで物理的存在としては認識してるよ、格付けはしてないが、という意味であり、中国からみて主帥でも日本国内では国造だったり県主だったりする。例えば室町時代の「守護大名」を李氏朝鮮は「巨酋」と呼んでいた。朝鮮にしてみれば「強大な野蛮人の酋長」だが日本国内では朝廷の官位ももってるし幕府の要職についていたりするのと同じ。王というのは上述のようにこれも中国側からみての話で、主帥の中からリーダーになりそうなの(もしくはすでにリーダー的なやつ)を選んで窓口業務を委任して他の主帥たちを取りまとめてもらう。それが王。ランクによって「邑君」だったり「侯」だったりするが奴国の首長は「王」とされた。だからあくまで「奴国だけの首長」であって実体も倭国全体の支配者ではない。中国の郡というのは自分で交易をやって稼がないといけないので民間を排除して貿易を独占しないといけない。それで日本でいう勘合貿易みたいに「金印」を使う。本当は郡で面倒な事務をぜんぶできるなら金印など発行しなくていいのだ(だから実際に郡に力のあった前漢の時代には倭人と楽浪郡の往来が盛んだったにもかかわらず金印など発行されてないのである)。公孫度が遼東半島で独立してからは金印など使ってないだろう。公孫淵が滅んで卑弥呼が魏と直接外交を始めたので難升米は王(中国が主帥を格付けした王)を廃業して「大夫」を名乗ることになり、外交の結果、卑弥呼が親魏倭王になった。

なお、奴国王は金印の文面からして、奴国一国だけの王ではありえず日本全体の王だったはずだと言い張る人がいる。だが印の文面からわかるのは中国側の理念であり、建前にすぎない。実際に倭国の窓口を取りまとめてもらってるのだから、中国からみれば事実上の倭国全体の王だってことには変わりない。ただ、それが倭国内の事実に一致してるなら『委奴王之印』か『漢委王之印』でよかったはずで、『奴國王』などという境域を狭く絞ったような言葉をわざわざ入れないのではないか。これは後漢の側も事実と理念の不一致を認識していたからだろう。

『魏略』の「其国王、皆属王女也」の国王は普通に読めば伊都国王だが「皆」とあるので複数いたと勘違いする。だから対馬国から末盧国までの国々にも官である卑狗の上に「皆」王がいたと誤解する人もいるだろう。『後漢書』がそれで「百余国みな王あり、その大倭王は邪馬台国に治す」と書いたが浅薄だ。各国の卑狗の上にその国の王がいたんだという説をなす者がたまにいるが、それはありえない。なぜなら、卑狗(ひこ)は記紀や風土記にでてくる地名の下に付けてその土地の神や土地の首長らの名とする「○○(ツ)ヒコ」のヒコだから、これより格上の存在というのは考えられない。もし王がいたら卑狗こそが王に相当するだろう。だから(もし後漢書の認識が正しかったら)「国王は卑狗と称す」とか「其の王、号して卑狗と曰ふ」とか「卑狗と号す、華言王也」とか書かれたはずだ。『魏略』は逸文だから文字の欠落があるのだろう。陳寿は「世有王、皆統属女王国」と書き直した。つまり代々の王のことだとして、代々の王が「皆」という意味に解釈している。陳寿は文字が欠落する前の『魏略』をみていたので正しく解釈できたのかもしれない。ただし、おかしい点が一つある。この国王が伊都国王にしろ奴国王にしろ先祖代々、女王国に属したということは物理的にありえない。卑弥呼の前は男子をもって王としていたというから卑弥呼は初の女王ってことだ。すでに先祖となっている卑弥呼以前の先代の者たちが、当代(その時代の現代)にしか存在しない卑弥呼の国に属することは物理的にありえない。今は女王がいるが昔は男王がいた邪馬台国に属するという意味なら「世々王あるも皆倭王に統属す」となるか、「世々王あるも今の王は女王国に統属す」とならねばおかしい。ところで魏志に「自郡至女王國萬万二千餘里」とあるところ魏略には「自帶方至女國萬万二千餘里」とあり、「自女王國以北其戸數道里可得略載」は広志逸文では「百女国以北其戸數道里可得略載」になっている。これらの「女国」は普通は「女王国」の誤りとされているが、この「女国」は「奴国」とも誤りやすい。『魏略』の「皆属王女也」は「皆属奴也」で伊都国に駐在はしてるけど(籍は)奴国に所属している、という意味になる。

話を戻すと、魏志倭人伝が書かれている段階では伊都国王はおろか奴国王という地位や名目もすでに存在せず、中国に対しては王ではなく「大夫」と称するようになっている。ただ奴国の首長というのはあいかわらず続いてるわけで「王の子孫だから王家」というぐらいの意味で「世々王ありしも」と過去形に読めば、意味は整合させられる(そこまでせずとも奴国王と卑弥呼の歴史上の関係が認識されず曖昧な書き方になったってことでもよかろうが)。
難升米が奴国の首長なのであれば、リアルタイムでは奴国の王ではなく「官」だろう。官でないと他の国々と比べて一貫しない。そう思って改めて官名を見直すと、奴国の長官は「兕馬觚」、伊都国の副官が「泄謨觚」で大昔からどちらもシマコかシメコの音写だろうとされている。同音だからこれは同語で、同格者ではないかな。さらにいえば難升米の「升米」もシメかシマと読める。日本書紀引用の文では「難斗米」(なとめ)になってるが升の字でいこうw 兕馬觚・泄謨觚・升米の三者は、もし固有名詞なら同一人物、もし役職名なら同格同一の役職だろう。(いろんな当て字があるのは何人もの中国人がその都度、自分なりに音写したからで、当時は文書行政ではなく口頭政治の時代だったから、特定の言葉ごとに決まった書き方はなかった(インカ帝国の実例があるように文字がなくとも大帝国の運営は可能)。かなり後世の奈良時代になっても固有名詞などは同一人物でありながらいろいろな当て字をしている。奴国ではこのシマコが長官だが、伊都国では副官に相当し、伊都国では長官が「爾支」という。この「爾支」の解釈は以下の3説がある。
 ①稲置(いなき
 ②主(ぬし
 ③禰宜(ねぎ
だがこれ、どれも間違いと思う。「支」の字が倭人伝では[k]音に対応してるので[s]音に読むのはつらい。「主」説は成り立たないだろう。「稲置」じゃ徴税官だから拡大解釈しても経済官・農政官っぽいし、「禰宜」では祭司・神官らしくなる。いずれも伊都国にいたであろう軍事色の強い役職とイメージがあわない。これは
 ④和(にき
だろうと推定する。「和」(にぎ)は、3世紀の発音なら「にき」だったろう、「安らかにくつろぐ。なれ親しむ」の意味の古語「にきぶ」という動詞がニギの古い発音がニキだった痕跡である。饒速日命(にぎはやひのみこと)のニギと同じで、「和合させる者、平和にする者」つまり平定する者。平定とは軍事的に平定するのだから要するに将軍のことである。これ伊都国に常駐していたという一大率そのものに他ならんだろう。伊都国の官を「爾支」といい副を「泄謨觚」という、とあるところに、伊都国の一大率と元奴国王(正確には奴国王の子孫)難升米のコンビで北九州を差配していたことが端的にあらわれていると思う。伊都国のもう一人の副官、「柄渠觚」の解釈が難しい、ざっと見たところ以下のような諸説があった。
 ①日槍(ひほこ)
 ②彦子(ひここ)
 ③日置子(へきこ)
 ④関彦(せきひこ)
このうち①②は岩波文庫の注釈にあった。③は水野祐の説、④はネットの拾い物。①については風土記の伝説で伊覩県主が「天日槍」(あめのひぼこ)の子孫と称したことが出ている。そうすると柄渠觚は伊覩県主そのもので、この場合は官名というより敬称か通称のようだが、祖先の名を襲名してるうちに官名か称号のようなものに転化していたとすればいいか。そしてそれなら「日槍の子孫」という意味のヒホココ(日槍子?)の音が落ちたのだろうか、しかし伊都国だけが固有名詞由来というのは面白くない。他の官名と同じくなんらかの機能を表わした言葉だとした方が蓋然性が高そうに思う。②は泄謨觚を「妹子」として「妹子/彦子」で男女のセットとする説。③は泄謨觚を「島子」として浦島伝説の「浦島子」がもと首長の称号だったとし、島子というのは占有者の意だとする。浦島伝説には「日置里」という地名が出てくるが、「日置」は灯台や烽火などの火を管理する者とする。④は泄謨觚と柄渠觚を別々の官とせず同語の別表記とする。関彦は関所の管理者。伊都国(または一大率)の機能と関係ありそうな点で③④は①②よりはかなりマシに思える。ただ同一語の別表記を連続して書いたというのは奇異の感が否めず、通説どおり二つの官とすべきだろう。泄謨觚と柄渠觚の間に「次」の字が無いのは、上下の格差がなく二人の副官が対等であることを示しているのであり、同一官名の別表記ということにはならないと思う。灯台の管理者にしろ関所の管理者にしろ、どちらも面白いと思う。そこで、あるいは
 ⑤率子(ひきこ)
という説も一度は考えてみた。諸国の卑奴母離たちを統率する武官のことだ。ここまでは③④⑤はなんらかの機能を名詞化したものだという面白さにおいては同等ぐらいかと思うのだが、優劣はつけにくい。そこで俺の最終案は
 ⑥引替(ひきこ)
という説。これについての詳しい説明は長くなるので、いずれ機会があったら。今回は省く。なので説明なしでは納得いかないという場合は、便宜的(暫定的)に⑤を俺の説とみなしてもいいです。
「爾支」は一大率=「刺史のごときもの」だろうから、国造でも県主でもなく、中央から派遣されてくる「宰」(みこともち)で、葛城氏・平群氏・毛野氏・和珥氏・紀氏・的氏などの中央の大貴族または皇族であり現地人ではない。1,2年とか長くても4,5年とかで交代したんだろう(律令時代の太宰帥は任期5年)。
(※不彌国についても一般的な邪馬台国論では重要な点が見落とされてるが今回は直接関係ないのでふれない)

狗奴国王と卑弓弥呼は別人だった
中学生の頃、魏志倭人伝を初めて読んだ時、狗奴国の記述でまっさきに違和感があったのはその官である「狗古智卑狗」と王である「卑弓弥呼」がかなり離れたところで別々にでてくることだ。普通はある国の説明をする時にまず元首である国王、その次に総理大臣の説明と続くのではないかw なんだかなぁとは誰も思わないのかね?
で、原文の卑弥呼弓(ひみここ)を卑弓弥呼(ひこみこ)の誤転であるとし、彦御子=「皇子」の意味だとする説が大昔からある。Wikipediaは佐藤裕一の説(2006年)だとか言い張ってるけどそんな最近の説なわけねーだろw これ本人が宣伝で書いてるのかね? そんなこたどうでもいいとして、「倭国全土の女王である卑弥呼と争ってる皇子」ということは、これはつまり卑弥呼と卑弓弥呼が倭王の地位をめぐって争ってるのであって「王位継承争い」ってことだ。もしも、卑弥呼が記紀にでてくる皇族女性の誰かだとしたら、卑弓弥呼も皇族男性であり、記紀によくありがちな「皇位継承争い」であって、卑弥呼と卑弓弥呼はかなり血縁が近い皇族同士である。皇子ということはまだ勝手に即位して天皇だと称していたわけではなく、「俺が即位すべきだ」と主張してるだけで地位は皇子に留まってたようだな。しかし記紀では、皇位継承争いは男性皇族同士の間で起こるのであって、女性と男性なら起こらない。だからこの争いは実際には「卑弥呼の男弟」と「男王卑弓弥呼」との争いなのである。正統性において一歩劣っていた「男弟」が、姉を擁立することで実質的な倭王の地位を手に入れた。それを不服とする「卑弓弥呼」も自立し、倭国を2つに割って争いになった、と。さっきもいったが「卑弓弥呼」とは「彦御子=男皇子」の意味で、正統の天皇たるべき皇子は自分だと自称していただけで、まだ即位しておらず、すでに天皇だと自称していたわけでもなさそうだが、魏志倭人伝ははっきり「男王」としているのは、事実上の独立勢力の首長という意味で王といってるのだろう、中国からすれば実質的な政治勢力の状況を把握することが目的であって、倭人の内部のよくわからない建前はどうでもいい。そうすると女王というのも、中国人からみると、卑弥呼あっての「男弟」であって、「男弟」が卑弥呼を擁立したようにはとても思えなかったんだろう。だから姉の方を女王とみなして弟の方は「姉を佐治している」と叙述した。だが、倭国内部の建前では、弟の方が当時の天皇であって、姉が女帝だったわけではない可能性がある。「卑弓弥呼」もその名からする限りまだ皇子の反乱であって南北朝の対立みたいにはなってない。なのに三国志が二人の王がいて分裂していると書いたのは、この「王」は実質的な二大勢力のトップという程度の意味らしく見える。実際、卑弓弥呼も中国に向けては倭王と称したかもしれない。説明が面倒だろうし、中世には日本国王と称した懐良親王の例を思えばこれも外交戦術だろう。

卑弥呼は倭国全土の王であって、邪馬台国だけの女王ではない。邪馬台国はただそこを首都にしているだけ、という話はすでにした。そうすると男王卑弓弥呼も倭国全土の王、大倭王(に俺がなるべき)だと自称していたはずで、狗奴国王ってわけではないのではないか? みんな卑弓弥呼といえば狗奴国王だと思い込んでるでしょ。魏志倭人伝には「卑弓弥呼は狗奴国に治す」とは一言も書いてないので、どこにいたかはわからないのだ。百余国のうち、卑弥呼に属する国々(女王派)と、卑弓弥呼を支持する国々(男王派)に分かれていたんだろうから、狗奴国以外にも卑弓弥呼が本拠地に選べる国はいろいろあったろう。倭人伝には「有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗」とあり「男子をもって王となす」は男王を推戴しているって意味だから、狗奴国は男王派だといってるだけで必ずしも狗奴国内に卑弓弥呼がいたという意味に限定できないぞ、この文は。「その官に狗古智卑狗あり」も「その」が男王をさしているなら卑弓弥呼に仕える配下という意味しかないから、必ずしも狗奴国にいなくてもよい。どこかに派遣されていてもよいわけだ。狗奴国に常駐してそこを治める官でなくても意味は通じる。つまり卑弓弥呼と狗古智卑はぜんぜん別の場所にいた可能性もあるし、どっちの人も狗奴国にいたとは限らず、へたすっと二人とも狗奴国にいなかった可能性もある。この卑弓弥呼と狗古智卑狗を別々の場所にいたとする説も大昔からあって、狗奴国を熊県(肥後の球磨郡)とした上で狗古智卑狗は菊池郡にいた、球磨郡が本拠で菊池郡は北九州勢力に対峙する前線基地なのだという説。あと最近うるさい東国説。この場合、狗奴国の比定地は近江、美濃、尾張、遠州、駿河と諸説あって範囲もいろいろ考えられるが、狗古智卑狗の持ち場は遠江の菊川か。球磨[k-m]よりはクナ[k-n]に近い地名が多いのも東国説に有利。東国説は記紀の伝承との対比や考古学からみた場合にも魅力的だ。一方、魏志倭人伝の原資料を復元すると南方系習俗の記述がすべて狗奴国に関わっているという水野祐の説や、狗奴国は女王国の南という魏略に照らして(この女王国は実は奴国の誤記なので)、魏志の文は「女王国を中心とした諸国の南」でなく最後の「奴国の南」と解釈するのが文献からは(論理上は)正しいだろう。つまり九州説と東国説はどちらも正しい。おそらく原文の「其南有狗奴國、男子為王」と「其官有狗古智卑狗、不屬女王」の間に脱文があり、「次有狗古智國」の6字が抜けてるんだろう(倭の国名のわかってるのが29国で「三十国」に1ヶ国足りなかったのがこれで三十国になる)。卑狗が地名の下についてその地の首長をあらわすのだから、狗古智卑狗は当然「狗古智国」の官なのである。東海地方の「狗奴国」も熊本県の「狗古智国」もどっちも男王国で、両方あるんでよい。それは邪馬台国も奴国も伊都国もみな女王国だというのと同様なのである。当時の中国人は、狗古智国に代表される南九州の勢力を、誤って狗奴国という東国の地名で呼んでいたのだろう、なぜそんな混同をしたかというと、どちらも卑弓弥呼の支持勢力(=反女王派)=「男王国」だったからである。東国の方が主力だから狗奴国の名だけは聞こえるが、魏からの使節は北九州にいるので、どうしても具体的な情報は南九州の勢力の話ばかりになる。東国と九州では方角が真逆であり、そうすると男王派の勢力は東西に分裂しているようだが、その中間の連絡ポイントとして熊野や紀伊が浮かぶ。狗奴国は熊野だという説も昔からあるが、音韻の類似は肥後の球磨と同等だから今回はそれを根拠とはしない。だが、ここらも抑えておかないと男王派は東西の連絡が途絶してしまう。卑弓弥呼の勢力圏は紀伊を含んでいたとすると、太平洋沿岸部の黒潮文化圏、黒潮経済圏び諸国が男王派だったと推定される。最盛期には倭国の百余国のうち30ヶ国ぐらいは男王派だったのではないか?
(※邪馬台国が魏と友好だったように狗奴国は呉とつながっていたのではないかという説に対してのあれこれ面白い議論もあるが今回は省略)

