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・「継体・欽明朝の内乱」は無かった

H28年5月19日投稿 H28年2月17日(水)初稿
安閑天皇
安閑天皇も「欠史十代」の中の一つで、簡単な記事だけで物語がない。『日本書紀』みても分量が少ないので、古事記がなにか事情あって格別に記事を減らしたとかわざと短くしているというわけではないことはわかる。安閑天皇は在位期間も短く、もともと記事が少ないのは当然だろう。

継体天皇崩御から欽明天皇即位までの謎
ところで、継体天皇崩御から欽明天皇即位までの年次を記録した諸々の文献資料間に矛盾が存在する。これらの読みようによっては欽明天皇が安閑天皇より先に即位して、安閑天皇と宣化天皇の在位期間が存在しなくなる。むろんそれはおかしいので、これをどう考え解決をつけるかという問題で、いろんな説が出ている。その中でも特に酷いのが林屋辰三郎の「継体欽明朝の内乱」説で、それによると継体天皇の後に安閑天皇と欽明天皇との間で争いがあり、南北朝時代みたいに一時期、天皇が二人にわかれて抗争し、安閑天皇の後は宣化天皇が継いで欽明天皇との争いを継続、宣化天皇が崩御してやっと欽明天皇による統一政権ができたのだという。今回はこれらの諸説を検討してみる。

資料
A)『古事記』では丁未年(AD527年)に継体天皇崩御。
B)日本書紀編年における継体二十三年(AD529年)に巨勢臣男人が薨去しているのに『続日本紀』には「巨勢臣男人は継体朝・安閑朝の二朝で大臣だった」とあるから、AD529年は実はすでに安閑朝に入ってると推測できる。
C)『百済本記』の辛亥年(AD531年)の記事「又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨」(後述の林屋辰三郎はこの事件を辛亥の変とよぶ。ここでいう天皇が誰なのかは継体天皇・安閑天皇・宣化天皇という3通りの説がありうる。『日本書紀』はこれを継体天皇の崩御と解釈して正文に採用、編年しているが、正確な判断は後世に任せるとしている)
D')紀(異説)では甲寅年(AD534年)に継体天皇崩御。
D)紀(正文)では甲寅年(AD534年)に安閑天皇即位。
E)記紀ともに乙卯年(AD535年)に安閑天皇の崩御。
F1)『上宮聖徳法王帝説』は戊午年(AD538年)が欽明朝に含まれるとした上、欽明天皇の在位が41年間とする(紀では32年間)。
F2)『元興寺伽藍縁起』では戊午年(AD538年)が欽明七年にあたるとする。
F3)紀と『上宮聖徳法王帝説』はともに欽明天皇の崩御を辛卯年(AD571年)とする。
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上記のD'とDの間には矛盾がないがCとDをあわせると2年間の空位があったことになる(『日本書紀』正文はこの説を採用)。AとDをあわせると6年間の空位となる。
上記F1とF2とF3をあわせると辛亥年(AD531年)に欽明天皇が即位したことになり、さらにCで崩御したのが継体天皇だったとすると継体天皇のあとすぐ欽明天皇が即位したことになり安閑天皇・宣化天皇の存在する余地がなくなる。
またAからEまでだけならば、継体天皇崩御=安閑天皇即位の年次が上下するだけの話で、あまり大問題とはいえない。問題はFであって、これあるために、後述の「二朝並立論」がでてくるのである。

諸説とその批判
1)安閑・宣化繰り上げ説
平子鐸嶺の説。継体天皇の崩御を丁未年(AD527年)としているのはよいが、宣化天皇の崩御と欽明天皇の即位を辛亥年(531年)として間の4年間に安閑天皇・宣化天皇の在位を想定する。この平子説は、並立説や内乱説のように二派に分裂したとは考えない。また平子説の工夫点としては、薨去した太子とは上殖葉皇子のことで、皇子とは紀の宣化四年条に出てくる孺子(わくご)のことだとした。
《批判》上記のE)のような甲寅年(AD534年)に安閑天皇即位という紀の伝承を説明できない。またF)のように記紀が一致して安閑天皇の崩御を乙卯年(AD535年)としているのに、宣化天皇の崩御が辛亥年(531年)だと安閑天皇の崩御年=乙卯年(AD535年)がそれ以前となり矛盾する。紀の宣化四年条については下記の通り

