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7息長王朝の由来【後編】~応神記末尾の系譜の謎とき~

R1年8月22日(木)改稿 H28年7月13日(水)初稿
6「春山秋山の物語」は神話でなく寓話である」から続き

争ったのは「兄弟二人」ではない
皇子たちの争い(争いとは限らないが皇位をめぐる皇子たちの物語)だとしても、秋山春山の物語のよう特に「二人」の争いだと人数を限る意味もない。寓話の中では「八十神」(やそがみ)が求婚したとあるんだから、春山秋山兄弟のライバルは大勢いたと解釈できる。
応神記の末尾にある第三息長王家の系譜に続けて、不審なことに突然根鳥王(ねどり)の系譜の続き(根鳥王の2人の王子、中日子王と伊和島王)と、堅石王(かたしは)なる系統不明の人物の系譜(堅石王の子、久奴王)がでてくる。ここは継体天皇に続く第三息長王家の系譜なのに、無関係な記事が混ざっている。根鳥王は応神記の冒頭の、古事記では通例の系譜記事に出てくるのだからそこに記述すればいいのに、なぜかそこにはなく、末尾のここに息長系図に並んで出てくるのはどういうことか。ここもただの錯簡、誤入で深い意味はないのだとするのが常道だろうが、それもつまんないので、一案としては、わざわざここ(大郎子で止まる系譜記事)に列記してるのはつまり、一人の姫を大郎子と争いあった貴公子たちのリストなのだろう。大郎子・中日子王・伊和島王・久奴王で4人だが、この4人はこれまで名が出てないからわざわざ出したんだろう。
寓話にするなら登場人物を「五人兄弟」としたほうが戦隊シリーズとかセーラームーンみたいで盛り上がるのではないか。じゃなかった、『竹取物語』の五人の貴公子に通ずるのではないか。そもそも春と秋しかないってのがおかしい。普通は四季を揃えるだろう。夏山については青葉壮夫、雨男、ハダカ男…等が考えられるし、冬山なら枯木壮夫、白雪壮夫、木枯らし男、雪男…等がありだろう。さらには土用山(つちゐやま)の晴間壮夫がいたはずだw 五行説でなく『周礼』の六官説なら天山(あまやま)地山(つちやま)加えて6人にできる。天山なら日照り壮夫、青空壮夫、被さり壮夫。地山なら荒金(あらかね)壮夫、地震(なゐふり)壮夫、載せ壮夫。両方あわせて7人、『竹取物語』だと貴公子5人の他に天皇も出てくるから8人にまで増やせる。やみくもに増やせばいいというものでもないが。現在残っている物語は、かいつまんだ簡略バージョンなのであろう。ちなみに干支は崇神天皇の頃に入ってきたので、干支を説明するための原理としての五行説も早くから知られていただろう。それとなぜ山であって、川や谷や野原じゃないのかだが、ネット情報では、奈良時代には春の女神は東の佐保山の佐保姫、秋の女神は西の竜田山の竜田姫、夏の女神は(南の某山の?)筒姫、冬の女神は(北の某山の?)宇津田姫とされたともいうが、夏と冬については典拠がわからない。実際には川や谷にカミが鎮まっていることはよくある話だが、なぜか神奈備山とはいっても神奈備川とか神奈備谷なんて言い方は聞かない(理屈の上ではそういう言葉があってもいいとは思うのだが)。谷でも川でもなく四方の「山」と関連付けされているのは、奈良盆地という地形のせいではなくて、『山海経』にも通ずる古い信仰に由来しているのかもしれない。日本では佐保山と竜田山の間に土用山にふさわしいような山らしい山はないが、佐保山の佐保姫だのは古い文献にない。竜田姫は古くから風の神で西から吹いてくるからその対称となる神として後から佐保姫が想定されたんだろう。古くは世界の中心の山として大和三山わけても香久山が神聖視されたが、大和三山にも恋争いの伝説があるから、畝傍山と耳成山の三角関係は春山秋山の物語ともしかして同じ話なのではないかとも思える。中国でも東は山東省の「泰山」、南は湖南省の「衡山」、西は陝西省の「華山」、北は山西省の「恒山」、中央の河南省の「嵩山」を五岳というが、古くは華山を除いて四岳だった。また四兄弟が四方位に配されるのは天照大神の五男神、大国主の四人の息子など、神話類型の一つともなっている。