卑弥呼から台与へ、女王の経緯
東国と紀州熊野、そして九州肥後。この勢力配置は中世の南北朝の争乱での南朝を思わせる。南朝は奥羽と九州に有力な拠点をもち本部を吉野に置いていた。卑弥呼と卑弓弥呼の王位継承の争いとは、中世の南北朝の争乱と似たような情況だったのである。

卑弥呼の先代の男王を仮に「男王乙」とよぶ。男王乙は王位についたものの、なにか正統性に問題があったんだろう。そこで皇族の一人、卑弓弥呼が男王乙に抗議を申し立てたが当然ながら話はまとまらず、内乱になった。もしくは卑弓弥呼は抗議もせずにいきなり謀反を企てた。卑弓弥呼(=彦御子)は固有名詞ではなく単に男性皇族の意味だ。固有名詞は魏志倭人伝からは不明。それで倭の百余国はそれぞれ男王乙か、卑弓弥呼かのいずれかについた。これが魏志倭人伝にいう「相攻伐すること歴年」という部分で、歴年とは三国志では5~6年をさすという説と7~8年をさすという説があるが、とにかく戦乱になった。ということはおそらく卑弓弥呼は男王乙のもっていない正統性かそれに近いものをもっていたのかもしれない。で、女王卑弥呼を立てて戦乱を鎮めたとあるから、卑弥呼は女性でありながら何か卑弓弥呼を上回る正統性か少なくとも同等の正統性をもっていたに違いない。正統性のない男王乙は卑弥呼を王に立てることで「正統性がない」という政権批判をかわすことに成功したんだろう。卑弥呼を佐治していた男弟というのがすなわち「男王乙」本人だろう。卑弥呼と先代の男王は姉弟ということになる。女王は例外的存在な上、古代日本では末子相続だったことを思えば、姉に正統性があり弟に正統性がないというのは考えにくいことだが、第一に異母姉弟なら姉の母は高貴な女性で弟の母は血筋の格の低い女性だったということが考えられるし、第二には「男王乙」の先代で、卑弥呼と乙の共通の父、仮にこれを「男王甲」とよぶ。男王甲が卑弥呼を後継に指名していた、あるいは乙は王位についてはならぬと遺言していた等が考えられる。ただ、女性を後継に指名していたというのは考えにくいから卑弥呼と結婚した王子に王位を譲るつもりだったのかもしれない。異母兄妹での結婚は当時はタブーではなく推奨されていた。そうすると男王乙は最初から卑弥呼と結婚すれば問題ないわけでなぜそうしていないのかがわからない。また卑弓弥呼の正統性というのも、男王甲からの後継指名があったか、もしくは卑弥呼と結婚したものが王にという遺言があったのなら卑弥呼と卑弓弥呼は夫婦だったのかもしれない。男王乙が卑弥呼をさらってきて王を自称していたのか…? そうすると卑弥呼と男王乙と卑弓弥呼は3人とも異母兄弟だろう。記紀でも皇位の争いはだいたい兄弟間で起こっている。共立という言葉は単にイレギュラーな継承をさす決まり文句であって男弟(=男王乙)が黒幕だろう(共立という文字にこだわって男王乙を含む有力貴族たちの相談で卑弥呼を王にきめたとしてもよい)。
ともかく卑弥呼が立って、戦乱は鎮まった。つまり卑弓弥呼の正義の挙兵が正統性のない反逆になってしまうほど卑弥呼には正統性があったんだろう。しかし卑弓弥呼は勢力が弱まっておとなしくなっただけで、卑弥呼が死ぬまで抵抗勢力として存在し続けた。魏志倭人伝の記述では卑弓弥呼の勢力が滅亡したのが卑弥呼の死の直前なのか同時なのか直後なのか、あるいは滅びずにその後も長く存続したのか曖昧でつかめない。一説では、魏の帯方郡から韓の叛乱に対して加勢してくれと救援要請がきたがそれを断るための口実として卑弓弥呼とことをかまえている最中だからとしたまでのことだともいう(この説はネットでみたw)。だとすると卑弥呼が死ぬ前に卑弓弥呼の勢力が先に滅んでいることになる。その可能性も高いとは思うがなんともわからぬ。卑弥呼の後を継いだ男王は男王乙の復権なのか、別の男王丙(仮名)なのか、卑弓弥呼なのか。丙だとしたらこれは乙の息子だろう。しかし「国中服せず」またも内乱で数千人も殺されたという。これは男王丙がその父の乙と同じく正統性に欠けるところがあって、乙に抵抗した卑弓弥呼のように、丙に抵抗した「王子丁」(仮名)がいたのだろうか。もしくは卑弓弥呼の勢力がまだ存在していて丙を攻撃したか。あるいは卑弥呼の死後に即位した卑弓弥呼に乙の子、丙たちが復讐したか。そこで卑弥呼の宗女(同族の娘、一族の女)である台与(13歳)を立てて王としたら治まった。卑弥呼の時とまったく似たパターンが二度くりかえされたわけだが、台与を立てたのはさっきの登場人物の中の誰なのかわからぬ。台与を立てた者が勝利者だろうが(正確には台与を立てたから勝利した)、まったくのダークホース、王子戊(仮名)ってこともありうる。

宗女の宗は宗族の宗で、漢語としては男系家族だが、皇族も男系原理でできているから、卑弥呼と台与だけでなくここでの登場人物はすべて同じ一族である。記紀で皇位継承争いをやってるのは同じ皇族同士であるのと同じ理屈。

・沈没した神仙島の謎【前編】~夷洲・亶洲をめぐる大冒険~

2679(R1)・4・23 TUE 改稿
今日、平成30年6月23日(土)は沖縄慰霊の日だというのでツイッターみたら左翼がはりきってるなぁ。左翼のほうがネトウヨより声がでかいのは珍しい。ウヨからするといろいろネタがある中の一つにすぎないから意欲がさほど湧かないんだろうけど左翼の特徴の一つでイベント性が重視されるので(「この日だけはここに集まれ」みたいな意識)、瞬間風速的な「一点突破」みたいのでは左翼が勝つことがありますw まぁそんな話はこのブログとは基本的に関係ないのでさておいて、沖縄の話だが。古事記には沖縄は出てこないので、直接には関係ないわけだけど、柳田國男とか折口信夫といった民俗学者が何度も訪沖して、日本古代の社会や文化を考える材料にしてきた。そういう流れで「古事記」にまつわる研究でも沖縄の久高島に伝わる神事、イザイホーをとりあげたものもあって、このブログでも記事にしたことがありました、そういえば。(「イザイホーhttps://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-72.html)。そういうわけで今回は沖縄を入口にして古代史の話をしよう。
日本側からみた沖縄 ~「掖玖」とはどこか?~
古事記には出てこないといったが、日本書紀では推古二十四年(AD616)に掖玖人30人が来て定住したとあり、この掖玖人(やくひと)の「掖玖」を今の屋久島のことだと通説ではいうのだが、なぜ種子島をさしおいて屋久島だけ登場するのか? あるいは種子島と屋久島をあわせて「掖玖」といってるのか? 下野敏見は「いろいろおかしい」といって考察を加えた結果「掖玖」を南西諸島の総称だとした上で、「掖玖」はもともと屋久島のことだったのだが屋久島が重要な島だったので西南諸島の総称になったと中途半端なことをいっておる。以下に述べるように他の島と併記されてるのだから一概に総称だとも決められないように思うがどうだろう?
AD657(斉明三年)に覩貨邏人(とからひと)が漂流したため「海見嶋」(あまみしま)を経由して来朝。この覩貨邏人とは、丸山二郎は南西諸島のトカラ列島とする説、岩波版日本書紀の注(井上光貞?)はタイの吐和羅(ドヴァラヴァティ)とする説、竹内理三はビルマの驃国とする説だが、どれも古い説で、今では中央アジアのバクトリアの吐火羅(トハリスタン=大夏)だというのが通説になっていると思う。ともかくこの時点で「海見嶋」(あまみしま、今の奄美大島)が認識されてるのだから、そこより手前の吐噶喇列島・屋久島・種子島は当然しられていたはずだ。しかし記録には「掖玖」だけが先行し、吐噶喇列島も種子島もこの段階では出てこないのはどういうわけか?「掖玖」は屋久島ではなくて、人口も国力も大きな「別の島」のことじゃないのか?
AD677(天武六年)に多禰島人等(たねしまのひとら)を饗応したとあり、多禰島は今の種子島だろうからこれが種子島の初登場。多禰島人「等」とあるから複数で、種子島の他いくつかの島人の意味だろうから、少なくとも「奄美大島・吐噶喇列島・屋久島」の人々が含まれていたはずだが、それなら先行してメジャーな「掖玖」が代表になって「掖玖島人等」と記述されそうだが? つまり「等」の中に「掖玖」は含まれなかったと考えるのが妥当だろう。しかし種子島にもっとも近い屋久島を含まずして「種子島など複数の島々」という海域は想定しにくい。つまり「掖玖」は屋久島ではなくて、もっと南の別の島ではないのか?
AD682(天武十一年)に、多禰人・掖玖人・阿麻彌人それぞれに禄を賜るとあり。通説では種子島の住民・屋久島の住民・奄美大島の住民のことだが、吐噶喇列島が無視されてるのは微細な島々で人口が少なかったか、もしくは無人島だったんだろうか。さっきから言ってるように掖玖というは今の屋久島でないとすれば、ここでいう「多禰」というのは種子島だけでなく屋久島も含んでいるということだろう。現に、のちに多褹国司が設置された時は「多褹国」の名の下に今の屋久島も含まれていた。
AD698(文武二年)文忌寸博士(ふみのいみき・はかせ、博士というのは人名)が南島に派遣され、翌699年(文武三年)に多褹・掖玖・菴美・度感等人が役人に連れられて来て土地の産物を献納し、官位や禄を賜っている。度感島との交通はこの時が始めてという。度感島は今の徳之島という説と吐噶喇列島(の宝島)という説とがある。掖玖を今の沖縄本島とした場合、徳之島に上陸せずとも奄美大島から沖縄へ航海することはできるし、吐噶喇列島に上陸せずとも種子島や屋久島から奄美大島へ航海することは可能だから、どちらにせよAD699年になって始めて「度感島」の住民がきたというのは別に不自然ではない。
大宝二年(AD702)多褹国司が創設された。能満郡(のまぐん)・熊毛郡・馭謨郡(ごむぐん)・益救郡(やくぐん)の4郡からなり、前2郡が今の種子島、後2郡が今の屋久島ということになっていて、すでに知られていたはずの吐噶喇列島や奄美大島が含まれてない。その理由がいまいちピンとこないんだが? その4郡の中に奄美大島も含まれてるんじゃないの?
和銅七年(AD714)奄美・信覚および球美等の嶋人52人がやってきた。信覚は今の石垣島、球美は今の久米島というが、沖縄本島が未登場なのに久米島や、はるか先の石垣島が出てくるのはおかしくないか?これより前の段階で、沖縄本島は別の名ですでに登場してるのではないか?
『唐大和上東征伝』によると天平勝宝五年(AD779)鑑真が「阿児奈波」に漂着したとあり、これがのちに訛って沖縄になったんだろう。「阿」の字は推古遺文など古い例ではアでなくオにあてる用法がある。「児」(兒)は何かキ音をあらわす別の字の誤写(忌貴几鬼其只癸など、どれもありうるが鬼の字が近いかな?)。とすれば「阿鬼奈波」はオキナハと読める。吉川弘文館の『日本史地図』ではオキナワとルビがあるが、同書の昔の版ではオチナハになっていた。「児」をチと読むのはウチナーグチとかなのかな? ネットではむりしてオコナワとルビふってるやつがいるが1字だけ訓読みもおかしいだろ。
天長元年(AD824)多褹国が廃止になり大隅国に合併された時、能満郡も熊毛郡に合併吸収され、益救郡は馭謨郡に合併されて、熊毛郡(種子島)と馭謨郡(屋久島)の2郡体制になったとされている。しかしそれなら屋久島は益救郡という名前になるのが普通だろうに、おかしくないか? 昇曙夢の『大奄美史』ではもともと熊毛郡は種子島のこと、馭謨郡は屋久島のことで、能満郡と益救郡はそれより南の島々のことだったとしている。これが正解だろう。おそらく能満郡が奄美大島、益救郡が沖縄本島だったが、この2郡は書類上の企画段階に留まり、実現する前に多褹国自体が廃止になったってことじゃないのか。
つまり日本書紀や続日本紀にでてくる「掖玖」ってのは屋久島じゃなくて沖縄のことではないだろうか?

