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・「おきよ丸」と「起きよ祭」

H27年11月15日投稿 H27年10月16日(金)初稿
H27年11月13日(金)に代々木の日本文化興隆財団に行ったら置いてあった資料プリント、半分は「おきよ丸」と九州の地図、左半分は、上に『古事記』による神武東行路(地図)、下には2枚の地図があり1枚は「神武天皇の苦戦の足跡(大阪から)」と題する地図、これは三重県の一部と奈良県、大阪府、和歌山県を含む紀伊半島の地図、もう1つの地図はその地図の勝浦と書いてあるあたり(熊野川の河口の南側から勝浦湾まで)の拡大図。どちらも古事記や日本書紀に書かれた神武天皇の行路中の様々な事件が今のどのあたりで起きたことなのか詳細に書き込まれていて、イメージが湧きやすくたいへん良い地図と思う。ただし、日本書紀にはあっても古事記にはない多くのエピソードについてもその場所が同定されているので、日本書紀に興味ない人には意味ないかも。何かの書物からのコピーと思われるが元ネタは不明。だが「『古事記』による神武東行路」という地図は小学館の日本古典文学全集の『古事記 上代歌謡』のP.160からとったものだが、なぜか東征路の「征」の字が消されて手書きで「行」に直されてる。プリント右半分の九州の地図は、宮崎県内に、天岩戸神社、高千穂神社、美々津、西都原、宮崎神宮、鵜戸神宮、そして鹿児島県境を挟んで霧島神宮のすぐそばに皇子原。鹿児島県内では、可愛山陵、高屋山上陵、鹿児島神宮、宮浦神社、霧島神宮、吾平山上陵が示されている。可愛山陵には「えのやまのみささぎ ニニギノミコト」、高屋山上陵には「たかやのやまのえのみささぎ ヒコホホデミノミコト」、吾平山上陵には「あひらのやまのえのみささぎ ウガヤフキアエズノミコト」と手書きで追記あり。おきよ丸については「③おきよ丸」と題して昭和九年は神武天皇御東遷二六○○年にあたり、これを記念しておきよ丸御東行巡路漕舟大航軍が計画され、昭和十五年に挙行された。おきよ丸御東行は神武天皇御東遷当時の船を再現し、…(以下は点線で略されている)」とあり、何かの本からのコピー。昭和九年と御東遷と昭和十五年の3語には手書きの傍線あり、昭和十五年には「※建国2600年(皇紀)」、おきよ丸には(起きよ丸)とそれぞれ手書きで追記あり。また帆船の写真があり、その下に「美々津港から船出するおきよ丸」と題あり。その他、手書きで「黒ばえ 七つばえ」とあり、黒ばえの下には山を表したのか「へ」の字のような線、七つばえの下には波を表したような曲線(波線)がある。「起きよ祭=旧暦八月一日」と大きめに手書きで書かれている。以下、このページではこのプリントについての解説と解読と注釈と雑談。
「日向三朝」とは
九州の地図についてはわかりやすい話で、邇々藝命(ににぎのみこと)、火々出見命(ほほでみのみこと)、鵜萱葺不合命(うがやふきあへずのみこと)の3代を「日向三朝」というのだが、他にも「日向三代」「高千穂三代」「高千穂三朝」等いろいろにいう。ぜんぶ混ぜれば「日向高千穂三朝代」。昔の日向は宮崎県だけでなく鹿児島県も含んでいた。で、ずっと高千穂だけにいたわけではないから、高千穂三朝というより日向三朝といった方がよいとうに思う。朝も代もこの場合ほとんど同じだが朝の方が意味が広い。併記する場合、漢語では朝代とはいうが代朝とはいわない。
日向三朝は、『新撰姓氏録』の用語だと天神(あまつかみ)でも地祇(くにつかみ)でもない「天孫」(あめみま)という分類に該当。ただし、『新撰姓氏録』でいう天孫は天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子孫も含むから3代じゃなくて4代だけど。しかし天之忍穂耳命の子孫だという氏族は、いずれもすべて史実上は皇別氏族だったり神別氏族だったり諸蕃氏族だったりするので、実際には忍穂耳命の子孫は(邇々藝命の子孫である皇室以外には)存在しないことになる。(物部氏も含めてなw 物部氏は饒速日命の子孫ではないw)。

神宮とは
プリントの右半分にある九州地図にあげられている神社のうち、霧島神宮、鹿児島神宮、鵜戸神宮、宮崎神宮はそれぞれ日向3代と神武天皇を祀る神社で、これに忍穂耳命を祀る英彦山神宮、天照大神を祀る伊勢神宮、そして伊邪那岐命を祭る伊弉諾神宮を加えると、直系の歴代をまつる神社のリストになる。