「堅石王」の系譜の復元
で、前述の中日子王(なかつひこ)・伊和島王(いわじま)・久奴王(くぬ)の3人のうち、久奴王の父の堅石王の系統がわからない。地名を手がかりにすると、堅石という地名は、本折宣長が『和名抄』から筑前国穂波郡の堅磐郷をあげている。調べたらこれは今の飯塚市の片島だという。Googleマップで適当に検索するとw、塩尻市に広丘堅石がある(ただし読みはカタイシ)。塩尻市には「広丘○○」という地名がいくつもあり、調べたらこれは複数の村が合併して「広丘村」ができた時の名残りで、だから広丘堅石も元は「堅石村」だ。ここは律令時代の「覚志(かがし)の駅」でカガシがカタイシに訛ったともいう。ホントかね?w 堅石は塩尻市の北部にあり、仁徳天皇に背いた両面宿儺(ふたものすくな)が出現したという飛騨の大鍾乳洞(ただしここが本当にその原伝承地なのか疑問もないではないが)の真東一直線のところにある。その子の久奴王のクヌってのは静岡県静岡市の久能か同県袋井市の久努だろうな。根鳥王の2人の子のうち「中日子」(なかつひこ)と似た名前は、倭建命の孫の須賣伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこ)、仲哀天皇=帯中日子命(たらしなかつひこ)、仁徳天皇の兄の額田大中日子命(ぬかだのおほなかつひこ)がいる。「中津」は普通は次男の意味だろうが額田大中日子の「大」は、誰か先に生まれてる皇子がいるのだがそっちは側室腹、こっちは次男だが正室腹、という意味かな。漢文でいう「伯」と「孟」みたいなものか。中日子王が根鳥命の次男とすると、長男の名がなく次男と三男の名があげられてることになるがなぜなのか、3つの案がありうる。第一案は、ここは系譜を語る記事ではなく姫取り争いに参加した皇族たちのリストなのだとして、だから長男は姫取り争いに参加しなかったからあげられてないのだろうか? 第二案は、根鳥王は大田君(おほたのきみ)の祖先であり、この大田ってのは今の岐阜県の大野町・神戸町・池田町の3町にまたがる領域で大雑把にいえば美濃国の西部。だから中日子王のナカツは次男の意味ではなく地名だとしたら同じ美濃国の地名で、岐阜県の東端、中津川市か。中津川は川の名が本ではなく「中津」という地名が先だという。第三案としては、墨江之中津王とも名前が似ているからもしかして同一人物じゃないのか。原文に「根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王。次伊和嶋王」とあるのは「大雀命、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王」と「次、根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、伊和嶋王」が混線したのではないかと思う。石之比賣に三腹郎女が追い出されてから、根鳥王と三腹郎女がくっついたんではないか。だとすると根鳥王からみて自分の次男という意味ではないことになり、長男がいない謎が解ける。ここは第三案を取りたい。そうすると墨江之中津王は皇女腹で、葛城氏の娘から生まれた兄の履中帝や弟の反正帝よりも血筋が格上ということになり、反乱の理由の一つがみえてくる。伊和島は不明。能登半島の輪島か四国の宇和島? この伊和島王が大田君の祖先で、姫取り争いの参戦者だろう。
ところで、このままだと堅石王が誰の子かわからない。原文を眺めてみると「又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又堅石王之子者、久奴王也」となっており、系譜記事としては文字の脱落があると考えるしか無い。そこで以下のA・B・Cの3説がありうる。
