FC2ブログ

☆「天皇」という君号の起源(前編)

2679年(令和元年)5月改稿 H28年5月11日(水)初稿
5月11日は「天皇」号の日
『古事記』も『日本書紀』も神武天皇の段階から「天皇」と書いてスメラミコトと読んでいるが、これはもともと天皇と書いていたわけではなく、国内的には古くは「治天下大王」(あめのしたしらすおほきみ)と言っていたことが金石文によってわかっている。中国の歴史書の中では、対外的には「倭王」と呼ばれ、自称もしていたことになっている。「王」というと格下の属国みたいに受け取って不快に思う人がいるのだが、中国では、ペルシア帝国の皇帝やイスラム帝国の皇帝やローマの皇帝などもすべて「王」としか呼ばないので、倭王といったからってそれだけでは実際に中国の属国だったという証拠にはならない。『万葉集』の用例だと、過去の天皇の場合には「天皇」をスメロギと読み、今上天皇の場合には「天皇」をオホキミと読んでいることから、金石文の「大王」はその文字が刻まれた時点での今上であることと一致する。よって、金石文の時代にも過去の天皇についてはスメロギ、またはスメラミコトといっていた可能性が高いだろう。万葉集には「王」「皇」「大王」「大皇」などがいずれもオホキミと読んでいる。オホキミだけだと天皇か皇族か前後の文脈によってもわからないことが稀にあり、天皇であることを明示するために「治天下」を前につけるわけ。
書き方についていうと、初期の天皇に関しては、記紀は遡って「天皇」と書いてるだけで、実際にはいつから天皇と書いていたのかわからない。天皇という称号が使われていた現存最古の実例は飛鳥から出土した木簡に「天皇」と書かれていたもので、これは天武六年(677年)のものなので、この頃にはすでに「天皇」と書かれていたことが確実ではある。「治天下大王」や「倭王」が、いつから、なぜ天皇と書くようになったのかは後述するように諸説があるのだが、学界では天武天皇の頃からというのが通説になりつつある。で、俺は学界の通説が8割ぐらい正しいと思っているが、2割ほどオリジナルの説ももっているので、今回はそれを披露したい。なぜって、今日は平成28年5月11日、天皇号統一の日だからだ。明治の初期の頃、清国との外交文書のやりとりで国書に「日本国天皇」とあったところ、清国から「天皇という称号はあまりに神聖至上の号なので受け入れられない」といわれたので「日本国皇帝」に改めた。ただしそこで皇帝に統一されたわけではなく、以後も天皇と皇帝が日本国内でも混用されて一定していなかった。これが天皇に統一されたのは昭和11年(1936年)5月11日からであった。これは外務省が勝手にやっていたことであって格別なにかの法制上の手続きを踏んだものではない。この時期になぜ外務省が天皇に統一したのかはわからないが、外務省はその約一ヶ月前の、同年4月18日に国号を「大日本帝国」に統一しており、その流れではないかと思われる。この背景には当時の世論とか空気、政府の思惑、その他いろんな事情があったんだが、『古事記』には関係ないのでこのブログではとりあえず無視する。5月11日が「天皇号の日」であることわかって頂ければ十分である。

律令に定められし「天子・天皇・皇帝」
記紀が編纂された奈良時代には、律令の定めで、詔書においては「天皇」、祭祀においては「天子」、華夷においては(国内国外に対しては)「皇帝」と、3通りの称号の使い分けが定めされていた(従って、日本の天皇は天皇であって「皇帝でない」という理屈は誤り)。ただしこれらは書き方の違いであって、読み方はスメラミコトかスメミマノミコトだとも定めされていて、読みは一致している。記紀は歴史書であっても「詔書」ではなく、国内国外に向けられた書物だから「皇帝」とあるべきだが、なぜか記紀のどちらも「天皇」という書き方をしているのはえらく不審なことだ。
これを考えてみるに、律令の定めは理想ないし論理上のことで、現実には諸条件を無視して天子や皇帝より天皇ばかりが慣例的に多用されていたのだろうか。唐の律令でも、祭祀においては「天子」、華夷においては「皇帝」という規定があったが、当然ながら「詔書においては天皇」などという規定はない。この規定は何がおかしいかというと、天子と皇帝の使い分けは明白で問題ないのだが、詔書というのは祭祀にも華夷に対しても使うわけだから、いってみれば天皇は何にでも使えるといっているのと同じではないか? 中国では天子と皇帝の二つで間に合っているところに、日本の律令ではムリヤリ天皇を追加したため、オールマイティで昔から(律令以前から)使ってる天皇だけが優勢となり、天子と皇帝は後退してしまったのではないかとも思われる。

