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☆「日本」という国号の起源

2679年(令和元年)4月18日改稿
4月18日は「日本国号の日」smile.jpg
『日本書紀』が我が国の名を「日本」と書いているところ、『古事記』は「倭」と書いている。どちらもヤマトと訓むので、これは別の名ではなく単なる表記の違いにすぎないが、もとは倭と書いていたのをある時期から日本と書くようになり、さらにその後、読み方までニッポンまたはニホンと音読みするようになったというのは誰でも知ってるだろう。で、この日本という表記がいつ頃なぜ出てきたのかという問題は、古代史マニアなら誰でも自説をもっているぐらいポピュラーなネタで、インターネットには自称古代史研究家たちによる珍説奇説があふれかえっている。で、俺は学界の通説が8割ぐらい正しいと思っているが、2割ほどオリジナルの説ももっているので、今回はそれを披露したい。なぜって、今日はH28年4月18日、日本国号統一の日だから。明治以来、日本の国号は日本国、大日本国、日本帝国、大日本帝国などいろいろな言い方があったんだが、昭和11年(1936年)4月18日に当時の外務省は「大日本帝国」に統一した。肝心の「日本」の2文字が合っていればどれも問題なさそうであり、典型的なお役所仕事なのが明白だ。しかもこれは外務省の内規にすぎず法的根拠はなかったのに、一般には正式な決定であるかのように受け取られた。この背景には当時の世論とか空気、政府の思惑、その他いろんな事情があったんだが、『古事記』には関係ないのでこのブログではとりあえず無視する。4月18日が「日本国号の日」であることわかって頂ければ十分である。

「日本」と「倭」の関係についての諸説
まず、ネット上のものも含めて、九州王朝説、任那日本府説、物部氏説、天武天皇説、蝦夷地名説、百済別名説などがある。知ってる人には言わずもがなのことだが、これらの諸説に共通する前提として、『旧唐書』と『新唐書』がともににもともと倭国だったがそれとは別に日本という小国があったとしていて、『旧唐書』は日本が倭国を併合したとあり、『新唐書』は逆に倭国が日本を併合した時に日本の国名も採用したのだという。これをどう解釈するかで説がわかれる。

1)古田武彦の九州王朝説はもともと九州に倭国があったのだが白村江の戦いで滅亡し、最終的には今の関西にあった日本国に併合されたという説。これはネットでも人気のある説で、ネット上にはそのバリエーションもたくさんある。しかし有力な批判もたくさんあって、学界では相手にされてない。
2)任那日本府説は騎馬民族征服説で有名な江上波夫の説。任那(朝鮮の南部)に騎馬民族が作った国が日本で、その日本が倭国(日本列島)を征服したという説。任那日本府というのは日本書紀の造語であってそんな言葉はなくリアルタイムでは「任那倭宰」といっていたというので、この説も騎馬民族征服説ともども葬り去られて古いのだが、ネットでは時々この説の信者が現れる。
3)大和岩雄の天武天皇説は、壬申の乱で勝利した天武天皇が倭国から日本へ改名したのだという説。従って、この場合の、日本が倭国を併合したという話は、大海人皇子が率いる東国軍が弘文天皇をトップとする近江朝廷を滅ぼしたことに該当する。大和岩雄自身は珍説奇説を唱えることもあり、在野の学者だから学界の一般を代表するものではないが、670年から702年までの間で、国が真っ二つに分かれて戦うような大戦争といえば壬申の乱しかないので、「天武天皇が倭国から日本へ改名した」とまで言わずとも、日本が倭を併合したという話は壬申の乱のことを伝聞したものだろうという点だけは、大庭脩が指摘して以来、ほぼ学界の通説となっている。ただ、正式に日本に改名されたのは大宝律令(701年)で、という学者も多く、天武天皇が改名したというのは学界の定説にはなっていない。大宝律令説はギリギリまで遅めにみてるわけだが、なぜそこまで引っ張らねばならないのか、必然性が理解しにくい。ただの左翼根性じゃないのかと勘ぐりたくなる。大宝律令説への批判は後述するが、ともかく、天武三年(674年)三月七日には日本で始めて銀が産出したと対馬から報告があり、この銀をすべての天神地祇に献上し、官僚貴族たちにも下賜した。書紀では日本全体をさすヤマトは「日本」と書き、今の奈良県をさすヤマトは「倭国」と書き分けているのに、この条文では例外的に日本全体をさして「倭国」と書いている。これはこの時までは倭国と書いていたのをこの時に日本と改名したことの名残ではないか。天武十二年(683年)正月二日には三本足の雀が献上されこれを瑞祥として天武帝から長い詔勅が出され大宴会が催されている。大和岩雄は、改名した日付をこの天武三年(674年)三月七日か、同十二年(683年)正月二日のどちらかが「改名された日付」だとして、この2案に絞っていた。これは後に「禰軍墓誌」の発見によって決着する。
4)百済別名説は、倭国は百済の属国だという説が70年代から北朝鮮や韓国で流行していたが、平成23年(2011年)に発見された「禰軍墓誌」に日本という国名が書かれており、これが日本列島の国ではなく、百済の別名のように読めることから、前述の任那日本府説と似たような説を新たにつくることができる。つまり百済(=日本)が滅亡した時に倭国に逃げた亡命百済人が倭国を征服して日本国ができた、と。またこれとは無関係に、新羅にも日本という別名があったという説があり、新羅が倭国を征服して日本国を作ったというバリエーションもすぐできる。「禰軍墓誌」については後述する。

上記の四説は日本が倭国を併合したという『旧唐書』に従っている。これに対し『新唐書』のほうが正しいとして倭国が日本を征服したのだというのが下記の三説。

5)谷川健一の物部氏説では、神武天皇以前に饒速日命に始まる物部氏の勢力(王朝?)が関西を支配していて、大阪府の草香には太陽信仰の中心があって「日下の草香」(ひのもとのくさか)と呼ばれていたという。つまり『新唐書』の倭国が日本を併合したというのは神武東征のこととなる。しかし時期があわないし、草香を日下と書くのもここに日祀部(ひまつりべ)があったことで説明は十分に思える。この物部説も今では否定されている。
6)高橋富雄の蝦夷地名説は、坂上田村麻呂が東北の蝦夷の地の石碑に「日本中央」と書いた伝説その他の事例から東北を「日本」といっていたことがわかる。『日本書紀』が今の宮城県仙台平野を「日高見の国」といっていて、この日高見は日本と同義ではないかとし、「大祓詞」に天孫が「大日本日高見国」を治めるとあるのは日本一国の美称ではなくて、大日本(おほやまと=倭国=西日本)と日高見(=日本=蝦夷の地)を併称したものだという説。ただし倭国による日本の征服を斉明天皇の時の阿倍比羅夫による征夷としているのでこの説も時期があわない。後世、東北地方を日本と呼ぶようになった経緯については後述する。
7)前述の百済別名説を逆転したような話で、倭国百済合体説。亡命してきた百済王族から、天智天皇は百済王位の証である「大刀契」(だいとうけい)を献上され、ここに百済王をも兼ねる存在となり、旧来の倭国と百済とが合体して新しくできた国として日本を名乗ったのである、という説。岡田精司だったか誰か忘れたが以上のようなことをいっていた。ここで「禰軍墓誌」の誤読に基づいて、百済の別名が日本だったとすると、倭国が日本を吸収したというような理屈が成り立つ。

『新唐書』の説は後世の知識で辻褄合わせに書き直したものというのが通説で、『旧唐書』の方がオリジナルであるから、上記の三説はどちらも不可である。

「日本」に改名した時期の絞り込み
改名した時期についていうと『旧唐書』によって670年に唐に到着した遣唐使までは「倭」と自称していたことがわかる。また「日本からの使者」と自称した遣唐使の最初は粟田真人だという。彼は702年に唐に到着している。『旧唐書』日本伝では長安三年(AD703)としているが『旧唐書』武后本紀と『通典』がともに長安二年(AD702)としているので、703年説は誤記だろう。『続日本紀』によると確かに文武天皇大宝元年(AD701)に粟田真人(あはたのまひと)を遣唐使に任命、翌二年(AD702)に出航している。となると倭から日本への改号は、早くて670年、遅くて702年、その間の出来事であると絞られる。
後述の「禰軍墓誌」と『日本世記』も採用できるなら678年から686年頃までの間と、さらに絞れることになるがこれについては後述。これと別に岡田英弘は『三国史記』新羅本紀を盲信して日本への改号は670年のこととしているが、これは旧唐書の670年の記事と703年の記事の間に改号の話が書かれているので直前の670年の記事の続きだと誤読したもの、というのが通説であって『三国史記』の独自伝承などではない。岡田英弘はたいした根拠もあげず断言調で言う割りにこういうポカミス(?)が多いので要注意人物だ。これとも別に、702年に則天武后が日本と名付けたのだという説がある。唐の許し無しに勝手に改名できないはずだ、と。こういう人は、もし則天武后が認めなかったら倭国は日本への改名を中止したとでもいうのだろうか。702年は明らかに日本側からの自称であるが、日本側の自称を則天武后が認めたから則天武后が日本と名付けたことになるのだ、という理屈はおかしいし、反対されてそれを押し切って始めて自称したことになるとでもいうのだろうか…。日本の国内でいつ発表したかということとは無関係に、端的な事実として対中国外交で始めて「日本だ」と公式に伝えたのが702年であることにかわりはないが、それだけのことにすぎない。単なる情報認識を「許可」「容認」と自然に思い込んでしまう心理は相手に対する卑屈さ以外の何物でもなかろう。我々はニホンとよぶが英語圏でジャパン、中国でリーベン、韓国でイルボンとよぶのは各国が国内で勝手にやってることで、別に日本が許可するとかしないとかの問題ではない。高句麗が高麗と改名したのは450年頃で、高句麗からの国書もずっと「高麗」だったと思われるが、中国側は520年まで無視して「高句麗」と呼び続けていた。しかしそれで国交が揉めたわけではない。倭国が天子と自称しようが、天王あるいは天皇と自称しようが、向こうは勝手に「倭王」と言い直してくる。それは各国が勝手に自国の都合でやってることであり、それを、武力を用いても自国の論理を強要するか、喜んで相手の主張を受け入れるか、どっちつかずでスルーするかは、その時々の政治的な都合と力関係、エネルギー効率、特定目的意識などの諸要素で決まる。中国はどちらかというと異民族との国交を必要としている場合が多いので、相手の自称を認めないまでも、それを理由に揉め事を起こすぐらいなら無視することが多め。ちなみに『日本書紀』では南朝の宋も梁も一切その国号を認めず「呉国」(くれのくに)で押し通してる。南朝の国々の自称を日本は認めなかったことになるのかというと、そうではなく、単に日本国内での呼び方が「くれ」だっただけだろう。外交文書には当然相手の正式な国名を書くにしても、国内では日本語を使っているのであって「くれ」という日本語があるのだから、国内でわざわざ相手にあわせて宋だの梁だのと呼んであげなければならない理由はない。日本国内の日本人で、アメリカ合衆国を「ベイコク」といわずいちいち「ユナイテッド・ステーツ」といってるやつがいたらアホだろう。

「禰軍墓誌」の解釈
「禰軍墓誌」の一文を一部の人は「日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ、風谷に残った輩は盤桃を信じて堅く抵抗した」と訳してるが、その部分の原文は 「…于時日夲餘噍拠扶桑以逋誅風谷遺甿負盤桃而阻固…」となっている。この原文みると「負」になってる字を、訳の方は「信」と読んでるのか? 「負う」とした方が意味は通るが。ともかくこれだと単に「百済の別名として」日本って言葉を使ってるだけで「百済にいた倭人」だけを「日本」といったという解釈はできない。日本とか扶桑とか、もともとは漠然と東のはてをさす架空の地名だった。だから日本とか扶桑という名で具体的にはどこをさしてるのかは文脈によってかわってくる。禰軍という人は高句麗・百済・新羅・唐・倭国が入り乱れた戦いの中で出世した人だから、その生涯を讃える墓誌には各国の名を書かざるを得ないんだが当時の国際情況は流動的で、唐が突然どの国と和親しその国と戦争するかわからない情況だった。だからあまり特定の国をやっつけたって自慢しにくいので各国の名を当時の架空の地名に置き換えて書いてる。この墓誌では百済とか倭国とかの正式な国名を言いたくないから、わざと架空の地名をもってきてボカして書いてる。事件レポートとかで「埼玉県の鈴木一郎さん31歳(仮名)」とかいう時の仮名のようなもの。でもこの文章よめば当時の人は何のことだかわかるようにはなってる。だから、扶桑とか日本とか風谷とか盤桃とか、ぜんぶ当時は正式な地名として使われてない言葉ばかり選んでるわけ。そうと気づけば、この墓誌に書かれている「日本の残党が扶桑に立てこもって殺戮を免れ…」というのは、単に「百済の残党が倭国に逃げた」といってるに過ぎず、何の問題もなくすんなり解ける。事物の名を雅語に置き換えるのは漢文ではよくあることだ。当時はまだ日本も扶桑も、漠然と東の方にある国っていう意味しかないんだが、中国の古代神話では、扶桑の方がより東で、日本はその近く(手前側つまりちょい西)っていう設定に一応はなってる。だから、百済のことを日本、倭国のことを扶桑と表現してるわけ。従って、百済そのものの別名として日本という名が実際にあったわけではないし、まして百済在住の倭人集団を日本と呼んでいたということにもならない。逆にいうと、百済の別表現で日本という単語をもってこれたということは、この墓誌が書かれた678年(天武七年)の段階では当時まだ倭国は日本に改名していなかったということがわかる。改名済みだったら百済を差すのにわざわざ日本という単語は選ばなかったはずだから。

