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『古事記』下巻の意図

2679年(H31年・新年号元年)3月22(金)改稿 H28年2月17日(水)初稿
『古事記』は武烈天皇を悪王とはしていない
武烈天皇はあれこれと残虐な行為を嗜んでいた悪王で有名だが、それは『日本書紀』に描かれた武烈天皇であって、『古事記』にはぜんぜんそんなことは書かれていない。これは『日本書紀』が、中華式の王朝交代にみせかけるために、仁徳系の最後の武烈天皇を暗愚に、息長系の最初の継体天皇を英邁に、それぞれ脚色したものだということは以前にも書いた。しかし『日本書紀』は余計な脚色をプラスしただけで、事実を消したりはしていない。実際の人物像は逆で、武烈天皇は聡明果断な英雄であり、継体天皇の方が失政が目立つ。つまり事実と真逆の脚色をしているために、記述が矛盾してチグハグになっている。
『古事記』は余計な脚色をしておらず、武烈天皇については良くも悪くもいってないが、以前に説明した通り、志毘臣(=平群鮪)を成敗したのは顕宗天皇ではなく、まだ皇子だった頃の武烈天皇(=小長谷若雀命)だったとする『日本書紀』が正しく、『古事記』はこの点については誤っている。本来この記事があったとすれば『古事記』の武烈天皇はかなり果断で英雄的なイメージだったはずである。これに対して、『古事記』では継体天皇にも何らの記事がなく、いわゆる「闕史十代」の3人めとされている。が、よくみると、ただ一言、たったの一行で、「磐井の乱」(紀:磐井、記:石井)が起こったので物部荒甲(紀:物部麁鹿火)と大伴金村の二将軍にこれを鎮圧させた話だけが載っている。これだけみると武烈天皇が平群氏を滅ぼしたように、継体天皇も磐井を滅ぼして功績をあげているように一見おもわれる。が、ではこの一行を加えることで『古事記』は継体天皇を顕彰しているのだろうか?

「磐井の乱」とは
詳細は継体天皇のところでいうべきなので、ここでは簡単に説明する。
新羅が金官(そなら:今の慶尚南道の金海(キメ))と喙己呑(とくことん:今の慶尚北道の慶山(キョンサン))という2ヶ国を侵略したため、継体天皇は新羅を征伐して2ヶ国を復興しようとして、近江臣毛野(おうみのおみ・けぬ)という者を将軍として、彼に6万もの大軍を授けた。新羅がこの2国を併合したにはやみくもにいきなり侵略したのではなく、長い経緯があるんだが今回はそこは省略。で、九州の筑紫国造だった竺紫君石井(つくしのきみ・いはゐ)は新羅と結託し、任那派遣軍を阻止するため反乱を起こした。ここで磐井が謀反を起こしたのは、これもそれなりの理由があったわけだが、その話は継体天皇の回でやることにして今回(武烈天皇の回)ではやらない。いちいち長くなるので。さて、近江臣毛野は6万もの兵力を持ちながら磐井の反乱軍をどうすることもできず、後からきた物部大連荒甲(もののべのおほむらじ・あらかひ)が磐井を平定した。それでやっと近江臣毛野は任那に着任したのだが、その間にたっぷり時間をかせいだ新羅に翻弄されたのもあり、本人の無能さのせいで味方であるはずの任那や百済とトラブルを起こし、任那諸国に大混乱をもたらし、任那諸国からは怒りを買い、百済には日本政府の政治音痴がバレてしまい、半島南部における日本の権威は地に堕ちた。
つまり、「磐井の乱」という一つの独立した事件があったのではなくて、「継体天皇の新羅征伐」という7年間も続いた一連の大事件の中に、「磐井の乱」というわずか1年(足かけ2年)の一幕があるにすぎない。

継体天皇に批判的な『古事記』
磐井の乱そのものは鎮圧されたが、乱の余波は甚大な被害をもたらした。それは任那の大混乱であり、ひいては任那日本府滅亡の遠因となっている。しかも、悪の元凶というべきは近江臣毛野だ。
この近江臣というのは竹内宿禰系で、羽田氏の同族なんだが、滋賀県の高島市を本拠として、継体天皇が生まれ育った三尾の高島宮(書紀には「高島郡三尾の別業」ともあり)があったところ。つまり継体天皇とは個人的に深いつながりがあった。このことから角林文雄などは、無能なやつを抜擢したのは「継体天皇の情実人事」だとまで言ってる。確かに物部麁鹿火の時と違って、大軍を率いて出陣したわりに詔勅もでてない。これは通常の正規の手続きでの任命でない可能性がある。中央政府から何度も帰還命令が出てるのに無視してたのも、継体天皇じきじきの命令でなければ帰還するわけにはいかないという事情があったのかもしれない。
ともかく角林文雄の説が正しければ、この無能な若者を抜擢したのは継体天皇本人なのである。いってみれば磐井の乱は継体天皇の功績というよりも、最大の失政であり、わざわざこの件だけを唯一書き加えているのだから、当時の事情に詳しい人がみれば『古事記』が継体天皇を顕彰しているどころか遠まわしに批判していることは明らかである。『古事記』は
この御世に、竺紫君石井、天皇の命に従わずて礼無きこと多かりき。かれ物部荒甲の大連、大伴の金村連の二人を遣わして、石井を殺さしめたまひき
とあるが、これは精一杯、遠まわしに書いてあるのであって、歴史的事件の説明としては要領を得ていない。ここは客観的に遠慮会釈なくいえば
この御世に近江臣毛野を遣わして任那を惑わしめ乱さしめたまひき
と言うことなのである。ただし、ここで、継体天皇を擁護しておくと、実は「磐井の乱」の直前に継体天皇は崩御しており、新羅征討軍として準備された6万の軍を解散するわけいもいかず、喪を隠して迅速に半島問題を解決してから崩御を発表しようとしたらしいのだが、詳細はここでは触れない。ただ、そういう事情をもし原編纂者が知っていれば、これは継体天皇個人への批判ではないことになるが、おそらく知らなかったろう。(これは継体天皇じきじきに近江毛野に帰還命令を出せなかった理由でもある。本人がすでに崩御していたので)