【紀原文】
「宣化四年(己未年)冬十一月庚戌朔丙寅、葬天皇于大倭国身狭桃花鳥坂上陵。以皇后橘皇女及其孺子、合葬于是陵。皇后崩年伝記無載、孺子者蓋未成人而薨歟」
【読み下し】
「宣化四年冬十一月庚戌朔丙寅、天皇を大倭国の身狭桃花鳥坂上陵に葬りまつりき。皇后橘皇女及びその孺子、この陵に合わせ葬りき。皇后の崩りましし年、伝記に載する無し、孺子はけだしいまだ人と成らずして薨せませるか」
【訳】
「AD539年11月17日、天皇を大倭国の身狭桃花鳥坂上陵に葬りもうしあげた。皇后橘皇女及びその孺子(若い子)もこの陵に合葬した。ただし皇后の崩くなられた年は伝記に載ってない。孺子は恐らく未成年のうちに薨くなったのだろうか」

この紀を読むに、平子の説だと太子が亡くなったというのに上殖葉皇子のことはぜんぜん出てこず、皇后と孺子が薨くなったのも天皇崩御より後のことのように書いてある。よって辛亥年の事件にこの紀の記事は当該しないであろう。

2)安閑繰り上げ・宣化抹殺説
上記の平子鐸嶺の説のバリエーション(提唱者名不詳)。辛亥年(531年)に崩御したのは安閑天皇と宣化天皇とする説。この場合、宣化天皇はもともと即位しておらず太子のまま薨去したのだとする。この説は宣化天皇の即位は認めないが、安閑天皇崩御の後には平穏に欽明天皇が即位したとして、二つに分裂して抗争したとは考えない。
《批判》説明できてないところや矛盾などは平子鐸嶺の説と同様。またこの説は所謂天皇抹殺論の一つであり問題外。

3)二朝並立説
喜田貞吉の説。継体天皇の崩御から欽明天皇の即位までの間に、皇位継承を巡り争いが発生していたというもの。辛亥年(AD531年)に継体天皇崩御と欽明天皇即位があったが、欽明天皇を認めない一派がいて2年後の甲寅年(AD534年)に安閑天皇が即位。これで大和朝廷が安閑天皇の派閥と欽明天皇の派閥に分裂したとする説。
《批判》上記のABのように継体天皇崩御を丁未年(AD527年)とする記の伝承を説明できない。また辛亥年(AD531年)以前すでに安閑朝が始まっていたこととも矛盾する。また継体天皇の崩御だとすると一緒に薨去したという太子と皇子は誰なのか? さらに、辛亥年に欽明天皇が即位したという根拠となる『上宮聖徳法王帝説』の史料批判が問題となる(→後述)。

4)継体・欽明朝の内乱
林屋辰三郎の主張した説で、仮説上の内乱であり、実際にあった内乱ではない。 継体天皇の崩御から欽明天皇の即位までの間に、皇位継承を巡り争いが発生していたという「二朝並立説」を前提にした上で、林屋辰三郎は、継体朝末期に「辛亥の変」とよぶべき朝鮮半島情勢を巡る混乱(磐井の乱など)が発生し、継体天皇崩御後に大伴氏が擁立する安閑天皇宣化天皇派と、蘇我氏が擁立する欽明天皇派にわかれた「二朝並立」の状態が出現し、それに伴う内乱が発生したとする説。
《批判》問題点は二朝並立説の場合と同様。それに加えて、この説の場合、分裂した両勢力の内実が問題である。林屋辰三郎の説が全面支持されているのではなく、これ以外にも、大伴氏が欽明天皇側で蘇我氏が安閑天皇宣化天皇側であると真逆に捉える説、継体天皇以来安閑天皇宣化天皇兄弟を支持する「地方貴族」派と、前皇統の血をひく欽明天皇を担いで巻き返しを図る「中央貴族」派との対立とみる説、「臣姓貴族」と「連姓貴族」の対立とみる説などがあるが、どれも事実にあわない。そもそも安閑天皇宣化天皇に仕えた貴族たちと、欽明天皇に仕えた貴族たちには明らかな違いがまったく見られず(大伴氏も蘇我氏も両方に仕えている)、諸勢力の分裂という想定に無理がある。ただし『百済本記』にみえるような得体のしれない記事の背後に朝鮮半島情勢を巡る混乱を想定したのは卓見である(→後述)。

上記1〜4の諸説の総評
安閑宣化繰り上げ説と安閑繰り上げ宣化抹殺説との両者は、辛亥年(531年)に欽明天皇が即位しその在位が41年に及んだとする『上宮聖徳法王帝説』を信頼し、記紀に伝わる尊い古伝を捨てる立場に立つ。従って、資料批判によって帝説の信頼性が破れたなら崩壊する説である。また内乱説では内乱というぶつかりあいがあったと言いながら、両派の具体的な実態がさっぱり明らかにならず、雲をつかむような議論であり、最近の学界の動向としては「継体・欽明朝の内乱」という概念自体あまり積極的に唱導されない。これら諸説を概観するに、諸伝承の一つ一つをすべて矛盾なく合理的に説明できている説は存在せず、記紀の伝承の恣意性(捏造性)を言いつつ、その一方では自分も自説にとって御都合主義的に伝承を取捨選択しているようにみえる。

辛亥の変
概要
上述の通り、林屋辰三郎の造語。『百済本記』の記述に基づいて、辛亥年(AD531年)に大和朝廷において政変が起こったという説。詳細は上述の「継体・欽明朝の内乱」の通りで、これを契機に安閑宣化派と欽明派との分裂が起こったとする。実際にはこのような政変はなかったと考えられる(→後述)。

資料の原文
『百済本記』の辛亥年(AD531年)の条
原文
「大歳辛亥三月、師進至于安羅営乞托城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子・皇子、倶崩薨」
読み下し
「大歳辛亥三月、師、安羅に進み至り、乞托城を営む。この月、高麗、その王「安」を弑す。また聞く、日本の天皇及び太子、皇子ともに崩薨すと」

「AD531年3月、わが百済軍は安羅に進駐して乞托城を築いた。同月、高麗ではその王「安蔵王」を殺した。またこの頃、日本の天皇と皇太子と皇子一人の計三人が同時に亡くなったという噂が流れた」
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恐らく本来の原文では天皇は「天王」となっていたと思われるが、日本はすでに倭または委ではなく日本になっていた可能性があることは別に書いた(→「日本」という国号の起源

崩御した天皇は誰?
『百済本記』のいう崩御した天皇が誰なのかは継体天皇・安閑天皇・宣化天皇という3通りの説がありうる。
継体天皇説 …『日本書紀』の説。また林屋辰三郎の「継体・欽明朝の内乱」説(この事件を「辛亥の変」とよぶ)
安閑天皇説 …「安閑繰り上げ・宣化抹殺」説。詳細は上述(「辛亥の変」とはいわない)
宣化天皇説 …平子鐸嶺の「安閑・宣化繰り上げ」説。詳細は上述(「辛亥の変」とはいわない)
しかし記紀の3天皇の編年データと対照すると、普通に考えて、紀の編集者がそうしたように、継体天皇崩御年の異説としてしか扱いようがなく、安閑天皇や宣化天皇に比定するためには記紀の3天皇の編年データの大幅な無視が必要となる。

解釈
原文をよくみると、百済軍が安羅に進駐しているが、安羅は任那日本府の所在地であるか少なくとも任那日本府の最重要拠点の一つであった。従って、百済軍の動向は宗主国(少なくとも同盟国)である倭国との緊密な連絡連携があったと考えるのが普通である。ただでさえ王子を人質として送り、朝貢を欠かさない属国であり、高麗や新羅への対抗上、倭国からの援軍を頼みの綱としていたのだから、天皇をはじめ朝廷の動向安否には日常から情報網が張り巡らされていたのは当然と考えねばならない。ところが「また聞く」という表現は未確認情報や噂であることを表示している。歴史書の常として、単なる事実の表記にはいちいちそのような断りは入れない。軍事行動の真っ最中でありながら、倭国との連絡が遮断されているという異常事態が起こっているのである。
なにが起こっていたのか『三国史記』では判然としないが、『日本書紀』では、この直前まで近江臣毛野が軍政両面にわたる全権大使として三韓に駐在していたが彼の驕慢と無能により支離滅裂な事態が発生し、同盟軍であるはずの百済から逆に攻めこまれ一敗地にまみれて帰国した後である。これは異常事態・緊急事態としては情況が合致するが、辛亥年(AD531年)のちょうど前年までにすべて解決していることになっている。これは紀が継体天皇の崩御をすべて解決した後としたために、実際の事件の推移の年次が短縮され繰り上げられたものと考えられる。実際に紀の本文には年次にかんして矛盾した表現が数ヶ所みられ、それらを修正すると辛亥年(AD531年)はこの大混乱の真っ最中に該当する。百歩譲って、編年が紀の主張のままだとしても、足かけ2年にわたる騒乱の元凶である人物が消えた翌年というだけで、大混乱そのものは放置されており、平穏な元の状態にあっさり戻ったわけではまったくない。
具体的には『百済本記』のいう百済軍が安羅に進駐した件は、『日本書紀』のいうこの事件の中では近江臣毛野に反感を抱いて反逆の意志を固めた任那王・阿利斯等(ありしと)が、同じく近江臣毛野に幾度となく侮辱を加えられて怒っていた新羅・百済の両国に援軍を要請し、それに応えて百済軍がやってきたシーン以外に該当しそうなものがない。近江臣毛野の支離滅裂な無能ぶりと任那内部の仲間割れ、及びそれらをコントロールする政治力の不在をみて、倭国本土になにか緊急事態(例えば天皇崩御のような事態)が起こっているのではないかという噂が流れたのである。実際に近江臣毛野が三韓に派遣されて以来、倭国本土の動きはそのような推測をさせるに足る鈍いものであった。そこで次に、なぜ大和朝廷の動きは鈍かったのかという話になる。

法皇帝説の問題点
概要
『上宮聖徳法皇帝説』の戦後における専門家は教科書裁判で有名な家永三郎と王朝交代説で有名な水野祐であったが(どちらも故人)、意外にも彼らは「二朝並立説」には冷淡であった。帝説の欽明天皇在位「四十一年」について、原文は「卌一年」となっており、この「卌」(40)という漢字は「卅」(30)と紛らわしく誤写された例も古来多い。そこで、元々は「卅一年」か「卅二年」とあったのであろう、とした。「卅一年」なら紀とはわずか1年ちがいであり「卅二年」なら紀と合致することになり、そもそも二朝並立論自体、最初から成り立たないこととなる。しかし『帝説』も『元興寺縁起』も仏教伝来を欽明天皇の戊午年(AD538年)としている。41年説によって過去に延長しないと戊午年は欽明朝に入らない(紀のままだと戊午年(AD538年)は宣化朝)。しかも『元興寺縁起』はこの年を欽明天皇七年とまで明示しており、41年説としか整合しないのである。『元興寺縁起』の欽明天皇七年については、あるいは後世の伝写の過程で気を利かせたつもりの写生が竄入した可能性がなくもないが、それでも戊午年(AD538年)を宣化天皇ではなく欽明天皇としていることには変わりがなく、これを単純に誤りで済ますには伝承全体の整合性の点から難しい。従って、紀とは別に、確かに欽明天皇についてはAD532年を元年として在位41年だったとする異説が存在したことは疑いないと考えられる。
そうすると紀の編年との齟齬は問題となるが、以下のようなヒントが考えられる。

史料としての性質の差異
記紀は国家公認公式の記録に基づく伝承記録であって朝廷の建前と現実をともに反映していると考えられる。それに対し『帝説』は民間の著作であり『元興寺縁起』も役所に提出した公文書とはいえその主張はやはり民間伝承に基づく。すなわち、朝廷の内部の現実と民間への建前の表示にズレがあった可能性がある。民間からは一貫して欽明天皇が天皇と認識されたのではないか、それは安閑・宣化両帝の対立勢力の存在を示すのではなく、むしろ朝廷が積極的に宣伝したか少なくとも黙認できる程度には朝廷の建前に合致していたからこそ、そのような異伝も残りえたのであろう。

安閑宣化両帝と欽明帝の立場の相違
紀によると、欽明天皇は当初から「嫡子」とされ継体天皇の正統な継承者と認識されていた。これは継体天皇即位の事情からしていかにもさもありなんと思われることであって何ら不自然ではない。しかしなぜ「太子」ではなく「嫡子」なのか? 紀では通常このような場合に「太子」といっており、「嫡子」という表現は他に例がない特殊な用語である。事実として安閑天皇が先に即位したのであるが、紀の編集者は欽明帝をさしおいて安閑帝が即位した事情がわからなかったので(あるいは薄々推測ができたとしても直接にそれを説明するような史料がなかったので)、建前上、安閑天皇即位を通常の即位(予定通りの即位)として扱った。それで教条的な言葉遣いとして勾大兄皇子(=安閑帝)に「太子」という用語を使わざるを得なかったために、当時の欽明帝の立場を表わす漢字として「嫡子」を持ちだしてきたのではないかと思われ。紀の編集者の都合を没却していえば、当時「太子」だったのは欽明帝だったのであろう。そうすると、ではなぜ欽明天皇の前に安閑天皇や宣化天皇が即位したのであろうか。これを内部分裂とか皇位争いといったわかりやすい話として解釈しようとするのが二朝並立説や内乱説なのであるが、残念ながら史料はそれを傍証していない。そのへんの事情が問題となる。

欽明天皇の先帝は誰?
辛亥の変で継体天皇が崩御し、それによって欽明天皇が継体天皇から継いだのだとする二朝並立論の場合、壬子(AD532年)が欽明元年なのだからここは「踰年称元」のはずである。しかし『帝説』や『元興寺縁起』によって壬子年(AD532)が欽明元年としても先帝(継体天皇?)からの継承の状況は『帝説』や『元興寺縁起』には情報がまったくなく詳細不明。といういうことは欽明天皇の元年が「立年称元」だった可能性もありうるということだ。この場合、即位は壬子(AD532)であって、辛亥年(AD531年)は欽明天皇と何ら関係のない年だったことになる。つまり仮に欽明天皇の即位が紀ではなく帝説のように早い時期だったとしても、『百済本記』のいう辛亥年の事件と連動したものでなく、別件だった可能性も考慮に入れねばらない。(続く)

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