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・氏姓(うじかばね)制度

H30年6月28日(木)改稿 H26年11月4日(火)初稿
「氏族名解説の内からかばねについて」と題されたコピー資料が手元にある。三浦佑之『口語訳古事記』からの抜粋コピーだなこりゃ。
急に話かわるけど、このコピー資料つくった人は、なんで三浦佑之の本からのコピーなんだろう。三浦佑之のファンなのかな? 三浦佑之についていうと、明治大学の講演ききに行ったことがあるんだが、胡散臭い団塊左翼かと思った。古代人に対して「低脳で哀れな未開人」という上からの視線で見下したような表現が言葉の端々にちょいちょい出てくるんだよ。岩波や朝日あたりの進歩的文化人かオマエは、とつっこみたくなるが、実際そっちの文化圏の人なんだよねw こういう御先祖様に敬意ないやつの論文なんてどうせ学匪まるだしな左翼論文だろうと思うから読まないw 彼は平成14年にいきなり『口語訳古事記』で売れ出したけど、ちらっと立ち読みしたが、なんじゃこの本はw 反天皇主義に満ちた左翼仕様じゃねぇかw まぁAmazonレビューでこのへんはちゃんと指摘してる人が何人かいるし、ネット時代の良いところだな。なぜバカ売れしたのかは、今となっては左翼出版界のゴリ押しだったとしか思えない。実は若い層はそんなに買ってないと思われる。この手の講演会ってマスコミの宣伝に弱そうな団塊世代とか爺婆しか来てないもん。三浦の訳は格別ひどい例だけど、三浦のみならず、基本的に口語訳でいいと思った本をみたことが無い。訳してる本人の解釈が強烈に反映されるので、本当に素の古伝承を受け伝えるのとは違っちゃうんだよね(比較的マシなのは角川文庫版の後半に付録でついてる口語訳。これは中立的な印象がある)。古事記を本当に知りたい人は三浦の駄本なんか買ってないで、もとい、口語訳で満足してちゃダメだと思うね。
(※この記事は未完、書きかけ中です)

臣(使主)



君(公)
カバネとしてのキミは「君」とも「公」とも書かれる。AD712年にできた『古事記』では古態を保存するため「君」のみで「公」は使わない。古くは「君」の字を使ったのである。
君姓(きみカバネ)の者でもAD684年の「八色の姓」の新制以降は「真人(まひと)」姓を与えられた者と与えられず「君」姓に留まった者に分かれた。AD720年の『日本書紀』では息長系氏族(応神天皇皇子稚渟毛二派王の子孫から別れでた諸氏族、及び同じくその皇子の子孫である継体天皇以降に別れでた諸氏族)については「公」を用い、仲哀天皇以前にわかれた氏族と、稚渟毛二派王以外の応神帝皇子から出た氏族には「君」を用いる(仁徳天皇から武烈天皇までの間に分かれでた氏族は安康天皇の子孫と称する孔王部首氏のみ)。『日本書紀』のこの使い分けは後に「真人」姓を与えられた者の先祖については新しく「公」の字で表記し、そうでもない者には旧来通り「君」の字を用いたものである。従って、「公」姓の氏族はすべて「真人」姓になっているわけだから、この段階ではリアルタイムで「公」の字で称したことのある氏族はかつて一度も存在したことがなく、実際には「真人」と「君」に分かれていた。
『続日本紀』によると天平寶字三年(AD759)十月に「天下の諸姓には君の字が著しい。公の字を以て換えよ」と命令が出て、ここで真人から漏れていた君姓の氏族はすべて「公」の字に統一されることになった。
そのはずであったがAD815年にできた『新撰姓氏録』をみると多くは「公」の字に改まっているものの、弱小な氏族ばかりではあるがまだいくつか「君」の字で書かれる氏族が残っている。ただし規則性がみつからず、使い分けがあったわけではなさそう。単なる誤記としてはやや数が多すぎるようにも思えるので、慣習的な表記に従っただけかと思われる。つまり公式には「公」の字で統一すべしとされたが、一部は旧式の表記のままであった。それはAD759年以降は本来は違法なはずであったが、放任・黙認され続け、AD815年の段階では事実上公認されてしまったとみる他ない。一部の氏族が旧来の表記に拘った理由は憶測やこじつけでよければいくつか考えられないこともないが基本的に不明であるというしかない。

別(和気)
「別」という言葉は白日別、豊日別というように『古事記』上巻の国生み島生みの神話に出てくる、土地そのものを神格化した神の名としてでてくる。つまりワケという言葉はなにか「土地に密着」した言葉だということはわかる。つまり「その土地に土着したものがワケ」なのであろう。が、地方にあまくだった連中はみんな土着したことにかわりないのでは? というツッコミもあろう。これは程度の問題なのであるが当然そこには線引きがある。地方に所領をえても必ずしも現地に定住するのでなく、本人は中央にいて代官を派遣してるだけということもあれば、現地と中央を往来している場合もあり、これらは土着とはいえない(初期の毛野氏などがこの例)。また現地の女性を嫁にとって継嗣の男子を産ませてるうちは、これも土着したとはいえない。よそ者に、あるいは新しくあまくだってくる新領主に、「この土地の女」として自家の娘を差し出せるようになって初めて土着したといえるわけだろう。ちなみに、ワケというカバネは選号でなく加号でもありうる。従って「君」であり同時に「別」だったりってことや、「臣」であり同時に「別」だったり、ってことや「直」であり同時に「別」だったり、ってことがありうる。たとえば倭建命の王子、建貝児王は「宮首之別」氏の祖とあるのを先代旧事本紀では「宮道君」とあり、また別の王子、足鏡別王が「鎌倉之別」「小津石代之別」「漁田之別」の3氏の祖とあるが、これが先代旧事本紀ではそれぞれ「竃口君」「尾津君」「揮田君」とあり、どれも「別」が「君」になってるが通説では同じ氏族の別名だと考えられている。これらの氏族は「君」でもあり「別」でもあった。



造(国造・伴造)


県主
稲置(稲寸)