では『古事記』は誰を顕彰しようとしているのか
『古事記』の下巻は、仁徳系統が断絶し、(仁徳系と同じく応神天皇の別れだが)別系統の継体天皇が応神系を継ぐという、「応神皇統」の物語なのだ、と誰しも言いたくなるだろうが、前述のようになぜか継体天皇には批判がましい雰囲気がある。継体天皇を顕彰しようと思えば他にもいくらでも記事があるのに「磐井の乱」だけをいうのは解せない。
そこで別の説としては、系譜しかない闕史十代を除いて物語だけでみると、仁徳天皇に始まり、顕宗天皇に終わっているので、市辺押歯王が雄略天皇に殺されて履中天皇の系統が一旦途絶え、その後、仁賢・顕宗の兄弟が復位して履中皇統(仁徳天皇の嫡流)を復興させるという、仁徳(=履中)系の復興をテーマとした壮大な歴史の物語とみる説がある。この説の場合、仁徳系だからといって履中系と允恭系を同一視せず、允恭系の允恭・安康・雄略・清寧の4帝のことは悪王として描いているか、少なくとも称賛してはいないのだ、とする。そして、あくまで履中系を称賛するのが目的だという。しかしそれだと、武烈天皇で断絶してしまうわけだから、「めでたく大団円」とはいかないだろうと思う。
ならば、第三の選択として、断絶の悲劇を描くというテーマ設定もありえたはずだが、実際の『古事記』は明らかにそういう趣旨にはなっていない。では『古事記』は磐井の乱をいうことで何を意図しているのか?
第4の説として、継体天皇の回でいうべきことなのでここでは簡単にしかふれないが、531年三月に天皇が崩御したという『百済本記』は伝聞だという体裁になっており、ストレートに事実だとはいってない。朝廷は継体天皇の喪(実際は丁未527年に崩御)を隠していたので、531年十月に日本府の毛野と対峙していた百済新羅連合軍が解散(書紀は誤って前年のことにしている)して任那問題のすったもんだが一段落したのを機に、継体帝から欽明天皇への譲位を発表したんだろう、だから532年を欽明天皇元年とする史料(『元興寺縁起』とか『法皇帝説』とか)が残ってるわけ、つまり書紀のいう空位2年間は本当は欽明天皇の在位期間だったのだ。だがその後、任那情勢は沈静化するどころかますます混乱して目も当てられない情況に突入していき、欽明天皇の在位はわずか2年で、兄の安閑天皇の即位となる。この時は継体帝(というか上皇だが)は生きている建前だったから、継体上皇の意志ということにして「まだ幼い欽明天皇では現下の困難な情況を乗り切れない」から、欽明天皇が十分成長するまでの間、有能で年長の安閑天皇に一時的に天皇になれ、と遺言して継体上皇は崩御した、という公式発表にしたのである。安閑天皇は任那四県割譲問題の時も情況を正しく認識している憂国派として登場してるし、書紀は安閑天皇に期待し依存する継体天皇の詔勅を載せているほどで、実際に崩御した527年以降といわず、継体天皇がまだ若い頃、まだ近江や越前を治めていた頃から二人の有能な息子に補佐されてきていたんだろう。だから混迷うずまく継体朝の末期は実質、まだ皇子だった安閑天皇と宣化天皇の兄弟が事態を捌こうと四苦八苦して駆けずり回っていた。近江臣毛野が起こした一連の騒乱があった当時、世間では、継体天皇とその嫡子欽明天皇の頼りなさ、それに比べてこの間に活躍した勾大兄皇子(のちの安閑天皇)と檜前高田皇子(のちの宣化天皇)の兄弟の有能さと聡明さが際立ち、内外の人望を集めたと思われる。つまり当時の人なら「磐井の乱」と聞いただけで、継体帝・欽明帝の父子への気まずさと、安閑・宣化の兄弟への称賛を同時にセットで連想したのである。
つまり『古事記』が遠まわしに意図しているのは、安閑天皇と宣化天皇への顕彰であり称賛なのである。ただし安閑天皇には子孫はいないので、安閑天皇を意図的に顕彰・称賛しようという勢力は思い当たらない。宣化天皇の子孫は丹比氏であり、宣化天皇の四世孫(玄孫)多治比真人島(たぢひのまひと・しま)は天武・持統の両朝に仕えて左大臣に昇り、その息子たちも記紀が編纂された奈良時代にみな朝廷に重きをなして、繁栄していた一族だった。奈良時代は草壁皇子の系統だけが皇位を独占しようとしていたのに対し、草壁系統は断絶の危機にあり、それが奈良時代に何人もの女帝が立った原因でもある。そこで、草壁皇子以外の天武天皇の系統の皇族たちや、天智天皇の系統の皇族たちには皇位継承の可能性が残されていたのである。丹比氏も、遠縁とはいえ、当時活躍中だった者たちは宣化天皇の五世孫であり、これは継体天皇が応神天皇の五世孫だったのと同じ。では、この丹比真人氏が自分らの祖先である宣化天皇を顕彰しようとしたのかというと、それがそうではない。

