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☆埴輪(はにわ)の日

(※書きかけ中)
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・円野比賣はブスではなかった?

H30年4月24日(火)改稿 H24年12月19日(水)初稿
円野比賣の物語の不可解
ブスだから追い返したってのは酷い話に思えるが、今でも親が勝手に結婚相手をきめるイランでは、結婚当日に新郎新婦が初対面なので、面食い同士だといろんな悲喜劇が起こるそうだ。丹波という遠方からくる妃候補で当時は写真もなかったろうが、ブスお断りなら事前に情報リサーチも出来たろうし、似顔絵を提出させることも出来たろうし、似顔絵じゃなくても天皇が顔にこだわってるとなれば事前調査官が盛った報告するはずもない。この話の真相は、そんなへんな話だったのだろうか、推理してみよう。
まず記紀で姫たちの名前が姉妹の順がちがってる、同じ古事記の中でも何ヶ所か違ってる。これはなぜなのか。一見どうでもいいような小さな記述の「食い違い」に、重大な謎解きのヒントが隠されてることが多いのだ。

A,開化記の系譜では3姉妹でこの3人は同母姉妹

比婆須比賣(ひばすひめ)、眞砥野比賣(まとぬひめ)、弟比賣(おとひめ)

 B,古事記の后妃皇子女の記事ではこの順で3姉妹だけ

氷羽州比賣(ひばすひめ)、沼羽田之入毘賣(ぬばたのいりひめ)、阿邪美能伊理毘賣

 C,古事記の沙本毘賣(さほひめ)の推薦の言葉では2人だけ

兄比賣(えひめ)、弟比賣

 D,紀の狭穂媛(さほひめ)の推薦の言葉では名前は明示されず5人という人数が明示されている

(※5人の名前の明示なし)

 E,古事記の物語ではこの順で4人

比婆須比賣、弟比賣、歌凝比賣(うたごりひめ)、圓野比賣(まとぬひめ)

 F,書紀の物語ではこの順で5人

日葉酢媛、渟葉田瓊入媛(ぬばたにりひめ)、真砥野媛、薊瓊入媛(あざみにりひめ)、竹野媛

上記のうちAは理解しやすい。この3人は丹波之河上之摩須郎女(たにはのかはかみのますのいらつめ)という立派な地方豪族の娘を母として生まれた同母姉妹で、その他は異母姉妹ということだろう。異母姉妹のほうが書かれてないのは単なる書き漏らしで系譜記事ではよくあること。Bの3人は皇子皇女を生んだ人だけの名があがり、子供を産まなかった人は略されてると思われる。これも系譜記事ではよくあること(ただし法則のようにきっちり決まってるわけではなく子のない人も書かれていることもある)。Cが重要で、もともとサホヒメは4人とか5人を推薦してはおらず、最初から2人しか推薦していなかったことがわかる。Dは書紀の編者が物語の全体をみて人数を訂正したつもりなんだろう。AとEでは姫の順番が違っているがEは原文よめばわかるが残された2人と返された2人にわけてるために順番がおかしくなってるので、Eは姉妹順ではない。長幼の順はAが正しいと思われる。姫たちのうち、日羽州姫、沼羽田媛、薊媛は子供がいるから死んだ人もいれて最低でも4人いるのは確実。古事記では竹野媛はでてこず死んだのは円野媛。書紀では死んだのは竹野媛で円野媛は返されていないのだが、子供がいなかったことになっている。おそらく円野媛と竹野媛は同一人物の別名で、書紀は誤って別人と思ったために、円野媛を妃にしたが本当は死んでるんだから子供がいないのは当然ということになる。あるいは追い返したことを悔やんで、死後ではあるが改めて妃としたというようなことがあって、記録上は子供のいない妃として書かれた資料があったのかもしれない。古事記では2人追い返したことになってるのに書紀では1人になってるのは、歌凝媛まで自殺したらたいへんだというので急遽呼び戻してめでたく妃になれたものと思う。2人が追い返されたにもかかわらず円野媛のセリフでは「同じ兄弟のうち」といってる。「兄弟」は「えと」ではなく「はらから」と読んで同母姉妹をいってると思われ、「日羽州姫と弟媛が残されたのに自分だけが」、という意味にとれる。さすれば、一緒に返されたという歌凝媛は異母姉妹となる。同母三姉妹のうち兄姫と弟媛は普通に考えれば長姉と末妹だから、円野媛(=竹野媛)は中津媛という別名ももっていたと思われ、日羽州姫と兄姫が同一人物なのも確実。問題は歌凝媛だけ異母姉妹なので年齢順でどこに入るのかわかりにくい。沼羽田媛(姉)と薊媛(妹)の順番は動かず、このどちらかが歌凝媛でもう一人が弟媛のはず。Eの4人姉妹の配列は弟媛より歌凝媛が妹のようにみえるが前述のとおり真ん中で切れて2人づつ並べたものだから、歌凝媛は円野媛より姉だと思われる。Fの5人配列のうち、3人同母姉妹の真ん中のはずの竹野媛(=円野媛)が末妹になることはありえないから最後の竹野媛の名は無意味な追記で、そうするとFの薊媛が円野媛からみて妹だから弟媛と同一人物であり、歌凝媛が沼羽田媛と同一人物だろうと推定できる。

四姉妹の確定  ※次姉ヌバタノイリヒメ除く3人の母は丹波之河上之摩須郎女(貴人)


長姉・ヒバスヒメ(霊蓮姫)     通称/エヒメ(兄姫)

