FC2ブログ

・神々の姿は妖怪そのもの、土俗文化に現れる神々

差別語について
未開だの土人だのという言葉は今の世の中では差別だとして使われなくなってる。土人というのは記紀にも出てくる言葉でその土地の土着の人という意味であり本来は差別的な言葉ではなく、記紀では「くにつひと」もしくは「くにびと」と読まれている。原住民すらも原始人の「原」だっていうんで先住民と言い換えられている。俺なんか原始人も大好きなのでむしろ先住民より原住民って言葉の方を選ぶんだが。(嘘です。正しくは文脈とニュアンスの整合性に応じて先住民と原住民を使い分けてる。)さらに極端になると「なんでアフリカの部族抗争については『部族』という言葉を使うんだ、アフリカ以外で同じような事件があっても『民族』抗争といっているだろう、これは差別じゃないのか」という声もある。俺なんかむしろ部族の方が好きなんで若い頃は民族主義に反対して部族主義を唱えていたほどなんだが。原住民も未開も部族も差別を意図して使っているのではなく、わたし自身はこれらの言葉を愛用しているので先に男割りしておく。

祖霊との出会い
春分の日は、また「お彼岸」の日でもある。お彼岸というのは現在では仏教行事になっているが、もともとの起源は仏教とは関係がないもので、それ以前から日本含め世界各地に共通にあった原始的な信仰である。これについては、またいつか別の機会に詳しくやるとして、今回はお彼岸の話ではない。
今日、H28年3月20日(日)の春分の日は、お彼岸にふさわしく祖霊に出会うような体験をした。この日は、久しぶりに会った古い友人と、銀座のエルメス本店でやっていた「YÔKAÏNOSHIMA」シャルル・フレジェ展をみてきたのである。(展示内容の詳細は以下のアドレスを参照)
サイト→http://www.maisonhermes.jp/ginza/gallery/archives/14259/
動画→https://www.youtube.com/watch?v=kWVMM7qQxEI
日本列島の北から南まで全国各地の伝統的な民俗行事では、人々が精霊や神々や祖霊や架空の動物などに扮して踊ったり、なにかの役割を演じたりする。その姿を撮影した写真の展示なんだが、一つ一つは、まぁ田舎の昔ながらの村祭りにあるかな、という程度のものも無いわけではないが、改めてみると奇怪なものが多い。ナマハゲそのものならば、化け物といっても典型的であり見慣れてもいて驚きはないが、ナマハゲのバリエーションとなると、見慣れてないせいか、改めて、未開部族の奇怪な扮装を連想させるものがある。ナマハゲのような鬼タイプの系統のわかりやすい怪物ではなく、なんとも得体の知れない妖怪としか言いようのないものも多く、諸星大二郎の『マッドメン』を思い出させるものもある。マッドメンは“mad men”=「狂人」ではなく“mud men”=「泥の男」の意味。全身に泥を塗り奇怪な土面を被った者たちでニューギニアのアサロ族の祭礼で祖霊に扮した姿である。写真展に登場している日本の祭礼の例では、腰蓑つけて全身真っ黒に塗りたくった子供たちも衝撃的な異人類に扮することに成功しているし、鹿踊りの鹿や虎舞いの虎も実在の動物というより空想上の怪物(神獣)にみえる。その他、鳥の羽で飾り立てた北米インディアンの酋長や、陰茎を誇張表現したペニスケースを連想させる扮装もあり、すべてそれぞれの祭礼に登場する祖霊や神や怪物の姿を表している。
そしてこれらが、アフリカ、アマゾン、ニューギニア等の未開部族のようにみえるのが(あくまでよい意味で)衝撃的だ。改めて写真の枠に収まると「こういう見え方もするのかぁー」と驚くが、元の実体がもし動画となって動き語れば、どこにもありそうな日本の田舎の伝統芸能の衣裳として脳が判断してしまい、なんの感慨もない見慣れた映像としか受け取れなくなるのだろう。これはまったく写真の技がみせる「客観的」な形象だ。社会や村組織といった人間集団を思わせるものは背景に一切置かず、森林・海辺・野原などの自然の中だけに「それ」がいるだけでここまで印象が変わってしまう。