『古事記』下巻は「多治比連に伝わった帝紀」である
この多治比真人嶋の父は多治比王といい、乳母氏族(養育氏族、扶養氏族ともいう)が丹比連氏(のちに丹比宿禰氏)だったことから、多治比王の名で呼ばれた。宣化天皇の子孫である丹比公氏(のちに丹比真人氏)と丹比連氏(のちに丹比宿禰氏)とは別系統の別氏族ではあるが、深い関係で結びついてはいる。
丹比連氏はもともとは尾張連氏の傍流、分家で、反正天皇が誕生してその乳母となった時に、仁徳天皇からの特別の思し召しによって、尾張氏から別れて一家を起こした。反正天皇が皇子の頃に山の民の管領に任ぜられたため、補佐役の丹比氏も山の民の首領的存在になっていく。反正宮家は男系子孫が途絶えてしまったが、ずっと時代が下がって継体天皇の曾孫多治比王の乳母になり、その子孫の丹比公(丹比真人)氏と縁付いた。そのため宣化天皇の御名代である檜前部(ひのくまべ)も管領したし、秩父の丹党は宣化天皇の子孫と称するも、太田亮は檜前部の子孫だろうと推定している。秩父は東日本きっての聖山なのでここに山民の首領たる丹比氏が土着するのはむしろ当たり前で、そこらのありきたりなことしか言わない連中のように後世のこじつけだ等と決めつける理由はない。
秩父三山の一つ、宝登山は蝋梅(ろうばい)で有名。いちど行ってみてほしい。俺もいったけど香りが強くて素晴らしい。
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『古事記』下巻は丹比連氏の伝承に基づいているという説が昔からあり、さらに具体的に奈良時代の多治比島(丹比島)や、丹比間人宿禰足嶋(たぢひのはしひとのすくね・たるしま)が関与しているという説もある。記紀編纂の時、多治比嶋は有力者として関与できる立場にはあったが、新しい氏族であるため独自の伝承としてはさほど古いものはもっていなかった。しかし天之火明命の子孫と称する丹比宿禰氏は極めて豊富な古伝承をもっていたので、丹比真人氏の有力者を通じて記紀編纂に採用してもらおうとしたのだが、丹比宿禰氏は下級貴族で、上層貴族の世界の、皇位継承をめぐる不穏な空気に疎かった。それで、丹比宿禰氏が提出した史料は、良かれと思って丹比真人氏を顕彰してあったのだろうが、そんなものは丹比真人氏からすると謀反の意志を疑われかねない危険きわまりない爆弾のようなものだったから、当然却下した。そういうわけで丹比宿禰氏は『日本書紀』に食い込むことには失敗したが、何かのルートで太安万侶か稗田阿礼とは接触できたのだろう。

古事記は日本書紀とは違って、古い書き方を残そうとしている。なのに、「すくね」という言葉に限ってのみ「足尼」という古い書き方でなく「宿禰」という新しい書き方のままなのが不思議だったのだが、丹比氏は天武十三年に「八色の姓」の第3位である「宿禰」を賜り、連から昇格している。「足尼」と書いては読みが同じスクネでも制度としては「宿禰」と関係がない。「宿禰」を強調し、連想してもらい、自家のカバネを顕彰したかったんだろう。

このブログの別の記事で書いたが『古事記』は当初、神代巻だけの予定で、『日本書紀』は神武天皇以降だけで神代巻は無しになる予定だった。帝紀の編集部(=『日本書紀』の編集部)は稗田阿礼の「帝皇日継」はもちろん、その他の多くの資料を採用したが、息長氏と丹比氏の古伝承に対しては、史料的な価値は高いのに、それぞれの事情(あるいは政治的事情)で排除した。『古事記』編集部は義憤から、それらの価値ある伝承を採用して、息長氏の伝承から中巻を、丹比氏の伝承から下巻を作ったのである。だから『古事記』の中巻・下巻は稗田阿礼の「帝皇日継」と同じではなく、息長氏と丹比氏の伝承以外は最低限必要なこと以外はすべて切り落としている。もともとの稗田阿礼の「帝皇日継」の内容は『日本書紀』に採用済みだからだ。
丹比連氏は反正天皇=多治比水歯別命(たぢひのみづはわけのみこと)の乳母氏族でもあったが、二皇子二皇女がいたにもかかわらずその後の反正天皇の子孫は伝えられていない。しかし反正天皇の御名代(みなしろ、所領)の管理者だった丹比連氏はその後も当主不在となった「反正宮家」の管理人だったのではないかと思われる。雄略天皇に嫁ぐことを拒否したと伝わる反正天皇の皇女らのその後は不明だが、あるいは丹比連氏に降嫁していたかもしれない。とすると、丹比連氏は当面の庇護を雄略系の諸天皇にではなく、「履中宮家」に求めていたと考えられる。そう考えれば、前述の、『古事記』下巻が允恭系を称賛せず、履中系を主軸とした構成になっている理由がわかる。
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(※中巻の経緯についてはまた別の機会に譲る。)
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どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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