中国人にはどう説明されたか
外国からの視点でみると、日本の君主が天皇と称していることを、中国人も遅くても宋代には知っていた。宋代には日本の王の年代記からの引用という形で歴代の天皇の諡号と「天皇」という称号が日本側の自称だとして知られていた。「日本の王の年代記」というのは記紀の類書で、この頃は記紀が流布してその類書も書かれていたのがわかる。『新唐書』もこの宋代に編纂されたもので、だから『新唐書』日本伝には歴代天皇の諡号が出てくるし、それが「天皇」と自称していたことも書かれている。宋代になって始めて知った等ということは遅すぎて信じられない。公式には認めないという立場のために中国側の記録に残ってないだけで、唐の頃すでにリアルタイムで知られていたはずだろう。
唐の前は『隋書』で、ほぼ推古天皇の頃の情報として、倭王の号は「阿輩雞弥」(おほきみ=大王)であり、これは中国語でいうと「天児」(天の子)という意味だ、とある。日本のスメミマノミコトは、あくまでも太陽神の子孫という趣旨であって儒教的な意味での天子ではないから、中華式の天子と区別するために天児と書いたのだろうが、まぁ要するに大雑把に短くいえば天子のことだ。607年の遣隋使では有名な「日出づる処の天子」と称している、これ。オホキミが天子の意味だという話はこの遣隋使の国書とも一致している。阿輩雞弥をアメキミ(天王)と読む説もあるが不可。阿は推古遺文など古い用例ではアでなくオを表わすことがあるので「大王」説の方がよく、金石文の「治天下大王」とも一致する。後述するようにこの当時、中国向けではなく朝鮮諸国向けに「天王」という称号を使っていたという説もあるが、天皇をアマキミとは読まないように、この天王も漢字文化の中での熟語だからアマキミとかアメキミという大和言葉で分割するような読み方をしたとは考えにくい。こうしてみると607年の段階ではまだ、少なくとも中国に対しては天子と称することはあっても天皇という書き方は使っていない。『日本書紀』によると608年の遣隋使の国書では「東天皇、敬(つつし)んで西皇帝に白す」とあり、これが天皇号ができた最初だという説もある。確かに、どんなに早くてもここが限界で、これ以上以前に天皇号があったとは思えないが、個人的にはこの段階ではまだ「天皇」ではなかったと思う。その理由は後述する。
その前、『宋書』等に出てくる倭の五王などはみな「倭王」と書かれている。これは中国のいつもの諸外国に対する扱い。さらにその前、『三国志』にでてくる邪馬台国の卑弥呼も「倭王」と書かれているが、「卑弥呼(ひみこ)という名の女性を王とした」のではなく「一人の女性を王とした上で、卑弥呼と名付けた」とあることから、卑弥呼というのは固有名詞ではなく一種の称号と考えられている。ヒミコという日本語の解釈は本居宣長は「姫児」説だがその根拠を読むと思いつきの域を出ないもので妥当性がない。ヒミコは「日の御子」の意味で、太陽神の子孫を意味し、律令制で天子をスメミマノミコトと読んだのと同じ趣旨と思われる(ただし「日の御子」と「皇孫(スメミマ)」はちょいニュアンスが異なる。スメミマノミコトはスメラミコトと違って古いものでなく奈良時代に創出された可能性がある。これについては後述)。『後漢書』では「大倭王」とあり、「倭王」なら通常の表現だが、この大倭王という表現はどういうニュアンスなのか、学者はあまり触れないが「諸王の中の王」という意味ではないことは確かだ。倭国には王は3人しかおらず、そのうち1人(伊都国王)は形式的な王号をもつだけで卑弥呼の完全なる配下、もう1人(狗奴国王)は敵対者だからそもそも存在を許容しあってる仲ではない。普通に漢文として考えると国名につける大は天子の王朝を意味するが、『後漢書』が倭王を天子と認めることはありえないので、倭王が天子を自称していたという記述の断片か、もしくは単に「強大なる」倭国の王という意味のどちらかでしかない。こうしてみると倭の五王は官爵をもらおうとして腰を低くしているので表にあらわれてないが、我が国の君を太陽神の子孫とみる思想は卑弥呼の時代から律令時代まで国内では一貫していたように思われる。

