FC2ブログ

・「天皇」という君号の起源(後編)

H28年5月11日(水)初稿
天皇という君号の起源(中編)より続き

草壁系が途絶えたのになぜ「天皇」号が使われ続けたのか
理屈からいえば「天皇」というのは草壁系のスメラミコトのことなのだから最後の「天皇」は称徳天皇であって、光仁天皇からは天智天皇の近江令の精神に立ち返って「皇帝」「天子」の二本立てに戻り「天皇」号は廃絶するべきだったろう。実際にそのような選択肢はあったはずだが、天皇号の見直しは見送られ、永久に天皇号が使用されることになった。それはなぜか。

元明天皇の時に『古事記』が、元正天皇の時に『日本書紀』が編纂されたが、これは神武天皇にまで遡って「天皇」という称号を使っている。これはスメラミコトの漢字訳であり、当て字なのだから「天皇」でも「皇帝」でもそれ以外の何かでも、別に何の問題もないはずだが、天皇号が採用されたのは草壁系のアイデンティティー、すなわち天武の父系と天智の母系を継ぐ「草壁系」だけが始祖「神武」以来の皇位を継ぐ正統唯一の存在だという意志の表われだろう。
文武天皇の次の元明天皇も、その次の元正天皇も「天皇」と称している。これはもし則天武后の失脚がなければ「天后」になっていた可能性が高いがそれはさておき、この天皇という漢字表記は草壁皇子の系統の者だけが初代「神武」以来の皇位を継ぐ、という宣言、少なくともそういうイメージを込められた表記だったことは説明した。元明・元正という二代の女帝が続いたのも草壁系で文武天皇の子、首皇子(のちの聖武天皇)の成長を待つためであった。つまり、記紀が出来た時の建前としては、皇位というものは永久に草壁系の皇族子孫に継承されていくべきもので、まさか聖武天皇の次で断絶するなんて縁起の悪い予想は口に出すのも憚られたのは当然だろう。草壁系の皇族が永久に皇位を継いでいく=天皇が永久に続くのだから、過去のスメラミコトがすべて天皇表記でも「スメラミコト=天皇」で一貫しており問題はない。そういうわけで、この時代にできた『日本書紀』は神武天皇以来、歴代のスメラミコトを「天皇」と書いているわけなのである。
ただし『古事記』は書紀とは別の表記法をとるという編集方針を立てていたのだから、例えば万葉集や延喜式祝詞みたいに「皇命」(すめらみこと)とか金石文みたいに「大王」(おほきみ)という書き方をした方が古風でもあり、古事記の趣旨からいっても太安万侶や稗田阿礼もそうしたかったろうが、「天皇」という表記を使えという厳格な指示か、場の空気があったんだろう。

天皇号が単なるスメラミコトではなく「草壁系の天皇」を意識した号であることは聖武天皇・孝謙天皇・舎人親王の3人が皇帝を称していることからも傍証できる。
天平宝字二年(AD758)八月一日、孝謙天皇は淳仁天皇に譲位して上皇となったがこの時「宝字称徳孝謙皇帝」という尊号を献上された。八月九日には2年前に崩御していた聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号と「天璽国押開豊桜彦尊」の諡号を贈っている。また同時に草壁皇子を「岡宮御宇天皇」とよぶことにされた。翌年天平宝字三年(AD759)には淳仁天皇の父、舎人親王に「崇道尽敬皇帝」と諡を奉った。

