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・「天皇」という君号の起源(中編)

2679年(H31年=新年号元年)1月30日(水)改稿
※「天皇」という君号の起源(前編)からの続きです

天武帝が「天皇」と称した理由
では天武天皇はなぜ「天皇」を始めたのか? 天武天皇も即位した当初は、天智天皇(もし大友皇子が即位していたら弘文天皇も)のように「天子」と「皇帝」の二つで回していたはずである。通説にいうとおり、唐の高宗が674年に天皇と称したのを真似たのだろうが、ここで問題は三つある。
第一、高宗と天武帝、どちらが先か。仮に高宗が先だとして、天武帝はそれを知った上でそれを真似たのか、知らずに独自に考えたことなのか。
第二、天武帝はなぜ天子や皇帝ではダメで、新たに天皇と称する必要があったのか。
第三、そもそも天皇が三皇の一つの「天皇」でなく「天皇大帝」のことならば、天武帝と無関係に、唐の高宗自身も天皇と称するのはおかしいことになる。なぜ高宗は天皇と称したのか。
第一の問題については、当時は唐と新羅が交戦中で、日本と唐の往来も断絶しがちであり、天武帝が高宗の天皇号を知っていた可能性はない、という説がネット上にあったが、そんなことはない。『三国史記』新羅本紀には675年の二月に紛争があって唐の高宗と新羅王がやりとりをしているから、高宗からの書状には「天皇」とあったはずであり、それについての説明も使者からうけたろう。そして『日本書紀』では同年の二月と三月、続けて新羅からの使者がきているから、そこで最新情報は得られた。そんな細かいことをいわずとも、まだ局地戦の続いている不安定な時期だからこそ各国とも情報網をはりめぐらし、民間のパイプや情報収集工作は常時怠りなかったはずであり、公式の使者の交換が書かれてないから情報が途絶していたはずだなんてのは馬鹿げている。そこで、なぜ高宗が天皇などというきいたこともない珍妙な称号を始めたのか、その経緯も日本側は詳細に知ったに違いない。当時は君主の称号は重大で、格上の国も格下の国も互いに相手の君号に関心を寄せざるを得なかったろうから当然である。で、天武帝の立場として普通に考えると天子と皇帝でまったく問題はなく、新たな称号など必要ないように思える。従って、天武帝が独自に「天皇」号を考えだすというのは、まぁ人間の趣味はクリエイティブなものだから絶対にありえないとはいえないわけだが、やはり必然性には乏しいと言わざるを得ない。
第二の問題については、今答えてしまったが、天武帝の立場として普通に考えると天子と皇帝でまったく問題はなく、新たな称号など必要ない。従って、もし高宗の「天皇」号の事情を聞かなければ、日本天皇は誕生せず、この先もずっと天子と皇帝だけで後世までいった可能性が高い。これらは「普通に考えて」のことであるが、現実はそうならなかったのだから、ここでは普通でないことが起こっているのである。普通でないこととは、言い換えれば「特殊なこと」である。つまり、高宗の「天皇」号の特殊な事情が、天武天皇の特殊な立場にとって極めて都合のよいものだったのである。それは何か。その答えが第三の問題の回答ともなる。