天皇号の創出についての諸説
推古朝説、天智朝説、天武朝説がある。これらを並べて検討してみる。
1,推古朝説
津田左右吉の説で、前述のように「東天皇、敬しんで西皇帝に白す」の国書が最初だという説。後述の「天王」説を唱えた宮崎市定も、それまでの「天王」をこの時に「天皇」に変更したのだといっている。推古朝説は少し昔までほとんど定説といっていいぐら最有力説だった記憶があるが、津田左右吉の影響力はすごかったんだな。現在ではあまり支持されてない。俺も支持しない。この説がありえない理由は後述。
2,天智朝説
この説を唱えている人も複数いたような気がするが、代表的なのは岡田英弘かな。白村江の敗戦でびっくりした天智天皇は急いで律令制国家への道を邁進して、近江令を作った。倭国から日本へという国号改定も、倭王から天皇へという君号改定も、すべてこれで一元的に説明する説。日本国号の件ではすでに別のページで岡田英弘の誤りを指摘しておいたが、天皇号についても、天智朝説はありえない。その理由については後述。
3,天武朝説
最近、有力な説。この説の場合、天皇の語源が「天皇大帝」という道教の神だとした上で、天武天皇の個人的な道教趣味から付けられたともいう。これについての反論は後述(道教趣味が理由になるなら斉明朝も候補になるはずだがそういう説はあまり聞かない)。
4,持統朝説
天武天皇の個人的な称号であったのを、持統天皇になってから歴代の称号となった説。
5,文武朝説
大宝律令で決められた説。

「天皇」の語源説その1
津田左右吉の説で、天皇というのは、前述のように道教の神である「天皇大帝」からとったという説。この説がおかしい点は多々あるが、まずはなぜ後半の「大帝」の2文字が切り落とされているのかがぜんぜん説明できてない。略するにしても「天皇」「大帝」「天帝」などの例もあったならばそれら諸例あわせて正式には「天皇大帝」だったろうと推定もできるがそんな例はない。しかも略していいなら略しようによっては「皇帝」ともなるのだから、最初から「皇帝」で問題ないのではないか。次に「天皇大帝」ってのは、北極星の神、天の神である。しかしこの時代、本当に「天皇大帝」という言葉が知られていたのか疑問もある。天皇大帝という言葉は『春秋緯合誠図』に出てくるというが、これは「緯書」の一つで、何度も法により厳禁され、隋の時代には焚書されてほとんど残っておらず、現在「緯書」だとして知られているのは出所の怪しいものが多く、史料として使えない。確かなものとしては『晋書』があるがこれは唐の太宗の頃に編纂されたものだから、推古天皇の頃の日本にはまだ存在していない。第三に、六世紀半ば以降、道教の最高神は「元始天尊」であり、それ以前というと『書経』や『詩経』といった非常に古い書物には「昊天上帝」とある。継体天皇の頃には五経博士がいたから日本でも遅くともその頃には『書経』や『詩経』は知られていたはずの書物である。「昊天上帝」は、のちの天皇大帝とも同一のものという。ならば「元始天尊」や「昊天上帝」でいいではないか、なぜダメなのか?「天皇大帝」説の場合、なぜ道教の神名を君号に転用しようという珍妙な発想になったのかという点も問題となる。斉明天皇または天武天皇自身の道教趣味で説明されることが多いが、そもそもこれは天上の神の名であって、人間の称号ではない。天武天皇ぐらいの道教オタクでなくても、道教に詳しい人ならそんな錯誤的なことは恥ずかしくて絶対やらないだろう。これに対して、唐の高宗皇帝が実際に「天皇」と称してたじゃないか、という反論もあるだろうが、こっちの天皇は初めは天皇大帝の意味ではなかった。これについての詳細は後述する。