『逆説の日本史』で有名になった井沢元彦がいうには「皇帝」を名乗ってるのは易姓革命を意識したもので、坊さんの道鏡に皇位を譲るつもりだったから、といってるが、孝謙天皇と道鏡がめぐりあうのはこの3年後なので井沢元彦の説は成り立たない。ただし、一応、この頃はすでに藤原仲麻呂が権勢を振るい始めていたので、仲麻呂の支那かぶれ趣味の現われだろう。彼は当然、漢文にも精通しており、天皇という称号が中華王朝(律令時代は日本も中華式の帝国をめざしていた)としては不自然というか、漢文文明の文脈ではやや不細工な感じがして「皇帝」号の方を好んだ可能性は推察できる。しかしここで注目されるのは、聖武天皇を皇帝としたのと同じ日に草壁皇子を「天皇」号を贈っているという対象性、そしてもう一つは、聖武天皇が崩御に際して、孝謙天皇に「皇太子として道祖王(ふなどおう)を立てるように」と遺詔していたことだろう。道祖王は天武系ではあるが草壁系でない。つまりスメラミコトに即位することはできても天皇ではない。中国の王朝交代=易姓革命には該当しないが、草壁系から非草壁系への「王系交代」が起こることになる。『続日本紀』は代々の天皇の巻の表題に和風諡号を使っているが、孝謙天皇の巻の表題について「出家したので和風諡号がない、なので生前の宝字称徳孝謙皇帝を表題に使う」とし、重祚(称徳天皇)の巻には「高野姫天皇」(これも生前の号)としているがこれはおかしい。聖武天皇も生前に出家していたが崩御2年後に和風諡号が贈られた。孝謙天皇(=称徳天皇)は生前にも倭根子天皇とか高野姫天皇とか和風な呼ばれ方もされていたのだから、和風諡号を撰案して奉ることは容易であったはずだ。おそらく始めの在位は天皇号でなく皇帝号で、重祚してから天皇号を使ったのではないかと思う。皇帝だった孝謙天皇の後を継いだ淳仁天皇も天皇でなく皇帝だったと思われる。淳仁天皇もその父の舎人親王も草壁系ではない。道祖王や淳仁天皇、舎人親王の3人は草壁系ではないから天皇でなく皇帝だったというのはわかりやすい理屈だが、聖武天皇と孝謙天皇が「皇帝」とされたのはどういうことかというと、聖武天皇は非草壁系の道祖王に皇位をわたすように遺詔し、孝謙天皇も当初はその予定だったがすぐ皇太子を非草壁系の大炊王(のちの淳仁天皇)にさしかえた。つまり聖武天皇と孝謙天皇はどちらも非草壁系に皇位をわたそうとしていた。これは草壁系の永続を前提とする「天皇」の名においてはいかにも気まずいので、王系交代を中華皇帝の「禅譲」に見立てたのではないか。禅譲する方もされる方も皇帝の論理の中にあるのであって、天皇の論理(草壁系永続の論理)からははずれるのである。

ただしこれらの理屈は前述のように主には藤原仲麻呂の個人的な思想のようにも思える。その後、孝謙天皇は淳仁天皇を廃位した時に「天子を奴とするも奴を天子とするも汝の思いのままにせよ」という聖武天皇の遺詔を持ちだして重祚したが、『続日本紀』の表題をみると重祚してからは天皇号を使ったようだ。仲麻呂の乱を鎮圧した後で彼の中華式論理に嫌気がさしていたのもあろうし、権力の正統性を聖武天皇の遺詔に求めている。いうまでもなく聖武天皇の威信は草壁系の嫡流たることにある。

ともかく、現実の歴史は称徳天皇で草壁系は断絶し、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位。本来ならここで「天子」と「皇帝」の二本立てに戻らないとおかしいわけだが、そうはならなかった。なぜか。
光仁天皇の即位後、政情がすぐ安定したわけではないので、天皇号を廃止するというような、天武系(草壁系)をいきなり刺激するようなことはしたくなかったろう。それやるなら政情が安定してからだが、草壁系の皇后の井上内親王やその所生の皇子、他戸親王が即位3年目で廃されるというすったもんだがあり、さらに3年後の二人の急死による怨霊への恐怖で寺を建てたりしたが、その翌年には天変地異、そして光仁天皇本人の病気、その4年後には崩御しており、天皇号をどうするかなんていう形式にかかずらわってる暇は無かった。
光仁天皇の時代には日本書紀の続きとなる歴史書の編纂(のちの『続日本紀』)も計画されたが完成しなかった。この段階では孝謙天皇までの歴史書として想定されていたから、仮にこれが完成していたとしても登場する天皇すべて「天皇」でも問題は起こらない(ただし孝謙天皇は皇帝だった可能性があるのは前述の通り)。なぜ孝謙天皇までなのかというと、淳仁天皇(淡路廃帝)と称徳天皇(孝謙天皇の重祚)を正統と認めるかどうかまだ当時の空気としては意見をまとめるのが難しかったからだろう。淳仁天皇は在位中に皇位を取り上げられ廃帝にされたまま諡号も贈られていなかったが、明治天皇がそうしたように名誉回復することも可能だったはずだし、称徳天皇を崩御の後に形式上廃帝扱いとすることも可能だった。選択肢として、四通りの形式が用意できたのである。またそれによって、現皇室(光仁天皇)の権威の源泉なり正統性なりの理屈も変わってくる。そうすると編集方針をめぐって意見も4派に分かれて揉めまくっていた可能性もあるだろう。ただし目立つのが嫌いで苦労人の光仁天皇個人としては、天智系統の復活なんて大々的な宣伝はせず、何食わぬ顔でまるで草壁系が続いてるようなすっとぼけた態度で、余計な波風立てない方針を望んでいたようにも思われる。
次の桓武天皇は草壁系に遠慮する必要はなくなっていた上『続日本紀』を完成させる余裕もあり、記述範囲は当の桓武朝にまで及んでいるから、その気になれば「天皇」号を問題視することも理屈の上では可能だったと思われる。実際、桓武天皇にはかなりの中華趣味があって、中華式の儀式を取り入れたりしているし、「皇帝」号も多用していた。『続日本紀』の桓武天皇の巻の表題も「今皇帝」になっている。しかし、やはり天皇号の見直しはされなかった。これはなぜなのか?

考えられる理由としては、
第一に、天皇より古い「天王」号が親しまれ馴染まれていた。天皇の読みも天王と同じくテンワウ(現代語:テンノウ)であり、感覚的にはひじょうに古くから使われた「天王」号の延長のように感じられ、「皇帝」よりははるかに親しみ深かったのだろう。
第二に、上記第一と裏表な話で、「皇帝」という称号は天智天皇の近江令から採用されたもので、歴史が新しくなじみが薄かったと思われる。
第三に、天武帝の段階での国史編纂計画は、天智帝で終わる『大倭史記』であり、天武帝以降の歴史は遠い将来『日本書』としてまとめられる予定だった。そこでは天皇号は天武天皇個人(一代きり)の称号であり、君号は「皇帝」が使われるはずだった。ところが元明天皇の代になってから急遽変更になり、天武・持統の両天皇まで追加されることになり、表題も『日本書』とされ、同時に神武天皇以降の歴代のスメラミコトがすべて「天皇」と書かれてしまった。天武・持統が考えていた歴史観と元明天皇の歴史観はかなりちがっているのだがそのへんの事情や経緯はまた別の機会にするが、神武天皇以来「天皇」表記にすることになったのだから、天智系だの天武系だのといって称号を区別する意味がなくなってしまった。
第四に「天皇」号についていえば、記紀が完成するずっと前の段階で「天后」という文字が抹殺されていたため、天武天皇が創案した天后とのセットとしての天皇、持統天皇が意味づけた草壁皇統としての天皇という側面が薄れ弱まってしまっていた。
第五に光仁朝・桓武朝では井上皇后と他戸親王の「怨霊」が問題になっていた。これは井上皇后個人の怨恨ではなく、草壁系を絶滅させたことによる祟りという側面もある。そこで草壁系を表わす天皇号を継続させることが怨霊を慰撫することになると考えられた。これについては確定案ではなく微妙なところもあるが、長くなるのでこの記事の最後に「草壁系の怨霊問題」という題でまとめておく。
第六に『日本書紀』編纂の段階では日本語を漢文にどう置き換えるかという問題意識があったから、いわば創造的行為としての翻訳が焦点となっており、そのような精神の下では「既成事実」などは重みをもたず、むしろ絶えざる再検討の対象となる。が、『続日本紀』の頃は、漢文に熟練した官僚が増えてきて、過去の表記をやたら恣意的に変更しないという歴史の常道が意識されてきた。つまり言葉に対するセンスが真逆になっており、すでに『日本書紀』ができてしまっているという「既成事実」は、天皇号を踏襲させるほどの重みをもっていた。

既成事実として『日本書紀』では神武天皇以来、代々天皇表記になっているというのはその通りなのだが、全面改訂するといっても単に文字の機械的な訂正だからさして難しくはなかったはずだ。光仁・桓武二代経って、これはすでに天武系がどうの草壁系がどうのという話とは矛盾した情況になっているわけでこの矛盾を調整するために『日本書紀』を全面改訂するという選択肢もまったくありえたろう。だが、そうはならなかった。その理由としては、上記の6案をあげてみた。

怨霊としての草壁系
桓武天皇の時に編纂された『続日本紀』の構成をみてみると、桓武天皇の途中の延暦十年(AD791)で終わっている。これは『続日本紀』が完成した延暦十六年(AD797)の6年前にあたり、ぎりぎりまで現代史を含めようとしている。これは現代人の発想からは、何てこと無い当たり前のことのように思われるが、やや不審でないこともない。
天武帝の生前には、おそらく想定していた歴史書は天智帝(もしくは弘文帝)で終わる内容で構想されていただろう。天武帝はこの段階ではまだ死んでないし、治世の途中で切ったらキリが悪い。中国の歴代正史は「断代史」といって『漢書』以降は王朝ごとの歴史になっている。天武帝の治世から始まる歴史書は、自分の子孫が作るものであって天武帝自身が作るものではない。それが持統天皇まで含めて『日本書紀』になってしまった経緯はいろいろあるわけだが(今はふれないが)、『古事記』は中巻と下巻を区切り(応神天皇と仁徳天皇の間)、『先代旧事本紀』は神皇本紀と帝皇本紀を区切っている(武烈天皇と継体天皇の間)のも、王朝というか家系の交代に注目した点で、すべて似たようなセンスといえよう。
こうしてみると、桓武天皇が歴史書を編纂するにあたっても、自分の治世まで含めないで考えていたのではないかと思う。それが普通なのだ。歴史書の区切りとしては称徳天皇で終わりにして、光仁天皇以降の歴史は後世の人間に任すというのがもっとも穏当かつ常識的な選択だったと思われる。
それがなぜ自分の治世の途中まで含むという編集方針になったのか?

いうまでもなく区切らないというのは、自分自身(桓武天皇)まで、太祖神武帝から天智系も天武系もなく、ひと繋がりで「断絶はない」という観念の表明である。これは前王朝に対する優位の主張を放棄し、歴代天皇の中に自らの家系の価値を埋没させることではあるのだが、同時に、断絶した前王朝を万世一系の欠くべからざる一部として救い出すことでもある。こんなことは近代以降でこそ当たり前のことだが、当時は皇室典範が無く、傍系から入って皇位継承するというのは諸臣貴族層の利害や思惑が絡まって、正統なのか簒奪なのかどうかという線引きをめぐって空気が緊張し、客観的な判断が難しくなる。だから正統性の主張が重要なのだが、不幸にして当時の政治思想といえば儒教理論が力をもったために、つい前王朝(前の家系)の不徳をあげつらうことになりがちだったと思われる。それを、よりにもよって歴代の中でも支那かぶれの度合いの高い方に入る桓武天皇が、なぜ断ち切ることができたのか。それはひとえに、当時流行しつつあった「怨霊信仰」によるのだろう。
光仁天皇の治世は打ち続く天変地異が井上皇后と他戸親王の怨霊の仕業とされ、桓武天皇になってからも早良親王の怨霊に悩まされ、当時は深刻な問題だった。桓武天皇は井上内親王(廃后)に皇太后の号を贈り、早良親王に「崇道天皇」の号を贈っている。他戸親王は当時12歳でわけわからないうちに巻き込まれただけだから天皇号までは贈らなかったようだ。

怨霊信仰の起源については儒教(というか儒教と道教に分離する前の古代中国の祖霊信仰)でいう、死者は男系子孫からの祭祀でないと受けることができないので、男系子孫が断絶すると死者はあの世で困窮するという信仰と、仏教の因果応報思想と、神道の荒御魂(あらみたま)だか祟り神(たたりがみ)だかの思想が混淆して日本で独自に形成された新しい信仰である。従って怨霊信仰は、中国的な「子孫断絶」と、仏教的な因果応報から免罪なのに殺された者の無念が正当に報われるという面、そして神道の荒御魂つまり生者にタタリをなすという3要素からできている。怨霊信仰の起源は(1)聖徳太子説、(2)大津皇子説、(3)長屋王説、(4)藤原広嗣説があるが、(1)と(2)は誤りと思う。聖徳太子の頃に怨霊信仰があったら子孫を根絶やしにされることはなかったろう。大津皇子には粟津王という子がいたがその子孫はぜんぜん活躍しておらず名も知られていないのですぐに断絶させられたに違いない。つまりこの頃には怨霊信仰はまだ確立してなかったのではないか。長屋王の怨霊は疫病となって藤原四兄弟を殺した。長屋王の子孫が高階氏として存続が許されたのは怨霊をなごめる意味あいがあったのである。逆にいうと、子孫がいれば怨霊をなごめやすいが、子孫の断絶した怨霊はそれだけ怖ろしく手強いということになる。平安前期までに早くも崩れて上記のいくつかの条件(子孫の有無、免罪、無念の思い等)がぬけても庶民の人気によって怨霊とされていったりするようになっていくが、初期のうちは「子孫が断絶してるかどうか」が怨霊の怖ろしさの分かれ道だったのである。

ところでこの怨霊信仰は中国的な歴史編纂の思考とは相容れないものだ。中国の正史の思想は滅びた前王朝を悪として断罪することで、新王朝の正統性を主張する。それだと、怨霊信仰の立場からいうと前王朝が怨霊になってしまう。だから、天武帝以来構想されてきた中国的な正史の枠組みそれ自体が、桓武天皇によって破棄されたのだと思われる。むしろ、前王朝の家系をどうやって慰霊するか(怨霊にさせないか)が課題になってくる。とはいえこの頃はまだ怨霊信仰ができたばかりの時代だから、怨霊の条件も後世のようにユルユルではない。天武天皇の子孫は断絶しておらず、文屋氏・高階氏・清原氏などその後もずっと続いているから、天武系がそれだけで怨霊視されることはなかったろう。ただ、これら天武系の氏族は、いずれも天武系ではあっても草壁系ではない。草壁系の男子が断絶したのは自然の作用で桓武天皇のせいではないが、草壁系(というか持統天皇の子孫)は男系も女系もすべて断絶している。自然でなく誰かの陰謀で断絶させられた女系というのは、長屋王の変での吉備内親王と、光仁朝になってからの井上内親王がいる。前者には光仁・桓武が責めを負う筋合いにないが、後者は最後に残った持統天皇の血筋を光仁天皇が断ったことになる。

草壁系の子孫はいた?
ただし、草壁系は残っているとする異説があり、それは高円氏の始祖である高円広世(たかまどのひろよ)が文武天皇の皇子だと推測するもの。母の石川刀子娘(いしかはのとじのいらつめ)が和銅六年(713年)に嬪の称号を廃された際に、成世も皇籍を剥奪されたという。これはあくまで角田文衛の推測であって高円成世の両親は不明。『続日本紀』には石川刀子娘が皇子を生んだような話はない。石川刀子娘は同じく嬪だった紀竃門娘(きのかまどのいらつめ)と一緒に廃されているが原因は不明で、詳細は省かれている。これがもし本当なら草壁系は高円氏として続いていることになるが、もしそれなら称徳天皇の後は高円氏が皇籍に復帰したのではないかと思う。首皇子を天皇にしようとする藤原氏の謀略だという説もあるが、おそらく二人の嬪は品行不正で廃されたのではないか、それも高円広世の父が本当に文武帝なのか疑われたのだろう。梅原猛の説だと、文武天皇の妃は紀皇女だったが弓削皇子との不倫が原因で妃を廃されたという。紀皇女の乳母氏族は紀氏で、紀竃門娘もその出身だから、紀竃門娘はもともと紀皇女のお付き官女だったのだろう。弓削皇子は文武三年(699年)に推定27歳の若さで薨去しているが梅原説が正しければ始末されたってことだろう。その頃には紀皇女も廃妃され離婚して、一応決着ついていたはずである。713年になって石川刀子娘の不倫が疑われたのは、高円広世(当時は広成皇子)が弓削皇子の胤だと疑われたということではないか、だから一緒に紀竃門娘も廃されているのはかつて紀皇女と石川刀子娘の間を手引きしたのは紀竃門娘だったということだろう。いや、高円広世が弓削皇子の胤かどうかは断言できないが、弓削皇子と紀皇女の不倫があった頃、紀竃門娘と石川刀子娘も紀皇女のとりまきの一人としてその交友圏内にいて、弓削皇子をとりまく男性らと不品行に及んでいたのではないかと疑われた過去があったのではないか。そんな昔のことが713年になって改めて問題にされたのは、広成皇子が成長して弟の首皇子(聖武天皇)と比べて父に似てる似てないの話にちょうどなる時期に重なっている。だから広成皇子の本当の父が誰なのかはわからないが、少なくても当時疑われるようなことがあったからこそ皇籍を剥奪されたのである。本当の父が誰であっても当時は草壁系の男子は文武天皇しかいないから、どのみち高円広世は草壁系ではない。弓削皇子も天武系ではあるが草壁系ではない。
さらに、草壁系は女系でならば繋がっているとする異説もあり、長屋王の子の桑田王が高階氏として継続している。『続日本紀』では桑田王の母は吉備内親王の子としているので、それなら女系を通じて草壁系ということになる。しかし長屋王邸宅跡から出た木簡に「石川大刀自」または「石川夫人」として出てくる人名がみつかり、これが『本朝皇胤紹運録』に桑田王の母として出てくる「石川忠丸の女」と同一人物だろうということになり、『本朝皇胤紹運録』に信憑性がでてきた。『続日本紀』は吉備内親王の3人の子に並べて桑田王まで書いた時に母についての注記が漏れたのだろう。
ところで高円広世の母である石川刀子娘と、桑田王の母である石川大刀自は同じ石川氏で世代もまったく同世代。もしかして姉妹か。まさか同一人物ということはあるまいな。同一人物だったら文武天皇の嬪を廃されてから長屋王に拾われたのか。そうすると高円広世の父は長屋王の可能性も理屈の上では出てくるが、もしそうなら桑田王がそうしたように父を隠す必要はなかろうから、やはり高円広世の父は長屋王ではないと思われる。あるいはまだ文武帝の嬪だった頃の不倫相手が長屋王で、その頃に長屋王の胤で生まれたのが広成皇子だったとしたら、長屋王の実の子であってもその事実は隠されたろう。この場合、広成皇子は桑田王の同母兄となる。
しかしこれらはすべて憶測にすぎず、万が一この通りだったとしても、「長屋王謀反の讒言を聖武天皇が信じたのは石川刀自をめぐる父(文武帝)と長屋王の三角関係を知ったからではないか?」等という週刊誌のゴシップ記事みたいなどうでもいい話のネタになる程度で、格別にだからなんだという面白い展開にはならない。当面の議論としては、どっちみち草壁系は残っていないということにかわりはない。

ともかく、そういうわけで、他戸親王と井上皇后の母子は、女系・男系含めて草壁系の最後の生き残りだったことになる。ということは怨霊信仰として考えた場合、「井上皇后個人の怨み」というレベルではなく、草壁系全体の祟りということが考えられたはずであろう。草壁系とは天武帝と持統天皇を父母とするが、天武系はいくつもの系統が子孫として残っているから怨霊としてはさほど恐ろしくはない。問題は持統天皇だろう。井上皇后の怨霊とは、いうまでもまくその背景に持統天皇の怨霊の可能性というとてつもない影を背負っているのだ。持統天皇がとんでもないスーパーウーマンだったことは有名であり、伝説化してこの時代までも語り草になっていたに違いない。ただでさえそんなとてつもない猛女が怨霊になったりしたら、こんな怖ろしいことはないだろう。

京都の御霊神社の御祭神は時代的にこれより後の(平安前期の)怨霊をあわせ祀っているが、主要な6柱の怨霊の他に、後から祀られたという由来不明の2柱がある。それが火雷天神と吉備聖霊で、火雷天神は名号からいえば菅原道真だが時代的にあわない。吉備聖霊は吉備真備とする説もあるが彼は怨霊になる筋合いがない。御霊神社の公式見解としては、祭神6柱の荒御魂が火雷天神で、和御魂(にぎみたま)が吉備聖霊という。
推測するに、吉備聖霊は吉備内親王ではないかとする永井路子の説が当たりだろう。ただ、吉備内親王はだんなの長屋王の変の巻き込まれただけで、彼女を祀るなら長屋王も祀らないとバランスがとれないように一見思われる。長屋王には子孫がいるが、吉備内親王には子孫がいないから? それもあるが、草壁系の中で怨霊になりうるような非命に倒れた女性は、井上皇后を除くと吉備内親王しかいない。だから持統天皇の代わりに選ばれたのではないか。火雷天神とは「火徳天皇」つまり天武天皇のことではないか。「火雷天神と吉備聖霊」とは「天武天皇と持統天后」のことではないだろうか。

持統天皇の怨霊をなごめるには「天皇」号の永続というのは持統天皇への慰霊の意味があったのではないか。『続日本紀』の構成が、中国式の断代史に倣わず、草壁系と天智系との間に区切りを置かないのは、形式上は断絶を認めないことで、草壁系の継承者として振る舞うということにも通じる。
もっとも、通常ならば、草壁系にのみ許されたはずの「天皇」号を天智系が使ったらその方が失礼なんじゃないのか、むしろそのせいで祟りを受けたらどうするんだ、という発想もありうる。むしろ天皇は尊貴な称号だから遠慮するのが怨霊を敬うことだ、と。だがその「通常」は元明天皇によってすでに破られていたのである。それは国史編纂事業の度重なる予定変更のことである。

天武天皇の考えていた国史編纂構想では、天智天皇までで終わる『大倭史記』であって、歴代天皇の称号スメラミコトは「天皇」でなく「皇帝」と書かれる予定だった。天武天皇以降の歴史は『日本書』となる予定だったがこれは天武天皇の仕事ではなく、ずっと後世の子孫のすべきことと考えられた。この場合でも、天武・持統の夫婦だけが「天皇・天后」でそれ以降のスメラミコトは「皇帝」に戻るはずだった。しかし以上のことは天武天皇の考えであって、持統天后の考えではない。文武天皇の即位に際して皇帝ではなく天皇の称号だったことは持統天后の意志であることは既述した。則天武后が死去した705年以降のある段階で、元明天皇の判断により持統「天后」の称号は抹消され天皇・皇后・皇太后にそれぞれ書き換えられた。その後、和銅元年(AD708)十一月廿一日の大嘗祭で、元明天皇は稗田阿礼と知り合い、皇位の由来である天孫降臨神話にいたく興味をもつようになったと推定する。和銅四年(AD711)九月十八日には太安万侶と稗田阿礼に神代巻(先代旧辞)の完成を急がせたが、この時には帝皇日継にはふれていない。この時、元明天皇が打ち出した新企画は、それまで、神代巻(先代旧辞)は『大倭史記』や『日本書』のような歴史書(帝皇日継)とは別の書物になる予定だったが、大倭史記25巻の前に神代巻2巻と後ろに天武持統3巻を加えて計30巻とし、タイトルを『日本書』として大倭史記は企画ごと無しとして、歴代の君号も神武以来「天皇」で統一するということだった。なぜこのような変更したのかというと、よくいわれることだが、天照大神と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の関係に、持統天皇と文武天皇を擬そうとして、これによって正統性を主張しようとしたのだといわれる。しかし、これを発想したのはおそらく持統天皇自身ではなく、元明天皇だったろう。元明天皇と聖武天皇の関係も祖母と孫だが、自分を直接に天照大神に擬するのは恐れ多い。もし持統天皇の段階でこの発想があったら、天皇という称号を文武天皇に使わせる意味がなく(そんな珍妙なことをしなくても天照大神たる持統天后の孫というだけで文武皇帝の正統性は完璧だから)、天皇号は天武天皇一代のものに留まったはずだった。従って、元明天皇の新企画では、新しい歴史書は、必ず神代巻で始まってなければならず、持統天皇で終わらなければならないことになるが、こんなことは絶対に天武天皇の段階で出てくる発想ではない。またこうなると、天皇という文字の由来が、天武と持統の夫婦の正統を継承するものだという趣旨にこだわって天智以前に使わない、というのは王朝の断絶を連想させて逆効果になりかねない。だから歴代ぜんぶ天皇号で統一したのである。