唐の高宗が「天皇」と称した経緯
高宗の妃の一人、則天武后ははじめはおとなしくしていて高宗のお気に入りとなり、多くの妃たちの中から順当に昇格して、655年(日本では斉明天皇元年)には皇后まで登りつめた。ひじょうに知能が高く策略家でもあったので政治にも口を出すようになり、次第に高宗以上の権勢を振るい出した。660年に新羅とくんで百済を滅ぼしたのも、663年に白村江の戦いで倭国を破ったのも則天武后だった。政権を完全に掌握した武后に恐怖を覚えた高宗は、664年に武后を排斥しようとしたが武后に察知され失敗、高宗は皇帝とは名ばかりの籠の鳥も同然となる。こうした中で674年、高宗は皇帝から「天皇」へ、武后は皇后から「天后」へと称号を改め、二人を「二聖」とよばせた。この称号改定は則天武后の都合によるもので、高宗は強要されたのである。ちなみにこの頃はすでに『晋書』はできており、北極星を「天皇大帝」という名でよぶ風習はできていた。高宗は後に死没した後で「天皇大帝」という諡号を贈られてはいるが、ここで天皇と称した時の段階では天皇大帝との関係はない。また天后は媽祖(まそ)という道教の女神の称号にもなっているが、媽祖信仰は宋代以降に出てきたものだからこの時代にはまだ無い。皇后という称号は「皇」帝の「后」の意味だから、皇帝の臣下にすぎず、どうしても皇后では皇帝より格下である、そこで、夫婦が対等となる称号として考えだされたのが「天皇と天后」だった。この称号を解読すると、「帝」という絶対者を連想させる文字を外し、三皇(天皇・地皇・泰皇)の中では泰皇には劣る(つまり一番ではない)天皇を出して、その配偶には天の字を共通させて天后としている。皇帝と皇后も皇の字が共通しているが、皇帝が三皇五帝の略なのに対し、皇后の皇は后の形容辞(皇帝のものという意味)だからぜんぜん対象ではない。しかし天后は新規につくられた言葉だから自然に読めば「天皇の后」という意味に読む人間はいない。「天皇と天后」の字づらは「天子と天女」または「天人・天女」に似ている。天人・天女ならば対等だが、天子と天女では、漢の武帝と西王母の伝説も連想され、天女の方が上にも感じる。天后という言葉は後世、道教で最も人気の女神「媽祖」の称号にもなっているように、女神クラスのニュアンスがあり、対等の配偶は「天帝」となろう(この時代、伝説時代の君主である五帝を「五人帝」として、自然界や人間の運命を支配する神々を「五天帝」という言い方があった)。要するに「天帝・天后」は神なのであるが天皇や皇帝は人君の称号にすぎない。ここに則天武后の意図があり、高宗の天皇号は最初から天后とセットで意味をもつのである。つまり「形式上は対等だが実質的には奥さんの方が上」というイメージを打ち出すことが目的の称号なのである。
天后は天皇の格下の存在ではなく、理屈の上では共同統治者なのであるが、実際には則天武后の独裁で、高宗はお飾りだった。しかし唐王朝からの対外的な公式の説明としては当然ながら「則天武后が聡明であるゆえに対等の共同統治者とされた」ということだけで、スキャンダラスな情報は排除されたろう。

天武帝の微妙な立場
天武帝は壬申の乱で勝利したが、その正当性は微妙だった。江戸時代の水戸学者たちの中でも、大友皇子が天智天皇の正統な後継者で、大海人皇子は謀反して天智系から皇位を奪い取ったのではないかという「天武簒奪論」がさかんに唱えられた。『日本書紀』にも天武帝を誹謗したとして何人もの人間が流刑になったりしており、当時から天武帝に批判的な人々が多かったことがわかる。ところで、壬申の乱より以前から、大海人皇子は兄である天智天皇の娘(つまり自分からは姪)を四人も妃にしていた。これは傍系から入った仁賢天皇・武烈天皇が雄略王朝の女性を皇后にしたり、継体天皇が仁賢天皇の皇女を皇后にしたのと同じような効果をもつ。従って、もしその四人のうち誰かが産んだ皇子が将来あとを継いでいけば、天武系は女系を通じて天智天皇の子孫ということにもなり、天武帝の正統性を大きく裏付けることになる。…とまでいったら行き過ぎかもしれないが、少なくとも露骨な簒奪論を抑制する効果をもつ。しかもこの四人のうちの一人、鸕野讚良姫(のちの持統天皇)は、聡明で活発、壬申の乱の軍中にも同行して作戦会議にも参加して、大海人皇子を補佐したほどで、天武帝の即位後は政治の場にも同席して諸事を捌き、事実上、天武帝の共同統治者であった。天智天皇の娘が実際に実権を握っているということ自体が、天武簒奪論を弱め、さらには天武系の正統性への疑義を封ずる傾向に作用したことはもちろんだろう。つまり、天武帝にとって、鸕野讚良姫の存在は自身の正統性を保証するもので何よりも大切な宝だった。
こういう情況にあって、唐からもたらされた情報は、唐では皇帝と皇后の称号をかえて、夫婦対等な「天皇と天后」となったというのだ。天武帝は「コレダ!」と閃いたに違いない。鸕野讚良姫を優遇して自分の正統性を明示するのにこれ以上の名案はない。天智天皇の娘と自分は対等なのであり、けして天智系を下に置いているのではない、という最高のアピールではないか。
この情報は天武四年(675年)の二月と三月にやってきた新羅の使いのいずれかからもたらされ、天武帝と鸕野讚良姫はさっそく夫婦して称号改定の相談を始めただろう。翌年の正月元旦、意味不明なイベントが書かれている。朝廷の官僚貴族たちに、それぞれの官位に応じて大規模な下賜品つまり天皇皇后からの大プレゼント大会があり、その日のうちに大宴会が開かれた。続いて同月十六日には射的大会が催され(今でいえばビンゴ大会みたいなこと)、同日にまた宴会。『類聚国史』によるとこの時の宴会は日本最初の「踏歌節会」(とうかせちえ)だったという。踏歌というのは後には日本化して変形していったが、当時は中国伝来の歌舞で足を踏み鳴らして群舞するもの。十六日という日付は満月を待ったものだろう。つまり外庭で夜まで賑やかに歌舞い踊っての大宴会だったと思われる。これらの大宴会は何のためとも書かれてないが、おそらくこの元旦で君号改定が発表され、天武帝は始めて「天皇」、鸕野讚良姫は「天后」となった。そのお披露目パーティーなのである。ではなぜ現在残っている『日本書紀』にはそのことが書かれず、なんのための宴会だかわからなくなっているのか。もちろん都合の悪いところを後から削除したからだが、では、これのどこが都合悪かったのか。
かるた_持統天皇春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山

