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・神々は目に見えない。人間のような肉体はない。

H28年6月21日(火)改稿 H28年6月15日(水)初稿
島の名に「の」が入るのと入らないのがあるのはなぜ?
この日は古海さんからの質問があって「島の名に「の」が入るのと入らないのがあるのはなぜ?」というのだが、確かになぜなのか。例えば津島(対馬)を「つのしま」と言ったらなぜだめなのか? 隠岐の島を「おきじま」と言ったらいかんのか? …という問題がある。「そういうことになってるから」では言い訳にならない。なぜなら、神話は起源を語るものであり、起源とは、伝統や習慣に先立つものだからだ。
ここで「つのしま」や「おきじま」をOKとしたとして、大島はどうか。大島は「おほのしま」と読んだらやはりへんだろう。「おほ」は名詞でないから「の」でつなげない。大島という名の島は日本に5万もあるという。「の」でつなげないのは、島の特徴を修飾語で限定するとはいっても、限定の度合いがゆるくて特定の一つの島に絞りこむ力が弱い。単に大島といっただけでは伊豆の大島なのか奄美の大島なのか周防の大島(屋代島)なのか越の大島なのかわからない。だから「〜〜のおほしま」というわけで、吉備児島(きびのこじま)の児島も同じく「このしま」ではなく「こじま」なわけだ。ここで「大島」と「児島」がセットになっているとも思える。日本書紀では「吉備の児島」は同じ読みで「吉備の子洲」と書かれるが、「児」も「子」も当て字で意味は「小」だろう。
女島(ひめじま)も同じだろう。「ひめのしま」と読んでもいいようにも思われるが、豊後の女島なのか伊勢の女島なのかわからないという意味では、やはり「〜〜のひめじま」なのだろう。男島(ひこじま)とセットなのかも知れない。
しいて比べれば、「の」でつなぐのは単語の連結度合いが弱く、直接くっつけるのは「一単語化」の度合いが強いわけだが、格別に比較の対象がない場合にはどっちでもいいのではないか。淡道之穂之狹別嶋は島名と神名が別々になっておらず、これだけ名前が一つしかない。しかし見れば想像つくが、これは正しくは「淡道島、名は穂之狹別」とあったのを誤記しただろう。淡道島・筑紫嶋・伊伎嶋・津嶋・小豆嶋・知訶嶋は、どれも「の」の字入れてもいいし入れずに読んでもいいように思う。
ただし、伊豫之二名嶋・隱伎之三子嶋・兩兒嶋・佐度嶋については「の」の字が要る。三子(みつご)と両児(ふたご)については日本書紀に「隠岐島を三子に生みたもう」とか「隠岐と佐渡を双子に生みたもう」とある。前者は島の形の説明で、隠岐の島を三子というのは通説では角度によって隠岐諸島が三つの島にみえるからというのだが、そしたら、後者は隠岐が誤入で、双子に生むというのは佐渡のことだろう。佐渡も角度によって二つの島にみえるという。両児だの三子だのという単語は島形を説明するために後から割り込んだ言葉だからつながりが弱いので「の」でつなぐ。
秋津嶋の「つ」は「の」と同義とする説が多いがそれなら「あきのしま」でも「あきじま」でもいいのか? この「つ」は接続助詞ではなく「あきつ」で一単語だろう。ただ島名になった時には接続助詞の「つ」のニュアンスも生じたために「あきつのしま」とか「あきつじま」という語感に違和感があり、それで「つ」が接続助詞も兼ねるような感じになったもの。

「ミトのマグハヒ」の意味
「性交する」の意味で「まぐわう」という言葉を使う人が時々いるが、これは古語ではない。おそらく戦後になってから小説家とかが使い始めた言葉だろう。「まぐわう」という動詞は古代にも中世にもない。古語のマグハヒは名詞で、「まぐはふ」と活用した例はない。またこの単語が性交の意味だというのは後世の解釈説であって、本来の意味が性交だったとは限らない。美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)の「能」は助詞の「の」という通説に従う。ただ、具の字は濁音[gu]でなく清音の[ku]の可能性がある。このへんの話は古事記の音表記の問題として後日まとめたいと思うので今回は詳しくふれないが、いずれにしろ語構成は「マ」+「クハヒ」。日本書紀では複数の箇所で様々な書き方をしているがみな交合(性交)の意味の漢語をマグハヒと訓読させるもので奈良時代の解釈に基づく後付けの援用だから参考にできない。古事記では一ヶ所にしかでてこない(ただし「目合」という言葉は3ヶ所ほどある)。マグハヒは、本居宣長は「巧く交(く)い合う」(食い合う・噛み合う)の意味であって「目線が交いあう」(目を合わせる)ではないというが、現在ではむしろ「目を合わせる」の意味だという説が主流。他に異説として「求(ま)ぐ」からきてて「求め合う」意味だという説もあり。宣長は他の箇所にでてくる「目合」をもマグハヒと読んで同じ言葉としているが、字づらからは「目を合わせる」意味に受け取れる。しかし「目を合わせる」だけでは男女間の交合の意味にはならないから、これを性交だというには婉曲表現か比喩表現としなければならない。そこでミトの解釈がでてくる。宣長はミトは御床(みと)で寝所の意味というが、現在の学界では男女の性器のことだという。ミトのトは水路をさす「水戸」のトとも同源で狭い通路のことを「ト」といい、男女の性器も「狭い通路」なので同じく「ト」というのだと。大国主の章で「美刀阿多波志都」(みとあたはしつ)とあり、これがミト(性器)を与えたの意味だとする通説もあるがたった二ヶ所しかないのでは同語なのかどうかも不明で従えない。ここのミトはぜんぜん別の言葉だと思う(「美刀阿多波志都」の解釈は別の機会に譲る)。で、ミトとマグハヒがくっついてミトノマグハヒとなると、宣長説では「寝所でウマく交み合う」で性交の婉曲表現となる。「寝所で目を合わせる」でも婉曲表現といえなくもない。しかし通説ではミトは性器のことだから「性器が巧く噛み合う」ならよいが、「性器に目を合わせる」ではすでに性器といってるのに「目をあわす」はおかしくないか?「視線」を持ちだして婉曲する意味がないように思う。クハヒの語源が「交ひ合ひ」なら、視線を合わせるというのは対象の静物に視線を向けることではなく、カップルが見つめ合うことだろう。ところで、オカルト的には(神秘主義的には)「視線を向ける・見つめる」のは漠然と見ることではなく、念(または念力的なエネルギー)を一点に集中させることで、それ自体が何か情況をかえる・新しい事態を「生む」行為なのである。ここは目に見えない神々が世界で初めて万物を生むシーンなので、人間のような具体的な性器(物理的身体)による交合を前提とする必要はない。従ってミトについては寝所説も性器説も誤りと思う。わずか2音節しかなく、奈良時代にすでに古語になっていたとすれば、奈良時代までしか射程のない国語学では詮索するのは無理なわけで、ここでオカルト的な解釈を試みるのもまた一興だろう。マグハヒが前述のような神秘主義的な意味があるとしても、マグハヒの一語だけでは必ずしも御子神たちを生む行為とは限らないので、「ミトの」と限定することで神々を生む行為になるわけだろう。そういうふうに逆推すればミトとは「身止」とも思うが上代特殊仮名遣いでは「身」も「止」も乙類で、甲類のミト(美斗)とは合わない。国語学よりも長いスパンを想定している以上、別に奈良時代表記に拘泥する必要はないのだが、仮に乙類で考えると「霊外」(みと)だともこじつけ得る(神霊を意味する古語「ミ」を外に出す、つまり分霊をなす=子を産む)。マグハヒは子産みの意味ではなくて手段・方法であり、ミトの方が「子産み」の意味に近い単語なのであって、ミトのマグハヒは「子産みのための見つめ合い」とも訳せる。これは比喩でも婉曲表現でもなくて、この時代の神々は肉体をもたない霊的存在なのだから、目をあわすだけで神々を生み出したのであり、性器で交合したり子宮の中に子を妊んだりはしない。目に見えない霊的存在ということは肉体がないということであって、顔も手足も胴体もない。よって性器も子宮もない。

「クミド」の意味
久美度(くみど)は日本書紀では「奇御戸」と訓仮名で書いてるが当て字にかわりない。クミドは吉野裕子は「子産み所」の略というが、学界では本居宣長以来の「隠み所」とする説と「組み所」(男女が体を組みあわせる所)とする説が並立しているようだ。他に異説として「産屋」のことともいう。何らかの「場所」であることはみな同じ。しかし、もし通常の性交を前提とした場合、何らかの場所で性交するのは当たり前だし、人間の妊娠・出産を前提とした場合、何らかの場所で産むのも当たり前であるから、格別に物語の筋に影響しない限り、わざわざいう必要はないのではないか? しかし前述のオカルト説を前提にするならば、伊邪那美命には子宮はない。しいて言うならばこの地球それ自体が巨大な子宮だともいえるのであるが「産む・生まれる・死ぬ・あの世にいく」にも何段階もの階層性があるというややこしい話になるのでそこは触れない。とりあえず伊邪那美命には子宮はないので、御子神を誕生させる清浄な聖域を確保しなければならない、それがクミドで、「クミドに興す」というのはその場所に誕生させることなのである。喩えていえば、テレポーテーションする時にテレポート先に蝿が一匹まぎれこんでしまったために蝿と合体して「蝿男」になってしまったっていう有名なSFをご存知の人は多いだろう。何かが出現する時にはそのための空間を確保しなければならない。それがクミドだろう。というと、子宮は胎児より先に膨らむことはないではないかと反論されそうだが、子宮はいつでも妊娠できるようにつねに清浄に保たれてるのです。神社でも祭儀の時には拝殿なり本殿なりの祭儀上で四方祓いをなして場を清める。これは結界を張って一時的な聖域を設定するわけだ。子を産むというのも一つの神事なのである。単に「組み所」といっただけでは男女の身体が組みあう所のようにも思えて、寝所説や性器説と大差はなくなってしまうが、前述の通り身体は「無い」ので、視線を組み合わす(=男神の高産霊と女神の神産霊という創造の力を組み合わす)の意味である。

「体が無い」の意味
モルモン教は、米国産のキリスト教系新興宗教で、正統派のキリスト教からは異端とされ、日本でも飛鳥昭雄みたいなへんなのがいるが、斉藤由貴もモルモンだしまぁいいってことにする。モルモン教はそれぞれ自分の国の元首には敬意を払えという教えなのでまじめな信者ほど天皇を敬ってる。左翼が多い日本のクリスチャンの中ではまとも。似たようなのは、神の幕屋(現在のキリストの幕屋)とギリシア正教ぐらいしかない。まぁ幕屋は新興宗教だけど。中田重治のきよめ教会系の日本聖協団や東洋宣教会きよめ教会は今でも日猶同祖説なのか右寄りなのか不明。ここと幕屋はイスラエル支持なのかアレだが、このブログは政治問題を扱うブログではないのでその点はふれない。で、なんでモルモン教が出てくるのかというと、昔モルモンの宣教師のにいちゃんに連れ込まれた時(≒ついていった時)、彼らは「神が人間を造りました」というんだよね。絵をみせながら。その絵にはアダムとイブと白髪の爺さんが描かれていた。その爺さんだかおっさんだかは、バロムワンに出てきたコプーが質素な服装になったような、レインボーマンのダイバダッタが小ぎれいで上品になったような、マグマ大使のアース様が若返ったような、志村けんの神様コントに出てくるような、要するに典型的な「西洋風かみさま」の絵。そこで俺はこう訊いた「神様って姿があるんですか?」「人間そっくりなの?」「人間がこの世に造られる前から?」彼らは自信たっぷりにそうですって言うんだけど俺は信じられないね。聖書には神の似姿として人間を造ったとあるが、関口野薔薇先生によると、これは物理的に似せたという意味ではなく、精神とか魂とかの話で、人間の精神は神に似せて造られた、だから人間は誰しも善なる心を宿してるという意味である。神道ならば神の子だとか神の「分け御魂」だとかいいそうなところで、要するに意味は同じだろう。人間が、今の姿になったから、神が人間の前に顕現する時には人間の姿を借りるというのならわかる。これはインターフェースの問題にすぎず、神の本質にかかわる問題ではない。神道の場合、山の神、海の神、火の神、水の神がいるとして、人間の姿なのだろうか。万物に神(霊)が宿っているのは、人間の身体に精神が宿っているのと同じであり何もかわらない。姿というのは物理身体のことで、精神というものは物理的な意味での形をもっていない。従って山の神は「山」がその姿なのであり、風の神は「風」がその姿=現身(うつしみ)だろう。神道では偶像を作らないのは有名だが、それは当たり前で、神々には肉体がないのだから像を製作すること自体ができない。だから目に見えない神の依り代として神籬(ひもろぎ)とか御神体というものがあるわけだろう。神々が人間の姿をしているように想像するようになったのは仏教伝来してから、仏像になじむようになってから出てきた観念であって、古いものではない。仏像も最初の起源はともかくヘレニズム文明の影響で発達したことには間違いがない。すべての神々を人間の姿に造形したのはギリシア人の発明で、古代オリエントではあるいは人首蛇身、あるいは牛首人身のバール神あり、エジプトでも鳥の頭をもつトート神、隼のホルス神、犬の頭をもったアヌビス神、死者の色をしたオシリス神、コブラ、ライオン、羊などで表される様々な神があった。これらはトーテム信仰とか動物崇拝ではなく、姿をもたない神々を表現するための寓意画なのである(むろん時代がくだると寓意画を真に受けてそれが神の姿だと短絡するようになっていく)。伊邪那美命や大宜都比賣神、迦具土神などは頭・胸・腹・陰・左右の手足があったように書かれているところがあるが、伊邪那美命は大地の母神で大宜都比賣神は豊穣(繁茂地)の女神、迦具土神は火山噴火の神だから、その体というのは地形をいっている。頭は山頂、胸は丘陵、腹は平野、陰は渓谷、左は東方、右は西方、手は周辺の小山地や小丘陵、足は周辺の河川。伊邪那岐命は父なる天空神だから、その左右の目とは太陽と月のこととなる。天照大御神の姿は当然太陽そのものである。あるいは神々が活動する別なところでは、頭は知能、胸は情念やエネルギー湧出力、腹は意志やエネルギー蓄積力、陰は余剰エネルギー排出力、右は物質的側面、左は精神的側面、手は創造力とか手段方法、足は移動能力とか居場所をいっている(やりようがないことを「手がない」、交通機関がないことを「足がない」と云うが如し)、しかしこれは擬人法(=喩え)だというのも不正確で、「手は手段方法、足は移動能力」というのは喩えではなく、もともとそういう意味なのであり、だから人間の手をテといい、足をアシという順番になる。なぜなら人間が存在するようになる前から神々は存在したからだ。言葉もまた人間に先立つ。神話では岩や草までしゃべっていたとある。動物同士、虫同士も会話をしているが、波長だか観念だか水準だかに落差が大きいと、それを言語と認識することができない。バイキンもバイキン同士、人間の細胞の一つ一つも、原子や素粒子もみな自意識をもって会話している。自然界のあらゆる物体、あらゆる現象の背後にはカミという自意識があって会話しているし、惑星と惑星、銀河と銀河も会話をしている。それらを人間は認識できないが、同じように死者の会話も、神々の会話も普通は認識することができない。それができるのは通訳が入った時だけだ。我々が通常「言語」といっているところの「人間の言語」というのは、それら広義のコトダマの中の、ごく狭い一部の波長帯だけを取り出して「言語」と称しているにすぎない。
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