次姉・ヌバタノイリヒメ(夜干玉入媛) 通称/ウタゴリヒメ(唱凝媛)←※この人だけ異母姉妹

仲妹・タカヌヒメ?(竹野媛?) 通称/タケルヒメ?(猛媛?) のちの改名/マトヌヒメ(円野媛)

末妹・アザミノイリヒメ(薊入媛)   通称/オトヒメ(弟媛)

この姉妹はすべて花の名がついており、これが幼児期からの本名と思う。日羽州はヒバの木もあるがヒは霊妙なという意味の接頭辞でハスの花からとった名と思う。竹野媛は竹の花、滅多に咲かないが、マトノ・マトヌのほうは植物が思いつかないので竹野媛が本名と思う。薊媛はアザミ。沼羽田媛(歌凝媛)のヌバタはヒオウギの種子をヌバタマというのでそれか、ヒオウギの花も念頭に置かれてるのだろう。同母3姉妹の通称としては「兄姫、中媛、弟媛」だったと予想できる。
なお、古事記が竹野媛の名を消してる理由だが、開化天皇の妃にも竹野比賣がおり、この人も晩年は丹波(後の令制でいうと丹後だが)に帰ったという地方伝承があるらしい。この人の話と混同してるわけではない、というのが古事記の主張かとも思えるが、そうではなくて、古事記は悲劇の死者を笑いものにすることを憚って、あえて本名の竹野媛とは呼ばなかったのではないかと思う。書紀では一貫して竹野媛であり、円野媛は別人で妃に無事なれたことになってる。あるいは書紀は丹波に帰ったという開化天皇妃の竹野媛と混同してるのかもしれない(ここらの矛盾の解決については後述)。名前が同じだから同一人物とは限らず、名前が違うから別人だとも限らないが、別人の場合、記紀は極力表記を変えたりして混同しないようにしているように思える。古代の皇族貴族の名前は特徴的なのが多いし、皇族貴族なら別名も多いから、そっくり同じ名の場合は同一人物である可能性が高いだろう。ただし竹野媛は地方豪族の娘でしかも安直でありふれてそうな名前だから同名異人がいてもおかしくない上、開化天皇妃のほうとは時代も違うのでなおさら問題ない。

お話の復元
丹波道主命(=旦波比古多々須美知宇斯王)の4人の娘は同母から生まれた兄姫(日羽州姫)・仲媛(竹野媛)・弟媛(薊媛)と、別の母から生まれた歌凝姫(沼羽田姫)がいた。が、もともとサホヒメが推薦したのは5人でも4人でも3人でもなく古事記によれば最初から兄姫(日羽州姫)・弟媛(薊媛)の2人だけだった。従って、丹波から召し出したのも最初からこの2人だけだったはず。彼女らの父の丹波道主命も、頼まれもしないのにむりやり娘4人を押し出したとは思われない。おそらく他の2人の姉妹、歌凝媛と竹野媛はダメ元で立候補しただけなのではないか。丹波側とすれば「聞くところによれば故皇后様のご指名は『兄姫・弟媛』だったとのことでござる」としか情報ないわけで(都の朝廷の認識でも「文言としては」まったく同じ)、これは考えようによっては解釈の幅ができる。つまり「兄姫・弟媛」というのはニックネームみたいなもので本名ではないから(本名なら日羽州姫・薊媛)、「姉妹のうちで齢上のものと齢下」という普通名詞として受け取ることもできる。そしたら日羽州姫と竹野媛の組み合わせでも「兄姫・弟媛」だし、竹野媛と薊媛の組み合わせでも「兄媛・弟媛」だし、なんなら異母姉妹だけれども沼羽田媛と竹野媛でも「兄媛・弟姫」といっていえないこともない。ここは一つ、4人で都へ上がって確認して頂いたほうが間違いがないのではございませぬか、お父上? と、竹野媛に言われれば「まぁそれもそうかな」となってしまう親ごころw 丹波道主命も、天皇にむりやり4人押し付けるというのはありえない話で、普通に考えれば、この4人のうち2人と限らず、もし気に入った娘がいれば3人でも4人でも、また逆にお気に召さなかったら2人といわず、0人でも1人でもかまわないという主旨だろう。さて一方、この時の垂仁天皇とすれば前皇后サホヒメの遺言大事と思ってる段階なので、遺言通りに実行しようとしてるのに、4人も来てしまった。遺言になかった2人は、命令もしてないのに勝手に上京してきた娘たちであって何かの手違いだろうから追い返すのは当然であり、残酷な措置でもなんでもないし、この2人も格別ブスだったわけでもあるまい。サホヒメは推薦の理由に「浄き公民」(記)、「志ならびに貞潔(いさぎよし)」(紀)とあり、性格や人徳を問題にしているのであって「美貌」はあげていないのだ。なぜサホヒメが兄姫(日羽州姫)・弟媛(薊媛)を推薦したのに竹野媛を推薦からハズしているのか訳を考えると、竹野媛は性格に問題があったからとしか考えられない。追い返された後も、「ブスだから追い返されたと世間は思うだろう」というわけで恥じてるが、実際に世間がどう思うかは以上の経緯からすると、「呼ばれてないのに押しかけたから追い返された」のであって「ブスだから」とは思わないはずであり、せいぜいのところ「性格がおかしいから」だろう。「ブスだから〜と世間が〜」というのは、「美醜だけが人間の価値」という本人の信念を投影した妄想にすぎない。アイドルになれなかったから僻んでる中2病とかメンヘラ女子みたいなものではないだろうか。そもそも本当に竹野媛の主張が一般的に通用する妥当な事実なら、なぜ歌凝媛は自殺しないのか。おそらくブスだったのは竹野媛でなく歌凝媛なのではないか。竹野媛の考えではブスは元からブスなのだから、ブスだと思われるのは改めてのことではなく元々で、そんなことでは死ぬ理由にはならない。が、美女がブス認定されるのは死ぬに値する恥なわけだろう。竹野媛はブスどころか姉や妹にもまさる絶世の美女だった可能性がひじょうに高いと思う。自分の美貌を使いこなせず持て余してメンヘラになるってのは今の世の中でもよくあることじゃないか。ここで歌凝媛のキャラを考えるに、「うたふ」には訴える、主張する、唱導する、説明する等の意味があり、「こる」には精巧を極める等の意味があるから、「うたごりひめ」は言葉が巧みで、竹野媛が誰かとトラブったりした時に取りなしたり、興奮した竹野媛をなだめるのがウマかったのではないかと思う(歌凝媛はニックネームで本名は「沼羽田媛」)。察するところ歌凝媛は温厚な性格でいつも竹野媛に巻き込まれてるタイプだったのがいつの間にか問題児である竹野媛の「おもり役」になってしまい、そのうち何をやりだすかわからない竹野媛の監視役として重宝がられてたのではないかと思う。さらにいえば、3姉妹の母は古事記に名のあがる地方豪族なのに対し、歌凝媛の母は身分の卑しい婢女だったのかもしれない。それで幼少期を推測すると、姉妹から爪弾きにされた竹野媛が、上から目線で歌凝媛にくっつくようになり、歌凝媛も初めはしかたなくつきあっていたのかも知れない。ともかく、歌凝媛が、上京する竹野媛についていったのも竹野媛から「強引に誘われ、つきあわされた」のと同時にその反面では自分から「心配でついていった」という面もあるんだろう。それとは別に朝廷では竹野媛の自殺にショックを受け、あわてて歌凝媛のほうはまだ生きているうちに呼び戻したところ、歌凝媛も立派な人物であることがわかったので、この人も妃に取り立てられることになった。この人物は3姉妹とは異母姉妹なので、サホヒメとの交流がなく、それでサホヒメのアンテナにかかってなかったものと思う。竹野媛も死後ではあるが改めて妃とされた。その際竹野媛のままでは縁起が悪いので「円野媛」と改名されたんだろう。竹野媛も歌凝媛と同じくニックネームだと思われ。本名は不明だが前述の通り通称は「仲津媛」か「仲媛」だろう。丹波の「竹野」という地名に関係付ける説もあるが、そうではなく「猛々しい性格の媛」という渾名で、死後の「円野媛」は「あの世では円満な性格になってほしい」という願いが込められているのではないかと想像する。どっとはらい