・淡路の伊弉諾神宮:伊邪那岐命
・伊勢の皇大神宮:天照大神
・豊前の英彦山神宮:忍穂耳命
・大隅の霧島神宮:邇々藝命
・大隅の鹿児島神宮:火々出見命
・日向の鵜戸神宮:鵜萱葺不合命
・日向の宮崎神宮:神武天皇

これがみな「神宮」と称しているんだが、神宮という称号は現在の定義と、その言葉の起源における意味があまりに乖離しすぎて問題だ。本来の意味では「神社が格下で神宮が格上」等という意味はぜんぜん無かったのである。これは明治になって作った格付け用語の「神宮」であってもともとの意味ではない。…が、この話も、詳しい話は垂仁天皇の出雲「神宮」か履中天皇の石上神宮のあたりにでもすることにして、今回はスルー。

天孫3代の山陵
で、日向三代の御陵だが、神様にお墓があるってどういうことだよ、やっぱり人間じゃねぇかとなりそうだが、そうでもない。神様に墓があるってのは、そもそも現代人の墓の概念が後出なので、もともとの墓の意味が違うのだ。そこらは伊邪那美命の御陵が広島県の比婆山なのか和歌山県の有馬なのかって議論でするので、今回はやらない。それはそれとして、この3陵がぜんぶ鹿児島県内にある。これは実は正しくない。山陵の候補地は九州各地に伝承があり、特に宮崎県内にも有力な候補地があったのだが、明治になって公式に決定する時に、薩摩藩閥の意向でなんの議論もなく勝手に決められてしまった。宮浦神社というのは神武天皇ゆかりの神社だが、宮崎県の日南市にも同名の神社あり、そちらでは神武天皇の母、玉依比賣の実家で神武天皇幼少時の住居という。鹿児島の方の宮浦神社は、神社の由緒書きによると「神武天皇御東征遷前に度々おいでになった仮の宮居であった処」という。

神武天皇生誕の地
皇子原は神武天皇生誕の地という伝承がある。が、実は神武天皇が生まれたところは九州の各地に伝承地があり、ちょっと検索しただけでも①佐土原(佐野の森)、②高原町佐野(皇子原)、③志布志町佐野、④東串良町宮下(イヤの前)、⑤鹿児島県加世田市があるという。この他にもどこだがに狭野町だか佐野町だかってとこにも古伝承があったはず。今となっては確かめるすべもないわけだが、神武天皇の別名「若御毛野」、兄の名「三毛野入野」かたすると「毛野」つまり北関東が関係あるかも知れない。というと、九州から勢力を拡大していったって思い込んでる人は「そんな馬鹿な」となるんだが、大国主の段階ですでに北陸まで勢力にしてたんでしょ。播磨風土記みれば播磨もそうだし、大物主神話をみれば大国主の勢力は大和まで含んでた。つか天照大神が豊葦原瑞穂国は天孫のしらすべき国といってるのは、記紀ともに、当時しられた全世界という意味でいってる。邇々藝命が譲り受けた領土は出雲と九州じゃなくて、すでに日本全土は統治の対象だったのです。神武天皇は栃木や群馬で生まれた可能性もあるよ、いやほんとに(笑)

神武元年はBC660年ではないってことの本当の意味
昭和九年を御東遷二六○○年とするのは、昭和十五年(=建国2600年)と6年しか差がない。これは『日本書紀』の説に拠っている。『古事記』では東征は20年近くかかったこちょになっており、日本書紀は古伝承を切り詰めている。もっとも、それをいったら日本書紀に依拠して計算された紀元前660年を神武元年とする説もどうなんだって話になるわけだが、確かにそうだ。しかし、だからって「そんな古いはずはない」って話にはならないんで、本居宣長は日本書紀の編年を後世のさかしらで作ったものであって信用ならないとはいったが、それは現代人が思うような「そんな古くはないはずだ」って話ではない。「もっと古いかもしれないし、新しいかもしれないし、偶然にも日本書紀に近いかもしれないし、なんだかわからない」という趣旨でいってるのである。このへんの話もいずれ詳しくすると思う。今回は省略。

「おきよ祭」
「おきよ祭」については適当に検索して下さい。wikipediaの「美々津」の項にも詳しい既述があるのでそれを見て下さい。普通にいい話なので、皆さんにも広く知れられてほしいものですな。wikipediaはそのうち改変されたり削除されたりってことがありうるので早めに見といて下さいよ。

「黒ばえ、七つばえ」の謎
検索したところ、七つばえとは日南海岸からみえる奇岩で「七つ八重」と書き、別名「七つ岩」「ビロ岩」「小場島」ともいうらしい。しかし「黒ばえ」についてはわからなかった。日南海岸というと、鵜戸神宮の近くではあるが、何か神武天皇にまつわる伝承でもあったのかどうか?
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