村主

阿毘古(我孫)

宿禰(足尼)




カバネの歴史

最古層
君・臣・神・民

第二層
連・県主・村主・使主・神主・宮主・道主

第三層
首・史・伎・椋人

六色の姓:允恭朝

二姓の追加:雄略朝

八色の姓:天武朝

・氏姓制度の正定と木梨之軽太子の変

平成28年8月1日(火)更新 平成26年6月18日(水)初稿
允恭天皇
允恭天皇即位が遅滞した事情
『日本書紀』によると、反正天皇崩御後に、允恭天皇は即位を拒み、廷臣たちを困らせた。これは当時軽んじられていた皇位を重からしめんとする允恭天皇の深謀遠慮であった。天皇が軽んじられていたというのは重大な情況だが、これは履中・反正と在位の極端に短い天皇が2代続いたからというのも当然あるし、それ以外にも、このブログで何度もいってる仁徳皇統の正統性への疑義というのも当時の政治問題だった。むろんここで允恭帝がただ闇雲に即位を遅らせるだけでは皇位の権威が回復するというものでもない。まずは皇位の外に権威が移ってしまった、その権威を利用しつつ時をかせぎ、その期間のうちに允恭天皇がおのれ自身の知恵と力をみせて廷臣たちや世間を驚かせ尊敬を勝ち取る。つまり帝徳を発揮することでしか皇位それ自体を重からしめることはできないのだ(なんのことをいってるのかわかりにくいかもだがこのブログを読んでる人にはピンとくるはず)。
紀では、允恭天皇による空位は1年ほどにすぎないが、実はもっと長期であった可能性があり、本居宣長は紀の反正帝殯の記事のずれから即位固辞で生じた空位を5年間とみている。紀では年代を短縮するのに半分に割るという手法をとった痕跡が多々あるので、この5年は実は10年にも該当するだろう。紀の編年では允恭元年はAD412年に当たるが、実際の允恭朝はずっと時代が古いだろう。
さて、この頃、葛城系の権臣は、平群木菟宿禰(都久宿禰)は既に没していたか隠居モードに追い込まれていたか知らんがともかく勢いを失っており、その甥・玉田宿禰が権臣であった。履中・反正・允恭の三兄弟はいずれも母系が当時権勢を奮っていた葛城氏の系統(生母・磐之媛は玉田宿禰の伯母)であり、いわば主流派。允恭帝の他に皇位継承の候補として大草香王がいたがこの王は母系が「諸県の君」といい九州の大豪族ではあるが中央では弱小氏族といわないまでも、葛城氏のような大貴族に比べれば影響力、存在感、ともにかなり落ちる。ゆえに反主流派の貴族連合が推すところであった。ところが履中帝が生母と同じ葛城系から皇后(玉田宿禰の従姉妹)を立てたのに対し、水歯王(反正帝)は和邇氏、若子王(允恭帝)は息長系(皇族系)から妃を立てていて、それぞれの背後の勢力の相互関係は微妙であった。すなわち允恭帝は主流派でありながら、必ずしも専制権力を得られない情況にあった。それに初期の段階では貴族層からの人望もなかったと思われる。末子継承という伝統に反して、長子相続を実現するため、仁徳皇室ではことさらに長男の大兄王をほめあげ、末子の若子王をあまりよくはいわない風潮があった。それは宮内庁の広報プロデューサーが何も仕事しなかったとしても、日本人ってのは事実をみたり真実に従うやつは村八分、あれこれ忖度して空気をよむっていう本能に従う動物みたいな連中だからなw 実は末弟の若子王こそが知恵すぐれた「隠れた賢人」であることは皇族貴族のごく一部、帳内(とねり)、召し使い、取り巻きどものごく一部しか知らない事実であって、貴族層一般の認識では体が不自由な上に愚鈍で取り柄のない人物と目されていた。とはいっても当時の日本人と現代の団塊世代をごっちゃにするのはあまりに暴論w 建前に従ってるのは上級貴族や帰化人などの「葛城派」の一派だけで、インターネットじゃなかった語部(かたりべ)のネットワークを通じて庶民はみな実情を知っていたので、人望(=今風にいうなら支持率)は庶民層でみるとむしろ若子王の評判はそんなに酷いものではなかったのである。ちょうど朝日新聞の調査とインターネットでは与野党の支持率が真逆になるようなアレだよw とはいっても絶大な人気というほどでもない。これはちょうど保守系の政治家や評論家でもネトウヨから一回うさんくさいと思われてしまうと評判を取り戻すのがなかなか難しいっていう情況に似てる(かな?w)。結局、若子王もまた仁徳皇統に属する人なんで、允恭天皇が庶民の支持を得られるかどうかはその問題をどう解決するかにかかっていたのだ。

允恭天皇の政略結婚戦略
A)ここに「飯豊郎女=青海郎女」という人がいた。通説では(というか記紀の系譜では)履中帝の皇女であり、嫡流家の皇女であるとともに純然たる葛城系の皇族でもある(飯豊女王には履中天皇皇女の「青海郎女」と市辺押歯王の娘「忍海部女王」の二人いて別人)。允恭帝は葛城氏に近づくため、この飯豊王を皇后として即位するつもりだったと思われる(飯豊王の本拠「忍海」と允恭帝の本拠「朝津間」はともに葛城の域内で、朝津間とは後世の葛上郡内の浅妻で今の御所市大字朝妻。後世、忍海郡と葛上郡は隣接しているが、忍海が表玄関の位置なのに対し朝津間は葛城のより奥地)。しかし、葛城系が強くなることに難色を示す貴族連合とそれに推される妃・大中津姫(息長系=皇族系)の反対で、難渋しているうちに数年がすぎた。やがて紀にかかれた玉田宿禰の誅殺事件がおこる。玉田宿禰が驕慢な不敬行為から事態がこじれて討伐された事件だ。これで葛城氏が失脚してしまったために飯豊王との婚姻が不要になってしまったものと思われる。
B)ここに「中磯皇女=中蒂姫」という人がいた。通説では(というか書紀の系譜では)履中帝の皇女であり、嫡流家の皇女であるのみならず母の草香幡梭皇女(=若日下部王)は応神天皇の皇女であるとともに大日下王とは異父同母の兄妹。書紀によればこの中磯皇女は後に伯父にあたる大日下王の妃に召されたことになるがそれはまだずっと先の話で、この時はまだ未婚独身だった。允恭帝は葛城氏に対抗するためこの日向国造系の中磯皇女を皇后として即位するつもりだったと思われる(大日下王の一族が葛城系を抑止するために生み出された存在だという話はこのブログでたびたび言ってる通りなので今回は詳細は省略)。当然、葛城系からの猛反対と、嫉妬心をもやす大中津比賣の反対で、難渋しているうちに数年がすぎた。やがて紀にかかれた玉田宿禰の誅殺事件がおこる。玉田宿禰が驕慢な不敬行為から事態がこじれて討伐された事件だ。これで葛城氏が失脚してしまったために中蒂姫との婚姻で葛城を抑止する必要がなくなってしまった。そこで嫉妬深い大中津比賣はここぞとばかり中蒂姫を大日下王の妃としてくっつけてしまった。
C)上記のA,Bにでてくる「飯豊王」と「中蒂姫」は同一人物である。
(以下、省略部分はじまり)