真相
記紀の記述はおそらく「心醜き云々」の「心」の字が抜け落ちた原資料があってそれでブスの話だと勘違いしたか、あるいは『古事記』にはよくあることだが、語部(かたりべ、たいていは女性)が女性の視点で話をおもしろく作ってしまったのだろう。最初のうちは、円野媛を笑いものにする構成だったのが、途中から語部の活動として上演されることがなくなり、舞台の台本から歴史読み物に改編されるに従って、演出意図が忘れられ、悲劇だか喜劇だかわからなくなってしまったものと思う。
弟国(おとくに)は兄国(えくに)の対語で、弟国が後に乙訓郡となり、兄国が葛野郡になった。同じような兄国と弟国の対は伊勢国にもあり、各地にあったようだ。人口が増えて張り出した部分が大きくなって独立すると元の領域が「兄」で新地は「弟」というわけ。だから姫が落ちたから「落ち国」なんてのは典型的な「地名起源譚」つまりコジツケであり事実ではない。ただし、乙訓郡には「羽束師」(はつかし)という地名が残っており、延喜式内社があるほど古い地名なので、あるいは、竹野媛がここを通りかかった時に「恥づかし」という言葉を連想して死にたくなったってことはあったのかもしれない。

出雲と丹波の古代史
そんなことよりも、サホヒメが推薦した2人の妃が「丹波道主命」の娘だったというのが実は重要なことで、別なところで詳しく書くが、先代の崇神天皇が四道将軍を派遣して北陸・東海・山陽は問題なく統治したが、山陰だけは丹波一国に留まっていた。それは丹波に通じる要路を塞ぐ武埴安彦王と丹波の兇賊玖賀耳之御笠との反乱があったためで、この二者がつながっていたのは当然としても、その背後の出雲もまたこの反乱に一枚噛んでいた、つまり三者はつながっていたと見ねばならぬ。出雲はしばらくは何食わぬ顔で反乱とは無関係を装っていたが、ついに発覚して四道将軍のうちの2人、吉備津彦と武渟名河別が派遣されて当時の出雲の首長「出雲振根」が成敗されてしまった。振根の後継として「鵜濡渟」(うかづくぬ)を命じたが、この時に山陰道の総督としての地位を失い、丹波国が出雲にかわって山陰道の総督府(のようなもの)になったと思われる。四道将軍として丹波を担当した日子坐命は大和と各地を移動して活躍した痕跡がみられるがそれだけでなく国内治安の根本は外国からの難民問題にあるので、朝鮮半島への進出を考えており、多忙を極めていたので、山陰総督の地位は息子の丹波道主がついた。丹波道というのは出雲道を改名したもので現代語でいう山陰道のことだろう。道主は国主とか県主とかいうのと同じで山陰道の道主(国造本紀では石見国造も崇神朝に設置されたというから、大出雲はこの時、現在の出雲と石見に分割されたのだろう)。しかし垂仁天皇の代になって反乱を起こしたサホヒコ・サホヒメは日子坐命の息子・娘で、当然日子坐王の一族の地位の低下は防げず、丹波道主命の出雲への圧力も弱まらざるを得ない。また朝鮮半島進出の企画も大きく出遅れてしまった。サホヒメは出雲にまた不穏な情勢が起こることを危惧するとともに、自分のせいで迷惑をかけた一族に挽回のチャンスを賜るように考えて、丹波道主命の娘たちを推薦したのではないだろうか。サホヒコの乱で一時はどうなるかとみえたこの一族も、日羽州姫が景行天皇の生母となり2人の妹も皇子皇女の母となったことで完全に復活した。またサホヒメが生んだ品智別命も、丹波道主の使命=出雲統治を継承すべき天命の子だったといえよう。実際、出雲はまたも朝廷への反抗的態度がみられ、垂仁天皇は物部十市根大連を派遣して出雲大社を管理させるという情況になっていた。そんな頃、品智別命は成長してから、出雲大神に導かれて出雲大社を再建するきっかけとなった。その後は、日子坐命のあとを追って朝鮮半島に渡ったという説があるが、それはまた別の機会としよう。
このように『古事記』はバラバラな説話の寄せ集めではなく、すべてが綿密につながって大きな歴史となっているのである。

マトノヒメ生存説
ところで書紀では竹野媛が輿から落ちて死んだとあるが、よほど打ちどころが悪くないと輿から落ちたくらいでは死ねないだろう。だから古事記では円野比賣は「峻淵」に落ちて死んだとある。「峻」は断崖絶壁としても、「淵」の字があるから大河か湖を想像するが、五億百万歩譲って「峻淵」を川や湖沼に限らぬとすれば、輿に乗って山道を進む途中で輿から谷間に身投げしたようなイメージも浮かぶ。しかし、あまり一般道から離れた山奥を行く事は考えにくい。川は、平地を行ったとして乙訓のあたりで探しても桂川ぐらいしかない(古くは「葛野川」といった)。そもそも平地を行ったとも思えないんだよね。桂川を上って船旅が主だったはずで、途中で物見遊山でもしようとならない限り、上陸しないし、輿にも乗らんだろう。では桂川に入水自殺したのか? それも不可能だとは思わないが、確実に死ねるような断崖絶壁でもなさそうに思う。高さのある橋から落ちるとヤバそうではあるが、それでも急流でもない限り(あるいは浅瀬でもない限り)確実ではなく流れが穏やかで深いところだと高めな橋から落ちても簡単には死なさそうだが、どうだろう。橋を渡る状況自体が考えにくい気もするし…。書紀によると旧暦八月一日だから大雑把に現在の9月上旬?、川に落ちたら確実に凍死というほどの季節でもなさそう。計画的な自殺なら体に岩とか縛り付けてってこともありうるが、お供の者共がたくさんいる中でそれも難しかろう。