A説は「根鳥王の一家の系譜」説。もっとも普通に考えれば直前とのつながりを示す文字の脱落だろうから、(1)堅石王が根鳥王・中日子王・伊和嶋王の3王のうち誰かの別名である(この場合久奴王は応神帝の皇孫)か、もしくは(2)堅石王は中日子王・伊和嶋王の異母弟で、三腹郎女とは別の女性から生まれたか(この場合久奴王は応神帝の曾孫)、(3)堅石王は中日子王・伊和嶋王いずれかの子(この場合久奴王は応神帝の四世孫)であるか、のどれかのはず。原文を推定復元すると
(1)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{伊和嶋王、亦名}堅石王之子者、久奴王也。
(2)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{一妻之子、}堅石王之子者、久奴王也。
(3)の一例:又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{伊和嶋王之子、}堅石王之子者、久奴王也。
(3)は嫁争いに参戦するには他のメンバーと比べてちょっと世代が離れすぎてしまうので(1)か(2)だろう。これらA説の場合、この系譜は最後の「久奴王」一人だけを掲げることが目的である。
B説は「根鳥王と某王(迦多遅王?)、両家の系譜」説。
根鳥王の系譜とならんでるんだからそのフォーマットでいうと「又」と「堅石王」の間に脱落があるのが容易にわかる。復元すると
・又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{○○王、娶××××××、生子、}堅石王之子者、久奴王也。
となるだろう。○○王は若沼毛二俣王や根鳥王と同世代とすると応神天皇皇子の誰かだろうが、ちょっとわからない。大山守命か速総別命かと考えれば面白くはあるが、なんともわからぬ。これまで系譜上の名前としてしか出てきていない地味な皇子かもしれないが記述の順番からいえば根鳥王よりは後に記述されていて、なおかつ子孫がいなさそうな宇治若郎子を除外すると、速総別王・大羽江王・小羽江王・迦多遅王・伊奢能麻和迦王の5人が残る。岩波の日本思想体系の古事記の注釈では、堅石王は迦多遅王の別名かという一案をだしてるが、カタシハとカタヂ、カタはいいが「シハ」と「ヂ」の違いが「類義の別名」なり「同語の訛り」なりで説明つくかどうか? 推定欠落部分の「〇〇王」は速総別王、「娶××××××」は「娶庶妹女鳥王」としたほうがわかりやすく面白いが、さしたる根拠もないのでここは禁欲してw、シとチの相互訛りは実際あることなので岩波思想体系の説に屈するわけではないが本居宣長の気づきに敬意を表して仮に「堅石王=迦多遅王」と同定して、原文を推定復元すると
・又根鳥王、娶庶妹三腹郎女、生子、中日子王、次伊和嶋王、二柱。又{迦多遅王、亦名}堅石王之子者、久奴王也。
となり、B説の場合、この系譜は「中日子王・伊和嶋王・久奴王」の三人を掲げることが目的である。
C説は「根鳥王と伊奢能麻和迦王、両家の系譜」説。応神天皇の系譜記事では、高木之入比賣から生まれた伊奢之真若命と葛城之野伊呂賣から生まれた伊奢能麻和迦王が重複してるのが気になる。書紀と照らせば伊奢能麻和迦王の母は高木之入比賣であってるはずで、葛城之野伊呂賣と伊奢能麻和迦王は系譜記事の末尾にあるから何かの注釈だったのだろう。原文は
・又娶、葛城之野伊呂賣、生御子、伊奢能麻和迦王。
で、この文の直前の語句が「次、迦多遲王」だから、つなげて読むと
・次、迦多遲王(又)娶、葛城之野伊呂賣、生御子、伊奢能麻和迦王。
という文が浮かぶ。しかし「伊奢能麻和迦王」は応神天皇の皇子であることが明らかだから、「娶、葛城之野伊呂賣、生御子」と「伊奢能麻和迦王」の間に脱文があるんだろう。「伊奢能麻和迦王」も後続の文章が落ちているため文末のようにみえるが、それだと意味ある文章に復元できないから、これは次の文の主語だろう。その「伊奢能麻和迦王」を主語とする文の断片が、若沼毛二俣王の系譜の中に唐突にでてくる
・又堅石王之子者、久奴王也
なのである。これは直前の文と意味がつながるように復元するならば、「又」は「娶」の誤記、途中に脱字があって
・娶堅石王之子【△△△王(♀)、生子】者、久奴王也
なのではないか(【】の中が推定復元した部分)。「娶、葛城之野伊呂賣、生御子」と「伊奢能麻和迦王」の間の脱文もこの【】内の女性の名前だったと思われる。これをつなげると
・次、迦多遲王(又)娶、葛城之野伊呂賣、生御子【△△△王(♀)】。伊奢能麻和迦王、娶{堅石王之子【△△△王(♀)、生子】者、久奴王也
と復元できる。つまり久奴王は伊奢之真若命の子で、堅石王(=迦多遲王)の孫なのではないか。伊奢之真若命は書紀では深河別(ふかがわのわけ)氏の祖先で、岩波文庫の書紀の注では飛騨国荒城郡深河郷(今の岐阜県古川町)とあるが今は古川町は合併して飛騨市の一部になっている。Googleマップだとまた「古川町○○」という地名がいろいろある。塩尻市の「広丘○○」と同じパターンだ。その中では「古川町数河」というのが深河に似てるくさい。前述の両面宿儺の両面とは「北面(越中)と南面(飛騨)」あるいは「西面(飛騨)と東面(信濃)」に顔が利くって意味だとかの説もあり、飛騨(数河)と北信(堅石)にはもとからつながりがあったのか。ともかく両面宿儺が成敗された跡地に、静岡県あたりにいた久奴王の子孫が移封されていって深河別の先祖になったらしく思われる。C説の場合、この系譜は「伊和嶋王・久奴王」の二人を掲げることが目的である。
で、以上のA・B・Cの3説のうちどれが正しいかは何とも決められないが、後世に地方豪族として残った3氏という観点から、とりあえずC説でいってみよう。

貴公子のメンバー
そうするとこの系譜記事では、姫の取り合いに、若沼毛二俣王の一家(息長氏)から大郎子、根鳥王の一家(大田氏)からは伊和嶋王、伊奢之真若王の一家(深河氏)からは久奴王の3人がエントリーしたということを言っているのだと解読できる。この人たちは仁徳天皇や速総別命を第一世代とした場合の第二世代である。
この嫁取り争いは允恭天皇(秋山)と大日下王(春山)の時のことすれば、履中天皇崩御後のことで「大日下王・雄朝津間王(允恭天皇)・大郎子・伊和島王・久奴王」の5人で、当時在位中だったと思われる反正天皇自身もエントリーした可能性がある。
前回では、春山霞壮夫が大日下王で秋山下氷壮夫が雄朝津間王だろうという見当だったが、さらに「六官」の職掌を基にして適当に想像すると天山が反正帝、地山が伊和島王、夏山が久奴王、冬山が大郎子王か。ともかくも竹取物語の貴公子(天皇も入れると6人)と数が一致する。キャラクターとしては反正帝が石作皇子、伊和島王が安倍御主人、久奴王が大伴御行、雄朝津間王が車持皇子、大郎子王が石上麿足に、それぞれ該当しそう。竹取物語の貴公子は文武朝に時代設定されているので、天皇は当然文武天皇なわけだが、そうするとかぐや姫のモデルは、梅原猛の説に出てくる紀皇女ではないかと思われる。そうすると大日下王の役どころは弓削皇子か。
竹取物語では誰もかぐや姫をものにできなかったわけだが、こちらは異なり中斯知命は大日下王とくっついた。だがこれは正式な結婚だとは限らず、寄寓していただけではないのか? 大日下王には長田大郎女という妃(=正室)がすでにいたのだから。
中斯知命は住吉邑に在住し、履中天皇はその在位中にずっとモーションをかけつつも成就せずに崩御。反正天皇が即位するとほぼ同時に、反正帝自身を含む6人による姫とり争いがスタートした。この中ではまず雄朝津間王が病身ゆえに他に遅れをとっていたが、反正天皇も崩御した時、次の天皇として大日下王と雄朝津間王の二人しか適当な人物がいなかったと書紀はいう。残りの3人は女系の血筋その他なんらかの事情でこの二人ほど格が高くは無かったのだが、だからこそ中斯知命をものにすれば一発大逆転もありえたということだろう。で、すったもんだで天皇には雄朝津間王が病身のまま即位して允恭天皇となる。允恭天皇は数年間ねばったがヤキモチ焼きの皇后のために身を引いたのか、結局中斯知命は大日下王とくっつき、その後允恭天皇の病気も治った。

恋争いの決着
しかし当時は離婚も再婚もわりかし自由だったので、これで最終結果とはならない。允恭天皇自身は身を引いたとしても大日下王と中斯知命の相性が悪かったら離婚してもらって、中斯知命を皇太子の木梨軽王の妃に迎えたかったことだろう。軽王が実の妹に懸想してたとしても当時は一夫多妻なのだから差し支えない。允恭天皇や軽王はさほど執着してなかったとしても、中斯知命を妃とした大日下王の名声があがり、皇位継承者として大きくクローズアップされてしまうから、允恭天皇父子の周辺では大日下王を危険視し、大乱になる前に片付けるべし、等と物騒な声も当然に湧いてくる。
『古事記』に載ってる春山秋山の物語はこのへんまでに該当する内容で終わってる。しかしそれは現在の古事記は春山秋山の物語が途中で終わっていて続きの部分が散逸してしまっているからだろう。

第三世代の争い
木梨軽王が政変で失脚し安康天皇の時代になってからはどうか。当時は離婚や再婚が格別恥でもなくありふれていたろうから安康天皇本人がその気になれば離婚を強要して中斯知命を后に迎えるという強硬手段もありえたと思われるが、安康天皇本人は長田大郎女にご執心で、中斯知命にはさほど興味をもたなかった。ただし嫌いな訳でもないから、政治的に利用価値の高い結婚ならチャンスを待って受け入れ態勢だけはあるよ、っていうアピールぐらいはしてたかもしれない。ならば理屈の上では雄略天皇のエントリーもありうるが雄略天皇はおそらく目弱王と年齢的に大差ないのと、そもそも皇位にも関心なかったと思われる。他に、履中皇統から市辺押歯王が当然のように参戦したに違いない。反正天皇の子は古事記で財王がいるがこれは書紀だと財皇女になっている。古事記では性別不明な名は男子を前提としているともされるが、あくまでそういう傾向が強いというだけで絶対とはいえない。だから財王は女性の可能性がある。また書紀では高部皇子がいるが、古事記では多訶辨郎女となっている。高部皇女を皇子に誤ったか多訶辨郎子を郎女に誤ったかは五分五分だが、財王は女子とすれば文字の訂正なく記紀を合致させることができる。二人とも女性なのではないかと思うが、仮に男子だったとしてもまったく活躍が伝えられておらず、体が弱かったか、病気か事故で早世されたと考える他ない。だから反正皇統からはエントリー無しだった可能性もあるが一応考慮に入れとこう。
そうすると第三世代でエントリーした候補(もしくは本人はそのつもりなくても周囲から勝手に候補とみられた人々)は「木梨軽王・安康天皇・大長谷王(雄略天皇)・市辺押歯王・財王」と在位中の天皇を入れて5人。

寓話の誕生
だが「大日下王の変」で大日下王が安康天皇に滅ぼされた時、中斯知命もいっしょに燃え落ちる宮殿とともに薨去してしまったのではないかと思われる。『竹取物語』のかぐや姫が月の世界に帰っていくのは死の暗喩である。後世に書かれた『竹取物語』の元になった物語(「原・春山秋山物語」)では、大日下王と中斯知命の夫婦の死まで描かれていただろう。この話は大日下王と中斯知命の夫婦に同情しその死を悲しむとともに、現職の天皇である安康帝の悪行を非難するものでもあるから、当然おおっぴらには言えない。それで寓話の体裁をとる。
さて、燃え落ちる宮殿から救出されたのが忘れ形見の「兄媛」だが、若日下王に引き取られたとするのが普通なら自然だが、そうならず長田大郎女に引き取られて一緒に安康天皇のもとにいたんだろう。なぜか。目弱王が中蒂姫の腹なのか長田大郎女の腹なのか決めがたいが、中蒂姫の腹だとしても兄媛ともども長田大郎女に引き取られることはありうる。兄媛という以上「弟媛」もいたはずだが、弟媛が同母姉妹なら二人とも「聖なる血筋」の継承者だし、長田大郎女の娘だったとしても最愛の姉の子には違いない。姉妹のどちらかに兄弟がいてそれが「目弱王」だったのか、姉妹のいずれかが「目弱王」と同一人物だったのか。後者なら「目弱王」は女児だったってことになる。女児なら、殺さずとも安康天皇が手元に置いておこうとしたのは当然ということになる。
「目弱王」の変で安康天皇が暗殺され「目弱王=兄媛」も葛城氏落城とともに薨去したことになっているが、実際には救出され生き延びたんだろう(このへんの詳しい話は別の記事で書きます)。兄媛は今度こそ若日下王に引き取られたと思われるが、若日下王はそのまま雄略天皇の皇后に収まる。雄略天皇と兄媛のは年齢的に大差なかったと思われ、二人ともこの段階ではまだ子供である。

継体天皇の祖先の正統性
『住吉大社神代記』によれば、仁徳天皇の時代に波多毗若郎女(はたひのいらつめ)(=若日下王)の夢に神が現れ「吾は住吉大神の御魂なり、為婆天利神またの名を猪加志利之神」と名乗った、そこで津守宿禰を神主としてこの神を祀らせ、為加志利津守連らを祝としたという。これによれば兄媛の保護者である若日下王は、住吉大社ともともと縁がある。
速総別命と女鳥王が反乱の全盛期に本拠にしたのも住吉大社、その後、墨江之中津王の本拠となって黒媛(日之媛)を得、のちに黒媛は中磯皇女(=中斯知命)を抱いて履中天皇のもとを辞して鷲住王に守られながら住吉邑に住んだという。黒媛が阿加流比賣のモデルだから、阿加流比賣を祭神とする赤留比売命神社と楯原神社の間のどこかに黒媛の宮殿があったのだろう。ここはいうまでもなく東住吉区の杭全や平野区の喜連など息長氏の本拠にすっぽり入っている。住吉が速総別の反乱軍の本拠だった頃は息長氏は弱小勢力でどちらからも重視されていなかっただろうがそれでも近江への国替えが命じられて一時的に河内和泉から撤退していたのかも知れない。そのため中津王の乱でも巻き込まれずどちらに味方すべきか悩まずに済んだ。中津王の乱の後に、戦乱が終わって名目が消えたので、ようやく近江から河内和泉に戻ることが許されたんだろう。
兄媛にとって住吉は因縁の深い地だから、成長後は若日下王の配慮で住吉に居住したか、あるいはそもそも黒媛以来の御料地として住吉邑を兄媛が相続していたのかも知れない。いずれにしろ成長して独立した兄媛が住吉に住もうとしたのは当然だったが、そこはすでに旧主である息長王家の支配地に戻っていた。その時の当主は大郎子だから、当時の上流社会の結婚相手の探し方として、兄媛が自分の保護者として大郎子を選んだというのが自然な流れではないかと思われる。ここにおいて宇遅之和紀郎子の同母妹女鳥王の女系の血は、黒媛、中斯知命、兄媛を通じて息長王家に継承されることになった。また兄媛は大郎子の保護下で住吉に黒媛や中斯知命から継承してきた赤玉を祀った。それが比賣碁曽社の鎮座、始まりなのである。
大郎子が中斯知命の娘、兄媛を妃としてからの息長氏は代々、一代ごとに地方勢力と姻戚になって継体天皇の頃には近江・美濃・尾張・越前と広がる巨大な勢力になっていた。これは中斯知命の尊貴な血統のおかげだったのかもしれない。
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Author:浅草橋キッド
どこから見ても平凡な、一介の町人です。

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