原始への憧れ
今回の写真展に出てきた虎舞いは別の地方のものだが、私の出身地にもほぼ似たような虎舞いは伝承され、幼少時から見慣れていたが、このような感慨を生む見え方は考えたことも無かった。物心ついた頃はすでに「中に人間が入って演じている」という、斜に構えたというか、冷めきった見方しかしていなかった。すでにテレビは怪獣ブームで、幼児期のわたしは「中に人が入って演じているってわかった上で楽しんでいる」という態度を周囲の大人から強要されていた。そのせいかも知れない。
だが、写真展の鹿踊りの鹿は、説明書きによるとわたしが生まれ育った故郷のすぐ近隣の郷土芸能のものだった。おそらくテレビニュース等では何度も見聞しているはずだが、ナマで見たという記憶はない。しかし、記憶がないだけで幼児期にリアルで体験していたのではないか、その時の衝撃が、記憶の淵に深く沈殿し、潜在意識に影響していたのではないか。だからわたしはその後の長い人生、一貫して、怪獣や怪人や妖怪が好きで、中でも『モスラ』や『怪獣王子』や『アマゾンライダー』の大ファンで、視覚的には未開部族や土俗文化っぽいもの、物語的には原住民ものや秘境ものに強いフェティズムや憧れを抱くのではないだろうか、と思わなくもない。
まぁ多かれ少なかれこういうの好きな人は多いだろうとは思うけども、近頃はまったく興味ない人もいるようなので。しかしこういうことにまったく興味ない人に限って、古代史の解明とか古事記の解釈とかを論じていたりするケースがまま見られるのだが、そういう人の議論は個人的にはまったく信用に値しないと思うんだが、どうだろうね?

普遍か固有か
冒頭で「民族主義ではなく部族主義を」といったが、その趣旨は、部族というと「遅れてて未開」、民族(国民、“nation”)の方が「進んでて文明的」という、明治以来取り憑かれてきた浅はかなる進歩主義はもうそろそろやめた方がいいのではないか、等という問題提起では必ずしもない。そうではなくて、読んで字のごとし。日本国内では長州と会津は無理に仲良くしなくてもよく、青森県内では津軽と下北は無理に仲良くしなくてもよいのではないか。北米インディアンや、アイヌや、奥羽の古代蝦夷(えみし)は部族ごとに同盟関係と敵対関係が交錯していたから、白人入植者や和人や大和朝廷と同盟する部族と敵対する部族とに分かれて同士討ちをしていたが、同じように日本の戦国時代も、九州のキリシタン大名はポルトガルと、奥州の伊達政宗はスペインと同盟していたし、幕末には薩長は英国と、幕府はフランスと結んでいた。それは悲劇をもたらすことももちろんありうるが、多様性や文化的な豊かさをももたらす。日本が北米インディアンやアイヌのようにならなかったのはある程度健全に機能していた王権があったからだが、王権の起源を外来の征服者・侵略者とする誤った説を基に捏造された「原住民史観」などの議論もあり、長くなるので今回はふれない。
話をもどして、この写真展の感想を通じてわたしが言いたいことは、日本人のルーツがニューギニアやアマゾンだとかという話ではなく、日本人の程度が未開の土人なみだとかという話でもまったくない。
今回のこの写真展でいちばん気が利いてるのは、最後のコーナーにヨーロッパ各地のワイルドマンの写真が展示されていることだ。ワイルドマンというのは欧州各国の伝統行事に登場する怪物の扮装で、安直にいうとナマハゲの西洋版。これらはキリスト教以前の、古代ゲルマン人や古代ケルト人や古代ローマ人の多神教に由来する。で、これの何が気が利いてるというのかというと、説明書きを読むまで、西洋のコーナーに移っていることに気付かない。これは誰でもそうだろう。伝統行事のために妖怪や神や動物に扮装した日本人の姿と、同じく伝統行事のために怪物に扮装したヨーロッパ人の姿が、まったく同じといっていいほどそっくりで、よほどの専門家でもないかぎり区別がつかない。
むろん今日ここでわたしが言いたいことは、日本人のルーツがヨーロッパだとかいう話では全然ない。
日本人のルーツを求めて北方系だ南方系だということには、さして意味がないということなのだ。日本もそうだが、日本に限らず世界のどこでも、古い文化というのは古く遡れば遡るほど、他の文化との違いが薄れ、人類一般に通じる共通性が濃くなっていく。逆にいえば、古くなるほど日本人らしさは薄れるのである。日本人らしさとは神武天皇から発祥したのではなく、長い歴史の積み重ねで形成されたものなのだから、縄文時代よりは弥生時代の方が、弥生時代よりは古墳時代の方が、大和時代よりは平安時代の方が、鎌倉時代よりは江戸時代が、明治時代よりは現代の方が、どんどん新しくなればなるほど、より一層「日本人らしさ」は強いのである。日本人だけではなく、あらゆる民族がそうなのだ。
神話は固有ではなく普遍の側に立つ。特に王権神話はそうである。よく、王というのは特定部族だけの伝統に基づく民族固有の君主で、皇帝というのが複数の民族を束ねその上に立つ普遍的な君主であると説かれることが多いが、それはあくまでアウグストゥスとか漢字の皇帝とかの言葉ができてからの話である。原初の王は、もとから複数部族の連合の君であって、特定部族だけの長は王とはいわないのだ。諸部族を一つに結び合わせるのが王であって各部族ごとに王がいるのではない。それを可能にするのは諸部族が相互に相容れない価値観をもつのではなく、同じ祖先から分かれた遠い同胞であったという神話であり、その同じ祖先とは全人類の共通祖先であって、特定民族だけの祖先のことではないという比較神話学的事実である。

秘境のロマンと現代の現実
氷雪のシベリア、アマゾンやインドネシアのジャングル、アラビアの砂漠、ヒマラヤの山々、太平洋の島々…。どれもロマンと探検心をくすぐる辺境の地で、むちゃくちゃな気候や地形、へんな生き物、滅んだ文明の遺跡、隠された財宝、どれも面白いネタではある。だが、なんといっても私が好きなのは、原住民、未開部族、土人の類だ。しかし前近代の世界全般、そうそうとてつもない野蛮人など存在するものではない。昔は未開なイメージで見られていた遊牧民や狩猟民も多くは文明のネットワークにつながれていて高度な文化をもっていたことも知られてきた。実際、高度成長以前の日本は東南アジアの田舎と大差なかった。最近の発展著しい東南アジア諸国と比べたら高度成長前の日本の方が未開だったろう。
今ではアマゾン、パプワ・ニューギニアの高地、アフリカの奥地ですら、ジーンズにTシャツ、みんなスマホをもっているし、インターネットもやってる。未開部族は特定の集団としては極めてわずかな例外的な存在であり、それこそ「幻の部族」になってしまっている。「結局つきあってみたら普通の人たちだった」みたいな話が、「つきあう前から普通の人たちだとわかっている」時代になってきた。未開部族が好きな部外者にとって残念なことだろうか、古い伝統文化を愛する一部の人には哀しいことだろうか。滅び去った民族は、絶滅してから本当の「異人」化が始まる。「実在することの迫力」から「過剰に仮託される観念」への転換は止められないだろう。70年代なら、滅亡した民族への愛惜と悲劇で語られる幻想譚になるところだろうが、80年代以降はおそらく文学性も思想性も軽い玩具、ラノベ的なものにしかならない。ニンジャ、サムライを思い出せばわかるだろう。ただし、これにも時代にかなった楽しみ方、悪乗りの仕方というのはあるはずだ。70年代の文化は必ずしもマジメさが産んだものではない。

我れ歓びの踊りを踊らん
全裸の体に奇怪な色を塗りたくって槍をもってウッホウッホ言いながらよくわからない踊りを踊る、そんなマンガチックなイメージは大昔のもので、現代人の妄想の中にしか存在しない。だがその妄想せずにはいられない衝動の源はどこからくるのか。
我々はみなおなじ人類であり地球の仲間である。そのことは否定しないが、そういう表現になってしまうことが近代主義的価値観がまいど破綻していく根源に他ならぬ。原住民の原とは原始人の原であり、原始人とは根源人種であり、根源人種とは部族であり土人なのである。けして民族でなく。
今回のこの写真展をみて、わくわくして楽しくなってしまった。日本人もアフリカ奥地、アマゾン、パプワニューギニア等の原住民と同じであり(むろんヨーロッパ人とも)、我々は日本の原住民なのだ、「土人」なのだという強い歓びがあふれだしてやまない。
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
プロフィール

道三(どうさん)

Author:道三(どうさん)
どこから見ても平凡な、一介の町人です

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム