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目弱王の変 ~「神の憑坐」か「少年犯罪」か~

令和元年9月17日 TUE 改稿 平成26年10月15日(水)初稿
仁徳⑯〜武烈㉕の系譜」から続き
根臣(ねのおみ)/大日下王が亡ぼされた理由
根臣ってのは後の坂本氏の祖先で、武内宿禰の子孫。系図は「武内宿禰ー紀角宿禰ー白城宿禰ー(中略)ー根臣ー建日臣(=坂本氏)」。当時、武内宿禰系の諸氏族の首領は葛城氏で、根臣も葛城円大臣(都夫良意富美、つぶらのおほみ)の配下にあったものだろう。葛城氏には二系統あって、襲津彦(そつひこ)の二人の息子のうち、兄・葦田宿禰(あしだのすくね)の系統を北葛城氏、弟の玉田宿禰(たまだのすくね)の系統を南葛城氏というように南北をつけて呼び分けることにする。これは実際に南葛城、北葛城と呼ばれていたわけではなく便宜上の仮称。弟の系統から葛城円(つぶら)がでて、履中天皇の時に大臣となって一族の総領だった。兄の系統のほうが分家みたいなものだが、こちらは娘が履中天皇の妃となって市辺押歯皇子を産んでおり、皇室の外戚になっていた。
葛城一色の履中天皇に比べて、允恭天皇の家系は反葛城系だという説があるが、そうではなく「葛城べったりではない」というだけ。允恭天皇の諸皇子の中では穴穂王が葛城円大臣と連帯したことは「木梨之軽太子の変」で詳しく述べた。円大臣(つぶらのおほみ)は履中・反正2代では真面目さを買われてか才能を認められてか(恐らく後者)、若くして執国事四大夫(閣僚)入りしていた(大蔵大臣相当だったと思われる、詳しくは履中天皇の頁を参照)が、允恭天皇の初期に父親の玉田宿禰(たまだのすくね)の不祥事で閣僚を退いていたのではないかと思われる。この時代は父の罪を子に及ぼさないことが多いので、円大臣が直ちに失脚したわけではないだろうが、それでも立場が悪くはなったろう。最後まで大臣(おほみ)とよばれているので形式上の地位には留まっていたと思われるが、伯父の葦田宿禰(あしだのすくね)か従兄弟の蟻臣(ありのおみ、葛城臣蟻)に、葛城氏の氏上(うぢのかみ、一族の総領)としての事実上の権限が移っていた可能性も高い。円(つぶら)としては、ここでなんとか挽回、逆転したいと模索していたところだろう。根臣は、そんな円大臣と安康天皇をつなぐきっかけになった人物かもしれないし、逆に連絡係として円大臣と穴穂王の間を往復しているうちに穴穂王の寵臣になったのかもしれない。
さて、安康天皇即位以降、まったくおぞましい、とんでもない話が続く。仁徳天皇以降、天皇への忠誠心は年々低下して、当時よほど風紀や治安が乱れて人心も荒廃していたことを伺わせる。根臣のような逆臣が現れるのもそういう風潮あってのことと思う。
ざっと読んだ印象、根臣(ねのおみ)と安康天皇二人の性格にリアリティーがない。もともとの事件の発端になった根臣(ねのおみ)の言動からして普通でない。勅使として仕事してるのに天皇からの贈り物を横からくすねただけでも無計画なのに、さらに自分が勅使なのに天皇に対してわざわざデタラメを報告して、バレないと思ったのだろうか? ところが安康天皇自身もろくに調べもせず真に受けた上、いきなり懲罰軍を送って大日下王をさっさと殺してしまう。ってのも、いくら気が短い人だからってへんだろう。そのままではとても信じがたい。これは大日下王の軍が向かってきてるという偽情報を根臣が流したに違いない。根臣もそこまで周到に準備していなければおかしいだろう。
これは最初から念入りに計画して狙ったもので、根臣は大日下王の妃、長田大郎女に対して天皇が想いを寄せていること(詳細は木梨之軽太子の変を参照)を忖度した上で、安康天皇を煽って討伐軍を出すように仕向けたとも考えられる。ただし根臣は小物で、勝手にだいそれたことをやらかしていたわけではない。似たようなことは誰でも容易に思いつくようで、同意見の人は多いが、ことの裏には皇位継承権のある皇族たちを取り巻いて対立しあっている貴族層の思惑もありそうに思える。そう、根臣を操っている大ボスは葛城氏なのだ。葛城氏は朝鮮半島や大陸との外交と交易の利権を握って過渡に強大になっており、応神天皇は九州の諸県君(もろがたのきみ)を寵用してその娘を妃に入れ、瀬戸内海から九州の水運・水軍を司らしめ、葛城氏の利権を分割、減殺した(詳細は応神天皇の頁を参照)。その娘から生まれたのが大日下王。だから葛城氏にとって諸県君は目の上のたんこぶであって、諸県君の象徴であり権力の源泉が諸県君の腹から生まれた皇子、大日下王であった。
大日下王は大山守命の乱で中立を守ったか何らかの理由で隼人族の管轄権も奪われ、一時的に立場が悪くなっていたが、墨江中津王と協力して速総別の乱を鎮圧するのに功をあげて以来、再び存在感を増していたと思われる。母系のルーツは天孫降臨の聖地日向であり、葛城氏を掣肘するために応神天皇の意志によって生まれた(実父は仁徳帝だが)大日下王は、ただでさえ国粋派や庶民からもかなり人気があったろう。だがそれだけではさすがに葛城氏でもいきなり理不尽に攻め滅ぼすまではいかない。発端は目弱王が生まれたことだろう。これで事情が変わった。
書紀によると大草香皇子(大日下王)は履中天皇の皇女「中蒂姫」を妃として眉輪王(目弱王)を儲けていた。後述するが履中天皇の皇女だというのは書紀の誤り。妃だというのも長田大郎女(ながたのおほいらつめ)と同一人物としたためで、実際は「事実上の妃」ではあっても公式には単に大日下王の宮殿に仮寓していただけと思う。が、そこは一つ屋根の下の男女、ねんごろな関係になって兄媛(えひめ)が生まれた。書紀はこれが眉輪王(目弱王)だとするが、古事記のいうとおり長田大郎女の方が目弱王の母だろう。兄媛がいれば弟媛(おとひめ)もいなくてはおかしいから、目弱王が弟媛ということになる。目弱王は王子と思われているが実は王女だろう。だが王女(兄媛)を産んだ以上、中蒂姫は次は王子を産む可能性もある。これは極めて重大切実なことだった。なぜかというと、中蒂姫は女鳥王の血筋をひく最後の生き残りだからである。葛城氏からみれば、大日下王はこのままでは第二の速総別王、第三の大山守命になりかねない危険な存在だった。
正統性にわずかでも疑問をもたれそうな後ろ暗い安康帝にとっても、大日下王がこの中蒂姫との間に子を儲けたというのは極めて危険なことだったろう。
大日下王のもう一人の妃が長田大郎女。安康天皇にとっては同母姉だが複雑な愛情が絡んでいることは上述の通り。つまり安康天皇と葛城氏は、大日下王を排除したいという目的では一致していた。
根臣は安康天皇の信頼厚かったようで、大日下王が殺されてしまったこともあり、『日本書紀』だと雄略天皇十四年まで悪事が露見しなかった。

第三黒媛と中蒂姫の流転
大日下王の妃は長田大郎女だが、この人は後述するように安康天皇の同母姉という解釈で正しい。日本書紀は履中天皇の皇女の中蒂姫という女性を出して、長田大郎女の別名であるかのような匂わせ方(遠回しな書き方)をしているが、これは安康天皇と長田大郎女の関係が近親相姦ではなかったという希望的観測の可能性を示唆するためで、実際には別人だから書紀はウヤムヤな書き方しかできなかったのである(詳細はこのブログの別の頁に書いた)。で、眉輪王(目弱王)は中蒂姫の子ではなく、古事記のいう通り、長田大郎女の子だろう(どっちの子でも当面のストーリー解説には差し支えないが、後の方で問題になる)。安康天皇が長田大郎女を欲したのは個人的な欲情からで、安康天皇にとってはそれが重要だった。まったく別の政治的な動機から中蒂姫(とその子の兄媛)をも欲したろうが、こちらの件はさほど重要視していなかったのではないか。女鳥王の血筋が皇位の正統性の証になるなんてのはすでに大昔の話で、允恭天皇の権威が確立してからは終わった話でどうでもいいことと考える人も増えていただろう。
書紀によると中蒂姫は履中天皇の皇女で母は黒媛という。ところが履中天皇の頁に書いたが黒媛は三人いる。

・第一黒媛
書紀によれば羽田宿禰の娘で、履中天皇が即位前に住吉仲皇子と争った黒媛。これと別に書紀には住吉仲皇子の乱が平定される時に官軍に捕まった倭直吾子籠が自分の妹で「日之姫」を差し出すことで罪を赦されたという。この二人の女性は恐らく同一人物で推定本名「羽田之日之郎女」。幡梭之若郎女=波多毘能若郞女=若日下部王とは乳母姉妹かと思われる。
羽田宿禰は実の父ではなく「乳母」親だろう。倭直吾子籠の妹というのは、この場合の妹は恋人または妻であってsisterの意ではない。倭直吾子籠は住吉仲皇子のために履中天皇の皇居からこの黒媛を連れ出して捕まった。妹(恋人)というのは追手を欺いてそう自称してたんだろう。だが官軍側でも媛に脱走されたというのは聞こえが悪いから、吾子籠の妹という建前のまま拘束したのでる。

・第二黒媛
履中帝の妃の一人。葛城蟻臣の娘で市辺押歯王の母。本来は「黒媛=黒比賣」という名ではないのだろうが混同された結果、本名不詳になってしまった。書紀では履中天皇の妃になってから宗像神の祟りにあって薨去したことになっているがいろいろ不可解で謎解きが必要。この人も羽田宿禰が「乳母」親だったと思われる。

・第三黒媛
速総別王と女鳥王の間に生まれた娘で推定本名「更黒覆媛/布久呂布比賣」。住吉仲皇子が隼別皇子の乱を鎮圧した際の捕虜だろう。

第一と第三は同一人物の可能性が高い。中蒂姫は第三黒媛の娘なのだが、書紀は第一黒媛の本名「羽田日之郎女」と幡梭之若郎女(=若日下部王の別名)も同一人と誤解したため、中蒂姫の母を幡梭之若郎女だとして「中磯皇女」とも書いている。だが、それらは書紀の誤りで、古事記には幡梭之若郎女が履中帝の妃になったなどとはまったく書かれてない。このへんの話の詳細は履中天皇の頁を参照。
第三黒媛と中蒂姫の母娘は、女鳥王の血筋だから天皇以外の皇族の妃にするのは乱を誘発しかねないので、死んでもらうか非皇族(皇別でない貴族か一般庶民)の嫁になってもらうか一生独身でいてもらうかしかない。だが、仮にも代々皇族同士だけで結婚してきた純血の皇族、しかも本人たちに罪がない以上、理不尽な扱いにも限度がある。第二黒媛が神の祟りで薨去した時、神罰を怖れた履中天皇は反対派の意見を容れてしぶしぶ中蒂姫を手放し、墨江中津王の過去のゆかり残る住吉大社に寄寓させたんだろう(実際には神罰ではない。書紀のこの記事も不可解すぎるので、比賣碁曾社の起源とあわせて後日あらためて解明するが今回はふれない)。書紀によると鷲住王(わしずみのきみ)という名の武勇すぐれた皇族が履中天皇のお召しを無視して住吉邑に住み着いたというが、これは中蒂姫を護衛するためだろう。履中天皇が武力に訴えてもこの王女を取り戻そうとしかねない雰囲気があったのだと思われる。しかし履中天皇はわずか六年の在位で病気で崩御。天皇といえば長生きと相場の決まってる日本でわずか在位六年ってのは天地開闢以来のことで、仲哀天皇の九年より短い。仲哀天皇が神罰にあたって崩御したことは有名な語り草だったし、履中天皇ももしや神罰ではと思わせる情況があれこれあったから、次の反正天皇は一度は怖れて、自分の皇后とはせず他の皇族にくっつけようとしたんだが、その結果、中蒂姫を娶りたいと名乗りをあげた5人の皇族男性、若子王(允恭帝)・大日下王・伊和島王・久奴王・大郎子王は全員ふられた。それで反正天皇は再びもしやと思って皇后にならんかとモーションかけたところ、やっぱり断られた。天皇の思し召しは普通は断れないもので、あえて断るというのは謀反を起こすと宣言するに等しい。そうなると、中蒂姫のもとに結集する勢力はなみなみならぬものになる可能性があるから、これは脅しであって、内乱勃発の一歩手前ということになるが、反正帝には財王という皇子がいたはずだから、あるいはこの皇子とねんごろになった可能性はなくもない。ともかく大事になる前に反正帝もわずか五年で崩御。べつに崩御したのは中蒂姫を皇后にしようとしたせいではないのだろうが、当時の人としたらわからないから、いろいろな可能性を考えたろう。次の允恭天皇も、本来なら中蒂姫を后にしたいところだが、先代が立て続けに崩御したのを目の当たりにみて、万が一この王女を欲したことの神罰だったりしたら嫌だから、念のため、中蒂姫を厚遇はしたが自分の皇后にしようとまではしなかった。どれぐらいの厚遇かはわからないが、かつて仁徳天皇が八田若郎女を処遇したのと同じぐらいではないか。允恭帝が彼女を自分の皇后にするのは、例によって例のごとく大中津姫も許してくれなかったろうし。自分の后にはしないかわりに住吉を出てもらって、自分の宮の側に住んでもらった(允恭天皇の宮都は古事記は「遠飛鳥宮」とするが書紀には書かれてない。「遠飛鳥宮」もいくつかあった宮の一つで即位後に転居した宮。即位前には葛城の朝妻の宮に住んでいたろう。中蒂姫を迎えた宮もその近所のどこか)。ただ、中蒂姫を自分の皇后にできない状態で即位するのは履中・反正の両帝と同様の情況であり、天皇としてはやや権威に欠けている。そこで数年、皇位を辞退し続けたので、この期間、中蒂姫を奉ってその権威の下で実質は允恭天皇が政治を執ってはいたが名目上は空位期間があった(允恭天皇の記事に詳細あり)。允恭天皇の偉大な功績(氏姓の正定ほか)のすべてはこの空位期間になされたことで、実力でその帝徳を示した上で改めて即位したので、即位後は允恭天皇は中蒂姫なしでも十分に権威ある天皇として君臨できた。
中蒂姫はそれで天皇から求愛されなくて済んだわけだが、お役御免となってからは、処遇が問題になる。大中津姫の反対もあって、中蒂姫を天皇が后にできないとあれば、木梨軽太子の妃がふさわしいが、太子は同母妹の衣通姫にぞっこんだから断った。大中津姫が仕切るこの一家に一夫多妻はない。娘の衣通姫も母親と同じで一夫多妻は嫌だったろう。しかし中蒂姫をそれ以外の兄弟にくっつけると、皇位争いの原因になりかねない。そうすると次にでてくる婿の候補は、大日下王だろう。書紀によると反正天皇が崩御した時、次の天皇の候補となりえたのは允恭天皇と大草香皇子(大日下王)の二人しかいなかったと書かれている。允恭天皇自身はすでに自分の権威と自分の子孫の皇位は盤石だと思っているので、大日下王にくっつけるのはなんの問題もない。が、それ以上に若日下部王が一時期、墨江中津王の妃だったので、同じく妃だった第三黒媛と仲良しだったとしたら、中蒂姫も若日下部王に親しんでいたろう。それいわずとも、それ以上に第一黒媛は若日下王と乳姉妹なのだからその縁で大日下王が選ばれたと考える方がいい。大日下王としては、允恭天皇即位によって将来自分が天皇になる可能性もなくなったのに中蒂姫を妃にしたら厄介事に巻き込まれかねない。なにかあったらまた世間は大日下王を担ぎ出して一波乱、なんてこともありえないとはいえない。そこで、中蒂姫は大日下王のもとに一時的に寄寓することになった。いきなり大日下王の妃になったわけではない。まぁ喩えていえばお見合い期間とか交際期間とかお試し期間みたいなものだろう。それも期限をきってるわけでもあるまいから実質は「妃ではない」という建前で永久に居候するつもりだったと思われる。
しかし実際には大日下王の子供を産んだ。兄媛という。兄媛というからには弟媛もいたはずで、たぶん正式な妃である長田大郎女にも後から子供が生まれたってことだろう。だとすると兄媛と弟媛は異母姉妹ということになる(この弟媛は目弱王と同一人物だろう、つまり目弱王は男児ではなく女児)。この時代、皇族でも婚前交渉で子供ができることはよくあることだったろう。それで正式な妃にするかどうかもケースバイケースだったと思われる。長田大郎女も大中津姫の娘だから一夫多妻に反対だったろうし、この時代の男性の一般的な考えとして、子供ができたぐらいで最愛の妻長田大郎女を捨ててまで中蒂姫と結婚させられる義理もぜんぜんない。もうこの宮に同居してるんだから正式な妃であってもなくても似たような情況であり、実質が伴えば形式はウヤムヤにされたのではないかとも思われる。大日下王が滅ぼされた時、中蒂姫も燃え落ちる宮殿と一緒に焼け死んだのではないか。そういうわけで、二人の妃じゃなくて一人の妃のような錯覚が生まれたのではないか。記は長田大郎女一人で物語をすべて説明し、紀は長田大郎女と中蒂姫を同一人とし、どちらも二人いたようには書いてない。だが系譜記事からいって明らかにこの二人は別人である。

同母妹との近親婚だったか
長田大郎女は安康天皇の同母妹である。安康天皇は木梨の軽皇子の近親婚のタブー侵犯に反対する人々によって擁立された天皇だから、同母妹を皇后にすることは本来ありえない、と一見思える。そこで同名の別人とする説もあるのだが、詳細な議論は別の頁でやったのでそちらを参照されたし。結果からいうと、同一人物で安康天皇からみて同母妹なのである。
では、安康天皇は本当に同母妹を皇后にしたのだろうか? 『古事記』では長田大郎女について「皇后」「后」「大后」「大后」の順で四回書かれている。このうち「大后」は現代語でいう「皇后」のこと、「后」はおもに天皇以外の皇族の妃に使われているが、天皇の配偶のうち「大后」以外の女性にもいう。「皇后」が問題で、ここの長田大郎女を皇后にしたという部分と、清寧天皇には皇后がいなかったという部分で、二回しか『古事記』には出てこない。つまり「皇后」という言葉は特定の女性をさすのではなく「皇后という地位・身分」をさす抽象的な言葉として使われているとも考えられ、すると『古事記』のここの文章は「長田大郎女を皇后にした」の意味ではなく「長田大郎女を皇后同然の扱いにした」というニュアンスで読み取れる。「后」と書かれたり「大后」と書かれたり一定しておらず、身分が不鮮明なことが伺われないだろうか。つまり最初に皇后と書いたのは「この後、后と書いたり大后と書いたりしてはっきりしないけど要するに正式な立場ではなかったんだよ」という意味が込められているのだと解釈できる。
もともと二人の関係は、長田大郎女は被害者、安康天皇は加害者の関係だったので、長田大郎女を皇居に迎えて特別待遇にしたのは安康天皇の贖罪行為とみるのがいちばん自然だろう。それでねんごろな関係になるのも理解できることだが、流石に公式に大后には出来なかった。ただ、周囲からみれば事実上のそういう仲ってのは明らかだったので周囲から「大后」と呼ばれても否定せず(正式な称号ではなくニックネームみたいなものとも言い張れる)、もし何かいわれても「同母兄妹なんだから仲がいいのは当たり前だろ、それ以上の関係はないよ」という空気で押し切って言い逃れたんではないかと思われる。
木梨の軽皇子といい安康天皇といい、同母妹が好きだけど、そこらの詳細は「木梨之軽太子の変」の記事を参照。そもそもこの兄弟には異母姉妹が存在しない。允恭天皇には皇后が一人しかいないから。押坂大中津姫は『日本書紀』みると石之姫ほどじゃないが焼餅焼きだったみたいだ。だから側室も許さなかったんだろう。
さて、そもそも皇太子だった木梨の軽皇子が同母妹を后にしたために群臣貴族層から拒否され、そのため安康天皇に皇位が回ってきた(少なくともそういう建前で即位した)わけで、それなのにこんなことをしていれば貴族たちは「何のために皇太子に刃を向けてまでこの人を天皇にしたんだ?」ということになる。人望は急落していただろう。だから暗殺された時の白日子王、黒日子王の反応が冷淡だったわけだ。

安康天皇が神の祟りを受ける予兆
(1)根臣のような悪人を見抜けず寵用しその讒言を容れて激情にまかせて無実の大日下王を殺した(実際には長田大郎女への未練がありそこを根臣に利用され乗せられた)
(2)木梨の軽皇子を討伐して即位したのにその軽皇子と同じく同母妹を后とした(これについては筋が通らない一貫性のなさだけが問題で、同母妹との関係については情状酌量の余地がないでもない)
(3)潔斎して神託を聞くべき神聖な神牀(かむどこ)をあろうことか昼寝に使いそこで夫婦の雑談をした。『日本書紀』だと神牀は出てこないで単に「楼」(たかどの)で宴会した時の話になってるが、神牀が漢文に訳しにくいためだと思う。神牀で宴会やったのかもしれない。
最後の(3)について詳しくいうと、書紀では沐浴するために山宮に行きそこで楼に登って景色を楽しんで宴会したことになっている。沐浴は単に水か湯で体を洗うだけの場合もいうが、宗教的な「禊」(みそぎ)的な儀式にもいう言葉(古代中国にも神道でいうミソギ的な儀式はあったから漢文表現ができる)。書紀は「楼」というかこれは「神牀」(かむどこ)を漢訳できずやむなく「楼」と書いてるだけだから、沐浴も禊の儀式だろう。山宮というのは安康天皇の宮都「石上の穴穂宮」が橿原市石原田という説によれば耳成山か。天理市の田町または田部町とする説ではすぐ東に山地がわさわさあるのでどこか適当な山がいくらでもあったろうが多分石上神宮の背後の山地を使ったのではないか。別に御神託を伺うのに山の中に行く必要はないが、どういう結果が出るかわからないので人目を避けたかったのではないか。
で、安康天皇は神様に何のお伺いを立てようとしたのかだが、恐らくそれは長田大郎女を正式に后妃にすることの可否だろう。この場合の「正式に」ってのは建前上の社会的地位としての「后妃」の称号ではなく、即物的具体的な意味で性交が許されるかということである。兄の木梨軽太子を儒教倫理に反するとして弾劾したのに、自分が同じことしてどうするっていう批判を避けるために「神託」に頼ろうというわけ。以前にも別の記事で詳しく書いたが、この時代はまだ「母が同じだと結婚できない」というルールは一般的でなくて、一部の儒教信奉者だけがいっており、外来思想なわけ(正確には儒教では同父間の結婚を禁じているのであってこれを同母間に置き換えてるのは日本的な歪曲)。この時代はまだ儒教は全面的に容認されたわけではなくて外国かぶれだけが信じるアヤシゲな思想と思われてたから、日本の神々ならOKを出すと予想された。これは必ずしも御都合主義ではない。神道も仏教も儒教もキリスト教も最終的に正しいところで一致するはずと能天気に考えるのは永年の神仏習合で思考能力が蒸発した日本人だけで、そんな訳ないだろ。異なる世界観を同時に認める(=価値相対主義)なら、多様な行動指針に優劣はつけられない。それは「単なる真実」であり御都合主義でもなんでもない(儒教が神道と矛盾しない正義の基準として容認されたのは雄略天皇以降)。
で、実際に長田大郎女についてはOKが出たんだろう。だからこそその後の「直会」(なおらい)という名目で宴会になるわけである。

目弱王の動機と世間からの解釈
記紀は揃って犯行の動機を「父の敵討ち」だとしているが、本当だろうか。これは後世の、記紀編纂者の解釈にすいないのではないか。いくら子供でも、いや純真な子供だからこそ、私憤よりも公の大義をまじめに優先させうる。当時の子供はみなヤマトタケルを手本としたのであって、父の仇などという私情で天皇を殺すなんてことはありえない。7歳といっても頭の中は完全に大人だっていうことはよくあることで、目弱王は、安康天皇が天皇にあるまじき悪人だから殺したのであって、大人もカゲでは天皇を批判していたのを聞いていたのだろう。しかし記紀の編纂の時点では、目弱王の方が犯人として(つまり悪の側として)滅ぼされてしまうことがわかっているので、物語としてわかりやすく犯行動機を説明的に設定してるだけで、深い意味はない。
当時のリアルタイムの人々も、安康天皇が暗殺されたことがわかって、まだ犯人が誰かわからない情況では、まず犯人は例の事件(大日下王の一族を滅ぼした件)の敵討ちだと想像しただろう。大人は、恐れ多くも現人神にあらしゃいまする陛下が悪人だなんてことはおおっぴらには考えたくない。それが露呈すると社会がアノミー化する。だから、安心できるわかりやすい物語に落とし込もうとする。現代の警察の「調書」と同じで、犯人や容疑者がいくら本当のことをいっても、あんまり理解しがたいへんな話だったり、心理的に受け入れがたい話だと、警察は調書に本当のことを書いてくれない。そして「おまえはかくかく思って、だからしかじかの行為に及んだんだろ?」と通り一片のわかりやすい話を勝手に用意して、「そうなんだろ、な」と同意を迫る。猟奇事件のマスコミ報道でも、犯人像は偏見丸出しのステレオタイプになる。警察・マスコミ・世論の三者が、「安心できる・納得できる物語」を求めるからである。不安を煽るような真実は誰も求めない。「ろくでもない人間が天皇に即位することもありうる」なんて危険な話は、当時の人は誰も直面したくない事実だった。「天皇陛下が暗殺されたが、原因は犯人の敵討ちだった」という話なら、なるほど理由はわかったがけしからんと怒って犯人を処刑すれば、社会秩序は守れるのだから、受け入れられる。だが、天皇自身が悪だったとなれば、犯人を処刑しただけでは何の解決にもならない。社会システムの根幹の問題だからだ。
だが、犯人が目弱王だと判明してからは事情がかわってくる。目弱王が子供だったからだ。これは現代人にはわからないことだが、日本でも海外でも、大昔は幼い子供には神性が宿っており、その言葉や行為は時として「神意」の表われとされた。つまり安康天皇の暗殺は神罰だという解釈の余地が当時の人々には確保されたことになるのである。神罰で崩御した例は、仲哀天皇を思い起こせば、「先例もある」。ただし、仲哀天皇の場合は、現人神そのものともいうべき神の御子、胎中天皇として威光あまねき応神天皇がただちに出現したのでアノミー化は切り抜けた。今回はそのようなアテがあるわけではないので、目弱王が子供だというだけでは解決にならない。目弱王が勢いに乗じて即位するところまでいけば良いのだが(そこまでいったとしたとしても何かまだ心もとない感じだが)、逆に瞬殺魔の大長谷王に捕縛されてしまった。こうなると一気に神秘性は薄れる。安康天皇に恨みを抱く、大日下王の残党に利用されたのだろう、所詮子供だな、という推理が有力になっただろう。ここで生じた天皇否定の社会不安(アノミー化の兆し)の行く先はどういう結果に帰結するか、それを語る前にまず目弱王の件を片付けよう。
目弱王だけでなく、彼を捕縛した側の大長谷王も子供なので、なにかしら「神聖演劇」でもみてるような気分にさせられる。むろん、目弱王を弁護してるわけではない。目弱王を情状酌量するには及ばない。しかも、子供だったとしても安康天皇の頚を切り落とした悪行に「子供特有の残酷さ」が見える。倭建命も雄略天皇も「子供特有の残酷さ」が、あの時代だからこそ解放され暴走してる感じがする。それはヤマトタケルから雄略天皇まで変わっていない。

目弱王はなぜ葛城氏のもとに逃げたのか
葛城氏の氏上(うぢのかみ、当主)である都夫良意富美(つぶらおほみ=円大臣)は葛城円(かつらぎのつぶら)。系図は「武内宿禰ー葛城襲津彦ー(中略)ー玉田宿禰(南葛城の始祖)ー円大臣」。根臣とは親戚で同じ武内宿禰の子孫。
安康天皇を反葛城派とみて、目弱王が葛城氏に逃げたのを合理的とみる説もあるが、逆に、葛城氏は安康天皇と連帯していたのに、なぜ安康天皇を暗殺した目弱王が葛城氏のもとへ逃げ入るのか不思議がる説もある。後者が妥当だろう。安康天皇は次期天皇に葛城系の市辺忍歯王を指名していたと書紀にあり、前述の通り葛城系の根臣を腹心としていた。葛城氏を中心とした安康天皇+履中天皇系皇族(市辺忍歯王)はすべて一つのグループなのである。雄略天皇とは対立する市辺押歯王子の後ろ盾である葛城氏に目弱王が逃げ込んだというところに、計画性が感じられるという説もあるが、それは誤った見方だろう。この段階では雄略天皇(=大長谷王)も目弱王と同じ子供であって、政治力などはないし、何度もいうようにこの時は逆に葛城氏と安康天皇とは蜜月だった。つまり目弱王は(黒彦王の手の者に守られつつも)堂々と一人で自首したのである。皇位を望んでいないといってるのは目弱王が男児だという前提での記紀の作文だろうが、恐らく、本当は市辺忍歯王(公式上の次期天皇)のもと(石上の市辺宮殿)へ自首するつもりだったのではないかと思われる。が、実際には黒彦王(の手の者)によって葛城の居城へ連れて行かれてしまった。黒彦王(の手の者)は「道が官軍に遮断された」とか、「葛城にいったほうが忍歯王に落ち合える、今なら忍歯王は葛城邸にいる」等と言い含めて目弱王を騙したのだ。目弱王は一旦は捕縛の身になっていたところを、黒彦王の協力で脱出できたのだから情況的に黒彦王しか頼れる者がいなかった。だが、いくら7歳(満6歳?)といっても、物心つく前から政局のただ中にいる皇族であり、現代人の考えるような子供とは違う。大人の世界の政治抗争も理解していたから今回の天皇暗殺も決意できたのだし、皇族一人一人の政治的立場や所属派閥も熟知していたろう。だから黒彦王の言動が怪しいことも察していたと思われる。その気になれば黒彦王を油断させてその手から再脱出し、自力で市辺宮へ辿り着くぐらいのことは出来たろう。しかしあえて黒彦王(の手の者)に身を委ねたのは、一人で行動することに不安があったのではないか、というのはその名の通り「目が弱かった」(弱視かなにかわからないがなんらかの視力障害があった?)のではないか。本居宣長は「和名抄」を引いて、漢字で「石炎螺」とかく貝の名がマヨワなので「目弱」も「眉輪」もその当て字だといい今の通説になっている。「石炎螺」は今かるく検索した程度では巻き貝の一種ではあるがどういう貝なのか具体的なことはすぐにはわからぬ。漢字の「眉輪」では確かに意味不明だが、かといって貝のマヨワに違いないと限る理由もないんじゃないのか? 視力が悪かったから「目弱王」と呼ばれたのだろう。安康天皇殺害の時、目弱王は「殿の下」(書紀では「楼の下」)で遊んでいたため、安康天皇と大長田大郎女の会話を聞いてしまったという。「楼」の字にとらわれると高床式の建築が想定されるが、ひそかな会話が聞こえるほどだから、かなり低い(脚が短い)もので床と地面の間が接近していたと予想され、高床式ではるまい。外見上の威容を気にする必要のない山中の閉鎖空間に臨時に作った施設だから、である。とはいえ宮殿だから面積はあるわけで、高床式と違って、当然床下は真っ暗で、子供が興味半分で入っていったとしても楽しく長居するとは思われない。だが、もし盲目か少なくとも弱視で日頃から視力にそれほど頼ってなかったとすれば、暗い所で遊んでいたのも得心がいく。民俗学では定説だろうが、三味線で唄ったり物語を語ったりした瞽女(ごぜ)の起源は古代の盲巫で、東北のイタコもその後裔。イタコは最近死亡した近親者の言葉を伝えるが、これは後世の需要に応じた変化で、もとは「盲人が神の言葉を聞く」という古代信仰が源流になっている。どちらも女性であるが、関口裕子や義江明子なんかの説を読んでると、どうも女性に限るようになったのは後世の変化で、古墳時代のような極度に古い時代には性別は関係なさそうだ。だからここでは視覚障害が問題となる。大和岩雄は片目を抉られたような幼童の顔のついた縄文土器(山梨県天神堂遺跡「隻眼の土偶」その他)をあげて(全盲と限らず弱視とか)片目とかも、神の憑依の現われだといっている。目弱王は(1)子供=幼童である上に、(2)視覚障碍者であり、両方の属性はともに「神の言葉を伝える者」であることを現わしている。このことは目弱王の行動が神意の現われではないかと、当時の人々を怖れさせるに十分であった。

黒日子王と白日子王の態度は何を表わすか
記紀には雄略天皇を憚って皇太子とは明記してないが、安康天皇の意志からしても市辺忍歯皇子は事実上の皇太子のようなもので、その上バックは葛城氏なのだから、皇位争いにおいて強敵などは無かった。しいて対抗馬というなら、安康天皇の兄弟である黒彦王と白彦王で、アンチ葛城派(非主流派の弱小貴族層)からはそれなりに期待されていたろう。生母(忍坂大中津姫)の出身が息長系であるって点では、純粋の葛城系である市辺忍歯王よりは、世論の支持があったろうが、なにしろ強大な後ろ盾がない。そのためこの二人は、いまひとつ踏ん切れなかったもののようだ。『日本書紀』では黒彦皇子と目弱王が二人で逃げ込んだことになってるが、黒彦皇子が手引きしたわけではあるまい。
白彦王は楽観的な人で、兄(安康天皇)を信頼し、自分らを見捨てるはずがない、と割りと気楽にかまえていた(その予測は正しかったのであるが)。黒彦王は悲観的な人で、こういう激烈な政治抗争においては安易な中立などありえないと考えた。「確かに兄(安康天皇)本人はそこまで考えてなかったとしても、葛城氏グループとしては我々二人(黒彦王・白彦王)の抹殺まで考えてないとは言い切れない」。身の危険を感じた黒彦王は、目弱王の首を土産に葛城氏(=形式上は南北葛城氏が擁する市辺忍歯王)に帰順しようとして、7歳児の目弱王を騙して投降するつもりが、突発的な展開で自分だけ先に大長谷王に殺されてしまい、目弱王だけが(黒彦王の手の者の導きで?)葛城氏の懐に入った。
ところで安康天皇が暗殺され、激昂している大長谷王に対し、黒彦・白彦の両皇子はずいぶん怠慢な態度を示して殺されているが、この態度はどういう理由から出たのか、詮索した議論をみたことがない。多くの人は記紀の物語を、後世の作り話で史実ではないと思ってるから、事件の真相を推理する気もないのだろう。
黒彦王と白彦王は父帝允恭天皇の薫陶と、木梨軽太子との共感で、もとから木梨軽太子と軽大郎女との関係には寛大だったと思われる。ただ長田大郎女をめぐってはライバルだった(木梨軽太子の変の記事を参照)。それが安康天皇は大日下王に濡れ衣をきせて長田大郎女を我が物にした。そればかりか、もともと允恭天皇の皇子たちは安康天皇自身を含めて息長系皇族であり、履中天皇系(葛城系)皇族とは別の一派であるのに、安康天皇は黒彦王・白彦王を出しぬいていつの間にか葛城氏を自分の手足としていた(ようにみえた)のである。「だが世間の人望は我々息長系皇族にある、だから我が弟(大長谷王)よ、兄が殺されたのも当然だしおまえの立場もよくなる一方なんだからそんなに憤ることはない」というのが黒彦王・白彦王の態度の裏の真意だったのである。だが大長谷王には通じなかった。大長谷王には兄たちの姉妹好きとは別のまた困った性向があり、激情にかられると簡単に人を殺してしまう。計算づくの話は遠回しにいわれてもピンとこなかったらしい。そもそも大長谷王は子供で、この時点では皇位になど興味がないって点では目弱王と同じ。ただ恩義のある兄貴=安康天皇が殺されたことに怒ってるだけなのだから、黒彦王や白彦王の「わかってるよな」はせんぜん通じるわけがない。

忍歯皇子と葛城氏の困惑
安康天皇が暗殺された直後の情況としては、ともかくも次の天皇は市辺忍歯皇子であると漠然と思われていたろう。それは世論も含めて全体的に同意されていたものと思われる。なにしろ書紀の主張が正しければ、安康天皇は次期天皇として市辺忍歯皇子を公式に指名していた(つまり皇太子)か、少なくとも匂わせていた。市辺忍歯皇子は事件を聞いてビックリはしただろうけど次期天皇としては、ここは落ち着いて事態の糾明にあたろう、と構えなおしていただろう。そして犯人が目弱王だときいて二度ビックリしただろうが、この後は、悲しいかな普通の大人にすぎない押歯王は、当時の人間なら誰でも考えるように、安康天皇に恨みを抱いていそうな勢力、例えば大日下王の関係する一族が目弱王を利用して謀反を仕出かしたに違いない、とありきたりな推理をめぐらしただろう。しかし、それならなぜ目弱王は葛城氏のところに逃げてきたのか? 大人の合理主義では割り切れない。これは彼らにとっては偶発的な事態で、押歯皇子と葛城氏はこの情況がすぐ飲み込たとしても、この情況をどう利用するかはすぐには考えがまとまらなかったかもしれない。
この困惑によって、時間をロスしたのが、押歯王と円大臣の命取りになったと思われる。おそらく、疑わしいと思った日向の諸県君(大日下王の母方の一族)を逮捕して取り調べとかしてたんだろう。そうやって時間を無駄にしているうち、どの陣営からも、どの派閥からもまったくノーマークだった大長谷王が乱入してきた。これまた予想外だったにちがいない。
忍歯王=葛城氏としては、目弱王を大逆犯として処刑するという選択肢ももちろんあった。だが、目弱王は幼童であり、神の意志の体現者ではないかと半ば疑われ、半ば畏れられていた。目弱王を処刑すると、神罰をくらった安康天皇の後継者(=押歯王)が神罰に抵抗したように受け取られぬこともない。そうすると忍歯王は悪の後継者になってしまう。かなり迷ったのではないかと思う。

大長谷王の政界デビュー
当初、大長谷王が異常に興奮していた件について、記紀はもちろん現代の研究者も誰も突っ込まないが、「よくわからないが元々イカれてる人だからそんなもんだろ」とでも思ってるのだろうか。
第一に、大長谷王の妃若日下王は(詳細な話は略すが)大長谷王の大のお気に入りであり、好みにピッタリのお婆さんを自分の妃にしてくれた兄安康天皇に深く感謝し、恩人として義理を感じていた。また、兄安康天皇と黒彦・白彦両皇子の間には隙間風が吹いていたことは前述の通り。そこで大長谷王が短絡的に黒彦王・白彦王を犯人と決めつけるのは自然な流れw 第二に、もともとカッとなりやすく、そのたびにほいほい人を殺す人だった。第三に、それにもかかわらず皇族として罰せられなかったのは、母后・忍坂大中津姫という権力者の保護下にいたからである、ということは別の頁で書いた。おそらく、忍坂大中津姫は雄略天皇即位当初の頃ままだ生きていて凶暴な帝のなだめ役をやってるから、この当時も大長谷王は皇太后(=忍坂大中津姫)の保護下に入っていたと思われる。母からすると大長谷王は晩年にできた可愛い息子だが少々イカれた子なので、すでに高齢だった自分の年齢も考慮すると先々心配だったろう。そこで自分の死後も大長谷王を保護・善導してくれる嫁を早めにあてがいたいと思ったのではないか。15歳未満だと当時の基準でも嫁取りには少々早すぎる感じはあるが、平安時代の天皇とか戦国時代の大名とかを思えば、3歳だろうが5歳だろうが7歳だろうがありえない年齢とは全然いえない。しかし母后ではなく、安康天皇おんみずから直々に、若日下王を大長谷王の妃として手配するというような話になってるのは要するに安康天皇が最初から大日下王にからむきっかけを作りたかったのではないかと思われる。そうすると、大長谷王は黒彦・白彦の両皇子と異なり、自分の宮殿をもたず、安康天皇の皇居に母ともども同居していた可能性が高い(この時はまだ大長谷王でも若建王でもなく「長谷王」だったと思われる。「大」の字をつけるのは武烈天皇(本名は「橘王」と推定)が雄略帝の「長谷王」を襲名してから「大/小」を付けて区別したものと思う)。つまり、黒彦・白彦の両皇子はいうまでもなく押歯皇子や葛城氏にも先んじて、事件を真っ先に知りうる立場にいた。それどころか、無政府状態になった宮中のど真ん中に最初から居合わせたのだから、混乱に乗じて、いやそんなつもりはなくても、朝廷の実権を一時的にせよ掌握することになっただろう。皇太后忍坂大中津姫も先々の心配な大長谷王のために少しでも手柄になればと思って多少の知恵を授けたりしたかもしれない。だからそういうわけで大長谷王が率いていた兵は私兵ではなく最初から朝廷の正規軍である可能性が高い。だがそれが有利だとかは大長谷王の計算に入ってはいない。とりあえず暴れたくてしょうがない大長谷王にとって、公的には天皇陛下であり私的には自分の保護者であり実の兄であり恩人が殺されたのは、犯人を殺してよいという言い訳ができたということなのである。
古事記では黒日子王が先に殺され、その後で白日子王が残虐な殺され方をしており、目弱王は二人とは無関係に逃げたように書いてある。日本書紀では、まず白彦皇子が殺され、黒彦皇子と眉輪王は二人で逃亡したことになっている。記紀を総合すると
・1)黒彦王と大長谷王が協力して目弱王を捕らえ尋問した。
→2)黒彦王が目弱王を拉致して逃亡、葛城に投降しようとした。
→3)黒彦王、捕まって言い訳するも殺さる。目弱王は逃亡に成功。
→4)白彦王のもとを捜索(目弱王を匿ったのではないかと疑った)
→5)白彦王の態度に激怒、
という流れが復元できる。日本書紀の流れからいうと、黒彦王を殺す前に、目弱王を捕縛して尋問にかけたとある。
書紀では、目弱王は「皇位を求めてのことではなく、ただ父の仇を討っただけ」と自供しているが、これは前述のように奈良時代の幻想であって「創作された警察調書」にすぎない。しかし大長谷王ただ一人が、目弱王の真実を理解した。大長谷王はこの時こどもで、目弱王よりは4つか5つか齢上だった可能性はあるし、たいして変わらなかった可能性もある。いずれにしろ、こどもの直感でわかったのだろう、目弱王はヤマトタケルになろうとしたのだと。このままでは「今世のヤマトタケル」の美名は目弱王のものになってしまう、というライバル心が大長谷王をこうしちゃいられんと急かしていた。それでヤマトタケルになるには大義が必要で、ただ殺しまくるだけでは埒があかないとやっと気づいたのだろう。
大長谷王から疑われることは、黒彦皇子にしてみれば降って湧いた災難だが、黒彦王・白彦王が日頃から兄安康天皇に批判的だったことは周囲みな知ってることだから、言い逃れ難い。一方、大長谷王の取り巻きも、せっかく大長谷王が大逆犯を捕まえて裁くという手柄を立てられるかもしれないという時に、冤罪で何人もぽこぽこ殺されては、もう一人の犯罪者が暴れてるだけの印象になりかねない。冤罪だろうがあまり関係なく、単に怒ったから殺しちゃうような人なのである。あるいは母の大中津姫がとりなし、なだめたのかもしれない。それもあり、大長谷王は目弱王をどういうふうに料理すべきか考えることにした。ただ目弱王を殺してしまうと、自分が私情による敵討ちをしたことになりかねない。それでは目弱王に負けたことになり、ヤマトタケルにはなれない。ヤマトタケルは若くして薨去したように、生き延びることが目的でないのは、目弱王も大長谷王も同じなのである。だが、この躊躇のせいで、隙をみた黒彦皇子が目弱王を拉致して忍歯皇子と葛城氏の陣営に投降を図った。黒彦王は途中で捕まって処刑されたが、目弱王を取り逃がしてしまった。だが目弱王の逃亡は、まったく大長谷王には思いもかけない幸運という他ない。なぜなら葛城氏が目弱王をその手元に確保している限り、大長谷王は目弱王に手を出せないのだから。大長谷王には、もっとわかりやすい「巨悪」が敵として立ちはだかってくれないと困るのだ。

都夫良意富美の理想と現実
根臣みたいな腐りきったやつと違って、円大臣は『日本書紀』だと死ぬ間際になっても大長谷王子に対して『論語』を引用したりしてちょっとは正義があるようなことを言ってるが、だから儒教はダメなんだ。さっさと目弱王を捕まえて大長谷王子に差し出すのが本当だろう。
目弱王が飛び込んできた時、円大臣は目弱王を大長谷王に差し出せば事無きを得たと思われるが、そうすると次の天皇は事態を収拾した大長谷王になる可能性が高まる。本来なら葛城氏が黒彦王の協力で逆賊目弱王の首をあげる、というシナリオがありえたのだが、ここに至ってはなんとか大長谷王に目弱王を殺させない方策をとるしかない(忍歯皇子にしろ葛城円大臣にしろ、大長谷王の特殊な脳内思考などまったく理解していないから、大長谷王は目弱王を殺そうとしていると思い込んでる)。しかしそうすると自分らも殺せなくなる。逆賊を生かしておきながら、なお名誉を失わず政治的ヘゲモニーを保持する方策として、ここで儒教の教えが名目として引っぱり出されるわけだ。なんだかんだ言っても相手は子供、この段階では円大臣は戦にも負けると思っていない。ここで大長谷王の軍を撃退し、目弱王の仇討ち=「孝」を称揚し、暗殺された安康天皇の「不仁」をあげて僭主に仕立てあげ、さらには庶民に人気の木梨軽皇子を無実だったとして顕彰し、しかる後に長子相続の正統性を主張して、仁徳帝嫡流の市辺押歯皇子を擁立すれば円大臣は儒教の聖人にもなれようってもんだ。ワッハッハ(←悪の高笑い)
緒戦の段階では円大臣の軍勢に余裕があったと思われ、普通なら大勝利を収めてもおかしくない流れだったと思われる(そもそも、朝廷の政治を左右するほどの権力者が、誰の目にも負けが明らかな情況にもかかわらず戦を選択するほどアホだと考えるほうがおかしい)。にもかかわらず、なぜ円大臣が敗れたのかといえば、この儒教の理想が配下の氏族に必ずしも通用しなかったからだろう。葛城氏及びその影響下(配下)の氏族は分裂した。
まず葛城氏内部の二大系列の一つ、葦田宿禰の系統=北葛城氏は、正統な皇位継承者である市辺押歯皇子を奉じており、敵対も味方もせず中立を守ったと思われる。そのおかげで滅亡もしなかったが、せっかくの血縁も雄略天皇によって皇位継承に活かすチャンスを失いパッとしない中流貴族に転落してしまった。先帝の敵討ちをしそびれてしまったら、皇位継承権に瑕がつくことぐらいわかりそうなものだが、葛城氏同士で殺しあってよいものかどうか、そして事態の展開が早すぎて、目弱王が本当に犯人なのかどうか確信もつまでに時間がかかったのだろう。また忍歯王の居城である市辺宮は石上付近にあり、安康天皇の皇居のすぐそばだったにもかかわらず、たまたま蟻臣(葛城臣蟻)は本拠の葛城に帰っていたのかもしれない。それで相互の連絡が不十分になってしまって動きがとれなかったか。
さらに同じ武内宿禰系氏族のうち、武内宿禰の子の平群木菟宿禰(もしくはその子の平群真鳥)が裏切り、大長谷王の側についた。墨江中津王の乱の際に木菟宿禰がやらかした不祥事以来、冷や飯をくってた平群氏は、いつか復活のチャンスを狙っていた。皇位継承争いに踊りでた大長谷王はこれまで成人した皇子が多い中では子供だから勘定に入っておらず、ダークホースであって、確定した背後氏族もない(妃(若日下部王)はすでに老齢で子を生む可能性はないが諸県君とのつながりを保持する上では十分なコネクションといえる。だがこの時はまだ婚約だけで婚儀を整える途上だったので「確定してない」といえる)。平群氏(木菟宿禰か真鳥のいずれか)としてはこれに賭けなければ、次回の再浮上のチャンスはないかも知れないのである。
これらの人々は、一応建前は儒教派(開明派)なのであるが、実際には血縁や富の力によって円大臣にくっついていたのであって、儒教の理想に共感しただけでついていたのではない。むしろそのような絵空事を真面目に主張するような首領には不安を覚えたのであろう。

結末:大長谷王の派閥の新結成
かくして、結果的に葛城氏氏を大長谷王が滅ぼしてしまった格好になったが、このことは、本来ならあまり計画性のなかった大長谷王の行動に大きな影響及ぼしたように思われる。つまり、葛城氏はもともと庶民から評判が悪かったのだが、その葛城氏と結託していた連中は敵であり悪なのだと。それを滅ぼした大長谷王はヤマトタケルなのだと。『日本書紀』は、安康天皇が市辺押歯王に皇位を伝えようとしていたことを、大長谷王は恨んでいたというが、実際にはこの戦争で勝利した結果でてきた判断基準で、後付けではないか。大長谷王はまだ子供であり、天皇になりたいのではなくヤマトタケルになりたかったのである。
そして、この時、なんの働きもしなかった市辺忍歯皇子は、いきなり立場が悪くなったはずである。誰がみても次期天皇は、前代未聞の天皇暗殺という大逆事件を収拾平定した大長谷王だろう。しかも、あの憎っくき葛城氏を滅ぼした「英雄」なのである。市辺忍歯皇子はいきなり影が薄くなったこと甚だしい。葦田宿禰系の北葛城一派と押歯皇子にしてみれば、納得いかない不条理な流れかもしれないが、中立を固く守って大長谷王にまったく協力しなかったのはいかにもマズかった。こんな愚かしい選択をしたのは、大長谷王の思考が、部外者に読めないからでもあるが、おそらく平群氏(木菟宿禰か真鳥)の策謀もあったろう。平群氏にしてみれば自分だけが雄略天皇即位の功臣となりたいので、雄略天皇即位後の葦田宿禰と蟻臣の父子(葛城氏)の発言権を封じなければならない。そこで余計な手出しをするな、と言いくるめる必要があるが、これは簡単だったろう。「大長谷王は子供で、ヤマトタケルになりたいだけで皇位を狙ってるわけではない、思う存分戦わせてやれば満足するはず、もし大長谷王が勝っても、あんなサイコパス皇子が天皇になることを支持するものはいない。一方、円大臣が勝っても、天皇に擁立する皇子は忍歯王しかいないのだから、忍歯王も安泰だしその外戚の葛城蟻臣も地位を失うことはありえない」…という平群の舌先三寸に騙されて、中立を選択してしまったのだろう。
だが、実際は違った。巨悪「葛城氏」が一般庶民にどれだけ嫌われてたか、雲の上の人たちはいまいちわかってなかった。もはや大長谷王の英雄伝説はぶっちぎり。そして庶民は織田信長がサイコパスでも大好き。信長の部下になるのは嫌だけど。信長の部下になってヒィヒィいうのはおまえら貴族どもの仕事だろw、としか思わない。中小の貴族層の中にも、アンチ葛城派は多い。こうなると、次の天皇は誰なのかという「政局」になる。平群氏をはじめとして、大長谷王のとりまきは天皇になってもらおうと必死だろう。こんな明日殺されるかもしれない職場にいて、勝手に辞職もできないならせめて少しでも出世して良い思いしたい。
しかし、記紀の編纂者も現代の学者も当たり前のように雄略天皇が最初から天皇の位を狙っていたかのように考えて、ぜんぜん不思議に思ってないようだが、俺はそう思わないんだよね。大長谷王が天皇の位を狙っていたとは思えない。大長谷王にとって安康天皇は恩人で、その恩人の意志は、押歯王に皇位を渡すことだったのだから。そして、いくら平群氏の奸智をもってしても、大長谷王を操ることはできなかっただろう。
…のだが、ここでまたしても想定外の展開が起きる。押歯皇子の側が勝手に墓穴を掘ってくれたのだ。
以下、押歯王の巻↓に続く。
http://2651023.blog.fc2.com/blog-entry-33.html

「いろせ」と「いろね」
兄の字は、ここでは男同士の兄弟のうちでの兄のほう、という意味なのだから「いろせ」と読んだら間違い。「いろえ」もしくは「いろね」と読まないといけない。「いろせ」だと大長谷王子が女性になってしまう。
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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