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☆八紘一宇と天壌無窮

2679年(H31年=新年号元年)2月改稿 H27年11月16日(月)初稿
二月十一日は「建国記念の日」だがこの日付は日本書紀の記述を明治になって太陽暦に換算したもの、というのは常識だが、それ知ってるだけでは足らない。日本書紀にある天照大神から瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にくだされた■天壌無窮の神勅の全文と、神武天皇が即位の際に発せられた■橿原奠都の詔の全文くらいは日本人の最低限の教養として覚えておくべき。古事記にもそれぞれの該当箇所があるからよく探してみれ。
建国記念「の」日?
ちょっと気になるのが建国記念「の」日。この「の」字がどうしてもひっかかる。これは建国記念日法案を通す時に社会党を黙らすため(というか社会党に妥協して)「2月11日は日本が建国された日じゃない」けども、この日に建国をしのぶ日にする、という、もって回った訳の分からない理屈でつけた名前だよね、皆様ご存知の通り。当時の自民党が、念願の建国記念日法案を通すために知恵を絞ってやっと実現にこぎつけたという苦労はわかるけど、それから何十年もたっていまだにこんなアホな呼び方を我々がし続ける必要あるのか? 普通に堂々と「建国記念日」といえばいいんじゃないの? つか本当はGHQに禁止された戦前の「紀元節」を復活させるための法案だったわけだよ。普通に堂々と紀元節」っていえばいいんじゃないの? そこんとこどうなのよ?

日本建国の理念とは?
ところで、「橿原奠都の詔」は昔は「八紘一宇の詔勅」といったのではなかったか? 橿原奠都の詔と言っても間違いではないが、これだと単に都を定めたというだけに聞こえる。この詔勅がいってるのは日本建国の理念は一言でいえば「八紘一宇」である、ということで、ここがミソなわけだろう。新田均先生の本を読んだ人の中には、「八紘一宇」は島地黙雷とか田中智学とかのナンミョウ系の造語で世界侵略主義だからよくなくて、正しくは「八紘為宇」だ、という人がいるのだが、それは間違いです。八紘一宇も八紘為宇も同じ意味です。万世一系も天壌無窮も皇統連綿も同じ意味であるように、漢文ってのは文字をかえていろいろな言い方するもんなのよ。八紘一宇は間違いだけど八紘為宇は正しい、なんて左翼の言葉狩りみたいな物言いはやめてくれよな。八紘一宇の詔勅はこれ↓

『日本書紀』原文
…頼以皇天之威、凶徒就戮。雖辺土未清、餘妖尚梗、而中洲之地、無復風塵。誠宜恢郭皇都、規摸大荘。而今運属屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常、夫大人立制、義必隨時。苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寳位、以鎮元元。上則答乾靈授國之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇。不亦可乎…

読み下し
(前略)…皇天(あまつかみ)威(みいつ)を頼(かがふ)りて、凶徒(まがひと)就戮(はら)はれぬ。辺土(とがき)いまだ清めえず、餘妖(しこ)なほ梗(あら)ぶるとも、中洲之地(なかつくに)、風塵(さはり)無し。誠(まさ)に皇都(みやこ)を恢郭(ひら)きて、大荘(みあらか)を規摸(た)つるべし。今運(くに)屯蒙(わか)く民心(たみ)朴素(すなほ)にして、巣に穴に棲住(す)み、習俗(くにぶり)惟常(かはらず)とも、それ大人(をさたるもの)制(のり)を立(さだ)むれば、義(ことわり)時に隨(したが)はむ。苟(いやしく)も民に利(かが)あらば、何(いかに)ぞ聖造(みち)に妨(そむ)かむ。山林を披拂(ひら)き、宮室(おほみや)を經營(をさめつく)りて、寳位(あまつひつぎ)を恭(つつ)しみ臨(しら)して、元元(たみくさ)を鎮むべし。上(かみ)は乾靈(あまつかみ)の國を授けたまひし徳(のり)に答へ、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(まさみち)を養ひたまひし心(みこころ)を弘めむ。然る後(のち)、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あまがした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(な)さむ。亦(また)可(よ)からざらめや…(後略)

現代語訳
天佑神助によって叛賊は成敗された。辺境(外国)はいまだ平定されず暴虐の徒が残っているが、幸いこの日本は平和になった。まさに都を定めて宮殿・政庁を建てる時である。(辺境の)発展途上地域では民心も純朴であり、あいかわらず(家もなく)樹の上や洞穴に住んでいるというが、指導者が良い政治をすれば、かならず結果がでる(彼らも家に住めるようになる)だろう。民のためならば何をやっても道理からはずれることはあるまい。今こそ山林(=未開の象徴)を拓いてわが家(=皇居・政庁)を建て、天皇に即位してすべての庶民を安心立命に導くのだ。これは、上は天照大神の「地上を統治せよ」との神勅に答え、下は天孫ニニギノミコトが高千穂峰に天降り地上を平定し、平和を実現した趣旨を布教することにもなる。そうして(=家を建て即位して)都(の宮殿・政庁)が国内を統合するように、地のはてまで覆う屋根で世界を一つの家のようにしようではないか。できないことではあるまい。

海外への関心の発端・飯氷命と御毛沼命
津田左右吉は神武天皇の存在を否定してる癖に、この八紘=天下ってのは大和盆地の外のことで神武天皇はとりあえず大和だけ征服したんだ等と矛盾したことをいってるが、漢文の「八紘」の語意は全世界のことだから、八紘一宇は海外の国々とも統合していこうという趣旨であって、なんの問題もない。日本を平定した後に、じゃ次は海外へ、というのは昔ならごく普通の発想だろう。しかし神武天皇の念頭にあったのは兄二人、飯氷命(いなひのみこと)と御毛沼命(みけぬのみこと)だったろう。御毛沼命は「浪の穂を跳みて常世国に渡った」とあり、この常世国は外国である。「浪の穂を跳みて」ということごとしげな表現は大海原を横断していくようなニュアンスだろう。跳躍の「跳」の字を使っていることも注目。「常世国はあの世で海の底に沈んだんだ」等という意味ではない。また飯氷命は『新撰姓氏録』に「稻飯命は新羅國王となった」とある。つまり神武天皇が海外に関心を示したのは、兄二人の行く方を探すという趣旨もあったものと思われる。常世国信仰は西は熊野から東は常陸までの東海地方の海のはてにあるとされた国で、そこから南に向かえばフィリピンとかインドネシア、ニューギニアがありうる(中国だったら漢(あや)とか呉(くれ)とかいって常世国とはいわなかったろう)が、黒潮に流されたなら北米大陸に行き着く可能性が高い。新羅は孝霊天皇の時に、天之日矛(あめのひぼこ)が渡来してきて、これが飯氷命の子孫だろうと思われ、その後、開化天皇・崇神天皇・垂仁天皇と三代に渡って朝鮮半島との関係が出てくる。そこでもう一方の御毛沼命の子孫はどうなったんだということで話題に上がり、垂仁天皇の時に多遅摩毛理(田道間守)を常世国に派遣することになったんだろう。
神武天皇は、自分の兄弟である飯氷命と御毛沼命が海外に生きていると確信して、よしやその二人がどこか未知の国に土着して帰国しなかったとしても、その二人に象徴される海外の国々と日本は、自分ら兄弟と同じように、国同士も兄弟国になれるはずだと夢想したのではないだろうか。
八紘一宇_築地

なぜ日本の始まりが二つあるのか?
ところで、天壌無窮の神勅は天孫降臨の時のもので、八紘一宇の詔勅は神武天皇で、時期が違う。そのため、日本の始まりが2回あるかのような印象になってる。
邇々藝命の天降りをもって国の始まりと考えるのは、奈良時代まで(もしくは平安時代前期まで)根強い発想であり、神武天皇よりもはるかに重大視されていた。これは「原初の王」または「王朝」そのものの起源が、人間世界の起源(人類の起源)と結びついているという神話的な世界観に基づく。
各種の祝詞等でも、なにかの起源を語り出したり、皇朝の権威の源泉を語ったりする場合、神武天皇をもちだすのではなく天孫降臨をもちだすことの方が圧倒的に多い。
大和言葉では『日本書紀』でも諸々の祝詞でも、(国を)「はじめる」も「たてる」も同様に天孫降臨についていう。

神武天皇から始まるという観念は中国式である
時代がくだり、神話的世界観よりも中国の漢文の歴史が学問とみなされるようになると、中国式の歴史書に準じて初代天皇である神武天皇の即位こそ日本の始まりだという認識が自然と湧いてくる。
ただし古い時代の大和言葉では神武天皇の事績について(国を)「たてた」とか「はじめた」とか、あまり言わない。これらの表現は現代語風な和語であって、古い時代の表現としては何か違和感を感じる。
神話(先代旧辞)と歴代天皇の物語(帝皇日継)は、それぞれに名があることからも、本来は別々に考えられていた。これが一体のものとされたわけは、海外から異質な知識体系が伝来して後、それとは別の、民族固有伝統土着文化=ヤマトの知識体系という一括りの枠が認識されるようになったからであろう。
とはいえ、『古事記』本文は、上巻(神代記)と中・下巻(神武記以降)との間の異質さはあるにせよ、『日本書紀』ほど設計的に区分の形式を与えようとはしておらず、また本文中で神武天皇を初代であるとは必ずしも明解には語ってないのである。これは記が本来の形のまま先代旧辞(上巻)と帝皇日継(中・下巻)を単純に並べただけで、それ以上の印象操作をしなかったことによる。
神武天皇から区切る発想(=神代のことはひとまず置く発想)は、大陸で『漢書』以降に定まった「断代史」(王朝交代ごとに、つまり一つの王朝ごとに歴史を区切り、自我の所属対象を設定したり、世界観の単位としたるする王朝観)の形式の影響下で生まれたものである。『日本書紀』は明確にその形式に準拠して編纂された。紀においては神武天皇が「初代」であることは強調され明記されている。しかし歴代天皇の歴史を物語る書物の巻頭に神代の物語をおき、両者を一体としたのは、同時進行で編纂されていた『古事記』の影響だろう。
この、中華風の歴史書の体裁を希求する先には、当然、より徹底した『大日本史』がある。『大日本史』は神武天皇から始まる。神代については志類(分野別の付録)の「神祇志」の中の、前半部として扱うにすぎない。江戸時代の『大日本史』において神代と人代の分離は徹底された。
上述のように、古い時代の大和言葉では、天孫・邇々藝命について「いにしえ天降りて国を建てたまひし神」とも「国を肇めたまひし神」ともいわれるのに対し、神武天皇についてはそのような表現はみられない。神武天皇をことさら建国の始祖とみなす発想は、すでに述べたごとく、シナの歴史書の影響を受けた後世の人間や、荒唐無稽な神話を回避しようという近代人の合理主義根性によって生まれたのである。
日本の始まりは神武天皇ではなく、邇々藝命の天孫降臨である。神武東遷は大化改新や建武中興や明治維新みたいなもの。

八紘一宇と天壌無窮の思想上の関係
世界は一つ、という八紘一宇は空間に対する普遍主義だが、これは天壌無窮、万世一系という時間に対する普遍思想を横倒しにして空間に転写したものである。
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