(※後日シラフの時に書きます、疲れた)

(以上、省略部分おわり)
しかし葛城氏は玉田宿禰の子・葛城円大使主(都夫良意富美)が後を継ぎ、強大な氏族として存続し、挽回のチャンスを狙っていた。円大使主(円大臣)は儒教の信奉者であるから、主君を主君とも思わない父・玉田宿禰の態度を憎んでいたと思われ、父とは逆に、允恭天皇に忠誠を誓っており、それで葛城氏の地位の世襲も認められたものと思う。

「金波鎮漢紀武」の正しい解釈と読み
この人の名前、岩波文庫は「こむはちむかむきむ」、角川文庫は「こみばちにかにきむ」と読んでるけどデタラメな読み方だと思うんだよね。意味も、金が姓で武が名前、波鎮漢紀は波鎮と漢紀にわける説と4文字で一つにみる説とがあるが、いずれにしろ称号の類だという。これは二つにわけている解説のほうがデタラメ。だからって4文字で一つにみるのも間違ってる。
まずそもそも、この時代の朝鮮に「金」なんて中国式の姓はまだ無いのよ、新羅王家が初めて金氏を称したのは6世紀なんだから。冒頭の「金」ってのは何かっていうと「金官」の官の字が誤脱したかもしくは省略表記。「金官」ってのは「そなら」と読んで今の釜山のあたりになった国、任那の諸国の中の一つ。崇神天皇の末年に任那からやってきたきた蘇那曷叱知(そなかしち)の頭文字の「そな」と同じ。どうしても姓だというのなら、新羅人ではなくて中国人だろう。『三国志』に金奇とか金尚という人名がでてくる。金旋という武将も有名で、朝鮮半島とは無関係にもともと中国には金氏という姓がある。これなら読みはコンになる(コミとかコムと書いてるのは当時の日本にンの発音がなかったので日本訛り)。
波鎮漢紀は『日本書紀』や朝鮮の『三国史記』等にでてくる「波珍サン」(サンの字は冫に食、意味も発音も「餐」と同じ)のこと。サンってのはカンキ(干支、旱岐、干岐)の新羅訛り。新羅でも古くはサンと訛らずカンキまたはカンと書かれていた。ただし上代特殊仮名遣いで「紀」は乙類、「岐」は甲類だから波鎮漢紀が波珍干岐とでは、「当て字が違うだけで同じ語だ」とはいえない。称号としては波珍干という3文字の用例が多いのだからここも波鎮漢紀じゃなく「波鎮漢」までが称号(爵位)だろう。そうすると名前は「武」ではなく「紀武」となる。それと、書紀の古訓では「波珍」はハトリと読むことになってる。だから正しい読みは「そな(ら)・はとりかん・きむ」か「こん・はとりかん・きむ」。
ところで『三国史記』には波珍干を一名「海干」とも書くとある。現代韓国語で海のことをパダというのだが、ハトリってのはパダの古語だとすると「海」は意訳、「波珍」は音写ってことになる。波珍干は後世にはただのランキングを示すだけの官位の一つになったが、この頃はまだそうではなくて、具体的な役職だったんだろう。海の担当ってのはつまり海外との交渉で、「波珍干」というのは当時の外務大臣って意味と思われる。「金」がもしコンでなくソナラだったら任那出身ということになるが、日本と交渉するのに、任那出身者を登用するのはこれまたもっともな話ではなかろうか。
そして名前の「紀武」だが、この2文字だけでも中国人の名前のようにもみえる。紀氏という姓があり、『三国志』に紀元龍、紀亮、紀孚、紀瞻という人名が出てくる。他に紀陟(きちょく)は呉の政治家、紀霊は袁術の配下の武将で有名。もし金が中国の姓の金氏で個人名が紀武だとしたらこの人のフルネームは「金紀武」となるが、ちょっと不自然な名前じゃないか? 紀武がただの当て字でキムという任那語の人名の可能性もなくはない。その場合は任那人で新羅に帰化してたのかもしれないが、帰化したのならすでに新羅人なのだから頭に「金」(そなら)とつくのはへんだ。
この人は姓が紀氏で名が武、紀武という中国人で金官(そなら)=任那に帰化してたか、もしくはキムという名の任那人だった(当時の任那人には姓というものはまだ無かった)。が、たまたま外交使節として新羅にきていたのが、新羅王に頼まれて臨時の外務大臣として日本に派遣された。それでただの波珍干でなく「金波珍干」といったわけ。外国人を外国人のまま大臣に採用するのは「客卿」といって昔はどこの国でもあったこと。特に、新羅、百済、高句麗はどこも他国人が互いに入り込んでたし、日本も含めてこの四ヶ国には中国からの帰化人がいたし、『日本書紀』には百済王に仕えていた日本出身の日本人の閣僚や官僚が何人も出てくるし、『三国史記』には新羅に常駐していた「倭国大臣」という役職が出てくる。
ところで、この紀武という人は『三国志』にでてくる天才医師「華佗」の末流だろう。華佗には3人の弟子がいて、それから始まったそれぞれの流派が中国に広がっていた。で、この華佗という名は先生を意味するペルシア語“xwaday”の音写で、華佗の医術は麻酔を使った外科手術など西方の医術の特徴をもつ。なので華佗はペルシア人だったという説がある。その西方の医術は、ヘレニズム時代の東地中海で全盛を迎え、現代医学のような麻酔を使った複雑な外科手術もこなしていたという。それがペルシアを経由して極東に伝わっていたということだ。