中国からみた沖縄 ~「琉球」とはどこか?~
琉球は『里見八犬伝』に「『琉』と『球』の2つの玉」って話がでてくるが、もちろん作り話で、『隋書』流求国伝に「流求」とあるのが最初。その他には流虬、留休とか流求とか留仇とか書かれたので「琉」も「球」も当て字だとわかる。新唐書には流鬼とも。宋代には「幽求」、元代には「瑠求」とも書いた例がある。吉川弘文館の『世界史地図』では隋代の「流求」も唐代の「瑠求」もハッキリと今の台湾の位置に書かれているが、不正確でたいへんよろしくない。隋唐の頃の「流求」については沖縄説と台湾説があって公式には論争は決着していないことになっている。が、ネットであれこれ読んでみたぶんには、沖縄説のほうが良さげだなw ただ、議論が混迷する原因としてもともとの史料が沖縄と台湾を混同していたという指摘もあって、その混同した認識が歴史上の概念になってるのなら、沖縄と台湾を分ける意味が薄いようにも思える。隋唐の頃には沖縄か台湾のいずれだったにせよ、宋元の頃には情報が混乱してきて、沖縄も台湾もごっちゃに含めて漠然と「流求」「幽求」「瑠求」などと呼んでいた。明代には沖縄に建国された新王国が公式に「琉球」を名乗ったため、ようやく「沖縄を大琉球、台湾を小琉球」として区別するようになったという。だが、その頃には今の台湾はすでに「台員・大員・大円・台湾・大湾」等と呼ばれていて江南の沿岸の辺民には認識されていたので、「沖縄と混同されていた」というのはずいぶんとまた妙な話じゃないか? だから混同されていたのではなく、沖縄も台湾も含む広大な範囲がもともと琉球だったのではないの? まぁ、そこらのことはずっと後の新しい時代になってからの謎だから、このブログでは時間を惜しんで謎解きはせず、すっとばしていこう。

「琉球」と「掖玖」の関係
『隋書』流求国伝によると大業三年(AD607)、煬帝は朱寛に命じて東海の異俗を探らせ、朱寛は流求国にいたり国人を拉致してきた。翌大業四年(AD608)流求は国交を拒絶、朱寛は「布甲」(鎧の類い)を持ち帰ったが、それをたまたま来朝していた倭国使に確認したところ倭国使は「これは『夷邪久国』の人が用いている物です」と答えた。隋書には明記がないが前後の流れからしてその時の倭国使は蘇因高(小野妹子)で間違いない。この「夷邪久国」というのは日本書紀でいう「掖玖」と同じものだろうから、書紀では推古二十四年(AD616)が「掖玖」の初登場だが、大業四年(AD608)の段階でもすでに日本人は「掖玖」(=夷邪久)をよく知っていた(「邪久」の前についてる「夷」の字については後述)。そののち(大業四年=AD608より後)煬帝は再度流求を討伐し、流求国の王宮を焼き数千人を捕虜にした。中国を統一した隋が勢力を外に広げようとした一環が流求侵略であり、これを大業四年(AD608)に知った日本も西南諸島を防衛線として意識せざるをえなくなり、推古二十四年(AD616)から始まり天長元年(AD824)多褹国廃止で終わる200年間に渡る南方政策の歴史となる。国内を統一した中国は強大な敵がなければ四方を侵略して膨張政策をとる。日本からすると、日本と中国は朝鮮を通る「北の道」と琉球を経由する「南の道」とでつながっているのであって、統一帝国の登場によって日本はただちにこの「二つの道」を警戒しなければならなくなる。これは地政学的パワーバランスという端的な「事実」だから、時代を超えて何度もくりかえす。現在の日本が置かれている環境も…。いや、やめておこうw
さて、日本書紀の「掖玖」は他の島々との併記ででてくるから一見したところ沖縄本島をさしているようにも思ってしまうが、沖縄本島には「阿鬼奈波島」という固有名がある。本来は「掖玖」は西南諸島の総称だが、必然的にその中心たる沖縄本島も含まれるので、周囲の島々は詳細を明らかにするために名を列記されるが沖縄本島の島名(阿鬼奈波)は略されるのが通例になっていたんだろう。この「夷邪久」を屋久島のことだと決めつけて日中間(倭隋間)のカン違いだといってるブログがあったがそうではなく、日本語のヤク(掖玖=夷邪久)は沖縄を中心とした西南諸島のことだろうから、結局、中国からいう「流求」と日本からいうヤク(掖玖=夷邪久)はまったく同一地名で、中国語か日本語かの違いにすぎない。実は中国語の流求と日本語のヤクは語源も同じらしいのだがそれについては後述する。

「夷洲」は台湾ではない?
隋より前の、南北朝時代には沖縄も台湾も知られていなかった。というか記録にない。が、三国志には「夷洲・澶洲」(いしゅう・たんしゅう)というのが出てきて、このうち夷洲というのが台湾だという説があるから、その後、隋代に再発見されるまで中国からは忘れられていたということになる。「夷洲・澶洲」というのは三国志の呉の孫権が、征服しようとして海軍を差し向けたが敗北、失敗したという島。これがまた邪馬台国の時代の日中外交と絡んで面白い話に展開するんだがそれは後回しとして、ともかく「夷洲」が今の台湾だというのが定説で、「澶洲」については諸説があったが(詳しくは後述)、今は種子島だとする説が最有力。

「夷洲」の「洲」の字は朱崖とならべて書かれる場合はなぜか氵が取れて「州」になるが、夷州という行政区画があるわけでなく、「洲」の字で書かれる方が多い。「洲」の字は「島」のことだが、なぜ「夷島」「澶島」じゃないのか? 氵なしの「州」の字にニュアンスを通わせたい意図があったのか、はたまた「洲」の字までが音写なのか? また「澶洲」の「澶」の字も氵なしの「亶」と書かれることもあるが、書き分けの法則性がなさそうなのでどっちでもいいんだろう。氵の有無で字書では微妙に意味が違うが、今回の場合は地名であり指すところに違いはない。「亶」が正しいならわざわざ氵つける意味がわからないから一見「亶」は略字にも思えるが、他の氵のついてる字についていえば、意味もなく不規則に略されるなんて聞いたことがない。人偏にはそういうのよくあるが…。後世の中国で「亶」の方がメジャーになったのは中国国内に「澶州」という行政区画ができて紛らわしかったんだろう。こっちの「澶州」は「澶淵の盟」という世界史用語で有名。だがそれはずっと後の時代になってからのこと。「澶」の氵は「洲」の字に釣られたかしてもともと間違いの可能性もある。なお、「澶」はセン、「亶」はタンと読まれる傾向があるが、正しくはどっちの字にもセン、タン両方の読み方がある。このブログでは「亶」でなく「澶」と書くことにするが、必ずしも「亶」が間違いで「澶」が正しいというわけでもない。

通説どおり「澶洲」が種子島だとすると、「夷洲」=台湾との間に存在している沖縄がすっとばされるわけで、これはちょっと不自然ではないかな? それで後述の「澶洲」沖縄説も出てくるわけだが、仮に「澶洲」が種子島で確定して動かせないのならば、「夷洲」の方を沖縄にもってこれないか?
「夷洲」については『三国志』呉志の孫権伝の他に、同時代の呉の武将沈瑩(しんえい)が著した『臨海水土志』がある。Wikipediaはこの両書をあげ「これらの場合の夷洲は台湾島の特徴に合致する。またこのような島嶼は中国南部の沿岸には台湾島以外に見当らないため、この時代には中国文明が台湾を認識していたと考えられている」と断言しているが無茶だぞこれ。確かに『臨海水土志』の中には後世の台湾先住民と共通する話もあるが、『隋書』流求国伝とも似ている。隋唐の琉球については沖縄説、台湾説、両者の混同説があるのは前述の通り。当時の記述のうち無前提で台湾か沖縄か断定できる記述などぜんぜん存在せず、比較のしようもないのに何が「台湾島の特徴に合致する」だ、アホじゃないのか。辰国と真番を同一視して「辰国錦江流域説」を唱えたことで有名な市村瓚次郎っていう大昔の学者が、「夷洲台湾説」の元祖でもあるんだが、おかしなことに『臨海水土志』には「夷洲は臨海郡の東南、二千里」とある。当時の臨海郡は今の温州と寧波の中間あたりで今も臨海という地名が残ってる。地図みればわかるが、そこから東南へ二千里だとズバリ沖縄本島、もしくは沖縄本島と宮古島の間を少し抜けるぐらいじゃんよ。誤差を考えても沖縄とするのが妥当じゃないだろうか(方角8分法だから22度30分の広がりがある)。台湾だと方角は東南ではなく真南になるし、二千里というには台湾は近すぎる。この二千里じゃ距離があわないってのは台湾説を唱えた市村瓚次郎本人が自分で認めてるんだよ(「東洋学報」1918所載『唐以前の福建及び台湾に就いて』を確認済み)。根拠あやふやな説が、さして疑問ももたれずいまだに継承されてるんじゃないのかと疑われる。だが、俺は「夷洲に台湾を含まない」といいたいわけでもない。西南諸島の西南端として台湾北部が認識されていた可能性は当然あるだろうし、なんなら台湾全島が含まれてもなんら差し支えない。隋唐の頃ですら根本史料が沖縄と台湾を混同していたなら、それより数百年前の『臨海水土志』の一部情報が沖縄と台湾を混同していてもおかしくないだろう。

「東鯷人」
「夷洲」は三国時代になって初めて登場する地名だが、それより古い時代となると「東鯷人」(とうていひと)というのがあり、『漢書』地理志の呉地条に「会稽海外、東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」と出ている。『後漢書』東夷伝にもほぼ同文があるが、これは漢書からの孫引きだから史料的な価値は低い。ちなみに「東鯷人」の読みはトウテイジンじゃなくてトウテイヒトな。倭人もワジンじゃなくてワヒト。筑摩文庫の正史三国志は「倭人」に「わひと」と正しくルビがふってある。さすがだなw 岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』の注釈には「鯷」の字はナマズだ、とあり。昔、これ読んで東シナ海に巨大なナマズが泳いでる怪獣映画みたいなシーンが浮かんで秘境ロマンな気分になったのを思い出す。
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さて、海洋冒険伝奇ロマンな気分になったところで話をすすめようw 三国時代以降にも「東鯷」とか「鯷海」という表現が詩文にはあるから、後漢代を通じて東鯷人・東鯷海・東鯷国などの概念が行われたことは確実と思われる。「東」の字は青海省の「西傾山」との対語で、詩的表現における東西軸の世界観になってる。もともと世界への夢想を含んでいた言葉だといえる。ある意味「東のはて」というニュアンスかな。

なぜ西傾山が「西のはて」なのか
西傾山というのは青海省河南モンゴル自治県(青海湖の東南東、百数十キロ)に実在する山で、東南から西北に向かって斜面になってるので(傾斜しているので?)「西傾山」という名がついたらしい。この頃の中国人の世界認識では西域(中央アジア)も天竺(インド)も大秦国(ローマ帝国)も知っていたので、当然「西傾山」が西のはてだと本心から思っていたわけではない。にもかかわらず、詩文では東のはてを表わす「東鯷」とセットで象徴的に西のはてを表わす言葉として使われている。なぜか? 同じ青海省には古代民族「月氏」が居住していたという祁連山もあり、その西のとなり東トルキスタンには神話上の世界の中心である「崑崙山」の名をとってつけられた「崑崙山脈」もあり、特に崑崙山は西のはてに住む女神「西王母」がいるとされる。象徴的、文学的な意味での「西のはて」だから実際に西のはてでなくてもいいのだが、それなら「崑崙山」をもってきて「西崑」とか「西崙」とかいえばいいのではないかと一見、思われる。「西傾山」にはそれっぽい神話もないし、「傾」の一文字だけで「地のはて」という意味を表わすこともできない。しかし、普通、詩文で「山」のつかない「西傾」の2文字だと、太陽や月が西に傾くことで、日没、夕日、月の入り、等を表わすことが多い。天の川を別名「傾河」ともいうのは天の川が明け方に西の方に傾くからだともいう。壮大な話だよなw このことから「西傾」という言葉のニュアンスは理解はできるが、これだけでは崑崙山を差し置いてまで「西のはて」の代名詞になった理由とは考えにくい。
実は三国志の頃は「西傾山」のあたりは中国の領土でなく氐(てい)や羌(きょう)というチベット系の強盛な民族がいて、そのほぼ真東に百数十キロメートルのところに、魏の隴西郡と蜀の陰平郡との国境があった。氐や羌はある時は魏について蜀と戦い、またある時は蜀の味方となって魏を攻めた。つまり「西傾山」は三国志の登場人物にとっては「もっとも西の戦場」なのである。
するとそれと対になってる「東鯷」も三国志の登場人物にとっての「もっとも東の戦場」のことと察せられる。

岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』はナマズ説しか出してないが、ネットみてたらナマズという意味の他にカタクチイワシの意味があるという。確かに漢和辞典で確認したらそうなってる。カタクチイワシなんて魚は知らんかったが、イワシの一種で「ヒシコ」、「シコ」、「ヒシコイワシ」ともいい、シラスはほとんどこれの稚魚でウナギの稚魚より多いらしい。ウナギだとばかり思ってたわw で、カタクチイワシは九州と韓国の周辺海域にしか生息しないから東鯷人は九州だって説をいってるサイトがあったが、Wikipediaには「西部太平洋に生息し、樺太南部から本州の日本海・太平洋岸、台湾・広東省まで分布する」って書いてるぞ。岩波文庫はナマズ説だがよく考えたら淡水魚じゃん、ちょっと海という状況にそぐわないんじゃないか?(和田清かな?) おかしいと思って念のため諸橋轍次大漢和全十三巻で確認したところ「ひしこ」(=カタクチイワシ)の意味で使うのは日本での話でもともとの漢字の意味じゃないw 道理で岩波文庫の注釈にはナマズ説しか出てないわけだw ネットみてたら中国語の字書サイトでもカタクチイワシの意味があがってるので騙されてたわw ちなみに中国語では「鯷」の字に「鮎」だとあるがこれは中国語でナマズ。日本ではアユの意味に使ったのでわざわざ「鯰」という字を創作した。いわゆる「国字」というやつ。しかし今では中国語でも「鯰」の字を輸入して「鯰」と「鮎」両方ともナマズの意味で使ってる。中国は自国の文化に関するものでも日本からの輸入癖がある。文化大革命以後、一切の文化は無くなってしまって現在あるのはその後に日本や台湾から逆輸入(もしくは丸パクリ)してるのばかり。字書のネタ元も諸橋轍次大漢和を粗雑にパクってるだけじゃあるまいね? 諸橋轍次大漢和の凡例として日本独自の意味を示す「国」の記号の意味を、データ打ち込んでた若い中国人プログラマーに理解できず機械翻訳でそのまま書いちゃったんだろう。おそらく今後、未来の中国人は日本での独自の意味だと知らず「鯷」はカタクチイワシだと信じていくことになる…。そうして自国の古典漢文も正しく解釈できなくなっていく…。そんなこたいいとして、なぜ淡水魚であるナマズの名がついているのか、あいかわらず大きな不審点ではある。他の意味ないのかもっと調べてみたら、「鯷」「鮧」「鮷」「䱱」 は相互に異体字だという。それならこの4字は発音も意味も同じはずだが、字書の説明ではやはり微妙に意味の範疇がちがう。

 [魚是] 
音:テイ・ダイ・シ・ジ 意味:なまず、大なまず、[国:ひしこ]

 [魚弟]
音:テイ・ダイ 意味:大なまず
(中国語サイトでは「大」ナマズではなく、普通のナマズ。あとネット字書」ではスケソウが追加されてる)

 [魚夷]
音:テイ・ダイ 意味:大なまず
音:シ・ジ 意味:なまず(江東語)
音:イ 意味:しおから、「鯸鮧」(こうい)でフグ(鯸だけでもフグ)、「鮧鯊」(いさ)でフカ(鯊だけだとハゼ)
(どの音に対応するか不明だがネット字書ではエソ(これも魚の一種)が追加されている)

 [魚帝]
音:テイ・ダイ 意味:なまず、サンショウウオ、黒魚
音:テイ・タイ 意味:大鱧(この「鱧」は日本でいうハモのことではなく、大ナマズ、ヤツメウナギ、ウナギ等のことらしい)


※「鯷」の字の音について「東鯷人」と熟した場合のみだが、『漢書』地理志の音注に
・孟康曰音題晉灼曰音鞮師古曰孟音是也
・孟康曰く音『題』、晉灼曰く音『鞮』。師古曰く孟の音、是也。
・孟康の説では音は『題』(ダイ)、晉灼の説では音は『鞮』(テイ)。顔師古がいうには孟康の説(ダイ)が正しい。
とあるが、これを日本語で「東テイ人」でなく「東ダイ人」と読め、との意味では必ずしもない。当時の中国語の発音の推定音価は古い説ではあるが藤堂漢和(初版)によると
「題」…上古音:deg 中古音:dei
「鞮」…上古音:ter 中古音:tei
「鯷」…上古音:deg/der 中古音:dei
となってるから、この音注の意味はt音でなくd音で読めということらしい。上記の字書によるかぎり、ダイかテイかでは意味は変わらないので習慣どおり一応「東テイ人」と読むことにする。また顔師古は唐代の人なのでその説が正しいとも限らない。