従って、草壁系の怨霊化を怖れる光仁・桓武朝としては、元明天皇の趣旨をも忖度した場合「草壁系にのみ許されたはずの天皇号を天智系が使ったらその方が失礼なんじゃないのか、むしろそのせいで祟りを受けたらどうするんだ」という発想は却下される。それよりも天皇号を継続することで天武系(草壁系)をも万世一系の中に包摂して断絶感をなくしたほうが慰霊になると判断される。

『日本書紀』の誕生
ところで、以上のように天皇号の起源を則天武后にからめて説明する説は、俺のような者ですら思いつくぐらいだから、実は学界ではかなり昔からあった説である(ただし俺はちゃんと読んだことはない)。とはいえ、そういう説があるってことは大雑把に断片的に見聞するものの、なかなかその詳細に触れることはない。というのは、なぜかこの説については、素人や一般人が手にとるような書店に出る商業出版物に乗らないのだ。これは庶民が古代史に求めたがるものと学者が提供したがるものの間にギャップがあるからではないか。天皇号の起源を中国の悪女則天武后、及び天武・持統両帝の夫婦関係に求める説は、右寄りの人にも左寄りの人にも相当ウケが悪いようなのだ。左巻きの気持ちはよくわからんが、適当に想像すると、彼らにとって天皇なんていう単語は抑圧的な封建主義の象徴であるべきで、フェミニストみたいな女性尊重の趣旨から出てきた称号だったというのはずいぶん奇妙に聞こえるのだろうか。最近の風潮でも、皇后をまるで「天后」のように崇めまつる自称保守派がいるが、もともと宮中祭祀は天皇の専権事項で皇后がかかわるような伝統は無い。これは今のお后様から始まったことで、あくまで天皇陛下をお助けするのが趣旨で、皇后が主役なわけではない。…おっと、話がずれたが、ともかく、我々にとって本当に大切なのはスメラミコトであって、肯定するにしても否定するにしても「天皇」という文字や「てんのう」という発音が問題なのではない。そんなものはもともと外国語なのだからエンペラーと何も違わないではないか。
元明天皇は、正統性に疑問がないでもない天武=草壁系の皇位を守るために始めて皇后を経ずに即位した最初の女帝だった。「皇位とは何か」という問題を常に意識していたはずだろう。元明天皇の即位大嘗祭において猿女(さるめ)として奉仕していた者たちが古き神話を伝えるという語部(かたりべ)の後裔だときけば、その長なる稗田阿礼(ひえだのあれ)を必ずや召し出して話を聞こうとしただろう。国史編纂局の中にあった「中華スタイル」の歴史書にこだわる風潮を、語部出身の稗田阿礼は嘆いていたと思われる。儒教のロジックに依存する者は儒教のロジックで滅びる。『古事記』は雄略天皇も武烈天皇も絶対神聖至尊の現人神(あらひとがみ)として他の諸帝となんらの差別も設けていない。徳の有無だとか人格の素晴らしさとか、天皇の天皇たる所以には何の関係もないことであり、一介の庶民が床屋談義にそういうことを言い出すことが謀反の始まりなのである。…おっと、話がずれたが、ともかくそういうわけで、稗田阿礼は、天孫降臨神話に由来する万世一系の尊さを元明天皇に説いた。元明天皇は天啓をうけた思いで聞いたに違いない。気付いたのだ、中華式のロジック(=有徳者と不徳者の家系交代)に依存して天武=草壁系の正統性を宣揚するために四苦八苦することの愚かさに。元明天皇は、それまで天武帝の考えていた「断代史」形式の歴史書をつくることをやめ、冒頭に置いた神代巻と、ラストに置いた持統天皇とで歴史をはさみ、持統天皇を天照大神に、文武天皇を瓊瓊杵尊に擬して、草壁系もまた神話に由来する歴代スメラミコトに他ならないことを示した。草壁皇統の正統性は、近江朝廷の不徳にも天武天皇個人の帝徳にもよらず、天壌無窮の神勅によるのである。その意味では、草壁系の他系(天智系など)に優越するところは無い。無いが、それで十分すぎるほど十分なのである。スメラミコトの権威、スメラミコトの正統性は儒教のロジックに依存すべきではないのだ。
関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
プロフィール

道三(どうさん)

Author:道三(どうさん)
どこから見ても平凡な、一介の町人です

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク
RSSリンクの表示
QRコード
QR
検索フォーム