「天皇」の語源説その2
紛らわしいが、中国には「天皇大帝」という新しい言葉とは別に、「天皇」という言葉が古くからある。中国の神話で、神代には三代の「皇」、次いで五代の「帝」が続き、この八代の時代を「三皇五帝」と総称する。このうち三皇は天皇・地皇・泰皇で、この中では泰皇が一番尊いのだという。秦の始皇帝が三皇の「皇」の字と五帝の「帝」の字をあわせて始めて「皇帝」という言葉を作ったのは有名な話である。だから岡田英弘がいう、皇帝とは「光り輝く天の神」の意だとの説は、皇と帝の2文字の字源を別々に遡ったあとに恣意的にくっつけた説で、二重三重に誤りである。さて三皇五帝は太古の聖人君主の称号だから、例えば日本のスメラミコトが聖人君主として「天皇」と称しても問題ないようにきこえるかもしれない。しかし、それならなぜ天皇より格上の「泰皇」にしないのだろうか。また、そういう意味なら既存の「皇帝」の皇は三皇の皇なのだから、すでに天皇・地皇・泰皇の意味が含まれているのだ。わざわざ天皇に絞る意味がわからない。そこで「天皇大帝」が出てくるわけだが、これがダメな理由は前述の通り。唐の高宗が天皇を称した理由は後述する。

「天皇」の語源説その3
宮崎市定や角林文雄は「天王」説を唱えている。『日本書紀』に2ヶ所、「天王」と書かれており、どちらも百済三書の一つ『百済新撰』からの引用で461年と478年の条。これは天皇の誤写とする説もあるが、もともと天王だったのであり、書紀は天王を天皇に書き換えた際、2ヶ所だけ修正漏れがあったのだという(もしくは百済三書の引用部分は天王のままだったのだが後世の写本なので誤って天皇と誤記している)。天王というのは五胡十六国の異民族王朝が事実上の皇帝の地位につく直前の情況で称したもので、皇帝よりわずかに一歩劣るが、ほぼ皇帝と同格の称号だという。
map_五胡十六国
318年に匈奴の靳準が漢(前趙)の天王に即位してから、436年に北燕の天王だった馮弘が滅ぶまでの約120年間、多くの王朝と諸々の民族に跨って続いてきた称号である。この頃はまだ「皇帝」というと中国人の君主、漢民族の君主という印象があって、例えば匈奴が漢帝国よりも強大だった時代でも君号は「単于」(漢語の天子にあたる匈奴語)で通し、けして皇帝と称することはなかった。君主は異民族出身で配下の貴族や支配民は多民族という国家の君主として、皇帝でもなく単于でもない民族の枠を超えた君号が模索されたようにも思える。この「天王」号は普通は436年で終わったとされている。が、436年から461年までの間のある年に、倭王によって引き継がれ、以後、三韓からは倭王は「天王」「貴国天王」「可畏天王」等とよばれていたのではないか、ということを論証したのが宮崎市定や角林文雄の「天王」説である。皇室、皇后、皇太子などの皇はコウと読まれるのに、天皇の皇はコウでなくオウなのは、皇后や皇太子という律令の用語が制定された時期よりも、天王の方がはるかに由緒が古くて定着していた時期が長いからなのである。二人は奈良時代までの天王と書かれた用例も夥しく存在していることも明らかにしている。津田左右吉や大和岩雄は天王説になぜか冷淡だが。

最後の北燕天王馮弘の子孫が日本の貴族になっていた
最後の天王は今の満州の遼西地方に割拠していた北燕国の馮弘だった(姓が馮氏で名が弘)。馮弘が天王の位に即いたのは430年で、438年に殺される時までの間のいつの段階かで天王から皇帝に自分で昇格しているがそれがいつかはわからない。430年に馮弘の代になると北燕の勢いは衰えて中国の北朝の「北魏」に押されていた。危機を覚えた馮弘は435年に、北朝の北魏と対立している南朝の宋に使者を送り名目上その臣下となって、宋から燕王に叙任された。ただしこれは必ずしも天王から王への格下げではない。この「燕王」の位とは宋の朝廷内における席次、つまり「宋の爵位では王だ」ということにすぎず、自国内ではあいかわらず天王(または皇帝?)と称していただろう。とはいえ馮弘は結局それまで属国視して見下していた高句麗に頼ることになって436年に国を捨て一族あげて高句麗に亡命した。ここに天王だか皇帝だかの馮弘の君位は実体を失い名目だけとなる。同じ名目だけまら、まだ宗主国「宋」の裏付けのある燕王のほうが現実味があるので国際的にはこの段階から燕王と呼ばれていたのではないかと思われるが、こんな境遇になってもまだ保護者のはずの高句麗に高慢な態度を示し続けたというから、彼の自意識ではまだ天王だか皇帝だったんだろう。
高句麗ははじめは馮弘を駒として使えると考え、馮弘の太子の馮王仁を人質にとりながらも、北魏に対して馮弘をとりなした。馮弘に盾になってもらって北魏との緩衝地帯を残そうとしたのだろう。が、北魏の追及は厳しく、巧くいきそうもない情勢だった。それを見て取った馮弘は、太子を人質にとられていたことの恨みもあって、高句麗とも縁を切り中国の南朝の「宋」へ逃亡しようとして宋に助けを求めた。宋は馮弘を解放して宋に引き渡すように高句麗に命令したが、宋へ行かれては高句麗は北魏に対して申し開きが立たず追い込められてしまうので馮弘とその一族十数人を殺した。これが438年。
で、宮崎市定は、高句麗の情報がただちに倭国に伝わったかどうかはわからない、高句麗と倭国の間に密接な情報流通がなかったにしろ、高句麗と百済の間、それと百済と倭国の間には密接な情報流通があったことは疑いないとした上で、この北燕の馮弘の滅亡譚も遅かれ早かれ倭国に伝わったはずで、しからば「皇帝でもなく王でもないという、この天王という称号は何ぞ」という話になったに違いない、その格式をきけば倭王みずからこの称号は倭の大君主にこそふさわしいと思っただろう、と。
-----
ここまでは、そんなこともあるのかなって程度の話でまぁいいのだが、日本の帰化人系の貴族の中に、実はこの馮弘の子孫だという氏族がいるのだ。『新撰姓氏録』には、山代忌寸氏(もとは「山背画師」)、河内忌寸氏(もとの「河内連氏」)、台忌寸氏、凡人中家氏の4氏はすべて同祖で、後漢献帝の息子の魯国の白龍王から出たという。ところが後世の系図では、河内連氏の先祖の白龍王とは、北燕国の馮弘のことだという。確かに後漢献帝の息子に「魯国の白龍王」なる者はおらず、ここは『新撰姓氏録』の錯簡だろう。『新撰姓氏録』は誤字が多いことで知られ、良い写本が無い。燕の字は「庶」等と誤写された例があり、魯の字も「魚」と誤記される例にあげられることがあり、『新撰姓氏録』が魯国といってるのは燕国を誤ったものとしてよかろう(燕→庶→魚→魯)。北燕は別名「黄龍国」ともいったので、もとは黄龍王と書いてあったのだろう。黄の字の線の潰れた略草体を白の字だと誤認して「白龍王」になってしまったものか。この系図によると魯国白龍王馮弘には馮崇、馮朗、馮邈の3人の息子がいて、このうち馮邈の子が馮安君、その子が馮倫、その子に馮烏と馮黒人の兄弟あり、兄の馮烏が河内氏の祖、弟の馮黒人が山背画師の祖という。むろんこれは後世の系図で、馮安君以降の部分は信憑性が薄い。実際の歴史では、馮弘の息子らの間に後継者争いが起きており、腹違いの弟の馮王仁が太子となったため、身の危険を感じた馮崇、馮朗、馮邈の3兄弟は国を捨てて北魏に亡命してしまった。馮朗の娘は後に北魏の太皇太后として権勢を振るったが、馮邈は柔然に再亡命しており、だから馮邈の子孫が倭国に帰化するのいうのは考えにくいが、もしかしたら馮安君は親父の馮邈とは不仲で、高句麗に人質になった馮王仁についていったのではないか。馮王仁のその後が詳細でないが『三国史記』には馮弘の宋への亡命を阻止するため馮弘とその子孫十数人を殺したとあり、この時に馮王仁も殺されたと考えてしまいやすい。が、亡命したといっても馮弘は北豊という遼東の西(高句麗領としては西の辺境)に城を与えられていたのであって、馮王仁は人質だったから一応馮弘らとは別の場所(高句麗の王都)に隔離されていたはずである。またこの時は馮弘を宋に迎えるための宋からの使者、王白駒が七千もの兵力を率いて来ており、馮弘らを殺した高句麗の将軍が返り討ちにあっているから、馮弘の一族でも生き延びて宋に帰化した者もさぞかし多かったろう。また馮王仁や馮安君が北豊を遠く離れた高句麗の都に軟禁されていたとしても、高句麗が宋に配慮して解放したか、自力で脱出したかして百済方面に逃れた可能性もある。
ただしこれは後世の系図であって史料的な価値に問題あるので、宮崎市定がこれを知っていたとしても、まぁ論文の中では出さんだろうし、またこんな後世の系図にたよらずとも、馮弘の滅亡の一件から「天王」号が倭国に伝わることがありえたというのは宮崎市定のいう通りである。