むりやり合理化すると、まず何らかの理由で桂川から途中で上陸し、通常のコースから逸脱して輿に乗って方向違いの山奥に向かった、そこで山奥の断崖絶壁から飛び降りて…。となる。恥ずかしくて北の実家にも帰れないがむろん南の都にも戻れないのだから、西か東へゆくしかないが、羽束師を基点と仮定すると、東は今の京都伏見区や宇治市で、平地が続き町々も多かったろう。西はすぐ今でいう長岡京市だが、この市は東半分が市街地だが西半分は山。ここらの山に入り込んだものと思われる。この山地をどんどん入っていけば、身投げにほどよい感じの断崖絶壁はいくつか見つかるんじゃないか。別案として、ギリギリ乙訓の圏内ということで桂川を北上した先、嵐山やその手前の松尾大社のあたりはかなり山が迫っており、桂川からも近い。ここらで自殺のチャンスを逃したらもう乙訓の範囲は抜けてしまう。
まぁ場所はどこだったにせよ、通常ルートを逸脱する命令はお供の者共も困ったろうが傷心の姫様に「気晴らしの物見遊山だ」と言われればしょうがないし、歌凝媛も一緒だし、命令に従うしかなかったろう。古事記によれば、乙訓に到達する前に、相楽(今の木津川市か精華町のあたり)で一度首吊り未遂もしてるが、これは本当に未遂だったのが狂言だったのかもわからない。もし未遂なら呑気に危険な山道を物見遊山させるとも思いにくい。実際に狂言だったのかどうかは別としておそらく当時の周囲の判断としては狂言と思われたのではないか。それである程度は気が晴れてもう馬鹿なことはするまいと周囲は油断していたのだろう。入水もそうだが、急な思いつきの自殺の場合、飛び降りだと、現代のようにビルが乱立してるわけでもないので、適切な場所選びをしないと確実には死ねない。この時代は首吊りのほうがまだ確実なイメージがあったろう。従って一度首吊りで失敗した自殺志願者が二度目は飛び降り、というのはパターンとして冷静な第三者は想像しなかったのではないか。
そういうわけで、無計画な咄嗟の自殺なら、もしかして、ちょっと怪我したくらいで、結局死なずに生きていたのではないかな。なぜそう思うかというと、本当に可哀想な人は必ず現地に美しい伝説が残ってるもんなんだよね、日本ってのは『万葉集』の大昔からそういう国なの。でも乙訓にも丹波にもそれっぽい遺称地や伝説がない。乙訓といっても今の長岡京市と向日市の全域、京都市西京区、南区、伏見区の一部も入り、とても広いのに自殺現場が特定されてないしお墓もないし神社もない。前述の羽束師にも円野媛(=竹野媛)に関することは伝わってない。
ということは、やはり生きていたのだろう。竹野媛(=円野媛)みたいな人は一旦反省して心を入れ替えれば、パワフルで陽気な美人になるんだよ。故郷に一旦帰ったものの、居づらいだろうから名前を変えてどこか遠くに移り住んだのではないかと思いたい。あるいは反省して、父の仕事を手伝って暮らしたか。それならまず出雲に向かったはずだな。都にはとりあえず恥ずかしいから死んだことにしといてもらって。実は岡山県美作市に「真殿」という地名がある。これはマトノヒメと何か関係があるんじゃ…。ここは旧国名でいうと美作国だけど、美作国ってのは和銅六年(713)に備前国から分置したもの。そして備前・備中・備後は律令制になってからの名称で、これらは元々は「吉備国」である。さて、垂仁朝後期の出雲の首長は、襲腿の子の岐比佐都美(きひさつみ)だが、この名は「吉備のサツミ」であって、この人はもともと吉備の出身ではないかと思う。キビとキヒでは発音が違うから別の言葉とすべきだが、方言では古い言い方が残るので中央でキビといっても現地ではキヒといってた可能性もなくはない。美作という地は交通の便の悪いところで古代には内陸山間の孤島のようなところだった上、丹波にはほど近いので、生き延びて世を忍ぶ円野媛が隠れ住むに最適ではないか。しかも美作の語源は美酒(うまさけ)だというぐらいなのでグレて酒に溺れたい人に向いているw 実は竹野媛が死んだとされる乙訓での帰郷ルートにあたる桂川には、乙訓に入る最初の合流点の大山崎町に酒解神社あり、乙訓から抜ける直前の桂川沿いに松尾大社あり、どちらも酒の神とされてるんだよね。そしたらその近辺には必ず酒の市があったに違いなく、憂さ晴らしに酔っ払ってた可能性はないのか? そうやって元気に発散してる人は結局自殺しないと思うんだよね。で美作の話に戻ると、美作は出雲からもほど近く、山陰の群雄尼子氏が美作を領していたこともある。襲腿はどうもダメ人間っぽいのできっと酒好きだろうw 円野媛と襲腿は酒が取り持つ縁だか、どういう巡り合わせだかで出会い知りあって、子供(=岐比佐都美)が生まれた。時に、出雲に派遣されていた査察官は物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)だったが、物部のネットワークは全国にくまなくあるので、この子が出雲の後継者として見出され、物部十千根大連によって出雲に送り込まれたのであろう。円野媛もついていったかも知れない。そこで品遅別皇子と出会う、と。…というのはさしたる根拠もない想像にすぎないが、まぁ死なずに生き残った円野媛がどこで何やってたにしろ、第二の人生で痛快に成功して楽しく過ごした、ってことに小説ならしとくね、俺は。

・サホヒメは同情に値するヒロインなのか?

H29年9月10日(日)改稿 H24年11月21日(水)初稿
以下、『古事記』は記の1字で、『日本書紀』は紀の1字に略します

紀によると倭大神が大水口宿禰に神憑りして「先帝(崇神天皇)は神祇の祭祀に努めたが根本を明らかにせず末節に留まったが、天皇(垂仁天皇)がその不足をも祭れば天下太平ならん」との神勅があった。これから推察するに、垂仁天皇一代はすべて崇神天皇の大事業を継続、完遂することに費やされた。記紀にある垂仁天皇の事績はバラバラの記事なのではなく、すべてこのことに集約されていくように相互に関係していると思われる。崇神天皇の事績がそうであるように垂仁天皇の事績も大きく神事と軍事の二面からなる。

伊勢神宮の鎮座
例えばテキストp.170に「倭比賣命は伊勢の大神宮を拝き祭りたまひき」とあり、これが垂仁天皇二十六年(BC4年)の伊勢神宮の創建をさす(「伊勢式年遷宮」も参照)

サホヒコの乱
さて、沙本彦(サホヒコ、記:沙本毘古)は彦坐命の子。彦坐命(ヒコイマスノミコト、記:日子坐命)は先代崇神朝において丹波の凶賊陸耳之御笠を征伐、その他にもいろいろ活躍して、その勢力は播磨、近江、美濃にまで広がった。沙本彦は当初その彦坐命の嫡子で強大な勢力を引き継いでおり、それで逆心を抱くようになったものか。先代の埴安(ハニヤス、記:建波邇夜須毘古)の乱は行き詰まったあげくの反乱だったが今回の乱は用意周到に練られた計画だった。埴安の乱は大彦(オホヒコ、記:大毘古)が鎮圧したがその跡地の山城国は大彦の一族が継承せず、彦坐命に与えられた。p.154に彦坐命は「山代之荏名津比賣(やましろのえなつひめ)」を娶ってることからわかる。彦坐命の管轄たる丹波方面との要路にあたるからあわせて管理させたものだろう。したがって埴安彦に仕えてした部下たちも多くが新しく彦坐命、わけてもまだ古参の部下の少ない沙本彦の配下に加わったはず。その中には、旧主埴安の謀叛に共感していた者も少なからずあり、新しい上司である沙本彦に「あなたなら出来る」とお世辞がてら煽る者もいたのであろう。

この物語の本当の主人公はサホヒメなのか?
沙本彦はまず親密で意の通じた同母妹沙本媛(サホヒメ、記:沙本毘賣)が皇后なのを利用して、暗殺をもちかけるのだが、仮に妹がこの企みを断ったり、失敗したりしても大丈夫なように二重三重に手は打ってあったものと考えねばなるまい。沙本媛は一度は天皇の首に刃を当てたのだから、夫ではなく兄をとったのだが、これは覚悟の決まった決断ではなく、「最愛の夫と兄の殺し合い」という事態に直面して苦悩は続いており、謀叛が成功しても沙本媛の苦悩は存続する。心ならずも、とはいえ自分の意志で兄の側に立ったのだから謀叛が成功すれば苦悩は存続するにしてもやや小さくなることは明らかだが。そしてこの時、皇后はすでに皇子を妊んでいた。みるからに妊婦だったらいかに沙本彦といえども夫の殺害を唆そうとはしなかったろうから、妊娠初期だったろう。これが沙本媛の優柔不断の原因になったとしたら、妊娠さえなければ悩むことなくさっさと天皇を裏切り兄のもとに走ったのかな? そう考えると「美しい文学」がいきなり「醜い女の生命力」にみえてきて興ざめだが。そうだとしても、兄を止めることができない上に、天皇に知らせることで兄の命が危なくなるという恐れから夫を守ることはもっとできないという、己の無力さに絶望もしていたろうから妊娠云々にかかわらず苦悩はあり、文学性は成立する。しかし完全に無力感に打ちのめされていたのではなく、天皇に謀叛を白状してからは、肚が座って、反乱軍に加わることに決断した。つまり優柔不断から事態を悪化させた者が腹を括って決断しなおす物語でもあるわけだが、この時、反乱軍と官軍のどちらが優勢だったのか、先行き不透明だったのかで、物語の印象がまったく違ってくる。物語として「あらまほしき」は、夫への贖罪と兄への一途な愛を貫くため、敗北のきまった反乱軍へ悲愴な決意で身を投じるというシナリオでなければディレクターがOK出さないだろうが、さて。前述のごとく、周到な用意をめぐらす余裕のあった沙本彦が、妹一人に反乱の成否を賭けるというのはちょっとありえなさそうに思われる。妹が兄の軍に身をよせた時点では、反乱軍が優勢か、少なくとも先行き不透明な段階だったのではないか。紀はこの反乱を垂仁五年としているのだが、二年の段階で品智別命(ほむちわけのみこと)がすでに生まれていることになってる。記では籠城の最中に生まれたことになっており、紀では沙本彦が妹に計画をもちかけたのが四年九月二十三日、それが発覚したのが五年十月一日になっている。記の通り籠城中に生まれたとして乱の勃発が十月ではその年内に生まれた可能性は低いだろう。二年にすでに生まれているなら乱の勃発は元年であり、沙本彦が妹に計画をもちかけたのがその前年という紀の説によれば、計画は崇神朝の末年となる。皇位継承の隙を狙うのは謀叛の計画としては王道でこれが史実に近いだろう。しかも紀によれば先代、崇神朝の末年、任那から半島情勢が風雲急を告げる使者が来たり、垂仁朝の当初も新羅や任那の使者がきている。『新撰姓氏録』ではこの間、日本から将軍が派遣されているが、文武未分離の時代だから、沙本彦の父、彦坐命も含めて朝廷の並み居る重臣は軍旅に出征して帝都は留守だったのではないか。その隙を狙った半ばクーデター的な反乱だったとしたら、勝敗がつかず長引いたとしてもおかしくない。記は、文学的な説明をするので天皇が皇后を愛するあまり攻撃の手を緩め、それで長引いたかのようにいうが、それだけでなく、実際に反乱軍が強大で簡単にいかなかったのだ。反乱軍が籠城してるのもあくまで最終局面であって、記は恋愛物語に不要な戦争の推移を省略してる。
要するに、現代人は思い込みから、女性視点で沙本媛を悲劇のヒロインに仕立てつつ読むので、いかにも文学じみてしまい史実にみえなくなっているが、如上のように史実厨として史実設定で分析検討すれば、より現実にちかい心もようが浮かびあがってくる。沙本媛の苦悩は当初だけで、一貫して謀叛軍の側に立ち、官軍への帰順を細工を弄してまで断固拒絶して「恋に死ぬ」強い女として描かれてる。しかしそんな女だからこそ男からみても魅力的であるわけで、つまりこれは女性の苦悩の話ではなく、裏切られてもなお女を愛し続ける垂仁天皇の「男の純情」の物語なのである。

「夫と兄」はどう読むべきか
そしてもう一つ、当時の文化情況の話もある。それは同母の兄妹の恋愛が当時は許されなかったという説があるが、本当だろうか。この件については実は大いに疑問があり、詳しくは「木梨軽太子の変」の頁で書いた。とりあえずは、沙本彦・沙本媛の兄妹は所謂「ヒコ・ヒメ」のセットになっており、これは二人の仲が発覚してから呼ばれたか自称したかであろう(ただし、民俗学や古代史でいう「ヒメ・ヒコ制」という考え方があるが、あれとは違う。詳細は今回はふれないがいずれかの機会に論じたい)。垂仁天皇は一貫してもう一つの名「佐波遅比賣(さはぢひめ)」と呼んでいたに違いない。沙本彦は妹に「夫と兄といづれか愛(は)しき」と問い、妹は「兄ぞ愛しき」と答えるのだが、この「夫と兄」を、岩波版(倉野憲司)は「ヲとイロセ」、講談社学術文庫(次田真幸)は「ヲとイロエ」(日本思想大系本も同)、角川文庫(武田祐吉)は「セとイロセ」と訓んでいる。紀は「兄と夫と」と順番が逆になっていて、岩波日本書紀は「イロセとヲウト(ヲヒト)」、岩波訓読日本書紀(黒板勝美)は「コノカミとセ」と読んでる。この他にもいろんな読み方があるが(例えば夫はツマとも読める)、諸書古本屋に売っ払ってしまって記憶も薄れここに引用できない。
ただしこれらの中で「兄」をイロエまたはイロネと読むのは、まるで二人が同性の兄弟か姉妹みたいな印象があるので間違いではないのかと思う。
第二に、ここは沙本彦が異母兄でなく「同母」だという親密さを強調しつつ妹に迫るところだから「セ」じゃなく「イロセ」のはずだと考えたくなる気持ちはわかるが、それは理屈にすぎないのではないか。口語ではセだけで同母兄・異母兄の両方含み得る上、先程あげた諸例からすると、夫も兄も「セ」と読むことが可能ということ、つまり「セとセといづれか愛しき」とも論理上は読めるわけだが、ここは口語での会話なのだから、イントネーションや表情や仕草での補完ができたとすれば、実際に沙本彦が「セとセと…」と発言した可能性があるってことだ。これは実は重大で、同一単語ならば語感に従った語源が想起され、本質的にどちらが「セ」なのか、という問い詰めになる。発話してるのは沙本彦なので、裏には「セとは本来、夫ではなく兄なんだし」っていうニュアンスが強くあるってことだ。
第三に「コノカミとヲ」とか「セとヲウト」とか「ヲとイロセ」では単語の長さのバランス悪くないか?「ヲヒトとイロセ」か「ヲとセ」のどちらかだろう。
実は誰の読み方か忘れたが、「ヲとセといづれか愛しき」と読んでる本もあって、「これだっ!」と思ったことがある。ここは親密な関係での口語なのだから「ヲとセ」の一択しかない。一音節で伝わる。津軽弁の「わ、な、け」を思い出してほしい。もっといえば助詞も無駄、「ヲセいづれ愛し↗?」と読むべきだろう。「セセいづれ愛し↗?」でも明らかに意味は伝わる。「二人のセどちらが好き?」の意でなんら紛らわしくない。が、太安万侶があえて別の文字を使ってるではないかとの反論もありえよう。これは順番に関係してるかもしれない。「夫と兄」であり「兄と夫」になってない。さきほどの兄をイロセと読む説と同様、自分を強調する趣旨からはまず「兄と夫」とあるべきではないか? しかし公式には彼女のセは夫のほうであった。つまりこの順番に込められたニュアンスは「まず、セといえばむろん亭主のことだよなw ところで、もう一人本当のセがいるよな?」ということだろう。

「稲城」とはなんぞ
この反乱で反乱軍は稲城(いなき)を築いて抵抗した。この稲城は俵を積んで即興の防壁にしたもので、俵があればさしたる準備のない緊急な場合に短時間で設置できる、敵の矢を再利用しやすい、等の利点が考えられるため、この謀叛が用意周到だったという私説には不利だといわれるやもしれない。しかし大々的に城壁工事など始めたら密かに陰謀を進めることにならない。しかし俵は平時からしかるべきところにあって当たり前なのだから、秘密の段取りさえあればよい。この稲城がすぐ燃えそうな上、柔らかくてさして役に立たないもののように思われるかもしれないが、そうではなく水を吸収しやすく粘土でしっかり固めて、秀吉の一夜城みたいに堅固な城を素早く築くものらしい。ちょっと情報源は手元にないが縁のある人は俺と同じソースに出会ってくれ。稲城は雄略紀にもでてくる。従って、この城が燃えたのは「三匹の子豚」に出てくる藁の家みたいに、俵を積み上げたからではない。安土城だって炎上するんで、稲城云々とは関係ない。

ホムチワケの命
ここまでなんだかんだ書いてきたが実は「沙本彦の乱」ってのは序章であって、次の品智別命(ホムチワケノミコト、記:本牟智和気命)の話の前ふりにすぎない。で、この肝心の品智別命の話の詳細はhttp://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html)">「出雲国造は天穂日命の子孫ではない」(http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-32.html)のほうにも書いてあるのでそちらをご覧あれ。

・タヂマモリはどこに行ったのか?