結論・改名の正確な時期(対中国)
つまり改名の時期は遣唐使の情報から「670年〜702年の間」とされてきたが「禰軍墓誌」のおかげで「678年〜702年」と絞られることになった。となると天武三年(674年)に倭国から日本に改名したということはありえないから、大和岩雄のもう一つの候補である天武十二年(683年)説の方が正しいことになる。これに対して、前述の701年の大宝律令説もあるが、これはダメだ。『三国史記』新羅本紀の孝昭王七年(698年)には「日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す」とあるからすでに日本になっている。また『日本書紀』に引用されて書物に『日本世記』という書がある。天武朝の末頃(686年)に編纂されたものだから、その頃には日本になっていたのがわかる。日本書紀は倭の字をすべて日本に書き換えているが、書物の題名まで書き換えることは当時も歴史の常道としてないことなのだ。また天武十年(681年)の飛鳥浄御原令で日本になったとの説もあるが、この年は律令の編纂を命令した年であって完成した年ではない。大宝律令説もそうだが、国名変更を必ずしも律令の制定と絡めて考えなければならない必然性はない。国名は所詮は地名であって法ではなく、律令は王朝を規定するものではなく王朝が律令を規定するのである。王朝=天子は法の上に立つ。国号=「朝号」の改定を律令と絡めようというのはよほど年代推定の手がかり探しに窮しているのだろうが、大和岩雄のように天武紀をよく読みこめば、不自然な(理由の不明瞭な)宴会が何度か開かれており、背後の政局がいろいろ推察されるケースがある。宴会の理由と思しき瑞祥なども三本足の鳥など「日本」という国号と関係の深いものが出てくることがある。上限は「禰軍墓誌」によって678年、下限は『日本世記』によって686年。その間の候補として681年説(飛鳥浄御原令説)と683年説(大和岩雄)があるが、前者はすでに述べたように無理。670年説(岡田英弘)・674年説(大和岩雄)・701年説(大宝律令説)・702年説(武后命名説)は皆はずれる。

改名の理由(…&本当に改名だったのか?)
天武天皇が改名したといっても、前述の通り、表記を変えただけで読みは一貫してヤマトなのだから、国内的には国名を変更してはいないともいえる。ただ、書かれた文字がすべてである中国人に向けてのみ改名しているのだ。これは白村江の戦いで負けた前政権(倭国)と現在の天武政権とは別の国ですよ、というアピールである可能性は高いとは思うが、そんなコスいやり方が通用するのかというツッコミも、言われてみれば反論しにくいが、壬申の乱というのは関ヶ原の戦いと戊辰戦争をあわせたような、史上最大の大戦争だったので、それを経験した当事者が王朝交代を気取ってみせても文句を言われる筋合いはないって気分もわかるんで、この時期に国名表記をかえることになった理由には格別疑問は残らない。天武天皇が改名した理由についていろんな人がいろんなことを言ってるが、これ以外の理由はどれもこれも過大に評価してはならない。例えば、蘇我氏についても宗賀・巷我・蘇賀など様々にかかれたように、当時は発音=読みが「名前」なのであって漢字表記はなんでもよかった。倭だろうが日本だろうが所詮「当て字」なのであって、国名はヤマトで何も変わりないわけで、国内向けとしてはインパクトはかなり弱かったろう。それだけでなく、後述のように、日本と書いてヤマトと読むこと自体は、それまでも公式・正式な書き方とされてなかっただけで、そういう書き方自体はもっと前からあったのだとしたら、なおさら驚きのない話だったろう。
また「改名」ではなく「表記方法の変更」だとわかれば、なぜまだ倭国だったはずの天智天皇以前までもさかのぼって「日本」と書いているのかも理解できる。これは実は高句麗にも前例があり、前述の通り450年頃に「高麗」と改名したのは国名の変更ではなく、これもただの表記の変更(ただし中国に向けてのみ「改名」)で、自国語での自称は「コマ」だったと思われる。