「天王から天皇へ」の時期
436年から461年の間というと倭の五王の時代で、倭の五王は中国から官爵をもらおうと腰を低くしていたので、中国に対して天王と称することはなかったが、百済や新羅、高句麗に対しては天王と称していた可能性はある。特に百済は高句麗の圧力に耐えかねていた時期だから、倭王に天王の称号を献上して臣礼をとっていたのだろう。
推古朝説への批判
さて、宮崎市定は、聖徳太子が隋への国書に、それまでの天王を天皇にかえて「東天皇、敬しんで西皇帝に白す」と書いたのが天皇号の起源だというのだが、承服できない。天王という称号は、宮崎市定自身もいっているように直接の語源としては牛頭天王・四天王・毘沙門天王・梵天王・帝釈天王といった仏教の尊格からきている。天王号が始まった五胡十六国の時代の中国では空前の仏教ブームが起きており、上記の「なんとか天王」の類はすべて仏法の守護者という特徴で一致しているのである。つまり天王は単なる皇帝ではなく「仏教の守護者」という側面をもつ。遣隋使の時、執政の地位にいた聖徳太子は熱烈な仏教マニアで、当時、仏教を日本に根付かせるため布教に心を砕いていた聖徳太子が、こんな素晴らしい称号を廃止して、天皇大帝などという道教丸出しな用語に基づいて道教くさい称号を採用するなんてことはまったく考えられないことだ。東大寺文書(唐招提寺文書だったかも)には遣隋使の国書の引用が含まれるが、そこには「東天王敬白西皇帝」となっているのである! つまり書紀の東天皇云々の条も、もともと天王とあったのを天皇に書き換えている可能性が非常に高い。
天智朝説への批判
では天智天皇はどうだろうか。天智天皇は近江令で律令国家をめざしたが、中華式の帝国をつくろうとしたわけで、後世の律令にあるように「天子」「皇帝」の称号も規定されただろう。普通に考えて倭王などはもっての他だが、天王とかの中途半端なウヤムヤなものでもなく、ここで中華式の「天子」「皇帝」とはっきり条文化されたことは疑いない。むろんどう書いても読みはスメラミコトであってただの表記の問題なのだから、国内向けとしては大した問題ではなかったろう。そうすると、倭王という称号がいらないのと同様、天王という称号もいらなくなるはずで、実際、中国でもそれまで天王と称していた王朝がさらに強大化して、天王を捨てて「皇帝」と称し始めるという例は多々あった。日本でも同じように、皇帝や天子の号が新規に定められたら天王号は要らなくなったはずで、要らないのだから天王を天皇に書き換えようという発想も出て来ようがない。もし天王を残すとすれば「天子は祭祀に称する所」「皇帝は華夷に称する所」と並んで「天王は仏事に称する所」という規定があったことを推定はできる。しかしそれは「天王」を補助的な別号として残す可能性はありえるという程度の話であって、天智朝において「天皇」がでてくる幕はぜんぜんないことにかわりはない。
668年の近江令以降、スメラミコトは天子または皇帝と書かれ、天王という表記は一旦消えてしまったのではないかと思われる。つまり宮崎市定がいうような「天王から天皇へ」というような改定は起こりようがないのだ。天王は一旦消えて「皇帝と天子」という完全な中華式が採用されたろう。それが中華式の帝国を築くという大化改新のそもそもの趣旨にかなうことであったはずだ。

「天皇」という君号の起源(中編)に続く
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

浅草橋キッド

Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

最新記事
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

新語拾遺
リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム