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・仁賢天皇

H28年2月17日(水)初稿
記紀の食い違いはどうしてできたか
古事記では志毘臣(=平群鮪)と袁祁王(=顕宗天皇)の歌垣事件とそれに続く志毘臣の滅亡を、飯豊王摂政期間(顕宗天皇即位より前)に置いているのに、日本書紀では主役を弘計皇子(=顕宗天皇)ではなく小泊瀬稚鷦鷯皇子(=武烈天皇)とした上で、歌垣事件とそれに続く平群真鳥と鮪の父子の滅亡を、仁賢天皇崩御の後、武烈天皇即位の前のこととしていて、主人公と時系列が違っている。
袁祁王と志毘臣との歌垣では、『古事記』はこのまま朝まで歌垣でやり続けたとあるが、どっちが勝ったともない。しかし『日本書紀』では影媛(『古事記』では「大魚」という名になってる娘)が鮪(志毘)を好きであることを即位前の武烈天皇(『古事記』では「袁祁王」)が察して身を引いたとあり、これは書紀があってる。『古事記』では翌朝、袁祁王と意祁王(=仁賢天皇)の兄弟が奇襲をかけて志毘を滅ぼしたことになっているが、ここは武烈天皇が平群氏を滅ぼしたとする『日本書紀』の方が正しい。なぜなら、息子を奇襲で殺された父の平群真鳥が顕宗天皇・仁賢天皇の二代間、ずっと静かにしててその後いきなり専横するというのは不可解だから。志毘が殺されるのはまだ先だろう。『古事記』は間を飛ばして話を端折ってる。正しくは、歌垣事件の主人公は袁祁王(=顕宗天皇)であり、時期も飯豊王摂政期間の出来事で、ここまでは『古事記』が合っているが、平群氏を滅ぼしたのは『日本書紀』のいう通り、小長谷若雀王(=武烈天皇)であり、仁賢天皇崩御の後のことである。
そして、仁賢天皇と顕宗天皇の兄弟は、兄弟で両方ともに天皇になったが、弟が先に天皇になるという珍しい経緯になっている。年齢から考えて当たり前だが兄が先に崩御する確率が高い。にもかかわらず、弟が先に即位するという方法が容認できたのは、おそらく最初から弟の在位は8年間という取り決めだったからではなかろうか。これだと即位してすぐ皇子が生まれても9歳になる前に皇位が兄に移ってしまうという仕組み。記紀は顕宗天皇が崩御してから兄の仁賢天皇が即位したように書いてるが、奈良時代にはこの当時はまだ譲位の先例はないと考えられていたから崩御と書かれただけで、実際には譲位だったと思う。
そうすると普通に考えて兄仁賢天皇崩御の後も、顕宗「上皇」はまだ生存していた可能性が高くなる。仁賢天皇崩御の時、皇太子の小長谷若雀命(をはつせわかささぎのみこと=武烈天皇)はまだ幼少だった(記紀にはないが有名な説で『扶桑略記』には武烈天皇は11歳で即位して在位8年間、崩御の時18歳という)ので、上皇が再び執政した可能性がある。『日本書紀』は仁賢天皇崩御の後、武烈天皇即位の前に、武烈天皇が平群氏の真鳥と鮪(志毘)の父子を滅ぼしたとある。しかし幼少の武烈天皇だけでそこまで出来たろうか? ここはまだ生存していた顕宗上皇が甥の皇太子若雀王(=武烈天皇)を擁立して挙兵したのではないか。袁祁王(=顕宗上皇)はまだ生存していて、表面上は小長谷若雀王による平群征伐だったが、袁祁王は実は平群氏の背後の撹乱工作を担当していたのだ(詳細は別の頁で書いた)。
ただし、さっき書いたように記紀は「この段階(仁賢天皇が即位する前)で顕宗天皇は崩御していたはず」とカタクナに信じていた。そのため矛盾を解消しようとして、『古事記』は平群を滅ぼした主人公が「意祁王の子若雀命と袁祁王」だったのを即位前の「意祁王と袁祁王」の兄弟の話だと思い誤り平群滅亡の事件の時期を繰り上げ歌垣事件につなげてしまい、『日本書紀』は崩御してるはずの顕宗天皇は無関係としてはずして武烈天皇一人だけの事績として、それぞれ辻褄あわせをしたわけだ。

古事記の終わりの方は系図だけで物語がないのはなぜか?
古事記について、「帝紀」(=系譜の部分)は推古天皇までだが、「旧辞」(=物語の部分)は顕宗天皇で終わっている、とよくいわれるが、これは間違いで、歴代天皇の物語の部分は「旧辞」ではなくて、これも「帝紀」の一部なのである。この事は別のところで詳しく書いた。だから正しくいうと「帝紀の系譜は推古天皇までだが、帝紀の物語は顕宗天皇で終わっている」ということだ。
で、古事記の物語が顕宗天皇で終わってる理由は何なのか?、だ。
が、その前に上述のように「袁祁王と意祁王の兄弟による平群討伐」は実は正しくは「小長谷若雀命による平群討伐」なのであるから、そうすると、結局、『古事記』の物語は顕宗天皇で終わるのではなく、実際は武烈天皇で終わっているのである。だが、先帝崩御と新帝即位の間に起こった事件は、『古事記』では先帝の記事に含むのが通例であるから、武烈天皇の平群征伐の物語は仁賢天皇の記事に含まれることになる。つまり形式上、古事記の物語は仁賢天皇で終わっていたことになる。改めて問題を言い直すと「古事記の物語が仁賢天皇で終わってるのはなぜか?」=「武烈天皇から先は物語がないのはなぜか?」ということになる。
しかし、仁賢天皇と武烈天皇は『日本書紀』でも在位期間が短く、量が少なくてほとんど『古事記』と大差ない。物語がないのは単純に在位期間が短かったために大事件が起こらず、仁賢天皇と武烈天皇の二代間の御世は本当にもともと物語がなかったのだとしても格別おかしくはない。問題は継体天皇以降だ。いわゆる欠史十代(仁賢天皇〜推古天皇)のうち、仁賢・武烈・安閑・宣化の4帝は在位が短く『日本書紀』でも量が少ないからわかるとしても、継体・欽明・敏達・用明・崇峻・推古の6帝は『日本書紀』には豊富な記事がたくさん載っている。なのにどうして『古事記』にはなんの物語もないのか? つまり「古事記の物語が仁賢天皇で終わってるのはなぜか?」という問いは正確には「継体天皇から先の物語を載せなかったのはなぜか?」という問いになる。
従って、これについては継体天皇の回で謎解きをしよう。

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