氏姓制度の正定
(後日加筆予定)

允恭天皇の崩御
『古事記』は允恭帝の宝算78歳とするがこれは本居宣長のいうとおり治天下年数を誤って宝算とした誤伝であり、この年数は反正帝の崩御から起算されている。

木梨の軽の皇子の変
この変事は『日本書紀』だと安康天皇即位前紀に入ってる。『古事記』だと允恭天皇崩御の後、安康天皇即位の前にある。そこでは単に「天皇」というだけで允恭天皇をさしており安康天皇は穴穂命とよんでるから、一応、章立てとしては安康天皇即位前記ではなく允恭天皇崩御後記という分け方になるんだろう。だからこの記事もカテゴリーとしては「允恭天皇」としておく。

近親婚制と近親相姦
古代の日本では異母兄妹婚はOKだが同母兄妹の間では近親相姦とみなされタブーだった(以下「兄弟姉妹」を「兄妹」と略す)。このことは古代史マニアならずとも有名な話だが、時代による変遷があって一概なことはいえないのではないか。通説では「セとイモ」は「夫と妻」が原義であり、姉妹から見て兄弟を「セ」、兄弟からみて姉妹を「イモ」というのは後発の引伸義で、言語からはもともと古い時代には兄弟姉妹婚がデフォルトだったとみられている。同母であっても兄弟姉妹婚がタブーとはされない社会は、古代エジプトや古代ペルシア等が有名な他、世界の各地にたくさんあげられるので、古代日本でもタブーとはされていなかったことは容易に想像できる。
ではなぜ、いつから異母間では許され、同母間では禁じられるようになったのか。

日本における同母兄妹婚禁止の起源
それはおそらく儒教の影響で、仁徳天皇以降の新しい傾向と思う(詳細は応神天皇または仁徳天皇の関連別記事で)。ただ、一片の法律や命令で長年の習俗文化がそうそう簡単に変わるわけもないことはこれまた世界に例の多いこと。また馴染みのない外国の文化をもってこられたら反発も強い。そこで日本人の特異な神仏習合というか「足して二で割る」折衷方式をとった。つまり儒教原理主義ならば近親婚は一切ご法度なのだが、国粋伝統派に配慮して、片親が違っていれば兄弟姉妹でも可としたわけだ。これはうまくいったはずだ。なぜならもともとから同母間の兄妹は少なかったから。記紀には一つもない。なぜ同母兄妹婚が少ない(無い)のかというと、皇族貴族の結婚というのは多かれ少なかれ氏族と氏族の結合であり政略結婚的な面がある。妻の実家は、自分や自分と妻の子にとって強力な後ろ盾となる。皇位継承争い等も往々にしてそれぞれの皇子の母方の氏族の争いという面もある。ところが同母兄妹だと同じ一族だからこの新しい力を加えることができないし、そのような結婚から生じた一族は発展が望めず急速に凋落していく。いわば人材の無駄使いで、こういう即物的な理由で同母間の結婚が嫌われたのであって、何か宗教的なタブーだとか、優生学的な経験則が根拠になっていたわけではあるまい。むろん庶民はそんなことは気にしないので自由に同母兄妹でも結婚していたのだろうが、それが全結婚の半分以上だったのか、禁止されていなかっただけで極めて珍しいことだったのか、そういう比率はわからない。

当時は本当に近親相姦に該当したのか
さて『古事記』だと木梨の軽皇子が同母妹と愛しあってしまった事件は允恭天皇崩御と安康天皇即位の間に起こったことになっているが『日本書紀』だと允恭天皇在位中にことが露見したものの、梨の軽皇子は皇太子だから罰するわけにいかず、同母妹の衣通姫だけを伊予に島流しにしたことになってる。本居宣長はこのへんの経緯をことが露見したが允恭天皇の判断で罰せられずただ「宥めた」(≒訓戒注意した?)だけで済んでいたのを、允恭天皇崩御の後に、人々が穴穂皇子(=安康天皇)の支持に回ったのだと解釈している。
たしかに記紀の矛盾をもっとも当たり障りなく調整すればそういう解釈になるわけだが、恐れ多くも先帝陛下がお定めになられた皇太子殿下に対して、人々(少なくとも朝廷貴族の半分?)が刃向いたてまつるほどの重大なタブー犯罪だったのならば、「皇太子だから罰することができない(日本書紀)」とか「父帝が『宥めた』だけで済ました(宣長)」というのはおかしいのではないか? 当時はこのタブーが意識化されてまだ間もない頃で、人々はまだ「儒教の建前はそうだけど日本人は昔からやってきて今でも庶民はやってるし」ぐらいの軽い受け止め方だったと考えないと、宣長の想定する父帝允恭天皇の態度は解せない。
そうすると、木梨の軽皇子が責められた理由は近親相姦だったというのは穴穂皇子の側のプロパガンダ(政治宣伝)であって、本当は単なる皇位継承争いだったのだろうか。穴穂皇子の側についた人々も、単なる派閥のしがらみでそうなったにすぎず、「近親相姦してケシカラン」と本気で思っていたわけではなかろう。注目すべきことに、木梨の軽皇子の歌物語には、木梨の軽皇子と衣通姫のカップルを責める言葉が一つも出てこない。それどころかこの物語は『古事記』の中でも屈指の美しさとロマンチックなものでたいへんに力が入っており、物語を伝えた宮中の語部(かたりべ)その担い手は恐らく猿女(さるめ)とよばれる女性たちだが、彼らはこの二人を憐憫と同情をもって記憶していたことが確実で、これは『古事記』全編の中でも、謀叛人の扱いとしてはかなり異例なことである。穴穂皇子は人望で勝利したのではなく、後述するように巧みな軍略で勝利したのであって、いわば騙し討ちだった。それが語部たちにはしっかり伝えられていたという一つの傍証とはいえまいか。

兄弟対立の背景:兄妹間の心理面
兄妹間の欲情関係というのは心理学的には権威主義的な抑圧度の高い母親の下で起こりやすいという。実は允恭天皇の后妃は大中津姫一人しかおらず、従ってこの兄妹には異母兄妹がそもそも存在しない。后妃が複数いる場合、后妃間で比較されがちなので子育て競争となりやすく当然のように子女は愛情たっぷりに育てられる。が、后妃が一人しかいないのは多くの場合、嫉妬深い皇后が他の妃の存在を許さないからで、大中津姫も石之媛ほど極端ではないが、尻込みする旦那の背中を押して天皇に即位させたり、自分の妹をしぶしぶ二人目の妃として差し出したが天皇がその妹に会いに行くのもやめさせるというエピソードが『日本書紀』にでてくる。女傑ではあるが亭主を尻に敷いてもいて、子供には厳格な母親だろう。とくに夫である允恭天皇に差し出した妹と、娘の軽大郎女はともに「衣通姫」という別名をもっていることから、美人で名高くかつ外貌のよく似た叔母と姪だったと思われる。こういう娘が母親に虐待されることもひじょうによくある話であり、この場合兄弟との欲情関係が発生しやすいともされている。
むろん当時はこのようなことは格別にタブー侵犯だとはされなかったのだし、宮廷貴族の間ではこの兄妹にいくらかの同情は集まっていたろうし、父帝允恭天皇は大后の力で天皇になったものの晩年は政治についての考え方も相違して心が離れており(詳細は允恭天皇の記事を参照)大后の性格をいちばんよく知っていて、軽皇子を罰するどころか「おまえも苦労してるよなぁ」と(宣長の言葉を借りれば)『宥めた』わけだろう。
この兄妹は9人兄妹だが、大長谷王と二人の妹は幼少で齢が離れていたのがわかるので除くと、男4人女2人となる。年齢は「軽・長田・黒・穴穂・軽女・白」の順なので、一番近い兄と妹がくっつきやすいとすれば「軽と長田」「穴穂と軽女」のカップルとなり黒彦王と白彦王が余るのが順当ではある。が虐待されていた軽大郎女を守ろうとする心理は、兄妹たち全員のリーダーである長男、軽太子にはとくに強く、そこで軽太子と軽大郎女のカップルができたわけだが、軽大郎女の直近の兄である穴穂王も軽大郎女に懸想しており軽太子を密かにライバル視していた。また軽太子と軽郎女の関係に対しては、他の兄妹も表面上は太子に共感して支援しているわけで表立っての抵抗は心理的にできない。その分、長田大郎女に愛情が向かい、長田大郎女をめぐっては黒彦・穴穂・白彦の三人がライバル同士となる。この争いを回避するため長田大郎女は早めに大日下王に嫁いでしまったのだろう。
安康天皇暗殺後の態度からしてこの3人はもともと親密な仲とはいえない関係だった。姉妹2人のうち妹の軽大郎女(衣通姫)は軽太子とねんごろになっていて例の事件の中で心中。長田大郎女は後述のように(詳細は目弱王の変を参照)安康天皇(穴穂命)と後々すったもんだでねんごろになっていき、それで余った白彦王と黒彦王はしらけている状態になるわけだ(が、このことはまた後の話)。

兄弟対立の背景:儒教派と国粋派
軽太子と軽大郎女の兄弟愛は、父帝允恭天皇が「宥め」て済ましたために公許されたかにも見えたが、そもそも「宥め」なければならない事態になったのは、はじめ軽太子が軽郎女との関係を内密にしておりそれが「悪事の露見」という形でばれてしまったからだった。これは宮廷にこの事を「犯罪」とみる一派と、允恭天皇のように犯罪とはみない人々がいたことを意味する。大山守皇子の反乱以来、日本には開明派(儒教派・漢文派)と国粋派(土着派・語部派)の対立ないし「スレ違い・行き違い」がずっと伏流水のように潜在しており、いくつもの政変に関わっているのだが、允恭天皇は全体的にはやや国粋派よりの中間派だった(詳細は允恭天皇の記事)。しかし宣長説からみると兄弟婚については国粋派の見解に同意だったわけだ。だが、ここで開明派が「悪事」として告訴したことによって、軽太子をライバル視する穴穂王は軽太子を追い落とす大義名分を発見してしまったのである。この段階で穴穂王はまだ結婚している様子がないので、婚姻によって特定の氏族を後ろ盾にするということができないでいたと思われる。穴穂王にとっては開明派の貴族たちの支持をとりつけるということは初めて自分の勢力基盤を作り出すことでもあった。
この開明派の巨頭が葛城氏であって、この頃は葛城円大臣(都夫良意富美)がその氏上(うぢのかみ、氏族のトップ)だった。円大臣は允恭天皇に忠誠を誓っていたとはいえ、それは彼の儒教原理主義に従って主君の「地位」に忠義立てしていたまでのことであって、允恭天皇個人の人柄に結びついていたわけではない。だから、たとえ允恭天皇が指名した後継者であっても、兄妹婚という儒教倫理に反するような皇太子なら、別の皇子を擁立したいと考えたろう。
葛城円大臣の父は玉田宿禰だが、葛城氏は玉田宿禰と葦田宿禰の兄弟から二系にわかれ、葦田宿禰の家系は履中天皇とその皇子市辺押歯皇子の二代に渡って后妃を出して血縁関係にあったため、葛城氏全体としては市辺押歯皇子を天皇に擁立したいところだが、内部事情ではこの血縁は分家筋の葦田系のことで、本家筋の円大臣はまだ皇室との血縁を結ぶに成功していなかった。そこで、円大臣と穴穂王の協力関係ができたわけだ。允恭天皇の大后、大中津姫は息長系皇族の出身なので木梨軽太子も穴穂王も、本来ならば履中系に比べて葛城氏からは縁遠いわけだが、円大臣としては両方に保険をかけた形となる。が、年齢的に釣り合う娘がいなかったのか穴穂王との血縁には至っていない。安康天皇(穴穂命)はまだ皇子がいなかったからだろう、自分の後は市辺押歯皇子を天皇にと考えていたと『日本書紀』にある。

戦いの経緯:軽矢と穴穂矢
さて木梨軽太子と穴穂王の戦いは、木梨軽太子のほうが準備不足でいかにも不意をつかれた様子であり、これは允恭天皇の崩御をタイミングをあらかじめ狙っていた計画的なクーデターだったと断定できる。木梨軽太子は物部大前小前宿禰大臣の家に逃げた。大前宿禰は履中天皇の頃から仕える宿老級の大臣だがこの頃は引退してたかもしれない。だがここに逃げたといううのは、物部氏が軍事担当氏族でありその首領の家は城にも匹敵するものだったろうし、緊急の戦時にはまず選択肢にあがるというのが一つ、もう一つは物部氏が儒教派と対立する国粋派で、葛城氏と事前に共謀している可能性が低いとみたこともあるだろう。
この時、木梨軽太子は銅で矢を作り穴穂王は鉄で矢を作ったという。弓筈のことか鏃のことが矢の身の部分のことか諸説があるがまぁ鏃のことだろう。物部氏は兵器製造を司る氏族でもあるから矢を作るための設備もあったろう。本来は合金の青銅にするところそのような暇もなかったか素材の錫や鉛がなかったか、ともかく銅だけで急造したということらしい。鉄の鏃は甲冑への貫通力が高く最強だが、動物の骨や石で作った鏃も殺傷力はある。鉄に及ばないが青銅製の鏃も使える。しかしただの銅で刀を作っても岩にぶつければぐにゃっと曲がるように、銅製の鏃も弱そうだ。骨鏃や石鏃にも劣りそうな印象がある。もし利点を考えるとすれば骨や石や合金に比べると製造に手間がかからず、鉄ほど融点も高くないので短時間での量産ができるということと、「軽矢」という名の通り軽量で射程距離が非常に長かったのではないか。この抵抗はおそらく穴穂王の側からすると予想外の強力さで、対抗策として鉄の矢をこちらも急造した。これは葛城氏という日本最大の富を誇る財閥氏族が財力に物を言わせて物部の城を屈服させたというわけ。しかし「穴穂矢」という名称は後世なくなってしまったため、現代人からすると「とってつけの名」という印象があるが、軽矢と穴穂矢がどちらも一定の年月日本国内で併用され続けていた期間があったことになる。
この戦いは『日本書紀』の編年から判断すると長くても一ヶ月以内で終了している。

戦いの結末
大前宿禰はとにもかくにも一度は軽太子を匿って穴穂王と刃を交えたにもかかわらず、途中で態度をかえ、軽太子の身柄を穴穂王に差し出した。これによって物部氏が打撃を被ったとか処罰されたとかいう様子はないから、降伏というより和解に近い。そもそも天皇不在の特殊な状況で、誰も謀叛人ではないという合意がなされたものと思われる。木梨軽皇子の処断も交渉の途中では皇位継承権を失うだけで処罰はない可能性も残されたろうし、実際にも死刑ではなく島流しに収まったことからも、謀叛や反乱の首謀者=叛賊だとレッテル張りをすることは当時の空気として難しかったろう。世間は必ずしも穴穂王と葛城氏の連合体に対して正義の側だとはみなしておらず、むしろ安康天皇が人望を失った原因になったとすら考えられるのだ。

・「氏姓制度」はいつできたのか?

H28・12・25(日)改稿 H28年12月14日(水)初稿
「言い方」のややこしさ
専門用語ってなぁ、ややこしいもんでね。「氏姓」は「うぢ・かばね」と読んでも「しせい」と読んでもいいことになってる。意味も同じ。ところが「姓氏」と書いた場合には読みは「せいし」か「うぢ」であって、「かばね・うぢ」とは読まない。なぜかというとカバネってのは日本独自のものでこれを表わす漢字は無いので、「姓」の字でカバネを表わすのは当て字みたいなもんなわけだ。本当なら「加婆禰」と書くしかない。「骨」と書いてカバネと読ますのもあって、姓の字よりはマシと思うんだがそれでも当て字には変わりない。中国の「姓」も「氏」も日本でいえばウヂに該当し、中国では併称して「姓氏」というのであって、「氏姓」と逆に書くのはウヂ・カバネを表わす時の日本人の書き方。あえて区別すると春秋戦国の頃の中国の姓は源氏、平氏とかの「源」「平」で、氏は「北条」「徳川」みたいな苗字のようなものだったが、奈良時代にはまだ苗字はないので当時の日本人は姓も氏も区別なく「うぢ」のことだと受け取った。だから古事記の序文にも「は稗田、名は阿礼」とあるのを「ウヂはヒエダ、ナはアレ」と訓んでますわな。そんな長々しい前置きはいいんだけども、この日にでた質問で、「氏姓制」ってのはいつできたんだっていうのがあった。まぁすったもんだ議論あってオチとしては大昔からもともとあったもんで、いつからともなく自然に出来たんであって、「この時できた」とはいえないという話だったんだが、そういう「オチ」にもっていったのにも私は加担してたんで、この説明を否定しているわけではない。だから「それはいいいんだけども」と言明している通り。そうなんだが、詳しくいうと、もうちょっと詳しい言い方もあるんだな。その場ではタイムスケジュール的に時間を割けないから簡単にいうしかないってこともある。で、さっきの前置きなんだが「大昔からある、もとからある」ってのはウヂとカバネのことなわけよ。ウヂ(氏)とカバネ(骨)ってのはもともと別なもので、その別なものを組み合わせるから新しい制度ができるわけよ。だから「ウヂ・カバネ」と「ウヂ=カバネ制度」ってのは次元の違うものなんだ。

「氏姓制」ができたのはいつか
通説では「ウヂ=カバネ制」は雄略天皇の時にできたという。なぜそれがわかるのかというと、書紀では「◯◯の臣、■■」とか「××の連、△△」というお定まりの人名の称え方が雄略天皇から始まってる。それ以前は、「◯◯の臣の祖、■■」とか「××の連の祖、△△」という言い方になっている。つまり「大伴連氏」だの「葛城臣氏」だのというカバネとウヂが定式的に結合したのは雄略天皇からで、それ以前は「大伴連の祖」「葛城臣の祖」ではあっても「大伴連」「葛城臣」そのものではないって理屈だ。しかし実際に日本書紀の文面を調べてみると、清寧天皇以降でも「~の祖」という言い方はちょいちょい出てくるし、安康天皇以前では「~の祖」がつかない例はたくさんある。学界では倭王武が雄略天皇だという仮説を前提として、大抵のことはなんでもかんでも雄略天皇の頃に始まったといっておけば無難で穏当だという安直な発想がはびこってるのではないか。雄略天皇の頃に「ウヂ=カバネ制」が「ほぼ」完成したという言い方はありだろうが、雄略天皇と允恭天皇は一代しか違わないのだから、記紀を信じて允恭天皇の氏姓の正定をもって「ウヂ=カバネ制」ができたと称してなんの問題もないような気がする。で、允恭天皇がウヂ&カバネを正しく定めたという以上、ウヂやカバネはもっと前からあったのだ。江戸時代の国学者の説では、允恭天皇は単に祖先を偽ったり系譜を捏造したりした連中を暴いたのではない。「正して定める」とは、新しい秩序を創出したのであって、これまでも格式の上下はあったものの、かなり漠然としていたカバネの順位を「君(きみ)>臣(おみ)>連(むらじ)>直(あたへ)>造(みやつこ)>首(おびと)」の6段階として整頓したものだ。雄略天皇はこれにさらに帰化人枠として「史(ふひと)」と「伎(てひと)」を加えたがこれは首と同格のレベルかと思われる。最近では鎌倉幕府ができたのはいつなのかっていう議論があったのと似たような話だが、どの段階でできたというのは、視点の置き所が「最終的な完成」なのか「実質が伴った時」なのか「もはや動かせない未来が決定づけられた最初の契機」なのかによって話がかわってくる。客観的にいえば、「段階的にできてきた」のである。仮に「ウヂ=カバネ制」が最終的に完成したのが雄略天皇の時だとするならば、その前段階として允恭天皇のウヂ&カバネの正定があって、それを踏まえての雄略天皇だった、と。(繰り返しになるが個人的な意見としては雄略天皇ではなく、允恭天皇の時に完成したといってもかまわないと思う)。

カバネ形成の諸段階
カバネの類をやたらに並べてみると、極めて雑多であり無秩序な印象となる。このことからアホな学者は氏姓制ってのは整ったものでなく、かなり後世になって(5世紀、人によっては6世紀)大雑把な仕組みとして作ったかのようにいうが、真相はまったく逆だろう。雑多な感じがするのは歴史が長いからなのである。幾度も変革を重ねてきてその度に古いものの名残りが下(周辺)に残り新しいものが上(中心)に追加される。だから逆にいうと、原初の段階では複雑なのではなくむしろシンプルでわかりやすいものだったはずである。従って、カバネを考察するには最古層・古層・中層・表層(新層)をわけてみないといけない。しかもカバネ自体が自然発生的なものなのだから、これらのうち現時点で「いわゆるカバネ」とされているもの(=複雑で雑多とされているもの)は表層(新層)でしかない。
【1】原初の段階では、カミ(神)・キミ(君)・オミ(臣)・タミ(民)という概念がありこれがカバネの最古層をなす。きわめてシンプルだ。ただしこの段階ではカバネという総称はまだない。
【2】次の古層には宮主(みやぬし)・道主(みちぬし)・国主(くにぬし)・県主(あがたぬし)・邑主(むらぬし)・郷主(さとぬし)・戸主(とぬし)というものがあったと推定する。これらもシンプルでわかりやすいが、まだカバネとはいわない。宮主・道主・国主などは例えば「丹波道主命」とか「宮主矢河江姫」とか古代人の人名の一部や称号として痕跡がみられる。邑主(むらぬし)はつまり連(むらじ)として後にカバネとなった。県主は大和朝廷の職制の一部となった。また律令時代の里長・里正・郷司・郷主・郷令・郷長などは「さとおさ」と訓まれるが、古くはサトジだったのではないか。『ウエツフミ』にはサトジといい、これはサトヌシが訛ったんだろう。また古代では女性への敬称として「刀自(とじ)」という言葉がよくでてくる。これは戸主(とぬし)の訛りで家長(=主婦)の意味。漢語の主婦というのも雑用係という意味ではなく「主人たる婦人」の意味であり、「主人」の女性形。刀自のジを高倉下(たかくらじ)のジと関係付けて、ヌシ(主)とは別系統の言葉のように考える説もあるが不可。高倉下も本来は高倉主だろう。ホツマ信者には何いっても無駄だが。
【3】次に、命(みこと)や和気(わけ)や足尼(すくね)があり、これが中層。これらは学者によっては「原初的カバネ」ともいい、「いわゆるカバネ制」におけるカバネではないが、原始的な称号とか敬称のようなもの、という。
【4】比較的新しいのが「~ヒト」系で、これについては後述する。
学者は、カバネであるかないかの判断基準を「氏姓制」の一部をなすかどうかに置いてるのだが、それは後世からみた視点であって、カバネの本義に基いていない。上述したが本来、ウヂとカバネは別々の概念であり最初から一体のように思うのはよろしくない。どこからカバネになったのか、という問題は、なぜカバネというのかという問題にかかわっている。カバネの語源には「屍」説、「株根」説、「不易(かはらね)」説、「皮骨」説などいろいろな説があるが当を得たものがない。これはカラボネ(体骨)の訛りだろう。カラダ(身体)というのは社会的・文化的に付与された属性という意味ではなく、生物学的・医学的・物理的な身体のことである。「骨肉の争い」という言葉があるが、骨というのは父系の血筋、肉というのは母系の血筋をいい、これはインド発祥の考え方で中国に入り、中国で一般的な考え方となっていた。さて、ここからは2段階にわかれた別の話がある。実系の血筋を根拠にする文化では、なにか観念的に思弁で構想された理屈に根拠を置いたのでは権威をもたない。カバネ=体骨(からぼね)とは直訳すると「父系の(養子を介在しない実系の)血筋」のことになる。現代人にわかりやすく超訳すれば「おまえのY染色体は何だ?」ってことだ。祖先が何者かという観点では、後世の『新撰姓氏録』にあるように第一に皇別・神別・諸蕃の3大区別が重要であり、第二に皇別の中では天皇から分かれて何世代たっているのかという血縁「距離」が問題となる。従って、カバネという名辞ができたのは、この「皇別・神別・諸蕃の3大区別」が政治問題・社会問題として意識されてきてからであり、允恭天皇よりはだいぶ前のことだろう。允恭天皇の時にはすでに「天皇から分かれて何世代たっているのか」が問題になっていた段階だからだ。なぜそんなことがいえるのかというと、上述のように江戸時代の国学者以来、允恭天皇はカバネを6段階にランキングしたと推測されているのだが、このランキングの上位のあたりでは明らかに天皇との血縁距離が基準になっているからだ。従って、現代の歴史学者の歴史観とは齟齬するが、允恭天皇の段階ではすでにカバネの語源・本義から離れて、カバネがなんというか「一種の爵位みたいなもの」に転化しつつあったのである。
【4】ではカバネという名辞ができた段階=「皇別・神別・諸蕃の3大区別」が問題として意識された段階とはいつのことだろうか? それはいうまでもなく仁徳天皇だろう。このブログでは再三いってることだが、仁徳天皇は儒教の理想をかかげ、儒教的封建社会をめざした。儒教派にとってはそれが文明開化だったのである。しかし儒教の人徳主義と、土着の血統主義は、原理的に衝突するのであって相容れない。だから土着派(=固有文化保守派=国粋派)は儒教派との抗争(論争)の必要に迫られてカバネという概念に到達したのである。記紀の文面からはそういうことはなかなか読み取れないが、歴史的には漢字文化派(儒教派)が勝利して土着派は消えていったので文字資料に残らなかっただけで、ロジカルに推定はできる。以上まとめると、仁徳天皇の頃にカバネという名辞と概念がむすびついた(と推測)。この段階では「皇別・神別・諸蕃」の区別が政治問題・社会問題として意識された。
【5】皇族は古事記では「~~王」と書かれ、これは「~~のミコ」と読まれ勝ちだが、岩波の日本思想大系本では「~~のオホギミ」と訓んでいる。そして臣(おみ)のカバネをもった氏族は皇別氏族である。つまりキミとオミの区別は、天皇から枝分かれして近いか遠いかという問題に帰結する。この遠近はあくまで父系でのことである。日本では母系の影響力が強く、家族(うから)・徒輩(やから)・同胞(はらから)等の「カラ」は母系のつながりが本義で、財産なども女系で継承された。これに対してウヂ(氏)は父系のつながりをいったが、母系継承の影響力が強大なために往々にして身分の低い者については父系の血筋は軽視あるいは無視され、父系という観点からすると血縁を無視した疑似血縁集団になりがちだった。これが父系母系の両方を軽視あるいは無視するようになって完全な疑似血縁集団になったのが中近世の「家」制度である。允恭天皇が「祖先を偽る者を正した」のであるが、その場合の先祖とは父系の先祖であって母系の先祖のことではない。そして父系の先祖を明らかにするだけでは意味がない。それぞれの氏族の祖先を確定した次には、それに基いてランキングしなければ、社会秩序を再建することにならない。允恭天皇の課題は、否応なしに強大な力を発揮してあれこれに介入してくるヨコのつながり(母系)ではなく、それを掣肘するものとしてのタテの序列(父系)を問題にしている(歴史的な背景としては允恭天皇と、外戚として権勢を振るう葛城氏との微妙な関係があるのはいうまでもない)。以上、まとめると允恭天皇の改革によって、6段階のランキングができて、カバネは本義からずれて「爵位」のような側面を帯びるようになった。この段階では皇別の中で天皇から遠いか近いかが問題とされる。近い者は君(きみ)、遠い者は臣(おみ)のカバネが授けられた。

「氏姓制」の完成
允恭天皇より前の段階ではまだ「制度」として未完成だったのである。なにがちがうのかというと、允恭天皇はウヂとカバネを「それぞれ」正定したのであって、ウヂとカバネは本来は別の概念だったわけだが、允恭天皇の改革によって、ウヂとカバネが連動して貴族社会が一つの秩序に編成された。

なぜ「6階級」なのか
ちなみになぜ6段階なのかというと、二つの理由が考えられる。一つは聖徳太子の冠位十二階が、六階を「大/小」でわけたものだからこれも6段階に回収できる。これが5階でもなく6階なのは中国の官品制に対応するためというのが宮崎市定の説で、允恭天皇のカバネ制が6階なのも同じ理由だろう。もう一つの説としては、騎馬民族の十進法と関係あるかも知れない。例えば匈奴の場合、皇帝である「単于」の下に、一万騎を率いる首長が24人いてこれを「万騎」とか「二十四長」と称した。ここまでは十進法ではないが、万騎を率いる二十四長の下は「仟長」(千人長)、「佰長」(百人長)、「什長」(十人長)がいるというふうに十進法で編成されていた。
(※書きかけ中)

「氏姓制」の変質と崩壊、天武天皇の「八色の姓」

現代にも現存するカバネ的な発想、その利点と弊害、カバネ制の復活と文明の再生
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浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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