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・継体天皇にはなぜ物語がないのか

H28年4月22日投稿 H28年2月17日(水)初稿
継体天皇にはなぜ物語がないのか
古事記の巻末、仁賢天皇から推古天皇までの10代間は、物語がなく系譜記事だけ。いわゆる「闕史十代」の部分ですな。このうち、仁賢天皇と武烈天皇には系譜しか書かれてないといっても、もともと日本書紀でもこの両天皇は記事が少ないので、古事記に記事がなくたって、ことさらには何も不審なことはない。しかし継体天皇は日本書紀にはかなり豊富で長大な記事がある。なぜ古事記には磐井の乱についての一行しかないのだろうか。「磐井の乱」については以前にちょいと書いたので(詳細はまだだが)、今回はさておく。「磐井の乱」についての詳しい議論はまたいつかちゃんとやります。

丹比連氏は継体天皇を目立たせたくなかった
継体天皇の記事に物語がなく系譜しかない理由だが、一つには、以前も書いた通り、下巻のテーマが丹比氏(のちの丹比宿禰氏、このブログでは便宜上丹比連氏と書く)ゆかりの履中皇統の興亡の物語と、同じく丹比連氏ゆかりの丹比氏の先祖である宣化天皇を婉曲に顕彰することだった。後者の目的は丹比君氏(当時の丹比真人氏、このブログでは便宜上丹比君氏と書く)が宣化天皇五世孫であり、情況によっては皇位継承もありうる名門だということだが、継体天皇は皇室ふくめていくつかの他の氏族の祖先でもあるから、継体天皇を目立たせると丹比君氏だけを持ち上げることにならない。だから継体天皇の記事はバッサリ省略したのだ、という説が一つ考えられる。

継体天皇の時代には面白い話がない
しかしその一方では、別の考えもありうる。帝紀の系譜以外の部分には実は2種類あって、一つは雑多な単発的・断片的な記録であり、もう一つは物語(世間では誤って「旧辞」だと思われている部分)である。日本書紀はその両方を記事に採り入れているが、古事記は前者にはわずかな例外を除いてほとんど関心を払っていない。前者に関しては日本書紀に書いてあるならそれで十分だからだろう。古事記が採用してるのは後者(物語)がほとんどだが、その訳は、物語部分は語部(かたりべ)の台本でもあって、日本書紀のように漢文に翻訳されてしまうと、単なる歴史記事としてはよくても、上演の台本としては日本語の多くの情感や味わい等が削ぎ落とされてしまうからだ。だから古事記上巻のような和文の特徴を表現した文体でないと正しく伝承できない、というのが語部の立場だったろう。古事記下巻は履中皇統の興亡の物語で、これは漂泊の二皇子が播磨で発見されるところをクライマックスとする長大な叙事詩でもあり(日本の場合は正確には叙事詩ではなく「歌物語」だが)、最後は歌垣の後に平群氏を滅ぼしたところで完結する。これは起承転結が備わっていて上演すれば面白い見物(みもの)演物(だしもの)として成立する。
しかし、その後の歴史には、物語として上演して面白い作品になるような事件はしばらく起こってない。継体天皇の時の事件が日本書紀にあるといっても、大伴大連が百済から賄賂をもらって失脚したとか、その賄賂をもらった大伴大連が任那の領地を百済に不正に与え、そのために加羅が日本から離反したとか、日本人のメンツ丸潰れになるような不愉快な話ばかりで、こんなのを上演したら継体天皇の時代の朝廷を批判していることになってしまい、ひいては天皇を批判していることになりかねない。従って、継体天皇に関しては語部の演物(だしもの)があったとしても、それはごく短い、当たり障りのない事件の羅列みたいなものでしかなく、だとするとそういうものは事実上一度も上演されなかったのではないかと思われる。だから日本書紀の出来に対して、語部の立場(=稗田阿礼の立場)から物言いをつける要素が、継体天皇に関しては無かったのであろう。古事記が特に継体天皇に関して何も書いてないのはそういう理由であると思われる。