H26年11月30日初稿
何かお菓子の箱に入っていたであろう説明書きがある。「家紋入りどら焼き田道間守」というお菓子の会社のもので「ごあいさつ」とタイトルがある。田道間守の伝説ととその会社の商品説明が書いてある。URLも書いてある(http://www.mmjp.or.jp/tajimamori/)ので詳しいことはその会社のHPを見て下さい。こんなどら焼きいつ食ったのかな? 記憶にはないが。
(本題は後日に記入予定、今日は時間なし)

・伊勢式年遷宮

H26年10月29日投稿 (H25年初稿)
何かの本からコピーした「第六十一回式年遷宮の主要な諸祭と行事の一覧表」というのがある。伊勢神宮の遷宮にまつわる祭儀の一覧であり、昭和60年5月の山口祭から平成5年10月の御神楽まで33件の祭式行事がならんでいる。それらの祭式行事の詳細についてはwikipediaにもあり。まぁ、お伊勢様のご遷宮の意義については多くの人が書物でもネットでも語っているので、このブログではちょっと別のことを言ってみたい。
厳密な規則性はなかった
式年遷宮は昨年、2013年が第62回で20年ごとと定められているので、西暦でいうと下一桁が必ず3で癸(みずのと)の年になるはず、1993年の第61回が癸酉で、昨年の第62回が癸巳、次回2033年が癸丑。出雲大社の遷宮は60年に一度で昨年の癸巳の年に伊勢と出雲が同年遷宮。次回は2073年癸巳になるはず。…なのだが、そうきっかり決まったものでは昔はなかったらしい。規則正しくなったのは1953年の第59回からで、江戸時代あたりに下一桁が9の年が多いがそれ以前はバラバラ。何年に執行されたのか諸説のある第1回を除いて、第2回が709年で1953年の第59回まで平均すると「約21年9ヶ月と27日」ごとに遷宮が行われた計算になる。特定の干支との関係はないってことだ。出雲大社の遷宮も、必ずしも60年ときっちり決まったものでなくそのため「式年」とはいわないとのこと。

「式年」以前の遷宮
伊勢の第1回遷宮は天武朝の朱鳥元年(686年)説と持統四年(690年)説があるが伊勢神宮の公式見解では後者を採用しており、その場合第2回から遡る19年前になる。第1回が天武朝にしろ持統朝にしろ、それは「式年」になってからの第1回であり、それよりずっと古く垂仁天皇の時代から伊勢神宮はあったのだから、遷宮それ自体は約20年ごとと決まっていなかっただけでそれまでも何度もあったに違いない。伊勢神宮の創建は『日本書紀』の本文では垂仁二十五年(BC5年)なのだが、紀が引用する詳細な一説では丁巳(ひのと・み)の年だとする。垂仁二十五年にいちばん近い丁巳年は垂仁二十六年(BC4年)にあたる。創建から第1回式年遷宮までの間にあった遷宮もだいたい約20年ごとだったと仮定すると第1回式年遷宮までに34回か35回は遷宮があったことになる。約30年ごとだったとすると約21回。約60年ごとだったとすると約12回。約100年ごとだったとしても6回か7回は遷宮があった計算になる。

西暦との関係
伊勢神宮が創建されたのは先程のべたように垂仁二十六年(BC4年)だが、話かわってイエス・キリストが生まれた年は西暦元年ではなく、諸説があるんだがBC4年ではないかってのが最有力説だってのは有名ですね。つまり西暦(イエス紀元)は正しくは3年繰り上げないといけないことになる。そうすると伊勢神宮創建は西暦元年になる。「イエス紀元」は実は「イセ紀元」=伊勢神宮紀元だったのである、と木村鷹太郎がいってたよw(木村鷹太郎を知らない人は適当に検索して下さい)

米の座・金の座
お伊勢様に参拝した人は実際にみているはずだが、20年毎に建て替えるため敷地が東西に分かれていて、常に片方の敷地は空き地になってる。この東西の敷地を20年ごとに行ったり来たりしているわけ。そこまではいいのだが、伊勢神宮の大予言というネタ話があり、それによると東の敷地を「米の座」(よねのくら)、西の敷地を「金の座」(かねのくら)といい、米の座は米が豊かな平和な時代、金の座は金を求める戦乱の時代だというのだが、これを言い出したのは山蔭基央(やまかげもとひろ)という山蔭神道(神道系の新興宗教の一つ)の管長をつとめる人物が書いた『伊勢神宮の大予言』という80年代初期の古い本が最初だったと思う。正直いって予言のたぐいは真に受けないほうがいい。もう大昔からこういうネタは大量に出回ってるが予言が当たったタメシは無いのです。しかし世の中にはいつになってもこういうの大好きな人たちがたくさんいて、米の座は「精神性が優先される平和な安定期」だとか「豊穣の時代」だとか「国内の内政問題が表面化して多くの改革が起こる」とかいってる一方、金の座は「経済が優先される」とか「世界的な変化の激動期」だとか「戦乱と革命と不況の時代」だとか「海外進出して国威発揚」するとかいってる。なんか矛盾するような気もするか、予言の手管というのは後からなんとでもいえるように前もって幅広い解釈ができるようになってるんだよね。伊勢神宮のHPにもこんな話は書かれてないし、まともな学術論文に見かけたこともないし、『ムー』とかソレ系の出版物にしか出てこないので本当に戦後に作られた与太話の可能性も高い。ネットでは、せいぜい古くても明治以降ではないかといってる人もいたが、まぁそんなもんでしょう。予言に仕立てなければネタとして悪くないとは思うんだけど、例えば金の座は闘争心や激情を抑え生業に努めるに吉、とか。米の座は強欲を控えて他を慈しみ世間に奉仕するに吉、とか。脳内があっち方向に逝っちゃってると物足りないだろうけど。いや俺もかなり逝っちゃってるのでアッチ方向に逝ってるのはかまわないんだけど「予言系」のネタに仕立てるのだけはあきまへん。(それと「金の座」「米の座」という言葉それ自体が最近の新しい創作である可能性もあり)
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浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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