持統天皇の身のふりと則天武后の失脚
天武十五年(686年)天武天皇崩御。しかし皇太子の草壁皇子は体が弱く、すぐに即位できる情況ではなかったので、「天后」鸕野讚良姫が称制することになった。称制というのはわかりやすくいうと摂政みたいなこと。これより3年前の683年、唐の高宗が没し、則天武后は高宗に「天皇大帝」という諡号をつけた。これはよく考慮したものではなくて、天皇から連想される既存の単語を適当につけただけの投げやりな諡号である。次の天子として中宗を、ついでその弟の睿宗を擁立していた。二人とも則天武后の実の息子だが、二人とも何の実権もない傀儡だった。この頃の唐の君号がどうなっていたのか不鮮明でよくわからないが、おそらく則天武后は「天后」の地位に留まり、中宗や睿宗には「皇帝」号も「天皇」号を許さず、「天子」とのみ称させていたのではないか。「天皇・天后・天子」と並べると「父・母・子」のセットに見えてしまい、天子は、いかにも天后より格下の扱いのような印象になる。この頃はまだ則天武后が失脚する前だから則天武后の実態は日本に伝わっておらず、持統「天后」は則天武后に倣って、夫の亡き後、息子の保護者たらんとしていたのだろう。689年、草壁皇子が薨去し、やむなく持統「天后」は草壁皇子の忘れ形見、自分からは孫にあたる軽皇子(のちの文武天皇)が成長するまでということで翌年の正月に即位して持統天皇となった。
天武天皇自身の感覚としては「天皇と天后」というセットの称号は、歴代からみればイレギュラーなものであり、あくまで自分の特殊事情に基づくもので、子孫代々継承するような趣旨の称号ではないと考えていただろう。それをわかっているからこそ鸕野讚良姫は、草壁皇子が薨去した後、即位にあたって天皇ではなく、則天武后に倣って「天后」の表記のままスメラミコトに即位したのであろう。あるいは人はこういうかも知れない、最愛の夫の事業を継承するという意味を込めてここは一つ天后ではなく「天皇」に即位したのではないか、と。それもありうるが、自分が夫に成りかわるというのは何か違うのではないか。草壁皇子にかわって軽皇子を「天皇」にすることが目的であって自分がなることが最終目的ではない。最愛の夫は「天皇」と完全に同格の「天后」という称号を残してくれたのだから、これに乗らないでどうする。
持統天后の即位に影響されたわけではあるまいが、同年九月に則天武后は息子の睿宗を廃位して、自分が天子の位につき、唐王朝を「周」と改名した。つまり李氏から武氏への易姓革命である。しかしこのニュースを日本側は大スキャンダルとは受け取らなかったと思われる。これまでずっと則天武后は素晴らしい女性という大本営発表みたいな話しか出てなかったろうし、その上、新王朝の建国だから中国からも公式には良い話が流れてきたはずである。たしかに易姓革命は衝撃的だが、易姓革命には「禅譲」と「放伐」の2種類あり、前者の場合は譲った方も譲られた方も立派な人って建前だし、中国では革命も普通だってのは日本人も知っているし、国柄が違うんだからまぁそんなもんだろうと気にしなかったのではないか。実際そのへんの反応が何も伝わってないのは、意図的に隠されたわけではなく、当時の人もリアクションに困惑したのだろう。ちなみに前述のとおり、大事件の情報はどうしても入ってくるもので、則天武后の簒奪を、702年の遣唐使まで日本人は知らなかったという説はありえない。むろん公式には知らなかった、聞いてないというふりをすることは政治的な行動としてありうるが、それを真に受けるのはどうかと思われる。
天智天皇の娘である持統天后がもし則天武后と同じことをするなら、天智天皇の皇子たち(自分の兄弟)を優遇し、仮令え自分が産んだ子でも天武帝の皇子は排斥する、ということになったはずだが、持統天后はそうせず、697年に草壁皇子の子である文武天皇に譲位した。今回の中国の例では李氏と武氏は別の一族だが、日本では天智と天武は兄弟であるばかりかお互いに近親婚だらけなので、肉親同士の分裂が起こった場合でも中国とはかなり事情が違う。譲位後の天后は「太后」ということもできたろうが、おそらく訓読みをオホキサキか過去の皇極天皇に倣ってスメミオヤノミコトにかえて、表記は天后のままだったろう。天武天皇と天后は共同統治者として同時並立していたのだから、天皇が天武から文武に変わっただけで天后は形式上そのままで差し支えない。また持統天后自身もこの称号に愛着あったろう。
さて、文武天皇が即位するにあたって、この段階ではまだ、称号は天皇を使わず、天子と皇帝だけで間に合わすという選択も当然ありえたと思われるが、実際には「天皇」が採択された。これは持統天后の意図が働いていたのではないか。我が孫は最愛の夫の継承者であり、そういう者にしか「天皇」という称号は許さない。持統天后の脳内の決意としては「天皇」とは夫天武と我れ持統の両者の血を受け継ぐ者という意味なのであり、文武天皇に「天皇」を採択させたのは、皇位は永久に草壁皇子の系統に限るという宣言なのである。ただ、そうすると、称徳天皇で「天皇」は終わったはずで光仁天皇からは「天子」と「皇帝」の二本立てに戻らないとおかしいが、なぜそうならなかったのかについては後述する。
ともかく、天武帝個人のプライベートな称号だった「天皇」が(草壁系の皇族に限るとはいえ)代々の日本国君主の君号として確定したのは文武天皇の即位の697年からなのである。
701年に大宝律令ができて律令国家の面目も完備し、702年に遣唐使(正確には遣周使)が派遣され、則天武后に歓迎される。ここで倭国が日本と改名したことも「公式に」伝わった。内々の情報としてはもっと早く伝わっていたはずであるが。持統天后は703年に崩御し、2年後の705年には則天武后が失脚して周は唐に戻ってしまった。則天武后の悪女悪役ぶりがようやく世の中に広く知られるようになったのはこれ以降であり、すでに持統上皇は崩御した後のことなのである。つまり、持統上皇の在世中は、則天武后は素晴らしい女性で通っていたので、天后という称号にも美しい響きがあったが、それが一転して世紀の大悪女を思わせる醜悪な言葉にかわってしまった。
だから、それ以降に編纂された『日本書紀』では天后の文字は消されてしまい、適宜、即位前の天后は皇后に、在位中の天后は天皇に、譲位後の天后は上皇に、それぞれ置き換えられた。それは当時の考えとしては歴史の捏造でなく持統天皇の名誉のためなのである。