おまけ

おまけ1・継体天皇の出自について
継体天皇が応神天皇の子孫というのは嘘で、実は系図は切れてるんじゃないかという説があるが、これは昔の学説であって、最近の学界の風潮では記紀の伝承に信憑性を認める説も有力になってる。この話は後日「春季特別展『継体大王とヤマト』の見どころ解説」で書きます。

おまけ2・「大和」という表記の起源
今の奈良県は古くは「倭国」(やまとのくに)とかかれていたが、和銅六年(713年)の諸国郡郷名著好字令(好字二字令)により倭国から「大倭国」に変更された。その後、天平九年(737年)橘諸兄が大倭国から「大養徳国」に改名。養徳(ヤゥト)と書いて、ヤマトと読ませる当て字だが、日本の別名と紛らわしい「大倭」よりは「養徳」の方がいい。ただ、おかしいのは、わざわざ「大」の字を付けて3文字になっていることだ。好字二字令に反しているじゃないか。なぜ「養徳国」じゃなかったのかわからない。大の字を除けば合理的な改名だが、橘諸兄の権勢が衰えて藤原仲麻呂がのしてくると天平十九年(747年)に大養徳国から「大倭国」に戻されてしまった。政敵だった橘諸兄が嫌いなのはわかるけど、個人的な感情で功績まで取り消すのはどうなのよ、仲麻呂さんよ。
ここまでの経緯は今回の本題ではないからまぁどうでもいいとして、天平宝字元年(757年)橘奈良麻呂の乱直後に藤原仲麻呂が大倭国から「大和国」に改名した。これがわからない。和の字にはもともと倭の意味はなく、倭と和はまったく無関係の、完全に別の文字だった。なので当然、この文字には当時まだヤマトという訓もなかったのに、どうして大倭を大和に書き換えようという発想が起こるのか? 一説には、反乱鎮定の直後だから「和」を重んじたのだともいうが、その説は馬鹿げている。それじゃ反乱の度に和のつく地名が増えるのか。大和という名になってから大和の地でまた反乱起こったらどう責任とるんだ? 論理的にいって倭の字から「和」という発想は出ようがない。大和は普通に訓ずれば「おほにぎ」であってヤマトではない。したがって「大和」をヤマトと訓ずるのは義訓となるが、こういう例は実は探せば他にないわけでもない。例えば、飛鳥(あすか)、春日(かすが)、日下(くさか)、長谷(はつせ)等がある。そして、これらに共通した点というと、枕詞(まくらことば)なのである。
明日香(あすか)の枕詞が「飛ぶ鳥の」→飛鳥(あすか)
草香(くさか)の枕詞が「日の下の」→日下(くさか)
滓鹿(かすが)の枕詞が「春日(はるひ)の」→春日(かすが)
泊瀬(はつせ)の枕詞が「長谷(ながたに)の」→長谷(はつせ)
そうすると倭(やまと)にも「大和(おほにぎ)の」という枕詞があったのではないか、ただし倭(やまと)の枕詞には他にも「秋津島」「敷島の」「そらみつ」「そらにみつ」等もあってこれらが使われることが多く、「大和(おほにぎ)の」は早くに衰滅してしまって『万葉集』等にはたまたま残らなかったのではないかと思われる。
で、なぜ「大和(おほにぎ)の」が倭(やまと)の枕詞になったのか、だが、その起源は継体天皇の詔勅ではないかと思う。『日本書紀』継体七年十二月、勾大兄皇子(のちの安閑天皇)に政治を補佐せよとの詔勅が出たが、この時の詔勅に「…日本邕邕…」という句があり『日本書紀』は「やまとやはらぎて」と訓ませている。漢文表現だからそうなるわけだが、これは漢文で文飾される前の、語部(かたりべ)の原資料段階では「倭(やまと)大いに和(にぎ)はひて」もしくは「倭(やまと)大いに和(にき)びて」等とあったのではないか。これから「大和(おほにぎ)の倭(やまと)」もしくは「倭(やまと)は大和国(おほにぎのくに)」という表現が生まれたのではないか。似たような意味で書紀には「日本(やまと)は浦安の国」という表現もみえる。

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