第2章(前編)対中国と対朝鮮で時期が異なる説
ところで、新表記を決めるにあたって「日本」以外にも候補はいくつもありえたはずで、後世に日本の別名としてあげられた中国の神話上の地名としては日本の他にも「日下」「日域」「日東」「扶桑」「扶木」「若木国」「蓬莱」「方丈」「瀛洲」「東海姫氏国」「東海女国」「女子国」「君子国」「烏卯国」「阿母郷」等がある。それらの中からなぜ「日本」が選ばれたのかという問題はある。おそらく正式な名称ではないながらも、倭国の別名として日本という名は並行して使われたのていたからではないか。これは何もわたし個人の説ではなく、本居宣長は中国に対して日本を使うより前に、中国には倭と称するが三韓(朝鮮)諸国には日本と称していた時期があったとしている。宣長は、大化元年(645年)七月に高句麗と百済に下賜した詔書に「明神御宇日本天皇」と書かれていることから、対中国では702年の遣唐使から日本という名を使ったが、三韓(朝鮮)諸国に対してはそれ以前から日本を使っていたのではないかと考えた。現在ではこの部分の「日本」は『日本書紀』が書き換えたものとして宣長の説は否定されているが、個人的には宣長の方が正しいのではないかと思う。なぜか。書紀に引用された百済三書のうち『百済記』と『百済新撰』は倭と書いているのに『百済本記』だけが日本になっている。書紀が一律に日本に書き換えたというならなぜ『百済記』と『百済新撰』は倭のままなのか説明がつかない。そこで小林敏男は、日本という名は「百済から倭国を呼ぶ表記」として成立し、国号として正式に採用される以前から、ヤマトを日本と書く行為が流行していたのではないかと推測している。このことは軽く流してはならない。これは事実上、宣長説の復権だからだ。
さてそこで、百済三書ではいつまで倭で、いつから日本になっているのかを調べると、武烈四年(502年)に百済の昆支王子(こんきせしむ)が倭国にやってきたという『百済新撰』の記事が「倭」の最後で、継体三年(509年)に久羅麻致支弥(くらまちきみ)が日本から百済に派遣されてきたという『百済本記』の記事が「日本」の初出だ。さすれば「502年〜509年」の間に倭から日本への改名があったことがわかる。しかしこの時期に国名をかえねばならないような特別な理由として一体なにがあったのだろうか?