天武帝の立場は微妙でなく普通だった?
(※後日執筆予定)

「天子」の訓はスメミマノミコト(皇孫尊)でいいのか?
ところで、天皇(というより特に天子)のもう一つの和風よみであるスメミマノミコトは、直訳すれば「皇孫の尊」であって、直訳の上では太陽神天照大神の孫と限る言葉ではなく、一般的に天皇の孫という意味でしかない。むろん「孫というのは代々の天皇がみな天照大神の孫なのだって意味だ」、あるいは「天照大神から天壌無窮の神勅を受けて降臨した孫の邇々藝命と歴代天皇が同格なのだ」っていう思想表明なのだ、という解釈は理解できるし、スメミマノミコトという呼称を定めた律令の趣旨も確かにその通りなのだろうが、なぜこんな婉曲な表現なのか? アメミマノミコト(天孫の尊)ならまだわかるが、このアメミマという言葉も天孫という漢語をむりやり訓読みして作った言葉のように聞こえ、あまり古い大和言葉ではないのではないかと思うが、それにしてもスメミマノミコトのような普通の皇族みたいな言葉よりもアメミマノミコトのほうが神聖至尊の由来を直(じか)に表わしていように、なぜこの選択なのか。
天照大神の子孫を意味する表現としてはスメミマ、アメミマ等の「孫」系の表現の他にアマツカミノミコという「子」系の表現もあった。ただし子孫一般を意味する大和言葉はウミノコ(生みの子の意味)とかハツコ(端子の意味で「裔」と書く)であり、ウミノマとかハツマという言葉はない。『万葉集』に宇美乃古とあって古いことから、記紀の「子孫」という漢語はだいたいウミノコと訓まれている。また皇族は代々「王」と称してこの王の字もオホキミまたはミコと読まれる。天皇から別れて何代目であっても皇族ならミコ。「コ」には子孫の意味もあることがわかる。しかし平安時代以降の後世はさておいて、上古には「マ」で子孫を表わした例はない。卑弥呼は「日の御子」の意味だといったが、この御子も子孫の意味だろう。『古事記』では邇々藝命と神武天皇のことをどちらも「天神御子」(あまつかみのみこ)または「天神御子之命」(あまつかみのみこのみこと)といっており、「孫」とは絶対にいわない。この場合の「天つ神」とは邇々藝命からみて父の忍穂耳命のことではなく、神武天皇からみて父の鵜萱葺不合命のことでもない。文脈上、邇々藝命からみても神武帝からみても、天照大神をさしている。だからこの「御子」も「子孫」の意味だ。
天皇を意味する大和言葉としては、明らかにアマツカミノミコノミコトの方が古風であり、天皇の孫という意味しかなかったスメミマノミコト(天皇の孫)を天皇そのものの訓として転用したのは奈良時代に始まった新しい風習だろう。
このスメミマノミコトは、スメミオヤノミコト(皇祖母尊)とセットだったのではないかと思われる。スメミオヤノミコトは皇極天皇が譲位して上皇となってからの称号だが、同じ女帝で譲位した持統天皇も自然とスメミオヤノミコトと称されたろう。前の方で「天后」の譲位後の訓はスメミオヤノミコトだったと推測した通り。従って、スメミマノミコトというのは持統上皇の孫にあたる文武天皇にあたり、当初は「天皇」という称号の訓ではなく単に文武天皇個人をさしていたにすぎない。
天子の訓は、古くはスメミマノミコトではなくて、アマツカミノミコノミコト、アマツヒノミコノミコト、アマツミコノミコト等の「子」系の言葉だったのではないかと思われる。これをスメミマノミコト(皇孫尊)にさしかえたのは元明天皇だろう。元明天皇は自分と聖武天皇の関係、及び持統天皇と文武天皇の関係を、天照大神と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の関係の再現として演出する意図があったと思われる。それを思いついたのは即位大嘗祭に猿女(さるめ)として奉仕した稗田阿礼との出会いがきっかけである。この件についてはこの記事のラストの方でもう少し詳しく書く。
なおこれとは別に、この件は国史編纂事業が『古事記』と『日本書紀』に二分してしまった原因でもあるのだが、その話は今回の本題からずれるのでまた別の機会にする。

「天皇」という君号の起源(後編)に続く
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Re: 「天皇」称号について

関根様
いろいろありがとうございました!
本文中にも書いてますが私が知らないだけで歴史学界では私より早く似た説を唱えてる人がいるとは思うんですが、
そういうプロを差し置いて私説を紹介して頂いたとは恐縮です!
物部麻呂についての貴重なご意見もありがとうございます!ご指摘の誤記も修正したしました!
関根様の今後のご研鑽お祈り致します!

「天皇」称号について

ご高説、興味深く拝見いたしました。
則天武后による「天皇」「天后」改称説は卓見だと思います。
持統天皇に関しては、判断がつきかねます。
本日、新潟県見附市で行っている古代日本史講座で、貴説を紹介させていただきました。
昨今、武即天の評価は、日中で大きく変わりつつあるようです。
私も今後、史実を究明したく思っております。
なお記事中の天武四年(475年)は、(675)の誤記と思われます。
ご確認の上、ご訂正ください。
また「天皇」称号を日本にもたらしたのは、物部連麻呂、後の左大臣石上麻呂ではないでしょうか。
天武天皇五年(676)十月甲辰(10月10日)条に、
------以大乙上物部連麻呂爲大使。大乙中山背直百足爲小使。遣於新羅。
という記述があります。
麻呂は壬申の乱の敗将でありながら、26階中19階という低い階位で大使に抜擢されて新羅に渡り、現地で羅唐戦争の終結を見ています。
新羅や唐に関し、麻呂は情報通だったと推定されます。
天武天皇十年(681)十二月癸巳(12月29日)には、粟田臣眞人らと共に7階特進して小錦下を叙位。
その後、天武崩御に際し朱鳥元年(686)九月乙丑(9月28日)、法官事を誄しています。
石上麻呂は、飛鳥浄御原令の制定にも関わったのでしょう。
古代日本において、麻呂ほど重要人物はいない。
私は、そう考えています
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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