こうしてみると、ナマズと大ナマズの違いがいまいち不鮮明だが、ともかくナマズ・大ナマズの意味だけが共通しているので、その意味の場合、相互に異体字だが、ナマズ以外の意味の場合は別の字ってことなのか? 異体字だとしてならべてみると、旁の部分の「是」「弟」「帝」はどれも同じ「テイ」の音を表しているのが明らかだが「夷」だけ異質にみえる。しかし篆書だと「弟」と「夷」は字体が紛らわしいので混同されたという説が大昔からある。もしそうなら、「鮧」は本来はイで「しおから・ふぐ・ふか」だったのに、「鮷」と混同されたがゆえに後からテイ・ダイという音と「大なまず」の意味が生じたことになる。だがそれだけではシ・ジの音が説明できない。その音は「是」を旁にもつ「鯷」の字のものだ。「鮷」の字が介在してはじめて「鮧」の字に「鯷」の音と意味がくっついたのか? ここで注目すべきは「鮧」がシ・ジの音で読まれナマズの意味をもつのは「江東語」つまり揚州の方言だとある。揚州は呉越の地、会稽を含む揚子江下流域のこと。ズバリ東鯷人と接触していた地域じゃないか。もしや東鯷人のことを現地では東鮧人といってたのか? だとするとなぜ中央では「鯷」の字にかえたのか? 「テイ」の音は「夷・鮧」を「弟・鮷」に誤記したから派生したんで元は「イ」だ、とは決められない。東鮧人が元でそれをまず東鮷人に誤ったのだとまではわかるとしても、それが今度は東鯷人に書き換えられた理由がわからない。あるいは現地では東鮧人と書いて東テイ人と呼んでいたので、中央の文人は鮧の字をテイと読むのを誤りと感じて「鯷」に修正したんだろうか。だとすると「東イ人(夷・鮧)ではない東テイ人」とはなんなのか? 音の問題さえなければ、「鮧」は「夷洲」の「夷」だから「東鯷人=東鮧人=東夷人=東夷=東夷洲=夷洲」でぜんぶ同じもの、で解決なんだろうが、問題は現地では「夷洲」をイ洲でなくテイ洲と呼んでいた可能性があることだ。その意味は是洲? 弟洲? 帝洲? 東夷も東テイと読むとするとその意味は東是? 東弟? 東帝? 「夷」や「弟」をわざわざ「是」に書き換える意味はなさそうだが、「帝」の字はあからさまに不穏当だな…。元は「東帝人」「帝洲」だったりして…? だんだん思考が危険水域に入ってきたかw
危険水域といえばだ、この岩波文庫の『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』は何がヤバいって、初版本だと参考文献の中に『日韓正宗遡源』が混ざっててあらららと思ったもんだが、新訂版では案の定削除されとったって話w この話を当時八幡書店の社員だった原田実氏に話したらあっという間に契丹古伝復刻版の解説に書かれてしまったのも良い思い出よ。
…なんて話はさておいて、穏当な議論に話題をかえようw 東鯷人の二十余国を魏志倭人伝の国名しかわからない偏旁二十国のことだという説もあるが、さすがに原資料の出所が違うだろう。で、まずは一応、夷洲と切り離して考えるとして、この東鯷人というのは会稽の海外なのだから、ちょい考える分には台湾か沖縄のいずれしかないと思われる。しかし五島列島を初めとする九州西部から東シナ海を渡って直接に江南地方と交流するコースもあったろうから、九州も考慮に入れられないこともなかろう。「二十余国」という字づらからは西南諸島の主だった島々が種子島から台湾の北端まで沖縄中心に20島が点々と連なっている様子が浮かぶ。しかしそれなら「二十余国」ではなく「二十余島」となりそうだが。この国々が地上で隣接してるなら、台湾が「二十余国」に分かれているということか? あるいはごっちゃに西南諸島の約10島と台湾各地の約10地域をあわせて「二十余国」なのか。ちなみに九州のうち、朝鮮の方が近すぎて直接に東シナ海を渡ることのありそうもない北部や東部を除いて、会稽郡まで行きそうなエリアを島ごとにあげると、五島列島・済州島・甑島・天草諸島・諫早半島(肥前三半島)、これに西南諸島とのつながりで薩摩半島・大隅半島を加えて7島。自然地理学の分類をしてるのではないから半島も中国への海に突き出ていれば島と同等のエリアとしてよい。西南諸島は種子島・屋久島・宝島・奄美・喜界島・沖縄・久米島・徳之島・沖永良部・宮古島・石垣島・西表島の12島、台湾も入れれば合計で20島。これでどや? 九州まで入れるのはどうかって声もありそうだが、前述のごとく「東鯷」には「東のはて」のニュアンスがあり、中国では歴代正史の注釈家たちも日本のことだという解釈が多い。要するに実体がどうこうではなく当時の中国人からどうみえていたかという問題だ。

地名語源
「琉球」の語源についてはネットで検索したら5つか6つ出てきたが、その中で興味を引くのは、ヤク(掖玖=夷邪久)が琉球の語源だという説で、それぞれ論証の仕方は違うが2,3人いた。「流・留」は隋唐の頃は[lieu]に近い発音だったらしい。子音を落とせば[ieu]、「ヤ」は開けば「イア」になる。が、これだけではちょっと恣意的で強引に聞こえるかもしれない。だが、琉球の語源説でもう一つ、検索してたらもとは「魚(うよ)の国」と言い、次第にウヨノク→ユークーへと変化して琉球の字を当てるようになったという説に出くわしたw 魚(うよ)ってのは琉球弁なのかな? 古語では「ウヲ」とも「イヲ」ともいうし、隋書に「夷邪久」とあり、夷の字も音写の一部とするとヤクは古くは「イヤク」だったことになるがこれはイアクからヤクへの移行過程の音。ゆえに初期に魚を「イウ」といった段階が想定できればイウク→イアク→ヤク(掖玖)という流れと、イウク→ユークー→ルークー(流求)、またはイウクに子音[l]がついてリウクー(流求)という流れが想定できる。そしてこの説のもう一つの魅力は、「魚の国」ってところ。「東鯷人」ももとは「鯷」が国名だろう。原住民が現地語で「魚の国」といったので、中国人は魚偏の「鯷」(もとは「鮧」か「鮷」か「䱱」?)で表わした。

おまけ:屋久島の古名は「コロ島」だった
「ヤク」は沖縄本島を中心とする琉球諸島全体の名前であって、もともとは屋久島のことでは無かったという前提からすると、屋久島を馭謨郡(ごむぐん)というのは、つまり屋久島の本来の名が「馭謨島」(ごむじま)だったという可能性を強く示唆する。しかしこの名はいろいろ不自然だ。第一に、濁音から始まる言葉は日本の古語としてかなりおかしい。この地名は「○○ごむ」だったのを和銅六年(713)の「好字二字令」で地名の前半が略されたのではないだろうか。あるいは「謨馭」(むご)だったのを誤って転倒したか。第二に、「謨」の字は呉音でモだが、どうしてここではムと読まれてるのか? ムは土地の訛り(?)で、モが正しいんじゃないのか。
これを解決するために古史古伝の登場だw 正しくは「超古代文献」なw そろそろこれ出さないと「金かえせ」って言われかねないからなw いわゆる古史古伝の一つである『神道原典』によると太古、九州の南にもう一つ「ツクシ島」というのがあり面積は九州の約2倍もあったという。普通は「ツクシ島」といえば今の九州のことだから『神道原典』の独自用語の「ツクシ島」とは混同しないように注意しなければならない。で、約8千200年前にツクシ島は沈没したが、その残りが屋久島で、当初は屋久島という名ではなく「オノコロ島」と称したという。ふと気づいたことに、馭謨郡の「馭」の字の読みはゴでいいが、オノゴロ島を古事記が「淤能碁呂島」と書くところ、書紀は「磤馭慮島」と書いており、やはりゴの音の当て字に使っている。むろん巨大な島が沈没したとか古事記の淤能碁呂島が屋久島にあったとかの与太噺を真に受ける必要はないが、屋久島の名前については興味深い情報ではある。一方『ウエツフミ』にはイザナギノミコトが大八洲を生んだ後で、大八洲とは別に、アメノヤスノカワラ(天之安之河原)のアマツマサゴ(天津真砂)を蒔いたところ8つの島が出来たといい、その8島の中の一つが「コロシマ」でその名を「イクツフキ」という、とあり。名前が2つあるのは、古事記で「隠岐島をオシコロワケという」等とあるのと同じで、イクツフキというのは神としての名だろうから、地名としては「コロ島」でよい。吾郷清彦はこのコロ島をインド洋及び東インド諸島のことだとし、田中勝也は今のどこだかわからないとしているが、『神道原典』をヒントにすれば屋久島のことではないだろうか。
「謨」の字を「髏・龍・蠟・轤・録」等のロと読む字の崩し字と誤ったとすると、屋久島のもとの名はゴム島(馭謨島)ではなくゴロ島であり、『ウエツフミ』のコロ島とほぼ同名。『神道原典』のオノコロ島の前半が落ちたものとも考えられる。またM音とN音は相通じ相互に転訛する例があるから、『神道原典』のいうオノコロ島は記紀の淤能碁呂島とは無関係で、元はオモコロだったのがオノコロに訛った可能性もある。馭謨が「謨馭」の転倒だったとするとモゴと読める。これは「オモゴロ」略して「モゴロ」といってたのを好字二字令により表記上は一字落として「謨馭」と書いていたものの、読みはモゴロのままだったのだろう(旧国名や旧郡名に例がある)。

琉球&沖縄についてのまとめ
以上まとめると、第一に日本からみた場合『日本書紀』や『続日本紀』で「掖玖」といってるのは今の屋久島のことではなく、沖縄のこと、もしくは沖縄を中心とした西南諸島のことである。「掖玖」が特定の島々の名と並んでてくる時は「それ以外の(沖縄を中心とするすべての)島々」という意味。第二に中国からみた場合、隋唐以降の「琉球」はすべて今の台湾のことではなく、沖縄を中心とする西南諸島のことである。「琉球」にはその西端部として台湾も含みうるが、台湾が中心なのではない。そして第三に「掖玖」も「琉球」も同一語源から出ている同じ言葉と考えられる。

「夷洲」は本当に固有名詞なのか?
ところで台湾にせよ沖縄にせよ「夷洲」という名には違和感を覚えないだろうか? 「夷」の字は東夷諸民族の総称だろう。固有名詞にふさわしくないような気がする。イヤクの頭音に「夷」の字を使うのも同じ意味で音写文字としてやや不適切な感じ。だからここは「夷洲であるところの邪久」という意味と「イヤクの音写としての夷邪久」を二重にした文字表記であるか、または「夷洲邪久国」(夷洲の邪久国)とあったのに洲の字が抜けたか、はたまた邪久の右肩に小さく夷洲と注があったのが本文に紛れ込んだかしたのだろう。いずれにしろ大業四年(AD608)の段階の段階ではかつて「夷洲」と呼ばれていたという過去は確定した知識だから夷の字にとやかくもなかったのはわかる。しかしそのずっと前の三国時代に「夷洲」と呼ばれたのはどういうわけだろう? 中央の知識人階級にとっては「東鯷」「東鯷国」「東鯷洲」「鯷」「鯷国」「鯷洲」でもよかったろうが、これは中国人からの名で本人たちの自称ではないので、実際に彼らと交易していた江南の辺民は彼らの自称「ヤク」に近い音でよんでいたのではないだろうか? 例えば「イヤク・イアク・イウク等の音写の頭音「イ」に「夷」の字を当てたんだ」といっても成り立たないこともないが、その場合「夷」でなく別の文字が当て字に選ばれた可能性が高いと思う。やはり音写文字に「夷」の字は違和感がある。大胆な発想だが「夷洲」とは実は「易洲」の誤記が定着してしまったものではないだろうか? 「夷」と「易」は音読みが同じ「イ」(中古音 [i] または [yi] )で、「平坦ででこぼこがない」等の同じ意味も共有している。それでもし「夷洲」が誤りで「易洲」が正しかったとすると、易の字はもう一つ別の音をもつ。漢音「エキ」呉音「ヤク」、意味は「変える・変わる」。そしたら「易洲」というのも「ヤク」(魚の国)の音写ってことになるだろう。まぁ「イヤク・イアク・イウク等の音写の頭音「イ」に「夷」の字を当てたんだ」という説にもし説得力があるなら最初から「易」の字には出る幕はないが。「東鯷」も「夷洲」も、「東夷」の字義からしてかなり広漠な東夷の島々を指す普通名詞と考えられるが、発音からすると「東テイ人」または「テイ洲」という音で呼ばれる固有名詞的な概念があったかもしれない。「夷洲」(東夷の島々)は観念上のものだが、現実の島は具体的にそれぞれ固有性をもっており、「テイ」(是?弟?帝?)の島々もあれば「ヤク」(掖玖=琉球=易洲)の島々もあり、さらに「澶洲」もあり、それ以外の島々もあったわけだろう。

東鯷人は「東鯣人」だった?
さて、鯷の字に「鮧」という異体字があったことから、「東鯷人=東鮧人=東夷人=東夷=東夷洲=夷洲」で東鯷人は夷洲のことだと思われるわけだが、夷洲がもし易洲の誤りだというなら東鯷人ももしかしたら東「鮧」人ではなく東「鯣」人だったのではないか、とすぐ思いつく。誰でも思うよな?w 「鯣」の字はスルメのことだけどこの字をスルメの意味に使うのは例によって日本人だけで古代中国でそんな意味はない。この字はウナギで、「鱺鯣」と2文字でいうこともある。そこでこの「鱺」の字を調べたら意味は「大ナマズ」だと。ウナギを意味する文字はまだあり 「鯣」と似たくさい字で「鰑」という字もあり、こっちはウナギの他にライギョの意味もある。ウナギの意味として「鱺なり」という引用がある。どうやら鱺は大ナマズだけでなくウナギの意味もあるらしい。「鰑」の字についてはさらに「鱺一作鱧或作鰑」とあり、鱺と鱧と鰑は同じ意味でどれを書いてもいいようだが、ウナギの意味の場合だけなのかウナギでも大ナマズでも共通なのか判然としない。しかしウナギの意味に限定しても「鱺鯣鰑鱧」の4文字はどれもイコールなのはわかった。ところで「鱧」の字には先程の見覚えがあるだろう、上述の「䱱」の字のところで「大鱧」のことだとあった。「鱧」の大きいのが「䱱」で、逆にいえば「䱱」の小さいのが「鱧」だといってる。「鱺鯣鰑鱧」の4字に共通した意味はウナギで、「鯷鮷鮧䱱」の4字に共通した意味はナマズ。そうしてみるとここでいってる「大小」の比較というのは「太いか細いか」ってことをいってるらしい。これつまり「エキ洲(沖縄を中心とする西南諸島)はウナギのように細く、テイ洲(日本列島)はナマズのように太い」ということを示しているのか、あるいはまた「大小」というのは「鯷=鮧」が「大」(東夷の島々、広義の夷洲だからエキ洲もテイ洲も含む)で、「鱧=鯣」が「小」(エキ洲、狭義の夷洲)だということか。

「亶洲」をめぐる論争史
では澶洲はどこなのかw
「夷洲」が沖縄だとすると(あるいは屋久島を含む西南諸島だとしてもよいが)、この場合「澶洲」がどうなるか。ここは呉の孫権がなんとしても探し出そうとして、発見できなかった将軍を二人も処刑したほどの重要地なのだが。古く明代には、朱元璋や陳仁錫によって夷洲も澶洲も日本のことだと考えられていた。漢書地理志に「夷洲、会稽海中にあり歳時を以て来たり貢見すと云ふ」とあり、三国志に「(倭は)その道里を計るにまさに会稽東冶の東に在り」といい、後漢書に「(澶洲の)人民時に会稽に至りて市す。会稽東冶県人、海に入りて流移し澶洲に至る者あり」と。つまり澶洲も倭も、会稽の東方の海上に位置する。どちらも歴史に特筆されるほどの規模をもった国なんだから、中国の歴代正史しか読んでない昔の中国人が「倭国も澶洲も結局同じもの」と考えるのは普通だろう。ただ澶洲のみならず夷洲までも日本のことだとすると、夷洲と澶洲それぞれ日本国内のどこなのかって問題も生ずる。
…ところが、1918年に市村瓚次郎が澶洲は今の海南島だと主張した。海南島が「珠崖郡」一つに統合される前は「珠崖郡・儋耳郡」に分かれていたので儋耳(たんじ)のタンが澶洲(たんしゅう)のタンだという。これに対し1925年、白鳥庫吉が種子島説をだした。三国志では海南島に当てはまる場合はちゃんと「珠崖・夷州(夷洲)」と書かれる例なのだし、漢代に郡があった海南島を発見できずに引き返すなんてのもありえないので、種子島説の方がましだ。ここまでが戦前の流れ。
戦後になって1955年に徐徳麟が、1969年に手塚隆義が、それぞれ澶洲日本説を出して昔ながらの伝統的な解釈が再評価されるかと思われたが、日本説はウケなかった。この場合、問題があるとすればなぜ倭国と明記されないのか、そしてなぜ倭国でなく澶洲という変わった名が新しく出てきたのか。この謎解きは後の方でやるとして、ともかく澶洲が倭国だとすると呉と魏の世界規模の外交戦がみえてくるが、後述するようにBC230年に呉が夷洲と澶洲に出兵したのは魏や蜀の異民族対策と連動したことで、東夷をめぐる魏と呉の世界戦略の対立の一環とみる説がまともだろう。だが、戦後まもない頃は、古代人の世界認識能力を矮小化してみる傾向が学界にもあって、世界戦略を展開するようなダイナミックなデカい話はウケず、古代は万事素朴で質素でしたぁーっていうちまちました歴史観がよしとされた。今でも一部の爺婆はこんな古代史像から抜け出せてないだろ。岡田英弘はルソン島説だがこれはもともと1977年の内田吟風の説(騎馬民族畑の先輩の説そのまま)。ルソン島説は、澶洲の字はセンとも読める(氵つけても無くてもタンとセンの両方の読みがある)のでルソンの「ソン」が澶洲(せんしゅう)のセンだっていうのかな、しかしルソン島説もまた魏と倭の関係を睨んだ呉の東方戦略の話とリンクしない。1984年に江向栄・夏応元が済州島説を出した。この後、1997年に許永璋がインドネシア説を出したがぱっとせず、しばらくの間、種子島説と済州島説は2大有力説であり続けた。その後、種子島のなんとか遺跡から3世紀の中国製の食器だかが出土したとかで、種子島説が一躍最有力説に躍り出たもよう。学界では今はもう「澶洲は種子島」ってことで確定らしい。
なのにWikipediaでは沖縄説が書かれている(ただし出典不明。木村政昭のことかな? 宜野湾市の北谷(ちゃたん)のタンか、恩納村の谷茶(たんちゃ)のタンだっていうのだが、この人は人類の発祥もビッグバーンも沖縄起源と言いかねない人なので以下ry)。このうち海南島説・ルソン島説・インドネシア説は「夷洲が台湾だ」という前提があると思われるので却下してよいが、種子島や済州島だったとしても沖縄を無視した格好になり、台湾との間があきすぎるので、木村政昭が沖縄説を言い出すのも、気持ちはわかる。だがこのブログでは夷洲が広義の夷洲(東夷の島々)と狭義の夷洲(ヤクまたはテイをさす)に分けてみたい。そうすると沖縄は狭義の夷洲のうちヤクに該当するので、澶洲のもっていき先は日本説・種子島説・済州島説しか残らない。種子島説と済州島説は澶洲のタンという音を地名で説明できるが、しかし、どちらも呉が必死になって探すような価値があるとは思えない。済州島説のすぐそばには韓国本土があり、種子島のすぐそばには九州本島がある。経済規模ではるかに大きな地域に隣接してるのに、どうして韓国や九州の情報がなくて済州島や種子島といった特定の小島の情報だけがはるばる伝わるのか? 人間と物資と情報の三者の流通として、そんなことありうるのか? だから普通に考えれば現代の学者よりも、夷洲も澶洲も日本のことだとごく自然に認識してた明代の朱元璋や陳仁錫のセンスの方がまともなんだよ。『隋書』のセンスも同じ。『隋書』倭国伝によると倭国に「秦王国」というのがあり(豊前国京都郡?)そこの人は(習俗や服装が?)中国と同じである、だから(倭国を)夷洲だとしているけど疑わしくそれが本当かどうか明らかにできない、とある。岩波文庫の注釈は「夷洲は台湾のことだからここで疑ってることは正しい」とまたしてもアホな注釈つけてるが、『隋書』が編まれたのは唐代で、その頃までは修史官に任ぜらるほどの文化人なら「夷洲」といえば倭国のことだと一般的に思われていた証拠だろこれ。『隋書』は疑ってるけど、疑った結果なにかが判明した様子もなく、「夷洲=倭国」という認識は「夷洲=日本」となって明代まで続いたわけだよ。
…というと、夷洲も澶洲もごっちゃに日本だっていうのがまともなのかよ、と言われるかもしれない。しかしだよ、もう一度「夷洲」という名をよく考えてみよう。前述の繰り返しになるがこれは「東夷の島」という普通名詞に限りなく近いニュアンス、語感をもつ。固有名詞らしく響かない。東シナ海に浮かぶ島なら、台湾も沖縄も日本も済州島もすべて含まれる。ただ、実際の庶民同士の民間交易では中国からみて自国に近い台湾や沖縄を指していることが多かったろう。そんなこた当たり前で『臨海水土志』の射程が短くても、もって異とするまでもなし。たまたま『臨海水土志』の夷洲が沖縄と台湾(後世の琉球の範囲)を指しているとしても、「そこもまた」夷洲なのである。なんら矛盾しないのだ。東鯷人も同じく、観念上は台湾人も沖縄人も日本人も済州島人も、みな東鯷人なのである。「東夷」なんだから。

◆予告編◆
だが、もちろん話はここで終わりではない。
澶洲が日本だとすると、なぜ『三国志』には澶洲は倭国だと明記されてないのか?
第一に、歴史に詳しい人なら、澶洲が出てくる3世紀には魏vs呉、倭の女王国vs男王国の外交戦があったことが何か関係してるんだろうと想像つくだろうし、第二に、澶洲には徐福伝説もついていて徐福のネタだけで膨大な議論があるw これらの諸問題をそれぞれバラバラに扱ってる書物やサイトはあるが、実は相互に密接にかかわっているのだ。
すべての謎解きは「沈没した神仙島の謎【中編】~魏呉蜀×「邪馬台国vs狗奴国」の外交戦~」に続くw

☆沈没した神仙島の謎【後編】

沈没した神仙島の謎【中編】~魏呉蜀×「邪馬台国vs狗奴国」の外交戦~からの続きです。
今日は平成30年10月15日(月)、熊野速玉大社の例祭。熊野といえば…。そう、徐福ネタw いよいよ完結編w といっても徐福ネタは枝道なので残ってる議論をさっさと片付けて、本題の「沈没した神仙島」の話をしないとならんw

(※ただいま多忙につき内容は後日かきます )

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☆沈没した神仙島の謎【中編】~魏呉蜀×「邪馬台国vs狗奴国」の外交戦~

神の序章・「下町三山」は徐福の三神山だった!?
nihboriyama203.jpg蓬莱
doukanyama30.jpg方丈
asukayama22.jpg瀛洲
日暮里山(にっぽりやま:画像1枚め)は、古くは「新堀山」(しんぼりやま/にいぼりやま)とよばれた。「日暮里」と当て字されたのは、王維の詩が出典になっている。

「臨高台送黎拾遺」

相送臨高台 相送りて高台(かうだい)に臨み
川原杳何極 川原(せんげん)杳(くら)くして何ぞ極まらん
日暮飛鳥還 日暮れて飛鳥(ひてう)還り
行人去不息 行人(かうじん)去って息(や)すまず

日暮里山は、飛鳥山(あすかやま:画像3枚め)とセットになっていて、この王維の詩の中の「日暮」が新堀山に、「飛鳥」が飛鳥山の当て字に使われてる。その飛鳥山は徐福伝説で有名な熊野新宮の浜王子を勧請したという王子神社に隣接し、アスカ山という地名も、有名な徐福の上陸地として石碑も立っている阿須賀神社から勧請した社があったことによる。道灌山(どうかんやま:画像2枚め)には向陵稲荷神社があるが、もとは当地にあった佐竹氏の屋敷に祀られていた稲荷だという。しかし佐竹氏が邸内にとりこむ以前にも古くから祀られていたのではないか。道灌山の地名は室町時代の太田道灌、あるいは鎌倉時代の関道閑にちなむともいわれるが、コジツケだろう。地名学の通説としては稲荷(とうか)の訛りだと見られるからだ。その起源は古く、道灌山には縄文遺跡も弥生遺跡もあり、その太古悠遠なることが知られる。日暮里山には諏方神社があり、飛鳥山には前述の王子神社があるが、それらが勧請されたのも、もともとその地が聖地として太古から崇められてきたからではないだろうか。
道灌山は、薬草の採集地としても有名で、徐福が探し求めた仙薬の地とはここであろう。日暮里山は特産の名物「谷中生姜」の発祥地でもあり、生姜は漢方で生薬として使われることから、やはり徐福が探した仙薬との線が浮かぶ。大昔は関東の内陸まで海が入り込んでおり、日暮里山・道灌山・飛鳥山は3つの島だったのである。

【補足】
このブログを閲覧された方から、日暮里山も道灌山も区別なくそのへん一帯はすべて道灌山なのではないかと御指摘いただいたので、自分の考えを説明したします。
地名の範囲は時代とともに縮まったり広がったりしながらその範囲が移動することもあり、あるいはまた誤認がそのまま定着してしまった例もある。地名の乱れはこれを正して本に復すべきと考えるか、時代とともに変わっていって良いのだからすでに定着した地名はそのまま放置すべきと思うかは人それぞれ。俺の第一の関心は「古くはどうだったか」ってことであって、現状けしからんから名称を変えろともハラの中では思うしたまにそういうことを煽り半分で主張することもあるがそれはこのブログの第一の主旨ではない。その上で言うのだが、現在では日暮里山の西日暮里公園内に「道灌山」だという表示(案内板)が立っているように、日暮里山も道灌山もごっちゃに混同されている。この案内板のせいだと思うのだが、ほとんどのサイトでは道灌通りの北の山(向陵稲荷や開成高校がある方)も南の山(西日暮里公園や諏方神社がある方)もまとめて道灌山と呼んでいる。なので両方区別なくこのへん一帯がすべて道灌山だという認識は現状それで格別問題ない。
で「古くはどうだったか」って問題だが、現下においても「一帯がすべて道灌山」という認識とは異なる理解も少数ながら存在しており、あるサイトでは「北を日暮里山、南を道灌山」と俺とは逆にして紹介している。また別のサイトでは北を「諏方台」、南を道灌山としている。諏方神社も諏方台通りも無い方を諏方台というのはさすがに間違いだと思うのでこの人が南北を間違えているとすると北が道灌山になる。真相を探るべくネットで検索すると安政三年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では現在の西日暮里4丁目付近に「道灌山」と記されているという情報がいくつも出てくる。が、現在の西日暮里4丁目には向陵稲荷や開成高校がある北の山が含まれ、西日暮里公園や諏方神社のある南の山は西日暮里3丁目であって含まれない。はたして「根岸谷中日暮里豊島辺図」なのか失念してしまったが俺がみた古地図では北の山が「道灌山」、南の山が「日暮里山」と書かれ、はっきり区別されていた。またあるサイトでは南の山を二つに分けてこのうち西日暮里公園を「道灌山」、諏方神社を「ひぐらし山」として区別した上、北山を「日暮里山」だとしている。つまりこの人の認識では道灌山をはさんで日暮里山とひぐらし山が離れて別々にあることになるが、語源からいっても日暮里山とひぐらし山が別の山だなんてことがあるのだろうか? そのサイトでは特に根拠をあげてはいないがおそらく諏方神社の石碑に「新堀山」とあるからだろう(「新堀山」で検索すれば画像と情報がでてくる)。新堀山はいうまでもなく日暮里山と当て字する前の古い表記である。つまりこの人のいう「ひぐらし山」というのは本来の日暮里山そのものに他ならない。上述のごとく道灌山の語源は太田道灌でも関道閑でもなく稲荷山(とうかやま)の訛りであることは地名学的にも動かないと思うので、もし両山を区別するのであれば、向陵稲荷のある北山こそ道灌山であって、これは上記の「根岸谷中日暮里豊島辺図」の認識とも合致する。如何。


今日、平成30年9月28日(金)は台湾の「教師節」なんだって。教師節ってのは孔子の誕生日で、孔子が生まれたBC551年の旧暦八月二十七日をグレゴリオ暦に換算すると9月28日になるらしい。しかし孔子の誕生日は俺の知る限り『公羊伝』がBC552年の十一月庚子日、『穀梁伝』が同年十月庚子日とし、『史記』がBC551年とするだけで日付は不明、これだけのはずだが、『史記』がBC551年としたのは当時は十月から新年が始まる暦があったのでそれだと十月から翌年になるから。普通に正月から年がかわるという切り方でいえば、当然BC552年が正しくBC551年は誤りであって「現在の9月28日」説も根本から成り立たない。いったい「BC551年の八月二十七日」説はどっから湧いて出たんだろう? 

実際の日付を推定するにはどのような暦法を想定するかで計算結果がぜんぜん違ってしまう。例えば『公羊伝』が正しければBC552年の十一月の庚子は十七日で現在の12月25日(クリスマスだなおいw)という説や、十一月の庚子は十五日で現在の10月14日という説がある。また『穀梁伝』が正しければ同年十月の庚子は二十一日で現在の10月3日という説、十月の庚子は二十二日で現在の10月8日という説などがある。

で、キリストの墓や釈迦の墓が日本にあるぐらいなんだから、孔子も日本に来てて良さそうなもんだが、だからこそキリスト釈迦のネタ元の竹内文献では孔子も来てることになってるんだがそれはさておいて、とw まさにそういうことが『漢書』地理志にある。

・然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云

・然して東夷は天性柔順、三方の外と異なる。故に孔子、道行はれざるを悼み、海に桴を設けて九夷に居らんと欲す。所以あるかな。それ樂浪海中に倭人あり、分れて百餘國となす。歳時をもって來たり獻見すと云ふ。

孔子が海を渡って「九夷」に行こうとしたという話のネタ元は『論語』で、子罕篇 第13章に「子欲居九夷」(子、九夷に居らんと欲す)、公冶長篇 第7章に「子曰、道不行、乘桴浮于海」(子いわく、道行われず、桴に乗りて海に浮かばん)とある。

「九夷」というのは時代によって意味がちがう。
『三国志』では東夷伝に倭人を含む7つの民族が出ているがこれを九夷というには2つ足りない。そこで烏桓・鮮卑を加えて9にするか、三韓を3つに数えれば9になる。三韓を一つに数えた場合でも、貊(=高句麗)の他に「小水貊」というものがあり東沃沮の他に「北沃沮」があるといってるので高句麗と沃沮を2つづつに数えれば9になる。後漢の頃の李巡の説では、九夷とは「玄莵、楽浪、高麗、満飾、鳧臾、索家、東屠、倭人、天鄙」だという。ここの「高麗」は高句麗、「索家」(さっか)は蒼海郡(さうかいぐん)で「玄莵(郡)」「高麗」「索家」の3つはほとんど同じ場所を別名で三回だしただけの杜撰なものだ。「満飾」は靺鞨のことという説もあるが靺鞨は7世紀の民族でこんな古くに靺鞨の名はまだないから誤り。正しくは南満洲にあった地名で漢代の遼東郡の文県、『魏略』には「満」とある。今の遼寧省営口市。「鳧臾」(ふゆ)は舟山群島とする説もあるがそうじゃなくて夫餘(ふよ)だろう。「東屠」は烏桓(烏丸)のこと。烏桓は古くは東胡といい、さらに古くは屠何といった。「天鄙」は鮮卑。「倭人」は日本列島の倭人ではなく東屠(烏丸)と天鄙(鮮卑)の間にかかれているんだから満洲にいた倭人だろう。もしくは、日本列島の倭人だとすると韓国あたりが空白になってしまうから、初期の頃は朝鮮半島の住民を倭人といっていたので、その倭人だろう。しかしこの李巡の説は内容が杜撰で正史に書かれた東夷の情報とは食い違いが多く、当時どれだけマトモな説と受け取られていたのか、かなり疑問だ。さらに古くは「畎夷、于夷、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷」のことをいったのだという。白だの赤だの観念的な名前なので創作だろうという説もあるが、創作ならもっと色なら色で揃えたはずで、不規則なのはなんらかの実態の反映と思う。やや強引な当てはめやコジツケになりそうだが、ムリにも推定してみると「畎夷」は犬戎、「于夷」(うい)は淮夷、「方夷」は方の字のつく地名が中国にはあちこちあるがこの場合は今の河南省禹州市のあたりにいた民族、「黄夷」は黄国で河南省潢川県にあった国、「白夷」は白狄、「赤夷」は赤狄、「玄夷」は『山海経』に出てくる玄丘之民で後の玄莵郡、「風夷」は山東半島の風姓の諸国、「陽夷」は陽国で山東省沂南県にあった国。ただし方夷と玄夷はなにかの誤字の可能性もありそう。こうしてみると後漢の頃や三国志の頃の九夷とはぜんぜん意味が違う言葉で、東西南北あちこちの異民族のことを言っており、特に「東の民族」に限った言葉ではない。このうち「于夷」(うい)のことを春秋時代には特に「東夷」というようになり、戎狄蛮とともに東西南北に割り振る発想が出てきた。戦国時代には東夷が東方の異民族という意味になったのでそれまでの東夷は「淮夷」と呼ばれるようになった。

したがって孔子の頃の九夷ってのは「東方の」異民族という意味ではないのだ。さらには九夷というのは特定の民族をさす言葉ですらなく、漠然とどこかの異民族ってぐらいの意味。まれに世界史地図で「淮夷」の位置に「九夷」と書いてあるのがあるがあれは間違いだから信じるなよ! まぁ公冶長篇 第7章の方は魯のあたりから近い海、今の連雲港から出航したらだいたい今の韓国の南端に行き着きそう。日本へ行こうとしたって解釈もギリギリできなくもないかもだが、子罕篇 第13章はムリなんで、孔子が日本へ行こうとしたって解釈に「九夷」をもちだすのは『漢書』を編纂した班固の独自解釈(もしくは創作)だぞw ただし、孔子もすったもんだあって結局、日本には来なかったわけだけど、いきさつ上、来なかったってことであって、物理的に来れなかったって意味ではない。だからそれよりずっと後の時代の徐福なんかなおさら日本に来れなかったわけがない。もし来てないとすれば物理的に来れなかったんじゃなくて、そりゃ、孔子と同じでなんらかの理由で意図的に来なかったんだろうなw ちなみに東京で月イチで『論語』の楽しい勉強会もやってるのであなたも一度参加してみませんか、興味あったらお問い合わせください。
※続き物です。必ず【前編】から見て下さい。リンクはこちら↓
沈没した神仙島の謎【前編】~夷洲・亶洲をめぐる大冒険~から続き

「瀛洲・方丈・蓬莱」はどこか?
今回はその徐福の話だよw 前編から引き続いてる「澶洲」の話でもあるんだが、『三国志』では澶洲に徐福の子孫が住み着いてるという珍奇な記事が目につく。
徐福来朝帰化の伝承地は青森県から鹿児島県まで日本各地に夥しくあり、古代史マニアにも大人気で、委細つくして調べあげた研究サイトがネットにはわんさかあるので適当に検索ドゾー。それらの中でも、富士山説は後周(AD951- 960)に書かれた『義楚六帖』に端を発しており最古のもの。紀州熊野説は1368年に絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん)という日本の坊さんが明に渡って明の太祖に「熊野に徐福の祠がある」と吹き込んだのが最初。この2説は起源の古さという点で他の諸説より抜きん出ている。また各地の伝承といっても断片的なものや些末なものが多く、他愛もないコジツケで終わってるのもあれば、そうかと思うと富士山説や八丈島説などのように詳細な伝承もあって、落差が大きい。それら諸説のうち、冠絶して詳細なのが佐賀県佐賀市の金立山説(及びその周辺、西の八女市まで含む)で、日本中の徐福伝承地の中から、富士山説・熊野説に加えてこの佐賀説の合わせて3つが、特に注目される。3つといえばアレだよ、アレw 司馬遷の『史記』によると徐福は東方海上の三神山、「瀛洲・方丈・蓬莱」を目指したというw 徐福伝説の佐賀説・熊野説・富士山説の3説が、「瀛洲・方丈・蓬莱」に対応してるように思えてくる。誰でも思えてくるよな?w
kinryusan50.jpg金立山

江戸時代には熊野・熱田・富士を三神山ということが多かったが、これは画題であって具体的に瀛洲・方丈・蓬莱をそれぞれどれかに当てはめたわけではない。似たようなことを考えた人は昔からいたもので、二三例をあげれば、平田篤胤は蓬莱は九州の北、瀛洲は九州の西にあり、この二山は海底の幽郷で現実のものではないとしつつも方丈だけは現実の土地で淡路島のことだとした。『ホツマツタヱ』では瀛洲が琵琶湖の沖島で方丈が仙台あたり。仙台の太白山か栗駒岳かな。船体井上赳夫の説では瀛洲が隠岐島で阿蘇と群馬の浅間山が方丈と蓬莱だったかな? ネット上では「瀛洲が九州で方丈が四国で本州が蓬莱」だという説、「蓬莱は出雲で瀛洲は阿蘇で方丈が富士」という説もみかけた。他にも俺がいま忘れてるだけで大昔からいろいろな説がある。

だが、三神山の伝説は、徐福の頃にはすでにあったもので、徐福がらみで初登場したわけではない。だから、三神山について考察する際には徐福関係の情報にとらわれてはならない。六朝時代に書かれた『十洲記』によると中国からみて蓬莱の方が瀛洲よりいくらか遠く、方丈は東海の真ん中だというから「瀛洲・方丈・蓬莱」の三神山が日本なら、日本を3地方に分けるとしてとりあえず西から順に「九州・近畿・関東」のことじゃないのかと大雑把に把握される。 
「瀛」の字の原初の意味は「ふえる」とか「かくす」とかだったらしい。オキの訓は「水量が山のように多い、大海」か「波のかなたに隠れる」というニュアンスからきてるのだろうが、文字の原義からはズレてきているかも知れず、戦国期以前の地名として解釈するのは容易でない。「州・洲」は川や海で区切られた土地(島)の意だから日本だとすれば本州と途切れた九州のことかな。方丈は狭い部屋の意味があるから奈良盆地のことか。昔は奈良盆地の北半分は海だったので、横長の長方形の盆地だったろう。
蓬莱は雑草の生い茂った未開地の意味があり、関東平野だろう。関東平野も海だった時期が長く、本格的な開拓がかなり遅かった。蓬も莱も、薬草にもなるが雑草でもある。関東の聖なる山といってもいくらでもある。上州浅間山、野州日光、常陸の筑波山、房総なら麻綿原の清澄山w 埼玉県の秩父三山も有名だし、神奈川県の丹沢の大山も忘れちゃいけない、なんたってここには「ヨセフの塚」があるからなw いや、何でもないw しかしまぁ知識のない外国からの渡来人がパッと見で富士山に惹かれてしまうのはこりゃもうしょうがないわけよ。
方丈の候補を奈良盆地及びその周辺で探すと、大和三山の他、三輪山、葛城山、宇那手、飛鳥の神名備もあって、聖なる山には事欠かないが、山岳信仰といったらなんといっても背後の吉野山だろう。役小角の金峰山、談山神社の多武峰、水銀の神ともいわれる丹生津姫(にふつひめ)を祀るともいう丹生川上神社もある。80年代には電通に乗せられて天河弁財天でキャーキャーいってる薄らニワカもいたが、由緒正しいオタクの押しは玉置神社やろw
tamaki_machigata192.jpgtamaki_machigata152.jpgtamakisan184.jpg玉置山
「熊野三山」は三つの山ではなく三つの神社のことだけれども、玉置山は熊野本宮の奥宮だともいわれてるわけで、熊野三山を山岳信仰としてみる場合には、中心となる聖なる山は玉置山しかありえない。それはともかく、奈良盆地は広大な山々の北の一角にちょこんと付いてる感じ、熊野はその南側の玄関であり、黒潮ルートで海上から来た場合には、ここが入口になるわけよ。
そして瀛洲の候補、九州で聖なる山といえば高千穂だろう。実は延岡市の五ヶ瀬川の昔の河口だったあたりにも徐福伝説があり、「徐福岩」ってのが残ってる。こっから遡上すれば、有名な日向の高千穂峡に到達するし、金立山の東南、八女市の山内にも徐福伝説があり、ここは金立山と高千穂の中間地点でもある。
徐福の話はそれだけで一つの大きな問題系をなしており、議論は尽きないが、とりあえず「澶洲」をめぐる議論に必要なことだけ先に書いといた。他の面白ネタは後述。

夷洲討伐と澶洲探索の政治的背景
AD222年に劉備が呉征伐に失敗してから、呉と蜀は友好関係に転じていた。その上で、魏蜀に遅れて229年に孫権も皇帝に即位すると、蜀と呉は同盟して天下二分をめざすことになった。これまでも三国はそれぞれに東西南北の異民族を味方に引き入れるための外交(戦争や同盟)を展開しており、例えば蜀は225年に諸葛孔明が孟獲を捕らえて異民族の居住地である西南地方を併合、呉は226年以降、交州の豪族士氏を滅ぼし扶南(カンボジア)・林邑(南ベトナム、後のチャンパ王国)・堂明(ラオス)に朝貢させたりしていた。そうした中で229年に魏はクシャナ帝国のヴァースデーヴァ王(波調)を朝貢させるという大成功を収めた。これが曹真の手柄で、敵対派閥の司馬懿が対抗するため倭王卑弥呼の使者を招いたというのも岡田英弘のおかげで有名になった話。だがそれは魏の国内の話であって、外からみれば、呉も、魏に対抗するため倭から朝貢してもらおう、となる。天下二分の盟約のもとでは倭や韓といった東夷諸国は呉に朝貢すべき国々であるとともに、同時に、大月氏などの西戎諸国は蜀に朝貢すべきものであって、偽天子の魏に朝貢すべきではないのだから。ちなみに呉には大月氏出身の支謙という坊さんが来ており孫権の保護下で仏教を布教していたし、呉と大月氏も東南アジア諸国を介して交流があった。ただ天下二分の建前では大月氏は蜀に朝貢すべき国だから呉としては朝貢を公式には要求できない(非公式・非合法にはできる)。タイ以西は蜀の領分とされたらしく当時繁栄していたビルマの「驃国」は呉の朝貢国とはなっていない。それどころか歴史には残ってないが蜀は西南夷を服従させた後、驃国との交流をもったと推測する説もある。230年、孫権は衛温と諸葛直の二将軍に兵1万を与え、夷洲・澶洲へ向かわせた。
illust4944thumb.gif富士山
翌231年、夷洲の原住民を数千人拉致して帰ってきたが、兵のほとんどを疫病で失っていた。また澶洲へは遠すぎて行けなかったという。衛温と諸葛直は責任を取らされて二人とも処刑されたが、これは処刑されるほどの失敗だったのか? また後漢書には一般庶民ですら澶洲から会稽にきて交易してるといってるのだから、「澶洲が遠すぎて行けなかった」なんてことは明らかに事実に反することで、言い訳にすぎない。処刑に値するような何か大きな失敗があったことを隠蔽するための言い訳だとすると、澶洲にはちゃんと到達したのだが、朝貢を促すための外交交渉に失敗し、それどころか敵対関係に陥って戦争になり、ほぼ全滅に陥ったのだろう。つまり疫病で兵を失ったというのも嘘。中華思想というのは異民族を蔑むことだと誤解してる人が多そうだが、そうじゃなくて異民族に尊敬されることが重要なのである。中華皇帝にとって異民族に背かれるというのはもっとも恥ずべきことであり、この二将軍の失敗で、即位したばかりの皇帝孫権の面目は丸つぶれになった。こう考えないと、単に遠征で敗北したわけでもなく探検隊の目的地が見つからなかっただけで死刑になるというのは不自然すぎる。
ではなぜこの外交は失敗したのかというと、呉の高圧的な態度のせいだろう。三国とも異民族に対してはアメとムチ、物資の贈与(国内では下賜と称しているが実際には献上)と武力討伐、友好と圧力を使い分けているのは当然だが、この時代の中国は国力が下がっており、魏は烏丸や南匈奴を配下に引き入れて騎馬軍を編成し、蜀は孟獲のような西南夷を登用したように、異民族の協力なしでは国が成り立たないから、敵対するよりは下手に出て融和策をとることが多い。ところが魏蜀と比べると呉は融和が少なく武力行使が多い。その理由はいろいろあるが一つには異民族(この場合は「山越」)が国内に多かったせいもあっただろう。また三国とも人口不足に悩んでいたが、呉は異民族狩りで人口を補っていたため、異民族との関係を魏や蜀のように円滑に運営するノウハウが無かったか、少なくとも巧くはなかった。で、衛温と諸葛直は澶洲に辿り着いたはいいが、上から目線で偉そうな態度をとったため相手の国王だか外交官だかを不快にさせてしまった。そこで頭を下げればよかったのに、あせった二人は武力で脅しをかけ、これが裏目に出て火に油ってことに。逆襲されて澶洲から叩き出されて逃げ帰ってきたのだろう。

呉と同盟したのは狗奴国ではない!
しかし呉としてはここで終わるわけにはいかない。記録は残ってないが、その後も呉は交渉を試みて、ある程度うまくいったのではないかと思われる。それは呉の年号が書かれた二枚の鏡から察せられる。山梨県の古墳からでた赤烏元年紀年銘鏡と兵庫県宝塚市の高塚古墳からでた赤烏七年紀年銘鏡だ。
さてその二枚の鏡からどう考えるかだが、女王国が魏の属国になったと思い込んでる徒輩の発想では、少なくとも呉へのシンパシーを表明するような振る舞いは卑弥呼からみて反逆を疑われかねない程度にはヤバイことだったろうから、当時の兵庫県宝塚市と山梨県にはアンチ卑弥呼の勢力がいたと予想するわけだ。そしてそれは、魏志倭人伝をみるかぎり、狗奴国のことであり、卑弥弓呼を中心とする男王国(男王派の諸国)以外にありえんだろう、だから、邪馬台国と敵対していた狗奴国が、呉と同盟していたのではないか、というわけ。こういう説は大昔からあるんだが、今ひとつ力をもたないのは歴史書の裏付けが弱いから。が、呉の年号の鏡が2枚もあったら考古学方面からの補強は十分すぎると、普通なら思われる。しかし出土地が…。山梨県のは、最近うるさい「狗奴国東国説」を援用すれば辻褄はあうが、兵庫県宝塚市のは、邪馬台国畿内説だと親魏反呉派の中心であるはずの邪馬台国に近すぎる。邪馬台国九州説で畿内に狗奴国があったすればよいが高槻市と和泉市から魏の年号鏡がでているから畿内では狗奴国より邪馬台国の方が勢力ありそう。第二に兵庫県と山梨県では離れすぎてるので説明が難しい。鏡の配置からすると親呉派は東西に分断されていたことになってしまう。そもそも狗奴国の位置については畿内説もあるが肥後(球磨郡~菊池郡)説もあり東国説もある。男王卑弓弥呼は狗奴国一国で孤立してたのではなく、最少でももう1ヶ国「狗古智国」という男王傘下の国があったろう。それは対馬国・一支国について「その大官(長官。つまり太守、知事のようなもの)を卑狗と曰ふ」とある通り、対馬国の大官は「対馬卑狗」、一支国の大官は「一支卑狗」となるわけで、当然「狗古智卑狗」というのは「狗古智国」の大官だろうと推定できる。魏志倭人伝には狗古智卑狗が卑弓弥呼に仕える官だとはあるが狗奴国の官だとは書いてない。九州(肥後菊池郡)の狗古智国も、東海道(静岡県袋井市)の狗奴国も、どちらも女王国と敵対する男王派(卑弓弥呼派)なのである。これを三国志が混同してるのは、ちょうど隋唐の中国人が台湾と沖縄を混同して琉球と呼んでいたのと同じようなことなのであるw ただ肥後菊池郡と静岡県袋井市では離れすぎているので、中間地点の熊野あたりも中継基地として押さえていただろう。内藤湖南の畿内説の継承者で、最初に箸墓を卑弥呼の墓だといったり最初に日本海航行説を出した天才、笠井新也は、狗奴国を熊野地方だとする説を唱えていたのである。南九州・熊野・東海道は海路で結ばれている。四国から房総までの海は忌部氏の海上移動ルートであり、駿河を中心に熊野から茨城県までは常世(とこよ)信仰の分布圏、茨城県沿岸から三陸岩手県までは安波信仰(大杉信仰)の分布圏でもある。これらはどれも「黒潮文化圏」の一面なのである。そして、この勢力配置は、室町時代の南北朝の争乱の南朝勢力に似ている。南朝は吉野の山奥に本拠を置いて、東の奥州は鎮守大将軍北畠顕家が率い、九州は征西将軍懐良親王が治めた。女王卑弥呼と男王卑弓弥呼の争いも「倭王」の地位をめぐる王位継承争い、南北朝の抗争のようなものなのである。
しかし、魏の紀年銘鏡も呉の紀年銘鏡も、どちらもちゃんと古墳から出てくるということは、一方の派閥が完全には滅ぼされず、和解した上で統合したってことなのか? もし一方が滅ぼされたなら、そんな反逆罪に問われかねない不穏な鏡を副葬品になんかできないのではないか? 親呉派=男王派が滅ぼされたなら、そもそも呉の年号の入った鏡自体がうやうやしく埋葬されて平穏に存在の許された古墳から出てくる、なんてことはなかったと思われる。それこそ金印みたいに畑を耕してたら土中から出てきた、というならわかるが…。狗奴国&男王卑弥弓呼がどうなったのかは魏志倭人伝に書かれてないので、狗奴国が邪馬台国をほろぼして大和朝廷になったっていう説もあるのだが、『晋書』では邪馬台国の卑弥呼の倭国がそのまま倭の五王の倭国になったように書かれており、これが当時の中国人の認識だったことがわかる。『晋書』の記述に従えば、女王と男王が「和解して平和裏に統合した」可能性も必ずしも排除はされないが、普通に考えれば男王派は女王によって完全に滅ぼされたか、屈服して女王に帰順したか、いずれにしろ敗けちゃったって可能性が一番高いだろう。そうすると、どうもこの呉の年号の入った鏡ってのは「男王派(狗奴国派)のものではない」のではないかと思われる。
卑弥呼を中心とする倭国の勢力(=女王国)は当時は魏と連帯してたとはいえ、だからって倭国が国内で公式に魏の年号を採用してたとも思えないし、カン違いしてる手合が多いが、波調(ヴァースデーヴァ)本人にしてみれば「親魏大月氏王」の金印もらったからって魏の属国や魏帝の臣下になったつもりは無かったろう。倭国も同じで、魏の属国になったわけではない。岡田英弘がいうように、倭国が魏に朝貢したのも卑弥呼が親魏倭王になったのも、すべて魏の側の内部事情、司馬懿の都合なのであり、倭国にしてみれば「頼まれたから行ってやった」んで、こっちが頼んだわけではない。だから倭としては呉から使者がきても「来るものは拒まず」だろう。呉が澶洲にいって失敗したって話は男王国との交渉に失敗したんだろう。ということは澶洲とは男王国(男王派の国々)のことだとも思われる。そうすると夷洲が女王国(女王派の国々)か(夷洲ってのは、台湾も夷洲だが沖縄も夷洲だし、日本も夷洲なのである。その時々の文脈によって解釈がかわる。固有名詞化する前の「夷洲」という言葉は本来は「東方の異民族の島」という普通名詞なのだから)。で、呉と男王の交渉が失敗したと卑弥呼が聞けば、男王への対抗上、女王としては「なんならアンタの国(呉)はウチで拾ってあげてもよくてよ、はぁと」ということになる。岡田英弘が詳しく解析しているように、魏志倭人伝は司馬懿の功績を顕彰せねばならない経緯があるので魏が倭国からの支持をとりつけたかのように書いてある。実際には魏と呉は倭国からみて等価値、両者同等の扱いだった、なんてことは、陳寿としては死んでも書けない(実は陳寿が使った原資料の段階で手が加わっていたのだがその件は今回はふれない)。だから夷洲も澶洲も会稽の東として倭国と同じ場所のように匂わせるだけで、ズバリ倭国のことだと明記はされてないのである。

従って、前の方で書いたように陳寿は三国志で「夷洲・澶洲」を倭国と同じ場所だと何度か念押ししてるのは、場所が同じらしいとは思っても呉の歴史資料が十分でなく確信がもてなかったのだ、というわけではない。あるいは、夷洲と澶洲ならべてる記述者の気分としては、澶洲の人々もエスニシティとしては夷洲(=沖縄を中心とする西南諸島)の人々と同系の南方民族ってことで、北九州や畿内の「倭種」とは別民族ってことだと考えたわけでもない。倭人伝の習俗記事は前後に分断されているため重複している項目があり、一方は女王国のもの、他方は狗奴国(実際は狗古智国)のものだ(早大教授水野佑の説)。どちらも広義の倭国の一部として出ている。だから倭であるかないかということはエスニシティの問題ではなく政治的な所属の問題なのである。呉が倭国と交渉をもったということが明記されると、「大倭王に朝貢させた=魏を支持させた」という司馬懿の功績が無意味になってしまうから、ボカして書いてるのだ。倭の女王は実際は呉とも交流してるんで、魏だけを正統だと認めたわけではなかったのである。
『肥前國風土記』松浦郡値嘉島條に「此の島の白水郎の容貌は隼人に似て恒に騎射を好みの言語俗人に異なれり」と、五島列島のあたりの人の習俗が隼人と同じだったようなことが書いてあり、律令の定めでは毛人(蝦夷)・肥人・阿麻弥人(奄美人)も「夷人雑類」とされている。これらはエスニシティーとしては隼人と同一民族だろう。この「肥人」の読みはクマビト、ヒビト、コマビトの3説あり、このうちコマビトが誤りだとは容易に推測できる。長らくクマビトと読んで肥後国球磨郡にいた種族と思ってきたが、詳しい議論は省略するがあれこれ考証した結果ヒビトと読むのが正しいというのが現段階の結論だ。五島列島のあたりは肥前国に含まれ、そこの住民は肥人といえる。そして「正倉院文書」天平五年の右京計帳に阿太肥人床持賣と見え、同十年の駿河國正税帳に遠江國使肥人部廣麻呂があり、「肥人」は京都にも遠江・駿河にもいたことがわかる。西の肥前・肥後、東の遠江・駿河の組み合わせは男王卑弥弓呼の勢力圏と重なる。

後漢書は澶洲について「人民時に会稽に至りて市す」(澶洲人は時々会稽まで交易にきている)と、「所在絶遠にして往来すべからず」(遠すぎて行ったり来たりできない)と、まったく逆のことを二つ並べて書いてる。「所在絶遠にして往来すべからず」は三国志での呉が澶洲探索に失敗したことをいってるんだろうが、言うまでもなく日本と中国の間で「行ったり来たりできない」なんてのはありえない話で、「人民時に会稽に至りて市す」が真相をあらわしている。

徐福伝説と狗奴国の関係
ここまできてようやく徐福の話に戻れる。徐福伝説の金立山・熊野・富士のうち、まず肥前佐賀の金立山は、男王国の西の拠点である狗古智(肥後菊池郡)とは目と鼻の先でほとんど隣接しておる。男王国の東の拠点、狗奴国は静岡県袋井市にあった「久努」が遺称地だが、静岡市の久能山のあたりまで広がってたんだろう。久能山なら、富士山への登山口まで60kmぐらいしかないし(1日7時間歩いて2日の距離)、徐福伝説の地である三保の松原ともほぼ隣接している。つまり徐福の3大伝承地「金立山・熊野・富士」というのは、ちょうど男王国の3大拠点に一致しているのである。
そしてようやっと澶洲の話に戻れるが、三国志は澶洲に徐福の子孫が住んで人口数万家もあるという。これは伝聞の形でかかれているから本当かどうかは当時は未確認情報だったわけだが、岡田英弘は「当時の中国は人口減少に悩んでいて洛陽ですら7万戸はなかったろう、邪馬台国の7万戸がホントなら驚異的な大都市だ」といっている。もし澶洲の人口数万家が本当なら奴国でも二万戸しかなく、投馬国の五万戸、邪馬台国の七万戸に匹敵する大勢力ということにならないか? つか三国志の東夷伝全体からみても、当時(3世紀の段階で)数万家もの人口を抱え込んだ国なり勢力は倭国を除くと「夫餘の(国全体で)八万戸」という話と、「馬韓全体で十余万戸」「弁韓、辰韓あわせて四、五万戸」という話が目立つぐらいで他はぜんぜんたいしたことない。人口不足を解消するため異民族を「人狩り」していたほどの孫権なら、魏に対抗するため澶洲を探したくなるのも道理だろう。しかし男王卑弓弥呼からすれば、異民族政策で良い噂のきかない呉より、同盟相手にはより強大な魏の方が望ましい。しかも安徽省亳州市の曹操の一族の墓から「有倭人以時盟不」(倭人時を以て盟するや)と書かれた磚(せん:レンガ)が出土し、曹氏の一族が倭人と関係をもっていた可能性が高まった。
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磚には建寧三年(AD170年)の年号を記したものがあるので、墓の主は曹操の父曹嵩(そうすう)とは同世代だろう。この墓の主は「会稽曹君」といい、会稽郡の太守だったらしい。それなら当然、夷洲人や澶洲人を知っていただろう。AD170年ということは、倭国ではまだ男王と女王の対立が起こるよりずっと以前のことになる。つまり男王か女王か問わず、倭人なら呉に比べれば魏と最初から近い関係があった。当初、呉の澶洲探索隊が失敗に終わったのはこういう背景があったわけだ。

倭国の外交戦略
さて、では女王国も最初から同盟相手として魏を選んでいたのかというと、そうとも限るまい。
蜀と燕(遼東半島の公孫氏)は東西に離れてはいても、相当はやい段階で協力を模索していたとしてもおかしくない。214年の夏に劉備が益州牧となり益予荊の3州をもって自立してから、221年四月に皇帝に即位するまでの6年間、『三国志』では諸葛孔明がずっと成都にいたようなことを書いてるが、詳細な記事は一切なく「謎の6年間、空白の6年間」とよぶ研究者もいて、孔明はこの間いったい何をやっていたのかと疑問を呈している。偶然にも倭王権が継承問題おこして男王と女王に分裂することになった最初の時期にあたっている。孔明はおそらくこの6年間に燕(公孫氏)の実力を見定めるために秘密の外交使節をやりとりしていたのではないか、むろん公孫氏は歓迎して実力のほどを示そうとして、公孫氏をバックアップする東夷諸民族の情報も(多少、盛ったりはしつつも)開示したに違いない。そういうわけで蜀もまた東夷の情勢については一定以上の知識をもっていたと推定できる。後漢が四分五裂してより燕(公孫氏)は夫餘と婚姻を結んで高句麗を牽制し、夫餘の分国を馬韓に作らせ(百済の建国)、高句麗の影響力を馬韓から排除しようとしたが、東夷の諸民族とは一般的にうまくやっていたようにみえる。それはつまり倭国ともうまくやっていたということだ。
倭国の内部では、大陸が統一されるとその矛先は異民族に向かうのがパターンだから、中国は分裂していたほうがいいという考えもあるし、大陸の戦乱がいつまでも続くと難民(=不法移民)が増えて困るというのもある。前者なら呉や蜀を支援して魏がこれ以上強大にならないようにしなければならないが、後者ならもっとも強大な魏にさっさと中国を統一してもらって中国人が安心して暮らせるようにしてもらうべきだってことになる。前述のように男王も女王も曹氏一族に親密だったのならば魏との同盟は自然な流れではあるものの、天下に縦横しようという大戦略としては燕(公孫氏)・蜀・呉の三国同盟で魏を牽制するという戦略になるのが普通だろう。だから卑弥呼自身はアンチ魏だったのではないかと思われる。それは倭人伝に卑弥呼が「鬼道に事え、よく衆を惑わす」とあることからもわかる。鬼道というのは、アニミズムや道教も含め「儒教からみて正統でない宗教や信仰」を漠然とさしている言葉だが、もし道教だったら「五斗米道」とか「天師道」とか「太平道」とかそのまま書けばいいんで、わざわざ「鬼道」なんていう、もってまわったウヤムヤな言い方はしないだろう。そうすると、アニミズムとかシャーマニズムとか原始宗教とか部族宗教とか、要するによくわからない未開人の宗教だということになるが、これもおかしい。別に、倭国は儒教という正しい宗教を知らぬ「異民族」って建前なのだからそんなの当たり前であり、普通ならいちいち書かれないことだ。それがわざわざ書かれてるのは「よく衆を惑わす」という言葉にポイントがある。斎藤忠は「惑わす」というのは(民や国を)「治める」の意だとして用例をあげていたような記憶があるが、普通に治めるだけならそう書けばいいのであって「惑わす」とはいわない。これは訳のわからない呪術をやってるという意味ではなくて「鬼道につかえ」ている、つまり儒教の大義名分にあわないことをしてるという意味なのだ。なんのことかというと、紀年銘鏡からわかるとおり、倭国は(というか卑弥呼は)呉とも通交しており、「正統な中華王朝は魏だけであり呉や蜀は偽帝であり僭主であり、要するに『悪』だ」ということを認めず、呉や蜀を支持するようなことすら時には言ってしまって衆を正しく導かない、呉や蜀にも名分があって三国が同等であるかのように衆が思ってしまう、だから「衆を惑わしてる」ということだよ。

外交史・同盟相手の変遷
では229年から時系列で歴史をたどってみる。
「呉・蜀・燕(公孫氏)と東夷諸国はみな大同盟して魏を包囲するというのが当たり前の大戦略」なのだが、なんでおかしくなったかというと、一つには蜀と呉には「天下二分の取り決め」とそれに基づく縄張り意識があって、建前上、蜀と倭は直接には交流できなかった(距離が遠く離れてたからできなかったわけではない)。二つには、倭国が内部で争ってたから。公孫氏の得ていた情報としては、今の倭国は女王卑弥呼派と男王卑弓弥呼(ひこみこ=男皇子)派にわかれてどちらが正統か争ってること、外交策としては昔からの縁で魏を支持してる派があるのみならず、女王本人のように呉や蜀と同盟して魏を抑える案もあって特に決まってはいないから、外交政策としては暫定的に公孫氏の流れに追随している、というところまで。ところが230年に呉の水軍が澶洲(倭国)を探索しにいって撃退されたらしい、という情報をキャッチした公孫氏は倭国の内部事情を探った上で、どうも呉を撃退したのは女王ではなく男王らしいと知り、男王派の軍事的な実力を認めて、対倭外交では女王派でなく男王派(つまり親魏派=反呉派)になることを決めたんだろう。だから公孫氏と呉はそれまでうまくいっていたのに233年の三月になって公孫淵が突然呉の使者の首を斬って魏に寝返ってしまった。この頃、倭国は激烈に新羅(当時の言い方では辰韓の辰王だが以下便宜的に新羅と書く)と戦争しており、有名な新羅の于老将軍のエピソードがある。233年の五月に卑弥呼の使者が新羅にきてるがこの年のこの月は倭軍が新羅に押し寄せた時でもある(卑弥呼の使者を三国史記は干支1運(=60年)誤っている)。新羅は倭に近く交流も頻繁で深いので、倭の国内事情を最初から知っていて、もともと男王派(狗奴国派)なのである。その頃の倭国は男王も女王も「来る者は拒まず」以外の世界戦略をとくにもっておらず、理想や観念はともかく実務的なことは現地まかせで、公孫氏は隙にやってたと思われる(自意識では公孫氏を管理または支援していたつもりだったろう)。そのため公孫氏が男王派になって魏につくと決めた以上、女王としては遼東半島に派兵して公孫氏を成敗するか、さもなくば当面放置するしかない。が、それは「公孫氏に対して」の話であって、大問題ではない。ただ、公孫氏を介在させた外交ができなくなったわけで、倭国の建前が中国に対してワンクッション置かれなくなるだけのこと。一方、本音をいえば、そもそも倭国は国内が割れているのだから対外的にたくましく合従連衡の戦国に乗り出していく余裕はない、という意見もあり、それなら中国の覇権争いでトップランナーである魏を承認しておけば、とりあえず当面はラクができる。もし実利だけいって不足ならば、魏こそが正統で呉や蜀はいんちき政権だっていう理屈だっていくらでもいえる。外交を担当した難升米や、卑弥呼の男弟らはそこらの細かいことはなんとでも繕っていくつもりだったろうし、女王本人も含めて意見の大きな対立があったわけでもなかろう。それというのも、中国の論理(つか司馬遷の論理)では、魏呉蜀のうち一つが正統であとの二つは存在すること自体が悪であり征伐の対象なのだから、日本がどれか一つに朝貢するだけで、もう、その一国だけを正統と認めたことと受け取られる。大陸の問題に日本が介入したとみなされるのだが、それは中国人の一人相撲で、こっちの知ったことじゃないからだ。だがこちらの態度が大きな影響力をもつなら無碍にもできない。だからもし難升米や男弟が本心から魏だけを支持していたのなら(そんなことはないが仮にそうだとしたら)、女王は最後まで納得せず「呉や蜀も認めてやらんと問題じゃろ?」とかいって渋ったり粘ったりしてたかもしれない。女王国政権が大陸の覇権争いに対して中立だったのは、考古学的にも推定できる。それが紀年銘鏡にある赤烏元年(AD238年)なのである。『三国志』は前述の都合で載せてないが、呉の使者がついに卑弥呼のもとに到着して、ウマいこと外交関係を取り結ぶことに成功したんだろう。
それと、それ以前に遡って、公孫淵がのちに滅ぼされてしまったので記録はないが、青龍三年(235)の紀年銘鏡があり、これは諸葛孔明が死んだ翌年で、魏が公孫氏へ軍を振り向ける余裕ができた頃。この年、危機を覚えた公孫氏が倭国に保護なり支援なりを求めたのだろう。むろん魏に対しては、倭国との仲介を担う気があることをアピールすると同時にバックに倭国がついてることもにおわせる、という外交もやろうと思えばできることになった。中華思想の建前に縛られてる魏がそういう情況を把握すれば、女王との国交樹立に道がついたともいえるわけで、もう魏にとって男王との結びつきはかなり軽いものになった。男王はそれで全然かまわない、卑弓弥呼としては「継続性」と「血筋」へのこだわりから、三国の中では蜀にシンパシーを感じていたのではないかと想像する。魏と女王国とが近づいたのは男王卑弥弓呼にとっては、「昔から義理があって切れない相手が向こうから手を切ってくれた」おかげで世界戦略がやりやすくなったってことでもある。ただ、呉と男王はどちらも自分が偉くて相手の方が頭をさげてくるのが当然という思い込みがある点で似たもの同士だったんだろう。実際には魏も蜀も異民族に対してある時は臣従してその力を借りたりまたある時は対等の同盟をしたりしていたのである(正史には異民族を臣従させたかのように書いているが文章表現だけ)。呉との関係がおじゃんになってしまったことについては、男王国は痛いともなんとも思ってなかったと思われる。上述のごとく、当時の中国は人口減少に苦しむ弱小勢力で、倭国は巨大な人口を抱える大国だった。現代とはちょうど逆なのだ。男王派としては大陸に友邦をつくらずとも、女王派に勝つことは十分できるのであって、大陸の友邦なんて、海を越えて援軍にきてくれたところでどれほど役に立つかすら疑問だったろう。むしろ、ちゃんころに媚びてる連中として女王派を蔑んでいた可能性すらある。呉にしてみれば澶洲探索の失敗(=男王との国交樹立の失敗)で東夷外交が全面崩壊した後なわけで女王国との国交樹立は最低限のメンツを保ったことにはなったが、それだけにすぎず、女王は魏と呉を同等に扱ってるのだから呉が魏に勝ったってわけでもない。なにより「呉・蜀・燕の対魏包囲陣」ができたわけでは全然ないのだから、三国間の外交戦では魏が勝ったってことだ。反魏の諸国が包囲網を作ることができなければ、各個撃破されるだけで、ここから大きく情勢が転換していく。
それより以前すでに高句麗も236年には呉から魏に鞍替えしていて、赤烏元年(238年)に卑弥呼と孫権の外交がなったものの、すぐ翌年(一説では同年)魏は倭王の使いを洛陽に招き(例の親魏倭王)一気に逆転した。公孫淵はあらためて呉に救援を依頼したが、孫権は公孫淵の変節に怒っていたので取り合わない…。という流れ。魏による各個撃破が始まり、まず燕が滅ぼされた。遣使が景初三年でなく二年だという説では、倭国は迅速な外交でパワーバランスの急変に応じたというのだが、どうだろうか? 案外、倭国は衝撃的な大事件だとは受け取らなかったのではないか。男王派か女王派か問わず、魏を支持する場合であっても、それは公孫氏を滅ぼすことを許容するという意味ではなかったろうが、緩衝地帯としての公孫氏を必要としていたのではなく単に自分の属国という程度の認識だったろう。その昔、漢の武帝が朝鮮を滅ぼして四郡を置いた時、三国志の時代とは比較にならないほどの全盛期の強大な漢帝国が玄界灘まで迫ってきた。おそらく当時の倭国は恐慌し社会不安も絶頂だったろう。その悪夢は男王国でも女王国でも伝承され記憶に刻まれていたはずだが、三国時代の魏だの呉だのは前漢とは比較にならならないほど弱い。だから男王国も女王国も、公孫には上から目線で、できるだけ支持と支援を与えてきたつもりだったのだが、両者が敵対していたため、どちらかにつかねばならないという中国式の発想に縛られた公孫淵の判断を狂わせた。だから元をたどれば倭国自身が悪いのだ。仲間割れってのはするもんじゃないね。

おまけ・景初二年か景初三年か
魏への朝貢は、景初二年(238年説)と景初三年(239年説)があって、有名な論争のネタになっている。普通に考えると景初三年が正しく景初二年は誤記で決まりなのだが、捻くれた考えをすると、景初二年はまだ魏と公孫の戦いの真っ最中だからありえない、というのはそれこそありえないし、景初三年だと先帝の喪中に外交のお披露目や親魏倭王の叙任など考えられないというのも一理ある。最大の根拠は戦争終結後の景初三年では外交戦略上の意味が薄れるという説で、これもごもっともだと思われる。が、景初三年の紀年銘鏡があっても景初二年のはないから、考古学からいっても景初三年が正しいだろう。国際関係の変化に素早く対応したわけでは全然なく、今回も向こう(司馬懿の手下である帯方郡の役人)から頼まれて行ってあげたのである。ただ『晋起居注』からの引用に「明帝」の字があり、何もないところにこの2文字が紛れるのも不自然すぎてただの誤りとも考えにくく、これを重視すると景初二年説も捨てがたい。思うに、記録にいちいちなくても「非公式」の使者のやりとりは常時あるので、当然景初二年にもあったのだが、ドタバタで献上品の十分な用意もなく、正式な使者は改めて三年になったんだろう。だから公式には景初三年で正しいのだが、それ以前に使者のやりとりが無いと考えて歴史を構想しては間違えるのではないか。

◆予告編◆
だが、もちろん話はここで終わりではない。
澶洲が日本なら、澶洲のタン(またはセン)の音はどこのなんという地名を写した音なのか? 徐福は本当に日本に来たのか? そして沈没した伝説の島とは…?
そういうわけで「沈没した神仙島の謎【後編】~いま謎は紐解かれた!(仮)~」に続くw(後編のサブタイは未定ですw)

タモリ倶楽部、「下町三山」を踏破!
なお日暮里山のすぐそばには世界的な観光地「谷中銀座」と「よみせ通り」がある。遊びにきてくれたらビールぐらいおごろうw

・薄れゆく邪馬台国

今日、1月24日は「邪馬台国の日」なんだよね。
昭和42年(AD1967)1月24日初版『まぼろしの邪馬台国』(宮崎康平)から「邪馬台国ブーム」の大騒ぎが始まった。素人による邪馬台国本が数多く出版されるようになり、謎解きに夢中になって新説を唱えるマニアが続出、全国に多くのファンダムが形成され、一大ムーブメントとなった。『まぼろしの邪馬台国』は平成20年(AD2008)竹中直人と吉永小百合で映画化された。来年の2017年1月24日は邪馬台国ブーム50周年となる。関係団体はなにかイベントしないのか?

薄れゆく「邪馬台国」への関心
まぁ邪馬台国といっても、昔のようなブームはなくて、今ではまったく沈静化して世間から忘れられている。一部の老人の趣味になっちゃってるといってもいい。昔は無数にあった邪馬台国サークルの中には、今でも存在して活動しているものもわずかに残っているが、総じて左翼老人の趣味の集まりみたいなのが多い。特に若年層の関心は低い。なぜそうなったかって話もいろいろあるし、それが良いことか悪いことかって話もあるんだが、今回はそういう話はひとまずさておいて。
(「薄れゆく意識の中で」ってのは大昔のビートたけしのオールナイトニッポンの定番ネタだってのは知ってる人はいないだろうから一言いっとく)
ところで、だいたい『古事記』が好きな人に質問すると「古事記も邪馬台国も大好き」という人と「古事記は好きだけど邪馬台国は嫌い」って人にスッパリ分かれるんだよね(笑)

邪馬台国を「好きな人」の傾向
古事記も邪馬台国が好きって人は、『古事記』も歴史書のつもりで読んでる人が多い。古事記も魏志倭人伝も「古代史」ってことで同じジャンルに見てる。でも、そういう中には天照大神も須佐之男命も伊邪那岐・伊邪那美も、弥生時代か古墳時代あたりに実在した人間みたいに考えてる人がいる。そしてこのタイプは畿内説じゃなくてなぜか九州説が多い。もっとも、この手の人は古事記が好きといっても、神話を尊んでるわけじゃなくて、自分の解釈で神話を好き勝手に切り貼りする。つまり、パズルごっこ的な妄想古代史の材料として好きなのだね。たとえば、卑弥呼は天照大神だ、とかいう。「だから神話は虚妄ではなく事実だったんだ、そういってる俺は神話否定派でなく神話を重んじてる肯定派なんだ」、というわけ。しかしこれって神話を「神話」として肯定してることになるのか。神話を「歴史とみなすこと」を「神話を肯定すること」と同じように考えるのは現代の学問では主流の考え方ではない。むろん「主流だから正しい」とも限らないが。邪馬台国が好きって人は、だいたい自分の「説」をもっていて、いくら議論しても自説に合わないことは受け入れない人が9割な感じがする。

邪馬台国を「嫌いな人」の傾向
古事記は好きだけど邪馬台国が嫌いって人は、『古事記』を精神的な拠り所というか、日本人としてのアイデンティティーを探すためとか、日本の心を知るためとか、日本を感じたいとか、なにか根源的な意識で読んでる人が多い印象。そういう人がすべてってわけではないが、そういう人の中には、魏志倭人伝は中国人が日本を蔑視して「倭」だの「邪馬台国」だの「卑弥呼」だのわざと侮辱的な名前をつけてるんだ、と信じてて、本当のことは書かれてないんだと思ってる人がいる。そうすると魏志倭人伝に基づいた古代史なんて、事実とは異なる捏造史ということになる。だから歴史学者のこともあまり信じてないって人もいる。じゃ、こういう人にとって邪馬台国が畿内か九州かって話はどうでもいいのか、というと、案外そうでもなくて、これまたなぜか九州説が多い。これは江戸時代の国学者の論法で、中国から邪馬台国と呼ばれたのは九州の片隅の、どうでもいい(熊襲とかの)小勢力にすぎなくて、記紀に描かれた日本史の本流とは関係ない、と。大雑把にいうとこういう歴史観ですな。こういう解釈は現代の学問では主流の考え方ではない。むろん「主流だから正しい」とも限らないが。

魏志倭人伝と「古事記・日本書紀」は食い違ってるのか
で、本当に魏志倭人伝は事実を歪曲してまで日本を貶めたり侮蔑したりした書き方をしてるのか? このへんは現代のそこらの保守派なんかよりはるかに過激で国粋的だった江戸時代の国学者の説をみてみましょう。
江戸時代の邪馬台国論は、ほとんど本居宣長の『馭戎慨言』(からをさめのうれたみごと)が定説でした(細かい異論は多々あったが現代からみれば大同小異)。宣長がいうには、卑弥呼(ひみこ)ってのは神功皇后のことで、邪馬台国(やまとこく)とは大和国(今の奈良県)のこと。当時の日本(倭国)と神功皇后のことは海外にも知られていたので、九州南部(鹿児島県あたり?)の熊襲の女酋が、勝手に自分が神功皇后だと偽って中国の魏と通交したのだ、と。だから、本居宣長は邪馬台国九州説ではなくて、邪馬台国畿内説そして卑弥呼=神功皇后説ね。ただ、それとは別に偽物の邪馬台国、偽物の卑弥呼がいて、それが九州にあった、と。ここは重要なところで、本居宣長は、魏志倭人伝の当時の日本についての記述のほとんどを、実際の大和朝廷(記紀に出てくる日本)のことを書いてると判断していたと断定できる。もしそうでなかったら、宣長は「邪馬台国は九州の熊襲であり、卑弥呼は熊襲の女酋である。邪馬台国は大和朝廷ではないし、卑弥呼は神功皇后ではない、邪馬台国と関係ない」と言ったはず。でも実際はそう言ってない。大和朝廷は本物の邪馬台国(中国からの呼び名)だと言ってる。九州にもあったことはあったんだが、そっちは邪馬台国も「偽物」、卑弥呼も「偽物」だと。魏国と通交したのは偽物の卑弥呼だが、神功皇后こそ「本物の卑弥呼」だと言ってるのです。俺が、じゃないよ。本居宣長先生が、ですよ(私は神功皇后説ではないです)。江戸時代の国学者が問題にしていたのは、天皇が支那の皇帝に臣従したり臣下の礼を採ったりすることはありえない、ということが根本で、これがすべて。これ以外にも、魏志倭人伝が間違ってる点はいくつもあるけれども、大した問題じゃない。なぜたいしたことじゃないかといえば、実際は文化の進んだ国なのに意図的に文化の遅れた野蛮人のように書いてるとか、実際は強大な国なのに意図的に弱小な国のように書いてるとか、そういう歪曲はないから。実際に、文化の進んだ強大な国であると書いてあるからこそ、宣長はこれは当時の大和朝廷のことだと判断したわけなのよ。こういうと「え?魏志倭人伝には倭国は野蛮人で弱小な島国のように書いてあるだろ」と反論する人もいるかもしれない。でもそれは、明治以来の、古代の日本は野蛮で弱小な未開社会だったにちがいないという、現代人の古代史イメージに合わせて、ネジ曲がった解釈をしてるのであって、魏志倭人伝の原文を素直に読んでないのです。
江戸時代の学者の方が明らかに現代人より漢文に精通してるんで、どっちが間違った読み方してるかなんて明白だろう。といっても、長年しみこんだ先入観からはいきなり納得もできないと思うので、今後、少しづつ解説してみようと思います。邪馬台国についてはブームが長くいろんな説が出たために論点が膨大になってしまっているので、いきなりドバっと全部やるってのは不可能ですので。
(続く)
プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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