第2章(中編)「于山国」について
この頃、新羅は現在の鬱陵島にあたる「于山国」(うさんこく)を亡ぼして併合している。
『三国史記』新羅本紀によると、新羅は503年にそれまで様々に書かれていた国名を「新羅」に統一し、尼師今(にしきん)という君号を「国王」に変更した。505年には悉直国(しっちょくこく)を併合して悉直州(日本海沿岸地方)を置き、異斯夫(ゐしふ)という臣下を悉直州の軍主(地方長官)に任命。512年には異斯夫は何瑟羅州(かしらしゅう)の軍主となるが、悉直州も何瑟羅州も同じものの別名で、ただ州治所が悉直(今の江原道三陟市)から何瑟羅(今の江原道江陵市)に遷ったため州名もそれに応じて変わっただけのようだ。この年、異斯夫は現在の鬱陵島にあたる「于山国」を攻めて服属させたといい、異斯夫列伝にも同じことが書かれているが、これがおかしい。鬱陵島の対岸の三陟にいた時は何もなく、北に遠ざかった江陵に遷ってから島を攻めたというのは不自然だ。原資料には何瑟羅州の軍主になった時とあったために編纂者の金富軾は512年のことと判断したのだろうが、州の治所が移転しただけなのにまるで別の州の軍主に転任したかのような書き方になってるのは、悉直州と何瑟羅州が同じ州だと知らない者が誤認に基づいて書いた原資料を、金富軾がそのまま載せているのだ。同じ州の軍主なのだから異斯夫は2回ではなく1回しか軍主になっていない。軍主になった時に于山国を服属させたというのは、従って実は512年ではなく505年のことなのである。
この「于山国」だが、毛利康二は『梁書』にでてくる「扶桑国」とはこの于山国であることを詳細に論証している(その詳細は面倒なので引用しないが別の機会に詳しくやるかもやらないかも)。新羅に征服される前の于山国は仏教の栄えた独立王国として中国にもその名が知られていたのである。毛利康二は『三国遺事』にでてくる延烏郎(えんうろう)と細烏女(さいうじょ)が日本の国王になったという話に出てくる日本とは、日本列島の倭国とは関係なくて、この鬱陵島のことだったというが賛成できない。『三国遺事』はかなり後世の書物だから、その日本とは日本列島の日本(かつての倭国)のことと考えるのが普通だろう。ただ、延烏郎と細烏女の伝説なぞ持ち出さずとも、扶桑というのはもともと中国の神話にでてくる架空の地名を借りたもので、現地の土着語ではないし、鬱陵島の本来の地名でもない。そして日本というのも元は中国の神話上の地名で、東をはてをさす漠然とした言葉だったという点では、扶桑の類語というか、ほぼ同義語、同語なのであり、于山国(鬱陵島)には扶桑国の他に「日本国」という別名もあっただろうことは容易に想定できる。そして、扶桑にしろ日本にしろ、どちらも、後年倭国がそう呼ばれることになった名でもある。これは偶然だろうか。前述の、百済が倭から日本へ呼び名を変えた時期(502年〜509年)に、于山国が新羅に征服された505年はまさに含まれているではないか。
『日本書紀』雄略二十二年に浦島子が蓬莱山に行った話がでている。『丹後国風土記』では蓬山になっていてこちらが正しく、書紀が蓬莱山と書くのは蓬山を蓬莱山の略記だと誤解したからだが、蓬は扶桑の「扶」と音通、蓬莱山の山は于山国の「山」で、蓬山=扶桑=于山はいずれもフサンの音写である。鬱陵島の扶桑国は中国にまで有名だったのだから、鬱陵島に独立国があることは倭国にも知られていて当然だろう。それが浦島伝説の複数の元ネタのうちの一つなのである。

第2章(後編)倭国から日本へ改名した時期(対三韓)
毛利康二は平安時代にも鬱陵島の住民が山陰地方に流れついた例をあげているから、于山国が新羅に滅ぼされた時、倭国に逃げてきた者もそれなりにいたのではないか。倭は新羅を属国とみなしていることは于山国にも知られていたろうが、仮に知らなかったとしても、彼らが倭王(天皇)に助けを求めることはありうる。彼らが第二の故郷と定めた倭国に、改めて扶桑または日本という名をつけたのではないか。そもそも扶桑も日本も、于山国の本来の名ではなく、中国の神話にでてくる仮想上の地名であり、東のはてを漠然とさしたものである。しかしその名を借りた国家は新羅に滅ぼされてなくなった上、倭国は鬱陵島よりも東へと広がっているのだから、むしろ倭国のほうが扶桑や日本の名にふさわしい。ただし、その時には扶桑の名は選ばれず、日本という名だけが採用された。そのわけは、扶桑国がすでに仏教の栄えた国としてだけでなくその他の特殊な文化も含めて中国に有名になっていたので、現実の倭国とのイメージのギャップが大きかったためと思う。我が国の別名として扶桑が使われたのは三百年以上あとの貞観元年(859年)のことで、この頃は倭国とは別に扶桑国が存在したこともほぼ忘れられていたのである。
なお、新羅も于山国を併合したことで扶桑もしくは日本を名乗る資格を得たわけで、そこで国名改定の議が起こった。『三国史記』新羅本紀によると、新羅は503年にそれまで様々に書かれていた国名を「新羅」に統一し、尼師今という君号を「国王」に変更したというが、この記事はすこぶる怪しい。考古学的に判明している事実としては、この後も新羅は長いこと寐錦王と葛文王の二重王制であり、まだ「国王」制ではなかったのである。503年の事実はそれまでの寐錦を寐錦王、葛文を葛文王に改めたというだけであり、君号改定の記事だからついでに国名改定の件も同記事に書かれただけだろう。国名改定の方は実際には2年後の505年の話なのだ。つまり于山国を併合したからこそ国名改定の議題が生じたわけで、今まで何の支障もなかったのに、この時になって訳もなく国名改定の議がでてきたとしたらおかしいだろう。しかし倭国が日本と改めることになったので、新羅には扶桑も日本も使わせないことになったのだろう。「いろいろな言い方があったのを新羅という表記に統一した」というのは、その真相は国名変更が沙汰止みになって「新羅」に固定させられたということなのである。むろん、とはいっても非公式な私称としては稀に使われた。唐の頃になってもまだ新羅の別名として日本が使われることがあったのはこの名残だろう。ちなみに『日本書紀』の編年では505年は武烈天皇七年にあたるが、武烈天皇は実際はもっと前の人で、この頃はとっくに継体天皇の時代になっていたと思われる。

第2章(補足)「于山国」はもとから新羅領だった?
ところで、新羅が于山国を勝手に征伐すると、それを口実に倭国が干渉してくる恐れがあったはずだ。現に、524年に新羅が金官(そなら、今の金海)と喙己呑(とくことん、今の慶山)という2ヶ国を併合した時は、日本は新羅を成敗するため6万もの大軍を派兵して任那が大騒ぎになったことがある(この時の将軍が近江臣毛野)。鬱陵島は任那にはふくまれないが、理屈はなんとでもつく。当時の国際社会は現代と違って、「たとえ国力に大差があっても独立国ならお互いに対等だという建前」が存在しない。「罪もない于山国に攻め入るとは極悪非道、よって悪を糺すための正義の軍だ」と称して、高句麗や倭国や百済が攻め入ってこないとも限らない。通常ならそのはずなのだが、今回はそういう情況が見あたらない。実は、于山国はもともと新羅の一部だという認識が、五世紀の初めぐらいから倭国にも高句麗にも共有されていたのではないかと思われるのだ。それはなぜか。
神話上の樹木である「扶桑樹」が生えているという空想上の漠然とした地名だった「扶桑国」がにわかに具体性を帯びてきたのは前漢の頃からだった。漠たる神話に尾ひれがついて具体化するのはよくある話ではあるが、この前漢の頃というのは漢の武帝が朝鮮を併合して楽浪・玄菟・臨屯・真番の四郡を置いた時代でもある。このうち東経で最も東なのが今の朝鮮半島の江原道にあった臨屯郡でその郡治所のあった県を「東暆県」といい、日本海に望む今の江陵市にあった。東暆とは「東を見る」という意味で、江陵から日本海を渡って東へいけば鬱陵島がある。この鬱陵島の遠望が、中国の文献にみられる「扶桑」の描写の元ネタになったことを毛利康二は発見している。陸地ならば山を越え谷を渡って万里を行軍してきて朝鮮半島を制圧した漢帝国も、沿岸航行ができない四方絶海の孤島となると、わずか100kmの海でも手が出なかったとみえる。この行きたくても常人には手の届かないところが、仙人の住む島というイメージに合致もしていただろう。江原道は濊(わい)という民族の居住地で、彼らは統一政権を作らず集落に分かれたまま、ある時は高句麗、またある時は中国の楽浪郡に服属していた。鬱陵島も初期の住民はこの濊人で、本土の濊人と同じく初期には高句麗の属領だったのだろう。
ところが五世紀になってから新羅の内紛があり、それには高句麗がかかわっていた(※本当はこっから先が面白いのだが、続きは後日執筆予定)


おまけ集

おまけ1東北の「日本」について
坂上田村麻呂が奥州に攻め入った時、矢尻で「日本中央」と彫り込んだ石碑があったという。偽作説もあるが昭和24年(1949年)に青森県東北町から出土したものが有名である。あるいは源義経が奥州逗留期という説もあるが、どちらも誤りで正しくは弘仁二年(811年)の文屋綿麻呂のことである。室町時代には、津軽の武将安藤康季が後花園天皇に「奥州十三湊日之本将軍」と名乗った例がある。安土桃山時代には豊臣秀吉の手紙の中で、奥羽をさして「日本」と呼んでいる。
以上のように東北地方を日本という理由だが、東北をさす場合の日本は必ず「ヒノモト」と読み、ニホンでもヤマトでもない。単に東方を意味する言葉であることがわかるが、よりによってこんな紛らわしい言葉がなぜでてきたのか。
おそらくこの起源は、上記のように弘仁二年(811年)の文屋綿麻呂の「日本中央」だろう。喜田貞吉は樺太や千島列島まで含めると、この石碑が出土した青森県東北町がちょうど日本列島の中心となることを指摘している。つまり文屋綿麻呂が彫りつけた「日本中心」とは「ヒノモト・モナカ」ではなく「ヤマト・モナカ」の意味だったことがわかる。この時点では、日本と書けばヤマトのことであって、まだ東北を日本(ひのもと)という習慣は生まれてなかった。しかしその後、この石碑が「つぼのいしぶみ」として有名な伝説になるとともに、日本列島の地形に関する知識も失われていき「日本中央」が蝦夷の地の中央の意味に誤解されるようになったのだろう。このことから奥羽の別名としての日本(ひのもと)が生まれた。

おまけ2「大和」という表記の起源
(※この文章はこちらに移動しました→「継体天皇にはなぜ物語がないのか」)

おまけ3「倭」の字は「于」だった?
その他、「倭」という漢字の起源や由来についても、通説とは少しだけ異なる自説があるのだが、『三国志』にでてくる「汙人国」を『後漢書』は「倭人国」と書いているところから、汙と倭は同音か同義であるとわかる。汙の字を「濊」(わい)のことだとする説もあるが、三世紀には倭と濊は別民族になっていたがそれでも言語系統はかなり近かった。さらに古くは倭も濊も同一民族だったのだろう。倭の字は周王朝の始め頃までしか遡れないが、この汙の字が倭と同字だとすると、古く夏王朝の時代に、「于夷」という民族がいたという。他に畎夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷がいてこれらをまとめて九夷といった。畎夷は「犬戎」、白夷・赤夷は「白狄・赤狄」、風夷は山東半島の風姓の諸国、黄夷・陽夷は長江流域の小国、これらはそれぞれ後世の春秋時代の諸民族にあてはめが可能である。このうちの于夷が後の倭人なのであろう。ここまでは似たようなことをいってる人が他にもいるのだが、この「于」は何を意味しているのか。おそらく音写だろうが、古い発音はなんだったのか。長沢和俊『シルクロード』だったか岩村忍『中央アジアの歴史』だったか忘れたが(どちらも講談社学術文庫)、中央アジアのホータンは前漢の頃までは「于闐」(うてん)と書かれており、この漢字で書かれた地名のさらに古い発音は、おそらく[yu-tu-vi(bi?)]だったろうと推定されるという。とすると、vi(bi?)の部分がなんだかよくわからんが、于が[yu]で、闐が[tu-?]だろう。于の字は[yu]。ヤマトの頭音と[y]が通じる。臣瓚だか如淳だか師古だか忘れたが「倭の音は一戈の反」(「一」「戈」の反切)という。上古音の推定は諸説あってあれだが一は[yit]または[iet]、戈は[kaj]または[kuar]だから反切するとヤマトの「ヤ」に限りなく近い。そうすると倭面土もヤマトと読みたくなるがこれは岡田英弘がいうように国王の2文字を誤って重ね書きした「倭国王国王」がさらに誤記されて「倭面土国王」になったものというのが正しそう。であっても倭の音が初期には「ヤ」で、ヤマトからきている可能性は否定できない。ヤマトって言葉がそんな古い時代からあったのか、なかったのか、それはわからないが、三千年もの間に発音が変化して、于と倭はぜんぜん別の音になってしまったが、もともとは同じ音だったのである。

おまけ4「ヤマト」の語源
(※この文章はこちらに移動しました→「懿徳天皇」)

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